孝明天皇って暗愚じゃね
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異人嫌いで攘夷派だったけど
いざ攘夷が始まるとビビり出す。
なぜが攘夷派じゃない徳川と協力
しようとする矛盾。 孝明天皇の考えは一貫していて『幕府にしっかり攘夷してほしい』というもの
それが尊攘派からは幕府を信任していることが、幕府からは攘夷を要求してることが嫌われた
しかし天皇の考え方は当時の日本人の90%はそう思っていた考えであり、いきなり幕府倒せとか言い出すやつの方が異常なのである
攘夷なんてできない事がわっていながら条約結んだ幕府を非難し、尊攘論で人を集める方が詐欺だろう
幕末混乱の原因は長州であり、天皇の意志と偽って全国に尊王攘夷運動の混乱を巻き起こした
彼らは自分の意見を実際は大きく変えつつ、その時々で天皇を利用したが、いよいよ尊攘派が優勢になってくると
天皇の幕府信任が邪魔になって岩倉具視などが天皇が国論分裂の原因だなどと言いだした、身勝手すぎる >>3
>攘夷なんてできない事がわっていながら条約結んだ幕府を非難し、尊攘論で人を集める方が詐欺だろう
結局、自分たちが政治の主導権を握りたいがための、幕府への嫌がらせでしかないんだよなあ 慶喜によれば
「異国人を人と思っていない。ようするに、犬や猫のようなものと一緒に暮らすのは嫌だ、
とおっしゃるのだ」 最新の見解で、孝明天皇は単なる外国嫌いから開国を許さなかったわけではない
ことがあきらかになってきたという。
「最初に結ばれた日米和親条約は、アメリカ船に食料や水、石炭を供給するという内容であり、孝明天皇はこれは人道的な
措置であり、『神国日本を汚すことにはならない』と考えられていた。
しかし、『通商条約は表面上は友好をうたっているが、じつは我が国を侵略しようとするものなので、誰がなんと言おうと許しがたい』
と書簡に書かれている」 情報網の少ない当時にあってじつに慧眼という他ない。
この時代の最近ではイギリスがアヘン戦争という卑劣な戦争を仕掛けて
清国から香港と賠償金を奪い、さらにアメリカもトルコのアヘンを清国に
売り込んでいたという国際的な非道が横行した時代であった。 幕府は当時の朝廷の実力者である太閤・鷹司政通(67歳)に働きかけ「幕府一任」
の勅許を出すよう政治的工作をしたのであったが、
当時弱冠25歳の孝明天皇は太閤の意見をしりぞけ、
公家が自由に意見を言うべしとされたという。
公家たちの意見は「諸大名に意見を提出させ、天皇にご覧入れるよう」
と決まったのであったが、ここで幕府の大老・井伊直弼が
天皇、朝廷の意向を無視し、独断で日米修好条約という侵略の一歩になるかもしれない
不平等条約を結んでしまい、そのうえそれを批判したなんと徳川御三家の
前水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主の徳川慶恕(よしくみ)に蟄居を命じるという
大愚行をやらかした。徳川幕府崩壊はこの時に始まったと言っていいだろう。
さらに幕府に批判的な天下の識者、志士達を処刑するという大愚考を犯し
恐怖政治によって人々を取り締まろうとしたのだが、恐怖政治で天下を
保ちえた政権は世になく、我が國、天皇のしらす統治はもとより幕府の祖
徳川家康の意向すらも裏切ったといえよう。 徳川慶喜「不肖 源慶喜、願わくは咫尺奏上の栄誉に与りたく存じまする…」
鷹司輔煕「えー、…」
孝明天皇「進みて言上すべし」 開港は一時的な必要悪で、今後異国を撃退する実力をつけて再び鎖国する、
というのが孝明天皇への幕府の開港に対する申し開き。 なんで慌てて火葬にしたのか?
