邪馬台国畿内説 Part346
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525372527/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物の尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜後漢初:23.1cm (安定的)
後漢末〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
荒らしは自らを貶めます
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げニセスレ晒上げ
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Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) どう見てもここが本スレだろう
その証拠に基地骸が荒らしに来てる 畿内説の人に質問
畿内説にもいろいろあると思いますが、現在の学界では
瀬戸内航行説と日本海航行説ではどっちが有力ですか?
また投馬国はどこだってのが最有力ですか?
(邪馬台国九州説の人には聞いてない。あくまで邪馬台国畿内説の場合で) >>96
>瀬戸内航行説と日本海航行説ではどっちが有力ですか?
学会では、魏志倭人伝には深入りせずに、倭国の国家形成を探るようになっていると思います
なので、瀬戸内航行も日本海航行も、どちらもほぼ論じられていません >>97
投馬国の位置についても「ほぼ論じられてない」でOK? 前>>890
>誤魔化しても無駄。新羅の東南も南も大海。
新羅の南は、東南の大海=日本海の中にある倭国の対馬
倭国の北は大海の日本海で限られている
>魏志の頃から、「 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と書かれている。
魏志でも、「韓在帯方之南」「倭人在帶方東南大海之中」であるので
倭人は韓の南ではなく東南
>後漢書の邪馬臺國は、国家や歴史学者は、殆ど皆知っている。
後漢書に注をつけているのだから、「誰も知らないような地名を持ち出して」というのは
「今名邪摩惟」のこと
>李賢は、隋書に注を書いたのではなく、
隋書の「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」を知識人は皆知っているから
後漢時代の「邪馬臺」の音が今は訛っていると推測している >>98
論じている人は少なくないが学者同士の議論になってないというのが正解だろう >>274
>晋の後の時代に三国志を評価をしたのは誰かと訊ねている<
それなら、晋書に書かれた、
「於是詔下河南尹、洛陽令、就家寫其書。壽又撰古國志五十篇、益都耆舊傳十篇、餘文章傳於世」
を命じた皇帝や、
裴松之や、晋書の筆者。
>>後漢書の「邪馬臺國」は魏志の「邪馬壹國」と、対象が違う別のもの。<
>後漢書は卑弥呼が共立されたことを書いているが 「邪馬壹國」は無い <
5世紀の後漢書の頃は、倭王の居地は、邪馬壹國女王之所都ではなく、
邪馬臺國という狭い地域名の地(久留米付近)に変わっていた。
>>張元済は、「古文(古い形の文字)」や「古型」を持つ本を求めていた。<
>張元済は、紹煕本は「多く古文を存し」と言っているから<
だから、邪馬壹國が古文古型であった。
>>(古田論証)魏志の写本者には「壹と臺」を錯誤したものは0人だった<
>書写本じゃなくて版本だろ<
版本での錯誤の有無は、底本写本を介して、写本での錯誤の有無になる。
>初めて版本が刊行される前の時代の後漢書や隋書での引用に「邪馬臺」が書かれている<
後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、対象が違うから、関係がない。
その事も判らずに書いた隋書の魏徴らは、
高慢な「自己解釈」による前史の「内容説明的な書き換え」をした後代史家であった、 という事だ。 >>776
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
無条件に自分の思い込みが正しいものとして妄想するのが、
トンデモ大和説者の特徴。 >>781
>帥升は倭の面土王、あるいは倭面土王かで決着してない <
後代史書の「自己解釈に拠る原史料の内容説明的な書き換え」は、
参考資料程度であり、論拠にならない。
>そもそも倭王ではない<
後漢書は、「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」と紹介している。 >>786
>すでにテンプレに説明あるわ 苦笑<
テンプレは、長過ぎて、説明を探しに行く気が起きないわ、苦笑。
まともに議論したいんなら、テンプレの該当箇所を転載転記してくれ。 >>787
学問的には
・根拠のない妄想で説明できると主張…×
・事実や史料実態という根拠というを元にして説明したもの…○
だから、「南→東」などの嘘つき騙しは、学問にならない、というだけ。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
大和朝廷の主体は尾張と出雲。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 邪馬台国畿内説とか素人を騙すタイトルを付けるな。
邪馬台国はヤマト国。
他の畿内、摂津、河内、和泉、山背は邪馬台国ではない。
勝手に縁起悪いものに混ぜるな。
畿内の勢力が関東東北を征伐したみたいな誤解を生む原因になっているわ。
畿内は近畿周辺の勢力にフルボッコにされた側なのにね。 近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
2世紀半ば以降の倭国大乱、畿内征伐でこれらは崩れ去る。
攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。彼らが平和な世界を破壊したんだな。 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? >>109-112は俺じゃない。ほんとに悪質なアラシだな >>97
>なので、瀬戸内航行も日本海航行も、どちらもほぼ論じられていません
めちゃくちゃ逃げていてワロタ >>796
>で、西谷正は帥升と邪馬台国は連続した政権だと言ってるのか?<
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamai21.html
に拠れば、
西谷は、古田さんの「筑紫説」を、なかったかのように取り上げずに、
他の九州説を批判否定されたようです。
西谷も、「南→東」の嘘吐き騙しの詐欺師仲間です。 >>804
>九州で大乱があったから畿内で卑弥呼が即位したと。<
九州であったのは、「倭國亂、相攻伐歴年」であって、
天子や皇帝に反逆する「大乱」ではない。
范曄は、自己の誇張古代解釈に依る「前史記載の内容説明的な書き変え」をする人物であり、
その部分は論拠には出来ない。
勿論「畿内」も×であり、
大和での卑弥呼共立も、「南≠東」に拠って×。 >>808
>部族連合に毛の生えた程度のイト倭国体制が崩壊して 初期国家としてのヤマト倭国が始動した
これが学者の圧倒的多数意見でしょ<
「ヤマト倭国」は、「南≠東」や「正北抵新羅の否定」などの嘘吐き騙しによって×。
「圧倒的多数の学者」も、嘘つき騙しの宗教にクルった・・・・詐欺師であり、×。 >>812
大和説が、あまりにも言い負かされるんで 、
とうとうありとあらゆる事を否定し始める、という・・・・になったな。 >>815
>このスレでは誰も
「天地開闢以来、大和天皇家が列島を一元支配して来た」 なんて事は主張してないぞ
天皇の支配や皇国史観の話はそもそもスレ違いだ<
Yahooで、
東大と京大を渡り歩いて「イリヒコ」という人物と畏友である事を誇り、
「漢籍の書棚」の作者である「天誅」とい称する・・・・大和説男が、
「天地開闢以来、大和天皇家が列島を一元支配して来た」説
である事を肯定していた。 >>817
>>(セレモニーや墓は、破綻が来るまで)
後になればなるほど「進化拡大する傾向」があるもの。<
>後になって出先の将軍風情の進化拡大したときには、
本国の王の墓はもっと大規模になってるんだよ
九州でもしょぼい前方後円墳を作り続けてるだろ?ww<
親魏倭王印や魏の臣下の銀印の身分を貰っていた九州倭国は、
魏の薄葬令の制約をもろに受けるが、
「東征毛人五十五國」をした東征将軍は、制約を受けず、
征服した毛人たちを威圧するためにも、巨大化をした。 >>101
>それなら、晋書に書かれた、
命じた皇帝は司馬氏、裴松之は東晋の役人
清朝の考証学者である趙翼なども、晋書はデマや誤報、
くだらないゴシップを信じ過ぎると低い評価を行なっている。
>邪馬臺國という狭い地域名の地(久留米付近)に変わっていた。
作り話はいらない
>邪馬壹國が古文古型であった。
紹煕本は12世紀末の版本
>版本での錯誤の有無は、底本写本を介して、写本での錯誤の有無になる。
版本は12世紀以降なのでならない
>後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、対象が違うから、関係がない。
仮説を根拠にするのは循環論法になるから不可 >>822
>>私の話は、清初期の殿本考証での話<
>他本(諸本)とは楊紹和と張元済がすぐれていると言っている紹煕本以外の版本のこと
清初期の殿本考証での話ではない<
「ここで注意すべきは「殿本考証」の性格だ。清朝初期、勅命をうけて清朝学者たちの大成したこの考証は、
現在においてなお、最大の校異・考証集成である。
特に注目すべきは、当時現存していた北宋本・南宋本を、全巻にわたって対照し、記録していることだ。
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)
しかも、南宋本(「宋本」と記す)については「各宋本」「宋刻一本」という表現のしめすように、数本使用している。<
は、「殿本考証」での話」。
>>((翰苑)その写本の元になるものを「本体」と書いた。<
>>>631ではお前は自分の書いた文だけを引用して、自分の文に返答している
原本(オリジナル)は正本<
原本は不明。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kanen-wa.html
に現れた本文の事を「本体」と言った。 >>823
>>隋書は、魏志や後漢書から見れば後代史書であり、<
>「邪馬壹國」と書かれている倭人伝は12世紀以降の数少ない版本<
少なくない。
「ここで注意すべきは「殿本考証」の性格だ。
清朝初期、勅命をうけて清朝学者たちの大成したこの考証は、
現在においてなお、最大の校異・考証集成である。
特に注目すべきは、
当時現存していた北宋本・南宋本を、全巻にわたって対照し、記録していることだ。
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)
南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)
しかも、南宋本(「宋本」と記す)については
「各宋本」「宋刻一本」という表現のしめすように、数本使用している。」
だから、「「殿本考証」は、北宋本・南宋本以外の残存写本や版本を、
沢山「校異・考証」している事になる。 >>833
>>その倭國は、白村江でも唐と戦った国であり、<
>残念ながら、それ 日本だって金石文でてるから<
残念ながら、その金石文で「日本」を称せたのは、九州倭国と、大和日本国の双方。
九州倭国の方が「日本国」を名乗ったのは、
晋の惠帝の時から、開成四年の遣使の時まで。
大和が日本国を名乗ったのは、隋の文帝の時以後。 >>128
>「殿本考証」での話
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)は
殿本考証での誤りを正す個所の数
北宋本、南宋本(数本、紹興本系列の本)しか書いてない
他本(諸本)とは張元済の話で、紹煕本以外のこと
>に現れた本文の事を「本体」と言った。
お前が、「本体」などと変な表現の自分のレスに返答していただけ >>834
>>ネットではまだまだ九州説論者が元気で驚いた<
ネットでは、大和説者は、少人数でも大量投稿できるからね。
元気なんじゃなくて、煩いだけ。
史料事実や史料実態からの意味のあることはからの、一切言わない。
最近の研究成果も追ってないし、原典の漢文も読めない 。
そんな連中が3人くらいw。 >>129
これも>>131で回答
お前は更正数を版本数と勘違いし、張元済の話での他本(諸本=紹煕本以外の版本)を
殿本考証の話と勘違いしている >>836
>>(正北抵新羅)倭国中心部は新羅のほぼ真南の九州にあった、<
>「中心部」が間違い
そんなことなんてどこにも書いてないのを脳内妄想で補っているだけ
倭国の西の端が新羅の南って書いてあるんだよ <
新羅に敵対的に抵抗するのは、倭国の本体の中心部。 >>130
白村江の戦いの時点で唐が日本と呼ぶ国が2つあるなんて、古田説はムチャクチャな説だね それよりも『須 王 津』の話だよ
『白猪森』『白猪山』など、
凄い土地を持っていたという話とか、どういう話なんだと思う
国を持っていたのかな >>135
九州に倭王朝があり、畿内にプレ大和朝廷があったはそれほど無茶苦茶とも思えんがな。 日本の記紀神話?
そもそも引用だという話があったり、古代中華の話? 二王朝が並び立っていたのは、大和王朝万世一系の立場からは受け容れ難いのだろう。 >>140
二王朝とか万世一系とかいうレベルじゃないぞ
唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶかアホ!って話だ
脳が腐ってるのか? >>138
この人は、、何が問題だか理解できてないんだろうか 九州説のいう王朝って言葉の使い方がいい加減なだけだと思う
各地には各地の支配者である首長がいて、それが豪族になり、国造なり県主なりと呼ばれるようになる
九州の首長は、奴国が国造(筑紫国造)、伊都国が県主(怡土県主)、末慮国が国造(末羅国造)になっているね
こういうのを全部王朝扱いしても、構わないけどさ、あまり意味のある議論にはならないだろう 名前が違うから別の国だ
と言い張ってたトンデモ珍説が
とうとう辻褄合わなくなって
名前は同じだが別の国だ
と言い出して泥沼
って話だよ
笑い話 >>143
奴国は筑紫国造じゃなくて儺県主だろ、(筑紫国造の同族だろうけど) >>96
>畿内説の人に質問
畿内説にもいろいろあると思いますが、現在の学界では
瀬戸内航行説と日本海航行説ではどっちが有力ですか?
また投馬国はどこだってのが最有力ですか?<
「畿内」なんて、まだ存在していませんでしたから、
この投稿そのものが、嘘つき騙しの詐欺投稿です。
>(邪馬台国九州説の人には聞いてない。あくまで邪馬台国畿内説の場合で)<
邪馬台国なんて文言もありませんし、
大和であっても、「南≠東」ですから、
この投稿そのものが、嘘つき騙しの詐欺投稿ですし、
掲示板は、原則は自由投稿の筈ですし、意見を述べるか述べないか?も自由な筈です。 >>97
「南→東」などの史料事実の否定曲解をしている「大和説学会」では、
魏志倭人伝が大和説にとっては全く不利であり、大和説を破綻させる事も知っているので、
根本的史料である魏志倭人伝には深入りせずに、
始めから、卑弥呼が大和にいた、という「結論先にありき」の循環論法の嘘つき騙し論法で、
国家形成を探るようになっていると思います。
なので、瀬戸内航行も日本海航行も、どちらもほぼ論じられていません。 筑紫で各勢力が激しい権力争いをしているのに、大和の田舎者がそれに参入することは難しい。
政権を大きく揺るがす出来事がない限りね。
そう、例えば白村江の敗戦とか。 畿内説ではない人が畿内説の人に聞きたかっただけだろ >>143
帥升からは博多湾沿岸勢力のみが倭の代表でしょ。
ただ、その博多湾沿岸の主人そのものがしばしば交代するだけで。
他の地域の勢力は博多湾を抑えない限り大陸との交渉はできない。
だからこそ、魏志倭人伝において一大率による伊都から北、すなわち対馬海峡の統括が大事になるんだろう。
ここを押さえた者が倭王となる。
それが白日別(天下を治める国の意、筑紫の別名)の持つ意味だよ。 筑紫で激しい権力争いをしている根拠はないけど、
北部九州で勢力争いがあった場合
新興勢力は本州の大きな勢力と手を組んだほうが有利になる >>141
少なくとも、卑弥呼の直前の後漢の頃は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国だから、対馬海峡周辺だけが倭なんだよ。
で、畿内説は倭国大乱の間にそれが畿内まで拡大して畿内が倭の中心になったと言うんだろ?
ぎからみて、そんなに遠くの国を同じ倭という名前で呼ぶかねえ。 >>155
まあ、景行天皇と筑紫の神夏磯姫の関係はそれかもしれないね。
でも八咫の鏡を持っていたのは景行天皇ではなく神夏磯姫の方なんだよね。 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>99
>新羅の南は、東南の大海=日本海の中にある倭国の対馬
倭国の北は大海の日本海で限られている<
唐会要の「新羅の東南」や「正北抵新羅」でも、魏志倭人伝の行程記載でも 、
どっちにしても倭國は、九州であり、
倭国の北は、半島〜九州の間の大海。
>魏志でも、「韓在帯方之南」「倭人在帶方東南大海之中」であるので
倭人は韓の南ではなく東南 <
唐会要の「新羅の東南」や「正北抵新羅」でも、
魏志倭人伝の「帶方東南大海之中依山島爲國邑」でも行程記載でも 、
どっちにしても倭國は、九州。
>後漢書に注をつけているのだから、「誰も知らないような地名を持ち出して」というのは
「今名邪摩惟」のこと<
だから、李賢は、後漢書とも隋書とも違う別の情報を得たので、
後漢書の邪馬臺國に「今の名」で注を付けた。
>隋書の「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」を知識人は皆知っているから
後漢時代の「邪馬臺」の音が今は訛っていると推測している <
アホ言いなさんな。
李賢は、後漢書の邪馬臺國に注を付けたのであって、
隋書の邪靡堆に注を付けたんではない、んだよ。 記紀の神話では、
榊の枝に八坂瓊之五百箇御統、八咫鏡、青白の布帛をかけ祈祷をしたのは
天磐戸のときに中臣氏の祖の天児屋根と忌部氏の祖の天太玉がやったことだから、
神夏磯媛や熊鰐や五十迹手も同じようなことをして恭順の意をした表したことにした >>161
>どっちにしても倭國は、九州であり、
仮説は循環論法になるので ×
>どっちにしても倭國は、九州。
言張るだけでは日本では ×
>李賢は、後漢書とも隋書とも違う別の情報を得た
誰も知らない
>李賢は、後漢書の邪馬臺國に注を付けたのであって、
後漢書の「邪馬臺」の音が今は隋書の「邪靡堆」と訛っているという推測
つまり、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」は後漢時代の「邪馬臺國」と同じ国であり
「邪馬壹」ではなく「邪馬臺」を前提として推測している >>106
>畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。<
畿内という文言は、「天子皇帝天皇」の存在を前提とした宗教的な文言であり、
2世紀末には存在しないし、
大和の勢力変化は、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の結果であった可能性が非常に高い。
>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。<
九州倭国の「東征毛人五十五國」があった事と、
九州倭國の地方の市を監督する「大倭」職がいて、頑張ったから。
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。<
神武らに拠る東征建国は、紀元前91年頃。
>大和朝廷の主体は尾張と出雲。<
尾張は、東征毛人55国の中の一つ。
出雲は、国譲りや東征毛人55国でも滅びず、
梁代にも文身國と記録され、残存していた。 >>113
>邪馬台国はヤマト国<
邪馬台国なんて存在しないし、
邪馬壹國女王之所都の事なら、「ヤマト」は、「南≠東」だけでも×。 >>164
>畿内という文言は、
現在使われている地域概念が定着しているので ○
>「東征毛人五十五國」
毛人は東国なので ×
>文身國
出雲が文身國である根拠がないので × 神夏磯姫が三種の神器を掲げたのは、倭王であることを示すためだろうね。
景行天皇とむやみに衝突するのを避けたかったのもあるだろうけど、自らの正統性を示す意味もあったと思う。 >>115
>スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。
近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。 倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。<
倭国大乱もなかったし、
「倭國亂、相攻伐歴年」があったには九州付近であるし、
近畿地方で起きたのは九州倭國の「東征毛人五十五國」。
>結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
大和朝廷もなかった。
>近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。<
「三道将軍」の派遣は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の事。
大和は、その「東征毛人五十五國」に従軍した事を古事記に伝承し、
書紀は、それに出雲方面への戦争に従軍した事を付加して「四道将軍」と改竄した。 >>162
>神夏磯媛や熊鰐や五十迹手も同じようなことをして恭順の意をした表したことにした
恭順を意味するという根拠は? 神夏磯姫は土蜘蛛も退治できないくらいだから
豊前あたりの小国の首長 >>116
>魏志倭人伝 邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。 弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 奴佳鞮は中臣。 邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。<
九州倭國の共立支配や東征中心は、邪馬壹國と伊都国。
いずれも「姫氏系と天孫族の阿毎氏系の合同王朝の倭奴國の後継的」な国であり、
東征毛人五十五國の中心的な国であったから、
その臣下の呼称が、「東征毛人五十五國」に遺残する事は、幾らでも有り得る。
阿毎氏と姫氏とが婚姻で?合同していた事になる倭奴國(委奴國)からは、
AD57年の遣使の後に、姫氏系の一部が大野の地(卑弥呼が出た地)に分離し、
更に残った倭奴國は、奴國と伊都国に分裂して、
争って乱していたようであり、
そして、伊都国と邪馬壹國が共立中心になって、卑弥呼の共立にこぎつけた。 >>120
>学者にとっちゃ筑紫説なんて無いだろう<
弥生銀座や糸島の繁栄を無視して、
それらを倭国の地方の小国であるかのような言い方をして、
大和が倭国の首都であったかのような説を唱えた西谷は、
「南→東」などの嘘つき騙しもしており、
まあ、まともな人間ではないね。
おそらく皇国史観宗教に狂った・・・・学者。 >>171
~夏磯媛は周防の娑麼の南だから筑紫の魁帥じゃないよ 日本書紀に筑紫の梟帥と書いてあるよ。
他の勢力と組まれないように、先回りして豊前まで来ただけだよ。 >>127
>(陳寿の三国志を評価した後代の人)命じた皇帝は司馬氏、裴松之は東晋の役人<
後代の人である事には違いがない。 そして、この男(ww)は、私が「晋書の筆者」を挙げた事をこっそり隠している詐欺師。
>清朝の考証学者である趙翼なども、晋書はデマや誤報、、くだらないゴシップを信じ過ぎると低い評価を行なっている。<
唐代の晋書の陳寿伝は、司馬氏とは何の関係もなく、「デマや誤報、くだらないゴシップ」ばかりである筈がない。 この・・・・男の、「紹介や評価」の紹介の方が、信頼性が全くない。
>>邪馬臺國という狭い地域名の地(久留米付近)に変わっていた。<
>作り話はいらない<
七支刀の「こうやの宮」の存在や、高良大社の磐井伝承や、久留米付近の古墳や、横穴式石室や、装飾古墳などが根拠。 楽浪滅亡の半島情勢も傍証。
>>邪馬壹國が古文古型であった。<
>紹煕本は12世紀末の版本 <
底本になったのは、写本。
>>版本での錯誤の有無は、底本写本を介して、写本での錯誤の有無になる。<
>版本は12世紀以降なのでならない<
系統の違う版本の底本写本群は、当然12世紀以前のもの。
>>後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、対象が違うから、関係がない。<
>仮説を根拠にするのは循環論法になるから不可<
史料事実の差異を根拠にしているから、循環論法にならない。 まあ、神夏磯姫の筑紫の倭国女王としての権威が弱まっていたのは確かだろうけどね。
オオタラシヒコを利用して、耳垂など以前の邪馬台国の官を倒さなくてはいけなかったからね。
逆にいうと、邪馬台国が九州北部であった痕跡が神夏磯姫の記事に色濃く残っているんだよ。
神武から景行までの間、大和には女王はいないけど、筑紫には八咫の鏡を持つ女王がいて、耳垂などの邪馬台国の官名もまだ残っていたんだ。 筑紫の帥で八咫鏡を持つ。
倭国女王である平原の卑弥呼そのままですな。
卑弥呼の没後、おそらく数十年しか経っていないから、直接の後継者か。 >>131
>>「殿本考証」での話 <
>北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)は
殿本考証での誤りを正す個所の数<
だから、それが 膨大な「最大の校異・考証集成」の「殿本考証」の中での、
北宋本と南宋本の校異・考証箇所。
しっかり読めよ。
>北宋本、南宋本(数本、紹興本系列の本)しか書いてない
他本(諸本)とは張元済の話で、紹煕本以外のこと<
それが、「殿本考証の説明」を書いた張元済の話。
しっかり読めよ。
>>(太宰府の翰苑の元の原文)に現れた本文の事を「本体」と言った。<
>お前が、「本体」などと変な表現の自分のレスに返答していただけ<
お前が、「本体」という文言を曲解した事を咎めただけ。 >>176
>後代の人である事には違いがない。
晋の後の時代に三国志を評価したのは誰かと訊ねている
>「晋書の筆者」を挙げた
「晋書」の評価が低いのは書いてあげた
>唐代の晋書の陳寿伝は、
陳寿ではなく三国志の評価を訊ねている
>七支刀の「こうやの宮」の存在
って何?
>〜などが根拠。
だから仮説であり作り話は ×
>底本になったのは、写本。
>系統の違う版本の底本写本群は、当然12世紀以前のもの。
それはどこにあるのかを訊いたが応えはない
>史料事実の差異を根拠にしているから
字が違うから別の国というのが仮説だから × >>180
>だから、それが 膨大な「最大の校異・考証集成」の「殿本考証」の中での、
>北宋本と南宋本の校異・考証箇所。
それはおれが最初から言ってること
お前は「殿本考証」で北宋本と南宋本の他にその他(諸本)があると書いていた
途中で話を変えてごまかすな
>「本体」という文言を曲解した事を咎めただけ。
お前が自分のレスに返答してるから教えてやって
おかしな「本体」を訂正してやっただけ >>126
>親魏倭王印や魏の臣下の銀印の身分を貰っていた九州倭国は、
>魏の薄葬令の制約をもろに受けるが、
畿内で最大級の古墳が作られる時代は、魏がとっくに滅びたあとだぞ
その頃にも本国だとザラコクが主張する九州ではしょぼい前方後円墳しか作ってないよな?
