神武・倭国の連合東遷説

1ホワイトケープ2018/08/31(金) 12:13:59.27
神武・倭国の連合東遷説とは
神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。
東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。
 
【連合東遷説の定義その1】
定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。
定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。
定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。
定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。
定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。
定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。
定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。
定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。

324日本@名無史さん2018/12/23(日) 11:22:27.67
日本の神話と言っているけど、
本当は日本の話ではないんだよ

どこそこで生まれたとか、
そういうのも嘘

325日本@名無史さん2018/12/23(日) 11:48:24.02
博多湾の話だってば。

326日本@名無史さん2018/12/23(日) 12:07:21.60
>>325

博多湾は、「其山有丹」で論外の話だってば。   @阿波

327日本@名無史さん2018/12/26(水) 07:46:20.69
>>326
オッケー分かった
そろそろ帰れや

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458389654/

328ホワイトケープ2018/12/27(木) 20:50:08.97
古事記は二神の結婚の段で次のように記している。
『次に淡島を生みき。こも亦、子の例には入れざりき。』

次のように考えた。
1、この淡島は、和歌山市加太の淡島神社の淡島神で、水蛭子と同じ不遇の子とする説がある。
2、私は徳島の吉野川中流にある、日本最大の「中の島」である、現在の善入寺島を淡島と比定した。
3、伊邪那岐・伊邪那美は、水が得やすいこの島をまず開拓し始めた。
4、徳島の特産の穀物も植えた。
5、ところが、雨が少し多いと吉野川が増水し開拓地は水につかり土が流れてしまった。
6、島はすぐに水がつくことから、水の泡のようだと自虐して「淡島」と呼んだのだろう。
7、そこに植えた特産の穀物も、粟(あわ)と呼ぶようになった。
8.ついにこの島の開拓をあきらめ、神々のいる高天原にもどり相談をした。
9、神々には開拓を続けてくれることが大事で、失敗の原因は何でもよかった。
10、やり直しのできることを、失敗の原因とした。
11、「女先に言へるによりて良からず、また還り降りて改めて言へ。」
12、二人は、次に淡路島にもどり、南あわじ市のおのころ島神社がある島を改めて回った。

329日本@名無史さん2018/12/27(木) 21:44:12.04
>>328
オッケー分かった
そろそろ帰れや

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458389654/

330日本@名無史さん2018/12/27(木) 22:22:50.63
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

331日本@名無史さん2019/01/01(火) 17:06:13.01
延喜式に掲載されている神武天皇をご祭神とする神社はただひとつ
阿波は鈴川山に鎮座した樫原大明神ただ一社
奈良県橿原神宮は明治建立のばったもん

332日本@名無史さん2019/01/01(火) 17:28:23.15
「樫原神社」  @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/

333日本@名無史さん2019/01/01(火) 20:30:13.61
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

334ホワイトケープ2019/01/07(月) 16:52:38.52
記紀は、一書を含めて全て淡路州をまず生んだとしている。

次のように考えた。
1、伊邪那岐・伊邪那美の二人は高天原から戻り、南あわじ市の「おのころ島神社」付近に上陸した。
2、おのころ島を改めて回りなおすと、諭鶴羽山の谷水を利用した開拓を開始した。
3、麓の神代浦壁や神代社家などの地名は、その名残かもしれない。
4、しかし、諭鶴羽山(608m)は低く、谷も浅く、海岸まで10数kmしかない。
5、日本有数の灌漑用池が密集している地区で、当時も水に難儀したものと思われる。
6、日本書紀は、淡路州の結果が不満足で、「吾恥島」だと自虐的に記している。
7、つぎの土地に移ったのだろう。
8、淡路島の鉄遺跡、五斗長垣内や舟木遺跡は、邪馬台国時代には終わっている。
9、伊邪那岐・伊邪那美の国生みで、瀬戸内海東部の情勢が安定し、鉄工房は各地に拡散したと考えた。

335日本@名無史さん2019/01/07(月) 21:27:28.40
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

336日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:10:07.84
>>334
なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。
考古学的にもデタラメ。

337ホワイトケープ2019/01/08(火) 10:50:46.84
>>334
なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。
考古学的にもデタラメ。

指摘ありがとうございます。
考古学のプロではないので、誤りがあるかもしれません。
具体的に指摘の内容を説明していただければ助かります。

自分なりに、誤りとわかれば修正したいと思います。
できるだけ詳しく、お願いします。

338日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:24:35.03
>>337
淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。
そもそも銅矛文化圏(九州北部)の伝承と考えられる。
おのころ島は接頭語や助詞の違いを考慮すると、博多湾の能古島のことと考えられる。
かなり飛躍があるかもしれないが、イザナギらによる博多湾沿岸の倭国建国譚と解釈できる。
国生み神話では、九州北部の周辺の島ばかり小さい島が多く登場し、名称に「天の」とついている。
イザナギらの天津国は、この九州北部の島々(あまつくに=海の国)と考えられる。
記紀への収載に際して、西日本の各地を追加されたのだろう。

