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邪馬台国畿内説 Part392
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0001◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:05:14.66
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540395218/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:06:50.93
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 23:07:05.91
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0004◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:07:08.33
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0005◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:07:23.18
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0006◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:07:42.77
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0007◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:07:57.45
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
0008◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:08:14.88
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0009◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:08:33.07
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
0010◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:08:48.82
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0011◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:09:04.79
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0012◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:09:21.14
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0013◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:09:39.69
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0014◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:09:54.52
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0015◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:10:10.49
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0016◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:10:27.65
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
0017◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:10:43.88
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0018◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:11:00.70
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0019◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:11:19.31
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0020◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:11:38.78
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0021◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:12:16.23
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
  
 
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
 
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
 
 
 
0022日本@名無史さん垢版2018/10/26(金) 23:13:04.58
>>1
桃食ってて平和な田舎だったとは思う
九州から邪馬台国の神武天皇がわざわざやってきたところだし
0023◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:13:10.25
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
  
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
 
 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
  
 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
  
 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
 
 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
 
 
0024◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:13:27.88
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0025◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:14:28.79
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0026◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:14:46.26
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
0027◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:15:03.01
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
0028◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:15:20.12
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
0029◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:17:18.30
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0030◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:18:16.42
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
  
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
   
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
    
 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
     
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと。
 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
・椿井や黒塚で見られた土質相違、中山大塚の葺石構造、河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳での前方部盛土欠如
・円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
 
※隆起斜路 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
 
 
0031◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:18:56.11
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
   
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
   
 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
   
   
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
   
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
   
 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
0032◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:19:19.80
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0033◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:20:06.15
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
  
   
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!
  
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
  
 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
  
 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
 
 
0034◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:20:22.16
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0035◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:20:38.95
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0036◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:20:56.21
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0037◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:21:12.55
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0038◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:21:48.18
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!
  
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
  
 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
  
 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
  
 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
  
 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
 
0039◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:22:04.00
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0040◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:22:20.05
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
0041◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:22:35.86
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0042◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:22:52.75
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0043◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:23:10.17
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0044◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:23:36.63
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0045◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:23:53.55
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0046◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:24:10.03
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0047◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:24:24.95
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0048◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:24:41.11
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
0049◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:24:56.41
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0050◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:25:13.24
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
0051◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:25:30.35
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0052◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:26:13.28
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
  
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
 
 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
  
 
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。
   
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
 
  
 
0053◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:26:29.22
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0054◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:26:45.00
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0055◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:27:02.24
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0056◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:27:22.35
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0057◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:27:38.48
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0058◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:27:54.31
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0059◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:28:08.93
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0060◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:28:25.33
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0061◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:28:44.03
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0062◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:29:10.79
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
0063◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:29:33.65
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0064◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:29:54.91
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
0065◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:30:10.67
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0066◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:30:29.13
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0067◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:31:02.56
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
0068◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:31:22.28
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0069◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:31:38.22
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
0070◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:31:54.43
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。


◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
0071◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:35:52.42
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
 https://i.imgur.com/MRmSyqP.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0072◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:37:22.56
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
  
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
   
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
   
 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
 
 
0073◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:38:30.90
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0074◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:39:45.96
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0075◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:40:53.34
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
0076◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:42:06.83
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0077◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:45:43.62
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
  
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
   
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
    
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
   
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
 
 
 
0078◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:47:31.78
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
0079◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:49:51.99
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
0080◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:52:08.54
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0081◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/26(金) 23:55:00.93
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 23修文加筆
0082日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:11:20.63
邪馬台国が大和にあったのは間違いないが邪馬台国成立までは大和はかなり独特な動きをしてる
墓も祭器も周辺の地域に呑み込まれずに独自のシステムを維持してる
むしろ周辺地域で浮いた存在になってる点が興味深い

大和が畿内の中心として邪馬台国成立を主導したと思われがちだが現実はかなり独特な地域
0083日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:12:05.41
ここにいくら突撃しても無駄だから
九州説はいい加減学んだらいいと思うよ
0085日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:17:45.14
吉備と大和も別文化圏を展開していて同一の勢力圏という感じではないな
周辺地域も同様

本当に邪馬台国の時代に一気に別の文化圏を形成してた地域が大同団結した様子が見える
なぜこのような急激な変化が起こったのかが位置論争なんて馬鹿げた話よりもよっぽど面白い
0087日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:21:35.19
2世紀末くらいには近畿地方の勢力は各々かなりの発展を遂げている
ちょうどこのころに各地域の文化圏の個性が頂点に達している
そんな中で邪馬台国への統合が始まる
衰退の上で統合したというよりも盛期の直後にまとまったように見える
どこかが突出したわけでも、どこかが弱まったからでもない

