伊都国東遷スレ 4
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の繁栄であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 八咫鏡説は矛盾が露呈
レイラインは疑問符がつき
伊都国王=倭国女王説は魏略に否定された
伊都説死亡済み 東遷なんて考える必要はない。
伊都がそのまま卑弥呼の代でも倭国の王都。 >>5
>伊都がそのまま卑弥呼の代でも倭国の王都。
で、その王都はいつまで維持されるんだ?
4世紀まで?
5世紀の倭の五王のときは?
白村江の敗戦まで引っ張るかい? アマゾンの電子書籍「継続としての日本古代史」を出しましたので、
岡上説として纏まったものは、そちらを参照いただけると幸甚です。
ちょっとした広告用ポスターを自作しましたので、ご笑覧ください。
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A1版は結構大きいので、ご注意ください。
私は、A0に引き伸ばして印刷しました。なかなかの迫力です。
リング切れの際は、ブログ( http://aroomofwisdom.blogspot.jp/ )の方からでも落とせます。 魏略との一致状況の点数表です。 平原王墓に減点要素ゼロですね。
【平原一号墓】
被葬者が女性 : ◎(2点)
王墓である : ◎(2点)
鏡が出土 : ☆(3点) *日本最大、最多
年代.... : ○(1点)
漢との交流 : ◎(2点)
万二千里におさまるか? : ◎(2点)
-----------------------------------------------------------
合計 12点
【箸墓】
被葬者が女 : ○(1点) *モモソヒメ伝承から
王墓である : ☆(3点) *古墳時代への画期を成す
鏡が出土 : ?
年代.... : X (0点)
漢との交流 : ?
万二千里におさまるか? : X X(-1点)
-----------------------------------------------------------
合計 3点 + α 魏略は、逸文しかなくて情報量が少ないから、隙間だらけで
それだけ妄想、捏造を入れ込む余地が大きいってことですか?
魏略からの考察をもとにする、っていうのは? 伊都国東遷に新和的な考古学者の見解抜粋です。その1
北條芳隆
「ヤマト土着の弥生文化の勢力が独自に邪馬台国の主体をになったというのはありえない。
纏向の建物の配列の仕方などは、ヤマト在地の弥生文化とは異質で九州北部の強い影響を受けていることは明らかです。
(中略) 言ってみれば、「邪馬台国東遷説」に近い考え方かもしれません」(歴史REAL抜粋)
寺澤薫
「平原一号墓の鏡はそれまでの弥生時代の王墓の副葬鏡とは大きく性格が違う。(中略)首長霊継承の秘儀には本来、
太陽の力によって首長霊を鼓舞する女性最高祭司と内行花文鏡が欠かせない存在だったという考えもある。
比類ない倭製の大鏡が内行花文鏡で、後の前期古墳にも引き続き特別扱いされていることは、その可能性を強く示している。」
(王権誕生 p249抜粋 連弧文鏡は、内行花文鏡と表記を改めました。) 伊都国東遷に親和的な考古学者の見解抜粋です。その2
寺沢知子
初めて国産オリジナルブランドの超大型内行花文鏡を制作した糸島平野の勢力の意図は、
初期ヤマト王権成立期に吉備や出雲主要な要素に加えて受け継がれた。
特にその初期には、王権の伝統生徒独自性を主張しうる祭祀具として、中国製ではない国産の超大型内行花文鏡が王権中枢部で作り出され、政治性が付加されて分有された。
福永伸哉
やや単純化して言えば、弥生後期段階に内行花文鏡を重視した集団のネットワークの中から、古墳成立期の中央政権主流派を形成する動きが展開して言った。
高橋徹
現時点において平原遺跡にその最古例を知り得る特大、大型倣製内行花文鏡は、
大和の古式の前期古墳に形式的連続性を保って連綿として用いられている。 >>7
>最終的には太宰府に遷都したんだろう。
それはいつ頃? 伊都国東遷に親和的な考古学者の見解抜粋です。その3
今尾文昭
「前期古墳に出土の大型長宜子孫銘内行花文鏡の日本列島内への伝来と、
大型倣製内行花文鏡の製作開始時期に大きな隔たりをみる必要はないと考える。
具体的には、大型倣製内行花文鏡の製作開始時期は古墳時代前期前葉の桜井茶臼山古墳の出現以前に設定できるのではないだろうか。
平原墓出土鏡と古墳出土鏡に間隙を設ける必要はなくなる。」
(清水康二)
「柳本大塚、下池山古墳出土の大型内行花文鏡が含まれる大型鏡は、
王権の強い規制の元で製作され王権の意思によって被葬者の手元に届いたものと考えらえる。
その場合、当然のことながら面径30cmを超える極端な大型鏡は、中型鏡、小型鏡と比べて付加された権威はさらに大きかったものと思われる。」
辻田淳一郎
「奈良盆地の東南部に内行花文鏡系の超大型倭製鏡が集中する事実は重要である。
これは具体的には、舶載三角縁神獣鏡の配布主体と想定される。
奈良盆地東南部に墓域を営んだ初期ヤマト政権を構成した上位層が、
各地で共有される舶載三角縁神獣鏡や中国鏡とは異なる自らのアイデンティティの表現形態として
内行花文鏡系の超大型鏡を採用したものと考えることができる。」 三角の鉄鏡が鹿児島に伝世されてたから
畿内で大々的に配布されたかもしれんが元は九州からもたらされたものだよ >>11
基本的に魏志との差分に注目しています。
どういう論立てになっているか、ともかく読んでみてくださいね。
>>18
別に否定されてないと思いますが。
伊都国から遠からぬ所に女王がいた、ように読めますね。 >>23
>基本的に魏志との差分に注目しています。
対応箇所を見て差分と言っているならまだ分かるが、
魏略に「書いてない」ことを以って「差分」と呼ぶのは正当ではない
魏略は逸文しかないことを軽視している >金印を貰っているぐらいですから、弥生時代のも倭王はいましたよ。
その何百年も前の王の墳丘墓より小さいのはどうして?
吉野ヶ里の北墳丘墓は王墓ではなく、王家の家族墓とされているけれど、
それでも墳丘面積で平原1号墓の8倍くらいある
平原1号墓を王墓と考えるべき理由より、
王墓ではないとした方が合理的とする理由の方が
説得力がある
>終末期とはいえ、弥生時代の遺跡にそれを求めるのは、現代的感覚では?
要するにうまく説明できないことは、大目に見ないとなり立たない説ってことだねww >>24
魏志にはあるが、魏略にないところがある。
そこが「抜け落ちた」のか「元々なかった」のか、判断する基準を持たない以上、どちらも同様の「確からしさ」と捉えるしかないとおもいますが。
それを差分と呼ぶことすら不当とか、なんの理由もないイチャモンですね。
>>25
王墓だから大きいはずだ、というのが出所不明の知識ですね。 魏志の旅程記事が「まとも」ではないことは、明らかですかね。
まともなら、そもそもが邪馬台国論争なんてありません。
現に伊都国の比定地についての「伊都国論争」はありませんし、
そこまではまともな記事なんですよ。
いきなり日程で説明が始まるのは、如何にも不自然です。
それは出所が異なる資料であり、それがまともな旅程記事に纂入されて、
全体がまともでなくなったと考えるのは、十分合理的です。 >>23
伊都国王=倭国女王説が魏略に否定されてることへの
反論ゼロ
言い張るだけ? >>29
>いきなり日程で説明が始まるのは、如何にも不自然です。
なんで? >30, 31
短い文ですので、まずは読んで下さい。
あなたにとっては長文かもですが。 >>33
反論不能ではなくて、(あほらしいので)反論不要と判断しただけですよ。
「里程表示から日数表示に変わるから不自然だ」という主張に
なんで? と言われてもね。
「里程表示から日数表示に変わるから」というのが私の答えですから。 >>34
つまり理由が無いんだろ
それを反論不能と言われたんだが
人の言葉は理解できないか? >>32
岡上は誹謗以外の方法では、ほとんど他人とコミュニケーションが取れないみたい >>29岡上
>魏志の旅程記事が「まとも」ではないことは、明らかですかね。
「まとも」ですが?
>まともなら、そもそもが邪馬台国論争なんてありません。
トンデモ説の九州説と畿内説だから、邪馬台国論争をしているだけ。 @阿波 >>35
「里程表示から日数表示に変わるのが自然である」と言いたいのですか?
もしそうならその理由が知りたいのですね。 岡上が「まとも」ではないことは、明らかですかね。他人になんにも説明できないんだもの。 >>30
>伊都国王=倭国女王説が魏略に否定されてることへの
嘘つき! >>38岡上
>もしそうならその理由が知りたいのですね。
不弥国(千戸)(築上町辺り)までが、四国の外。
不弥国(千戸)(築上町辺り)以降が女王のおひざ元四国だからでしょうね。 @阿波 >>29
>現に伊都国の比定地についての「伊都国論争」はありませんし、
>そこまではまともな記事なんですよ。
そんなことはないw
末慮国ー伊都国間が「東南陸行五百里」というのは、方角も距離も現実に合わない
伊都国ー奴国間の「東南 百里」もそう
そしてこう書くと、九州説の人は躍起になって、魏志倭人伝は間違っていないって言い始めて、
末慮国を呼子にしたり、奴国を糸島平野まで引っ張ってきたりする
この時点でまともじゃないんだよ >>46
畿内説にかかると伊都国までどこかわからなくなる。
アホの見本 >>26
>王墓だから大きいはずだ、というのが出所不明の知識ですね。
権力誇示の装置である大墳丘墓を作る社会で、
王より家臣が大きい墳墓を作るのは許されない
それを許す王朝があるというなら、
洋の東西を問わず一つでも二つでも挙げてみてくれ >>47
>畿内説にかかると伊都国までどこかわからなくなる。
分からなくしているのは九州説の方だぞw
こんな簡単な話も理解できないのかな? >>50
覇権と権力誇示は関係ないな
宗教国家も巨大モニュメントを好む 近づかないと見えないものの大きさが権威なのは
村レベルの権威 >>47
三雲遺跡と言われて、なんでわからなくなるの?
馬鹿なの? 死ぬの?
死んでるの? >>54
土で盛ったモニュメントなんて、田舎そのものだろ。 これだから伊都厨は歴史が解ってないって言われるわんだよね
せっかくハクつけに考古学者の名前ならべたてて権威に頼っても甲斐がない >>52
じゃあ権力誇示とか書くなよ。
祭礼祭儀の宗教国家と言え。ダブスタもいいところ 畿内説は都合のいい時だけ権威を持ち出す。
まあ、ただ利用しているだけなんだけどね。
そのうち籠池みたいにしっぺ返しを食らうぞ。 >>63
そんなことした証拠は?
九州説ったら、また中傷? >>63は証拠が出せないと
中傷やらかしたことになるね >>68
>証拠が出せないと
>中傷やらかしたことになるね
典型的な九州説の人の論理構成ww
自分で勝手な条件を出しておいて、
それを満たすものだけが真であるという論法ww >>63
あっとるね。
畿内説は内行花文鏡には、ダンマリ
w 九州説は証拠を出すのが嫌いだ
理由を説明するのも嫌いだ
そうなんだろう? 九州説は中傷するのが好きだ
嫌味を言うのが好きだ
他人を見下すのが好きだ
でも理由を言うのは嫌いだ
そうだろう? 典型的な畿内説の人の論理構成ww
自分で勝手な条件を出しておいて、
それを満たすものだけが真であるという論法ww
ブーメランなんだよ。 >>76
確かに、最近の流れでは同意せざるを得ないなぁ >>76
勝手に自分勝手な条件を設定して否定に走るのも
追加で。 >>76
>自分で勝手な条件を出しておいて、
ここの「勝手な条件」ってところが、九州説側の「勝手な判断」なんだよ
畿内説側は、可能な限り論拠や典拠を示して、それをもとに論証している
それに対して、九州説側は「(どこにも書いてないし、根拠はないけど)
こう考えたらうまくいく」っていうのを、さも「正しいこと」のように
言い張るんだよ
いろんなところで書いているんだが、魏志倭人伝も含めて、史書というのは
読んだ人が読んで分かるように書いてある
「暗号書」でも「判じ物」でもない
「こう『解読』すればこうなる」とか言ってる時点で、撰者の想定して
いない読み方だってことだ
『解読』は必要ない
方四百里の島は、二辺分を旅程距離に入れるなんていう「島巡り仮説」は
普通に読んだら思いつかないし、その時点で撰者の意図に沿っていない
そして、こういう「解読」による無理読みをしないと、九州説が是とはならない 伊都国と邪馬台国が別に書いてあって、邪馬台国のところに「女王之所都」と書いてあるのに
「伊都国が邪馬台国で都だ」っていうのは、普通の読み方じゃないよww >>79
ちゃんと対話しろってことだよ
正直いってコミュ症ですあなた。 >>79
>畿内説側は、可能な限り論拠や典拠を示して、それをもとに論証している
違うね。
持論を通して魏志倭人伝を曲解するために、あれこれ屁理屈をつける。
そして最後はあの史書もこの史書も信用できない。
自分の妄想と屁理屈だけが正しいとしている。 >>81
そう思う。
畿内説は自説を押し通そうとするばかり。 >>81
じゃ、あなたはなんで>>79とちゃんと対話しようとしないの?
あなたコミュ障? 言葉は同じものを表現していないといけないが
全く独自の定義で持論を展開していたりする。
王権とか王墓とか根本的な概念の基本用語でそうだから全く話が噛み合わない。
実例を示せという前に、共通の概念を表現して会話してないのだから噛み合いようがない。 >>85
>>>82
>そんなことしてる
>という証拠は
ほら。
その話し方がおかしいんだよ。
証拠云々する場面じゃないでしょう? >>84
あなたの認知能力と
対話技能の問題だから私にはどうすることもできないよ。それくらいあなたの障害の程度は重症。 >>87
証拠云々する場面じゃない
という理由は? >>88
相手側の認知能力と 対話技能の問題だ
という証拠は?
なんで証拠も出さずに決めつけるの? >>89
それを理解できないからコミュ障と言われるんだよ。
理由を説明している場面でもそれを聞くんだもの。
相手の言うことを理解していない。
理解しようともしていないかもしれない。
それをコミュ障と言うんだよ。 おおむね、安っぽいディベートのテクニックの表層だけ学んで、相手を納得させたりするのではなくただ口封じしてやり込めることだけ覚えたのだろう。
でも、誰もそれでは納得しないから、畿内説への不信感が募るだけ。 なんで九州説のひとは証拠を出すことを嫌がるの?
なぜ説明することを拒否するの?
なぜ、ちゃんと対話したがらないの?
どうして理由を言わないの?
相手を侮辱する以外のコミュニケーションの方法をとらないの?
なぜ? >>93
そんな決めつをする根拠は?
どこに証拠があるの? >>92
>それを理解できないからコミュ障と言われるんだよ。
いや、結論だけ言われても
説明が何もないと
他人はアンタの言うことを
理解できないぞ、普通・・ >>93
相手をコミュ障とかレッテル貼って連呼するなんざ
ただ口封じしてやり込めようとする
反社会的な反則テクそのものではないの?
いや、いま現に九州説さんがやってることだがね お前がコミュ障なのは読めば分かる
分からないのはお前がコミュ障だから 九州説側は、コミュ症話に逃げてるww
>ちゃんと対話しろってことだよ
と言っている>>81は
こっちが出している以下の件について、対話しようとしないよね?
反論なり何なり、してごらん?
再掲
いろんなところで書いているんだが、魏志倭人伝も含めて、史書というのは
読んだ人が読んで分かるように書いてある
「暗号書」でも「判じ物」でもない
「こう『解読』すればこうなる」とか言ってる時点で、撰者の想定して
いない読み方だってことだ
『解読』は必要ない
方四百里の島は、二辺分を旅程距離に入れるなんていう「島巡り仮説」は
普通に読んだら思いつかないし、その時点で撰者の意図に沿っていない
そして、こういう「解読」による無理読みをしないと、九州説が是とはならない そして、論じるときには、ちゃんと「普通の人に通じる論拠」を示してね! >>100
>分からないのはお前がコミュ障だから
こういうのがレッテル針の典型w
それと、見てると分かるけれど、
九州説側の方が相手の言葉の引用も少なく
一行二行の言い切り書き捨てが多い >>94
>なんで九州説のひとは証拠を出すことを嫌がるの?
それはね、多くの人が認めてくれるような証拠が事実上ないからだよ >>94
>なぜ説明することを拒否するの?
それはね、説明すればするだけボロが出やすいからだよ >>94
>なぜ、ちゃんと対話したがらないの?
それはね、対話をすればするだけ、能力差が浮き彫りになるからだよ >>94
>どうして理由を言わないの?
それはね、多くの場合そもそも理由がないからだろ
単なる思い付きだけで 普通に読んだら思いつかないし、その時点で撰者の意図に沿っていない
根拠なし >>94
>相手を侮辱する以外のコミュニケーションの方法をとらないの?
それはね、そういうのをかっこいいと思う文化の中で生きてきたからだよ
あまり日本人にはいない生き方だけどね >>108
>>普通に読んだら思いつかないし、その時点で撰者の意図に沿っていない
>根拠なし
でもね、古田史学の人たちが、そういう「解読」をするまで、
「誰一人として、そういう読み方に気づかなかった」し
「思いつきもしなかった」んだよ?
すごいよね!
それまで1500年以上、誰も思いもしなかった読み方に気づくんだから!
本当に常人とは違うわ! 撰者の意図に沿っていない
特にここ根拠なし
で、撰者の意図がわかってる畿内説さんは、
どうやって読んだのかな? >>111
>撰者の意図に沿っていない
逆なんだなぁ
撰者が、島巡りで方三百里の二辺を旅程距離に参入して読んで欲しいと
いう意図があったという論証が必要なんだよ
でも、無理だろ?
そんな意図は読み取れない >>111
>で、撰者の意図がわかってる畿内説さんは、
>どうやって読んだのかな?
ふっつーに、北部九州沿岸から、水行(つまり沿岸航海)で20日で
投馬国(出雲)について、そこからさらに水行10日で丹波あたりに上陸して
そこから陸行一月で北から平城山越えで奈良盆地に入るけど?
これが一番自然な読み方だろ? >>112
>さっきの勢いはどうしたの?
>コミュ障さん?
こういうのが、対話の邪魔
対話する着ないでしょ?ww 水行部分は、里程が測れないって九州説も言ってたと思うが? そもそも、女王国まで萬二千里は、始めに数字ありきだから、
それで比定地を求めようってのが方法論としておかしい <萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない 山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている 九州説のだめなところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
原文を確認してもらえば分かるだろう
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ >>121
>里程も方角もめちゃくちゃ
對馬國 一大國 末盧國 伊都國 奴國
対馬、 壱岐、 松浦、 糸島、 那珂
までの比定地は、ほぼ紛れがないが、ここまでの旅程も、方角も距離も合っていないんだよ 九州説(伊都国が都説?)と私では、どちらが
よりきちんと根拠を挙げて論証しようとしているかは、
ここしばらくのやり取りを見るだけで明らかだろ?
コミュ症云々言ってる暇に、自説の論拠をもっと検討すればいい >>123
もうさ、考古学板にこもっててくれないかね。
史料批判の意味を履き違えてるアホは日本史板には板違いだから。 >>125
>史料批判の意味を履き違えてるアホは日本史板には板違いだから。
>>118から>>122に、考古学的な話は一言も入っていないんだが?
一言も言い返せないから、ここには来て欲しくないですって言いたいのかな? >>126
>障害の程度の自己紹介はいらないよ。
要するに、罵りあいなら勝ち目もあるかもしれないが、
漢文の原典を読み込んでの議論になるとついていけないから
勘弁してくださいってことかな?
対話する気がないのは>>126じゃんw >>127
もうさ
>>>118から>>122に、考古学的な話は一言も入っていないんだが?
この発言がまさにあなたの認知障害の典型なんだよ。 さんざんシャドーボクシングって言われてることも全く理解できてない。 九州説が、なぜか
レッテル貼りか人格攻撃でしか
返事しようとしてない件について >>122
いや、あなたが観念的な値だと思いたいだけ
それが決して正解ではないのだよ
陳寿は行程説明を里数で説明している
当然足し算はできるだろうから、1万2千里との整合性を無視したとは考えられない
自分的には、距離を考えながら記述するのは極めて"普通"と思うので、仮に観念的な値の意味であっても、ある程度の整合性はあって当然と考えるが >>131
どんな理由があって「シャドーボクシング」とかレッテルを貼るのかな?
根拠を聞かせてくれ >>122
邪馬台国=女王国でなければ、女王国まで1万2千里の終点はどこなんだい?
