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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part14
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0001九州王垢版2018/08/23(木) 22:19:59.90
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525790222/
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
0002日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 22:20:29.35
世有王

@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味

A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味

C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切

以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。
0003日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 22:20:55.02
2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。

全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。

水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。
0004九州王垢版2018/08/23(木) 22:21:53.47
【里程】
漢代に楽浪郡を支配していた公孫氏が独自に制定したの里(短里)で実測
日本側の地名は漢代の地名(倭国の中に、末蘆国、伊都国、奴国・・・
魏が公孫氏の楽浪郡を滅ぼして押収した資料に短里使用が使用されており
これが魏略や三国志魏書の参考資料となる。

【日程】
魏代に魏使が出張日誌に記録
日本側の地名は魏代の地名(邪馬壹国、狗奴国、投馬国、などは魏代に新登場
この出張日誌が三国志魏書の参考資料に加わる。

※公孫淵は自立を目指し燕王を自称し独自の年号を制定しており、度量衡も独自のものを制定したと考えられる
短里も公孫淵が制定したものであろう。
0005日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 23:13:38.59
都を中心に場所を考えるのではなく王を中心に国家を考えれば、邪馬台国の謎は
全てとける。むしろ倭人たちの使者は「おまえたちの国の都はどこにある」と問われて
困惑したのではないか。日本にはそのような統治システムなどなく、どこかが国家の
中心などという概念が存在しなかったからである。だから自分たち使者がどのような
経路をたどってここまで来たかを述べ、それを筆記官が解釈して、中国流の概念で
解説した。こういうことであろう。
0006日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 23:19:24.84
ヘブライ人たちはモーセに導かれるまでは自らの都市という概念をもたない民族であった。
ただ個々の部族が指導者や説教者により指導されるばかりで、一方で明らかな統一性を
保持していた。和人についても同じことであり、倭人についても同じことであり、魏の官人に
問われて初めて国家の都市という概念にみずからを合わせる必要をもとめられ、そして
困惑した。この可能性が高い。
0007日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 23:35:03.06
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
0008日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 23:35:30.19
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0009日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 23:36:13.10
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0010日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 23:36:34.68
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0011日本@名無史さん垢版2018/08/24(金) 21:35:22.58
>>1 乙(まあ伊都=邪馬壱はありえんが
卑弥呼さんの都をわえより先に見つけたんは褒めてもええです
つうか無人スレやね?
0012日本@名無史さん垢版2018/08/24(金) 21:41:07.52
無限不毛ループのどこぞよりはまし?

お題

ミラーはなぜに割られて副葬されたるや?
0013日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 11:16:40.51
方々のスレで、伊都国説の根拠とされていたものが全部否定されたからなぁ

今さら伊都国説っていっても人も集まらないだろ
無人スレもやむなし
0014日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 12:08:07.98
伊都国を否定した主張が全部論破されて
それでも見えなかったかのように繰り返し主張し続けて
放置されていたのは見てたがな。
0015日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 12:09:09.69
畿内説っていつもそうだからね。
0016日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 12:51:06.24
>>14>>15
>伊都国を否定した主張が全部論破されて
>それでも見えなかったかのように繰り返し主張し続けて

>畿内説っていつもそうだからね。

ミラーリング
自分への批判を、相手のこととして言い返すだけの簡単なお仕事
詭弁使いの技法の初歩のひとつ
0017日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 12:52:52.56
伊都国説の否定はこれだけでOK

邪馬台国と伊都国は別の国として描かれている
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
0018日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 12:54:08.37
反論は、
「具体的な論点」について、
「具体的な根拠・理由」を示さなければ無意味だよ
0019日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 13:06:27.28
>>17
別の国という読み方が二重帳簿詐欺?
広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提だと思うが?
0020日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 13:56:53.41
>>19
>広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提だと思うが?

そんな前提はない
奴国、出雲国、ヤマト国の3つが、倭国内の大国として特記されているだけ
0021日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 13:58:29.39
>>19
>広域の国名と国邑の名前の二重表記

そういう主張をするなら、
広域の国名として何があって、国邑の名前がどれなのか、
具体的に示せなければ意味がない
0022日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 14:36:05.41
で、具体的に書いてね!っていうと、九州説は消える

この繰り返し
0023日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 15:17:18.73
邪馬台国の中の伊都国と奴国だよね。
0025日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 16:37:34.81
>邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
          ↑
倭人伝では、これを「倭国」と定義しておる。

それにテンプレがくどしい、いや、たどたどしいな。
ま、糸島は高麗人の植民地だったから、やむを得ないかもしれぬが・・・。
0026日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 16:38:33.82
倭とヤマトは同意だよ。
0027日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 16:51:34.33
大和・・・ヤマト
倭 ・・・ヤマト
大倭・・・ヤマタイ
邪馬台国・・・ヤマタイ国
0028日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 17:39:56.44
>>21
投馬國と邪馬壹國が韓での馬韓、辰韓、弁韓に相当する
狗奴國も馬韓、辰韓、弁韓に相当するものでしょう
その他の伊都國や奴國などは国邑ですね。
>>25
倭人が韓に進出していたんですよ。
0029日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 22:00:37.93
>>25
>倭人伝では、これを「倭国」と定義しておる。

それだと事実上、倭国=邪馬壹國だよね?

それだと、邪馬壹國女王之所都が意味を持たないことになる
つまり無理な読み方なんだよ

国を重ねるのは二重帳簿詐欺
0030日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 22:06:44.45
>>28
>投馬國と邪馬壹國が韓での馬韓、辰韓、弁韓に相当する
>狗奴國も馬韓、辰韓、弁韓に相当するものでしょう
>その他の伊都國や奴國などは国邑ですね。

狗奴国、投馬国の国邑は? どうして書かれていないの?

伊都国、奴国が国邑なら、どうして伊都国に女王之所都と書いてないの? おかしいでしょ?

奴国は戸数2万餘戸なのに、どうして馬韓、辰韓、弁韓に相当しないの?

邪馬壹國の人口、7万餘戸が説明できないでしょ?
説明つかないことだらけでしょ?
旅程記事も投馬国が矛盾する

「広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提」はない

国を重ねるのは二重帳簿詐欺
0031日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 23:20:00.46
>>29
>邪馬壹國女王之所都
これは女王の支配下にある投馬國と邪馬壹國の内邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味


>>30
>狗奴国、投馬国の国邑は? どうして書かれていないの?
狗奴国は女王に敵対しているので詳細は不明
投馬国の国邑としては狗邪韓国

>どうして伊都国に女王之所都と書いてないの?
伊都国には「世有王」と書かれてる
「魏の世、倭王が居た」とね。

>奴国は戸数2万餘戸なのに、どうして馬韓、辰韓、弁韓に相当しないの?
馬韓は10万戸、辰韓、弁韓は4〜5万戸
奴国よりは遥かに大きい
馬韓での最大の国邑も10000戸以上の規模

>邪馬壹國の人口、7万餘戸が説明できないでしょ?
北部九州26か国の国邑ですから7万戸は説明出来ます。

>旅程記事も投馬国が矛盾する。
水行20日で7000里の場所が投馬国。
0032日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 23:58:15.41
>>30
>>28
>>投馬國と邪馬壹國が韓での馬韓、辰韓、弁韓に相当する
>>狗奴國も馬韓、辰韓、弁韓に相当するものでしょう
>>その他の伊都國や奴國などは国邑ですね。

>狗奴国、投馬国の国邑は? どうして書かれていないの?

どちらも郡使は行っていないから、国邑まではわからないのです。

>伊都国、奴国が国邑なら、どうして伊都国に女王之所都と書いてないの? おかしいでしょ?

「世有王」と書いてあります。

>奴国は戸数2万餘戸なのに、どうして馬韓、辰韓、弁韓に相当しないの?

奴国はあくまでも国邑だから。
地域名とは区別します。

>邪馬壹國の人口、7万餘戸が説明できないでしょ?

国邑としての奴国の人口が、地域としての邪馬台国に含まれますよ。

>旅程記事も投馬国が矛盾する

投馬国が宮崎なら矛盾しませんよ。

>「広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提」はない
>国を重ねるのは二重帳簿詐欺

畿内だって、大和と畿内の二重帳簿でしょう。
まさか奈良盆地に七万戸あったなんて言いませんよね?
0033日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 06:56:21.50
ははん、このスレは、
九州説を引っ掻き回すために、畿内ヤマトン説が置いた「トロイの木馬」みたいなものだな
0035日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:23:49.89
>>31
>これは女王の支配下にある投馬國と邪馬壹國の内邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味

広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

投馬国や邪馬台国は馬韓や弁辰にあたるという主張だが、
弁辰の都は弁辰にあるって書いてあっても無意味だろ

投馬国は女王国に入るのか入らないのかどっちだと思ってるんだ?
0036日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:28:20.41
>>31
>投馬国の国邑としては狗邪韓国

狗邪韓国が投馬国という倭人国の国邑だったらだったら、狗邪倭国になるんじゃないか?
狗邪韓国は後の伽耶で、弁辰二十四国のうちの一つ、弁辰狗邪国だよ
0037日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:32:26.81
>>31
>「魏の世、倭王が居た」とね。

詭弁にもなってない
倭王なんて書いてないじゃないか
魏志倭人伝の旅程記事は、地理を示す記事でもある
伊都国に女王の都があるのに、そこで書かないでもっと大きな
括りである邪馬台国にある何て書いてたら情報量、むしろ0だろうに
0038日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:38:51.17
>>35
>弁辰の都は弁辰にあるって書いてあっても無意味だろ
その書き方だと女王の都は弁辰にあるでしょ

女王の支配下に投馬國と邪馬壹國があり
邪馬壹國は女王之所都
つまり邪馬壹國の中に女王の都が在る
投馬國の中にはない

>投馬国は女王国に入るのか入らないのかどっちだと思ってるんだ?
倭の一部なので投馬國も女王国とみなしていいでしょうね。

ここで投馬國を宮崎だと主張してる一人がいますが
私は投馬國は朝鮮半島南岸で、宮崎、鹿児島は狗奴國との立場です。
0039日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:39:15.71
>>31
>馬韓は10万戸、辰韓、弁韓は4〜5万戸
>奴国よりは遥かに大きい
>馬韓での最大の国邑も10000戸以上の規模

漢文の原文を読めない人ならそれで騙せるかもしれないけれど
魏志倭人伝の原文は
弁、辰韓、合二十四國。大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戶。
となっていて、弁辰韓合わせて四五万戸だ
半分なら二萬戸程度だろ?
十分に奴国の二萬餘戸は、辰韓、弁辰レベルだよ
0040日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:40:51.74
>>31
>北部九州26か国の国邑ですから7万戸は説明出来ます。

そのうち20国は道里戸数が分からないんだけど?
分からないものを足しても、分からないにしかならないだろ

インチキはダメだよ
0041日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:45:06.85
>>31
>水行20日で7000里の場所が投馬国。

だとすると、投馬国五萬餘戸は、弁、辰合わせたすべてということになる
>>39にも書いたとおり「弁、辰韓、合二十四國。大國四五千家、
小國六七百家、總四五萬戶。 」なんだから

だったら、この地域は、弁辰、辰韓、ではなく投馬国と書かれなきゃおかしいよな?
投馬国が弁辰、辰韓と並ぶ括りという詭弁は成り立たない
0042日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:46:05.79
>>36
倭人国の国邑であっても朝鮮半島に存在してたから狗邪韓国
狗邪韓国と弁辰狗邪国は名前が似ているだけで同じ国邑ではない
投馬国が後の任那。
>>37
伊都国に女王が居たと書いて更に邪馬壹國の中に女王の都が在ると書かれているですから
邪馬壹國の中に伊都国が在ることになりますよね。
0043日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:47:56.64
もう面倒になったからいいや

これまでに全部否定したことあるし

投馬国が半島南部を占めてたってのは噴飯物
半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ
0044日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:53:44.89
>>39
馬韓の説明では「大國萬餘家 小國數千家」とあり国邑の規模にはバラツキがあり
大きいサイズでは万クラスと書かれています。
>>40
「可七萬餘戸」と書かれています
可とは推測されるとの意味ですから
分からないものを推測して足したってことです。
0045日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:56:46.45
>>43
>半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ
半島南部に五萬戸が入らないなんて朝鮮はそんなに狭くはありませんよ。
0046日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:14:50.09
ははん、このスレは、
九州説を引っ掻き回すために、畿内ヤマトン説が仕掛け置いた「トロイの木馬」みたいなものだな
0047日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:18:15.99
>>41
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」とある通り
韓には馬韓、弁辰、辰韓が在り、その南に投馬国が在ったんですよ。
0048日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:19:24.64
>>35
>>31
>>これは女王の支配下にある投馬國と邪馬壹國の内邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味

>広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

伊都国と奴国なら十分に限定された地域です。

>投馬国は女王国に入るのか入らないのかどっちだと思ってるんだ?

入りませんよ。
0049日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:19:58.41
>>36
>>31
>>投馬国の国邑としては狗邪韓国

>狗邪韓国が投馬国という倭人国の国邑だったらだったら、狗邪倭国になるんじゃないか?
>狗邪韓国は後の伽耶で、弁辰二十四国のうちの一つ、弁辰狗邪国だよ

たぶんその通りです。
0050日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:22:09.35
>>39

一国邑で他の地域全体に匹敵するほど、福岡の女王国は栄えていたのですよ。
だから金印が福岡に与えられたわけです。
0051日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:23:00.54
>>41
>だったら、この地域は、弁辰、辰韓、ではなく投馬国と書かれなきゃおかしいよな?
>投馬国が弁辰、辰韓と並ぶ括りという詭弁は成り立たない

同意します。
投馬国は宮崎です。
0052日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:24:59.80
>>43
>投馬国が半島南部を占めてたってのは噴飯物
>半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ

これも同意します。
邪馬台国は福岡、投馬国は宮崎ですね。
0053日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:25:34.20
>>44
>「可七萬餘戸」と書かれています
>可とは推測されるとの意味ですから
>分からないものを推測して足したってことです。

ここも同意します。
0054日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:26:03.33
ははん、このスレは、
九州説を引っ掻き回すために、畿内ヤマトン説が仕掛け置いた「トロイの木馬」みたいなものだな

な訳あるか〜い!
0055九州王垢版2018/08/27(月) 08:33:39.28
>>52
8世紀でも宮崎県の人口は30,800〜47,700人と推定されている
五萬戸なんて無理ですよ。
0057日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:47:32.11
一戸平均、何人だったのかい
古代の男不足・通婚時代には、せいぜいがとこ、3人さ。
0058日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 08:52:00.06
>>57
8世紀段階でも人口が30,800〜47,700人だから一戸1人でも五萬戸にならないな
その500年前ですから宮崎県に投馬国をもっていくのは無理ですよね。
0059日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 09:19:51.45
発掘された遺跡数からの推定では、発掘事業の多寡によって左右されるので、値に意味がない。
せいぜい、最低数はこれだけという程度。
0060日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:09:33.03
>>52
>邪馬台国は福岡
筑前が85,400〜112,000人ですから、筑前は伊都国、奴国、不彌国で一杯ですね
邪馬壹國「可七萬餘戸」は福岡県だけでなは収まりきれないので北部九州全域ですね。

>>59
8世紀の推定ですから遺跡数からの推定ではなく9世紀等の文献からの推定ですよ。
0061日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:16:59.31
>>60
八世紀の数字は確かかもしれぬが、
その八世紀の数字と三世紀の数字との間に、
邪馬台国時代を推定するに足る信頼できる関係があるというのか
0062日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:34:11.72
>>61
北部九州では2600年前から稲作が行われていて3世紀だと既に1000年くらいは開発がなされてます
その後稲作で技術革新とか無いですから
九州では1300年前と1700年前で殆ど人口は変わらいと考えていいでしょうね。
0063日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 11:34:55.85
>>62
よろしい、大正解!
0064日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 12:43:58.09
で、朝鮮半島南部の推定人口は?
0065日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 13:29:22.72
>>64
馬韓10万戸・・・50万人
弁韓、辰韓5万戸・・・25万人
投馬国5万戸・・・25万人
韓国計20万戸・・・100万人
大韓民国2018年・・・5166万人

邪馬壹国7万戸・・・35万人
狗奴国?万戸・・・?万人
九州2018年・・・1286万人

現代は韓国が九州の4倍くらいの人口
邪馬壹国7万戸、35万人なら狗奴国0万戸としても韓は28万戸、140万人となる
投馬国5万戸・・・25万人を入れても韓の人口は少ないな。
0066日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 17:32:17.79
投馬国までと邪馬台国までを連続読みするなら、帯方郡から邪馬台国までのべ3ヶ月以上かかってしまうよ?
0067日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 18:44:35.14
>>66
「東南陸行五百里 到伊都國」と「東南至奴國百里」が
「陸行一月」に当たりますから600里に陸行一月は掛かりません
陸行600里なら陸行一日で十分なので「陸行一月」は「陸行一日」の誤記ということになる
従って帯方郡から邪馬壹國までの日程は31日ですね。
0068日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 18:47:46.15
邪馬壹國は肥後・山鹿に在った(女王之都は阿蘇・高千穂)

すなわち、まず唐津・末蘆国に上陸した。、
ここから東南陸行500里の佐賀川上に伊都国大環壕があった。(なおここから東南100里の方角に佐賀市の奴国が見える。)
この伊都国から東へ行くこと100里で神崎吉野ヶ里の不彌国に至った。
(ここから南の方角に投馬国がある。帯方郡からは水行20日)
(又、同じく南の方角へ行くと、邪馬台国・女王之所都に至る)

具体的には:
神崎・不彌国から川堤を下り、千代田〜諸冨辺りから、筑後川の干満遡上潮を利用して対岸の城島へ渡った(今の六五郎橋付近)。
ここから微高地伝いに県道15号線で八女市中心街の福島へ。
この福島の南で、岩礁地帯を利用して矢部川を渡った。
そして国道3号線、又は県道4号線伝いに南下を続け、熊本県山鹿市ウテナ(台)へ到った。

ここが邪馬台国の国衙(翰苑にいう邪馬嘉国)であった。
そしてさらに東南に山道行を続けることで、阿蘇・高千穂の火の神・卑弥呼の都砦に至ったのである。
以上唐津から、〆て陸行一か月。帯方郡からは水行十日陸行一月也。。。
0069日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 19:24:55.74
糸島は → 高麗人の植民地

久留米の高良山は → 高麗山
高良大社は → 高麗大社
その麓の高良台は → 高麗台
その台地の祇園山古墳は → 高麗人の墓場
0070日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:16:17.85
>>48
>伊都国と奴国なら十分に限定された地域です。

おいおい、すぐ上で余傍国20国も全部入れるって書いた直後にそれかい?
本当にいい加減だな

だから九州説は矛盾だらけで説にもなってないって言うんだよ
伊都国と奴国に限定するなら、戸数は二万千戸にしかならないぞ

五万戸近く足りない

適当すぎ
0071日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:20:19.51
>>58
>その500年前ですから宮崎県に投馬国をもっていくのは無理ですよね。

日本よりも寒くてその分米があまり穫れない半島南部に
投馬国を持っていくのはもっと無理
0072日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:23:00.81
>>66
>投馬国までと邪馬台国までを連続読みするなら、帯方郡から邪馬台国までのべ3ヶ月以上かかってしまうよ?

古代の旅ならそんなものだと思うけど?
帯方郡から北部九州まで1月もかかるとは思わないけれど
0073日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:25:45.95
>>67
>陸行600里なら陸行一日で十分なので「陸行一月」は「陸行一日」の誤記ということになる
>従って帯方郡から邪馬壹國までの日程は31日ですね。

またご都合主義の捏造をしているww

それ(600里を一日)だと、伊都国を素通りしてることになるぞ?
一大率は何をやっているんだ?ww
0074日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:27:10.83
>>68
>そこから東南陸行500里の佐賀川上に、伊都国国衙の大環壕があった。

これってさ、ひょっとしてもしかしたら、グーグルマップの航空写真で
見つけたとかいう東西1キロの大環壕集落のこと?ww

見たい人の心の中だけにある、発掘による証拠が一切なくて、
ヤマトタケルに殺されたのが「川上」梟帥だからという類推に頼った、
例のあれ?ww
0075日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:29:49.88
半島南部にツマなんていう地名はない。
0076日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:22:21.48
>>70
邪馬壹国70,000戸の内訳は、
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、
斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
0077日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:23:20.76
>>74
そうさ、例のアレよ。
ま、いいとこどりではあるが、昭和23年の航空写真でも、全く同じ大きさ形状の田舎道が見えるからな。
決して、近年の土木工事・道路工事・圃場整備などの結果ではない。
何かの歴史的由縁があるのであろう。
0078日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:26:28.44
>>73
末廬國から500里〜600里の範囲が伊都国です。
0079日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:37:56.51
>>78
末廬國からちょっきり500里が伊都国です。
0081日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 23:25:23.07
環濠跡が道路だとかバカの発想だなw
環濠の跡ってことは一度掘り返してるから
地盤はゆるゆる、雨降りゃ水が溜まってドロドロ
誰も好き好んで歩いたりしない
0082日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 00:12:23.80
>>76
>邪馬壹国70,000戸の内訳は、
>1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+
>1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

それだと今度は>>35
「広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

 投馬国や邪馬台国は馬韓や弁辰にあたるという主張だが、
 弁辰の都は弁辰にあるって書いてあっても無意味だろ 」
に答えられなくなるだろ?

これに対して、>>48で「伊都国と奴国なら十分に限定された地域です。」と答えて、
それじゃおかしいと言われたら、20カ国も入れるから大丈夫という

その場しのぎで適当に書いてるだけで、全体の整合性は取れない
そんな破綻した、互いに矛盾する根拠を雑に束ねたものが九州説の実態
0083日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 10:34:49.68
>>82
>広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

その書き方なら
韓の都は弁辰にある
倭の都は邪馬壹国にある
でしょ。

後の会話は私じゃなく、見解も違います
何人かの意見をごっちゃにしてるんで全体の整合性が取れなんでしょうね。
0084日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 13:05:45.82
キナイコシは、どうしても九州説が一人だと思い込みたいらしい。
だから話が通じない。
0086日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 16:30:10.98
相手と話が噛み合っていないじゃないか。
0090日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 23:50:57.48
>>83
>倭の都は邪馬壹国にある

邪馬台国女王之所都と書いてあるが、
この邪馬台国(面倒だから壹とか臺とか書かないよ)が、
馬韓や弁辰と同様の広域だってのは成り立たないだろって話

馬韓、王之所都と書いてあっても意味がない

九州説が何人居てもいいけれど、これ(ある国の都の所在地が「ある国」でも意味がある)を
説明できるやつがいるなら説明してみな
0091日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 17:26:46.23
>>89
>をぎ船塚の前方後円墳

船塚古墳、調べてみたけど、これを小城というのは厳しくないか?
所在地は佐賀郡の範囲で、小城郡からは外れる

きちんとした発掘がされていなくて、情報が少ないけれど、

前方部と後円部の規模がほぼ等しい
石室内には箱式石棺が2基

ということを踏まえると、ウィキペディア記載の
「築造時期は古墳時代中期の5世紀中頃」というので妥当だと思う

ヤマトタケルが4世紀半ばだから、ヤマトタケルに討たれた川上梟帥の墓とするのは
ちょっと厳しいな

佐賀県最大の古墳だから、これにしたいのは分からないでもないけれど
0092日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 17:32:36.96
>>90
>馬韓、王之所都と書いてあっても意味がない

意味はあるだろ、馬韓に都が在る。
辰韓、弁韓にはないってことになる。
0093日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 17:37:32.48
まあ、でかいのは5世紀以降だろうけどね。

北部九州はあまり大きさにはこだわらず
5世紀以降あたりから他の地方に影響されたのか
大きくなっていく。

北部九州の弥生王墓は30×30m以下くらい。
吉野ヶ里のような40mクラスは珍しい程度。

だから副葬品が充実した
小さい墳墓なんてものになる。
0094日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 17:45:23.61
川上あたりの中小2000基は、あらかたミカン畑になったそうだから、
タケルの墓も残ってないかもねえ
0095日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 17:50:51.44
>>92
>意味はあるだろ、馬韓に都が在る。
>辰韓、弁韓にはないってことになる。

そう言い張りたいなら、それでもいいけれど、邪馬台国の位置を特定するのには
毛ほども役に立たないな?

まあ、投馬国が半島南部にない時点で、そのたわごとも意味を持たないんだが
0096日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 17:53:22.46
>>94
>川上あたりの中小2000基は、あらかたミカン畑になったそうだから、

川上梟帥を倭王だと主張していたのに、中小2000基でいいのか?

ヤマトタケルの頃は、九州も完全に古墳時代で、100メートル級の
地域主張墓は各地にあるぞ?

倭王なら、もっとしっかりした古墳じゃないとおかしくないか?
0097日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 17:57:40.26
>>93
>北部九州はあまり大きさにはこだわらず
>5世紀以降あたりから他の地方に影響されたのか
>大きくなっていく。

そんなことはない

九州最初期の那珂八幡古墳でも墳丘長約75メートルあるし、
これが奴国首長の墓だろう

伊都国の三雲遺跡群の最初の古墳、端山古墳も墳丘長78.5メートルある
これが伊都国首長の墓

各地の首長墓は、やはり地域最大の盟主墳になっている

古墳時代に入っていて、王の墓が小さくてもいいという道理はないよ
0098日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 17:58:37.29
>>95
>まあ、投馬国が半島南部にない時点で、そのたわごとも意味を持たないんだが

根拠のない希望的な意見ですね。
0099日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 18:03:32.05
>>96
>倭王なら、もっとしっかりした古墳じゃないとおかしくないか?

それはあなたの主観にすぎない。
平原の卑弥呼の係累であれば、大きくなく、前方後円墳でもないだろう。
0100日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 18:37:06.07
>>96
カワカミノタケルは倭の王だったというから、
前もって大きな墓を用意していたかもしれない。しかし、そうでなかったかもしれない。
もし用意していなければ、暗殺されたのだから、質素な墓だったということもありえる。
地元に手がかりは残ってないのかな?
0101日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 19:04:36.03
ttp://chimei. sakura. ne.jp/f-32yodohime.htm

川上タケルの墓や淀姫神社の話はここが一番詳しいと思う。NGワード回避のため、スペースを挿入してあります。
0102日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 19:43:36.31
>>98
>根拠のない希望的な意見ですね。

根拠はこれまでにも何度も書いてるだろ?