339日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:30:54.26
>>338
>淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR

340日本@名無史さん2019/01/09(水) 09:41:39.15
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

341ホワイトケープ2019/01/09(水) 09:59:29.64
>>337
淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。

>334
なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。考古学的にもデタラメ。
337は、考古学的反論でないので、334の方と違うようですね。

>337
歴史書を読んだ意見の相違のようなので、議論はしません。あしからず。

342日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:10:57.66
淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系
淡路島にいた勢力は瀬戸内海を東進してきた北部九州の海人勢力

弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。

>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。

343日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:13:20.68
近江にも製鉄遺構が見られるが、近江には3世紀までに北部九州の海人族である安曇が進出しており、
これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる

https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603
> 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、新旭町安井川の「安曇」や
> 太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、今津町南浜の「天川」などである。
> そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して安曇川流域付近に
> 住みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。
> また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。
>
> しかし、この軌跡は安曇川の中流域から上流域まで延長できるようである。 朽木地域では荒川に「雨乞いの淵」が、支流の北川には、野尻の上野に「天ノ阪」が、
> 下市に「あまんさか」が川に面してある。 また、京都市左京区百井の集落東方には天ヶ森(標高812m)があり、百井峠の南南東には天ヶ岳(標高788m)が
> 安曇川の源流を見下ろすようにそびえている。

344日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:17:08.53
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ

345日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:18:57.22
淤能碁呂島については、仁徳天皇御製と伝わる和歌に檳榔の島が出てくることから、檳榔が自生しない瀬戸内海ではないことが分かる
檳榔の自生北限は福岡県である

http://zenyamaren.org/yamaren20-027.html
> この口語訳は「古事記(講談社学術文庫)」によると以下のとおりになります。
>  『(おしてるや)難波の崎から、出で立って、わが領有する国をながめると、淡島や島、また檳榔の島も見える。佐気都島も見える。』
>  注釈には「おしてるや」は難波の枕詞、「淡島はイザナミ・イザナギの二神が国産みの最初に産んだとされる産み損じの島」であり、
> オノゴロ島は「神話上の島」、檳榔の島は「空想上の島」であるらしい、さけつ島も「実在の島ではあるまい」としています。
>  檳榔とはビロウの古名であり、ビロウは熱帯性のヤシ科の植物なので、南九州や四国太平洋岸には自生していても、
> 淡路島周辺の瀬戸内海には見ることができない植物です。これがネックとなり淡路島周辺のどこを見た風景なのかわからなくなってしまい、
> 結果「オノゴロ島」も「淡島」も「さけつ島」も全て「実在ではない島」となってしまっています。
>  ところが、この詩がそもそも淡路島から見て詠われたものではないと仮定して、淤能碁呂嶋候補と言われている島の中から、
> 自生ビロウが存在する島に絞って考えてみると、以外にこの詩のなぞが解けてくるのです。
> 淤能碁呂島候補でビロウが自生している島とは、唯一『小呂島』しかありません。

346日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:21:39.33
つまりは海洋民族国家である天津国(海の国)すなわち倭国が筑紫を起点に日本海ルートと瀬戸内ルートで西日本を席巻したのが弥生後期の列島の姿であり、その中でも富と権力を思いのままにしたのが筑紫の日向の伊都に眠る卑弥呼であったのだろう。

347日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:22:44.10
檳榔が南国の植物であることからも分かるように、ビロウ祭祀は南海系の文化
ゴホウラ貝などを南西諸島と交易していた海人が持ってきたと考えると>>342、343と符合する
それが皇室の重要な祭事で重視されているというのも、皇室が海人の出自であると考えれば妥当だろう

http://zenyamaren.org/yamaren20-027.html
>なぜ、ビロウが手掛かりになるのかというと、このビロウという植物の古代天皇制から現在の天皇家にいたる祭祀上の特殊な位置づけがあるからです。
>まず第一に、古代天皇制においてビロウは「最も神聖な植物」とされたということです。
>皇族の中でも特に高貴なものに許された乗りものに、ビロウ毛の牛車というものがあります。屋根材をビロウの葉で覆っているものだそうです。
>なぜこのような牛車が高貴なものしか許されなかったのか?
>おそらくそれは、天皇の即位式である大嘗祭に由来しているのではないだろうかと思われます。大嘗祭においては、天皇として即位する
>儀式のため百子帳という小屋を建て、そこが天皇になるための禊の場となるのだそうです。
>この百子帳の屋根材は、なんと今でもビロウの葉でなくてはならないのです。
>ビロウ毛の牛車とは、おそらくこの百子帳を日常にアレンジしたものであろうと思われます。
>ならば、その使用は天皇にごく近い血筋をもったものしか許されなかったことは、想像に難くありません。

