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♪邪馬台国ドンと来い!♪140
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0001くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:01:07.16
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
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          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
      | l i  厂  ̄ニニ¬      ノ  ⊂ノ   < ヤダヤダー!!
     ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ    (__ ̄) )
     / /\_i⌒ト、_   ノrr- }     し'し′
   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
 *良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪139
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1533914570/l50
0002くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:02:29.89
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國漢時有朝見者
今使譯所通三十國從郡至倭

循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千餘里

始度一海千餘里 至對海國
其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國
官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國
有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之

東南陸行五百里 到伊都國
有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
0003くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:05:23.13
南至投馬國
水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都
水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國

此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
0004くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:06:25.88
男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫
夏后少康之子封於會稽 斷髪文身以避蛟龍之害
今倭水人好沉没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
計其道里當在會稽東治之東
0005くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:07:30.98
其風俗不淫
男子皆露紒以木緜招頭 其衣横幅但結束相連略無縫
婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之
種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
其地無牛馬虎豹羊鵲
兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無
與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜 皆徒跣
有屋室父母兄弟卧息異處
以朱丹塗其身體如中國用粉也 食飲用籩豆 手食

其死有棺無槨封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉
喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

其行來渡海詣中國恒使一人 不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚 不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹

出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味 有獮猴黒雉
其俗擧事行來有所云為輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆
其會同坐起父子男女無別 人性嗜酒 見大人所敬但搏手以當跪拝
其人寿考或百年或八九十年 其俗国大人皆四五婦下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌
不盗竊少諍訟 其犯法軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族
尊卑各有差序足相臣服
収租賦有邸閣 國國有市交易有無
0006くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:08:26.44
使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之常治 伊都國於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
下戸與大人相逢道路逡巡入草 傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬 對應聲曰噫比如然諾
0007くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:09:11.09
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
0008くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:09:56.98
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都

其年十二月 詔書報倭女王曰
制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使
送汝 大夫難升米次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順

汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印?綬
引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹

答汝所獻貢 直又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩
五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠?丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬

其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授

其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之

卑弥呼以死大作冢 徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服更相誅殺當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
政等以檄告喩壹與
0009くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:11:04.07
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹
0010くまモン論者垢版2018/08/25(土) 02:14:13.60
改行等に問題が有ればご指摘ください。
弟子@名無史が対応しますw
0012日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 21:46:01.03
ttp://www.tokyo-np.co.jp/article/forum/list/CK2014092002000221.html

 日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

ということで、纒向建物群は崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)であり、倉庫から発展した伊勢神宮のモデルとなる、独立棟持柱を持つ建物が含まれていたということ。
卑弥呼とは関係ない。
0013日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 21:54:25.05
また転写保存
>>950
>安徳台は弥生終末〜古墳前期の遺構は見つかっていない<

まだ発掘報告は知らないし、
周りに「王」の呼称の付く地名が多い事と、
何度も居城や住居に使われたようで、相当破壊は進んでしまっていたようで、
現在の所、千人の奴婢の住居は確保出来たみたい、
などからの推定。
0014日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:04:33.86
>>12
>纒向建物群は崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)であり

だが、磯城の地は纒向より南であり、磯城瑞籬宮の比定地(というか伝承地)は
纒向遺跡の範囲外となっている
0015日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:06:53.62
本当に、おかしな話

『河童バビィ』と『もののけ姫』に登場する老巫女?
これは同じ人物だと思うんだけど、人物ではなくても、同じ家の人
0016日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:10:22.56
偶然なのかな、
松の木の立てられている、あの写真?

『松傾』?

このような名前なんだけど、
キュウリの葉、葱の華などの写っている写真も同じ、河童?河伯?
0017日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:13:50.81
三貴神、三貴子?大国主(仮名)?本名?

何の話なんだろう
0018日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:17:17.98
>>14
そりゃ比定地の方が間違っていたということでしょう。
伊勢神宮との共通性とか、読み始めはトンデモかと思ったら、それなりに根拠はあって、筋は通っている。
纒向が記紀に登場しない卑弥呼の王宮というよりは、崇神天皇の王宮の方がわかりやすい。
しかもうち一棟は神鏡を納めるまぎれもない倉庫w
倉庫派も王宮派も納得の結論ですよ。
0019日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:20:22.92
月待之祓

掛巻も畏き月弓尊は上絃の大虚を主給ふ

月夜見尊は圓滿の中天を照給ふ

月読尊は下絃の虚空を知食す

三神三天を知食と申す事の由を聞食て

祈願圓滿感応成就無上靈法神道加持
0020日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:30:58.07
『何者にもなれない お前たち』

これも同じキャラでしょ
0021日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:34:31.34
八幡(8マン)?

松傾のような名前の家で・・・
0022日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:38:48.69
むかーし住んでいたというところがあって、
近所に小手子(大伴小手子)の像というものが建てられていたり

ほとんど『河童バビィ』関係でしょ
0023日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 22:41:38.49
『大伴氏』
調べてみるとわかる
0024日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 23:03:10.33
>>18
>纒向が記紀に登場しない卑弥呼の王宮というよりは、崇神天皇の王宮の方がわかりやすい。

崇神天皇が、卑弥呼の佐治国の男弟なら、すべて解決
0025日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 23:11:06.28
wikiに書いてあることなんだけど、
なぜ詳しいのか?なんだよ

>物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている[3]。
>なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と

『親衛隊』調べてみると・・・
0026日本@名無史さん垢版2018/08/25(土) 23:13:36.18
『小手算額 菅野』

立子山?
確実に親戚が住んでいると言っていたり、8マン関係?
0028日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 01:01:29.05
>>27
>崇神天皇の傍若無人ぶりからは、佐治する弟という感じはかけらもない。

欠片もないとかの個人の感想はどうでもいい

祭祀王の倭迹迹日百襲姫命が真意を伝え、政務王の男弟がそれを実行に移すんだから、
そのまんまじゃん?
0029日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 01:16:18.05
>>13

レーダー探査でも検出されていないものを妄想しても無意味
0030日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 04:53:04.75
テスト
0032日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 15:43:46.68
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身

耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に

4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた倭人の一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる

自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
0033日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 16:29:31.75
【邪馬台国の周辺の国】
それぞれの中心地は

1番 斯馬国は肥前国杵島郡(武雄)
2番 己百支国は肥前国彼杵郡(佐世保)
3番 伊邪国は肥前国松浦郡(伊万里湾沿岸)
4番 都支国は肥前国小城郡
5番 彌奴国は肥前国三根郡
6番 好古都国は肥後国八代郡?(女王国連合に属さぬ南方の芦北国、球磨国に睨みを利かせていた?)
7番 不呼国は肥後国宇土郡
8番 姐奴國は肥後国益城郡?(狭野尊の幼名を持つ神武天皇の本地?)
9番 對蘇国は日向国臼杵郡
10番 蘇奴国は肥後国阿蘇郡
11番 呼邑国は日向国児湯郡
12番 華奴蘇奴国は肥後国菊池郡?
13番 鬼国は肥後国合志郡?
14番 爲吾国は肥後国山鹿郡?
15番 鬼奴国は肥後国玉杵名郡
16番 邪馬国は筑後国八女郡
17番 躬臣国は筑後国御井郡 ?
18番 巴利国は筑後国夜須郡?
19番 支惟国は肥前国基肄郡
20番 烏奴国は筑前国御笠郡
21番 奴国は筑前国那珂郡
0034日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 21:23:55.65
都万厨乙
投馬国 をどうしようか?
ってのが、倭人伝が読めてるか読めてないかの
一つの、境目あるかもねw
0037日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 22:24:54.62
晋の史書 倭人伝は 次の一文で終ります。

壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

これは、皇帝が朝貢を受け取った、と言うことです。
なぜ、皇帝の威厳を示すべき、お土産を248年に 書かない のかな?
これに、見合うおみやげはwww

邪馬台国は、245年の半島反乱で 檄 の韓征伐に参加してません。

【張政の報告】
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯

この 刺史 と言う職は、地域王領主の上の全権であって、
263年までの蜀、陳寿の主 劉家、劉備の出自だし
高句麗は 350年代には征東大将軍・営州刺史・楽浪公として冊封されています。

なんで、張政が留め置かれた、一大率=唯一の王権↓での官職の下で、
王の文書や朝貢品までもが検閲されてるんですか?
倭人伝には、そう書いてあります。

於國中有如刺史、これは、筑紫刺史 時代的には国造? 
に支配される九州の小国であることを見透かされ
女王国は247年以降、中国皇帝に無視されています。

倭人伝、もう、ご都合主義の翻訳は止めないか?
素読が良いよ?

前スレの 漢文の中国語訳? ビックリだったなw 
なもん、空海の弟子にヨメっかよ?
0038日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 22:56:43.10
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0039日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 23:12:02.06
>>38
土器厨先生! 乙乙だすw
今、すぐ答えろよ てめえwww

質問ですが
楽浪郡? 楽浪土器って箕氏も衛氏も中国貴族なのに
なんで、三足とか中狂の 生活痕 無いの? 
伝わる以前の文化の問題だよね?

まあ、半島の良民は所詮愚民化、奴隷化してただけ
とか だとは思うんだけど?
0040日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 23:41:45.59
土器厨先生 全力横スレで スマソ
>中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族
>>32  の これ、普通読まんよw

歴史常識できまってる、渡来説はアタシも疑心暗鬼ですが、
DNAは 結果出るから、先生と、笑っちゃいたいね。
0041日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 23:51:34.69
>>39
またその質問か。

定番やなw

春先のくまモンとの対話を見とらんかったんか?

それは書き出すと長いし、疲れちまうんで、過去スレのパート137の
403〜427あたりまでが俺のその質問の回答レスなんで、参考にしてくれ。
0042日本@名無史さん垢版2018/08/26(日) 23:53:45.61
それでオマエの名前は?どこで何を習った?どういう家の人間?
0043日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 00:09:46.41
>>41
また? ていうか、
てめえ が 今すぐ答えないからwww

こうなった訳で・・・
アタシは自分へのレスには、誠意をもって答えます。

嘘です(aa略 
妖怪とか、アラシ認定なw 
チミも数回以上? 文言が不快だっただけかな? 

過疎スレ6人衆の一人www
今は、12人くらい見てくれてるかも?
ワンパターンの
で、で、で・・・
       /ニYニヽ
   (ヽ   /( ゚ )( ゚ )ヽ   /)
  (((i ) /::::⌒`´⌒::::\  ( i)))  でっていうwwwwwwwwwwwwwww
 /∠_| ,-)___(-,|_ゝ \
( ___、  |-┬-|    ,__ )
    |    `ー'´   /´
0044日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 00:14:34.30
>>40
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析ではオロチやギリヤークといった沿海州の
北方アジア人骨にかなり近寄った数値を示す人骨だぞ。

それに弥生開始土器は同期する沿海州南部と文様などの特徴が一致する土器だぞ。

鼎のメッカの江南なんて2兆%あり得ないね。
0045日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 00:33:54.67
>>42
おまえだろ?
 |∩`Д´) / '⌒☆ ヨーヨーでぶつよwww

スケバン歴女 氏名 尼宮咲@名無史
中学二年生 夏休み古代史宿題中

自称 じゃないけど
魔法使いの弟子で最近は氷の女王だよ

♪ドン来いスレで 倭人伝 を習った。
まさか、教えてほしいのか?
夏休み明けで 模造紙一枚 で 教室に張っておく。

身に恋www
0046日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 00:37:04.94
氷の何やら?家の話なんだけど、そろそろ頭の病院に行け、
ゴーストライター?代理人が何やらと言ってる人がいたり

表に出て何かやっている人たちの事みたいだよ、
家の役?のようなモノを演じていたり
0047日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 00:39:41.24
偶然ではない、
幸子という親戚(おばさん)がいたり

松傾?のような名前の家だよ
0048日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 00:45:46.64
>>46
妖怪が直接アタシに絡むかな?
一応、ネット情報の参加者の一人だから・・・ 
記録はするけど・・・

最初はキナイコシw か朝鮮資本と思ったけど
目的を分からなくしてるところが面白い。
中学生でもバイト集められると思うよ?
0049日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 00:46:07.34
老婆が言うには、今の福島県のほうに住んでいたという話
伊達郡に川俣町というところがあって・・・
0050日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 00:57:39.31
>>42
おまえだろ?
 |∩`Д´) / '⌒☆ ヨーヨーでぶつよwww

スケバン歴女 氏名 尼宮咲@名無史
中学二年生 夏休み古代史宿題中

自称 じゃないけど
魔法使いの弟子で最近は氷の女王だよ

♪ドン来いスレで 倭人伝 を習った。
まさか、教えてほしいのか?
夏休み明けで 模造紙一枚 で 教室に張っておく。

身に恋www
デカイ!(;゚o゚)o/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~ >゚))))彡
0051日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 01:04:01.78
『日本昔話 姥清水』

この話・・・その他などの元ネタでしょ
0052日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 07:16:40.46
>>37
>九州の小国であることを見透かされ
>女王国は247年以降、中国皇帝に無視されています。

気づくの遅っ!
気づく前に魏皇帝が詔書出しちゃってるし、除正使の梯儁さんは何を見てるんだ?って話だよな

つまり、徳があるから中華の皇帝をやっている王朝が、東夷の小国に騙されたってことになる
そんな恥ずかしいこと、書き残したりしないよw
0053日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 09:21:22.80
>>52
残ってんじゃんwww ♪ドン来いスレ のテンプレw 読んだ?
朝鮮半島に進駐したその年に、帯方郡が皇帝に取り次いだ
倭王 卑弥呼の邪馬台国は 帯方郡から南万二千里周回5千里で
21の 大夫=自称王 領主が 共立した、九州島の上、北部二千里を領土とする
世襲王ではない シャーマン信仰で まとまった小国でした。

其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之

245年に 黄幢 と 檄 で 郡の対韓戦に 倭軍を 招請したのに、
この倭軍は参戦しませんでした。
247年に意味不明の言い訳して来たので、郡は張政を査察に送りました。

使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯

何とか帰国出来た、張政の この報告
壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺 の
248年? で、邪馬台国と魏の軍事同盟? 国交は終わってます。
当然、皇帝の返礼は有りません。

263年 蜀平定。 280年呉平定 
で、魏の三国志は終わりますが、邪馬台国との軍事同盟 は糞の役にも立たず、
東夷は高句麗にしてやられ
新羅、百済は 大和朝廷=倭国 の後援で、高句麗を追い、
漢四郡地域に、350年以降、立国します。

中国皇帝は、東夷で完全にしてやられてますwww
ホントの事、書いちゃった・・・
陳寿の晩年は あまり幸せではありません。
0055日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:05:00.01
日本史の教科書の記述もかつては中立だったが、現在では畿内説寄りに変わってる
・考古学的な成果を踏まえて、畿内説が有力になりつつあることを示唆する記述が増えている
・纒向遺跡の建物群跡が「魏志倭人伝」の記述と似通っていることに言及する教科書が多い
https://premium.toyokeizai.net/articles/-/17987
0056日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:06:05.40
邪馬台国の所在地について各教科書の記述

山川出版社『詳説日本史B』2016年 
「奈良県の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、
邪馬台国との関係で注目されている」

東京書籍『新選日本史B』2018年
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘結果や、漢の鏡の出土分布などから、
大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」

清水書院『高等学校日本史B』2017年
「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で
魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
0057日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:21:39.54
東京書籍『新選日本史B』2018年
清水書院『高等学校日本史B』2017年

絵にかいたような、お友達忖度教科書
0058日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:28:11.66
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0059日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:28:34.84
>>54
決着も糞も無く、
倭人伝には 邪馬台国は九州 だ 
と 書いてあります。

考古学は、250年の 倭王 はどこにいたか
と言う検証 が可能です。

邪馬台国に 於國中有如刺史 時代的には国造? を置くことができたのは、
アタシも、大和朝廷の前身 の国だと思います。

九州筑紫平定は 
載斯烏越の倭人船で 伊都国に駐留 奴国不彌国は 見た行程の 張政247年 より前で 
たぶん、魏の軍船で上陸 九州2千里を女王宮まで行軍した 梯儁の 240年以降です。

日本の歴史学者と考古学者が馬鹿でないなら
日本古代史には 
『247年 大和朝廷 九州筑紫平定』 
と、書けるはずです。
0060日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:38:50.00
>>57
>絵にかいたような、お友達忖度教科書

語彙が、絵にかいたように、反日パヨク
0061日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 10:40:06.70
>>59
>倭人伝には 邪馬台国は九州 だ 
>と 書いてあります。

書いてないww
倭国で最初に着くのが九州ってだけ

そこから、水行20日+10日、陸行1月してやっと着く遠地に
邪馬台国はある

そう書いてあるんだよ
0062日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 11:03:56.67
>>56
日本の教科書が
考古学者が飯のタネにしてるだけの

240年の中国皇帝の使者梯儁が 
城壁と楼のある女王宮を見て、一時的に命名しただけの
『邪馬壹国』 に 拘泥して

論争の 学問的事実 に対する無意味さも知らずに 
纒向遺跡 や 箸墓古墳 と 邪馬台国 を
関連付けするって、恥ずかしいよね。

よゐこのみんなはネットの ちら裏 で事実が見えてるんだけどwww

戦後レジームの都合で歴史事実を直視させたくない事の 
ついででやってる、だけだろ?

これだから、日教組ってやつは・・・
陳寿ちゃん、ホントの事 言ってやっちゃってwww
言ってるし・・・
0063日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 11:06:29.91
>>61
>そこから、水行20日+10日、陸行1月してやっと着く遠地に
邪馬台国はある

そことは九州ではなく帯方郡からですね
距離での説明、里数行程が終わり、時間での説明、日行程が書いてある。
0064日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 11:29:13.45
卑弥呼の都は、
帯方郡から水行10日と陸行1月の、
くまモン論者の故郷、熊本・阿蘇地域にあったのです。
0066日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 11:41:18.24
>>61
歴韓国は4千里 東へ3千里で7千里 渡海3回 3千里 で九州上陸
中国人として初めて 梯儁が見た 女王の居所 へは 郡から1万2千里 
九州島上陸後 残り2千里 でしょうが?

張政は 水行1万里の後 伊都国には港があるのに 
なぜか 南東へ500里歩かされたうえ
一大卒 於國中有如刺史 の検閲を受け、駐留させられた。 

南東百里の奴国には 奴国王難升米への 檄 告諭で 行った事にしてる。

東百里の不彌国 は おそらく知古を頼って 何とかだまして出させた帰国船 
巳百支國王 倭大夫 率善中郎將 伊聲耆掖邪拘 の船の 母港 だろね。
上陸後、徒歩最大7百里だけど、まんまと、逃げかえったんだよw
ー よくがんばった。 また遊びにおいでよ。
0067日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 12:10:52.91
唐津・末蘆国に上陸し、そこから陸行一月で、女王の都へ到る

すなわち、
まず、東南500里の佐賀川上に伊都国(なおここから東南100里の方角に佐賀市の奴国が見える。)
伊都国から東へ行くこと100里で神崎吉野ヶ里の不彌国。
(ここから南へ行くと投馬国に至ることができる)
(又、同様にして南へ行くと、くまモン論者の故郷の邪馬台国・女王之所都に至る)

具体的には:
神崎・不彌国から川堤を下り、千代田又は諸冨から、筑後川の干満遡上潮を利用して対岸の城島へ渡る(今の六五郎橋付近)。
ここから微高地伝いに県道15号線で八女の福島へ。
この福島の南で、岩礁地帯を利用して矢部川を渡る。
そして国道3号線、又は国道4号線伝いに、山鹿市ウテナ(台)へ到る。

ここがくまモン論者の邪馬台国の国衙(翰苑にいう邪馬嘉国)である。
そしてさらに、東南陸行の阿蘇地域・高千穂に、火の神・卑弥呼の都砦はあったのである。
以上唐津から、〆て陸行一か月也。、
0068日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 13:05:09.21
 |∩`Д´) / '⌒☆  
>>2 段落1 は 載斯烏越船 便乗の張政の行程
狗邪韓國 (韓は表意文字)
對海國 一大國 (一支国? これは、半島 中国でも通用する漢字島名)
末盧國 伊都國 奴国 不彌國(倭人に聞いた『都市名』『領主国?』に漢字をあてた)
官 卑奴母離 は 張政が雇った案内人 倭人船に同乗 奴国不彌国も同行

>>3  段落2 は 梯儁 の行程 魏の軍船で上陸、九州北部2千里(一月行)を行軍
投馬國 は 半島南岸の倭人国の 『国名』 5万戸 不属女王国
邪馬壹國 は 邪馬国(梯儁の当て字)の女王宮『臺』をランドマークとして
梯儁 が命名した、九州21国で構成する 『国名』 7万戸

張政は 倭人に聞いた都市間の距離を里程で示し
梯儁は きまった寄港地、都市名にこだわらず、幕営行軍なので日数で示した。
ただし、女王宮までの 全行程は、(軍事地図上で)一万二千里である。

張政は一万里を倭人船、伊都国は港があるのに5百里歩いている。
一大卒で駐留させられ、奴国、不彌国を見て旅は終わる。

一月行は 漢以来至唐 の 軍事地図が存在する と考えられるが
京畿湾から済州島が3月行、九州南北が3月行
九州から、斑鳩東の山までが5月行 という文書データは存在する。
0070日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 16:20:13.81
末蘆国に上陸するのは 
潮待ち占いで持衰を待たせた倭人船だけだろね。
芥屋浜で待機 芥屋大門で潮時を見て出港。

帰りもお祭り終わったら、そっから自国の最寄港まで、船で帰るし。
伊都の軍港は、張政連れてたから、一大卒が許可しなかった。

伊都は南東500里 海岸線に検閲港で山城なら早良から城南区
奴国は 那珂川 春日 大野城位で2万戸
不彌国は ま、博多湾岸のどっかだな。
古代の湾内の海岸線はアースじゃ読めない?

グーグルアースで見ると、他に無いんじゃないの?
なんで、金印出た周辺無視して
呼子や唐津なのか意味不明なんだけど?
僻地にもほどがあるw 
ってか、そこは、歩かず船で行くだろ?
0071日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 17:02:33.31
>>69
九州説ってのも東遷しちゃったりで相当トンチキなんだけどw

倭人伝に邪馬台国が九州って書いてあるのは事実でも
247年 卑弥呼が死んだとき、
於國中有如刺史 で、王より偉い一大卒が有って
それでも卑弥呼の墓を大いに盛った ってことは、

卑弥呼は紛争の中で、朝廷側の国造を受け入れて
領地安堵で要職に座るとかで、大和朝廷側に付いたってことだよ。
ただし、魏と軍事同盟成り立たない、傀儡だってのは、張政に見透かされてる。

考古学が大倭王を探してる奈良、奈良で間違ってないんだけど
まだ、奈良時代には遠いから、王都が 吉備や阿波ってのもあると思うね。
倭人伝の邪馬台国は、九州ですたw って、書いてあるけどwww
平原のアレは抵抗勢力の名残、って感じじゃないのかな?
0072日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 18:54:37.37
>>71
>倭人伝の邪馬台国は、九州ですたw って、書いてあるけどwww

書いてないww
倭国で最初に着くのが九州ってだけ

そこから、水行20日+10日、陸行1月してやっと着く遠地に 邪馬台国はある

そう書いてあるんだよ

水行の起点を帯方郡にする理由がない
そこで破綻してる
0073日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 19:29:20.29
>>72
女王に会いに東に行くのか?
張政の行程1万600里の不彌国から?

その、水行20日+10日、陸行1月 は
女王の処都までの 残り2千里だぞ? 破綻してるだろw
そもそも、張政は伊都の一大率に駐留させられて、女王宮には行かない。 
てか、卑弥呼の墓見た。

当時倭人伝読める中国人は投馬国が半島南岸の倭人国ということを知ってるんだよ。
九州21国 代表邪馬台国の名前は、中国人で初めて卑弥呼王宮を見た梯儁の命名。

張政は 不彌国から北へ水行十日で巨斉島。
西へ3千里北へ4千里の水行20日で、郡に帰った。

さらに、報告の為、
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘 とともに
洛陽まで上った。

報告
使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯

刺史 は地域領主の王より偉い中央官僚で皇帝の軍事権を持つ。
卑弥呼の文書、皇帝の文書、贈答品は逐一、一大卒に検閲されている。

この、247年で邪馬台国と魏の 外交記録は終わり
以降、280年までつづいた、三国志で 魏の将軍の居るはずの同盟国
邪馬台国は糞の役にも立っていない。
これが、倭人伝である。
0074日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:00:13.33
>>73 自己レスですw
>当時倭人伝読める中国人は投馬国が半島南岸の倭人国ということを知ってるんだよ。

↑これ、♪ドン来いスレ でも、初出です。
皆様のおかげで、出てきた文言です。 ありがとうございます。
陳寿は、投馬国が半島南岸倭人国と知らない現代日本人の為に、倭人伝書いてません。

知ってりゃ、誤読できないと思います。
陳寿君、草葉の陰でビックリポンですwww
0076日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:01:44.90
>>73
>女王の処都までの 残り2千里だぞ? 破綻してるだろw

短里だと思うから、破綻してると思うだけ
普通に魏晋里なら問題なく届く
0077日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:04:40.42
>>73
>そもそも、張政は伊都の一大率に駐留させられて、女王宮には行かない。 

魏志倭人伝に「政等以檄告喩壹與」とあるから、張政は壹與に合ってる
壹與のいるところは、邪馬台国だろう?

>てか、卑弥呼の墓見た。

卑弥呼の墓が、卑弥呼の都するところ以外にあるとは思わないんだが?
0078日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:08:07.65
>>73
>当時倭人伝読める中国人は投馬国が半島南岸の倭人国ということを知ってるんだよ。

これはどうやっても無理

投馬国5万戸、邪馬台国7万戸で、倭人人口の半数弱が帯方郡と地続きの半島上にあるなら
倭人伝冒頭の「倭人在帶方東南『大海』之中」にはならない

次の「山島に依りて」という表現にも合わない

投馬国を半島上に持ってくるのは、九州説の中でも批判されている無理読みだよ
0079日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:22:30.83
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0080日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:22:48.40
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0081日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:23:01.70
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0082日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:23:15.89
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0083日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:23:28.00
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0084日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:23:54.86
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0085日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:24:13.35
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0086日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:24:30.91
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0087日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:24:51.12
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0088日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:25:14.80
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0089日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 20:25:15.33
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0090日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 21:03:21.97
>>78
倭人在南東 と 九州の位置が違う。
だから、陳寿は 九州の領主と倭王を間違えました。
と、公言している。
0091日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 21:06:52.78
>>90
>倭人在南東 と 九州の位置が違う。

どこが、どう違うの?

もうちょっと、くやしく書いて
0092日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 21:10:31.53
>>76
短里って何?

韓は方可4千里
対馬海峡は3千里で各渡海千里

これが正史である東夷伝、倭人伝での里程の定義であって
九州上陸後、残り2千里は筑紫平野なら熊本を超えない。
0093日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 21:26:07.32
>>91
倭人伝に示されているのは 帯方郡の南4千里東3千里渡海3千里
上陸後2千里の 九州の周5千里可 の小国

>>7
女王國東渡海千餘里復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺
去女王四千餘里又有裸國
黒齒國在其東南船行一年可至
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

中国の倭国認識は 沿海州の東、日本海の東全部、半島の南を含む
東の倭種の国を含み 船行一年を超える大国
倭人伝で紹介したのは、九州島北部 周5千里の小国
0094日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 21:39:36.24
まず、唐津・末蘆国に上陸した。
そこから東南陸行500里の佐賀川上に、伊都国国衙の大環壕があった。(なおここから東南100里の方角に佐賀市の奴国が見える。)
この伊都国から東へ行くこと100里で神崎吉野ヶ里の不彌国に至った。
(ここから南の方角に投馬国がある。帯方郡からは水行20日)
(又、同じく南の方角へ行くと、くまモン論者の故郷の邪馬台国・女王之所都に至る)

より具体的には:
神崎・不彌国から川堤を下り、千代田〜諸冨から、筑後川の干満遡上潮を利用して対岸の城島へ渡った(今の六五郎橋付近)。
ここから微高地伝いに、県道15号線で八女市中心街の福島へ。
この福島の南で、岩礁地帯を利用して矢部川を渡った。
そして国道3号線、又は県道4号線伝いに南下を続け、熊本県山鹿市ウテナ(台)へ到った。

ここがくまモン論者の故郷、邪馬台国の国衙(翰苑にいう邪馬嘉国)である。
そしてさらに東南山岳行の阿蘇東麓・高千穂に、火の神・卑弥呼の都楼砦はあったのである。
以上、唐津から陸行一か月。帯方郡からは、〆て水行十日陸行一月也。。。
0095日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 21:57:13.59
>>94
>まず、唐津・末蘆国に上陸した。


まず、対馬海流に流されて唐津には上陸出来ない。  @阿波
0096日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 22:34:28.27
おいおい、唐津って、思いっきし湾内だぞ?
なもん、ゴムボートで十分だわw

@阿波 は海 知らんだろ?
いっぺん壱岐まで 往復して来い。
風船で行けwww
0097日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 22:40:43.55
>>96
>おいおい、唐津って、思いっきし湾内だぞ?


唐津の湾内へ入ればなんら問題ないよ。
しかし、対馬海流に流されて、壱岐からその湾内に辿りつけないというお粗末。  @阿波 
0098日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 22:43:57.75
>>96

唐津が末盧国だったら、宗像に取って代わって「世界文化遺産」に認定されてるよ。  @阿波
0099日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 22:51:41.88
>>96
偏西風は、9000メーターあたりだが、
唐津港あたりは、夏場は、
南東の季節風が、ふくんよね。
どうせ帆船でくるんやろ?
海流がきても、季節風も関係するやろ?
それほど、流されない。ヨットが、
海流に流されたら、帰って来れんがな。
どんな風でも、45度に切っていけば、
向かい風でも、好きな方角いけますがな。
0100日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 22:56:09.45
>>93
>九州の周5千里可 の小国

これ方々で書いてるんだがなかなか定着しないな

周旋は、一周したり元の場所に戻ったりしない
いろいろ寄りながら進むこと

萬二千里から狗耶韓国までの七千里を引いて残り五千里ってだけだよ

九州に上陸してから一周5千里とか、誤読もいいとこ
0101日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 22:59:12.71
>>99
>唐津港あたりは、夏場は、
>南東の季節風が、ふくんよね。

唐津湾内は関係ないの!


>どうせ帆船でくるんやろ?

帆船なんてないの!


