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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part14
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0001九州王
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2018/08/23(木) 22:19:59.90
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525790222/
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
0002日本@名無史さん
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2018/08/23(木) 22:20:29.35
世有王

@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味

A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味

C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切

以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。
0003日本@名無史さん
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2018/08/23(木) 22:20:55.02
2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。

全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。

水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。
0004九州王
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2018/08/23(木) 22:21:53.47
【里程】
漢代に楽浪郡を支配していた公孫氏が独自に制定したの里(短里)で実測
日本側の地名は漢代の地名(倭国の中に、末蘆国、伊都国、奴国・・・
魏が公孫氏の楽浪郡を滅ぼして押収した資料に短里使用が使用されており
これが魏略や三国志魏書の参考資料となる。

【日程】
魏代に魏使が出張日誌に記録
日本側の地名は魏代の地名(邪馬壹国、狗奴国、投馬国、などは魏代に新登場
この出張日誌が三国志魏書の参考資料に加わる。

※公孫淵は自立を目指し燕王を自称し独自の年号を制定しており、度量衡も独自のものを制定したと考えられる
短里も公孫淵が制定したものであろう。
0005日本@名無史さん
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2018/08/23(木) 23:13:38.59
都を中心に場所を考えるのではなく王を中心に国家を考えれば、邪馬台国の謎は
全てとける。むしろ倭人たちの使者は「おまえたちの国の都はどこにある」と問われて
困惑したのではないか。日本にはそのような統治システムなどなく、どこかが国家の
中心などという概念が存在しなかったからである。だから自分たち使者がどのような
経路をたどってここまで来たかを述べ、それを筆記官が解釈して、中国流の概念で
解説した。こういうことであろう。
0006日本@名無史さん
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2018/08/23(木) 23:19:24.84
ヘブライ人たちはモーセに導かれるまでは自らの都市という概念をもたない民族であった。
ただ個々の部族が指導者や説教者により指導されるばかりで、一方で明らかな統一性を
保持していた。和人についても同じことであり、倭人についても同じことであり、魏の官人に
問われて初めて国家の都市という概念にみずからを合わせる必要をもとめられ、そして
困惑した。この可能性が高い。
0007日本@名無史さん
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2018/08/23(木) 23:35:03.06
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
0008日本@名無史さん
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2018/08/23(木) 23:35:30.19
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0009日本@名無史さん
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2018/08/23(木) 23:36:13.10
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0010日本@名無史さん
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2018/08/23(木) 23:36:34.68
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0011日本@名無史さん
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2018/08/24(金) 21:35:22.58
>>1 乙(まあ伊都=邪馬壱はありえんが
卑弥呼さんの都をわえより先に見つけたんは褒めてもええです
つうか無人スレやね?
0012日本@名無史さん
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2018/08/24(金) 21:41:07.52
無限不毛ループのどこぞよりはまし?

お題

ミラーはなぜに割られて副葬されたるや?
0013日本@名無史さん
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2018/08/26(日) 11:16:40.51
方々のスレで、伊都国説の根拠とされていたものが全部否定されたからなぁ

今さら伊都国説っていっても人も集まらないだろ
無人スレもやむなし
0014日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 12:08:07.98
伊都国を否定した主張が全部論破されて
それでも見えなかったかのように繰り返し主張し続けて
放置されていたのは見てたがな。
0015日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 12:09:09.69
畿内説っていつもそうだからね。
0016日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 12:51:06.24
>>14>>15
>伊都国を否定した主張が全部論破されて
>それでも見えなかったかのように繰り返し主張し続けて

>畿内説っていつもそうだからね。

ミラーリング
自分への批判を、相手のこととして言い返すだけの簡単なお仕事
詭弁使いの技法の初歩のひとつ
0017日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 12:52:52.56
伊都国説の否定はこれだけでOK

邪馬台国と伊都国は別の国として描かれている
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
0018日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 12:54:08.37
反論は、
「具体的な論点」について、
「具体的な根拠・理由」を示さなければ無意味だよ
0019日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 13:06:27.28
>>17
別の国という読み方が二重帳簿詐欺?
広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提だと思うが?
0020日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 13:56:53.41
>>19
>広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提だと思うが?

