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邪馬台国畿内説 Part349
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0001◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 17:58:57.88
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1526755568/


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:00:55.57
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:01:17.62
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:01:38.56
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:01:56.36
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:02:14.72
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
0007◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:02:34.87
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:02:53.78
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
0009◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:03:08.51
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0010◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:03:28.43
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0011◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:03:43.76
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0012◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:04:00.77
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0013◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:04:17.46
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0014◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:04:43.98
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0015◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:05:00.49
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
0016◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:05:20.44
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0017◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:05:46.65
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0018◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:06:08.93
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0019◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:06:33.39
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0021◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:06:53.98
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0022◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:07:18.73
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0023◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:07:35.76
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0024◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:07:55.61
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0026◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:08:14.35
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
0027◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:08:30.25
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
0028◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:08:47.27
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
0029日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:08:52.21
呟きと大して変わらないよな。
実際。
誤りを指摘しても無視するし、妄想全開だし。
0030◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:09:07.75
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0031◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:09:34.89
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
0032◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:09:54.20
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
0033◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:10:19.22
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0034◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:10:37.11
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
0035◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:10:54.90
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0036◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:11:13.55
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0037◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:11:43.63
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0038◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:12:21.58
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。
 
 
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
 
 
 
0039◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:12:42.61
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0040◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:13:05.34
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0041◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:13:23.88
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
0042◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:13:38.57
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0043◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:13:56.33
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0044◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:14:17.72
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
0045◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:14:41.16
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0046◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:14:59.01
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0047◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:15:13.47
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0048日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:15:17.01
>>942
>魏志倭人伝の記述どおりなら 邪馬台国は九州南の海の上<

魏志倭人伝の記述どおりなら、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南。
0049◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:15:29.65
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0050◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:16:06.81
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
 
 
 
0051◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:16:22.18
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0052◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:16:37.52
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
0053◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:16:53.18
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0054◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:17:10.37
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0055◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:17:31.30
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0056◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:17:47.93
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0057日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:17:49.47
>>943
>その「末盧国」と「伊都国」の地点はどこを指してるの?
まさか唐津とは言わないよね 、

末盧國は唐津付近。
伊都国は、怡土郡の地であり、前原〜糸島水道付近。
0058◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:18:01.35
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0059◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:18:43.90
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
 
 
 
0060◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:18:59.60
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0061◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:19:17.04
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0062◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:19:32.52
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0063◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:19:50.38
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0064◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:20:06.97
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0065◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:20:48.30
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
 
 
 
0066◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:21:48.70
 
 
 
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
 
A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
 
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
 
 
◆FAQ 65
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物の尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜後漢初:23.1cm (安定的)
 後漢末〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
 
 
 
0067◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:22:09.80
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0068◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/05/26(土) 18:22:28.02
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ65に加筆、 ◆FAQ66を追加
0069日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:24:22.67
>>945
>3世紀での「臺と台」の別字を否定しているのではない
日本人が現代の会話文で「臺」と書くのがめんどくさい、見づらいから
邪馬台国を使っている <

九州説者が邪馬台国と書いても、
「大和盆地」を意図する悪質性がないから構わないが、
大和説者が邪馬台国と書けば、
そりゃ「南→東」などの嘘つき騙しでの「大和盆地」を意図しているから、
悪質であり、黙過し難い。
0070日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:29:45.88
>>946
>九州説は基礎的な事無視して
畿内説は方角が違うとか何とか
魏志倭人伝の記述をその通りに辿ると邪馬台国は赤道辺りの国になる<

九州説は、記載された里の距離を、
実際の地図上での距離から出る里距離(短里)として計算し、
不彌國で、萬二千余里がほぼ終わってしまう事になるから、
赤道辺りにはならない。
0071日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:33:11.64
>>947
>沖縄です。<

記載された里の距離を、
実際の地図上での距離から出る里距離(短里)として計算し、
不彌國で、萬二千余里がほぼ終わってしまう事になるから、
邪馬壹國女王之所都は、沖縄にはならず、×。
0073日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:33:46.86
古田が集めた大阪、兵庫の反日の朝鮮部落民は質が悪い
0075日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:38:16.50
夢ロマン邪馬台国は、南に2ヶ月行ったくまもつでも南九州でも沖縄でも
九州のお爺さんたちが住んでいるところでいい
佐原眞が佐賀や島根の遺跡保存に尽力したように
お爺さんたちの考古学に対する関心を失うことを望んでいる考古学者はいない
0076日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:41:13.55
>>948
>松浦潟の遠浅の海岸の広がる唐津に大陸からの大型船が入港できるとでも思ってんのか <

魏使らが(狗邪韓國から)乗って来たのは、
持衰が乗っていたから、倭船であり、大型船ではありません。

>天然の良港である呼子や名護屋に決まってるだろ 呼子や名護屋から伊都国なら東南
何も間違ってない <

呼子や名護屋の可能性もありますが、
「千余里」とが合わず、四千戸にも合わず、
唐津付近の方がベターだろう、と思います。
0077日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:46:06.01
>>949
>九州説はどこにする気だ?<

筑紫。

>どう足掻いても 「九州説も方角を曲解してる」 という結論が出るぞ ww<

筑紫説は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事と合致し、何も問題がない。
大和説やwwらは、方向距離とも、
どう足掻いても合わない、という結論が出るぞ。
0078日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:46:35.41
>>76
戸数は国全体のことだろ
上陸地点は名護屋で、そこから東南に歩き出した
あってるじゃん
0079日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:50:07.69
>>76
倭船であっても松浦潟のぬかるんだ唐津付近で船を降りたとはとても思えませんが
0081日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:53:06.36
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
0082日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:53:26.98
>>950
>九州の南端の大隅半島を手漕ぎ船で南に漕ぎ出し10日。
普通に考えて、黒潮の流速1日150kmを考慮したら、紀伊半島に接岸だろう。
そこから歩いて1カ月で奈良でぴったりだ <

普通にどう考えても、魏使らが、
南に漕ぎ出して漂流させる、という(生命が危なくなる)危険なコースや、
紀伊山脈越えのいない。北向きの遭難コースを選択する可能性は、
全くない。
勿論、魏使らは投馬國までも来ていないし、
「南≠東」や「倭国は正北抵新羅で九州」などにも合わない。
0083日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:53:55.33
近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。

スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。

結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。

大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。
0084日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:54:29.61
呼子にしても唐津でも末盧國内の出発方向なのか?
0085日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:55:12.84
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
0086日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:56:08.50
古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。

聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首

押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の 
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
0087日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 18:56:19.55
>>958
>どこで船を降りて東南に歩き出す? 具体的に言ってみな<

唐津港。
0089日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:03:37.36
唐津港

江戸時代後期に、石炭の積出港として松浦川河口部に開港した。
唐津鉄道の開通などにより、明治30年ごろに現在の西港地区に移ってからは大正期にかけて国内屈指の貿易港として発展したが、石炭産業の衰退に伴いその地位は失われている。
0090日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:06:18.11
>>87
唐津港なんて当時は無い
松浦潟に代表されるように唐津湾は大型船航行不可能な遠浅の海
0091日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:07:19.22
>>960
>魏志倭人伝の距離も方角も正しいとするなら邪馬台国は赤道直下の国なるんだよ<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都は、赤道直下にはならないよ。

>九州説は距離は違うけど方角は合ってる<

距離も、郡からの比定が確実な「実際の地理上の距離」から判断しているから、
殆ど違っていない。

>そう読むと邪馬台国が九州になるからと主張するつもり?
それは循環論法に当たる <

史料記載事実を根拠にして推論をしているんだから、循環論法にはなっていない。

>畿内説は距離方位どっちも間違ってるとして参考にしない <

畿内なんて「結論先にありき」の嘘つき騙しをして、
「南→東」などの史料事実を否定曲解をしているんだから、
「大和説という結論先にありき」であったのであり、
大和説は、循環論法そのもの。
0092日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:07:29.59
生駒はアイヌ語のユック(鹿)+オマー(群れている)
屋久島のヤクも同じ
0093日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:10:00.80
>>962
大和説って、
なんで具体的なことを言うのを、そんなに嫌がるの?。

答え、「南→東」や「倭國は正北抵新羅で九州」などで、コテンパンに負けるから。
0094日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:15:04.22
>>964
>収まるという理由は?<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事になるから。

>また言い張るだけ? なんで具体的な話から逃げるの? 九州説が観念論だから?<


また口先で言い張るだけ?。
なんで大和説の具体的な話から逃げるの?。
大和説が「南→東」などの嘘つき騙しの観念論だから?。
0095日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:22:10.49
>>965
>日数なんかチンタラ行くか急いで行くかでいくらでも変わるなら
行程では比定できない<

魏使らは、
仕事があるから、そんなに「チンタラ遊んではおられない」し、
皇帝に道程を報告しなければならないんだし、
次に来る使者らにも参考にして貰わなくっちゃならないんだから、
十分に正確であり、
記載された行程で十分比定出来る。
0096日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:22:21.94
>>94
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事になるから。

そのためには、島巡り仮説っていうトンデモが必要なんだけどねww
0097日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:42:54.87
>>94
こう言うオウム返し見ると、この人ホントにバカなんだな〜って思うよ
まるで丸写して
主語を入れ替えただけ
これって嘘ついてるってこと丸バレでしょ
0098日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:43:02.81
>>967
>12000里は魏里(1里400m)で訳4800km<

「魏里」ではない。
魏の初代文帝の即位の詔書で、
(始皇帝が決めて混乱していた)度量衡の統一をしてい指示し、
重臣たちが周制への復古を上表し、周髀算経の度量衡(周里=短里)が採用され、
それが「魏里」。

>帯方郡(ソウル付近)より南に4800kmは赤道付近<

周髀算経の一寸千里は短里(長里の6分の1)であり、
郡からの萬二千余里は、道のり距離でで920km位であり、
九州内に十分収まる。
0099日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:47:35.78
>>968
>そんなに言い張るんだったら 具体的に どこで船をおりて
どっちに何キロ歩くか言ってみろよ 具体的に<

記載里数の原則は、それぞれの国の居住外縁部間の距離。
0100日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:53:32.96
>>970
>10500里の次に水行20日で投馬国行ってそこから
水行10日陸行1月で邪馬台国な <

萬二千余里は、当然記載里数の合計であり、
日数記載は、里数ではないから、始めから含まれないし、

水行二十日は、側副傍線國の投馬國への所要日数であり、
水行十日陸行一月は、「女王之所都」に関する説明だから、郡からの所要日数説明な。
0101日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 19:55:45.64
>>971
>逃げ回る九州説<

「南≠東」や「倭國は正北抵新羅だから九州」などの史料事実問題や、
大和説の根拠説明から、逃げ回る大和説。
0102日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:02:48.06
>>973
>日数なんかチンタラ行くか急いで行くかでいくらでも変わる<

魏使らは、仕事であるし、皇帝や次に来る使節のために、
里数は正確に計測して置く必要がある。
また、総距離を萬二千余里と記載している、という事は、
日数説明は萬二千余里の合計計算には含まれていない。
0103日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:05:23.86
>>974
>魏志倭人伝の距離方角よりも地名を見た方が行程を辿れる
対馬国(対馬) 一支国(壱岐) 〜中略〜 奴国(難県、なのあがた、博多付近)
不弥国(羽見町?) 水行して投馬国(広島県瀬戸内海側鞆(とも)の浦)
邪馬台国(大和国)<

萬二千余里にも、「南≠東」にも合わないから、大和説は×。
0104日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:10:54.27
>>976
>だって距離方位を記述通りに辿るなら
邪馬台国は赤道付近になるからそこの部分は否定するしかないだろ?<

記述通りに距離方位を辿るなら、邪馬壹國之所都は筑紫付近であり、
赤道付近にはならない。

>九州説は都合が悪くなって事実そのものの否定に走り出したようだ<

大和説は、「南≠東」や「倭國は正北抵新羅」などで否定されて都合が悪くなって、
魏志倭人伝の記載そのものを全部否定、
という嘘つき騙しに走り出したようだ。
0105日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:17:53.63
聖武天皇の時代かな

生駒の神は性懲りもなく鳥を討とうした
生駒の神は、それを止めようとした自身の息子に討たれるんだな
以後生駒の神は大切にされるようになる

生駒にはこんな伝承が残っている
0106日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:19:11.11
>>977
>重要なのは水行の記述 邪馬台国に行くには一旦九州北部に上陸してから
再び船出をすると書かれているという事<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
それ以上「再び船出」する必要がない。

>そうなると少なくとも九州北部に邪馬台国があるとは考えづらい<

そうなると、大和へ行くんなら、わざわざ、
一旦末盧國に上陸して、不彌國まで陸行して、不彌國からまた「再び船出」する、
という事も考えにくい。
九州北岸は、寄港する程度にして、海岸沿いに関門海峡へ乗船して行って、
瀬戸内へ向かった方がずっと楽であり、よい。
0107日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:22:01.41
「魏使らは正確に皇帝に報告しないといけないから〜」という割に
肝心な方角を間違えたというの?

畿内論者はバカなの?
0108日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:28:34.41
>>980
>律歴志や正始弩尺で1里約430mとはっきりしており<

「尺自体の長さ」は、周代から魏代でも余り変わっていないまま。
変わったのは、始皇帝の「1歩=6尺」という換算の規定。
それを魏朝は、周代と同じように、「1歩≒足先〜踵の後ろ」の測定長さに戻した。

>それを元に計算すると1万2000里は赤道付近を指すことになるという事実を
まるきり理解しないバカ <

それを元に計算すると、1万2000里は筑紫付近を指すことになる、
という事実をまるきり理解しないし、
理解出来ない嘘つき騙しの・・・・バカの大和説者。
0109日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:31:41.80
>>981
>聞かれたことに何も答られえず逃げ回る九州バカ<

「南≠東」や「倭国は正北抵新羅だから九州」などの指摘に、
何も答えられず、逃げ回るばかりの、嘘つき騙しの・・・・アホの詐欺師の大和説バカ。
0110日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:39:00.45
>>985
>不彌國までで10600里だ<

不彌國で萬二千余里が、ほぼ終わりだ。

>邪馬台国まで残り1400里ある<

邪馬壹國までほぼ0里だ。

>そっから水行30日陸行1月で到着するんだろ<

日数は、里数ではないから、
水行二十日は、投馬國への側副傍線の所要日数説明であり、
水行十日陸行一月は、郡から女王之所都の所要日数説明だ。
だから、水行30日陸行1月は大和には関係がない。
0111日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:42:35.55
>>107
うん、畿内説を信じる人は馬鹿なの。
0112日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:46:06.12
>>987
>律歴志や正始弩尺で1魏里約430mと確認された
事実と合わない尺度を声高に叫んでも、意味がないよ<

「尺」の長さは、周代から殆ど変わっていないから、始めから問題にならない。
問題は、始皇帝が命令した「1歩=6尺」で混乱した「里や歩」の長さを、
魏の文帝らが度量衡の統一を指示して、周制への復古を決め、
「1歩≒1尺」や、周髀算経の一寸千里の短里(魏里)が採用された、
という事だ。
0113日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:49:52.68
>>988
>毎日毎日同じ事を連呼しあってるよな、飽きないねえ<

毎日毎日、大和説者は、
「南≠東」や「倭国は正北抵新羅だから九州」などにはこっそり逃げておいて、
同じ事を連呼しあってるよな。
嘘つき騙しの・・・・詐欺師は、飽きないねえ。
0114日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:53:20.67
>>989
>九州には邪馬台国っぽい地名がないからなー<

邪馬台国っていう地名そのものがないんだから、
大和説者って、皆・・・・アホの詐欺師だ、っていう事だな。

>畿内にはそのものズバリ大和国がある<

畿内なんてのもなかったから、
この大和説男も、・・・・アホの詐欺師人種だ、
という事だな。
あと邪馬台国も本来的にはやまと国と読むんだろうし
0115日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 20:56:02.22
>>990
>九州説が当たり前の事を何回言っても理解しないからな
こっちも当たり前の事を何回もくり返すハメに陥る <

「南≠東」や「倭国は正北抵新羅だから九州」という当たり前の事を、
大和説者は何回言っても理解しないからな。
だからこっちも、当たり前の事を何回もくり返すハメに陥る。
0116日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:04:13.38
>>993
異民族差別の殺し合い戦争狂の、国粋皇国史観国家狂の大和説のキョクウのwwの連呼は、
・・・・だから、どうでもいい 。
幾ら、安部らや文部省や、右翼戦争マスコミや、「南→東」などの嘘つき騙しの学会教育界や、
ヘイトスピーチ極右が街宣しても、
大和説は、国民の中の、キョクウの3割しか支持を得られず、
国民の7割は、反大和説者なんだから。
0117日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:06:37.33
>>996
>吉野ヶ里の殺傷人骨は弥生中期中葉だろ <

吉野ヶ里は、結局は、3世紀以後にも存続していたんだろ?。
0119日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:07:52.55
>>997の訂正。
>末盧国から伊都国は東南じゃないよ<

「東南」は、(見えてもいない)目的地方向の説明ではなく、
出発時点での出発方向説明。
0120日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:09:19.97
畿内説は、他者を貶すことでしか価値を示せないのだろうか?
0121日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:18:37.84
畿内説者にわかってほしいのは
畿内に巨大な勢力を持つ王権があったことを否定してるわけじゃないんだよ
それを魏志倭人伝を全否定してまで邪馬台国に無理矢理繋げるなと言ってるだけ
0122日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:26:48.05
>>117

集落が存続した年代と人骨が出た墓の年代とは違う
0123日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:31:58.64
>>121

魏志倭人伝は全否定してないよ
卜骨、鯨面文身の風習の遺物や産物の丹や真珠などから
総合的に倭地全体を考えるのが畿内説
0124日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:48:48.09
>>72
>そうなるように、わざわざ矛盾だらけのニセ里を発明したんだもんね<

いや、魏志の里数記載から計算して、帰納的推論して得られた、里距離。
0125日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:54:10.42
>>124
帰納しとらんだろ
0126日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:55:56.65
>>73
「南→東」の嘘吐き騙しや、「倭国は正北抵新羅だから九州」を否定する大和説の、
安部文部省や、戦争大好き右翼マスコミや、人種差別的皇国史観の学会教育界が集めた、
大和説学者や大和説チンピラらは、
・・・・アホであり、質が悪い。
0127日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 21:58:41.28
>>74
>畿内大和朝廷説には同意だ<

スレ主も、「南→東」の嘘吐き騙しであり、
「倭国は正北抵新羅に拠って九州である」事から逃げている・・・・アホ詐欺師だ。
0128日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:03:18.94
>>117
>吉野ヶ里は、結局は、3世紀以後にも存続していたんだろ?。

してない

歴史公園のウェブもこう書いてる
「吉野ヶ里遺跡の終焉」
>吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は、どこに行ったのでしょうか?
>弥生時代の終焉と共に、どこかへと移り住んでしまったのでしょうか?
0129日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:09:33.24
>>75
>夢ロマン邪馬台国は、<

ウソを付くな。
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しだから、お前も嘘つき騙しの詐欺師だ。

>南に2ヶ月行ったくまもつでも南九州でも沖縄でも
九州のお爺さんたちが住んでいるところでいい <

ウソを付くな。
「南に2ヶ月行った」なんて書かれていないし、
国民の過半数は、九州説であり、「九州のお爺さんたちが住んでいる」所でもない。。

>佐原眞が佐賀や島根の遺跡保存に尽力したように
お爺さんたちの考古学に対する関心を失うことを望んでいる考古学者はいない<

佐原も、「南→東」の嘘吐き騙しを持ったままで、遺跡保存をしようとしているんだから、
本心は、嘘つき騙しの大和説に人々を引き付けるための、策略的な尽力だ。
0130日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:18:47.13
>>81
>畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。<

畿内なんて存在していなかったし、
大和の神武東征が入って、毛人や出雲系との婚姻共存状態になったのは、
二中歴に拠って紀元前1世紀。

>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。<

欠史八代の頃に、九州倭国の新たな東征将軍のおかげで、
「地方の市を監督する大倭職」の国になったから。

>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。<

朝廷なんて、存在していなかったから、この男も嘘つき騙しの詐欺師。
0131日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:22:58.22
>>129

>国民の過半数は、九州説であり

歴史博物館や保存された遺跡の来場者、シンポジウム参加者年齢を見ても
古代史ファンの半分以上は今さら最新の論文などは読まない後期高齢者
0132日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:23:49.90
>>83
>倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。<

「倭国大乱」なんてもなかった。

>結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<

「朝廷」なんてもなかったし、
大和は、九州倭国の東征毛人55国の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であった。
0133日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:27:37.08
>>129 センセーショナリズム上等 詐欺集団 ゴミクズ(九州)王朝説基地外信者爺 ザラコク
>佐原も、「南→東」の嘘吐き騙しを持ったままで、遺跡保存をしようとしているんだから、

へえ・・・
佐原が

 「南を東に読み替えるべき」

だなんて言ってるんだ?
(白石が狗奴国東海説でそれを書いてるのを見た記憶はあるがw)

ソース出してくれんかね?

まさか馬鹿の一つ覚えみたいに
「畿内説=南→東」
って言ってるんじゃないだろな?
0134日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:30:12.47
>>84
>呼子にしても唐津でも末盧國内の出発方向なのか?<

陳寿の行程記載習慣に拠れば、
到着地は明らかに目的國の居住外縁部であるが、
出発地は、その国の役人たちの見送りがあるでしょうから、
中心地と居住外縁部の、両方の可能性があるんでしょうね。
0135日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:30:34.89
>>132
倭国大乱はありましたよ
九州北部の各地の遺跡で首のない骨や傷のある骨がいくらでも見つかる

一方で畿内には無い
倭国大乱の後大乱を鎮めるため卑弥呼が共立されたことを考えても畿内説は否定される
0136日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:32:50.31
>>85
>魏志倭人伝 邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒・・・<

生駒と言った瞬間に、「南≠東」に拠って×。
0137日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:33:21.68
馬鹿は親の因果だからしかたない
口汚いのは育ちのせいだから本人の責任
嘘つきもね
0138日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:34:14.96
>>134

末盧國の役人の名前は書いてない
0139日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:40:43.83
>>135

>九州北部の各地の遺跡で首のない骨や傷のある骨がいくらでも見つかる

弥生中期の受傷人骨がいくらあっても意味無い
0140日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:42:45.79
>>86
>古代の難波はどういう場所だったのか? <

瀬戸内からの西風で、海流や浪が早い地域であり、
九州倭国からの到着地で住吉大社があり、
流されて来た蛭子や事代の恵比寿神社があり、
九州倭国の東征将軍の到着地でもあり、
米田に拠れば、河内は、大和とは別の東征将軍の地域。
0141日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:46:55.82
タコいうな^^
0142日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:48:00.36
>>85
>官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。

まあザラコクみたいなクズ(九州)王朝ファンタジーの基地外爺をいじるよりはマシだろうから
少しネタを振ってみる

(勿論自分自身過去何回か出したネタだが)

 伊支馬=活目=垂仁
 弥馬升=御間城=崇神

とこじつけた場合勿論序列的には逆だろうって話になるが
じつはそれを思わせる材料はあって・・・

(1)そもそも現在の纏向遺跡は垂仁の宮の伝承地に近い
  崇神の宮はそこから南東

(2)開花→崇神→垂仁 とした場合墓の位置が
 奈良盆地北部(奈良市)→三輪→奈良盆地北部(奈良市)と忙しく行き来する

 ただし現在指定されてる墓は年代が合わない等あるので参考までにって話になるが・・・
  あと5世紀になって河内平野に巨大古墳造られる時代にも宮は河内と大和を行き来はしてる

これが「倭人伝」と「記紀」の齟齬とした場合
どちらかが間違い(あるいは嘘)だが

少なくとも中国側には序列を変えて記述する必用はないと思う

まあどちらにも信を置かないほうが懸命www   
0143日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:50:23.39
なんだか痛々しいな。
記紀はともかく魏志倭人伝まで疑うのなら、邪馬台国や卑弥呼なんて信じなきゃいいだろ。
0145日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:52:26.94
>>88
>なんでそんなところで船を降りたの?<

一大國から島伝いや海岸伝いに来て、
唐津港が、陸繋島の内側で海流の影響の少ないで砂浜があって、
唐津の町にも近くて、おそらく陸行もし易いから。
0146142垢版2018/05/26(土) 22:56:15.35
もう少し突っ込んで
仮に中国側に改竄の動機がなく記紀にあったとした場合

要するに纏向にいた始祖王(畿内説に立つなら卑弥呼後の男王ということになるか?)は
崇神じゃなくて垂仁
後に盆地北部の佐紀古墳群を展開する勢力だったのではないかという推測w

それが後に三輪の崇神を始祖と仰ぐ勢力によって変えられたとか?