どうしてこのような近畿一円の連合が急に成立したのか不思議なところ
0088日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:22:27.38
スロープ鴨太郎爺は寝たのかな
0089日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:22:35.64
FAQ23
>また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。

根拠は?
誰の何という論文?
0090日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:24:28.07
まあ即物的な考えだと畿内が3世紀派遣を握ったのは
魏との外交が大成功を収めたからだろうけど
三国時代 我こそは漢の後継と争っていた時代の魏も
漢時代に朝貢のあった倭と国交を結ぶのは政治的意義が大いにあった
0091日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:26:23.33
箸墓が卑弥呼墓ってw

今では時代遅れw
0092日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:26:48.34
>>78
しかし、その径百歩が、そもそも怪しいし。
0093日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:30:15.20
司馬懿には意義あるな
曹真が西域の大月氏に朝貢させてるから
0094日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:31:33.57
>>89
後円部だけ先に造られたという主張は、皆に受け入れられなかったろ。
いまさら感が濃厚。
0095日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:32:10.35
畿内と言っても大和だけ浮いてる

河内、和泉、摂津、山城は吉備、丹波、近江の地域と近い
大和だけ独自路線を進んでいる様子が出ている
むしろ広域連合に囲まれて独自路線を維持してるのが大和

ここに近畿一円の連合体邪馬台国の中心地が現れる流れが興味深い
0097日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:36:22.26
>>94
皆って、葛城が派手に自滅しただけだろ
0098日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:38:48.76
昔も今も外圧って幕末以外に何時?
0099日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:41:28.99
>>95
大和と一口に言っても
吉備+磯城から近江+添に変わって河内+葛城だろ
浮いているというより流れ流れてる感じ
0100日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:41:34.87
もっとこう魏と倭の国交は現実的な意図があったんだろう
漢の認識で地の果ての国であり
ゆえにそこが友好的ならばそこまでの間の国々は安泰と
かなり位の高い印の金印を与え最高級の宝物の壁も与え厚遇した倭国
遠くの国が朝貢に来るのはいい事だというのはこういう事だった

魏にも受け継がれて倭が朝貢に来るのは魏は漢の後継であると
アピールする絶好の出来事
だから墓から溢れるくらい倭人が好む鏡をあげた
0102日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:43:24.55
>>98
戦後
0103日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:43:37.39
外圧だよ
0104日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:45:15.92
それと人工地震を起こされ、
頭おかしくなるわ!と言ってる人はどうなったの?

おまえはデスラーか!とか
0106日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:47:10.00
>>50
卑弥呼と新生倭國が北部九州と無関係に成立したとのことだが、それなら、そもそも倭國の乱とは、具体的にどの地域でのできごとだったのか示さないと。
そして、卑弥呼はどのような国々との間の共立で選ばれたのかを書かないと、根拠なしの単なる主張にすぎなくなる。
0107日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:48:42.45
>>93
むしろ手柄を焦って東夷外交を推進したのは曹爽じゃないのか?
0108日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:49:53.36
陰謀、予言?

その辺りのスレの話、
もう数年前のことになるんだけど

確か、そのような事を言ってる人がいた

頭おかしくなるわ!!とか
0109日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:50:28.47
>>95
>ここに近畿一円の連合体邪馬台国の中心地が現れる流れが興味深い

これ、ずっと後世だよ。
0110日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:51:21.41
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0112日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:55:08.32
>>109
そういう根拠は?
0113日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 00:55:55.03
(神様の)真似なんてしているからこんな事になってしまった


とも言っていたり、
というか書いていた?
0114日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:01:06.15
しかし玉壁も面白いな
まさに完璧なのが宮崎から見つかって発見の経緯が畑耕してたら出てきた石棺から見つかったとか面白い
どういう経緯で考古学的に主流ではない九州南部の宮崎に渡る事になったんだろうな
0115日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:01:46.43
『倭猿』

こういう話も、おかしくない?
0116日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:03:31.48
『君は1000%』

〜『デスラー』の画像を調べてみて
0117日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:05:02.08
>>1
これまでの議論をみていると、このテンプレの邪馬台国大和説は、そうとう時代遅れのデータを基に立論されているね。
高地性集落は倭國の乱の結果でないことは明らかになっているし、博多に庄内甕が現れてそれを真似た筑前型庄内甕が北部九州に広がるのは3世紀半ば以降だし、
纏向遺跡の前方後円型墳丘墓の祖形が播磨地方の突起付き円墳ではないことが分かってきているし、
箸墓古墳は後円部が先に完成して葬送儀礼が住んでから前方部がつくられたという説も信憑性がないので箸墓が倭人伝の卑弥呼の円墳ではなさそうだし。
つまり、大量の投稿がなされているものの、大和が卑弥呼の邪馬台国だという証拠づくりにはなっていない。
議論の対象としては暇を潰せるので面白いが、それ以上の論説とはなっていないのではないか。
0118日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:08:27.82
それと偉そうなことを書いているのがいるけど、
お前の名前は?何度も聞いているはずなんだけど
0119日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:12:04.40
>>117
いま1にカラんでも、どうせ投稿規制だから放置されるだけだぞ
それより根拠あること言うくらい勉強しとけよ
0120日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:15:22.29
あと『猫神やおよろず』という作品も観てみた?

主人公に対し「お前が神だと?」
みたいなこと言っているキャラがいたり、小鉄?
0121日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:32:06.87
あとスサノオ?(不明)wikiを読んでみて

>スサノオは、クシナダヒメの姿形を歯の多い櫛に変えて
>髪に挿し、ヤマタノオロチを退治する。
0122日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:41:26.98
1000パーセント

>ハレーの雫

彗星?もしかして青い巨星のほうの意味なのかな
0123日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 01:53:54.20
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0124日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 02:40:37.62
wiki『ランバ・ラル』『1000パーセント』

ヱヴァンゲリヲン・・・・・
0125日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 03:23:00.66
>>111
ちゃんと書いてないから、ちゃんと読めない。
ちゃんと書くように、言うといて。
0126日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 03:27:49.03
>>119
FAQ書いてる大和説爺さんに、最新のデータを基にして書いてちょんまげ、言うといて。
0128日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:17:36.63
頭が悪いんだろう

何の話なのか知らないけど「ホンモノです」と言ってる人がいなった?
あの写真・・・などの話でしょ、家の話
0129日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:18:17.31
頭が悪いんだろう


本当に何の話なのか知らないけど「ホンモノです」と言ってる人がいなった?

あの写真・・・などの話でしょ、家の話
0130日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:21:31.50
『松傾』

こういう名前の家なんだけどw
何なんだと思う
0131日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:30:08.44
写真も貼り付けたはず


キュウリのような葉、葱の華・・・、
何かの制服のようなものを着ている子供が写っていて
0132日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:34:26.38
>>29
アホ
0133日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:39:26.15
ホンモノは戦争などにも行っていない、
訓練?などもしていない、老婆もそう言っていたし
0134日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:42:34.43
老婆談は、ほとんど合致している、
寺院に通っていたようなことも言っていたし
0135日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:45:03.25
何かの・・・・本当の直系の家なのかな?
0136日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:54:10.45
>>125
つまり>>106が根拠なしの主張だったという結末か

ツマンネ
0137日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 05:54:55.47
老婆談も詳しいというか、
そのままのような気がするんだけど、


むかーし山の上のほうに住んでいたことがあって
0138日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 06:03:24.59
本当の話



むかーし写真を撮らせてくださいと
家に来た人がいて・・・何だったかな、新聞社だったかな(忘れた)
みたいなことも言っていた
0139日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 06:10:26.13
なんで来たのかは、わからないけど、
有名人だったのかな?
0140日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 06:14:47.42
>>255
>実歴史としては、3世紀までに西日本域にいくつものクニ連合ができていた。
その中の一つである奈良の纏向連合が北部九州の邪馬台連合を潰して舶載貴重財を独占配布し、後の大和政権の基礎を築いた。
纏向連合は、その貴重財を資本として発展し、独走態勢となった。 そういうこと。<


実歴史としては、
旧石器末〜縄文頃から、列島にはいくつもの部族が渡来して来て、
多元部族の共存的体制ができていて、
縄文末には、西日本がズーズー弁族の出雲が統一的になっていた。
そこへ、燕の南の倭人の天孫族の阿毎氏が海峡に付近に渡来して来て、
出雲に勝って、北部九州に進出し、西日本各地に国生み植民をした。
それとは別に、呉王夫差の遺民の姫氏が火の国山門に渡来して来て、
その分家が倭人と合同して、倭奴國として後漢に朝貢し、
東海姫氏國として、
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
をして、その結果、
列島は、倭国と出雲文身國と越の大漢國と足摺の朱儒國と、
中部山岳部以北の毛人蝦夷や紅毛碧眼の女國やアイヌが分立していたが、
倭国内では、別種分家の大和が筑紫の姫氏を倒して、天孫族の阿毎氏王朝が出来、
天子を称したが、唐と白村江で大敗し、亡国の運命に晒されたが、
別種分家の大和日本国が倭国を併合吸収継承して、西日本を支配した。
そういうこと。
0141日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 06:17:52.36
どう考えても、サザエさん?
母親という人だけが素足(裸足)に下駄


老婆談によると、作者も生まれていない頃の話、
キュウリ・・・『河童の三平』?だとしても、
三平の作者も生まれていない
0142日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 06:42:29.47
鬼太郎の話なのかな?

それとも『dead or alive』(音楽)?
0145日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:03:37.30
>>97
自滅してないが。
0146日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:06:03.94
ズラ国は投稿規制?
一生来るな。
0147日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:07:34.78
もう、前方部後付け論争は収束したのかな?

「忌部はん」のお墓をあ〜だ、こ〜だ議論してくれてありがとう。 ご苦労様です。  @阿波
0148日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:10:31.11
>>145
自爆したよな
0149日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:17:30.76
それで、何の家なんだと思う?

『松傾』

こういう名前の家なんだけど
0150日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:18:25.59
278mの前方後円墳の円墳部分だけをみて径百余歩(約150m)などとは実に馬鹿馬鹿しい。
ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。
だから強引に結びつけただけ。
そして放射性炭素測定で箸墓をAD240〜260年というトンデモないミスリードをしようとしている。
放射性炭素測定で20年幅なんて分るわけがない。
箸墓をヒミコの墓だという論者は箸墓の瀬戸内の強い要素など全く説明できない、
せいぜい卑弥呼共立に瀬戸内勢力が中心となったなどの屁理屈で逃げる。

彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
彼らは神話に耳を貸さない。
そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。

江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。
何も難しくない、日本の原点かつ聖地に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢も埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛であり、ヒミコの時代に土蜘蛛を征したのは日向から来た男・神武である。

https://goo.gl/maps/DocFtPTq6VJ2
0151日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:22:21.96
味噌も糞も一緒のテンプレ
0152日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:24:19.50
神武というのは、
降り立ってから100万年〜何やらという話?
0153日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:27:33.80
土蜘蛛というのは、
いつ頃から住んでいる人たちなの?

天津・国津?神?
0154日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:29:43.98
>>150
箸墓、纒向はそのうち消えてなくなるだろうな
少しの遺物と 大風呂敷を広げた論 
こんなの長く続かない
0155日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:31:24.10
神武が〜〜〜不明???
なんて言ってる奴は頭の病院に行ったほうが良いぞ
0156日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:33:16.97
>>154

これからは、倭国(阿波)。  @阿波
0157日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:33:52.19
前スレ>966http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540395218/966
>途中で五塚原古墳の赤色立体図を見つけて方向転換したのだが悪いか?

つまり方向転換前の「五塚原古墳でも前方部側面にスロープがー」といってたのは
何の根拠もない戯れ言だったという自白だね? あんなに自信満々にエラそうにしてたのにw

そして君子豹変すって言葉もあるくらいだから、間違いに気づいたら考えを変えること自体は
いいことだと思うよ
でも、間違った考えを変えた先がさらに大間違いなんだから救いようがない

前スレ>966(このスレの>>89かな)のいう五塚原古墳赤色立体図の右側の少し高い部分は
古墳と繋がっていないし傾きがないからスロープになってない

どうしてこれをスロープだと主張できると思ったのか、そこからして不思議
まあ、文句をつけることだけが目的だとこんな理のないことを言い張るのも平気になるんだろうな
0158日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:36:54.04
例えば

スサノオなどは天津神と書いてあるし
0159日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:38:43.95
実在していても、していなくても良いけど

てらす、つき・・・も同じでしょ、
兄弟(姉妹)という話だし
0160日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:39:17.21
わかる
短里という誤った主張を糊塗するためにさらなる捏造を重ねてるのを見てきているからな
0161日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:39:18.62
>>154
石野さんはとっくに降りて勝山説、
寺澤さんはホケノ山説らしいよ(また聞き)

