邪馬台国畿内説 Part352

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1◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 06:56:41.04
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528141524/


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 06:59:42.23
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:00:02.16
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:00:26.52
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:00:49.59
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:01:07.52
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

7◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:01:27.56
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:01:48.33
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

9◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:02:06.41
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

10◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:02:24.56
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

11◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:02:41.89
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

12◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:03:01.39
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

13◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:03:18.37
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

14◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:03:39.01
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

15◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:03:56.86
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

16◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:04:17.75
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

17◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:04:38.42
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

18◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:04:56.20
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

19◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:05:16.73
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

20◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:05:36.27
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

21◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:06:00.76
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

22◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:06:21.69
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

23◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:07:27.77
 
 
 
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
 
 
 

24◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:07:52.03
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。

25◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:08:31.86
 
 
 
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
 
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
 
 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
 
 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
 
 
 

26◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:09:24.10
 
 
 
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
 
 
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

 
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
 
 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
 
 
 

27◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:09:42.69
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

28◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:10:09.33
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等

29◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:11:06.06
 
 
 
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
 
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
 
 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
 
 
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
 
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
 
 
 

30◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:11:30.06
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

31◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:12:03.73
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
 
 
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!
 
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
 
 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
 
 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。

32◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:12:22.75
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

33◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:12:40.82
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

34◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:13:00.04
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

35◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:13:32.88
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。
 
 
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある! 
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
 
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

36◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:13:50.47
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

37◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:14:07.90
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

38◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:14:23.33
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。

39◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:14:39.35
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

40◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:14:55.08
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

41◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:15:12.81
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。

42◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:15:37.28
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。


※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

43◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:16:29.70
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
 
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
 
 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
 
 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
 
 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

44◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:17:03.00
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!
 
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
 
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
 
以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 
 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

45◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:17:19.36
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

46◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:17:57.58
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。

47◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:18:14.11
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

48◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:18:30.70
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。

49◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:18:45.34
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

50◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:19:02.63
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

51◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:19:19.13
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

52◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:19:38.21
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

53◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:19:53.84
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

54◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:20:11.31
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

55◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:20:41.63
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!
 
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
 
 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
 
 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
 

56◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:21:29.34
 
 
 
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
 
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
 
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
 
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 
 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
 
 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
 
 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
 
 
 

57◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:21:45.84
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

58◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:22:18.92
 
 
 
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
 
 
 

59◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:22:34.64
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

60◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:25:10.14
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。


 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

61◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:26:32.04
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

62◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:28:57.73
◆FAQ 65
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物の尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜後漢初:23.1cm (安定的)
 後漢末〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979_________170.3 18.5 159.0 17.1

63◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:30:31.38
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

64◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:31:07.29
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://imgur.com/qfiOJLu

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

65◆UiepmfCeDJqf 2018/06/09(土) 07:31:52.35
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ65,67に追記

66日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:41:36.41
誰も読まない駄文を長々と乗せて我が物顔
お山の大将のスレ主
内容は切り張りの詐欺師の論法

67日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:46:05.00
そうやって畿内説を知らないままだから
九州説は反論できず
負けるだけ

68日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:50:46.23
反論できなきゃ、ボヤけばボヤくほど惨めなだけだろう

69日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:52:11.95
>>54
世有の「魏の世に」の用例

・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
魏は漢の法により、母后の號は皆旧制(漢と同じ)であったが、夫人以下には魏の世には増減あった。
漢の世に対して魏の世で増減があったの意味であり魏の各代で増減があったは誤訳。

・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   伯父柔と父澤は後漢の郭泰(郭林宗)に認められ出世した人物で魏代にも活躍した人物である
   従って先人とは魏代の王沢、王柔、王機のみを指す
   王家は昔からの名家ではないので誤訳。

70日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:53:34.85
>その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

古墳の序列は大>中>小だがそれ以外にもある。
立地場所だ。

上座>中座>下座になる。

実際、各地域の上座にはその地域の始祖王らしき人物の墓がある。
例を挙げれば河内の玉手山古墳群、交野の森古墳群、讃岐の萩原墳墓や猫塚などなど。

では大和盆地の最上座とはどこか。

高天原(御所市高天)だ。

高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。

https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg

トヨもヒミコもヒミコの父さんやお母さんも叔父さんや叔母さん、
そして男弟までみんな死後に高天原の神々になったのだ。

71日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:54:59.48
近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。

スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。

結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。

大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。

72日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:56:10.98
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。

73日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:57:17.73
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?

74日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:14:41.63
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

75日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:15:12.46
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。

76日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:15:43.42
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。

77日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:18:41.86
856 日本@名無史さん sage 2018/06/08(金) 14:02:50.45

骨子の3世紀中葉に古墳時代開始というのも年輪年代法の裏付けのない炭素年代測定法を元にした推定であって、科学的な根拠とは言えない
BP何年という数字がいくら出ようが絶対年代を基にした較正ができなければ、それが西暦何年をさすかは誰にもわからないのだ
植物の同位体識別のデータもなく、試料単位の年代誤差の比較データもない
これでは炭素年代測定法の意味がない

年輪年代法での推定にしても、年輪年代法は飛鳥時代の時点で法隆寺や飛鳥寺の例から既に100年の誤差を生じてしまっているのは有名である
しかしこの狂った年代を指す年輪年代法を参考に新しく作られた土器編年は、100年古く出た数字をそのまま利用したり、矛盾を孕む場合はあっさり古材利用としてしまったりする
古材の利用と片付けてしまえば年輪年代法の意味がない
石塚古墳周濠のヒノキ板199年を100年新しくした場合4世紀頃となり、年輪年代法登場前の1970佐原案までさかのぼることになる

78日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:22:43.66
年輪年代法を元にした推定だって決めつける理由は?


?????

79日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:28:48.81
980 日本@名無史さん[] 2018/06/09(土) 01:59:35.22

>>979
>>1にどういう視点で分析するという
視点に関する見出しがない

いつはいいね、倭人伝の時代2世紀から3世紀
どこでもいいね、畿内特に纏向遺跡
何を?ここは不明瞭だ どうも前方後円墳と土器がそうらしいが、それ以外のようでもある。注目の分析対象を明言してないから要旨と書きつつ要点が記述されていない。
どのように???ここが欠落している

何をが不明瞭だから
だらしのない散文にしかなってないよ。
例えば、同定できるなんて文言は失格だよ。

以上終わり

983 日本@名無史さん[] 2018/06/09(土) 02:08:46.94

>>980
注目の分析対象を明言してない?

庄内併行期と明記されてる

990 日本@名無史さん[] 2018/06/09(土) 02:29:05.42

スレ主は5w1hもわからない小学生だった。なるほどね。

80日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:33:02.30
どういう視点で分析するって?

畿内説のテンプレなんだから畿内説を概説してるだけだろ
分析する論文じゃないんだから

81日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:45:11.35
>>77
>年輪年代法での推定にしても、年輪年代法は飛鳥時代の時点で法隆寺や飛鳥寺の例から既に100年の誤差を生じてしまっているのは有名である

年輪年代は名古屋大学の中塚教授の「樹木年輪セルロースの酸素同位体比」で追試可能。
恥をかくのは鷲崎。

82日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:56:03.81
九州説自体が極右によって創り出された虚構。

新井白石や本居宣長は、
大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という史実を、
国学者のプライドとして認めることが出来なかった。

だから「当て馬」として九州をあえて出した。

九州説なるものを創作し、馬鹿を集め、議論させる。
議論してるうちは大和朝廷や古代天皇の中国への朝貢という重い荷物を着地させずに済む。
永遠の水入り、永遠の中腰を狙ったのだ。

これは天才の発想だ。

しかし彼らはあの世で嘆いているであろう。
馬鹿(=九州説者)が増えすぎたと。

83日本@名無史さん2018/06/09(土) 09:02:55.30
   事代主
     ┣━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━┓
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主             孝昭
     ┃              ┃
    阿田賀田須        天足彦国押人命
                   ┃
                和邇日子押人命

ヒミコ、トヨをはじめ鴨(神)族の墓は奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある。
日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、魏志の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。

ヒミコの時代から1700年後、土蜘蛛の末裔たちが高天原の麓で声を上げる。

「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光あれ」
この地が水平社運動の原点となる。

ヒミコ=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の時代、土蜘蛛=奴婢を束ねた男がいた。
日向から来た神武である。

だから今でも水平社博物館と神武社が並んでいるのだ。
http://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/40_tn_61c33f808a.png

84日本@名無史さん2018/06/09(土) 09:05:47.92
>>79
>例えば、同定できるなんて文言は失格だよ。

なんで?
理由は?

??

85日本@名無史さん2018/06/09(土) 09:07:19.51
>>80
チェリーピッキングのお墨付きありがとうございました。

86日本@名無史さん2018/06/09(土) 09:12:02.34
理由がないのも>>85みたいに意味不明なのも
九州説の特徴だね

妥当性を保証する情報が何もなくって0点ってこと

87日本@名無史さん2018/06/09(土) 09:36:12.03
連句読点には知能ないんだろうな

88日本@名無史さん2018/06/09(土) 09:59:11.15
>一寸千里の千里は80kmが北緯35度付近の南北で成立するなら
一寸千里の千里は400kmも太陽が夏至の日に真上に来る
北緯22度付近で成立しそうな気はする 数字苦手だから計算はしないけど <

周地付近の北緯35度付近で、夏至正午の8尺棒の影長が1尺6寸であり、
大地がほぼ平面的であって、南へ千里行ったところでは、夏至正午の8尺棒の影長が1尺5寸になって、
南へ千里行けば影が一寸ずつ短くなるんだから、
1寸短縮を16回繰り返せば、夏至正午の8尺棒の影長の1尺6寸がの、0寸になって、
太陽がほぼ真上になってしまう事になる。
これは、地球では(北緯23.5度付近の北回帰線の話になるんであり、
洛陽付近から北回帰線までが1万6千里だ、という事であり、

地球では、ナポレオンが、
北緯0度の赤道からの北緯90度の北極への地表面の長さを一万kmと決めたので、
割り算すると1度≒111kmであり、
北緯35度から北緯23.5度は11.5度差であるから、
洛陽付近から北回帰線までが1276.5kmになり、

それが1万6千里だから、割り算して、1里は、79.8m位になり、
これからも、短里距離が求まる事になる。

89日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:01:26.74
>>912
>>>現代の数値に換算して魏の里は一里約430mと導きだされたということ<

>>同様に、魏志倭人伝の里は現代の数値に換算しておよそ100メートル未満となる。<

>計測のミスなのかも知れない<

この男の頭がクルっているから、かも知れない。

>魏で使われた度量衡が記されている律歴志と<

後代の学者の「自己解釈に拠る」律歴志は、
魏志などの「実際に実見計測した記録」よりも、信頼性が全く落ちる。

>基準のモノサシである正始弩尺から<

尺定規は、周代から魏代まで、殆ど変わっていない。

>換算された一里約430mの史料事実と異なるから<

周髀算経の一寸千里や魏志の記録では、1里は75〜80m。

90日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:02:26.07
>>914
>なら律歴志のようにそういう短里の体系が記された史料があれば一発で証明できる
陳寿は記録を出来る限り綿密に残すから
本当に短里があるなら魏志のどこかに体系がはっきり書いてあるだろう<

陳寿は、魏や西晋代の史官であったんだから、
当然、魏〜西晋朝が決めた度量衡を黙って使用するだけ。
勝手に、秦漢代の度量衡で書けば、当然採用されない事を知っているし、
場合に依っては、西晋朝に反抗している、と見られて、首も危なくなる。

91日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:03:07.53
>>919
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
まともな論理性のある書き込みが皆無だから、
からかう以前に相手にならないんだが。

92日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:06:27.42
>>924
>だから、想定していても、実験したら間違いだって分かるだろ?<

夏至正午の8尺棒の影長を、周地付近とその南北千里で測った、
という事実関係を証言しており、「間違いだ」とするなんらの証拠もない。

>大地が平面は誤りというのが、明確にされていない以上、
実際には測っていないと考える方が妥当 <

夏至正午の8尺棒の影長が0寸になる北回帰線付近までは、
ほぼ大地平面と出来る事も書かれている。

>実際に測っていないのであれば、周髀算経が実測可能だった証であり
里が短里だった証拠、というのは根底から論拠を失う<

実際に計測した事を記録しているんだから、
里が短里だった証拠、という論拠を失わない。

>ザラコクじゃない人が、いい加減なことを言ってるのを見ると
悲しくなるからやめてくれ<

wwが、いい加減なことを言ってるのを見ると、
東大の大学院や博士論文審査の教授らがどんなにアホであったのか?が判って、
可哀そうになるからやめてくれ。

93日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:07:34.08
>>929
>木っ端の報告よりも、古来からの科学である世界観の方が当然に優先されるよ
出所不明ではなく、山海経、淮南子等で永年練り上げられてきた世界観<

山海経にも短里記録があるし、淮南子の一寸千里の説明も短里。

>>しかも計算結果→會稽東治之東 <

>計算結果じゃなくて、世界の果てまでの観念距離=萬二千里に、数字の方を
合わせてるんだよ 、

それ×だったよ。
裸國黒歯國まで書かれているんだから、
世界の果てまで萬二千里だ、という事になっていない。

この男(ww)は、今、大和説がやっているのと同じこと。
結論は先にあって、それに合うように史料事実の否定曲解捏造を造作している。

94日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:08:40.61
>>937
>思い付きでゴメン 径百歩とか奴婢百人は 魏の使者は見ていないと思う
伝聞で倭人伝に記したと思う 卑弥呼の墓はもっと小規模のように思う<

「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」」は、
「大作冢」というような「形容」文言が入っているし、
「餘」という「概数」文言が入っているが、
伝聞なら、そのような文言にはならないのであり、
伝聞記録ではなく、実見記録なんだよ。

>畿内でも良いが<

畿内なんて存在もしていないんだから、キミも嘘つき騙しの×人間なんだよ。

>狗奴国と対峙してたのだから
そんな大規模な工事して、鉄の武器も無ければ、狗奴国が攻め込むチャンスでは
当然 狗奴国のスパイも邪馬台国に潜入していただろうし<

「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」と書かれているから、
戦闘は一旦収まっている。

95日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:09:38.94
>>938
>考古学は歴史ではない。考古学は考古学で、独立した学問である。
文献上記紀から始まる日本史からアプローチするのはいけない。
物証からアプローチすべき<

いや、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
文献も考古も、同じように根拠になる貴重なものであり、
それらの一部でも排除する論は、一種の偽学問や偽科学になってしまうのであり、
文献も「物証の一つ」であり、否定抹殺すべきではない。

おそらくこの男も、文献が大和説にとっては都合が悪いから、
否定抹殺してしまおう、とする嘘つき騙しの・・・・詐欺師。

96日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:22:34.69
>>945
>畿内には大から小まで古墳が揃ってる <

畿内なんてなかったの。

>そのどれかじゃないの<

唐会要に拠って、倭国は「正北抵新羅」だから九州であり、
大和は、宋書の「自昔・・・東征毛人55国」の中の一国であり、
旧唐書などに拠って、大和日本国は、倭國から別れて東征した別種の旧小国」であり、
古事記に拠って、大和は、倭国の地方の市を監督する大倭國の国であった事にしかならないの。

>まあ卑弥呼が実は斎王のような存在だったとしたら ワンチャン出雲に墓があるかもね<

幾ら仮定や分裂幻覚妄想のウソをしゃべっても、バツは×。

97日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:34:26.28
>>94
なんで大作(不明)の話ばかりしてるの?

98日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:46:09.68
>>97
ほかにネタがないから

99日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:50:07.17
>>94
「大作冢」大いに冢を作る
「徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」径百歩に奴婢百人を殉葬した。

100日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:02:48.04
>>951
>太陽が宇宙の彼方にないから、作図すれば「大地が平面」だから「影の長さに差ができる」<

順番が違うね。
洛陽付近と、その南北千里の位置で、夏至正午の8尺棒の影長を計測したら、
1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸、という計測値が得られ、
南北千里では、同じ1寸差であったから、大地は平面であるんだろう、と推定出来、

更に、南へ千里行けば8尺棒の影長が一寸短くなるんなら、
その千里南を16倍(萬二千里)行けば、夏至正午の太陽の影長が0寸になる、
つまり、太陽が真上になる場所(がある事が判って、
周知付近での8尺棒と1尺6寸の影の作る直角三角形と相似である事から、
太陽高が(8尺棒の8と同じである事になり)、8万里である、という計算が出来たんだよ。

101日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:08:14.56
>>953
>魏志倭人伝の行程なんぞ
当時使われていた魏の尺度に照らし合わせたら邪馬台国はパプアニューギニア<

魏志倭人伝の行程は、魏使らの実地の見聞や観察の記録が元。
当時使われていた魏の尺度(周髀算経の一寸千里の法の短里)に照らし合わせたら、
邪馬壹國女王之所都は、筑紫。

102日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:08:27.46
卑弥呼が死んでから径百余歩の墓を造ったなら、
その間、10年近くは殯をおこなってたという事になる。
実際にはすでに大きな塚が出来ており、その埋葬部を造っただけであろう。

高齢だった卑弥呼は自分の墓くらい考えていただろうし、
「徑百餘歩」「奴婢百人」は魏使の又聞きであり象徴的な伝聞だったのであろう。

103日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:12:17.91
>>956
>ほう 何という場所から何という場所で計測したんだ? 文献の引用宜しく<

周髀算経という文献に拠って、
周地付近と、その南北千里になる場所の3か所での、
夏至正午の8尺棒の影長を計測した。

104日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:20:36.95
>>960
>まあ実際一寸千里がどうであろうとも<

何だ?。
wwは、(後漢末期に再収集注釈がなされた)周髀算経や一寸千里が、
どうしても否定し切れなかったのかい?。

>魏の時代は律歴志<

その律歴志は、はるか後代の「自己解釈」の書であり、
魏使らや魏や郡役人らの実際の見聞記録の魏志などには比較にならない半分×書、

>正始弩尺によって一里約430mが史料事実だし<

尺寸法は、殆ど変わっていない。

>文帝の度量衡統一令によってそれ以外の尺度は存在しないという事になるんだけども<

文帝は、始皇帝の秦朝や漢朝の度量衡のままで良かったんなら、
即位の詔書で「同律度量」なんて書く必要がない。

105日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:25:13.59
>>961
>そもそも2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨまで続いた王権を
日本人が忘れているわけがない。<

8世紀の大和政権の記紀にも風土記にも「卑弥呼」という呼称を一切使わず、
隠蔽しようとしていた。

106日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:27:58.93
>>962
>邪馬台国は大和国、初期の大和朝廷だな 邪馬台国大和説が普通だな<

邪馬台国も大和朝廷も存在しなかったし、
「南≠東」などに拠って、大和説は×。

107日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:32:51.15
>>963
>違う違う どこそこの地からどこそこの地で計測したら八尺の棒の影長が一寸違ったと
現在でも確認できる記述が欲しいわけ
ただ北と南で棒の影長がそれぞれ一寸違ったとあっても
それが正しいか確認できなければこっちもどうしようもない<

違う違う。
不可知部分への挙証を要求する事自体が、インチキ・・・・詐欺師。
我々は、知り得た情報を史料批判して、
それからの確率の高い帰納的な推論をするしかない。

108日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:36:40.23
>>967
>文献に書いてあることが全部本当なわけないじゃん<

不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得た資料の信頼性を資料批判して、
それからの確率の高い帰納的推論をするしかないじゃん。

109日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:38:12.20
>>968
>だから周髀算経のどこに
何々という所から何々という所で棒の影の長さを測ったと出てくるんだ?
それがわからなきゃ一寸千里の法が正しいか間違ってるか確かめられないんだよ<

上方の存在しない不可知部分。

110日本@名無史さん2018/06/09(土) 11:57:14.10
>>973
>計算したらちょうどそうなったという意味
そもそも會稽東冶之東に倭人がいたという伝承はどこにあるの?<

「會稽東冶之東」ではないよ。「會稽東治之東」だよ。

>世界の果てが萬二千里ならなぜ東千里、南四千里、船行一年なんていう情報がある?
観念距離萬二千里なら、里数と日程も引き延ばしたで問題ある?<

魏志は、観念距離で書いてもいないし、「里数と日程を引き延ばして」もいない。

111日本@名無史さん2018/06/09(土) 12:00:39.76
>>975
>昔は朝鮮半島を400里四方としていたのに
ある時に4000里四方になってて
そこから倭人伝は単純に10倍されたのではと言われてるね、<

1里の距離尺度が、違ったから。

112日本@名無史さん2018/06/09(土) 12:14:15.20
>>105
>8世紀の大和政権の記紀にも風土記にも「卑弥呼」という呼称を一切使わず、
隠蔽しようとしていた

いやいるよ。
媛蹈鞴五十鈴媛命。

でもこれじゃ分からない。

ヒメ(踏鞴五十鈴)媛。

113日本@名無史さん2018/06/09(土) 12:16:04.94
>>983
>注目の分析対象を明言してない? 庄内併行期と明記されてる<

箸墓は、布留であって、庄内ではないから、
庄内併行期にはならないよ。

114日本@名無史さん2018/06/09(土) 12:21:12.94
>>994
結局のところ、この阿呆さんも、
「スレ主は南→東などの嘘つき騙しから逃げたから評価0だ」
という事を、
否定する根拠は出せなかったんだよねする。

115日本@名無史さん2018/06/09(土) 12:22:36.84
姫命 日女命

こんな記述じゃすぐにばれる。
かといって全然違う名前に変えるわけにはいかない、祖先への冒とくになる。

だから加筆したわけだ。
「ヒメ」に出雲族の象徴・踏鞴と妹と同じ五十鈴を加えた。

そして媛蹈鞴五十鈴媛命となった。
そして神武東征紀をやたら強調し、女王国であった史実を隠した。

116日本@名無史さん2018/06/09(土) 12:43:16.80
大和王権が安定して以降の地名は比較的後世にも残る地名が多いです。
しかし、『魏志倭人伝』に書かれた地名はあまりにも
現代に比定するのが困難なものが大半を占めています。

つまり、邪馬台国連合から大和王権の間には大きな断絶があった
証拠だと言えるのです。
邪馬台国連合がそのまま大和王権にスライドしたのであれば、
『魏志倭人伝』の地名がもっと後世に伝わっていてもおかしくありません。
やはり、『記紀』神話通り、九州の邪馬台国連合勢力の一部が
東征して大和王権ができ、そこから全国支配を進めていった
と考えるべきでしょう。

117日本@名無史さん2018/06/09(土) 13:37:51.73
>>116
>現代に比定するのが困難なものが大半を占めています。

對馬國    対馬
一大國(一支)壱岐
末慮國    松浦
伊都國    糸島(怡土)
奴國     那珂(儺県)
投馬國    出雲
邪馬台國   大和
斯馬國    志摩(伊勢志摩)
已百支國   伊吹
伊邪國    伊賀
都支國    多藝
彌奴國    美濃

くらいまではいけると思うけど

118日本@名無史さん2018/06/09(土) 13:43:14.19
>>81
追試したの?
追試したのならその結果ある?

119日本@名無史さん2018/06/09(土) 14:29:47.05
2つの機関が別々に調査した
結果は公表されてる

120日本@名無史さん2018/06/09(土) 14:50:35.62
>>119
どこで公表されてるの?

121日本@名無史さん2018/06/09(土) 14:59:19.04
新聞くらい読むといいよ

122日本@名無史さん2018/06/09(土) 15:10:17.77
>>121
なんだ言えないのか
ざっとだけど検索したが追試結果なんかどこにもなかった
まーた出任せの嘘か

123日本@名無史さん2018/06/09(土) 15:28:57.65
勉強する気ゼロだから九州説なんてトンデモになるんだな
新聞すら読まないなんて


そうやって世間から取り残されて行く老人か・・・
あまりにもみじめだな
新聞を読め
書いてあるから

124日本@名無史さん2018/06/09(土) 15:34:57.14
鉄器ゼロ

125日本@名無史さん2018/06/09(土) 15:38:51.66
>>124も証拠なし

九州説はいつも妥当性を担保する情報なしの

      0点教


w

126日本@名無史さん2018/06/09(土) 15:42:51.69
金属器ゼロ・・・おっと、銅鐸片が見つかっていたな、、失敬

127日本@名無史さん2018/06/09(土) 15:49:10.26
>>123
もはや昔の新聞なんか手に入れるの困難なんだからいじわるしないで提示してくれよ
新聞に論文が掲載されてるわけじゃないんだから、どこどこの研究機関が発表したって書いてあるだけだろ?
その研究期間を教えてくれよ
え?もしかして出任せの嘘だったの?

128日本@名無史さん2018/06/09(土) 16:17:49.77
中村俊夫・名大
近藤・徳島県教委

129日本@名無史さん2018/06/09(土) 17:42:40.51
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

130日本@名無史さん2018/06/09(土) 17:43:11.72
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

131日本@名無史さん2018/06/09(土) 17:55:06.38
>>67
そうやって「南→東」などの嘘つき騙しの指摘に反論出来ずに知らん振りし、
倭国は「正北抵新羅」「である事や、
倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國」や「大和は、倭奴國から別れた別種の旧小国」に知らん振りし、
「邪馬台国」や「畿内」や「朝廷」や「天皇」などの、
存在もしなかった文言を使ったままだから、
大和説は負けるだけ。

132日本@名無史さん2018/06/09(土) 17:56:50.48
>>68
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
反論できなきゃ、ボヤけばボヤくほど惨めなだけだろう。

133日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:01:26.25
嘘だって証拠は?

134日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:13:26.80
そりゃ一大率で日本海を見てた事になる

135日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:17:55.10
伊都で日本海を監視したの?
対馬海峡を監視したと思うだけど。
そして女王国以北を支配したとも書かれているなら、女王国は伊都国の周りだろ。

136日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:21:57.12
書かれてないから関係ないな

137日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:24:57.03
>>70
>高天原(御所市高天)だ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。<

「南≠東」などに拠って、×だ。

138日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:28:27.60
>>71
>倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<

倭国大乱も大和朝廷もなかったから、×だ。

139日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:30:46.81
>>72
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。<

記紀は、倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分×書であり、
畿内も大和朝廷もなかったから、×だ。

140日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:32:40.88
>>73
>邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。<

邪馬台国も大和朝廷もなかったから、×だ。

141日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:39:38.53
畿内も邪馬台国も大和朝廷もなかったって
壊れたボイスレコーダーみたいに
言い張り続けてるけど
理由は?