一番簡単なのは、>>43

投馬国が半島南部を占めてたってのは噴飯物
半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ

帯方郡の南に韓の領域があって、そのさらに南に投馬国五万余戸の大国があると
するなら、韓、在帶方之南。東西以海爲限、南與倭接。「方可四千里」。も、
おかしなことになる

有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓で、
馬韓が凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶。
辰韓と弁韓が弁、辰韓、合二十四國。大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戶。

韓が全部で十四・五万戸で、方可四千里なら、帯方郡の位置、朝鮮半島の形からして、
半島の南半分が全部韓じゃないと収まらない

そこにさらに、その三分の一にあたる大国を押し込んだら、韓は東西4千里、
南北3千里くらいにしないといけないし、そこまでしても、朝鮮半島南部は
リアス式海岸で、内陸にも多くの人口を容れられる平野はない

半島南部に戸数五万余戸の投馬国を考えるというのは無理読み以外の何ものでもない

それから、もっと根本的に、魏志倭人伝冒頭の
倭人在帶方東南「大海之中、依山島」爲國邑とも矛盾する

倭人の国が帯方郡と地続きの半島上にあったら、
「大海中の山島」の国とは書かれない
0103日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 19:45:50.59
>>99
>それはあなたの主観にすぎない。

いいえ
古墳時代には、その権力の大小に合わせて、墳丘の大きさが調整されるというのが
全国的にはっきり観察されている

九州も前方後円墳祭祀を受け入れている以上、その枠組みから外れることはない

「主観に過ぎない」ことにして、逃げようとしているだけ
0104日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 19:47:31.32
>>99
>平原の卑弥呼の係累であれば、大きくなく、前方後円墳でもないだろう。

逆だ、逆
平原1号墓が、卑弥呼の墓でもなく、倭王の墓でもないから、
大きくなく、前方後円墳でもないんだよ

まあ、前方後円墳ではないのは、そもそも時代が合わない二世紀頃の
墓だってこともあるけれど
0105日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 20:21:12.35
>>104
根拠なし
0106日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 20:39:34.68
>>103
古墳時代は、だろ?
卑弥呼の時代は、3世紀前半
まだ各地には様々な墓の様相があり、それぞれの埋葬の仕方が違う時代だよ
0107日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 21:22:05.19
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0108日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 21:24:44.76
>>106
>まだ各地には様々な墓の様相があり、それぞれの埋葬の仕方が違う時代だよ


いずれにせよ、古代大王(おおきみ)の陵墓は平地には造営しないよ。 根本的に間違い。  @阿波
0109日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 21:28:03.71
金印は出土状況が全く不明、
あんなもの国宝にしてはいけない代物。
あれを国宝にしたのは昭和6年、満州事変の時の軍部。
その意図は、

「古代天皇及び大和朝廷は中国に朝貢などしていない、朝貢してたのは九州だ」

これを印象付けたいためだ。
0110日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 21:37:58.54
>>106
>卑弥呼の時代は、3世紀前半

三世紀後半には古墳時代に入るんだよ
そして、2世紀末には、各地の首長墓は吉備の楯築墳丘墓のような
大規模な墳丘を持ついわゆる王墓級墳丘墓の時代に入っている

平原1号墓は、その時代に届いていない
実際その後の平原3号墓・4号墓が、家族墓地である平原遺跡の、
1号墓被葬者の次世代の墓として方形周溝墓で築かれており、
平原1号墓の次の世代がまだ古墳時代に入っていない

その点でも、平原1号墓は卑弥呼の時代に古すぎて合わない

また、墳丘の長軸延長上に大柱を立てる葬送文化が共通している吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓と比べても、墳丘サイズが10分の1だ

吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓が吉野ヶ里の地域首長の家族墓であって、倭王墓でないことを
考えても、平原1号墓を倭王墓と考えるのは無理がある
0111日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 21:38:58.47
>>105
>根拠なし

根拠は今までにも何度も書いてきたが、>>110にも改めて書いた
根拠はてんこ盛りにあるんだよ
0112日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 21:42:03.94
卑弥呼の時代は三世紀前半だから
古墳時代に入ってないですね。
0113日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 21:58:27.29
キナイコシがまた卑弥呼よりあとの時代のことを持ち出して何かつぶやいている。
0114日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 22:09:36.19
>>110
無理だよ
北部九州の墓制が統一されてないことは
平原や吉野ヶ里、吉武高木遺跡を見るだけでも
明らかなんだから。

そんなところで同一の価値観は語れないよ。
0115日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 23:00:26.57
>>112
>卑弥呼の時代は三世紀前半だから
>古墳時代に入ってないですね。

3世紀後半に古墳時代に入るためには、3世紀前半にその合意ができていなければいけなくて
その合意形成の時点から新しい秩序新しい時代に入ったと考えて、その時点から古墳時代と考える、
というのが最近の通説

卑弥呼の治世の間になされたことだよ
つまり卑弥呼の存命中に古墳時代に入っている

卑弥呼の墓は古墳であると考えるのが当然

平原1号墓は、その後、一世代古墳時代に入らないんだから、卑弥呼の墓は無理なんだよ
平原1号墓に関しては、古墳より前に吉野ヶ里の北墳丘墓に
負けてる時点でどうしようもない
0116日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 23:54:01.27
400年前と墓制が違うことを、その地域で統一されていないことの根拠にしてはダメだろうww
吉武高木遺跡は紀元前2世紀だよ

そして、時代の近い吉野ヶ里遺跡と平原遺跡では
墳丘墓、その長軸方向に立てられた大柱、その延長上の小建築物、の三点セットが
吉野ヶ里の北墳丘墓
平原5号墓
平原1号墓
で共通している(5号墓の小建築物は未発掘)

これらは同じ葬送祭祀文化だと認められるだろ?
九州説は、時間経過を無視しがちだし、視野が狭い

平原1号墓を平原遺跡と言って、5号墓、2号墓、3・4号墓をまったく顧みない
0117日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 02:09:57.81
>>115
>3世紀後半に古墳時代に入るためには、3世紀前半にその合意ができていなければいけなくて

勝手に前倒しするな。
0118日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 02:11:01.39
>>116
>平原1号墓を平原遺跡と言って、5号墓、2号墓、3・4号墓をまったく顧みない

女王墓は一号墓だけだから、別に構わんよ。
重箱の隅をつついても意味がない。
0119日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 03:56:41.17
卑弥呼は女王ではない。神に仕えるシャーマンである。

天照大神は男神。神の一夜妻であり、神の衣を織るのが仕事。

穀物の実りがよくなかったり天変地異があると、神の持て成しが
よくないからということで追放される。

人間に神意を伝える役目もある。ただし、人前に姿は見せない。
いつもは機屋(はたや)の中にいて機を織っている。
この機屋は、誰も覗くことができない。

女王ではないのだから、卑弥呼のために国家的祭礼が行われること
などない。死んでから巨大墳墓が造営されることなどもない。
0120日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 08:34:39.82
>>117
>勝手に前倒しするな。

九州説は、そうじゃないと困るからww
何の合意もなくいきなり古墳を作り始めるはずがないだろw

何の理由も根拠もなく一行レスで文句だけつけるのが九州説にデフォルトw
0121日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 08:36:58.65
>>118
>女王墓は一号墓だけだから、別に構わんよ。

一般庶民は女王にならないんだよ
当たり前だろ?

>重箱の隅をつついても意味がない。

これを重箱の隅だと思ってるのが九州説

歴史の真実とはまったく縁のないところで、
結論ありきで文句だけ言うのが九州説のデフォルトww
0122日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 08:42:15.44
>>119
>女王ではないのだから、卑弥呼のために国家的祭礼が行われること
>などない。死んでから巨大墳墓が造営されることなどもない。

魏志倭人伝
卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。

造営されてるね、巨大墳墓

その>>119のいう卑弥呼は、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼とは別の存在だな
0123日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 09:22:34.85
>>121
立派な墓域を持っていたなら、庶民ではないな。
しかし王家の直系でもなさそうなことは魏志倭人伝から読み取れる。
その意味でも平原遺跡は卑弥呼の墓として申し分ない。
0124日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 09:40:58.56
>>120

基本は初期古墳の拡がりは思想の流行だよ

3世紀後半に同じ規格や埋葬方法が同じ墓ならば何らかの関連があったとみなしていいと思うが…まだバラバラだよなぁ

後、布留0〜の年代は定まってなく、個人的には3世紀末〜4世紀初頭と考えている

布留0は楽浪土器の出土激減期にあたるのでね

桃核のJCALとも合致するし
0125日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 11:02:35.47
卑弥呼の死後に急速に西日本の再編があったのかもしれないが、卑弥呼が即位したと思われる2世紀末の時点では、九州北部以外に倭国の王都を比定する根拠は何もない。
0126日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 11:21:49.58
>>122
卑弥呼がいた時代の日本に魏の使者は日本に来ていない。
卑弥呼の墓の話なんだから、これを伝えたのは台与が派遣した使者、
ないしその答礼として派遣された魏の使者。
その魏の使者も邪馬台国まで来ていない。つまり、聞いた話を伝えただけ。

「徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」なんてのはいかにも白髪三千丈風の表現。
台与の使者が伝えたのなら見栄をはって大きな話をしたのだろう。
卑弥呼の墓なんぞどこにも作られていない。

なんで女王国なんて話になったのかというと、「日本を支配しているのは
神様です。」とか、王様はいなくて「巫女が神様の言うことを聞いて皆に
伝えているのです。」などと言う話だが、そういうのは中国人にはよく理解
できないので、巫女が女王ということになってしまった。
0128日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 12:16:44.08
日本においては、神様というのは後世の概念にすぎない。
そもそも神社に祀られている神様は、いずれも古代倭国の王族たち。
つまり、神という概念より先に王族の支配が成立している。
神代とはすなわち倭国創成期の弥生時代のこと。
その最後を飾るのが八咫の鏡を持つ平原遺跡の卑弥呼だよ。
0130日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 12:27:12.65
「神の手」

それが畿内説のすべて
0131日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 14:28:58.18
>>128
日本の神は祖先神だが、祖先神のさらに向こうには神がいる。
神武天皇の先祖には天孫降臨したニニギノミコト、ニニギノミコトよりさらに
遡っていけば天照大神になる。
神の子孫だから王族は尊いのである。
神の子孫でなければただの人。

神の概念より先に王族の支配があったなどとんでもない。
0133日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 15:42:39.54
>>131
弥生時代に神という概念があったとあう証拠は?
記紀の神々は神と呼ばれているが、事実上、王族として振舞っている。
特に大国主と天照大神は国譲りという政権交代を行なっている。
0134日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 15:53:10.51
>>123
>立派な墓域を持っていたなら、庶民ではないな。

その家族墓地の他の墓が仮にも一国の王になった者の一族の墓じゃないんだよ
平原1号墓のあとに造営されている3・4号墓は、1号墓被葬者の直接の次代の後継者

だが、国の中枢とは無縁の普通の墓だ

>しかし王家の直系でもなさそうなことは魏志倭人伝から読み取れる。

伊都国の領域には、
「三雲遺跡群に墓を作る伊都国王家」の家系と
「曽根遺跡群に墓を作る有力者(鏡作り?)」の家系があり、
平原遺跡は曽根遺跡群の家系の弥生時代の家族墓地だよ

>>118のいう重箱の隅をきちんと見ていくと、こうしたことが見えてくる

>その意味でも平原遺跡は卑弥呼の墓として申し分ない。

一大率より下位の伊都国王家ですらない、地方の有力家系の家族墓なのだから
それを倭王墓にでっち上げるのは5階級特進くらいの無茶だぞw
0135日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 15:58:30.68
>>128
>その最後を飾るのが八咫の鏡を持つ平原遺跡の卑弥呼だよ。

そうやって平原1号墓出土鏡を、皇室縁のご神鏡に擬えるのは止めな

いまだに平原遺跡と平原1号墓の区別も付けられていないし、
九州説は出所不明の思い込みだけが根拠の戯れ言に過ぎない
0136日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 16:26:08.67
>>134
一昔前は田舎大名の墓と例えられていたこともあったが、最近は畿内説の学者でさえ平原は認めているよ
2世紀末より古くならない事がわかったからかな?大乱後の墓になるしね

まず、一市民だと平原の副葬品が説明できない

あの時代の鏡をかなり独占しており、最新の技術のガラス製品にジトウや素環刀、瑪瑙の管玉と水銀朱、国際色豊かすぎ

鏡なんか、三雲等の大量鏡副葬からの流れなのは一目瞭然だし

規模等はその時代の情勢や考え方次第で変わってくるから、副葬品を鑑みれば、平原1号墓は王墓でいいだろうね

それが倭国の王か伊都国の王かわからんが
0137日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 16:57:35.25
>>134
>その家族墓地の他の墓が仮にも一国の王になった者の一族の墓じゃないんだよ

根拠は?

>平原1号墓のあとに造営されている3・4号墓は、1号墓被葬者の直接の次代の後継者

根拠は?

>だが、国の中枢とは無縁の普通の墓だ

根拠は?
0138日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 16:58:37.71
>>136
>それが倭国の王か伊都国の王かわからんが

同時期に同じ程度の副葬品の墓が他の地域にも見当たらないので倭王でしょう。
0139日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 18:21:06.68
>>136
>まず、一市民だと平原の副葬品が説明できない

伊都国の有力家系だと書いてるだろ?
曽根遺跡群に古墳時代に入ってからも累代的に古墳の増募が見られるから、
伊都国の有力者なのは間違いない

だが、伊都国王(首長)家ではない

鏡作りを職掌とする一族から、伊都国王妃が出て、夫の彦王の死後
しばらく伊都国の王位を預かった女性がいたと考えれば一番座りがよい

鏡作りの一族から出た出世頭の女性の墓に、精一杯の一族の宝物を副葬した
くらいが、平原一号墓の大きさ副葬品に一番似つかわしい説明となる
0140日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 18:24:34.07
>>136
>あの時代の鏡をかなり独占しており、最新の技術のガラス製品にジトウや素環刀、瑪瑙の管玉と水銀朱、国際色豊かすぎ

>鏡なんか、三雲等の大量鏡副葬からの流れなのは一目瞭然だし

まあ、伊都国の鏡の扱い方の伝統なんだろうね
だから、鏡作りの一族の出世頭という説明がフィットするんだが

当時の仿製鏡が、古い青銅鏡を原料に作られていたことを考えると、
平原1号墓の「多数の破砕鏡」は、鏡作りの家にあった、
仿製鏡原料の青銅鏡片とも考えられる

鏡作りの家なら、勝手なデザインの大きな鏡も作れるだろうし
0141日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 18:26:52.91
>>136
>副葬品を鑑みれば、平原1号墓は王墓でいいだろうね

伊都国王までは、合ってもおかしくないが、
伊都国王家の王墓の地、三雲遺跡群ではなく、もともとの家族墓地に葬られていること、
また被葬者が女性と見られることから、一時的に王位を預かった有力家系出身の伊都国王妃が
一番ぴったりなんだよ
0142日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 18:31:09.67
>>137
>根拠は?

これだよ
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2c9cac26ffdc644a177f62ea5a9aabe5202dd80c.78.2.9.2.jpeg

墓の築造順は
5号墓

1号墓・2号墓

3・4号墓
の順という推定が、発掘の結果なされている

で、>>110を再掲
三世紀後半には古墳時代に入るんだよ
そして、2世紀末には、各地の首長墓は吉備の楯築墳丘墓のような
大規模な墳丘を持ついわゆる王墓級墳丘墓の時代に入っている

平原1号墓は、その時代に届いていない
実際その後の平原3号墓・4号墓が、家族墓地である平原遺跡の、
1号墓被葬者の次世代の墓として方形周溝墓で築かれており、
平原1号墓の次の世代がまだ古墳時代に入っていない

その点でも、平原1号墓は卑弥呼の時代に古すぎて合わない

また、墳丘の長軸延長上に大柱を立てる葬送文化が共通している吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓と比べても、墳丘サイズが10分の1だ

吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓が吉野ヶ里の地域首長の家族墓であって、倭王墓でないことを
考えても、平原1号墓を倭王墓と考えるのは無理がある
0143日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 18:33:07.13
>>138
>同時期に同じ程度の副葬品の墓が他の地域にも見当たらないので倭王でしょう。

同時期に、仿製鏡がやたら多いことを除けば、それ以上に副葬品が豪華な
丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南墳丘墓がある

同時期に同程度以上の副葬品の墓が、他の地域に見られるので
倭王という根拠はないよな
0144日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 19:04:22.25
なにを必死になっているんですか?
他の古墳は武器ばかりで軍人の墓というのが学会的には定説でしょう。
もしくは大きいばかりで副葬品がほとんどない。
倭人伝に書かれていない石積であることも検討しなければなりませんね。

平原については副葬品の豪華さは
同時代の他墳墓の追随を許しません。
明らかに女王墓。
代々の男王が失脚した後に共立された女王の墓なのですから、
代々の三雲墳墓群と一線を画す平原遺跡女王墓は
倭人伝に書かれた共立女王卑弥呼の条件に完全に一致しています。
0145日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 19:30:06.24
>>144
>平原については副葬品の豪華さは
>同時代の他墳墓の追随を許しません。

そういう無理押しの教鞭はやめな

>>143
「それ以上に副葬品が豪華な
 丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南墳丘墓がある 」
という具体例を挙げて否定されてるんだからww
0146日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 19:34:19.49
>>145
墳丘墓の名前を挙げただけで具体例になるのん?
その内容は?
どの部分が「それ以上に副葬品が豪華」なん?

後半部分には反論できないねぇ
負け犬キナイコシさん
0147日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 19:50:01.57
>>144
>倭人伝に書かれた共立女王卑弥呼の条件に完全に一致しています。

魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない
0149日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 19:57:47.61
>>147
>魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず

へええ
キナイコシさんは銅鏡が権威の証なんだ。
平原遺跡には世界最大の超大型内行花文鏡が5枚も副葬されているねえ?

で、対抗馬の墳丘墓さんには?
0150日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 19:59:16.97
>>148
え?
なにが立派なん???

>魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず

え?

ええ??
0151日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 20:08:53.30
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0152日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 20:11:02.40
>>151
オンドル式?
0153日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 20:57:19.01
>>141

倭国王家の王墓の地、三雲遺跡群ではなく、もともとの家族墓地に葬られていること、
また被葬者が女性と見られることから、一時的に王位を預かった有力家系出身の倭国女王が
一番ぴったりなんだよ

魏志倭人伝そのままだろう?
0154日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 21:01:05.25
>>143
>同時期に、仿製鏡がやたら多いことを除けば、それ以上に副葬品が豪華な

除くなよ。
倭国の銅鏡生産の最先端の技術を持っていたということであり、伊都国そのものがわずか千戸で列島の他地域を抑えるだけの力を持っていたということだよ。
まして鉄器もない纒向なんて競争相手にもならない。
0155日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 21:07:03.00
>>147
>魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず

それこそ、後漢が滅亡した後の卑弥呼の墓だという証明ですね。
本来、鏡は漢の冊封の証だったけれども、その漢がなくなれば漢鏡にこだわる理由は無くなります。
0156日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 21:21:14.77
>>152
オンドルは満州やろ。

沿海州とはちょっと場所が違う。
0157日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 21:54:53.81
>>154
>倭国の銅鏡生産の最先端の技術を持っていたということであり、伊都国そのものがわずか千戸で列島の他地域を抑えるだけの力を持っていたということだよ。


調子に乗りすぎ!  @阿波
0158日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 21:59:35.40
>>155
>それこそ、後漢が滅亡した後の卑弥呼の墓だという証明ですね。
>本来、鏡は漢の冊封の証だったけれども、その漢がなくなれば漢鏡にこだわる理由は無くなります。

前にも同じこと言ってた人がいるけれど、
卑弥呼がもらったのは、魏王朝から!
漢王朝の滅亡後に魏に朝貢に行ってるんだよ

しかもその後も遣使を続けてるんだから、もらった鏡はすぐに鋳つぶしましたなんて
通る訳がないだろうに

魏晋鏡も新しい漢鏡も1枚もない時点で、卑弥呼の墓の候補にはかすりもしない
0159日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 22:01:57.47
新しい魏にはそれほど期待をしていなかったということでしょう。
平原遺跡はまさに卑弥呼の墓にピッタリ。
0160日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 22:03:48.40
>>159
>平原遺跡はまさに卑弥呼の墓にピッタリ。

調子に乗りすぎ!  @阿波
0161日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 22:04:29.12
>>154
>倭国の銅鏡生産の最先端の技術を持っていたということであり

青銅器の生産技術では、銅鐸製作の方が高度だぞ
平原1号墓出土鏡がでかいといっても50センチに届かない
銅鐸はでかいのは1メートルを超えてるよ

倭王が倭国最高技術が使えないってのも恥ずかしいよな
0162日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 22:06:18.20
>>159
>新しい魏にはそれほど期待をしていなかったということでしょう。

なら、そもそも朝貢に行かないだろww

>平原遺跡はまさに卑弥呼の墓にピッタリ。

詭弁もここに極まれりだな
0163日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 22:09:17.52
>>161

倭国(阿波)矢野銅鐸の正式名称は鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る「突線袈裟襷文(とっせんけさだすきもん)銅鐸」で、
銅鐸の中でも最新型式。国内でも最大級。弥生時代後期に作られたとみられている。  @阿波
0164日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 22:11:21.00
>>149
>キナイコシさんは銅鏡が権威の証なんだ。

「キナイコシ」は>>149の個別識別子

銅鏡が権威の証というより、魏晋鏡が魏朝に朝貢した卑弥呼の墓の証拠なんだよ

弥生時代にも古墳時代にも鏡の副葬が続いていて、魏朝から銅鏡100枚をもらった倭女王が
それを一枚も副葬していないというのはあり得ない
0166日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 22:26:49.26
銅鐸の製造技術が高度なのは間違いないが
それが失われたってことだろうな。

少なくとも大和朝廷の時代にも発見されてたらしいが
それ何?、状態だったそうだし。

まあ、畿内周辺は何度か文化の断絶が
あったってことだろうね。
0167日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 23:08:26.16
畿内の文化や技術は断絶し、筑紫の文化に塗りつぶされている。

そしてキナイコシとは>>164のこと。
0168日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 23:40:23.29
>>164
副葬品に使われなかっただけでしょうね
三雲や潤地頭給などの周辺の遺跡からは魏晋鏡が出てるから問題ないでしょ
0169日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 01:03:01.58
平原女王は当時の倭国の富(特に輸入品)を独占していたので、大率で対馬海峡貿易を独占していた卑弥呼本人だろう。
0170日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 01:14:30.98
>>169
>平原女王は当時の倭国の富(特に輸入品)を独占していたので、

弥生時代で一番綺麗なガラス釧は丹波から出てるんだけどねw
0171日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 01:16:11.82
>>168
>副葬品に使われなかっただけでしょうね

どうして使わないの?
使わなかった理由は?

>三雲や潤地頭給などの周辺の遺跡からは魏晋鏡が出てるから問題ないでしょ

それ、三角縁神獣鏡と一緒に畿内から分けてもらったやつww
0173日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:14:52.31
>>161
>銅鐸はでかいのは1メートルを超えてるよ

銅鐸文化は途絶し、「倭国」には継承されなかった。
銅鐸文化圏(畿内)は倭国ではなかったんだよ。
倭国の中では伊都国が最も栄えていた。
0174日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:15:34.05
>>164
>それを一枚も副葬していないというのはあり得ない

あなたの主観に過ぎない。
0175日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:17:40.15
>>172
耳璫3世紀以降だよ。
鏡だって、2世紀に超大型内行花文鏡を作ることができたことを証明しないとね。
2世紀は後漢鏡を輸入していた時代だよ。
0177日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:23:31.75
>>176
反論になっていない。
0178日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:30:23.34
卑弥呼の墓なんてないよ。
卑弥呼は女王ではない。
0179日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:31:42.33
>>174
>あなたの主観に過ぎない。

というのは>>174の主観にもとずく判断

副葬されている銅鏡は、手に入った舶載鏡が副葬品の中でも
最もよい位置に埋納されているのは多くの墳墓で確認されている

魏皇帝から直接銅鏡100枚を贈られた卑弥呼の墓に、
1枚も副葬されてなくてよいというなら、どんな墓でも卑弥呼の墓にできちゃうよ

平原1号墓は、魏志倭人伝の記述を無視しないと、倭王卑弥呼の墓にはならない
そして、魏志倭人伝の記述を無視した卑弥呼の墓の比定は意味がない

平原1号墓を卑弥呼の墓と主張するのは、単に九州説の願望ってだけ
0180日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:36:04.33
>>173
>銅鐸文化は途絶し、「倭国」には継承されなかった。


ずっと倭国(阿波)で継承されているよ。  @阿波
0181日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:37:53.48
では畿内に魏からの鏡があるかというとないという。
キナイコシはただ文句をつけるだけ。
0182日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:39:25.98
>>179
>平原1号墓は、魏志倭人伝の記述を無視しないと、倭王卑弥呼の墓にはならない

魏志倭人伝の俺様の説を無視しないとだろw
0184日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 08:34:21.77
あると言うならそれを示しなさい。
ないことの証明を求めるのは悪魔の証明です。
0185日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 09:45:31.61
>>184
誰が無いと言ってるのか、答えられないの?

そんなことも答えられないの?
0186日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 09:56:27.42
やっぱり>>181はウソをついていたんだな
さすが九州説
0187日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 10:15:22.61
>>171
三角?なんて一緒に出てないよ
弥生終末期
蝙蝠鈕座内行花紋鏡だね
潤地頭給の物なんか位至三公銘だし

同時代に存在して、蝙蝠鈕座内行花紋鏡は副葬されなかった…ただそれだけだよ

蝙蝠鈕座は大型化にも採用されていないから、ちょっと気になっている

思想的に合致しなかった?のかもね
0188日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 10:26:26.61
>>187
で?
それが魏晋鏡だという根拠は?
0189日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 11:20:06.13
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0190日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 11:20:44.87
お話しぶった切りますよ
平原1号の編年材料は副葬品だけなんか?
つうかミラーて伝世するかもだからお墓の古さの下限は決められんちゃうの?(外野の素朴な疑問
0191日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 11:31:04.47
邪馬台国は神託政治。
邪馬台国を統治しているのは神である。
卑弥呼は人々に神の言葉を伝えるシャーマンにすぎない。
シャーマンにすぎない者のために巨大墳墓を作るわけがない。
0192日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 11:39:47.61
径100歩
殉葬100の
ありさまぞ(恐ろしい一句や
0193日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 11:44:31.86
卑弥呼さんは宇気比の達人にして公平正大なる抽選装置よ?
お御籤の始原やな
0195日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 11:58:19.22
>>190
鏡だけで邪馬台国云々とは、厚顔無恥。  @阿波

鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
0196日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 11:58:32.42
ダック?が逃げたんか?
何の根拠聞かれたん?
0197日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 12:01:50.48
>>196
参りました
三好君のが凄い!
0198日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 12:26:47.84
ダック?が聞かれたんミラーの製造場所年代の根拠やな?
おじいちゃんらより中国人のが詳しのちゃうの?
つうか平原1副葬品同じのが出てる墓で年代確定してるのとすり合わせたら3世紀半ば位になるかもよ?
ミラーばかりに拘らずやってみそ
0200日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 12:45:15.62
「ビロウ」で検索
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AD%E3%82%A6
>沖縄市の市の木である
>・・・檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ・・・(古事記・仁徳天皇御製)
   (半島との関係が深かまった大阪湾の河内王朝。しかし南方系祭儀(琉球神道)が主流と思われる)
>古代天皇制においては松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物・・
>天皇の代替わり式の性質を持つ大嘗祭においては現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材
https://blogs.yahoo.co.jp/waikoku/54240971.html
>・・遺伝子検査をしたところ、どうも沖縄から・・・移植されたことが想定されるらしいです

大嘗祭はお風呂から始まる。琉球神道祭祀の大嘗祭
天皇と2人の采女の計3人だけしか知らない秘儀。もっとも謎めいた秘儀(秘事口伝者がいる)
高さ2メートル、径2メートル?の超狭いドーム形の「百子帳」という簡素な幕屋の中で3人で秘儀
ドーム形の幕屋の天頂に、亜熱帯の蒲葵(びろう)樹の葉で作られた笠の蓋を置く?、葉は宮崎青島神社(神武王朝跡地)か琉球神道から葉を入手?
琉球神道は蒲葵づくし。蒲葵の葉の中で一夜を過ごす。神武天皇や卑弥呼は琉球神道出身?神武は太陽に向かって矢を射るのは畏れ多いとして迂回作戦。
前回平成2年、公開された映像に蒲葵の大きな笠?をさしてもらって出てきた今上天皇のお姿は
蛇に化して堂々と人々の前に現人神として現れたお姿。神として表す笠
蒲葵の葉は、晒せば白くしなやかになる。
琉球神道が本家、天皇家神道は分家。琉球神道は海の果てにある神国を重視する。昇る沈む瞬間の「海を渡る太陽神」信仰。祭祀権は女性にある
(本土では、鹿島神社が昇る太陽を、出雲神社が沈む太陽を拝む。両神社は365日、海の水平線の太陽が確保できる)
(病床の昭和天皇は、同位者である琉球神道の大君(女神官)との面会を希望したが実現しなかった・・・)
0201日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 13:17:14.03
>>190
>平原1号の編年材料は副葬品だけなんか?

魏晋代の耳璫が出ていますから、概ね3世紀以降でしょう。
0202日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 13:18:08.96
>>179
>最もよい位置に埋納されているのは多くの墳墓で確認されている

例えば?
0203日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 13:19:32.85
畿内にある魏から貰った鏡はどれ?
古墳の名前と合わせて答えてね。
0205日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 13:39:26.53
>>201
イヤリングはようしらんが鉄剣がポイントじゃね?割りと長いし
日本海沿岸のあのサイズの素環副葬してるお墓ほぼ3世紀やったと思います
0207205垢版2018/09/02(日) 13:44:56.89
3世紀いうより古墳出現期以降いうてもええなあ?
0208日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 13:55:59.21
>>205
すまん、長さはあまり根拠にならないかと

同じ糸島で上町向原遺跡から出土した約120cmの太刀が「五尺刀」ではないか?と期待されていたが、化学分析で1世紀後半〜2世紀前半に作られた物だと判明したのだよ

しかし、この時期(1〜2世紀)の糸島には敵無しだね
0209日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 14:12:39.40
>>208
>しかし、この時期(1〜2世紀)の糸島には敵無しだね


なにをおっしゃる。 大陸の玄関口(末盧国)の福津・宗像の比じゃないよ。  @阿波
0210日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 14:18:31.03
>>208
日本や朝鮮で流行したのが3世紀じゃね?
0211日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 14:20:05.23
兎君がいうてたよ?
0212日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 15:20:02.13
>>185
>誰が無いと言ってるのか、答えられないの?

