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邪馬台国畿内説 Part379
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0001◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:08:32.00
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537028643/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:11:59.45
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:12:20.41
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:12:38.01
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:12:54.89
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:13:11.44
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
0007◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:13:28.74
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:13:43.18
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
0009◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:13:58.76
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0010◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:14:15.89
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0011◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:14:32.12
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0012◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:14:50.88
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0013◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:15:06.69
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0014◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:15:23.44
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0015◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:15:40.18
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
0016◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:15:58.79
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0017◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:16:18.68
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0018◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:16:42.87
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0019◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:17:10.45
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0020◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:17:32.42
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0021日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:17:47.53
荒らし行為を禁止します、、、
0022◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:17:59.78
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0023日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:18:05.56
荒らし行為を禁止します、、、
0024日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:18:18.50
荒らし行為を禁止します、、、
0025◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:18:19.78
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原型とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0026◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:18:37.24
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0027日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:18:47.03
荒らし行為を禁止します、、、
0028日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:18:47.09
荒らし行為を禁止します、、、
0029◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:18:52.93
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
0030◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:19:09.34
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
0031◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:19:28.70
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
0032◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:19:44.84
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0033◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:20:12.55
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと等
0034◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:20:29.21
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
0035◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:20:52.17
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0036◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:21:11.37
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
0037◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:21:28.00
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0038◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:21:46.69
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0039日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:21:51.19
荒らし行為を禁止します、、、
0040◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:22:06.08
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0041日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:22:09.50
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0042日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:22:20.76
荒らし行為を禁止します、、、
0043◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:22:23.08
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0044日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:22:36.27
荒らし行為を禁止します、、、
0045◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:22:44.85
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0046日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:22:52.96
荒らし行為を禁止します、、、
0047◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:22:59.93
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0048日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:23:09.66
荒らし行為を禁止します、、、
0049◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:23:24.06
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
0050日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:23:24.90
荒らし行為を禁止します、、、
0051◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:23:42.63
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0052◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:23:58.94
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0053◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:24:17.98
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0054日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:24:19.03
荒らし行為を禁止します、、、
0055日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:24:19.21
荒らし行為を禁止します、、、
0056◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:24:44.73
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0057日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:24:46.84
荒らし行為を禁止します、、、
0058日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:24:55.28
荒らし行為を禁止します、、、
0059◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:25:02.99
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0060◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:25:22.88
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0061◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:25:38.85
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0062◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:25:55.35
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
0063◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:26:13.74
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0064◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:26:32.18
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
0065◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:26:48.66
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0066◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:27:06.99
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0067◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:27:23.90
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0068◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:27:42.32
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0069◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:27:59.51
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0070◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:28:17.55
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0071◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:28:34.62
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0072◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:28:52.90
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0073◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:29:11.74
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0074日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:30:22.80
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0075◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:30:36.78
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
             
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
   
                (以上、漢書西域上)
 
 

 
 
0076日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:30:39.64
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0077日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:30:52.59
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0078◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:30:55.85
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0079◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:31:22.20
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
0080日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:31:24.44
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0081日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:31:39.15
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0082◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:31:39.27
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0083◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:31:59.50
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
0084日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:32:06.82
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0085◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:32:17.38
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0086日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:32:23.32
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0087◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:32:37.34
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0088◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:32:54.89
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と比べて劣後しない。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
0089日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:33:06.03
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0090◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:33:12.15
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
0091◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:33:30.02
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。


◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
0092日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:33:43.82
荒らし行為を禁止します、、、
0093◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:33:50.45
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
 https://i.imgur.com/MRmSyqP.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0094日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:33:59.55
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0095◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:34:07.77
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0096◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:34:26.51
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0097日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:34:27.66
荒らし行為を禁止します、、、
0098◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:34:43.14
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0099日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:34:45.88
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0100◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:34:59.92
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
0101日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:35:04.60
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0102日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:35:38.15
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0103日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:36:02.09
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0104日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:36:26.67
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0105◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:36:40.94
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0106日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:36:44.57
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0107日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:37:02.53
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0108日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:37:18.38
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0109日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:37:37.53
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0110◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:37:41.30
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君″jッ至海東,保子¢キ。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青銅」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

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0111日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:37:57.24
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0112日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:38:33.71
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0113◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/09/19(水) 12:38:33.82
以上テンプレ
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【追加・変更点】 ◆FAQ82に闕字を補
0114日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:38:43.74
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0115日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:39:10.76
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0116日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:39:22.05
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0117日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:39:40.32
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0118日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:39:59.51
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0119日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:40:27.75
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0120日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:40:40.35
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0121日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:41:17.55
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0131日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:47:01.02
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0132日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:47:21.73
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0133日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:47:38.13
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0134日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:47:47.98
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0135日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 12:59:54.00
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0136日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 13:00:22.09
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0137日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 13:00:44.48
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0138日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 13:00:57.94
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0139日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 13:01:14.71
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0140日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 13:01:36.77
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0141日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 13:02:46.94
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0142日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 13:25:19.00
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0143日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:03:38.54
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0145日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:04:07.86
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0146日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:04:41.16
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0147日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:04:52.42
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0148日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:05:27.15
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0149日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:49:35.35
日本の古代史を語る上で重要な指標となる鏡だが、
鏡を政治的な権威として殊更に重視するような姿勢は実は日本だけだった

中国では鏡は女性の日用品以上の意味をほとんど持たない
墓からも主体の王の墓などからは鏡が見つからず、周辺の妃や愛妾と思われる墓から見つかる事などからもこれが推察される

なので魏王朝をはじめとした中国王朝は鏡の形式に大したこだわりなど持っていないかったと考えられる
「特に好むものを与えた」と言う記述も中国の儀礼に無い鏡を特別に用意したと言う状況が描かれていると読み取れる

また、当時の中国の鏡の中心地は南方に移っていて、魏が倭に下賜する際に南方の工房から鏡を購入して与えたと考えられる
その為「北の鏡ではない=魏の下賜品ではない」と言う考えは当たらない
むしろ、当時のもっともすぐれた鏡の産地である南方からの特別な取り寄せに厚遇の痕跡を見出すことが出来る
0150日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:50:55.06
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。
0151日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:51:13.41
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0153日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:52:12.19
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0154日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:52:37.60
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0155日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:53:09.53
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0156日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 14:53:20.14
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0157日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:02:03.26
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0158日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:11:10.86
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。


畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した邪馬台国、大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。

神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
0159日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:11:57.37
東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ


真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨

白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな

纒向遺跡の外来系土器の主体尾張は火明命の地
天香久山の山頂に祀られている国常立神、鬼門に封じられた神
尾張一宮は火明命だが、本来は国常立神と言われている

三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、大和朝廷を作ったんだろうな。

サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波咋

国底立神、
国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神、
阿波咋

倭国大乱を引き起こした張本人だろう
0160日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:12:34.49
伊勢内宮神前祝詞

天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある

天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は熱田台地
何か関係あるのかな

卑弥呼とはどうなんだろう
0161日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:14:58.93
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな
邪馬台国、初期のヤマト政権の主体が、石器作りや狩猟を生業にしていた集団であったことが窺える

アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 猟夫ラガ 持タ木ノ真弓 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス豊日霎カ 御魂欲ス 本ハ金矛 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 三輪山ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、穴師ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 木綿取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0162日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:16:37.04
邪馬台国はヤマト国
生駒葛城山系の東側
山の向こう側の地

他の畿内は邪馬台国ではない
いつになったらタイトルを変更するのだろうか?
0163日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:20:03.09
荒らしとコピペキチガイが100レスもしてて吹いた
異常者の考えることは分からん
0164日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:52:57.87
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0165日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:54:01.01
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0166日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:54:35.61
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
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0167日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:55:01.23
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
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0168日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 15:55:11.43
荒らし行為を禁止します、、、
0169日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 16:24:31.51
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
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0170日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 16:26:07.50
荒らし行為を禁止します、、、
0171日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 16:42:58.74
荒らし行為を禁止します、、、
0172日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 16:43:05.26
荒らし行為を禁止します、、、
0173日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:24:40.51
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0174日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:33:04.20
大和に成立した邪馬台国は諸地域の要素をまとめ上げて新たな秩序を作り出した国
なので各地域の諸要素を見出すことが出来る
ただし、地方においてはその要素は全体の一部しか見出すことが出来ない上に、その要素も大きなアレンジを受けている
その為大和以外の地域は連合の構成員ではあるが、ここに邪馬台国があったわけではないのが分かる
あくまでも全ての要素を包含し新たな秩序を成立させている大和にこそ邪馬台国があったと分かる

ここに邪馬台国が建てられた理由は大きく三つある

@弥生時代後期からの大和・吉備連合と言う土台
A周辺諸地域からの交通の利便性
B他地域を従えるような極端に突出した勢力のいない場所

これらの理由からここに邪馬台国が作られたと考えられる
これは「共立」された卑弥呼の姿とも合致する
0175日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:37:13.92
>>174
>大和に成立した邪馬台国


それは、ない。  @阿波
0176日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:40:21.24
道饗祭

高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
  又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 

倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和

狗奴国と道饗祭って、関係あるのかないのか、
詳しい人いないかな
0177日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:41:14.03
方違神社、方違幸大神

出雲地方でオオナムチ以前に信仰されていた神たち
姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神、
その子、サルタヒコ

道饗祭の神々と関係あるのか?
八衢比古・八衢比売・久那斗
0178日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:43:29.98
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?

生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。

焼畑と何か関係あるのかな。
焼畑の遺跡の分布も気になる。
0179日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:45:11.74
邪馬台国に見出される諸要素をまとめると以下のようになる

・大型墳墓(出雲・吉備)
・特殊器台祭祀(吉備)
・祭祀用都市(近江)
・鏡の副葬(九州)

と言う事になる
これ等の地域が邪馬台国の構成員であったと考えられる
各要素ともに大きなアレンジを受けているが、その中で原型を強くとどめている吉備に大きな存在感を見いだせる
中核はやはり大和・吉備連合にある事が分かる
0180日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:45:48.27
各国風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ。  @阿波
0181日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:45:55.29
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。

隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。
山幸彦の子孫を自称する天武の時代に、隼人の乱が起きたのは必然と言える
0182日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:47:58.37
>>179
>邪馬台国に見出される諸要素をまとめると以下のようになる

勝手ルール

>中核はやはり大和・吉備連合にある事が分かる

そして吉備だけでなく、なぜか大和が入ってくる。
どこかの民族のような図々しさ。
0183日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:48:15.44
>>179
>これ等の地域が邪馬台国の構成員であったと考えられる

「忌部はん」だよ。  @阿波
0184日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:49:29.79
やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、 石徹白イトシロ

おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布

白澤、人面の牛、牛妻

白も牛と繋がってくる

シラ、白澤、白沢、白佐波

新羅も本来はシラ

白根か、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉

郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れも興味深い

五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
0185日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 17:52:03.36
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。

見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。

また久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。
0186日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:03:42.70
大墓公、タモ公
タモ 、魏志倭人伝に九州の不弥国の官に多模があるな

大墓公、大白公、太白公

アテルイはかつてのヤマト政権の勢力の末裔なんじゃないかな

東海〜東北にかけて、
オシラサマ信仰や天白信仰が分布している、何か関係があるのか?

蜂子皇子や小手子とかもそうだし、東北は中央で権力争いに敗れた勢力が逃れる先だしね

ヒルコ、蛭子、蝦夷
日本書紀に寄れば、ヒルコが誕生した時には既に日神月神がいたとある

倭国大乱以前は倭国は男王が治める国だった
畿内を征伐して初期のヤマト政権を作った卑弥呼&台与の政権、男王を担げない不完全な存在。
ヒルコだろうな

大墓公はヒルコの系譜なのかな?
0187日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:15:10.82
>>847
>日本国の歴史を「中華皇帝への土下座」から始めることはできない。
それがスサノオであったと書けるわけがない。
だから帥升から約100年後の女王・卑弥呼の時代を男王に変え、
その時代をBC660年などと大きくずらした。 それが神武東征紀の異様な誇張と神武127歳の理由。<


歴史を、「戦前の万世一系皇国史観」で曲解改竄する・・・・思想家、というレベルの人間だな。
0188日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:19:52.60
>>1
またかい 
どこのスレをアラシてきたんだ
やり返されるよ
0189日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:22:21.51
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0190日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:23:49.22
>>849
>尚方作鏡も畿内で出てるぞ?<

大和ではないし、
当然、卑弥呼が東征将軍に下賜して配布した鏡だった、という事になる。
0191日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:24:37.78
例えば一要素を取り出してその源泉を探し出そうとしても、その要素そのものが大きな改変を受けていたり、全く含まない要素が多く存在している
その為に一部地方にその全ての源流を見出すことは不可能

これ等の事からも大和の邪馬台国がどこか一つの勢力の発展拡大ではないのが分かる
多くの地域の連合でありまさに共立であるという姿が見えてくる

大和は覇者ではなくあくまでも連合の取りまとめの立場であると考えられる
なので弥生時代の大和の先進性や豊富な文物を求める必要はないのが分かる
0192日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:38:09.81
>>191
>その為に一部地方にその全ての源流を見出すことは不可能

倭国(阿波)で可能。  @阿波
0193日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:40:06.53
>>191
魏志倭人伝に書かれていたものが何も出ないのでは、それ以前の問題。
0194日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:40:06.58
>850
>馬鹿だね 走る、走らないは関係ないの。
車両の場合はレール、舗装、地盤を傷めないように車輪の数を増やして圧力を分散させるのだ。
大型建物の柱も柱自体や地盤を傷めないように地面に掛かる建物の重量を分散させるために柱の数を決める。
どちらも同じことだ。
これだから九州派は意固地で視野が狭いと云われるのだ。<

別に柱の数だけが問題ではない。
細い柱は、重量がかかれば沈み込みが早いし、石床などを置かなければ、沈み込みは早い。
0195日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:44:15.26
>>179
言いたい事はわかるが、卑弥呼時代の3世紀前半に鉄文化が入ってきてない事が一番何気に痛いんだよな

倭人伝に添えば、北部九州を傘下にしていなければ話にならない
外交ルートを押さえている事が何より重要

「都」だったら北部九州に潤沢にある鉄がでないはずはない

が、畿内では鉄が3世紀前半でも僅かしか無い
意図されてると思うほどの空白地域
巻向にいたっては…銅製品でさえ銅鐸の欠片しかない

後世には畿内が主力となるのは否定しないが、卑弥呼時代はまだあり得ないと思う

編年史が大きく変われば別だけど
0196日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:52:17.46
>>193
>魏志倭人伝に書かれていたものが何も出ないのでは、それ以前の問題。

何度も言わせるなよ
倭国、倭人一般のものは、倭国にあればいいんだよ
倭国は結構広いんだから

大事なのは、邪馬台国固有の記述

・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人
0197日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:55:01.52
>>195
>編年史が大きく変われば別だけど

まさに、編年史が大きく変わったんだよ
1980年代頃にね

もうずいぶん前のことだ
0198日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:56:10.76
弥生時代後期後半には吉備と大和の土器は九州全域にまで広く分布している
この時点で弥生時代後期までは見られなかった畿内→九州のルートが開通していることがうかがえる
そしてこの状況から数十年を経て庄内式の時期になると九州には色濃く大和・吉備の人間が全域に拡散するようになるのが見えてくる

このような状況下の上で大和に諸地域を統合した連合国である邪馬台国が出現している
0199日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:57:02.76
>>196
>大事なのは、邪馬台国固有の記述

何度も言わせるなよ   「其山有丹」だろ。  @阿波
0200日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:58:43.38
>>198
>弥生時代後期後半には吉備と大和の土器は九州全域にまで広く分布している


何度も言わせるなよ   「忌部はん」だろ。  @阿波
0201日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:58:47.88
>>195

北部九州は韓濊人の雑居地だからな
0202日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 18:59:11.73
>>866
>唐古・鍵遺跡のほうが王都にふさわしいと思うな
ザラコクは南≠東でバッサリやるだろうが <

唐古・鍵遺跡は、出雲系銅鐸祭祀部族がいたところへ、
九州倭國系(神武後裔の欠史八代?)が入って来て、
祭祀器であった銅鐸を破壊した、
という形の遺跡だよ。
0203日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:06:08.51
荒らせば荒らすほど九州説の追い詰められてる感があらわになるだけだと言うのに
0204日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:10:26.44
唐古・鍵遺跡は中期末に洪水で埋没した後
後期に再建する集落
北部九州の甕棺造墓集団は九州東部にも拡大しなかった
0205日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:14:42.15
>>190
尚方作竟(佳且好) 奈良県北葛城郡河合町佐味田 宝塚古墳
             奈良県北葛城郡広陵町大塚 新山古墳

銘文
尚方作竟佳且好 明而日月世少有 刻治禽守悉皆右 
長保二親¢キ子 富至三公利古市 傳后世 (左回り)


尚方作竟(眞大巧) 奈良県天理市柳本町 天神山古墳

銘文
尚方作竟眞大巧 上□□□□□(有仙人不知)老 
渇[?欠]玉泉[?几]食棗 浮由天下□?海兮
0206日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:15:40.71
>>204
>唐古・鍵遺跡は中期末に洪水で埋没した後

何度も言わせるなよ   「弥生の大洪水」だろ。  @阿波
0208日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:22:09.81
>>918
理由を言えずに、口先ヘイトスピーチを言い張るだけ。
それが大和説。
0209日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:24:44.44
>>207
>洪水なの?
>津波とかじゃなくて?

奈良盆地に津波???  @阿波
0210日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:28:08.98
>>919
>新井白石は邪馬台国や高天原が「大和ではない」ということを強調したかった。
邪馬台国も高天原は大和にあった事を知ってたからだ。<

邪馬台国なんてなかったし、
大和は、「南≠東」などに拠って、×。
0211日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:30:12.49
>>922
大和説とは「南→東」みたいな、
ウソが書ける人の巣窟。
0212日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:30:58.07
>>919
>新井白石は邪馬台国や高天原が「大和ではない」ということを強調したかった。
邪馬台国も高天原は大和にあった事を知ってたからだ。


各国風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ

「阿波国風土記」  @阿波  
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa

通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?

役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。 
0213日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:35:37.36
(前スレ959
アインシュタインのE=mc2とは
どういう事なのかを説明して貰おうかに対し)

>エネルギーとは、場と他の場との相互作用の強さを示すものであり、
また、静止という概念も、運動という概念も、
人類は特定の場(重力場)という座標系の上で認識するものであり、
だから、重力場という場で認識された「静止質量」というあっても、
電磁場のという光速の場との相互作用をしているのであるから、
E=mc2というエネルギー部分を持っており、
そして、重力場内で移動運動pをしている質量物体の場合には、
エネルギー合計として、
合計エネルギー≒mc2+mv2、いう事になる。<

一行目から違うぞ
E=mc2の意味するところはエネルギーとは質量に光速度の2乗をかけたもの
つまりエネルギーは質量であり質労もまたエネルギーであるという事
これの応用でそれまでの万有引力論より正確に水星の軌道の計算ができて
また導かれた予測通り光も重力の影響を受けるなどの現象も観測されている

わからないなら調べるか最悪黙っておけばいいのに悔しいから
確率は低いけど適当な事言ったら誤魔化せるかな?と考え
こうしたレスをしてしまう九州説の病理
0214日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:36:03.77
>>925
>>蟹沢が4世紀なら、 50歳位で亡くなったとして、
正始元年(240年)鏡を鏡を貰ったのは、20歳以上の壮年期だろうから、
貰った時期は、4世紀の30年位前として、275年前後頃になり、
正始元年頃にはならない。<

>もらったのが被葬者本人と決めつける <

普通は、故人の栄光を示す所持品などを副葬するもの。
大和説者らは、いつも視野狭窄。
それがらは、・・・・アホの大和説。
0215日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:39:25.41
>>935
また「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の、
・・・・ガキらがが発狂してるのか?。
0216日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:58:34.63
>>198
そう思いたいのはようわかるが、鉄の分布一つで畿内は3世紀前半は「都」で無かった事が証明されてしまう

畿内には大陸製品も殆ど無いからね

つまり、3世紀前半に色々と「文化が集まっていた」のは北部九州の方なんだよね

出雲からは玉職人、庄内式土器の受容もその一つ
大陸文化の受容として、国産鏡の独自の発展等

まぁ、当時、交流中心地としてコスモポリス的存在だったのだから、当然ではあるが

畿内は外から鉄文化が入ってくるのが布留0から
それ以前に吉備等の外部勢力が入り込み、墓を造る時にやっと鉄が現れる

流れ的には畿内より吉備の方が邪馬台国の可能性が高そうだ
0217日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 19:59:17.99
>>980
>大和に発生した邪馬台国は各地域の連合体<

邪馬台国なんて存在しないウソ騙しだし、
大和は、筑紫城の倭奴國(の阿毎氏)から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。

>なので各地域の要素を集めた形をしてるので
どの地域にも邪馬台国要素を見出すことが出来る
これが畿内以外の地域に邪馬台国があったと言う話を入れやすい原因になってる<

「東征毛人五十五國」内の地域には、九州倭国からの伝来物が沢山あったから。

>ただしその要素も他地域では一部の物でしかなく、
結局はその集合体としての特徴がまとまる畿内にこそ邪馬台国があったと言う証拠になっている<

ならないし、
畿内なんてもなかったから、嘘つき騙し。
0218日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:04:04.03
>>216
>それ以前に吉備等の外部勢力が入り込み、墓を造る時にやっと鉄が現れる
>流れ的には畿内より吉備の方が邪馬台国の可能性が高そうだ

素直に、倭国(阿波)と言えばいいのにw  @阿波
0219日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:05:03.23
>>216
三世紀のホケノ山とか椿井大山古墳からは鉄製品が
合わせて300点ぐらい見つかるぞ
0220日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:10:01.60
>>219
3世紀じゃないし。
0221日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:12:49.03
繰り返しになるが最初の畿内は多くの文物が見つかるからとか、最強だから中心地になったのではない
纏向遺跡の性格を見ても住居や田畑などは伴わず祭祀遺跡としての性格が強く表れている
この辺については多くの指摘がある通り
最初の段階ではこの土地は多くの地域の文化を統合する祭祀の中心地としてまとまっているのが分かる

そして古墳が築造される庄内2期〜3期の250年〜280年以降くらいから急激に鉄器の出土量を増やす

ちょうど卑弥呼の遣使の前後くらいの時期になっている
倭人伝でも最初の遣使の貧相な貢物が、
次の遣使から献上品として恥ずかしくないほどの質と量に向上している事からもこの遣使前後の邪馬台国の発展ぶりを伺い知ることが出来る
このタイミングも畿内が祭祀のみならず名実ともに中心として急成長していく段階を示しているのが分かる

「今までなかったものが急激に増える」と言う状況こそがまさにこの卑弥呼の治世を境に畿内が発展していく姿を示していると分かる
0222日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:13:29.21
>>219
どっちみち、忌部だし。  @阿波
0225日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:18:02.69
卑弥呼の治世前半の180年から240年ごろと、遣使がされた240年後には飛躍的な発展があるのが遺跡、史書からも読み取れる

「邪馬台国は最初から都として繁栄していたのではない」点に注意が必要
ちょうど遣使の時期を境に大いに名実ともに中心地としての発展を遂げているのである

だから「弥生時代に何もなかった」「卑弥呼の遣使の時期に何もなかった」と言うのはむしろ当然の事だと分かる
0226日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:22:30.95
>>224
どっちみち、忌部だし。  @阿波
0227日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:22:50.50
>>224
ホケノ山は遅くても三世紀中葉なんだが
まあいい
そっちの主張が正しいとして
九州は三世紀前半まで鉄器が多いとしても
中盤ごろにいきなり畿内に抜かれるという事になるが
0228日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:26:21.69
>>223
ホケノの最適試料の小枝のC14の値 では4世紀の可能性もあるね

個人的には布留0は、この間の桃核のJCALの値から3世紀末〜4世紀初め頃というのが妥当と思うが、まだわからん
0229日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:29:15.36
畿内に鉄器や鏡が無いと言う指摘については特に問題とならない

@畿内は多くの文物や軍事力があるから中心になったのではなく、吉備との関係、周辺との地理的関係によるものである
A纏向の性格からしてこの地域は最初祭祀都市として作られた場所で大都市でも交易都市でも生産都市でもない
Bちょうど卑弥呼の遣使が行われた時期を境に急激な鉄、鏡の出土量の増加が見え、倭人伝の貢物の飛躍的な向上等からも情勢が一変しているのが分かる

と言う事が分かる
むしろ「何もなかった」と言うのはこの図式を示す証拠となるのが分かる
0230日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:31:21.68
4世紀の可能性?