>ヨットが、
>海流に流されたら、帰って来れんがな。

弥生の手漕ぎ船と現代ヨットと一緒にする神経が分からない。 ホントに大丈夫かね、頭。  @阿波 
0102日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:03:45.17
>>92
>これが正史である東夷伝、倭人伝での里程

公孫氏も含めて関係者全員、生まれたときからずっと漢尺の度量衡で生活してるのに、
それと異なる里程を使う理由も道理もないというのをまず認めよう

あるのは、適当に誇張して盛られた数字があるだけ
だから実際の距離で換算すると区間ごとに4倍くらい違いが出る

東夷伝里が魏晋里の6分の1とかいってるときに、区間で4倍違ったら
どうにもならないってことを理解しよう

短里も東夷伝里も倭人伝里もないんだよ
0103日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:08:48.51
壱岐から唐津に行けないんだったら、狗邪韓国から対馬、
対馬から壱岐も無理じゃね。

その辺、克服したからこそ北九州が出雲と代わって
日本の玄関になったんしょ。
0104日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:09:17.22
>>94
>そこから東南陸行500里の佐賀川上に、伊都国国衙の大環壕があった。

これってさ、ひょっとしてもしかしたら、グーグルマップの航空写真で
見つけたとかいう東西1キロの大環壕集落のこと?ww

見たい人の心の中だけにある、発掘による証拠が一切なくて、
ヤマトタケルに殺されたのが「川上」梟帥だからという類推に頼った、
例のあれ?ww
0105日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:12:09.50
>>101
秦の時代には、帆船で、東へ、渡っているし、
三国志の時代は、東呉の帆船は、ベトナムやら、訪問してますよ。
0106日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:14:14.02
>>103
>その辺、克服したからこそ北九州が出雲と代わって
>日本の玄関になったんしょ。

日本の玄関は福津・宗像方面。  決して、呼子や唐津ではないから、諦め給え。  @阿波
0107日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:16:18.00
>>105

それがどうしたと?  @阿波
0108日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:20:25.88
>>107
中国の帆船は、2300年の歴史があり、
後漢末期の刘熙さんが、
《释名·释船》でかいてるやない。
:“帆,泛也,随风张幔曰帆,
使舟疾泛泛然也。”

その時代には、帆船も十分あるがな。

なんで、手漕ぎになるのかな?
0109日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:22:47.45
>>108

川船で対馬海峡を渡れると思ってるのかね?  ホントに大丈夫かね、頭。  @阿波 
0110日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:27:21.45
>>109
南州异物志の中に、川船レベルやないのを
かいてるけど?
三国志の時代の、書物。
0111日本@名無史さん垢版2018/08/27(月) 23:41:57.67
>>109
南州异物志》は、
さらに細かくかいていて、“4本マストがある

これは、現在の縦帆船の一種。
直接風を受けるのではなく、
マストを地面に対して、傾斜をつける。
そうすると、逆風でも、高速に、進める。
また帆の材質は、柔らかい布ではなく、
竹竿を重ねて強くした硬篷で、
独特に設計していた。
0112日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 00:14:54.68
>>109
中国の古代四大航海船は、
鸟船 浙江省あたりの船
沙船 浅瀬用 渤海あたり
福船 深い海や波にも対応
広船 広州あたりの船

鳥船って、
「天の鳥船」ってこれからきたかもね。
0113日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 00:42:29.36
船の作りからして、唐津にいくのが、
妥当だよ。
福津、宗像は、みたらわかるが、砂地の海岸なんだよ。港も砂地の先につくっているから、
遠浅な感じだよ。

それを頭に入れて、古代船を考察すると、


福船は、戦国時代に作られた。
利点は、甲板広く、戦闘用。波を割いていく力あり。船尾には、2つの舵があり、浅瀬、遠洋用に分かれていた。

欠点は、機動性ややおちる。吃水が深いため、
港も停泊は、深い場所になる。または、小舟で港までいく。


考察すれば、そりゃリアス式な唐津や松浦に
なるだろう。宗像から糸島は、砂地だからな。
停泊やら、できんよ。
0114日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 00:43:30.61
>>109
朝鮮最古の土器は済州島の1万年前の高山里遺跡から出土した九州から伝わった縄文土器の
隆起文土器。

7500年前にはこの土器が朝鮮半島南岸にも伝わり、これが朝鮮半島最古の土器。

九州縄文人たちはイカダや丸木舟で、九州から済州島に渡来定着し、
済州島から朝鮮半島南岸に渡来定着して朝鮮人の祖先の一部になっていったのである。
0115日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 01:49:32.98
>>112
面白い。
鳥船とは具体的にどういう船?
0116日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 06:14:03.97
>>113
>考察すれば、そりゃリアス式な唐津や松浦に
>なるだろう。宗像から糸島は、砂地だからな。
>停泊やら、できんよ。


そりゃ、真逆だよ。 砂地じゃない岩場だと、木造船など座礁して沈没だよ。
停泊できないなら、宗像が大陸の玄関口として「世界文化遺産」になんかなっていない。  ホントに大丈夫かね、頭。  @阿波 
0117日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 06:30:42.04
>>78
悪意ある学者のミスリードに見える。
0118日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 06:41:12.20
>>100
周はあまねく 周辺、周遊
円に拘泥してるのは自分だろ?
日本語の周旋は意味が違うから使わなかった。
誤解を招くほどのことか?
0119日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:03:15.93
>>117
>悪意ある学者のミスリードに見える。

どこに悪意があって、どこがミスリードなのか「具体的」に書いて

九州説の人は反論することだけが目的なのか知らんが、討論する能力が足りなさすぎる

まあ、具体論に踏み込むとその時点で一蹴されるから逃げてるってのは分かってるけどさw
0121日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:10:33.90
倭地は周旋五千里あった、、、
 倭人の住む倭地のことを云っているので、倭種の本州を除いた、対馬・壱岐・九州本島を指しているのだろう。
ただし、対馬と壱岐は、方可○○里と書いてその大きさを示しているので、これものぞかれる。
 結局、(九州諸島のうちの最大の島である)九州本島の筑紫から大隅もしくは
薩摩南端までの大きさ(実際には長さ)を云いたかったのであろう。
1里74mとすれば、九州本島の南北長は、おおむね5000里に相当する。
0122日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:14:46.29
>>121
>倭人の住む倭地のことを云っているので、倭種の本州を除いた、対馬・壱岐・九州本島を指しているのだろう。


倭国(阿波)の周りの「周旋五千里」のことだよ。  無茶読みはイカン。  @阿波
0123日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:30:26.63
>>122
阿倭国は、阿保踊りの阿がついているので、これも倭地からのぞかれる、、、
0124日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:38:45.73
じゃあアップルやアマゾンも
0125日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:42:54.78
>>116
軍船やなく手漕ぎ船なら、
砂地でもいけるけど。
当時の福船は、船長20メートルや
200トンほど積載可能ともいわれている。
調べたらわかる。
700人乗せれたともかいている。
日本最古の水田稲作遺跡があり、
最古の伝播ルートやないかな。

宗像大社は、出雲系で、
諏訪または、紀伊半島にいた国譲りした
出雲系が、建てたともいわれるから、
邪馬台国当時より後やないかな。
0126日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:44:55.51
>>113
>考察すれば、そりゃリアス式な唐津や松浦に
>なるだろう。宗像から糸島は、砂地だからな。
>停泊やら、できんよ。


そりゃ、真逆だよ。 砂地じゃない岩場だと、木造船など座礁して沈没だよ。
停泊できないなら、宗像が大陸の玄関口として「世界文化遺産」になんかなっていない。  ホントに大丈夫かね、頭。  @阿波 
0127日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:45:28.59
>>121
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里

中国人の認識での 九州以東を含めた、倭の全体像に対して
この倭人伝に示した、参問倭地 が 洲㠀之上 で 周旋可五千餘里 である。
その他の倭種 餘旁國は遠絶 で、魏の使譯では 知り得ない。
と言うことです。

これは大倭王かと思った卑弥呼の国は 21国で境界を為し、周旋可五千餘里 
でしか無い事 を意味していて

倭人伝は 金印の王は 地域王で 東国を含む、大倭の大王では無かった 
という、記録になっています。

これは、>>119 に対する答えでもあります。
投馬国 は 馬韓南の全体名 邪馬台国は北2千里内の九州21領主国の全体名

>>2>>3
市町村単位の不彌国 から 全体国名の投馬国 に変わり
都市間の里程 から 水行20日という大きな通過期間の表示に変わっています。

南 水行20日ですが、投馬国は、通過した対馬の 北方にあります。
陳寿は、この段落の存在を理解できない、我田引水の読み方をする
日本人考古学者の為に倭人伝を書いたのではありません。
0128日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 08:49:16.48
>>127
>この倭人伝に示した、参問倭地 が 洲㠀之上 で 周旋可五千餘里 である。


これはまさに、倭国(阿波)の周りの「周旋五千里」のこと。  無茶読みはイカン。  @阿波
0129日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 09:28:02.24
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里

これは北部九州の有明海沿岸を一周すると5000里くらいとの意味
奴国から傍国20か国を経て奴国に戻る
途中に三角、天草、島原を経由する
その南には狗奴国が在った
本州や阿波とか無関係。
0130日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 09:31:16.01
市町村単位の不彌国 から 全体国名の投馬国 に変わり
都市間の里程 から 水行20日という大きな通過期間の表示に変わっています。
南 水行20日ですが、投馬国は、福岡の邪馬台国に上陸せずに南下した九州南部にあります。
0131日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 09:32:37.25
>>129
狗奴国も強大だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「黒潮の恵み」と「海洋航行技術」。

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡

こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0132日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 09:51:17.08
>>131
何の根拠も無い妄想w
0133日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 10:11:16.93
>>129
>奴国から傍国20か国を経て奴国に戻る
これも、ちょっと違う。
周旋の誤読の指摘ににも繋がるところだけど
>>3
・・・次有奴國
此女王境界所盡

奴国は福岡平野、南境界の女王の居所とは以置が違う。
これら、領主国全21国をもって、女王の境界が尽きる。

次有21国 これは、冊封国 女王に所属する国を梯儁が聞き取り漢字化したもの。
地理的位置関係は無く、周旋もしていない。
周旋したとすれば、5千里程度である、ということ。

南北2千里で、福岡、筑紫平野の諸国を廻れば、そんなもん。
宇佐だの長崎まで入れると、東西で3千里 そんなには無いということ。
呼子も宗像も不属女王国と考えている。

女王国自体が分裂もしてるはずで、247年筑紫平定で、
筑(豊肥)州刺史?一大卒の勢力圏に これらも含んだ可能性は否定しない。
確定しようにも、300年代でも、九州征伐やってるし。

平原や吉野が里 単位が抵抗勢力で継続しても桶。
250年古墳時代前夜であって、古墳王権の強大化は350〜400年。
0134日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 10:24:51.95
長崎は含むけど宇佐や小倉は含まないと思う。
0135日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 10:24:55.96
>>132
>何の根拠も無い妄想w


それを、「負け犬の遠吠え」と云う。  @阿波
0136日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 10:37:01.93
阿波みたいに何の根拠もなく結論を連呼するのが「負け犬の遠吠え」ですよ。
0137日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 10:43:58.68
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0138日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 10:47:38.80
>>133
奴国は筑前の殆どの地域を占めており
筑前の南の端が不彌國でそこからスタートして北部九州を周旋5000里して奴国に帰る
有明海沿岸を一周し三角、天草、島原を経由すると丁度5000里くらい
これは、魏使が実際に行った道ではなく現地の倭人からの伝聞によるもので不正確な情報
その南に狗奴国が在り
傍国は当然女王の支配下だし、壱岐対馬も女王の支配下
伊都国、奴国以北は特に重要地点なので一大卒を置いて支配。
0139日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 10:54:41.50
>>136
>阿波みたいに何の根拠もなく結論を連呼するのが「負け犬の遠吠え」ですよ。


系統だった弥生集落遺跡群を提示できないから、いつまでも「負け犬の遠吠え」してるんだね?  @阿波
0140日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 10:57:56.60
>>138
敵対していた狗奴国が熊本なら、天草は周遊できない。
0141日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 11:18:03.64
>>140
狗奴国は南九州の鹿児島、宮崎
0142日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 11:22:08.54
>>139
九州には弥生集落遺跡群なんて腐るほどある
根拠を示さずに「邪馬台国勢力」や「狗奴国勢力」とか馬鹿じゃねぇの。
0143日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 11:24:36.99
>>142
>九州には弥生集落遺跡群なんて腐るほどある

言うだけかい?


>根拠を示さずに「邪馬台国勢力」や「狗奴国勢力」とか馬鹿じゃねぇの。

その「根拠」ってどういうものなんだい?  @阿波
0144日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 11:46:58.56
だから、周旋は一周とか元に戻るとか言う意味じゃないんだってばさ

周旋の解釈について三国志の他の記述との比較
http://www.zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf

各地を転々として、巡り歩くという意味で使われている
他にはあっせんする交渉するなどの用法(現代でも周旋屋という言葉がある)もあるらしい

一周するという意味で使われている箇所はない
0145日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 11:49:54.45
>>144
>だから、周旋は一周とか元に戻るとか言う意味じゃないんだってばさ


そんなこと、どっちでもいいよ。  どの道、トンデモ妄想説なんだから。  @阿波
0146日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:06:53.82
>>145
>そんなこと、どっちでもいいよ。

そんなことないよ

短里はない、周旋は戻らない、で九州説は詰むもの
0147日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:11:06.04
>>146
>短里はない、周旋は戻らない、で九州説は詰むもの


いや、その前にとっくに詰んでいるよ。   「其山有丹」で。  @阿波
0148日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:14:41.81
>>146
>周旋は戻らない、で九州説は詰むもの

なんかおかしな認識だ。九州島の北端・筑紫から、南端の鹿児島開聞岳までで5000里ピッタシ。
0149日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:22:03.65
戻らなくてもいいかも知れないが、それではどこをどう記載していたのか基準がわからなくなる。
あと、最後にまた奴国が出てくるのですよ。
無理に一周にはしませんが、一周に近い形で説明できるのならその方がいいかなと。
0150日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:22:26.72
鉄器出土数
徳島県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 0 弥生中期 0 弥生後期・終末期 1 弥生後期・終末期 5

徳島県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 3 弥生中期 0 弥生後期・終末期 28 弥生後期・終末期 0

福岡県 弥生前期 2 弥生前期 48 弥生中期 46 弥生中期 365 弥生後期・終末期 213 弥生後期・終末期 753

熊本県 弥生前期 0 弥生前期 1 弥生中期 20 弥生中期 21 弥生後期・終末期 311 弥生後期・終末期 1254

弥生時代九州が鉄器時代だったのに対して奈良県や徳島県は未だ石器時代
0151日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:25:17.07
>>144
いい加減な資料だなw
素人の誤訳。
0152日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:28:11.61
あわれ、哀れ、阿波遅れ
0153日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:28:51.91
>>150
各時代が2つあるのは(前)鉄鏃と(後)その他鉄器に分けてあります。
0155日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:36:36.38
>>146
短里はないとか。中国の魏志倭人伝が、
正史として、評価されているのを
否定できるかな。
1东夷传·韩传では、帯方郡を置くまでに、
何回も戦っており、地理や距離を間違えて
表記することは、可能性少ない。
0156日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:44:28.04
>>154
短里はない・・・、などと短気をいうな。
0157日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 12:48:31.47
>>154
短里はない・・・、などと短細胞が、短気をおこす。。
0158日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 13:05:59.25
>>150
>弥生時代九州が鉄器時代だったのに対して奈良県や徳島県は未だ石器時代


九州の鉄器は倭国(阿波)や淡路の御下がり品・お恵み品だろう。  @阿波
0159日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 13:08:32.51
あわれ、哀れ、阿波遅れ
0160日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 13:13:15.23
>>144
周旋の意味以前に 例文のデタラメな日本語訳にびっくりした。
完全に我田引水のミスリード目的の訳 ワロタ ひどすぎwww

この人の周旋も違う。 
目的地を邪馬台国として、曲がりくねって歩くのではなく
紹介した属女王国の21国を 周く巡る とするならば5千里程度である。
と いうこと。

或絶或連 は
絶えてある国は、順路的に、そこを往復するイメージ
連なる国は、順次隣国に、たどれるということ。

つまり、曲がりくねって歩く、とは違う。
0161日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 14:09:44.08
福岡長崎佐賀にある国邑をブラブラと連続的に辿ればいいんでしょ。
0162日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 14:51:16.40
>>161
だから、長崎は僻地過ぎて行って来ると5千里。
縄文土人の酋長しかいなくね?
真珠だっけ? 貝とかで船で交易くらいはあっても、
筑紫国家には入らないかと?
0163日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 15:14:14.53
>>156
>短里はない・・・、などと短気をいうな。

短気じゃないよww
短里があるなどといい続ける認識のおかしな人たちにずっと付き合って
否定し続けてるからww
0164日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 15:30:57.02
>>157
>短里はない・・・、などと短細胞が、短気をおこす。。

単細胞じゃないよ?
これまでにもきちんと論証してるだろ?

帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
0165日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 15:32:50.16
こんなばらばらの数字で、短里で測ったなどと言えないのはひと目見て分かるだろ?

誇張して適当に作った数字があるだけだよ
誇張分を何も考えずに現在の地理に当てれば、短い数字が出るだけ

でもばらばらだから、短里という決まった長さがないのは明らか
0166日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 15:54:56.38
>>155
>短里はないとか。中国の魏志倭人伝が、
>正史として、評価されているのを
>否定できるかな。

正史であるかどうかと、その内容が正しいかどうかは、ほぼ関係がない
正史であろうがなかろうが、史料の限界はあるし、各項目をきちんと検討しないと
意味がない

そして、短里があるという寝言は検証に耐えないってだけだよ

それから、三国志はもともと数多ある私撰史書の一つとして編まれたもの
国家事業として作られた正史じゃないよ
0167日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 15:58:53.76
>>165
理屈に合わぬ時は、里制度のほうだけでなく、自分の推理推定が正しいかどうかも疑え。
現に、下記の推定が間違っておるので、修正してみた。

末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)25km/500里=50m/1里
→ 末廬国(唐津)ー伊都国(佐賀川上)37q/500里=74m/1里

伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)20km/100里=200m/1里
→ 伊都国(佐賀川上)ー奴国(佐賀市佐賀県庁)7.5q=75m/1里
0168日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:02:48.98
>>160
>或絶或連 は
>絶えてある国は、順路的に、そこを往復するイメージ
>連なる国は、順次隣国に、たどれるということ。

參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。
或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。

これ、倭地=土地・地理についてだから、国がどうこうとかの話ではないよ

絶海(遠く離れた海)の中の洲島の上にあって、その島の連なりが、
あるいは絶え(切れていたり)、あるいは連なり、周旋(=直線ではないけれど
いろいろ寄りながら進むと)五千余里くらいだ

と書いてあるだけ

九州説の人は、ロマンに引きずられすぎ
ごく単純なことしか書いてない
0169日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:05:15.68
>>167
>ー伊都国(佐賀川上)

最近、川上推しの人がいるけれど、川上が伊都国だと認める人はごく少数
0170日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:06:05.96
>>164
そんな正確な地図があると考えることが間抜け。
地名の比定も 正しいもの とは言えない。

韓は方可4千里
西岸4千里 南岸3千里 7千里 は 巨斉島付近(釜山じゃ4千里で×)
対馬海峡 渡海3回 千里平均で 3千里(上陸は中心地糸島周辺)

水行 合計 1万里
九州上陸後 残り2千里 が 女王の居所 
この 2千里(不彌国でマイナス6百里)を
水行20日+10日陸行1月で行くアホが畿内説

筑紫平野を行くなら、熊本は超えない。

これは、中国正史の東夷伝が示した 東夷の地理に基づく里程概念。
メートルやセンチ?単位の 短里 なんて どーでも良い。
0172日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:08:36.92
>>168
その通りだな
「倭地」についての記述だから地理の問題であり、国家国情は関係ない。
0173日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:09:07.27
>>170
>短里 なんて どーでも良い。

それを言うと、九州説は詰むよ
というか、即死

短里前提の行程パズルしか、九州説の根拠はないんだからww
0174日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:12:59.53
>>171
また間違えてるな
地図上の太い黒線は縄文時代の海岸線だから、佐賀駅近くまで海が迫っていた。。
弥生末期は点線の方だから、佐賀駅のずーと沖合7-8qまで陸化していた。
0175日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:14:23.82
>>171
でも佐賀城横の与賀神社には
樹齢1400年以上の楠があるんよ。

いろいろ入り組んでて
全部が海と言うわけでもないようだ。
0176日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:14:32.04
>>173
>それを言うと、九州説は詰むよ
>というか、即死


いや、その前に「其山有丹」でとっくに詰んでいるよ。     @阿波
0177日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:19:15.13
鉄器出土数

奈良県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 0 弥生中期 0 弥生後期・終末期 1 弥生後期・終末期 5

徳島県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 3 弥生中期 0 弥生後期・終末期 28 弥生後期・終末期 0

福岡県 弥生前期 2 弥生前期 48 弥生中期 46 弥生中期 365 弥生後期・終末期 213 弥生後期・終末期 753

熊本県 弥生前期 0 弥生前期 1 弥生中期 20 弥生中期 21 弥生後期・終末期 311 弥生後期・終末期 1254

各時代が2つあるのは(前)鉄鏃と(後)その他鉄器に分けてあります。

弥生時代九州が鉄器時代だったのに対して本州は未だ石器時代
0178日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:20:00.55
>>169
>最近、川上推しの人がいるけれど、川上が伊都国だと認める人はごく少数

そりゃそうだろう。
なんせ、最新のグーグル探査手法を取り入れた考え方だからな。認める人が少ないほど価値がある。
ま、佐賀川上説で、古くからの糸島伊都国説の面々は戦々恐々らしい、、、
0179日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:24:33.67
>>177
> 弥生時代九州が鉄器時代だったのに対して本州は未だ石器時代


九州の鉄器は倭国(阿波)や淡路の御下がり品・お恵み品だろう。  @阿波
0180日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:29:22.48
>>173
パズルじゃなくて倭人伝に書いてある まま
7千里+3千里+(女王の居所迄)=一万二千里
0181日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:30:09.06
九州説は 沖縄も含めて各県にあるんだね。  トンデモ妄想の郷土愛競争かね?  @阿波
0182日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:34:47.33
>>179
な分けあるかいw
0183日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:38:21.70
>>182
>な分けあるかいw

だって、こましな(阿波弁)鉄鍛冶炉遺構がないんだから、九州の鉄器は倭国(阿波)や淡路の御下がり品・お恵み品だろう。  @阿波
0184日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:42:53.55
>>176
丹山はこの時の使が見たのかな?
皇帝の贈答品の為、倭人の使者に聞いたんだろうね。
いつの話だろうね?

卑弥呼には
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
で、240年 真珠 チ丹 各五十斤 を送っている。

卑弥呼の国には チ丹 は無いか 貴重なのではないかな?
@阿波 詰んでないか?
0185日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:51:14.17
>>183
糸島当たりは製鉄の遺跡だらけですよ。
0186日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:54:30.43
>>184
>で、240年 真珠 チ丹 各五十斤 を送っている。

その頂いた「真朱? チ丹」鳴門の萩原墳墓群、天河別神社古墳群で使ってるよ。


>卑弥呼の国には チ丹 は無いか 貴重なのではないかな?

倭国(阿波)では、いっぱい採れるから、化粧みたいに使ってるよ。  @阿波
0187日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:55:58.30
>>185
>糸島当たりは製鉄の遺跡だらけですよ。


なに遺跡?  @阿波
0188日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 16:57:35.14
>>174
>また間違えてるな

これは、>>174のfaultではなく、下山先生と雑誌のeditorのミスなんだけれど、
図7の遺跡分布の図が左右反転してたりして、実際の地図と重ねにくいけど、
その前の図6を現在の地図と重ねると、柳川市役所は弥生末期でもまだ海の中、
大川市役所も海岸まで500メートルくらい
この論文では筑後川の運んだ砂による鳥趾状三角州を弥生末期には
陸化しているとしているけれど、その西側には大きな入り江が入り込んでいて、
佐賀駅から500メートルくらいのところまで海になってる

よく見てごらん
0189日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:00:45.86
>>184
>真珠 チ丹 各五十斤

一斤=600gくらいのものだから、
50斤で、30キロくらい

たいした量じゃない

桜井茶臼山古墳一つで、200キロ以上の水銀朱を使ってるよ
0190日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:03:12.26
>>178
>そりゃそうだろう。
>なんせ、最新のグーグル探査手法を取り入れた考え方だからな。認める人が少ないほど価値がある。
>ま、佐賀川上説で、古くからの糸島伊都国説の面々は戦々恐々らしい、、、

「邪馬台国は九州にあった78」スレで、そのネタコテンパンにされてるんだけどww
扇状地の流路に対して横長1キロの環壕集落なんてないってばさ
0191日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:03:29.73
>>189
>桜井茶臼山古墳一つで、200キロ以上の水銀朱を使ってるよ

倭国(阿波)産の水銀朱を自慢してもはじまらんよ。  @阿波
0192日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:07:57.81
福岡県添田町庄原遺跡=弥生中期前半(紀元前二世紀)、金属溶解炉

壱岐カラカミ遺跡= 2013年、弥生時代後期の鉄の地上炉跡


我が国で見つかった最も古い鉄器は紀元前3〜4世紀のもので、福岡県糸島市二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部。
0193日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:10:09.66
>>189
桜井茶臼山古墳って4世紀以後のものですよ。
0194日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:11:20.78
>>192
えっ、「糸島当たりは製鉄の遺跡だらけ」って、たったそれだけ?

だ・か・ら、こましな(阿波弁)鉄鍛冶炉遺構がないんだから、九州の鉄器は倭国(阿波)や淡路の御下がり品・お恵み品だろう。  @阿波
0195日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:16:59.43
>>164
計算ありがとう。
どうみても短里です。
0196日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:17:32.00
>>195
短里ですね。
0197日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:18:09.67
>>162
僻地なんどけど、狗奴国が西回りで半島と交易するのを抑えるためには、長崎を封鎖する必要があるんじゃない?
0198日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:20:17.44
>>195

短理でも長里でもどっちでもいいよ。 どの道、トンデモ妄想説なんだから。  @阿波
0199日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:23:35.18
>>178
戦々恐々じゃないよ。
グーグルを使った推定も認めるし、川上に大きな集落があっても不思議ではないと思うけど、そこを伊都と認める材料には乏しいよ。
何しろ弥生王墓は糸島市と福岡市にしか見つかってないのだから。
佐賀が邪馬台国のエリアに入る栄えた地域であるとは思うけど、さすがに伊都は無理ではないか?
0200日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:28:04.59
糸島市に290ヘクタールの伊都城を想定する糸島説にとっては、推定50ヘクタール程度の川上の環濠集落くらいは認めてやっても良い。
0201日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:28:19.01
>>199
> 佐賀が邪馬台国のエリアに入る栄えた地域であるとは思うけど、さすがに伊都は無理ではないか?


佐賀は大陸へ船出する出航地。 ただそれだけで栄えた地域。  @阿波
0202日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:29:28.75
佐賀は大陸との交易にはひどく不向きだよ。
むしろ肥国の中心国邑の一つ。
0203日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:30:37.07
>>200
>糸島市に290ヘクタールの伊都城を想定する糸島説


こましな弥生後期集落群のない糸島市・・・・・  @阿波
0204日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:38:20.37
>>197
その発想無かった。
長崎、五島、済州島ルートは縄文系は有ったと思うけど
九州西岸かぁ。 狗奴国しか無いしw
むしろ、済州島交易が有りでしょ。
熊本遺跡?
0205日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 17:59:53.86
桜井市ほにゃららセンターによると、纒向遺跡の広さも300ヘクタールらしいw
それなら川上の50ヘクタールも余裕だな。
ちなみに吉野ヶ里遺跡は40ヘクタール。
0206日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 18:02:26.48
>>195
>計算ありがとう。

どういたしまして、短里は否定されましたね!

>どうみても短里です。

誇張された数字を戻せば短くなるだけ

末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=「50m」/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=「200m」/1里

4倍差の出る単位なんてない
0207日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 18:03:42.04
>>205
>それなら川上の50ヘクタールも余裕だな。

面積の問題じゃなくて、東西1キロが無理って話

環壕集落を、いくつも川の流露が横切るなんていうのを想定しても無駄
0208日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 18:05:17.51
末慮国から、東南陸行五百里は、惣座遺跡辺りの佐賀平野だと思うよ
でもそこは伊都国ではない

それだけのこと

魏志倭人伝はその程度の正確さしかない
0209日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 18:37:50.91
>>206
末廬国(呼子)ー伊都国(糸島)    40km/500里=「80m」/1里
伊都国(糸島)ー奴国(日向峠)   8km/100里=「80m」/1里

1里80mくらいですね。
0210日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 18:53:39.55
>>209はザラコクなのかい?
言ってることが同じだぞww

中心国邑に着かずに、ある国に「着いた」と表現していたら、
行きと帰りで旅程が変わっちゃうだろ

むちゃくちゃな想定だって分かるかい?
まさに、ザラコク級の想定ww
0211日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 18:54:25.63
>>188
よ〜く見ました。
現在、嘉瀬川は佐賀市の西を流れてますが、これは江戸時代に川替えしたためで、
その前は現佐賀市の東側を流れていたそうです。
図6・弥生期の佐賀駅東500メートルは、その旧嘉瀬川が流れ込んでいた入江なのです。
そもそも川筋ですから、陸化が遅れたのは当然であり、
この部分の陸化は、江戸期の川替えを待つほかなかったのです。
それよりここで重要なのは、B−B”線に沿って、早くから一帯の陸地化が進行しており、
弥生期には佐賀駅より7-8qも沖合へ達していたことではないでしょうか。
3世紀の奴国は、このあたりの水田化で大にぎわいだったのでしょう。
0212日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:00:14.68
>>190
>扇状地の流路に対して横長1キロの環壕集落なんてないってばさ

東西1qの推定環壕集落に、環壕を損なうような流路はない。
どうやら推定区域外の嘉瀬川と見間違えているようだな。
0213日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:00:49.53
>>211


こましな弥生後期集落群のない佐賀市・・・・・  @阿波
0214日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:09:48.49
>>212
>東西1qの推定環壕集落

その範囲の北側の山、ゴルフ場の南側に4つの谷筋があるのは見えるかい?
今は暗渠になってたりするのもあるだろうが、西側の一本は今でも
開放水面のある水路がその推定領域を南北に横切ってるよ

この水路(+3本)を横切る環壕を想定するのがおかしいって話
0215日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:10:01.94
>>213
佐賀市の集落跡は佐賀県庁・佐賀城の地下
そりゃそうと、阿波のお城はどこか???
0216日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:18:47.70
>>214
この程度の小水路は鶏でもウサギでも飛び越す。
伊都国の人間なら、またいで通れる。
ま、畿内の倭種の人長三四尺とか、糸島の短足種族なら知らんけどな。
0218日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:32:37.56
>>216
>この程度の小水路は鶏でもウサギでも飛び越す。

いや、人が水路を渡れるかどうかが問題じゃなくて、
環壕が水路を横切ってちゃおかしいだろって話

環壕が防御施設だって分かってるか?

環壕が水路のところで切れていたら、そこが防御の穴になるだけだって
これまでに発掘された環壕集落は川に挟まれた微高地を囲むように環濠を掘っている

環壕が何のためにあるのかを考えたら、環濠を水路が横切るってのが
とんでもないバカ話だってすぐに分かるだろ?