魏の薄葬令なんて関係ない時期でも、九州に巨大古墳はない
つまり倭国の中心とはほど遠い土地だ 畿内説はすぐ卑弥呼より後の時代の話を持ち出して話をそらすんだよな。 もうこれを書くのも何度目か、なんだが
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
この小鹿火宿禰を「倭王」だとか言うやつはいないよ
八咫鏡持っている=倭王、じゃないんだよ
神夏磯姫も当然、倭王ではない >>133
>お前は更正数を版本数と勘違いし、張元済の話での他本(諸本=紹煕本以外の版本)を
殿本考証の話と勘違いしている <
していない。
そんな事は始めから判っている。
「ここで注意すべきは「殿本考証」の性格だ。
清朝初期、勅命をうけて清朝学者たちの大成したこの考証は、
現在においてなお、最大の校異・考証集成である。
特に注目すべきは、当時現存していた北宋本・南宋本を、全巻にわたって対照し、記録していることだ。
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)
南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)」
と書いてあるんだから、
「当時」とは、殿本考証の時であり、
「全巻にわたって対照し、記録」とは、
殿本考証の時の「北宋本」部分と「南宋本」部分の、それぞれでの、考証箇所数だ。
お前は、日本語も読めない・・・・アホだ。 九州説は、白村江敗戦後まで九州王朝が存続してるっていうんだから、
そこが否定されたらもう意味なしだろ >>183
>畿内で最大級の古墳が作られる時代は、魏がとっくに滅びたあとだぞ
箸墓は卑弥呼の時代ではなかったのか? >>135
>白村江の戦いの時点で唐が日本と呼ぶ国が2つあるなんて、<
釈日本紀や晋書や唐会要や新唐書の情報もあるが、
根本的には、旧唐書などの、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。」
記載が根拠だ。
>古田説はムチャクチャな説だね<
釈日本紀や晋書や唐会要や新唐書や旧唐書などの記載を否定するなんて、
大和説は、ムチャクチャな説だね。 それらに、唐が日本と呼ぶ国が
同時に2つもあるとは書いてないよ >>141
>二王朝とか万世一系とかいうレベルじゃないぞ
唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶかアホ!って話だ
脳が腐ってるのか?<
九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
大和は、隋の文帝に小野妹子が日本国を初めて名乗った、という話であり、
それを紹介したのが、旧唐書の、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」
の文だ。
だから、お前がアホか、脳が腐っているのか?、って話だ。 >>142
>この人は、、何が問題だか理解できてないんだろうか<
この大和説男も、何が問題だか?、も理解できてないんだろうか。 >>143
大和説のいう王朝って言葉の使い方がいい加減なだけだと思う。
各地には各地の支配者である首長がいて、それが豪族になり、
更にその豪族一族が一定地域を継続的に支配している事になれば、
そりゃ、普通の日本語では「王朝」と呼べる国である事になる。
>国造なり県主なりと呼ばれるようになる
九州の首長は、奴国が国造(筑紫国造)、伊都国が県主(怡土県主)、末慮国が国造(末羅国造)
になっているね<
いや、九州では、倭奴國から倭国時代にずっと盟主的に「一定地域を継続的に支配していた」から、
王朝と呼べる。
しかし、大和は、九州倭国の支配下の「地方の市を監督する大倭職の役人の支配地域」であったから、
盟主ではなかったので、王朝と少し言い難い。
>こういうのを全部王朝扱いしても、構わないけどさ、あまり意味のある議論にはならないだろう<
大和をずっと「王朝扱い」にするのは、少し「嘘つき騙し」のインチキだろう。 >>186
>していない。
お前が北宋本・南宋本の他にもその他の諸本がたくさんあったと連呼して
間違い箇所数を貼り続けたから
俺が殿本考証については北宋本・南宋本の間違い箇所数しか書いてないと
指摘してやったんだろ、自分のアホをごまかすな >>144
>名前が違うから別の国だ と言い張ってたトンデモ珍説が<
言っていないねえ。
始めから、旧唐書の、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」
に拠って、
九州倭国も大和も、どちらも「日本国」と名乗っていた、と説明して来て置いた。
>とうとう辻褄合わなくなって<
唐会要や新唐書などの新しい情報が入るたびに、ますます「辻褄が合って」来た。
>名前は同じだが別の国だ と言い出して泥沼 って話だよ 笑い話 <
大和説者が、
九州倭国と大和が、ずっと同じ国だ と言い出して泥沼になってしまった、
って話だよ。
笑い話。 >>167
>神夏磯姫が三種の神器を掲げたのは、倭王であることを示すためだろうね。
という理由は、なんか有るのか?
ないんだろ? >>146
>(九州倭國)北部はイマイチまとまりが無いね
>玄関口だからね<
共立時代は、イマイチまとまりが無かった可能性はあるが、
その後は、はっきり倭国として統一的になって来たから、纏まっていた。 >>194
>九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
は、作り話だから × >>194
>九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
>大和は、隋の文帝に小野妹子が日本国を初めて名乗った、という話であり、
>それを紹介したのが、旧唐書の、
>「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」
の文だ。
あんたらのそんな突飛な考えはどうでもいいよ
だって、それ・・・
唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶ
なんて奇妙なフルタ説を正当ばしてくれないだろ >>148
>奴国は筑紫国造じゃなくて儺県主だろ、(筑紫国造の同族だろうけど)<
奴國は、倭奴國時代には盟主的であったようだが、
伊都国と別れてからは、倭国王にはなっていなかったようだよ。
それに、半分偽書の記紀の「北部九州諸国への身分呼称の国造や県主」には、
信頼性もないよ。 >>200
纏まってはいないが、畿内の庄内式の模倣という共通性は
見られるようになる
3世紀はまだ畿内と密接なのは博多湾沿岸地域だけだろう >>155
>筑紫で激しい権力争いをしている根拠はないけど、<
女王共立の頃までは、激しい権力争いがあったかも知れないが、
その後は、姫氏と阿毎氏系の団結が強くなって、
(継体の反乱頃までは)激しい権力争いは殆どなかった。
>北部九州で勢力争いがあった場合
新興勢力は本州の大きな勢力と手を組んだほうが有利になる<
本州勢力が九州倭国の王家に参加出来る事になったのは、継体の反乱勝利の後。 >>203
そもそも2万戸奴国の比定が三雲の飛び地と早良平野という
九州説でも言わないおかしな国にしてるから「ようだよ。」と作り話しても × >>205
>姫氏と阿毎氏系の団結が強くなって、
作り話だから × >>156
>少なくとも、卑弥呼の直前の後漢の頃は
倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国だから、対馬海峡周辺だけが倭なんだよ。<
成程。
後漢の頃は、九州中南部は、東テイ人の国であった、という事になり、
それが卑弥呼の頃には投馬國になっていた、という事になり、
史料事実とほぼぴったり合うね。 >>193
>倭国は隋の時代に遂絶している。
根拠は? >>199
三種の神器が倭王の王権の象徴だからだよ! >>157
>まあ、景行天皇と筑紫の神夏磯姫の関係はそれかもしれないね。
でも八咫の鏡を持っていたのは景行天皇ではなく神夏磯姫の方なんだよね。<
成程ねえ。
まあ、景行は、山口県から出発して筑紫に凱旋しているから、
筑紫倭國の将軍の一人ではあって、
大和の書紀はそれを盗用したんでしょうが。 >>202
>唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶ
>なんて奇妙なフルタ説を正当ばしてくれないだろ
じゃあ、倭国と日本国が並存していた別の国であることは認めるんだな? >>208
>九州中南部は、東テイ人の国
東鯷人は呉地だから ×
>卑弥呼の頃には投馬國になっていた
何の繋がりもない作り話は × >>204
>>>200
>
>纏まってはいないが、畿内の庄内式の模倣という共通性は
>見られるようになる
>3世紀はまだ畿内と密接なのは博多湾沿岸地域だけだろう
纒向は東海との結びつきが強いんじゃなかったっけ?
博多湾沿岸部は西日本各地から物資が集中したけどね。 >>211
忍代別の称号があるから、筑紫倭国から出た分家の一つでしょうねえ。 >>214
庄内甕は在地模倣製作だから
物資が集中した根拠はない >>215
なんで忍代別だと筑紫倭国から出た分家になるんだ
意味不明 >>214
纒向の搬入土器は東海が多いけど
庄内式自体が吉備の技術の影響だから情報交流が緊密なのは吉備のほう
北部九州でも庄内式模倣製作の中心の那珂が畿内と緊密 >>218
直接交流だとは思いませんね。
纒向はあくまでも東海地方を通じて西と交流していたということであり、独自の主体性を欠く従属する土地なんですよ。
当時は海運が主力だから、吉備と東海は直接交流できたでしょうが。 そんな纒向が、豊かで文化的水準も高かった筑紫を従えることなど無理。 >>220
庄内式の成立は河内だからな
庄内式の前段階に畿内第V様式圏があるから
舟で行けるとこだけというのは新石器時代の話だから >>220と>>221
慌てて文体を変えるのを忘れてるなw
>>220は岡上口調
>>221は名無しの八咫バカ口調 東海系のS字甕は博多遺跡には入るけど
古墳時代初頭から外港になる西新町からは出ない >>222
>舟で行けるとこだけというのは新石器時代の話だから
根拠は? >>227
何の知識も無い人から根拠はと聞かれても困るが
縄文時代でも中部高地は遺跡が密集する
弥生時代は水稲栽培適地、それにより土木技術が発達する >>220
>纒向はあくまでも東海地方を通じて西と交流していたということであり
ことであり?
どっから湧いて出て来た話だ? 畿内説明は土器の話しかできないのかよ
倭人は鉄の鏃を使うって書いてあるんだろ
ヤジリが出ない時点で九州確定なんだよ
俺は卑弥呼の墓も想定ついてるけど
荒らされたら申し訳ないから書かないだけだからな >>231
倭人が全員鉄の鏃を使うって書いてないな >>162
>記紀の神話では、
榊の枝に八坂瓊之五百箇御統、八咫鏡、青白の布帛をかけ祈祷をしたのは
天磐戸のときに中臣氏の祖の天児屋根と忌部氏の祖の天太玉がやったことだから、
神夏磯媛や熊鰐や五十迹手も同じようなことをして恭順の意をした表したことにした<
「恭順の意」とは限らない、と思いますよ。
記紀神話は、天孫族の阿毎氏の皇国史観という宗教的な「結論先にありき」で書かれていますから、
「恭順の意」を表したように書いているんでしょうが、
「三種の神器」様の組み合わせで出迎えた、という事は、敵味方を示す旗印のように、
自分たちの部族の出目や地位を相手に伝えよう、としているんだろう、と思いますよ。
つまり、神夏磯媛や熊鰐や五十迹手らは、
自分らが、倭国の王家や、天孫族系の阿毎氏系王家に繋がる部族である事を、
軍を引き連れて来た(倭国系の遠征将軍の?)景行や仲哀に示そう、とした。
ニギハヤヒが東征将軍の神武らに示したお宝と同じようなの事なんでしょうね。 テンプレに出てくる「"嘉平限断論"」ってなに?
ググってもこのスレしか出て来ないんだが >>163
>>(唐会要の正北抵新羅)どっちにしても倭國は、九州であり、<
>仮説は循環論法になるので × <
変な男。wwは・・・・か?。
「唐会要倭国伝の正北抵新羅」という史料事実を出発点にした論を書いているのだから、 循環論法になっておらず、
「倭國の中心部は大和にあった」という無根拠な事を言い張ったwwの方が、
「結論先にありき」の循環論法。
>>どっちにしても倭國は、九州。<
>言張るだけでは日本では × <
史料事実を否定して「大和が倭国の中心であった」として言い張るだけでは、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者には通用しても、
国民や人類や世界の学者や科学者には通用せず、×。
>>李賢は、後漢書とも隋書とも違う別の情報を得た<
>誰も知らない<
確定的な別情報(郭務ソウらからの)を得なければ、李賢は「邪摩惟」情報を知る事が出来ない。
>>李賢は、後漢書の邪馬臺國に注を付けたのであって、<
>後漢書の「邪馬臺」の音が今は隋書の「邪靡堆」と訛っているという推測
つまり、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」は後漢時代の「邪馬臺國」と同じ国であり
「邪馬壹」ではなく「邪馬臺」を前提として推測している<
「案:今名邪摩惟、音之訛也」は、「今の名のが邪摩惟がである」と事を断定した表現であり、
後漢書の「邪馬臺國」の名前が「邪摩惟」に変わった、という事を「案」じている。 >>231
>ヤジリが出ない時点で九州確定なんだよ
鉄鏃があちこちから出てる阿波はどうなるの? @阿波 >>222
>庄内式の前段階に畿内第V様式圏があるから
その庄内式の前段階は、畿内第V様式の「東阿波型土器」だよね。 @阿波 >>166
>畿内という文言は、現在使われている地域概念が定着しているので ○ <
畿内という文言は、大和に天皇がいたという事を前提にした文言であるが、
大和が天皇になったのは天智からであり、だから、天智以前の話に「畿内」を使うのは、
「結論先にありき」の循環論法になってしまうので、×。
>「東征毛人五十五國」 毛人は東国なので ×<
倭国の位置は、唐会要倭国伝で「正北抵新羅」であるから、九州であり、
その倭國の「東征毛人五十五國」の「毛人」は九州以東の地の部族の事になり、
単なる「東国」として、大和以東の人種だ、とするのは嘘つき騙しになるので、×。
>(文身國)出雲が文身國である根拠がないので ×<
梁書が出雲を「文身國」と記録しているので、このwwの説明は嘘つき騙しになり、×。 >>232
全員どころか、畿内では誰も使ってないw 3世紀の鉄器が出土するのは北部九州で関西からは出ない、絹も同じ
3世紀当時は関西は未だ未開の地で国なんか存在してなかった。 「晋書限断論」とは晋書の始まりをどこに置くかという問題。
荀?は曹叡が死んで曹爽と司馬懿の連立政権が始まる239年を晋書の開始年と主張した。
王?は司馬懿が曹爽を誅殺した249年(嘉平元年)を晋書の開始年と主張した。
290年に司馬炎が死ぬと魏が滅亡した265年が晋書の開始年となった。 >>240
>3世紀の鉄器が出土するのは北部九州で関西からは出ない、絹も同じ
3世紀の鉄器は阿波でも出土する。
3世紀の丹が採れるのは阿波だけ。 @阿波 >>>(陳寿の三国志を評価した後代の人である事には違いがない)
晋の後の時代に三国志を評価したのは誰かと訊ねている<
>>「晋書の筆者」を挙げた<
>「晋書」の評価が低いのは書いてあげた<
晋書の筆者が、陳寿や三国志を評価した事には変わりがない。
>(唐代の晋書の陳寿伝は、) 陳寿ではなく三国志の評価を訊ねている<
晋書は、陳寿も三国志も、どっちも評価している。
>>七支刀の「こうやの宮」の存在<
>って何?<
「桐の家紋」の主が七支刀を持った使節らを受けている、という形の人形群があるから、
「桐の家紋」の主は、倭王旨その人か?、倭王旨の家臣の最高位的な人物。
>>〜などが根拠。<
>だから仮説であり作り話は ×<
否定反論の根拠も言えずに、「ただ仮説だ」と口先だけで否定宣伝をするwwは、
全て仮説であり、作り話であるから、×人間。 >>181の続き
>>底本になったのは、写本。
>>系統の違う版本の底本写本群は、当然12世紀以前のもの。<
>それはどこにあるのかを訊いたが応えはない<
当然、殿本考証の時点で、最大限の資料収集をしていたんだから、
清朝の殿本考証の場に、揃えられていた。
当たり前の事。
>>(邪馬壹國や邪馬臺國や邪靡堆や邪摩惟)
史料事実の差異を根拠にしているから <
>字が違うから別の国というのが仮説だから × <
字形も音韻も説明記載内容や時期も違えば、「別の国」である、
というのは、史料事実を根拠にした史料実態であり、
仮説ではないので、
wwは、また、×。 >>241
鉄器が無い→農業生産性が低い→人口が少ない
鉄器が無い→戦争に弱い→他国の侵略を受ける >>246
>鉄器が無い→戦争に弱い→他国の侵略を受ける
鉄器が無い→農業・手工業生産性が低い→先進国の文化を受け入れる @阿波 >>182
>>(北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71))
だから、それが 膨大な「最大の校異・考証集成」の「殿本考証」の中での、
北宋本と南宋本の校異・考証箇所。<
>それはおれが最初から言ってること<
それは、私が最初から言っていた事。
>お前は「殿本考証」で北宋本と南宋本の他にその他(諸本)があると書いていた
途中で話を変えてごまかすな <
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)という記載では、
その数が、殿本考証での、北宋本と南宋本のそれぞれの中の考証箇所数を示している可能性が高く、
北宋本と南宋本間の考証箇所であれば、北宋本と南宋本の考証箇所数が一致する筈であるので、
それが「違う」という事は、
単に「殿本考証での、北宋本と南宋本のそれぞれの中の考証箇所数を示している」という可能性が高い。
>>「本体」という文言を曲解した事を咎めただけ。<
>お前が自分のレスに返答してるから教えてやって おかしな「本体」を訂正してやっただけ<
お前の「言葉尻の誹謗」のために、世間の人々に何の話なのか?が判るように、
その返事に「何の話であったのか?」の説明も入れる必要がある事になり、
しかし、行数が32を超えれば、5chにその投稿全部を抹殺されてしまう可能性があり、
だから、お前の・・・・投稿文をカットした投稿を書いた、
というだけだ。 >>222
内陸の僻地であった纒向は邪馬台国と関係ないということで。 >>241
魏志倭人伝の記述と畿内の状況はかけ離れすぎている。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 キナイコシが鉄器に過剰反応するのはなぜだろうか、、、 >>256
優れた考古学者の始業時間ではないのかな。。。 >>253
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>255
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 >>261
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、 >>262
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 >>263
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。 >>265
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>183
>>親魏倭王印や魏の臣下の銀印の身分を貰っていた九州倭国は、
魏の薄葬令の制約をもろに受けるが、<
>畿内で最大級の古墳が作られる時代は、魏がとっくに滅びたあとだぞ
その頃にも本国だとザラコクが主張する九州ではしょぼい前方後円墳しか作ってないよな?
魏の薄葬令なんて関係ない時期でも、九州に巨大古墳はない
つまり倭国の中心とはほど遠い土地だ <
卑弥呼の宗女の壹與が女王になれば、
当然卑弥呼の親魏倭王地位の継承を自覚しているのであり、
「率善中郎將」や「爲率善校尉」や「銀印青綬」を受けた家臣らも、
当然薄葬令の順守を自覚する事になる。
だから、倭国の中心は、薄葬令に制約された地域だ。 >>185
>日本書紀 巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。<
この「紀小弓」の「紀氏」は、
高良大社の隆慶上人伝によって、半島の王となったとなった、という伝承のある氏であり、
「紀氏=姫氏」であるから、
「東海姫氏國=倭國」の人物(おそらく王的地位)だな。
書紀は、ここでも、倭國の人物や歴史を盗用していたらしい。 >>187
>九州説は、白村江敗戦後まで九州王朝が存続してるっていうんだから、
そこが否定されたらもう意味なしだろ <
否定されないから、関係がない。
唐会要倭國伝に拠って、
倭国が新羅に「正北抵新羅」だ、とか、
日本国伝に「日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。
或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。
或云「日本舊小國、呑併倭國之地に」とか書かれているんだから、
倭国は、ずっと新羅のほぼ真南の九州にあった事になり、
九州倭国であり、九州王朝そのものだ。 >>191
>それらに、唐が日本と呼ぶ国が 同時に2つもあるとは書いてないよ <
旧唐書の日本国伝にも、
日本国以外に倭國も以前に日本国と名乗った事が書かれているが、
唐会要は、更に、(日本国伝ではなく)倭国伝に、
則天に倭國使節が「日本国」を名乗った事を記載し、
更に、開成4年までの遣使に「倭國」を名乗った遣使もあった事を記載して、
倭国が「倭国と日本国の両方を名乗っていた」という実態が書かれている。 >>269
相変わらず詭弁にもならない駄論を書き連ねているなぁ
本当に頭悪い
ザラコクの信奉する古田史学では、白村江まで九州王朝が
存続しているっていう主張なんだろ?
そしてその間ずっと古墳を作ってるよな?
でもその間ずっとしょぼい小さなものだけ
魏朝は、265年に終わってるんだが、その魏が終わった後
薄葬令をいつまで守ってたっていうつもりなんだ? >>193
>倭国は隋の時代に遂絶している。<
旧唐書と唐会要は、倭國(俀國の後)が、
貞觀五年頃に遣使を往来再開したが、失敗して由是復絶になり、
また、「至二十二年又附新羅奉表、以通往起居」にし、
唐会要では、永徽五年や、白村江の後の咸亨元年や則天の時や、開成4年までも、
倭国は遣使を派遣した事になっている。 九州の古墳の副葬品は豪華だよ。
沖ノ島の祭祀も豪華だよ。
何がしょぼいって?
