平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2

1日本@名無史さん2018/09/01(土) 19:23:27.49
『説文解字(後漢)』にて咫=八寸

漢尺=十寸=約23センチ  寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後

平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528537360

257日本@名無史さん2018/12/22(土) 15:28:48.40
対馬海峡渡海の部分から、方角が全て45度ずつずれている。
夏至の太陽位置の関係だと思われるが、それはまた別の機会に論じるとして、
45度のずれをそのまま受け入れて進んで不弥国の位置を探してみる。

考古学的に、糸島市手前すぐで上陸して
福岡県道49号線沿いに東南(だから現代地図では東)へ三百里=68×0.3=20kmで、
紀元前から宮殿や王墓のあった吉武高木遺跡がある。
これが漢代の伊都。で、66-76年頃に糸島の伊都へ遷都した。
何百年か建替え続けられた吉武宮殿は、丁度その頃までで終了する。
もしくは、
もともと伊都というのは高祖山を中心とした、早良平野+糸島平野を含む地域だったのだろう。

内陸国の幅を含むのか、それとも国の中心地点同士の距離なのか、が不明なので、
そこから先は同じ検討はできない。
だが、漢代伊都から奴国までと、奴国から不弥国までは、同じ百里であり、
伊都奴国間と奴国不弥国間は「等間隔」である、という条件は確定される。

吉武高木遺跡→東南(だから現実地図では東)へ百里=68×0.1=6.8km
実際には、吉武高木遺跡から東へ11kmほどで須久遺跡群なので、
考古学的にはここが里程の示す奴国となる。

里程伊都(吉武高木)→奴国(須久)が東へ11kmなのだから、
奴国(須久)→東(だから現実地図では北東)へ同じく11kmに不弥国があったことがわかる。
宇美町か須恵町あたりとなる。
志賀島とも陸路で近い。

258日本@名無史さん2018/12/22(土) 16:26:54.01
吉武遺跡にずっと宮殿があったのだから、
クニグニに王がいたとはいえ、吉武宮殿は特別な場所で、
倭国全体の政治は吉武宮殿に王達が集まって決めていたのだろう。
後のヤマト政権ですらあちこち都を移したり、
御所となると各代でちがったりするのだから、
倭国も宮殿は吉武宮殿でも、大王の王宮あるいは
関白将軍のようなその時々の最高実力者の居館は時代ごとに別の場所にあったわけだ。

漢から見た倭人関係の最大イベントが金印授与であり、
漢代の楽浪郡史が必死こいてまとめた報告書は
金印授与の漢使が出張するための地図里程であり、
それが伊都はおろか奴国すら通過して不弥国まで至っているということは、
57年に金印を手にした委奴国王がそこにいたからであろう。

それが吉武宮殿の代々の大王なのか、
それともその時に権力を持っていた関白や将軍だったのか。
なぜそれまで朝貢などしていなかったのに、急に金印授与を求めたのか。
なぜ委奴国が登場するのは一瞬だけで、
107年には倭国になっており、金印も貰わなかったのか。

259日本@名無史さん2018/12/22(土) 16:31:50.95
>>257
>もともと伊都というのは高祖山を中心とした、早良平野+糸島平野を含む地域だったのだろう。

これが筑紫の日向であり、高祖山の西麓に新たに建てられた宮が高千穂宮だろう。
そして日向三代と卑弥呼がそこを王宮とした。
不弥国の意味はよくわからないけどね。

260日本@名無史さん2018/12/22(土) 16:34:01.75
>>258
>107年には倭国になっており、金印も貰わなかったのか。

金印はおそらく漢代はずっと倭王の証として使われ、魏になって改めて卑弥呼に金印が与えられたのだろう。
漢代の金印は伊都の細石神社に保管されていたというから、2世紀になっても国璽として使われていたのだろう。

261日本@名無史さん2018/12/23(日) 09:35:08.78
一)考古学的に判明している弥生奴国の描写が無いから魏使は奴国に行ってない。

二)魏使は伊都までで、しかも倭人は里を知らないのに、
不弥国までの里程を歴史学者の陳寿が採用していることから、信頼できる里程情報供給者は漢代の楽浪郡官吏の可能性が高い。
考古学的にも楽浪土器の裏付けあり。