グーグルマップでそれっぽい道が見えたってだけの話に飛びつくから、
バカを見るんだよ

赤村の前方後円墳もどきも同じだけどさ
0219日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:41:32.59
伊都国は佐賀川上だった説を主張しているのは数名。
九州以外もいるが、地元の地理・歴史・遺跡に詳しいメンバーもいる。
どこぞのアレのように、
神の手考古学とか、妄想歴史学とか、町おこしイベントみたいになっては虚しい。
で、最近のネット時代に鑑み、
全国どこからでも討論に参加できるようグーグルテックで話題を提供しているわけだ。
そこんとこ、よろしく。
0220日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:50:13.23
>>218
短足種族だけに、やけに環壕にこだわってるな
環濠だけでも良いが、とうぜん完璧な防御にはならない、そこで必ず木柵・逆茂木とセットで用いられる。
これで、短足軍は簡単に防御できる。
0221日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:54:23.31
>>220
>そこで必ず木柵・逆茂木とセットで用いられる

それ、水路が環濠内に流れ込んでたら、そこには置けないでしょ?
0222日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 19:56:01.22
>>219
>話題を提供しているわけだ

村おこしの種だと理解しているならいいのだけれど、
それを信じて根拠にするバカが出ると、
それは違うんだよとやんわり言ってやらないといけないから面倒くさい
0223日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 20:00:33.37
>>221
短足種族は、なーも知らんのだな。
水路の中にも杭は打てる、逆茂木も植えられる。必要なら櫓を組んで、その上から侵入しようとする短足を槍で刺す。。。
0224日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 20:01:39.22
>>223
なんか受け答えがバカっぽいと思ったら、「キナイコシ」だったのかww
相手にして損したw
0225日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 20:10:00.78
>>224
それはお前の名前だぞ。
忘れたか?
0226日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 20:18:06.48
>>224
最初からカンチガイしてないか。
グーグルで見えたから、「環濠集落に間違いございません」、などとは言っておらんぞ。
だれがそんなこと言うか、そしてだれがそんなこと即信じるか。
カワカミタケルの伝説の地に、なんだかそれらしい画像が見れますよ・・・、昭和23年の画像でも同じような地割りに見えますよ・・・、といってるのだ。
とうぜん、学術的な発掘・証明はこれからなのだ。

加えて言えば、「そんなものはありえん」、と明確に否定するほうもおかしい。
小川のほかに、否定できる学術的根拠があって言ってるのかい。
0227日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 20:22:17.07
キナイコシは最初からあらゆる可能性を否定して回るかわいそうな奴なんだよ。
0228日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 20:25:51.72
>>226
>否定できる学術的根拠

そこまで明確ではないが、既に発掘されている惣座遺跡が、この周辺の中心的な
拠点集落であることは明らか

そこから程遠からぬところに、新たな国の中心があると考えるのは不自然

グーグルで見えると一生懸命に主張しているが、Yahoo!Mapでは見えないんだよ
グーグルは道を強調した画像になっているから、意味ありげに見えやすいってのもある

そして、環濠を横切る川がある環濠集落というのは、これまで発掘例から考えても
環濠の役割から考えても、あると思うほうが不思議というのもまぎれもない事実だ

あとは、村おこしベースでがんばってくれww
0229日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 20:57:23.71
>>228
嘉瀬川西の川上地区(創建は古い):
・国分寺(創建不明・出土の瓦から佐賀県内では最古級)、
・国分尼寺、
・伝おぎ国庁
・大願寺
・五社大明神(春日大明神)

嘉瀬川東の総座・久池井・尼寺地区(この地の国分寺・肥前国庁の創建は明らかに新しい)
・国分寺(聖武天皇の8世紀中ごろ創建)、
・国分尼寺、
・肥前国庁
・野口の大願寺
・野口の妙見神社春日大明神

ある時期、手狭な川上から、広くて水も豊富な惣座一帯へ、一斉に(あるいは順次に)引っ越したのではないか。
0230日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 20:59:09.08
>>229
>国分寺(創建不明・出土の瓦から佐賀県内では最古級)

国分寺という時点で、律令国家になってからだろ?
それこそ、惣座遺跡の官衙の付属物だ
0231日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 21:04:08.62
>>228
ヤフーもみたけど、解像度が低くてどうにもならんな。
とはいえ、昭和23年の米軍の空中写真でも、現在と同じような「大環濠らしき」がうかがえる。
偶然にしては出木杉。これは重要なことと思う。
0232日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 21:17:59.32
>>230
出土の瓦は、年代の古い百済の瓦だそうだ。これからして、惣座・久池井の国分寺より明らかに古いとのこと。
(川上の国分寺と書いてあった気がするが、正確な記憶ではない。今、メモを見なおすと、もしかして、川上の大願寺と惣座の国分寺の比較だったかも。続報)
0233日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 21:29:46.79
>>230
>大願寺廃寺の造瓦を中心として創建年代については幾つかの説があって一定していない。
しかし、奈良時代の天平年間に創建された肥前国分寺よりもその創建がさかのぼることは、ほとんど疑う余地がなく、
県内に残存する最古の寺院跡の一つとして、その価値は高く評価されるものである。<

オリジナルは上の如し。
当方の記憶違いで、川上の大願寺と惣座地区の肥前国分寺の比較であった。失礼しました。
0234日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 21:33:23.40
嘉瀬川西側なら、ヨドヒメ神社を忘れちゃいけませんよ。

嘉瀬川東側の惣座遺跡に肥前国庁
国分寺、尼寺など
嘉瀬川西側の大願寺、廃寺、船山古墳
多くの中小古墳

大和町史によると肥前国風土記で
肥前国庁以前には川上に近い小城に
国府があったということです。
0235日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 21:35:14.69
尼寺のほうは春日小学校付近にあったらしいですね。
0236日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 21:39:26.95
関連データ:
肥前国庁
築成時期は、出土した須恵器、土師器、多量の瓦などから、8世紀前半と推定されている。

肥前国府
『肥前国風土記』には国府について記録がない。
『和名抄』には「乎岐国府」(おぎこくふ)とある。しかし、奈良時代には久池井に置かれていたことが明らかなので、乎岐から移転したと考えられる
0237日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 21:39:53.16
肥前国分寺は、久池井か尼寺地域と思われます。
惣座地域は高速道路ICあたりですね。
0238日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 21:57:58.23
あの辺りの地域割りは、惣座・久池井・尼寺と連なってるのか。複雑だね。
まとめて言うときは、どういえばいいのかなあ?

●土蜘蛛
○登場地:小城郡(をき)
○比定地:佐賀県小城(おぎ)市
 昔、この村に土蜘蛛がおり、堡(をき=砦)を作って隠れ、天皇の命に従わなかった。
日本武尊の巡幸時、全てこれを罰し滅ぼした。
よって小城郡と名付けた、とある郡名由来記。
0239日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:02:19.61
>>213
阿波の忌部も、讃岐の忌部も
祖神をたどると、高千穂天照に
行きますなあ。
忌部を重視したら、神武東征にも
繋がるよね?
宮崎の日南市に、
建設神社があり、忌部の祖神を
祀っているよ。
0240日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:12:28.66
>>206
比定地がデタラメだろ。
糸島半島北岸ー伊都=500里
早良〜那珂川 100里だよ。

関東でも、どこでも良いけどwww
計算は比定が違えば、否定の意味が無い。

記述された里程に合わせて、比定しろよ。
妄想化してる、阿波以上のアホ。
0241日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:19:10.85
>>211
>その旧嘉瀬川が流れ込んでいた入江なのです。

入り江と言えば入り江だけど、嘉瀬川が削って海になっているんじゃなくて、
筑後川が暴れ川で、運び込まれる土砂量が多いから、筑後川河口だけが先行して鳥肢状三角州として半島状に陸地化してたんだよ

ただそんな暴れ川の氾濫原は、稲作にも向かないし集落もできない

筑後平野は弥生末期に七万戸を容れられるような平野にはなっていない
0242日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:27:42.78
堡(をき=砦)
小城(をき)の郡
乎岐(おぎ)国府
小城(おぎ)郡
小城(おぎ)市

その昔、をきの郡(こおり)には砦があったってわけか。
0243日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:29:13.10
>>240
こいつもすげぇな

>比定地がデタラメだろ。

と他人に言いながら、これ
          ↓
>糸島半島北岸ー伊都=500里

糸島半島北岸が末盧国ってことか?
それとも糸島半島北岸が伊都国って言いたいのかどっちだ?

糸島半島北岸が末盧国なら、伊都国(三雲遺跡群)まで11キロ
これが500里なら1里=22メートルにしかならない
短里どころじゃないぞ

糸島半島北岸が伊都国というならその北東五百里の末盧国は海の上だな

どんな比定地だよw
0244日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:30:03.37
九州上陸後、2千里が女王の都であって
末羅国なんてどこでも良いけど、呼子や唐津は違うだろ。
そんな辺境に上陸する馬鹿は目的が違う。
焼き物買うのか?
そもそも、伊都まで船で行けるんだぞw
0245日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:31:13.02
>>240
>記述された里程に合わせて、比定しろよ。

古文書に合わせて現実をねじ曲げようとするのが、九州説あるあるだよな
魏志倭人伝には史料の限界があるんだよ

魏志倭人伝原理主義はいい加減にあきらめなよ
0246日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:34:33.56
>>243
読めてないもんは
比定すんじゃなくて、質問すりゃいいだろw

何がしたいんだ?
何を比定したいための比定だよ。
絡むな、くず。
0247日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:40:06.04
>>244
>そんな辺境に上陸する馬鹿は目的が違う。

その判断は正しい

伊都国に直接船で渡ってくるのでなければ、一大率が伊都国にいて臨津搜露するのが
意味が通らない

末盧国・唐津に上陸するのは、東南陸行五百里で佐賀平野(〜吉野ヶ里、米多郷(面土国?))へ
向かうのが目的のとき

その記録が伊都国への経路として間違って記載されている
0248日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:41:50.48
邪馬台国周辺国11番 呼邑国は佐賀県小城市
0249日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:42:24.89
>>246
>絡むな、くず

そこで論理的で具体的な反論ができずに、暴言でごまかすのも九州説あるある

絡んできたのはどっちだ?
まあ、今どき九州説寄りの立ち位置な時点でお察しってやつだなw
0250日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:49:54.68
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0251日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:50:08.53
>>247
唐津や呼子、上陸の理由は要らない。
伊都国には博多湾沿岸の港がある。
佐賀は無理筋。

奴国は東南百里で福岡平野、那珂川春日大野城周辺。
伊都は今宿〜早良
末羅は北西500里、糸島半島北岸しかない。
0252日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:50:11.59
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0253日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:50:31.46
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0254日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:50:56.05
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0255日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:51:20.00
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0256日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:51:41.40
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0257日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:52:05.29
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0258日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:52:25.84
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0259日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:52:41.12
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0260日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:53:01.13
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0261日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 22:53:18.28
>>32


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢字の金石文と龍信仰と亀卜と
渡来時に伝わった中国語の単語は?


で、中国江南地方から肥の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしなサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く考古立証しろよテメエは!
0262日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 23:07:12.25
昭和23年の航空写真に現在と同じ地割りがあったからどうした?
そんなところは全国至るところにあるぞ
0263日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 23:14:05.66
キナイコシが
「近年の開発により造成した台地の辺縁の道路がGoogleマップで強調されて見えている。
そんなところだろう」
みたいな言い方をするのを先回りしただけだろうね。
0264日本@名無史さん垢版2018/08/28(火) 23:20:39.82
トンデモって歴史学で一番重要な、時間の経過による変化を考慮できてないんだよな
八咫鏡ガー!三種の神器ガー!弥生の矛ガー!現代の地割りガー!
0265日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 00:15:19.05
>>263
「キナイコシ」さん、こんばんは(定型句)
今日もバカ丸出しですね!

>近年の開発により造成した台地の辺縁の道路

誰も言ってないのに、心の中の捏造の畿内説と日々戦っているんですね!
お薬増やしてもらった方がいいと思いますよw
0266日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 02:49:56.57
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という日本には存在しない石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石鋤や石犂に至っては、木製でさえ、永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0267日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 07:38:16.63
纏向学研究センターが
非常勤共同研究員制度を作るみたい
けしからんな
橿考OBの受け皿にならなきゃいいが
税金をなんと思ってるんだ (怒)
0268日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 07:38:51.50
桜井市はくだらん事してるな

公益法人桜井市文化財協会
桜井市埋蔵文化センター
桜井市纏向学研究センター

税金が投入されていることを忘れないで欲しい
0269日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 07:39:22.64
桜井市はくだらん事してるな

公益法人桜井市文化財協会
桜井市埋蔵文化センター
桜井市纏向学研究センター

税金が投入されていることを忘れないで欲しい
0270日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 07:39:51.85
纏向遺跡の復元は「桜井市埋蔵文化財センター」主導でやるべきだが
「桜井市纏向学研究センター」がシャシャリ出る
「桜井市纏向学研究センター」は近い将来閉鎖だろう・・きれいに整理する理屈付けはいくらでもできる
0271日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 07:40:37.51
畿内説は
学問を
銭にする生業
だから平気で嘘をつく
0272日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 07:43:52.18
「桜井市埋蔵文化財センター」 VS  「桜井市纏向学研究センター」

仁義なき戦いってか
0273日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 07:49:07.79
桜井市の予算を食いつぶすのは勝手だが、教科書に嘘をねじ込まないでほしい。
0274日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 07:50:58.75
纏向遺跡は
「邪馬台国と絡めないと銭にならない」という事だよ

「邪馬台国・卑弥呼」の名前を出さなければ、単なる遺跡だから
0275日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 10:09:17.60
>>274
国や市から金を引き出す為の方便だな
纏向遺跡が「邪馬台国・卑弥呼」と無関係なのは分かり切ってるんだけどな。
0276日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 10:16:12.77
>>247
一大率は壱岐対馬、松浦に居てその辺の諸国を検察していたんですよ?
臨津搜露したのは呼子付近
末盧国・呼子に上陸し、東南陸行五百里で糸島へです。
0277日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 10:29:34.06
先代旧事本紀の鴨や物部の系図、その他の各豪族の系図からも、
10代崇神から神武まで遡ること5〜6世代です。
10代崇神が4世紀初頭から前半に決まりつつあるので、
一世代間20年として、神武と卑弥呼の時代は同じです。

葛城の高天原最有力地(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に、
径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り、奴婢が埋葬されてます。
https://goo.gl/maps/mUCBTCK9QrH2


ヒミコ=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛の時代に葛城で土蜘蛛を征したのは神武です。
0278日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 10:39:23.20
>>277
>10代崇神が4世紀初頭から前半に決まりつつあるので

嘘八百w
0279日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 10:53:11.30
>>278

15代応神天皇が文献史的にも考古学的にも390年元年がほぼ決まり。
ならば神功皇后を入れて6代遡る崇神の時代が4世紀前半であることも確定。
0280日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 11:15:00.26
>>279
考古学的にどんな証拠があるんだよw
文献なんて解釈が山ほどあるから都合がいいものだけ取れば年代なんてどうにでもなるよ。
0281日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 11:24:31.54
>>276
漢委奴国王の金印を得た奴國から、
伊都國が、ちからをつけたものの
山門あたりの勢力がちからをつけた。
で、一大率を呼子あたりに置いて、
伊都國に睨みをきかせたんだろう。
ほかの紹介された國は、卑などの
字が、幹部につくのは、女王國にわりと
内政までうけいれてる形やわな。
0282日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 11:34:39.64
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0283日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 11:53:26.54
>>281
>一大率を呼子あたりに置いて

呼子を伊都国とする理由はどこにもない

以上

九州説は、今日も妄想が全開お盛んですね!
0284日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 11:55:25.03
>>282
沿海が、出雲あたりで、先に発展し、
国造りにて、全国に展開。
鉄を使えたね。
で、水稲栽培を持った渡来人も
渡りやすい山東省から半島へわたり、
半島から、南下もしているだろう。
一方で、鳥船にて、直接きている
集団も熊本や筑紫あたりには、
いるだろう。
鳥船へ、帆先や舳先に、鳥が止まり、
先導する意味合いをみているからね。
それを表した古墳らは、熊本や
筑紫にあり、明らかに
違う思想が入ってきている。
これから、古事記の天の鳥船にも
繋がる。
0285日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 12:01:47.34
鳥船塚古墳などもその典型だよね。
0286日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 12:04:28.62
熊大の「船に乗る馬」リポジトリは、
中国古代船の鳥船とのつながりが、
違う思想が入ってきたのを
説明していますよ。
0287日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 12:06:44.81
>>283
妄想から連想に、そして、想像して、
史実と照らし合わせる作業だがな。
それが古代ロマンやない。
0288日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 12:15:10.15
>>280
>考古学的にどんな証拠があるんだよw

応神陵外堤の須恵器が最新編年で5世紀如頭あたり。


>文献なんて解釈が山ほどあるから都合がいいものだけ取れば年代なんてどうにでもなるよ。

倉西裕子『東アジアの古代文化112号』 の「『日本書紀』における紀年の編成をめぐる一考察」
【応神元年が390年である理由】

● 応神3年条において百済国の阿花王 (392-405)の即位を伝えているが、
『東国通鑑』『三国史記・百済本紀』は、阿花王の即位を392年と記しており、
逆算して求められる 応神元年は390年である。

● 応神8年条文註に百済国の王子直支の来日 を伝えている。
『東国通鑑』『百済本紀』は、直支王(405-420)を人質として遣わした年代を397年と記しており、
逆算して求められ得 る応神元年は390年となる。

● 応神16年条に「是歳百済阿花王薨」と所 見されるが、
『百済本紀』の伝える阿花王の崩年は405年であることから、
逆算して求められ得る応神元年は390年である。

● 巻九神功紀後半の紀年が四世紀後半に位置 づけられることは、
実証主義の立場からは否めない。従って、次巻の応神紀の応神元年は、
四世紀末にくる。応神元年条の正文にある「庚寅」の年 は
『日本書紀』の編年においては西暦270年に当たるが、
史実としては390年に設定されていると認識される。」
0289日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 12:16:41.86
× 5世紀如頭

○ 5世紀初頭
0290日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 12:24:26.47
>>284
>水稲栽培を持った渡来人も 渡りやすい山東省から半島へわたり、半島から、
>南下もしているだろう。一方で、鳥船にて、直接きている集団も熊本や
>筑紫あたりには、いるだろう。



で、これら脳内妄想の考古立証は?


.
0291日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 12:34:41.80
>>290
帯方郡を作る際は、渡海していってるよね?
公孫氏を滅ぼすため。すでに、
その頃から、それ以前には、そのルートがあり、比較的に穏やかな海だからできるんやろ?
裏を返せば、
倭面土(倭回土で伊都という説もあるが)の
王なども、
洛陽やらに行った道でもあるをやないかな。
最短距離。
0292日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 12:45:55.95
>>291
おまえ考古立証の意味も分からねえゴミカスか?

考古立証とは、証拠遺跡とそこから出土した生活土器や金属器や石器や農具や住居痕などの証拠生活文物でそれを立証する事だぞ。



で、290で抜粋した部分の考古立証は?


.
0293日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 13:07:32.00
九州説ですが、神武と卑弥呼は近い年代だと思います。
神武らが倭国の王都である伊都を去った後に伊都で即位した女王が卑弥呼でしょう。
0294日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 13:16:56.06
>神武らが倭国の王都である伊都を去った後に伊都で即位した女王が卑弥呼でしょう。

その「伊都で即位した女王」の名前をスカッと答えてみようか。
もちろんそんな人はいないのだが…
0295日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 13:41:45.69
>>292

魏志倭人伝より前に
倭人について、
曹操一族の墓にかいているやん。
同盟結ぶかどうか。

ならなんで、曹家と倭人が
親しくなり、曹家が、禅譲したあと
パタリと止んでしまう可能性も
みえるやないか。


元宝坑1号墓32号字砖上有
“仓天已死”四字。
74号字砖“……有倭人以时盟不(否)”7字。
“倭”为古代日本国名。
东汉灵帝时,正值倭国大乱,
字砖反映结盟结束的事实。
墓主为会稽郡曹君,
会稽郡是倭人通往中国的港口,
因此倭人与曹氏家族有密切关系。
曹操父曹嵩,灵帝时官大鸿胪,
掌四夷诸王,
谯城倭人可能通过他们内迁,
字砖亦可能是倭人手迹
0296日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 13:44:16.36
翻訳ソフトやらでは、
中国語の漢字に隠された
文法を読み落とす可能性
あるから、注意すべきやな。
漢文読みとかでは、
「自」のもつ意味が、
どれほど重要かは、わからない。
0297日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 13:56:51.97
陳寿さんが、会稽をかいているでしょ。
魏志倭人伝に。なぜ会稽かも、
これでわかるでしょ。つながるから。
で、重要なのは、この会稽と
帯方郡(東側)の距離にも言及してる。
0298日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 14:13:20.00
自郡至女王國 萬二千餘里
と魏志倭人伝がかいていて、
そのあとのすぐ文に、
色々倭人の紋身とか説明して、

計其道里 當在會稽東治之東

をかいているよな。
この其れが意味しているのは?
計算して、其れと言ってる。

つまりは、前段の女王國の万二千里なんよ。
帯方郡から女王國まで、万二千里。

で、ここも會稽から帯方郡の東まで、
万二千里と言ってるんよ。やないと、
其は、先にきている文書のなかにあるから、
其れは、當在會稽東治之東を意味してない。

つまり万二千里は、
會稽から帯方郡も同じ距離やね!
と言ってるんよ。
0299日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 14:16:07.51
実際、グーグルでみたら、わかるよ。
同じ距離。万二千里。
距離など、間違えた感じでは、
書かんよ。
はっきり陳寿さんは、わかってるよ。
場所を。
しかも曹家に対しても、律儀に會稽を
わざわざかいている。
0300日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 14:21:16.68
會稽から万二千里が、帯方郡から女王國の
万二千里などは、中国でも
最近、散見される意見だわな。
海外の視点からも、考察は、
ふえてきているよな。
0301日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 14:55:46.00
こと当在の当は、まさにとかやなく、
古代の当の意味でみないと。
当は、相当する。イコール。のいみやから。
あとの並列した都市間が、意味をなしてくる。
0302日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 15:32:56.70
>>298
刺青の下り >>4
計其道里當在會稽東治之東
まで、
は、はっきり言って、陳寿の文章壊れてます。
出展には、倭人の奏上 太伯の後 が有ったものを
魏はその呉との決戦を控えてるのに、この倭人と同盟するのか?
という思惑で、削除しています。 
この、修正は陳寿がしたか?も判りませんが、文章はおかしい。

倭の刺青の理由が、太伯の会稽に起因するとして、
会稽と倭は洛陽と会稽ほども離れている、と言う原文が予想できますが、
前段の 自郡至女王國 萬二千餘里 を受けて、刺青の理由は太伯の会稽だとしても
会稽から倭は、洛陽から会稽の一万2千里を東にするほどはなれてる、もあると思います。

この文、普通に修正ができませんので、
以前は、倭人の刺青の道理は、会稽に由来する、として ぶん投げました。
これ、古代漢語の 東 が 起源始まり を意味するというゴリ押しが有ります。

いま思いついたw 洛陽=東京=東治 って出例文無いかな?
0303日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 16:20:33.37
>>296
アタシには中国語はさっぱり読めませんので
レスが気になったら、日本語に訳すと漢字が出るので
そっから、出展の漢文を想定してます が、なんか違います。
ググると、中国語ページで余計パニくるw

中文から漢文訳のソフトは有料であるようですが そこまでは・・・
良い方法を知ってる方、教えてください m(,_,)m
0304日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 17:21:03.66
会稽は、
中国では、会計と同じと言ってる。
しかし、会には、
hui.gui.kuaiの3つの発音があり、
どの発音かまで、調べている。
huiでおちついているから、会合などの
意味の会計だろうと判断している。
kuaiにて、読むと日本の会計から来た意味に
なる。
0305日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 17:22:55.62
>>303
>良い方法を知ってる方、教えてください m(,_,)m

よい方法 つ「教科書を読んで勉強する」
それだけで大丈夫だよ

その気で勉強しさえすればいい

「精読百遍意自ずから通ず」
0306日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 17:31:38.14
会稽(会合の中心場所的な意味)は、
今も昔も、
中国の一大シルク集積地だ。
魏志倭人伝の中に、養蚕があるが、
日本をもシルクロードのはじまりと
すれば、ここに来ていただろう。
その時に、曹家と倭人が
出会っていたんだろう。
だからこそ、同盟すべきかとか、
倭国が、
呉側についていくのかなどを、
魏としては、さらに考えたんだろう。

中国では、洛陽に都を置く、王朝を
正統な黄河文明として、格上げしているから、
漢なきあとは、魏になるわな。
0307日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 17:33:56.00
ふーん、会稽は絹の生産地なのか。
そう言えば卑弥呼も自国の錦を献上していたっけ。
その辺りからの文化の流入は間違い無いんだな。
0308日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 18:16:02.64
>>306
よく考えたら、日本語で書いてるのに
漢文だけ中国語になってるっておかしいかもね?

中国人ってのは、経典とかも中文になるとそのまま意味わかるのかな?
鳩摩羅什や空海で学んでしまった門前の小僧のアタシには多分無理です。
ここじゃ、陳寿だけどw
0309日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 18:40:39.64
>>4 倭人の刺青のくだり無しで
自郡至女王國 萬二千餘里
の後
計其道里 當在 會稽東治 之東
だと
満二千里の概念の説明だよね。

まあ、刺青のくだりに 道里も方角も必要ない のは明らかだし
ここにこの 會稽から? 東治まで? の道里の説明文があることが変なんだけど、

説明が必要ってことは、この時に、里程概念 が
一様ではない ってことで、良いんじゃね?

写本 1100年位だっけ? に、キナイコシ? 
が、九州説に 判りにくいように 改竄した、に、一票。
やるじゃんwww キナイコシかっけぇ〜!
0310日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 18:43:03.97
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0311日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 18:55:34.68
石包丁は無視ですか。
0312日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 19:05:10.74
石包丁は耕作用農具ではありません。

収穫用農具です。

よろしいか。

馬鹿の人。
0313日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 19:07:31.23
>>309
万二千里の概念を
倭人の紋身のなかの文書に、
いれたのは、
陳寿さんは、
女王國が帯方郡にいくまでの万二千里も、
直接、鳥船で、今まで、會稽に来ていた倭人も
同じ万二千里だよと。説明しとるのかもね。
そこの鳥船は、想像だが、敢えて、
その文章の中に、ねじこんだ意味は、
以前からそこに、来ていたことを
意味し、今、新しく帯方郡というルートが、
出来上がった意味もこめてるんやないかな。
0314日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 19:27:55.92
>>310
寧波にある河姆渡遺跡ではないよね?
うるち40%長粒種60%だか、
紀元前5000年だからね。
0315日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 19:35:02.02
>>310
同時期の中国の水稲遺跡を
教えて欲しい。
南に行くほど、長粒種には
なるかとおもうが。
0316日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 19:53:33.05
古い遺跡だと、現在長粒種を作っている地域でも、短粒種だったりするよ
確認してみて
0317日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 21:29:07.74
>>316
具体的な遺跡名わかりますか?
中国の水稲遺跡。
調べてみます。
0318日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 21:52:08.12
>>312さん

貴方の論は正論です
しかし
「馬鹿の人」は止めましょうよ
0319日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 21:54:53.79
268日本@名無史さん2018/08/29(水) 07:38:51.50
桜井市はくだらん事してるな

公益法人桜井市文化財協会
桜井市埋蔵文化センター
桜井市纏向学研究センター

税金が投入されていることを忘れないで欲しい
0320日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 22:28:42.17
外基地の生保にも税金が投入されていることを忘れないで欲しい
0321日本@名無史さん垢版2018/08/29(水) 23:58:51.65
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0322日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 06:50:21.27
>>313
船の話のレス番わかんないけど
黄海渡るのは山東から遼東
でもなきゃ帆船では?

九州西岸ルートは済州島経由あるけど
倭の五王
0323日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 07:00:15.72
>>322
倭の五王時代でも帆船では?

縄文船とか日本海でも北回りと思うな。
薩摩が奄美に渡れりゃ何でもありか?
0324日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 07:08:56.96
274日本@名無史さん2018/08/29(水) 07:50:58.75>>275
纏向遺跡は
「邪馬台国と絡めないと銭にならない」という事だよ

「邪馬台国・卑弥呼」の名前を出さなければ、単なる遺跡だから



まったくその通り 纏向は単なる遺跡
0325日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 07:09:17.15
纏向で特筆すべきは
バジル ベニバナ花粉が出たこと
考古学でなく植物の歴史を深堀すべき
他は特筆すべき遺物は無い
0326日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 07:39:44.42
>>325
>他は特筆すべき遺物は無い


特筆すべき遺物は倭国(阿波)の遺跡だけ。  @阿波

「加茂宮ノ前遺跡」bQ
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡20棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲)  @阿波
0327日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 08:41:16.39
>>362
>石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として,,,


昔も今も、よく働いてるあわ、おっかれさん!
0328日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 09:05:44.75
>>325
染料として持ち込むには奈良じゃ絹や服飾には早そうだから生薬かな?

考古学であれば、300年直前辺りまでとして
247年には魏との外交は終わっていると考えるべきなんで
南韓とするにも、奈良同様でまだそんなに文明化してない訳だから
交易ベースとしての済州島とかのルートを追うべきだと思うね。

3百年以降だと、楽浪帯方の漢人は土着化しちゃうから
日本にも官僚クラスが渡来して有力氏族の軍師化してる可能性はあるね。

3百年以降まで下っちゃってる畿内遺跡って、247年までの邪馬台国より
楽浪帯方の渡来人の存在をもっと考慮した方が良くないのかね?
0329日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 09:45:37.29
狗奴国(熊本緑川以南の御船町等等)の「狗」は、渡来の新羅種族を示す
伊蘇志(糸島市)の「蘇」は、渡来の高麗種族を示す
邪馬台国(熊本山鹿市臺)の「邪」は、渡来の百済種族を示す
0330日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 09:58:13.21
>>328
>染料として持ち込むには奈良じゃ絹や服飾には早そうだから生薬かな?

それがな、桜井茶臼山古墳から大量に出た銅鏡破片に、絹の断片がついているものがあって、
それが、倭文と見られるとされている

染物の現物が出てるよ

九州説の人は、古墳からの遺物は認めないって言い張るんだけどねw
0331日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 10:00:53.62
>>329
漢字一字に多くを求めるのはたぶん無意味

表音文字として使われているものはなおさら
0332日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 10:02:58.05
300年以降の渡来人と弥生文化形成期の渡来人?
とは 全然性格が違うでしょ。

和邇義士や五経博士や百済皇太子が日本人の民族形成に影響したら
日本人はみんな天皇の子ってのも信じるわw

豊葦原中国 創っておいて 三韓征伐行くとか
日本人の発想と違うんじゃないの? 
旧楽浪官僚の入れ知恵に 一票w

馬と一緒に連れてきた高句麗牧童は
戸籍管理されて武蔵高麗に移住させられてるよ。
400年とかの初期には、積み石墓の有力者になったのもいるけど。
0333日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 10:39:30.33
>>330
邪馬台国と魏の外交は247年で終ってる説 なんだけど

313年以降になると、楽浪漢人の渡来が影響するから
邪馬台国交易が有った、247年以前の古墳の話にしてね、って言ってんだよ。
畿内説なら、倭人伝が247年で終ってる理由は存在しえなくないか?

その遺物が、畿内勢力による、250年〜350年の九州征伐での略奪ではなく
邪馬台国が魏と交易してた事実が、確認可能な
250年以前に、中国交易で入手したものと言う立証は、欲しいね。

本州の銅鐸原料は来てんだから、中国王朝由来の何かは出てんでしょ?
金印とまでは言わんけど。 中國から略奪って、倭人は北方馬賊かい?
馬ないのにw・・・

九州説が古墳の遺物は認めないってのも、良く知らないけど
古墳は認めないって、邪馬台国が250年以前迄だし、そういうことなのかな?
0334日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 10:58:09.60
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0335日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 11:14:11.65
>>331
現代日本人はひどくぬるいが
漢字の根源は表意文字、
一字一字に深い意味が込められている。陳寿の場合は、ことさらに。
0336日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 11:17:58.84
古代支那系炊飯器で炊いた米が倭人の口に合ったとは考えられない
なぜなら現代支那人が日本の炊飯器を大量買いしたことは記憶に新しい
しかも古代支那系炊飯器は犬もまるごと調理できるし
倭人には合わない代物だった
0338日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 12:01:08.26
>>336
古代日本で弥生土器と一緒に水田耕作が広まった
っていうのも、弥生渡来人っていう意味不明の人種拡散説のこじつけで
日本人の白米信仰に便乗した眉唾ものって気がするけどね。
土人時代に人が海超えて移動する理由がわかんない。

縄文人なんぞ、何万年だろうが 
精米して米炊くより、粟稗木の実でウサギやタヌキくってりゃ
奴隷労働しなくても良いんじゃないかな?

米を税にして通貨的価値を持つのって、
封建社会? 武家の発生以降じゃないの?
資本の独占と暴力の政治で弥生化、原始共産制は崩壊したんじゃないのかな?

許せんな、始皇帝www 
日本に逃げるか? って、なるかよ?

脱北者で、日本人のDNAが変わるみたいな話
きゅうりの葉っぱが、どうたら・・・妖怪w↓
0339日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 12:19:08.85
>>338
>土人時代に人が海超えて移動する理由がわかんない。
未知の土地に何があるか知りたがるのがサピエンスの本能じゃないかね?
当然、縄文人や弥生人も海を越えて留学していたと考えられるよ
0340日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 12:29:43.30
現代文明と接触をしながら
敢えて土人生活する種族もいる
0341日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 13:03:45.29
>>338
「稲作を持った弥生人が朝鮮半島から渡来した」「朝鮮半島から弥生人が渡来して稲作をもたらした」
ってヤツだろ?

これらは60年前に考古学者ではなく、人類学者の金関丈夫の判断で下された考古学黎明期のミステイクなんだよ。

最古水田の人々は朝鮮土器を一切作らない人々なんだから、朝鮮半島から渡来した訳がないんだわ。

でも、稲作自体は朝鮮南部と一致するんで、稲作だけ朝鮮南部からパクってきただけの話なんだわ。

一方、縄文人骨とはさっぱり形質の異なる北方モンゴロイド形質の渡来系弥生人骨が
山陰から九州北部にかけて数千体出土してるのもまた事実なんだが、
彼らが朝鮮土器をメインで作っている痕跡遺構が全くないんだわ。

彼らが朝鮮半島から渡来したとは考えられんの。

弥生土器をたどっていくと、最初は九州北部ではなく、山陰あたりにたどり着く。

この最初の弥生土器と文様が一致する土器文化が同期する沿海州南西部にある。

そこから渡来してきたと考えるのが一番自然なんだわ。

そこから渡来してきて、朝鮮南部から稲作をパクった。

ただそれだけの話。 
0342日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 13:13:16.00
筑紫より出雲の方が古い勢力なわけか。
記紀そのままだな。
出雲に王権を譲らせて成立したのが筑紫の倭国だな。
0343日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 13:16:43.24
>>339
海外で遺伝子変化を伴う集団的な移民が発生する という観点だと
教育が有ってアメリカ大陸開拓時代程度の情報化社会の存在が必要な気がする。
文字が無いことは判ってるわけで、何か特殊な共有幻想が有ったのかな?
~ ⌒。チャポン!! 徐福禁止↓

で、
韓伝で、帯方郡が滅ぼした 韓王朝が箕氏の王朝という、
先住民の存在を感じない、古代韓半島では南北から これ が起こってた様子。 
ではあるが、現代への継続は無いらしい?