卑弥呼がいたはずの3世紀の畿内の遺跡の方がしょぼいよ。
まわりの関西圏と比べても格段にしょぼいw >>254
優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 >>277
優れた考古学者に打ちのめされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 >>265
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 >>279
あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、 >>258
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>280
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、 >>283
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>284
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 >>197
>>していない。<
>お前が北宋本・南宋本の他にもその他の諸本がたくさんあったと連呼して
間違い箇所数を貼り続けたから
俺が殿本考証については北宋本・南宋本の間違い箇所数しか書いてないと
指摘してやったんだろ、自分のアホをごまかすな<
この・・・・wwは、まだ、殿本考証は
「清朝初期、勅命をうけて清朝学者たちの大成したもので、
現在においてなお、最大の校異・考証集成である」
というものであるのに、
実際には「北宋本と南宋本しか考証していない」
なんて解釈をしているアホであったらしい。 >>201
>九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
は、作り話だから × <
釈日本紀がついうっかり引用紹介してしまった史料実態であり、
作り話ではないから、×。 >>202
>九州倭国は、晋の惠帝の時の遣使が日本国を初めて名乗り、
大和は、隋の文帝に小野妹子が日本国を初めて名乗った、という話であり、
それを紹介したのが、旧唐書日本国伝の、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」
の文だ。<
>あんたらのそんな突飛な考えはどうでもいいよ だって、それ・・・
唐が同時に別の2つの国を同じ名前で呼ぶ なんて奇妙なフルタ説を正当ばしてくれないだろ<
倭国が先に日本国を名乗り、大和が隋の文帝に開皇末に日本国を名乗った、
というのは、史料事実であり、史料実態だ。 >>204
>(筑紫地域は)纏まってはいないが、畿内の庄内式の模倣という共通性は
見られるようになる
3世紀はまだ畿内と密接なのは博多湾沿岸地域だけだろう<
逆だ。
庄内の発祥は、糸島地域であり、
那珂八幡地域や大和や河内や播磨は、糸島地域からの伝来模倣生産であり、
(大和を省く)播磨や河内が、那珂八幡地域の弥生銀座に、
市を介して搬入上納をしたのだ。 >>206
>そもそも2万戸奴国の比定が三雲の飛び地と早良平野という
九州説でも言わないおかしな国にしてるから「ようだよ。」と作り話しても ×<
伊都國の東南百里(約7.6km)に奴國があって、
二万戸あって、
東側が「不彌國と邪馬壹國に遮られる」地域と言えば、
三雲平原地域〜早良平野地域、という広域しか残らないから、
この・・・・男は、×。 >>207
>姫氏と阿毎氏系の団結が強くなって、<
>作り話だから ×<
松野氏姫氏系図では、倭奴國〜帥升時代には合同しており、
卑弥呼共立後も、阿毎氏の伊都国に、姫氏の卑弥呼政権の軍事中心の一大率が治していたんだし、
その後も、壹與や那珂八幡や銚子塚のいる阿毎氏系のような王らが出ているから、
作り話ではなく史料実態であり、
この・・・・男も、×。 >>235
>「唐会要倭国伝の正北抵新羅」という史料事実を出発点にした論を書いているのだから、
>循環論法になっておらず、
循環論法を理解できていないので ×
>国民や人類や世界の学者や科学者には通用せず、
国民や人類や世界の学者や科学者は言張ることはないので ×
>確定的な別情報(郭務ソウらからの)を得なければ、
存在しない報告書を妄想で作っているので ×
>後漢書の「邪馬臺國」の名前が「邪摩惟」に変わった、
変わったのではなくて、音が訛ったと「案」じているので × >>238
>畿内という文言は、大和に天皇がいたという事を前提にした文言であるが、
畿内を地域概念とは考えないのは特殊な人だけなので ×
>倭国の位置は、唐会要倭国伝で「正北抵新羅」であるから、九州であり、
仮説は循環論法になるので ×
>梁書が出雲を「文身國」と記録しているので、
これも仮説であるので × >>244
>晋書の筆者が、陳寿や三国志を評価した事には変わりがない。
晋当時の人の陳寿評価は書いてあるが
三国志を評価したとウソをついているので ×
>晋書は、陳寿も三国志も、どっちも評価している。
これもウソなので ×
>「桐の家紋」の主が七支刀を持った使節らを受けている、という形の人形群があるから、
あの人形は誰でも作れるから不可
>否定反論の根拠も言えずに、「ただ仮説だ」と口先だけで否定宣伝をする
自分の仮説は根拠になると言張っているだけなので × >>245
>当然、殿本考証の時点で、最大限の資料収集をしていたんだから、
>清朝の殿本考証の場に、揃えられていた。
紹煕本が殿本考証に対校された南・北宋本の誤謬さえ正しうる
しかし、その紹煕本さえ写本残片に比べると、さらに訂正しうる個所がある
ということだから、清朝の殿本考証の場に底本写本が揃えられていたというのは ×
>字形も音韻も説明記載内容や時期も違えば、「別の国」である、
>というのは、史料事実を根拠にした史料実態であり、
「別の国」であるというのは史料実態ではなくて仮説なので × >>249
>それは、私が最初から言っていた事。
言っていないから、訂正箇所数を書いて何の意味があると俺が訊いたが応えなかった
>考証箇所数を示している可能性が高く
可能性が高いんじゃなくて文脈から訂正箇所数だから、
俺が版本が多く残っていたことにはならないと書いたんだろ
>行数が32を超えれば、5chにその投稿全部を抹殺されてしまう可能性があり、
>だから、お前の・・・・投稿文をカットした投稿を書いた、
自分のレスのほうを消せアホが >>288
>実際には「北宋本と南宋本しか考証していない」なんて解釈をしている
で、お前は北宋本と南宋本の訂正箇所数をコピペしてたわけだが
殿本考証では北宋本と南宋本の他に何を考証したのか? >>289
>釈日本紀がついうっかり引用紹介してしまった
九州倭国と書いてある箇所を引用しなければ × >>291
>庄内の発祥は、糸島地域であり、
研究者が誰も言っていないことを素人が言張っても × >>292
>三雲平原地域〜早良平野地域、という広域しか残らないから、
考古無知だから × >>293
>松野氏姫氏系図では、
考証をまったくやっていないから × >>305
やったという根拠は何も書いたことがない いやどう見たって、偽系図だろう
あれを見て、真作の古系図だと思えるのは、疑うことを知らない
小鹿のような性格の人だけだ キナイコシが松野氏姫氏系図に過剰反応するのはなぜだろうか、、、 松野氏姫氏系図を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。 >>311
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 >>281
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>308
優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 >>316
優れた考古学者に打ちのめされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 >>285
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 >>287
それにしては、自分の妻の為に作った墓がやけに大きいな。。。 狂人のキナイコシはテンプレートが論破され時は、悪口しか言わなくなるな。。。 >>321
大物主の妻は天皇の妹でもあるから、良いのではないのかな。。。 >>323
なるほど、、、大物主は神武天皇の舅でもあったね。。。
大物主と天皇は長い時代に渡って、親戚だったのだな、、、 >>322
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 キナイコシが庄内式土器に過剰反応するのはなぜだろうか、、、 庄内式土器について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>329
僕たちは庄内式土器について、酸いも甘いも知りつくしてしまったね。。。 >>328
優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 >>332
優れた考古学者に打ちのめされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 庄内式土器というのは、大物主の使用していた土器のことのようだね。。。 纏向遺跡が大物主の倉庫だと紹介してくれた謎の考古学者がいたが、庄内式土器についても詳しいようだな、、、 >>213
>>九州中南部は、東テイ人の国<
>東鯷人は呉地だから × <
倭人は、「倭人在帶方東南大海之中」であり、
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」という判断をしており、
帯方から行くべき所、という記載。
東鯷人は、
漢書では「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歳時來獻見云」であり、
後漢書も「會稽海外有東鯷人、分爲二十餘國」であり、
以歳時來獻見は、海賦に拠れば、後漢最末期に、漢朝に「序に就いた」という記録があってから、
記録が無くなった。
いずれにしても、東鯷人は、会稽海外であって、呉地ではない。
>>卑弥呼の頃には投馬國になっていた<
>何の繋がりもない作り話は ×<
会稽を起点にして海外に相当するのは、九州〜薩南諸島や南西諸島。
帯方からは 「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」として区別されているから、
九州の北半分は倭人地域になり、九州の南半分は東鯷人だろうという事になる。
そして、卑弥呼の頃には、九州南部の東鯷人の記録が無くなっていて、
その代わりに投馬國が出来ている事になる。 >>217
>なんで忍代別だと筑紫倭国から出た分家になるんだ
意味不明 <
景行が大和王家の王であったんなら、「別」という呼称文字を付ける必要がない。
九州倭国の出であって、大和に行っていた将軍であったんなら、
「別」という文字を付ける意味がある。 >>218
>纒向の搬入土器は東海が多いけど
庄内式自体が吉備の技術の影響だから情報交流が緊密なのは吉備のほう
北部九州でも庄内式模倣製作の中心の那珂が畿内と緊密 <
米田に拠れば、北部九州に搬入上納された庄内は、その胎土から、播磨や河内のものばかりで、
大和のものは殆どなかった筈。 >>220
>直接交流だとは思いませんね。
纒向はあくまでも東海地方を通じて西と交流していたということであり、独自の主体性を欠く従属する土地なんですよ。
当時は海運が主力だから、吉備と東海は直接交流できたでしょうが。<
どうも、倭国の「東征毛人五十五國」があった事を忘れているようだね。
その倭國は、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、九州にあったのであり、
出雲文身國と越の大漢國と足摺の朱儒國は梁代まで存続しているので、
「東征毛人五十五國」は瀬戸内〜近畿〜東海方向になる。
そして、「市」を介して瀬戸内〜近畿〜東海の産物が九州に搬入上納された、という事になる。 畿内説はないなあ
万葉集とも一致しない点が多い、無理がある
四国は、何か出るかもって期待して時点かな
いまの所は、九州有力
鉄の道具、鉄の武器の多さは国の豊かさと比例しているはず
九州からしか出てない絹も先進国だった証拠だろう
>>222
>庄内式の成立は河内だからな
庄内式の前段階に畿内第V様式圏があるから
舟で行けるとこだけというのは新石器時代の話だから<
庄内の成立は、柳田に拠って三雲。
「東征毛人五十五國」や「市」を介して、瀬戸内〜近畿〜東海などに伝えられ、
筑紫に搬入上納された。 >>337
>東鯷人は、会稽海外であって、呉地ではない。
東鯷人が書かれているのは「漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条」
>九州の南半分は東鯷人だろうという事になる。
漢書の「以歳時來獻見云」の考古学的出土物が無い
>その代わりに投馬國が出来ている事になる。
弥生後期以降の北部九州と南九州の交流を示すものが無い >>342
>庄内の成立は、柳田に拠って三雲。
ど素人の落書きなので × >>236
>>(大和から)ヤジリが出ない時点で九州確定なんだよ<
>鉄鏃があちこちから出てる阿波はどうなるの? @阿波<
九州倭国の「東征毛人五十五國」の「鉄鏃」将軍が、
大和よりも先に阿波に入ったんだろうなあ。 河内は武埴安彦の乱で負けたからな。
兵として徴用され、九州北部に連れていかれたんだろう。
播磨は河内よりずっと前に征伐されて兵に徴用されたんだろうな。播磨物部。 >>273
>相変わらず詭弁にもならない駄論を書き連ねているなぁ 本当に頭悪い
ザラコクの信奉する古田史学では、白村江まで九州王朝が存続しているっていう主張なんだろ?<
違うね。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku5/satiyam5.html
の「残映」にも書かれているように、古田説は、
ついで同じ『宋史』日本伝中、興味深い記事がある。
「天聖四年(一〇二六、後一条天皇、万寿三年)十二月、明州言う、
『日本国太宰府、人を遣わして方物を貢す。而も本国の表を持たず』と、詔して之を卻(しり)ぞく。
其の後も亦、未だ朝貢を通ぜず、南賈(なんこ)時に其の物貨を伝えて中国に至る者有り」。
日本国の太宰府から、中国(北宋)へ朝貢をもってきた、というのである。
明州からの報告だ(明州は今の寧波、すなわち、浙江省〔会稽道〕勤*県)。
しかも、日本国王の上表文をもたず、単独で自主的に献上してきたのだ。
しかし、中国の天子はこれをしりぞけた、というのである。
十一世紀前半といえば、日本では平安期中期だ。九州王朝の滅亡(七〇〇年)からすでに三世紀を越えている。
しかるに、このような事実。
ーーそれは一世紀志賀島の金印授与以来、九州王朝の根深い、対中国関係の伝統を物語っているであろう。
そして中国側から「朝貢」を拒否されてもなお、「南賈」(南方の商人)を通じて“「朝貢」の名なき朝貢”を送りつづけている、という。
わたしたちは、ここに東シナ海を渡って南朝と国交をもちつづけた九州王朝の永き残映を見ているのである。
という説だよ。
>そしてその間ずっと古墳を作ってるよな? でもその間ずっとしょぼい小さなものだけ
魏朝は、265年に終わってるんだが、その魏が終わった後 薄葬令をいつまで守ってたっていうつもりなんだ?<
墓は、横穴式石室や装飾古墳に中身を変えて、外からの見た目には薄葬令を守っている。 >>295
>>「唐会要倭国伝の正北抵新羅」という史料事実を出発点にした論を書いているのだから、
循環論法になっておらず、<
>循環論法を理解できていないので ×<
循環論法を理解できていないので ×。
>>国民や人類や世界の学者や科学者には通用せず、<
>国民や人類や世界の学者や科学者は言張ることはないので ×<
何の問題なのか?を判らなくした引用だから、×。
>>確定的な別情報(郭務ソウらからの)を得なければ、<
>存在しない報告書を妄想で作っているので × <
郭務ソウが、報告書も提出しなかった、という非常識な妄想をしているから、×。
>>後漢書の「邪馬臺國」の名前が「邪摩惟」に変わった<
>変わったのではなくて、音が訛ったと「案」じているので ×<
また、意味不明な引用をして、何の話なのか?を判らなくしたから、×。 >>296
>>畿内という文言は、大和に天皇がいたという事を前提にした文言であるが、<
>畿内を地域概念とは考えないのは特殊な人だけなので ×<
「畿内」という文言を単なる「地域概念」だと嘘つき騙しをしたから、×。
>>倭国の位置は、唐会要倭国伝で「正北抵新羅」であるから、九州であり、<
>仮説は循環論法になるので ×<
史料事実を「仮説だ」と嘘を付いたから、×。
>>梁書が出雲を「文身國」と記録しているので、
>これも仮説であるので ×<
これも、史料実態を「仮説だ」とウソを付いたから、×。 >>297
>>晋書の筆者が、陳寿や三国志を評価した事には変わりがない。<
>晋当時の人の陳寿評価は書いてあるが 三国志を評価したとウソをついているので ×<
「臣等案:故治書侍御史陳壽作三國志、辭多勸誡、明乎得失、有益風化、雖文艷不若相如、而質直過之、願垂採録。」
於是詔下河南尹、洛陽令、就家寫其書。
だから、×。
>>「桐の家紋」の主が七支刀を持った使節らを受けている、という形の人形群があるから、<
>あの人形は誰でも作れるから不可<
「桐の家紋」人物や七支刀人形を作れば、
石上神宮に七支刀を収めた大和政権の行為を弾劾する事になって、
首が危ないから誰でも造れるものではないので、×。
>>否定反論の根拠も言えずに、「ただ仮説だ」と口先だけで否定宣伝をする<
>自分の仮説は根拠になると言張っているだけなので ×<
史料事実や史料実態を「仮説」と否定する嘘つき騙しをしたから、×。 >>341
>鉄の道具、鉄の武器の多さは国の豊かさと比例しているはず
それよりも、鉄鍛冶路遺構の多さは国の豊かさと比例しているはず
>九州からしか出てない絹も先進国だった証拠だろう
九州は「其山有丹」で脱落。 @阿波 >>298
>>当然、殿本考証の時点で、最大限の資料収集をしていたんだから、
(南北宋本も、その他の版本や写本も)清朝の殿本考証の場に、揃えられていた。<
>紹煕本が殿本考証に対校された南・北宋本の誤謬さえ正しうる
しかし、その紹煕本さえ写本残片に比べると、さらに訂正しうる個所がある
ということだから、清朝の殿本考証の場に底本写本が揃えられていたというのは ×<
その「写本残片」は、
『三国志』呉志残巻(西晋写本、一九二四年新彊善*善県出土)
の事であるから、殿本考証とは関係のないものであり、
それを関係したものであるかのようなウソをついたから、この男は×。
>>(字形も音韻も説明記載内容や時期も違えば、「別の国」である、
というのは、史料事実を根拠にした史料実態であり<
>「別の国」であるというのは史料実態ではなくて仮説なので ×<
「別の国」であるというのは仮説ではなくて史料実態なので ×。 >>348
古田は無いものを根拠にした仮説を連呼で言張っているだけだから学者は誰も相手にしなくなった
泥棒偽書が一般にも定着してからはマスコミや行政も相手にしなくなったので
掲示板で荒らしの嫌がらせを続けている
国民や人類や世界の学者や科学者と同レベルの常識をもっていると考えていることが根本的な間違い
>郭務ソウが、報告書も提出しなかった
古田作り話連呼の会が「短里」同様に妄想しているのは
「邪摩惟」という情報が書かれたという存在しない郭務悰の報告書
>意味不明な引用をして、何の話なのか?
理解力が無さ過ぎる
「邪馬臺」も「邪摩惟」も漢人が倭人の発音を漢字に当てた字であるから
字の変化を李賢は音の訛と推測している >>299
>>それは、私が最初から言っていた事。<
>言っていないから、訂正箇所数を書いて何の意味があると俺が訊いたが応えなかった<
普通の人間なら、
北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)
を見れば、殿本考証でそれぞれの「箇所数である」という事が判るので、
・・・・アホは、放置して置いた。
>>考証箇所数を示している可能性が高く <
>可能性が高いんじゃなくて文脈から訂正箇所数だから、
俺が版本が多く残っていたことにはならないと書いたんだろ<
殿本考証では、「北宋本と南宋本」だけをで考証したのではなく、
他ににも考証版本や写本があった事は当然であるので、
それが判らなかったらしい・・・・アホのwwのイチャモンは、
おそらく放置して置いた。
>>行数が32を超えれば、5chにその投稿全部を抹殺されてしまう可能性があり、
だから、お前の・・・・投稿文をカットした投稿を書いた、<
>自分のレスのほうを消せアホが<
・・・・投稿文を書かずに、もっとまともな投稿を書けよ、アホが。 >>349
>「畿内」という文言を単なる「地域概念」だと嘘つき騙しをしたから
日本では現在も使われる「地域概念」
異民族集団が使わないというだけ
>史料事実を「仮説だ」と嘘を付いたから
九州王朝作り話は開き直って仮説が根拠になると連呼するだけだから説ですらなくなった
>これも、史料実態を「仮説だ」とウソを付いたから
このように根拠にならないことを連呼するだけというのは日本人社会には無い習慣 >>353
>「別の国」であるというのは仮説ではなくて史料実態
その「史料実態」って・・・
自分の思いついた仮説や新解釈を
「実態なのだー」
と自画自賛してるだけ
なのでは? >>350
>臣等案〜
上表した范頵は西晋の人だから、晋当時の人の陳寿評価は書いてあると書いて教えてやった
>首が危ないから誰でも造れるものではない
数十年前に人形作ったくらいで首は飛ばない
>史料事実や史料実態を「仮説」と否定する嘘つき騙しをしたから
日本人社会で教育されてないんだな >>301
>>(倭國遣使が晋の惠帝に日本国を名乗った事)釈日本紀がついうっかり引用紹介してしまった<
>九州倭国と書いてある箇所を引用しなければ ×<
大和が中国に日本国を名乗ったのは、
延喜講記に書かれた小野妹子の話や、
新唐書に書かれた「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時にしかならないんだから、
晋の惠帝に日本国を名乗ったのは、九州倭国にしかならない。 >>302
>>庄内の発祥は、糸島地域であり、<
>研究者が誰も言っていないことを素人が言張っても ×<
柳田が、ついうっかりしゃべってしまったから、証拠になる。 >>347
>墓は、横穴式石室や装飾古墳に中身を変えて、外からの見た目には薄葬令を守っている。
魏朝の出したという薄葬令を魏朝滅亡後に、誰のために、なんのために守り続ける必要があるんだ?
北部九州の前方後円墳が一つ残らずしょぼいことの言い訳に、薄葬令を持ち出す必要があるため、
じゃないのか? >>303
>>(奴國の範囲は、伊都国の東南百里(短里)と二万戸に拠って)
三雲平原地域〜早良平野地域、という広域しか残らないから、<
>考古無知だから ×<
「南→東」などの嘘吐き騙しのwwは、文献も考古も地理も算数も無知だから、×。 >>304
>>松野氏姫氏系図では、<
>考証をまったくやっていないから ×<
松野氏姫氏系図の分析や史料批判を、何度か書いた事を、
wwは、知らん振りしているから、×。 >>353
>殿本考証とは関係のないものであり、
お前は常に長文の一部だけ拾って読むから内容全体が理解できていない
理解力が異常に低い
殿本考証の場に、その他の版本や写本も揃えられていたというのは、
お前の勘違いから始まった作り話で
殿本考証については南北宋本のことしか書いてない
紹煕本が他本(諸本)よりすぐれている、殿本考証に対校された南・北宋本の誤謬さえ正しうる
その紹煕本さえ写本残片に比べると、さらに訂正しうる個所があるというのは
張元済が書いていることを全部榎氏が引用しているのを古田が要点をまとめている部分 >>355
>普通の人間なら、〜「箇所数である」という事が判るので、
普通の人間なら版本がたくさん残っていたと言張るために
訂正箇所数は貼らない
>他ににも考証版本や写本があった事は当然であるので、
そんなことは書いてないから
お前の勘違いを取り繕うための作り話
>投稿文を書かずに、
自分のレスに返答して、「本体」などとおかしなことを書いてるジジイを
初めて見たから >>359
>九州倭国にしかならない。
やはり連呼だけだから × >>360
>柳田が、ついうっかりしゃべってしまったから、証拠になる。
学者の柳田は邪馬台国の会では講演したが
古田の作り話連呼運動の集まりには行かない
三雲のはTB期以降の福岡産 >>362
>文献も考古も地理も算数も無知だから、
三雲を奴国の飛び地の入口というような考古学者はいない >>363
>松野氏姫氏系図の分析や史料批判を、何度か書いた事を
学者が取り上げていないから知らん >>307
>いやどう見たって、偽系図だろう
あれを見て、真作の古系図だと思えるのは、疑うことを知らない
小鹿のような性格の人だけだ <
いやどう見たって、記紀は半分偽系図だろう?。
あれを見て、真作の古系図だと思えるのは、
国家組織の詐欺を疑うことを知らないを、
皇国史観の・・・・のような性格の人だけだ。 >>314
>普通の人は偽書とか嫌いだからだろう<
普通の人なら、
記紀が倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作した半分偽書である事は、
直ぐに判るんだろうが、
大和皇国史観宗教に狂った・・・・人種は、それが判らず、
皇国史観を否定する史料を、全て「偽書だ」と叫んで、
否定抹殺しようとするんだろうなあ。 >>320
>おやおや 連続句読点男がまた発病してるのか <
おやおや?、 大和皇国史観殺人戦争狂男が、また発病してるのか?。 >>327
>10数年来支持者の出て来ない説だな<
>>326の米田らの説は、
他の大和説考古学者らも、10数年来、否定反論出来なかった説のようだな。 >>333
>>326は、
大和皇国史観の・・・・殺人戦争狂の学会教育界の学者らや、
文部省や右翼マスコミが、必死になって隠蔽しようとし、
九州倭國説に対してと同じように、
「素人のつまみ食いだろ」などとヘイトスピーチして来たものらしいね。 >>343
>>東鯷人は、会稽海外であって、呉地ではない。<
>東鯷人が書かれているのは「漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条」<
お前(ww)は、会稽海外の東鯷人を、「呉地だ」、と嘘を付いた。
>>(倭人に対して「倭在韓東南大海中、依山嶋爲居」と書かれているから)
九州の南半分は東鯷人だろうという事になる。<
>漢書の「以歳時來獻見云」の考古学的出土物が無い<
文献では、漢書の他に海賦の「漢の最末期に序に就いた」記録がある。
考古なら、薩摩の上野原遺跡がある。
>>(東鯷人の記録が無くなって)その代わりに投馬國が出来ている事になる。<
>弥生後期以降の北部九州と南九州の交流を示すものが無い<
宮崎にウガヤフキアエズから五瀬や神武らの伝承があり、
古墳にも阿毎氏の伊都国系の要素を含んだものがある。 >>344
>>庄内の成立は、柳田に拠って三雲。<
>ど素人の落書きなので ×<
大和皇国史観殺人戦争狂のキョクウの・・・・wwのヘイトスピーチなので、×。 >>352
>>鉄の道具、鉄の武器の多さは国の豊かさと比例しているはず <
>それよりも、鉄鍛冶路遺構の多さは国の豊かさと比例しているはず<
国の豊かさは、「鉄鍛冶路遺構の多さ」のいう田舎の話ではなく、
「鉄の道具、鉄の武器の多さ」というという製品の多さになるから、×。
>>九州からしか出てない絹も先進国だった証拠だろう <
>九州は「其山有丹」で脱落。@阿波 <
丹は「朱色の顔料」であり、
太宰府の観世音寺の石臼では、阿蘇などのベンガラを主として使っていたようだから、
水銀朱ばかりの阿波は、×。 >>354
大和皇国史観の殺人戦争狂の大和説者は、
無いものを根拠にした仮説を連呼で言張っているだけだから、
まともな学者や、世界の学者や、国民の7割は、誰も相手にしなくなった。
記紀の泥棒偽書や、東日流などの偽書説の失敗破綻が、一般にも定着して来てからは、
右翼マスコミや文部省の宣伝にも、まともな国民は相手にしなくなったので、
掲示板で、荒らしの嫌がらせを続けている状態だけになっている。
国民や人類や世界の学者や科学者が、「南→東」などの嘘吐きだましと同レベルのだまし知能しかもっていない、
と考えていることが根本的な間違い。 >>379
通常朱塗りの建物で水銀朱が使われているのは正面の正門の付近だけ
その他の大部分はベンガラの朱が使われていますね。 >>379
>国の豊かさは、「鉄鍛冶路遺構の多さ」のいう田舎の話ではなく、
鉄鍛冶炉遺構の在る所が田舎で、鉄鍛冶炉遺構のない所が都会?
阿波を除く日本全国、都会ばかり? @阿波 >>379
>太宰府の観世音寺の石臼では、阿蘇などのベンガラを主として使っていたようだから、
朱が手に入らなかったようだね。 もっとも、大宰府時代ではさすがに若杉山辰砂も採りつくしていただろう。 @阿波 6世紀後半から7世紀前半に福岡県、広島県、岡山県、島根県において鉄生産があったことが明らかになっている。
九大伊都キャンパスの製鉄遺跡に於いては6世紀後半には砂鉄製錬が行われ、隣接する谷間では、多数の炉跡が見つかり、8世紀代には大規模な製鉄創業が推定されている。
8世紀に糸島半島には、古代の「製鉄コンビナート」が存在していたと考えてもおかしくない。
阿波で製鉄なんて??? >>384
>阿波で製鉄なんて???
製鉄なんてしてませんよ。 してたのは鉄の鍛冶。 なぜか、砂鉄の入った壺も出てますが。
阿波では発掘が少ないにも関わらず、阿波一国で現在、分かっているだけで阿波各地6か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「芝遺跡」
これが田舎なんだろうか? 負け惜しみにも程がある。 @阿波 これが田舎なんだろうか? 負け惜しみにも程がある。 @阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 >>354
>>郭務ソウが、何の報告書も提出しなかったと?<
>古田作り話連呼の会が「短里」同様に妄想しているのは
「邪摩惟」という情報が書かれたという存在しない郭務悰の報告書<
李賢は郭務悰の報告がなければ、
後漢書の邪馬臺國に【案:今名邪摩惟、音之訛也】の注も書けないし、
隋書の邪靡堆の訂正も書けない、という事。
>>意味不明な引用をして、何の話なのか?<
>理解力が無さ過ぎる
「邪馬臺」も「邪摩惟」も漢人が倭人の発音を漢字に当てた字であるから
字の変化を李賢は音の訛と推測している<
「邪摩惟」は、唐の李賢が「今名」として知り得た呼称だよ。
この・・・・男は、何をとち狂っているんだろうかねえ?。 >>356
>>「畿内」という文言を単なる「地域概念」だと嘘つき騙しをしたから<
>日本では現在も使われる「地域概念」 異民族集団が使わないというだけ<
日本では「畿内」は、現在でも、(普通名詞的な地域概念ではなく)
「天皇が直接的に支配する近郊地域」
という特殊な特定概念として使用されており、
それを、大和皇国史観殺人戦争狂の大和説者異民族集団が、古代においてもそうであった、
という嘘つき騙しをしている、という事。
>>史料事実を「仮説だ」と嘘を付いたから<
>九州王朝作り話は開き直って仮説が根拠になると連呼するだけだから説ですらなくなった<
史料事実は、自然や歴史における存在事実そのものであり、否定出来ないものであり、
「仮説」だ、と存在抹殺出来ないもの。
>>これも、史料実態を「仮説だ」とウソを付いたから<
>このように根拠にならないことを連呼するだけというのは日本人社会には無い習慣<
このように、根拠にならないことを、ヘイトスピーチ連呼するだけというのは、
まともな普通の日本人社会には無い習慣。
おそらく、キョクウ学会教育界や、右翼マスコミや、皇国史観文部省や、
靖国参拝の殺し合い戦争狂の安部自民公明政府人種の悪い習慣。 魏志倭人伝中の、「女王」表記は13ヶ所 うち5ヶ所が「女王国」
順に見ていくと
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
これを見ると、女王と書いて、女王国を意味するところがあるし、女王国と書いて邪馬台国を意味する場合と女王に属する範囲(女王国連合)を意味するところがあるね
2と8、11,12,13の女王は、「卑弥呼という人物」を指す
1と4と5と、おそらく9と10は「女王国連合」(4、5、10は女王で女王国の意味)
3と7は「邪馬台国(女王の都する所)」
6ははっきりしないけれど、たぶん9と10と同じ扱いで「女王国連合」でいい >>357
>>(呼称も場所も内容も違えば)「別の国」であるというのは
仮説ではなくて史料実態<
>その「史料実態」って・・・ 自分の思いついた仮説や新解釈を 「実態なのだー」
と自画自賛してるだけなのでは?<
呼称も場所も内容も違えば「別の国」である、
と言うのは、仮説や解釈ではなく、史料事実に付帯したもの。 >>358
>>臣等案〜<
>上表した范頵は西晋の人だから、晋当時の人の陳寿評価は書いてあると書いて教えてやった<
「故治書侍御史陳壽作三國志、辭多勸誡、明乎得失、有益風化、雖文艷不若相如、而質直過之、願垂採録」
と「三国志を評価」している。
それをこの男は、こっそり伏せて隠して世間の人々を騙そうとしている。
>>(桐の御紋や七支刀人形)首が危ないから誰でも造れるものではない <
>数十年前に人形作ったくらいで首は飛ばない <
当然「七支刀」時代から伝承があったから造れた訳で、
戦前の右翼皇国史観時代に造れば、ひょっとしたら公安に引っ張られるか?、
テロされる。
>>史料事実や史料実態を「仮説」と否定する嘘つき騙しをしたから<
>日本人社会で教育されてないんだな<
この男は、日本のまともな社会で教育されず、
人種差別殺人戦争狂の・・・・皇国史観の教育機関で教育されたアホなんだろうねえ。 >>361
>>墓は、横穴式石室や装飾古墳に中身を変えて、外からの見た目には薄葬令を守っている。<
>魏朝の出したという薄葬令を魏朝滅亡後に、誰のために、なんのために守り続ける必要があるんだ?