勿論断定するには材料があまりに不足だがwww
0148日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:56:41.66
>>90
>唐津港なんて当時は無い
松浦潟に代表されるように唐津湾は大型船航行不可能な遠浅の海<

陸繋島があるから、遠浅でもない砂浜があり、
上陸し易かった。
0149日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:59:50.87
>>145
なーんだ

ただの妄想でしたか
0150日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 22:59:55.84
>>143
>邪馬台国や卑弥呼なんて信じなきゃいいだろ。

どっちも信じてない

「邪馬台国」があったっんじゃなくて「邪馬台国」と記された国があった

卑弥呼にしたって引き籠りの婆婆にどうやって国内を統治する力がある?
模試個人に凄いカリスマがあったとしてもそれを伝える媒体(メディア)もない古代じゃ
影響力なんてしれてる
あんなプロフ丸呑みするのが馬鹿
0151日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:00:31.70
>>96
>>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事になるから。<

>そのためには、島巡り仮説っていうトンデモが必要なんだけどねww<

国内見聞移動があった、という事は、
仮説ではなく、
魏志に書かれた史料事実だよ。」
0152日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:04:56.58
電子掲示板で妄想の披露会はやめれ
知識の交換でええよ^^
タコいうな(再度
0153日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:07:35.37
>萬二千余里

「萬里」・・・皇帝の遺徳が及ぶ範囲
「二千余里」・・・上記から更に遠方ってことで適当にくっつけた数字

こんなものに拘泥するほうが馬鹿の極み

ちなみに「投馬国五万戸」「邪馬台国七万戸」も3.5.7という陽数(奇数)を好む中国人の修辞というのに賛成
0155日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:09:08.48
卑弥呼を畿内の人間だと思うからあちこち矛盾する(特に記紀と)。
九州と畿内が別の世界なら矛盾なんてしない。
0157日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:14:22.91
>>155
方や年代的にはともかく中国の史料
方や日本だが年代的に全く違う

矛盾があって当たり前

クズ(九州)説(クズ王朝説含む)の様に脳内ストーリーなら
100%矛盾のないものが作れるだろうがwww
(反証ができない創造説のようなもの)
0159日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:34:49.76
記紀は長い時代を網羅しているから、どこかで魏志倭人伝と時系列が重なっていないとおかしい。
しかし畿内の歴史を中心にまとめてある記紀に卑弥呼が登場しない。
記紀が九州に触れている部分もあるが、その中でも神代はその代表で、福岡が王都であることを記している。
それについては考古学的証拠とも一致する。
0160日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:35:01.77
>>151
>国内見聞移動があった、という事は、

島巡り妄想とは無関係
0161日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:35:39.34
ジョーカーさんやね?
勉強せんと背伸びが笑われまっせ^^
0162日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:37:26.51
>>157
>クズ(九州)説(クズ王朝説含む)の様に脳内ストーリーなら
>100%矛盾のないものが作れるだろうがwww

畿内説はどんなに妄想を膨らませても矛盾だらけで、考古学的証拠とも一致できないで苦しんで、記紀は信用ならん、魏志倭人伝は信用ならん、となる。
九州説だと、どちらの大筋も改変することなくマッチさせることができる。
脳内で補完する必要はほとんどない。
0163日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:39:14.44
つうか、纏向の大溝建設いつなん?(2世紀?
0164日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:39:26.95
>>161
ジョーカーとか誰のことかは知らんが

こっちは身の丈にあったことしか書いてないつもりだが
勉強不足というのなら具体的に指摘してくれ

とにかくケチレスはいいから
0165日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:40:25.85
今さら隠さなくてもいいよ、ジョーカー君。
0168日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:45:14.92
>>162
>九州説だと、どちらの大筋も改変することなくマッチさせることができる。

で?九州(クス)説どの説が最も蓋然性があるのかね?
まっとうな学説なら当然比較検証しうるよな?

でも実際はできず半世紀経っても

「素直に読んだらここしかないのじゃ!」

と脳みそ化石爺さんたちが口々にお気に入りの場所
古代史ストーリーを語ってるだけ
0169日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:45:40.87
>>162
で?

どこが矛盾か指摘できないでしょ?
0170日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:50:08.35
>>167
どこに? なんと?
0171日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:50:53.04
>>142なんて、畿内説が矛盾だらけになる証拠だよ。
0172日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:51:10.27
>>159
>その中でも神代はその代表で、福岡が王都であることを記している。

「天孫降臨の地は(修羅の国)フクオカブルグだ」

とかいう話か?

そういうのは同じクズ(九州)説同士でほざきあえゴミクズ(九州)爺
0173日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:51:49.63
【筑紫の日向】

そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。
0174日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:53:43.38
>>162あたりにも典型的に出てるけど
九州説の人の言うことって
具体的内容lがないんだよね
0175日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:54:01.34
>>173
八咫バカとか本当に糸クズ(九州)って粘着だな

こいつら掃き落とすブラシとかないのか?www
0176日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:57:01.81
>>173
>そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。

このコピペ、九州説が困る度に貼られてるけど、
1行目から「あったらしい」という願望
それを前提に展開しても意味のある論説にはならんよ
0177日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 23:59:27.11
>>173
「らしい」「だそうだ」が
(記紀は)「福岡が王都であることを記している」に

化けるわ化けるわ

インチキはいかんよ
0178日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:00:47.85
思うんだけど、
奈良県から三角縁神獣鏡を配った考古学的証拠遺跡ってどれ?
0179日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:08:57.66
>>178
証拠遺跡って奇妙な言葉は初めて聞いた
同笵鏡の分有関係が根拠とされる
0180日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:13:09.33
>>179
だから
どの古墳の三角縁神獣鏡が奈良県が作って各地に配った三角縁神獣鏡なの?
0181日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:13:39.36
三角縁神獣鏡は古墳時代の初期から前期(といいつつ最初期を除く)の
代表的な副葬品で、分布の中心は明らかに畿内
0182日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:14:23.80
>>173
>【筑紫の日向】

はい全くの予想通り↓www

>「天孫降臨の地は(修羅の国)フクオカブルグだ」
>とかいう話か?

いつもの(と言うかHDがSSDに後生大事に持ってるコピペだろうがw)与太だが
記紀と考古資料をゴチャ混ぜにして俺様解釈のイタコ芸のオンパレードの怪文書

ちなみに「吉武高木遺跡」遺跡なんか古代に三種の神器なんてなかったことを示す好例だ
妄想に取り憑かれた糸クズ(九州)には分からんだろうがwww

鏡(と言っても漢鏡ではない)を出した木棺墓は周りの墓と比べて特に大きいわけでもない
その潤沢な副葬品の中にたまたま鏡があったと見るしかない状況で
勿論、王位、皇位でもなく豪華な副葬品はその墓群の被葬者がかなり高い階層にいたと想像させるに止まる

「階級の証」であって「皇位・王位の証ではない」

それに三雲や井原にしても副葬品が横行クラスの豪華さであっても
それが大陸側から王位の証として送られた保証はない

事実三雲2号ガラス璧のペンダントが出ており
「王の証」としての意味を見てるかも怪しい
0183日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:16:49.79
副葬品が王侯クラスなら
大陸側から王位の証とした贈られた証拠品だろ。

お前のとこから何も出なくて頭おかしくなったのか?w
0184日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:18:10.23
>>181
畿内とか曖昧な表現じゃなくて
奈良県のどの古墳の三角縁神獣鏡が
奈良県が作って各地に配った三角縁神獣鏡なの?
0185日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:20:51.72
>>183
例えば王侯クラスの墓に副葬されたものが
後に掘り返されて売買されたら?

他にも元々王侯クラスの手元にあったものが
市場?に出るパターンはいくらでも考えられるだろう

日本に伝来の経緯も考えないのか?アホ
0186日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:21:47.92
あーっそっかー大溝と箸中山100年近く離れてる可能性もあるなー
やっぱ重層遺跡やなー
0187日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:22:55.35
というか奈良県の大規模古墳は福岡と違って宮内庁が管理してるから
気が向いたときに調査というわけにはいかないから
全国の分布範囲でもっとも集中している地域が中心地
0188日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:23:52.67
まきむくはー
ぬりかえられた
じゅーそーいせき(けってー
0189日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:25:39.32
>>185
王侯クラスの墓に副葬されたものが売買されて
はるかはるか日本列島までたどり着く可能性は?

日本列島に売買あるいは取引するための何があったのか?

日本に伝来の経緯を考えれば、
中国皇帝に朝貢した時に直接もらったと考えるのが妥当

アホじゃないの?
0190日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:30:53.38
>>187
要するに
ホケノやら纏向古墳群から三角縁神獣鏡が出ていない。
特にホケノ山は箸墓の直前の布留0式なのだから、
そこから出ていないのは極めて重要な情報。

箸墓古墳に三角縁神獣鏡があるという前提のもとに議論が展開されているが、
「らしい」「だそうだ」
と他説を批判できるだけのものがあるのかいな?という疑問。
0191日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:31:35.43
>>188
九州説はいつも妄想
0192日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:34:19.96
平原の塗装鏡あたりは地権者のIさんが
家に持って帰って肥料袋の上に重ねて置いてたから
出土状況は後からの聞き取りと調査で破片が出たところでの推測
0193日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:35:59.95
>>159
>その中でも神代はその代表で、

まあゴミクズ(九州)説のアホ爺って神話が好きだよなwww

自分の好き放題こねくり回してカスタマイズできる自由さがあるゆえんだろうがw


「天孫降臨」と「神武東遷」は史実だといいつつ
比較神話学では南方系神話のネタの宝庫の日向三代はすっ飛ばしたり

「アマテラス」や「スサノオ」は飛びつくが三貴神の残り一柱の「ツクヨミ」無視したり

「スサノオ」の高天原での蛮行DVは見てきたかのように解説しても
追放され出雲に降り立ち
そこでギリシア神話の美姫アンドロメダを救うペルセウスの如き活躍する部分は念頭にもない

もうお好みに応じてつまみ食いするだけのアホの集団

 『クズ(九州)おじいちゃん冷蔵庫に首突っ込んで
  何つまみ食いしてんの?
  ご飯はさっき食べたでしょ!』
0195日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:40:15.71
>>190
>ホケノやら纏向古墳群から三角縁神獣鏡が出ていない。

たしかにそれは事実だが何か問題あるのか?

よく九州説の言う

「三角縁神獣鏡なんて葬具としての量産品」

だとしたら問題ないと思うが
0196日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:42:13.68
>>195
布留0式の時代に三角縁神獣鏡は無いわけだな。
他の地域では有るぞ。

箸墓古墳は未調査。
自分も個人的には箸墓古墳に三角縁神獣鏡はあると思うが、
未調査は未調査。「らしい」「だそうだ」 の領域に過ぎない。
0198日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:47:30.88
>>190
ホケノ山は纏向3類だから、もっと古いよ
三角縁がなくて当然
0199日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:48:05.57
>>196
>他の地域では有るぞ。

いや、だからだな

各地の三角縁神獣鏡は下賜品であり王が持つものじゃない
(その地位にあったのは画文帯神獣鏡)
って話なんだが

ちなみに八咫バカ・糸クズ(九州)が大好きな内行花文鏡はホケノ出土と伝えられてるものが
大学や神社にあるが現場の画文帯神獣鏡が粉々に砕けてるのに(鉄鏃すら砕けてるそうな)
状態が良すぎて本当にホケノ出か疑われてる
0200日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:50:55.97
三角縁神獣鏡が奈良県で作られて各地に配られた根拠となる古墳はどれのことか?

畿内説の根幹に関わる質問に即答できないのか?
0201日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 00:55:46.48
配布の根拠となる墓は
三角縁神獣鏡に限らずわからないだろ
0203日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:03:08.71
福岡市周辺を掘ったら纏向なんかより遥かに巨大な遺跡が出てくるけど古くから都市化しすぎて掘れない
奈良は古代に衰退してからずーっと田舎だからどんどん出てくる
それだけなのに奈良の奴らってバカなのかな
0204日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:05:37.49
>>200
べつに奈良で作られたとか主張してないし
0205日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:06:54.66
>>203
それは単なる願望ね
0206日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:11:38.41
福岡市中心部のように公共工事や都市化が進んだほうが
学術調査はされる
0207日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:12:03.64
>>200
>三角縁神獣鏡が奈良県で作られて各地に配られた根拠となる古墳はどれのことか?

じゃあ椿井大塚山古墳

ここから出た三角縁神獣鏡の同氾は各地で出てる

と言うか小林が表した分有関係をダイアグラムのようにしたものがあるから書籍ででも自分で調べなさい

今適当な語句でググったが出てこない
まあ何でもかんでもネットにあるってわけじゃないかwww

とは言え
じゃあ三角縁神獣鏡のどれが最初期の最初期かと言うとかなり難しいかもしれない
「卑弥呼の鏡」だったら100枚で1枚出れば御の字か?

もし箸墓から三角が出たら同向式だと思うが
0208日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:12:03.72
>>205
願望ではなく事実なわけだが。
中世以降打ち棄てられた奈良と違って福岡・博多湾周辺は現在までずっと歴史の表舞台に出るので。
0209日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:13:25.55
ジャマイカは出雲か広島やな(おじーちゃんらあきらめれ
0210日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:13:53.17
>>208
うざい

ここはクソジジイのお国自慢する場所じゃないんだ
さっさと巣に帰れゴミクズ(九州)
0211日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:14:39.72
>>206
福岡市中心部は古代は海ですが

大きな遺跡が出るとしたら福岡空港が移転した場合だね
奴国の中心に位置してるからね
0212日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:15:04.39
福岡はずっと他のところから統治に来てる土地なんだよ
0213日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:15:27.21
くなは吉備
あとに近江と結びつく
けっきょくそれが崇神やん(けってー
0214日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:16:24.53
卑弥呼は伊都やなー(多分
0215日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:16:56.59
>>210
ありもしない邪馬台国ブランドを使って町おこししてるのは奈良ですが。
さも纏向が邪馬台国で決定のように言いふらす
「邪馬台国」と書かれた看板が出てきたわけでも無いのに。
0216日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:19:33.26
女王国は日本海交易連合(なんどもいわせんな
0217日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:20:16.22
>>212
博多湾周辺は何度も大陸勢力の侵攻を受けて
勢力も入れ替わってるので古代の史跡が残存することは困難
古代以降クソ田舎に成り下がった奈良とは違うからね
0218日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:20:21.39
>>215
まあ桜井市が卑弥呼のゆるキャラとか使ってたが

じゃあ九州の観光地にどれだけの「卑弥呼」「邪馬台国」の文字が踊ってるんだ?

ゴミクズ(九州)
0219日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:21:20.55
>>211

いや海じゃないよw 冷泉とか鳥飼のあたりは海だけど
地下鉄の工事のときからずーっと継続して調査されてる
0220日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:21:39.75
女王国領域は甑の分布域(なんどもいわせんな
0221日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:22:57.86
>>218
魏志倭人伝を読めば誰だって九州にあると思うのだから当たり前
バイアスがかかってないニュートラルな状態で読めばみな九州だと思うだろう
0222209垢版2018/05/27(日) 01:23:49.29
鳥取やタニハも捨てがたいか?
0223日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:25:49.18
>>217
はいはい
そういうコンプレックスは東京にでも向けろやアホ爺wwwwww

奈良が田舎?
そうだねJRの巻向なんか単線で無人駅だっけ?w

そんなところに

「ワシのところが都会じゃあ」

とかほざいて虚しくないのか?アホよ
0224日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:25:58.31
陸行1月の起点はまさかの北陸(帯方東南に位置するワイ族視点やな
0225日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:27:41.13
おじーちゃんらはいつもカリカリしてるなー(あほか?
0226日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:29:52.22
>>221
>魏志倭人伝を読めば誰だって九州にあると思うのだから当たり前

普通太平洋にドボンだろが?アホ

一体100年以上も前のお話いつまで繰り返すんだ?クソジジイ

年寄りは同じことを繰り返し言うものだが
クズ(九州)説はもうカルト基地外レベル
0227日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:30:25.52
>>217

博多湾周辺は堆積して地表の数メートル下だから残ってるだろ
0229日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:32:53.65
クズ説様だ

キューシューとは読まない
0230日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:34:02.30
>>208
事実だって証拠は?
0231日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:34:12.26
ダックとジョーカーしかいないんやな?(エンドレスル―プ飽きた^^
0232日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:36:01.55
旧臭説(100年もの)とも言うwwwwwwww

「倭人伝(行程記事)に拘泥しない」

と言ってる人間に行程記事の暗号解読ごっこをふっかける
ボケ爺の集団が

クズ(九州)説・旧臭説(100年もの
0233日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:36:03.41
>>196
布留0式の時代に三角縁神獣鏡?

あるよ
0235日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:39:35.29
>>234
そうだけど何か?
0240日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:56:16.86
まあ九州説なんてこっちが

「小林の表した分有関係調べてみろ」

と言っても調べもしないんだろうな
で、自分達が質問されたら

「ググれ」

程度(あるいは全く無視)でトンズラ

こっちが懇切丁寧に答えても
しばらくしたらまた同じことを聞いてくるクズ(九州)
0242日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 01:57:48.87
畿内と奈良を微妙に使い分けて混同させて、誤解を誘導するのが畿内説の常套手段。
0244日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:00:39.93
>>239
奈良が開始の源流であるという証拠はなに?
三角縁神獣鏡のどの時点でもいいわ。
0245日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:01:00.27
>>193
>自分の好き放題こねくり回してカスタマイズできる自由さがあるゆえんだろうがw

九州説はほとんどこねくり回す必要もない。
0246日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:02:47.61
>>243
>207日本@名無史さん2018/05/27(日) 01:12:03.64
>>200
>>三角縁神獣鏡が奈良県で作られて各地に配られた根拠となる古墳はどれのことか?

>じゃあ椿井大塚山古墳

>ここから出た三角縁神獣鏡の同氾は各地で出てる


椿井大塚山古墳

「京都府」木津川市山城町
0247日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:03:08.39
>>244
>三角縁神獣鏡のどの時点でもいいわ。

どの時点が時代・編年ということなら

それこそ椿井大塚山古墳でいいわ
0248日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:03:16.61
日本人の過半数は邪馬台国は九州だと思ってるんだから九州なんだよ
0249日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:05:09.60
>>247
あんたニワカ関西人?

京都府の南部とはいえ、
木津川と奈良北部
奈良北部と奈良南部

全然違うんですけど
0251日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:07:22.02
>>193
>比較神話学では南方系神話のネタの宝庫の日向三代はすっ飛ばしたり

すっ飛ばしてないよ。
何しろ男王70-80年の主役を務める伊都国王家日向三代、高祖宮の祭神だからね。

>「アマテラス」や「スサノオ」は飛びつくが三貴神の残り一柱の「ツクヨミ」無視したり

月詠は対馬海峡から長崎方面だが、「行ったきり」の傍系に過ぎない。
0252日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:08:42.78
>>246
ああ悪い

現在の都道府県なんて区別してなかったな

じゃあ畿内で訂正

時代を問わないなら茶臼山とかの大量副葬
0253日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:09:58.69
国民投票で邪馬台国は九州に決まりました
畿内説は関西でしか支持がないので落選です
0254日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:11:37.49
畿内論者がまた何の関係もないのに
鏡がどうのこうのとか言い出した
いい加減にしろ
0255日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:11:45.70
>>253
>畿内説は関西でしか支持がないので落選です

いやNHKの番組でも開始前のアンケートじゃあ関西でも九州説が多かっったぞw

畿内説は「地元びいき」に頼ってないw
0256日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:13:33.56
じゃあ畿内はぼろ負けじゃないか。
0257日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:14:48.30
戦前生まれのお爺さんは九州説
0258日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:16:30.61
>>251
>何しろ男王70-80年の主役を務める伊都国王家日向三代、高祖宮の祭神だからね。

産屋を覗いたら嫁さんワニ(鮫)だったとはどういう歴史的事実だ?

ブスの姉追い返してカワイコチャンの妹を娶ったら
子孫が見た目は綺麗だが弱い体になったってのはどういう歴史的事実だ?

神話大好きなのに本当に神話ってものを知らないな
クズ(九州)爺は
(俺が言ってるのなんて一般常識程度、神話学にも入らない)
0261日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:18:25.54
脳年齢が75歳以上だろう
0262日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:18:52.31
私も九州説です
0263日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:22:16.55
邪馬台国の会の講演の後からの写真を見ると
禿げ率アンケート結果と言ってもいい
0264日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:29:21.49
キナイコシが爺いと言うからには、
九州説は若手研究者の花形なのだろうな。

卑劣なタックルで伊都説を潰してこい
という命令を受ける
若手研究者の苦悩や如何に
0265日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:33:04.39
もう九州説というか邪馬台国論争なんてものが
前世紀の遺物なんだよ

それが分からず竹槍持って
空にB29探してる頭おかしい爺がクズ(九州)説

まあ俺は一応九州説の可能性も理論上は認めてるけど
(畿内説は学説故に反証可能)

糸クズ(九州)だのクズ(九州)王朝説だの
なんて与太話までその範疇に入れる気はない
0266日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:34:30.14
キナイコシと言い続けてるスレ乱立荒らし犯人が
伊都厨だとわかる
0267日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:39:56.96
>>264
>若手研究者の苦悩や如何に

心配しなくてもそんなこと指示するやつも
指示受けるやつもいないよアホ爺www

勘違いしてるようだが
畿内説の専門家なんていない

学者は邪馬台国なんてもの以外に研究テーマを持ってて
それで認められてる

素人や門外漢(心理学者や高校教師や実業家etc)が
古代史の分野で一発当てるのを目指す九州説と違う
0268日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:43:11.60
で、研究テーマを持ってて、
三角縁神獣鏡の根源はどこなん?