前原市教育委員会発行の報告書「平原遺跡」
具体的には出土鏡の鑑定を行った柳田康雄先生

平原1号墓出土鏡のうち舶載鏡は、平原遺跡の鏡のナンバリングで
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡
の2枚のみ
「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」が漢鏡5期で「四螭二朱雀龍虎鏡」が漢鏡3期

どちらも卑弥呼の時代から見て100年以上古い鏡
残りは全部仿製鏡
0214日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 15:41:26.21
>>186
畿内から魏の鏡なんて未だ一枚もみっかってないよな。
0215日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 15:43:18.70
>>213
という理由は?
0216日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 15:44:26.57
>>212
国産なら尚更時代が新しくなる
鏡がいつ作成されたか?が問題
他の国産鏡との技術との比較で考察しなければならないが、この時期の墓には他には国産鏡は殆どないから比べようがない

平原は謎だね〜
0217日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 15:53:26.47
>>210
いや、素環刀は弥生後期に箱式石棺から結構出ているから、流行はこの頃からだね
0218日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 16:12:51.76
箱式石棺は5世紀以降では?
0219日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 16:13:33.30
>>216
>他の国産鏡との技術との比較で考察しなければならないが、この時期の墓には他には国産鏡は殆どないから比べようがない

はい、どうぞ。
「内行花文放射線状文仿製鏡(完鏡) カネガ谷遺跡」
カネガ谷遺跡:段状遺構(環壕)をもつ弥生時代の高地性集落
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。  @阿波
0221日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 16:41:27.15
>>219
カネガ谷って後期初頭じゃないの?
鏡はう〜ん、平原と比較できるレベルでもないというか…そもそも時代が違いそうだね
0222日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 16:46:09.22
>>221
>鏡はう〜ん、平原と比較できるレベルでもないというか…そもそも時代が違いそうだね


う〜ん、平原も「弥生時代後期初頭」だろうね。  @阿波
0224日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 16:56:06.68
>>221
>鏡はう〜ん、平原と比較できるレベルでもないというか…そもそも時代が違いそうだね


お墓の副葬品より、弥生集落遺跡から出土した弥生土器・石器・朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧からの年代考証のほうが正確だろうね。  @阿波 
0225日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 17:32:17.37
>>216
>国産なら尚更時代が新しくなる

ただ、平原遺跡はワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳という3基の
前方後円墳が作られる曽根遺跡群の、それらの古墳に先行する家族墓地

曽根遺跡群に代々造墓する伊都国の有力家系があったと考えてよい

そして、平原遺跡には、平原1号墓ののちに、1号墓被葬者の次代である3号墓・4号墓が
方形周溝墓が造られていることから、古墳時代に入るまでに1,2世代程度の時間差がある

そう考えると、漢鏡五期の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡がもたらされて、それほど
時間を置かずに葬られたと考えてよいのではないかとする推定もあり、個人的には
それくらいだ妥当だと思う
0226日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 18:12:51.31
>>217
素環のサイズや形で流行の時期分類しはった人いるんやけどな?
兎君ちごて禹君?
0227日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 21:36:33.51
>>225
勝手な想像ばかりで何の説得力もない。
0228日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 22:56:11.66
>>227
>勝手な想像ばかり

どこがどう勝手な想像なのか、「具体的に指摘」してくれ

曽根遺跡群には、平原遺跡に3世代、その後にワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の3世代の
継続的な造墓活動が見られ、三雲遺跡群に墓を作る家系とは別だと考えられるのは
遺跡の分布から直接推定できること

で、どこがどう勝手な推定なんだ?
0229日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 23:51:16.28
>>216
>他の国産鏡との技術との比較で考察しなければならないが、この時期の墓には他には国産鏡は殆どないから比べようがない

2世紀だと思うとオーパーツになりかねない。
まあ、倭国の中でも超先進地域であり王都であったのならギリギリ説明できなくはない。
3世紀なら三角縁神獣鏡が西日本に登場するらしいから、国産化もされていた。
その中で最高の技術水準を達成したのが伊都であったことになる。
0230日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 23:52:33.41
>>228
平原遺跡の被葬者が卑弥呼であったことと関係あるの?
0231日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 08:00:31.30
>>228
>2世紀だと思うとオーパーツになりかねない。

いや、北部九州だってでかい矛を青銅で作ってるじゃないか
平原1号墓出土の仿世鏡は鋳上がりも悪いし、オーパーツどころか
王墓の副葬品としては恥ずかしいレベルだよ
0232日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 08:01:27.98
>>230
>平原遺跡の被葬者が卑弥呼であったことと関係あるの?

平原1号墓の被葬者が卑弥呼じゃないから、卑弥呼とは関係ないよ
0233日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 08:33:29.90
>>231
平原遺跡がよほど怖いんだな。
0235日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 09:26:56.73
>>231
>いや、北部九州だってでかい矛を青銅で作ってるじゃないか

鏡の編年で言えば、2世紀に平原遺跡を比定するのは無理。
0237日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 10:13:15.68
>>235
>鏡の編年で言えば、2世紀に平原遺跡を比定するのは無理。

前述のとおり、舶載鏡に関しては
「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」が漢鏡5期で「四螭二朱雀龍虎鏡」が漢鏡3期の
二面のみ

3世紀から見れば、200年以上古い

仿製鏡のうち、32面出ている方格規矩鏡はそのモデルが後漢初期のもので、紀元1世紀
3世紀とする理由にはならない
問題の大型内行花文鏡は、内行花文鏡の作図の伝統に則っていない仿製鏡なので、
編年を特定するすべがない

ということで、鏡の編年で言えば、平原1号墓を3世紀とする理由はないし、
もっと早いと考えた方が、不必要に長い伝世を考える必要がなくなる分合理的
0238日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 10:22:07.33
>>233
>平原遺跡がよほど怖いんだな。

平原遺跡と、平原1号墓を区別せずに書いているやつが何を言ってるんだかww
平原遺跡の5号墓、2号墓、3号・4号墓を見たら、王家の墓地だなんて言えないよ

魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない

他にまともな卑弥呼の墓の候補があれば、九州説だって平原1号墓は持ち上げないよ
他にまともな卑弥呼の墓の候補すらない時点で九州説は終わってる
0239日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 10:27:27.67
>>237
はい、どうぞ。
「内行花文放射線状文仿製鏡(完鏡) カネガ谷遺跡」
カネガ谷遺跡:段状遺構(環壕)をもつ弥生時代の高地性集落
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。  @阿波
0240日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 10:29:37.81
>>233

お墓の副葬品より、弥生集落遺跡から出土した弥生土器・石器・朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧からの年代考証のほうが正確だろうね。  @阿波 
0242日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 10:33:13.01
>>229
>その中で最高の技術水準を達成したのが伊都であったことになる。


倭国(阿波)の詰めの垢でも煎じて飲みなさい。  @阿波
0243日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 10:56:37.81
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0244日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 11:06:39.15
>>237
>問題の大型内行花文鏡は、内行花文鏡の作図の伝統に則っていない仿製鏡なので、

2世紀までの内行花文鏡の編年には乗らないのだから、それより後ということ。
大きさから言っても、2世紀以前にそのような記述があったという根拠がなく、倭国側にも政治的動機がない。
漢の滅亡に伴い自国生産に切り替えたと考えるべき。

>もっと早いと考えた方が、不必要に長い伝世を考える必要がなくなる分合理的

イミフ
0245日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 11:07:38.73
>>239
そもそも内行花文鏡ではないな。
0246日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 11:20:31.55
>>245
そんなに疑うなら
「内行花文放射線状文仿製鏡(完鏡) カネガ谷遺跡」 で検索してごらん。
カネガ谷遺跡の(Adobe PDF)にヒットするから。  倭国(阿波)はウソはつかん。  @阿波
0247日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 12:09:53.22
>>244
>2世紀までの内行花文鏡の編年には乗らないのだから、それより後ということ。

それより後だろうが同時だろうが、なんちゃって仿製鏡だから、いつでも作れる

のちの鏡の形式に則っているというなら、のちの鏡の時代以降と言えるが、
「どの時代の内行花文鏡」とも異なるのだから、編年根拠には使いようがない
0248日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 12:15:01.01
>>246
14005_8_四国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告.pdfは見てきたけれど、
やはり粟のいう「内行花文放射線状文仿製鏡」は>>241で引用した鏡だな

まあ、そういう名前をつけた人がいるってことだろうが、これは連弧文鏡の範疇には
入っても、内行花文鏡とは言わないぞ、普通は
0249日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 12:20:29.33
>>248
>まあ、そういう名前をつけた人がいるってことだろうが、これは連弧文鏡の範疇には
>入っても、内行花文鏡とは言わないぞ、普通は


じゃ、普通はこれはなんという鏡なのかね?  @阿波   
0250日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 12:31:39.32
まずは九州人の九州説は、もうお腹いっぱい。
九州人じゃない人の九州説を聞きたい。
0252日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 12:49:46.70
>>247
>それより後だろうが同時だろうが、なんちゃって仿製鏡だから、いつでも作れる

そんなわけあるか。
編年とか無視の暴論だな。
0253日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 12:52:28.11
阿波の鏡に比べたら、平原遺跡の最大の鏡は立派な内行花文鏡だな。
しかも大きさが円周八咫だ。
0254日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 12:58:35.87
>>251

異議があるようなので
あとは、徳島県埋蔵文化財センターに問い合わせをお勧めします。  @阿波
0255日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 13:27:34.54
>>252
>そんなわけあるか。
>編年とか無視の暴論だな。

他の鏡とつながりのない、ガラパゴス鏡をどこに編年するつもりだ?
0256日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 13:40:46.51
大型化、簡略化の傾向が見られており、後漢鏡より新しい、魏代の鏡だね。
0257日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 13:49:49.99
てす
0258日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 14:00:02.76
王の鏡である というのと
簡略化してある というのがつながらないのには気づいてないんだろうな
0259日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 14:05:44.22
古墳から出土した大型鏡としては、
1位 「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3#/media/File:%E6%9F%B3%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E3%81%A0%E9%BE%8D%E9%8F%A1.JPG


2位 「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000700000/e6c59c8777c949b69a9e966a571ddb2d
3位 「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明だが1位と同じ「鼉龍鏡」
http://www.emuseum.jp/detail/100584/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D%26owner%3D%26pos%3D825%26num%3D2
4位 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
https://lh5.googleusercontent.com/-tkY1W-oL8vY/VNdKvPWKogI/AAAAAAAACPM/HIci-6ZXnNg/s2560/shimoike376.jpg


5位 「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
https://lh6.googleusercontent.com/-wXRTdJSy-nk/VLPb5HnPYRI/AAAAAAAABc8/pCaHbl_7i9I/s2560/sikin359f.jpg


6位 「変形方格規矩鏡」34.9センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000680000/c1f396e370674f8ca9253bba0298bae6
7位 「直弧文帯縁内行花文鏡」34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000690000/afe97a03a9d2456899e83ea787ce89f2
8位 「変形方格規矩鏡」32.7センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000670000/13fd29465df845d1a1d1953cf8a64290
9位 「四仏四獣鏡」30.4センチ 千葉 祇園大塚山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001001000000/1e1c67f63291436080316c0bd8086302

こうして並べてみれば、権威の象徴として作られた大鏡は細かいところまで細工が行き届いてるだろ?
平原1号墓出土鏡は、他の内向花文鏡で流水文になっているところをただの同心円にして、しかも
幅を広く取って面積を稼いでいる手抜き図案なんだよな
0263日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 15:43:24.35
>>216
紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型が福岡県春日市の須玖タカウタ遺跡で見つかっているから、鏡の国産化は進んでいたはずのなのに国産鏡は殆どないのは不思議ですね。
0264日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 15:43:37.99
大きさ一番、手抜きは二番、
三・四がなくて、お値打ち五番。 やったぜ〜〜〜
0266日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 17:10:27.63
>>263
>鏡の国産化は進んでいたはずのなのに国産鏡は殆どないのは不思議ですね。

単純に、新しい鏡を作る原料に融かして使ってたんじゃないの?
0268日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 17:25:39.05
漢の頃には鏡は冊封の証として朝貢貿易で手に入れていたので、国産の模造品に意味はなかった。
しかし漢が滅亡すると、舶載鏡に意味はなくなり、国産で自国の王権の象徴として巨大な鏡を作った。
つまり平原遺跡の鏡は漢の滅亡後、卑弥呼の時代の鏡となります。
0269日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 17:28:03.32
>>267
>おまえはあほか  新しくできた鏡が殆どないっていってんだよ

お前はあほだなぁ

そうやって新しくできた鏡も、次の鏡を作るときにまた融かすんだよ
そうやってリサイクルしていけば、最後の鏡以外は残らないだろ?
0271日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 17:58:06.73
>>270
>墓に副葬したら手元に材料がなくなるべ?

だから、副葬してないんだろ?
>>263
「鏡の国産化は進んでいたはずのなのに国産鏡は殆どないのは不思議」
0273日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 18:23:04.60
>>272
>どこに古墳の副葬以外にあるんだ?

だから、どこにもないんだろ? 国産鏡は?
>>263
「鏡の国産化は進んでいたはずのなのに国産鏡は殆どないのは不思議」
0274日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 19:41:43.46
>>259
八葉紐座のオリジナルだね

そして、その中で一番古くて、一番大きい

やっぱ凄いよな
0275日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 20:26:48.61
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0276日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 20:46:59.91
>>274
>八葉紐座のオリジナルだね

オリジナルというか、one & onlyだよ
他には一切ない

つまり、お手本もなく適当に作って、その後どこにも
引き継がれなかったガラパゴス鏡ってこと

>そして、その中で一番古くて、一番大きい

一番も何も、後にも先にもこれしかないんだからw

>やっぱ凄いよな

大きいだけなら、銅矛でももっと大きいのがある
細工の見事さなら>>259にあげた鏡の方が見事
0277日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 20:50:11.35
八岐大蛇は越の八口に渡来したオロチ族や?
ただし倭人は南越系漂流民(解決
つうかここは平原&卑弥呼さんスレよ?卑弥呼さんと無関係なレスは畿内説スレに投下せー
0278日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 20:54:15.21
時系列考えてレスすれとあれほどゆうてもあかんてか?
ジョーカー君?は文化庁の判定しらんの?
0279日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 20:54:40.81
>>276
そもそも出土した墓の時代が違うだろ?
技術の比較であれば、同時期の墓からの鏡じゃなきゃ

それに、模倣もいいが、オリジナル性と最大の鏡というのは評価に値するよ

後、矛と鏡を比べてどうする?
これは全く意味がないよ
0280日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 20:55:28.40
まあミラーの価値は興味ないけど?
0281日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 20:56:23.79
>>279
賛成やな
0282日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 20:57:59.65
つうか刀の話せえ!
0283日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 21:05:37.04
ああごめんなさい空気読んで以後生暖かくロムります
気にせず御歓談ください(ミラーのお話しでええ
0284日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 22:05:48.10
>>276
>オリジナルというか、one & onlyだよ
>他には一切ない

まさに八咫の鏡にふさわしい。
0285日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 22:07:36.69
そもそも畿内の銅鐸文明は滅んでしまったし。
魏志倭人伝に銅鏡や銅矛、鉄鏃は書かれているが、いずれも九州に多く畿内に少なく、特に纒向には皆無。
0287日本@名無史さん垢版2018/09/03(月) 23:08:21.01
平原遺跡で唯一の武器は、魏から貰った刀です。
これがあるので、平原遺跡は三種の神器が揃います。
揃えるためにわざわざ入れたのです。
0289日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 07:25:28.08
卑弥呼がもらったのは五尺刀
平原1号墓の刀は三尺刀
0290日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 08:14:34.62
>>287
平原遺跡には三種の神器の原型がありますね。
0291日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 08:28:38.19
>>290
平原の田舎に「三種の神器の原型」?  なにを考えているんだかwww  @阿波
0292日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 08:49:36.31
平原遺跡の他の副葬品はすべて宝飾品か、鏡です。
なぜ女王墓に使うことがない刀をわざわざ入れたのか。
三種の神器の様式を整えるためです。
平原遺跡においては、三種の神器が完全に定型化していたわけです。
この時代の大和はまだその水準に達していません。
0293日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 09:09:31.25
ふむふむ
ひらばるの中だけで通用する自己満三神器だったというわけか。
0294日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 09:11:37.10
現代でも通用しますね。
当時の「倭国」は九州北部だけでしたが、その後に筑紫の勢力が大和を含め列島全体を支配するようになり、今日に至るわけです。
畿内の銅鐸文化は消滅しました。
0295日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 09:33:50.91
>>294
>当時の「倭国」は九州北部だけでしたが


なにを考えているんだかwww  @阿波
0296日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 10:04:59.91
>>294
>当時の「倭国」は九州北部だけでしたが、

これをいった時点で、トンデモ確定なんだがな

薄地の部分は「畿内系土器の流入が目立って多い地域」
https://i.imgur.com/H58CQro.jpg
大体、この範囲が倭国でいいだろ?
0297日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 10:13:08.92
>>296
>大体、この範囲が倭国でいいだろ?

そうだね。 忌部はんの開拓地をよく表しているね。  @阿波
0298日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 10:26:41.94
<原文>
倭人在帯方東南大海之中、、、

畿内や阿波は、帯方東方にあたる。
この書き出しだけで、倭人・倭国・倭王は九州にいたことを明確に物語っている。
0300日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 10:32:31.79
>>298
>畿内や阿波は、帯方東方にあたる。


まさに倭国(阿波)は帯方東南に在って、大海之中だわ。  「この書き出しだけで」即決。  @阿波
0301日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 10:44:01.89
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0302日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 10:45:53.44
もしかして北朝鮮ゆかりの方ですか
北朝鮮にあったのは、むしろ楽浪郡ではなあいですか

帯方東南に在ったといえば、まさに九州島がふさわしい。残念ながら阿波は東南東方≒東方。
0303日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 10:51:09.83
>>292
神武が東征を開始した日向は筑前の日向峠付近でしょうね
神武は伊都国の伝統を継承していたんですね。
0304日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 10:55:15.88
>>302
>帯方東南に在ったといえば、まさに九州島がふさわしい。

「帯方東南」に九州島は不適。
「大海之中」にも九州島は不適。 もはや、救いようがない。  @阿波
0305日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 20:23:18.02
帯方東南なんたらのくだりは王君らが本州が北東方向に伸びてたことを知ってはった証やな
王君は沃祖の長老に対岸の高志に渡来したオロチ族の生け贄文化も聞いてるし(須佐君に退治された生き残りやね?
0306日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 20:24:05.35
大海は日本海(解決
0307日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 20:28:21.39
倭国とは
筑紫から越
海の国
反対側が
狗奴たるヤマト(57577
0308日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 20:29:30.02
>>304
その前に四国が大陸側に認知されてたかどうか
今の若者は四国が島だということすら知らない奴が多いぞ
0310日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 20:41:32.05
>>308
>その前に四国が大陸側に認知されてたかどうか


「温暖」で、「橘」が採れることまで知ってるよ。 そして「其山有丹」もね。  @阿波
0311日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 20:42:44.93
>>309
夏草や
佐渡に横たう
天の河(なんかちゃうな?

越のやまたいのオロチは考えたことあるが却下した
0312日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 20:45:18.64
石川さゆりさんかわえかった?
0313日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 20:49:11.40
>>308
>その前に四国が大陸側に認知されてたかどうか

九州は大陸側に認知されていただろうが、倭国(阿波)までの通過点の認識だね。
「帯方東南」に九州島は不適。
「大海之中」にも九州島は不適。 もはや、救いようがない。  @阿波
0314日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 21:04:50.65
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0315日本@名無史さん垢版2018/09/04(火) 21:05:25.13
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0317日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 10:08:33.46
>>316

おめでとう。  それはよかった!  @阿波
0318日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 10:32:49.49
>>316
おや、
こんなところにも、例の「巨大前方後円墳」の赤村が登場してるな。辰砂のほうが本命か。
0319日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 10:45:55.29
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0320日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 10:57:50.30
>>318
「グーグルで見つけた巨大前方後円墳」の赤村と、「辰砂採掘跡」の赤村は同じ村のようだね。
但し、「巨大前方後円墳」と「辰砂採掘跡」は、北−南に約5q離れている。
0322日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 11:27:23.65
衛星で探す考古学なんて珍しくもないからなあ。
ずいぶん昔にエジプトの人も
東海大と組んでやってたな。
0324日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 12:46:41.23
地上でうろうろしたのではわからないところを、空からの画像で補うわけで、
あくまで有力な助っ人みたいなもんだろ。
水戸黄門さまより前に出てはいかん。
が、かといって助さん格さんがいなくても物語は進まぬからな。
0325日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 13:10:07.63
九州の浮羽や田川の辰砂の話しが出てきたので、夫々グーグルで確認したが、
景行天皇が、平野部の道を進まず、なぜ筑後から山道を越えて浮羽に立ち寄ったか、
その謎が解けた気がした。、
@阿波も、九州の大辰砂鉱山を知って、安心して眠れるだろう。
0326日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 13:38:03.24
まあ、グーグルで見て、面白そうなのがあった
  ↓
確認してみた
  ↓
確認したら違った

ってことでいいんだけれど、「確認したら違った」の部分がほとんど報道されず、
バカみたいに信じてるやつがいるから、罪作りだなと思う
0327日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 13:58:19.92
昔々、大新聞の大記者から聞いた。
うける新聞記事の要素とは、恨み・妬み・嫉みをかうことなんだそうだ。
マスコミは結構罪作りだし、そのマスコミ受けを狙う一部市民もそのクチなんだよ。
畿内方面にも居るんじゃないの。
0328日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 14:02:50.54
>>325
筑後から浮羽が山道?
0329日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 15:04:15.54
>>325
>@阿波も、九州の大辰砂鉱山を知って、安心して眠れるだろう。


いつもぐっすり、よく眠れているよ。 @阿波
0330日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 18:49:19.33
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0331日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 19:02:29.89
>>328
>景行天皇は、九州の西征におもむき、南九州を平定し、
>熊本方面から福岡県八女市を経て、耳納(みのう)山地を越えて、
>うきは市に入ったとされます。

肥後熊本から筑後に入り、山よりの八女市から耳納山地(山道)を超えて浮羽へ・・・。
グーグルで見ると、八女から浮羽へ近道がある。浮羽への出口(小塩)に辰砂採掘地あり。
0332日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 06:52:14.89
<佐賀郡椅寺>(いでら、椅は漢音・呉音ともにイ)
先に述べたように、
佐賀川上の五社大明神を中心とする一角に大願寺廃寺跡(約250m×125m)という遺跡がある。
この寺は7世紀には存在したようで、665年築城の佐賀/福岡・基肄城と同はんの百済系瓦が出土しているらしい。
またその規模及び地理的関係等から見て、
倭人伝に云う、「末蘆国、東南陸行五百里到る伊都国」の官衙跡地に相当すると考えてきた。

しかし付近一帯の地名は大願寺、小隈、山田、川上などであり、伊都を伺わせるものは見つかっていなかった。
ところがその後、「大願寺」に関して調べるうち、
千葉県で出土した梵鐘(歴博所管中)に「佐賀郡椅寺」(イ寺)とあり、
佐賀県や佐賀市では、これがこの大願寺の古名ではないかと推定しているらしい。
で、この古名の「椅(イ)」であるが、どことなく伊都国の「伊(イ)」を連想させないでもない・・・、
0333日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 12:07:23.56
>>332
末蘆国は宗方
以上
0334日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 12:47:21.48
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0336日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 16:36:16.83
>>335
>@粟は付けないの?ww


残念ながら、違う人だよ。  @粟  
0337日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:00:12.50
>>333
宗像は 紀元前から銅鐸圏の青銅取り入れた
邪馬台国とは別の、本州勢力の大陸フロントだよ。

末羅国は糸島半島北岸
伊都は、今宿の港から早良で
福岡平野の北西山麓には首都の山城がある
意外に有り得ないだろ?

いまだに、パズルが完成しないとかw 馬鹿じゃねwww
0338日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:04:08.82
で、銅鐸は?w
0339日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:05:19.05
>>337
>宗像は 紀元前から銅鐸圏の青銅取り入れた
>邪馬台国とは別の、本州勢力の大陸フロントだよ。


だから、福津・宗像が大陸の玄関口「末盧国」なんだよ。  @阿波
0340日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 12:40:20.60
>>337
大陸フロントを九州にするかね?
出雲あたりならわかるが。
0341日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 13:37:57.05
>>340
もともとは、
越、糸魚川、隠岐、丹後、出雲、隠岐、宗像、沖ノ島、対馬
の 日本海ルート これは、縄文以来の 黒曜石、翡翠 の道でしょ。

青銅の移入だと、結局半島も海岸水行になるんじゃないのかな?
公孫氏外交は卑弥呼より出雲〜宗像〜沖ノ島〜対馬だったり、もありでしょ。
0342日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 14:34:29.89
>>341

だから、福津・宗像が大陸の玄関口「末盧国」なんだよ。  @阿波

それはね。長崎方面は渡来人が半島へ帰る出航地だからなんだよ。  @阿波
0343日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 17:37:42.15
>>340
出雲に直接はアクセスできず、当時の航海術では壱岐や対馬を一渡海丸一日かけて、筑紫経由しかない。
つまり筑紫がフロント。
0344日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 17:39:01.95
>>341
魏志倭人伝では、壱岐対馬からは、宗像ではなく末盧国となっている。
0345日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 17:40:07.47
>>343
>つまり筑紫がフロント。

だから、福津・宗像が大陸の玄関口「末盧国」なんだよ。  @阿波
0346日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 18:11:28.07
おそらく末路は阿波れ。。。、
0347日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 18:35:52.34
346日本@名無史さん2018/09/07(金) 18:11:28.07

おそらく末路は倭国(阿波)。。。、  @阿波
0349日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 19:58:16.24
今だって、橋はあるけど二つ
0350日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 20:18:37.23
阿波の海洋知識だと関門海峡は永遠に使えなくないか?
潮時ってのは、太平洋、日本海、瀬戸内海、東シナ海での干満の時間差で決まるだろ?
海流ってのは安定してるけど、大潮や小潮は月の満ち欠けでも判るんだよ。 
阿波は瀬戸内海から出れんよ。 そんなんで淡路島行けるのか?
末路は水の泡だな。 海流の話はやめとけ。
0351日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 20:24:05.28
ニュー速プラスのミラースレで卑弥呼さん伊都説レスしてやったよ
わえの知的オーラに気圧されだれも逆らわんかったわ
0352日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 20:26:05.14
三好君のイチ押し四国は壱与ちゃんの邪馬壱かもなー?
なきにしもあらず
0353日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 20:27:04.31
障らぬバカに手を出すやつがいなかっただけじゃないかな(ボソ)
0354日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 20:27:23.71
>>350
>阿波は瀬戸内海から出れんよ。 

瀬戸内海出れん?  どうも、倭国(阿波)の地理を知らずにスカタン言ってるようだね。


>そんなんで淡路島行けるのか?

どうも、倭国(阿波)の地理を知らずにスカタン言ってるようだね。  @阿波
0355日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 20:40:33.50
>>353
お?ジョッカ君か?まあAMS根拠に纒向が狗奴国やともレスつけといた(まあだいぶ割愛しましたが
0356日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 21:16:54.82
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0358日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 21:28:43.84
>>356
もっとシンプルでいいと思う

縄文人は縄文時代から結構濃厚な農耕体験を持っていた
旅人が食料として持ち運んでいた米を、そのまま栽培し始めた、でいいんでね?

最初は陸稲から
0359日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 23:17:31.69
>>358



で、最古水田以前に農耕と陸稲があった事を証明する証拠遺跡と、
その痕跡たる農具と陸稲の証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?


で、最古水田以前に農耕と陸稲があったとウソブいている
頭の湧いたキチガイ考古学者の氏名と所属団体は?


.
0360日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 00:55:00.33
陸稲はしょせん雑穀の1つに過ぎず、縄文人がそれを食べていたとしても意味はない。
水稲は生産体制、暦、灌漑システムなど、社会の構造の改変を要求する。
弥生時代という、王政が成立する時代が水稲の導入された時代でもあるのは、偶然ではない。
その変革の中心地は玄界灘沿岸であり、そこが倭国発祥の地だ。
0361日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 12:30:34.95
>>359
>で、最古水田以前に農耕と陸稲があったとウソブいている

水田に陸稲はないだろ?
水田遺構もないのに、やたら古いイネのプラントオパールが出たとか言ってるところは
陸稲でいいんじゃないかね?