北部九州の前方後円墳が一つ残らずしょぼいことの言い訳に、薄葬令を持ち出す必要があるため、
じゃないのか?<
九州倭國は、倭王武の時点でもまだ、中国の臣下である、というスタンスを守り続けているから。
また、倭王武の次の倭國王哲の頃までは、東海姫氏國であり、
周朝や呉王夫差の後裔である事を誇っている。 >>366
お前は常に長文の一部だけを、断片的に拾って読むから内容全体が理解できていない。
理解力が異常に低い 。
殿本考証の場で、400年位古い北宋本と南宋本だけを考証し、
その他の版本や写本も揃えられていでなかった、
というのは、 お前の勘違いから始まった作り話で、
「殿本考証については南北宋本のことしか書いてない」というのも、
お前の勘違いか?、嘘つき騙しの曲解捏造。 >>367
>>普通の人間なら、
「北宋本(魏志32、蜀志0、呉志12)南宋本(魏志60、蜀志35、呉志71)」
が「考証箇所数である」という事が判るので<
>普通の人間なら版本がたくさん残っていたと言張るために 訂正箇所数は貼らない<
普通の人間なら、引用する場合には、
前後を含めて分かりやすいようにして、引用するもの。
しかし、この男の引用は、都合の悪い記載をこっそり省いて、
都合よくなるような引用にすり替える騙しをしている。
>>他ににも考証版本や写本があった事は当然であるので<
>そんなことは書いてないから お前の勘違いを取り繕うための作り話 <
南宋本の後〜清朝初期まで400年間に、北宋本と南宋本以外に、
版本や写本が全くなかった、という嘘つき騙しをするお前の方が、精神的な異常者。
>>投稿文を書かずに、<
>自分のレスに返答して、「本体」などとおかしなことを書いてるジジイを
初めて見たから<
「本体」という文言が、「元の状態や実態」を示す文言である、
という事が判らないらしいらしい・・・・アホを初めて見た。 >>372
>いやどう見たって、記紀は半分偽系図だろう?。
記紀には系譜記事もあるが、系図じゃないよなww
日本書紀には系図一巻が付いていたという記録はあるが、
今に伝わってはいない
オウム返しすら満足にできないところがザラコククオリティだなww まあ、ザラコクの「真の目的」は、
畿内説スレでまともな議論が進むのを「妨害」することだからな >>394
>九州倭國は、倭王武の時点でもまだ、中国の臣下である、というスタンス
倭王武は
× 中国の臣下
○ 宋朝の臣下
なんだから、過去の魏朝の薄葬礼に従ってたら、不敬に当たるよ
魏朝に徳が無くなったから滅んだっていうのが、易姓革命思想の基本
こんなことを言っているから、ザラコクはバカ扱いなんだよ >>394
で、周朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
. >>369
>>柳田が、ついうっかりしゃべってしまったから、証拠になる。<
>三雲のはTB期以降の福岡産<
弥生銀座の那珂八幡付近より古い、という事であれば、それで十分であり、
三雲が列島最古になる。 >>402
なら、柳田は言ってなくて
ザラコクが一人で自分の考えを言ってるだけ
じゃないか
アホクサ >>370
>>文献も考古も地理も算数も無知だから、<
>三雲を奴国の飛び地の入口というような考古学者はいない <
大和皇国史観の「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師の考古学者の意見など、
始めから何の価信頼性も価値もない。 >>404
つまり、ど素人のじいさん75歳が
ただの思いつきを語ってるだけか
しかと理由もなく
ww >>371
>>松野氏姫氏系図の分析や史料批判を、何度か書いた事を<
>学者が取り上げていないから知らん<
始めから、「南→東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などの、
史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和皇国史観狂の学者など、
何の信頼性も価値もなく、関心もない。
世間の人々に少しでも説明出来れば、それで十分。 >>381
>通常朱塗りの建物で水銀朱が使われているのは正面の正門の付近だけ
その他の大部分はベンガラの朱が使われていますね。<
成程。有難う御座います。 >>382
鉄鍛冶炉遺構の在る所が田舎で、鉄鍛冶炉遺構のない所が都会?
阿波を除く日本全国、都会ばかり? @阿波<
例えば、
今、以絳地交龍錦五匹、絳地suu粟kei十張、sen絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。
又特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華kei五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤
が与えられた所が、都であり、都会。 >>383
>>太宰府の観世音寺の石臼では、阿蘇などのベンガラを主として使っていたようだから、<
>朱が手に入らなかったようだね。
もっとも、大宰府時代ではさすがに若杉山辰砂も採りつくしていただろう。@阿波<
どなたかが?、
「通常朱塗りの建物で水銀朱が使われているのは正面の正門の付近だけ
その他の大部分はベンガラの朱が使われていますね」
と書いておられたし、
水銀朱を使っている所を探しているんなら、
出雲のような文身國や、毛人蝦夷の鯨面文身部族を探した方が早い、
だろう、と思うよ。 >>784
>6世紀後半から7世紀前半に福岡県、広島県、岡山県、島根県において
鉄生産があったことが明らかになっている。
九大伊都キャンパスの製鉄遺跡に於いては6世紀後半には砂鉄製錬が行われ、
隣接する谷間では、多数の炉跡が見つかり、
8世紀代には大規模な製鉄創業が推定されている。
8世紀に糸島半島には、
古代の「製鉄コンビナート」が存在していたと考えてもおかしくない。<
成程。よくご存じですね。 >>386
>何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。<
何がどう転んでも、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」によって、倭国は九州であり。
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って、出雲と越と足摺の侏儒國を除いて、
瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東は、東征将軍の支配地であり、
大和や阿波は、「南≠東」に拠っても、
旧小国の市を監督する大倭職の旧小国。 >>406
世間の人は素人老人に余計な説明されても迷惑でしょ >>377
>会稽海外の東鯷人を、「呉地だ」、と嘘を付いた。
会稽海外の東鯷人は「漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条」に書かれているから
呉地の範疇
南九州のことは呉地条には書かない
>考古なら、薩摩の上野原遺跡がある。
上野原に「以歳時來獻見云」を示す何が?
>古墳にも阿毎氏の伊都国系の要素を含んだものがある。
何が? >>387
>李賢は郭務悰の報告がなければ、
邪摩惟と書かれた郭務悰の報告というのは存在しない作り話
存在しないエビ養殖の投資詐欺などと同じ
>「邪摩惟」は、唐の李賢が「今名」として知り得た呼称だよ。
李賢が存在しない郭務悰の報告で知り得たと決めつけてしまっている
必ずこの民族は罵声で押し通そうとする、これをソント(声闘)と言う >>388
>日本では「畿内」は、現在でも、(普通名詞的な地域概念ではなく)
>「天皇が直接的に支配する近郊地域」
>という特殊な特定概念として使用されており、
それは反天皇思想の特殊な人がもつイメージ
かつての行政区分の畿内は天皇が東京に移った現在でも地域概念として使われている
近畿という地域呼称もかつての畿内とその周辺を含めた地域
>否定出来ないものであり、
だから九州王朝は説ではなく、歴史を愛好する趣味には不要な
「いかなる(日本の)権力、権威にも盲従せず」というスローガンを掲げた民族運動
>根拠にならないことを、ヘイトスピーチ連呼するだけというのは、
反日民族運動では、否定されるとヘイトスピーチを連呼する
>キョクウ学会教育界や、右翼マスコミや、皇国史観文部省や、
>靖国参拝の殺し合い戦争狂の安部自民公明政府人種の悪い習慣。
反日反天皇民族運動では日本人拉致事件は日本に責任があると主張している >>392
>「三国志を評価」している。
曹魏から禅譲された晋の司馬氏の時代の人の評価だから
晋の後の時代に三国志を評価したのは?と訊いても
この反日ジジイは毎度ズレたことを連呼する
>戦前の右翼皇国史観時代に造れば、
現代に作ったものは今日作ったものと同じ
>人種差別殺人戦争狂の・・・・皇国史観の教育機関で教育された
連呼、鸚鵡返し、ウソを言張るお前とは違う日本人社会 >>396
根拠が無いから提示できず、必ず鸚鵡返しと罵声連呼に走る >>397
>この男の引用は、都合の悪い記載をこっそり省いて、
お前は締め出されたYahooのシステムの癖がついているから
5chは行字数制限があり、全文引用しなくてもアンカにカーソル合わせるだけでいい
レス内のどの箇所への返答かわかる程度の引用をすればいい
お前みたいな柔軟性の無い脳のジジイが連投すると無駄に行数が増えて読みづらい
>清朝初期まで〜版本や写本が全くなかった、
そんなことは言ってない、考証版本について書かれている内容のことを言っている
お前の話はこれに限らず書いてないことや存在しないものをお前が勝手に作っている
>「本体」という文言が、「元の状態や実態」を示す文言である、
さすがに古田の集まりでも「本体」は使わんだろう、誰かに聞いてみな
正本のことを言ってるのか、本文なのかわからない >>391
>>呼称も場所も内容も違えば「別の国」である、
と言うのは、仮説や解釈ではなく、史料事実に付帯したもの<
>それを日本語で解釈というんだが<
「解釈」というような、「各自で異なる可能性が高いもの」ではない。
史料事実とほぼイコールな史料実態。 >>393
>政治思想に狂った人は歴史学に口をださないで下さい<
賛成。
「大和天皇家一元列島支配」説狂や、
近隣諸国への殺人戦争を鼓舞扇動ヘイトスピーチ狂のような、
大日本帝国憲法思想という「結論先にありき」の嘘吐き騙しの政治宗教思想に狂った、
大和説者や考古学者は、歴史学に口を出さないで下さい。 >>404
>考古学者の意見など、始めから何の信頼性も価値もない
であれば全ての考古資料は信頼できなくなる >>381
水銀朱は透過性が高いから何度も塗り重ね無ければ
木の地肌が透けてしまうので大量に必要になる
ベンガラは透けないので下地として塗られ
鮮やかな赤の水銀朱と漆を混ぜて上塗りされる
と日光東照宮などを修復している職人が解説していた >>398
>>いやどう見たって、記紀は半分偽系図だろう?。<
>記紀には系譜記事もあるが、系図じゃないよなww
日本書紀には系図一巻が付いていたという記録はあるが、 今に伝わってはいない<
国の歴史や支配者の交代や変遷を書いてあれば、歴史書である、とも言えるが、
記紀は、大和王権の支配家系を順番に記載して、その付帯説明を書いているから、
松野氏姫氏系図と殆ど変わらず、
系図伝承の造作記録だ。 >>399
まあ、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の「真の目的」は、
畿内説スレでまともな議論が進むのを「妨害」し、
国民を、
大日本帝国戦争憲法に改悪するように、鼓舞扇動すること、
だからな。 >>400
>>九州倭國は、倭王武の時点でもまだ、中国の臣下である、というスタンス<
>倭王武は × 中国の臣下 ○ 宋朝の臣下 なんだから、過去の魏朝の薄葬礼に従ってたら、不敬に当たるよ
魏朝に徳が無くなったから滅んだっていうのが、易姓革命思想の基本<
魏朝にだけではなく、
壹與から後もずっと中国の臣下の形での朝貢を、倭王武の時まで継続しており、
梁書などに記載された、
「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。
晋安帝時、有倭王賛。
賛死、立弟彌。
彌死、立子濟。
濟死、立子興。
興死、立弟武。
齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。
高祖即位、進武號征東(大)將軍。」
であるから、
壹與のスタンスは、倭国が継続されたスタンス。 >>403
>なら、柳田は言ってなくて
ザラコクが一人で自分の考えを言ってるだけ じゃないか アホクサ<
いや、柳田は、
那珂八幡付近の庄内よりも、三雲の庄内の方が古い、
と、ついうっかりしゃべってしまった。 >>423
ザラコクは、紀・志・伝とか、紀伝体とか、編年体とか、知らないんだろうな
日本書紀は、日本書・紀 >>405
>つまり、ど素人のじいさん75歳が ただの思いつきを語ってるだけか しかと理由もなく
ww<
あれ?、何だったか?、このスレの継続の最初の頃に、
「全一病」とか「62病」とか書いていた男は、
wwだったのか。
だから、
つまり、「南→東」など嘘つき騙しの・・・・大和説者が、
分裂幻覚妄想でのただの思いつきを、語っていただけか。
しかと理由も根拠もなく。
ww >>425
>壹與のスタンスは、倭国が継続されたスタンス。
だからザラコクはバカだって言われるんだって!
易姓革命の思想では、新しい王朝は前王朝が徳を失ったから現われるのであって、
禅譲の形を取ったとしても、基本的には前王朝は新王朝から見て「敵」
自分の王朝に朝貢してきた者が、前王朝の出した令に従って、
前王朝の臣下だという立場に立つなら、それは「敵」だと認識されるしかない
つまり、宋朝に朝貢している倭の五王が、それより前の王朝・魏朝の出した薄葬礼に
従っていたら、それは宋朝には魏朝ほどの徳がないと言っているのも同然で、
不服従の証みたいなものだぞ
そんなはずがないだろ?ww >>428 残念ながら>>405はオレの書き込みじゃないんだww
ついでに言うと、127,163,166,181,197,303,304,343,344,405も全部オレじゃない
オレの書き込みは、>>398、>>399、>>400とかだよ
相変わらず、何も分からず、何も見極められずに返信してるんだな、ザラコクはww >>428
で、周朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>413
倭人は燕地条にあるなあ、燕地の範疇だったんだ >>412
世間の人は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの皇国史観狂の大和説学者に、
余計な説明されても、迷惑でしょ。 >>413
>>会稽海外の東鯷人を、「呉地だ」、と嘘を付いた。<
>会稽海外の東鯷人は「漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条」に書かれているから
呉地の範疇 南九州のことは呉地条には書かない <
倭人の場合も、「在帶方東南大海之中」であり、「依山島爲國邑」であって、
「帯方」の地ではないから、
「呉地条」に書かれたから、と言って、呉地ではない。
また、普通は、帶方東南大海之中の「大海之中」よりも、会稽海外の「海外」の方が遠い。
>>考古なら、薩摩の上野原遺跡がある。<
>上野原に「以歳時來獻見云」を示す何が?<
上野原遺跡には、ないよ。
漢書や海賦の記載だけ。
>>(宮崎の)古墳にも阿毎氏の伊都国系の要素を含んだものがある。<
>何が?<
伊都国系の神武らの「東征毛人」地と思われる、
同じ阿毎氏の大和と、前方後円墳などに類似が見られる。 >>434
中傷大好き政治家思想狂い老人の流言飛語が社会の迷惑 >>429
>禅譲の形を取ったとしても、基本的には前王朝は新王朝から見て「敵」
アホだな。
禅譲なら、革命ではないから、新しい王朝は前の王朝との外交関係を基本的に継承するんだよ。 >>435
>倭人の場合も、〜「帯方」の地ではないから、
倭人伝は「三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人」
>上野原遺跡には、ないよ。
だから、漢書の「以歳時來獻見云」を示すような考古学的出土物が無い
>伊都国系の〜前方後円墳などに類似が見られる。
だから、弥生後期以降〜卑弥呼の頃までに投馬國になっていたことを示すような
北部九州と南九州の交流を示すものが無い >>414
>李賢は郭務悰の報告がなければ、
後漢書注に「今名邪摩惟」だ、という断定を書けない<
>邪摩惟と書かれた郭務悰の報告というのは存在しない作り話
存在しないエビ養殖の投資詐欺などと同じ<
李賢が、隋書に「邪靡堆」にも拘わらず、
後漢書注に「今名邪摩惟」だ、という断定を書けるのは、
倭國から戻ったばかりの郭務悰らの報告を見た、という事しかない。
>>「邪摩惟」は、唐の李賢が「今名」として知り得た呼称だよ。<
>李賢が存在しない郭務悰の報告で知り得たと決めつけてしまっている<
勿論、可能性が極めて高い推定。 しら、おしらさま、天白、しらひ、
しらが重要なキーワードな気がするんだけどなぁ
詳しい人いないかな >>439
>倭國から戻ったばかりの郭務悰らの報告を見た、という事しかない。
だからそれは根拠を示すことができない仮説
福岡には7世紀にも残っていたような「ヤマイ」という地名はない
>可能性が極めて高い推定。
詐欺師は皆そう言う >>415
日本では「畿内」は、(普通名詞的な地域概念ではなく)
「天皇が直接的に支配する近郊地域」という特殊な特定概念として使用されており、
天智が天皇になる前には、大和周辺には存在しなかった文言であり、
だから、天智以前の議論で、畿内が存在したかのような言い方で論を立てる事は、
嘘つき騙しの詐欺になる。
根拠にならないことを、ヘイトスピーチ連呼するだけというのは、
キョクウ学会教育界や、右翼マスコミや、皇国史観文部省や、
靖国参拝の殺し合い戦争狂の安部自民公明政府人種の悪い習慣。 >>440
シラスはシロシメスと同じで、支配するという意味だろう。
筑紫は白日別ともいい、天下を知ろしめす国という意味だよ。 >>442
>天智以前の議論で、畿内が存在したかのような言い方で論を立てる事は、
畿内説はそういう説ではないから、現代でも使われ日本人に認知されている地域概念
特殊な反日反天皇民族集団の好き嫌いは日本の歴史とは一切関係ない >>416
>晋書の筆者も「三国志を評価」している。<
>曹魏から禅譲された晋の司馬氏の時代の人の評価だから
晋の後の時代に三国志を評価したのは?と訊いても この反日ジジイは毎度ズレたことを連呼する<
晋書の筆者は、唐代の人だから、はるか後代だよ。
後は、意味の分からん・・・・記載だから、放置。 『天王宮 山王院』
いつの時代の人物だと書いてある?
かなーり昔、古代の人物がいるでしょ >>445
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! ここにいたのか、住んでいたのか・・・
と天王宮のところまで、誰かが来たのかな
探しに来たとか 畿内説はすぐに後世のことを根拠もなく持ち出して邪馬台国を説明しようとする。 >>445
>晋書の筆者は、唐代の人だから、はるか後代だよ。
「昔漢武帝詔曰 司馬相如病甚 可遣悉取其書 使者得其遺書 言封禪事 天子異焉
臣等案 故治書侍御史陳壽作三國志 辭多勸誡 明乎得失 有益風化
雖文艷不若相如 而質直過之 願垂採録」
は晋書の筆者の言ではない、范頵等の上表 後に京都のほうから〜・・・
授かった(官職など)と書いてあったでしょ >>417
排他的人種差別の殺人戦争の国粋大和皇国史観の・・・・らは、必ずと言ってもよく、
根拠を付けて反論して上げても、都合の悪いものは伏せて隠して、
言葉尻の切り取って、それを曲解して、
それで、鸚鵡返しと罵声連呼に走る・・・・詐欺師。 天王宮 山王院
寺院に通ったりしていたという話でしょ、
何の家なんだろう、出家したりした家? >>452
>根拠を付けて反論して上げても、
根拠ではなくご都合主義の我流解釈
自分の解釈が絶対的に正しいから根拠になると言張って連呼しているだけ 『天王』調べてみると、
何か、おかしな話になってくる >>421
>>考古学者の意見など、始めから何の信頼性も価値もない <
>であれば全ての考古資料は信頼できなくなる<
いや、何度も言って来た事。
発掘事実や文献史料事実の提示自体は、ある程度信頼出来るが、
「南→東」などの嘘つき騙しである事が判ってしまった考古学者の、
発掘事実に対する解釈や説明は、信頼性が低い、
という事。
だから、嘘つき騙しの大和説者の、解釈や説明は、信頼性が殆どない。 >>452
>鸚鵡返しと罵声連呼に走る
日本ではYahooを締め出されたお前だけ 天王の宮(家?)で、
▢▢力夫氏、パトラのような名前
どういう事なんだろう >>422
>水銀朱は透過性が高いから何度も塗り重ね無ければ
木の地肌が透けてしまうので大量に必要になる
ベンガラは透けないので下地として塗られ
鮮やかな赤の水銀朱と漆を混ぜて上塗りされる
と日光東照宮などを修復している職人が解説していた<
成程。
勉強になります。 >>456
実見も研究もしてないど素人が都合よく解釈してるだけ
古田が反日運動のために九州王朝を思いついたころとは
はるかに研究が進んだので日本人学者を全否定しなければならなくなった
今は穢い罵声の連呼だけで日本人に嫌がらせをするだけになってしまった >>429
壹與〜倭の五王らのスタンスは、
中国の易姓革命などには関係がなく、
倭國の上部組織としての中国という国が継続されている、
というスタンス。 >>459
>成程。
勉強になります。
水銀朱の稀少さと貴重さの勉強になったようだね。 @阿波 実際は家の話のような気がするんだけど、
キュウリの葉、葱の華・・・など、
白い制服のようなものを着ている子供 合致している
電気、発電が何やらという話、インドラ? wiki『天王』
・すさのお(謎の刀の話)
・牛頭(何者にもなれない お前たち。それと、おうし座?)
・転輪聖王(読んでみると、わかるインドラ)
・
・ >>462
水銀朱とベンガラは一緒に使われるってことですね
ベンガラも丹なんですねw それにしても、家の老婆なんだよ、
そのような本なども持っていないのに、
なぜ詳しかったのか
むかーし住んでいた家には、
本や書なんかが沢山あったと言っていたり >>422
>鮮やかな赤の水銀朱と漆を混ぜて上塗りされる
漆と混ぜたら色が濁るだろ
上塗りするなら水銀朱だけじゃないの?
漆は下塗りでは??? 妹:5月15日生まれ・・・おうし座(金牛宮)
偶然にしては、おかしい オリオン(オライオン)
メタリカが何やらと言っている人がいたり いま(現在)の話ではないんだけど、
蚕を飼い、機織り・・・をしていたことがあったんだよと言っていたりw
星座関係の話 >>472
「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。 @阿波 この「阿波の神様 大宜都比売」のような話は畿内や九州にはないんだよね。 @阿波 >>468
顔料は漆と混ぜないと塗れないよ
赤漆は縄文時代から土器や櫛が見つかっている 赤漆 セキシツ .