のに、弥生人、半島由来説はあった。 そうか、全員で来たのかwww 
行って来い?
;`O´)o/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄〜で、(:D)┼─┤
0344日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 13:25:58.56
>>342
だから、山門から山に登り、高千穂。太平洋側へ下ると神武さんお舟での場所。
日向に伊勢神宮より早い
大御神社(日向のお伊勢さん。文化庁からの
依頼で屋根裏みて、新事実発覚)
山門側は、舟に、馬を乗せてきた
壁画がある。馬を載せるのは、
それだけ舟も軍船並がきたんだろ。鳥船か
福船かな。
山鹿、玉名、うきは、日田など、阿蘇を
囲む連山だな。邪馬台を当て字にしたのかは、
わからないが、馬は、阿蘇近辺に、
いたんだろう。
ちなみに、日向国は、奈良時代には、
馬ならヒムカの駒といわれていた。
0345日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 13:27:39.01
日向の国は景行天皇の命名なので、天孫降臨や伊邪那岐の禊の筑紫の日向は福岡県の方ですよ。
0346日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 13:30:08.19
そんな事よりも神殺しというのは有名な話なの?
0347日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 13:49:28.38
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0348日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 16:11:08.78
糸島は夕日に向いてる土地だろ
0349日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 16:13:30.11
>>327
>昔も今も、よく働いてるあわ、おっかれさん!


仕事、世話しようか?  @阿波
0350日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 16:18:24.54
>>348
日の出の方に高祖宮があります。
0351日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 16:20:02.61
>>348
>糸島は夕日に向いてる土地だろ

よく、九州説の人が「日向峠がー」と言っているけれど、
日向川は早良平野側の室見川の支流だし、日向という地名は東側の
福岡平野側で使われていた地名のようだね

その意味で、伊都国と日向の縁はそれほどないとも言える
0352日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 16:25:51.83
>>351
>その意味で、伊都国と日向の縁はそれほどないとも言える


「それほどない」どころか、まったく話題に挙げる価値もない。  @阿波
0353日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 16:37:53.64
>>352
阿波さんは、天孫族ですか?
阿は、くまと呼ぶし、くまは、
かみのいみもかくれてるしね。
0354日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 16:49:16.65
>>353
>阿波さんは、天孫族ですか?


「天孫族」 なにそれ? 忌部一族のこと?  何が言いたいのか意味不明。  @阿波
0355日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 16:51:55.03
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0356日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 17:04:12.51
朝鮮半島の稲作が箕氏朝鮮(BC11〜)によって伝わった
と言うのは、一応、史記、書には、伝説記録はある。
菜畑にBC900伝来 なら、もう少し前でも良いけど、箕氏年はだいたいだから桶。

箕氏国家は遼東だが、半島自体は国家的に未開なので
自衛の環濠集落形成で開拓者の農業集落は営まれる。
保存食量の収穫は私有財産の形成を意味するので
家族型、竪穴住居などの集落を形成したと思われる。

これが、温暖適地に南下してきて日本開拓に渡来伝搬するか? と言うと
未開地域に陸路で伝搬したものが、軍国以前に漁業船以上のものを作る理由は無いので
結局は、行き来のあった、米を見た縄文海人によって写し取られたと考える。
菜畑はこれでしょ。 でも、なんで、これ以前に弥生渡来人が必要なの?

その後、米の筑紫平野部拡散で、開墾地や水利、収穫食物の周辺からの防衛が必要となれば
半島同様、環濠集落の形成が必要になるし、領主国家も拡大するはず。
菜畑からこの間 縄文人巻き込んで? 4〜5百年あるとして、なんで渡来人必要なの?

日々の、いただきますに、古代縄文の共産制祭祀が不要になれば
土器は、農業社会向きの弥生式に変わるのは判るんだけど、
遠賀川式広まったとして、でも、なんで日本に渡来人必要なの?

DNA解析で、必要なくても来ちゃうから渡来人、
でも、百済新羅傀儡にした高句麗戦争で強制連行でも、良いんだけど、
南北からの、渡来人植民地として生まれた、古代韓半島国家に配慮したのかな? 
日本の学者って 優しいんだねw 
大日本帝国が古代韓目指して独立させた、
大韓帝国の 現韓国と違うし、要らんけど。
妖怪 釣れた気がしたけど・・・
もう一回?? ;`O´)o/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄〜で、(:D)┼
0357日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 17:39:20.67
朝鮮半島に稲作が伝わったのはBC20C頃。

漢江下流域あたりからBC20C頃の稲籾が何カ所も
出土している。
0358日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 18:35:12.57
そうだね。 日本の稲も5〜6千年前だし・・・ まけるなよ!
0359日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 18:46:47.12
>>358



で、その5〜6千年前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?


.
0360日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 19:04:48.00
纏向遺跡の復元は「桜井市埋蔵文化財センター」主導でやるべきだが
「桜井市纏向学研究センター」がシャシャリ出る
「桜井市纏向学研究センター」は近い将来閉鎖だろう・・きれいに整理する理屈付けはいくらでもできる
0361日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 19:44:15.45
>>359
こっちかよ? 合わせただけ のマヌケのたわごとだよwww

何これ?イラネ!(((; ̄Θ ̄)__% ̄ ̄~~~~~~〜('A`)#))彡
0363日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 20:42:17.58
弥生人という新しい渡来人がやってきたのは、人類学的にほぼ確かなんだと思うけどね。
弥生人抜きでも稲作伝来は説明できるかもしれないが、稲作とほぼ同時に弥生人がやって来ていたら、彼らが持ち込んだと思うのが普通だろ?
0364日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 21:52:32.31
>>363
金関丈夫が引っかかたくらいだからね。

縄文人骨と渡来系弥生人骨的は鼻骨の高さが違いすぎるのよ。
0365日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 22:01:53.85
それに縄文人骨と弥生人骨では眼窩の形も歯の形質も違いすぎるのよ。

四角形と円形、スンダドントとシノドントだぜ。

とても食生活の変化だけで縄文人骨が弥生人骨に進化したとは思えない。

おまけに中国土器はもちろん、朝鮮土器もほとんど作らない。

彼らはどこから来たのか?
0366日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 22:52:19.02
インド
0368日本@名無史さん垢版2018/08/30(木) 23:46:01.90
和泉を出立した神功皇后は三韓征伐の後、忍熊皇子とかヤマト政権の中枢を倒すからな

初期のヤマト政権は半島を味方にして、畿内を征伐したのかな?

刀が流れてきたと謂れの残る布留
フルって大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では流れるという意味になる

鎮魂歌のアチメも朝鮮語で朝日を意味する

山陰と朝鮮半島、東海はどういう関係にあったんだろうか?
0369日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 00:29:06.51
>>367
両方。弥生の方が多い
0370日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 11:04:39.97
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0373日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 18:30:14.34
>>372
>どこもネタ切れ

まあ、本来的に既に決着しているからなぁ
九州説(特に伊都国説)の主張も、全部きっちり根拠つきで否定されちゃったし
0374日本@名無史さん垢版2018/08/31(金) 19:48:50.36
>>373
魏による 私譯2回 での
從郡至倭 の 説明内容

帯方郡から 韓西岸 歴韓国 が 4千里 
半島南岸 を 東へ 3千里で 狗邪韓國
対馬へ渡海千里 壱岐へ千里 九州北岸へ千里 
で、合計一万里で、九州上陸

東南 陸行 五百里 到伊都國
郡使 往來 常所駐 だが、伊都には、検閲の港がある。

自郡至女王國 萬二千餘里
であるが、この行程は 万500里である。
不彌國 と 奴国 は プラス 各百里

>>2 247年 張政の旅はこれで終わる。 用件が済んだからである。
卑弥呼の王宮には行っていないし、今 使譯 所通三十國 も 意味不明。

>>3 238年 梯儁 の行程
南至 投馬國 水行二十日 
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

梯儁 は 皇帝の命で 女王の王宮に金印紫綬を届けている。
女王所属国は列記する21国で、7万戸 
この九州の小国には、には漢名が無いので、梯儁は邪馬壹國 と命名した。

自郡至女王國 萬二千餘里 である。
算数 4000+3000+1000×3+(九州上陸から女王宮)=12000

これが倭人伝 行程部分。 
♪ドン来いスレ、テンプレで、まったり、解決済みである。
0375日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 20:15:42.02
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0376日本@名無史さん垢版2018/09/01(土) 20:23:38.78
>>372
>どこもネタ切れ

まあ、本来的に既に決着しているからなぁ
九州説(特に伊都国説)の主張が、全部きっちり根拠つきで証明されちゃったし
0378日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:24:19.90
>>376
ザラコクもよくやってるけど、オリジナリティのないウソ塗れのオウム返しって
九州説の性癖なの?

やってて楽しい?
惨めにならないのかね?
0379日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 07:36:56.95
畿内説が訳の分からんブーメランを打ち続けているからだよ。
0380日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 11:41:45.53
伊都クズが方々でのトンデモ発言の間違いを認めることができなくて荒らすしかなくなってるんだよ
0381日本@名無史さん垢版2018/09/02(日) 15:03:46.44
>>379
>畿内説が訳の分からんブーメラン

九州説のいうことはいつも具体性がない、雰囲気だけの印象操作
「訳の分からんブーメラン」だと思うなら、おかしいところを具体的に指摘して
論破すればいいだろうが!

畿内説はいつも九州説の詭弁や矛盾を、いちいち具体的に否定してるぞ!ww
0382日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 09:49:37.33
↑畿内説 対 九州説 の構図ってのは
絶望的に、むなしいな。

それ嫌って、九州説と畿内説の板、分けようとしてんじゃないのか?
♪ドン来いスレだから 良いけど、全然、ドン と 来ないwww 

やってて楽しい?
惨めにならないのかね?
0384日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 13:52:28.85
>>383
良くわからないが、単刀直入に歴史としては

畿内説も九州説も 結局のところ 247年以降も
邪馬台国が日本の王朝であったことを前提に
これを証明したいわけだけど

250年〜300年以降の日本の朝鮮半島進出が、
邪馬台国であるとするのは 韓伝によって、
魏は 246年韓王朝を滅ぼし、以降王朝は無くし
臣智等の任命による 統治下に置いているわけだから、

倭王遣使大夫 伊聲耆掖邪拘 率善中郎將印綬
倭女王遣大夫 都市牛利 率善校尉 銀印綬
倭女王遣大夫 難升米 率善中郎將 銀印綬

の居る、邪馬台国による征伐や平定であるとするのは
難しくなるのではないかな?

313年、晋は漢四郡撤退。これは高句麗の台頭によるものとされるが
350年に建国する百済、新羅に対する 日本の後援 が有ったことは
朝貢、皇太子を人質にとったり、広開土王碑等で明らかなのではないか。

『大日本帝国』 はこの 『古代韓』 諸国の建国 にちなんで
『大韓帝国』 という 友邦、王朝国家の独立 を支援したのである。

邪馬台国 畿内説対九州説 論争は、ただの妖怪↓ のような存在では?
0385日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 14:32:25.31
>>384
>畿内説も九州説も 結局のところ 247年以降も
>邪馬台国が日本の王朝であったことを前提に
>これを証明したいわけだけど

ちと不明なので、補ってみたいのだが
(畿内説においては、畿内邪馬台国が万世一系の日本の王朝であり、)
(九州説においては、九州邪馬台国が万世一系の日本の王朝であった)ことを前提に、(それぞれこれを(邪馬台国の所在地を)証明したいわけだけど)
・・・これででいいのかな

とすれば、それ以外の第三の邪馬台国の所在もありうるのではないか、
つまり、魏の時代には、邪馬台国は九州に在って金印・銀印を拝したが、
およそ300年頃〜には、畿内へ移って素知らぬ顔。
残された倭国旧勢力(倭奴国)が、畿内との対抗上、半島との交流を深めた。
(いうなれば、万世二系、或は万世二枚舌系であった、という考え方もあるのではと思う)
0386日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 16:27:03.65
それは違うな。
九州説の一部は、大陸半島と紀元前から長らく交流しいた倭国は九州のことで、大和にいたのはその分家という立場を取っている。
これは万世一系とは相入れない。
0387日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 16:47:56.41
>>385
九州東遷説と言うのが、邪馬台国論争を飯の種にしてしまった学者の
大倭王卑弥呼様細胞は有りますw 的で、せめてもの良心のようにも思えるけれど、

これは、畿内説でも九州説でも 考古学の側で、地理、時系列的不可能性があって
一番マヌケな、芋を引くことに、既になっている、のではないかな?

この手の間違いが許容される理由としては、記紀信仰によって
200年代の九州が既に統一された朝廷系王朝の中にある、と言う前提だけど

東夷伝 倭人伝を読めば、九州平定以前(または当時)の話だし、陳寿によって
帯方郡が倭王とした卑弥呼は、帯方郡から一万二千里の九州島の北部2千里の領土で
7万戸 21国が共立した 周旋五千里ほどの小国 の王でした。

大倭王ではありません。 三国志では、これと魏の同盟は糞の役にも立ってません。
247年で、相手にするのも辞めました。 って、書かれてます。

ま、魏や晋にとって、韓や高句麗は絶域で
背後の倭には、2回の使譯をやっとのことで送って 九州島探検報告があるだけ。
であって、日本はこれによって、
400年、外交デビューまでの富国強兵の時間稼ぎができたんだけどね^^v
0388日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 16:55:29.57
>>387
>周旋五千里ほどの小国 の王でした。

九州説の短里脳だなw

魏晋里以外の里程はないよ
周旋五千里は、決して小国ではない

これも何度も書いていることだけれど、
周旋は一周したりもとの所に戻ったりしない

全長2000キロの国土を持つ大国だよ
幅は知らないけどw
0389日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 16:56:05.65
畿内日本国の視点ではそうだろう。
倭による漢への朝貢ははるか紀元前から続いていたことを忘れてはいけない。
九州北部が詐称したというより、そもそも倭とは九州北部のことなのだ。

記紀との整合性は、鴨厨氏の主張通りに、神武と卑弥呼がほぼ同年代と考えると解決してしまう。
神武は大和に移ってしばらくは在郷勢力の1つに過ぎず、列島どころか畿内さえ代表できなかったわけだし。
0390日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 16:57:06.90
>>388
>魏晋里以外の里程はないよ
>周旋五千里は、決して小国ではない

そんな大きな国があったという証拠はない。
0391日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 17:18:38.05
>>388
倭人伝における里程参照

韓 方可4千里
対馬海峡 千里×3
対馬−壱岐 間は港の特定は不要だろ。
平均でも良いしw

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

中國では、これらを含む大国が 倭 と認識しているが

九州島北部 2千里にある21国を全部巡っても
せいぜい5千里程度の小国
これが、邪馬台国
0392日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 17:21:23.15
>>389

夢物語はそれぐらいにしとき。  もうそんな夢物語が通用する時代じゃないよ。  @阿波
0393日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 17:32:40.20
倭国は九州、
その九州の邪馬台国の卑弥呼の義理の孫あたりの神武ら一党が、
集団就職みたいなノリで大和へ出稼ぎに行って大成功した。
残された九州倭国も、すったもんだの挙句、やがては大倭(大和)の太宰の率の下に入ることになった。
0394日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 17:34:11.92
>>393

やけを起こしちゃイカンぜよ。  @阿波
0395日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 17:40:26.67
>>391
>中國では、これらを含む大国が 倭 と認識しているが

あー、それはちがうのではないか。
九州の女王30国までは「倭人」で人間扱い、しかしそのあとに書かれているのは「みな倭種」で人間以下。
・女王國東渡海千餘里 復有國「皆倭種」
・又有侏儒國在
・又有裸國 黒齒國
0396日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 17:40:27.24
卑弥呼の大叔父あたりが神武だろう。
三雲の家系と平原の家系が少し違うとキナイコシが騒いでいるからね。
魏志倭人伝からも、前の男王と卑弥呼が直系っぽくないし。
0397日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 17:41:09.19
>>395
つまち本州四国が倭種だよね。
0398日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 18:27:28.26
>>397
はい、そうですね、そうですね。
陳寿さんのストーリーは、たいへんわかりやすいですね。
0399日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 18:39:28.83
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0400日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 20:38:47.85
>>389
>神武と卑弥呼がほぼ同年代と考えると解決してしまう。

系図研究の第一人者は、神武は崇神の五世代前くらい、としているよ
つまり、欠史八代の間には何回か兄弟相続(場合によっては従兄弟相続)が
あったことになる

崇神が卑弥呼と同時代というのは、認めてもいいだろう
つまり、神武は卑弥呼の五世代前くらい
0401日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 20:41:26.61
応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。

​平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。

・25代平均  応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年  11,28年
・28代平均  応神天皇390年〜42代文武天皇没707年  11,32年
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
・33代平均  応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年  11,33年
・35代平均  応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年  11,17年

11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、

「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。

11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。

神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。
0402日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 20:51:00.96
>>390
>そんな大きな国があったという証拠はない。

証拠がないも何も、魏晋里しか知らない陳寿さんが周旋五千里と書いているんだから、
陳寿さんの認識では、約二千キロの連なりを持つ洲島の国が倭国なんだよ

人口も、奴国と投馬国と邪馬台国だけで、十四万余戸もあるんだから大国だろう

三国志で倭国とともに金印、親魏大月氏王とされた、大月氏国の戸数は
三国志にはないが、後漢書で「戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人。」と書かれている
それと比べても、戸数十四万余戸以上の倭国は、大国と認識していいだろ
0403日本@名無史さん垢版2018/09/05(水) 20:51:54.53
>>401
そのコピペは却下
取っている区間が独立ではないから、統計としてほぼ意味を持たない
0405日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 09:12:10.35
>>395
中国人の倭人の認識が、人非人である 
と言うのはある意味その通り。

東夷伝序文
其後 高句麗背叛 又遣偏師 致討窮追 極遠踰 烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭
東臨大海 長老說有異面之人 近日之所出
東臨大海 つまり、大陸の東にある倭=倭人伝のいう九州島の東の倭種の国
は、長老說有異面之人 の住むところ、未知の国、謎の国 なのである。 

倭人伝冒頭の 倭人在 帶方東南 大海之中 
は、この倭国全体

今使譯 所通三十國 從郡至倭 
で、説明した行程は、朝鮮半島の南の九州島にある倭人国である。

循海岸水行歴韓国 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 又南渡一海千餘里 至一大國 又渡一海千餘里 至末盧國
で、九州上陸まで 一万里
女王の付属国は21国で 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
で、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
これで、里程に疑義が生じるとか、ちゃんと読む気が無いだけ、では?
0406日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 09:34:33.57
「帶方東南大海之中依山島為國邑」
「?在海中洲島之上」

これらが指しているのは別のもの
0407日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 09:53:11.62
<佐賀郡椅寺>(いでら、椅は漢音・呉音ともにイ)
先に述べたように、
佐賀川上の五社大明神を中心とする一区画(約250m×125m)に、大願寺廃寺跡という遺跡がある。
この寺跡からは、665年築城の佐賀/福岡・基肄城と同はんの百済系瓦が出土していることから、
建設には亡命百済人集団が関与していたようである。
またその規模及び地理的関係等から見て、
倭人伝に云う、「末蘆国、東南陸行五百里、到伊都国」の官衙跡地に相当すると考えられる。

しかし付近一帯の現地名は大願寺、小隈、山田、川上などであり、伊都を伺わせるものは見つかっていなかった。
ところがその後、「大願寺」に関して調べるうち、
千葉県で出土した梵鐘(現・歴博所管)に「佐賀郡椅寺」(イ寺)とあり、
佐賀県や佐賀市では、これがこの大願寺の古名ではないかと推定しているらしい。
で、この古名の「椅(イ)」であるが、どことなく伊都国の「伊(イ)」を連想させるものではある・・・、
0408日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 11:50:01.67
>>407
>で、この古名の「椅(イ)」であるが、どことなく伊都国の「伊(イ)」を連想させるものではある・・・、

式内社 阿波國美馬郡 「天椅立神社」
ちなみに全国で、そのものずばり「天椅立」神社という名の式内社は、ここだけである。
「日本一社 式内社 阿波國美馬郡 天椅立神社」の御祭神は、伊邪那岐命 伊邪那美命 である。  @阿波
0409日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 12:48:28.56
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0410日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 12:51:13.86
【邪馬台国 行程に齟齬が生じる原因】
>>2 >>3 の間の段落を読み取っていないからである。
|∩`Д´) / '⌒☆ ぼぉ〜っと、生きてんじゃネェ〜よ

>>2 は 247年 塞曹掾史 張政 の行程
張政は 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 によって
245年の 黄幢 檄 の告喩の為に倭人船に便乗で査察に来た。

狗邪韓國、對海國、一大國、末盧國、伊都國、奴国、不彌國
これらは倭人船寄港地等の地名であり、その間を里程で示している。

副官卑奴母離は倭人船にも同乗しており、雇った案内人である。
奴国は 奴国大夫 難升米の領地 
不彌國は帰国船の出港地の可能性が高い。
張政の旅、役目はこれで終る。女王の墓は見たが、王宮には行っていない。
郡から一万五百里、最大プラス100里である。
巳百支國大夫 伊聲耆掖邪拘 の船で帰国。 送政等還因詣臺

>>3 は 240年 建中校尉 梯儁 の行程
梯儁は 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 の為、皇帝の命で魏の軍船で来た。
寄港地等決まっていない幕営行軍であり、地名里程は無く行軍日程を記した。
水行二十日投馬國 水行十日陸行一月で邪馬壹國 女王之所都 である。
投馬國、邪馬壹國 は 国名である。

印綬の女王国の範囲は、列記21国で全てであり、其南有 狗奴國 不屬女王 
女王の王宮まで訪れており、自郡至女王國 萬二千餘里 である。
この21国の国名を、女王宮を見た梯儁が、漢字名の邪馬壹國と名付けた。
この国が、参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 である。
0412日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 18:58:58.41
>>411
感想文、乙。 読者一名 orz 
過疎スレ、チラ裏に、ご意見、ご批判、ありがとうございます。

倭人伝が陳寿の空想って事? じゃ、ないよね?
0413日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:34:50.36
>>412
それじゃ張政は、
邪馬台国にいってないのかい?
0414日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:36:20.91
張政は卑弥呼の墓域=平原遺跡1号+2号を囲む共通周濠で囲まれた墓域
を巡ってるぞい
0416日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 09:02:17.91
張政の行程
『末羅港』に上陸、倭人船なので詣中國の際には持衰を置く。
出港にも潮待ちがあるから、これを見ることのできる場所。
芥屋浜、芥屋大門が潮見所とし、帰国時には祭祀がある。

『伊都』南東5百里。 今宿から福岡平野西麓に山城を築く。
糸島は王墓の聖地。張政は、これを通過し、卑弥呼の墓を見ている。

張政は伊都の一大率に駐留させられている。
今宿付近に検閲の港が有るのに、500里を歩かされている。
一大率は張政を歓迎していない。壹與は13歳、後見の居る傀儡王である。
南国境にあった奴婢千人の卑弥呼の砦は、紛争で落城しているのではないか。
21国も分裂の可能性は高いが、卑弥呼の墓はでかいので勝ち組についているのだろう。

伊都にて 政等以檄告喩壹與 奴国で 難升米 為檄告喩
これで、張政の用件は終わり、査察報告として >>6
使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之常治 伊都國於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
である。

倭人伝結語 壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
に、皇帝のお土産は無い。 むしろ、国交自体が終わっている。

掖邪拘等二十人は、亡命して、263年、陳寿の仕えた蜀を滅ぼす三国志の将軍にw
あるいは、四郡に帰り後の新羅王になったのかもしれない。←空想で作文ならコレ!
魏も戦国武将だが、邪馬台国の不安定ぶりも同様である。 安定王権とは言えない。
0418日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 12:38:25.36
>>6 【一大率について】 |∩`Д´) / '⌒☆ 
使 大倭監之 自女王國以北 特置一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

・(使) は 女王時代に伊都の一大率を見た 使譯 張政 以外にはない。
・(大倭) 中華思想に小日本は有っても 大倭 の表現は変。 
 女王国が九州の小国だったこと、に対して東の倭種の国を含む 大倭 を想定したもの。
・(自女王国以北) 以北は女王国全体そのものなので、
 これは、以南には、一大卒が無いということ 南部は平定以前、を言っている。
・(諸國畏憚之) 諸国は女王属国21国を意味する。
・(於國中有如刺史) 刺史は地方領主の上位にある中央官僚、軍事権を持つ将軍である。
 一大卒は、唯一最高権力 の 進駐軍司令官 を意味する。 後の国造だろう。
 この時、邪馬台国は、既に後の大和朝廷の支配下に入っている。
・(刺史) 陳寿の出身蜀漢の劉備も 荊州刺史の系譜 豫州刺史から皇帝位に着いた。
 313年楽浪帯方を追った高句麗は350年代に征東大将軍 営州刺史 楽浪公に就く。
 倭人伝解釈では 地域王の上位である 刺史 を 恣意的に過少評価 するものが多い。

王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書 賜遺之物詣女王 不得差錯

・(王) これは遣使の実績として 卑弥呼 である。
・(郡使倭國) 2回しかないが、皇帝の使者梯儁の賜遺之物を検閲したら戦争になる。
・(皆臨津捜露傳送文書 賜遺之物詣女王) 検閲される女王には既に国王としての実権が無い。

247年 張政のこの査察報告に拠って、魏と邪馬台国の国交は終わっている。
朝廷は最初から百済のような傀儡立国によって、中国外交をさせることもあるが
九州と畿内に関しては、考古学でこれ以降関係が濃厚になるのでこの間に平定したかと。 
卑弥呼の墓は大きいなら抵抗交戦したというより軍門に下ったと見る。
0419日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 12:50:07.26
百済の『松傾』と同じような名字の家があるでしょ、
実際は系統が違うのですか?と言ってる人いたんだけど

違うのかな?
0420日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 16:26:02.85
>>419
読者一名。orz ↑ 妖怪? わかんないけど・・・ ありがとねwww
0421日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 21:25:05.79
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0422氷の女王垢版2018/09/09(日) 19:26:15.08
反論募集中なんだけど・・・

言いたいだけ、の アラシ は呼ぶ。
何を言ってるか判らないと思うけど

これだけ吠えても
質問に回答? 

無いかな?
チラ裏の先生のみんな? 

阿波師匠や土器厨師匠じゃないよ?
別スレで ネw

で、っていう 
よ。
0423日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:29:13.90
どこの基地外なんだ、頭の病院に行け

邪馬台国だか何だか知らないけど(邪馬台国ではない?)、
家の話だと言っているんだよ、妹がいれば女王、姫になるでしょ
0424日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:34:46.28
うわぁ〜〜
土器厨、妖怪だったんかい?
読者、重複で一人減ったw
orz
0425日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:55:03.86
妖怪 にはむかつくから どんどん!
本当の歴史の話をしちゃうよ。

中共と誇大韓 どっち にする?

中狂なら、三国志で チベット、ウイグル、満州、台湾、朝鮮、
が、モンゴル帝国以前に、領土であるわけが無いという歴史?

韓は古代韓の話は東夷伝があるんであって、ホントの事知ってるよね?
これって、倭人伝の 読み方 だけなのかな? 

既存の倭人伝和訳の どこが嘘か質問ある?
0426日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:25:11.86
自己レスwww
中国が歴史を誇るとか 歴史を受け入れるというのは嘘。
韓国は歴史に このスレというか 邪馬台国時代 とかでは?
だと、参加自体、していないのではないかな?
漁労程度の舟でもなきゃ、難民が生き残れなそうな、未開だろ?
0427日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:46:42.66
日本語でおk
漢字を捨ててしまったために、いちいちスペースを入れて分かち書きしないと
文章が読めない言語があるらしいけれど
0428日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 19:34:45.52
>>427
>いちいちスペースを入れて分かち書きしないと文章が読めない言語があるらしい

それが、倭人伝であって 文節と改行と段落、これがテーマ。
誤読したいなら、段落無くして、文章がへボイとか誤写にスリャ良いだけだろwww
陳寿君は、ちゃんと書いてるみたいだぞ。

246の自己レスって? どこのことだ?
アタシはレスで書いたの、妖怪にw 趣味 アラシ釣りw
(*^_^;)_o/━━━━━━>゚アラシ≫彡 ~ ~ ~
ん? >>413 ? 新読者 キタぁ〜〜〜?

自分で質問して、自分で答えるの?
それ、ちら裏 必要なくネ? 

単純に倭人伝と言う、古代漢文の、アタシの読み方を示して
みんなに見てもらって、間違ってる部分を 批判してもらってるんだけど?
夏休みの宿題、\(^o^)/オワタ ありがとねw

現状で、まあ、アタシが間違ってないと、247年邪馬台国終了なんだけどね orz
邪馬台国って 247年で、\(^o^)/オワタ の?
0429日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:06:51.66
ヤマト国ってのは地名なんだから、終わったも終わらないもないだろうに
0430日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:43:57.11
地名は動く。
0431日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 21:25:23.55
>>429
邪馬台国と言う地名は、魏によって金印紫綬の為
女王所属の九州北部21国の地名を女王宮を初めて見た中国人
建中校尉梯儁 が漢字化した、人口7万戸の小国の、国名である。

陳寿は、卑弥呼が大倭国の女王では無かった事をちゃんと書いている。
終わった、は、妄想だった邪馬台国の国家主権、戦国武将である魏に対する
軍事協力の可能性が無いことによる 国交の無意味化と言うことである。
0432日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 21:42:17.01
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0433日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:25:02.09
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

大倭国の王都である邪馬台国は九州北部にあり、7万戸の大国であった。
0434日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 10:29:57.43
>>431
>人口7万戸の小国の、国名である。

七万戸は大国だよ
東夷伝韓条でも大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶と書かれている
倭国の中の一国(一地域)で七万戸あれば、十分な大国だろう
0435日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 20:48:30.96
>>434
倭人伝って、三国志の話なんだよ。 たった7万w の国だよ。 
まあ、2〜3婦なら、戸数で×10人の家族だろけど。 
弥生、最盛期の九州だよ。

247年の張政の檄告諭が船団だったら九州は今でも日本じゃないと思うね。
まあ、奴国が帯方郡にくみして、韓クーデターの半島平定したら
壱与が中国貴族で、九州が中国属国として、大和朝廷と対峙できたかもしれない。

いうなれば、九州は高句麗と一緒なんだよ。
アタシは247年以降の朝廷の中国外交は凄すぎだと思う。
縄文人ってのは、最古の海神だし、土人じゃないね。
むしろ、渡来人は強制連行された奴隷だろ?
0436日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 22:30:21.98
>>433
誤 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
正 楽浪郡の国境は、その国(倭国)から一万二千里である。
0438日本@名無史さん垢版2018/09/13(木) 07:00:08.98
>>436
同じことだよ。
それどころか、その訳だと意味がぼけてしまう。
0440日本@名無史さん垢版2018/09/13(木) 07:57:52.17
>>438
同じじゃないよ

「倭国」は倭王を王と認める範囲全体
「倭国」まで萬二千里は、実測値ではなく概数ということになる
東京から北海道まで900キロというのと同じ

「ヤマト国」大倭王のいる場所の地名で意味が異なる

原文は
「其」大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去「其」國萬二千里
去「其」西北界拘邪韓國七千餘里

「その(其)」が3つ連続するが、指すものはすべて同じじゃないと意味が通らないが
1つ目と3つ目の「その(其)」は明確に「倭(国)」
2つ目だけ「ヤマト国」と読むのは誤読
0441日本@名無史さん垢版2018/09/13(木) 10:30:56.96
国境まで7千里と書いて、その国まで一万二千里とあれば、王都までに決まっている。
東京から北海道までなら、普通は新宿都庁から札幌道庁までを示す。
適当に真ん中までなんてことはない。
0442日本@名無史さん垢版2018/09/13(木) 14:11:14.47
そうだね古文は省略が多い。そこを適切に補って読む能力識見はとてもだいじだ。

其(倭国)大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去 其(倭)國(の大倭王居を)萬二千里
0443日本@名無史さん垢版2018/09/13(木) 17:42:49.80
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0444日本@名無史さん垢版2018/09/13(木) 20:03:07.66
つまり大倭王のいた邪馬台国は帯方郡から一万二千里の九州北部だね。
0445日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 00:13:50.98
>>441
>国境まで7千里と書いて、その国まで一万二千里とあれば、王都までに決まっている。

決まってないよw そういう思い込みが九州説の支えw

国境まで7千里と書いても、国の大きさがあるのだから倭国までの距離が7千里とはならない
この「其国」は、魏志倭人伝の「女王国」に対応するもの

女王の都までとか邪馬台国までを萬二千里とした史書はない

九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと

魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」

邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも 何度も教えている

漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを 続けている訳だ

隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを 意味している

隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、 『古云』が付いている訳だ

この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが 明らかになった時点で無理なんだよ
0446日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 00:25:36.22
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前には木骨泥墻が登場してすでに土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

3500年前の商周代よりも前の王朝から宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、すでに瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

日本には縄文弥生を通して、これら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0447日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 01:20:09.44
長々と詭弁を書き連ねるキナイコシ
典型的な詐欺
0448日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 01:23:36.84
わざわざ国境まで七千里、女王のところまで一万二千里と書くことで、大国であることを示しているんだよ。
一万二千里が概算だと?
千里単位できちんと示しているのに。
文献を無視しないと畿内説は成り立たないもんな。
それでも畿内には届かないのだけれどね。
0449日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 07:29:34.53
>>448
>一万二千里が概算だと?

