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邪馬台国畿内説 Part376
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0001◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:49:00.36
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535963570/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:50:26.03
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:50:57.69
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:51:23.27
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:51:41.14
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:51:56.73
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
0007◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:52:23.93
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:52:40.78
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
0009◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:52:59.07
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0010◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:53:15.98
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0011◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:53:37.94
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0012◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:53:59.86
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0013◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:54:20.27
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0014◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:54:38.88
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0015◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:54:57.66
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
0016◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:55:16.46
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0017◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:55:37.53
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0018◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:55:57.27
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0019◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:56:18.40
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0020◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:57:06.17
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0021◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:57:32.63
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0022◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:58:26.37
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
 
 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 
 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原型とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
 
 
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
 
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
 
 
0023◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:58:48.49
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0024◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:59:07.96
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
0025◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:59:31.05
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
0026◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 01:59:50.46
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
0027◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:00:08.38
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0028◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:01:08.21
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
 
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
 
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
 
 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
 
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと等
 
0029◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:02:26.99
 
 
 
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
 
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
 
 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
 
 

 
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
 
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
 
 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
  
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
 
 
 
0030◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:02:58.52
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0031◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:03:39.48
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
 
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
  
 
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!
 
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
 
 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
 
 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
  
 
0032◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:03:57.82
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0033◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:04:22.75
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0034◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:05:09.34
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
 
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
  
 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
 
 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
 
 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
 
 
0035◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:05:27.17
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0036◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:05:46.87
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0037◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:06:10.07
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0038◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:06:28.60
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
0039◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:06:49.30
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0040◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:07:06.03
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0041◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:07:28.04
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0042◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:07:58.83
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0043◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:08:27.96
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
0044◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:09:05.00
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!
 
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
 
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
 
以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 
 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
 
0045◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:09:22.42
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に
0046◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:09:42.63
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
0047◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:10:13.36
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0048◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:10:30.41
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
0049◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:10:50.08
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0050◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:11:07.75
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0051◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:11:26.29
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0052◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:11:44.33
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0053◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:12:01.57
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0054◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:12:19.36
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0055◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:12:52.68
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!
 
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
 
 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
 
 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
 
 
 
0056◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:13:10.35
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0057◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:13:28.14
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0058◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:14:32.77
 
 
 
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
  
 
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 
 

                (以上、漢書西域上)
 
 
 
0059◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:14:51.70
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0060◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:15:19.80
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
0061◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:15:34.83
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0062◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:15:53.50
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
0063◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:16:09.61
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0064◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:16:34.50
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0065◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:16:51.47
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と比べて劣後しない。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
0066◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:18:30.52
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
0067◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:20:09.56
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。


◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
0068◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:20:48.89
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
 https://i.imgur.com/MRmSyqP.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0069◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:21:35.53
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0070◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:23:38.41
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!
 
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
 
 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
 
 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
 
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
 
0071◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:24:20.41
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0072◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:25:05.24
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0073◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:26:42.71
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0074◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/06(木) 02:27:25.77
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 68に加筆、80,81を追加
0075日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 04:13:26.16
おいおい
纒向に集落跡が無いのはなぜかとか
纒向から人骨が発掘されてないのはなぜか
狗奴国と戦争状態なのに無防備な王都でいいのか

なんにも答えてねーじゃねーかFAQに入れろよ
ながーーーーいテンプレもいいが逃げるなよ
0076日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 04:16:15.04
これも
大建物って石床無いのにどのような物と考えているのか
纒向の復元で柱に基礎工事したのは許す・・補修費用がかからないようにしたから
0077日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 08:22:15.59
 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
>>75-76荒らし認定おりました

こっから本編
0078日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 08:32:25.18
倭国から船で半島〜帯方郡へ行ってるんだから、
帯方郡から先も、潮を知る郡の先導で海路を行ったのだろう。船ならすぐだ。
0079日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 08:35:15.50
>>78
そのコース、数年前に呉の船団が難破壊滅してるぞ
0080日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 08:40:03.84
潮を知らない向こう見ずのよそもん呉沈
0081日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 08:46:41.92
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。


畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した邪馬台国、大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。

神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
0082日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 08:54:17.44
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな
ヤマトを征伐し政権を打ち立てた東海や山陰、吉備の主体は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力ということが分かる

アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 猟夫ラガ 持タ木ノ真弓 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス豊日霎カ 御魂欲ス 本ハ金矛 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 三輪山ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、穴師ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 木綿取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0083日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 08:55:02.20
>>80
その呉の水軍に赤壁でボロ負けしたのが魏
0084日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 09:12:00.09
>>822
>どうしても投馬国の比定が出来なくなるが?
どこから水行20日の所にある国かな投馬国は<

不彌國。
0085日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 09:16:04.19
>>823
>それなら景初三年、四年、正始元年記銘の鏡が
畿内から見つかる事の説明がつかんな <

「畿内」なんて存在していなかったから、嘘つき騙しであるし、
その鏡なら、魏朝との関係を匂わせて価値を高めようとした、
渡来して来ていた呉系の楽浪鏡師ら。
0086日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 09:36:40.13
>>829
>旧唐書に 昔魏は倭にはなむけをするに今までの鏡の形式を外し… という文が出てくる
これは今までにない形式の倭が好むような形の鏡を作って
下賜したという根拠になっている<

こりゃ×だな。
旧唐書のような正史が、「昔魏は倭にはなむけをするに今までの鏡の形式を外し」なんて、
必要も関係もない事を、書く筈がない。
こりゃ、また、誰か?、
おそらく日本の、脳がおかしい大和説人間が造作捏造したものだろうなあ。
0087日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 09:47:24.19
>>836
>三角縁神獣鏡が畿内で多く見つかるのは <

畿内なんて存在もしなかった。

>渡来して来た呉系の楽浪鏡師たちの存在を想定しなくても
畿内は魏と交流があったとすればそれで説明はついてしまうのである<

魏と交流があったのは、九州倭国であり、
大和などは、九州倭国の「自昔・・・・・・東征毛人五十五國」の中の旧小国であり、
魏のものがあっても、九州倭国を介しての間接的の伝来であり、
三角縁神獣鏡を齎した可能性があるのは、明帝も×であり、
呉系楽浪鏡師らだけ。

>また畿内が存在しなければ九州も存在しない<

畿内なんて存在しないし、九州倭人は、元は、中国内の九州にいたらしいから。
0088日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 09:49:58.90
>>837
>九州説イライラで草<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説、
イライラで、口先騙しのヘイトスピーチ宣伝ばかりでせう。
0089日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 10:07:43.02
>>851
>邪馬「壹」表記は12世紀になって魏志倭人伝に生じた誤記の可能性が高い<

多種類の底本写本を使って、多種類の版本を作って、
その全部が皆「邪馬壹國」という同じ誤記を起こし、
宋明清代の校勘学者が誰も、その「邪馬壹國」の校勘をしない、
というような事は、起こり得ない。
有り得ることは、写本段階から全部「邪馬壹國」であった、という事。

>それ以前の魏志倭人伝を引用した書はみんな邪馬「臺」
読み方はィヤマトゥまたはィヤマドゥとなるらしい<

唐代以後の史家は、「魏志倭人伝を引用していない。
www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
を見れば分かるように、自己解釈で魏志を、
「書き換え引用」をしている。
0090日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 10:36:51.03
>>855
邪馬臺国か邪馬壹国かは、「後漢書の邪馬臺國≠魏志の邪馬壹國」であるだけ。

それを、唐代以後の史家が「=」だと間違えて、
後漢書の邪馬臺國の方が正しいのだと自己解釈して書き換えた、という事。だけ。

一大国か一支国か、對海國と對馬國か、という問題もという事も同じような事であったし、
しかし、写本版本も宋明清代の校勘でも全て魏志は邪馬壹國であるもんな〜。 
  ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ^∀^)< ゲラゲラ
 (    )  \_____
   ̄  ̄
0091日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 10:52:56.80
>>861
>3世紀に陳寿の書いた魏志は残っていなくて
今ある魏志倭人伝は12世紀になって作られた失われた魏志の復刻本<

写本は、失われていなかった。

>その牒(前書き)に魏志は長い間書写される内に 間違いが多くなってきたとある
邪馬「壹」國はそこに初めて現れる

結局は、校勘でも、多種類の残存写本には、全て邪馬壹國と書かれていて、
邪馬臺國と書かれている写本はなかった、という事であった。

>また陳寿の書いた魏志倭人伝は残っていないが 5世紀の後漢書<

記載事実からは、魏志の邪馬壹國≠後漢書の邪馬臺國」という事であった。

>7世紀の隋書、北史、梁書、11世紀の太平御覧など
古い魏志倭人伝の引用がある史書のほとんどが邪馬「臺」國と表記<

梁書は「祁馬臺國」で違うし、要は、唐代以後の史家は、
自己解釈での書き換えをする高慢な学者であったのであり、
後漢書の邪馬臺國=魏志の邪馬壹國だ、と誤読し、
「壹は臺の間違いなんだろう」として書き換えたアホ学者らであった。

なので元々の魏志倭人伝には、写本版本に書かれたように、邪馬壹國と書かれていた。
0092日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 10:56:49.25
>>89
>多種類の底本写本を使って、多種類の版本を作って、

証拠がないな
0093日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 11:13:09.79
>>868
>後漢書には邪馬臺國は楽浪郡より1万2千里…と
九州説の大好きな1万2千里が出てくるので
後漢書の邪馬台国と魏志の邪馬台国は違う国というのは
九州説の自らのアイデンティティ喪失を意味する事になる<

ならない。
魏志の邪馬壹國は、「福岡平野中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地」の七万戸であり、
後漢書の邪馬臺國は、久留米〜八女付近の小地域の呼称だ。

>また後漢書より後の史書が後漢書の記述に従った、とするのは
多くの史書には魏志曰く、あるいはそれに似た表記がされているので違う
後漢書の表記を引用したなら後漢書曰く、となる筈である <

唐代以後の史家らは、
「魏志の邪馬壹國=後漢書の邪馬臺國」というアホな自己解釈をしているから、
「魏志曰く」と書きながら後漢書の「邪馬臺國」を書く、という自己矛盾をやってしまっていたのだよ。

>古くからある魏志が散逸し様々な所から文書を寄せ集めて 復刻版を作った12世紀以前に<

散逸しておらず、多種類の写本が残存しており、だから多種類の版本も作られた。

>魏書曰く、など史書に引用された魏志の表記を見れば邪馬台国は90%邪馬臺國と表記<

唐代以後の史家の「後漢書の邪馬壹國=魏志の邪馬壹國」という誤読をして、
後漢書の邪馬臺國を採用したから。

>邪馬壹國という表記は12世紀以前には1つも出てこないのである<

魏志写本では99.5%以上ほぼ全部、「邪馬壹國」と書かれていた。
0094日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 11:32:15.34
>>869
>じゃ、前例通りにまた鏡をもらってるな
なんにも下賜されなかった可能性はゼロだからね<

「其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人、
上獻生口、倭錦、絳青糸兼、緜衣、帛布、丹木、hu、短弓矢」
なんて、景初二年の「男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈」よりも、
はるかに豪華な上獻をしているのに、
「掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」だけしか書かれていない、という事は、
もう「大量の下賜」は、
正始元年の「景初二年のお返し」で終わりであった、
という事だね。
0095日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 11:44:38.71
>>870
>對海國と一大國の記述は「方」400里、300里
行、水行、陸行などの途中移動の動詞がないので
ただの見聞録であり移動してはいないという事になる<

對海國には、
「所居絶島、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。
有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴」と書かれ、
一大國にも、
「方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。
差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴」という、
それぞれ、国内見聞移動があった事を示す記載がある。
0096日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 11:53:38.51
>>871
>ザラコクが言うなら(祇園山の)小墓群は、
古墳が出来てから50年後に追葬されたもので見つかった異物から、
4世紀のものだと判明したという所だろう<

「異物」って何?。
0097日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 11:59:48.07
>>872
>つまり九州説は考古学的証拠を
都合が悪いから無視するという事か <

つまり大和説学者は、始めから「南→東」などのような嘘つき騙し人種であるから、
発掘事実や考古学的証拠紹介はある程度信用出来ても、
それに対する歴史的解釈などは、信用出来ない、という事だな。
0098日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 12:47:51.17
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0100日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 13:27:23.77
>>93
>「魏志曰く」と書きながら後漢書の「邪馬臺國」を書く、という自己矛盾をやってしまっていたのだよ。

「魏志曰く」と書いてあるなら、後世の学生が書き直した版本じゃなくて初唐の史家が見た本物の魏志には「邪馬臺國」と書いてあったってことだよ
九州説は自説に都合の悪いことを書き残した史家を、みんな悪質なウソツキと貶めないと成り立ちようもないトンデモ説ってわけさ
0101日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 14:47:37.71
大和に成立した纏向と邪馬台国はそれまでの大和的要素は殆ど引き継いでない
邪馬台国出現前の大和的要素は、邪馬台国登場によってすべて一新されたと言っていいような状態になっている

邪馬台国は吉備、出雲、近江、九州などの各地域の要素を全てまとめ上げて「創造された」新しいシステムを構築して成り立っている
大和に自生的に邪馬台国が現れたのではなくて、大和に多くの勢力が統合される為の新要素を作り出して生まれたのが邪馬台国だと分かるな
卑弥呼が共立されたと言う状況にもよく合致する
そして邪馬台国が樹立すると各地域も大和同様に自国文化を放棄しこの新体制に移行していく動きが見える

これは邪馬台国が大和中心の覇権国家ではなく全国的な合意による統合であることを示唆している
0102日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 15:09:53.48
畿内説が大和説なんかじゃないことは、お察し
歴史はもっとダイナミックだ
0103日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 16:16:36.29
それにしても、松傾?の話だよ

最初は「王」を名乗っていた、王と名乗っていた?

河伯?同じような事が書いてあったり、
王□という人物
0104日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 16:19:37.97
あのキュウリの葉(日本では河童?)などの写っている写真・・・、松傾?

同じ名前の家だしな・・・どういう事なんだろう
0105日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 16:46:00.62
大和に現れた全国的な勢力の連合勢力である邪馬台国は、各地域の要素をまとめて新たな文化を創造して成立した
その結果、全国の多くの地域にも邪馬台国的要素を見出すことが出来ると言う状況を産みだした
しかし各地域でのその要素はあくまでも一部に過ぎない

邪馬台国としてその全ての要素を統合した文化を形成しているのは大和の纏向遺跡のみ
その為、邪馬台国は纏向遺跡を中心として作られた国であると分かる
0106日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 16:55:36.15
むかーしから東北地方(いまの日本)のほうに住んでいたのか、
インの時代から〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
かなり経ち、日本に渡ってきたのか?
0107日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 16:58:58.86
家の老婆は普通の人なんだけど詳しかったり?

むかーし・・・・のほうにある、
山の上のほうに住んでいたことがあって
0108日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 17:34:57.94
>>105
>邪馬台国としてその全ての要素を統合した文化を形成しているのは大和の纏向遺跡のみ


やけくそはイカン。  @阿波
0109日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 17:55:42.86
>>877
>(祇園山の発掘報告)もっと長い期間って書いてあるね<

wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
の抜粋。
なお、竪穴式石室をも含む裾部外周主体群の営造期にかなりの巾があることは
既述のとおり(註;土器年代等からの推定。後述)である、と報告書では結んでいる。
つまり、従来の見方にたてば、土器の示す年代の巾は一世紀を軽く超えることになり、
これを外周主体群全体の造営期間とすると、五世代以上にわたっての造墓を想定することになると記す。
その一方、これら主体のうち、重複するのは二例に限られ、
かつ、埋葬遺体の頭部の位置に規則性が存在することから、
「一部の竪穴式石室を除く裾部外周主体群の大多数は、
比較的短期間(註;他の箇所では「半世紀前後」と記述)のうちに
継続的に築造されたとみるのが穏当であろう」と結論し、
「この被葬者達は、墳頂部被葬者(達)がよって立つ基盤の中核を構成した人々であったとみられ、
主体数からみても、血縁的紐帯でのみ結ばれていたとは考えられない」とも記述する。

>須恵器も出てるし <

弥生前期末〜中期後半の遺跡とみられる吉武高木遺跡でも、多数の初期須恵器が出土したとされる(菱田哲郎氏*24)。
夜須郡の小隈窯跡・山隈窯跡(ともに現朝倉郡筑前町)の調査で、高坏等の特徴を見る限り、
陶邑の初期須恵器との隔たりはそれほど大きくないといわれる。
北部九州では陶邑に先行して、より朝鮮陶質土器に似た須恵器が
朝倉地域を始めいくつかの地域で生産されていた、と菱田氏は記している。
0110日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 17:56:09.94
畿内説に論客居ないの?クソスレになっちゃう
0111日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 18:06:04.56
>>878
>>明帝の詔書は、景初二年12月に出されたから、その時点で、銅鏡百枚は、準備完了している。

>なんで? また理由も言わずに言い張ってるね<

人類の常識。
詔書に拠って、難升米らに、
「有難うございます。それでは直ぐに卑弥呼様に届けさせて頂きますので、出立させていただきます。」
と言われて、
「ごめんごめん、まだ全部揃っていませんから、揃うまで待って下さい」なんて、無様の事を、
皇帝が言える筈がない。
0112日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 18:07:51.76
畿内説が壊滅状態だからね。
考古学的にあり得ないから、論客もいない。
0113日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 18:11:07.40
>>112
論じるべきことはまだあるけれど、今暴れてる九州説レベルであれば、
テンプレだけで十分だからね

議論にならない人の相手をしても、つまらないでしょ?
0118日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 18:56:20.87
九州説が論拠にしてる梵鐘が、かの歴博にあるってのも、面白いの取り合わせだな
0119日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:17:11.27
>>85
畿内が存在してないなら九州も存在していない

渡来した呉の鏡師は畿内にいながらどうやって魏の年号の変遷を知った?
仮に呉の鏡師が居たとして魏と畿内の交流がなければ
景初→正始の年号の変化を知らずには鏡に記銘できない
もちろん、呉の鏡師の存在を想定しなくても
魏と畿内は直接交流があったで説明がつく
0120日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:21:45.61
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?
お前の名前は?
0121日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:22:53.62
>>86
旧唐書ではなくて全唐文の間違い
この程度の間違いに気づかずに的はずれの罵倒
九州説は漢籍の知識がまるきり欠落しているようだ
0122日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:24:22.60
>>119
>魏と畿内は直接交流があったで説明がつく

畿内では説明がつかない。
魏と交流していたのは倭国(阿波)のみ。  @阿波
0123日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:24:34.76
>>112
じゃあ、どうして考古学者が畿内説ばっかりなの?

w
0124日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:25:01.97
精神科、精神病院?
そういうところがあるから、そこへ行け
0126日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:28:53.81




















0127日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:32:53.07
病院行きを強くおすすめするのは以下の方々
・ザラコク
・キウス
・連続句読点
・呟きアスペ
・泡バカ
0128日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:35:32.01
>>879
>海東鏡の海東に至る…という文言は
三角縁神獣鏡が最初から邪馬台国へ下賜する目的で魏で作られたという
今までの説の補強材料にしかならない<

ダメだよ。
「吾作竟真大好、浮由天下〇四海、用青同至海東」という銘文の主語は、「吾」であり、
この三角縁神獣鏡の作者の鏡師であり、作者が「用青同至海東」した事を示し、
それが国分神社にある、という事は、
この鏡師が中国の銅を持って日本列島(南河内近辺)に渡来し、
この三角縁神獣鏡(海東鏡)を作った、と証言していた事になる。

>また洛陽で見つかった事だけが三角縁神獣鏡の魏鏡説の裏づけになっているわけではなく
景初、正始という魏の年号がある<

勿論明帝の銅鏡百枚は、年号で否定されており、
また、中国では、必要が無ければ鏡に年号を書く趣味はないよ。

>銅出徐州、師出洛陽(銅は徐州、洛陽の鏡師が作成)との記銘<

この鏡が、海東鏡と共存していた三角縁神獣鏡であり、
これも、洛陽には沢山の鏡師がいるんだから、洛陽で「自分は洛陽の出だ」なんて自慢してもアホにされるだけであり、
洛陽以外の列島にでも来ていたら、洛陽の出である事が自慢になるの。

>また素材が国内製の銅鏡とは違う魏・晋時代の中国鏡と同一など
様々な要素が複合されて魏鏡と判断されている<

海東鏡に「用青同」とあるように、中国から材料銅を持ち込んでいる。

>そして国内のコピーも相当あり 500枚あっても不思議ではない<

呉系楽浪鏡師らが来て造り、鏡作り神社で子弟に教えたから。
0129日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:37:31.55
頭の病院に行けと言っているんだよ、
わからないのか?
0131日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:39:39.25
>>87
畿内がなかったなら九州もない

魏との交流を示す魏鏡の三角縁神獣鏡が多数見つかるのは畿内であり
もしそれが九州を介して間接的に伝来したものであるとしても
三角縁神獣鏡のより多く見つかる畿内は九州より上の立場である事の
間接的な証明となり
これは畿内が主、九州が従の力関係を示すものとなると言える
0132日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:41:11.81
>魏との交流を示す魏鏡の三角縁神獣鏡

呉との交流じゃないのかい?
0133日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:43:00.92
>>131
>魏との交流を示す魏鏡の三角縁神獣鏡

それは、ない。  @阿波
0134日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:43:25.50
>上の立場である事の間接的な証明となり

古墳の中での副葬位置は?
0135日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:47:41.59
>>878
>>明帝の詔書は、景初二年12月に出されたから、その時点で、銅鏡百枚は、準備完了している。

>なんで? また理由も言わずに言い張ってるね<

人類の常識。
詔書に拠って、難升米らに、
「有難うございます。それでは直ぐに卑弥呼様に届けさせて頂きますので、出立させていただきます。」
と言われて、
「ごめんごめん、まだ全部揃っていませんから、揃うまで待って下さい」なんて、無様の事を、
皇帝が言える筈がない。
0136日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:48:58.83
どこの基地外なんだ?頭の病院に行け
0138日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:53:51.72
ザラコクは特定の時間にしかレスしないが、スレ主は一日中貼り付いている。
0140日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 19:56:45.72
>>89
12世紀の宋明清代の校勘学者が魏志を校勘したとするなら
それ以前の学者が校勘したら邪馬壹國が邪馬臺國になったと
九州説が主張しているので当然邪馬臺國とならなければ辻褄が合わない

12世紀以前の魏志引用文には邪馬壹國が1つも出て来ないので
宋明清代の校勘学者はそれまでの多通の学者の校勘を知らない
校勘学者の失格者という事になってしまう

結局12世紀に復刻された魏志の底本には
邪馬臺國→邪馬壹國の誤記があり
それまでの元本に近い魏志は戦乱で消失したため
その確認がとれずにそのまま表記したと考える他にない
0141日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:03:00.55
>>882
>古代では臺と台とは区別された別文字であり、というのは
証明するには別の意味で使われている例を出せばそれで済む<

古田さんは、臺は「盛り土」や「天子の宮殿や直属の中央官庁の」という意味だとされ、
台は「星の名など」とされた。それ以上は知らんよ。

>しかし一向にそんな物を出してくる気配がない<

素人オジンは、そんな本を持っていないし、PCも素人だから、検索する事も出来ない。

>証拠が出せないなら常識通り 邪馬台国は邪馬臺國の単なる新字体表記という事であり
邪馬台国はなかったというのは九州説のホラ <

それなら、お前が、古代での「台」の使用例を出せば?。

>そのザラコクの言う
「同時代の使節らの実地の見聞計測というような、客観性や信頼性が99.5%以上である魏志倭人伝」を
魏志曰く、とそのまま引用しているのが各時代の複数の史書であり
その複数の製作者が揃いもそろって、何の断りもなしに
邪馬壹國と書いてあったのを邪馬臺國と書き換えるというのは
まずありえない話<

www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
にあるように、唐代以後の史家は、自己解釈に拠って、自分の表現で魏志を書き換えているね。

>やはり当時の魏志には普通に邪馬臺國と表記されていたのである<

魏志写本には、99.5%以上、「邪馬壹國」と書かれていたの。
0142日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:03:40.35
>>132
>>133
景初三年、正始元年など魏の年号が入っている

「銅出徐州 師出洛陽」
魏の領土の銅の生産地である徐州の銅を使い
魏の都の洛陽の鏡師が作ったという銘文がある

スプリング8という分析器で解析した結果
使われている銅は魏・晋時代の中国のものとわかった
0143日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:05:36.27
呉の年号も入っている

詐称

科学的に間違ったものを根拠として挙げており、マイナス評価
0144日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:07:09.16
>>885
>炭素14Cを失敗計測というのなら
独自に計測してその数値を公表すればいい
証拠もなしに言い張るのはただの言いがかり<

何度の言ってあるよ。
プラズマ化が問題なんだから、
ベータ線法と、AMS法の、両方の計測を比べてみればよい、って。
0145日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:13:26.66
スプリング8()笑
0146日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:20:10.41
>>891の追加
>もし景初三年鏡が魏からの下賜鏡でないなら
その後も継続して魏の年号入りの鏡が畿内から出ることの説明がつかないのであり<

呉系楽浪鏡師らは、一旦九州に来て、
(出目を自慢するために)呉や魏の年号鏡を造ったが、
卑弥呼への銅鏡百枚を知って、商売にならなくなり、地方に行って依頼製作をし、
また大和にも行って鏡作り神社で、大和の子弟に三角縁神獣鏡の作り方を教えたの。

>景初三年鏡はどのような事情があったにしろ 魏と畿内の交流を示す証拠 <

呉系楽浪鏡師らが造ったの。
0147日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:20:22.44
>>91
元々の写本が失われていなければ
復刻版を作る必要は無い
12世紀に複数の書を集めて魏志を復刻したのは
戦乱でそれまでの魏志が消失したため
そして消失する前の魏志を引用した史書は
ほぼ全て邪馬臺國と表記する

また7世紀の梁書は祁馬臺國と表記するが
11世紀の太平御覧は魏書曰く…邪馬臺國と魏志を引用して表記する
これはその頃までは元本の魏志が健在であり
太平御覧はそれをそのまま引用したために前の時代の
梁書の祁馬臺國表記に引きずられなかった証拠

つまり11世紀頃までは消失前の魏志は健在であって
なので復刻版を作る必要が無かった
そしてそこには太平御覧の引用するように邪馬臺國とあったという事
九州説の言う様な邪馬壹國という表記は12世紀以前には出て来ないのである
0148日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:25:35.20
>>895
理由も言わずに結論を言い張り、
不可知部分への証拠を要求して、自分は何もせず、
「南→東」などの嘘つき騙しをするだけ。
それが大和説者。
0149日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:31:09.43
後漢書東夷伝  432年頃   其大倭王居邪馬臺國
梁書諸夷伝   636年    至邪馬臺國,、即倭王所居。
               復立卑彌呼宗女臺與爲王
隋書東夷伝   656年    都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
北史倭国伝   659年    居於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
               至邪馬臺國。
               復立卑彌呼宗女臺與爲王
翰苑      660年頃   憑山負海、鎮馬臺以建都。
               卑彌娥惑翻叶群情、臺與幼齒、方諧衆望、
               復立卑弥呼宗女臺與(『後漢書』曰(誤))
               南至邪馬臺國(『廣志』曰)
通典      801年    立其宗女臺輿爲王。
               其王理邪馬臺國
太平御覧    983年    又南水行十日陸行一月至邪馬臺國
               於是復立卑彌呼宗女臺擧

こうして見て来ると、三国志の方で、伝本の過程で臺⇒壹の錯誤あるいは、書き換えが
あったと考えるほうが合理的
0150日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:31:44.21
スプリング8()笑
0151日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:43:30.58
>>897
>呉系楽浪鏡師の渡来を想定しなくても
三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡で日本にもたらされたとする事で
全ての説明がつくものである<

海東鏡とその共存鏡(銅出徐州師出洛陽鏡)が、
洛陽出身の鏡師が、徐州の銅を持って、日本列島へ来て、
三角縁神獣鏡を造った、という事の証拠。
0152日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:44:57.42
あらら

4世紀の国産鏡だね
0153日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:46:17.90
>>900
>実際には魏への使者派遣は4回記録
その都度鏡を貰ったとすれば三角縁神獣鏡が
500枚見つかっていても不思議ではないし
加えて国内のコピー品もある<

「その都度鏡を貰った」という証拠がない。
0154日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 20:53:38.24
その都度敵対国呉の鏡を100枚貰うなど笑止
鏡の形式編年も破綻している

つか、そんだけ毎回贈ってたなら
中国側にも大量に出土するだろ(試作品
0155日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:00:09.12
>>906
>12世紀以前の魏志を魏志曰くとそのまま引用した史書の90%が邪馬臺國
邪馬壹國は一回も登場しないので0%<

www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
などの嘘つき騙しのように、「魏志曰く」と言いながら、
書紀も太平御覧も「自己解釈に拠る嘘つき騙しの書き換え」をやっているから、×。
写本の邪馬壹國の確率は99.5%以上。

>「臺」と「台」は別字であるなら別の意味で使われている文を出せ
出せなければ邪馬台国はなかったというのは九州説の大法螺<

古田さんは亡くなってしまわれたし、
素人オジンは、PCでも探す事が出来ないから、悪しからず。

>漢字を知っていようといまいと中国は対馬国、伊都国等の例から
やまと国を邪馬台国と音写した可能性が高い <

邪馬台国も対馬国も存在しなかったから、×。
0156日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:10:41.98
>>109

>弥生前期末〜中期後半の遺跡とみられる吉武高木遺跡でも、
>多数の初期須恵器が出土したとされる(菱田哲郎氏*24)。

宝賀の勘違い
吉武遺跡群は弥生時代後期に集落が縮小、後期末には断絶し
古墳時代に再び生活遺構が現れる
初期須恵器は古墳時代の遺構から出ている

「古墳時代では、竪穴住居跡、掘立柱建物から構成される集落から、
数多くの陶質土器・初期須恵器が出土している。」(報告書吉武遺跡群X)
0157日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:10:45.62
>>982(前スレ)
>>702は《三国志集解》の倭人伝部分からの引用だよ
三国志を語るのに基本的な資料だと思うがね
中国での認識を紹介しているだけなのに、君はなぜ畿内説を中傷するの?

下された詔書は正始元年に帯方に到る
詔書が一年以上も留め置かれることは考えられないから
「其年十二月」とは景初三年であるべきだろう
つまり「景初三年六月」であるべきだ
というところもちゃんと読んでくれよ
0158日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:15:08.71
>>919
>・唐の時代に編纂された『晋書』という歴史書中の巻12『天文志』
「景初元年七月,公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子崩。
 四年三月已巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。」 <

唐代の晋書では、景初四年の使用例にはならないなあ。
同時代に景初四年が使われた使用例があるのか?、という事が問題であったんだから。
0159日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:17:56.42
しょうがないよ
呉から亡命した渡来工人なんだから
0160日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:20:27.21
>>922
>魏と交流がなかった勢力が、魏との交流の記念鏡を作り理由がないんだが?<

渡来して来た呉系楽浪鏡師らには、中国年号を付けて信頼させよう、とする理由があるんだよ。
0161日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:24:09.12
アフリカから来た芸人がアメリカっぽく魅せるってやつか
0162日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:28:12.86
>>158
>唐代の晋書では、景初四年の使用例にはならないなあ。
>同時代に景初四年が使われた使用例があるのか?、という事が問題であったんだから。

それよりずっと成立の遅い、旧唐書の「倭の別種」はお気に入りの癖にww
0163日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:32:51.72
>>154
三角縁は5段階に編年されるが、その第1段階は多種多様な鏡のモチーフが持ち込まれており、まさに試行錯誤といった様相
0164日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:41:00.71
>>163
>その第1段階は多種多様な鏡のモチーフが持ち込まれており

あれ?

辺境蛮族のために急ピッチで作った銅鏡なのに
あんで「呉系の」多種多様なモチーフが持ち込まれるの?

適当に一つ決めて、それを大量生産でいいじゃない。
0165日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:42:47.67
どこの池沼なんだ?頭の病院に行け
0166日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:44:03.00
どこの池沼なんだ?と聞いているんだよ
0167日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:44:48.75
>>924
>三角縁神獣鏡は盛んに国内でもコピーされたから
500枚あっても魏から卑弥呼への下賜鏡である事の否定にはならない
また洛陽から1枚見つかったのはそれを補強するものである <

洛陽からの出土が0〜1枚しかない事も、下賜鏡である事の否定になる。

>日本書紀、梁書だけでなく通志、太平御覧、翰苑も景初三年<

唐代以後の史書は「自己解釈に拠る書き換えをして威張りたい」から、半分×。

>そして景初二年は魏は朝鮮半島の公孫氏と交戦中
卑弥呼が魏に使いを出したのは公孫氏が討たれたあと<

晋書は「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」のように、
同時とも取れる書き方であったが、
梁書からは「至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遺使朝貢」と、
はっきりウソを書いた。

>徐州は三国時代魏の領土<

呉系楽浪鏡師であっても、洛陽出である事を名乗れば、、
銅を購入する事位は出来たんだろう。
0168日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:45:20.87
>>93
福岡平野中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地は
古地名儺県(なのあがた)によって魏志倭人伝の奴国と比定されており
戸数は2万個

また後漢書は5世紀南朝宋に成立した書なので
その頃中国は畿内の倭の五王を通じて交流があり
九州に邪馬臺國が存在したと誤認したとは考え辛い

さらにお互いの使者が都まで行き来したと記録がある隋でも
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也、
(倭の)都は魏志にいう邪馬臺である、と
一貫して倭の都を邪馬臺と表記している

古代中国では交流があっても一貫して倭の都を後漢書の記す、
九州説の言う所では楽浪郡から1万2千里のところにあるから
九州にあったという邪馬臺國と勘違いし続けたのだろうか?

そうではなくて魏の頃から倭の都はずっと邪馬臺國であり
九州説の言う通りなら魏志の九州邪馬壹國から後漢書の九州邪馬臺國、
そしていつの間にか隋書の畿内邪馬臺國といった遷都が行われた形跡は
記録の上にもないし実際の歴史上にもないのである
0169日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:46:23.14
>どこの池沼なんだ?

奈良湖
0170日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:47:49.66
精神病院?精神科?

そこへ行け
0171日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:49:51.73
奈良湿原?奈良湖?

底へ池
0172日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:54:11.04
>>164
未だに神獣鏡が呉の鏡とか抜かしてるのはネット程度でしか情報にアクセスできない情弱だけだ
0173日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:55:15.11
>>151
「海東鏡とその共存鏡(銅出徐州師出洛陽鏡)が、
洛陽出身の鏡師が、徐州の銅を持って、日本列島へ来て、
三角縁神獣鏡を造った、という事の証拠」ということにわざわざしなくても
銅出徐州 師出洛陽の文言は
魏の領土である徐州の銅で洛陽出身の鏡師が作ったとあるから
その鏡は魏鏡であるという説明で事足りてしまうのである
0174日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 21:57:27.89
>>930
>12世紀に復刻された魏志倭人伝こそ 意図したのかそうでないのか
それまでの邪馬臺を邪馬壹と書き換えたのである<

写本版本系が一種類しかなかったのなら、
そんな「意図的」そんなな事も起こり得るかも知れないが、
多種類あった三国志の写本版本系列の、全部が「邪馬壹國である」、
という事は、別人なんだから、普通は起こらない。
0175日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:04:00.00
いわゆる舶載三角縁が魏晋鏡と推定されたのは
「銅出徐州 師出洛陽」という銘文の表記による

景初鏡や正始鏡の出土は、そうした推定が学界に浸透した後
0176日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:07:28.96
>銅出徐州

日本から銅は出ません
ぜんぶ中国からの輸入銅

>師出洛陽

三角縁を作った鏡師は洛陽から来ました〜

で???
0177日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:08:11.72
原発事故と同じ構図か>結論ありき
0178日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:11:54.28
>>95
對海國と一大國の
無良田、食海物自活、乘船南北市糴
(よく実る田はない 海で漁をする 船で南北の市に出向く)や

耕田猶不足食、亦南北市糴
(田からの作物では足りず 南北の市に出向く)の記述は

見る事ではわからない情報であり
国内異動などせず伝聞をまとめた情報である事がわかる
つまり對海國と一大國は行ではなく方400里、300里とある通り
国内異動はせず伝聞と大雑把な情報を記しただけである
0180日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:15:55.37
>>97
倭人伝の記述と考古学物証の2つが揃って初めて証拠として扱える
九州説は考古学的証拠が何もないから嘘ばっかりつくハメになる
0181日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:20:06.50
アタマのビョーインに行けと言っているんだよ
0182日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:28:08.87
>>933の訂正

>景初四年は存在し得た<

存在したのは、「景初三年の後十二月」とかという呼称であって、
「景初四年」という呼称ではなかった。
0183日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:32:19.23
>考古学的証拠が何もないから嘘ばっかりつくハメになる

鉄器ゼロ
0185日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:45:13.87
>>937
>畿内が存在してなければ九州も存在していないという事になる<」

畿内なんて存在しないし、大和は九州倭国の別種の旧小国。

>景初四年は景初三年から正始への改元の際に存在し得たのであり<

これも×。存在したのは「景初三年の後十二月」というもの。

>また正始も逆に呉系鏡師なら鏡に刻みようがないのであり<

渡来して来た呉系楽浪鏡師らは、最初は呉の年号を刻み、卑弥呼の遣使を見て魏の年号を刻んだ。

>また鏡に刻んだとするなら出土した畿内は魏と交流していた証になる<
祈念鏡の存在はどう転んでも魏と畿内の交流の証になるのである<

ならない。大和は九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国を介して間接的か?、呉系楽浪鏡師らを介しての関係。

>海東に至る…という文言のある海東鏡も
全唐文にあるように三角縁神獣鏡は初めから倭に下賜するために作られた鏡である事を
示す補強材料であり<

いや、海東鏡は、洛陽での鏡師が、呉付近で神獣鏡と三角縁を学んで、一旦楽浪にいて、
それから列島へやって来て、三角縁を造り始めた。

>呉系楽浪鏡師の存在を想定しなくても
三角縁神獣鏡は魏からの下賜鏡とすればそれで説明はつくのである<

。付かない。
0186日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 22:51:26.09
>>938
>では倭国に関する古代中国の文献の記述で
そこを九州と記されている例を持ってきてもらおうか<」

倭人の出目は、燕の南や、会稽や呉地域から、など。
始皇帝の命令でやって来た人々もいたようだったなあ。
0187日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 23:01:10.52
>>940
>景初四年は景初→正始の年号変更の際に存在し得た可能性があり<

無かった。あったのは「景初三年の後十二月」。

>景初三年、景初四年、正始元年、正始5年、と見つかる魏の年号の入った
畿内で見つかる記年三角縁神獣鏡は
魏と畿内の複数回の交流を示す物証である <

魏では、景初四年は存在していなかったんだから、
魏との交流があったら、刻まれない鏡。
また、畿内なんて存在せず、大和は魏と交流があっても、魏とは間接的
0188日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 23:05:04.52
ザラコクさんに感謝しろ

正しい道を示してくださっているのだぞ
0190日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 23:16:49.36
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0191日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 23:21:17.72
>>128
「用青同至海東」は青銅を用いて作り東(倭国)へ送るといった程度の意味

三角縁神獣鏡は銅を携えた呉の鏡師を想定しなくても
魏で作られた鏡で畿内にもたらされたものであるとすれば
魏の年号のある事、銅出徐州 師出洛陽の魏との関わりを示す銘、
スプリング8による解析で魏・晋鏡と同一素材と解析された事に対し
今見つかる状況に特に矛盾は生じないのであり
呉系の鏡師が存在しなければ説明できないような点は何もないのである
0192日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 23:30:35.62
>>141
古代、3世紀に臺と台は別文字だったとザラコク、そして古田が主張しているなら
この書にこうこう書かれているという証拠を出さなければ証明にならない
証拠が出せないものはない物として扱う
ゆえに邪馬台国は邪馬臺國の新字体表記というのは当たり前という事
邪馬台国はなかったというのは九州説の大ホラだった
違うと言うなら臺と台が別の意味で使われている3世紀の中国書の文を出す事な
0193日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 23:33:14.32
>>143
三角縁神獣鏡に呉の年号入りのものはなし

詐称とする確たる証拠なし

三角縁神獣鏡の成分分析が科学的に間違っているというならその根拠を
0194日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 23:38:25.89
>>144
ベータ線を直接数えるベータ線法は古いやり方であり
AMS法はそれより正確な解析ができる
AMS法は実用される前にベータ線法と当然比較検査をして
正確に計測する手法を確立しているのであり
信頼性がベータ線法より劣るならば今現在の主流にはならないのである
0195日本@名無史さん垢版2018/09/06(木) 23:42:58.05
>>146
景初三年、景初四年、正始元年、正始五年と
改元があっても連続して魏の年号入りの鏡が畿内で出るのは
畿内が継続して魏と交流していた証
畿内と魏との交流がなければ
呉の鏡師はどうやって魏の年号を知ることが出来たのだろうか
0196日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 00:07:37.46
>>155
魏志曰くに似た文言のある史書は複数に渡り
また引用文の共通から史書の倭人伝部分は魏志を直接引用している事がわかる
それら時代を跨ぎ複数ある史書が邪馬臺國と表記する
そろそろそれらの時代にまたがる複数の史書の製作者が
揃いも揃って自己解釈によって邪馬壹國を邪馬臺國に書き改めたという説は
苦しくなってきたのではないだろうか
とにかく12世紀になるまで邪馬臺國は魏志倭人伝に登場せず
これは誤記の可能性が高いのである

「臺」と「台」は別字である証拠がないのなら
邪馬台国は邪馬臺國の新字体表記であり
邪馬台国はなかったというのは九州説の大法螺
0197日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 00:52:43.17
>>196
>邪馬台国はなかったというのは九州説の大法螺

九州説のとか言うな。
ザラコク氏の思い込みだ。
九州説でも大半は邪馬台国で通用している。
0198日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 03:25:04.24
>>73
>三角縁を徐州系鏡群
>>142
>魏の領土の銅の生産地である徐州の銅を使い
>>173
>魏の領土である徐州の銅で
>>191
>銅出徐州


全員ダウト!!!
三国時代に徐州で銅が採掘された場所は呉の領土!

>後漢時代の「徐州剌史部」の全域が、三国時代の魏の領域になっているわけではない。
>三国時代には、彭城およびその付近では決して銅を産することはなかった。
>鏡は『銅出徐州』の銘文があっても、必ずしも鋳鏡の銅が徐州にでたと説明するには十分でないし、
>また銅をとることのできない彭城およびその付近に銅がでたとは説明できない。」(王仲殊著『三角縁神獣鏡』「学生社。1992年刊」)
>王仲殊氏の文章中にみえる「江都」「儀徴」などは、後漢の時代、「徐州剌史部」の監督する地域内にはいっていた。
>この江都、儀徴には、古く銅鉱があった。
>三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
0199日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 04:08:20.75
それよりも、ほとんど老婆談と同じじゃない?
山の上のほうに住んでいて、釣り?長竿?

『夜歩くプラネタリウム人間』
0200日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 04:12:05.43
『松傾』?

このような名前の家なんだけど
0201日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 04:16:39.78
『龍宮城』

海中ではなくて、
山の上のほうに住んでいた?と言っていたんだけど
0203日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 05:12:36.86
纒向で騒いでいるのは橿考だけじゃねーか
0204日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 05:35:18.05
「臺」が「台」の旧字体とは限りません。
「われ、わが」などの意味で使う場合、相手を敬って言う場合、星の名前「三台星」、天台宗関係の事などは、
「台」であって、「臺」と書いては誤りです。これは、この字と「臺」の新字体がたまたま同じ形になっただけで、
本来違う字だからです。

いずれせよ 「臺」と「台」の議論は無意味です
「邪馬壹國」 壹 壹 です
音声から漢字を充てたのでしょう ヤマイ(イチ)のイをタイと聞き間違える可能性は低いです
倭人伝以外の「壹」ですが誤写かヤマト王政を意識した可能性が非常に高いです・・・

 
0205日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 05:54:26.94
>>202

文化・文明・物資の交流は国を超えます
シルクロードや宗教が判り易いですかね
0206日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 06:06:00.96
>>204
思考停止して言い張るだけ


それが九州説
0208日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 07:08:08.14
魏の時代は鉄鏡が主流やぞ。呉に銅山取られたからな。
0209日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 07:10:21.89
>>193
成分分析が間違っているのではなく
それを解釈するあなたの判断がおかしい。
0210日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 08:15:38.79
人命尽くしの神、筑紫神
0212日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 08:50:57.04
>>940 これに対する返事が、また、5chに消されてしまったので、また、再投稿。
>景初四年は景初→正始の年号変更の際に存在し得た可能性があり<

ない。
その年の年始めは、「景初三年の後十二月」「とされ、景初四年とはされなかった。

>景初三年、景初四年、正始元年、正始5年、と見つかる魏の年号の入った
畿内で見つかる記年三角縁神獣鏡は<

畿内なんて存在しないし、景初四年も存在しない。

>魏と畿内の複数回の交流を示す物証である<

魏にいた鏡師であれば、依頼主にとっても必要が殆どない紀年を、刻む必要がない。
そんな紀年を刻む必要があるのは、鏡師が自分が魏のそんな人間であったんですよ、
という事を誇っておかなければならない、という場合。

それが、列島へやって来た呉系の楽浪鏡師らの場合。
0213日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 09:23:39.98
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
0214日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 09:24:38.58
朝倉・平塚川添遺跡とは、魏志倭人伝時代の、どの国のことだろうか、、、

(末盧国から)東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がいる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところだ。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、
(帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国(の役所である大分市)に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
0215日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 09:25:00.89
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の熊本城のすぐ)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、
0216日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 09:27:38.57
>>945
>明帝の詔書は景初二年の12月というのは
卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年六月という事を示す
複数の証拠に反する
なので間違いの可能性が高い <

天子の生活や公的行事などは、
起居注などで、日記のように連続的に記録されて残っており、
間違える可能性は、全くのようにない。

間違えるのは、唐代以後の史家のように、「自己解釈に拠って、書き換え造作する後代史家ら」。
0217日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 09:29:27.82
>>946
「南≠東」などの嘘つき騙しのように、思いつきで捏造するの大和説に藁。
0218日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 09:46:21.09
>>953
>全唐文には、意欲すると
魏は倭に決まりきった鏡を下賜するのではなく…という文が出てくる
三角縁神獣鏡は倭への特注品であり
魏やその他の地域でも見られない形式の鏡と見られ
さらに1面魏の洛陽で見つかったという事は
その説を補強するものとなる<

「全唐文」は、後代史家や現代大和説者らのような、
過去の文書に対する「自己解釈に拠っての曲解造作の書き換え」をする文書の典型であり、
×文書。
0219日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 09:53:30.90
>>954
>日本書紀、梁書、通志、太平御覧に卑弥呼が儀に使いを送ったのは
景初三年とあるので<

魏志は、当然天子の起居注などの「日記」のような同時代記録を元にしており、
景初二年12月に詔書を出し、景初三年元旦に亡くなった、という事は変えようもない事。

>景初三年と魏の年号の入った三角縁神獣鏡は 魏からの下賜鏡で決まり <<

通典も「景初二年」と記載しており、
景初三年鏡は、明帝の下賜鏡ではない、という事で決まり。


魏志
0220日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 09:59:04.99
>>959
>ここまでの畿内説の主張これでいい?
主張1 三角縁神獣鏡は畿内で多く見つかつている
主張2 畿内以外で見つかった三角縁獣鏡は邪馬台国が他国に授けたもの<

畿内なんて存在していなかったし、
大和付近は、「正北抵新羅」の九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の一つでm
筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国の、倭国の附庸國であったんだから、
×ね。
0221日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 10:07:10.91
現代人が「臺」の代用字に「台」を使うことになんの問題があるのか理解できない
「台」がはっきり「ト」と読めてしまうことに危機感でもあるとしか

笑)
0222日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 10:11:39.26
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている
0223日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 10:20:22.28
ひたすら同じ嘘をつき続けるキウス
何を言われても没論理で同じセリフを呟き続けるザラコク

九州痴呆の迷走ぶりが痛々しい
0224日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 10:25:02.33
小学校のころ、箸墓を遊び場にしていたという爺様の話しでは、
足の踏み場もないほどあれこれの破片がちらばってるんだそうだ
で、墓の裾を歩いただけで、コリャだめだとなった・・・
0225日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 10:36:51.96
このように九州説は結論だけあって
なんでそんな結論が出るのかは他人に決して理解できない
0226日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 10:37:43.96
>>961
>紀年銘鏡(年号あり 三角縁神獣鏡)
景初三年(239年)・・・・島根県 神原神社古墳
正始元年(240年)・・・・群馬県 柴崎古墳
正始元年(240年)・・・・山口県 竹島古墳
赤烏元年(238年)・・・・山梨県 狐塚古墳<

呉系楽浪鏡師らの内の、三角縁神獣鏡を造る仲間らは、
呉年号の赤烏元年(238年)の少し前に渡来して来たんだろう、
という事になるね。
0227日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:04:01.86
>>993
>纏向遺跡には大型の墳丘墓に中型の墳丘墓、普通の方形周溝墓、あるいは土器棺墓、木棺墓
階層別に色々ある
>円墳とか数百あるぞ<

変だな。
纏向からは人骨が出土しなかった、という話はどうなったんだい?。
纏向は、泥状地域であって?、骨まで皆溶けてしまったんかい?。
0228日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:12:06.00
>>995
>今われわれが見てる三国志も北宋の頃に学者たちが「自己解釈」で復元したもんだぞ <

写本版本の原則は、底本写本の転写であって、「自己解釈に拠る復元」ではないし、
それが、沢山の系統版本が出来て残っていた、という事は、
北宋の頃より以前の底本写本の段階で既に、沢山の種類の写本も存在していた、という事だ。
0229日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:18:16.53
>>227
泥状地帯の方が骨は残りやすいんじゃない?
鳥取でそういう古墳があったと思う。
弥生人の脳まで出てきたとか。
0230日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:22:49.85
>>228
>写本版本の原則は、底本写本の転写であって、「自己解釈に拠る復元」ではないし、

それ、ザラコクが脳内で空想したことでしょ

現在われわれの見てる三国志は宋の学生が研究して復元したもの
これは歴史的事実なんで覆せない
沢山の系統版本なんて存在してない
0231日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:31:37.12
>>996
>景初2年なのか3年なのかは決着のついてない問題だが、遼東から洛陽まででも3ヶ月はかかる
死者が帯方郡に着いたのは6月 8月いっぱいは遼東で籠城戦の激闘中
明帝は12月8日に危篤 かなりタイトなスケジュールだね <

景初2年なのか3年なのかは、
天子の施政行為や生活には起居注という日記のような記録があるので、
間違える事は全くなく、
決着は付いている。
0232日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:37:57.95
>>997
>帯方郡から先は、潮を知る郡の先導だから海路だったのだろう。<

郡役人や軍が付いていても、海は荒れる時は突然来るもの。
天子への遣使を遭難させて死なしては、郡太守らは、当然首が危ないから、
陸路だろう。
0233日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:40:26.84
>>1000
大和説の阿呆が、がんばれば頑張るほど、
大和説は、敗色濃厚になるな。
大和説が、どんどん無理筋に追い詰められていく。
0234日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:42:33.75
>>233
ザラコクは妄想専業だなw
0235日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:44:10.25
>>232
天子の遣いが、帯方郡から倭国へやってくるときも、
とうぜん首が危ないから、陸路だったというのか。
0236日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:45:13.59
>>231
文字がカスレりゃ「王」も「三」になるのは常識
常識知らずの無知爺さんに歴史は無理だ
0237日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:47:52.99
芸能(関係?)の世界の話になるんだけど、
教本のようなものがあるの?

作家からの引用だとしても、
ほとんど同じでしょ
0238日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:48:53.64
>>227
九州説爺さんは脳障害だから、そのうち
奈良では墓に人を葬らないんだー
とか言い出しても、もう驚かぬ
0239日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 11:50:40.23
家の老婆は「はな はと まめ」とか、
そういうのを習っただけだよ・・・としか言ってなかったんだけど、

それにしても詳しい、誰に習っていたんだろう
0240日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 12:18:22.08
>>227
>纏向は、泥状地域であって?、骨まで皆溶けてしまったんかい?。

九州の甕棺墓でも、中に人骨が残っているものはまれだぞ
何を言ってるんだ?ww
0241日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 12:27:15.05
松傾に習っていたのかな?
舅、姑?

話なども聞かされたと言っているし
0242日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 12:27:27.54
>>229
それ、古墳じゃねーぞ
0243日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 12:34:21.74
そのような気がするんだけど

当時住んでいた家には、
あまり見たことない本や書なんかが、だーっと並んでいて?
0244日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 12:34:58.86
>>226
魏軍が鹵獲した戦利品だろ
0246日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 14:05:32.65
>>78
>倭国から船で半島〜帯方郡へ行ってるんだから、<


いや、狗邪韓國までは、持衰のいる倭船であり、
狗邪韓國から帯方郡は、倭王武が言うように、
「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」のように、陸道だ。

>帯方郡から先も、潮を知る郡の先導で海路を行ったのだろう。船ならすぐだ。<

いや、海路は、どうしても突発的な事故が避けられず、
そうすると天子への朝献使節らを失いかねず、失えば首が危なくなるものであり、
護衛の將の選択は、戦中の陸路だろう。
0247日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 14:07:27.72
>>81
倭国大乱も、邪馬台国も、大和朝廷もなかったから、×。
0248日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 14:40:39.27
『プラネタリウム人間』も漫画の話なのかな?

『ザ・モモタロウ』
という作品に登場するテングテングというキャラ、
望遠鏡のようなものを持っていたり、竹の筒?
0249日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 14:42:44.83
『万華鏡写輪眼』〜『ボーボボ』

画像をググってみて、グーグルで検索という意味
0250日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 14:46:28.70
とある忍者アニメなんだけど

左目?・・・何やら・・そういうキャラの画像が出てきたり
0251日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 15:10:48.49
それにしても・・・一部の漫画やアニメ(ゲーム)など、
人権侵害のような事ばかりしているような気がしたり
0252日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 15:30:24.79
>>247
そしてザラコクに脳もなかったから、×。
0253日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 16:40:23.38
>>82
台与なんていなかったし、ヤマトは九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国で、
筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったから、
×。
0254日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 16:58:36.00
>>100
>「魏志曰く」と書きながら後漢書の「邪馬臺國」を書く、という自己矛盾をやってしまっていたのだよ。<

>「魏志曰く」と書いてあるなら、後世の学生が書き直した版本じゃなくて
初唐の史家が見た本物の魏志には「邪馬臺國」と書いてあったってことだよ <

これ×ね。
宋明清代のに全ての魏志版本に「邪馬壹國」と書かれていて、
校勘学者は誰も「邪馬壹國」の校勘をしていない、という事は、
全ての底本写本にも、それ以前の一般写本にも、
99.5%以上「邪馬壹國」と書かれていた、という事になるんだよ。

大和説は、自説に都合の悪いことを書き残した、写本や版本を、
みんな悪質なウソツキと貶めないと成り立ちようもないトンデモ説ってわけさ。
0257日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 17:50:03.96
>>101
>大和に成立した纏向と邪馬台国はそれまでの大和的要素は殆ど引き継いでない

邪馬台国なんて、存在もしていない。

>邪馬台国出現前の大和的要素は、邪馬台国登場によってすべて一新されたと言っていいような状態になっている
邪馬台国は吉備、出雲、近江、九州などの各地域の要素を全てまとめ上げて「創造された」新しいシステムを構築して成り立っている<

大和も吉備も近江も東海も、九州倭国の「東征毛人も五十五國」の中の国々の中の国で、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であったに過ぎず、
また、出雲は、その毛人蝦夷らの盟主であった、というだけ。

>大和に自生的に邪馬台国が現れたのではなくて、
大和に多くの勢力が統合される為の新要素を作り出して生まれたのが邪馬台国だと分かるな
卑弥呼が共立されたと言う状況にもよく合致する <

南≠東に拠って、×。

>そして邪馬台国が樹立すると各地域も大和同様に自国文化を放棄しこの新体制に移行していく動きが見える<

出雲の文身國や越の大漢國や、侏儒國や、女國は、梁代まで、独立的であった。

>これは邪馬台国が大和中心の覇権国家ではなく全国的な合意による統合であることを示唆している <

「市」を介しての流通経済的な統合。
0258日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 17:52:51.00
>>102
>畿内説が大和説なんかじゃないことは、お察し 歴史はもっとダイナミックだ<

大和が畿内なんかじゃないことは、お察し。
歴史は、皇国史観の大和天皇家一元列島支配ではなくて、もっとダイナミックだ。
0259日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 17:54:23.04
>>256

トンデモ説はそうでもしないと・・・  @阿波
0260日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 18:23:12.85
>>105
>大和に現れた全国的な勢力の連合勢力である邪馬台国は、
各地域の要素をまとめて新たな文化を創造して成立した<

邪馬台国なんて存在しない。
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭国の国。

>その結果、全国の多くの地域にも邪馬台国的要素を見出すことが出来ると言う状況を産みだした
しかし各地域でのその要素はあくまでも一部に過ぎない<

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」があったから。

>邪馬台国としてその全ての要素を統合した文化を形成しているのは大和の纏向遺跡のみ
その為、邪馬台国は纏向遺跡を中心として作られた国であると分かる<

倭国は「正北抵新羅」である事や、「南≠東」などに拠って×。
纏向は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の東征将軍や、
地方の市を監督する大倭職の居地であったに過ぎない。
0261日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 18:55:27.10
>>119
>畿内が存在してないなら九州も存在していない<

畿内とは、天子や皇帝や天皇の直接的支配地の事であり、
大和王権の直接的支配地は大和内の一部だけでしかないから、×。
九州は、天子や皇帝や天皇の直接的支配地の外の、諸王らの支配地を意味し、
倭人は、中国の辺縁の燕の南や、会稽付近からの渡来であったし、
倭国はずっと中国の辺縁の使持節や都督や大将軍職の国であったんだから、
九州と自称してもおかしくない。

>渡来した呉の鏡師は畿内にいながらどうやって魏の年号の変遷を知った?<

景初四年鏡を造ったから、年号の変遷がよくは判っていなかった。

>仮に呉の鏡師が居たとして魏と畿内の交流がなければ
景初→正始の年号の変化を知らずには鏡に記銘できない<

難升米らは、当然知っていた。

>もちろん、呉の鏡師の存在を想定しなくても魏と畿内は直接交流があったで説明がつく<

大和は、九州倭国の別種分家の附庸國であるから、魏との直接的な交流はない。
0262日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 19:38:37.93
>>226
青龍三年鏡(魏年号、235年)も畿内(太田南古墳群)で見つかっているぞ?
じゃあ赤烏元年鏡は魏の鏡師が出自を誇るために畿内で作ったものだな
0263日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 19:43:36.18
>>262
>じゃあ赤烏元年鏡は魏の鏡師が出自を誇るために畿内で作ったものだな


まぁ、遺跡状況から言って、畿内では不可。  当然として、倭国(阿波)しかないわな。  @阿波  
0264日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 19:44:35.92
え〜旦那、お好きな年号をお入れしますよ・・・
(商売、商売!)
0265日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 19:48:24.19
畿内には魏の鏡師集団がいた!
その証拠は赤烏元年と呉の年号の入った鏡を
自らの出自を誇るために作ったからである!
0266日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 19:54:02.45
>>265
>畿内には魏の鏡師集団がいた!


まぁ、遺跡状況から言って、畿内では不可。  当然として、倭国(阿波)しかないわな。  @阿波  
0267日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 21:17:25.62
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0268日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 21:28:56.29
ギリヤアク先生の
>渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

いうのは正解(たぶん?
ただしその何たら解析のほかにも山口なんたら弥生遺跡の弥生時代人が南方縄文人だったり山東非漢人だったりいう解析もあるなあ(まあ色々交易で混血したろ?
0269日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 21:31:46.15
ワイ族のDNA教えれ?
0270日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 23:18:53.53
>>120
>旧唐書ではなくて全唐文の間違い<

お前は、旧唐書だと書いたから、旧唐書はそんな事を書く筈がない、と言って上げた。

>この程度の間違いに気づかずに的はずれの罵倒<

誰かが、全唐文だ、と言ってくれたから、
現代大和説者ではなく、清代の学者だった、と判った。

>九州説は漢籍の知識がまるきり欠落しているようだ<

素人オジンは、PCも検索も不得手だから、
当然、これまでに提示されて来たこれまでに情報以外は知らないよ。
ましてや、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らや、
はるか後代史家の「半分×記載」など、
関心がないよ。
0271日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 23:25:36.53
>>123
>じゃあ、どうして考古学者が畿内説ばっかりなの? w <

そりゃ、支配している文部省や大学のトップらが、
「南→東」などの史料事実を否定曲解するようなするような嘘つき騙しの大和説であり、
彼らに逆らっては、考古学会にも入れないし、
入ってもトップに逆らっては、立身出世は出来ないシステムが出来上がっているから。
0272日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 23:27:34.26
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
0273日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 23:34:13.07
>>127
精神病棟か刑務所行きを強くおすすめするのは、以下の方々。
・安部自民党員全員
・右翼マスコミの社長〜社員全員
・大和説教授や学会員全員
・山川や清水や東京の社員全員、
・文部省や教育委員会や校長や教頭ら全員
・万世一系皇国史観系の右翼大学や宗教界ややくざ暴力団ら全員
・大和説者全員
・泡バカ
0274日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 23:34:34.31
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、
0275日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 23:37:04.94
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

集落跡、人骨、石床、王都の無防備、、、、、課題いっぱいだね
0276日本@名無史さん垢版2018/09/07(金) 23:53:19.44
>>131
>畿内がなかったなら九州もない<

畿内なんて存在していなかったんだよ。
河内などは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の、旧小国群であり、
河内と大和が、別国の別組織であったのであり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であった。

>魏との交流を示す魏鏡の三角縁神獣鏡が多数見つかるのは畿内であり<

三角縁神獣鏡は、筑紫の方が圧倒的に早くて古いんだよ。
そして、それは呉系楽浪鏡師らの渡来があった。
大和は4世紀以後。

>もしそれが九州を介して間接的に伝来したものであるとしても三角縁神獣鏡のより多く見つかる畿内は<

渡来して来た呉系楽浪鏡師らの一部の鏡師らは、九州では商売にならない事が判って、
関西に三角縁神獣鏡などを売りつけ、
大和の鏡作り神社で大和の子弟に三角縁神獣鏡の作り方を教え、
その子弟らが、大量の下手で粗末な三角縁神獣鏡を造り、副葬に使った。

>九州より上の立場である事の間接的な証明となり
これは畿内が主、九州が従の力関係を示すものとなると言える<

関西は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の旧小国の国々。
0278日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 01:34:31.42
どうにでも読めてしまうのは
「研究者」じゃなくて自称「古代史研究家」だがな
0280日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 05:24:27.54
卑弥呼は古代琉球王国の巫女王で、聞得大君の前身と考えられます。
0281日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 05:42:19.76
卑弥呼は古代肥後国の巫女王で、おてもやんの前身と考えられます
0282日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 06:03:18.89
多くの研究者の飯の種になっている魏志倭人伝は
このまま未来永劫、解き明かされないほうがいいのだ
0283日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 06:13:04.53
卑弥呼は古代東北蝦夷の巫女酋長で、イタコの前身と考えられます。
0284日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 06:35:45.31
卑弥呼はキャサリン修道院のシスターで、ウーピー・ゴールドバーグの前身と考えられます。
0285日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 06:35:58.96
>>282
>このまま未来永劫、解き明かされないほうがいいのだ


ところが、「其山有丹」一つで簡単に解き明かされてしまったという現実。  @阿波
0286日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 07:34:25.42
>>140
>12世紀の宋明清代の校勘学者が魏志を校勘したとするなら
それ以前の学者が校勘したら邪馬壹國が邪馬臺國になったと 九州説が主張しているので<

九州説は、そんな事を主張していない。 写本でも、99.5%以上「邪馬壹國」と書かれていた、と主張している。

>当然邪馬臺國とならなければ辻褄が合わない<

また、魏志写本に「邪馬臺國」と書かれていた、と主張しているのは、校勘学者らではなく、唐代以後の「何でも自由自在に書き換え」を実行した史家ら。

>12世紀以前の魏志引用文には邪馬壹國が1つも出て来ないので宋明清代の校勘学者はそれまでの多通の学者の校勘を知らない
校勘学者の失格者という事になってしまう<

校勘学者は、原則として、
三国志や魏志と言った過去の文献での「幾つもある写本間に存在する差異」に関して、
どちらが陳寿原本に近かったのか?どちらが正しかったのか?を校勘するもの。
唐代以後の史書の記載は、「自己解釈に拠る書き換え」があったとしても、
全く「其の史家の個人の自由の範疇であり、責任である」として、
世間にそのまま放置して、その史家のアホ振りを世間に知らしめる事にするだけ。

>結局12世紀に復刻された魏志の底本には邪馬臺國→邪馬壹國の誤記があり<

多数の版本での全員一致や、宋明清代の校勘0によって、写本での誤記はなかった。

>それまでの元本に近い魏志は戦乱で消失したため<

焼失しておらず、沢山の残存写本があって、版本の底本写本になった。

>その確認がとれずにそのまま表記したと考える他にない<

結局この大和説男も、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの詐欺師であった。
0287日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 07:45:18.08
まいど理由も言わず言い張るだけ

それが九州説


w
0288日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 07:47:49.33
理由が書いてあっても理解できないのがキナイコシ
0289日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 07:50:41.66
>>142
>景初三年、正始元年など魏の年号が入っている<

勿論明帝の銅鏡百枚にはならず、
また、魏の鏡師はそんな「魏の年号」を刻み込む必要も殆どなく、
有り得る事は、海東鏡のように、呉系楽浪鏡師らが、
自分等を「魏系の鏡師だ」として誇る必要があって、刻み込んだもの。

>「銅出徐州 師出洛陽」 魏の領土の銅の生産地である徐州の銅を使い
魏の都の洛陽の鏡師が作ったという銘文がある<

それ、魏ではなく河内の国分神社の海東鏡と共存していた鏡。
つまり、渡来の呉系楽浪鏡師らには、洛陽出身で呉に移った鏡師もおれば、
単に、呉付近の出身者もいたらしい、という事であるだけ。

>スプリング8という分析器で解析した結果
使われている銅は魏・晋時代の中国のものとわかった<

渡来の呉系楽浪鏡師らの中には、
徐州の銅を材料銅として持ち運んで来たものもいたらしい、という事。
0290日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 07:52:55.99
>>287-288

罵りあいしても無意味。   もう、決着してるんだからw  @阿波
0291日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 07:53:31.91
>>282
>このまま未来永劫、解き明かされないほうがいいのだ

そうとううまい飯にあずかれているようですな、では、ちとおこぼれなぞ頂戴いたしたく、、、、
0292日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:05:18.77
三角縁神獣鏡に
魏の年号が入っていれば呉の職人が入れたものだ
材質が魏・晋時代の銅とわかれば呉の職人が持ち込んだものだ
これが九州説の論
0293日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:05:27.31
>>143
>>呉の年号も入っている<

>詐称 科学的に間違ったものを根拠として挙げており、マイナス評価<

その呉の年号は、238年の記載であるから、魏の公孫氏征伐戦の直前であり、
「景初元年、乃遣幽州刺史毋丘儉齎璽書徴淵。淵遂發兵、逆於遼隧、與儉等戰。儉等不利而還」
の頃であり、
呉系の楽浪鏡師らは、その頃に楽浪の危険を察知し、倭地に逃避流浪して来たものもいて、
楽浪か倭地で、呉年号鏡を造った、という事であり、
それから、楽浪鏡師らが、次々と倭地に避難して来て、いろんな鏡も作ったんだろう。
0294日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:10:27.90
>>293
青龍三年、と魏の235年ころの年号の入った
青龍三年鏡も畿内で見つかってるぞ?
なら魏の鏡師集団も畿内に居たんだな
0296日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:17:02.79
畿内に布教のために配られた。
0297日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:22:00.80
>>160
三角縁神獣鏡に魏の年号が入っているのは
渡来して来た呉系楽浪鏡師の存在を想定しなくても
魏から貰った鏡だからで問題なく説明がつく
0298日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:22:21.17
>>294

まぁ、遺跡状況から言って、畿内や九州では不可。  当然として、倭国(阿波)しかないわな。  @阿波 
0299日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:33:14.88
>>148
>元々の写本が失われていなければ復刻版を作る必要は無い
12世紀に複数の書を集めて魏志を復刻したのは戦乱でそれまでの魏志が消失したため<

版本の技法が発明されたから、地方に残存していた写本群から、多種類の版本が造られた。

>そして消失する前の魏志を引用した史書は ほぼ全て邪馬臺國と表記する<

造られた多数の版本の全てが「邪馬壹國」と書かれていたから、
その底本写本群も、それ以前の写本群も、全て「邪馬壹國」と書かれていた確率が非常に高く、
宋明清代の校勘でも、「邪馬壹國」を「邪馬臺國」と校勘する学者は、一人もいなかった。

>また7世紀の梁書は祁馬臺國と表記するが11世紀の太平御覧は魏書曰く…邪馬臺國と魏志を引用して表記する
これはその頃までは元本の魏志が健在であり
太平御覧はそれをそのまま引用したために前の時代の梁書の祁馬臺國表記に引きずられなかった証拠 <

唐代以後の史家の、高慢な自己解釈に拠る「前史の写本記載の犯罪者的な感じ書き換え」など、何の証拠にもならない。

>つまり11世紀頃までは消失前の魏志は健在であってなので復刻版を作る必要が無かった<

版刻という新しい技法の発明に拠って、残存する文書群の復元が、 群広範囲に始められた。

>そしてそこには太平御覧の引用するように邪馬臺國とあったという事<

太平御覧は、
www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
にあるように、「自己解釈による高慢な書き換え」をした半分×書。

>九州説の言う様な邪馬壹國という表記は12世紀以前には出て来ないのである<

大和説の言う様な邪馬臺國という表記は、12世紀以前の写本群にも出て来ないのである。
0300日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:35:12.73
邪馬台国論争ももう九州で決着なのでロマンはありませんが
 畿内説の宣伝係であるキナイコシも、箸墓古墳型着ぐるみ、きないコシの装着係も、敗者の絶望感にも負けないで、更なる真実を探求しましょう。
0301日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:39:10.99
>>149
>・・・こうして見て来ると、三国志の方で、伝本の過程で臺⇒壹の錯誤あるいは、書き換えが
あったと考えるほうが合理的<

三国志の写本版本は、99.5%以上の正確さであり、
後代史書群は、後代の史家の自己解釈に拠って、
自由自在にの大量の書き換えがあった半分×以下の信頼性であり、
魏志には「邪馬壹國」とあった、という確率の方が圧倒的に高い。
0302日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:41:30.75
>>167
むしろ少数しか見つからないのが三角縁神獣鏡が下賜鏡の証拠
しかも魏の都だった洛陽で

さらに景初、正始など複数の魏の年号が入った鏡が畿内で見つかるのは
畿内と魏が継続して交流していた証拠
継続した交流がなければ鏡が国内産だとしても
魏の複数の年号を鏡に入れる事はできない

梁書に嘘が書いてあったとしても
例えば梁書は前の時代の史書と違い邪馬臺國を祁馬臺国と書くが
後の時代に書かれた、魏書曰くと魏志を引用した
太平御覧では邪馬臺國と元に戻る

その太平御覧でも卑弥呼が魏に使いを送ったのは
景初三年とあり
これはつまり魏志には元々景初三年とあったという事を示す
それが景初二年になったのは魏志の元本の失われた後の時代の
誤表記
0303日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:43:23.61
>>167
呉系楽浪鏡師は倭国内でも銅は手に入るのに
なぜ敵国といえる魏からわざわざ銅を購入したのだろう
0304日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:52:08.45
>>174
「魏志曰く」と魏志を引用して記してある12世紀以前の史書はほぼ全て
邪馬臺国表記であるから
三国志の写本版本系列が全て邪馬壹國とは考えられない
他にも12世紀に復刻された魏志にはそれまでの
魏志の引用文と字が違う部分が多く
恐らく倭人伝部分は相当誤記の多い物しかなかった事が伺える
0305日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 08:53:48.17
>>156
>>弥生前期末〜中期後半の遺跡とみられる吉武高木遺跡でも、
多数の初期須恵器が出土したとされる(菱田哲郎氏*24)<

>宝賀の勘違い 吉武遺跡群は弥生時代後期に集落が縮小、後期末には断絶し
古墳時代に再び生活遺構が現れる 初期須恵器は古墳時代の遺構から出ている
「古墳時代では、竪穴住居跡、掘立柱建物から構成される集落から、
数多くの陶質土器・初期須恵器が出土している。」(報告書吉武遺跡群X)<

また変な事をいうね。
それだけでは、
「弥生時代後期に集落が縮小、後期末には断絶し古墳時代に再び生活遺構が現れる」
という判断根拠が全く、
「弥生後期末」と「古墳時代」の定義もはっきりせず、
筑紫では通常は継続しているのであり、根拠がはっきり言えなければ、
菱田か?お前ら「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らの虚偽である可能性があるよ。
0307日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:04:02.98
>>182
景初三年の後十二月というのは後の時代の表記
実際的にどういう扱いだったのかは不明
ただ景初四年1月として扱われていた可能性を示すには十分
0308日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:12:18.57
>>307
>実際的にどういう扱いだったのかは不明