三)考古学的に判明している弥生唐津は十分に発展しているのに、魏使は藪の中を進んでいるので、
末蘆國の上陸地点は唐津よりも東であり、かつ末蘆國の他の集落も通っていない。
つまり伊都にかなり近い地点で上陸している。

四)東夷伝里の最も正確な値は、楽浪郡に最も近い、韓人エリア部分における朝鮮半島の横幅。
270km=四千里、東夷伝里=67.5m、が最も正確。

262日本@名無史さん2018/12/23(日) 10:04:56.14
有効数字一桁だから、四千里=3500〜4400として、1里=77.1〜61.4メートルの幅ができるね。

263日本@名無史さん2018/12/23(日) 11:01:54.46
朝鮮半島の横幅は260kmを採用して、260÷4千里で、東夷伝里=65m、
のほうが計算しやすい。

その場合、末蘆国上陸地点から伊都までは、65m×500=32.5kmとなる。

要するに、
『親魏倭王』金印を届けた
魏使は、20日+10日で、筑前深江駅の辺りに上陸し、
その日のうちに魏代伊都の三雲南小路に入った。

『漢委奴国王』金印を届けた
漢使は、7千里+4千4百里で、鹿家駅の辺りに上陸し、
日向峠を越えて5百里歩いて早良区の漢代伊都、
平地を百里で最大都市の奴国、
そして平地を百里で不弥国にあった漢代有力者の居館に着いたわけだ。

楽浪人の居住区は三雲南小路にあって、本国の漢使が来るにあたって、
倭国の許可を得て東夷伝里での里程を測定させてもらった。

264日本@名無史さん2018/12/23(日) 11:07:46.19
漢代伊都が高祖山の東側だったとすれば、峠越えになる。
弥生時代に峠を越えての直線距離の測定はまず不可能だっただろうから、
伊都までの五百里は道路距離なんだろう。

だとすれば、
末蘆国上陸地点→漢代伊都の道路距離は、峠越え
伊都→奴国、奴国→不弥国の道路距離は、都会の平地
なのだから、地図上での直線距離は峠越えの部分は短くなる。

265日本@名無史さん2018/12/23(日) 11:47:47.05
末盧国は前原付近?

266日本@名無史さん2018/12/23(日) 14:00:11.79
末蘆國の県庁所在地は唐津。
海沿いの集落群。
西はどこまでかわからないが、已百支國の県庁所在地は伊万里だと思われるので、
東松浦半島のどこかで已百支國と接するのだろう。
東は深江くらいまでで、そのギリギリのところに魏使は上陸した。

前原まで東に行くと伊都だね。

267日本@名無史さん2018/12/23(日) 14:10:07.02
漢代の唐津は栄えていたし、地域王がいたから、
漢使が来たら立ち寄って接待を受けたんだろうね。
柏崎遺跡の頃だろうか。
その時に貰った漢鏡などが伝世して唐津王墓から出土してるんだろう。
楽浪土器はあまり出ないから、楽浪郡使は素通りしてたみたいだけど。

倭国乱の時にいろいろあったみたいで、
桜馬場までで唐津の王墓は途絶える。
だから魏使が来た時は唐津に有力者はいなくて立ち寄る必要が無いから、
船は唐津を素通りして魏代伊都に近い深江の辺りで上陸したのだろう。

一大國の原の辻遺跡での一大率の入国管理の臨検は必須だから、
漢使も魏使も、たとえ形式上だけの検査で、実質は接待だったとしても、必ず立ち寄っただろう。

268日本@名無史さん2018/12/23(日) 15:03:13.15
三雲の遺跡群が何にも比定できなくて宙ぶらりんになるのは、やはりおかしいのではないか。

269日本@名無史さん2018/12/23(日) 15:53:04.57
三雲遺跡群は魏代の伊都中心部。
魏使は戦時に来たから距離測定する余裕は無く、
伊都に近い末蘆國東端で上陸して三雲へ陸行一日。
高祖宮の卑弥呼と外交。