>>360の言うとおり
「陸稲はしょせん雑穀の1つに過ぎず、縄文人がそれを食べていたとしても意味はない」んだからさ
0362日本@名無史さん垢版2018/09/13(木) 22:46:58.45
>>349
対馬は元々は一つの島だったんだよ
明治に船舶の往来の為に島がクビレた場所を掘削して水道が造られ橋が架けられたんだよ。
0363日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 23:57:29.37
私の話が邪馬台国の時代よりも古すぎるから、興味ないかたはご免なさい。

糸島にある現在の怡土(読めるかな?)が、伊都国。

平原遺跡。

日本最古の女王墓(時代が古すぎるから、卑弥呼ではない)であり、ここでは、世界最大級の鏡を使った祭祀が行われていた。
夏至の日出、冬至の日出、そのまん中の日の日出(中日という)の方角には鳥居のような後が発見された。中日の日出の鳥居の延長線上には、三雲遺跡と日向峠を望むことができる。また、日向峠のすぐ左をクシフル山、その隣の山を高祖山という。
夏至の日出の山には神岩がある。
そこには奈良時代に聖武天皇の勅令で42坊のお寺、染井山霊鷲寺が建立された。
後に神聖な山として山を囲むように怡土城が築かれた。
高祖という場所には伊勢の山という地名がいまでもある。
ここからは、三種の神器が多数出土している。
0364日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 00:19:56.87
むかーしむかし。
日本は大きく二つのグループに別れていました。
西を治めていたのは、伊(倭)国。東を治めていたのは、大和(邪馬台)国でした。
西の伊(倭)国は、先進国の漢と近かったため、最新の文化、芸術、技術が入ってきて栄えました。
東の大和国は、独自の文化圏を作り上げ、すごーく発展しました。ある日、サミットが開催され、伊都国王の師升が、『お互いに手を取り合ってスゲー日本を作ろうぜ!』と言いました。
首都の場所は大和で、治める人は伊(倭)の都の王さまでよくない?と言いました。

そして、日本は誕生しました☆

すなはち、倭と大和は別物。


魏史倭人伝もいいけど、旧唐書にも、いろあろ書いてあるよん☆


倭⇋伊
邪馬台国⇋大和

金印に記されている『漢奴倭国王』。
当時の奴国と伊都国は少なからず政治的連携していましたの証。
実際、岡本遺跡、三雲遺跡、井原遺跡、平原遺跡は連動している。
0365日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 00:22:30.29
頭の病院に行けと言っているんだよ

『倭猿』

これは、どういう意味だと思う
0366日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 00:26:03.29
>>363
>日本最古の女王墓(時代が古すぎるから、卑弥呼ではない)であり、ここでは、世界最大級の鏡を使った祭祀が行われていた。

古すぎません。
副葬品の年代からは、むしろ卑弥呼の年代以降だと考えられています。
0367a垢版2018/09/15(土) 00:31:21.22
今こそ血涙の文字で告白しよう!!
僕たちが純粋な輝きを失って大人になってしまったらお座なりとおべんちゃらと、陰口と
服従と妥協と打算と倦怠と保身の中で、ずるがしこく、チョロチョロと動き回りながらネズミの
一生を送るようになるんだ。
それから結婚して子供を作って、世の中でいちばん醜悪な母親という大人になるんだ。
ああ、時間の流れとはなんと残酷なのだろう!!
生きることと老いることが同義語だという過酷な命題を直視しなければならないんだ。
老いはまさしく肉体と精神の双方の病気だったが、老い自体が不治の病だということは、
人間存在自体が不治の病だというに等しく、われわれの肉体そのものが病であり、
潜在的な死なんだ。
衰えることが病であれば、衰えることの根本原因である肉体こそ病だった。肉体の本質は
滅びに在り、肉体が時間の中に置かれていることは、衰亡の証明、滅びの証明に使われて
いることに他ならないんだ。老いはすさまじい恐怖であり苦痛であり真実である。
このままだと僕たちは腐敗して汚れて蝕まれたおぞましい大人になってしまうんだ。
テチには限られた貴重な時間を死にものぐるいで生きてもらって思う存分に輝いてもらいたい。
ああ、一分一分、一秒一秒、二度とかえらぬ時を、人はなんという稀薄な生の意識で
すりぬけるのだろう!!そして血が失われるように時が失われていく。
そしてテチが二十歳になったら、その最後の輝きの絶頂の中でステージ上で美しく鮮烈に
死んで欲しい。
ああ、テチの光輝あふれる美しい肉体と精神が劣化することも衰退することもない永遠の伝説
となり歴史となるために無慈悲な時間の流れを止めたい!!
その時、テチには誰かもわからない僕も自殺する。
大人になるテチなんか絶対に許さない。僕はテチと血まみれになって心中する。
テチを殺すことを許してください。テチをステージ上で銃殺する。
僕の血とテチの血が混ざり合って純化されるのだ。
これだけはわかって欲しい。僕が誰よりも平手友梨奈を永遠に愛していることを・・
0369日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 04:59:10.40
>>368
了解です!
では、伊は怡で間違いないですか?
0370日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 05:12:06.69
>>366
糸島では、平原遺跡は、2〜3世紀前半。三雲、井原は2世紀。東谷、伊勢乃山は、1〜2世紀、西堂は、紀元前と勉強します。『いとしま学』教科書より。
0371日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 08:39:05.65
>>370
副葬品の作られた時代を遺跡の年代としてるために副葬品の埋葬された年代よりは50年くらい古くなってるようですね。
0372日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 08:57:12.19
平原は卑弥呼が使っていたものを死後に埋葬したと考えるとぴったり。
0374日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 09:06:25.40
>>372
>平原は卑弥呼が使っていたものを死後に埋葬したと考えるとぴったり。

>>370「平原遺跡は、2〜3世紀前半」
平原1号墓の後に、もう一世代分、平原3・4号墓が作られている
そしてその3・4号墓の後で、曽根遺跡群は古墳時代に入るから、
平原1号墓の編年は3世紀まで持って来たとしてもかなり前半にしかならない

というか、九州説の人はいいかげんに平原遺跡と平原1号墓を区別できるようになろうよ!
0375日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 10:22:48.30
3世紀前半はまさに卑弥呼の治世。
その頃の品が副葬されていたなら、卑弥呼の墓と考えるのは不適当ではない。
0376日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 10:24:03.87
>>374
>というか、九州説の人はいいかげんに平原遺跡と平原1号墓を区別できるようになろうよ!

あんたが勝手に混ぜっ返しているだけで、普通の人は1号墓の話をしているんだよ。
0378日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 10:45:59.25
>>375
>3世紀前半はまさに卑弥呼の治世。
>その頃の品が副葬されていたなら、卑弥呼の墓と考えるのは不適当ではない。

副葬品の年代じゃなくて、墓の築造年代の推定値だよ>「平原遺跡は、2〜3世紀前半」

卑弥呼の生前に作られた墓が、卑弥呼の墓のわけがないだろうに
0379日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 10:51:24.03
>376
>あんたが勝手に混ぜっ返しているだけで、普通の人は1号墓の話をしているんだよ。

それがごまかしww

平原遺跡といって1号簿のことと言いかえることで
平原5号墓、平原2号墓、平原3・4号墓のことを考えないようにしている

平原遺跡は、累代的な造墓がみられる伊都国地域の有力家系の家族墓地と見るのが相当
そして、1号墓以外は厚葬墓と呼べるだけの副葬品を持つ墓はなく、どうみても
伊都国王(首長)家の家族墓地ではない

伊都国王(首長)家の墓は、紀元前から古墳時代まで三雲遺跡群に作られることからも、
平原遺跡は伊都国王(首長)家の墓地ではない

伊都国が卑弥呼の都で、伊都国に居るとされた王こそが倭王だという、伊都国説の根幹は
平原遺跡を5号墓から3・4号墓までの全体と把握すると、もろくも否定されてしまう
0380日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 10:54:11.96
倭国の女王の家族や子孫が近傍に墳墓を作るのは
まあ、普通のことだろうからな。
0381日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 11:00:36.18
平原伊都国説は、方角と里数でペケ
0382日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 11:27:24.43
>>378
>副葬品の年代じゃなくて、墓の築造年代の推定値だよ>「平原遺跡は、2〜3世紀前半」

耳璫を無視かよ。
副葬品からは2世紀は厳しく、3世紀中頃以降だよ。
0383日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 11:28:26.59
>>379
>平原遺跡は、累代的な造墓がみられる伊都国地域の有力家系の家族墓地と見るのが相当

その家系から女王が共立されたんだろ。
0385日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 11:56:47.64
つまり平原はむしろぴったりの状況だ。
0386日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 12:10:46.51
>>380
>倭国の女王の家族や子孫が近傍に墳墓を作るのは
>まあ、普通のことだろうからな。

近傍に作るのはいいが、倭王が家族墓地というプライベート空間に墓所を作ると
いうのがおかしい

まあ、その前に、平原1号墓の墳丘サイズは長辺12メートル
魏の度量衡で十歩に満たない

径百歩は誇張混じりでもよいと思うが、10倍はないだろう
平原1号墓を卑弥呼の墓の候補にするのは、
「他に候補がないから」以上の理由はない
0387日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 12:15:55.11
>>386
おかしいというのはあなたの主観であり、意味はない。
0388日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 12:29:35.73
平原伊都国説は、方角と里数でペケ
0389日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 12:39:23.62
それは魏志倭人伝の読み間違い
0390日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 13:16:49.39
>>373
ありがとうございます♪
0391日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 13:28:24.50
10月20日朝6時30分頃に、平原遺跡にいらっしゃれば平原がただの女王様のお墓ではないことが、全て解ると思います。

伊勢神宮の関係者の方も多数こられますので。
0392日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 13:34:25.54
>>387
>おかしいというのはあなたの主観であり、意味はない。

では、主観ではない実測地で示そうか

平原1号墓の墳丘サイズは、遺跡公園の案内看板の数値で
12メートル×8メートル

これまで、北部九州で王墓とされている甕棺墓の墳丘サイズが
三雲南小路遺跡王墓で30メートル四方程度とされており、
須玖岡本遺跡D地点王墓も墓域が確定できていないけれども同程度の30メートル四方くらい

200年前の王墓と比べても、平原1号墓はしょぼい

同時代の他の地域の王墓級地域首長墓は
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え、四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある

纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

これらと比べても、平原1号墓は圧倒的に小さい

北部九州で、ほぼ同時代の倭王墓ではない地域首長一族の家族墓である吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓でも南北約40メートル、東西約27メートルの大きさがある

墳丘の底面積で、平原1号墓は吉野ヶ里の首長家族墓の10分の1にすぎない

そんな倭王墓はないし、魏志倭人伝に「大作冢徑百餘歩」と書かれた卑弥呼の墓である訳がない
0393日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 13:40:50.01
>>391
>10月20日朝6時30分頃に、平原遺跡にいらっしゃれば平原がただの女王様のお墓ではないことが、全て解ると思います。

>伊勢神宮の関係者の方も多数こられますので。

またうそをついてるww

それ、照富神社の宮司さんがやってる「みあれ祭」のことだろ
というか、10月20日に平原遺跡でやってるお祀りはそれしかない

そして、夜明け時じゃなくて昼前の11時ごろからやってるものだし、
伊勢神宮の関係者なんかは一切来ないよ

「平原遺跡で10月20日に みあれ祭をやっているのは、「糸島市の神社ではなく」
 「那珂川町の照富神社」
 その平原遺跡でのみあれ祭は、「夜明けとは関係なく午前11時頃から」行われる
 「みあれ祭」という名称は、通常、宗像大社の秋季例大祭の海上の祭礼を指す
 宗像大社のみあれ祭は10月1日催行で、10月20日には関係ない

 また、平原遺跡のみあれ祭についての古い記録も一切ない 」
0394日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 14:07:57.37
>>392
すぐ近くの三雲などが王墓なのに、同じ系列の平原が王墓でないと思う方がおかしい。
平原が王墓でないなら、遥か離れたところのまったく違う墓制の箸墓が王墓なわけないよな。
0395日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 14:42:32.45
>>394
伊都国推しなら、伊都国の考古学的状況くらいは自分できちんと把握しておきなよ

>すぐ近くの三雲などが王墓なのに、同じ系列の平原が王墓でないと思う方がおかしい。

伊都国には、
三雲遺跡群の井原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡、端山古墳、築山古墳という首長簿の系列と
曽根遺跡群の平原遺跡(5号墓、1・2号墓、3・4号墓)、ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の系列の
二つの累代的造墓が想定される家系が想定できる

三雲遺跡群の方が、伊都国中枢でありこちらが首長墓(伊都国王墓)と想定されるのが当然
曽根遺跡群も伊都国の有力家系であるのは間違いないだろうが、王墓の地が使えない時点で
伊都国首長の家系ではない

それに、平原遺跡の立地が三雲遺跡群基準で決められているように見えるのも、
曽根遺跡群の家系が従の立場であることを伺わせる

平原が王墓でないなら、遥か離れたところのまったく違う墓制の箸墓が王墓なわけないよな。
0396日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 14:43:19.14
平原1号墓の墳丘サイズは、遺跡公園の案内看板の数値で
12メートル×8メートル
ほぼ同時代の吉野ヶ里遺跡の地域首長一族の家族墓である北墳丘墓でも
南北約40メートル、東西約27メートル

ほんとだ、面積で1/10にすぎない。土量なら数十分の一とかになるんじゃないの。
0397日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 14:45:19.16
>>394
>平原が王墓でないなら、遥か離れたところのまったく違う墓制の箸墓が王墓なわけないよな。

箸中山古墳は、卑弥呼の共立によって確立された倭国の新しい秩序を具現した「まったく新しい墓制」
なのだから、それまでとはまったく違う墓制である点からも、初代共立(統一)倭王の墳墓にふさわしいといえる

まあ、現在の標準編年では、卑弥呼の死より数十年新しいから、卑弥呼の墓で確定とは言わないがね
0398日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 14:47:09.96
>>393に反論がないから、>>391はガセネタでしたってことでいいな!

九州説はこんなのが多すぎる
まあ、まじめに論じようという人もいるんだろうけれど
0400日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 16:12:43.52
また、そういう適当なことをww

魏志倭人伝の記述を「信じるなら」、
邪馬台国の向こうっ側に、次有斯馬國、以下20カ国の余傍国があって、
そこまでが女王国(此女王境界所盡)

で、争う相手の狗奴国はその向こうなんだから、邪馬台国は戦場になんてならないぞ
戦中とは言うけれど、侍女千人使えるんだから、墓を作るのに男衆千人くらいは当然
駆り出せないとおかしい

平原1号墓の縦12メートル横8メートルの方形周溝墓くらいなら、
成人男子が10人もいれば、1週間とかからずに作れるだろ?

逆に言えば、戦争中といっても、そんな小さな墓しか作れないような倭王は
ありえないよ
0401日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 16:31:50.20
>>395
三雲の男王たちの時代の少し後に平原の女王が共立される。
これで全て説明できる。
0402日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 16:32:54.56
>>397
>まあ、現在の標準編年では、卑弥呼の死より数十年新しいから、卑弥呼の墓で確定とは言わないがね

何を用いた編年?
耳璫は魏晋代以降だよ。
0403日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 16:34:15.41
>>400
筑紫が邪馬台国なら、狗奴国は肥後。
それほど遠い敵ではない。
かなり緊張状態だったと思うよ。
0404日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 16:45:20.20
>>401
>これで全て説明できる。

「其山有丹」の説明はどうするの?  @阿波
0405日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 17:23:35.44
>>402
>何を用いた編年?
>耳璫は魏晋代以降だよ。

何をかん違いしているんだい?
>>397は、箸中山古墳の話だよ?

平原1号墓を卑弥呼の墓だとか寝言をいうのは、
本当に何も分かっていない、考えていない人だけ
0406日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 17:25:30.34
>>401
>三雲の男王たちの時代の少し後に平原の女王が共立される。
>これで全て説明できる。

それで、古墳時代に入っても、伊都国の首長墓が端山古墳、築山古墳と
三雲遺跡群に作られ続けるのと、どう整合性をとるんだ?

思いつきで適当なことを言っても、周辺上をを少し広く見るだけですぐに破綻する
0407日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 17:26:55.71
>>403
>筑紫が邪馬台国なら、狗奴国は肥後。
>それほど遠い敵ではない。
>かなり緊張状態だったと思うよ。

それ、勝手に>>403が「そう思った」ってだけじゃん

侍女千人使っているかなりの緊張状態の女王の宮室なんてないよ
侍女が逃げるだろww
0408日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 17:40:31.02
>>406
複数の王家が併存していたということだろ。
国津神と天津神だな。
0409日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 17:41:03.66
>>407
前線は筑後平野だから。
0411日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 18:15:43.81
キナイコシは何十行も書いてようやく反論しているけど、キナイコシに反論するのは1、2行で済むなw
もうくだらない言いがかりレベルの反論を繰り返すのは無駄だからやめたら?
0412日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 21:47:34.98
伊都クズもくだらない妄想を繰り返すのは残り少ない人生の無駄だからやめたら?
0414日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 00:52:20.60
九州とか東北はどちらもメンタリティが半島人に近いな。
0415日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 01:24:16.33
>>413
歴史学、考古学の方法論を無視したマイルールの妄想を振り撒いているのは伊都クズなんだけど
0416日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 09:08:52.99
私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)

畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)

大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)

熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長)
0417日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 10:25:07.42
ほう、
畿内説を唱える畿内人はくだらないと思っていたが、実は、百済なる種族だったのか。
0418日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 10:38:00.23
>>124
>3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,
弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが
日本考古学界で広く受け入れられている。<

卑弥呼の墓が「冢」であって前方後円「墳」ではなかったんだから、前方後円墳は、3世紀の第四四半世紀以後頃。

>しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。
したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。

米田がいうように、大和と河内は別権力であった、という事の証拠。
0419日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 10:39:30.53
>>124
>纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,<

いや、那珂八幡や津古生掛などの筑紫が中心であったのであり、河内付近や大和は筑紫からの伝来。

>そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは
大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,
一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,
豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。<

これも×。庄内は三雲が先行し、弥生銀座でも在地の胎土で造られ、それが、瀬戸内以東へも伝番した事になる。

>これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,<

嘘つき。卑弥呼の時代から、「官」が存在した。

>したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,
地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。
古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,
少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。<

まるで、筑紫が中央であ大和が田舎であった、と言う事を佐々木は告白しているみたい。
0420日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 10:41:22.43
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0421日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:14:33.84
>>410
>大きくなければ王墓じゃないとか、根拠のないお話

この件一度も九州説から返答がないんだが、
「用の東西を問わず、臣下に王より大きな墳墓の築造を許した王朝があれば教えてくれ」

答えられなければ、
「墳墓の大きさはステータスの象徴であり、
 当代最大のものが王の墳墓の蓋然性が最も高い」
というのは、思いつきでも思い込みでもない、世界史の普遍的な判断ってことだ
0422日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:29:09.55
>>421
>当代最大のものが王の墳墓の蓋然性が最も高い


大きさに「王の墳墓の蓋然性」はない。

「王の墳墓の蓋然性」が高いのは、山稜の墳墓(円墳)。  @阿波
0423日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:32:07.35
>>421

それが正しいとすると
つまり各地に大小の国家があって
各地にそれぞれの墳墓が作られたってことだね。
0425日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:44:50.39
>>423
>つまり各地に大小の国家があって

逃げまくってるねww

前方後円墳体制という、一つの秩序が日本列島の相当部分を覆っていて、
その範囲内は同一の秩序の下にあるんだが?
0426日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:46:12.61
伊都国も、奴国も前方後円墳を作っていて、
それでいて畿内、吉備より大きなものを作れていない時点で、
伊都国、奴国は小さな地方勢力ってことだ
0427日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:48:40.01
>>421
卑弥呼の支配権が畿内には及んでいなかっただけでしょ。
0428日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:49:42.82
あくまでも伊都国にいた倭王の墓制は方形周溝墓だし。
0430日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 17:17:51.59
北部九州は前方後円墳と同時期に
大型の円墳や方墳、手鏡型など
バリエーションが多いからね。

もちろん前方後円墳もあるから
大小国家の好みでしょう。

前方後円墳体制なんてどこの話かねえ?
0431日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 17:54:13.82
前方後円墳は、集大成と言うよりははみ出し者が下克上して天下を取ったイメージがある。
ああ、旧唐書のままか。
0432日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 18:21:46.30
>>429
>違う時代の話をされましても

古墳時代には日本列島の広い範囲で前方後円墳を作るという合意が為されており、
それが事実上倭国の範囲そのものと見なせる

そして古墳時代の全期間を通じて各時期の最大の古墳は畿内に作られ続け、畿内に
前方後円墳体制の盟主があることは明白

ここまでは、「ごく一部の九州説(九州王朝説:古田史学の一派)」以外は認めること

邪馬台国論争は、邪馬台国の絶対年代が古墳時代に入っているかどうかに焦点がある

そして、学究畑では編年研究の成果から3世紀初頭には前方後円墳体制が成立していたと
考えられるようになっている

これが全てだよ
既に決着済み
0435日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 18:28:13.76
>>431
>ああ、旧唐書のままか。

旧唐書の元ネタは、唐会要
両者を比べれば、旧唐書はある意味劣化コピーと言える

そして唐会要の99巻倭人伝(日本伝は100巻に記載で明確に区別できる)に
大和朝廷の遣唐使藤原朝臣常嗣の名がそのまま記載されており、畿内大和朝廷が
倭国そのものだったことが確認できる

全文貼っとくけど、不満なら自分で調べてね
 倭國古倭奴國也。在新羅東南。居大海之中。世與中國通。其王姓阿每氏。設官十二等。俗有文字。敬佛法。
椎髻無冠帶。隋煬帝賜之衣冠。今以錦綵為冠飾。衣服之制。頗類新羅。腰佩金花。長八寸。左右各數枚。以明貴賤等級。

 貞觀十五年十一月。使至。太宗矜其路遠。遣高表仁持節撫之。表仁浮海。數月方至。自云路經地獄之門。
親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絕。

 永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。
新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。頗有絲綿。出瑪瑙。有黃白二色。其琥珀好者。云海中湧出。

 咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。

 大歷十二年。遣大使朝楫寧副使總達來朝貢。

 開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
0436日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 18:29:39.44
>>434
>編年とか信頼性ゼロだから

結局、九州説は専門家の長年の研究成果を
「自分の考えに合わないから関係ない」
「信頼性ゼロ」
と、意味不明なことを、呻き続けるだけであったww

 ちゃんちゃん
0437日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 18:30:45.55
>>432
>そして、学究畑では編年研究の成果から3世紀初頭には前方後円墳体制が成立していたと
>考えられるようになっている

畿内で先行していても、九州は関係ないですよね。
そもそも畿内の年代も疑問だらけですし。
3世紀真っ只中に平原遺跡という倭国女王墓と考えられる遺跡がある以上、考古学的には畿内は不利ですよ。
0438日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 18:31:49.59
>>435
>大和朝廷の遣唐使藤原朝臣常嗣の名がそのまま記載されており、

そのまま読めば、筑紫倭国の遣唐使だったのでしょう。
0439日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 18:32:37.57
>>434
>編年とか信頼性ゼロだから

信頼性ゼロだって、どうやって判断してるの?

「信頼性ゼロ」だと判断する「具体的な根拠」を教えてよ?ww

まさか、AMS法でプラズマ化してるから、14Cの崩壊確率が変わる、とか言わないよなww
0440日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 18:32:42.06
>>435
> 倭國古倭奴國也。

この一文で、倭とは九州北部に確定しますよね。
0443日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 18:48:51.53
>>440
>この一文で、倭とは九州北部に確定しますよね。

全国、広しと言えども
「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけ。
当然、倭国ではない九州にも畿内にも有りません。 

「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。  「大和」と付いている。

一方、「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。  阿波なのに「倭」とある。

何故、阿波国であるにもかかわらず、「倭」と付く神社があるのだろうか?

これは、阿波が「倭(やまと)」であり、一方、奈良は「大倭・大和(おおやまと)」ということが、はっきり示されているのである。  @阿波
0444日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 18:55:59.52
平原遺跡の副葬品の耳璫は3世紀中頃以降、魏晋代のものですね。
つまり晩年の卑弥呼が身につけていたものです。
0446日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 19:12:53.62
>>440
>この一文で、倭とは九州北部に確定しますよね。

同じ国だと認識しているというだけで、同じ場所にあるとは誰も言ってないよww
場所に関しては、「帯方東南大海之中程度」の認識で同じとしているだけ

九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと

魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」

邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている

漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを続けている訳だ

隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している

隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ

この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ
0447日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 19:14:43.03
>>442
>信頼性がある根拠がないから

では、どんなものが信頼性のある編年根拠といえるのか
「具体的に示して」おくれ

っていうか、これ⇒「信頼性がある根拠がないから」
それこそ「具体性ゼロ」だよなww

ただの感想ww
0448日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 19:16:47.07
>>441
>平原が247年、これを前提にしないとね

平原3・4号墓が、それくらいになるかな
まあ、247年とかピンポイントで編年できる理由がまったくないけれど

平原1・2号墓は、それより前で、3・4号墓の1世代分、古墳時代まで間が開かないといけない
                   ↑
                具体的な指摘
0450日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 19:39:48.84
>>421
>「用の東西を問わず、臣下に王より大きな墳墓の築造を許した王朝があれば教えてくれ」 <
横レス失礼します
卑弥呼さんは倭人域内の一部の地域の複数有力者に共立されたいわば盟主よ
共和制内部における全ての構成員が盟主の臣下である必要はないよ?
当然盟主国内で墳墓の規模がナンバー1たる必要もない(君主ちゃいまっせ
0451日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 19:51:05.03
>>425
前方後円墳体制があったのかもしれんし無かったのかもしれん
どっちにしても幕藩体制末期未満のもんやろなあ (マジレス
0452日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 19:56:03.01
古墳出現期の絶対年代は理系エリートたる人が納得出来るもんは皆無やし?
0453日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 20:03:24.17
平原1号に拘らんでも三国志に卑弥呼さんは伊都やとあるわ?
0454日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 20:04:41.58
【伊】【都】!
0456日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 20:40:30.58
耳璫への反論はまだですか?
0457日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 20:41:29.16
>>446
>「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと

マイルール
0459日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 20:59:22.02
考古学的証拠を無視し続けるキナイコシ
0460日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 21:07:47.67
自分で否定したのにそれを理解できていない非論理的思考の塊、伊都クズ
0461日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 22:03:53.63
>>458
平原遺跡の耳璫は、浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型であり、3世紀中頃以降の様式です。
0462日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 00:03:42.17
>>461
>平原遺跡の耳璫は、浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型であり、3世紀中頃以降の様式です

同型って言葉でごまかしてるけれど、何をもって同型と判断してるんだ?
それよりも古いものとなぜ違うと判断できるんだ?

それを示すのが「具体的に」ってことだよ
0463日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 00:08:02.99
具体的に同じものを示しているのにそれかよ。
それより古い時代の同じものをそちらが示さなければ、論証したことにならないことを理解しろよ。
0464日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 00:13:21.06
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている

・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。
0465日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 00:47:04.31
>>393
昨年は、朝の六時半に、伊勢神宮の関係者の方、カメラマンの方など、20人ほどがこられました。昼前からやっているのは平原王墓祭りという、雷山地区の祭りです。本物は10月20日、日出にあります。

なぜなら、平原遺跡は、墓であるが、太陽信仰の祭りの場所のあともあります。
0466日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 09:49:28.00
>>464
それが考古学者の編年作業によって得られた見解
それを「個人の感想レベル」と全否定したのが伊都クズ
0467日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 09:59:50.68
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0468日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 11:40:03.98
>>450
>当然盟主国内で墳墓の規模がナンバー1たる必要もない(君主ちゃいまっせ

共立であるからこそ、きちんと立てないといけないんだよ
共立であっても盟主は盟主だ

そこは共立メンバーで協力して、ナンバー1の墳墓を作らないと、
揉め事の種にしかならない

まあ、実際、卑弥呼の死後は揉めたんだがな
0469日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 11:43:15.93
>>463
>具体的に同じものを示しているのにそれかよ。

世の中に、どれだけ耳璫があると思ってるんだ?
文字で、これとこれは同じ、といっても何の説得力もないんだよ

平原1号墓の耳璫にはこれこれこういう特徴があって、その特徴のうち
これこれが浙江省杭州老和山搏室墓の耳璫と同じだから、とかいう形で論じないと意味がない
0471日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 11:46:59.76
卑弥呼の死後は同族じゃない男王が立って乱れたんだから、立派な墓を作ってる余裕はないんだよな
0473日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 11:49:21.67
>>471
>卑弥呼の死後は同族じゃない男王が立って乱れたんだから、立派な墓を作ってる余裕はないんだよな

魏志倭人伝の「卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩」は無視ですか?
そんなんだから、チェリーピッカーって呼ばれるんだよw
0478日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 19:53:12.77
>>469
>平原1号墓の耳璫にはこれこれこういう特徴があって、その特徴のうち
>これこれが浙江省杭州老和山搏室墓の耳璫と同じだから、とかいう形で論じないと意味がない

ググレカス
0479日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 19:55:31.11
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人
卑弥呼以て死す、大いに冢を作る、径百歩余り、殉葬者の奴婢百人余り。

百・・・あまた。多数。
百科事典、百鬼夜行
径が大きい、奴婢が多数。
0480日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 20:02:20.43
考古学者の編年作業を否定しておきながら自分に都合のいい編年観には丸乗り
これこそが"マイルール""チェリーピッキング"
0481日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 20:54:17.93
徑百餘歩も狥葬者奴碑百餘人も実際に100歩や100人じゃなくて象徴的に大きい、多いって意味だな
実際にはもっと大きかったかもしてないし、それ程でもなかったかもしれない
丁度径100歩や100人ではないな。
0482450垢版2018/09/18(火) 21:22:02.80
>>468
訂正します
× 当然盟主国内で墳墓の規模がナンバー1たる必要もない(君主ちゃいまっせ
〇 当然盟主が共和内で墳墓の規模がナンバー1たる必要もない(君主ちゃいまっせ

ジョーカー君?の使いはった王朝いう言の葉に対してのレクチャーが言葉たらずで理解されんかったようやな(政治学は選択しませんでしたか?
卑弥呼さんを共立した倭人の領域は共和体制であって世襲君主国ちゃうよ
だから王朝いうんは不適切や
伊都邑の首長くらいは卑弥呼さん一族で世襲したかもだが共和体制下の王権は一代限りな
葬儀や墳墓の大きさの理由が王権継承パフォーマンス以外あるんやったらしらんが他に理由ないんなら伊都邑首長継承程度のが妥当やろ
0483日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 21:29:00.30
>>479
あるある(天照大神もいうてはった
または東夷伝ではばかでかい袖だか槍だか登場するし長さの単位系話1/5位で読むべきかも
0484日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 21:36:43.80
つうか
卑弥呼さんもって死し大いに塚を作る
さしわたし100余歩に殉葬者ぬひ100余人

政君らは殉殺の凄惨さを100余歩で表現したんかもな
0485日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 21:38:25.65
商の風俗やね(殉殺
0487日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 21:45:28.50
副葬素環ソードの長大化ブームは3世紀後半からやし平原1はその魁かもな
0488日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 21:46:40.12
殉殺の刀か?(恐ろしや
0489日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 21:49:57.41
玄界灘に商の文字発見されなかったですか?(うろ覚え
0490日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 21:56:59.22
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0491日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 22:00:57.37
ん?
日本人の起源なんたらは遺伝学で解析し始めますよ?
越人は山東を拠点化したこともあるし日本にもきたろ?
スクナビコナやろ?
0492日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 22:24:35.45
径を測ったり、人数を数えたりはしてなくて
大きい大勢をフィーリングで100歩や100人と表現してるな。
0493日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 23:54:55.46
なるほど
倭人が八を大きい数字の代表で用いたのと同じか
0496日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 07:45:14.83
大きい、というだけだから、平原でもいいわけだ。

ま、箸墓とか大きすぎて、どう見ても4世紀以降だしな。
0497日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 09:48:49.15
そうさ、
畿内説なんて、箸墓の大きさを借りて自説を大きく見せかけただけ。中身はカラッポ。
0498日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 11:13:46.19
>>496
>大きい、というだけだから、平原でもいいわけだ。

よくねーよww

客観的な数値比較で「小さい」だろ

平原1号墓の墳丘サイズは、遺跡公園の案内看板の数値で
12メートル×8メートル

これまで、北部九州で王墓とされている甕棺墓の墳丘サイズが
三雲南小路遺跡王墓で30メートル四方程度とされており、
須玖岡本遺跡D地点王墓も墓域が確定できていないけれども同程度の30メートル四方くらい

200年前の王墓と比べても、平原1号墓はしょぼい

同時代の他の地域の王墓級地域首長墓は
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え、四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある

纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

これらと比べても、平原1号墓は圧倒的に小さい

北部九州で、ほぼ同時代の倭王墓ではない地域首長一族の家族墓である吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓でも南北約40メートル、東西約27メートルの大きさがある

墳丘の底面積で、平原1号墓は吉野ヶ里の首長家族墓の10分の1にすぎない

そんな倭王墓はないし、魏志倭人伝に「大作冢徑百餘歩」と書かれた卑弥呼の墓である訳がない
0499日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 11:18:41.57
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0501日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:41:37.38
筑紫倭国以外の墓を持ち出してもしょうがない。
吉野ヶ里は勢力下だったが、3世紀にはもうそのような大きな墓は作られていない。
3世紀において筑紫で一番の厚葬墓が平原遺跡だよ。
0502日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:46:04.61
平原一号は二世紀
0503日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:59:53.69
>>500
>戦争中だからしょうがないわな

侍女千人侍らせてるんだから、墓の土を盛る男子だって千人くらい軽く動員できなきゃおかしいだろ?
以婢千人自侍

平原1号墓の墳丘サイズなら、成人男子が10人もいれば1週間で作れるぞw
戦争中なんていう言い訳は通らないw
0504日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:01:13.62
>>501
>筑紫倭国以外の墓を持ち出してもしょうがない。

いんや、筑紫倭国に王墓がなかったってことだよ
土器の移動から、吉備とも出雲とも大和とも付き合いはあったのは確実なんだから、
仮にも倭王がそれより小さな墓ではダメだろうww
0507日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 16:12:10.19
>>504
付き合いがあっても、魏の使いは伊都に滞在するから、出雲や吉備のことなんか知らないんだよ。
0508日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 16:14:26.89
>>504
交流があるから、同じ国ではないよ
縄文から交流自体はすでにあちこちであるわけだが、同じ国であった、とは言わないだろ?
墓の様相もまだ各地域バラバラだし

連合国等の勢力関連は第一条件が交流、第二条件は文献との一致で推測するしかないが、
この第二条件が大事なんだよ
文献がかろうじてある卑弥呼時代はまだマシだな
0509日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 16:24:02.42
まあ、筑紫と出雲は記紀にも交流が記録されているけど、繁栄していた出雲から王権を奪って成立したのが筑紫と書かれているよ。
0510日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 16:50:45.58
>>509
>まあ、筑紫と出雲は記紀にも交流が記録されているけど

そんな記載はない。  @阿波
0511日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:01:08.49
九州説は行間を妄想で埋めまくって、別の物語にした挙句、史料に書いてあるって言い出すからな
0512日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:02:05.66
>>505
>だから1週間で作ったんだろ、何を反論したいの?