また、女王国とは?
畿内説で邪馬台国と女王国が別と考えるのは珍しいね
卑弥呼は伊都や奴国にいて、邪馬台国は畿内という説なら聞いた事があるが >>110
江戸時代の国学者は我々より漢文に親しんでいたが、普通に読んで邪馬台国は九州のことだと理解していたらしいよ。 >>137
>卑弥呼は伊都や奴国にいて、邪馬台国は畿内という説なら聞いた事があるが
そんなけったいな説があるか。
自分で信じていないなら紹介するな。
捏造ならなおさらたちが悪いぞ。 >>137
>卑弥呼は伊都や奴国にいて、邪馬台国は畿内という説なら聞いた事があるが
行宮に来ていたという説だな
神功皇后をイメージしたんだろう
かなり古い説だね >>136
必ずしも正解ではない、という意味だが?
正解ではない、と断定はしてないよ。
正解であるかないか?は陳寿しかわからないからね
この時代の文献解釈では"可能性が高い"はあっても、正解と断定することはできないよ
だから、観念的な値の可能性もあるでしょう
しかし、その場合でも行程の里数とそう剥離することはないと考える >>141
「それが決して正解ではないのだよ 」
という文を読んで
「必ずしも正解でない」
という意味に取れる日本人は
たぶんいない >>122
>九州説のだめなところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
>「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
女王国まで万二千里であること、は認めるわけだ。
なら、邪馬台国は「女王国」ではないな。 後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>143
そこに突っ込んでも多分意味がない
もともとが、倭人伝に書かれている距離を
中心地→中心地の距離であると認めない九州論者
にとってだけ致命的な指摘だからだ >>145
邪馬台国は女王が都する所とあるんだから、
邪馬台国と女王国を一致させない読みは間違いってことだ。
つまり、>>122 の解釈が間違い。 >>147
理由を説明したレスに理由を聞くなんて、お前は相手の言っていることを理解しないコミュ障だと言われたことはないか? >>148
どこに理由が説明されてるの?
説明されてるという証拠は? 日本語で「〜だから」という表現は、理由を説明するときに使うのですよ。 >>150
センシティブな罵倒だけ返ってきて
説明したという証拠が出ないってことは
説明したというのか嘘だということになる
わけだが
よろしいか? >>151
いま、なんの理由を聞いても
「岡上はオカマだから」
と答える人がいたとします
彼は理由を説明していますか? >>155
理由を説明しないで逃げたあんたが
誤魔化しているんだが 「あんた」が誰を指しているのか知らないが、理由はちゃんと説明されていると思うけど? >>156
どこに書いてある、どんな日本語か
具体的に示してくれませんかね
でないと、事実関係を
明らかに出来ないので
誤魔化して逃げるつもりでなければ
ひとつお願いしますよ >>158
知らないって、アンカを見れば明らかだろう
とぼける意味があるか? 九州説って、なんか
聞かれたことに答えてはならない
とかいう戒律でもあるのか? >>九州説のだめなところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
>>「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
>女王国まで万二千里であること、は認めるわけだ。
>なら、邪馬台国は「女王国」ではないな。
>邪馬台国は女王が都する所とあるんだから、
>邪馬台国と女王国を一致させない読みは間違いってことだ。
コミュ障畿内説のために纏めたぞwww >>163
だから
邪馬台国と女王国を一致させない読みは間違いって
理由は? >>163
あほなのか?
女王がいる国が邪馬台国なんだから、邪馬台国は女王国の一部だろう。
邪馬台国に女王がいるのに、邪馬台国が女王国でないというのは矛盾だな。 魏志倭人伝中の、「女王」表記は13ヶ所 うち5ヶ所が「女王国」
順に見ていくと
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
これを見ると、女王と書いて、女王国を意味するところがあるし、女王国と書いて邪馬台国を意味する場合と女王に属する範囲(女王国連合)を意味するところがあるね
2と8、11,12,13の女王は、「卑弥呼という人物」を指す
1と4と5と、おそらく9と10は「女王国連合」(4、5、10は女王で女王国の意味)
3と7は「邪馬台国(女王の都する所)」
6も9と10と同じ扱いで「女王国連合」でいい
要するに女王卑弥呼が倭王なのだから、女王国=倭国だよ
卑弥呼は邪馬台国王ではない >>165
邪馬台国が女王国の一部であることに
邪馬台国と女王国が一致する必要はないが? >>166
それだと「女王国以北」という文が宙に浮かないか? >>168
苦しい詭弁だな
「女王国」を領域として捉えるなら、対馬の時点でその領域についている。
万二千里で到着するという女王国とは、対馬を超えている時点で、その都する地点と考えるしかない。 >>134
>陳寿は行程説明を里数で説明している
>当然足し算はできるだろうから、1万2千里との整合性を無視したとは考えられない
それが、逆なんだよ
萬二千里が「最初にありき」で、それに合わせて数字を作っているんだよ
渡海千里ってのもアプリオリに決まってるし、万里の彼方からの朝貢というために
九州に着くまでが万里になるように、朝鮮半島沿岸を七千里に設定している
最後の周旋五千里は、萬二千里ー七千里で分かりやすいだろ?
こういう水増しで作った数字だから、場所ごとに伸び縮みしているのに
それを短里だとか言ってるのが本当におかしくってw >>170
>「女王国」を領域として捉えるなら、対馬の時点でその領域についている。
という理由は? 実測していない数字を根拠に、比定地を探してもどこにも行き当たらないよ
実測不可能なところは、「つじつま合わせの作った数字」なんだよ
そして、萬二千里は、邪馬台国までではなく「女王国」まで
そして、魏志倭人伝の旅程は、後漢代の古い記録と魏使の報告による新しい記録を
ごちゃ混ぜにまとめてある
そこにさらに、世界の端まで萬二千里という淮南子にも書かれている中華世界の世界観と
倭国は儋耳朱崖の近くの南の国という思い込みを混ぜ込んで魏志倭人伝は書かれている
おそらく後漢代の帥升等の朝貢時で既に万里の彼方からの朝貢とされて、
対馬海峡を渡るまでが一萬里になるように数字が作られていて、
そこに末慮国−伊都国間ではない東南陸行五百里が付けられて、
計算が合わなくなって水行と陸行が日数表示になったまであってもおかしくない
まあ、北部九州から千三百里で魏晋里で畿内まで届くので特に問題はないと言えばないけれど 後漢書によると狗邪韓国ですでに女王国の西北端に到着する。
あと、女王国以北は女王国を含む。 理由を言う習慣がないって、コミュ障とは言わないの? はい、結局、長文の魏志の否定、頂きました。
マジもう考古学板に行け
wwww >>172
>萬二千里が「最初にありき」で、それに合わせて数字を作っているんだよ
>渡海千里ってのもアプリオリに決まってるし、万里の彼方からの朝貢というために
都合が悪いことは根拠もなく嘘と決めつける。
それが畿内説の常套手段。 >>175
女王国以北に「特に」という表現があるってことは
以南や以東には無いってことであり
女王とか以北が女王国を含むというのは
自己矛盾しないか? >>177
文献批判の否定、頂きました。
マジもう学問板でてけ >>175
>後漢書によると狗邪韓国ですでに女王国の西北端に到着する。
それ、後漢書のどこにも書いてある? >>180
女王国(伊都国)より南には大率は出かけないのだね。
おそらく海軍が主力なんだろう。 後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>142
決して正解ではない、は全否定
決して正解とは限らない、が部分否定
脳認知に障害があるよね。全くね。 昨夜は日本語の不自由なコミュ障九州説さんが大暴れしてましたね
他人と会話できないって、実に困った特性です 江戸時代の人の方が漢文を読むのに慣れてたって書き込みがあったのってここだっけ >>188
その奇妙な主張をとると
マツラ国やナ国、フミ国など
大率の管轄外ってことになるんだが・・・
伊都説ってどこまでトンデモに走るの >>194
説明や挙証が異常に嫌いな人なら、常駐してるよ >>198
説明や挙証はどうでもいい、不必要だと言い出す段階の人ですね。
わかってます。 まずは仮説がデタラメだったらそもそも話にならないからな。 「ドラえもんが歴史に干渉したと仮定すれば全て説明ができる」式の、アレね
「矛盾なく説明がついたので仮定が立証された」で終わりたがる >>201
んで「デタラメと決定できなかったのでこの仮定(採用する」とか言い出す
「詐欺師として有罪にならなかったので投資顧問に採用する」みたいな話 >>196
奴国や不弥国は大率の管轄外だと思うよ。 畿内説だと、女王国(畿内)より北を管轄するんですが、どういう意味なんですかね? >>206
では、倭人伝に書かれてる方位は誤りだね? >>209
それでは女王国(畿内)の北にならない。
畿内説だと大率の意味に矛盾を生じる。 >>210
ならないって理由は?
矛盾って、何と何の矛盾? 同じレスの中のすぐ上の行に理由が書いてあるのに読めないんだね。 >>210は言葉が足らなすぎ
それでは他人と意思疎通できない >>212
なーんだ・・・
また例の、理由が言えない人か >>212
具体的な内容を書かない
誰に話しかけているのかも明確でない
あなたは異常に文書が下手だねえ
ひとに通じる文章が書けないでしょ >>218
ヘタクソすぎて他人に意味が通じない文書を書いて
質問されたことには答えない
相手を理由なくコミュ障よばわりして対話を打ち切る
こういうの、世間でコミュ障と呼ばれてない? >>219
コミュ障のお前以外には通じているよ
安心して 八咫バカは自分の思い付きが古今東西の碩学の研究よりも凄いと思い込んでいるパー障 あの文書で通じると思ってるのもスゴいが、あとでオレにはワカルとだけ言い出すひとが何人か投稿する希ガス >>209
>>>207
>のちの大宰府に似た意味だろう
この発言が説明不足なのが原因。 >>222 ,223
通じてるって証拠を出さないと通じてないことになるのか?
普段そんなに疲れる生活をしているなら、お前は立派なコミュ障だ >>225
>通じてるって証拠を出さないと通じてないことになるのか?
誰かそんな主張をしたのか?
心底ねつ造が好きなんだな
ww >>228
日本語を正しく使えないのと、論理的思考が出来ないのと、思い込みが強いのと
伊都厨は三重苦なんだろうな >>225
証拠が出せないと
暗に認めてるとこが
笑いのツボ 自分が理解されないのは相手が悪いって発想がどんどん鬱屈して行って、世間はバカばかりとか、果ては陰謀論とかまで流れてくんだろう
トンデモの堕ちてく所謂ひとつの典型だが 「**さん、明日までにレポート出してくれる?」
「はい、わかりました」
「わかったって証拠は?」
「え?証拠ですか?」
「証拠も出せないのか、これだから九州説はww」
「証拠って言われても、明日、レポート出しますから」
「証拠が出せないと暗に認めているところが笑いのツボだなwww」
「(だめだ、この人コミュ障だ)」 >>236のシチュが現実と180°逆になってて、ワラタ 伊都国東遷説(笑)の話題がまったく出ないねぇww
ああ、一大率のことがちょっとだけ出てたか >>220の「コミュ障」って言葉大好きな人は、二つ名はないの? >>241
だれと同一だかわかんないけど前からずっといる人ぽいね
>210日本@名無史さん2018/05/26(土) 07:39:54.53
>それでは女王国(畿内)の北にならない。
>畿内説だと大率の意味に矛盾を生じる。
と発言して「ならないって理由は? 」と聞かれたら
>212日本@名無史さん2018/05/26(土) 07:42:45.58
>同じレスの中のすぐ上の行に理由が書いてあるのに読めないんだね。
って答えてる
「ならない」って一行目に言ってるから
上の行は存在しないよね
こう言うウソが平気でつける人
・・・って全員そうか九州説 >>166
こういう考え、昔の自分を見ているようで正直嫌だなぁ。
魏志自体も確実に間違ってるし、分かんねーからどーでもいーや的な。
>実測していない数字を根拠に、比定地を探してもどこにも行き当たらないよ
一行目から壮大に嘘が書いてある。 >>123 で奴国までの比定地は、「ほぼ紛れがない」んでしょ。
距離も方角もテキトーであったとしても、それでも尚「ほぼ紛れがない」ような結論に辿りつけるわけです。
それなのに、魏志の旅程記事全体を無視するような言説にどうしてなるのですかね。
>魏志倭人伝の旅程は、後漢代の古い記録と魏使の報告による新しい記録を ごちゃ混ぜにまとめてある
ここまで推測できているのだから、急に日程表記に変わって、辻褄が合わなくなる投馬国と邪馬台国が、
纂入と考えれば、スッキリするんですよ。
>で魏晋里で畿内まで届くので特に問題はない
北部九州から千三百里で畿内だという主張は、魏志に里程があるところは間違いで、
逆に魏晋里で測ったはずところだけ、わざわざ陳寿は日程表記をしたことになりますよね。
少し考えたら、おかしい考えとわかると思いますが。 魏略に投馬国と邪馬台国が纂入される前の資料の反映があると見るだけで、
女王国まで万二千里であることも含めて、綺麗に説明がつくんですね。
逆に単純な畿内説では、「女王国まで万二千里」がどうしたって苦しい。
伊都国で一万五百里で全体の八割以上消化しちゃっているわけですから。 >>247
>距離も方角もテキトーであったとしても、それでも尚「ほぼ紛れがない」ような結論に辿りつけるわけです。
その結論は、距離も方角もあてにしないで、たどり着いたものだぞ?
地名の類似と、遺跡の発掘状況からの比定であって、魏志倭人伝の旅程記事からではない
だから、その先も魏志倭人伝の旅程記事はあてにならない、という話にしかならない >>247
>ここまで推測できているのだから、急に日程表記に変わって、辻褄が合わなくなる投馬国と邪馬台国が、
>纂入と考えれば、スッキリするんですよ。
「辻褄が合わなくなる」と無理に考える必要がないんだよ
そこで急に辻褄が合わなくなるのではなく、最初からつじつまは合っていない
纂入というより、漢代の記録に継ぎ足したものだろう
そこに、記録の多寡があるから、木に竹を接いだような記述になっているだけだ
この記録の追加は、魏略と三国志東夷伝の共通の参照史料作成時になされたものだろう
魏略の記事が旅程の途中までしかないというのは、そもそも魏略の該当部位が
翰苑の「統女王而列部」に対する中期として引用されている部分だから、
「其國王皆属王女也」という「女王に統属する」と書いてあるところまでであり、
旅程を引用することが目的ではないのだから「当たり前」 そんなに信用したくないなら、魏志の邪馬台国を探すのはやめたら?
www 他説を否定したところで自説が優位にはならんよ。
どれだけうまく説明できる仮説が提出できるかが
まず第一歩なので。 畿内説は魏志の読みを放棄しているから、自説と呼ぶべきものはないね インチキ読みしてもダメだろう
島巡り読みなんてして「女王国まで万二千里であることも含めて、綺麗に説明がつく」なんてボロ出まくりの辻褄合わせすることがアホらしい >>254
他説を否定しても自説が優位になるわけではない。 >>252
客観的評価基準がないまま
「俺様こそが一番うまく説明できる」
ってオナG大会になったから
九州説が衰退したんだって >>172
尚更九州から出ないじゃないですか?
陳寿には終点はわかって、それに合わせて里数を記述しているのでしょう?
やはり、"普通"に読めば1万2千里の記述から、畿内に女王国の中心地を比定するのは厳しいですね 仙台から北海道までの距離って書いてあるのを、
仙台から札幌までの距離に違いないって言ってもしょうがないだろうに わけわからんが、ヘンテコ解釈の迷路に入ったら恒例でボケるまで社会復帰できないってのはホントだろう
ホントっぽい >>258
だよねぇ。
万二千里では畿内はムリ。さっさと諦めろ
陳寿の念頭に畿内があったなら、
伊都国で一万里はないな。 >>172
正解だね
郡より九州上陸まで1万里なんだから、残り2千里で畿内までたどり着くわけがないよな 陳寿の念頭にあるのは、南国までつづく洲島の倭国だよ
現実の倭国とは違う
で、その長くつづく洲島だという想定を確信させたのが
海峡を渡ったところからさらに水行陸行合わせて二ヶ月かかるという報告
九州じゃそうは行かないだろ? >海峡を渡ったところからさらに水行陸行合わせて二ヶ月かかるという報告
根拠なし >>268
>根拠なし
つ「南至投馬國水行二十日」
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
都合の悪いことは、魏志倭人伝に書いてあることも「根拠なし」って言い出すからなぁ
九州説はこんなものw
お鏡さんでさえ、これは日本海航路だって言ってるよw >>269
倭人伝の
日程記述の起点は帯方郡とする説も多いから、
「海峡を渡ったところから2ヶ月」の根拠にならんよ
まずは帯方郡起点の説を論破してからだね >>270
>日程記述の起点は帯方郡とする説も多いから、
それを主張する側が「多いから」って言っても何の根拠にもならないんだが?wwwww
まず、大陸正史の地理・旅程記事で、途中から起点が出発点に戻る例があるかどうか、
論証してもらおうか?
基本的の旅程記事は、今いる場所が出発点になって、順次進んでいくのがスタンダードだぞ
それから、投馬国はどこに比定する気だ?
魏志倭人伝では投馬国は邪馬台国より北に位置づけられてるぞ?
水行の起点を帯方郡にする「無理読み」では、投馬国の位置がどうしても矛盾する >>270
論破って言っても
まだ成立もしてない珍説でしょ?
なんで突然に帯方郡起点とかいう考えが出てくるの?
唐突ってか、理由もないわけで まあいわゆるそのトンデモ「無理読み」って世間的評価しか得てない説をベースにして何したいの?
っていうか、アホじゃね? >日程記述の起点は帯方郡とする説も多いから、
を
#「日程記述の起点は帯方郡とする馬鹿も多いから、
に
替えれば大正解 >>272
>理由もないわけで
理由はあるんだよ
「そうすれば九州でOKになる」っていうご都合主義な理由がw
で根拠を訊かれると「そう考えればつじつまが合うから」www >>276
>矛盾だらけの畿内説をどうにかしてからにしたら?
そう言うことが書きたいなら、一つでも二つでも、具体的に何が矛盾なんだか指摘してごらんよ
>>276の脳内妄想は他人からは見えないんだからさ! >>276が>>270なら、投馬国の比定地はどこなの?
逃げてんじゃねーよw 通りすがりの横からだが投馬国の比定地は朝鮮半島南岸地域だよ
日程記述は()書きみたいなもので
里行の途中に追加で説明書きを入れ込んだだけ
なので日程記述の起点は帯方郡
帯方郡から朝鮮半島南岸の投馬国へ20日水行し、そこから10日水行して朝鮮海峡を渡り1日で邪馬台国
投馬国側に女王の都はなく邪馬台国側に女王の都があった。 >>280
>通りすがりの横からだが投馬国の比定地は朝鮮半島南岸地域だよ
それ、一番評判の悪いやつ
朝鮮半島南岸に、人口五万余戸は無謀
それに、その説だと、対馬海峡の渡海千里3つに十日かけることになるが、
海上の夜明かしが入ることになり、遭難するよ それに、狗邪韓國と投馬国の関係がおかしくなる
なぜ、狗邪韓國のところで投馬国が出てこないのか、理由がない >>281
韓には馬韓10萬戸と弁韓、辰韓5萬戸しかないから朝鮮半島南岸に、人口五万余戸は余裕で収まりますよ
>>282
狗邪韓國が出てるるのは里程による行程記事です
投馬国は日程による行程記事ですから
對馬國から不彌國の記事に一々邪馬台国が出てこないのと同じ。 >>283
んじゃ狗邪韓國は半島のなに市あたりで、投馬国はなに市あたりなんだ?
w >>284
狗邪韓國は巨済市付近だろうな
投馬国は羅南道や慶尚南道 >>287
学問をただバカにしてトンデモ説が通ると思ったら大間違い >>283
>韓には馬韓10萬戸と弁韓、辰韓5萬戸しかないから朝鮮半島南岸に、人口五万余戸は余裕で収まりますよ
昔も今も、日本よりも半島のほうが寒くて、作物の収量が低くて人口保持力も小さいんだよ
日本と同じ感覚で、これくらい居るのは余裕っていうのは通らない
>對馬國から不彌國の記事に一々邪馬台国が出てこないのと同じ。
これも同じくおかしいんだから、おかしいことを、おかしいことの正当化に使っても無意味だよ >>289
北部九州地域だけで7萬戸ですから
寒くて、作物の収量が低くて人口保持力も小さくても韓に20萬戸は妥当ですよ。 >>289
君の頭がおかしいだけで
何もおかしいことは無い。 >>280
>日程記述は()書きみたいなもので
>里行の途中に追加で説明書きを入れ込んだだけ
>なので日程記述の起点は帯方郡
ここはそのまま同意する。
だが、二つある日程記事をつなげてしまっているではないか。
日程記事もそれぞれ帯方郡が起点で、投馬国は筑紫に上陸せず、九州を南下して宮崎県妻(都万)だよ。
東岸を南下するのは、西岸を南下すると狗奴国があるから。 >>292
里程記述、日程記述はそれぞれ繋げて読むべきだよ
途中で切って帯方郡が起点に戻るのは変だよ。 >>290
>北部九州地域だけで7萬戸ですから
この時点で、魏志倭人伝に書いてあることと齟齬があるだろ?