里程を測定したのは漢代の在倭楽浪人。
測定した理由は金印漢使が来倭するから。

55年時漢代の伊都中心部は吉武遺跡群。
漢使は平時に来たから各地域王に饗応され、
対海國、一大國、で宴会。
そして唐津湾東端で末蘆國王による宴会。
陸路で漢代伊都中心の吉武へ入って宴会。
奴国で宴会。
そして不弥国が目的地。

270日本@名無史さん2018/12/23(日) 16:07:41.88
問題は、
伊都(吉武遺跡)→奴国(須久遺跡)が百里なら、
奴国(須久遺跡)→不弥国も百里なので、
不弥国は那珂川の東部となる。

そのエリアは知る人ぞ知る、弥生の渡来人居住域。

吉武高木王が、金属製武器と博多湾水軍を東征王族将軍スサノオに指揮させて、
九頭竜川流域(頭部)の石剣部族ヤマタノオロチの
若狭湾(胴体)水軍を破り、
丹後半島(尾部)に扇谷遺跡を建設して、鉄製品を長期間量産した。
考古学的に吉武高木王は日本海沿岸を制覇していたわけだ。

それが紀元前2、3世紀の頃だから、57年には、
吉武高木王が日本海沿岸の覇者アマテラスとなって、200-300年が経過していたわけだ。
権威は確立している。

それが57年になって急に朝貢して金印を必要とする動機とは、
一つは、朝鮮半島に進出して、半島の異民族を従えるための権威が欲しかった、
というのがあったが、
漢使が金印を届けた委奴国王が不弥国にいたということになれば、
アマテラスの権威を上回りたい欲求を持つ渡来人有力者が出現した、
という可能性が浮上する。

271日本@名無史さん2018/12/23(日) 16:22:46.15
アマテラスやニニギをどの年代に想定するかの問題だな。
三雲遺跡などに代表される伊都国の成立が天孫降臨なら、吉武高木遺跡はそれよりずっと昔になる。

>>270
>アマテラスの権威を上回りたい欲求を持つ渡来人有力者が出現した、

こんな人物の存在は記録されていない。

272日本@名無史さん2018/12/23(日) 16:42:34.09
>>268
三雲遺跡群は伊都国でいいんだよ
それを否定する人は、全部トンデモと思っておけば間違いない

273日本@名無史さん2018/12/23(日) 16:59:00.42
到と至だな。

到は、国の中心地点への到着。
至は、国の境界へ至る。入国。

日程はどちらも、至。
帯方郡から南に水行20日で、投馬国の境界に至って入国。
投馬国内での東への移動は無視して、
投馬国から南に水行10日で、邪馬台国に入国。

里程では、
まず七千里で、狗邪韓國に到着。だから狗邪韓國の大きさは無視。
対海國には至るだから、境界に至って入国しただけで、
対海國の大きさ分の四百×2は足さないといけない。
一大國も至るだから、同じく三百×2は足す。

末蘆國にも至る。末蘆國中心の唐津柏崎遺跡に到着したのではなく、
末蘆國に上陸(入国)したわけだ。
そこから五百里で、伊都に到着。これを吉武遺跡とする。

そこから百里で、奴國には至る。奴國との境界に至って奴國入国。
さらにそこから百里で、不弥國に至る。
完璧だな。

結果的には奴國の幅は百里=6.5km。
須久遺跡部分の県道49号線の、川と川の間が5kmだから考古学とも整合。

274日本@名無史さん2018/12/23(日) 18:26:23.25
弥生時代に金印漢使が不弥国へ行くための「実用」行程の報告書なわけだ。
55年か56年に在倭の楽浪官吏が作成して漢本国へ送った報告書。

もちろん楽浪人か倭人の案内役はついていて、
漢使は、自分の行き先が本当に倭の不弥國であるかどうか、職務上確認するために、
あらかじめ実用行程を報告させておいたのだな。
現代人のように真北が上の広域地図を持って移動するのではなく、
大まかな距離と太陽方角だけを頼りに移動する。まだ羅針盤や方位磁針は無い。