デジタル大辞泉の解説
せき‐しつ【赤漆】
漆工芸で、木地を蘇芳(すおう)で染めてから透明な漆を塗る技法。また、その漆器。後世の春慶塗と同系統の技法で、木目の美しさをみせるもの。奈良・平安時代に流行した。 >>479
漆工芸の製法ですね
建物に塗る場合の話なんですけど
金箔を貼るのには下地に漆を塗ってから貼るけど
丹塗では膠水(にかわすい)を使うみたいだよ。 >>477
代用品ではないよ
水銀朱、鉛丹、ベンガラの丹塗があるよ。 >>484
水銀朱が丹波。
鉛丹は色の違うまったくの別物。
ベンガラは丹の代用品。 丹とは元々は赤土のことを指していたが
赤土が赤の顔料に用いられたことから赤い顔料を丹と呼ぶようになり赤が丹色となり
赤い水銀朱や鉛丹、べンガラも丹と呼ばれるようになったんだよ
水銀朱=丹なんて主張は変ですよ。 3世紀の魏志倭人伝の書かれた時代の丹の意味は赤土、赤の顔料で
それが後漢書の書かれた5世紀には赤土の意味が薄れて赤い顔料の意味が強くなったんで
後漢書では丹が赤土であることを示す為に「所其山有丹土」と土を付けたんだよ。 甲骨文字では丹の形が井戸の井と似た形をしていて井戸を掘って赤土を採取するところから来ているんだよ。 >>412
世間の人は、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの、
信頼性が全くない大和説者や大和説学者らに、
余計な説明されても迷惑でしょう。 丹という漢字は丹砂の鉱石を採掘する井戸の象形
辰砂は鉱石鉱物、ベンガラは土に含まれる酸化鉄 今でも丹には水銀朱、鉛丹、ベンガラがあるよ
丹は赤土の意味から、赤の顔料の意味になったから丹には色々な種類があるんだよ
丹塗り
http://www.konishi-da.jp/jigyou/ninuri.html >>494
辞書を書いた人の解釈によって違いますね
別に辰砂の井戸と限定せずに赤土としてる辞書もありますよ
要は辰砂に限らず井戸を掘って赤い土を取るってことですね。 >>435の追記
>会稽海外の東鯷人は「漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条」に書かれているから
呉地の範疇 南九州のことは呉地条には書かない <
漢書では、
倭人も、「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」であり、
東鯷人の「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歳時來獻見云」と同じ文体であり、
当然、「対」になるように意識されて書かれており、
倭人は、楽浪の方が位置説明し易いから、楽浪により近い所におる事になり、
東鯷人は、会稽の方から見た方が位置説明し易いし、
(海中ではなく)「海外」だから、
会稽沖遠くの九州南部〜琉球列島付近にある国だ、という事になる。 >>436
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しで、
排他的人種差別的ヘイトスピーチ中傷大好きで、
国粋大和皇国史観の政治家思想狂い老人の流言飛語が、
国民にも社会にも迷惑。 >>499
漢書では、燕地条の倭人と呉地条の東鯷人を区別している
魏史倭人伝は倭人について書かれた伝だから
勝手に一緒にしてはいけない
>会稽沖遠くの九州南部〜琉球列島付近にある国だ、という事になる。
そんなこと書いてない
だから考古学的に「以歳時來獻見云」を示すようなものが出ないといけない >>438
>倭人伝は「三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人」
上野原遺跡には、ないよ。
>だから、漢書の「以歳時來獻見云」を示すような考古学的出土物が無い <
漢書では、
倭人は、「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」であり、
東鯷人の「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歳時來獻見云」と同じ文体であり、
倭人も倭奴國王の來獻見が記録され、
東鯷人にも、海賦に(後漢最末期)に「序に就いた」という記録があるから、
考古学的な出土はなくても、東鯷人にも「以歳時來獻見云」があったんだろうね。 >>441
>>(李賢が「今名邪摩惟」と断定して書けるのは)
倭國から戻ったばかりの郭務悰らの報告を見た、という事しかない。<
>だからそれは根拠を示すことができない仮説<
他にないから、ほぼ断定出来る推論であり、仮説ではない。
>福岡には7世紀にも残っていたような「ヤマイ」という地名はない<
李賢が「今名邪摩惟」と断定したから、ある。 >>444
>>天智以前の議論で、畿内が存在したかのような言い方で論を立てる事は、
嘘吐き騙しの詐欺<
>畿内説はそういう説ではないから、<
3世紀の頃に「畿内=天皇が直接的に支配する地域」があった、と言えば、
そりゃ、嘘つき騙しになる。 >>505
>ほぼ断定出来る推論であり、仮説ではない。
>李賢が「今名邪摩惟」と断定したから、ある。
そういうことを言張るだけだから学者も相手にせず
今ではマスコミも行政の相手にしていない
掲示板で嫌がらせだけ毎日やっている
日本人社会には無い習慣 >>507訂正
マスコミも行政も相手にしていない ○ >>450
>>晋書の筆者は、唐代の人だから、はるか後代だよ。<
>「昔漢武帝詔曰 司馬相如病甚 可遣悉取其書 使者得其遺書 言封禪事 天子異焉
臣等案 故治書侍御史陳壽作三國志 辭多勸誡 明乎得失 有益風化
雖文艷不若相如 而質直過之 願垂採録」<
は晋書の筆者の言ではない、范頵等の上表 <
晋書が、
「范頵等の上表で三国志を褒めたたえた」事を紹介記載した、
という事は、
唐代の晋書も、三国志を褒めたたえた、という事を示す。 >>506
>3世紀の頃に「畿内=天皇が直接的に支配する地域」があった、と言えば、
言っていないから日本人間では何も議論にはなっていない >>509
>唐代の晋書も、三国志を褒めたたえた、という事を示す。
示していない
晋では評価が高かったことがわかる
つまりは晋の司馬氏にとってはとても都合がよい書であった >>460
>実見も研究もしてないど素人が都合よく解釈してるだけ<
ド素人でも、
周髀算経の「日の出日の入りでの8尺棒の影端を結んで東西を決める」方法を読めば、
魏の役人たちが「東西南北を間違えない」というは直ぐに判り、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者らは、
・・・・アホの詐欺師であった、という事も直ぐに判る。 >>512
伊都国が糸島なら
東南になってるから棒切れの影は使っていない >>466
>水銀朱とベンガラは一緒に使われるってことですね
ベンガラも丹なんですねw<
それと、魏志に書かれていた「丹木」とは、「漆」の事かも知れませんね。
前から「丹木」とは奇妙な呼称であったんですが、
「植物性の顔料」材料、という意味であったんでしょうか?。 >>468
>>鮮やかな赤の水銀朱と漆を混ぜて上塗りされる<
>漆と混ぜたら色が濁るだろ
上塗りするなら水銀朱だけじゃないの?
漆は下塗りでは???<
漆は、おそらく、朱の顔料の固定剤なんでしょうね?。 >>514
丹で揉めていますね。
しかし、いずれにせよ、卑弥呼の時代に「辰砂」採掘をしていたのは、全国唯一「倭国(阿波)」だけ。
ほかにどこもないんだから、どうしようもないでしょ。
大陸との交流が確認され、辰砂を採掘していた事実。
まさに、動かぬ「其山有丹」。 @阿波 >>498
古文を現代の辞書で解釈しようなんて馬鹿ですかw >>502
>漢書では、燕地条の倭人と呉地条の東鯷人を区別している<
山海経には、「倭人は燕の南にいて燕に属していた」と書かれていたし、
その倭人が半島南岸〜九州北部に移住して来たから、楽浪からの位置表記になった。
それに対して、東鯷人は、会稽沖の舟山諸島付近にいて、
それから琉球列島〜南九州に広がったから、会稽海外、と説明された。 >>511
>>唐代の晋書も、三国志を褒めたたえた、という事を示す。<
>示していない 晋では評価が高かったことがわかる
つまりは晋の司馬氏にとってはとても都合がよい書であった<
はるか後世の唐代の晋書が、わざわざ「陳寿伝」を立てて陳寿を褒めた、という事も、
唐代にも、陳寿の三国志を称賛する学者がいた、
という事を示す。 >>513
>伊都国が糸島なら 東南になってるから棒切れの影は使っていない <
唐津付近から伊都国は、
途中の出っ張った山で隠れて見えていないから、
目的地方向も判らず、
その事からも、
「東南陸行五百里」の「東南」は、出発時点での「出発方向」である事になる。 何かうまいものはあるかい?
風光明媚かい?
一度は行って見たいが、平原にもまだ行ったことがない。
ていうか、九州は遠いなあ。 博多なら新幹線も空港もアクセス良好だけどね。
レンタカーかタクシーで県道49号線を辿れば、
須久(奴国)→吉武(旧伊都)→三雲(伊都)→深江(末蘆上陸地)
を観光できるよ。 >>523
現地に立った感覚を語るなら
それではダメ >>487
>後漢書では丹が赤土であることを示す為に「所其山有丹土」と土を付けたんだよ。
それ嘘だから
後漢書
出白珠青玉 其山有丹 土氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
魏志倭人伝
出真珠青玉 其山有丹
倭地温暖冬夏食生菜
其地無牛馬虎豹羊鵲
魏志倭人伝の倭地温暖を土氣温腝に書き換えているだけ
「土氣」は土地の気候くらいの意味
三国志魏書東夷伝韓で「土氣寒」という表現がある
魏志倭人伝で3つに分かれていた表現をひとまとめにしたときに
其山有丹と土氣温腝がくっついただけだよ
ベンガラだから丹土に書き換えたなんて、ちゃんちゃらおかしい >>514
>前から「丹木」とは奇妙な呼称であったんですが、
丹木は山海経に出てくる
丹があって丹水が流れるほとりにある木
要するに神仙郷にある空想上の木だよ、元々はね まぁ、いずれにせよ、稀少で貴重な辰砂が唯一、倭国(阿波)でしか採れないってこと。
まさに、魏志倭人伝 伝えるところの「其山有丹」。 @阿波 >>535
倭国の山では辰砂が採れますよ〜 @阿波 >>516
>丹で揉めていますね。
しかし、いずれにせよ、卑弥呼の時代に「辰砂」採掘をしていたのは、全国唯一「倭国(阿波)」だけ。
ほかにどこもないんだから、どうしようもないでしょ。
大陸との交流が確認され、辰砂を採掘していた事実。
まさに、動かぬ「其山有丹」。 @阿波 <
魏志倭人伝では、「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」や、「其山有丹」や、
魏帝から贈られた「鉛丹」や、倭国側から上獻した「丹木」しか書かれておらず、
「丹=水銀朱」とは書かれていない。
だから、水銀朱だけだ、を騒ぐ阿波は、×。 >>537
>魏帝から贈られた「鉛丹」や、倭国側から上獻した「丹木」しか書かれておらず、
博多湾沿岸には、辰砂はおろか、「鉛丹」や「丹木?」さえも無い。 どう仕舞つけるの? @阿波 >>519
また、「近隣諸国民蔑視」の排他的殺戮的な・・・・極右の、
大和説仲間が出て来たらしいな。 >>531
「南→東」の騙しや、
宋書の倭国の「東征毛人五十五國」や、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」を無視する、
大和説者は、うそつき。 >>532
>キナイコシも畿内の話したらいいじゃん?<
「畿内」なんて、なかったものを「あった」もののように使えば、
そりゃ、「結論先にありき」の循環論法と同じであり、
嘘つき騙しの詐欺師だ、という事になるね。 >>535
>「其山有丹」=倭国の山には丹がありますよ〜<
そうですんね。
唐会要倭国伝には「正北抵新羅」と書いていますから、
倭国は九州であったんであり、
「其山有丹」の「其山」も、魏使らが訪れた九州だ、
という事になりますね。 >>538
>>魏志倭人伝では、「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」や、「其山有丹」や、
魏帝から贈られた「鉛丹」や、倭国側から上獻した「丹木」しか書かれておらず、
「丹=水銀朱」とは書かれていない。<
>博多湾沿岸には、辰砂はおろか、「鉛丹」や「丹木?」さえも無い。
どう仕舞つけるの? @阿波 <
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は九州にあった。
山海経の「丹」の記録を知っている魏使らは、九州に来て、
九州の「丹」の状態を幾つも実見した。
そして、松浦川上流に丹山があり、あちこちの火山にベンガラを見知っていた。
それで十分。 >>536
後漢書だと「其山有丹土」=倭国の山には赤土がありますよ〜 >>519
>山海経には、「倭人は燕の南にいて燕に属していた」
山海経の内容はそのまま事実として受け入れることはできない
>東鯷人は、会稽沖の舟山諸島付近にいて、
>それから琉球列島〜南九州に広がったから、
その仮説の考古学的根拠がない >>520
>はるか後世の唐代の晋書が、わざわざ「陳寿伝」を立てて陳寿を褒めた、という事も、
晋書が陳寿を褒めているわけではない >>521
東松浦半島からも、前原からも相互に肉眼で見える
恣意的に山で隠れて見えていない状況だけの作り話で
無理やり無駄な出発方向にしてしまっている >>545
>後漢書だと「其山有丹土」=倭国の山には赤土がありますよ〜
>>529を再掲
それ嘘だから
後漢書
出白珠青玉 其山有丹 土氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
魏志倭人伝
出真珠青玉 其山有丹
倭地温暖冬夏食生菜
其地無牛馬虎豹羊鵲
魏志倭人伝の倭地温暖を土氣温腝に書き換えているだけ
「土氣」は土地の気候くらいの意味
三国志魏書東夷伝韓で「土氣寒」という表現がある
魏志倭人伝で3つに分かれていた表現をひとまとめにしたときに
其山有丹と土氣温腝がくっついただけだよ
ベンガラだから丹土に書き換えたなんて、ちゃんちゃらおかしい >>549
古田も現地を知らずに道標ナントカを考案したからな
松浦川の存在を忘れた大馬鹿説になってる >>544
魏使らは、東西南北を間違える筈がなく、「南≠東」であり、
畿内なんて存在しなかったから、
大和説人間は×。 >>547
>>山海経には、「倭人は燕の南にいて燕に属していた」<
>山海経の内容はそのまま事実として受け入れることはできない<
古代文献の説明は、
その説明を否定する絶対的な証拠がない限り、
その古代人の「認識の証言」として受け止めて置くべき。
>>東鯷人は、会稽沖の舟山諸島付近にいて、
それから琉球列島〜南九州に広がったから、<
>その仮説の考古学的根拠がない<
自然や歴史に関して、文献的記録しかなく、
否定に関しても肯定に関してでの考古学的根拠が全く存在しない事は幾らでもあり得、
考古的な情報がなくても、その記録を否定抹殺する事が出来ない。 >>548
>>はるか後世の唐代の晋書が、わざわざ「陳寿伝」を立てて陳寿を褒めた、という事も、<
>晋書が陳寿を褒めているわけではない<
陳寿や三国志に「価値がある」と考えたから、晋書筆者は、「陳寿伝」を立てた。
「価値がない」と思ったのなら、一介の史官に過ぎない陳寿の伝など、立てる筈がない。 >>554
>古代人の「認識の証言」として受け止めて置くべき。
山海経は後世に再編成されて元の本文ではない
>自然や歴史に関して、文献的記録しかなく、
南九州人が東鯷人だと書かれた文献などない
だから、考古学的に推測しうるものがあれば仮説は立てられるが、無い >>549
>東松浦半島からも、前原からも相互に肉眼で見える
恣意的に山で隠れて見えていない状況だけの作り話で
無理やり無駄な出発方向にしてしまっている <
東松浦半島という広大な地域を、
一大國からの到着町にする事自体が、頭がおかしい。
到着上陸地としては、唐津が最も適切。
その唐津からは、後背地の山の上にでも登らない限り、
糸島水道付近は見えない。 >>550
>ベンガラだから丹土に書き換えたなんて、ちゃんちゃらおかしい<
丹土は、水銀朱だけでベンガラはない、なんて、
ちゃんちゃらおかしい。 >>552
>古田も現地を知らずに道標ナントカを考案したからな<
当然、案内人や道しるべの存在無しには、
魏使らだけでは初めての地では迷子になったしまって、殆ど進めないもの。
>松浦川の存在を忘れた大馬鹿説になってる<
河口の平原地域では、当然松浦川は砂州状態や三角州状態の浅瀬になっていて、
浅瀬を選んで渡河可能。 >>555
>陳寿や三国志に「価値がある」と考えたから、
三国志が価値が無いのではない
曹魏を正当とした立場で書かれていることで後世では評価が低かった
晋代に書かれた記録として晋代を知る史料価値はある
評価が低かった結果、考証されることもほとんどなく、版本も僅かしか残らなかった
清代初期に残った版本には正すべき箇所が少なからずあった
清代の校勘後でもまだ、紹煕本や写本の断片によって訂正されうるということ >>557
>東松浦半島という広大な地域を、
>一大國からの到着町にする事自体が、頭がおかしい。
この頭のおかしいジジイは何かまた勘違いしている
唐津に行くには東松浦半島の沿岸航行しなければならない
唐津からは糸島半島は北東に見える
前原からも東松浦半島は見えるから、
どこを通ってどの方向に来たかくらい当然確認できる
しかし記載された方位は間違っている >>556
>>古代人の「認識の証言」として受け止めて置くべき。<
>山海経は後世に再編成されて元の本文ではない <
不可知部分が殆どである自然や歴史の情報としては、
再編成された不完全なものであっても、十分情報価値がある。
>>自然や歴史に関して、文献的記録しかなく、<
>南九州人が東鯷人だと書かれた文献などない <
「『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 自呉至黄支」に書かれ、
「『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 幽州屬」に書かれた、
「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」と対応する形で、
「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歳時來獻見云」と書かれていれば、
東鯷人は倭人の南の方にいた、という事になり、
「琉球〜南九州」と比定して十分。
>だから、考古学的に推測しうるものがあれば仮説は立てられるが、無い<
ある。 >>560訂正
晋代を知る史料価値 → 魏晋代を知る史料価値 >>562
>再編成された不完全なものであっても、十分情報価値がある。
いろんな意味で価値はあるが、
そのままを事実として受け入れることはできないと言っている
>東鯷人は倭人の南の方にいた、という事になり、
>「琉球〜南九州」と比定して十分。
また自論が絶対正しいと言張るだけになってしまっている
そういうのは作り話連呼の会の茶話会だけでやれ >>559
また現地を知らないで妄想してるんでしょ
ぜんぜん現実と違うよ >>560
>>(晋書は)陳寿や三国志に「価値がある」と考えたから、<
>三国志が価値が無いのではない<
お前は、晋書は三国志が価値がないとした、と言った。
>曹魏を正当とした立場で書かれていることで後世では評価が低かった<
唐代の晋書は、陳寿や三国志の価値を認めたから、「陳寿伝」を立てた。 >>566
>お前は、晋書は三国志が価値がないとした、と言った。
晋書には晋当時の人の陳寿評価は書いてあるとは教えてやった
お前はYahooでも5chでも論文でも常に勘違いをしている
冷静に理解する能力が非常に低い、それは火病も一因になっている
>唐代の晋書は、陳寿や三国志の価値を認めたから、「陳寿伝」を立てた。
晋書自体は、なんでも載せていると評価されている >>561
>>(この男は)東松浦半島という広大な地域を、 一大國からの到着町にする、
という事自体が、頭がおかしい。<
>この頭のおかしいジジイは何かまた勘違いしている
唐津に行くには東松浦半島の沿岸航行しなければならない
唐津からは糸島半島は北東に見える<
糸島半島が見えたって×。伊都国は、どこか?は全く分からない。
>前原からも東松浦半島は見えるから、<
前原〜平原〜付近からも、唐津は見えない。
>どこを通ってどの方向に来たかくらい当然確認できる<
見えなければ、確認する事も、確認する必要もない。
>しかし記載された方位は間違っている<
(次の目的地方向方向ではなく)出発方向記載であるから、ほぼ合っており、
間違っているんではない。 >>564
>>(山海経)再編成された不完全なものであっても、十分情報価値がある。<
>いろんな意味で価値はあるが、 そのままを事実として受け入れることはできないと言っている<
(100%の完全否定抹殺ではなく)、確率的に受け止めればよい。
>>東鯷人は倭人の南の方にいた、という事になり、 「琉球〜南九州」と比定して十分。<
>また自論が絶対正しいと言張るだけになってしまっている
そういうのは作り話連呼の会の茶話会だけでやれ<
また「都合の悪い史料事実の100%絶対否定抹殺」になってしまっている。
そういうのは、オーム真理教内や、
キョクウの・・・・大和説学宗教学者の会などの中、だけでやれ。 >>568
>糸島半島が見えたって×。伊都国は、どこか?は全く分からない。
前原に着いたときでも、帰るときでもわかる
>前原〜平原〜付近からも、唐津は見えない。
前原の加布里漁港からも海岸線からでも東松浦半島が見えるから
通ってきたその付け根の方位は大体わかる
>見えなければ、確認する事も、確認する必要もない。
お前は、見えない、見ない、確認しない特殊な状況を想定している
>出発方向記載であるから、
ある場所の位置を、行ったことがない人に説明するのに、
出発方向だけ教えるのは特殊な古田の会くらい >>569
>確率的に受け止めればよい。
確立は他の文献史料がいくつもないとわからないから
考古学的な裏づけが必要になる
>また「都合の悪い史料事実の100%絶対否定抹殺」になってしまっている。
反日有害民族運動団体の連呼する史料事実というのは
書いてないことを自分達の解釈が絶対的に正しいと言張り
否定されると罵る集団であるので
古田はオウム真理教の麻原彰晃と基本的に同じ >>567
>>お前は、晋書は「三国志が価値がない」とした、と言った。<
>晋書には晋当時の人の陳寿評価は書いてあるとは教えてやった<
お前に教えて貰ってなどいない。以前の議論でとっくに読んで知っていた事。
>冷静に理解する能力が非常に低い、それは火病も一因になっている<
お前は、キョクウの排他的殺人的人種差別戦争の国粋大和皇国史観宗教にクルって、
冷静に理解する能力が非常に低い。
それも、・・・・アホな「何でも断定論」の一因になっている。
>>唐代の晋書は、陳寿や三国志の価値を認めたから、「陳寿伝」を立てた。<
>晋書自体は、なんでも載せていると評価されている<
晋書が「全ての人物の伝を立てる」という事は、当然やっていない。
当然、必要だ、と思った人物の伝を立てている。
だから、お前の「なんでも載せていると評価」というのは、嘘つき騙しであり、×。 反日有害民族運動団体の連呼する史料事実というのは
書いてないことを自分達の解釈が絶対的に正しいと言張り
否定されると罵る集団であるので
畿内説は○○教の○○と基本的に同じ >>570
>>糸島半島が見えたって×。伊都国は、どこか?は全く分からない。<
>前原に着いたときでも、帰るときでもわかる <
前原からも、唐津は見えない。
>前原の加布里漁港からも海岸線からでも東松浦半島が見えるから
通ってきたその付け根の方位は大体わかる<
(前原ではなく)加布里漁港にすり替えるインチキをすりゃ、
唐津が見えるか?見えないか?位。
>>見えなければ、確認する事も、確認する必要もない。<
>お前は、見えない、見ない、確認しない特殊な状況を想定している <
見えなければ、「目的地方向記載だ」という説は、始めから破綻していた事になる。
>>出発方向記載であるから、<
>ある場所の位置を、行ったことがない人に説明するのに、
出発方向だけ教えるのは特殊な古田の会くらい<
全く知らない土地の行程説明では、出発方向の指定が最も必要であり、
それを知らなくては、後に来た使節らは、出発すらできなくなる。 >>572
>以前の議論でとっくに読んで知っていた事。
お前と議論している者はいない
ウソの連呼を正しているだけ
それをまた勘違いしてウソを覚えるのがお前
>「何でも断定論」
何でも断定して、それを根拠としているのが
差別連呼商売民族集団がやっていること
>「全ての人物の伝を立てる」という事は、当然やっていない。
何もしてない人物の伝を立てることはない
実際唐代や清代の歴史家から酷評されている >>571
>>確率的に受け止めればよい。<
>確立は他の文献史料がいくつもないとわからないから<
単一孤立史料でも、大体の確率は幾らでも推定出来る。
>考古学的な裏づけが必要になる<
考古学的な裏づけがなくても、史料批判によって、大体の確率の推定は、可能。
>>(この男は)また「都合の悪い史料事実の100%絶対否定抹殺」になってしまっている。<
人種差別的殺人戦争の国粋皇国史観の・・・・大和説者の連呼する史料事実というのは、
書いてないことを、自分達の解釈が絶対的に正しいと言張り、
否定されると、ヘイトスピーチ宣伝を罵る集団であるので、
本質的に、オウム真理教の麻原彰晃と同じ・・・・集団。 >>577
お前と議論している者はいない。
ウソの連呼を、世間の人々に説明しているだけ。
それをまた勘違いしてウソを覚えるのがお前。
都合の悪い史料事実を、何でも否定曲解断定して、それを根拠としているのが、
人種差別連呼商売の国粋皇国史観の大和説集団がやっていること 。
唐代の晋書は、「全ての人物の伝を立てる」という事は、当然やっていない。
陳寿や三国志を評価したから、「陳寿伝」を立てた。
だから「実際唐代や清代の歴史家から酷評されている」という事になっていない。 あま市石作神社
石作明神、石作連火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか? >>573
>>574
>前原からも、唐津は見えない。
見えなくても通ってきたら方位はわかる
>前原ではなく)加布里漁港にすり替えるインチキをすりゃ、
前原の港は加布里しかない
お前が加布里を通らずに前原に行くような特殊な状況を妄想してるから
見ないようにするなら隣の家でも見えない
>見えなければ、「目的地方向記載だ」という説は、
見えないのは、どの国も同じ
唐津〜糸島間が記載方位と合わないから
出発方向などという詐欺を思いついたのが古田
>全く知らない土地の行程説明では、出発方向の指定が最も必要であり、
目的地の方向がわかっていれば、
途中から方向変えなきゃならない出発方向情報なんか役に立たない >>573のアンカは誰かの鸚鵡返しだろうから消し忘れ >>558
>丹土は、水銀朱だけでベンガラはない、なんて、
ちゃんちゃらおかしい。
ところで、九州の古墳から出る丹はベンガラなのかね? 推して知るべし。 @阿波 >>577
>単一孤立史料でも、大体の確率は幾らでも推定出来る。
その方法が間違っているから、どろぼうが書いた偽書を根拠にすることになり
古田は笑いものになった
>考古学的な裏づけがなくても、史料批判によって、大体の確率の推定は、可能。
それができるのは比較史料が複数ある場合の話
>人種差別的殺人戦争の国粋皇国史観の・・・・大和説者
古田のところは、どろぼう偽書が発覚してからは、
鸚鵡返し程度しかできない知能が著しく低い犯罪者のようなのしか残らなかった やっぱり邪馬台国、纒向、初期の大和朝廷は、石、火と関係が深そうだな >>580
>見えなくても通ってきたら方位はわかる<
途中は、半日以上止まっていないと、方位ははっきり分からない。
>前原の港は加布里しかない<
陸行していたんだから、港に寄る必要もない。
>見えないのは、どの国も同じ<
だから、出発方向を記録して、後は案内人に任せる。
>目的地の方向がわかっていれば、<
判っていない。 >>583
>>丹土は、水銀朱だけでベンガラはない、なんて、 ちゃんちゃらおかしい。<
>ところで、九州の古墳から出る丹はベンガラなのかね?推して知るべし。@阿波<
そりゃ、ベンガラも水銀朱も鉛丹もあり、丹木も使ったようだが、
太宰府観世音寺の石臼のように、大量に使ったのはベンガラだったんだろうなあ。 要するにzarakokuは
魏使が
間違っていた
と言いたいわけ? >>587
>根拠なし
だって、7世紀の王都跡ある?
