漢委奴国王印 いわゆる金印part2 

1日本@名無史さん2018/09/16(日) 23:15:01.90
有意義なスレだと思ったので
勝手ながらpart2を立てました
前スレから面白い書き込みは
転用しておきますね

25日本@名無史さん2018/10/02(火) 15:14:26.37
世界の記憶登録は悪意のある怪しい文書登録でもめとるようだが、
金印とか古代の現物文字資料は全く問題無い。
登録はそういうものに限るとすればよかろう
https://www.sankei.com/world/news/180103/wor1801030003-n1.html

26日本@名無史さん2018/10/13(土) 20:16:49.70
古代日本の金器出土を捜してみたが、この金印だけしかない。
中国で前漢は金満国家だったが、日本に流れては来なかった。
古墳時代では鉄剣に金文字象嵌がある。その金は半島から来たんだろう。
飛鳥時代になって半島から金メッキの仏像が来た。
その頃に東北で砂金が採れるようになって、奈良時代では大仏に金メッキした。

27日本@名無史さん2018/10/13(土) 21:19:04.35
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

28日本@名無史さん2018/10/14(日) 07:45:31.64
>>26おいおい、ちゃんと調べなよ
九州の古代古墳には、金の耳飾り
金の王冠2ヶ所、金の指輪も見つかってるよ

29日本@名無史さん2018/10/14(日) 08:34:55.89
金の耳璫だらけだな。

http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif

九州倭国の重臣たちは皆、金で着飾っていたのだな。
ガラス製品は女王の特権か。
八尺瓊の勾玉もその流れなんだろう(色が違うけど)。

30日本@名無史さん2018/10/14(日) 09:25:22.51
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2Rivcaei8JbT38AGR4dOfx7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

31日本@名無史さん2018/10/14(日) 09:50:54.77
で、畿内はどれだけ金とかガラスとか絹とかの宝飾品が出土しているの?

32日本@名無史さん2018/10/14(日) 23:39:15.51
金満ザクザク 前漢 海昏侯劉賀墓発掘 この頃金純度は98%以上と厳しく決められていた
https://www.youtube.com/watch?v=Pt3vqEQC0r4

33日本@名無史さん2018/10/16(火) 10:02:13.52
「漢委奴国王」は
日本では「漢の倭の奴国王」という読み方が一般的だが
中国の専門家には「委」を「倭」と読む人はほとんどいない。

57年 漢委奴国王
57年 新羅の王が倭人になる

金印をもらったと同時に新羅の王も倭人になってるから
「漢から(新羅や任那や九州北部の管理)を委ねられた奴国王」って意味だよ。
古代中国は朝貢した倭王に、朝鮮半島南部の軍事権などを与えている 。
例えば、倭王武が与えられた称号は、「使持節都督・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」であるが
「漢委奴国王」もそれと同じ。

34日本@名無史さん2018/10/16(火) 10:13:12.09
これはひどいw

35日本@名無史さん2018/10/16(火) 16:25:53.69
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

36日本@名無史さん2018/10/16(火) 17:05:27.84
>>33
そりゃ違うだろ、長すぎる。
「漢の管理を委ねられた奴国王」って意味だよ。

37日本@名無史さん2018/10/16(火) 18:31:01.77
>>33
これが正解っぽいな

38日本@名無史さん2018/10/16(火) 20:35:42.49
「委ねる」の目的語がないなんてあり得ないだろ。
馬鹿なの?

39日本@名無史さん2018/10/16(火) 22:42:30.14
>>38
目的語を入れなきゃいけないなんて決まりないぞw

40332018/10/16(火) 22:45:03.93
金印が重要で 、昔は「漢委奴国王」を
初代天皇として数えていたとすると年代が合うんだよな・・・

西暦57年 漢委奴国王(初代天皇)
西暦57〜137年 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)
西暦146〜189年 倭国大乱、桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)
西暦189年頃 卑弥呼が女王になった。

41332018/10/16(火) 22:53:56.83
漢委奴国王を初代天皇とすると
漢委奴国王が神武天皇ということになる。

西暦815年に編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。

西暦57年 神武天皇が漢委奴国王になった。
西暦57年 稲飯命(神武天皇の兄)が新羅の王になった。

42332018/10/16(火) 22:57:47.68
これ言うと怒る人もいるかもしれないが
「カミ」の語源は「漢委」の可能性もあるな。

43332018/10/16(火) 23:11:10.86
『三国史記』新羅本紀によれば、
新羅には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がある。
そして昔氏の始祖は、西暦57年に新羅の王になった倭人の脱解尼師今である。

西暦815年に日本で編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。

一致するね!