景初三年までは分かっていたが、
倭国(阿波)に居て、その後の新年号が不明だったので、「景初三年の後十二月」としたんじゃないの?  @阿波
0309日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:13:46.13
>>185
魏志倭人伝には九州という言葉が出てこないから
畿内がないというなら九州もない

景初三年後十二月は後の時代での表記であり
実際にどう扱われていたのかは不明
景初四年1月だった可能性を否定するものではない

渡来して来た呉系楽浪鏡師らが
卑弥呼の遣使を見て魏の年号を刻んだのなら
その地は魏と交流があったという事であり
魏の年号の入った鏡が見つかる畿内は
魏と交流していた事になる

呉系楽浪鏡師が居ようが居まいが
畿内と魏の交流は明らかであり
また機内は魏から鏡を貰ったという説明で
三角縁神獣鏡は何の矛盾もなく説明ができる
0310日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:18:08.80
>>305
>「弥生後期末」と「古墳時代」の定義もはっきりせず、

世間でははっきりしてるのに
九州説のボケ爺さんが
根拠もなく我流の異論を独り決めをしてるだけだろう

つまり九州説は世間常識から取り残された異常珍説ってことだ
0311日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:18:27.56
>>309
>魏の年号の入った鏡が見つかる畿内は
>魏と交流していた事になる

まぁ、遺跡状況から言って、畿内では不可。  当然として、倭国(阿波)しかないわな。  @阿波 
0312日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:25:07.92
親魏倭王の金印か何か見つかって
最終的に邪馬台国が阿波になったら笑うわ
0313日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:28:33.79
>>312
>最終的に邪馬台国が阿波になったら笑うわ


めそめそ、泣くんじゃないの?  @阿波
0314日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:29:40.29
>>157
>>702は《三国志集解》の倭人伝部分からの引用だよ
三国志を語るのに基本的な資料だと思うがね
中国での認識を紹介しているだけなのに、君はなぜ畿内説を中傷するの?<

三国志集解の盧弼は、20世紀の日本の、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者の意見に相当の影響を受けているの半分×学者であり、
全く信頼性がないよ。

>下された詔書は正始元年に帯方に到る
詔書が一年以上も留め置かれることは考えられないから「其年十二月」とは景初三年であるべきだろう
つまり「景初三年六月」であるべきだというところもちゃんと読んでくれよ<

明帝が難升米らに示した詔書を、
次の皇帝や郡太守が「年次を書き換える」という事の方が、
・・・・沙汰。
明帝の詔書は、おそらく起居注などの日記に拠って景初二年12月であり、
その事は動かしようもない。


つまり「景初三年六月」であるべきだ
というところもちゃんと読んでくれよ
0315日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:32:21.67
>>305
>筑紫では通常は継続しているのであり、根拠がはっきり言えなければ、
>菱田か?お前ら「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らの虚偽である可能性があるよ。

他人のせいにするな

菱田哲郎が一般人向けにやさしく書いた「窯と焼き物」ものがたりを読んで
ど素人が
3世紀に須恵器があったとか
本のどこにも書かれていない珍情報を妄想しただけだ

要するにおまえは、デマを流しているのだ
0317日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:39:08.87
>>187
景初三年後十二月は後の時代の表記
実際には景初四年1月だった可能性十分

景初四年鏡が実際存在する事が真実性を高めているとも言える
事情がどうあれ存在しない年号をわざわざ鏡に入れる事はないだろうし
0319日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:43:16.56
>>198
徐州は三国時代魏の領土
銅が出なかったというのは九州説がそう言ってるだけ
0320日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 09:49:33.50
>>204
なら三台星の事が書かれている文献を見せな
どーせ3世紀中国の物じゃないんだろうけどさ

あと魏書曰くと古くからの魏志倭人伝を引用してる史書は
ほとんどが邪馬臺國と書いてあるから
0322日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 10:04:08.23
>>162
>>唐代の晋書では、景初四年の使用例にはならないなあ。
同時代に景初四年が使われた使用例があるのか?、という事が問題であったんだから。<

>それよりずっと成立の遅い、旧唐書の「倭の別種」はお気に入りの癖にww<

旧唐書は、
通典が、唐代の唐政府承認した建前に従って書いた、
「倭一名日本、自云國在日邊、故以爲稱」という事に反して、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地」
という全く通典を否定する内容を、ついうっかり?書いてしまったから、
信頼出来る。
0323日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 10:06:39.48
>>314
>明帝の詔書は、おそらく起居注などの日記に拠って景初二年12月であり、
>その事は動かしようもない。

「おそらく」ってあんたが想像してるだけなのに
なんで動かしようもないの?
0324日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 10:10:19.37
>>322
「ついうっかり?書いてしまった」って
なんの根拠もない想像が根拠で
「信頼出来る」って断定するのは

「理由もなく俺様がフトそう思ったのだから、絶対正しいのだ」
って言ってるのと同じだぞ
0325日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 10:19:53.65
>>212
実際に景初三年→正始元年の間には1ヶ月の空白が存在しており
そこが当時では景初四年1月扱いだった可能性は否定できない

状況的にも景初三年→正始元年の年号変更の際は
明帝の一周忌、そして新年の祝賀行事と新皇帝の即位の
大掛かりなイベントが連続する時期であり
それに合わせて倭国からも使者が使わされていても不思議はない
その際に景初四年、正始元年の記年鏡が続けて下賜された事は
想像に難くない
これは記年三角縁神獣鏡の発見状況とも合致するものである
0326日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 10:21:54.72
>>305

>それだけでは、〜判断根拠が全く、

反日朝鮮人団体は日本の報告書、論文を読まず
掲示板の他人のレス程度が情報源だからわからないだろうが
吉武遺跡群は19次までの調査報告がある

>「弥生後期末」と「古墳時代」の定義もはっきりせず、

同遺跡の初期須恵器は5世紀くらいの遺構からだから
古墳時代の定義は気にしなくていい

>筑紫では通常は継続しているのであり

集落によって消長が違う
0327日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 10:24:46.85
>>168
>福岡平野中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地は
古地名儺県(なのあがた)によって魏志倭人伝の奴国と比定されており戸数は2万個<

怡土の地の伊都国の「東南百里」にならないから、その奴國の比定が間違い。

>また後漢書は5世紀南朝宋に成立した書なのでその頃中国は畿内の倭の五王を通じて交流があり
九州に邪馬臺國が存在したと誤認したとは考え辛い<

「畿内」なんて存在せず、5世紀には、
既に317年頃に「久留米〜八女」付近に遷都していた後であり、
久留米付近が邪馬臺國であった。

>さらにお互いの使者が都まで行き来したと記録がある隋でも 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也、
(倭の)都は魏志にいう邪馬臺である、と 一貫して倭の都を邪馬臺と表記している<

タリシホコの時も、始めは久留米に都していた。

>古代中国では交流があっても一貫して倭の都を後漢書の記す、
九州説の言う所では楽浪郡から1万2千里のところにあるから
九州にあったという邪馬臺國と勘違いし続けたのだろうか?<

この男らは、倭国の「東征毛人五十五國」があった、という事も知らない・・・・であったんだろうか。

>そうではなくて魏の頃から倭の都はずっと邪馬臺國であり
九州説の言う通りなら魏志の九州邪馬壹國から後漢書の九州邪馬臺國、
そしていつの間にか隋書の畿内邪馬臺國といった遷都が行われた形跡は
記録の上にもないし実際の歴史上にもないのである<

タリシホコを聖徳太子だと誤認した聖徳太子伝暦には、久留米付近への遷都があったのは317年頃だ、とした記録がある。
0328日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 10:31:22.18
>>172
>未だに神獣鏡が呉の鏡とか抜かしてるのはネット程度でしか情報にアクセスできない情弱だけだ<

王仲殊も、三角縁も神獣鏡も呉付近で盛行した事を認めていた筈だよ。
0329日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 10:44:18.82
王仲殊の説は、
孫呉の滅亡後ではなくて、三国時代に呉の工匠が日本の地で製作したという説
景初二年の遣使は景初三年の誤りという説
0330日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 10:51:04.87
>>328
何十年前の説だw

www
0331日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 11:13:44.54
>>328
「呉付近」と言ったら呉以外も含むので

オウンゴール乙でし
0332日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 11:15:21.92
>>173
>海東鏡と、その共存鏡(「銅出徐州師出洛陽」鏡)が、
「洛陽出身の(呉系の)鏡師が、徐州の銅を持って、日本列島へ来て、三角縁神獣鏡を造った」
という事の証拠、
ということにわざわざしなくても
銅出徐州 師出洛陽の文言は
魏の領土である徐州の銅で洛陽出身の鏡師が作ったとあるから
その鏡は魏鏡であるという説明で事足りてしまうのである<

ダメだ。
共存していた国分神社の海東鏡には、
「吾」が「用青同至海東」したと書いているんだし、
これらは4世紀頃の鏡なんだから魏はとっくに滅んでおり、
この鏡師らは、魏の鏡師ではない、という事だ。
0333日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 11:22:02.73
王仲殊「私はこの説によって畿内説が不利になることはないと思っている」
0334日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 11:31:45.41
>>329
>王仲殊の説は、
>孫呉の滅亡後ではなくて、三国時代に呉の工匠が日本の地で製作したという説


まぁ、いずれにせよ、遺跡状況から言って、畿内では不可。  当然として、倭国(阿波)しかないわな。  @阿波 
0335日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 11:35:29.29
そもそも呉の鏡が出てくると邪馬台国ではないとか言う思考回路が謎

大和の邪馬台国は200年前後には既に全国的な展開をする勢力として成立している
周知の通りこの時期は朝鮮半島ルートが公孫氏によって潰されていて北方政権との交渉は困難になっている
だから江南の呉と邪馬台国は交渉していた
そして公孫氏が滅んだ後に魏とも交渉を始めている
そして卑弥呼はその直後に死去したうえに、魏は程なくして司馬氏のクーデターで混乱し滅んでいる
なので魏と邪馬台国の交渉期間は実はかなり短い

卑弥呼の治世の大半はむしろ魏と交渉出来ない時期の方が圧倒的に長く、交渉相手は呉が主体だったと言える
当然、その呉系の鏡が多く見つかるのも必然と分かる
0336日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 11:38:07.37
>>335
>大和の邪馬台国は200年前後には既に全国的な展開をする勢力として成立している

ウソはイカンぜよ。  @阿波
0337日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 11:42:31.72
>>332
海東鏡って三角縁の中でも新しい方だろ
八王乱で鏡師が楽浪に引越ししてたって
別におかしくない
0338日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 11:50:29.85
そして三角縁はその形式や扱いからして国産
呉系の職人を招くなどして作った鏡
鏡の産地として当時は既に江南が主体なのでここの人間を用いることになんのおかしさもない
邪馬台国は新たな鏡秩序のツールとして三角縁を作って各地の豪族に配布している
これは数少ない中国鏡や破鏡などではなく自らが主体としなって鏡を配る勢力として全国展開した邪馬台国の姿を示している
0339日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 11:57:28.53
>>338
>自らが主体としなって鏡を配る勢力として全国展開した邪馬台国の姿を示している


そりゃ、全国展開した「忌部はん」以外に居ないわな。  @阿波
0340日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 12:10:17.20
644日本@名無史さん2018/09/08(土) 12:08:57.47
「曰渟名底仲媛命 事代主~孫 鴨王女也」(日本書紀原文)

神武が大和に来た時、すでに鴨王(おうきみ)と事代主神がいた。
大和には神も王もいる王権があったのだ。

鴨王こと天日方奇日方は倭国大乱で妹を王に立て自らは申食国政太夫に退いた。
魏志の【有男弟佐治國】である。
男の弟という表現は変だ、この弟は徒弟の弟と同じで男の臣下という意味であろう。

鴨王の妹は神武と結婚し先立たれる。
【年已長大、無夫壻】である。

【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】
この男子一人とは、神武の連れ子であり、
彼女の義理の息子であるタギシミミであろう。
ヒミコことヒメ(蹈鞴五十鈴)とタギシミミの二人はやがて結婚する。
0341日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 12:12:47.57
>>175
>いわゆる舶載三角縁が魏晋鏡と推定されたのは
「銅出徐州 師出洛陽」という銘文の表記による<

それが、富岡ら大和説学者らのアホなところ。
「銅出徐州 師出洛陽」鏡は、国分神社の海東鏡と共存していたのであり、
海東鏡が、「吾・・・用青同至海東」と書いていた、という事は、
このが鏡師仲間は、皆「海東」へ渡海して来て、列島でそっれらの鏡を造った、
という事になる。

>景初鏡や正始鏡の出土は、そうした推定が学界に浸透した後<

古田さんは、「ここに古代王朝ありき」で、
富岡の弟子の京大学者らの主張も否定しておられたから、
冨岡は、戦後すぐの頃?の人間だろ?。
0342日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 12:29:42.01
>古田さんは、

古田というラーメン屋の親父と古代史は関係がない。
0343日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 12:50:28.16
>>340
>神武が大和に来た時、すでに鴨王(おうきみ)と事代主神がいた。
>大和には神も王もいる王権があったのだ。

鴨王は在地の豪族に過ぎない。
その祖父は三島溝杭耳といい、筑紫においてニニギに嫁いだ木花咲耶姫の兄弟(大山祇の息子)とされ、畿内の開拓を進めた人物である。
三島溝杭耳は、八咫烏として筑紫からの神武の東征を助けた人物ともされる。
大阪の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社の祭神として、今でも関西では厚く信仰されている。
鴨王こと天日方奇日方は畿内における三世代目に過ぎないし、叔母は大和において天孫ニギハヤヒに嫁いでおり、大和の最高権力者はその時点ではニギハヤヒ(後の物部氏の祖)であった。
鴨王の叔父の登美のナガスネヒコは逆賊としてニギハヤヒに倒されている。
0344日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 12:52:20.56
神獣鏡は呉の地域で流行った意匠。
魏からもらうはずなし。
0345日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 12:53:07.93
そもそも大和には、天孫ニギハヤヒと天孫ニニギの両王家の末裔がいて、そこに天照に負けた大国主の末裔としての鴨王がいても、ナンバーワンになれる訳がない。
0346日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 12:56:21.62
そもそもこの時期の中国の北方政権は不安定で長続きしない
魏もすぐに滅び、晋も統一からわずかの間に八王の乱を迎えて外構どころではない状況に陥り滅んでいる
この間、安定していたのは江南の政権
三国時代以前からも江南は戦乱の影響が少なく、後の南北朝時代、隋に至るまで比較的安定した地域だった
邪馬台国に江南との交渉の痕跡の方が多いのは当然の話
0347日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:00:49.22
>>341
国分神社で共存していたから何か
現代の博物館でも平安時代の物と江戸時代の物が共存しているぞ

用青同至海東は青銅で作って海東(倭)に渡すで意味が通じるし
三角縁神獣鏡は下賜用に作られた鏡という以前からの説で
何の問題もなく説明がつく
0350日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:08:34.20
>>347
出土状況と博物館の収蔵を一緒にすんなや
0351日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:10:23.58
>>338
三角縁神獣鏡の銅素材は当時の中国魏・晋鏡と同じもの
魏の年号が入っている
銅出徐州 師出洛陽と徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと銘
現在の洛陽近郊でも1面畑から出土
国産、あるいは呉鏡とする証拠が何もないどころか
魏鏡である証拠しか見つかってない
0352日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:13:06.09
>>350
同じ事かもわからんやんけ
別地域の物が一緒に見つかったからといって
その2つの来歴が同じ所からとは限らない
0354日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:17:18.61
銅素材は輸入なんだから国産じゃないのは当たり前
鏡式も魏の物じゃない
外国の使節への下賜品を呉式にするのは不自然
年号だけ入れた国産の記念品だろう
0355日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:20:59.67
>>335
呉系の鏡なんか多く見つかってるか?
三角縁神獣鏡は淮河流域に分布していた斜縁神獣鏡からの派生だからな
0356日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:21:21.21
三角縁が国産である事は邪馬台国が大和にあった事のマイナスには全くならない
むしろ大和を中心とした意図的に構築された新秩序が全国に広まっていると言う証拠になるだけの事
そして魏との交渉の年号などを知っていてそれを使っている当事者と言う事でもある
もし別政権の交渉の成果だと言うなら、後から自分でもう一度行けばいいだけ
外交の年号を採用すると言う事は継続して同じ政権だと言う事の証
邪馬台国が魏以前に江南の政権と交渉を続けていたと言う事も年代を考えるとむしろ当然
0359日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:27:40.41
>>354
イヤ倭国内で銅が手に入るのになぜ輸入するのか
しかも呉の人間が敵国と言える魏から
三角縁神獣鏡の鏡式は魏の関連を伺わせるそうだし
それに入れなくてもいい魏の年号を何で入れた
また魏の年号が鏡に入っているなら魏の情報が入っているという事で
これは鏡の工人が呉人であっても魏との交流を示すものの
根拠と言えるのではないだろうか
0361日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:29:30.60
むしろ呉が江南に成立して外交を行う時期を考えると、大和の邪馬台国が全国政権になっている時期とぴったり合致する

邪馬台国は魏との交渉の時に突然出現したわけじゃない
それ以前から拡大して魏と交渉する前には既に全国を影響下にいれ外国とも交渉をしている
邪馬台国の外交を魏以降のみとしたり、呉との関係を無視する方が不自然
0362日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:29:46.12
>>176
>銅出徐州  日本から銅は出ません ぜんぶ中国からの輸入銅 <

日本には、最低、銅矛や銅剣や銅鏡や銅鐸などの、溶融銅もありました。

>師出洛陽  三角縁を作った鏡師は洛陽から来ました〜<

共存の「海東鏡」に拠って、鏡師は呉付近で修行して徐州の銅を携えて、
海東の列島にやって来て、日本列島で三角縁を造りました。
で???。
0363日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:31:43.25
魏志倭人伝からは、卑弥呼の治世に邪馬台国が拡大したようには読めない。
南の狗奴国との関係に頭を悩ませていたようだ。

畿内の勢力が拡大したのなら、魏の目の届かないところで次世代に興隆する勢力が力を蓄えていたということだろう。
0365日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:36:16.14
>>359
呉の鏡式と魏の年号と言う不釣り合い

これこそがまさに国産の証と言える
邪馬台国は神仙的絵図を好んで採用し、魏と外交の記念の年号を描き示したと言う事
呉と魏と両方を関係を持っていると言うアピールでもあるだろう

正式な下賜品は青龍三年の方画規矩鏡等の方だろう
この中国に無い奇妙な鏡は下賜品でなく国産と考える方が自然
0366日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:36:47.48
>>356
マイナスにはならんが
実際見つかる証拠からはコピーのボウ製鏡を除いて
魏鏡である証拠しかないから国産説はナシ
0367日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:38:23.16
>>364
呉の孫権はかなり積極的な外交を行っていたことは分かっている

台湾や日本、ベトナム、朝鮮半島にも盛んに使者や軍隊を派遣している
この孫権の姿勢から考えてみれば、全国政権となった邪馬台国と交流があったと言う想定に何の不自然もない
むしろ完全に没交渉と考える方が無理がある
0368日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:39:17.67
>>365
じゃあ国産品だとしてもだ
魏の年号が入ってるから機内と魏は交流してたでいいな
青龍三年の方画規矩鏡も見つかっているし
0370日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:41:03.10
>>178
>對海國と一大國の
無良田、食海物自活、乘船南北市糴や
耕田猶不足食、亦南北市糴の記述は 見る事ではわからない情報であり
国内異動などせず伝聞をまとめた情報である事がわかる
つまり對海國と一大國は行ではなく方400里、300里とある通り
国内異動はせず伝聞と大雑把な情報を記しただけである <

「所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸」や
「方可三百里、多竹木叢林、有三千許家」は、
実際に実見したり、計測したり、数えたりしなければ、わからない情報であり、
この男の恣意的な部分引用や「伝聞」だけという解釈は、
「南→東」などの嘘吐き騙しと同じように、国民を騙そうとする・・・・詐欺であった事が判る。
0371日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:42:58.74
三角鏡は国産
もちろん紀年は実年代
配布の中心は初期ヤマト王権
各地の豪族を手なずけるために量産したものだろ
0372日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:44:29.90
>>366
当事、国産の銅は存在しない
なのですべて輸入品
素材だけで中国産だと言うのは無理がある
それに素材については再利用することもあるので出所の確実な根拠となり得ない
一枚見つかったと言うのも出所が不明でまともな発掘をされたものでもない
そもそも魏の鏡式でもない
魏の鏡であると断言できる要素はむしろ何もない

国内で見つかる凄い数、長い間に継続、多くのバリエーションに比して中国でまともに1枚も見つからない
鏡式も年号も魏と呉が混在していて不自然
大量に副葬されて壁のように配置される等扱いが悪い

これ等の事を考えると国産と考えるのが自然
0373日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:44:42.29
三角鏡はどっから見ても葬具としての扱いは受けてない
威信財ではないということだな
ただし、全国に鏡を配布できる強力な政権がヤマトにあったのは間違いなく
これが邪馬台国だろ
0376日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:47:35.86
三角鏡は古墳の副葬品として埋納するために造られている
これは間違いない事実
0377日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:48:47.58
>>180
倭人伝の記述と考古学物証の2つが揃って初めて証拠として扱える。

魏使らに拠る実地の見聞計測の同時代の直接的記録は否定し難く、
(金石文以外の)考古は、参考史料や年代特定困難な状況証拠程度にしかならない。

>九州説は考古学的証拠が何もないから嘘ばっかりつくハメになる<

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
幾ら考古学的証拠だ、と言い張っても、確実な事が何もないから、
嘘ばっかりつくハメになる。
0378日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:49:03.15
>>370
>実際に実見したり、計測したり、数えたりしなければ、わからない情報であり、

理由もなくそう決め付けるのが嘘つきか詐欺でしょ
0379日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:49:37.12
三角縁が国産であることはむしろ大和に存在した邪馬台国の強力な主導性と主体性を見出す証拠と言える
0380日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:49:45.07
3世紀の段階で各地の豪族に鏡を配布できたのは
初期ヤマト王権が邪馬台国であった証左
0381日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 13:52:37.41
>>374
もっと詳しく言えば、辟邪の呪具だね
ある意味で水銀朱と同じ
0382日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:03:37.07
>>372
邪馬台国当時の国内銅製品は
古い輸入品の銅を混ぜ合わせて生成したという事が
分析したデータを見ればわかる
しかし三角縁神獣鏡は当時の魏・晋鏡と同じ銅素材が
使われている事が解析されている

洛陽近郊の畑でも1面出土があり
これは魏鏡説を補強する物であり逆に従来の説に反するものではない

三角縁神獣鏡は年号に呉の混在はない
大量にあるからこそ逆に希少性はなかったと言える

三角縁神獣鏡国産説は
この様に判明している証拠全てを無視しなければ
成り立たないのである
0383日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:06:47.21
>>380
>初期ヤマト王権が邪馬台国であった証左

そうだね、その邪馬台国は鏡作工人たちを連れて、火国の日向からやってきた。
0385日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:10:55.32
鏡の配布濃淡や鏡式のオリジナル性、呉との交流の痕跡
これを考えれば中心は畿内にあるのが分かる
0386日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:14:54.11
>>216
例え詔書が景初二年の12月だとしても
それだからといって下賜用の鏡に景初二年と記銘されるとは限らない
むしろそれから作り始めれば鏡の完成は翌年となっても
とくに不思議ではない
0387日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:19:04.66
>>218
九州説は都合の悪い記述を
全て学者の自己解釈に拠っての曲解造作の書き換えとしなければ
成立しないらしい

そもそも全唐文の魏は倭に決まりきった鏡を下賜するのではなく…
という一節のどこに自己解釈に拠っての曲解造作の入る余地があるのか
またなぜそうする必要があったのか全く意味不明
0388日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:20:57.61
>>382
魏晋当時の輸入銅を使えば同じになるだけの事
青銅の産地は中国でも主要なものがありそこから出る銅は各地で使われる
銅の材質で生産地を割り出すことは出来ない
出せるのは製造年代の方だろう

その中国出土鏡のまともな発掘調査は何もない
出所も調査も当てにならない
それをもって「中国にもあった」と言うのは無理があり過ぎる

鏡式は呉、年号は魏と言う不自然な鏡
下賜品であるならなおさらおかしい

魏の鏡であると言い切る要素はむしろ何もないとしか言えない
0389日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:23:08.37
>>219
明帝が景初二年に亡くなっていても
卑弥呼が景初三年に魏に使いを送る事は別に問題なく出来るのであり
このくだりを魏志から引用する日本書紀、梁書、通志、太平御覧には
事実景初三年とある
0390日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:36:54.57
>>261
三世紀に九州地方が九州と呼ばれていた痕跡は一切なし
倭と呼ばれていた証拠のみ
なので畿内はないというなら九州もない

むしろ国内に呉の鏡師がいたら景初四年と年号は入れない
景初三年1月時点で翌年改元のある事が確定してるから
景初三年と魏の情報を得ながら明帝の死で
翌年新たな年号となる事を知らなかったというのは理屈に合わない
むしろ実情を知らなければ鏡に景初四年とは入れられないのであり
そして景初三年12月→正始元年の改元の間に存在した1ヶ月こそが
それに相当すると考えると辻褄が合う

三角縁神獣鏡は呉の鏡師が国内で作ったとしなくても
魏から貰った鏡で何の問題もなく説明できるのであり
逆に呉の鏡師の存在を想定すると景初四年鏡の説明がつかなくなる
0391日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:43:57.83
>>388
「鏡式は呉」ってのが嘘なだけだよ
0392日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:44:27.66
答汝所獻貢 直又特賜汝、、 銅鏡百枚 、、 皆装封付難升米牛利 還到録受
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

(九州倭国の)國中に知らしむべし、ということだから、
旧百余国の旧王たち百人に、ご機嫌取りとして配ったのだろう。
0393日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:46:00.39
景初四年が来日した工人によって作られることも別におかしくない
三角縁の年号は「オリジナルの下賜鏡の年号コピー」なんだから下賜品の方に景初四年があったと言うだけ
0394日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:46:02.34
>>388
魏・晋当時の輸入銅を使ったというのは
それで魏との交流を示すものとなり
それが使われている、畿内で多数発見のある三角縁神獣鏡は
畿内と魏の交流を示すものとなる

洛陽発見の三角縁神獣鏡は
三角縁神獣鏡魏鏡説の補強材料として十分
もしこれが呉で見つかったものであったのなら
今頃九州説は鬼の首でも取ったように誇示していただろう

そして魏の洛陽近郊で三角縁神獣鏡そのものが見つかったので
三角縁神獣鏡の鏡式は魏式という事になる

三角縁神獣鏡は魏鏡であろうとそうでなかろうと
記銘された年号、文言から
魏との交流を示す証拠に他ならない
0395日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:50:03.43
>>393
そうだとしても畿内説の否定にはならん
景初四年はあったという事になる
呉の工人が改元の事情がわからないから
鏡に景初四年と入れたという説が瓦解するだけ
0396日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:52:46.96
>>352
同じではない
0397日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:57:12.50
>>221
現代の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説人種は、
3世紀頃に、「臺」と「台」とを同じ文字で同じ意味で使っていた、
という証拠を絶対に挙げる事をしないし、できないらしい。
「臺」がはっきり「ト」と読めない、ということに危機感でもあるとしかという思えない。
笑)
0398日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 14:58:30.47
>>392
そんな鏡が存在しないってことで、九州倭国なんてものが存在しないことも判かる
0399日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:00:10.66
>>397を書いた奴は確実に頭がおかしいな
0400日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:03:27.78
>>223
ひたすら「南→東」などの嘘つき騙しや、「纏向=卑弥呼の都」や、
「三角縁神獣鏡=明帝の下賜鏡」などの同じ嘘をつき続ける大和説者や、
何を言われても没論理で同じテンプレを貼り付け続けるスレ主。

大和痴呆の迷走ぶりが痛々しい。
0401日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:03:56.85
一応言っておくがおれはキュウシュウセツじゃない
あんな基地外と一緒にされたら困る

大和の邪馬台国が全国政権となり最初、朝鮮ルートが塞がれているために呉と交渉し後に魏とも交渉した
そして呉の鏡式を採用した独自の三角縁を作って全国に配布したと言う立場
>>394
銅材料については各地に持ち込まれるものであって原材料の生産地=製品の生産地ではない
これは別に三角縁に限らずどんな製品でも同じだろう
材料を根拠として生産地を割り出すことは出来ない

調査もされてない、出土地もハッキリしないモノは証拠となり得ない

神獣鏡の分布は濃厚に江南に集中していて神獣鏡は呉の形式だと分かる
逆に魏の鏡は方角規矩鏡などの幾何学的な鏡
その正体不明の鏡一枚で「魏の鏡」とはとても言えない
0403日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:06:35.87
>>225
このように、
大和説は「結論先にありき」の図印鑑論法だけがあってが、
なんでそんな結論が出るのかは、他人に決して言わないし、
国民の7割が理解できない。
0404日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:07:36.76
>>391
>「鏡式は呉」ってのが嘘なだけだよ

そうそう!

逆に、鈕孔が円形や半円形ではなく四角いとか、
鏡背に乳を置くなどは魏鏡の特徴で呉鏡では見られない

結局、「三角縁神獣鏡が呉鏡の系統」というのは、
神獣鏡図像が南朝系の好みのモチーフってだけなんだよな
0405日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:12:42.15
>>401
おおまともまとも。キナイコシもこれくらいの見識は持てよ。
0406日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:18:15.35
>>230
>>写本版本の原則は、底本写本の転写であって、「自己解釈に拠る復元」ではないし、<

>それ、ザラコクが脳内で空想したことでしょ
現在われわれの見てる三国志は宋の学生が研究して復元したもの
これは歴史的事実なんで覆せない 沢山の系統版本なんて存在してない <

宋の学生が研究したんなら、版本は、
その教授が正しいと考えた一種類だけの筈であり、宋明清代の校勘も必要がなかった筈。

しかし実際には、4000文字以上のの差異を持った沢山の版本が存在したから、
宋明清代の校勘が実行され、魏志倭人伝内だけでも、二つの文字が校勘され、
邪馬壹國は、異字写本版本がなく、校勘対象にはならなかった。
0407日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:19:49.38
>>401
洛陽で見つかった三角縁神獣鏡は
出土地は白馬寺近くの畑で発見場所もわかっている
考古的発掘によらない物なので扱いとしては参考資料程度だけれど
魏鏡説を補強し否定するものではない

三世紀の国内産の銅鏡はその素材が
国内にあった古い銅製品を複数鋳溶かしたものである事が
分析するとわかるのであり
逆に三角縁神獣鏡は当時の魏・晋鏡と同じと分析結果が出る
三角縁神獣鏡は魏・晋で作られた鏡であるとする事が最も単純
呉系の鏡師が国内で作ったとするならよほど特殊な事情があった事になる
それを証するためには何が必要か想像するのは難しいが
強力に証明するものが必要であり
また三角縁神獣鏡が魏鏡でありえない証拠も必要となるだろう
0408日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:23:53.00
>>235
>天子の遣いが、帯方郡から倭国へやってくるときも、
とうぜん首が危ないから、陸路だったというのか。<

大河が三本あって、水行が避けられない郡から韓国までは、
「循海岸水行」の波うち海岸沿いの水行をし、
三渡海は、止むを得ないから、渡海をした。
0409日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:30:23.73
>>236
>文字がカスレりゃ「王」も「三」になるのは常識
常識知らずの無知爺さんに歴史は無理だ<

400年位文字経てば、劣化や虫食いで痛む写本が出来て来て当たり前。
「南→東」などの嘘つき騙しの、
常識知らずの無知の・・・・大和説のアホには、歴史は無理だ。
0410日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:32:47.13
>>238
「南→東」などに嘘つき騙しの大和説爺さんらは、
脳障害の・・・・詐欺師だから、
そのうち 奈良では墓に人を葬らないんだー
とか言い出しても、もう驚かぬ。
0411日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:39:21.28
>>240
>>纏向は、泥状地域であって?、骨まで皆溶けてしまったんかい?。<

>九州の甕棺墓でも、中に人骨が残っているものはまれだぞ<

まあ、吉野ケ里や祇園山の甕棺には、人骨の一部が残っていたようだし、
世界でも、乾燥地帯の人骨は残り易いようだな。
甕棺も、ひびが出来れば、残らないかも知れないな。

>何を言ってるんだ?ww<

誰かが、纏向には人骨は見つからなかった、といったんだよ。
0412日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:43:02.22
>>244
>魏軍が鹵獲した戦利品だろ<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、
デマ以外のことを言うのは、大変珍しいと思っていいな。
0413日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:59:11.55
>>262
>青龍三年鏡(魏年号、235年)も畿内(太田南古墳群)で見つかっているぞ?
じゃあ赤烏元年鏡は魏の鏡師が出自を誇るために畿内で作ったものだな<

畿内なんて存在していなかったし、
大和の範囲を目茶滅茶拡大するインチキもやっているな。
0414日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 15:59:41.17
>>408
>三渡海は、止むを得ないから、渡海をした。

遼東で取り込み中だったから、帯方郡から洛陽へもやむを得ず渡海したのだ。
0415日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:04:43.58
>>406
学生の意味を知らない無学爺

w
0416日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:05:08.37
>>265
>畿内には魏の鏡師集団がいた!
その証拠は赤烏元年と呉の年号の入った鏡を自らの出自を誇るために作ったからである!<

畿内なんてなかったし、
大和は、奈良盆地内が精一杯で、
河内ですら大和とは別国ではるかに大きな国であったのに、
山梨までもが、勢力範囲になるもんかい。
0417日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:07:18.58
>>413
じゃあ九州説も詐欺だな
九州なんて存在していなかった
0418日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:10:12.49
>>416
九州説は、まったく根拠を言わない電波バカ
0419日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:13:27.57
>>413
>大和の範囲を目茶滅茶拡大するインチキもやっているな。

ウソツキ爺さん
畿内説がそんなことしたって証拠を出せよ
0421日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:21:00.34
>>277
「南→東」などの嘘つき騙しの「結論先にありき」の循環論法の大和説者の解釈次第で、
どうにでも読まれてしまうのが、可哀想な魏志倭人伝。
0422日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:24:39.30
>>282
「南→東」などの嘘つき騙しの、
多くの大和説研究者の飯の種になっている魏志倭人伝は、
大和説者は、このまま未来永劫解き明かされないほうが、都合がいいのだ。
解き明かされたら、飯のタネが無くなって、困るのだ。
0423日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:29:45.51
>>287
理由をいくら言って上げても、
まいど「理由も言わない」とヘイトスピーチし、
「根拠は?」「理由は?」とばかり言い張るだけ。

それが「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説者。


w
0424日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:30:45.99
>>421
畿内説の者が、そんなことをしたって証拠は?
0425日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:34:31.76
>>423
じゃあ、いつ、どこで、なんと何の理由を言ったんだ?
証拠は?
0426日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:37:19.67
>>292
>三角縁神獣鏡に魏の年号が入っていれば呉の職人が入れたものだ<

魏の洛陽付近からは、三角縁も神獣鏡も、出土が極めてすくなく、
揚子江流域〜呉付近からの出土が非常に多いから。

>材質が魏・晋時代の銅とわかれば呉の職人が持ち込んだものだ<

河内の国分神社の「海東鏡」の銘文が根拠。

>これが九州説の論<

これが、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のインチキ。
0427日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:37:30.76
朝起きてウソをつき
昼メシ食べてウソをつき
夜来たりなばウソをつく
それがザラコクの一日だ
0428日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:38:15.43
>>426
インチキだなという証拠は?
0429日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:39:19.85
オラザラコク
気合い入れて説得力ある九州説練り上げないと
皇国史観の大日本帝国が復活するぞ
0430日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:41:15.96
>>426
>河内の国分神社の「海東鏡」の銘文が根拠。

なんの根拠?
どうして根拠になるの?
0431日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:44:51.79
>>426
>魏の洛陽付近からは、三角縁も神獣鏡も、出土が極めてすくなく、
>揚子江流域〜呉付近からの出土が非常に多いから。

だと何なんだ?
「から」と二文字書いたって、理由を書いたことにならんぞ
0432日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:50:39.33
>>294
>青龍三年、と魏の235年ころの年号の入った青龍三年鏡も畿内で見つかってるぞ?<

畿内なんて、存在していなかった。

>なら魏の鏡師集団も畿内に居たんだな<

魏の鏡師集団は、魏で商売しておればよく、青龍という年号鏡を造る必要もなく、
列島に来たのは、やはり呉系楽浪鏡師らである可能性なら、非常に高い。
そして、始めは九州で鏡を造っていて、その方格規矩四神鏡を持った「東征毛人五十五國」の将軍の一人が、
丹後の王になっていた、という可能性が高い。
0433日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 16:54:46.21
>>295
>貰ってないとも証拠がない<