藤原京下層の半島渡来人の住居跡はなしよ。 @阿波 >>584
>(単一孤立史料でも、大体の確率は幾らでも推定出来る)その方法が間違っているから、どろぼうが書いた偽書を根拠にすることになり
古田は笑いものになった <
大和説者や偽書説派は、
個々の史料の「史料批判をする事を知らない」から、
寛政原本の出現で、世間の人々の笑いものになった。
>(考古学的な裏づけがなくても、史料批判によって、大体の確率の推定は、可能)
それができるのは比較史料が複数ある場合の話<
頭が悪い・・・・大和説のアホは、
複数ある場合しか確率推定が出来ないんだろうが、
孤立史料であっても、史料実態の吟味の史料批判に拠って、大体の確率の推定は可能。 >>589
>そりゃ、ベンガラも水銀朱も鉛丹もあり、丹木も使ったようだが、
どの古墳にベンガラ・鉛丹・丹木を使ってるのかな? それぞれ提示してごらん。 @阿波 >>591
3世紀の王都跡が見つかっているのに何を言っているのだ? >>588
>途中は、半日以上止まっていないと、方位ははっきり分からない。
そもそも半日も止まって調べたような正確な方位じゃない
>陸行していたんだから、港に寄る必要もない。
深江から加布里を通らなかったら三雲に着く
>出発方向を記録して、後は案内人に任せる。
案内人がいるから出発方向情報なんかいらない
>判っていない。
だから目的地方向が必要 >>594
どこに? もしかして、纏向というつもり? @阿波 >>585
>やっぱり邪馬台国、纒向、初期の大和朝廷は、<
「邪馬台国」も「大和朝廷」もなかったから嘘つき騙しなんだし、
この男も、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説信者の・・・・のようだな。
>石、火と関係が深そうだな<
人類の歴史が、「石と火」と関係が深かったのは、
(大和だけではなく)、どこでも共通している事だよ、アホ。 >>592
>寛政原本の出現で、
そんなもの信じてるのは笑い者の会だけ
>孤立史料であっても、史料実態の吟味の史料批判に拠って、大体の確率の推定は可能。
抜け作古田が吟味した結果がどろぼうが書いた偽書 >>590
要するにお前ら大和説者は、
自分等の「南→東」の 嘘つき騙しが間違っていなくて、
魏使が間違っていた、
と言いたいわけ?。 >>591
>だって、7世紀の王都跡ある?
藤原京下層の半島渡来人の住居跡はなしよ。@阿波<
ふーん?。
しかし、阿波にもおそらく半島渡来人の住居跡なんてないんだろうし、
太宰府の倭京には、都城や羅城があるし、
その分都の難波宮には、筑紫の土器が出土しているから、筑紫人が造った事になるんだよ。 >>596
最大の王宮と最大の王墓がある。
同時代の日本最大だ。 >>600
>しかし、阿波にもおそらく半島渡来人の住居跡なんてないんだろうし、
半島渡来人の住居跡が在るとすれば、蘇我氏の本願地石井町辺りだろうけど、
基本的に倭国(阿波)王権は半島渡来人を奈良盆地に住まわせたからね。 @阿波 >>793
>>そりゃ、ベンガラも水銀朱も鉛丹もあり、丹木も使ったようだが<
>どの古墳にベンガラ・鉛丹・丹木を使ってるのかな?それぞれ提示してごらん。@阿波<
別に名前などいちいち覚えていないが、
5chの議論でも、平原は、朱を塗っていたようだし、
装飾古墳も朱色の模様が沢山あった記憶があるよ。 >>601
同時代ではないし、時代が違えば最大ですらない。 >>601
>最大の王宮と最大の王墓がある。
その最大の王宮に伴う、最大の弥生集落遺跡はどこ? @阿波 >>594
>3世紀の王都跡が見つかっているのに何を言っているのだ?<
纏向は、王都ではないよ。
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の一つで、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の、祭祀や倉庫跡のようだよ。 >>603
>5chの議論でも、平原は、朱を塗っていたようだし、
その平原の朱がベンガラ・鉛丹・丹木と言うのかね? @阿波 >>608
>唐古鍵を最大とする畿内一帯
消滅したところが最大と? @阿波 >>595
>そもそも半日も止まって調べたような正確な方位じゃない <
それじゃ、途中では方向を計測していない、という事でいいな?。
>(陸行していたんだから、港に寄る必要もない)深江から加布里を通らなかったら三雲に着く
前原〜三雲の間なら、何の問題も起きないよ。
>(出発方向を記録して、後は案内人に任せる)
案内人がいるから出発方向情報なんかいらない<
次に来る使節のためには、迷わないように、出発方向だけは記録して置く必要がある。
>だから目的地方向が必要<
案内人や道なりで、十分。 >610
>消滅してない古墳時代まで続いているぞ
古墳時代で消滅したの? その最大の王宮に伴う、最大の弥生集落遺跡がw
こりゃ、大変だ。 @阿波 >>603
>5chの議論でも、平原は、朱を塗っていたようだし、
その平原の朱がベンガラ・鉛丹・丹木と言うのかね?
こりゃ、大変だ。 @阿波 >>611
>途中では方向を計測していない、という事でいいな?。
途中の方位は書いてない
>前原〜三雲の間なら、何の問題も起きないよ。
お前の比定は三雲は伊都国じゃなくて奴国の入口だろ
>次に来る使節のためには、
倭人がいるから出発方向なんかいらない
>案内人や道なりで、十分。
倭国に来る人のために書いているのではない
国間の方位がわかればいい >>598
>(寛政原本の出現)そんなもの信じてるのは笑い者の会だけ<
客観性のある「笠谷鑑定」を信じないのは、
皇国史観宗教に狂った大和説者や偽筆跡鑑定派の・・・・集団だけ。
喜八郎さんの筆跡は、
孤立史料であっても、史料実態の吟味の史料批判に拠って、大体の確率の推定は可能であり、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・らには、無理。 >>615
>皇国史観宗教に狂った大和説者や偽筆跡鑑定派の・・・・集団だけ。
日本ではどろぼう偽書で定着している
>喜八郎さんの筆跡は、
どろぼう偽書は筆跡鑑定だけの問題じゃない >>601
>(纏向)最大の王宮と最大の王墓がある。<
王宮というよりは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の東征将軍の、
地方の市を監督する大倭職の祭祀や倉庫跡であり、
獲得支配した毛人を威嚇するための巨大古墳だ。
>同時代の日本最大だ。<
無理だ。
「大道」を何本も作るような弥生銀座と比べれば、はるかに狭く小さく、
吉野ケ里にも劣る位だ。 >>607
>>5chの議論でも、平原は、朱を塗っていたようだし、<
>その平原の朱がベンガラ・鉛丹・丹木と言うのかね?@阿波<
いや、5chの方の話では、水銀朱の話?だったような記憶しかないよ。 >>608
>唐古鍵を最大とする畿内一帯<
唐古鍵は、銅鐸祭祀が残っていたから、纏向とは別部族だよ。 >>617
>「大道」を何本も作るような弥生銀座と比べれば
弥生銀座と呼ばれている春日じゃなくて博多ー那珂間
ウソ、「大道」と推測されてるのは1.5kmの1本
「大道」といっても建物を建てないだけで、矢板のある大溝を造るのに比べたら
はるかに簡単 行挿入失敗したからもう一度
>>617
>「大道」を何本も作るような弥生銀座と比べれば
ウソ、「大道」と推測されてるのは1.5kmの1本
弥生銀座と呼ばれている春日じゃなくて博多ー那珂間
「大道」といっても建物を建てないだけで、大溝を造るのに比べたら
はるかに簡単 >>618
>いや、5chの方の話では、水銀朱の話?だったような記憶しかないよ。
九州では、丹はベンガラ・鉛丹・丹木らしいよ。 @阿波 >>614
>>前原〜三雲の間なら、何の問題も起きないよ。<
>お前の比定は三雲は伊都国じゃなくて奴国の入口だろ <
だから、「前原〜三雲の間」と書いて上げたんだよ。
>>次に来る使節のためには、<
>倭人がいるから出発方向なんかいらない<
緊急時で急ぐ時には、出発方向が一番大事。
>>案内人や道なりで、十分。<
>倭国に来る人のために書いているのではない<
皇帝は来ないだろうから、」次に来ることがある人のために記録を残している。
>国間の方位がわかればいい <
国間方位で出発したら、迷って遭難したり、海でおぼれたりする。 >>616
日本では、完成原本の発見で、「偽書説が負け」で定着していて、
普通の学者らは、黙りこくってしまっている。
未だにヘイトスピーチして騒いでいるのは、掲示板の・・・・大和説者ばかり。
偽筆跡鑑定の証明だけではなく、
和田キヨエや桐原詐欺師のような犯罪者を使った事や、
寛政原本の発見で、完全に決着が付いている。 >>624
>だから、「前原〜三雲の間」
お前は東松浦半島が見えないような特殊な状況を妄想して見えないと言ってるだけ
>次に来ることがある人のために記録を残している。
次に来る人も出発方向などいらない
>緊急時で急ぐ時には、出発方向が一番大事。
>国間方位で出発したら、迷って遭難したり、
根拠にならないような無駄な屁理屈だけで
古田の比定には一切の根拠が無いから
結局連呼だけする程度の人間だけ残った >>620
>>「大道」を何本も作るような弥生銀座と比べれば<
>弥生銀座と呼ばれている春日じゃなくて博多ー那珂間
ウソ、「大道」と推測されてるのは1.5kmの1本<
明大の佐々木の論考では、福岡遺跡から春日方向に、
数本の「大道」が確認されていたように書かれていた。
>「大道」といっても建物を建てないだけで、矢板のある大溝を造るのに比べたら
はるかに簡単<
「大道」は、側溝が造られていたり、段築?をされていた、と思う。
「大溝」は、単なる水路であり、首都を示すものではない。 >>625
泥棒偽書を根拠にしてしまった笑い者集団が
ウソを連呼しているだけ
日本では青森県教育庁も偽書が定着していることを公表している >>626
根拠にならないような無駄な屁理屈だけで、
大和説の比定には一切の根拠が無いから、
結局、5chには、ヘイトスピーチ連呼だけする程度の・・・・人間だけが残った。 >>627
>明大の佐々木の論考では、福岡遺跡から春日方向に、
>数本の「大道」が確認されていたように書かれていた。
佐々木は大道などとは書いてない
>「大道」は、側溝が造られていたり、段築?をされていた、と思う。
推測されている道路の側溝は護岸設備がない細い溝
溝は環濠よりも簡単 それにしても偶然なのかな、
昨年テレビを観ていたとき、セメント通り(川崎市川崎区)が出てきて、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・焼肉屋だよw
かなり大きな店だな、
以前パチンコ店か何かだったのか、
勝手に・・・・・・・・・・・なんじゃないのか?と言ってる人がいたり >>629
ウソとオウム返しの連呼しかできない残り物集団 母親が言うには、
ここ(東▢▢)は、まだ無かったと言っていたり
私(母親)が嫁に来た頃の話、
西▢屋はあったかな・・・とか >>630
>>明大の佐々木の論考では、福岡遺跡から春日方向に、
数本の「大道」が確認されていたように書かれていた。<
>佐々木は大道などとは書いてない<
それなら、今の佐々木論考を提示してみろ?。
ひょっとしたら、また削除していたかも知れんから。
>>「大道」は、側溝が造られていたり、段築?をされていた、と思う。<
>推測されている道路の側溝は護岸設備がない細い溝<
護岸設備がなくっちゃ、直ぐに壊れてしまって、
「道」にさえもならなくなってしまう。
溝は環濠よりも簡単 >>632
5chの大和説者は、
「南→東」などのウソと、
近隣諸国民への人種差別での殺人的ヘイトスピーチでの宣伝の連呼しかできない、
残り物の・・・・集団。 >>618
>いや、5chの方の話では、水銀朱の話?だったような記憶しかないよ。
九州では、丹はベンガラ・鉛丹・丹木らしいよ。 @阿波 >>634
>今の佐々木論考を提示してみろ?。
>ひょっとしたら、また削除していたかも知れんから。
だから大道などとは書いてない
日付が付けてある論文内容を削除などもしない
お前の毎度の思い込み勘違い
>護岸設備がなくっちゃ、直ぐに壊れてしまって、
纒向の大溝はヒノキの矢板で護岸されているが
那珂の道路の側溝はされてないから簡単
環濠の代わりの役割の中期の大溝は後期には埋没している >>635
お前ら反日民族しか差別はされないし
畿内説に関係なく反日は当然日本人から嫌われてるから >>637
>だから大道などとは書いてない<
最初、弥生銀座の「道路遺構」が報告された時は「大道」とされていた。
>日付が付けてある論文内容を削除などもしない お前の毎度の思い込み勘違い<
Yahooでの議論で、ssnが提示した明大紀要の佐々木論考では、
「大道」が何本かあったし、そのこと事でssnと議論した。
>纒向の大溝はヒノキの矢板で護岸されているが
那珂の道路の側溝はされてないから簡単
環濠の代わりの役割の中期の大溝は後期には埋没している<
纒向の「大溝」は、始めから、
都における都市計画な「道路」とは違う。 >>638
>お前ら反日民族しか差別はされないし
畿内説に関係なく反日は当然日本人から嫌われてるから<
お前ら、排他的人種差別の殺人戦争鼓舞扇動ヘイトスピーチの、
生まれつきのやくざ暴力団的な・・・・キョクウ人種は、
マスコミの世論調査に依れば、自民など支持の中でも10%以下であり、
国民の5%前後位しかいない。
そして、その宣伝や、右翼マスコミや皇国史観学会教育界に騙されて、
なった人種差別戦争の右翼的思考になった固定的自民支持は、国民の3割位。
それが、声高に小選挙区選挙で勝って、国家権力を牛耳って、
日本を戦前と同じような戦争国家にしようとしており、
お前ら皇国史観大和説教徒は、その末端組織。
残りの7割や天皇家は、憲法に従って、反戦反人種差別の平等共存思考。
大和説は、当然、国民の7割から嫌われてるから。 >>632
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレ、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」や、
宋書の九州倭国の「東征毛人五十五國」で、
九州倭国説に負けた大和説者は、
ウソとオウム返しの連呼しかできない残り物集団。 やれやれ
九州説って
何も証拠を出さないのが
特徴だね >>639
>弥生銀座の「道路遺構」が報告された時は「大道」とされていた。
それが、久住が基幹道路と推定している、春日の弥生銀座ではなくて、博多ー那珂間の1.5km
「大道」とかを使うのはマスコミだろ
道路といっても牛馬がいるわけじゃなし、最古の車輪の出土は7世紀の磐余遺跡だから
帯状の空閑地にしとけば道路状になる
反日民族のお前が詐欺師だから信用できないと罵っているその久住も佐々木も、畿内説
>纒向の「大溝」は、始めから、都における都市計画な「道路」とは違う。
お前が思っても何の意味も無い >>640
>大和説は、当然、国民の7割から嫌われてるから。
なんでこんな妄想を抱くんだろう
? >帯状の空閑地にしとけば道路状になる
都市の中に帯状にある空閑地=幹線道路でしょうに。 ♪ こんにちは〜〜 こんにちは〜〜〜 キウスの〜 国から〜〜
こんにちは〜〜 こんにちは〜〜〜 キウスの〜 人へ〜〜
こんにちは〜〜 こんにちは〜〜〜 キウスをしよう〜〜 >>558
>丹土は、水銀朱だけでベンガラはない、なんて、
>ちゃんちゃらおかしい。
あいかわらず、日本語も漢文もまともに読めないんだな
後漢書に「丹土とは書いてない」って話だぞ
「其山有丹」「土氣温腝」で切れてるんだよ >>612
>古墳時代で消滅したの? その最大の王宮に伴う、最大の弥生集落遺跡がw
>こりゃ、大変だ。
消滅するのは環濠であって、住んでいる人が消えるわけじゃないよ
畿内に限らず、環濠の中に集住する集落は解体して、もっと広く集落が展開するようになる >>625
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/furutaronco/tygaruronco/ronco17.html
「◎「寛政原本」の衝撃
2007年4月21日、東京で開催された古田武彦講演会の当日。私はレジュメとして
配布された『東日流外三郡誌』「寛政原本」のコピーを見て我が目を疑った。会場ではそ
のレジュメ以外にも、現物の展示および写真の閲覧が行われ、現在までに発見されたとい
う「寛政原本」5点すべてが提示されたわけだが、私はそれを見ながら驚くとともに深い
嘆息をつかずにはいられなかった。
―その「寛政原本」の筆跡はことごとく従来の和田家文書(古田氏の言う「明治写本」)
と同じ、すなわち和田喜八郎のものに他ならなかったのである。
当日、古田氏が見せた無邪気といってよいほどの態度からは、古田氏がそれらを「寛政原本」
と信じ込み、また他の研究者相手にもその主張が受け入れられるものと思い込んでいることが
うかがえた。私はそのことに驚き、また嘆かずにはいられなかったのである。それにしても、
古田氏はいったい何を根拠にそれらを「寛政原本」と認定してしまったのだろうか。」 ザラコクの主張する九州説は内容のない政治的思想とバレているから
何を主張しても九州説は学問的な説ではないという事の宣伝にしかならないぞ 久しぶりに覗いたが相変わらずだね。 まぁ邪馬台国に関しては 畿内説
しか選択肢がないのはもはや確定だからな。
箸墓についての興味深い話を少し前に葛城、大和高田でのかなり
古い伝承をやっと聞くことができた。
考えをまとめる事が難しいのだが、オカルトだとバカにされそうな事が
現実になるかもしれない。 >>609
鍵唐古はむしろ一部、田原本周辺はやはり弥生集落の密集地域だよ。
保津宮古、多遺跡とまとめて見るようにしないとダメ。 ザラコクも畿内説に中途半端変な絡み方するから全てがバレた
九州説は反日的な政治思想ということが世間に明るみになったらどうなるかな >>653
>ザラコクも畿内説に中途半端変な絡み方するから
ザラコクにとっては、中途半端でもなんでもなくて、全身全霊を込めてレスしてるんだと思うよ
ただ、残念なことに、能力が圧倒的に決定的に足りないんだ
漢文一つ満足に読めないし
さらにその上に、九州説の中でも、○○の純度の高い古田史学系の
九州王朝説というトンデモを説いてるんだから、きちんと能力があったところで
どうにもならないわ いやーザラコク自身も自分の言ってること信じてないだろ >>642
やれやれ大和説って 、
「南」や「正北抵新羅」などの、大和説にとっては致命的な反論に、
知らん振りして何も証拠を出さない詐欺師なのが、
特徴だね。 >>643
>>纒向の「大溝」は、始めから、都における都市計画な「道路」とは違う。
弥生銀座の「道路遺構」が報告された時は「大道」とされていた。
>それが、久住が基幹道路と推定している、春日の弥生銀座ではなくて、博多ー那珂間の1.5km<
久住かどうか?は知らんが、私が見たのは、
確か(天誅が畏友と呼んでいた)大和説者のイリヒコが最新の発掘ニュースとして書いていた情報であり、
また、その場所は那珂付近であった筈で、
春日は、イリヒコ紹介では、「春日に繋がっている」という推定情報であった筈だ。
そして、佐々木の論考に、イリヒコ紹介以外に2〜3か所?の「大道」の存在が書かれていた。
>「大道」とかを使うのはマスコミだろ<
知らんよ。
イリヒコが発掘報告として「大道」と書いていた。
だから、「大道」という文言を言い出したのは、「発掘報告」だな。 「イリヒコ」って誰だよww
まさかイクメイリヒコは、こんなところに書き込みしてないだろう? >>644
>>大和説は、当然、国民の7割から嫌われてるから。<
>なんでこんな妄想を抱くんだろう ?<
幾ら自民文部省や右翼マスコミや学会教育界や極右組織が、大和説の宣伝をして来ても、
マスコミの人気投票では、
何十年間もの間ずっと、大和説支持者は3割から動かない。
という事は、
7割の国民は、何十年もの間の大和説宣伝にも拘わらず、
大和説を決して肯定せず否定し続けている、という事であり、
だから、国民の7割は、大和説を嫌っている、という事になる。 昔は方角間違いなんてアホ程例があるのに何言ってんだw >>649
>「◎「寛政原本」の衝撃<
何だこりゃ。
古田さんが、共立女子大?かの教授をしていた時に、助手に雇って貰っていたのに、
喜八郎さんから送られて来た和田家文書を見て、偽書説派に転向して、
反古田反喜八郎キャンペーンを始めた「原田」という変な男の本ではないか。
> ―その「寛政原本」の筆跡はことごとく従来の和田家文書(古田氏の言う「明治写本」)
と同じ、すなわち和田喜八郎のものに他ならなかったのである。<
こりゃ、笠谷鑑定が出る前の話だから、この原田は笠谷鑑定を知らない。
また、
http://www.geocities.co.jp/hyena_no_papa/wada_jihitsu_fujimoto.gif
の左の頁の3行目からの「喜八郎さんの直筆の悪筆」も知らない、
というアホである事になる。
古田さんが寛政原本とされたものは、当然秋田孝季の綺麗な筆跡であり、
偽書説派が「喜八郎さんの筆跡だ」とした「丑寅」原稿は、娘の章子さんの「清書原稿」であり、
また、権七さんや末吉さんや長作さんらの明治写本の筆跡も、章子さんの筆跡も、
写本して来たからは、当然寛政代の秋田孝季や和田吉次やりくの筆跡を真似ているんだから、
類似文字は当然起こり得るものであり、
しかし、それぞれ、はっきりした個性もあって、全部違っているもの。
要するに、原田は、偽書説派や大和説派からの「一種のスパイ」であったんだろう、という事になる。 >>650
5chの大和説者らの主張するら大和説は、
内容のない政治的思想やヘイトスピーチだ、とバレているから、
何を主張しても、大和説は学問的な説ではない、
という事の宣伝にしかならないぞ。 >>651
孝霊は、
論点が、「南→東」以外に、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」や宋書倭国伝の「東征毛人五十五國」
などになっている事を知らないなんだろ?。
正北抵新羅になるのは九州しかないから、
倭國は九州であった、と確定してしまっているんだぞ。 >>652
>鍵唐古はむしろ一部、田原本周辺はやはり弥生集落の密集地域だよ。
保津宮古、多遺跡とまとめて見るようにしないとダメ。<
これもダメだな。
鍵唐古は、
当初は、大和盆地全体が(出雲系の)幾つもの銅鐸祭祀部族の混在の一つであり、
倭国の東征軍の侵入で、一旦共存した形であったが、
鍵唐古の終末期には、その銅鐸は破壊されてしまっているから、
鏡祭祀の倭国侵入軍に、滅ぼされ吸収された、という事になる。 >>653
大和説者も、ザラコクにヘイトスピーチのような変な絡み方するから、
全てが、殺人的人種差別の国粋皇国史観の戦争・・・・である事がバレた。
大和説が、・・・・的な政治思想だった、ということが、
世間に明るみになったらどうなるかな?。 >>665
うん、知らないよ。
それらの文献の年代の成立時期、それに邪馬台国伝ではないので。
当然北部九州は倭なんで全く何の問題もない。
悪い事は言わない、邪馬台国は畿内だからいい加減諦めた方がいい。
>>666
箸墓に関する伝承の類いを色々調べていたら、葛城方面で。
向きに関する事や前方後円墳に関する解釈、瀬田遺跡との関係色々とね。
瀬田遺跡以外にも恐らくあの辺りにはまだ出る可能性がある。
場所も多分見当がついた。 >>668
むしろ九州説の出鱈目さ加減が明らかになるだけだろ >>654
wwや反ザラコク者は、
中途半端でもなんでもなくて、全身全霊を込めてレスしてるんだと思うよ
ただ、残念なことに、能力が圧倒的に決定的に足りないんだ。
漢文一つ満足に読めないし、
さらにその上に、大和説者の中でも○○の純度の高い、排他的人種差別殺人戦争の
国粋皇国史観の極右説というトンデモを説いてるんだから、
きちんと能力があったところで どうにもならないわ。 >>655
いやー、実際には大和説学者も大和説者自身も、
自分の言ってること信じてないだろうなあ。
嘘つき騙しの・・・・なんだから。 >>667
少し見当外れな見解だね。
まず河内や奈良盆地も葛城方面なんか鏡祭祀自体は、
北部九州とそんなに変わらない時期からで弥生中期だしな。
田原本は元々鏡作神社所在地なのでそれでは単なる内紛劇出しかない。 >>656
大和説者らは、自分らが(日本でも世界でも)、
一番強くて一番偉くなければならない、
という願望のために、ボケ防止でやってるんだよな。 >>664
少なくとも畿内説はヘイトスピーチなんぞ縁もゆかりもないが
邪馬台国は機内だから韓国北朝鮮はアホだとか主張する道理がないわ
そういう発想が出てくる事自体がおかしい
九州説は頭がおかしいのか どうやらザラコク九州説にとって
畿内説を主張する事自体がヘイトスピーチになるらしい ザラコク=九州説のキチガイな所
邪馬台国が畿内であれば皇国歴観でありヘイトスピーチになるらしい >>662
魏の役人たちや中国の学者らは「方角間違いなんてしていない」
という例ばかりであるのに。
何言ってんだ?。 >>669
>(孝霊)うん、知らないよ。<
それじゃ、投稿するんなら、唐会要倭国伝を読んでからにしな。
悪い事は言わない。
倭国は九州なんだから、いい加減諦めた方がいい。
>それらの文献の年代の成立時期、<
倭国伝は、日本国伝と区別して書かれ、
「世與中國通」として「ずっと中国と国交を持っていた国だ」と書かれているんだよ。それに邪馬台国伝ではないので。
>当然北部九州は倭なんで全く何の問題もない<
宋書倭国伝に拠れば「自昔・・・東征毛人五十五國」した事が書かれているから、
大和は、九州倭国に東征された地なんだよ。
>それに邪馬台国伝ではないので<
こりゃ、ダメだな。
「邪馬台国」なんて存在しないし、
孝霊は、どうやら「嘘つき騙しの・・・・詐欺師」であり、
説得なんて、始めから無理だったんだ。 >>670
むしろ大和説の、「南→東」なども嘘つき騙しの出鱈目さ加減が、
明らかになるだけだろ。 >>473
>(孝霊)少し見当外れな見解だね。
まず河内や奈良盆地も葛城方面なんか鏡祭祀自体は、
北部九州とそんなに変わらない時期からで弥生中期だしな。
田原本は元々鏡作神社所在地なのでそれでは単なる内紛劇出しかない。<
九州倭国の神武らの東征は、紀元前91年頃の事であり、
大和の在地の毛人や出雲系銅鐸部族の首長たちを騙し討ちにした後、
欠史八代の頃には、倭國の地方の市を監督する大倭職になって、
一旦、大和の在地の残存「出雲系銅鐸祭祀部族」と婚姻で共存していて、