そんな前提はない
奴国、出雲国、ヤマト国の3つが、倭国内の大国として特記されているだけ
0021日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 13:58:29.39
>>19
>広域の国名と国邑の名前の二重表記

そういう主張をするなら、
広域の国名として何があって、国邑の名前がどれなのか、
具体的に示せなければ意味がない
0022日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 14:36:05.41
で、具体的に書いてね!っていうと、九州説は消える

この繰り返し
0023日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 15:17:18.73
邪馬台国の中の伊都国と奴国だよね。
0025日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 16:37:34.81
>邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
          ↑
倭人伝では、これを「倭国」と定義しておる。

それにテンプレがくどしい、いや、たどたどしいな。
ま、糸島は高麗人の植民地だったから、やむを得ないかもしれぬが・・・。
0026日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 16:38:33.82
倭とヤマトは同意だよ。
0027日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 16:51:34.33
大和・・・ヤマト
倭 ・・・ヤマト
大倭・・・ヤマタイ
邪馬台国・・・ヤマタイ国
0028日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 17:39:56.44
>>21
投馬國と邪馬壹國が韓での馬韓、辰韓、弁韓に相当する
狗奴國も馬韓、辰韓、弁韓に相当するものでしょう
その他の伊都國や奴國などは国邑ですね。
>>25
倭人が韓に進出していたんですよ。
0029日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 22:00:37.93
>>25
>倭人伝では、これを「倭国」と定義しておる。

それだと事実上、倭国=邪馬壹國だよね?

それだと、邪馬壹國女王之所都が意味を持たないことになる
つまり無理な読み方なんだよ

国を重ねるのは二重帳簿詐欺
0030日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 22:06:44.45
>>28
>投馬國と邪馬壹國が韓での馬韓、辰韓、弁韓に相当する
>狗奴國も馬韓、辰韓、弁韓に相当するものでしょう
>その他の伊都國や奴國などは国邑ですね。

狗奴国、投馬国の国邑は? どうして書かれていないの?

伊都国、奴国が国邑なら、どうして伊都国に女王之所都と書いてないの? おかしいでしょ?

奴国は戸数2万餘戸なのに、どうして馬韓、辰韓、弁韓に相当しないの?

邪馬壹國の人口、7万餘戸が説明できないでしょ?
説明つかないことだらけでしょ?
旅程記事も投馬国が矛盾する

「広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提」はない

国を重ねるのは二重帳簿詐欺
0031日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 23:20:00.46
>>29
>邪馬壹國女王之所都
これは女王の支配下にある投馬國と邪馬壹國の内邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味


>>30
>狗奴国、投馬国の国邑は? どうして書かれていないの?
狗奴国は女王に敵対しているので詳細は不明
投馬国の国邑としては狗邪韓国

>どうして伊都国に女王之所都と書いてないの?
伊都国には「世有王」と書かれてる
「魏の世、倭王が居た」とね。

>奴国は戸数2万餘戸なのに、どうして馬韓、辰韓、弁韓に相当しないの?
馬韓は10万戸、辰韓、弁韓は4〜5万戸
奴国よりは遥かに大きい
馬韓での最大の国邑も10000戸以上の規模

>邪馬壹國の人口、7万餘戸が説明できないでしょ?
北部九州26か国の国邑ですから7万戸は説明出来ます。

>旅程記事も投馬国が矛盾する。
水行20日で7000里の場所が投馬国。
0032日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/26(日) 23:58:15.41
>>30
>>28
>>投馬國と邪馬壹國が韓での馬韓、辰韓、弁韓に相当する
>>狗奴國も馬韓、辰韓、弁韓に相当するものでしょう
>>その他の伊都國や奴國などは国邑ですね。

>狗奴国、投馬国の国邑は? どうして書かれていないの?

どちらも郡使は行っていないから、国邑まではわからないのです。

>伊都国、奴国が国邑なら、どうして伊都国に女王之所都と書いてないの? おかしいでしょ?

「世有王」と書いてあります。

>奴国は戸数2万餘戸なのに、どうして馬韓、辰韓、弁韓に相当しないの?

奴国はあくまでも国邑だから。
地域名とは区別します。

>邪馬壹國の人口、7万餘戸が説明できないでしょ?

国邑としての奴国の人口が、地域としての邪馬台国に含まれますよ。

>旅程記事も投馬国が矛盾する

投馬国が宮崎なら矛盾しませんよ。

>「広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提」はない
>国を重ねるのは二重帳簿詐欺

畿内だって、大和と畿内の二重帳簿でしょう。
まさか奈良盆地に七万戸あったなんて言いませんよね?
0033日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 06:56:21.50
ははん、このスレは、
九州説を引っ掻き回すために、畿内ヤマトン説が置いた「トロイの木馬」みたいなものだな
0035日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 07:23:49.89
>>31
>これは女王の支配下にある投馬國と邪馬壹國の内邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味

広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

投馬国や邪馬台国は馬韓や弁辰にあたるという主張だが、
弁辰の都は弁辰にあるって書いてあっても無意味だろ

投馬国は女王国に入るのか入らないのかどっちだと思ってるんだ?
0036日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 07:28:20.41
>>31
>投馬国の国邑としては狗邪韓国

狗邪韓国が投馬国という倭人国の国邑だったらだったら、狗邪倭国になるんじゃないか?
狗邪韓国は後の伽耶で、弁辰二十四国のうちの一つ、弁辰狗邪国だよ
0037日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 07:32:26.81
>>31
>「魏の世、倭王が居た」とね。

詭弁にもなってない
倭王なんて書いてないじゃないか
魏志倭人伝の旅程記事は、地理を示す記事でもある
伊都国に女王の都があるのに、そこで書かないでもっと大きな
括りである邪馬台国にある何て書いてたら情報量、むしろ0だろうに
0038日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 07:38:51.17
>>35
>弁辰の都は弁辰にあるって書いてあっても無意味だろ
その書き方だと女王の都は弁辰にあるでしょ

女王の支配下に投馬國と邪馬壹國があり
邪馬壹國は女王之所都
つまり邪馬壹國の中に女王の都が在る
投馬國の中にはない

>投馬国は女王国に入るのか入らないのかどっちだと思ってるんだ?
倭の一部なので投馬國も女王国とみなしていいでしょうね。

ここで投馬國を宮崎だと主張してる一人がいますが
私は投馬國は朝鮮半島南岸で、宮崎、鹿児島は狗奴國との立場です。
0039日本@名無史さん
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2018/08/27(月) 07:39:15.71
>>31
>馬韓は10万戸、辰韓、弁韓は4〜5万戸
>奴国よりは遥かに大きい
>馬韓での最大の国邑も10000戸以上の規模

漢文の原文を読めない人ならそれで騙せるかもしれないけれど
魏志倭人伝の原文は
弁、辰韓、合二十四國。大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戶。
となっていて、弁辰韓合わせて四五万戸だ
半分なら二萬戸程度だろ?
十分に奴国の二萬餘戸は、辰韓、弁辰レベルだよ
0040日本@名無史さん
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2018/08/27(月) 07:40:51.74
>>31
>北部九州26か国の国邑ですから7万戸は説明出来ます。

そのうち20国は道里戸数が分からないんだけど?
分からないものを足しても、分からないにしかならないだろ

インチキはダメだよ
0041日本@名無史さん
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2018/08/27(月) 07:45:06.85
>>31
>水行20日で7000里の場所が投馬国。

だとすると、投馬国五萬餘戸は、弁、辰合わせたすべてということになる
>>39にも書いたとおり「弁、辰韓、合二十四國。大國四五千家、
小國六七百家、總四五萬戶。 」なんだから