北部九州で、人口が書いてある国は
末慮国 四千余戸
伊都国 千余戸
奴国 二万余戸
不彌国 千余戸 で、二万六千戸にしかならない
まだ、奴国の倍以上の戸数が足りない状態だ
>寒くて、作物の収量が低くて人口保持力も小さくても韓に20萬戸は妥当ですよ。
前提が正しくないのに、正しくない前提をもとにした推定は意味がないよ >>292
>投馬国は筑紫に上陸せず、九州を南下して宮崎県妻(都万)だよ。
それだと、「自女王國以北、其戸數道里可得略載」と合わないんだよ
投馬国も、その戸数(可五萬餘戸)道里(水行二十日)が略載されており、
記述の位置からも「女王国以北」とされているのに、北部九州説で妻(都万)だと
「どうやっても南」になる
ここで、方角の間違いを認めるなら、畿内説の南を東と読み替えるのを
批判する理由がなくなるし、魏志倭人伝の方角記述は正しいとするなら、
投馬国を妻(都万)に比定することはできないから、
帯方郡起点で九州の東岸を水行という読み方もできないことになる
水行の起点を帯方郡にする読み方は、結局どうやっても矛盾するんだよ >>295
>それだと、「自女王國以北、其戸數道里可得略載」と合わないんだよ
投馬国へは距離がわからず日数だけ、戸数も内訳ではなくおそらく(邪馬台国と同様に)地域全体の合計だけ。
だから魏志倭人伝と合っている。
南は南。
畿内説のような読み替えは必要ない。 >>294
末慮国 四千余戸
伊都国 千余戸
奴国 二万余戸
不彌国 千余戸
對馬國 千余戸
一大國 三千余家
合計 三万余戸
其餘旁國が20か国
奴国を除く5か国の平均が10000戸/5=2000戸
其餘旁國が20か国予想
2000戸×20=40000戸
総合計
30000戸+40000戸=70000戸 >>298
>戸数も内訳ではなくおそらく(邪馬台国と同様に)地域全体の合計だけ。
それ、あなたの想像だけだよね? 結局、単一の国邑としては福岡にあった奴国が最大であるという、極めて真っ当なことが記載されていたことになるね。
奴国が邪馬台国で最大の国邑であるから、王都もその地域を含むのが当然。
いろいろな読み替えをしないといけない畿内説よりも、圧倒的に真実に近い。 >>301
投馬国や邪馬台国に、なぜ内訳が必要なんだ?
ほかの国にも内訳の記載など無いぞ
言ってることがワケわからん >>303
邪馬台国の中に奴国があるとか
読み替えのさいたるものでは?
w >>298
>戸数も内訳ではなくおそらく(邪馬台国と同様に)地域全体の合計だけ。
九州説で、邪馬台国は複数の国を集めたものとか言ってる人がいるけれど、
同じ東夷伝の韓条で「大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶」と書いてある
萬を越えても、「一つの大国」だよ
いくつも国を寄せ集めたものが邪馬台国とはどこにも書いてないし、
そのように考えるべき理由も「九州に邪馬台国をもってくるため」以外には無い >>307
>奴国は二万戸とちゃんと言っているよ。
そこへ邪馬台国7万余戸を重ねたら、奴国分の二万戸はダブルカウントになるよな?
奴国を含むあるいは含まないときちんと書かない限りは、倭国の人口がはっきりしなくなる
でも、そんな書き方はされていない
つまり、重ねて読む必要はないということだ
というか、普通の人は、別の国として書いてあるものを重ねて読んだりしない 投馬国や邪馬台国は国邑じゃなくて
韓での馬韓や辰韓、弁韓みたいなもの
規模も5萬戸、7萬戸と10萬戸、5萬戸で同じくらい
国邑は奴国の2萬戸が最大
重ねて読んでるのではない。 >>308
>そこへ邪馬台国7万余戸を重ねたら、奴国分の二万戸はダブルカウントになるよな?
畿内説はしばしば勝手にダブルカウントして、人口が大きすぎるとか叫んでいるよねw >>310
>投馬国や邪馬台国は国邑じゃなくて
>韓での馬韓や辰韓、弁韓みたいなもの
馬韓、弁韓、辰韓と、投馬国、邪馬台国は同じ東夷伝の中での扱いが
同じになってないよな?
馬韓、弁韓、辰韓はその下(中)に、国名が並べられているが、
投馬国、邪馬台国は、倭の下(中)に並べられた国名として記述されている
いい加減に意味のない「為にする御託」を並べるのは止めたらいいんじゃないかな? >>312
だからさ、直線的に読んだらいろいろ矛盾点があるだろ?
まずは南の海にドボンだね
また、南が東の間違いだとしても、
邪馬台国に卑弥呼がいる→邪馬台国が到着地の可能性が高いが、不弥国以降の行程の国々はどこにいった?
陸行1ヶ月もしてるのに、何故記述が無いのかな?
つまり、不弥国以降は位置説明になってないんだよ
陳寿は倭人伝の中で、倭国の都の位置を説明してない事になる。
そんな事はあるのだろうか?
かなり大事な事だと思うが
邪馬台国は連合国名としたら、その疑問が無くなる
里数と日程を二重に記述したのだろうね
個人的には直線的に読むより、その解釈の方が妥当と思う >邪馬台国は連合国名としたら、その疑問が無くなる
>里数と日程を二重に記述したのだろうね
これはない 横からだが一応晋書も倭国を七萬戸として一つの国だと見てるね >>316
>横からだが一応晋書も倭国を七萬戸として一つの国だと見てるね
晋書 卷九十七 四夷伝 倭人は、魏志倭人伝の適当な抜粋だから、
気にしてもしょうがないよ
九州説の人間で、投馬国五万余戸を、邪馬台国に入れる人間はいないから、
どっちにしても、晋書は合わない、でおしまいだ >>313
>だからさ、直線的に読んだらいろいろ矛盾点があるだろ?
>まずは南の海にドボンだね
だから、九州説のように「魏志倭人伝はとにかく正しい」という読み方は意味がない
帯方郡起点にしても、矛盾だらけだぞ
特に投馬国の位置
>また、南が東の間違いだとしても、
>邪馬台国に卑弥呼がいる→邪馬台国が到着地の可能性が高いが、不弥国以降の行程の国々はどこにいった?
これは何が言いたいんだ?
途中の国として、投馬国が挙げられているだろ?
投馬国は、出雲でよい
また、博多湾沿岸から先(水行から先)は史料が別だから、記述のスタイルが変わる
大国だけの記述になっていると思えばよい >>313
>つまり、不弥国以降は位置説明になってないんだよ
位置説明って何?
ザラコクもよく使う表現だけど >>313
>邪馬台国は連合国名としたら、その疑問が無くなる
>里数と日程を二重に記述したのだろうね
だとすると、冒頭で、「倭人在帶方「東南」大海之中」としているのと、
「南」至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月としていることが矛盾するんだよ
この水行、陸行が、帯方郡起点なら、「東南」至邪馬台国でなければおかしい
結局、連続して書いてある旅程の途中で「注記なしで」、起点を元に戻す、
というのは考えなくていい >>318
>投馬国は、出雲でよい
根拠なし
>大国だけの記述になっていると思えばよい
恣意的な読み方であり、根拠なし >>320
>結局、連続して書いてある旅程の途中で「注記なしで」、起点を元に戻す、
>というのは考えなくていい
考えなくていいという根拠はない。
書き方が変わっているというのは、内容的に連続していないということだよ。
漢文は句読点がないから区切りがわかりにくいだけ。 >>322
>考えなくていいという根拠はない。
つ「根拠」
「注記が当然あるべきだがない」
「そういう読み方をすると、帯方郡からの方角に矛盾「東南⇔南」が生じる」
ちゃんと>>320にも書いてあるだろ? まあ世間に相手にされる可能性のない説だから
無害といえば無害 >>312
韓は魏の完全な支配下にあったから詳しく分かってたけど
倭は支配下にはなく倭から魏に朝貢してきたんで
魏使が行って見聞してきた範囲内での情報だから
東夷伝の中での扱いが同じになってないのは当然だろ。 畿内説は、考古学準拠w だから、
魏志の読みなどどうでもいいんだろ。
もう考古学板いけよ >>318
投馬国も邪馬台国もそれぞれ帯方郡起点でしょう
方角+至地域から先に説明されているから、放射的説明の方が妥当
投馬国は出雲か宮崎
邪馬台国は九州か畿内
どちらでもokな説だよ
別資料説なんだね
記述の違い的にその説は"あり"だが、直線的に読む場合、邪馬台国までの行程と周辺国情報の資料が無かったか、又は日程記述のみの資料で十分としたか?
のどちらかとなる。
卑弥呼やトヨは邪馬台国にいたんだよね?
魏と何度か交流している様だが、邪馬台国や周辺国の位置が説明された資料は無かったのだろうか?
邪馬台国と魏が交流があれば当然資料はあっただろうと思うが…
なぜ大国記載だけの資料を用いたのか?
ここが疑問なんだよ 調べると出てくる画も、人物の向きがいけないんじゃないの?
「→」
(日本?)に向かい、進んでいるような気がしてくる。
ググって、全体的に見てみると、そう錯覚してしまう、
素人の目には、そのように映る。
実際は「←」に進んでいるんでしょ? >>328
>方角+至地域から先に説明されているから、放射的説明の方が妥当
これの意味が分かりません、根拠は? >>323
「倭人在帶方「東南」大海之中」は倭人の住む範囲だから
九州から倭種、 侏儒國、裸國、黒齒國なので帯方郡から南東方向
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月としているのは
邪馬壹國が九州内だけの国なので帯方郡から南方向でいいんだよ。 『ボーボボ』みたいな話なのかな?
「革命だと言ったな」
という謎の画像、とある忍者漫画 使者:その他、倭 新羅 百済 高句麗(現在、なんていう国なの?)→:現在の日本 >>324
>それは根拠として不十分
>>323に書いてある根拠は、さらに根拠薄弱な説とも言えないものに
止めを刺すだけのものだから、たいしたものは必要じゃない
どうして、途中から起点を戻すのか、というところに「根拠らしいものが何もない」
単に「書き方が変わってるから、こう『思う』」以上のことが一切書かれていない >>326
>韓は魏の完全な支配下にあったから詳しく分かってたけど
完全な支配下にあったら、「方可四千里」なんて書かれないよ
それに、完全な支配下にあったら、郡が設置されてる
帯方郡も楽浪郡もそういう存在 >>326
>魏使が行って見聞してきた範囲内での情報だから
だったら、きちんと寄って情報を得てきた「投馬国」と「邪馬台国」以外のことが
書いてないのは何の疑問もないだろ?
北部九州は、漢委奴國王の朝貢や、倭国王帥升等のときの情報の分だけ詳しいってだけ
そのときの遣使が北部九州からのものだということに、畿内説も異存はないよ >>328
>投馬国も邪馬台国もそれぞれ帯方郡起点でしょう
>方角+至地域から先に説明されている
で、投馬国も邪馬台国も「南至」だから、帯方郡基点だと
倭人伝冒頭の倭人在帶方「東南」大海之中と合わなくなる
北部九州までの、
「乍南乍『東』」「『東南』陸行」「『東南』至」「『東』行」に
つなげて進まない限り、帶方「東南」にならないから、
「水行が帯方郡から」は否定される >>332
>邪馬壹國が九州内だけの国なので帯方郡から南方向でいいんだよ。
九州にたどり着くまでの朝鮮半島沿岸でも、「乍南乍『東』」となっている
帯方から南に行ったら、黄海を突っ切って済州島の西を南下することになる
そんなところに陸地はないだろ? しんら・・・調べてみると違うと書いてあるし
『聖徳太子 平家』が正解? 結果的には・・・・・・・・このような話になるのかな?
『源氏 新羅』『平家 百済』 >>340
>九州にたどり着くまでの朝鮮半島沿岸でも、「乍南乍『東』」となっている
それは国邑間の移動ですから東への移動もありますが
帯方郡、投馬国、邪馬台国は面的な広がりが大きいですから
帯方郡から投馬国や邪馬台国は南の方角なんですよ。 >>336
韓では反乱は起きてますが魏の支配権は及んでますね
郡は置けなかったですけど。 >>335
里数の行程説明が日数の行程説明に変わるってのは重大な違い
そのまま続けて読んだら意味が分からないですね
畿内説は陳寿は意味が分からないことを書いてる(頭がおかしい)
邪馬台国は永遠の謎だって主張してるわけです。 >>344
>それは国邑間の移動ですから東への移動もありますが
国邑間の移動って言うけどさ、そもそも国が書いてないじゃない?
「乍南乍『東』」は循海岸水行であって、国邑間の移動じゃないよ
そして何度も書くが、南至投馬国水行では、帶方「東南」大海之中と矛盾する
奴國ー投馬国間、投馬国ー邪馬台国間に、国が一国も書いてないというくせに
朝鮮半島移動中には、狗邪韓國以外一切書いてないのは気にしないんだなw >>344
>帯方郡、投馬国、邪馬台国は面的な広がりが大きいですから
>帯方郡から投馬国や邪馬台国は南の方角なんですよ。
帯方郡をどこまでだと思ってるんだ?
帯方郡の「東の端」から真南に行っても、九州にはかすりもしないぞ >>345
>韓では反乱は起きてますが魏の支配権は及んでますね
>郡は置けなかったですけど。
グダグダ言ってるけど
>>326の「魏の完全な支配下にあった」は間違いだってことでOK ?
無理に、突っ張らなくていいんだよ 帯方郡から南、東と来てから、南に渡海。
九州に着くよ。
畿内には着かないな。 >>346
>里数の行程説明が日数の行程説明に変わるってのは重大な違い
>そのまま続けて読んだら意味が分からないですね
いや? そのままで素直に意味が通るだろ?
水行部分は里程が測れないから、日数で表したんだろうって思うだけじゃん?
そのまま続けて読むのが普通だろ?
書式自体は同じなんだし >>346
>畿内説は陳寿は意味が分からないことを書いてる(頭がおかしい)
>邪馬台国は永遠の謎だって主張してるわけです。
ほら、すぐに揶揄を混ぜないと主張ができなくなる
そういうのはやめなさいって
畿内説が言ってるのは、「陳寿の『認識』が現実と合っていなかった」と
言っているだけ
中華世界の観念では、世界の果ては萬二千里の彼方だし、
倭人は「『當』在會稽、東冶之東」にいて、「所有無與儋耳朱崖同」の
南国の住人なんだよ
それと、参照できた報告書その他の記述を合わせて、陳寿の認識でまとめた
けれど、現実とは合ってない
だれも、陳寿が頭おかしいなんていってないだろ? >>352
>朝鮮半島沿岸は水行だけど里程を示している。
朝鮮半島の大きさと合ってないだろ?
測った距離じゃないんだよ
万里の彼方からの朝貢にするために、渡海千里×3と合わせて、
一万里になるように作った数字だってのがよく分かるじゃないか
完全に支配しているから距離が分かるなんてのは通らないよ
完全に支配してたら、公定尺できっちり計れているはずだろ? >>348
それは貴方が現代の正確な地図を持っているからで
当時はだいたいですよ。 >>351
距離で説明して途中から時間で説明したら
目的地までの距離も時間も分からない
そんなヘンテコな説明する人は頭が逝ってますよ
そのまま続けて読むのが普通なわけあるかよw >>354
韓は方可4000里ですから
縦に5000里、横に2000里であってますね
縦の1000里は郡の分ね。 >>355
>それは貴方が現代の正確な地図を持っているからで
>当時はだいたいですよ
完全に支配していたら、「公定尺の里程」でなければならないのはいいかな?
九州説が成り立つためには、東夷電離とかいう、公定尺の4〜5分の1の尺度を
使ってたという設定なんだろ?
公定尺の4〜5分の1は、「だいたい」ですらないだろう? >>356
>距離で説明して途中から時間で説明したら
>目的地までの距離も時間も分からない
距離が書いてあれば、かかる時間は見積もれるし、
時間が書いてあれば、移動速度を想定すれば距離の見当はつく
何も問題ないだろ?
そもそも、「だいたい」なんだし
>そんなヘンテコな説明する人は頭が逝ってますよ
陳寿は、できるだけ典拠の記述を尊重する撰述方針だったっていうのはよく言われる
もと本(典拠の文書)で、北部九州内が「里程」で、その後の水行が「日程」で
書いてあれば、陳寿はそのまま書くだけだよ
それ以外には情報はないのだし
>そのまま続けて読むのが普通なわけあるかよw
言葉が穢くなってるよ
地金が出ないように気をつけて! >>357
>韓は方可4000里ですから
>縦に5000里、横に2000里であってますね
>縦の1000里は郡の分ね。
縦横ではなく、南と「東」だよ
細かいごまかしを入れなくていいから
「南」至では倭国に着かないし、帶方「東南」大海之中と矛盾する
そして、南に四千里、東に三千里だよ
対馬に渡るためには、それくらい東に行かないといけない >>353
>畿内説が言ってるのは、「陳寿の『認識』が現実と合っていなかった」と
>言っているだけ
魏志倭人伝と畿内説の頭の中の「邪馬台国」が一致しないだけ。
おかしいのは畿内説の頭。 >>354
>朝鮮半島の大きさと合ってないだろ?
対馬海峡や九州上陸後の里程とも一致する。 >>358
>完全に支配していたら、「公定尺の里程」でなければならないのはいいかな?
帯方郡から離れた東夷の世界だから、公定尺でない可能性があるよね。 >>356
私もそうだと思いますよ。
九州北部の女王国への里程記事に、日程表記のものを無理矢理詰め込んだので、
全体整合性がおかしくなってるということですね。
>>359
もと本(典拠の文書)で、北部九州内への「里程」のものと、その後の水行が「日程」の別資料のものを、
陳寿はそのまま書いたから全体がおかしくなってしまったわけです。
一本の文書の典拠に里程と日程が混在してるとしたら、>>356 の指摘通りになりますよ。 >>360
邪馬壹國は帯方郡の「南」の方角だし
倭人は九州から西日本一帯だから帶方「東南」大海之中
全く矛盾してないよ。 >>351
>水行部分は里程が測れないから、日数で表したんだろうって思うだけじゃん?
>そのまま続けて読むのが普通だろ?
これはおかしい。その場凌ぎの理屈ですね。
対馬や壱岐へは水行部分も里程で書いてあるし、邪馬台国へは、陸行でも日程で書いている。
つまり、日程表記と陸行・水行は関係がない。 >>364
>一本の文書の典拠に里程と日程が混在してるとしたら
しかし、魏志東夷伝という「一本の文書」の中に「里程と日程が混在してる」状態に
なっている
そして、後漢書以下、三国志以降に書かれた正史では、倭伝に関しては
魏志東夷伝倭人条が典拠になっており、「>>356 の指摘通りにな」っている訳だ
実際、魏志東夷伝成立前に、魏略と魏志の共通の典拠があったのだろうと
想定されており、魏志東夷伝倭人条以前に「一本の文書の典拠に里程と日程が混在してる」状態が
十分に想定できる >>363
>公定尺でない可能性があるよね
その可能性に、九州説は全振りしてるんだよ
そこん所、理解できていればいいんだけど
ものすごく、弱い根拠「論証抜きの可能性」だけに賭けてるんだよ >>365
>邪馬壹國は帯方郡の「南」の方角だし
きちんと地図を見てください!
