伊都国東遷スレ 9
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html
通勤中なので、残りは夜にでも >柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
パクってるだけだからな 根拠一つ上げられず
理路の通った反論一つできず
言葉尻をねちねち言うだけで
伊都国説は「終了」してるのに >>3
文献解釈には正解が無いから、解釈の仕方によって様々な説が成り立ってしまう
だから考古学的に考察していくのだが、そのどの説も根拠らしきものはどこにもないよ
伊都説は卑弥呼より前の倭国が説明できるし、考古学的にも、鏡文化の中心地であり、大陸との関連が深い
鉄もあるしな
他の説よりかなりマシ >>4
>だから考古学的に考察していくのだが、そのどの説も根拠らしきものはどこにもないよ
よく言うよ
自分の気に入らないものを、確定はしていない、確定はできないはずだって言うだけじゃん?
平原1号墓の、二つ並びの杭穴を鳥居と呼ぶのにどれだけの根拠がある?
1号墓と大柱の延長上に異形建物があることを、
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓、立柱、祀堂の並びと合わせて考察した伊都国説の人間はいるのか?
そうすれば、日向峠がどうこうとかいう寝言は言わずに済んだだろうに 吉野ヶ里には太陽の女王はいなかったが、伊都国にはいた。
その違いだとも説明できる。 >>7
>吉野ヶ里には太陽の女王はいなかった
いなかったとする理由は?
>伊都国にはいた
いたとする理由は?
結局、自分でそう決めたから(考えたから)という、循環論法でしかない
いい加減、循環論法以外の根拠を挙げてごらんよ >>7さんは、これには意見がないの?
平原1号墓の、二つ並びの杭穴を鳥居と呼ぶのにどれだけの根拠がある? >>8
吉野ヶ里よりも平原の方が、より太陽の方向に配慮しているように見えるけど?
そもそも、吉野ヶ里の方は太陽の方向を意識していないように見えるのはなぜかということだろ? >>6
>自分の気に入らないものを、確定はしていない、確定はできないはずだって言うだけじゃん?
これって、畿内説のことかと思ったよ。
平原遺跡と日の出の方向とか、鳥居の痕跡とか、自分の気に入らないものを、確定はしていない、確定はできないはずだって言うだけじゃん? >>4
>だから考古学的に考察していくのだが、そのどの説も根拠らしきものはどこにもないよ
あるよ、倭国(阿波)に。 「其山有丹」が考古学的根拠。 他のどこも該当しないでしょ? @阿波 >>11
>吉野ヶ里よりも平原の方が、より太陽の方向に配慮しているように見えるけど?
そもそも、東方向に適当に向けた線上なら、一年のどこかではその方向から日が昇る
それが二至二分でもなければ、特段の太陽信仰との関わりは想定されることはない
10月22日に、特別な意味を付与しようとしている人もいるけれど、まあ、意味がないと見るのが普通
細かく見る人だと、日向峠を向いているかどうか、という点も疑問視している
平原1号墓の発掘平面図を見れば一目瞭然だが、墓溝及び木棺跡は、周溝で囲われた領域の「中心からはっきりとずれている」
墳丘自体が失われているので何とも言えないが、周溝で囲われて領域全体が墳丘だったのではなく、墓溝を中心に一部だけ盛り土が行われていたと考える人もいる
吉野ヶ里の北墳丘墓でも、中央の埋葬主体はきちんと墳丘中央に位置している
その辺も含めて、伊都国説平原1号墓推しの人は、遺跡の実態に詳しくないし無頓着すぎる
>そもそも、吉野ヶ里の方は太陽の方向を意識していないように見えるのはなぜかということだろ?
吉野ヶ里の方は、太陽とは無関係に南墳丘墓とかつて呼ばれたマウンド(今は祭壇とされている)に向けられている
真南でもないし、日の出や日の入りの方角には決してならない方向
平原1号墓の大柱の役割を考える場合は、吉野ヶ里の南墳丘墓に当たる場所がないかを探るのが、実は一番大事なんじゃないか?
それと、大柱の遺溝の前後に、柱を立てるためのスロープに見える横長の穴が複数、検出されている
5号墓の大柱は2本、遺溝が見つかっている
この辺のことに言及する伊都国説の人間を見たことがない
伊都国説をぎゃあぎゃあ言っている人よりも、明らかに私の方が詳しい
この状態で「太陽祭祀がー」「八咫鏡がー」とか言っているのを見ると、
「思い込みだけじゃダメだよ」、という感想が一番に出てくるww >>12
>確定はしていない、確定はできないはずだって言うだけじゃん?
違うよ?
「確定はしていない」じゃなくて、「はっきり間違いだろう」って言ってるんだよw
根拠のないものをいくら言い張っても無駄 >>16
根拠のあるものを言い張っているのは、「倭国(阿波)」だけ。 @阿波 >>16
何を根拠にはっきり間違い?
柳田説はいつ否定されたの? >>19
パクリとかどーでもいいし。
で、いつはっきり否定されたの? >>15
>10月22日に、特別な意味を付与しようとしている人もいるけれど、まあ、意味がないと見るのが普通
まあ、そこまで細かい角度は意味ないと思うよ。
でも、東を向いていることには意味があると思う。
コテハンの孝霊氏ではないけれど、神仙思想というか、太陽信仰を加えた古代神道の原型としての意味があると思う。
>5号墓の大柱は2本、遺溝が見つかっている
鳥居だろ?
そもそも神道がいつ成立したかということに関わるけれど、記紀ははっきりと太陽神の性格を持ったアマテラスを持ち出しているので、それに相当する上古から太陽信仰はあったはず。
それを示す遺跡として平原遺跡は重要だよ。
そして吉野ヶ里にはそれが見られないなら、神道の中の太陽信仰の要素は伊都国で加わったと推定できる。 >>16
>「確定はしていない」じゃなくて、「はっきり間違いだろう」って言ってるんだよw
何を根拠に、何が間違いだと言っているの? >>21
>>5号墓の大柱は2本、遺溝が見つかっている
>鳥居だろ?
また、無知をさらしている
平原遺跡の平面図を穴が開くまで見つめやがれ!
話はそれからだww >>20
>でも、東を向いていることには意味があると思う。
きちんと真東を向いているならともかく、
東は東だけど、適当な東南東方向って、どう思う? 例えば、平原1号墓出土鏡は「8.63咫」だから、八咫鏡ではない ってのは
はっきり否定しているだろ? また一言レスでお茶を濁しているw
具体的な根拠を言えない癖に、何かを言い返さないといけないってのも大変だなww
伊都国説なんて、やめればいいのに
そうすれば、そんな惨めな「一言レスに逃げる」なんてことをしなくても済むぞ >>28
>論証抜きで言い張ってるだけ
論証抜きだと思うなら、簡単に逆に論破できるだろ?
「具体的に指摘」して、論破してみればいいだろ?
そうしたらこっちは改めて、説文解字注の解釈や
大陸史書原文中の用例、大陸の考古尺の解釈から、
全部もう一回解説してやるよww
舐めるな! 史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想
咫を円周を測るのに使っている例はない 漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である
咫を円周を測るのに使っている例はない 三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない 親魏倭王卑弥呼の墓は豪奢な墳でなく、
尖がり帽子みたいな質素な「冢」だった。
それがみたけりゃ、阿蘇・高千穂神社の本殿背陣のご神体山をよ〜く拝むこった。ここが卑弥呼さまの大作冢墓。。 例えば、平原1号墓出土鏡は「8.63咫」だから、八咫鏡ではない ってのは
はっきり否定しているだろ?
これの根拠マダー??
www 尺が時代により揺らぐから、咫も揺らぐ。
8.63咫の鏡は、十分に八咫鏡と呼べる。 >>21
>>5号墓の大柱は2本、遺溝が見つかっている
>鳥居だろ?
これが大間違いだってのは、確認できたのか? >>40
>これの根拠マダー??
ほいよ つ 「根拠」
周歩が身体尺で、135センチ程度とされている
清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》から引用すると
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
となっていて、
周代でも古い時代は、周尺の八尺を歩としてたが、
今は周尺の六尺四分を歩としている
と書かれている
これで、歩=135センチから換算すると
八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
どちらにしても、漢尺の23センチとは異なるし、
咫が周尺である以上、平原1号墓出土鏡は、面径二尺にはならない
したがって、円周も八咫にはならないんだよ
>>690で書いたとおり、九州説のいう「咫」の長さが異なっていたってことだ
この数値から計算すると、咫=16.9センチ
八咫=135センチで、平原1号墓の146センチとは合わない
146センチは、「8.63咫」だね
既に論破済みのことを何回でも蒸し返すのが、九州説のたちの悪さだよなww >>41
>尺が時代により揺らぐから、咫も揺らぐ。
>8.63咫の鏡は、十分に八咫鏡と呼べる。
はは、またバカなことをww
>>32〜>>36で示したように、秦の度量衡の統一以降、
「公定尺の体系の中に『咫』は入っていない」ので、
漢代、魏晋代には、「長さの単位として一切使われていない」んだよ
使われていない単位が「揺らぐはずがない」だろ? >>21
ほれ、平原遺跡の発掘平面図を貼ってやるから、5号墓の大柱が二本あって
「鳥居ではありえない」のをまず確認しなさい
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2c9cac26ffdc644a177f62ea5a9aabe5202dd80c.78.2.9.2.jpeg
でもまあ、前スレでは「5号墓?なにそれおいしいの?」状態だったんだから、少しは進歩かな?
でも、伊都国説で「平原遺跡が卑弥呼の墓」とか言いながら、この体たらくだからなww
平原遺跡と平原1号墓の区別が付いていないやつもいるしw >>47
あるよ
前漢の尺は現物があって、一歩は六尺とハッキリ文献にあるんた >>49
歩は六尺4寸だろ。
自分で引用してるのわすれたの? >>50
知能低いやつだな
周尺で六尺四寸、漢尺で六尺だ
だから周尺が漢尺より小さいことがわかる 歩自体が短くなったかもしれないだろ。
やっぱり詐欺だな >>45
>>8.63咫の鏡は、十分に八咫鏡と呼べる。
>
>はは、またバカなことをww
大きいことが大事なのであって、8.63咫は「十分に」八咫なんだよ。
不足していない。 >>46
>ほれ、平原遺跡の発掘平面図を貼ってやるから、5号墓の大柱が二本あって
>「鳥居ではありえない」のをまず確認しなさい
わかったわかった、で、その穴はなんだというんだ? >>53
>大きいことが大事なのであって、8.63咫は「十分に」八咫なんだよ。
>不足していない。
最初は「咫は円周を測る尺で、径二尺の鏡の周は8咫ちょうど」って言ってたのにww
「周尺也は周を測る尺度」は誤訳ってのがはっきりしたら、言を左右することこの上ないw
>>53は>>45に対する返信として書かれているが、
>>45は>>42の「咫の長さは時代によって揺らぐから多少ずれてもOK」を否定している
その部分を無視して、大きければいいんだまで「後退」している
そして、「大きければいいんだ」ならば「咫」を持ち出す必要はないし、
平原1号墓を八咫鏡とする理由は事実上なくなるww >>54
>わかったわかった、で、その穴はなんだというんだ?
「わかったわかった」じゃなくて、
「>>21の書き込みはもの知らずで知識もないのに適当こいてました」だろ?
平原1号墓推しのくせに、正しい知識に欠けたまま適当な憶測だけで立論してるのをまず認めろ! 文句は付けるくせに自分では何も説明しない。
誰も気にしない5号墓なんて持ち出して誘導しておいて、詐欺師みたいな奴だな。 >>54
>で、その穴はなんだというんだ?
その穴は「大柱を立てた穴」だろ?
そして、「日向峠の方向を『指していない』」
平原1号墓を太陽の巫女だとする理由の大きな部分が
「日向峠から昇る朝日を意識している」ことに依拠しているのだが、
吉野ヶ里遺跡との比較、さらには同じ平原遺跡の同じ造墓主体の手による5号墓との比較から
日の出の方向は特に意識していないことが見て取れる
伊都国の有力者の墓であるのは間違いないが、太陽祭祀はこじつけレベルだというのが明らかだし、
倭王の墓とするにはいい加減すぎるし、しょぼすぎる >>52
>歩自体が短くなったかもしれないだろ。
デタラメ言っても誤魔化せない
「周尺の六尺四寸が今の一歩」という史料をどう読んでも、歩が短くなったという解釈は出てこない >>58
>誰も気にしない5号墓なんて持ち出して誘導しておいて、詐欺師みたいな奴だな。
みなさーん、これが伊都国説の正体ですよー!
平原5号墓は平原1号墓に先行する墓で、平原遺跡という家族墓地の位置を決めた墓であり、
平原1号墓のおそらく親の墓だ
それを「誰も気にしない墓」と書ける時点で、伊都国の歴史はどうでもいい、
何も考える気はないって言っている訳だ
伊都国説がトンデモでしかないってのが図らずも明らかになったな
自白してりゃあ世話ないわ >>58はこれからも伊都国説の無能さを代表する広告塔としてがんばれ!w >>60
>吉野ヶ里遺跡との比較、さらには同じ平原遺跡の同じ造墓主体の手による5号墓との比較から
どちらも日の巫女の墓ではないからだろ?
平原1号墓は、明確に太陽信仰の要素が加わったという点で画期なんだよ。
そのことを証明しているに過ぎないね。
特に吉野ヶ里は当時の倭国の中では辺境の田舎なんだから、比較する意味もない。 >>62
>平原1号墓のおそらく親の墓だ
根拠なしの妄想を持ち出されましても、、、 >>56の最後の行は
「平原1号墓出土鏡を八咫鏡とする理由は事実上なくなるww」
だな
訂正 アマゾンの電子書籍「継続としての日本古代史」を出しましたので、
岡上説として纏まったものは、そちらを参照いただけると幸甚です。
ちょっとした広告用ポスターも自作しました。
詳細はブログ( http://aroomofwisdom.blogspot.jp/ )の方をどうぞ
また、付論を一部、リバイズしましたので、公開しております。よろしければどうぞ。
http://fast-uploader.com/file/7086948633981/
また、八寸と八咫という小論を作りましたので、どうぞ。
参照元の時点で、話として完結しているので、私のものはどうもちょっと蛇足だったみたいです。
けどまぁ、せっかく書いたのでアップしておきます。
せっかく色々とご指摘いただきましたが、まだ旧バージョンのままです。スミマセン
http://fast-uploader.com/file/7087721936368/ >>61
これは真逆ですね。
戦国尺と秦尺は実質的に同じ長さなのですから、始皇26年でしたか、歩が六尺と決められたのだから、
その時に歩が六尺四寸から短くなったと考えるのが合理的かと思いますがね。
だいたい一歩「135cm」と言う数字自体、漢和辞典にある通り、周寸を22.5mmと考えたところからの推測でしょうから、
それを六尺四寸を割り直しても何の意味もないですよ。 >>65
>どちらも日の巫女の墓ではないからだろ?
では5号墓の大柱はなんのためにあるのか説明しておくれw
それに1号墓にも、大柱を立てた「スロープ」と平行した横穴が2本あり、
柱穴自体は残っていないようだが、複数回、柱を立てた可能性がある
実際5号墓では2本の大柱が発掘されている
そして、それぞれの柱の指す「方向は一定していない」
ということは、「結論ありきの循環論法」を持ち出さない限りは、
大柱の指す方向は目標がある訳ではないことになる
大柱の存在をもって太陽信仰の賜物だとするのは、
可能性は「0ではない」以上のものじゃないよw >>65
>平原1号墓は、明確に太陽信仰の要素が加わったという点で画期なんだよ。
こういうのを、根拠なし、って言うんだよw
根拠は「大柱が夏至でも冬至でも春分でもない日の出の方角を指しているから」と
「割って墳丘にばらまかれた大きくするだけが目的の鏡の文様が『太陽に見える』(主観)」だっけ?
明確じゃないだろ?ww >>72
「周尺の六尺四寸が今の一歩」という史料は
意図的に異常に曲げないと
歩が短くなったという解釈にならないだろ? >>65
>特に吉野ヶ里は当時の倭国の中では辺境の田舎なんだから
その辺境の田舎の集落の特定家系墓である北墳丘墓で、
墳丘サイズが南北約40m、東西約27mある
その辺境の田舎の墓よりずっと小さな、12×8メートルの方形周溝墓を倭王の墓と
主張できる神経がすごいわ
自分でも「比較する意味もない」といっているけれど、比較にならないくらい平原1号墓は小さい 丸くて太陽を反射させる鏡に入っている内行花文の文様について、多くの人とって、それを太陽と連想するのですから、
それを客観と言うんですよ。
むしろ太陽に見えないというのが、あなた一人が言っている主観と思いますけど。 >>70
>戦国尺と秦尺は実質的に同じ長さ
なんだお鏡さん、そこの所は正しく理解してるんじゃないか
なのに東周銅尺を、周尺だと言い張るのはおかしいと思わないのかい?w
周尺は「王制」、西周初期の聖王の治世の頃の尺だよ
戦国時代の尺を周尺と言い張ってはダメだろう? 「王制」の時点で六尺四寸が、始皇帝26年に六尺になった。
歩はそのままで、尺度が短くなったのか、尺度がそのままで歩が短くなったのか、
どちらも文脈上は同等程度にあり得ると思いますが。
で、考古学的には、秦尺が戦国尺より短くなっている様子はない。
つまり、後者が正解ということです。 >>78
戦国尺は、実質的に周尺にほかならないですよ。
小論文読んでくださいね。 >>77
>丸くて太陽を反射させる鏡
これが太陽の象徴だとするのは構わないよ
けれど、「他の鏡種ではなく内行花文鏡」こそが太陽祭祀の象徴とするのは、
そうしたいと思う人の「主観以外の根拠がない」と言っているだけ
御鎮座伝記の神鏡座事を見ると、丸くて光を反射する鏡は、
「太陽だけではなく月の象徴でもある」という観念も見て取れる おてもにある方は、角川の漢和中時点の付録を読んでみてください。
貝塚先生の解釈と、ここの畿内厨、どちらが珍説か、言わずもがなというものです。 >>80
>戦国尺は、実質的に周尺にほかならないですよ。
これはウソ
これらを読んだって言うのもウソなのかい?
『考工記』の尺度について 新井宏
http://dl.ndl.go.jp/...o:ndljp/pid/10631904
中国人のはかり方 藤堂明保
https://www.jstage.j...38_105/_pdf/-char/ja
中国計量史話(5)関増建* * 著 加島淳一郎* * 訳
http://dl.ndl.go.jp/...1&alternativeNo= >>80
>戦国尺は、実質的に周尺にほかならないですよ。
それが自分の今使ってる尺と同じだったら
それを「周尺」と呼ぶ?
常識で考えてね >>83
あなたこそ、私の参照論文を読んでみましたか? >>87
自らの文責で、一文を書きましたよ。
あなた方こそ、匿名の陰に隠れて名無しがここで騒いでるだけにしか思いませんよ。 もちろん、岡上のオリジナル説の部分もありますよ。
なければ書く意味がない。読まずにテキトーに言わないでください。 ??
私は基本的には定説よりですよ。平原の評価を含めて。
畿内説で、ほぼ全面的に柳田先生の説に賛同していますし。
それとオリジナル部分があるかないかはまた別の話です。 >>86
>あなたこそ、私の参照論文を読んでみましたか?
それを言って「逃げる」ために、ここに反論を書き込まずに
わざわざ読む方に手間をかけさせるpdfにしたんだろ?
最初と2番目にダウンロードしたのは私だよww
まあ、暇な人はお鏡さんの小論と、>>83の3本の論文を読み比べてもらえばいいんじゃないかな
自ずと明らかだと思うよ
お鏡さんの小論の論点は、「周の身体尺に丈が入っていない」に頼ってるだけだから
尋が入っていて、尋が周尺の丈だって説文解字で確認できるのに >>73
>では5号墓の大柱はなんのためにあるのか説明しておくれw
自分で説明しろ、ボケ >>73
>可能性は「0ではない」以上のものじゃないよw
しつこく否定することに意味がないと気がつけよ。 >>74
>「割って墳丘にばらまかれた大きくするだけが目的の鏡の文様が『太陽に見える』(主観)」だっけ?
資材と労力を注ぎ込んで史上最大の銅鏡を作った理由の説明としては不十分なんだよ。 >>81
>そうしたいと思う人の「主観以外の根拠がない」と言っているだけ
信仰は主観だから、これは太陽と思えば太陽なんだよ。
鰯の頭よりは太陽に見えるだろう? >>92岡上
>畿内説で、ほぼ全面的に柳田先生の説に賛同していますし。
柳田先生は、何が良くて奈良盆地を遷都先に選んだんだろう? 他にもいい所いっぱいありそうなもんだが。 @阿波 >>93
ちょっと勘違いされてますね。私が読んでみて言ってるのは、「参照論文」ですよ。
「中国古代の尺度について」関野雄 1953 年 東洋学報 第三十五巻
です。
あと、ここで、オリジナル説をあまり書かないのは、書き込み前の注意書きが気に入らないからです。
それにすぐ流れますしね。どこかのアレな人みたいにテンプレ長くしても意味ないですから。 >>92岡上
>畿内説で、ほぼ全面的に柳田先生の説に賛同していますし。
岡上さんは、何が良くて奈良盆地を遷都先に選んだの? 他にもいい所いっぱいありそうなもんだが。 @阿波 で、お鏡さんが出てくると、>>65が消えるww
平原遺跡のことをよく知りもせずに、適当な思い込みを主張しまくる>>65のことを
「基本的には定説よりで、畿内説」のお鏡さんに諫めて欲しかったんだけどなw スレ主に敬意を評して傾聴しているだけだよ。
誰かさんと違って、ちゃんと自分の意見を持っている人だからね。
結論は少し自分とは違うが、それは問題ではない。 おっと、消えてなかったかww
お鏡さん、お鏡さんの畿内説と相容れない伊都国説の謎主張を言葉汚く何度も書き込んでる人がいますよ?
畿内説と戦ってないで、ぜひお鏡さんの畿内説の立場を>>94に説明して上げてくださいなw >>94
>自分で説明しろ、ボケ
つまり、>>94は説明できないんだね?
なのになぜ、1号墓の大柱は説明できると思うんだい?
自分で決めた説明に合うから、かい?
絵に描いたようなダブルスタンダードだねぇww >>104
元々は、自身の地元でもあって、漠然とした畿内説でしたからね。
三輪神社の付近とか、歩くとワクワクしますよ。
ただ、平原遺跡を知れば知るほど、畿内自生だけはないと確信した結果です。 >>106さんは、何が良くて奈良盆地を遷都先に選んだの? 他にもいい所いっぱいありそうなもんだが。 @阿波 >>109岡上
>三輪神社の付近とか、歩くとワクワクしますよ。
具体的に遷都地に選んだ理由はなに? あなたのワクワク感じゃなくて。 @阿波 >>112
これは、「伊都国東遷説」の根幹ですよ。 はっきりした答えを持っているのかな? @阿波 >>106 さん
基本的には弥生時代の九州の文化が畿内の古墳時代へとそのまま続いている。
それがこのスレの趣旨で、邪馬台国の所在は二の次ですから。
この二つを分断して考える九州王朝説と畿内自生的な考え方が、私の基本的な論敵ということです。 >>114
畿内自生的な考え方とか、言ってるのは誰? >>112
阿波さん、私の思考の順としては、逆ですよ。
私は畿内説論者ですから、畿内が日本の中心であったことは所与の事実です。
畿内のプレ大和王権を遡ると九州北部についた、ということです。 >>106
>スレ主に敬意を評して傾聴しているだけだよ。
なあんだ
キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、草を生やす際に半角で1文字目大文字といった特徴もある。
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 >>114岡上
>この二つを分断して考える九州王朝説と畿内自生的な考え方が、私の基本的な論敵ということです。
「畿内自生説」の否定は全く同意ですが、かといって「九州王朝説」に乗っかったのが失敗でしたね。 @阿波 >>114
>畿内自生的な考え方が、私の基本的な論敵ということです。
ここにいる畿内説で、畿内自生的な考えの論者はいないと思うが?
卑弥呼は共立であり、そこは畿内の自生ではなく外部からの介入と協力で
纒向遺跡の建設が始まるというのが基本
いつでも敵対しているけどさw
お鏡さんは何と戦っているんだ?w >>116岡上
>私は畿内説論者ですから、畿内が日本の中心であったことは所与の事実です。
だから、「所与の事実」として具体的に遷都地に選んだ理由はなに? @阿波 >>119
その「外部から介入と協力」というところで、お茶を濁してるでしょ。
畿内の古墳時代の源流が九州北部だと、記紀が正しいということになって困るんですかね? >>120
「継続としての日本古代史」にたっぷり書きましたので、そちらをお読みください。 >いつでも敵対しているけどさw
>お鏡さんは何と戦っているんだ?w
平原の価値を素直に認めれない人と戦っている気がしますね。 >>120
やっぱり「九州王朝説」に乗っかったのが失敗でしたね。
倭国(阿波)説にするべきだった。 でも、阿波の真実を知らなかったから無理もないが。 @阿波 ttp://rapt-neo.com/?p=32928
ttp://rapt-neo.com/?p=19273 阿波さんも何かまとまったものを書いてみては?