税金使って真面目に研究してるんなら、
答えられるよな?
0269日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:49:00.72
>>268
「根源」とは大きく出たな(というか意味がよく分からん

がそれこそ三角縁神獣鏡の最初の一枚(と言うかロット)となると
まだ

「確実にこれだ!」

ってものは絞り込めてないんじゃないのかな?

これは他の畿内説諸兄にも意見を聞きたいところ
(クズ(九州)のケチレスはいらん)
0271日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 02:58:54.68
テンプレもお茶を濁してるしさあ。
神原遺跡なんか平原遺跡と同じ方墳だぜ?w

自分で自分の説の根源を考えて疑問に思わずに
他説をクズだとかゴミだとか罵倒している時点で
殺人タックルだろw
0272日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 03:02:25.57
>>270
今出てる三角縁神獣鏡を全て年代順に並べられるとでも思ってるのか?

7期ぐらいで編年して
それをまた前後で分けて

製作時期・伝世期間・副葬時期
共伴遺物による比較etc

まあそんなに簡単じゃないだろうなあ
0273日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 03:03:27.59
文様が140種くらいあるからな
0274日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 03:07:28.65
いくつかの様式は当然製作期間が重なってるだろうし

じゃ九州説の連中に銅矛の「最初の一本」を聞いてみようか?www
0276日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 03:28:41.93
>>275
そもそも所謂「卑弥呼の鏡」が魏というか
洛陽の官製工房(右尚方)で造られたって保証もなければ必用もないだろ

しかしクズ(九州)説って畿内説には三角縁神獣鏡の
それこそ1年単位の編年を聞いてくるくせに

自分の与太話じゃあ内行花文鏡は八咫の鏡とか
三種の神器もじゃあそれが時代によってどんな組み合わせになるのか
編年しようなんて全く頭にない

平原なんて(両刃の)剣では無く(片刃)の太刀だし
吉武の鏡は漢鏡ではなく半島製

剣も刀もゴチャ混ぜ鏡だったら何でも良し
編年どころの話じゃない
0277日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 03:31:54.51
>>276
景初三年とか魏の年号が入ってるから少なくても魏で作られたのは間違いないんじゃない
0278日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 06:07:16.61
クズ野郎は消えろと言ってるんだよ、
頭の病気か、何かなのか?


もれ(仮)は東北や琉球の話をしているんだよ
0280日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 06:25:39.05
細かい畿内土器編年って胡散臭いよねえ。
0281日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 06:27:46.40
卑弥呼の時代に近い紀年銘鏡があるから、
方格規矩鏡がその時代以降に
作られていたのは間違いない。
0283日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 06:59:43.35
景初四年とか魏の年号が入ってるから、少なくとも魏で作られていないのは間違いないんじゃない
0284日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 07:03:01.48
>>281
見た目がぜんぜん違うけどね
0285日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 07:07:59.26
>>97
こう言うように、直ぐにオウム返しされているのを見ると、
この大和説者ってホントにバカなんだな〜って思うよ。
自分が書いた相手批判が、まるで自分の事を丸写しをしてしまっている、
って事だから、
これって嘘ついてるってこと丸バレでしょ?。
0286日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 07:14:30.67
>>118
異常な大和説を支持する学者や国民は、精神的な異常者ってことだね。
0288日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 07:18:31.44
>>122
>(吉野ケ里)集落が存続した年代と人骨が出た墓の年代とは違う<

祇園山に突然断絶的に甕棺墓が幾つも現れるので、
通説学者の「甕棺の年代比定」に疑問を持っている。
0289日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 07:27:20.71
>>123
>魏志倭人伝は全否定してないよ
卜骨、鯨面文身の風習の遺物や産物の丹や真珠などから
総合的に倭地全体を考えるのが畿内説<

倭国の中心は、「正北抵新羅」だから九州にあった訳で、
その倭國の倭王武が「自昔・・・東征毛人五十五國」をした詔書を書いているんだから、
卑弥呼の頃に、東方の毛人や倭種の習俗が残存伝来していたって、何の不都合もない。

矛や鉄鏃などの考古が大和から殆ど全く見られない、という事の方が、
大和説が破綻している、という考古学的な根拠になる。
0290日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 07:30:02.14
>>125
>帰納しとらんだろ<

帰納したから、当初は、
「1里=90m〜75mで、75mに限りなく近い距離」という結果が出たんだよ。
0291日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 07:37:34.00
>>128
>>吉野ヶ里は、結局は、3世紀以後にも存続していたんだろ?。<

>してない  歴史公園のウェブもこう書いてる 「吉野ヶ里遺跡の終焉」
>吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は、どこに行ったのでしょうか?
>弥生時代の終焉と共に、どこかへと移り住んでしまったのでしょうか?<

歴史公園のウェブでは、
何て名前だったのか?歴博かどこかの(大和説の)権力学者の意向が入っているんだろうから、
信用ならんね。
いずれにしても、私が見た情報では、3世紀に吉野ケ里が存在していたから、
「其餘旁國」の一つに比定されていたし、
祇園山の幾つもの甕棺とも時期が連続する事になっていた。
0292日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 07:44:34.87
>>131
>歴史博物館や保存された遺跡の来場者、シンポジウム参加者年齢を見ても
古代史ファンの半分以上は今さら最新の論文などは読まない後期高齢者<

国民の7割は、反大和説者であるから、
歴博に来るのは、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説を信仰するボケ人間ばかり。
0293日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 08:15:47.44
>>258
>産屋を覗いたら嫁さんワニ(鮫)だったとはどういう歴史的事実だ?

豊国の姫だよ。
鰐は民族のトーテムだ。
産屋を覗いてしまったこともあるかもしれないが、変身するわけはない。

>子孫が見た目は綺麗だが弱い体になったってのはどういう歴史的事実だ?

そういう呪いをかけたと脅しただけだろ。
0294日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 08:18:59.49
畿内説が追い詰められると呟きが登場する。
0295日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 08:21:31.68
>>292


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えこのサギジジイ! 
0296日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 09:00:09.90
畿内説は追い詰められたことなんて無いけどね

あなたたちも無理だってわかってるでしょ?
能力的に言ってさー
0297日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 09:26:48.77
>>283
正始元年1月(景初四年1月)に魏の皇帝は死去するが
当時は皇帝が死んでも1年は改元せず元の元号をそのまま使った
その時に作られた鏡だから景初四年鏡が存在するのさ
0299日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 10:10:02.19
日本で作ってた職人がやらかしただけでしょう。
0300日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 11:18:03.62
>>293
>鰐は民族のトーテムだ。

はい根拠出そうな
鰐をかたどったテラコッタでも出てるのか?

>そういう呪いをかけたと脅しただけだろ。

誰が誰に呪いかけたって?
言ってみろドアホ


記紀の該当部分すら読まずにその場しのぎの言い返ししかしないゴミクズ
ちなみにこれはバナナタイプって言われる神話の典型だよお馬鹿さん
昔ならお茶の間に流れるクイズ番組にでも出るレベルの話
0301日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 11:22:09.36
>>282
>北部九州土器編年も細かいよ

まあここの大抵のゴミクズ(九州)爺には好ましくないんだろうなw

他でもない九州の考古学にダメ出しされてるクズ(九州)説www
0302日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 11:25:31.23
>>291 クズ(九州)王朝説 基地外爺 ザラコク
>何て名前だったのか?歴博かどこかの(大和説の)権力学者の意向が入っているんだろうから、

はい都合が悪くなったら陰謀論

本当に糞だなこの爺
0303日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 11:27:10.85
>>298
ネットで調べでもしたら簡単に出てくるのに
脊髄反射でそういう事言うから九州説が適当な出鱈目並べてるだけという印象を持たれる
0304日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 11:30:45.80
>>128
>「吉野ヶ里遺跡の終焉」

まあ濠が庄内併行土器を含む土で埋まってるんだっけ?

とくにゴミクズ(九州)説はやたら城塞都市にでも見たがるがw
濠埋まったら排水が困難になり集落として機能しなくなるんじゃないのかな?

雨水の排水とかし尿の排出とか・・・
0307日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 11:58:52.60
>>297
>当時は皇帝が死んでも1年は改元せず元の元号をそのまま使った

と言うか少なくとも喪に服する期間が要るよなw

例えば曹丕が死んだのが226年(黄初七年)
次の曹叡の太和元年が227年

>>298の理屈は曹丕が死んだ時点で黄初七年は取り消して
太和元年は226って話か?

そう言えば7日しかなかった昭和64年の硬貨もあるらしいwwwwww
0308日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:11:42.13
>>307
当時の中国は、布告の年の末日までを旧元号とし、翌年の元日から新元号を用いる(踰年改元、越年改元)ので、
>当時は皇帝が死んでも1年は改元せず元の元号をそのまま使った
は正しい。
しかし、明帝の死んだのは景初三年元旦で、1年後に改元されるのは、その日に確定しているので、

景初四年は存在し得ない
0309日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:14:44.62
>>305
どうやら大分あせっているようだな

当時中国では皇帝が死ぬと新しい元号に改元が行われるが
踰年改元という習慣があって皇帝が死んでも1年は
喪に服するなどの意味で元号をそのまま使い続けた

その時期に作られた鏡が三角縁神獣鏡の景初四年鏡とするなら
九州説が喧伝してきた皇帝が死んだから景初四年は存在せず
三角縁神獣鏡は魏鏡ではないという主張の根拠は崩れるわけだ

これは九州説に都合の悪い事実
0313日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:20:23.23
>正始元年1月(景初四年1月)に魏の皇帝は死去するが
これが大ウソ

魏志を読んだこともないのかw
0314日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:22:14.77
一応、貼っとくw
「景初三年正月丁亥朔、帝甚病乃立爲皇太子。是日?皇帝位、」
0315日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:22:49.12
逆に言えば「景初四年鏡」はリアルタイムでないと出てこない鏡って話だなw
まあこれももうどれくらいループしてるネタか知らんが・・・

景初も含む紀年鏡がなんで本州側に出て九州には
どこぞの博物館・美術館に九州の某地出と伝えられるものが1枚程度だったか?
0316日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:22:51.40
梁書、日本書紀にも景初三年に倭から魏に使いを送ったと出てくる
そして三角縁神獣鏡には景初三年、と魏の年号が刻まれている
これを見たら三角縁神獣鏡こそ魏から下賜された鏡だって事が
確実にわかるだろう
0317日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:26:05.18
>>313
>>314
魏志の記載が1年ズレてるんだよ
景初2年に倭人が使いを送った事になってるし
今見る魏志倭人伝の記述は原本から1000年経ってから」作られた写本であり
他の資料と比べて誤記が多いというのは周知の事実
0322日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:31:26.74
ごちゃごちゃ言うのは、もう少し勉強してからにしてくれ

話にならん
0323日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:34:57.38
>>319
梁書、日本書紀の2つの資料には共に卑弥呼が魏に使いを送ったのは
景初三年とあるからな
魏志倭人伝の原本があったころの記載は景初三年と書かれてんだろう

原本が無くなってから1000年後に作られた魏志倭人伝の写本には
そこが景初2年と語表記されたと
2対1だ
魏志倭人伝の1000年後の写本が間違ってるんだろ
0324日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:38:46.31
>>320
梁書、日本書紀は魏に使いを送ったのは三年と出てくる
つまりその時まで皇帝は健在だった

そして亡くなったのは翌年の正月であり
当時の風習で1年改元をしなかったと考えるなら
景初四年が存在したとしても何も不思議はないのである
0325日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:40:59.03
>>321
確か記述する時は遡って景初四年を正始元年にするんだろ
何かそんなの聞いた事あるが
0326日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:49:54.23
魏志倭人伝の卑弥呼が魏に使いを送った年景初二年は
景初三年の誤記とすると色々つじつまが合う

三角縁神獣鏡になぜ魏の年号の景初三年とあるのか
そして景初四年と記された鏡もあるのか

景初三年に卑弥呼が魏に使いを送り
翌年の正月皇帝が亡くなり引き続き元号が使われている最中の魏にも
使いを出したと
そういう事だろう
0328日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 12:53:17.05
>>325
これも貼っとくよ

(景初三年)
「十二月詔曰「烈祖明皇帝、以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀。其復用夏正。
雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數爲得天正、
其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」
正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放侍中中書令孫資爲左右光祿大夫。・・・」
0329日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 13:02:16.80
ああそれな
正始元年の開始は2月にしろってヤツか
なら景初四年は2ヶ月は存在したんだな
0330日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 13:13:30.69
491 ◆UiepmfCeDJqf 2018/05/26(土) 18:15:29.65
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0331日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 13:17:12.03
昔は中国の正月は1月だったんだな
今の中国の正月が2月なのもこれが元なんか
0333日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 13:23:58.61
日本の職人が失敗した鏡以外に
景初四年と書かれた記録はないからな。
0334日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 13:33:55.34
景初四年が存在した以上
魏で作られる鏡にその年号が記銘されても何もおかしくない
0335日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 13:58:59.82
ああ明帝が亡くなったのは景初三年の元日か
それで本来なら翌年の1月1日に正始に改元される所を
新元号は2月から用いるようにとお触れが出たと
すると景初四年は1ヶ月かそこら存在したというわけか
0336日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 14:11:54.29
三角縁神獣鏡とかまだ言ってるのか
王仲殊博士の呉の工人作成説以降まともな畿内説の人間からは見向きもされていない
0338日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 14:37:48.16
三角縁神獣鏡呉の工人作成説は間違いだろ
呉に相当する場所から見つかってないし
逆に魏の洛陽からは見つかってるし
0339日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 14:53:57.58
洛陽から見つかった?無い無い、一個もない
海東鏡、呉の紀年鏡、神獣鏡という長江様式の鏡、見つかるのが4世紀以降の古墳=呉滅亡以降ということで呉の工人説が最有力
0341日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:10:07.59
まあ三角縁神獣鏡が魏鏡と判明すれば
九州説は即死だからな
必死にもなるさ
0342日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:19:22.04
>>339
またネットでちょっと調べればすぐバレる嘘をつく
少しは頭使ったらどうだ?

これを見るように九州説は頭が悪いか
意図的に嘘をついて印象操作をしてるだけという事がよくわかる
0343日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:19:25.47
>>200
>三角縁神獣鏡が奈良県で作られて各地に配られた根拠となる古墳はどれのことか?

遅レスで申し訳ないが、古墳は鏡を配ったりはしないだろう?
配った人物(あるいは組織)の墓というのは想定しうるが、
本質的に配った組織=ヤマトの王権の首長は、大王であり、
大王墓クラスは天皇陵に指定されているから発掘されていない
0344日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:23:29.07
呉滅亡まで呉にいたら景初は三年までであることは知ってるだろ
0345日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:31:21.00
>>342
神獣鏡は呉に相当する場所で作られていた鏡です
後漢代に三角縁神獣鏡とよく似た鏡が一枚だけ見つかってるけどそれも呉に相当する場所から
洛陽からというか中国からは三角縁神獣鏡はただの一枚も見つかってません

嘘だというのなら洛陽で見つかった鏡の証拠を出したらいい
0346日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:32:55.05
魏と結んだ九州邪馬台国に対して、畿内が呉と組んだのかもしれんね。
0347日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:34:04.44
>>342
畿内説にも大きく影響を与えて三角縁魏鏡説を絶滅寸前まで追い込んだ王仲殊説を頭が悪いと一蹴する畿内説の大先生は流石ですね
0348日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:37:12.00
なぜ呉(孫?)が出てくるんだ?

関係ないし、頭の病院に行け、どこかの工作員か何か?
0349日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:40:02.34
最近(二~三代前)、
日本に来たばかりの何やらが〜と言ってる人がいたりしたんだけど、
読んだことない?

何の話だと思う
0350日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:40:05.50
そりゃ30年も前の説だもの
一蹴されて当たり前だ

呉の鏡は三角縁神獣鏡と全く似てない
これはもう定説
0351日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:41:55.89
>>345
ttp://washiyamataikoku.my.coocan.jp/kagami.html

ほらよ
というか少しぐらい自分で調べろや
0352日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:45:15.33
>>347
魏の年号が入っていて洛陽でも見つかり
科学分析でも素材が中国製と判明した三角縁神獣鏡を
呉の工人が倭で作ったとか言ってるからな
0353日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:47:00.46
別に悪く言うわけではないんだけど、
そういうことを言ってる人がいたよ

人の家に寄生、便乗のような話、

実際に当時の日本(倭でも良い)に来て、
国造りに参加したりした・・・人々

そういう人々や家に寄生しているとか
0354日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 15:49:03.40
そういう人がいるみたいな話、
ネットなどを調べてみると、確かに、そうだろう
0355日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 16:36:06.73
>>351
ありゃりゃ、例の骨董市のやつか
0356日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 16:42:27.56
>>351>>352
このホームページ最後まで読んだのか?
専門家が怪しい怪しいと言ってるコメント付きだ
考古学では出土地や状況が不明のものは資料価値がゼロなのでまともに取り扱わない
贋作師が多い中国なら尚更信用できないとされる
だから最後のコメントで専門家は「大発見だ!」とか誰も言ってない、極めて冷静
三角縁神獣鏡が骨董市から出てきたのはそれが初めてではなく過去にも出てきていたが、資料価値は無いとして誰も見向きもしなかった、今回もそれと同じ
興奮してるのは5chの素人だけ
0357日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 16:51:58.65
神獣鏡は蜀の地域で生まれて東方に広がった
三角縁はその中でも徐州で作られていた神獣鏡の系譜を引く
0358日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 16:56:35.93
九州説があまりの都合の悪さにアーアーミエナイキコエナイとだだをこねているわい
0360日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 17:10:51.47
中国の三角縁神獣鏡の出土地も洛陽にある白馬寺付近の畑とわかっている
0361日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 17:26:54.63
>>133
>>佐原も、「南→東」の嘘吐き騙しを持ったままで、遺跡保存をしようとしているんだから、<

>へえ・・・ 佐原が 「南を東に読み替えるべき」 だなんて言ってるんだ?
(白石が狗奴国東海説でそれを書いてるのを見た記憶はあるがw)
ソース出してくれんかね?
まさか馬鹿の一つ覚えみたいに 「畿内説=南→東」 って言ってるんじゃないだろな?<

お前らが、
日本の古代史学者や考古学者らは、「皆大和説者(畿内説者)だ」、
なんて言っていたから。
0362日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 17:41:05.59
>>135
>倭国大乱はありましたよ
九州北部の各地の遺跡で首のない骨や傷のある骨がいくらでも見つかる
一方で畿内には無い
倭国大乱の後大乱を鎮めるため卑弥呼が共立されたことを考えても畿内説は否定される<

あったのは「倭國亂」です。
「大乱」と「乱」は、違うんです。
「大」が付くと、「天子や皇帝(の支配)に反抗する乱 」だという意味になり、
倭國内で起こったのは、天子や皇帝に反抗する乱ではなく、100國位の部族国家間の乱であり、
范曄は、そのような「大乱」の意味が判らず、
単なる部族国家間の乱を「大乱だ」と誇張して書き換えてしまったのです。

しかし、大和説者は、
大和の王家を「天皇だ」とウソを付いているので、
100余りの部族国家間の長い戦乱を、
大和天皇家に反対する「大乱だ」と誇張して、世間の人々を騙そうとしていたのです。
0363日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 17:43:52.21
>>137
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者や大和説学者らが馬鹿なのは、
親の因果だからしかたない。
口汚いのは、育ちのせいだから本人の責任。
嘘つき騙しもね。
0364日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 17:51:06.70
中国の三角縁神獣鏡は、
2015年に洛陽の骨董市で購入された。
0365日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 17:51:57.21
>>360
おいおい、もうやめた方が…
0366日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 17:54:45.67
>>363


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えこのサギジジイ! 
0367日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 17:54:46.77
>>138
>末盧國の役人の名前は書いてない<

博多に「都市」氏という苗字の方がおられ、
自分たちの家は、東松浦半島の西北沖の鷹島や黒島の松浦水軍家の出だ、
という事であった。
だから、「都市」という苗字の「都市牛利」は末盧國の人間であった可能性が高く、
都市牛利は、明帝から「率善校尉、假銀印青綬」とされて「魏の臣下の役人」なっていたので、
末盧國は、魏の直轄地の形であるから、
「末盧國の役人の名前は書いてない」事になった。
0368日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 17:58:49.91
>>367


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えこのサギジジイ! 
0369日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:08:51.89
>>139
>>九州北部の各地の遺跡で首のない骨や傷のある骨がいくらでも見つかる<

>弥生中期の受傷人骨がいくらあっても意味無い<

「倭國亂」は「倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王」という説明であり、
「卑弥呼共立」は、240年の魏使らが「年已長大」と記録し、
「長大」が30〜35歳であるので、卑弥呼共立が卑弥呼が仮に20歳の時としても、
240年の10〜15年前の225〜230年頃の共立になり、
歴年は8〜10年位を示すから、10年としても、
「倭國亂、相攻伐」が始まったのは、215〜220年になる。

だから「受傷人骨」は3世紀始め頃であった可能性が高い。
0370日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:13:49.65
>>142
>伊支馬=活目=垂仁
 弥馬升=御間城=崇神<

どっち道、「南≠東」に拠って、×だから、
まあどちらにも信を置かないほうが懸命www。
0371日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:14:11.77
>>369
>だから「受傷人骨」は3世紀始め頃であった可能性が高い。

甕棺編年というものがあってだな、ザラコクの都合で年代が動いたりはしないんだ

現実の地理もザラコクの都合では動かない

香言うことが理解できないからザラコクなんてやってるんだろうなww
0372日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:19:29.89
>>146
>畿内説に立つなら卑弥呼後の男王ということになるか?<

卑弥呼の名前を出した瞬間に、
「南≠東」に拠って×であり、
この男(ssn)は、嘘つき騙しの詐欺師。
0373日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:22:59.39
>>147
>学者の名前を無断使用して作り話を流したら詐欺<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者の佐原を、
いかにも「善人」であったかのように、
嘘つき騙しの作り話を流したら、詐欺。
0374日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:27:21.79
>>149
>なーんだ ただの妄想でしたか<

なーんだ。
末盧國の中で、唐津港地区が、到着上陸地として一番適切であった、
という事が判らず、
「ただの妄想でしたか」とヘイトスピーチする事しか出来ないアホであったか。
0375日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:30:37.82
>>150
>「邪馬台国」があったっんじゃなくて「邪馬台国」と記された国があった <

いや、「邪馬台国」なんてなかった。
0376日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:33:51.79
>>152
掲示板で、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の妄想の披露会はやめれ。
新たな史料事実や知識の交換ならええよ^^・
嘘つき騙しのタコはいうな(再度。
0377日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:42:19.10
>>153
>萬二千余里
「萬里」・・・皇帝の遺徳が及ぶ範囲 <

漢代〜魏代の楽浪や帯方郡使らの計測値。

>「二千余里」・・・上記から更に遠方ってことで適当にくっつけた数字<

魏使らの新たな計測値。

>こんなものに拘泥するほうが馬鹿の極み<

史料事実を否定曲解する大和説者らの方が、・・・・アホ詐欺師の極み。

>ちなみに「投馬国五万戸」「邪馬台国七万戸」も
3.5.7という陽数(奇数)を好む中国人の修辞というのに賛成 <

「邪馬台国」なんて存在しないし、「奴國二万戸」で矛盾になっているから、
この男が、・・・・アホの大和説詐欺師であった、という事に賛成。
0378日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:42:32.17
>>335
>>328 に景初三年後十二月を設けるって書いてあるだろ

景初四年が存在しないことは、景初三年元旦に確定済み
0379日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:43:55.20
消えろクズ野郎
0380日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:45:36.51
以前から聞いているはず


お前の名前は?
0381日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:47:15.36
これも書いたはず


男も女もない、クズ野郎は消えたほうが良いぞ

0382日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:47:29.35
>>156
>別の世界とすると考古学的事実と矛盾する<

九州は、矛と鉄鏃の世界。
大和は、矛も鉄鏃もない世界。
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職」の国。
0383日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:48:46.84
お前の名前は?
0384日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:52:32.12
>>157
クズ大和説(クズ畿内説含む)の様に、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の脳内ストーリーなら、
100%矛盾のないものが作れるかも知れないだろうがwww 。
0385日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:56:27.06
お前の話なんて聞いていない、
何でも勝手に決めるなと言ってるんだよ、わかる?