帯方郡の南には海しかありません! 一本の原資料としてあらかじめ成立していたなら、
今のように里程と日程の混在をわざわざしなくても、万二千里の按分を邪馬台国まで
通算の距離でやってしまって、里程で統一すればあいいじゃないですか。
わざわざ日程に変える理由がありませんね。
二系統の資料と考えた方がスッキリしますよ。 >>369
今みたいな正確な地図を陳寿は見ることができなかったんだよ。 >>368
>ものすごく、弱い根拠「論証抜きの可能性」だけに賭けてるんだよ
実際の地理との比較から、短里であったことは明らかだよ。 隋書倭國傳「夷人不知里數、但計以日、其國境東西五月行、南北三月行」 >>370
二系統の資料と考えるなら
里程で統一する必要が無いんだが 隋の頃には倭国は東西の方が長いという認識が倭人の側にあったんだな
おそらく東北を除いた日本を長方形に納めた時の距離がだいたいこれくらいということだろう
投馬国へ二十日、邪馬台国へ十日と一月、もこれを目安にすればよいだろう >>366
言ってることが自己矛盾してるね
二系統の資料と考えるなら
>>351はおかしくないよ >>378
なんか論点がぼやけてますね。
「里程と日程との二系統の原資料を陳寿がまとめた」というのが私の立場。
「一系統だから続けて読むのが当たり前」というのが >>351 さんの立場。 >>379
それが>>351の考えだって、どこに書いてあるの? >>375
>里程で統一する必要が無いんだが
里程と日程に分かれているんだが?
統一なぞされていないよ? >>356
>距離で説明して途中から時間で説明したら
>目的地までの距離も時間も分からない
>そんなヘンテコな説明する人は頭が逝ってますよ
>そのまま続けて読むのが普通なわけあるかよw
まったくそのとおりだな。 九州説はすぐに汚い言葉で罵る書き込みに走る
お里が知れますよ >>386
>畿内説の連続読みなんてキチガイ学者の妄想だよな。
放射読みは榎一雄先生が唱えるまで、そんな読み方をする人はいなかった
絶対に一人も居なかったとかは、悪魔の証明だからどうでもいいけれど、
それだけ不自然なんだよ
普通に読めば、順次、連続で読んでいくことになる 里程と日程を続けて読むのも頭おかしいけど放射読みも苦し紛れの出まかせだな。 トンデモ説はいつも
なんで理由を
言わないのだろう >>390
>里程と日程を続けて読むのも頭おかしいけど
どこがどう頭おかしいんだ?
そう書いてあるんだから、その通りに読むだけだろ?
>放射読みも苦し紛れの出まかせだな。
だよな
俺もそう思う
水行で行く投馬国と邪馬台国が、そこだけ帯方郡起点の放射読みだなんて
苦し紛れの出まかせもいいとこw >>393
宇宙の宇とは空間のことであり、宙とは時間である
古来より空間と時間は別の概念として捉えられており
漢籍で道順を説明するのに里程と日程を続けて読む例など存在しない
里程と日程があれば里程で何里、日程で何日掛かるの意味である。 >>393
全然違う内容なんだから、つなげたらおかしいだろう。 >>395
「全然違う内容」だって
そんなこと決めつける理由は何だ? >>395
次の場所へ行くための経路についての説明なんだから、
「全然違う内容」じゃないだろ?
単に表し方が異なるだけ >>399
>里程と日程が同じ!
>距離と時間が同じって・・・?
例えば、近くのコンビニまで
「歩いて5分くらいだよ」と言われれば、300メートルくらいかなと分かるし
「200メートルくらい」と言われれば、歩いて5分もかからないと分かる
特に問題ないだろ? >>400
記事には方位記載も戸数も官もあるが?
どこが全然違う内容なの? >>402
@コンビニ行くのに交差点まで東に300メートル
更にそこから南に10分とか説明しないだろ
A交差点まで東に300m、更にそこから南に600mと説明しするか
B交差点まで東に5分、更にそこから南に10分とか説明しする
Aだと距離が900m、Bだと15分くらい掛かると分かるが
@だと距離も時間も分からない
正常な人は@の様な説明はしないよ。 >>407
実際にしてみろよ
頭の変な奴だと思われるぞw Aさん「家からコンビニまで300mかな」
Bさん「コンビニから駅まで10分ぐらいです」
Cさん「まとめると、家からコンビニまで300m、コンビニから駅まで10分と」 >>408
どうして?
理由は?
ただ言い張るだけ? 実際に世間で頭の変な奴だと思われるのは>>409のケースを認めない>>408だな コミュ障って言葉、そんなに気に入ったんだww
現実社会では言われる一方なのかな? >>406
>@コンビニ行くのに交差点まで東に300メートル
>更にそこから南に10分とか説明しないだろ
あんまり細々した仮定を置くのはあまり意味がないが、
コンビニから駅まで行くのに途中で2回曲がるような場合は
距離でいうと直線距離か道のりか、はっきりしないし
むしろ所要時間で言う方が自然だろう
コンビニまでは道一本で、コンビニに寄ってから4時15分の電車に
間に合うように駅に行く人に話すなら、@が一番親切だし自然な言い方になる >>414
だから魏志倭人伝では内訳も細かく書いてあり、かつ全体にかかる日数も書いてある。
なんて親切なんだ。
それを全部繋げるなんて、アホだろ。 畿内にいくのはコンビニにいくようなもん
byコミュ障
www >>415
ちゃんと日本語が話せず、理由を説明する能力がなく
ただ相手を罵るあなたって
世間では普通こ コンビニ行くのに交差点まで東に300メートル、更にそこから南に10分とか説明したら
結局目的地まで何mあって何分掛かっるんだよって相手に聞かれるよな
何mあって何分掛かるか説明してるのが魏志倭人伝の説明の仕方なんだ。 >>422
自分が言われて悔しいからって、そのまま返すなよ。
421はちゃんとわかりやすく説明している。 末盧・伊都・奴に立ち寄らないで壱岐から直接に不弥国まで渡海千里、
そうすると帯方郡から不弥国までで一万里
不弥国から投馬国経由で邪馬台国までは「水行30日陸行1月=二千里」
そうすると郡から邪馬台国まで一万二千里
これでどう? >>427
反論できないで幼稚園児みたいな言い返ししてるな
さすがコミュ障 >>430
他人とコミュニケーション取れないアナタって?
何者? >>428
>そうすると郡から邪馬台国まで一万二千里
魏志倭人伝には、邪馬台国まで萬二千里とは書いてないんだよ
自郡「至女王國」萬二千餘里
そして、卑弥呼は倭国女王であって、邪馬台国の女王ではない
帯方郡から倭国まで萬二千餘里だよという情報に過ぎない
仙台から北海道まで600キロくらいといったときに、
この北海道はまでの距離は、函館まででも札幌まででもない、
特に特定しない北海道という地域までの大体の距離を示している
仙台が、帯方郡
北海道が、女王国
600キロが、萬二千里
札幌が、邪馬台国だと思えば、きちんと対応が取れてると思うよ
函館を狗邪韓國とすべきか、末慮国とすべきかは微妙だけれど >>434へ
>>433の人は、自分の言いたいことを言葉にして他人に伝える能力が足りないんだよ
だから、自分の知っている言葉を書き込むのが精一杯なんだ
能力が足りない中で、なんとか世の中と付き合おうと努力している人なんだよ
ただ、育ちも悪いから、知ってる言葉も罵り言葉が中心だし、それ以外の
ことは書けないんだから、しょうがないんだよ >>433
>恥知らず
どこがどう「恥知らず」なのか、きちんと説明できるかな?
この「萬二千餘里」が、邪馬台国までではなく、女王国までだっていうのは
割に重要なポイントなんだよ
九州説が成立する余地がないのをはっきりさせるという点でね >>432
>そして、卑弥呼は倭国女王であって、邪馬台国の女王ではない
卑弥呼は倭国女王であって、かつ、邪馬台国に都する女王ですね。
>帯方郡から倭国まで萬二千餘里だよという情報に過ぎない
これも、領域としての倭国までは、その北岸で七千里とありますから、やっぱり中心的な地点を指していると考えるしかないですね。
「特に特定しない女王国という地域までの大体の距離を示している 」なんて強弁もいいところです >>409
素晴らしいですね。諸手を上げて賛成ですよ。 >>438
>領域としての倭国までは、その北岸で七千里とありますから、やっぱり中心的な地点を指していると考えるしかないですね。
仙台から函館まで480キロという情報の直後に書いてあるならそれも通るけれど、
いろんなことを書いた後に、まとめとして仙台から北海道までは600キロくらいだよと
書いてあった場合、特に札幌までとする理由はない >>438
>卑弥呼は倭国女王であって、かつ、邪馬台国に都する女王ですね。
>>432で言っていることは
邪馬台国は、都の位置する場所の地名であって、
卑弥呼の王位は倭国の王位であって、邪馬台国の王位ではないという意味だよ
いつも話をずらして行こうとするよな、お鏡さんは >>440
>書いてあった場合、特に札幌までとする理由はない
じゃあどこまでの距離なんだよ。
普通は県庁所在地、ここでは札幌までを意味するべきだろう? >>442
畿内説という結論に合うように無理読みしているだけなので、なんら具体的な回答はないと思いますよ。
「九州北部から邪馬台国まで魏晋里の実測でぴったり」とかも宣ってましたよね。 魏志の旅程記事は、畿内説にとって、
A「特に特定しない女王国という地域までの大体の距離を示している 」のか、
B 「九州北部から邪馬台国まで魏晋里の実測でぴったり」なのか、
どっちかはっきりして欲しいですね。 >>432
自女王國以北 其戸數道里可得略載
自女王國以北 特置一大率
この二行で論破可能 >>443
ま、実際そうだからトンデモ説は反論できないだろうがなー >>444
なんでそんなこと「はっきり」しないといけないんだ? >>452
両立不能だって先に証明しないと意味ないな
伊都厨は一人合点多すぎ
w >>454
また自分で証明する気ナシか
トンデモ説はこれだから困るわ
w >>456
叱責を受けて当然のことをしてるって
自覚も反省も無いのかな
根拠のない要求をして
説明する意思もないわけか そんな一人合点の決め付けばっかりしてる伊都厨クン
日常生活でコミュニケーション能力欠如とか
・・言われて・・ない? コミュ障か
相手と会話が出来ず理由もなく罵るだけの>>460が多分そうだね
ほかには、そんな人はいないようだが >>445
>自女王國以北 其戸數道里可得略載
>自女王國以北 特置一大率
>この二行で論破可能
残念でした
魏志倭人伝の女王国の使い方にはブレがあるんだよ
女王国と書いて、ヤマト国の部分は、逆にこの2箇所だけ
又有侏儒國在其南。人長三四尺。去「女王」四千餘里。
又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至
この「女王」は「女王国」の意味だが、ヤマト国という特定の場所からではなく
「倭国から」くらいの意味だろう キナイセツでは一万二千里が
観念論上の数値とするなら、意味のある数値ではないから全く比定には使えない
魏晋里なら、列島を超えた海上になる
どっちにしても里程方角からは特定できない
はずだけど、畿内に比定するんだよね
立論がおかしくね?と思うけど
いくつか主張する人が入り乱れてまあそこは九州説でも同じだからしゃーない。
今のところ
1)短里・東夷伝里を認めない人で全く行程論無視の考古遺物偏重の人
2)認めないが、連続読みで南と東を誤解したという人
3)認めないが、一万二千里に満たない残り里程を魏晋里とみなして畿内に持ってくる人
3種類が出てる様子。 >>459
困ったことするものに限って
自分が困った人な自覚がないのは
困ったことだ >>464
自覚がないからできるんですよと
しゃーない。 >>442
>じゃあどこまでの距離なんだよ。
決まってるじゃないですか?
「北海道」までの距離ですよ?
最初からそう書いてあるでしょ?
>普通は県庁所在地、ここでは札幌までを意味するべきだろう?
600キロ、なんていう丸めた大雑把な数字で、特定の都市名を
ピンポイントで指す必要はないでしょう?
503.6キロとか書いてあるならともかく
魏志倭人伝の「自郡至女王國萬二千餘里」も、千里単位の丸めた数字なんだから、
ピンポイントでヤマト国を指すと考える方がどうかしているし、九州説が
短里と合わせてこれを頼みの綱にしてるのが、おかしくてしょうがない >>463
>どっちにしても里程方角からは特定できない
>はずだけど、畿内に比定するんだよね
>立論がおかしくね?と思うけど
立論がおかしいんじゃなくて、畿内説連呼、連続句読点、コミュ障フィリアの人の
理解力が足りないんだよ
末慮国、伊都国、奴国の比定地だって、里程方角からは特定できないから、
記録や現代まで残る地名の類似と、考古学的な重要遺跡の集中地を「国」と見て
比定してるんだよ
それと同じように、邪馬台国・ヤマト国の大遺跡周辺を比定しているだけ
里程、方角は当てにしてないよ >>462
>この「女王」は「女王国」の意味だが、ヤマト国という特定の場所からではなく
>「倭国から」くらいの意味だろう
それは違う。
後漢書でも類似の記事があるが、倭国の辺縁から楽浪郡まで七千里、倭王のいる邪馬台国まで一万二千里とある。 日本史板の皆さん、史論として全く成り立たない、考古のみで立論倒錯に無自覚な人って必要ですかね? >>466
>魏志倭人伝の「自郡至女王國萬二千餘里」も、千里単位の丸めた数字なんだから、
魏志倭人伝では千里は80キロくらいだから、少なくとも隣の県にまたがることはなく、福岡県内になる。 >>469
>日本史板の皆さん、史論として全く成り立たない、考古のみで立論倒錯に無自覚な人って必要ですかね?
不要 >>470
>魏志倭人伝では千里は80キロくらいだから
短里なんてないんだってばさ!
末慮国ー伊都国間と、伊都国ー奴国間で、4〜6倍違う単位なんてないって!
本当に、九州説は、「短里+萬二千里」しか頼るものがないから必死w >>469
トンデモ説はすぐ、そういう誹謗中傷に逃げるなー
困った人になってる自覚ないの? >>462
その女王を倭国と読まず、邪馬台国と読んでも何の矛盾もない
というか女王のいるところと読んでも問題なし
何の矛盾もないものを自分の都合だけで勝手に意味を増やさないことだ
それぞれ既に違う意味を持つ女王、女王国、倭国を
女王=女王国=倭国とイコールで結んだらややこしくなるだけ
そうせずに読めるんだからわざわざややこしくする必要はない 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>479
なんか、支離滅裂だな
時代の違う情報をゴッチャにしてない? 後漢書は後世にまとめられたからね。
でも、当時の中国の認識がこれなんだよ。 >>481
光武帝のころ、こうだった
という中国の認識を以って三世紀を推し測ったら
そりゃ、トンデモな説しか立たないよな >>479
>倭奴国は倭国の極南界である。
この部分、魏志倭人伝の誤読説を推すな
魏志倭人伝では、帯方郡から順に南に向かって国名が並んでいて、
邪馬台国までは、其戸數道里可得略載
さらにその先に、其餘旁國が並んでいて、その最後が
次有「奴國」、此女王境界所盡
これを、九州の奴国と同一視したという誤読説に1票です
この最後の次有「奴國」は、個人的には次有「○奴國」の脱字だと思っているけどね >>479
だよね〜
倭の発祥は朝鮮半島南岸から北部九州地域で
3世紀の倭国もこの地域が中心
畿内は倭国の中に含まれるはずないんだよね。 >>479
>墓が大きいだけの地方豪族
これが無理なんだって
巨大な墳丘墓が作れる=それだけの動員力がある=それだけの兵を集められる
ことを意味するから、王以外の地方豪族がそんなでかいのを作っていたら、
王は成敗に乗りだすか、夜逃げするしかない
要するに、最大の墳丘墓を作れるのは、王だけなんだよ >>483
倭国内を奴国から不弥国そして其餘旁國を周旋して奴国へ戻る
これが5000里なんだよ。 >>484
こんなふうに理由もなく断定ばかりするようになってしまったのが九州説の不幸だな。 >>486
>其餘旁國を周旋して奴国へ戻る
魏志倭人伝、というか、三国志での周旋の用法
http://www.zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf
どうも各地を転々として、巡り歩くという意味で使われているようだ
ちなみに一周するという意味で使われている箇所はない >>485
勝手な論理で決めつけても、事実は変わらない。 >>489
>勝手な論理で決めつけても、事実は変わらない。
そうだよ? 畿内勢力が地方豪族なんていう事実はないし、それは変わらない
洋の東西を問わず、王より大きな墳墓の造営を家臣に許す王朝があったら
一つでもいいから挙げてみてくれ >>489
なにが事実なの?
論理を使って推測しないの? >>488
周旋はグルグル回るってのが元々の意味だから
各地を転々として、巡り歩くという意味でもいいし
一周するという意味でも使われるんだよ。 >>490
倭国からは遠く離れた独立した豪族だから勝手にやってただけでしょ。 >>496
それなら、なんで博多にも大きな前方後円墳があるの?? >>497
>それなら、なんで博多にも大きな前方後円墳があるの??
筑紫忌部の親分の墓だから。 @阿波 良いものは取り入れる。
それが昔からの得意なこと。 >>498
それで誤魔化せるんなら
内行花文鏡も単なる流行でいいな?
嗤 >>500
>良いものは取り入れる。
それが昔からの得意なこと。
それは、博多に限らず忌部一族が進出したところ全て「良いものは取り入れ」ている。 @阿波 >>463
>今のところ 3種類が出てる様子。
> 1)全く行程論無視の考古遺物偏重の人
> 2)連続読みで南と東を誤解したという人
> 3)一万二千里に満たない残り里程を魏晋里とみなして畿内に持ってくる人
俺は畿内説だがどれでもない(4)だな
方角については「東而南」の「東而」の2文字が抜け落ちた説。
一万二千里に満たない残り里程って普通は
「連続式なら不弥国から1300里、放射式なら伊都国から1500里」だろうけど
俺の考えでは「一支国から不弥国まで1000里、不弥国から投馬国まで1500里、
投馬国から邪馬台国まで500里」(郡から合計で邪馬台国まで一万二千里) ここは伊都国東遷スレなんだから畿内説に文句があるならば
畿内説のスレに行けばよい >>495
>一周するという意味で使われた実例は?
いろいろ探したけれど、地理・旅程記事で周旋を一周するという意味で使っているのは
まだ見つけられていない
地理・旅程記事以外では、隋書/志 凡三十卷/卷十九 志第十四/天文上/天體の
渾天説のところにあるのを確認してる
他は知らない >>495
〔説分〕七上に「周旋するなり。旋旗の指麾するなり」とあり、旗をめぐらして旋る意。
周旋はもと戦う意に用い、〔左伝〕僖23年「君と周旋せん」とは戦場において馳駆角逐することをいう。
と漢字研究家の白川静氏の字統にある。 >>488
そのリンク先、いかにも大発見みたいなこと逝ってるけど、どうなんよw
「周旋五千里ってのは一万二千里を韓地の七千里と倭地の五千里に分けただけの
観念的な数字にすぎない」って大昔からある説と何が違うんだよw >>510
自己レスだが
ただ、七千里ひいただけの観念的な数字だって説を俺が支持してるわけではない。
あまりに当たり前すぎることをわざわざ書かないと思うので。 >>509
1.盤旋、環繞。
列子.湯問:「其山高下周旋三萬里,其頂平處九千里。」
一周の用例もありますね。 >>512
でもそれ、現実の地理じゃないよね?
先の隋書の天体もそうだし
正史の地理・旅程記事で、周旋を一周するっていう意味で使ってるのは
見つけられなかったよ 晋書
「又廣州南岸,周旋六千餘里,不賓屬者乃五萬餘」 >>515
解釈の問題でしょ
周旋を一周するっていう意味にとれるのも違う意味に訳してるだけ。 そして、あまり細かいことを言ってもしょうがないが、
>>512の1.盤旋、環繞 は
[circle]∶盘旋;旋转
と書いてあって、「一周する」という意味というよりむしろ、
「周囲の長さ」(輪、circle)って意味だよ >>516
>又廣州南岸,周旋六千餘里
これは一周「しない」方の例だね >>517
>周旋を一周するっていう意味にとれる
魏志倭人伝の周旋は、一周するという意味にはとれないよ >>518
倭人伝の場合も、「一周する」という意味じゃなくて 「周囲の長さ」ですよ
「参問倭地」は「倭地について問を集める」と周旋5000里
倭人からの伝文ですね。 >>519
「一周する」じゃなくて 「周囲の長さ」ですよ
参は集める、集まるって意味であって、行くって意味はありませんからね。 >>517
南岸の周囲の長さが六千余里なわけがないな >>518
>「周囲の長さ」(輪、circle)って意味だよ
一周の長さという意味じゃん! >>523
南岸なんて誰も言ってないじゃん。
南に肥後狗奴国があるのなら、九州北部の周回の長さだよ。 >>521
>参は集める、集まるって意味であって
>>522
>「参問倭地」は「倭地について問を集める」
「参問」で一つの言葉だよ
參問倭地で、「倭地を参問するに」 三国志よりも前の正史、史記と漢書には、参問が史記の注釈1箇所しかないんだよ
せっかくだから少し長めに引用して、解釈も書いておく
史記/ 列傳 凡七十卷/ 卷一百二十三 大宛列傳第六十三
「後漢書云:「大秦一名犂鞬,在西海之西,東西南北各數千里。有城四百餘所。
土多金銀奇寶,有夜光璧、明月珠、駭雞犀、『火浣布』、珊瑚、琥珀、琉璃、
瑯玕、朱丹、青碧,珍怪之物,率出大秦。」(中略)
萬震南州志云:「大家屋舍,以珊瑚為柱,琉璃為牆壁,水精為礎舄。
海中斯調(州)〔洲〕上有木,冬月往剝取其皮,績以為布,極細,手巾齊數匹,
與麻焦布無異,色小青K,若垢污欲浣之,則入火中,便更精潔,世謂之『火浣布』。
秦云定重『參問門樹皮』也。」括地志云:「火山國在扶風南東大湖海中。
其國中山皆火,然火中有『白鼠皮及樹皮』,績為『火浣布』。」
『 』はオレが付けた
後漢書の、大秦(ローマ帝国)の事物について書いてあるところに『火浣布』があって、
それを受けて萬震南州志に「海の中の島に生える木の皮を冬に剥いで布に織る(績)と、
極細で青黒く汚れても火に入れると綺麗になる、世にいう『火浣布』になる。
秦がいうには定めて重ねて参問するに門樹皮なりと」とある
さらに括地志には「扶風の南東の大湖海中に火山国があり、その国中の山が火を噴いている。
その火の中に白鼠皮と樹皮があり、織りて(績)『火浣布』と為す」とある
門樹皮について参問した訳だから、「問いを集める」じゃ意味が通らないだろ?
ちなみに、この話はかぐや姫に出てくる「火鼠の皮衣」の元ネタ この外に隋書までに成立した正史に出てくる参問は、後漢書2、南斉書2、魏書1、周書1、梁書4、晋書1、隋書1と魏志倭人伝の合計13ヶ所
これらを全例検討する
後漢書/ 列傳 凡八十卷/ 卷六十九 竇何列傳第五十九/ 竇武
「武召侍御史河阯ォ儵,參問其國中王子侯之賢者」
その国中の王子、諸侯のうちで賢者(は誰か)を参問した
これも訪問じゃなくて、質問の方だな
後漢書/ 志 凡三十卷/ 志第十七 五行五/ 射妖
「宜遣主者參問變狀。」
宜しく主者(担当者)を派遣して変状(事件の状況)を参問すべし
これは注釈の中なので簡単に済ませるが、宮門に矢を射掛けるという事件があって、担当者をよこして事件を調べさせろという部署の異なる役人の間の要求
担当者が来るのは「遣」の字が担う意味なので、参問は変状(事件の様子)を問う・調べるの意味
南齊書/ 列傳 凡四十卷/ 卷二十九 列傳第十/ 周山圖
「及疾,上手敕參問,遣醫給藥。」
すなわち病(疾)を得たので、武帝(上)は手ずから参問を敕し、医者を遣し薬を給う
南斉の建国に功のあった軍人周山圖が晩年に、病気になったときの話
病気になったのを聞いた武帝が、参問を手敕し、医者を派遣し薬を与えたということ
この参問は、周山圖が新林に立てた墅舍を訪問したとも、周山圖の様子を調べさせたとも、どちらとも解釈できる
南齊書/ 列傳 凡四十卷/ 卷四十七 列傳第二十八/ 王融
「融被收,朋友部曲參問北寺,相繼於道。」
王融が収監されると、多くの友人や部下たちが北寺(監獄)を参問し、道が混雑した(朋友部曲が道に相継いだ)
王融が、武帝が危篤になったときに皇太孫に対して謀反を企てたために収監されたときのこと
この参問は、訪問の意味でよい 魏書/ 列傳 凡九十二卷/ 卷五十八 列傳第四十六/ 楊播 子侃 播弟椿 椿子c c子孝邕 椿弟津 子遁 逸 族弟鈞
「椿、津年過六十,並登台鼎,而津嘗旦暮參問,子姪羅列階下,椿不命坐,津不敢坐。」
椿と津は60歳を過ぎ、三公(台鼎)の地位に上ったが、津は嘗てと同じように朝(旦)に晩(暮)に参問し、年若い親族は階下に羅列し、椿が座るように命じなければ津は敢えて座ろうとはしなかった
楊播家の、椿と津の兄弟が仲がよいことの様子
旦暮參問とあると、訪問してくるように見えるが、この前の部分に「兄弟旦則聚於廳堂,終日相對」(兄弟は朝(旦)にはすぐに広い部屋(廳堂)に集まり、一日中一緒にいる)とあるように、一家の中のことでありどこかを訪問するという意味ではない
ちなみにこれは「小学」の外篇・善行37の元となったエピソード
周書/ 列傳 凡四十二卷/ 卷十二 列傳第四/ 齊煬王憲 子貴
「憲或東西從役,每心驚,其母必有疾,乃馳使參問,果如所慮。」
憲があるいは東西で役についている時に、胸騒ぎがするごとに、母親が必ず病気になっていたので、すなわち使いを馳せ参問させると、果たして思っていたとおり(所慮の如し、母親が病気かもしれない)だった
母のところへ行くのは「使いを馳せ」の部分で、参問するのは母親の様子
これも訪問の意味ではない 梁書/ 列傳 凡五十卷/ 卷八 列傳第二/ 昭明太子 統
「恐貽高祖憂,敕參問,輒自力手書啟。」
高祖(統の父、梁の武帝)の憂いの残る(貽)を恐れ、参問を敕し、すなわち自力で手書を開く(啟)
皇太子の統が舟遊びのときに水に落ちて病床についたときの話
南斉書の手敕參問と同じ意味
これは、訪問するの意でよいと思う
梁書/ 列傳 凡五十卷/ 卷二十二 列傳第十六/ 太祖五王/ 臨川王宏
「十五年春,所生母陳太妃寢疾,宏與母弟南平王偉侍疾,並衣不解帶,每二宮參問,輒對使涕泣。」
生みの母陳太妃が病に伏せると、宏は同母弟の偉とともに看病し(侍疾)帯すら解かず、2人の王子(二宮)が参問するたびに、すなわち使いに対し涕泣す
これも訪問でよい
「宏少而孝謹,齊之末年,避難潛伏,與太妃異處,每遣使 參問起居。」
宏は幼い頃から孝謹で、斉(梁の前の王朝)の末年に、母の太妃とは異なるところに避難潜伏していたので、使いを遣るごとに母の起居を参問した
周書の齊煬王憲の話と同じく、参問するのは母の起居であり、訪問の意味ではない
使いが行くのは「遣」の字で表している
梁書/ 列傳 凡五十卷/ 卷二十五 列傳第十九/ 徐勉 子悱
「兩宮參問,冠蓋結轍;服膳醫藥,皆資天府。」
両宮は宮室の2人の意味だと思うが、誰だかよく分からない
これは訪問の意味でよい 晉書/ 載記 凡三十卷/ 卷一百十四 載記第十四/ 苻堅下 王猛 苻融 苻朗
「遣使參問其母動止,或日有再三。」
使いを遣り、その母の動静(動止)を参問させ、あるいは一日に再三有り
周書の齊煬王憲の話と同じく、参問するのは母の動静であり、訪問の意味ではない
隋書/ 志 凡三十卷/ 卷十七 志第十二/ 律曆中
「上令參問日食事。」
上(皇帝)は日食のことを参問せしむ
日食のことは、訪問できないから、この参問も質問の意味だな
問題になっている魏志倭人伝の参問倭地を除く13箇所のうち、
史記1、漢書2、魏書1、周書1、梁書1、晋書1、隋書1の8箇所は訪問の意味ではなく、「問う、訊ねる、質問する」の意味
南斉書2、梁書3の5箇所は、「訪問」の意味
しかし、訪問の意味の5箇所は全て、病気あるいは獄に繋がれ、死を待つ「人(あるいはその人のいる場所)」を参問している 要するに、参問というのは、様子を問う、くらいの意味だよ
参問倭地で、
倭地(倭の地勢)の様子を問う(調べる)と、の意味
で調べた結果が
絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり
となっていて、「連なったり切れていたり」の「列島」で、
「周旋して(直線で行く訳ではなく、いろいろ立ち寄りながら行くと)五千余里」になる
という話だよ
洲島の様子を言うのに、一周ってのも訳が分からない
九州島だけなら、「或絶或連」の前半が意味を持たない
四国や本州との間に海峡があって、意味がある文章だ >>533
>>>526
>壱岐対馬はどうする
すでに通過して来た北側は概ねわかるので、当然それ以外の地域の話だよ。 >>525
>取れないという根拠は?
>>527〜>>534を参照して
かなり詳しく書いておいた >>534
>参問倭地で、
>倭地(倭の地勢)の様子を問う(調べる)と、の意味
要するに、倭人に倭地について問を集めるで合ってるってことだろ
実際には行ってない倭地について倭人に聞いたら
>絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
>海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり
なんですよ
「或絶或連」は宇土半島から天草、島原を経て北部九州地域を一周のことで
奴国から不弥国、そして傍国を経て奴国に戻るのが5000里ってことなんですよ。 >>537
参問(倭人に聞いた実際には行ってない)した倭地の部分の話だから壱岐対馬は対象外。 >>538
>要するに、倭人に倭地について問を集めるで合ってるってことだろ
いや、漢文読めない人にはつらいかもしれないけれど、ちゃんと読んでないでしょ?
>>528〜>>532には、そんなことは書いてないだろ?
参に集めるという意味があると言い張ってるけれど、むしろ現代日本語の
「参照」の参の意味だよ
参照、参考仿照 >>528
>>529
>>530
>>531
>>532
参には行くとの意味は無いですからね
参は集める、集まるのいみですね
>しかし、訪問の意味の5箇所は全て、病気あるいは獄に繋がれ、死を待つ「人(あるいはその人のいる場所)」を参問している
病人の所に集まるってことですね
参拝・・・神の前に集まる
参上・・・誰かの前に集まる
なんですよね。
倭地に集まりに行くはずないですからね。 >>538
あー、分かった
参を集めるだと、勘違いしてる理由が
どこかで
◎ 参
join refer
的なのを調べて、joinに「集まる・参加する」って書いてあるのを
頭の中で「集まる」⇒「集める」って変換しちゃったんだろ! >>541
はいはい
ネタが分かればもう大丈夫
>>541は
◎ 参
join refer
の「join」の方だと受け取っているけれど、
参問の参は「refer」の方
「join」は自動詞であって、他動詞の「集める」という意味はないよ
「refer」の意味は分かるよね >>540は恥ずかしい奴だな
参に行くなんて意味は無いよ
参照・・・集めて照らし合わせる
参考・・・考えをまとめるのに(資料を)集める お前らもうさぁ、どっちでもいいよw
結局、周旋五千里ってどっからどこまでの長さなんだよ?w >>546
奴国から不弥国、そして傍国を経て奴国に戻るのが5000里ってこと
博多から南下して宇土半島から天草、島原を経て北部九州地域を一周して博多のことで 。 必死に「或絶或連」に珍解釈を施して壱岐対馬を除外しようと足掻いてるが
ムリムリ 奴国から不弥国、そして傍国を経て奴国に戻るのが5000里ってこと
博多から南下して宇土半島から天草、島原を経て北部九州地域を一周して博多のことですね
魏使の訪れていない女王国(倭国)の南側ですね
この先の南側に狗奴国が在ったんですね。 >>548
壱岐対馬は通貨してますから参問(情報収集)する必要がありませんよ。 >>548
壱岐対馬は通貨してますから参問(情報収集)する必要がありませんよ。
宇土半島から天草、島原を経るルートは「或絶或連」にドンピシャでしょ。 参問倭地、絶在海中洲島之上、
或絶或連、周旋可五千余里。
「参問」の目的語は「倭地」だからね。
「絶在海中洲島之上、或絶或連」
に続いて
「周旋可五千余里」
と書かれているんだ。
これを九州本島の一部だけのこと
だと強弁しても通じないよ。 >>553
5000里の距離も韓が方可4000里ですから北部九州有明海岸一周と丁度一致するんですよ
他にこんなに上手く当てはまる所はありませんね。 >>551
壱岐対馬を倭地から除く理由には、ぜんぜんならない >>552
> 壱岐対馬は通貨してますから参問(情報収集)する必要がありませんよ。
おいおい
メチャクチャ言うなよ
末盧だって伊都だって「通貨」するんだろ? >>552
「宇土半島から天草、島原を経るルート」の
どこが「絶」えてんの? 結局、北部九州にアテハメたい一心の
トンデモ倭人伝解釈ですな。
いつもどおりの九州説。 >>556
通過してるから末盧国や伊都国も対象外です
>>557
韓の距離を方可4000里とすると奴国から奴国の北部九州有明海岸一周がほぼ5000里
「絶在海中洲島之上、或絶或連」のジメージも博多〜宇土半島〜天草〜島原〜博多と一致。 用例で周旋は一周の意味だって分かっただろ。
>>556
通過してるから末盧国や伊都国も対象外です
>>557
韓の距離を方可4000里とすると奴国から奴国の北部九州有明海岸一周がほぼ5000里
「絶在海中洲島之上、或絶或連」のジメージも博多〜宇土半島〜天草〜島原〜博多
と一致。
他に当てはまる所ないでしょ。 >>560
博多〜宇土半島〜天草〜島原〜博多
に末盧も伊都も含まない?
いったい何処を「一周」してるんだ?
支離滅裂じゃないか >>558
>「宇土半島から天草、島原を経るルート」の
>どこが「絶」えてんの?
宇土半島で陸地は絶えてるじゃん。 ようするに、そこまでは足を伸ばしていませんよ、という程度の意味だろ。
実際、博多には行っても、そこから佐賀だの長崎だのとなるとこれは大変な話になるよね。
隔絶とも書きたくなるよ。 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg >>562
君は方向音痴じゃないの?
博多から飯塚、日田、小国、阿蘇、菊池、熊本、宇土、天草、島原、佐世保、佐賀、久留米、博多とか通ればいいだろ。 >>569
それは貴方の考えでしょ
私は狗奴国は鹿児島県や宮崎県としてますから。 用例で周旋は「一周」の意味ではなく「あちこち巡る」の意味として本州方面に向かっても
あちこち巡ってたら5000里では広島にも付けないからな。 >>571
1里80mとして400qくらいだから阿蘇も大丈夫だろ。 >>547
>奴国から不弥国、そして傍国を経て奴国に戻るのが5000里ってこと
戻らないってばさ >>561
>用例で周旋は一周の意味だって分かっただろ。
三国志の周旋は、一周したり、戻ったりはしない
これは、畿内説、九州説を問わず、確認できることのはず >>572
>用例で周旋は「一周」の意味ではなく「あちこち巡る」の意味として本州方面に向かっても
>あちこち巡ってたら5000里では広島にも付けないからな。
それ、短里を前提にしてるからそうなるだけ
短里はトンデモだよ 北部九州を参問するから周旋五千里とか言ってるけど、
参問「倭地」であって、倭国じゃないから!
九州説が倭国を北部九州限定にしても、倭地は北部九州限定ではない
狗奴国も当然に倭地にある
この辺を考えても、北部九州を一周する周旋というのは矛盾する
そして何度も言うが、周旋は一周したり出発点に戻ったりはしない
参は集まるという意味ではない >>574
>>575
実際には行ってないから戻りもない
用例にある一周の距離ね。
>>576
短里なんて使ってない、韓の方可4000里との比較ですよ。
>>577
>参は集まるという意味ではない
参を集まるという意味では使ってませんよ?
>参問倭地で、
>倭地(倭の地勢)の様子を問う(調べる)と、の意味
ほぼこの意味ですね。 >>579
>短里なんて使ってない、韓の方可4000里との比較ですよ。
韓も短里なんですが。 >>580
東夷伝で使われてる里ですね
短里は便宜上の名称ですね。 この論議だけでも、キナイセツはあり得ないことがわかる。 >>581
東夷伝のどこで、そんな里が使われてるの? >>567
なんで、そんなところを一周するんだ?
理由は? >>578
>実際に国名リストは奴国に戻っている。
最後の奴国は、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳の
戸数も道里も詳らかにできない餘旁國なんだよ
筑紫の奴国だったら、道里も戸数もばっちり分かってる国じゃないか
それに此女王境界所盡も、意味が通らなくなるだろ?
次有「○奴国」の脱字だという説が妥当だと思うよ >>586
最後に距離のわかるところに戻って来てメデタシ。
何が問題なんだ? >>584
ルーピーかw
韓の方可4000里との比較ですよ。 >>585
一周なんかしてないの
単なる説明ですよ。 筋が通っている記事もわざわざ間違いだと主張するおかしなキナイコシ。 >>583
都合の悪いことは見えない聞こえないw
良い性格ですね。 あちこち回る意味でも、最短距離で回ると概ね丸くなるよね。 畿内説の文献解釈は弱いなぁ。
都合悪くなると見えない聞こえないのコミュ障発症だし。
古墳時代の前倒し詐欺に頼ってばっかで、頭を使ってないからだな。 >>595
その前に、九州説の人たちがびっくりするほど漢文が読めなくて、
誰かのごまかしをずっと一切変更なしで奉じ続けているのが痛々しいw >>594
>あちこち回る意味でも、
あちこち「回る」んじゃなくて、あちこちに「立ち寄り」ながら、なんだよ
周旋の意味としては >>591
>筋が通っている記事もわざわざ
筋が通ってないだろ? 最後に筑紫の奴国に戻ったら?
奴国の西に伊都国があって、東に不彌國があって、戻ってくるときの直前の国は烏奴國で
どこのどっち方向が此女王境界所盡になるんだ?
これに筋の通る説明をしてごらんww >>588
>韓の方可4000里との比較ですよ。
それ、現実の地理に合ってないのは分かるか? >>597
立ち寄ることを日本語で回ると表現したんだけどな。
巡るの方が良かった?
でもウロウロ歩いて最後は奴国に戻ってこなくてはいけないのだから。 >>601
それのどこが「可五千余里」になるんだ? >>592
あなたは何も説明できないので有名な人?
指示代名詞もまともに使いこなせない日本語の下手な人?
そんなに説明することが嫌いなの?
上手に出来なくからって不得意から逃げてると、日常生活にも困ることになるよ >>586,>>598
「其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」と
「此女王境界所盡」も矛盾してね?
>戻ってくるときの直前の国は烏奴國で
>どこのどっち方向が此女王境界所盡になるんだ?
…→支惟国(吉備)→烏奴国(穴門)→奴国(筑紫)
ぐるっと回って最後に距離のわかるところに戻る、
そしてそこ(=奴国)の南は狗奴国なんだから
奴国=「此女王境界所盡」となるわけだろ
ただし以上の話は「周旋五千里」とは何の関係もないかもしれんがw >>595
おやおや
あなたのその投稿は、具体的な事実指摘のまったくない悪口ばっかりですね。
それって、反論できなくなった人がやる逃避術の典型ですよ。 >>589
あなた・・・
「韓の距離を方可4000里とすると奴国から奴国の北部九州有明海岸一周がほぼ5000里 」
って言ってた人じゃないの?
あなた、だれ? >>600、>>605、>>607
正方形かどうかの前に、朝鮮半島はそんなに大きくないw
現実に一辺4,000里もないだろ?
倭国を遠くするために、大きくされちゃったんだよ 結局アレだわな
九州の中だけで「周旋」してるって言ってる人は
具体的に何処のどういうルートを測って5000余里になるのか???
って、一番だいじな説明をまったくしてないだろ
雲をつかむような精神論なみの話だけだ
それで一体だれに理解してもらえる? >>604
>烏奴国(穴門)→奴国(筑紫)
奴国(筑紫)の東、穴門との間には不彌國があったんじゃないの?
穴門は、戸数道里も分からないほど、遠いの?
斯馬國が糸島のシマだというなら、そこから穴門まで回るのに、
奴国の南を通らない訳にはいかないだろ?
それなのに奴国のすぐ南に狗奴国があるの?
こういうのは、矛盾してるって言わないのか? >>601
>でもウロウロ歩いて最後は奴国に戻ってこなくてはいけないのだから。
戻ってこないんだって!
魏志倭人伝の国名は北から南へ順番に並べる体で書いてある
だから順に書いていって最後の「○奴国」が邪馬台国から一番遠いところで、
そこが此女王境界所盡になるんだよ >>611
>具体的に何処のどういうルートを測って5000余里になるのか???
あちこち立ち寄るから、明確なルートではないと思うよ。 >>612
魏の使いにとっては、穴門も行ったことのない遠い地だろう。
ただし、その地名は大野城だと思う。
近いって?
魏の使いにとっては、行ったことのない遠い地だろう。 >>612
>斯馬國が糸島のシマだというなら、そこから穴門まで回るのに、
>奴国の南を通らない訳にはいかないだろ?
福岡県の志摩からなら、水行で奴国の北を通るよ。
陸行でも奴国を通過するけど、南側にはルートはない。
和歌山県の志摩なら、やはり奴国の北を水行する。 >>613
>魏志倭人伝の国名は北から南へ順番に並べる体で書いてある
初めて聞く説だよ。
具体的にどこがどこ? >>614
自分の考えを満足に説明もできないコミュ障なー >>616
具体的なことは何も考えてないけどオレの説は正しい
って言いたいわけ?
そりゃ絵に描いたようなトンデモ説だわ >>604
>ただし以上の話は「周旋五千里」とは何の関係もないかもしれんがw
「周旋五千里」は奴国から奴国までの倭地周旋の距離ですよ
倭人伝は同じことについて違う角度から繰り返し説明している。 >>624
だから総論はもういいの
何処からどこを通って5000余里なんだ?
具体的な話をしてくれ 周旋とは一周の距離であり
用例
列史「其山高下周旋三萬里 其頂平處九千里」
晋書「又廣州南岸,周旋六千餘里,不賓屬者乃五萬餘」
下の用例で分かる様に参問とは問を集めるの意味で参問倭地とは倭人に問いて調べたこと
魏使は実際に倭地を周旋可五千餘里したのではない。
>>528
>>529
>>530
>>531
>>532
>参問倭地で、
>倭地(倭の地勢)の様子を問う(調べる)と、の意味 >>627
>魏使は実際に倭地を周旋可五千餘里したのではない。
そりゃ、魏の使いが回ったとは誰も思っていないだろう。
ただ、回ったら五千里くらいという話なら? >>627
>周旋とは一周の距離であり
とは限らないだろ
なんで決め付けるの? >>627
だから、なんでそこに対馬も壹岐も末盧も伊都も含まないの? >>631
参問倭地とは倭人に問いて調べたことだからだよ
対馬も壹岐も末盧も伊都も実際に魏使は通過してるから聞く必要がない。 >>630
可五千餘里には可が付いているからこの5000里は魏使が倭人の話を基に推測した距離
起点と終点の場所を知らないと距離を推測出来ないので
起点と終点は同じ所で奴国。 >>632
実際に通過した国々を除いた倭地の周囲の長さは・・とかいう意味だと、倭人伝の文章から読み取れると、あなたはそう主張するわけ? >>631
魏の使いが行ったことがない領域についての伝聞情報をまとめた部分だからだよ。 >>636
伝聞なら伊都国や邪馬台国を含んだ全体の広さが聞けるじゃないか
なぜ、行ったことのない国だけ選んで、しかも方何里じゃなくて周長を聞くんだ?
不合理この上ない 自分で確認した距離と、伝聞の距離では、情報の信頼性が違う。
帯方郡から一万二千里で邪馬台国というのは自分が通過した確かな道程だからね。 >>639
だから何なんだ?
あなたの言ってるような話が
參問倭地
絶在海中洲島之上
或絶或連
周旋可五千餘里。
という文章から読み取れると、本気で思ってるわけ?
いっぱい矛盾してるのが分からない? 実際に見た情報と伝聞の情報を分けて書くのはすごく合理的だと思うよ。 >>641
どこが合理的?
通った国々だって外周を回ったりしてない
ってことは、末盧や伊都のことも聞かないと
ダメじゃないか >>612
>烏奴国(穴門)→奴国(筑紫)
>奴国(筑紫)の東、穴門との間には不彌國があったんじゃないの?
あったけど問題ない。実際に経由してるんじゃなくて説明だから。
>穴門は、戸数道里も分からないほど、遠いの?
そうだよ。
「戸数道里も分からない」ってのは
実際に経由した投馬国と到着地の邪馬台国の2箇所を例外として
北九州(対馬から不味まで)以外の全部だよ
>斯馬國が糸島のシマだというなら、そこから穴門まで回るのに、
そんなことは言ってないが? そんな仮定いらんだろ?
>それなのに奴国のすぐ南に狗奴国があるの?
倭人伝にそう書いてるじゃんw
狗奴が熊本県で奴国が福岡県だろ。熊本県は福岡県の南にあるよ?
>こういうのは、矛盾してるって言わないのか?
あなたの勝手な脳内前提からすれば矛盾だろうけど、知ったこっちゃないね >>643
>倭人伝にそう書いてるじゃんw
>狗奴が熊本県で奴国が福岡県だろ。熊本県は福岡県の南にあるよ?
そういうのは
「倭人伝にそう書いてる」
んじゃなくて、あんたの意見だろ >>624
>「周旋五千里」は奴国から奴国までの倭地周旋の距離ですよ
>倭人伝は同じことについて違う角度から繰り返し説明している。
通ってないから、ルートも距離も分からないといいながら、
一周したら距離は五千里、ですか?
本当に都合のいいことでございますわね! おほほ だからさ、「12000里−韓地7000里=倭地5000里」ってだけのことだろ
深い意味なくね? >>627
> 列史「其山高下周旋三萬里 其頂平處九千里」
> 晋書「又廣州南岸,周旋六千餘里,不賓屬者乃五萬餘」
どちらも既出なんだが、何度も出してくるから何度も教えなきゃいけない
本当にめんどくさい
列子に出てくるのは、「想像上の山」で誰もその実在は見ていないけれど、
山すそは三万里っていう話
一応、周旋を周囲の長さで使っている用例ではあるけれど、
現実の地理、旅程記事の参考になるかといえば疑問
晋書の「廣州南岸,周旋六千餘里」は、どうみても一周してないだろ?
広州の南岸って言ったら南シナ海に面した海岸で、そのうち六千里分の範囲に
従属しない者が五万戸余りって話なんだから、一周していない方の例 >>621
>初めて聞く説だよ。
>具体的にどこがどこ?
水行の起点を帯方郡に戻しちゃうような説の人以外には、
ほぼ当たり前の話だよ
だから、(陳寿の認識では)投馬国も当然、邪馬台国より北になる
そして、次有斯馬國以下は、自女王國以北に入らない、南側の国ということになる 廣州南岸って1200kmくらいだな
六千餘里だと倍くらいあるから周辺一周じゃね 人が住んでるんだから線じゃあないわな
幅があるんだろうから、それを表してるんだろ >>643
これ、君のレスじゃないの?
>>612
>斯馬國が糸島のシマだというなら、そこから穴門まで回るのに、 >>647
対馬海峡で三千里取られて、倭地は残り二千里しかないよ。
福岡県内だけで邪馬台国の傍国30カ国を比定するのは無茶かと。
せいぜい佐賀、長崎は入れたい。 >>653
>これ、君のレスじゃないの?
>>612を書いた者だが、>>643は違うよ
私が書いたのは「>>574、>>586、>>598、>>612」 >>656
>対馬海峡で三千里取られて、倭地は残り二千里しかないよ。
短里とかいうトンデモを持ち出さなければ、
二千里あれば神奈川あたりまで行けるよ
二千里しかっていうような距離じゃない
>福岡県内だけで邪馬台国の傍国30カ国を比定するのは無茶かと。
つまり、短里を想定するのは無茶だってことだろ?
>せいぜい佐賀、長崎は入れたい。
で、その矛盾を糊塗する目的で、新たな妄想が始まる訳だ
「入れたい」ってなんだよw
「根拠なしのご都合主義」以外のなにものでもないじゃないか >>659
帯方郡と狗邪韓国を除いた朝鮮半島が方四千里だろ?
そんなに大きい里のはずないだろ。
畿内説にそぐわないから、順番も里程も意味がないと言いたいんだろう? >>638
>しかも方何里じゃなくて周長を聞くんだ?
倭人から聞いたのは
「絶在海中洲島之上 或絶或連」
「周旋可五千餘里」は倭人の話から魏使が推測したの。
>>646
「周旋可五千餘里」は奴国から奴国までで傍国経由
分かってる末廬國から不彌國間の平均距離は700/3里
傍国の国の間もこの平均距離と同じくらいとすると
700/3里×21=4900里
これに奴国と不彌國間の100里をたして5000里と推測できる。
>>647
それなら「周旋五千餘里」で可はいらない。 そうやって周旋の道のりを推定したのか!
こりゃ驚いた。
しかし納得したよ。
魏志倭人伝は大変数値にこだわって書かれているのだな。 >>660
>そんなに大きい里のはずないだろ。
これから分かることは、
「里で示された長さは、正確ではない」であって、
「短里(または東夷伝里)があるんだ」にはならないってこと
公定尺がある世界で、それ以外の長さを注釈抜きで使うという想定が
そもそもおかしいんだよ
実際、短里とか東夷伝里とかいう長さが、人によって違うし、
根拠も人によって違うし、末慮国ー伊都国間と伊都国ー奴国間ですら、
長さが3〜6倍異なるし、「決まった長さの尺度」としての短里は
定義もできないし、それを前提に論旨を組み立てても無意味 >>663
魏志倭人伝は内容を聞かれても答えられるように元々は数字も辻褄もキチンと合ってたんだよ。
転記の際に少し誤記とかあったのと、無理に畿内に持って行きたい人が滅茶苦茶な読み方をしてるだけ。 >>664
>根拠も人によって違うし、末慮国ー伊都国間と伊都国ー奴国間ですら、
>長さが3〜6倍異なるし
これは嘘だな
末慮国に着いた場所を名護屋浦とし、次の伊都国を筑前深江、奴国を日向峠付近とすればほぼ誤差は無い。 >>664
>公定尺がある世界で、それ以外の長さを注釈抜きで使うという想定が
>そもそもおかしいんだよ
魏志倭人伝を無視してそんな議論をするな。
東夷では里も尺も咫も歩も、中華とは違う基準を使っていたんだよ。 >>666
奴国を山にするのは無理がある。
深江を末盧国、日向峠の麓を伊都国でどうだろう。 >>666
「ほぼ誤差は無い」って?
そう逆算で合わせただけだろ
馬鹿じゃないのか? >>660
>そんなに大きい里のはずないだろ。
これから分かることは、
「里で示された長さは、正確ではない」であって、
「短里(または東夷伝里)があるんだ」にはならないってこと
公定尺がある世界で、それ以外の長さを注釈抜きで使うという想定が
そもそもおかしいんだよ
実際、短里とか東夷伝里とかいう長さが、人によって違うし、
根拠も人によって違うし、末慮国ー伊都国間と伊都国ー奴国間ですら、
長さが3〜6倍異なるし、「決まった長さの尺度」としての短里は
定義もできないし、それを前提に論旨を組み立てても無意味 >>670
>そう逆算で合わせただけだろ
記述と合うように考えるのは当たり前だろ
自分が勝手に場所を決めて合わないと言う方が頭おかしい。 >>668
>奴国を山にするのは無理がある。
奴国の国境までの距離ですから
奴国の国境が山なのであって奴国が山ではない。 >>672
>記述と合うように考えるのは当たり前だろ
お前、異常に頭が悪いな
倭人伝の記述に逆算で合わせたなら
「ほぼ誤差は無い」
って発言がまったく無意味だ
というか、合ってることに価値がない 某Y遺跡のコント
古代史ファン「すごい。倭人伝に書かれてるとおりの遺跡だ。
ここが邪馬台国に間違いないですよね」
園管理事務所「そりゃもう。倭人伝のとおり復元しましたから」 >>656
>対馬海峡で三千里取られて、倭地は残り二千里しかないよ
そうだよ、それで合ってる。
>福岡県内だけで邪馬台国の傍国30カ国を比定するのは無茶
いや、俺は畿内説だから傍国30カ国は奴国以外すべて本州だと思ってるよ
倭地の五千里の内訳は
(1)邪馬台国までの場合
狗邪韓国〜壱岐〜対馬〜不弥が三千里、不味〜投馬〜邪馬台が二千里
(2)女王国(奴国)までの場合
狗邪韓国〜壱岐〜対馬〜末盧が四千四百里、末盧〜伊都〜奴国(女王国)が六百里
ちなみに周旋はもちろんぐるっと一周するって意味ではないw
>>662
>それなら「周旋五千餘里」で可はいらない
魏志倭人伝の里数はすべて概数なんだから「可」の字があってもなくても同じだろw >>675
>というか、合ってることに価値がない
記述と合ってるってことは正しいってことで
合わないってことは間違った考えをしてるんだよ
君が勝手に決めた場所が違っているんだよ
君の考えが価値が無いんだよw >>677
魏志倭人伝の里数はすべて概数なんだから「可」の字があってもなくても同じだろw
可は推測を示しているから全体を知らないで
一部の情報から全体を推測している時に使われている
有は確認された情報ですから同じ概数でも信頼度は違いますね。 >>675
畿内説の人は魏志倭人伝の記述が現実と一致してると指摘すると辻褄合わせだとか言うんだよね〜
魏志倭人伝は支離滅裂で陳寿は狂人にしたいらしい。 >>678
>記述と合ってるってことは正しいってことで
>合わないってことは間違った考えをしてるんだよ
だから記述に合わせました?
あほですか
ぞれでは検証にならない >>680
あのなあ
魏志倭人伝に1里が何メートルか書いてあるか?
書いてないだろ?
あんたらのやってることは
「魏志倭人伝の記述が現実と一致してると指摘」じゃなくて
「魏志倭人伝の記述を俺様が解釈したものが現実だと主張」なんだよ
つまり
「記述と合ってるってことは正しいってこと」じゃなくて
「俺様の言ってることは正しいってこと」なの
学問じゃない世界に生きてるんだよ それを証明してやろうか?
「末慮国に着いた場所を名護屋浦とし、次の伊都国を筑前深江、奴国を日向峠付近とすればほぼ誤差は無い。」
を具体的な数字で「ほぼ誤差は無い」ことを示してごらん
できないから >>681は頭おかしい
辻褄が合うってことは正し読み方で
辻褄が合わない読み方は間違ってる
この理屈が理解できないの?
君の考えでは矛盾するってことは君の考えてる各地点が間違ってるってことだよ
記述に合わせないで何に合わせるんだよ? >>682
1里80mが何処から来たのかは分からないが
現実に東夷伝では1里約80mくらいで解釈すると現実と一致するってことだよ
これは否定できない現実だよ。 >>682
学問は現実を基に考えるんだよ
自分の都合よく現実を捻じ曲げではいけないよ。 彼は推論には公理からの前向き推論と
仮説からの後向き推論があるのに
後者を認めないという不見識な人なんだよ。 >>686
講釈ばっかり言ってないで
合うって証拠を出してみせろ >>688
>仮説からの後向き推論があるのに
>後者を認めないという不見識な人なんだよ。
推論の先に検証がないと
誰も認めないよ。 >>689
辻褄を合わせてるんじゃなくて
辻褄の合う答を考えてるだよ
辻褄の合わない答じゃ話にならない。
>>690
全て辻褄が合えばそれが正しい証拠ですよ。 >>683
1里=80mとして
名護屋浦〜筑前深江、約40km(500里)
筑前深江〜日向峠付近、約10km(125里≒100里)
こうゆうこと? 破賊文書旧以一為十
及淵上首級如其実数
戦果を記す時は実数の10倍で記すのが常
史書を編纂する時、その数を10分の1に直す必要があるが、時と場合によってはその報告のまま記載する
韓伝、倭人伝は東夷を服属させた司馬懿の功績に手をつけることを恐れたため、数(里数、戸数)を報告のままにした >>694
馬韓10万戸は1万戸?
そんな馬鹿なw >>696
高句麗 方可二千里 戸三万
3万戸/2千里=15
夫餘 方可二千里 戸八万
8万戸/2千里=40
韓 方可四千里(四百里)
馬韓 総十万余家(一万)
弁辰 総四五万家(四五千)
15万家/4千里=37.5
(1万5千家/4百里=37.5)
面積は100%誇大なので面積を直さない場合
15万家/4百里=375
当時の日本の人口予想が約60万人
韓の家が平均4人以上なら、半島南部だけで日本の総人口を上回る計算 >>697
自己レス訂正
面積は100%誇大なので面積を直さない場合
↓
面積は100%誇大なので面積を直して家数を直さない場合 >>697
>当時の日本の人口予想が約60万人
それ間違いですね、3世紀だと200万人〜300万人くらいですよ。
約60万人は魏志倭人伝を誤読して出した数字ですよ
魏志倭人伝を1/10にしたら日本は6万人ってことになってしまいますよ。 古文書の記載内容が100パーセント正しいという保証がないのに
古文書と辻褄が合うから俺様の解釈は正しいとか言っちゃう伊都クズには
歴史学を研究することは死んでも無理 大体、萬二千里ってのが中華世界の観念で、世界の果てまでの距離
最遠地からの朝貢国に、その辺の数字を当ててるだけ
だから、大月氏国と、倭国では、中原からの距離が全然違うのに
どちらも萬二千里程度に揃えられている
倭国が朝貢できるようになったのが、司馬懿の公孫氏討伐の結果であるとして
晋朝の始祖を顕彰する目的もあって、「戦火を過大に」の文脈も込みで
数字が盛ってあるんだよ
盛ってある数字をもとにして、現実の方をいじくって辻褄を合わせるのは
意味ないって!
距離の辻褄を合わせるために、ろくに遺跡も出ないようなところを、
ここが末慮国でござい、ということに何の意味があるのか?
そして、そこまでしても、方角はどうやっても合わないww
畿内説の南⇒東の読み替えを認めないというためには、
方角は絶対に正しいといわなきゃ行けないのにw 邪馬台国の七万戸も一戸5人なら35万人で日本の総人口の半分以上
魏志倭人伝記載の戸数計14万9千戸で日本の総人口は軽く超えて、狗奴国も傍余国も倭種の国も全部存在できない
壱岐島三千家はあの狭い島に日本の総人口の約1/40もいる計算になる
奴国は東西百里(十里)に10万人も人間が存在することになる >>700
>>701
魏志倭人伝を全否定ですかw 当時の観念とか常識とかをまったく無視して
古代人も近代以降の合理的思考をしてると
無意識に決めつけてる人が九州説には多い 史料批判を理解できず、すぐに全否定と極論する伊都クズに歴史学は無理 >>699
3世紀300万人というのは初耳だ
何を見ても50〜70万人とあるが
魏志倭人伝は日本の一部の地域のことしか書いてない
魏志倭人伝の戸数=日本の総人口ではない
戸数÷10、一戸=5人なら
九州北部地域人口19750人で割と正確な数字だと思うが >>702
>壱岐島三千家はあの狭い島に日本の総人口の約1/40もいる計算になる
壱岐の人口は現在でも3万人くらいですね
文書記録の残ってる範囲でもだいた15000人で推移してますから
3世紀から近代まで壱岐の人口は15000人だったみたいですね。
>奴国は東西百里(十里)に10万人も人間が存在することになる
奴国を東西百里で通過して次の不弥国に着きますけど
奴国の中心地は博多湾沿岸で東西百里で通過したのは南の端でしょうね
現在の福岡市南部をかすめて春日原市や筑紫野市方面に抜けたんだと思います。 >>707
>何を見ても50〜70万人とあるが
この数字は根拠が示されてないんですよね。 >>701
だから数字を盛るにも法則がある
法則なしに盛ったら実数がわからなくなる
淵さんはその法則に則らず盛らなかったため、撃破数10分の1判定受けて戦果少なしと怒られそうななったが、事情により逆に褒められた >>705
君のやってることは資料批判じゃなくて
資料改竄。 >>704
昔の人を馬鹿にしたらいけないよ
君よりも合理的な思考をしていた人も多かったんだよ。 >>708
明治の総人口4000万人の時に3万人と比べて60万人の時に1万5千人はおかしいだろ
良田少ないのに
>>709
McEvedy &Jones 、鬼頭宏、Birabenの研究による
して、300万人は誰の研究? >>711
やっぱり史料批判を理解できないんだな
>>712
やっぱり歴史学には向いてないね >>703
>魏志倭人伝を全否定ですかw
「魏志倭人伝には正確ではない部分も当然にある、それが史料の限界」というと
「魏志倭人伝を全否定」に脳内変換されるのは、やばい仕様だなww
逆に、魏志倭人伝の記述は100%近く正しいという方が、おかしいとなぜ思わない?
そんなんだから、距離合せの辻褄合せで、現実的ではない国の配置を考えるように
なるんだよ
その辻褄合せの上でも、どうやっても方角が合わない
でも、魏志倭人伝はとにかく正しいと主張する
科学とは程遠いよな 「辻褄が合った」というのは「失格にならなかった」というだけで
正しいことの証明になんか全然ならない
ましてや辻褄が合わせられないんでは
正解なんて夢のまた夢 だな >>681
>だから記述に合わせました?