44日本@名無史さん2018/10/17(水) 07:24:44.79
帥である今が新羅の王
帥である升が倭の王

倭国大乱後に帥(大率)の上に君臨したのが卑弥呼

中国から見た序列ではあくまでも卑弥呼は倭王だが、東夷の世界では王の上に君臨する、皇帝や天皇のような存在だったのだろう。

45332018/10/17(水) 10:57:01.35
『魏志倭人伝』にも卑弥呼を佐治する弟(卑弥呼の政治を補佐する弟)のことが書かれているが、
「一大率」は、伊都で佐治する人(伊都で卑弥呼の政治を補佐する人)のことだよ。

伊都佐治(いとさち) = 一大率(いったいそつ)

46日本@名無史さん2018/10/17(水) 11:24:17.36
>神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。


新羅王の祖土はタバナ国、つまり丹波であり尾張氏の末裔であろう。
白村江の戦いではその新羅に日本が負けた。

天皇の国日本が一豪族の末裔である新羅に負けた。

その屈辱感から、稲飯命を新羅の祖とすることで、
神武天皇の兄の末裔に負けたのなら仕方ないという
劣等感の裏返し、それが真実であろう。

47332018/10/17(水) 12:38:25.99
白村江の戦い
倭国は唐に敗けたのであって
新羅に敗けたという認識は無かっただろうな。(新羅は唐の属国だった)

48日本@名無史さん2018/10/17(水) 15:19:07.53
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

49日本@名無史さん2018/10/17(水) 15:19:56.77
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

50日本@名無史さん2018/10/19(金) 10:05:58.21
闊端赤 (kötölči 馬牽き)

51日本@名無史さん2018/10/19(金) 11:25:34.90
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

52日本@名無史さん2018/10/19(金) 16:15:29.20

53日本@名無史さん2018/11/17(土) 12:35:26.54
倭を委と書くのは、委ねるという意味を強調するためにワザと人偏を落としただけだろうな。
この手のテクニックは仏典にも良く登場している

例えば無性法忍とかね
認ではなく忍としたのは教学的に深い意味があるのだろう

倭奴国を委奴国としたのは漢の支配に委ねられた奴国という含みを持たせて人偏を取ったと考えられる

54日本@名無史さん2018/11/17(土) 13:11:58.81
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

55日本@名無史さん2018/11/19(月) 14:52:36.07
真贋問題は決着
偽だと言って 世界の記憶登録申請を妨害していた人は
素直にここで ごめんなさい 言うとくんだね
歴史学者です て人は恥だからね

56日本@名無史さん2018/11/19(月) 15:14:10.96
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

57日本@名無史さん2018/11/19(月) 21:38:24.13
現存している蛇鈕龍鈕古代金印
https://i.imgur.com/dgJetaQ.jpg

58日本@名無史さん2018/12/12(水) 09:28:50.48
>>46タバナ→タチバナだよ
   

59日本@名無史さん2018/12/12(水) 19:31:43.99
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

60日本@名無史さん2018/12/16(日) 23:27:01.75
歴史的に人が住んでいなかった所でポロと一つだけ拾われた古代印、
印章は姓名が彫られ、人が持っていたものだから、それにまつわる
歴史ドラマが推察される。
このビデオ 14分に出る北魏鮮卑人の印もそうだ
https://www.youtube.com/watch?v=pUKWvfFkVbI 

61日本@名無史さん2018/12/16(日) 23:41:06.37
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

62日本@名無史さん2018/12/31(月) 11:06:41.22
今年は目出度く金印真贋論争が決着しましたが、金印事情を調べて、あの漢委奴国王が
拾われるまで古代の金印は地上に一つも 無かったというのは意外だった
ま 中国の明清時代の骨董コレクターは知っていたでしょうが

63sage2018/12/31(月) 21:14:13.85
金印は決着したが邪馬台は現状では結論出ない
倭人伝で陳寿さんが邪馬台の場所でワケわからんこと書いた
ワケわからんことあれこれ思い巡らしても結論に至らない
遺跡掘りまくってなにか文字資料掘り出さんといかんでしょう
ズバリ金印親晋倭王か使者の銀印出れば文句なし
纏向で桃の種が出ました そんなもんじゃあかん

64日本@名無史さん2018/12/31(月) 21:29:41.87
3世紀の倭国女王墓である平原遺跡の発見により、ほぼ確定したと思っていますよ。

65日本@名無史さん2018/12/31(月) 22:27:01.95
半世紀前の発見で決まったと言われてもな

66日本@名無史さん2018/12/31(月) 22:29:11.37
それ以降も、認めたくない人たちが意地を張り続けているだけでしょ。
老害が消えてなくなれば平原遺跡で決着するよね。

67日本@名無史さん2018/12/31(月) 22:49:47.30
ああ このスレで”邪馬台国はここだ”はこれ以上しないでください キリがないから
ま その当時の出土品で興味あるものがあれば解説など書いてください

68日本@名無史さん2019/01/01(火) 00:28:56.97
謹賀新年

69日本@名無史さん2019/01/01(火) 02:17:00.90
>>66
妄想世界に閉じ籠らす現実をみような

70日本@名無史さん2019/01/01(火) 08:53:15.72
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

71日本@名無史さん2019/01/01(火) 20:41:17.70
思っていたより小さい。

72日本@名無史さん2019/01/02(水) 09:16:50.19
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

73日本@名無史さん2019/01/03(木) 04:13:35.61
2019/01/02
【金印】「漢委奴国王金印」作ります 謎の製法探る研究者
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1546394496/

74日本@名無史さん2019/01/06(日) 21:58:31.82
印章作るのに謎なんか無いよ、戦国時代からロストワックスでやってた
鈕はロー付けだと思うが
古代中国の冶金 金属加工技術は高い 当時世界一だったろう
https://i.imgur.com/B1EJnlV.jpg
漢代には金地金の純度は98%以上と決められていた
兵馬俑にクロムメッキの剣があったのにはたまげたね どうやったのか
しかしその後そんな物は無くなったところ 量産できることではなかったんだろ 
 

75日本@名無史さん2019/01/06(日) 22:59:17.33
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

新着レスの表示
レスを投稿する