142日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:42:05.89
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM

143日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:47:54.24
>>81
>年輪年代は名古屋大学の中塚教授の「樹木年輪セルロースの酸素同位体比」で追試可能。
恥をかくのは鷲崎<

これは、古田史学スレで議論して、
極地のサンプルでの酸素同位体比が、列島でので多様な樹木年輪との一定の相関が得られない、
という事で、議論相手の説明を否定してしまって、議論相手が出て来なくなり、
古田史学スレも、無くなってしまった、
という事があったな。
要するに、年輪年代の欠陥と同じような欠陥を持っていたものだった。

144日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:53:45.19
>>82
>九州説自体が極右によって創り出された虚構<

大和説自体が、「倭国の存在や歴史」を否定盗用造作し、
「天地開闢以来、大和天皇家が列島を一元支配したもうた」
という「皇国史観の極右の思想」そのものであり、
それによって創り出された虚構。

145日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:58:05.57
根拠なし

146日本@名無史さん2018/06/09(土) 19:00:38.77
>>113
無学だな

147日本@名無史さん2018/06/09(土) 19:01:35.12
>>86
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし、
それの指摘に対する反論を出来ずに、
逃げ回ったり、反論理由が言えなかったり、
意味不明な「口先での言葉尻へのヘイトスピーチ街宣」になるのも
大和説者の特徴だね。

妥当性を保証する情報が何もなくって0点ってこと

148日本@名無史さん2018/06/09(土) 19:02:27.07
>>143
>これは、古田史学スレで議論して、
極地のサンプルでの酸素同位体比が、
列島でので多様な樹木年輪との一定の相関が得られない、
という事で、


何を言ってるのだ。
樹木の種類に関係なく酸素同位体比は判明している。
中塚教授は2000年前のサンプル迄作っている。


>議論相手の説明を否定してしまって、議論相手が出て来なくなり、
古田史学スレも、無くなってしまった、
という事があったな。
要するに、年輪年代の欠陥と同じような欠陥を持っていたものだった。


中塚教授の研究に欠陥などない。
お前の脳みそと毛根が欠陥だ。

149日本@名無史さん2018/06/09(土) 19:10:32.16
>>100の訂正
洛陽付近と、その南北千里の位置で、夏至正午の8尺棒の影長を計測したら、
1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸、という計測値が得られ、
南北千里では、同じ1寸差であったから、大地は平面であるんだろう、という事になり、

更に、南へ千里行けば8尺棒の影長が一寸短くなるんなら、
その千里南を16倍(萬六千里)行けば、夏至正午の太陽の影長が0寸になる、
つまり、太陽が真上になる場所(がある事が判って、
周知付近での8尺棒と1尺6寸の影の作る直角三角形と相似である事から、
太陽高が(8尺棒の8と同じである事になり)、8万里である、という計算が出来たんだよ。

150日本@名無史さん2018/06/09(土) 19:22:00.46
>>118
難波宮造営期 歴史学に画期的な進展も 地球研・中塚教授の「酸素同位体比法」
https://www.sankei.com/west/news/140224/wst1402240010-n1.html


中塚教授は、この十数年で酸素同位体の分析装置やセルロース抽出法の開発が進んだことに着目し、この方法を開発。
年代が判明している木材を酸素同位体比で確認したところ、年輪年代法の結果とも一致したという。


九州説のド阿保君たちはいい加減あきらめるのがよろしいw

151日本@名無史さん2018/06/09(土) 19:35:30.05
>>149
>洛陽付近と、その南北千里の位置で、夏至正午の8尺棒の影長を計測したら、
>1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸、という計測値が得られ、

そんな歴史的事実は無いんだよね

152日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:15:42.19
>>102
>卑弥呼が死んでから径百余歩の墓を造ったなら、
その間、10年近くは殯をおこなってたという事になる。
実際にはすでに大きな塚が出来ており、その埋葬部を造っただけであろう。<

この男も、・・・・大和説者か?。
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」
という時系列的に書かれている。

>高齢だった卑弥呼は自分の墓くらい考えていただろうし、<

そんな風には書かれていない。

>「徑百餘歩」「奴婢百人」は魏使の又聞きであり象徴的な伝聞だったのであろう。<

又聞きや伝聞では、「餘」というような曖昧な概数表現は起きないし、
「里」も知らない倭人が「歩」を知る訳もない。

153日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:18:28.86
>>109の訂正
>だから周髀算経のどこに
何々という所から何々という所で棒の影の長さを測ったと出てくるんだ?
それがわからなきゃ一寸千里の法が正しいか間違ってるか確かめられないんだよ<

情報の存在しない不可知な部分。

154日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:22:20.91
>>113
>>8世紀の大和政権の記紀にも風土記にも「卑弥呼」という呼称を一切使わず、
隠蔽しようとしていた <

>いやいるよ。 媛蹈鞴五十鈴媛命。 でもこれじゃ分からない。 ヒメ(踏鞴五十鈴)媛。<

文字も音韻も時期も、
「南≠東」で場所も違うから、×。

155日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:29:31.43
>>153
なら短里は情報の存在しない不可知な単位だ

156日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:29:52.68
>>115
>姫命 日女命 こんな記述じゃすぐにばれる。
かといって全然違う名前に変えるわけにはいかない、祖先への冒とくになる。<

文字も音韻も意味も時期も場所も全く違えば、別人。

>だから加筆したわけだ。
「ヒメ」に出雲族の象徴・踏鞴と妹と同じ五十鈴を加えた。
そして媛蹈鞴五十鈴媛命となった。<

加筆しなければならなかったんなら、ますます、別人。

>そして神武東征紀をやたら強調し、女王国であった史実を隠した。<

記紀に拠れば、
大和国葛城高丘宮に宮を置いたのは、綏靖。

157日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:40:56.50
>>155
存在するかどうかも含めて不可知ね


・・・短里・・・

158日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:43:03.53
>>116
>やはり、『記紀』神話通り、九州の邪馬台国連合勢力の一部が
東征して大和王権ができ、そこから全国支配を進めていった
と考えるべきでしょう。<

旧唐書と唐会要と新唐書は、いずれも倭國と日本国とを書き分けており、
唐会要倭国伝は、「倭國は正北抵新羅」と書いているから倭国は九州であり、
旧唐書や唐会要は、日本国は倭國から別れた別種の旧小国であった、、と記載し、
旧唐書も、白村江で戦った相手を「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と説明していて、日本國とは書いておらず、

だから、大和日本国が九州倭国を併合吸収継承したのは、白村江の後。

159日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:43:11.16
いや不価値だろう

160日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:44:13.33
いや、無価値だな

161日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:46:41.60
>>158
>唐会要倭国伝は、「倭國は正北抵新羅」と書いているから倭国は九州であり、

平安貴族が使者だと書いてるから
倭国=日本で都は京都だよ

162日本@名無史さん2018/06/09(土) 20:52:38.13
>>117
>對馬國    対馬
一大國(一支)壱岐
末慮國    松浦
伊都國    糸島(怡土)
奴國     那珂(儺県)
投馬國    出雲
邪馬台國   大和
斯馬國    志摩(伊勢志摩)
已百支國   伊吹
伊邪國    伊賀
都支國    多藝
彌奴國    美濃 くらいまではいけると思うけど <

魏志倭人伝は、
「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と、「其餘旁國遠絶、不可得詳」とを、
完全に書き分けており、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、「倭國は九州であった」事が確定であり、
従って、「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は、関門海峡や豊予海峡を渡った事が確実であり、
だから、其餘旁國群も九州にあった、という事になる。

163日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:01:55.59
>>119
>(樹木年輪セルロースの酸素同位体比)
2つの機関が別々に調査した結果は公表されてる<

極地の氷ならいざ知らず、
温帯の気象変化の激しい山岳地域の樹木の年輪酸素同位体比では、
その樹木の酸素取り込み程度が千差万別であり、
「気象変化の激しい山岳地域の樹木」という年輪年代法の持つ基本的な欠陥、
という事と同じく、
絶対的な根拠には、全くならない。

164日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:04:04.55
>>149

>南北千里では、同じ1寸差であったから、大地は平面であるんだろう、という事になり、

大地が平面であるなら、垂直の棒をどこに立てても
平行な棒に平行な太陽光線が当たるから
棒の影の長さは同じ

165日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:10:55.98
>>123
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「文部省や右翼マスコミ」に迎合する事しか出来ない・・・・アホで、
学会教育界の教えだけしか勉強する気しかないから、
大和説なんて、トンデモになるんだな。

おそらく右翼新聞しか読まない、なんて事だから、
国民の7割に否定されてしまう事になった。


そうやって世間から取り残されて行く老人か・・・
あまりにもみじめだな
新聞を読め
書いてあるから

166日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:13:39.64
>>125
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
いつも妥当性を担保する情報なしの0点教 w。

167日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:13:45.61
>>163
九州説は反科学

168日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:19:58.02
そもそもザラコクよ
何か色々新発見があって万が一邪馬台国が本当に九州だったとしても
お前がたびたび言及している皇国史観にはたぶん何の影響もないぞ?
誰かが皇国史観で天皇の権威を高めようと企んだら
邪馬台国が畿内だろうが九州だろうがその当時から天皇は日本を支配していたと言うだけだし
次の四世紀には畿内で大和政権が確立していたし
そんなに皇国史観が憎いなら他にやる事あるんじゃないの?

169日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:21:15.08
>>128
>中村俊夫・名大  近藤・徳島県教委」<

「古田史学」スレで議論した相手も、「中村」の名前を出していたように思うな。

170日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:22:30.54
そりゃ出すだとう

171日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:22:31.46
>>141
>畿内も邪馬台国も大和朝廷もなかったって 壊れたボイスレコーダーみたいに
言い張り続けてるけど 理由は?<

史料事実のどこにもないからだよ。

172日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:24:18.45
ないって証拠は?

173日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:31:26.34
>>142
朝鮮半島では、日本から、悪いひとたちがやって来てみんなを殺した
理由なんて簡単さ そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され 老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に 家を建てて子供を生んだ
そして街ができ 悪いひとたちの子孫は増え続けたらしい。

日本の国内でも、
政府や警察や右翼の宣伝に乗せられた「人種差別的殺戮狂の・・・・右翼」人種が、
関東大震災で朝鮮人1万人を大虐殺したらしい。

174日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:32:06.36
畿内は律令国家国家の成立以降だから時代に合わないからしゃーない。

175日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:38:31.03
日本書紀に中国と大和王権が国交を持ったのは遣唐使からだと明記されてるんだから
邪馬台国が大和王権と関係ないのは明白。

176日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:38:47.25
朝鮮人がどうとかはハングル板で

177日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:43:16.87
>>148
>これは、古田史学スレで議論して、
極地のサンプルでの酸素同位体比が、列島でので多様な樹木年輪との一定の相関が得られない、
という事で、<

>何を言ってるのだ。 樹木の種類に関係なく酸素同位体比は判明している。
中塚教授は2000年前のサンプル迄作っている<

中塚は知らんが、
中村とかは、南極の氷層での酸素同位体比を基準に使っていたなあ。
しかし、例えば、酸素は空気中にも海水にも存在し、
列島のような山岳地域では、海水は殆ど存在すらしていないではないか。

178日本@名無史さん2018/06/09(土) 21:47:52.82
>>148
>>議論相手の説明を否定してしまって、議論相手が出て来なくなり、
古田史学スレも、無くなってしまった、 という事があったな。
要するに、年輪年代の欠陥と同じような欠陥を持っていたものだった。<

>中塚教授の研究に欠陥などない。お前の脳みそと毛根が欠陥だ。<

中村だったか?、中塚だったか?も、関心もななかったからよく覚えていないから、
その中塚とかの研究方法を説明してみな。

179日本@名無史さん2018/06/09(土) 22:01:23.31
>>150
なんで一向に追試した論文を出さないんだ?
飛鳥時代以前のヒノキの年代を追試した結果だよ
ないのか?

180日本@名無史さん2018/06/09(土) 22:11:06.99
>>150
>難波宮造営期 歴史学に画期的な進展も 地球研・中塚教授の「酸素同位体比法」<

この新聞は、キョクウの産経だな。
朝日か毎日の方が少しはましだろうから、探して来な。

>中塚教授は、
この十数年で酸素同位体の分析装置やセルロース抽出法の開発が進んだことに着目し、
この方法を開発。
年代が判明している木材を酸素同位体比で確認したところ、年輪年代法の結果とも一致したという。<

これじゃダメだ。
「年代が判明している木材」というものとは何か?を書いてくれなくっちゃ、
何の価値もない。
また、中村氏?のような「極の氷層」ではなく、
列島内樹木を使ったんなら、
海水に近いか遠いか?や、
酸素同位体の重量差で、樹木に取り込まれる割合が変化したりし、
やはり、基準木そのものが、不安定なものになってしまう。

>九州説のド阿保君たちはいい加減あきらめるのがよろしいw<

中塚も、何時までも「南→東」などの嘘つき騙しの大和説を当てにないで、
ド阿保の大和説学者や君たち嘘つき騙しの大和説者も、
いい加減あきらめるのがよろしい。

181日本@名無史さん2018/06/09(土) 22:24:32.21
つまり畿内説は何も根拠がない妄想なんだよ

182日本@名無史さん2018/06/09(土) 22:34:11.13
>>180


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えサキジジイ! 

183日本@名無史さん2018/06/09(土) 23:00:03.78
>>178

>中村だったか?、中塚だったか?も、関心もななかったからよく覚えていないから、
その中塚とかの研究方法を説明してみな。

名前もよく覚えてないのに、又どんな研究かも知らないのに批判だけはしていたのか。
失せろ、このエタじじい。

184日本@名無史さん2018/06/09(土) 23:02:52.13
>>180
>酸素同位体の重量差で、樹木に取り込まれる割合が変化したりし、
やはり、基準木そのものが、不安定なものになってしまう。

ならないんだよ、適当な付け焼刃の思い付き反論は惨めなだけだよ、エタじじい。

185日本@名無史さん2018/06/09(土) 23:04:51.29
>>179

普通に光谷の年代と合致してるからだろう。

186日本@名無史さん2018/06/09(土) 23:14:07.08
どちらも建物の造られた年代じゃなくて材木の育った年代しか分からんのよね。

187日本@名無史さん2018/06/09(土) 23:29:18.05
材木の育った年代調べても意味ないんだけどね。

188日本@名無史さん2018/06/09(土) 23:33:29.30
>>173とか見ると、ザラコクさんはやっぱり「特定」思想を
信奉してるから書き込みしてるんだなぁ、としか思わんww

189日本@名無史さん2018/06/10(日) 00:34:31.16
酸素同位体比を使った年輪年代法は広葉樹にも使えるから
遺跡全体の年代を決定することができるな

190日本@名無史さん2018/06/10(日) 00:50:03.35
水月湖年縞による較正曲線が早く使えるようになるといいんだけどな

191日本@名無史さん2018/06/10(日) 04:35:15.21
>>183
邪馬台国を論ずる前に
人間を磨いたほうが良い
     私は被差別部落出身の者で畿内説です

192日本@名無史さん2018/06/10(日) 04:51:41.74
部落差別はブラックな感情

193日本@名無史さん2018/06/10(日) 05:01:32.93
>>162
学者の語呂合わせに過ぎないと思う・・根拠が無さすぎる

下記も説としてある
・斯馬国 (しま) ・・・ 志摩/しま(三重県)
・巳百支国 (みわき) ・・・ 御牧/みまき(旧御牧藩、京都府久世郡)
・伊邪国 (いや) ・・・ 伊勢/いせ(三重県)
・都支国 (とき) ・・・ 土岐/とき(岐阜県)
・弥奴国 (みな) ・・・ 美濃/みの(岐阜県)
・好古都国 (こうこと) ・・・ 各務原/かがみはら(岐阜県)
・不呼国 (ふこ)
・姐奴国 (そな)
・対蘇国 (つそ) ・・・ とそ(※とそ=酒、京都市伏見区)
・蘇奴国 (そな)
・呼邑国 (こお) ・・・ 甲賀/こうか(滋賀県)
・華奴蘇奴国 (かなそな)
・鬼国 (き)
・為吾国 (いご) ・・・ 伊賀/いが(三重県)
・鬼奴国 (きな)
・邪馬国 (やま)
・躬臣国 (くし)
・巴利国 (はり) ・・・ 名張/なばり(三重県)
・支惟国 (きい) ・・・ 紀伊/きい(旧紀伊郡、京都市南区)
※和歌山が「紀伊国」になったのは紀氏が開拓してから
・烏奴国 (うな) ・・・ 宇陀/うだ(奈良県)

194日本@名無史さん2018/06/10(日) 05:09:25.94
>>192

貴賤の令や五色の賤・・・・ 参照
近畿は東征による被支配者とみる説もある

195日本@名無史さん2018/06/10(日) 05:20:48.06
泡沫俗説だけどね

196日本@名無史さん2018/06/10(日) 05:48:07.85
邸閣有り

197日本@名無史さん2018/06/10(日) 05:58:58.05
「邸閣」は戦いに備えるという意味からは、上の『三国志』の例と同様「城塞」や「烽候」(ノロシと斥候)
あるいは「水城」などと同時期に構築されたという可能性もある。
そうであれば「邪馬壹国」の内外に「城塞」や「烽候」があったということにもなるが、
それがいわゆる「神籠石」遺跡として現在確認されているものという可能性もある。
 「神籠石」遺跡の中には、出土遺物として「卑弥呼」の時代に遡るものもあることが確認されているから、
これが「狗奴国」との戦いに備えたものであるという可能性が考えられ、至近に「邸閣」があったことを示唆するものである。

「邸閣」は東夷伝の十ヵ所において「軍用倉庫」の意で用いられている
纒向は戦闘能力を持たない集落と理解できるが王都ではないであろう。無防備すぎる。 

198日本@名無史さん2018/06/10(日) 06:17:37.11
>>197
>纒向は戦闘能力を持たない集落と理解できるが

集落跡もないのに?

199日本@名無史さん2018/06/10(日) 06:19:01.99
誰か教えて
纒向の大型建物は
床をつくる高床建物?
床はつくらず土間とする平地式建物?

200日本@名無史さん2018/06/10(日) 06:24:00.37
>>198
同意

纒向は年代不詳の
斎場兼市場 周辺は墓地

201日本@名無史さん2018/06/10(日) 06:27:05.49
定住していない芸能人や手工業者が賤民で
どちらも主に大陸からの輸入技術
差別は東国の武家政権になってから徐々に確立した

202日本@名無史さん2018/06/10(日) 06:27:26.68
>>199
掘立柱建物

203日本@名無史さん2018/06/10(日) 06:48:27.34
>>199
纒向は高床式じゃねーの
奈良では湿気対策もかね高床式でなきゃ

204日本@名無史さん2018/06/10(日) 07:26:18.94
>>194
>近畿は東征による被支配者とみる説もある

説もあるというか、戦前までは千数百年に渡り常識だったのだが。

205日本@名無史さん2018/06/10(日) 07:32:12.33
今はもう誰も信じてないけどね

206日本@名無史さん2018/06/10(日) 07:36:33.53
戦前生まれ東遷説

207日本@名無史さん2018/06/10(日) 07:44:01.59
東遷ではなく東征だけどね。

208日本@名無史さん2018/06/10(日) 08:00:26.03
戦前にあったのは東遷説だな
今はないが

209日本@名無史さん2018/06/10(日) 08:16:42.71
>>208
神武東征だよ。
東遷じゃない。
変なところで記紀もマメなんだよ。

210日本@名無史さん2018/06/10(日) 08:27:57.29
それは説じゃなくて神話だな

211日本@名無史さん2018/06/10(日) 08:33:10.15
年代詐欺をしただけなんだよ。
だから考古学的証拠と合わせると矛盾してしまうので否定されたが、実は神武が2〜3世紀なんだよ。

212日本@名無史さん2018/06/10(日) 08:34:08.96
>>209
>神武東征だよ。

倭国(阿波)国内での東征(阿波市→鳴門市)だね。


>東遷じゃない。

東遷は8世紀に倭国(阿波)から奈良へ。  @阿波

213日本@名無史さん2018/06/10(日) 09:07:21.01
銅鐸が消えた時点からガラッと様相変わるからそれが東征だろ

214日本@名無史さん2018/06/10(日) 09:26:28.97
神武は複数人の業績の寄せ集めである。
記紀の神武即位紀元前660年に奈良の磐余には何もなかった。

奈良盆地での人の活動はせいぜい紀元前3世紀からで、そこで奈良盆地の入植者としての神武は天村雲である。

熊野から奈良盆地に入ったのはウマシマジである。椎根津彦の計略によって攻略された奈良は
どういうわけか神武が指揮しているように錯覚するが、正しく錯覚であって
即位して前大夫になったのはウマシマジである。
これが2世紀

瀬戸内を東に生駒山脈を越えてきた神武は崇神代に活躍した垂仁である。これが3世紀。
魏志倭人伝の時代はここ。

215日本@名無史さん2018/06/10(日) 09:59:37.57
>奈良盆地での人の活動はせいぜい紀元前3世紀からで

んなこたぁない

216日本@名無史さん2018/06/10(日) 10:15:17.02
>>214
人物名に疑義があるが、要するに畿内の本格的な開拓は3世紀からで、当然その時点ではフロンティアだから王都ではない。
卑弥呼がいたのは九州。

217日本@名無史さん2018/06/10(日) 10:50:45.28
>>151
>>洛陽付近と、その南北千里の位置で、夏至正午の8尺棒の影長を計測したら、
>1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸、という計測値が得られ、<

>そんな歴史的事実は無いんだよね<

計測したのではなければ、
「1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸」とかの、
有効数字2桁の計測値など、得られないよ。

想像したんなら、有効数字1桁程度が精一杯なものだ。

218日本@名無史さん2018/06/10(日) 10:55:43.37
>>155
>なら短里は情報の存在しない不可知な単位だ<

「洛陽付近と、その南北千里の位置で、夏至正午の8尺棒の影長を計測したら、
1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸、という計測値が得られた」
という情報が意味する「1里距離」だ。

219日本@名無史さん2018/06/10(日) 10:58:06.51
スレ主へ
纒向に詳しいようだが 大型建物の柱の石床はいくつ発見されているの?

220日本@名無史さん2018/06/10(日) 10:59:55.09
>>157
>存在するかどうかも含めて不可知ね ・・・短里・・・<

周髀算経などの「洛陽付近と、その南北千里の位置で、夏至正午の8尺棒の影長を計測したら、
1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸、という計測値が得られた」
という情報が意味する「1里距離」であり、
魏志や江表伝などに書かれた「里」記載の情報が意味する「一里距離」だ。

221日本@名無史さん2018/06/10(日) 11:03:45.53
>>160
>いや不価値だろう
>いや、無価値だな<

周髀算経や魏志や江表伝で使われている「一里距離」だから、
史料実態そのものであり、
有価値だろう。

222日本@名無史さん2018/06/10(日) 11:09:39.07
>>161
>>唐会要倭国伝は、「倭國は正北抵新羅」と書いているから倭国は九州であり、<

>平安貴族が使者だと書いてるから 倭国=日本で都は京都だよ <

唐会要は、倭国伝と日本国伝とを、はっきり違う場所に書いて書き分けており、
その貴族(薜原朝常嗣)は唐に対しては、倭国使を名乗った事になるから、
薜原朝常嗣は、九州の倭国の使節だ、と思っていた、という事になる。

223日本@名無史さん2018/06/10(日) 11:18:36.53
>>164
>>南北千里では、同じ1寸差であったから、
大地は平面であるんだろう、という事になり、<

>大地が平面であるなら、<

逆。大地が平面と見られる地域内で、計測した。

>垂直の棒をどこに立てても 平行な棒に平行な太陽光線が当たるから
棒の影の長さは同じ<

これも×。
周髀算経の人々は、
夏至正午の太陽光は、(平行光線ではなく)、
「ほぼ10万里はなれた点光源だ」、
と受け止めている。

224日本@名無史さん2018/06/10(日) 11:26:00.49
>>167
九州説は、史料事実や、史料批判された史料実態からの、帰納的確率的推論であるから、
学問的であり、科学的。

大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解のように、
「大和天皇家一元列島支配」という結論先にありきの、思想宗教的な循環論法なのであり、
非科学的であり、非学問的。
「都合が悪い史料事実」を否定曲解する嘘つき騙し

225日本@名無史さん2018/06/10(日) 11:36:05.97
>>223

>周髀算経の人々は、夏至正午の太陽光は、(平行光線ではなく)、
>「ほぼ10万里はなれた点光源だ」、と受け止めている。

実際は太陽光線はほぼ平行だから間違い
机上のモデルで実測値ではない

「現代の我々の知識からすれば何とも幼稚極まりないし、その方法の誤りも明らかであるが、
ともかく、古代の中国人は、この一寸千里の法により
天地の大きさを具体的に知ろうとしたのである。」 谷本茂

226日本@名無史さん2018/06/10(日) 11:43:22.87
>>168
>そもそもザラコクよ 何か色々新発見があって万が一邪馬台国が本当に九州だったとしても
お前がたびたび言及している皇国史観にはたぶん何の影響もないぞ?<

ダメだ。
大和説者が、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしてまでして、
大和説を主張し、守ろうとするのは、
明治憲法の「万世一系の天皇家」や「八紘一宇」思想に頭が犯されているからだ。

>誰かが皇国史観で天皇の権威を高めようと企んだら
邪馬台国が畿内だろうが九州だろうがその当時から天皇は日本を支配していたと言うだけだし<

ダメだ。
大和は、倭国から別れた別種の旧小国であったのであり、
日本を支配していたのではなかったのだ。

>次の四世紀には畿内で大和政権が確立していたし <

大和に政権が出来たのは、神武東征の頃であり、
朝廷になったのは、8世紀からだ。

>そんなに皇国史観が憎いなら他にやる事あるんじゃないの?<

大和説者の皇国史観国家主義が、
先の戦争で、東アジアで二千万人位もの死者を作ったのだよ。

227日本@名無史さん2018/06/10(日) 11:46:04.26
>>171
>>>畿内も邪馬台国も大和朝廷もなかったって 壊れたボイスレコーダーみたいに
言い張り続けてるけど 理由は?<

>>史料事実のどこにもないからだよ。<

>ないって証拠は?<

ある、っていうなら証拠を出してみな。

228日本@名無史さん2018/06/10(日) 11:49:05.88
>>217
>「1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸」とかの、
>有効数字2桁の計測値など、得られないよ。

1寸も千里も有効数字1桁でいかにも作った数字だよね!ww

229日本@名無史さん2018/06/10(日) 12:04:06.67
>>185
>普通に光谷の年代と合致してるからだろう。<

欧米の大平原の森林のように、同じ気候地域内の年輪同士の比較をするんならまだしも、
日本のような場所場所に拠っての、気候差の大きい地域内では、
稀に気候が全く同じ木材があったとしても、
普通は全く合わないものばかりになってしまう筈。

230日本@名無史さん2018/06/10(日) 12:06:16.81
纒向の外来系土器の東限はどの辺りなんだろう

箱根くらいまでなのかな

231日本@名無史さん2018/06/10(日) 12:08:31.90
>>188
wwやこの掲示板の大和説者らの投稿を見ると、
やっぱり、人種差別的皇国史観の国家国粋主義の戦争キョクウ、
という「特定」思想を信奉してるから、
書き込みしてるんだなぁ、としか思えないわww。

232日本@名無史さん2018/06/10(日) 12:12:51.92
大和説者なんて、いないよ

233日本@名無史さん2018/06/10(日) 12:55:52.45
畿内説スレの議論を妨害するという
ザラコクの第一義の目的が達成されてしまっているのが腹立たしい

でも、あまりにもバカなことを書かれるものだから
どうしても否定してしまう

無視しきれないのが口惜しいww

234日本@名無史さん2018/06/10(日) 13:25:40.81
いくら否定しても引き下がらないからな
それで辻褄合わせようとますます変な事を言い出す

235日本@名無史さん2018/06/10(日) 13:44:15.45
>>233
ザラコク氏もちゃんと一問一答しているが、それだけにバカな論議に巻き込まれているなと思うよ。

236日本@名無史さん2018/06/10(日) 14:08:23.24
いや、問うことはないだろ

237日本@名無史さん2018/06/10(日) 15:28:13.03
変な教義を連呼するだけ

238日本@名無史さん2018/06/10(日) 15:37:11.18
中大兄 近江宮御宇天皇 三山歌
高山波  雲根火雄男志等  耳梨與  相諍競伎
かぐやまは  うねびををしと  みみなしと  あひあらそひき
神代従  如此尓有良之  古昔母  然尓有許曽
かむよより  かくにあるらし  いにしへも  しかにあれこそ
虚蝉毛  嬬乎  相挌良思吉
うつせみも  つまを  あらそふらしき  (13)

反歌
高山与  耳梨山与  相之時
かぐやまと  みみなしやまと  あひしとき
立見尓来之  伊奈美國波良
たちてみにこし  いなみくにはら  (14)

渡津海乃  豊旗雲尓  伊理比紗之
わたつみの  とよはたくもに  いりひさし
今夜乃月夜  清明己曽
こよひのつくよ  さやにてりこそ  (15)

耳成山に関する歌は興味深い
神代、倭国建国までの伝承をモチーフにしたのか

239日本@名無史さん2018/06/10(日) 16:17:33.84
>>189
>酸素同位体比を使った年輪年代法は広葉樹にも使えるから
遺跡全体の年代を決定することができるな<

光谷の年輪年代法の欠陥と同じ事。
欧米の(日本列島を覆うような)大平原で、気候変化の共通性が担保出来る基準木と計測木を採用出来るんなら、確率が上がるんだろうが、
日本列島のような、細長い山岳地帯で、採木した場所の条件が千差万別の地域では、
基準木と計測木の年輪の、根や葉っぱなどからの酸素同位体の吸収度合の一様性が保証出来ないので、
確率が低くなる。

240日本@名無史さん2018/06/10(日) 16:27:25.44
>>190
>水月湖年縞による較正曲線が早く使えるようになるといいんだけどな<

これも同じだな。
酸素同位体は、極地の氷床の氷層を使ったが、
水月湖は、列島内の各地の年降水量の画一性が保証されなければ、
他地域の年縞の根拠にならない。

241日本@名無史さん2018/06/10(日) 16:45:56.60
>>239

研究論文も読んでない後期高齢者の感想を書いてもしょうがない
単なる落書き

242日本@名無史さん2018/06/10(日) 16:51:18.47
>>191
>邪馬台国を論ずる前に人間を磨いたほうが良い
私は被差別部落出身の者で畿内説です<

「邪馬台国」とか「畿内」とかの、
「大和天皇家一元(列島)支配」教の、嘘つき騙しの皇国史観文言を使用しているようでは、
キミは、その前に、
憲法の示す国民主権や自由平等の基本的人権や、
人類の平和共存の考えや人間性を磨いたほうがよい。

243日本@名無史さん2018/06/10(日) 16:57:06.68
>>193
>学者の語呂合わせに過ぎないと思う・・根拠が無さすぎる<

魏志倭人伝は、
「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と、「其餘旁國遠絶、不可得詳」とを、
完全に書き分けており、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、「倭國は九州であった」事が確定であり、
従って、「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は、関門海峡や豊予海峡を渡った事が確実であり、
だから、其餘旁國群も九州にあった、という事になる、
という根本的な史料実態を無視した否定は、全て、確率が殆どない。
勿論、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説を信仰したような比定では、
何の信頼性も価値もない。

244日本@名無史さん2018/06/10(日) 16:59:37.02
>>195
「南→東」などの史料事実の否定曲解をしているような、
嘘つき騙しの大和説は、泡沫俗説だけどね。

245日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:27:27.37
>>225
>>周髀算経の人々は、夏至正午の太陽光は、(平行光線ではなく)、
「ほぼ10万里はなれた点光源だ」、と受け止めている。<

>実際は太陽光線はほぼ平行だから間違い<

実際の太陽光線も、完全平行光線ではなく、
約0.5度の視角を有する不完全平行光線であり、
「ほぼ平行だから間違い」と「間違い」と断定する人間の方が嘘つき騙しの・・・・。

>机上のモデルで実測値ではない
「現代の我々の知識からすれば何とも幼稚極まりないし、その方法の誤りも明らかであるが、
ともかく、古代の中国人は、この一寸千里の法により
天地の大きさを具体的に知ろうとしたのである。」 谷本茂 <

変な男。
谷本氏も、実測値である、という事から、
「1里=76.3〜76.9m」という「里距離」を算出された。

246日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:33:36.42
もう畿内説は説の体をなしていない
畿内案ぐらいにとどめるべき

247日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:35:52.96
>>228
>>(造作説)「1尺6寸と、南千里では1尺5寸と、北千里では1尺7寸」とかの、
有効数字2桁の計測値など、得られないよ。<

>1寸も<

1尺6寸や1尺5寸やや1尺7寸という計測値からの、計算値だ。

>千里も有効数字1桁でいかにも作った数字だよね!ww<

これも、(百里や万里などではなく)「千里だ」と特定しているから、
計測しなくては得られない数字だ。

248日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:38:55.35
>>245

谷本の計算でも太陽光線を平行とみなして計算している
谷本茂が書いた文章を読んでの後期高齢者の感想が「変な男。」ということになる

249日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:42:35.60
変な男なんじゃなくて
「特定」党派的な思考で、人からの批判を一切受け付けない俺つえーをしているだけの
頭おかしい人だよ

250日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:43:56.78
>>232
>大和説者なんて、いないよ<

50年位前までは、大和説と九州説との論争であったのであり、
現在のマスコミなどの投票でも「大和説」という呼称のままであり、
「畿内説」という文言は、
大和説者が、国民を騙そうとして造作した「嘘つき騙しの文言」だ。

251日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:44:50.45
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

252日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:45:34.32
倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。

253日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:47:08.29
完全平行光線とは何だろうか。。。

254日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:47:44.01
>>234
>いくら否定しても引き下がらないからな
それで辻褄合わせようとますます変な事を言い出す<

大和説者は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しを、
いくら否定して上げても引き下がらないからな。
それで、辻褄合わせようと、言葉尻を捉えてそれを曲解して、
口先でますます変な事を言い出す。

255日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:47:51.41
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、

256日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:48:25.26
>>251
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、

257日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:48:45.87
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

258日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:49:04.45
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。

259日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:49:49.51
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。

260日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:55:31.38
>>241
>研究論文も読んでない後期高齢者の感想を書いてもしょうがない 単なる落書き<

光谷や中村らの論文の表題を見たり、概略の紹介を読んだだけでも、
その論理の欠陥が露呈している位だから、
その研究論文の紹介も出来ないような、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の感想を書いて貰っても、しようがない。
単なる落書き。

261日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:57:37.74
>>245

谷本が計算した北緯35度付近での一寸千里の法の1里あたりの距離の計算も
誤差含みの机上の計算で、実際の地球は回転楕円体で、地球表面には細かな凹凸があり
内部の質量分布も均一ではないので
重力の大きさと向きは場所ごとにわずかに異なるから
実際に実験してみないと1里の距離がどのくらいになるかはわからない

262日本@名無史さん2018/06/10(日) 17:57:38.12
>>243の訂正
魏志倭人伝は、
「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と、「其餘旁國遠絶、不可得詳」とを、
完全に書き分けており、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、「倭國は九州であった」事が確定であり、
従って、「東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は、関門海峡や豊予海峡を渡った事が確実であり、
だから、其餘旁國群も九州にあった、という事になる、
という根本的な史料実態を無視した比定は、
全て、確率が殆どない。
勿論、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説を信仰したような比定では、
何の信頼性も価値もない。

263日本@名無史さん2018/06/10(日) 18:00:30.81
>>254


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えサキジジイ!

264日本@名無史さん2018/06/10(日) 18:17:13.48
>>248
>谷本の計算でも太陽光線を平行とみなして計算している<

谷本さんも、太陽光線は「ほぼ平行光線だ」という近似認識と、
地球はほぼ球体だ、という近似認識で、
「夏至正午の8尺棒の、周地付近やその南北千里付近での影長計測値」から、
千里の距離を逆算近似計算されただけ。

265日本@名無史さん2018/06/10(日) 18:30:40.08
>>261
>谷本が計算した北緯35度付近での一寸千里の法の1里あたりの距離の計算も
誤差含みの机上の計算で、<

当たり前だよ。
谷本氏自身が、地球球体や「太陽光線が平行光線」などが絶対ではなく、僅かな差異を伴う近似である事を認めておられる。

>実際の地球は回転楕円体で、地球表面には細かな凹凸があり
内部の質量分布も均一ではないので
重力の大きさと向きは場所ごとにわずかに異なるから<

何だ?、場の理論での「重力場と電磁場の相互作用の存在」を認めるんかい?。

>実際に実験してみないと1里の距離がどのくらいになるかはわからない<

尺寸系の定規は、殆ど変わっていないし、各時代の寸法も既知であるので、
一寸千里での8尺棒や影長計測がほぼ可能であるから、
「一里の距離」は、ほぼ計算出来る。

266日本@名無史さん2018/06/10(日) 18:34:47.00
>>265

>「一里の距離」は、ほぼ計算出来る。

机上で計算しても実際はどのくらいの誤差が生じて
1里何mになるかはわからない

267日本@名無史さん2018/06/10(日) 18:39:03.12
誤差の計算方法を知らないらしいな。
ちゃんと数学的な定義があるんだぞ。
算出できないなんていうことはない。
誤差は大きいが、平均で100メートル弱だ。

268日本@名無史さん2018/06/10(日) 18:44:31.57
>>267

楕円体、地球表面の凹凸、重力の方向の差
誤差となるあらゆる要素を排除して計算しているのだから
実験もしないで誤差の計算はできない

269日本@名無史さん2018/06/10(日) 18:51:39.75
「誤差」という言葉の意味をわかっていないことが丸わかり。

270日本@名無史さん2018/06/10(日) 18:53:22.83
誤差とか以前に、実測じゃないんだから
何の意味もないわ

271日本@名無史さん2018/06/10(日) 18:56:15.80
ザラコクさん教えを請います。

>>265
>尺寸系の定規は、殆ど変わっていないし、各時代の寸法も既知であるので、

これは本当ですか?伊都スレで今日は白熱していたのが「咫」の説文解字注の内容で、

中婦人手長「八寸」謂之「咫」。、、、中略、、、
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
、、、中略、、、
古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。


これの「八寸」が漢尺か周尺なのか?
私は漢尺と思ったんですね。

古者以「周尺」八尺爲步。今以「周尺」六尺四寸爲步。

周尺八尺=以周尺.為歩=漢六尺四寸
周尺=漢尺八寸=咫

つまり、
殷は漢尺の12寸相当が基準長で一尺だった
周は漢尺の八寸相当が基準長で一尺としていた。
漢は当然一尺=10寸。

変わったのは寸=尺の関係性であって、寸自体の長さじゃない。
こう思ったのですが、いかがでしょうか?

272日本@名無史さん2018/06/10(日) 19:27:32.37
尺も時代によって長さが違う
だんだん長くなる傾向がある

273日本@名無史さん2018/06/10(日) 19:32:56.27
>>218
落葉付近のどことどこ
それがわからない、不可知だとするなら
距離を正確に測って計測できたのかどうかわからない
つまり短里は正しいかどうかわからないという事になる

274日本@名無史さん2018/06/10(日) 19:38:59.70
>>221
長里も同じように色んな史書で使われているようだけど
場合によっては中里らしきものも

275日本@名無史さん2018/06/10(日) 19:42:31.13
>>224
九州説は史料しかないのか
畿内説は史料と考古学的物証2つを比較するけれど

276日本@名無史さん2018/06/10(日) 19:47:09.83
>>226
これではっきりしたな
ザラコクは皇国史観とかどうでもよくて
ただ畿内説を攻撃してるだけのキ印
天皇制反対がやりたいなら他の板に行ってやればいいのにね

277日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:18:33.16
>>275
考古学も史学も無視するのが畿内説だろ。
絹もない鉄もない金印もない。
そんな魏志倭人伝と相容れない邪馬台国像は畿内説の妄想に過ぎない。

278日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:23:10.53
>>266
>>「一里の距離」は、ほぼ計算出来る。<

>机上で計算しても実際はどのくらいの誤差が生じて 1里何mになるかはわからない <

いや、
データは、有効数字1〜2桁程度の概数であり、
それから直接的に得られた「1里何m」値も、有効数字1〜2桁程度以内の概数だろう、
と判る。

279日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:31:36.03
>>278

実測データはない

280日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:32:03.06
>>268
>楕円体、地球表面の凹凸、重力の方向の差
誤差となるあらゆる要素を排除して計算しているのだから<

「楕円体、地球表面の凹凸、重力の方向の差」も、
有効数字1〜2桁の概数程度よりもはるかに少ない誤差であり、
計算結果の有効数字1〜2桁の概数の範囲内にしかならない。

>実験もしないで誤差の計算はできない<

夏至正午の8尺棒の、
周地付近と、その南北千里付近での影長が、1尺6寸や、1尺5寸や、1尺7寸になる場所の距離を、
実際に観測計測してみればよい。

281日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:36:32.00
>>270
>誤差とか以前に、実測じゃないんだから何の意味もないわ<

「実測じゃない」という以前に、
夏至正午の8尺棒の周地付近と、その南北千里付近での影長が、
1尺6寸や、1尺5寸や、1尺7寸になる場所の距離を、
実際に観測計測してみていないんだから、
この男のヘイトスピーチ宣伝も、何の意味もないわ。

282日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:37:53.06
>>277
倭国が絹を作ってると書いてあるが邪馬台国が絹の生産地とは魏志倭人伝に書いてない
鉄器もホケノ山古墳やら椿井大山古墳から大量に出ている
金印は漢の時代に倭奴国に贈られたものだろ

それより畿内の巨大前方後円墳や多数見つかる三角縁神獣鏡は
どう説明する

283日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:39:22.41
まあ魏志倭人伝は有効桁数1桁なのは確かだが、そんな数値データは世の中にごまんとある。
それでも誤差や信頼区間は計算できるんだよ。
区間により里に2倍3倍の差があっても、それは数学的には短里を否定する根拠とはならない。
細かく計算はしないでおくが、魏志倭人伝の里が長里であるとする帰無仮説はp<0.001で棄却されるだろうね。
つまり数学的には間違いなく魏志倭人伝は短里で書かれている。
魏志倭人伝が信用できないとかなんとかほざいているのは、統計学の素養がないアホが、自分のリテラシーの低さを晒しているだけ。

284日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:40:27.06
>>281
実際に観測してみていないならダメじゃん
一寸千里は空想の数値で短里の証明にはならないという事でいいんだな

285日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:43:27.04
>>283
区間によって2倍3倍差があるなら数学的に短里はあったとしても
1万2千里は九州を指すものとは言えなくなるぞ数学的に

286日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:46:14.56
>>280

>計算結果の有効数字1〜2桁の概数の範囲内にしかならない。

言張るだけじゃなくて
平面大地モデルの一寸千里の法が、楕円体、凹凸表面の地球上で測量に使えたことを
実際に実験して証明してみたらいい

287日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:58:42.70
>>283
歴史学的には魏で使われていた里は
見つかってる史料から換算した一里430m
皇帝の単位統一の指示もあり
それ以外はその時代に存在が確認されてないようだけど

288日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:14:15.93
>>281


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えサキジジイ! 

289日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:18:09.67
一寸千里は唐の時代に本当かどうか実測されたが
その時の記録資治通鑑に
壬子、河南、北平の地で八尺の棒の影の長さを計測した
距離は526里270歩で2寸違うと書かれている
現代で計測すると距離が3割ほど間違っているそうだけど

このように計測地がはっきりしていないと
一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できない
ゆえに論拠としては用いれない

290日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:21:02.25
>>287
見つかっている史料?
魏志倭人伝という史料を無視しておいてそれですか?
邪馬台国については史料はほぼ魏志倭人伝しかないので、その中の里程を無視した議論など無意味ですよ。

291日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:22:07.07
>>289
魏志倭人伝が信用できないなら、「邪馬台国はなかった」とか本を書いてみてはいかがですか?

292日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:22:59.67
スレ主へ
纒向に詳しいようだが 大型建物の柱の石床はいくつ発見されているの?

293日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:28:07.22
>>283
そういえば安本先生が条件付き確率で計算して
99%近くで邪馬台国は九州筑紫と結論していた。

294日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:30:18.65
>>290
律歴志という魏で使われた度量衡を記した書には
一里=三百歩
一歩=六尺とあって
一尺の基準となる約24cmのモノサシ正始弩尺も見つかっている
そこから換算すれば魏で使われていた里は
短里の一里=約80mではなく一里約430m
さらに魏では文帝の度量衡統一の指示もあり
使われていた単位は一つ
なので少なくとも魏で書かれた記録は短里で記されようがない

295日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:31:35.03
>>291
それより歯の黒い人間の住む歯黒国を探されてはいかがか

296日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:34:47.90
魏の劉徽が『九章算術』註釈本において「王莽銅斛,於今尺為深九寸五分五厘」と書いている
この王莽銅斛は新莽嘉量として知られるもの(台北・故宮博物院蔵)
これにより魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算できる
魏の里は435.392m(一里=1800歩)

297日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:43:56.57
>>271
>>尺寸系の定規は、殆ど変わっていないし、各時代の寸法も既知であるので、<

>これは本当ですか?<

Yahooでの議論で、mkpoとかハイエナなどの大和説者が、
周代の「尺定規」が発見されている、と言って、写真も添えており、
その寸法も23cm位であった、という記憶があります。
しかし、新井宏さんは、古韓尺の淵源は、32cm位の尺寸法であった、という説でした。

>伊都スレで今日は白熱していたのが「咫」の説文解字注の内容で、
中婦人手長「八寸」謂之「咫」。、、、中略、、、 殷法十二月。
言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
、、、中略、、、 古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
これの「八寸」が漢尺か周尺なのか? 私は漢尺と思ったんですね。<

「説文解字注」とは、「説文解字」自体の本文ですか?。
それとも、「説文解字」以後の人の「説文解字」に対する注なのですか。
しかし、いずれにしても、漢代の解釈にしかなりませんね。

>古者以「周尺」八尺爲步。今以「周尺」六尺四寸爲步。
周尺八尺=以周尺.為歩=漢六尺四寸
周尺=漢尺八寸=咫 つまり、 殷は漢尺の12寸相当が基準長で一尺だった
周は漢尺の八寸相当が基準長で一尺としていた。 漢は当然一尺=10寸。
変わったのは寸=尺の関係性であって、寸自体の長さじゃない。
こう思ったのですが、いかがでしょうか?<

「古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步」というのは、
説文解字以後の文なのではありませんか?。

298日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:47:47.47
>>294
根拠厨は八咫鏡の件で言い負かされたのに、まだ懲りないのか?

299日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:49:18.84
魏志倭人伝に考古資料や科学的測定を加えて畿内説は補強されている
史料の不確かな部分を
自説に有利なように強引に解釈するしかない九州説は弱いな

300日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:50:48.39
>>273
>落葉付近のどことどこ それがわからない、不可知だとするなら
距離を正確に測って計測できたのかどうかわからない
つまり短里は正しいかどうかわからないという事になる<

反対。
短里を疑うんなら、
尺寸系は殆ど変わっていないんだから、
周地付近で夏至正午の8尺棒の影長が1尺6寸であったのか?を確認しておいて、
その南や北に行って、
夏至正午の8尺棒の影長や1尺5寸や1尺7寸になる場所を見つけて、
それが元の周知付近の南北何里にあったのか?を計測すればよい。

301日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:57:11.79
>>299
都合が悪い部分を不確かと言って無視しているだけでしょ。
絹もない鉄もない、倭人伝にある記載の内容が全く一致しない。

302日本@名無史さん2018/06/10(日) 21:58:33.16
>>275
>九州説は史料しかないのか
畿内説は史料と考古学的物証2つを比較するけれど<

言葉の意味や定義法の問題。
古田さんらは、
史料と言えば、文献史料と考古史料の両方を意味され、
(資料とは区別して)史料批判に拠って存在確認済みであるものだ、
という意味に使っておられる。

3032962018/06/10(日) 22:01:54.56
まちがったわ
(一里=1800尺)

304日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:02:32.09
>>300
計測する地がお互い東西にズレて実際の直線距離は600里になるような地で
計測が行われたのかも知れない
なので実際測ったのならどこの地で棒の影長をはかったのか
はっきり書いてある史料が必要

305日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:03:35.11
>>276
これではっきりしたな。
大和説者らは、学問とか科学とかなどどうでもよくて、
ただ九州説を攻撃して、
「大和天皇家一元列島支配」という国家国粋皇国史観を宣伝したいだけの、
キョクウ殺人戦争狂のヘイトスピーチのキ印。
天皇制反対がやりたいなら他の板に行ってやればいいのにね

306日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:07:41.80
>>301
絹は倭国で作られているとあるだけで特に邪馬台国特産とは書かれてない
鉄は畿内の古墳から多数見つかっている
景初三年(239年)と卑弥呼が魏に使いを送った年と複数の史料にある
魏の年号が入った三角縁神獣鏡が見つかる

307日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:09:46.95
>>302
その割には九州説は史料にないことばっかり主張しているようだが
三角縁神獣鏡は呉の職人が作ったとか短里とjか

308日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:11:46.40
卑弥呼が魏と絹をやり取りしていたのに邪馬台国には絹がないと言い張るつもり?
そりゃ無理があるだろ。

309日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:20:26.50
>>308
別に邪馬台国そのものが絹の産地じゃなくてもいいだろ

310日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:28:39.59
>>279
>実測データはない <

ある。
夏至正午の8尺棒の、影長の周地付近での計測や、
その南北千里地点の計測や、そこでの影長計測が、実測データ。

311日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:28:52.34
短里という度量衡が存在したのではなくて
東夷を実際より大きく描いた観念的世界観だからな

312日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:38:09.10
>>282
>倭国が絹を作ってると書いてあるが邪馬台国が絹の生産地とは魏志倭人伝に書いてない<

そもそも「邪馬台国」なんて、魏志倭人伝に存在しないから、この男は嘘つき騙しの詐欺師。

>鉄器もホケノ山古墳やら椿井大山古墳から大量に出ている<

いずれも布留であるから、4世紀の倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国である。

>金印は漢の時代に倭奴国に贈られたものだろ<

魏志倭人伝には倭奴國名が消失しており、
呼称の類似や地域的な近接状態から、倭奴國は奴國と伊都国に分裂していた可能性が高い。

313日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:38:58.05
>>309
産地との交流そのものがなかったように見えるのですよ。

314日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:43:46.90
>>284
>実際に観測してみていないならダメじゃん <

実際に観測計測をしているんだから、ダメじゃない。

>一寸千里は空想の数値で短里の証明にはならないという事でいいんだな<

一寸千里は実際の数値での、(谷本確認計算に拠って)短里の証明にはなる、
という事でよい。

315日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:44:45.38
>>297
>「古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步」というのは、
>説文解字以後の文なのではありませんか?。

《說文解字注》は清代の段玉裁の注釈だが、該当部分は鄭注からの引用

鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。

鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。
後漢の初期に成立している文書だよ

でも、自分でググればすぐに分かるだろうに
相変わらず、ザラコクさんは、知らない、調べない、理解しない、のないないづくしww

316日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:46:31.99
>>310
>ある。

ザラコクさんがいくら言い張っても無意味だよ
ザラコクさんの言葉にはまったく根拠も信用もないんだからww

317日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:48:38.04
>>285
>区間によって2倍3倍差があるなら数学的に短里はあったとしても
1万2千里は九州を指すものとは言えなくなるぞ数学的に<

区間に拠って、多少の誤差があっても、
不彌國で合計の「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都や倭国は、九州を指す、と言ってよい。

318日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:52:30.41
>>286
>>計算結果の有効数字1〜2桁の概数の範囲内にしかならない。<

>言張るだけじゃなくて
平面大地モデルの一寸千里の法が、楕円体、凹凸表面の地球上で測量に使えたことを
実際に実験して証明してみたらいい <

周髀算経が、実際に夏至正午の8尺棒の影長や南北千里などを、
計測測定している。

319日本@名無史さん2018/06/10(日) 22:56:13.59
>>287
>歴史学的には魏で使われていた里は 見つかってる史料から換算した一里430m
皇帝の単位統一の指示もあり それ以外はその時代に存在が確認されてないようだけど <

魏志に書かれた「里」記載は、殆ど全て、「1里=430m」ではなく、
「1里=50m〜100m」位の間であった。

320日本@名無史さん2018/06/10(日) 23:04:51.49
>>289
>一寸千里は唐の時代に本当かどうか実測されたが その時の記録資治通鑑に
壬子、河南、北平の地で八尺の棒の影の長さを計測した
距離は526里270歩で2寸違うと書かれている
現代で計測すると距離が3割ほど間違っているそうだけど<

心配なら、周地付近での夏至正午の8尺棒の影長と、
南北方向に離れて行って、夏至正午の8尺棒の影長が1尺5寸や1尺7寸になる場所を見つけて、
それと周地付近との距離を計測してみれば、
唐代の里が、(短里ではなく)長里であった、という事が判る。

このように計測地がはっきりしていないと
一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できない
ゆえに論拠としては用いれない

321日本@名無史さん2018/06/10(日) 23:20:08.03
>>313
俺はあったように見えるな

322日本@名無史さん2018/06/10(日) 23:35:24.43
>>314
どっからどこで測ったとはっきりしないなら
一寸千里は実測値とは扱えない
架空の数値

323日本@名無史さん2018/06/10(日) 23:42:16.36
>>321
根拠は?

324日本@名無史さん2018/06/10(日) 23:48:04.61
>>317
不彌國までは今までの里程を足し算すると1万700里
残り1300里だ
それが短里のズレの範囲内という3倍で1里240mと計算すれば
約2700kmで畿内に届くかもなあ

325日本@名無史さん2018/06/10(日) 23:48:33.10
>>323
何か土器とか

326日本@名無史さん2018/06/10(日) 23:50:09.36
>>319
それだけばらつきがあるなら測定のミスか何かだな
短里はなかった

327日本@名無史さん2018/06/10(日) 23:51:37.81
>>320
何を言ってるのかよくわからんぞ

328日本@名無史さん2018/06/11(月) 00:24:54.03
で、畿内説さんの里ではどこになるんですか?
あ、海の中でしたねwwww

329日本@名無史さん2018/06/11(月) 00:28:09.77
>>317
>不彌國で合計の「萬二千余里」がほぼ終わっているから、

終わってないよ
終わらせるためには、他に一切用例のない「島巡り仮説」を採用しないといけないww
九州説は、他に一切用例のない無理読みを多数開発することによってのみ、成り立って
いる恥ずかしい説でしかない

いや、すでに説とすら呼べない代物だなww

330日本@名無史さん2018/06/11(月) 00:33:42.02
>>325
ちゃんとソースを付けて
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
布留式甕になる前から、畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順できっちり九州から出てるよ
畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが確認できる

331日本@名無史さん2018/06/11(月) 00:38:07.10
>>329
お前の脳内の謎の「島巡り仮説」とやらが他に一切用例が無いってだけだからな
お前の脳内が間違ってるだけだろう

332日本@名無史さん2018/06/11(月) 00:56:44.03
>>326
測定の精度が悪いとは言えるが、短里がなかったという結論は出せないよ。

333日本@名無史さん2018/06/11(月) 01:00:54.70
測定の精度が悪いと度量衡を統一してないのと同じ

334日本@名無史さん2018/06/11(月) 01:02:27.81
東夷だからね。
統一されていない、独自の里を使っていたんだよ。
でも東夷伝の中では一貫している。

335日本@名無史さん2018/06/11(月) 01:04:18.63
独自の里なら、測量してない

336日本@名無史さん2018/06/11(月) 01:24:55.20
3世紀前半から中ごろに築造と言われるホケノ山古墳ですが、その土手には6世紀末頃の14mの横穴式石室があります。

http://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/1/7/17132098.png

不思議なことに300年以上も経過してから、突然、横穴式石室が作られたことになります。
14mというのは、あの石舞台古墳の倍ですから、相当力のある豪族が造ったのでしょう。

6世紀後半、桜井を支配してたのは物部守屋です。

「日本書紀585年、物部守屋は3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、
海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。」

守屋は海石榴市が自分の領地だから連れてこれたのでしょう。
6世紀末の14mの横穴式石室を作ったのは物部氏ではないでしょうか。

守屋が蘇我馬子と争った丁未の乱(ていびのらん)で死に物部宗家が滅びます。
生き残った物部の有力者が一族再興を願い、死後に氏神と添い寝する形でホケノ山古墳の横穴式石室に埋葬されたのではないか。

ホケノ山古墳が物部の氏神墓だった。
ならば3世紀の主体被葬者被葬者はウマシマジまたはヒコユキだったのではないか。
などと考えてます。

337日本@名無史さん2018/06/11(月) 02:44:28.66
>14mというのは、あの石舞台古墳の倍ですから、相当力のある豪族が造ったのでしょう。

測る基準が違うぞ
ホケノ山の石室が14メートルってのは全長
つまり羨門から玄室奥壁までの長さだ
石舞台で同じ区間を測ったらおよそ18メートルになる

ホケノの横穴式石室の主は三輪君逆だな
地域、年代観、墳丘を造る余裕がなかった状況、
いずれも文献の記録と考古学的成果にピッタリだ

338日本@名無史さん2018/06/11(月) 03:06:57.49
>>337
>石舞台で同じ区間を測ったらおよそ18メートルになる

だから何だ、ホケノ山の横穴式石室が大豪族にとって造られた反論にならない。

>ホケノの横穴式石室の主は三輪君逆だな

三輪は4世紀以降だ。
三輪の祖先がなんで3世紀のホケノ山の被葬者なんだアホ。
三輪では纏向遺跡の瀬戸内の強い要素を説明できないだろうが。

339日本@名無史さん2018/06/11(月) 03:17:19.19
>不思議なことに300年以上も経過してから、突然、横穴式石室が作られたことになります。

自分のレスすら理解出来ないのが池沼の証

340日本@名無史さん2018/06/11(月) 03:26:08.04
>>339

ホケノ山主体埋葬部は庄内か布留かの議論もあるが3世紀中頃。

横穴式石室は6世紀末。

「300年以上も経過して」のどこが間違えてるのかな?
おまえは計算もできないのか。

341日本@名無史さん2018/06/11(月) 03:28:04.01
南が東になった根拠がイマイチわからない
テンプレも含め畿内説の見苦しい言い訳のように思えてならない
誤認、誤写なんて証拠は一切ないし憶測でしかない
誰もが納得する説明を頼む
単里の議論が続くが九州説のスレで頼む
畿内説のスレだから敢えて

342日本@名無史さん2018/06/11(月) 03:29:15.12
単里をここで議論するのは九州説のペースにはまるだけでは

343日本@名無史さん2018/06/11(月) 03:58:12.53
>>341
会稽東冶の東なんだから短里じゃないし南は東の間違いだろう
反論もできないで「見苦しい」とか感情論に逃げてるから正論に納得できないだけだよ

344日本@名無史さん2018/06/11(月) 04:00:12.79
>>341
自分のレスすら理解出来ないのが池沼の証

>>ホケノの横穴式石室の主は三輪君逆だな
>三輪は4世紀以降だ。
>三輪の祖先がなんで3世紀のホケノ山の被葬者なんだアホ。

345日本@名無史さん2018/06/11(月) 05:13:33.39
>>293
>>律歴志という魏で使われた度量衡を記した書には
一里=三百歩
一歩=六尺とあって
一尺の基準となる約24cmのモノサシ正始弩尺も見つかっている
そこから換算すれば魏で使われていた里は
短里の一里=約80mではなく一里約430m<

後代の長里時代の史書学者の「長里しかなかった」という自己解釈の律歴志は」は、
周髀算経や魏志などの短里記録の確認がされておらず、
欠陥史書であり、×。

>さらに魏では文帝の度量衡統一の指示もあり 使われていた単位は一つ
なので少なくとも魏で書かれた記録は短里で記されようがない <

文帝は、秦漢代の殆ど長里ばかりであった度量衡を踏襲するのなら、
「度量衡の統一」という指示をする必要がないから、
これも×。

346日本@名無史さん2018/06/11(月) 05:15:36.69
>>345
「度量衡の統一」なんて指示は存在しません。

347日本@名無史さん2018/06/11(月) 05:20:07.47
>>295
>それより歯の黒い人間の住む歯黒国を探されてはいかがか <

中国の古い史書や魏志などで、南洋方面?に「黒歯國」の記録が幾つもあるし、
日本でも、理由がよく判らんが、江戸時代の産後の?婦人が「お歯黒」にする習慣があったようだよ。

348日本@名無史さん2018/06/11(月) 05:29:40.82
>>296
>魏の劉徽が『九章算術』註釈本において「王莽銅斛,於今尺為深九寸五分五厘」と書いている
この王莽銅斛は新莽嘉量として知られるもの(台北・故宮博物院蔵)
これにより魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算できる<

九章算術は、「長里」で書かれた算術書として有名であるが、
尺の寸法は、「里歩系」の寸法と全く関係がなく、周代から殆ど変わっていないから、
「魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算」出来ても、
何の問題もない。

>魏の里は435.392m(一里=1800歩)<

文帝は「1歩=6尺」の始皇帝の換算命令を否定したのであるから、
これも×。

349日本@名無史さん2018/06/11(月) 05:32:37.92
>>291
古田が書いてる

350日本@名無史さん2018/06/11(月) 05:35:32.40
>>348
>文帝は「1歩=6尺」の始皇帝の換算命令を否定したのであるから、

これも捏造。

351日本@名無史さん2018/06/11(月) 05:38:29.69
このように

九州説は中国史を根っこから破壊しないと主張できない
つまり無理

352日本@名無史さん2018/06/11(月) 05:41:36.47
>>298
>魏志倭人伝に考古資料や科学的測定を加えて畿内説は補強されている<

畿内なんて存在もしなかった。
また魏志の里記載の殆どは、短里ばかりで書かれていて、
6倍位になる始皇帝命令の(1歩=6尺の)長里記載は全くのように存在しない。
つまり、魏志倭人伝の里記載は、大和説を拒否し、否定している。

>史料の不確かな部分を自説に有利なように強引に解釈するしかない九州説は弱いな<

「南→東」などのように、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しまでして、
大和説に不利な史料記載の部分を、自説に有利なように強引に解釈するしかない大和説は、
弱いな。

353日本@名無史さん2018/06/11(月) 05:51:19.33
>>304
>計測する地がお互い東西にズレて実際の直線距離は600里になるような地で
計測が行われたのかも知れない
なので実際測ったのならどこの地で棒の影長をはかったのか はっきり書いてある史料が必要 <

周髀算経は、「日の入りと日の出での8尺棒の影端を結んで東西を決め、
それと直交する方向を3:4:5の直角三角形の直角を使って南北を決める事が記載されており、
礼記も、円を描いて、その中心に棒を立て、その棒の影端がその円周を横切る2点を結んで東西を決める、
という方法を記載しているから、
周代の人は、東西南北を殆ど間違えないので、
この男も嘘つき騙しであり、・・・・×人間。

354日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:00:06.66
>>353
間違えないのは天文学者と建築家くらいだよ

355日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:04:26.13
>>306
>絹は倭国で作られているとあるだけで特に邪馬台国特産とは書かれてない
鉄は畿内の古墳から多数見つかっている<

大和の絹も鉄も3世紀末以後であり、卑弥呼の時代では全くない。

>景初三年(239年)と卑弥呼が魏に使いを送った年と複数の史料にある<

肝心の皇帝名は、通典と書紀に「明帝」だと明記されていて、他の皇帝名は一切なく、
明帝は、景初三年元日に亡くなっているので、
倭の使節との面会も詔書も景初二年であった事になり、
従って、景初三年鏡は、魏の下賜の鏡ではない。

>魏の年号が入った三角縁神獣鏡が見つかる<

三角縁神獣鏡は、
洛陽から0〜1枚しか出土せず、尚方作鏡も見つからず、
列島からは500枚以上見つかっているので、
明帝の下賜鏡ではない。

356日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:13:58.44
>>307
>その割には九州説は史料にないことばっかり主張しているようだが <

その割には大和説は、「南→東」などのように、
史料に存在ないことばっかり主張しているようだが。

>三角縁神獣鏡は呉の職人が作ったとか<

三角縁も神獣鏡も、呉で盛行し、楽浪に広がっていたし、
呉からの「海東」鏡の相当するのは、からの楽浪の地よりも九州〜西日本。

>短里とjか <

魏西晋朝の公定里や周髀算経の里は、短里。

357日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:17:56.12
>>308
>卑弥呼が魏と絹をやり取りしていたのに邪馬台国には絹がないと言い張るつもり?
そりゃ無理があるだろ。<

邪馬台国なんて存在しない。
また、倭絹や中国絹があったのは、筑紫ばかりであり、
大和に絹が見つかったのは、3世紀末であり、卑弥呼や壹與の絹にはならない。

358日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:20:38.17
>>309]
>別に邪馬台国そのものが絹の産地じゃなくてもいいだろ <

邪馬台国なんて存在しないし、
また、卑弥呼の頃に倭絹や中国絹が見つかったのは、筑紫ばかりであり、
大和に絹が見つかったのは、3世紀末であり、卑弥呼や壹與の絹にはならない。

359日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:21:06.35
>>356
>魏西晋朝の公定里や周髀算経の里は、短里。

だなんて妄想ね
なんの根拠もない
周髀算経でさえ六尺=一歩、三百歩=一里だ

360日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:24:50.90
>>311
>短里という度量衡が存在したのではなくて
東夷を実際より大きく描いた観念的世界観だからな<

変な世界観思想で、「実際よりも6倍も大きく描いた」報告書を書けば、
バレれば、魏使らや陳寿の首が危ないだろうなあ。

361日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:28:07.21
>>313
>産地との交流そのものがなかったように見えるのですよ。<

魏使らが見聞した地域に、絹が存在していない、
という話は、×。

362日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:37:48.45
>>343
計其道里當在會稽東冶之東は
いろんな説あり却下

363日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:40:07.76
>>362
いろんなトンデモ説があっても関係ないね
通説の勝ち

364日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:44:39.94
>>315
>>「古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步」というのは、
説文解字以後の文なのではありませんか?。<

>《說文解字注》は清代の段玉裁の注釈だが、該当部分は鄭注からの引用 <

>鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
<鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。
後漢の初期に成立している文書だよ <

嘘を付くな。
鄭玄は、検索では、後漢末の人だとしてあるよ。
説文解字の、
「後漢の許慎(きょしん)の作で、和帝の永元12年(西暦100年)に成立」
よりもはるかに後代だな。

>でも、自分でググればすぐに分かるだろうに
相変わらず、ザラコクさんは、知らない、調べない、理解しない、のないないづくしww <

何だ?、やっぱりインチキ・・・・詐欺師のwwの「変な投稿」であったのかい。

365日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:48:34.15
>>316]
>>>実測データはない <

>ある。
夏至正午の8尺棒の、影長の周地付近での計測や、
その南北千里地点の計測や、そこでの影長計測が、実測データ。<

>ザラコクさんがいくら言い張っても無意味だよ
ザラコクさんの言葉にはまったく根拠も信用もないんだからww<

「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホのwwさんがいくら言い張っても無意味だよ。
wwさんの言葉にはまったく根拠も信用もないんだからww。

366日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:53:08.61
>>321の訂正
「このように計測地がはっきりしていないと 一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できない
ゆえに論拠としては用いれない」
は、×。

このように計測地がはっきりされているから、
一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できる。
ゆえに論拠としては用いられる。

367日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:55:05.07
>>366
計測地不定なのでウソ

368日本@名無史さん2018/06/11(月) 06:58:03.03
>>322
>どっからどこで測ったとはっきりしないなら 一寸千里は実測値とは扱えない
架空の数値<

周髀算経の一寸千里は、
周地付近やその南北千里の地点であれば、どこでも成立する、という記述。
どっからどこで測ったとはっきりさせる必要もなく、
一寸千里は実測値とは扱える。
実測の数値。

369日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:03:52.59
帯方郡から邪馬台国までの距離数は『萬二千餘里』
帯方郡から末廬国までをちょうど『萬餘里』としている。そうすると、末廬国から邪馬台国までは『二千餘里』しかない。
『二千餘里』の距離数は対馬から末廬国までの距離数と一致?
距離は正確に測れたのだろうか?(特に海路)
方位は間違えようが無いが・・太陽・星

370日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:09:23.86
>>369
現実に方向間違えてんだから、その考えはペケなー

371日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:14:04.63
>>368
オレは正しいゾーと言ったら正しくなるわけもなく
成立するゾーと言ったから成立するわけがない

実測した形跡のない数字を実測として扱うことは出来ず
古代中国人から妄説と呼ばれた一寸千里を信用も出来ない

372日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:14:51.39
>>370
方向間違えていたとする根拠は?

373日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:17:47.50
>>372
間違えた実例があるのだから
全称命題「方位は間違えようが無いが・・太陽・星」
は不成立
論理的にあたりまえだな

374日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:19:38.44
>>370
現実って何
すごい論調
 はぁーーーーー

375日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:20:51.20
>>373
間違えた実例とは具体的に何処ですか?

376日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:26:25.53
>>374
たまには見るといい

377日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:28:37.58
>>375
例ならテンプレにあるよ

古今東西世界中だれも間違えないとでも言うの?

378日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:31:27.36
>>368

>周髀算経の一寸千里は、
>周地付近やその南北千里の地点であれば、どこでも成立する、という記述。

大地は平面ではないのでどこも成立しない

379日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:31:58.63
テンプレのどれ?

380日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:33:29.20
>>373
ものすごく低い確率を出すなよ・・それも状況も違うし

決定打にはならないよ

間違えた確率はゼロに近いがゼロでは無いぐらいにしとけよ

381日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:34:55.34
東が南になったのは転写ミスだよ

382日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:36:48.11
周髀算経が実測じゃないことは昔からバレてて、漢代にもう蓋天説にツッコまれて論破されてる
周髀家は反論できなくて論争に破れた

383日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:38:19.93
>>380
確率が低いって根拠は?
そんな統計あるん?

384日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:42:01.56
>>381
そんなことは判らない
現地でのミスかも知れないし
翻訳の手違いかも知れないし
政治的意図で歪めたのかも知れない

間違いはどこにでも潜む

385日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:42:57.57
伊都国は末盧国の東南じゃないでしょ?

386日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:48:18.35
奴国は伊都国の東南じゃないでしょ?

387日本@名無史さん2018/06/11(月) 07:57:14.82
>>385
末盧国の上陸地点を名護屋浦とすれば伊都国は末盧国の東南東の方角であり東南と表記されても間違いではない。

>>386
奴国は二萬戸の大国でありその国境線も長く、伊都国から東南へ向かうと奴国との国境の一部に着くってことですから間違いではない。

388日本@名無史さん2018/06/11(月) 08:03:07.32
>>387
>末盧国の上陸地点を名護屋浦とすれば

そもそも、その仮説が間違い。  @阿波

389日本@名無史さん2018/06/11(月) 08:17:33.33
>>388
倭人伝に記された方角から考えて末盧国の上陸地点は名護屋浦ですし
名護屋浦は天然の良港で魏使の船が入港するには最適の場所ですから
魏使が末盧国に上陸地点した場所は名護屋浦以外にはあり得ません。

390日本@名無史さん2018/06/11(月) 08:19:31.18
名護屋浦の東南は鏡山付近だな

391日本@名無史さん2018/06/11(月) 08:26:13.31
>>383
簡単だよ、
歴史上、朝鮮半島から日本に来て、
方位を間違った文献はほとんど無い

392日本@名無史さん2018/06/11(月) 08:28:38.63
朝鮮通信使だけとっても、方位を間違ったの一度だけじゃないの

393日本@名無史さん2018/06/11(月) 08:45:46.34
>>391
間違った文献は幾つで、正しく書いた文献は幾つ?

394日本@名無史さん2018/06/11(月) 08:49:59.87
>>389
>倭人伝に記された方角から考えて末盧国の上陸地点は名護屋浦ですし

倭人伝に記された方角から考えて末盧国? 
倭人伝に末盧国への方角なんて書いてないでしょ。  @阿波

395日本@名無史さん2018/06/11(月) 08:54:16.51
>>322
>どっからどこで測ったとはっきりしないなら 一寸千里は実測値とは扱えない
架空の数値<

きちんと、周地付近や南北千里や、それらの地での夏至正午の8尺棒の影長を、
1尺5寸や1尺6寸や1尺7寸であった、と記録してあるから、
実測値。

396日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:06:58.04
>>324
>不彌國までは今までの里程を足し算すると1万700里
残り1300里だ<

方四百余里の對海國と方三百里の一大國の国内を見聞移動した事を記載し、」
奴國へは「途中移動があった記載がない」から、奴國へは行っておらず、
だから、不彌國で萬二千余里は殆ど使い果たしており、
残りは1300里には全くならない。

>それが短里のズレの範囲内という3倍で1里240mと計算すれば
約2700kmで畿内に届くかもなあ<

畿内なんて存在もしていなかったんだし、
「短里のズレ」とか「3倍で1里240m」とかの史料根拠もない勝手な妄想で、
インチキを匂わすこの男は、やはり・・・・詐欺師。

397日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:10:19.73
>>395
それは計算で出しただけ

398日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:11:18.65
>>326
>>魏志に書かれた「里」記載は、殆ど全て、「1里=430m」ではなく、
「1里=50m〜100m」位の間であった。<

>それだけばらつきがあるなら測定のミスか何かだな 短里はなかった<

有効数字1桁程度の近似値計測であったから、ばらつきがあったのであり、
6倍位の430mなんて長里には全くならないから、
長里ではなかった。

399日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:11:41.25
>>396
>だから、不彌國で萬二千余里は殆ど使い果たしており

それは古田珍説の独自解釈

400日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:14:16.33
>>398
>有効数字1桁程度の近似値計測であったから、ばらつきがあったのであり、

ばらつき以前に、何処からどこまで測るか
地点の特定すらも出来ていない
説として成り立っていない

401日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:19:19.21
>>329
>>不彌國で合計の「萬二千余里」がほぼ終わっているから、<

>終わってないよ<

大和説は終わっている。

>終わらせるためには、他に一切用例のない「島巡り仮説」を採用しないといけないww<

史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、確率の高い帰納的推論だ。

>九州説は、他に一切用例のない無理読みを多数開発することによってのみ、成り立って
いる恥ずかしい説でしかない<

大和説は、「南→東」などの史料事実の否定抹殺の嘘つき騙しの・・・・大和説学者らの、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの・・・・説を妄信隷従する事によってのみ成り立っている、
恥ずかしい限りの説でしかない。

>いや、すでに説とすら呼べない代物だなww <

いや、wwの話は、すでに説とすら呼べない代物だなww。

402日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:20:32.14
>>393
南を東にしたいなら自分で調べたらいい
確率が高ければ畿内説に優位だと思う
先ず、朝鮮通信使では一度だけだな

403日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:20:43.52
>>389
>魏使が末盧国に上陸地点した場所は名護屋浦以外にはあり得ません。

名護屋浦が大陸からの玄関口ならば、名護屋浦に大陸からの遺物がいっぱい有る筈。
福津や宗像のようにね。  @阿波

404日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:23:00.32
>>401
>史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、確率の高い帰納的推論だ。

帰納した形跡なし
確率も算定した形跡なし
ただの自己賛美美辞麗句だな
空疎

405日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:25:37.57
>>402
じゃあ確率が低いという反論は無効ね

こっちは「間違いはあり得ない」が否定できればいいの
そして目的は果たされてる
これ以上すること無し

406日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:33:27.69
>>330
>布留式甕になる前から、
畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順できっちり九州から出てるよ<

佐々木の論考は、柳田と米田らに拠って、既に否定されている。
庄内の列島での発生は、三雲であり、それから弥生銀座や東征毛人五十五國地域に伝わり、
その内の播磨や河内から弥生銀座付近に搬入上納されたのであり、
大和から弥生銀座への搬入上納は殆どなく、
布留は、米田に拠って、大和や河内よりも南加賀の方が古くて、
その南加賀と弥生銀座のどちらが古いか?が未定であるだけ。

>畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、
正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、<

畿内なんて存在もしない地名を使っているのが、嘘つき騙しのインチキ。
三雲や南加賀が大和よりも先行していた。

>畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが確認できる<

搬入上納土器は、播磨や河内の胎土であり、三雲や南加賀の模倣生産。

407日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:36:34.31
>>405
間違いはありえないと言うには
確率論が必要なんだがねw w

408日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:38:51.58
>>331
>お前の脳内の謎の「島巡り仮説」とやらが他に一切用例が無いってだけだからな
お前の脳内が間違ってるだけだろう<

そりゃ、中国の周りの島国で、
魏の使節らが里数や方向を記録しながら移動した、って事は、
倭地以外にないから、だろうよ。

それが判らないお前の脳は、腐っているんだろ?。

409日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:40:05.82
>>407
405は宗教だから放っておけば良いのに

彼は何も論じてない
南を東に変えないと畿内説が成り立たないから
ゴネてるだけ

410日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:40:32.21
驚いたな、、、キナイコシの脳が腐っているのか。。。。

411日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:41:58.29
>>333
>測定の精度が悪いと度量衡を統一してないのと同じ<

6倍も違う事なく、
有効数字1桁以内位の精度で記録出来た、ってことは、
度量衡が統一されていた、という事と同じ。

412日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:47:42.74
>>335
>独自の里なら、測量してない、<

秦漢代の公定里と比べて、6倍も違う事なく、
有効数字1桁以内位の精度で記録出来た、ってことは、
(周髀算経と同じの)短里を使って計測していた、という事と同じ。

413日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:48:44.40
>>411
陵遅刑じゃないから斬首は残虐な刑罰ではない
みたいな理屈に
笑笑

414日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:51:04.76
>>407
それなのに
間違いはありえない
と繰り返す九州は
宗教

415日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:53:43.61
>>412
短里って秦漢代の公定里と比べて
6倍くらい違いますが、何か?

有効数字1桁以内位の

416日本@名無史さん2018/06/11(月) 09:56:08.80
>>414
九州説しかありえない

邪馬台国の3000里南には小人国があるとか、ガリバー旅行記みたいな代物を
まじめに信じてどうすんだよw

侏儒国は、高知県沖の、沖の島だけどな

江戸時代の地誌「沖の島記」に
それらしき描写がある

417日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:00:57.62
江戸時代じゃだめだよw

418日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:01:10.30
>>416
だから九州さん
ガリバー旅行記みたいな代物を
まじめに信じてどうすんだよw

419日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:01:25.91
キナイコシはご都合主義だから、
論破される
シナリオがその場かぎり

420日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:02:27.99
>>419
という証拠は?

421日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:10:07.64
>>417
女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、
人の長(たけ)三・四尺、女王を去る四千余里。

復(ま)た国有り、皆倭種なり ←関西人  近畿のこと

又有侏儒國在其南

↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
 石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
 江戸時代の地誌「沖の島記」にそれらしき描写がある

 横山やすしの母方の故郷

422日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:11:13.87
皆さん、これが九州説です

423日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:11:59.74
>>421
そうだね。有名だね。

424日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:13:40.40
>>331
>お前の脳内の謎の「島巡り仮説」とやらが他に一切用例が無いってだけだからな

そういうことを書く時には、「島巡り仮説」とやらの他の用例を一つでも挙げれば
すごく説得力が出るのにww

それをしない、できない時点で、ただの空論ww

425日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:19:11.81
>>360
>変な世界観思想で、「実際よりも6倍も大きく描いた」報告書を書けば、
>バレれば、魏使らや陳寿の首が危ないだろうなあ。

三国志は晋の時代に書かれているから、司馬懿の公孫氏討伐の功績を大きく
見せるために、誇張した観念的距離が書かれているんだよ

東夷のことなんて、中原で詳しく知っている人なんていないし、知っていると
思っている人もその内容は、山海経や淮南子の観念世界の東夷なんだから

426日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:24:27.38
>>422
第225回活動記録 神武天皇陵の謎 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)

はその著書のなかで、洞村(被差別部落)の区長宅で多くの老人たちから聞いた
洞村内部の話 を次のように伝えている。 洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、
今は 街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上で ...
yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm - 13k - キャッシュ - 関連ページ

↑うちらの先祖は九州から神武にくっついてここに来たという伝承をつたえる


123 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2016/10/23(日) 12:17:44.27
野洲の銅鐸博物館に行ったとき九州からの侵略、征服などは絶対になかったと
力説してたど、で二階の踊り場にいくと被差別部落の歴史ね、ふーん。

427日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:25:39.17
皆さん、これが九州説です

428日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:29:51.75
被差別部落の人たちは九州から来たと言っていたんだね

429日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:32:05.27
>>428
部落の源流 単行本 ? 1997/7 高本 力 (著)

我が国の部落問題も解放令発布以来すでに120年になる。
この長い年月が経っても牢固として部落問題のみが解決しないのは何が故か。
東北地方から移配された蝦夷の俘囚を部落の源流とする本格的研究。

移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で
強制移住させられたものである。

俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴であった。
俘囚と公民百姓の差異に対応するため、812年(弘仁3)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、
俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。

430日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:32:37.67
九州説はどうも政治や思想がらみに流れるなあ

431日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:34:33.25
>>420
子供じゃあるま

432日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:34:37.83
>>430
物凄い色白女を沢山見かけるのは部落近く。
近畿以西はかつて東北からの強制移民、俘囚があるにはあった、
まあ短絡的にこれを部落の発祥だと言う気はない、様々な起源と事情で
今日の部落があると理解はしているが、特に羽曳野〜富田林。
隣近所の市町村と比べて明らかに肌の色が違う女が
多い。(男もそうなんだろうが単におれの助平根性で
あまり男は観察してないだけだと思う。)オセロの片割れの松嶋みたいな感じ。
堺あたりに行くと色黒の農民顔ばっかりでほんとにああいう色白は見かけない。
ちなみに羽曳野と富田林の間、元PLの私有地の中に、「毛人谷(えびたに)」
という変わった地名がある。当然、毛人=蝦人と推察出来る。
何かしらこの地が東北と繋がりがあったのではないかと思ってる。

433日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:35:28.78
九州説はもともと
皇国主義思想家が考案したものだから
仕方ない

434日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:35:54.39
>>420
子供じゃあるまいし

435日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:39:08.91
>>433
違う
邪馬台国がヤマト王権と思っていない
九州の勢力がヤマト王権を設立と言うことだけど
邪馬台国論争とヤマト王権設立は切り離すべき

436日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:46:57.09
>>435
主語のない、理由も書いてない、意味不明な文章

437日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:49:54.52
>>434
ほんと
言い張るだけで証拠を出さないのは
子供みたいだね

438日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:50:27.45
どっちもどっち

439日本@名無史さん2018/06/11(月) 10:58:37.92
>>340
>ホケノ山主体埋葬部は庄内か布留かの議論もあるが3世紀中頃。<

ホケノは、布留が出たそうだから、3世紀末以降。

440日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:03:24.70
>>438
なにが?


イミフ

441日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:04:54.94
>>439
それは木蓋腐食の崩落分だからノーカン

442日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:07:28.63
>>343
>会稽東冶の東なんだから短里じゃないし南は東の間違いだろう<

「会稽東冶の東」ではなく、「会稽東治之東」なんだから、
短里でピッタリだし、
「南→東」などは更に大間違いになってしまう。

>反論もできないで「見苦しい」とか感情論に逃げてるから正論に納得できないだけだよ <

「南≠東」や「短里」にまともに反論も出来ずに、
「見苦しい」とか感情論に逃げてるから、正論に納得できないだけだよ 。

443日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:10:54.52
>>346
>「度量衡の統一」なんて指示は存在しません。 <

文帝の即位の詔書で、「同律度量」と書かれた。

444日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:12:09.68
中国では会稽東冶だよ

445日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:19:19.57
>>349
>>魏志倭人伝が信用できないなら、「邪馬台国はなかった」とか本を書いてみてはいかがですか?<

>古田が書いてる<

古田さんは、
邪馬台国はなく邪馬壹國があった、
という説がだから、
邪馬台国に「」を付けて、
「邪馬台国」はなかった、
という「本の題名」にされた。

446日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:21:29.31
>>443
「度量衡の統一」なんて指示は存在しません。

447日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:21:31.37
>>424
中国は大陸国家だから魏志倭人伝みたいに島をつたって行く用例とか他にないですからね
逆に島巡りでない用例とかも無いですから島巡り説を否定の根拠も無いですね。

448日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:24:55.94
>>447
否定する確かな根拠があるんだよ
東夷伝に出てくる距離が国内の移動距離を含まないことになり、矛盾を産む

449日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:25:35.91
>>350
>文帝は「1歩=6尺」の始皇帝の換算命令を否定したのであるから、<

>これも捏造。<

漢代では、大部分の文献で「1歩=6尺」の公定換算を使っていたのであるから、
そんな事にまで、
文帝は、「同律度量」なんて指示をする必要性が全くない。
文帝は、始皇帝の「1歩=6尺」の命令が混乱の原因だ、と考えたから、
「同律度量」と書いた。

450日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:28:16.73
>>449
文帝が「同律度量」という指示をする必要性がない
という理由がない

451日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:29:00.94
>>351
このように、

大和説は、、周髀算経や魏志などを根っこから破壊しないと主張できない。
つまり無理。

452日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:31:15.25
>>451
破壊しないと主張できない
という証拠は?

453日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:34:47.31
>>354
>間違えないのは天文学者と建築家くらいだよ <

間違えるのは、
「自己解釈に拠って高慢な書き換え」をする後代史家や、
大和天皇家一元列島支配という国粋皇国史観戦争狂にクルって、
「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説学者らくらいだよ。

454日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:44:34.84
>>453
悪口は反論になりません

455日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:46:21.84
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

456日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:47:07.58
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、

457日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:47:41.19
倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、

458日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:48:38.71
周髀算経とは何だろうか。。。

459日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:49:31.29
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、

460日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:49:51.85
計算すると、西暦200年頃からだな。。。

461日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:50:08.31
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、

462日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:50:25.08
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、

463日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:50:41.60
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。

464日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:51:05.66
>>458
トンデモ本

465日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:51:13.62
大物主は何年前の者だろうか、、、

466日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:51:35.43
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、

467日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:51:52.11
あのお粗末な掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、

468日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:59:08.36
>>458
キナイコシが優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。

469日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:59:26.18
周髀算経について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。

470日本@名無史さん2018/06/11(月) 11:59:46.72
>>469
僕たちは周髀算経について、酸いも甘いも知りつくしてしまったね。。。

471日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:01:47.18
>>455
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、

472日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:03:02.21
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。

473日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:03:34.21
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。

474日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:04:19.00
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。

475日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:04:24.81
>>359
>>魏西晋朝の公定里や周髀算経の里は、短里。<

>だなんて妄想ね なんの根拠もない
周髀算経でさえ六尺=一歩、三百歩=一里だ<

周髀算経の、

立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。
即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。

が、そもそも、漢代初期に行われた「周髀算経の収集」の失敗部分。
「倍正南方,以正勾定之」であるから、区域が南に二倍位広がった事を意味し、
「即平地徑二十一步,周六十三步」と、
「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」とは、
同じ円でも、同心円でもなく、
天空上の斜めに配置された太陽位置(宿)を投影するための(円を二つ位含む)楕円形。

つまり、漢初期の収集者は、「立二十八宿」や「倍正南方」の意味が全く判らず、
二つの同心円だ、と考えた上で、
「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」という説明を追加してしまった、
という事になる。

476日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:05:42.11
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

477日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:07:34.88
>>471
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、

478日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:08:03.79
>>477
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、

479日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:08:31.87
>>478
ゴッドフットねw

480日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:08:55.47
>>479
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。

481日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:09:13.30
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

482日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:09:14.87
>>362
>計其道里當在會稽東冶之東はいろんな説あり却下<

魏志は「 計其道里當在會稽東治之東」であり、
後代史家の後漢書の范曄は、
「高慢な自己解釈に拠る東治→東冶の書き換えをした」半分×人間であり、
証拠にはならず×であり、
却下。

483日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:10:27.54
キナイコシに元気がなくなったな。。

484日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:11:03.49
>>483
周髀算経のことで、優れた考古学者達に打ちのめされ、恥を掻かされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。

485日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:13:00.75
>>448
>東夷伝に出てくる距離が国内の移動距離を含まないことになり、矛盾を産む

例えば?

486日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:16:54.73
>>401
>史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、確率の高い帰納的推論だ。

一例だけからの帰納って、事実上意味がないんだよ
循環論法でしかない

他例を沢山出せるならともかく、一例だけで言い張っても無駄なんだよね

487日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:26:19.03
>>485
末盧国はどこに到着して、どこから出発する?
そしてどこまで何里進む?
伊都国はどこに到着して、どこから出発する?
そして何里進む?
奴国はどこに到着して、どこから出発する?

おかしいだろ?

488日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:42:23.64
>>487
末盧国は北の端の名護屋浦に到着して南下して東に500里(約40q)進み伊都国との国境に到着。
そこから100里(8q〜10q)で奴国との国境。
どこもおかしくないよ。

489日本@名無史さん2018/06/11(月) 12:54:39.37
>>488

おかしい点がテンコ盛りだ

東にって、どこから500里進む?
そこまで何里南下してきた?
伊都国とどこの国境?
そこからなぜ100里進んで奴国との国境につく?

わけがわからない

490日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:00:18.70
>>489
末盧国は北の端の名護屋浦に到着して南下
唐津市付近で方向を変えて東に進み
唐津市から糸島市に入ったあたりが伊都国と末盧国の国境
ここまでが500里

糸島市(伊都国)を抜け福岡市(奴国)までが10qで約100里。

491日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:19:08.04
東夷伝とは、何だろうか。。。

492日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:19:44.13
>>341
>南が東になった根拠がイマイチわからない

方位磁石がない時代だからキチッとした方位自体がない。

「あの人は平均身長より5cm背が高い」という場合には平均身長という基準があるわけね。
でも平均身長という統計がない時代なら何センチ低いの高いのは言えないよね。

それと同じ。
zarakokuはアホだから壊れたレコードみたいに同じこと言ってるだけ。

493日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:22:54.19
>>490
>末盧国は北の端の名護屋浦に到着して南下
>唐津市付近で方向を変えて東に進み

このあと、北に向かわないと伊都国には着かないよ?
どうしてこういうみえみえのゴマカシをするかねぇ?

494日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:30:50.97
>>490
だから、どこから500里でどこから100里?

495日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:33:56.93
>>490 ピンチ

496日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:36:37.34
ボンチ

497日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:47:33.06
>>493
>このあと、北に向かわないと伊都国には着かないよ?

無視できるくらいの僅かな距離だから問題ないよ。

>>494
名護屋浦から500里
唐津市と糸島市の境から100里

498日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:48:39.06
>>490 とんずら

499日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:50:32.72
>>497 でたらめ

500日本@名無史さん2018/06/11(月) 13:51:33.10
>>497 恥知らず

501日本@名無史さん2018/06/11(月) 14:18:40.05
唐津市と糸島市の境から東南に100里なら
まだ唐津市だな
山の中を北に進んで、東南に戻ることになるな

502日本@名無史さん2018/06/11(月) 14:24:39.50
>>497
つまり国内を通過する距離ってことか?
なら、どうして壱岐対馬は違うの?

503日本@名無史さん2018/06/11(月) 14:29:47.62
>>497
唐津市と糸島市の境から東南に進むと
いったい何処に着くの?

504日本@名無史さん2018/06/11(月) 14:40:49.83
>>490
>末盧国は北の端の名護屋浦に到着して南下
>唐津市付近で方向を変えて東に進み

唐津市付近って、具体的にどこで方向を変えるんだ?

505日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:14:27.55
>>497 とんずら

506日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:18:50.74
県道34号線を南下して国道204号線に入り国道202号線に左折して市境を越えればそこが伊都国(筑前深江付近)
更に約100里進んで早良区の室見川上流付近へ、ここが奴国との境。

507日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:20:11.88
>>502
壱岐対馬も方可○○里とあるから国内を通過する距離ですね。

508日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:21:40.64
>>497
>無視できるくらいの僅かな距離だから問題ないよ。

ごまかすなよww
唐津湾の湾奥の一番南の地点と、伊都国の中心の三雲遺跡付近で、
南北差だけで9キロくらいにはなるぞ
九州説お気に入りの短里(そんなものはないけれど)が80メートルとして、
100里以上になる
末慮ー伊都間が500里なのに、その20%以上だぞ!

「無視できるくらいの僅かな距離」ってのは大嘘ww

509日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:27:15.96
>>507
方可○○里なら外側でしょ
どうして国内を通過する距離になるの?

おかしいよね

510日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:27:49.38
>>506の後、更に那珂川町方面に向かいその先が不弥国。

511日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:28:41.43
>>509
船で通過したから外側を通過したんだよ。

512日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:33:24.54
今日は>>509が凹られる日か

513日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:36:18.48
>>512
アンカー間違えた    今日は>>51が凹られる日か

514日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:37:10.32
今日は>>511が凹られる日

515日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:39:38.20
島巡り説の方が上陸後の行程を説明もし易いし
上陸地点も東松浦半島の北の端だとわかる。

516日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:44:41.77
名護屋浦から深江までなら東南に進む距離より
東と北に進む距離のほうが長い
深江から更に約100里進んで早良区の室見川上流付近へなら
道なりに20kmくらいはあるな

517日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:49:41.65
深江からなら室見川上流は東に陸行だよな

518日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:50:50.53
>>511  しっぽ巻いて逃げたか

519日本@名無史さん2018/06/11(月) 15:58:36.66
>>516
北西・北・北東
西・・・・・・・・東
南西・南・南東
しかないから東と北に進む距離のほうが長くても南東
早良区の室見川上流付近は奴国
その手前の国境までです。

520日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:00:06.04
>>518
伊都国や奴国の場所が明快になったでしょ。

521日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:00:15.12
船で外側を通過したら、壱岐〜名護屋浦間は
対馬〜壱岐間の半分以下になるだろうな

522日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:03:01.38
>>521
陸上なら歩測でだいたいの距離は測れますけど洋上の距離なので実測が出来ずに不正確なんでしょうね。

523日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:05:03.27
>>511
対馬国や一支国の国邑に寄らないの?
それは変でしょう

524日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:07:57.16
>>519

〜しかないからってのがわからんなw
不彌國からも南に出発した後、水行二十日と水行十日陸行一月を東に行けばいい
手前の金武まででも18kmくらいはある

525日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:11:09.35
>>522

不正確なら行程の確実な1里あたりの距離はわからないな
陸上のは仮定の比定だからな

526日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:20:27.57
>>523
寄港はしたとしても長居はしてないね

>>524
不彌國の次に来るのは斯馬國です
「水行二十日」と「水行十日陸行一月」は帯方郡からですね。

>>525
1里80mとして500里だと40q±4q
100里は8q±2qくらいですかね。

527日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:23:29.86
>>457
倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。

528日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:24:31.48
>>467
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、

529日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:24:54.39
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。

530日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:25:20.10
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。

531日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:26:11.28
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。

532日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:26:29.10
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。

533日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:26:46.72
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。

534日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:27:05.37
陸上は歩測でだいたいの距離は測れるなら
深江〜金武間が100里で18kmだから
名護屋浦から500里で90km進まないとだめだな
そうすると深江はとっくに通り過ぎると

535日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:27:16.63
>>479
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。

536日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:27:57.42
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

537日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:28:39.68
>>456
2013年以前から、桜井市のあの古墳は、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からの公式発表なのに。。。

538日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:29:17.38
>>527
もちろん、微妙にちがう

近畿  銅鐸人 もののべ主体

北部九州  倭人と半島人の混交  ハイブリッド

539日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:29:30.72
>>526

深江から8q±2qなら三雲にも届かないな

540日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:31:42.79
銅鐸人とは、何者だろうか。。。。

541subo2018/06/11(月) 16:32:48.86
万二千里=水行10日、陸行1月(水行は一航海千里の規定

水行20日の起点は帯方郡、里程、2万里

542日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:33:05.94
>>472
観光関係の宣伝目的ではないのかな。

543subo2018/06/11(月) 16:33:48.42
>>540
越人

544日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:33:55.35
>>526
渡海が50km以下だけど、なんで一里がそんなに大きいの?

545日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:34:11.34
銅鐸人とは、ネアンデルタール人だろうか。。。。

546日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:34:44.17
>>540
銅鐸の製作にかかわっていたひとたち

547日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:34:45.74
越人とは、ネアンデルタール人だろうか。。。。

548subo2018/06/11(月) 16:34:50.32
>>542
そのとおり

549日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:35:30.70
銅鐸とは、何だろうか。。。。

550日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:36:30.23
>>544
渡海は測れないので一律に1000里に合わせてるみたいですね。

551subo2018/06/11(月) 16:36:34.07
>>547
港川人

552subo2018/06/11(月) 16:38:12.07
水行は一日航海千里の規定を採用(基本である

553日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:38:24.04
>>540

具体的にひとつあげれば、伊福部氏
九州発祥
物部氏

のちに精銅の手腕を買われてヤマトの鏡つくりに

554日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:40:41.54
>>363
後代史家や現代大和説学者らの、「南→東」や「東治→東冶」などの、
元史料である魏志の都合の悪い記載を「何でも間違いだ」として曲解する、
いろんな「確率が殆どないトンデモ説」があっても、関係ないね。
元史料の勝ちだな。

555日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:43:58.52
>>526

>「水行二十日」と「水行十日陸行一月」は帯方郡から

隋書俀国伝に「夷人不知里數但計以日」とあるから
里数で記載されて、一大率が檢察している女王國以北の諸国が、
別の王がいる非倭人の従属国の伊都國等の諸国
不彌國から後の日数で表記されてる国々が倭人の女王国の構成国
従属国と女王国を合わせて倭国

556subo2018/06/11(月) 16:44:22.96
巴利国とは佐賀県の佐里である

557日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:48:55.05
>>367
>計測地不定なのでウソ <

周髀算経の筆者は、当然、
周地付近のどこででも同じ結果が出るの普遍性のある事だから、
計測地の地名など、書けないの。

だから、それが判らないこの男は、・・・・アホの詐欺師。
世間の皆さま、気を付けて下さいね。
この男は、議論に負けたら、
何時秋葉原や新幹線のような事件を起こすかも知れない、・・・・なんですから。

558日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:49:39.43
このつぶやき荒らしの人と、キナイコシ連呼の人は同じ人でしょ?
それと、連続句読点の人も?

559日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:53:06.61
>>557

根拠も無く言い張るだけだから
罵声で自論を守るしかない

560日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:53:38.77
>>369
>帯方郡から邪馬台国までの距離数は『萬二千餘里』
帯方郡から末廬国までをちょうど『萬餘里』としている。そうすると、末廬国から邪馬台国までは『二千餘里』しかない。
『二千餘里』の距離数は対馬から末廬国までの距離数と一致?
距離は正確に測れたのだろうか?(特に海路)
方位は間違えようが無いが・・太陽・星 <

魏使らは、当然周髀算経の一寸千里を知っているから、海路であっても、
大体の南北距離は測れ、間違えようがない。

一大國〜末盧國は、見えているから、簡易三角測量でも計測出来る。

561日本@名無史さん2018/06/11(月) 16:59:52.20
萬二千餘里は邪馬台国までじゃなくて、旁國を含む女王國の境界までの距離

562日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:15:34.06
>>370
>現実に方向間違えてんだから、その考えはペケなー<

魏使らは当然、漢代末に再収集注釈された周髀算経の、
「日の入り日の出方向に拠って東西南北を知る方法」」を知っているんだから、
現実に方向をほぼ間違えないのであり、
だから、この男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師であり、
新幹線や秋葉原で事件を起こすような×男。

563日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:19:39.11
>>562
>魏使らは当然、漢代末に再収集注釈された周髀算経の、
>「日の入り日の出方向に拠って東西南北を知る方法」」を知っているんだから、
>現実に方向をほぼ間違えないのであり、

それ知ってたら伊都国へ東南陸行って書かないね

564日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:23:58.86
>>371
新幹線男や秋葉原男やオームなどのように、
オレは正しいゾーと言ったからと言っても、
正しくなるわけもなく、
成立するゾーと言ったから成立するわけがない。

周地付近とその南北千里での、
夏至正午の8尺棒の影長を実測したデータが記載されているのであり、
形跡や証拠のあった数字をの、「実測として扱わない」とすることは出来ず、
「南→東」などの嘘つき騙しの現代大和説の・・・・から、
妄説と呼ばれたって、信用も出来ない。

565日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:25:49.49
>>560
>一大國〜末盧國は、見えているから、簡易三角測量でも計測出来る。

見えないよ

566日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:27:19.13
>>564
>周地付近とその南北千里での、
>夏至正午の8尺棒の影長を実測したデータが記載されているのであり、

そんなものが書かれてるって証拠は無い

567日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:29:13.51
>>373
>間違えた実例があるのだから
全称命題「方位は間違えようが無いが・・太陽・星」 は不成立
論理的にあたりまえだな<

魏や郡の役人たちが関与し計測した方位記録には、
間違いが全くのように存在していない。
拠って、この大和説男も嘘つき騙しの・・・・詐欺師であり、
新幹線や秋葉原やオームと同じような、危険な狂人。
論理的にあたりまえだな。

568日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:30:10.83
>>550
じゃあ一里の長さはどうやって出したの?

569日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:39:57.70
>>567の言動を見てると、いつ車中で狂刃を振るわないか不安でならないよ

570日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:42:52.08
>>560
>魏使らは、当然周髀算経の一寸千里を知っているから、海路であっても、
>大体の南北距離は測れ、間違えようがない。

それを知っていて、またそれが正しかった場合でも、
夏至の正午に
八尺棒を
垂直に立てて、
正確に影の長さを測らないといけない

夏至の頃に、倭国のいろんな場所で、きちんと正午に測らないと
一寸千里の法は使えない

そして、そこまでしても、南北方向の距離しか出ないから、
「東南」方向の距離は結局いい加減になる

そして、ここまで何度も書かれているように、一寸千里の法は
机上の空論で、きちんと測定しているという証拠がない

よって、ザラコクはうそつき

571日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:45:02.31
>>377
>例ならテンプレにあるよ<

何故、それを出さないんだい?。
嘘つき騙しの・・・・の大和説仲間だから?。

>古今東西世界中だれも間違えないとでも言うの?<

別に言わないよ。
そりゃ、世界中には、
東西南北の事がよく分からなかったり、
思想宗教などに狂った・・・・もいない訳ではないし、
判る必要もなかった人のいるんだろうし、
そのような人々からの伝聞情報であれば、少し間違っている事も有り得るが、
魏や郡の役人たちが確認した情報であれば、ほぼ100%間違える事はない。

572日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:49:00.47
>>378
>>周髀算経の一寸千里は、
周地付近やその南北千里の地点であれば、どこでも成立する、という記述。<

>大地は平面ではないのでどこも成立しない<

周地付近やその南北千里の地点付近以内であれば、有効数字2桁程度以内の程度で、
成立する。

573日本@名無史さん2018/06/11(月) 17:54:29.27
>>381
>東が南になったのは転写ミスだよ<

「南」と「東」とは、意味も字形も全く違うんだから、
転写ミスを起こす確率は、
類似意味や字形の場合でも0.5%以下なので、
0.1%よりもはるかに低い、というレベルだよ。

574日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:00:25.63
正確には地球の重力の等ポテンシャル面は回転楕円体の形なので、
地表の鉛直方向は、極および赤道を除き、地球中心を指していない。
さらに正確には地球の重力ポテンシャルは複雑で、
地表付近の重力の等ポテンシャル面(ジオイド)は複雑に歪んでおり、
回転楕円体面の法線方向と比べると、実際の地表の鉛直方向は傾斜していることになる。

だからまず谷本の計算で説明しているようなモデルの
延長が地球中心で交わるような八尺棒を垂直に立てて影の長さを測る平面を作ることが難しい
実際に各地で実験してみないとどのくらいの誤差が出るかわからない

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%9B%E7%9B%B4

575日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:07:47.40
>>382
>周髀算経が実測じゃないことは昔からバレてて、
漢代にもう蓋天説にツッコまれて論破されてる<

そりゃ、蓋天説も、周地付近での観察計測実態からの帰納的推論であったから。
しかし、一寸千里が実測であった、という記述であるから、唐代になっても、
まだ尚も、確認計測を命令する皇帝が絶えなかった。

>周髀家は反論できなくて論争に破れた<

いずこの世界でも、日本の・・・・大和説者らと同じように、
不可知部分に関しての議論で、
(自分等も出来ない癖に)
議論相手に「100%完全な証拠や論証」という不可能な事を要求して、
議論に勝った、と宣伝して、世間の人々を騙そうとする・・・・がいるもの。

576日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:08:56.57
>>568
質問の意味が分かりません。

577日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:12:02.34
古田が決めました

578日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:18:07.92
>>383
>確率が低いって根拠は? そんな統計あるん?<

写本での、一般の文字と類似文字との間違いの発生確率は、0.5%以下。
例えば、邪馬壹國と邪馬臺國や、治と冶や、二と三や、幢と憧など。
そして、「南」と「東」などのような、
意味も字形も全く違っている場合の間違える確率は、0.5%以下よりもはるかに低いから、
0.1%位以下。
だから、殆ど間違えない。

579日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:22:47.20
>>573
またインチキ数字を出してるな

580日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:24:44.70
>>576
一里が75mだとか80mだとかいう数字は
どこから持って来たの?

581日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:27:42.93
>>384
>そんなことは判らない<

校勘対象になった文字数や、後代史家が書き換えた文字数などを数えれば、
間違えた確率は簡単に出て来る。

>現地でのミスかも知れないし<

魏使らは、周髀算経を当然知っているから、「南」と「東」は、ミスを全く犯さない。

>翻訳の手違いかも知れないし<

魏使らは、実際に計測出来るんだから、「翻訳の手違い」なんて、全く存在しない。

>政治的意図で歪めたのかも知れない <

バレれば首が飛ぶ可能性があるから、魏使らは「政治的意図で歪める」事も、全く出来ない。

>間違いはどこにでも潜む<

正常の人には全く起きないが、
思想宗教に狂った・・・・大和説のような異常者であれば、どこにでも潜む。

582日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:30:26.85
>>385
>伊都国は末盧国の東南じゃないでしょ?<

陳寿の行程説明の習慣に拠れば、
「東南」は、(伊都国方向ではなく)、末盧國からの出発時点での出発方向。

583日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:33:59.43
>>582
>末盧國からの出発時点での出発方向

そんな読み方をするのは、九州説の中でもごく一部だけ

584日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:34:23.47
>>386
>奴国は伊都国の東南じゃないでしょ?<

奴國は、伊都国の東南百里(7.6〜7.7km)にある、という事だから、
伊都国からほぼ見えており、
「伊都国の東南じゃない」と言ったこの男が、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。

585日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:42:23.83
>>584
わけわからん
痴呆?

586日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:42:51.51
>>580
一番分かり安いのは
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」だな
1里80mなら韓の面積は102,400 km&sup2;となり
韓国の面積は100,210 km&sup2;と近い。

587日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:46:55.78
東夷の里が中原の里よりはるかに短かったのは、史料的に明らかですね。

588日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:51:18.09
>>586
魏のひと韓国の面積どうやって知った?

589日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:55:04.02
>>388
>>末盧国の上陸地点を名護屋浦とすれば<

>そもそも、その仮説が間違い。  @阿波<

名護屋もおそらく末盧國内の外縁部であるから、可能性は十分にあり、
「仮説」でもなく「間違い」でもない。

しかし、「阿波(倭国)」説は、
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、(大和説と同じく)、
ほぼ完全に間違い。

590日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:58:25.60
>>587
そんな里単位が使われたという根拠、ないんだけど

591日本@名無史さん2018/06/11(月) 18:58:35.91
>>475

>「倍正南方,以正勾定之」であるから、区域が南に二倍位広がった事を意味し、

ここでの「倍」は、背向(back towards)

http://www.zdic.net/z/15/xs/500D.htm

>天空上の斜めに配置された太陽位置(宿)を投影するための(円を二つ位含む)楕円形。

二十八宿は星宿
徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一 は、
1太陽年の長さ=365度4分の1

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%AE%BF

592日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:02:00.90
>>393
>間違った文献は幾つで、正しく書いた文献は幾つ?、

朝鮮通信使は、周髀算経の方向決定法や距離計測法を知らない単なる文官であったようであり、
案内日本人からの伝聞的情報でしかなく、
魏使らのような正確性は、始めから求められない。

593日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:13:38.96
>>588
韓は長いこと公孫氏の勢力下にあったから公孫氏が測ったんだろうな。

594日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:14:10.00
ホケノは邪馬台国と関係無いから、
どうでもいいと思ってます

595日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:17:52.55
>>586
1里が80mだと、唐津市と糸島市の境から100里行って前原市街地にも着かないんだけど

伊都国はどこ?
奴国はどこ?

596日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:18:45.02
>>594
相争ってた倭国大乱の片方だから思いきり関係がある。

597日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:24:49.78
南が東の方位の違いは

詳細には分からないが

春秋、史記、漢書、後漢書、三国志、で

方位が違う例が多数存在するなら納得できる

誰か詳しく人居ないか

598日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:27:30.09
すまん
中国の古代正史に詳しい人が
居れば、方位の違い倭人伝以外で多数照会して欲しい

599日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:29:31.73
>>597
だが、転写ミスと言われてる古代中国の文献も含めてヨロシク

600日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:29:34.87
唐津市と糸島市の境には山があるので伊都国は筑前深江付近が実質的な国境で
筑前深江付近から100里(8q)ですが、切りの良い100里は丸めた数字でしょうから
8q±2qくらいは幅があるでしょう
筑前深江付近から10qで福岡市が奴国ですね。

601日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:31:23.09
>>596
倭国大乱は九州内ですからホノケとか関係ない。

602日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:33:59.14
ホノケって阿保みたい

603日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:35:46.92
>>600
>筑前深江付近から10qで

相変わらず適当だな(呆)
筑前深江の駅から10キロ直線で行っても、まだ糸島平野の中だぞ

ザラコクみたいに、糸島平野まで奴国を引っ張ってくる気か?

604日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:44:38.85
九州はザラコク程度

605日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:44:54.11
>>600
>唐津市と糸島市の境には山があるので伊都国は筑前深江付近が実質的な国境で

もっとずっと西の大入や福吉に遺跡ありますけど?
唐津市と糸島市の境からじゃなかったの?

606日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:45:24.40
>>581
ありがとう
政治的意図は中国?日本?

607日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:48:14.95
キウス

608日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:50:43.94
しばし

邪馬台国は倭人の圀
ヤマト王権、朝廷、今の日本は渡来人と倭人の合作の圀じゃよDNA

609日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:51:58.78
ホケノの畿内説の位置づけ最近変わってねーか

610日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:54:57.86
学者が笑われてるよ
何なの
「纒向型前方後円墳」wwwwwww

611日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:55:13.65
九州と畿内の地名の類似がよく言われる。

九州から畿内に地名が移ったという論者がほとんど。
が実際は逆で畿内から九州だ。

地名の類似では久留米と橿原市の久米対応している。
が、久留米の語源はそんなに古くない。
一方、橿原の久米は神武の時代であろうから2世紀末。

また大分の玖珠と葛城の国栖が対応している。
国栖はクス゛の語源であり神武以前からある。
一方,大分の玖珠は古くはない。
玖珠にクス゛という差別問題はない。

この九州と畿内の地名の類似、何のことはない、遣唐使が持ち帰った風水であろう。

612日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:57:17.50
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

613日本@名無史さん2018/06/11(月) 19:59:49.62
>>612
>17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)

魏志倭人伝の時代からありそうだね。

614日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:00:54.22
>>611
神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。
久米一族については、徳島県石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。

一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。

まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。  @阿波

615日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:01:46.25
>>605
疑問だが
当時は獣道じゃねーか
人の道の熊野古道(日本書記で出現?)も3、4世紀 無かったんじゃねーの

616日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:04:24.01
>>611
朝倉地方を中心とした北九州地方の地名と大和地方を中心とした畿内の地名に驚くほどの酷似があり、
発音がほとんど一致しているだけでなく相対的な位置関係もほとんど同じである。
これはアメリカなどイギリスからの移民が行なわれた国々にイギリスと同じ地名があるのと同じで、
この地にあった勢力が畿内に移る時に地名も一緒に移ったものと考えられる。
折口信夫も日本の地名に同じものが多いのは偶然ではなく民団の移動とともに地名も
持ち運ばれたからであると述べている。

畿内説の弱点は、九州と近畿の地名相似を説明できないことにあると思う
どう考えても、どちらかの移住者が過去の地名を移住先に付けたとしか思えないが、
畿内→九州への移住は考えにくい

617日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:05:51.27
>>610

卑弥呼の墓が前方後円墳の始まり?
前方後円墳が邪馬台国となんらかの
関係があるのか誰も分からない 学者もお手上げ前方後円墳と邪馬台国

618日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:08:05.48
久米の名は、天孫が筑紫に降臨する時に随伴した天津久米命に由来し、神武東征の時も天津久米命の末裔の大久米命が随伴した。
久米の子らと呼ばれる近衛部隊のようなものだったろう。
最後は大和に骨を埋めたが、筑紫の方が古いのは明らかだ。

619日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:08:45.92
3世紀三輪山がご神体なら
前方後円墳は東西南北一致してるはずだがバラバラ  何故

620日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:10:28.62
畿内説のスレらしくなってきた
前方後円墳と邪馬台国  
興味ある議題

621日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:11:51.76
>>616
>どう考えても、どちらかの移住者が過去の地名を移住先に付けたとしか思えないが、
>畿内→九州への移住は考えにくい

簡単なこと。  九州←倭国(阿波)→畿内  @阿波

622日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:12:44.41
>>616
いやだから久米=久留米と国栖=玖珠の例を出して、
畿内の方が古いと言ってるわけだが?

623日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:14:25.70
>>397
>>きちんと、周地付近や南北千里や、それらの地での夏至正午の8尺棒の影長を、
1尺5寸や1尺6寸や1尺7寸であった、と記録してあるから、 実測値。<

>それは計算で出しただけ<

逆。
実測値から、天地の数を計算で出した。
天地の数が決まっていたんなら、
一寸千里などの数字を記載する必要がないし、求める必要がない。

624日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:16:23.62
>>619
>3世紀三輪山がご神体なら
>前方後円墳は東西南北一致してるはずだがバラバラ  何故

倭国(阿波)の豪族墓だから。 もちろん、3世紀は三輪山がご神体ではない。  @阿波

625日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:17:06.94
>>620
箸墓が最古の前方後円墳でモモソの墓としたら
陵墓を見直す必要があるな

626日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:18:57.62
>>399
>>だから、不彌國で萬二千余里は殆ど使い果たしており<

>それは古田珍説の独自解釈<

いや、魏志の記載からの「史料批判に拠った史料実態」。
大和説の解釈の方が、国民の7割に否定されているから、単なる・・・・大和説者の独自解釈。

627日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:21:14.97
>>620
奈良の前方後円墳は倭国(阿波)が発祥で、倭国(阿波)の資材・工法に拠っている。  @阿波

628日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:22:17.36
畿内説 虐めすぎ
ど素人の畿内説の輩は虐めは容易い
学会へおいで

629日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:22:39.31
>>623
実測してないことはバレてんだよ

630日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:24:45.19
>>622
「《近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であっ
たことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。倭人伝
は、すでに「邪馬台国」の名で呼ばれる北九州の部族連合体政権を魏の使者の報告通りに記載
しているので、この連合体政権は、それより早く、二世紀の後半には存在していたとみなけれ
ばならぬ。そして北九州で蓄積され発達した、この政権のエネルギーがわが国の中央部である
やまと東に移り、現地の部族連合体を吸収して大和古代国家の基礎となったであろうことは
すでに多くの学者の説くところである。すなわち畿内政権の故郷は北九州であると
無理なく考えられよう。記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の

「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州に
ずっと以前からあったものとみなければならない。ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、
豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、

大化後の行政区画である豊みやこ前豊後のうち、豊前がその原体である。
それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家の
いずれも認めるところである。

631日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:25:34.92
>>400
>>有効数字1桁程度の近似値計測であったから、ばらつきがあったのであり、<

>ばらつき以前に、何処からどこまで測るか 地点の特定すらも出来ていない
説として成り立っていない<

陳寿は、国間距離は原則として、出発地点も到着地点も、
その国内に立った事の確認が出来る「居住外縁部」までの距離で示しており、
その意味で、特定出来ている。

勿論、むしろ大和説の方が、
「何処からどこまで測るか 地点の特定すらも出来ていない」。

632日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:25:46.11
つまり、この京都郡地域は、東遷して成立した大和政権の、母なる地であったことが推定されるのである。
豊の国のミヤコあがたは、伝説の景行天皇が熊襲征伐のとき行宮をこの地方のナガオ(長峡)の県に
置いたから起こったというが、ミヤコを皇都の意味にした京都の字を宛てたのは奈良朝で、
ミヤコというのはこの地方の独立した古い地名であった。
「一体に古い地名は意味のわからぬのが多いことを考えねばならぬ」と津田左右吉博士が言っているとおり、

ミヤコ=京都としたのは二、三世紀と八世紀とを突然に接合したようなものだ。
古い地名のミヤコは、あるいはヒミコとも関連があるかもしれず、空想を許されるなら、
ヒミコは魏の旅行者がミヤコを聞き誤っての訛伝かもしれないのである。
ミヤコの地名が皇都として畿内に東漸したのは、民族の移動に付随してあり得ることである。

いったい景行天皇の西征は架空の物語で、これは奈良朝に全国統一を誇示するために創作された。

景行帝が九州に入った最初の行宮がトヨの国の長峡であったことは、このかつ地が大和政権の
曾ての故郷だったのを現わしている。景行紀によってミヤコ(京都)の名がこの地方に
起こったのではなく、五世紀も隔てて忘れかけられている母国の名がようやくにして
「地方誌」に書きとめられたのである。明治三十三年に京都郡小波瀬村の挾間畏三という人が
『神代帝都考』という一書を著して京都郡仲津郡内を記紀の神代史の地名に当てた。

633日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:27:10.13
>>622
国栖はともかく久米は明らかに筑紫→大和だよ。

634日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:27:10.79
>>625
>箸墓が最古の前方後円墳でモモソの墓としたら

磯城の王・伊香色雄命(いかがのしこお)であろう。
妹の伊香色謎命(いかがのしこめ)とヒメヒコを形成してることに留意。

この伊香色謎命(いかがのしこめ)から産まれたのが1ミマキイリヒコこと崇神。

崇神が行灯山古墳だとして、その崇神陵墓より巨大な墓を造れたのは、
崇神の叔父であり磯城の王であった伊香色雄命(いかがのしこお)。

635日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:27:33.34
ずっと後代になって、暦日が制定され、日付が誰の知識にも入ってくると、
日時をきめて市場が開催されるようになった。
二日市、四日市、五日市、八日市、十日市、二十日市(豊前にも四日市がある)の地名がその
起りということは、ひろく知られている通りだが、「ツバキの市」はそれ以前の原始的形態で、
古代の交換経済の実施場所であったろう。「最初は種族と種族とが、それぞれの氏族長を通じ
て交換した。しかし畜群が特別財産に移りはじめるや、個別的交換が次第に多くなり、逆に唯
一の形態となった。

倭人伝に「大倭」がこの市を監したと伝えるのは、すでに権力階級の発生があったからであり、
この地方権力者による云い伝かんせんえが、のちに中央政府によって官撰の歴史に組みこまれたのであろう。
そういう例は多いのでよある。ツバキが古代に珍しかったのは八、九世紀になっても万葉集などに多く
詠まれているこやまとしきとで分る(4)。海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。

これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の
径路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおける
イングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を
そうしつ喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の
うたがきがはるかに古い証である。大和の海柘榴市が上代の歌垣の場所になったというのは、古代市場
としての広場の機能が転化したとみられるが、わずかにその名残りも伝えられないではなかった。

636日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:28:12.57
>>630
>近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であった

北九州にそんな部族など存在しない。  @阿波

637日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:29:52.35
>>633
ならば神武の臣下・大久米命は久留米から来たのか?

九州の方が古くあってほしいという君の願望は何の根拠にもならない。

638日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:30:41.23
「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。

仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。

 奴佳鞮

ぬかて

なかとみ

中臣郷

中臣鎌足

中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい)

639日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:31:22.76
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1

640日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:32:03.41
畿内説だと...
大国主 そんな人はいません、ただの伝説です
アマテラス そんな人はいません、ただの伝説です
ニニギ そんな人はいません、ただの伝説です
木花咲耶姫 そんな人はいません、ただの伝説です
神武 そんな人はいません、畿内王権は自然発生したのであり、筑紫から流入した勢力などありません
卑弥呼 そんな人はいません、実は◯◯姫で、王宮は纒向4棟だけです

九州説だと...
大国主 筑紫の前の倭王です
ニニギ 倭国の王都を筑紫伊都に定めた倭王です
木花咲耶姫 三雲南小路遺跡にニニギとともに葬られた王妃です
神武 筑紫を出て大和に入りました
卑弥呼 筑紫の日向の伊都でクジフル山に高千穂宮の楼閣高くして千人の奴婢が仕え、太陽を象徴する史上最大の「八咫鏡」を持ち、その墓は伊都国代々の王家と同じ方形周溝墓であり古代神道の成立を示す鳥居に守られていました

641日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:32:48.22
>>403
>>魏使が末盧国に上陸地点した場所は名護屋浦以外にはあり得ません。<

>名護屋浦が大陸からの玄関口ならば、名護屋浦に大陸からの遺物がいっぱい有る筈。
福津や宗像のようにね。  @阿波<

正式の「玄関口」としては、
伊都国が「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯 」
としてして示されている。

そして、名護屋は、一応末盧國の居住外縁部にあたる可能性は十分にある。

勿論、「阿波(倭国)」は、「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠っても×。

642日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:33:11.30
>>637
神武本人が九州の生まれなのだから当然だ。
そもそも天孫降臨から久米の名が記紀に登場するのだから。

643日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:33:15.23
纒向の掘立柱建造物

石床いくつみつかったの

復元計画があるみたいだけど

纒向は どう復元するの

秀吉の一夜城(墨俣)の見た・・・復元じゃない

墨俣の一夜城は復元と誰も言わないし、象徴的に立てのは周知

644日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:34:05.09
応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。

​平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。

・25代平均  応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年  11,28年
・28代平均  応神天皇390年〜42代文武天皇没707年  11,32年
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
・33代平均  応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年  11,33年
・35代平均  応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年  11,17年

11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、

「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。

11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。

神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。

645日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:34:06.41
>>634
>磯城の王・伊香色雄命(いかがのしこお)であろう。
>妹の伊香色謎命(いかがのしこめ)とヒメヒコを形成してることに留意。

その・伊香色雄命・伊香色謎命 兄妹を今も大切にお祀りし続けているのは
全国唯一、倭国(阿波)だった阿波の忌部の郷。  @阿波

646日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:35:13.77
筑紫に卑弥呼の倭国政権、大和に神武の地方政権

647日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:38:31.48
>>639
お。わしの書き込みをコピーして保存してくれてたのか、うれしい。
どんどん信者が増えてくる。
わしの言ってることが正しいからだ。

纏向遺跡は物部。
女王が住んだのは葛城。

ヒミコの墓は高天原(御所市高天)の日本最古の神社の境内にある。
径百余歩の塚の端に奴婢(土蜘蛛)が埋葬されている。

648日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:39:51.82
>>647
年代比定は概ねあっているだろう。
ただし、卑弥呼は九州福岡だ。
神武は大和の田舎の大将。

649日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:40:51.21
>>404
>>>終わらせるためには、他に一切用例のない「島巡り仮説」を採用しないといけないww<

>史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、確率の高い帰納的推論だ。<

>帰納した形跡なし 確率も算定した形跡なし ただの自己賛美美辞麗句だな 空疎<

5chでも、帰納した事の説明や、確率を算定した説明は、
もう何度も何度も書いて来てある。
wwは、ただの、都合の悪い事に対しての、
「口先での嘘つき騙しのヘイトスピーチ的な街宣」の美辞麗句だな。
空虚。

650日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:41:26.62
前方後円墳は畿内の実力者であった物部の墓
神武の実時代は3世紀
卑弥呼がいたのは倭の王都である筑紫

651日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:43:42.43
>>642
j神武は九州であるのは当たり前だが、
久留米と南九州では大きく違う、そこら辺を大雑把にするな。

崇神が神武の痕跡地に宮崎神宮を建てている。
崇神が約100年前の祖先の出身地を間違えるわけがない。

神武も久米も南九州であり久留米は何も関係がない。

652日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:43:46.50
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

653日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:43:54.87
>>650
>前方後円墳は畿内の実力者であった物部の墓

だから、忌部一族の墓ということ。  @阿波

654日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:45:05.74
【筑紫の日向】

そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。

655日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:49:48.43
>>653
物部の祖である饒速日が十種の神宝の鏡を籠神社に残し、大和で神武と会っている(何歳だ?)。
畿内を開拓したのは饒速日ら物部氏であり、前方後円墳の主である。
阿波などお呼びではない。

656日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:53:22.71
>>655
> 阿波などお呼びではない。

物部の祖である「伊香色雄命・伊香色謎命」 兄妹を今も大切にお祀りし続けているのは
全国唯一、倭国(阿波)だった阿波の忌部の郷。  @阿波

657日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:53:55.47
>>405
>>南を東にしたいなら自分で調べたらいい 確率が高ければ畿内説に優位だと思う
先ず、朝鮮通信使では一度だけだな<

>じゃあ確率が低いという反論は無効ね
こっちは「間違いはあり得ない」が否定できればいいの
そして目的は果たされてる これ以上すること無し<

間違いの有無は、不可知部分への確率的な問題であり、
確率が低い、という反論は十分に有り得る。
そして、「間違いはあり得ない」も確率的であり、
それの「否定」など出来る筈もない。

つまり、この男も、不可知部分に対する「絶対性」を要求して、
議論に勝ったような形に装って、
世間の人々を騙そうとする、・・・・詐欺師の大和説者の仲間。

658日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:54:02.76
>>649
>5chでも、帰納した事の説明や、確率を算定した説明は、
>もう何度も何度も書いて来てある。

うそついてもダメ
うそでないなら説明書いてみな

659日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:57:34.10
>>655
>畿内を開拓したのは饒速日ら物部氏であり、前方後円墳の主である。

その物部氏も前方後円墳も結局は忌部一族。  @阿波

660日本@名無史さん2018/06/11(月) 20:59:22.16
阿波を開拓したのは、鴨王のさらに末裔だよ。

661日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:00:12.77
>>605
名護屋浦から500里(40km)ですから大入や福吉は通り過ぎてしまいますね
もっと東の伊都ゴルフ倶楽部付近が伊都国の国境ですかね。

662日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:01:28.25
>>660
>阿波を開拓したのは、鴨王のさらに末裔だよ。

無礼者。 頭が高い。  @阿波

663日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:01:51.01
>>407
>間違いはありえないと言うには 確率論が必要なんだがねw w<

もう既に、三国志における差異や間違いの発生確率に関しては、
三国志のおよそ80万字の内で、差異発生のために校勘に供された文字数が4000字余りであった事から、
全写本版本での差異発生確率は、約0.5%位だと判っている。

664日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:08:08.66
>>413
>陵遅刑じゃないから斬首は残虐な刑罰ではない みたいな理屈に 笑笑<

またまたの、意味不明な「口先でのヘイトスピーチ的な理屈」に対して、笑笑。

665日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:14:11.95
>>414
「間違い発生確率は0.5%以下だ」と言っているのに、
「100%間違いはありえない」と断定したかのヘイトスピーチを繰り返す大和説者は、
もはや・・・・宗教。

666日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:18:50.81
>>415
>短里って秦漢代の公定里と比べて6倍くらい違いますが、何か?<

短里って秦漢代の公定里と比べて6分の1くらい距離ですが、何か?。

>有効数字1桁以内位の 、<

有効数字は、直接関係がありませんが、何か?。

667日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:24:01.71
>>418
>だから九州さん ガリバー旅行記みたいな代物を まじめに信じてどうすんだよw<

侏儒國は、魏の役人たちの実見記録の形だし、
種子島や済州島南部にも、低身長部族の存在があったみたいだし、
当然、ネグルト系の渡来があった可能性はある。

668日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:26:17.29
>>420
>キナイコシはご都合主義だから、 論破される
シナリオがその場かぎり <

>という証拠は?<

このスレでの投稿や議論が証拠。

669日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:30:46.77
>>422
>皆さん、これが九州説です<

皆さん、このような、
何の根拠も論理も言わずに、口先でのヘイトスピーチだけ、というインチキが
大和説者らです。

670日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:37:49.82
>>424
>そういうことを書く時には、「島巡り仮説」とやらの他の用例を一つでも挙げれば
すごく説得力が出るのにwwそれをしない、できない時点で、ただの空論ww<

中国の周りに、中国役人らの「島巡り」した例が他にはなかった、
と説明した事を隠して、
「他の用例を一つでも挙げれば」なんてヘイトスピーチ宣伝をするwwは、
やはり、・・・・詐欺師の異常者。

671日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:44:47.84
>>425
>>変な世界観思想で、「実際よりも6倍も大きく描いた」報告書を書けば、
バレれば、魏使らや陳寿の首が危ないだろうなあ。<

>三国志は晋の時代に書かれているから、司馬懿の公孫氏討伐の功績を大きく
見せるために、誇張した観念的距離が書かれているんだよ
東夷のことなんて、中原で詳しく知っている人なんていないし、知っていると
思っている人もその内容は、山海経や淮南子の観念世界の東夷なんだから<

ダメだよ。
魏使らには当然役人たちや従者が付いているから、
ウソを書いた事がバレれば首が危ないし、
その後の張政らも来ているから、
梯儁等が嘘を書いていれば、直ぐにバレてしまって首が危なくなる。

672日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:48:10.31
>>427
皆さん、これが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者です。

673日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:51:28.50
>>430
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
どうも政治や人種差別や部落差別などの思想がらみに流れるなあ。

674日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:54:22.64
>>433
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
もともと皇国主義の・・・・思想家が考案したものだから、仕方ない。

675日本@名無史さん2018/06/11(月) 21:57:17.66
>>437
ほんと、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
口先で言い張るだけで証拠を出さないのは、
子供や・・・・みたいだね。

676日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:00:07.98
>>441
>(ホケノの布留)それは木蓋腐食の崩落分だからノーカン?。

ふーん?。
「木蓋腐食の崩落分」であれば、何故ノーカンなの?。

677日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:10:26.44
キウスとトンスルと伊都クズとザラコク

678日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:14:37.62
九州変人ばかりかよ

679日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:18:23.53
>>444
>中国では会稽東冶だよ<

中国の宋明清代の考証校勘では、
魏志倭人伝の「会稽東治」は「会稽東治」のままだよ。

680日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:23:40.12
>>446
>「度量衡の統一」なんて指示は存在しません。<

初代文帝の即位の詔書は「同律度量」という方針を書いており、
「律度量を同じゅうする」と言っているんだから、
度量衡も同じではなかった、という事であり、
度量衡の統一を指示した事になっている。

681日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:48:57.25
>>448
>否定する確かな根拠があるんだよ 東夷伝に出てくる距離が国内の移動距離を含まないことになり、矛盾を産む<

倭人伝でも、原則として、韓國や對海國や一大國などのように、
国の大きさを記載して国内移動を書いた場合には、その国の大きさの分の距離算定がなされ、
末盧國のように、国の大きさを記載しないで国内移動を書いた場合には、
その国の国内移動の距離を算定していない、という規則性がある。

また、「方三百里」以下の大きさの国は、
国内移動があっても、その移動距離を加算しない、という可能性もある。

また、東夷伝では、遼東と高句麗の関係や、高句麗と扶余の関係において、
例えば、遼東高句麗間の千里が両方の首都間距離で、高句麗の大きさが二千里であるんなら、
高句麗領土が遼東の中心部付近にまで達してしまう、という矛盾が発生し、
その矛盾を避けるには、遼東の居住外縁部と高句麗の居住外縁部の間の距離が千里だ、とする解釈が必要になり、
その場合には、その千里は、別の小部族國や無人地帯の存在を想定しなければならない、という事にもなり、
例えば「陸行五百里」部分は、別の小部族國や無人地帯であった、という事も想定しなければならなくなる。

682日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:51:58.32
>>637
小野田口伝から
九州から畿内に移民があった伝承があるからねしょうがないな。

683日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:56:19.68
>>450
>文帝が「同律度量」という指示をする必要性がないという理由がない<

文帝は、秦漢代の公定(長)里を肯定していたんなら、
秦漢代は、長里が圧倒的に優勢な使用状況であったんだから、
今更、肯定長里を減らす可能性があるような「同律度量」という指示を、
する必要がない。

684日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:59:26.61
>>681


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?



今言えサキジジイ! 

685日本@名無史さん2018/06/11(月) 22:59:42.13
古代史はなにわ
なにわ中心にぐるぐると時代は回る

奈良は代理戦争の場所

686日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:00:28.60
>>452
>>このように、 大和説は、周髀算経や魏志などを根っこから破壊しないと主張できない。
つまり無理。<

>破壊しないと主張できない という証拠は?<

行程記載里数が(長里ではなく)短里であれば、
大和には全く届かないから。

687日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:12:37.73
>>486
>>史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、
確率の高い帰納的推論だ。<

>一例だけからの帰納って、事実上意味がないんだよ 循環論法でしかない
他例を沢山出せるならともかく、一例だけで言い張っても無駄なんだよね<

変な男。
1例からであっても、その内実には多くの論点に関する事実を持っており、
多数例からの帰納的推論が出来るもの。

688日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:21:18.70
>>487
>末盧国はどこに到着して、どこから出発する?<

居住外縁部に到着して、国内移動説明があるから、別の居住外縁部から出発する。

>そしてどこまで何里進む?<

伊都国の居住外縁部まで、「陸行五百里」進む。

>伊都国はどこに到着して、どこから出発する?<

居住外縁部に到着して、次の国へ近い所の別の居住外縁部から出発する。

>そして何里進む?<

不彌國の居住外縁部まで百里進む。

>奴国はどこに到着して、どこから出発する?<

奴國へは、向かっていない。

>おかしいだろ?<

お前の顔と頭がおかしいんだろう。

689日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:23:46.06
>>489
>おかしい点がテンコ盛りだ・・・わけがわからない<

お前が「南→東」などの嘘吐き騙しだから、わけが判らない。

690日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:30:12.36
>>492]
>>南が東になった根拠がイマイチわからない <

>方位磁石がない時代だからキチッとした方位自体がない。<

漢代には、既に方位磁石があった筈。
勿論、周髀算経や礼記の「東西南北」の決め方もあった。

>「あの人は平均身長より5cm背が高い」という場合には平均身長という基準があるわけね。
でも平均身長という統計がない時代なら何センチ低いの高いのは言えないよね。<

東西南北に関しては、周髀算経や礼記の計測法や方位磁石などがあった。 それと同じ。
wwは「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホだから、
壊れたレコードみたいに同じこと言ってるだけ。

691日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:34:15.36
>>493
>>末盧国は北の端の名護屋浦に到着して南下 唐津市付近で方向を変えて東に進み <

>このあと、北に向かわないと伊都国には着かないよ?<

「陸行五百里」は、案内人や道なりに従って行くんだよ。

>どうしてこういうみえみえのゴマカシをするかねぇ?<

「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者らは、
どうしてこういうみえみえのゴマカシをするかねぇ?。

692日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:37:38.41
>>494]
>だから、どこから500里でどこから100里? <

末盧國の外縁部を出発してからの「陸行」が五百里であり、
伊都国の外縁部を出発してからが100里。

693日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:42:22.53
>>502
>つまり国内を通過する距離ってことか? なら、どうして壱岐対馬は違うの?<

一大國は方三百里だが、
末盧國は、国内移動がおそらく3百里以下であったから、書かれなかった。

694日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:46:12.83
>>504
>>末盧国は北の端の名護屋浦に到着して南下 唐津市付近で方向を変えて東に進み<

>唐津市付近って、具体的にどこで方向を変えるんだ?<

おそらく、末盧國から東南に出発した後の、松浦川の河口付近で。

695日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:46:34.61
>>368
そもそも北緯35度付近だと南北で
それぞれ棒の影長が基準地から一寸違う場所を探して実測したとして
どっちも丁度千里になるなんてないぞ太陽が真上にないんだから
南と北どっちも千里で基準地からの棒の影長が一寸差になりましたなんて
書かれてあるのは一寸千里が実測値でない証拠
ゆえに短里の根拠にはならない
あと周地付近てどこだよ周髀算経にはっきり地名書いてないの?

696日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:51:41.82
>>509
>方可○○里なら外側でしょ どうして国内を通過する距離になるの?
おかしいよね <

古田さんは、外縁の二辺通過説だが、
私は、「一辺〜二辺」通過説だよ。

697日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:54:20.27
>>509
>船で通過したから外側を通過したんだよ<

国内の移動や見聞記録が書かれているから、
陸上移動だよ。

698日本@名無史さん2018/06/11(月) 23:57:31.79
>>517
>深江からなら室見川上流は東に陸行だよな <

魏使らは、奴國へは行っていない。

699日本@名無史さん2018/06/12(火) 00:01:43.35
行とか水行とかが移動の動詞
方○○里は移動の動詞じゃないから移動した記録じゃないな

700日本@名無史さん2018/06/12(火) 00:04:37.70
>>524
>〜しかないからってのがわからんなw
不彌國からも南に出発した後、水行二十日と水行十日陸行一月を東に行けばいい
手前の金武まででも18kmくらいはある<

不彌國で萬二千余里の里数記載がほぼ終わっており、
日数記載は、里数記載ではないから、行程自体の里数記載とは別のの説明になるの。

701日本@名無史さん2018/06/12(火) 00:11:31.80
>>700


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えサキジジイ! 

702日本@名無史さん2018/06/12(火) 00:29:00.95
>>441
当時の発掘担当者が後世の混入物ではないとはっきり言ってるが

703日本@名無史さん2018/06/12(火) 00:40:12.61
>>687
一例だけで推理するのもいいが

一例だけでドヤ顔されてもね

704日本@名無史さん2018/06/12(火) 00:53:36.25
>>701
邪馬台国論叢なんて推理だろ
推理の不都合を指摘するのも結構だが
個人的な感情出しすぎだよ
たぶん、あんたの求める証拠は出ないと思うよ
半面
周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来「定着していない」という証拠も無いだろうし

705日本@名無史さん2018/06/12(火) 01:13:51.75
>>704
>たぶん、あんたの求める証拠は出ないと思うよ

どうみても、出ることを期待しているわけではないと思う。

706日本@名無史さん2018/06/12(火) 01:22:15.54
>>643
纒向の復元はいかがなものかな・・・どのようなものができるか興味あるが
石床は発見されていないのでは?だから掘立柱建物、あれば堂々と高床建物と主張できる。
現段階では平屋建物とみるべきだろうね
復元は
観光目当てでしょうが 後世で赤っ恥かく可能性もある

707日本@名無史さん2018/06/12(火) 01:29:35.07
>>703
禿同

708日本@名無史さん2018/06/12(火) 01:46:43.56
>>670
>中国の周りに、中国役人らの「島巡り」した例が他にはなかった、

この時点で、帰納でもなんでもないただの憶測
何の根拠もない思いつきだってことさね

それを正しいと言い張るカルトのあさましさよ

709日本@名無史さん2018/06/12(火) 01:50:22.83
>>687
ザラコクさんに論理を教えるのはあきらめてるよ

>「1例からであっても」、その内実には多くの論点に関する事実を持っており、
>「多数例からの帰納的推論が出来る」

もう論理以前に日本語が通用しないんだものww

710日本@名無史さん2018/06/12(火) 01:53:19.11
>>693
>末盧國は、国内移動がおそらく3百里以下であったから、書かれなかった。

以前にザラコクさんは、末慮國ー伊都国間の五百里は、末慮国の国内移動だって言ってたよな?
五百里移動してるじゃん?ww

バカすぎ

711日本@名無史さん2018/06/12(火) 02:24:29.73
ちょっと上でキウスが自演してるな

712日本@名無史さん2018/06/12(火) 03:13:53.72
なんかここ最近一寸差一寸差言ってるガイジがいるが
二寸差だぞ
このガイジがまったく理解できてない証左だな

713日本@名無史さん2018/06/12(火) 05:54:33.51
>>525
>不正確なら行程の確実な1里あたりの距離はわからないな<

不正確なのではなく、始めから近似的な里数値や方向の計測なんだよな。
そして、その計測値の確率が、大和説を否定し、九州説を示す事になる。

>陸上のは仮定の比定だからな<

陸上も、確率的な比定であり、
大和説が否定され、九州説が肯定される。

そして、この「南→東」などに嘘吐き騙しの大和説者も、
最も基本的な根拠になるべき距離や方向が、大和説にとっては都合が悪いから、
それに100%の絶対性を要求して、否定抹殺して無くしてしまおう、
とする・・・・詐欺師。

714日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:02:56.08
>>526
>寄港はしたとしても長居はしてないね <

当然、夜は原則就寝であるし、接待も受けるし、距離方向の記録も必要だし、
見聞記録のための調査も必要である。

715日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:04:06.91
邪馬台国論叢w

716日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:11:26.07
>>534
>陸上は歩測でだいたいの距離は測れるなら
深江〜金武間が100里で18kmだから
名護屋浦から500里で90km進まないとだめだな
そうすると深江はとっくに通り過ぎると <

居住外縁部間の里数記載である、という原則を破っちゃ、
インチキになるよ。

717日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:13:52.15
>>539
>深江から8q±2qなら三雲にも届かないな<

これも、居住外縁部間の距離、という原則を破っているから、×だな。

718日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:22:00.32
>>544
>渡海が50km以下だけど、なんで一里がそんなに大きいの?<

おそらく、この男は、
国間距離が居住外縁部の原則や、一寸千里や簡易三角測量の1桁概数である事や、
一寸千里の計測地点などを全く考察しない、
大和説詐欺師だから、
なんだろう。

719日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:29:30.20
>>549
>銅鐸とは、何だろうか。。。。<

おそらく、狩猟民が、鐘や鈴のように、
相互の位置を知らせたり、熊よけ鈴のような猛獣の威嚇のための必需物であり、
お宝であったんでしょうね。

720日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:31:19.45
キナイコシ打つ手なしwww

721日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:35:29.46
>>550
>渡海は測れないので一律に1000里に合わせてるみたいですね。<

この男も、「渡海千里」が大和説にとっては都合が悪いから、
「渡海は測れない」という嘘を付いて、
否定抹殺してしまうとする詐欺師なんでしょうね。

渡海距離は、目視出来れば、簡易三角測量で距離計測出来るし、
目視出来ないような距離も、一寸千里と大体の方向から概算出来る。

722日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:35:38.45
>>716
いや、そんな「原則」を現代人が勝手に作っても、古代人は従わないから

723日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:38:54.30
>>720
泣く子とワメく爺ィには、打つ手ないかもね
猿が論理で説得できないのと同じ

724日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:40:19.99
>>552
>水行は一日航海千里の規定を採用(基本である<

いや、
向かっている大体の方向と一寸千里を組み合わせれば、大体の里数は計測出来るし、
航行日数測も、1日450里位として、補助的には使えるだけ。

725日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:48:13.80
>>555
>不彌國から後の日数で表記されてる国々が倭人の女王国の構成国<

違うだろうね。
魏使らは、共立女王国の構成国については、当然、
30国から狗奴國を省いた29国なんだろう、と推定している,
と思う。

726日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:48:28.76
>>713

筑紫一元史観の朝鮮人が近似的と言張って、朝鮮半島祖国陸行だから
他の夢ロマン九州お爺さん説の伊都国を糸島に比定してない千差万別な地元説と
古田のどろぼう偽書反日有害活動とは関係ない

>>716 >>717

お前は関係ない

727日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:52:38.26
>>559
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らは、
根拠も無く、史料事実の否定曲解を言い張るだけの、
分裂幻覚妄想の・・・・詐欺師だから、
罵声で自論を守るしかない。

728日本@名無史さん2018/06/12(火) 06:58:43.80
>>563
>>魏使らは当然、漢代末に再収集注釈された周髀算経の、
「日の入り日の出方向に拠って東西南北を知る方法」」を知っているんだから、
現実に方向をほぼ間違えないのであり、<

>それ知ってたら伊都国へ東南陸行って書かないね <

「東南」は、出発時点での出発方向説明であって、
だから方向を間違えないのであり、
出発時点では見えない伊都国方向ではない。

また、「陸行五百里」が途中移動の説明。

729日本@名無史さん2018/06/12(火) 07:04:42.54
>>565
>>一大國〜末盧國は、見えているから、簡易三角測量でも計測出来る。<

>見えないよ<

出発時点で殆ど見えないのは、対馬→壱岐だが、
それでも対馬海岸から、年に数回、壱岐の最高峰が僅かに見える時がある。

730日本@名無史さん2018/06/12(火) 07:18:33.50
キナイコシ打つ手は罵声のみ

731日本@名無史さん2018/06/12(火) 07:58:37.63
>>729
見たことあるの?