1週間で王墓を作った倭王なんて居ないってばさww
本当に惨めなことを真顔で言い出すから驚くよw
0514日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:12:17.61
こっちが言ったのは、「平原1号墓」は1週間もあればできる、だよ

勝手に「平原1号墓」を「王墓」に変換・捏造しないようにww

大体、ほぼ同時代の吉野ヶ里の北墳丘墓と比べて平面プランで10分の1だぞ?
しかも吉野ヶ里のほうが古い

これで倭王墓に比定しようってのが、最初から厚かましいんだよ
0515日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:16:17.30
>>514
吉野ヶ里は時代が違うだろ。
邪馬台国の支配下に入って吉野ヶ里の独立性は失われたんだよ。
0517日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:21:42.16
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0518日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:38:20.19
>>516
それはお前さんの年代比定がおかしい。
0519日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:38:52.16
>>514
>しかも吉野ヶ里のほうが古い

自分で言っているじゃん。
0521日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:57:20.21
>>519
>自分で言っているじゃん。

お前らの編年をとりあえず認めれば、吉野ヶ里の方が一世代分くらい古いが、
実際には平原1号墓は吉野ヶ里の北墳丘墓と同じくらい

平原3.4号墓が、卑弥呼の直前くらいだよ
0522日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:59:53.57
>>520
>時代が違えば情勢や文化も違うからなぁ

平原5号墓、吉野ヶ里北墳丘墓、平原1号墓は全て
「墳丘墓」「墳丘の軸船に合わせた大柱」「大柱の延長上の小建物」のセットを共有する
同時代の同じ葬送文化圏のものだよ

その中での比較で、平原1号墓は吉野ヶ里の北墳丘墓の10分の1

吉野ヶ里が王墓でなければ、当然に平原1号墓も王墓ではない
0523日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:00:31.62
>>516
>同じだよ、アホなのw

同じじゃないよ
平原1号墓は王墓じゃないんだからw

すぐにごまかそうとするw
0525日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:12:42.28
そうだね!
平原1号墓が王墓だ、なんていくら連呼しても誰も認めないよな!

根拠のないことは100回言っても本当にはならないんだよ
0527日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:12:17.89
平原1号墓は伊都国王墓、まではあり得るが、倭王墓、卑弥呼の墓などと言ってるのは
九州説の中でもザコの伊都国説の連中だけだ
0528日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:35:35.71
平原卑弥呼さんの墓かもよ?
なぜに駄目なんか説明せー
0529日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:39:00.50
まあ倭人条も平原周辺も商祭祀プンプン匂うわ
吉備祭祀とは異質やね?
0530日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:40:23.26
[陈来]殷商的祭祀宗教与西周的天命信仰· 中国民俗学网-中国民俗学会
0531日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:50:38.76
伊都国王などという役職はないよ。
0532日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:54:39.14
伊都国に王が居ただけで、伊都国王ではなく倭王だよな。
0534日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:57:09.15
博多湾岸でも複数の勢力がある。
それが協定を結んで共立国家となる。
集権国家は考えにくい。

旧郡単位くらいの小国群だろうな。

伊都郡、志摩郡、早良郡、那珂郡などなど
0535529垢版2018/09/19(水) 22:06:51.70
訂正します
平原周辺 ×
玄界灘域 〇
まあおなじですか
0536日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:11:29.15
>>534
>旧郡単位くらいの小国群だろうな。

伊都郡、志摩郡、早良郡、那珂郡などなど<

遠慮せんでええよ?対馬海峡から姫川までの広域交易圏や
0537日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:28:05.86
>>528
>平原卑弥呼さんの墓かもよ?

吉野ヶ里辺りと葬送祭祀の文化も同じ
そうした同じ文化圏の中で、より強大な勢力があるのに、
成年男子10人で作れるような小さな墓が倭王の墓であるなどということはない

魏代の度量衡で径十歩に満たない墓が、「大作冢徑百餘歩」と書かれることはない
逆に卑弥呼の墓が「大作冢徑百餘歩」と書かれている以上、径十歩に満たない墓は卑弥呼の墓ではない

当たり前の帰結でしかない
0538日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:44:19.77
>魏代の度量衡で径十歩に満たない墓が、「大作冢徑百餘歩」と書かれることはない <
大作冢と徑百餘歩がリンクしてる?殉葬奴隷とその執務官の行列でないとする理由は?
つうかリンクしてたとして東夷伝の長さ単位が袖や槍や国間隔で狂てても信用する理由は?
0539日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:53:15.48
まあ140mだとしても箸墓はAMSで完全に否定されとるな(残念でした
0540日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:57:32.83
平原1は土器出てないのんか?(周りの孔掘ったやろ
0541日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:01:03.64
耳飾りはようしらんが副葬刀的には3世紀真ん中位で不思議ないんやけどな
0542日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:23:02.67
ありゃ?今宵もわえの一人勝ちかい?たれぞ相手になる人おらんのですか?
羽生君や故神の子KID君にも勝てそうな気がしてきた
0543日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:23:59.61
黙祷(1分
0544日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:51:03.03
又說得一布衣從海中浮出其身如中人衣其兩袖長三丈
作矛長三丈或數人共持之能步戰
0545日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 10:28:20.99
>>538
>殉葬奴隷とその執務官の行列

行列を径で示すとしたら、それは行列の幅になるぞww
殉葬奴隷(がいたとして)の人数が書いてあるのに、
さらにわざわざ行列の長さで書く理由もない

径百歩が「大作冢」の大きさじゃなかったらびっくりだよw
常に、伊都国説の人間は平原1号墓の大きさをごまかそうとするw
0546日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:47:29.01
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0547日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:12:09.10
>>545
塚の大きさじゃなくて殉葬された100人の奴婢の埋められた範囲じゃない?
0548日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:17:16.99
より詳細に言えば、こうではないかな:
塚だけの大きさじゃなくて、殉葬された100人の奴婢の埋められた範囲も含めた墓域全体のことじゃない?
0549日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:29:47.80
>>547
>塚の大きさじゃなくて殉葬された100人の奴婢の埋められた範囲じゃない?

でも、平原遺跡に殉葬100人の範囲などというものは、検出されていないよね?

残念でした
0550日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:38:16.50
>>549
もっと周辺も調査する必要がありそうですね。
0551日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:52:35.24
平原が、いくら立派で大きくても、墓だけでは只の墓場にすぎぬ、
王宮と官衙の跡も合わせて示せ。
0552日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 14:54:33.75
三雲にあるじゃないか。
弥生時代にしてすでに漢字が使われ、魏の郡使が滞在した外交拠点だ。
0553日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:17:43.13
>>552
>三雲にあるじゃないか。

で、三雲のどこに径百歩の墓があるんだね?

三雲にも曽根遺跡群にも、3世紀の径百歩の墓はない
残念でした
0554日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:18:12.58
多くの殉葬のあとはそのままだったかもしれないが、
卑弥呼の場合のような大規模殉葬ともなると、
後世まで語り継がれ、やがてそれなりの神社を建てて、弔うようになったのではないか。

具体例として、内々には卑弥呼を祀っていると思しき阿蘇高千穂神社の境内には、
荒立(あらたて)神社という末社がある。
表向きはサルタヒコとアメノウズメをお祀りしていることになっているが、
いろいろウラ事情があるらしい。

というのは、もともとここには6体の神像が納められていたのだが、
そのうち4体は、明治になって、急にどこかへ移されたらしい。
2体は「荒魂」、もう2体は「和魂」だったそうだ。いかにも謎めいた神社ではある。
0555538垢版2018/09/20(木) 19:14:25.08
>>545
>行列を径で示すとしたら、それは行列の幅になるぞww

ん?どういうこと?もちつけ
ちなみに三国志ざっと探したが径は【小路】の意味での用例は見つかったが【さしわたし】のが見つからん?

>殉葬奴隷(がいたとして)の人数が書いてあるのに、
さらにわざわざ行列の長さで書く理由もない <
塚つくりより殉殺儀式の方が政君らにインパクトあったんかもよ?(漢代以降廃れてたんじゃね?ようしらんが
0556日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:21:50.14
まあ殉葬と青銅鋳造で祭祀用品造るんは殷の風俗やね
玄界灘やな(山東から殷やら越やら燕やら
0557日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:27:29.57
径100が塚のことでも依然東夷伝の長さ単位が袖や槍や国間隔で狂てる問題あるな?
頼みの箸墓はAMSで否定されとるしな(もう参ったせえ
0558日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:33:58.18
あー
殷の殉殺の刃物は刀ちゃうんやな
マサカリでしたか?
0559日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:45:05.66
殷滅び
山東へ逃げ
呉滅ぼし
越山東へ
極まりて
燕山東へ
山東の
海流の先
玄界や?
0560日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:46:48.71
響きが駄作でしたか
漢詩学び中
0561日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:13:07.26
ありゃりゃ?今宵もわえの勝ち?相手おらんですか?
阿部君や伊支馬君にも勝てそうな気がしてきた
0562日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:13:43.37
伊支馬君も山陰か
0563日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:47:32.93
>>555
>ちなみに三国志ざっと探したが径は【小路】の意味での用例は見つかったが【さしわたし】のが見つからん?

三国志18 魏書18 二李臧文呂許典二龐閻傳第十八
太祖行酒、韋持大斧立後、刃徑尺

大斧の刃の部分の径が尺と書いてある
円形物じゃなくても、尺と書かれているだろ?
これが差し渡しの例で、三国志の中

径は、木の幹に使われれば、木の太さ=断面の差し渡しの意味で使われて、
そこから長い構造の太さ、幅も径で表される
川や運河で径といえば、その河幅になる

小樽運河の運河沿いの小道600メートルを、径600メートルと書いたら、
中国人は運河の幅が600メートルだと思ってびっくりしたという笑い話もあるそうだ

隊列を組んでの行進に径の字を使えば、当然隊列の幅の意味になる

まあ、行列だったら、「長」の字を使うのが当然でそんなところに径は使わないけれどね
0565日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:49:56.61
>>563
あちゃー 覚悟の順番待ちちゃうんか?さしわたし100余歩100人逃げ廻ってたんを追っかけて殉殺したのか?(むごいのー
>太祖行酒、韋持大斧立後、刃徑尺<
探したのな?いちおうd
【さしわたし】他にもありましたわ
>敦煌献径寸大珠<
>将軍三人三道並進径2000里征之<陳寿ちゃうがこっちのが径百餘歩殉葬者奴婢百餘人に近いな?
さしわたし百餘歩殉葬者は奴婢百餘人(解決

>小樽なんたら笑い話<
ん?作文が紛らわしかったんやろ(原文プリーズ?
まあ径≠小道の理由もほんまはないんやろがこっちは径百餘歩=さしわたし百餘歩でもいっこもかまわんよ?(何も賭けとらんし元ネタ >>484 やし

つうかジョーカー君?は二泊と二日かけても径百餘歩=差し渡し百餘歩だったとして
それが塚とリンクしていることの証明も更に東夷伝の矛や袖や国同士間隔で酒吹き出しものの長単位を信頼する理由も箸墓脇孔最下層AMS両ピークが3世紀真ん中見事に外してる理由も上げられんかったいうことな? >>538-539
方言気持ち悪いとか脇ネタにしか反応できんのやったら降参せえ(いい加減タイムアウトよ
0566日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:36:19.89
また段違い手合い違いのハムスター狩りしてもた?(失礼
0567日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:31:20.60
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0568日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 20:28:19.24
ありゃ?荒らしすぎて無人になったのか?
まあ邪馬壹國の所在地はようわからんが卑弥呼さんの都は伊都で決定やね
0569日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 20:38:16.41
>>568
卑弥呼さんの都は三雲で決定
0570日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 20:43:30.27
南至邪馬壹國女王之所都

邪馬壹國は女王を修飾している
着いたところは女王國@壹媽(伊支馬)(壹與)

邪馬壹國女王は壹與のニックネーム
0571日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 20:44:31.74
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0572日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 20:57:51.20
>>568
卑弥呼さんが住んでたのは伊都国に異論無し。
0573日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 21:07:27.06
>>569
賛成
0574日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 22:53:35.95
>>569
三雲って何処?
0575日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 23:57:56.71
卑弥呼さんが住んでたのは久留米

久留米は邪馬台国の中央部
邪馬台国の範囲は北野地域(筑後川中流平野)と筑後平野内陸部(筑後平野海岸部は投馬國)
0576日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 07:36:29.36
北野地域の割り振りはこんなところじゃないかな
 次有邪馬国はヤマ国で、八女・筑後・みやま
 次有躬臣国はクシ国で、玖珠・日田、
 次有巴利国はハリ国で、浮羽・久留米
 次有支惟国はキイ国で、基肄・甘木・朝倉
0578日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 14:02:08.82
>>565
>【さしわたし】他にもありましたわ
>>敦煌献径寸大珠<

これは正しい
タダごく普通の丸い玉の径を「径」と書いてあるだけ

>>将軍三人三道並進径2000里征之<陳寿ちゃうがこっちのが径百餘歩殉葬者奴婢百餘人に近いな?

この「径」は「道」の意味
街道ほどしっかりしていない小さな道を「径」という
道を2000里進んだというだけで、径百余歩のさし渡しとは関係ない

>さしわたし百餘歩殉葬者は奴婢百餘人(解決

つまりこんな読み方は通用しないってこと
径百余歩は、大作冢に掛かる形容詞句
0579日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 17:30:14.26
福岡平野は、弥生中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、
中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ
100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、
この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、
伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、
井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。
考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。
環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。
比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、
福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、
どんぐりの背比べである。
0580日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 16:53:53.80
>>575
>久留米は邪馬台国の中央部

久留米が邪馬台国の中に在った国邑の一つであることは異論がないが
久留米に卑弥呼はいないよ
卑弥呼さんが住んでたのは伊都国
糸島市ですよ。
0581日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 18:28:21.14
>>579
>福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、
>どんぐりの背比べである。

倭国(阿波)の弥生銀座と比べると、「福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群」は碌な遺跡じゃないことが分かる。  @阿波
0582日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 22:22:15.17
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0583日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 08:20:33.42
>>581
ここまで来ると阿波は狂人だな。
0584日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 14:43:24.63
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0585日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 17:05:48.58
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0586日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 19:43:40.94
>>578
ん?レス見逃してました
山海おじいちゃん?の意見は意見として承りましたが
最後の【つまり】の用法完全に間違えてますよ?
0587日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 20:17:44.47
>>583

泣き言はいいから、「加茂宮ノ前遺跡」に匹敵する「弥生銀座」の遺跡、挙げてごらんよ。  @阿波
0588日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 20:21:09.33
加茂宮ノ前遺跡なんてそこら中にある取るに足らない遺跡じゃんw
0589日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 20:24:55.10
>>588
>加茂宮ノ前遺跡なんてそこら中にある取るに足らない遺跡じゃんw

と、言ってみたかったんだよね?  @阿波
0590日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 23:21:20.56
>>586
>最後の【つまり】の用法完全に間違えてますよ?

>>565
>>将軍三人三道並進径2000里征之<陳寿ちゃうがこっちのが径百餘歩殉葬者奴婢百餘人に近いな?

がまったく近くない
この径は「小道」

径百余歩の径は「さし渡し」

まったく違うものを近いというのは間違い

「つまり」こんな読み方は通用しないってこと
径百余歩は、大作冢に掛かる形容詞句
0591日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 20:17:10.24
>>590
>>586
>最後の【つまり】の用法完全に間違えてますよ?

>>565
>>将軍三人三道並進径2000里征之<陳寿ちゃうがこっちのが径百餘歩殉葬者奴婢百餘人に近いな?

がまったく近くない
この径は「小道」

径百余歩の径は「さし渡し」

まったく違うものを近いというのは間違い

「つまり」こんな読み方は通用しないってこと <

山海おじいちゃんプレゼン0点よ?
突っ込み処他にもありますが小道2000里3本長過ぎやろ?

>径百余歩は、大作冢に掛かる形容詞句


言い切るのなぜや(?_?)
0592日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 21:37:31.07
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0593日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 23:15:21.12
>>591
>突っ込み処他にもありますが小道2000里3本長過ぎやろ?

小道といっても、踏み分け道ではなく>>578にも書いてあるとおり
街道ほどしっかりしていない小さな道を「径」という

グダグダ言うだけで話の通じないやつなら相手をするだけ無駄だな
0594日本@名無史さん垢版2018/09/28(金) 06:57:51.03
>>593
おはよう
ん?
結局肝心要の>径百余歩は、大作冢に掛かる形容詞句
< はよう説明せんアホ爺?
0595日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 08:47:03.88
漢文の文法は、名詞の形容詞による修飾がかなりいい加減だが、該当箇所は
大作「冢」『徑百餘歩』、徇葬「者」『奴婢百餘人』と、
直後に形容詞句(または同格の修飾句)が置かれているんだから、読み方に紛れはないだろう

殉葬者の列の長さが径百歩なんて、無理読みもいいとこ
0596日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 10:47:21.63
あーなるへそなるへそ
徑百餘歩|徇葬者|奴婢百餘人
この文法が成り立たないゆうことやね?
問題は陳寿君の地の文に同じ用法があるかどうかやな?
今度三国志注意して読んでみます(アホ言うてごめん
0597日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 11:07:31.25
ありゃ?
すぐみつかるやん?修飾句+被修飾句+修飾句
八月,紹連營稍前,依沙塠爲屯,東西數十里
0598日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 17:08:50.44
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0600日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 21:37:16.63
>>597
漢文読めないなら無理するなよ

八月、紹連營稍前、依沙塠為屯、東西數十里。

八月、袁紹はやや前に営を連ね、沙塠に依りて屯と為す、(屯は)東西数十里

「修飾句+被修飾句+修飾句 」になんてなってないぞ

紹 連 營  稍前、依沙塠 為 屯、 東西數十里
主語動詞目的語副詞 副詞  動詞目的語修飾句(屯の同格)
0601日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 13:39:15.93
>>600
ごめんレス見逃してました
八月と東西數十里がなぜに爲屯を修飾しとらんのかまるでわからんプレゼンやな

>八月、袁紹はやや前に営を連ね、沙塠に依りて屯と為す、(屯は)東西数十里<

つうか中文無知以前に言語脳が未発達のお爺ちゃんはそう書き下すんやな(コーヒー吹き出しました
厳密には依沙塠爲屯【東西數十里】みたいに【主句の後ろに付けた数字等で程度を説明する句】は補語であって主句全体に対応してるの知らんの?(勝手な文法作ったらあきませんよ

沙塠に依りて屯と為す、(屯は)東西数十里 不正解

沙塠に依り屯を為すこと東西数十里 正解


つうか殉葬者奴婢百余人は言語脳が未発達のお爺ちゃんやったらどう品詞分解するのんですか
文法にのっとり厳密にやって味噌(興味深い
0602日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 14:16:10.70
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0603日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 18:22:51.90
本庶佑氏「教科書に書いてあることをすべて信じてはいけない。疑うことが大事」
先人の言ったことを鵜呑みにしてはいけない
再吟味しないと真実は見えてこない。
0604日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 18:58:05.52
しかし陰謀論とかの怪しいネタに飛びつくのは論外。
教科書を信じる方がマシなレベルだよ
0605日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 19:30:35.61
陰謀ではなく、記紀が古い歴史を歪曲しているのは常識だろ。
0606日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 19:48:15.11
ほんしょ違てほんじょか?袁紹は関係なし?
0607日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 19:51:39.39
>>600
ありゃ?投了?
袁紹本初一歩下がって身動きとれず?
0608日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 19:59:57.46
ちなみに1歩譲って【さしわたし100余歩】が前句に掛かっても塚だけちゃいますよ?
おおいに塚を作ることさしわたし100余歩
0609日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 20:01:20.80
せんがいおじいちゃん撃沈でOK?
0610日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 20:03:28.35
本庶の由来なんやろ?
0611日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 20:13:27.43
投了されたら全駒できんし?
頑張れアホ爺!
0612日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 20:14:40.37
ごめん武士の情け忘れてました
0613日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 21:28:30.95
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0614日本@名無史さん垢版2018/10/02(火) 23:54:47.66
>>601
>勝手な文法作ったらあきませんよ

それはこっちの台詞
漢文は漢字が表意文字であることに甘えて、文法が堅くないんだよ

>【主句の後ろに付けた数字等で程度を説明する句】は補語であって主句全体に対応してる

というのは、日本語で読み下すときの読みやすい書き方であって、
中国人がそういう認識で読んでるわけではない
0615日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 00:03:16.08
>>601
>八月と東西數十里がなぜに爲屯を修飾しとらんのかまるでわからんプレゼンやな

「八月」は、ある意味「見出し」だろ
魏書武帝紀第一の建安年間の記事で建安五年が
五年春正月、董承等謀泄。(中略)
二月紹遣郭圖淳于瓊顏良、(中略)
八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。と話が進んでいくだけだから、
八月が修飾してるとか言い出すのが不思議

結局、修飾句+被修飾句+修飾句 の関係にはなってないだろ?
漢文読めないのに無理するなって
0616日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 00:05:47.77
>>608
>おおいに塚を作ることさしわたし100余歩

で、そう読んだときの差し渡し百余歩は、どの範囲になるんだ?
塚の大きさ以外にはならないだろ?
0617日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:12:58.57
>>614
>中国人がそういう認識で読んでるわけではない

また勝手な決めつけ
0618日本@名無史さん垢版2018/10/03(水) 17:55:30.68
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0619日本@名無史さん垢版2018/10/04(木) 20:05:25.55
>>614-615
アホ曝したら介護してもらえるとでも?
>>616
厳密には工区やな(塚径かもしれんしちゃうかもしれんし
0621日本@名無史さん垢版2018/10/05(金) 09:25:24.79
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0622日本@名無史さん垢版2018/10/07(日) 09:54:27.94
>>619
>厳密には工区やな(塚径かもしれんしちゃうかもしれんし

「かもしれんしちゃうかもしれんし」、と
「厳密には」

が同居してるってのはすげえな

適当に茶々入れてるだけで、聞きかじりをえらそうに書いてるだけだろ
畿内説スレで論破されまくり
0623日本@名無史さん垢版2018/10/07(日) 09:55:39.22
これに対する回答から逃げてるし
「結局、修飾句+被修飾句+修飾句 の関係にはなってないだろ? 」

どれが修飾句で、どれが被修飾語なのか、具体的に言うてみ?
0624日本@名無史さん垢版2018/10/09(火) 23:54:57.06
>>620
>長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

最初の頃の龍は、伝説の神獣じゃなくて実在の動物だったんだがな
揚子江鰐だよ
長江下流域の実在の生物

それが、揚子江(長江)から離れた、鰐のいない地域に伝わる過程で伝説化していった
話の向きが逆
0625日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 16:19:57.01
魏使は伊都国までしか行ってないという説があるね。ということは、卑弥呼のいる国はそこから遠いということだな。近ければ行かないはずないもんね。
邪馬台国は九州北部以外の所にあるということだな。
0626日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 16:51:22.45
>>625
九州北部のどこかにあるということだろう。
0627日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 17:16:08.59
北部九州とは、どの範囲を指すのかあやふや
都合次第で、広がったり狭まったり、ご都合主義の見本だな
0628日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 17:22:51.81
ああ、北部九州の範囲については悩むな。
自分は熊本説なので中部九州とでも
呼んだほうがいいかもしれない。

ただ地図では大きい九州山地があるので
熊本は北部と言えなくもない。
0629日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 17:50:30.94
>>628
>自分は熊本説なので

そこまでどうやっていくの?
水行20日の投馬国はどこ?
0631日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 18:00:42.86
>>625
張政が里程部分の行程で伊都と奴国、不彌国まで。
梯儁が水行陸行で、金印紫綬だから女王まで、って読み方の話だろ。

張政の上陸港末蘆から500里が伊都、
梯儁の行程は上陸地名は無しで残り2千里で女王だよ。
二千里は対馬、壱岐間の2倍。
0632日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 18:01:02.21
福岡県には北九州市というのがあるので、これと北部九州のイメージが重なり、
単に「北部九州」というと福岡県のことと思われやすい。
また、九州島の中心が阿蘇山になるので、熊本は北部九州とはいいがたい
熊本と長崎を含めるなら、九州中北部というのが良いのではないか。
(なお「南九州」は、慣例として宮崎・鹿児島のことになる。)
0633日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 18:05:12.48
熊本は狗奴国だから、邪馬台国に含めなくていいよ。
九州北部で十分だ。
0634日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 18:08:44.53
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0635日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 18:10:50.31
これまでの邪馬台国の有力な説としては、
古田説、安本説、筑後説などがあるが、
どれもこれも福岡県内なので、「北部九州」というと、実質的に福岡県内と思われるな。
0636日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 18:49:04.14
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所

帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q

水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km

おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2
0637日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 18:50:15.42
>>629

わたしは >>636 を前提にしてますね。
0638日本@名無史さん垢版2018/10/13(土) 18:58:01.34
鏡で結論出ましたね
やっぱり機内かー
0639日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 08:02:08.62
西日本の覇権の推移
倭奴国(博多)の覇権→倭国大乱→邪馬台国(筑後)の覇権→倭奴国残党の分裂

倭奴国残党の分裂
1博多に残って邪馬台国の支配下に=伊都国、奴国
2南九州(西都原)に移住=天孫降臨
3近畿(巻向)移住=神武東征

近畿移住組の立場
はじめは近畿の覇者ニギハヤヒ傘下の豪族→四国、出雲征服→近畿覇権奪取(崇神=ハツクニシラス)

九州の再征服
景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で九州政権滅亡→九州全域が支配下に

律令、神話の統一
大宝律令、古事記、日本書紀の制定
0640日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 16:51:01.57
>>635
× これまでの邪馬台国の有力な説としては、
○ これまでの邪馬台国の無駄に声の大きいトンデモ説としては、
0642日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 18:03:13.83
>>641
その根拠は?
0643日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 18:31:27.03
コビト国、全裸国、オハグロ国か。あとは女人国(男がいない国、アマゾネス伝説か?)しか残ってないな
0644日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 18:47:50.90
>>639
そうすると、倭奴国が東遷し、邪馬台国は九州残留組。
その邪馬台国政権は、景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で滅亡。
こういう筋書きなんだな。
0645日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 18:54:21.40
それよりも『天皇 人権がない』調べてみた?
0646日本@名無史さん垢版2018/10/15(月) 19:07:27.81
老婆の言うところの、
クモスケ(不明)?勢力の勝利みたいな話
0647日本@名無史さん垢版2018/10/16(火) 10:15:36.27
>>642
>その根拠は?