だから、里程の陸上部分は、直線距離ではなく、道路距離。
峠道などがあると、その部分の里程は直線距離よりも長くなる。

方位磁針もないから、方角については、真北真南である必要はなく、
太陽の実方向だな。
梅雨時と台風シーズンを外すから、7月末に来倭した。
それはあらかじめ決まっているから、倭国現地で報告書を作成する楽浪官吏も
7月末の太陽方向を基準に報告書を作ったわけだ。

朝出発する時に進行方向を見定めるのだから、
夏至近くの朝の太陽を基準に方角を決めると、全ての出発時方向が真北真南からすると西へずれる。
だが、漢使が金印を持って来るのは「57年7月末」の1回だけなので、
それで楽浪官吏の仕事は達成されたわけだな。

275日本@名無史さん2018/12/23(日) 21:20:34.53
魏代伊都が三雲遺跡群で確定。
女王墓は平原遺跡1号+2号の複合墓域。

漢代伊都の到着目標が吉武高木宮殿でピンポイントの確定。
吉武高木宮殿から東へ6.5km(5.9〜7.4の誤差範囲)で奴国。
そこから北東へ同距離進んだ場所にある弥生時代の大型建物が委奴國王の居館だ。

古代漢帝国の測定技術で記録され、陳寿が伝え残してくれたピンポイントの座標だ。
盛んに発掘されており、専門家なら建物候補はわかるだろうな。

276日本@名無史さん2018/12/24(月) 00:01:21.55
全て中国史書からの情報だが仕方がない。

漢委奴国王は糸島の伊都にいなかった。
魏志倭人伝に残された金印漢使の出張記録によって、不弥國にいた。
だが、107年に朝貢したのは委奴国王ではなく、倭国王師升。
生口160人をドヤ顔で押しつけて、金印を貰わず引き揚げた。

新伊都男王は、三雲南小路に始まり、
新伊都女王の平原卑弥呼女王墓へと連続しているのだから、
日本中探しても卑弥呼のいた魏代伊都というのは三雲遺跡を中心とする糸島市しかない。

と、いうことは・・・
57年に晴れがましい金印授与を受けた、不弥國の委奴国王は、失脚したわけだ。

紀元前から数百年大王として君臨した吉武高木神<アマテラス。
それと本拠地を異とする不弥國王。
考古学的にごく短期間の、まさに一人の人間の一代限りの栄光。
葦原那珂津国。

そのような人物が記紀に残っている。

277日本@名無史さん2018/12/24(月) 00:07:15.59
そのような人物は魏志倭人伝には残っていないが、
出自についての手がかりがある。

高句麗伝。
濊伝。
そして各地に残る積石墓。

失脚した老年の本人は記紀の通り。

だが、直系の濃い子孫は積石墓を残し、
倭国女性に産ませた子孫ははるか東国へ落ち延びて前方後方墳を残した。

278日本@名無史さん2018/12/24(月) 10:48:30.65
弥生大都会の中にあって環濠で集落を囲い、沿海州民の如く家畜を飼っている。
木沓はまさか漢使の残していった置き土産か。
木の机は書斎の机。
弥生時代は木簡に墨書だから書き損じた時は鉄製刀子で削り取る。
その時に鉄製刀子が机にも当たるわけだ。

279日本@名無史さん2018/12/24(月) 14:18:46.78
短里論争の時に注意が必要なのは、
道路距離と直線距離を区別する必要があるということ。

例えば、アメリカの真っすぐなハイウェイなら、
道路距離で10km進めば、直線距離でも10km進む。
だが、つづら折りの峠道だと、
道路距離で10km進んでも、直線距離では1kmも進まないことになる。

東夷伝里が65mというのは、行程の検討をしやすいように、
現代地図での直線距離に置き換えた便宜上の数値であって、
本来の絶対値はもっと大きいわけだ。

道路距離は直線距離に対して、平地だと1.1倍。峠道だと1.2倍以上になる。
弥生時代の道路事情にもよるが、
1.1倍とするなら、東夷伝里の絶対値は71.5m
1.2倍とするなら、東夷伝里の絶対値は78mとなる。