低脳なんじゃないのか?
0386日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:57:44.76
>>160
>>>(對海國と一大國)国内見聞移動があった、という事は、<

>島巡り妄想とは無関係<

陳寿は、對海國と一大國の「方〜里」の里数を書いた、という事は、
陳寿は、對海國と一大國のそれぞれの国内移動里数を、
合計里数の萬二千余里にに計上算定した。
0387日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:01:45.67
>>166
>>福岡が王都であることを記している<

>いや、そんなこと書いてないしw <

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから。
0388日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:05:27.25
>>168
>九州説だと、どちらの大筋も改変することなくマッチさせることができる。<

>で?九州(クス)説どの説が最も蓋然性があるのかね?
まっとうな学説なら当然比較検証しうるよな? でも実際はできず半世紀経っても
「素直に読んだらここしかないのじゃ!」 と脳みそ化石爺さんたちが口々にお気に入りの場所
古代史ストーリーを語ってるだけ<

不彌國の直ぐ南だから、(九州説の中では)筑紫説者が最も多い。
0389日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:06:06.40
お前(不明)のような人間が一番嫌いなタイプなんだよ、
例えば、メディアなどを悪用して、お前だけで話を進めていたり。我田引水。


我田引鉄だと言ってる人もいた
0390日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:06:33.67
>>330
>一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
たとえ干支紀日がずれていようと、景初四年がいきなり出てくるのはイミフ
0391日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:07:04.23
>>347
昔の話だろ
鏡に詳しくない人が盲信したので流行しただけの説じゃね?
0392日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:09:47.56
>>169
>で? (大和説の)どこが矛盾か指摘できないでしょ?<

文献なら、「南≠東」や「不彌國で萬二千余里がほぼ終了している」事など。
考古なら、矛と鉄鏃が大和には存在していなかった事など。
0393日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:12:25.67
詳しいことは、わからないけどモブキャラ?
雑魚キャラであるはずのオマエが、
話を進めたり、なぜ、そのような権利や権限があるんだ?


騙り、成り済ましだとしか言えないだろう、
言ってる意味わかる?

なぜ『騙り』『成り済まし』と言われているのか
0394日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:14:48.84
>>172
「天孫降臨の地は(修羅の国)ヤマトブルグだ」
とかいう話か?。
そういうのは同じクズ(ヤマト)説同士でほざきあえ、
ゴミクズ(ヤマト)の・・・・・アホガキの詐欺師。
0395日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:17:07.49
つーちゃん、今はファイブちゃんねる?に限った話ではない、
メディアなどがあるでしょ、すべて含めて言ってるわけなの
0396日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:18:09.12
>>174
このスレあたりにも典型的に出てるけど、
大和説者らの人の言うことって、
具体的内容lが殆どないんだよね。
0397日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:21:28.70
>>175
「南→東」などの嘘つき騙しとか、
本当に大和説者って、分裂幻覚の妄想の粘着だな。

こいつら掃き落とすブラシとかないのか?www。
0398日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:22:52.14
伝えておけと書いたはず、
このように言われたりするのが嫌なら、停止しなさい

電波、営業でも良いから停止しろと
0399日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:24:23.10
>>176
>>そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。<

>このコピペ、九州説が困る度に貼られてるけど、 1行目から「あったらしい」という願望
前提に展開しても意味のある論説にはならんよ <

別に困らんよ。
「筑紫城」という史料事実があるから。」
0400日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:26:34.10
>>177
>「らしい」「だそうだ」が (記紀は)「福岡が王都であることを記している」に
化けるわ化けるわ インチキはいかんよ <

新唐書に「筑紫城」とあるから、インチキじゃないよ。
0401日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:28:56.12
本当に何か知ってる人がいるのかもしれない

「いつまで経っても進まんね」
という書き込みがあったり、もれ(仮)が書き込みをした後の書き込み

北斗の拳?何か、そういう書き込みをした後
0402日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:29:29.66
>>399
>別に困らんよ。
>「筑紫城」という史料事実があるから。

まあ、ザラコクは何があっても困らないよなww
どんなことでも妄想の産物をでっち上げるだけなんだからw

筑紫城なんないしw
0403日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:31:15.21
>>179
>>思うんだけど、 奈良県から三角縁神獣鏡を配った考古学的証拠遺跡ってどれ?<

>証拠遺跡って奇妙な言葉は初めて聞いた 同笵鏡の分有関係が根拠とされる<

同笵鏡だけでは、どちらからどちらへの分配であったのか?、は判らない筈だよ。
0404日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:33:32.20
あの謎のチェーンソーのゲーム、
なぜ「金を返せ」と言ってるんだと思う、
そういうメダル、トロフィーのようなものがあったり

「オマエはもう死んでいる」(既に?)と言っていたり
0405日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:35:52.07
あのチェーンソーのゲーム


確実に『北斗の拳 シン』というキャラのゲームになっているでしょ、
ヘアスタイルを変えただけ
0406日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:36:09.00
>>181
>三角縁神獣鏡は古墳時代の初期から前期(といいつつ最初期を除く)の
代表的な副葬品で、分布の中心は明らかに畿内 <

同笵鏡説は撤回するの?。
また、ホケノや箸墓から出土したの?。
0407日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:37:53.61
>>367

松浦の鷹島は唐津からはぜんぜん離れた西の島
鷹島の都市(トイチ)姓は江戸時代くらいかららしいから
都市(トイチ)家の墓の法輪塔や石塔からすると
名護屋城築城の石材供給地の鷹島に移住した石切り職工がルーツの可能性がある
「トイチ」であれば和名類聚抄に大和国十市郡(といちぐん)があり、中世には十市氏がいる
末盧國が魏の直轄地というのは。仮説を根拠にした妄想
0408日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:38:55.86
>>390
お前が暦の仕組みを勉強しないから理解できないだけだろう
0409日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:39:36.96
>>378
そうかも知れないけど
景初三年から正始への改元は1月ではなく2月にせよとの勅令から
改元まで1ヶ月ほど間が存在したのは事実
記録上ではその1ヶ月を後12月と記録しているが
実際的にどのような扱いだったのかは
よって景初四年は絶対存在しないとは言えないわけだ
0410日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:41:25.21
好きな色、黄色みたいなことも言っているでしょ?そのゲームの話


『黄色 きちがい』
ググってみて、紫好きのほうが・・・と言ってる人がいたり
0411日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:44:15.68
『プッチ神父』というキャラも紫だし
0412日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:44:18.44
>>406
イミフ
脈絡なし
0413日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:46:30.84
>>408
仕組みは理解してるつもりだけどね、知らないのはお前だろ

ただ、この関係で検索してたら、こんなのみつけた。
「平勢隆郎は、魏書明帝紀には景初改暦時に伴う正月の変更(青龍4年は11月で終わるため)によって本来は存在しない筈
の青龍4年12月の記事が実際には存在していることなどを指摘して、景初改暦の際にその暦元として採用された壬辰と同じ
辰の年(丙辰)である前年の青龍4年(西暦236年)に遡及させて景初元年としたものの、その後魏晋革命の影響によって元
に戻されたために正史の記事に混乱が生じたり、正史に基づけば本来はある筈のない「景初4年」銘の三角縁神獣鏡が存在
したりする(同説に基づけば、景初は4年まで存在するため)とした説を唱えている。
0414日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:48:18.99
仏教関係?それとも冠位の話なのかな

『紫』
0415日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:50:38.26
>>409
空白の一ヶ月
0416日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:52:58.66
>>403
つ 集中度の差
0417日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:53:42.86
ほー史料と実際使われてた年が1年くらいズレててもおかしくないのか
0418日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:54:51.15
『何者にもなれない お前たち』ググってみた?画像

とある画像の端のほう、少し紫色の物体が見えたり、
キュウリを切っている画像
0420日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:55:37.28
>>413
>仕組みは理解してるつもりだけどね、知らないのはお前だろ


じゃ、知ってるなら
「景初四年がいきなり出てくる」という理由は?
0423日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:57:13.98
>>182
>ちなみに「吉武高木遺跡」遺跡なんか古代に三種の神器なんてなかったことを示す好例だ
>鏡(と言っても漢鏡ではない)を出した木棺墓は周りの墓と比べて特に大きいわけでもない
その潤沢な副葬品の中にたまたま鏡があったと見るしかない状況で
勿論、王位、皇位でもなく豪華な副葬品はその墓群の被葬者がかなり高い階層にいたと想像させるに止まる<

紹介文
吉武高木遺跡は、早良平野を貫流する室見川中流左岸扇状地(吉武遺跡群)に立地する。
1984年度調査で弥生時代前期末〜中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より
銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、
多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した(吉武高木遺跡)。
遺跡群内には同様に多数の副葬品を有する前期末〜中期後半の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、
中期後半〜後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。
またこれらの墓地の周辺には同時期の集落が広がり、
吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした掘立柱建物も発見され、
「高殿」の可能性が指摘されている。
これらは紀元前2世紀以降の北部九州における「国」の成立課程を知る上で
重要な位置を占めるものである。

一応三種の神器が揃っているね。
0424日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:58:12.40
>>420
おまえは干支紀年法、干支紀月法、干支紀日法それぞれの違いは理解してるかい?
0425日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:00:50.95
>>419
景初三年から正始に切り替わるまで1ヶ月間の空白が有る以上
当時その期間を景初四年として扱ったのかも知れないという事は
絶対ないとは言い切れない
0426日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:04:45.93
>>423

多鈕細文鏡を天照大神の神鏡というのは朝鮮部落の人だけだろう
0427日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:05:04.75
単に景初三年一月、二月だろ。
0429日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:10:34.18
>>187
>というか奈良県の大規模古墳は福岡と違って宮内庁が管理してるから
気が向いたときに調査というわけにはいかないから
全国の分布範囲でもっとも集中している地域が中心地 <

同笵鏡の、「どっちからどっちか?」の話は、どうなったの?。
0430日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:11:19.91
>>424
恥ずかしくても誤魔化さなくていいから

「景初四年がいきなり出てくる」という理由は?
0431日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:14:03.87
>>191
>九州説はいつも妄想<

大和説は、「南→東」など、いつも妄想。
0433日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:16:51.90
>>428
メンドいからいいわ
景初四年は存在したかも知れないで十分
絶対ないわけではない事は確か
0435日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:20:04.24
>>193
まあゴミクズ大和説のアホ爺って、「南→東」などの嘘つき騙しが好きだよなwww。
自分の好き放題こねくり回してカスタマイズできる自由さがあるゆえんだろうがw。
もうお好みに応じてつまみ食いするだけのアホの集団 。
0436日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:21:57.05
>>434
つまり「景初四年は存在しない」は妄想で、おk !
0438日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:23:46.45
>>195
>>ホケノやら纏向古墳群から三角縁神獣鏡が出ていない。<

>たしかにそれは事実だが何か問題あるのか?<

ホケノは3世紀末で箸墓は4世紀だから、
大和の三角縁神獣鏡は、4世紀以後であり、
卑弥呼の鏡ではなかった。
0441日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:28:29.28
>>432
はあ?

景初四年なら春二月乙丑は存在するけど
正始元年には春二月乙丑は存在しないでしょ?

あなた、干支紀日法を理解してる?
0442日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:28:35.15
>>196
>布留0式の時代に三角縁神獣鏡は無いわけだな。<

だから、箸墓にもないだろうなあ。

>他の地域では有るぞ。<

筑紫の三角縁は、志登のが一番古くて、祇園山よりも古い。
その後に西新町や那珂八幡にある。
という事は、三角縁も、筑紫から広がった。
0443日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:31:55.14
>>198
>ホケノ山は纏向3類だから、もっと古いよ 三角縁がなくて当然<

ホケノは布留であり、
河内の久宝寺や加美の庄内や陶質土器よりも後であり、
3世紀末から4世紀になってしまうよ。
0444日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:32:45.96
>>440
正史にちゃん史実がと書いてあるって立証をどうぞ
0445日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:34:06.73
>>443
>ホケノは布留であり、

という根拠は?
0446日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:36:28.25
>>199
>いや、だからだな 各地の三角縁神獣鏡は下賜品であり王が持つものじゃない
(その地位にあったのは画文帯神獣鏡) って話なんだが <

同笵鏡の話はどうなったの?。」
0447日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:36:39.10
>>438
>ホケノは3世紀末で箸墓は4世紀だから、

そうやって勝手に歴史を書き換えれば
九州説が生き延びるんだね

ww
0448日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:37:54.66
>>439
>>440
後の記録上ではね
実際の現場がどうだったのかは何もわからない
現実的に1ヶ月の空白がある以上
景初四年が絶対存在しないとは言えない

さらに正史の記述そのものも後年の遡及的な改元、
またはそれからの復元によって1年程度年数にずれがある可能性も出てきた
いずれにしても正史に記録がないからといってそれが
景初四年は絶対存在しなかったという事の証明にはならない
0449日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:38:31.59
>景初四年なら春二月乙丑は存在するけど
>正始元年には春二月乙丑は存在しないでしょ?

イミフ
景初四年=正始元年なら干支紀日は同じはず
0450日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:39:00.37
>>446
別にどうも?

前に書かれているとおりだ
0452日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:39:15.95
記録に残っていない以上
景初4年があるとするなら
その証拠が必要になるね。
0453日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:42:16.77
>>207
>じゃあ椿井大塚山古墳><

桜井大塚山は、大和ではないよ。
また、「竪穴式石室」や武器が沢山あるから、ホケノよりも後であり、
おそらく、東征将軍の墓。

>ここから出た三角縁神獣鏡の同氾は各地で出てる<

大和からはやっぱり出ていなかった?。
0454日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:43:53.72
>>451
する必要性を感じないね
景初四年は絶対ないとは言い切れない
ゆえに景初四年記銘三角縁神獣鏡は魏鏡であっても不思議はない
0455日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:44:19.45
>>449
景初四年=正始元年
じゃないですけど?
0456日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:45:04.58
景初4年は記録にもなく
証明もできないってことでしょ。
0457日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:45:34.59
>>451
景初四年がなかったというのも立証されてないから信じなくていいね?
0458日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:46:08.34
>>212
>福岡はずっと他のところから統治に来てる土地なんだよ<

福岡は、弥生銀座があり、おそらく女王之所都。
0459日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:47:15.41
>>456
「景初4年は無い」も証明できないってことでしょ。
0462日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:48:10.57
>>458
東京は、戸越銀座があり、おそらく女王之所都。
0463日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:49:39.54
明帝紀に
「?日、帝崩于嘉福殿、時年三十六。」とあるけど、
「松之注で、1年違うんじゃねと指摘
「臣松之按。魏武以建安九年八月定?、文帝始納甄后、明帝應以十年生、計至此年正月、整三十四年耳。
時改正朔、以故年十二月爲今年正月、可彊名三十五年、不得三十六也。」
0464日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:50:28.78
>>461
元旦が別の日です。
0466日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:51:25.61
>>226
>>魏志倭人伝を読めば誰だって九州にあると思うのだから当たり前 <

>普通太平洋にドボンだろが?アホ 一体100年以上も前のお話いつまで繰り返すんだ?クソジジイ
年寄りは同じことを繰り返し言うものだが クズ(九州)説はもうカルト基地外レベル <

不彌國で萬二千余里が、ほぼ終わっている。
0467日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:51:29.76
むしろ景初五年もあったのではないか?
理由はだれもないことを証明していないから。
0468日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:51:29.77
>>453
俺たち畿内説は
大和説じゃないから
関係ないね
0471日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:54:18.24
たぶんまだ景初なんだよ
つーかまだ魏なんじゃね
正史は信用できないし
0472日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:55:27.26
>>467
結論

「存在しない」は論拠にできない
論理的に矛盾するとか立証できない限り
0474日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 20:59:59.91
>>469
夏暦だから
0475日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:01:06.57
悪魔の証明も知らんのがおるな。
0478日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:07:54.65
>>475
「悪魔の証明」の意味を説明できる?

証明できないものは論拠にしちゃダメって意味だよ
だから「景初4年は存在しない」は論拠にできない
0481日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:21:17.36
>>480
三国志に司馬氏が
皇帝ぶっ殺して権力奪ったって書いてないけど
存在しないのその事実?
0482日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:23:35.60
>>480
なら邪馬台国には小人国や黒い歯をした人間の住む
歯黒国もあった事になるな
0483日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:24:32.56
>>480
正史に載ってない庶民は存在しないのか?
生まれも死にもしなかったのか?
0485日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:29:27.12
>>479
え!!!!

夏暦と殷暦は元旦が別の日だけど
まさか知らないってことは
な・い・よ・ね?

まさかね
0486日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:29:31.76
歯黒国は鉄漿をした奈良土人?
0488日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:32:05.59
>>484
じゃ、おまえの実在を証明してくれ

できるか?
0489日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:33:20.59
>>487
どうして同じ日なの?
理由は?
0492日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:37:09.19
>>490

おまえが書き込んだって証拠は?
0493日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:38:48.93
>>484
なら正史になくても現実にある物を証明すれば
正史にないものは存在するという事の証明になるんだな
0495日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:40:27.92
>>491
夏暦の正月は寅の月
殷暦の正月は丑の月
一か月ズレるので
干支も違う
0496日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:42:57.79
>>494
そうだな縄文土器とか
正史の時代にあったけど正史には出てこない
これはすなわち正史にない物も存在するという事
0499日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:45:21.82
>>494
なぜ証明が必要?

「景初四年は存在しない」
が証明不能だと立証できたから
国産説の根拠が一つ消えた

これで吉
0500日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:45:28.46
>>449
>イミフ
>景初四年=正始元年なら干支紀日は同じはず

景初四年の正月は景初三年の「12月末日」の翌日
正始元年の正月は景初三年の「閏12月末日」の翌日

一ヶ月ずれているんだよ
「景初四年=正始元年」ではないんだ

この一ヶ月の間にも日の干支(干支紀日法)は進むから

「景初四年なら春二月乙丑は存在するけど
 正始元年には春二月乙丑は存在しない」

正始元年春の乙丑は1月になってしまい、60日後は3月だから
春二月乙丑は存在しない

ここまで説明すれば理解できるか?
0503日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:47:37.13
>>497
月が変われば日の干支も変わるんだが

まだ理解できない?
0504日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:49:17.84
むしろ景初四年が存在した状況証拠がばっちりあるって話なんだがね

「景初四年は存在しない」が証明不能、というよりもね
0505日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:49:52.39
景初三年後十二月は詔書で存在が確認される
次が景初四年だろうと、正始元年だろうと同じ
0506日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:50:25.76
>>502
景初三年後十二月は夏暦にしか存在し得ないからだろ
0507日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:50:37.20
>>501
景初四年は正史に存在しないけど
正史にない物も存在するとさっき証明した
すなわち景初四年は存在する
0509日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:52:10.44
>>466


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



いつ言うんだテメエは! 
0510日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:52:12.57
>>498
どうわかった?



w
0513日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:53:06.46
>>511
無関係だという理由は?
0514日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:53:57.45
>>502
>景初四年正月の前になぜ景初三年後十二月をいれない

そんなものはそもそもない、からだよ

先帝崩御の一周忌と、改元の慶事を同じ日にしないのがそもそもの改暦の理由であり、
改暦のつじつま合わせが「景初三年閏12月」なんだよ

改暦がなければ、ここに閏12月は入らない
0516日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:55:45.06
>>511
夏暦だと後十二月が存在する
殷暦だと後十二月は存在しない

暦法わかってる?
0520日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:59:24.51
史記にない物はないとかない事を証明しろとかだんだんザラコク化してきたな
九州説論者はこうなる運命なのか
0522日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:01:10.93
>>240
>「小林の表した分有関係調べてみろ」<

小林って、京大かどこかの「大和説学者」なんだろ?。
それじゃ、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホ学者であるから、
そんなアホの書いたものなど、信用出来ないし、
探して読む気もしない。
0524日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:04:17.01
>>521
>殷暦だろうと閏月は存在するぞ

閏月があるかどうかじゃなくて、暦によって「どこにはいるか」が異なるんだよ

改暦がなければ、景初三年は12ヶ月でおしまいで閏12月は入らない
0525日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:04:28.06
>>241
>>こっちが懇切丁寧に答えても
しばらくしたらまた同じことを聞いてくるクズ<

>どこぞの記者会見と同じだなあ<

こりゃ全く大和説者の常套手段だなあ。
0529日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:07:45.49
>>521
殷暦から夏暦に戻すために閏月を入れたんだが
理解できないのか?
0531日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:09:30.27
>>527
あとからな
0534日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:11:56.27
>>528
>これ大ウソ

ただ書けばいいってもんじゃないと何度言えば
嘘だと言いたいなら、どこがどう嘘かきちんと筋立てて述べなよ

都合が悪いことに、とりあえず嘘だって言うのはやめなw
0535日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:13:17.41
>>257
>戦前生まれのお爺さんは九州説<

戦前生れのお爺さんらは、PCなんて出来ないし知らないから、
PCでの投票法も知らないので、
投票したのは、戦後生まれで、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の学会教育界に教育されたガキら。
0537日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:13:35.89
まず
殷暦と夏暦では
正月が一か月前ズレる

これが理解できないと
基礎知識不足で
議論についてこられない


おk?
0538日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:16:02.51
>>524
>閏月があるかどうかじゃなくて、暦によって「どこにはいるか」が異なる
これは説明できるかい
0539日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:16:10.60
>>535
ザラコク、あんた戦前生まれでしょ?
0540日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:17:47.15
>>391

石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」

森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」

白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」

菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」

原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」
0541日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:18:19.27
>>260
大和説者は、
魏志倭人伝を愚弄して 、
クズクズ大和説や記紀連呼。

どこかの記者会見と重なりますな。
0543日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:21:31.62
>>536
史料を詳しく洗えば年号そのものが1年ズレたセンも出てくるかも
けど手間がかかり過ぎる気もする
0544日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:22:34.05
>>538
できるよ

太陰太陽暦調整のための閏月は景初二年に発生ずみ
したがって景初四年の閏月は夏暦と殷暦の調整のためだけに作られた
0545日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:23:56.01
>>542
出てるって証拠は?
0546日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:25:56.21
>>540
その談話・・・


西暦何年?



ww
0547日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:27:25.06
>>265
もう大和説というか邪馬台国なんてものが 前世紀の遺物なんだよ。
それが分からず竹槍持って 空にB29探してる頭おかしい爺が、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説。

まあ俺は一応大和説の可能性も理論上はは、0.5%位は認めてるけど 、
(九州説は史料事実からの帰納的推論故に故に99.5%以上の確率)

纏向だの葛城だの
なんて与太話までその範疇に入れる気はない
0549日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:32:27.86
ここ、大和説とかのスレじゃないから
関係ない話はよそのスレでやって
0550日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:32:50.73
>>267
勘違いしてるようだが、
大和説者にまともな学者なんていない。

「南→東」などの嘘や、
「邪馬台国」とか「畿内」とか「朝廷」とか「天皇」などのような、
存在もしない言葉を言い出す詐欺師は、
学者だとも人間だとも思っていない。
0551日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:34:32.67
>>544
丑月を十二月とし、寅月をもって正月とするのが夏正。
景初は二年・三年と丑月を正月としたので、そのままでは正始元年正月は丑月となるところ、
景初三年後十二月を挿入したので、丑月が後十二月となり、寅月が正月となる夏暦に復帰した。
ここまで何も問題ない。

「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、
景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。」

で、「乙丑」は日干支なので、景初四年の存在と何も関係がない。

分かる?
0552日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:34:57.65
>>545
この一行レスの奴ってみんな一緒なの?
頭悪いから自分で調べることもできないの?
目の前にあるケータイかパソコンで検索すらできない頭なの?
0553日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:34:59.98
>>548
換言すれば、アタマくるってるな
0554日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:36:11.16
夫熊經鳥伸 雖延暦之術 非傷寒之理
0555日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:36:56.50
>>546
西暦も何も今現在もその見解だよ
畿内説の学者からも見放されてるの
2018年現在これらの学者が魏鏡だ!と言ってるなら証拠持ってきなさい
0556日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:37:02.66
>>551
は?