概算じゃないよ
東方之極が萬二千里で、それの合わせて数字を置いてるだけ
地の果てからの朝貢という符牒にすぎず、実際の地理とは無関係

>千里単位できちんと示しているのに。

千里単位って時点で、ちゃんと計った数値じゃないんだよ
白髪三千丈の国で、千の単位はでかい数字を意味するって以上の意味はほぼない

>文献を無視しないと畿内説は成り立たないもんな。

九州説は短里を創造するなど、「解釈のふりをした捏造」の上に成り立っているw
0450日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 09:18:47.93
朝鮮半島南岸まで七千里だと、対馬海峡が三千里で、一万二千里で九州北部だから、邪馬台国は九州北部だな。
そんなアクロバット的な解釈は必要ない。
0451日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 10:08:18.07
>>450
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波
0452日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 10:46:25.96
>>450
>朝鮮半島南岸まで七千里だと、対馬海峡が三千里で、

これが明らかに、一万里に合わせた数字だろ?
机上の数字との比例関係を言っても無意味だよ

実際、伊都国ー奴国間と末蘆国ー伊都国間で、1里の長さが4倍異なる
魏志倭人伝の里と、現実の距離の間に比例関係などはないよ

短里は単なる捏造
0453日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 10:52:33.28
>>452
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波
0454日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 10:57:01.98
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0456日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 11:45:31.92
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所

帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q

水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km

おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2
0457日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 11:47:53.92
>>45
いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波
0458日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 12:40:49.39
>>456
このパズル厨も論破されたゴミをしつこく貼ってるな
こいつは三雲や博多の遺跡をどう考えてるんかな
遺跡のことなど考えたこともないんだろうけど
0459日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 13:59:00.61
>>455
>ゴールが北九州と認識したうえで割り振った比例関係だね

ゴールを北部九州だと決め付けてしまっているのは、陳寿ではなく九州説の脳内妄想
陳寿は北部九州よりはるか南方を、倭国だと認識してるよ

計其道里、當在會稽、東冶之東と書いてあるとおり
0462日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 15:17:45.17
>>461
現代の地図見なくとも陳コトブキは
計其道里、當在會稽、東冶之東と書いてるのだが?
0463日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 15:19:30.83
陳寿はそう思ってたということだね、だから何
実際もそうじゃないだろ
0464日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 17:10:31.43
>>459
>計其道里、當在會稽、東冶之東と書いてあるとおり

報告した人間は短里、報告を受けた人間は長里だったんだよ。
だから陳寿は、九州が実際よりも大きくずっと南だと思い込んでいた。
0465日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 17:11:49.58
そもそも畿内はあり得ないし、魏志倭人伝に何ら根拠もない。
九州の中でどこであったかを議論すればよい。
0466日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 17:17:16.90
>>465
>魏志倭人伝に何ら根拠もない。

邪馬台国も無いのかな?  なら、このスレも必要なし。


>九州の中でどこであったかを議論すればよい。

「其山有丹」で九州は即アウト!  @阿波
0467日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 18:05:05.99
>>464
>報告した人間は短里

これが、とことん現実を無視した暴論なんだよ
当時、短里を使っていた人、短里を使う理由のある人が「どこにもいない」

公孫氏はもともと、後漢の漢人で漢尺の度量衡以外を使う理由がない
建忠校尉の梯儁も、塞曹掾史の張政も魏の役人で、魏尺の度量衡以外を知らない

短里がどこから湧いて出るんだ?

単に、三国志を書く時に、晋の高祖・司馬懿の功績(公孫氏を滅ぼしたから東夷が朝貢に来た)を
大仰にするために、遠くから来たと見せかけるために、旅程を長く盛った

それだけのことなんだよ

その盛った数字を現実の距離と換算すると、盛ってある分短くなって、それを短里だと言い張っている人がいるだけ
盛った数字だから、区間ごとにばらばらな値になる
実測地ではなく、机上で作った数字なのは明白

帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里

九州に上陸してからの二区間で、4倍違うw
0468日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 18:17:47.24
>>467
九州上陸後、
誤った道里で計算したら、当然誤った結果になる。
正しい道里はこうだ。
末廬国(唐津)ー伊都国(佐賀川上)    37km/500里=74m/1里
伊都国(佐賀川上)ー奴国(佐賀市)   7.5km/100里=75m/1里
0469日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 18:22:09.55
>>468

いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波
0470日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 18:35:22.84
>>467
頭の中で屁理屈こね回しても無駄
0471日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 19:12:06.95
>>468
正解
0473日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 19:49:56.56
>>472

その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろうと何度言えばw  @阿波

 
0474日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:00:03.51
>>472
佐賀川上の正しさは、里数が証明してるだろww
0475日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:03:35.51
>>474

いくら里程を論じても
倭国(阿波)で決着済みだから、無・意・味  @阿波
0476日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:06:17.46
佐賀川上は卑弥呼ではなく壹與の都だと思うな。
0477日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:18:27.83
佐賀川上は伊都国。
ただし、そこに台与が都していたか、そうでなかったかは知らぬ、、、
0478日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:22:53.80
>>477

その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろうと何度言えばw  @阿波
0479日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:25:22.73
>>477
>佐賀川上は伊都国。

佐賀川上には伊都国に見合う弥生後期集落遺跡がないと何度言えばw  @阿波
0480日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:36:14.00
>>479
伊都国には、帯方郡の駐在所や一大率の治所もあった。
掘っ立て小屋の集落遺跡なんぞより、はるかに重要なのは官衙の跡だ。
0481日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:43:04.38
>>480
>伊都国には、帯方郡の駐在所や一大率の治所もあった。

佐賀川上には伊都国に見合う「官衙の跡」がないと何度言えばw  @阿波
0482日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:47:22.74
>>481
佐賀川上のことなんぞ心配するより、泡の官衙跡地を探し出して示せ、、、
0483日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 20:52:53.29
>>482
>佐賀川上のことなんぞ心配するより、泡の官衙跡地を探し出して示せ、、、

「泡」は伊都国じゃないからwww  @阿波
0484日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 21:04:22.86
>>480
>伊都国には、帯方郡の駐在所や一大率の治所もあった。

佐賀川上には伊都国に見合う「官衙の跡」がないと何度言えばw  @阿波
0485日本@名無史さん垢版2018/09/14(金) 23:29:14.68
>>477
淀姫神社が壹與の宮でしょう。
0486日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 07:58:48.84
>更に男王立つも 國中不服、更 相誅殺當時殺千餘人
>復、卑弥呼宗女壹與年十三もって王と為し、國中遂定

二度目の倭国大乱を治めた宗女壹與(台与)は、
記紀を参考にすれば、那の津志賀島を根城にした海神族豊玉彦の娘の豊玉姫であろうか、、、

倭人伝に台与の都は書かれていないが、
筑紫那国と肥国の政略結婚であったとすれば、
豊玉姫(台与)と佐賀川上(伊都国)に何らかの接点があったのかもしれないねえ
0487日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 08:20:37.07
>>486
>佐賀川上(伊都国)に何らかの接点があったのかもしれないねえ

佐賀川上には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波
0488日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 08:59:24.22
>>487
佐賀大和町の久池井にある肥前国庁は、8-10世紀のものであった。
その前の古い官衙は小城にあり、オギ国府と呼ばれてきた。
その「官衙の跡」は、佐賀川上にある。

整然とした小路に囲まれた区画は、南北およそ250m、東西は約125m、
久池井の肥前国庁の2倍の広さである。
その南北中心線は西に7度ほど傾いているが、これは後世に建てられた久池井の肥前国庁の中心線の傾きと同じである。
これが、末蘆国東南500里の、
伊都国時代の官衙の後を継いだオギ国府だったことは疑いない。
0489日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 10:03:31.30
>>486
>倭人伝に台与の都は書かれていないが、

普通は卑弥呼の都のヤマト国にそのままいたと考えればいいんじゃないの?
卑弥呼の宗女なんだし
0490日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 10:06:03.84
>>488
>伊都国時代の官衙の後を継いだオギ国府だったことは疑いない。

だったら、どうして伊都国なの?
「東南陸行五百里、到オギ国」って書かれてなきゃおかしくね?
0491日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 11:00:53.75
>>488
>佐賀大和町の久池井にある肥前国庁は、8-10世紀のものであった。
>その前の古い官衙は小城にあり、オギ国府と呼ばれてきた。
>その「官衙の跡」は、佐賀川上にある。

夢を語るだけ。 一切根拠を示せず、夢想するだけ。  @阿波
0492日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 11:13:03.91
>>490
>「東南陸行五百里、到オギ国」

オギというのは、もともと土塁石塁あるいは砦という意味だそうだ。
後世の人は其の塁の跡を見て、オギの国府というようになったらしい。
卑弥呼のころは、倭人伝の通り伊都国だったということだろう。
0493日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 11:22:43.04
>>492

佐賀川上には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波
0494日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 11:26:49.46
>>491
>夢を語るだけ。 一切根拠を示せず、夢想するだけ。@阿波

夢だけでなく、決定的な根拠があるぞ。
末蘆国は、今の長崎県の松浦市や伊万里市辺りを本拠とし、
唐津もエリヤの一部だったとみるべきだが、
その唐津から東南500里(500里×74m=37q)といえば、佐賀川上はピッタシの場所になる。これが最大の根拠である。

それに比べ、糸島を伊都国と仮定してきた九州王朝説・畿内大和説、
或は、筑豊を伊都国に見立ててきた阿波説・・・、、
これらこそ、論理的根拠に欠けていたと言わざるを得ない。。
0495日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 11:39:45.56
>>494
>末蘆国は、今の長崎県の松浦市や伊万里市辺りを本拠とし、

だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は半島へ帰る出航地なのよ。 入港の末盧国じゃないの!
最初っから間違い! やり直し!  @阿波
0496日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 11:42:54.14
>>494
>その唐津から東南500里(500里×74m=37q)といえば、佐賀川上はピッタシの場所になる。これが最大の根拠である。

一切考古学的根拠を示せず、夢を語るだけ。

佐賀川上には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波
0497日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 12:01:28.71
>>496
だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は、良い潮に乗って半島へ帰る出航地なのよ。
壱岐の島のくだりに書かれているように、
(島民は)南北に市櫂し・・・、だったというから、そこから南方向の入港好適地は唐津・末盧国で間違いない
0498日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 12:11:49.57
>>497
>だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は、良い潮に乗って半島へ帰る出航地なのよ。

だ・か・ら・「松浦市や伊万里市辺り」は、良い潮に乗って半島へ帰る出航地であって、
逆に、その潮に邪魔されて半島から帰りつけない所なのよ。  @阿波
0499日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 12:19:21.84
>>498
なんか怪しげな言いぶりになってきたな。
鳴門の渦潮を見て育ってきた割には、地理地勢と潮を知らずにカキコしてるな。
「松浦市や伊万里市辺り(及び呼子)」は、帰り着くには、たしかに潮が悪すぎる。
その点、唐津は行きかえりともに好適。とくに帰りは最高なのだ。
0500日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 12:23:17.43
>>499
>その点、唐津は行きかえりともに好適。とくに帰りは最高なのだ。

唐津は行きも帰りも不適。
唐津には伊都国に見合う「弥生後期集落遺跡」も「官衙の跡」もないと何度言えばw  @阿波
0501日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 12:26:43.60
>>499

唐津は福津・宗像の爪の垢でも煎じて飲んどきなはれ!  @阿波
0502日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 16:46:00.69
>>492
>オギというのは、もともと土塁石塁あるいは砦という意味だそうだ。
>後世の人は其の塁の跡を見て、オギの国府というようになったらしい。
>卑弥呼のころは、倭人伝の通り伊都国だったということだろう。

なら、現在、その辺に「イト」の地名がないのはどうして?
地名は言葉の化石という言い方もあるくらい、地名というのは長く保持される

人が同じ場所で暮らしている限り、世代を超えて地名は保持され続ける
親子で、地名が違ってたら話が通じないからね

ヤマトタケルの滅ぼされた川上梟師が川上にいた、という話なら、川上の地名が
現代まで残っているから分からんでもないが、イトの切れ端もないのに
伊都国だと言い張っても意味がない
0503日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 17:09:29.02
>>502
倭人伝に載っている国名30+1(狗奴国)のうち、
現代まで痕跡が残っていると思われる国はいくつかな?

対馬、壱岐、松浦、投馬(都万)、那の津の奴、サービスして邪馬嘉国の山鹿、
せいぜいこんなところだ。

消え去ったのは佐賀伊都国だけではない。25〜26は跡形もないのだ。
そのような状況の中で、
方角里数をクリヤーして、苦心の上たどり着いた有力候補の一つが佐賀川上というわけだ。
0504日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 17:14:49.39
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0505日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 17:52:31.61
>>503
>対馬、壱岐、松浦、投馬(都万)、那の津の奴、サービスして邪馬嘉国の山鹿、
>せいぜいこんなところだ。

邪馬嘉国ってなんだよww
それはさておき

對馬國  対馬
一大國  壱岐
末廬國  松浦(川)
伊都國  糸島(怡土)
奴國   那珂川 那の津
不彌國  ?宇美
投馬國  出雲 idumo ⇒ 投馬の上古音はdug-mag
邪馬臺國 大和国

と、不彌国以外は全部残ってるんだけれど?

余傍国は細かいことが分からないから、難しいけれど
斯馬國  志摩
已百支國 伊吹(五百城)
伊邪國  伊賀
都支國  土岐(多気?)
彌奴國  美濃
くらいまでは追える

地名は相当残るものだよ
0506日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 18:21:22.90
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0507日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 18:33:03.56
>>505
>伊都國  糸島(怡土)

まず、糸島(怡土)は方角と里数の面で論外。
それに糸島は、元はイソといっていたのを、仲哀天皇の御代にイソシと改名され、
その後に訛ってイトというようになったと、その来歴ははっきりしている。
イソをイトコクというのは言い過ぎだな。
0508日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 18:39:56.51
>>507
>まず、糸島(怡土)は方角と里数の面で論外。

魏志倭人伝の、方角と里数が絶対に正しいと思っている時点で論外
0509日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 18:48:15.63
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0510日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 19:01:37.41
>>507
>それに糸島は、元はイソといっていたのを、仲哀天皇の御代にイソシと改名され、
>その後に訛ってイトというようになったと、その来歴ははっきりしている。

絶対とは言わないが、地名説話は「まず地名ありき」で、そこにこじつけの来歴が後付されているだけのものだぞ
「「訛ってイトというようになった」ということは、「もともとの地名がイトだった」ってこと
0511日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 19:11:16.11
記紀における神功皇后の在位は201-269年で、卑弥呼と台与の推定在位とほぼ重なっている。
しかしご承知の通り、神功皇后(および仲哀天皇ら)については120年繰り上げたのではないかと言われている。
ここに何かしらの作為を感じる。
仲哀天皇のイソトテ(イトテ)逸話に関しても同じ。
やはり、記紀編纂時における朝廷の自作自演だったのではないか。、
0512日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 19:12:29.80
実在しないと書いてあるだろう、病気か何かなのか?
0513日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 19:32:11.00
>>507
神功皇后の地名の由来はわざわざ魏志倭人伝を上書きするために挿入されたんだよ。
0514日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 19:42:26.63
>>511
>神功皇后(および仲哀天皇ら)については120年繰り上げたのではないかと言われている。
>ここに何かしらの作為を感じる。

120年強引に繰り上げてるのは、実際の卑弥呼が非常に都合の悪い人物だったからです。
卑弥呼に問題があったのではない、彼女の100年前の人物・倭国王帥升に問題があったのです。

朝貢年
266年 台与        トヨ津
 ・
238年 卑弥呼       ヒメ(踏鞴五十鈴)
 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升     スサノオ

日本の歴史が後漢皇帝・安帝への7土下座から始まってしまいます。
だから時代を大きくずらした。

また神武東征紀が大げさに誇張創作されてることは誰の目にも明らか。
なぜか。
神武の時代が女王国の時代であったからです。
だから神武東征紀で猛々しい男王国を演出したのです。
0515日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 20:00:02.05
朝貢年
266年 台与        トヨ津
 ・
238年 卑弥呼       ヒメ(踏鞴五十鈴)
 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升     スサノオ

この人たちが住んだ場所はわかります。
高天原です。

そして魏志倭人伝の記述通り、径百余歩の塚があり、
周囲に奴婢が埋葬されてます。
https://goo.gl/maps/S7cg8tBKepw

埋葬された奴婢とは土蜘蛛です。
0516日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 21:00:59.11
吉野ヶ里遺跡を

自らの手で葬り去ったのが

九州説
0517日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 22:30:37.36
なぜか8世紀までしか歴史を遡れないのは、九州ではよくあること。
なぜだろうねえ。
0518日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 22:41:11.39
また転写保存
>>543
>いや、無知キウスが桜井茶臼山古墳で正始元年鏡が見つかってることを知らずに赤恥かいて
誤魔化そうとインターネットの公式ホームページを調べるとか変なこと言い出して
さらに恥かいただけだ<

こりゃ×だよ。
「是」の文字の一致だけで、△であるのか?も判らず、
神獣鏡であるのか?も判らずでは、
偶然の一致程度だ、という位のレベルだから。
0520日本@名無史さん垢版2018/09/15(土) 22:48:50.56
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0521日本@名無史さん垢版2018/09/16(日) 07:52:47.28
>>517
>なぜか8世紀までしか歴史を遡れないのは、九州ではよくあること。
>なぜだろうねえ。

畿内の大和朝廷の指示で8世紀に風土記をまとめたからだろ?
それまで自らの歴史をまとめようとしなかった田舎ってことだ
0522日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 06:10:05.37
>>517
>なぜか8世紀までしか歴史を遡れないのは、九州ではよくあること。
>なぜだろうねえ。

なぜだろうって後のヤマト王権大和朝廷が倭国の歴史を乗っ取り成りすまして消そうとしたからでしょ
文書だけじゃなく熊襲征伐だの景行行幸だの九州相手に大変だった訳でしょ
風土記や延喜式の成立だって誰が編纂したの
逆に言えば8世紀以前に歴史が遡れないってのは史書に出てくる倭国だった事にもなりかねないんじゃない
0523日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 07:00:05.17
中央集権体制の走狗たる景行・仲哀・神功が九州で活躍する記紀を編纂し、
原資料であった風土記の改ざんを強制し、その他史料は焚書した大和朝廷のせいだ
0524日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 07:13:02.16
それでも、皇祖の由縁だけは破棄できず、
僅かに高千穂における天上神話の形で、美化して書き残したってわけだ。
高千穂神話は(九州)倭国を再構築するための重要な手がかりなのさ。
0525日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 08:27:24.29
景行天皇から神功皇后までは
筑紫の神話だろうね。
0526日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 08:42:29.04
大和朝廷は、記紀の編纂に先立って各国に風土記の草稿提出を求め、
それをベースに万系一世の記紀を作り上げ、
さらに、
これに合致するよう、風土記を書き直させて完成させたのだそうだ。
注意深く読めば、景行〜神功記、及び各国風土記には筑紫倭国の原型が残されていると思う。
0528日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 09:14:38.35
>>525
>景行天皇から神功皇后までは
>筑紫の神話だろうね。

景行天皇はすでに人代なので、神話ではないけどね。
九州の倭王の一人なんだろう。
0529日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 09:16:19.64
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0530日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 10:19:13.30
>>527
ある国の風土記の編纂経過を細かく調べた専門家の解説による
(オレは古代の専門家でもなんでもない一般市民なので、それを聞いてなるほどと納得したわけ)
0531日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 10:42:26.03
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0532日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 11:20:47.91
>>530
>ある国の風土記の編纂経過を細かく調べた専門家の解説

その人がどういう意図でその調査を行ったのかってのが分からないとな
>>522>>523みたいな思想の持ち主だったら、推して知るべしってことだよw
0533日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 12:27:53.12
>>532
特定の思想の持主ってことはないだろな
ま、今に伝わる風土記の完本はそう多くない。しかるべき筋の話し。
0534日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 13:13:29.44
>>533
そういうこと書いてないで、誰だか分かるようにソースを示してって言ってるんだよ

でなければ、特定思想の思い込み文書の意図的な紹介と見られてもしょうがない
というかそうとしか見えないぞ

記紀は結構、天皇(大王)のダメなところ不名誉なところも記述してるし、
外部から大和入りした外来王朝であることを明記してる

九州王朝の記録を抹殺する必然性がないんだよ
0535日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 13:46:45.36
4世紀に畿内と金官伽耶に共通して出土する筒型銅器
倭韓どちらの生産品かは不明だが、当時の倭国と伽耶が密接な交流をしていたこと
また、北九州からはあまり出土していないことから、当時の倭国の中心は既に畿内だったことが想定できる
0536日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 15:03:26.34
>>534
この種のことに用心深いことは良いことだ
俺もそうとう警戒心が強いほうだしね。
ただ俺としては本人に断ったわけではないので、ここに書くのは差し控えよう
但しヒントを言えば、、完本風土記に関連してネット検索すれば、どこかに載っていると思うよ
0537日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 15:24:49.50
>>534
>外部から大和入りした外来王朝であることを明記してる

お、キナイコシも天皇家が筑紫から大和に進出したことを認めるようになったのか。
0538日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 15:26:11.99
>>535
>また、北九州からはあまり出土していないことから、当時の倭国の中心は既に畿内だったことが想定できる

筑紫倭国の目を盗んで貿易をする輩がいたんだな。
0539日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 15:33:46.32
>>536
>但しヒントを言えば、、完本風土記に関連してネット検索すれば、どこかに載っていると思うよ

「阿波国風土記」  @阿波

通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?

役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。

https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa
0540日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 15:41:30.27
畿内は密かに半島と通じていたのか。
0541日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:18:56.51
>>536
「真相解明のマニュアル」とかいう個人ブログか?

「いかにも、感」7がものすごくするんだが?
0542日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:22:58.95
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0543日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:24:25.41
>>537
>お、キナイコシも天皇家が筑紫から大和に進出したことを認めるようになったのか。

伊都クズ「キナイコシ」はこんなところにも出てくるのか
迷惑だから、駄論は書くなよ

神武が実在したとすれば、邪馬台国時代の100年以上前だな
今はなき東遷説スレから引用
「そう、だから東遷説にも何種類もあるのだよ
 東遷の時期の範囲を不明にすれば
 畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう
 つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
 遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
 早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう」

神武の実在を認める畿内説は、
神武の時期が邪馬台国より早すぎるごく普通の畿内説だよ
0544日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:33:21.12
>>541
そのマニュアルというのはたぶん違うな
アカデミックで格調高し
ま、今夜ゆっくり探しておくわ
0545日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 16:39:30.30
神武というのは、どこの国の人間なんだ
0546日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 19:42:29.43
>>542
遼東から楽浪帯方、日本に亡命っていう道筋は有るけど、これ、300年代だね。
遡れば57年の金印時にも、中国人の渡来は可能。 
というか、印綬は楽浪郡使が来てないかな?

で、っていうとw
帰らないから、後漢代の書に記録は無い。
遭難か、移民かは判らなくネw

邪馬台国が終わった、247年以降の外交に
相当切れる戦国軍司が居るのも、確実だけど、
これが、九州の卑弥呼の国じゃ無いのも確実だヨ。

九州の邪馬台国が大和朝廷に組したのが245〜7年だろ。
邪馬台国論争の渡来人は、弥生化時の縄文土人と関係ないんだけど?

そもそも、紀元前の楽浪に前漢文化が、ちゃんと入ってるかな?
朝鮮半島は実入りの少ない、収奪地だろ?

でも、土器拘泥よりは面白い GJ
0547日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 21:44:51.10
>>546
>九州の邪馬台国が大和朝廷に組したのが245〜7年だろ。
>邪馬台国論争の渡来人は、弥生化時の縄文土人と関係ないんだけど?

そのずっと前から、畿内様式の土器が奴国に入ってきてるんだけど?
0548日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 22:15:56.18
奴国は交易中心地だからね。
畿内からもなにか買いに来るやろ。

奴国から畿内には行っとらんけど
0549日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 22:22:38.40
九州の邪馬台国なんてないでしょ?

奴国も伊都国も邪馬台国じゃないんだから
奴国、伊都国を外したら、北部九州に栄えてるところはないよ
0550日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 22:28:50.73
>>546
この人、文献のみを珍解釈して247年に邪馬台国が滅んだというヘンテコな説を唱えてるんだっけ?
そのヘンテコ説だと邪馬台国はどこになるの?
0551日本@名無史さん垢版2018/09/17(月) 22:49:30.74
>>546
三雲遺跡を考えると、楽浪帯方人のステイはあったと思うが、定着まではないね。

まず当時の弥生人にとって、楽浪帯方人は未来技術を持った全くの未来人なんだよ。

登り窯で焼成した硬質の楽浪瓦質&陶質土器の生活土器と中国系金属器と金銀細工と
瓦屋根に土壁の中国系住居と鉄刃の中国系農具と馬車と牛車と漢服と木沓と傘と硯と
墨と筆と漢字の使用と龍信仰に亀卜・・・

我々の祖先はそのどれも自分たちの手で作る事も叶わず、弥生時代は終焉を迎えたのであった。
0552日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 05:30:04.22
>>538
沖ノ島から三角縁が出てくるからねぇ
時代は少し下るが裏ルートはあったんだろ
宇佐宗像は大和よりだし
0553日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 07:28:11.34
沖ノ島ルートは4世紀以降じゃなかったっけ
0554日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 07:46:48.05
畿内説はいつも卑弥呼より後の時代の話を持ち出して強引に畿内には持ち込もうとするよね。
0555日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 08:15:01.91
そのとおりだ
目新しいことは、全て3世紀のことだったー、といいたがるねえ。
卑弥呼といえばカネになる、と安直に反応するクセがついてるんじゃないの。
0556日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 09:57:43.29
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0557日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 11:22:29.88
そもそもなぜ国家的祭祀が畿内から遠く離れた宗像で行われていたのか。
その主催者が筑紫の王権なら納得がいくが、畿内政権だとすれば宗像をどのように位置付けていたのか。
少なくとも、筑紫を記紀にある通り皇室の祖地と考えていたのではないか。
0560日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 11:30:04.62
>>557
>少なくとも、筑紫を記紀にある通り皇室の祖地と考えていたのではないか。


もしそうであれば、倭国(阿波)に代わって「践祚大嘗祭」の主役をしているよ。  外野の出る幕ではない。  @阿波
0561日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 11:32:51.00
>>559
>渡海は命がけだったという証拠


末盧国が福津・宗像方面だったという証拠。  @阿波
0562日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 17:40:24.23
>>559
それなら瀬戸内海でも関門海峡でも良かったはず。
0564日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 18:02:09.94
海路の難所だからだよ。
0565日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 18:13:10.10
>>564
>海路の難所だからだよ。


末盧国が福津・宗像方面だったという証拠。  @阿波
0567日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 18:57:45.72
>>566
>難所と言っても危険度の次元が違う


末盧国が福津・宗像方面だったという証拠。  @阿波
0568日本@名無史さん垢版2018/09/18(火) 21:59:26.54
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0569日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 01:48:57.49
>>550 邪馬台国は何処か?
陳寿君の概念では

女王國 東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有 侏儒國 在其南 人長三四尺 
去 女王四千餘里 又有 裸國
黒齒國 在其東南 船行一年可至

参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里
と、言っている。

千里は 対馬〜壱岐で 間違いない 訳であるから
満二千里は、九州上陸後、2千里が卑弥呼の領土の境界である。

膨大な 船行一年可 の倭人国に対して、
ほんの 周旋可 五千餘里が 魏使が見た日本である。
洲㠀之上=九州 です。
0570日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 02:01:01.14
>>568

で、
渡来系弥生人ってのが、
沿海州南部から 渡来してきた? って、根拠と
そんな、間抜けなこと言ってる 詐欺学者の名前は?