日向峠を越えての百里と、福岡平野での百里は、道路距離は同じ百里でも、
地図上での直線距離は前者が短くなる。

280日本@名無史さん2018/12/25(火) 00:31:58.36
奴國を弥生銀座だけに限定するから、手前百里にあるめぼしい遺跡は吉武遺跡しかないが、
奴國が福岡市全体だとすると、素直に三雲遺跡が伊都でそこから百里で奴國となる。
奴國は二万戸もあるんだからそれくらい広いのではないか。
魏使は唐津を通っていないという縛りがあるが、
楽浪人はその縛りが無いのだから、末蘆の起点が唐津でも構わないわけだ。
なにも57年までさかのぼらなくても、2世紀くらいに測定したのだとすれば、
壱岐から素直に唐津へ渡海+沿岸航海で千里。
唐津から伊都中心の三雲までで五百里となる。
末蘆から伊都への進行方向が若干北東にずれすぎるが。

281日本@名無史さん2018/12/25(火) 19:44:07.08
一つに、三国志東夷伝においては、それぞれの民族の小国名が列挙されているが、
小国への里程と戸数、官名まで書かれているのは、倭人伝のみ。
楽浪官吏が命令されていたにせよ自発的意思にせよ、
小国の情報まで報告するのなら、楽浪郡に近いほど調査活動しやすいわけだが、
最も遠い、しかも海を隔てた倭人伝のみが詳しく書かれている。

三国志東夷伝全体を通してみた場合、倭人伝のみが特別扱いされている。
そして当時において、倭人のみが特別に扱われた件とは、金印授与。
金印魏使は伊都までしか来ていないのだから、
不弥国までの里程を必要としたのは金印漢使となる。

二つに、倭人領において楽浪官吏が里程を測定する場合、
考古学的に楽浪官吏は伊都三雲遺跡を主な滞在地にしていたと判明しているわけだから、
里程を調べるのに東西の末蘆国や奴国を調べるのは当然として、
ならば伊都国の北にある国(斯馬國)や南にある国が次の候補となろう。

さらに奴国を起点に考えるなら、
伊都の次の奴国を調べる動機は栄えているからであろうから、
同じ理由でもって、次に調べるのは栄えている場所であり、
それは考古学的に甕棺ロードとして連続していて、河川でも繋がっている、
奴国南方の国々へと調査の目を向けるのが普通。
東方の渡来人地域の千戸ほどの小国を奴国の次に調べるのはおかしい。

楽浪郡からやってくる楽浪官吏にとっての交通の便を考えるなら、
対馬海峡から末蘆国へ入って、西隣り(巳百支国)を調べるほうがたやすい。

よって、伊都をも通過して、
不弥国まで真っすぐの里程が記されているのは、
金印漢使が不弥国を目標としていたからである可能性が高いわけだ。

282日本@名無史さん2018/12/25(火) 20:36:24.05
陳寿の手元にある資料は、
@金印漢使のために作成された、「漢代不弥国」までの里程。戸数、官(王)名。
A魏使の報告書に記載された、「魏代伊都」までの日数、戸数、官名。

見聞録の部分は、
@は魏略に残る。漢使が見た光景。
Aは魏志倭人伝から魏略を引いた部分。魏使が見た光景。どちらも夏。

@57年とA239年で、200年ほどの歳月が流れている。

@の時代は、里程のそのまま。
漢代伊都中心部は末蘆から五百里の早良平野吉武遺跡にあり、伊都全体で一万戸。
福岡平野に奴国二万戸あり。その北東に不弥国。

Aの時代は、北部九州は統一国家邪馬台国。
その中に昔の地名として、対海国、一大国、末蘆国、が残っている。官名などは微妙に変化。
伊都は1世紀後半に三雲遺跡を中心とする魏代伊都へ遷都しており、千戸。
伊都までは魏使が訪れたから情報更新。

伊都より東については魏使が行ってないのだから情報の更新無し。
旧伊都が早良、旧奴国が那の津、などになっていたかもしれないし、
旧伊都と旧奴国合わせてまるごと博多にでもなっていたかもしれない。
不明。

里程についても、魏使は戦時で里測定などしていないから、更新なし。
だから、魏使は末蘆東端で上陸して三雲の魏代伊都へ直行したにもかかわらず、
末蘆伊都間が五百里のまま。陳寿も変えようがない。