>あほですか
苦しくなると罵倒?
あなたが勝手な論理を持ち出して、魏志倭人伝はあてにならないと叫んでも、意味がない。
魏志倭人伝に合わない纒向は、邪馬台国ではない集落であるというだけのこと。 >>679
引用符つけろよ
テメエのツッコミと俺の元発言の区別が初見者にわかんねぇだろうが
>可は推測を示しているから全体を知らないで
>一部の情報から全体を推測している時に使われている
>有は確認された情報ですから同じ概数でも信頼度は違いますね
だから何?
万二千から韓地七千をひいただけなんだから
まさに「一部の情報から全体を推測している」わけじゃん
何が問題なのかわからんね >>721
どこが苦しいの?
辻褄合わせはダメ
って常識そのものの指摘受けて
理解できなきゃ
AHO
当然の評価だ >>721
>苦しくなると罵倒?
罵倒しているというレッテル貼りですか?
>>721が、やるべきことは、
「辻褄合せではなく」
「きちんとした論拠のある」『論証だ』ということを
説得力をもって示すことですよ!
さあ、がんばれ! 一番笑えるのが
「説明ついた」
「合理的だ」
がぜんぶ自己申告な点について
周旋が、一種してもとの場所に戻るという意味ではない、
というのは定着してきたかな?
こういう言葉の意味をきちんと押さえていかないと、
共通認識を持って話をすることができないからね >>724
つか、どこが苦しいの??
ってさ、ここ、笑うとこだよね >>720 ぐらいから連投している畿内説の人は、>>677 の人ですか? >>723
ねつ造や改竄して無理に辻褄を合わせてるんじゃなくて
記述に合うところを探してるだけなんですけど
記述に合うといけないとか訳の分からない言い分だな。 >>717
そんなことを謂うなら邪馬台国論争なんてしない方がいいよ。 >>714
壱岐は3世紀に開発がほぼ終了してたってことだな
8世紀から19世紀まで1000年以上15000人で推移
その500年前も15000人(三千家)だったってこと。 >>732
魏書内の東夷伝の里で測っただけ
短里は便宜上の言葉。 >>735
いや、日韓貿易のルートから外れたのが大きい
もともと人口をまかなえるだけの田畑がなかったことは倭人伝の記載にあるとおり >>726
>周旋が、一種してもとの場所に戻るという意味ではない、
周旋は一周の距離ですね、一種してもとの場所に戻るという意味ではないですね。 >>737
魏書内に「東夷伝の里」なんてものがあると言う根拠は? 名無しでわかりにくいので、>>728 で確認したら >>730 のレス。
>>九州王さん
畿内説の人とは、もう普通にコミュニケーションを取るのも困難な状態ですね。
がっかりです。 >>742
事実ですからね
現実を見たくない気持ちは分かりますけど。 岡上さんがなにか罵倒しました?
訳も無く罵倒してるのは畿内説の人に思えますけど? >>744
ウソついて自己弁護するのはダメだよ
「>>720 ぐらいから連投している畿内説の人は、>>677 の人ですか?」
は確認じゃなくて
理由のない決めつけとゆえもない非難ね
だって、最初から相手が一人と決めつけてるもの >>744が>>748と一人二役に見える件について 「>>720 ぐらいから連投している畿内説の人は、>>677 の人ですか?」
は確認じゃなくて 理由のない決めつけとゆえもない非難ね
コミュ障wwwww >コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
>糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる 全岡上病ですね。どんどん重篤化してますよ。
単なるレスの確認が罵倒に感じるとか、正直ちょっとマズイです。 単なるレスの確認だと言い張るあたりがもう、正直ちょっとマズイ重篤化 対海国が対馬、一支国が壱岐なのは確定として
そこを千余里としているのだから
一里が何kmかは大まかにわかるだろうに
何をぐだぐだやっているのか >>729
>ねつ造や改竄して無理に辻褄を合わせてるんじゃなくて
いやいや、そもそも短里あるいは東夷伝里というのが捏造なんですよ?
>記述に合うところを探してるだけなんですけど
これがそもそもおかしい、候補地というものがあって、それが妥当かどうかを
いろいろな側面から見ていく、というのが普通の探求の道筋
そのいろいろな側面の中に、魏志倭人伝の方位や里程と合うか、という項目がある
逆に、そうした作業によってのみ、魏志倭人伝の方位や里程の妥当性も
判断されていく訳だ
それを、魏志倭人伝の記述は正しいと「最初に決めてしまって」、
それに「合う場所」を「探す」というのが本末転倒であり、
それを用いた論証は自己言及の循環論法にしかならない
>記述に合うといけないとか訳の分からない言い分だな。
記述に合うのはいいんだよ
独立した根拠から導かれた候補地が、記述に合うのはクロスチェックで
正当性を担保する正しい探究の方法
だけれど、遺跡も何もない場所に、ただ単に記述に合うからといって
比定地を「持ってくる」のでは、何の妥当性も正当性もない、という話 >>759
そんな帰納もしない非科学的想像
ど素人以外は洟も引っ掛けないのが普通 >>759
>対海国が対馬、一支国が壱岐なのは確定として
>そこを千余里としているのだから
>一里が何kmかは大まかにわかるだろうに
海の上は、三角測量の基点も置けないし、実際一日の行程を一律で
千里としているのが見て取れる
明らかに、壱岐〜九州島は、対馬ー壱岐間よりも近いけれど、
同じく千里とされてるだろ?
距離の記述が陸と海とでは別体系だし、それを根拠にしても何も得られないよ
対馬の大きさをどう評価するかによっても変わるし >>763
>九州王以外使ったこと無いですけど。
九州王名義で書き込むときは、九州王以外使ったことがないんですよね!
分かります! >>759
私もそれで良いと思います。
万二千里でつく女王国は明確に九州北部を出ることはないとの意見です。 >>764
>対馬の大きさをどう評価するかによっても変わるし
方四百里とかじゃないことは確かだけどねー >>764
遠く離れた国の話じゃなくて天気が良ければ目視できる距離だろ
昔の人はそんなに距離感がなかったのか?
>明らかに、壱岐〜九州島は、対馬ー壱岐間よりも近いけれど、
>同じく千里とされてるだろ?
壱岐〜九州島が千里とは書かれていないだろ? お鏡さんには、ぜひ連続句読点男を最大限に批難してほしいな
あれだけいろんな邪馬台国関連スレに出没して迷惑かけまくっているのに、
このスレには出てこないし、きっとお鏡さんの威光には敵わないんだと思うんだ
あの迷惑なやつに対する、お鏡さんの批評を聞いてみたい! >>768
>壱岐〜九州島が千里とは書かれていないだろ?
んでは末盧国はどこ? >>762 さん
そうですか。じゃあ、>>720の人が単に危ない人か。すみませんでした。
ところで、なぜ、>>677では、奴国が女王国と考えてみる必要があったのですか?
畿内説を自称しているのに奴国を女王国と考えるのは、私と考えと似てるところが
ありますよね。 >>768
>壱岐〜九州島が千里とは書かれていないだろ?
書いてないけれど、末慮国までとは書いてあるよな?
通常の末慮国の比定地である唐津平野まででも、対馬〜壱岐間の六掛けくらいの
距離しかないんだが?
それを距離の辻褄合せのために、名護屋浦を末慮国にしてしまうと、
もっと距離が縮まるww
辻褄合せは、いろんなところで破綻するんだよ 周旋が一周ってまだ言ってる人へ
渤海之東不知幾億萬里,有大壑焉,實惟无底之谷,其下无底,名曰歸墟。
八絃九野之水,天漢之流,莫不注之,而无撈ル減焉。
其中有五山焉:一曰岱輿,二曰員嶠,三曰方壺,四曰瀛洲,五曰蓬萊。
其山高下周旋三萬里,其頂平處九千里。
これを、現実の地理の参考にするのかい?
広州南岸の方は、どうやっても一周するような場所じゃないだろ?
周旋でいろいろよりながら行く、という意味の例でしかないぞ >>773
洋上の距離は陸と違って実測できないので不正確ですね。 >>774
>他は別人ですよ。
匿名掲示板での本人申告には、はあそうですか、以上の意味は持たせられないって事
で、>>774は「九州王」の人の書き込みなのかい?ww
九州王名義以外でも書き込んでることになるね
匿名に紛れることはいつでもいくらでも可能 >>735
弥生遺跡を見て既に開発が終了したと思うの?
弥生時代と明治時代で同じ暮らししてたんだ?
壱岐の人馬鹿にしすぎでしょ
ちなみに博多は石清水文書に仁平元年(1151年)に1600家とある
博多は奴国より狭い範囲を指すとは思うが
900年後でも1600家と考えると10分の1は妥当だろう >>771 >>773
末盧国を点と考えずに沿岸一帯の線と考えて
その線の中にある上陸地点までを千里と考えればよいのでは
というのが俺の今のところの考え
そして上陸地点を糸島半島の付け根つまり伊都国との境界と考えれば
航海の安全の点からも、上陸してから伊都国へ東南方向へ進むのだから
できるだけ東へ進んでから上陸するのが自然だと思われる点からも
妥当なのではないかと思っている >>772
お鏡さん、ひとさまを
危ない人とか
根拠のない罵倒してるな >>778
遺跡なんて一部しか残ってないですからね
壱岐は3世紀には日本で一番開発が進んでたんでしょうね
その後は停滞。 >>779
上陸してから伊都国へ東南方向へ進むって
何メートル? >>781
じゃあ壱岐にはまだ見つかってないとんでもない高度な遺跡があるんだねえ
証拠も数字も出さないから説得力ないけどねえ
ところで博多1600家はどう言い訳する?
日本の弥生時代の人口300万人というのは誰の研究? >>691
最低限、辻褄が合ってないと検証する価値はないよ。
キナイセツは辻褄合ってないけどね。 >>705
全否定してるのがキナイセツなのだが
自己紹介し過ぎじゃない? 最低限の研究のルールを踏まえてないと検討する価値はないよ >>760
思考が倒錯してるよ、あなたは考古学板にこもってなさい。 >>782
糸島半島の下を通って福岡平野に出てそこから東南へ行く
35kmくらいで太宰府に行く
ちなみに対馬ー壱岐は大雑把に60km
壱岐から東松浦半島〜唐津〜糸島半島と海岸沿いに進んでこれも大雑把に60km 基本ルールを知らないから自分のおかしさを自覚できないんだろうな>>糸グズ >>773
>通常の末慮国の比定地である唐津平野まででも、対馬〜壱岐間の六掛けくらいの
距離しかないんだが?
末慮国は福津辺りだから、対馬〜壱岐間と同じ千里だよ。 @阿波 研究ルールの前に対話のマナーがなってない人は落第ですね。 >>795
マナー以前に
他人と対話が出来んだろ
コミュ障フィリアとか 思い上がりがとんでもなく甚だしい奴がいるなw
曰く、俺の考えはこれまでの研究者の考えすべてを凌駕する!
…ただの既知害だよ 曰く、俺の説が理解できない奴はみんなコミュ障だ
説明はしない、とか >>800
これまでの研究者の考えがどれだけ正しいと言えるの?
どんな考えも仮説止まりにしかならない状況の下で
思い上がりなどと言う方が思い上がりだろうに >>805
そういうセリフは方法論を理解してからどーぞ 人文科学って、先人の築いた業績の山の上に、さらに積み重ねていこうって学問なんだよ
先人を無視して登ることはできないんだよ >>805
この明らかに異常な、裏付けのない
上から目線が特徴 これが「歴史的新発見じいさん」だ!
この板的には「62病患者」かな 倭人伝と記紀をかじった程度の知識と情報収集はもっぱらネット検索か一般向け書籍といった程度の素人の思い付きで
定説をひっくり返すような学問的成果をあげられると思ってしまう時点でかなりのメンヘラと言わざるを得ない >>772
>>720の発言自体は格別にあぶない人だとは思わない
ただ、匿名掲示板ではどの発言が同一人物なのか把握し難いから
>>720氏の説の全体像もよくわからないので彼に賛成も反対もない
>なぜ、>>677では、奴国が女王国と考えてみる必要があったのですか?
>奴国を女王国と考えるのは、私と考えと似てる
孫栄健の『邪馬台国の全解決』初版を36年前に読んで
一万二千里が奴国だとの着想に感心した、むろん100%賛同したわけではないが。
ただし魏略や広志、その他魏志の写本とかで女王国を「女国」と誤った例や
奴国を「女国」と誤った例があったのでそれなら
「女王国⇔女国⇔奴国」という誤認過程がありうると思った
(奴国は男王とは敵対する卑弥呼派なので結果的には女王国(の一部)でもありうるが)
従って俺は「卑弥呼が奴国にいた」と考えてるわけではない >>814
5chの書き込みにそこまで反応する方がかなりのメンヘラと言わざるを得ない >>775
一周するんじゃなくて範囲を示してるんだろ
一周の距離。 >>816
5chでムキになって書き込んでる伊都クズさんや
連続句読点さんに言ってやってください >>815
レス有難うございます。
「女王国⇔女国⇔奴国」という誤認過程というのも面白そうではありますね。
畿内も日本海ルートで読まれている方?でもあるのでしたら、
結果的には私に近いところにいる考えではあると思いますよ。
気が向けば、私の小論も読んでみてください。
やたらと隠れ九州説と言われますが、日本海ルートで旅程記事を読む点は一切動いていませんから。 九州説は日本語が…いや、やめて置こうw
つか日本語云々じゃなくて三点リーダーも打てない人が約1名いるおw >>824-825
漢文読めないのは伊都クズの方だということは明らか 畿内説の人はせっかく用例出しても意味が分かってない。 用例出さずに「八咫ガー」「八咫ガー」と妄想連呼してるくせに >>781
つまり壱岐>>>纏向ということだな
壱岐1つ超えられない纏向の何が王都か >やたらと隠れ九州説と言われますが、
>日本海ルートで旅程記事を読む点は一切動いていません
え、畿内説だったの? >>833
そうですよ。
本スレでもずっと日本海ルート読みを主張してましたし、今もそこは不動ですよ。
ま、このスレの趣旨は、伊都国東遷ですから、そこはあまり強調しませんが。 「岡上説」の目玉として、日本海ルートでしか読めない魏志の新しい読みがありますから。ま、読めばわかりますよ。 あー、畿内説というよりは「東遷説のバリエーション」なのかな
東遷説はどっちかっていうと畿内説よりは九州説の一種っぽくはあるw
(卑弥呼の段階ではまだ九州にいたって説がほとんどだから) >>832
3世紀に日本で一番開発が進んでいた地域=日本で一番の都会で先進的ってことなんでしょ?
おれは違うと思うけど >>839
そうだとしても開発=都会という発想が現代的で不適当だぞ >>840
いいから300万の研究と、壱岐15000の妥当性を示す資料を出せよと 古代中国人の地理観だよ
遠国の難路ほど遠く長く感じて当然だ >>844
「又廣州南岸,周旋六千餘里,不賓屬者乃五萬餘戶,及桂林不羈之輩,復當萬戶。」
廣州南岸から桂林などの内陸までの周旋六千餘里の広範囲のことだな。 日本史板も割とおかしいが、そこでおかしな人は考古学板へ、と言われるのは、どんなに酷いところなんだろうと思ってしまう。 >>797
九州王さん、キャラがぶれてますよ
そういうぶっきらぼう系の書き込みは、キナイコシ連呼の伊都クズさんですよ!
間違えないようにしましょうね! >>849
用例があれば、その解釈なり訳なりが、個人の思い付きではないことを示せる >>846
>廣州南岸から桂林などの内陸までの
説明に詰まると、どこにも書いてない「謎のオレ様読み」を持ち出すのは
何の意味もないことを理解しようね?
南岸と書いて内陸まで含むって、字面からしておかしいと感じないのかな? >>849
用例を出す必要がないと思ってるなんてどんだけ傲慢なんだか >>852
この「廣州南岸」は内陸も含めたものだよ
5萬戸が海岸に張り付いているのよ
続く分に「及桂林」ったるだろ。 >>850
魏志倭人伝に三千家とあるだろ
一家を5人として3000×5人=15000人ですね。 >>854
>この「廣州南岸」は内陸も含めたものだよ
>5萬戸が海岸に張り付いているのよ
>続く分に「及桂林」ったるだろ。
漢文読めないのに無理するなと何度言えばww
又廣州南岸,周旋六千餘里,不賓屬者 乃五萬餘戶,
及桂林 不羈之輩,復當萬戶。
こう書けば理解できるか?
広州南岸の周旋六千餘里の範囲に五萬餘戸
桂林に万戸
という並記だぞ
周旋六千餘里は、広州南岸のみの説明で、桂林にはかかってない >>853
>用例を出す必要がないと思ってるなんてどんだけ傲慢なんだか
傲慢なんじゃなくて、「ない袖は振れない」のをごまかしてるだけw
論証の体をなしていないのを、如何にしてごまかそうかと腐心してるだけだよww >>834
>ま、このスレの趣旨は、伊都国東遷ですから、
でも大事なはずの「10月10日」の話も一切しなくなったよなww 廣州の南の海岸線は六千餘里もないし
周旋六千餘里は、広州南岸地域のみの説明でも
桂林にも及んでいるんだから内陸も含めてますよ。 用例方法論は肯定できても否定はできんよ。
銀の弾丸でも伝家の宝刀でもない。 >>799
論理が倒錯してることに気がつかない脳認知障害の人とかね。 >>848
本来、考古学的な論理を日本史板で振りかざすから、板違いと言われて考古学板に誘導されてる状況ですよ。
考古学板は考古学板で、本来の考古学的な話ができない状態ですけどね。
考古学板の纏向スレは良かったんだけどなぁ。 >>860
>廣州の南の海岸線は六千餘里もないし
だったら、広州南岸の約1200kmが六千里に合うように、
「晋書広州里」を考えればいいんじゃないの?
一里200メートルくらいになるかな?
東夷伝里っていうのは、そういう「論理(笑)」だぞ?
こうやってみると、バカな話だなと思わないかい?
僻地のことは、距離がいい加減になるんだよ >>860
>周旋六千餘里は、広州南岸地域のみの説明でも
>桂林にも及んでいるんだから内陸も含めてますよ。
桂林の話は別に書いてあるだろ?
完全に対句になってるんだから、紛れようがない
広州南岸地域のみが周旋六千里の範囲で、一周はするような地勢ではない
内陸の桂林は別の記述なんだから、「次に」桂林が書いてあるからといって
内陸まで周旋はしない
魏志倭人伝でも、伊都国と邪馬台国は別に書いてあるのに
同じ場所だとか言い張るのと、「同じ方向に間違った読み方」だよな >>862
>用例方法論は肯定できても否定はできんよ。
>銀の弾丸でも伝家の宝刀でもない。
誰も否定しようとはしてないだろ?
根拠にならない、使えない、っていってるだけだよ 出た!
コミュ障フィリアの人!ww
「言いたいこと」があって、その根拠が漢文のとある部分の読み方
そこで、その漢文の読み方の妥当性を検討するために用例を多数検討して
帰納的判断をするのが用例方法論
用例方法論で、根拠の妥当性(この例で言えば漢文の読み方)が認められれば
「言いたいこと」は肯定できる
一方で、用例がなければ、それは根拠にならないし「言いたいこと」の真偽は
宙に浮くことになる
こっちが言ってるのは「言いたいこと」は否定してないよ ってこと
コミュ障以前に、>>868は日本語の読み取り能力が低いんだからw
コミュ障フィリアの人は、まともな返しができないからお気に入りの
一語またはワンフレーズでごまかしてるんだろ?
で、今のお気にがコミュ障ww >>866
日程記述部分は
別資料参照説をとるなら、あり、ですね
元資料がわからない限り起点等は謎ですが
里数→日程部分の解釈については、不弥国で「東行」の記述があるから行程は終了とする岩元説に賛同 おや?
用例方法論を正しく認識している人としていない人で2人いるようだな。
少なくとも正しく理解できてることがわかって一安心だ。 せっかくお鏡さんが、伊都国東遷説を世に広めようと思って立てたスレなのに
>>871のようなごみコメで、どんどん無駄に埋まっていくww まあ、お鏡さん自身、基本的に放置で、偶に出てきても畿内説に文句言うだけだから
本人も伊都国東遷節なんて、どうでもいいと思ってるんだろうけどさww >>869
お前さんは自分のルールを他人に押し付けすぎ。 >>866
及ぶってことは桂林と周旋六千餘里は接近した場所だよ
広州南岸地域じゃ桂林と離れすぎ。 >>861
私の説は
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国) 岡上の馬鹿もそろそろ熱冷めてきたのかな?