正始四年、六年、八年の遣使は、別のものを貰った記載はあるが、
「銅鏡を貰った」という記載はないから、
「貰っていなかった」という可能性の方がはるかに高い。
0434日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:00:43.88
>>433
馬鹿だなあ
前例どおりは記載省略できるんだよ
0435日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:03:52.21
>>432
なんで理由を言わないの?
0436日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:05:47.48
>>433
まあ景初三年、四年、正始元年、正始5年と銘入りのものがあるから
それで400枚あってもおかしくはないけど
0437日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:10:10.80
>>432
魏の鏡師集団が倭国で商売したっていいだろ別に
出自を誇るための呉の年号の鏡もあるし

今大日本帝国が少し復活したぞ
0438日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:13:18.83
>>297
>三角縁神獣鏡に魏の年号が入っているのは
渡来して来た呉系楽浪鏡師の存在を想定しなくても
魏から貰った鏡だからで問題なく説明がつく<

明帝の下賜鏡では、年号が合わない。
三角縁も神獣鏡は、魏で盛行しておらず、
三角縁神獣鏡も全くのように洛陽付近では出土しておらず、
魏の鏡師が列島へ来る理由もなく、
魏が魏の年号を刻む必要もなく、
魏以外の鏡師なら、魏の鏡師である事の詐称などのためになら、魏の年号を刻む可能性ならある。
そして、三角縁も神獣鏡も呉付近で盛行していたし、
海東鏡の証拠があるから、
呉系楽浪鏡師らが列島に渡来して来た可能性が非常に高い。
0439日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:14:14.10
いま最も大日本帝国を再現してるのはザラコク
特高そっくりたわね
0440日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:21:11.24
たまに邪馬台国は魏との外交の時に突然出現して、魏以外と一切交流しなかったとか思い込んでる人がいる

ホケノ山の画文帯神獣鏡も初期の邪馬台国が呉と外交してた証拠としてみるのが自然だが、
「魏以外とは外交が一切ない」と思い込んでるから「呉が滅んだ280年以降の物だ」とか言い出すからお笑いだな
0441日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:26:26.64
赤烏元年、七年と言う呉の年号の鏡も見つかっているからな
これは魏と外交を始めた「後」の年号
両者と交渉してるのが見えてくる
日本にとっては交渉相手はぶっちゃげどこだって構わない
洛陽政権だけを重視してるような様子はそもそもない
行けるところに行くだけの事
0442日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:38:40.42
>>441
>行けるところに行くだけの事


その航海術をもっているのは、後にも先にも「忌部はん(海人族)」だけ。  @阿波
0443日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:41:54.98
>>302
>むしろ少数しか見つからないのが三角縁神獣鏡が下賜鏡の証拠 しかも魏の都だった洛陽で<

魏帝が下賜するような鏡は、魏で価値があった鏡であり、
当然魏で沢山出土する鏡であり、三角縁神獣鏡は、×。

>さらに景初、正始など複数の魏の年号が入った鏡が畿内で見つかるのは
畿内と魏が継続して交流していた証拠<

畿内なんて存在しなかったから、始めから×。
また年号は必要があった場合に刻むものであり、魏は必要がない。

>継続した交流がなければ鏡が国内産だとしても 魏の複数の年号を鏡に入れる事はできない<

「海東鏡」のように、呉系楽浪鏡師らが渡来して来ていた。

>梁書に嘘が書いてあったとしても 例えば梁書は前の時代の史書と違い邪馬臺國を祁馬臺国と書くが
後の時代に書かれた、魏書曰くと魏志を引用した太平御覧では邪馬臺國と元に戻る
その太平御覧でも卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年とあり
これはつまり魏志には元々景初三年とあったという事を示す<

唐代以後の史書の魏志の紹介は、「自己解釈に拠る書き換え」が余りにも多く、
半分×であり、証拠にならない。

>それが景初二年になったのは魏志の元本の失われた後の時代の誤表記<

写本版本に置ける置ける差異発生確率は、0.5%以下であり、その中には、邪馬壹國ははいっていない。
0444日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:49:56.98
>>438
消失する前の魏志を引用して書かれた日本書紀、梁書、通志、太平御覧には
卑弥呼が鏡を貰った年は景初三年とある
0445日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:51:31.28
>>303
>呉系楽浪鏡師は倭国内でも銅は手に入るのに
なぜ敵国といえる魏からわざわざ銅を購入したのだろう<

鏡造り職人にとっては、敵味方国など関係がない。
仕事のためなら、縁故さえあればどこへでも行って大量に調達しておくし、
危険があれば行かないし、逃げるだけであるし、
魏が滅亡し、呉も滅亡すれば、敵味方国も無くなって、更に自由になる。
0446日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:54:29.69
>>441
呉と外交があっても別に構わないけど
あまり邪馬台国畿内説と関係ないといえばない
そもそも呉志に倭人伝がないから限定的な交流か
もしくは鏡などのモノだけ入ってきたのかも知れない
0447日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:58:31.69
>>304
>「魏志曰く」と魏志を引用して記してある12世紀以前の史書はほぼ全て
邪馬臺国表記であるから三国志の写本版本系列が全て邪馬壹國とは考えられない<

唐代以後の史書の魏志紹介は「自己解釈に拠る勝手な書き換え」が多くて、全く根拠にならない。

>他にも12世紀に復刻された魏志にはそれまでの 魏志の引用文と字が違う部分が多く
恐らく倭人伝部分は相当誤記の多い物しかなかった事が伺える<

写本版本での差異の発生確率は、0.5%以下であり、
宋明清代の校勘学者は、邪馬壹國に関しては誰も校勘しておらず、
だから、全ての写本版本にも邪馬壹國と書かれていた事になる。
0448日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:58:54.72
>>445
魏限定で呉からは手に入れなかったのか?
そもそも倭国内でも銅は手に入るぞ?
国内にはボウ製鏡も大量にあるし
0449日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 17:59:58.52
>>446
>あまり邪馬台国畿内説と関係ないといえばない


全く無い。  山に囲まれた地に「邪馬台国」など、以ての外。  @阿波
0450日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:05:54.14
>>307
>景初三年の後十二月というのは後の時代の表記
実際的にどういう扱いだったのかは不明
ただ景初四年1月として扱われていた可能性を示すには十分<

魏代の直接的な記録文献や起居注などに、景初四年という文言の記録や形跡がない、
という事実が、景初四年がなかった事の証拠。
0451日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:06:53.04
>>432
畿内が存在してなければ九州も存在してない
九州説は嘘つき騙し

魏の鏡師集団が魏で商売してればよく
青龍という年号鏡を造る必要もないというのがよくわからない
畿内で商売して青龍三年鏡作ってもダメな理由はない
まあ鏡だけ入ってきたんだろうけど

そして魏の年号が入った鏡は畿内で見つかり
たとえ呉の鏡師集団が作ったのだとしても
畿内と魏は交流があり情報が入ってきていた事になる
0452日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:13:30.20
>>450
後の記録上景初三年後十二月となっている日付が
現実的に景初三年十二月→正始元年の間に1ヶ月の空白として存在している以上
そこが実際上は景初四年一月として扱われていた可能性は否定できない
0453日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:14:46.47
>>451
>畿内と魏は交流があり情報が入ってきていた事になる


全く無い。  山に囲まれた地に「邪馬台国」など、以ての外。  @阿波
0454日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:23:31.16
>>309
>魏志倭人伝には九州という言葉が出てこないから畿内がないというなら九州もない
景初三年後十二月は後の時代での表記であり 実際にどう扱われていたのかは不明
景初四年1月だった可能性を否定するものではない <

これは、もう、何度も説明してある事の、同一人物能力繰り返し投稿のようだから、放置ね。

>渡来して来た呉系楽浪鏡師らが 卑弥呼の遣使を見て魏の年号を刻んだのなら
その地は魏と交流があったという事であり<

いや、呉系楽浪鏡師らは、一旦筑紫付近で三角縁神獣鏡を造っていたようだが、
卑弥呼の遣使や銅鏡百枚を知って、これは商売にならない、として、
地方へ出向いて、注文製作をしていた、という事になる。

>魏の年号の入った鏡が見つかる畿内は魏と交流していた事になる<

畿内なんて存在していないし、
あったのは、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」であり、
東征将軍が筑紫で貰ったお宝鏡を以って東征したり、呉系楽浪鏡師に注文した、
という可能性もある。

>呉系楽浪鏡師が居ようが居まいが<

海東鏡の証言に拠って、呉系鏡師が来ていた。

>畿内と魏の交流は明らかであり また機内は魏から鏡を貰ったという説明で
三角縁神獣鏡は何の矛盾もなく説明ができる<

大和は、九州倭国の別種の旧小国であるから、魏から直接三角縁神獣鏡を貰う事はない。
0455日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:23:47.30
>>438
三角縁神獣鏡そのものが洛陽で見つかる
呉の鏡師が倭国へ来る理由もない
魏が魏の年号を鏡に記銘しても当たり前であるし
そうじゃないというなら呉の年号が入った鏡は
魏の鏡師が記銘した証拠になってしまう
海東鏡は呉の関連を伺わせる物は何もない
0456日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:26:18.39
>>310
>>「弥生後期末」と「古墳時代」の定義もはっきりせず<

>世間でははっきりしてるのに 九州説のボケ爺さんが
根拠もなく我流の異論を独り決めをしてるだけだろう
つまり九州説は世間常識から取り残された異常珍説ってことだ<

それで、大和説では、「弥生後期末」と「古墳時代」の定義は、何なんだ?。
何故言わないんだ?。
0457日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:28:52.57
>>314の訂正。
つまり「景初二年六月」であるべきだ。
というところもちゃんと読んでくれよ。
0458日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:33:22.61
事実上、卑弥呼の共立以前が弥生後期末(弥生終末期)
卑弥呼の共立により、新しい広範囲の秩序形成がなされ、
その秩序が倭国の広い範囲を覆った時から後が古墳時代だよ
0459日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:34:41.29
>>315
>>筑紫では通常は(弥生→古墳は)継続しているのであり、
(弥生末や古墳時代の定義や)根拠がはっきり言えなければ、
菱田か?お前ら「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らの虚偽である可能性があるよ。<

>他人のせいにするな
菱田哲郎が一般人向けにやさしく書いた「窯と焼き物」ものがたりを読んで
ど素人が3世紀に須恵器があったとか 本のどこにも書かれていない珍情報を妄想しただけだ
要するにおまえは、デマを流しているのだ<

それで、菱田や通説の「弥生末」や「古墳時代」の定義や根拠は何なんだい?。
何故言えないんだい?。
0460日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:36:58.82
>>458
卑弥呼の没後の間違いだろう。
0461日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:43:05.19
>>443
魏でたくさん見つかるような鏡は三世紀の古墳からはほとんど見つからない
その頃の銅鏡は基本的に交流のあった国外から入ってくるものであり
その鏡に相当するのが三角縁神獣鏡

畿内がなかったのなら九州もなかった事になる
魏が下賜鏡に年号を入れる必要がなかったというのは
理由が不明の主張

海東鏡は呉の鏡師の存在を何も裏づけるものではない

魏書曰くと太平御覧は魏志をそのまま引用した記載があり
その他多くの魏志引用文のある史書と比べても内容にほぼ違いがない
自己解釈に拠る書き換えなどなかった証拠である

写本版本同士なら差異発生率は低いかも知れないが
写本版そのものにそれまでの元本と差異があれば
それが複製されていくだけである
実際史書にある消失前の魏志引用文と写本版の記述には
相当の差異があり邪馬壹國もそれに当たる
0462日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:43:18.33
>>315]
>それで古代に九州地方が今みたいに九州と呼ばれていた証拠は?<

漢委奴國王印や親魏倭王や率善中郎將の印を貰えば、中国の「九州」になっており、
阿倍仲麻呂への送迎でも「九州」と呼ばれているが、
古代において、九州島付近が「九州」と呼ばれた記録は知らんよ。
0463日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:45:32.00
>>462
それはまた全部ウソなんだよね?
0464日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:48:26.09
>>459
言えないんじゃなくて
誰でも知ってるから改めては説明しない

知らなければ痴呆だということ
0465日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:48:48.45
>>317
>景初三年後十二月は後の時代の表記<

いや、起居注のような記録に拠ったもので、殆ど同時代的な記録であった筈だよ。

>実際には景初四年1月だった可能性十分<

ない。

>景初四年鏡が実際存在する事が真実性を高めているとも言える
事情がどうあれ存在しない年号をわざわざ鏡に入れる事はないだろうし<

魏とのコンタクトが殆どない「渡来して来た呉系楽浪鏡師ら」の失敗。
0466日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:50:51.19
>>447
史書の魏志引用文に自己解釈による書き換えがあれば
多くの史書の記述は共通しないはず
しかし史書の魏志引用文はその多くが共通していて
途中多少の表記の揺れがあってもそれが後代に広がらず
最終的に古い時代と新しい時代の記述がほぼ一致する
これは史書には共通して下敷きになったテキストが存在し
その文そのまま引用したからである
0467日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:51:21.58
>>318
>九州説は実際そう主張していたし現にザラコクは今もそう主張している<

「邪馬台国」はなかった、は、史料事実だよ。
0468日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 18:56:59.14
>>319
>全員ダウト!!!
三国時代に徐州で銅が採掘された場所は呉の領土!

後漢時代の「徐州剌史部」の全域が、三国時代の魏の領域になっているわけではない。
三国時代には、彭城およびその付近では決して銅を産することはなかった。
鏡は『銅出徐州』の銘文があっても、必ずしも鋳鏡の銅が徐州にでたと説明するには十分でないし、
また銅をとることのできない彭城およびその付近に銅がでたとは説明できない。」(王仲殊著『三角縁神獣鏡』「学生社。1992年刊」)
王仲殊氏の文章中にみえる「江都」「儀徴」などは、後漢の時代、「徐州剌史部」の監督する地域内にはいっていた。
この江都、儀徴には、古く銅鉱があった。
三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった。<

ふーん。
そんな話であったのか。
0469日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:02:01.30
>>460
>卑弥呼の没後の間違いだろう。

卑弥呼の死後の定式化した前方後円墳を作るようになってから、というのが以前は多かった
いわゆる箸中山古墳紀元というやつだ

でも、その前の纏向型前方後円墳の時点で、広く列島上で作られている状況が見えているため
その時期はもう古墳時代と見ていいだろうというのが、通説になりつつある
0470日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:04:43.81
>>319
>徐州は三国時代魏の領土 銅が出なかったというのは九州説がそう言ってるだけ<

(王仲殊著『三角縁神獣鏡』「学生社。1992年刊」)
王仲殊氏の文章中にみえる「江都」「儀徴」などは、
後漢の時代、「徐州剌史部」の監督する地域内にはいっていた。
この江都、儀徴には、古く銅鉱があった。
三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった。

だから、王仲殊が書いていたらしい。
0471日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:13:39.04
>>454
景初四年1月の存在は原理的に否定する事はできない

呉系楽浪鏡師集団が国内で三角縁神獣鏡の生産を始めたのなら
三角縁神獣鏡は魏と交流する前に生産が始まった事になり
魏・晋の銅素材が使われている事実と反する
また卑弥呼の下賜鏡を見て商売にならないと思ったにも関わらず
その後も三角縁神獣鏡を生産し続けたという事になり
呉の職人はやってる事がおかしいという事になってしまう

畿内が存在していなければ九州も存在していなく
そうでないというなら三世紀ごろに九州地方を九州と記した
文献を示さないと嘘を言っている事になる

畿内で見つかる三角縁神獣鏡には魏の年号があり
これは誤系の鏡師がいようがいまいが
畿内と魏の交流を示すものである
0472日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:17:59.22
>>446
>畿内と魏の交流を示すものである


全く無い。  山に囲まれた地に「邪馬台国」など、以ての外。  @阿波
0473日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:19:27.95
>>320
>「臺」が「台」の旧字体とは限りません。
「われ、わが」などの意味で使う場合、相手を敬って言う場合、星の名前「三台星」、
天台宗関係の事などは、「台」であって、「臺」と書いては誤りです。
これは、この字と「臺」の新字体がたまたま同じ形になっただけで、 本来違う字だからです。
いずれせよ 「臺」と「台」の議論は無意味です
「邪馬壹國」 壹 壹 です 音声から漢字を充てたのでしょう 
ヤマイ(イチ)のイをタイと聞き間違える可能性は低いです <

ふーん。
0474日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:23:09.34
国産の三角縁では
魏と交流があった証拠にはならないよ
0475日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:26:21.77
>>465
魏とコンタクトがなければ鏡に景初四年が記銘される事はない
なぜなら景初三年1月1日に明帝は亡くなり
景初三年の時点で翌年は改元で年号が景初じゃなくなる事が明らかだからである

もし誤の鏡師が国内に居たとして
景初三年、と魏の情報である年号が入った鏡を作りながら
明帝の死去による改元が翌年ある事を知らないとは考えられず
にも関わらず景初四年と元号のある鏡が存在するのは
その年号が実在したからである

新年の祝賀郷地と明帝の一周忌の重複を避けるため
景初三年十二月→正始元年の間には1ヶ月の空白があるが
後年の記録上景初三年後十二月とされているその年が
実際上は景初四年一月であった事は容易に想像できるのである
0476日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:32:09.11
>>323
>>明帝の詔書は、おそらく起居注などの日記に拠って景初二年12月であり、
その事は動かしようもない。<

>「おそらく」ってあんたが想像してるだけなのになんで動かしようもないの?<

明帝が亡くなったのが景初二年の大晦日から景初三年の元旦の間であった、という事が変えられないから、
明帝の詔書の景初二年12月も変えられず、
従って、魏志の、
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰・・・」
も変えられないし、
それを、景初三年六月にも変えられない。
0477日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:32:28.97
>>470
実際は曹操と劉備の徐州の戦いで曹操が勝利し
徐州は魏の支配下にあった
なので三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と素材が同一なのであり
銅出徐州 師出洛陽と銘が入っている
0478日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:37:49.72
>>324
>「ついうっかり?書いてしまった」って なんの根拠もない想像が根拠で
「信頼出来る」って断定するのは「理由もなく俺様がフトそう思ったのだから、絶対正しいのだ」
って言ってるのと同じだぞ <

言った本人は、自論に不利になる、とは思わず、
正直に事実を述べていたつもりであったから、その発言は信頼できる。
0479日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:41:06.12
>>475

畿内の鏡文化は外から入ってきたもの
魏とのコンタクトは畿内に入った勢力が持っていたものだね

鏡だけじゃ交流の証明にはちょっと状況的に弱い

それに鏡副葬文化が伝わり、出土するのは布留0からだし
0480日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:43:00.52
>>476
変えられない事はない
倭国と魏で文書のやり取りをして景初二年12月に詔書が出
実際倭国が使者を派遣したのが景初三年六月とか
0482日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:48:06.90
年号なんて一度知れば
後は一年ごとに足していけばいいだけだからな
0483日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:48:18.12
>>477
中国で出土した鏡の成分分析は無いよ

中国鏡と"思われる"日本にある鏡との比較

さらに時代と作成場所が曖昧な物との比較になるから、魏鏡かどうか?はわからない

成分分析もまだ結構混沌としている
0484日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:51:36.29
>>479
>畿内の鏡文化は外から入ってきたもの
>魏とのコンタクトは畿内に入った勢力が持っていたものだね


御存じ、「忌部はん」だね。  @阿波
0486日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 19:58:54.32
>>482
その通り
さらに詐称も出来てしまう

紀年鏡が4世紀以降の墓からしか出土していない事と、やはり魏の地域から三角が出土していない事がネック

悪いが、骨董市発見鏡は論外
0487日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 20:04:30.59
>>325
>実際に景初三年→正始元年の間には1ヶ月の空白が存在しており
そこが当時では景初四年1月扱いだった可能性は否定できない<

景初三年の「後十二月」を作った、という記録があった、という、
極めてリーゾナブルな情報の存在は否定出来ない。

>状況的にも景初三年→正始元年の年号変更の際は
明帝の一周忌、そして新年の祝賀行事と新皇帝の即位の
大掛かりなイベントが連続する時期であり
それに合わせて倭国からも使者が使わされていても不思議はない<

倭国の遣使が来た、という記録がない。

>その際に景初四年、正始元年の記年鏡が続けて下賜された事は 想像に難くない<

記録のない事を、断定的に想像するのは、一種の分裂幻覚の妄想。

>これは記年三角縁神獣鏡の発見状況とも合致するものである<

列島の鏡師らに、たった一か月の「景初三人十二月」情報が届いて、
その時にわざわざ「景初四年」という年号鏡を造った、なんて、
わざわざ一種の分裂幻覚の妄想。
0488日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 20:05:48.95
骨董市品を話に持ち出す時点で読む価値なし。
0489日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 20:19:47.87
>>326
>掲示板の他人のレス程度が情報源だからわからないだろうが
吉武遺跡群は19次までの調査報告がある<

そんな話だけでは、弥生末と古墳時代の間に断絶がある、という説の説明にならないよ。

>>「弥生後期末」と「古墳時代」の定義もはっきりせず、<

>同遺跡の初期須恵器は5世紀くらいの遺構からだから 古墳時代の定義は気にしなくていい<

馬鹿だね。
「5世紀位の遺構」という御託だけでは何の価値もないし、
初期須恵器にもならないと思うよ。

>>筑紫では通常は(断絶せずに)継続していたのであり<

>集落によって消長が違う<

お前は、「断絶した」というような言い方をしたんだよ。
それが否定されれば、吉竹高木の須恵器は、もっと古くなる可能性もあるんだよ。
0490日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 20:24:20.48
>>329
>王仲殊の説は、
孫呉の滅亡後ではなくて、三国時代に呉の工匠が日本の地で製作したという説<

賛成。

>景初二年の遣使は景初三年の誤りという説<

それなら、王仲殊の間違い。
0491日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 20:36:29.00
>>335
>そもそも呉の鏡が出てくると邪馬台国ではないとか言う思考回路が謎<

そもそも、邪馬台国なんて存在しないし、
この男も、「自昔・・・東征毛人五十五國」という倭王武の上表文があった事も無視する思考回路が謎。

>大和の邪馬台国は200年前後には既に全国的な展開をする勢力として成立している<

ほら、「自昔・・・東征毛人五十五國」や、大和は倭國の別種の旧小国であった事を隠している。

>周知の通りこの時期は朝鮮半島ルートが公孫氏によって潰されていて北方政権との交渉は困難になっている
だから江南の呉と邪馬台国は交渉していた<

そんな記録は、当然存在しないから、断定は×。

>そして公孫氏が滅んだ後に魏とも交渉を始めている
そして卑弥呼はその直後に死去したうえに、魏は程なくして司馬氏のクーデターで混乱し滅んでいる
なので魏と邪馬台国の交渉期間は実はかなり短い
卑弥呼の治世の大半はむしろ魏と交渉出来ない時期の方が圧倒的に長く、交渉相手は呉が主体だったと言える
当然、その呉系の鏡が多く見つかるのも必然と分かる<

「交渉相手は呉が主体」という断定が×。
0492日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 20:44:47.35
>>483
例えば方格規矩四神鏡は国内で出ても魏鏡である事に変わらない
比較対象が国内での魏鏡だからといって数値に違いが出るはずもなく
実際複数のそれぞれの時代の舶載鏡の間には有意に数値の違いが存在する
魏鏡かどうかわからないというのはナンセンス
もしそう主張するなら中国鏡の編年の根本的見直しが必要であり
邪馬台国が九州だったと主張をゴリ押すためのマヌケな思いつきとしか言えない
0493日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 20:46:46.80
>>340
>大和には神も王もいる王権があったのだ。<

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国の、
九州倭国から別れた別種の旧小国の、
九州倭国の地方の市を監督する大倭国の国があったのだ。

>鴨王こと天日方奇日方は倭国大乱で妹を王に立て自らは申食国政太夫に退いた。
魏志の【有男弟佐治國】である。
男の弟という表現は変だ、この弟は徒弟の弟と同じで男の臣下という意味であろう。
鴨王の妹は神武と結婚し先立たれる。
【年已長大、無夫壻】である。<

卑弥呼の話をしたから、「南≠東」などに拠って、×。
0494日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 21:06:11.98
倭国者古倭奴国也なので

漢委奴國王印は、漢の倭國王の印という意味です。

漢の倭の奴國王の印などと読むのは間違いなのです。
0495日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 21:16:32.41
>>489

>そんな話だけでは、弥生末と古墳時代の間に断絶がある、という説の説明にならないよ。

報告書、論文を読めばわかることだから説明はいらない

>「5世紀位の遺構」という御託だけでは何の価値もないし、

反日朝鮮人にとって価値がある無しは日本の学術研究には関係ない

>お前は、「断絶した」〜それが否定されれば、

俺ではなく福岡市教委の研究者の論文内容
考古知識がなく福岡の行政、研究者を詐欺師呼ばわりしている
反日朝鮮人有害活動集団が否定連呼しても日本の学術研究には何の影響も無い
0497日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 21:24:00.03
漢委奴國王印は、どこから手に入れたかの経緯は不明
0498日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 21:26:58.01
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0499日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 21:34:46.79
>>487
景初三年後十二月は記録上のものであり
改元があった事によってな記録上実際に使われていた年の表記を
後から変えることは普通にある

例えば魏で青龍五年の3月に景初に改元がされた際
景初元年4月からは始まるが
それまであった青龍五年1月〜3月は遡って改元され
景初元年1月〜3月と書き換えられたそうだ

列島の鏡師にたった一か月の「景初三人十二月」情報が届いて
その時にわざわざ「景初四年」という年号鏡を造ったと考え辛いなら
列島の鏡師ではなく実際の魏の年号を知る魏の鏡師が作ったのであろう

三角縁神獣鏡は魏鏡である事が様々な証拠より
強固なものとされており
なら物証の存在は逆説的に景初四年の存在を
裏付けるものと言えるだろう
0501日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 21:44:52.06
>>347
>国分神社で共存していたから何か
現代の博物館でも平安時代の物と江戸時代の物が共存しているぞ<

海東鏡と銅出徐州鏡とは、出来栄えは海東鏡の方がはるかに上等であり、
言うならば、二つは同一作者ではなく、海東鏡の方が上であり、銅出徐州鏡の方が下であり、
それが共存していた、という事は、海東鏡の作者の方が上位者だ、という事だ。

>用青同至海東は青銅で作って海東(倭)に渡すで意味が通じるし
三角縁神獣鏡は下賜用に作られた鏡という以前からの説で
何の問題もなく説明がつく<

それは冨岡や梅原や小林らの解釈であり、×だ。
海東鏡は、明らかに「吾」が主語であり、
「浮由天下〇四海」して「用青同至海東」をした、というのであるから、
結局「至海東」をした、という意味だ。
「海東(倭)に渡す」という意味ではない。
0502日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 21:52:24.27
今景初四年を調べてたら新たな情報があったな
景初→正始の実際の改元は7月で
それまでの6ヶ月景初四年は存在していたとか

晋書天文志の記述と干支の組み合わせで
そう研究中のページがあった
0503日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 21:57:08.27
>>500

後漢書には漢委奴國王印とは書いていない
経緯が不明なのは秀治・喜平・甚兵衛という百姓がどこで手に入れたのかが不明
1973、74年に九州大学考古学研究室が発掘調査をしたがなにも出なかった
0504日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 21:59:06.77
>>351
>三角縁神獣鏡の銅素材は当時の中国魏・晋鏡と同じもの 魏の年号が涛�チている<

古田本の紹介の梅原の表では、年号鏡の数は、前漢1、新2、後漢32、魏8(+?)、
呉50、西晋13、東晋4、西晋1、南斉1、であり、
呉が圧倒的に多く、呉で中心に盛んであった、と言ってよい。

>銅出徐州 師出洛陽と徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと銘<

「師」は、作者本人を指す場合と、「師匠」というものを指す場合の両方の可能性がある。

>現在の洛陽近郊でも1面畑から出土 <

0〜1個では、論拠にならない。

>国産、あるいは呉鏡とする証拠が何もないどころか
魏鏡である証拠しか見つかってない<

三角縁も神獣鏡も、魏というよりははるかに、呉付近で盛行した鏡だ。
0505日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:02:28.76
>>496
臺はドだったら
大和も三世紀頃の日本ではヤマドと発音してたのかもな
5世紀頃は後漢書に邪馬堆と書かれてるからヤマトだろうけれど
0506日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:09:12.49
明帝は景初三年1月1日死亡ではなく
その前に死亡したのを政治的理由で年明けに死亡した事にしたかも知れないとか
古代史は奥が深いねぇ
0507日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:13:28.85
陸軍軍医総監・小池正直も地元新聞等では12月31日死亡ですが、国の発表は1月1日です。
0508日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:14:43.57
そんなの古代に関係ない
近代でも明治天皇の崩御の日時は公表されてるものは実際の日時と異なってる
0509日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:15:02.63
>>469
>その時期はもう古墳時代と見ていいだろうというのが、通説になりつつある

だがその時代になると大和が中心というわけではない。
つまり大和で卑弥呼が即位したというのはあり得ないんだよ。
0510日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:23:30.43
古代史は書かれた記録と現実的はどうあったとか
認知とか認識とか人の意識の話になって来るな
もはや哲学の領域
0511日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:36:54.98
>>503
漢が倭奴国に金印をあげたと後漢書にあるから
漢倭奴国印はそういう事だろう

金印は志賀島の畑から出てきたそうで
大きな石に囲われるようにして土の中に置いてあったそうだ
0512日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:46:03.45
他の印と金の含有率まで同じに作ることは
現代ならともかく江戸時代には無理でしょう
0513日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:46:18.66
>>510
はあ?
都合よく捏造しようとする輩が多いからだろ?
0514日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:49:51.13
>>504
三角縁神獣鏡そのものが
魏の洛陽に相当する場所で見つかっているから
流行とか関係なしに今のところ三角縁神獣鏡は魏形式の鏡
0515日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:50:43.84
>>356
>三角縁が国産である事は邪馬台国が大和にあった事のマイナスには全くならない<

邪馬台国なんて、なかった。

>むしろ大和を中心とした意図的に構築された新秩序が全国に広まっていると言う証拠になるだけの事<

これも×。
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国。

>そして魏との交渉の年号などを知っていてそれを使っている当事者と言う事でもある<

これも×。魏との交渉の主体は、九州倭国。

>もし別政権の交渉の成果だと言うなら、後から自分でもう一度行けばいいだけ<

大和は、主体的には、行っていない。
九州倭国からの東征での伝来や、呉系楽浪鏡師らの中の一部が、大和に来ただけ。

>外交の年号を採用すると言う事は継続して同じ政権だと言う事の証<

大和は、主体的に採用していない。九州倭国が主体であり、大和はそのおこぼれ。

>邪馬台国が魏以前に江南の政権と交渉を続けていたと言う事も年代を考えるとむしろ当然<

主体的には、全くない。
0516日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:51:04.69
>>511

その一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形というのが調査したらなかった
0518日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:56:12.12
>>513
現実認識とかそういった話よ
歴史は捏造しようとすればある程度成功する
もしかしたら今認識している歴史は
実はまるで捏造された物だったらどうだろう
0519日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:56:25.78
>>514
見つかったという証拠は?
0520日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 22:56:29.71
そういう想像は何の役にも立たない
0521日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:02:05.03
>>359
>イヤ倭国内で銅が手に入るのになぜ輸入するのか<

おそらく、倭国内の銅はあっても少量だった。

>しかも呉の人間が敵国と言える魏から<

それ、王仲殊が否定している。

>三角縁神獣鏡の鏡式は魏の関連を伺わせるそうだし<

三角縁神獣鏡の鏡式は呉の関連を伺わせるそうだし。

>それに入れなくてもいい魏の年号を何で入れた<

始めは呉の年号を入れたが、遼東情勢や卑弥呼の遣使を聞いて、方針を変えた。

>また魏の年号が鏡に入っているなら魏の情報が入っているという事で
これは鏡の工人が呉人であっても魏との交流を示すものの 根拠と言えるのではないだろうか<

景初四年のような失敗の情報。
0522日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:02:59.26
だから歴史は哲学領域にも関わるって話さ
歴史的発見で今ある認識がひっくり返ったり
まあ下らないと言えばそれまでだけどさ
0524日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:04:55.69
後の時代に年号入れて作るなら景初三年を入れるだろ
0526日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:07:38.62
>>525

だから入手経緯が不明
0528日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:10:23.05
>>526
どっかからパクッて来たのか?
漢籍に通じた当時の一流の学者がやっと正体を突き止めたそれを
謎が謎を呼ぶ
0529日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:12:29.05
>>516
300年は経ってからの調査だろ
しかも畑
痕跡なんか何もなくてもおかしくない
0530日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:13:18.44
>>509
>だがその時代になると大和が中心というわけではない。

いや、纒向型前方後円墳も畿内発祥だし、最初から最後まで最大のものは纒向古墳群のものだし、
各地の纒向型前方後円墳は纒向古墳群のものの整数比の縮小版になっている

どう見ても大和中心だよ

>つまり大和で卑弥呼が即位したというのはあり得ないんだよ。

どこが?
前提部分から間違いで、前提が正しかったとしても論理的に導かれない結論w
0531日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:19:22.92
>>529

お前が言張ってもしょうがない
0532日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:26:39.71
>>521
>倭国内の銅はあっても少量だった

国内産ボウ製鏡は大量にあるぞ

>三角縁神獣鏡の鏡式は呉の関連を伺わせるそうだし

魏の洛陽から三角縁神獣鏡が出たから
今のところ三角縁神獣鏡は魏の形式の鏡そのもの

>始めは呉の年号を入れたが、遼東情勢や卑弥呼の遣使を聞いて、方針を変えた

それならそれ自体が発見地である畿内と魏との交流を示す証拠になる

>景初四年のような失敗の情報

景初四年が実在した事は否定しようがない
状況的に景初三年の翌年は改元となる事が明らかになっており
偽造品の魏鏡を作るなら逆に景初四年は入れる可能性はない
そんな年号を鏡に入れるのは景初四年は実在したからに他ならない
0534日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:34:15.58
>>533

学術調査で那珂郡奉行所に提出時の証言と一致した場合
0535日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:44:58.05
>>534
学術調査ではい、那珂郡奉行所に提出の時証言と一致しましたとなったら
お前は納得するん?
そいつが悪いヤツで嘘をついていたらどうする?
0536初歩ですが垢版2018/09/08(土) 23:47:22.51
三角縁神獣鏡=日本製で有れ、卑弥呼がもらった鏡であれ

が3世紀の物という確証はどこで調べればいいですか?
0537日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:51:11.09
>>535

学術調査で学者が悪いヤツで嘘をついていたことが判明してから考えればいい
それを言い出したら、日本のも中国の学術調査も信頼できなくなる
0539初歩ですが垢版2018/09/08(土) 23:52:42.42
卑弥呼が貰ったであろう三角縁神獣鏡が発見された

最古の遺跡は何処ですか?????????

紀年鏡・・・(発掘された最古の遺跡は何処ですか?????????)
0540日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:54:31.52
>>537
じゃあそいつがものすごい悪くて周りを完璧に騙すヤツだったら?
一生騙されたままだ
0541日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:56:16.67
>>540

お前の育った部落にはそういうヤツが多いのか?
0542日本@名無史さん垢版2018/09/08(土) 23:59:58.16
>>539

「青龍三年」大田南5号古墳 
4世紀が一番古いのかな
0544日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 00:06:56.85
安満宮山古墳

6世紀後半から7世紀にかけて造られたと考えられる大規模な群集墳

青銅鏡5面(魏の年号「青龍三年(235年)」銘鏡・三角縁神獣鏡をふくむ)
0546日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 00:11:01.89
神原神社古墳・・4世紀中ごろ
「景初三年」(239年)の銘が鋳出された三角縁神獣鏡
0547日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 00:17:21.63
椿井大塚山古墳(3世紀末)
「景初三年」(239年)の銘が鋳出された三角縁神獣鏡


・・卑弥呼死亡 247年あるいは248年頃だから あまり関係ないかな
0548日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 00:20:31.11
古墳は全部が全部発掘されているわけじゃないからしょうがない
0549日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 00:28:11.24
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

疑問 
銘入り 三角縁神獣鏡 の発掘場所の年代は卑弥呼が死んだ後の後

国中に知らしめよ・・・三角縁神獣鏡 の発掘場所は一つづつ国があると想えるが関東にも及ぶ…狗奴国は何処へ
0550日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 00:44:02.72
畿内説は記紀神話に頼るしか無い説
だから、あえて記紀を大事にしない

他説は対抗上記紀神話を持ち出すが、あまり記紀は持ちださない方が良い・・畿内説の思うつぼ

記紀は天皇の神格化の手段でしかない・・編纂も8世紀 神代から持統天皇の時代を扱う

北朝鮮の将軍様の神格化程度の古文書
0551日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 00:45:47.56
卑弥呼が死んだ後に 奈良以外の国中にばら撒いたのが三角縁神獣鏡????