283日本@名無史さん2018/12/25(火) 20:44:11.68
現代の我々は正確な地図と、考古学資料を突き合わせるから、
あれこれ検討できるが、
陳寿には@Aの文字資料しかないのだから、
里程と日程については何の疑問も沸かなかっただろう。

陳寿にとっては、吉武宮殿=高祖宮と考えても何の矛盾もないわけだからな。

伊都一万戸が千戸になったのも、倭国乱があったから、ですむ話。
洛陽など灰燼と化したのだからな。

284日本@名無史さん2018/12/25(火) 22:18:23.57
細かい部分は疑問だらけだが、倭がどこかで倭奴国と奴国、伊都国のすり替えをしたことは確かだ。

285日本@名無史さん2018/12/26(水) 06:35:39.51
魏略では伊都までなのに『自帯方至女国万二千余里』と書かれているからね。
伊都から帯方に帰った梯儁の話だとそこまでしか必要なかったわけだな。
A型気質の陳寿は我慢ならずに原典全てを復活させてしまったんだろうw

286日本@名無史さん2018/12/26(水) 07:21:19.23
A型気質w
わかるw

287日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:34:03.33
木簡に書ける文字はだいたい10文字前後。

外交文書のような長文を作成する際には、
全体を眺めて文章のバランスを推敲しなくてはならない。
紙なら広げた一枚に全て書きこむが、
木簡の場合は10文字ずつだから、木簡を何本も並べて推敲する必要がある。
例えば魏帝が卑弥呼に宛てた外交文書が255字。
全文を眺めて推敲するには木簡25本をずらっと並べることになる。

小さい机に硯と筆。
大きな机に木簡をずらりと並べる。

右上の木簡一つを手に取り、それを小さい机に置いて書きこむ。
書き終わったら大きい机の右上に戻す。
次々に小さい机に置いては書き、書き終わると大きい机に戻していくが、
途中で書き間違いに気づいたり、校正したりする時は、
大きい机のその場所で鉄製刀子でシャッシャと削りとって消すわけだ。
その時に刀子が大きい机の表面にぶつかって刀キズがつく。
つまり大きい机の上にまんべんなく刀子のキズがついているということは、
木簡長文をそれだけ何通も書いたということである。

硯や甕棺墓の分布から、1世紀に文字を使う貴族が住んでいたのは福岡県北部だけなのだから、
倭人貴族同士で連絡する場合、苦労して木簡長文をやり取りするくらいなら、
直接会うなり、使者を送って口頭で伝達させるほうが早い。
だから1世紀に木簡長文を何度もやりとりした机ということは
非常に高い確率で漢委奴国王金印の関わる外交文書を漢の光武帝とやり取りした時のものである
ということになる。
大きな机の年輪年代はいずれも1世紀であり、誤差を考えると国宝金印と関連する可能性が非常に高いことになる。

288日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:47:42.95
小さな土壙が多数あるのは、木簡を削った際に出る木屑を埋めて捨てるため。
燃やして燃料にでもしたいところだが、
木屑を燃やすと飛んでいって火事になるから危ない。
しょうがないから下男下女に土壙を掘らせて、定期的に捨てさせていたのだろう。
長文の外交文書を何度もやり取りしていたから、大きな机には刀子のキズがいっぱいつくし、
木屑を捨てる土壙もいっぱい必要だったわけだ。
委奴国から漢へ送られた外交文書については、
土壙内の成分が木性なら木簡、竹性なら竹簡だったことになる。
墨の成分など検出できたら面白いのだがな。さすがに腐っているか。
奇跡的に残っている木薄片があればX線でみれば書き損じて削り取られた文字が残っているかもしれん。

硯についても無いと思って発掘したから見つからなかったのが、
伊都三雲で見つかって、有るんじゃないかと思って調べ直したら次々見つかったわけで、
「封泥」についても、無いと思って発掘したから見つかってないだけで、
有るんじゃないかと思って調べ直したら、既に見つかっているのかもしれん。
大事に取っておいたとしたら、家財道具に紛れて見つけにくいが、
洪水で流されたようだから、机の周囲の土の中に埋まってるかもしれん。
封を開けたらもう用済みとして捨ててくれていたら、土壙の中にある。