348日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:24:30.29
>>347の続き

>第二に、ビロウは古代から続く信仰のシンボルでもあった可能性があるということです。
>折口信夫によると、ビロウの葉は風を起こす呪具であり、扇の元となったといいます。風は航海や海戦にとって、命を左右する自然現象です。
>古代において、呪術と科学は同じですから、ビロウの葉はシャーマンにとって風をあやつることができる(とみせることができる)、
>重要なアイテムだったのです。
>また、吉野祐子によるとビロウの葉は扇の原型でもあるが、幹は男根の象徴であり、蛇信仰のシンボルでもあったといいます。
>実にビロウは、日本の風土と信仰に深く根ざす植物でもあるのです。
>そもそも、ビロウ祭祀を行っていたのは、南方から流入した系統の民族であり、沖縄・南西諸島のには必ずビロウが自生しています。
>宮崎県の天孫降臨伝説が残る青島は、まさに北半球最大のビロウ自生地であり、青島神社の元宮は縄文時代からの遺物が発掘されます。
>古代天皇制に南方の習俗・祭祀が取り入れられているのは、古墳時代の遺物からもゴホウラガイの腕輪などからも推測されますが、
>山幸彦・海幸彦伝説の起源を考える上でもとても興味深いのです。
>
>さて、このようなビロウが沖ノ島や小呂島に自生しているのは、どんな意味があるのでしょうか?沖ノ島は4世紀から9世紀までつづいた
>天皇家による古代祭祀が行われた場所として、当然祭祀目的で持ち込まれたことが推測できます。
>なぜなら、沖ノ島のビロウは海岸からは遠い崖の上に自生しているので、とうてい海流による自然分布とは考えられえないからです。
>このことは、総合地球環境学研究所の秋道尚彌名誉教授が沖ノ島世界遺産関連の論文の中で指摘しています。

沖ノ島の檳榔が自生ではなく持ち込まれたものであるというのも重要ポイント
そこが皇室にとっての重要祭祀の地であったことの裏付けとなる

349日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:35:50.13
倭国とは対馬海峡の海洋国家。
だが筑紫は本拠地ではなく、倭王ニニギは宗像氏族に守られて筑紫の日向つまり伊都国に赴任した。
どこから来たのか?
記紀には高天原とあるが、それがどこかはわからない。
だがアマテラスを祭る国家祭祀が行われていた場所が対馬海峡の中にある。
世界遺産にも指定された沖ノ島だ。
ここが高天原の有力候補だろう。

350日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:13:28.05
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

351日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:14:50.63
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。

352ホワイトケープ2019/01/13(日) 09:53:01.58
>>342
淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系
淡路島にいた勢力は瀬戸内海を東進してきた北部九州の海人勢力

舟木遺跡の情報ありがとうございました。
淡路島の五斗長垣内や舟木遺跡が大阪湾でなく西を向いた位置にあることから、近畿の勢力がわざわざ淡路島に鉄工房をつくったのではなく、瀬戸内海をやってきた人たちが
つくった遺跡との意見は、これまでネットでも見られました。
伊邪那岐・伊邪那美がやってくる前に、加茂族に代表される北部九州の人たちが、戦乱をのがれ海人の力を借りて瀬戸内海をやってきたのではと考えました。
やってきた人たちは、農地の開墾や漁業など生活に鉄道具は欠かせない時代となっていたので、力をあわせて中心に近い淡路島に鉄工房をつくったのではないでしょうか。

353日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:05:49.00
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

354日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:10:49.41
>>342
>淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系

淡路島は倭国(阿波)の数ある島の一つ と、何度言えばw  
鍛冶遺跡も同前。  @阿波

355日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:19:25.17
神武天皇という漢風諡号じゃなくて神倭伊波礼毘古命という和風諡号を日本人は使うべき

356ホワイトケープ2019/01/13(日) 10:34:37.94
>>343
近江にも製鉄遺構が見られるが、近江には3世紀までに北部九州の海人族である安曇が進出しており、
これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる

「安曇海人の軌跡」の情報ありがとうございます。
最近は安曇の検討も進み、ネットで知られてきましたが、まだ知らない情報でした。
私は、海神・豊玉彦を調べている中で、渥美半島の白浜から三河湾の白浜、豊田市の白浜、津島市の白浜の経路をたぐり、二つの稲部を経て琵琶湖を渡り高島市の白浜につづく、日本の中央部を横断する道を探し当てました。
豊玉彦が銚子の砥石などを舞鶴の火明命の地に運ぶ道ではないかと考えました。
改めて高島市付近をみると、鴨稲荷古墳が見つかりました。加茂族も無関係ではなさそうです。
高島市を見下ろす位置に稲荷山があり、訊ねたことがあります。もしかしたら東征を終えた豊受大神は丹後に身を引いた前後に、この高島を訪ねているかもしれないと考えています。
海神・豊玉彦が国造りに貢献したことの感謝に出向いたのでしょう。この部分は私の古代ロマンです。

357日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:11:24.34
>>343
>これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる

九州には、倭国(阿波)の海人族(忌部)のような部族は認められない。  @阿波

358日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:48:04.87
矛でかき混ぜは鳴門の渦潮を表してる
高天原は渦潮が見える山

359日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:09:25.15
いにしえの人々の気持ち、ロマンが感じられないセンスのない答えはいらない

高天原は海と大空が繋がるところ
美しい大海大空が見れるところ
天命を感じることができるところ

360日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:17:11.14
>>357
オッケー分かった
独り言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458389654/

361日本@名無史さん2019/01/15(火) 10:47:07.67
私は淡島粟島は九州の淡海にあった島が発祥と見ている
数ある福岡のあわ島神社も創建が不明な所もある
朝倉日向の淡島、川崎の淡島
古遠賀潟や多くの河川が埋めたてられた土地になってしまったから
淡海のイメージが伝わらないだけ
万葉集の淡海にヒントがあると思う

362日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:00:27.27
すいません万葉集で淡島です
淡海ではありません

363日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:16:03.54
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

364日本@名無史さん2019/01/15(火) 12:38:45.15
万葉集の淡島は阿波志摩という表記がある
阿波のどこか
徳島の善入寺島は古くから粟島と呼ばれてる
淡島は善入寺島のことだろう

365ホワイトケープ2019/01/19(土) 13:32:18.96
淡島(粟島・善入寺島)の増水、淡路島の渇水で失敗した、伊邪那岐・伊邪那美の開拓は次に愛媛(伊予)に進んだと思われる。
理由は、
古事記では2番目、日本書記本文では3番目に国生みしたと記している。
神生みでは建築の神々を最初に生んでいて、石土毘古(いわつちびこ)神が石鎚山に祀られている。
伊予は「伊予二名州(いよのふたなしま)」と記しているが、この二名の解釈がいろいろ出ている。
A、古く四国は東西に「伊国」「予国」と二つあった説。
B、四国は「面四つあり」と記していて男女二つのペアに分かれているため、二名とした説。
C、二名とは伊予と愛媛とする説

ホワイトケープの考え
1、二名とは伊予開拓の神の名である、伊予津彦、伊予津姫のことと考えた。
2、伊予津彦は伊予開拓時代の伊邪那岐で、伊予津姫は同じく愛媛開拓時代の伊邪那美の当時の名と考える。
3、伊予は伊都国の伊で土地を広げる意味、伊都国の将来を預ける意味があると考える。
4、愛媛の名は、伊邪那美の元名あるいは、伊予時代の愛称と考える。

366日本@名無史さん2019/01/19(土) 18:05:53.64
うるせえぞ阿波

367日本@名無史さん2019/01/19(土) 18:31:30.56
白合羽と泡って同一人物なん?

368日本@名無史さん2019/01/19(土) 18:59:06.95
アワすとーりぃ?

369日本@名無史さん2019/01/19(土) 19:24:32.78
直近では>>357以外は別人のレスだよ。  @阿波

370日本@名無史さん2019/01/20(日) 01:31:36.57
伊予にフタナという地名があったんじゃないの?

371日本@名無史さん2019/01/20(日) 02:27:02.76
>>369
オッケー分かった
独り言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458389654/

372日本@名無史さん2019/01/20(日) 07:39:48.57
>>364
>淡島は善入寺島のことだろう

そうだね。 あの辺り一帯は「忌部の郷」だから。 国の始まりだったのだろう。  @阿波

373日本@名無史さん2019/01/20(日) 12:50:55.20
>>372
オッケー分かった
独り言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547615010/

374ホワイトケープ2019/01/20(日) 17:14:16.31
>>370日本@名無史さん2019/01/20(日) 01:31:36.57
伊予にフタナという地名があったんじゃないの?

愛媛県に3か所ありますネ
@ 佐多岬半島の中程の伊予灘に面する二名津。
A 宇和島市三間町の二名駅、二名小学校、二名郵便局。もともとは二名の字があったのでしょう。
B 久万高原町の二名川、字の二名。

二名津を訪ねてみましたが、古代との結びつきを感じさせるものはありませんでした。
やはりここは、二つの名前と考えた方が良いように思います。

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