それは、暗殺の証拠隠滅の為。 朝方元気だったのに急変して寝たきり状態になり、
病気回復祈願に呼ばれた日蓮宗の僧侶によれば、
顔には紫の斑点が出来ていてヒ素中毒の症状だったと言うことだった。 女と同じ
ろくな政治能力ないくせに徳川の政治に口出しして混乱させた無能 また女性蔑視の馬鹿男
妹の和宮は女だけどよくやってたじゃん 孝明天皇の時代は天皇は当今様と呼ばれていた
慶喜からはみかどと呼ばれていた
>>6今まさにその時
徳川さんたちも孝明天皇域と和を持って組めば良い ∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
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/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日洗脳に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
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(___) / 勇ましいことを言って周囲を焚き付けていた割に将軍が上洛してくるとビビって従うし
外国人の公使が面会求めたらビビって逃げるしどうしようもない無能 スダレスガ「強盗トラブルでアベコロナが大爆発やで
よっしゃ、よっしゃあ」 この人が親外国人だったなら
幕府の開国政策にお墨付きを与える
尊王攘夷思想自体存在しなかった
長州も水戸も何もできない
安政の大獄もない
薩摩の出番もない
徳川幕府が延々と続き、日本は植民地化
今頃北朝鮮レベルの国、日本人はフィリピンに出稼ぎ 明治時代の外貨獲得手段としてハワイやアメリカへの出稼ぎは行われていました 井伊直弼誅殺後、孝明天皇は、文久二年五月十一日付渙発の『時局を御軫念の御述懐の勅書』(別名「時局御軫念の御述懐一帖」)では次のやうにお示しになった。
「惟に因循姑息、舊套(旧来のやり方)に從いて改めず、海内疲弊の極、卒には戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍を踏まば、朕、實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、朕實に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して、以て報ぜん事を計れ。」
幕府が攘夷を決行しなければ、神武天皇、神功皇后の御事績に倣ひ、孝明天皇御自ら、軍事的行動を起こされると宣せられたのである。幕府は恐懼し、「勅書」を体して「奉勅攘夷」を貫くことを堅く誓約した。
小田村寅二郎氏は、この『時局御軫念の御述懐一帖』について、「この御文章は、ここに謹撰申上げた悲痛極りない御製の数々と共に、幕末を語るすべての日本人が必読すべきものとしてぜひごらんいただきたいと思ふ。」(『歴代天皇の御歌』)と論じてゐる。
文久三年(一八六三年)には、孝明天皇の賀茂神社・石清水八幡宮に御幸され、攘夷祈願を行はれた。今でこそ、石清水八幡宮にはケーブルカーに乗って男山を登りゆき参拝できるが、江戸時代末期はたとへ輿で登られたとしても大変な難行苦行であったと思はれる。
さらに、孝明天皇は、
「戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり」(御詠年月不詳)
といふ御製をのこされた。この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。この御製を拝した多くの志士たちが尊皇攘夷の戦ひに決起した。
宮部鼎蔵(熊本藩士。尊攘派志士として、京都を中心に活躍。諸藩の有志たちと協議を重ね尊攘派運動を推進したが、池田屋事件にて自刃)は、孝明天皇の御製にこたへ奉り、次の歌を詠んだ。
「いざ子ども馬に鞍置け九重の御階(みはし)の桜散らぬその間に」
維新の志士の孝明天皇への赤誠・戀闕の心が、尊皇倒幕の行動を起こさしめた。 徳富蘇峰氏は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない。長州でもない。其他の大名でもない。又当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。…孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であろうが、関白であろうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御蔭であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇を和歌御會記及御年譜』「序」)と論じてゐる。
孝明天皇の國を憂ひ民を思はれる大御心が明治維新の原点であり、孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新であった。君民一體の神國日本の清潔さ・純潔を守らうといふ國粋精神が日本の独立を守った。そしてその國粋精神の體現者・實行者が孝明天皇であらせられた。
四宮先生談 /二ニ>、 祖先は支那や倭国に輸入されてたニダ
//__ __Yヘ お母さんは日本軍人相手の売春婦ニダ
.{ { -'_i_-' } .| ウリはベトナム経由で北米進出ニダよ〜
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| 第5種補給品 |
| 韓国陸軍 |
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| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| 感情優先的な会津を信頼してた一方
感情優先的な長州を嫌っていた
感情優先的な天皇 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています