X



♪邪馬台国ドンと来い!♪141
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:24:41.45
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
      | l i  厂  ̄ニニ¬      ノ  ⊂ノ   < ヤダヤダー!!
     ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ    (__ ̄) )
     / /\_i⌒ト、_   ノrr- }     し'し′
   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
 *良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535130067/l50
♪邪馬台国ドンと来い!♪140
0002くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:25:38.17
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國漢時有朝見者
今使譯所通三十國從郡至倭

循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千餘里

始度一海千餘里 至對海國
其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國
官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國
有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之

東南陸行五百里 到伊都國
有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
0003くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:26:19.21
南至投馬國
水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都
水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國

此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
0004くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:27:03.73
男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫
夏后少康之子封於會稽 斷髪文身以避蛟龍之害
今倭水人好沉没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
計其道里當在會稽東治之東
0005くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:30:22.32
其風俗不淫
男子皆露紒以木緜招頭 其衣横幅但結束相連略無縫
婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之
種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
其地無牛馬虎豹羊鵲
兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無
與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜 皆徒跣
有屋室父母兄弟卧息異處
以朱丹塗其身體如中國用粉也 食飲用籩豆 手食

其死有棺無槨封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉
喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

其行來渡海詣中國恒使一人 不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚 不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹

出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味 有獮猴黒雉
其俗擧事行來有所云為輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆
其會同坐起父子男女無別 人性嗜酒 見大人所敬但搏手以當跪拝
其人寿考或百年或八九十年 其俗国大人皆四五婦下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌
不盗竊少諍訟 其犯法軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族
尊卑各有差序足相臣服
収租賦有邸閣 國國有市交易有無
0006くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:31:09.79
使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之常治 伊都國於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
下戸與大人相逢道路逡巡入草 傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬 對應聲曰噫比如然諾
0007くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:31:56.04
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
0008くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:33:27.71
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都

其年十二月 詔書報倭女王曰
制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使
送汝 大夫難升米次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順

汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印?綬
引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹

答汝所獻貢 直又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩
五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠?丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬

其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授

其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
0009くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:35:18.37
卑弥呼以死大作冢 徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服更相誅殺當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
政等以檄告喩壹與

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹
0010くまモン論者
垢版 |
2018/09/26(水) 21:36:20.24
改行等に問題が有ればご指摘ください。
弟子@名無史が対応しますw
0012日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 21:48:13.56
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0013日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 21:48:36.73
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
0014日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 21:49:01.45
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0015日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 21:49:31.27
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0016日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 21:50:03.46
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0017日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 21:50:30.79
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0018日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 21:51:27.70
「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況

奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72

古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから

絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0
0019日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/26(水) 23:40:13.02
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身

耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に

4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた倭人の一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる

自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
0020日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/27(木) 00:13:59.30
邪馬台国の周辺の国】
それぞれの中心地は

1番 斯馬国は肥前国杵島郡(武雄)
2番 己百支国は肥前国彼杵郡(佐世保)
3番 伊邪国は肥前国松浦郡(伊万里湾沿岸)
4番 都支国は肥前国小城郡
5番 彌奴国は肥前国三根郡
6番 好古都国は肥後国八代郡?(女王国連合に属さぬ南方の芦北国、球磨国に睨みを利かせていた?)
7番 不呼国は肥後国宇土郡
8番 姐奴國は肥後国益城郡?(狭野尊の幼名を持つ神武天皇の本地?)
9番 對蘇国は日向国臼杵郡
10番 蘇奴国は肥後国阿蘇郡
11番 呼邑国は日向国児湯郡
12番 華奴蘇奴国は肥後国菊池郡?
13番 鬼国は肥後国合志郡?
14番 爲吾国は肥後国山鹿郡?
15番 鬼奴国は肥後国玉杵名郡
16番 邪馬国は筑後国八女郡
17番 躬臣国は筑後国御井郡 ?
18番 巴利国は筑後国夜須郡?
19番 支惟国は肥前国基肄郡
20番 烏奴国は筑前国御笠郡
21番 奴国は筑前国那珂郡
0021日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/27(木) 22:39:22.77
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0022日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/27(木) 22:47:50.91
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0023日本@名無史さん
垢版 |
2018/09/28(金) 00:22:52.76
畿内説的には径100歩の墓ってmに換算したら
どれくらいだと思うの?
やっぱり径150mくらいの墓を張政に自慢したの?
参考までに後漢王墓とか魏朝皇族墓が最大のもので径60mくらい。
0024日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 11:51:07.05
ずいぶん店ざらしになってたけど、やっとドン来いスレ140が終ったな

前スレの最後で、陳寿が九州を想定して萬二千里を割り振ったとか、
寝ぼけたことを言ってた人がいるけれど、それなら、萬七百里で終わりにしないだろ?

畿内までの水行20日+10日、陸行1月の方は、実際の記録があるから、
そっちを優先したんだよ

魏志倭人伝の旅程を素直に読めば畿内の方が妥当
萬二千里が机上の数字だとなった時点で九州説は死亡
0027日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 12:07:22.80
倭人伝の行程が正しい場合は九州

倭人伝の行程が正しくない場合は
日本中が該当するが
倭人伝の産物や地名、
倭人伝の時代の遺跡数、出土物から
九州である可能性が高い。
0028日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 12:21:56.64
どこがどう支離滅裂なのか、賢い九州説のお方の
「具体的な指摘」を待ちたいところですなww
0029日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 12:24:54.99
>>27
>倭人伝の行程が正しい場合は九州

倭人伝の行程が正しくないのは、確定事項
末盧国から伊都国の東南陸行五百里
伊都国から奴国の東南至奴國百里は、
現実の地理と整合性がない

つまり、最初から「倭人伝の行程が正しい場合は九州」という言説は
無意味な文字列
0031日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 12:57:43.82
それに九州島内の比定問題にすぎない、どう間違っても畿内は論外
0034日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 13:13:41.75
一万二千里のうち、
一万里は大盛りに盛った数字だが、
残りの二千里は正確だ、だから畿内説は正しい、と言いたいんだろ。お笑い自己中だね。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 13:46:51.47
>>34
>残りの二千里は正確だ、だから畿内説は正しい、と言いたいんだろ。お笑い自己中だね。

「残りの二千里は正確だ」なんて誰が言いましたっけ?
九州説はすぐに脳内で「幻の畿内説」を作り上げて、それに反論して悦に入って
謎の勝利宣言をするww

短里がない以上、二千里は長距離だと言っているだけだよ
それが正確とも、それで畿内にたどり着くとも言っていない

ただ、九州島の範囲ではないなと言っているだけw
0036日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 13:55:22.91
「伊吉博徳書」ってあまり話題にならないけど、遣唐使に倭国と日本国の使者がいたことが同時代資料として記録されてるんだよな
0039日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 15:45:03.74
>>30
>比定地を間違えてるだけだろ

で、その正しい比定地ってのはどこなんだい?

大体、このあたりから九州説がトンデモに突込みだすんだが?w
0041日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 16:06:16.87
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 16:10:30.89
>>39
正確に里数を辿れる九州説もあるが、それを云ってもどうせ気に入らないだろう。
九州説でも、F田説とかY本説なら、短里里数との誤差が大きいから、
そっちのほうへ噛みつくこったな。気が晴れ晴れするぞ。
0043日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 16:25:41.04
>>40
>九州島内だね

十年一日のごとく、単語だけを書き込んでるけれど、ここまで見てきたように
「短里なんてない」んだよ

短里がなければ、九州島内だとかいうのは何の根拠もないただの戯言
0044日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 16:27:32.56
>>42
>正確に里数を辿れる九州説もあるが、それを云ってもどうせ気に入らないだろう。

それも短里仕様だし、伊都国を三雲遺跡群と関係ないところに
勝手に置くただのトンデモだよ

九州説のほぼ全ての主張に目を通しているけれど、全てトンデモ説
基本短里前提だしな
0045日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 16:28:21.69
で、賢い九州説の皆さんは、誰一人として
「正しい比定地」とやらを示してくれないんですね?
0046日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 16:29:26.81
結局、北部九州には、伊都国、奴国以外で3世紀の遺跡がないんだよ
その時点で詰んでる
0048日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 17:04:55.76
纏向遺跡もあるし、唐古鍵遺跡もあるし、中田遺跡もあるし、亀井遺跡もあるし、池上曽根遺跡もあるし、
3世紀初めから纏向石塚古墳を皮切りに100メートル級の墳丘墓が連続して作られるし、
奈良盆地の周辺でも、近江守山には伊勢遺跡があるし、丹波には籠神社や赤坂今井墳丘墓、大風呂南1号墓もある

北部九州とは3世紀のにぎやかさが全然異なる様相なんだよ
0049日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 17:07:00.89
>>47
今の纏向畿内説は考古学ベースなんだから、考古学的遺跡・遺物で比べられたら
九州は一たまりもないのは分かりそうなもんなんだが?w

何かオウム返しで言い返したくなっちゃうところが、九州説の終ってるところだよな
0050日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 17:38:11.00
九州気に入らね、九州憎い、九州くたばれ、九州おわた、
そんな、やけっぱちが伝わってくるなwwww
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 17:40:52.63
九州と本州はクニが違うんだよな
たぶん支配層の人種も違ったんだろう
0053日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 17:46:53.72
弥生遺跡数
福岡 4000
奈良 600

賑やかさが全然違うんですよね。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 17:54:44.80
陳寿は魏が認めた倭王卑弥呼が
現実的には九州筑紫王であって倭国の王では無かった
という現実、魏皇帝の恥をうやむやにする為に、魏晋里を壊したんだろ。
知らんで適当こいても、奈良にも行けんよ。

短里の存在が必要ということはない。
帯方郡から女王は故事にのっとり万2千里。←よく裏読んだと思うぞ、ほめ。
韓南北は4千里、半島南岸の渡海地点まで東3千里、対馬海峡南3千里。

これを否定するなら、韓、対馬、壱岐がぶっ飛んで行ってしまって
倭人伝は読めない。 太平洋のムー大陸へ行けばいい。
偽装の理由が無い、卑弥呼の墓の百歩は、百歩だと思うぞ。

陳寿が、どっかで、短里が有った事を知ってて、
わざと、ミスリードの為に韓と倭に当てはめたなら
現代、日本人は嵌ったwww

水行30日、陸行一月も、
張政と別の10年前の梯儁部隊、韓〜倭への初行軍の期間であって
具体的寄港地名も無く、韓南岸の投馬国と九州筑紫の邪馬台国の国名だけだから、
実務的な都市間の距離の里程に当て嵌める必要は無くないか?
0056日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:27:59.61
>>51
>九州と本州はクニが違うんだよな
>たぶん支配層の人種も違ったんだろう

そんな寝言は通らない
前方後円墳体制には、北部九州も率先して入れてもらってるじゃないか
この体制は、卑弥呼の存命中に起動しているぞw

「別の国」説はたわ言
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:29:14.01
>>53
>弥生遺跡数
>福岡 4000
>奈良 600
>賑やかさが全然違うんですよね。

相変わらず、情報の調べ方が分からないバカなんだなw

奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数のことだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
 1 遺跡地図
 2 遺跡地名表
 3 発掘調査報告書(報告書抄録)
 遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
 最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
 地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」

と書いてある

『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ
0058日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:31:14.94
実際に検索してみると
0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件 「弥生時代の集落遺跡」
2. [福岡県] 1703件
3. [調査 (除外検索)] 723件   「調査を除外」
福岡県の「弥生時代集落」のデータのうち、980件が調査報告の件数で遺跡数ではない

0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件
2. [奈良県] 229件
3. [調査 (除外検索)] 47件
奈良県だと、「弥生時代集落」のデータのうち、182件が調査報告の件数で遺跡数ではない

また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵

それに対して、糸島の三雲遺跡群は24件のデータとして、データベースに登録している
341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403739 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ2582・2583地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ2582・2583
403734 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ428・429地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ428・429
403738 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ434地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ434
403726 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西526-1地区 福岡県糸島市三雲字下西526-1
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
0059日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:31:26.95
続き

403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2
153426 個別 40230 三雲・加賀石支石墓 福岡県糸島市三雲加賀石 333236.3 1301440.0
348190 個別 40230 三雲井ノ川遺跡 福岡県糸島市三雲
153421 個別 40230 三雲原際所在7-729墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際 333223.5 1301400.3
153432 個別 40230 三雲原際所在7-740墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際
153430 個別 40230 三雲屋敷所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲屋敷
153431 個別 40230 三雲所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲
153428 個別 40230 三雲柿木所在7-736包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
153429 個別 40230 三雲柿木所在7-737包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
445195 個別 40230 三雲郡所在包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲郡

結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ

これで、福岡の方が奈良より遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ?
0060日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:32:31.20
福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが204件登録されてる

そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ
0061日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:35:50.11
>>48
>邪馬台国と何も関係がないが

残念でした
邪馬台国時代にそのまま直結する時代の遺跡ばかりであり、
邪馬台国時代の広域連携、前方後円墳体制の中心メンバーの遺跡群だよ

それを関係ないと言い張らないといけないところが九州説の苦しいところだけれど、
北部九州最大の大国、奴国がその中心部に最初期の纏向型前方後円墳である那珂八幡古墳を
築造して前方後円墳体制のメンバーであることをはっきりと示しているからね

別の国だというのは戯言だよ
0062日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:36:35.31
>>55
>本州は、倭種だろw

本当にバカなんだな
北部九州もみんな倭種だよw
0063日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:42:59.33
>>57
三行で頼む。
キナイコシはいつも長い文章で
煙に巻くから
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:44:07.70
帯方郡は、馬韓の地に開かれた。
馬韓種族は、蚕を飼い、絹を産していた。
その馬韓人(のちの百済人)の馬流れは、海を渡って倭地九州にも達し、
対馬国〜邪馬国〜邪馬台国〜投馬国〜斯馬国・・・、と養蚕・絹織りを広げていった。
(皇室の養蚕行事は、その伝統を今に伝えているわけだ)
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 18:54:04.21
天皇家のふるさとは九州馬国
0066日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 19:15:26.51
>>63
奈文研の遺跡データベースは都道府県教育委員会、市町村教育委員会の情報が元
しかし『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する
情報が多いのはまめな自治体ってだけで、実際の遺跡の数の多さを意味しない
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 19:57:41.85
>>67
>いつの時代の話をしてるんだ、これだからな信者は

卑弥呼の時代、3世紀前半から半ばだよ
編年研究の成果であっても「ぼくチンには認められない」ってか?w

これだから九州教の信者はw
0072日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 20:00:59.82
>>68
>同じクニだという根拠が何もない

逆だ、真逆!
それまでと異なる墓制・葬送祭祀にいっせいに転換する範囲が、
同じ国ではないと考える方がどうかしている
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 20:02:33.61
>>69
>倭人伝くらい読めw

魏略は読んでるのか?
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
渡海千里で渡っていった先も、みんな倭種である
これが元ネタ
0074日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 20:03:56.21
>>71
>編年は個人の感想レベル、科学じゃないから

ピアレビューされた科学論文を、科学じゃないって言ってるところを見ても、
科学とは相容れない「宗教」が判断基準になってることが丸分かりww
0075日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 20:07:11.11
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 20:21:36.46
歴史の話じゃないのか?
250年以前の九州に前方後円墳なんて有るかよ?

卑弥呼の時代は、おおむねで180年あたりから247年迄だろ?
遠賀川域はともかく、筑紫が本州勢力と関係が薄いのは
銅鐸、青銅器、鉄器で明らかじゃないのか。

247年には、九州平定が成っていたから、そこから関係が深まってゆく。
卑弥呼の墓は大いに盛った訳だから、朝廷に組した。

朝廷は、中國国交とこの墓を知って、富国強兵に向かった。
それが、日本史に書き加えられなければならない247年、筑紫平定だよ。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 20:30:15.09
>>74
しょせんそれが考古「学」のレベルなんだよw
度方に毛が生えたレベルのやつらが歴史を騙るんじゃないよw
0080日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 20:40:08.86
倭人も倭種も日本人のことだよ。
倭人伝が筑紫の話しかしていないから、筑紫人が倭人か?
と言うと、はるかにでかい本州も皆倭人伝の倭人と同じ倭の人種だ。
って言ってんだけど。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 21:04:03.92
>>77
>誤読だよ、漢文も読めないやつがコメントするなよ

漢文読めないのは九州説の常だろ?
九州説は、九州説の本に書いてある間違った二次情報だけが
正しいと信じ込んでしまっている

ある意味惨めよのw

結局魏志倭人伝は、魏略の文章の間にいろいろと入り込んで
しまっている分意味がぼけてしまっているんだよ

もともとは、帯方東南大海中の島にいるのはみんな倭種だというだけの情報

それを旧唐書の倭の別種という表現につられて、別の国なんだと思い込んでいるだけ
葬送祭祀まで統一化されている共同体を別の国とする理由がない

倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種

倭は帯方の東南大海中に在り、山島に依りて国を為す
渡海千里にして復た国有り、皆倭種なり

どこにも紛れはないだろw
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 21:05:31.20
倭種 といえば・・・
>>64 は、なんなんだ。 
>帯方郡は、馬韓の地に開かれた。?

遼東候、公孫氏が馬韓の地に進出したんであって、
238年、卑弥呼の時に、魏に占領、進駐されてるだろ?

そもそも、馬韓種 ってのは、衛氏朝鮮が追った、箕氏が韓王を名乗った。だよ。
この王家は246年、帯方郡によって滅亡する。

日本に養蚕が伝わったとして、この後、高句麗牧童や馬を移入してんだから
通り道の韓から、ついでに強制連行したっておかしくはない。

と言うより、百済は四郡撤退後に倭国が後援して
高句麗を追いつつ350年に、中原と通じて傀儡建国してるんだよ。

そんなことより、三国志で公孫氏は呉と通じてたわけで、
公孫氏と通じていたであろう倭は呉と通じない理由はあるか?

注、漢以降だから、あまり三足土器にはこだわらんでいいよwww
縄文人は黒曜石や翡翠で日本海や南海の覇者だったし、人が来る必要もないし、
鉾や剣、銅鐸になる、青銅は十分来てるんだよね。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 21:06:15.60
>>77->>79
九州説ってのはこんな烏合の衆レベルのヤカラばかり
お里が知れるってやつだな

頭が悪いくせに、自分だけが賢くて正しくて、
専門の研究者の仕事も間違っているに決まっていると見下す

バカの極致w
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 22:17:50.30
>>82
自分の書いたレスを、よくよくよーく、読み返してみろや。
あっち飛んだり、こっち飛んだり、パニクッてるぞ。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 22:23:00.24
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 22:33:39.19
>>85
よく見ないでもわかる。 手持無沙汰なだけみたいwww
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 23:03:09.36
>>82
大多数の人民種族と、極少数の支配者王族を区別できてないな、、、
王族だけでクニができるのではない。

それと、
後漢〜魏時代の曹操と公孫氏四代の関係が、理解できてないようだな。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/01(月) 23:50:09.81
>>76
この人247年に邪馬台国が滅亡して大和朝廷が九州を平定したとしつこく言い張ってる人だっけ?
オセロゲームでもやってると思ってんのかな?
それとも信長の野望みたいなゲームの世界が現実にあると思ってるのかな?
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 00:05:52.00
>>72
卑弥呼時代はまだ各地の有力墓はバラバラ

広範囲で同一規格がみられるようになるのは布留1から
つまり3世紀末以降だよ

政権と関連づけるとしたら、この頃からだね
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 08:11:07.97
>>91
>広範囲で同一規格がみられるようになるのは布留1から
>つまり3世紀末以降だよ
>政権と関連づけるとしたら、この頃からだね

それ、倭国(阿波)の「忌部はん」による先進文化の全国展開なんだよ。  @阿波
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 08:35:27.64
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 09:29:54.86
>>84
>おまえの勝手読み、言い張ってもムダ

どこがどう勝手読みなのか、具体的に指摘して攻撃すればいいのにそれもできないw

バカは黙ってなw
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 09:31:08.32
>>89
>平原遺跡は転換していないだろ。

平原1号墓は2世紀だからな
卑弥呼より古いから、転換してなくて当たり前
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 09:34:26.86
>>91
>卑弥呼時代はまだ各地の有力墓はバラバラ

それを統一したのが、共立祭祀王の卑弥呼
このばらばらな墓制が統一される過程が、邪馬台国=ヤマト国で進められたんだよ

>広範囲で同一規格がみられるようになるのは布留1から
>つまり3世紀末以降だよ

いきなり統一されるわけじゃなくて、その統一に向けての動きは
それ以前の庄内期に進められている
その統一に向けての合意形成の場ができたところをもって、
倭国の新秩序=古墳時代の始まりとするのが通説になりつつある

>政権と関連づけるとしたら、この頃からだね

まさに、この動きそのものが卑弥呼の共立に続いて起こった変換であり
時代の転機なんだよ
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 10:30:36.38
具体的な根拠、論拠を書くと即死だから逃げ回ってるやつがなんか言ってる
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 11:29:19.13
>>99
>たまには畿内説の具体的な根拠を書いたらどうだ

そりゃ、無理というもの。  「具体的な根拠」を挙げられるのは倭国(阿波)だけなんだから。  @阿波
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 11:31:12.69
>>96
>いきなり統一されるわけじゃなくて、その統一に向けての動きは
>それ以前の庄内期に進められている

勝手な論理で前通ししていいなら、歴史学は意味をなさなくなるな。
畿内説はじせつを通すために無理筋を平気で述べるよね。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 14:23:54.95
>>101
>勝手な論理で前通ししていいなら、歴史学は意味をなさなくなるな。

前もって合意がなければ、「いっせいに前方後円墳を作り始める」ことは不可能だって分かるかい?
そして、「定式化した前方後円墳」は「箸中山古墳以降」で「布留式土器」の時代だが、
定式化前の「纏向型前方後円墳」は「纏向石塚古墳以降」で「庄内0式土器」の時代からであり
この時点で、列島のかなり広い範囲で「纏向型前方後円墳」が作られている

そして、北部九州最大勢力、奴国の首長墓も「纏向型前方後円墳」の那珂八幡古墳として造営されている

ひと頃は、箸中山古墳の隔絶性を重視して「箸中山古墳以降」の「定式化した前方後円墳」をもって
古墳時代の始まりとし、「纏向型前方後円墳」は弥生墳丘墓としていた

しかし、「纏向型前方後円墳」の時期に既に広範囲に展開していることも含め、
その時期から古墳時代(草創期)とするのが、最近の通説(になりかけ)だよ
http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8Caa~1.jpg

ほら、「具体的な遺跡、遺物」で裏付けられてるだろ

最新の研究成果を一切見ずに、古い九州説の論説を信仰してるから、新しい具体論について来れないんだよ
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 15:11:20.96
>>102
>その時期から古墳時代(草創期)とするのが、最近の通説(になりかけ)だよ

ところで、その古墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな?  @阿波
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 16:22:40.28
>>102
いや、西日本の広い範囲で、ある地域が何かしら墓の様式を主導をしたのなら、一気に始まる事も当然ありえる。

徐々に勢力を広げたのならば、その様子も順次広がる形になるだろうね

墓の形式がバラバラなら、その時代はまだバラバラの墓の様相が時代背景ということになるだけだ

つまり、庄内〜布留0までは同勢力とする根拠が無いわけ


最近は那珂八幡は箸墓より古いとするのが主流だよ
つまり、バラバラの時代の墓になるね
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 16:23:16.21
前方後円墳は倭人伝に出てこないから、その後のお話なのは明白
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 16:32:21.57
>>105
>最近は那珂八幡は箸墓より古いとするのが主流だよ


どうでもいいけど、
その古墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな?  @阿波
0108日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 17:08:17.18
>>105
>最近は那珂八幡は箸墓より古いとするのが主流だよ

横レス失礼
それだと北部九州がヤマトの傘下に入る時期が従来の説より早かったという結論にしかならない
0110日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 17:12:53.34
>>108
>ヤマトの傘下に入る

それは、ない。 その当時の奈良にそんな力はない。  @阿波
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 17:20:57.07
その「合意」が年前なのか10年前なのかわからなければ意味がない。
少なくとも、確認できる事実によらずに、想像で補ってしまっていることは間違いない。
それは年代前倒しの根拠とならない。
考古学的事実が邪馬台国と一致しないという矛盾を誤魔化すためのレトリックに過ぎない。
言い換えれば嘘つき。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 17:22:19.80
>>108
那珂八幡が副葬品からは平原遺跡よりかなり下位なので、そうは言えないよ。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 17:44:41.39
>>111
九州説の自己否定だな
九州説を前提にした場合、玄界灘沿岸地域を含む広域連合の証拠って全くないだろ?
0115日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 17:57:06.90
テスト投稿
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 18:29:08.49
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 18:30:27.32
西日本に関しては 銅鐸時代の連携が存在して、
それが、九州平定以降に大陸の古墳の継承を決め古墳時代に突入した。

これは、邪馬台国外交を知ったことによる重農政策から富国強兵への政策転換である。
250年以降、九州平定から古墳時代、313年高句麗の郡制圧、
350年、百済新羅立国、倭の五王に至る日本の立ち回りはクレバーすぎる。

帯方郡漢人在留の313年を待たずとも、
張政を送り返した際、あるいは249年司馬氏のクーデターあたりで
帯方郡で冷や飯喰らった、ある程度の軍師を招請している可能性はある。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 18:40:09.20
また転写保存
>>399
>>だから、宝賀氏は、柳田や都出の「古い方」という解釈で、発掘報告の土師器は、庄内の事であった、と判定した。

>柳田も都出も、 祇園山の土器が土師器の古い方だなどとは全く言ってないんだが?<

もう一度、wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htmを転写して上げよう。
  土師器は全て墳丘裾部外周から出土している、弥生式土器片はまず採取されていないとして良い、と報告書に記述される。・・・
 「土師器」は古墳時代の素焼土器とされており、そのなかで布留式がはじめに置かれ、その前の庄内式や西新式は弥生終末期とするものが多かった。
 最近では、庄内式を古墳時代初期におく説(最古の土師器とみる説)が一般化しているともいわれ、西新式を庄内式や土師器と併行とみる説もある。
 柳田康雄氏は、西新式土器を弥生終末期から古墳時代の土器と考え、その大半を土師器T型式(庄内式に併行する土器)と考えている。
 宇佐の赤塚古墳では、周溝から出土した土器は布留式あるいは庄内式の新しいところといわれている時期のものとする。
 都出比呂志氏の表でも、赤塚古墳を箸墓古墳とほぼ同時期(纏向3式=庄内2式。最近では布留0式とするのが多い模様)において、
 それに先立つ時期(纏向2式=庄内1式)に祇園山古墳と妙法寺古墳を置き、
 なかでも祇園山のほうを最古としている。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 18:53:55.19
>>404
>>「自昔・・・東征毛人五十五國」は、倭王武の上表文という史料事実だ。<

>そして九州は倭国王に「西服」された異民族の国だよ 九州倭国なんて架空の妄想だ<


ダメだ。
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国は北部九州であって、
大和ではない。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 19:40:45.23
>>118
>西日本に関しては 銅鐸時代の連携が存在して、
>それが、九州平定以降に大陸の古墳の継承を決め古墳時代に突入した。

バカジャネーノ
銅鐸が打ち捨てられ、九州北部からの銅鏡銅矛文化が西日本を制圧したんだよ。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 20:21:08.60
>>105
>最近は那珂八幡は箸墓より古いとするのが主流だよ
>つまり、バラバラの時代の墓になるね

日本語読めますか?
すぐ上の>>102
「奴国の首長墓も「纏向型前方後円墳」の那珂八幡古墳として造営されている」って
書いてあるよね?

「纏向型前方後円墳」は、当然「定型化古墳である箸中山古墳」よりも古いよ?
でも纏向遺跡の「纏向型前方後円墳」である纏向遺跡石塚古墳よりは新しい

つまり、纏向遺跡で作られた「纏向型前方後円墳」の様式に従って
「那珂八幡古墳は作られている」

同様に「纏向遺跡で作られた纏向型前方後円墳の様式」に従って作られた多くの
古墳が列島の広い範囲で見られる
http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8Caa~1.jpg

北部九州が、畿内で作られた様式に従って墳墓祭祀を行っている時代を
古墳時代(草創期)と呼ぶんだよ

つまり、ばらばらの時代はもう終っている
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 20:26:30.19
>>121
>平原遺跡を無視しても説得力なし

無視してないよ

平原1号墓は、古墳時代(草創期)に入る前の2世紀の伊都国有力家系の女性の墓だ
巨大鏡(破砕供献)を副葬(?)していることから、伊都国内の鏡作りの一族かもしれない

そして、平原遺跡を無視するなという人に限って、
平原5号墓及び付属する大柱
平原2号墓
平原3号・4号墓
曽根遺跡群(ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳)を無視する

これらは、平原1号墓と同一家系の一族の墓地に当たり、
伊都国王(首長)家の三雲遺跡群の墳墓群とは別系の家系であることが分かる

そういうの、まったく知らずに平原1号墓がすごいんだーって言ってるのが、バカみたいw
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 20:27:20.18
>>124
>北部九州が、畿内で作られた様式に従って墳墓祭祀を行っている時代を
>古墳時代(草創期)と呼ぶんだよ

どうでもいいけど、
その古墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな?  @阿波
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 20:49:16.41
ん?
>これらは、平原1号墓と同一家系の一族の墓地に当たり、
伊都国王(首長)家の三雲遺跡群の墳墓群とは別系の家系であることが分かる<
卑弥呼さんは在野の人やろ?三国志のまんまやん
0128日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 20:51:20.66
>>124
>北部九州が、畿内で作られた様式に従って墳墓祭祀を行っている時代を
>古墳時代(草創期)と呼ぶんだよ

卑弥呼より後の時代。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 20:51:40.81
>>125
>平原1号墓は、古墳時代(草創期)に入る前の2世紀の伊都国有力家系の女性の墓だ

個人の妄想です。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:02:09.10
まあ平原に一点買いはせんが下限はせいぜい3世紀真ん中で女子実力者のお墓やろ?
金持ちも財産1/10は賭けるな?
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:25:28.86
>>128
>卑弥呼より後の時代。

残念でした
九州説としては「そうじゃないと困る」から、そう言い張るしかないんだろうけれどww

根拠をまったく挙げられず、ただ「違うんだー」と連呼しても無意味だよ
根拠を挙げられない時点で、反論として成立していない

このスレの発端が、その古墳時代の始まりの時期の定点の絶対年代が
AMS法による桃核の14C年代測定で以前から言われていた値より古いことが分かったって
ことなんだから、どんどん古墳時代の開始は卑弥呼の死よりも前になってる
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:27:33.10
>>129
>個人の妄想です。

鏡作り云々は個人の感想だけれど、
曽根遺跡群および平原遺跡の累代造営墓は、伊都国内の特定家系の存在を意味している

そして三雲遺跡群の累代造営墓と平行して営まれていることから、伊都国首長家系とは
別系であることが明白

ここまでは、妄想でも感想でもなく、遺跡から分かることだよ
0134日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:27:58.75
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:29:59.80
>>131
>まあ平原に一点買いはせんが下限はせいぜい3世紀真ん中で女子実力者のお墓やろ?

平原1号墓が3世紀という根拠は、「耳璫がちょっとくびれてる」ってだけなんだよ
びっくりだろ?ww

平原1号墓は2世紀の墓
そのあとに、古墳時代に入る前に、3号・4号墓が方形集溝墓として
築造されていることから見ても、2世紀が相当
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:36:33.67
AMS法による桃核?
あー畿内説一押しの辻地区真っ向否定した奴やな?
投了?
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:37:23.85
纒向型前方後円墳ってのは日本中にあって
別に纒向のものが最古のものじゃないよ。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:38:19.48
じょーかー君頑張った?もうええよ
0139日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:40:13.57
ダック?口挟むんならさいごまでやれ?(釜爺風
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:40:27.19
>>137
>纒向型前方後円墳ってのは日本中にあって
>別に纒向のものが最古のものじゃないよ。


その最古は倭国(阿波)の萩原2号墓だよ。  @阿波
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:42:28.56
東京の弥生町の遺跡が
弥生遺跡の語源だが
これも別に最古の弥生遺跡って
言うわけじゃないからね
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 21:46:31.72
>>140
しってた!三好君すげえ?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 22:39:30.51
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/02(火) 22:41:29.02
もうええよ
降参せえはもういわんし
そっと消えれ?
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 01:53:21.72
>>133
王権の世襲が確立されてないからこそ、100年くらいのサイクルで
その国における同年代最大規模の墓の場所が移動するのではないの?
0148日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 07:20:22.95
そうですね。
平原遺跡の卑弥呼が、三雲の先代男王達(おそらく倭国大乱で筑紫を出た天孫族)とは別の家系であるという証拠でしょう。
さらに卑弥呼の後は久留米や河上などに倭国の中心が移動するのでしょう。
伊都国だけの王などというものを夢想する畿内説は何の根拠もありません。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 11:09:08.04
>>105
正解
0150日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 11:11:07.72
>>124
纏向型じゃなくてなか八幡型なんだな。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 11:23:21.21
>>124
みんないいかな?  前方後円墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな?  @阿波
「那珂八幡古墳」や「津古生掛古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波 
0152日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 12:25:43.18
卑弥呼の死後に何らかの政治的影響が畿内にも及んだということかな?
0153日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 13:00:21.66
>>148
>平原遺跡の卑弥呼が、三雲の先代男王達(おそらく倭国大乱で筑紫を出た天孫族)とは別の家系であるという証拠でしょう。

平原遺跡の卑弥呼、というのがどこまでもバカ
平原1号墓は2世紀
平原遺跡で3世紀となると、3号・4号墓になるが、10メートルない方形集溝墓で
副葬品もめぼしいものはない

>伊都国だけの王などというものを夢想する畿内説は何の根拠もありません。

卑弥呼のほぼ同時代に、隣の奴国では那珂八幡古墳を作っていてそのサイズが
墳丘長75メートル

平原遺跡のどの墓よりも立派だよ
奴国も含めた倭国女王の墓が、どうしてそんなにしょぼいんだ?

寝言は寝て言え
0154日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 13:01:10.74
>>152
>卑弥呼の死後に何らかの政治的影響が畿内にも及んだということかな?

「何らかの政治的影響」?   そんな気の利いた理由なんかないんだよ。
ただ、パイオニア精神が働いて、全国へ拓殖に出かけただけのこと。 倭国(阿波)国内だけでは、キャパシティの限界だから。  @阿波
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 13:01:41.35
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 13:01:42.66
>>152
>卑弥呼の死後に何らかの政治的影響が畿内にも及んだということかな?

逆だ
土器の流入、前方後円墳祭祀の受入れ等、畿内から北部九州への政治的影響は2世紀から明白
北部九州から畿内への影響は皆無
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 13:11:28.99
>>156
>畿内から北部九州への政治的影響

畿内にそんな力は、ない。  @阿波  
 
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 14:06:54.59
>>137
>纒向型前方後円墳ってのは日本中にあって
>別に纒向のものが最古のものじゃないよ。

そのうち、庄内0期の纏向石塚古墳よりも古いのはどれ?
「どの古墳がいつ頃だから古い」って「具体的に示して」ね!
0160日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 14:15:45.77
>>159
あのねぇ、前方後円墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな?

「纒向石塚古墳」朱塗の鶏形木製品の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0161日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 15:39:34.75
>>157
>戦時だからだろ

平原遺跡周辺、あるいは伊都国の範囲全体でもいいや
3世紀の戦乱の様子が分かる遺跡・遺物はありますか?

具体的に示してくださいね!

何度も書くけれど、卑弥呼の宮室には侍女千人(以婢千人自侍。)と
書いてあって、卑弥呼の都に戦乱が迫っている様子は見られない
侍女が千人動員できるなら、墓の造営にも男子千人くらいは動員できるだろ?
侍女千人は常時だけど、墓つくりの臨時動員ならさらに容易

戦時だから小さいというのは根拠がない
0162日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 15:42:49.80
>>159

石塚は久住では庄内2式期

寺澤薫の「王権と都市の形成史論(吉川弘文館)」(以下「寺澤論文」という)によれば、

石塚古墳は、周濠内から出土した土器から庄内3式期に築造されたとされる方形周溝墓を破壊して築造されており、

同様に周濠内出土土器から布留0式期に築造されたとされる方形周溝墓は、石塚古墳に規制されて築造されている。


これはどういうことだろうか?

庄内3〜が妥当かもね
すると、那珂八幡と同時期になる
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 16:13:20.48
>>162
>庄内3〜が妥当かもね
>すると、那珂八幡と同時期になる

あのねぇ、そういう議論もいいけど、前方後円墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな?
「那珂八幡古墳」の朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
0166日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 16:33:05.88
>>165
もう周回遅れだろ、それ
大作であり大塚じゃないことと、同じ三国志の孔明の遺言の記述から大きな墳でない可能性も十分にある
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 16:56:56.43
>>161
九州説では伊都を中心として筑前が邪馬台国、肥後が狗奴国だから、前線は筑後平野。
傷ついた兵の遺体、鏃など、戦乱の跡はたくさんあるよ。
伊都は高祖山の日向峠を守りきればいいから防衛には有利だね!

纒向は魏志倭人伝にあるような防衛施設の跡がないのはおかしいよね。
田舎の倉庫か市場だったかな?
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 17:30:38.32
>>168
>傷ついた兵の遺体、鏃など、戦乱の跡はたくさんあるよ。

しかし、平和で豊かに栄えた跡は皆無というお粗末。  @阿波
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 17:54:52.05
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 18:16:49.76
>>169


しかし、平和で豊かに栄えた跡は倭国(阿波)だけという現実。  @阿波
0172日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 19:01:03.80
>>167
>そこで2世紀を持ち出すのは、完全に妄想。

だから、なぜ妄想なのか具体的な根拠を付けろ!と

つ「2世紀の根拠」
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

畿内第V様式甕の頃から、九州で畿内様式甕が出てる
畿内第V様式というのは、弥生時代後期という意味だから、1世紀末から2世紀にあたる
0173日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 19:02:43.68
>>169
>傷ついた兵の遺体、鏃など、戦乱の跡はたくさんあるよ。

それ、甕棺墓時代
邪馬台国の時代より100年単位で古い
3世紀の戦乱のあとなんて、北部九州にはないだろ?
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/03(水) 20:52:11.87
>>176
>巨大な前方後円墳は平和の象徴だろうな

全くその通り。 平和な倭国(阿波)の反映だからね。  @阿波
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/04(木) 09:39:46.16
>>176
地域が安定していないとできませんからね。
魏志倭人伝にある倭国は不安定な政情の修羅の国です。
九州北部に他ならない。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/04(木) 11:05:27.13
>>166
>同じ三国志の孔明の遺言の記述から大きな墳でない可能性も十分にある

諸葛亮の葬漢中定軍山遺命「因山為墳、冢足容棺」は、
「山に因りて墳となし」=「山を墳に見立てて」
「冢は棺を容れるにたる」=「冢は棺が入る程度の小さなものにしなさい」
という意味

墳と冢の大きさを解説してたものじゃないよ
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/04(木) 11:08:09.40
>>178
>魏志倭人伝にある倭国は不安定な政情の修羅の国です。
>九州北部に他ならない。

少なくとも台与を立てた後は落ち着いてるよな?
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王「國中遂定」

ずっと修羅の国を続けているところは候補にもならない
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/04(木) 16:07:57.78
三国志の用例では冢のイメージはそんなに大きな物ではないとわかる
0184日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/04(木) 19:33:19.60
>>172
247年に邪馬台国の主権終了と同時に畿内も筑紫も古墳時代が始まった。

畿内から九州への土器の流入も増大した。
畿内第V様式甕の編年で畿内が180年からでも
筑紫に入るのは250年でも良くないか?
比恵那珂が2世紀というなら大乱時、
奴国が瀬戸内海国家とも通じてたか?

まあ、瀬戸内海国の影響が強く非卑弥呼国の
筑紫以東への侵入は、筑紫平定前の200年そこそこでも良いわけで。

前方後円とか巨大古墳時代化は、
畿内が卑弥呼の中国外交見た後からだよ。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 17:04:40.22
寒いんで、投入。
(⌒▽⌒)o/ ̄ ̄ ̄~ ⌒。チャポン!!

邪馬台国=女王国に属する国は21国である。
>>3 次有 以下列記21国  此女王境界所盡

皇帝の命で、帯方郡から南、水行30日と陸行1月の行軍によって、
卑弥呼に金印紫綬を届けた梯儁は、同盟国卑弥呼の所属国の国勢を尋ねた。
それが、21国であり、これを列記し総人口7万戸と記録した。
其餘旁國遠絶 不可得詳 については、
名さえも知らない、海の東や狗奴國以南の国である。

この21国は、卑弥呼を共立した、大夫=代々の王の有る筑紫の国々である。
末羅国、不彌国、伊都国は同音異字国も無いので、ここに含まれていないようだ。
張政によって記録された、王の無い都市名であると考える。
從って、世有王は、伊都国に王が有るではなく、21国の王が皆女王に属する、である。

対馬、壱岐、狗邪韓國、狗奴國も女王国に含まれない。
梯儁の行程による投馬国は梯儁が命名した邪馬台国と同様、
数十国を連ねる概念の国であり、半島南岸の倭人領の国である。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:08:01.95
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:16:11.74
誰かが、
伊都国は伊邪那岐の伊であるから、「伊氏」の国ではなかったかといってたな。
であるならば、邪馬国・邪馬台国・投馬国・斯馬国・対馬国は、「馬氏」に連なる国々だったのではないか。

というわけで、伊氏と馬氏を探ってみると、
伊氏は「伊籍」、馬氏は「馬氏の五常(常の字を持つ優秀五人兄弟)」と呼ばれ、
いずれも三国志時代の劉備に仕えた高名な政治家だったようだ。
陳寿は劉備のファンだったそうだから、倭国の伊氏と馬氏の活躍ぶりにも、いたく感激したのではないか。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:43:57.63
伊尹かな?
0192日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 08:05:31.83
倭国〜日本国内を見渡したとき、地名でいえば、伊万里、伊予、伊賀、伊勢などを思い出す。
しかしただちに伊氏につながる土地・氏族は見当たらぬようだ。
しいて例を挙げるなら、伊勢氏ということになる。
その伊勢氏は、元は伊勢の国造で中臣性であるから、藤原人脈ということになる。

先に伊都国は、末羅国からの方角・里数からして、佐賀の川上がピッタシと述べたが、
その故地である川上の遺構には、今も藤原氏の祖を祀る五社大明神があり、
しかもこの一帯は、6-8世紀のころにはイ寺(椅寺)とよばれたという。
此の「イ寺」のイこそ、伊都国を治めた「伊氏」の名残だったのではないであろうか。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 08:27:25.63
>>191
なるほど!
伊氏の祖を伊尹とすれば、伊尹は商(〜殷)に仕え、その国の礎を築いた。
一方、馬氏の祖を馬韓とすれば、馬韓を建てたのは箕子朝鮮であるから、
その祖もまた殷に由来する。
よって伊氏(伊都国)と馬氏(邪馬台国)は、祖を共有していたことになる。(いかが?)
0195日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 08:40:06.51
伊氏や馬氏なんて創作するんじゃねえよw
ボケ!
0196日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 08:55:24.41
卑弥呼以死大作冢 徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に大いに冢を作る、径100歩余り、殉葬者の奴婢100余人
径100歩余りも殉葬者の奴婢100余人も冢に掛かる
冢の大きさが径100歩余りではなく
冢の径100歩余りに殉葬者の奴婢100余人を埋めたんだろうな。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 08:55:30.54
陳寿は、倭国の方角・位置に関し、
夏氏の故事を引いて、会稽郡東治山の東と述べている。
伊都国・邪馬台国に関しても、なにがしかの中華との縁起を述べて、読者の親近感を呼ぼうとしたのであろう。
なかなかの演出・脚本家でもあったようだ。

夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、、、、計其道里、当在会稽東治之東。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 10:07:32.06
中臣氏:
春日神社神主家(社家)
鹿島氏(社家)
伊勢氏(武家) など

>古代日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族.
>天児屋命(アメノコヤネ)を祖とし、現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。
>中臣鎌足は645年の大化の改新で活躍し、669年の死に臨んで、藤原姓を賜った。
>以後鎌足の子孫は藤原氏を名乗ったが、本系は依然として中臣を称し、代々神祇官・伊勢神官など、神事・祭祀職を世襲した。

なお、佐賀川上(伊都国)のイ寺の伊氏と、中臣氏・藤原氏の守り神(祖)とは何らかの所縁があったのではないか。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 19:56:49.70
>>194
伊尹の子孫が渡来したかわかりませんが公孫か仲達の部下が倭人の風習見て殷連想したのかも?(卜いやら殉殺やら青銅やら
0200日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 20:44:31.61
>>197
>>4 が、素で読み取れたんですか?

倭人が漢代の朝貢時の奏上で呉の太伯の後、と言った記録を引いて
魏が呉との決戦を控えている状況から、同盟?冊封した倭の
倭人の刺青も、呉の太伯にちなむのか?
 
と 言う原典があったものを
>夏后少康之子封於會稽 斷髪文身以避蛟龍之害
に改めた、文だと思うんですが? 
陳寿が改訂したとも思えない悪文なのでは? 

計其道里當在會稽東治之東
に、至っては、この刺青の理由の文章に道里が必要な意味が判んない。

道理の起源が会稽にある、
もしくは
前段の 万二千里が 帯方郡から女王まで
で、洛陽から会稽はその道里に当たる、

と言う読みは有るが、
この文を、入れる必然性が無いと思うんですが?

倭人との親近感? 太伯の後 の跡を消す、改竄の失敗でしょ?
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 23:28:03.37
伊邪国も「伊氏」の国だろうな。
おそらくは伊万里湾に本拠を置き、南は五島列島、北は末盧国まで勢力を張っていた強国。
大宰府天満宮に伝わる古書を例にひくまでもなく、松浦氏も「伊氏」の一族。
われわれが東シナ海と呼ぶ海域を手の内におさめていた有力な海人一族。

系列は違えど同じ海人国家であったと思われる投馬国とはまた別の系統の海人国。
この有力海人国家、伊邪国をも配下に従えるほどの実力を示したのが、外来の勢力、邪馬台国であろうね。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/07(日) 23:36:05.19
ちなみに自分の姓は「松浦」.。
わが「松浦」は、アホの高麗が偉大なるフビライ・ハーンの配下として日本を侵略したまさにそのときに
全滅したんよ、アホの高麗をぶっ潰す次元と引き替えにね。
松浦一族は、アホの朝鮮を未来永劫許さんよ、いやホントに。
朝鮮人の卑劣さ、低劣さを知るのは博多の商人たちの末裔たちばかりではない。
わが祖先は、そりゃ海賊さ。でもね、海賊にも海賊なりの「倫理」いうものは有るんよ。
人として人間として、オイお前それ何や?いうほどの卑劣ぶりを示したのが「チョン」。
九州人のほとんどがチョン、もとい朝鮮人に怒りと憎しみを持っているんはね、偶然やないいうことや。
覚悟せいや、アホチョンどもめ!
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 07:04:27.66
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。

高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/upEVM8cM4dp

卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 

ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地は高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 08:28:24.37
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 08:56:29.79
>>194
なるほど?wwwwwww

馬韓は箕氏が落ちのびて、韓王を名乗った場所。
箕氏の韓王家は246年に滅び郡は臣智による官制を敷いた。

247年の邪馬台国フロント終了以降、
日本は半島に進出し、313年高句麗による四郡崩壊の背景となった。
350年には、百済、新羅の対高句麗保護国として、対中で傀儡建国を果たしている。

燕、伊氏、箕氏、衛氏、公孫氏は中原貴族として
馬は北荻東夷氏族と言うより、日本の高句麗馬 移入経路の地名だろ?

韓伝では、馬韓にも乗馬文化は無く喰ってたw
古代韓は日本の植民地化で発展している。
伊氏ってのは、伊藤博文かいw
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 09:01:12.84
当時の半島?

中国の人(漢人)だと書いてあるだろう、
何が嫌なんだよ。

それとも一部、上のほうの人だけが中華だったのかな。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 09:31:13.31
伊の地名は沖縄、鹿児島が多いよな
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 09:37:21.52
>>206
半島南部の石器文化は青銅器などで確かに縄文より発展の過程は早い。
しかし、それが大きく花開いたとは言えないし、
その地の発展可能性は、先進の中華化を意味する。

それに対し、その当時であっても縄文の黒曜石や翡翠は渡っている。
稲作集落の社会形成も同様だが、戦国〜始皇帝、漢に至る、流民、移民によって
石器人以来の縄文的 古代韓人社会が、継続可能だったかどうかも判らない。

稲作伝来とか渡来人の半島説ってのは、
出自不明で人種的変化を伴う、先進文明は持って来れんだろ? 

不明は事実だけどw 半島植民地人は江南でも中原でも北荻でも関係なくネ?
BC800年以前に移民出すほど発展してないだろ?
縄文海神ならともかく、陸続きの対中で何千年も未開の半島石器人は違うかと。
 
朝鮮民族の固有、個体化?
これは、モンゴル帝国でなし崩しになるが高麗以降ではないのかな?
0209日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 09:45:05.64
当時、半島に住んでいた人々=日本人だった?建国したのも日本人?

アタマのビョーインに行けと言われるだろう
0210日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 09:45:40.72
そういえば、伊良部島に、伊佐市に、伊作もいたな。
それから、
くまモン論者の国には馬が多い。今でも馬刺しを食うし、馬氏?の国だったのではないか。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 09:46:35.02
『倭猿』と『サルタ』というのは別だという話
0212日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 09:49:06.62
どらごんぼーる?

あのようなキャラも『倭猿』とは別の存在、説明しなくてもわかるはず
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 09:55:58.90
倭人伝の話じゃ、エサが水っぽくて燃えないっていうから、
話題合わせたら妖怪釣れちゃった でござる。
土器厨先生は予想してたw

ガーン!ホネジャン!! ( ; ̄□ ̄)o/ ̄ ̄ ̄ ̄~>゚)++++<<
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 09:56:52.18
ネットなんて普及しなければ良かったんだよ〜
みたいな話なのかな?


あと、なぜ『倭猿』なのかなんだよ、
確実に邪馬台国、倭何やら〜、倭〜・・・、
このスレ関係の話でしょ
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 11:31:18.00
>>208
朝鮮半島の文化と人のルーツはぜーんぶぜんぶ遼東半島にあるの。

1万年くらい前に九州縄文人が済州島に渡って全朝鮮最古の土器である隆起文土器を
遺し、その人々が7500年前に朝鮮半島南部に渡って朝鮮半島最古の土器の
隆起文土器を遺した後は全て遼東半島からの影響になる。

6000年前に櫛目文土器を作る人々が遼東半島から侵入して隆起文土器は終焉し、
朝鮮半島は櫛目文土器の文化圏になった。

4000年前のイネの出土から、その頃に稲作が始まったと見られるが、当時の農具が
石鍬という遼河文明系の農具であるため、これも遼東半島からの影響で始まったと
考えられる。

続く3500年前には遼東半島から無文土器と支石墓と、やや遅れて青銅器が伝わって
櫛目文土器時代は終焉し、朝鮮無文土器の時代を迎える。

続く2100年前には楽浪郡が置かれて楽浪瓦質土器が伝わるが、これらも中原の
中国陶磁器文化と全く異なるため、やはり遼東半島の当時の遼東県漢人が
移植して楽浪郡が形成された事が伺える。

このように朝鮮半島の文化とその人々のほとんどが遼東半島からの影響で
形成された事が分かる。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 11:40:03.23
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 13:14:49.32
連(むらじ):
>日本書紀等の官撰史書では、連姓の多くは皇室以外の神々の子孫として記述されている。

「八色の姓」施行前の連
>連を称していた氏族には、大伴氏・物部氏・中臣氏・土師氏・弓削氏・尾張氏などがあった。
大和盆地の有力豪族であった臣(おみ)に対し、連の多くは渡来系の有力氏族で、
早くからヤマト王権に服属し、軍事や祭祀など特定の職能を専管する地位にあった。これらのうち大伴氏や物部氏など、特に有力な氏族は大連(おおむらじ)と呼ばれて、
臣の有力者である大臣(おおおみ)とともにヤマト政権の中枢で最高位を占め、王権を左右するほどの力をもっていた。

「八色の姓」施行後の連
>天武天皇の八色の姓の改革により、それまで連を称していた中央の貴族は宿禰を授けられた。

つまり、中臣の連も渡来系なのか・・・、
0218日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 14:01:40.34
其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、

その他扱いになってはいるが、斯馬国は馬氏系の国で、
とりあえず有明海沿岸の佐賀市西方・鹿島市あたりと仮置きしてみよう。

次の次の伊邪国は伊氏系列の国と思われ、伊万里という考え方もあるが、
海上・陸上交通の要衝であった諫早辺りではなかったか。
ここには小船越という地があって、有明海と大村湾を結ぶ「船越し(舟を陸上に引き上げて湾から湾へ早越しさせる)」要地だったそうな。
それよりなにより、
諫早は、古くは「伊佐早」と呼ばれていたそうだ。当に伊氏の根拠地の一つにふさわしい呼び名ではないか。、
0220日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 16:49:18.53
有明海と大村湾を根城にする海の神(海賊)たちにとって、伊佐早は超重要なところ。
以前にも、邪馬台国はこのあたりだったと主張するネラーがいたような記憶がある。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 18:24:52.92
伊の国々は、たしかに九州西海岸〜沖縄に多いね。
佐賀県
・伊都国(推定・佐賀川上)
・伊万里市
長崎県
・伊佐早市(諫早市)
鹿児島県
・伊佐市
・伊仙町(徳之島)
沖縄県
・伊是名村
・伊江村
・伊平屋村
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 19:19:57.68
伊の地名はなかなかおもしろかった。全国にはあるもんだねえ。
さすがに伊都(イト、イツ)はなかったが、一個だけ、館山に「伊戸」というのがあった。
肝心の佐賀に、伊は少なかったので、ちと残念。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 20:36:07.56
伊,壹,壱,一 (yi) (い),(ゅい)

[伊都]=[壹都] [壹界]を統ぶ所 : 海を仕切る男王が居った。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/08(月) 21:18:39.96
肥前の伊氏は、琉球列島から倭西岸にかけて多いようだから、南の海とかかわりがあったみたいだね。
壱岐(伊岐)とも縁があったのかな。
一方、肥後・馬氏の祖国は半島の馬韓で、さらにその昔を辿れば大陸出身。

ただし、両者の源流をたどると、
ともに殷商の流れをくむ種族で、言葉の訛りや習俗に、相通ずるところがあったのかも。。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 08:23:11.49
公孫氏は、後漢や魏に抗って、延々と半島を支配していたのではない
倭国の乱を解くカギは、公孫氏数世代だろうね
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 09:09:28.13
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 09:56:54.53
公孫氏とは
>公孫氏政権の創始者となった遼東郡襄平(じょうへい)の公孫度(?―204)は、玄菟(げんと)郡の小吏から遼東太守に任命されると、
郡中の豪族を従えたばかりでなく、高句麗や西方の烏丸(うがん)にまで威を振るった。

>190年、董卓(とうたく)が後漢の献帝を擁して中国が内乱状態に入ると、
公孫度はこれに乗じて領地の拡大を図り、
遼西、中遼2郡と山東半島東莱(とうらい)郡の諸県を治めた。

>公都の襄平には、前・後漢朝の祖、高祖劉邦(りゅうほう)と光武帝劉秀の廟(びょう)を建て、漢王朝の権威を継承する意志を明確にし、
また中国の皇帝の制度に倣って天地の祭祀(さいし)や藉田(せきでん)の礼などを行った。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 12:56:09.40
公孫康の帯方郡の時代
>204年、黄巾の乱をしのいだ度が死に、子の康(?―221)の時代になると、
その支配地は、遼東郡、玄菟郡から、楽浪郡、及び帯方郡にまで広がり、
韓(かん)、倭(わ)の諸国を服属させ、高句麗、夫余(ふよ)、烏丸にも勢力が及んだ。

>このときから、倭の邪馬台国は、帯方郡に服属することになったのである。
なお207年、公孫康は、遼東に逃れてきた袁尚(えんしょう)らの首を曹操(そうそう)に送って、襄平侯・左将軍の位を授けられているように、
中国の王朝から自主独立したわけではなく、善良なる地方官として勢力を誇っていた。

>康の死後は、弟の恭が遼東太守を拝し、221年には魏の文帝から車騎将軍・平郭侯を与えられている。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 19:21:53.48
四代目・公孫淵の反逆
>228年、内紛を経て叔父・恭の位を奪った淵ではあったが、魏からは揚烈将軍・遼東太守の官を授かっている。
魏蜀呉の三国抗争が本格化した淵の時代は、淵と魏朝・呉朝との外交関係も複雑に展開した。

>まず232年、呉は公孫淵に使者を派遣したが、淵もこれに応じて呉に内属する旨を表した。
翌年、呉の孫権(そんけん)は、淵を燕(えん)王に冊封すべく、使者を差し向けた。
しかし淵は態度を急変させ、その使者の首を魏に送って、魏の明帝から大司馬・楽浪公を与えられた。

>その後237年、魏はかん丘倹(かんきゅうけん)に命じて淵の討伐をはかったが、
淵はこれを打ち破って魏からの自立を成し遂げ、燕王と称して年号も紹漢と定めた。
しかし238年、魏は太尉司馬懿(しばい)に4万もの兵を与えて、遼東に籠る淵を総攻撃させた。

>淵は父子ともにあえなく斬殺され、首を洛陽(らくよう)に送られて、反逆児・公孫淵の政権は終わりを告げた。
なお翌239年、かねてより公孫氏一族に内属してきた倭・邪馬台国の女王は、魏から親魏倭王の金印紫綬を授けられている。
これは、当時の複雑な三国情勢を反映する象徴的な出来事であった。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 19:40:56.39
公孫氏については、氏一族の全てが洛陽に歯向かったとの誤解も少なくないようだ。
しかし、表立って歯向かったのは、四代目公孫淵の最後の2年間のみであった。

なお倭国との関係では、 >>229 の通り、
二代目公孫康による帯方郡の開設がたいへん大きな影響を及ぼした。
帯方郡は、支配地を拡大すべく、海を渡って、倭・末羅国東南五百里の佐賀川上に至り、そこに郡使の常駐所を設けたからである。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 19:51:32.63
渡ったところで十分。
さらに山を越えて佐賀まで行く理由はない。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 20:38:45.12
漢人の帯方郡になじみがあった漢系種族の伊氏や馬氏の協力を得るには、
肥前・佐賀平野の強国が最適であったからであろう。
その点、根っから倭人のクニの博多奴国や怡土邑は、帯方郡にとって所縁もなく、敵対的ですらあったので、避けたというわけだ。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 21:37:25.07
佐賀に行くのに山は越えなくて良い。
山と山の隙間を縫って行く道がある。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 21:47:51.60
>>232
ま、唐津は福岡県内と間違ってる人が多いんじゃないかな。
でも昔から肥国唐津で、今も佐賀県唐津市だ。
地理地形的に、福岡博多より、佐賀市の方が、はるかに近くて便利な関係にあったからだな。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 23:38:23.14
>>233
糸島が楽浪帯方に所縁がないなんてことはない。
楽浪土器が出土するのだから。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/09(火) 23:39:59.92
>>235
海路が主な交通手段だった弥生時代においては、唐津はやはり福岡との結びつきが強かったであろう。
玄界灘沿岸地域として1つの文化圏だよ。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 00:09:35.56
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 10:08:09.62
倭国大乱はどのような経過で発生したのか。
そして、それはどのような交渉を以て収束したのか。
更に卑弥呼共立後の、倭国内の交流はどのように発展したのか。

このような順序(時系列)を考えれば、倭国大乱前と卑弥呼共立後においては、
松浦ー唐津ー糸島ー福岡ー門司など北部九州沿岸において、
頻繁な政治的経済的交流がなされていたであろうことは、容易に想定できる。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 10:38:50.44
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 12:49:37.76
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 12:50:12.18
【筑紫】

筑紫とは博多湾沿岸を中心とする、倭国で最も古い勢力である。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

筑紫とは、そもそも博多湾を抑える要所である高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 12:59:48.96
対馬や壱岐を、福岡県と勘違いしている人も少なくないのではないかな。

対馬国は、倭人伝では対海国、記紀においては対馬島(対馬洲、津島)。
今は、肥前の長崎県対馬市で、馬氏のクニに由来するのであろう。
壱岐国は、倭人伝では一大国、記紀においては、伊伎島。
今は、肥前の長崎県壱岐市で、伊氏のクニに由来するからであろう。

つまり倭人伝は、
対馬〜壱岐〜末羅〜伊都(佐賀川上)〜不彌(佐賀神崎・吉野ヶ里・・・、と、すべて肥国に属する地を経由して書かれたわけだ。
さすれば次の南・邪馬台国は、肥後熊本・くまモン論者のクニに相違なかろう。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 13:09:13.85
つまり倭人伝は、
筑紫をすっとばかし、すべて肥国に属する地を経由して書かれたわけだな。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 13:48:37.49
久留米の高良山に伝わる言い伝えだと元々はこの山はタカミムスビが支配していたが後に高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)に支配権がうつる。
タカミムスビの姉が卑弥呼。
後に高良玉垂命が九州を支配する。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 15:23:33.02
なるほど、倭人伝の行程は、
筑紫をすっ飛ばかし、すべて肥国に属する地を経由して書かれているわけか。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 15:45:22.42
タカミムスビの一族は今の遠賀川(かつては湾)を支配していたので主要な氏族は船で散らばって行った。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 16:19:54.48
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 17:07:45.83
タカミムスビは、実は帯方郡から倭の伊都国(佐賀川上)にやってきた軍師で、
ほど近い高良山を根城にした。
その裏工作があって、卑弥呼共立に至った。で、卑弥呼は神話の天孫族でよいのではないか。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 17:19:09.78
アメノミナカヌシ、タカミムスビノカミ、カミムスビノカミの三柱は造化三神と呼ばれる。
両親はおらず、独り身だったそうだ。
つまり、帯方郡からやってきた軍事政治の指導者だったので、
両親の名前は書けず、また本人は単身赴任だったということではないか。(例によって、子や孫はできたかもしれないが・・・)
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 18:36:03.70
タカミムスビは英彦山だと思う。
現在は英彦山神宮にはアメノオシホミミがまつられているが神紋は「鷹の羽丸に二引」
0256日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 23:37:45.02
古・遠賀川(遠賀湾)沿岸を治めていたのは出雲系の神々だろうね。
香春岳も出雲系の神の支配下にあったもののように思える。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 07:46:13.33
出雲系ということは、銅錫に長けた新羅の神々かなぁ?
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 11:22:12.89
壱岐対馬が、現代ではもっとも行き来の容易な福岡県ではなく
長崎県に入れられているのは古代から続くつながりの名残だろうな。

卑弥呼の時代、唐津あたりから五島までを自分たちの海にしていた海人族(松浦氏?)が大陸行路をおさえてたんじゃないか?
筑紫の宗像氏や安曇氏(志賀島)とは別の系統の航海民を邪馬台国が支配下に置いていたとなると
やはり邪馬台国は肥の国の領域に有ったということか。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 12:44:58.73
>>259
確かにそうおもわれますね。
何しろ海峡の航行は難事業、相当な天文・海潮の知識と、航海技術の蓄積が必要だったことでしょう。
これを苦も無くこなしていた海の民こそ、肥国の松浦種族?であり、
そして公孫氏、ないし帯方郡は、かねてより彼ら種族とも交流を深めていたのではないでしょうか。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 13:17:15.55
田島の神など唐津から宗像にかけての古い勢力の間に楔を穿つように博多湾沿岸に新しい天孫族が入り込んだようにも思えますけどね。
遠賀川流域の豊国はもともとは博多湾の志賀島から東に追いやられた部族かと。
さらにその天孫族を追い出す形で肥国から卑弥呼が共立されたと考えていますが、西に追いやられた部族と、有明海沿岸の肥国の異同が知りたいところです。
肥国の起源がそもそもなんなのか。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 15:34:54.72
・乗船南北巿糴
・今倭水人好沈没捕魚蛤 とあるように、

対馬〜壱岐〜松浦〜平戸など、多海多島の間で、舟を操りながら暮らす知識民がいたことは、想定できる。
其の頭目首領が伊氏や馬氏だったのか、或は、その頭目首領と誼を通じていたのが伊氏や馬氏だったのかまったく不明ではある。

しかし古代のことであるから、
遠い祖先を共有し、或は言語や習俗も似通った種族血脈が、やがて肥国(日国)を打ち建てることになったように思う。
そして、これまた同種〜同系族であった帯方太守の指南支援を受けながら、倭国大乱を有利に進めたのではないか。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 16:13:53.61
日本語の方言のアクセント区分地図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Japan_pitch_accent_map.png

このうち、九州地方のアクセント区分地図で目を引くのは、
松浦半島〜佐賀平野北寄り〜筑後〜熊本平野東寄り〜日向全般にかけて黄色に塗られた「無アクセント」地帯である。
(無アクセントとは、箸ー橋などの同音異字をアクセントで区別しない平板アクセントの地帯)

従前のレスで述べてきたように、この無アクセント地帯は、
末羅国・唐津〜伊都国・佐賀川上〜不彌国・神崎〜邪馬台国・山鹿〜高千穂・女王之所都〜投馬国・宮崎西都の、
肥国(日国)ルートに見事に沿っている。
言葉の訛りはお国の手形、まさに伊氏・馬氏・松浦氏?など肥一族の面影を示すものであろう。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 18:02:12.70
多氏の足跡に見えるがね。阿蘇香取鹿島。
無アクセント地域はね。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 18:04:40.00
末盧国の「盧」を漢人の姓名(氏族名)とみて検索するのだが、少ないねえ。
でも、秦代から前漢にかけて武将の盧氏や、後漢の学者で政治家の盧氏など有り。
また、唐代になるが、韓国に下って韓国の盧氏一族の祖にもなったらしい。

その末裔からは、ご存知、韓国の盧大統領も現れた。
このように優秀な盧一族が、かって倭地に渡来し、多島海を舞台に航海の技術を蓄積して三世紀の海峡を制覇し、
後世の松浦党(末盧党)にもつながったと解釈することもできようが、
ちと、雲をつかむようなお話ではある。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:09:59.15
漢字も氏姓も無い時代なのになんで、漢字名の話だよ?
氏姓は天皇が家臣に与えたんだろ。 渡来してね〜よ。
400年には倭王も漢字名、名乗ってるから、氏姓制度も始まったかもしれない。

漢字名だの渡来人名なんて記紀でいつから出てくんだ? 
諡号で年号の歴史話してる記紀にも呆れるけど、和名なだけマシ。

皇帝になる司馬氏が、公孫氏の郡侵略して馬韓が国名でも良いけど、
馬だの伊だのの氏姓の豪族が日本にあれば、張政や梯儁や郡での漢字命名が一致するはずだろ?

豚鼻チノ、ブラック、なんとか?
で、二兆パーセント ね〜よ( ^ω^)・・・
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:14:04.36
違うね〜w頭の病院に行け
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:17:54.34
『松傾』のほうが上の存在なんだと言っているんだよw
むかーしから有名な話、誰でも知っているはずなんだけど
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:55:23.70
魏は漢字の無い日本にたった2回使譯を送った。 既出だが、247年
|∩`Д´) / '⌒☆
【倭人伝に見る、諸国名、倭人名考察】

【張政による漢語化 当て字による 和語の固有名詞,人名】

對海/卑狗 卑奴母離 ・ 一支/卑狗 卑奴母離
末盧國/官無し、載斯烏越船の母港?
伊都/爾支 泄謨觚 柄渠觚 ・ 奴/兕馬觚 卑奴母離
不彌/多模 卑奴母離 ・ 女王/壹與

*對海 一支 国名は魏の東夷概念図や漢古文書を踏襲=表意文字である

張政は遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 の倭人船に同行で来日の査察者
(卑奴母離は現地任命の官ではなく同行者の可能性が高い)

帰国は壹與の遣使 巳百支王/伊聲耆 掖邪拘等二十人 と送政等還因詣臺

つづく
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:59:19.20
|∩`Д´) / '⌒☆  240年
【梯儁 漢語化当て字 による 和語の固有名詞 人名】
投馬/彌彌 彌彌那利
邪馬壹/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮
狗奴/狗古智卑狗
梯儁は郡史だが卑弥呼に金印紫綬の皇帝の使者
魏の正規軍として卑弥呼王宮まで行軍したと考える。
*投馬国は魏の東夷概念図や漢古文書を踏襲=表意文字である

王名 
左 梯儁による国名 / 右 郡の聴取による当て字名)
女王,邪馬台/卑弥呼 ・ 奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利 ・ 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
狗奴王/卑弥弓呼
東夷伝各国の諸国名、官名、職名が中国漢字由来のものが多いのに対し、
倭人伝における、倭人名、諸国名は
一字一音が多く漢字=表意文字文明の影響を示すものは希少。
弥生渡来人が有ったとしても中国文化から遠いと考える。

・梯儁の 漢語化当て字 による国名
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國
彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國
華奴蘇奴國 鬼國 為吾國 鬼奴國 邪馬國 邪馬壹國 狗奴國
躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國 狗邪韓國

末盧、伊都、躬臣は表意文字? 巳百支、好古都は扶余系外来語の可能性。
邪馬壹国 も 金印紫綬時の王宮を見た中国人 梯儁の命名だが
邪馬 は倭人国の音に同じ、壹 は王宮の楼閣の表意文字
邪馬国 にある王の 臺 であると考える。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 20:07:47.25
本当の話なのかな

天皇?というのも一系ではないぞと言ってる人がいたり、
鏡なども出雲()の話だったり
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 20:12:05.02
立場的なものも同じ

某や誰々よりも上位、優位に立とうとか、
すり替えを行っているがいるというのも
有名な話


実際は『松傾』が一番上(下)
0273日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 20:16:27.77
あとサルタ(仮名でしょ)の話

なぜ百済の神(赤)、新羅の神(白)を祀っていると知ってる人がいるのか?とか
出雲が何やらとも書いてあるし、渡ってきたの?
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 21:10:24.89
>>270
>邪馬壹国/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮

邪馬台国は、馬氏の国だったのかもとの考えを述べてきたわけが、
ななんせ、「馬」官は3名もいるからなあ。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 21:46:06.29
>>275
梯儁の当て字の癖でしょ。
倭音のま=漢音の馬 

邪馬なんてのは山じゃね? 山の臺
邪馬壱説だと、壱は表音文字だろうけどね。そういう国は21国に無い。

ただ、人名には一〜ニ字 国名の漢字を含むのが多いけど
奴王だの都支王だの、王はともかく、所属が氏姓の代わりなんだと思うんだけどね。
卑奴とかは奴国の役人、家臣とか?
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 21:50:15.56
清水の次郎長とか遠州森の石松とか、三国志だしwww
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 21:59:06.14
カッパ(不明)は、もっと上の存在
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:01:07.25
あのキュウリの葉の写真なんだけど、
呉や孫?そういう名前の家でもない

凄い古い家?
0280日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:02:12.73
『松傾』?
0281日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:05:29.26
『河童』について調べてみると

『河伯』?みたいなことが書いてあったり
0282日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:08:44.34
老婆だよ、なぜ知っているのか?なんだよ

牛を飼っていてという話でしょ、
あと蚕、機織りをしていて・・・


七夕?
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:15:21.74
日本の話

むかーし住んでいたことがあるんだよ、
というところに

蓬莱、蓬莱橋・・・?
そういうところがあったり

家に本や書が沢山並んでいたとか、
そういうものも誰かに、あげちゃったのか、売ってしまったのかな〜・・・

老婆談
0284日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:26:36.98
本や書なんかも『松傾』?の家に、
あったという話なんだけど、なぜ詳しいんだろう

あまり見たことないような本が、
だーっ(ずらーっ)と並んでいたとかw
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:37:09.32
これも他のスレの話になるんだけど、
家の親戚か何かが書き込みをしているのかな

親戚と言っても、遠い親戚ではなくて、
近い人?
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:48:21.85
>>263
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Japan_pitch_accent_map.png

>従前のレスで述べてきたように、この無アクセント地帯は、
>末羅国・唐津〜伊都国・佐賀川上〜不彌国・神崎〜邪馬台国・山鹿〜高千穂・女王之所都〜投馬国・宮崎西都の、
>肥国(日国)ルートに見事に沿っている。

これはおかしい。
非常に面白い地図だが、福岡から宮崎のラインは、天孫族とその分家だろう。
肥国はその西側の九州西部だな。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:49:32.55
ついでに言うと、大和には吉備などの瀬戸内勢力が攻め込んだことがわかるね。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:51:43.89
鹿島香取は祭神を見れば高天原の天津神の尖兵が征服したことがわかるし、そのままの地図だ。
神武の故郷の日向が宮崎だろうが福岡だろうが、本質的には大きな違いではないのかも。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 08:51:05.65
>>286
>これはおかしい。
>非常に面白い地図だが、福岡から宮崎のラインは、天孫族とその分家だろう。

関心を寄せていただいて光栄です。
ただ、もしかしてお気に召さないかもですが、福岡(唐津)ー熊本ー宮崎の黄色のエリヤは、
たしかに天孫族と其の分家であり、言い換えれば、又それが火国・日向国・肥国の馬氏でもあったのでは、という意味です。

>肥国はその西側の九州西部だな。

その西側の薄紫エリヤは、伊万里を頂点に、長崎ー熊本西部ー鹿児島ー沖縄方面へ続いています。
これが、伊佐早・伊佐・伊集院・伊仙・伊良部など、「伊」のつく地名の多い一連の地帯であり、
操船技術に優れた海の(伊の)民の活動エリヤ(根拠地)だったように思えます。
天孫族(=馬氏=肥国)は、この海の伊の民とも誼を通じていたのでしょう。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 08:59:52.24
有明海沿岸の、肥前佐賀と肥後熊本を含む薄紫が肥国でしょう。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 09:42:37.45
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 11:39:23.18
肥前国風土記:
>肥前国はもともと、肥後国と併せて肥国一国だった。
昔、崇神天皇の時代に、肥君(ひのきみ)の祖である健緒組(たけをくみ)は、勅命を奉じて、国内をめぐり情勢を視察した.

>八代郡の白髪山(しらかみやま)に到着し宿を取ったその夜、空に火があり、ひとりでに燃え、しだいに降下してきた。
健緒組はそれを見て驚きあやしみ、朝廷に参上して、天皇に奏上した。
天皇は「今のことは、いまだかつて聞いたことがない。火が降りてきた国だから、火の国と呼ぼう」と仰せになり、
健緒組の勲功をとりあげて、火君(ひのきみ)健緒組として、この国を治めさせた。それで火の国という。

(なお、のちに二つの国に分けて、肥前・肥後となったが、それは7世紀のころのことであった。)
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 11:44:51.36
それ以前は狗奴国とか熊襲の国みたいな呼称なんだろう。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 13:08:01.89
>>293のことから、崇神天皇のころまでには、
火の国の母体、つまり阿蘇山を信仰する(恐れ敬う)人たちの国が一定の広がりを以て、形作られていたことが推定される。
それがどの範囲で、狗奴国や熊襲とどのような関係にあったかは分からないね。

ただ、崇神天皇の時代に
熊本市内健軍神社の祭神である健緒組が退治したという180人の賊は、
緑川湿地帯の南の御船の後方にある朝来山に立てこもり反抗したというから、彼らが狗奴国の末裔だったのかもしれない。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 14:06:58.48
熊襲って逆賊みたいに言われているけど、熊襲タケルは肥前や筑紫野あたりにいたらしくて、ただの逆賊ではないようなんだよね。
肥国の王家なのではないかと。
卑弥呼はよくわからないけど、壹與は熊襲と関係していると思う。
肥前河上の淀姫が壹與でしょう。
そして熊襲タケルの墓も肥前河上にある。
時代も被っている。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 14:28:25.79
鹿児島、宮崎が狗奴国、熊襲でしょ。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 15:22:35.12
>>295
>火の国の母体、つまり阿蘇山を信仰する(恐れ敬う)人たちの国

これが蘇奴国だな。
阿蘇の支配者たちは土蜘蛛や女酋などと呼ばれずきちんと「神」「姫」と呼ばれている。
阿蘇は古い歴史を持つ強国のひとつであったとは思われるが、ここが火の国の母体であったのかはわからない。

>>294
八代はいくつもの河川が流れ込む肥沃な地で当時、福岡平野=奴国にも劣らぬ人口を抱えていたとしても不思議ではない。
まつろわぬ葦北国や球磨国を抑える拠点としても機能していたのだろうか。
自分は、個人的にはこの八代か宇土あたりが火の国の中心、もしくは母体であったように思われる。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 15:27:06.64
「熊襲」は、後世の畿内大和政権のたちばからの呼び方なので、
3〜5世紀のころの吸収のどういう立場の人を指しているのか、関心を持ってる。

熊襲タケルの墓も肥前河上にあるということだから、
必ずしも熊襲は、南九州の球磨曽於に限定というわけではなさそう。
単に、畿内大和朝廷から見て目障りな古代九州地方の豪族ってことだったのかもしれないね。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 16:43:59.17
古事記によると、上代において九州には
筑紫国(白日別)、
豐国(豐日別)、
肥国(建日向日豐久士比泥別)、
熊曾国(建日別)
の四カ国しかない。
肥国だけ複雑な名前で、熊襲と一部が重複している。
熊襲タケルが肥前にいたのなら、実は肥国と熊襲国は同一または同根なのではないか。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 16:53:54.57
九州説の立場からは、肥国王家や熊襲も倭国のいくつかある王家の一つだよ。
特に卑弥呼や壹與は、肥国に特徴的な女性首長の代表的と見なせるし。
天孫族は基本的に男尊女卑だし、豊国は筑紫の天孫族に輿入れする側だし、どちらも卑弥呼を輩出しないだろう。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 17:32:06.94
アマテラスは平安時代くらいまでは男性と考えられていたらしいよ。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 17:39:30.07
>>302
それが、先代舊事本紀だと
次,筑紫島謂.身一而有面四,每面有名.
  筑紫國謂-白日別,
  豐國謂 -豐日別,
  肥國謂 -速日別,
  日向國謂-豐久士比泥別.
次,熊襲國,謂-建日別.一云,佐度島.
となっていて、熊襲国は筑紫島の外の扱いになっている

古事記との対照を取ると
古事記             先代舊事本紀
筑紫国 白日別         筑紫國 白日別
豐国  豐日別         豐國  豐日別
肥国  建日向日豐久士比泥別  肥國  速日別
                日向國 豐久士比泥別
熊曾国 建日別         熊襲國 建日別

日向国の仲間外れ感がすごいけど、
旧事本紀では、熊襲国が筑紫島の外扱いの仲間はずれ
0308日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 17:53:23.69
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 17:56:17.97
佐渡島は無視するとして、やはり肥国と日向国の扱いが不安定かな。
そしてその二つの名前が被っている。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 18:01:25.12
アマテラス wikiより引用

平安時代、すでに大江匡房は『江家次第』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式が男性用の衣装である事を言及しており、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。
(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。
京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。
江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。
江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。
京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 18:35:39.51
>>305
誤 アマテラスは平安時代くらいまでは男性と考えられていたらしいよ。
正 アマテラスは平安時代くらいから男性と考えられるようになったらしいよ。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 21:35:06.34
翰苑より(一部引用)
「広志いわく、倭国(末盧国)東南陸行五百里、伊都国に到る。また南、邪馬嘉国に至る。」

広志には、「(佐賀川上の)伊都国の南には、邪馬嘉国がある、と書いてあるそうだ。
この邪馬嘉国は、前後の記事の文面から見て邪馬台国を指して書かれたと思われるものの、
その方角には熊本県山鹿市があるので、邪馬台国≒邪馬嘉国(山鹿市)のつもりだったようである。
つまり、広志は晋代の書、翰苑自体も9世紀の書であるので、すでに邪馬台国はなくなっており、
その代わり、そこには好字に書き換えられた邪馬嘉国があったのでこのような記述になったのではないか。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 22:07:27.49
熊本県山鹿市(邪馬嘉国)こそ邪馬台国の主邑であったと思われるもう一つの理由として、
今に残る貴重な地名が挙げられる。
この山鹿市街と隣接の菊池市街のほぼ中間にあたる菊池市七城町であるが・・・、

その一帯の広々とした水田の一角に、そう高くはない丘陵がせり出しており、その先端に「臺」城址という遺跡がある。
当に此の地こそ、邪馬嘉国の「臺」≒ 邪馬臺国の「臺(台)」と思わざるを得ない雰囲気である。
またその近隣には、ご丁寧なことに「臺(台)簡易郵便局」という公共的施設まで現存している。

「熊本県菊池市七城町 臺簡易郵便局気付 卑弥呼さま」とでも宛名して手紙を投函すれば、
ほどなく、三世紀の卑弥呼に届けてくれそうなたたずまいの、まことに稀有な土地柄である。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 23:02:03.08
後に菊池氏という有力氏族を出す菊池も、それなりに有力な国だったろう。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 23:20:09.88
邪馬台国は意味的には山の大国だと思う。
英彦山、鷹取山、高良山などの筑豊の山を支配していた国だと思う。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 23:22:30.69
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 07:13:13.68
>>318
>邪馬台国は意味的には山の大国だと思う。
>英彦山、鷹取山、高良山などの筑豊の山を支配していた国だと思う。

それらの霊山秀峰をはじめ、背振山、普賢岳、由布岳、阿蘇山、祖母山、韓国岳など、いくつかの神の山に登れば、
九州全島は細部まで見通せる。
古代においては、地域の高山は人工衛星の代わりだったわけだ。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 08:23:24.32
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 11:59:03.36
>>316
『鹿』 だよwww

漢字も氏姓も無い国に 馬氏だの伊氏だの 2兆%ない。
500年も前の天皇に諡号付けて記録も無い時の年号で、
それが歴史だ、と言い張る、記紀信仰よりはるかに馬鹿。

800年に日本書記読んだ唐人が邪馬鹿国 なんじゃね? って言った。に一票。

邪馬臺国 は、前提が、漢字文化圏で初めて卑弥呼宮を見た梯儁の命名と言うこと。
> 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
梯儁の行軍記録の、この一文以外で邪馬台国なんてもんは、歴史に登場しません。
238年から247年に魏の勘違い外交のフロントだった九州北部の小国です。

当時の記紀厨でもない 九州シャーマンにとっては、
日向も高千穂も漢字名だし
山は、火山、阿蘇でしょ?
あそ なんだ、スゴイね(aa略 ←これヒドwww
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 14:12:41.27


ヤマト王朝の古事記とか日本書紀なんかには そういうわけでクマソを未開人あつかいしたり悪人みたいに書いてある



当時のクマソの記録を書き残したとしたら 古代日本の歴史は変わっていたかもしれない



つまり……歴史とはあらゆる角度からあらゆる人間の側から調べなければ ほんとのことはわからないものなのである

火の鳥『ヤマト編』角川ハードカバー版より引用
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 16:22:37.97
>>324
陳寿は蜀の官僚だったが、自分が生きた時代の事実として
240年 梯儁の行軍と247年 張政の倭人船便乗での査察について
280年代に記している。
記紀が記し得ない、実年の日本の歴史なのである。

この間に大和朝廷の前身は瀬戸内海を統合し九州に入った。
中国外交の存在、中原勢力による公孫氏及び韓王家の滅亡を知り
富国強兵による対抗政策をとり、半島進出、高句麗戦、製鉄と牛馬の移入。
350年百済新羅の建国、400年倭の五王の南朝外交デビューに成功している。

この間、司馬氏の魏晋は、蜀呉の平定を果たすが、
三国志の背景にあった倭の半島進出において、その後の荒廃ぶりが当然のごとくに
東夷半島においては、魏―晋は完全に倭と高句麗にしてやられているのである。
倭人伝側の目線はこれを伏せている。

しかし、ホントーの事を書いている。
日本の現代学者が読めてないのは、戦後レジーム、半島忖度で、わざとだろ?
って、教師思いの生徒らしく老婆心で言ってあげてるんだけどね。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 17:09:44.26
文章がたどたどしい
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 19:18:38.72
ほれ、ムーのおとなりの、マータイだ ↓

翰苑にいう邪馬嘉国(熊本県山鹿市)こそ、邪馬台国の主邑であったと思われるもう一つの理由として、
今に残る地名が挙げられる。
この山鹿市街と隣接の菊池市街のほぼ中間にあたる菊池市七城町であるが・・・、

その一帯の広々とした水田の一角に、そう高くはない丘陵がせり出しており、その先端に「臺」城址という遺跡がある。
まさにこの地こそ、邪馬臺国の「臺(台)城」であったと思われる。
またその麓にある臺(台)という集落には、ご丁寧に「臺(台)簡易郵便局」の看板を掲げた半公的機関まで実在している。

「〒861-○○○○ 熊本県菊池市七城町臺 臺簡易郵便局・気付 卑弥呼さま」とでも宛名して手紙を投函すれば、
三世紀の卑弥呼に、快く届けてくれそうな雰囲気の土地柄である。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 20:28:35.42
>>328
翰苑は唐代の書で後漢書を引いているが、既に倭の五王による情報によって、
筑紫卑弥呼の独自外交の存在を 真の倭王の出現で修正してしまっている。

熊本が狗奴国であったことを理解できなくなっているわけで
それを理解して読めば、それなりの補填史料にはなる。

史料理解の方向が頓珍漢に思えるが、ご指導には感謝する。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/14(日) 14:27:02.89
>>299 の言語分布の地図ってのは、漢字氏姓以前と言うより現代ではないのかな?
文字で残せないものが、音が残せるかね? 語り部w 地域性は無理でしょ?

と言うより、縄文から弥生に人種的変化が認められて、言語変化や氏名、文字の普及が無い?
土人文明が海渡って普及したのか? 土器厨だの水田耕作だの、なんの話だよ。

倭人伝に話を戻すと、前2行しか語ってなかった >>6
147年に張政が見た九州だが、
下戸與大人相逢道路逡巡入草 傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬 對應聲曰噫比如然諾

この時の、大人が卑弥呼時代の九州人と違う対応なことを言ってるのではないか?
對應聲曰噫比如然諾 ま、関西の関東人とは言わんが、
それまで、『えんちゃいます?』 とか、『もうかりまっか?』 なのが、
『あい』で、おわりw 配流豪族、貴族的尊大さ のように思うんだが?

240年から247年の間に、
一大率=国造、国司のような配流支配者を受け入れてると思うね。
領主とその家臣が配流されても被支配の農民は変わらないけど、
それ? 弥生化と矛盾しないか?

弥生時代と言うのは、縄文の数万年の原始共産制から、
土地や資本の私有化が軍事を伴って日本を席巻した、古墳時代への変革期であって
それに、それに、1300年もかかった訳で、地域性も相当考慮すべきなのに
考古学が土器ごときで、弥生期の編年、とか事態が へんやねんw

魏と卑弥呼の国交が発覚した247年以降、あるいは銅鐸期から古墳期の改革で
日本の政策に明確な変化が生まれたことは間違いない。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/14(日) 19:25:46.32
>>330
>魏と卑弥呼の国交が発覚した247年以降、あるいは銅鐸期から古墳期の改革で

発覚って、誰にバレたんだ?
意味不明だぞ。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/14(日) 20:51:34.84
>>332
倭人伝を読めば
>>6 247年の張制は一大卒の検察によって伊都に駐留させられている。

この時既に、筑紫国の伊都に刺史の如き
朝廷の前身であろう支配者からの進駐軍が置かれている。

陳寿や張政の三国志時代の刺史の如し、と言うものが、
女王国内に女王が置いた役所という解釈は間抜けすぎて話にならん。

女王国以北と言うのは、女王国以南の九州はまだ平定されていないということである。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 21:12:30.20
倭人伝を読んで、邪馬台国論争があるとして、247か8年の

壹與遣 倭大夫 率善中郎將 掖邪狗 等二十人 送政等還因詣臺
獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

で終る事に対して、返書も返礼も無いことが、なぜか説明できてるの?

張政は郡使なのに、詣臺 ってのは、皇帝の居る、洛陽までのぼってるんでしょ。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 21:18:14.40
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 23:43:10.41
邪馬台国は滅びたんだよ。
宇佐神宮の祭神、比売大神は卑弥呼、台与、二人の女王をいっしょに神格化したもの。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 00:48:42.53
>>330
今はマスコミの発達で、音(アクセント)は全国共通のものが広がっている。
しかし裏では、その土地土地のアクセントは強固に残っている。
ましてや、マスコミのない時代、文字のない時代には、
アクセントは、意味を伝える重要手段、地域種族の団結を保持する手段として、強固に残った。
アッ、あいつは他所もんだ・・・、とね。ど田舎に住んでみるとわかる。、
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 07:18:29.12
英語、ドイツ語、フランス語、ロシヤ語・・・、
全てなが〜い民族・種族・一族の歴史の所産だろ。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 11:44:14.74
>>338 339,340
その通り、なんですが、
人種的変化が起こるほど移民が有ったとされる
縄文から弥生時代の日本言語に内部共有範囲の変化しか起こっていない。

短期間で広域に土器変化と稲作の移入と普及があり弥生時代が始まった。
と 言うのは修正されてきたけど

菜畑からAD400年の、1300年間は、ろくに民間船も無い期間であって
大航海時代以降の米大陸みたいな移民があったという発想はおかしい。

言語や文字、文化的変化の過程で見ると、
この発想は 日本人の稲作、米喰い信仰が原因とは思う。

しかし、人種的変化ってのは、政治のお仕着せではなく
支配層の入れ替え、でもなくて庶民の変化なんだから
それは間違いだろう、と言えるほどの、異常な事じゃないのかな?

米って、弥生で普及し始めたとしても古墳時代に至る過程で
軍事的支配階級の賃金のための税として農奴に作らせてたんだと思うけどね。
絶滅危機で縄文海神族が、アジア各地から奴隷を強制連行したとか・・・ だな。

今の人口減少の日本で、移民政策だろ?
つまり、後の強制連行であるwww
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 15:17:11.40
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 19:09:22.88
反論が釣れないなぁ〜 ( ・ω・)っ/^、ポチャン

>>8 〜9 魏志倭人伝は九州北部の邪馬台国と帯方郡の238年から247年の外交史を記録している。
>>2 247年の張政の行程=正始八年 太守王頎到官
帯方太守は韓制圧戦で戦死、245年詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授、で、倭国はこの檄に応えなかった。

247年、倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
この倭人の言い訳を 確認、査察する為に 遣塞曹掾史張政 は
この、載斯烏越の帰国船に便乗して、対馬海峡を渡った。

狗邪韓國、末盧國、伊都國、不彌國 はこの旅で 張政が、船や駐留させされた伊都の一大卒で、倭人に聞いた地名を漢字にしたものである。
一大卒=世世王が有る 卑弥呼の属国21国の 地域領主や 共立王である女王卑弥呼の 権限の上位にある 最高権力の将軍である。

三国志時代の=刺史は、未開地への配流進駐軍であり、領主が自国に置く役所では無い。

>>3 は 240年の 遣建中校尉梯儁 の 皇帝の命で金印紫綬に向かう 行軍の記録である。
魏は公孫氏から、楽浪帯方占領後、間もなく 倭王と同盟を結ぶことを急いだ。

水行陸行の行軍には、経由地の現地人の地名は不要で、行程には、韓を歴した投馬国5万戸と九州北部7万戸の邪馬台国を記した。
これは記録すべき、魏=中華には未知の世界なのである。
魏のような国家? のようなモノと日本の交流はこの10年で2回だけである。

三国志は、魏が中国を統一し、魏が同盟国としたかった、倭は東夷で屁の役にも立っていない。
313年、高句麗が四郡を解放したのは、韓南部の倭が中華を支持しなかったからである。
この時の、『倭』王は、畿内王だろうし、卑弥呼の九州北部連合では有り得ない。

倭人伝は九州の卑弥呼を記録してるが、畿内説は倭王が奈良に居りゃいんじゃね〜んの?
この論争に、何が学問だか? www 

学者って、チラ裏で10年ロムってるのに、負けてるだろ?
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 19:24:23.28
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 19:28:52.88
( ・ω・)っ/^、ポチャン 
ポクちゃんw は 強大アラシの 豚鼻キッドじゃね?
アタシは、厨で、スケバン歴女の 『氷の女王』 だっちゅ〜の `Д´) ⌒ ☆
たまに学校行ってる間に、スレ、マジで凍ったなwww
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 19:47:47.60
始める前に釣れるかよ?
マルチっぽいけど、豚鼻ブラック先生って
自動返信なの?

検索=エサ 絶対釣れてるしwww
江南、呉、越、縄文、弥生、徐福、土器、渡来人、三足土器 ・・・

いや、レイシストの豚鼻時代よりは良いかも?

学者の名前?
はやく言えよ、オマエ。
って、自分で言ってね? アホかとwww

アタシが期待してるのは、
DNAで縄文と古墳以降の差だな。
古墳は同族の墓。
縄文庶民の遺骨は貝塚の近辺に別の方法で居るのでは?
どっちみち、研究の偏りは明瞭。

友よ! DNA学者を、結果で笑ってやろうぜwww
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 21:39:37.98
>>540
>学会が認めてないなら どうして もう
「奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
って教科書に載っちゃってるの? <

教科書会社や執筆者が、安部自民や右翼マスコミや、文部省や学会に忖度して、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に協力して、
国民や高校生を騙そうとしたから。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 20:41:17.18
倭人伝の誤読が許容できる意味がもはや解らない。 
さて、( ・ω・)っ/^、ポチャン

倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國
漢時 有朝見者 今 使譯 所通 三十國

【註釈】 古代中国の倭人、倭人国認識は、帯方の東南の大海の中にあり、
山や島に依って国邑を為す、とされ、昔は百余国有るとされた。
漢時にも、朝見したものは有るが、今(=魏時、240年梯儁、247年張政の二回の)
使譯に因って30国と通じた。 次段からの 行程記録は、
帯方郡南東の大海の中ではなく、対馬の南の九州島のこの30国の説明である。

卑弥呼の朝貢は238年、魏が楽浪帯方を占領した年である。公孫氏はまだ遼東で戦中。
240年梯儁は、郡が落ち着いたタイミングで卑弥呼への金印紫綬に向かった。
おそらく皇帝の使者として魏の先鋭船での行軍、水行30日、陸行一月がそれと思われる。
これは、>>3 にあたる。

それに対し、247年張政は、
>>7 倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
の報告を聞き、 倭人船に便乗して、郡の査察官として渡航している。

これは、245年 対韓国制圧戦に於ける >>8 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授
についての檄に対して、倭が援軍を派遣しなかったことへの調査、為檄告喩之である。
烏越船は行軍ではなく、決まった寄港交易補給地の有る倭人船なので、
張政が倭人語の特定し得る地名に漢字を当て、固有都市間の里程を記している。

これが以下、>>2 の行程
從郡至倭 =これによる郡から倭へは(報告された記録による行程は・・・)
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 20:49:19.52
つづき、( ・ω・)っ/^、ポチャン
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
【注釈】 郡から半島西岸の海岸を辿り、韓国を過ぎたらすぐ東へ行く、倭の北岸 狗邪韓國へは7千里である。
韓伝により韓は方可4千里 狗邪韓國は半島南岸4分の3付近。釜山ではなく対馬直近巨済島だろう。

始度一海 千餘里 至對海國 
其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴
【注釈】 はじめて(沿岸を離れ)渡海する。對海國へは千里あまり。
千里は韓の縦横4千里の四分の一。 方可四百餘里は疑問だが、対馬以外には無い。

又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國
官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
【注釈】 また、千余里渡海。 対馬の長辺は千里有ると思うが短辺で400里の2、5倍程度の渡海。
これも一大国は壱岐で良いと思う。 方可300里。 里程の基準は外れていない。
海に瀚海という、漢名が有る。 島名の対海国、一大国(一支)も表意文字で中国語名だろう。

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸
濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之
【注釈】 九州島上陸地、末盧國が何処かは判らない。
首都っぽい伊都へが南東5百里であるから、考古学での伊都から逆算できるかもしれない。
しかし、伊都に港が有るような記述なので、一大卒が張政を敵対者の査察とみている場合、
伊都へ5百里自体が地理的隠蔽の可能性は否めない。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 20:50:06.62
つづき、( ・ω・)っ/^、ポチャン
東南陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐
【注釈】 張政の目的は伊都で終った。 卑弥呼の墓を見て壹與、奴王の難升米にあった。
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐 によって
邪馬台国は一応女王国として存続しているらしい。
ただし、郡使往來常所駐は、張政が最初で最後の郡使であり、
伊都港を使わなかった事を考えると嘘が有ると思う。

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
【注釈】 張政は、上陸後2千里の女王宮には向かっていない。
奴国と不彌國は 女王宮に向かっているとは限らない。
奴国は福岡平野だろうし、次の段落、梯儁の女王国属国に、国名が無いので
末盧國もだが、不彌國は国名ではなく帰港船の港名ではないか?

卑奴母離はこの張政の旅にほぼ同行した、案内官のようだ。
この張政による、里程基準を無視したら、倭人伝の行程は読めないに等しい。
梯儁の全行程、水行30日+陸行1月=万二千里も一致する。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 21:17:47.43
では、240年梯儁の行程 ( ・ω・)っ/^、ポチャン

南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
【注釈】
帯方郡から南に韓を越えること 水行二十日で投馬國 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
これは、寄港地などの地名ではなく、国と言う概念上の女王国と半島南岸国の名前と人口。
梯儁は金印紫綬が目的なので、九州上陸後も女王の王宮まで、陸行一月を行軍した。
全行程は満二千里であるから、陸行は二千里。
南は不属女王国なので九州島北部二千里が女王国である。
陳寿は事実を述べている。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡
【注釈】
女王の国には、列記、21国に王が有り、これだけが女王国の全てである。
投馬国、伊都国、狗邪韓國、末盧國、不彌國、対海国、一支国、狗奴国、
は、梯儁金印紫綬で調査した、昔から代々王の有る、調査公称7万戸の
『女王の属国』ではないとすべき。

で、
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
これが、卑弥呼への金印紫綬で240年に水行30日、陸行1月で行軍した
梯儁の 自郡至女王國 萬二千餘里 の行程である。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 21:41:14.36
チラ裏の若輩として諸先生に聞いてるんだから、
遠慮なく罵倒して良いんだよ・・・

逃げるのも知ったこっちゃないけど
ま、まず、 
( ´∀`)つ□ 涙拭けよ
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 13:35:40.36
・・・・・
南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

この2行が、240年の梯儁による行軍の記録だが、
この簡潔性の中で、南至が二回、これが、東の間違いならどこ行くよwww

梯儁は黄海渡って、楽浪帯方を陥落した魏の新鋭帆船、
軍船使用だから、未開敵性地の歴韓国、乍南乍東で狗邪韓國に寄る必要は無い。
珍島から無人島幕営で対馬へ向かっても同じで安全。 末蘆国も同様。

張政の時は徒歩5百里のw 伊都に港が有れば、伊都に上陸するし、
皇帝の金印紫綬が、一大卒の検閲受けるなら戦争を始める。
伊都で郡使が常に?駐留させられた?のは、
魏の歴史で247年の張政だけなのである。

この魏代に二回しかなかった、二つの行程の意味、段落が読めたかな?
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 16:04:39.62
郡使往來常所駐
帯方郡は公孫氏時代から存在し倭は公孫氏に服属してたんだから
公孫氏の帯方郡の郡使が何度も往来してたんだよ。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 18:21:52.32
>>240年は 帯方郡を占領して進駐した魏の使者で、
公孫氏3代以降初めて、倭に渡った中国人が梯儁であって
皇帝の命で卑弥呼に金印紫綬のために魏の軍船で来た郡使だよ?
検閲受けたら戦争になる。

で、その 郡使往來常所駐 を記録したのは
247年に 倭人船に便乗して査察に来た張政だから
駐留させられて、一大卒の検察を受けてるんでしょ。

一大卒が女王の権限の上位にあると思うね。

張政が見た、
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
で、
三国志時代の刺史の如し、と言うのは、
地域領主の上位の中央から任命配流される将軍です。
三国志の王となる将軍はそれが出自。

ちなみに、張政の言う、伊都国と言うのは、金印紫綬で女王国の国勢を確認した
梯儁の調査の、代々王の有る7万戸の邪馬台国=女王国属の21国に名前が無い。
進駐軍=一大率の都じゃないのかな。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 18:25:01.84
誤爆w
>240年 は >>360 です。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 18:51:32.56
>>366
倭人伝では、郡使が二回しか来ていないのは明らかだが
何故、常に駐する と書いたか、陳寿にも齟齬が有る。

張政は一大卒にほぼ拘留され、
ちゃんと仕事が出来ていないのではないのかな?
嘘を言ったし、大倭と戦争は面倒なので、陳寿も皇帝の恥を伏せた。

帰国船の
壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
は、魏に援軍を呼びに行くとか、で、騙されたとか、
卑弥呼の墓は大きいので滅びたのとは違うようなので
むしろ、朝廷の調略の冷や飯武将の亡命でもおかしくない。

何故、当然、皇帝の謝礼を自慢するはずの、帰国が報告されないか?
ここが、247年、魏と邪馬台国外交、終了説のキモ です。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:20:34.98
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 08:57:38.06
>>361
テンプレの平仮名化にチャレンジしたけど理解不能ですた。
畿内説をキナイコシって言えるスレもあるようなのであちらが良いかと?
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 09:17:45.57
ソースが漢字なんで、漢字だけでも読める人向きでスマソ。

>>2>>3 の間の段落が読めないと、
倭人伝の理解は難しいと思うけど

南至 投馬國 水行二十日  5万戸 と言う時、
投馬國が、半島南岸の倭人国と知っている 魏の知識層なら判るんだよ。

張政の記録が、里程で 不彌国、奴国 で博多や宗像の話だったのが、
突然、南へ水行20日で韓国南岸倭人国、って書いてあるわけで、これは判るはず。

これが読めると、行間に陳寿の思惑や張政の嘘みたいな
妄想の入る余地が有ることも判るかもね?

次は、ちょっとわかりにくい、
恣意的ミスリード、悪意の妄想、やり放題の >>6 の話ネ。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 09:49:56.29
使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之常治 伊都國於國中有如刺史

使 は 張政 主語が変わり段落も変わった。
大倭 中華人民wに小日本は有っても、大倭は無い。
女王国が九州北部の小国=小倭であった事を知ったから、
東の倭種を含む日本を大倭と表現し、この段の主語である張政がこれを見た報告。

自女王國以北特置一大率 なぜ女王国以北か? 
女王国の南=九州南部はまだ平定されていない。 この順序は日本史の常識でしょ?

於國中有如刺史 これは↑で説明済みだけど、
三国志時代の刺史を誤読でミスリードしてる現代語訳は多く見かける。

伊都は一大卒が置かれることによって首都になった。
240年梯儁による金印印綬の際の報告の、世世王の有る 全21属国 に伊都は無い。
これは、多分 奴国の一部、今宿〜早良を想定するが、
張政が検閲拘留された進駐軍の基地だろう。

張政が歩かされた末蘆国500里は、糸島北西端なら有り得る。
葦で前が見えない、そんな糞田舎に王船の母港が有るはずも無く
247年張政は敵性国の調査官として、歓迎されていないようであるw
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 10:08:29.82
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0374日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 10:55:02.04
くまモン = 狗奴国人だモン説
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 11:00:45.21
つづき
王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國
皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯

一大率が中央派遣配流将軍の刺史であることを理解すれば、
この文も きちんと理解され 不得差錯な はずw

王による遣使が、洛陽や郡、あるいは諸韓国 に詣でるとき
また、郡の使者が倭国に入ると、
皆、港で検閲され、
傳送文書 も 女王に詣でる賜遺之物 までが
捜露 され 差錯を得ない。

と書いてある。 
一大卒においては、女王の王権など無いに等しいのである。
一大卒は、完全に地方王権を検察下に 置いている。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 11:27:46.42
下戸與大人相逢道路逡巡入草 傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬 對應聲曰噫比如然諾

一大卒が、地元民を人間扱いしてない様子、
言葉も尊大な貴族ぶりが書かれていると思う のだが
この辺は、陳寿の文学表現の範疇なのではないのかな?
>>6 張政の報告、ここまで。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 19:18:01.55
>>371
>南至 投馬國 水行二十日  5万戸 と言う時、
>投馬國が、半島南岸の倭人国と知っている 魏の知識層なら判るんだよ。

そんな人は、この地球上の全時間軸を通して一人もいないから、誰にも分からないんだね
分かります

半島南岸が倭人国だったら、狗邪韓国は狗邪倭国w
0378日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 19:23:29.69
昔から思ってること
魏の旗なんか貰っても戦争勝てんやろ
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 19:43:15.95
そうでもないよ
黄幢の黄色は魏帝のカラーで
黄幢は魏帝の権能の一部分を代行できる許可証みたいなもの
通常の支配系統の原則に左右されずに無償で募兵できたりもする
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:20:07.29
そうだね。
それがあれば、卑弥呼に反抗することは魏の皇帝に対する反逆となる。
ただ、中華思想に親しんでいた卑弥呼にとっては意味があっても、狗奴国の王にはその権威が通用しなかったということだ。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 21:22:26.09
黄幢 は245年の韓制圧戦で太守弓遵戦死の時に出てるわけで
檄 と言うのは、魏の旗の下 一緒に韓制圧の為戦え、と言う招請だよ。

行って活躍すりゃ、難升米も三国志の武将だった。
でも、一大卒の背後の日本は韓王と友好関係だったんじゃないのかな?
朝廷が九州平定と、半島進出を急いだのは、公孫氏滅亡がきっかけだよ。

魏王は三国志の真っ最中の戦国王だよ・・・ この人たち、何言ってんだ?
高句麗だの朝鮮みたいな辺境の内戦に魏帝の黄幢なんて出さない。 

高句麗が楽浪帯方制圧した後、人質出して調略に乗ったら
350年代に高句麗王は中国貴族、楽浪候、刺史に迎えられてんだよ。 
それが戦国武将ってもん。

そのあと、朝廷の日本が百済、新羅を後援して押し返したんだろが。
東夷伝で この時の魏は倭なんて全然知らん国 だって、言ってんだろが?
時代背景というか、黄幢と檄の解釈、頓珍漢杉。 馬鹿じゃね?
0383日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 10:54:19.43
>>377 ちょ、ちょ ちょnと待てよ!
>半島南岸が倭人国だったら、狗邪韓国は狗邪倭国w
それじゃ、韓半島が倭半島でしょうがwww

漢伝 知らんのか?
韓在帯方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里有
コレだけで良いし・・・ 現代語訳する? まさか、マジで漢字ダメなん?

倭人伝で読める、倭人の大陸交流は周代のは疑義が有るけど、
57年の金印と107年の帥升は、ほぼ、九州国だよ。
それ以前に、日本海ルートで青銅器が入ってるのは
銅鐸時代で、BC200〜300程度まで遡れる。

魏の帯方郡によって246年に滅びた箕氏朝鮮遺民の韓王朝と交流は有っただろうし
遼東〜楽浪帯方公だった、公孫氏とも接点はあるだろうし、
並立競合した半島南部の箕氏韓王朝の背後で 倭人が南岸に進出してたんだよ。

韓伝は、韓は東西は海、南は陸で倭と接する、と言っている。
これはこの間、倭人が青銅器、半島交易のために南岸制海権を維持していたことを意味する。
この倭は、倭人伝に描かれる、九州の屁タレな女王国では無い。

239公孫氏滅亡と238筑紫の女王国が魏に屈した事、246韓王朝が廃絶された事を知り、
大和朝廷が、九州北部に一大卒を置き、筑紫国の主権はく奪の必要が出来て、
後の百済、新羅となる半島国を 軍事的に後援しつつ、
高句麗戦を展開し、鉄や馬の移入、確保で富国強兵政策に転換した。
歴史には必然がある。

植民地として開拓、富国強兵から立国、戦乱で傀儡化
ってのは、聞いたような歴史だよな?
大きな声では言わんけど、何度も言わさんで貰いたいwww 
『大韓帝国』はこの『古代韓』にちなんで建国した。
また・・・ なんか妖怪↓ キッド先生?
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 13:15:20.29
では、>>7
247〜8年 張政の報告に拠って
魏が女王国との同盟は無意味と判断する理由は理解できる。

>>7 は、女王国の歴史と現状だが
王名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大無夫婿 有男弟佐治國 自為王以来少有見者
これは、郡での聴取でも知れるが、

以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室 樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
これは、240年に梯儁が印綬の際に見た王宮ではないだろうか?

240年梯儁は他に >>3で、行軍記録と国勢調査報告を残している。
国勢=女王の境界が尽きるのは、列記した21国が全てである。
この人口が7万戸で、各国に王が有り卑弥呼を共立した。

印綬時は魏軍の進軍であり、伊都に駐留はしないし、検閲が有れば戦争になる。
陸行一月=二千里で、樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛 の王宮を見た。

倭人に聴取した21国の 漢字名を当てたのは梯儁
領土南端、狗奴国境界の 邪馬国 に 王宮=臺 を見たから、
国名として邪馬台国と命名した、これが、北部九州 21首長国連邦である。

>>7 では、東国や離島、船行1年を要する、伝説の広大な海洋国倭地に対して
梯儁 の 参問倭地が 州島の上、周旋可五千餘里の小国である
と、陳寿は正直に説明している。

ただし247年のような、一大卒によって、支配下に置かれている様子はない。
後の朝廷による、九州平定は、240年というか
曹芳元服時に 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘 の243年以降 である可能性が高い。
しかし、245年の 黄幢と檄 で、出兵しなかったのは、干渉が有った可能性が高い。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 14:05:56.14
卑弥呼がいた倭国とは、朝鮮半島南岸から九州北部までの対馬海峡国家。
王都は南の端の博多湾沿岸。

その認識に立てば、倭国女王の王都である邪馬台国がどこかなど、明白なんだよ。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 15:07:17.76
【倭人伝に登場する、30国の内訳】

投馬國(半島南岸国 5万戸) > 狗邪韓國(対岸寄港地)
對海國 一大國 (対馬海峡、島)

邪馬壹國(240年、女王属国 全21国、王=大夫 有 7万戸)
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國
(洲㠀之上 周旋可五千餘里=糸島〜福岡〜筑紫平野内)
(240年時女王宮は、九州島上陸後、南二千里の極南界)

末盧國 不彌國(21国に含む247張政時、港町名)
伊都國(247年時 首都、奴国内湾岸?)

狗奴國(240年時、不属女王、南接、九州国)
0388日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 23:11:11.26
謎が解けた
福島は(徐福の島)ってこと

徐福らは最終的に富士山ではなく福島に上陸した
木村吉清が物部氏ルートでその話を聞いて、地名を「福島」に改称した
0390日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 10:42:44.06
>>366  伊都の説明
丗有王皆 統屬女王國郡使 往來常所駐

>1回来ただけで常所駐と言うわけなかろw  
まあ、これは一回だけ伊都に駐留させられた、郡使の張政だけど・・・ 
おっしゃる通り、おかしい。

>>367
郡使が(日本に)二回しか来ていない ので
張政に嘘、陳寿の作文にも齟齬がある、
としたけれど
この、往來の際に常に駐する所 という この文節は、
伊都に首都機能(一大率)がある ことを言っている。

ここで、間違っていたのは『郡使』と言う言い方だったようです。
文脈から、張政が自分のことである 郡使 を言ったと読めますが
丗有王皆統屬女王國 の 使者 の事を 郡使 としてしまったと読むべきで
日本の地域王の官僚の役名は 郡使では無く 判らないけれど、
『女王属国の王』や『王の遣使』が 往来の際、常に駐留する所
と言う読み方が、正解だったようです。

何故 伊都の説明のここで、王は皆女王に属す、という文言が必要か?
陳寿はアホか? と思っていたけれど
先生のご指摘により、再考出来、♪ドン来いスレ、チラ裏論考前進しました。
自分なりに引っかかりの有った部分が、また一つ、解消しました。
謹んで感謝、ありがとうございます。

アタシの困ったちゃん主論は、魏時、2回の郡使の訪日で
240年には、九州島上陸 南2千里の 邪馬国の臺 が梯儁命名の女王の所都 だったが
247年には、張政が拘束され、女王国を検察する一大卒による 伊都と言う首都が出来ていた。
というのが、倭人伝の報告である、ということで変わりませんが、
0391日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 10:44:38.38
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 11:40:40.49
>>391
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交した稲作遺構 って何?
そんな農業伝わらんで良いよ。 品種改良中の遺跡?
 
ソースなに? どこの学者に騙されてるの?
二期作で同じ水田が、同時に遺跡化して滅びた状態?
もう、コピペ辞めればぁ?
0395日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 17:01:30.14
>>390
東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘?,
世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。

世有王,皆統屬女王,國・郡使往來常所駐。

○伊都國王は皆(女系で成り立つ)女王宗族と血縁で繋がる
○伊都國には國使や郡使の滞在する定宿がある
0396日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 19:28:49.05
>>395
反応して戴いてありがとございます。 
もはや強大嵐のキッドのみ とかなwww 
妖怪の釣り方も判ったwww
一人でも、反応あれば応えるし、教えを乞う古事記。

冒険的、視点は評価するけれど、要件として、
魏の使譯の来日は、240年と247年の2回しかない、ということ。

240年梯儁は、魏軍を率いて行軍し、伊都には拘束されていない。
この梯儁の命名した、7万戸の邪馬台国、
属国を全て列記した参問21王国に、伊都は無い。 

247年の 張政は、伊都の国王ではなく 
中央役人? 多分、畿内有力豪族の将軍の 一大卒が伊都に呼びつけた、
壹與や奴国王升米と面会し、管理下で、檄告諭した のではないかな。

伊都の一大卒は、中央から派遣された 如刺史 であって
伊都国王と言うものは、存在しない、が、順当。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 21:09:32.55
実は、ほとんどが、数行で
読む気になれなかったんだけど・・・

倭人伝の現代語訳 が 想像を絶する デタラメなことについて・・・

これ、♪ドン来いスレ の テーマじゃね?
まあ、現代語訳は読み切ったら、馬鹿ばっか で、とてもつまらないね。
247年終了よりは、馬鹿がマシだけど・・・
0398388
垢版 |
2018/10/29(月) 21:18:06.14
「福」の付く都道府県は、福岡・福島・福井(福居)の3つだけど
その3つとも名付け人が豊臣秀吉と近しい関係にあった

福岡と名付けた、黒田長政
福島と名付けた、木村吉清
福居と名付けた、松平忠昌

意識して「福」を付けたとしか思えない

何故ならこの3県には共通点があって、それは無アクセントで日本語を話す地域があるってことなんだけど、
日本語無アクセントの始まりは、佐賀に定住した徐福集団の可能性が高いのな
0400日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 18:52:29.21
倭人伝の話し にしようか?
絶対、解読できないと思うんだけど、>>4

これ、陳寿さんに言いたいけど、
男子皆 黥面 文身 倭水人 好沈没捕魚蛤 厭大魚水禽後稍 以為飾
文身各異 諸国 或左或右或大或小 尊卑有差
だけで、良くネ?

自古以來其使詣中國皆自稱大夫
夏后少康之子封於會稽 斷髪文身以避蛟龍之害
計其道里當在會稽東治之東

これ、何言ってんのか判る? わけが無い。
改竄でしょ? 

倭王は呉の太伯の後
これは、絶対削除したかった。
ついでに、数行消したら意味わかんない。

そういう、文節がコレってことだと、思いますが
歴史愛好家の諸先生は、どう思いますか?
0401日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 19:28:51.66
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 19:37:20.82
>>398 
徐福どころか 倭人伝は238年から247年に限定された
九州国と帯方郡の国交記録だよ。

この卑弥呼の450年前 徐福は軍船で伊豆に上陸したかな?
わりと、どーでもいい。
0403きのこのかみ
垢版 |
2018/10/30(火) 20:15:41.24
https://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&;feature=youtu.be

私の 説は 邪馬台国 の 位置を 球磨郡 にあった です
魏志倭人伝の 翻訳 とか みなさん 読んで かたってますか?
ぼくも 読む前は 邪馬台国 やまたい 大和 ヤマトゥ と このよみから 近畿だと ゆってましたが
これは 本居宣長 の 策略でした まんまとはまってました
魏志倭人伝には 邪馬壹國 と あり これは 中国よみで シュマイ 日本語で よんでも やまいこく 臺灣 台湾 誤字ったにしろ とにかく ソウル から 邪馬台国 まで 1マン2000里 である 100里が7KMとしても 近畿にはとどかないので
九州しかないのです そのへんも 動画に まとめました
0404日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 20:24:20.23
>>402



で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜と、日常食だった蒸し餃子とワンタンと、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?


で、徐福集団が渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?


.
0405日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:14:44.23
当時の倭王は畿内に居たけど
倭人伝の記述は魏使が魏時に2回だけ訪れた、
九州の卑弥呼の邪馬台国の話しをしてるわけで
考古学が倭王の所在を証明しても、倭人伝を読めてはいないだけでしょ?

倭人伝の話 ってのは、日本史のタブーなの?
まあ、朝鮮では三国志自体禁書であるべきかもね。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:30:13.10
>>403
九州上陸から2千里の定義で ちょっと遠いと思います。
東西で3千里以上ある九州内で、所属国21国を、5千里で周旋できますか?
女王所属国21国が 筑紫平野を出るのは無理です。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:31:14.05
卑弥呼は倭王なんだよ。
畿内ではなく、九州が倭国なんだ。
畿内は、はぐれ倭人が住む倭地。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:38:01.47
>>407
倭人伝には九州北部王の卑弥呼を
帯方郡が大倭の王と勘違いして金印紫綬した歴史が書かれている。
九州島の北部、周旋5千里の筑紫国が邪馬台国です。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:39:30.44
紀元前からずっと倭国は博多湾沿岸
0410日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:49:30.38
>>409
倭人在 帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國
漢時有 朝見者 今 使譯所通 三十國 從郡至倭

で、魏使が見た、邪馬台国
その博多湾は帯方郡から南に海岸辿って、対馬海峡渡ったとこだよ。
倭の一部であって、太平洋を東に船行一年を要する倭国全体とは程遠い。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:58:16.89
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 22:01:39.40
>>407
240年 梯儁の金印紫綬により倭王とされた卑弥呼は
この金印紫綬の梯儁時の行軍と、247年の張政の査察によって
九州北部2千里の倭国の一部のローカル王と認定された。
倭人伝にはそう書いてある。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 22:08:12.39
>>413
倭王として親魏倭王の金印をもらった。
冊封体制下では、畿内に誰がいようと、九州の卑弥呼が倭王になったことになる。
もちろん、卑弥呼の都である邪馬台国は九州。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 22:12:05.54
>>411
やけくそ、と言うか ついでだがw

240年梯儁は 極南界の女王宮に行ったとき
官を雇って、狗奴国にも踏み入れている。
完全な戦争状態とは違うと思うんだが?
0416日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 22:23:04.37
>>414
>冊封体制下では、???
何を言ってるか判ってるか知らんけど
この時の魏王は三国志の戦国王でしかない。

蜀と呉を制圧するために、東夷の大国、倭王を取り込みたかった。
公孫氏が呉と通じたのを見て楽浪帯方を潰したら、その時卑弥呼が釣れた。
それだけのことだが、卑弥呼は倭王じゃなくて筑紫王だった。

張政は、それを査察して報告した。
だから、247年で魏と邪馬台国の国交は終わった。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 22:45:21.08
>>412
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生人骨って、何? 朝鮮人骨って、いつの?
縄文人と半島石器人骨って違うのかな? 
それって何万年位前の話?

半島の稲作って、北限超える北回りで良いの?
米が渡るなら、黒曜石が渡ってる南回りも有り得るし、
ヒトは移民じゃなくても往来してるよ?
0418日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 22:47:00.31
チラ裏に、コピペ ほどつまらん物はないね。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 22:47:21.92
筑紫王などという造語で誤魔化すな。
卑弥呼は魏に朝貢して倭王に叙せられた。

畿内はまだ魏と交流がない未開の地で、そこに誰がいたとしても魏が認識していた倭国ではない。
畿内は魏に名前もまだ知られていなかったが、そっちにも倭種がいるという伝聞で存在だけは知られていた。
国内の記録からは、それが饒速日を祖とする物部氏であることがわかっていたが、それは魏のあずかり知らぬところ。
魏志倭人伝にある倭国やその王都である邪馬台国は福岡だということ。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 23:03:34.83
>>419
東夷には魏が新参者だと東夷伝から読める。

卑弥呼はまだ公孫氏が滅びてない、
魏による海戦奇襲での楽浪帯方進駐時に
公孫氏に朝貢に入ったら、魏軍が居たんじゃないのかな?

で、金印以来、初めて洛陽に上る事が出来た。
所詮、考古学では 漢の金印も 筑紫王=倭王だろ?

倭王に認定して、240年査察に来たら九州北部二千里の小国でした。
247年、国家主権は無い東国管理下の地方領主でした。

これが、邪馬台国です。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 00:22:57.25
畿内説は「邪馬台国は畿内だ」って言うより、
「魏志倭人伝の卑弥呼の女王国」
は九州かもしれんが、
当時畿内の方が「当時の日本国」を
広く支配していた、という方がいいのでは?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 00:36:33.40
畿内日本国がどれほどの土地を支配していたかはわからないが、魏志倭人伝ある倭国や邪馬台国、卑弥呼などは、全て九州の話だというなら、その通りだと思うよ。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 00:38:27.54
>>420
>倭王に認定して、240年査察に来たら九州北部二千里の小国でした。

倭国とは、九州北部にある周旋五千里(短里で)の国でした。
卑弥呼は博多湾沿岸の女王でした。
倭国は後漢の頃の博多湾沿岸の倭国と同じです。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 01:04:17.28
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 11:42:16.08
どうやったら短里厨を駆除できるのかねぇ
自己洗脳で信じきってるから無理なのかなぁ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 12:19:57.48
倭人伝の里程を計算したら
短里になるからね

仕方がない
0427日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 12:23:30.35
実際の距離がわかる区間で里数を盛ってる
そこの一里当たりの相当距離を出す
これを他の里数にも展開する
何が問題なんだ?
0428日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 12:49:20.22
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 12:57:30.08
半島南部の東西4千里 対馬〜壱岐が千里 壱岐は径3百里
この対比で倭人伝の里程が示されてることは変わらんだろね。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 13:02:57.92
それを便宜的に短里と呼ぶわけですね。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 13:38:53.50
>>426
>倭人伝の里程を計算したら
>短里になるからね

>仕方がない

ならないんだって
そういいながら、実際の数値は示さないだろ? お察しってやつだ

狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
渡海3つで、二倍の開き

末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
陸行2つで、四倍の開き

何か基準となる長さがあって、実際に測ってたらこんなことにはならないよ
この辺の数値は、適当に机上で作った数字
実測値とは関係のない数字だよ

これを比定地探しに使おうとしても、最初から無理な話

短里は捏造
短里を使う理由のある人は、どこにもいない
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 13:46:34.93
>>421
240年に公孫氏が滅びた
246年に韓王朝が滅びた

これを知って纏向に王都を建設
重農の銅鐸文化を終了して、中央集権と軍事帝国の古墳時代に突入
反中華親韓政策の朝廷は九州平定で邪馬台国と魏の外交は247年で終った。
この10年間の九州の歴史だけは、倭人伝が証明している。
考古学も証明してるし、筑紫平野王の卑弥呼は倭王じゃないだけで、全然謎なんてない。

この九州平定以前、当然越東海関東に進出していないと古墳時代は始まらない訳で
245〜246年辺りで、筑紫に一大卒を置いた、ってのは妥当なところと思うね。
卑弥呼の鏡は当然畿内から出ても良いし、
卑弥呼はまともな執政してない様子なので後の百済の例のように
238年当時から、筑紫を楽浪外交フロントの傀儡にしてた可能性もある。

263年蜀滅亡
265年司馬炎戴冠
280年呉滅亡
この間は中国無視で馬や鉄の富国強兵、半島南部の足場固めしてたんだろ。
313年楽浪帯方滅亡
朝廷勢力は半島に全面進出 対高句麗戦を後援
350年百済新羅建国
400年 倭の五王外交開始

倭人伝から空白の4世紀は、半島進出の時代であって
この歴史で、本当のことを言うと半島国と歴史の話は出来なくなる。
それだけの古代史の真実。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 13:52:17.57
>>431
場所の比定があって、特定可能な2地点間になっているのは
対馬国〜一大国(壱岐)70km/1000里=70m/1里
だけってのが、里程の誤差を指摘するための資料として悲しくないかwww
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 13:56:54.91
>>433
さて、誤差を減らす基本は
複数の点を取って平均化することだけど
釜山から唐津までの三点を取った場合
平均距離はどのくらいになるでしょうか?
0435日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 13:58:41.88
>>434
修正

釜山、対馬、壱岐、唐津の四点間の
3つの距離の平均ですね。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 14:16:02.59
釜山と唐津ってのは確定しない。
と言うより、距離が合わないなら間違っている。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 14:23:23.74
釜山から対馬、壱岐、唐津で
港を伝う距離だと210km程度ですね

これらの距離が3000里なので
1里は70mというところでしょうかね。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 15:02:10.60
短里説?の一里が何メートルか? を求める必要が無い

半島の東西は4千里
対馬海峡は3千里で対馬壱岐で3等分程度だから各千里
これだけが、倭人伝の里程の必要十分な基準であって
(壱岐は方可300里もマクロで補足かな)

では、九州上陸から2千里がどの範囲になるか。
筑紫平野で熊本の北、みやまだろw
求める答えの為に、一里は74mである必要は無い。

上陸から南東5百里が伊都で奴国(ほぼ福岡平野内)に100里なら
伊都を特定してから北西5百里の張政上陸地を求めればいい。
それだけの事。 糸島半島北岸だろw
0439日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 15:26:21.30
卑弥呼は女帝だよ
鹿児島や奈良はブスしかいない、女帝なんかいない
福岡か長崎なら女帝はいたかも知れない
0440九州王
垢版 |
2018/10/31(水) 16:08:43.44
>>438
>糸島半島北岸

東松浦半島北岸の間違い?
0441日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 16:14:21.85
>>437
韓が方可4000里(韓国の面積100,339km2)だし
東松浦半島北岸の呼子や名護屋浦から日向峠が50qくらいだから
1里=80mくらいでしょう。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 16:51:58.20
>>438
>さて、誤差を減らす基本は
>複数の点を取って平均化することだけど
>釜山から唐津までの三点を取った場合
>平均距離はどのくらいになるでしょうか?

また出たよ、インチキが

問題は平均を求めてどうするのって事だ

AからBまで10キロ、BからCまで30キロだったから、
じゃあ次のCからDまではその平均の20キロになるはずだなんて事にはならないだろ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 16:53:04.47
たとえば、3センチと2メートルと15センチの棒があったとして、
この3,200,15と言う何の関係のない数字であっても、
平均を計算することはできるんですよ。
72.7センチになりますが、この数字にどんな意味があると思いますか? 
あなたのやっているのは、これと同じです。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:22:18.49
邪馬台国が南にあるとしたのは
倭人にとって魏と結ぶには呉を牽制する位置に首都があったほうが都合がいいからだろ、常考

実際には邪馬台国が東にあって当然
0446日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:38:49.85
>>431
使えるのは狗邪韓国対馬間と対馬壱岐間だけであとは比定地は未確定だ。
むしろ、帯方郡狗邪韓国の7千里を使うべきだ。

このサイトによればソウル釜山間は直線で520kmだから1里=74.3mで確定したと言える2つの里程とよく合っていると思うが。
http://hokanko.mond.jp/wordpress341/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%81%AF%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%81%AB%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%9A%E6%B8%AC%E9%87%8F%E6%8A%80/amp
0447日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:46:31.76
九州説は短里がなくなるとその時点で終了だから必死だなww

だがその前に
「報告書を短里で書く人」はどこにいるんだい?

建忠校尉の梯儁さんも、塞曹掾史の張政さんも、魏の役人だから魏皇帝による
公定度量衡以外の尺度を使うはずがない
公孫氏ももともと漢人であり最後の瞬間までは漢の官職(左将軍の官位)に就いていたのだから
漢尺の度量衡で育っているし、漢尺の度量衡を使う
倭人は里を知らないと書いてある

どこに短里を使う人がいるんだい?
短里を知っている人も、使っている人もいないのに、
報告書が短里で書かれるってありえないだろ?

こういう基本を無視して論立てするから、九州説はトンデモになる
0448日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:50:42.35
>>447
帯方郡から七千余里進んでから海に出るという記載の説明ができないように思うが。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:52:21.40
>>444
>誤差考えても畿内には届かないから諦めろ

届くよ?
九州上陸後の距離で見ると、50メートルと200メートルで4倍違う

これを誤差だというなら、
短里説の言う標準的な短里=77メートルを4倍したら300メートルを超えてくる
九州上陸まで一萬里で、残り2000里をこの308メートルをかけると
616キロになって、九州から畿内までの450キロより長くなるよ

届くだろ?
0450日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:56:09.83
>>448
>帯方郡から七千余里進んでから海に出るという記載の説明ができないように思うが。

畿内説では、短里はなく、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐の功績をヨイショするために
公孫氏討伐の結果可能になった倭国からの朝貢を、より遠距離にするために
机上で作った誇張した数字が書いてあると考える

要するに、数字が盛ってあるんだよ
誇張分を実際の距離に合わせてみると、誇張した分短い数字になる
それだけのこと
机上で適当に数字合わせしただけだから、区間ごとに実際の距離と合わない齟齬が出るのは
ここまで示してきた通り

3倍も、4倍も異なる長さになる単位なんてないんだよ
短里は捏造
0451日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:06:01.10
机上の数字を作るときの下敷きになる数字があって、
1.倭国の本土に上陸するまでが1万里 ⇒万里の修交をうたう
2.1日分の渡海は一律で千里 ⇒実距離は測れないから遠い距離とを示す数字で代表させる
3.女王国までの距離は、淮南子等に見られる世界の果てまでの距離、萬二千里とする
これだけだよ

これに合わせると、朝鮮半島で10000-1000×3で、7000里使わないといけないけれど、
それを南北四千里、東西は東の端まで行かないから三千里として、韓地方四千里が出てくる

3.の萬二千里は曹真が西域の大月氏に朝貢させているので、それに対抗するためにも
萬二千里という数字が必要ということもある
大月氏は漢書西域伝で「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」で萬二千里弱
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:16:29.47
長い距離で取った方が誤差は小さくなるかもね。
朝鮮半島の長さや幅で80メートルというのは一番正確かもしれない。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:37:51.43
>>450
全くその通りだと思うよ
だから邪馬台国までの里数は全行程から九州上陸までを引いた分を考えれば良い
でもそこまでとそこから先の比率は守れよ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:41:56.16
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:52:18.85
>>450
>>451
要するに畿内説ってのは魏志倭人伝は行程に関してはフィクションだとするんだね。
じゃあ、報告書が短里だ洛陽でわからないとかウソの距離を報告したら首が飛ぶとか言ってたのはなんなの?
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:53:23.66
>>449
何で1300里で計算しないんですかねえ
そして最大値ではなく平均値で出すべきですよねえ
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 19:00:27.46
>>450
数字を盛ってるってのは同意
対馬壱岐間も日数で表現してたら渡海一月としただろうねぇ
0458日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 19:06:54.04
朝鮮半島沿岸も含めて、水行10日だよ。
対馬海峡はそのうち3日。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 19:26:04.37
レベルの低さに泣けた。
邪馬台国論争って、これで良いの?

2〜10に、なんて書いてある?
倭人伝の話し する? 以前に唯の馬鹿なの?

まあ、ぶっ壊せばいいんだろw
もう遅くネ?

さあ、みんな、始まるよ!
よっしゃぁ〜〜 倭国上陸 末蘆国 草生えるぜ おまけ↓
wwwwwwwwwwwwwwwwwww
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 19:53:53.17
>>440
過疎スレへの ご投稿感謝ですw

ご理解いただきたい基本は
魏使来日は240年の梯儁と247年の張政しかないということです。

九州説には奴国や伊都は絶対九州という 存在が重要と思いますが、
240年の梯儁は魏軍の行軍であって、伊都の一大卒に拘束されるわけが無い
この時、伊都は無かった。 と、読めるはずです。

247年の張政は、倭人船便乗だから、伊都に拘束された。
これを、考慮してください。

九州説は、>>2>>3 の段落は読めていると思いますが
それは、たった二回の使譯の記録なのです。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 20:28:57.84
何を言ってるかわからないの?

梯儁は、卑弥呼に皇帝の命で魏の軍隊を率いて印綬の為来日した。
張政は、日本が245年の帯方郡の制韓戦に参加しなかった理由の査察に来た。

邪馬台国が九州なのは 漢文読めれば 当たり前だし、
アタシみたいな、現代日本の中学生歴女レベルで
なんで、日本の古代史うやむやにしたい奴が いるのかが謎。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 20:30:54.26
それで


ひみこ?というのは、どこの国の人間だと書いてあるんだ?
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 20:37:37.42
>>461
>邪馬台国が九州なのは 漢文読めれば 当たり前だし、

邪馬台国が九州でないのは 倭人伝読めれば「其山有丹」で 当たり前だし、  @阿波
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 20:48:36.04
神武以来、日本の中心は大和でないといけないと信じている皇国史観を妄信している人たちがいるのです。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 21:05:34.03
>>463
ごめん。 もう無理。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 23:10:16.24
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 23:51:14.88
距離的には合うんだけどな
まあ記述にもう一回海を渡ったってのは無いから
そういう俺も阿波人
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 10:50:01.28
>>455
>要するに畿内説ってのは魏志倭人伝は行程に関してはフィクションだとするんだね。

いいや、いろんな情報の錯綜、混同があって不正確、と見る
魏志倭人伝の旅程は「あてにならない」、だよ

魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い

旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読

北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 10:55:58.41
>>456
>何で1300里で計算しないんですかねえ

それはね、末盧国から東南五百里に伊都国がないからだよ
この「末盧国から東南五百里」の陸行は、おそらく漢代の倭面土国への旅程
確実なのは、上陸地点の末盧国だから、そこを基準にしている

>そして最大値ではなく平均値で出すべきですよねえ

いや?
>>449が、>>444の「>誤差考えても畿内には届かないから諦めろ」に対する
返事だってのを無視しないこと
こっちが、区間によって4倍も異なるって示しているのに、
それを誤差だと言い張り(ココ笑うところ)、その「4倍の誤差ww」で畿内に届かないというから、
誤差が4倍もあったら楽に届くところを示しただけ
0471日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 10:58:11.73
>>457
>対馬壱岐間も日数で表現してたら渡海一月としただろうねぇ

話がそれるけれど、それは考えられない
当時の航海で船上で夜明かしなどしたら、遭難必至だから、渡海は常に1日だよ

水行は沿岸航行だから、夜になったら岸につければいい
だから、渡海と水行は別に扱われている
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 11:00:09.01
>>468
>佐世保に水銀鉱山があった。

それ、弥生時代に見つかってないから
見つかってないものは、あるとは書かれない
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 11:25:13.95
>>470

>それはね、末盧国から東南五百里に伊都国がないからだよ

上陸後の距離が正しくないと仮定するのならこの残り2000里も意味をなさないのでは?

>こっちが、区間によって4倍も異なるって示しているのに、

末盧国から伊都国の距離を省いたら区間4倍の根拠がなくなるのでは?
0474日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 11:40:14.89
>>462
240年 梯儁が金印紫綬を届けた時の王宮は 邪馬国 みやま市でほぼOK 

247年には卑弥呼は死んでいるが、伊都が有る。
伊都= 丗有王皆 統屬女王國郡使 往來常所駐
女王に属する21王、その使者も往来、常駐する首都。
ここで魏使張政が駐留、検察を受けている。

240年 卑弥呼は自国土極南界の王宮にこもり、自為王以来少有見者 である。
伊都において、国家に関する執政をとっていない。
どういう国なのだろう? 傀儡王または宗教指導者?

240年の梯儁は卑弥呼領土から、南の狗奴国にも踏み入っている
男子為王 不屬女王 を確認 その官 狗古智卑狗 による情報である。

卑弥呼の領土の国勢が 列記21王国 で全て 7万戸と報告している。
この時の行程は、自郡至女王國 萬二千餘里 である。(張政は万5百里+a)

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
張政は伊都までしか来ていないので、この情報も南限を見た梯儁

参問倭地は梯儁が女王の国勢を調べた際の21王国のことであり、
これが九州島の筑紫平野 周旋可五千餘里に収まっている。

倭王で無かったことを知り、ガッカリ、だったのではないかな。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 13:31:57.08
>>417
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析によると、ちょうど朝鮮人とオロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の
中間あたりの位置を示す。

オロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の分布位置と朝鮮半島のちょうど中間あたりはウデヘ、ナナイの
住む沿海州南部あたりで、これは弥生開始土器の示す沿海州南部と整合している。


http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg
http://f.hatena.ne.jp/nyankosensee/20110813183224
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 14:42:35.39
>>471
一月行は概ねで2千里である可能性が高い。
梯儁の場合、特に日行は行軍日数で言ってる気もするけど

京畿湾から済州島 3月行
九州南北 3月行
九州と奈良までを見た裴世清の日本国土
三月行=九州 5月行=九州〜奈良から見た東の山

基本的には漢〜唐代まで継承した、東夷の軍事的概略図が有って
その、座標として月行と言う基準があると思う。

船の問題は、黒齒國在其東南船行一年可至
という信じがたい記録が有って、
これ12月行だと、2万4千里で九州南岸、種子島〜小笠原で合ってるんだよ?

魏はこの時、楽浪帯方は遼東からじゃなくて奇襲で占領だから
黄海帆船で渡ってるはず。
だから240年の梯儁の行軍も帆船だと思う。
未開地で幕営より珍島から対馬は直行したんじゃないかね?
上陸は、荷物多いし、王へのお届けだから、今宿五郎浜あたりw まあ、博多湾。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 20:15:39.05
>>479
リンク先の説を信じているわけではない。トンデモだろうとも思うが、
佐世保の水銀鉱山が弥生時代に見つかっていないことの証明を示してほしいんだが、そっちの方は?
0481日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 20:34:37.62
>>472
見つかっていないという根拠は?
魏志倭人伝に書いてあるのだから、見つかっていたのでは?
0482日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 21:37:11.46
>>481
>魏志倭人伝に書いてあるのだから、見つかっていたのでは?

そうだね、間違いなく見つかっていた。  倭国(阿波)で。  @阿波  
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 08:42:07.08
辰砂は縄文からだし、真珠もだけど、卑弥呼の筑紫が弥生に対して
唐津以西、長崎、佐世保、五島は卑弥呼系弥生と言うより
縄文人文化地域と言うイメージなんだけどね。

でも、甕棺墓制や、朱が水銀からだと渡来人いないとできないのかな。
BC2〜300で青銅器あっても、鏡のメッキみたいのは国産出来たの卑弥呼以降?
縄文の朱で水銀から、ってのはいつからだろう。一緒に出るから判らないか?
徐福みたいな仙薬方士くらいしか水銀なんて知らなくないかな?

渡来人自体の意味は土器より水銀が固いような?
おもしろいかも・・・ あっ、スレチ、だなwww
0488日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 08:49:39.64
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 09:20:48.77
>>487
そこで国津神としての肥国王家の卑弥呼なんですよ。
でも王都が筑紫の伊都だったので、そこに葬られた。
卑弥弓呼は実家の叔父さん、または従兄弟。
これで全て説明がつく。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 10:53:53.11
出雲王家の口伝では
なくなった王は風葬にしていたが
徐福伝来の朱による遺体保存技術を取りいれて
累代墓参りをしていた模様。もがりを取り入れたという。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 11:58:38.40
>>490



で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜と、日常食だった蒸し餃子とワンタンと、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?


で、徐福集団が渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?


.
0492日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 13:47:10.97
>>487
水銀から朱じゃなくて、
辰砂=水銀朱(硫化水銀)から水銀を作るんだよ
0494日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 13:51:45.17
>>485
>そもそも、有、だけの記述だから、有ればどこでもええ

たしかに「倭国の範囲内」であれば、どこでもいいんだけれど
九州説の人は、より地域王権の発達した吉備、出雲、丹波、畿内と比較されると
その瞬間に死亡するから「倭国は九州島のみ」という主張なんだよ

そして、倭国が九州島のみなら、弥生時代に丹の見つかっていない以上、
明確に矛盾することになり、九州島のみの倭国説は破綻する
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 13:54:04.25
>>480

其山有丹 ← 水銀が産出される山の記述について、丹生の民俗というサイトには
『邪馬台国の卑弥呼
 卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。
 その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の
 出る山があったと言うことである。
 どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る
 必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと
 市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。』とある。

市毛勲氏の「日本民族文化体系3」だそうだ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 14:52:45.45
畿内に丹が見つかってないくせに。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 15:43:02.46
出雲、吉備、畿内、越、尾張、毛野などにも邪馬台連合と同じかそれ以上の勢力を誇る連合国家はあっただろう。
たまたま九州西北部を中心に広がっていた邪馬台国が魏と通好したというだけのこと。
自分は出雲の産だが、当時は邪馬台国よりも出雲のほうが強い勢力だったと考える。
出雲連合国家の勢力は不弥国のすぐ隣、遠賀川流域や宗像まで広がっており、邪馬台連合の動きを見ていたのだろう。
しかし邪馬台国は南九州に勢力を張る狗奴国連合との戦いに敗れ、滅び去った。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 15:47:59.74
>>495
九州の辰砂が採掘あるいは採取されてい「なかった」ことの証明はどうされているのでしょう?
「卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されて」いたことの記録があるはずがないが(その時代の記録があれば誰も魏志倭人伝など読まん。)。
根拠はどう書かれているのかご存知の方教えてください。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 16:08:34.71
>>502
文献的には丹は"出"じゃないから、山に存在すればokな話

これは個人的な考えだからどうでもいいが、
北部九州では水銀朱の存在はかなり前からあるので、全部を中国産とするのはどうかと思う
九州内の鉱産では中国と近い値を持つ山もあり、採掘した跡が見当たらない、との事で却下されてたりする
もう少し研究が必要ではないかと思うね
0500日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 16:50:56.30
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 17:50:22.93
>>497
>しかし邪馬台国は南九州に勢力を張る狗奴国連合との戦いに敗れ、滅び去った。

根拠なし。
出雲が栄えていたことは間違いないが、その出雲を倒して筑紫に王都が築かれたと記紀に記録されていることは注目に値する。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 18:11:30.75
>>501
>出雲が栄えていたことは間違いないが、

だだし、その「出雲」は島根じゃないよ。
その「出雲」は徳島の阿南市周辺で「狗奴国」。
「狗奴国」も強大だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「黒潮の恵み」と「海洋航行技術」。  @阿波
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 18:17:05.05
出雲は日本海の交通の要所だから。
基本、弥生時代は海に面したところであることが栄えるための条件。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 20:31:23.60
>>492
そうなんですが、アタシが興味を持ったのは
佐世保は縄文時代から自然水銀が出た、のかな? ということ。
辰砂は朱ですが、水銀そのものは朱じゃない。

鍍金に使うか、不老長寿の自殺仙薬でしょ?
これが、徐福が探してたものだし、飲めば死ぬけどw

弥生渡来人って何だろう? 縄文朱、甕棺は中国じゃね?
と言う疑問に、面白いテーマが有るんじゃないかな、ってこと?
徐福は水銀で自殺。 稲籾は残るよね? 桶だと思うけど・・・

土器厨のキッドは飽きちゃって真剣につまらなくなってるwww
税金としての米なんて、古代日本にどんだけ要るかね?
チラ裏なん だってよw 
学問より、ラノベで、♪ドンと行こう ぜwww
0505日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 20:51:18.43
>>496
>畿内に丹が見つかってないくせに。

??
「卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと
 市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている」
0506日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 20:52:39.35
>>497
>出雲、吉備、畿内、越、尾張、毛野などにも邪馬台連合と同じかそれ以上の勢力を誇る連合国家はあっただろう。

いや、それが倭国だから
邪馬台国=ヤマト国は、女王の都がおかれた地域の地名(国名)
0507日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 21:18:23.01
つまり福岡だよ
0508日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 21:30:50.77
あまりにも基本的な事を聞いても良いかな?

九州説と言うのは、卑弥呼の筑紫国が東遷しないと
卑弥呼は倭王にはならない、で良いのかな?

朝廷は、纏向とか、畿内でしょ?
卑弥呼は247年に九州で死んだから東遷はしてない。
で、良いのかな?

どう考えても、247年当時、卑弥呼が倭王では無くて
筑紫王だった。 倭王は、畿内に居た、で辻褄は合うのではないかな?

ただ単に、魏志の倭王は卑弥呼が筑紫王だっただけにしか見えん・・・ 
反論が欲しいんだけど・・・ この時、倭王は畿内に居るだろwww
倭人伝はちゃんとそう言ってるんだが? 

なんで、論争がある?
0509日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 21:39:35.24
>>508
>反論が欲しいんだけど・・・ この時、倭王は畿内に居るだろwww

畿内のどこに?  @阿波
0510日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 21:40:28.78
>>505
その市毛さんって方は何を根拠に卑弥呼の時代に大和と阿波の鉱床が開発されたと断言しているのでしょう?
なんて書いてるか教えてください。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 22:02:53.62
>>508
>反論が欲しいんだけど・・・ この時、倭王は畿内に居るだろwww

いないよ。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 22:03:09.97
>>508
すみません。
魏志倭人伝のどのくだりにそのようなことが書いてあるのかわかりません。
「どう考えても」って何を材料に考えました?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 23:00:23.50
邪馬台国の東遷は有り得ないが狗奴国は「東遷」したかもな。
伊予の海人族、河野氏の祖、河野越智彦こそ狗古智卑狗。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 23:27:41.73
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 23:31:14.20
>>2>>3 の段落
二人しか来日していない魏使の行程

これがちゃんと理解できてる、九州説の場合 って言ってんだけど?
阿波とか畿内説の場合? そりゃ、話にならんよwww

倭王は卑弥呼だと思って、金印紫綬しちゃいましたwww
これは、ただの筑紫王だったんで、帯方郡の馬鹿が間違えてました。

って、倭人伝にちゃんと書いてあるのに 何で読めて ないの?
話しにならん、と言う意味が判ってないでしょ。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 23:36:26.56
筑紫にいた王を中国が倭王と呼んだんだよ。
畿内の勢力はあまり知られてなく、そっちにも倭人がいるという意味で倭種と書かれている。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 09:09:24.06
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0519日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 10:56:37.90
>>511
考古学を前提とした畿内説っていうのは基本的に、
卑弥呼時代の倭王は畿内にいて、王都は畿内にあった
と言う、考古立証だと思うんだけど、これを否定する気は無いんだ。

卑弥呼の存在証明は、金印と卑弥呼の木簡でも出ない限り無理だし
240年の梯儁が報告の為 便宜的に使った、
邪馬台国と言う名前の国、漢字名の21王国は日本史に無い。

奴国王=自称大夫だけど 升米が 難升米 になっちゃう、限定的、当て字の類だよ。
漢字伝来後の筑紫で那珂川の那、那の津の那になった可能性は否定しない。
伊都国と言う名も 張政の247年が初出であって、
金印の漢倭奴国王は倭王じゃないし、 伊都国でも、有り得ない。

倭人伝には本州に関し、東の倭種以上の事は書いてない。
240年の金印印綬の際、邪馬台国は福岡、筑紫平野にある21王国7万戸が
卑弥呼を共立王としていた。と言う話。

>>6 で、
女王国が筑紫の小倭であったから、大倭が本州勢力を意味する、
と言う仮説の上では、一大卒は倭を本州にも広げた目線で、
考古学的検証を加味すれば、古墳時代に向け日本を統合しつつあった勢力が
後に王都とする奈良、つまり畿内という名称で代表する勢力である、が有力。

これを九州と畿内の並立と言った。 小倭と大倭で良いかもネ^^v
0520学術
垢版 |
2018/11/03(土) 11:56:33.02
歴史もっと進んでください。歴史のメディアでの登場でも人生プロデゥ―ス
できるのだから。南北朝室町足利がおススメ。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 11:59:20.93
大倭は九州北部を統一した広域連合。現在の福岡佐賀長崎。
都は博多湾沿岸の邪馬台国。現在の福岡県西北部。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 16:00:04.17
>>522
>宗像末盧国説

へぇ〜、こういう常識人もいるんだね。  @阿波
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 20:21:04.22
作家の高木彬光が宇佐に邪馬台国を持ってくるために宗像を末盧国にしてたな。
末盧国は未開の、官さえいない国。宗像族の末裔がこんな与太話聞いたら怒るわ、俺のことだけど。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 20:43:02.81
>>524
>末盧国は未開の、官さえいない国。宗像族の末裔がこんな与太話聞いたら怒るわ、俺のことだけど。

大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。  @阿波
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 21:43:42.44
>>524
伊都国王が素戔嗚なら何の不思議もない。
英彦山に居た素戔嗚が三女神と大己貴を宗像に行かせたって伝承もある。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 21:53:00.51
>>525
>大陸からの玄関口 末羅國

張政は敵性国家の帯方郡使
国の玄関ではない、末羅國に入国させたのは、軍事的事情。
首都伊都には、対外検閲機能が有る。

なんで、草ぼうぼうの国を5百里歩かせる首都港が有るwww
なもん、アホでも判る。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 22:03:13.49
>>528
>なんで、草ぼうぼうの国を5百里歩かせる首都港が有るwww
>なもん、アホでも判る。

首都港???  首都は倭国(阿波)なんだがw
福津・宗像は首都じゃないんだよ。  単なる大陸の玄関口。   
なもん、アホでも判る。  @阿波
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 22:19:06.30
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/03(土) 22:39:40.88
>>529
500里ずっと草ボウボウとは書いてないよね。
末盧の港で船降りて歩いたとこが時期的に草ボウボウってだけと考えるでしょ。前の人が見えないとはあっても道が見えないとは書いてないから港〜中心地の間も道の両脇が草ボウボウだっただけじゃないの?
末盧と伊都の間は往来がある道路だっただろうし。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 15:49:24.04
というか、「末盧国に上陸して東南五百里陸行」は、
伊都国行きではない別の古い記録の混入だと思ってる
それこそ、佐賀川上から吉野ヶ里(米多郷)方面へ行くなら、
末盧国に上陸するのが合理的

海を渡ってきて伊都国から奴国へ向かうなら、普通に直接船で行くでしょう
野方遺跡の港町が西新町遺跡で、比恵那珂遺跡群の港が博多遺跡なんだし
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 17:16:29.92
>>533糸島から博多なら周船寺あたりから上陸なら陸で行くのもわからなくはないけどね。糸島水道は大型船じゃ通れなかったかもしれないし。
吉野ヶ里が奴国なら唐津が末盧国だと末盧国以降は良い感じになるね。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 17:51:38.75
>>533
上海から東京に行くときは直接海か空から行けばいいが
日本の地理を説明する時は、行ったことのある県を順番に羅列するだろう

佐賀→福岡→山口→広島→岡山のように
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 18:41:05.68
末盧国 の話は、畿内説やその他、アボン無視wの阿波の場合、まず常にそこが上陸港であった。 と言う話でしょ?
魏の軍船で来た梯儁が博多から瀬戸内海に歩いて、別の船に乗り継ぐかよ?
国内交通なのに 渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之為持衰
これどうすんの?

日本海ルートか? なら判るんだけど、なら、伊都も不彌国も徒歩は要らん。
陸路が介在したら、同じ船じゃない、ってことでしょ?
240年の印綬の際の梯儁の魏の軍船での行軍にそれが成立するのか?
奈良には着くわきゃ、ね〜と、思うよ。 楽浪帯方みたく征服できるしwww

金印持ってきたよ、で、九州から奈良に伝令行って、迎えに来る? すごいね。
遣唐使船で来た裴世清の時でも、奈良への行程の困難さ凄さに、アタシャ感動したよwww

240年の梯儁は( 曹芳戴冠8歳、公孫氏滅亡まで卑弥呼朝貢238年から2年?)
末盧国には 上陸してない。 伊都も無い。 
目的地が、筑紫平野で南2千里の女王宮なら博多湾から行軍したはず、だろ?
247年の張政は 拘束、検察される伊都まで、わざわざ500里歩かされてる敵国人です。
末盧国はどこだった? という論争は
魏時たった二回だった、そのうえで全く別の渡航方法だった倭国への使譯のたった二つの報告ってことを、理解する気が有るのかな?

これが、三国志時代の戦国王 魏と倭人の二回ポッキリの交流を、文章が残せる魏側から記録した、倭人伝なのです。
ちなみに卑弥呼から魏も 
238年、難升米 これは帯方戦中。
243年、伊聲耆掖邪拘 ( 曹芳元服 12歳) 金印使用可
247年、(巳百支國王=大夫) 掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺 金印使用可
です。 掖邪拘は 皇帝のお土産記載無し、亡命? 帰ってないのでは?

ネタw 掖邪拘 は 日本から見た三国志の ラノベに最高だと思うよwww
妄想で済ませても良いけど、改竄無しの辻褄合ってるだろ?

アタシャ陳寿はちゃんとした文士文官だと信じる。
考古学のご都合で意味不明の倭人伝改竄説は、陳寿と喧嘩しろよ。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 19:07:14.14
>>537
>日本海ルートか? なら判るんだけど、なら、伊都も不彌国も徒歩は要らん。
>陸路が介在したら、同じ船じゃない、ってことでしょ?

地理説明と、行程説明が混ざっちゃってるんだよ
行程としては、丹波まで水行してると思う
ただ、伊都国、奴国、投馬国には上陸して寄ってるだろう
奴国、投馬国、邪馬台国の万戸以上の大国が、魏使の滞在地
伊都国は一大率がいて、その三大国以外でも留まらなければならないので
郡使往來常所駐と別記されている

九州島の陸行記述は、九州島内の地理説明だが、古い記録をつなぎ
合わせてしまっているので、実際の地理とは合わなくなってしまっている
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 19:09:45.17
ごめん、歴史が 抜けたw
其八年(247年 韓王家滅亡) 太守王頎到官
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状

もしかすると、
外交官張政の 倭と魏の外交を保証する 送政等還因詣臺 
は金印交易の次元じゃないかもしれない。

一応、壹與の遣使だけど 掖邪拘 は
一大率支配下で金印は使ったか、判らないかもな?

倭人伝末文の壹與 って日本の歴史に必要かな?
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 19:36:02.09
>>538
九州島の陸行記述は、張政の 陸行5百里は伊都 
伊都から百里 奴国、不彌国 張政は女王宮に行かないので
女王までの満二千里に関する直線方向は不問。

帯方から一万五百里は伊都。 
丗有王皆 統屬女王國郡使 往來 常所駐

240年の梯儁は金印紫綬の為、女王宮を見たし
国勢を21王国、7萬戸を 邪馬台国 と命名した。

247年の倭国=筑紫国の首都は伊都 
この時の伊都は、240年女王の王宮の有る、
梯儁の命名した女王の処都、邪馬台国ではない。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 19:52:55.81
>>538
>>2 >>3
行程に古い記録が入る余地は無い。 
魏使の探検、魏での使の譯は2回 しかない。

>>4 >>5 >>7  は、漢代のソースの検証が重要。
梯儁240年、張政247年 この二回の記録だけが倭人伝の軸である。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 19:56:10.53
>>541
九州北部の比較的小さな、しかし東夷では一番大きな国だった。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 19:58:05.76
結局これが見れていなくって だらけて無駄に展開

「遂周觀諸國 采其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀」
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 21:05:30.28
東夷伝序文 まあ、テンプレの続きw 現代語訳は糞、読んでね。

書稱 東漸於海 西被於流沙 其九服之制 可得而言也
然荒域之外 重譯 而至 非足跡 車軌所及未 有知其國俗殊方者也

自虞暨周 西戎有 白環之獻 東夷有 肅慎之貢 皆曠世而至其遐遠也如
此及漢氏遣張騫 使西域窮河源經歷諸國遂置都護 以總領之然
後西域之事 具存故史官得 詳載 焉

魏興 西域雖不能盡至其大國
龜茲 于ゥ 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師 之屬
無歲不奉朝貢 畧如漢氏故事

而公孫淵 仍父祖三世 有遼東
天子爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷 東夷不得通 於諸夏
景初中 大興師旅誅淵 又潛軍浮海 收樂浪帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服

其後 高句麗背叛 又遣偏師致討窮追極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭 東臨大海
長老說有異面之人 近日之所出 遂周觀諸國
采其法俗小大區別各有 名號可得詳紀

雖夷狄之邦 而俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次其國列其同異 以 接前史之所未備焉
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/04(日) 22:24:58.48
>>406
5千里の くだりって 裸国 黒歯国 のしょうかいのあとだよな
あれはぼくは この 島々の周回が 5千里だとおもってる 倭人の国だろ 女王の国が周回5千里とはかいていない
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 08:50:28.97
>>547 渡海千里と去女王4千里ってとこ読んだ?

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里  
は、倭人伝 結語
240年 梯儁は金印印綬の為 卑弥呼宮を訪れた。
倭王とした卑弥呼の国がどれだけであるかを 参問した。

梯儁の行程は >>3 
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
これが、自郡至 女王國 萬二千餘里 の全行程である。
あとは女王国の地勢を記している

所属国は列記の全21王国、此女王境界所盡 可七萬餘戸 である。
この首長国連邦には名前が無い。梯儁が21国の漢字化の時、邪馬台国と名付けた。
上陸後2千里、邪馬国にあった、卑弥呼の王宮が命名の由来であろうと考えられる。

参問 の主語は梯儁 
女王国は九州島の上北部2千里で 周旋可五千餘里
たったそれだけの国だった。 小国である。

中国での倭の認識は、未知の東渡海千里も倭地、
去女王4千里九州南の種子島、遥か船行1年の小笠原も倭人国なのである。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 09:32:12.64
倭人伝 結語 のついでに、倭人伝導入文の 一席w

今 使譯所通三十國  に奴国が二つあるってさw
>>2 247年張政の行程 と
>>3 240年梯儁の女王国印綬の際の報告
この段落、が読めてない。

247年張政は奴国王 難升米 245年の黄幢 檄告諭の為に渡航
伊都で駐留させられ、新王 壹與に檄告諭 した。
でも、奴国までは行った。 ことにしなければならない?

240年梯儁 は陸行一月の行軍で奴国を過ぎた。
難升米 は魏使を歓迎しただろうが、王宮に向かう往路にあって
そこが奴国はどうかは、命名以前であれば領主の国境を知る必要は無い。
女王の国勢、21王国を参問 記録した。奴国は有る。

奴国は一つだが、倭人伝に2回出てきて当たり前なのである。
狗邪韓國 對海國 一大國 末盧國 伊都國 不彌國 狗奴國 投馬国 邪馬台国
は、使譯所通三十國 を構成するが、女王属21国には無い。

女王に属さない国、島、または単なる王の無い地名、である可能性が高い。
投馬国 邪馬台国 は、領主国では無く、大義での国名である。
247年は伊都国に一大率が設置された際の戦乱で、
出来た国、消えた国は有るかもしれない。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 10:52:16.81
>>542
>行程に古い記録が入る余地は無い。 
>魏使の探検、魏での使の譯は2回 しかない。

後漢のときの記録があるだろ?
その時には末盧国に上陸して東南陸行してたんだよ
そして、それは伊都国行きではない
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 10:56:21.01
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い

旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読

北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 12:39:15.16
魏志倭人伝の 魏使の旅程記事に混乱 は無い。
ただし、>>4 計其道里當在會稽東治之東 は、文言改変によると思われる破綻が有る。

魏使の行程は
>>2 247年の張政の行程 倭人船に便乗 伊都国(奴国、不彌国)まで、1万5百里
>>3 240年の梯儁の行程 魏軍の行軍 水行30日陸行1月=1万2千里 南界女王宮まで
という、魏時二回の使譯、二件の使用交通経路と年代差の有る、別の行程である。

後漢のときの記録(後漢書、成立は400年以降)
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
で、倭國之極南界也 は後漢書編者が魏志を読んだため、奴国情報が混乱している。
金印の奴国(委奴国)は博多湾〜福岡平野、240年の女王宮が筑紫の極南界である。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 15:39:37.33
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 18:10:13.58
>>554
邪馬台国は、240年の梯儁が金印紫綬で訪れた時の筑紫21国連合の名前。
歴史上、現代邪馬台国論争をのぞき、他の意味で使われたことは無い。

まじめに、日本の古代史を論考する上では、無用だし無かった、で良い。

倭人伝、三国志は、韓国では禁書とすべきであり
200年当時、歴韓国乍南昨東の投馬国=珍島から釜山が倭人国であったと言っている。

まあ、広開土王碑でも350年、百済新羅 建国の背後に倭国は消せない。
朝鮮は日本の兄の国、百済が、日本に文化を伝えたニダ、がデタラメになる。

アタシは相当遠慮してホント―の事を言っているが、
朝鮮民族形成については、百済との直接、直系性は薄いようだが、
大韓帝国は、古代韓の この歴史を背景に大日本帝国が命名建国した。

日本人は歴史認識を改めないと、東亜で歴史の話はできないのではないかな?
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 18:22:08.05
>>556
>邪馬台国は、240年の梯儁が金印紫綬で訪れた時の筑紫21国連合の名前。

また根拠なしのでたらめを断言してるww
これだから九州説はw

九州北部から水行陸行合わせて2ヶ月かけていく遠地の王とがある国が邪馬台国だよ
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 19:09:08.95
>>557
240年 魏軍、魏船で 金印紫綬で訪れた梯儁が
九州上陸後、瀬戸内海で船を乗り換える、そんな実現可能性があるか?
航路形成以前に魏は238年楽浪帯方占領、公孫氏追討戦終了で
240年卑弥呼への印綬に向かうことができた。

しかし、245年に韓の平定戦が有り、太守戦死、
倭は、魏帝の黄幢の下、三国志参戦の檄に応えなかった。

卑弥呼は、親韓、楽浪帯方敵対の三国志における、
刺史の如しである一大率の支配下に下った。

読みたくないものは読めないはずなので
ヒントとして列記しておくが、倭人伝ミスリードのキーワード

使譯は二回、從郡至倭は使による説明に拠る、
歴韓国乍南乍東は韓を過ぎ倭人国南岸を東行 、
魏行程中の官有は使が雇ったガイドでヒナモリは張政と同行、
丗有王は卑弥呼属21王、
郡使往來常所駐は張政のみなんで変であり郡使は女王属王の使、
水行南至投馬國は南岸倭人国、 
陸行一月は二千里、列記21国が此女王境界所盡、
黄幢は行程の旗に従い戦う軍の証、檄は皇郡に参戦せよの意、
一大率=刺史は地域王卑弥呼の上位の中央司令官、ということ。
で、韓方可4千里、対馬壱岐間が千里じゃない、は実文なんだから無理だろ?

これらを疑問無く理解し、倭人伝を読めた時、
結語=参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
が、金印紫綬の邪馬台国女王卑弥呼が、
倭王とは程遠い九州筑紫の小国の王であった、
と言う、帯方郡の間違いを指摘していることを 理解できる。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/05(月) 20:28:17.25
ぶちまけちゃったけど、良い感じなんでコピペ用に修正w
キッドさん、よろしくw

読みたくないものは読めないはずなので、更生のヒントとして
倭人伝論争をミスリードして来た キーワードを 列記しておく。

魏時の使譯は二回、從郡至倭は 使による説明に拠る2回の渡航。
歴韓国乍南乍東は、韓を過ぎ少し南で倭人国南岸を東行するの意。
行程中の官有は 魏使が雇ったガイドで 卑奴母離 は乗船で後も張政と同行。
丗有王皆は卑弥呼に属する21王国の王=自称大夫。
郡使往來常所駐は、伊都へ来た郡使は張政のみ、郡使は女王属王の使とするべき。
南水行20日 至投馬國は半島南岸倭人国、 
陸行一月は二千里、列記の21国が女王国形成する全ての国 此女王境界所盡。
魏は戦国王であり、黄幢は皇帝に従い戦う軍の証、檄は皇帝軍に参戦せよの意、
一大率=刺史は 地域王卑弥呼の上位の中央軍司令官、ということ。
で、里程、韓方可4千里、対馬壱岐間が千里じゃない、は実文なんだから無理だろ?

これらを疑問無く理解し、倭人伝を読めた時、
結語=参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
が、
金印紫綬してしまった邪馬台国女王 卑弥呼が、
倭王とは程遠い九州筑紫の小国の王であった、と言う、
帯方郡の間違いを陳寿が指摘していることを 理解できる。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/06(火) 16:53:28.67
倭人伝をトンデモ解釈した長文書いてるのは同一人物だろ
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/06(火) 23:06:36.51
キナイコシよりは面白いし筋が通ってるからよし
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/06(火) 23:14:05.01
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/15(木) 21:59:34.59
もしかしてだけど?
倭人伝の話し、したいヒトって
もはや、居ないんじゃない?
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/15(木) 22:17:21.50
文献で240年に金印紫綬に向かった梯儁の行軍で
投馬国5万戸、邪馬台国7万戸 は 確かに有った国。 でしょ?

これは 247年の張政の報告では 既にない。
卑弥呼の墓は有った。
で、
魏時の 使譯は この二回しかない。

ちゃんと読めば良い。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/15(木) 22:18:09.18
おんなーおんなおんなーおんなーおんなおんなおんなー

みたいな言い方すな
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/15(木) 23:06:32.27
邪馬台国が畿内にあろうが九州にあろうが、卑弥呼がじつに国際感覚に優れた女王であったのは事実だな。
公孫淵が魏によって討たれて即、卑弥呼は魏に朝貢してる。
公孫氏の滅亡は、おそらくは呉と通交していたであろう邪馬台国の存亡にも関わる出来事と捉えたのだろう。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 00:16:31.64
卑弥呼は天津神か国津神かそれともそれ以外か。
なぜその視点で見ないんだろう。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 00:24:06.60
>>569
「制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 」

倭国から自主的に訪れたのではなく、先に帯方郡から倭国に役人が来て、
その指示に従って使いを送ったと読める
0572日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 01:27:13.12
倭国大乱で国津神が筑紫を追われ、代わりに即位した国津神が卑弥呼だと思っている。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 01:33:54.75
>>569
国際感覚に優れてるというより
まず前提として日本以外に陸があって
高度な文明があるという情報を持っていたのが凄い
その上での国際感覚
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 06:46:06.56
>>573
現代人の我々が思うより遥かに、古代倭国(阿波)の海人族の「航海術」と「勇気」が優れていたってことさ。  @阿波
0575日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 07:43:13.63
金印って制作に2年くらい掛かるんだろ?
なんで魏は倭王が使いをよこすことを事前に知ってたんだ?
0576日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 08:08:33.85
漢倭奴国王
親魏倭王

漢はなぜ国王とし、魏は王としたのか
0577日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 08:14:20.73
>>575
そんなにかかるわけがない。
印面のデザインの承認に数日、作業に数日。
手続き諸々で数週間というレベルか。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 08:23:38.20
>>577
現代の機械彫でも貴金属なら半日かかるのにwww
まさか無刻の金印台を在庫してたとでも言うのか?
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 08:42:17.10
>>578
漢委奴国王印のツマミは使いまわして修正しているらしいから、在庫のようなものはあったということだよ。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 08:48:13.44
>>581
漢の金印が何個現存してるか知ってるのか?
原則的に都度制作だバカ
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 10:02:43.37
ラクダのつまみから蛇に作り変えた形跡あるって当の福岡市博物館の人がテレビで言ってたぞ
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 10:12:56.90
>>584
それって本来は南方に与えられるはずの蛇鈕である理由の説明を聞き間違えたんじゃないかな?

http://museum.city.fukuoka.jp/gold/
鈕のかたちは与えられた民族の領土によって異なります。漢帝国内の皇太子や高官などには亀の鈕の印が与えられますが、匈奴(きょうど)などの北方諸民族の王には駱駝や羊の鈕、蛇の鈕の印は南方の民族に与えられました。日本列島は南方の国と考えられていたようです。また、蛇の鈕をもつ金印としては中国雲南省の石寨山(せきさいざん)の6号墓で出土した「?(てん)王之印」が知られています。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 10:18:58.05
ラクダ型のストックを使用したんだろ。
倭は南方だから、作り変えて利用しようと。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 12:06:59.14
>>585
つまみがラクダの頭落とした形で蛇にはない体毛の表現も残ってるってさ
諸説ありって番組名だったと思う
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 13:16:49.84
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/16(金) 22:53:59.41
稲作は江南から伝わったものでは断じて無い。
これは白日別とも呼ばれた「漢委奴国王」の金印をもらった博多湾沿岸、伊奴国で始まった新式農法。
「イナ作」と呼ばれるようになったのは伊奴国で始まったから。
記紀に出て来る「稲城」も稲のワラ束を積んだ城などではない。伊奴国式の堅固な城。
しかし、伊奴国は半島から侵入してきた渡来人たちによってその傘下に置かれるようになる。
半島から侵入してきた連中は肥沃な福岡平野でなく、湿地帯の多いその西部に入植した。これが伊都国。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/17(土) 01:50:11.87
>>591
> 伊奴国は半島から侵入してきた渡来人たちによってその傘下に置かれるようになる。
法も規律もなく下半身丸出しの土人がどうやって海を渡り、法と刑罰とそれを執行できる組織力がある倭人を傘下に置くことができるの???
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/17(土) 09:24:04.79
蛮族が文化レベルの高い国を襲撃して成り替わるのは世界史のあちこちで見られるな。邪馬台国もたぶん元は蛮族の国。
伊都国を作ったのが半島から来た連中だったとしても彼らは倭人だろう。半島南部にいた倭人が移って来た。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/17(土) 23:05:19.30
>>594
> 蛮族が文化レベルの高い国を襲撃して成り替わるのは世界史のあちこちで見られるな。
世界史から例を挙げてみて
あ、その前に蛮族の定義を辞書で引いてからにしてな
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/17(土) 23:21:58.74
>世界史から例を挙げてみて
>あ、その前に蛮族の定義を辞書で引いてからにしてな


このスレって何だかんだ言ってけっこうレべルの高い人たちが書きこんでるなあって思ってたんだけど
こういうレべルの人もいたんだな
俺もバカにされるの覚悟で自説を書きこんでみようかと思ったわ
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/18(日) 00:08:05.43
>>596
まぁでも発展途上文化と野蛮文化は文明レベルが同じでも全く違う文化だからな
>>595の2行目はそういう意味だと思うぞ
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/18(日) 00:10:24.51
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/22(木) 11:58:46.87
2018年9月29日に行われたいせきんぐ宗像歴史講座「邪馬壹国への道邪馬台国研究の新視角宗像は末蘆国」の2つめの講演「魏志倭人伝をひも解く」現在の有力説、通説とされている物の解説、疑問点
https://youtu.be/RQZ7adj3EFg
0602日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/23(金) 06:11:39.80
>其國本亦以男子為王 
>住 七八十年

「住めること、70〜80年」ってのは
「統めること、70〜80年」の誤字だよなぁ。

明らかに聞き違えてるか、
万葉仮名の読み違え、
当時の交流方法が透けて見える。

ただ、70〜80年の統治期間は長すぎる印象がある。
まだなんか誤字が有るか……
あるいは、10歳ぐらいで形式的に即位した人物が
ずっと王でいて、老衰で亡くなったパターンか?
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/23(金) 08:39:04.05
いや、だから倭語でやりあってたんだろうって話。
倭人が漢語や漢文を使ってやりあってたなら、
こういうミスは起きない。


たとえば、あんたが英語圏でやりとりをしないと
いけなくなったとして。あっちに通訳を用意してもらって
日本語で会話するか。自分で英語をしゃべるかするとする。

「茶碗が欠けた」と伝えようとして、「茶碗が駆けた」とか
「茶碗という字が書けた」とかで伝わってた様子なら、
第三者にも「あ、日本語で会話してたんだな?」ってわかる。

あるいは、「私は一般的な成人男性です」と英語で伝えようとして
「私はアダルトマン将軍」と伝わって様子なら、
第三者にも「あ、無理して英語しゃべってたんだな?」ってわかる。

実際のところ、倭人が倭語か万葉仮名を使って
やりとりしてた形跡は、他にも在る。
倭人伝では、説明不足の(倭語の)固有名詞が
ゴロゴロ出てくる。
もし、倭人が漢文で応対してたなら
ああ言うのも逐一、漢文に対応してたはず。

おそらく、倭人が倭語で会話してたのを通訳が
そのまま載せてる(通訳が一々意味を問いただすのも
面倒でやってなかったんだろう)。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/23(金) 10:25:17.58
>>604
その頃倭人が字を書けたとは思えない。
書いたものが残ってる例があるのか?
筆記用具は何?
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/23(金) 10:54:36.07
倭語なら字が書けなくても成り立つ話
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/23(金) 11:08:01.86
>>602
住・「人」+音符「主」、「主」は灯火の炎を象り、じっと一箇所に止まっていることを意味。人が一箇所に止まり「すむ」こと。

男の王の状態が70〜80年続いたってことでしょう
男の王が一代限りとは書いてないし何人か代わったかもしれないし
二倍年歴の可能性もある。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/23(金) 12:19:01.43
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/23(金) 14:22:01.26
>>609
一人の王だとは書いてない。
三代くらいだな。
筑紫の日向三代。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/23(金) 18:51:26.02
>>610
最初からそう言わないと通じないだろ
そもそも倭語か万葉仮名なんだから万葉仮名と断定してるわけじゃないんだからな
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/24(土) 15:39:45.06
>>614
魏志倭人伝だとどの国に相当するの?
0616日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/24(土) 16:25:10.21
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/24(土) 18:37:29.98
>>615
奴国でしょ。
0618学術
垢版 |
2018/11/24(土) 18:41:53.24
日本は有能な人材や兵力が海を越えると少ないのに、無茶をするから、敗戦が積もり、
能力が下がったり正当に評価されないことが多い特殊な地形の国家だ、外国の用兵を雇ったり、
敵陣でねがえりの刑を討ったりする器用さがないな。
0619学術
垢版 |
2018/11/24(土) 18:42:18.91
うったり
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/25(日) 12:02:07.60
>>620
倭国の経済の中心だな。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 09:22:25.10
>>614
場所的には奴国だが、
石が国産じゃないとすると一大率遺跡

王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆臨津捜露 傳送文書
の検閲が、実際にあったことを、裏付ける。
ホントに250年以前なら、梯儁か張政の硯だなw

墨は土器のかけらでも擦れるし、竹筆でも書ける。
硯が文書が有った証じゃなくて、中国系貴族文化 書の導入の証でしょ。

相当数の亡命が推測できる313年以前に、魏の郡使が来たのは2回だ。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 09:35:00.35
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 10:19:26.04
>>623
>石が国産じゃないとすると一大率遺跡


一大率が「常所駐」していた伊都国は「感田上原遺跡」や「帯田遺跡」などが在る直方辺りだろう。  @阿波
0626日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 10:36:38.10
>>625
一大率は女王国以北に置かれたんだよ
伊都国に一大率なんていないよ。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 11:53:25.19
>>626
>伊都国に一大率なんていないよ。

じゃあ、↓これはなんと訳すのかね?  @阿波
「東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」
0630日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 14:12:00.04
>>628
楽浪帯方だし、船一艘30人、領主級の船で×5くらい
軍師や文官、武官、教官で士官出来る漢人だと、2〜30人かな?
職工もその倍くらい。 
牧童みたいのは同時期でも高句麗からだけど1000人単位じゃないかな?
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 14:53:03.73
>>630
その千人が対馬海峡を無事に渡れる確率って何%くらいあると想定してる?
0632日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 15:18:47.76
>>631
楽浪帯方の遺民は、制海権の有った倭人が支援するかどうか、
資本力とかの問題もあるだろうけど
高句麗人については、倭人が強制連行してる場合も含めて
渡航よりも、牧場経営が成功するか? って問題が、優先じゃないかな?

各島々、要所に遊牧しつつ、400年辺りには馬も含めて甲斐辺りまで進出できてる。
歴史の結果として、渡航の成功率は問題になってないと思うけどね。

まあ、天気の見方知ってる海神族の支援が有れば、
日本海ルートも含めて、80%くらいじゃね?
0633日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 16:41:39.56
>>627
陸を行くこと東南方向に五百里で伊都國に到着する
官を爾支といい副官を泄謨觚柄渠觚という
千戸余りの戸数がある
魏の世には倭王卑弥呼がいた
倭の国々はみな全て女王国に統属していた
郡の使者が往来時には常にとどまる所である。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 16:43:41.71
遺民が海を渡る理由がないってのが一番のポイントだと思うんだけど
0636日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 16:59:59.90
三国志の魏書で世有とは魏の世を指しています
代々と訳すのは伊都国の王を複数にして
皆統屬女王國の皆を伊都国の王としたいが為の捏造です。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 17:02:31.01
>>636
捏造ではなくて解釈の一つでしょ?
アンタが正しいとは言い切れないはず。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 17:08:31.44
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 17:53:56.61
奴國のメモリアルな地から北西に100里の伊都國
そして その伊都國の西100里に始まる不彌國
この2國は女王境界の外側にある淮系の民の占領区
はんこもらった難升米が爾支の伊都國王で伊大率なのね
0640日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:00:28.46
>>636
>>2 は、247年張政の報告を基にした行程説明です。
国 とされるのは、島や港町、集落の名前です。

ただ奴国だけは、王=大夫、領主の有る国です。 
247年の通過立ち寄り都市と 240年の女王属国で文中2回出てくる理由です。

伊都は、240年梯儁が倭王印綬の際、参問した所属の21王国に含まれません。
247年までに王ではない一大卒が進駐した新首都です。帯方から満500里です。
240年卑弥呼の王宮は極南界にありました。帯方から満二千里の女王の所都です。

丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐 と
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯

は、247年に張政が見た、この新首都の状況を説明しています。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:07:59.13
>>639 名前:日本@名無史さん 2018/11/26(月) 17:53:56.61
>奴國のメモリアルな地から北西に100里の伊都國
>そして その伊都國の西100里に始まる不彌國 ←← 原文と合わないけどな。伊都国の東だろ。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:11:47.05
>>629
>常駐してるのは郡使で率じゃない。

じゃあ、↓これはなんと訳すのかね?  @阿波
「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」
0643日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:12:25.59
遂周觀諸國 采其法俗・小大區別 各有名號 可得詳紀

遂周觀諸國できる条件が整うのは247年以降
遂周觀諸國できた結果様々なデータ採取ができた
そのデータ採取の結果が倭人伝・東夷伝に反映されている

魏使レポートに全面的に依存していたなどという説は明治時代の化石
0644日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:34:12.93
>>643
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

>魏使2回のレポートに全面的に依存して倭を初めて隨事、中華に紹介出来たんです。 

其後 高句麗背叛 又遣偏師致討窮追極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭 東臨大海
長老說有異面之人 近日之所出 遂周觀諸國
采其法俗小大區別各有 名號可得詳紀

魏時の使譯には、東夷の全体像を知り、俎豆之象 存中國
として、組み込むために、ただならぬ功績が有ったんです。

で、使譯は240年梯儁と247年張政の二回だけです。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:40:13.34
>>642
陸を行くこと東南方向に五百里で伊都國に到着する
官を爾支といい副官を泄謨觚柄渠觚という
千戸余りの戸数がある
魏の世には倭王卑弥呼がいた
倭の国々はみな全て女王国に統属していた
郡の使者が往来時には常にとどまる所である。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:47:37.96
>>645 慌て者

じゃあ、↓これはなんと訳すのかね?  @阿波
「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」
0647日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 18:55:04.96
噛み合ってない話に加わるのもなんだけど、
伊都国には王は居ない。

女王に属する諸国の大夫=21王や使者は伊都を往来駐留し施政に加わる。
郡使=張政(一回のみ)駐留させられ、王の文書、や王の土産まで検閲される。
三国志時代の刺史は、地域王の上位の中央進駐軍将軍である。

満二千里の女王の所都が、満五百里の伊都に移動したらこうなった。
240年と247年の国は場所は同等でも別の国に見えてないかな?
0648日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 19:15:28.39
>>644
反論になっていない
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 19:25:39.99
行程論も面白いが、247年の張政は敵国人としてわざと
陸行500里の僻地、末盧國 に上陸させられてないかな?
伊都では、臨津検閲でしょ?

伊都は、今津、早良、博多の範囲内
奴国に含まれるか 糸島国境の峠だよ。

松浦とか長崎、宗像、遠賀川地域
糸島半島以外は、邪馬台国の範疇じゃないと思うね。
周旋5千里可って、南北2千里だけど、九州東西3千里以上だろ?

250年以前の鉄器等の輸入遺跡的にも、
福岡、筑紫平野で治まってるんじゃないの?
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 19:33:37.12
>>648
ごめん、反論以前に話が理解不能だったかも?
明治時代の化石 って、なんのこと?

遂周觀諸國できた結果様々なデータ採取ができた
そのデータ採取の結果が倭人伝・東夷伝に反映されている
魏使レポートに全面的に依存していた
で、良い。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 19:35:07.73
>>649
倭人伝に逆らって、なんで末盧国から北西の糸島にいくのだ。
失格!
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 19:46:23.48
>>651
何の話?
末盧國=糸島半島北岸 ただの草ぼうぼうの僻地
から南東500里が伊都でしょ?
今津〜早良〜博多〜那珂川で遺跡出りゃそこが伊都。

硯、出過ぎてもうわからんね。
5尺刀は卑弥呼の将軍の墓じゃないかな?
0653日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:03:32.97
>>652
な〜んだ。ということは、那の津が伊都国だったのかい。
そりゃ大発見だ。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:07:48.20
350年辺りまでの九州遺跡は案外、その残り方が継続性が無く明瞭なんで
半島に配流させられた豪族が多いような気もしてるんだ。

壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺

は、九州平定以降、安曇族や宗像に土地を追われた領主に見えるし
亡命、配流でも後に 新羅王、百済王、にはなれそうな気がする。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:17:59.29
>>653
那の津は奴国中心でしょ?
聖地と言うか、糸島側に墓は多いとして
後に東国の一大率が首都機能を持つ伊都は
峠が有る都市側を見下ろす、早良で、ほぼ良いんじゃない?
卑弥呼の王宮は山門瀬高以南の山麓。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:37:55.17
>>655
ほう、そうか
伊都国は早良区あたりだったのか。位置的にも良好、眺めもなかなかで、船の出入りも見える。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:48:31.78
>>656

伊都国は千戸程度だから、「感田上原遺跡」や「帯田遺跡」 と、何度言えばw  @阿波
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 20:56:04.50
>>652
末盧國 = 糸島半島北岸 
そして、そこから南東500里の早良あたりが伊都国だな。しっかり覚えておくぞ。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:06:17.49
>>650
晋の初頭に佐著作郎として採用された陳壽の倭人に関する第一次調査は
倭人遣使からの聴き取り調査であった可能性が高い

東夷伝で記述されている各地の風俗記事には
数点に及ぶ一貫した視点が設定されていて
過去の資料に依存するだけでは東夷伝のような記事構成は実現可能ではなかろ
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:07:29.95
エッ、平原は放棄したの?
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:11:18.49
邪馬台国は宗像以東や呼子以西は含まない。 縄文系だ。
唐津も微妙、僻地過ぎる。 何度言えばw

そもそも九州は古墳化する、軍事帝国化してないし、
糸島早良福岡筑紫平野内だよ。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:24:30.68
>>658
>まさかの直方www


内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。 

伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。 

だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。   @阿波
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:30:28.58
>>663
で、その次は中津(那津)〜宇佐(不彌)あたりから船に乗って、阿波の邪馬台国を目指す・・・、
ま、んなところだろう。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:37:04.28
>>664
>で、その次は中津(那津)〜宇佐(不彌)あたりから船に乗って、阿波の邪馬台国を目指す・・・、


違う。

で、その次の奴国は「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」などがある「田川辺り」。

で、その次の不弥国は「築城五反田遺跡」・「上別府沖代遺跡」・「安武・深田遺跡」・「安武・土井の内遺跡」・「赤幡森ヶ坪遺跡」 などがある「築上町辺り」。

ま、んなところだろう。  @阿波
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:39:29.30
>>665
>出入国管理局なら沿岸部だろバカなのか?


伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。 

だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。  

バカなのか?   @阿波
0668日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:41:49.82
>>665
>出入国管理局なら沿岸部だろバカなのか?


大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路  出航地(平戸市周辺)

伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。 
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。  @阿波  
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:48:00.83
無茶苦茶書いてるな
末盧国は東松浦半島から糸島市の西部
魏使が上陸した場所は呼子湾か名護屋浦
そこからだいたい南方向に進み
唐津市街地からだいたい東方向に進む
500里(40km)で糸島市の中央に着く
糸島市の西側までは末盧国で東側が伊都国
そこから100里(8km)で奴国との国境の日向峠に着く。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:49:49.45
>>669
>それって四国に行かせるためだけの根拠付けやんアホの空論でしかない

だって、四国の「其山有丹」を見てるんだから、そんなイチャモン付けられてもwww   @阿波 
0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:51:57.31
>>668
百歩譲って上陸地点を福津市周辺とし、出航地を平戸市周辺としても直方を通る理由と意味がないぞ
象さんが通ったからとか言い出すのだけは勘弁してくれよ
0673日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:52:10.53
>>670
>末盧国は東松浦半島から糸島市の西部

無茶苦茶書いてるな
そんな所、対馬海流に流されて無理 と、何度言えばw  @阿波
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:52:59.08
>>671
丹は水銀鉱脈である必要はないんだぞ?w
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:54:16.65
>>672
>百歩譲って上陸地点を福津市周辺とし、出航地を平戸市周辺としても直方を通る理由と意味がないぞ

だから、伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。 
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
と、何度言えばw  @阿波  
0676日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:55:30.33
また「連投してるで」とされて5chから投稿拒否されたから、転写保存
>>457
>幅を広くする。 何事にもバランスというものがある。 溝も広がる。
仁徳陵があんだけ大きくて、周濠が幅1m だとしたら、なんかバランス悪くね。<

要は、遺族の個人の自由の問題。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:56:55.56
>>674
>丹は水銀鉱脈である必要はないんだぞ?w

九州ではベンガラらしいね。 九州の古墳って、ベンガラ使ってるのかな?  @阿波
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:58:12.64
>>673
対馬海流に流されて無理とか未だ妄想を言ってるの
馬鹿なのは分かってたけどしつこいよw
0679日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 21:59:23.33
>>677
赤色古墳はそうだよ
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:00:01.50
>>675
だからの使い方が間違ってるぞ
ちゃんと地図見てごらんよ
百歩譲った上陸地と出立地の位置関係と直方の位置関係を

そして長崎街道の成り立ちもちゃんと勉強しなさい
0681日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:00:34.06
>>678
>対馬海流に流されて無理とか未だ妄想を言ってるの

対馬海流に流されて無理と未だ気づかないの
馬鹿なのは分かってたけどしつこいよw  @阿波
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:03:47.57
>>681
海図も読めないのに生意気だなwwwww
0683日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:08:07.01
武寧王の誕生地が呼子の北方の加唐島
着地としての呼子・大友は古来継続的に機能している

ちなみに
穴門から流されたら対馬・金海方面に容易に行ける
0685日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:10:30.52
>>682
>海図も読めないのに生意気だなwwwww

海図が読めるのに頓珍漢だなwwwww  @阿波
0686日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:11:16.25
>>670 名前:日本@名無史さん 2018/11/26(月) 21:48:00.83
無茶苦茶書いてるな

>末盧国は東松浦半島から糸島市の西部
>魏使が上陸した場所は呼子湾か名護屋浦←←糸島中央に行くなら、当然今宿入港だ
>そこからだいたい南方向に進み    ←←あやしい、南東だな、、
>唐津市街地からだいたい東方向に進む ←←うそ、北東だぞ。
>500里(40km)で糸島市の中央に着く
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:14:57.92
丹の@阿波も色あせたな。
残念ながら、四国の丹は質が良くなさそうだ。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:17:59.70
>>687
>残念ながら、四国の丹は質が良くなさそうだ。

ウソはイカンぜよ。 全国から引っ張りだこだよ。  @阿波
0689日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:18:17.50
>>686
魏使は長い船旅をして来たんだ
早く上陸したいんだよ
昼間移動したんだから太陽の方角で自分達の進路を判断したんだ
太陽は時間と共に移動するから少しくらい方向がずれてても気づかないよ。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:20:00.17
>>689

無茶苦茶書いてるな   @阿波
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:25:05.57
>>670 名前:日本@名無史さん 2018/11/26(月) 21:48:00.83
無茶苦茶書いてるな

>末盧国は東松浦半島から糸島市の西部
>魏使が上陸した場所は呼子湾か名護屋浦 ←←糸島中央に行くなら、すぐそこの今宿入港だ
0692日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:37:30.27
>>683
壱岐から千余里ではないな。近すぎる。
壱岐から対馬と同じ程度の距離でないと記述に合わない。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:44:15.98
道里とは道程(みちのり)の説明だから迂回して島巡りするから良いのね
0695日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 22:57:42.56
まだ距離って逝ってる
小学校で算数やり直すべき
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 23:16:55.59
みなさん
狗邪韓国の港ってどこを想定してる?
對馬国の港、一大国の港も

当時の航海術として山島に沿うってのが定石だと考えると港の位置で距離は相当変わってくると思う
0702日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/26(月) 23:56:21.66
>>701
対海国ってどこね?
0704日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 01:08:25.78
海流と海岸線が現在と大きく違わないと仮定して

釜山から厳原港まで、魏志に記されているように山島に沿って航路を採った場合、135Km

厳原港から郷ノ浦までを現在就航してるフェリー航路と同じとしたら65km

四国推しの妄言通り福津浜を末盧国に比定すると、烏帽子島→柱島→相島→曽根鼻を経由し、80Km(相島で70Km越え)

呼子港の最深部までが38Km

名護屋城東岸で36Km、名古屋浦最深部までが38Km

加唐島経由で伊万里側に舵を切ると鷹島で50Km、伊万里港で65Km

加唐島を経由しない場合は伊万里湾最深部までが65Km

加唐島を経由せず、平戸を抜けると佐世保の神崎鼻あたりが65Km
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 02:27:44.99
泡が>>704にどう反論するか楽しみ
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 02:48:05.35
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 06:32:29.59
>>705
>泡が>>704にどう反論するか楽しみ

なにに反論しろと?  @阿波
0708日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 08:32:42.64
泡の説は、4世紀以降開かれた沖ノ島経由ー宗像女三神ー阿波ー畿内のルートのモデイファイだ。
つまり三世紀倭人伝の壱岐から、東に流れて、後世の秦氏の秦国・応神朝ルートに乗り換えを計るわけだ。
そうすれば、途中途中に、三〜五世紀ころの遺跡が出てくる。
泡商人お得意のいいとこどりだな。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 08:44:10.49
>>708
>泡の説は、4世紀以降開かれた・・・

3世紀以前から開かれているよ。


>つまり三世紀倭人伝の壱岐から、東に流れて、後世の秦氏の秦国・応神朝ルートに乗り換えを計るわけだ。

3世紀以前から開かれているよ。


>そうすれば、途中途中に、三〜五世紀ころの遺跡が出てくる。

そうしなくても当然として、途中途中に、三〜五世紀ころの遺跡が出てくる。


>泡商人お得意のいいとこどりだな。

泡商人お得意は阿波踊りだよ。  @阿波
0710日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 09:00:59.93
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 09:06:02.89
>>704
>釜山から厳原港まで、魏志に記されているように山島に沿って航路を採った場合、135Km

魏志に山島に沿ってなんて書いてない。

「從郡 至倭循海岸 水行 韓國 乍南 乍東」は狗邪韓国までの「七千餘里」で
そこからは「始度一海千餘里 至對海國」だから
別に島伝いに進んだとは書いてないし、むしろ「始度一海」なんだから一直線に海峡横断したとの意味だと思うが。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 09:13:13.96
沖ノ島ルートが三世紀以前から開かれていたのなら、
何も壱岐まで大回りの回り道することはなかろう。壱岐に立ち寄らないための沖ノ島ルートだったんだからな。
この沖ノ島ルートを開拓したのは四世紀・応神秦氏一族。香春岳の鉱山開発でも大金を手にし、宇佐神宮も修繕した。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:01:15.75
>>712
>沖ノ島ルートが三世紀以前から開かれていたのなら、

沖ノ島ルート?
倭国(阿波)へは、壱岐→相島→福津・宗像ルートなんだがw  @阿波
0714日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:07:20.49
>>713
な〜んだ、壱岐→相島→福津・宗像ルートにこだわってるのか。
博多の強国那国が有ったのに、そんな手前勝手なルートは泡。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:22:54.48
>>714
>博多の強国那国が有ったのに、

「博多の強国那国」?  なにそれ?  @阿波
0716日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:25:41.79
那国も知らぬようじゃ、泡。。。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:30:51.12
>>716
>那国も知らぬようじゃ、泡。。。

そんな妄想語られてもw 泡。。。  @阿波
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:37:12.77
古代筑紫の輝かしい歴史を、小ばかにするのか、、、
こんど、玄界灘・博多湾で泡の泥舟を見かけたら、残らず叩き潰してやるからな、、、
0719日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:41:33.13
奴国だな
0720日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:49:29.64
>>718
>古代筑紫の輝かしい歴史を、小ばかにするのか、、、

「古代の筑紫」と名が付くのは8世紀からだよ。


>こんど、玄界灘・博多湾で泡の泥舟を見かけたら、残らず叩き潰してやるからな、、、

さすがの倭国(阿波)の海人族でも、泥舟では玄界灘・博多湾へは行けないよ。  @阿波
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 10:50:43.05
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 11:13:04.00
泡は、古代筑紫も小ばかにしてるようだが、
現代九州も小ばかにしてるんじゃないだろな。
天皇家の行事に、泡のどこやらがいささかのかかわりがあるからといって、それを鼻にかけてるんじゃないのか??
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 11:53:59.79
>>722
>現代九州も小ばかにしてるんじゃないだろな。

現代九州は筑紫忌部のお陰だよ。


>天皇家の行事に、泡のどこやらがいささかのかかわりがあるからといって、それを鼻にかけてるんじゃないのか??

図星だ。 お気の毒。  @阿波
0724日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 12:21:17.01
神輿を担いでいるからといって、そういばるこたーねえんだ。
神輿に乗る人と、担ぎ人では、まさに天と地の差あり、、。そのうち天からご沙汰も有ろう。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 12:36:50.67
>>724
>神輿を担いでいるからといって、そういばるこたーねえんだ。


倭国(阿波)は天皇家の故郷なんだから、そんなに妬まんでもw

だから、往古より天皇家は倭国(阿波)に「麁布」の調進を求めてきている。  

※「調進」とは、朝廷から頼まれて作り納める意味。  貢進とは大違いだから。  @阿波
0726日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 12:40:56.78
なんだ、パシリだったのか
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 12:47:09.36
>>726
>なんだ、パシリだったのか

倭国(阿波)は天皇家の故郷なんだから、そんなに妬まんでもw   @阿波
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 13:48:25.14
※「調進」とは、朝廷から頼まれて作り納める意味。  貢進とは大違いだから。  @阿波

要するに、租庸調の調だろ。調なら、全国から天皇のもとに届いてる、珍しくもない苦労のタネだったわ。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 14:07:44.59
>>728
>要するに、租庸調の調だろ。調なら、全国から天皇のもとに届いてる、珍しくもない苦労のタネだったわ。

倭国(阿波)が天皇家の故郷だからといって、そんなに妬まんでもw   @阿波
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 15:54:17.79
>>711
それは対馬海峡の海流を知らない上に航海術を考慮しない暴論
0732日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 15:58:59.34
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:04:40.86
>>731
そこは座標とする島がないからな
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:21:26.58
グレートジャーニヤー関野吉晴の研究では海図、羅針盤のない時代の航海は沿岸沿いか山島を目視で航路を取る以外にないとしている
日本地理学会の研究では海図や方位磁石が用いられたのは隋代以降で、風まかせ&人力漕の時代に天文測量は意味をなさないことも判明している
0736日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:23:22.94
>>734
島影の見えない場所へは進路を取らない
座標のない進路は航路ではなく漂流でしかない
0737日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:26:04.77
>>704
>釜山から厳原港まで

釜山から厳原港へは、対馬海流に流されて無理だから。
巨済島以西→厳原港だよ。
帰りは厳原港→釜山だけどね。  @阿波
0738日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:42:56.07
>>737
航路を語るならヨットの知識くらい持ってからにしたほうが良い
プサン→厳原は東に航路を取り、右に御岳を目視しながら進航する
0739日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:47:42.92
>>738
>航路を語るならヨットの知識くらい持ってからにしたほうが良い

航路を語るなら現代の帆船?と弥生時代の手漕ぎの違いくらいの知識を持ってからにしたほうが良い  @阿波
0740日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:49:30.85
>>739
弥生時代はすでに帆船だぞw
むしろ離着岸以外でオール使うと思ってることが机上の空論
0741日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:51:39.31
>>739
泡よ
それはさすがに馬鹿すぎる
縄文初期から航海には帆船しかない
手漕ぎとか河川と公園の池くらいでしか使わんぞwww
0742日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:51:51.83
>>740
>弥生時代はすでに帆船だぞw

やけくそのウソはイカンぜよ。  @阿波
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 16:54:35.64
>>741
>縄文初期から航海には帆船しかない

やけくそのウソはイカンぜよ。  @阿波
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:02:58.41
>>739
いや4000年前から帆船はあるし、海に出るなら帆船一択
手漕ぎで海峡渡るとかどんな腕力だよ(笑)
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:14:32.77
>>750
弥生時代と思うから帆船がないと思う人がいる。
三国時代と思えば赤壁もあったし、帆船があって当然と感じるかな、と思っただけ。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:16:11.04
>>751
いや縄文後期から日本は帆船文化だし
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:16:52.85
失礼
縄文後期から日本「も」帆船文化だし
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:21:49.52
>>746
>手漕ぎで海峡渡るとかどんな腕力だよ(笑)

海人族はマッチョだよ。  @阿波
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:28:50.95
>>755
やけくそのウソはイカンぜよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:32:39.51
>>756
>やけくそのウソはイカンぜよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

NHKの放送見てないのかね?  @阿波
0758日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:34:35.05
>>757
嫌味も分からんのか?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:37:26.41
>>758
>嫌味も分からんのか?

分からん。  @阿波
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:45:14.98
>>755
つべでオックスフォードVSケンブリッジの手こぎボートレース見たら良いよ

波の立たないテムズ川をカーボン製の高速ボートに鍛え上げられた手漕ぎプロ8+1人が乗り込んで7Km進むのに30分もかかる
英国の名門同士のプライドを競う名誉ある伝統レースでも手漕ぎの限界がこれ
海で使える手こぎボートなんて沿岸部で遊ぶ一人乗りのシーカヤックくらいだよ
0763日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:45:47.19
>>760

いや、長崎?出航のやつ。 南の貝がどうたらこうたら。  @阿波
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 17:49:26.81
>>760

渥美半島でも検証してたんだね。  @阿波
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:00:50.27
>>765
>手漕ぎじゃどうやっても海流を超えられない=外洋航行は不可能

だから、対馬海流に流されて呼子や唐津は無理 と、何度言えばw  @阿波
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:13:44.51
>>767
>いや手漕ぎで航海してた可能性を全否定さてるんだけどwww

いや手漕ぎで航海してたマッチョ海人族が全肯定さてるんだけどwww   @阿波
0769日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:17:13.02
>>768
それは君の希望を込めた妄想
物理的にあり得ないし、イギリスの何とかってレースの実例でも分かることでしょう
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:19:08.82
>>704
>釜山から厳原港まで

釜山から厳原港へは、対馬海流に流されて無理だから。
巨済島以西→厳原港だよ。
帰りは厳原港→釜山だけどね。  @阿波
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:20:19.61
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:20:46.06
>>769
>それは君の希望を込めた妄想

それは君の希望を込めた願望だよ。  @阿波
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:21:47.99
>>770
だから違うってw
釜山港から東に進んで対馬島の東から厳原港に入るしか航路は存在しない
まさか魏船にはオーパーツ的な推進力でもついてたとか言い出す気?
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:22:45.56
>>770
そこまで科学を否定するならソースを出さなきゃね
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:24:22.13
>>771
>マッチョな海人族ってムナカタ族を想定してるの?

ムナカタ族って倭国(阿波)の海人族のことかね?
倭国(阿波)の海人族に限らず、全国の海人たちのことだよ。  @阿波
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:26:06.52
>>777
狗邪韓国から九州に渡るのに四国の海人族を引っ張り出すの?
スゲーね魏
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:27:53.01
>>774
>釜山港から東に進んで対馬島の東から厳原港に入るしか航路は存在しない

だから違うってw
釜山港から東に進んで対馬島の東から厳原港に入れない と、何度言えばw  @阿波
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:29:47.73
ついに、@阿波は破綻した、、、
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:30:01.05
>>776
>マッチョな海人族が手漕ぎで海流を「越え」られた証拠は?

大陸の玄関口 「世界文化遺産」 福津・宗像。  @阿波
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:31:33.23
基本的に邪馬台国を語る者の多くが科学的根拠より地元愛や文献を優先しすぎるのが一番の問題
0787日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:33:43.36
>>779
>狗邪韓国から九州に渡るのに四国の海人族を引っ張り出すの?

別に魏がスゲー訳じゃないよ。
スゲーのは鉄鍛冶材料を取りに行っていた倭国(阿波)の海人族だよ。  @阿波
0789日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:36:32.66
>>786
>だから帆船じゃんwww

対馬海流を利用して、手漕ぎで十分。
バカなのか?  @阿波
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:36:36.82
頼みの畿内説破綻を目の当たりにして、代役を買って出た@阿波もドミノ破綻した、、、
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:40:46.48
>>788
>対馬の西から入るなら、徳川里まで行かなきゃ無理

徳川里ってどこ?  @阿波
0793日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:56:01.47
しかし、いずれにせよ魏使の船は帆船だったんじゃないか?
倭側から帯方郡へ行くときはさておき。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:56:15.72
>>789
泡が住んでるのは自転が逆のパラレルワールドなんだね
そりゃ話が噛み合わないわけだ♪
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 18:56:35.47
>>791
>お前の言う対馬海流でどこなんだよ

壱岐→福津。  @阿波
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:02:02.12
>>795
はぁ・・・
そこは玄界灘な
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:03:12.50
>>793
>しかし、いずれにせよ魏使の船は帆船だったんじゃないか?

それは君の希望を込めた願望だよ。  @阿波
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:06:49.02
>>797
魏の船もマッチョな海人族の手漕ぎ船なのかwww
パラレルワールドの話はパラレルワールドの5ちゃんに書き込みなよw
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:07:01.25
>>796
>そこは玄界灘な

はぁ・・・
だからなに?  @阿波
0801日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:11:52.40
>>799
>魏の船もマッチョな海人族の手漕ぎ船なのかwww

魏の船でも川船は帆船だよ。  @阿波
0803日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:18:36.28
>>802
どうしたの?大丈夫?反論になってないよ?  @阿波
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:21:02.02
プサンから厳原港に入るには東側から入るしかない→海図を見れば一目瞭然
どうしても西から入るなら済州島の南東沖まで出て対馬海流にならなければならない
0805日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:26:58.00
>>804
>どうしても西から入るなら済州島の南東沖まで出て対馬海流にならなければならない

いや、済州島まで行かずとも、突山島で十分だよ。  @阿波
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:33:09.50
>>806
>対馬→壱岐は問題ないのか?

問題はある。 かあり厳しかっただろう。    @阿波
0808日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:33:29.24
>>806
厳原から郷ノ浦なら対馬暖流に乗れる
それこそシーカヤックでも渡れる
0810日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:38:05.04
>>809
>妄想くんは海図を見てから書き込みなさいよw

>>808さんが「対馬暖流に乗って シーカヤックでも渡れる」らしいよ。  @阿波
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:40:42.42
>>809
海図とか、海に詳しいんだな。
別の話になってしまうが、わかったら教えてくれ。
徳島や畿内などを主張する人たちの考え方に従うと、魏の船が関門海峡を通って行くことになると思うんだが、関門海峡はとても航行が難しいと聞いた。
当時の航海技術で通行可能だといってよいのか?
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:45:34.72
>>811
>徳島や畿内などを主張する人たちの考え方に従うと、魏の船が関門海峡を通って行くことになると思うんだが、関門海峡はとても航行が難しいと聞いた。

畿内説は関知しないが、倭国(阿波)へは魏志倭人伝記述のように、関門海峡は通らないんだよ。  @阿波
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:46:59.71
魏の船は、帆船だが魏は韓の海岸も初めての行軍だったし
240年の一回だけしか往復していない。
つまり、帰港寄宿地も決まっていない。幕営行軍。

対馬の渡り方、潮時も知らなかったはず。
到其北岸 狗邪韓國 七千餘里 を知ったのは、倭人船便乗の247年。

水行10日だけじゃ、目標は博多湾で良いわけで
潮や風に乗ったら、壱岐に寄ったかどうかも不明。

伊都=早良まで、500里もある末盧國では絶対下船しない。
最短呼子〜海岸水行で、上陸適地が博多湾だろ。

時代は下るが帆船なら、裴世清の時は、倭人船でも帰路済州島経由だ。
まあ、海軍さんなら、倭が方角不明の時、対馬が見える巨済島付近から
潮の干満時間と風を見てから渡海するだろうね。

阿波先生、黒潮はなんだけど海峡の風向や海流は渡航の潮時と関係ないんだよ。
干満差の流れや風見れなきゃ、鳴門や豊後水道、瀬戸内海も渡れんだろ?
阿波って、船あんの? いいかげんにしてね。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:49:06.49
>>813
>釜山-対馬と対馬-壱岐では潮目が逆

釜山-対馬は無理ということでいいのかな?  @阿波
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:49:19.23
>>811
関門海峡が難しいと言われてるのは2つ理由があって
一つは航行量、国内最多の航行量
もう一つは岩礁の多さ

つまりどっちも近世に入ってからの問題
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:50:28.58
>>816

>>804
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:52:50.34
>>817
>もう一つは岩礁の多さ

これも「近世に入ってからの問題」かね?  @阿波
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 19:58:36.67
関門海峡通過行軍を義経のひよどり越え並の奇策としている
日本書紀の記述を無視する痴呆老人
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:00:52.84
>>819
木造船の喫水は3メートルを越えないからね
古代船なら1メートルもないと思われ
0823日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:19:39.56
ちょっとまとめると

末盧国の位置についての考察をやってるんだよね?

で、魏使の船が帆船と仮定し、海岸線や海流、潮流が現在と大差ないと仮定した場合の航路が>>704

とするならば、福津は遠すぎ、呼子は近すぎ、現実的なのは伊万里か平戸ってことでOK?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:19:41.90
>>822

岩礁というよりも、潮の激流だろうね。  @阿波
0825日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:21:12.07
>>824
それがそうでもないんだよ
SAPでも渡れるしシーカヤックツアーやってるくらいの潮流だからね
0826日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:22:59.38
>>823
>で、魏使の船が帆船と仮定し、

そもそも、この仮定が間違い。
間違った仮定の話はしても意味なし。  @阿波
0830日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:37:33.88
>>825
>SAPでも渡れるしシーカヤックツアーやってるくらいの潮流だからね

弥生時代の重たい手漕ぎ舟といっしょにしてはイカンだろう。  @阿波
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:38:01.26
>>829
お前さ
無知のくせに生意気にも「仮定が間違い」と断言したんだから、ちゃんとした反証をしろよ
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:39:17.90
>>830
何いってんだマヌケ
論点すり替えてんじゃねーぞマヌケ
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:42:52.53
>>826
空想抜きにした間違いじゃない航路と距離を答えてみてよ
0834日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:46:40.30
基本的に邪馬台国を語る者の多くが科学的根拠より地元愛や文献を優先しすぎるのが一番の問題
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 20:54:02.44
あれ?ここじゃなかったか?
邪馬台国関連のスレでジャンク船のことを詳しく書いてたのがあったんだが。。。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:06:33.94
>>826
魏は、遼東経由ではなく楽浪帯方を奇襲で占領した。
これが、卑弥呼が帯方郡に朝貢した238年。
黄海を渡る新造の軍船は、当然帆船。

公孫氏は遼東にまだいて、帯方郡も両党もまだ戦争中。
だから魏は、倭国王との同盟が欲しかった。
九州の小国の王なのに間違っちゃった、って、書いてあるのが倭人伝。

これを見て、以降、馬や鉄の移入、職工の連行で富国強兵を実現
倭人船も帆船になる事によって400年の建康、南朝外交は成立する。

三国志の覇者、司馬氏は東夷では
完全に高句麗と倭にしてやられている。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:08:00.15
>>833
>空想抜きにした間違いじゃない航路と距離を答えてみてよ


巨済島以西から厳原港まで、距離?

厳原港から郷ノ浦までを現在就航してるフェリー航路と同じとしたら65km

四国推しの妄言通り福津浜を末盧国に比定すると、烏帽子島?→柱島?→相島→曽根鼻?を経由し、80Km(相島で70Km越え)  @阿波
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:13:00.09
>>836
>黄海を渡る新造の軍船は、当然帆船。

当然、根拠なし。  @阿波 
0840日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:16:13.43
そもそも厳原が対海國に含まれるかどうかはなはだ疑問
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:17:45.08
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:19:54.17
>>838
前漢から楼船や帆船なのに、何が根拠なし だよ?
呉越の船だって帆船あったろw 
あわわわわ、子供みたいに、言い張ってるだけだ、って何度言えば・・・
いいかげんにしろ。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:22:21.72
>>842
>前漢から楼船や帆船なのに

だ・か・ら、それは川船 と、何度言えばw  @阿波
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:26:33.45
方400里に収まりきれないし
遺跡分布からしても厳原はさほど濃厚ではない
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:27:15.06
>>844
陸路では、兵糧が続かないという理由で
船で、遼東の衛氏朝鮮討ったのは、楼船将軍だけど、
黄海渡るのは、川船じゃだめなのか?

子供みたいに言い張るのは、いいかげんにしてね。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:28:48.43
>>844
当時は外洋にも楼船で出かけていたようだよ
魏が公孫氏を討伐した時も楼船を使っていたようだ。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:29:57.40
>>842
このスレ(↓)から転載
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part15
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541115802/

68 名前:日本@名無史さん :2018/11/18(日) 13:31:35.25
>>66
ここを読むと赤壁の戦いの頃の軍船の最も大きな「楼船」というタイプは100人以上乗れたようだぞ。
https://sangokushirs.com/articles/547

70 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/11/18(日) 14:18:51.49
>>68
そこのページでもっとも信用できる一文は、

>三国志時代の水軍の資料は、ほとんど残っておりません。ですから、17世紀ごろの明の時代に書かれた「三才図会」が参考にされています。

だろ
楼船が当時すでに実在していたかどうかすら不明ってことじゃないのか
0849日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:32:51.95
>>847
そう思って探しても根拠となるものが個人のブログしか見つからず、そのソースが明確に書かれたものがなかった。
別スレでの話
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:34:05.13
>>846
>黄海渡るのは、川船じゃだめなのか?

あのねぇ、川と外洋をいっしょにするわけ?
子供みたいに言い張るのは、いいかげんにしてね。  @阿波
0851日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:37:39.54
基本的には楼船は黄河や揚子江、呉越の海戦から生まれた戦闘用川船。
でも、魏の帆船は明らかに黄海を渡るための新造の最新鋭帆船とされる。
 
これが、奇襲で占領した帯方郡に有ったから、
卑弥呼の使者を戦争中の遼東を無視して容易に洛陽に運んだ。
最新鋭帆船なのは、当たり前だろ?
0852日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:39:45.38
>>851
>でも、魏の帆船は明らかに黄海を渡るための新造の最新鋭帆船とされる。

またまた、お得意の妄想の炸裂かい。  @阿波
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:47:32.75
>>850
まさか、帯方から黄河遡上で船乗り換えると思ってんの?
中国軍が、九州上陸で歩いた後、船乗り換えて四国渡るとか?

日本ローカル軍でも、前方後円古墳時代的 統一や、
航路が出来てない時代に、船の乗り換えなんてことが可能なのかね?
営業フェリーかよwww 350〜400年には、関門海峡通ってるんだろ。
自前の船で行く以外無い。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:54:30.81
関門海峡がその時代すでに通ってるかはまだ不明だよ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 21:55:09.03
>>850
え?泡は河川と外洋の航海の違いをちゃんと認識してるんだ?!
それなのに頑なに手漕ぎ船で対馬海峡渡ってたとか言うのが理解不能
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:00:10.25
>>854
倭人船は黒曜石や翡翠の縄文以来の手漕ぎだし
BC200年以前から、日本海ルートは青銅入れてる。

これが、越〜隠岐〜萩、土井ヶ浜、宗像〜沖ノ島、対馬。
倭人伝の半島南岸倭人国と連携するとして、卑弥呼とは、無関係だね。

当然、瀬戸内海航路で四国は、陸路経由なら卑弥呼の九州経由は無い。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:10:58.11
>>859
沿海州にも即席の有る、縄文海神が隠岐から対馬海峡が必要だったかは、判らない。
当たり前の説明が必要かな? 馬鹿なのか? は余計だろ? アラシなの?
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:12:31.33
九州地方の遺跡で船が見つかってないのが痛いな
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:14:49.00
>>860
悪いんだが、日本語で頼む

沿海州にも即席の有る、縄文海神が隠岐から対馬海峡が必要だったか
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:22:20.87
>>861
それ
現代でもゆっくりした黒潮の太平洋側と海峡付近じゃ艇底変えてるくらいなんだから京都や千葉で見つかった丸木舟を元に語るのはナンセンス
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:23:53.88
>>861
船っていうのは、埋めたりしないで配線=海岸放置だから難しいかもね。
862は、頼まれても無視。 日本語で桶。 今日実奈氏。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:23:55.76
>>856
>それなのに頑なに手漕ぎ船で対馬海峡渡ってたとか言うのが理解不能

当時は手漕ぎ船しか無いんだから、それでなんとかしなくちゃならなかった と、何度言えばw  
だ・か・ら、流れに逆らってはだめ と、何度言えばw  
逆に対馬海流に乗って行けば、楽ちんなんだ と、何度言えばw  @阿波
0866日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:31:13.56
>>865
だからさ
対馬海流が邪魔して渡れないって何度教えてやったら理解するんだっつ〜のwww
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:33:57.43
>>866
>対馬海流が邪魔して渡れないって何度教えてやったら理解するんだっつ〜のwww

だからさ、呼子や唐津など対馬海流に逆らっていくからだ と、何度言えばw  @阿波
0868日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:34:59.59
時間経過で潮が変わるのは、自然の法則なんだよ。 
海流に拘泥とか、いいかげん、めんどくさいんだよ。
壱岐ならカヌーで日帰り余裕だから、自分で流れ、見て来いよ。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:39:59.54
>>867
だから海図を見ろよって何度教えてやったら素直に従うんだよw
釜山→対馬は海流があるから推力ない船は東進しか不可能
反対に暖流のせいで対馬→壱岐は丸太でもギリ渡れる
0870日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:40:36.98
>>866
>対馬海流が邪魔して渡れないって何度教えてやったら理解するんだっつ〜のwww

ところで、それだったらどうやって大陸と交流してたんだい? 飛行機かい?  @阿波
0871日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:41:03.69
>>868
いやお前こそ現地行ったほうが良いぞ
完全に机上の空論になってる
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:42:17.60
>>870
釜山から西側を通って厳原に至る航路を否定してるだけだが?バカは文脈も読めんのか???
0874日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:46:14.29
>>869
>釜山→対馬は海流があるから推力ない船は東進しか不可能

だ・か・ら、釜山→対馬は不可 と、何度言えばw
巨済島以西→対馬 と、何度言えばw  @阿波  
0875日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:51:22.45
>>874
それに何日かかるか理解してないだろw
0876日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:51:24.85
>>873
めんどくさいから タヒね とかな?
阿波だぞ? 反証する馬鹿居ないだろwww
0877日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:52:32.06
>>872
>釜山から西側を通って厳原に至る航路を否定してるだけだが?バカは文脈も読めんのか???

だ・か・ら、釜山→対馬は不可 と、何度言えばw
巨済島以西→対馬 と、何度言えばw  
バカは文脈も読めんのか???   @阿波
0878日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:55:48.25
>>877
東廻りしかあり得ない
西廻りにするために無理やり巨済島以西を経由する根拠もない
まして最低でも3日分以上の荷物増やしてまで西廻りする理由もない

結論

西 廻 り 説 は 完 全 破 綻 済 み
0879日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 22:57:52.03
>>878
>東廻りしかあり得ない

東回りってなに?  @阿波
0880日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 23:07:50.11
>>877
ゴミであろうが釜山からでも済州島からでも普通に九州に漂着するよ。
海流は浮遊物の漂流方向にそれほど重要な意味はない。
潮時と言うのは、風と場所特有の干満差の引き満ちの流れ。

バカには教えられる。 
子供みたいに言い張るだけの阿波には無理。

そろそろ、次スレ、立てた方が良いと思うw
0881日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 23:10:29.69
>>889

東廻りってなに?  @阿波
0882日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 23:15:28.86
阿波はもちっとマシな奴やと思うちょったがのう、幻滅や。
買いかぶりすぎちょったわ、阿波やのうてただの阿呆やったんやな。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 23:17:18.13
>>889に期待大!
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 23:18:12.81
>>882
それ、降参のサインかね?  @阿波
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 23:20:24.90
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 23:26:45.59
>>884
巨済島まで遠回りしてまで西から厳原港に入らなければならない理由を答えようや
0887日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 23:35:44.73
狗邪韓国が巨済島であったのはほぼ確実だろうね。
元は日本の固有の領土、日本国は巨済島の返還を韓国に求めるのが自然。
巨済島はもともと倭人の島であり、韓国人や朝鮮人のモノではない。歴史的にも魏志倭人条がそれを証明している。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/27(火) 23:42:58.99
邪馬台国スレって何人くらいで回してんの?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 00:02:54.11
コジェ島じゃなくコムン島の間違いじゃない?
コジェ島なら釜山から出るのと何も変わらない
対馬海峡の西水道に乗って厳原港に入るにはコムン島辺りまで行く必要がある
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 01:01:32.63
>>891
鳶島の検索に手間取ったわw
ヨス最南端の島なのね

あの辺りじゃコジェ島と同じく西水道の海流でプサン辺りまで押し戻される
やっぱり海流を考慮したらコムン島の南側から対馬海流に乗らないと厳原港には辿り着けないよ
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 06:15:39.78
>>892
巨文島は流石に遠すぎる
突山島あたりでも十分なのでは?  @阿波
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 06:38:17.37
>>893
突山島じゃ鳶島と変わらないから対馬海流で釜山に戻される
対馬海流に乗るなら巨文島まで南下しないと厳原港に辿り着けない
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 06:41:56.39
>>894
>突山島じゃ鳶島と変わらないから対馬海流で釜山に戻される

そんなに対馬海流が早いんだったら、帰りの釜山着も無理なのでは?  @阿波
0896日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 06:46:35.50
>>895
何で?むしろ厳原港からちょっと北上するだけで西水道に乗れるからセイル下げてても、手漕ぎでも釜山に着けるぞ?
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 06:57:44.37
>>896
>厳原港からちょっと北上するだけで

浅芽湾に出るんだね?
昔は舟を陸上で引っ張って峠越えしていたようだね。  @阿波
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 07:06:00.64
>>897
理想は沿岸沿いに仁田湾まで進航してから離岸だろうね

てか魏使の船も陸に上げて持ち運びできるような小舟を想定してるの?
それも海人族のマッチョパワーのおかげにしちゃう系なの?
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 07:11:41.11
>>898
>てか魏使の船も陸に上げて持ち運びできるような小舟を想定してるの?

さすがに、魏使の船の陸輸送はないよ。 沿岸航行したんだろう。  @阿波
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 07:15:23.29
>>898
いや離岸したのは仁田湾ではなく大浦湾でしょう
大浦から釜山まで直線距離で50Km
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 07:23:05.02
>>900
>大浦から釜山まで直線距離で50Km

近けりゃいいという問題じゃない と、何度言えばw  @阿波
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 07:28:46.38
>>900
だから西水道の海流ナメんなってw
そんな北から離岸したら釜山に進路取る前にウルルン島にまっしぐらよ
※ウルルン島まではちょっと誇張した
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 08:48:16.85
阿波は、アチャコチャ出張ばかりしてないで、四国説に納まっとれ

四国説は、寂れきっとるだろうが・・・、
0905日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 08:51:20.47
四国=死国

何かのネタのように創作した人物がいるんじゃないの?
ここに親(神)がいるとか
0906日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 08:56:21.18
そういう作品があるでしょ、
かど□わノベルズとなっているし。

あと『リューマ、リョーマ』?
これは集□社でしょ・・・。

本当に何なんだろう
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 08:57:52.78
>>904
泡がどんな手漕ぎ船を想定してるか見当もつかないが、>>762を参考にすると無波の河川でMAX時速14キロ
海人族が如何に超スーパーウルトラマッチョだとしても、最新鋭のトレーニングを受けてるプロ手漕ぎライダー?と同等とは考えられないし
波のある海上ならさらに推進力は殺されるだろうから最大で時速10キロ未満、平均したら早歩きと変わらない時速5-6キロくらいじゃないだろうか
0909日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:03:10.48
905,906

作品を観てもいないし、読んでいないから、わからないんだけど、
どういう作品なの
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:08:27.67
>>911

どこの基地外なんだ、頭の病院に行け
0913日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:09:53.19
>>910
追い風考慮するなら向かい風も考慮しなきゃな
手漕ぎ船はあんまり風関係ないとは思うが・・・
あと海流に乗ることを考慮するなら海流に押し戻されることも考慮しなきゃな
0914日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:11:37.80
マスター >>912にトンスルを
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ .∧    ∧
       ∧_,,∧       / `ー一′丶
     (丶`∀´)   /   : : :: :: :::::ヽ
.   ▼   >、/⌒ヽ   |    : : :: :: :::::::::l
─‐⊥‐ッ'-‐y' / i_ ヽ、  : : :: :: :::::::/
      `⌒ー′ | |::|  )゙  ..::::〃:ィ´
         \ | |::|  /" ''  : : ::⌒ヽ
     ____  \=::|. i       、 : ::::|____
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:13:32.98
アタマのビョーインに行けと言っているんだよ
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:19:45.08
頭が悪いんだろうと聞いているんだよ
0918日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:24:42.76
マスター >>916-917に濃いめのトンスルを
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ .∧    ∧
       ∧_,,∧       / `ー一′丶
     (丶`∀´)   /   : : :: :: :::::ヽ
.   ▼   >、/⌒ヽ   |    : : :: :: :::::::::l
─‐⊥‐ッ'-‐y' / i_ ヽ、  : : :: :: :::::::/
      `⌒ー′ | |::|  )゙  ..::::〃:ィ´
         \ | |::|  /" ''  : : ::⌒ヽ
     ____  \=::|. i       、 : ::::|____
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:28:15.12
壱岐→宗像は小呂島経由だと思う。
壱岐から30kmくらいで目視もできる。小呂島からは九州本土が南に見えてまっすぐ東に津屋崎があるし見えるよ。
津屋崎の大峰山からは小呂島、壱岐も見えるし昔は対馬も見えたようだし近くに対馬見山ってのもあるよ。
小呂島は宗像の領域で、ついでに唐津(呼子沖)の加部島も宗像の領域。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:35:35.42
>>919
郷ノ浦から出航するなら壱岐島を半周以上して北上するメリットがない
合理的なのは>>704の烏帽子島→柱島→相島→曽根鼻経由で福浜上陸だろうね
これなら東水道上の航路が現在のフェリー航路と重なってる点を見ても航路として最適なのだろうと思う
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 09:46:56.88
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 10:05:01.19
>>921
泡は頑なに末盧国=福津だと主張してるから
でも、海図やら潮流やらを考慮すると、泡の想定してた航行は非科学的らしくて揺らいでるところ
個人的にはマッチョ海人族が操舵する手漕ぎ船で魏使が来たって時点でトンデモ説
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 10:23:46.70
>>920
壱岐の出発点は原の辻というか芦辺じゃないかと。
で、真っ直ぐ東に行く感じで小呂島経由でまた真っ直ぐ勝浦潟(当時は湾)か、津屋崎口から勝浦湾に進み上陸。
流れが良い時だと小呂島近くを通り勝浦まで無寄港でその日の内にも行ける。
相島には天候次第では寄ることもあるとかで。
https://youtu.be/lM-w9RzWKe0?t=1659
0925日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 10:42:50.80
>>924
芦辺発でも北上する必要性が見当たらないよね
航路的に見ても福津浜を越えるなら勝浦で上陸する理由もなくなり
芦辺→本島→烏帽子島→柱島→相島→渡半島→神湊だろうね
0926日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 10:46:41.76
ちなみに現地に来てみれば分かるけど勝浦は湾でも潟でもなく砂浜ね
0927日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 10:52:15.99
>>924
小呂島まで北上してしまうと、海流に流されて津屋崎にはたどり着けないだろうね。  @阿波
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 10:54:12.62
>>926
>ちなみに現地に来てみれば分かるけど勝浦は湾でも潟でもなく砂浜ね

砂浜なら最高!  @阿波
0929日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 10:57:11.43
>>927
東水道は暖流だからそこまで海流強くないよ
ただ北上する理由がないだけ
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 10:58:21.55
>>928
神湊は天然の船着き場として縄文晩期からの利用が認められてる
砂浜に打ち上げるより合理的だよ
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:02:19.65
>>929
>東水道は暖流だからそこまで海流強くないよ

西水道ほどじゃなくても、やはり緩流とはいえ、海流に逆らうことになる。


>ただ北上する理由がないだけ

ごもっとも。  @阿波
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:03:17.63
潮のままに行きやすいから・・、の阿波流は、漂流だ。

航海は目的があるから、決死の覚悟でするもの
渡らなきゃならんところは、逆流でも漕ぎ渡る
ま、そこまでしなくても、潮を計らえば、壱岐から末盧国・唐津へはラクラク行けるのだ。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:07:41.46
>>934
>潮のままに行きやすいから・・、の阿波流は、漂流だ。

「潮のままに行きやすいから・・」  古代人にとってこれに勝るものはない。  @阿波
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:07:53.80
>>934
アンチ泡でも手漕ぎ船支持派がおるんやねー
0938日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:10:25.02
>>937
>アンチ泡でも手漕ぎ船支持派がおるんやねー

帆船派は君だけだよ。  @阿波
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:14:33.54
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:16:03.16
対馬海峡を渡るときは、帆と櫂の両方を使う。

阿波は、ただの漂流派。古代なら魚の餌食派、、、
0943日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:16:57.31
>>941
>魏使の船に関する記述を書き残さなかった陳寿を恨む

最新技術の帆船だったら、きっと書き残してるよ。  @阿波
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:19:14.52
阿波は漂流民。
スレのまにまにあっち行ったり、こっちへきたり。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:24:44.20
半島側のポイントは珍島 歴韓国 乍南昨東
目的地が帯方郡なら、釜山まで入り込めば2日は余計にかかる。

日本海ルート諸国なら、宗像航路の目的地が上対馬から釜山迄ではないか? 
とは、考える。 帯方ではなく、弁辰韓との交易だ。

卑弥呼船なら、巨済島が最奥、手前の小島でも中継は出来る。
狗邪韓國以外の南岸倭人国は卑弥呼に属さないと考えればピンポイント寄宿で良い。

至對海國 所居絶㠀 方可 四百餘里
ってのは、千里程もある対馬の、西岸しか見てないのでは?
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:29:36.67
ttps://goo.gl/wHg1Qw.info
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:40:48.89
>>943
240年印綬の際の船は魏の軍船
238年に帯方奇襲で占領後、魏は韓西岸南下航路も初トレースの行軍
決まった寄港寄宿地名も無く、水行30日と陸行一月の行軍。 
遣 建中校尉 梯儁 は軍人である。

247年は、
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
を説明した卑弥呼の遣使に対し、その倭人の帰国船で、
245年の 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授、檄に応えなかった 倭人国の査察に来た。
塞曹掾史 張政 は軍を指揮する将校ではなく、官僚。

帰国は、壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
で、これに対する、魏の返書、返礼は無い。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:44:45.30
>>943
千葉から出土してる縄文後期の丸木舟はマスト穴のある帆船
帆船は最新技術でも何でもない
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 11:55:47.03
>>948
>帆船は最新技術でも何でもない

言葉足らずでした。
大河では帆船ですね。
言いたかったのは、外洋帆船でした。  @阿波
0950日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 14:44:20.50
>>925
現地の者だからこそ勝浦湾(新原奴山古墳群付近)から上陸を推してるのだが。
三韓征伐後に(万津浦から)勝浦に地名が変わったって伝承があるのよ。
あと、芦辺なり原の辻辺りから宗像目指すならほぼ真東になり、壱岐から津屋崎辺りのほぼ中間点30kmほどの所にに小呂島はある。
確かに少し北にそれるが小呂島は宗像大社領であるので宗像と壱岐を移動する際の中継地とされていたと考えるのが自然。わざわざと付けるほど北に外れてはいないし津屋崎辺りへの流れもある。
現在でも宗像の漁師は壱岐とのつながりは深い。壱岐氏、入江氏も多いしね。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 14:47:54.04
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 15:01:36.52
>>950
行きやすいとか、地元民のつながりがあるというのはだいじなことだ。
たぶん地元の海人にとって、玄界灘・博多湾は自分たちの庭のようなものだったのは間違いない。

ただ問題は、帯方郡の役人がどの方角を目指し、何の目的で、どこで上陸しようとしたかだ。、
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 15:03:44.45
>>950
>現地の者だからこそ勝浦湾(新原奴山古墳群付近)から上陸を推してるのだが。

ヨコだけど、勝浦湾上陸で特に異存はないね。


>三韓征伐後に(万津浦から)勝浦に地名が変わったって伝承があるのよ。

へぇ、そうなの。


>壱岐から津屋崎辺りのほぼ中間点30kmほどの所にに小呂島はある。

津屋崎辺りを目指すなら小呂島はまずいと思うね。
やはり、目指すは相島でしょ。  @阿波
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 16:11:57.84
野生号の航海実証実験では手漕ぎだけで朝鮮海峡を渡るのは不可能なことが確認されてだったな、途中で曳航されてやっと渡ってた
潮流熟知して潮流を利用するか、帆が必要なことが実証されてるな。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 16:16:34.52
>>952
使者が目指すのがいわゆる筑紫勢力であれば唐津も有りとは思うけど、それなら直接糸島や博多を目指すべきかと。
豊前或いは最終的に四国や畿内であれば宗像→筑豊横断→行橋といった流れになるかと思います。
立花山の東西で明らかに文化圏が違うんですよね。壱岐から近いから唐津の方って思考停止してる人多いけど目的地が東の方であればなおのこと唐津に行く理由が無いですわな。
壱岐水道、大島水道(神湊沖)、地島水道(鐘崎沖)、関門海峡は潮の流れが速く向きも変わるから熟知してないと苦労するので昔の人であれば今以上にこれらを避けたいでしょうし。

>>953
永嶋文書知ってるでしょ。
https://blog.goo.ne.jp/seiya0130/e/0e874a7abc1a3e17c1a759737e8bface

小呂島は重要。
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_19_file.pdf
の5ページ〜。
相島も寄る可能性はあるけども必ずしも経由する理由はない。あそこまで近づいたなら日没寸前とか天候不良とかでなければそのまま勝浦湾に進めば良いでしょう。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 16:19:37.45
>>954
勝浦潟じゃイメージしにくいでしょ。なので最近は勝浦湾と言っている。遠賀川みたいに古遠賀湾って感じに読んだ方が良いのかもだけど。
勝浦潟にしても江戸時代の終わりには埋め尽くされて消滅したからそう呼ぶ人はあんまり居ないし。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 16:41:09.75
>>957
そう無理せんでもええわ
行きはよいよい、帰りは怖い、いうてな
勝浦が壱岐の南だなんていうとると、今度は帰り道の方角がとんでもないことになる。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:04:59.65
>>958

壱岐からは方角の指定は無いのだが
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:15:26.72
地元民としての違和感

勝浦を勝浦湾やら勝浦潟なんて呼ぶ(書く)地元民を40年見たことがない

津屋崎を津屋崎口と呼ぶ呼ぶ(書く)地元民を40年見たことがない

しかも津屋崎と言えば地元じゃ漁港のことを指し、エリア的には福間と呼んでいる

年毛神社は1990年代までは御神体の石を祀った祠で、宝来宝来、當所、寳當なんかと同じスピリチュアル・金運で一発当てた神社
神主さんは某建設業の次男で取材やイベントがなければ関連会社の社長さんやってる
永島文書もスピリチュアルブームの時まで聞いたことなかったトンデモ本

宗像の漁師で壱岐まで行ってるのは一部の太刀魚漁だけで基本的に志賀島より西に行くことはないし、地元文化的にもあっちは安曇系でこっち宗像系で別って認識
これは世界遺産登録の話が出た頃に平原遺跡や怡土志摩まで引っくるめようと画策された頃に一層強くなったって部分もある

あと小呂島? ぶっちゃけ違和感しかない 元は宗像社領ってことらしいけど完全にあっち側 芦辺からの距離を70Kmにするためだけのこじつけとしか思えない
地元民からしたら相島のほうがエリカ的にも文化圏的にも人口的にも同じ地元って認識
0961日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:24:34.81
>>959
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、、、差有田地、耕田猶不足食、
亦南北巿糴。
又渡一海千余里、至末盧国。

例によって、陳寿の高等構文の読みが足りないなあ。
地元民は、壱岐から東西南北どちらへも行ける。
それにも関わらず倭人伝では、
うえのように「亦南北巿糴」として方角を限定することで、行きの南、帰りの北を指定しているのだ。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:27:05.60
>>960
>宗像の漁師で壱岐まで行ってるのは一部の太刀魚漁だけで基本的に志賀島より西に行くことはないし、地元文化的にもあっちは安曇系でこっち宗像系で別って認識

あっちとかこっちとか、なんか複雑な感情をもってるんだね。 よそ者にはわからん領域なのかな。  @阿波
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:27:50.37
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:30:02.21
>>961
「巿糴」って交易することだぞ。
東西には陸地がないから南北と言ってるだけで関係ないと思うが。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:31:26.97
>>962
漁師は特にナワバリ意識みたいなもんで強い
JFの統括が別ってのも多少はあるけど
あと世界遺産登録で地元活性化に期待が集まってる時にケチ付けられたって感覚も高齢者には多い
0966日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:33:32.26
>>965

ふ〜ん。  @阿波
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:39:23.24
>>965
今頃になって、東西には陸地がないから、いくところはないというのか。
だったら行く先は、南北しかないだろう。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:40:20.34
>>967
交易の対象が、ということだけは。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:41:46.51
>>961
>うえのように「亦南北巿糴」として方角を限定することで、行きの南、帰りの北を指定しているのだ。

この「亦南北巿糴」の南北は、対馬島の南北なんだよ。  @阿波
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:45:07.24
>>960
きよみん?
勝浦潟(湾)は江戸時代に消滅してるから普段そう呼ぶ人は居ないわな。湾の入り口の津屋崎側を津屋崎口と言うのはおかしくないでしょ。いずれにしても今は存在しないのだから日常会話でそう呼ぶ人はまず居なでしょ。
旧津屋崎町は津屋崎と呼ぶのが一般的だけどね。あなたの周りではどうかは知らんけど。まぁ宮司辺りは津屋崎と言うより福間と一体化されてるから福間とひとくくりにしたりはしてたけどね。
住所は津屋崎でも福間の寿屋とか、福間の日産とか呼んでた。まぁ確かに宮地嶽神社と相島は繋がりは深いし福間の漁師のことはあんまり知らんから福間とか宮司の人の感覚がどうなのかはわからん。
鐘崎の漁師だと博多、勝本、下関、はざらで相場によっちゃ境港や串本とか本州方面まで持って行くんだけどね。
年毛神社の現宮司が建設会社の次男かどうかは知らんけど、先々代の宮司だよね永嶋文書を表に出したのは。んで亡くなられた後娘さんが継いでその後他所から新宮司を迎えるって数年前に聞いたけど。
確かに先々代は悪評もあったみたいだね。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:46:27.41
>>968
なんで交易の対象が東西にはないんだ。
もし東西になかったのなら、文化圏経済圏政治圏内ではないのだから、そもそも壱岐へ入港することはない。
古代も今も、ナワバリを重視して読むべし。。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:49:49.08
>>961
それ、対馬も壱岐も 南北巿糴 なんだけど
壱岐は 対馬に米は買いに行かないんじゃないか? と
対馬は壱岐経由はしないでも博多湾入るんじゃないかな?

倭人伝の 末盧国 は、船ごとの都合で
渡航ルートとして、限定する意味ないと思うね。
張政が500里歩かされた意味はともかくとしてw

考古学で、伊都が出れば北西500里の海岸線で良いんだよ。
伊都は今宿〜早良 で、奴国は福岡平野に収まる。 
他にないと思うね。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:50:54.78
>>971
>なんで交易の対象が東西にはないんだ。

だから、この「亦南北巿糴」の南北は、対馬島の南北なんだよ。  @阿波
0974日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:52:07.34
>>970

「きよみん」ってなに?  @阿波
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:53:44.26
>>969
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。
土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活、「乗船南北巿糴」。

又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。
多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、「亦南北巿糴」。

阿波は、倭人伝を小ばかにしてるな。
南北巿糴は、対海国にも一大国にも出てくるぞ。・・・まだらボケじゃないのww
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 17:56:45.27
>>975
>南北巿糴は、対海国にも一大国にも出てくるぞ。・・・まだらボケじゃないのww

だから、この「亦南北巿糴」の南北は、壱岐島の南北なんだよ。  @阿波
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:01:00.75
>>977

「きよみん」ってなに?  @阿波
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:03:15.08
倭人伝に、
わざわざ「亦南北巿糴」と書かれているのはダテではない。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:06:40.63
>>978
しらんw
必死に地元民装ってる人がGoogleマップでローカル情報っぽいのを拾ってきて見せてるだけと邪推してるけどもwww
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:06:52.93
>>979
>わざわざ「亦南北巿糴」と書かれているのはダテではない。

そうだね。 貧しい暮らしを目の当たりにしたんだろうね。  @阿波
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:11:01.02
>>950
>現在でも宗像の漁師は壱岐とのつながりは深い。壱岐氏、入江氏も多いしね。

ほほ〜ぅ

>>960
>地元文化的にもあっちは安曇系でこっち宗像系で別って認識
>小呂島? 元は宗像社領ってことらしいけど完全にあっち側 芦辺からの距離を70Kmにするためだけのこじつけとしか思えない

全然ちゃうやんけ〜>>950
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:14:47.19
名前:日本@名無史さん 2018/11/28(水) 17:19:09.94
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:17:28.82
邪馬台国以前のBC200年辺りから、青銅器交易有るんだけど
日本海ルートの宗像(沖ノ島)対馬北回り〜釜山、は
壱岐、対馬南〜巨済島〜珍島〜帯方
とは、別の交易航路でしょ?

247年以降の半島進出は、弁辰韓から後の加羅、任那の勢力で
300年以降衰える、邪馬台国は、冷や飯組でしょ。

阿波ってのは、帯方郡頼みの、邪馬台国無視で
これ以降の半島進出での瀬戸内海勢力の主役でしょ?
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:20:42.65
>>982
地元民でも宗像大社派と宮地嶽神社派がいるのよ。
宮地嶽派は安曇寄り、宗像派とは感覚は違いますわな。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:24:38.23
>>984
沖ノ島は聖地だから航路上にはないっていうのが現在の通説
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:29:24.43
宮地嶽古墳の彼葬者は宗像徳善説を否定しだしたよね。数年前から。
で、宮地嶽は宗像の下ではないって方向に進んでるよね。
筑紫舞の宣伝に力入れたりして。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 18:36:49.23
>>986
無人島は最低良港があって水が出ないと寄港地にはならないけど
海流や潮汐見ての、潮見や目印にはなったと思うよ。
特に、壱岐航路の邪馬台国じゃない、日本海ルートなら。

阿波はアホとか言っちゃったけどw 実は離島には詳しくないけど、
潮汐は6〜10時間で、海峡の潮流の方向が変わるんじゃない。
古代航路は 潮待ち、風待ち の意味って、重要でしょ?
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 19:06:05.70
>>989
諸説あるんだけど、地元で有力とされてるのは聖地だから極力部外者には知られないようにしていたって説
現在までに発見されている縄文〜飛鳥時代の遺物が司祭品に特化されてる点からの考察らしい
部外者ってのは宗像系海人族以外の全ての人って意味だから誤解なきよう

ちなみに少なくとも玄界灘に面した古賀〜鐘崎は九州の湘南(笑)と呼ばれ、干満の差は1m未満
だから今でも漁港で「天気」と言えば風メイン 雨なら原則お休み
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 19:14:59.91
沖ノ島に関する余談をもう一つ

沖ノ島は不思議なくらい大陸や半島からのゴミの漂着が少ない
つまり漂流して辿り着くことのない"不可侵領域"
これが聖地になった理由の一つと考えられていて、意図的に航路や目印に使わせなかったと考察されてる理由でもある
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 20:01:36.68
目印にさせないと言っても、ゴミはwともかく、聖地となるには時代が違うかと?
壱岐は方向違いの宗像以東、長門方面の日本海ルートに向かうのには要所に見える。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/28(水) 21:29:04.55
勝浦海岸は冬に馬で駆け抜けられます
ご用命は宗像乗馬クラブへ
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 63日 0時間 4分 23秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況