732日本@名無史さん2018/06/12(火) 07:58:58.57
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

733日本@名無史さん2018/06/12(火) 07:59:41.57
どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、

734日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:00:13.16
倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、

735日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:01:42.20
キナイコシが簡易三角測量に過剰反応するのはなぜだろうか、、

736日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:03:09.67
簡易三角測量は、畿内説を妄信するキナイコシが優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。

737日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:04:36.69
簡易三角測量と三角縁神獣鏡とは関係するのだろうか。。。

738日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:05:35.31
魏志倭人伝の時代は西暦何年なのだろうか、、、

739日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:05:53.61
計算すると、西暦200年頃からだな。。。

740日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:06:11.25
では、邪馬台国時代の天皇は誰なのだろうか、、、

741日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:06:31.80
計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、

742日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:07:17.05
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。

743日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:08:12.93
>>733
>どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな

その通りだ、桜井市に邪馬台国などない。

女王が住んでいたのは奈良県御所市だ。

744日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:13:16.96
>>743

御所市の何遺跡が候補なの?

745日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:16:21.56
邪馬国が八女で、邪馬台国が熊本城ですっきりするのではないのかな。
遺蹟に惑わされると、2013年に破綻した巻向の二の舞になってしまうのではないのかな。

746日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:18:52.58
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は何もないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。

747日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:19:00.85
>>734
おれは、北部九州の京都郡だとおもう
神籠石のあるところ
墓は、祇園山か大分の赤なんとか古墳

748日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:19:58.25
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。

749日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:20:33.21
>>566
>>周地付近とその南北千里での、
夏至正午の8尺棒の影長を実測したデータが記載されているのであり、<

>そんなものが書かれてるって証拠は無い<

周髀算経が証拠。

750日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:21:29.10
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。

751日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:21:56.40
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。

752日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:22:32.20
>>744
そんなものあるわけないわな  

753日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:24:16.84
改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。

754日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:25:45.74
>>569
「南→東」などの嘘つき騙しの、キョクウ皇国史観戦争狂の大和説者の言動を見てると、
いつ車中で狂刃を振るわないか不安でならないよ。

755日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:28:30.25
>>716
グーグルで測ってみると名護屋浦から伊都カントリー俱楽部付近までが44q(約500里)
伊都カントリー俱楽部付近から日向峠付近までが8〜10q(100里)
伊都カントリー俱楽部付近が末廬国と伊都国の境のようですね
末廬国が思ったよりも糸島市に入りこんでる。

756日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:37:49.16
>>570
>>魏使らは、当然周髀算経の一寸千里を知っているから、海路であっても、
大体の南北距離は測れ、間違えようがない。<

>それを知っていて、またそれが正しかった場合でも、 夏至の正午に八尺棒を垂直に立てて、
正確に影の長さを測らないといけない<

垂直か?どうかは、棒を釣ってみたりすれば判る。

>夏至の頃に、倭国のいろんな場所で、きちんと正午に測らないと
一寸千里の法は使えない <

いや、東西南北が計測出来るんだから、太陽の南中時が正午だ、とすぐ判る。

>そして、そこまでしても、南北方向の距離しか出ないから、
「東南」方向の距離は結局いい加減になる<

簡易三角測量で作図して、大体の距離は簡単に判る。

>そして、ここまで何度も書かれているように、一寸千里の法は
机上の空論で、きちんと測定しているという証拠がない<

周髀算経に、1尺5寸や1尺6寸や1尺7寸の測定結果が記載されている。
よって、この男(おそらくww)はうそつき騙しの危険な・・・・大和説の詐欺師。

757日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:48:19.62
倭人の人名が書いてないのが、
對海國、一大國の官・副、奴國・不彌國の副、伊都國の王だな
末盧國は官名も無し
里数で記載されてる女王國以北地域

758日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:49:20.57
>>574
>正確には地球の重力の等ポテンシャル面は回転楕円体の形なので、
地表の鉛直方向は、極および赤道を除き、地球中心を指していない。
さらに正確には地球の重力ポテンシャルは複雑で、
地表付近の重力の等ポテンシャル面(ジオイド)は複雑に歪んでおり、
回転楕円体面の法線方向と比べると、実際の地表の鉛直方向は傾斜していることになる。<

周髀算経は、始めから、
周地付近での大地がほぼ平面だ、と見る事が出来る地域での、
「近似的計測数値からの演繹的天地像」を推定しているんだから、
地球上での重力差異などの影響は殆ど関係がない。

>だからまず谷本の計算で説明しているようなモデルの
延長が地球中心で交わるような八尺棒を垂直に立てて影の長さを測る平面を作ることが難しい<

谷本さん自身も、始めから、「近似計算である」事を断っておられる。

>実際に各地で実験してみないとどのくらいの誤差が出るかわからない<

周髀算経も有効数字1〜2桁の近似値計測。

759日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:50:26.22
>>756
測定結果じゃないんだよ
机上の架空の計算結果
周髀算経にそう書いてある

760日本@名無史さん2018/06/12(火) 08:52:57.04
>>758

大地がほぼ平面ならば谷本が計算しているモデルとは違う
後期高齢者には理解するのは無理だろうが

761日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:13:02.63
>>755
>末廬国が思ったよりも糸島市に入りこんでる。

九州説はいつもこれをやるんだよなぁ

「魏志倭人伝は間違っていない」という、「間違った前提」を基礎において
現実ではありえない比定をしようとする

自然国境も何もないところに、古代の国の境がくるはずがないだろうに

762日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:16:25.15
魏志倭人伝は間違っているなら邪馬台国も間違ってるから邪馬台国畿内説も当然間違ってるな

763日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:21:44.39
倭人伝を100%信用するか、全く信用しないかの二者択一が間違っている

764日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:22:01.39
>>762
どういう論理よ

765日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:23:28.60
畿内説は倭人伝否定してるじゃん

766日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:28:57.51
>>577
>古田が決めました<

古田さんは、史料記載事実などからの帰納的推論をされただけ。
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしたのは、
「大和天皇家一元列島支配」というキョクウの宗教に狂った大和説学者ら。

767日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:32:22.59
>>766

だから古田が決めた
古田が思いついた商品の里は、中国、韓国、日本では議論されていない

768日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:41:26.00
>>761
その説が正しいかどうかは別として、集落を国と呼んでいたなら、自然地形と一致しないことも出てくるだろう。

769日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:42:43.23
そもそも福岡県内で数キロ単位でいろいろ国邑を議論しているのに、いきなり畿内に何百キロもワープするわけないだろ。

770日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:44:34.62
>>766
うそ
帰納などしてない

771日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:46:36.11
>>769
数キロ単位というのがウソだな
われらの短里珍説に合わない、とゴネてるだけ

772日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:47:50.37
ワープというか
里数表記の後、水行二十日、水行十日陸行一月移動している
福岡県内だけで行程里数を操作してるのは朝鮮部落民だけだろ

773日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:48:12.34
>>768
自然国境で文化圏が代わってるからウソが丸わかり

774日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:48:32.41
それは奈良県だろ

775日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:51:23.79
>>773
どことどこが違う文化圏だって?
それなら畿内なんてまるで縁のない異国だろ。
邪馬台国でもなんでもない。

776日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:52:18.64
>>772
それ、帯方郡からの日程だろ。
すくなくとも魏の使いは福岡から出ていないのだから、畿内にワープさせるなよ。

777日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:52:47.26
福岡の那珂で大和型庄内甕を模倣製作している

778日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:56:25.23
>>776
「魏の使いは福岡から出ていない」とか
なんの根拠もない

779日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:56:42.33
【庄内式土器】

1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。

780日本@名無史さん2018/06/12(火) 09:57:27.68
>>778
里程が福岡で終わっている。
郡使は常に伊都にとどまると明記されている。

781日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:01:47.64
ザラコクさんはどうせグダグダ言い続けるだろうけど、
それ以外の人との理解の共有のために

『周髀算経』にみられる数値について
一 一寸千里説の意味するもの 一
下司 和男 計量史研究 33−1 [39] 2011
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10632233_po_ART0009767074.pdf?contentNo=1&alternativeNo=

「一寸千里則」は、天地が8万里を隔てた平行平面をなすという蓋天説の
 宇宙像から必然的に導き出される法則であって、実測の結果から帰納されたものとは
 考え難い 。」
「『周髀算経』に出てくる「里」は、宇宙を観測する器具である表の影と
 蓋天説の宇宙の定数を結びつける、いわば蓋天説における「宇宙里」とでも
 称すべき単位であって、現実に土地の計測に使われている計量単位である里とは
 異なるものであると認識すべきである。」

オマケ
『周髀算経』影の測定
http://www.geocities.jp/yamauo1945/shuhisankei1.html

782日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:03:08.29
福岡は搬入庄内式土器は非常に少ない
在地の特徴がわずかに残った大和型庄内甕の模倣製作

783日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:06:19.14
>>576の後の返事の投稿は、
5chから掲載拒否されて、無くなっていたみたいだから、
面倒だから、パスしておくね。

784日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:07:56.39
>>768
>その説が正しいかどうかは別として、集落を国と呼んでいたなら、

それなら、末慮国四千余戸、奴国二万余戸という戸数は出てこない
集落はどうがんばっての百戸単位にしかならない

当時の国は、水系単位〜平野単位と見るのが妥当
水系単位での治水・利水のための共同体が国となっていったと考えるのが自然
平野の中に国境線を引いたら、水利権争いの元にしかならない

そういう視点から見て、末慮国の位置を名護屋浦湾の到達地点で示した、などと
いうのは噴飯もの
末慮国が糸島平野に食い込んでいたというのも、ありえない

785日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:09:59.75
>>780
>里程が福岡で終わっている。

つまり、里程と日程の両方が書かれている、陳寿は知っていた、っていう説だよね?
投馬国までは何里になるの? 水行20日だけど?

786日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:11:40.98
掲載拒否されたのは、>>583までの投稿への返事であったようだね。

787日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:14:24.96
>>588
>魏のひと韓国の面積どうやって知った? <

当然、「方四千里」は、楽浪郡や帯方郡の郡役人らの計測。

788日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:16:33.73
>>590
>そんな里単位が使われたという根拠、ないんだけど<

魏志を中心とした三国志内の里記載などが根拠。

789日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:32:40.13
魏慶元四年に劉徽『九章算術』註釈本が世に出ました
劉徽はその十章として『海島算経』を書いています
『海島算経』は一歩=六尺、一里=三百歩が前提で答を求めることが出来ます

なお『海島算経』以降でないと三角測量は広まらなかったのではないでしょうか
裴秀は『禹貢地域圖』を泰始四年〜七年にかけて完成させています
それまでは正確な地図というものは存在しませんでした
詳しくは『晋書』《裴秀伝》に引用されている『禹貢地域圖』序文をお読みください

残念なことに正始年に倭を訪問した魏使等は正確に地理情報を得る技術をまだ持ってはいなかったのです

790日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:33:51.48
>>591
>>「倍正南方,以正勾定之」であるから、区域が南に二倍位広がった事を意味し、<

>ここでの「倍」は、背向(back towards)<

北極星を中心とする黄道を、地面に投影するには、
南方に見えている黄道を北側にも延長しなければならない、というだけ。

>>天空上の斜めに配置された太陽位置(宿)を投影するための(円を二つ位含む)楕円形。<

>二十八宿は星宿<

黄道上の星座。

>徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一 は、
1太陽年の長さ=365度4分の1<

何を「当たり前の無意味な事」を言ってんだい?。
それが、前漢初期に周髀算経の収集学者が、「自己解釈に拠る書き加えをした文」だ、
と言ってんだよ。

791日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:34:26.08
>>761
何で「魏志倭人伝は間違っていない」は「間違った前提」だと言えるの?
根拠は?

>>784
>そういう視点から見て、末慮国の位置を名護屋浦湾の到達地点で示した、などと
>いうのは噴飯もの
>末慮国が糸島平野に食い込んでいたというのも、ありえない

「つまり」が前の説明と繋がってないですよ。

792日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:35:20.89
>>785
投馬国までは7000里

793訂正2018/06/12(火) 10:36:53.87
>>761
何で「魏志倭人伝は間違っていない」は「間違った前提」だと言えるの?
根拠は?

>>784
>そういう視点から見て、末慮国の位置を名護屋浦湾の到達地点で示した、などと
>いうのは噴飯もの
>末慮国が糸島平野に食い込んでいたというのも、ありえない

「そういう視点」が前の説明と繋がってないですよ。

794日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:39:01.63
>>790

教えてもらったことをなぞるなw

795日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:47:52.16
>>784
宮地岳、伊都カントリー俱楽部の東
高祖山、日向峠の西
この間の糸島平野が伊都国の範囲だったようですね。
宮地岳、伊都カントリー俱楽部は小高い山になってますからこの山が境界線ですね。

796日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:51:05.39
何の根拠もなく変質者伊都厨が伊都カントリー俱楽部あたりを国境にしてるだけだから

797日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:55:23.39
>>796
根拠は末慮国に上陸してからの500里の距離ですよ。

798日本@名無史さん2018/06/12(火) 10:58:53.99
伊都国までの500里が末慮国の入口からの距離というのがおかしい

799日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:03:22.72
>>798
島巡り説の読み方を末慮国以降でもしたからです。

800日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:10:56.28
東南陸行五百里到伊都國が末盧國の入口から末盧國内を通り抜ける距離を含むなら
東行至不彌國百里も奴国の入口から奴国内を通り抜ける方位と距離にしないと

801日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:25:15.15
>>800
東行至不彌國百里は奴国(福岡市)の南部を通り抜けて不彌國(那珂川町、春日原市方面)ですね。

802日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:28:19.59
>>784
>当時の国は、水系単位〜平野単位と見るのが妥当
>水系単位での治水・利水のための共同体が国となっていったと考えるのが自然

自分の頭の中で勝手なルールを作り、それをもとち妄想するのが畿内説。

803日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:28:59.00
>>785
>投馬国までは何里になるの? 水行20日だけど?

里数がわからないから日数だけ書いてあるんだろ。

804日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:30:46.84
>>796
>何の根拠もなく変質者伊都厨が伊都カントリー俱楽部あたりを国境にしてるだけだから

それは畿内説だろ。
勝手に国境があったことにしている。
筑紫日向は高祖山を中心に福岡市の一部を含めた広域なので、伊都国の範囲も自然地形に制約されないよ。

805日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:33:00.42
>>801

日向峠の東側の金武から道なり8kmだったら那珂川町まで行かんよ
それに2万戸の奴国が小さ過ぎ

806日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:35:19.43
>>804

筑紫日向とか倭人伝にはない
高祖山に遺跡なんかない

807日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:44:18.05
>>596
>(ホケノ)相争ってた倭国大乱の片方だから思いきり関係がある<

倭国大乱などなかったし、
あったのは、九州での付近内での「倭國亂、相攻伐歴年」だし、
大和は倭國の倭奴國から別れた別種の旧小国の附庸國であり、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国。

808日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:49:50.91
>>805
そっちじゃなくて県道56号線ですね。
2万戸は福岡市方面全体の戸数です
通過したのは奴国の南端の一部。

809日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:49:52.07
>>597
>南が東の方位の違いは 詳細には分からないが 春秋、史記、漢書、後漢書、三国志、で
方位が違う例が多数存在するなら納得できる 誰か詳しく人居ないか <

知り得た範囲内では、夷蛮からの伝聞情報以外の、
中国人や中国役人達か関与した方位記録には、
違う例は存在しない。

810日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:51:55.08
>>804
話がこんがらがうから意味不明なことを言うなよ。

811日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:56:50.72
>>603
>筑前深江の駅から10キロ直線で行っても、まだ糸島平野の中だぞ
ザラコクみたいに、糸島平野まで奴国を引っ張ってくる気か?<

古田さんらの伊都国の比定は、
末盧國を唐津付近に比定して、陸行500里で、
「前原〜糸島水道」付近だ。
そして、奴國は、三雲〜平原付近が入り口だ。

812日本@名無史さん2018/06/12(火) 11:59:46.02
>>604
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
キョクウの皇国史観のやくざ暴力団や、人種差別戦争狂のwwやssn程度のレベル。

813日本@名無史さん2018/06/12(火) 12:00:47.85
>>810
名指しされたから。

814日本@名無史さん2018/06/12(火) 12:03:45.26
>>808

56号なら東南方向だろ、8kmじゃ那珂川町まで行かん

815日本@名無史さん2018/06/12(火) 12:04:00.83
>>809
正しい知識はほとんどザラコクの知り得た範囲にないから

816日本@名無史さん2018/06/12(火) 12:38:41.86
>>814
56号線を着て室見川上流付近に達し油山の東側が不予弥国だな。

817日本@名無史さん2018/06/12(火) 12:39:10.54
>>814
56号線を着て室見川上流付近に達し油山の東側が不弥国だな。

818日本@名無史さん2018/06/12(火) 12:43:37.64
水系というと不明瞭になるよ

A川の右岸とB川の左岸に挟まれた地域がおおむね同じ地域の国になるよ。
現代住所の大字小字と明治期の市町村を比べればわかる。同じ川でも渡った向こうは別の国だよ。

819日本@名無史さん2018/06/12(火) 12:44:29.23
>>811
短里とか言い出すと、ここまで狂って来ちゃうんだなあ

820日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:24:06.47
>>734
倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。

821日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:24:58.63
>>741
計算すると、神武天皇の方が800年以上古い時代のようだな。。。

822日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:25:26.22
では、大物主は何年前の者だろうか、、、

823日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:25:53.07
大物主も神武天皇の時代の人なのだね、、、

824日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:26:10.84
あのお粗末な掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、

825日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:26:53.40
古事記と日本書紀について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。

826日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:27:06.52
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。

827日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:27:44.17
>>746
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。

828日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:28:15.55
>>827
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。

829日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:28:32.30
あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。

830日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:28:59.21
>>829
そして、あの古墳は魏志倭人伝時代からずっと後の時代の物だったことも、2013年に実施された別の大規模調査で判明したねw

831日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:29:23.49
>>830
倉庫の遺蹟は、実はネアンデルタールのものだったのではないのかな。。。

832日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:30:17.36
キナイコシが論破されてしまっている話題の一つが、短里のことのようだね。。。

833日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:30:49.07
キナイコシはテンプレートが論破された時は、黙りこくってしまうな。。。

834日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:31:09.65
>>833
返す言葉を発見出来ないのではないのかな。。。

835日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:31:27.56
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。

836日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:31:41.64
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。

837日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:31:59.66
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。

838日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:32:17.60
>>732
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、

839日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:32:40.66
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

840日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:33:06.07
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。

841日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:33:44.80
>>733
2013年以前から、桜井市のあの古墳は、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からの公式発表なのに。。。

842日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:34:05.91
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

843日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:34:25.46
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。

844日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:34:49.85
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。

845日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:35:18.19
>>820
同じじゃないのかな。。。
倭国である女王国から、東に海を渡った土地にも倭種が住んでいたと魏志倭人伝に紹介されているからね。。。

846日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:38:47.76
>>832
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。

847日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:39:15.32
僕たちの翻訳では、魏志倭人伝の作者は、まず倭人の住む土地を倭地と書いたのだよね、、、

848日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:39:38.37
>>847
そうだね、、、
そしてその中に倭国があって、さらにその中に、女王国や伊都国やマツラ国等がある。。。

849日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:40:11.74
倭人のいる地域は、倭国の範囲を超えて広がっているのだったね。。。

850日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:41:32.59
>>849
そうそう、12000里は、女王国の境界までの距離だ。。。
計算すると、伊都国と奴国の間だね。。。
だから、1里の長さは考える必要は無いのだよね。。。

851日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:42:43.60
>>850
その通り、、、奴国からが女王国だったね。。。
卑弥呼の都の邪馬台国は、そこから南にある熊本城だ。。。

852日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:47:40.70
(帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、

853日本@名無史さん2018/06/12(火) 13:53:03.89
福岡から北九州市までどんだけかかるんだよ。
アホが。

854日本@名無史さん2018/06/12(火) 14:13:47.17
>>100
周髀算経には、そんなこと書いてないね
捏造すな

855日本@名無史さん2018/06/12(火) 14:27:35.67
>>854
ザラコクにそんなこと要求するのは、魚に鰓呼吸するなと言うようなものだ。

856日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:01:28.26
キナイコシに元気がなくなったな。。

857日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:01:53.11
周髀算経のことで、優れた考古学者達に打ちのめされ、恥を掻かされたキナイコシが、やる気を失ったのではないのかな。。。

858日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:02:46.58
>>824
しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、

859日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:03:05.29
やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。

860日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:03:24.40
九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうな。。。。

861日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:03:52.59
周髀算経と古事記と日本書紀について突き詰めていくと、畿内に邪馬台国が無かったことがはっきりしてきたな。

862日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:04:40.53
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。

863日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:06:07.74
>>843
観光関係の宣伝目的ではないのかな。

864日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:15:26.67
突き詰めると、何もなかったんだな

865日本@名無史さん2018/06/12(火) 15:20:14.68
>>812


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えサギジジイ!

866日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:18:03.72
周髀算経ってのは、結局のところ、地面と天が平行な二つの平面として
存在しているという蓋天説に立った計算書で、現実世界には合わないんだよ

そこにある、二つの平面間が八万里で、棒の長さが八尺とすると、
千里対一寸という比率が出る

これを一寸千里の法と言っているだけで、実測値ではないし現実の地理と
関わりのある数字ではない

867日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:35:19.53
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。

868日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:36:53.10
倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、

869日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:37:43.11
>>868
倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。

870日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:38:09.91
>>869
同じじゃないのかな。。。
倭国である女王国から、東に海を渡った土地にも倭種が住んでいたと魏志倭人伝に紹介されているからね。。。

871日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:38:44.22
周髀算経ってのは、結局のところ、地面と天が平行な二つの平面として
存在しているという蓋天説に立った計算書で、現実世界には合わないんだよ

そこにある、二つの平面間が八万里で、棒の長さが八尺とすると、
千里対一寸という比率が出る

これを一寸千里の法と言っているだけで、実測値ではないし現実の地理と
関わりのある数字ではない

872日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:40:19.75
>>792
>投馬国までは7000里

これをいうやつの相手もいい加減飽きたけど、
投馬国と狗邪韓國を重ねるのは、九州説でもほぼ賛同者がいないぞ

そういう無理読みはやめろというのに

873日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:41:57.06
>>866
そういう第一次蓋天説と、もうちょい複雑化した第二次蓋天説が混ざってる
要するに、ちぐはぐな寄せ集め
円周率も3だし、後漢代にはもう古臭い説だった
算術の例題としては難易度がそこそこだったので後世にもよく利用されたが、天文学説としては妄説と呼ばれていた

874日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:45:31.06
>>791
>何で「魏志倭人伝は間違っていない」は「間違った前提」だと言えるの?
>根拠は?

古代の歴史書で、自国以外のことを書いた文書が「無謬」であると考える方が
そもそもおかしい

実際、末慮国ー伊都国間も、伊都国ー奴国間も「東南」ではない
つまり、方角が間違っている訳だ

魏志倭人伝の間違っている部分を実際に示せるのだから、
「魏志倭人伝は間違っていない」と前提とするのは誤りだと確定している

「正しい部分も間違っている部分もある」として読むのが正しいというよりも当然

875日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:46:02.13
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。

876日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:48:08.97
>>797
>根拠は末慮国に上陸してからの500里の距離ですよ。

こういうのが
「魏志倭人伝は間違っていないという『間違った認識』を前提とした」無理読みの例
魏志倭人伝の記述に現実を合わせてどうする?

877日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:49:56.13
>>802
>自分の頭の中で勝手なルールを作り、それをもとち妄想するのが畿内説。

水争い≒土地争いで、そうした紛争が国家形成の原動力というのは、
割に不偏的に見られる歴史の流れなんだがな

まあ、見聞の狭い人には目に入らないのかもしれないが

878日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:53:24.62
>>818
>A川の右岸とB川の左岸に挟まれた地域がおおむね同じ地域の国になるよ。
>現代住所の大字小字と明治期の市町村を比べればわかる。同じ川でも渡った向こうは別の国だよ。

弥生期の集落は、平野部の川と川の間の微高地に作られているから、その意味で
「A川の右岸とB川の左岸に挟まれた地域がおおむね同じ地域の国」というのは首肯する

ただ「同じ川でも渡った向こうは別の国だよ。」となるのは、渡るのが困難で自然境界と
なるような大河の場合で、糸島平野にあるような中小河川の場合は、国境線にはならないだろう

879日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:53:31.05
>>876
その500里もお手製だしなー

880日本@名無史さん2018/06/12(火) 16:57:22.59
>>873
>そういう第一次蓋天説と、もうちょい複雑化した第二次蓋天説が混ざってる
>要するに、ちぐはぐな寄せ集め

>>781に引用されている
『周髀算経』にみられる数値について 一 一寸千里説の意味するもの 一
下司 和男 計量史研究 33−1 [39] 2011
によると、話としては「第二次蓋天説が混ざってる」けれど、計算部分には
反映されてないみたいだよ
まさに「ちぐはぐな寄せ集め」

881日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:09:15.72
>>608
>しばし 邪馬台国は倭人の圀
ヤマト王権、朝廷、今の日本は渡来人と倭人の合作の圀じゃよDNA<

邪馬台国も朝廷もなかった。

882日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:14:53.59
>>611
>九州と畿内の地名の類似がよく言われる。
九州から畿内に地名が移ったという論者がほとんど。 が実際は逆で畿内から九州だ<

大和などは、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
倭国から別れた別種の旧小国だ。

>地名の類似では久留米と橿原市の久米対応している。<

一致していないから、×。

>また大分の玖珠と葛城の国栖が対応している。<

一致していないから、×。

883日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:17:07.88
>>876
魏志倭人伝の記述に現実を合わせないでどうするの?
自分勝手に内容を改竄するの?