考えづらい
0552日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 00:55:13.34
>>539
畿内説で三角縁神獣鏡を根拠としたのは過去の話だ
今さら、掘り返す必要なし
畿内説の現学者で三角縁神獣鏡を根拠とする人はいない
0553日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 01:13:48.17
三角縁神獣鏡が南九州から出ないことからも
狗奴国が南九州にあったことは明らかである
0554日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 01:27:37.56
>>520
捏造している張本人さん、夜遅くまでご苦労様です。
0555日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 01:28:19.33
>>530
畿内説って、思い込みしかないよね
0556日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 01:36:00.94
今のところ
九州=女王国
宇佐=邪馬台国
本州=狗奴国
奈良=狗奴国王都
河内彦=狗右智卑狗
だと思っている。
0557日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 02:37:21.03
井沢元彦も宇佐が邪馬台国とか言ってたけど
後に畿内大和説に転向したらしい
0558日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 02:52:40.06
『中国正史倭人・倭国伝全釈』 鳥越憲三郎(著)

私が住んでいる町の図書館には

倭人伝の現代語訳は、この本しかありません。

少し読んでみて、クソ本と思いました。
0561日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 03:37:41.39
メキシコ国シナロア州に、「ヤメト(yameto)」という町がある。
邪馬台国の船が難破し漂着した場所と考えられる
住民の多くは倭人の子孫であろう
0563日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 04:26:53.67
>>561
やめとけ
0566日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 06:30:57.24
景行天皇が自ら九州に赴いて熊襲を誅している事からもわかるとおり、
卑弥呼も自ら九州に赴き狗奴国(熊襲)と戦ったと思われます。
倭人伝に「以て死す」とありますが、これは「戦いで以て死す」の事なのです。
0567日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 06:46:14.47
>>544
>安満宮山古墳

>6世紀後半から7世紀にかけて造られたと考えられる大規模な群集墳


阿呆すぎるデマを流してるのは誰だ?
九州説は気の狂ったやつがいったい何人いるんだ?
0568日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 06:55:20.32
>>361
>むしろ呉が江南に成立して外交を行う時期を考えると、
大和の邪馬台国が全国政権になっている時期とぴったり合致する<

邪馬台国なんて存在しないし、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であったんだから、
これは、始めから×。

>邪馬台国は魏との交渉の時に突然出現したわけじゃない
それ以前から拡大して魏と交渉する前には既に全国を影響下にいれ外国とも交渉をしている
邪馬台国の外交を魏以降のみとしたり、呉との関係を無視する方が不自然<

始めから設定が×であったんだから、これも当然×。
0569日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 06:59:14.48
>>363
>魏志倭人伝からは、卑弥呼の治世に邪馬台国が拡大したようには読めない。
南の狗奴国との関係に頭を悩ませていたようだ。 畿内の勢力が拡大したのなら、
魏の目の届かないところで次世代に興隆する勢力が力を蓄えていたということだろう。<

畿内なんて存在せず、
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国の、
旧小国であっただけでしょうね。
0570日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 07:05:48.19
>>366
>マイナスにはならんが
実際見つかる証拠からはコピーのボウ製鏡を除いて
魏鏡である証拠しかないから国産説はナシ<

これも×。
海東鏡に「吾・・・用青同至海東」とあるから、呉系の鏡師が列島に来て、鏡を造っている。
0571日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 07:09:42.52
>>367
>呉の孫権はかなり積極的な外交を行っていたことは分かっている
台湾や日本、ベトナム、朝鮮半島にも盛んに使者や軍隊を派遣している
この孫権の姿勢から考えてみれば、全国政権となった邪馬台国と交流があったと言う想定に何の不自然もない
むしろ完全に没交渉と考える方が無理がある<

「全国政権となった邪馬台国」という文言は、
大和を意図している嘘つき騙しである事が明白であり、×。
0572日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 07:14:01.74
>>368
>じゃあ国産品だとしてもだ
魏の年号が入ってるから機内と魏は交流してたでいいな<

畿内なんてなかったから、「機内と魏は交流してた」は、×。

>青龍三年の方画規矩鏡も見つかっているし<

これも、大和ではないから、
おそらく九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍らの遺品。
0573日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 07:19:44.57
>>369
>呉志には何も書いてない 魏志には倭人伝が書いてあるけれど<

卑弥呼の姫氏は、呉王夫差の後裔を名乗っているし、大夫という職制も使っているから、
当然、呉地域とのコンタクトはあった可能性はあるし、
難升米の難氏は、韓国と河南省に本貫があるから、
当然呉付近とのコンタクトもあった可能性はある。
0574日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 07:27:39.36
>>560
ネトウヨ畿内節に用はない
0575日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 07:29:04.44
>>573
「・・・から」と書いただけでは理由を書いたことにならない
0576日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 07:31:36.81
>>371
>三角鏡は国産<

何組もの呉系楽浪鏡師たちが、九州倭国に渡来してきて、
九州で呉年号鏡を含み三角縁神獣鏡などを製作していたが、
楽浪の危機や卑弥呼の遣使を知り、明帝の銅鏡百枚を知ってからは、
鏡師たちは、列島各地に分散して、分散して東征将軍や各地の豪族の注文で製作するようになった。

>もちろん紀年は実年代<

景初四年鏡は失敗紀年。

>配布の中心は初期ヤマト王権 各地の豪族を手なずけるために量産したものだろ<

大和は、九州倭国の別種の旧小国であったから、これは、勿論×。
大和は、鏡造り神社を作って、呉系楽浪鏡師らから、子弟ら教わりが鏡造りを教わり、
大量の副葬用の下手な鏡を造らせた。
0577日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 07:35:45.96
>>373
>三角鏡はどっから見ても葬具としての扱いは受けてない
威信財ではないということだな
ただし、全国に鏡を配布できる強力な政権がヤマトにあったのは間違いなく
これが邪馬台国だろ<

大和の子弟が造った下手な三角縁神獣鏡は、副葬用であればともかく、
各地の豪族に配布できるような代物ではなく、×。
0578日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 08:08:42.51
>>514
アホ
0579日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 08:20:30.61
このように
九州説は理由が書けない
結論だけを信仰してるからだ
0580日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 08:22:30.18
>>574
根拠もなく畿内説と右翼を結びつけるイメージ戦略
九州説はやることが汚いね
0581日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 08:26:59.65
>>570
>海東鏡に「吾・・・用青同至海東」とあるから、呉系の鏡師が列島に来て、鏡を造っている。

海東って言葉の意味も知らないで、またデタラメ書いてるね
0582日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 12:12:17.90
誰が、どう考えても河伯(日本では河童、水神?)のほうのが上の存在だろう、
ちなみに孫という名前(上の名前)ではないよ
0583日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 12:14:11.08
キュウリのような葉・・・葱の華

『松傾』?
のような名前だと、以前から書いているはず、松傾?
0585日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 12:16:24.16
老婆の実家の裏のほうに『菅原神社』というのがあって、
家(松傾?)の〜〜〜〜〜だと言っていたり

どういう事なんだろう、亀戸天神の話とか
0586日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 12:20:21.28
家は伊達郡の川俣町というところに
住んでいたんだよと言っていたり

山王宮?なぜか同じような名前の家
0587日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 12:50:13.56
老婆(旧姓:渡辺)の家の話ではないんだけどw
どういうことだと思う
0588日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 13:03:42.51
天津・国津?
0589日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 13:47:51.82
『河童バビィ』〜〜『もののけ姫 ヒイ』?

     同じ人物でしょ
0590日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 13:49:46.49
『何者にもなれない お前たち』

  これも同じでしょ
0592日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 14:09:10.20
あの写真だよ

母親(それと、もう一人。老婆談によると、姉妹だったかな)
というのも弓矢のような模様の着物を着ているし、出来すぎている?
0593日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 14:20:26.08
『天津・国津』
調べてみると、同じようなことを書いている人がいない?

福の神がなにやらとか、雷の〜、占い、刀剣・・・など
0594日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 14:20:28.48
>>379
>三角縁が国産であることはむしろ
大和に存在した邪馬台国の強力な主導性と主体性を見出す証拠と言える<

邪馬台国なんて存在しないし、
大和の子弟が造った下手な三角縁神獣鏡は、副葬用であればともかく、
各地の豪族に配布できるような代物ではない。
0595日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 14:23:53.14
>>380
>3世紀の段階で各地の豪族に鏡を配布できたのは
初期ヤマト王権が邪馬台国であった証左><

大和の三角縁神獣鏡は、4世紀であり、
大和の子弟が造った下手な三角縁神獣鏡は、副葬用であればともかく、
各地の豪族に配布できるような代物ではな五十嵐、×。
0596日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 14:33:28.94
>>595
なんの根拠もなく断定し、連呼する

  それが九州説
0597日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 14:37:46.60
>>382
>洛陽近郊の畑でも1面出土があり
これは魏鏡説を補強する物であり逆に従来の説に反するものではない<

0〜1個では、500個以上の三角縁神獣鏡の説明にならず、否定される。
三角縁神獣鏡=明帝の銅鏡百枚説は、
この様に判明している証拠全てを無視しなければ成り立たないのである。
0598日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 14:42:47.52
>>597
なんで否定されるの?
0600日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 15:52:57.68
ジ ャ マ イ カ ン?
0601日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 16:08:48.16
>>599

うまいかえしだけどセリーナな
0603日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 16:14:16.61
気づいていると思うんだけど・・・・・・老婆談、
何の話なんだと思う

雷(発電)を起こしていたとか、
ガンダムでもなさそうだし、でもガンダムのような気がしたり
0604日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 16:17:02.58
主人公の勢力と敵の勢力・・・実は同一人物なんじゃないのか?
と思われるような存在がいたり


創作、作者の考えはどうでも良いの
0605日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 16:42:36.70
『天津・国津』

誰が、どう考えても、漫画やアニメ、ゲームの話(元ネタ)
0606日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 16:59:12.50
それと、なぜかゴキ?ゴキ扱いのような気もする、
太陽が凍りついても?という曲があったり

『天津・国津』
このなかの誰(存在)か
0607日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 17:05:44.41
これも以前書いたんだけど

『もののけ姫』という作品があるでしょ、
どう考えても、あしたか?「アシダカグモ」
0608日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 17:08:56.64
「何者にもなれない」

wikiを読んでみて、
ゴキブリが嫌いだと書いてあったり
0609日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 17:12:25.60
なぜか、そのような作品ばかりでしょ

あと『金色 ゴキブリ』
ありがたく?祀っている人々、地域があるとか、
そういう事を書いている人がいたり

どういう事なんだろう
0610日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 17:24:17.65
伊都国はかつて女王国(首都は大和)の従属国でしたが
卑弥呼の時には伊都国王は廃されて居ませんでした。
だから名前が出てこないのです。
そのため王の代わりとして大率が特置されました。
その後、王が居なくなった九州では女王国の直轄地化が進んでいくのです。
0611日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 17:29:46.74
>>610
>伊都国はかつて女王国(首都は大和)の従属国でしたが


それは、ない。  @阿波
0612日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 17:42:42.57
『ゴキジェット』
調べてみると・・・冷凍、冷却、凍止・・・スプレー?

『2ch 出身 偉人』
0613日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 17:51:20.71
>>383
>>初期ヤマト王権が邪馬台国であった証左<

>そうだね、その邪馬台国は鏡作工人たちを連れて、火国の日向からやってきた。<

邪馬台国なんて存在しないし、
倭奴國や伊都国や大和は、天孫族の阿毎氏であったし、
宮崎もおそらく阿毎氏であったが、
火の国は、卑弥呼らと同じ姫氏。
0614日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 17:57:43.80
『ボーボボ』

調べると出て来る、キャラクターも同じ
0615日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 17:59:08.44
>>385
>鏡の配布濃淡や鏡式のオリジナル性、呉との交流の痕跡
これを考えれば中心は畿内にあるのが分かる<

畿内なんて存在しないし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
下手な鏡造りであったし、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の一国でもあり、
呉との交流も九州倭国を通しての間接的であるから、×。
0616日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 18:00:32.58
>>610
全く根拠がない妄想
0617日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 18:02:46.93
>>386
>例え詔書が景初二年の12月だとしても
それだからといって下賜用の鏡に景初二年と記銘されるとは限らない
むしろそれから作り始めれば鏡の完成は翌年となっても
とくに不思議ではない <

魏のメンツにかけても、
詔書の前に下賜品などは準備出来ているものであり、
「それから作り始める」というような無様な事をする事は有り得ない。
0618日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 18:11:47.44
>>387
大和説は、
「南→東」などのように、都合の悪い記述を全て否定曲解したり、隠蔽したり、
はるか後代の学者の、
「自己解釈に拠るの勝手な書き換え」というインチキ文を探し出してきて、
同時代の魏使らの実見計測という、客観性も信頼性も確率も非常に高い魏志記録を、
曲解抹殺する、などという、
自己解釈に拠っての曲解造作の書き換えとしなければ、
成立しないらしい。
0619日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 18:26:39.11
>>389
>明帝が景初二年に亡くなっていても
卑弥呼が景初三年に魏に使いを送る事は別に問題なく出来るのであり <

「卑弥呼が景初三年に魏に使いを送る」んでは、
景初二年12月の(明帝の)詔書が出せないんだから、×。

>このくだりを魏志から引用する日本書紀、梁書、通志、太平御覧には
事実景初三年とある<

後代の唐代以後の、
晋書は、「公孫氏征伐と卑弥呼の遣使は同じ年」とも取れる記載をしたが、
梁書が、それも曲解して、卑弥呼遣使を明帝の死後の景初三年6月という曲解をして、
「邪馬壹國→祁馬臺國」や「壹與→臺與」などの改竄捏造をして、
それを、日本書紀、通志、太平御覧などが踏襲し、
しかし、通典は、
「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」
として、一応魏志や晋書を踏襲した。
0620日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 18:35:54.50
>>390
>三世紀に九州地方が九州と呼ばれていた痕跡は一切なし 倭と呼ばれていた証拠のみ
なので畿内はないというなら九州もない <

九州が天子を称したのはタリシホコ。
それまでは、倭国は天子を称した記録はなく、
中国にいた時から、倭奴國以後もずっと、
中国の天子の「畿内の外の諸王の九州の国」であり続けたから、九州であたった。
それに対して、大和は天皇を称したのは天智が最初であるから、
それまでは、「畿内」というものは存在し得なかった。
0621日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 18:48:54.11
>>620
ここまでデタラメ並べる人も珍しいな
中国の天子が何を「九州」と呼ぶかも知らないのか
0622日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 18:53:16.15
>>617
>今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印?綬、、、
>今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹、、、
>直又特賜汝 紺地句文錦三匹 、、、銅鏡百枚 真珠?丹各五十斤、、、
>皆装封付難升米牛利 還到録受

そういうことだね。
今、今、直、付難升米、・・・であるから、
装封された品々は難升米牛利が持ち帰ったのではないか
なお、親魏倭王の件については、帯方太守劉夏(今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守)にことづけるよ・・・。
しかしこのすぐ後、帯方太守は交代しているので、渡来が遅れ、
正始元年 太守弓遵等は奉詔書印綬して倭国へ詣で 拝仮倭王 、、、という段取りになったのであろう。
0623日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 18:55:49.64
>>621
>ここまでデタラメ並べる人も珍しいな

珍しいっていうか、振り切っちゃってるんだよ
たぶん、自分でも九州説はもう成り立たないことが分かっていて、
でも、半島式の腐れ儒教道徳で生きてるから間違いは絶対に認められない

間違いを認める=徳のない人=周りの全ての人よりも劣位確定っていう道徳だからね

だから、理由も根拠もお構いなしで、延々と
「南≠東」
「畿内なんてなかった」
「邪馬台国なんてなかった」
だけを、書き込み続けてるんだよ

でもまあ、人間には寿命というものがあるから、がたがた言うのも、後しばらくのことだろう

そのまえに、学会側から古墳時代の始まりは3世紀初頭とする見解が出されて
決着するかもしれないけどね
0624日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 18:57:48.30
>>390
>むしろ国内に呉の鏡師がいたら景初四年と年号は入れない<


呉の鏡師なんて、いない。いたのは「呉系の楽浪鏡師たち」ら。

>景初三年1月時点で翌年改元のある事が確定してるから
景初三年と魏の情報を得ながら明帝の死で
翌年新たな年号となる事を知らなかったというのは理屈に合わない<


難升米らは、当然景初三年は喪に服す事は知っており、
景初三年の翌年に改元があり、その時に、明帝の下賜が実行される事も知っており、
り、自分等はそれを迎える準備をしなければならない、という事も知っている。

>むしろ実情を知らなければ鏡に景初四年とは入れられないのであり<


ずっと前に既に渡来して来ていた呉系の楽浪鏡師らは、「景初三年の後十二月」の設置を知らなかった。

>そして景初三年12月→正始元年の改元の間に存在した1ヶ月こそが
それに相当すると考えると辻褄が合う<

魏では、景初四年なんて存在しなかった。

>三角縁神獣鏡は呉の鏡師が国内で作ったとしなくても
魏から貰った鏡で何の問題もなく説明できるのであり
逆に呉の鏡師の存在を想定すると景初四年鏡の説明がつかなくなる<


呉系の楽浪鏡師らは、景初四年が無かった事を知らずに、景初四年鏡を造った、
という事で説明が付く。
0625日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:03:49.68
>>393
>景初四年が来日した工人によって作られることも別におかしくない
三角縁の年号は「オリジナルの下賜鏡の年号コピー」なんだから
下賜品の方に景初四年があったと言うだけ<

下賜鏡は、景初二年12月の明帝の詔書の時に、出来上がっていたんだから、
「下賜品の方に景初四年があった」は、×。
0626日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:22:17.10
>>394
>魏・晋当時の輸入銅を使ったというのは それで魏との交流を示すものとなり<

輸入銅であったのか ?は不明。呉系の楽浪鏡師らの手持ちの材料銅であったか、
在庫の銅矛銅剣銅鐸や銅鏡を鋳直して使った可能性も十分にある。

>それが使われている、畿内で多数発見のある三角縁神獣鏡は畿内と魏の交流を示すものとなる<

畿内なんて存在せず、大和は九州倭国の別種の東征将軍の旧小国であり、
列島各地の三角縁神獣鏡は、「海東鏡」のように呉系の楽浪鏡師ら製作による。
卑弥呼への銅鏡百枚には、三角縁神獣鏡は含まれていない。

>洛陽発見の三角縁神獣鏡は三角縁神獣鏡魏鏡説の補強材料として十分
もしこれが呉で見つかったものであったのなら 今頃九州説は鬼の首でも取ったように誇示していただろう<

0〜1枚では、楽浪からの流通鏡であった可能性が高く、×。

>そして魏の洛陽近郊で三角縁神獣鏡そのものが見つかったので
三角縁神獣鏡の鏡式は魏式という事になる<

0〜1枚では、ならない。三角縁も神獣鏡も呉付近で盛行したもの。

>三角縁神獣鏡は魏鏡であろうとそうでなかろうと 記銘された年号、文言から
魏との交流を示す証拠に他ならない<

景初四年鏡は、魏との交流がなかった人々の製作である事を示す。
0627日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:23:56.53
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?
0629日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:35:26.28
>>395
>そうだとしても畿内説の否定にはならん<

畿内なんて、存在しない。
大和は、九州倭国の別種の旧小国であり、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。

>景初四年はあったという事になる<

魏の同時代記録には、
あったのは「景初三年の後十二月」であり、景初四年という記載は全くなかった。

>呉の工人が改元の事情がわからないから鏡に景初四年と入れたという説が瓦解するだけ<

海東にまで流れて来た呉系楽浪鏡師らには、景初四年がなかった、という事が判らなかった人もいた。
0631日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:38:24.94
以前から書いているはず、
お前達のしていることは詐欺師(犯罪)的な行為なんだよ、
人権侵害とか、気付いているだろう
0632日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:48:42.34
>>398
>そんな鏡が存在しないってことで、九州倭国なんてものが存在しないことも判かる<

洛陽晋墓などの鏡に拠って、魏代に盛行したのは、
蝙蝠鈕座など内行花文鏡や、方格規矩鏡などであり、
それらや、それらの鏡片も、筑紫付近に大量に出土しており、
平原からは、21枚の「尚方作」の方格規矩鏡が出土したから、
明帝→卑弥呼の下賜鏡であった事になり、
九州倭国の存在は明確である。
0633日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:48:45.66
頭の病院、刑務所(死刑)に行くか、
自殺でもしたほうが良いんじゃないのか?
0634日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:50:32.28
そうだね
キナイコシは骨董市の神獣鏡をありがたがってるからね。
0635日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:56:26.73
>>625
>下賜鏡は、景初二年12月の明帝の詔書の時に、出来上がっていたんだから、

ボケ老人、見てきたようなウソをつき
0636日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 19:58:53.20
>>492
日本の国にある鏡が中国のどの地域でどの時代で製作されているのがわからないのだよ

平原から国産鏡が製作されていたならば、これ以降の墓から出土した鏡は怪しくなる

柳田さんはもしかしたら、三雲の鏡も国産の可能性があるかもしれない、との事

そうなると、かなり混沌とする

やはり比較するならば、中国出土鏡の分析が必要だよ

中国鏡が日本にあるこの鏡だろう、というのが"思いこみ"の可能性もある
0637日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:04:48.12
どこの三流学者なんだ
0638日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:08:19.52
>>401
一応言っておくが、おれは大和説じゃない 。
あんな「南→東」などの嘘つき騙しの、基地外キョクウと一緒にされたら困る。

>大和の邪馬台国が全国政権となり<

邪馬台国なんて存在もしないし、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の、東征将軍の国。

>最初、朝鮮ルートが塞がれているために呉と交渉し後に魏とも交渉した<

関係なし。倭人は、元は、燕の南〜会稽付近にいた。

>そして呉の鏡式を採用した独自の三角縁を作って全国に配布したと言う立場<

海東鏡という、
「吾は、四海に浮由して、用青同して、至海東した」と書かれた三角縁神獣鏡があるから、
呉系の鏡師らが、列島に来て、三角縁神獣鏡を造っていた、
という事が判る。
0639日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:11:55.65
>>402
「南→東」などの嘘つき騙しで、
大和説者があまりイジめあまりられたから、
大和説者の頭も顔も、おかしくなった。
0640日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:12:33.98
誰がどう考えも 無理だよテンプレも妄想・・スレ主に責任は無い寺澤に染まりすぎた

テンプレ長い纏めれば根拠が乏し過ぎる

纒向=邪馬台国の王都
箸墓=卑弥呼の墓



俺が解説してもいいがスレ主が一番 矛盾を感じてるよ
だから、名無しで荒すしかない すれ主
0641日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:25:42.07
子供じゃないんだから、情報の取捨選択と発信に責任くらい持てよ。
0642日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:31:21.30
>>404
>そうそう!
逆に、鈕孔が円形や半円形ではなく四角いとか、
鏡背に乳を置くなどは魏鏡の特徴で呉鏡では見られない <

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai5/sankakuf.html
では、古田さんらに拠って、阪大の福永論が批判されているよ。

大体、大和の三角縁は、4世紀以後であり、
棺では、大事な頭部ではなく、棺外などの付け足しのような場所に置かれて、
「出来の悪い下手くそな鏡」であり、
鈕孔も、孔が不完全不定形で出口も壊れている物が多く、
大和の鏡造り神社で造ったものは、粗悪な不良品ばかりであり、
とても「配布」に使えるような鏡ではなく、
福永の説は、コテンパンにやっつけられているんだよ。

>結局、「三角縁神獣鏡が呉鏡の系統」というのは、
神獣鏡図像が南朝系の好みのモチーフってだけなんだよな<

結局この男も、福永に騙されたアホだった、という事なんだよな。
0643日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:32:46.70
作家などもゴーストライターか何かがいるんじゃないの?
ほとんど同じような解説だし、作家の年表とか

フェニックス(鳳凰、火の鳥)が何やらとか
0644日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:37:51.40
誰だったか『火の鳥 バレエ』レコード?
このような事が書いてあったり
0645日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:40:49.91
>>407
>洛陽で見つかった三角縁神獣鏡は出土地は白馬寺近くの畑で発見場所もわかっている
考古的発掘によらない物なので扱いとしては参考資料程度だけれど
魏鏡説を補強し否定するものではない<

0〜1枚では、列島の500枚以上の三角縁神獣鏡の論拠にはなり得ず、
魏鏡説は×。

>三世紀の国内産の銅鏡はその素材が
国内にあった古い銅製品を複数鋳溶かしたものである事が 分析するとわかるのであり
逆に三角縁神獣鏡は当時の魏・晋鏡と同じと分析結果が出る
三角縁神獣鏡は魏・晋で作られた鏡であるとする事が最も単純<

洛陽出土が0〜1枚や、洛陽晋墓では0である事で、
「魏・秦で造られた鏡」説は×。

>呉系の鏡師が国内で作ったとするならよほど特殊な事情があった事になる
それを証するためには何が必要か想像するのは難しいが
強力に証明するものが必要であり
また三角縁神獣鏡が魏鏡でありえない証拠も必要となるだろう<

。証拠は、さがす「海東鏡」。
0646日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:47:58.43
mike oldfield『let there be light』

MV(プロモーションビデオ?)観てみた?
同じじゃない?
0647日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:49:58.01
>>414
>>三渡海は、止むを得ないから、渡海をした。<

>遼東で取り込み中だったから、帯方郡から洛陽へもやむを得ず渡海したのだ。<

遼東は、もう公孫氏は包囲され落城を待つ状態。
渡海なら、「太守劉夏遣吏將送詣京都」とあるように、
「遣吏將送」をする必要がない。
0648日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:50:30.43
プラネタリウム人間?
0649日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:53:58.30
>>417
>じゃあ九州説も詐欺だな 九州なんて存在していなかった<

倭国の倭人は、自分等が中国の天子の、(畿内ではなく)九州の諸国の地であった、
という事を当然知っていた。
0650日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:55:34.02
>>418
大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しをして、
まったく根拠を言わない電波バカ。
0651日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 20:59:51.46
>>419
>>大和の範囲を目茶滅茶拡大するインチキもやっているな。<

>ウソツキ爺さん 畿内説がそんなことしたって証拠を出せよ<

大和盆地の中だけではなく、
大和盆地の外まで「大和の支配地」である、というような言い方をしたら、
それは、九州倭国の「東征毛人五十五國」に反するから、×なんだよ。
0652日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:00:39.50
竹筒、望遠鏡ではないけど、
双眼鏡のようなもので何かを観ていたり

海中に潜ったり、イルカ、フェニックスが出てきたり・・・
0653日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:03:18.63
>>420
>たまには九州説みたいに根拠なしの出鱈目並べたいなあ<

「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者に、すり寄られたら、
オームのような・・・・病が伝染しそうで、ような虫唾が走るなあ。
0654日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:07:51.03
>>427
朝起きてウソをつき、
昼メシ食べてウソをつき、
夜来たりなばウソをつく、
それが、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者や、
安部自民や右翼マスコミや学会教科書会社や、キョクウの・・・・暴力団らの一日だ。
0655日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:08:02.70
筋肉少女帯『ルリヲ』

バスに飛び乗りなさい〜〜〜〜バスから降りてきたり?

某徳永英明氏の『NEWS』も同じだし
あと『サイバーパンクSPECIAL』というコミック・・・・その他
0658日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:12:26.27
五人の子供、戦士・・・・セイントセイヤ、
何やら戦隊?
0659日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:14:12.94
>>617
景初二年十二月に詔書が出てから倭国の使者が鏡貰いに行ったんだろ
詔書を出してその場で渡すわけじゃないよ
0660日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:14:54.94
>>429
>オラザラコク
気合い入れて説得力ある九州説練り上げないと
皇国史観の大日本帝国が復活するぞ<

怖い怖い。
「戦前の万世一系皇国史観」の「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者らは、
安部自民や右翼マスコミやキョクウのやくざ暴力団や学会教育界の「戦争狂」らに協力して、
「侵略殺戮戦争の大日本帝国」を、また復活させよう、としている。
0661日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:16:03.98
当時、呉に行くには何処を通って行ったのだろう?
沖縄→台湾→中国ルートって有ったの?
0662日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:19:06.92
>>434
>馬鹿だなあ 前例どおりは記載省略できるんだよ<

書いてあれば確率が高いが、
書いてなければ、確率は50%以下。
0663日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:21:02.66
>>436
>まあ景初三年、四年、正始元年、正始5年と銘入りのものがあるから
それで400枚あってもおかしくはないけど<

明帝の下賜の「銅鏡百枚」にはならない。
0664日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:23:33.63
>>618
それなら全唐文の
昔、魏ハ倭国二酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ノ鉗文ヲ止メ
(昔、魏は倭に決まりきった鏡を下賜するのではなく)
という文のどこがどう自己解釈され書き換えられたのか示してもらおう
0665日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:28:11.10
>>619
景初二年12月に詔書が出てから倭の使者が鏡を貰いに行ったのであり
それなら使者を派遣したのが景初三年になってもおかしくない
というか12月に詔書が出たなら取りに行くのは
翌年の景初三年六月になるのは確実
このくだりを魏志から引用する日本書紀、梁書、通志、太平御覧には
事実卑弥呼が使者を派遣したのは景初三年とある
0666日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:31:05.74
>>437
>魏の鏡師集団が倭国で商売したっていいだろ別に<

魏で食えなくっちゃ来てもいいが、呉系の楽浪鏡師らが先に来ていて、
もう入る場所が残っていない。

>出自を誇るための呉の年号の鏡もあるし<

魏の鏡師に、直接関係がない。

>今大日本帝国が少し復活したぞ<

怖い怖い。
大和説者は、やっぱり、安部自民やキョクウらの戦争狂の仲間だった。
0667日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:35:26.17
>>439
>いま最も大日本帝国を再現してるのはザラコク
特高そっくりたわね<

怖い怖い。助けて下さい。
また、戦前のように特高に狙われて殺されそう。
0668日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:36:00.16
>>624
景初四年は存在しなかったら鏡に入れる事のできない年号
景初三年1月1日時点で翌年は改元のある事が確定しているから
もし九州説の言うように国内の鏡師が魏鏡の偽物を作ろうとするなら
それが存在してないなら入れるはずのない年号なのであり
入っているという事は景初四年はあったという事
九州説の言うような呉系の鏡師が国内にいてもいなくても
景初四年はあったという事になる
0669日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:41:45.11
確実に『サイバーパンクspecial』

七人のこども、七人のこども


背の高い人物がいて・・・
0670日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:47:19.21
>>440
>たまに邪馬台国は魏との外交の時に突然出現して、魏以外と一切交流しなかったとか思い込んでる人がいる<

邪馬台国なんて、存在していなかった、と言っている。

>ホケノ山の画文帯神獣鏡も初期の邪馬台国が呉と外交してた証拠としてみるのが自然だが、<

ホケノは、有棺有槨であり、前方後円墳であって、卑弥呼の墓の「冢」ではないし、
庄内〜布留だから、3世紀末以後であり、
画文帯は、当然呉系の楽浪鏡師らの関与があったから、阿波とホケノには、
九州倭国の「東征毛人五十五國」での伝来か?、
出雲文身國経由の楽浪からの伝来か?の、
両方の可能性がある。

>「魏以外とは外交が一切ない」と思い込んでるから
「呉が滅んだ280年以降の物だ」とか言い出すからお笑いだな<

「魏以外とは外交が一切ない」なんて思い込んでいないから、この男もお笑いだな。
0671日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:49:35.14
いまのロシア?のほうの話なのかな、何なんだろう
0672日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:49:51.40
>>626
国内在庫の銅を使ったのなら
魏・晋鏡の銅素材と三角縁神獣鏡のデータは一致しない
そして三角縁神獣鏡は見つかっただけで500枚と数が多く
それを鏡師の手持ちの銅素材で全て賄うのは不可能

もし倭国内に呉系の楽浪鏡師がいたとした場合
三角縁神獣鏡の素材、魏・晋鏡の銅素材を継続して輸入したとの想定が不可欠であり
それは三角縁神獣鏡の多く見つかる畿内と魏との交流を
示す証拠になってしまう

そして楽浪で三角縁神獣鏡は1面も発見がなく
魏の洛陽近郊で1面発見されているのである
0673日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:50:32.58
>>441
>赤烏元年、七年と言う呉の年号の鏡も見つかっているからな
これは魏と外交を始めた「後」の年号 両者と交渉してるのが見えてくる
日本にとっては交渉相手はぶっちゃげどこだって構わない
洛陽政権だけを重視してるような様子はそもそもない 行けるところに行くだけの事<

渡来の呉系の楽浪鏡師らの中には、呉の年号を紀銘する事にしていた鏡師らもいた、
というだけの事。
0674日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 21:56:48.18
>>444
>消失する前の魏志を<

魏志写本は消失していなかったから、多種類の魏志版本が出来た、

>引用して書かれた日本書紀、梁書、通志、太平御覧には
卑弥呼が鏡を貰った年は景初三年とある<

写本では「景初二年」であり、確率は99.5%以上。
唐代以後の、「自己解釈に拠って自由自在な書き換え」を実行した史書は、
信頼性はほぼ0%。
0675日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:00:41.39
>>629
畿内が存在しないというなら九州も存在しなく
3世紀の文献上に今の九州地方が九州と記述されている証拠を出さない限り
九州説は言いがかりをつけている事になる

景初四年は存在しなければ鏡に入れる事のできない年号
景初三年1月1日時点で明帝の死去により翌年の改元は明らか
国内に九州説の想定する呉系の鏡師が居たとして
景初三年と魏の年号を鏡に入れながらそれを知らないとは考えられず
景初四年は存在したから鏡に記銘された

そして景初、と魏の年号が鏡に入ってるそれ自体が
魏との交流を示すものであり
それが多く見つかる畿内こそ魏志倭人伝にある邪馬台国
0676日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:04:28.80
>>636
鏡の編年は日本でも中国でもされてるよ
年号の入った記年鏡も中国で出てるし分類はしやすい方だろう
0677日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:07:07.20
筋肉少女帯・・・・
アンテナ売り、ロケットの話(曲)が出てきたり・・・
どう考えても『wednesday moon』
0680日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:12:44.45
>>642
三角縁神獣鏡が4世紀という根拠なし
三世紀の古墳から見つかり
景初三年(239年)や四年、正始元年といった銘が入っている
0681日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:27:42.61
>>645
三角縁神獣鏡を呉鏡とする根拠が海東鏡だけならあまりに薄弱
しかも根拠とする「用青同 至海東」の文言をもし国内で
呉系の職人が記銘したとするなら倭国内よりさらに東の海へ行くという意味になる
洛陽でも発見される通り三角縁神獣鏡は魏の鏡
そして倭への下賜用に作られた鏡であり
この文言の示すところは青銅を用いて作り、倭へ贈るという意味
0683日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:29:37.56
>>448
>魏限定で呉からは手に入れなかったのか?<


国分神社の3鏡の一つは海東鏡だが、
「徐州の銅」を使った、と書いている洛陽出の鏡師の鏡もあったから、
「徐州の銅」を使った鏡師もいた、という事は、否定出来ないな。

>そもそも倭国内でも銅は手に入るぞ? 国内にはボウ製鏡も大量にあるし<

その話も読んだ事はあるが、思い出せない。
紹介頼む。
0685日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:32:40.06
頭の病院に行け
0686日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:36:24.94
>>666
魏の年号の入った青龍三年鏡(235年)が見つかってるから先に来てるだろ
呉の年号入りの赤鳥元年鏡(238年)より前だし
とすると赤鳥7年鏡は魏の鏡師が作ったものだな
そろそろザラコクの所に特高警察が行くんじゃないかな
0687日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:36:25.85
『dead sea 石鹸』
というのがあるんだけど、ダヴィデ、パトラも〜と書いてあったり

なぜか家にも、その石鹸があるんだよ

ちなみに家は「松傾」?
このような名前の家、なぜだと思う?
0688日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:39:05.19
もらったのが100枚で、後のは御代をお支払いしたのだろうね
0689日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:39:10.17
パトラ?