289日本@名無史さん2019/01/07(月) 23:54:17.29
ラノベ作家にでもなればいいのに
有り余る妄想力が人の役に立つかもよ

290日本@名無史さん2019/01/09(水) 07:28:07.66
>>287
>硯や甕棺墓の分布から、1世紀に文字を使う貴族が住んでいたのは福岡県北部だけなのだから、
>非常に高い確率で漢委奴国王金印の関わる外交文書を漢の光武帝とやり取りした時のものである

3世紀においても事情はかわらない。
倭国が3世紀までに畿内に遷都したという証拠もない。
魏との交渉を成し得た勢力は九州北部にしかない。

291日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:22:21.58
伊勢二所皇太神御鎮座伝記の、神鏡座事によると
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。

ということだから、大きいから八咫鏡だとか、
内行花文鏡の八連弧が八咫だとかいうのはまちがい

八咫。古語「八頭」也。「八頭花崎八葉形」也。故名八咫也。

292日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:35:19.03
>>291
文様の事でしょ?
頭花崎は先端を意味するし、八葉はそのままだし

籠神社の鏡が内行花文鏡と判明した事も大きいね

293日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:44:27.11
形 という漢字が読めないらしい

294日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:48:31.71
八葉は蓮華のことだと指摘されても現実を受け入れることができない伊都クズ

295日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:07:43.56
"形"は文様を意味するとしてもおかしくないよ?
様相を表しているともとれるからね

冷静に考えれば、籠神社の鏡と同時期の鏡にその形式の鏡の出土はあるか?で考察してみたらいいと思うが

296日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:24:20.66
伊都国の王墓はどれも内行花文鏡がザクザク
畿内にその一派が流れていって土着したのは間違いなく、それが十種の神宝の持ち主である饒速日であり、その末裔が古代のヤマト王権で権勢を振るった物部氏とされている。
そこに後から神武が合流したとされている。
籠神社の鏡は前漢鏡と後漢鏡なので、実は神武の実年代は伊都国が成立した後の倭国大乱の頃なんだよ。
神武と卑弥呼は実年代が被っている。
しかし大和に落ち延びた神武は中国と交渉した記録がない。
中国と交渉した卑弥呼は倭国の王都である伊都に居たんだよ。

297日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:28:58.08
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。

298日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:34:47.23
有明海側の王家と思っているものは
委奴国王家の子孫だよ。

299日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:37:46.25
そうだろうとは思うけど、直系じゃないんだよ。

300日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:59:07.11
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

301日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:05:07.82
>>295
八咫。古語「八頭」也。「八頭花崎八葉形」也。故名八咫也。

こういう形だよ
https://blog-imgs-67.f c2.com/s/i/n/sintengengakukai/jpegOutput3-2-1.gif
内行花文鏡の八連弧とはまったく異なる文様だ

http://www.mikkyo21f.gr.jp/mandala/mandala_taizoukai/01.html
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/170458

302日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:08:50.13
仏教伝来後のバイアスがかかった情報だな。あてにはならないってことだ。
それでも最後のは内行花文鏡の影響が伺えると言えなくもない。

303日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:31:18.79
>>302
>伺えると言えなくもない。

九州説のご都合バイアスがかかってなお
「伺えると言えなくもない。」ww

無関係ってことだなww

304日本@名無史さん2019/01/15(火) 23:34:36.14
>>303
いつもそれ出すけどさぁ、
鏡の八葉座の部分にそっくりなんだけどね

八葉の形(様相)だったらそのまんま

305日本@名無史さん2019/01/16(水) 12:48:28.61
>>301
その注釈自体がはるか後世の誤解による情報の可能性がある。
なぜならそのままの語義と解釈が一致していないからだ。
当時は八咫の大きさの鏡の存在そのものが確認されていなかった。

306日本@名無史さん2019/01/16(水) 15:19:46.73
>>304
>鏡の八葉座の部分にそっくりなんだけどね

八連弧が八葉座に見えるなら目がおかしいぞ

307日本@名無史さん2019/01/16(水) 21:14:39.80
見えると思うよ。

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