崇神の頃に大和内の支配を完了して、
九州倭国の「東征毛人55国」の応援に従軍して、奈良盆地内から外へ進出して行ったんだよ。 >>675
>少なくとも畿内説はヘイトスピーチなんぞ縁もゆかりもないが<
wwやssnや「早く証拠を出せ」狂らや偽書説派が、ヘイトスピーチ的な発言をしていて、
他の大和説者らは、それを咎めず、むしろ応援していた。
>邪馬台国は機内だから韓国北朝鮮はアホだとか主張する道理がないわ<
邪馬台国も畿内という皇国史観文言も存在していなかったんだから、
お前も国粋キョクウであり、韓国北朝鮮はアホだとか主張する道理があるわ。
そういう発想が出てくる事自体がおかしい。
大和説者は、頭がおかしいのか?。 >>676
どうやら「南→東」などの嘘つき騙しの大和説にとっては、
国粋大和皇国史観を主張する事自体が排他的ヘイトスピーチになる、
という事が判らないらしい。 >>677
この男も、
「南→東」などの史料事実を否定してまでして、
戦前の国粋大和皇国史観論を強硬に主張する事自体が、
憲法違反の近隣諸国民への排他的ヘイトスピーチになる、
という事が判らないらしい。 >>681
結局枝葉は無視すれば三世紀邪馬台国とは畿内の事である、で問題ないね。
邪馬台国とは畿内信貴山辺りを中心とした周辺の事だよ。
それ以外の選択肢は既にない。
で、ずっと中国より西から大陸からの文化をもたらした象徴が、
元々物部の神、大物主として三輪に祭られている。
北部九州は単なる中継点だよ。 辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
腆支王(405-420)
久尓辛王(420-427)
?有王(427-455)
蓋鹵王(455-475)
文周王(475-477)
三斤王(477-479)
東城王(479-501)
武寧王(501-523)
百済25代武寧王(501-523)は墓から買地券(金石文)が出てるのでこれは絶対年代。
ならば阿莘王擁立が日本書紀・応神3年条だから応神元年は390年。
ならば応神から30年後の平均在位は11年弱だから、 神功皇后を入れて6代遡る10代崇神は4世紀前半。
ならば魏志倭人伝のトヨまであと数十年、トヨとは4代天皇・懿徳の皇后のトヨツ姫だと分る。
ならばヒミコはその少し前の最高位の女性、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛だと分る。
ならばトヨツ媛もヒメ(踏鞴五十鈴)媛も住んだのは葛城(奈良県御所市)であるから、
邪馬台国の女王が住んだ場所は奈良県御所市であると分る。
文句あるか? >>652孝霊厨
>鍵唐古はむしろ一部、田原本周辺はやはり弥生集落の密集地域だよ。
>保津宮古、多遺跡とまとめて見るようにしないとダメ。
それらは、本国倭国(阿波)や伊勢などから拓殖の為進出した忌部一族の集落だね。 @阿波 文句あるな、そもそも平均在位なんて何の根拠もない。 >>685
>結局枝葉は無視すれば三世紀邪馬台国とは畿内の事である、で問題ないね。
邪馬台国とは畿内信貴山辺りを中心とした周辺の事だよ。
それ以外の選択肢は既にない。<
「南≠東」であり「大和は倭國の別種の旧小国」であるから、
孝霊は×。
>で、ずっと中国より西から大陸からの文化をもたらした象徴が、
元々物部の神、大物主として三輪に祭られている。
北部九州は単なる中継点だよ。<
大和は「倭國の別種の旧小国」であり、「東征毛人五十五國」の一つであるから、
孝霊は×人間。 >>687
田原本辺りには忌部の地の根拠が乏しいから少し無理がある。
それに三世紀邪馬台国問題には影響しない話だからな。
まぁ多遺跡周辺はもう少し注目した方がいいだろう。 >>691孝霊厨
>田原本辺りには忌部の地の根拠が乏しいから少し無理がある。
田原本辺りに限らず、みんな忌部だよ。
>それに三世紀邪馬台国問題には影響しない話だからな。
そうだね。 畿内は倭国(阿波)から千里東にある倭種の地だからね。 @阿波 >>686
>文句あるか?<
文句ある。
卑弥呼や壹與は、倭国の女王であり、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って倭国は九州であるから、
九州倭国の女王だ。
それに、ある期間や区間の王の在位平均年数が、
それ以前の王らの在位年数と100%が絶対一致する筈もなく、
単なる「低い可能性」にしかならず、
「断定根拠」にはならない。 鍵唐古とは結局中心から離れているからな。
弥生時代、中心はやはり宮古、都の名前から見てもこちらですよ。
百襲や孝霊伝承地もこっちだからな。
邪馬台国に倣ったような王政復古した聖徳太子、飛鳥時代の
太子道が都に寄る時点でわかる話だ。 >>688
大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙し病を直して、
真人間に帰れ。 >>694孝霊厨
>弥生時代、中心はやはり宮古、都の名前から見てもこちらですよ。
えらい貧相な中心だね。
>邪馬台国に倣ったような王政復古した聖徳太子、飛鳥時代の
太子道が都に寄る時点でわかる話だ。
聖徳太子も飛鳥時代も倭国(阿波)だよ。 奈良は阿波のコピー。 @阿波 >>694
>邪馬台国に倣ったような王政復古した聖徳太子、飛鳥時代の
太子道が都に寄る時点でわかる話だ。<
厩戸は、善光寺との往復手紙に拠って、646年頃まで生存しており、
書紀の622〜623年頃に亡くなった事になる聖徳太子とは合わず、
書紀の聖徳太子は、書紀の「造作捏造」になり、
×だよ。 >>692
今更わざわざ阿波なんて別人格使うのもう止めたら?
ヤマタイはやはりヤマと名のつく地名が集中する信貴山、矢田丘陵辺りだよ。
ヤマシロにヤマセとか、何より和名抄に大坂山辺りにヤマダイの地名が
残っているからね。
少なくとも邪馬台国とは畿内で確定している。 >698孝霊厨
>今更わざわざ阿波なんて別人格使うのもう止めたら?
なんのこと???
>ヤマタイはやはりヤマと名のつく地名が集中する信貴山、矢田丘陵辺りだよ。
>ヤマシロにヤマセとか、何より和名抄に大坂山辺りにヤマダイの地名が
>残っているからね
それも全部、倭国(阿波)のコピーだよ。 @阿波 とぼけても無駄だな。
まぁ阿波こそ実はダミーだよ、やっぱり気がつかないかな。 >>700孝霊厨
>とぼけても無駄だな。
いや、まじでなんのこと? なにをとぼけるの? 一体なにを思ってるの?
>まぁ阿波こそ実はダミーだよ、やっぱり気がつかないかな。
文化後進地域をコピーするわけないだろ? @阿波 そもそも阿波なんて何の為に畿内スレにいるのかな?
それは別にしても阿波は弥生時代後期特に先進的でも何でもない。
あくまでも邪馬台国=ヤマトの成立に関与した
国の一つに過ぎない。 >>698
>(孝霊)少なくとも邪馬台国とは畿内で確定している。<
邪馬台国も畿内もなかったし、
「南≠東」に拠っても、
孝霊は、×人間であり、おそらく・・・・大和説者。 >>699
>それも全部、倭国(阿波)のコピーだよ。@阿波 <
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国は九州であり、
「倭国(阿波)」は×であり、
阿波も×人間。 >>700
>(孝霊)とぼけても無駄だな。
まぁ阿波こそ実はダミーだよ、やっぱり気がつかないかな<
孝霊も、「南≠東」だから、嘘つき騙しの×人間であり、
孝霊と阿波とは、同じ「九州倭国」否定の×人間同士であり、
やっている事は、同士討ち。 まぁ阿波はおいといて北部九州は日本列島では邪馬台国の可能性が
一番低い場所だからな、伊都は邪馬台国であり得る訳がない。
京都が東京でないのと同じ、それ位議論以前の話だよ。 >>702孝霊厨
>それは別にしても阿波は弥生時代後期特に先進的でも何でもない。
少なくとも、畿内より鉄鍛冶の工房があり、畿内より先進的である。
少なくとも、辰砂採掘水銀朱精製畿内搬出しており、畿内より先進的である。
少なくとも、勾玉造りの工房があり、畿内より先進的である。
少なくとも、畿内より弥生後期集落遺跡群があり、畿内より先進的である。
少なくとも、畿内第X期の東阿波型土器を発明しており、畿内より先進的である。 @阿波 >>706
いい加減にしないとな、私は九州倭国を否定した事はない。
北部九州は伊都や奴国所在地で倭の一部である、と言ってるだけの話だね。
邪馬台国とはヤマトの事、極めて単純で位置を議論する点は既にない。
今更邪馬台国のヤマト以外にないのに位置論争なんてやってる暇もないし。
しかし箸墓の向きの意味聞かれるかと思ったらそうでもなかったな、消えます。 >>702孝霊厨
>それは別にしても阿波は弥生時代後期特に先進的でも何でもない。
少なくとも、畿内より鉄鍛冶の工房があり、畿内より先進的である。
少なくとも、辰砂採掘水銀朱精製畿内搬出しており、畿内より先進的である。
少なくとも、勾玉造りの工房があり、畿内より先進的である。
少なくとも、畿内より弥生後期集落遺跡群があり、畿内より先進的である。
少なくとも、畿内第X期の東阿波型土器を発明しており、畿内より先進的である。
追加
少なくとも、中国朱が阿波に存在し中国との交流において、畿内より先進的である @阿波 >>709
お、それは気になりますね。
ぜひ開陳願います。 >>709
>いい加減にしないとな、私は九州倭国を否定した事はない。
それはおかしい。
筑紫倭国という呼称は、筑紫こそ倭国の中心であるという意味だから。
単に筑紫が倭の一部という程度の意味ではない。 >>707
>(孝霊)まぁ阿波はおいといて北部九州は日本列島では邪馬台国の可能性が
一番低い場所だからな、伊都は邪馬台国であり得る訳がない。
京都が東京でないのと同じ、それ位議論以前の話だよ。<
孝霊は、「南≠東」や唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に反論出来ていないから、
議論以前の・・・・であり、
×人間。 >>709
>いい加減にしないとな、私は九州倭国を否定した事はない。
北部九州は伊都や奴国所在地で倭の一部である、と言ってるだけの話だね。<
それが、「南≠東」や、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」や、
旧唐書や唐会要の日本国伝の大和は「倭國の別種の旧小国」で否定され、
大和は、九州倭国の「東征毛人55国」の中の一国に過ぎず、
倭国の中心は(大和ではなく)九州である、という事で確定している。
>邪馬台国とはヤマトの事、極めて単純で位置を議論する点は既にない。<
「邪馬台国」なんて存在しないし、勿論邪馬壹國も邪馬臺國も「ヤマト」ではない。
>今更邪馬台国のヤマト以外にないのに位置論争なんてやってる暇もないし。
しかし箸墓の向きの意味聞かれるかと思ったらそうでもなかったな、消えます。<
嘘つき騙しがバレたら、消えた方が良い。 >>702孝霊厨
>それは別にしても阿波は弥生時代後期特に先進的でも何でもない。
少なくとも、畿内より鉄鍛冶の工房があり、畿内より先進的である。
少なくとも、辰砂採掘水銀朱精製畿内搬出しており、畿内より先進的である。
少なくとも、勾玉造りの工房があり、畿内より先進的である。
少なくとも、畿内より弥生後期集落遺跡群があり、畿内より先進的である。
少なくとも、畿内第X期の東阿波型土器を発明しており、畿内より先進的である。
追加
少なくとも、中国朱が阿波に存在し中国との交流において、畿内より先進的である
追加
少なくとも、前方後円墳の原型が阿波にあり、畿内より先進的である @阿波 >>711
一つだけ、何故かさっき箸墓の向きの事で書き込みしたのだが、
最初反映しなかった。
二回目同じ書き込みすればNGワードですと弾かれた。
これが反映したなら一体なんだったんだろう?
暫くおいて書き込みしてみたがやはりNG、そんなに不味い事
書いたつもりはないのだが。
箸墓の向きはやはり名前にも関係がある、多分ね。
>>710
本気で言ってるなら相手にする必要はないな。 >>718孝霊厨
>本気で言ってるなら相手にする必要はないな。
とても相手にならないからだろ? @阿波 >>718
やっぱり土師氏の関係ですかね?
気になります。 伝応神陵が
厳密には前方後円墳ではなく
勾玉のように傾いているにもかかわらず
各要素の直線が主要な稜線に被る、そういう話でしょうか?
もともと土師墓だったのが、箸墓になったという話もありますし。 誉田御廟山を前方後円墳じゃないとか言う奴がいたら
そいつは地形図を読み取るスキルがない無能野郎か
自分の仮説を事実に優先させる捏造野郎か
どちらかあるいは両方だな 何故か何度書き込みしてもやっぱり弾かれる、何がNGなのかわからん。
まず書けるか判らないが別からの考察、まず箸墓の延長線は西は
築山古墳だ。向きは互いに対になる。ここは箸墓にも匹敵する色々伝承が
あるが隠匿されている。 これは折口氏も昔から何か聞いていたはず。
これは結構有名な話だが内容に関する話がダメかもしれない。 「丹木」に関する情報求む。
検索では、「蘇木(丹木)」として、
植物。マメ科の落葉小高木,園芸植物。ハナズオウの別称。
漢方薬に用いる生薬(しょうやく)の一つ。マメ科スオウの心材(しんざい)を乾燥したもの。
通経(つうけい)、止血、鎮痛などの作用がある。
月経不順、月経困難、月経痛、腰痛に効く通導散(つうどうさん)などに含まれる。
と書かれているが、「朱色」か?ははっきりしない。
「赤い色の花」を付ける木なら、椿や牡丹などがあるし、紅葉をする木も幾つもあるが、
それを敢えて「丹木」と呼んだのか?は不明。
播磨に紅山という山があり、その岩肌に紅色〜褐色のコケが密生して紅色に見えるから、
紅山と名付けられた山がある。 書き込みNGは 分量がおおかったり
改行が多かったりのどちらか >>727
あと使用フォントでも引っかかってるみたい いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 キナイコシが論破されてしまっている話題が、使用フォントのことのようだね。。。 キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。 >>731
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 >>729
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>730
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。 >>734
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>725
古代太陽や星の位置は重要だろう。
鳥居なんて必ず山頂や日の位置で向き決めてる。 こんにちは〜 こんにちは〜 キウスの 国から〜
こんにちは〜 こんにちは〜 キウスの 人が〜
こんにちは〜 こんにちは〜 キウスの 人へ〜
2020年の〜 こんにちは〜
こんにちは〜 こんにちは〜 キウスを〜 し〜よ〜う〜 >>1
>纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
瀬戸内海洋鯨面集団モノノベの土地。
邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地は奈良盆地で最も水が美しく、
最良の土地である御所市高天周辺。
名柄遺跡のある長柄神社でsろう。
別名「姫の宮」。 ♪ プールサイドで 便をすりゃ いぇいぇいぇ えいえいえ〜〜
キウスが キウスが キウスが キウスの男が
わんさか わんさか わんさか わんさか いぇい いぇ〜い え〜〜 >>742
>>纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。<
>瀬戸内海洋鯨面集団モノノベの土地。
邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地は奈良盆地で最も水が美しく、
最良の土地である御所市高天周辺。 名柄遺跡のある長柄神社でsろう。 別名「姫の宮」<
「南≠東」と、唐会要の(日本国伝ではなく)倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、
纏向も御所も×。」 箸墓は台与の墓の可能性もあるな
卑弥呼の墓は東田大塚ではないか >>746
妄想しているときは至福の時 じゃますんな >>745
>箸墓は台与の墓の可能性もあるな 卑弥呼の墓は東田大塚ではないか<
台予なんておらず壹與であるし、
箸墓も東田大塚も、「南≠東」や「倭國は正北抵新羅」に拠って、×。 >>751
>「倭國は正北抵新羅」
倭國は「在新羅東南、居大海之中」
北限は大海、百濟とは西北に接し、新羅とは正北に接(抵触)する >>752
方位の認識がおかしいだけだよね
魏志倭人伝と同じ 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイの古典的名著が短編×100話で気軽に読めます
リライト本です。「なか見検索」で立ち読み頂けます。原版は
国立国会図書館デジタルコレクションで無料で読めます
法窓夜話私家版 (原版初版1916.1.25)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BT473FB
(続)法窓夜話私家版 (原版初版1936.3.10)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BP9CP5V >>753
倭国と百濟、新羅が接している部分だから合ってる
北は大海の日本海だから >>751
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! もう九州説なんてダメダメすぎる、主張が何も無いしな >>749
「南≠東」や「倭國=正北抵新羅」などの事が判らず、
未だに「纏向=卑弥呼の都」と叫んでいる大和説学者や右翼マスコミは、
ヤバいヤク並みのトンデモ人種だよな。
侮蔑。 >>752
>>「倭國は正北抵新羅」<
>倭國は「在新羅東南、居大海之中」
北限は大海、百濟とは西北に接し、新羅とは正北に接(抵触)する <
だから、倭国は、新羅の「東南〜南」の範囲である事になり、
筑紫でどんぴしゃり。 >>753
>方位の認識がおかしいだけだよね 魏志倭人伝と同じ<
大和説者らの、脳の「方位の認識がおかしい」だけだよね。
文部省や、学会教育界や、右翼マスコミや、極右やくざ暴力団組織と同じ。 >>757
理解が付いてこれていないのかな?
ガンバ 今日のニュースで畿内説を補強する研究を続々と報じてるね
朝日、毎日、日経新聞 >>760
朝日や毎日のどこが右翼マスコミなんだよw >>755
>倭国と百濟、新羅が接している部分だから合ってる 北は大海の日本海だから<
倭国は新羅とは、「接している」とは書いていない。
「正北抵新羅」だ、と「抵抗とする関係だ」とする書いてある。
そして、倭国の「北限大海」の大海は、当然倭人伝で書かれた「大海」の事で、
九州と半島の間の「玄界灘〜朝鮮海峡」の海の事。 >>757
もう大和説者なんて、脳も性格も人間性も顔つきも、ダメダメすぎる。
まともな主張が何も無いしな。 うん、しょぼかった。
桃の種の年代測定をしただけ。
むしろ、年代が卑弥呼とかぶる、という程度にトーンダウンしていたのが印象的。
考古学者も、纒向はもう無理と考え始めているんじゃないかな。 >>768
相変わらずこのジジイは意味を分かってないのか
アホにはどんなに説明しても無駄 >>759
>だから、倭国は、新羅の「東南〜南」の範囲である事になり、
>筑紫でどんぴしゃり。
それは倭国を新羅より小さな国にしたい民族の解釈
「頗有絲緜、出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者、云海中湧出」
瑪瑙(メノウ)や同じSiO2のの碧玉の産地は出雲の花仙山、若狭、佐渡、津軽
琥珀の三大産地は千葉(銚子)、岩手(久慈)、福島(いわき) 日本海側は筑紫倭国の勢力範囲だから、倭人がうちの国から出たと紹介したんでしょうね。 >>763
>今日のニュースで畿内説を補強する研究を続々と報じてるね 朝日、毎日、日経新聞<
大型建築の絵を見たが、
田舎の祭祀建築そのものだし、
「以婢千人自侍」のは全く無理だし、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」にもなっていないし、
年代計測はAMS法のようだから、2割位古く出てしまった年代を書いているし、
何と言っても、卑弥呼が桃ばっかり食べたアホ女だ、
なんて、有り得る筈がない。
要するに、大和説学者は、おそらく詐欺師であり、
Yahooや5chと同じように、
朝日毎日日経の担当部署を、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説人間が支配している、
って事。 鉄鏃とか銅鏡とか絹みたいに、魏志倭人伝に書かれているものが何一つ出てこないのに。
纒向が卑弥呼のいたところである確率はゼロにほぼ等しい。 あれだけお金かけていろいろやったのに
桃の種しか頼るものがないとかひどいな >>779
>鉄鏃とか銅鏡とか絹みたいに、
こういうのは中国から伝播してものでまだ技術レベルも低いし
倭地の特産物ではないので、中国からすると何の価値も無いものだね >>745
箸墓は台与以降の誰かの墓である可能性はあるな。
卑弥呼の墓は破壊されているんじゃないかなー。
倭国大乱の象徴だからな。かなり縁起悪い >>764
>朝日や毎日のどこが右翼マスコミなんだよw <
朝日は、
もう30年位前だったか?、当時の(自民党系であった村山社長が)激怒した事があって、
それから、読売に習って右翼的編集者や記者を入れて、読売に追いつこうとした事があり、
その後、社内では大和説が優勢になった。
毎日は、以前から、朝日と読売の中間的な思想。 >>784
>箸墓は台与以降の誰かの墓である可能性はあるな。
そんな大王クラスの墓は纏向のような麓には造らないよ。 大王クラスは山稜の頂にある。 @阿波 >>770
相変わらずこの「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説のガキは、
意味を分かってないのか。
皇国史観宗教に狂った・・・・アホには、どんなに説明しても無駄。 朝日は左翼系
古田は右左関係なく、どのマスコミからも相手にされなくなった 朝日は最初に古田の本を出版して押したが
あまりのキチガイぶりに途中で放り出した 古田は古代史の分野では所詮ド素人だしニュース報道とかでは相手にされんわな 古田は晩年、古代史ゴロの和田喜八郎と組んで
犯罪まがいのことをやったから
途中で見切りをつけた朝日の判断は正解 >>772
>>だから、倭国は、新羅の「東南〜南」の範囲である事になり、 筑紫でどんぴしゃり。<
>それは倭国を新羅より小さな国にしたい民族の解釈<
人種差別・・・・のwwが、何時の時代の新羅と比べているのか?は知らんが、
三国時代の新羅なら、九州倭国の方が大きい。
>「頗有絲緜、出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者、云海中湧出」
瑪瑙(メノウ)や同じSiO2のの碧玉の産地は出雲の花仙山、若狭、佐渡、津軽
琥珀の三大産地は千葉(銚子)、岩手(久慈)、福島(いわき)<
「倭國東海嶼中、野人。有耶古波耶多尼三國。皆附庸於倭」だから、
当然、九州周辺や対馬壱岐だけではなく、
同じような気候の本州四国や、耶古波耶多尼三國の産物もある、という事。 >>774
大和説って、結局は、「南→東」などのように、
史料事実の否定曲解の・・・・妄想だけなんだね。 >>778
大和説者や大和説学者らは、結局は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しでの、
現実逃避の・・・・アホばっかりw。 >>783
>>鉄鏃とか銅鏡とか絹みたいに<
>こういうのは中国から伝播してものでまだ技術レベルも低いし
倭地の特産物ではないので、中国からすると何の価値も無いものだね<
鉄鏃とか銅鏡とか絹もない大和は、何になるの?。
未開人か?、毛人?。 >>784
>箸墓は台与以降の誰かの墓である可能性はあるな。
卑弥呼の墓は破壊されているんじゃないかなー。<
「南≠東」で、箸墓は卑弥呼にも壹與にも関係がなく、×。 >>788
朝日は、中道と右翼系の混在。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
国民の7割位から、相手にされなくなった。 >>789
朝日と読売が、最初に古田の本の出版を競争して、朝日が勝ったが、
その朝日も、村山激怒事件以後、古田本の出版が減って行き、
古田さんが亡くなった時には、古田説に一定の評価を書いた。 >>792
>三国時代の新羅なら、九州倭国の方が大きい。
九州倭国などない
筑紫と連呼しながら筑紫じゃ足りないから
根拠も無く南九州を勝手に領土にしているだけ
唐の高宗の654年ころは九州全土くらいだろう
>同じような気候の本州四国や、
九州を連呼しながら、「同じような気候の本州四国」などと
産物だけ勝手に本州を含める基本的にどろぼう思考の主張
日本人拉致事件についても、日本側に責任があり日本人の遺伝子が欲しかったから
殺してないなどと自己中心の主張をしている >>759
戸数と丹山で終わったけどな、九州説は。
あんな場所石炭位だろw ミミ、ミミなし、
耳成山謎だ。耳成山に詳しい地元の人いないかな。 >>790
古田さんの亡き後も、
正木さんや古賀さんらの活躍で、
各地での考古学者らとの討論会は、毎回数百人位以上参加の盛況で、
考古学者らは、正木さんや古賀さんらにたじたじの状況。
勿論、右翼系新聞や右翼系人物が入り込んだマスコミやPCは、
そんな事を一切記載しない。 >>805
>考古学者らは、正木さんや古賀さんらにたじたじの状況。
ウソを言うな >>791
和田家文書問題でも、
笠谷鑑定や喜八郎さんの直筆がはっきり公開されてからは、
偽書説派の敗退がはっきりしてしまって、
それからは、偽書説派やマスコミは、
自分等の悪行や失敗がバレて、全く口をつぐんでしまった。
そして、未だに喜八郎らへの誹謗をし続けているのは、
掲示板の、国粋皇国史観狂の、
「南→東」などの嘘つき騙しのの・・・・大和説者ばかり。 >>805
高齢は詳しいだろう、奈良の古伝承調べてるみたいだし。 しかし九州や泡なんて全く興味もないのにバカじゃないの?