すぐ言えよ、オマエ。
0571日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 02:19:50.08
>>557
鋭い指摘だと思うよ。
海路は 対馬海峡 より、干満差の大きい、
地元の海賊も、やりたい放題の大阪や阿波からの 関門海峡 の方が、相当困難だな。 
宗像〜沖ノ島航路、使うなら、奈良でも無くて 縄文海神の 出雲 だよ。
0572日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:21:33.86
沖ノ島→宗像航路は、応神天皇以降の新しいルート。
つまり、香春岳の銅・錫開発とセットであったことを意味する。
0573日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:22:31.33
誤訳です

女王國 東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有 侏儒國 在其南 人長三四尺 去 女王四千餘里 
又有 裸國 黒齒國 在其東南 船行一年可至 参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里

洲㠀之上=裸國 黒齒國 ですよ

倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑
って最初に言ってるでしょ
0574日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 08:07:59.12
>>569
>ほんの 周旋可 五千餘里が 魏使が見た日本である。

周旋は戻らない行きっぱなしの距離で、短里などはない
五千里というのは、中華の領域「方萬里」の半分にあたる距離
「ほんの」などという短い距離ではないよ

>洲㠀之上=九州 です。

ゆえに九州ではあり得ない
しかも意図的に「或絶或連」を抜かしている
間に海が挟まる(あるいは絶え)と書いてあるのだから、一かたまりの九州ではダメだよ
九州と四国、本州まで含んでこそ「或絶或連」の表現に合う
0575日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 08:31:39.28
>>574
横だが、
五千餘里は単純に一万二千里から
到其北岸狗邪韓國 七千餘里
を引いた五千のことだろう
陳寿は倭国へ至った距離を二度丁寧に説明してるね

つまり、或絶或連とは、距離の比率を考えたら、

對海國→一大國→九州のことだろうね
0576日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 09:04:08.67
その前の文章から推しはかると、
参問倭地のくだりは、「倭国」ではなく、
「倭地・わち=九州島」の広さについて述べているのだろう。

即ち広さについて、
すでに対馬は方可400里、壱岐は方可300里と述べているので、ともにのぞかれる。
残りの九州島、即ち筑紫から薩摩大隅までの大きさ(広さ)を示したかったのだが、
東西の長さが良くわからなかったので、(その南北は)周旋5000里であると、簡略して述べたのであろう。
実際に、筑紫から薩摩南端の開聞岳までは、およそ5000里である。
0577日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 09:05:46.20
>>569
>ほんの 周旋可 五千餘里が 魏使が見た日本である。

参問倭地ですから、倭人に聴いて集めた情報によるものです
可五千餘里と可も5000里に付いてますから推測による距離で実際に通ったルートに可は付きません
なのでこの5000里の倭地を周旋してません
周旋可五千餘里の倭地を魏使は見てはいません。
0578日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 09:10:17.39
>>576
周旋・・・ぐるぐる回るの意味ですから違います
周旋は必ずスタート地点に戻るとは限りませんが
ぐるぐる回るとのいみです
単に筑紫から薩摩大隅までの大きさを示す様な使用はされません。
0579日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 09:14:13.06
>>574
>周旋は戻らない行きっぱなしの距離で

全くの出鱈目な解釈です、嘘を言うのは止めましょう
周旋はぐるぐる回るってのが本来の意味です
戻る時もあれば戻らない行きっぱなしの場合もあります
終わりが何処かは文意から読み取る。
0581日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 09:55:22.79
周旋
1回転すると元に戻り
1回転半すると先に進む
最低1回転しないと周旋は使われない。
0582日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 10:07:04.10
周旋可五千餘里の場合5000里は一周5000里の意味である
一周半や二周の距離でないことは明白。
0583日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 10:22:36.49
参問倭地
倭人は里という距離単位を知らなくて、邪馬台国までの距離も日数でしか表せないのに
倭地全体の大きさを里で表せるわけないだろ
方万里の半分と陳寿が思っていた、あるいは創作しただけのこと
倭は蛮族だけど中国の半分の大きさもある、なかなかの大国という認識
0584日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 10:54:10.59
そもそも、
「倭人に聞いて書き留めた・・・」という前提こそ誤りだねえ。

倭人伝のもとになったのは、
206年頃、韓・倭の支配を目的に開設された帯方郡の役人が数年かけて実施した倭国・倭地現地調査の報告書だろう。
倭国に関する、風土・習俗・慣習などを記録した部分は、明らかに役人の文章の引き写しである。
それを裏付けるかの如く、佐賀川上の伊都国には、帯方郡の駐在所もあったと書いてある。
0585日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:01:42.84
(584の続き)
其風俗不淫、男子皆露紒、以木棉招頭。
其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如単被、穿其中央貫頭衣之。
種禾稲、紵麻、蚕桑緝績。出細紵、縑緜。
其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖同。

このようなきめ細かい記述は、正確詳細な実地調査に基づく、典型的な役人の文章である。
0586日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:14:57.04
>>583
倭人に直接5000里の距離を聞いたのではない
可が付いているから倭人の話から魏使が推測したのが5000里
0587日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:26:58.74
>>575
>五千餘里は単純に一万二千里から
>到其北岸狗邪韓國 七千餘里
>を引いた五千のことだろう

これは新しい意見だね。
でも確かに七千里の狗邪韓国からはもう倭国なので、その中をウロウロ五千里で九州の邪馬台国に着くことになるね。
0588日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:28:47.94
>>579
>終わりが何処かは文意から読み取る。

最後に博多奴国に戻ってますね。
本州に上陸したら博多に戻ってくるとは考えにくい。
残り五千里では畿内にたどり着かないし。
0589日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:43:34.68
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0590日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:02:10.36
>>586
そう
陳寿が推測した結果が中国の半分の大きさを持つ国だということ
旁国21ヶ国は遠すぎて距離もわからないのに
倭地全体の大きさなら倭人の話から精度の高い推測をできたなんてあり得るわけがない
0591日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:02:33.70
>>587
周旋して5000里だと1周半しないと先に進めない
1666里分を行ったり来たりしたことになるよ。
0592日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:03:08.67
>>587
参問倭地だから、陸地のことを指している。
とうぜんながら、海上距離は除外され、正味の陸上里数が5000里なのだよ。
0593日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:03:29.83
>>591
先に進まずに博多に戻ってきている。
多分、九州から出ることは想定していない。
0594日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:05:24.93
>>590
奴国から不弥国を経て旁国20か国を回り奴国に戻るのが5000里ですよ
倭地の北部九州一周です。
0595日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:08:35.50
>>587
>ウロウロ五千里

これは正しい訳ではないな
ぐるりと回る五千里
0596日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:12:47.85
参問倭地(わち)だから、
倭国のことでなくて、
倭の30国より広い範囲、つまり九州島全体のことを指している。
0597日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 14:40:49.34
倭地を九州だけだと言い張ることに根拠がない
九州の端から端まで知ってるのに関門海峡の先は未知の領域だとするのが非現実的すぎる
そもそも北部九州には本州から人が来ているのに、そんな地理観のゴリ押しは通用しない
0598日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 14:49:41.33
関門海峡から先は、「倭種の国、人長3-4尺」でかーるく片づけられているんだが、、、
0599日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 14:56:32.88
東の方にも倭種がいると書いてあるぞ。
ただ、代表しているのが九州の卑弥呼なら、それ以上は魏も詳しく知ろうとは思わないだろう。
0600日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 14:57:10.96
物証を無視して、
ぼくのつくったさいきょうのわちのはんい
とか間抜けなことやってんな
0601日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 15:17:53.67
魏志倭人伝を無視してぼくのかんがえたやまたいこくを夢想しても意味はない。
0602日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 15:48:27.14
>>601
>魏志倭人伝を無視して

九州説のやつらはこれを畿内説を中傷するとき必ずこれを言うけど、実際に倭人伝と不一致なのは方角のみ
一方、九州説は魏志倭人伝通りだと言い張るが、よくあるパターンは短里とかいう架空の距離単位を捏造したり、
ほとんど遺跡のない呼子を起点にして、末盧国から伊都国の方角違いを誤魔化したり
水行二十日、水行十日陸行一月はゆっくり歩けば九州に収まると小学生みたいな言い訳したり
倭人伝記載の15万戸(約70万人)は九州で十分だと根拠もなく言い張る
度量衡の捏造や物証・遺跡無視の強弁をしてるだけ
0603日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 15:55:02.63
>>602
この上すぐ30レスくらい読んだら?
0604日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 15:57:11.53
>>602
誤読に誤読を重ねているな。
70万人って何だよ。
畿内にだってそんなにいないくせに。
畿内説って本当にデタラメだな。
0607日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:00:11.18
>>606
君の頭の中だけ。
0608日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:05:39.44
物証を無視して、倭地は九州だけだなんて、いくら言い張っても通用しないんだよ
間抜けすぎる
0609日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:16:18.96
倭地が九州だけでなく本州も含むとなったら九州説は崩壊するから必死なんだろうけど
0610日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:38:04.57
魏志倭人伝を無視してまで本州が含まれるという根拠は?
0611日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:42:13.97
絹や鉄、最近は硯などの物証からも九州説は動かないな
何の物証も無い畿内説なんてナンセンス。
0612日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:22:52.69
>>587
単純明快だよね
色んな説があったが、ストンと当てはまる
これが一番可能性が高いと思ってるよ
0613日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:27:16.63
畿内説は嘘を嘘で塗り固めているだけで、魏志倭人伝にある邪馬台国とは全く関係ない妄想を作り上げている。
0614日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:49:06.55
>>573
又有 侏儒國 在其南 人長三四尺。
去 女王四千餘里、又有 裸國 黒齒國 在其東南 船行一年可至。参問倭地・・・

文は「可至」と「参問」の間で切れる。

1)「又有」〜「在其南」、2)「又有」〜「在其東南」というように
同じ構文が繰り返される。

動詞【有】と【在】が連用されると【有】の主語は隠蔽されて明示されず
【有】と【在】に挟まれた「侏儒國」や「裸國 黒齒國」と
いう未知のモノを強調しながら
「何処其処」が新情報として聞き手や読者に告げられる。
0616日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:59:17.07
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0617日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:46:36.58
>>616
もうそのコピペは見飽きたわ
0618日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:51:37.81
>>613
そんなこと言う証拠は?
0619日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:11:28.37
>>615
本州は、海の東の倭種として記載されているから。
0621日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:41:57.34
>>620
それ、君のことだよ。
0622日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:47:57.11
周旋とは
あまねくめぐるの意味で、
現代では一周という用法から始めに戻ることが想起されるが、あまねく、の意味を考慮すると必ずしも始めに戻らなくてもよい。

要するに記載された全てを巡ってみると、くらいの意味合いだ。
0624日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:04:13.98
>>623
この場合は(2)だな。
0625日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:06:08.70
>>622
>>623
「周旋」は、あまねくめぐるの意味ではにですね
くるくる回るや一周とかの意味ですね。
0626日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:15:13.98
(2)「周旋」には戦うとの意味もあるが
これは騎兵がお互いに相手の周りをくるくる回って戦ったから派生した意味です
三国志で張飛や関羽が敵の武将と一騎打ちでくるくる回る様な場面をイメージすると分かり安い。
0627訂正垢版2018/09/20(木) 21:16:28.44
>>622
>>623
「周旋」は、あまねくめぐるの意味ではないですね
くるくる回るや一周とかの意味ですね。
0628日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:17:16.51
>>622はやはり出鱈目でしたねw
0629日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:43:13.97
>>612
漢文が読める人からしたら100%有り得ないw
0630日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:45:33.06
>>619>>621
言い張るだけで追及したら何も根拠を示せず逆切れって九州説のいつものパターンか

文献と不一致
「女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種」
千餘里だから400km以上離れてないといけない
しかし関門海峡は500m程度だから1000倍違う
これを誤差とはとても言えない

物証と矛盾
・3世紀前半には本州から北部九州に人が移動している
ソース
『古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究』佐々木憲一
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

・北部九州と本州では交易がおこなわれている
ソース
鉄の分布(九州説がよく貼るこの分布図は九州説にブーメランw)
http://wajinden.com/wp-content/uploads/2015/06/d6ebdd34b54961ca884b40913806cf41.jpg

鏡の分布(論文のP381にある図)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf

本州と北部九州では人的交流もあり、流通ネットワークもできている
そんな状況で、本州を国名も知られてない倭種が住んでる地域と言い張るのは知識のなさを晒しているようなもの

それどころか、本州を倭国の一部の周辺地域とみなすだけでは済まない
3世紀前半は大和を中心とする前方後円墳体制が出来上がりつつあり、北部九州は畿内勢に飲み込まれようとしている時期
大和が倭国の中心で、北部九州は地方の一部にすぎない
0631日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:47:15.61
そりゃ神の視点での話だよ。

大地に住む人間が把握できると思ってるの?
0632日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:47:38.96
>>619>>621
>本州は、海の東の倭種として記載されているから。

これ文献に不一致で物証とも矛盾してるので、嘘八百ということが確定
倭地を九州だけと解釈するのも間違い
倭地は北海道東北を除く日本列島全体ということになる
0633日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:54:55.64
>>630>>632は妄想と現実の区別が付かなくなってるな
ソースもが胡散臭いwww

>大和が倭国の中心で、北部九州は地方の一部にすぎない

脳みそが完全に逝かれてるな。
南無
0634日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:11:33.97
>>633
今回も反論できなくなると得意の罵倒だな

山川の教科書から引用
「3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現する。 
(一部略) 
古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、
この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」

>ソースもが胡散臭いwww
どこがどう胡散臭い?
九州説に都合の悪い証拠はすべて胡散臭いとイチャモンか?

>>大和が倭国の中心で、北部九州は地方の一部にすぎない
>脳みそが完全に逝かれてるな。
「古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたこと」と教科書に書かれている
教科書を全否定しするなら、それなりの根拠、証拠を示したらどうだ?
0635日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:17:28.63
>>634
根拠の無い妄想を載せるなんて山川の教科書も落ちたもんだなw
0636日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:27:18.27
>>634
>「古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたこと」と教科書に書かれている

これ根拠が全く無いんですよw
誰かの妄想をそのまま教科書に載せちゃってる
いい加減な教科書だな
こんな教科書で授業を受ける子供達可哀そう。
0637日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:31:24.35
畿内説は理論的に説明しないで権威を借りて誤魔化そうとしかしないね。
0638日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:32:00.76
>>635>>636
九州説をごり押しするにはそうやって教科書を否定し、考古学者を否定し、物証を否定しないといけない
文献も都合の悪いところは無視して、文献を歪曲すために短里とかの捏造をしてるだけ
所詮は素人だけが言い張ってる俗説でしかない
いずれ教科書からも消えるだろうから月間ムーの中で頑張ってくれ
0639日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:01:34.37
>>638
月間ムーが一番よく似合うのは畿内説だけどね。
0640日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:24:48.69
>>629
漢文が読めると、どうありえないの?
漢文が読めても、この時代の文献には解釈が様々なのに?
だから用例で示すしかないけど、
これが正解というものを知っているなら、それを説明してね
0641日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:29:59.00
>>638
古墳の出現と大和王権を関連させるのは考え直した方がいいというのが最近の流れかな

統一性のある前方後円墳の拡がりはまた別の話だろうがね
0642日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:09:36.22
>>638
教科書に嘘を書いちゃいかんな
0643日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:11:45.03
>>630
>そんな状況で、本州を国名も知られてない倭種が住んでる地域と言い張るのは知識のなさを晒しているようなもの

名前だけなら魏志倭人伝に書いてあるぞ。

>3世紀前半は大和を中心とする前方後円墳体制が出来上がりつつあり、北部九州は畿内勢に飲み込まれようとしている時期

3世紀中頃の卑弥呼の死後だろw
0644日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:49:53.47
九州説はとうとう教科書にも文句つけ始めたんかよ
どんどん学問から離れて行ってるな
ラノベ板にでも引っ越せよ
0645日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 06:59:58.94
>>640
「周旋」をウロウロなんて訳してるからダメ
「周旋」には、あまねくなんて意味はなく
回るや一周するとかの意味しかない
つまり同じ地点を何回か通過したってことですから
計算が合わない。
0646日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 07:01:21.85
>>644
教科書の記載なんかどんどん変わるからね
間違ったことも書いてある。
0647日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 07:13:05.51
>>646
>教科書の記載なんかどんどん変わるからね
>間違ったことも書いてある。


倭国(阿波)が教科書に載るのは、時間の問題。  @阿波
0648日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 07:36:45.66
>>645
>「周旋」をウロウロなんて訳してるからダメ
>「周旋」には、あまねくなんて意味はなく
>回るや一周するとかの意味しかない
>つまり同じ地点を何回か通過したってことですから
>計算が合わない。

現代語で判断してもダメ
三国志で移動に周旋が使われている部分を全例検索しても、
回ったり元の場所に戻っている用例は一つもない

斡旋の意味で周旋を使っているところはあるけどね
「回るや一周するとかの意味しかない」ってのは、これだけでも分かる
0649日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 07:46:00.42
>>648
>回ったり元の場所に戻っている用例は一つもない

全部回るや一周するとかの意味でしか使われてませんが。
0650日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:01:49.23
>>648-649

よく似た言い回しで、外野にはどっちが何説なのか、よく分からん。  @阿波
0651日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:46:00.63
九州上陸から女王宮まで、南北で2千里。
九州の東西は3千里以上。 
そもそも5千里で周回なんてできません。

或絶 の国が、長崎や天草、小倉や宇佐別府ってのも無理
女王宮はみやまだから5千里で周旋できるのは福岡筑紫平野周辺だけ。

物証で、200年以前の輸入品や、鉄器出土地域なんてそんなもんだろ。
熊本や唐津以西、宮崎方面であれば通商、交流遺物程度には出てる。
0652日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:01:38.91
>>651
>女王宮はみやまだから

「みやま」ってなに?


>5千里で周旋できるのは福岡筑紫平野周辺だけ。

5千里で周旋できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0653日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:09:57.47
「みやま市」は新しい市の名前で、
最近できたソフトバンクの2軍3軍球場の近くだから、観光宣伝の一環だろ。
0654日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:36:12.88
東夷伝が示す文章問題、里程について。
中國正史によって与えられた定義は、

帯方郡から女王まで、満二千里。
4千里が韓の南北、東西。 
狗邪韓國まで、7千里。
渡海3千里(千里×3)が対馬海峡。

では、算数
4000+X=7000(X=狗邪韓國までの東行)
7000+(1000×3)=10000(帯方郡から末盧國)
12000−10000=2000(九州上陸から女王)
これが、倭人伝における 里程の基準。

二千里が 南水行30日と陸行1月、であると 言いはるだけの間抜けが、
南=東 というご都合主義、恣意的誤読、を前提にしていることは明らか。
0655日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:45:50.71
>>654
まずはその数字が正しいことを証明しないと
その先を推定するのは無意味だアホ
0656日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:57:01.53
>>653
山門瀬高 って言ったら、それどこ? 
って言われたから、みやま に言いなおしてみた。
おじいちゃん用と中学生用と、だけど、ちら裏の名無し相手じゃわかんないよね。
ドーム球場作ると、卑弥呼の王宮出るかもなw 
邪馬台国っ名前がもはや、雰囲気で山城っぽいんで、無理か?

阿波は半コテ、土器厨、都万、日本海とかの諸先生は、爺って判る。
最近見るキナイコシ先生w、は2人かな、
九州先生も東遷説っぽい人と、もう一人割とちゃんと読めてる人がいる。
0658日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 10:00:55.47
>>654は典型的な九州説だな
こういう小学生レベルのことしかできないやつが学者をバカにしてるんだからお笑いでしかない
0659日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 10:09:56.21
>>658
何をおっしゃる
654に示された里数割りが、倭人伝・陳寿の骨格。あれをいじくるのは迷宮への道
0660日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 10:18:37.68
>>654
>二千里が 南水行30日と陸行1月、であると 言いはるだけの間抜けが、

畿内説論者がこんな間抜けなこと言い張ってるのか?
1人2人はいるだろうがそんなの例外中の例外
で、その間抜けなこと言ってるやつってどこにいたの?
このスレ?それとも畿内説スレ?
0662日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:19:17.65
>>660
帯方郡から女王までは万二千里。 
帯方郡から九州上陸が一万里。

倭人伝の この里程に関する記述を読むとき、
上陸後、残り2千里の比率を ご都合主義で否定しないと成り立たない。
さらに、南は東、それが畿内説だ と言ってんだけどね。
>>2>>9 だけで判るのに 読みたくないんだろ。

畿内説でも、末羅国は九州北岸なんじゃないの?
南東陸路500里(対馬〜壱岐が千里)の伊都は 九州でしょ?
福岡平野北西部周辺 以外には無い。
0663日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:50:55.32
>>662
小学生レベルの話に付き合うのも時間の無駄だが、そういうパズルをやるなら前提となる数字が正しいことが必須条件だろ
これにきちんと答えて、正しいとわかれば九州説を認めてあげるよ

帯方郡はどこ? 狗邪韓国はどこ? 帯方郡から狗邪韓国までは何キロ? 魏晋里435mに対して誤差はどのくらい?
狗邪韓国はどこ? 對馬国はどこ? 狗邪韓国から對馬国までは何キロ? 魏晋里435mに対して誤差はどのくらい?
對馬国はどこ? 一大国はどこ? 對馬国から一大国までは何キロ? 魏晋里435mに対して誤差はどのくらい?
一大国はどこ? 末廬国はどこ? 一大国から末廬国までは何キロ? 魏晋里435mに対して誤差はどのくらい?
末廬国はどこ? 伊都国はどこ? 末廬国から伊都国までは何キロ? 魏晋里435mに対して誤差はどのくらい?
伊都国はどこ? 奴国はどこ? 伊都国から奴国までは何キロ? 魏晋里435mに対して誤差はどのくらい?

邪馬台国への行程として書かれているのは、水行十日陸行一月だけ
陳寿は万二千里と一万里の引き算なんてしてないが、倭人伝に書かれてないことが正しいという根拠は?
0664日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:54:42.97
九州説だが筑後の山門は邪馬台国とは無関係だろう。
あれは「八女の戸」。あのあたりに狭い水道があってそこを八女戸と呼んだ。
おそらく筑後の諸国を束ねていた女王の国、邪馬国だよ。邪馬台国ではない。
0665日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 12:25:23.24
>>657
分からん人だな、同じところを何回も巡ることが周旋なんだよ
何周しても関係ないが最低一周はしている。
0666日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 12:32:50.48
帯方郡の海岸から女王国の中心地である伊都国と奴国の国境までのを
距離(7000里+1000里+400里+400里+1000里+300里+300里+1000里+500里+100里)と
所要時間(20日+10日+1日)と
総距離(12,000里)とで3重に併記している。

郡治-狗邪韓国-対馬国-一支国-末盧国-伊都国-奴国(距離での説明)  七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里)
= 帯方郡-投馬国-邪馬壹国(日数での説明)  水行二十日 + 水行十日 + 陸行一月(陸行一日)
= 自郡-自女王國(総距離での説明)  萬二千餘里
0667日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:18:52.95
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0668日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:23:54.34
>>661
あの里数割りは証明事項ではない。
そもそも、あの里数割りという前提があってこその倭人伝なのだ。
0669日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:40:07.20
>>668
ギブアップってことだね
行程パズルでは場所を特定できないということだよ
当たり前のこと
0670日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 14:10:49.26
里数抜きで妄想するなら、沖縄にだってブラジルにだってできる。
それは学問ではない。
0671日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 14:20:22.13
>>666
郡治-狗邪韓国=七千里=水行二十日
狗邪韓国-対馬国-一支国-末盧国=千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里) = 水行十日
末盧国-伊都国-奴国=五百里 + 百里=陸行一月(陸行一日)

1日当たりの移動距離は
郡治-狗邪韓国・・・7000里/20日=350里/日
狗邪韓国-末盧国・・・440里/10日=440里/日
末盧国-奴国・・・600里/1日=600里/日

1里=80mとして
350里=28km
440里=35km
600里=48km
0672日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 14:26:54.01
>>669
なんか変な日本語を使うな

「証明」という語の意味が、倭人伝の夫々の国が現在のどこに比定されるか、ということであるなら、
それは、すでに解決しているけどな。
倭人伝の里数割りは、古代にしては極めて優れたものだったよ。解決ズミ!
0673日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 14:52:06.03
>>672
どこに比定されてる?
IDが出ないのでどのレス番のことを指してるかわからんのだが
0674日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:20:23.57
>>673
それぞれ、倭人伝に記載された方角と里数の場所に正しく比定されている。
ま、倭人伝を捻じ曲げたがる輩には、とうてい読めぬな。
0675日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:26:29.80
>>673
こっちが要求してるのは>>663に答えることだけなんだが、結局言い張るだけか
九州説のいつものパターン
0676日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:27:21.69
アンカー間違えた
>>674
こっちが要求してるのは>>663に答えることだけなんだが、結局言い張るだけか
九州説のいつものパターン
0677日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:35:16.72
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里

統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。
0678日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:58:53.98
>>677
帯方郡はソウルではなく沙里院が通説だから修正した方がよいかと
循海岸水行だから狗邪韓国までの距離は最低でも1000kmはある

各区間で1里あたりの距離がばらばらで4倍も差があるのだから
魏の里ではない未知の距離単位があったという仮説も成り立たない
存在してたのは魏の里だけど、距離を正確に測定できなかったというのが妥当では?
0679日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 16:32:57.87
>>654>>662>>674
結局、九州説がやってることはこういうこと
・邪馬台国への行程として書かれているのは、「水行十日陸行一月」だけだが、九州を飛び出してしまうからこの記述は使わない
・陳寿は万二千里と一万里の引き算なんてしてないが、引き算がなりたつと勝手に決めつけて、邪馬台国は九州上陸から二千里ということにする
・仮に二千里としても、魏晋里435mで計算すると870kmになり、九州を飛び出してしまうから魏晋里435mも使わない
>>677により、帯方郡から奴国までの里数は正しくなく、区間ごとの1里あたりの距離もバラバラで4倍の差がある
・つまり帯方郡から九州上陸までの一万里も間違っていることが確実であるが、無理やり引き算して残りを二千里ということにする
・1里あたりの距離に客観的基準もなく二千里が何キロに相当するか不明だが、恣意的に九州に収まることにする
0681日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:22:10.38
>>677
>末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
>伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
>奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里

この部分は古い九州説で計算してるが、大きな問題だ、正しい答えが出るわきゃないさ。
ここを新しい九州説の佐賀ルートに置き換えると、
いわゆる短里を証明できる素晴らしい統計学的信頼区間が得られるんだが・・・。
ま、どうせ、トライする気はなかろ。
0682日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:27:47.56
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0683日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:54:24.48
>>677
素晴らしい
0684日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:55:03.17
>>679
恐ろしく頭が悪い
0685日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:57:04.82
>>679
相手の考えていることまで妄想するなんて、末期症状。
0686日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:17:07.29
>>679
九州説憎しの一念、 ウー、念、念、
0687日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:28:29.79
行程パズルが九州説の唯一の論拠なのに、それを否定されたら何も残らん
論理で反論すればいいのに、1行糞レスを連投してるようでは負け犬の遠吠えじゃん
0688日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:34:56.22
ウー、ワンワン
0689日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:38:27.16
どのみち自説以外は、否定、否定、否定
死ぬまで否定の終末だろうな
0690日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:03:39.41
>>689
ブーメラン
0691日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:47:34.49
>>665
>分からん人だな、同じところを何回も巡ることが周旋なんだよ
>何周しても関係ないが最低一周はしている。

貼ってもらったURLの論文は読んだのかい?
勝手な思い込みを繰り返し書くだけではなく、論拠として示された論文に
間違っている部分があるならそれを具体的に指摘すればいい

指摘できないなら、その論文の論拠が間違っているという理由はない
つまり、三国志の周旋で元の場所に戻る、という意味・用法はない
0692日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:50:49.56
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い

旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読

北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
0693日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:51:49.26
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭

要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない
0694日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:52:58.97
黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国

淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民;

そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。

魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「黒齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる

こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らか
0695日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:57:46.51
>>677
>95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。

これ、引用がおかしい
正しくはこのいかさま記述の代わりに、以下の分が書かれていた

この範囲に、あなたの言う短里の値が入る確率が95%という意味です。

11から136メートルとか、-73〜306メートルとか、「意味のある数値」だと思いますか?

これが正しい統計のやり方です。nが小さくて、ばらつきが大きいデータでは、いかに統計処理をしても信頼性のある数値は出ないんですよ。

あなたがやっていることは統計でもなんでもなくて、牽強付会なデータ捏造に近いです。
伊都国を平気でずらしてますし。
0696日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:01:36.89
短里を使う理由のある人が、どこにもいない

公孫氏ももともとは漢人で、後漢の官職についてる
建忠校尉の梯儁さんも
塞曹掾史の張政さんも
魏の役人だから、これらの人が漢魏尺以外の度量衡を使う理由がない

実際に、ほぼ確実とされる比定地間の距離を測ると
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里

とばらばらな数値となり、倭国上陸後は4倍も異なる値となる
短里という決まった長さがあって、それによって測定した値が書かれているとはみなせない

結局、晋の高祖、司馬懿の功績を顕彰する目的で、司馬懿の公孫氏征伐の結果、
「遠くの東夷の国」が朝貢に来たというのを大仰にするために、数字を盛ってるんだよ

倭国(女王国)までの距離は、淮南子などに見られる地の果て(東方之極)までの距離の
萬二千里とし、倭国に上陸するまでの距離を「万里の修交」にするために、1万里にしてる

盛った距離を、現実と照らし合わせると、その分過小な距離が出て、それを短里だと
言い張ってる人がいるだけ

数字は結論ありきで適当に振ってるだけだから、決まった長さの単位・短里などは出てこない
0697日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:32:40.77
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0698日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:01:03.75
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里

統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。
0699日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 06:51:30.90
>>696… 短里ではない
>>697… 長里ではない

つまり、短里でも、長里でもなく、
東夷の倭人伝におけるローカルルールだったということだろうな。
0700日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 07:19:18.33
それを便宜的に短里と呼んでいる。
0701日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 07:19:48.97
>>696
>数字は結論ありきで適当に振ってるだけだから、決まった長さの単位・短里などは出てこない

結論ありきの無意味な解釈
0702日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 08:43:27.76
東夷倭人伝のは、魏の尺里ではないのだから、
短里は短里でも、東夷あたりの「ローカル短里」ってことさ。いうまでもないけどな。
0703日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:00:59.97
短里にしろローカル短里にしろ、場所によって4倍も違ってるんだから、
そんなものが存在したなんて無理筋
3世紀の東夷では距離を正確に測ることができなかった、それだけの話
0704日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:04:09.91
そういうことにしないと畿内説が困るのだろう
0706日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:47:42.54
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0707日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:53:19.32
>>698
否定したい為に距離の起点を合わないように決めてるから合わないだけw
0709日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:58:04.55
>>708
ほい、正しい起点・終点だ。
末廬国(唐津)ー伊都国(佐賀川上)    37q/500里=74m/1里
伊都国(佐賀川上)ー奴国(佐賀市)   7.5km/100里=75m/1里
伊都国(佐賀川上)ー不弥国(神崎市)  8.0km/100里=80m/1里
(注:奴国へは「行った」という動詞がないので、伊都国から奴国の方角を眺めただけ)
(で、倭人伝には、伊都国からの方角・里数のみ記載された)
0710日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:03:46.47
4倍の差はガセだったか。
0711日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:15:52.70
>>698の元ネタ、知ってるんだよ

他所のサイトで、畿内説の人がきちんと統計的な計算を示して、
魏志倭人伝から短里があると主張するのは無理、というのを示したのが>>677でこれが原文

>>698はこの結論部分だけを無理矢理に捏造解釈した一文に書き変えたインチキ
0712日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:18:45.41
>>699
>>697… 長里ではない

これが間違っている
>>697は、実測値ではないという主張
里の長さとしては魏晋里以外はありえないが、現実の値とは乖離した誇張された数字だという主張

>つまり、短里でも、長里でもなく、
>東夷の倭人伝におけるローカルルールだったということだろうな。

短里はない
誇張された机上の数字があるだけ
だから萬二千里は比定地探しの論証には使えない
0713日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:21:11.85
>>701
>結論ありきの無意味な解釈

それを主張したかったら、>>692>>696の原本に当たって、
その上でどこがおかしいか、「具体的に私的」してくれ

話はそれからだ
0715日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:24:55.71
>>709
>伊都国(佐賀川上)ー奴国(佐賀市)   
>伊都国(佐賀川上)ー不弥国(神崎市)

伊都国、奴国、不弥国の比定地を、このように考えるのは
ごく一部の珍説扱いの説だけだよ

末盧国からの東南陸行五百里の行き先は、佐賀平野のどこかだけれど、
それは伊都国ではない

つまりもともと魏志倭人伝の旅程には錯誤があるんだよ
それを認められないのが九州説
0716日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:27:24.45
>>709
これは逆に短里を肯定したい為に距離の起点を合うように
選んでるから合ってるように見えるだけ

伊都国(佐賀川上)
奴国(佐賀市)   
不弥国(神崎市)
を認める人は、ほぼいない
0717日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 17:21:04.61
また転写保存
>>794
>古事記によるヤマトとは奈良
倭建命が故郷を思って歌ったとして、
「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し」とある。
畿内を倭とは言わない 邪馬台国畿内説でなく「倭(やまと)説」だと思う<

倭建命の頃は、大和は九州倭国の別種分家の旧小国であったんだから、
倭建命は、九州倭国内の一将軍であったんだろう、と思う。
0719日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 17:27:09.57
>>717
それ、後世の「自己解釈」な


笑)
0720日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 17:29:52.50
>>711
九州説はよろず孫引きの借り物知識だからw
0722日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 17:40:59.46
こうして九州説は簡単に死ぬ
0723日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 17:48:57.02
九州説は「具体的なことが書けない」ってのがデフォなんだよな
書くと死ぬから
0724日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 18:28:10.06
>>808
>何が関係なしなのかさっぱりわからんが 書いてる事も意味不明だな
素粒子と書いてるが恐らく量子の粒子・波動の2重性の事と
あと場の相互作用論とは何の事やらわからなかったから調べたらそんな物はない<


「素粒子という粒子性の物が存在」して、それが重力場や電磁場や核力場を作って相互作用をしている、
という論理は、一種の「結論先にありき」の論であったのであり、
重力場と電磁場の相互作用が見つかった時点で、
その相互作用に拠って粒子性が発生する可能性の有無の確認をする事が先決問題になる、
という事。
0725日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 18:32:07.72
>>716
熊本説の人と宮崎説の人は認めるね。
0726日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 18:44:23.51
>>826
>臺はダイ、堆はタイは、中国の音韻学研究
現代の日本で便宜的にどう読んでいるかは関係ない<

私が昔読んだ説では、古代の臺の音韻は「ダイ」と「タイ」であった。
0727日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 18:46:18.68
>>716
そうさ
これでピッタシだ。熊本説・宮崎説こそ正解なんだよ。
0728日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 18:49:24.80
>>829
>誤差を含んで20年〜240年だからそれ以上は無いよ<

測定検体にも、測定方法にも、問題が大ありだった、と言っている。

>それプラス出土品でホケノ山は三世紀中庸の古墳とされている<

出土品でも、前方後円墳でも、有棺有槨でも、3世紀末以後だ、と言っている。
0729日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 18:54:51.75
>>830
>12世紀以前の史書の倭人伝引用ではほぼ全て邪馬臺國<


唐代以後の後代史家は、「自己解釈に拠って書き換え」をしている半分×人間であるから、
根拠にならず、
版本では、100%邪馬壹國であるから、
写本ではその差異発生の確率通りに99.5%以上に「邪馬壹國」であった、という事になる。
0730日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 18:56:50.29
>>831
》それまでの史書の魏志引用倭人伝と違う表記が
原本の消失した12世紀になって初めて現れたなら当然誤記の可能性が高い
そもそも倭人伝の原本が存在してないからそのものを比較しようがないから
99,5%以上誤記ではないとするのは循環論法 <

唐代以後の後代史家は、「自己解釈に拠って書き換え」をしている半分×人間であるから、
根拠にならず、
版本では、100%邪馬壹國であるから、
写本ではその差異発生の確率通りに99.5%以上に「邪馬壹國」であった、という事になる。
0731日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 18:57:03.80
>>721
三雲や博多かあ。
心配するなって、遠絶の傍奴国としてちゃんと登場してるよ。
倭国大乱の一方の当事者だな。でも、やがては卑弥呼の次の台与を輩出することになる。
0732日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 18:58:36.20
>>727
熊本・宮崎に前方後円墳あるんでしょ。
朱を使ってないのかな?
朱を使ってたらその朱、まず間違いなく九州忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0733日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 19:00:34.23
>>832
>尚方作竟(佳且好)方格規矩鏡は奈良でも出てるよ<

有難う。
「佳且好」は、呉系楽浪鏡師らが卑弥呼らの許可で「尚方作」鏡を造ったんだから、
奈良に尚方作竟(佳且好)方格規矩鏡が出てもおかしくない。
0734日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 19:08:01.16
>>833
>祇園山は、全て何らかの「棺」の中に安置されていた形であり、生き埋めにした形跡は0であり、
しかも、複数埋葬も互い違いに綺麗に収められて それを62個余りの棺で埋葬した形であるなら
それはただの墓じゃないの しかも卑弥呼の墓は奴婢百人殉葬だから数が足りないね<

62個の半分が複数埋葬であったんなら、93人になるんだから、
半分以上であったり、流されて無くなってしまった墓も入れれば、100人余りになるの。

>日本書紀の記述によれば 殉葬は卑弥呼の時代以前から続けて行われてきたのであり
しかし古墳の周りに棺に入れた遺骨がある例は今のところ祇園山しかない
一例しかないなら古代から行われてきた殉葬ではないという事であり
つまり祇園山のそれは殉葬ではなくてたまたま周りに出来た共同墓地<

書紀は、倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分×書であるから、
書紀の記述自体が、根拠にならないの。
0735日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 19:10:32.27
>>835
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、人類の常識も、何にも知らないんだな。
0736日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 19:22:49.05
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0737日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 19:36:07.50
>>709
伊都国をそんな場所に持って行ったら
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
をどうやって解釈する?
一大率が伊都国に置かれていて、その役割として、大陸とのやり取りの際に港で貿易管理をしてるという記述
港は玄界灘に面したどこか(湾になってる場所も含む)にないとこの業務は不可能なんだが
0738日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 19:56:44.93
>>725>>727
その比定地だと、水行20日+10日、陸行1月はどこに入るんだ?

途中に、五万戸の投馬国も置かなきゃいけないんだが?
0740日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 20:14:40.61
>>737
まずこの件だが→皆臨津捜露、これは末蘆国・唐津でよかろう。
で、思い出してくれ、末蘆国の段には、なぜか官の名がなかった。
それは末蘆国の主都は西方の松浦市あたりで、当時の唐津は辺鄙な裏津だったのだろう。だから官はいなかった。

このような事情から邪馬台国女王は、この津に出入りする帯方郡船などの出入国管理のため、
唐津に一大率を置くことを思いついたというわけだ。
だが、半島往来の船といっても、しょっちゅうあるわけではなかった。

昨今の九州大学の観潮レーダーの解析結果では、渡海の好機は年に2か月、
離岸流という強い潮が発生する6月と12月の新月だか満月の前後数日限定なのだそうだ。
それは、奇しくも卑弥呼の遣使が渡海したのが6月で、帰途に就いたのは12月であったことと一致する。
・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、、、
・其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑弥呼:、、、皆装封付難升米、牛利還到錄受。

これでお分かりであろう。
1年のうち、たった2か月のために唐津に一大率を置くのも手持ち無沙汰。
だから伊都国に常置して平素は周辺国の査察を行い、年2回の潮時を見ては唐津へ出向けば用が足りたのであろう。
こういうわけだ。、
0742日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 20:30:02.66
>>839
大和説者は
・論理
・恥
・倫理
・自分のレベル
・日本語
を知らない「南→東」などの嘘つき騙しの、
「戦前の万世一系皇国史観の唯我独尊殺戮戦争狂」の・・・・ガキばかり。
0743日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 20:36:01.37
>>741
晋のサポートをうけた史官の認識だろ
0744日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 20:48:18.97
6月とか12月と書かれているのは帯方郡や洛陽でのこと
渡海の時期ではない
0745日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 21:18:57.36
公孫氏討伐以降日本に来た、魏の使譯は、
240年の梯儁 と 247年の張政 だけだよ。
この探検記、が倭人伝。
 
6月から9月は、ゴムボートでも、渡航余裕www
偏西風の冬は、漕ぎ手が20人も居る船じゃないと、帰れないかもしれんね。
日本海寒いよw
0746日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 21:19:48.70
・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、、、
・其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑弥呼:、、、皆装封付難升米、牛利還到錄受。

これって、6月に難升米が帯方郡に来て、12月までに洛陽に着いたって話だろ?
魏皇帝が詔勅を出したのが12月だってだけで、そこから帯方郡まで帰るのに、半年とは言わないが
またかなりの時間がかかる

12月の冬の日本海を渡ったとはとても思えないがな
冬の日本海を舐めすぎ
0747日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 21:24:01.06
>>740
>それは末蘆国の主都は西方の松浦市あたりで、当時の唐津は辺鄙な裏津だったのだろう。だから官はいなかった。

九州説ってよく自己都合のでっち上げをするよね
倭人伝の各国の記述は、各国の地理の紹介でもあるのだから、
末盧国の首都でもないところを指して至末路国とは書かれないよ

松浦市辺りに、千々賀遺跡に匹敵するような遺跡はないだろ?
0748日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 21:34:23.31
九州説だと、帯方郡から邪馬台国までおよそ一月なので、日程は余裕。
畿内説だと日程が破綻する。
0749日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 21:46:12.30
>>740
唐津や呼子に上陸する馬鹿は居ないし
倭人伝を、そう読む馬鹿は恣意的にミスリードしている。

風で、壱岐から呼子に寄っても、目的地は糸島南東の付け根。
これは、平成に至る考古学の結論。

張政が、糸島北岸、芥屋浜に降ろされたのは、
日本が半島の百済、新羅の建国に協力する方針だったから。
伊都には、今宿五郎浜、や博多湾岸も含むと考えるべき。

247年、韓王朝を滅ぼした帯方郡の 張政 は倭人船で日本に来た。
黄幢の下、檄 に応えて参戦しなかった 邪馬台国の視察に来た。
持衰を置いた、芥屋浜から南東500里歩いて、今宿から早良の峠、福岡平野北西山麓が伊都。

韓平定直後の 240年の梯儁は、魏の軍船で
寄港地も知れない都市間の里程は無関係に、日程で幕営行軍している。
それが、水行30日と陸行一月であり、
投馬国、邪馬台国は概念が地名ではなく国名。
この段落が、見えないなら倭人伝を読めてない。

張政は倭人船のいつもの航路で、
決まった港の名前を示したから、里程なのである。

里程は、都市間と言うより、張政の宿所の位置間。
2万戸の奴国は、方可500里以上はあるはず。
0750日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 21:56:03.51
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0751日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 22:17:31.02
>>749
間違い。

公孫氏滅亡、直後が梯儁240年。
韓王朝滅亡直後が、張政247年。

三国志覇王。 魏は日本に東夷参戦を求めていた。
だがしかし、日本は百済、新羅の保護に廻り、
313年司馬炎の漢四郡は半島撤退を余儀なくされる。

倭人伝の邪馬台国が、魏を蹴っ飛ばして半島征伐した?
そういうシナリオが、歴史で見た畿内説なんだよw

『大日本帝国』は、
古代の『百済』『新羅』建国にちなんで
半島王朝『大韓帝国』を復興建国したのである。

まあ、633年 白村江の敗戦は、百済の保護支援でも
渡来人の返還で、旗印の皇太子も逃げちゃったからなw

お金で、外交係わる学者が、ちゃんと、歴史読めないのは
小学生並みのアホな、中学生のアタシでも判る。
0752日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 22:24:28.17
>>748
>九州説だと、帯方郡から邪馬台国までおよそ一月なので、日程は余裕。

水行の起点が帯方郡という読み方は無理だって何度も言われてるのにまだ言うんだw
それだと投馬国がどうにもならないと何度言えばw
0753日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 22:50:52.96
>>248
>帯方郡から邪馬台国までおよそ一月
??? 万二千里 ですが?

一月行は上陸後一月行。 それが、2千里です。
これは、240年の梯儁の行軍の結果論で
奴国の 難升米や 次使の都市牛利 を
上陸後、歓待されたり、何処かで、待つ時間も含むのではないかな?

>>746
・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、、、
・其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑弥呼:、、、皆装封付難升米、牛利還到錄受。

卑弥呼に到着は判らないから、片道、6月行
群から洛陽、6月行でも良いかな? 
まあ、一月二千里の アタシの計算では良いかもだけど?
対馬から壱岐千里は、否定したら邪馬台国イラネ。

倭人伝を読む、と言うのは
そういうことではないかと思うのだが、
学者には、もう終わった話かな?

報道? 教科書・・・ 朝鮮人に踊らされてる、アホですなwww
0754日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 23:29:26.42
>>752
宮崎県でいいだろ。
0756日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 07:58:06.93
>>746
>景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
>其年十二月、詔書報倭女王曰

六月の段に、帯方郡へ詣でたので、太守劉夏は、遣吏将を京都へ送り詣らせた・・・。これは6月のこと。
そして12月の段で、詔書やお土産が準備できた・・・、なので、これは当然、帰国を意味する。
0757日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 08:14:02.63
>>749
長文レスありがとうございます。
いささかお気に召さないようですが、ごもっともでしょうねえ。お気持ちは良くわかりますよ。

ただ倭人伝は、張政個人の活躍を記録したものではありませんよ(張政は帯方郡の使用人の一人)。
記録したかったのは、あくまで、魏朝支配下における韓倭監督庁としての帯方郡の手柄だったのです。
ですから、太守が交代するたびに其の名前が出てきます。ここがポイントです。
0759日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 13:09:57.19
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0760日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 14:37:37.50
>>757
張政の活躍?
張政は正始八年 247年 郡による韓 制圧戦で韓王家廃絶の直後に来た。
前太守弓遵は、この戦闘中に戦死、太守王頎が到官した年である。
この年、卑弥呼遣 倭載斯烏越等詣郡 によって
素不和の狗奴國男王卑弥弓呼との相攻撃状況を伝えた。

太守王頎は 245年の韓制圧戦中に 前太守弓遵が
卑弥呼将軍 難升米に 黄幢の下参戦せよ との 檄 を飛ばした。
これに応えなかった、倭の軍力統治状況を査察させるために 
張政を載斯烏越等の船に便乗させたのである。

張政は卑弥呼の死を知り、博多湾岸の、伊都国、奴国、不彌国まで来て帰った。
倭人伝中の 張政の報告 は、上の3国と行程中の倭人寄港地の地名、里程のほか

倭人風俗の
其行來渡海詣中國恒使一人 不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚 不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害便 欲殺之謂其持衰不謹

政治状況の
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
下戸與大人相逢道路逡巡入草 傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬 對應聲曰噫比如然諾
である。 

これによって実態が明らかとなり、魏と邪馬台国との国交は、247年で終わった。
>壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺 248年かな?
魏王は 新女王 壹與 に対して、返礼も返書も返していない。
0761日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 16:22:57.07
|∩`Д´) / '⌒☆ せっかくだから、【梯儁 の活躍】 >>3 の行程、 
塞曹掾史である張政 に対し 建中校尉の梯儁 は将校として 魏の軍船をもって行軍した。
魏は楽浪帯方を占領した直後であり、韓に土地勘は無く、地名も知らない幕営行軍である。
馬韓50国?西岸及び南岸の投馬国を『水行20日』で越えた。 

張政の時と同じく狗邪韓國に寄港する必要は無いから、巨済島まで7000里で東行せず、
もっと西から対馬を目指したと思う。 魏の軍船は黄海を渡ってるので既に帆船と考える。

九州上陸も博多湾に入り、糸島半島東岸の付け根辺りが便利かと思う。
そこから、女王宮まで陸行は、一月行だが、たったの2千里である。
奴国王 升米 や 都支国王 牛利 の歓待を受けたと思う。

梯儁 は女王宮まで行き、卑弥呼に金印紫綬。 
此女王境界所盡所である、属国21国、可七萬餘戸を確認した。 
張政の末羅、不彌、伊都は王の有る属国ではない、港などの地名ではないかな?

梯儁 の報告となるのは、このほか
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
官を任命したので、狗奴国にも入っている。
と、
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
これは、実際に接触のあった、梯儁以外知り得ない。

梯儁 は邪馬台国が九州の小国であることを知ったが
帯方郡が皇帝に倭王として卑弥呼を紹介してしまったため大きな声では、言わなかった。 
周5千里、全7万戸は三国志の戦闘規模なら余裕で征服可能だろう。
0762日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 17:51:50.36
>周5千里、全7万戸は三国志の戦闘規模なら余裕で征服可能だろう。

水軍を持たない魏には征服不可能。元寇も上陸すら出来ず失敗している。

また、倭には魏より2倍は飛ぶ長弓があり上陸すらできなかったろう。
0763日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 21:54:51.49
>>762
現実的には、263年陳寿の母国、蜀平定。
280年呉平定という三国志の覇王 魏は313年漢四郡撤退、である。

日本史では、高句麗の台頭により、と言うが、
百済、新羅の背後に日本が有る事、これは、400年以降の倭の五王で明らかであり
245年の韓王朝廃絶戦に、卑弥呼の倭が加わらなかった?

むしろ、韓南岸の倭人国は、半島からの漢四郡排除に協力してるだろ。
魏と238年から247年迄、国交のあった九州の小国の女王卑弥呼の墓は大きかったので、

大和朝廷に組した側の国だろう ことは推定出来ても
247年で、魏との国交が途絶えた原因は、
記紀にある九州征伐で、卑弥呼の九州北部勢力が国家主権を失ったからである。
247年時点で 一大卒に支配されている。

畿内説? 九州説? 考古学は倭人伝に、古代の倭王を探しているが
倭人伝が記録した、卑弥呼は247年迄、九州北部にあった21国連合の王だよ。
247年時点の大倭王は、畿内以外に有り得ない。
0764日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 22:14:58.94
>>754
>宮崎県でいいだろ。

それだと投馬国はどこ?
投馬国は邪馬台国より北だよ?
0765日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 22:18:20.88
>>763
>247年時点の大倭王は、畿内以外に有り得ない。

だったら、その大倭王が卑弥呼だろうに

>>倭人伝が記録した、卑弥呼は247年迄、九州北部にあった21国連合の王だよ。

こんなことを考える必要はないよ
庄内期には、九州北部最大の奴国は、畿内の祭祀土器を受け入れている
0766日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 22:21:12.88
すまない。
文節の区切りが、倭人伝的に壊れた ←これはひどいw
反論が有れば修正する。

多分、チラ裏の弁証法では、見え得る 結論だと思う。
皆様の、ご指導ご鞭撻に感謝!
0767日本@名無史さん垢版2018/09/23(日) 22:31:53.29
>>765
大倭王 卑弥呼は 247年 張政査察時には 死んでた。
この査察の時、張政の帰国便=送政等還因詣臺
に対し、魏王の返礼、返書は無い。
魏と邪馬台国の 国交は終わった。
0769日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 10:07:00.32
>>768
陳寿が魏に士官したのは、265年司馬炎の西晋以降。
三国志は280年呉の滅亡までは続く。 書いたのもこの後。
247年の 張政送還で因詣臺 なのに皇帝の返礼返書は無い。

263年なら、まだ魏なんで歴史としては魏志で良いはずだね。
265年司馬炎戴冠や266年遣使は晋書
これが 倭王壹與 遣倭使 とは書いてない。

そもそも、邪馬台国は戦国になっているのに
何故13歳の壹與を共立して、国が収まる?
傀儡王に決まってる。 魏は247年以降 無視。
0770日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 10:18:17.35
>>769
>これが 倭王壹與 遣倭使 とは書いてない。

そもそも晋書は東夷の朝貢を詳しく書いていない
というか三国志魏書東夷伝が大陸の史書では破格に東夷の動向を詳しく書いているだけ

これは晋の高祖司馬懿が公孫氏を討伐したおかげで、東夷が中華王朝に朝貢服属したと、
司馬懿の功績を顕彰する目的なのは明白

東夷の距離が過大に誇張されて書かれているのもこの文脈
この盛った距離を現実の距離と比較すれば、現実よりも里の長さが短く見える
それを短里だと言い張っているのが九州説の唯一の論拠
0771日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 11:18:18.20
>>770
そうさ、その盛った里=モリ短を、短里といってるのさ。
それがどうした。
0772日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 11:27:51.54
>>771
その盛った里は、現実の距離と離れたところで、適当に数字を割り振っただけのものだから、
現実の地理とは整合性が取れないし、邪馬台国の比定地探しには使えない、
あてにならない数字だってこと

短里の萬二千里しか根拠のない九州説はこの時点で破綻
0773日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 11:47:15.62
>>772
畿内説は、もっと深刻な破綻だろうww
0775日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 12:02:09.88
>>773
>畿内説は、もっと深刻な破綻だろうww

それを「具体的に指摘」しないと無意味だと何度言えば?

短里なんてないし萬二千里はあてにならないってのには反論なしだな?
0776日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 12:09:36.31
邪馬台国は地域王を支配する一大率を受け入れ
247年で終ってるんだから、畿内じゃ有り得ないし、東遷もしない。

むしろ246年、郡が韓王朝を滅ぼし、臣智を置いた半島に進出してるわけで
これは記紀の言う、百済、新羅、任那の建国に導かれる、三韓征伐。

これが、卑弥呼共立の九州北部21国の邪馬台国、壹與の仕事であるわけが無い。
280年以降の晋は愚王国も良いとこなわけで、東夷には完全に高句麗と日本が台頭する。

三国志覇王の後日談は、東夷でボロボロになってゆく。 
まあ、日本の後援により傀儡化する古代『韓』建国と並立する空白の世紀だな。
0777日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 12:26:49.37
>>774
それ、邪馬台国と関係ない国を考察しているだけだよ。
0778日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 12:32:52.99
>>775
「短里なんてないし萬二千里はあてにならない」ってのを、
九州の比定現地について具体的に証明しないと、九州説への反証にはならんな。
0779日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 13:05:55.71
>>776
>邪馬台国は地域王を支配する一大率を受け入れ
>247年で終ってるんだから、畿内じゃ有り得ないし、東遷もしない。

それどんな誤読?
北部九州が畿内邪馬台国からの地域首長を検察する一大率を受け入れたんだよ

東遷しなかったと主張するなら、北部九州も他地域と同時に古墳時代に入るのを
どのように説明するんだ?
0780日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 13:08:58.19
>>778
>九州の比定現地について具体的に証明しないと、九州説への反証にはならんな。

じゃあ、具体的に九州の比定地ってのを決めてくれよ

でもその前に、萬二千里は倭国の情報が大陸にもたらされる前の淮南子の
東方之極萬二千里を流用しているだけだから、現実の地理と合わないのは当たり前
0781日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 13:11:37.57
247年邪馬台国滅亡説をずーっと言い張ってる人がいるんだよ
聞く耳持たないから相手にしてもしょうがない
0782日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 13:17:56.57
>>778
>九州の比定現地について具体的に証明しないと、九州説への反証にはならんな。

これ、これまでにさんざんコピペ化するほど何度も貼られているだろうが?
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里

50メートルと200メートルで4倍違うだろ?
そんな単位はないよw
0784日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 13:36:01.00
>>780
九州説は、一斉大盛にしてやってるのにまだ不足か。
超大盛にしてやってもいいぞ。郡から女王国までは、百二十万里だったのだ。
0785日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 13:39:48.65
>>782
またピンボケ比定地か、
江戸時代の比定地では話にならん。一度お亡くなりになって出直してこい。
0786日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 13:53:25.47
>>785
>江戸時代の比定地では話にならん。一度お亡くなりになって出直してこい。

このすぐに相手に死ねとい言いがるのは、お鏡さんスレで暴れていたやつかな?ww

江戸時代の比定地って言葉で逃げるのはよしな
そう言うなら>>785の「ボクの考えたカッコいい比定地」ってのを
具体的に示さないと意味がないww
0787日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 14:51:53.52
>>786
「ボクの考えたカッコいい比定地」ってのは、
♪ドンと来い!♪のがあるんだけどな、平成モデルの最新型だ。
でも、もうあちゃこちゃ張り付けたから、遠慮しとくわ。
0788日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 16:14:28.25
>>780
現実的に魏が送った240年と247年の二回の使譯のうち
倭人船に便乗した、張政が倭人船の寄港地間の名を示し、里程を分割して示している。
淮南子が関係ない。 ただの足し算。 

帯方郡〜狗邪韓國 七千餘里
狗邪韓國〜對海國 千餘里
對海國〜一大國 千餘里
一大國〜末盧國 千餘里
末盧國〜伊都國 陸行五百里
奴国、不彌國 各百里

このうち、場所がほぼ限定するのは、對海國〜一大國 千餘里 だが
韓伝により、帯方郡から南、韓の西岸4千里、南岸は東行3千里で対馬対岸が一致。
対馬の方可四百餘里は、南北しか見ていないようだが、
壱岐の方可三百里は、おおむね該当する。

倭人船の寄港地、宿所の地名間を里程で示した張政は伊都までしか来ていないが
水行30日と陸行1月の、幕営、行軍で、女王に会った梯儁は、
自郡至女王國 萬二千餘里 と言っている。
上陸後、2千里です。 
0789日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 17:09:08.99
>>749
名護屋港は天然の防波堤のある良港だから、
普通はそこに船を停めるだろうな。
松浦なんかに停めたら、荒波の玄界灘で船が大破しちゃう。

名護屋から伊都国に向かって東南に歩いたのだろう。
背丈ほどの草をかき分けて進んだと記述があるから、
河川沿いの開けた土地じゃなくて、僻地を歩いたということだよ。
0790日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 17:33:45.46
>>789
松浦(唐津)といっても、海岸ばたに泊めたわけじゃないよ。
現在の河口から松浦川をさかのぼり、唐津ボート競艇場を通り過ぎた先の中原港遺跡だ。
河口からは4qほどになる。東西と南を山に囲まれた波穏やかな入り江が停泊場所な。、
0791日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 17:41:02.07
>>790
いくら、「呼子」だ「唐津」だと言い合っても、どちらも根拠の無い間違い説。
魏使 の上陸地は「福津市周辺」ですよ。
下記の点において、「呼子」「唐津」は適合しない。  @阿波
@壱岐からの「距離千里」
A上陸地としての環境(遠浅の砂浜)
B対馬海流の影響
C大陸との交流痕跡
D上陸地としての集落痕跡
0792日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 17:42:03.32
>>789
考古学の成果として、
200年代の邪馬台国への目的地は糸島半島から福岡平野方面
呼子は無い。 秀吉かよ? 戦争の方法が違う。
そんなとこに元寇が来るかよ?

張政が伊都に上陸しなかったのは、
既に日本、一大率は半島進出を視野に入れて
敵国査察官、張政に直接進入航路を見せなかった、
だから >背丈ほどの草をかき分けて進んだ。
帰国便の掖邪拘もだが、一大卒に隠れて魏の援軍を期待した可能性はある。

載斯烏越が持衰を置いた、潮見場所とは思うけど、博多湾入るなら船で良くネw
伊都=今宿〜早良上陸可能なのに、あえて芥屋浜上陸だと思うね。
0793日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 17:45:46.27
もし、中原あたりや唐津や呼子が大陸からの玄関口だったら、もっと大陸の遺物が出土していなければならない。 
福津や宗像のようにね。  もっと冷静に現実を見ないとw  @阿波
0794日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 17:46:28.37
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし。

もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。  @阿波
0795日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 17:47:54.88
朝鮮通信使
通信使一行は,都がある漢陽(ハニヤン,現ソウル)を出発,陸路で釜山浦へ下り,永嘉台(ヨンカデ)から乗船して対馬に渡ります。
対馬・壱岐を経て筑前の藍島(あいのしま,福岡県新宮町相島)に至り,日本本土の最初の停泊地,赤間関(あかまのせき,山口県下関市)に到着する。
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka17.html#b

相島 (福岡県)
中国大陸と九州を結ぶ航路の要衝にあたり、古くから知られていたと見え、『万葉集』や『日本書紀』などの中に「阿恵島」「吾瓮(ミアヘ)」の名で表れている。
また中世には羽柴秀吉(豊臣秀吉)旗下の武将たちが、海路名護屋城に向かう途中この島に立ち寄り、海岸の石を一個ずつ盛って千手観音像に航海安全と朝鮮征伐の勝利を祈願したと伝えられ、
その積み上げられた石の山は現存しており太閤潮井の石と呼ばれている。近世には朝鮮通信使は必ずここに寄港していて黒田藩により客館・遠見番所・制札所が設けられていた。

対馬海流に流されて、末羅國(呼子、唐津)は有り得ない。  @阿波
0796日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 18:04:41.05
>>793
関門海峡は歩かなければならない、阿波先生は、
海の理解が頓珍漢で対馬海峡恐怖症のようだが
縄文以来、丹後、出雲、宗像、沖ノ島、対馬航路は存在した。

しかし、倭人伝の示す邪馬台国はどう読んでも筑紫である。
敵対や交流はあっても、共立王の邪馬台国勢力に、遠賀川地域は含まれていない。
247年までには、九州の卑弥呼は後の大和、出雲、吉備、阿波連合に調伏されている。

邪馬台国が阿波や出雲なら、247年に魏との国交は終わらない。
おまえらは、そもそも帯方郡ではなく、釜山からの交易ルートが有るんだろ。
0797日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 18:13:58.49
相変わらず@阿波は、先読み裏読みが苦手だな。
博多湾関係の諸港は、倭国大乱の相手方だった筑紫・倭奴国勢力の古くからの縄張りだったのよ。
そこで肥国勢は、やむを得ず人影まばらな唐津港に入って佐賀平野に抜け出たというわけさ。
その文献的証拠として、
壱岐の民は南北に市櫂し・・・、と書かれていただろう。
記憶力だけは抜群の@阿波だから、必ずや覚えていてくれるであろう。
0798日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 18:26:01.16
>>796
>しかし、倭人伝の示す邪馬台国はどう読んでも筑紫である。


しかし、倭人伝の示す「其山有丹」ははどう読んでも倭国(阿波)である。  @阿波
0800日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 18:42:46.82
対馬、壱岐勝本港を出航した朝鮮通信使一行は、荒れる玄界灘を相ノ島(藍島)に直行した。
対馬藩主は案内役として同行し、平戸藩の警固する中、黒田藩が出迎えた。福岡藩(黒田氏52万石)はここ相ノ島で摂待をした。
12回往来しているが、ここ相島には11回立ち寄り、風待ちで最長23日も停泊した記録もある。相島は国際交流の最先端の場所だったと言える。  @阿波
0801日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 18:43:13.87
邪馬台国は筑豊、王はタカミムスビ。
高木神社群、高見神社群はそのなごり。
卑弥呼の住居は平塚川添遺跡。
0802日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 18:44:46.21
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。

大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。   @阿波
0804日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 18:45:57.58
>>798
阿波先生が 丹山 にこだわる理由がさっぱりわからない。
卑弥呼が日本=倭王であるなら、四国に丹山が有ればそれでいい。

陳寿は漢書、史記、山海経・・・全部参照出来てる。
魏時の使譯、張政や梯儁は、丹山だの、そんなの見てない。

九州の女王の小国を見て、帯方郡は間違えてました。
と、小声で言っているw
0805日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 18:53:21.78
>>804
>阿波先生が 丹山 にこだわる理由がさっぱりわからない。

そりゃ、魏志倭人伝に「其山有丹」とはっきり書いてあるからだよ。 それは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0806日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 19:01:27.38
>>802
なんだ、@阿波は記憶力も大したことないのか(和羅
0807日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 19:08:21.34
>>805
阿波が倭なら、倭王の卑弥呼が
九州でも畿内でも、倭王の国に丹は出る。

倭人伝の言う九州の卑弥呼は倭王じゃない。
帯方郡は、馬鹿、と陳寿は思ってる。

249年、司馬氏の台頭以降、東夷での外交方針を変えたのは
247年の張政の 邪馬台国情勢の報告があったからだよ。

倭との戦争は望んでない。
倭は246年以降、帯方郡の滅ぼした、韓を後援し、百済新羅を建国した。

313年、漢四郡撤退は、高句麗台頭と言うより、
晋が百済新羅建国を目指した、日本にしてやられてるだろwww
朝鮮人には、判らんかもネ?
0808日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 19:14:34.66
>>807
>阿波が倭なら、倭王の卑弥呼が
>九州でも畿内でも、倭王の国に丹は出る。
> 倭人伝の言う九州の卑弥呼は倭王じゃない。

これを理解できる人、翻訳してください。  @阿波
0809日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 19:28:49.08
>>808
アホか? ググれカス! 翻訳ソフト使えよ。
0810日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 19:32:54.43
>>807
>阿波が倭なら、倭王の卑弥呼が
>九州でも畿内でも、倭王の国に丹は出る。
> 倭人伝の言う九州の卑弥呼は倭王じゃない。

これを理解できる人、翻訳してください。  @阿波
0811日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 19:37:48.45
>>790
川を遡ったなんて記述はないし、
川沿いの開けた土地は歩いていない

>>793
玄関口はあくまで一大卒だから。
港の整備が行き届いていないいない当時、
天然の良港である名護屋港に船を停めた。
0812日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 19:39:01.68
アラシに返信するあなたもアラシです。
何度も言わすな!
0813日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 19:51:22.56
>>811
>玄関口はあくまで一大卒

247年の張政の時は、一大卒が有った。
240年の梯儁の、軍船で行軍の時は無かった。

そもそも、水行とか陸行と言うのは、行軍であって、
倭人の通商などでは、使わない三国志の軍事用語ではないのかな?
0814日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 19:54:00.93
>>812
811だけどアラシって阿波?
キナイコシ?
日本史版たまにしか覗かないからわからん
0815日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 20:05:57.84
>>814
阿波も土器厨も日本海も都万も記紀もこれヒドもキナイコシも?妖怪?
なんか忘れてるけど、過疎スレだし、
♪ドンと来い 
話が通じないのは、個人的にアラシなのかな? ウンザリ。
アタシが相手しないだけだから、気にせず 
♪ドンと来い!
0817日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 22:29:12.80
>>789
>松浦なんかに停めたら、荒波の玄界灘で船が大破しちゃう。

松浦川河口付近には、潟湖があったんだよ
喫水の深い構造船の時代より前には、波の静かな潟湖が
天然の良港として利用されてた
0818日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 22:30:51.10
佐賀川上が伊都國ってのは、「そう考える人もいるねww」レベル
まともに取り合う人はほぼいないよう
0819日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 22:39:45.83
>>801
>卑弥呼の住居は平塚川添遺跡。

平塚川添遺跡は6重の環壕を持つ
しかし卑弥呼の居処の記述に環濠は気配もないし、
平塚川添遺跡は環濠集落としては規模が小さい

卑弥呼の居処とするのはちょっときびしい
0820日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 22:58:37.69
>>817
川を遡ったという記述がない
0821日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 23:20:52.67
>>788
>淮南子が関係ない。 ただの足し算。 

倭国の本土に着くまでを萬里にしてるんだよ
渡海がどれも千里で一律という時点で、海上の距離は計れていない
渡海が3回で三千里、萬里−三千里で、狗邪韓国まで七千里としてるだけ
残り二千里が出てくる理由がない

全部で萬二千里というのも最初から決まっていて、それが淮南子から来ているってこと
0822日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 23:22:44.91
>>817
>川を遡ったという記述がない

>>790は遡ったとしているけれど、河口の潟湖に入るのに川を遡る必要はないよ
0823日本@名無史さん垢版2018/09/24(月) 23:57:22.27
>>817
>松浦川河口付近には、潟湖があったんだよ

調べてもでてこない
どこを調べれば書いてる?
0825日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 00:59:19.44
>>824
どこにもない。
urlを教えてくれますか?
0828日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 07:26:50.78
>>821
見りゃ判るもんを
怪しいもんに、
こじつけで否定しても
0829日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 07:32:59.27
>>825
末盧国という有名な本だよ
0830日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 07:43:09.74
>>829
出版社は?
0831日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 08:04:27.13
末羅国(唐津市松浦川の津)
>伊都国で統治していた(一)大率は、津に赴いて、海を渡って中国や朝鮮へ行こうとする倭の使者や、
>渡来した帯方郡使を臨検したという記述がありますから、港は、「津」という文字で表される「川の港」でなければならない。
>呼子、名護屋にはそれにふさわしい川が存在しません。次の伊都国まで五百里を歩いている。
>つまり、伊都国には港がないことを合わせると、
>津は唐津市の松浦川に設けられたのだろうということになり、末盧国もこの一帯と結論できるのです。
0832日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 08:09:07.34
>>831
いくら、「呼子」だ「唐津」だと言い合っても、どちらも根拠の無い間違い説。
魏使 の上陸地は「福津市周辺」ですよ。
下記の点において、「呼子」「唐津」は適合しない。  @阿波
@壱岐からの「距離千里」
A上陸地としての環境(遠浅の砂浜)
B対馬海流の影響
C大陸との交流痕跡
D上陸地としての集落痕跡
0833日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 08:21:31.99
A上陸地としての環境(遠浅の砂浜)