暦のこと、何も知らない人?
0557日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:37:46.35
>>575
>三角縁神獣鏡の根源というなら魏になるんじゃないの<

渡来して来た呉系楽浪鏡師らの中の一群だよ。
0558日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:38:36.78
>>555
アホが切れますた
0559日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:41:34.17
>>276
>そもそも所謂「卑弥呼の鏡」が魏というか
洛陽の官製工房(右尚方)で造られたって保証もなければ必用もないだろ<

21枚の「尚方作」の方格規矩鏡は、明帝の下賜の鏡が元になっているよ。
0560日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:41:36.36
>>552
証拠だせないのか

ダメダメだね
0561日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:42:51.01
>>551
言うなれば後12月の一ヶ月は景初四年じゃないという主張か
けど実際は現場でどう扱われたのかわからんだろう
後12年と記された物でもあればいいんだろうけどな
0562日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:43:04.78
>>559
なってるって証拠は?
0563日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:44:17.93
>>558
ついにお手上げ降参宣言かな?
まともな学者から見放された見解=三角縁神獣鏡魏鏡説
見ろ、この5chの素人連中の間でもまだまともな書き込みする畿内説の人間は三角縁神獣鏡には一切触れない、擁護しない

ちなみに骨董市の三角縁神獣鏡のネタばらし

森下章司「先年中国の市場で売られていた三角縁神獣鏡は、三角縁が高くない古い斜縁鏡だと判明した。」
0564日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:45:14.31
>>277
>景初三年とか魏の年号が入ってるから
少なくても魏で作られたのは間違いないんじゃない<

魏から出土した鏡に「景初三年」の年号鏡が、
どれ位あるのか?を探してみろよ。
0568日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:48:51.53
>>551
>で、「乙丑」は日干支なので、景初四年の存在と何も関係がない。

>分かる?

「乙丑」の日干支が二月になるためには、丑月正月じゃないといけないのは理解できるか?
つまり「丑月正月が『存在』した」状況証拠なんだよ
その丑月正月は何年なのか?ってことだよ
0570日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:50:34.50
>>296
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、追いつめられる事があっても、
九州説は、追い詰められたことなんて無いけどね。

あなたたちも無理だってわかってるでしょ?。
能力的に言ってさー 。。
0572日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:51:41.83
要するに
四年正月が三年後十二月と改称されて
史書から消された
可能性を否定できないと
「景初四年は存在しない」説は成り立たない
って、、なんで理解出来ないのかな
逆に金石文の四年が
リアルタイムということになるんだけど
0573日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:52:59.56
>>297
>正始元年1月(景初四年1月)に魏の皇帝は死去するが<

ウソを付くな。
明帝が亡くなったのは、景初三年の元旦だ。
0574日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:53:12.64
>>568
>「乙丑」の日干支が二月になるためには、丑月正月じゃないといけないのは理解できるか?

最初から言ってるけど、これがお笑いw
日干支とは「1日〜31日」の日毎の干支のことね
ちなみに「朔」は「ついたち」のこと

>「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、
>景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。」

これをイコールにしてるのが勘違いしている証拠

分かる?
0575日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:53:22.86
>>571
ないと、なに?
0576日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:55:44.49
>>574
まったくイミフなので説明求む
0578日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:59:09.59
>>560
石野博信「図面や写真は発表されていませんけれども、関西で考古学をやっている人間はみんな知っていることなんですが、いわゆる布留1式にならないと出てこないような、小型丸底土器が(ホケノ山古墳の)床の直上から出てきております。
私にとってはショックでした。『こんなん、石でつぶれりゃいいのに』と思ったんですけれども、出てきておりました。」

橋本輝彦氏「この土器群は布留0式期新相から、布留1式期にかけてのものと考えられ、木簡直葬墓の周辺から出土していることや、時期が一致することなどから、あるいは墓壙の供献されたものかも知れない。」
0579日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 22:59:45.91
>>575
何の証明にもならない
全唐文という書に
「昔魏は倭に鏡を下すに当たってその範を外し…」と出てくるから
この鏡が三角縁神獣鏡とするなら
範を外し=それまでの魏の形式にない鏡を作って下賜したと考えられるから
0580日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:00:21.42
>>574
あなたの投稿、論理の飛躍が多すぎて、なにも意味わからない
丁寧に話して
0581日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:05:43.74
>>574
>最初から言ってるけど、これがお笑いw
>日干支とは「1日〜31日」の日毎の干支のことね
>ちなみに「朔」は「ついたち」のこと

いや逆に>>574は日干支を理解してないだろ?
毎月の朔日が同じ干支で始まるとか、勘違いしてないか?

例えば今年の5月14日が旧暦3月末日で日干支が丙午で 
翌日旧暦四月朔日の干支は丁未だぞ

月が変わろうが、日干支は60日周期で連続している
0582日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:06:09.11
>>578
かなり古い情報で頭が固まってるわけね
0585日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:09:04.19
>>581
>「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、
>景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。」
なぜこうなるのか説明して
0586日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:10:34.10
今調べてたら

唐の時代に編纂された『晋書』という歴史書中の巻12『天文志』
清時代に編纂された『佩文韻府』(はいぶんいんぷ)という書
これらに〈景初4年〉という年号が出ており
これは当時、〈景初4年〉が当たり前のように使われていた証拠だという

というのを見つけた
0587日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:11:11.27
>>574
こう書いた方が分かりやすいか?
今年の旧暦の朔日の日干支は
三月朔日 戊寅
四月朔日 丁未
五月朔日 丁丑
だぞ
0588日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:14:02.01
>>584
常識なんだけど、>>574は分かってないみたいなんだ

でも多分、二月乙丑の日の話からはもう逃げると思うけどね
さすがに恥ずかしくなってるだろうww
0589日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:16:26.51
>>545
コミュ障w
0591日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:20:28.10
>>589
でた
説明不能男
0592日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:22:16.12
>>569
三角縁が高くないと斜縁になるから仕方ないよね
鏡が大型化するに伴い強度を増すために平縁<斜縁<三角縁と縁が大きく強固になる傾向がある
三角縁鏡は鏡が大型化した倭国特有の事情により機能的に進化した証
骨董市の斜縁鏡も日本の三角縁鏡より径が小さい
三角縁まで進化する必要がなかったんだ

そしてなにより出土地不明のものはどうせ資料価値ないんだから例え三角縁神獣鏡であっても無駄な足掻きでしかない
それに日本で500枚以上見つかってるものが中国でやっとこさ1枚出てきても怪しいだけ
0593日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:23:10.25
>>586
>唐の時代に編纂された『晋書』という歴史書中の巻12『天文志』

晋書は二十四史の一つで晋の正史の晋書だよな?
今確認した限りでは景初四年は、なかったよ
0594日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:24:42.62
>>582
素人畿内説学者大先生様がどれだけ詭弁並べても九州説どころか、本物の畿内説学者にすら否定されてるんだから世話ないよね
0595日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:25:42.19
まあ九州説とか信じてる無学な爺さんが
暦を理解してるハズもないが
0596日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:27:11.66
>>593
どうやって確認したの?
0597日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:28:35.06
>>594
誰が何を
何と言っても
否定した?
0598日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:32:18.47
>>592

洛陽発見の三角縁神獣鏡は日本で約560面発見された
三角縁神獣鏡と共通点が多く、内区図像の特徴、乳と乳座から
第二段階に位置づけられ、形式的に逸脱する要素はない

紋様系譜では奈良県新山古墳六号鏡
(「吾作」銘三角縁四神四獣鏡)に近似。

あとは面倒だからここを読め
ttp://washiyamataikoku.my.coocan.jp/nishikawa20151224.pdf

これだけ色々特徴があって三角縁神獣鏡と断定されているのに
三角縁が高くないから違うとかバカも休み休み言ってほしいもんだわ
0600日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:38:42.81
>>585
日干支は60日周期
月は30日周期
つまり同じ日干支は二ヶ月に1日しかない
景初四年の正月は壬午朔なんだから
「春二月乙丑」というのは
景初四年二月ではありうるけど
正始元年二月ではありえない

そゆこと
0601日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:40:02.87
>>577
あなた、干支を勉強してないね?
0602日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:40:29.36
>>592
出土は不明でもない
日本にあげる用だろうから中国からあまり見つからなくても別に
0604日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:41:41.59
無学と無知が九州説を作った




そういうことか
0606日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:46:12.38
だいたい九州説は論破されてすぐ消える


でも、別人の顔をしてまたくる
0607日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:46:57.75
>>597
素人畿内説大先生がホケノ山に布留式が無いというのを
畿内説学者が否定した
別に何も言わずとも実際あるものはあるからわざわざ否定なんかする必要ないがな

ホケノ山から布留式は出てるものは出てる
それだと困るからアホみたいな一行レスで逃げてるだけ
そして一行馬鹿にされたから三行にしたという頭の良い回避策()
0609日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:49:46.56
>>586
「御定佩文韻府」の方は
Chinese Text Projectで確認できた
https://ctext.org/wiki.pl?if=en&;res=637873

確かに「景初四年」が普通に出てくるね

ただ、ざっと見た限りでは、魏志倭人伝の紀年が一年ずれてるという判断での記述のようだよ
晋書の天文志の話も、「御定佩文韻府」に書いてあるという話のようだ
これも晋書の解釈として、一年ずれて景初四年のはずという判断みたい
0610日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:54:39.97
ということで、すでにテンプレの◆FAQ 44 にあるとおり、
二月乙丑の記述がある以上、景初四年は否定しきれない、
というよりむしろ「丑月正月があった」景初四年が存在したと
考えるべきだってことだな
0611日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 23:58:09.77
>>598
これ読んだけど発掘状況のところは可能性を示唆と言えば聞こえが良いが、つまりはこうであればいいなという願望を書いてるだけ
堺の骨董市で売ってたから近くにある仁徳天皇陵から出たと言ってるようなもの

銅鏡専門の考古学者森下章司が、三角縁神獣鏡とは違うと言ってるから違うんだろう
そして三角縁神獣鏡であったとしても出土状況不明のものは資料価値ゼロ
その辺の石ころと一緒
0612日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 00:04:45.39
>>611
三角縁が低いから三角縁神獣鏡じゃないというのは引っ込めるんだな?
ならいい
0613日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 00:09:58.12
>>609
問題はなぜその判断が出てきたかだな
別史料か何かを参照にしたんだろうけど…
案外実際に1年ずれてるから景初四年はあったが正解かもね
0614日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 00:32:41.90
>>613
>問題はなぜその判断が出てきたかだな

>>323にあるように
「梁書、日本書紀の2つの資料には共に卑弥呼が魏に使いを送ったのは
 景初三年とあるからな
 魏志倭人伝の原本があったころの記載は景初三年と書かれてんだろう 」
それに晋書でも、卑弥呼の遣使は景初三年になってる
また中華書局本北史 卷九十四 列伝第八十二 校勘記でも、北史の校勘で景初三年としたとある

この辺から、一年ずれてる説が出てきてるんじゃないかな
0615日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 02:40:04.22
>>607
>ホケノ山から布留式は出てるものは出てる

出てるという証拠は?
0618日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 05:53:28.84
>>298
「南→東」の嘘吐き騙しや「倭国は正北抵新羅だから九州」の無視の、
でたらめ大和説は結構です。
0619日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 05:57:59.45
>>300
>はい根拠出そうな 鰐をかたどったテラコッタでも出てるのか?
>誰が誰に呪いかけたって? 言ってみろドアホ
記紀の該当部分すら読まずにその場しのぎの言い返ししかしないゴミクズ<

これでは何の話なのか?、さっぱり判らん。
何故「記紀の該当部分」とやらを示さないんだい、
ゴミクズ大和説の・・・・さん。
0620日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 06:09:58.17
>>301
>北部九州土器編年も細かいよ
まあここの大抵のゴミクズ(九州)爺には好ましくないんだろうなw<

北部九州の考古学者の殆どは、
始めから大和説の「結論先にありき」教に支配されているらしいから、
全てにおいて眉唾であり、「ついうっかり情報」位しか信用出来ない。

>他でもない九州の考古学にダメ出しされてるクズ(九州)説www<

他でもない、国民の7割にダメ出されているクズ大和説京子学者www.
0621日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 06:18:28.14
>>302
>>何て名前だったのか?歴博かどこかの(大和説の)権力学者の、
意向が入っているんだろうから、<

>はい都合が悪くなったら陰謀論 本当に糞だなこの爺<

何だか、大和説の「陰謀権力学者」として、
佐原以外にも小林の名前の出て来たなあ。

おそらく、発掘担当の考古学者が、
「大和説を否定する事になるような都合の悪い発掘」を発見したら、即座に呼びつけて、
「九州説を否定する事になる」ような」報告書を指導命令するんだろうなあ。

祇園山の報告書や、甕棺の編年や、柳田に対して、その例を見てしまったからなあ。
0622日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 06:30:00.51
>>303
>ネットで調べでもしたら簡単に出てくるのに
脊髄反射でそういう事言うから九州説が適当な出鱈目並べてるだけという印象を持たれる <

私は、PCにも素人だからネット検索も下手なんだが、
ネットも、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者の、
「嘘つき騙し情報」で溢れかえっており、
例えば、天誅の「漢籍の書棚」なんて、
中華書房?本を使った、などと言い訳をしながら、
紹煕本系の都合の悪い文言を軒並みに「大和説に都合の良いように」改竄されている。
更に、私の掲示板への投稿も、もう数え切れない位、PC会社に邪魔されて、
拒否されたり、否認され書き直しを要求されたりしている位だから、
全く信用していない。
0623日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 06:39:12.31
>>304
>>「吉野ヶ里遺跡の終焉」 <

>まあ濠が庄内併行土器を含む土で埋まってるんだっけ?<

何だ?、それなら、吉野ヶ里は、
3世紀後半までは存続していた事になるではないか。

>とくにゴミクズ(九州)説はやたら城塞都市にでも見たがるがw
濠埋まったら排水が困難になり集落として機能しなくなるんじゃないのかな?
雨水の排水とかし尿の排出とか・・・<

この男は、本当に・・・・だなあ。
庄内併行土器と言うだけで、3世紀後半以後頃には存続していた、という事を示すんだぞ。
そして、それなら、10km位しか離れていない祇園山の庄内の説明も付くし、
「其餘旁國」であった可能性も出て来る。
0625日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 06:41:53.52
>>305
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
匂わせ嘘であっても、何遍も言えばウソがホントになるとでも思ってるのかw?。

まるで、安部総理みたいだな。
0626日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 06:44:00.17
>>306
>畿内説者的には百襲姫=卑弥呼なの?<

畿内なんてなかったし、
卑弥呼も「南≠東」に拠って×なの。
0627日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 06:51:57.33
>>307
>>当時は皇帝が死んでも1年は改元せず元の元号をそのまま使った <

>と言うか少なくとも喪に服する期間が要るよなw
例えば曹丕が死んだのが226年(黄初七年)次の曹叡の太和元年が227年<

景初三年の次は正始元年であっている。

>>298の理屈は曹丕が死んだ時点で黄初七年は取り消して
太和元年は226って話か?
そう言えば7日しかなかった昭和64年の硬貨もあるらしいwwwwww<

取り消してなど、いない。
景初4年なんて、必要もなかっただけ。
0628日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 07:01:12.58
>>309
>当時中国では皇帝が死ぬと新しい元号に改元が行われるが
踰年改元という習慣があって皇帝が死んでも1年は
喪に服するなどの意味で元号をそのまま使い続けた<

それが景初3年。

>その時期に作られた鏡が三角縁神獣鏡の景初四年鏡とするなら<

魏朝が洛陽などで「景初四年」を使用した証拠や記録は全く存在しない。

>九州説が喧伝してきた皇帝が死んだから景初四年は存在せず
三角縁神獣鏡は魏鏡ではないという主張の根拠は崩れるわけだ
これは九州説に都合の悪い事実 <

中国では、景初四年を使用した、という記録が全く存在しない、という事が事実。
これは、大和説にも、「三角縁神獣鏡は明帝の下賜鏡説」にも、
全く都合の悪い事実。
0629日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 07:03:41.42
>>311
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
そんな印象操作しかできないのか?w。
ざまあねーな 。
0630日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 07:23:40.98
>>315
>逆に言えば「景初四年鏡」はリアルタイムでないと出てこない鏡って話だなw
まあこれももうどれくらいループしてるネタか知らんが・・・<

それ以前に、明帝の「銅鏡百枚」の記載は、景初二年の12月の詔書であるから、
景初二年12月時点で、出来上がっていて揃えられていた、という事であり、
景初三年鏡も景初四年鏡も、明帝の下賜鏡ではない、という事だ。
では誰がそんな鏡を造ったのか?と言えば、
中国学者や古田さんが言われたように、呉系の楽浪鏡師らが「海東の倭國」にやって来て、
三角縁を造り始めた、という事にしかならないのだ。

>景初も含む紀年鏡がなんで本州側に出て九州には
どこぞの博物館・美術館に九州の某地出と伝えられるものが1枚程度だったか?<

志登の三角縁が一番古いらしく、
その次は、祇園山や藤崎西新町などで、その次が那珂八幡であり、
しかし、渡来の呉系楽浪鏡師らは、卑弥呼への下賜された百枚の銅鏡で、
「九州では商売にならん」として、列島各地からの依頼注文製作に切り替えた、って事だ。
そして、明帝の死が伝えられるのが遅れて、景初四年鏡を造ってしまい、
また、大和が4世紀になって、鏡作神社を造って、呉系楽浪鏡師に教わらせて、
大量の粗悪な副葬用の三角縁を造った、という事だ。
0631日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 07:31:00.87
>>624
>それは投稿数過剰で制限くらってるだけだよ

むしろNGワードで制限がかかってるんだと思うよ
0632日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 07:32:35.44
何度も書くけど祇園山古墳が古いと思っているのが頭悪すぎ
甕棺墓と古墳時代がどれだけ時間的に離れているのか、まったく理解していない
0633日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 07:33:21.08
>>316
>梁書、日本書紀にも景初三年に倭から魏に使いを送ったと出てくる<

後代の唐代の梁書は、「後代での自己解釈によって、魏志などの書き換え」をした半分×書であり、
「景初三年」説も、通典の「景初二年」で否定され、

書紀は、ついうっかり「明帝」であった事を記載してしまって、
自分らの「景初三年」が嘘であった、という事がバレてしまったアホな半分×書であった。

>そして三角縁神獣鏡には景初三年、と魏の年号が刻まれている
これを見たら三角縁神獣鏡こそ魏から下賜された鏡だって事が
確実にわかるだろう <

お前が、
「南≠東」や「正北抵新羅」などの否定曲解の嘘吐き騙しの大和説の、
・・・・アホ詐欺師であった、
という事が、確実に判るだろう。
0634日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 07:36:54.71
>>317
>魏志の記載が1年ズレてるんだよ
景初2年に倭人が使いを送った事になってるし
今見る魏志倭人伝の記述は原本から1000年経ってから」作られた写本であり
他の資料と比べて誤記が多いというのは周知の事実<

書紀が、
「ついうっかり」明帝と記載してしまって、「景初三年」が間違いであった事がバレてしまった、
アホな偽書。
0635日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 07:38:39.63
>>318
>反論もできない悔しさが滲み出てるぞw <

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の、
反論もできない悔しさが滲み出てるぞw。
0636日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 07:44:55.46
>>323
>梁書、日本書紀の2つの資料には共に卑弥呼が魏に使いを送ったのは 景初三年とあるからな
魏志倭人伝の原本があったころの記載は景初三年と書かれてんだろう
原本が無くなってから1000年後に作られた魏志倭人伝の写本には そこが景初2年と語表記されたと
2対1だ 魏志倭人伝の1000年後の写本が間違ってるんだろ<

魏志や起居注や写本などは、実際の実見記録そのものであり、
後代史家の「自己解釈に依る前代実見記録の書き換え」など何の根拠にもならず、
価値もないもの。
0638日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:00:17.92
>>600
>景初四年の正月は壬午朔なんだから
これが大ウソ

>景初四年二月ではありうるけど
>正始元年二月ではありえない
これも大ウソ
0639日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:18:08.05
>>638
よっぽど都合が悪いの?
取調室で尋問されてる犯人みたいな口調になってるよ


w
0640日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:21:12.63
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
0641日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:21:51.28
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、
0642日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:22:14.42
>>641
計算すると、西暦200年頃からだな。。。
0643日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:22:49.94
>>642
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、
0644日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:23:29.73
>>643
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、
0645日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:23:58.00
>>644
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。
0646日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:25:18.64
>>640
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
0647日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:27:07.54
倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、
0648日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:28:08.98
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
0649日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:28:57.57
キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな



。。。
0650日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:45:32.58
>>600
>景初四年の正月は壬午朔なんだから

これはどうして分かったのか説明してくれるかい
0651日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 08:49:54.72
>>609
晋書 巻十二 志第二 天文中 史傳事驗 月奄犯五緯
「青龍二年(234年)十月乙丑,月又犯填星。占同上。戊寅,月犯太白。
 占曰:「人君死,又為兵。」景初元年(237年)七月,公孫文懿叛。二年(238年)正月,遣宣帝討之。三年(239年)正月,天子崩。
 四年(236年)三月己巳,太白與月?加景晝見,月犯太白。占同上。

 景初元年(237年)十月丁未,月犯?惑。占曰:「貴人死。」二年四月,司徒韓?薨。」

二行目の(青龍)四年を景初四年と誤読したもの
佩文韻府はさらに誤読して引いただけ
0653日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 09:47:42.66
>>650
テンプレにあるから1に聞いて
0654日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 09:55:14.54
>>645
関西では5〜6世紀まで文字が使用されてなかったからそれ以前の伝承は当てにならないよ。
0655日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 09:57:44.28
>>612
俺が引っ込めようが引っ込めまいが何の意味もない
洛陽骨董市でみつかった鏡が斜縁鏡だという見解を引っ込めろと考古学者森下章司にメールでも送れよw
0656日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:00:30.80
>>650
>>景初四年の正月は壬午朔なんだから

>これはどうして分かったのか説明してくれるかい

600じゃないけど、
三國志卷四/魏書四/三少帝紀第四に
「景初三年正月丁亥朔」とあるね

そこから太陰暦の12ヶ月分355日分進めて、
翌356日目が景初四年正月朔

あとは、60日周期で数えてもらえば分かるけど、
景初四年正月朔は壬午になるよ
0657日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:03:09.32
>>323
>梁書、日本書紀は魏に使いを送ったのは三年と出てくる つまりその時まで皇帝は健在だった
そして亡くなったのは翌年の正月であり 当時の風習で1年改元をしなかったと考えるなら 景初四年が存在したとしても何も不思議はないのである<

ダメだ。
後代史書の勝手な記載変更は、根拠にならない。
同時代の魏志の実見記録の方が、はるかに客観性も信頼性も高い。
明帝は、景初二年の大晦日〜景初三年の元日の間に亡くなっており、
明帝の詔書は、景初二年の12月であり、卑弥呼下賜の銅鏡100枚は、
その時点で、用意され終わっている。
0658日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:13:45.67
地球の支配者だった恐竜が一つの隕石によって滅んだように
畿内説もたった一人の九州説によって滅びようとしているな
0659日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:16:11.01
>>325
>確か記述する時は遡って景初四年を正始元年にするんだろ
何かそんなの聞いた事あるが <

何だか?、安部政府の、財務省や文科省や自衛隊の、
記録の隠蔽改竄みたいな話だなあ。
大和説者と同じ捏造体質。
0660日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:16:50.65
>>655
三角縁神獣鏡も初期鏡群は斜縁だから問題ないよね
0661日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:18:56.28
>>658
だれ?
0662日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:21:37.01
>>657
用意されてるって、空想でしょ
0663日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:24:26.44
>>326
>魏志倭人伝の卑弥呼が魏に使いを送った年景初二年は 景初三年の誤記とすると色々つじつまが合う<

後代史書の改竄記載は、根拠にならない。
同時代の実見記録の方が、客観性や信頼性がはるかに高く、
明帝の死去は、景初二年大晦日から景初三年の元旦であった、とはっきり記録されている。

>三角縁神獣鏡になぜ魏の年号の景初三年とあるのか そして景初四年と記された鏡もあるのか 景初三年に卑弥呼が魏に使いを送り
翌年の正月皇帝が亡くなり引き続き元号が使われている最中の魏にも使いを出したと そういう事だろう<

この男も、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホの大和説の詐欺師であった、
と、そういう事だろう。
0664日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:26:51.45
>>327
>倭の朝貢と明帝の死去は無関係<

書紀と通典も、ついうっかり?、
倭の遣使が明帝の時だった、とはっきり書いてしまっていた。
0665日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:27:24.22
   事代主
     ┣━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━┓
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主             孝昭
     ┃              ┃
    阿田賀田須        天足彦国押人命
                   ┃
                和邇日子押人命

ヒミコ、トヨをはじめ鴨(神)族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。
日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、魏志の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。

ヒミコの時代から1700年後、土蜘蛛の末裔たちが高天原の麓で声を上げる。

「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光あれ」
この地が水平社運動の原点となる。

ヒミコ=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の時代、土蜘蛛=奴婢を束ねた男がいた。
日向から来た神武である。

だから今でも水平社博物館と神武社が並んでいるのだ。
http://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/40_tn_61c33f808a.png
0666日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:29:41.43
九州説自体が極右によって創り出された虚構。

新井白石や本居宣長は、
大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という史実を、
国学者のプライドとして認めることが出来なかった。

だから「当て馬」として九州をあえて出した。

九州説なるものを創作し、馬鹿を集め、議論させる。
議論してるうちは大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という重い荷物を着席させずに済む。
永遠の水入り、永遠の非着席、永遠の中腰を狙ったのだ。

これは天才の発想だ。
0667日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:32:08.32
倭国王・帥升は筑紫にいない。
なぜなら筑紫の差別問題は比較的新しく、
160人もの生口(奴婢)の存在を説明できるほど、古く大きな俘囚郷がないからだ。
なによりも筑紫には王権の謂れがない。

それ(古く大きな俘囚郷)を説明できるのは大和朝廷の発祥地である葛城の高天原(御所市高天)しかない。

高天原の日本最古の神社境内にある径百余歩の塚に奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
http://9327.teacup.com/zenyamaren/img/bbs/0001836M.jpg

かつて葛城で土蜘蛛を退治した男がいた。
日向から来た神武である。

それはヒメ(踏鞴五十鈴)=ヒミコの時代でもある。

高天原にいる神々は実在したのだ。
0668日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:35:47.34
朝貢年
266年 台与        トヨ津 媛
 ・
238年 卑弥呼       ヒメ(踏鞴 五十鈴)媛
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升     スサノオ

つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。

この【屈辱的な史実】を日本書紀は書けなかった。

だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらした。
その結果100歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代もやたら猛々しい神武東征紀でさも男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。

これが日本の歴史の真相である。
0669日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:37:20.05
>>667
筑紫の倭国王・帥升は東方から毛人を捕まえて来てたんだろうな。
0670日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:38:57.79
>>617
箸墓古墳は百襲姫の墓だから、畿内説者は箸墓古墳以外の古墳が卑弥呼の墓であるという主張?
0671日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:43:14.17
>>656
ありがとう、でも
>景初四年正月朔は壬午になるよ

これは景初三年後十二月朔の誤りだね
0674日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:57:27.60
中国の大昔の暦のことを、徹底的に研究すれば、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。。。
0675日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 10:57:42.23
京都の五塚原古墳http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3

「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」

被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。

同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
天孫本紀に交野連の祖と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)であろう。
伊香色雄命の子である。

また山代も河内も庄内土器で纏向と共通する。
このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。
先代旧事本紀を偽書と片付けてる人間は馬鹿である。

前方後円墳とは物部の墓制であり、卑弥呼は埋葬されていない。
そして箸墓古墳の最有力被葬者は崇神の叔父である伊香色雄命だ。
0676日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:03:58.41
>>328
>これも貼っとくよ (景初三年)
「十二月詔曰「烈祖明皇帝、以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀。其復用夏正。
雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數爲得天正、
其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」
正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放侍中中書令孫資爲左右光祿大夫。・・・」<

これが何の情報なのか?は知らんが、
二つの点で、大和説の否定だよ。
一つは、明帝の死が景初三年の正月であった、という事の証拠になり、
明帝が景初二年12月の詔書の時点では生存していた、という事。
もう一つは、この記載でも、「以建丑月爲後十二月」は、
あくまで景初三年の後十二月である、と書かれているから、
(景初四年ではなく)景初三年での「後十二月」であるとされているのであり、
やっぱり、魏においては「景初四年」という表記は存在していなかった、
という事。
0677日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:10:18.24
>>329
>ああそれな 正始元年の開始は2月にしろってヤツか
なら景初四年は2ヶ月は存在したんだな<

それも×。
「後十二月」という表現は、「景初三年での後十二月だ」という意味であり、
だから、景初四年は、魏では存在していなかった。

だから、列島での「景初四年」鏡は、
魏では景初四年が存在していなかった、という事を、
知らなかったか?、解らなかった鏡師が造ったもの。
それは、「海東」へやって来た呉系楽浪鏡師らが造ったんだろう、という事になる。
0679日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:22:03.22
>>598
近似じゃ意味ないぜ
一致でないとということで
依然として中国からの学術出土ゼロは変わらず。
0680日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:23:11.32
>>330
>(スレ主)一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、
景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。<

スレ主もやっぱり・・・・アホの詐欺師。
「宋書志礼一」は、やはり後代史書にしかならず、
実態は、
「其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月」では、
「後十二月」は、あくまで景初三年の後十二月であり、
その次の月を「正始元年正月」としたのであり、
だから「春二月」は、「正始元年正月の次の月」だ、という事になるだけ。
0681日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:26:53.41
>>334
>景初四年が存在した以上
魏で作られる鏡にその年号が記銘されても何もおかしくない<

魏では、景初四年なんて存在しなかった。
存在したのは「景初三年の後十二月」
0682日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:30:37.65
>>335
>ああ明帝が亡くなったのは景初三年の元日か
それで本来なら翌年の1月1日に正始に改元される所を
新元号は2月から用いるようにとお触れが出たと
すると景初四年は1ヶ月かそこら存在したというわけか<

この男も、嘘つき騙しの・・・・アホ大和説の詐欺師。
魏では、景初四年なんて存在しなかった。
存在したのは「景初三年の後十二月」であり、
それは「景初三年」であり、「景初四年」ではなかった。
0683日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:39:34.33
>>337
王仲殊や古田説以来、
三角縁神獣鏡は大和説にとって、よほど都合が悪くなったようだな。
0684日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:46:17.65
初期ヤマト政権の中心地であった桜井市三輪山麓には三角縁神獣鏡は出土していない

威信財ではないということ。
0685日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:47:13.53
>>683
やっぱり脳が前世紀で死んでるようだな
0687日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:49:38.39
>>615
池沼無限ループ戦法にでたか
畿内説は少し上のレスも読めず池沼を装って(あるいはガチ池沼)最後にレスさえすれば勝てると思ってると証明されたな
0688日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:56:03.60
畿内説支持者には
三角縁神獣鏡派と画文帯派の2種類があるのだな。
0689日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 11:58:24.90
>>338]
>三角縁神獣鏡呉の工人作成説は間違いだろ
呉に相当する場所から見つかってないし 逆に魏の洛陽からは見つかってるし <

洛陽から0〜1個では、魏帝に下賜の100枚の銅鏡の根拠にならない。
三角縁も神獣鏡も呉で盛行したものであり、
呉系鏡師が楽浪に来ていた事が確実であり、
楽浪での戦乱を避けて、筑紫に逃避して来ていた鏡師の中に、
三角縁神獣鏡を造る鏡師がいた、
という可能性が非常に高い。
0690日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:00:31.18
景初三年の神原古墳の紀年鏡は
武内宿禰が洛陽に行った記念に作らせたという謂れもあるしな。国産鏡で間違いない。
0691日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:07:56.19
>>341
まあ三角縁神獣鏡が魏鏡ではないと判明すれば、
大和説は即死だからな。
「南→東」などでも勝てないし、
宗教に狂った嘘つき騙しの大和説者も、必死にもなるさ。
0692日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:08:51.49
>>687
やはりまたウソをついてたのか
九州説は悪質だなぁ
0693日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:11:36.42
畿内説池沼「ホケノ山古墳に布留式土器はありませぇん!」

橿原考古学研究所「あるで」
石野博信「あるで」
以下研究者一同「あるで」
0694日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:15:49.26
王仲殊氏の説は、
孫呉の滅亡後ではなくて、三国時代に呉の工匠が日本の地で製作したという説
景初二年の遣使は景初三年の誤りという説
0695日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:18:17.91
>>671
>これは景初三年後十二月朔の誤りだね

公式には「最終的にそういうことにした」であって、
最初からそうだったなら、
「二月乙丑」記事は存在しないことになる

二月乙丑のためには、正月が丑月でないといけない
景初四年正月朔が存在し、その朔日の干支が壬午で初めて
二月に乙丑の日が存在できる(二月14または15日)

最初から、この丑月朔壬午の月が景初三年後十二月だった場合は、
乙丑の日は、正史元年正月14日または15日となり、二月には存在できなくなる
0697日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:21:32.20
>>693
デマ乙
0699日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:42:14.43
ホケノ山古墳とは、邪馬台国問題でどのような役割を果たすのだろうか、、、
0700日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:43:58.08
布留式とは、なんだろうか、、、
0701日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:49:34.82
ホケノ山古墳から布留式土器が発見されたときの、センセーションは凄かったな。。。
0702日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:50:58.46
>>699
>ホケノ山古墳とは、邪馬台国問題でどのような役割を果たすのだろうか、、、

忌部一族の奈良開発を示す役割を果たす。  @阿波
0703日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:53:14.75
ホケノ山古墳は忌部一族の墓、そのものズバリ。  @阿波
0704日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:54:07.43
ホケノ山古墳から布留式土器が発見されたことは、邪馬台国畿内説破綻とどう関係したのだろうか。。。
0705日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:55:16.56
中国の暦は、卑弥呼が貰った鏡と関係あるのではないのかな。。。
0706日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:58:04.18
>>695
>最初から、この丑月朔壬午の月が景初三年後十二月だった場合は、
>乙丑の日は、正史元年正月14日または15日となり、二月には存在できなくなる

景初四年を抹殺する理由なんか何もない
正始元年春二月の記事は正始元年正月の誤りだったと考える方がまだましだな
0707日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 12:59:19.96
関係ない、頭の病院に行け
0708日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:02:02.83
>>706
このように
九州説はいつも史料無視
0709日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:03:23.61
これも以前から書いているはず、
家は阿波?四国?畿内?の出身ではないんだけど
0710日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:05:06.72
九州の出身、生れでもないし
0711日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:06:11.31
>>706
>景初四年を抹殺する理由なんか何もない

あるよ

景初四年があったら踰年改元にならない
0712日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:13:45.65
精神病院、刑務所(死刑)、自殺するか?
好きなものを選ぶと良い

言ってる意味が分からないとか
0713日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:17:06.74
記紀が書かれたのは、唐に朝貢外交をしている真っ最中だよ。
0714日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:18:19.65
俺も九州に縁はないが、魏志倭人伝は九州にあった邪馬台国を記録していると思う。
0715日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:22:52.51
キナイコシが呟き始めた。。。
0716日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:24:41.05
そういえば、この日本史掲示板に、また、良質のスレッドが作成されたな。。。
0717日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:29:46.74
アタマのビョーインに行けと言ってるんだよ
0718日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:35:55.34
>>711
12月に詔書を出して対応するとか多少バタついたけど、
無策のまま景初四年に突入し元旦に命日をやるとかあり得ないよ
0719日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:38:41.66
正誤の判定ではなく
その正誤がどのようにしたら発生しうるか?

という民俗学的アプローチで分析してみてはどうか?
0720日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 13:57:23.15
>>699
>ホケノ山古墳とは、邪馬台国問題でどのような役割を果たすのだろうか

倭国大乱で相争ってた一方の棟梁であるウマシマジ。
もう一方の棟梁(王)は天日方奇日方。

2人とも申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)という最高職だ。

女王は、天日方奇日方が立てた妹のヒメ(踏鞴五十鈴)媛。
0721日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 14:26:47.46
また変なのが来た
0722日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 14:40:41.10
畿内説の論法が一行のレスを無限に繰り返す方法になっているね

みなさんこれが畿内説のレベルですよ
一行レスで蒸し返すだけの論理も道理もない戦術

畿内説の本スレで他の畿内説連中がこれを諌めないということは、黙認してるということ
よって皆同レベルの同族同類
畿内説論者のレベルは一行レス君の底辺に合わせて横に並んだというわけだ
0723日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 14:43:45.00
>>718
>無策のまま景初四年に突入し元旦に命日をやるとかあり得ないよ

でも、実際に元旦が命日なんだから、その日に一周忌をやらざるを得ない
一方で、踰年改元である以上、改元も元旦じゃなければならないが
改元の慶事と一周忌とは同時催行はできない

ということで、元旦を二回、別の日にやる、以外に解決はないと思うんだけどな
で、事後的に一回目の元旦(=景初四年正月)はなかったことにした、
あたりが真実に近いんじゃないかな
0724日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 14:51:51.63
>>722
なんか事実とかけ離れたことを言ってるな
具体的事実を指摘しない、というのは九州説の人々に蔓延してる妙な病気なのだろうか?
0726日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 16:00:48.64
箸墓古墳は宮内庁指定の百襲姫の墓。畿内説者は百襲姫≠卑弥呼との見解。
卑弥呼の墓は何処にあるの?
0727日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 16:03:56.65
>>723
改元は明帝の死んだ景初三年元旦に決定済み
無策で景初四年元旦を迎えることはない
あえて言えば、
正始元年正月を2回やっちゃったのかもしれない
0728日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 16:07:06.27
>>726
>卑弥呼の墓は何処にあるの?

箸墓古墳はモモソのってのはわかってる
まだ卑弥呼の墓は畿内でも模索中なわけ
0729日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 16:13:59.34
つまり畿内説には卑弥呼の墓の候補すらない。
0730日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 16:30:04.14
>>727
何を言っているのか意味がわからない
0731日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 16:35:39.91
>>729
畿内説の者が候補を挙げているのにナイナイとは
これいかに

妄言ここに極まれり
0733日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 16:38:39.66
>>680


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



さっさと言えこのサギジジイ! 
0734日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 17:11:59.11
>>732
これなに?
0735日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 17:27:00.38
>>342
大和説者は、またちょっと調べればすぐバレる嘘をつく。 少しは頭使ったらどうだ?。

「南≠東」や「倭国は正北抵新羅」などを見るように、
大和説者は、頭が悪いか、、
意図的に嘘をついて印象操作をしてるだけという事がよくわかる。
0737日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 17:30:19.84
>>343
>遅レスで申し訳ないが、古墳は鏡を配ったりはしないだろう?
配った人物(あるいは組織)の墓というのは想定しうるが、
本質的に配った組織=ヤマトの王権の首長は、大王であり、<

大和は、九州倭国の別種の旧小国であり、「大王」ではないから、×。

>大王墓クラスは天皇陵に指定されているから発掘されていない <

大和には、「天皇」もいなかったから、×。
0738日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 17:40:03.75
>>344
>呉滅亡まで呉にいたら景初は三年までであることは知ってるだろ<

楽浪の呉系鏡師らは、景初2年の公孫氏討伐戦争に危険を感じて、
避難するために、九州倭国へ逃げて来たんだろう。
だから、景初が3年までであった事を知らなかった。
0739日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 17:42:22.23
>>346
>魏と結んだ九州邪馬台国に対して、畿内が呉と組んだのかもしれんね。<

大和は、九州倭国の別種の旧小国であるから、
「呉とは組まない」ので、×。
0740日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 17:46:02.97
>>347
大和説の三角縁魏鏡説を絶滅寸前まで追い込んだ王仲殊説を、
「頭が悪い」と一蹴する大和説の大先生らはら、
流石・・・・アホですね 。
0741日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 17:49:56.17
>>348
>なぜ呉(孫?)が出てくるんだ? 関係ないし、頭の病院に行け、どこかの工作員か何か?<

三角縁も、神獣鏡も、呉地域で盛行したから。
大和説の工作員は、判らなかったら、頭の病院に行け。
0743日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 17:51:58.98
魏志倭人伝の各国の首長名にもミミナリやらミミなど出てくるし、耳成山という名前も偶然ではない。
0744日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 17:52:16.92
>>736
日干支は約二か月で一巡する
夏正の正始元年二月には乙丑の日は無い
殷正のままで景初四年二月なら乙丑の日がある
ということ
0745日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:00:18.01
>>350
そりゃは40年位も前からの定説だもの、大和説は一蹴されて当たり前だ。

三角縁鏡も神獣鏡も、呉の付近で盛行していた。
これはもう定説。
0746日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:01:21.49
>>741


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えテメエ!
0747日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:05:42.85
>>735 邪馬台国は畿内説だろ。和国は日本だ。
畿内にさまざまな勢力がいたことを理解できないらしい。
印象操作ではない。利益のためだ。

嘘吐きは邪馬台国畿内説だ。
0748日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:07:45.36
>>745 いや大同府を調べろよ。剣が出てくるはずだし。
0749日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:22:01.39
>>352
>魏の年号が入っていて洛陽でも見つかり
科学分析でも素材が中国製と判明した三角縁神獣鏡を
呉の工人が倭で作ったとか言ってるからな<

洛陽では0〜1個しか見つからず、
列島からは500枚以上見つかっている三角縁神獣鏡は、
幾ら考えても、明帝の下賜の100枚の銅鏡ではないだろ?。
おそらく、楽浪に三角縁神獣鏡を造る鏡師がいて、
その鏡師が造った三角縁神獣鏡の一つが洛陽に流れて行ったんだろう。
そして、彼らは公孫氏討伐戦争で楽浪から列島に避難して来て、
三角縁神獣鏡を沢山造ったり、造らせたりしたのだろう。
0750日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:39:13.70
>>749
明帝の下賜品だって製作した工房は楽浪かも知れないし、なんとも言えない
0751日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:41:31.87
>>358
大和説者が、
三角縁神獣鏡のあまりの都合の悪さにの、
アーアーミエナイキコエナイとだだをこねているわい。
0752日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:41:35.30
>>745
そんな定説ないし
0753日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:44:33.23
>>359
いまだに王仲殊や古田説に反論出来ずに、逃げ回っているのは、
大和説学者や、大和説の・・・・アマチュア・・・・ガキらだけ。
0754日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:55:59.47
>>753
これは耄碌老人のうわごととしか・・・

あなた、畿内論者のする話は聞かないんでしょ?
聞かないのに反論があるか無いか知ってるわけない
0755日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 18:58:17.41
>>371
>>だから「受傷人骨」は3世紀始め頃であった可能性が高い。<

>甕棺編年というものがあってだな、ザラコクの都合で年代が動いたりはしないんだ
現実の地理もザラコクの都合では動かない
香言うことが理解できないからザラコクなんてやってるんだろうなww <

大和説者の通説では、
吉野ケ里の甕棺が2世紀までになって、
(吉野ケ里から10q余りしか離れていない)祇園山などの甕棺が4世紀になっており、
たった10kmしかないのに甕棺部族が100年以上も後になって、
突然また甕棺部族が復活した、という奇妙な事になる。

そして常識的には、甕棺部族が継続していた、という事であり、
祇園山の発掘報告では、祇園山が卑弥呼の墓である可能性が極めて高く、
吉野ケ里の受傷人骨が「倭國亂」の時期だ、とすれば、
何の問題も発生しない。
0756日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:17:01.93
>>655
三角縁が低いから三角縁神獣鏡じゃないってのは
ちょっと違うよなあとお前も思ったろ
皆も同じ想いでこの森下章司は何を言ってるのだろう
九州説はこの人を野放しにしといて平気なのかと思っている
見解引っ込めろとのメールを出すのは九州説のほう
0757日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:17:39.00
>>755
そんな発掘報告は無いな
0758日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:22:53.10
箸墓古墳は宮内庁指定の百襲姫の墓。畿内説者は百襲姫≠卑弥呼との見解。
卑弥呼の墓は何処にあるの?
0759日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:23:50.29
>>755
吉野ヶ里は弥生時代とともに終わってるんだから時代が飛んで当たり前

甕棺は細々と使い続けられているのだもの
甕棺部族など無い
0760日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:27:06.95
>>758
宮内庁の治定は歴史学と関係ない
0761日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:30:10.03
>>760
歴史学ってのは関係なくて事実かどうかだけで、箸墓古墳は百襲姫のじゃないの?
0762日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:32:34.95
>>761
そんな人、実在したかどうかも判らない
0763日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:33:33.46
>>759
>甕棺は細々と使い続けられているのだもの

子供用の土器棺墓はあると思うけれど、大人を屈葬するような甕棺墓は
弥生後期に入る頃にはほぼ消えてると思うんだが?
0764日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:35:34.02
>>763
ほぼ消えている

細々と使い続けられている

矛盾なし
0766日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:36:19.78
>>761
>歴史学ってのは関係なくて事実かどうかだけで、箸墓古墳は百襲姫のじゃないの?

倭迹迹日百襲姫命は、欠史八代の孝霊天皇皇女として記紀に書かれているから、
実在を云々できる存在ではないんだよな
0767日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:37:51.73
>>764
>細々と使い続けられている
>矛盾なし

いや、私の勉強不足なだけなんだが、弥生後期だとはっきりしている甕棺墓ってある?
0768日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:39:46.21
>>766
卑弥呼が実在したというのは証明もされてないし、日本の史書にも出てこないしね
0769日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:41:52.15
宮内庁は箸墓古墳=百襲姫の墓と認定しているじびつはある。
百襲姫≠卑弥呼なら、箸墓古墳≠卑弥呼の墓だね。
卑弥呼の存在を仮に居たとするなら魏志倭人伝通りに九州になるな。
0770日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:44:21.77
>>767
棺専用に甕を焼くことはなくなる
甕棺墓じたいは、少ないが有る
いま手元に資料がないが、調べておこうか?
0771日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:52:38.91
>>770
>棺専用に甕を焼くことはなくなる
>甕棺墓じたいは、少ないが有る

それは、小児用の土器棺墓のカテゴリーじゃないかという話なんだが

>いま手元に資料がないが、調べておこうか?

調べてくれるなら助かる 感謝
急がなくていいよ
0772日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:18:06.64
>>407
>松浦の鷹島は唐津からはぜんぜん離れた西の島
鷹島の都市(トイチ)姓は江戸時代くらいかららしいから
都市(トイチ)家の墓の法輪塔や石塔からすると
名護屋城築城の石材供給地の鷹島に移住した石切り職工がルーツの可能性がある<

都市という姓を、何故持ったのか?、という説明が必要。

>「トイチ」であれば和名類聚抄に大和国十市郡(といちぐん)があり、中世には十市氏がいる<

漢字姓の文字が違ったんでは、そのままでは「同じだ」とは言えない。

>末盧國が魏の直轄地というのは。仮説を根拠にした妄想<

他に、末盧國に「官」が書かれなかった、という事の理由が見当たらない。
0773日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:19:16.28
>>769
>百襲姫≠卑弥呼なら、箸墓古墳≠卑弥呼の墓だね。
>卑弥呼の存在を仮に居たとするなら魏志倭人伝通りに九州になるな。

百襲姫≠卑弥呼で箸墓古墳≠卑弥呼の墓であろうが、
だからなんで九州になるんだよ。
どんな飛躍なんだか。
カッペには困ったもんだ。
0774日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:25:20.75
>>409
そうかも知れないけど
景初三年から正始への改元は1月ではなく2月にせよとの勅令から
改元まで1ヶ月ほど間が存在したのは事実
記録上ではその1ヶ月を後12月と記録しているが 実際的にどのような扱いだったのかは
よって景初四年は絶対存在しないとは言えないわけだ<

「後十二月」という表現は、「景初三年」の枠内での月の呼称表現だ。
つまり、景初三年の「後十二月」、という意味であり、
景初三年は、13か月あった事になる。

だから、景初四年は、存在しなかった。
0775日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:34:31.23
>>774
後十二月は後付けで記録に記されただけだから
当時の人が後12月を実際何と言っていたかは不明
景初四年の可能性もある色んな文章や三角縁神獣鏡などにチラホラ出てくるから
逆に後12月と彫ってある鏡とかはないから
当時の人間は後12月を別の呼び方で扱っていたのではないかなあ
0776日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:35:28.16
>>413
>仕組みは理解してるつもりだけどね、知らないのはお前だろ
ただ、この関係で検索してたら、こんなのみつけた。
「平勢隆郎は、
魏書明帝紀には景初改暦時に伴う正月の変更(青龍4年は11月で終わるため)によって
本来は存在しない筈
青龍4年12月の記事が実際には存在していることなどを指摘して、
景初改暦の際にその暦元として採用された壬辰と同じ辰の年(丙辰)である前年の青龍4年(西暦236年)に遡及させて景初元年としたものの、
その後魏晋革命の影響によって元 に戻されたために正史の記事に混乱が生じたり、
正史に基づけば本来はある筈のない「景初4年」銘の三角縁神獣鏡が存在
したりする(同説に基づけば、景初は4年まで存在するため)とした説を唱えている。<

誤魔化しても無駄だ。
「後十二月」は、景初三年の中での「後十二月」という意味であり、
景初三年は、「一月、・・・、十二月、後十二月」の、
合計13個の月があったのであり、
「景初四年」の使用例は、存在しない。
0777日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:38:46.80
>>425
>景初三年から正始に切り替わるまで1ヶ月間の空白が有る以上
当時その期間を景初四年として扱ったのかも知れないという事は
絶対ないとは言い切れない <

言い切れる。
「後十二月」は、景初三年の中の月の呼称だ。
0779日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:42:02.04
九州の一部では、昭和の初めまで甕棺があったとかなかったとか。
0780日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:43:01.77
>>773
大飛躍をしているのは畿内説だよ。
箸墓古墳≠卑弥呼の墓なのに箸墓古墳=卑弥呼の墓と思い混んでる。
0781日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:43:38.05
どうでもいいから、頭の病院に行け、池沼なんじゃないのか?
0782日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:43:46.98
百襲姫を卑弥呼と言い張った時に、じゃあ墓も大きいのを選ばないといけないということで選んだ。
常識で考えて、王でもない姫にそんなに大きな墓は作らない。
男尊女卑は天津神の伝統だよ?
0783日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:44:10.41
>>426
>多鈕細文鏡を天照大神の神鏡というのは朝鮮部落の人だけだろう<

天照やスサノオらは、朝鮮半島南岸の(後の)新羅地域〜九州北岸の、
海峡にいた人物として描かれているから、
多鈕細文鏡を神器として持っていても、何らおかしくない。
0784日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:45:44.71
大人を入れられるほどの甕棺を焼くのは大変なんだよ
普通の土器の使いまわしで済む、小児用の土器棺墓とは区別が必要なんじゃないかってことなんだけど

土器棺墓っていうカテゴリーはあまり知られていないからなぁ
0785日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:47:38.69
精神病院、刑務所(死刑)、自殺など・・・、
色々あると思うけど、どれにするんだ?
0787日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:50:44.63
>>433
>メンドいからいいわ 景初四年は存在したかも知れないで十分
絶対ないわけではない事は確か <

景初三年一月、・・・、景初三年十一月、
景初三年十二月、景初三年の後十二月、正始元年一月、・・・
と繋がって行くんだから、
景初四年はないし、
魏の記録には存在しない。
0788日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:52:16.81
>>436
つまり「景初四年は存在する」は妄想で、おk !。
0789日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:52:42.29
どこで何を習ったんだ?池沼か何かなんだろう
0790日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:55:10.07
遊びでやっているのなら、それで良いんだけど、
本気で相手にしている人なんていないだろ
0791日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:56:09.42
ちょっと待てよ、おまいら

景初四年があろうがなかろうが、それが
畿内説か九州説かって話となんの関係があるんだ?
関係なくね?w
0792日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:57:01.85
>>441
>はあ? 景初四年なら春二月乙丑は存在するけど<

景初四年は存在しない。
景初三年の「後十二月」なら存在した。
0793日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:57:32.27
消えろと言ってるんだよクズ野郎、
池沼か何かなんだろう
0795日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:59:42.64
>>756
斜縁と三角縁が一時期までおなじ分類でくくられてた事実をしってるか?
おおざっぱに言って縁の大きさ形で平縁、斜縁、三角縁を分類するけど
日本でいう三角縁神獣鏡はだいたい大きさが20〜26センチぐらいとかそういうのも考慮する、大型鏡に分類されるのが三角縁神獣鏡
それを外れると三角縁神獣鏡ではない
しかも骨董市で出たのは時代も古いという話だから完全に別物

何度も言うが本物であっても出土状況不明物は石ころぐらいの資料価値
0796日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:00:04.52
>>780
>大飛躍をしているのは畿内説だよ。
>箸墓古墳≠卑弥呼の墓なのに箸墓古墳=卑弥呼の墓と思い混んでる。

それはそうなんだ、箸墓古墳=卑弥呼の墓と思い混んでるバカが畿内説に多い。
ここのスレ主であるアホの>>1もそうだ。
しかしだからと言って邪馬台国は九州にはならない。
そっちも同じように大飛躍だ。。
0797日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:01:10.70
>>445
>>ホケノは布留であり、<

>という根拠は?<

5chでの議論で、大和説の誰かが、
「ホケノは庄内と布留の両方が出ていた」と証言していた。
0798日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:03:44.64
中大兄 近江宮御宇天皇 三山歌
高山波  雲根火雄男志等  耳梨與  相諍競伎
かぐやまは  うねびををしと  みみなしと  あひあらそひき
神代従  如此尓有良之  古昔母  然尓有許曽
かむよより  かくにあるらし  いにしへも  しかにあれこそ
虚蝉毛  嬬乎  相挌良思吉
うつせみも  つまを  あらそふらしき  (13)
反歌
高山与  耳梨山与  相之時
かぐやまと  みみなしやまと  あひしとき
立見尓来之  伊奈美國波良
たちてみにこし  いなみくにはら  (14)
渡津海乃  豊旗雲尓  伊理比紗之
わたつみの  とよはたくもに  いりひさし
今夜乃月夜  清明己曽
こよひのつくよ  さやにてりこそ  (15)

耳成山に関する歌は興味深い
神代の伝承をモチーフにしたのか
0799日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:04:49.44
しっかりと調べてみた?
お前が決めることではないと書いてあるでしょ?

池沼には、わからないとか?
0800日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:05:09.92
>>791
三角縁神獣鏡に景初四年と年号が記銘されているものがある
前まで九州説はこれを見て魏の年号に景初四年は存在しないから
三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡ではない、
国産品だからたくさん出土する畿内が邪馬台国という証拠には使えないと言っていた
けど景初四年が存在していたなら九州説の主張は崩れて
三角縁神獣鏡は魏鏡の可能性がさらに高くなる
だから九州説は必死
0801日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:06:36.95
辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
腆支王(405-420)
久尓辛王(420-427)
毗有王(427-455)
蓋鹵王(455-475)
文周王(475-477)
三斤王(477-479)
東城王(479-501)
武寧王(501-523)

百済25代武寧王(501-523)は墓から買地券(金石文)が出てるのでこれは絶対年代。
ならば阿莘王擁立が日本書紀・応神3年条だから応神元年は390年。
応神から30代後の平均在位は11年弱だから、 神功皇后を入れて6代遡る10代崇神は4世紀前半。
ならば魏志倭人伝のトヨまであと数十年、トヨとは4代天皇・懿徳の皇后のトヨツ姫だと分る。
ならばヒミコはその少し前の最高位の女性、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛だと分る。
トヨツ媛もヒメ(踏鞴五十鈴)媛も住んだのは葛城(奈良県御所市)であるから、
邪馬台国の女王が住んだ場所は奈良県御所市であると分る。
0802日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:07:41.77
>>447
>>ホケノは3世紀末で箸墓は4世紀だから、<

>そうやって勝手に歴史を書き換えれば九州説が生き延びるんだね ww <

久宝寺や加美が庄内(3?)で、
伽耶の(285年頃以後の)陶質土器と共存していて、

ホケノも箸墓も布留があって、「庄内の久宝寺や加美の」よりも新しいから。
0803日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:08:32.20
畿内説大先生「ホケノ山は布留式じゃない!三角縁神獣鏡は魏鏡!箸墓古墳は卑弥呼の墓!」

寺沢薫「ちゃうで」
石野博信「ちゃうで」
白石太一郎「ちゃうで」

主要な畿内説学者からも見捨てられる5ch畿内説学者大先生様()
0804日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:10:49.56
とあるスレで言ってる人がいたよ

新羅、源氏、山梨(甲州、信濃)が何やら〜とか、
創価か何かなんだろうwと
0806日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:11:54.36
>>448
>後の記録上ではね 実際の現場がどうだったのかは何もわからない
現実的に1ヶ月の空白がある以上 景初四年が絶対存在しないとは言えない
さらに正史の記述そのものも後年の遡及的な改元、
またはそれからの復元によって1年程度年数にずれがある可能性も出てきた
いずれにしても正史に記録がないからといってそれが
景初四年は絶対存在しなかったという事の証明にはならない <

景初三年十二月
→景初三年の「後十二月」
→正始元年一月、
という順番になるから、
景初四年は存在しない。
0807日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:12:10.86
>>795
洛陽発見の三角縁神獣鏡は小ぶりだが大きさは許容範囲だと
あとついでに鏡を鋳型でコピーし同笵鏡を作れば作るほど
コピーされた鏡は鋳型の膨張などで大きくなっていくそうだ
大き目の三角縁神獣鏡はコピーを繰り返された品の可能性もある
0808日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:13:48.45
>>449
>イミフ 景初四年=正始元年なら干支紀日は同じはず<

景初三年十二月
→景初三年の「後十二月」
→正始元年一月、
という順番になるから、
景初四年は存在しない。
0809日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:20:50.06
>>450
>>同笵鏡の話はどうなったの?。<

>別にどうも? 前に書かれているとおりだ<

同笵鏡なら、どちらかの鏡が先にあって、
先ではなかった鏡は、先にあった鏡を複写複製した筈だ。
その先後をどうして決めたのか?、という問題だ。
0810日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:23:34.52
>>454
>する必要性を感じないね
景初四年は絶対ないとは言い切れない
ゆえに景初四年記銘三角縁神獣鏡は魏鏡であっても不思議はない <

景初三年十二月
→景初三年の「後十二月」
→正始元年一月、
という順番になるから、
景初四年は、どこにも存在しない。
0811日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:24:27.54
>>806
景初三年中に改元は翌年の1月ではなく2月からにしなさいと
お触れが出たので
景初三年12月、空白1月、(改元して)正始1月となる

空白1月の部分は後の書に後12月と記されるが
当時はどのように扱われていたのかは不明
状況証拠的に景初四年扱いだった可能性も十分
0812日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:26:24.65
>>457
>景初四年がなかったというのも立証されてないから信じなくていいね?<

景初三年十二月
→景初三年の「後十二月」
→正始元年一月、
という順番になるから、
景初三年の「後十二月」≠景初四年、
であり、
景初四年は、どこにも存在しない。
0813日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:28:25.01
>>459
>「景初4年は無い」も証明できないってことでしょ。<

景初三年十二月
→景初三年の「後十二月」
→正始元年一月、
という順番になるから、
景初三年の「後十二月」≠景初四年、
であり、
景初四年は、どこにも存在しない、と証明出来た。
0814日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:31:00.55
『源氏の白旗 平家の赤旗』

このような話も出てくるでしょ
0815日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:32:31.26
>>786
その男は呟き荒らしだ
畿内の者じゃないよ
0816日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:34:55.48
頭の病院に行けw
0817日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:39:11.68
赤い旗というのは神武、
それとも中華の話?
0818日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:39:15.32
>>811
つか、景初三年後十二月だったら明帝の弔日は正始元年元日だから改暦する意味がない
景初四年が存在しないと先帝の命日と新帝の改元日が分離できない
0819日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:40:28.47
しかし後十二月=一ヶ月だけ景初四年説が本当なら
三角縁神獣鏡は景最初三年・景初四年・正始元年とレア年号含んだ
記念コインのセットか何かみたいだな
0820日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:40:29.50
>>502
>景初四年正月の前になぜ景初三年後十二月をいれない <

「景初三年の後十二月」の次は、正始元年一月だから。
0821日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:41:40.91
>>800
「九州説が必死」かどうかなんてどうでもいいんだよw

三角縁神獣鏡自体が畿内説にとってどうでもいいんだから。
いまどきこの鏡を根拠にしてる畿内説なんてオマエぐらいだろw
0822日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:42:49.37
>>504
>むしろ景初四年が存在した状況証拠がばっちりあるって話なんだがね
「景初四年は存在しない」が証明不能、というよりもね<

景初三年十二月
→景初三年の「後十二月」
→正始元年一月、
という順番になるから、
景初三年の「後十二月」≠景初四年、
であり、
景初四年は、どこにも存在しない、と証明出来た。
0823日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:45:35.89
>>505
>景初三年後十二月は詔書で存在が確認される
次が景初四年だろうと、正始元年だろうと同じ<

景初三年後十二月の次は、正始元年一月になり、
景初四年は存在しない。
0824日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:47:27.68
『赤い旗 神武』

調べてみると、ここでも西王母の話が出て来たり

『松傾』?
0825日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:47:41.77
>>821
景初三年と卑弥呼が魏に使いを送ったとされる魏の年号が記銘されており
魏志倭人伝、全唐文にも魏から倭には鏡を下したとあり
材質は当時の中国の胴、それも魏晋時代の銅製品と一致と
蛍光X線分析でも判明し
魏の都洛陽付近で1枚見つかった三角縁神獣鏡

うん確かにどうでもいいな
0826日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:48:41.65
>>507
>景初四年は正史に存在しないけど
正史にない物も存在するとさっき証明した
すなわち景初四年は存在する <

景初三年の「後十二月」の次は、正始元年に一月、
になって、景初四年は存在しない。
0827日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:52:34.59
九州説つうかザラコクは景初四年は存在しない連呼するだけモードに入ったようだ
0828日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:53:05.46
>>518
「南→東」の嘘つき騙しの大和説者さん、
「後十二月」は、景初三年に属し、次は正始元年一月である、という知識がないと、
古代史研究はムリよ。
0829日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:53:47.44
老婆のほうが詳しいような気がする、
いちいち細かいことは説明しない

蚕、機織りしている家があり。
山の上のほうに住んでいて。

牛肉は食べたくないんだよ・・・みたいなことを言っていたりw

『七夕 牛』?
0830日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:54:59.57
>>520
史記にない物はないとかない事を証明しろとか、
だんだん大和説者やww化してきたな。
大和説論者はこうなる運命なのか。
0831日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:56:36.70
>>817
意味深
0832日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 22:07:05.81
先祖を殺した?
みたいな作品があったり、ゲームだった?
0833日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 22:12:19.66
シュテンドルフ?そういう話だったような
0834日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 22:18:52.15
『もののけ姫』で言っている神殺し?

『松傾』のような名前の家の話でしょ、白い猪とか
0835日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 22:36:49.35
>>606
だいたい大和説は論破されてすぐ消える。


でも、別人の顔をしてまたくる。
0836日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 22:39:42.54
ザラコクはウソが好きだなぁ
0837日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 22:43:35.93
倭国大乱前の倭国は男王

邪馬台国、初期の大和朝廷は、女王卑弥呼、男王で内乱、女王台与

邪馬台国、初期の大和朝廷側には男王足り得る血統がなかったのかな?
0838日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 22:51:26.80
>>614
>「梁書、日本書紀の2つの資料には共に卑弥呼が魏に使いを送ったのは
 景初三年とあるからな
 魏志倭人伝の原本があったころの記載は景初三年と書かれてんだろう 」<

後代の唐代史書は、筆者の自己解釈に拠る書き換えが多くて、客観性や信頼性がなく、
魏志や起居注や写本などの実見記録の方が、はるかに客観性も信頼性も高い。

>それに晋書でも、卑弥呼の遣使は景初三年になってる<

どこにそんな事が書かれている?。

>また中華書局本北史 卷九十四 列伝第八十二 校勘記でも、
北史の校勘で景初三年としたとある <

現代の中華書局本は、天誅も使ったように、全く信頼性がない。
0839天誅垢版2018/05/28(月) 22:54:56.86
ザラコク様、降参ですぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0840日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 22:56:14.96
『松傾』のような名前の家の話でしょ、白い猪とか


0841日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:01:56.35
>>692
やはりまたウソをついてたのか。
大和説は悪質だなぁ。
0842日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:04:06.31
北斗の拳と同じような話、なぜか?
0843日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:13:23.40
日本昔話『姥清水』

これは確実に同じ話でしょ
0844日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:17:37.32
>>838
とくに日本書紀(700年ころ成立)には「魏書に曰く…」と表記があるので
失われる前の原本魏志倭人伝を参照にしたと考えられる
そこには卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初3年と出ていたと
梁書も同様

ザラコクが連呼する卑弥呼が魏に使いを送った年は
魏志倭人伝によれば景初2年との記述は
魏志倭人伝が成立してから1000年後の写本に初めて現れる表記
恐らくこれは誤記の可能性が非常に高い
なぜならそれ以前の書には卑弥呼が魏に使いを送った年は
複数の史料が景初三年で一致してるから
0845日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:19:46.08
あの謎のゲームなんだけど、逆のようなことになっていたり?

シンというキャラが主人公?「お前は、もう死んでいる」というセリフとか
0846日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:22:25.85
wiki『南斗聖拳』

>陰陽の考え方に基づき、「陰」の北斗神拳に対応する「陽」の拳法。
0847日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:24:09.18
シンというキャラ


「お前は、もう死んでいる」



0849日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:32:38.67
景初四年という年は正始に改元されたら文献上にはないが
鏡は延康元年二月銘鏡のように改元の前月に刻んでいるから
景初3年12月に鏡を作っている鏡工にとっては翌月の景初4年はある
斜縁神獣鏡は画像鏡を元に神獣鏡の要素を取り入れた華北東部系の鏡だから
小型の景初四年鏡あたりが最初に作られたのかもな

景初四年に関しては方位と同じで九州説と会話しても時間の無駄だろう
0850日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:35:41.79
卑弥呼、台与が女王足り得たのは、猪の血のおかげの可能性があるな

男王にはなれないけど

応神が生まれて喜んだのはスクナヒコナ
サルタヒコを(男)王足らしめるのは、クナトの神

王の母系は時代時代で色々変わり得るんだろうな
狗奴国はかなり重要な存在なのかもしれないな

倭国大乱前の男王は何処に拠点を構えていたのか?
0851日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:41:04.57
七つの傷


タイムリミットのようなものがあって、
時間内(期限)にクリア(達成)できないと、死ぬんじゃなかった?

・・・・・・・・・・・・・・・・あのチェーンソーのゲーム?
0852日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:45:29.84
『北斗の拳』でいうと「お前(主人公)は、もう死んでいる」みたいな話

そして誰が作ったゲームなのか、これは、かなり頭の良い人が作ったゲーム
0854日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:48:56.85
九州説大人しくなったな
まあ事実に気が付いたなら黙るしかないわな
0855日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:50:12.64
>>807
許容範囲w
何の許容範囲やねん
日本の三角縁神獣鏡より小さい上に縁も小さく、年代も古いから斜縁鏡判定されたんだろうが

膨張する鋳型も見せてくれ
はやく膨張させてくれ、6cmも7cm
も膨張させてくれ
ほら、ほら!
0856日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:52:55.80
>>855
九州説よ
熱した胴を流し込んだ粘土の鋳型が膨張する現象は
実際の実験でも確かめられています
0857日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:53:37.69
1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。

同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、北陸、伊勢尾張からアクセスしやすい場所だからね。

当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。

問題は男王が何処にいたかだな
淡路島の鉄器を利用しやすい、本州沿岸部の高台が怪しいが

かつて大坂城の地にあった生國魂神社
神武東征の際に生島神、足島神を鎮魂した謂れが残っている
八十島祭で重要な役割を果たし、宮中式内社にも同じ神が祀られている
籠神社や出雲大神宮と同じように、隠された主祭神がある可能性も考えられるな
0858日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:54:15.60
『北斗の拳 シン』〜『聖徳太子』の肖像画と同じようなコマが出てくる、悪役?
0860日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:55:40.67
九州説は知識と知能が足りないばかりに
珍妙な踊りを踊るハメになってるな
0861日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:57:25.98
『北斗の拳 シン』〜『ボーボボ 田ぼ』
0862日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:57:51.43
ほら踊れ踊れ九州説
畿内説はそれをニヤニヤしながら眺めているのだ
0863日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 00:02:38.22
まあ知識と知能が足りないから九州説なんてやってるんだろうよ
0864日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 00:02:53.79
>>775
>景初四年の可能性もある色んな文章や三角縁神獣鏡などにチラホラ出てくるから
記録されているというのは誤読ばかり
0865日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 00:04:14.16
よく調べてみると

誰々を拉致したりというのも・・・・ウラシマ・まりんの話
0866日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 00:07:06.68
>>818
明帝の弔日は1年後の景初三年後十二月朔
正月のお祝いは正始元年元旦
景初四年が存在する必要はないよ
0867日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 00:07:11.00
wikiにも書いてあるはず

>「太陽の紋章」を発動・・・・・・・・・アース・ソニック・ブレード

陽の拳法?
0868日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 00:17:10.63
>>856
上辺だけ調べて膨張というものを勘違いしてるんだろう
ここでいう膨張というのは熱がよく伝わる部分と伝わりにくい部分で膨張率が違って鋳型の割れや歪みに繋がるというだけの話
決して出来上がった鏡全体の大きさが一律何%大きくなるという話ではない
そういう話だというのなら何cmも膨張した証拠を持ってきなさい
0870日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 01:21:06.46
>>868
>そういう話だというのなら何cmも膨張した証拠を持ってきなさい

一回でいきなり何センチも膨張する訳ないだろ?
1回数ミリの膨張を10回繰り返せば、トータルでは数センチの膨張になる
0872日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 04:30:20.25
>>775
>後十二月は後付けで記録に記されただけだから<

いや、後付けではなく、実際に実施された呼称。

>当時の人が後12月を実際何と言っていたかは不明><

当然、(景初三年の)「後十二月」と呼んだ。そして、その次の月から「正始」になった。
だから、景初四年は存在しなかった。

>景初四年の可能性もある色んな文章や三角縁神獣鏡などにチラホラ出てくるから <

後代史書の筆者の記載は、その筆者の自己解釈だから根拠にならない。

>逆に後12月と彫ってある鏡とかはないから<

いや、紀年鏡に年号を書くんなら、(存在もしない景初四年とは書かず)、
「景初三年」と書く。

>当時の人間は後12月を別の呼び方で扱っていたのではないかなあ<

「景初三年後十二月」という月名が、命令された呼び方であり、
「景初四年」と書けば、命令違反だ。
0873日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 04:39:16.48
>>778
>それは跡付けかも知れないだろ?<

「後十二月」の呼称の命令文の紹介、の筆者は何時の頃の人か?は知らんが、
はるか後代では「後十二月」なんていう月呼称を造作する事は困難だから、
ほぼ同時期の情報が、記録の元になった。
0874日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 04:53:28.26
>>791
>ちょっと待てよ、おまいら景初四年があろうがなかろうが、<

景初四年はなかった。あったのは「景初三年の後十二月」。

>それが 畿内説か九州説かって話となんの関係があるんだ? 関係なくね?w<

明帝の死亡は景初三年の元旦であった事は確定しているから、
明帝の銅鏡百枚の下賜の詔書は、景初二年の12月に出された事も確定し、
だから、景初二年12月時点で銅鏡百枚の用意が出来上がっていた事になり、
卑弥呼の遣使は景初二年六月であった事になり、
列島で発見された景初三年鏡や景初四年鏡は、明帝の下賜鏡ではなくなった。
0875日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 05:01:05.49
>>800
>けど景初四年が存在していたなら九州説の主張は崩れて
三角縁神獣鏡は魏鏡の可能性がさらに高くなる だから九州説は必死 <

けど景初四年が存在していなかったから大和説の主張は崩れて、
三角縁神獣鏡は魏鏡の可能性が全くなくなった。
だから、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、必死。
0876日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 05:06:38.81
>>808の訂正。
景初三年十二月
→景初三年の「後十二月」
→正始元年(一月か二月かは不明)、
という順番になるから、
景初四年は存在しない。
0877日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 05:14:07.00
>>811
>景初三年中に改元は翌年の1月ではなく2月からにしなさいとお触れが出たので
景初三年12月、空白1月、(改元して)正始1月となる
空白1月の部分は後の書に後12月と記されるが<

「空白1月」なんて存在しない。「景初三年の中の後十二月」と命令された。

>当時はどのように扱われていたのかは不明
状況証拠的に景初四年扱いだった可能性も十分<

魏代に「景初四年」年号の使用例はない。
後代史書などの「解釈」では、根拠にならない。
0878日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 05:20:11.93
>>818
>つか、景初三年後十二月だったら明帝の弔日は正始元年元日だから改暦する意味がない
景初四年が存在しないと先帝の命日と新帝の改元日が分離できない<

景初四年は設定されず、景初三年の後十二月が設定され、
その次の月から正始に改元された。
0879日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 05:25:05.68
>>825
>景初三年と卑弥呼が魏に使いを送ったとされる魏の年号が記銘されており
魏志倭人伝、全唐文にも魏から倭には鏡を下したとあり ・・・<

明帝の「銅鏡百枚」の詔書は、景初二年12月。
0880日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 05:30:03.78
>>837
>倭国大乱前の倭国は男王
邪馬台国、初期の大和朝廷は、女王卑弥呼、男王で内乱、女王台与
邪馬台国、初期の大和朝廷側には男王足り得る血統がなかったのかな?<

倭国大乱も邪馬台国も朝廷も台予もなかったから、×。
0882日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 06:50:14.48
>>866
>明帝の弔日は1年後の景初三年後十二月朔

例えば、
命日が6月7日だったとして、その年の7月に閏月が入って
7月と閏7月(後7月でも良いけれど)の2回、7月があったとして
翌年の一周忌の弔日を5月7日にやるか?といったらやらないだろう
その年は13ヶ月が一年なのだから、13ヶ月後になるが一周忌は
やはり6月7日に行われる

そう考えると、正月朔日を2回迎えるしか解決はない
0884日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 06:56:38.45
>>871
鏡を粘土に押し付け鋳型をとって
そこに熱した胴を流してコピー品を作る
そうやって作られた鏡は元の鏡より数%大きくなる
0885日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 07:22:48.69
熱膨張というより、銅の重さで鋳型が拡大するとかいう話じゃないの?
0889日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 07:56:31.58
粘土なんかもっとも膨張しにくいもの
膨張するっていう実験結果あるんだろ?
早くそれ持って来いよ
0890日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 08:42:20.64
>>889
古代東アジアにおける青銅鏡の鋳造技法の変遷
三船温尚

>鏡を原型として鋳型を込め抜き鋳造された「踏み返し鏡」は、これまで、母鏡より20/1000あるいは、7~15/1000縮小すると言われてい た。
>しかし実験ではおよそ20cmの面径の鏡で0.1~0.8mm縮小し、収縮率は0.5~4/1000と小さい数値となった。
>また、真土鋳型は、焼成で 熱膨張し、冷却しても1~4/1000ほど焼成前より大きくなることが判明した。
0891日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 08:46:58.52
>>874

時代背景的にもその時代に景初という年号を使ってるのは魏しかないわけで。
意味もなく景初なんて文字を鏡に書き込む訳がない。
また、当時漢字を読み書きできる人は中国でも上流階級だけ。
0894日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 08:58:25.77
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
0895日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 08:59:26.05
倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、
0896日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:00:50.64
キナイコシが「踏み返し鏡」に過剰反応するのはなぜだろうか、、
0897日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:01:42.31
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。
0898日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:02:12.82
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、
0899日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:10:06.60
>>845
>ザラコクが連呼する卑弥呼が魏に使いを送った年は
魏志倭人伝によれば景初2年との記述は
魏志倭人伝が成立してから1000年後の写本に初めて現れる表記
恐らくこれは誤記の可能性が非常に高い <

いや、通典の「二年」と「明帝」を記録しているし、
書紀も「明帝」を記録している。
後代の「自己解釈に拠る書き換え」をする史書の記載よりも、
同時代的な実見に拠った魏志や起居注や写本の方が、
客観性や信頼性がはるかに高い。

>なぜならそれ以前の書には卑弥呼が魏に使いを送った年は
複数の史料が景初三年で一致してるから<

後代の「自己解釈に拠る書き換え」である事がはっきりしている史書では、
「ついうっかり」の魏志などの引用だ、と思われる記載は、
信頼性があり、根拠になる。
0900日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:22:54.50
>>849
>景初四年という年は正始に改元されたら文献上にはないが
鏡は延康元年二月銘鏡のように改元の前月に刻んでいるから<

銘の日付は、原則は、その製作年月日を刻むもの。

>景初3年12月に鏡を作っている鏡工にとっては翌月の景初4年はある<

景初3年12月に鏡を作っている鏡工にとっても、刻む製作年は、景初三年。
翌月になる前に、翌月が「県初三年の後十二月と決められた」限り、
翌月の鏡に刻む製作年は、(景初四年ではなく)、景初三年。

>斜縁神獣鏡は画像鏡を元に神獣鏡の要素を取り入れた華北東部系の鏡だから
小型の景初四年鏡あたりが最初に作られたのかもな
景初四年に関しては方位と同じで九州説と会話しても時間の無駄だろう<

史料事実を否定して、分裂幻覚妄想の嘘つき騙しをしゃべる・・・・大和説者、
との会話は、会話しても時間の無駄であろう。
0901日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:24:42.92
>>886
>一周忌なんだから13か月後のわけなかろう

一周忌なんだから、12ヵ月後だからといって命日と違う日にやるわけがなかろう

>何のために1月挿入したんだ

一周忌の弔日と、改元の慶事を分離するためだよ
でもどちらも日付は元旦でないといけない
0902日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:34:58.57
>>853
>九州説に都合の悪い事実<

大和説にとっては、都合の悪い史料事実ばっかり。
0903日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:36:22.43
>>890
中国から径も小さく縁も低い斜縁神獣鏡が渡ってきて、それを型どりして何度も作っていくうちに三角縁神獣鏡のように大きくなっていったと言いたかったんだろうが
鏡は小さくなるという逆の結果を張ってドヤ顔w
ギャグかな?
0904日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:36:33.85
>>854
大和説は大人しくなったな。
まあ史料事実や史料実態に気が付いたなら、
黙るしかないわな。
0907日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:47:45.08
>>855
>(洛陽出土?の神獣鏡)日本の三角縁神獣鏡より小さい上に縁も小さく、
年代も古いから斜縁鏡判定されたんだろうが<

それなら、
洛陽出土の三角縁?神獣鏡は、列島の三角縁神獣鏡とは違う、という事であり、
ますます、呉系楽浪鏡師らが、
当初造った三角縁神獣鏡では余り売れず、
列島へ来てから、少し大きめの三角縁神獣鏡を作り出した、
という事になるではないか。
0908日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:48:17.37
>>903
三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。

母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳

>以上福岡

>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良
0909日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:54:57.64
>>857
>1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。
それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。<

「倭国は正北抵新羅に拠って九州」である事や、
「自昔・・・東征毛人五十五國」であった事の動かし難く、
それに拠っての「交流の活発化」であったんでしょう。

>同時期に栄えた伊勢遺跡。
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など
各地の特徴を持った建物跡が出土している。<

おそらく、東征将軍と、出雲や越の部族の共存の中心的な地。
0910日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:55:39.79
>>906
改暦しなければ景初四年元日が満一年の命日ね
0911日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:56:15.22
>>907


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えテメエ!
0912日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:56:55.33
>>908
この俗説が科学的に否定されたわけだ
九州説はこうして時代に取り残されていった
0913日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:59:10.54
>>860
大和説者は、
「何故か?」という事を考える事が出来ず、
知識と知能が足りないばかりに、
上司の人種差別的なキョクウの学会教育界の教授らの影響を受けて、
珍妙な踊りを踊るハメになってるな。
0914日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:02:58.93
>>862
ほら踊れ踊れ、戦争極右の教授らの言いなりになって、
戦争へいきりたっていた大和説のガキら。
九州説は、それを、気の毒だなあ、と思いながら眺めているのだ。
0916日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:04:45.35
>>863
まあ知識と知能が足りないし、「何故か?」という事を考えられないから、
大和説なんてやってるんだろうよ。
0917日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:05:54.31
>>915
はい、早くも九州説のウソ発見
0918日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:10:57.05
>>915
改暦が決まったのは景初3年12月だね
0919日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:22:01.06
>>905
>一周忌は死後一年、13か月後ではないよ

その一年が、13ヶ月の年は、13ヵ月後にするしかないだろ?
13ヶ月で周年なんだから
0920日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:28:04.72
九州説というのは主流説がなくて
種々雑多な泡沫説の烏合の衆なのに
なんで多数設定であるかのような
お芝居をしたがるんだろうねえ
0921日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:30:31.16
>>920
>九州説というのは主流説がなくて

投馬国が、宮崎に行ったり、朝鮮半島南部に行ったり、
人によって言うことが異なるから、いちいち個別に
説明しなきゃならんのがめんどくさい
0922日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:35:58.49
>>912
>>>908
>この俗説が科学的に否定されたわけだ
>九州説はこうして時代に取り残されていった

0923日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:37:53.71
畿内説だって、纒向だ、葛城だなどと人によって言うことが違うけど。
0924日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 10:41:49.59
>>923
>畿内説だって、纒向だ、葛城だなどと人によって言うことが違うけど。

葛城だという人は、申し訳ないが主流じゃないだろ?

九州説ではどこが主流なんだい?ww
0926日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 11:09:18.23
>>922
やけくそですか?
0927日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 11:10:40.98
>>925
>満1年目が一周忌

だから、満1年が、13ヶ月の年は、13ヶ月目が1周年だろ?
今、後12月だからそう言いたくなるのも、理解力の乏しい人ならあるかもしれないが
例えば、3月に閏3月が入っていた時も、1月朔日命日の人の一周忌を12月朔日に
やるのか? やらないだろ?
0929日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 11:49:34.37
>>928
>何を言ってんのw
>満1年は12月後に決まってるだろ、アタマ大丈夫かw

太陰太陽暦を理解してるか?
この頃のというか、旧暦での1年は365日じゃないんだぞ?
閏月のない年は、355日くらい
閏月の入る年は、385日くらい
どちらも、太陽年(≒365日)で1周年になるわけではない

だから、うるう年でもそうではない年も「同じ日付」の日で、周年になるんだよ
1月元旦の1周年が、12月朔日という訳にはいかない
0931日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 12:06:41.80
>>930
昔って、いつから?
大正?
0932日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 12:13:45.23
>>930
>月命日は年に11回、12回目が1周忌
>昔からの決まり事

あのさ、閏月って、3年に1回くらいの頻度で回ってくるんだ

で、月命日の回数で数えていったら、約3年に一月ずつ、年回忌がずれるぞ?
十三回忌(12年後)までに、4ヶ月ずれる

そんな法事はないだろう?

太陽暦では、閏月はないから、一年はずーっと12ヶ月のままだけれど、
旧暦(太陰太陽暦)では、12ヶ月の年と13ヶ月の年があるんだよ

そこを理解してるか?
0933日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 12:43:47.81
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。
0934日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 12:44:57.59
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。
0935日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 12:45:45.05
>>894
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
0936日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 12:49:16.94
>>907


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えテメエ! 
0937日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 12:59:51.70
>>907


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えテメエ! 
0940日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 15:40:11.76
またか、またキナイコシが無知を晒しているのではないのかな。。。
0943日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 17:25:24.20
>>882
>例えば、命日が6月7日だったとして、その年の7月に閏月が入って
7月と閏7月(後7月でも良いけれど)の2回、7月があったとして
翌年の一周忌の弔日を5月7日にやるか?といったらやらないだろう
その年は13ヶ月が一年なのだから、13ヶ月後になるが一周忌は
やはり6月7日に行われる<

当たり前。

>そう考えると、正月朔日を2回迎えるしか解決はない<

何を言いたいの?。
明帝の一回忌を景初三年の後十二月の一日にして、
改元を、その一月後の正始元年の最初の日にすればよいだけ。
0945日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 18:30:57.52
>>910
>改暦しなければ景初四年元日が満一年の命日ね<

改暦したんだから、景初三年の後十二月の一日が、満一年の命日ね。
0946日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 18:41:42.86
>>912
>この俗説が科学的に否定されたわけだ<

「三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる」
は、
鋳型のサイズの熱変化よりも、溶融青銅という金属の冷却収縮の方が大きいだろうから、
何らおかしくないし、間違ってもいない。

>九州説はこうして時代に取り残されていった<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
ここでもインチキヘイトスピーチをした事がバレ、
こうして、時代に取り残されて行った。
0947日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 18:48:19.80
>>917
>>1年前から改暦は決定しているから<

>はい、早くも九州説のウソ発見<

皇帝が亡くなって、次の皇帝が決まれば、新年号実施の改暦は決まる。

はい、早くも大和説のウソ発見。
0948日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 18:56:18.96
>>920
>九州説というのは主流説がなくて 種々雑多な泡沫説の烏合の衆なのに
なんで多数設定であるかのような お芝居をしたがるんだろうねえ<

大和説というのは、国民の3割しか支持者がなく、
国民の7割から否定されている泡沫説であるのに、
なんで多数支持であるかのようなお芝居をしたがるんだろうねえ。
0950日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 19:08:11.26
>>945
>改暦したんだから、景初三年の後十二月の一日が、満一年の命日ね。

閏月が入ったら(景初三年は閏月でもないけれど)13ヶ月で満一年なんだがな

「命日は6月7日です、閏月が入ったから5月7日が一周忌です」とはならないって
いうのは当たり前なんだろ?

やっぱりザラコクには難しいか?
0951日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 19:15:33.45
>>949
>一般的に一周忌は満1年目、三回忌以降は数え

分かってるよ
だから、十三回忌は満十二年

そして、一周忌も、回忌も「命日」に行うことには変わりがない
(実際にはその前後の都合の付く日だけれど)
命日が元旦なのに、12月朔に行うってのがおかしいという話
0953日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 19:37:31.16
>>920

国民の7割などと連呼して九州説に紛れ込んでるのは
兵庫、大阪中心の差別の連呼で商売してる反日民族団体だからね
0956日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 20:32:35.16
>>908
コピー鏡を作れば熱で鋳型が膨張し
それが数回利用される事によりコピー元より大きい鏡が出来る

大きい三角縁神獣鏡が九州、吉備殻出るのなら
畿内が三角縁神獣鏡の中心であり周囲の国に
コピー品を配ったと言う当時の状況と一致するとも考えられる
0958日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 20:39:26.83
>>908
あと三角縁神獣鏡は径が小さければ文様が不鮮明と書いてあるが
洛陽で発見された三角縁神獣鏡はかなり小型だが
国内で見つかる鏡よりも漢字などが鮮明だそうだ
小さいほうが文様が鮮明なら
洛陽で見つかった三角縁神獣鏡はコピー元そのものか
極めてそれに近い鏡であると推察もできる
0960日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 20:55:19.84
>>959
まだ理解できないの?
0961日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 20:55:45.26
>>959

例えば、
命日が6月7日だったとして、その年の7月に閏月が入って
7月と閏7月(後7月でも良いけれど)の2回、7月があったとして
翌年の一周忌の弔日を5月7日にやるって主張するんだね?

命日でもない日に?
そういう例、あったら出してみて?
0964日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 21:24:48.26
景初四年がありうる話が
相当こたえてるようだな
0966日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 21:31:57.78
景初四年があろうとなかろうと、三角は魏鏡じゃないのは確定済みだから
0967日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 21:38:47.77
確定してない
40年前の言説で思考停止している素人が大声で騒いでるってのが現実
0968日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 21:45:59.58
>>956
鋳型が再利用されたかは
その鋳型が発掘されてからでないと、単なる仮説に過ぎないよ。銅鐸の鋳型はあるが三角縁の鋳型は出ていない、一つもね。
0971日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 21:57:31.52
>>967

中国社会科学院考古研究所所長王仲殊
纒向学研究センターセンター長寺沢薫
橿原考古学研究所研究部長石野博信
国立歴史民俗博物館名誉教授白石太一郎

もれなく素人行きwww
0972日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 21:59:53.57
倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、
0973日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 21:59:54.08
景初三年十二月に「詔」が公布され、後十二月が制度上誕生(まだ殷暦、建丑の月)
後十二月が終われば、詔施行(暦の改正 殷暦→夏暦)正始元年元日(建寅の月)
明帝の法要を後十二月の一日(殷正建丑の月一日)に執り行えば
暦的にかぞえ十三ヶ月目、正始元年正月(建寅の月)の前の月に法要を済ませたこととなり、
自動的に、三回忌法要は(正始元年十二月・建丑の月)それ以降も正月の朝賀に重ならず法要を
執行できる。
制度上(公布)(適用)(施行)が月を跨ぐ事などしばしばだし、珍しい事ではない。
0974日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:00:37.82
九州説どころか、名のある畿内説学者や中国考古学の権威が三角縁神獣鏡は魏鏡ではないと口を揃えて言ってるのにまだ5chで魏鏡だと言い張る畿内説君
0975日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:00:42.60
しかし、なぜ南が東じゃないと畿内説は破綻するのだろうか、
僕たちも、もう一度、魏志倭人伝を最後まで読んでみるべきじゃないだろうか。。。
0976日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:01:04.57
>>898
計算すると、西暦200年頃からだな。。。
0977日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:02:56.42
景初四年について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。
0978日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:03:41.29
僕たちは景初四年について、酸いも甘いも知りつくしてしまったね。。。
0979日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:04:20.08
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
0980日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:04:58.20
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
0981日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:05:22.59
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。
0982日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:05:38.33
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。
0983日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:06:00.38
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。
0984日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:06:28.62
>>894
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
0985日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:06:51.16
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
0986日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:07:06.64
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、
0987日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:07:31.04
>>965
根拠は明示されてるのだが?
一年経たなければ一周忌にならない

正月に亡くなった人の祥月命日を12月にはできない
0988日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:07:50.91
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
0989日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:08:19.91
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
0990日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:08:37.47
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
0991日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:08:57.87
倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。
0992日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:09:13.27
倭国である女王国から、東に海を渡った土地にも倭種が住んでいたと魏志倭人伝に紹介されているな。。。
0993日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:10:22.35
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。
0994日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:10:41.50
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。
0995日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:11:17.34
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。
0996日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:11:45.55
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。
0997日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:12:02.18
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。
0998日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:12:31.63
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている
0999日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:12:49.62
>>858
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。
1000日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 22:13:20.27
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
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