同じ名前かもしれないけど、
親戚ではない、家は芸能界に親戚はいない

なんで知っているんだと思う
0690日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:44:13.63
その石鹸、いつ頃から家にあったのか知らないけど、
確実に1999年〜2000年頃には家にあったと思う

ヱヴァンゲリヲン?
0691日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:46:49.17
>>451
>畿内が存在してなければ九州も存在してない 九州説は嘘つき騙し<

九州は、古代には「中国の天子の畿内の外の諸国」、という九州であった歴史があるが、
畿内は、大和に天皇が出来たのは天智からであるから、
古代には畿内そのものが存在せず、」嘘つき騙しで×。

>魏の鏡師集団が魏で商売してればよく
青龍という年号鏡を造る必要もないというのがよくわからない <

人間は、原則として、必要もなければしない、という人類の常識が判らないお前がアホ。

>畿内で商売して青龍三年鏡作ってもダメな理由はない<

畿内なんて存在しないし、九州倭国の別種分家の大和で青龍三年鏡を造る必要も理由もない。

>まあ鏡だけ入ってきたんだろうけど<

4世紀の鏡作り神社以外は、九州倭国の東征将軍らがらが持ちこんだものと、
呉系楽浪鏡師らの鏡作り神社注文製作したものなど。

>そして魏の年号が入った鏡は畿内で見つかり<

大和からは見つかっていない。

>たとえ呉の鏡師集団が作ったのだとしても 畿内と魏は交流があり情報が入ってきていた事になる<

3世紀頃に大和に呉系の楽浪鏡師らが来た形跡がない。
0692日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:49:54.77
>>452
>後の記録上景初三年後十二月となっている日付が
現実的に景初三年十二月→正始元年の間に1ヶ月の空白として存在している以上
そこが実際上は景初四年一月として扱われていた可能性は否定できない <

魏の同時代文書に、景初四年、と書かれた文書がない。
0693日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 22:51:51.85
住んでいるところも川崎区の南部のほうだしな、
『サイバーパンクspecial』?
0694日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:00:10.37
>>676
中国出土鏡の編年?
三國時代の魏の地域での紀年鏡はかなり少ない

なのに、日本である意味「紀年鏡」がポロポロ出土する事がちょっと怪しいとも思ってしまう

さらに、出土地域を絞った編年なんてないよ
つまり、はっきりわからない、が現状

おまけに日本には「国産」が紛れている
0695日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:04:33.23
>>674
今ある魏志は宋の時代戦乱でそれまでの正典的な魏志は消失し
12世紀になってそこらで手に入る文書(おそらく官製ではない
私写版や民製品)を集めて復刻したと記録にある

それまでの魏志を引用する史書の記述とは様々な所で食い違いがあり
それもその復刻版から初めて現れる物が多く
例えば卑弥呼が魏に使いを送ったと12世紀の復刻版魏志にある年景初二年は
それ以前の魏志を引用して書かれた日本書紀、梁書、通志、太平御覧では
景初三年と記されている

九州説の言う通り自由な自己解釈によって年号が一致する可能性は低く
これはそうとする相当な理由があったか、または
日本書紀、梁書、通志、太平御覧が引用した書、消失前の魏志には
景初三年とあったという事

12世紀に復刻された魏志はそれまでの魏志を引用した
複数の史書との齟齬が多く
これは誤記が多い書だったという事になる
0696日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:09:39.66
>>455
>三角縁神獣鏡そのものが洛陽で見つかる<

0〜1枚では、見つかった事にもならないし、
当然500枚以上の日本の三角縁神獣鏡の証拠にもならない。

>呉の鏡師が倭国へ来る理由もない<

呉で競争に勝てなければ、当然一旦公孫氏支配の楽浪で活路を見出そうとし、
その楽浪が戦争になりそうになれば、
また(海東鏡のように)鏡の好きな倭国へ流浪避難する事は幾らでも有り得る。

>魏が魏の年号を鏡に記銘しても当たり前であるし<

必要がなければ書かないし、書かないし、
紀年鏡の分布を示したように、呉が最も多く、魏は少なく、
そもそも、全時代を通しても、紀年鏡の数自体が倭地よりも少ない。

>そうじゃないというなら呉の年号が入った鏡は魏の鏡師が記銘した証拠になってしまう<

呉系の楽浪鏡師らの紀銘。

>海東鏡は呉の関連を伺わせる物は何もない<

楽浪や半島であれば、陸路があるから「四海に浮由して至海東」と特記する必要がなく、
倭地なら、海に浮く事が絶対に必要である。
0697日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:11:32.93
頭の病院に行けと言っているんだよ、
いい加減に気づいたほうが良いんじゃないのか?
0698日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:22:23.51
版本が刊行されたころは蜀漢が正統とされた時代だからな
0699日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:32:29.60
これも以前から書いているはず

妹がいるんだけど、5月15日生れ、
あと兄もいる

言ってる意味わかる?
0700日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:42:32.50
>>683
スプリング8で銅鏡を解析する事により
古代中国製の銅鏡は素材銅に含まれる不純物(銀・アンチモン)が
秦、前漢、魏・晋時代に作られた鏡の時代それぞれによって違う事がわかり
そしてそれぞれのグループに分ける事ができた
これはそれぞれの鏡の銅素材は別の銅鉱山から採られたため

一方国内産のボウ製鏡は銀・アンチモン成分が中国鏡より総じて多く
またデータが広範囲に拡散する

これはつまり複数の中国産銅素材(恐らく国内にあった古銅製品)を
混ぜ合わせたために銅の中の不純物銀・アンチモンが足し合わされた事を示し
また中国産の銅鏡が比較的小さな銀・アンチモン成分グループを作る事の
対比となっている

つまり倭国内では中国の古い銅製品を改鋳する形で銅を手に入れていた
スプリング8 三角縁神獣鏡で検索すれば分析結果が載ってるページが出てくる

個人的には荒神谷遺跡の銅剣とかも分析して欲しい所
0701日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:42:59.25
例えば

お宝鑑定団という番組がやっていたでしょ、
そんな人いるの?という依頼人が出てきたり

相馬(一族)という家の・・・一般人
0702日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:49:23.96
家は『松傾』?
このような名前の家なんだけど、

松の木が立てられていて・・・、オジギソウ、シダ類・・・・、
なぜか『これでいいのだ』と同じような写真があったり
0703日本@名無史さん垢版2018/09/09(日) 23:59:35.47
伊達郡の川俣町という掲示板なんだけど、
なぜ知っている人がいるんだと思う

どう考えても家の話じゃない?

飯野という町、機織りをしていた・・・香野という家、
老婆談と同じ
0704日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 00:05:47.07
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0705日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 00:07:03.30
>>691
古代に九州地方を九州と表記した文書がないから
九州はなかったのである

魏の鏡は畿内で多数見つかる三角縁神獣鏡を見る通り
必要はあったのであり
それなら魏の鏡師集団が倭国で商売していてもおかしくはない

三世紀の古墳から三角縁神獣鏡は発見されている
また東征将軍が居たとしても畿内に来たと推定されるのは
後漢書等にある考帝〜霊帝間の倭国大乱期(140〜180年)である

邪馬台国畿内説であるから
畿内に相当する場所で魏の年号の入った鏡が見つかればいい

三世紀頃に畿内に呉系の楽浪鏡師らが来た形跡がないどころか
全世紀に至るまでそのような痕跡はないのである
0706日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 00:11:39.90
>>694
記年鏡は十数枚程度でそこまで国内で見つかってないぞ
むしろ中国の方が多いくらいだ
0707日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 00:15:59.41
陰謀スレ?

昔の偉い人達は何をしているの?
どこかに、いるはずなんだけど、

宗教関係(神職、僧など)の仕事をしているの?
それとも公職追放?
0708日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 02:20:45.83
それにしても謎の

福島県伊達郡川俣町 Part4



相馬の者、霊山が何やらとか?
仲が悪いような話をしていたり
0709日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 02:58:02.46
>>458
>(弥生末と古墳時代の定義)事実上、卑弥呼の共立以前が弥生後期末(弥生終末期)
卑弥呼の共立により、新しい広範囲の秩序形成がなされ、
その秩序が倭国の広い範囲を覆った時から後が古墳時代だよ<

おや?、有難う。
しかし、「事実上・・・卑弥呼共立」という事は、
そりゃ君の意見だけである可能性もあり、
事実上は、通説大和説側には、意見の統一は、完全には出来ていない、という事だなだな、?。
0710日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 03:24:05.21
>>461
>魏でたくさん見つかるような鏡は三世紀の古墳からはほとんど見つからない<

そりゃ、大和の話だな?。九州や筑紫では、楽浪晋墓で見つかるような鏡が沢山見つかる。

>その頃の銅鏡は基本的に交流のあった国外から入ってくるものであり<

呉系楽浪鏡師らの製作鏡や、立岩や平原などのような明確なホウ製鏡も、沢山見つかる。

>その鏡に相当するのが三角縁神獣鏡 <

筑紫の三角縁神獣鏡は、おそらく3世紀前半から。大和の三角縁神獣鏡は4世紀。

>畿内がなかったのなら九州もなかった事になる<

畿内なんて始めからない。

>魏が下賜鏡に年号を入れる必要がなかったというのは理由が不明の主張<

中国での年号鏡の割合が元々少なく、魏の年号鏡も確か38枚で、呉に比べてもかなり少ないから。

>海東鏡は呉の鏡師の存在を何も裏づけるものではない <

「吾・・・至海東」は、その三角縁神獣鏡の作者自身が「吾」であり、
列島に来てその鏡を造った、という事の証言。

>魏書曰くと太平御覧は魏志をそのまま引用した記載があり
その他多くの魏志引用文のある史書と比べても内容にほぼ違いがない
自己解釈に拠る書き換えなどなかった証拠である<

自己解釈に拠る書き換えは、は、後漢書に一部始まっており、梁書がそれを拡大し、
その後は、梁書の書き換え内容をほぼ踏襲して行った。
0711日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 03:33:43.64
>>461
>写本版本同士なら差異発生率は低いかも知れないが
写本版そのものにそれまでの元本と差異があれば
それが複製されていくだけである<

そうだよ。
写本に既に「差異」が発生しており、その差異によって、多種類の版本が出来た。
そして、その「差異」発生率は、0.5%以下。

>実際史書にある消失前の魏志引用文と写本版の記述には
相当の差異があり邪馬壹國もそれに当たる<

この男は、写本版本の事を写本版と書いていたのか。
しかし、その写本版に関する宋明清代の校勘では、邪馬壹國に関する校勘はなく、0であり、
全ての写本版で、邪馬壹國と書かれていた、という事になる。
0712日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 03:46:00.08
>>466
>史書の魏志引用文に自己解釈による書き換えがあれば
多くの史書の記述は共通しないはず<

事実、唐代以後の史書は、「記述は共通」しておらず、
一致したり一致しなかったりで、全く自由気まま。

>しかし史書の魏志引用文はその多くが共通していて
途中多少の表記の揺れがあってもそれが後代に広がらず
最終的に古い時代と新しい時代の記述がほぼ一致する<

www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
など。に拠って、梁書と太平御覧とを比べて見な。皆、自由気ままに文章を変えている。

>これは史書には共通して下敷きになったテキストが存在しその文そのまま引用したからである<

後代史家が参考にするのは、魏志写本や、それに対する注書きや、
直前の後代史家の書き換え内容説明内容や、後代の執筆当時の情報や世評。
0713日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 04:00:34.02
>>469
>(古墳時代の始まりの定義)卑弥呼の死後の定式化した前方後円墳を作るようになってから、というのが以前は多かった
いわゆるは箸中山古墳紀元というやつだ<

いわゆる「箸墓=卑弥呼の墓」説だな。
しかし、この男は、「箸中山古墳」という文言を使っているね?。
これはスレ主が常用していた文言の筈だな。

>でも、その前の纏向型前方後円墳の時点で、広く列島上で作られている状況が見えているため<

どこで見えていたの?。
前方後円墳の始まりは那珂八幡などの、筑紫なんだから、当然「筑紫など」なんだろうなあ。
そして、卑弥呼の墓は「冢」なんだから、この時点でも、
卑弥呼の墓は、古墳時代にも入らない、という事になる訳だ。

>その時期はもう古墳時代と見ていいだろうというのが、通説になりつつある<

古墳時代の定義や始まりに関しては、
通説大和説者は、七転八倒の苦しみ、のようだねえ。
0714日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 04:32:53.05
>>471
>景初四年1月の存在は原理的に否定する事はできない<

またこの男(口調はスレ主にそっくり?)が変な事を言い始めたようだな?。
しかし、この話はこの後では何も書いていなかったようだな。御託だけか。

>呉系楽浪鏡師集団が国内で三角縁神獣鏡の生産を始めたのなら<

いや、洛陽で0〜1枚の三角縁神獣鏡が見つかった時点で、
それは楽浪から流入したものである、という可能性を指摘して置いてあるよ。

>三角縁神獣鏡は魏と交流する前に生産が始まった事になり 魏・晋の銅素材が使われている事実と反する<

呉系の楽浪鏡師たちは、当然、徐州などの中国内産出銅や、手持ちの材料銅を持っていた筈だよ。

>また卑弥呼の下賜鏡を見て商売にならないと思ったにも関わらず
その後も三角縁神獣鏡を生産し続けたという事になり
呉の職人はやってる事がおかしいという事になってしまう<

どこの鏡師であっても、三角縁神獣鏡しか造れない、などというアホではない、と思うよ。
0715日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 04:33:47.01
>>471
>畿内が存在していなければ九州も存在していなく<

燕の南や呉にいた時も、列島へ来てからの倭奴国や親魏倭王や、その後の東海姫氏國時代の倭の五王らもずっと、
中国の(畿内の外の)諸王の身分であったんだよ。

>そうでないというなら三世紀ごろに九州地方を九州と記した文献を示さないと嘘を言っている事になる<

倭国王が中国の支配下の諸王であった、という事はずっと言って来てあった。

>畿内で見つかる三角縁神獣鏡には魏の年号があり<

畿内なんてなく、大和からは魏の年号のある三角縁神獣鏡は、出ていない。

>これは誤系の鏡師がいようがいまいが 畿内と魏の交流を示すものである<

国分神社の海東鏡があるように、大和の外までなら、(九州倭国を介して)呉系楽浪鏡師らが来ている。
0716日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 06:20:31.21
>>475
>魏とコンタクトがなければ鏡に景初四年が記銘される事はない
なぜなら景初三年1月1日に明帝は亡くなり
景初三年の時点で翌年は改元で年号が景初じゃなくなる事が明らかだからである
もし誤の鏡師が国内に居たとして 景初三年、と魏の情報である年号が入った鏡を作りながら
明帝の死去による改元が翌年ある事を知らないとは考えられず
にも関わらず景初四年と元号のある鏡が存在するのは その年号が実在したからである <

ダメだ。順番が逆だ。
事実関係は、「景初三年の後十二月」があったのであり、景初四年はなかったのだ。
そして、列島の呉系楽浪鏡師らは、一年忌行事と新年祭祀がダブル事などの事に気付かず、
その情報が入らず、景初三年次に亡くなったんなら、その翌年も忌中なんだろう、と思ったのだ。

>新年の祝賀郷地と明帝の一周忌の重複を避けるため
景初三年十二月→正始元年の間には1ヶ月の空白があるが
後年の記録上景初三年後十二月とされているその年が
実際上は景初四年一月であった事は容易に想像できるのである<

「後年の記録上景初三年後十二月とされている」のではなく、
「景初三年後十二月」という記録があったのだ。
0717日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 06:41:21.22
>>477
>実際は曹操と劉備の徐州の戦いで曹操が勝利し 徐州は魏の支配下にあった<

(王仲殊著『三角縁神獣鏡』「学生社。1992年刊」)
王仲殊氏の文章中にみえる「江都」「儀徴」などは、
後漢の時代、「徐州剌史部」の監督する地域内にはいっていた。
この江都、儀徴には、古く銅鉱があった。
三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった。

に対する反論を書けよ。

>なので三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と素材が同一なのであり銅出徐州 師出洛陽と銘が入っている<

問題は国分の茶臼山古墳の年代比定だな。
魏は265年頃に滅んでおり、
「銅出徐州師出洛陽」の徐州が西晋代であった可能性が高い。
0718日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 07:00:44.90
王仲殊は鉄鏡説
0720日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 07:36:52.74
>>480
>変えられない事はない
倭国と魏で文書のやり取りをして景初二年12月に詔書が出
実際倭国が使者を派遣したのが景初三年六月とか<

「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者のように、
この男も、まるで、史料事実を捏造する分裂幻覚の妄想の・・・・詐欺師のようだね。
0721日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 07:41:05.83
ザラコクという男はなんの知識もなく、なんの論理もなく、なんの根拠もなく
ただ自分の願望を書き散らしているだけなんだな
0722日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 07:42:23.83
>>481
>魏と交流がなければ
魏の年号が入った鏡は出てこないぞ<

九州倭国は、卑弥呼の頃に魏との交流はあり、
鏡師らも、ほそぼそとではあるが、
楽浪や難升米らを介して魏情報を少し知る事が出来る交流があった。
0723日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 07:44:52.51
>>483
>中国で出土した鏡の成分分析は無いよ
中国鏡と"思われる"日本にある鏡との比較
さらに時代と作成場所が曖昧な物との比較になるから、魏鏡かどうか?はわからない
成分分析もまだ結構混沌としている<

成程。
0724日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 08:06:35.12
>>492
>例えば方格規矩四神鏡は国内で出ても魏鏡である事に変わらない<

そうとは限らない。
平原の方格規矩四神鏡に関しては、大和説者は、ホウ製鏡説であった筈。

>比較対象が国内での魏鏡だからといって数値に違いが出るはずもなく<

国内銅山などの情報の有無は、ホウ製鏡の材料銅の仕入先を確認しなければ、何の意味もない。

>実際複数のそれぞれの時代の舶載鏡の間には有意に数値の違いが存在する<

それなら、鏡の成分比計測など、何の価値もなくなってしまう。

>魏鏡かどうかわからないというのはナンセンス
もしそう主張するなら中国鏡の編年の根本的見直しが必要であり
邪馬台国が九州だったと主張をゴリ押すためのマヌケな思いつきとしか言えない<

魏鏡かどうかわかる、というのはナンセンス。
もしそう主張するなら列島鏡の編年も根本的見直しが必要であり、
邪馬壹國が大和だったと主張をゴリ押すためのマヌケな思いつきとしか言えない。
0725日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 08:15:18.43
>>495
>>そんな話だけでは、(吉武高木に)弥生末と古墳時代の間に断絶がある、という説の
説明にならないよ。<

>報告書、論文を読めばわかることだから説明はいらない<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の報告書や論文など、何の信頼性もない。
要は、断絶の解釈ではなく、史料事実を提示して貰えばよい。
文献的には、邪馬壹國も伊都国も弥生銀座や糸島平野も、断絶などしていない。
0726日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 08:16:50.71
>>390
>三世紀に九州地方が九州と呼ばれていた痕跡は一切なし 倭と呼ばれていた証拠のみ
なので畿内はないというなら九州もない <

九州が天子を称したのはタリシホコ。
それまでは、倭国は天子を称した記録はなく、
中国にいた時から、倭奴國以後もずっと、
中国の天子の「畿内の外の諸王の九州の国」であり続けたから、九州であたった。
それに対して、大和は天皇を称したのは天智が最初であるから、
それまでは、「畿内」というものは存在し得なかった。
0727日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 08:32:52.01
>>499
>景初三年後十二月は記録上のものであり<

実際にあったから、記録された。

>改元があった事によってな記録上実際に使われていた年の表記を
後から変えることは普通にある <

別に普通ではない。元旦に亡くなった、という特殊な事があったから。

>例えば魏で青龍五年の3月に景初に改元がされた際 景初元年4月からは始まるが
それまであった青龍五年1月〜3月は遡って改元され 景初元年1月〜3月と書き換えられたそうだ<

「景初三年後十二月」の例とは全く違うな。

>列島の鏡師にたった一か月の「景初三人十二月」情報が届いて<

情報が届くのに半年位はかかるから、
たった一か月間の「情報が届いたのか?がそもそも不明。

>その時にわざわざ「景初四年」という年号鏡を造ったと考え辛いなら
列島の鏡師ではなく実際の魏の年号を知る魏の鏡師が作ったのであろう<

魏では、景初四年なんてなかった。

>三角縁神獣鏡は魏鏡である事が様々な証拠より強固なものとされており
なら物証の存在は逆説的に景初四年の存在を裏付けるものと言えるだろう<

三角縁神獣鏡は魏鏡ではない事が、様々な証拠より強固なものとされており、
なら、「景初三年後十二月」の物証の存在は、順説的に、
景初四年の存在を否定するものと言えるだろう。
0728日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 08:42:15.43
>>502
>今景初四年を調べてたら新たな情報があったな 景初→正始の実際の改元は7月で
それまでの6ヶ月景初四年は存在していたとか
晋書天文志の記述と干支の組み合わせでそう研究中のページがあった<

晋書自体が、「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」という、
「戦中遣使」とも「戦後遣使」とも取れる曖昧な記述をした最初の唐代史書であり、
他の唐代以後史書の「自己解釈に拠る書き換え」を促進させてしまった、
元凶になった記載であり、
信頼性がなく、半分×書であるから、
「晋書天文志の記述」も、根拠にならない。
0729日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 08:52:07.85
>>505
>臺はドだったら大和も三世紀頃の日本ではヤマドと発音してたのかもな<

現代中国学者の説明では、信頼性はあまりないな。
古代の音韻書や説文解字のような文書の方がましか。

>5世紀頃は後漢書に邪馬堆と書かれてるからヤマトだろうけれど<

「5世紀頃は後漢書に邪馬堆」とは書かれていないし、
大和は、「南≠東」に拠って、始めから×ね。
0730日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 08:55:34.58
>>512
>(漢委奴國王印)他の印と金の含有率まで同じに作ることは
現代ならともかく江戸時代には無理でしょう<

成程。
0731日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 09:06:53.92
>>514]
>三角縁神獣鏡そのものが
魏の洛陽に相当する場所で見つかっているから<

0〜1枚ではダメ。

>流行とか関係なしに今のところ三角縁神獣鏡は魏形式の鏡<

魏では0〜1枚で流行せず、
三角縁も、神獣鏡も、呉付近で盛行したんだから、呉形式の鏡。
0732日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 10:06:05.53
>>676
中国での鏡の編年は昔誰かが貼ってくれてたな
岡村氏のより全体的に少し古めに編年してた
ファイル保存しとけばよかったけど忘れてしまった
0733日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 10:30:30.49
つまり、畿内説が完全に破綻してしまったのだな、、、
0734日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 10:35:02.37
>>530
>>だがその時代になると大和が中心というわけではない。<

>いや、纒向型前方後円墳も畿内発祥だし、最初から最後まで最大のものは纒向古墳群のものだし、<

いや、前方後円墳は筑紫発祥だし、初期の前方後円墳は筑紫が圧倒的に多いし、
纒向型前方後円墳は、九州倭国からの「東征毛人五十五國」などに拠っての、筑紫からの伝播。

>各地の纒向型前方後円墳は纒向古墳群のものの整数比の縮小版になっている
どう見ても大和中心だよ <

「整数比の縮小版」は、新井さんが示されたように、
「古韓尺」技術者の渡来と指導があったから、

>>つまり大和で卑弥呼が即位したというのはあり得ないんだよ。<

>どこが? 前提部分から間違いで、前提が正しかったとしても論理的に導かれない結論w<

始めから、「正北抵新羅」に拠って倭国は北部九州であり、
大和などは、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国から別れた別種の旧小国であったのであり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であり、
東征将軍家やその一族の墓を、毛人たちに威圧して示しが付くように大きくしたものだから。
0735日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 12:06:12.96
>>532
>>倭国内の銅はあっても少量だった<

>国内産ボウ製鏡は大量にあるぞ <

銅矛銅剣銅鐸や銅鏡を鋳つぶす事でも出来るから、国内の銅鉱山の例を挙げればよい。

>>三角縁神獣鏡の鏡式は呉の関連を伺わせるそうだし<

>魏の洛陽から三角縁神獣鏡が出たから今のところ三角縁神獣鏡は魏の形式の鏡そのもの <

楽浪からの上納や伝来でも説明が出来る。

>>始めは呉の年号を入れたが、遼東情勢や卑弥呼の遣使を聞いて、方針を変えた<

>それならそれ自体が発見地である畿内と魏との交流を示す証拠になる <

畿内なんてなかった。
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、「東征毛人五十五國」の中の一国であり、東征に拠る伝来や、鏡師らの移動などにも、説明が付く。

>>景初四年のような失敗の情報<

>景初四年が実在した事は否定しようがない <

景初三年後十二月が存在した事は否定しようがない。

>状況的に景初三年の翌年は改元となる事が明らかになっており 偽造品の魏鏡を作るなら逆に景初四年は入れる可能性はない そんな年号を鏡に入れるのは景初四年は実在したからに他ならない <

列島から洛陽まで半年位かかるんだから、景初三年十二月情報が、おいそれとは列島に伝えられる筈もなく、
呉系楽浪鏡師らは、明帝は景初三年に亡くなったんだから、景初四年も忌中だ、と判断した。
0737日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 13:19:01.92
>>556
今のところ
九州=女王国  宇佐=邪馬台国
本州=狗奴国
奈良=狗奴国王都
河内彦=狗右智卑狗
だと思っている。<

本州=狗奴国  奈良=狗奴国王都  河内彦=狗右智卑狗
は、「南≠東」などに拠って、×。
0738日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 13:26:39.49
>>579
このように、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、理由が書けない。
「結論先にありき」だけを信仰してるからだ。
0739日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 13:30:01.23
>>580
根拠もなく、九州説と朝鮮などを結びつけるイメージ戦略。
「南→東」などの嘘つき騙しの万世一系皇国史観の大和説は、
やることが汚いね。
0740日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 13:37:11.95
>>739
九州説と朝鮮は結びついてるでしょ実際
0741日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 13:39:52.69
>>596
なんの根拠もなく、史料事実の否定を断定し、連呼する。
それが「南→東」などの嘘つき騙しのの大和説。
0742日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 13:42:23.11
>>610
>首都は大和<

「南≠東」などに拠って、×。
0743日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 13:56:56.00
>>623
ここまで,「南→東」などの嘘つき騙しのデタラメ並べる人も珍しいな。
珍しいっていうか、もう脳が振り切っちゃってるんだよ。
たぶん、自分でも大和説はもう成り立たないことが分かっていて、
でも、戦前の万世一系皇国史観の儒教道徳や、日本人至上主義の人種差別殺戮戦争狂で生きてるから、
間違いは絶対に認められない。

間違いを認める=徳のない人=周りの全ての人よりも劣位確定、っていう劣等感道徳だからね。
0744日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:00:35.43
>>627
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、そろそろ、
みんな揃って、頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?。
0745日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:02:37.57
>>628
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、取調室から抜け出して来たんだろうか?は。
0746日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:03:17.62
>>628
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、取調室から抜け出して来たんだろうか?。
0747日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:09:20.49
>>640
>纒向=邪馬台国の王都 箸墓=卑弥呼の墓<

「南≠東」などに拠って、×。
0748日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:18:27.94
>>657
>三角縁神獣鏡の見つかってる数が0の呉や楽浪よりは可能性がある<

三角縁や神獣鏡が沢山ある呉付近や、楽浪や、
「海東鏡」のある列島の方が、
殆ど0である洛陽よりも、
三角縁神獣鏡の製作地であった可能性が高い。
0749日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:23:01.88
>>659
>景初二年十二月に詔書が出てから倭国の使者が鏡貰いに行ったんだろ
詔書を出してその場で渡すわけじゃないよ<

明帝が詔書を出したら、難升米らは、
どれだけの量か?を知る必要があるから、
明帝の部下に案内されて、
詔書や金印や大量の下賜品を見せて貰っているよ。
0750日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:29:01.51
ザラコクはいつも妄想と嘘だけ
0751日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:42:17.71
>>661
>当時、呉に行くには何処を通って行ったのだろう?
沖縄→台湾→中国ルートって有ったの? <

南九州や沖縄には、卑弥呼直前頃には東テイ人がいて、
漢書や後漢書は倭とは区別してたので、
倭人らの中国ルートは、あったとすれば、
やはり、倭人は、倭王武が書いたように、「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」して
山東半島や会稽へ行っていたんだろう、と思う。
0752日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:45:57.62
>>664
>それなら全唐文の
昔、魏ハ倭国二酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ノ鉗文ヲ止メ
(昔、魏は倭に決まりきった鏡を下賜するのではなく)
という文のどこがどう自己解釈され書き換えられたのか示してもらおう<

「銅鏡ノ鉗文ヲ止メ」なんて、魏志には書かれていない事を造作している。
0753日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:53:13.98
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0754日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 14:55:42.86
>>665
>景初二年12月に詔書が出てから倭の使者が鏡を貰いに行ったのであり<

ウソを付くな。
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰・・・」
と書いてある。

>それなら使者を派遣したのが景初三年になってもおかしくない<

お前の脳や顔が醜い事は確実。

>というか12月に詔書が出たなら取りに行くのは
翌年の景初三年六月になるのは確実<

難升米らは、「求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」だから、
既に「天子朝獻」が済んでいる。

>このくだりを魏志から引用する日本書紀、梁書、通志、太平御覧には
事実卑弥呼が使者を派遣したのは景初三年とある<

唐代以後の後代史書の中には、
「高慢な自己解釈に拠って魏志記載を書き換えた悪徳史家」がいる。
0755日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 15:18:29.17
>>754
という傲慢老人の高慢な自己解釈
0756日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 15:42:49.44
>>668
>景初四年は存在しなかったら鏡に入れる事のできない年号<

事実、存在しなかった。

>景初三年1月1日時点で翌年は改元のある事が確定しているから
もし九州説の言うように国内の鏡師が魏鏡の偽物を作ろうとするなら<

洛陽〜倭地は、半年位かかるから、倭国内の鏡師らは、
景初三年の次に「景初三年後十二月」にする、という情報を知る事が出来なかったから、
景初三年中の明帝の死亡であったから忌中はもう一年続くのか?とでも思ってしまって、
景初四年と刻んでしまった。

>それが存在してないなら入れるはずのない年号なのであり 入っているという事は景初四年はあったという事
九州説の言うような呉系の鏡師が国内にいてもいなくても 景初四年はあったという事になる<

呉系の鏡師らは、「思い込んでしまって失敗した」という事。
0757日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 16:04:01.26
>>756
ザラコクは、「思い込んでしまって失敗した」老人
0758日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 16:27:27.59
つまり、破綻した畿内説の宣伝係が、論破され、悪口を言っているのだな、、、
0759日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 17:08:25.88
景初や正始等の魏の元号の鏡はその詳細はともかくとしてその使用そのものに大きな意味がある

・ピンポイントにまさにその当時に最高の外交成果を理解している勢力である
・仮に他所の勢力の外交の結果だと言うなら中国に直接行けるようになった全国政権がワザワザ使う必要がない
(王朝も変わっているので改めて行けばいい)
・4世紀以降の鏡だと言うのなら南朝の年号を使えばよく、とうに滅んだ魏の元号を使う意味がない

このように「景初」「正始」と言う元号の使用そのものがこの勢力がこの外交を大きな成果として継承する存在であることを示しているのが分かる
0760日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 17:27:43.16
もし、畿内の鏡が4世紀以降の物、もしくは外交そのものが他勢力の物だと言うのであればおかしなことになる

魏は短命で滅び、すぐに晋に乗っ取られる政権である
しかも全国政権ですらない
仮に後漢王朝からの禅譲を受けた勢力だと言うのであれば晋で良いはず
4世紀だの、他勢力の外交だと言うのであれば改めて晋に行けばいいだけのはずである
4世紀となれば完全に古墳時代で畿内勢力は国内の誰にはばかることなく堂々と中国に行けるはずなのにである

このような状況の中にあって「なぜ魏との外交を重視するのか」と言う点が問題となる

そこから導き出される答えは「自分の外交成果だから」と言うほかあり得ない
0761日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 17:35:18.26
空白の4世紀などと言うがこれは中国の都合であって日本は別に戦乱でも何でもない
むしろ古墳勢力がより強力に全国を統治下に入れていく発展拡大の時代である
当然、外交も行われている
なので新しい政権との再交渉の機会など幾らでもある
呉系の鏡が南朝の物だと言うのであれば尚更その盛んな交流が伺えるはずである

それなのになぜ「縁も所縁もない勢力が行ったと言う統一も出来なかった短命政権との外交を敢えて掲げる必要があるのか」?
自分が行った外交だからに他ならない
0762日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:00:14.24
>>672
>国内在庫の銅を使ったのなら魏・晋鏡の銅素材と三角縁神獣鏡のデータは一致しない <

国内銅には、銅矛銅剣銅鐸や銅鏡の再溶融銅や、もし国内銅山があれば国産銅がある。

>そして三角縁神獣鏡は見つかっただけで500枚と数が多く
それを鏡師の手持ちの銅素材で全て賄うのは不可能<

しかし国分神社の二つの三角縁神獣鏡の一つは、
「吾・・・浮由・・・・四海、用青同至海東」として、
「青同=青銅」を持って海東」へ来た事を記録し、
もう一つも「銅出徐州、師出洛陽」として、徐州の銅を携えて国分の地に来た?事を主張している。

>もし倭国内に呉系の楽浪鏡師がいたとした場合 <

前記のように、二人は徐州付近の銅を持って列島へ来て、三角縁神獣鏡を造った、と証言している。

>三角縁神獣鏡の素材、魏・晋鏡の銅素材を継続して輸入したとの想定が不可欠であり
それは三角縁神獣鏡の多く見つかる畿内と魏との交流を示す証拠になってしまう <

畿内なんて存在しない。
「国分」という地名は、明らかに、大和と河内を「(別国として)分ける、という意味である。

>そして楽浪で三角縁神獣鏡は1面も発見がなく 魏の洛陽近郊で1面発見されているのである<

国分神社の二つの鏡は、徐州付近から列島へ来た鏡師が造ったもの、という事になる。
0763日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:14:50.62
本当に調べてみたの?

『霊山 養蚕』
0764日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:19:31.32
>>675
>畿内が存在しないというなら九州も存在しなく
3世紀の文献上に今の九州地方が九州と記述されている証拠を出さない限り
九州説は言いがかりをつけている事になる<

古代に大和に「天子も天皇」もいなかったから、畿内は存在せず×であり、
九州島の倭国は、燕の南や呉の頃からずっと中国の天子の(畿内の外の)支配地の九州であったんだから、
九州と呼んでも、何ら問題はない。

>景初四年は存在しなければ鏡に入れる事のできない年号<

魏が、称しなかった年号。

>景初三年1月1日時点で明帝の死去により翌年の改元は明らか<

列島の鏡師は、洛陽から半年位かかるから、
当然「景初三年後十二月」決定情報が伝わっていなかった可能性がある。

>国内に九州説の想定する呉系の鏡師が居たとして
景初三年と魏の年号を鏡に入れながらそれを知らないとは考えられず
景初四年は存在したから鏡に記銘された<

呉系楽浪鏡師らは、「景初三年後十二月」情報を知らなかった。

そして景初、と魏の年号が鏡に入ってるそれ自体が
魏との交流を示すものであり
それが多く見つかる畿内こそ魏志倭人伝にある邪馬台国
0765日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:24:03.72
そもそも邪馬台国と魏の外交は期間も短く回数も少ない
卑弥呼は遣使からすぐに死んでいてその治世の大半は魏との関係がない
邪馬台国=魏との関係と言う考えそのものが思い込みに起因している

邪馬台国は3世紀初頭には全国的な展開を見せている勢力でありその時期に該当する外交相手は主に呉だったと分かる
0766日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:24:08.32
>>675の追加]
>そして景初、と魏の年号が鏡に入ってるそれ自体が
魏との交流を示すものであり<

いや、渡来して来た呉系楽浪鏡師らは、魏とは戦時中だから、直接的な交流が出来ない。

>それが多く見つかる畿内こそ魏志倭人伝にある邪馬台国 <

「南→東」などに拠って×。
0767日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:30:18.81
上の名前『松傾』?
このような名前の家なんだけど、
そこの家の話をしているんじゃないの?