だったら、この地域は、弁辰、辰韓、ではなく投馬国と書かれなきゃおかしいよな?
投馬国が弁辰、辰韓と並ぶ括りという詭弁は成り立たない
0042日本@名無史さん
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2018/08/27(月) 07:46:05.79
>>36
倭人国の国邑であっても朝鮮半島に存在してたから狗邪韓国
狗邪韓国と弁辰狗邪国は名前が似ているだけで同じ国邑ではない
投馬国が後の任那。
>>37
伊都国に女王が居たと書いて更に邪馬壹國の中に女王の都が在ると書かれているですから
邪馬壹國の中に伊都国が在ることになりますよね。
0043日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 07:47:56.64
もう面倒になったからいいや

これまでに全部否定したことあるし

投馬国が半島南部を占めてたってのは噴飯物
半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ
0044日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 07:53:44.89
>>39
馬韓の説明では「大國萬餘家 小國數千家」とあり国邑の規模にはバラツキがあり
大きいサイズでは万クラスと書かれています。
>>40
「可七萬餘戸」と書かれています
可とは推測されるとの意味ですから
分からないものを推測して足したってことです。
0045日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 07:56:46.45
>>43
>半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ
半島南部に五萬戸が入らないなんて朝鮮はそんなに狭くはありませんよ。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:14:50.09
ははん、このスレは、
九州説を引っ掻き回すために、畿内ヤマトン説が仕掛け置いた「トロイの木馬」みたいなものだな
0047日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:18:15.99
>>41
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」とある通り
韓には馬韓、弁辰、辰韓が在り、その南に投馬国が在ったんですよ。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:19:24.64
>>35
>>31
>>これは女王の支配下にある投馬國と邪馬壹國の内邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味

>広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

伊都国と奴国なら十分に限定された地域です。

>投馬国は女王国に入るのか入らないのかどっちだと思ってるんだ?

入りませんよ。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:19:58.41
>>36
>>31
>>投馬国の国邑としては狗邪韓国

>狗邪韓国が投馬国という倭人国の国邑だったらだったら、狗邪倭国になるんじゃないか?
>狗邪韓国は後の伽耶で、弁辰二十四国のうちの一つ、弁辰狗邪国だよ

たぶんその通りです。
0050日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:22:09.35
>>39

一国邑で他の地域全体に匹敵するほど、福岡の女王国は栄えていたのですよ。
だから金印が福岡に与えられたわけです。
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:23:00.54
>>41
>だったら、この地域は、弁辰、辰韓、ではなく投馬国と書かれなきゃおかしいよな?
>投馬国が弁辰、辰韓と並ぶ括りという詭弁は成り立たない

同意します。
投馬国は宮崎です。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:24:59.80
>>43
>投馬国が半島南部を占めてたってのは噴飯物
>半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ

これも同意します。
邪馬台国は福岡、投馬国は宮崎ですね。
0053日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:25:34.20
>>44
>「可七萬餘戸」と書かれています
>可とは推測されるとの意味ですから
>分からないものを推測して足したってことです。

ここも同意します。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:26:03.33
ははん、このスレは、
九州説を引っ掻き回すために、畿内ヤマトン説が仕掛け置いた「トロイの木馬」みたいなものだな

な訳あるか〜い!
0055九州王
垢版 |
2018/08/27(月) 08:33:39.28
>>52
8世紀でも宮崎県の人口は30,800〜47,700人と推定されている
五萬戸なんて無理ですよ。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:47:32.11
一戸平均、何人だったのかい
古代の男不足・通婚時代には、せいぜいがとこ、3人さ。
0058日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 08:52:00.06
>>57
8世紀段階でも人口が30,800〜47,700人だから一戸1人でも五萬戸にならないな
その500年前ですから宮崎県に投馬国をもっていくのは無理ですよね。
0059日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 09:19:51.45
発掘された遺跡数からの推定では、発掘事業の多寡によって左右されるので、値に意味がない。
せいぜい、最低数はこれだけという程度。
0060日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 10:09:33.03
>>52
>邪馬台国は福岡
筑前が85,400〜112,000人ですから、筑前は伊都国、奴国、不彌国で一杯ですね
邪馬壹國「可七萬餘戸」は福岡県だけでなは収まりきれないので北部九州全域ですね。

>>59
8世紀の推定ですから遺跡数からの推定ではなく9世紀等の文献からの推定ですよ。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 10:16:59.31
>>60
八世紀の数字は確かかもしれぬが、
その八世紀の数字と三世紀の数字との間に、
邪馬台国時代を推定するに足る信頼できる関係があるというのか
0062日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 10:34:11.72
>>61
北部九州では2600年前から稲作が行われていて3世紀だと既に1000年くらいは開発がなされてます
その後稲作で技術革新とか無いですから
九州では1300年前と1700年前で殆ど人口は変わらいと考えていいでしょうね。
0063日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 11:34:55.85
>>62
よろしい、大正解!
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 12:43:58.09
で、朝鮮半島南部の推定人口は?
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 13:29:22.72
>>64
馬韓10万戸・・・50万人
弁韓、辰韓5万戸・・・25万人
投馬国5万戸・・・25万人
韓国計20万戸・・・100万人
大韓民国2018年・・・5166万人

邪馬壹国7万戸・・・35万人
狗奴国?万戸・・・?万人
九州2018年・・・1286万人

現代は韓国が九州の4倍くらいの人口
邪馬壹国7万戸、35万人なら狗奴国0万戸としても韓は28万戸、140万人となる
投馬国5万戸・・・25万人を入れても韓の人口は少ないな。
0066日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 17:32:17.79
投馬国までと邪馬台国までを連続読みするなら、帯方郡から邪馬台国までのべ3ヶ月以上かかってしまうよ?
0067日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 18:44:35.14
>>66
「東南陸行五百里 到伊都國」と「東南至奴國百里」が
「陸行一月」に当たりますから600里に陸行一月は掛かりません
陸行600里なら陸行一日で十分なので「陸行一月」は「陸行一日」の誤記ということになる
従って帯方郡から邪馬壹國までの日程は31日ですね。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 18:47:46.15
邪馬壹國は肥後・山鹿に在った(女王之都は阿蘇・高千穂)

すなわち、まず唐津・末蘆国に上陸した。、
ここから東南陸行500里の佐賀川上に伊都国大環壕があった。(なおここから東南100里の方角に佐賀市の奴国が見える。)
この伊都国から東へ行くこと100里で神崎吉野ヶ里の不彌国に至った。
(ここから南の方角に投馬国がある。帯方郡からは水行20日)
(又、同じく南の方角へ行くと、邪馬台国・女王之所都に至る)

具体的には:
神崎・不彌国から川堤を下り、千代田〜諸冨辺りから、筑後川の干満遡上潮を利用して対岸の城島へ渡った(今の六五郎橋付近)。
ここから微高地伝いに県道15号線で八女市中心街の福島へ。
この福島の南で、岩礁地帯を利用して矢部川を渡った。
そして国道3号線、又は県道4号線伝いに南下を続け、熊本県山鹿市ウテナ(台)へ到った。

ここが邪馬台国の国衙(翰苑にいう邪馬嘉国)であった。
そしてさらに東南に山道行を続けることで、阿蘇・高千穂の火の神・卑弥呼の都砦に至ったのである。
以上唐津から、〆て陸行一か月。帯方郡からは水行十日陸行一月也。。。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 19:24:55.74
糸島は → 高麗人の植民地

久留米の高良山は → 高麗山
高良大社は → 高麗大社
その麓の高良台は → 高麗台
その台地の祇園山古墳は → 高麗人の墓場
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 23:16:17.85
>>48
>伊都国と奴国なら十分に限定された地域です。

おいおい、すぐ上で余傍国20国も全部入れるって書いた直後にそれかい?
本当にいい加減だな

だから九州説は矛盾だらけで説にもなってないって言うんだよ
伊都国と奴国に限定するなら、戸数は二万千戸にしかならないぞ

五万戸近く足りない

適当すぎ
0071日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 23:20:19.51
>>58
>その500年前ですから宮崎県に投馬国をもっていくのは無理ですよね。

日本よりも寒くてその分米があまり穫れない半島南部に
投馬国を持っていくのはもっと無理
0072日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 23:23:00.81
>>66
>投馬国までと邪馬台国までを連続読みするなら、帯方郡から邪馬台国までのべ3ヶ月以上かかってしまうよ?

古代の旅ならそんなものだと思うけど?
帯方郡から北部九州まで1月もかかるとは思わないけれど
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 23:25:45.95
>>67
>陸行600里なら陸行一日で十分なので「陸行一月」は「陸行一日」の誤記ということになる
>従って帯方郡から邪馬壹國までの日程は31日ですね。

またご都合主義の捏造をしているww

それ(600里を一日)だと、伊都国を素通りしてることになるぞ?
一大率は何をやっているんだ?ww
0074日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 23:27:10.83
>>68
>そこから東南陸行500里の佐賀川上に、伊都国国衙の大環壕があった。

これってさ、ひょっとしてもしかしたら、グーグルマップの航空写真で
見つけたとかいう東西1キロの大環壕集落のこと?ww

見たい人の心の中だけにある、発掘による証拠が一切なくて、
ヤマトタケルに殺されたのが「川上」梟帥だからという類推に頼った、
例のあれ?ww
0075日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/27(月) 23:29:49.88
半島南部にツマなんていう地名はない。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/28(火) 08:22:21.48
>>70
邪馬壹国70,000戸の内訳は、
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、
斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
0077日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/28(火) 08:23:20.76
>>74
そうさ、例のアレよ。
ま、いいとこどりではあるが、昭和23年の航空写真でも、全く同じ大きさ形状の田舎道が見えるからな。
決して、近年の土木工事・道路工事・圃場整備などの結果ではない。
何かの歴史的由縁があるのであろう。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/28(火) 08:26:28.44
>>73
末廬國から500里〜600里の範囲が伊都国です。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/28(火) 08:37:56.51
>>78
末廬國からちょっきり500里が伊都国です。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/28(火) 23:25:23.07
環濠跡が道路だとかバカの発想だなw
環濠の跡ってことは一度掘り返してるから
地盤はゆるゆる、雨降りゃ水が溜まってドロドロ
誰も好き好んで歩いたりしない
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/29(水) 00:12:23.80
>>76
>邪馬壹国70,000戸の内訳は、
>1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+
>1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

それだと今度は>>35
「広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

 投馬国や邪馬台国は馬韓や弁辰にあたるという主張だが、
 弁辰の都は弁辰にあるって書いてあっても無意味だろ 」
に答えられなくなるだろ?

これに対して、>>48で「伊都国と奴国なら十分に限定された地域です。」と答えて、
それじゃおかしいと言われたら、20カ国も入れるから大丈夫という

その場しのぎで適当に書いてるだけで、全体の整合性は取れない
そんな破綻した、互いに矛盾する根拠を雑に束ねたものが九州説の実態
0083日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/29(水) 10:34:49.68
>>82
>広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

その書き方なら
韓の都は弁辰にある
倭の都は邪馬壹国にある
でしょ。

後の会話は私じゃなく、見解も違います
何人かの意見をごっちゃにしてるんで全体の整合性が取れなんでしょうね。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/29(水) 13:05:45.82
キナイコシは、どうしても九州説が一人だと思い込みたいらしい。
だから話が通じない。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/29(水) 16:30:10.98
相手と話が噛み合っていないじゃないか。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/29(水) 19:51:56.63
熊襲タケル=カワカミノタケルの墓は、をぎ船塚の前方後円墳
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/30(木) 23:50:57.48
>>83
>倭の都は邪馬壹国にある