そう思うなら、侏儒國、裸国、K歯国の比定地を具体的に挙げて論じなよ

これらの国は、山海経や淮南子にある伝説の国だよ

日本で江戸時代に化け狸の実在が信じられてたのと同じ
0648日本@名無史さん垢版2018/10/17(水) 00:12:39.92
侏儒國 徳島など淡路関連(国産朱、少彦名
K歯国 お歯黒出土の大阪
裸国  侏儒國K歯国より九州から遠い室戸岬もしくは紀伊半島南端
0649日本@名無史さん垢版2018/10/17(水) 00:27:16.15
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0650日本@名無史さん垢版2018/10/17(水) 00:47:55.68
>沿海州あたりから渡来人の渡来があり

Ohクニぬし

魏志東夷伝

高句麗条ワイ条

積石

十月

0651日本@名無史さん垢版2018/10/17(水) 07:39:41.22
>>648
又有侏儒國在其南。人長三四尺。「去女王四千餘里」
又有裸國、黒齒國、復在其東南、「船行一年可至」

は無視か?
言えばいいってもんじゃない
0652日本@名無史さん垢版2018/10/17(水) 18:06:06.73
短尺を主張する一部信者の説に従うなら「人長三四尺。」は10cm前後って事になるのかな
蝶のように小さなコビトだね(小さくないコビトなんて有り得ないけど
0653日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 01:00:50.78
じゃあ、こっちを上げておこう。
0654日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 01:03:42.67
尺は普通だろう。
そうでないと平原遺跡の超大型内行花文鏡の大きさの意味がわからなくなる。
径二尺だからこそ、円周が八咫の鏡になるのだから、邪馬台国における尺は23cmほどであったはず。
0655日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 01:11:47.28
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0656日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 06:49:14.52
>>654
>尺は普通だろう。

では少なくとも『周髀算経』は、短里の根拠にならないな
『周髀算経』の中で1里=1800尺になっているから
尺が普通なら里も短里になりようがない

『周髀算経』は蓋天説という根本のモデルが間違っているだけ
0657日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 07:17:10.03
>>654
>円周が八咫の鏡になるのだから

寝ぼけたこと言ってちゃダメだよ
漢尺の度量衡にも、魏晋尺の度量衡にも、「咫」は入っていないし
当時「咫」で物の長さを計ることはないし
円形物の大きさを円周長で表すこともないし
平原1号墓出土鏡の円周をきちんと咫で表すと8.63咫で八咫にならないし
そもそも2咫とか3咫とかの複数形の使用例が咫にはない

寝ぼけたことを言ってちゃダメだよ
0658日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 07:19:57.71
定義からすると、四咫か八咫しか利用価値はないからね。
そして縁起のいい数は古来から八。
四咫では大きくないし。
結果、八咫の鏡しか意味がないから、そのように作ったんだよ。
逆に、当時の尺にどのような大きさが使われていたのかがわかる資料となっている。
0659日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 08:58:38.96
なんら歴史的事実に基づかずに
自らの妄想を強弁し続ける伊都クズ
見苦しいことこの上ない
0661日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 21:40:41.22
>>658
>定義からすると、四咫か八咫しか利用価値はないからね。

そんな定義はないwww
>>657でも書いたように、二咫、三咫 のような複数形の使用例はない
もちろん四咫も八咫も使用例はない

四咫と八咫しか利用価値がないなら、そんなものが単位として
成立するはずもなければ余地もない
0662日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 21:58:09.65
実用の単位ではなく、神事のための単位だろ。
0664日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 23:01:18.16
>>662
もともとの周代の身体尺では
男の手長(開いた親指の先から人差し指の先まで)が尺で
女の手長(開いた親指の先から人差し指の先まで)が咫だった

神事のためなんてのはどこからも出てこないよ
0665日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 23:13:19.07
大陸では、円周を計算しやすくするためだった。
尺より一回り小さいというのは、π/4の近似値だよ。
それをいつしか見かけの大きさについての婦人の手という表現だけが残った。
円の計算以外に、そんな尺度を制定する合理的理由はないからだ。
日本においては、事実上、鏡の大きさ、それも八咫の鏡という表現くらいしか生き残らなかったが、そう呼ぶにふさわしい超大型内行花文鏡が見つかったことで、
「八咫は単に大きいことを意味する」
などという寝ぼけた妄言が否定されるに至ったわけだ。
0667日本@名無史さん垢版2018/10/18(木) 23:28:47.28
>>665
>大陸では、円周を計算しやすくするためだった。

また嘘をついてる

>尺より一回り小さいというのは、π/4の近似値だよ。
>それをいつしか見かけの大きさについての婦人の手という表現だけが残った。

これが正しいなら、咫は常に円周と関連する形で使われるはずだが、
円周長を咫で示したり計ったりしている例は、一例たりとも存在しない

>円の計算以外に、そんな尺度を制定する合理的理由はないからだ。

女性の使う単位が女性の身体尺である咫だってだけ
これが身体尺から公定尺に切り替わるときに、咫=八寸、尺=十寸とされ、
咫の使い道がなくなった

秦の始皇帝の度量衡の統一以降、その体系に咫は入れられなかった

そこから400年経ったのちに、咫が計量単位として使われなくなって400年後に
外国にそれが伝わって円周長を計るのに使われたとか、妄想以外の何ものでもない
0668日本@名無史さん垢版2018/10/19(金) 00:23:24.97
>>667
>女性の使う単位が女性の身体尺である咫だってだけ

そんな単位を作る理由がない。
適当な言い訳をこじつけているだけにしか聞こえない。
もっと合理的な説明をしなさい。
0669日本@名無史さん垢版2018/10/19(金) 08:06:52.10
>>668
今でも箸を選ぶときに、箸の長さは自分の手で計って「一咫半」の物を選ぶとよいって言うだろ?
その自分の手で計る長さが周では男が尺、女が咫という文字で表現した
それ以上の意味はないよ

径が尺の円形物がほぼないのに、その円周にしか使えない単位があったなんていうのは妄想が過ぎるww
0670日本@名無史さん垢版2018/10/19(金) 08:26:18.74
ありゃりゃ
八咫の鏡以外の咫の使用例が登場したよ
一咫半でも使うんだな
やはり単位として使われているわけだ
じゃあ平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいな
0671日本@名無史さん垢版2018/10/19(金) 08:37:06.67
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0672日本@名無史さん垢版2018/10/19(金) 17:37:05.44
>>670
>ありゃりゃ
>八咫の鏡以外の咫の使用例が登場したよ
>一咫半でも使うんだな

wwww
釣られたなww
「一咫半」は、日本の単位で「咫=あた」と読む
九州説が主張しているのは大陸の単位「咫=シ」だから別物だよ

そして、日本の「あた」も円形物の円周を測るのに使われたことは一例もないww

>やはり単位として使われているわけだ

日本の単位に借字として「咫」を使っているだけ

>じゃあ平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいな

いい訳ないだろw
昭和の時代の、原田大六氏の思いつきに過ぎないんだから
弥生時代に八咫鏡なんて、日本の何処にもないよ

八咫鏡の初出は、8世紀の記紀だからね
0673日本@名無史さん垢版2018/10/19(金) 18:02:35.60
猿田彦について、日本書紀から

一神あり、天八達之衢(あめのやちまた)に居り、其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背の長さ七尺余り、まさに七尋(ななひろ)といふべし、且(また)口尻明り耀れり、目八咫鏡の如くにして

"七咫"の"咫"は長さの単位では?
0674日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 09:11:20.31
それ、8世紀の日本語の「あた」
3世紀の大陸中華では「咫=シ」は、度量衡に入れられてないし
実用単位として使われなくなって400年経ってる

3世紀の倭国に大陸から「咫=シ」が伝えられて、
それに合わせて鏡を作るなんていうのは
妄想もいいとこ

日本の単位の「あた」に「咫」の字を使うのは
「借字」であって同じ単位ではないことに注意
0676日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 10:54:50.27
>>675
ではなぜ、平原1号墓出土鏡の「円周長」が「漢尺の八咫」だから八咫鏡だって主張するんだい?

漢尺の八咫ってのは思いっきり大陸の度量衡だろ?
でも、漢の度量衡に「咫」は入っていない

記紀の猿田彦に八咫の目、七咫の鼻が書かれているのは、記紀編纂以前に漢籍が輸入されて、
日本語の「あた」に「咫」を借字として当てるようになったから

そのずっと前に平原の鏡は割られて埋められているから、咫の文献がもたらされたときには
大きさが測れないし、八咫鏡と呼ばれる理由もない
0677日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 11:29:03.59
>>676
そんなに断固主張してないが?
可能性はある、と思っているよ
"咫"が長さの単位であればね

むしろ、可能性が無い、とするのが難しい状況

正直、倭人伝論争において、ここはどうでもいいのだが、答はわかるはずもないのだし
0678日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 12:53:26.06
倭のアタだと、日本書紀で用いられている1アタの長さを知る術がないので
平原の鏡を八咫鏡だと主張する根拠が消えるな
はい、終了!
0679日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 13:30:38.86
>>677
>むしろ、可能性が無い、とするのが難しい状況

はい、トンデモが論破されたときの逃げ口上、
「絶対ないとは言い切れない」いただきましたwww

それいわゆる「悪魔の証明」だから、論破されてないとただいうためだけのもの

可能性はないよ
円形物の大きさを円周で表したものはない

この時点でただの妄想
0680日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 13:35:00.57
>>677
>正直、倭人伝論争において、ここはどうでもいいのだが、答はわかるはずもないのだし

でもな、北部九州説の伊都国推しは、平原1号墓を卑弥呼の墓だとしないと成り立たず、
径十歩に満たない墓を卑弥呼の墓にするために、例の鏡を八咫鏡だと言い張る必要がある

まあ、伊都国が邪馬台国とは別に書いてあるのを認められない人たちだから、
何を言っても聞かないだろうけどさ
0681日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 13:44:19.49
そんな小さい墓でも
畿内の完形前方後円墳より
副葬品が豪華なんだよねえ
0682日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 13:47:40.28
>>681
>畿内の完形前方後円墳より

完形前方後円墳なんて言葉、初めて見たわw
畿内の王墓級で埋葬主体が発掘されているのは
メスリ山古墳と桜井茶臼山古墳しかなくてしかもどちらも盗掘済み状態だったが
どう見ても平原1号墓とは比べものにならないくらいの物量だぞww
0683日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 14:08:08.20
>>682
完形って昔はよく使われたけどね。
まあスラング的な言葉なのは間違いないが
箸墓古墳以降の完成形の前方後円墳を指すんだよ。

古いものは手鏡型、撥型、帆立貝型など
安定してないから、これらと区別するためのものだよ。
0684日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 14:14:20.97
>>678
>倭のアタだと、日本書紀で用いられている1アタの長さを知る術がないので

これまで出土した最大の鏡である平原遺跡の超大型内行花文鏡を八咫の鏡とみなせば、倭における咫の実際の大きさがわかるだろうね。
0685日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 14:28:41.54
>>683
逆に、箸墓がそんなに古いはずがないという疑念に繋がるんだよなあ。
0686日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 15:43:20.00
馬具まで出ちゃって大変だよな
0687日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 16:02:12.43
やはり箸墓は4世紀だろ。
0688日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 16:07:11.89
畿内説論者>それはバグです
0689日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 16:28:26.61
>>680
原田が「現代の伊都国王」なんて持ち上げられている頃は良かったが、
畿内大和で箸墓撤退が相次いだせいで、すっかり追い込まれ、
何が何でも平原を死守しないと、あとがないからねえ
0690日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 16:29:23.48
>>686
>馬具まで出ちゃって大変だよな

それが濠の底から出たなら大変だけど、集合を埋める堆積物の中に浮いてる状態だからな
箸墓を作ってから、かなり経ってから濠に投棄されたことになる

そういうのを全部無視して、馬具が出た鐙が出たしか言わないから、チェリーピッカーって言われる
0691日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 18:23:31.40
>>690
20〜30年堆積した所で布留1の土器と同伴
箸墓は布留0の墓

問題は鐙の形等でわかるはずの大陸やその他の地域での出土物との時代的平行関係の話が無いこと

このあたりの資料が気になるのだが
0693日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 18:34:39.21
捨てるほどだからそれなりに普及してたんじゃね?
0694日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 18:46:41.85
畿内説推すにしても箸墓を卑弥呼の墓とみるのは悪手のような気がするんだが
0695日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 18:47:24.61
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0696日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 18:50:52.78
>>680
伊都説推しだが、筑後川流域説も捨てがたい

八咫鏡の件は重要視してないよ
+αになるだけで
糸島周辺は神社の伝承や地域名で天孫降臨説もある地域だから、面白くはあるが、ここも事実はわかりようがないからね
ただ、パズルが嵌まっていく感覚は面白い
妄想よりの推測でしかないけど

ただ、考古学的事象は事実に伴うから一番重要視している

当時の鏡の保有率と大陸製品の豊富さ、中国朱やジトウの存在が大きい

平原は墓の規模は確かに100歩には届かんが、全解決の誇張説だったら"あり"になる
が、やはり弱点はここだろうなぁ
0697日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 20:52:57.08
>>691
>問題は鐙の形等でわかるはずの大陸やその他の地域での出土物との時代的平行関係の話が無いこと
>このあたりの資料が気になるのだが

鐙の形式編年は、「金属の鐙」しか対象にしてない
そもそも古代の木製の鐙なんて、他にはほぼ存在しない
しかもそれが壊れているのを「鐙」とするのは果たして正しいのか疑問に思っている
0698日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 20:57:21.37
>>694
>畿内説推すにしても箸墓を卑弥呼の墓とみるのは悪手のような気がするんだが

纒向古墳群のいずれか、でいいんだよ
あとは編年次第

現行編年を尊重するなら、箸墓は少し遅い
寺澤先生はその立場

桃核の14Cの測定結果が出て、土器編年もまた修正されるだろうから
最新情報に合わせて考察していけばいいだけ
0699日本@名無史さん垢版2018/10/20(土) 21:16:25.69
>>698
>纒向古墳群のいずれか、でいいんだよ

こいつのこういうセリフは大抵嘘
0701日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 05:46:05.16
箸墓古墳は主体部を発掘できないため
結論は出せないが
周壕などからの出土物は
全部4世紀以降のもの。
0702日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 07:17:42.70
>>696
>当時の鏡の保有率と大陸製品の豊富さ、中国朱やジトウの存在が大きい


そんな物は倭国(阿波)にも有るよ。 

北部九州は「其山有丹」で即刻、終了。  @阿波
0704日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 08:22:07.30
>>1
>>696
時系列に見た邪馬台国は筑後川流域が主体で
伊都はもともとその前哨国だよね それが歴史の流れだろう

とくに筑後川流域の中核都市で吉野ヶ里から出土している巴形銅器の鋳型
その鋳型と一致する銅器や遺物が糸島側や那珂遺跡群で見つかっている
吉野ヶ里の部族が弥生前・中期から博多や糸島に進出していったか
あいるは親密な関係を継続しながら、
後期の倭国(邪馬台国)を形成していったのかという証拠のひとつだ

また重要な三種の神器や墓葬のプロセスを見たときに
吉野ヶ里、筑後川流域からそれが博多・糸島側へ進化しているのがわかる
それは日本の精神性、宗教・信仰のかたちがどう形成されていったかを考察する上で重要だ

三種の神器とは別に分類されているが
銅鐸は弥生の祭器のひとつだが
その銅鐸にしても
吉野ヶ里からもっとも古い銅鐸の鋳型が見つかっている
そして同型のものが島根で発見されている
銅鐸を使った祭祀のスタイルは
西から生まれて東へ拡大進化していったということだろう

日本の成立を考えるときに
祭祀のあり方や神道、そして付随する三種の神器はとても重要で
時系列的にあるいば位置的に
それがどのようなかたちで変遷、進化していったのかをまず
考察しなければならない

答えはひとつだろう
0705日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 08:30:57.01
>>704
>日本の成立を考えるときに
>祭祀のあり方や神道、そして付随する三種の神器はとても重要で

まさに「忌部」。  @阿波
0706日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 08:39:21.91
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0707日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 08:59:51.71
卑弥呼時代の邪馬台国が肥国の影響下であることは認めるが、三種の神器の起源は博多湾沿岸の吉武高木だよ。
筑紫の分家である肥国の姫が高齢独身になったから呼び戻して即位させたのではないか。

悪く言えば、肥国が起源だと思い込むのは、畿内が起源だと思い込むのと同レベル。
0708日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 09:10:16.56
>>707
>三種の神器の起源は博多湾沿岸の吉武高木だよ。


博多湾沿岸は皇室祭祀と関わりがない時点で終了。  @阿波
0709日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 09:13:39.99
天皇家のルーツが福岡で
肥の邪馬台国は吸収されたのでしょう。

有明海周囲の肥国連合は、
筑紫に負けて、有明海周囲の一角である
筑後を明け渡してしまいました。

つまりは、そこで肥国が、筑紫に負けたのでしょう。
0710日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 09:17:02.75
>>709
>天皇家のルーツが福岡で

博多湾沿岸は皇室祭祀と関わりがない時点で終了。  @阿波
0711日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 09:18:33.66
それはいつの時代のことを言っているのでしょうか?
卑弥呼が肥国出身なら、筑紫が逆に乗っ取られていますよ。

ちなみに私は、壹與は佐賀川上の淀姫という意見です。
0712日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 09:25:00.05
佐賀も皇室祭祀と関わりがない時点で終了。  @阿波
0713日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 10:10:46.55
>>707
>三種の神器の起源は博多湾沿岸の吉武高木だよ。
三種の神器・・・
セットで見つかっている
次が古い→新しい順番だね

吉武高木遺跡→三雲南小路遺跡→須玖岡本遺跡→井原鑓溝遺跡→平原王墓

しかし、三種の前に一種類や二種類があるんだね
時代とともに変遷と進化がある

吉武高木遺跡のまえに吉野ヶ里があるんだね
0714日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 10:11:10.38
後世でも筑紫の君と肥国の君は割と仲が良さそう。
景行天皇も肥国ではあまり戦っていない。
神功皇后は戦ったけど。
0715日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 10:13:00.39
>>713
そうそう。
日向峠の東側から西側に遷都したんだよ。
そして伊都国にニニギ王統が成立する。
0716日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 10:16:02.68
九州なんて皇室から遠すぎ。 そもそも出発点が間違い。  @阿波
0717日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 10:24:35.01
>>714
>>716
吉野ヶ里遺跡のほど近くに皇室のお墓がある
またこの一帯は景行天皇の巡幸の記述を見ても別格だ
そしてまた
吉野ヶ里の近くにはヤマトタケルが熊襲を打つ際に出陣を準備した場所、神社がある
0718日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 10:28:38.22
>>717

いくらそんなことを言っても無駄。  九州は皇室と無縁。  @阿波
0719日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 10:34:29.83
九州北部だけを束ねてて九州中南部も中国地方や四国もまったく領有しない辺境小国が邪馬台国だったので無い限り、邪馬台国があった時代に王都だった可能性を想定できる大型遺跡は巻向ぐらいしかないからしかたないね

阿波は四国を代表する重要地域ではあっただろうけど、全国を代表する規模じゃない。
0720日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 10:43:39.03
>>719
>邪馬台国があった時代に王都だった可能性を想定できる大型遺跡は巻向ぐらいしかないからしかたないね


纏向遺跡ごときに、そんな可能性は微塵もない。   @阿波
0721日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 10:46:30.60
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0722日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 11:07:15.83
肥国が筑後を明け渡した時点で
全力の殲滅戦争ではなく
国を残しての従属関係を選んだのでは
ないでしょうか?

さらに戦争を続けるとなると
肥後国の本部である熊本市あたりまでは
まだまだ先のことですから
兵站補給や長期間の戦争は難しかった
のだと思います。

むしろ従属させることで
肥前、肥後の豊富な生産力を
加えることができ
これが、豊前から日向大隅などを
攻める補給源になったのだと思います。

熊襲攻めのあとに、兵力を連れて
肥後各地を巡幸しているのは
肥後が完全に筑紫の支配下になったのではなく
支配層を残しての従属ですので
兵力を見せつけることで
反乱する気をなくさせるためじゃないでしょうか?
0723日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 11:17:57.53
>>722

いくらそんなことを言っても無駄。  九州は皇室と無縁。  @阿波
0724日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 11:19:06.48
>>717
>吉野ヶ里遺跡のほど近くに皇室のお墓がある

それ、どれのこと?
具体的に書いた方が説得力が出るよ?

具体的に書けばいいのに
書けないの?

あるっていえばあることになるの?
0725日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 11:22:00.32
>>715
>日向峠の東側から西側に遷都したんだよ。

山一つ越えたら天孫降臨?
エラくローカルでスケールの小さな話だな、おいww

それくらいの距離なら普通に通婚圏だろうにw
0726日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 11:24:44.09
>>725

倭国(阿波)にヒントを得たにわかトンデモだよ。  @阿波
0727日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 11:28:42.93
>>699
>こいつのこういうセリフは大抵嘘

根拠もなく汚い言葉で罵るしかできないこういうバカは、
九州説が馬鹿にされる要因だから九州説の人で締めた方がいいよ

纒向古墳群は最初期の纒向石塚古墳からずっと100メートル級の列島最大の墳墓が
作られ続けている

このうちの年代の合う物が卑弥呼の墓で何の問題もない
0728日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 12:35:14.10
>>724
勉強しろよ・・・
0729日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 12:39:08.70
>>728
>勉強しろよ・・・

それはイカン  @阿波
0730日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 12:41:46.19
>>727
>このうちの年代の合う物が卑弥呼の墓で何の問題もない

卑弥呼の墓が低地の湿地帯に造られる訳がない。  無礼千万。  @阿波
0731日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 12:50:38.83
>>729
おまえは逝ってろw
0732日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 12:53:18.83
>>731
>おまえは逝ってろw


そうは、イカン。  @阿波   
0733日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 13:52:45.97
>>725
>山一つ越えたら天孫降臨?
>エラくローカルでスケールの小さな話だな、おいww

ニニギ自身は対馬海峡の向こう側の高天原から来たのですよ。
でも倭国にはその前から王統があったので、天孫族の視点からは降臨、倭国全体としては先代王朝の早良王国から糸島平野への遷都になります。
0734日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 13:56:06.32
>>722
そもそも景行天皇は勝手に戦って回ったのではなく、筑紫の梟師である神夏磯姫の要請で戦っていたので、筑紫やその従属であった肥国は初めから攻略対象ではなかったのですよ。
肥国が神夏磯姫の側であったことは、そもそも卑弥呼から神夏磯姫までの倭国の女王達が肥国を本貫地としていた可能性を示唆するものだと考えています。
0735日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 14:00:13.28
>>734

いくらそんなことを言っても無駄。  九州は皇室と無縁。 丹とも無縁   @阿波
0736日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 17:04:30.99
>>727
巻向というか、奈良がね、
卑弥呼共立後の3世紀前半、
鉄も鏡も大陸製品も北部九州の土器も殆ど無い

これはかなり厳しい状況…
0737日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 17:07:19.48
>>730
>卑弥呼の墓が低地の湿地帯に造られる訳がない。  無礼千万。  @阿波

纏向遺跡の地は扇状地の川筋の間の微高地
そういうところはむしろ水が地下に抜けやすいって中学校で習わなかったのか?
粟はえらそうに言ってるくせにこういう基礎がまるで分かってないし知識として入ってない
0738日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 17:07:59.51
>>728
>勉強しろよ・・・

具体的に書いた方が説得力が出るよ?

具体的に書けばいいのに
書けないの?

あるっていえばあることになるの?
0739日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 17:41:59.29
>>737
>纏向遺跡の地は扇状地の川筋の間の微高地


湿地帯も扇状地の微高地も平地に変わりはないよ。

天皇の陵墓を湿地帯や扇状地の微高地などに造る訳ないよ。  無礼千万の説。  @阿波
0741日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 21:45:17.06
結局粟はこの程度
混ぜっ返しをわめくだけww

再度ザラコク並みに降格だな
要は最低ランクだってことだ
0742日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 23:02:54.88
>>738
宮内庁所轄の
参考墓ではない直轄陵墓が
九州じゃここだけかな

応神天皇の子王子か孫か
0743日本@名無史さん垢版2018/10/21(日) 23:30:00.45
>>742
>宮内庁所轄の
>参考墓ではない直轄陵墓

これが意味不明だが、
「上のびゅう塚古墳」のことが言いたいんだな?
一応、都紀女加王の墓とされているが、記紀にはなく、
旧事本紀の国造本紀に応神天皇のひ孫として載っているだけ
皇族ではあるが傍流の末だよな

皇統にとって重要な土地というのはかなり苦しい

それよりも都紀女加王が米多国造の祖とされているが、
この「米多」が倭面土國王帥升の「面土」じゃないかという方が興味深いな
0744日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 06:17:11.14
>>741
>そういう場所を微高地というのだが、粟に言わせればそれも平地らしいw


だから、天皇の陵墓は「山のてっぺん」に造られるものだと、何度言えばw  

微高地?   なんじゃそれ?   @阿波
0746名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2018/10/22(月) 07:31:15.96
>>745
>崇神天皇陵も景行天皇陵も垂仁天皇陵も、平地または山裾の尾根だよ


だから、それらは本当は天皇陵じゃないんだって。

天皇の陵墓を平地または山裾の尾根などの中腹に造る訳ないよ。  無礼千万の説。 

天皇の陵墓は「山のてっぺん」に造られるものだと、何度言えばw    @阿波
0747名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2018/10/22(月) 07:37:10.61
>>746
>だから、それらは本当は天皇陵じゃないんだって。

ああ、粟はここからもうトンデモなのか

崇神、垂仁、景行という被葬者は、それほどあてになるのもではないが
当代最大の古墳であり、大王の墓であることは疑いようがない
0748名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2018/10/22(月) 07:42:17.06
>>747
>当代最大の古墳であり、大王の墓であることは疑いようがない


これが、そもそもの誤り。 安直・短絡的思考。

天皇の陵墓を平地または山裾の尾根などの中腹に造る訳ないよ。  無礼千万の説。 

天皇の陵墓は「山のてっぺん」に造られるものだと、何度言えばw    @阿波
0749名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2018/10/22(月) 07:48:37.75
先代旧事本紀に伝わる都紀女加(つきめか、都紀女加王)
>第15代応神天皇の曾孫(三世孫)で、筑志米多国造の始祖とされる。
墓は、宮内庁により佐賀県三養基郡上峰町坊所にある都紀女加王墓(つきめかのみこのはか)に治定されている。
古墳は前方後円墳で、墳丘長は49メートルで5世紀の築造と推定されるが、埋葬施設は明らかでない。

>埴輪・葺石・周溝が見つかっている。昭和18年(1943年)に宮内省(現・宮内庁)により、都紀女加王の墓に治定された。
一帯の丘陵地には目達原古墳群(めたばるこふんぐん)が存在していた。
しかし、戦中の目達原飛行場建設に伴って消滅した。、
0750名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2018/10/22(月) 08:54:30.63
>>743
「上のびゅう塚古墳」というのは、
吉野ヶ里遺跡の東1qほどの、現在自衛隊の駐屯地になっている微高地かな。
空撮画像で、かっての飛行場らしき敷地が見える。
古代も今も、佐賀川上と並ぶ、最高の立地だねえ。
0752名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2018/10/22(月) 09:50:06.13
>>750
>古代も今も、佐賀川上と並ぶ、最高の立地だねえ。

でも吉野ヶ里も卑弥呼のころには廃れていたし、人がいなかったわけではないだろうが、
繁栄した王都の所在地というのは無理

米多にある程度の勢力があったのは認めるが、それが皇室の故地とか考えるのは
無理がある
0753名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2018/10/22(月) 09:57:37.65
>>750
そうすると、神崎・吉野ヶ里・米多原(目達原)は、同一圏内の邑と考えるのが適当かもね
ということは、二世紀には面土国だったが、
卑弥呼共立に伴う町村合併?で、三世紀にはまとめて不彌国になったのかなあ
0754名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2018/10/22(月) 10:08:57.89
>>752
第15代応神天皇の曾孫(三世孫)ということだから、
天皇家の王女が嫁いだ先の遠いご親戚、といったところだろうねえ。、
0755日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 17:36:27.29
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0756日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 17:41:37.46
>>754
>第15代応神天皇の曾孫(三世孫)ということだから、
>天皇家の王女が嫁いだ先の遠いご親戚、といったところだろうねえ。

都紀女加王だから、男系子孫じゃないか?
0757日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 20:49:49.97
畿内説の物証 (特に纏向)並べて欲しい

推理はいいから

並べて欲しい

いきつく先はホケノたと思う
0758日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 20:50:13.14
畿内説の物証 (特に纏向)並べて欲しい

推理はいいから

並べて欲しい

いきつく先はホケノたと思う
0759スレ主さんよ垢版2018/10/22(月) 20:54:57.27
王都は甘木朝倉

卑弥呼の墓は平原
0760日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 21:01:15.34
王都は伊都国
女王墓は平原遺跡
0761日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:02:23.87
平原遺跡って書いてる人は、平原5号墓のことや、
平原1号墓の柱穴の配置とか分かってるんだろうか
0762日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:09:30.90
魏略に「其国王皆属女王也」ってあるけど、
伊都国の国王は皆女王の親族って読んだりしないのかな?
直後の狗奴国も不属女王だから女王の血統ではない、的な。
伊都国って政治機構と外交機関があって人口千戸って千代田区みたいだな。
魏使が留まるから、記録した風俗は伊都国のものなんだろうね。
0763日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:21:26.54
>>759
邪馬台国卑弥呼の拠点は甘木の夜須河原
平塚川添近辺

死んだところは平原

生まれは山門、瀬高、八女あたりか
0764日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:25:52.61
>>762
>伊都国って政治機構と外交機関があって人口千戸って千代田区みたいだな。

正解。

あと、狗奴国の王は卑弥呼の親族だろう。
名前が似ているからね。
だからこそ、家督をめぐってもとより不和なんだよ。
0765日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:29:21.88
>>763
古い時代から伊都国、奴国のルーツ
そして邪馬台国全体の中核
一方の日の国の中心、それは三根郡(吉野ヶ里)だった

神武東遷後も景行天皇・日本武尊の時代においても役割を果たしていたね
0766日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:30:39.03
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0767日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:38:20.09
>>765
>平塚川添近辺
>死んだところは平原

宮殿奥深くにいる引きこもりの女王がどうして死ぬときに何十キロも離れた伊都国まで行くんだ?