ナイナイ
0231日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:35:33.63
>>228
ホケノ山の木材の炭素14c年代測定

木棺 小片 No1   22〜244(AD)
   小片 No2    1〜181
   小片 No3    20〜219
   小片 No4  BC4〜134
   小片 No5    55〜237

    小枝    250〜300 320〜420

南西の添え柱 BC210〜BC50

小枝は異物混入じゃね
0232日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:36:34.72
2世紀前半の男王から3世紀後半のトヨまで続いた王権が、
今日に何の謂れも残していないはずはない。

基本、考古学調査ができるのは何の謂れもない場所だ。
謂れのある場所は神社になってるからだ。

纏向は邪馬台国の王都ではない。

式内・名神大社を見よ。
4世紀前半の崇神ゆかりの大神神社以前がヒミコとトヨの時代だ。
その大神神社以前の名神大社が葛城に集中している。
高天彦神社、高鴨神社、葛城御歳神社、長柄神社など。

土なんか掘らなくても邪馬台国の王都は分かる、それは葛城だ。

とりあえず別名「姫の宮」こと長柄神社であろう。
0233日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:38:07.19
>>227
急に逆転するかどうか?は詳細な資料は知らんが、馬が関係してきそうだ
陸路が発展し、勢力図も変わっただろうね
結果、畿内が勢力をつけていき、後世に大きな勢力になったのは間違いない

ただ、卑弥呼時代はまだ違う、ということ
イヨだったらギリかな
0234日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:40:04.02
邪馬台国は卑弥呼の時期に最盛期を迎えたわけでもその後に消え去ったわけでもない

卑弥呼の治世前半に共立から周辺国をまとめる祭祀の中心として出発し、
卑弥呼の治世晩年に魏との外交を初めて急激な発展を遂げている
これは史書、考古学的発見とも合致する
この後、邪馬台国は中国の史書にあるように台与の後も継続し続け後の大和朝廷に繋がり段階的に発展していく事となる

卑弥呼の遣使の時に大きな繁栄をしている必要はないのが分かる
繁栄はその後
0235日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:42:11.98
>>234
>繁栄はその後

繁栄は8世紀から。  @阿波
0236日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:43:20.59
>>233
馬が日本に入ってきたのは通説では4世紀になってから
三韓征伐の後に導入されたとされている
0238日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:48:38.67
>>231
小枝は中心埋葬施設から出土してるから無視できないし、試料としては最適

土器からみても久住も布留0としているし
小型丸底土器が主体部から出ちゃってるからそう古くはできない
0239日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:49:35.07
>>237

笑わすな、崇神の叔父で磯城の王・イカガノシコオの墓は「伊加加志神社」だ。  @阿波
0240日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:51:29.65
卑弥呼の墓探しは空しい
たぶん発掘した古墳がそうだったとしてもわからんだろう
案外もう発掘されてたりして
0241日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:55:38.46
>>238
木管破片は平均して200年ちょいぐらいを示すから
被葬者はそのくらいの年代だろう
小枝は埋葬品とは思えないから何かの理由で後から紛れたんじゃないの
0242日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 20:58:45.77
>>240
>卑弥呼の墓探しは空しい

何もむなしくない、径百余歩で奴婢が埋葬されてる塚を見つければいいだけ。

高天原(御所市高天)の日本最古の神社境内にある。
0243日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:00:42.99
纏向型前方後円墳の全国拡散が250年くらいから始まる

九州にも最古級の古墳が築造されこの地域も畿内から広がる影響に与している姿が見えてくる
ちょうど遣使を境に畿内の中心性が時間を追うごとに強くなっていく様が読み取れる

繰り返しになるが成立当初から畿内に突出した勢力があったわけではない
発展は卑弥呼の遣使の晩年以降
0244日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:00:55.82
>>238
残念ながら小型丸底土器はもっと古くからあるんだよ
0245日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:01:28.74
>>234
いや、卑弥呼以前にも倭国があり、"王"がいたのだよ
倭国は急に現れたわけではない
「共立」は連合国を連想してしまう字ではあるが、用例ではいろんな意味に使われている
現代の「共立」の意味で単純に考えるのは危険
0246日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:02:25.12
高天原はなにわな気がするんだよね
0247日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:03:12.93
>>242
奴婢が埋葬されたと思しき墓は国内では例がないそうだ
殉葬の習慣はあったにしても古墳の近くに一緒に埋めるとか
そういう物ではない可能性がある
0248日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:07:07.72
>>177
方違=かたたがえ

陰陽道(おんみょうどう)で、外出するときに天一神(なかがみ)・
金神(こんじん)などのいる方角を凶として避け、
前夜、他の方角で一泊してから目的地に行くこと。
平安時代に盛んに行われた。
0249日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:07:18.10
>>985
>邪馬台国の九州的要素と言えば鏡の副葬だが、<

邪馬台国なんてなかったから、インチキ騙しだし、
九州的要素と言えば、水田耕作や金属器や墓や土器や鏡や文字や弥生銀座の技術。

>他の部分では大型墳墓や<

九州では必要がなくなっていたが、
瀬戸内〜南関東では、征服毛人を威圧するために必要であった。

>特殊器台祭祀などの他地域要素に占められている<

出雲系や越は、九州倭国の支配下ではなく、独立国的であったんだから、
その文化の影響は、当然受ける。

>そして鏡の副葬と言う形は同じだが、配布される鏡は、
九州に無かった三角縁神獣鏡や小型?製鏡で形式が全く違う物になっている<

△も筑紫が先行していたのであるが、
東征将軍と思われる墓には、三角縁は少ない傾向がある。

>大型墳墓や特殊器台にしても同様で、
全ての要素を包含するような地域は存在せず形も新たなアレンジを受けている <

当然、毛人蝦夷系の影響を受ける。

>そのような要素が集まり新たな文化が成立している大和こそが邪馬台国であると分かる<

大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。
0251日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:10:25.77
>>236
馬が入ってきたのは4世紀前半。

箸墓周溝の鐙、秋津遺跡の馬の歯がある。
そして山梨の塩部遺跡が続く。

馬を持ち込んだのは崇神時代の任那のソナカシチであろう。
AD313年、高句麗が楽浪を滅ぼした。
後ろ盾を失った半島南部諸国が日本に軍事同盟を求めてきたと推測できる。
400年の高句麗好太王軍南下で彼らの不安は的中。
高句麗に対して倭軍と任那軍は共同歩調をとっている。
0252日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:12:45.80
>>247
>奴婢が埋葬されたと思しき墓は国内では例がないそうだ

例がないってどこを調べた結果なんだよ。
前方後円墳なんか調べてても意味はない。
0253日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:20:37.91
>>229
唐古・鍵から褐鉄鉱の容器が出てるし
0254日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:20:45.95
>>244
>残念ながら小型丸底土器はもっと古くからあるんだよ

小型丸底土器(東阿波型土器)は畿内第X期と何度言えばw  @阿波
0255日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:25:38.78
>>252
じゃあ、あったら出してくれよ実例を
0256日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:26:57.79
>>252
俺自身が直接調べたわけじゃないからわかんねーよ

殉葬の習慣は日本書紀によれば垂仁天皇が止めさせた事になっていて
垂仁天皇の在位はBC29年〜AD70年だから
卑弥呼の時代前にはその習慣は無くなっていたのだろうとも推察できる
もし殉葬跡のある古墳があれば逆にそれは卑弥呼の墓ではないのかも知れない
0257日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:29:04.06
>>250
畿内から出発したんだよ
0258日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:30:02.86
>>988
>元々、大和の邪馬台国は最強だったからとか、先進地域だったからそこに成立したわけではない<

邪馬台国なんて存在していなかったし、
大和は、別種八代の頃は、神武後裔らの筑紫系の阿毎氏と、出雲銅鐸系と、土着の毛人蝦夷系との、
婚姻などを通しての共存地域でとあったのであり、
九州倭国の東征やその部下の崇神や四道将軍らが、その共存を破壊し、統一し始めた。

>各地域の地勢的な中心地でその前段階の大和、吉備地域の連合と言う土台の上に出現した国 <

吉備は、国生み神話時代からの、倭人の天孫族と出雲系との両方の文化地域。

>なので各地域の要素を受け入れて、新しい形を作り出すために都合のいい場所として選ばれた場所と言える
纏向遺跡もそれ以前に何もない空白地に突然現れたことなどからもこれが読み取れる<

纏向は、崇神以後の、九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国。
0259日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:35:54.85
今日は
「記紀から解く奈良県史」の授業みたい
0260日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:37:15.18
しかし日本書紀の殉葬の記述も妙ではあるな

「倭彦命が亡くなると、その近習が集められ、
その墳墓の境に生きたまま埋め立てられた。
彼らは数日たっても死なず、昼夜泣き続けた」

首だけ出して埋められたんだろうか
0261日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:39:50.98
>>258
妄想を言い張るだけが九州説
いちども根拠だしたことなし
0262日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:40:27.25
>>990
>邪馬台国が大和に出現したのもむしろ突出した地域でなかったからと言う事も大きいのではないかと思う<

邪馬台国なんてなかったし、
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であったのであり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に従軍して、大和盆地内を征服する事になった。

>邪馬台国の諸要素は各地域の寄せ集めで大和的要素が殆ど見いだせない事などからもそれが推測される
弥生時代の大和の文化は邪馬台国以降で途切れていると言っても過言ではなく、
ここに出現した邪馬台国は本当に新たに新設されたと言う形容がふさわしい<

弥生期の寄せ集め共存は、東征将軍のために、破壊統一された。
0263日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:41:23.47
>>260
人物埴輪から空想しただけだろ
0264日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:45:19.86
>>262
九州が東征したとか大ウソ
畿内の西征軍に平伏して服属させられたのが九州
0265日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:47:31.93
>>996
>弥生時代の大和は鉄も鏡もなかったと言う指摘があるが、
そもそもそのような先進的要素が理由で大和に邪馬台国が出現したわけではないのだから当然である<

鉄や鏡を齎したのは、九州倭国の東征。

>むしろそのような極端に突出した地域でないからこそ、
諸地域の要素を集合して新秩序を打ち立てる中心地として選ばれたのだと考えられる
諸地域の交通の利便、連合の障害となるような勢力がない比較的余裕のある地域
このような大和の状況がここに邪馬台国を成立させた大きな要因と言えるだろう<

九州倭国の東征征服に拠る「市」の発展。
0266日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:50:25.89
>>264


>畿内の西征軍に平伏して服属させられたのが九州 <


年代比定していただけませんか その後に意見は書き込みます
0267日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:50:40.17
>>263
そうだな
日本書紀は720年成立だから殉葬の習慣はとっくに廃れていて
この部分は想像だったのかも知れない
天皇の徳を強調するためにこういう残酷さを強調した表現になったのかもな
0268日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:52:27.39
>>1000
>唐古鍵からは褐鉄鉱の容器が出土してるが
これは北九州から献納されたものかい<

唐子鍵は、神武後裔の欠史八代と、出雲系銅鐸部族との共存地であったが、
九州倭国の東征に拠って、銅鐸祭祀が破壊され、銅鐸は溶融された。
0269日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:53:16.39
>>260
中近東のイスラム教原理主義の国で不倫すると
首だけ出して埋められ、石を投げられる。
0270日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 21:53:32.79
>>236
布留0が300年前後、布留1(4世紀)から各地に同一埋葬文化が広まり(流行)しはじめる
馬の影響もある、とみているよ

そこに何かしら広域的な勢力の拡がりも関係があったかもしれないが、=にしてはダメだろうね
0273日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:01:34.87
>>270
理由もなく?

さすが九州説



w
0274日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:05:47.98
>>270
>布留0が300年前後、布留1(4世紀)から各地に同一埋葬文化が広まり(流行)しはじめる

今どきそんな編年は通らないよ
根拠がないだろ?w
0275日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:08:31.01
九州説は自分の欲望を言う
けして根拠は言わない
0276日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:09:57.57
>>272
魏志倭人伝は、3世紀より古い記録も断りなく引用してる(漢文に時制はない)から、
家族墓である方形周溝墓への追葬か、甕棺墓時代の庶民の墓の甕棺墓列を殉葬と
見間違えた記録から、王の死への殉葬というストーリーを作ってしまったんじゃないかな
0277日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:11:39.33
>>255
だから出してるだろ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に、
150mほどの塚があり、奴婢が埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛だ。
この塚が墓域であることは、さほど古くないが複数の墓石があることからも確実。
0278日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:13:01.07
畿内の箸墓古墳や西殿塚古墳で
埴輪の前身らしい宮山型特殊器台が見つかっているな
壷に酒なんか入れて捧げたと考えられてるけど
悪く想像すれば奴婢の血とか入れていたのかもな
0279日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:13:53.26
>>277

笑わすな、崇神の叔父で磯城の王・イカガノシコオの墓は「伊加加志神社」だ。  @阿波
0280日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:15:52.71
>>261
>妄想を言い張るだけが九州説
いちども根拠だしたことなし <

このフレーズは聞き飽きました 
ぐ〜の音も出ない時によく使うと理解してます
0281日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:17:10.31
>>276
まあ実見とは考え辛いからな
奴婢百人は単なる伝聞で全くの誤情報かも

と書くとザラコクがいや魏使らは卑弥呼の墓を見ておりとか言うだろうけど
0282日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:17:16.56
殉葬、生贄、動物の頭を捧げる、etc
残酷過ぎるわ

尾張あたりは江戸時代まで人を生贄にする風習が残っていた
尾張藩も度々禁止令を出したとか
0283日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:17:32.76
>>278
>畿内の箸墓古墳や西殿塚古墳で
>埴輪の前身らしい宮山型特殊器台が見つかっているな

その特殊器台の朱は倭国(阿波)産という・・・・  @阿波
0284日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:17:59.00
>九州説は自分の欲望を言う
けして根拠は言わない <

このフレーズもww
0285日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:24:43.03
>>278
そんなことをしていたら痕跡が残っているよ。
0286日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:24:50.63
畿内説は乱暴すぎる

大型掘立柱建物が見つかったら 集落群も無いのに王都王都と騒ぐ
3世紀の墳だし、円部が径百歩だからヒミコの墓と騒ぐ

思慮に欠ける 調査初歩の段階で騒ぐのはよくない
全容がわからないまま、現世で結論を出す必要はない
後の世に繋げる研究をすればよいと思う
0287日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:29:46.11
>>281
>奴婢百人は単なる伝聞で全くの誤情報かも

土蜘蛛が埋葬されてるところは2ヶ所、
高天原と葛城一言主神社だ。
一言主神社の方は長柄に近いことから、
神武が征した猪祝だと思われる。
神武東征紀は全くの創作ではなく、
その記述の多くは正しいのではないかと思われる。
0288日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:30:26.24
>>282
古代では世界中どこにでもあったよ
赤子を生贄にするドルイド教やらウィッチの語源の
人や動物を大きな木の人形に閉じ込めて燃やすウィッカーマン
中東辺りはモーロックやらバール教やらが赤子を炉で焼き殺したり
南米では16世紀くらいまでアステカの儀式で何万も心臓を捧げてた

仏教イスラムユダヤキリスト教のいわゆる清浄な宗教は
はそれらを禁じたから世界中に広まったとも言える
0289日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:30:52.27
ああーーー

今日も他説の論客の前に畿内説はイミフの書き込みと罵声に終始
0290日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:33:42.91
ちなみに道という漢字の部首が首なのは
古代中国では道を歩く時に
魔物よけに生首をぶら下げて歩くのがいいとされていたから
0291日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:33:59.39
>>287
>高天原と葛城一言主神社だ。

それは、鳴門市北灘町粟田の「葛城神社」だ。
「葛城神社」は一言主神(ヒトコトヌシノカミ)をご祭神とする。  @阿波
0292日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:37:28.45
倭国が朝献するたびに古代中国に献じてた「生口」は
その後どんな運命を辿ったんだろうなあ…
0293日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:38:00.02
卑弥呼の墓の奴婢は生贄とは決まっていない。
神武に葬られた土蜘蛛なら、それは生贄ではない。
0294日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:38:04.71
>>149
>なので魏王朝をはじめとした中国王朝は鏡の形式に大したこだわりなど持っていないかったと考えられる<


この投稿は、前に見た事があるから、「同じ投稿の転写貼り付け」のようであるが、
「尚方作」の方格規矩鏡が21枚も倭国から出土しているから、
ある程度以上に、良き鏡を下賜しようとしていた、という事になる。、

]
>「特に好むものを与えた」と言う記述も中国の儀礼に無い鏡を特別に用意したと言う状況が描かれていると読み取れる<

読み取れない。特に卑弥呼にとっては「いい鏡」を下賜しようとした、としか読み取しかれない。

>また、当時の中国の鏡の中心地は南方に移っていて、魏が倭に下賜する際に南方の工房から鏡を購入して与えたと考えられる<


明帝は、メンツにかけても、敵国の呉の鏡を選択する筈がない。

>その為「北の鏡ではない=魏の下賜品ではない」と言う考えは当たらない
むしろ、当時のもっともすぐれた鏡の産地である南方からの特別な取り寄せに厚遇の痕跡を見出すことが出来る<


明帝も魏の家臣も、敵国の呉の鏡を、選択しない。
0295日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:39:13.72
 @阿波 さん 時折 荒い言葉を目にしますが別人?
0296日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:39:14.09
>>252
「人の世に熱あれ 人間に光あれ」の水平社運動
0297日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:40:05.80
間違い、>>292ね。
0298日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:40:06.94
>>158
畿内も、邪馬台国も、大和朝廷も、倭国大乱もなかったから、×。
0299日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:42:18.96
>>159
邪馬台国も大和朝廷も倭国大乱もなかったから、×。
0300日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:43:22.44
古代中国は人肉食してたから捧げた生口も料理されて食われたかも知らんね
0301日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:43:48.28
>>160
卑弥呼は伊勢に関係がないから、×。
0302日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:45:19.92
神道も穢れを嫌う清浄な宗教のはずだが、
諏訪大社とかは生贄祭祀があるし、未だに雑多存在なのかな
0303日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:45:54.55
>>161
台予も邪馬台国もなかったから、×。
0304日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:47:19.40
>>162
畿内も邪馬台国もなかったから、×。
0306日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:49:23.83
>>163
荒らしとコピペの大和説のキチガイが100レス?もしてて吹いた。
異常者の考えることは分からん。
0307日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:56:19.04
邪馬台国論争は別の意味で勉強に成ります
徇葬者奴婢百餘人からの
 生贄 人物埴輪 首 道 ・・・・への展開 一つづつ興味満載です

個人的には「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王」


「宗女」がよくわかりません いろいろな解釈があるようですが
中国の古文書・現代でもいいですが「宗女」を語っていただけると良いのですが
別に記紀や万世一系に弓を引くつもりはありません
0308日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 22:57:50.97
>>295
>@阿波 さん 時折 荒い言葉を目にしますが別人?

どれかな?  人様の言葉をそのまま返すことが多いのでw  @阿波
0309日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:00:29.14
>>174
>大和に成立した邪馬台国は諸地域の要素をまとめ上げて新たな秩序を作り出した国
なので各地域の諸要素を見出すことが出来る
ただし、地方においてはその要素は全体の一部しか見出すことが出来ない上に、
その要素も大きなアレンジを受けている
その為大和以外の地域は連合の構成員ではあるが、ここに邪馬台国があったわけではないのが分かる
あくまでも全ての要素を包含し新たな秩序を成立させている大和にこそ邪馬台国があったと分かる<

邪馬台国なんてなかったし、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の事を全く隠蔽抹殺しているから、×。

>ここに邪馬台国が建てられた理由は大きく三つある
@弥生時代後期からの大和・吉備連合と言う土台 <

いずれも、出雲系と九州倭国の共存があった地域。

>A周辺諸地域からの交通の利便性 <

ない。

>B他地域を従えるような極端に突出した勢力のいない場所<

結局九州倭国の勢力下になった。

>これらの理由からここに邪馬台国が作られたと考えられる<

考えれられない。

>これは「共立」された卑弥呼の姿とも合致する 。<

「南≠東」に拠って、×。
0311日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:03:45.90
>>176
関係のない卑弥呼や狗奴國を出して来たから、×。
0312日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:07:17.36
>>178
邪馬台国も大和朝廷もなかったから、×。
0314日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:17:27.44
寝よう
この展開期待してたのに
>>262
>九州倭国の東征やその部下の崇神や四道将軍らが、その共存を破壊し、統一し始めた。<

これを受け
>>264 が262へ
>九州が東征したとか大ウソ 畿内の西征軍に平伏して服属させられたのが九州 <

そして
>>266が264へ
>年代比定していただけませんか その後に意見は書き込みます <


東西 展開ヨロシク 
0317日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:28:13.77
>>308 @阿波さん

>>295です

ここです

>>277 笑わすな、崇神の叔父で磯城の王・イカガノシコオの墓は「伊加加志神社」だ。  @阿波

根本は「高天原(御所市高天)」ですが 向きになるようなカキコミでは無いように思います
それとも 本当に笑ったのですか・・それならわかりますが
0318日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:32:03.65
>>274
ん?
具体的にどこが間違っている?
どんな編年なんだい?
各地多少の違いはあるが、埋葬文化の流行は明らかなのだが?
0319日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:34:40.91
>>315
キウスを特定してくれないとわからん
俺を特定してもいいが それ以外を特定してくれ
0320日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:38:25.97
>>318

>>270への返答としては
なんとなく無理があるような気がする なんとなくだから突っ込まないでね
0321日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:41:35.82
訂正

>>318

>>274への返答としては ・・・・>>274でしたスマソ  ✖>>270
なんとなく無理があるような気がする なんとなくだから突っ込まないでね
0322日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:43:58.17
キナイコシ反撃に出ろ
無理だなテメーの頭じゃ
0323日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:46:07.93
>>198
>弥生時代後期後半には吉備と大和の土器は九州全域にまで広く分布している

吉備や大和が筑紫倭国の支配下に組み入れられたのだな。
0324日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:47:10.21
余興です
>>278
血の証跡があればDNA鑑定すべきですね
0326日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:48:55.85
鉄道マニア 何処へ隠れた
0328日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:49:15.53
>>221
>纏向遺跡の性格を見ても住居や田畑などは伴わず祭祀遺跡としての性格が強く表れている

ただの田舎だよ。
魏と国交なんて結べない。
そんな田舎を見せられても、魏の使いは倭王だなんて認めない。

そもそも、魏志倭人伝は卑弥呼の宮城の壮大さと、そこに働く人の数の多さを強調しており、纒向の片田舎の寂れた様子とはかけ離れている。
あなたが主張していることは、魏志倭人伝からかけ離れた妄想だよ。
0329日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:50:48.69
大和に出現した邪馬台国は、大和・吉備・近江・丹波・九州・出雲を加えた広域の大連合国家をまとめる祭祀の中心地

覇権国家でも、豊富な文物を誇る地域でもない
弥生後期から続く大和・吉備連合を土台として周辺国との地理的関係によって選ばれた土地
その機能も祭祀に特化したもので他地域に優越する特別な出土品を出すわけではない

180年ころからの卑弥呼の治世の大半はそのような祭祀の為の土地だった
この土地が名実ともに日本の中心地として発展するのは卑弥呼の遣使の後
250年以降の纏向型前方後円墳が全国に広まりだした時期に当たる

卑弥呼前の弥生時代や、卑弥呼の治世前半の180〜240年の出土品が貧弱で、
その後に突然出土品が増えだすのはこのような状況を表している証拠だと言える
0330日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:51:01.05
>>225
>卑弥呼の治世前半の180年から240年ごろと、遣使がされた240年後には飛躍的な発展があるのが遺跡、史書からも読み取れる

どこの史書から飛躍的な発展が読み取れる?
後漢書における九州北部の倭国から、何も倭国の所在について変更はないよ。
0331日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:51:43.20
>>227
>中盤ごろにいきなり畿内に抜かれるという事になるが

卑弥呼の崩御により、畿内に発展の余地が生じたということだろう。
0332日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:52:46.60
>>229
>A纏向の性格からしてこの地域は最初祭祀都市として作られた場所で大都市でも交易都市でも生産都市でもない

纒向の性格?
それは魏志倭人伝の邪馬台国とかけ離れているぞ。
纒向は宮城とは呼べないだろ。
0333日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:53:49.96
鉄道マニア 何処へ隠れた
0334日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:54:50.78
>>243
>纏向型前方後円墳の全国拡散が250年くらいから始まる