香野という家と結婚したとか、
ほとんど老婆の話と同じ、お菓子屋(香野という家、親戚?)の話とか

もう、お菓子屋はやっていない、
保険関係の仕事が何やらとも言っていた
0768日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:32:22.60
>>676
>鏡の編年は日本でも中国でもされてるよ
年号の入った記年鏡も中国で出てるし分類はしやすい方だろう <

梅原の王朝別の「年号鏡の数」の表によれば、
呉は50個、魏は8+アルファー2?であり、
呉年号の方が圧倒的に多く、年号鏡は、呉でより流行した、という事がよく判る。
0769日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:34:03.81
>>378
>邪馬台国は邪馬臺國の新字体表記だよ<

3世紀では、「邪馬壹國」だよ。
0770日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:38:39.89
>>765
>邪馬台国は3世紀初頭には全国的な展開を見せている勢力でありその時期に該当する外交相手は主に呉だったと分かる

さすがにそれはない
沿岸航行の時代に東シナ海横断は非現実すぎる
しかも九州を飛び越えて畿内と直とは考えられない
3世紀初頭だとメインの交流相手は公孫氏だろ
呉の年号が入った鏡も日本に入って来ているが楽浪郡経由なら問題ない
公孫氏が滅んだあとでも商人なら江南からの往来は可能
0771日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:44:13.05
老婆の言う家(昔、結婚した香野という家)の人は、
伊達郡というところには住んでいないよ、もう数十年も前から
・・・みたいなことを言っていた。

お菓子屋に嫁に行った人もいて、
そこの話なのかな、もうやっていないよという話
0772日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:51:33.58
>>680
>三角縁神獣鏡が4世紀という根拠なし<

4世紀というのは、大和の古墳から出土の三角縁神獣鏡の事だよ。

>三世紀の古墳から見つかり<

3世紀の古墳からなら、筑紫の弥生銀座の那珂八幡が古い。

>景初三年(239年)や四年、正始元年といった銘が入っている<

造られた紀年鏡は、当然普通は、
その景初三年や景初四年や正始元年に墓に副葬されるものではなく、
依頼者が亡くなるまで使用されて、亡くなった時に副葬されたり、
更に子供らに残されてまた亡くなる時に副葬されたりするもの。
だから、20年や四十年位なら、幾らでも新しい墓に副葬される場合があり得る。
0773日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 18:59:13.01
>>762
>「国分」という地名は、明らかに、大和と河内を「(別国として)分ける、という意味である。

この辺は河内国分寺が建てられたから国分と言う地名なの
・河内国分寺跡:大阪府柏原市国分東条町
0774日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:11:58.22
>>681
>三角縁神獣鏡を呉鏡とする根拠が海東鏡だけならあまりに薄弱<

「呉鏡」なんて言っていない。呉系の楽浪鏡師らの渡来だろう、と言っている。

>しかも根拠とする「用青同 至海東」の文言をもし国内で
呉系の職人が記銘したとするなら倭国内よりさらに東の海へ行くという意味になる<

ならない。
主語は「吾」であり、「吾・・・至海東」だから、「吾が海の東に至った」という過去形になる。

>洛陽でも発見される通り三角縁神獣鏡は魏の鏡<

いや、三角縁も神獣鏡も呉付近で盛行し、
三角縁神獣鏡に仕上げたのは、倭国に近い楽浪であり、
洛陽の0〜1枚は、楽浪→洛陽の伝来ではないか?という事になる。

>そして倭への下賜用に作られた鏡であり<

下賜鏡なら、洛陽に大量に存在した筈。それが人類の常識。
そして、逆に洛陽からは0〜1枚で、列島から沢山出土するんだから、
魏の下賜鏡ではない。

>この文言の示すところは青銅を用いて作り、倭へ贈るという意味<

この文言の示すところは、「吾(鏡師)が、青銅を以って海の東に至った」という意味。
0775日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:12:40.09
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0776日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:20:36.39
>>682
>ザラコクのお陰で大分復活したようだ そろそろゼロ戦が飛び始めてるぞ<

また「戦前の万世一系皇国史観」の「殺戮戦争」狂の・・・・大和説者が、
興奮して戦争を始めようとしているぞ。
怖い怖い。
こんな・・・・を作る事になったのは、誰が悪いんでしょうかねえ。
そりゃ、安部自民らや、右翼マスコミの「日本至上主義」宣伝や、
戦争右翼の大和説の学会教育界や、キョクウのやくざ暴力団や、
彼らに騙された3割の国民。
0777日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:24:14.81
>>684
>明帝下賜の鏡は景初三年のだろ 残りも百枚づづなら計算は合ってる <

明帝の下賜鏡は、景初二年以前のものだから、×。
0778日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:30:27.88
何がおかしいのか?なんだよ

『保険』wikiなどを調べていくと「何やら倉庫」とか、
広島県福山市のほうの話とか

広島の福山市?親戚が住んでいるところ
0779日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:34:28.57
松傾?の家から広島(福山市)に嫁に行った、
福山市というところに住んでいるんだけど

どういう事なんだろう
0780日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:39:56.27
歴史を見れば邪馬台国は華北政権との交渉期間よりも江南政権との交渉期間の方が長くなるのが分かる
卑弥呼に至ってはその治世の大半が魏の政権と交差しない
その後も華北政権は不安定で倭の外交相手として安定していたのは江南

だから邪馬台国の遺物として華北政権の痕跡を主に求めるのはそもそもの間違い
江南の文物が主になるのが必然だと分かる

三角縁神獣鏡などもそういった江南の鏡を参考にして国産した鏡
これからも邪馬台国が江南政権と密接であった事がよく分かる
0781日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:47:34.25
>>780
>三角縁神獣鏡などもそういった江南の鏡を参考にして国産した鏡


江南だろうと、どこだろうと、どこでもいいんだけど、国産してたのは倭国(阿波)だよ。  @阿波
0783日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:53:40.69
中国南部と直接交流するって、東シナ海の回流に乗って長江に戻るのか?

九州南西部にそんな拠点あるかな
0784日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:56:20.44
後の遣唐使の時代と違ってこの時期は朝鮮半島南部は敵対勢力ではない

朝鮮半島南部経由で江南に行く事は特に困難ではない
後の五王時代も含めて盛んな交流が行われていたことからもこれが分かる

邪馬台国が全国政権とかした後に半島南部を経由して江南の呉と外交をしていたことは自然な流れだと分かる
0785日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 19:58:08.97
>>710
筑紫の三角縁神獣鏡は数が少なく記年鏡もない
また畿内の記年三角縁神獣鏡には景初三年、239年とあるので
これは梁書、日本書紀、通史、太平御覧に卑弥呼が使いを送ったと
記されている通り景初三年、三世紀の魏との交流を示すものである

九州も三世紀ごろの呼び名は倭
魏志倭人伝でも一貫してそう記されており
九州という呼び名は鎌倉時代辺りのもの
畿内がないというなら九州もなかった

魏で記年鏡が見つかっているなら
鏡に年号を入れる習慣もあったという事

「吾・・・至海東」の吾の次には作明鏡…と続くのであり
これは私はいい鏡を作ったという意味で倭国に来た事を示すものは
何もない

後漢書に自己解釈による書き換えを示すような記述は何もなく
そもそも比較できる史料がないので
ザラコクの繰り返し主張する自己解釈による書き換えは
出鱈目だったという事が判明した
0786日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:03:19.23
>>711
史書にある魏志を引用して書かれた記述と
12世紀の復刻版魏史には違いがあり
復刻版魏史には12世紀になって初めて現れる表記が多く
つまり復刻版魏史には間違いが多かったという証拠
0787日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:04:22.10
晋書を見ると倭人伝の後の倭人の遣使の様子が見える

司馬懿のクーデーターの期間、蜀・呉討伐の軍事行動期間に空白が見える
そして晋の全国統一後は程なくして八王の乱が起こりそこで外交は途絶する

長く見積もっても倭人伝以降の交流は10〜20年しかないと分かる

邪馬台国に華北政権の痕跡を求めてもさほど意味がないのが歴史からも分かる
安定した相手だったのは江南の政権とみるのが自然だろう
0788日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:05:13.48
>>686
>魏の年号の入った青龍三年鏡(235年)が見つかってるから先に来てるだろ
呉の年号入りの赤鳥元年鏡(238年)より前だし
とすると赤鳥7年鏡は魏の鏡師が作ったものだな <

ならんな。
魏の鏡師が呉年号を刻む筈がないし、明帝も下賜鏡に選ぶ筈がないから、
赤烏鏡は、呉系の楽浪鏡師の渡来での製作だな。
そして、青龍三年の方格規矩四神鏡は、当然明帝の下賜鏡の可能性はある。
0789日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:14:30.95
ただ魏の鏡文化はかなり衰退していて鏡造りの主体は江南に移っている
魏はその数も質も大きく衰えて図像的な進歩も停滞している
銅の素材の原産地も江南がメイン
鉄鏡の採用も銅不足が原因と言う指摘もある

なので魏政権が江南の鏡を魏の鏡として与えた可能性は捨てきれない
0790日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:14:54.80
>>712
直前の後代史家の書き換え内容等を参考にして
魏志の内容が書き換わったとするなら
7世紀の梁書、翰苑は邪馬台国を
それぞれ祁馬臺國、邪馬嘉國と表記するが
11世紀の太平御覧では結局以前からある邪馬臺國表記に戻る
これはそれらの史書が引用した魏志には邪馬臺國とあり、なので
転写の際に多少の誤記が生じてもそれが伝わらなかった事を示している
0791日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:16:47.16
>>788の追記
青龍三年鏡は、明帝の下賜鏡と、
渡来の呉系の楽浪鏡師が造った場合の、
両方の可能性がある。
0792日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:17:37.22
畿内説では卑弥呼の百枚の銅鏡を一切説明出来ないよね?
0793日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:18:15.29
鏡文化の衰退した魏においては呉鏡が高品質の財物として珍重されていた可能性もある

外国の使節に与えるために自国の粗末な鏡ではなく、高品質の鏡を購入して渡したと考えても不自然さはない
倭人伝、晋書でも「特に好むものを与えた」「特別な財宝を与えたのだと言う事をよく理解するように」と言う記載が見えて特別な物を下賜した様子がうかがえる
0794日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:30:52.53
>>714
景初三年→正始元年の改元の間には
明帝の一周忌と正月の祝賀の重複を避けるための1ヶ月の空白があり
それが存在している以上そこが当時は景初四年扱いだった可能性は
原理的に否定できない
また晋書天文志には景初四年の記述があり
景初三年から正始への実際の改元は数ヶ月間が合ったとの可能性も示されている

楽浪では三角縁神獣鏡が1面も見つかっておらず
魏で1面見つかったという事は魏鏡であり
主に倭国への下賜用だったという従来の説を裏付ける

手持ちの銅では500面はあるとされる三角縁神獣鏡とその他にもある鏡の
全ての量を賄うことはとても出来ない
倭国内でも銅は手に入り、事実国内製の銅鏡はそれを使って作られている
素材が国外のものは国外製品である事を示すものである
0795日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:41:23.39
>>695
>今ある魏志は宋の時代戦乱でそれまでの正典的な魏志は消失し<

別に正典的な魏志なんて区別は存在しない。写本においても、4000字以上の差異があった以上、
そのどれが原本に近いか?の絶対断定は有り得ない。確率的。

>12世紀になってそこらで手に入る文書(おそらく官製ではない 私写版や民製品)を集めて復刻したと記録にある <

焼かれたには北宋の首都であり、地方の私写版や民製品の写本に、三国志の全本が存在していなかった筈がない。

>それまでの魏志を引用する史書の記述とは様々な所で食い違いがあり<

唐代以後の「自己解釈に拠る書き換え」史書は、写本の文字の正否の根拠にならない。

>それもその復刻版から初めて現れる物が多く<

多い、と言っても、差異の発生は、0.5%位。

>例えば卑弥呼が魏に使いを送ったと12世紀の復刻版魏志にある年景初二年は
それ以前の魏志を引用して書かれた日本書紀、梁書、通志、太平御覧では景初三年と記されている<

宋明清代の校勘で「二年」の校勘はなかった、という事は、
写本では全て「二年」あった、という事であり、唐代以後の史書の「三年」が、×。

>九州説の言う通り自由な自己解釈によって年号が一致する可能性は低く これはそうとする相当な理由があったか、
または日本書紀、梁書、通志、太平御覧が引用した書、消失前の魏志には景初三年とあったという事<

写本が全て「二年」であった、という事は、「三年」史書が×であった、という事。

>12世紀に復刻された魏志はそれまでの魏志を引用した複数の史書との齟齬が多くこれは誤記が多い書だったという事になる<

史書の方が誤記が多い、という事になる。
0796日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:44:32.91
国産銅の初出は7世紀
成分的にも国産の銅を用いたと言う根拠はない
0797日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:47:09.90
>>716
景初三年と魏の情報である年号を鏡に記銘するなら
明帝の死去によって当然翌年改元がある情報も入っていなくてはおかしい
もし呉系鏡師が国内に存在したとして
景初と魏の年号を入れるのはそれを魏の鏡と見せかけたかったという事であり
そのために年号を入れるのであれば存在しなかった年号を入れる可能性はない

そもそも倭国内では暦法そのものが魏と違うのであるし
漢字の読める人間も少なかったであろうから
年号を鏡に記銘して魏鏡に見せかけるのはそんなに効果的ではない方法
わざわざ年号は入れなくてもいい物なのである
それが入っているという事はその年号が実在したから
倭国内で流通している鏡にわざわざ記銘されているのである
0799日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:53:02.99
>>700
>つまり倭国内では中国の古い銅製品を改鋳する形で銅を手に入れていた<

倭国や半島の銅山の有無や、その成分分析をしなくっちゃ、
その結論は、不完全だよ。
0800日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 20:56:48.25
>>717
三角縁神獣鏡は素材の銅が魏・晋時代のものと同一であるから
それらに銅出徐州とあるのなら徐州の銅を使って魏で作られたもの
徐州の銅の産出地は当時呉の領地だったという王仲殊の説は
素人でもわかるこの基本的事実すら踏まえてない錯誤に満ちた説

三角縁神獣鏡には景初三年(239年)と記銘さrているので
年号も政策時期も魏代のもの
0802日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:00:49.19
>>720
どこが資料事実の捏造だ?
卑弥呼が魏に使者を派遣したのは景初三年と
梁書、日本書紀、通史、太平御覧の史料に載っている史料事実
これを根拠なしに自己判断の書き換えとし無視する方こそ
史料事実を捏造する分裂幻覚の妄想
0803日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:06:59.15
>>722
それなら畿内にあった邪馬台国が魏と交流開始前の
魏の情報が入らないのに
魏の青龍三年の年号が入った鏡が存在するのはおかしい事
魏の情報が入る前の倭国内では作りようがないのであり
つまり鏡だけが入ってきたのであり呉系の鏡師など存在しなかった
0804日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:11:31.74
>>723
中国で出土する鏡も編年はされており
それを国内で見つかる鏡と比較すれば一発でわかる物
成分分析の結果それがそれぞれのグループに分かれたのであり
これはそれぞれの時代区分の銅鏡の銅は産出地が違うという結果を示した
印象操作は無駄
0805日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:14:55.84
>>724
ボウ製鏡は見た目でもそれとわかる
事実スプリング8を使用した銅鏡の分析の際に
以前から国内でコピーのボウ製鏡であろうとされていた
一部の三角縁神獣鏡は事実国内産を示す数値が出た
0806日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:17:24.83
>>726
九州を今の様に九州と文献に出るようになったのは
鎌倉時代あたりの頃
古墳時代は倭国
魏史倭人伝にそう書いてある
0807日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:19:06.09
>>705
>古代に九州地方を九州と表記した文書がないから九州はなかったのである<

古代においては、列島には天子や天皇は存在しなかったから、「畿内」も存在しなかったが、
倭国や倭人は、中国の天子の(畿内ではなくその外の)九州地域にいた、という実態があるから、
倭国の地を九州と呼んでも、何ら問題はなかった。

>魏の鏡は畿内で多数見つかる三角縁神獣鏡を見る通り必要はあったのであり<

畿内なんて存在しないし、列島の三角縁神獣鏡は、魏の鏡でもないから、×。

>それなら魏の鏡師集団が倭国で商売していてもおかしくはない <

理由や根拠が成立しないから、結論×。

>三世紀の古墳から三角縁神獣鏡は発見されている<

3世紀の筑紫の古墳からは三角縁神獣鏡が発見されているが、
3世紀の大和の古墳からは、三角縁神獣鏡は発見されていないから、×。

>また東征将軍が居たとしても畿内に来たと推定されるのは後漢書等にある考帝〜霊帝間の倭国大乱期(140〜180年)である<

倭国大乱なんて存在しなかったし、倭国乱は九州地域内での乱であったから、×。

>邪馬台国畿内説であるから畿内に相当する場所で魏の年号の入った鏡が見つかればいい <

畿内なんて、存在もしていなかったから、始めから嘘つき騙しであり、×。

>三世紀頃に畿内に呉系の楽浪鏡師らが来た形跡がないどころか全世紀に至るまでそのような痕跡はないのである<

畿内なんて存在もしなかったし、国分神社の二つの三角縁神獣鏡は呉系の楽浪鏡師の渡来の証拠になるから、この男は×。
0808日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:22:32.39
>>710の訂正
>魏でたくさん見つかるような鏡は三世紀の古墳からはほとんど見つからない<

そりゃ、大和の話だな?。
九州や筑紫では、洛陽晋墓で見つかるような鏡が沢山見つかる。
0809日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:22:47.18
銅原料が中国からの輸入だから
国産でも中国産銅の数値しか出ない。

そして日本で鋳造されるときは
中国各地の銅のブレンドになるので
成分分析で範囲が広く出るようになる。

日本産の銅だけを使う場合は
成分が近いので成分分析の範囲は
狭く出るはずである。
0810日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:23:36.29
>>727
改元による以前の年号の書き換え例が記録に残っている以上
景初四年が景初三年後十二月と後に書き換えられた可能性そのものを
否定する事はできない

事実晋書天文志には景初四年の年号を使用した記述がある
景初三年後十二月の記述を物証と言うのなら
晋書天文志の景初四年の記述も物証

景初四年は存在したのであり
なので三角縁神獣鏡に記銘されたのである
0811日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:26:41.67
>>710の、また訂正
>魏が下賜鏡に年号を入れる必要がなかったというのは理由が不明の主張<

中国での年号鏡の割合が元々少なく、
魏の年号鏡も確か8枚余りで、呉の50枚に比べてもかなり少ないから。
0812日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:27:01.86
天文の話は計算上の先の話だよ。
計算上、10年後の平成40年にはこういう現象が起きるよ
って感じで書いてあるだけ。
0813日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:34:09.02
>>729
四史本後漢書また冊府元亀、太平御覧引用後漢書には
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩「堆」音之訛也)
とあるから後漢書は邪馬臺國は邪摩堆の事であると
書いてある事になる
0814日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:37:18.32
>>721
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者という男は、
なんの知識もなく、なんの論理もなく、なんの根拠もなく、
人類の常識もない・・・・アホ詐欺師で、
ただ自分の「戦前の万世一系皇国史観」や戦争願望を、
書き散らしているだけなんだな。
0815日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:47:26.43
>>731
呉付近で三角縁神獣鏡は1面も見つかっていない
魏で1面見つかっている

>>735
国内で古代の銅山は確認されていない
素材銅は輸入に頼っていたというのが通説

畿内がなかったとすれば九州もない

景初四年は景初三年→正始元年の間に1ヶ月の空白がある以上
そこが景初四年扱いだった可能性は原理的に否定する事が出来ない
後世の記録上改元を遡って適用し
実際存在した年号が書き換わった例もある
また晋書天文志にも景初四年の記述があり
実際存在した年号なので三角縁神獣鏡に記銘されたと考えられる

景初三年1月の時点で明帝の死去により
翌年の改元は明らかになっており
景初三年と鏡に年号を記銘している以上
翌年改元になる情報を知らないというのはおかしな話
魏の現在の年号の情報それのみを知りえた環境というのは
一体どういう状況だったのだろうか
0816日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:50:14.86
>>748
呉付近や、楽浪では三角縁神獣鏡は1面の発見もない
魏からは発見されている
海東鏡に記銘された文は人の移動を示すものとは言えない
0817日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:52:56.18
>>749
そんな事は魏志倭人伝に書かれておらず
書いてないものをでっち上げてはいけない

状況を考えれば景初二年十二月に詔書てからのち
卑弥呼が魏へと使いを送ったのであり
それは景初三年の事であったと
魏志を引用して梁書、日本書紀、通史、太平御覧に記されている
0818日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 21:59:00.00
>>752
魏志に書かれていない事が捏造ならば
ザラコクが主張する九州は古代から九州と呼ばれていたいうのも捏造
また記述にない呉系の鏡師が倭国にいたというのも捏造
また里としか書かれてないので短里も捏造
一寸千里も書かれてないので捏造
九州説は捏造
0819日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:11:22.32
>>754
景初二年六月は魏は朝鮮半島の公孫氏と交戦中
倭が使者を送るどころではないのであり
事実その下りを魏志から引用して書く
梁書、日本書紀、通史、太平御覧には景初三年と記されている

顔はともかく脳が醜いとはどういう事か
九州説には人の脳を眺め比べて審美する
猟奇的な趣味でもあるのだろうか
そういう人間が主張するのが九州説なのである
0820日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:21:29.80
>>756
景初三年と魏の現在の情報のみを知りうる環境というのは
想定するのが難しい

そもそもケイショと音だけ伝えられても正しく漢字で書くことは不可能
これは文書で情報を確認した事を示しており
国内に呉系の鏡師が居たのなら一次情報に接していた事になる
そこまでして本来なら入れなくてもいい年号を鏡に記銘する事に拘ったのなら
正確な情報を入手していた事になり
わざわざ存在し得ない年号を三角縁神獣鏡に記銘する状況が考えられない

呉系の鏡師を想定してもしなくても
景初四年は存在する事になるのである
0821日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:30:42.11
たった一枚のまともな調査もされて無い鏡を以て魏の鏡だのなんだの言うことは出来ない
画像的にも江南の神獣鏡を日本独自で発展させた物と考えられている
魏から下賜されたと言う方が無理がある

そもそも三角縁を卑弥呼の鏡などと言うまでもなく邪馬台国が畿内にあった事は揺るがない
呉系統の鏡であると判断してる王氏もそういう姿勢

キュウシュウセツはやたらと王氏を持ち出すけど、彼はそれによって邪馬台国が畿内にあったと言う事に問題は生じないと言ってる
0822日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:32:08.90
>>762
用青同 至海東は青銅を用いて(鏡を)作り、それが倭に至ったという意味
作った鏡が輪に至ったのであり
青銅を持ってきて倭国で作ったという意味にはならない

銅出徐州、師出洛陽は素材銅は徐州産であり
鏡師は洛陽出身、つまり洛陽製である事を示す
呉系の鏡師の関与を否定するものである

畿内が存在しないというなら当時に九州も存在しない

徐州付近から来た鏡師なら魏出身の鏡師であり
呉ではなく魏の鏡師が来た事になる
そもそも呉出身の鏡師がいようがいまいが
畿内で多く見つかる三角縁神獣鏡は魏と畿内の交流を示す証拠
0823日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:43:11.23
>>764
日本書紀によれば初代天皇、大王は卑弥呼の時代の前大和で即位しており
九州説は何もわかってなく畿内はなかったと
意味不明の主張を繰り返していた事になる
九州という名称は鎌倉時代からのものであり
畿内がないというなら九州も当時はなかったのである

景初四年は存在しなければ国内にいる呉系の鏡師だろうと
入れる筈のなかった年号であり
それが入っているという事は実在していた年号だという事

景初三年1月1日に明帝は死去したので
景初三年と情報が入る限り翌年改元となる情報も必ず入るので
わざわざ鏡に年号を記銘するならそれを知らない状況は想定し辛い
つまり鏡に記銘された年号は実情を正確に表したものであり
存在し得ない年号を記銘する事は考えられないし
そういった例もないのである
0824日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:45:04.59
>>766
直接的な交流ができなくても実際魏の年号は
畿内で見つかる三角縁神獣鏡に記銘されており
それこそが畿内と魏の交流の証拠となる
0825日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:46:10.74
>>768
魏でも記年鏡が見つかっている以上
魏では鏡に記年する習慣がなかったとは言えない
0826日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:49:47.35
>>769
三世紀の魏史倭人伝は現存していない
代わりに史書に引用される形で残っており
それらはほぼ全て共通で邪馬台国の旧字体
邪馬臺國と表記する
0827日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:52:58.08
>>772
三角縁神獣鏡は三世紀の古墳からも発見されるのであり
また四世紀の古墳から発見されるからといって
四世紀のものとは限らない
なので四世紀の墓から出ても三世紀の鏡である事の否定にはならない
0828日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 22:57:13.59
>>759
何を言いたいのか?、がよく判らん投稿だね。
0829日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:00:35.21
>>760
>もし、畿内の鏡が4世紀以降の物、もしくは外交そのものが他勢力の物だと言うのであれば
おかしなことになる<

畿内なんて、存在しないから、×。
0830日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:04:46.89
>>761
>むしろ古墳勢力がより強力に全国を統治下に入れていく発展拡大の時代である<

この男も、どうやら大和説を唱えているようであるから、
「南≠東」に拠って、×。
0831日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:05:50.63
>>774
吾…の文言は正確に書くと
吾作明鏡(私はよい鏡を作った)であり
吾が主語なら目的語は作明鏡
鏡を作ったと言っているのであり倭国内に移動したとは
一言も書かれてないのである

楽浪でそもそも三角縁神獣鏡が見つかっていないので
楽浪→洛陽に鏡が伝来したというのは根拠のない話

下賜鏡だからこそ存在が少ないのであり
魏に相当する場所から1面とほとんど見つからず
そして倭で大量に見つかる現状が
それを裏付けているとも言える

用青同の用は使用という意味
持ってくるとは違う
0833日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:13:48.14
>>777
景初二年のものである事が確実な魏鏡が見つかってないので
根拠のない話
卑弥呼が魏に使者を派遣した年は魏志を引用した
梁書、日本書紀、通史、太平御覧には景初三年と記述
0834日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:17:34.80
>>788
それなら呉系の鏡師が魏の年号を記銘するはずもないだろ
魏の年号のある鏡は魏鏡である
0835日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:22:37.06
>>791
魏年号で青龍三年は235年でこれは魏と交流が始まる前
国内では年号の情報が手に入らない
すなわち魏の鏡師集団が畿内にいたか
それか鏡だけ入ってきた事を示すもの
0836日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:24:13.84
>>793
それに魏の年号を入れて邪馬台国に配ったのなら
それが今見つかる所が邪馬台国
0837日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:30:24.57
>>795
史書の引用文には互いに共通する箇所が多く
多少の語表記があっても大多数は一致する
下敷きになった共通のテキストが存在し
それを引用して書かれた事を示している

12世紀の復刻版魏史はそれまでの史書との記述の違いが多いので
各史書の下敷きになったテキストとは違っていた事を示し
事実12世紀の復刻版魏史には誤記が多かったと記録にある
0840日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:41:07.11
>>784
魏を飛び越えて呉と外交を結んでたなんて荒唐無稽な話
根拠も証拠もない
動機もない
0841日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:47:06.45
>>807
卑弥呼の時代の前に初代天皇は大和で即位したとあり
古代においては天皇は存在しなかったというのは無知の証
九州は鎌倉時代に初めてその呼び名が現れるものであり
畿内はないというなら九州もない

三角縁神獣鏡は洛陽でも発見されている
魏の年号の記銘もあり魏鏡の可能性は高い

魏の鏡師集団が国内にいた根拠がないというなら
呉系の鏡師も国内に居た根拠なし

三世紀の畿内の古墳から三角縁神獣鏡は発見されている
邪馬台国畿内説の裏づけとなる物証である

倭国乱は九州地域内での乱とする根拠は?

国分神社の二つの三角縁神獣鏡は呉系の楽浪鏡師の渡来の証拠
とはならない
それぞれ吾作明鏡…用青同 至海東
銅出徐州 師出洛陽と銘があるだけ
0843日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:49:05.19
>>811
数が少ないというのは理由にならない
もしそうなら古墳、銅鏡の数が少ない九州は邪馬台国でないとしても
いい事になってしまう
0844日本@名無史さん垢版2018/09/10(月) 23:52:04.28
>>812
改元が3・4年スパンである時期に
10年後の年号を記して書けるもんか?
景初四年の10年前は青龍だし少なくとも10年後の年号はわからないだろう
0845日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 00:01:19.68
>>821
三角縁神獣鏡はめちゃめちゃ調査されてるよ
専門家なら紋様を見ただけでいつ頃のものかわかるくらいに
魏の年号も入っているし洛陽でも発見があったし成分は魏・晋鏡と同じもの
これを魏鏡としなければ色々と話がややこしくなる
九州説みたいに
0846日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 00:09:11.91
三角縁を魏鏡だと言い張ってる人の思考回路が九州説と同レベルだな
0849日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 00:16:32.27
魏鏡だという証拠を出せよ。
0850日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 00:19:20.40
鏡式は後漢の途中くらいから既に南北でかなりハッキリした分布の違いが出ている
神獣鏡等の鏡は江南系統で魏の鏡式ではない
三角縁はそれこそ中国の鏡の専門家の王氏が江南の神獣鏡系を日本国内でアレンジして作り出した鏡式であると判断している
1枚だけ出所不明の鏡があったところでそんなものは何の意味もない
銅の素材も南方系
むしろ魏鏡であると言う根拠がない
元号についてはそれを採用したことが魏との交流の一つの表れであると言う点については同意する
方角規矩鏡などの年号については鏡式との一致が見られるが、三角縁となると上記理由から魏鏡であると言う事が出来ない
むしろ鏡式の一致する元号鏡がある以上、逆に一致しない鏡の不自然さが目立つだけになっている

と何百回言っても「出所不明の鏡一枚が全ての証拠」と言い張って「見つかってもない日本の銅が素材だ」と言い張るんだろうからな

まぁザラコクとかと同じタイプだな
0851日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 00:21:47.64
>>849
魏の年号
銅出徐州 師出洛陽
洛陽から見つかる
成分が魏・秦鏡と一緒
記銘の魏の年号景初三年は魏史を引用して書かれた
梁書、日本書紀、通史、太平御覧に卑弥呼が魏に使いを送った年と載っている
0852日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 00:27:07.22
>>850
洛陽で見つかったのが全ての根拠なんぞ言ってない
単に魏鏡説を補強するもの

三角縁神獣鏡は下賜用に作られたもので
鏡式に当てはまらない部分が多い
全唐文にそれを伺わせる記述がある

成分は魏・晋鏡のものと同一のもの

そっちもないものを捏造するザラコクと
同じタイプのようだな
0853日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 00:44:24.27
その銘入り三角が奈良では一枚も発掘されていないww
0854日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 00:48:51.63
西暦200年ごろの朝鮮半島は公孫氏が勢力を張っている
この勢力は遼東から楽浪、帯方郡を領土として支配していた
ここはいわゆる北回りの中国ルートの要
ここが通れないと結局は海を横断して江南につくルートを選択することになる
古代から後の時代も変わらない
帯方郡周辺に敵対的勢力がいる間は常に南方ルートを取っている

公孫氏が滅ぶまで倭は華北政権と接触することが困難だった
そのために、倭は積極的に対外への働きかけを行っていた呉と外交を持つことになっている
0855日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 00:53:42.30
>三角縁神獣鏡は下賜用に作られたもので
まずこれが想像
下賜用にしたという根拠が何もない
繰り返しになるが魏の鏡と全く違う物でこれがなぜ下肢品になるのかむしろ不自然でしかない
>成分は魏・晋鏡のものと同一のもの
原料の産地は生産地とはならない
これはどんなものでも同じ

これも何度も指摘されているが何も答えられてない
根拠とするものがないとしか言えない
0856日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 01:09:00.42
>>854
公孫氏は敵なのか?
敵ならなぜ楽浪土器が日本から出土する?
呉に行くのに魏の領域を通らずに行くルートは?
まさか東シナ海横断?
0857日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 02:07:03.02
>>856
三国志に公孫氏三代が遼東に自立しここを占有したが僻遠のために放置した結果、東夷が中国と接することができなくなった
そして公孫氏が滅ぼされてようやく東夷が中国に赴いて従うようになったと書いている
つまり公孫氏が自立した190年くらいから238年まで倭の使者は魏に接触できなかった
この期間はまさに邪馬台国の勃興と活動の時期に一致する

楽浪郡に行くことはできる
そこから中国に行けないという事
行き止まりの交易や交渉は行われていた

ルートはまさかも何も遣唐使らと同じ南路や南島路
半島に敵対国がいる時のルート
0858日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 02:12:59.82
つまり中国側の資料と、日本側の考古学的状況から

「邪馬台国の卑弥呼の治世の大半の外交相手は呉」

という事がわかる
なので呉系の鏡が初期古墳で特に重要なものとして扱われ、三角縁などの呉系のデザインを継承した鏡が国産されたという状況が理解できる
逆に、華北の政権との付き合いは断続的でしかも短い
特に魏との関係はほんの短期間に過ぎない
だから邪馬台国=魏との関係という認識はそもそも間違いだという事が分かる
0859日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 03:01:44.31
>>857
3世紀に東シナ海横断って本気で言ってるのか?
何か証拠でもあるのか?
九州の西側からも呉の土器なり呉に由来するものは何も出てない
もし東シナ海横断が可能だったなら、朝鮮半島から黄海横断で魏に行くことなんか楽勝だったはず
実際は黄海横断で魏にさえ行けてないんだから、東シナ海横断なんてありえないってこと
0860日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 05:53:32.16
>>851
>洛陽から見つかる

見つかったという証拠を出せよ。
0861日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 06:21:26.32
>>860
出土した証拠はない
フリマで売ってただけ
0862日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 06:36:33.84
>>853
>その銘入り三角が奈良では一枚も発掘されていないww

なんで九州説って無知な爺さんしかいないんだろう
0863日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 07:26:06.90
>>862
それ年号 入ってたっけ
0864日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:06:57.61
>>800
日本語読解力0のアホ
0865日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:08:38.02
>>815
見つかった扱いにしてはいかんよ。
0866日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:10:28.16
>>821
そのとおり

三角縁と畿内は無関係。
0867日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:10:36.34
>>764の追記
>そして景初、と魏の年号が鏡に入ってるそれ自体が
魏との交流を示すものであり<

卑弥呼の遣使は、帯方郡や都には前もっての 連絡や交流はなかった突然的な遣使であったようで、
太守劉夏遣吏將送詣京都という少し特別の対応をしているが、
郡とは、伊都国の説明で、以前から郡使の往来があったようでからあった。
従って、卑弥呼の遣使以前は、郡との交流はあり、
郡を介して、魏や公孫氏や呉などと僅かな交流があった可能性はある。

>それが多く見つかる畿内こそ魏志倭人伝にある邪馬台国 <

「畿内」も「邪馬台国」も、存在もしていなかった「捏造でっちあげ」であり、
この男は、おそらく・・・・。
0868日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:13:19.05
>>822
畿内で多く見つかっても大和朝廷の中心地であるはずの地域からは見つかっていない

纏向とは無関係。
0869日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:14:06.57
>>825
バカ
学術板に書き込む資格なし。
0870日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:16:13.47
>>827
古墳の築造年代比定に三角縁がどう寄与してるか説明してから言え。循環論法よ。
0871日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:17:41.44
>>834
バカ

工人は発注者の要望通りに作るだけ

そんな常識もないの?
0872日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:19:45.56
>>846
そうだね。生きてて恥ずかしくないのかね。
0873日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:20:02.74
>>765
>そもそも邪馬台国と魏の外交は期間も短く回数も少ない<

邪馬台国なんて、存在していなかった。

>卑弥呼は遣使からすぐに死んでいてその治世の大半は魏との関係がない
邪馬台国=魏との関係と言う考えそのものが思い込みに起因している<

卑弥呼以前は、郡と伊都国の関係が中心であり、
都や公孫氏や呉などとも、郡を介しての僅かな間接的な交流があったようで、
だから、呉系の楽浪鏡師らの渡来、という事があり得た。

>邪馬台国は3世紀初頭には全国的な展開を見せている勢力であり
その時期に該当する外交相手は主に呉だったと分かる<

これ、どうやら邪馬台国=大和を想定してしているようだから、
「南≠東」などに拠って、×。
0874日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:23:21.10
>>796
>国産銅の初出は7世紀
>成分的にも国産の銅を用いたと言う根拠はない

神功皇后が4世紀に香春岳を攻めているから、その頃には銅は取れていた。
7世紀にようやく畿内が九州に追いついたんだ。
0875日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:28:47.32
魏は外洋航海技術もってないぞ

呉は持ってるけどな。
0876日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:30:57.72
>>782
三角縁神獣鏡が魏系とかいう大和説者らや、この男らは、
どんだけ精神的偏向で情弱で者なんだよ。
0877日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 08:53:27.60
>>785
>筑紫の三角縁神獣鏡は数が少なく記年鏡もない<

三角縁神獣鏡も、列島では、筑紫の志登が一番古く、最初は紀年も書いていなかった。
しかし、九州倭国の東征将軍らは、自分等の身分を高めるために、
楽浪鏡師らに、魏や呉の年号を付けて貰う事しした。

>また畿内の記年三角縁神獣鏡には景初三年、239年とあるので
これは梁書、日本書紀、通史、太平御覧に卑弥呼が使いを送ったと
記されている通り景初三年、三世紀の魏との交流を示すものである<

畿内なんて存在していなかったから、嘘つき騙しであり、×。楽浪鏡師らは、正直に自分に必要な年号を紀年した。

>九州も三世紀ごろの呼び名は倭 魏志倭人伝でも一貫してそう記されており
九州という呼び名は鎌倉時代辺りのもの 畿内がないというなら九州もなかった <

倭国は、燕の南時代から一貫して、中国の畿内の周りの九州地域にいた。

>魏で記年鏡が見つかっているなら 鏡に年号を入れる習慣もあったという事<

紀年鏡の出土は、呉は50で、魏は8余り。

>「吾・・・至海東」の吾の次には作明鏡…と続くのであり これは私はいい鏡を作ったという意味で倭国に来た事を示すものは何もない <

「至海東」は、「吾は海東に至って来た」という意味。

>後漢書に自己解釈による書き換えを示すような記述は何もなく そもそも比較できる史料がないので
ザラコクの繰り返し主張する自己解釈による書き換えは 出鱈目だったという事が判明した<

www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html で、倭人伝と後漢書を比べて見ろ。
0878日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 09:16:51.27
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0879日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 09:35:21.34
>>786
>史書にある魏志を引用して書かれた記述と 12世紀の復刻版魏史には違いがあり<

12世紀に版本化されたのは、魏志も後代史書群も同じ事だよ。

>復刻版魏史には12世紀になって初めて現れる表記が多く<

関係がない。北宋の首都が燃やされたって、地方には当然残存写本が沢山残っていた。

>つまり復刻版魏史には間違いが多かったという証拠<

つまり、この大和説男も、
都合の悪い史料事実を否定抹殺しようとする・・・・詐欺師であった訳。
0880日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 09:39:53.70
三角縁神獣鏡か
あれは、香春岳の銅や錫を手に入れた秦氏傘下の鏡師作さ
畿内の諸氏はとてもありがたがったってわけだ。儲かったなあ、、、
0881日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 09:48:40.27
>>789
>ただ魏の鏡文化はかなり衰退していて鏡造りの主体は江南に移っている
魏はその数も質も大きく衰えて図像的な進歩も停滞している
銅の素材の原産地も江南がメイン 鉄鏡の採用も銅不足が原因と言う指摘もある
なので魏政権が江南の鏡を魏の鏡として与えた可能性は捨てきれない<

この男も、全くの・・・・だな。
明帝やその側近らが、敵対国の呉の鏡を卑弥呼に下賜する、というような、
不名誉不面目で大恥になるような事をする筈がない。
当然、在庫の鏡を出して来たり、尚方で造らせるかして、銅鏡百枚を揃えたのであり、
よい鏡が揃えられないんなら、始めから、「銅鏡百枚」なんて、下賜物にしないもの。
0882日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 11:06:31.99
>>790
>直前の後代史家の書き換え内容等を参考にして魏志の内容が書き換わったとするなら<

ダメだよ。
後代史家は、
前史と全く同じ事の転写は、それは写本がやっている事であり、
写本と同じでは後代史家の存在価値はなく、
前史の記載をかみ砕いて読者に判るような書き換え説明をする事が仕事なのであり、
だから、「自己解釈に拠っての書き換え」をする事になるんだよ。

>7世紀の梁書、翰苑は邪馬台国をそれぞれ祁馬臺國、邪馬嘉國と表記するが
11世紀の太平御覧では結局以前からある邪馬臺國表記に戻る<

www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
に書かれたように、太平御覧も、大幅に書き換えている。

>これはそれらの史書が引用した魏志には邪馬臺國とあり、なので
転写の際に多少の誤記が生じてもそれが伝わらなかった事を示している<

写本の誤写率は、0.5%位。後代史書の書き換え率は、50%位以上。
宋明清代の校勘でも、「邪馬壹國」は全部「邪馬壹國」のままだったので、
邪馬臺國は×。
0883日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 11:15:29.02
>>882
宋明清代の校勘?

そんなに連呼するんなら出典を出せよ
出せないならデッチ上げだってことだ
0884日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 11:16:25.94
>>793
>鏡文化の衰退した魏においては呉鏡が高品質の財物として珍重されていた可能性もある
外国の使節に与えるために自国の粗末な鏡ではなく、高品質の鏡を購入して渡したと考えても不自然さはない
倭人伝、晋書でも「特に好むものを与えた」「特別な財宝を与えたのだと言う事をよく理解するように」と言う記載が見えて
特別な物を下賜した様子がうかがえる<

明帝やその側近らが、敵対国の呉の鏡を卑弥呼に下賜する、
というような、 不名誉不面目で大恥になるような事をする筈がない。
当然、在庫の鏡を出して来たり、尚方で造らせるかして、
銅鏡百枚を揃えたのであり、
よい鏡が揃えられないんなら、始めから、「銅鏡百枚」なんて、下賜物にしないもの。

この男は、真性の・・・・アホか。
0885日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 11:40:37.64
>>794
>景初三年→正始元年の改元の間には
明帝の一周忌と正月の祝賀の重複を避けるための1ヶ月の空白があり
それが存在している以上そこが当時は景初四年扱いだった可能性は原理的に否定できない<

景初四年はなかった。あったのは「景初三年後十二月」。

>また晋書天文志には景初四年の記述があり
景初三年から正始への実際の改元は数ヶ月間が合ったとの可能性も示されている <

唐代の「後代史書の晋書の自己解釈」の記載など、現代大和説者の記載と同じであり、
根拠には全くならない。

>楽浪では三角縁神獣鏡が1面も見つかっておらず 魏で1面見つかったという事は魏鏡であり
主に倭国への下賜用だったという従来の説を裏付ける<

洛陽では三角縁神獣鏡が全く盛行しておらず、敵対地の具付近で盛行しており、
楽浪では、呉付近からの三角縁と神獣鏡が伝わっており、
列島の伊都国との関係と三角縁神獣鏡の存在で、三角縁神獣鏡鏡師が楽浪にいた可能性が十分にあり、
だから、洛陽の0〜1枚の三角縁神獣鏡は、楽浪からの伝来鏡であった可能性が高い。

>手持ちの銅では500面はあるとされる三角縁神獣鏡とその他にもある鏡の
全ての量を賄うことはとても出来ない
倭国内でも銅は手に入り、事実国内製の銅鏡はそれを使って作られている
素材が国外のものは国外製品である事を示すものである<

列島内の銅鉱山の有無情報を確認してからにしな。
0886日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 11:46:32.57
三角縁は香春岳と成分が合わないだろう。
0887日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 11:55:49.49
1.成分といっても成分元素には色々ある。どこまで測ってそう言ってるのか不明だ。
スプリング8といえどもそう簡単ではない。
2.鏡を作るにはいろいろ調合しなくてはならない。そこが鏡師辛島氏の腕の見せ所。
  香春岳の原鉱石と比較しただけではわからない。
0888日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 12:03:40.59
>>859
倭と呉の交流の証拠はまさに画文帯神獣鏡などの呉の鏡
この鏡は形式から分布領域まで江南の物であるとはっきりした鏡
その上、飛び地の様に見つかる遼東の画文帯神獣鏡は孫権と公孫氏の交流の痕跡と考えられる
この事から呉も鏡を使った交流を行っていたことが分かる

後の五王の遣使の時代でも別に江南の文物が日本に溢れかえるような事はなかった
その時代でも大陸との人や物の交流は半島を経由していた
江南政権との交流はあくまでも外交を主にしたもので民間の文物の移動が行われた物ではない
この図式は後の遣唐使の時代でも同じ

この時代も後の高句麗や新羅のような妨害勢力が存在していた結果、南路、もしくは南島経路が使われていると考えられる
朝鮮半島の西部に敵対勢力がいる場合は山東を経由できないのが分かる
0889日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 12:10:22.87
>>797
>景初三年と魏の情報である年号を鏡に記銘するなら 明帝の死去によって当然翌年改元がある情報も入っていなくてはおかしい<

難升米らは、当然判っていて知っているが、呉系楽浪鏡師たちは、
洛陽から列島まで半年くらいかかるから、どれ位の事を知っていたのか?は不明。

>もし呉系鏡師が国内に存在したとして
景初と魏の年号を入れるのはそれを魏の鏡と見せかけたかったという事であり
そのために年号を入れるのであれば存在しなかった年号を入れる可能性はない<

渡来して来た呉系楽浪鏡師らの中には、「景初三年後十二月」設置情報を知らなかったものがいてもおかしくない。

>そもそも倭国内では暦法そのものが魏と違うのであるし<

倭人は二倍年歴であったが、渡来して来た呉系の楽浪鏡師らは一倍年歴であった。

>漢字の読める人間も少なかったであろうから<

通訳を連れて行っていなかったようだから、難升米らは漢字も会話も出来た。

>年号を鏡に記銘して魏鏡に見せかけるのはそんなに効果的ではない方法 <

「見せかける」というほどでもない。要は魏年号の方が価値がある思えた。

>わざわざ年号は入れなくてもいい物なのである<

呉では、魏なんかよりもはるかに年号を入れる事が流行っていた。

>それが入っているという事はその年号が実在したから倭国内で流通している鏡にわざわざ記銘されているのである<

渡来して来た呉系楽浪鏡師らの中には、魏の「景初三年後十二月」情報を知らない者もいた。
0890日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 13:55:59.42
優れた考古学者達が、2013年に死体となって横たわっていた畿内説を、テルテル坊主のように吊るし上げて、サンドバッグにして遊んでいるな。。。
0891日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 13:56:11.51
『エンジェル・ウォーズ』

日本の話だぞwと言ってる人がいたんだけど
0892日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 14:06:22.36
どういう事なんだと思う

筋肉少女帯、マイク・オーの曲?


殺しに行きなさい、殺しに行きなさい


洗脳、基地外の話?
0895日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 15:28:55.95
>>894
キナイコシの目が節穴なだけ。
0896日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 16:46:38.62
>>798
>銅鐸はどうやって原材料を調達してたの?<

いい質問ですね。
私も、まだ分からないんですよ。
0897日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 16:59:09.21
>>798
>銅鐸はどうやって原材料を調達してたの?

日本で唯一「伊邪那美命」を祀る神陵:高越山
銅鐸の原材料は、その神陵:高越山麓の高越銅山。  @阿波
0898日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 17:02:33.10
>>888
>倭と呉の交流の証拠はまさに画文帯神獣鏡などの呉の鏡


魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡

この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろう。 魏から下賜された鏡は。  @阿波
0899日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 17:43:51.27
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0900日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 17:44:58.26
>>800
>三角縁神獣鏡は素材の銅が魏・晋時代のものと同一であるから
それらに銅出徐州とあるのなら徐州の銅を使って魏で作られたもの<

ダメだよ。
国分神社の二つの三角縁神獣鏡の出来栄えがの、
「海東鏡」の方が圧倒的によく、「徐州鏡」の方が下手である事などから、
渡来の楽浪鏡師らは、当然「一人」とか「一組」とかではなく、何組もいた、という事になるんだよ。

>徐州の銅の産出地は当時呉の領地だったという王仲殊の説は
素人でもわかるこの基本的事実すら踏まえてない錯誤に満ちた説<

その「基本的事実」という内容を書いてくれよ。
それを書けなければ、お前は、嘘つき騙しの詐欺師。

>三角縁神獣鏡には景初三年(239年)と記銘さrているので年号も政策時期も魏代のもの<

神原古墳の三角縁神獣鏡は、魏鏡ではない。
www.furutasigaku.jp/jfuruta/jmirror.html
参照。
0901日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 18:01:22.28
>>855
全唐文という中国古代の書に
「昔、魏ハ倭国二酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ノ鉗文ヲ止メ…」
(昔、魏は倭に贈るのに今までの形式でない銅鏡を…)
という文が出てくる
さらに三角縁神獣鏡は今のところ魏と倭でしか見つかっていない
特に倭国で大量に見つかる
普通に流通していた鏡でない事がわかるだろ?

そして魏の年号の記銘、材質は魏・晋鏡と同一
銘文に銅出徐州 師出洛陽
記銘された年号は卑弥呼が魏に使いを送ったと
梁書、日本書紀、通史、太平御覧にある景初三年

普通に判断すれば三角縁神獣鏡は魏鏡以外に考えられない
0902日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 18:19:45.07
>>860
>>861
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ronnrinomichibiki/1hpkouennroku3-nishikawa-ouchoui-sannkaku-seitouron-wb.pdf
の4ページ目

また消えてしまったか有料化されたかで見れなくなったが
以前見れたサイトでは鏡は畑で出土したもので
鏡の所有者が取材者に発見場所へ案内しましょうかと提案があったが
大雪のために断念したと載っていた
0904日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 18:23:15.64
>>870
古墳の築造年代比定に三角縁神獣鏡は特に寄与してないぞ
棺内の遺物などから総合的に判断するものだ
0905日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 18:25:46.78
>>871
なら鏡の発注者は魏と係わり合いが深かったんだな
魏の年号を知ってるくらいに
つまり記年鏡が見つかる畿内は魏と交流が深かった
0906日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 18:39:03.20
>>877
三角縁神獣鏡の最古期に当たるものは景初三年鏡と考えられており
紋様の変遷から編年もされている
筑紫で見つかる三角縁神獣鏡が最古期のものとする根拠は何もないし
筑紫が魏と交流のあった戸数7万個の邪馬台国とすると
畿内と比べて規模が小さすぎる

便宜上畿内と呼称しているだけで
誰も畿内が昔からあったかのような主張はしていない
畿内がなければ九州もなかった事になる
楽浪鏡師が居ても居なくても魏の年号が記銘された三角縁神獣鏡は
発見が多い畿内と魏が交流のあった証拠

九州は鎌倉時代に入ってからの日本国内での呼称
0907日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 18:41:53.13
>>802
>どこが資料事実の捏造だ?<

魏朝の宮中記録に拠った、と考えられる魏志の 同時代記録では、
卑弥呼も遣使や明帝の詔書は、「景初二年」だから、
それを「景初三年だ」というには、「史料事実の捏造」だ。

>卑弥呼が魏に使者を派遣したのは景初三年と
梁書、日本書紀、通史、太平御覧の史料に載っている史料事実
これを根拠なしに自己判断の書き換えとし無視する方こそ
史料事実を捏造する分裂幻覚の妄想 <

後代学者の「後代での自己解釈に拠る前代史書内容の書き換え」は、
史料の改竄捏造であり、そんなものは史料事実ではない。
現代大和説者の「邪馬台国」とか「大和朝廷」とか「台与」とかも史料事実ではない。
0908日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 18:46:46.37
>>877
数は関係なしに魏でも記年鏡が見つかるのなら
魏では鏡に年号を入れる習慣がなく
三角縁神獣鏡に魏の年号が入る事はありえないという説は破綻

用青銅 至海東は青銅で作った鏡が海東に至るという事

現代の魏志倭人伝は一度消失したものを12世紀に復刻したもの
その際元にした文書は誤表記が多かったと記録にあり
それと消失した記録もない後漢書を比べ魏志倭人伝と
表記が違うから後漢書は間違いというのは無意味な行為
0909日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 18:50:31.04
>>879
魏志の残存写本には間違いが多かったと記録にあり
実際それまでの複数の史書の魏史引用文とは表記が違う箇所が多く
これは史書の引用した魏史と違う記述が復刻された魏史に多いという事
そしてそれらは12世紀に復刻された魏史の初めて現れるものである
0910日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 18:52:24.02
>>803
>それなら畿内にあった邪馬台国が魏と交流開始前の魏の情報が入らないのに<

「畿内」なんて存在しないし、「邪馬台国」もなかった。

>魏の青龍三年の年号が入った鏡が存在するのはおかしい事<

楽浪では魏年号が使われていた可能性が高いから、
楽浪の鏡師が九州倭国に来て、九州倭国の東征将軍らがその鏡を貰って丹波に来て、
亡くなってから、古墳に副葬されたのだろう、という事になる。

>魏の情報が入る前の倭国内では作りようがないのであり<

楽浪鏡師の渡来で、倭国内に伝えられる。

>つまり鏡だけが入ってきたのであり呉系の鏡師など存在しなかった<

鏡には足が付いていないから、鏡だけが入って来る事はない。
0911日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 19:00:44.61
>>885
改元によってその年の初めまで遡って日付が書き換えられた例があり
景初三年後十二月もそうだった可能性が高い
景初三年→正始元年の間には1ヶ月の空白があり
そこが実際上は景初4年だった可能性自体を否定できない
さらに晋書天文志は景初四年の記述がある

九州説に都合の悪い記述は全て自己解釈による勝手な判断なのだろうか?
九州説がよほど自己解釈による勝手な判断をしているように見える

呉付近や楽浪で三角縁神獣鏡は見つかっておらず
見つかったのは魏と倭国だけである
魏と倭の交流、そして魏からの下賜鏡である事を
示していると言える

三世紀頃の国内銅山は確認されていない
0913日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 19:06:57.43
>>887
成分とは銅の中に含まれる銀とアンチモン
秦、漢、魏・晋、倭国のそれぞれの鏡によって分量が違い
グループ分けが出来る
三角縁神獣鏡はだいたい魏・晋鏡グループ
ボウ製とされてきた三角縁神獣鏡は倭国グループ

国内産銅鏡は銀・アンチモン成分が広範囲に広がった数値が出る
これは色々な輸入された鏡の銅を混ぜ合わせた結果
そういう数値が出ると考えられる
0914日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 19:15:33.44
>>889
三角縁神獣鏡を作るにあたって
元号の情報だけを知るなんていう状況はあり得るのだろうか?
可能性は低そうでありそもそも特段の事情がなければ年号は
入れる必要はないもの
倭国用の鏡に記銘されているのは魏からの下賜鏡だったため

倭国内の呉系鏡師が景初三年後十二月設置情報を知らなくても
正始元年情報は知っていた事になり
ならなおさら景初四年は存在したから記銘あsれた可能性が高い
また呉統鏡師の存在があってもなくても記年鏡が見つかる畿内は
魏と交流があった事になる
0915日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 19:23:23.35
>>903
見つかったのが骨董市だから。
0916日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 19:25:01.14
>>905
そうよ?

でも魏鏡ではない、呉鏡ってだけ。
0917日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 19:27:59.85
>>913
材料の成分から
製作地を判別するなんて不可能。それだけよ。
0918日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 19:41:41.11
>>900
鏡の出来不出来は呉系の鏡師の国内存在を示すものとは居えず
魏の工房での出来不出来だったのかも知れない

基本的事実とは魏・晋時代の魏鏡と
三角縁神獣鏡は素材が同一のものであり
銅出徐州 師出洛陽と記銘されている以上魏・晋鏡も
三角縁神獣鏡も魏の徐州で採掘された銅を使っている事になる
ほら書いたぞ
40年前の王仲殊のボケ説なぞ引っ張って来ても無駄

三角縁神獣鏡は魏の年号の記銘、素材銅、洛陽での発見などから
魏鏡である事は確実であり、そうとする説明意外が困難
0920日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 19:50:54.62
>>907
現在ある魏史は決して同年代記録ではなく
原本が消失した12世紀に誤記の多かったと記されている文書を
集めて復刻したもの

そして消失する前の魏史を引用しその下りを記述した
梁書、日本書紀、通史、太平御覧は景初三年と史料事実としてある
それを捏造という方が捏造

邪馬台国は邪馬臺國を新字体で表記したものであり
後漢書、隋書、北史、太平御覧などに記されている史料事実
これも捏造という方が捏造
0921日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:09:25.25
>>910

便宜上畿内という名称を用いてるだけであり
畿内がないというなら九州もない
邪馬台国は邪馬臺國を新字体表記したもの

楽浪で魏年号が使われていたというなら証拠を出せ

鏡に足がついてなくても運ぶ人には足がついているのである
呉系の鏡師を想定しなくても三角縁神獣鏡は魏鏡であり
魏から下賜されたとすればそれで説明がついてしまう
0922日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:13:44.05
>>919
そういうものは出土と言わない。基礎からやり直せ。

魏の鏡である根拠なし。

タイムマシンで作ってるところ見たのか?
話にならん。
0923日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:14:55.57
>>921
下賜された証拠がないから無意味だね。
0924日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:36:15.60
>>922
土中から出れば出土
0925日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:38:15.09
>>922
発見という言葉を使っている

魏の年号 素材が魏・晋鏡と同じ

漢鏡は漢鏡の、魏・晋鏡は魏・晋鏡の、倭鏡には倭鏡の数値が出る
それを見ればどこで作られた鏡なのかわかる

>>923
下賜された証拠すらなくても
三角縁神獣鏡は魏と畿内の交流を示す証拠
0926日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:41:09.20
>>906
>筑紫が魏と交流のあった戸数7万個の邪馬台国とすると
>畿内と比べて規模が小さすぎる

遺跡の密度や、後世の稲の収穫高から考えて、それほとおかしくはない。
0927日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:42:13.51
>>914
>倭国内の呉系鏡師が景初三年後十二月設置情報を知らなくても
>正始元年情報は知っていた事になり

後世に記念品として作った説は?
0928日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 20:43:36.76
>>925
>下賜された証拠すらなくても
>三角縁神獣鏡は魏と畿内の交流を示す証拠

後のヤマト王権が筑紫倭国の後裔だった。
0930日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 21:07:24.89
あれほど忠告したのに
畿内説で三角縁円獣鏡と前方後円墳は命取り
案の定 論破されてる
0934日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 21:36:45.50
ザラコクの華麗なダブスタ

骨董屋が持ち込んだキホウ鏡は須玖岡本で間違いない!


骨董屋で見つかったのだから洛陽の三角縁は信用できない!

平原の方格規矩鏡は銘文に尚方とあるから舶載だ!


三角縁の銘文の魏の年号は信用できない!
0935日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 21:38:09.35
えっ、
畿内説は骨董市だったのか、一生懸命読んで損したわ
0936日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 21:41:41.28
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0937日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 21:42:55.73
>>935
それは時間の無駄でしたね
これに懲りたらこのスレには二度と近づかない方がいいですよ
0938日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 21:43:54.39
三角縁は魏の鏡と言ったり呉の鏡と言ったり、どっちなんだよ?
畿内説同士でまとめてから出直してきな
0940日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 21:49:34.22
現在の考古学者が三角縁を呉の鏡だと主張してるのを見たことたいけどな
0941日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 22:04:36.56
考古学者は国産の意見多い
0942日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 22:07:54.85
例えば三角縁神獣鏡に
赤鳥五年とか呉の年号が入っていて
呉の都でも発見され
呉志に赤鳥五年に邪馬台国に鏡を下賜すると書いてあり
銅出孫呉 師出建業と銘文があり
成分分析したら呉の鏡と同成分だったとして
それを魏の鏡師が国内で作ったと言ったらどう思う
0945日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 22:41:03.83
>>924
ブー
誤り。いっぺん死んで生まれ変わってこい。
0946日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 22:43:17.56
>>925
事実誤認。

信仰を開陳は板違いだよ他所でやってくれ。
0947日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 22:47:05.42
呉の形式の国産鏡が結論で鉄板。
0948日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 22:50:09.65
他のスレにも書いていることなんだけど、
どこの基地外なんだ?
0950日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:03:06.01
信仰心が殊更厚いのはザラコク(九州王朝説に対して)と伊都クズ(自分に対して)だな
0951日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:05:55.24
『ボーボボ』

なぜ家の写真と同じなんだろう?
葱の華に、キュウリのような葉が写っていたり

『松傾』?
このような名前の家なんだけど、
松の木の立てられている写真もそう
0952日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:16:30.62
家に来てみろと言っているんだよ、
神奈川県川崎市川崎区に住んでいるから。

そこの南部のほう、
産業道路、横羽線・・・などの通っている辺り。
0953日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:22:13.40
家の道路の向こうのほうは埋め立て地なんだよ(老婆も言っていたけどw)
というのは有名な話
0954日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:30:28.57
>>804
>>中国で出土した鏡の成分分析は無いよ
中国鏡と"思われる"日本にある鏡との比較 さらに時代と作成場所が曖昧な物との比較になるから、>」
魏鏡かどうか?はわからない 成分分析もまだ結構混沌としている<

>中国で出土する鏡も編年はされており それを国内で見つかる鏡と比較すれば一発でわかる物<

何が一発で分かったの?。

>成分分析の結果それがそれぞれのグループに分かれたのであり<

「中国で出土した鏡の成分分析は無い」であるんなら、
中国の銅山の銅と、日本の鏡の銅とを比べたの?。

>これはそれぞれの時代区分の銅鏡の銅は産出地が違うという結果を示した 印象操作は無駄<

日本の鏡の銅の時代に拠って、対応する中国の銅鉱山が違う、って意味なの?
0955日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:31:30.78
あの写真などを貼り付けて、少し経った後?

どこからか盗んできたんじゃないだろうな?
と言ってる人がいたり


でも同じ名前の家でしょ、写真などを貼り付けたり、
書き込みをしている人(家の名前)
0956日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:35:05.51
>>949
信仰心を強要するのは憲法違反だよ。
0957日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:35:24.55
道路を渡ると浅野町というのがあるんだけど、
家は、その辺り。

道路は渡らない、
手前?のほう。
0958日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:35:34.82
>>805
>ボウ製鏡は見た目でもそれとわかる
事実スプリング8を使用した銅鏡の分析の際に
以前から国内でコピーのボウ製鏡であろうとされていた
一部の三角縁神獣鏡は事実国内産を示す数値が出た<

あれ?。日本国内の銅山があったの?。
それとも、中国銅を使って日本国内でホウ製鏡を造った?、て意味なの?。
0959日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:37:14.97
中国産の銅で列島内で製作したというのが結果だよ。予想通りのね。
>>958
0960日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:39:32.96
>>806
>九州を今の様に九州と文献に出るようになったのは鎌倉時代あたりの頃
古墳時代は倭国 魏史倭人伝にそう書いてある<

これダメだよ。
阿倍仲麻呂の送別の歌を書いた王維は、阿倍仲麻呂の帰る所を「九州」と呼んでいた筈だよ。
0961日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:47:08.44
>>809
>銅原料が中国からの輸入だから国産でも中国産銅の数値しか出ない。
そして日本で鋳造されるときは 中国各地の銅のブレンドになるので成分分析で範囲が広く出るようになる。
日本産の銅だけを使う場合は成分が近いので成分分析の範囲は狭く出るはずである。<

日本国内の鏡やホウ製鏡の原料は、中国産銅なのか?、日本産銅なのか?、
どっちなの?。
0962日本@名無史さん垢版2018/09/11(火) 23:57:54.93
>>810
>改元による以前の年号の書き換え例が記録に残っている以上
景初四年が景初三年後十二月と後に書き換えられた可能性そのものを
否定する事はできない <

景初四年が存在しなくて、「景初三年後十二月」があった事が判ったんだよ。

>事実晋書天文志には景初四年の年号を使用した記述がある
景初三年後十二月の記述を物証と言うのなら晋書天文志の景初四年の記述も物証<

唐代の史家の「自己解釈に拠る書き換え説明」は、物証にならない。

>景初四年は存在したのであり なので三角縁神獣鏡に記銘されたのである<

景初四年は存在しなかったのでありなかっ、
なので、列島で「景初四年」と書いた鏡師は、間違えたのである。
0963日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:02:42.50
大和に三角縁神獣鏡がない理由?
大和が畿内で一番の田舎だったからだよ。
言わせんなよ、恥ずかしい。
0964日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:06:33.64
>>813
>四史本後漢書また冊府元亀、太平御覧引用後漢書には
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩「堆」音之訛也)
とあるから後漢書は邪馬臺國は邪摩堆の事であると書いてある事になる<

「案今名邪摩「堆」音之訛也」ではないね。
唐代の李賢の注は、「案今名邪摩惟音之訛也」だし、
李賢は「邪馬臺≠邪摩惟」だから、案じて注を書いた、という事になる。
0965日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:10:05.04
>>815
>呉付近で三角縁神獣鏡は1面も見つかっていない 魏で1面見つかっている<

魏では0〜1枚。あってもおそらく楽浪からの持ち込まれ。
0966日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:16:38.22
>>809
>銅原料が中国からの輸入だから国産でも中国産銅の数値しか出ない。<

誰かも言っていたけど、何故銅鐸の銅の検査をしないの?。

>そして日本で鋳造されるときは 中国各地の銅のブレンドになるので
成分分析で範囲が広く出るようになる。<

徐州銅のように単一産地の銅で造られた鏡もあったから、
ブレンドになるとは限らない。

日本産の銅だけを使う場合は
成分が近いので成分分析の範囲は
狭く出るはずである。
0967日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:18:45.35
>>910
何だこれ。同じものに返事を書いた記憶がある。
また貼り付けだな。
0968日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:27:51.84
(写真などの話)
どこからか盗んできたものなんじゃないのか?
という書き込みをした人に対して言っているんじゃなくて

なぜ漫画やアニメ、ゲームなど・・・・?なのか、
聞きたいんだよ


あと、いろいろと偽造のような事もしているはず
0969日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:33:50.79
>>815
>景初四年は景初三年→正始元年の間に1ヶ月の空白がある以上
そこが景初四年扱いだった可能性は原理的に否定する事が出来ない <

景初三年後十二月があるから、空白はない。

>後世の記録上改元を遡って適用し実際存在した年号が書き換わった例もある<

景初三年後十二月のような例になっていない。

>また晋書天文志にも景初四年の記述があり<

唐代の「自己解釈に拠る書き換えをした晋書も、信頼性は低い。

>実際存在した年号なので三角縁神獣鏡に記銘されたと考えられる<

実際に存在しなかった年号なので、洛陽から半年位かかる倭地の鏡師が、かかる知らずに間違えた。

>景初三年1月の時点で明帝の死去により翌年の改元は明らかになっており<

景初二年大晦日に亡くなっていた、という情報もある。

>景初三年と鏡に年号を記銘している以上 翌年改元になる情報を知らないというのはおかしな話
魏の現在の年号の情報それのみを知りえた環境というのは 一体どういう状況だったのだろうか <

呉系楽浪鏡師らは、同一鏡師一人ではなく、何組もいた。
0970日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:37:25.86
>>816
>呉付近や、楽浪では三角縁神獣鏡は1面の発見もない 魏からは発見されている<

洛陽は0〜1枚。1枚であっても、楽浪からの伝来の可能性もある。

>海東鏡に記銘された文は人の移動を示すものとは言えない<

「吾・・・至海東」した、と書かれている。
0972日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:41:44.55
>>817]
>そんな事は魏志倭人伝に書かれておらず 書いてないものをでっち上げてはいけない
状況を考えれば景初二年十二月に詔書てからのち卑弥呼が魏へと使いを送ったのであり
それは景初三年の事であったと 魏志を引用して梁書、日本書紀、通史、太平御覧に記されている<

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者らと同じく、
「景初二年→景初三年」と書き変えた「唐代以後の史家」も、
史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの詐欺師である。
0973日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:52:20.00
>>818
>魏志に書かれていない事が捏造ならば
ザラコクが主張する九州は古代から九州と呼ばれていたいうのも捏造<

いや、存在しないものをでっち上げて造作捏造したら、×、などと言って来た筈。

>また記述にない呉系の鏡師が倭国にいたというのも捏造<

海東鏡や徐州鏡がある。

>また里としか書かれてないので短里も捏造<

「一里=434m位の長里だ」と言った大和説者らが、捏造。

>一寸千里も書かれてないので捏造 <

「陳子說之曰:夏至南萬六千里,冬至南十三萬五千里,日中立竿測影。
此一者天道之數。
周髀長八尺,夏至之日晷一尺六寸。髀者,股也。
正晷者,句也。正南千里,句一尺五寸。正北千里,句一尺七寸」
が書かれていない、という大和説者は、嘘つき騙しの・・・・捏造。
0974日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。


つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?
0975日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 01:03:17.72
>>819
>景初二年六月は魏は朝鮮半島の公孫氏と交戦中 倭が使者を送るどころではないのであり<

戦中遣使であったから献上品もすくなく、
「太守劉夏遣吏將送詣京都」という付き添いの將もあった。

>事実その下りを魏志から引用して書く
梁書、日本書紀、通史、太平御覧には景初三年と記されている<

唐代以後に「自己解釈に拠っての書き換え」をする後代史家は、
現代大和説者らと同じく、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。

>顔はともかく脳が醜いとはどういう事か<

狂った顔つき、という意味。

大和説は、「万世一系皇国史観」かどうか?や、人の脳が嘘つき殺人狂であるか?を眺め比べて審美する。
猟奇的な趣味でもあるのだろうか。
そういう人間が主張するのが大和説なのである。
0976日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが


東征の折 服従した国々に紀年銘鏡を配ったとの仮定も成り立つ

紀年銘鏡は4世紀以降の遺跡から出土
0977日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 01:06:46.12
服従した国々=服従した豪族でも可
0978日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 01:10:26.79
次スレの準備中だな

いか詳細にテンプレで解説してくれ
1、纒向になぜ集落群跡が見つからないのか?
2、  同   人骨          ?
3、狗奴国と戦争状態にありながら王都が無防備なのはなぜか?

一杯あるけどね以上
0980日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 02:02:52.98
むかーし住んでいた?
住んでいたことがあるんだよと言うところも同じ

確か貼り付けたはず、
伊達郡(いまの福島県?)というところ


何の家なんだと思う?
0981◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/12(水) 04:06:21.35
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1536690752/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0982日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:31:32.73
レスを投稿する
0983日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:33:32.55
974日本@名無史さん2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?
0984日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:34:13.24
974日本@名無史さん2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?

976日本@名無史さん2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが


東征の折 服従した国々に紀年銘鏡を配ったとの仮定も成り立つ

紀年銘鏡は4世紀以降の遺跡から出土
0985日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:34:44.26
984日本@名無史さん2018/09/12(水) 05:34:13.24
974日本@名無史さん2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?

976日本@名無史さん2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが


東征の折 服従した国々に紀年銘鏡を配ったとの仮定も成り立つ

紀年銘鏡は4世紀以降の遺跡から出土
0986日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:34:59.57
984日本@名無史さん2018/09/12(水) 05:34:13.24
974日本@名無史さん2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?

976日本@名無史さん2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが


東征の折 服従した国々に紀年銘鏡を配ったとの仮定も成り立つ

紀年銘鏡は4世紀以降の遺跡から出土
0987日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:35:14.75
984日本@名無史さん2018/09/12(水) 05:34:13.24
974日本@名無史さん2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?

976日本@名無史さん2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが


東征の折 服従した国々に紀年銘鏡を配ったとの仮定も成り立つ

紀年銘鏡は4世紀以降の遺跡から出土
0988日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:35:50.05
984日本@名無史さん2018/09/12(水) 05:34:13.24
974日本@名無史さん2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?

976日本@名無史さん2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが


東征の折 服従した国々に紀年銘鏡を配ったとの仮定も成り立つ

紀年銘鏡は4世紀以降の遺跡から出土
0989日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:37:25.62
984日本@名無史さん2018/09/12(水) 05:34:13.24
974日本@名無史さん2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?

976日本@名無史さん2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが


東征の折 服従した国々に紀年銘鏡を配ったとの仮定も成り立つ

紀年銘鏡は4世紀以降の遺跡から出土
0990日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:45:22.02
銅でもいいけど


銅鐸(銅と錫 少量の鉛)
0991日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:46:20.80
974日本@名無史さん2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?

976日本@名無史さん2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが
0992日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:46:34.35
974日本@名無史さん2018/09/12(水) 00:57:44.77
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?

976日本@名無史さん2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが
0993日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:47:30.66
紀年銘鏡

制詔 親魏倭王卑弥呼・・・・・特に汝に紺地句文錦三匹・・・銅鏡百枚、・・・帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝を
いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

畿内説
つまり、倭国の国々に鏡は配ったとすれば・・九州27か国に紀年銘鏡が出土しないのはなぜか?
倭国30ヵ国にも比定されていない場所から何故、紀年銘鏡が出土するのか?

976日本@名無史さん2018/09/12(水) 01:04:09.91
紀年銘鏡は国産だと思うが


東征の折 服従した国々に紀年銘鏡を配ったとの仮定も成り立つ

紀年銘鏡は4世紀以降の遺跡から出土
0994日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:51:05.79
三角は持ち出さない方がいいと忠告したでしょ

「銅鐸 片を溶かし、「鏡」や鏃などの青銅器に作り替えた」
可能性が寺沢薫により指摘されて いる
寺沢薫により指摘されて いる
寺沢薫により指摘されて いる
寺沢薫により指摘されて いる
0995日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:54:30.20
銅でもいいけど


銅鐸(銅と錫 少量の鉛)
0996日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:54:40.76
銅でもいいけど


銅鐸(銅と錫 少量の鉛)
0997日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:55:05.06
家に来てみろと言っているんだよ、
神奈川県川崎市川崎区に住んでいるから。

そこの南部のほう、
産業道路、横羽線・・・などの通っている辺り。
0998日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:55:49.63
キャンペーン
0999日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:56:11.41
三角は持ち出さない方がいいと忠告したでしょ

「銅鐸 片を溶かし、「鏡」や鏃などの青銅器に作り替えた」
可能性が寺沢薫により指摘されて いる
寺沢薫により指摘されて いる
寺沢薫により指摘されて いる
寺沢薫により指摘されて いる
1000日本@名無史さん垢版2018/09/12(水) 05:56:24.22
三角は持ち出さない方がいいと忠告したでしょ

「銅鐸 片を溶かし、「鏡」や鏃などの青銅器に作り替えた」
可能性が寺沢薫により指摘されて いる
寺沢薫により指摘されて いる
寺沢薫により指摘されて いる
寺沢薫により指摘されて いる
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