死期を悟った猫が家出するのと同じだとでも思ってるのか?
0768日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:41:45.88
故郷に葬られた
日没する処へ葬られた
いろいろ考えられますな
0769日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:42:42.15
あ死んだところ言ってんのか
でもそういうことだろ
0770日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 22:59:28.87
伊都が王都だろ
0771日本@名無史さん垢版2018/10/22(月) 23:05:59.63
>>767
能無しバカ
畿内においても歴代天皇の墓は治政の場所とは離れてるわ
0772日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 01:15:06.32
>>767
キナイコシが華麗に恥をかいたね。

「引きこもりの女王」ネェ。
0773日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 07:43:49.75
>>771
>畿内においても歴代天皇の墓は治政の場所とは離れてるわ

また適当なことを書いてる
宮と墓所は同じ場所ではないけれど(宮に古墳を作るバカはいない)
宮も墓所も同じ治所、治国の中だぞ

なんで遠く離れた場所まで遺体を持っていってたかが
10メートルちょいのしょぼい墓に倭王を葬らないといけないんだ?
0775日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 08:24:24.06
>>774
それは壹與からだと思うけどね。
きっと祇園山が壹與の墓だよ。
0776日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 08:54:08.02
>>775
その「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 


「祇園山古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波
0777日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 08:54:52.72
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0778日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 09:14:33.98
3世紀の倭の都は伊都国ですね
7世紀には太宰府が倭国の都
4〜6世紀は北部九州内だろうけど何処に都が在ったか不明。
0780日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 09:52:48.38
>>775
>きっと祇園山が壹與の墓だよ。

祇園山と平塚川添も、決して近くはないんだが?
0781日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 11:56:00.56
福岡と佐賀が倭国の中心部なら、問題ないよ。
0782日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 12:01:26.60
>>781
>福岡と佐賀が倭国の中心部なら、問題ないよ。

福岡も佐賀も倭人伝の「其山有丹」に反する。 よって、即刻終了。  @阿波
0783日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 12:24:57.92
そのていで言ったら即刻終了する項目は九州以外の方が多いだろ
0784日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 12:28:27.10
>>783
>そのていで言ったら即刻終了する項目は九州以外の方が多いだろ

そうだね。 九州説だけじゃないね。 倭国(阿波)以外はすべて即刻終了。  @阿波
0785日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 18:46:45.72
そもそも、魏志倭人伝(三国志)は、正史とされる史書であり、暗号書でもパズルでもない
「解読」して、この読み方が正しい、などというのは愚の骨頂
極力素直にそのままで読めば、読者に意味が通じるように書かれている

その意味で、伊都国と邪馬台国が別の国として
旅程も戸数も別に書いてあるのに、同じ国だという読み方は、不自然の一言で却下されてしまう

古代の王都はその国の中心となるのが当然
実際、魏志倭人伝でも、女王の都するところと明記された邪馬台国は
戸数、七万餘戸の倭国最大の大国として描かれている

伊都国の戸数は、千戸であり、魏志倭人伝に「国」としてと数を記された中では同率最下位だ
隣に二万餘戸の大国、奴国があるのに、伊都国に都があるとするのは不自然の一言だ

平原1号墓が卑弥呼の墓だとするのと、伊都国が倭国の都=邪馬台国とするのは、
互いに相手を根拠とする循環論法に過ぎない

平原1号墓は、殉葬墓があって、八咫の鏡があるから、卑弥呼の墓という論法だったが
殉葬墓とされた土坑墓は埋葬時期がずれていて殉葬ではないには明らかだし、
円周が八咫だから八咫の鏡というのも否定された

墳丘サイズが12×8メートルで径百歩にはどうやっても届かない平原1号墓は、
卑弥呼の墓ではあり得ないし、伊都国が倭国の都とするのも、不自然なことばかりであり得ない

伊都国=邪馬台国説は成り立つ余地がない
0786日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 19:17:14.54
>>762
原本は千じゃなく万だったのではないかって説もある
根拠は知らん

候補地と人口が合わないとかじゃね? だいたいの候補地は人口が何千とか万とか行ってそうな場所だしな
0787日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 19:37:15.85
そのまま読んだら南海の孤島になるから解読してんだろ
0788日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 20:20:05.63
>>785
長々と妄想ご苦労。
途中から読む気がしなくなったけどね。
そんな恣意的な読み方は捏造とかわりない。
0789日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 20:20:44.69
短里だと九州に収まるよ。
0790日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 21:37:53.37
倭人伝は「其山有丹」なんだけど、後漢書だと「其山有丹土」なんだよね。
献上品に真珠、サファイアときてベンガラはさすがに無いと思うけども、
後世の意訳的なものも含めて微妙に表記に揺れがあるから、
魏志だけじゃなくて魏略逸文とか隋書だとか倭国、倭人系は全部読まないと
判断できないよなぁ。
0791日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 22:36:47.14
其山有丹=倭の山に丹がある

日本全国どこでもあてはまる
0792日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 22:41:35.81
>>786
>原本は千じゃなく万だったのではないかって説もある
>根拠は知らん

それの根拠は魏略だな
東南五百里 到伊都國 戸万余
0793日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 22:45:29.76
辰砂で結論出たんじゃないの?
0794日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 22:53:47.79
>>787
記事に誤りが無いという奇抜な信仰を押し通すから「解読」なんていう奇行をしでかす羽目になる

地理の記載が誤ってることを認めて、記載から離れるべき
0795日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 22:56:42.67
>>788
>そんな恣意的な読み方は捏造とかわりない。

短里があるとか
水行の起点は帯方郡だとか
「到」と「至」は違うとかww

恣意的で捏造と変わらないね!
伊都国が邪馬台国の都ってのもあったなww
0796日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 22:59:41.64
>>791
>日本全国どこでもあてはまる

倭国が列島サイズならそれでいいよ
だが、九州のみが倭国だというなら、九州には弥生時代に丹山がないからありえないことになる
0797日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 23:01:24.83
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0798日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 23:12:01.27
>>796
九州には弥生時代に丹山がある
0799日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 23:14:53.64
>九州には弥生時代に丹山がないからありえないことになる

〇其山有丹

×其國有丹山

見苦しいねえw
0800日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 23:18:20.98
どんな気持ちで文献曲解してるのかなあ
陳寿が笑ってるぞwww
0801日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 23:40:01.99
>>796
佐賀県に丹山があるだろう。
どの九州説でも佐賀県は邪馬台国の領域だね。
0802日本@名無史さん垢版2018/10/23(火) 23:59:56.44
>>798>>801
ないよ
物理的に存在していても、弥生時代の時点で見つかっていないし丹も採られていない
0804日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 00:19:29.40
>>802
弥生時代に見つかっていないという証拠は?
0805日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 00:21:08.84
弥生時代にド田舎の阿波で採掘されてるんだから
500年ほど先を行っていた北部九州ではとっくに丹山は見つかっていただろうな

>中国丹が安価だからわざわざ採掘していなかっただけで
0806日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 00:57:57.74
献上物の記述を見て、倭には真珠とサファイア(翡翠)が採れる所があって、
辰砂の出る山があるんだって認識っぽいけどね。
その後の植物は色々書いてあって生姜も山椒も美味いの使わないとか
文句言ってるから、魏使か張政の報告書なんだろうなw
0807日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 01:13:35.19
関係ないけど、倭人の婦人は淫らでなくて嫉妬しないけど
東夷伝高句麗の婦人は淫らとか書いてるし、魏使の主観が面白すぎる。
魏使「倭人って飯は生もの食べてて、美味しくないけど、女は清楚だよ」
0808日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 06:24:42.29
>>805
>弥生時代にド田舎の阿波で採掘されてるんだから

弥生時代の阿波が「超先進文化国」だったことは今更言うまでもない。


>500年ほど先を行っていた北部九州ではとっくに丹山は見つかっていただろうな

その「北部九州産の丹」が全く出土しないというお粗末。  @阿波
0809日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 07:27:42.33
>>805
>>中国丹が安価だからわざわざ採掘していなかっただけで

中華皇帝の権威を示す下賜品が、真珠五十斤で11キロくらいの量
桜井茶臼山一つで水銀朱の使用量は200キロ超
中国丹が安価なんてどこから来た?ww
0810日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 07:30:19.75
>>804
>弥生時代に見つかっていないという証拠は?

九州の丹は、飛鳥時代になって畿内豪族が九州まで出向いて「発見」してるんだよ
それ以前に知られていたら、「発見」できないだろ
0811日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 08:18:33.17
>>809
>桜井茶臼山一つで水銀朱の使用量は200キロ超


その「桜井茶臼山古墳」や「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」なんだけどね。  @阿波
0812日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 08:25:16.47
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0813日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 08:40:19.35
>>795
誰が見ても「到」と「至」は違う字ですよ?
君には同じに見えるの???
ここのスレが伊都国が邪馬台国の都ですけどw
0814日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 08:43:38.84
>>792
魏略には奴国が無いですから伊都国+奴国で戸万余ですかね
魏略の方が魏志倭人伝より古いようですから
その後に伊都国と奴国が分かれ奴国が更に大きくなったのかもね。
0815日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 08:45:04.74
>>785
この人このスレの冒頭も読んでないな。
0816日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 11:01:19.23
委奴国がイ国とナ国に分かれて
イ国がイつ国と呼ばれるようになったんだよ
きっと
0817日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 16:56:16.35
>>814
>魏略の方が魏志倭人伝より古いようですから

魏略は逸文しか残っていないから確定的なことは言えないけれど、
記載されている範囲の最後のころの記事からすると、魏略のほうが古いとも言えないというのが通説

現状では、魏略、魏志倭人伝よりも古い共通の典拠資料があって、それを双方独立に引用しているらしい

>その後に伊都国と奴国が分かれ奴国が更に大きくなったのかもね。

そもそもこの部分の魏略逸文が、翰苑の「分軄命官統女王而列部」に対する注の部分なので、
魏志倭人伝にも対応部分がある「其國王皆属王女也」を書くのが目的の部分
なので、伊都国までが引用されているのであって、奴国の記事が魏略になかったということではない
0818日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 17:00:34.83
>>815
>この人このスレの冒頭も読んでないな。

スレ冒頭どころか、前前前スレから読んでるよ
このスレの趣旨には真っ向から反対の立場

そもそも邪馬壹国は誤記だし
翰苑の廣志逸文に邪馬嘉國とあるから邪馬臺国はなかったっていう人はいないだろ
0819日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 17:02:15.30
>>813
>誰が見ても「到」と「至」は違う字ですよ?
>君には同じに見えるの???

違う文字だけれど、意味の違いで使い分けされている訳じゃないってこと
「到」が到着地でその先に行っていないというのは、誤読
0820日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 17:05:54.72
>>819
根拠を示さず、結論だけ喚くばかり。
0821日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 18:37:29.60
>>807
そこら辺の記載は経書の世界観を元に造作された空想で事実無根だよ

コビト国とか女人国の話も長寿という話も男女比の偏りも同様。元ネタが経書の中に存在することが確認されている。


>>813
詩歌など韻文を書くときに韻を踏ませたくて読み方が違うだけの同義の文字を使うことは多く行われる一般的風習だが、三国時代は(その時代に限ったことではないが)
散文を書くときにも押韻を強く意識して書くのが普通だった。
だから、韻を踏むためだけに同義の別辞を使い分けることは多く、意味で使い分けたとは限らないんだよ
0823日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 19:22:28.88
>>820
がんばるだけ無駄だよ?
九州説の一部しか、「到」は到着地で特別って言ってる人いないもの
0824日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 20:10:46.26
>>821
ええ、倭人の風俗って空想なの?
生野菜食べる、生姜山椒は美味しいのに食べない、
婦人は淫らじゃなくて嫉妬しないってのは空想なのか。
魏使が実際見たのかと思ったけど。
0825日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 20:22:57.03
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0826日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 20:42:33.78
倭国の風俗や風土に関する記載の多くは空想だぞ

経書の東方風俗と南方風俗をミックスして、さらに遠方特性を付け加えただけ

経書由来じゃない真の目撃談を抜き出すには経書の関連記事をチェックしないと駄目らしい
0827日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 21:14:01.94
>>826
>倭国の風俗や風土に関する記載の多くは空想だぞ

ごじゃくそ言っちゃあ、イカン。
倭人伝は倭国(阿波)の風俗や風土を書いているのは明らか。  @阿波
0828日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 21:37:08.28
遠くへ行けば行くほど男女比が偏っていって、世界の果てでは女ばっかりになる(=女人国)とか、
僻遠の地に行くと寿命が長くなるとかいう経書にある記載が無関係に見えるのか

どう見ても倭人伝の記載(のうち、事実とは考えがたい怪しい部分)の元ネタだぞ
0829日本@名無史さん垢版2018/10/24(水) 22:18:12.77
経書の世界観か。経書ってたくさんあるが、どれのことなんだろ。
妻が4,5人なら必然的に女性が多いんだなって思うとか、
日本でも田舎の人は長生きって思ってるとこあるよね。
小人国や寿命ネタ、裸国、黒歯国が1年〜みたいなのは
言い伝えが入ってそうだけど。
まぁ、葬式、服装、集会だとか猿雉がいて虎はいないってのは
生々しいし見聞っぽいな。
0830日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 01:55:10.98
>>829
>猿雉がいて虎はいないってのは

虎がいないはともかく有獮猴黒雉って日本か?
吠え猿も黒い雉もいないだろ?
0832日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 08:03:40.77
>>822
至・・・全ての事柄に使える
到・・・人に関することに使える
至⊃到ですね
狗邪韓国で倭に到着(到其北岸狗邪韓國)
伊都国で最終目的地に到着(郡使往來常所駐)
狗邪韓国と伊都国以外は通過地点や単なる説明ですね。
0835日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 10:31:00.10
>>823
学問は多数決じゃないんだよ
発見や発明は一人からはじまるんだ。l
0838日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 10:38:52.54
>>835
>学問は多数決じゃないんだよ
>発見や発明は一人からはじまるんだ。

多数決ではないけれど、多くの人がそうだと認める通説や多数説には、
きちんとした根拠や論理的整合性があり、それだけ正しいとみなすべき蓋然性の高さがあるから、
通説として通用するんだよ

「発見や発明は一人から」始まったとして、それを周りの人がまったく認めないとしたら、
それは周りの人が悪いのではなく、それが無意味なものだからだろう

「到」と「至」の話を古田武彦氏が言い出してから何十年経ってると思ってるんだ?
その間、多くの人が検証し、「ああこれはダメだね」という評価が定まっているんだよ
0839日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 10:39:38.07
>>836
>衆禺畿内説

するってぇと、九州説は英明なんですね!wwwwww
たいしたもんだw
0841日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 10:55:17.14
古田武彦氏「到」と「至」の話を何かしてた?
0842日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 12:13:59.38
古田は、邪馬台国の狭間に咲いたあだ花だったようだな
0843日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 13:06:57.22
>>839
正解
0844日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 13:45:06.95
>>839
日本国民は騙せてませんけどね
今でも日本国民の7〜8割が九州説支持者。
0847日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 18:49:12.40
>>841
>古田武彦氏「到」と「至」の話を何かしてた?

古田氏の主張の要約
「三国志」に出てくる、全部で1096個の「至」、194個の「到」の字を調べた結果、2つの字には意味の使い分けはないことをつきとめ(榎和雄の説をくつがえす)、さらにこれらの字の用法について、次のことを明らかにした。

ア.先行動詞(行く、渡る、遠征するetc.)+「至(到)」・・・・この形が基本である(〜して〜に到着する)
イ.先行動詞がない場合
1.文脈上、明らかなので省略されている(この場合意味は、ア.と同じ)
2.実際にそこに到着していない場合=「わき道」の説明を挿入している

九州説、特に九州王朝説を採るなら、古田氏の言ってたことぐらいは把握してあげなよw
しかし、三国志を含む大陸史書の用例をさらに広く見ていくと、
0848日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 18:51:05.57
古田氏は、三国志の全用例を調べて榎和雄氏の主張を否定したが、
しかし、三国志を含む大陸史書の用例をさらに広く見ていくと、
古田氏の主張も否定され、特に意味上の区別はないことが分かる
0849日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 20:50:25.84
>>845
一般人にアンケートをとると7〜8割が九州説支持者で2〜3割が畿内説ですよ。
0850日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 20:55:59.02
古田武彦氏の解釈も変な所があるからな
至・・・全ての事柄に使える
到・・・人に関することに使える
至⊃到ですね
至の方が意味がいろ広いから使用数も多くなる
到を至と書いても構わない
到の方が使用が限定されてる
0851日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 21:03:06.80
魏志倭人伝は三国志の一部だから
過度の一般化の誤謬だね。
0853日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 21:51:21.55
>>848
「(問題の)“至”と“到”は、(中略)『三国志』の中でも違う意味に用いられており、簡単にいえば、“到”は“到る”、“至”は“まで”ということである。
“到”というのは、点的な概念であり、その一点に着くことであり、文章の中では、次のところへの起点にならない。
“至”というのは、線的な概念であり、その一点までということで、文章の中では、次のところまでの起点になる可能性がある。
aがA点からB点に「到」するのは、aがA点からなくなって、B点に存在することである。
bがA点からB点に「至」するのは、bがA点からなくならず、B点にまでおよぶことである。
到 ーーーーーーーー→a
A B
bbbbbbbbbbbbbbbb
至 ーーーーーーーーー
『三国志』を見ると、いたるところにこの使い分けが見かけられる。
(中略)
一般的に、中国古文は、文章の中で、これら二字の中の一字だけを使っており、
“至”でも“到”でもすべて“到”、
“至”でも“到”でもすべて“至”、
のいずれかになっている。
しかし、文章の中で“到”と“至”が混じっている場合、
“至”は“まで”で何かがA点からB点までおよぶ、
“到”は“到る”で何かがA点から離れてB点に移って着く、
というように区別される。
中国古文多く読んで見ると分かるが、“到”と“至”が混じっている文章において、これら両字が全く同一の意味に使われている例は、いまだ一例もない。だから、この文章では、両字をしっかり区別して読むべきである。」
「誤読だらけの邪馬台国」p26-p32
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/
0854日本@名無史さん垢版2018/10/25(木) 21:59:08.52
>>1
王都は伊都国って・・・
玄関口、前哨戦線にすぎんな
戸数が少ない

邪馬台国の
本体は筑後川流域、そしてその中核都市は吉野ヶ里だ
0855日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 08:00:59.25
>>854
吉野ヶ里は邪馬台国の中の国邑の一つ
都ではない。
0856日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 08:19:58.01
-「伊勢」神宮の八咫鏡(天照大神)=「伊都」国王墓出土の超大型鏡
-纏向遺跡は3世紀末(卑弥呼没後)の祭祀遺跡(×都市遺跡)
-箸墓(巨大古墳)は吉備文化(楯突墳丘墓・特殊器台→円筒埴輪)の産物
-現時点で、3世紀の都市遺跡の質&数・鉄の出土量・倭国大乱の痕跡…北部九州(吉野ヶ里)>畿内(唐古鍵)

これら考古学の成果をまとめると、倭国大乱を納めた功績で魏帝から倭王と認められた邪馬台国(2世紀末〜3世紀)は北部九州にあり、
壱与の死後邪馬台国を婚姻で乗っ取った伊都国王家(現・天皇家)が東遷(畿内が北部九州を逆転した空白の4世紀)、
吉備・大和を中心とした畿内連合を従えて、大和朝廷を成立させた。
0857日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 08:28:41.74
>>853
>“到”というのは、点的な概念であり、その一点に着くことであり、文章の中では、次のところへの起点にならない。
>“至”というのは、線的な概念であり、その一点までということで、文章の中では、次のところまでの起点になる可能性がある。


ちがいはあるとしても、次への起点になる/ならないを区別してるとは思えないな。
倭人伝の行程記事とは明らかに矛盾する。

あえて区別するなら、到ったところでは休養のためしばし滞在し、改めて次を目指す・・・、みたいな感じだな。
0858日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 08:54:49.38
倭王帥升の死後、北部九州〜瀬戸内海(高地性集落)を中心に展開した2世紀の倭国大乱を収めたとはいえ、邪馬台国は王朝ではなく、共立によって成立した権力基盤が脆弱な同盟
しかも卑弥呼は巫女で、政治的な実験は男弟が握っていた
つまり、(表向き)従えた各国の力の均衡が崩れれば、また大乱再発の危険があったということ
魏帝曹叡はそれを見抜いていたからこそ、親魏倭王・卑弥呼に立派な銅鏡を100枚与えて、朕が後ろ盾になっていることを従えた王たちに示せ、と命令したのである
もし権力基盤の脆弱な共立盟主・邪馬台国が倭国大乱からほとんど無縁だった大和にあったら、卑弥呼の死後また大乱が再発していただろう
0859日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 08:59:18.39
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0860日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 20:39:39.61
>>857
狗邪韓国の後海を渡る前の七千余里はどこから勘定する?
狗邪韓国?
0861日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 22:18:01.25
帯方郡から狗邪韓国までじゃない?
0862日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 22:55:41.77
>>861
そう思うよね。
だから
「到ったところでは休養のためしばし滞在し、改めて次を目指す」
にはならないかな、と。
0863日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 22:56:48.46
>>1
1000戸しかないのに王都はムリなんよ

邪馬壹國の本丸、中心都市は中原でその前線が前原だ
0864日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:07:45.85
ムリという根拠は?
ワシントンはニューヨークより小さいが、立派に首都として機能している。
考古学的にも、伊都国は青銅器の鋳型や、書をしたためるのに必要な硯などが出土しており、今で言う第二次産業や第三次産業の中心的役割を果たしていたことがわかっている。
それらは少ない人数でも効率よく富を生み出すんだよ。
0865日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:10:02.00
狗邪韓国って倭国の北岸ってあるから倭国の国境?領域?に到達と王都?目的地?に到達でいいんじゃね?
0866日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:46:38.13
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
0867日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:07:28.89
>>865
だから
「到ったところ」は「改めて次を目指す」起点にならない、ということだ。
0868日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:11:33.09
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0870日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:28:38.78
>倭奴国は倭国の極南界である。

奴国の王の使いが、「奴国王」を否定するような「倭国」という言葉を発することはない。
これは奴国(那国)の使人大夫のセリフではなく、その後漢王朝から見ての「倭国」とはどこかという認識のことであった。

すなわち後漢側は、倭の使人大夫は、「自分は「倭の那国王」の使いであるといい、
そして「その那国王は、筑紫島の南の界まで極めている」と述べたと理解した。
そこで後漢書では、「筑紫島全体は倭国である」という後漢側の認識から、「倭国(筑紫島)の南界まで極めている奴国王」と述べているのである。
0871日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:44:28.99
>>869
これがな
857 名前:日本@名無史さん :2018/10/26(金) 08:28:41.74
>>853
>“到”というのは、点的な概念であり、その一点に着くことであり、文章の中では、次のところへの起点にならない。
>“至”というのは、線的な概念であり、その一点までということで、文章の中では、次のところまでの起点になる可能性がある。


ちがいはあるとしても、次への起点になる/ならないを区別してるとは思えないな。
倭人伝の行程記事とは明らかに矛盾する。

あえて区別するなら、到ったところでは休養のためしばし滞在し、改めて次を目指す・・・、みたいな感じだな。
0872日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:16:36.28
さあて、褌を締めなおして、
明日から三日かけて、対馬海峡の荒波を漕ぎわたるぞ〜〜
0873日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:23:30.13
狗奴国について賛同してくれる人が現れて嬉しい。

狗奴国は
曹操に朝貢した。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を貰った。
ある一定期間、壱岐対馬ルートを支配していた。

その後
伊都を首都とする邪馬台国に押されて、熊本以南に押し込められた。
景行+倭武尊の親子によって滅ぼされた。
0874日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:41:25.24
>>873
もともと狗奴国の王が卑弥呼の知り合いで、卑弥呼とそっくりの名前だったということは、同族だったんだろう。
つまりは家督争いなんだよ。
だから世代交代の時に一族の若い娘をとりあえず代表とすれば、対立は治ったということ。
そもそも魏志倭人伝では、国が乱れてから治ったとだけあるので、狗奴国と邪馬台国のどちらが勝者かなんて書いてはいない。

鉄鏡はもっと重視されてもいいとは思う。
卑弥呼ももともとは肥国(後の筑後を含む)の出身だったのではないかな。

あと、景行天皇が倒した相手は旧邪馬台国の中の勢力だよ。
耳垂とかが含まれていたし、豊前などの連中だ。
景行天皇は九州南部には侵攻していない。
0875日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:25:43.21
卑弥呼は丹後出身

景行が倒したのは狗奴国王統

当時の九州南部(鹿児島)は毛外の地で意味なし
熊本は制圧している

耳垂の意味は・・・耳と鼻を〇〇落〇〇たら、□だけの存在だよな
生口

わかって言ってんの???
0876日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:29:44.84
景行天皇は阿蘇では戦闘をしていなかった。
0877日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:11:47.72
熊本では行幸して回ってるだけだね。
0878日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:17:17.03
耳垂は、耳飾りをした首長であったという説があるね。
0879日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:23:39.62
景行天皇は、筑紫の梟師である神夏磯姫から頼まれて、九州北部つまり邪馬台国の内紛を治めただけなんだよ。
神夏磯姫は八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて神威を示したのだろう。
0880日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:46:16.77
景行天皇は、熊本・緑川の南の朝來山に籠る180人の賊を、
肥の君の祖のタケオ組に命じて討伐したという。
これは、狗奴国との争いにけりをつけたという意味だったのではないかと思うのだが。
0881日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:46:37.16
景行天皇は、熊本・緑川の南の朝來山に籠る180人の賊を、
肥の君の祖のタケオ組に命じて討伐したという。
これは、狗奴国との争いにけりをつけたという意味だったのではないかと思うのだが。
0882日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:12:32.46
筑前国風土記
>筑前国風土記逸文(釈日本紀所引)によると、
?足仲彦天皇(仲哀天皇)による球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲)征伐のための筑紫行幸の際、
>怡土県主(いとのあがたぬし:福岡県糸島市付近の県主)らの祖の五十迹手(いとで)が出迎えた。
>五十迹手はその言の中で、自分を高麗国(朝鮮の総称か)の意呂山(不詳。一説に蔚山)に天降った日桙の後裔としている。

このアメノヒボコは、垂仁天皇の御代に但馬へ渡来したとなっている。
そしてその後裔のいとてが仲哀天皇の時代であるから、時代的には合っている。
で、記紀上はともかく、実年代としては、四〜五世紀になるのではないか。
0883九州王垢版2018/10/28(日) 08:24:44.85
>>853
俺の解釈と殆ど同じだなw
0885日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:07:43.36
>>881
肥の君というのが狗奴国の末裔ではないか?
あと、日本書紀は主客をいいように入れ替えているように思える。
肥の君に討たせたというのなら、自分は神夏磯姫の命で朝敵を討っているよね。
それは神夏磯姫の筑紫の倭国王朝の敵だったのではないか?
0886日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:20:44.89
景行天皇が4世紀初め、仲哀天皇が4世紀末だろう。
神夏磯姫は壹與の直後くらいの倭国女王ということになる。
神功皇后が倒した田湯津姫が邪馬台国女王の王統の最後だと思う。
0887日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:51:39.19
四世紀の仲哀・神功皇后の逸話なのに、
倭人伝の伊都国に引きずられて時代を120年ほど繰り上げ、糸島怡土をイトコクに仕立て上げたために、
本来の佐賀川上の伊都国が、30qほど北に設定されているようだ。

またその影響で、熊本南部の宇土・宇城・八代地域にあった狗奴国も、
30qほど北に引き上げられて熊本市・菊池市付近に設定されてしまっているのではないか。
そう考えて、そのぶん全体像を南へ繰り下げれば、倭人伝の行程はつじつまが良く合う。
0888日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:52:57.12
なぜ実在しない人物の話ばかりしているんだ
0890日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:10:26.32
>倭奴国は、倭国の極南界である。

奴国の王の使いが、「奴国王(那国王)」を否定するような「倭国王」という言葉を発することはない。
であるから、倭の使人大夫は、「自分は、筑紫島の那国王」の使いであり、「わが那国王は、筑紫島の南の界(果て)まで極めている」と述べたのであろう、

そこで後漢側は、「筑紫島全体は倭人の倭人による倭国である」という自らの認識を元に、「倭の奴国王は、倭国(筑紫島)の南界まで極めているので印綬云々・・」と述べているのである。
つまり後漢書の「倭国」とは、後漢王朝から見ての呼称であったのだ。
0891学術垢版2018/10/28(日) 11:28:38.09
人間 心の形成が邪馬台国で終わるな。のみだけ語るな。方針ペースは尊重するけど。
0892日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:28:56.06
晉書 列傳第六十七 倭人
倭人在帶方東南大海中 依山島爲國 地多山林 無良田 食海物
舊有百餘小國相接 至魏時 有三十國通好
戸有七萬

魏時の三十國が計70,000戸だな。
0893学術垢版2018/10/28(日) 11:29:07.65
偶然どこからでも歴史的単元に興味を持つべきです。
0895日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:32:47.18
七万戸≒30万人というのが魏志の記す情報って事だろ、真偽の程とは別にして。
0898日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:14:11.34
2万戸も7万戸の内数
1000戸とか1000家とかのもそお
0899日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:29:58.99
>>898
>2万戸も7万戸の内数

九州説に人は、こういうダブルカウントの二重帳簿詐欺をどんな顔をして書き込んでるんだろう?