こうやってある日思いついてアイデアで
「俺は古代の謎を解明した!」
と勘違いして一気に突っ走ってHPブログ
あるいは身銭はたいて自費出版
世に認められる一大センセーションを引き起こすと夢見たが
もちろん世間からは一顧だにされず
こんな場末の掲示板でも叩かれるだけ
やがて本人の熱も冷めて消えていく・・・
もう数え切れないくらい見た光景 >>859
「10月10日線」自体は、東遷とは直接、関係ないですよ。
「10月20日の日の出」の方も平原と関係あるとおもしろいな、ぐらいの話ですよ。
どちらも岡上説の副産物的なものですが、この辺りの話がしたいなら、
まずは基本的なところを理解してもらわないと話が噛み合いませんから。 倭地周旋五千里の話ですと、だいたい下のように整理できるんじゃないですか?
A 周旋を曲線行程とみるか、ループ行程と見るか
私は、曲線行程が本命サイド、ループが穴馬サイドと思いますね。
B 五千里の範囲に対馬海峡の三千里を含めるかどう考えるか
こちらは、含める方が大本命、含めないのが大穴って感じですかね。
この件に関しては、私は両方とも本命サイドの読みで、伊藤雅文さんの読みに賛成です。 >>889
旧暦というか、暦がそもそも関係ないですよ。
あるのは、夏至からの日数だけです。 当時、夏至からの日数を数えていたという想定する事で、
10月10日や20日の一致が単なる偶然の一致でないことがわかる。
これでは不満ですか?
それとも10月10日もしくは、20日という日、自体が持つ意味ですか?
ご質問は大歓迎ですが、もうちょっと具体的に頂けると助かります。 妄想の上に妄想を積み上げ、さらに妄想を継ぎ足してるだけじゃんか 10月10日もしくは、20日という日、自体が持つ意味です 三輪山から登る太陽を遥拝しようとした点ではどちらも同じです。
より原初的と思われる10月20日は平原での日の出の遥拝を引き継いだものではないでしょうか?(神嘗祭との関連も考えられますね)
それが10月10日に変容したというのは、奈良盆地の地勢によるものでしょうね。
河内方面から三輪山を遥拝しようとすれば、二上山北麓のくびれ部分から見るしかありませんから、自然と地点はある程度定まります。 あなたが何をもって「意味がわかった」と看做しているのか分かりませんが、
いうかですが、私の考えはこんなところです。 山岳信仰の山や巨石文化や神社や古墳といった聖域の類が
夏至線や冬至線の上にならぶのは何ら珍しいことじゃないだろ。
なんでそれが邪馬台国があった証明になるのかわからないね 夏至線でも冬至線でもないですが。
そもそも、これだから邪馬台国は大和だ、なんて論証はしてませんよ。
ずっと副産物と言っていますが。
三輪山と太陽信仰を関連させて考える岡上説が、
結果的に発見した単なる地理的な事実ですよ。 私が任意に地点を選べるようなものでしたらそうでしょうね。 箸墓とその1/2相似形墓の位置が、ちょうど夏至から110日後の日の出の直線重なるになるように、私が決めれるんですか? 古代に正確な距離が測れたという現代人の幻想が、いろんなトンデモ説を産んでるわけだね 伊能忠敬は歩測で正確な日本地図を完成させた
古代に正確な距離が測れなかったなんて現代人の傲慢
この傲慢さが畿内説みたいなトンデモ説を産んでる原因だね。 東夷伝里=75mとして、
東夷伝里の百里=7.5km
目測でも1kmの誤差を出すのは難しいのだから、
東夷伝里は充分に正確。
それだと困る畿内説が、現代のcm単位の地図を持ち出して
トンデモ説を死守しようとしているのだな。 平原1号墓で10月「20日」にお祀りをしているのは
伊都国とは関係ない奴国の領域の『那珂川町の照富神社』の宮司さん
そして、そのお祀りの名前はなぜ宗像大社の海の祭の「みあれ祭」の名称を使っている
宗像大社のみあれ祭は10月1日
どう見ても古い御由緒のある祭ではなく、昭和の原田大六氏の著作が
きっかけのものだろうね
そして前スレ>746で「平原遺跡から見て日向峠のすぐ左にクジフル岳が見えるはず」とか
お鏡さんは書いているが、クシフル山の存在の根拠は昭和初年に「椚」がクシフルの
訛ったものだろうという推測があるだけ
その「椚」も山の地名ではなく、平場の集落の名前
それがクシフルの訛伝だとしても、どのピークに当たるかは不明
クシフル山があるというのは伊都国説の言説の中でしか出て来ないのだが前スレ>886で
紹介されているhttps://blogs.yahoo.co.jp/kwgdr451/GALLERY/show_image.html?id=16858033&no=31
でも、クシフル山から日が昇るのは10月10日とはまったく関係のない、秋分の日よりも前の日
お鏡さん的には、クシフル山は日向峠のすぐ左で10月10日頃に日が昇るって
いう想定なのかも知れないけれど
10月10日と平原1号墓は、どんな関係があるんだ? >>915
前スレ >>746 は、私のレスじゃ無いです。
岡上病を治して、私のレスをしっかり読めばすぐわかると思いますよ。 >>915
>それがクシフルの訛伝だとしても、どのピークに当たるかは不明
あなたがわからないだけ。
地元ではわかっている。 >>918
>あなたがわからないだけ。
>地元ではわかっている。
いや、椚がどこに歩か調べてからいいなよ
今、俗説でクシフル「岳」と呼ばれるなだらかな「ピーク?」と「椚」地区は、
つなげようがないぞ >>917
あー、確かに「お鏡さん」とは書いてないね
で、それはそれとして、
「平原1号墓で10月「20日」にお祀りをしているのは
伊都国とは関係ない奴国の領域の『那珂川町の照富神社』の宮司さん
そして、そのお祀りの名前はなぜ宗像大社の海の祭の「みあれ祭」の名称を使っている
宗像大社のみあれ祭は10月1日
どう見ても古い御由緒のある祭ではなく、昭和の原田大六氏の著作が
きっかけのものだろうね 」
「クシフル山の存在の根拠は昭和初年に「椚」がクシフルの
訛ったものだろうという推測があるだけ
その「椚」も山の地名ではなく、平場の集落の名前
それがクシフルの訛伝だとしても、どのピークに当たるかは不明 」
「クシフル山があるというのは伊都国説の言説の中でしか出て来ないのだが前スレ>886で
紹介されているhttps://blogs.yahoo.co.jp/kwgdr451/GALLERY/show_image.html?id=16858033&no=31
でも、クシフル山から日が昇るのは10月10日とはまったく関係のない、秋分の日よりも前の日
10月10日と平原1号墓は、どんな関係があるんだ?」 >>914
>東夷伝里の百里=7.5km
で、伊都国がどこで、奴国がどこなんだい?
通常の比定地、伊都国が三雲遺跡群、奴国が比恵・那珂遺跡群だとすると
直線距離で17キロくらいになるねぇ
倍も違うよ? 平原で重要なのは、10月20日ですね。
10月10日は、私が箸墓と浦間茶臼山の関係から見つけた日付ですので平原とは関係ないですよ。
貴方が一人で勝手解釈で結びつくと早合点して、10月10日と平原遺跡の関係について騒いでるだけですよ。
流石にそろそろ気づいてくださいね。
まぁ、10月10日も20日も共に夏至からの日数を読んでいただろうという共通点はありますが。 >>921
伊都国は現在の糸島市〜福岡市西区
奴国は現在の福岡市の中央から東
残念だったな。 >>923
倭人伝の記述通りなら
伊都国は現在の糸島市
奴国は現在の福岡市及び宗像市、福津市、古賀市、新宮町、久山町、篠栗町、粕屋町、志免町、須恵町、宇美町
不彌国は那珂川町、春日原市、大野城市、筑紫野市、二日市
でしょう。 >>920
> どう見ても古い御由緒のある祭ではなく、昭和の原田大六氏の著作が
> きっかけのものだろうね 」
調べてから書いたら? >>925
>調べてから書いたら?
調べたよ?
平原遺跡で10月20日に みあれ祭をやっているのは、「糸島市の神社ではなく」
「那珂川町の照富神社」
その平原遺跡でのみあれ祭は、「夜明けとは関係なく午前11時頃から」行われる
「みあれ祭」という名称は、通常、宗像大社の秋季例大祭の海上の祭礼を指す
宗像大社のみあれ祭は10月1日、催行で10月20日には関係ない
また、古い記録も一切ない
これ以上の情報を>>925が調べられたら、書き込んでくれ! だれも持ち出していない糸島のみあれ祭りを持ち出して伊都国を叩くとか、どれだけ悪質なんだろう。 >>922
>10月10日も20日も共に夏至からの日数を読んでいただろうという共通点はありますが。
10月10日で夏至から数えて112日目、10月20日で122日目
どんな特別な日なんだ?
伊都国あたりでは122が神聖数だった、とでもいう新説を唱えるのかい?
平原1号墓では10月20日が大事で、箸中山古墳では10月10日が重要なら、
それこそ何の関係もないんじゃないか? >>923
>伊都国は現在の糸島市〜福岡市西区
>奴国は現在の福岡市の中央から東
で、それのどこをどう測ると、東南陸行百里になるんだ?
なにがどう残念なのか、さっぱりww >>930
>どうやって数えたの?
現在の暦は太陽暦だから、日のずれは1日程度だよ
自分でも数えてごらん それと、平原1号墓推しの人は、通称3号鳥居が何のためにあるのか教えて欲しい >>927
>だれも持ち出していない糸島のみあれ祭りを持ち出して伊都国を叩くとか、どれだけ悪質なんだろう。
前スレ>492でこれを持ち出したのはお鏡さんその人ですが、それが何か?
誰も持ち出してないっていうのは明らかに間違いだね
その間違いをもとに人を批難するのはいかがなものかな?
492岡上 ◆Lv09mLa3HM 2018/05/17(木) 20:04:28.70>>494
>>482
私自身のことは別にいいどうでもいいですが、
平原の日の出の10月20日の話は、早く訂正して、お詫びされたほうがいいんじゃないですか?
峠という地形の特徴も考えずに、地図上の地点で考えてますよね??
柳田先生も含めて、現地で観測している人を舐めすぎじゃないですかね。
https://ameblo.jp/itokoku-hirabaruoubo/entry-12089890824.html
地域の大切なお祭りにもなっているみたいですよ。 あやー、このひと支離滅裂だな
自分の言ったこと忘れて文句言ってるのか もう卑弥呼の都は伊都国で決定していいだろ
問題はその後だな。 >>935
>自分の言ったこと忘れて文句言ってるのか
>>927はお鏡さん名義じゃないから、お鏡さんの書き込みじゃないことになってるよ
だから、自分の言ったことではないことになるw >>936
>もう卑弥呼の都は伊都国で決定していいだろ
>問題はその後だな。
あなたの頭の中で決定する分には誰にも止められませんよ?
ただ、問題はまさにその後で、それを表で言うと、
頭のおかしい人扱いされかねないので、ご注意くださいな! >>938
>糸島のみあれ祭の話とか出てた?
このスレ(と前スレ)には、「糸島のみあれ祭り」という文字列は書いてないけれど、
それを紹介している個人のブログのページを、「お鏡さん本人」が引用して、
「10月20日には平原遺跡の地で地元の人がお祭りしている(意訳)」って書いてるんだよ
まあ、他にはどこにも「10月20日」を支持する情報が見つけられ
なかったからなのかもしれないけれど 同じようにして、平原遺跡から見て日向峠から日の出が昇る時期は何時かを調べることができます。
日の出・日の入り
地図上の平原遺跡をクリックし、年月日を入力、「計算」をクリックすると日の出、日の入り時間と方向が示されます。
「2014年10月22日」を入力して調べると、日向峠が日の出の方向になります。平原遺跡の時代「200年10月22日」でも同じ結果です。
https://enkieden.exblog.jp/d2015-07-26/ なんかまだ脳内の「お鏡さん」とやりとりしてる人がいますね。
いい加減目を覚ましたら??
>928
夏至が6/21日なら110日後が10月9日、6/22日なら10月10日でしょう。
冬至の祭りであるクリスマスが12/25日で数日ずれているんだから、
1日2日なら余裕で許容範囲と思いますが。
>平原1号墓では10月20日が大事で、箸中山古墳では10月10日が重要なら、
>それこそ何の関係もないんじゃないか?
箸墓と三輪山の関係に限れば、10月20日と初めから指摘していますけど?
これも厳密には10月19日の方があってると指摘ありましたが、これも1日ですし
十分許容範囲と考えています。 あと、みあれ祭の話は、10月20日に日向峠から日が昇っているところの写真が重要であって私が引用したわけで、
1965年に発見されたのだから、それ以前に遡る伝統的な祭な訳がないじゃないじゃないですか。
それ以上は、察してあげて、余計な詮索はいらないでしょ。 >>943
>冬至の祭りであるクリスマスが12/25日で数日ずれているんだから、
クリスマスは、キリスト教を布教するために当時の祭りに乗っかっただけで、
起源が違うから、当然日付も冬至からずれてる
そして、12月25日には根拠なしだ
これを例に出すってことは、10月20日(あるいは10日)にも
根拠はないってことでよろしいか? なんです?根拠がないって?
単なる事実の指摘なんだから、事実かそうでないか、だけですよ。
本気で意味不明です。 >>943
>十分許容範囲と考えています。
許容範囲、広すぎww
夏至の日は簡単に分かるんじゃなかったっけ?
そこから、決まった日数なのが大事ともいっていたような気がするんだが?
そして、日向峠は、私以外の人が調べても10月22日
纏向遺跡から見て、三輪山から日が昇るのが10月17〜18日
一日二日はと簡単に言うけれど、前に二日後ろに三日ずれたら、5日違うよ?
110日と120日の差が10日で、その半分が5日
これが許容範囲なら、何でもありだな
三輪山から夏至の太陽が昇る位置に、大神神社があって、
穴師山から夏至の太陽が昇る位置に、箸中山古墳があって、しかも墳丘主体の
中心線も夏至の向きに向けられている
夏至基準で配置されているのが明らかで、そこへ10月20日、しかも不正確なのが
論拠になるというのが、本当にまじめにいっているのか疑問 >>948
要するに事実には根拠はいらないってことだね?
でも、事実に解釈を加えるときには、根拠がいるよな?
平原1号墓出土鏡の円周長は、正しく周代の咫であらわせば「8.63咫」になるのは
事実だから、そこには根拠はいらないな、確かに >>949
>一日二日はと簡単に言うけれど、前に二日後ろに三日ずれたら、5日違うよ?
夏至なんて、その程度でいいだろ。
どちらかというと、田植えの時期の方が重要だろうけど、それだって数日前後してもいいし、天気のいい日を選んだろう。 >>950
>平原1号墓出土鏡の円周長は、正しく周代の咫であらわせば「8.63咫」になるのは
というか、平原遺跡の鏡が八咫の基準だったと思うけどね。 >>950
そうですよ。事実に根拠はいりません。
平原1号墓出土鏡の円周長は、正しく漢代の説文解字の咫であらわせば「八咫」になるのは
事実だから、そこには根拠は入りません。
>>949
だから、調べなくても、10月20日に日向峠から登る写真があるでしょ。
峠なんだから、地図上の地点より、実際の「見え方」が問題。 >>950
そうですよ。事実に根拠はいりません。
平原1号墓出土鏡の円周長は、正しく漢代の説文解字の咫であらわせば「八咫」になるのは
事実だから、そこには根拠は入りません。
>>949
だから、調べなくても、10月20日に日向峠から登る写真があるでしょ。
峠なんだから、地図上の地点より、実際の「見え方」が問題。 あーあ、誤字訂正のつもりが誤爆までしてしまった
>>950
そうですよ。事実に根拠はいりません。
平原1号墓出土鏡の円周長は、正しく漢代の説文解字の咫であらわせば「八咫」になるのは
事実だから、そこには根拠は要りません。
>>949
だから、調べなくても、10月20日に日向峠から朝日が昇る写真があるでしょ。
峠なんだから、地図上の地点より、実際の「見え方」が問題。 >>948
驚いた
この人、冗談じゃなく
本気で頭がおかしいの?
事実だっていう根拠が必要じゃないと思ってるの? >>956
なんか微妙に読み替えてますね。
「事実の指摘」に必要なのは、真偽の確認であって根拠じゃない。
「6/22日から110日後が10月10日である」というは、暦的な事実ですね。
それから「平原1号墓出土鏡の円周長は、正しく漢代の説文解字の咫であらわせば「八咫」になる」のは、
数的な事実です。
いずれもこの世界の事実と突き合わせて真偽を調べれば済むだけの話です。 事実だ事実だーーーと言い張るだけで証拠を出せない爺さん
空飛ぶ円盤をワシは見たと言うのと同じ 半径一尺の円の円周を八咫とする。
それが定義だったと思われる。 定義はそう決めたということだから、証拠なんていらないよ。
だから定義なんだよ。
アホには理解できないか。 >>965
あんたが思うんだろ?
理由もなく・・・
ww >>>>>>>>
ここで岡上が名前を消しました
<<<<<<<< どうも根拠という言葉が大好きみたいですね。
けれど、「今日は6月4日です。」という主張が正しいかどうか、
判断に必要なのは、現実世界との突き合わせすればいいだけの話です。
こんな命題は、根拠によって証明するような話じゃないですね。
そんなに疲れた毎日を送っているのですか? >>972
どうやって突き合わせる?
公正証書作る? >>969
>その定義の存在を立証できないじゃんか
平原の鏡という物証があるよ。 根拠によって証明されないものは事実だって信じられないんだよ >>972
おいおい、それって現実世界との突き合わせが根拠だろ? 古来から八咫の鏡の名称は知られており、実際にその大きさの鏡がでたわけだしな。 >>973
「今日が6月4日である」
という命題なら、私ならテレビをつけてみますね。
「6/22日から110日後が10月10日である」
という命題ならカレンダーを見ます。
「平原1号墓出土鏡の円周長は、正しく漢代の説文解字の咫であらわせば「八咫」になる」
なら、説文解字をみて、それから円周長を測って見ます。
間違っても公正証をもらいに行ったりする必要はさなそうですね(笑)。
そんな疲れた生活は考えただけでうんざりです。 >>972
どうも根拠という言葉が大嫌いみたいですね。 韓、倭を服属させた司馬懿の功績に手をつけることを恐れたため韓・倭の権威・国力に関わる数字が10倍のまま修正されていないと仮定した場合
水行二十日、水行十日、陸行一月、奴碑千人、径百余歩、殉葬百人も10倍されていると見るべき
水行・陸行は漢書西域伝と比べて不自然なほど整った数字が記載されているのも10倍されているとしたら合点がいく
10倍された場合は元がどんな数字でも10の倍数になるからだ
奴碑千人に関しても守衛や役人の数も含めたら宮殿内部の働き手の数は千人を優に超えるであろう
仮に2000人だとしたら、当時の日本の人口の300分の1という凄まじい数が宮殿に集結することになる
当時2000人が住める建物はおろか集落すらないだろう
径百余歩も同時代それに相当する塚はないが、10倍なら候補はいくらでもある
平原一号墓などは副葬品だけ見れば卑弥呼の墓の条件を満たしていると言えるが大きさが足らなかったがこれで綺麗に収まる
周濠の土壙墓の数も一致する >>980
「平原1号墓出土鏡の円周長は、正しく漢代の説文解字の咫であらわせば「八咫」になる」
って証拠は?
岡上が言ってるだけ >>984
「岡上が6月4日に日付を確認するためにテレビをつけたか」なら、
探偵か何かが我が家を捜査するんでしょうかね?
もちろん、そんな不審者が来れば、私はすぐに警察に通報します(笑) つまりお鏡さんはこう言ってるんだよね
「俺様の言ってることは事実だ。証拠を出すつもりはサラサラ無い」
「おまえが勝手に確認するんだ。事実だと確認できないならお前はバカなんだよ」
典型的なコミュ障デス 修正してあげましょう。
「私の言ってることは事実ですよ。ご自分で確認してみれば簡単にわかることです。
事実かどうも確認もせずに根拠、根拠といっている貴方がバカなんですよ」
ちょっと品が悪い感じが残りましたね。すみません(笑) >>989
事実だと言い張るけど証拠は出す気がないって
・・・・最悪だろ・・・・ >>989
気にしなくていい
あんたが品が悪いのはみんなが知ってるから ほんと、岡上病患者だけは早く現実に気づいて欲しいですね。
私は平日は日中仕事ですし、土日も特に昼間はそとにいますよ、普通 なんで掲示板に張り付いて、名無しで書き込んでいると思えるんでしょうね。
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