鼻からバカにしかしてないのにw >>797
「南→東」などの嘘つき騙しや、無知をさらす・・・・アホの大和説者の、
家族身内がかわいそう。 >>809
>しかし九州や泡なんて全く興味もないのにバカじゃないの?
泡を馬鹿にしちゃ、ばちが当たるよ。 大和の本家なんだからさ。 @阿波 >>800
>>三国時代の新羅なら、九州倭国の方が大きい。<
>九州倭国などない<
唐会要の(日本国伝とは区別された)倭國伝で、
倭国は新羅の東南で「正北抵新羅」の位置だから、九州。
>筑紫と連呼しながら筑紫じゃ足りないから 根拠も無く南九州を勝手に領土にしているだけ
唐の高宗の654年ころは九州全土くらいだろう<
「倭國東海嶼中、野人。有耶古波耶多尼三國、皆附庸於倭」だ。
>>(頗有絲緜、出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者、云海中湧出)
同じような気候の本州四国や 薩南諸島<
>九州を連呼しながら、「同じような気候の本州四国」などと
産物だけ勝手に本州を含める基本的にどろぼう思考の主張<
「倭國東海嶼中、野人」も「皆附庸於倭」と書いてある。
>日本人拉致事件についても、日本側に責任があり日本人の遺伝子が欲しかったから
殺してないなどと自己中心の主張をしている<
拉致事件は、勿論北朝鮮が悪いが、
戦後北朝鮮への謝罪もせず、平和条約も結ばずに戦争状態を継続し、
アメリカと一緒になって「核の傘」で威圧を続けて来た自民政府も悪い。 素人のお爺さんたちが茶話会で歴史のロマンに思いを馳せる趣味は
別にいいと思うが、古田のような反日思想書は
対日有害犯罪と直接繋がるからな >>801
戸数と丹山で終わったけどな、大和説は。
あんな場所、よどんだ川と泥の堆積位だろw。 >>812
このように日本人とは決して理解し合えない民族が古田の反日思想書を読むと
日本人を拉致しよう、拉致に協力しよう、
日本人が拉致されていても日本が悪いんだから助けない、通報しない
と考えるようになる >>814
戸数と丹山で九州説も大和説も仲良く終わっているよ。 @阿波 >>802
「南→東」などの嘘つき騙しの、
人種差別的な「日本は全て世界1強くて偉い」という狂気の皇国史観の、
国民の7割から見放された・・・・大和説学者や大和説者。 >>803
大和は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の一つで、九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であるから、
黒塚の被葬者も、九州倭国の東征将軍の関係者の一人。 >>809
しかし大和や泡なんて、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国に過ぎないから、全く興味もないのにから、
バカじゃないの?。
「南≠東」だから、鼻からバカにしかしてないのにw。 >>817
>「日本は全て世界1強くて偉い」
とても捻くれた人種が反日思想指導者古田を支持、連呼しているのがわかる >>813
素人のお爺さんたちが茶話会で歴史のロマンに思いを馳せる趣味は別にいいと思うが、
安部自民公明政府文部省や、
右翼マスコミや、
「南→東」などの嘘つき騙しの学会教育界や、
キョクウの国粋皇国史観暴力団のような宗教は、
人種差別的侵略殺戮戦争と直接繋がるからな 。 >>821
このように鸚鵡返しする低知脳レベル且つ日本人に強い僻みを持っていると
古田の対日有害思想に染まってしまう >>815
このように、国民の7割とは決して理解し合えない大和説者の、
人種差別的な侵略殺戮戦争を鼓舞扇動する思想書を読むと、
戦後の日本が、北朝鮮に謝罪もせず平和条約も結ばず、アメリカの核の傘で威嚇したために、
拉致事件を起こしてしまったんだろうなあ、
という事がよく分かる。 >>816
>戸数と丹山で九州説も大和説も仲良く終わっているよ。 @阿波<
阿波は、まだ、鏡片に拠って、
阿波も九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であった、
という事が未だに判らない・・・・だった、
という事のようだね。 >>823
歴史の考察でもない反日連呼運動は
アンケートの7割の諸説とは何の関係も無い
そしてこの反日運動が日本人拉致事件と深く関わっている >>820
国民の3割の、
「日本は全て世界1強くて偉い」という高慢で戦争狂の、
安部政府や右翼マスコミや、皇国史観大和説の学会教育界や、
やくざ暴力団のような犯罪者が、
戦前とおなじような人種差別的な侵略殺戮戦争を、支持、連呼している、
という事がよく分かる。 >>822
このように鸚鵡返しを直ぐにされてしまうような低知脳レベルで、
且つ「日本は世界1偉くて強い国だから、人種差別的な侵略殺し合い戦争をしなければならない、
という・・・・宗教を、
少しでも許容する意識を持っていると、
善良な国民も、簡単に安部政府や極右マスコミや皇国史観大和説の学会教育界に騙されて、
戦争政府を選択してしまう事になる。 >>825
歴史の考察でもない「日本は全てにおいて世界1偉くて強い国だ」という宣伝の、
「先の人種差別的な侵略殺戮戦争」肯定の、
北朝鮮への謝罪や平和条約締結をせずに、アメリカの「核の傘」での戦争威圧を続けた事が、
拉致事件と深く関わっている。
勿論拉致事件は、北朝鮮が悪いが、戦争状態を継続し続けた自民政府や右翼マスコミらも悪い。 >>824
>阿波も九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であった
九州も倭国(阿波)の「西服衆夷六十六國」の中の一国であった
ずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北の展開記述
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸
これ全部、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域なんですよ。 @阿波 >>828
反日運動古田の会の日本人拉致容疑者は
日本が北朝鮮へ謝罪することを強く要求している >>829
>>阿波も九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であった<
>九州も倭国(阿波)の「西服衆夷六十六國」の中の一国であった・・・@阿波<
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は九州で決まりだから、×。
勿論、倭人伝の「南≠東」によっても、(大和だけではなく)阿波も×。 日本の歴史を、あの史書もこの史書も信用ならんと言って暗黒で塗りつぶすことこそ反日じゃないのか? >>830
人種差別的な侵略殺し合い戦争狂の国粋皇国史観の・・・・大和説のwwらは、
拉致事件を口実にして、
拉致被害者の調査や救出よりも、
国民に北朝鮮への憎しみを煽り、
日本を、また戦前の侵略殺戮戦争をさせようと煽っている。 記紀と魏志倭人伝は、同じ倭国の同じ時代の内容を含んでいるはず。
筑紫の日向の伊都のクジフル山(高祖山の隣)の高千穂宮(高祖神社)が倭国の王宮であるという記事で、両者は一致している。 >>832
日本のの古代の歴史で、
最も客観性と信頼性の高い魏志倭人伝の倭国の記載を、
信用ならんと言って暗黒で塗りつぶし、
倭国の存在や歴史を否定盗用造作した記紀だけを根拠にすることこそが、
反日じゃないのか?。 張政等は来日してますから魏志倭人伝の信憑性はそこそこ高いですね
500年後に書かれた日本書紀よりは信頼できますね。 >>834
反日有害運動古田の会の日本人拉致容疑者は
国民を拉致された側の日本国を非難している 陳寿の時代にも張政等や生口は何人か生きてるでしょ。
陳寿とご近所だったかもしれないしw >>833
>万葉集が一番信用できそうですね。<
歌は、ある程度その作者の個人的経験の主観が入っているから、
客観性と信頼性が落ち、
梯儁や張政や裴清や郭務ソウらのような、
実際に日本にやって来て実見した記録の方が、
客観性や信頼性が高いのではないか?。 歌は、個人の体験ですから部分的にしか分からないですが嘘はないでしょう。 >>841
郭務悰の報告書に「邪摩惟」と書いてあったなどというのは
反日の朝鮮人が有害活動目的で作って連呼してるだけだから 陳寿は武帝期の晋に仕官しているので、266年のトヨの朝貢は佐著作郎として目の当たりにしてる。 晋はイヨに金印を与えたとの記述がないので
イヨは新しい印が貰えなかったのでしょうね
それとも記述が無いだけか? >>814
大和説なんていないだろ、畿内説だしなw
70000戸収まるのは畿内しかない。
泡?あんな所せいぜい5000戸くらいだw
まともな弥生遺跡が少なすぎ。 >>846
畿内の中でも後進地域の奈良盆地を持ち上げているうちは無理。
奈良だけではどうしようもないので周辺を巻き込んで畿内という後世の枠組みを持ち込んでごまかしている。 >>846-848
九州説にいろいろあるように畿内説にもいろいろあるんだよ
大和説でも纏向じゃなくて葛城にもってくのもあれば
京都説もあるし大阪説もある
京都や大阪は大和ではないから総称としては大和説ではなく畿内説の方が適切 >>844
>陳寿は武帝期の晋に仕官しているので、266年の・・・朝貢は佐著作郎として目の当たりにしてる。<
成程。 >>846
畿内説なんていないだろ、大和説だしな。
70000戸収まるのは筑紫しかない。
泡?あんな所せいぜい5000戸くらい?だw?。
筑紫に比べれば、まともな弥生遺跡が少なすぎ。 >>849
>後世の枠組みて・・・ちっとは現実を見ろよ<
大和説者は、
「南≠東」や、「正北抵新羅」や、弥生銀座や、
米田論考や、九州倭国の「東征毛人五十五國」の一国などの、
ちっとは現実をみろよ。 >>850
>九州説にいろいろあるように畿内説にもいろいろあるんだよ<
畿内なんて、存在しなかったんだよ。
>大和説でも纏向じゃなくて葛城にもってくのもあれば
京都説もあるし大阪説もある <
京都や大阪も、
「南≠東」や、「正北抵新羅」や、弥生銀座や、
米田論考や、九州倭国の「東征毛人五十五國」の一国、
などで、否定される。
>京都や大阪は大和ではないから総称としては大和説ではなく畿内説の方が適切<
米田論考もなどに拠っても、×。 >>854
正しいとか間違ってるとかの話はしてない。
「そういう説もある」って話をしてるんだ
壊れたレコーダーみたいに自説を垂れ流すだけの池沼かよ
>畿内なんて、存在しなかったんだよ。
現実逃避もたいがいにしろw >>846 >>852
畿内説も九州説もまともな弥生末期集落遺跡が少なすぎ。
まともな弥生末期集落遺跡があるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 卑弥呼の墓より、民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群を探しなさい。 それが先決事項。 @阿波 >>833
>万葉集が一番信用できそうですね。
第1巻の第1首が、泊瀬朝倉宮御宇天皇代大泊瀬稚武天皇]/ 天皇御製歌となっていて、
泊瀬朝倉宮が地名から奈良盆地東南部磯城郡なのは明らか
ワカタケル大王の斯鬼宮とも一致するし、一番信用できそうな万葉集からも、
倭王武のワカタケル大王が大和朝廷の雄略天皇であることが裏付けられる 巻六 998
眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも 左の一首 船王の作
難波宮は勿論、住吉からも阿波は見えない。
応神天皇の難波大隈宮は、
さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。
船王も勿論、阿波の海人王。 @阿波 >>858
本当の第一巻は失われているとの説もある。 >>859さんは、お鏡さんのスレの>>135で大ウソを書いた人ですか? >>861
>本当の第一巻は失われているとの説もある。
普通は、第一巻と第二巻は、3巻以降と編者が違うっていう方を言うよね >>735
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 >>736
画像から使用フォントを検索してくれるWEBサービス
があることも、キナイコシは知らないようだね。。。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>737
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>873
計算すると、西暦200年頃からだな。。。 >>874
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、 >>875
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 >>876
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。 >>878
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、 >>879
あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、 >>880
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>865
畿内説を信じるキナイコシがまた無知を晒したねw キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。 >>885
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。 >>866
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不利になったキナイコシが自分の作成したスレッドを埋め始めたな。。 >>894
優れた考古学者達に打ちのめされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。 >>881
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。 古事記と日本書紀を読み進めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。 >>887
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。 >>867
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形も何もかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 倭王武と万葉集と邪馬台国はどんな関係があるのだろうか。。。 >>903
倭王武は肥後の王ではなかったのかな。。 >>905
そうだね、、、
熊本城の周辺に言い伝えがあるな。。。 >>905
万葉集にも記録されているかもしれないね、、、 >>896
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。 不利になったキナイコシが自分の作成したスレッドを埋め始めたな。。 >>855
>正しいとか間違ってるとかの話はしてない。
「そういう説もある」って話をしてるんだ <
「南≠東」などで、全く有り得ない大和説を、
全面的に正しい九州説と同等のような扱いをする事が、インチキなんだよ。
>壊れたレコーダーみたいに自説を垂れ流すだけの池沼かよ<
池沼とは何の事か?は知らんが、
壊れたレコーダーみたいに自説を垂れ流すだけの池沼かよ?。
>>畿内なんて、存在しなかったんだよ。<
>現実逃避もたいがいにしろw<
米田論考に拠っても否定されている「畿内」、
という、「結論先にありき」の宗教的な文言で、
現実逃避のインチキ騙しをするのも、たいがいにしろ。 日本語すら理解出来ないからな、ここで暴れてる九州説の連中は。 >>856
>畿内説も九州説もまともな弥生末期集落遺跡が少なすぎ。
まともな弥生末期集落遺跡があるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波<
「南≠東」や「倭国は正北抵新羅」や、「倭国の東征毛人55国」や、
弥生銀座などという史料事実を否定曲解する嘘つき騙しをしたって、
何の信頼性も価値もない。 ひとつ教えてあげよう
べつに邪馬台国の話というわけではないんだけど
決められた(そういう事になった)事くらい守れという話、
本当の話、もれ(仮)の妹の話
ググったり(検索)すると、
同じ画像?ばかり出てくるでしょ >>858
>第1巻の第1首が、泊瀬朝倉宮御宇天皇代大泊瀬稚武天皇]/ 天皇御製歌となっていて、
泊瀬朝倉宮が地名から奈良盆地東南部磯城郡なのは明らか
ワカタケル大王の斯鬼宮とも一致するし、一番信用できそうな万葉集からも、
倭王武のワカタケル大王が大和朝廷の雄略天皇であることが裏付けられる<
ダメだな。
万葉集は、一種の後代の大和政権下の勅撰和歌集であり、
歌の説明書きには、当然大和政権の公定的な解釈が含まれていて、半分×説明であり、
根拠にはならない。
それに対して、「歌」そのものには、おおきな改竄は起こり難いから、
ある程度根拠になるもの。 探偵eyeというドラマ?
主人公、なぜか「りん、りん」と言っていたり、
妹の子供の名前と同じ 『ボーボボ』
ググってみても、同じような画像が出て来たり >>912
これ↑書いたアホは自分のどこがどうおかしいのかぜんぜん理解してないんだろうなw
「正しいから正しい」を連呼するのが議論だと思ってるらしい これも同じ
『天王 きゅうり』
あの家の写真、
キュウリのような葉に葱の華・・・などが写っているでしょ >>913
未だに大和説の学者や右翼マスコミの奴のらは、
「南≠東」や、「倭國は正北抵新羅だから九州」や、
「倭国の東征毛人55国」や、弥生銀座の繁栄などを隠しているんだから、
本当に頭や人相が悪いだけではなく、脳の病人だよな。 >>914
漢字漢文だけではなく、日本語すら理解出来ないからな、
ここで暴れてる大和説の・・・・連中は。 >>916
やっぱり日本語の意味理解出来てないだろ。
ここは畿内説スレ、そりゃ無関係なスレで
暴れたら罵倒されるぞw
九州説はもう荒らししか出来ない哀れな連中だとは思うが。 >>922
これを書いたを大和説のアホは、
自分のどこがどうおかしいのかぜんぜん理解してないんだろうな。
「南≠東」も、「倭国は正北抵新羅だから九州」も、「倭国の東征毛人55国」も、
「弥生銀座が列島最大の繁栄」も、米田論考などに関しても、
「自分が正しいと思うから正しい」を連呼するのが議論だ、
と思ってるらしい。 偶然でも何でも良いんだけど、
野菜の国の出身だったのかな、
肉は食べなかったと言っていたり
あの写真の家の話 また埋め爺が出てきてるけど、またどこかのスレで論破されたのか?ww >>928
オウム返しは傍からみて馬鹿にみえるだけだぞ >>927
やっぱり大和説者は、日本語の意味理解出来てないだろ。
ここは掲示板、そりゃウソを付かない正しい投稿の自由が保障されているから、
投稿をし続けられて来た。
だから、大和説者は、嘘つき騙しで暴れたら罵倒されるぞ。
大和説はもう荒らししか出来ない哀れな連中だとは思うが。 なぜか数年前の信オンというスレ
「市さん、リンちゃん」という謎の書き込みをしている人がいたり バトシーラーに登場する、
つちわらし・・・ひどらの市なのかな
またはヒドラの仲間なのかな?
『バトシーラー つちわらし』ググると
『最初の人間』という作品の画像が出てきたり
妹は5月15日生まれなんだけどw
mike oの某曲、イルカ・・・人魚のような生物に鳳凰・・・。 ペガサス、マーメイド・・・蛇・・・など
ほとんど同じコンセプトじゃない? 畿内説を論破されたキナイコシの呟きが狂気じみているな。。。 キナイコシは、お昼までスレッドの作成を我慢するのではないのかな。。。 >>907
それにしては、自分の妻の為に作った墓がやけに大きいな。。。 ジャンヌザルク、
申年という意味なのかな?申年、5月15日生まれ
兄、弟(この書き込みをしている人) >>931
直ぐにオウム返しをされるようなアホ話しか書けない大和説者は、
おそらくは、傍からみても、馬鹿にみえているだけだぞ。 信おん、ツーちゃんではなくて他の掲示板があるんだけど、
救世の何やらというスレが建てられていたことがあったり
深窓の何やらとか『ボーボボ 田ぼ』?『トヨトミミ』? もれ(仮)の作成したキャラの事だと思うんだけど
「弟だよ」と言ってる人がいたり かなり前のことになるんだけど、
その掲示板(信オン)の話
少し読んでいて、
もれ(仮)の作成したキャラの話が出て来たんだけど
弟だよと言ってる人がいた、
なぜ知っているんだろう 深窓の何やら、救世・・・というスレッドタイトルとか
もれ(仮)が、プレイしていたサーバーの話なんだけど
なぜだと思う? 某ニンジャアニメ?
サイ=サトシ
弟だということを言ってる人がいたり 311なんかも、人工地震だと言ってる人がいなかった? 市だか何だか知らないけど、
家の話だと言ってるだけ あの白い服の写真の裏に書いてあった名前、
『松傾』のような名前だったでしょ 松の木の立てられている写真とか、
『松傾』に書いてある話でしょ 日本昔話・・・ほとんど同じような話でしょ
むかーし福島県のほうに住んでいたというのも事実、
山の上のほう 何やらの本物だったとか?
どのスレだったかな、
これはツーチャンネルの話になるんだけど
誰々って川崎に住んでいるんじゃないの
と言ってる人がいたり 偶然なのかもしれないけど、
あの写真の子供も『バトシーラー』のような服を着ていたり、
白い服
キュウリのような葉、葱の華・・・『ボーボボ』? 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1526354489
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>941
おまえのそれがオウム返しだっつの。わかんねぇやつだな >>928
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が渡来定着したとウソブているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えこの悪質極まりないサギブキジジイが! 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
大和朝廷の主体は尾張と出雲。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 スレ立ての邪魔してる奴なんて既知害以外のなにものでもない >>961
大和説は、史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをして、荒らす以外、
なにも出来ないんだな。 >>962
>畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。<
畿内なんて存在していなかったから、×。
また、大和では、九州倭国の東征の侵入の後の欠史八代が、
盆地内の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を駆逐征服した頃。
>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。<
九州倭國の東征軍らは、地方の市を監督する「大倭」職になったから。
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。<
記紀は、半分×書であり、大和朝廷などなかった。
>大和朝廷の主体は尾張と出雲<
出雲は梁代まで残存。
尾張にも倭國の「東征毛人55国」の範囲が広がったから。 >>963
大和説は、
「南≠東」にも、「倭国は正北抵新羅だから九州」にも、
「倭国の東征毛人55国」にも、
「弥生銀座が列島最大の繁栄」にも、
米田論考などに関しても、
反論ができないで逃げて隠して、
口先でのヘイトスピーチをするばかり。 >>964
スレ立てした奴なんて、
「南≠東」にも、「倭国は正北抵新羅だから九州」にも、
「倭国の東征毛人55国」にも、
「弥生銀座が列島最大の繁栄」にも、
米田論考などに関しても、
反論ができないで逃げて隠して、
口先でのヘイトスピーチをするばかりの、
既知害以外のなにものでもない。 古田史学の会とかなんとかいう
学問ごっこ老人クラブだろ 荒らせば荒らすほど九州説の愚かさが明らかになるだけだと言うのに 畿内説なんていやらしいネーミング誰が言い出したのかな?
邪馬台国ヤマト説でいいだろ。
摂津河内和泉山背は、邪馬台国でもヤマト国でもない。
死なば諸共みたいに他の関係ないエリアを巻き込むな。 >>974
昔から畿内説なのに
なにを妄想してんだか そりゃ九州説はアマチュアじいさんの研究ごっこだからな 年代測定のニュースが方々で流れて、一般人の間でも纒向遺跡が当時の王都だってのが
定着してきたから、これまで以上にカルト化するんだろうな、九州説は 土器測ったんじゃダメだ〜の、桃のタネを測れ〜の言ってた人が頓首だわな 何をどう年代測定してどんな年代が出ようとも卑弥呼の時代としか言わない歴博さん >>985
歴博がいつ、どう年代測定して
卑弥呼の時代以外の年代が出たんだ? >>985はいつもの嫌がらせ屋だ
わざとデマ立ててんだよ 九州説の半分はデマで出来ている (情報出所非公開w)
残りは妄想である (根拠未公開w) 大型建物の年代は、センターが土器形式など考古学の手法で3世紀前半とみてきた一方で、九州説を唱える専門家を中心に4世紀以降とみて、邪馬台国とは無関係との見方もあった。(朝日)
九州説を唱える専門家って、いたんだ???
だれ? >>969
「南≠東」にも、
「倭国は正北抵新羅だから九州」にも、
「倭国の東征毛人55国」にも、
「弥生銀座が列島最大の繁栄」にも、
米田論考などに関しても、
反論ができないで逃げて隠している大和説者は、
口先でのヘイトスピーチをするばかりの、
宗教に狂った既知害以外のなにものでもない。 >>970
大和説学会とかは、
国粋皇国史観の戦前の侵略戦争賛美、とかいう、
戦争ごっこの宗教クラブだろう。 >>993
それはzarakokuの脳内にだけ存在する >>975
「南≠東」にも、
「倭国は正北抵新羅だから九州」にも、
「倭国の東征毛人55国」にも、
「弥生銀座が列島最大の繁栄」にも、
米田論考などに関しても、
反論ができないで逃げて隠して、
理由を言えないのが、トンデモ大和説。 >>993
なんで畿内説という名前まで認めたがらないんだろう >>976
昔から九州説に対抗したのは、大和説であったのに、
畿内説だ、なんて、
大和説者はなにを妄想してんだかは。 >>977
大和説学者は、自然や歴史に関する学問や科学をというものを、知らなすぎだな。 このスレッドは1000を超えました。
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