おかしいなとか、恥ずかしいなとか思わないんだろうか?

魏志倭人伝には、伊都国、奴国と邪馬台国は行程で2ヶ月戸かかる遠地の別の国って
はっきり書いてあるのに
0900日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:23:22.41
房玄齢に言えよ
0901日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:32:39.20
 ○ 一大國の三千許家も7万戸の内数
 ○ 不彌國の  千餘家も7万戸の内数
理由:一大國も不彌國も[壹の領域]にあるから

 ○ 奴國の二萬餘戸も7万戸の内数
理由:奴國は[邪馬の領域]にあるから

[邪馬の領域]+[壹の領域]=[邪馬]+[壹]

元祖[やまと]は不彌國にある

[邪馬壹國女王]は壹與のニックネームだ
0902日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:57:26.72
>>899
魏志倭人伝をよく読めば誰だって邪馬台国=倭国
倭国の中に伊都国や奴国、傍国が在ったって結論になるよ
畿内説の人は魏志倭人伝を余り読んでない。
0903日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:04:24.49
邪馬台国に入ってから王都まで2ヶ月かかる広大な国なんじゃないの
九州の面積では狭すぎるよな
0904日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:54:28.05
王都が邪馬台国と書いてあるんだよ。
倭国の一部だね。
0905日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 07:49:40.58
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0906日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 07:50:34.06
>>902
>魏志倭人伝をよく読めば誰だって邪馬台国=倭国

よくもまあ、こんなでまかせをw
邪馬台国は倭国の中で、都が置かれた地域の名称
邪馬台国女王之所都であって、邪馬台国=倭国とは書いていない
0907日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 08:05:17.31
>>906
晉書の解釈も邪馬台国=倭国となってますよ。
0909日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 08:58:15.96
晉書の編纂された7世紀前半にはまだ三国志以外にも魏略等の他の資料も読むことが出来たでしょうから晉書の解釈は信頼出来るよ。
0910日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 09:59:03.28
晋書は東夷のことにほとんど字数を使っていない
朝貢記録も国名すら書いていなかったりする
魏志倭人伝を端折って書いてるだけだよw
0911日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 10:02:44.78
魏略の翰苑に残された逸文が伊都国までだから伊都国だとか言ってるのもいたね
「分軄命官 統女王而列部」に対する引用だから、伊都国の「其國王皆属女王也」と
いうところまで引用されてただけなのに
0912日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 10:18:13.63
倭人伝は怪しいが、他の史書は信用できる・・・、みたいな他律論者はそもそも脳みそがおかしい。
0913日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 10:58:03.12
1800年後の外国人素人の解釈より400年後の同じ中国人の学者の解釈が信頼出来るわな。
0914日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 11:09:48.84
晉書の邪馬台国=倭国の解釈は尊重されるべきですね。
0915日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 11:27:42.34
倭人在帶方東南大海中依山島爲國 地多山林无良田食海物 舊有百餘小國相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子无大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
昔夏少康之子封于會稽斷髮文身以避蛟龍之害 今倭人好沈沒取魚亦文身以厭水禽
計其道里當會稽東冶之東
其男子衣以横幅但結束相連略无縫綴 婦人衣如單被穿其中央以貫頭 而皆被髮徒跣
其地温暖俗種禾稻紵麻而蠶桑織績 土无牛馬 有刀楯弓箭 以鐵爲鏃
有屋宇父母兄弟臥息異處 食飮用俎豆 嫁娶不持錢帛以衣迎之
死有棺无椁封土爲冢 初喪哭泣不食肉 已葬舉家入水澡浴自潔以除不祥
其舉大事輙灼骨以占吉凶
不知正歳四節但計秋收之時以爲年紀
人多壽百年或八九十
國多婦女不淫不妬无爭訟 犯輕罪者没其妻孥重者族滅其家
舊以男子爲主 漢末倭人亂攻伐不定 乃立女子爲王名曰彌呼
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢

完全に魏志倭人伝のサブセットだろ?
新しい情報はないよ

晋書は魏志倭人伝を端折って書いてるだけ
0916日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 11:30:05.40
晉書は
「不知正歳四節,但計秋收之時以為年紀。」
が記事中にあるから魏略ベースなんだろうな
0917日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 12:05:34.55
>>915
三国志や魏略の内容を要約してるんだから
晉書での「倭人の三十國通好=戸有七萬」は尊重されるべきですね
魏志倭人伝の記述と合わせて考えると邪馬台国=倭国になるわけです
現代人の下手な訳より参考になりますな。
0918日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 12:09:23.78
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0920日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 12:27:47.19
倭人の三十國通好が戸有七萬なんですよ
邪馬台国が戸有七萬なんですから三十國は邪馬台国を構成する国邑でしょ
つまりは三十國の国邑で邪馬台国が構成されてた
この三十國は倭人の国で魏と通好してた倭国
「邪馬台国=倭国」になるじゃないですか。
0921日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 12:39:50.36
>>1の認識と晉書の認識は一致してるんだよな
つまり邪馬台国を女王国の都とする訳がトンデモなんだ。
0923日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 13:08:51.39
>>922
どこがトンデモですか?
説明してよ。
0925日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 15:58:12.42
倭人伝は怪しいが、他の史書は信用できる・・・、の他律論者は、そもそも脳みそがおかしい。
0926日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 16:30:11.12
>>917
>三国志や魏略の内容を要約してるんだから
>晉書での「倭人の三十國通好=戸有七萬」は尊重されるべきですね

新しい情報がない(晋への朝貢記事は別)のなら、二次情報だから
一次情報のほうが尊重されるのは当然

なぜ、当たり前のことを認めずに、自説の都合で捻じ曲げようとするのか?
こういうことの繰り返しで、九州説は信用をなくした
0927日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 17:05:28.89
晉書は魏略などの今は失われた資料も見ての認識だよ
その上時間的にも近いし陳寿と同じような教育を受けた学者が判断してるんだぜ
関連資料も失われた今の漢文にも弱い日本の最近の学者の訳よりは正しいよ。
0928日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 17:35:57.70
注釈書を参考にするのもあかんくなるよな
0929日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 17:44:03.74
晉書が時間的にも近い?

本気で言ってる?

!!!!
0930日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 17:51:09.63
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0931日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 18:14:10.90
>>929
こんな認識の人と会話が成立する訳がない
0932日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 19:21:19.13
まあ、現代よりは近い、くらいのつもりなんだろうさ
晋書の成立は唐代の648年で、3世紀からは400年くらいも経ってるんだけどね
0933日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 22:21:26.88
言いたいことはわかる。
後世の人と言えど正史を編めるレベルの人が魏志を要約して、
ここはこれで意味が通じるだろってことで端折った。
魏志では色々細かく書いてあるけど、略すと総数七萬で良いってこと。
0934日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 22:41:38.85
>>933
>ここはこれで意味が通じるだろってことで端折った。

言語として意味が通っても、内容が正しいとも限らない
一次情報と二次情報に齟齬があれば、一次情報を採るのが標準

晋書は東夷のことに興味がない
0935日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 22:54:37.46
まぁ1300年位後の日本人よりは正確かも知れないよ?
0936日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 23:07:35.67
少なくとも、晋書を書いた人は7万戸と解釈した、という事は事実

興味深いね
0937日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 23:26:20.93
解釈したんじゃなくて斜め読みで適当に写しただけに見えるんだが
0938日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 23:55:40.11
>>932
晋書は400年くらい今は1800年くらいも経ってるんだよ
晋書が編纂された時代には魏略も読めたはずなんだよ
それらを総合して判断してるのと殆ど資料が失われてから判断してるのとは
信憑が格段に違うよ。
>>934
何を言ってるの?
一次情報と二次情報に齟齬があるのではなく
現代の解釈と晋書の解釈で齟齬があるんだよ。
0939日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 07:53:21.54
400年を近いと表現する人は違うねww
晋書は唐代に史書を正史として揃えようという動機のもとで
ある意味やっつけで作った史書だよ

ウィキペディアでもこんなことが書かれている
「司馬懿の首が180度回転したといった事実とは考えられない記述が多く、
 清朝考証学では論難されている。」

晋書は東夷の記述が薄い
東夷に興味がないことがありありと分かる
それが倭人伝の考証をしっかりやってるなんて言うのは、思い込みだよ
チェリーピッキング乙
0940日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 08:03:41.40
例えば晋書倭人条の冒頭の
倭人在帶方東南大海中依山島爲國「地多山林无良田食海物」

これは魏志倭人伝の対馬の
「土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴」を
適当に縮めたもの

これが倭国全体を表してるとは>>938も言わないだろ?

「戸有七萬」は、邪馬台国の記述の一部を拾っただけだよ
ここまで説明されて分からないなら、話の通じない人ってだけだ
0941日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 08:58:30.31
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0942日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 15:25:25.36
>>940
>「戸有七萬」は、邪馬台国の記述の一部を拾っただけだよ

それはその通りなんだが、投馬国の五萬戸も省略されてるからな
晉書の編集者は投馬国は倭地には無いと判断したんだ。
0943日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 16:03:40.62
>>942
>晉書の編集者は投馬国は倭地には無いと判断したんだ。

どんどん議論が雑になってきてるな
その伝で行くと、奴国二万戸も倭地にはないと判断された訳だ
北部九州最大国がなかったことになる

最初から無理筋の話で、憶測に憶測を重ねれば、矛盾だらけで
収拾がつかなくなるのは当然
0944日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 16:06:09.37
あと、晋書が正しいと言い張るなら、卑弥呼の前の男王時代ってのはなくなるな
晋書では
舊以男子爲「主」であって王じゃないからw

晋書にこんなに突っ込むやつがいるとは思いもしなかったよ
0945日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 16:41:14.17
>>943
奴国二万戸は邪馬台国の一部だと判断されたんですよ
>>944
王の誤記じゃないの。
0946日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 19:20:42.28
>>945
>奴国二万戸は邪馬台国の一部だと判断されたんですよ

晋書のどこにもそんなことは書いてない
もう、妄想憶測を重ねているだけだから、意味ないよ

晋書には、魏志倭人伝以外の情報は
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
この一行しかない
後は、魏志倭人伝の引き写しの二次情報なのだから、魏志倭人伝を直接読んだほうが早いし正確

自分でも、主は王の誤記とか勝手に決め付けてるだろ?
そういうのは無意味なんだって
0947日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 20:52:37.70
>>939
三国志だって劉備の容姿描写を筆頭に事実と考えられない記述は多くて、信憑性の面で大差ないよ
0948日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 21:57:04.63
>>946

7万戸に関しては実際に記述があるので、作者が抜き出しただけか?7万戸と解釈したか?は確かにわからん

しかし、記載されている事は事実

それは否定できないし、魏志の日程部分については現代でも様々な解釈があるのも事実

倭国=邪馬台国の説が補強される事にはなるな
0950日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 22:49:34.48
牽強付会って言葉、知ってるかい?
七万戸と書いてあるから「倭国=邪馬台国」なら
地多山林无良田食海物と書いてあるから「倭国=対馬国」だな
こっちの方がより字数を割いて具体的に書いてあるから、間違いないな!

バカらしいだろ?
0951日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 22:52:48.24
>>950
それって何か反論になっているの?
意味不明なんですけど。
0952日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 23:02:06.32
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0954日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 23:30:40.15
>>951
>意味不明なんですけど。

スレの流れを論理的に追うこともできないんだ
何かを議論する能力ないんじゃないか?

まず>>915に、晋書倭人伝の全文がある
これを見るだけで、晋書は魏志倭人伝の省略抜粋であることが普通の人には分かる

さらに>>934で解説もしてある
「言語として意味が通っても、内容が正しいとも限らない
 一次情報と二次情報に齟齬があれば、一次情報を採るのが標準

 晋書は東夷のことに興味がない」

晋書は二次情報であり一次情報が優先される

さらに>>940で、対馬国と断らずに魏志倭人伝の対馬国の描写の抜粋が書かれていることが
具体的に示してある

七万戸とあるのは魏志倭人伝の邪馬台国に書かれていたことが、邪馬台国と断らずに書いてあるだけ
対馬国の描写と同じ扱い

これを7万戸と書いてあるから「倭国=邪馬台国」と主張するなら
地多山林无良田食海物と書いてあるから「倭国=対馬国」ということになる

魏志倭人伝と晋書倭人伝 の扱いにおいて邪馬台国七万戸と
対馬国地多山林无良田食海物は同じ立場、扱いの情報なんだから

ここまで書けば>>948がどんなにいいかげんで牽強付会な主張をしているか分かるだろ?
0955日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 23:57:39.00
>>954
>一次情報と二次情報に齟齬があれば、一次情報を採るのが標準

分からんひとだなw
君にたいな現代の解釈と晋書の解釈で齟齬があるんだよ
一次情報と二次情報に齟齬があるのではないよ

>対馬国と断らずに魏志倭人伝の対馬国の描写の抜粋が書かれていることが
具体的に示してある

別に魏使の見分した倭の代表として書かれてるだけだから問題ないだろ。

>七万戸とあるのは魏志倭人伝の邪馬台国に書かれていたことが、邪馬台国と断らずに書いてあるだけ
対馬国の描写と同じ扱い

数字は計算できるんだから合計なり何なりして書きますよw
0956日本@名無史さん垢版2018/10/30(火) 23:59:20.34
君にたいな現代の解釈と晋書の解釈で齟齬があるんだよ

君みたいな現代の解釈と晋書の解釈で齟齬があるんだよ
0958日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 00:22:14.91
房玄齢・李延寿が内容を読まず写しただけなのか、七万戸と解釈したのか、は謎なんだよ

しかし、七万戸と書いてあるのは事実
当然七万戸と解釈した可能性も大いにある
それだけだ
0959日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 06:56:41.81
内容を読まず写しただけなんてないよ
ウィキにもあるけど『晋書』は悪く言うと「分量さえ多ければいい、資料収集が広ければいいという態度だ。小人は喜ばせられるだろうが、君子のあざ笑うところである。」
良く評すると「前代の記録を広く考証し、残存する記録を広く探し、雑草を刈り取るように肝心な部分を抜き出している」ってされてるからね
当時手に入った三国志や魏略その他の資料を読んで要点を纏めたんだ。
一次情報を要約した二次情報だけど齟齬があるのではないね
晋書と現代訳に齟齬があるんだね。
0960日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 07:29:28.21
晋書は現在では散逸してしまった魏略その他の資料を読んでの要約だから
晋書と現代訳に齟齬がある場合は晋書の見解を無視できないよ。
0961日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 07:41:51.07
>>960
>晋書と現代訳に齟齬がある場合は

齟齬があると言い張っているのは>>960だけ

>>958
>しかし、七万戸と書いてあるのは事実
>当然七万戸と解釈した可能性も大いにある
>それだけだ

より字数が多く固有名詞(邪馬台国)を使って詳細の書いてある魏志倭人伝と
比較して読むだけで、その可能性を「理性的な判断ができる人」は考えない

可能性が0ではない、原理的に全否定はできない、ただそれだけの限りなく
薄弱な根拠をその論の基礎に置く説は、はっきり言って駄説であり無意味
0964日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 11:46:45.08
記述がある と その記述が正しい とは同値じゃないんだ

そんなことを言わなきゃならないとも思いもしなかったよ
0965日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 11:53:17.28
魏志倭人伝にこう記述されているのは薄弱な根拠じゃないよな? 
記述が実際にあるんだからww
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。(中略)可七萬餘戸。」
間違いなく、倭国ではなく邪馬台国についての記述

そして対馬国については
「始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。
 土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。」
と書いてある
これも間違いなく、倭国ではなく対馬国についての記述

それが、晋書倭国伝では
倭人在帶方東南大海中依山島爲國 地多山林无良田食海物 舊有百餘小國相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子无大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
となる
対馬国とか邪馬台国とかの国名の記述一切なしで、魏志倭人伝の情報を切り貼りしただけなのが分かる

これを、「晋書の編者の判断が入っていて、現代人の判断より優先されないとおかしい」とか
言ってる人がいるけど、この主張こそどこまでもおかしい訳だ
0966日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 15:11:47.30
>>965
何をいってるの?
邪馬台国=七万戸を否定してる訳じゃないでしょ?

そうだなぁ、まず、全解決の本を読んでみたらいい
そういった解釈が現代でも"ある"という事

作者は倭人伝や魏略を参考にしてるから、戸数を足し算すべきならしてるだろう、と考える事は普通だよ

勿論、ただ抜き出した可能性もある

現代での倭人伝の解釈が様々あり、混迷する中で、晋書の七万戸の記述が間違いだとする根拠は何も無いという事

間違いとする証明はできないのだよ
だから記載事実はそれなりに重い
0967日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 15:50:49.59
>>965
>間違いなく、倭国ではなく邪馬台国についての記述

これは君の考えだよ、晋書の編者は「戸有七萬」と倭国と邪馬台国を略同じものと考えてる。

>これも間違いなく、倭国ではなく対馬国についての記述

これも君の考え、晋書の編者はこの風景を倭国を代表する風景だと考えたんだ。

>対馬国とか邪馬台国とかの国名の記述一切なしで、魏志倭人伝の情報を切り貼りしただけなのが分かる

魏志倭人伝の情報だけでなく魏略からの情報も参考して、重要な所だけを短く纏めたもの
風景描写は切り貼りでも邪馬台国や投馬国、奴国、伊都国等が全部同じ様に倭国内に存在してるなら
邪馬台国の戸数だけ合計もせずに切り張りとかしないよ。
君の意見は自分の考えが絶対に正しいことを根拠にしてるから変なんだ
今の方が魏略が失われたりして資料が乏しいんだから君の意見が正しいなんて分からないよ
少なくとも晋書編纂に関わって魏略や魏志倭人伝を読んだ人は倭国≒邪馬台国だと読めたんだ。
0968日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 17:00:00.61
晋書が上呈された時の唐の親方は倭國を滅ぼした稚奴クンで
これは母親の兄に仕切られて未だ実権を掌握できていない時期
当時倭國使があったことも知られているし
稚奴クンが天皇を称したことも有名
白村江のあと倭國王立会いの下 封禅のセレモニーを実行したのも有名
0969日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 17:12:42.28
頭の病院に行けと言っているんだよタコ
0970日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 17:14:11.63
河伯(日本では河童)のほうが、むかーしから住んでいる?
存在しているという話なんだけど
0971日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 17:43:15.20
>>967
>同じものと考えてる。
>代表する風景だと考えたんだ。

これは、「>>967の個人の考え」だよ
ならば、「そう考える理由や根拠を具体的に示す」ことが必要なんだが、
最初から「晋書の編者はこう考えている」では話にならない

こっちは、魏志倭人伝の対応部分も示して、単なる抜粋にすぎないことを示している
もういい加減にあきらめな

ただのチェリーピッキングだよ
七万戸が海産物だけで生きてたって言い張るのかい?
倭国には良田がないんだろ?
それが代表する風景なんだからww

この辺も、晋書の編者が東夷伝のことは適当に済ませたことの証拠だよな

>邪馬台国の戸数だけ合計もせずに切り張りとかしないよ。

実際にしてあるじゃん? 書いてあることは事実なんだろ?ww

>君の意見は自分の考えが絶対に正しいことを根拠にしてるから変なんだ

ブーメラン乙
そんなことを書く暇に、「具体的な根拠」を書きなよ
「正しいなんて分からないよ 」と、証明不能性に逃げてないでさ

>少なくとも晋書編纂に関わって魏略や魏志倭人伝を読んだ人は倭国≒邪馬台国だと読めたんだ。

最後まで根拠なしの思い込み乙
「読めたんだ」って何さww
0972日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 18:18:36.61
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0973日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 19:33:02.89
あらゆる史書を否定しないと畿内説を守れない。
大変だことw
0974日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 19:54:39.18
>>973
>あらゆる史書を否定しないと畿内説を守れない。

逆なんだよ
九州説の主張が全部でたらめだから、その説明をすると
全部否定することになる

別に晋書の記述を否定なんてしてないさ
晋書には「戸有七萬」と書いてある
それは一切否定してないよ

否定してるのは、
「晋書で解釈を加えた結果だから邪馬台国=倭国」というインチキ読みの部分だよ
0975日本@名無史さん垢版2018/10/31(水) 21:15:36.27
>>974
否定の根拠が君の思い込みだから
現実的には何も否定したことになってない。
0976日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 00:16:35.33
>>975
>否定の根拠が君の思い込みだから
>現実的には何も否定したことになってない

逆だよ、おバカさん
>>975の主張の根拠が>>975の思い込みだけだから、
最初から>>975の主張が無意味だって言ってるんだよ

途中で言ってたことも、晋書の編者がそう判断したかも
しれないことは「否定できない」というのが精一杯じゃないか

魏志倭人伝の適当な抜き書きが、魏志倭人伝になかった情報の証拠なんていうのは
まともな神経の人間は主張しないよ
恥ずかしくてさ
0978日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 08:07:14.68
>>976
>魏志倭人伝になかった情報

そもそもこれが思い込み
自分の思い込みを事実と断定してる
自分の思い込みと事実の区別が付かなくなってるな
少なくとも魏志倭人伝でも北部九州地域全体に邪馬台国が在ったと読める
晋書も同意見で晋書は傍証にすぎん。
0980日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 09:31:47.27
>>978
>少なくとも魏志倭人伝でも北部九州地域全体に邪馬台国が在ったと読める


それは絶対、ない。  @阿波
0981日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 10:23:56.83
江戸時代の邪馬台国論争華やかなりし折も折、福岡県の志賀島から金印が出てきた。
これは「倭人伝の奴国は、筑前福岡の那国ではないぞ」という某筋からのサインだったのでは、とささやかれている。

昭和の邪馬台国論争喧々諤々の折も折、また福岡県の平原から八咫鏡が出てきた。
今度も「倭人伝の伊都国は、筑前福岡の糸島ではないぞ」というサインなのでは、とのうわさが絶えない。
0982日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 11:04:56.24
>>978
>>魏志倭人伝になかった情報
>そもそもこれが思い込み

おいおい、魏志倭人伝には邪馬台国=倭国とは書いてないけれど
晋書の編者が魏略等を読んで、倭国七万戸と書いた可能性が否定できないから
邪馬台国=倭国なんだって言ってただろうが

邪馬台国=倭国が、最初っから最後まで間違っているし、
晋書を読んでもそんなのは読み取れないという話
0983日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 11:14:47.98
>>978
>少なくとも魏志倭人伝でも北部九州地域全体に邪馬台国が在ったと読める

何度読んでも、そんなことは読み取れないね。
0984日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 13:45:21.40
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析によると、ちょうど朝鮮人とオロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の
中間あたりの位置を示す。

オロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の分布位置と朝鮮半島のちょうど中間あたりはウデヘ、ナナイの
住む沿海州南部あたりで、これは弥生開始土器の示す沿海州南部と整合している。


http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg
http://f.hatena.ne.jp/nyankosensee/20110813183224
0985日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 16:43:25.30
>>983
それは貴方が無能だから仕方がないw
0986日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 17:11:20.54
>>985
なんたって北部九州説は、
新井白石が創った神功皇后伝説の焼き直しで、売れ残りの冷めた梅が枝餅みたいなもの
0987日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 17:16:40.24
原田大六著:邪馬台国論争より
>福岡県怡土郡深江付近(のちの糸島郡の西部)を初めて伊都国に比定したのは新井白石であろう。
>彼は、神功皇后を卑弥呼と考えていたので、鎮懐石伝説の深江を結び付けたまでのこと。
>しかし、伊都国の中心部は、怡土郡の東境に近い現在の糸島郡前原町大字三雲付近と考えられる。


と、原田はイキがるものの、糸島郡を伊都国に比定したそもそもの理由はといえば、
新井白石も、白鳥庫吉も、榎一雄も、原田大六も、その他大勢の論者も、神功皇后伝説の尾を引いていたことに変わりはない。
0988日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 19:41:58.76
>>986
いつまで古いことを言い張っているんだ?
少しは勉強しろよ。
0989日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 20:27:27.69
糸島の論客・原田大六の「平原説」に対しては、方角が合わない、という反論がなされたようである。
これに対して原田は、自著の最終章あたりで、以下のようにエクスキューズしている。

>末盧国から伊都国への方角はたしかに東南と記述されてる。
>しかしこれは、盛夏に渡来した郡使が日之出の方向を元に東西南北をきめたためである、
>さらに、畿内大和への方角のずれは更に大きくなっているが、
>これは帯方郡使が伊都国より先へは行かず、伝聞に依ったものであるのでやむを得ない・・・、

古代中国では、星で正しい方角を知るのは当たり前のことだった。
皇帝の礼装にも、北斗七星と織姫が刺しゅうされていたというではないか。
その魏王朝の命で帯方郡に赴任してきた役人が、星座の見方を知らなかったわけはない。
(ま、星を知らなかったのは、先祖代々糸島住まいの倭人たちのほうだったのだろう)
0990日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 20:36:17.40
そりゃあ外国の正座なんて知らんだろう
0991日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 20:37:37.32
星座は北半球なら皆同じ。
0992日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 20:42:04.20
星の位置は北半球なら皆同じ。

星座は国が違えば違う。
0993日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 20:48:01.12
神功皇后を架空の存在におとしめようとする邪説とは?
0995日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 20:51:50.39
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0996日本@名無史さん垢版2018/11/01(木) 21:57:52.40
>神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。

応神天皇が最終形態?
0997日本@名無史さん垢版2018/11/02(金) 00:02:34.46
応神天皇は先代の仲哀天皇の息子ではなく、武内宿禰の息子と考えられているから。
記紀は、仲哀天皇の崩御から応神天皇の誕生までが10月10日だとか、それより長いけど神功皇后が石を抱いて出産を遅らせたからなどの言い訳をしている。
逆に言えば、記紀の編纂前から疑惑が囁かれていて、それを払拭するために記紀を書いたとも言える。
卑弥呼と邪馬台国をどう誤魔化すか、神功皇后と応神天皇の生誕の疑惑をどう誤魔化すか、白村江の前後の筑紫倭国からの政権交代をどう誤魔化すか、それらは記紀を編纂する動機だったのだろう。
0998日本@名無史さん垢版2018/11/02(金) 08:52:01.51
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0999日本@名無史さん垢版2018/11/02(金) 08:57:09.57
990 名前:日本@名無史さん 2018/11/01(木) 20:36:17.40
>そりゃあ外国の正座なんて知らんだろう

余りにも、悲しすぎるセリフの糸島人
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