邪馬台国女王之所都と書いてあるが、
この邪馬台国(面倒だから壹とか臺とか書かないよ)が、
馬韓や弁辰と同様の広域だってのは成り立たないだろって話

馬韓、王之所都と書いてあっても意味がない

九州説が何人居てもいいけれど、これ(ある国の都の所在地が「ある国」でも意味がある)を
説明できるやつがいるなら説明してみな
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 17:26:46.23
>>89
>をぎ船塚の前方後円墳

船塚古墳、調べてみたけど、これを小城というのは厳しくないか?
所在地は佐賀郡の範囲で、小城郡からは外れる

きちんとした発掘がされていなくて、情報が少ないけれど、

前方部と後円部の規模がほぼ等しい
石室内には箱式石棺が2基

ということを踏まえると、ウィキペディア記載の
「築造時期は古墳時代中期の5世紀中頃」というので妥当だと思う

ヤマトタケルが4世紀半ばだから、ヤマトタケルに討たれた川上梟帥の墓とするのは
ちょっと厳しいな

佐賀県最大の古墳だから、これにしたいのは分からないでもないけれど
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 17:32:36.96
>>90
>馬韓、王之所都と書いてあっても意味がない

意味はあるだろ、馬韓に都が在る。
辰韓、弁韓にはないってことになる。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 17:37:32.48
まあ、でかいのは5世紀以降だろうけどね。

北部九州はあまり大きさにはこだわらず
5世紀以降あたりから他の地方に影響されたのか
大きくなっていく。

北部九州の弥生王墓は30×30m以下くらい。
吉野ヶ里のような40mクラスは珍しい程度。

だから副葬品が充実した
小さい墳墓なんてものになる。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 17:45:23.61
川上あたりの中小2000基は、あらかたミカン畑になったそうだから、
タケルの墓も残ってないかもねえ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 17:50:51.44
>>92
>意味はあるだろ、馬韓に都が在る。
>辰韓、弁韓にはないってことになる。

そう言い張りたいなら、それでもいいけれど、邪馬台国の位置を特定するのには
毛ほども役に立たないな?

まあ、投馬国が半島南部にない時点で、そのたわごとも意味を持たないんだが
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 17:53:22.46
>>94
>川上あたりの中小2000基は、あらかたミカン畑になったそうだから、

川上梟帥を倭王だと主張していたのに、中小2000基でいいのか?

ヤマトタケルの頃は、九州も完全に古墳時代で、100メートル級の
地域主張墓は各地にあるぞ?

倭王なら、もっとしっかりした古墳じゃないとおかしくないか?
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 17:57:40.26
>>93
>北部九州はあまり大きさにはこだわらず
>5世紀以降あたりから他の地方に影響されたのか
>大きくなっていく。

そんなことはない

九州最初期の那珂八幡古墳でも墳丘長約75メートルあるし、
これが奴国首長の墓だろう

伊都国の三雲遺跡群の最初の古墳、端山古墳も墳丘長78.5メートルある
これが伊都国首長の墓

各地の首長墓は、やはり地域最大の盟主墳になっている

古墳時代に入っていて、王の墓が小さくてもいいという道理はないよ
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 17:58:37.29
>>95
>まあ、投馬国が半島南部にない時点で、そのたわごとも意味を持たないんだが

根拠のない希望的な意見ですね。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 18:03:32.05
>>96
>倭王なら、もっとしっかりした古墳じゃないとおかしくないか?

それはあなたの主観にすぎない。
平原の卑弥呼の係累であれば、大きくなく、前方後円墳でもないだろう。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/08/31(金) 18:37:06.07
>>96
カワカミノタケルは倭の王だったというから、
前もって大きな墓を用意していたかもしれない。しかし、そうでなかったかもしれない。
もし用意していなければ、暗殺されたのだから、質素な墓だったということもありえる。
地元に手がかりは残ってないのかな?
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