こんなところから上陸しようなんて、アワアワアワッ・・・、チーン。
0834日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 08:21:51.49
>>821
弥生時代にしてはよく測量したと思うよ。
0835日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 09:26:58.49
>>833
>A上陸地としての環境(遠浅の砂浜)
>こんなところから上陸しようなんて、アワアワアワッ・・・、チーン。


岩場で座礁して、 アワアワアワッ・・・、チーン。  @阿波
0836日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 11:06:07.35
遠浅の砂浜とか大型外洋船は座礁するから近づけない、上陸地点としては最悪
港は水深が深くて風雨から船を守れるような囲まれた湾になった地形
遠浅の砂浜とか頭おかしい。
0837日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 11:21:11.08
>>836
>遠浅の砂浜とか大型外洋船は座礁するから近づけない、上陸地点としては最悪

座礁難破するのは岩場。 遠浅の砂浜で座礁とか頭おかしい。
沖合に停泊して、艀(はしけ)で運搬するもんだよ。

岩場で座礁して、 アワアワアワッ・・・、チーン。  @阿波
0838日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 11:30:26.12
>>837
砂浜でも座礁して動けなくなるよ
沖合に長期間停泊とか危険
嵐が来たら沈没。
0841日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 11:33:01.09
艀を使うなんて不便なんだよ
直接に接岸した方が荷揚げは楽。
0842日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 11:35:01.02
>>838
>砂浜でも座礁して動けなくなるよ

倭国(阿波)の海人を舐めたらアカンぜよ。


>沖合に長期間停泊とか危険

長期間停泊する必要などなし。 以上


>嵐が来たら沈没。

岩場で座礁して、 アワアワアワッ・・・、チーン。  @阿波
0843日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 11:38:59.46
>>841
>直接に接岸した方が荷揚げは楽。

それは現代の船舶性能・港湾設備のお話。 歴史のセンス欠如だね。

岩場で座礁して、 アワアワアワッ・・・、チーン。  @阿波
0844日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 11:46:51.34
>>828
机上の数値で測定値ではないと分かってくれてるかい?
分かっていれば、短里は捏造って理解できると思うが?
0845日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 11:50:18.68
唐津にあった干潟こそ「松浦潟」だろ。大船の接岸には向かない。
呼子?古代は対岸の加部島とつながってたし、潮の流れも複雑。
名護屋がもっとも可能性が高い。そこから東南方向へと陸行を開始し伊都へ向かった。
0846日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 11:54:30.26
>>845
>名護屋がもっとも可能性が高い。

名護屋以西は大陸へ帰る、出航地だよ。 大陸からの入港は対馬海流に邪魔されて無理。  @阿波
0847日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 12:08:09.67
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0848日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 12:45:15.04
>>846
秀吉の朝鮮征伐では大陸と名護屋の間を輸送船が何回も往復してますが。
0849日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 12:58:18.99
>>848
>秀吉の朝鮮征伐では大陸と名護屋の間を輸送船が何回も往復してますが。

根拠は?  @阿波
0850日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 13:00:49.62
名護屋以外の港を使用しら例はないから。
0851日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 13:03:53.04
>>839
水田化できるような浅い湿地帯に船は停めんだろ
0852日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 13:23:26.04
>>850
>名護屋以外の港を使用しら例はないから。

では、名護屋の港を使用した例の根拠は?  @阿波
0853日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 16:47:22.46
>>852
秀吉の朝鮮征伐では名護屋城以外に城ない
もし福津辺りにしか船が着けないなら秀吉は福津にも城を築くよ。
file:///C:/Users/kyoic/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/BQPSY0DQ/ngycm-hakugakukyoudouH26.pdf
0854日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 17:05:26.81
秀吉は大陸進出では名護屋城を利用した
卑弥呼も大陸との交易や交流では名護屋城付近や呼子付近を利用したんだよ。
0855日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 18:10:42.92
>>850
>名護屋以外の港を使用しら例はないから。

では、名護屋の港を使用した例の根拠は?  
まだ?  @阿波
0856日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 18:15:44.25
潮の流れの方向性があるので、
出港時は呼子・名護屋の方が便利だが、
入港には、いったん唐津沖まで南下し、北西に向きを変えて海岸伝いに呼子・名護屋へ向かうことになる。
このため、入港の客は唐津で降ろし、空船を呼子・名護屋へ回送しておいて、客の帰りを待つ形になる。
0857日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 18:22:21.97
>>856
>入港には、いったん唐津沖まで南下し

残念ながら、対馬海流に流されて、「唐津沖まで南下」できない。  @阿波
0858日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 18:31:14.20
阿波の人間は、よほど嫉妬深い種族のようだね。
でも、そろそろ破綻が近かそうな気がしてきた。
0859日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 18:35:37.28
>>858
>でも、そろそろ破綻が近かそうな気がしてきた。


九州説は「其山有丹」で、とっくに破綻してるでしょ。
九州説は最初っから、邪馬台国論争に参加資格がないんだよ。  @阿波

 
0861日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 18:48:58.19
>>860
>流されるのを考慮して漕ぐだけ

必死で漕いで漕いで、着いた海岸が「相島・福津」だったとさ。  @阿波
0863日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 19:34:45.67
>>862
>経験値なめすぎ


そうだよね。 経験を積んで得た結論が、流れつくところが相島・福津だってね。  @阿波
0865日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 20:09:27.23
>>864
>根拠なし

根拠?  根拠は「世界文化遺産」だよ。
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから「世界文化遺産」に選ばれたのも当然と言えば当然。  @阿波
0867日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 20:24:02.65
>>866
>ごたくはいいよ

君はごたくさえもならべられないようだね? 
だから、九州説は最初っから、邪馬台国論争に参加資格がないんだよ。  @阿波
0868日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 20:53:09.83
>>865
宗方が玄関口になったのは4世紀後半からくらいだろ。
それまでの玄関口は糸島。
出土品が物語っている。
0869日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 21:10:05.15
ということは、3世紀には宗像は邪馬台国の支配下ではないのだな。
倭国とは、博多湾沿岸(筑紫)と有明海沿岸(肥国)のことだ。
0870日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 21:37:51.00
>>868
>出土品が物語っている。

その出土品てなに?  @阿波
0871日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 21:41:48.96
>>868
>宗方が玄関口になったのは4世紀後半からくらいだろ。
>それまでの玄関口は糸島。

せっかくの玄関口がどうして宗像に替わったのかね? 
替えなかったら「世界文化遺産」に認定されたのに・・・  @阿波
0872日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 21:43:29.62
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0873日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 21:44:16.93
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0874日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 21:59:57.94
>>869
それ以前に縄文から、BC200辺りからでも、日本海には、倭の本流、
糸魚川、越、隠岐、丹後、出雲、土井ヶ浜、沖ノ島、対馬ルートも有るわけで
九州卑弥呼の邪馬台国は、単に公孫氏とのフロントだったんじゃないのかな?

卑弥呼は帯方郡方面に向かってるけど、半島南岸倭人国は敵対して釜山側から発展してるだろ?
もしも、チラ裏の君らに、学者の端くれみたいのが居るとしたら聞きたいんだが、
韓国に配慮しないと、日本の考古学も歴史学も成立しないのかな?

日本海ルートは、黒曜石、翡翠、青銅器などで最古と考えられるし、
阿波の言う、倭人伝をミスリードしたい、宗像である必要は、全然、無いヨ。
0875日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 22:04:30.66
>>874
>日本海ルートは、黒曜石、翡翠、青銅器などで最古と考えられるし、
>阿波の言う、倭人伝をミスリードしたい、宗像である必要は、全然、無いヨ。

その「日本海ルート」も倭国(阿波)の忌部(海人族)が開拓したルートだよ。
だって、「忌部はん」以外にほかにいないんだからどうしようもないwww  @阿波 
0876日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 22:10:32.08
>>875
阿波先生の海洋知識は話にならん。
丹は卑弥呼が九州王でも奈良王でも、倭王なら倭国に出る。

ひとの話を理解できたこと無いだろ?
相手してくれる数少ない反論には感謝する。
0877日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 22:19:41.21
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0878日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 22:30:14.28
>>873
都万厨先生なのか、日本海先生なのか? 記紀厨先生は・・・ 無いな。
田油津姫 先生、見落としてたか?
何とか姫は無理無理でトンチキだけど 柔軟性は素晴らしいと思います。
0879日本@名無史さん垢版2018/09/25(火) 22:34:50.11
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0880日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 00:06:58.01
阿波さんの必死ぶりは認めるし、人格的にも悪い人間ではないと思ってるが
いかんせん机上の学問だけで実地の経験の少ない御仁なんだろうな、とは思う。
阿波さんのお人柄が嫌いではないだけに、無知から発する御説が惜しまれる。
0881日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 00:10:13.37
頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか
0883日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 06:49:31.48
>>880
>いかんせん机上の学問だけで実地の経験の少ない御仁なんだろうな、とは思う。


だって、「忌部はん」以外にほかにいないんだからどうしようもないwww  @阿波 
0884日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 07:06:38.54
>>855
秀吉の朝鮮征伐の記事にありますよ
名護屋以外の港を使用と主張してるのは阿波だろ
使用した例を出して根拠を示す義務があるのは阿波
無い例を出せとか無理、悪魔の証明ってやつだよ
阿波は自分の妄想を根拠に話をしてるだけだな。
0885日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 07:10:29.76
>>855
【文禄】 秀吉の朝鮮征伐 【慶長】 [無断転載禁止]©5ch.net

ここに詳しい人が居るみたいだから聞いてみたら。
0886日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 07:13:42.98
>>884
>秀吉の朝鮮征伐の記事にありますよ


それは、朝鮮半島への「出航地」として。
朝鮮半島からの「帰港地」とは書かれていないでしょ?
往古より、朝鮮半島からの「帰港地」は相島・福津方面。  @阿波
0887日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 08:35:42.53
>往古より、朝鮮半島からの「帰港地」は相島・福津方面。
かといって、阿波に用事があったわけじゃないからね
0888日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 08:41:55.63
>>887
>かといって、阿波に用事があったわけじゃないからね


いや、「相島・福津方面」は大陸・半島から倭国(阿波)への大事な入口なんですよ。   @阿波
0889日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 08:54:48.83
畿内への道すがら、横目で、阿波を見て通り過ぎたのよ。。。
0891日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 10:00:32.67
>>889
>畿内への道すがら、

畿内へ行くルートはない。  @阿波
0892日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 10:33:58.45
>>886
肥前 名護屋城の説明

半島脇の名護屋浦・串浦は、外波の影響を受け難い軍船を停泊させるに適した入江である。

5月15日石田三成が明使一行を案内して名護屋城に到着。

http://www.geocities.jp/shiro20051212/Hizen-Nagoya-Jo.html
0893日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 10:43:41.84
>>892
>半島脇の名護屋浦・串浦は、外波の影響を受け難い軍船を停泊させるに適した入江である。
>5月15日石田三成が明使一行を案内して名護屋城に到着。

それは、朝鮮半島への「出航地」として。 よく表れているね。  @阿波
0894日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 10:59:05.74
>>893
朝鮮で戦って相手を名護屋へ船で連れて来てるんですけど?
0895日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 11:37:31.92
>>894
>朝鮮で戦って相手を名護屋へ船で連れて来てるんですけど?

相手? なに頓珍漢を言ってるの?  天下の石田三成がわざわざ明使一行を案内してるんだよ? 名護屋城まで。 お見送りの為にね。  @阿波
0896日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 11:38:51.32
>>893
これはから分かるのは名護屋浦が朝鮮半島からの「帰航地」であったてことすですよ。
0897日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 11:43:17.60
>>892
>半島脇の名護屋浦・串浦は、外波の影響を受け難い軍船を停泊させるに適した入江である。

出航の為、船団が集結していることがよく分かりますね。  @阿波
0898日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 12:28:27.96
戦後に名護屋城に帰り着いた諸将に三成が秀吉の死を告げ、
秀頼へのお悔やみ言上を要請し、茶会による慰労を申し出たところ、
加藤清正や浅野幸長らと険悪になったシーンは有名だろ
阿波は知らんのか?
0899日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 12:40:28.00
>>898
それがなにか?  @阿波
0900日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 12:44:40.59
@awaは、もう駄目かもしれんね。
0901日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 12:53:02.72
>>898
>戦後に名護屋城に帰り着いた諸将


@諸将が直接、名護屋城に帰り着いたという、根拠は?

A光成が慰労を申し出たところが「名護屋城」だったという、根拠は?  @阿波
0902日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 13:28:59.31
>>901
阿波が一番根拠を示さないキチガイなのに
他人にだけは厳しいな
0903日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 13:42:27.06
>>902
>他人にだけは厳しいな

答えられない質問ばかりして、ごめんね。  @阿波
0904日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 14:14:33.80
どうして阿波って倭国の首都なのに碌な宝物や王墓がないの?
遺跡もショボイのばかり
0905日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 14:36:58.58
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0906日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 15:00:18.30
>>904
>どうして阿波って倭国の首都なのに碌な宝物や王墓がないの?

倭国の首都なんだから、そりゃあるでしょ。
まぁ、宝物は倭国(阿波)から下賜するばかりだけどね。 たとえば、「朱」とか「勾玉」とかね。  @阿波
0907日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 16:00:48.60
>>906
阿波になければ王都とは言えない
ただの炭鉱夫の集落
0908日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 16:07:48.39
間違えた
炭鉱夫じゃなくて坑夫
阿波はただの坑夫の集落
0909日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 16:08:55.77
>>907
>阿波になければ王都とは言えない


もちろん、倭国(阿波)にもありますよ。 下賜するんだから。  @阿波
0910日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 17:01:43.92
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0911日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 21:21:32.35
重要な祭祀、王城がそれだけで独立して存在している

これは環濠で大事な部分を取り囲み外敵に怯えるような不安定な状態ではなく、
筑紫という広範囲の安全を確保した安定した広範囲を支配する政治権力が成立していることを意味している

ほんの少しの移動で別な小規模な「クニ」になってしまうような他の地域とは全く違う様相になっているのがわかる
0912日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 21:22:02.70
福岡では弥生集落のように溝で囲んだ部分だけの村落の段階を脱している
政治権力がより大きいものになった結果、領域すべてが国であり、居住地となっており古い拠点集落のようなものは解体されている

そして集落の中に入っていた祭祀場や王城はそれ専用の場として独立している
それが筑紫の日向である

伊都国と奴国をあわせた倭国の首都圏は、前時代の時代遅れの環濠集落など既に通り過ぎており弥生時代の尺度で判断できる場所ではない
0920日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 21:51:54.11
乙です
0921日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 23:04:26.68
>>915
阿波って汚い言葉使うときは@阿波
使わないよね?
0922日本@名無史さん垢版2018/09/26(水) 23:07:39.85
阿波みたいなボケ老人を介護するご家族には
心底同情します。
0923日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 12:53:39.82
>>917
師匠、乙。 持衰の下り 読み直しました。 
>>5 は倭人の風物志でどーでも良い、と思ってた情弱ですw

其行來渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉不近婦人 如喪人
名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹

この持衰を、見たのは乗船して実際に見た張政だけ、であって
上の墓制の説明とこの部分は、漢文書典拠じゃないみたい。

不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 は 虱とか、リアリティー高い。
決定打は、便 欲 殺之 謂其持衰 不謹
張政の船では殺されてないから、便欲殺之 殺を欲するという表現になっている。

陸に残す祈祷師かと思いましたが、海神への? 生贄でした。
中國へ渡海の船に乗るというけど、九州上陸後、瀬戸内海に乗り換え説は無理でしょ?
ご教示、ありがとうございますた。

この船の 載斯烏越 は大夫じゃないみたいだけど、
この載斯は梯儁の21国にも相当するものは無さそう。
諸王や将軍ではなく持衰の生殺与奪に係わる、壹與直属の神官名かとも思う。
0924日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 13:59:25.92
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0925日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 18:49:56.66
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0926くまモン論者垢版2018/09/27(木) 22:00:54.62
>>923
さすが弟子ちゃんぱねえw
距離的に畿内は無理だよな、九州の倍はある。
其行來渡海詣中國恆使一人じゃとても足りないわな。
0927くまモン論者垢版2018/09/27(木) 22:03:49.23
船に同乗してる持衰が不近婦人ならば、倭の船には女は乗れねえってことかな。
それとも中国を訪れる時だけ?って事はあるまい
0928日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 22:35:39.26
また転写保存
>>667
そして何を言い出すかと思えば、九州を否定して?、
「大和には弥生時代を通して凄い沢山出土物がある!」?とか言い出す?。

バカは毎度見てて笑わせてくれる 。
0929日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 22:42:36.98
>>668
>畿内には古墳5700基以上あるそうだから
椿井古墳1基250点だからそれで単純計算すると5700×250で
畿内に鉄器は142万5000点以上ある事になるな<

畿内なんて、存在しないからインチキだし、
椿井も、大和ではないし、九州倭国の東征将軍の墓だし、
古墳の数も九州の方が多いし、
唐会要の倭国伝の「正北抵新羅」によって倭国は北部九州だし、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国で、
筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の、地方の市を監督する大倭職の国でしかない。
0930日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 22:50:16.01
>>669
>>纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。<

>これもデマ 筑紫型庄内甕が出ている <

あれ?、おかしいなあ?。
筑紫→大和の搬入土器は、なかった筈。
という事は、この大和説男は、
豊前当たりの「 筑紫型庄内甕」を、筑紫の庄内甕だ、として誤魔化したか?。
0931日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 23:09:52.16
持衰がどうたらだから邪馬台国は九州だとか言ってるやつがいるが、仮に持衰についての記述が正しくても、
それは伊都国に常に駐した郡使が見たことを倭人一般の風習として書かれているだけ
魏志倭人伝は魏志邪馬台国伝ではないと100万回説明してやっても、この爺さんたちは間違えを修正できない
0933くまモン論者垢版2018/09/27(木) 23:21:01.51
>>928
んんん?
これキッドじゃん。キッド本人が書き込んだの?
sageて書き込んでたっけな??
0934くまモン論者垢版2018/09/27(木) 23:27:38.18
>>931
風習は同じじゃねえのかよ?
だとしたら畿内のことはさっぱりわからなくなりそうw
0937日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 23:31:12.44
>>895
この時、明使一行は名護屋城までしか来てないですけど。
0938日本@名無史さん垢版2018/09/27(木) 23:31:37.20
>>933
ん?

928は俺じゃないが。

ところで、前に三足土器の起源を聞かれて、7000年前と俺は間違いを言ってしまった。

正しくは、三足土器は約8500年前に中原で登場し、黄河下流域と長江下流域まで
広がったのが7000年前だった。スマソ<(_ _)>

しかし、古すぎる・・・
0941日本@名無史さん垢版2018/09/28(金) 07:44:53.94
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0942日本@名無史さん垢版2018/09/28(金) 18:18:28.87
スレが止まったな
コピペ貼りの人しか来ていない

まあ、こんなものといえばこんなものかな
0944日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 11:41:03.44
ここにも貼らなきゃ行けないのか

龍はもともと実在の動物、ヨウスコウワニ
それが伝承の間に尾ひれがついて、角が生えて逆鱗を持つようになったんだよ
0945日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 11:52:21.47
実物を知らないと身近なものから類推するからね。
0946日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 14:39:33.82
>>931
テンプレ
>2 張政
>3 梯儁
>6 張政
>7 梯儁
>8 >9 238年〜247年の外交史
これは、魏における、邪馬台国伝

>>4 漢代史料
>>5 史料混合だが
こんなもん、邪馬台国伝 の補完
>其死有棺無槨封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉
>喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐
>其行來渡海詣中國恒使一人 不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚 不食肉不近婦人如喪人
>名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹
には、張政が関与(一大率で駐留拘束、船中と伊都しか見ていない)

東夷伝序文も倭人伝評も、古典史料に対して
魏の東夷深部及び倭国進出を快挙として評価している。
150年から250年に、中国人が倭を見たのは魏のこの2回と言うのが中国正史の記録。
>伊都国に常に駐した郡使が見たことを倭人一般の風習 ←これはひどい

公孫氏や高句麗や東夷は中国のうちに入るのかな?
土器厨アラシ先生に聞くか?www

アナタも、アタシも、スレ主もアラシです。♪ドンと来い♪
ついでに、チベットやウイグルは? >1 エジプトとかwww
0948日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 15:27:55.74
魏志東夷伝は短里で統一されていたから、帯方郡の郡使も短里を使っていたかもしれません。
0949日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 16:55:22.46
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0951日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 19:24:17.34
魏に対抗して独自の尺度を制定したか、土着の尺度に配慮して採用したか。
(魏を気にする必要はないからね)
0952日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 19:25:59.35
百済、高句麗、倭は同じ扶余の末裔なんだぜ。
同じ里を使っていても不思議ではない。
0953日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 11:31:04.68
>>951
>魏に対抗して独自の尺度を制定したか、

変に度量衡をいじると取引・経済が混乱して国力が落ちるんだよ
そして公孫氏が独自の尺度を使った証拠は文献的にも考古遺物でも一切存在しない
0954日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 11:32:21.58
>>952
>百済、高句麗、倭は同じ扶余の末裔なんだぜ。

その扶余は、どこからその「里」を仕入れてきたんだ?
0955日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 11:33:55.37
>>953
中国に依存しない独自の経済圏を作ろうと考えたのかもしれませんね。
0957日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 14:39:54.07
>>935
>中国に依存しない独自の経済圏を作ろうと考えたのかもしれませんね。

だから、乱世の混乱中にそんな社会経済の根本をいじったら、一発で国力が落ちるぞ
度量衡を定めるのは、天下を押さえた皇帝の専権事項
0958日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 14:59:08.99
>>953
当時は未だ未開の三韓や倭が独自に里を創るとは考えられないから
公孫氏しかいないだろうな
公孫氏が独自の尺度を使ったと書かれた文献的ないけど
東夷伝や三国史記に短里が使われてるからな。
0959日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 16:35:36.84
>>958
>東夷伝や三国史記に短里が使われてるからな。

使われてない
あるのは、倭国上陸までを万里に合わせた机上の盛った数字のみ
0960日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 20:03:21.78
>>959
短里も長里も要らんが、
>あるのは、倭国上陸までを万里に合わせた机上の盛った数字のみ

まず、帯方郡から女王を万2千里と定めた。 
これが、定義で良いんだろ。

これをもとに
半島南岸から九州は3千里である。
韓は方可4千里。 
郡から対馬の対岸まで南4千里、東3千里である。

と、言っているのが、倭人伝。

九州上陸後、女王までは2千里
これは、壱岐から半島南岸 または
対馬から、九州上陸の距離に等しい。

女王国は九州北部に収まる。
小学生でも判る、文章問題です。

つまり、短里も長里も要らん。
0961日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 20:21:00.97
>>960
なるほど
下から積み上げるのではなく、頭から萬二千里を割り振るというのは、陳寿が考えそうな手法だ。
たぶん、その通りだな
0963日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 20:39:37.93
>>962
唐津の小学生レベルでも読み解ける行程パズルを、
予算獲得で、頭と目の曇った畿内学者諸氏が読み解けなかったというのが正しかろう。
0964日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 20:45:49.31
>>961
そもそも、短里など存在しない、と言い張ったって
韓の方可4千里が中原を含んでしまうような話は有り得ない。
なぜ、そういう話になったかも 推測は出来る。

帯方郡は、九州の卑弥呼を倭王として皇帝に紹介した。
皇帝は、コロッと騙された。

九州の筑紫程度の、そんなところに、
こじんまりと魏の軍事同盟国である
倭国があってはいけないのである。

使譯が見に行ったら、小さすぎッて話が倭人伝w
短里も長里も、あてはまって貰いたくはない。

陳寿は、邪馬台国の倭王は
ホント―のことを言えば、倭王じゃ無かった。
と、言いたかったのである。

そして、
247年で魏と邪馬台国の国交は終わっている。

めでたし、めっでたし。
おめでたい奴等だなw( ^ω^)・・・
0965日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 20:56:51.71
>>957
だから国力が落ちて皇帝の専権事項を侵害したとして滅ぼされたのでは?
0966日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 20:57:03.62
>>964
>おめでたい奴等だなw( ^ω^)・・・

工作員タイプの九州説?

残念ながら当時の倭国は半島の弱小国家群と違って、
広域連合を作る成熟した社会だったんだよ
0967日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 21:00:58.14
>>964
>そもそも、短里など存在しない、と言い張ったって
>韓の方可4千里が中原を含んでしまうような話は有り得ない。
>なぜ、そういう話になったかも 推測は出来る。

淮南子他の古来の世界観で、漢土の外が萬二千里ってのが常識だったんだよ
だから、萬二千里は倭国までの距離として書いてあるが、
倭国までの実際の距離とは関係ない

九州説の人はそれが理解できないんだよな
0968日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 21:01:31.03
うん、
その後まもなく、魏も終わったけどな。
0969日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 21:04:11.88
>>965
>だから国力が落ちて皇帝の専権事項を侵害したとして滅ぼされたのでは?

袁紹は、度量衡をいじってないけど滅ぼされてるだろ?
公孫氏が度量衡をいじる理由も必要もないし、いじった記録も遺物もない
いいかげんに短里は捏造って認めれば楽になるよw
0970日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 21:06:20.97
捏造っていうか、魏志倭人伝の里数を地名と当てはめるとそのような尺度であったということだろ。
0971日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 21:12:46.49
陳寿にしてみれば、
東夷伝にちょこッと色気を添えて、にぎやか仕立てにしてやったぜ〜、ってなところだろ。
ま、そのせいで、後世日本がもめることになろうとは・・・、
0972日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 21:15:28.37
>>967
既に楽浪帯方は漢土であって、
246年には韓王朝を滅ぼしてる事実は無視か?

古来の世界観で漢土の外が萬二千里ってのが常識
隣の国だろwww

>萬二千里は倭国までの距離として書いてあるが、
倭国までの実際の距離とは関係ない

無理筋杉 アホですか?
0974日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 21:38:36.03
>>968
魏は263年に陳寿のいた蜀を平定。
司馬氏に帝位を譲るが、280年呉を平定。三国志の覇者だよ。

238年卑弥呼朝貢の翌年?翌翌年、8歳の曹芳8歳で戴冠 
司馬懿 後見だが、戦国王がこんなんで、国が続くわけが無い。

張政は、247年
復立卑弥呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
と、言っているが、曹芳の前例で作った、嘘ではないのかな?

壹與 なんてもんは、
この時印綬制詔みたいな実態が無いし、
即位の247年以降、もはや、歴史に登場しない訳で・・・
0976日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 21:57:35.99
>>960
三国史記のこの記述は?
十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里
短里が使われてるのは倭人伝だけじゃないんだよな。
0977日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 23:40:30.97
三国史記のような、12世紀成立という記紀より400年も後のものが参考になると思うなら、
扶桑略記とかもっと読んでやれよw

半島には古い記録が一切残ってないんだから
0978日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 23:47:29.64
>>972
>既に楽浪帯方は漢土であって、
>246年には韓王朝を滅ぼしてる事実は無視か?

相変わらず頭が悪いなw
漢土の端から萬二千里だから、帯方郡から萬二千里と書いてあるんだぞ
古来の世界観の伝統にそのまま倣って書いてあるからそういう記述になってる

>隣の国だろwww

隣の国では、司馬懿の功績がつまらないものに見えてしまうから、
わざわざ萬二千里にしてあるんだよ

>無理筋杉 アホですか?

実際現実の地理とは合わない数字なのは事実だよ
「短里の萬二千里」しか、九州説の頼るべきものがないから必死だなw
0979日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 23:52:59.25
>>970
>魏志倭人伝の里数を地名と当てはめるとそのような尺度であったということだろ。

魏志倭人伝の里数を地名と当てはめると、区間ごとにバラバラで4倍も異なる値になるから
「そのような尺度はなかった」ということだよ

誇張目的で現実の地理とは関係なく、机上で作った数字があるだけ
誇張されてるからそれを戻せば短くなるのは当たり前

それを「短里はありまぁす」とか言い続けるのは結局は捏造と同じなんだよ
0980日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 00:18:56.20
畿内説にとって都合が悪いから無視します。
そう素直に言えよ。
0981日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 01:14:54.01
度量衡を捏造してでも九州だと言い張ってるだけ
その捏造した短里を当てはめて検証したら、実は区間によってバラバラでしたとさwww
でも短里を適用すると丁度いいと嘘をつき続ける
捏造して、さらに嘘をつく これが九州説
0982日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 06:33:47.83
「架空の萬二千里」でも九州以外に比定しようがないだろうに、相変わらず頭悪いやつが騒いでるな
0983日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 06:39:15.28
夕べも、おんなじことをグチって回ってたんですか。
畿内説の幕は、もう下りたんですよ、おじーちゃん。
0984日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 07:02:11.48
おーい、>>981やーい
短里の古田は、もう九州にはいないんだぞー
0985日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 08:00:44.24
>>982
>「架空の萬二千里」でも九州以外に比定しようがないだろうに、相変わらず頭悪いやつが騒いでるな

結論ありきの思考停止が九州説の基本

ちょっと編年について調べてみれば、
倭国における3世紀の九州の地位がすぐに分かるだろうに

二千里ってのは大陸の人間にとって相当に遠大な距離だぞ
千里馬ってのはものすごい馬って意味だからな
倭国上陸後まだ2000里残ってる時点で、九州じゃないんだよ
大陸の人間が読んだイメージではそうなる

そんなに遠くに女王の都があるから、一大率が置かれるというのも
二千里の距離感からは当たり前のこととして理解できる
0987日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 08:39:27.10
>>985
だから、陳寿のイメージ作戦だったといってるだろう。
キミも、まんまと載せられてるってわけだ、、、
0988日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 08:42:17.68
帯方郡は、馬韓の地に開かれた。
馬韓種族は、蚕を飼い、絹を産していた。
その馬韓人(のちの百済人)の馬流れは、海を渡って倭地にも達し、
対馬国〜邪馬国〜邪馬台国〜投馬国〜斯馬国・・・、と養蚕・絹織りを広げていった。
(皇室の養蚕行事は、その伝統を今に伝えているわけだ)
0989日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 09:12:29.11
>>985
おまえ、萬二千里が架空の数字と言ってるのに、二千里うんぬんとのたまうのは頭悪すぎw
0990日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 09:39:58.68
>>989
>おまえ、萬二千里が架空の数字と言ってるのに、二千里うんぬんとのたまうのは頭悪すぎw

本当に>>989は頭が悪いんだな
「短里はない」 その上で、二千里は相当に長い距離だってこと
九州で収まるような倭国を想定していたら、當在會稽、東冶之東にはならないってこと

倭国上陸までを「万里の修交」で一万里にして、
その後まだ2千里続く国だから、親魏倭王の金印を出すに足る大国になるんだよ
0991日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 09:50:30.55
>>990
だから、其の里数は、
陳寿の盛りに盛った萬二千里大ボラだったと自分で言ってるじゃないかwww。

にもかかわらず、まだそういいたいんなら、長里の大ボラ萬二千里は正しかったというんだな。
0994日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 10:20:41.94
>>993
九州説がな

萬二千里があてにならない数字となった瞬間に
九州説は根拠なしなんだよ

伊都国、奴国以外にめぼしい国らしき遺跡もないし、
邪馬台国ではないことがはっきりしているこの2国を除くと
北部九州には3世紀の遺物・遺跡がびっくりするほどないんだ

その状況下で、
「魏志倭人伝の里程は短里、短里で萬二千里なら九州に決まってる」
以外の根拠が一切ないんだから
0995日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 10:21:33.46
萬二千里が、大陸中華の世界観から来る、倭国までの実距離とは関係ない机上の値だと
はっきりすれば、その時点で九州説はおしまい
0997日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 10:29:58.47
萬二千里は実数でなくても陳寿が九州を想定して距離を割り振ったのは事実だから
1000日本@名無史さん垢版2018/10/01(月) 11:24:15.90
倭人伝の行程が正しい場合は九州

倭人伝の行程が正しくない場合は
日本中が該当するが
倭人伝の産物や地名、
倭人伝の時代の遺跡数、出土物から
九州である可能性が高い。
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