884日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:20:32.84
>>874
魏使が実際に3世紀の日本に来て見聞きしたことを基に書かれてる資料ですから
殆ど正しく、一部誤記等がある程度ですよ
間違ってることを前提としたらおかしいでしょ。

885日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:22:10.35
>>620
>畿内説のスレらしくなってきた 前方後円墳と邪馬台国興味ある議題<

畿内も邪馬台国もなかったし、
前方後円墳の始まりは、那珂八幡などの筑紫の古墳。

886日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:25:18.14
>>621
>>どう考えても、どちらかの移住者が過去の地名を移住先に付けたとしか思えないが、
畿内→九州への移住は考えにくい<

>簡単なこと。  九州←倭国(阿波)→畿内  @阿波<

簡単な事。
倭国は「正北抵新羅」だから九州であり、
「自昔・・・東征毛人五十五國」をしたんだから、
阿波は、×。

887日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:28:09.99
>>622
>いやだから久米=久留米と国栖=玖珠の例を出して、
畿内の方が古いと言ってるわけだが?<

畿内なんて存在していなかったし、
久米=久留米と国栖=玖珠も名前が一致していなかったから×だし、
大和は「倭国から別れた別種の旧小国」であったんだから、×。

888日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:30:38.12
>>624
>倭国(阿波)の豪族墓だから。 
もちろん、3世紀は三輪山がご神体ではない。  @阿波<

倭国は、「正北抵新羅」であるから九州であり、だから阿波は×。

889日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:34:45.51
>>625
>箸墓が最古の前方後円墳でモモソの墓としたら 陵墓を見直す必要があるな <

箸墓は、大和の布留だから4世紀であり、
那珂八幡は、九州で初めての庄内と布留の混合地域での前方後円墳だから、
3世紀後半であるから、
「箸墓が最古」は×。

890日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:36:59.34
>>627
>奈良の前方後円墳は倭国(阿波)が発祥で、
倭国(阿波)の資材・工法に拠っている。  @阿波<

倭国は「正北抵新羅」であるから九州であり、
阿波=倭国は×。

891日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:38:38.19
>>628
>畿内説 虐めすぎ ど素人の畿内説の輩は虐めは容易い 学会へおいで<

畿内なんてなかったから、×。

892日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:40:51.29
>>629
>実測してないことはバレてんだよ<

1尺5寸や1尺6寸や1尺7寸などが書かれていたから、
実測した事がバレているんだよ。

893日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:54:53.19
>>630
>《近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であっ
たことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。倭人伝
は、すでに「邪馬台国」の名で呼ばれる北九州の部族連合体政権を魏の使者の報告通りに記載
しているので、この連合体政権は、それより早く、二世紀の後半には存在していたとみなけれ
ばならぬ。<

「邪馬台国」なんて存在しない。
また卑弥呼の共立は、早くても215年頃。

>そして北九州で蓄積され発達した、この政権のエネルギーがわが国の中央部である
やまと東に移り、現地の部族連合体を吸収して大和古代国家の基礎となったであろうことは
すでに多くの学者の説くところである。<

大和は、倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
筑紫城の阿毎氏の倭奴國から別れた別種の旧小国。

>すなわち畿内政権の故郷は北九州であると無理なく考えられよう<

畿内なんて存在しない。

>記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の
「台与」がその音を写したものとすれば、<

魏志倭人伝は「壹與」であり、「台与」ではない。

894日本@名無史さん2018/06/12(火) 17:55:27.25
実測しなくても書けるよ

895日本@名無史さん2018/06/12(火) 18:27:14.79
>>632
>つまり、この京都郡地域は、東遷して成立した大和政権の、母なる地であったことが推定されるのである。<

新唐書は、大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた、と書いているから、×。

>豊の国のミヤコあがたは、伝説の景行天皇が熊襲征伐のとき行宮をこの地方のナガオ(長峡)の県に
置いたから起こったというが、ミヤコを皇都の意味にした京都の字を宛てたのは奈良朝で、
ミヤコというのはこの地方の独立した古い地名であった。
「一体に古い地名は意味のわからぬのが多いことを考えねばならぬ」と津田左右吉博士が言っているとおり、
ミヤコ=京都としたのは二、三世紀と八世紀とを突然に接合したようなものだ。
古い地名のミヤコは、あるいはヒミコとも関連があるかもしれず、<

卑弥呼は、伊都国の東百里の不彌國の南であるから、×。

>空想を許されるなら、ヒミコは魏の旅行者がミヤコを聞き誤っての訛伝かもしれないのである。<

空想は認めない。 >>632
>つまり、この京都郡地域は、東遷して成立した大和政権の、母なる地であったことが推定されるのである。<

新唐書は、大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた、と書いているから、×。

>豊の国のミヤコあがたは、伝説の景行天皇が熊襲征伐のとき行宮をこの地方のナガオ(長峡)の県に
置いたから起こったというが、ミヤコを皇都の意味にした京都の字を宛てたのは奈良朝で、
ミヤコというのはこの地方の独立した古い地名であった。
「一体に古い地名は意味のわからぬのが多いことを考えねばならぬ」と津田左右吉博士が言っているとおり、
ミヤコ=京都としたのは二、三世紀と八世紀とを突然に接合したようなものだ。
古い地名のミヤコは、あるいはヒミコとも関連があるかもしれず、<

卑弥呼は、伊都国の東百里の不彌國の南であるから、×。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)

896日本@名無史さん2018/06/12(火) 18:28:25.79
>>632
>空想を許されるなら、ヒミコは魏の旅行者がミヤコを聞き誤っての訛伝かもしれないのである。<

空想は認めない。

>ミヤコの地名が皇都として畿内に東漸したのは、民族の移動に付随してあり得ることである。<

畿内なんてなかったし、東遷でもなく、神武や倭国の「東征毛人五十五國」で出来た一国。

>いったい景行天皇の西征は架空の物語で、これは奈良朝に全国統一を誇示するために創作された。<

景行は、当然九州倭国内の武将の地位。

>景行帝が九州に入った最初の行宮がトヨの国の長峡であったことは、このかつ地が大和政権の
曾ての故郷だったのを現わしている。<

宇佐が、神武東征の九州からの出発地であった、というだけ。

>景行紀によってミヤコ(京都)の名がこの地方に起こったのではなく、五世紀も隔てて忘れかけられている母国の名がようやくにして
「地方誌」に書きとめられたのである。明治三十三年に京都郡小波瀬村の挾間畏三という人が
『神代帝都考』という一書を著して京都郡仲津郡内を記紀の神代史の地名に当てた。<

倭国の筑紫城の倭奴國から別れた神武の東征や、倭国が「自昔・・・東征毛人・・・五十五國」をした事は、史料事実であって外せないから、×。

897日本@名無史さん2018/06/12(火) 18:35:16.53
>>634
>箸墓が最古の前方後円墳でモモソの墓としたら<

箸墓は4世紀であり、最古の前方後円墳ではない。
列島最古の前方後円墳は、那珂八幡や津古生掛など。

898日本@名無史さん2018/06/12(火) 18:45:56.95
>>635
>ずっと後代になって、暦日が制定され、日付が誰の知識にも入ってくると、日時をきめて市場が開催されるようになった。
二日市、四日市、五日市、八日市、十日市、二十日市(豊前にも四日市がある)の地名がその
起りということは、ひろく知られている通りだが、「ツバキの市」はそれ以前の原始的形態で、
古代の交換経済の実施場所であったろう。「最初は種族と種族とが、それぞれの氏族長を通じ
て交換した。しかし畜群が特別財産に移りはじめるや、個別的交換が次第に多くなり、逆に唯
一の形態となった。<

「國國有市、交易有無、使大倭監之」だから、
倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の国々も、既に市があった。

899日本@名無史さん2018/06/12(火) 18:49:26.90
>>636
>>近畿地方に成立した古代王朝の前身が<、その東遷以前に、北九州の部族連合体であった<

>北九州にそんな部族など存在しない。  @阿波<

倭国は「正北抵新羅」である事や、
「南≠東」に拠って、
「倭国=阿波「」説の阿波は、×。

900日本@名無史さん2018/06/12(火) 18:54:57.09
>>637
>九州の方が古くあってほしいという君の願望は何の根拠にもならない。、

倭国は、「正北抵新羅」に拠り九州であり、
大和は、倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
倭国の附庸國であるから、
大和の方が古くあってほしいという君の願望は何の根拠にもならない。

901日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:07:59.93
倭国の北限は大海の日本海
筑紫は西服衆夷六十六國の中の一国

902日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:09:55.41
鉄器普及社会の東限 || 越えられない壁w

903日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:10:51.30
>>877
糸島市は宮地岳〜伊都カントリー俱楽部の山脈で水系分かれてるから国邑も分かれていたんですね。

904日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:14:04.77
鉄器は工具だから、何か造って残さないと
持ってるだけじゃ単なる賤民

905日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:15:01.07
じゃあ持ってすらいないのは?

906日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:16:24.61
古代の文化の波及が博多湾を基点とする西高東低であることは間違いないからなあ。

907日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:16:25.92
>>811
古田氏は島巡り説なのに末盧國を唐津付近に比定するのは変ですよなね
壱岐の南岸から急に唐津付近はないですよね
壱岐の南岸なら次は末盧國の北岸に着かないと。

908日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:24:19.24
>>900

>大和の方が古くあってほしいという君の願望は何の根拠にもならない。

九州と畿内の地名の類似では大分の玖珠と大和葛城の国栖が対応しているわけだが、縄文まで遡る大和の国栖の方が古い。

したがって地名の類似、つまり人の移動は畿内→九州だ。

唐の時代に流行した風水を遣唐使が持ち帰り、大宰府に当てたのであろう。

九州説はアホ丸出しw

909日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:24:21.25
>>903
宮地岳〜伊都カントリー俱楽部は山脈じゃないw、数m〜数十mしかない
糸島と唐津は二丈岳(711m)、十坊山(535m)、浮嶽(805m)で隔てられている

910日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:26:56.62
>>909
数m〜数十mでも水系は分かれてるよ。

911日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:29:12.57
>>908
>九州と畿内の地名の類似では大分の玖珠と大和葛城の国栖が対応しているわけだが、縄文まで遡る大和の国栖の方が古い。

本気で2600年前に神武が大和に来たと思っているならめでたすぎるぞ。

912日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:30:25.39
>>908
縄文時代の地名とかw
畿内説は冗談にもほどがあるなwww

913日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:32:03.51
たしかに縄文時代なら東高西低だから畿内説にも勝機があるな

914日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:33:07.63
九州王朝説はムー大陸や宇宙人UFOを信じる人と同類。

915日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:35:23.38
>>912
葛城の北窪遺跡、伏見遺跡は縄文まで遡る。
国栖とは吉野の先住民を指した言葉。

916日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:35:56.33
>>910

川一本毎に国邑に分かれるわけじゃない
三雲周辺で3国に分かれてしまう

917日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:36:33.04
>>911
だれが本気で2600年前に神武が大和に来たなんて言ってるのか。

918日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:39:48.04
>>908は冗談なのか真正のバカなのかw

919日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:39:55.23
北部九州説は縄文時代が嫌いな人間が多い

920日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:46:44.27
>「南≠東」に拠って

そもそも現代人は東西南北の四極で方位を捉えることを当然だと思っているが、これとて自明のことではない。非常に素朴な段階の生活を考えてみると、
初めは地勢によって方位を決めたのである。
例えば一方にしか山がない地域ならば、山側とその逆側、
それに山を前にしてその左右といった捉え方をする。
地域によっては海や川が基準となる。
地形によってはもっと複合的な基準を持つこともありうるだろう。

 しかし行動や交流の範囲が広がると、ある地域でしか通用しない方位観では不便になる。そこでやっと太陽を仰ぐ。
太陽は、どこから見ても、東から出て、南に昇り、西に沈む。
これによって東西南北の段階に達するが、まだ人類普遍の方位観を獲得したとは言えない。
なぜなら、日の出・日の入りの方角は季節によって変動するので、
どこを正位とするかには選択の余地が残るからである。

 太陽によって東西を決定するときには、日の出・日の入りの、
夏至の日の方角を基準とするか、冬至とするか、その中間にするか、
または季節に従って正位が変動すると考えることもありうる。
だから東と西が一直線で結ばれるとも限らないし、東西南北の領域が四等分されるとも限らない。
方位とはかくも人為的なものなのである。
さらに複数の方位観が併用されるときには、それらを組み合わせてより複雑な方位観が形成されることもありうる。

921日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:48:00.11
>>919
俺大好きだよ
火山噴火との絡みで浪漫あるじゃん

922日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:48:36.43
縄文時代の阿蘇山とか凄かったんだろ

923日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:48:49.82
>>918
反論になってないが?

924日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:52:26.83
>>923
冗談に反論する必要あるの?

925日本@名無史さん2018/06/12(火) 19:54:32.65
天王宮

簡単に言うと天王の家という意味、『松傾』自身の家

926日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:01:28.83
>>924
それはまちがっているぞ

>>923じゃなくて
>>1-65だろ

927日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:05:40.77
差別の問題は意味が大きいのだ。
なぜなら倭國王帥升の連れた160人の生口、
これは2世紀には王権の近くにかなり大きな俘囚郷があった事が推定されるからだ。

九州の差別問題は白村江の移配俘囚や黒田藩が姫路から連れて来た皮工をルーツとする以上、
弥生時代に大きな王権があったとは言えないのだ。

太古の日本列島において俘囚郷のあった大きな王権地と考えられるのは葛城だ。
この地の俘囚郷が20世紀の「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ」の水平社運動の聖地になるわけだ。

そもそも大和には移配俘囚が存在しない。
ならば大和の俘囚は7世紀以前から存在したということだ。
葛城には土蜘蛛と思われる国栖(くず、くにす)に関わる地名の被差別郷もある。

つ弥生時代に俘囚郷があり王権があったのは葛城だ。

帥升ことスサノオは葛城にいた。
今も日本最古の高鴨神社に祀られている。

その後、王権は移動していない。
魏志の2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨまで王権は葛城にあった。

邪馬台国とは葛城だ。

ヒミコとはヒメである。
後にヒメ(踏鞴五十鈴)媛と表記される人物である。

928日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:09:50.46
>>927
知識不足

929日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:20:33.77
>>899


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



さっさと言えサギジジイ!

930日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:29:51.81
古事記原文

爾以其御杖、衝立新羅國主之門、卽以墨江大~之荒御魂、爲國守~而祭鎭、還渡也。

神功皇后は屈服した新羅王の門に墨江大~を祀ったわけだ。

新羅2代目王・南解次次雄=ナカツツノオ=中筒之男
彼が娘婿にしたのが、
新羅4代目王・昔脱解=ソコタレ=底筒之男

中筒之男から底筒之男へ

ワロタ、チョンみじめwww

931日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:34:57.20
ま、まさかの傀儡政権・・・?

932日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:38:21.78
>>931

そうだよ。
だから7世紀の朝廷は白村江の敗戦が途方もないショックだったわけ。
尾張氏の末裔の国=新羅に日本が負けたのだから。

933日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:43:41.91
だいたいヒミコやトヨの墓が何らかの神域になってない方がおかしい。
平原遺跡のようなミカン畑がヒミコの墓であるはずがない

934日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:48:02.66
>>933
>平原遺跡のようなミカン畑がヒミコの墓であるはずがない

だけど、奈良盆地のお墓もおなじだよ。  @阿波

935日本@名無史さん2018/06/12(火) 20:48:27.89
>>883>>884
繰り返しだなぁ

古代の歴史書で、自国以外のことを書いた文書が「無謬」であると考える方が
そもそもおかしい

正しい部分もあれば「間違っている部分もある」というだけのことが
どうして認められないのか?

現実に合わない部分を、記述に合うように無理やり「変な解釈」をでっち上げて
正しいと言い張りながら読むような、やり方が九州説の基本であり
間違っているところの根本なんだよ

九州説から見ても、ザラコクさんがおかしなことを言ってるのは分かるだろ?

でも>>883>>884も同類だよ

936日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:05:21.38
>>935は主張が無理過ぎだな、伝文や古文書じゃなくて
魏志倭人伝場合は張政が実際に日本に滞在しての報告が基になってるから大きな誤りは考え難い
常識的に見て>>883>>884だよな。

937日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:10:48.97
>>916
倭人伝の記述を実際の地形に当てはめると
糸島市は東側が伊都国で西側は末盧国に属してたみたいだ
末盧国は伊都国の4倍の戸数があるから広かったようだな。

938日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:16:07.70
倭人伝を書いたのは魏使じゃなくて陳寿だからね

939日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:19:21.89
>>934
>だけど、奈良盆地のお墓もおなじだよ。

纏向にある前方後円墳など平地の墓はね。

でも奈良盆地最上座の高天原(御所市高天)にある、
日本最古の神社境内の、
径百余歩で、その端に魏志倭人伝の記述どおり奴婢を埋葬してる墓は別。

https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg



ヒミコ、トヨ、男弟、ヒミコの両親、叔父さん叔母さんなど高天原の神々の墓だから。

940日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:24:06.55
畿内周辺には、卑弥呼以前にも興味深い遺跡は色々あるからな

伊勢遺跡とか池上曽根遺跡の巨大神殿とか

941日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:31:09.43
>>937

唐津から楽浪土器が出ないから
官名も無い末盧國は寧ろ唐津から西に拡がる国だろ
土蜘蛛も肥前が九州で一番多い

942日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:34:14.71
 故・金関 恕(かなせき ひろし)がさん奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を述べられている。
同じく京都教育大学名誉教授で元・奈良県立橿原考古学研究所指導研究員の和田萃さんも和邇氏の系譜に卑弥呼がいるのではという見解を述べられているようだ。

仮にそうだとして、謎の豪族・和邇氏と卑弥呼の関係が誰にも分からなかった。
解いたのはわしだ、参ったか。

   事代主
     ┣━━━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━━━┓
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主             孝昭
     ┃              ┃
    阿田賀田須        天足彦国押人命
                   ┃
                和邇日子押人命
                 ┣━━━━━━━┓
               彦国姥津命    姥津媛(開化天皇妃)
   ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
 伊富都久命          彦国葺命   小篠命    乙国葺命
  ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫   【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
 彦忍人命   建耶須禰命    大口納命        【飯高氏祖】
(武社国造)    ┃       ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
       八千宿禰命  難波根子武振熊命   彦汝命     真侶古命
      (吉備穴国造)  【和邇氏祖】  【葦占氏祖】  (額田国造)

943日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:37:13.65
>>941
>唐津から楽浪土器が出ないから

楽浪土器が出るのは、福津・宗像方面でしょ。  @阿波

944日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:39:48.72
福津・宗像で楽浪土器の出土は知らんな

945日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:40:23.79
>>940
>畿内周辺には、卑弥呼以前にも興味深い遺跡は色々あるからな
>伊勢遺跡とか池上曽根遺跡の巨大神殿とか

弥生時代末期のめぼしい集落遺跡がないのが痛いね。  @阿波

946日本@名無史さん2018/06/12(火) 21:48:35.46
>>945
>弥生時代末期のめぼしい集落遺跡がないのが痛いね。

いっぱいあるよ
>>945が知らないだけ
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

947日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:10:27.12
>>946
遺跡が一杯あるのは当たり前。

遺跡数に比べて、鉄器がおそろしいほどない。

(内行花文鏡=北部九州系のホケノ山を除く)

948日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:18:40.57
>>946
>いっぱいあるよ
>>945が知らないだけ

「弥生時代末期のめぼしい集落遺跡」はどれ?  @阿波

949日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:19:53.92
>>933
卑弥呼や壹與は国内では何らかの理由でなかったことになっている。
つまり黒歴史。
だから公には祭られていない。

950日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:21:03.99
結局、畿内は筑紫の平原女王の仲間の支配下に下ったのだね。

951日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:22:59.39
>>638
>南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。<

邪馬台国なんて存在していないし、
水行十日陸行一月は、その直前の、全行程の目的地のの女王之所都の説明文言になるから、
郡〜女王之所都の日数説明になるので、
これも×。

952日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:25:22.55
>>639
>箸墓は260〜280年くらいでしょう。<

箸墓は、(庄内がなく)布留なので4世紀であるから、×。

953日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:26:04.75
>>946
ホケノ山が、北部九州の一般集落遺跡レベルかなあ。
武器を一般鉄器におきかえてだけど。

954日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:26:51.95
邪馬台国は大和国なのにな

テンプレは何で他の畿内を巻き込もうとするんだろう
畿内征伐の罪をなかったことにし、四道将軍など初期の大和朝廷の罪を他に擦り付けようとしているとしか考えられない

955日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:36:22.40
>>948
>「弥生時代末期のめぼしい集落遺跡」はどれ?  @阿波

直リンクで示してあるんだから、自分で読めばいいのに

大所では
唐古 ・ 鍵遺跡
平等坊 ・ 岩室遺跡
芝遺跡
鴨都波遺跡
坪井 ・ 大福遺跡
多遺跡

956日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:37:19.00
>>644
>神武元年は3世紀前半。<

二中歴の、
年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉(五一七〜五二一)・・・
において、517−39−569×2=−660が成立するので、
569年とは二倍年歴期間になり、
だから、西暦での神武即位元年は、ー660年から569年経った、
紀元前91年頃経ったになるから、
「3世紀前半」説は、×。

957日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:40:03.01
>>645
>その・伊香色雄命・伊香色謎命 兄妹を今も大切にお祀りし続けているのは
全国唯一、倭国(阿波)だった阿波の忌部の郷。  @阿波 <

倭国は「正北抵新羅」に拠って九州であるから、
「倭国(阿波)」は×。

958日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:40:47.54
>>947
>遺跡数に比べて、鉄器がおそろしいほどない。

その「おそろしいほど」ってのはただの主観

纒向遺跡の庄内土器の時代の範囲内の、
纒向石塚の北東200m近辺から鞴羽口や鉄滓等が確認された
鉄鍛冶を伴う遺構が出土してるよ

959日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:42:17.11
>>647
>女王が住んだのは葛城。
ヒミコの墓は高天原(御所市高天)の日本最古の神社の境内にある。<

「南≠東」だから、×。

960日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:43:55.40
>>958
で、その鉄鍛冶遺構とやらはどれくらいの段階のモノなの?
淡路島と比べて
壱岐と比べて

で、その鉄鍛冶遺構とやらで作られた鉄器はどこ?

961日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:44:37.15
倭国大乱迄は環濠が要らなくなるくらい平和だったのになぁ

元々の畿内にいた勢力は気の毒だな
自分達の地の主導権を完全に取り戻す迄600年苦しんだ

962日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:45:01.09
>>650
>神武の実時代は3世紀 <

神武即位元年は、二中歴に拠って紀元前91年頃であるから、
×。

963日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:49:32.08
>>955
もしかして、ぜんぶ消滅する運命の遺跡?  @阿波

964日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:50:46.55
>>651
>j神武は九州であるのは当たり前だが、
久留米と南九州では大きく違う、そこら辺を大雑把にするな。
崇神が神武の痕跡地に宮崎神宮を建てている。<

神武は記紀では宮崎に生まれたらしいが、
五瀬命の東征に参加したのは、筑紫城の阿毎氏の倭奴國。

>崇神が約100年前の祖先の出身地を間違えるわけがない。<

神武即位元年は、二中歴に拠って紀元前91年頃であるので、×。

965日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:56:19.85
>>656
>倭国(阿波)<

倭国は、「正北抵新羅」であるから九州であり、阿波は×。

966日本@名無史さん2018/06/12(火) 22:59:23.68
>>960
まず、九州のものと比べなさいよ。  @阿波

967日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:02:17.88
>>678
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
変人ばかりかよ。

968日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:03:49.14
>阿波が倭国の中心だと主張するのなら、
>なんでホケノ山などへの阿波朱副葬や
>円形周溝墓の瀬田遺跡など侵入を

@阿波はここに逃げてるのかw

はよ演説しろよ!w

969日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:06:57.47
>>682
>小野田口伝から
九州から畿内に移民があった伝承があるからねしょうがないな。<

ふーん。

970日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:08:37.71
@阿波=キナイコシ=常駐ロングテンプレ更新

971日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:17:35.71
>>969


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えサギジジイ!

972日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:18:12.97
おーい
@阿波=キナイコシ=常駐ロングテンプレ更新

はよ何か書かんと
みんな納得しちまうぞー

八咫論争で@阿波的な議論無視連打したのが運の尽きだったなあw


>阿波が倭国の中心だと主張するのなら、
>なんでホケノ山などへの阿波朱副葬や
>円形周溝墓の瀬田遺跡など侵入を

否定するために
全力で演説をぶって畿内説を叩いてくれやwww

973日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:19:01.67
このキナイコシ連呼の人って、生産的なことを一切書かないよね
グーパンとか大好きみたいだけど

974日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:20:34.18
>>695
>そもそも北緯35度付近だと、南北でそれぞれ棒の影長が基準地から一寸違う場所を探して実測したとして<

また「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の、変なガキ。

>どっちも丁度千里になるなんてないぞ太陽が真上にないんだから<

これも、トンチンカン。
それに、夏至正午に太陽が真上になるのは、北回帰線上だよ。

>南と北どっちも千里で基準地からの棒の影長が一寸差になりましたなんて
書かれてあるのは一寸千里が実測値でない証拠 <

北回帰線付近までは、大地片面近似が大体成立するから、
実測であった証拠。

>ゆえに短里の根拠にはならない <

ゆえに長里の根拠にはならない。

>あと周地付近てどこだよ周髀算経にはっきり地名書いてないの?<

周地付近では、南北のどこでも成立するから、要らないの。

975日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:21:34.71
@阿波=キナイコシ=常駐ロングテンプレ更新

976日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:23:22.13
おーい
@阿波=キナイコシ=常駐ロングテンプレ更新

はよ何か書かんと
みんな納得しちまうぞー

八咫論争で@阿波的な議論無視連打したのが運の尽きだったなあw


>阿波が倭国の中心だと主張するのなら、
>なんでホケノ山などへの阿波朱副葬や
>円形周溝墓の瀬田遺跡など侵入を

否定するために
全力で演説をぶって畿内説を叩いてくれやwww

977日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:26:04.43
@阿波の窮地を救うために「意味不明文」が登場

つまり

@阿波=キナイコシ=意味不明文ソフト=常駐ロングテンプレ更新

978日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:28:25.30
>>699
>行とか水行とかが移動の動詞<

出発と到着の間に書かれた「行」は、移動があった事を示す動詞。
出発と到着の間に書かれていない 「水行」などは、日数記録などの説明としての文言。

>方○○里は移動の動詞じゃないから移動した記録じゃないな<

当たり前。「方〇〇里」は、その国の大きさを示す表現。

979日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:31:36.98
>>702
>(ホケノの布留が木蓋腐食の崩落分)
当時の発掘担当者が後世の混入物ではないとはっきり言ってるが<

成程。

980日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:34:19.69
>>703
>一例だけで推理するのもいいが 一例だけでドヤ顔されてもね<

一例だけでも推理する事は出来るんだが、
一例だけでは「帰納的推論」は出来ないかのような、ドヤ顔されてもね。

981日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:35:57.79
伊都クズの全一病が悪化の一途だな

982日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:36:59.72
おーい
@阿波=キナイコシ=常駐ロングテンプレ更新

はよ何か書かんと
みんな納得しちまうぞー

八咫論争で@阿波的な議論無視連打したのが運の尽きだったなあw


>阿波が倭国の中心だと主張するのなら、
>なんでホケノ山などへの阿波朱副葬や
>円形周溝墓の瀬田遺跡など侵入を

否定するために
全力で演説をぶって畿内説を叩いてくれやwww

983日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:37:12.82
>>706
>纒向の復元はいかがなものかな・・・どのようなものができるか興味あるが
石床は発見されていないのでは?だから掘立柱建物、あれば堂々と高床建物と主張できる。
現段階では平屋建物とみるべきだろうね
復元は観光目当てでしょうが 後世で赤っ恥かく可能性もある<

成程。

984日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:38:31.19
伊都クズの全一病が悪化の一途だな

985日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:40:38.79
>>708
>>中国の周りに、中国役人らの「島巡り」した例が他にはなかった、<

>この時点で、帰納でもなんでもないただの憶測<

一個の孤立史料からでも、帰納的推論は出来る。

要するに、この大和説男も、何の根拠もない思いつきだってことさね。
それを正しいと言い張るカルトのあさましさよ。

986日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:41:10.42
おーい
@阿波=キナイコシ=常駐ロングテンプレ更新

はよ何か書かんと
みんな納得しちまうぞー

八咫論争で@阿波的な議論無視連打したのが運の尽きだったなあw


>阿波が倭国の中心だと主張するのなら、
>なんでホケノ山などへの阿波朱副葬や
>円形周溝墓の瀬田遺跡など侵入を

否定するために
全力で演説をぶって畿内説を叩いてくれやwww

987日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:43:11.68
>>709
wwさんに論理を教えるのはあきらめてるよ。

>「1例からであっても」、その内実には多くの論点に関する事実を持っており、
>「多数例からの帰納的推論が出来る」
もう論理以前に日本語も通用しないんだものww。

988日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:44:09.38
伊都クズの全一病的主張がイミフ

989日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:45:20.78
>>710
>>末盧國は、国内移動がおそらく3百里以下であったから、書かれなかった。<

>以前にザラコクさんは、末慮國ー伊都国間の五百里は、末慮国の国内移動だって言ってたよな?
五百里移動してるじゃん?ww <

言っていないし、言う筈もないww。

バカすぎ

990日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:46:17.68
@阿波が消えたな

991日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:48:49.89
>>988
お前は@阿波を救援に来たキナイコシなのか?

それとも@阿波が言ってる設定?

992日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:49:52.43
>>712
>なんかここ最近一寸差一寸差言ってるガイジがいるが
二寸差だぞ このガイジがまったく理解できてない証左だな<

また、変な「人種差別的なノータリン」の大和説者が現れたらしいなあ。
1尺6寸と1尺5寸も一寸差だし、
1尺6寸と1尺7寸も一寸差だよ。

993日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:51:25.02
>>991
両方違うぞ

994日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:51:29.12
さあ、どうする?
@阿波=キナイコシ=意味不明文ソフト=常駐ロングテンプレ更新

指摘された途端に
@阿波が消えて、
キナイコシやら意味不明文やらが救援に出てきたタイミングで
いつも通りロングテンプレ更新したら
そういうことだ

かといって、
ここで逃げても疑われる

995日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:53:16.69
全1病www

996日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:53:56.28
>>995
@阿波が消えたねえ

997日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:54:51.46
尾張三河は火明命の子孫の神を祀っている石作神社が多いな

石器作り集団なのかな

9989952018/06/12(火) 23:54:58.97
>>996
そだねー

999日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:55:15.95
おーい
@阿波=キナイコシ=常駐ロングテンプレ更新

はよ何か書かんと
みんな納得しちまうぞー

八咫論争で@阿波的な議論無視連打したのが運の尽きだったなあw


>阿波が倭国の中心だと主張するのなら、
>なんでホケノ山などへの阿波朱副葬や
>円形周溝墓の瀬田遺跡など侵入を

否定するために
全力で演説をぶって畿内説を叩いてくれやwww

1000日本@名無史さん2018/06/12(火) 23:55:38.25
おーい
@阿波=キナイコシ=常駐ロングテンプレ更新

はよ何か書かんと
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八咫論争で@阿波的な議論無視連打したのが運の尽きだったなあw


>阿波が倭国の中心だと主張するのなら、
>なんでホケノ山などへの阿波朱副葬や
>円形周溝墓の瀬田遺跡など侵入を

否定するために
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