九州にいた卑弥呼の崩御が西日本の勢力地図に大きな影響を与えたのだろう。
0335日本@名無史さん垢版2018/09/19(水) 23:57:55.64
>>329
>250年以降の纏向型前方後円墳が全国に広まりだした時期に当たる

卑弥呼の死後に広まり始めたのか。
0336日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:02:19.72
卑弥呼の死後も引き続き魏と交渉があったのは
邪馬台国女王トヨだぞ
0337日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:12:51.72
テンプレ>>105  のFAQ82 スレ主のA
皆どのように理解した

> このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、
倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 <


俺が引っかかったのは
「中国皇帝」・・・なぜ魏としなかったのか
「倭王が連合参加の諸君公」・・これは解読不能 誰か教えてくれ

スレ主はどうせ貼り付けだから回答しなくて良い
0338日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:18:03.10
250年〜はさすがにちょっと早く設定しすぎかな
布留0で箸墓
各地に広がりはじめるのはこの頃だがまだ少ない本格的流行は布留1からだよ
三角鏡もね
0339日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:18:57.36
>>296
それ東征だよな
倭人+渡来人の朝廷が倭人を制圧した歴史
それに刃向かった奴が○✖ 蝦夷に逃げた奴は??
0340日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:23:16.29
>>337
「倭王が連合参加の諸君公」・・は
魏志倭人伝の記述にある詔書に
これを見せて魏がいかに汝を大切にしているか
周辺諸国に示すがよいと書いてあるからだろ
0341日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:28:30.55
>>1
誠実な努力は必ず形を変え報われるよ
誠実ならば努力を惜しまない方が良い
ガンバレ ガンバレ ガンバレ
各説同じ??????
           感情に走る自戒を込め
0342日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:31:02.27
私利私欲(銭・名誉)に走る学者は去れ
嘘をつきまくるから去れ
5ちゃんでいってもしょうがないが
去れ 去れ 去れ 去れ 去れ
0343日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:34:56.13
フフフ
一流の畿内説専門学者が数多く書き込んでいるぞ
九州説の命運は尽きた
0344日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:41:54.98
芸能人のお家芸 ○✖AKB

「努力は報われるなんて嘘だと思ってました
しかし、今ここに立ち努力は報われると確信しました。」  ここで涙流す

1.嘘なら目標に向かって努力するなよ
2、嘘を信じて努力したんだろ それって嘘だと思わなかったんだろ自分を信じたのだろ
3、運はつきもの あなたは運が良かったのですよ あなた以上に努力してもダメだった人へ配慮しなさい

3が大事・・・実るほど頭が下がる稲穂かな


今TVを見てて
酔狂ゆえ お許しあれ
0345日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:44:47.56
>>325
いかんぜよーー
わが身を振り返れ
0346日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:50:02.41
寝ようとか言っていたキウスが特定されたので大暴れ
ここまでわかりやすいバカはなかなかいない
0347日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:50:38.61
今日は呟き男が現れる予感
みんな寝ようぜ
0348日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 00:54:41.14
345 344 342 341 339 337 333 326
324 322 321 320 319 317 314
0351日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 02:14:54.30
一般的な編年だと最古級の古墳の築造時期は210年ごろになる
最近だと寺澤氏などは大体250年〜280年くらいの庄内2から3式の時期に最古級の古墳が現れていると言う判断を出している
久住編年でもだいたい同じでこれに更に那珂八幡などの九州にも同時期に古墳が出現していると考えている

つまり、多くの学者が250年辺りを境に畿内から九州に至る地域に古墳が同時多発的に表れたと判断しているのが分かる

丁度この時期は卑弥呼の遣使と、死の時期に重なり、畿内の邪馬台国が古墳と言う全国的な秩序を打ち立てて、
名実ともに倭の中心勢力として発展していく過程にあるとッ考えることが出来る
0352日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 02:34:12.85
キウス とか ザラコク とか
そもそも、ただの 梅 だろ?
所詮、粘着アラシの巣www
0353日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 05:35:01.44
>>286
>繋げる研究
こういう「繋げる」の使い方は飛ぶ鳥の明日香以来の
畿内標準語ではなく10年ぐらい前からNHKのニュース番組でも
聞くようになった東国方言だな。
0354日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 05:36:00.01
>>179
>邪馬台国に見出される諸要素をまとめると以下のようになる<

邪馬台国なんて存在していなかったから、この男も始めから、
「邪馬壹國→邪馬台国」の嘘吐き騙しをしようとしている、
「結論先にありき」の詐欺師であった事が判る。

>・大型墳墓(出雲・吉備) ・特殊器台祭祀(吉備) ・祭祀用都市(近江) ・にの副葬(九州)
と言う事になる<

この男は、始めから文献を無視しているインチキをしてらおり、
考古を中心に平等に客観的に論じたように見せながら、
列島の縄文系や渡来の倭人系の考古の中から、主観的な恣意的な特定考古を選択しており、
やはり、結論先にありきの・・・・詐欺師である事が判る。

>これ等の地域が邪馬台国の構成員であったと考えられる
各要素ともに大きなアレンジを受けているが、その中で原型を強くとどめている吉備に大きな存在感を見いだせる
中核はやはり大和・吉備連合にある事が分かる<

この男は、結局は、文献的にも考古的にも、倭人の中核的な地域であった筑紫や弥生銀座を隠蔽し、
倭国から別れた別種の旧小国の大和が、列島を一元的に支配していたかのような、
インチキ騙しをしている・・・・詐欺師であった、
という事が判る。
0355日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 05:41:14.84
>>184
この男も、敢えて、九州倭国の歴史を隠蔽し用途している・・・・詐欺師。
0356日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 05:42:41.41
>>185
天皇も皇后もいなかったから、×。
0357日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 05:47:27.27
>>186
邪馬台国も畿内もなかったし、アテルイは倭人に抵抗した縄文系毛人蝦夷であったんだし、
だから、この男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。
0358日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 05:56:28.13
>>191
>これ等の事からも大和の邪馬台国がどこか一つの勢力の発展拡大ではないのが分かる<

邪馬台国なんて存在しなから、この時点で、この男も、・・・・詐欺師である事が分かる。

>多くの地域の連合でありまさに共立であるという姿が見えてくる<

大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であったのであり、
「南≠東」に拠っても、「共立」は筑紫であった事も分かるので、
この男も、嘘つき騙しの・・・・大和説詐欺師であった、という事が分かる。

>大和は覇者ではなくあくまでも連合の取りまとめの立場であると考えられる
なので弥生時代の大和の先進性や豊富な文物を求める必要はないのが分かる<

文献的にも、大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国。
0359日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:06:50.91
>>196
>何度も言わせるなよ 倭国、倭人一般のものは、倭国にあればいいんだよ
倭国は結構広いんだから<

何度も言わせんなよ。
倭国本体は、九州及びその周辺地域。
瀬戸内〜関西方面は、倭種や別種や旧小国。

>大事なのは、邪馬台国固有の記述 ・邪馬台国の発音に近い地名<

「邪馬台国」なんて、存在しない。
存在したのは「邪馬壹國女王之所都」。

>・戸数7万戸 ・30近くの国々の盟主 ・宮室、楼観、城柵 ・卑弥呼の墓径百歩 ・徇葬百人<

いずれも、九州にあって、
大和には存在しない。
0360日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:11:01.11
>>197
>まさに、編年史が大きく変わったんだよ 1980年代頃にね もうずいぶん前のことだ<

大和説学者らの編年史は、「南→東」などの史料事実の否定曲解をしている事がバレており、
国民の7割は、信じていないから、
変わっていない。
0361日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:11:50.39
>>313
>そこが卑弥呼の墓と主張する気か

そうだよ。
先ず卑弥呼が誰なのかキチッツと出さないと。

国宝・中平銘鉄刀の和邇氏につながる。
鴨族の聖地が高天原(御所市高天)だ。
   

    事代主
     ┣━━━━━━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
     ┣━━━━━━━━┓
    建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃           ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津媛━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主            孝昭
     ┃             ┃
    阿田賀田須       天足彦国押人命
                  ┃
                和邇日子押人命
0362日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:16:23.57
>>303
「台予」が「臺予」の書き間違いでなく人名だとしたら
読み方としては昔流行ったセンチメンタル・ジャーニーの

「台予」はまだ16だから
何かにさそわれて

だな

「臺ダイ」の新字体では無い「台」は「タイ」以外に
《唐韻》與之切《集韻》《韻會》盈之切《正韻》延知切,音怡。
つまり「怡土郡」の「怡=イ」と同じ音読みで
意味としては《爾雅·釋詁》台,我也。《又》予也。
一人称代名詞だから「台」も「わたし」、「予」も「わたし」で
同音語が多くて紛らわしい支那語をしゃべる人物に対して
支那語の一人称代名詞を二つ続けて「わたし」をよりハッキリと強調したのである。
「台」の用例としては
《書経の禹貢》祇台コ先。《書経の湯誓》非台小子,敢行稱亂。
などがある。
日本の元号は史記や書経にある字句から取られていて
戦前戦中天皇(おほきみ)が渙発した詔勅(みことのり)も書経の文体を踏襲していた。

つまり卑弥呼の時代の倭人は漢文の中でも
難解な尚書の文体の漢文を自由自在に読み書きしていたことになる。
0363日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:23:01.07
>>198
>弥生時代後期後半には吉備と大和の土器は九州全域にまで広く分布している<

時系列が改竄されている。
第五様式も庄内も半島系土器も、筑紫の三雲や弥生銀座などが先行し、
瀬戸内はそれを伝来模倣した状態。

>この時点で弥生時代後期までは見られなかった畿内→九州のルートが開通していることがうかがえる<

畿内なんて存在しないし、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠る伝搬。

>そしてこの状況から数十年を経て庄内式の時期になると
九州には色濃く大和・吉備の人間が全域に拡散するようになるのが見えてくる <

瀬戸内地域からも、「地方の市」を介しての、筑紫へ搬入上納。

>このような状況下の上で大和に諸地域を統合した連合国である邪馬台国が出現している<

邪馬台国なんて存在しないし、「南≠東」などに拠っても、×。
0364日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:26:35.21
>>201
>北部九州は韓濊人の雑居地だからな <

この大和説男も、
「戦前の万世一系皇国史観の人種差別的殺戮戦争」宗教にクルった・・・・だからな。
0365日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:30:35.21
>>203
「戦前の万世一系皇国史観の人種差別的殺戮戦争」宗教にクルって、
「南→東」などの嘘吐き騙しをして、荒らせば荒らすほど、
大和説の追い詰められてる感が、国民にあらわになるだけだと言うのに・・・。
0366日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:38:02.70
>>364

韓・濊は民族名で差別用語ではない
0367日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:39:44.75
>>361
「王都は纒向」に異論は無いよな
箸墓に異論があるだけだよな
0368日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:40:17.26
>>317さん 指摘ありがとう。

それは>>277じゃなくて、>>239への指摘ですね?
>>239>>237さんのフレーズが面白かったので借用(転用?)しました。
決して、向きになった訳ではないので、ご了解ください。  @阿波
0369日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:47:43.17
>>329
>大和に出現した邪馬台国は、

それは、ない。


>大和・吉備・近江・丹波・九州・出雲を加えた広域の大連合国家をまとめる祭祀の中心地

奈良大和は「阿波・讃岐・吉備・近江・丹波・伊勢・東海」などの「忌部はん」達による開墾地。  @阿波
0370日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:50:11.63
>>204
>唐古・鍵遺跡は中期末に洪水で埋没した後 後期に再建する集落<

唐古・鍵遺跡は、
欠史八代の頃は、神武の後裔倭人と在地の出雲銅鐸系との共存地であったが、
四道将軍など東征毛人五十五國時代になって、倭人勢力が強くなって、銅鐸が破壊された。

>北部九州の甕棺造墓集団は九州東部にも拡大しなかった<

甕棺造墓集団は、当然中国の燕〜呉から渡来して来た一部族集団であったが、
天孫族や姫氏に負けて、吸収された部族。
祇園山の墳裾の第一主体の(鏡片や剣などを付けた奴婢であったと思われる)成人女性の甕棺が、
最後頃であったようだ。
甕棺は、吉野ヶ里や須玖岡本にもみられたから、
徐福系との混合であった可能性もある。
0371日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:51:04.28
>>337
>「中国皇帝」・・・なぜ魏としなかったのか
「倭王が連合参加の諸君公」・・これは解読不能 誰か教えてくれ <


中国皇帝でもいい三国の中国皇帝の一人だから

連合=倭国 連合参加の諸君公=ヒミコを擁立に動いた国の主君 その他は倭種の別国
0372日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:53:33.96
>>359
>いずれも、九州にあって、
>大和には存在しない。

根拠なく言い張ってもダメだよちゃんとこんな風に論証しないと

九州説だと
・邪馬臺国の発音に近い地名

 一応、山門あたりが候補になるが、次の戸数7万戸とみなせる遺跡はない

・戸数7万戸

 奴国二万戸を超える国が、北部九州にはない  九州中南部にもない

・30近くの国々の盟主

 奴国にはいろんな地域の土器が来ているが、港町・大陸との玄関口として人が集まった結果であり、盟主的ではない  また、奴国は邪馬台国ではない

・宮室、楼観、城柵

 吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国の想定に寄せて復元しているだけ  吉野ヶ里遺跡は邪馬台国とは時代が合わない

・卑弥呼の墓径百歩

 候補すらない
 九州説お気に入りの平原1号墓は漢魏尺の度量衡だと10歩に満たない
 無理に百歩だと言い張ると、複歩で12センチ、単歩(現代の一歩)で6センチになる

・徇葬百人

 これは、日本中探してもない
0373日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 06:54:23.68
・邪馬臺国の発音に近い地名
 ⇒ ヤマト国そのもの

・戸数7万戸
 ⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
   戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
   四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる

・30近くの国々の盟主
 ⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積 
   広い範囲からの人が集まっている証拠  
 ⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
   それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
   この墓制の共通化を主導した盟主と認められる

・宮室、楼観、城柵
 ⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
   それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
 ⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している

・卑弥呼の墓径百歩
 ⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
   それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
   どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
   いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い

・徇葬百人
 ⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
   家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
   誤解した可能性がある

畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できるんだが?
0374日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:07:54.26
殉葬だって説明できるだろ
0375日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:19:11.48
邪馬「壹」国⇒邪馬「台」国
「壹」「與」⇒「台」「与」

この変換がよくわからん
読みやすく?書きやすくしたためか?
0376日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:21:24.67
>>370

成人用甕棺は燕〜呉にはない
ヴェトナム〜ボルネオ〜ルソン島に分布している
0377日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:33:19.38
すべからく理的であるべし。
単に、説明できればいいってもんじゃないんだが・・・
0378日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:39:39.98
>>377
あんた理的じゃないね
0379日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:40:46.79
>>373
>いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い

ない。
前期古墳は山稜にある。
纏向古墳群は低地。

>徇葬百人

生きたまま埋葬したわけではない。
抵抗するものを制したのだ。
神武紀の土蜘蛛がそれにあたる。

高天原最有力地に徑百余歩の土蜘蛛が埋葬された塚がある。
祖の塚が地元の墓地であることは確認済み。
日本最古の式内・名神大社の敷地という謂れに不満はあるまい。
0380日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:45:58.75
>>379
>前期古墳は山稜にある。

これ、連呼してるけど・・・

根拠を一度も聞いた覚えがない
0381日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:49:00.13
>>379
>前期古墳は山稜にある。
>纏向古墳群は低地。

「前期古墳」は、何を意味している?
西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳などのことと考えていいか?

弥生時代は、墓地と集落は同じ平面上にあり、纒向古墳群はその伝統を踏襲している
ただ、箸中山古墳に至って、墳丘盛土の労力がハンパなく大きくなったので、
その次の世代の西殿塚古墳などは山の尾根などを地山成形して整えて墳丘を作ることで
盛土の量を抑えるようになっている
0382日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:49:04.85
>>379

御所市の土蜘蛛塚って一人分だろ?
0383日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:49:27.72
>>372
窮鼠猫を嚙む
あまり感心しない 畿内説が揺らいでいる証拠
ここは畿内説のスレ
あんたへの反論は誰かがすると思うが
0384日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:54:14.92
>>375
>邪馬「壹」国⇒邪馬「台」国
>「壹」「與」⇒「台」「与」

これ、一段階抜けてる

邪馬「壹」国は誤記⇒邪馬「臺」国⇒邪馬「台」国
(臺が当用漢字音訓表(当時)に入らなかったので同じ発音の台で代用)

「壹」「與」は誤記⇒「臺」「與」⇒「台」「与」
(臺、與が当用漢字音訓表(当時)に入らなかったので、以下ry
0385日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 07:56:33.32
>>383
>あまり感心しない 畿内説が揺らいでいる証拠

まったく揺らいでないよ?w

>あんたへの反論は誰かがすると思うが

反論があるなら、自分ですれば?
きちんと具体的に根拠を示して反論してごらん?ww
0386日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 08:06:21.62
畿内・大和説も、今や四分五裂の内紛状態のようだな
0387日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 08:07:32.46
>>381
>西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳などのことと考えていいか?

棺あって槨なし
纏向古墳群なわけがない。
0388日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 08:11:55.55
纒向・箸墓に対抗して、
最強力の御所市高天ケ原説が登場したようだ。卑弥呼の墓にピッタシ。
0389日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 08:13:18.34
>>375
当用漢字表、常用漢字表を制定して新聞雑誌教科書公文書に使って構わない漢字数を制限したから。
学術的文書は常用漢字表の制限を受けない。

「台タイ」は「臺ダイ」の代用漢字。「安史の乱」以降は「臺ダイ」も「タイ」と清音で読むようになった。
「台タイ」と「臺ダイ」が同音の「タイ」になったので中国共産党支配下の中華人民共和国や
中華人民共和国に籍貫(自己家族開始發生繁衍的主要地域。中國古代所謂籍贯
通常指父親與祖父的長居地)のある
東南アジアの華裔も次第に中国式略字を使うようになっている。
しかし中国の古代の文献に「邪馬【台】と書いた例は無い。
「壹」は「臺」と形がよく似ていたから中国人が写し間違えた。

http://www.geocities.jp/rootsdiscovery/himiko13a.html
5世紀の後漢書には「邪馬臺國」は小書きの割り注で
「案ずるに今の邪摩惟=ヤマイ、音の訛り也」と書いてある。

つまり5世紀の時点で中国人にはヤマダイやヤマドではなくヤマイと
勘違い又は誤認識されていたことがわかる。
古田武彦の「邪馬台国はなかった」の根拠。
「邪馬台国」と印刷した文献は無いのだから
「邪馬臺國」は有っても「邪馬台國」がなかったのは当たり前田のクラッカー。

「與」⇒「与」は日中共通の略字 だけど中国の略字は
「与」の下側の長い横棒が右にはみ出さない。
0390日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 08:14:19.07
>>351
250年頃の古墳にはまだ統一性がない
型式はバラバラで、現代で"古墳"と定義できる物が各地で点在発生してる状況

本格的な流行は布留1まで待つ
0391日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 08:15:39.43
>>380
>根拠を一度も聞いた覚えがない

少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。

初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
初期の天皇陵は、 山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。  @阿波
0399日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 08:38:19.11
>>369
伊勢の國に「員辨(弁)」と書いて
「為奈倍ゐなべ」と読む郡がある。
「忌部」も「為奈倍ゐなべ」と読んでいたんだな。
10世紀前半まで「ん」という音が
一般庶民に普及してなかった日本。
0406日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 10:22:04.05
>>389
>5世紀の後漢書には「邪馬臺國」は小書きの割り注で
>「案ずるに今の邪摩惟=ヤマイ、音の訛り也」と書いてある。

その「邪摩惟」にさらに「邪摩堆」という注がついてるんだけどな
0407日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 10:24:36.91
>>389
>つまり5世紀の時点で中国人にはヤマダイやヤマドではなくヤマイと
>勘違い又は誤認識されていたことがわかる。
>古田武彦の「邪馬台国はなかった」の根拠。

つまり、これは古田武彦氏他の勘違いまたは語認識であって、
もともとは、ヤマトの音訳に過ぎないし、現代表記をする場合
学術書だからという理由でわざわざ邪馬「臺」の用字にする必要もない
0408日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 10:41:57.46
>>205
列島の「尚方作」鏡は、
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
に拠れば、かなりはっきりした二つのグループに分かれる。
一つは、三角縁鏡系であって、21cm以上であって、「佳且好」と書かれて、近畿に多い群。
もう一つは、非三角縁鏡系であって、20cm位以下であり、「眞大巧」と書かれて、北部九州に多い群。

これは、中国出土の「尚方作」鏡には三角縁が見られない事から、
列島の「尚方作」三角縁系は、楽浪鏡師が新たに造った鏡であり、
非三角縁系の「尚方作」鏡は、おそらく明帝の下賜鏡であったんだろう、
という事を示す。

 
0409日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:04:35.60
>>213
>>エネルギーとは、場と他の場との相互作用の強さを示すものであり、
また、静止という概念も、運動という概念も、
人類は特定の場(重力場)という座標系の上で認識するものであり、
だから、重力場という場で認識された「静止質量」というあっても、
電磁場のという光速の場との相互作用をしているのであるから、
E=mc2というエネルギー部分を持っており、
そして、重力場内で移動運動pをしていb骼ソ量物体の場麹には、
エネルギー合計として、
合計エネルギー≒mc2+mv2、いう事になる。<

>一行目から違うぞ
E=mc2の意味するところはエネルギーとは質量に光速度の2乗をかけたもの
つまりエネルギーは質量であり質労もまたエネルギーであるという事<

そんな事は、当たり前ではないか。
質量を持つ状態は、「重力場が自己引力と他の場との相互作用で凝集した形」であり、
だから、それ自体から「凝集というエネルギー」を持っているんだよ。

>これの応用でそれまでの万有引力論より正確に水星の軌道の計算ができて
また導かれた予測通り光も重力の影響を受けるなどの現象も観測されている
わからないなら調べるか最悪黙っておけばいいのに悔しいから
確率は低いけど適当な事言ったら誤魔化せるかな?と考え
こうしたレスをしてしまう九州説の病理<

相変わらず、口先言葉尻でのヘイトスピーチで誤魔化そう、とする変な男。
0410日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:23:32.46
>>307
>「宗女」を語っていただけると良いのですが

    事代主
     ┣━━━━━━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
     ┣━━━━━━━━┓
    建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃           ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津媛━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主            孝昭
     ┃             ┃
    阿田賀田須       天足彦国押人命
                  ┃
                和邇日子押人命

トヨはヒミコの姪の孫になる。
長生きしたヒミコの後に男王、そして13歳のトヨだから、
ひいばあちゃん世代で時代も合う。
宗女である。
0411日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:24:36.68
>>367
>「王都は纒向」に異論は無いよな

あるよ。
王都は葛城だ。
0412日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:25:48.55
>>219
>三世紀のホケノ山とか椿井大山古墳からは鉄製品が
合わせて300点ぐらい見つかるぞ<

ホケノは、卑弥呼の冢や那珂八幡などの前方後円墳よりも後になり、
有棺有槨であり、「庄内+布留」であるから、3世紀末以後。
椿井は、有棺有槨よりも後の「竪穴式石室」であるから、4世紀以後。
0413日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:25:50.98
>>408

中国、朝鮮半島(旧楽浪郡)出土鏡が、「佳且好」21cm以上、
「眞大巧」20cm位以下の二つのグループになっていないので
無意味な分類
0414日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:34:14.92
>>351
>丁度この時期は卑弥呼の遣使と、死の時期に重なり、畿内の邪馬台国が古墳と言う全国的な秩序を打ち立てて、

大嘘だな。
卑弥呼の死後に古墳時代が始まっているだろ。
0415日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:35:36.25
>>372
詐欺師はたくさんの文章を並べて相手をケムに巻く。
0416日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:36:19.02
天照大神
気に入らない事があったら引きこもり
楽しい雰囲気になったら出てきてスサノオ追放
破壊神だったのだ
現代にもそういう方がやくさんいるよな
0418日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:37:58.19
>>221
>(纏向)最初の段階ではこの土地は多くの地域の文化を統合する祭祀の中心地としてまとまっているのが分かる
そして古墳が築造される庄内2期〜3期の250年〜280年以降くらいから急激に鉄器の出土量を増やす<

鉄が出るのは、3世紀末のホケノから。

>ちょうど卑弥呼の遣使の前後くらいの時期になっている <

卑弥呼の墓は「冢」であり、前方後円墳ではない。

>倭人伝でも最初の遣使の貧相な貢物が、次の遣使から献上品として恥ずかしくないほどの質と量に向上している事からも
この遣使前後の邪馬台国の発展ぶりを伺い知ることが出来る<

邪馬台国なんて存在もしないし、「南≠東」に拠って、纏向は×。

>このタイミングも畿内が祭祀のみならず名実ともに中心として急成長していく段階を示しているのが分かる<

畿内なんてものも存在しない。

>「今までなかったものが急激に増える」と言う状況こそがまさに
この卑弥呼の治世を境に畿内が発展していく姿を示していると分かる<

この大和説者も、分裂幻覚の妄想の・・・・詐欺師であるらしい、という事が判る。
0420日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:41:11.12
>>223
>炭素14c測定法での解析などによって科学的に三世紀<

AMS法は、プラズマ化などの失敗により、50〜100年位古い年が出てしまっている。
0421日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:41:49.15
>>418

反日どろぼう偽書集団編年は学問ではない
0422日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:42:07.76
>>412
結論だけ連呼連呼で言い張るだけで
何の根拠もないじゃん
0423日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:42:32.16
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0424日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:42:54.14
ここは掲示板だぞ?
学会発表でも論文でもない。
0425日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:47:25.99
>>420

AMS法は、地層、地質、海底堆積物の年代測定に世界的に利用されている
どろぼう偽書集団ホラ物理は誰も相手にしない
0426日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:47:34.30
>>224
>ホケノは布留0式だし、椿井大山は布留1だよ 3世紀後半だね <

久宝寺や加美での、(285年頃以後になる)伽耶の陶質土器と、(布留ではなく)庄内との共存に拠っても、
「庄内と布留の混合」のホケノは、3世紀末以後になり、
椿井は、竪穴式石室であるから、4世紀以後になる。
0427日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:49:46.94
>>424

ここは学問・文系の日本史板
0428日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:50:36.84
だからと言って、くだらんテンプレに100レスも費やすなよ。
0429日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:52:10.47
いやなら他のスレに行けばいい
0430日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:53:24.81
反日集団の荒らしレスは100レスどころじゃない
0431日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:54:30.21
どうせお前も一緒に荒らしているんだろ?
0432日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:56:20.20
畿内説者が畿内説スレを荒らす理由はない
0433日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:56:37.37
>>388
ありがとう。
確実に理解者は増えてくれている。
王都を纏向などに決められたらたまったものではない。
纏向は倭国大乱のもう一方側、物部の居住地だからな。
0434日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 11:58:45.37
>>225
>卑弥呼の治世前半の180年から240年ごろと、<


卑弥呼は、240年頃に魏使らが見た時に「年已長大=30〜35歳」であったんだから、
共立されたのは、225年頃。

>遣使がされた240年後には飛躍的な発展があるのが遺跡、史書からも読み取れる<
「邪馬台国は最初から都として繁栄していたのではない」点に注意が必要
ちょうど遣使の時期を境に大いに名実ともに中心地としての発展を遂げているのである <

邪馬台国なんて存在しないし、
筑紫の発展は、当然「自昔・・・東征毛人・・・五十五國」などがあったから。

>だから「弥生時代に何もなかった」「卑弥呼の遣使の時期に何もなかった」と言うのは
むしろ当然の事だと分かる<

弥生時代から卑弥呼や壹與時代を通して、繁栄が「一杯あった」。
0435日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:01:16.94
>>380
>根拠を一度も聞いた覚えがない

阿波の萩原墳墓、交野の森古墳群、柏原の玉手山古墳群などなど。
というか前期古墳が山稜にあるというのは古代史のほぼ常識だが。
0436日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:04:47.35
>>227
>ホケノ山は遅くても三世紀中葉なんだがまあいい < そっちの主張が正しいとして
九州は三世紀前半まで鉄器が多いとしても 中盤ごろにいきなり畿内に抜かれるという事になるが <

ホケノは、卑弥呼の冢や那珂八幡などの前方後円墳よりも後になり、
有棺有槨であり、
久宝寺や加美での、
(285年頃以後になる)伽耶の陶質土器と、(布留ではなく)庄内との共存に拠っても、
「庄内と布留の混合」のホケノは、3世紀末以後になる。
0437日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:10:40.30
大和の中の戦いは、筑紫における倭国大乱の余波に過ぎないよ。
そもそも大和は倭国の非主流派(事代主、神武など)の吹き溜まりだしね。
0438日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:16:08.70
筑紫だけ倭国大乱とか日本人にはいないだろ
0439日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:18:13.42
>>424
>ここは掲示板だぞ?
>学会発表でも論文でもない。

でも、「学問板(文系)」のスレなんだから、人文科学の範囲での書き込みが必要だろ?
九州説のよくやる根拠なしの連呼は無意味だってこと
0440日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:19:45.91
>>415
>詐欺師はたくさんの文章を並べて相手をケムに巻く。

煙に巻く気はないよ?
一つ一つの文章は、短く簡潔にまとめてあるだろ?

反論があるならどうぞ!

まあ、反論ができない人の書き込みっぽいけれどww
0441日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 12:49:03.51
>>439
>九州説のよくやる根拠なしの連呼は無意味だってこと

根拠が書いてあっても無視するくせに。
0442日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 13:00:59.11
作り話や日本人学者の名前だけ使ったデマは根拠にはならないぞ
0443日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 13:15:58.40
>>441
どこに書いてあるの?
書いてないでしょ


九州説は嘘をついてばかりだ
0444日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 13:16:42.62
纒向・箸墓説はもう限界だよ。

それより強力・確実なのは、御所・高天ケ原だね。
皇紀2600年の記念石碑も建てられており、地元の崇敬も厚かったようだ。
大きさも径100余歩、卑弥呼の墓にピッタシ。
0445日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 13:17:55.80
>>436
こんなふうに理由なしで連呼するだけでしょ
0446日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 13:19:23.87
>>444
連呼するだけw
0447日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 13:35:32.58
御所・高天ケ原は、超有力だね。
丘陵を利用した立地といい、大きさ・雰囲気といい、卑弥呼の墓に、まことにふさわしい。
0448日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 13:46:36.46
連呼するだけw
0449日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 14:12:11.36
>>438
>筑紫だけ倭国大乱とか日本人にはいないだろ

倭国(阿波)乱とは
「旧吉野川流域北岸勢力内での争乱」および「旧吉野川流域南岸勢力内での争乱」また、「鮎喰川下流域勢力内での争乱」および「勝浦川流域勢力内での争乱」および
「那賀川流域勢力内での争乱」および「海部川流域勢力内での争乱」および「各地域入り乱れての争乱」 と何度言えばw  @阿波
0450日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 14:27:30.79
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0451日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 14:53:37.66
纒向連呼が一番みっともない。
本当にあんなところが卑弥呼の王城だと思っている?
0452日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 15:25:45.12
>>229
>畿内に鉄器や鏡が無いと言う指摘については特に問題とならない<

畿内なんて、存在しないインチキ騙し文言であり、×。

>@畿内は多くの文物や軍事力があるから中心になったのではなく、
 吉備との関係、周辺との地理的関係によるものである
>A纏向の性格からしてこの地域は最初祭祀都市として作られた場所で
 大都市でも交易都市でも生産都市でもない<

「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」であり、
「兵」には「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」があるから、×。

>Bちょうど卑弥呼の遣使が行われた時期を境に急激な鉄、鏡の出土量の増加が見え、倭人伝の貢物の飛躍的な向上等からも情勢が一変しているのが分かる
 と言う事が分かる<

鉄も鏡も、3世紀末のホケノが最初であるから、×。

>むしろ「何もなかった」と言うのはこの図式を示す証拠となるのが分かる <

むろん、この大和説男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師であった、という事が分かる。
0453日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 15:30:14.83
>>230
>4世紀の可能性? ナイナイ <

3世紀中頃の卑弥呼の墓は「冢」であり、
纏向型は、前方後円「墳」だから「冢」よりももっと後であり、
ナイナイ。3世紀半ばの可能性は、ナイナイ。
0454日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 15:44:05.25
>>231
>ホケノ山の木材の炭素14c年代測定
木棺 小片 No1   22〜244(AD)
   小片 No2    1〜181
   小片 No3    20〜219
   小片 No4  BC4〜134
   小片 No5    55〜237
小枝    250〜300 320〜420
南西の添え柱 BC210〜BC50
小枝は異物混入じゃね<

全くのアホだね。
AMSはプラズマ化に拠って、1割位古く出る事は幾らでも有り得るから×であるし、
柱は、当然原木が200年木であったんなら、
幹の(表面近くではなく)年輪中心部は200年位古くなるが、
小枝では、1〜2年位のではなく)差異しか発生しない。
0455日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 15:46:34.73
>>232
>土なんか掘らなくても邪馬台国の王都は分かる、それは葛城だ。<

邪馬台国なんて存在しないし、「南≠東」でも×だ。
0456日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 15:52:15.15
>>233
>急に逆転するかどうか?は詳細な資料は知らんが、馬が関係してきそうだ
陸路が発展し、勢力図も変わっただろうね
結果、畿内が勢力をつけていき、後世に大きな勢力になったのは間違いない
ただ、卑弥呼時代はまだ違う、ということ イヨだったらギリかな <

畿内なんて、存在もしないインチキ造語だから、×であり、
張政も、当然梯儁等の記録も見ているし、
自らも実見記録を提出している筈であるから、
壹與の頃も「馬」はいなかった。
0457日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:08:05.52
>>234
>邪馬台国は卑弥呼の時期に最盛期を迎えたわけでもその後に消え去ったわけでもない<

邪馬台国なんて存在もしないインチキ造作文言であり、×。

>卑弥呼の治世前半に共立から周辺国をまとめる祭祀の中心として出発し、
卑弥呼の治世晩年に魏との外交を初めて急激な発展を遂げている
これは史書、考古学的発見とも合致する<

後漢に57年と107年に遣使をして、
その後も楽浪郡使や半島との、鉄などでの文化や文物の交易もあって、
継続的な持続的は発展を遂げているから、×。

>この後、邪馬台国は中国の史書にあるように
台与の後も継続し続け後の大和朝廷に繋がり段階的に発展していく事となる<

台与も大和朝廷なんても存在しないし、
大和は九州倭国の別種の旧小国であり続けたのであるから、×。

>卑弥呼の遣使の時に大きな繁栄をしている必要はないのが分かる 繁栄はその後<

この大和説男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師である事が分かる。
0458日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:09:38.91
>>456
畿内が存在しないなんて非常常識なことを
理由も言わすに連呼連呼するなんて
頭おかしいんじゃないの?
0459日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:09:58.91
>>237
>卑弥呼の墓は前期古墳の鉄則どおり山稜にあるのだ。
その場所は高天原だ. 「高天原にある卑弥呼の墓」・・・<

「南≠東」に拠って×。
0460日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:11:41.65
>>238
>小枝は中心埋葬施設から出土してるから無視できないし、試料としては最適
土器からみても久住も布留0としているし
小型丸底土器が主体部から出ちゃってるからそう古くはできない <

成程。
0461日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:16:59.81
>>240
>卑弥呼の墓探しは空しい<

空しくない。
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」などと記録された墓をなど探せばよい。

>たぶん発掘した古墳がそうだったとしてもわからんだろう
案外もう発掘されてたりして<

日本で、ほぼ合っているのは、祇園山だけ。
0462日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:25:10.43
>>453
>3世紀中頃の卑弥呼の墓は「冢」であり、
>纏向型は、前方後円「墳」だから

何の根拠もない妄想をいくら連呼しても
九州説のダメさを天下に広めるだけで、×だ。
0463日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:25:46.88
>>241
>(ホケノ)木管破片は平均して200年ちょいぐらいを示すから 被葬者はそのくらいの年代だろう<

柱材は、(幹表面部分よりは)中心部分を使うから、その木の年齢位古い。

>小枝は埋葬品とは思えないから何かの理由で後から紛れたんじゃないの<

有棺有槨の槨にあったものだろう。
0464日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:26:27.57
祇園山古墳の水銀朱は倭国(阿波)産だろうね。  @阿波
0465日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:38:34.40
>>243
>纏向型前方後円墳の全国拡散が250年くらいから始まる<

卑弥呼の墓は「冢」であり、纏向型は石塚もホケノも「墳」であるから、
纏向は、250年よりもずっと後であり、3世紀末以後。

>九州にも最古級の古墳が築造されこの地域も畿内から広がる影響に与している姿が見えてくる<

筑紫の前方後円墳は、那珂八幡や津古生掛が古く、
それから大和へ伝播した事になるので、大和の前方後円墳は、3世紀末以後。

>ちょうど遣使を境に畿内の中心性が時間を追うごとに強くなっていく様が読み取れる<

読み取れないし、大和が中心になったのは、白村江の後の7世紀末。

>繰り返しになるが成立当初から畿内に突出した勢力があったわけではない
発展は卑弥呼の遣使の晩年以降<

繰り返しになるが、この大和説男は、・・・・詐欺師。
0466日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:44:06.21
>>247
>奴婢が埋葬されたと思しき墓は国内では例がないそうだ
殉葬の習慣はあったにしても古墳の近くに一緒に埋めるとか
そういう物ではない可能性がある <

10年位前に、石野が「祇園山」を候補に挙げていた。
彼は、ずるそうだから、今はどうか?は知らんが。
0467日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:45:33.92
那珂八幡古墳や津古生掛古墳の水銀朱は倭国(阿波)産だろうね。  @阿波
0468日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:53:08.34
大規模殉葬の跡に、後世になって「荒神神社」みたいなのを建て、それとなく祀っていることもありうる。
その場合、外見的・外形的にはわかりにくいだろうな。
0469日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 16:55:14.04
>>465
ご託宣するだけか

俺サマの思想に合わないからダメという
九州説の典型だな
0470日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:02:09.14
九州の前方後円墳の朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」。  @阿波
0471日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:02:16.26
御所・高天ケ原やホケノ、葛城等

の論者はテンプレ読んでいるのか

箸墓・纏向に反論もせず

ただ自己主張してるだけじゃないか 
0472日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:02:46.00
御所・高天ケ原やホケノ、葛城等

の論者はテンプレ読んでいるのか

箸墓・纏向に反論もせず

ただ自己主張してるだけじゃないか 
0473日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:03:06.41
御所・高天ケ原やホケノ、葛城等

の論者はテンプレ読んでいるのか

箸墓・纏向に反論もせず

ただ自己主張してるだけじゃないか 
0475日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:15:22.42
>>471
>御所・高天ケ原やホケノ、葛城等
の論者はテンプレ読んでいるのか
箸墓・纏向に反論もせず
ただ自己主張してるだけじゃないか <


何もわかってないねww
誰が張り付けたり、書きこんだりしてるのか気づけよww
0476日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:18:33.92
最近 畿内説は吉備にすり寄っているが何かきな臭い
0477日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:20:43.85
なぜ邪馬台国吉備説が出てこないのか。
何が何でも大和でなければいけないという思い込みに過ぎないのではないか。
0478日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:21:58.92
>>476
>最近 畿内説は吉備にすり寄っているが何かきな臭い

ほんとうは、倭国(阿波)を取り込もうとしているんだよ。  @阿波
0479日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:24:11.87
>>478

吉備=讃岐=倭国(阿波)だからね。  @阿波
0480日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:33:32.88
>>250
>東征将軍とやらはいつ畿内にやって来たのかの?<

国生み神話やニギハヤヒ時代は、まだ武闘的というよりは植民的位であり、
五瀬命や神武からは、倭奴國や伊都国系の「武力東征」が始まったようだが、
結局大和では欠史八代の頃は、「共存」状態であったようで、
結局、本格的な「東征毛人」は、四道将軍時代からであり、
崇神は、その補佐的に働いた。
そして、宋に「東征毛人五十五國」を上表した倭王武は、東海姫氏國の姫氏であったので、
姫氏であった卑弥呼も、東征将軍を派遣した事になり、
卑弥呼の鏡片が播磨や阿波や北陸方面からも出ている。

そして、椿井や桜井茶臼山の内行花文鏡は、おそらく、明帝から下賜された鏡を、卑弥呼が東征将軍に下賜したもの。
0481日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:36:03.15
>>474
石野は銭と名誉の亡者だよ 平気でウソをつく
兵庫県の職員あがり 橿考に席を置いてた時に纏向にからんだ
その時 纏向の大嘘論を展開し功績とした・・関川は彼の強引な手法に辟易する
其の後兵庫県立考古博物館初代館長に就く  
兵庫県には考古学の施設はいっぱいあるのに不必要な物を作り長に就いた大馬鹿者
今は名も無き大学の教授・・彼が優秀なら一流の大学の教授になっていただろうが引き皆無
0482日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:40:52.74
「桜井茶臼山古墳」の朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0483日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:43:17.82
「桜井茶臼山古墳」の朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0484日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:57:00.34
>>481
調べたぞ
ウッキーにも載ってるから隠す必要ない
石野博信 徳島文理大学文学部教授
徳島文理大学文学部偏差値 40〜42
0485日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 17:58:48.93
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0486日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:00:51.94
九州説って
  中傷と
   デマと
    妄想垂れ流し
だけだね
0487日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:03:11.04
>>475

>>?のヤラセって言う事か
0488日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:03:55.94
キウスは寺澤の次は石野をディするのか
名誉毀損での立件へ待ったなしだな
0489日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:09:06.21
>>487
近いかもなww
テンプレ
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <

俺が>>1なら他説へのFAQでなく畿内説内でのFAQに自論展開するよ
0490日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:14:01.97
>>484
>石野博信 徳島文理大学文学部教授
徳島文理大学文学部偏差値 40〜42 <

偏差値で人を判断してはいけないが
俺の高校の名も無き日本史の先生 今偏差値45前後の大学の教授だぞ
0491日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:18:14.51
@阿波もびっくり


@阿波 畿内説の石野が阿波の徳島文理大学で畿内説を説いてるぞ
阿波説 無念残念
0492日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:24:41.44
>>256
>殉葬の習慣は日本書紀によれば垂仁天皇が止めさせた事になっていて
垂仁天皇の在位はBC29年〜AD70年だから <

二中歴の解釈の、
年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五 元丁酉(五一七〜五二一)・・・
の説明からは、
517−39−569×2=−660(年):神武即位元年
という計算になっているから、
神武即位から569年間が、二倍年歴であった事になり、
660ー569=91だから、神武即位元年は、西暦紀元前91年頃になり、
それから計算すると、垂仁は、西暦紀元225〜275年頃、
という計算になる。
0493日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:25:58.31
ヤメーーーヤメーーー
石野、寺澤は苦労人だよ
ノンキャリの悲哀知らんだろ
ノンキャリの星だよ彼らは
ノンキャリがのしあがるには追随と少しの光
光を示すために自己を捨て嘘?もつくさ
0494日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:28:51.36
御免ヨ
訂正しとく
>>493
>光を示すために自己を捨て嘘?もつくさ <
以下に訂正
>光を示すための勘違いもあるさ>
0495日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:32:31.01
魏志倭人伝では
卑弥呼の墓は「家」

中國では墓のことを「家」と古代言ったのだろうか?

塚と家の違いは

こんがらがってきた 誰か教えてくれ
0496日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:35:57.66
>>257
>(四道将軍)畿内から出発したんだよ<

大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であり、
大彦は、記紀では崇神の叔父であり、目上であったから、
九州倭国の東征将軍であった可能性が高い。
記紀は、それを盗用して、大和が遠征したように記載した。
0497日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:37:22.76
畿内説では天皇の先祖がこんなむごい事したのか


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。
0498日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:37:54.12
>>258の訂正。
別種八代→欠史八代
0499日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:40:24.69
>>261
妄想を言い張るだけが大和説 。
いちどもまともな根拠だしたことなし。
0500日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:44:04.13
>>491
>@阿波 畿内説の石野が阿波の徳島文理大学で畿内説を説いてるぞ

石野氏は倭国(阿波)から次々発掘される遺跡に愕然としていることだろう。 
畿内からは目ぼしい遺跡がさっぱり出ないし。
いまさら、宗旨替えもできないし、やけくそで畿内説言ってるんだろうね。  @阿波
0501日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:45:26.94
>>264
>九州が東征したとか大ウソ
畿内の西征軍に平伏して服属させられたのが九州<

倭王武の倭國は、
倭国伝と日本国伝とを書き分けた唐会要の倭国伝の、
「正北抵新羅」に拠って、北部九州であったから、
「東征毛人五十五國」の東征将軍は、北部九州から出発して東征した。
0502日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:50:51.49
東征将軍様w
0503日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:51:00.84
>>272
>卑弥呼の墓に奴婢百人殉葬は 埴輪の事かも知れないな<

張政は、実見して記録した筈だから、間違える事は、まず、ないな。
0504日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:53:14.21
>>497

>徇葬者は男女の奴隷<


これは徇葬でないな奴隷だから生贄だな
むごいのはむごい天皇家の先祖?
0505日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:53:53.62
>>503

その文を張政が書いたって決めつける根拠は?
0506日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:54:50.34
>>275
大和説者は、安部文部省や右翼マスコミや右翼学会教育界の教え通りに主張し、
自分の欲望を言う。
けして根拠は言わない。
0507日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:55:02.03
>>495
よく見ろ家じゃなくて冢だ

@つか。大きな墓。
形態的には土を高く盛った墳墓(冢(ちょう)
0508日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 18:57:46.74
現存する王朝(国王)の祖先で
奴隷を生贄にしたのは日本だけじゃねーか
0510日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:01:20.07
>>276
>魏志倭人伝は、3世紀より古い記録も断りなく引用してる(漢文に時制はない)から、<

陳寿は、魏の役人たちや魏使らの実見記録と、過去の文献を根拠にした推論を書いている。

>家族墓である方形周溝墓への追葬か、甕棺墓時代の庶民の墓の甕棺墓列を殉葬と
見間違えた記録から、王の死への殉葬というストーリーを作ってしまったんじゃないかな<

「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」は、張政らの実見記録。
0511日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:03:07.86
>>277
>だから出してるだろ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内に、
150mほどの塚があり、奴婢が埋葬されている。 奴婢とは土蜘蛛だ。
この塚が墓域であることは、さほど古くないが複数の墓石があることからも確実。<

「南≠東」などに拠って、×。
0512日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:06:50.71
冢(ちょう)
遺骸を埋葬する場所,またその施設を墓という。形態的には土を高く盛った墳墓(冢(ちよう),
塚(つか))に対して墓は地下に埋葬し墳丘をもたないものを指すが,一般に墓という場合,墳墓はもちろん,
死体を遺棄した場所や,崖などに穴をうがって埋葬したもの
0514日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:09:14.26
「冢」
「塚」
「墳」

意味が微妙にちがう
0515日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:11:04.43
石野ごとき徳島に言っても何もできないよ
何もする気も無いし
彼が所望するのは銭だけ
0516日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:14:13.02
>>389
実は後漢書にも色々書写のバージョンがあって
その内の1つ四史本後漢書では問題の箇所は
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩「堆」音之訛也)になっている

ここが邪摩「惟」になっているのは百納本後漢書
百納本は13世紀ごろ編纂されたから誤記が生じた可能性が高い

北史にも邪摩堆は魏志のいわゆる邪馬臺であると表記があるので
邪馬臺は邪摩堆と書き表すのが当時では一般的だったのではないだろうか
0517日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:16:35.38
>>507
ありがとう
ついでに教えて
冢 塚 墳


の音訓の読みがなぜ違うのか
特に音読み
0518日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:18:04.42
>>492
>神武即位元年は、西暦紀元前91年頃になり

アホッ アホッ アホの古田〜♪
0519日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:19:03.02
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0520日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:19:55.85
>>486
>九州説って 中傷と デマと 妄想垂れ流し だけだね>

あのねーーー
君ねーーー いえ何も
0521日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:22:05.34
>>389
一発変換できないから邪馬臺國を新字体の邪馬台国と打ってるだけだぞ
畿内説は誰も邪馬臺國ではなくて邪馬台国だったなんて言ってないだろ
0522日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:26:35.76
>>520
核心を突かれて
抗弁できないようだな
0523日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:28:01.60
>>307
>「宗女」がよくわかりません いろいろな解釈があるようですが
中国の古文書・現代でもいいですが「宗女」を語っていただけると良いのですが<

おそらく、「宗教上的な後継の娘」の意味。
0524日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:28:35.24
不思議なことに九州説を提唱した新井白石は高天原が九州にあるとは言わなかった。
突然、高天原常陸国説など言われても意味が分からない。

これは逆に考えるべきだ。
新井白石は邪馬台国や高天原が「大和ではない」ということを強調したかった。
邪馬台国も高天原も大和にあった事を知ってたからだ。
高天原や邪馬台国が大和にあったなら、大和朝廷や古代天皇が中華へ朝貢してた事を意味する。
国学者としてこれほど辛い事はない。

つまり邪馬台国は九州、高天原は常陸と発表することで大和に焦点があたることを避けたのだ。

九州説とは新井白石が創ったデマである。
0525日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:30:07.96
>>517
中国は広く様々な文化、民族があり
日本から見たら同じ土を盛った大きな墓を呼ぶのでも
文化民族によって様々な呼び名がついていた

冢 塚 墳はそれぞれ本来なら個別の墓の形を指していたが
中国が統一され墓制も統一されるに従って言葉だけが残った
ゆえに現在では冢 塚 墳はどれも同じく大きな墓を指す意味で使われる
まあ今適当に思い付いたのを書いただけだけど
0526日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:30:31.96
>>510
>「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」は、張政らの実見記録。

それ、なんか証拠あるの?
0527日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:31:33.52
>>277
>>だから出してるだろ。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社・・・<<

日本最古の神社は淡路島の伊弉諾神宮だと思うけど
0528日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:31:50.36
>>523
それ、カケラでも根拠ある?
0529日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:37:23.50
>>408
尚方作竟 竜雲文縁方格規矩鏡(眞大巧)

銘文
尚方作竟眞大巧 上□□□□□(有仙人不知)老 
渇[?欠]玉泉[?几]食棗 浮由天下□?海兮

出土
奈良県天理市柳本町 天神山古墳
0530日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:39:35.41
>>517
>其死有棺無槨、封土作冢

その死(葬送)に当たっては、
棺は有るが、槨(石室、木室)はなかった。ただ(棺の周りや上に)土を盛って塚(冢)を作るのみ。
0531日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:42:00.38
>>512
>冢(ちょう)
>遺骸を埋葬する場所,またその施設を墓という。形態的には土を高く盛った墳墓(冢(ちよう),
>塚(つか))に対して墓は地下に埋葬し墳丘をもたないものを指すが,一般に墓という場合,墳墓はもちろん,
>死体を遺棄した場所や,崖などに穴をうがって埋葬したもの


高天原の日本最古の神社境内の冢(ちょう)

https://goo.gl/maps/vvrbiHegrHH2

この奴婢=蜘蛛窟のある冢(ちょう)の近くにもいくつか冢がある。
現地に行って地元の人に話を聞きたいのだが、
おそらく古代から「棺あり 槨なし」の土葬であっただろう。

ヒメ、後の時代に踏鞴と五十鈴を加えられ、
ヒメ踏鞴五十鈴媛と呼ばれるヒミコ、その両親、親族、
つまり高天原の神々が眠っているはずだ。
0532日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:47:37.74
>>525
ありがとう
墓制も統一される前、今でなく古代では?
0533日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:48:00.43
>>523
>おそらく、「宗教上的な後継の娘」の意味。

卑弥呼は鬼道(原始神道?)に仕えていたので、同様に鬼道に仕える十三歳の見習い娘だったのだろう。
0534日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:51:14.33
最近のキウスは自分の書き込みであることをごまかすため引用文をザラコク風にしている
0535日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:52:25.97
>>530
おいおい
槨と石室、木室はぜんぜん違うものだよ
0536日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:53:19.26
しばし待て

508日本@名無史さん2018/09/20(木) 18:57:46.74
現存する王朝(国王)の祖先で
奴隷を生贄にしたのは日本だけじゃねーか
0537日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:54:22.34
>>409
また出鱈目並べて傷口を広げるような真似を
質量がある状態とはざっくり言うとヒッグス粒子の集まったヒッグス場を
素粒子などが抵抗して運動している状態
ちなみに原子とかそのくらいの小さいスケールの話になると
重力の及ぼす影響はほとんどなし

俺は理数系は詳しくはないけれど
九州説古田の権化のようなザラコクがやる様に
よくわからない事を出鱈目言って誤魔化そうとはしないよ
0538日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:55:07.01
>>329
>大和に出現した邪馬台国は、大和・吉備・近江・丹波・九州・出雲を加えた広域の大連合国家をまとめる祭祀の中心地<

邪馬台国なんて存在せず、大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国で、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であったから、×。

>覇権国家でも、豊富な文物を誇る地域でもない
弥生後期から続く大和・吉備連合を土台として周辺国との地理的関係によって選ばれた土地
その機能も祭祀に特化したもので他地域に優越する特別な出土品を出すわけではない
180年ころからの卑弥呼の治世の大半はそのような祭祀の為の土地だった<

卑弥呼も、「南≠東」に拠って×であるし、
180年も、「年已長大」や、「魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」
という二倍年歴の採否の問題があり、おそらく×。

>この土地が名実ともに日本の中心地として発展するのは卑弥呼の遣使の後<

「南≠東」に拠って、卑弥呼は関係がないから、×。

>250年以降の纏向型前方後円墳が全国に広まりだした時期に当たる <

卑弥呼の墓は「冢」であって、前方後円墳でないから、250年というのが、×。
纏向型前方後円墳は、庄内で、那珂八幡等の後に伝播になるから、3世紀末。

>卑弥呼前の弥生時代や、卑弥呼の治世前半の180〜240年の出土品が貧弱で、<

卑弥呼は、大和に直接関係がない。

>その後に突然出土品が増えだすのはこのような状況を表している証拠だと言える<

大和に出土品が増え出したのは、3世紀末のホケノの頃からであり、おそらく、九州倭国の東征の結果。
0539日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:56:48.19
>>508
できた
>現存する王朝(国王)の祖先で
奴隷を生贄にしたのは日本だけじゃねーか <

その通り
古代天皇が朝貢や奴隷を生贄にしたのは事実
だから、九州説におっ被せた
0540日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:57:13.46
よくわからないことを出鱈目言って誤魔化す
→ザラコク、伊都クズ

よくわかってないのに勝手に決めつけて粘着
→キウス
0541日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 19:59:37.85
>>331
>>(鉄器、九州3世紀は)中盤ごろにいきなり畿内に抜かれるという事になるが <

>卑弥呼の崩御により、畿内に発展の余地が生じたということだろう。<

卑弥呼の墓は「冢」であり、大和の前方後円墳ではないから関係がなく、
大和の前方後円墳や鉄器は、3世紀末以後。
0542日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:00:36.12
>「宗女」

トヨの場合は王族という意味だろう。

    事代主
     ┣━━━━━━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
     ┣━━━━━━━━┓
    建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃           ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津媛━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主            孝昭
     ┃             ┃
    阿田賀田須       天足彦国押人命
                  ┃
                和邇日子押人命

左側が王だよ。
神武は王ではない(ここ重要)。

最後の王・阿田賀田須を今も祀り続けてるのが和邇集落。
国宝中平銘鉄刀の保持者・和邇氏。
和邇とは「王(わう)」という説もあるようだ。
0543日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:03:24.89
>>534
キウス、やることセコいなー
まあ元々ナリスマシ常習者だもんな

なんとなく別人だと分かるけどさ
0544日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:05:24.91
>>412
ホケノ山は方格規矩鏡は出てても三角縁神獣鏡が出てないから
出土鏡で見れば卑弥呼の墓より前だろう
0545日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:06:10.87
>>334
>>纏向型前方後円墳の全国拡散が250年くらいから始まる <

250年頃は卑弥呼の冢。そして那珂八幡や津古生掛などから前方後円墳が始まり、
それが纏向に伝播したのが3世紀末。

>九州にいた卑弥呼の崩御が西日本の勢力地図に大きな影響を与えたのだろう。<

卑弥呼や壹與に指示された?東征将軍が影響を与えた。」
0547日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:07:51.74
>>1
葛城 高天原に反論が無いようだ
纏向破れたり
0548日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:08:51.92
>>1
葛城 高天原に反論が無いようだ
纏向破れたり
0549日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:09:11.11
>>335
>>250年以降の纏向型前方後円墳が全国に広まりだした時期に当たる<

>卑弥呼の死後に広まり始めたのか。<

卑弥呼の墓は「冢」。
前方後円墳は、那珂八幡や津古生掛などから、西日本に広がった。
0550日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:10:13.72
>>420
なら250〜300年、320〜420年と出たホケノ山の小枝は
丁度いい年代を指している事になるな
0551日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:11:32.66
>>336
>卑弥呼の死後も引き続き魏と交渉があったのは 邪馬台国女王トヨだぞ<

邪馬台国もトヨもない。
あったのは邪馬壹國と、壹與。
0553日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:16:21.74
>>548
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>1
葛城 高天原に反論が無いようだ >>>>>>>>>>>>>>


FAQを待てよ
0554日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:17:32.33
日本では邪馬臺國が正しいとして邪馬台国と簡略表記している
0555日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:19:33.60
>>444
日本書紀では天皇の先祖は高天原から出発して
畿内に至ったとある

先祖とそれから10代はあとの卑弥呼が
同じ地にいるのはおかしいではないか
0557日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:24:30.89
>>555
>日本書紀では天皇の先祖は高天原から出発して
畿内に至ったとある

高天原から高千穂に天孫降臨。
高天原が畿内であっても何も矛盾しない。
0558日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:26:28.69
>>545
それは真っ赤なウソ
前方後円形墳丘墓は東瀬戸内〜畿内圏で発生した
箸墓以降が前方後円墳
0559日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:28:11.60
>337
>俺が引っかかったのは 「中国皇帝」・・・なぜ魏としなかったのか
「倭王が連合参加の諸君公」・・これは解読不能 誰か教えてくれ<

参考までに。
列島の「尚方作」鏡は、
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
に拠れば、
かなりはっきりした二つのグループに分かれる。

一つは、三角縁鏡系であって、21cm以上であって、
「佳且好」と書かれて、関西に多い群。

もう一つは、非三角縁鏡系であって、20cm位以下であり、
「眞大巧」と書かれて、北部九州に多い群。

これは、
中国出土の「尚方作」鏡には三角縁が見られない事から、
列島の「尚方作」三角縁系は、楽浪鏡師が新たに造った鏡であり、
非三角縁系の「尚方作」鏡は、おそらく明帝の下賜鏡であったんだろう、
という事を示す。
0560日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:30:02.65
>>454
炭素14c測定法のAMS方は
それまでのベータ線法に比べて早く測定でき精度が高いとされる

もし1世紀古く出る事があればサンプルの一つくらいは
そうであっても不思議ではないけれど
5つのサンプルから得られた結果がだいたい20〜240年
また誤差を含んでそう表記さrているので木棺サンプルから
得られるホケノ山の造営年は240年以前という事になる
0561日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:30:26.16
>>549
理由なき捏造乙
0562日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:35:50.07
>>461
奴婢を地面に埋めた殉葬百人の痕跡のある古墳は見つかっていないから
大作冢、徑百餘歩の墓から卑弥呼の墓を当てはめる事になるんだろうけど
140m善後の規模の前方後円墳は畿内には100以上
それ以下ならもっとある
0563日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:39:29.68
>>343
>フフフ 一流の畿内説専門学者が数多く書き込んでいるぞ<


変だな。
一流の大和説学者が数多く書き込んでいる、とはとても思えないぞ。
「戦前の万世一系皇国史観」教にクルった・・・・アホばかりを相手にしていた、
としか思えなかったよ。

こんな・・・・が一流学者だとかでは、大和説の命運は尽きたな。
0564日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:40:14.28
>>463
ホケノ山の木棺木片サンプル5つの測定を平均すると20〜240年
誤差含んでの数値でありそれ以降のものである可能性は少ない
0566日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:43:41.03
>>555
>日本書紀では天皇の先祖は高天原から出発して
>畿内に至ったとある

高天原と大和の間に、筑紫に数百年間いたことになっている。
0567日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:46:35.43
>>559
それ、鏡師匠が別系統だってだけで、一方が明帝の下賜だなんて、なんの根拠もないだろ
0568日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:51:30.06
>>564
ホケノの年代をいろいろ議論しても、どっちみち無駄だよ。 「忌部はん」のお墓なんだからw  @阿波
0569日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:51:50.70
こんばんはー
0570日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:53:18.30
一流の畿内説専門学者?まあこことおなじくらいじゃね? つうか将棋のがおもろいな? 78飛車?後手でもええよ?(わえは酔ってるうえに多面よ? じじいどもわえに勝つチャンスよ?
0571日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:53:39.90
>>351
>一般的な編年だと最古級の古墳の築造時期は210年ごろになる
最近だと寺澤氏などは大体250年〜280年くらいの庄内2から3式の時期に
最古級の古墳が現れていると言う判断を出している
久住編年でもだいたい同じで
これに更に那珂八幡などの九州にも同時期に古墳が出現していると考えている
つまり、多くの学者が250年辺りを境に畿内から九州に至る地域に
古墳が同時多発的に表れたと判断しているのが分かる<

この男らも、
「古墳」と「前方後円墳」と「纏向型前方後円墳」を区別しない、
というインチキをやっている。
卑弥呼の墓はの、250年頃の「冢」であり、古墳ではあるが前方後円墳ではない。
だから、「一般的編年」も寺澤も久住もインチキをやっている事になる。

そして、前方後円墳は、那珂八幡や津古生掛などが古く、
大和の纏向型前方後円墳で一番早い石塚などは、那珂八幡や津古生掛などの伝播模倣であった、
という事になり、3世紀末。
0572日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:55:10.44
鴨先生が押してるな?
がんばれ山海!
0573日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:55:54.02
まけるなプラズマおじいちゃん!
0574日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:56:39.25
那珂八幡古墳や津古生掛古墳の水銀朱はまず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0575日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:57:25.70
>>567
ザラコクは最初に、「尚方作」という銘文を勝手に入れたら「首が飛ぶ」から平原の鏡は明帝の下賜しないだと言い張ってた
ところが三角縁にも「尚方作」があると指摘されて、いろいろ変な言い訳を言い出した

でも、最初に言ってた根拠が消滅してることには

  ダ・ン・マ・リ・・

 
0576日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:58:29.01
>>361
>そうだよ。 先ず卑弥呼が誰なのかキチッツと出さないと。
国宝・中平銘鉄刀の和邇氏につながる。 鴨族の聖地が高天原(御所市高天)だ<

「南≠東」などに拠って、×だ。
   
0577日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:59:32.88
>>466
前方後円墳以前の円墳やいかなる古墳からも日本書紀の記述にあるように
奴婢を古墳の境界に首だけ出して並べて埋めたような痕跡がない

つまり殉葬とは奴婢を古墳のそばに埋めるような行為ではなく
あったとしても斬首などによる殉死の強制だった可能性がある

祇園山古墳は周囲の墓が奴婢を一緒に生き埋めにした殉葬跡であると
九州説は主張するがその墓は年代の幅が広く後に徐々に建てられたものだろう

さらにそれが殉葬跡だったとしても
古代で行われてきただろう殉葬とは明らかに形が違うであろうものであり
よって逆にそれは殉葬跡ではない違う何かという事になる
0578日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 20:59:34.78
>>575
訂正
 明帝の下賜しないだと言い張ってた
  ↓
 明帝の下賜品だと言い張ってた
0579日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:02:16.46
普通
年代根拠は新しい方を採用するもんでしょ?

副葬品の場合はね。

ザラコク氏のいうことが仮にもし万が一当を得てるなら、、、
0580日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:03:26.59
>>579
その万が一は無い
ウソだから
0581日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:04:19.33
>>577
ただの共同墓地だよ
須恵器もでてる
0582日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:08:09.11
>>362
「臺ダイ」の新字体では無い「台」は
「タイ」以外に
《唐韻》與之切《集韻》《韻會》盈之切《正韻》延知切,音怡。
つまり「怡土郡」の「怡=イ」と同じ音読みで意味としては《爾雅&middot;釋詁》台,我也。《又》予也。
一人称代名詞だから「台」も「わたし」、「予」も「わたし」で
同音語が多くて紛らわしい支那語をしゃべる人物に対して
支那語の一人称代名詞を二つ続けて「わたし」をよりハッキリと強調したのである。
「台」の用例としては
《書経の禹貢》祇台コ先。《書経の湯誓》非台小子,敢行稱亂。
などがある。<

ふーん?。
0583日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:11:26.14
>>480
いわゆる東征は初代天皇の話だから
卑弥呼の時代より前の話
卑弥呼が東征将軍を派遣するのは時代が前後している
0584日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:11:30.36
>>367
>「王都は纒向」に異論は無いよな <

纏向は、「王都」の状態ではない、から、×。
0585日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:13:37.74
>>577

「祇園山古墳」の水銀朱はまず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0586日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:14:10.92
>>492
垂仁天皇が西暦紀元225〜275年頃となると卑弥呼の時代であり
その頃に垂仁天皇が殉葬を止めさせたのなら
卑弥呼の墓には奴婢百人の殉葬跡などない事になる
0587日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:21:13.89
>>503
張政が来たとしても卑弥呼が死んで男王が立ち
それから台与が立ったあと
殉葬が奴婢を地面に首だけ出して埋めたものだとしても
痕跡なんぞとっくに無くなっている
0590日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:26:16.33
>>372
>>いずれも、九州にあって、大和には存在しない。<

>九州説だと ・邪馬臺国の発音に近い地名 一応、山門あたりが候補になるが、次の戸数7万戸とみなせる遺跡はない<

邪馬臺國ではなく、邪馬壹國であり、太宰府付近が「邪摩惟=ヤマイ」と呼ばれていた。

>・戸数7万戸 奴国二万戸を超える国が、北部九州にはない  九州中南部にもない<

福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地。

>・30近くの国々の盟主 奴国にはいろんな地域の土器が来ているが、港町・大陸との玄関口として人が集まった結果であり、盟主的ではない  また、奴国は邪馬台国ではない <

奴國≠邪馬壹國。

>・宮室、楼観、城柵 吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国の想定に寄せて復元しているだけ  吉野ヶ里遺跡は邪馬台国とは時代が合わない <

おそらく安徳台。しかし、朝倉の方に、見つかったかも?という報道もあった。

>・卑弥呼の墓径百歩 候補すらない 九州説お気に入りの平原1号墓は漢魏尺の度量衡だと10歩に満たない
 無理に百歩だと言い張ると、複歩で12センチ、単歩(現代の一歩)で6センチになる<

祇園山。

>・徇葬百人  これは、日本中探してもない<

祇園山。
0591日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:26:54.36
>>584
という証拠は?
0592日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:32:00.74
>>577

「祇園山古墳」の水銀朱はまず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0597日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:41:44.92
>>596
どう?
0598日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:42:17.45
>>374
>・邪馬臺国の発音に近い地名 ⇒ ヤマト国そのもの <

邪馬壹國。

>・戸数7万戸 ⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲 戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる<

概算戸数であり、大和+河内〜環大阪湾は米田が否定。

>・30近くの国々の盟主 ⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積 広い範囲からの人が集まっている証拠  
 ⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから,この墓制の共通化を主導した盟主と認められる<

広範囲の土器集積は弥生銀座であり、前方後円墳は那珂八幡や津古生掛などからの伝播。

>・宮室、楼観、城柵 ⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群 それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
 ⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している <

纏向は居住になっていないし、唐子鍵は、元は出雲系の遺跡。

>・卑弥呼の墓径百歩  ⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが,いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い<

卑弥呼の墓は「冢」であり、石塚は前方後円墳であるから、×。

>・徇葬百人 ⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない 家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると 誤解した可能性がある <

祇園山。
0599日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:43:46.19
>>590
祇園山は、×。
サイズも合わない。
殉葬も無い。
0600日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:44:19.79
>>362
書経は唐の時代に書かれた書らしいから
少なくとも魏・晋時代での臺の別字としての使用例とは言えない
0601日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:47:19.51
>>598
「冢」だと、なんで前方後円墳じゃないの?

また妄想ら
0602日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:47:28.10
>>597
今までだと誰に何を言われようとも曲げずにゴリ押してたのに
年とったって事だろうけど
0603日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:47:34.34
>>384
>(臺が当用漢字音訓表(当時)に入らなかったので同じ発音の台で代用)<

現在は、PCで打てるので、インチキは八女て、「臺」で打て。
0604日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:48:16.42
字の用法に合ったかたちじゃないから
0605日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:50:02.71
>>387
>>西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳などのことと考えていいか? <

>棺あって槨なし 纏向古墳群なわけがない。<

ふーん。
0606日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:51:40.45
>>388
>纒向・箸墓に対抗して
最強力の御所市高天ケ原説が登場したようだ。卑弥呼の墓にピッタシ<

「南≠東」などに拠って、×。
0607日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:51:48.36
>>600
後世の代用字で問題ない
われわれは後世の人だ
台の字を使ってなんのせめられる謂れもない
0609日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:53:44.86
日本人は台で臺とわかるから通用してる台でいいよ
朝鮮人は臺がいいなら臺を使ったらいい
0610日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 21:56:54.24
>>606
お経よみあげても意味はない
0611日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:00:19.69
結局、台の字がトも読めることが確定してるから
邪馬台国をヤマト国と読まれるのがイヤで
横車押しまくってるだけでしょ



0612日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:01:12.25
>>389
>しかし中国の古代の文献に「邪馬【台】と書いた例は無い。
「壹」は「臺」と形がよく似ていたから中国人が写し間違えた。<

「臺」に書き換えたのは、唐代以後の史家の「自己解釈に拠る書き換え」説明をしたい似非学者。
写本版本には、全て「邪馬壹國」となっている。

>5世紀の後漢書には「邪馬臺國」は小書きの割り注で
「案ずるに今の邪摩惟=ヤマイ、音の訛り也」と書いてある。<

唐の李賢は、おそらく郭務ソウらの報告に拠って、
白村江の後の倭国の都のあった太宰府付近が「邪摩惟」と呼ばれている事を知り、
後漢書の邪馬臺國に「注」を入れた。
0613日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:03:27.69
>>606

「南≠東」が否定されてますけど?

そして、あんたは反論に失敗してる
もうダメだな
0614日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:06:16.00
>>612
証拠は?

なければ妄想
0615日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:07:49.77
三国志版本は唐代の後の時代
0616日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:09:06.51
>>594
>神武東征で出雲そして大和を統一したと日本書紀にあるけれど

いやだからその前に神武の曽祖父ニ二ギが高天原から高千穂に降臨してるだろ。
その話をしてるのだが。
0618日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:15:15.32
>>612
四史本後漢書では「案今名邪摩「堆」音之訛也」
邪摩「惟」になっているのは後に書かれた百納本後漢書
北史でも邪摩「堆」

邪馬壹國は12世紀になってから倭人伝に初めて出る表記
それ以前の史書の魏志引用文では邪馬臺國
邪馬壹國は12世紀に生じた誤記
0619日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:16:59.95
>>616
それから子孫の初代天皇が東征したんだろ
あっもしかして天皇の先祖と初代天皇をごっちゃにしてるな
0620日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:34:52.66
>>616
ああそうか言いたいことはわかったわ
つまり神武東征は卑弥呼の時代より後だったと言いたいわけだな?
考古物象やら倭人伝の記述やらあまりに色々すっ飛ばした話だから
そこに頭が回んなかったわ
0621日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:38:40.61
>>406
>>5世紀の後漢書には「邪馬臺國」は小書きの割り注で
「案ずるに今の邪摩惟=ヤマイ、音の訛り也」と書いてある。<

>その「邪摩惟」にさらに「邪摩堆」という注がついてるんだけどな <

元の文字が「邪馬臺國」であったんだから、はるか後代に、
「邪摩惟→邪摩堆」という注で変えたく思う人はいても、
「邪摩堆→邪馬惟」と言いたくなる人はいない訳で、
という事は、「邪馬惟」の方が「邪馬碓」よりも「古文」だな。
0622日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:55:21.59
>>407
>つまり、これは古田武彦氏他の勘違いまたは語認識であって、<

変な男ら。
写本版本では、魏志は全て邪馬壹國であって、後漢書は全て邪馬臺國であって、
それぞれの対象や説明内容が違うのであり、どちらも正しい。
当たり前の事であり、それが、古田論。

>もともとは、ヤマトの音訳に過ぎないし、<

いや、魏志は「ヤマイッコク」の漢字表記であり、
後漢書は、「ヤマダイコク」の漢字表記。
「ヤマト」なんて存在していなかった。

>現代表記をする場合
学術書だからという理由でわざわざ邪馬「臺」の用字にする必要もない<

邪馬壹國と邪馬臺國とは、記載対象が違う別のものだから、
邪馬壹國→邪馬臺國と書き変えては嘘つき騙しになるし、
邪馬臺國→邪馬壹國と書き変えても嘘つき騙しになるし、
それらを「ヤマト」などと表記する事も、嘘つき騙しになる。
0624日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 22:59:10.65
>>411
>>「王都は纒向」に異論は無いよな <

>あるよ。 王都は葛城だ。<

「南≠東」などに拠って、どちらも×。
0625日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:05:26.07
>>413
>中国、朝鮮半島(旧楽浪郡)出土鏡が、「佳且好」21cm以上、
「眞大巧」20cm位以下の二つのグループになっていないので 無意味な分類 <

始めから「列島の尚方作鏡で」と、対象をはっきり書いておいた。
だから、「列島の尚方鏡に関して」では、「はっきりグループに分かれる」という意味。
0626日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:06:38.49
後漢書には卑彌呼も登場し、漢者と使驛が通じているのも於三十許國だから
邪馬臺國と12世紀版本の邪馬壹國は同じ国
別の国というのは反日古田が本を売るための作り話
0627日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:07:44.03
>>625

日本のだけで分けても意味なし
0628日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:08:02.12
歴史の真実を追求する気があるのか?

自分に都合のいいストーリーばかり語り過ぎ
0629日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:12:58.37
>>559
紀年鏡の出土地域から、当時の力関係が垣間見えるというか、面白いよね。
海部氏の伝承や、記紀の記述と会ってるからおもろいわ。
崇神以前は海部氏、尾張氏、和珥氏の先祖のほうが有力者だったのだろうな。
東大寺山古墳金象嵌の鉄剣とか、籠神社の鏡とかその時代ピンポイントでわんさか
出てくるもんな。赤坂今井古墳とか。

天火明命の子孫だという伝承を持つ丹波(丹後)地域を基盤にする有力者が国家統一の立役者だった。
尾張、播磨摂津へも進出していた。
高槻の安満宮山古墳、乙女山古墳なども彼らの勢力圏。
0630日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:13:46.25
>>439
大和説のよくやる根拠なしの、口先でのヘイトスピーチ連呼は無意味だってこと。
0631日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:18:09.71
>>443
>どこに書いてあるの?<

その投稿か?、その前位の投稿に。

>書いてないでしょ 九州説は嘘をついてばかりだ <

書いてあるでしょ?。大和説は、嘘を付いてばかりだ。
0632日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:27:02.15
>>631
また証拠を出さない

九州説はウソまみれだな
0633日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:27:53.70
戦後に行われた籠神社の宮司と出雲大神宮の宮司の対談の記事を見たことがある
お互いの秘密を暴露し合っていた

籠神社には隠してある主祭神がある
出雲大神宮の祭神は大国主と三穂津姫だが、中央は空位である
というものだった
筆者はどちらもクナトの神だろうと推測していた

また籠神社の宮司の話によると、神道は本来一神教らしい
0634日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:28:36.16
>>625
また九州説の嘘がバレました
0635日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:34:35.70
ここで妄想を一つ

古代九州で57年ごろに漢倭奴国王を貰った勢力と
107年に後漢に使者を派遣した倭国王師升
これは別の勢力、敵対勢力で
さらに師升こそ東征する前の天皇の祖先だったのではないか?

師升率いる集団はは高天原、宮城県が故地で
西暦100年ごろ北上を開始
吉野ヶ里遺跡を攻め滅ぼし伊都国、奴国、その他九州北部を支配下に置く

金印は奪われるのを避けるためあんな風に
辺鄙な志賀島に目印もなく隠すようにして埋められた

伊都国の一大率は師升率いるグループが監視のため設置
そして107年後漢の後盾を得るために朝貢
しかし後漢からすれば金印を持ってない王位の簒奪者だから
新たな金印紫綬もなくあまり厚遇はして貰えなかった
0637日本@名無史さん垢版2018/09/20(木) 23:41:25.77
>>633

>籠神社の宮司の話によると、神道は本来一神教らしい

直(あたい)の姓は倭漢直のように渡来人だろ
0638日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:01:58.61
帥升なんて、帥だから筑紫の倭王に決まっている。
大率だって超越的な卑弥呼の下で筑紫の実質的な権力者だ。
要するに太宰の帥(率)は後漢代からあったということ。
0639日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:06:07.24
あと、卑弥呼は最初の朝貢に漢委奴国王印を使ったはず。
そうでないと倭国の正統であることを証明できないからね。
つまり卑弥呼も帥升も筑紫の倭王。
0640日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:25:17.47
なんで魏に朝貢にするのに漢委奴国王印を使うんだよ(笑)
魏は認めないっ漢を支持するって意味になるよ
0641日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:31:54.81
>>638

太宰の帥は倭王じゃない
0642日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:34:23.56
纏向は王都で無いことが分かった今
話題にも上らなくなった
テンプレから纏向外していいよ
0643日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:37:59.65
>>635
57年に新羅の王も倭人になってるから
漢委奴国王は九州北部から新羅までを支配する凄い権力者だったはず。
0644日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:44:48.32
黒田家は隠し通したのだろう
邪馬台国を暴けば反朝廷と見なされるから
0645日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:49:57.58
反日古田とカキコム奴がいるが
古田のどこが反日なのか教えてくれ
0646日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 00:58:02.11
>>601
前方後円墳では邪馬台国の謎は解けない
0647日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 01:17:00.43
>>639
理解できるよ
畿内説では後漢書東夷伝と魏志倭人伝の倭国が
俺には別物に映る
同じ東夷伝なのだが
0648日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 01:52:12.92
>>640
魏は漢から禅譲されているので、その外交関係を継承している。
漢からもらった金印は魏に対しても更新されるまでは有効。
金印がないと誰でも倭王を詐称できてしまう。
0649日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 01:53:55.45
>>641
本来は帥は筑紫の倭王の意味だったと推定できる。
卑弥呼はその上の超越的存在だったのだろう。
皇帝とか天皇のような。
0651日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 05:48:55.27
>>645
古田反日とカキコム人は無視でいいよ
邪馬台国と関係ないことで九州説を否定したいだけだから
論が無い人でしょう
なお古田さんは反日では無いよ・・普通の人
0652日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 06:16:24.58
古田は連呼人種にとっては普通の先生だね
どろぼうとも深い繋がりがある
天皇家が神話を盗んだと主張しており、
福澤諭吉もどろぼう喜八郎のツガルから言葉を盗用したと主張していた
0653日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 06:27:05.21
反日の人が親鸞研究なんてしないだろ
0654日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 06:33:08.27
親鸞の研究したら反日ではないとは言えないが
それもとっくに止めてる
0655日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 06:47:50.80
安倍がなんたらとか極右マスコミとか皇国史観の戦争狂がどうとか言ってる人は
無視でいいよ
0656日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 06:49:38.43
>>523
>おそらく、「宗教上的な後継の娘」の意味。

適当なこと書くなよ
宗家とか本宗とか言うときの宗だよ
0657日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 06:56:37.72
>>562
>140m善後の規模の前方後円墳は畿内には100以上

ただ、3世紀半ばまで、という制限を付けると、ほぼ纒向古墳群に限定されるよ
0658日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 07:22:08.14
売り言葉に買い言葉
5ちゃんらしいww
0659日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 07:36:06.30
>>648
じゃあ、どうして金印を返納してないの?

おかしいよね
0660日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 07:46:37.72
>>659
の論調に賛成します
問題は後漢書の倭国と
魏志倭人伝の倭国は
同一か否かではないだろうか
0661日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 07:57:28.15
>>444
>御所・高天ケ原だね。
皇紀2600年の記念石碑も建てられており、地元の崇敬も厚かったようだ。
大きさも径100余歩、卑弥呼の墓にピッタシ。<

「南≠東」にピッタシであり、×。
0662日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:03:45.76
>>445
>こんなふうに理由なしで連呼するだけでしょ<

大和説者は、
以前にいくら理由が書かれていても、知らん振りして、なかった事にして、
「こんなふうに理由なしで連呼するだけ」とヘイトスピーチを連呼して、
議論に勝っているかのように、国民を騙そう、とする、
・・・・詐欺師であった、
というだけでしょ?。
0663日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:07:57.15
>>447
>御所・高天ケ原は、超有力だね。 丘陵を利用した立地といい、大きさ・雰囲気といい、
卑弥呼の墓に、まことにふさわしい。<

「南≠東」に拠って、超×だね。
0664日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:11:59.91
>>663
「南≠東」は「会稽東治之東」に拠って、超×だね。
0665日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:14:21.80
>>458
畿内が存在した、なんて非常識なことを、
理由も言わすに連呼連呼するなんて、
頭おかしいんじゃないの?。
0666日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:21:57.32
>>462
>>3世紀中頃の卑弥呼の墓は「冢」であり、 纏向型は、前方後円「墳」だから <

>何の根拠もない妄想をいくら連呼しても 九州説のダメさを天下に広めるだけで、×だ。<

孔明の遺言が「墳」と「冢」とを使い分けており、
日本の考古学者らも、それを知っていて敢えて「墳」と呼んでいるんだから、
何の根拠もない妄想をいくら連呼しても、
大和説者の脳神経のダメさや・・・・性を、天下に広めるだけであり、×だ
0667日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:28:40.78
>>469
ヘイトスピーチのご託宣をするだけか 。

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者や、右翼マスコミや安部自民文部省らの、
俺サマらの思想に合わないからダメという、
キョクウ戦争狂の大和説者の典型だな。
0668日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:36:41.01
>>486
大和説者らって、 ヘイトスピーチ中傷とデマと妄想垂れ流し、ばっかりの、
・・・・キョクウの詐欺師集団だね。
0669日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:41:44.19
>>666
其死有棺無槨、封土作冢。
卑弥呼以死、大作冢。

そのとおりだ、「墳」ではない。
倭人伝には、ご丁寧に2回も「作冢」が出てくるのだ。
0670日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:50:18.47
>>495
>魏志倭人伝では 卑弥呼の墓は「家」
中國では墓のことを「家」と古代言ったのだろうか? 塚と家の違いは
こんがらがってきた 誰か教えてくれ <

魏志倭人伝では、卑弥呼の墓は「冢」と書かれているのであり、
「家」と書かれているのではないよ。

しかし、陳寿は、馬韓伝で「居處作草屋土室、形如冢」と説明しており、
馬韓の「家」は、日本の「竪穴式住居」と同じような円錐状や角錐状をしており、
「墳」のような「丸みを帯びた小山状」ではなく、
陳寿も、孔明の遺言や、現代日本の考古学者らと同じようらに、
「冢と墳との区別」をしている事になる。
0671日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 08:58:21.11
倭人伝には「形如冢」とは書かれていないから
日本の「竪穴式住居」と同じような形の冢ではないことがわかる
0672日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:03:15.38
馬韓伝は「其戸在上」なので、馬韓伝に書かれている住居は
日本の「竪穴式住居」とは違うこともわかる
0673日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:29:20.80
いつ覗いても、畿内説の宣伝係が論破されているな。。。
0674日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:34:40.28
>>670
それは素人爺さんが一人で勝手に考案した区別だろ
世間も学者も誰ひとり認めない
0675日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:37:54.71
>>673
いつ覗いても、連句読点男が嘘ついているな
0676日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:39:26.06
>>516
>四史本後漢書では問題の箇所は其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩「堆」音之訛也)になっている
ここが邪摩「惟」になっているのは百納本後漢書
百納本は13世紀ごろ編纂されたから誤記が生じた可能性が高い<

「古本や古型」論では逆。
「其大倭王居邪馬臺國。【案:今名邪摩惟、音之訛也。】」は、
「今」というのは唐の李賢時代を「今」と呼んでいるのであり、
「今」の呼称の邪摩惟(ヤマイ)であれば、
確かに「邪馬臺(ヤマダイ、ヤマタイ)」の音之訛であった事になるから、
論理が通るが、
「今」の呼称が「邪摩堆」であったんなら、
「邪馬臺(ヤマダイ、ヤマタイ)」の音と同じであるから、
音之訛になっていない!。
従って、百納本後漢書の方が、論理が通っていて、適切であった事になり、
つまり、「邪摩惟」の方が、古型であり古文であった、という事になる。

>北史にも邪摩堆は魏志のいわゆる邪馬臺であると表記があるので
邪馬臺は邪摩堆と書き表すのが当時では一般的だったのではないだろうか<

北史も、唐代史書に特有の、
前書の隋書の「自己解釈に拠る書き換え」が幾つもある半分×書であるから、
史料根拠価値が殆どなく、半分×書。
0677日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:42:24.13
>>670
現代日本の考古学者らと同じように「冢と墳との区別」をしている?

そんな区別をしてるなら
椿井大塚山古墳や今城塚古墳などという名称は存在しない
0678日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 09:51:14.14
>>521
>一発変換できないから邪馬臺國を新字体の邪馬台国と打ってるだけだぞ<

誤魔化し言い訳無用。
私は「だい」と打って「臺」に直ぐに変換出来ている。
だから、大和説者の「邪馬台国」記載は、
「邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国→ヤマト国→大和」
という嘘つき騙しをするための詐術的なテクニック文言。

>畿内説は誰も邪馬臺國ではなくて邪馬台国だったなんて言ってないだろ<

大和説者も、大和説学会教育界も、右翼マスコミも、安部文部省や地方公共団体も、
「邪馬台国」という文言が史料事実であるかのように使えば、
皆、嘘つき騙しの・・・・的な詐欺師。
0679日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 10:05:31.38
>>531
>ヒメ、後の時代に踏鞴と五十鈴を加えられ、
ヒメ踏鞴五十鈴媛と呼ばれるヒミコ、その両親、親族、
つまり高天原の神々が眠っているはずだ。<

「南≠東」などに拠って、×。
0680日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 10:20:50.14
御所・高天ケ原には、皇紀二千六百年の碑が見える。
なんとなく、明治以降の薩長のにおいがするな。
0681日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 10:32:30.94
>>537
>質量がある状態とはざっくり言うとヒッグス粒子の集まったヒッグス場を
素粒子などが抵抗して運動している状態
ちなみに原子とかそのくらいの小さいスケールの話になると
重力の及ぼす影響はほとんどなし <

関係なし。
元々は、素粒子レベルでは、「粒子も波動性を持ち、波動も粒子性を持つ」という実態が、
「場の相互作用」論の出発点。
そして、電磁場も重力場も、光子や重力子状にもなる事や、
電子も波動性を持つ事が認められ、
質量や粒子そのものが、
重力場と電磁場の引力性と斥力性とを持ったスピン的凝集体だ、
という思考になっていて、それで、全ての素粒子の存在の説明が大体出来る、
という状態になっていた。
0682日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 10:40:21.01
九州説はあらゆる学問を否定する
0684日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 10:52:06.96
>>676

>「今」の呼称が「邪摩堆」であったんなら、
>「邪馬臺(ヤマダイ、ヤマタイ)」の音と同じであるから、
>音之訛になっていない!。

臺はダイ、堆はタイで音が違う
0685日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 10:54:46.96
>>678

九州説も日本人は皆「邪馬台国」
0686日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:15:08.16
>>680
>御所・高天ケ原には、皇紀二千六百年の碑が見える。

そんなのあったっけ?
0687日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:15:48.69
>>682
なにを言うやら(^。^)
0688日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:16:08.22
>>540
よくわからないことを断定的に出鱈目言って誤魔化す
→ スレ主や大和説者や大和説学会考古学会

よくわかってないのに勝手に決めつけて、
「戦前の万世一系皇国史観の戦争国家」を宣伝するやくざ暴力団の粘着
→安部自民や文部省や右翼マスコミや教育界
0689日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:20:07.25
>>638
>帥升なんて、帥だから筑紫の倭王に決まっている。

160人もの生口がいた俘囚郷はどこ?
0690日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:22:40.74
>>685
皆とは、言い過ぎだが
畿内説はほぼ関西だけで通用してる
畿内説学者も関西の大学出がほとんどだ
0691日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:25:50.98
>>690
妄想が暴走してるな九州説
0692日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:28:06.56
>>544
>ホケノ山は方格規矩鏡は出てても三角縁神獣鏡が出てないから
出土鏡で見れば卑弥呼の墓より前だろう<

明帝→卑弥呼の下賜の銅鏡百枚の中心は、方格規矩鏡と内行花文鏡。
0693日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:36:37.00
>>552
>木棺の炭素14年代測定で三世紀中頃
もっと前でもいいくらいだ <

木棺なら、樹木の髄に近いところから採るから、
表皮付近よりは年輪の数近くも古く出てしまうし、
プラズマ化の分も古く出てしまう。
0694日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:41:07.04
>>554
>日本では邪馬臺國が正しいとして邪馬台国と簡略表記している<

「邪馬台国」なんて書いているのは、
日本の学会教育界や右翼マスコミや安部文部省らだけ。
世界では、中国も悪名高い台湾でも、「邪馬壹國」でOKだ、と考えている。
0695日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:46:14.60
>>555
>日本書紀では天皇の先祖は高天原から出発して畿内に至ったとある <

畿内なんて、存在していなかった。

>先祖とそれから10代はあとの卑弥呼が 同じ地にいるのはおかしいではないか<

天皇家の先祖は阿毎(天や海のイ)氏。
卑弥呼は、東海姫氏國の姫氏。
0696日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:46:38.55
>>694
証拠でもあんの?
またデマカセ?
0697日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:47:49.81
>>695
言い張るだけ男ザラコク
0698日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:50:08.86
>>556
>両方とも12世紀に倭人伝に生じた誤記<

魏志の写本版本は、全て「邪馬壹國」や「壹與」であり、
考証校勘学者らは、誰も、「邪馬壹國」や「壹與」の校勘を一切しておられないから、
99,5%以上、誤記ではない。
0699日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:53:39.12
>>693
>木棺なら、樹木の髄に近いところから採るから、

なんで?
またテキトーな思いつき?
0700日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 11:55:29.15
>>698
また写本とかウソついてる
0701日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 12:09:30.70
>>557
>高天原から高千穂に天孫降臨。
高天原が畿内であっても何も矛盾しない。<

筑紫城の倭奴國から、神武らは大和に移った、と書かれているんだから、
高天原が大和、は矛盾。
0702日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 12:19:04.04
>>558
>前方後円形墳丘墓は東瀬戸内〜畿内圏で発生した
箸墓以降が前方後円墳 <

東瀬戸内〜大和は、元は出雲系であったが、
九州倭国の東征で、墓制も、
九州の那珂八幡や津古生掛などの前方後円墳を取り入れるようになったが、
出雲の影響や、半島〜出雲経由の墓制も少し影響残存した。
0703日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 12:20:28.26
>>690

お爺さんがまた何か勘違いしてるようだが
日本人はどの説も皆「台」の字を使って「邪馬台国」と表記すると言っている
畿内説は学者の説なのでアンケートのデータには出ないし
地域は関係ない
0704日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 12:30:43.33
「那珂八幡古墳」や「津古生掛古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波 
0705日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 12:45:33.29
>>701
そんなこと、どこに書いてあるんだ?
0706日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:16:05.71
>>683
昨日の選挙でも、薩長同盟が暴れまわったのに、、、
のんびりしてらっしゃいますね
0707日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:17:00.75
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0708日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:37:41.07
それにしても老婆なんだよな、
ウサギを飼っていたという話をしたり

どう考えても日本の神話
0709日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:40:03.66
なぜかイモ類、
ニンジンを煮たような物ばかり食べていたと言う話

どういう事なんだろう
0710日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:42:44.78
>>560
>炭素14c測定法のAMS方は
それまでのベータ線法に比べて早く測定でき精度が高いとされる<

「南→東」などの嘘つき騙しの、大和説宗教に狂った人種が、
「精度が高いとされる」なんてご託宣をされたって、何の信頼性もない。
同一検体で、ベータ線法とAMSでの両方の計測をして見て、比べてみればよい。

>もし1世紀古く出る事があればサンプルの一つくらいはそうであっても不思議ではないけれど
5つのサンプルから得られた結果がだいたい20〜240年<

20年から240年もの開きがあれば、220年ものばらつきがあった事になり、
50〜100年位の差異発生を問題に対しては、何の価値もない。

>また誤差を含んでそう表記さrているので木棺サンプルから
得られるホケノ山の造営年は240年以前という事になる<

木棺の採取場所は、当然表皮近くではなく、髄に近い部分であった事になるから、
それだけでも数十年以上古い数値が出る事になる。
0711日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:44:15.65
仏教などを取り入れた後の話なのかな、
寺院に通っていた?
0712日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:46:44.27
こういう話とか、なぜ知ってる人がいるんだろう

>出雲国に猿田彦を祭神とした赤秦社が多く鎮座す。
>猿の尻は赤いので赤秦と称すが、
>その実は、
>百済系祭神を赤と称し、
>新羅系祭神を白と称す
0713日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:50:51.98
>>562
>奴婢を地面に埋めた殉葬百人の痕跡のある古墳は見つかっていないから<

祇園山で見つかっている。

>大作冢、徑百餘歩の墓から卑弥呼の墓を当てはめる事になるんだろうけど <

「冢」である事も、卑弥呼の墓の条件になる。

>140m善後の規模の前方後円墳は畿内には100以上それ以下ならもっとある<

魏使らや張政らは、既に郡からの行程で「短里」を使って来た事になるので、
1歩も「短歩≒25.5cm」を使っていた事になり、百餘歩は25.5m余りになり、
140m位の墓は、始めから×である。
0714日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 13:56:00.58
泥棒のようなものに入られた
という話も同じような気がするし
0715日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 14:05:28.11
『倭人 新羅』

こういう話とか、どういう事なんだろう
0716日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 14:25:39.09
「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0717日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 14:35:16.35
>>713
>魏使らや張政らは、既に郡からの行程で「短里」を使って来た事になるので、


「会稽東治之東」により、短里も祇園山も×である。
0718日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 14:40:58.79
>>706
自分に都合よく時空をねじ曲げるのはトンデモの典型例
皇紀2600年時点で影響を与えたという薩長とは具体的に誰か言ってみろよw
0719日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:22:31.69
>>567
>それ、鏡師匠が別系統だってだけで、
一方が明帝の下賜だなんて、なんの根拠もないだろ<

http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
をよく見てみろ。
列島出土の
「尚方作竟(佳且好)」は、三角縁神獣鏡タイプばかりで、
呉系楽浪鏡師が関わった事を示す鏡ばかりで、
「尚方作竟(眞大巧)」は、三角縁鏡ではなく、方格規矩鏡などばかりで、
呉系楽浪鏡師が関わった形跡がない鏡ばかりで、
三角縁神獣鏡ではないから、明帝の下賜に合う鏡ばかりであり、
九州付近に多く出ているから、卑弥呼か壹與が下賜した可能性がある鏡ばかりだ。

つまり、列島出土の「尚方作」鏡は、
下賜を受けた卑弥呼らが更に下賜した鏡群と、
呉系楽浪鏡師らが、(卑弥呼らの依頼を受けて?)、
「尚方作」と版刻して造った鏡群の二種類あったのだ。
0720日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:32:41.32
炭素14c測定法のAMS方やベータ線法とはなんだろうか、、、
そして、偽造を実行した大河内隆之容疑者との関係性はどうなっているのだろうか。。。
0721日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:35:51.79
大河内隆之容疑者は自分に都合よく偽造を実行して真実をねじ曲げたのではないのかな。。。
0722日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:41:13.24
>>575
>ザラコクは最初に、「尚方作」という銘文を勝手に入れたら「首が飛ぶ」から
平原の鏡は明帝の下賜しないだと言い張ってた<

そりゃ始めは「尚方作」鏡は平原の21枚の方格規矩鏡しか知らなかった、
という事での推論であり、
しかし、平原の「尚方作」鏡などの鏡に塗装がされている、というになったから、
楽浪鏡師らの関与が入った可能性がある、と言って来ていたんだよ。
そして、誰かが列島の「尚方作」鏡の出土例を幾つか出してくれたから、
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
が探せたので、さっそく分析したら、
呉系の楽浪鏡師らが造った「尚方作」鏡があったようだ、と判ったんだよ。

>ところが三角縁にも「尚方作」があると指摘されて、いろいろ変な言い訳を言い出した<
でも、最初に言ってた根拠が消滅してることには ダ・ン・マ・リ・・<

別に言わなかったが、呉系の楽浪鏡師らが「尚方作」鏡を造った時に、
卑弥呼に黙って造れば、そりゃ、うっかりすると首が飛ぶよ。
楽浪鏡師らは、当然、卑弥呼の許可を受けて、「尚方作」を書き入れた筈。
0723日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:47:25.93
列島出土の「尚方作」鏡は、2種類あったということが判明し、畿内説の宣伝係には、大きな打撃になったのではないのかな。。。
0724日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:52:35.78
熊本城の天主は、薩長によって放火されたのではなかったのかな。。。
0725日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:53:00.13
>>577
>前方後円墳以前の円墳やいかなる古墳からも日本書紀の記述にあるように
奴婢を古墳の境界に首だけ出して並べて埋めたような痕跡がない
つまり殉葬とは奴婢を古墳のそばに埋めるような行為ではなく
あったとしても斬首などによる殉死の強制だった可能性がある
祇園山古墳は周囲の墓が奴婢を一緒に生き埋めにした殉葬跡であると
九州説は主張するが<

そんな主張をしていない。
祇園山は、全て何らかの「棺」の中に安置されていた形であり、
生き埋めにした形跡は0であり、
しかも、複数埋葬も互い違いに綺麗に収められているから、
先に殉死があって、それを62個余りの棺で埋葬した形である。

>その墓は年代の幅が広く後に徐々に建てられたものだろう<

これは×ね。
相互に重複や攪乱がなく、墳頂に対して整然と並んでいるから、
ほぼ同時期埋葬である。

>さらにそれが殉葬跡だったとしても
古代で行われてきただろう殉葬とは明らかに形が違うであろうものであり
よって逆にそれは殉葬跡ではない違う何かという事になる<

殉死後の棺への安置であった。
0726日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 15:57:56.30
『河童バビィ』

これも、どういう事なんだろう、
バビィ(仮)が〜〜〜何やら〜〜〜〜決定していたようなことが書いてあったり


もののけ姫に出て来るヒイというキャラと同じようなコンセプト
0727日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 16:00:49.90
『何物にもなれない お前たち』
0728日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 16:05:12.15
>>581
>ただの共同墓地だよ 須恵器もでてる<

宝賀氏も内倉氏も、
筑紫における(中国の黒陶や灰陶などの)陶器の出土が、
吉武高木の頃から、土師器と混在もあって、相当古い、としておられ、
須恵器も、陶邑よりも早いのではないか?、としておられた。
そして、卑弥呼墓なら、当然、価値のある土器を使っていた可能性があり、
副葬もされ、その後の祭祀にも使われた可能性がある。
0730日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 16:54:21.71
wikiを読んでみると酸漿が何やらと書いてあるし

『福島 民家園』の話だと思うんだけど、老婆のほうが詳しい?
0731日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 16:54:51.92
>>729
つか、歴史全般についてアマチュアの人でしょ
0732日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 16:56:35.10
>>724
熊本城の天守が焼けたのは西南戦争の時
薩軍による放火説と官軍による失火説、戦略的自焼説などある
これで「薩長」とかバカ丸出しだぞ
0733日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 16:58:47.19
『松傾』?

むかーし、名前の事で聞かれたことがあったんだよ、
「す□のサンですか、それとも、か□のさんですか?」

何度もあると言っていたり、
どこかの受付とか配達員などに
0734日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:00:31.79
>>732
連続句読点はバカなどではなくれっきとした既知害だぞ
見くびってやってはいけない
0735日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:21:03.30
>>703
(笑)わせるなよ

>日本人はどの説も皆「台」の字を使って「邪馬台国」と表記すると言っている<
0736日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:21:50.98
まあ古田一派も三世紀に須恵器とか言い張って信用失墜してるから、同じくらい既知だろう
0737日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:26:43.19
>>703
他説が「邪馬台国」と「台」で表記したら畿内説になると言う頭の中身が見てみたい
0738日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:28:16.97
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0739日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:29:33.61
>>735
反論もできないでヘラヘラ笑ってると、論破された痴呆にしか見えない
0740日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:31:56.22
>>581
>ただの共同墓地だよ 須恵器もでてる<

宝賀氏も内倉氏も、
筑紫における(中国の黒陶や灰陶などの)陶器の出土が、
吉武高木の頃から、土師器と混在もあって、相当古い、としておられ、
須恵器も、陶邑よりも早いのではないか?、としておられた。
そして、卑弥呼墓なら、当然、価値のある土器を使っていた可能性があり、
副葬もされ、その後の祭祀にも使われた可能性がある。
0741日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:32:12.20
>>577
>前方後円墳以前の円墳やいかなる古墳からも日本書紀の記述にあるように
奴婢を古墳の境界に首だけ出して並べて埋めたような痕跡がない
つまり殉葬とは奴婢を古墳のそばに埋めるような行為ではなく
あったとしても斬首などによる殉死の強制だった可能性がある
祇園山古墳は周囲の墓が奴婢を一緒に生き埋めにした殉葬跡であると
九州説は主張するが<

そんな主張をしていない。
祇園山は、全て何らかの「棺」の中に安置されていた形であり、
生き埋めにした形跡は0であり、
しかも、複数埋葬も互い違いに綺麗に収められているから、
先に殉死があって、それを62個余りの棺で埋葬した形である。

>その墓は年代の幅が広く後に徐々に建てられたものだろう<

これは×ね。
相互に重複や攪乱がなく、墳頂に対して整然と並んでいるから、
ほぼ同時期埋葬である。

>さらにそれが殉葬跡だったとしても
古代で行われてきただろう殉葬とは明らかに形が違うであろうものであり
よって逆にそれは殉葬跡ではない違う何かという事になる<

殉死後の棺への安置であった。
0743日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:40:22.22
「邪馬壹國」
「邪馬臺国」
「邪馬台国」

どちらでもいいよ・・・・俺はあまり固執しないタイプ
ヤマタイだからヤマトに近い呼び名とかよく似た所が多いとか、くだらんね
0744日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:47:00.03
畿内説では
吉備あたりを投馬国にあてるのが主流だが
投馬国 トウマと言う地名が吉備に多いのかねーーと
聞きもしねーけどね
0745日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:52:48.09
ようするに「ヤマト国」と読まれるのがイヤで
必死に横車押してるんでしょ
負け組のダダこね
0746日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:53:26.86
俺の県は田中の姓が全国で最も多いから
田中角栄の先祖はわが県出身だってか
0747日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:55:06.03
>>745
ヤマト国って倭人伝に書いてあるのかねーー
0748日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:58:19.35
>>732
薩軍の放火なら誤りとは言えないだろ。
知らんけど。
0749日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 17:58:29.94
>>745
ヤマト国って倭人伝に書いてあるのかねーー
0750日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:02:11.52
>>583
>いわゆる東征は初代天皇の話だから 卑弥呼の時代より前の話
卑弥呼が東征将軍を派遣するのは時代が前後している<

五瀬命と神武の東征は、欠史八代の頃は、
出雲系銅鐸部族や毛人らとの共存状態であったのだから、
未完成であったのであり、
だから、鉄刀の東大寺山のような東征が繰り返され、
吉備や東瀬戸内の再東征があったりして、住民が高地性集落への逃避があったり、
崇神の頃に、三道将軍らの東征もあり、
それ以外にも、椿井や桜井茶臼山などの東征将軍もいたし、
景行や倭建命も、九州倭国の配下の武将であった。
0751日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:02:29.08
>>747
台の字がトと読めるのは確定してるからな
0752日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:04:56.11
「桜井茶臼山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0753日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:06:59.82
ヤマト王権
初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、
倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「ヤマト」と訓ずるように取り決められた
0754日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:13:51.10
>>753
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。  「大和」と付いている。

一方、「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。  阿波なのに「倭」とある。

何故、阿波国であるにもかかわらず、「倭」と付く神社があるのだろうか?

これは、阿波が「倭(やまと)」であり、一方、奈良は「大倭・大和(おおやまと)」ということが、はっきり示されているのである。  @阿波
0755日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:13:57.13
>>586
>垂仁天皇が西暦紀元225〜275年頃となると卑弥呼の時代であり
その頃に垂仁天皇が殉葬を止めさせたのなら
卑弥呼の墓には奴婢百人の殉葬跡などない事になる<

天皇なんて存在していなかったから、×。
また、二中歴の証言は、当然、
書紀伝承のような何らかの情報や伝承があったから出て来た計算であり、
大体の話だな?、としか言えず、
垂仁は、今のところ、大和王でしかなく、
大和王は、九州倭国の卑弥呼らの部下のような存在であり、
例えば、卑弥呼の祇園山の話を知って、
大和では直接埋める事を止めよう、とした伝承があった可能性がある。
0756日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:17:56.68
>>755
思想先行、実証ゼロの九州説
0757日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:18:42.01
元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、
大和。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、
その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。

そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。

さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、
それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。
0758日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:18:49.86
「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0759日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:20:08.37
>>757です

つまり、邪馬台国畿内説は誤りで大和説が正解である
0760日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:21:01.71
>>757
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。  「大和」と付いている。

一方、「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。  阿波なのに「倭」とある。

何故、阿波国であるにもかかわらず、「倭」と付く神社があるのだろうか?

これは、阿波が「倭(やまと)」であり、一方、奈良は「大倭・大和(おおやまと)」ということが、はっきり示されているのである。  @阿波
0761日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:23:46.42
>>587
>張政が来たとしても卑弥呼が死んで男王が立ち それから台与が立ったあと
殉葬が奴婢を地面に首だけ出して埋めたものだとしても
痕跡なんぞとっくに無くなっている<

男王や壹與は、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人。更立男王・・・」だから、
卑弥呼の死や殉葬があった後だし、
祇園山は、「地面に首だけ出して埋めた」ものではなく、全部棺での地中埋葬だ。
0762日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:25:45.62
「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0763日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:31:49.19
畿内説の場合
畿内が一国であったと証明しなければいけない

九州説とは 九州に邪馬台国 があったとする説(いい加減な比定は未だしない)
北部九州説 九州北部に邪馬台国があったという説 
伊都説 ・・伊都に邪馬台国はあった
0764日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:33:34.12
>>615
>三国志版本は唐代の後の時代<

当然、唐代写本も残存していたし、
写本版本全体を通しても、校勘対象になっていない事でも、
魏志写本には99.5%以上、邪馬壹國と書かれていた。
0765日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:40:07.80
テンプレでは邪馬台国を初期ヤマト王政と訴えているが
初期ヤマト王政は時代も違うし
初期ヤマト王政は奈多盆地内の王政
0766日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:46:19.63
>>765
>初期ヤマト王政は時代も違うし

初期倭王政は7世紀までの倭国(阿波)。  @阿波
0767日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:46:44.52
>>618
>四史本後漢書では「案今名邪摩「堆」音之訛也」<

案今名邪摩堆音之訛也では、邪馬臺國の「音之訛」になっていないから、
その注を記載する事が無意味になり、×。

>邪摩「惟」になっているのは後に書かれた百納本後漢書<

音之訛になっているから、古文であり古型。

>北史でも邪摩「堆」<

自己解釈に拠る書き換えの多い×書。

>邪馬壹國は12世紀になってから倭人伝に初めて出る表記<

写本版本を通しての唯一の記載で、99.5%以上の確率。

>それ以前の史書の魏志引用文では邪馬臺國<

唐代史書など後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」は半分偽書。

>邪馬壹國は12世紀に生じた誤記<

陳寿原本での確率も99.5%。
0768日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:53:37.99
>>626
>後漢書には卑彌呼も登場し、漢者と使驛が通じているのも於三十許國だから
邪馬臺國と12世紀版本の邪馬壹國は同じ国
別の国というのは反日古田が本を売るための作り話<

卑弥呼は共立女王であり、単なる親魏倭王であるから、「大倭王」ではない。
後漢書の「大倭王」は、倭の五王らを知っての、笵曄の誤解釈。
0769日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:57:19.26
>>765
〇奈良盆地
✖奈多盆地
0770日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 18:59:12.42
>>765
>初期ヤマト王政は時代も違うし

初期倭王政は7世紀までの倭国(阿波)。  @阿波
0771日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:02:29.53
>>764
いつも根拠もなく言い張るザラコク
0772日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:05:18.64
>>770
阿波説では
邪馬台国は阿波に存在し、其の後奈良を中心とするヤマト王政を築いたでよいですか?
0773日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:06:01.15
>>765
このように、まったく理由を言わないのが九州説の特徴
0774日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:08:32.03
>>772
>邪馬台国は阿波に存在し、其の後奈良を中心とするヤマト王政を築いたでよいですか?

邪馬台国は7世紀まで倭国(阿波)に存在し、8世紀に奈良へ遷都しました。  @阿波
0775日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:10:20.44
>>767
ザラコクさんだと思いますが
あなたは、ここのスレでは1,2位を争う古文書(史書)通だと思います
今後も勉強させてください
現在の邪馬台国本もいいのですが、倭人伝等 史書に精通してるとは思えない本も数多く見受けられます
0776日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:14:19.46
>>775
古文書読んだことの無い古文書通がいるもんか
0777日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:20:26.02
>>774
阿波説もあると思います
但し 投馬国が宮崎あたりだと比定し、太平洋ルートで四国 陸行で 阿波邪馬台国とした場合と考えています
0778日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:23:06.91
キウスが最近すっかりザラコクのタイコモチだなー
0779日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:27:27.76
>>777
>投馬国が宮崎あたりだと比定し、太平洋ルートで四国 陸行で 阿波邪馬台国とした場合と考えています

それもあると思います。  @阿波
0780日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:36:00.47
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0781日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:37:38.86
>>763
だよな
>畿内説の場合 畿内が一国であったと証明しなければいけない <

大和説(奈良)の根拠が少なすぎるから むやみに範囲を広げた結果が畿内説だよな
0782日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:50:42.17
>>781
良い事聞いた納得
0783日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:52:01.30
丹後や紀伊や近江は畿内じゃ無いだろ
0784日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:52:52.67
淀川以西も畿内で無い
0785日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:58:41.73
不能解读汉文
中文不能理解的学者不要宣扬畿内説
0786日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 19:58:49.82
なんでもそうなんだけど子孫、末裔などがいるでしょ、
その家の人たちに聞いたほうが早いと言ってるのに
0787日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:03:09.26
本当の子孫や末裔などがいたとしても、本当の子孫や末裔。
ほとんど公職追放?
0788日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:05:46.93
邪馬台国は女王の都のはずなのに畿内一円とか言い張るのは何なんだろうねえ。
0789日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:06:55.95
妄想

邪馬台国=ヤマトなら

ジパング=日本でなくジャパンの国名でいいじゃん
0790日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:08:32.78
陰謀スレというのを読んでいたとき


代理人などによって・・・、
と言ってる人がいたり、メディア関係の話なのかな?

びーいんぐ?みたいな存在
0791日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:08:35.24
>>788
畿内説の大きな課題
0792日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:12:30.21
ん?ハムスター🐹は5級くらいじゃね?
わえは24の新2段よ?
0793日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:14:42.07
あとサカキバラ事件

透明なボクと言っていたり、
存在の・・・とか
0794日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:15:38.10
古事記によるヤマトとは奈良

倭建命が故郷を思って歌ったとして、
「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し」とある。
畿内を倭とは言わない 邪馬台国畿内説でなく「倭(やまと)説」だと思う
0795日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:17:35.77
>>752
まじ?さすがに宇陀じゃね?鰐さんが土木具提供したんじゃね?
0796日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:23:28.95
『ボーボボ』

同じような気がするんだけど
0797日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:24:09.46
>>761
プラズマおじいちゃんは祇園山押しか?
本場の殉殺に墓なし 
まとめて埋められたかもよ?
0798日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:26:52.57
>>791
どこが課題なんだ?

邪馬台国は女王の都だなんて書いた史料は存在しないぞ
0799日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:28:55.25
>>794
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。  「大和」と付いている。

一方、「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。  阿波なのに「倭」とある。

何故、阿波国であるにもかかわらず、「倭」と付く神社があるのだろうか?

これは、阿波が「倭(やまと)」であり、一方、奈良は「大倭・大和(おおやまと)」ということが、はっきり示されているのである。  @阿波
0800日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 20:59:49.32
>>676
邪馬臺はヤマドらしいから
邪馬臺(ヤマド)は今の音を考えるに邪摩堆(ヤマタイ、またはヤマトイ)の訛ったものであるで問題なく意味が通じる
0801日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:04:43.62
>>678
いちいち邪馬臺國と打つのが面倒臭え
邪馬台国なら一発変換できるし
そこに拘るならそっちも文字を全部旧仮名使いで打て
そうしたら考えてやる
0802日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:31:23.26
テレビ(日てれ)でプレデターズという作品がやっているんだけど、
透明なボクみたいなキャラが出てきたり・・・しなかった?

どらごんぼーる?にも同じようなキャラが出てきたはず
0803日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:31:53.74
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0804日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:34:17.14
もののけ姫

にも同じようなキャラが出てきたり
0805日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:43:07.18
かーぶに負けるとこころがおれる?
あかん
0806日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:44:22.40
ピッチャーよかあんたがかわれ
0807日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 21:50:18.76
カープ万歳  @阿波
0808日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 22:03:34.15
>>681
何が関係なしなのかさっぱりわからんが
書いてる事も意味不明だな
素粒子と書いてるが恐らく量子の粒子・波動の2重性の事と
あと場の相互作用論とは何の事やらわからなかったから調べたら
そんな物はない

重力場は重力が作用する場のモデルで
重力子は重力を伝達すると考えられている素粒子
重力子状になるというのはどういう事だ?
それに電磁場は量子化すると光子の集まりと言えるという事と
何の関係があるかが全く不明

質量は前も言ったがヒッグス場に抵抗し素粒子が運動するから
発生するものでなぜ粒子と同列に語られているのかわけがわからん
重力場と電磁場はそもそも相互作用するとしたら
惑星スケールの話になってくる

言葉の意味もわからずただ羅列しているだけなのが丸わかり
これで素粒子の存在が全て説明出来るというならしてもらおうか
どんな理論が出てくるのか楽しみだ
0809日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:23:36.16
>>632
また、相手が提示した証拠に関する自分の方の反論証拠を言わずに、
相手に「証拠は?」と無限に言い続ける。
大和説者は、・・・・のようなインチキ論法ばかりだな。
0810日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:25:03.89
赤ヘルだのヒッグスだのなんや? 
読者が目まわさんようまじめにやれ

つうかヘルメットが赤いのは人の目の構造のせいよ?
ヒッグス無関係や
0811日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:26:42.18
>>634
また、大和説者の「都合の悪い反論には知らん振りする」インチキ論法がバレました。
0812日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:31:31.98
畿内説は理系も苦手のようだww
0813日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:40:42.67
>>657
>>140m善後の規模の前方後円墳は畿内には100以上<

>ただ、3世紀半ばまで、という制限を付けると、ほぼ纒向古墳群に限定されるよ<

石塚が前方後円墳なんだから、3世紀半ばの卑弥呼の墓の「冢」の後であり、
だから、那珂八幡などとどちらが早かったのか?、とい問題になり、
そうすると、大和は、
九州倭国から別れた別種の旧小国で、
東征毛人五十五國の中の一国で、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職であった事で、
石塚は、那珂八幡などの伝搬模倣であった事になり、
3世紀末頃以後だ、という事になってしまうんだよ。
0814日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:44:36.70
>>811
いや、その反論はもう論破されてるだろ
「尚方」銘があるから明帝下賜品だというzarakokuの珍説が自滅したことが証明されて、終わり
0815日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:45:25.56
>>660
>問題は後漢書の倭国と魏志倭人伝の倭国は同一か否かではないだろうか<

卑弥呼の名前が共通しているんだし、
倭国という国名も同じだからこそ、当然同じだよ。
0816日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:46:36.75
>>813
>石塚が前方後円墳なんだから、3世紀半ばの卑弥呼の墓の「冢」の後であり、

その主張も既にもう破綻したので、終わり
0817日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:50:13.95
反日どろぼう偽書古田集団は前方後円墳高句麗起源説
0818日本@名無史さん垢版2018/09/21(金) 23:54:47.23
>>671
>倭人伝には「形如冢」とは書かれていないから
日本の「竪穴式住居」と同じような形の冢ではないことがわかる<

Yahooでの議論で、
「知能指数が200であった」と言った事があるmutouhaという東大の工学部?出のお人が、
韓国の家の写真を提示されたが、
日本の竪穴式住居を少し細高くしたような家であった。
0819日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:00:00.75
情報の確認、資料批判をしないのが反日有害人種古田集団の基本
0820日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:03:40.33
>>672
>馬韓伝は「其戸在上」なので、馬韓伝に書かれている住居は
日本の「竪穴式住居」とは違うこともわかる<

そりゃ、少し違うんだろうねえ。
しかし、「居處作草屋土室、形如冢。其戸在上舉家共在中」なんだから、
「戸主」なのか「戸」なのか?は、上にあって、
家族は下に共在中していたようだね。
0821日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:07:33.42
倭人伝では「父母兄弟卧息異處」だから馬韓とは違う
0822日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:13:19.02
>>677
>現代日本の考古学者らと同じように「冢と墳との区別」をしている?
そんな区別をしてるなら 椿井大塚山古墳や今城塚古墳などという名称は存在しない <

区別していないんなら、
例えば「今城墳古墳」とか「今城墳古冢」などとかの呼称もあってよいのに、ない。
つまり「今城塚古墳」とは「今城の塚状の古墳」という意味で、
「塚と墳」とを」とを使い分けている。
0823日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:17:28.55
>>682
>九州説はあらゆる学問を否定する<

九州説は、
「南→東」などのような「史料事実の否定曲解をする大和説」を否定する。
0824日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:18:48.08
祇園山古墳、そして集団墓地
0825日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:22:25.33
>>684
>>「今」の呼称が「邪摩堆」であったんなら、
「邪馬臺(ヤマダイ、ヤマタイ)」の音と同じであるから、 音之訛になっていない!。<

>臺はダイ、堆はタイで音が違う<

大和説者は、昔から「ヤマタイコク」と読んでいた。
0826日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:25:19.80
臺はダイ、堆はタイは、中国の音韻学研究
現代の日本で便宜的にどう読んでいるかは関係ない
0829日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:32:10.20
>>710
誤差を含んで20年〜240年だからそれ以上は無いよ
それプラス出土品でホケノ山は三世紀中庸の古墳とされている
0831日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:42:41.75
>>698
それまでの史書の魏志引用倭人伝と違う表記が
原本の消失した12世紀になって初めて現れたなら当然誤記の可能性が高い
そもそも倭人伝の原本が存在してないからそのものを比較しようがないから
99,5%以上誤記ではないとするのは循環論法
0833日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 00:56:39.55
>>725
祇園山は、全て何らかの「棺」の中に安置されていた形であり、
生き埋めにした形跡は0であり、
しかも、複数埋葬も互い違いに綺麗に収められて
それを62個余りの棺で埋葬した形であるなら
それはただの墓じゃないの
しかも卑弥呼の墓は奴婢百人殉葬だから数が足りないね

日本書紀の記述によれば
殉葬は卑弥呼の時代以前から続けて行われてきたのであり
しかし古墳の周りに棺に入れた遺骨がある例は
今のところ祇園山しかない
一例しかないなら古代から行われてきた殉葬ではないという事であり
つまり祇園山のそれは殉葬ではなくてたまたま周りに出来た共同墓地
0834日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:10:38.16
>>827
確率論知らない
建築学知らない
炭素年代法の誤差知らず
0836日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:17:38.82
大数の法則知らず
パスカルの原理知らず
天文学知らず
・・・・・・・
0837日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:20:07.41
先を越された

幾何学知らず付け足しておこう
0838日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:21:25.50
あった
地理学知らず
0839日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:27:17.13
九州説は
・論理
・恥
・倫理
・自分のレベル
・日本語
を知らない爺ばかり
0840日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:31:25.51
畿内説の誰もが明確に答えられない
ダロウダロウの回答だけ 

南→東  
纏向に住居群が無い


他いっぱいあるけど今日はここまで
0841日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:34:27.54
>>840
ダロウは推理だから〇
0842日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:36:17.98
>>840
ダロウは推理だから〇
0843日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:38:14.32
太陽は東から昇る
北極星は常に北の空
羅針盤が無くてもわかる いわんや航海に出るものは知ってて当然
0844日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:40:23.88
>>800

何処から引っ張ってきたか教えてくれんか
>邪馬臺はヤマドらしいから <
0846日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:44:22.95
キウスの知らないもの
・義務教育レベルの日本史
・義務教育レベルの日本の地理
以下は>>839に同じ
0847日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 01:46:52.68
臺興
ドヨってか
0848日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 02:10:16.27
臺興
ドヨってか
0849日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 02:10:16.66
>>800

何処から引っ張ってきたか教えてくれんか
>邪馬臺はヤマドらしいから <
0850日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 02:17:00.49
「居處作草屋土室、形如冢。其戸在上舉家共在中」

これ高床式住居で「その家は上に一家を挙げて存在して」
0851日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 02:27:26.89
塚とはその周囲の地面より、こんもりと丸く盛り上がった場所を指し、
具体的には何かが集積、堆積した盛り上がりや、小さな山や丘や古墳などである。
または、それらの場所や、特別な意味のある場所に、建立したもので基本的には丸い
0852日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 02:35:56.37
塚とはその周囲の地面より、こんもりと丸く盛り上がった場所を指し、
具体的には何かが集積、堆積した盛り上がりや、小さな山や丘や古墳などである。
または、それらの場所や、特別な意味のある場所に、建立したもので基本的には丸い
0853日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 02:43:14.85
墳とは 盛り上がった土。堤や丘。土を盛り上げて造った墓。
丸い墓は円墳と言う
倭人伝では封土作「冢」であるから円形を指す 前方後円墳とは考えられない
前方後円墳=前方後塚と表示していない
0854日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 02:46:14.49
前方後円墳にあえて円を入れた理由

「冢」ではないから
0855日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 03:02:57.06
蒲生君平

『山陵志』で初めて名称として与えられた「前方後円墳」という名称がつけられた経緯としては、
当時、前方後円墳が一般に「車塚」という名称で呼ばれていることに注目し、
古墳を横から見た形を貴人が乗る御車に見立てていました。
低い前方部を馬に引かせる2本の長柄の部分で、
丸い後円部が貴人が乗る部分で円蓋のある車の部分を指していると解釈しました。
長柄部分が車の進む方向、すなわち前方と考えたのです。

http://st0011.nas931.utsunomiya.nttpc.ne.jp/ext/jinbutu_syousai/gamokunpei_in2.html
0856日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 03:04:32.23
もう少し
 
「冢」から「塚」
「墳」の辺は「土」 つくりは???

       おやすみなさい
0857日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 03:07:30.47
>>855さん
ありがとうございます
   寝ます
0858日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 03:13:25.38
>>855さん
ありがとうございます
   寝ます
0859日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 05:04:04.16
>>856
>「冢」から「塚」
「墳」の辺は「土」 つくりは??? <

無いんじゃねーか
「人の足跡が3つ並んだ象形」と「子安貝の象形が貝」の組み合わせまでは調べたが
噴火の「噴」つくりも同じ説明だった
0860日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 05:16:23.06
「冢」=「塚」 」前方後円墳は「冢」では無いことは理解したが
0861日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 05:20:20.73
「冢」
必要条件として円形じゃなかろうか
0862日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 05:28:39.46
>>845
>キウスの上から目線には毎度ヘドが出そうになる<
キウスって天敵
>上から目線<と感じた時点で気負け
0863日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 05:38:15.31
>>862
あんた大人なんだから
勝者の貫禄とやらでキウス・ザラコク・岡上・阿波・全一病・・に対処するか、無視するかのいずれかだなww
0864日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 05:40:03.53
おっと間違えた おれは貫禄無いからスマン
>>845
あんた大人なんだから
[勝者の貫禄]とやらでキウス・ザラコク・岡上・阿波・全一病・・に対処するか、無視するかのいずれかだなww
0865日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 05:46:26.99
>>1
あんたがマジで議論しなきゃいけないのは 九州説では無く
葛城や@阿波・・・他だよ
0866日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 05:53:00.06
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
0867日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 05:53:27.54
初心忘るべからず

邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
0868日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 06:05:34.90
>>671 >>678
「家」≠「冢」

家=ウ冠(屋根の象形)とイノシシの象形   住まい?
冢=足を縛った豚を人が腕を伸ばして抱え込んでいる象形 お陀仏?
0869日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 06:18:43.88
前方後円墳は、一般に「車塚」という名称で呼ばれていた
0870日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 06:20:58.37
邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。

10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。

これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。

そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。

わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津        E孝安 D孝昭
トヨ津   (250年頃)C懿徳 
ヒメ踏鞴        B安寧
ヒメ踏鞴        A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 

神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。

つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。
0871日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 07:14:08.68
>>870

「行燈山古墳」に水銀朱があるとすれば、
「大和天神山古墳」の水銀朱同様、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0873日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 07:30:46.88
>>869
>前方後円墳は、一般に「車塚」という名称で呼ばれていた <
何時頃からですか?

>貴人が乗る御車<
が出現したのは何時頃ですか
0874日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 07:44:44.16
>>873
御車(みぐるま)の歴史

古墳時代後期から
0875日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 07:59:24.90
どっちにせよ、塚と墳を区別してる奴はいない
0877日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 08:32:19.67
>>685
>九州説も日本人は皆「邪馬台国」<

魏志の女王之所都の国は、
日本の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者や、
宗教にクルった大和説学者ら以外の、
世界中の殆どの人は皆、「邪馬壹國」。
0878日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 08:34:58.64
>>691
妄想が暴走してるな、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説詐欺師。
0880日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 08:36:55.40
現物をそのままに、名前だけ変えても虚しい
0881日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 08:38:28.08
>>697
「南→東」などに嘘つき騙しを、言い張るだけの・・・・詐欺師男、
大和説学者やその信徒。
0883日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 08:46:58.90
>>703
>日本人はどの説も皆「台」の字を使って「邪馬台国」と表記すると言っている<

魏志の邪馬壹國は、
日本の大和説学者や、彼らに騙された文部省や右翼マスコミや古代史学者らは
「邪馬台国」と言っているが、
それ以外の世界の殆どの人は、「邪馬壹國」だ、と考えている。
0884日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 08:48:48.99
>>705
>>筑紫城の倭奴國から、神武らは大和に移った、と書かれているんだから、
高天原が大和、は矛盾。 <」

>そんなこと、どこに書いてあるんだ?<

新唐書。
0885日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 08:48:59.95
墳でも冢でも、どっちでもいいんだよ。
どのみち、その水銀朱は倭国(阿波)の若杉山産なんだからw  @阿波
0886日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 08:52:56.46
>>883
世界中が邪馬台国に関心あるのかー
アメリカではYamataiと紹介されてたような気がしたけど
0887日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 09:02:05.49
>>717
>>魏使らや張政らは、既に郡からの行程で「短里」を使って来た事になるので、<

>「会稽東治之東」により、短里も祇園山も×である<

長里なら、赤道付近にまで行ってしまうので×であり、
短里によって、「会稽東治之東」も祇園山も〇であり、箸墓は×。
0888日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 09:02:59.67
>>873
御車(みぐるま)の歴史

古墳時代後期から
0889日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 09:10:31.04
塚と墳
中國人が納得しないんじゃ
0890日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 09:11:28.06
古塚時代にすべきww
0891日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 09:12:25.01
>>887
赤道付近にまで行ってしまうと
いったい、なんで×なの?

支離滅裂なことを言ってるな
0892日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 09:13:28.93
今日はエンゼルス大谷 21号ホームラン打つ予感
0893日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 09:13:46.51
>>890
いつも理由もなく言い張る九州説
0894日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 09:31:37.03
>>892
九州説は今日も三振
0895日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 09:59:26.37
>>729
>宝賀も内倉も考古学に関してはド素人<

内倉氏は、筑紫の遺跡の出土土器片が入れられた写真を掲載しておられ、
茶色い土器片と白い陶器様の土器片が沢山混在している写真だった。
しかし、説明の学者は、「洪水か何かで混在したんでしょう」とかの、
アホな説明であったらしい。
0896日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:06:38.08
>>737
>他説が「邪馬台国」と「台」で表記したら畿内説になると言う頭の中身が見てみたい<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の頭の中身は、
邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国→ヤマト→大和、
という曲解捏造の連鎖をする・・・・詐欺師の脳だから。
0897日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:09:44.71
土器片と釉薬使った白い陶器なら洪水か何かだろうな
0898日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:10:55.70
>>744
>畿内説では 吉備あたりを投馬国にあてるのが主流だが <

「南≠東」などに拠って、×ね。
0899日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:16:17.90
>>745
>ようするに「ヤマト国」と読まれるのがイヤで
必死に横車押してるんでしょ 負け組のダダこね <

邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国→ヤマト→大和、
は、嘘つき騙しの・・・・詐欺そのもの。

大和説者は、バレるのがイヤで、必死に横車押してるんでしょ。
負け組のダダこね。「
0900日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:18:03.85
不思議なことに九州説を提唱した新井白石は高天原が九州にあるとは言わなかった。
突然、高天原常陸国説などを言われても意味が分からない。

これは逆に考えるべきだ。
新井白石は邪馬台国や高天原が「大和ではない」ということを強調したかった。
邪馬台国も高天原は大和にあった事を知ってたからだ。
高天原や邪馬台国が大和にあったなら、大和朝廷や古代天皇が中華へ朝貢してた事を意味する。
国学者としてこれほど辛い事はない。

つまり邪馬台国は九州、高天原は常陸というデマを飛ばすことで大和に焦点があたることを避けたのだ。

九州説とはデマである。
0901日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:26:09.43
>>895
そりゃ発掘担当者は遺物の埋まっていた土の状態も観察するからな
ド素人が並べられた遺物をみて好き勝手言っても根拠にも何もならない
0902日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:26:11.07
>>900
もうわかったから何度も張り付けるなよ
0903日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:29:48.27
>>753
>ヤマト王権 初めは「倭」と書いたが、
元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、
倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し
「ヤマト」と訓ずるように取り決められた<

古事記の国生み神話の時に、倭國の地方の市を監督する「大倭」職の表記が現れ、
欠史八代の中の4人が、その「大倭」の称号が冠せられ、
それが、ヤマトが白村江の後で九州倭国を併合吸収継承する事になって、
「大倭→大和」の変更をした。
0904日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:45:51.14
>>902

お前のような馬鹿がいる限り定期的に貼り付ける。
0905日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:46:33.87
古人曰く、
「和」を以て、貴しとなす
0906日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 10:48:38.66
>>756
>思想先行、実証ゼロの九州説<

大和説者は、「戦前の万世一系皇国史観」という宗教的結論先にありきの思考先行で、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の実証は0。
0907日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 11:10:41.01
>>753
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。  「大和」と付いている。

一方、「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。  阿波なのに「倭」とある。

何故、阿波国であるにもかかわらず、「倭」と付く神社があるのだろうか?

これは、阿波が「倭(やまと)」であり、一方、奈良は「大倭・大和(おおやまと)」ということが、はっきり示されているのである。  @阿波
0908日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 11:17:26.02
>>753
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。  「大和坐」と付いている。

「大和に坐した」 つまり、大和に勧請したといっている。  @阿波
0909日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 11:48:24.52
>>756
「戦前の万世一系皇国史観」の」結論先にありき」の唯我独尊の戦争宗教が先行し、
実証0の大和説。
0910日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 11:50:36.83
>>757
>元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、
大和。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、
その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。 <

「大倭→大和」の呼称変更は、白村江の後。
0911日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 11:56:30.76
>>773
このように、まったくまともな理由を言わず、ヘイトスピーチばかりなのが、
大和説の特徴。
0912日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 11:58:08.82
>阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」

阿波で疫病が流行したんじゃね
0913日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 12:18:05.29
>>775
>ザラコクさんだと思いますが
あなたは、ここのスレでは1,2位を争う古文書(史書)通だと思います
今後も勉強させてください
現在の邪馬台国本もいいのですが、
倭人伝等 史書に精通してるとは思えない本も数多く見受けられます<

有難うございます。
しかし、私は、専門ではありませんし、精通もしておらず、
あくまで、知り得た史料情報の史料批判をして帰納的確率的推論をしているだけですから、
当然、限界があります。
0914日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 12:21:36.46
畿内説の宣伝係の「キナイコシ」は、熊本城と薩長の関係性について以外にも、歴史についての無知を晒しているな。。。
0920日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 13:13:16.02
纏向型前方後円墳は大体250〜280年の間に全国的に展開する
纏向遺跡が3世紀半ばから4世紀のはじめにかけて発展を遂げる点などとも一致する
鉄器、鏡などの出土品もこの辺りの時期から急激にその発掘量を増やす

卑弥呼の治世の大半の時期は大和に成立した邪馬台国は、
まだ諸地域連合の祭祀の中心地としての性格が強い
この地域が名実ともに日本の中心地として発展を遂げるのは卑弥呼の死の前後である250年くらいから

良く勘違いされるが邪馬台国は卑弥呼の治世にいきなり最盛期を迎えたわけではない
この時に「共立」されただけでまだまだ政権としてスタート地点に立ったに過ぎない

この纏向の発展の動きは「共立から名実ともに倭の中心地となる邪馬台国」の発展の姿を如実に示していると分かる
0921日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 13:21:15.61
つまり、邪馬台国畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。
0922日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 13:35:42.89
九州説はどうやったら無理なく成立させれるかな
証拠も魏志倭人伝も大和を指してそうだしな
0923日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 13:36:21.66
>>912
>阿波で疫病が流行したんじゃね


その通り。  ただし、倭国(阿波)でね。  @阿波

阿波国美馬(ミマ)郡美馬(ミマ)町には、延喜式内社の「倭大国魂神社」が鎮座する。
この事実は、阿波国が、かつて倭の国であり、歴代天皇が営んだ王都の地であったことを表す。
これは、「王都の地 倭」の決定的証跡である。
通説の「古代の王都は奈良盆地に営われた」とする確定解釈は、工作物(奈良盆地の巨大古墳)に惑わされた錯覚と言えるだろう。
延喜式内社に採択された国魂神社は、都合20社を数える。
うち「倭大国魂神社」については、その由来が日本書紀に納められている。
第10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)は、疫病が流行し、民心が乱れた為、神祭りによって地勢の安泰を図ろうと、天神地祇のほか、倭の地主神である倭大国魂神を祀ったという。
まさに「倭大国魂神社」の鎮座地は、倭の地(国)の証明になる。
そして、その倭大国魂神社が、奈良大倭国ではなく、唯一阿波国に鎮座するのである。 
0924日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 13:45:05.22
>>921
畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、
0925日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 13:52:52.61
『鏡のおとめ』

このような作品も、
なぜ知っているんだと思う?

百済から渡ってきた?という話
0926日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:06:14.38
>>924
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。
0927日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:09:35.24
>>922
九州説は無理がないと思うよ

広範囲を倭国とする畿内説の方が正直厳しい
当時はまだ海がなく、交流は海が中心
どう統制が取れるのか?

大和王権でさえ、初めはバラバラだし
0928日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:14:11.92
無理のない九州説

邪馬台国を九州中南部に設定
百枚の銅鏡は全部卑弥呼の墓に埋まってると想定
畿内に進出したのは4世紀以降
それ以前は魏から銅鏡を輸入し畿内に配って
魏との繋がりを誇示し攻められないよう治めていた

いややっぱりキツイわ
畿内と比べられるとどうしても
0930日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:20:23.06
>>920
>纏向型前方後円墳は大体250〜280年の間に全国的に展開する <
250〜280年の間に創られた前方後円墳を述べられる?
0932日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:29:17.01
>>927
>当時はまだ海がなく

天地創造時代?


wwwwwwwwww
0933日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:32:32.04
>>931
どんな無理があるというのか
具体的にどうぞ
0934日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:32:48.86
セイントセイヤでも何でも良いけど
「市」というキャラもいなかった?

実在の人物?現実では「松傾」?

上の名前
0935日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:36:33.79
むかーし住んでいたというところがあって・・・
伊達郡のほうだと言っているし川俣町


家に凄い刀が飾ってあって
0936日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:38:23.23
九州説の最大の弱点ははっきりした場所を
ここが邪馬台国と確定できない所だ
確定してしまった瞬間畿内との遺跡比べに晒されるから
0940日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:45:40.22
マジレスすると呟きアスペは畿内説でも九州説でもない
いろんなスレに出没してるからな
自分が呟きたくなったらスレに関係なく書き込んでるだけ
0941日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 14:47:16.55
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0943日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:01:41.82
墳墓についての記述は倭人伝では卑弥呼の死後に初めて登場する

もし纏向型なりが全国展開を既にしているのなら倭人の習俗として記載されていてもおかしくない
葬儀についての比較的克明な記録がされているのにもかかわらず、
古墳の記載がないのでおそらく最初の遣使の頃にはまだ古墳は成立していなかったのだろう

使節が特筆した墳墓造営の記事はそれまでにない新たな倭人の習俗として目に付いた物だったと思われる
この事から纏向型の広まりは卑弥呼の死後、卑弥呼の墳墓造営に追随して行われたのではないだろうかと考えられる
0944日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:05:23.03
九州説の弱点
畿内説は魏志倭人伝の記述を今確かめられる事実と照合し
明らかに事実にそぐわない記述は参考にしない

考古的な物証が畿内に劣る九州は
魏志倭人伝の不確かな記述を邪馬台国が九州にあった根拠にしようとしてあらゆる無理な解釈を試みる
結果色々と綻びが出て説得力に欠ける
0945日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:10:05.35
>>943
「倭人伝に書いてないから存在しない」は論理ではない
0946日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:10:26.45
「聖化 日神 日霊 津」

いつ頃の話なんだろう、
あと神功?実在しない事になっているし
0947日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:19:38.68
九州説の三角縁神獣鏡国産説は悪手
現在では科学的測定法で三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と同一素材である事が確定
三角縁神獣鏡国産説をゴリ押しするなら科学的なデータで反論される
素直に三角縁神獣鏡は魏鏡とし
九州から畿内に配られたとする方がずっとマシ
0948日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:19:42.66
本当に調べてみるとわかる

日本の起源(神話などを含め)は朝鮮半島www
このようにバカにしている人達がいるから

なぜだと思う?
0949日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:22:33.75
倭人伝の記載と実際の纏向型の分布の開始の年代観は大体一致するものとなっている

それはこの時期に使節がそれまでにない特別な物として記載した墳墓がこの時期に登場したことを意味している
また倭人の習俗なので中国や半島等で見られるものでもない
その為、それまで当たり前に存在していた方形周溝墓などでは卑弥呼の墓とはなり得ないのが分かる

そしてその中心地たる大和にこそ邪馬台国があったと理解できる
0950日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:34:03.95
当時と今(いつ頃から?)とでは、
民族が違うぞと言ってる人がいたり

どういう事なんだろう
0951日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:34:15.30
畿内説が破綻し、テンプレートを論破されてしまった、畿内説の宣伝係が、意味のわからないことを呟きながら、破綻した意見を発表しているのではないのかな。。。
0952日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:38:07.55
纏向型はほぼ同時多発的に全国展開している
この流れは全国に設計図や規格が同時に広まっている背景があるのが分かる
この動きはただの偶然等ではなく明らかに政治的な意図が働いていると言える

これは全国規模の政治勢力が存在してると考えるほかなく、何一つ残らないまま消え去った地方の政権であるとは考えにくい
0953日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:41:32.78
>>943のデタラメな論理を使ってしまうと
日本列島には方形周溝墓も平原みたいな低墳丘墓もまだ存在しなかったことになるね
つまり>>943 の思考は破綻してる
0955日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:46:39.00
考古学的物証とか、鏡の成分とか、ちょっと脱力するのだが…
まぁ、頑張れ
0956日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:46:58.69
>>915
>ザラコクは時々あからさまに自演するよな

そういうのはたいていキウスだよ
ザラコクはそういうタイプではない
0957日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:47:21.93
古墳時代は卑弥呼よりあとだろう。
0958日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:48:50.47
このように古墳と邪馬台国は密接な関係があった事が分かる

古墳の伝播の中心地である大和にこそ邪馬台国があったと理解できる
0961日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:55:17.05
>>957>>959
そういう編年観の時代には九州説が成り立つ余地があったんだけれど、
今の標準的な編年では、纏向型前方後円墳の時代は完全に邪馬台国時代と重なっている

この時点で、九州説が成立する余地はないんだよ
0963日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 15:58:23.37
>>951
このスレッドのシリーズは、論破され、破綻した畿内説の宣伝係が、負け惜しみを発表するためにあるのではないのかな。。。
0964日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:02:41.96
史書と考古学的な見地から古墳の出現と全国拡散は卑弥呼の死後と言う事が分かる

なので「卑弥呼の治世当時」ではなく、「卑弥呼の死後」に特別な墳墓を作り広めた勢力こそが邪馬台国であると分かる
だから卑弥呼の時代その時に古墳が無くても何の問題もないと分かる

卑弥呼の治世の後の3世紀後半に古墳を広める中心のある大和が邪馬台国だと明確になる
0965日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:03:10.31
>>959 >>962

このように、九州説はいっさい理由を言わない
0966日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:06:37.28
>>961
それに墓の文化の広がりは、思想の流行の可能性もあり、確実に政権に伴うとは言えない(影響はあるだろうが)から、それを九州説の否定の証拠にはできないよ

特に古墳発生は同時期に各地でおこり、どこが中心、という訳ではなさそうだからね
0967日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:07:30.04
>>963
キミキミ
論破され、破綻した九州説が腹いせの嫌がらせをしに来ていいスレではないんだよ
0968日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:08:29.08
纏向遺跡も三世紀後半に大きく発展を遂げる

卑弥呼の死後にその墳墓を基準として全国的な展開をするにあたっての祭儀を行うために発展したと考えられる
3世紀後半に邪馬台国の全国展開の軸を合わせることで年代観が奇麗に収まる

だから他説が唱える「畿内の痕跡の多くは卑弥呼の死後のもの」と言う年代観でも特に問題がないと分かる
0970日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:18:50.82
そろそろ、次のスレッドを作製した方が良いのではないのかな。。。
0971日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:19:48.70
畿内説の宣伝係は、論破されてしまうと、なかなか次のスレッドを作製しなくなるな。。。
0972日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:20:50.58
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、新しいスレッドを作製してあげれば、良いのではないのかな。。。
0973日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:23:12.12
>>966
子供のようにムズカって俺様は認めないと叫んでも
九州説の死去は隠せない
腐臭が漏れてるから
0974日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:23:14.10
>>969
そうやって脳内だけで自己満足してるから
九州説はちゃんと説明できない舌足らずで
他人と意思疎通できない
0975日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:24:47.40
>>968
倭人伝のその後は謎だから、必ずしも卑弥呼イヨ勢力がそのまま力を保っていたか?がわからない状況なんだよ
もしかしたら狗奴国に負けてしまったかもしれん
記紀に出てこないから、別勢力だった可能性も十分にある

だから、問題は卑弥呼治世当時の状況になる
畿内は布留0より前の状況があまりにも考古学的に寂しい
しかし、卑弥呼共立は200年前後と見られ、それから5,60年も鉄も無い状況は、共立国の都とするにはやはり厳しいと思う
09761 ◆bL7iehB8vc 垢版2018/09/22(土) 16:25:13.23
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537601009/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0977日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:26:13.92
0978日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:26:29.00
0979日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:26:55.19
>>974
だったら庄内期に墓文化が統一されていた、という事をあなたが説明すればいいよ
0980日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:27:21.32
0981日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:27:45.69
0982日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:28:07.24
0983日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:28:24.89
0984日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:28:58.59
0985日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:29:18.90
0986日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:29:25.04
畿内って何処 ぼんやりしていてわからん
詳細に比定して欲しいな
0987日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:29:51.19
0988日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:30:15.42
0989日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:30:17.83
>>979
結局なにも証拠出せない九州説が逃げ回る
0990日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:30:22.13
古墳の成立と邪馬台国が密接な関係を持つと分かった以上、その痕跡は3世紀後半が主な物であると分かる

3世紀後半に発展し拡大する中心地となるのは畿内、そして大和であると明確になる
他の地域に該当する場所は存在しない

他説が言うところの時間軸とも整合性が取れ全く問題がなくなるのが分かる
09911 ◆bL7iehB8vc 垢版2018/09/22(土) 16:30:36.11
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537601009/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0993日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:30:51.91
0994日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:31:39.75
0995日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:31:51.41
995
0996日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:32:33.64
0997日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:32:51.21
09981 ◆bL7iehB8vc 垢版2018/09/22(土) 16:33:20.99
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537326512/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
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0999日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:34:37.79
999
1000日本@名無史さん垢版2018/09/22(土) 16:34:56.98
2013年、邪馬台国畿内説は破綻しました。。。
10011001垢版Over 1000Thread
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