勉強になりそうです。 >>122岡上
>「継続としての日本古代史」にたっぷり書きましたので、そちらをお読みください。
ひとつふたつ簡単に挙げられないの? すぐ出てくるでしょ? @阿波 阿波から淡路島、加古川を遡って福知山から日本海に抜けるラインは、
非常に興味深いものがありますね。 >>124
>平原の価値
平原の価値って何?
5号墓の大柱は、何だと思うんだい?
お鏡さんも>>58と同じように「誰も気にしない5号墓なんて持ち出して」といって切り捨てるのかい? >>124
自分が素直だと暗に言っちゃう神経に脱帽 >>128
あえていうと、日本海と瀬戸内海の交易ルートが三輪の地点で重なる点ですかね。 >>129
倭国(阿波)の翡翠ルートの可能性はありますね。 @阿波 いつまでも粘着してないで、あなたなりの「外部から介入と協力」の物語を考えてみては?
きちんとまとまっていれば、拝読させていただきますよ。 >>134
あなたなり、なんて必要ないだろ
通説だし 自分なりの物語を作りたがるのは九州説にありがちな病気だね >>136
じゃあ味気ない教科書でも朗読していてくださいね。
私は興味ないですが。 >>132岡上
>あえていうと、日本海と瀬戸内海の交易ルートが三輪の地点で重なる点ですかね。
はるか遠方の奈良を遷都地として選ぶ理由としては、はなはだ弱いですね。
「日本海と瀬戸内海の交易ルート」の接点として選ぶのであれば、下関や門司が妥当でしょう。 @阿波 >>139
そこは、阿波って言わないんですね(笑)
冗談はおいといて、古墳時代に畿内が中心だったのは、事実ですから。 >>132
>「日本海と瀬戸内海の交易ルート」
それに宇陀を越えて東海・東国と繋がるってのも大きいと思うがね? >>141
まさにその通りですよ。
東西交易ルートが日本海側から瀬戸内海へ以降していく、
その過程に古墳時代の成立を見るというのが、大きなテーマです。 >>121
>その「外部から介入と協力」というところで、お茶を濁してるでしょ。
>畿内の古墳時代の源流が九州北部だと、記紀が正しいということになって困るんですかね?
いつも思うんだが、お鏡さんの言い分って常に逆なんだよな
むしろ北部九州要素はマイナーだろ?
どうして、畿内の古墳時代の源流を「九州に限定」しようとするのかが不思議
水行20日+10日、陸行1月の経路を、出雲経由の日本海経路としているのに、
出雲を軽視するのはどうして?
その経路は、出雲と大和の間のだろ? >>142
>まさにその通りですよ。
ならば、どうしてそれが最初に出て来ないの?
定説寄りの畿内説なら、それが常識として最初に力点が置かれるものなんだが?
それに平城山越えの近江、越との交通路も加わる
北部九州の寄与は、お鏡さんが思うほど大きくはならないだろうに
伊勢遺跡の評価はお鏡さんの中ではどうなっているんだ? >>119
>ここにいる畿内説で、畿内自生的な考えの論者はいないと思うが?
少なくとも、以前は畿内説のスレのスレ主は自然発生説だと言って憚らなかったようだよ。
今もテンプレはその基調だしね。 >>130
>5号墓の大柱は、何だと思うんだい?
5号墓にこだわる理由がわからない。
個人的には、卑弥呼は伊都の外から共立されて伊都に入ったと考えているので、5号墓の被葬者とは縁がないと思っている。
関係あるというなら、証拠を出せ。 >>136
>通説だし
思考停止だね。
畿内説は自分の頭では何も考えないらしい。 >>143
>どうして、畿内の古墳時代の源流を「九州に限定」しようとするのかが不思議
倭奴国が金印を貰ったなら、少なくとも卑弥呼の少し前まで倭の中心は博多湾沿岸。
>出雲を軽視するのはどうして?
出雲は筑紫に覇権を取られたでしょ。 >>144
>それに平城山越えの近江、越との交通路も加わる
>北部九州の寄与は、お鏡さんが思うほど大きくはならないだろうに
筑紫を頂点とする日本海ルートの一部でしょ。
そのルートの派遣を巡って出雲と筑紫が争って筑紫が天下を取ったわけだ。 >>145
>被害意識と妄想の塊なんだな。
否定しないんだなw
普通の神経なら「あんな人格破綻者と一緒にするな」って言いたくなるんだと思うんだが? >>147
>関係あるというなら、証拠を出せ。
いつも思うんだが、話が逆なんだよな
平原遺跡は、5号墓、1号墓・2号墓、3号墓・4号墓の順で、累代的な造墓が見られる
同一墓所で、累代的な造墓が見られる墓所が、有力家系の家族墓地でなかったら
何を想定するんだい?
平原1号墓が作られるときに、すでに5号墓が存在するんだよ
さらに言えば、5号墓を作るときに平原の地が墓所として選ばれ、そこに追葬されている
墳丘の主軸方向に大柱を立てる葬送文化も共通している
それを軽視するってのが考えられない
>個人的には、卑弥呼は伊都の外から共立されて伊都に入ったと考えているので、
>5号墓の被葬者とは縁がないと思っている。
だったらどうして、新しい墓所を作らないんだ?
すでに小さな5号墓がある平原に作る理由がないだろ?
>>147の個人の感想なんて、どうでもいいんだよ
基本的な知識、情報の足りない人間の憶測なんて何の意味もない >>149
>出雲は筑紫に覇権を取られたでしょ。
そんな歴史はどこにある? >>142
>その過程に古墳時代の成立を見るというのが、大きなテーマです。
古墳時代の奈良・河内に期待しすぎ。 これといった集落遺跡が皆無。
古墳時代の奈良・河内は極端に言えば墓地。 @阿波 >>152
>墳丘の主軸方向に大柱を立てる葬送文化も共通している
>だったらどうして、新しい墓所を作らないんだ?
高祖山を東に見る立地が大事だったんだよ。
そして、現地の墓制や御柱などの習俗を踏襲し、そこに新たに日御子としての太陽信仰の要素を加えたと説明できる。 >>153
記紀くらい読めよ。
出雲の国譲りだよ。
出雲が筑紫から越までの日本海ルートの中間地点として、筑紫と密接に関係しながらも筑紫をハブとした国際交流の中で下部組織にとどまっていたという考古学的な位置付けに一致する。
政治的な話は土器のような下部構造の証拠だけ見ていてもわからない。
首長層の政治的な交流は史書に頼らざるを得ない。 >>156
>そして、現地の墓制や御柱などの習俗を踏襲し、そこに新たに日御子としての太陽信仰の要素を加えたと説明できる。
どうでもいい話。 お粗末というか、恥ずかしい。 @阿波 >>157
>出雲が筑紫から越までの日本海ルートの中間地点として、筑紫と密接に関係しながらも筑紫をハブとした国際交流の中で下部組織にとどまっていたという考古学的な位置付けに一致する。
倭国(阿波)の海人族の活動を、変に勘違いしているだけ。 @阿波 >>157
>記紀くらい読めよ。
そんなもんが、なんで根拠になるんだ
考古学的な位置づけは「覇権を取られた」なんて抗争の存在を否定してるし >>157
>首長層の政治的な交流は史書に頼らざるを得ない
そんなもん、一番頼ったらダメだろ
400年も後の史書だぞ
後世の勝者に都合よく書き直されてるに決まってると見るのが順当だ >>164
文献の神の手のほうが百倍多いのを知らないのはトーシロ >>164
馬鹿は馬鹿にして吉
既に馬鹿だから害のない行為なので >>167
いや、いっぱいある
そして、わかってることから考えるのが学問 首長層の交流(政治、戦争)は土器だけ見ていてもわからないよ。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>162
>後世の勝者に都合よく書き直されてるに決まってると見るのが順当だ
筑紫と出雲の覇権争いは、古すぎて大和にとってはどちらでもいい話なので、書き直す余地があまりなかったんだろう。 考古学は歴史ではない。
その一部分に過ぎない。
土器にこだわるなら考古学板へどうぞ。 >>172
>筑紫と出雲の覇権争いは
倭国(阿波)の海人族の活動を、変に勘違いしているだけ。 @阿波 西日本全域や半島の土器の様式が集まり、流通のハブとして機能していたのが筑紫だからね。
その中心が商都博多。
そらを統べる外交政治を担う王都が伊都。
弥生時代の海運による流通では、内陸の大和は場末の辺境にしかならない。 >>173
ほんと、お前って薄馬鹿だな
歴史の一部分なら歴史だぞ >>156
>高祖山を東に見る立地が大事だったんだよ。
糸島平野からなら、どこから見ても高祖山は東に見えるだろ?
平原遺跡の立地は、高祖山の真東でもないし、以前は日向峠が大事って言ってなかったか?
日向峠との関係は、取り消すのかい?
>そして、現地の墓制や御柱などの習俗を踏襲し、
外来の王なら、現地の墓制や習俗を踏襲する必要はないだろ?
王として乗り込むんだから、王の権威を示す意味でも新しい墓制を示すべきじゃないのか?
>そこに新たに日御子としての太陽信仰の要素を加えたと説明できる。
太陽信仰の要素って何だ?
日向峠はもう捨てるなら、割れた鏡の背面の模様が「太陽に見える」という
主観しか残らないぞ >>175
>西日本全域や半島の土器の様式が集まり、流通のハブとして機能していたのが筑紫だからね。
と、妄想しながら、その「流通のハブ」としての「弥生後期集落遺跡群」がないというお粗末。
>そらを統べる外交政治を担う王都が伊都。
と、妄想しながら、その「外交政治を担う王都」としての「弥生後期集落遺跡群」がないというお粗末。 @阿波 平原5号墓を無視するのはバカだって分かってきたかな? だいたい、伊都国伊都国と呪文のように唱えているが、
北部九州で最大の国は奴國だぞ?
考古学的な状況も、魏志倭人伝の記述でも、奴国の方が繁栄している様子を示している
なぜ、そんなに伊都国推しをしなきゃいけないのかが分からん 平原1号墓の、大量の銅鏡埋納は、王墓よりもむしろ
荒神谷遺跡の銅剣大量埋納や、加茂岩倉遺跡の銅鐸大量埋納と比較すべきなんじゃないかな? >>180
>考古学的な状況も、魏志倭人伝の記述でも、奴国の方が繁栄している様子を示している
その「奴国」は上本町遺跡・、下伊田遺跡・五徳畑ケ田遺跡・真崎遺跡などがある「田川辺り」だね。 @阿波 >183
>その「奴国」は上本町遺跡・、下伊田遺跡・五徳畑ケ田遺跡・真崎遺跡などがある「田川辺り」だね。
古くは須玖岡本遺跡辺りが中心
弥生終末期にはより海に近い、比恵・那珂遺跡群が奴国の中心 >>184
>弥生終末期にはより海に近い、比恵・那珂遺跡群が涛z国の中心
では、伊都国の「弥生後期集落遺跡群」はどれ? @阿波 >>177
>日向峠との関係は、取り消すのかい?
それは他の人だから。
私は高祖宮が高千穂宮。
>王として乗り込むんだから、王の権威を示す意味でも新しい墓制を示すべきじゃないのか?
それは違う。
倭王としての権威の継承を期待されて共立された。
あくまでも周囲の支持で卑弥呼政権が誕生した。
>日向峠はもう捨てるなら、割れた鏡の背面の模様が「太陽に見える」という
高千穂を東に見上げる神仙思想だから。
それは太陽信仰と紙一重だろ。 >>180
>考古学的な状況も、魏志倭人伝の記述でも、奴国の方が繁栄している様子を示している
人口は多いが、大率が置かれたり郡使がいるのは伊都国だから、行政機能は伊都国にあるよ。 >>181
剣や銅鐸は王の権威ではないが、銅鏡は王の権威の象徴だよ。 >>185
>では、伊都国の「弥生後期集落遺跡群」はどれ?
普通に三雲遺跡群だろ?
福岡県糸島郡前原町三雲にある弥生時代から古墳時代前期の遺跡群
墓だけじゃないよ? >>186
訳も分からずに、適当なことを書いてるだろ?
>それは他の人だから。
>私は高祖宮が高千穂宮。
>高千穂を東に見上げる神仙思想だから。
>それは太陽信仰と紙一重だろ。
神仙思想を何だと思ってるんだ?
不老長寿の仙人になることを理想とする思想だぞ?
太陽要素はほぼ0だ
高祖宮を持ち出しても、太陽信仰にはかすりもしない >>186
訳も分からずに、適当なことを書いてるだろ?
>倭王としての権威の継承を期待されて共立された。
ならば、もともとの倭王の血筋から選ぶべきじゃないのか?
その倭王が伊都国にいたというなら、伊都国王家の係累から選ぶべきだろう
なぜよそ者を擁立して、しかも伊都国に移さなければならないんだ?
よそに実力者がいたのなら、その地盤から引き剥がしたら権威が保てないぞ >>189
>普通に三雲遺跡群だろ?
>福岡県糸島郡前原町三雲にある弥生時代から古墳時代前期の遺跡群
賛成 >>190
>神仙思想を何だと思ってるんだ?
東に山があったら神仙思想というのは、畿内説の孝霊厨さんの言葉を借りただけだよ。 >>191
>その倭王が伊都国にいたというなら、伊都国王家の係累から選ぶべきだろう
係累は係累なんだよ。
ただ、宗家ではない。 >>187
訳も分からずに、適当なことを書いてるだろ?
>人口は多いが、大率が置かれたり郡使がいるのは伊都国だから、行政機能は伊都国にあるよ。
行政機能って何だよ?ww
一大率が置かれている時点で、監視対象であり王のいる場所じゃない
郡使については「郡使『往來』常所駐」と、往来が付いている
常駐ではなく、倭国に来たときにスキップせずに必ず立ち寄る、程度の意味
逆に末慮国は、寄らない場合もあるということだろう その方が自然だし >>191
>なぜよそ者を擁立して、しかも伊都国に移さなければならないんだ?
その王統の乱れが倭国大乱だろ。
伊都が王都だから、卑弥呼が倭王になるためには、伊都に入らなくてはいけない。
どこから来たか?
多分だけど、火の国から。 >>195
>係累は係累なんだよ。
>ただ、宗家ではない。
適当なことをww >>196
>常駐ではなく、倭国に来たときにスキップせずに必ず立ち寄る、程度の意味
あなたの個人的な解釈 キナイコシの話は不毛だからいかん。未だに用例引っ張りだして来てあーだこーだ無意味なこと喚いてるし。
ところで
昨日、発見して読んでる最中ですが
邪馬台国は朱の王国だった
伊都から伊勢へのとある東遷物語があります
面白いのでおススメです。 >>189
>墓だけじゃないよ?
墓だけでしょ? @阿波 >>189
>墓だけじゃないよ?
伊都国は墓だけの「三雲遺跡群」より、「感田上原遺跡」や「帯田遺跡」の直方辺りの方がよっぽど相応しい。
方角も間違っているし。 @阿波 >>197
>その王統の乱れが倭国大乱だろ。
いや? 北部九州が倭國代表と認められなくなったからだよ
>伊都が王都だから、卑弥呼が倭王になるためには、伊都に入らなくてはいけない。
そんな訳はない
そもそも一大率を置かれて、監視対象となっているところに王はいない
>どこから来たか?
>多分だけど、火の国から。
根拠なし、ってのはこういうところで使うんだよ >>199
>あなたの個人的な解釈
「郡使『往來』常所駐」の、『往来』についての標準的な解釈だよ >>200
>キナイコシの話は不毛だからいかん。未だに用例引っ張りだして来てあーだこーだ無意味なこと喚いてるし。
まともな反論一つできないんだねw
キナイコシ連呼厨=連続句読点=伊都クズ=「根拠なし連呼厨の人」 >>194
>東に山があったら神仙思想
神仙思想では、
西に西王母の司る来世の仙界である崑崙山
東に東王父の司る現世の仙界である、蓬莱・方丈・瀛州の三神山
があるんだよ
東に山があったら神仙思想って、平野の小さな日本では、
東に山がない土地の方が少ないだろ?
東向きの海岸平野以外は全て東に山があるぞ
それに、神仙思想と太陽信仰には関係がないのは確認したな?
あんまりいい加減なことを書くなよ >>204
>いや? 北部九州が倭國代表と認められなくなったからだよ
根拠のない妄想 >>208
漢鏡が輸入できなくなったんだから、そういうことだろう
学問的根拠がハッキリある >>204
>そもそも一大率を置かれて、監視対象となっているところに王はいない
そのとおり、伊都国が其の代表事例だな >>55
>周りにもたくさん「土」があるんだな。
>本当に100人近い陪葬があったのかもな。
それ、周溝が埋まってから掘られている土壙墓なんだよ
1号墓などと同時期の埋葬ではない
しかも、1号墓の墳丘内にまで土壙墓が掘られている
1号墓の被葬者への崇敬の念は速やかに失われて、
ただの空き地のように見られていたってことだ
そんな倭王墓なんて、ないだろうが 葬られたのは、
せいぜい、鏡作り部の親分一党といったところだろう そんな馬鹿馬鹿しいことしか書けないなんて、畿内説もレベルが下がりまくりだな。
そもそも平原1号の出土品とか知らないんじゃないか? 「平原遺跡は卑弥呼の墓」とばかり言っていて、平原遺跡に5号墓があることも、
そこに大柱が立てられていたことも知らなかったやつが何を言ってもむなしいだけww >>217
都合の悪いものは必死で無視するトンデモ伊都説w >>215
どこが馬鹿馬鹿しいのかな?
具体的に指摘は出来ないの?
九州説はいつもそう
漠然とした個人的印象だけでモノを言う >>217
>5号墓とかどうでもよくない?
これまでに、「平原1号墓」とだけ言っていて、「平原遺跡」と一度も書いたことがないなら
分からないでもないが、平原遺跡には、1号墓から6号墓まであるんだよ
そして、それが累代的に造墓されているから、有力家系の家族墓地だと考えられている
5号墓を考えなかったら、平原遺跡の位置づけは宙に浮くよww >>215
>・・・畿内説もレベルが下がりまくりだな。
>そもそも平原1号の出土品とか知らないんじゃないか?
平原1号で「見つかってる」木棺の炭素年代測定にかけろぉと叫んでた伊都厨のことだ出土品も知らないのは >>215
>平原1号の出土品
割られた仿製鏡がやたらたくさんあるっていうのが、最大の特徴
大きいから内向花文鏡ばかり、伊都国説の人は言及するけれど、
方格規矩鏡は32面出ている
あと、ガラスの耳璫がお気に入りのようだけれど、ガラス製品なら
丹波の王墓級墳丘墓の方が質量ともに上
厚葬墓なのは間違いないけれど、墳丘も小さいし、王墓級とするのは苦しい
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されていない時点で、
卑弥呼の墓の可能性は排除してよい >>221
そんなこと言ってるやつもいたねぇ
木棺をを置いた「痕」は確認されているから、割竹形木棺が使われていたことは
分かっているけれど、木棺自体は出土していない
どうして、これだけ「平原遺跡がー」「卑弥呼の墓がー」とか言ってるのに、
いろんなことを知らないままにして置けるのかが不思議でしょうがない 平原王墓は出土品をまともに評価できないほど、畿内説にとって脅威なんですよね。
分かり易い反応だなぁ 平原の調査年すら知らなかった伊都クズがなにかほざいてるな いくら言い張っても、平原王墓の出土品の素晴らしさは何も変わらない。
畿内説の盲信者はなにもでない纏向で桃の種でも漁ってろよ。
うまくいけば銅鐸片でも出てくるかも知れないぞ。 >>224
>出土品をまともに評価できないほど
はぁ
5号墓の評価もまともにできないやつが何を言ってるんだかww
これもある種のチェリーピッキングだよな
都合の悪いものは「あーあー見ない、聞こえない」だからどうしようもないw 神仙思想が太陽信仰と紙一重って言ってたやつは沈黙したなw それはお前だろ。
平原王墓の素晴らしさを直視できないんだよね。
かわいそうに。 >>228
>いくら言い張っても、平原王墓の出土品の素晴らしさは何も変わらない。
「出土品の素晴らしい」?お墓はあっても、それに見合う素晴らしい弥生集落遺跡がないというお粗末さ。 @阿波 >>228
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない
これから逃げ回って、一切コメント返せないのに、何を言ってるんだかww
魏皇帝からの下賜鏡が一枚もない時点で、卑弥呼の墓の候補にすらならないよ 桃の種しか出ないしょぼい遺跡を持ち上げる輩が難癖をつけても一切気にならない。
せめてマキムクから銅鏡が出てくればいいね
出るのは銅鐸片と桃の種だけwwww
対抗馬にもならないな >>235
>一切気にならない。
おーおー、すごい負け惜しみだな
大墳墓が多数あって、ただし埋葬主体部がまともに発掘されたものがないところと、
径十歩に満たない小さな墓を、ひっくり返して調べても魏からの下賜鏡が一枚も出ない地域とを比べて、
「一切気にならない」だって!ww
平原からも、鬼道を思わせる宗教的な遺物や遺構が出るといいね
でも無理だろうねww
平原では祭祀土壙も見つかってないし 頼みの纏向のお寒い状況はスルー?
大墳墓がいくらあっても後の時代のものじゃねぇ。
邪馬台国とは関係が全くないし。 いくら騒いでも、纏向からは銅鐸片と桃の種だけ。
これが事実。 >>222
ああだこうだとイチャモンばかりだな。
畿内からはロクなものが出ないからしょうがないか。 >>237
>頼みの纏向のお寒い状況はスルー?
頼みの綱じゃなくて、もう決着がついてるんだよ
まったくお寒い状況じゃないし、
ただ九州説の人が「あーあー見ない聞こえない」ってしてるだけww 畿内説はどうして事実と自分の考えを分けることができないのかな? >>237〜>>239
連投しても、結局意味のある「具体的な指摘は0」
もうね、分かりやすすぎてww >>240
>まったくお寒い状況じゃないし、
桃の種と銅鐸片以外、なにがでてきたのかなー???
笑 >>243
畿内説は、九州説が一人だとでも思っているのかな。
その一纏めにされた投稿のうち、俺のは一つだけだから、いかに畿内説が追い詰められて混乱しているかわかるよ。 袋叩きにあっても、相手が一人だけだと妄想すれば気が楽になるのかな? >>249
目を逸らす必要全くないよな
銅鐸片、桃の種、バジルの種
これで邪馬台国(笑) >>246
一人だと思っていないが、全員集計して一人前以下だと思っている で、一人前(笑)のマキムクからはなにが出てきたの??
九州説が目をそらしてるっていう発掘物を早く指摘しろよ >>200 ここからだな
『丹生神社と丹生氏の研究 』 (一九七七年 )という本です 。
古代において朱の探査 、採掘にかかわった人たちは丹生氏を称し 、全国各地にその子孫がいて 、現代日本にもこの名字はのこっていますが 、この本の著者である丹生廣良氏は 、丹生都比売神社 (和歌山県伊都郡かつらぎ町 )の宮司をなさっていた方です 。
朱の女神 、丹生津姫を祀る各地の丹生神社の総本宮ともいえる神社ですが 、丹生廣良氏は驚くべきことを書いています 。伊都国王の後 (引用者注 :子孫のこと )は白柳秀湖氏も指摘せられたごとく 、
主流は畿内へ東遷して紀伊の丹生氏となり 、その一部隊はそのまま九州に留まり 、 (中略 )更には彼の大分県の 「丹生郷 」の地に進出して 、九州における丹生氏族の第二の根拠地をなしたことであったろう 。
丹生一族のル ーツは伊都国の王族であり 、邪馬台国が消滅したあと 、各地の朱産地に進出したというのです 。 伊都国は朱の交易都市として栄え
枯渇とともに滅びた。
紀伊の国に伊都があるのはこの丹生氏の所縁
大和や伊勢は水銀鉱脈という共通項がある、など 魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない
バカの相手してもしょうがない イチャモンはいいから、九州説が目をそらしてるっていう纏向の発掘物を早く指摘しろよ >>255
伊都にはない
伊都は交易都市という説明。
主要取り扱い産品が朱ということ >>251
>一人だと思っていないが、全員集計して一人前以下だと思っている
一人なんだよ
キウスの自演とおんなじw >>257
>イチャモンはいいから、
イチャモンって言葉でごまかすなよww
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない
これ、1行たりとも反論一つできないだろ? >>258
交易というより、ガンガン輸入してガンガン墓に使って消費していたような。
交易はどちらかというと博多の方だろ。 >>261
>交易というより、ガンガン輸入してガンガン墓に使って消費していたような。
いや、少なくとも前方後円墳の朱は倭国(阿波)産だろうね。 @阿波 >>260
前も書いたが、平原周辺の潤地頭給とか三雲井原から蝙蝠鈕座内行花文鏡や位至三公鏡が出てるから、手に入らなかったわけではないのだよ
副葬鏡にはあえて、その鏡の種類を選んだ可能性が高い 或る時、伊蘇国が訛って怡土に成っただけ
倭人伝の伊都国とは、な〜の関係もありまっしぇん。 というのが日本書紀の用意した言い訳。
しかし神功皇后の実年代が卑弥呼より120年も後であったことがわかっている今日、それは嘘であることが明白。 >>265
二世紀前半に手に入ってても意味ないのでw >>267
朝鮮王の挿入記事の方がでたらめなら、ヒミコと同年代になるけどね 或る時、
伊蘇国が訛って怡土→伊都に成っただけ
日本書紀のフェイクニュースに踊らされた伊都クズマンボ >>265
>前も書いたが、平原周辺の潤地頭給とか三雲井原から
それ、時代が100年単位で合わない
昔あったのが手に入らなくなってたんだよ
北部九州の凋落は明白 纏向遺跡では
纏向型前方後円墳から定式化した前方後円墳が生まれた古墳時代最初の地
弥生終末期としては最大級の建物が単独ではなく複数、計画的に建設されている
その軸線を揃えた建物群を囲む柵列がある
大型祭祀土壙が複数あり、多数の意図的に壊された供献土器が出土している
纏向遺跡の外部からの搬入土器はこうした祭祀遺跡で比率が高い
桃の種もこうした祭祀土壙からの出土であり、明らかな宗教祭祀の跡が確認できる遺跡はまれ
ということで、>>250他が一生懸命に貶めようとしている「桃の種」と
「古墳誕生の地」「大型祭祀土壙」だけでも、十分すぎるほどだよ 弥生終末期にあたる卑弥呼の時代と古墳時代は、「古墳を作るかどうか」以外は
何も違いがない、連続した一続きの時代だ
大きな混乱の痕跡もなく、広い範囲で一斉に古墳を作り始める
この「古墳を作る範囲」が、そのまま「倭国の範囲」
九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める
その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ そうじゃねーぞ
魏使と通行したのはだれか
魏使の証言に合致するのはどこか
だぞ >>272,273
邪馬台国と何も関係ないのが理解できないバカども >>271
凋落、滅亡したのは漢の方なんだよ。
だから平原遺跡は国産の鏡ばかり。
逆に言えば、卑弥呼の墓である証拠。 >>273
>弥生終末期にあたる卑弥呼の時代と古墳時代は、「古墳を作るかどうか」以外は
>何も違いがない、連続した一続きの時代だ
言い方を変えれば、弥生墳丘墓があって定型化古墳がない時代だから
まさに違いは定型化の意味そのものなんだね >>273
つまり古墳時代は卑弥呼の死後でしょ。
邪馬台国は九州でいいよね。 >卑弥呼以死、大作冢
、
倭国の葬送儀礼は「冢」、この文化圏こそ、倭国の中心であった。
この「冢」に続いて流行し、大規模厚葬化したのが「墳=古墳」、
卑弥呼の一統が東征した先のやまとがその例だな。 >>282
ありえないね
東征なんてものがあるなら、そいつらか出発した土地に古墳の祖先に当たるものがあるよ >>281
自分で描いてるだろ。
卑弥呼は弥生時代、大型古墳は作らなかった。 >>283
その古墳の祖先にあたるものが、「冢」というわけだが、
そもそも「冢」は、円〜楕円形のような茅葺の住居のことであり、玄関に相当する小さなでっぱりも付属していた。
これに近い形の墓といえば、和名でいえば帆立貝式古墳がある。
見方によっては、円墳に形ばかりの前方部が付属している前方後円墳の祖先型と言えなくもない。
代表事例は、宮崎県西都市の都万にあるもので、天孫ニニギノミコトのお墓と伝えられており、九州では最大規模クラスである。 >>283
三雲や平原などの、三種の神器を副葬された王墓があるよ。 286続:
この帆立貝式であるが、貴人のお墓であれば、死後も墓前で祭礼が継続実行されたであろう。
とすれば、雨の日もあり、雪のときもあり、猛暑の夏もある。
そこで、「帆立貝式古墳」の玄関に相当する部分に隣接してやしろを建て、祀りの行事を行うようになったのは大いにありうることであろう。
現在、神社社殿のすぐ後ろにご神体山を遥拝できる形式のものは、そのご神体山は「冢」だったのではないか。。。。、 >>285
>自分で描いてるだろ。
>卑弥呼は弥生時代、大型古墳は作らなかった。
そんなこと、どこで誰がどんな理由で
言い張ったんだ? >>287
そんなものが古墳の祖型だと思う理由は? >>274
>魏使と通行したのはだれか
魏使と通行したのは、倭王に決まっているだろ?
倭国としてのまとまりの中の、代表を探せばいい
>魏使の証言に合致するのはどこか
九州説の魏使の証言の多くは単に「倭国の習俗」に過ぎない
大事なのは邪馬台国固有の記述
九州説にとっては致命的なので意図的に除外しているのだろう
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人
このうち畿内説で説明がつかないのは「徇葬百人」だけ >>278
>凋落、滅亡したのは漢の方なんだよ。
だから、漢がつぶれて魏朝が立ったんだろ?
その魏と邪馬台国が通交して、銅鏡100枚もらってるんだが?
>だから平原遺跡は国産の鏡ばかり。
>逆に言えば、卑弥呼の墓である証拠。
いいえww
後漢鏡の新しいもの、または魏晋鏡が
「1枚も出ない」時点で、候補にもならないんだよ >>280
>つまり古墳時代は卑弥呼の死後でしょ。
つまり、卑弥呼の治世の間に、古墳時代の準備が整えられたんだよ
つまり、古墳時代の始まりの地=纏向がその舞台ってことになる
>邪馬台国は九州でいいよね。
この件一つで、畿内纏向と決まるんだけどね >>292
>このうち畿内説で説明がつかないのは「徇葬百人」だけ
火に油 >>282
>倭国の葬送儀礼は「冢」、この文化圏こそ、倭国の中心であった。
ただの冢じゃなくて、「大作冢」だよ
貴人の死に際して「大いに冢を作る」文化だというのが明記されている
各地で巨大な弥生墳丘墓が作られていた、弥生終末期の様相そのものだな
でも、北部九州には、大きな首長墓はない
>この「冢」に続いて流行し、大規模厚葬化したのが「墳=古墳」、
三国志では「冢」と「墳」は区別されてないよ
>卑弥呼の一統が東征した先のやまとがその例だな。
そんな時間差はありません
卑弥呼の遣使の時点で、既に纏向遺跡では巨大な纏向型前方後円墳を作ってるよ >>286
>そもそも「冢」は、円〜楕円形のような茅葺の住居のことであり、玄関に相当する小さなでっぱりも付属していた。
これははっきり嘘!
ザラコクにだまされてるんじゃないよww
「冢」は「土を盛ったもの」だ
>代表事例は、宮崎県西都市の都万にあるもので、天孫ニニギノミコトのお墓と伝えられており、九州では最大規模クラスである。
これもとことん頭が悪いな
男狭穂塚古墳だろ? それ、仁徳天皇の妃に諸県君牛諸井の娘、髪長姫が入ったから、
畿内王朝の力で5世紀に作られた古墳だぞ >>287
>三種の神器を副葬された王墓
剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね
山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ
つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ
平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ
そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない
本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然 >>297
>畿内王朝の力で5世紀に作られた古墳だぞ
「畿内王朝」??? それは、ない。
倭国(阿波)を発った忌部一族の力で5世紀に作られた古墳だぞ @阿波 >卑弥呼の遣使の時点で、既に纏向遺跡では巨大な纏向型前方後円墳を作ってるよ
巨大な纏向型前方後円墳は、倭人伝に言う「大作冢」だ、といいたいわけか
何でも欲しがる、大和坊主
残念だが、方角と里数と時代が合わぬ >>292
倭王が畿内にいた証拠がないよ
それぞれ合致しているとは言い切れないね。
例えば宮室楼蘭。ないね。 >>295
注いでごらん
どうせ九州説は、またすぐ撃退されて
だんまりになる >>294
>つまり、卑弥呼の治世の間に、古墳時代の準備が整えられたんだよ
年代前倒し詐欺 >>297
>男狭穂塚古墳だろ? それ、仁徳天皇の妃に諸県君牛諸井の娘、髪長姫が入ったから、
>畿内王朝の力で5世紀に作られた古墳だぞ
五世紀に畿内王朝の力で作られたはずの大古墳が、なぜ旧式の帆立貝式なのか???
すでに、定型化したのではなかったのか??? >>300
>残念だが、方角と里数と時代が合わぬ
方角と里数は「会稽東冶之東」で解決済み
時代はもともと問題なし >>297
邇邇芸が降臨したのは筑紫の日向、倭国の王都である伊都国だから。 >>306
どんな制度にも様式にも
形成期があり、確立期があり
そのあと崩壊が始まるんだよ >>305
詐欺だという証拠は?
なければ中傷なー >>306
>五世紀に畿内王朝の力で作られたはずの大古墳が、なぜ旧式の帆立貝式なのか???
帆立貝式が旧式とか言っている時点で、もの知らず
前方後円墳(地域によっては前方後方墳)は、盟主墳の墳形であって、
陪塚などでは、方墳、円墳、帆立貝型は古墳時代中期にも普通に作られているよ
帆立貝式の男狭穂塚古墳と、前方後円墳の女狭穂塚古墳がほぼ同時に作られている
ただ、後円部の大きさを見ると男狭穂塚の方が大きいから、この二つでは
前方後円墳が盟主墳とは言いがたいけれど >>301
>例えば宮室楼蘭
楼蘭はないなぁww
タリム盆地まで行かないとw
原文では「樓觀」で、普通は「楼閣」と表現する
柵もちゃんと検出されてるし、九州説の妄想の高祖宮よりもよっぽど
「宮室・樓觀・城柵嚴設」に近いだろ?
唐子鍵遺跡からは、楼閣を描いた線刻土器が多く出ているし、畿内大和の方が
魏志倭人伝の「記載に近づいている状況」だぞ >>306
>すでに、定型化したのではなかったのか???
定型化というのは、墳形(円とか方とか帆立貝とか)のことじゃなくて、
段築、葺き石、円筒埴輪列、だよ
円墳でも方墳でも、段築、葺き石、円筒埴輪列を備えているのが、古墳時代の古墳
九州説の一部の人が大好きな祇園山古墳も、二段築成葺き石ありの方墳だから、
はっきり古墳時代のもの
周囲の甕棺墓とは時代が合わないから当然に殉葬ではない >>314
>九州説の一部の人が大好きな祇園山古墳も、二段築成葺き石ありの方墳だから、
方墳ならば、忌部一族の蘇我氏系の墓だろうね。 @阿波 >定型化というのは、墳形(円とか方とか帆立貝とか)のことじゃなくて、
>段築、葺き石、円筒埴輪列、だよ
ほう、そうかい
んなら、男狭穂塚、女狭穂塚にも段築、葺き石、円筒埴輪列、があるんだろうな。。。 >>312
>帆立貝式の男狭穂塚古墳と、前方後円墳の女狭穂塚古墳がほぼ同時に作られている
宮内庁が部分的に発掘調査をして、
帆立貝が、先に亡くなった主人の墓で、
前方後円墳は、後に亡くなった夫人のものだろう、という見立てだったような記憶がある。
ま、古墳は大和で発生して地方に拡散した、という前提で五世紀の築造とされているようだが、
宮内庁管理下にあるので、確認しがたいわな。 >>312
>前方後円墳(地域によっては前方後方墳)は、盟主墳の墳形であって、、、、
ならば、帆立貝式と前方後円墳とは、別々の種族の盟主墳ということもありうるわな
この場合、帆立貝の方は天孫族のニニギ
前方後円墳は、オオヤマヅミの娘の木花咲ヤ姫 >>316
>んなら、男狭穂塚、女狭穂塚にも段築、葺き石、円筒埴輪列、があるんだろうな。。。
あるよ?
何を言ってるんだ? >>317
>古墳は大和で発生して地方に拡散した、という前提で五世紀の築造
女狭穂塚古墳が畿内の仲津山古墳と相似形とされていて、渡り堤の位置も同じらしい
なので、仲津山古墳の築造時期と近い時期の築造と推定されている >>298
そりゃ全て筑紫の倭国王家の末裔だからだよ。 >>321
>王家の末裔
平原1号墓の被葬者が、有力家系の人物(おそらく女性)であることは否定しないよ
王家の末裔全員が王じゃないから、3種の神器セットがあるから倭王だとは言えないよね? >>323
>福岡県だよ。
その根拠が「日向峠」という小さな地名一つだってのがどうにも弱いね
クシフル岳もないし >>319
男狭穂塚の巨大帆立貝式は珍しいが、、女狭穂塚と共にの段築、葺き石、円筒埴輪列を、CG画像等で確認した。
ありゃ、確かに新しいわ。 >>268
2世紀初頭?
何を言っている?
両方共に魏鏡の可能性もある鏡だよ >>324
高祖山のやや南側の平らな頂が古くからクシフル山と呼ばれている。
過去スレ読めよ。 「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)
「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた。 >>326
>両方共に魏鏡の可能性もある鏡だよ
鏡の形式編年はかなりきっちり行われている
井原鑓溝の方格規矩鏡は王蒙の新より前
九州説の得意技「可能性はある」「可能性は0ではない」
「全否定さえされなければいい」式の論拠は弱い これを読むと、高祖山を昔は日向山と呼んでいたことがわかり、その一部がクシフル山になる。
福岡県(筑紫)にあるので、筑紫の日向のクシフル山である。 >>329
>九州説の得意技「可能性はある」「可能性は0ではない」
それは、畿内説へのブーメランになる。 >>327
>過去スレ読めよ。
それこそ過去スレで、大正までしか遡れない、根拠の希薄なもので、
結局クシフル岳が、どのピークかさえはっきりしないことがばれてるんだが? 枆
訓読み
1.へる 2.うつぎ
音読み
1.ボウ 2.モウ
「椚(くぬぎ)」にしても「枆」にしても、どう読んだら
「民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。 」に
なるのかが分からない
またこの郡誌では、「日向山」となっているし、高祖山、クシフル岳との関係が不詳 >>330
>高祖山を昔は日向山と呼んでいたことがわかり
つまり、高祖山という地名も古く遡れないってことだな >>330
>その一部がクシフル山になる。
一つの山の、双耳峰でもない、ピークの隣に別の山の名前がつくというのが、
普通は既にありえない
しかも、古事記では久士布流多氣となっているが「岳」と呼ばれるような
険しい山でもない まあ、もとは高千穂なんだろうからな。
高祖は集落の名前のようだ。 >>335
>普通は既にありえない
普通はね。
だから高祖山は特別な山だということだよね。
そう呼ばれていたこと自体は確認できるわけだから、そこから考察しなくてはいけない。 >>337
>普通はね。
>そう呼ばれていたこと自体は確認できるわけだから、
普通はありえないことが起きていることになっていたら、まず疑うだろ?
高祖山も、その文書では日向山だし、高祖山なんてないことになってる
高祖山なんてなかったこと自体は確認できるわけだ そのかわり日向山とクシフル山があったんだな。
むしろ筑紫の日向がただの峠と川だけでなく、伊都国から見上げる東の山全体が日向だったんだ。
まあ、高祖山の北側の小戸も筑紫の日向の小戸と呼ばれていたから、当然の結論ではあるのだけど、資料で確認できたということだ。 そして、山の名前としては福岡県地理全誌をまとめた時点で
「くしふる山」も「くしふる岳」もないことが確認できる
慶長の頃、黒田長政のときに作った集落が、椚(クヌギ)と見られる、ところまでは
確認ができるが、その時点で「クシフル」という地名があったことは確認できない
黒田長政のときに集落を作ったことは田中家に伝わる書状に書いてあるというが、
その書状があったのは「元亀天正の間」までで、明治までは伝わっていない模様
クシフルがどう訛ると、「枆 うつぎ」や「椚 くぬぎ」になるのかと考えると、
明治のときに、記紀神話を村の箔付けに使おうと考えた知恵者がいた可能性は0ではないな >>339
>高祖山の北側の小戸も筑紫の日向の小戸と呼ばれていたから
それを言っているのは、伊都国説のやつだけだろ?
宮崎にちゃんと宮崎市の江田神社の近くに「橘の小門の阿波岐原」の比定地があるよ >>341
>慶長の頃、黒田長政のときに作った集落が、椚(クヌギ)と見られる、ところまでは
>確認ができるが、その時点で「クシフル」という地名があったことは確認できない
椚がクシフルの訛りなら、それよりずっと前からクシフルの名前があったことになる。
>その書状があったのは「元亀天正の間」までで、明治までは伝わっていない模様
調べて確認もせずに書くんだね。 そもそもほかにクシフル山ってあるのか?
しかも筑紫の日向と呼べる場所で。 筑紫の日向と地名が明記してあっても、キナイコシはアーアー聞こえないー >>345
伊都国が天孫降臨伝説の舞台なんだよ。
だって、天孫は倭国(豊葦原中国)の王として降臨したんだよ。
宮崎に行ってどうするの?
金印がある倭国の王都である福岡に行くでしょ?
宮崎は都万(投馬国)だけど、王都ではない。 >>343
>調べて確認もせずに書くんだね。
「田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」以上の情報がないのだから、
調べようがないだろ?
考えて書き込みなよ >>343
>椚がクシフルの訛りなら
この「訛りなら」というのが、確認できないという話をしてるんだよ
普通、訛らないだろ? クシフルは「ウツギ」にも「クヌギ」にも?
それに、地名説話はたいていは語呂合わせのデタラメであって、史実ではない
そして、語呂合わせにすらなっていない >>348
椚は小さな集落なんだから、その中の田中さんは多くても数戸しかないだろう。
尋ねもしないで「伝わってない」と書いただろ。
(伝わってないといいなあ)が本音だろ? 筑紫の日向が日向山という地名で確認できれば前進だな。
峠の名前だけとかほざくアホがいたからな。
現代でも日向川もあるからね。
これで山と川と峠が揃った。
伊都国の東側全体が日向だ。 >>346
何県の「筑紫の日向」なんだ?
福岡県と決めつける情報
あるのか? >>344
>そもそもほかにクシフル山ってあるのか?
>しかも筑紫の日向と呼べる場所で。
九州説の人、特に伊都国説の人は、自分のお気に入りの本や情報以外は一切見ないから知らないだけ
基本的に伊都国説の人以外は、日向は宮崎だと思ってるんだから、全ての比定地は一通り宮崎近辺に揃ってるよ
宮崎県西臼杵郡高千穂町の槵触神社のある山が、槵触山とされてるよ
ちょっとぐぐるだけでも調べがつくのに >>350
>椚は小さな集落なんだから、その中の田中さんは多くても数戸しかないだろう。
椚の集落に田中さんの家が何軒あるのか、調べて確認もせずに書くんだね。 >>346
>筑紫の日向と地名が明記してあっても、
それ、世間一般では、宮崎県の旧国名の日向だと認識してるんだよ
最初の筑紫は、筑紫島=九州島だ
筑紫を旧国名の筑紫ととる方がマイノリティ >>355
>宮崎は全部後付け
それ以上に、糸島の日向の方がよほど後付だろうに 福岡以外を筑紫と呼んだら、相当な地理音痴だよ。
ああ、奈良の田舎者はしょうがないか。 お取込み中ですが、「筑紫の日向」じゃないから!
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 糸島にしろ、阿波にしろ
どっちにせよ、日向の高千穂神話のパクリ、、、 >>358
>福岡以外を筑紫と呼んだら、相当な地理音痴だよ。
だから、知識が足りないことを自分でひけらかして、恥をかくのは止めれって何度も言っているのにw
有名な、国産みの日本書紀の本文
及至産時、先以淡路洲爲胞、意所不快、故名之曰淡路洲。廼生大日本(日本、此云耶麻騰。下皆效此)豐秋津洲。
次生伊豫二名洲。次生「筑紫洲」。次雙生億岐洲與佐度洲、世人或有雙生者象此也。次生越洲。
次生大洲。次生吉備子洲。由是、始起大八洲國之號焉、卽對馬嶋壹岐嶋及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣、亦曰水沫凝而成也。
この「筑紫洲」も福岡だと言い張るのかい?ww おまけで、古事記の国産みもつけておくよ、途中からだけど
次生隱伎之三子嶋、亦名天之忍許呂別。(許呂二字以音。)
次生「筑紫嶋」、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、
肥國謂建日向日豐久士比泥別(自久至泥、以音)、熊曾國謂建日別。(曾字以音。)
次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱。(自比至都以音、訓天如天。)次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。
次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋、亦名謂天御虛空豐秋津根別。故、因此八嶋先所生、謂大八嶋國。
この「筑紫嶋」も、福岡じゃないのは明らかだよな?
此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、
筑紫國謂白日別、
豐國謂豐日別、
肥國謂建日向日豐久士比泥別(自久至泥、以音)、
熊曾國謂建日別。(曾字以音。)
と書いてあるんだし
そして、「筑紫嶋」の四面、四つの国のうち、日向だけ別格扱いなのも分かるな?
この状態で、「筑紫といえば福岡に決まってる、知らないやつは田舎者」とか吹いてるやつがいたら、
「あぁ、かわいそうに」と思うだろ?
かわいそうに >>362
>無知だのう
はい!出ました!
いつもの「根拠なし」「具体的な指摘なし」の、一言レス!
伊都国説は、一切の説明をしない、できない、なさけないw あまり強くは言わないけれど、
肥國謂「建日向日豐久士比泥別」の「くしひねわけ」の「くし」が、
クシフルの「くし」だろう
語源は、奇魂(くしみたま)の「くし」なのだろうけど >>360
>糸島にしろ、阿波にしろ
>どっちにせよ、日向の高千穂神話のパクリ、、、
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、徳島県阿南市橘町周辺を指している。
その証拠に、その沖合に浮かぶ伊島には「当所神社」が鎮座しており、御祭神に奥津三神(下記)が祀られている。
・奧疎神(おきざかる)
・奧津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこ)
・奧津甲斐辨羅神(おきつかいひべら)
面白い事に、この奥津三神は、伊邪那岐が黄泉の国から帰還した際、
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓をした時に、最後に産まれた神々である。
しかも、この奥津三神は、日本で唯一、伊島にのみ見られる神で、
日本の他の神社で、他に奥津三神を祀る神社は、何処にもない。
「奥津三神」 なぜ、阿波のみで祀る必要があろうか? 推して知るべし @阿波 >>361
>この「筑紫洲」も福岡だと言い張るのかい?ww
九州を筑紫で代表させているわけだが、筑紫洲であって筑紫ではないだろ?
そもそも記紀は大和の田舎者が書いたから、原文の地理感覚が失われているんだよ。 >>363
>そして、「筑紫嶋」の四面、四つの国のうち、日向だけ別格扱いなのも分かるな?
いよ、よくわからんから詳しく説明して味噌 >>365
チェリーピッキングでは、筋の通った説明はできないよ >>363
>日向だけ別格扱いなのも分かるな?
日向なんて出てこないぞw そりゃそうだ。
宮崎県を日向国と命名したのは、実年代が4世紀初めと推定される景行天皇だからな。
>>363
>そして、「筑紫嶋」の四面、四つの国のうち、日向だけ別格扱いなのも分かるな?
は、無知の大恥かいたわけだ。
景行天皇以前の筑紫の日向は、福岡県だよ。 >>371
>宮崎県を日向国と命名したのは、実年代が4世紀初めと推定される景行天皇だからな。
ウソはイカン。
元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からでしょ。 @阿波 >>313
ごめん、ミスタイプ。
畿内説の 宮室 楼閣 城柵は唐古・鍵遺跡なのね?
唐子鍵は銅鐸人の遺跡なんだから邪馬台国じゃないよ。
ガバガバすぎる。 >>373
ありゃりゃ
もっと繰り下がったよ
これでもう筑紫の日向は伊都国しかないね >>375
>これでもう筑紫の日向は伊都国しかないね
福岡の筑紫も、元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からだよ。 @阿波 >>341
多分
クシフルと呼んだ言語とクヌギと呼んだ言語が違うということだろう。
クシフルは く し フル で クが語幹、シが連体詞、フルが 名詞
名詞にかかる連体形をつくるのに
シを使う言語とノを使う言語があり
フルとキがそれぞれの意味で同じものを意味する。 高祖山(日向山、クシフル山)の地理的条件
高祖山の北には弥生文化上陸の地である博多湾、その沿岸にイザナギが禊をした小戸の橘、湾内には国生みの起点である能古島(オノコロ島)
高祖山の東には日向川や、倭国最初の王墓である吉武高木遺跡
高祖山の南は博多奴国と伊都国を結ぶ日向峠、その直上にクシフル山
高祖山の西には王墓である三雲南小路遺跡と女王墓である平原遺跡
高祖山の西側には後世に山頂から山麓までを囲む壮大な山城である怡土城が建設されるが、弥生時代においても奴国と伊都国をつなぐこの一帯は要所であったはず。
そこに王宮を兼ねた山城があったなら、筑紫の日向の高千穂宮と呼ぶにふさわしいだろう。
ニニギは高千穂宮の西に葬られたとされており、三雲南小路遺跡との位置関係も一致する。
後漢から金印を拝領した倭奴国は、考古学的には三雲南小路など伊都国の時代であり、三雲南小路遺跡の拝殿である細石神社(祭神はニニギの妃の木花咲耶姫)には江戸時代まで金印が保管されていたという(能古島から見つかったことにしたらしい)。
そして奴国と伊都国、高祖山をあわせた倭国の王都である筑紫の日向が、楽浪帯方から一万二千里のところにある魏志倭人伝の女王国そのものなのだろう。 >>378
なんとなく、コの(国の)人たち、
己姓昆吾邑という意味のような気がする。
沖縄方言はオ段がウ段になるらしいから元の語は
コだろう。 伊都の三雲南小路遺跡が倭王ニニギと木花咲耶姫の墓であるならば、筑紫の日向の日向三代が卑弥呼の前の男王70-80年の王家である。
神武らが筑紫の日向の高千穂宮を出たのは、倭国大乱が原因ということになる。
また、卑弥呼の年代が神武の年代と重なるので、天皇の代が1代11年程度で見積もるとその後の年代観と一致する。
纒向や前方後円墳は神武が居候したニギハヤヒ物部氏のものであり、前方後円墳が全国に広まるのは筑紫の卑弥呼の死後になる。 >>367
>九州を筑紫で代表させているわけだが、筑紫洲であって筑紫ではないだろ?
筑紫で九州を代表するって自分で認めてるじゃないかww
筑紫の日向歯、宮崎で何も問題ないのが確認できたな!
逆に日本書紀では、福岡を指すときにはたいてい筑紫國が付いているんだよ
あんまりみっともない言い逃れをするなよな
それから、神功皇后紀では
「日向『國』橘小門」之水底所居而水葉稚之出居~
と、国が付いてるぞ
記紀編纂者の認識でも宮崎の方の日向だ
あと、日向の命名が景行天皇代だとか、言明天皇だとか言ってるけど、
記紀が書かれたのはそれより後なんだから、当然に宮崎県でいいんだよ
>>368
>いよ、よくわからんから詳しく説明して味噌
此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、
筑紫國謂「白日別」、
豐國謂「豐日別」、
肥國謂「建『日向』日豐久士比泥別」(自久至泥、以音)、
熊曾國謂「建日別」。(曾字以音。)
明らかに、肥国の名前だけ長いだろ >>374
>畿内説の 宮室 楼閣 城柵は唐古・鍵遺跡なのね?
>唐子鍵は銅鐸人の遺跡なんだから邪馬台国じゃないよ。
銅鐸人とかいう言葉を使っている辺りが頭悪そうだね
唐子鍵は、纏向の新都建設が始まるまでの、大和国の中心となる拠点集落
そこが、楼閣を持っている or 知っているならば、纏向でも作れるだろ
まあ、その前に伊勢遺跡もあるしな
あのあたりの土地では、作ろうと思えばいつでも作れるだろ
トリイノ地区の居館域もまだ一部しか発掘されてないし、九州よりは
近いだろ?
居處宮室・樓觀・城柵嚴設のうち、宮室と城柵は具体的に発掘されてるんだから
>ガバガバすぎる。
ガバガバなのは九州説だよ
「具体論から逃げ続けてる」くせにw >>387
福岡の筑紫も、元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からだよ。 @阿波 >>371
>景行天皇以前の筑紫の日向は、福岡県だよ。
これが根拠なしの妄想!
地名説話ってのは、「既にある地名」に由来を付与するものであって、
何もないところに地名を付けてる訳じゃないんだよ
福岡県の広い範囲を筑紫と呼んだ形跡はない
地名が、人が住んでいる限り受け継がれていくことを考えれば、
福岡の広い範囲が日向と呼ばれたことはないと判断できる >>390
宮崎の日向も、元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からだよ。 @阿波 >>377
>クシフルと呼んだ言語とクヌギと呼んだ言語が違うということだろう。
熱弁がんばっているけれど、日本国内で「言語が違う」っていっても無理がある
それに、椚の集落ができたのは「福岡県地理全誌」を信じるなら、
戦国末期〜江戸初期だ
その時代の違う言語ってなんだよ?
「具体的に論証して」みなよ >>387
>筑紫で九州を代表するって自分で認めてるじゃないかww
九州全体を指す時は筑紫洲と書き、福岡県を意味する筑紫とは区別してますね。
言い訳は見苦しいですよ。 >>387
>肥國謂「建『日向』日豐久士比泥別」(自久至泥、以音)、
アホですね。
そこは
肥國謂「建日」「向日」豐久士比泥別
と分けるんですよ。
熊曾國謂である建日別のさらに分家なんです。
恥さらし。 >>390
>福岡県の広い範囲を筑紫と呼んだ形跡はない
(・∀・) >>390
宮崎県との対比なのでわかりやすく福岡県と書きましたが、福岡県西北部(筑前)なら満足ですか?
筑後は後から追加された領域なので。 >>392
>それに、椚の集落ができたのは「福岡県地理全誌」を信じるなら、
>戦国末期〜江戸初期だ
遅くても戦国時代ですよね。
ではどこまで遡るかは不明と。 >>391
>宮崎の日向も、元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からだよ。
何か勘違いしてないか?
元明天皇の諸国郡郷名著好字令は、文字の書き換えを命じたもので、新しい地名を付けた訳じゃないぞ?
とりあえず、古事記の成立は和銅5年で、好字令より前の成立ということになっていて
播磨は針間だし、美濃は三野とされているけれど、日向はそのまま日向と記載してる
日向が好字令で作られた地名、というのは成り立たないよ せっかくなので地名の考察。
此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、
筑紫國謂「白日別」、
豐國謂「豐日別」、
肥國謂「建日向日豐久士比泥別」(自久至泥、以音)、
熊曾國謂「建日別」。(曾字以音。)
肥国は熊襲のさらに分家。
卑弥呼の出身地の筑後、壹與の出身地の肥前は、いずれも有明海沿岸の肥国または熊襲国から分かれ、本家は熊本。
肥後狗奴国の王が卑弥呼と元より不仲なのは、肥国の王位争いがあったため。
そして熊襲は地名というよりは肥国の王家の名前。
熊襲タケルの墓は実は肥前佐賀にある。 >>397
>遅くても戦国時代ですよね。
>ではどこまで遡るかは不明と。
「慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべし」とあるのだから、
黒田長政が福岡藩初代藩主になってからだろ?
椚の集落は「それ以前には遡れない」よ >>394
>肥國謂「建日」「向日」豐久士比泥別
そう読む人がいるのも知っているけれど、垂仁天皇紀に上毛野君遠祖八綱田という人物が
出てくるが、のちに倭日向武日向彥八綱田という号をもらっている
これは明らかに倭・日向・武・日向・彥八綱田が、言葉の素となっている
「タケ」は日本書紀では「武」、古事記では「建」の字が使われるから、
日本書紀式の表記にすれば、「倭日向」「建日向」彦八綱田となる
建日向という音素はありうる >>399
>肥国は熊襲のさらに分家。
根拠ないね
分家の方に、特別な名前「豐久士比泥別」が付いているってどういう説明をするんだい?
先代旧事本紀では
次,筑紫島謂.身一而有面四,每面有名.
筑紫國謂-白日別,
豐國謂-豐日別,
肥國謂-速日別,
日向國謂-豐久士比泥別.
となっていて、熊曾國はない
古事記との対応を示すと
古事記:筑紫國謂「白日別」、
旧事記:筑紫國謂「白日別」
古事記:豐國謂「豐日別」
旧事記:豐國謂「豐日別」
古事記:肥國謂「建日向日豐久士比泥別」、
旧事記:肥國謂「速日別」
古事記:熊曾國謂「建日別」
旧事記:日向國謂「豐久士比泥別」
もともとは、筑豊肥の3国があって、肥国から日向、熊襲が別れたのだろう
熊襲を「熊」メインで見るなら、肥後国球磨郡、
「襲」をメインで見るなら、大隅国曽於郡となるが、
球磨郡と曽於郡は一帯の地域ではない
また、令制国としての大隅国は713年に日向国より分立されており、
ある意味こちらが分家 >>388
時代錯誤で言を左右にして
全く明瞭でないからあなたが何を主張してるのか全く理解できない。
もっと日本語の勉強して推敲してくれ。 >>401
>建日向という音素はありうる
あり得るという言い方だとどうにでもあるからどうこうと言っていたのは君じゃないかな?
あり得る、ではなく、そうだという証明は?
まあそんな読み方に何の合理性も見出せないけどね。
傷口を広げるだけだよ。 >>402
阿蘇山一帯を西側メインで熊襲国と呼ぶか、東側メインで日向国と呼ぶかだけど、畿内説は先代旧事本紀は偽書扱いするんじゃないのかい?
先代旧事本紀を信用するなら、箸墓など前方後円墳は物部の墓制であり、邪馬台国は関係ないということで決着するよ?
チェリーピッキングにならないのかなあ? >>398
>播磨は針間だし、美濃は三野とされているけれど、日向はそのまま日向と記載してる
それら古事記に書かれた「針間」「三野」「日向」がそれぞれ現在地の「播磨」「美濃」「日向」である根拠はあるのかね?
宮崎の「日向」も、福岡の「筑紫」も、島根の「出雲」も、「好字令」によって勝手気ままにつけた地名だよ。
何か勘違いしてないか? @阿波 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 【豊国】
考古学は九州北岸のうち、宗像や遠賀川流域には甕棺墓がなく、さらに別の文化的勢力を想定する必要があることを示唆している。
博多湾沿岸の勢力を筑紫、遠賀川流域の勢力を豊国と呼ぶことができる。
この二つの国は、姻戚関係を通じて早くから倭国の権力の中枢として栄えた。
豊玉姫は大綿津見神(海神)の娘であり海を塞き止める力を持っていたが、大綿津見神の竜宮城のモデルが関門海峡にあった豊浦宮であるといわれていて、博多の天孫族から見た隣国である豊国の姿と考えられる。
博多湾岸の天神族が北方の朝鮮半島に向かう対馬海峡に航路を持っていたのに対して、豊国は関門海峡を中心に日本海側に航路を持っていて、
その支配域は邇藝速日命や天香山命など船に乗って日本海を攻略したアマテラスの直系ではない倭人の到達域とほぼ一致する。
ただしその起源は博多湾の志賀島であると言われており、筑紫の天孫族に追われて東に移動した様子が伺われる。
豊国は遠賀川流域文化の担い手であり、もともとは博多湾の志賀島まで勢力範囲だったが、次第に筑紫に取り込まれていく。
ここで制作された遠賀式土器は日本海沿岸を中心に広範囲に分布している。
後に仲哀が筑紫入りしたときは、筑紫日向の伊都高千穂宮(怡土の県主、現在の糸島市)と筑紫岡田宮(崗の県主、現在の北九州市)がそろって出迎え、仲哀は筑紫香椎宮に迎えられた。
仲哀自身も穴門豊浦宮(門司)の王であり、関門海峡を掘削して日本海側と瀬戸内海側の海運を可能とした豊国の外戚である。
現在では北九州市も筑紫すなわち福岡県に組み込まれ、豊前は大分県として東に圧迫されている。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫ニニギに嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の賀茂神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/三輪氏、大神神社、大物主/ >>405
賛成
畿内説はとにかくイチャモンだけしかないみたいだね。お疲れ様です。 >>404
>時代錯誤で言を左右にして
ことの本質は、「邪馬台国は古墳時代(の始まりの時期)」ということから、
九州説の人は、何がなんでも逃げようとする、その惨めさを嗤ってるんだよ
時代錯誤でもなんでもない
全ての編年を「そんなはずはない」「捏造だ」「信じない」といい続けたところで、
土器編年も舶載鏡の編年も、14C年代法の測定値も、矛盾なく一貫してるんだから
もうすぐいろんなことが「確定」するよ
14C年代法に関しては、三日月湖年縞という一年単位の絶対のゴールドスタンダードが
あるから、それを使ったJ-CAL以上の信頼度のある較正曲線が確立すれば、年輪年代法との
クロスチェックができるようになるし、さらに精度の高い推定値が得られるようになるだろう
まあ、古代のことだから、それでも不明なことは不明なままに残るだろうけれど、
「平原1号墓は卑弥呼の墓」に1点賭けの伊都国説は、最初から脱落してる >>405
>あり得るという言い方だとどうにでもあるからどうこうと言っていたのは君じゃないかな?
それを言い出すということは、伊都国説の「ありうる」「可能性は0ではない」は
不当だというのをやっと理解できたということだね!
おめでとう
>あり得る、ではなく、そうだという証明は?
別に、証明する気もないよ?
畿内説にとって、重要性は特にないから
でも、伊都国説にとって
「平原1号墓は卑弥呼の墓」というのは、絶対に必要な要件だし、そのためには
「平原1号墓の被葬者は太陽信仰の巫女」と言わなきゃいけないし、そのためには
「大型内行花文鏡は太陽に見える」と言い張らないといけない
でも、「ありうる」「可能性は0ではない」は不当なんだよね!
がんばれ!ww >>415
>きょうも妄想花火がきれいに咲いた
そうかぁ、伊都国説で書き込みをしている人が、
「少しは論理というものが分かったかな?」と思ったのは妄想だったのか
まあ、しゃーない
現実は
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない >>417
>長い
この程度のものも読めないから、九州説は専門家の論文も読んでないんだな!
そりゃあ、時代遅れの珍説からいつまでも離れない訳だわ
低脳! >>417
>2行で
おいおい、5ちゃんの標準は「3行で」だぞww >>417
>2行で
親切に2行で書いてやると
「邪馬台国は古墳時代(の始まりの時期)」
「認められない九州説が無能」でもその前に「伊都国説は始まってもいない」 >>414は、
>>401 で自分で主張したことことどう思ってるわけ?
「あり得る」ということについて。 >>420
イミフ
邪馬台国が畿内である証拠は何か?
て聞いてるのに
古墳時代
てどういうこと? りゃんとんへの軍事外交的な反応速度考慮するに卑弥呼さんの都は伊都やね ?(つうか表意してるやん
壱与ちゃんの都たるヤマイ帝国は何処やろ?山根君名字の多い県かも!
やまね〜〜 やまい
鳥取県やん! 長岡はなびは弥彦ちかく(ダックもテレビつけや
やひこはオオヒコかウマシマジか? 越国もはると読むところあるな(原
越乃寒梅吞みたくなった >>418
倭王が畿内にいた証拠はなんですか?
Xxxです。
1行で答えるところ 何十行も使うのはただのアホだよ。私が低脳ならあなたは無脳だよ。よかったね。 もともと九州説っていうのは、
古い時代の王墓(三雲南小路、須玖岡本)は九州にある
↓
「邪馬台国の時代」
↓
古墳時代以降は畿内の大和王権が中心
という編年観で、邪馬台国はまだ九州に中心があるっていう論立てだったんだよ
でも、古墳時代になると大和王権が中心なのだ明らかだから
1.東遷した 邪馬台国の会・安本美典系
2.無関係だ 古田史学の会・古田武彦系
と以降の歴史との接続を、憶測で補っていた
それが、編年研究が進んで、
古い時代の王墓(三雲南小路、須玖岡本)は九州にある
↓
「邪馬台国の時代=古墳時代」以降は畿内の大和王権が中心
になったってだけの話
本質は、編年なんだよ
だから、九州説は編年研究を認められずに、でも反論の根拠すらなくてディスるだけ >>432
>1行で答えるところ 何十行も使うのはただのアホだよ。私が低脳
自分で能無しだと認めたかww
論拠なしにすれば短いんだよ
でも、損なのは論証じゃない
まあ、九州説は具体的な論拠も典拠もないのがデフォだし
反論ですら、どこに反論するのか具体的に指摘できないから、短いだけ >>436
>無脳の自己紹介はレスの無駄だよ
「自己」紹介じゃないだろ?w
九州説の「>>436他」の無能さを説いてるんだよww
レスの無駄っていっても、お鏡さん自身、結局アマゾンでの書籍販売の
広告がしたいだけで、議論には参加しようとしないし、このスレの存在意義
なんて皆無に等しいだろ? まあ、私が御鎮座伝記を紹介して、
八咫。古語八頭也。
八咫。古語でいう八頭なり。
が分かったから、
「円周長が八咫だから八咫鏡なんですぅ」が無意味だってのがはっきりしたな >>437
いや生きてる価値ないから死んでもいいよ直ちに。 >>439
>生きてる価値ないから死んでもいいよ
学問的な根拠を示した反論ができないから、人格否定形のレスに逃げる九州説(1行でも具体的な根拠入りw) >>440
学問以前にあなた自身の能力がなさすぎてコミュニケーションとれないからね。単なるスピーカーであって、人工無脳レベルだから。 どこ?と聞かれて
時代と答えるくらい、無脳だからしゃーない。 >>433
>畿内説は循環論法ばかり
どうして九州説は、自分の言われたことのオウム返しばかりするんだろう?
よほど口惜しかったのかな?w >>406
>先代旧事本紀は偽書扱いするんじゃないのかい?
先代旧事本紀大成経は、偽書だよ
先代旧事本紀十巻本は、国造本紀など史料価値が高い部分がある
ただ、天皇系譜が欠史八代も含め、記紀の内容を踏襲しており、記紀を越える部分はあまりない
成立も記紀より遅く、記紀の世界観を下敷きにした上で、物部氏を顕彰する目的の書、くらいの評価が相当だろう 匿名掲示板だからいろんな人がいるのは仕方がないけれど、
学問板で論破されて、「お前なんて死ねばいいんだ」って言って逃げるっていうのは
なかなかいないレベルの香ばしさw >>447
根拠のないあなたの「〜くらいが相当だろう」という主観は聞き飽きた。 >>452
そうだね、無意味なことをかきつらねて論破したつもりになってるだけだね。
死ねばいいとか捏造するなよ
死んでいいっていう許可を与えてるんだよ。 >>452
そうやって、なんも証拠のないことを言うって時点でもうダメぽ >>453
そういう負け惜しみはいいからさ、反論があるなら具体的にどうぞ
神道五部書の御鎮座伝記にあるとおり
八咫鏡の八咫は、古語の八頭の意味で大きさは関係ない
古い時代の王墓(三雲南小路、須玖岡本)は九州にある
↓
「邪馬台国の時代=古墳時代」以降は畿内の大和王権が中心
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない
一度も反論してないじゃないか?
反論一つできずに、相手に悪態を連呼して、いなくなってくれと願う
論破されてるよな?ww >>453
>死んでいいっていう許可を与えてるんだよ。
小学生ぐらいまでならともかく、ネットで書き込みをするような年齢で、
しかも学問板で、「死んでもいいっていう許可を与え」るとか、よく恥ずかしくならないなw
まあ、そういう脳内環境を育ててきたってことだな
お里が知れるってやつだ
あ、「お里が知れる」って言葉の意味は分かるかい?w >>455
重箱の隅をつついて「論破」とは片腹痛い。
論破されているのは自分だろ。 >>457
>重箱の隅をつついて「論破」とは片腹痛い。
論破されていないというなら、「具体的に反論」しておくれよ
そうすれば、さらに丁寧に3行以内で解説してあげるよ
反論一つできずに、相手に「死んでもいい」とか言ってるやつが何を言ってるんだかw
この>>457一人のおかげでこのスレもレベルが地に落ちたな
「お里が知れる」の意味は分かったのかい? >>456
いやあなたスレの主旨を理解してない日本語能力幼稚園児並なので、死んでいいよ。なんで生きてるのか疑問視されるレベル。 なんかちょっと荒れ気味ですけど、
このスレの趣旨は、基本的には、伊都国文化(銅鏡文化)の継続性、つまり「伊都から伊勢へ」ですからね。
邪馬台国がどこにあったかは、付録みたいなものですよ。
古墳時代が魏志の時代で確定だから、邪馬台国は畿内だ、九州説はカスだ、
みたいな話は、そういった趣旨のスレに行ってくださいね。
私個人としては、畿内説支持ですけど、それはあくまで可能性としての所在地論を楽しむというスタンスですので。
何度か言っていますが、畿内でも九州でも、競馬のオッズのようなものだと思いますよ。
倍率が高いからと言って、来ないわけでもないし、高い方が妙味があるとも言えますから。
鉄板レースほどつまらないものはないですし。 お鏡さんもそんな甘いこといってないで、
学問板レベルの書き込みができない人はきちんと諫めないと もちろん、不穏当な発言は控えてもらいたいですけど、そこはあくまで5chですから。
鉄板すぎる馬券は、返金率が1倍になってしまって、馬券とはいえなくなりますから。
私からすれば、万馬券とはいいませんが、馬券妙味のある方が好きです。
教科書的な内容が好きなら、教科書でも読んでてね、というところです。 >>457
>重箱の隅をつついて「論破」とは片腹痛い。
例えば、編年研究の成果からの
「邪馬台国の時代=古墳時代」以降は畿内の大和王権が中心
っていうのは、重箱の隅どころからど真ん中だよ
こういうのから逃げるために「死んでもいいよ」とか言ってて惨めにならないかい?
8/3以降、古代史や伊都国に関することを一切書いてないだろ?w
反論一つできずに、論破されてないって言い張ってるのって恥ずかしくないのかい? >「邪馬台国の時代=古墳時代」
ここが前提なのがおかしいだろ。 >>464
>ここが前提なのがおかしいだろ。
相変わらず「具体的な根拠」が言えないねぇ
「そうじゃない、ちがうんだー」って泣き喚くだけなら、3歳児くらいからできるぞ
いい加減に、自分の無能を理解して、「具体的な論拠」をつけて反論しな >>465
>魏使は古墳を見てないようだからねえ
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」
そこらの方形周溝墓を見ても、こうは書かないだろ?
副葬品が立派なら、多くの鏡を壊すとか書くんじゃないのか?
「大作冢」と書くだけの、「冢」を見てるんだよ >>462
>鉄板すぎる馬券は、返金率が1倍になってしまって、馬券とはいえなくなりますから。
>私からすれば、万馬券とはいいませんが、馬券妙味のある方が好きです。
つまり、お鏡さんにとっては、学問的な追及はどうでもよくて、
ギャンブルや金儲けと同じ目線でしか見られないってことだね?
>教科書的な内容が好きなら、教科書でも読んでてね、というところです。
真理や真実ががつまらないならどうでもいい
そう言いたい訳だ、お鏡さんは
なら、学問(文系)板にスレ立てしなくていいんじゃないの?
雑談系とか? >>469
そうですね。大いにつくったのだから、大きいとは限らない。
もちろん、大きくないとも限りませんが。
解釈が分かれるからこそ、議論の余地があるわけで、その議論そのものが、
大げさにいうなら「真理の追求」ですね。
>>真理や真実ががつまらないならどうでもいい
「真理や真実がどうでもいい」とまでは書いてませんし、変な言いがかりはやめてください。
わかり切ったことなど、議論する余地もないですから、面白みはないと思いますね。 >>462の「馬券妙味のある方が好き」というのと
「教科書的な内容が好きなら、教科書でも読んでてね」というのを合わせると
教科書的な、きちんと分かっていることは、どうでもいいってことじゃないの? >>469
>「作大冢」じゃないよ
>>470
>そうですね。大いにつくったのだから、大きいとは限らない。
>もちろん、大きくないとも限りませんが。
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」
『徑百餘歩』の冢を大いに作ったんでしょ?
すぐ後ろに書いてある文字をどうして無視するかなぁ?
平原1号墓は径十歩に満たない
故に卑弥呼の墓ではないってことだ
お鏡さんにとっても、これは「議論する余地もない」「分かりきったこと」でいいんだろ? >>463
>「邪馬台国の時代=古墳時代」以降は畿内の大和王権が中心
勝手マイ定義を元に論を進めているようだ。 >>467
>「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」
>そこらの方形周溝墓を見ても、こうは書かないだろ?
前方後円墳を見たらこうは書かない。
墳長とかを書くだろう。 東夷伝は各国の墓制の比較とかは結構重大なテーマだったんだろうから、
前方後円墳なんかの報告があれば、喜んで特徴を書いたはずだね >>470
>そうですね。大いにつくったのだから、大きいとは限らない。
大いにつくったのだから、小さいわけがない。
大いに作ったんだから、大きいか多いかの二択だよ
しかも「徑百餘歩」 とあるね
つまり、大きい
倭人伝を無視しないと九州説は立ち行かない
これは確定事項だな >>472
いえ、東夷伝にある里程が中原での用法に比べて過大である以上は、
議論の余地がないほどとはとても思いませんよ。
この件について言えば、伊都国説の主張まぁ少々穴馬寄りの解釈というところでしょう。
万馬券ともおもいません。 >>478
>大いに作ったんだから、大きいか多いかの二択だよ
これはひどいw >>487
「勝手マイ定義」ってウソだっていう確たる証拠だよ >>479
>議論の余地がないほどとはとても思いませんよ。
「歩が複歩であること」は、議論の余地がないと、お鏡さんでも認めるよね? >>474
>墳長とかを書くだろう。
径って、墳長って意味だよ? >>473
>勝手マイ定義を元に論を進めているようだ。
マイブームの次は、マイ定義かい?
相変わらず、理由も何も具体的なことは書かないんだね?
書けない、の方が正しいのかな? >>475
>前方後円墳なんかの報告があれば、喜んで特徴を書いたはずだね
書いてあるだろ?
「大作冢徑百餘歩」って?
東夷の他の国にはない表現だよな? >>487
お前、本当に知能がないな
「勝手マイ定義」ってウソだっていう証拠は
学問的である必要がないんだよ
人口に膾炙してるという証拠があればいいんだ 九州説信者の特徴
・一般教養がない
・論理的思考ができない
・裏付けのないプライドだけ高い 出た!ww
キナイコシ連呼厨=連続句読点=伊都クズ=「根拠なし連呼厨の人」 常に、相手側に質問を投げることで、自らは何も論証せずに
何か言っているような気になる手法ww >>496
畿内説の真似をしているだけだと思うよ? >>499
真似できてないので愚かさだけが目立つ逆効果 >>495
径100余歩もあるのが
前方後円墳しかないというのが
動かぬ証拠だよ 畿内説がわの質問の仕方は
その質問に答えられないなら相手の説が崩壊するようなポイントを突く
人真似猿九州説は
関係ないことを聞く
人と猿の違いだな >>494
>その根拠は?
径は直径という語で分かるように「差し渡し」という意味があり、さらに太祖行酒,韋持大斧立後,「刃徑尺」,太祖所至之前,韋輒舉斧目之。の斧の刃のように、円形物以外でも使う
三國志/ 魏書 凡三十卷/ 卷十八 魏書十八 二李臧文呂許典二龐閻傳第十八/ 典韋
前方後円墳に対して径と言えばそれは墳長にあたる >>495
>前方後円墳だという証拠はない。
前方後円墳じゃなくてもいいんだよ
出雲あたりでは、四隅突出墓で数十メートル規模の首長墓を作っている
西谷9号墓で60×50メートル、西桂見墳丘墓で長辺65メートルある
このあたりは、誇張込みなら径百歩(キリのよいところにしただろうし)と言い得る
問題は、九州には弥生終末期の径百歩と言い得る巨大墳墓がないことだよ >>501
>前方後円墳しかないというのが
>動かぬ証拠だよ
「前方後円墳」云々以前に、平地にある時点でアウト! @阿波 畿内説の論拠(だと勝手に思っているもの)が崩壊したようだ。 >>508
何か妄想してるようだが
コミュ障の発言なので
他人に意味が伝わらない
w >>504
古代大王(おおきみ)の陵墓が平地に在るとは、なんとも滑稽。 @阿波 >>506
径は、差し渡し
もともとの意味は小道、歩道
転じて、丸いものなら直径を、四角いものなら一辺を、長細いものなら横幅を言う
前方後円墳なら後円部径 >>512
>箸墓は山裾
だから、「平地」 @阿波 >>514
>径なんだから円墳か方墳だろうな
直径約60mの山頂にある円墳ですよ。 平地に置くなど以ての外。 @阿波 畿内説は、前方後円墳を径で測ったというのなら、その文献的な証拠を出すべきなだな。立証責任には畿内説側にあるぞ。がんばれ。 まあいずれにしろ、前方後円墳みたいな奇妙なモノを見たんなら、「径」で済ますわけないね >>506
>普通は径と言えば横幅だよ。
運河の径とか言えば、横幅になるけどね
車輪の径、木の径、水道管の径、運河の径、と並べれば、径の意味範囲が分かるんじゃないかな?
楕円でも、長径と短径っていう使い方をするでしょ?
前方後円墳で径といえば、大きさを表すために使うのだから、墳長になるよ >>510
>古代大王(おおきみ)の陵墓が平地に在るとは、なんとも滑稽。
キウスじゃないけど、勉強不足だねw
須玖岡本D地点も、三雲南小路も、弥生時代の墓は庶民の墓も首長層の墓も、
集落遺跡と同じ水準(高さ)で作られている
吉野ヶ里遺跡では、集落と墓域が一つの環濠で囲まれてることからも確認できるだろ?
纏向古墳群も、この弥生時代の伝統に沿った立地に作られている
それが、箸中山古墳で限界になって、その次から地山整形で盛り土量を節約しながら
大墳丘を作るようになった様子が分かるんだよ >>523
>まあ前方後円墳を「径」だとか強弁しても通らんわな
どうして通らないの?
それから、小道が百歩はもう言わなくなったの?
あれ、面白かったのに >>524
>須玖岡本D地点も、三雲南小路も、弥生時代の墓は庶民の墓も首長層の墓も、
>集落遺跡と同じ水準(高さ)で作られている
須玖岡本D地点も、三雲南小路も「古代大王(おおきみ)の陵墓」じゃない証拠。
>吉野ヶ里遺跡では、集落と墓域が一つの環濠で囲まれてることからも確認できるだろ?
吉野ヶ里遺跡も「古代大王(おおきみ)の陵墓」じゃない証拠。 @阿波 漢代から中国には天円地方思想があったからね
倭国で前方後円墳を見たら、いろいろ解説しそうだわな >>518
>畿内説は、前方後円墳を径で測ったというのなら、その文献的な証拠を出すべきなだな。
つ 三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
「卑彌呼以死大作冢『徑』百餘歩」 >>528
>漢代から中国には天円地方思想があったからね
それをいい感じにこじらせた結果、天神を祖神とする集団は前方後円墳を作り、
地祇を祖神とする集団が前方後方墳を作ったように見えるんだよな
前方後円墳を、首長継承の祭祀の場とする説があって、
死んだ首長が天に上るから後円部に葬り、地にあって首長を引き継ぐ跡継ぎが
前方部で祭祀を行ったという説明をしている
ただ、前方部、後円部にそれぞれ埋葬主体を持つ島の山古墳や西殿塚古墳みたいな
古墳もあるから、そう単純に仕切れるものでもない 根拠
日本列島に径百余歩というスケールに該当する墳墓は前方後円墳しかない
前方後円型を径で表さないという証拠が出ない限り、卑弥呼冢は前方後円墳と考えることができる >>531
>日本列島に径百余歩というスケールに該当する墳墓は前方後円墳しかない
それは、ない。 @阿波 >>531
考えることはできるかも知れないが、考えなければいけない理由は何もないね >>535
それでいいんだよ
否定できないなら反論不能ということだから 結局人としてのレベルが低いんだよ
池沼とか、死んでいいとか、ののしき言葉を使わないと学問板でレスできない時点でさ >>535
>考えなければいけない理由は何もないね
考えられないとする理由はさらにない
というか、一切ないなw >>532
>それは、ない。 @阿波
具体的に例示して見せて! >>521
>前方後円墳で径といえば、大きさを表すために使うのだから、墳長になるよ
径の定義を無視した勝手理論が炸裂しています。 >>529
卑弥呼以外の例を出さなければ意味がないよ。
卑弥呼の部分が前方後円墳である証拠を求めているのだら。
論理がわからないアホ?
わざととぼけているなら悪質だな。 >>542
>径の定義を無視した勝手理論が炸裂しています。
では、径の定義を「文献等を適宜引用して具体的に示し」た上で、
どのように無視しているのか、
どの部分が勝手理論なのか
「具体的に指摘」してくれ >>543
>卑弥呼以外の例を出さなければ意味がないよ。
おや?
その昔、「平原1号墓出土鏡が八咫鏡なのは、
円周長八咫の鏡が実在してるんだからそれでいいんだ」って
言ってた人がいるような気がするんだが?
円形物の大きさを円周で示す例があるのかって、散々聞いても
同じことしか言わなかった人がいるような気がするな 勝手理論とかマイルールとか
妙な言葉を連発してるやつは同一人物だな >>543
>論理がわからないアホ?
>>518で
「前方後円墳を径で測ったというのなら、その文献的な証拠を出すべき」というから、
文献(三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十)で、前方後円墳を
径で大きさを表している例を根拠として示しただけだろ?
要求どおりに示したのに、まだ文句を言うのかい?w >>551
その、他人が全く言っていないことに文句をつけて何か反論したような妙な自己満足に浸る奇矯な癖のある人を、一人知っている >>554
おまえが発狂してるという話なら反論はないぞ >>550
>「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。 @阿波
読んできたけど、阿波はこれ、納得してるの?
「天照大神、大国主、少彦名、埴安媛、宇迦之御魂」の五神で五角形っていうやつ
それに、円墳じゃなさそうなんだけど? キナイコシ連呼厨=連続句読点=伊都クズ=「根拠なし連呼厨の人」をいじっても
何の生産性もないよ? 神道五部書の御鎮座伝記、電子ファイルを上げてくれてる人見つけた
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sintou_gobusyo/denki01.htm 八咫鏡のウィキペディアのページに以下のように書いてある
原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、
このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、その時に
新たに作り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(御神体の入れ物)の大きさから
推定して、直径46.5cmの大きさではなくなっている」
でも、御鎮座伝記には、内宮の火災の話などない
原田氏はちょっといい加減 >>559
>読んできたけど、阿波はこれ、納得してるの?
なにを納得と???
>「天照大神、大国主、少彦名、埴安媛、宇迦之御魂」の五神で五角形っていうやつ
地神塔だね。 倭国(阿波)には各地、至る所に在るよ。 @阿波 >>559
>それに、円墳じゃなさそうなんだけど?
「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳のこと?
一度、現地へ行ってみる(本貫地帰り)ことをお勧めします。 一目瞭然ですよ。 @阿波 >>563
埴安媛が、このメンバーに入ってるのって違和感ないの? 沖縄琉球弧から太平洋黒潮ルートの後の忌部氏族の遺跡だわ。卑弥呼じゃなくてオオヒルメの系だろう。 埴安媛は「土の神、田畑の土壌の神、陶器の神」だよ。
皇祖天照大御神、葦原中つ国の盟主神 大己貴命、薬学の神 少彦名命、稲米(五穀)の神 稲倉魂命、埴土(はに: 土器や祭祀にかかわる)の神の五神で、
記紀神話の中でも国土創生に欠かせない、いわば主役級の神々であり、阿波国内では神蹟の明らかな「土着の神」。 @阿波 >>566
>卑弥呼じゃなくてオオヒルメの系だろう。
「天石門別八倉比売神社」
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われている。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波 大宜都比売命は、スサノオに斬り殺されるんだが?
大宜都比売命=天照大神じゃダメじゃね? >>569
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。 @阿波 結局、「大宜都比売命=天照大神にはならない」ってことを延々と書いてるだけだな
>>568の最後の行は適当に書いた間違いってことでFA? オオヒルメが
後代 天照大神にされてしまった、ということだな。 大日孁女命も農業神じゃないだろう
大宜都比売命=大日孁女命が既に成り立たない >>572
>結局、「大宜都比売命=天照大神にはならない」ってことを延々と書いてるだけだな
別に「大宜都比売命=御食津神=豊受大神」でも構わないんだよ。 倭国(阿波)にとっては。 @阿波
「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。 @阿波 1日で考えが変わるとは、阿波はやはり全く信用できない >>578岡上
>そう言えば、福岡から珍しく完鏡が出てきたみたいですね。
もう、鏡はいいんじゃないの? @阿波 >>578
>福岡から珍しく完鏡が出てきたみたいですね。
それでお鏡さんは、この「直径11・3センチの「内行花文鏡」」のような小さな鏡も、
内行花文鏡であるからには、太陽信仰の象徴で大陸から下賜された王位の証である鏡だって
主張するのかな? >>582
>王から下賜された鏡でしょ。
その王ってのはどこの王だい?
倭王だとしたら、その鏡は舶載鏡? それとも倭王の手元で作った仿製鏡?
しばらく前に、日本にある舶載鏡は全部大陸王朝から下賜された鏡っていう
トンデモを唱えてたのがいたなぁ
同じ人かな? >>585は、>>583の真似っこ?
もう少し、オリジナリティのある書き込みはできないのかな? 柳井茶臼山古墳の44.5cm龜龍鏡かな?
ギリギリで平原遺跡の方が大きいよ。
確かにその意義は検討の余地がありますね。
もっとそれぞれの鏡の意義は検討されるべきだと思う。 今更なにいってるの?一枚混じってるだけじゃん。
最大なのが内行花文であり、大型鏡に内行花文が多いことは変わらないだろ。
ほんとイチャモンつけるだけのクズだな まあまあ、キナイセツに迷える子羊にとっては、三角縁神獣鏡以外の鏡に目が向くようになっただけでも前進だよ。 どっちにせよ
「キリスト教国はみんなユダヤ王国が征服したんだ」
みたいな馬鹿は
いらない >>588
>ギリギリで平原遺跡の方が大きいよ。
>>587で「古墳から出土した鏡で」って書いてあるだろ?
平原1号墓は古墳なのかい?
それから、平原遺跡と平原1号墓を区別しろと何度言えばw
古墳から出土した大型鏡としては、
1位 「鼉龍鏡」44.5センチ >>587で紹介したもの
2位 「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
3位 「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明だが1位と同じ「鼉龍鏡」
http://www.emuseum.jp/detail/100584/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D%26owner%3D%26pos%3D825%26num%3D2
4位 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
5位 「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
https://lh6.googleusercontent.com/-wXRTdJSy-nk/VLPb5HnPYRI/AAAAAAAABc8/pCaHbl_7i9I/s2560/sikin359f.jpg
内行花文鏡だけが特に大きく作られる鏡種という訳ではないのがはっきり分かるな
いつものごとく、九州説は九州の情報しか見ていないから、偏った論説にしかならないんだよ >>589
>最大なのが内行花文であり、大型鏡に内行花文が多いことは変わらないだろ。
>>592を参照
>ほんとイチャモンつけるだけのクズだな
クズはどっちだ?
よく調べもせずに適当なことをわめいてるだけなのが伊都国説ww >>590
>まあまあ、キナイセツに迷える子羊にとっては、三角縁神獣鏡以外の鏡に目が向くようになっただけでも前進だよ。
キナイコシじゃなくていいのか?ww
伊都国説の人こそ、いろんな鏡を見たほうがいいと思うよww もうそろそろ、平原1号墓出土鏡が八咫鏡ってのは、否定されたって認めたらどうだ?
円周を測って鏡の大きさを表す例はない
鏡に限らず円形物を円周長で大きさを表す例はない
咫は周尺で16.9センチ程度 平原1号墓出土鏡の円周は8.63咫になる
神道五部書の御鎮座傳記では、八咫は大きさではなく八頭の古語であると説明されている
内行花文鏡以外にも、巨大化した鏡種は多くある
平原や三雲、伊都国に八咫鏡があったとする説話も伝承も一切ない 古墳時代より前に銅鏡が副葬されたのが九州の墳墓だけであるから、畿内を含めた銅鏡を副葬された古墳全てが九州の文化の波及であることは明らかだよ。
だから何だ?
まして、畿内大和が倭国大乱で筑紫から分かれた分家だとしたら、畿内の鏡が平原の鏡の直系でないことは、むしろ説の通りなんだよ。
伊都国説の強化をしてくれてありがとう。
畿内は、独自の銅鐸文化を放棄して、筑紫からの文化に塗りつぶされたようだね。 >>597
>古墳時代より前に銅鏡が副葬されたのが九州の墳墓だけであるから
うそはイカンぜよ。 @阿波 うそと言うより、極度の無知なんだろうな
無知が九州説を作った >>597
>畿内の鏡が平原の鏡の直系でないことは、むしろ説の通りなんだよ。
つまり、平原遺跡の辺りは、周囲に影響を与えられない袋小路の小首長ってことだ
確かに「説の通り」だな 九州説は、内輪の文書だけを読んで、自己洗脳を続けているだけで、
外部のことをびっくりするほど知らないからなぁ >>597
で、どうして九州は、独自の銅矛文化を放棄して、中国からの文化に塗りつぶされんだ? うん?
銅矛はその後も祭祀用に進化して使われ続けたよ?
京都祇園祭りの山鉾巡行でも、てっぺんに鉾や長刀が立ててあるよ。
まあ、そもそも銅矛そのものが銅鏡とともに中国から入ってきたわけで、九州北部の文化は今でも畿内をはじめ各地に息づいてるよ。 >>603
>九州北部の文化は今でも畿内をはじめ各地に息づいてるよ。
>>598の「うそはイカンぜよ。」に対する返事は? よくまあ平然として次から次へ真っ赤な嘘を思いつくもんだな九州説 >>603
> 銅矛はその後も祭祀用に進化して使われ続けたよ?
銅矛が何にどう変して、古墳時代に祭祀につかわれたんだ?
w wiki 矛より引用
矛は金属器の伝来と共に中国から伝わってきたと考えられている。
材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。
鎌倉時代では従来の矛や手鉾(てぼこ)が用いられていたものの、戦闘は馬上合戦の一騎討ちが主で、刀の作成技術の発達と流行から、太刀、長巻、薙刀が主力であった。
しかし鎌倉時代後期の元寇において元軍が用いた集団戦への対応や、足軽の台頭により、日本でも戦闘形態が徒歩の集団戦へと変化した。
それに適した武器として長柄の刺突武器が見直された結果、槍の誕生へと繋がった。
祭礼に用いる祭具として祭矛がある。
なお、祭具用矛は「儀矛」とも呼ばれ、神宝、神宝、威儀物などとして使用される。
それらは手矛であり、鍔は円形で金、柄は黒漆、鍔下柄に鰭をつけるが、赤地錦で先を三山に切り、金色の巴紋または神紋を取り付けることになっている[1]。 869年東北の大地震の後に行われた御霊会では、当時の国の数66本の矛(ほこ)を諸国の悪霊たちを宿らせる依代(よりしろ)としました。
「矛」は先が丸みをおびた槍。祭礼に使われました。
この66本の矛が今の山鉾の由来です。
初めは矛(鉾)だけでしたが、鎌倉時代には鉾のまわりで歌ったり舞う人たちが出て、室町時代には、この鉾と踊りと稚児さんがのる屋台が一体となって山鉾になりました。
こうして、もともとは八坂神社(当時は祇園社)での怨霊を鎮める神事である祇園祭ですが、次第に京の人々、町衆にとって大事な祭りとなりました。
https://hanasjoho.com/archives/10639 祇園祭は日本の祭りの中でもかなり長い伝統を持つ祭りだと思うのだけれどね。
その中心は祭器としての矛なんだよ。
祇園社は矛を祭器として用いたけれど、他の多くの神社では鏡を神宝としている。
九州北部を起源とする矛と鏡を祭器とする信仰は、現在でも全国で広く祭られている。 まぁ銅矛は廃れたといえ、一部神社では今でも神事に用いられるし、記紀にもやはり特別な存在として記載が残っている。
で、銅鐸は?
纏向土人の祭祀は、新勢力に廃止され、駆逐され、まったく日本人の記憶から消えてしまった(笑) >>608
一生懸命調べたんだろうけれどw
>祭礼に用いる祭具として祭矛がある。
>なお、祭具用矛は「儀矛」とも呼ばれ、神宝、神宝、威儀物などとして使用される。
>それらは手矛であり、
手矛と、北部九州の大型化した銅矛は、「矛」と呼ばれること以外に共通点はほぼないぞ
九州で発掘された小型銅鐸と畿内中心の大型の見る銅鐸が別物なのと同じ 祇園祭の山鉾はめちゃくちゃ大きいぞ。
でもちゃんと九州の矛からの進化をたどることができる。 勝手にしてろ。
平安、鎌倉、室町から現代まで、祇園祭を例にしておさらいしたろ。
大事なのは、現在までその矛は祭器として用いられていることだろ。 >>616
>>614で
>九州の矛からの進化をたどることができる
っていってるじゃん
それともできないの? wiki 矛より引用
矛は金属器の伝来と共に中国から伝わってきたと考えられている。
材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。
鎌倉時代では従来の矛や手鉾(てぼこ)が用いられていたものの、戦闘は馬上合戦の一騎討ちが主で、刀の作成技術の発達と流行から、太刀、長巻、薙刀が主力であった。
しかし鎌倉時代後期の元寇において元軍が用いた集団戦への対応や、足軽の台頭により、日本でも戦闘形態が徒歩の集団戦へと変化した。
それに適した武器として長柄の刺突武器が見直された結果、槍の誕生へと繋がった。
祭礼に用いる祭具として祭矛がある。
なお、祭具用矛は「儀矛」とも呼ばれ、神宝、神宝、威儀物などとして使用される。
それらは手矛であり、鍔は円形で金、柄は黒漆、鍔下柄に鰭をつけるが、赤地錦で先を三山に切り、金色の巴紋または神紋を取り付けることになっている[1]。 869年東北の大地震の後に行われた御霊会では、当時の国の数66本の矛(ほこ)を諸国の悪霊たちを宿らせる依代(よりしろ)としました。
「矛」は先が丸みをおびた槍。祭礼に使われました。
この66本の矛が今の山鉾の由来です。
初めは矛(鉾)だけでしたが、鎌倉時代には鉾のまわりで歌ったり舞う人たちが出て、室町時代には、この鉾と踊りと稚児さんがのる屋台が一体となって山鉾になりました。
こうして、もともとは八坂神社(当時は祇園社)での怨霊を鎮める神事である祇園祭ですが、次第に京の人々、町衆にとって大事な祭りとなりました。
https://hanasjoho.com/archives/10639 矛という武器およびその形状をした祭器の歴史は書いてあるけど
弥生から平安までの進化をたどってるとはいえないね
日本語に不自由なの? ちなみに祇園祭の神様はスサノヲだそうだ。
スサノヲのシンボルが矛で、アマテラスのシンボルが鏡なのかな。
古代の二大勢力であった筑紫と出雲の神様だな。
それが日本の祭りの基本なわけだ。 >>608
>材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。 出雲の大国主が国譲りで倭王の位を高天原に譲って、天孫が降臨して成立したのが筑紫の王権だ。
出雲と筑紫の象徴としての矛と鏡を祭るのは、大変に理にかなっているように思われる。
この文化がやがて畿内を含む日本全国の祭りとなった。 >>620
今日まで辿ったから十分だよ。
あとは夏休みの宿題として調べておきなさいw >>622
それ弥生時代のことだね
で、そこから大型の銅矛が平安時代までの進化の過程はどこに書いている?
日本語読めないの? 伊都厨さんはおおかた八咫鏡や三種の神器といっしょでイメージだけで語ってるんだろ >>621
>スサノヲのシンボルが矛で、アマテラスのシンボルが鏡なのかな。
>古代の二大勢力であった筑紫と出雲の神様だな。
出雲風土記を読む限り、出雲の主神は大国主であって、
スサノオは大国主神の父祖神であるというだけで影が薄く、特に活躍もしない
ヤマトの三輪山の大物主神も、大国主神の同体神とされるがスサノオは関係ない
やはり知識が足りないな 記紀がどれだけスサノヲに行数を割いていると思っているんだ? >>630
>記紀がどれだけスサノヲに行数を割いていると思っているんだ?
記紀、特に古事記の神話体系を理解していないだろう?
古事記では、
皇統の父系を天神・天孫・大和系とし、
母系を地祇・出雲系としている
だから、神武につながる系と、神武皇后のイスケヨリヒメにつながる系に
紙数を割いてるんだよ
大和系 出雲系
天地初發 高御産巣日神 神産巣日神
国産み 伊邪那岐命 伊邪那美命
三貴子 天照大御~ 建速須佐之男命
葦原中國 日向三代 大國主~〜事代主~
皇統の開始 ~倭伊波禮毘古命 伊須氣余理比賣
日本書紀では、出雲神話は大幅に割愛されてる
正史はあくまで日本書紀だから、正史では出雲はそれほど重視されていない >>621
>ちなみに祇園祭の神様はスサノヲだそうだ。
祇園祭は八坂「神社」のお祭りだが、明治になるまでは神仏習合の祇園社で、
主祭神は本来、仏教の天である牛頭天王だぞ
牛頭天王は、神仏習合の考え方ではスサノオの本地仏なので、神仏分離令で
八坂「神社」になったときに、主祭神がスサノオになったという流れ
もともとスサノオを祭っていたというのとは違う
祇園社の頃の祇園祭は、祇園御霊会と呼ばれており、御霊(怨霊)を慰撫するための祭りだよ
スサノオは後付け >>779
おいおい、平原は超大鏡の中で最古で最大な事を忘れてないか?
北部九州の鏡副葬文化が各地に波及したのがわかるな
各地で細かい様相は違うかもしれんが、"鏡"の重要性は波及している >>775
円周を測って鏡の大きさを表す例はない
→実際、円周が漢尺でほぼ"八咫"の長さだから、ここを完全に否定はできない
鏡に限らず円形物を円周長で大きさを表す例はない
→上に同じ
咫は周尺で16.9センチ程度 平原1号墓出土鏡の円周は8.63咫になる
→平原鏡が作成された時期は漢尺だよね
大事なのは倭で作成された事
つまり、当時の倭での"咫"の意味が不明なので意味が無い
神道五部書の御鎮座傳記では、八咫は大きさではなく八頭の古語であると説明されている
→
「御鎮座伝記」には「八頭花崎八葉形也」とあるね
この「八頭」=「八咫」だとしても、平原の内行花文鏡の文様と意味が合致するから、可能性は高くなるよ
内行花文鏡以外にも、巨大化した鏡種は多くある
→最古で最大の鏡が平原
銅鏡巨大化の流れの源
平原や三雲、伊都国に八咫鏡があったとする説話も伝承も一切ない
→他に鏡が出土した地域で、八咫鏡があったとする説話があるのかい?
なければその否定に意味がないが >>635
>→他に鏡が出土した地域で、八咫鏡があったとする説話があるのかい?
>なければその否定に意味がないが
本物の伊勢と御所賢所の御神鏡は「出土」してないんだよ
つまり出土した鏡は、すべて「八咫鏡」ではない、で問題がない
そして、他に鏡が出土した地域で、八咫鏡があったとする説話がないから、「八咫鏡」ではないし
同じく、平原で、八咫鏡があったとする説話がないから、「八咫鏡」ではない >>635
>銅鏡巨大化の流れの源
そんなことはない
既に楽浪鏡の時点で、方角規矩鏡も内行花文鏡も巨大化し始めている
流れの源はもっと上流にあるよ
それに、祭器としての銅鐸も銅矛も弥生時代にほぼ一貫して巨大化している
平原1号墓出土鏡は、その中でのガラパゴス化した一形態くらいの位置づけでよい >>635
>「御鎮座伝記」には「八頭花崎八葉形也」とあるね
>この「八頭」=「八咫」だとしても、平原の内行花文鏡の文様と意味が合致するから、可能性は高くなるよ
「平原の内行花文鏡の文様と意味が合致」しません
中台八葉というのはこういう形
胎蔵界曼荼羅 中台八葉院
http://www.geocities.jp/kawai5510/IMG_3928-11.jpg
これを内行花文鏡と同じと言い張るのは強弁が過ぎる
なので、内行花文鏡が八咫となる可能性は高くならない
八咫=八頭を認めるなら、円周長がどうとかいう議論はすべて無意味 >>635
>大事なのは倭で作成された事
>つまり、当時の倭での"咫"の意味が不明なので意味が無い
ならば、漢尺八寸を咫とする換算は無意味だと認めるということだ >>635
>実際、円周が漢尺でほぼ"八咫"の長さだから、ここを完全に否定はできない
「否定できない」は何の論拠にもならないことをまだ学ばないのか?
>>405で「あり得るという言い方だとどうにでもあるからどうこうと言っていたのは君じゃないかな?」って
言ってたのは君じゃないのか? >>640の補足
「AがBであることを論証せよ」といわれて、「AがBだから正しい」というのは
ただの循環論法だって分かるよな? >>634
>おいおい、平原は超大鏡の中で最古で最大な事を忘れてないか?
いや?
「平原1号墓が卑弥呼の墓」説では、内行花文鏡こそが太陽の象徴で王権のレガリアって
話だっただろ?
だからこそ、大きいのを作ったという主張だったはずだが?
そして、その文化を畿内の古墳祭祀も引き継いでいるから、
内行花文鏡が一番権威のある鏡で大きいのが作られているっていう主張をしていたよな?
でも>>592.>>595で、「特に内行花文鏡が特別視されて、内行花文鏡が巨大化した」というのは
誤りであることがはっきりしたよな? >>815
いや、事実=考古学であるから、鏡を考察する上で考古学的出土の意味を考えねばならないよ
"鏡"は出土鏡がたくさんあるわけで
その中に八咫鏡と関連のある鏡がある、と考えるのは当然
説話も重要だが、考古学的事実も重要と思うよ
自分は後者の方が重要度の比率が高いがね >>645
>説話も重要だが、考古学的事実も重要と思うよ
>自分は後者の方が重要度の比率が高いがね
伊都国説の人は、日向三代の神話にすがり付いてるじゃないか? 伊都クズの言う考古学的事実は、本来の意味の考古学的事実ではなく、勝手な妄想 >>825
日向云々は興味深いが、伊都説を補填するぐらいだね
宮崎より遺跡が多いしね
さらに伊都は記紀と倭人伝の数少ない接点ではある >>816
いや、平原鏡の大きさは突然だよ
突然過ぎて不自然なくらい
徐々に大きくなった様な流れではないからね なんかレス番がめちゃくちゃだぞ。
誤爆かどうか判断に苦しむ内容だし。
カキコは確認してからにしてくれよ >>817
八咫の意味が八頭でも、長さとしての八咫であっても平原鏡はある程度説明できる事がわかった
八葉も八頭花崎も意味合い的には許容範囲
逆にホントにそうかも?とも感じてしまった次第
前レスで、勉強させて貰ったよ
ありがとな >>651
どうとでもコジツケられるって程度の説ってことだな >>649
伊都の鏡が、特別すごい鏡だということだろ。
畿内説はそれをマンホールの蓋だとか、よく言うよ。
考古学と真剣に向き合わない畿内説に未来はない。 考古学のこの字すら知らない伊都クズが何かほざいてるな >>651
>平原鏡はある程度説明できる事がわかった
つまりはっきりした根拠は一切なくて、
思いつきでふらふらする程度のものでしかないってことだな >>653
>畿内説はそれをマンホールの蓋だとか、よく言うよ。
まだ理解してないんだな(ため息)
模様が太陽っぽく見えるから太陽信仰に象徴っていうのは
マンホールの蓋に見えるから肥溜めの象徴っていうのと
同じレベルのいい加減さだってこと
それが認められないのは単なるダブスタ >>656
>畿内から出てこなくて残念っだったね
誰か残念とか言ってたかい?ww
幻聴か妄想だろう?
畿内ではきちんとした作図の内行花文鏡も出てるし、
日本最大の方格規矩鏡も出てる
大王墓にふさわしい巨大墳墓も山ほどある
古田史学系の九州王朝説とかが絵空事なのは明白だろ?
伊都国説はその亜流でしかない 鉄器のない毛人を使役して湿原を大規模灌漑しました。感謝してください。 >>658
時代性を無視したキチガイ発想と同じなわけないだろ。
死ね 自分が時代性を無視したキチガイ発想と同レベルだと気付けない>>661は既に脳死 >>662
太陽 当時ある
マンホール 当時ない
この差は流石に分かるよね?
わかったら死ね。
わからなくても死ね >>659
それらの巨大墳墓が卑弥呼の時代だという証拠を出せ。
出せないなら、後世のものを持ち出すな。 >>665
それらの巨大墳墓が卑弥呼より後世のものだという証拠を出せ。
出せないなら、「後世のものを持ち出すな」などと言うな。 >>668
対話する気ないなら有害だからはやく死んでね。 >>657
常に可能性で考えているからね
倭人伝の解釈も同じ
考古学と鑑みて、どの説が可能性が高いか?で今は考察するしかないし
考古学的事実はその存在は"事実"なのだから、自分の中では一番重要だね >>671
その考え方を統計学に当てはめると、ベイズ法では90パーセント以上の確率で邪馬台国は福岡県だっけ? >>663
>太陽 当時ある
>マンホール 当時ない
だから、マンホールは現代の用語を使っているだけで、より現実に即していえば
肥溜めの蓋だって言ってるだろ?
肥溜めの蓋はあってもおかしくないだろ?
さあ、否定したいなら、3世紀に肥溜めがなかったことを論証してね! >>663
>この差は流石に分かるよね?
>わかったら死ね。
>わからなくても死ね
自分の敵わない相手に、なんともまぁ、惨めな返答をしていることよ
>>663には、科学的な議論は無理だと思う
きちんとした日本の教育を受けて、ネット環境にアクセスできる年齢の人間で
この書き込みができるってのはすごいわ(ほめてない) >>664
>「纏向」wよりはマシw
纏向遺跡は、直後の時代に列島の大部分を覆った前方後円墳祭祀文化の
発祥の地であることが明確に確認されている
3世紀前半〜中期にかけて、列島上で政治的に最も重要な領域だったのは
間違いない
前代の地域首長墓である吉野ヶ里の北墳丘墓の10分の1サイズもないような
平原1号墓とは訳が違うな >>665
>それらの巨大墳墓が卑弥呼の時代だという証拠を出せ。
吉備の楯築墳丘墓
出雲の西谷9号墓
丹波の赤坂今井墳丘墓
これらは、弥生後期〜終末期とされていて、卑弥呼の時代よりもむしろ早い
纏向古墳群でも纏向石塚古墳(古墳と呼ばれているが古墳時代開始を
前倒しするのに反対の人は、弥生墳丘墓としている)は庄内0式土器の時代
庄内0式土器は、3世紀始め、人によっては2世紀末からとしており、
九州において西新式土器と供伴する
どれも卑弥呼の遣使よりも前だろ? >676
>纏向遺跡は、直後の時代に列島の大部分を覆った前方後円墳祭祀文化の
>発祥の地であることが明確に確認されている
ウソはイカンぜよ。 @阿波 >>661
「キチガイ発想」「死ね」
>>663
「わかったら死ね。
わからなくても死ね」
>>669
「はやく死んでね」
議論に勝てないからといって、これではな
まあ、持ちネタが悪過ぎるから、最初から議論で勝てる道理もないんだが
そもそも、科学の論点での議論には勝ち負けはないんだが、
勝つことだけを目的にしているから、こんな惨めな書き込みを続けているんだろうな >>677
>倭国である根拠が何もない
つ「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」
この条件に合うのは、日本列島しかないだろ?
その日本列島を広く覆う一つの政体があれば、それを倭国とみなすのが当然 倭種は、決して倭人ではない
魏王朝に従わぬ一段格下の「人でなしの種」であるという意味 >>680
マンホールを言い出したのに肥溜めの蓋にすり替えて何か反論したつもりか?詐欺師は死んでいいぞ。 >>685
>マンホールを言い出したのに肥溜めの蓋にすり替えて
ザラコクさんの持ちネタで言えば、3世紀当時に「畿内」という呼び方はなかったけれど、
それでも今の近畿の一部を畿内と呼ぶだろ?
概念を現代語で表現するのは当たり前
ということで、意味のない反論してないで、否定するならするで
3世紀に肥溜めの蓋がなかったことを論証してくださいな! >>685
>詐欺師は死んでいいぞ
あいかわらず、九州説は質が悪いな
「質が悪い」は「シツ」が悪いって読むんじゃないんだぞ
読めるカい?w >概念を現代語で表現するのは当たり前
あのさ、勝手に当たり前にしないでくれる?
少なくともここ学術板だから、それじゃダメだよ。そういう言葉に対する基礎素養がないから批判されてるんだよ。
事実と考えを混同するバカは言うことが違うね。 >>684
>倭種は、決して倭人ではない
いや、そんなことはない
魏略だと、「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」とあり、
山島の国々が「倭」であり、島伝いに渡海千里しても、そこもみんな「倭種」とある
日本列島周辺は、周りの島嶼(対馬、壱岐、隠岐、値嘉、佐渡)もみんな倭種って
書いてあるだけだ
逆に、本州を東渡海千里にするのは無理だろ
関門海峡は幅600メートルしかないから、1里60センチになっちゃうし、
瀬戸内海を渡っていくなら、千里ではきかない
なんとか畿内を倭国から切り離そうとしているけれど、土器の流通一つとっても
無理なんだよ >>688
>少なくともここ学術板だから、それじゃダメだよ。そういう言葉に対する基礎素養がないから批判されてるんだよ。
じゃあ、>>688さんは、学術板だから、3世紀当時はなかった「畿内」も「九州」も
「伊都」も使わずに書きこみしてくださいね
何がどうだめなのか、「具体的指摘」はあいかわらず0だしw >>688
それ以前に、>>688の「日本語の素養」に重大な疑義があるんだが?
これ、読めるかい?
「質が悪い」
まあ、ググれば読めるんだろうけどw >>678
>吉備の楯築墳丘墓
>出雲の西谷9号墓
>丹波の赤坂今井墳丘墓
>これらは、弥生後期〜終末期とされていて、卑弥呼の時代よりもむしろ早い
纒向じゃないじゃん。
これらの地域と纒向が交流していた証拠もない。 >>681
>その日本列島を広く覆う一つの政体があれば、それを倭国とみなすのが当然
「あれば」という確定していない希望的観測をもとにするなよ。 >>686
>概念を現代語で表現するのは当たり前
畿内という概念や、実体としての社会的集団、地域性があったという証拠がない。
纒向はすぐ近くの河内とさえ交流がなかった。 >>690
>じゃあ、>>688さんは、学術板だから、3世紀当時はなかった「畿内」も「九州」も
>「伊都」も使わずに書きこみしてくださいね
伊都は魏志倭人伝に記載されているからいいだろ。 学術的には北京原人と呼んじゃいけないのか?
そんなこと言う学者いないよな >>693
>これらの地域と纒向が交流していた証拠もない。
これらの地域でも、これだけの巨大墳墓を「卑弥呼の時代と同時」または「その前の時点」で
作るような社会変動があった
そして、纏向でも纏向石塚古墳以降、吉備や出雲,丹波を凌駕する巨大墳墓を連続して
築造し、それがそのまま古墳時代=箸中山古墳で定式化につながる
そして、定式化古墳には出雲の墳丘葺き石、吉備の特殊貴台⇒円筒埴輪など、
各地の様式が取り入れられている
交流していた証拠がないなどというのは、負け犬の遠吠え以下
そして、その「各地で巨大墳墓を作る時代」に入っても、北部九州では
目立った墳墓はない取り残された地域となっている
平原1号墓はこれら巨大墳墓の時代に入る前と考えた方が、歴史の流れの中での
位置づけとして落ち着きがよい >>693
>これらの地域と纒向が交流していた証拠もない。
これらの地域と交流していたのは、倭国(阿波)の忌部一族だけ。 @阿波 >>694
>「あれば」という確定していない希望的観測をもとにするなよ。
北部九州でも、古墳時代当初から那珂八幡古墳をはじめ多くの古墳を作ってるんだよ
古代の「まつりごと」が、政祭の区別が不分明だったことを思えば、
広範囲での前方後円墳祭祀共同体の成立を以って、
「日本列島を広く覆う一つの政体」と見做すのに何の不都合もない
「あれば」は仮定形じゃなくて、已然形だよ
「であるので」、といいかえてもいい
こういうところも>>694の日本語の素養を疑わせるんだよな
「質が悪い」 は読めたかい? >>698
>そして、定式化古墳には出雲の墳丘葺き石、吉備の特殊貴台⇒円筒埴輪など、
>各地の様式が取り入れられている
筑紫に各地の土器が流入したのは、地元の文化を喪失したとみなしていなかったっけ?
ダブルスタンダードだな。
土器が庶民層、墳墓が首長層の活動を反映するなら、纒向に首長層が主権を喪失したんじゃないか? >>695
>纒向はすぐ近くの河内とさえ交流がなかった。
またウソをつく
最新のテンプレww
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 >>693
>これらの地域と纒向が交流していた証拠もない。
これらの地域と交流していたのは、倭国(阿波)の忌部一族だけ。 @阿波 >>698
>平原1号墓はこれら巨大墳墓の時代に入る前と考えた方が、歴史の流れの中での
>位置づけとして落ち着きがよい
勝手な妄想、と言いたいところだが、
卑弥呼が弥生最後の女王で、卑弥呼の死後に西日本の古墳の定型化が始まったと考えるのが妥当だろう。
だから畿内は何でもかんでも3世紀後半ばかりなんだ。 >>696
>伊都は魏志倭人伝に記載されているからいいだろ。
じゃあ、「九州」も「畿内」も>>696は使わないんだね?
魏志倭人伝にも記載されてないし
まあがんばれ
意味のない言いがかりだって早く気づくといいね >>693
>これらの地域と纒向が交流していた証拠もない。
いや、はっきり有るのだが >>693
>これらの地域と纒向が交流していた証拠もない。
これらの地域と交流していたのは、倭国(阿波)の忌部一族だけ。 @阿波 >>701
>筑紫に各地の土器が流入したのは、地元の文化を喪失したとみなしていなかったっけ?
畿内の土器は布留式土器の段階において、全国の共通様式になるんだよ
それに飲み込まれて、在地の土器様式がなくなるのが筑紫を含む北部九州
一緒にしちゃだめだよ
>ダブルスタンダードだな。
こちらがダブルスタンダードなんじゃなくて、
九州説側がチェリーピッキングしてるんだよ それだけのこと
歴史の流れってものを、ちゃんと認識しないと >>693
>これらの地域と纒向が交流していた証拠もない。
これらの地域と交流していたのは、倭国(阿波)の忌部一族だけ。 @阿波 >>700
>「日本列島を広く覆う一つの政体」と見做すのに何の不都合もない
「みなす」を漢字で表記するのは、この板では畿内説のスレを独占しているスレ主だけ。
匿名でばかりレスするなよ。
お前の日本語も相当歪んでいるぞ。 >>709
>歴史の流れってものを、ちゃんと認識しないと
九州の卑弥呼が亡くなると、各地の勢力が躍進したんだろ。
歴史の流れを認識しろよ。 >>704
>卑弥呼が弥生最後の女王
弥生最後の王なら、当然に巨大墳墓に葬られてるんだよ
実力のある地域はみんなその段階に進んでいる
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でさえ、平原1号墓の10倍以上の底面積の墳丘を作っている
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓と平原1号墓は墳丘の主軸に合わせて大柱と小型祭祀建物を
作るといった細部まで共通性が見られ、同一文化圏の墳墓であることが確認できる
その比較においても平原1号墓は小さい
平原1号墓の被葬者は弥生末期の王ではないよ >>707
>卑弥呼より後の古墳時代の話しかしないよね
そういうことにしたいんだなww
>>434を再掲
もともと九州説っていうのは、
古い時代の王墓(三雲南小路、須玖岡本)は九州にある
↓
「邪馬台国の時代」
↓
古墳時代以降は畿内の大和王権が中心
という編年観で、邪馬台国はまだ九州に中心があるっていう論立てだったんだよ
でも、古墳時代になると大和王権が中心なのだ明らかだから
1.東遷した 邪馬台国の会・安本美典系
2.無関係だ 古田史学の会・古田武彦系
と以降の歴史との接続を、憶測で補っていた
それが、編年研究が進んで、
古い時代の王墓(三雲南小路、須玖岡本)は九州にある
↓
「邪馬台国の時代=古墳時代」以降は畿内の大和王権が中心
になったってだけの話
本質は、編年なんだよ
だから、九州説は編年研究を認められずに、でも反論の根拠すらなくてディスるだけ >>713
>実力のある地域はみんなその段階に進んでいる
田舎だけ。 >>711
>お前の日本語も相当歪んでいるぞ。
残念ながら、私は畿内説スレのスレ立ての人ではないよww
ザラコクさんの主敵の彼の呼び方でいう「ww」だよ
で、「質が悪い」はまだ読めないのかい?w
畿内説スレを立ててる人がここにいるとすれば、
例えば>>697みたいな書き込みがそうだよ >>711
で、>>700の「内容」に関しては「具体的な反論」はなしってことでw >>712
>歴史の流れを認識しろよ。
オウム返しは、九州説の倣いだねぇ
本当に、能がないw >>700
>北部九州でも、古墳時代当初から那珂八幡古墳をはじめ多くの古墳を作ってるんだよ
だから古墳時代のことを持ち出してどうするの。
平原遺跡は副葬品から魏晋代の女王墓であり、そこまではまだ伊都は大型墳墓の時代に入っていない。
倭国の周辺地域でのみ墳墓の大型化が進んだんだよ。 >>719
平原一号が魏晋代の女王墓だとか言ってる学者はいないんだが >>697
分類名は発見地名で呼ばれる慣例だが?
先史と歴史の違いもわからないのか。 >>724
北京原人の話を持ち出した人に言え。
日本で北京原人が見つかったのか? >>720
平原鏡がマンホールと言っている考古学者はいるのかな? >>722
>分類名は発見地名で呼ばれる慣例だが?
分類名ってなんだよ?
学名のことか?
北京原人は当初はシナントロプス・ペキネンシスとされたが、
シナントロプス属は最終的に廃され、ホモ属に入れられ、また
いわゆるジャワ原人と同種とされていて、ジャワ原人の当初学名
ピテカントロプス・エレクトスの種小名が残って、ホモ・エレクトスと
なっている
北京原人はあくまで俗称・通称の類 じゃ、九州説さん
当時の日本の地名だけで話を進めてくれ 伊都は倭国の王都。
畿内説が「纒向」と呼ぶ地域は、呼称も伝わっていない辺境の地。 >>727
あなたよくコミュ障って人から言われるでしょ?
私も認定してあげるよ。 コミュ障連呼厨も「キナイコシ」でいいんだっけ?
バカはできるだけ少ないほうがいいんだが? 畿内説にしがみついているあなたがキナイコシですよ。 >>732
それに加えてコミュ障な
バカは少ない方がいいから、
二度と書込みするなよ 伊都国説って
・短里を捏造
・水行の起点を意味なく帯方郡に動かす
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
・陸行一月を陸行一日に改竄
が必要なんだよな
そして、根拠と言っているものが
・平原遺跡が卑弥呼の墓
・大きな鏡が出土
・円周長が八咫だから八咫鏡
・八咫鏡だから、皇室の祖先神の日向三代は糸島
・内行花文鏡は太陽に見えるから太陽信仰の象徴
・太陽の象徴で日巫女だから卑弥呼の墓
・糸島には古い王墓があるから伊都国が邪馬台国の首都
これくらいだっけ? カギカッコつきの「キナイコシ」は固有名詞で>>732を指すんだよ >>733
議論に負け続け、常に言い返すことすらできなくなって
死ね、出て行け、二度と来るな
と繰り返しているコメント者がこちらですww >>737
>畿内説はくだらない言葉遊びしかできなくなった。
そういうことを言ってる間に、学問板にふさわしい「具体的に論点を絞った指摘」ができるようにならないとww
そもそもキナイコシって、畿内説のローマ字入力のミスタッチでsがぬけて、
畿内越になったのをカタカナ表記しただけの「くだらない言葉遊び」なんだろww 大型古墳を作っている時点で
戦争中の首都じゃないですなあ。 >>740
>それやったのはあなたじゃないの?
私はわりに新参者なんだよ
5ちゃんの畿内説スレに出入りするようになった頃には
「キナイコシ」は既に畿内説スレを荒らしまくってたよ キナイコシは畿内説を唱えてのらりくらりと言い逃ればかりしている人の総称。
そもそも説で人を代表させるのはおかしな話だからね。 前期の前方後円墳は糸島にも沢山あるから、これの関連の考察は倭人伝後の歴史を考える上では必要
特に初期の那珂八幡や御道具山などは箸墓より古い可能性もある
まぁ、それは横に置いといて、卑弥呼の時代はまだまだ各地域、墓の様相も様々だね
文化や思想が違うのに、一概に墓の大きさのみで優劣はつけられない
倭国の都を探すのならば、大陸との交流の形跡などが必要
どんなに大きな墓でも、これがなければ意味が無い
後は鏡文化であること
当時、各地域間の交流は活発だった様だが、鉄の流れをみると巻向周辺はまだその流れに乗っていない、つまり中心地域ではありえない
播磨や出雲、福岡西北沿岸部が主な拠点
3世紀前半はこの範囲で考察するしかないな >>744
巻向周辺に鉄が普及するのは何世紀頃のどの遺跡なのだろう? >>745
ホケノや箸墓あたりからなんだろうが、あれは外からの影響が強い感じがするね
あのあたりに鉄が庶民の生活面まで波及したのはいつ頃からなんかなぁ? >>744
>倭国の都を探すのならば、大陸との交流の形跡などが必要
そうだね。 倭国(阿波)だね。 @阿波 >>743
>キナイコシは畿内説を唱えてのらりくらりと言い逃ればかりしている人の総称。
そんなことを言う人は「一人」しかいない
ならばその人物を特定する符牒として「キナイコシ」以上に
適したものがあるだろうか?いやない(反語) >>741
>大型古墳を作っている時点で
>戦争中の首都じゃないですなあ。
戦争中だと誰が決めた?
魏志倭人伝の記述では「素不和」だ
それに首都は最前線じゃないぞ
つまり、>>741の反論は的外れ >>746
>あのあたりに鉄が庶民の生活面まで波及したのはいつ頃からなんかなぁ?
最初から、だよ 鉄の痕跡だと北部九州だと菜畑遺跡の時代に相当する。
菜畑遺跡でも鉄は貴重でリサイクルシステムが発達していたのだろうな。
3世紀北部九州のように鉄の大量消費時代が訪れるのはいつだろうか。
その遺跡こそが東遷の足がかりになる遺跡であろう。 >>754
>鉄の痕跡だと北部九州だと菜畑遺跡の時代に相当する。
北部九州も鉄鍛冶遺跡のパッとしたものが無いんだよね。 @阿波 >>756
マジで大概のものが有るのは倭国(阿波)だけだよ。 @阿波 弥生時代の奈良には粗末なものしかない。
邪馬台国であったはずがない。 >>758
>弥生時代の奈良には粗末なものしかない。
>邪馬台国であったはずがない。
ということにしたい、負け犬の遠吠えであった
何もないところに人は集まらないよ
人が集まらないところでは、巨大墳墓は作れない
九州説はあるものには目をつぶって、「ないもの」を一生懸命探している状態w >>759
何を言い出すの、このバカ
鉄器遺跡をさっさと出せよ >>760
常駐具合からすると、この言葉の悪いやつが「キナイコシ」なのかなとも
思うんだが、どうなんだろう?
まあ、頭のおかしい人間は少数であって欲しいという願望が入っているけどな キナイコシって畿内説者全員のことだろ
単なる誰かの言い間違いがはやってるだけ キナイコシというカタカナ文字列を書き込みで使う人が一人しかいないから、
その人を「キナイコシ」と呼ぶのが一番紛れがないww >>762
>単なる誰かの言い間違いがはやってるだけ
はやってないよww
使ってるのは一人だけと思われ >>765
>願望だね。
>全なんとか病の一種。
でも、「おれも使ってるよ」という人が我も我もと名乗り出てきたりはしない模様w
ずいぶん流行ってるんだねw 鉄鍛冶遺跡はカラカミのが最高峰じゃなかったっけ?
他の地域のはそれに比べたらかなり格落ちする。
朝鮮半島から鉄原料
→カラカミで加工
→北部九州で大量消費
おこぼれを他の地域にお裾分けしてたんだろ。
年貢と引き換えに。<土器の流れ >>767
>北部九州で大量消費
その北部九州では、鉄鍛冶遺跡のパッとしたものが無いんだよね。 @阿波 >>768
鉄鍛冶遺跡はカラカミのが最高峰じゃなかったっけ?
他の地域のはそれに比べたらかなり格落ちする。
朝鮮半島から鉄原料
→カラカミで加工
→北部九州で大量消費
おこぼれを他の地域にお裾分けしてたんだろ。
年貢と引き換えに。<土器の流れ >>769
>鉄鍛冶遺跡はカラカミのが最高峰じゃなかったっけ?
>他の地域のはそれに比べたらかなり格落ちする。
九州説は自説に都合のいいことはすぐに過大評価するww
「2015.3.1. 大阪中之島で開催された壱岐公開講座で、九州大学宮本一夫教授らは倭国魏志倭人伝の時代 朝鮮半島交易の中心地として
栄えた壱岐のからかみ遺跡の鍛冶工房遺構から出土した他に類例のない地上炉について下記講演。
◎ 炉壁・立派な羽口のある地上炉でありながら、鉄滓・鍛造剥片も少なく、また出土する鉄が殆ど未完成のくず小鉄片という特徴をもち、
朝鮮半島の対岸の勅島周辺から出土する地上炉の特徴がある。
◎ このことから、この地上炉は鉄精練・鉄器加工の鍛冶炉とは考えにくく、朝鮮半額島などから集めたくず銑鉄片を製鉄原料として
鉄素材を作る鍛冶炉で鉄素材を作った製鉄炉(鍛冶炉)であろう
「くず銑鉄片を製鉄原料として 鉄素材を作る製鉄炉」
これがカラカミ遺跡の地上炉ではないかと提案する九州大学宮本教授説 」
くず鉄という言葉に過剰反応する気はないが、最高峰ってことはないだろう
淡路島(五斗長垣内遺跡)からも、淡海國(稲部遺跡)からも、3世紀の製鉄遺跡が出てる
淡路島の五斗長垣内遺跡や彦根の稲部遺跡は、弥生時代の列島最大規模の製鉄遺跡 >>768
鉄鍛冶遺跡はカラカミのが最高峰じゃなかったっけ?
他の地域のはそれに比べたらかなり格落ちする。
朝鮮半島から鉄原料
→カラカミで加工
→北部九州で大量消費
おこぼれを他の地域にお裾分けしてたんだろ。
年貢と引き換えに。<土器の流れ 倭人が朝鮮半島で鉄を集めているとあるから、まさにそのままの遺跡だな。
やはり狗邪韓国〜倭奴国(伊都国)が倭国で間違いない。 >>770
>淡路島(五斗長垣内遺跡)からも、淡海國(稲部遺跡)からも、3世紀の製鉄遺跡が出てる
仮に年代を信用しても、邪馬台国から東に渡海したところの倭人の地で説明が終わるんだが? >>773
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 >>774
鉄鍛冶遺跡はカラカミのが最高峰じゃなかったっけ?
他の地域のはそれに比べたらかなり格落ちする。
朝鮮半島から鉄原料
→カラカミで加工
→北部九州で大量消費
おこぼれを他の地域にお裾分けしてたんだろ。
年貢と引き換えに。<土器の流れ >>771
ああ、自分の言葉じゃなくコピペだから、具体的は個別の返答はできないってことか
いつもの九州説だな で、畿内の鉄器遺跡はどうなった。さっさと出せよ
のらりくらりと何時まで逃げるつもり?
生きてて恥ずかしくないの? 別に3世紀のを出せって言ってるわけじゃないんだよな。
邪馬台国じゃないのはわかりきってることだし。
鉄器が北部九州並みに普及した初出の遺跡を呈示してくれって言ってるだけなのにね。 そんなもの、6世紀か7世紀くらいにならないとないよ。 >>779
マジで?
4世紀、あるいは5世紀の鉄器集落ないの? あ、大和と畿内の他の地域は分けてね。
大和が周辺の畿内を支配していたという根拠がないからね。
河内や摂津や播磨や尾張に比べたら、大和は弱小だからね。 >>782
> 河内や摂津や播磨や尾張に比べたら、大和は弱小だからね。
ごめん。 大和は湿地帯だから、摂津や播磨や尾張より開拓が遅れちゃったんだよ。 @阿波 真面目な話、輸送手段が船だった時代に、内陸の大和なんて発展のしようがない。
倭国大乱で筑紫を追い出された神武や、国譲りで出雲を追い出された大国主のようなはみ出し者たちが集まる、吹き溜まりのようなフロンティアだったかも知らないな。
銀河鉄道999だと、アンドロメダ終着駅の一つ手前の星みたいな。 >>787
一行目はいいんだけれど、
2行目、3行目は「全然真面目じゃなかった」ね。 @阿波 そりゃそうだ。
倭人伝の魏使が来たのも伊都までだからな。
大都会弥生奴国の描写が書かれておらん。 本当に、どのスレだったかな
日本の話なんですよwwww
と言ってる人がいたり
『アンドロメロス』とか、
そういう作品の元ネタ?日本→他国→日本に戻ってきた? >>793
>倭人伝の魏使が来たのも伊都までだからな。
また脳内の思い込みを事実だと信じ込んじゃってるよw
倭国の中に邪馬台国があって、その中に伊都国があるなんていうのは
二重帳簿詐欺だろう、と
北部九州説の自己洗脳完了者以外は、伊都国や奴国と、邪馬台国は別の国だってのは
当たり前のことなんだが >>796
>北部九州説の自己洗脳完了者以外は、伊都国や奴国と、邪馬台国は別の国だってのは
>当たり前のことなんだが
早く洗脳が覚めるといいね。 北部九州倭国が邪馬台国と狗奴国に分裂して戦った。
邪馬台国の首都が伊都。 100メートル級だとそれなりの副葬品が出ているが、
200メートル以上だとこれどうなってんの?w
でかいほど偉いんでしょ?
銅鏡も鉄器も。。。 >>799
>200メートル以上だとこれどうなってんの?w
>でかいほど偉いんでしょ?
>銅鏡も鉄器も。。。
200メートル級は大体、陵墓指定または陵墓参考地に指定されているから、
発掘されているのはほとんどない
その中で陵墓指定されていなくて発掘調査されている200メートル級古墳が
メスリ山古墳と桜井茶臼山古墳
この古墳の名前で検索してもらえれば、鉄も鏡も山ほど出てるよ
どちらも盗掘を受けていたんだけどそれでもえげつないほど出てる >>798
>北部九州倭国が邪馬台国と狗奴国に分裂して戦った。
>邪馬台国の首都が伊都。
これも何度も何度も書いてるんだけれど、史書は暗号書でも判じ物でもなく、
読んだ人がそのまま読んでわかるように書いてある
邪馬台国の首都が伊都国なら、伊都国について述べるところで
「女王之所都」と書かれてなきゃいけないんだってば
それが、書いてない時点で、伊都国が女王之所都でないことは確定事項 >>800
桜井茶臼山古墳の水銀朱 まず間違いなく倭国(阿波)産だよ。
メスリ山古墳からは確認されていないようだが、有ればこれも倭国(阿波)産だろうね。 @阿波 水銀朱なら、
大分県大野川の上流の祖母山麓でも取れるがな。古代からあるなんとか鉱山という有名なところ。 >>803
>水銀朱なら、
>大分県大野川の上流の祖母山麓でも取れるがな。
採れる可能性のあるところは日本中至る所にあるよ。 おめでとう。 @阿波 >>802
水銀朱ならともかく、倭国(阿波)の青石(緑色結晶片岩)まで運び込むとはw 一体「阿波」とは・・・
畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、阿波の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。
大阪府の闘鶏山古墳、将軍山古墳、鍋塚古墳、牧野車塚古墳、神戸市の西求女塚古墳などが典型例だ。
そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。
『阿波の青石(緑色結晶片岩)の石槨石材搬出状況』
・西求女塚古墳(兵庫)・五色塚古墳(兵庫)・紫金山古墳(大阪)・茨木将軍山古墳(大阪)
・弁天山C1号墳(大阪)・櫛山古墳(河内)・燈籠山古墳(河内)・松岳山古墳(奈良)・茶臼塚古墳(奈良)
・玉手山7・9号墳(奈良)・貝吹山古墳(奈良)・ホケノ山古墳(奈良)
北條芳隆「讃岐型前方後円墳の提唱」(1999大阪大学考古学研究所 記念論集)より @阿波 阿波は原料供給の下請け工事屋だったのかい
おっかれさん >>804
3世紀に日本の何処で水銀朱が採れていたかなんて分からないよ。 >>806
>阿波は原料供給の下請け工事屋だったのかい
倭国(阿波)を凌ぐ「元請けさん」が居ないんだからどうしようもない。
自社設計施工だよ。 @阿波 >>801
「世有王 皆統屬女王國」これが首都が伊都国との意味だな。
伊都国には魏の世に倭王が居た、倭の国々は皆女王国に統属されていた。 >>807
阿南市と徳島県教委に文句言ってよ。 @阿波
「若杉山遺跡(阿南)坑道発見」
「辰砂採掘 弥生後期 日本最古か」
阿南市と徳島県教委は31日、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(同市水井町)で、
辰砂を採掘していた坑道が見つかったと発表した。これまでは露天掘りなどの手法が取られていたとみられており、
より高い技術が必要な坑道で採掘されていたことは分かっていなかった。日本最古の坑道の可能性があり、今後、詳しく調べる。
遺跡は、太龍寺山(標高618m)の標高約140〜250mの地点の斜面にあり、坑道は約250mの地点で見つかった。
奥行きは約14m、高さは約70〜90cmある。
市が国史跡指定に向けて昨年8月から行った調査では、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点見つかった。
このため、辰砂の鉱脈を含む岩を横穴式に掘り進んだ坑道だと断定した。
入り口から約50m離れた斜面では、掘削する際に出たがれきなどが捨てられた「ズリ場」も確認された。
その付近で弥生土器の破片が発見されており、坑道も弥生時代に使われていた可能性があると判断した。
市などは来年度以降、坑道内部の調査を本格化させ、時代の特定につながる土器などを探す。付近で他の坑道の有無も調べる。
現在、日本最古の坑道は奈良時代に銅を採掘していた長登銅山(山口県美祢市)とされている。
若杉山遺跡調査検討委員会の大久保徹也・徳島文理大学教授(考古学)は「この時期は、
むき出しの岩を石杵で砕くなどして辰砂を採掘していたと考えられていたため、
これまでの考え方を覆すかもしれない」と指摘している。 徳島新聞 平成30年2月1日 >弥生時代に使われていた可能性がある
未確定情報ですねw >>809
>「世有王 皆統屬女王國」これが首都が伊都国との意味だな。
>伊都国には魏の世に倭王が居た、倭の国々は皆女王国に統属されていた。
魏略との比較をすれば、伊都国王も女王国に統属されていたって分かるんだがな
狗奴国王は名前があるが、伊都国王は名前も記されていない 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >>813
何度も書いているんだが、ここが誤訳
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
正しくは
楽浪郡の国境は、その国(倭国)から一万二千里である。 東京から北海道までの最短距離だと 640キロ弱
玄関口の函館までだと 680キロ弱
中心都市(道都)の札幌までだと 830キロ
最遠の稚内だと 1100キロ
道央の真ん中辺までで 900キロ
東京から北海道までの距離は、640キロから1100キロまでの幅がある
これを100キロ単位の丸めた数字で表現すると
東京から北海道まで900キロくらい となる
起点・東京より、北海道に至るに900余粁
自郡至女王國萬二千餘里
自東京至北海道九百餘粁 >>814
大倭王は邪馬台国にいる。
に続く文章だから、倭の王都である邪馬台国から一万二千里だよ。
倭との国境は狗邪韓国となり、楽浪帯方から七千里。
つまり邪馬台国は九州北部。 >>815
その例えだと、札幌までと函館までの距離が示してあり、それぞれ一万二千里と七千里だ。 >>815
女王国は倭国の中の王都がある場所のこと。 >>816
大倭王は邪馬台国にいる。
に続く文章だから、その国は当然に大倭王の国、倭国だよ
当たり前じゃないか >>817
>札幌までと函館までの距離が示してあり、それぞれ一万二千里と七千里だ。
これが読み違い
水行の起点は帯方郡にはなりません! それが一万二千里の九州北部と書いてあるんだよ。
倭との国境は「倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である」とあるからね。 大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 >>821
>それが一万二千里の九州北部と書いてあるんだよ。
島巡り仮説wwを採らない限り、九州北部までは萬七百里
「一万二千里の九州北部と」は書いてないよ
ごまかすな! >>822
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
何度でも書くけれど、誤解釈
正しくは
楽浪郡の国境は、その国(倭国)から一万二千里である。 >>823
残り千三百里は、対馬海峡の幅より狭い。
畿内には届かない。 >>824
誤読だね。
倭国の国境からは七千里と明記されている。 >>826
>誤読だね。
>倭国の国境からは七千里と明記されている。
原文読んでるか?
樂浪郡徼 去其國萬二千里
去其西北界拘邪韓國七千餘里
この、去「其」國萬二千里と
去「其」西北界拘邪韓國七千餘里
の「其 その」が同じものを指してるのはいいか?
で、2番目の「其」西北界の「其 その」が邪馬台国だったらおかしいだろ?
邪馬台国の西北界が拘邪韓國ってことはないだろ?
つまり、ここは「倭国」じゃなきゃおかしいし、その上の其国も「倭国」だよ
だいたい自分で「『倭国』の国境からは七千里」って書いてるじゃないか
何も間違ってないだろ?
漢文読めないのに無理するな!ww >>800
200メートル以上の古墳33のうち、
陵墓指定されていないのは24もある。
その中で、大量の銅鏡が出土しているのは桜井茶臼山古墳のみ。
メスリ山古墳は内行花文鏡などが出ているが、鉄製武器が主。
その他の古墳の副葬品を見たら驚くけど、どういうこと? 北部九州の古墳墳墓は5世紀6世紀に金銀財宝ザックザク 武器ばかりということは、王の下命により征東した将軍だな。 そして内行花文鏡を奉じているんだよね
その辺りをなんとか誤魔化そうという努力が滲み出ているw メスリ山古墳にも倭人伝の鉄鏃なし
八坂神社があるから北部九州倭王=アマテラスに任命されたスサノオ東征だろう。 >>829
>200メートル以上の古墳33のうち
それ、どこのデータ?
墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基ある
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
作山古墳
両宮山古墳
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳 >>829
>陵墓指定されていないのは24もある。
それ、どこ?
できたら、一覧にしてもらえるかな? >>830
>北部九州の古墳墳墓は5世紀6世紀に金銀財宝ザックザク
また、うそつきが湧いてる
金銀財宝が出た古墳を「具体的に」教えて 「奈良盆地東南部の前期古墳のうち、全長200b以上の巨大前方後円墳は
全部で6基ある。箸墓古墳以下の4基が初瀬川以北の大和(おおやまと)
古墳群中に存在するのに対し、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳の2基は
やや離れて初瀬川南岸の丘陵縁辺に造営されている。
両古墳の学術的価値をとくに高めているのは、そうした巨大な前期古墳の
内容が、発掘調査によって相当部分判明している、ということに尽きるだ
ろう。ちなみに大和古墳群中の4基はすべて宮内庁の所管でもあり、内容に
ついてはごく断片的な情報しかない。桜井茶臼山、メスリ山両古墳の発掘
調査から得られた知見は、前期古墳の研究上欠くことのできない重要な位置を
占めている。」 2つの古墳の概要
「桜井茶臼山古墳は全長約200bの前方後円墳で、1949〜50年、橿原考古学
研究所により後円部を中心とした発掘調査がなされた。墳頂の方形壇の下に
設けられた大規模な竪穴式石室は過去に盗掘を受けていたものの、銅鏡片、
玉類、玉杖(ぎょくじょう)・玉葉(ぎょくよう)などの石製品、「鉄鏃(てつぞく)」・
鉄刀などの武器類、工具類など多様な副葬品が出土した。
メスリ山古墳は全長250bを上回る前方後円墳で、1959〜61年にやはり
橿原考古学研究所により発掘調査された。後円部墳頂には二重に円筒埴輪を
めぐらした方形区画があり、その下部中央に竪穴式石室(主室)、さらに
東寄りにいま一つの竪穴式石室(副室)が並列して設けられていた。主室は
すでに盗掘されていたが、銅鏡片、玉類、石製品、刀剣類などが出土した。
副室は未盗掘で、玉杖のほか、膨大な量の各種武器・農工具類などが納められて
おり、副葬品専用の施設と考えられている。」 >>834
>>835
前方後円墳ね。
なんでもいいや
200メートル以上の古墳から出土した副葬品のうち
桜井茶臼山古墳たった一つを除いた
他の古墳の副葬品で
特筆すべき威信材はありますかね? >>833
>八坂神社があるから北部九州倭王=アマテラスに任命されたスサノオ東征だろう。
また、低脳がバカなことを書いている
通常、桜井茶臼山、メスリ山の二つの巨大古墳は、オオビコの一族の墳墓だろうと
想定されている 200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 桜井茶臼山は銅鏡いっぱい
メスリ山は北部九州系の内行花文鏡で、鉄製武器
その2つだけを連呼する
いつものキナイコシだが。。。 一方
福岡県の副葬品は
金銀財宝ザックザク
東アジアの文化振興にのっとって、馬具も普及
>ttp://www.netpia.jp/history/kofun_fukuoka.htm >>840
>桜井茶臼山古墳たった一つを除いた
たった一つってどれのことだ?
桜井茶臼山よりも、メスリ山から出た玉杖の方を重視するのが普通だが?
>>834で引用したように、初期大和の大王墓候補となる6つの200メートル超の古墳のうち
4つが陵墓指定されてるんだから、他は発掘できないよ 200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 >>837
卑弥呼より後世の古墳の話を持ち出しても意味がない。
畿内説の話は後世の話ばかり。 >>841
>想定されている
勝手に想定しているだけだろ。
根拠を示せ。 >>847
3世紀以前の話を持ち出しても何も無いから、
と思っていたが、
4世紀以降もこれいかに
200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 一方
福岡県の副葬品は
金銀財宝ザックザク
東アジアの文化振興にのっとって、馬具も普及
>ttp://www.netpia.jp/history/kofun_fukuoka.htm >>845
>4つが陵墓指定されてるんだから、他は発掘できないよ
どうせ年代も怪しいから、別に発掘しなくてもいいよ。 いやいや掘りまくれよw
200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 >>851
>どうせ年代も怪しいから、別に発掘しなくてもいいよ。
発掘されたら九州説終了だからね! 200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 >>856
三国志東夷伝そのままだな。
東の倭種とも区別されている。 >>855
>24は陵墓指定されておらず
その24基は具体的にどれ?
そもそも200メートル超の古墳は40基ある
またいい加減なデータしか見てないんだろ? >>858
>キナイコシ連呼の句読点男が
それだと長いから、カギカッコ付きの「キナイコシ」がおすすめ 200メートル以上の前方後円墳40のうち
31は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちキナイコシが自信をもって呈示できるのはたった2つ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 重要な指摘だと思われるが。
メスリ山もホケノ山も内行花文鏡+鉄製武器だな。 >>864
>メスリ山もホケノ山も内行花文鏡+鉄製武器だな。
いずれにせよ、「メスリ山もホケノ山」も倭国(阿波)の豪族墓だな。 @阿波 >>837
なぜ平原鏡を外す必要がある?
恣意的な取捨選択だな >>837
倭国(阿波)の有力豪族達。 恐るべし。 @阿波 >>868、>>869
だ・か・ら、平原1号墓の内行花文鏡がその後の「古墳文化」に
引き継がれてるっていう「寝言」をいうやつがいるから、
「古墳時代の大型鏡の実状を確認」してるんだよ ちゃんと内行花文鏡が出ているのだから言いがかりみたいなもの。
それに比べたら三角縁神獣鏡の方が伝統のないただの流行。 というか、三角縁が一枚もないじゃん。
その時点で畿内説は崩壊じゃん。
筑紫の銅鏡文化や銅矛文化が全国を統一したよね。 >>873
>筑紫の銅鏡文化や銅矛文化が全国を統一したよね。
それは、ない。 @阿波 >>871
畿内の弥生文化は銅鐸だろ。カスリもしてないぞ
こういうのは比較の問題。 本場中国の内行花文鏡は四葉から蝙蝠紐座へと進化しておるのだぞ。
日本の内行花文鏡は平原の八葉を頂点にして
蝙蝠紐座に移行することは無かった。
引き継がれていることは明らか。 >>871
引き継がれてるどころか、平原は奇形化した異端なのにね
誰も引き継いでない 八葉超大型が最高位ということだな。
倭国王のみ所持できる。
四葉がその他王族だろう。
蝙蝠紐座も日本へもたらされたが、
既に平原のが最高権威として確立されていたから採用されなかったわけだな。 >>872
>ちゃんと内行花文鏡が出ているのだから言いがかりみたいなもの。
内行花文鏡「だけ」が特別な鏡じゃないってこと
要するにone of themなんだよ
平原1号墓出土鏡が頂点で、大和の古墳文化でも
「内行花文鏡が最重要」ってのが否定されている訳だ >>875
>畿内の弥生文化は銅鐸だろ。カスリもしてないぞ
銅鐸の一斉埋納は、畿内第V様式に入る前
そこで社会文化の刷新がある
その畿内第V様式の国に、周りが乗ることで成立したのが卑弥呼の共立
その体制変更に伴って、土器様式も庄内式へ進む
時系列を理解しような なるほど
畿内第V様式に入る前に銅鐸キナイコシが一斉に征服されたわけだな。 >>872
>それに比べたら三角縁神獣鏡の方が伝統のないただの流行。
三角縁神獣鏡は、魏朝との交流の記念鏡だよ
そして、その流行の末端に九州も位置づけられているのに何を言ってるんだ?
九州で古墳時代まで大型内行花文鏡を大事にしている場所があったら教えてくれw >>882
>その畿内第V様式の国に、周りが乗ることで成立したのが卑弥呼の共立
卑弥呼と関係ない動きなんだろう。
根拠なく卑弥呼と結び受けている。 >>883
「キナイコシ」さん、こんばんは(定型句)
この、畿内第V様式に移るときに、他の地域でも大きな社会変動があり、
広域の洪水に言及する人もいるけれど、大地震と津波を想定する人もいる
人間社会の内部だけが原因でもないのかも >>886
キナイコシさん、あなたの書くことが根拠のない妄想ばかりですね。 >>882
>銅鐸の一斉埋納は、畿内第V様式に入る前
そこで社会文化の刷新がある
倭国(阿波)を発った忌部一族が倭国(阿波)の最新文化を全国へ広めていったからだよ。 @阿波 例えば方格規矩鏡なども南部(呉領とする)の鏡だが、
漢新の領土内での話であり、洛陽政権が作らせた鏡と言えるだろう。
だが神獣鏡が発展したのは漢が滅亡した動乱期であり、
戦乱を避けて呉領へ逃げた鏡師たちが政府の統制なしに伸びやかに創作した。
同じ頃に日本まで亡命した鏡師もいたと思われる。
三角は日本でしか出土していない。
農民が畑で見つけた一枚とやらは考古学的には未確認でカウントできない。
(金印は世に一つ。
(三角は世に数百枚。意味合いが全く異なる。
それを指摘された時に反論で神獣鏡そのものは中国で出ていると言うが、
それが呉領であることは説ではなく事実。
洛陽は董卓によって破壊されて一旦廃墟となり、
魏が洛陽を首都に戻すのは220年。
真面目に考えれば卑弥呼に贈るのは
当時のつたない魏洛陽鏡師が作っていた方格規矩鏡100枚
(+戦乱を経てわずかに残っていれば内行花文系の前漢鏡後漢鏡少々)
洛陽晋墓をみればわかるように、魏鏡は方格規矩鏡→位至三公鏡で考えれば十分。
あとは鉄鏡。 >>887
「キナイコシ」さん、おはよう(定型句)
>あなたの書くことが根拠のない妄想ばかりですね。
何をもってそう思うのか「具体的に指摘」してくれ、って
何度言ってもできないねぇ
まあ、「キナイコシ」さんは中身すかすかで、
討論する実力がないからしょうがないか >>894
>この、畿内第V様式に移るときに、他の地域でも大きな社会変動があり、
>広域の洪水に言及する人もいるけれど、大地震と津波を想定する人もいる
>人間社会の内部だけが原因でもないのかも
はい、ここの根拠を示して。
書きっぱなしでなんの根拠もない。 >>896
>書きっぱなしでなんの根拠もない。
相変わらず「キナイコシ」さんは、文句ばっかり
しかも自分の情報不足がその基本だからねぇ
いろんな情報を柔軟に広く求めることができる人なら
今どき伊都国説にはならないのは分かってるけど
はい、この辺が根拠だよ
ただ、今のところ一つの仮説に過ぎないけどね
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/49taguchi6.html
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/47taguchi4.html >>898
>単なる憶測以上に出るもんじゃないね。
しかし、かなりの広域で、大きな社会変動が見られる
何らかの「物理的」な社会の外側からの要因を想定することは十分に意味がある
>あほらし
そうだね、「内行花文鏡が太陽に見えるから、卑弥呼の墓」なんていうのは、
ただの主観だけしかなくて本当にバカらしいと思うよ! >>901
畿内説は根拠なく言いたてているだけなんだよ。 >>901
なになに?
地震か洪水で畿内土民は銅鐸祭祀を放棄した(笑)
こう言いたいわけ? >>902
>畿内説は根拠なく言いたてているだけなんだよ
西日本各地で弥生後期に水害の跡が見られるのは事実だよ
九州説みたいに主観を根拠にしているのとは訳が違う そりゃ、奈良も大阪も京都も低湿地帯か氾濫原だもの。
そんなところに王都があったわけないだろ。
大陸ともやりとりしにくいし。 そこで、農耕の神様(大宜都比売神=御食津神=豊受大神)の登場となり、そして全国展開をしていくこととなる。 @阿波
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水により、灌漑水田稲作は壊滅となる。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 畿内説自身が、畿内が氾濫原であると言い張って壮大に自爆したスレはここですか? >>908
飛鳥奈良時代に平安時代まで否定する超絶非常識見解では? >>910
>畿内説自身が、畿内が氾濫原であると言い張って壮大に自爆したスレはここですか?
今年の西日本大水害級の水害が弥生社会であったら、それまでの社会秩序は
再構築を余儀なくされるだろう
でも、今回水害にあったところが、氾濫原と言えるか?
まあ、九州説はバカばっかりってことで 社会秩序が変わったら、自然と銅鐸から銅鏡に変わるの?
ほんと、畿内説はダニだな 常識で考えて、被災地が遠征して繁栄していた筑紫を大率の監視下に置けるのか(これが畿内説)?
筑紫の支援のもとで復興を目指すしかないだろう。
銅鐸を捨てても稲作先進地域の社会の仕組みを取り入れて生き抜くだろう。 氾濫原は大阪のことかな?
大河である淀川が複雑に分岐して多くの砂州を作り、しばしば氾濫した土地だろう。
太閤の時代に治水が進んで繁栄した。 >>914
>常識で考えて、被災地が遠征して繁栄していた筑紫を大率の監視下に置けるのか(これが畿内説)?
本当に、時系列ってのが分からないんだな
災害とそれに伴う社会の再構築は、畿内第V様式の国が一つにまとまる契機
卑弥呼の共立は、次の庄内土器への移行の頃
災害にあった翌年に、一大率を派遣するわけじゃないよ もはや妄想を並べ立ててあるだけだろ。
西暦何年に災害があったんだ? >>917
>もはや妄想を並べ立ててあるだけだろ。
伊都国説は確かにそうだな
九州説の妄想一覧
・短里とかいう架空の単位を捏造
・1里あたりの距離は区間によってバラバラであるにもかかわらず、短里とやらがすべてに当てはまると強弁
・末慮国から伊都国への方角違いを呼子を起点にして正しいとする意味不明な詭弁
・末慮国から伊都国への距離も末慮国の入り口から伊都国の入り口までの距離だという珍解釈
(そんな珍解釈をすると往路と復路で距離が異なってしまう矛盾があることに気づかない低脳ぶり)
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
・陸行一月を陸行一日に改竄 >>917
>西暦何年に災害があったんだ?
何度も書いているが、畿内第V様式へと移るころだよ
いわゆる弥生時代後期に入るタイミングというかその契機と考えるなら
その直前ということになる
まあ、この辺は絶対編年がないと言えばないけれど、標準的には丁度
西暦1世紀に入るころ
弥生時代の集落論 藤田三郎
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/taguchi/jishin/karako-hensen.png
弥生中期を終わらせた巨大地震
http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/49taguchi6.html >>919
土器がまとまったら国が一つにまとまったわけでもないでしょうに。
結局その洪水後も畿内は銅鐸民族(笑)のままでしょ。
その後に断絶したのを誤魔化そうとしても無理。 >>920
>結局その洪水後も畿内は銅鐸民族(笑)のままでしょ。
いや、銅鐸の廃絶は、この洪水後の、弥生後期になる段階だよ
銅鐸は、他の遺物と供伴しない出土例が多いため、その埋納時期が不明扱いの場合が多いけれど、
集落の消長と合わせて見ると、この畿内第V様式の画期に合わせて銅鐸祭祀が終了したと見るのが妥当
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >>920
>土器がまとまったら国が一つにまとまったわけでもないでしょうに。
ばらばらの国が、同一の土器を使う理由として、>>920はどんなものを想定してるんだ? 土器に関しては流行ともとれるよ
庶民での大流行だね
北部九州はあらゆる文化を受容して、発展させてきた地域だし >>924
>土器に関しては流行ともとれるよ
何言ってんの? 忌部一族が「東阿波型土器」の製作工法を全国に広めたからだろ! @阿波 >>923
>リンク先にお前の妄想が書いてない件
日本語、読めますか?
「また、M–3群の唐古 ・ 鍵遺跡では銅鐸をはじめとする
青銅器生産の痕跡が明らかであり、銅鐸を保有する祭祀
集団としての中核的な集落に成長していることが想定可
能である。拠点集落を中心に銅鐸形土製品が出土するの
も多くはこの時期であり、典型的拠点集落が銅鐸祭祀の
イベント祭場でもあったことを彷彿させる。なお、中期
2の最期には外縁付鈕銅鐸や扁平鈕式銅鐸の埋納が集中
して行われたと考えられる。さきに示した中期1後半以
降の各群保有の銅鐸に加え、この時期には、唐古 ・ 鍵遺
跡(M–3群)でも扁平鈕式銅鐸の破砕片が出土している
ことや多遺跡での深樋式銅剣切先の埋納を重視すれば、
他の拠点集落を含め、この時期に埋納行為があったこと
を否定できない。」 >>924
>土器に関しては流行ともとれるよ
>庶民での大流行だね
流行に乗り遅れる地域が領域内に「ない」理由は? >>926
何言ってんの? その集落は忌部一族が進出した痕跡だろ! @阿波 九州説の特徴
貧しい読解力
乏しい知識
人間性の欠如 >>926
聞く銅鐸を埋めて、見る銅鐸に変遷しただけ。 突線鈕式銅鐸が埋納されたのもこの頃である。N–3 群 の大福遺跡では集落北東隅に造営された方形周溝墓の溝 堆積層を切って埋納坑が設けられ、突線鈕I式銅鐸が埋 納されていた。 矢野遺跡の最新型式も小屋掛けまでして丁重に集落内に埋納されてるよ。 倭国(阿波)は不思議な国。 @阿波
矢野銅鐸の正式名称は鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る「突線袈裟襷文(とっせんけさだすきもん)銅鐸」で、
銅鐸の中でも最新型式。国内でも最大級。弥生時代後期に作られたとみられている。 >>919
それでは3世紀の卑弥呼の時代と隔たりがあるし、纒向とも隔たりがある。 いやー、実に見事な「見る銅鐸」だなー
http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/photos/sakuraiarchaeol/200911kyoto_174.html
奈良盆地の拠点集落の大半が「遺構 ・ 遺物の分布のうえ で確実に古墳時代初頭まで継続していた」との言説41)は、
集落論としての実像から乖離した単なる言葉の遊びでし かない。拠点集落は基本的に消長を遂げるのである。
突線鈕式銅鐸が埋納されたのもこの頃である。N–3 群 の大福遺跡では集落北東隅に造営された方形周溝墓の溝 堆積層を切って埋納坑が設けられ、突線鈕I式銅鐸が埋 納されていた。
周溝の一次堆積は小形長頸壷などから第 VI –2 様式から庄内0式の可能性が高く、埋納は庄内0 式であったと考えられる。
大福では内濠(区)内部の隅 円方形区画環濠からもこの時期の突線鈕II~IV式相当の 銅鐸身部破片が鋳造関連遺物とともに出土している。ま さに大福拠点集落の消長時期である。 この畿内第V様式の画期に合わせて銅鐸祭祀が終了したと見るのが妥当 (笑)
wwww 都合が悪くなるとだんまりか。
こんな恥ずかしいやつ見たことないわ。
まじ死ねば?? >>938
>敵前逃亡の畿内説
敵なんだww
歴史の真実とか関係なく>>938は畿内説を敵認定して勝つのが目的なんだw
こっちは伊都国説は敵だと思ってないよ
バカだなぁとは思ってるけどw バカなのは、
>この畿内第V様式の画期に合わせて銅鐸祭祀が終了したと見るのが妥当 (笑)
とか言っちゃう人ってことで、確定済み。 いやあ、1号墓と2号墓と合わせて測れば短歩で百歩になるって言ってた人には負けるだろう?
短歩があるって力説してたなぁw
しかも、実際の図面で測られて、それでも短歩の百歩にすら足りないことを
突きつけられたら消えたな
平原1号墓は、径十歩に満たない
数値だからごまかしも利かないし、いい加減にあきらめればいいのに
原田大六氏が、平原1号墓を卑弥呼の墓でありそれが天照大神という神として記憶されたと
考えたのは、記紀の系譜、世代数を妥当だとした上での推論であって、
卑弥呼が纒向遺跡の頃、つまり崇神天皇の前後の時代となれば通用しない
お鏡さんですら、卑弥呼とは言わないのに、論理的思考ができない人は、
修正ができないからバカだなぁって思われるんだよ >>942
原田は畿内説だよ
読んでもないのモロバレ >>943
平原1号墓被葬者が卑弥呼で、出土した大鏡が八咫鏡って言い出したのが
原田大六氏だよ
東遷説を畿内説と言い張るのはよくない 大六が言ったのは、
卑弥呼は大和の箸墓で、平原1号墓被葬者は八咫鏡の天照大御神、と使い分けてたな。 >>945
>卑弥呼は大和の箸墓
そうだっけ? そこはうろ覚えだから、突っ張らないよ >>946
昭和40年ころ、大六は、箸墓説で著作デビューした。
そうとうな勢いだったな。
その心は、だから大六の故郷の糸島こそ伊都国で間違いございません、といたかったわけだ。
で、畿内大和の学者連中と糸島市役所の小役人があおられて、ご存知、近年に至る大騒動になったわけだ。 >>947
ふ〜ん。 お墓論争してたんだね。 今から思えば・・・ @阿波 >>947
九州も畿内もお墓ぐらいしか根拠建て出来るものがないからね。 無理も無いがw @阿波 大きな墓があるから卑弥呼だ、邪馬台国だ、大和だ、というのは本末転倒。
墓だけなら、首を持ち運んで、遠方にでも作れる。
正しくは、倭国大乱時代のクニの存在を物語る「環壕官衙」、今でいう官庁街が出土してこそ、
どうやらここに大きなクニがあったらしい・・・、と言えるのだ。 >>950
>大きな墓があるから卑弥呼だ、邪馬台国だ、大和だ、というのは本末転倒。
大きな墓を作るには、その造営の労働力を動員できる権威・権力が必要
そして、同一の葬送祭祀=前方後円墳祭祀を行う範囲で、最大の墳墓を作る地域が、
その葬送祭祀を共通に執り行う範囲の盟主とみなせる
その「葬送祭祀を共通に執り行う範囲」が倭国と重なるのであれば、
その盟主が倭国の王であるとみなすのが最も蓋然性が高い
これだけの単純な論理なんだがね >>951
ならば、それにふさわしい最大規模の環濠官衙が存在したであろう。
それをしめしてくれ。
これだけの単純な論理なんだがね >>950
>倭国大乱時代のクニの存在を物語る「環壕官衙」
これが妄想ではないという根拠は?
とりあえずはこれくらい拠点集落遺跡があるけどね
多くは環濠を伴う遺跡
竹内遺跡、観音寺遺跡、鴨都波遺跡、中曽司遺跡、新沢一町遺跡、
四分遺跡、多遺跡、坪井遺跡、大福遺跡、保津・宮古遺跡、唐子・鍵遺跡、
芝遺跡、平等坊・岩室遺跡、和邇・森本遺跡、森本・窪之庄遺跡、東九条遺跡、
大安寺西遺跡、佐紀遺跡、 >>952
環濠官衙なんてものが存在するべきだという根拠は何なんだ? >>953
>多くは環濠を伴う遺跡
環濠集落では古過ぎ。 @阿波 3世紀になっても畿内に高地性集落がみられるのはなぜ? 時代は倭国大乱のころだった
卑弥呼の警護は、柵を巡らし、兵士を配置して厳重を極めたと書いてあるだろ
読んでもいないのかww
で、無銘墓から出た副葬品は、発掘者の所有物になるのか
そうではないだろう、あくまで、埋葬された人物のもち物だ
それを、わが物のごとく講釈してみせるのは、ただの墓あらしの副葬品自慢であろうな >>956
平地が湿地帯だからじゃないの? 大和忌部さんも苦労したんだ。 @阿波 >>951
>大きな墓を作るには、その造営の労働力を動員できる権威・権力が必要
動員力だけでは倭国と別にそんな集団もいたべというだけのこと
>その葬送祭祀を共通に執り行う範囲の盟主とみなせる
勝手論理 >>959
>動員力だけでは倭国と別にそんな集団もいたべというだけのこと
平原1号墓程度の方形周溝墓は、成人男子が10人もいれば1週間程度で作れるだろう
倭王の権威も何もないなw
動員力、低すぎだろう?
出雲の小物の墓よりも小さいぞ
以前に、平原1号墓の周溝が埋まってから土壙墓が作られたのを、周溝を掘ってから
40年放置したからだとかいったバカがいたが、10日で作れるものを40年前に
準備するはずがないだろうに >>959
>勝手論理
マイルール、コミュ障の次は、「勝手論理」が>>959のマイブームなのかな?wwww >>959
>動員力だけでは倭国と別にそんな集団もいたべというだけのこと
北部九州が倭王を僭称していたとして、魏から朝貢に対する答礼使(除正使)が
来たときに、北部九州よりでかい勢力(動員力)の地域があったら、そっちを倭王にするよ
倭王の除正は、魏の皇帝の権威に関わることだからね >>964
>勝手論理
マイルール、コミュ障の次は、「勝手論理」が>>959のマイブームなのかな?wwww 根拠なし、論理なし、具体的な指摘なしの一言レスは、
学問板では無意味だって、何度言えば分かるんだろうね
まあ、能力的に足りてないんだろうけれど >>967
九州説は常に、一言レスで混ぜっ返すだけ、になるなww >>963
>来たときに、北部九州よりでかい勢力(動員力)の地域があったら、そっちを倭王にするよ
伊都までしか来てないから、そんなものは目にしていないんだよ。 >>969
>伊都までしか来てないから、そんなものは目にしていないんだよ。
常にそうやって、本州を何とか切り離そうとするけれど、
出雲の人間も、吉備の人間も、大和の人間も北部九州まで来てる
目にしなくても、耳に入るだろ?
それに、九州説が何とかごまかそうとする記述
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
を、無理読みしない限り、「伊都までしか来ていない」などというのはただの戯言
↑
具体的な根拠と指摘w >>970
>勝手論理も無意味だよ
かって論理だと判断する理由を「具体的に」示してね!
本当に>>970は能力が足りないw >>972
日程が書いてれば行ったことになるのか?
頭おかしいんじゃね? >>973
>日程が書いてれば行ったことになるのか?
日程が書いてあって、そこが女王之所都と書いてある
魏皇帝の詔書は、女王に渡すべきものであり、魏使(除正使)が届けるべきもの
途中までしか行かず、倭人に託すってのはない
という理由で、魏使は邪馬台国まで行ったと考えるのが当然
↑
具体的な根拠 >>973
>頭おかしいんじゃね?
こういう文句を書かないと気が済まない辺りは、
学問板での議論にたえる能力のなさを示してるよな
↑
具体的な指摘 >>974
行って当然なら行ったことになるのか?
おめでたいね マルコポーロの東方見聞録でもあるまいに、
行った行かなかったは無駄な議論。
そもそも、この伝の下書きは、206年ころに設置された帯方郡のお役人が、
その初仕事として、数年かけてとりまとめた倭地・倭人・倭国調査報告書。
日本でいえば、奈良時代の記紀の下書きになった諸国の「風土記」みたいな位置づけさ。 >>976
>行って当然なら行ったことになるのか?
>>977
>マルコポーロの東方見聞録でもあるまいに、
魏使の役目は、倭国の朝貢に対する答礼使であり、
親魏倭王の金印を携えてきた除正使でもある
ただの見聞をしに来た訳じゃないんだよ
↑
具体的な指摘
その辺りの理解が欠けてるんだよな
>おめでたいね
やっぱり、こういう文句を書かないと気が済まない辺りは、
学問板での議論にたえる能力のなさを示してるよな
↑
具体的な指摘 >>971
>目にしなくても、耳に入るだろ?
鉄器も硯もない文明開化以前の墓だけ大きな倭種の話を聞いて、彼らを倭王にしようと思うか?
思わないよ。
>>974
>という理由で、魏使は邪馬台国まで行ったと考えるのが当然
もちろんその通り。
そして郡使は伊都までしか来ていない。
つまり邪馬台国は伊都。 >>951
高いからといって冊封された倭王である根拠がないから成立せんよ。 >>978
>今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、装封付帯方太守假授
>正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王、
おまい、倭人伝の原文を読んでないだろ、読んでもよみとばしてんだろ
やってきたのは、魏の代理人の帯方郡太守が遣わしたそのまた下っ端の小役人だったのさ 東南陸行五百里、到伊都国。。。郡使往来常所駐。
魏使なる者が観光旅行にやって来たのではないぞ。
伊都国には、帯方郡の駐在所があったと書いてある
魏からすれば、伊都国を第二の帯方郡にして、倭地・倭人・倭国を支配すべく、諸処画策していたのであろう。 >>974
その女王はトヨのこと、卑弥呼の所都じゃないんだよね、残念! >>980
>高いからといって冊封された倭王である根拠がないから成立せんよ。
それで言ったら、九州にはそもそも倭王がいると想定できる根拠が全くないじゃないかw
伊都国説が推す平原1号墓が卑弥呼の墓であるという仮説を比定する根拠はたくさんあるのに いやいや、弥生王墓は筑紫にしかないよ。
その考古学的事実を無視しないでね! >>983
>その女王はトヨのこと、卑弥呼の所都じゃないんだよね、残念!
それを言う人がいるのは知ってるけど、普通に読んだらそうは読めない
後漢書では、倭王は女王じゃないけれど、其大倭王居邪馬臺國と書かれている
卑弥呼も台与も含め、倭王の都は邪馬台国なんだよ >>986
>いやいや、弥生王墓は筑紫にしかないよ。
それ、全部古いんだって!
そして平原1号墓は倭王の墓ではない >>982
郡使「往来」常所駐、だよ
伊都国に来て、そこで止まってその先に行かない訳じゃなくて、
往来のときに素通りはしないと書いてあるだけ >>979
>つまり邪馬台国は伊都。
いくら言い張っても、国の中に別の国があるというのは二重帳簿詐欺 >>990
邪馬台国はエリアの呼称
伊都国は国邑の呼称 >>989
>往来のときに素通りはしないと書いてあるだけ
誤読 >>992
>邪馬台国はエリアの呼称
魏志倭人伝を通読してごらん
どこにも「国」と「エリア」を区別する書き方はされてないから
邪馬台国も、奴国、伊都国、投馬国、斯馬國、と同じ書き方をされている
同じ立場の国だよ
こういうのこそ、勝手解釈・勝手論理だろ?
何の理由も根拠もなく、自説に都合に合わせた結論ありきの無理読みなんだから
>誤読
理由なし根拠なしの一言レスは、反論一つできません、っていう意味だな
奴国や不彌國にも行ってるのに、伊都国までしか来てないとか、いい加減もいいとこ >>988
>それ、全部古いんだって!
どう古い?
平原遺跡は耳璫から3世紀以降だと年代比定できるけど? 倭人伝に書かれているように
糸島に、女王を住まわせる巨大環濠都市でもあったのか、教えてくれ。 >>995
>邪馬台国と投馬国はカテゴリーが違う。
奴国 二万戸
投馬国 五万戸
邪馬台国 七万戸
並列で書かれてるよな
カテゴリーが違うなんて、どこから出て来たんだかw
「女王国」と、邪馬台国、投馬国、奴国はカテゴリーが異なるが、
邪馬台国は、その所在地の国名で、投馬国、奴国と並列だよ >>996
>平原遺跡は耳璫から3世紀以降だと年代比定できるけど?
耳璫一つに頼って、歴史の流れも見ずに年代比定するのも問題だが、
その前に、平原1号墓はしょぼすぎて王墓ではない 意味のない一言スレで、スレを無駄遣いするから、これで終わりだな
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