ヒミコが誰なのかキチッと煮詰めないうちに墓を考え始めたのが彼らの失敗。

10数年前、ヒミコとは誰なのか探してやろうと思い、わずか1分で見つけたわしの大勝利。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9f/Emperor_family_tree1-10.png
0162日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:42:21.52
>>150
>ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。

これがもう既に間違っている
3世紀初頭の纒向石塚古墳で墳長96メートルあり、築造時点で列島内最大
この後、箸墓古墳まで纒向古墳群に列島最大の墳丘墓が作られ続ける

これらのうち、年代の合うものが卑弥呼の墓の候補になるというだけ
あとは編年次第だよ

現行の標準的な編年では箸墓は卑弥呼より後になるので、それを理由に
箸墓を卑弥呼の墓としない人もいるが、その場合 は先行する纒向古墳群の
いずれかになるだけ
0163日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:44:07.44
>>157
>間違いに気づいたら考えを変えること自体は
いいことだと思うよ

間違いも何も後円部に続く細い道が映っている。
それを指摘しただけ。
調査できないのだから仕方ない。

どっちにしても円墳部分が先という論文を>>1は提示できていない。
推測が根拠だと本人が言ってるではないか。
0164日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:46:23.19
これは、どういう意味なの?

『倭猿』『やまとねこ』
0165日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:47:06.25
>>144
荒らしは九州説の断末魔だから、いい宣伝だ
0166日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:48:10.99
>>162
>箸墓を卑弥呼の墓としない人もいるが、その場合 は先行する纒向古墳群の
いずれかになるだけ

そんな都合の良い話はない。
味噌も糞も一緒にするな。

纏向地域には10代崇神以前の王権の謂れがない。
あるのは王権に屈した物部の謂れだけ。
その纏向に女王の墓などあるわけがない。

女王の墓は王権の謂れのある高天原にある。
場所は上記、示した。
顔を洗って出直せ。
0167日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:49:40.38
>>162
>3世紀初頭の纒向石塚古墳で墳長96メートルあり、築造時点で列島内最大


だからその、「纒向石塚古墳」朱塗の鶏形木製品の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw。  @阿波
0168日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:50:25.12
>>157
ヨコからゴメン
箸墓は前方後円墳でいいのでしょ?
0169日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:50:37.79
>>163
それ・・・
細い道だって証拠は?
0170日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:53:48.32
>>163
>間違いも何も後円部に続く細い道が映っている。
>それを指摘しただけ。

その前の「前方部墳丘の側面がー」といってたのは間違いだろ?

そして>>163では「細い道」とまた「方向転換(笑)」しているが前スレ842では
「前方部右に伸びたスロープがあるだろ。
 スロープとはこれの事だ。」
って自信満々にエラそうにしてたじゃないか
傾きがないのにスロープとはこれいかに?

方向転換後も間違ってるよなw
それをごまかそうと必死だけどさ

>>163の言ってた箸墓の左側面のスロープは立ち入り禁止になる前の農道だし
全部間違ってるw
0171日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:53:52.37
>>169
「裸の王様」
0172日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:55:02.76
あれ?  まだ前方部後付け論争やってんの?

「忌部はん」のお墓をあ〜だ、こ〜だ議論してくれてありがとう。 ご苦労様です。  @阿波
0173日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:55:48.18
>>170
農道であったならそれでいいけど、だからと言って後円部が先なんてならないからね。
何の証拠もない。
0174日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:57:06.86
>>166
葛城さん赤恥かいたのに元気だね
0175日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:58:37.11
特殊器台が奴婢殉葬の替わりだと(笑)

頭大丈夫か?
0176日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 07:59:59.49
>>173
調査できないんだから証拠があるわけがない
常識で考えればいいだけ
同じ時代の古墳がマル→シカクの順番で作られてるんだから
それでいいでしょ
0177日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:01:56.07
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。
0178日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:03:00.45
>>166
>纏向地域には10代崇神以前の王権の謂れがない。

列島最大の墳丘墓を作る主体が王じゃなかったら何なんだ?
列島最大の墳丘墓そのものが、王権の所在を直接示してるんだよ

九州説はよく、畿内が邪馬台国なら記紀に記録がないのがおかしいというが
この纒向古墳群の被葬者、つまり纒向の王たちの記録もないだろ?
外交記録以前に自国のトップの記録がないんだから、欠史八代はまともな記録がない時代なんだよ
0179日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:03:18.75
>>176
>同じ時代の古墳がマル→シカクの順番で作られてるんだから

根拠なし。
徳島の名東遺跡や志布志の京ノ峯など円形周溝墓に一部陸橋が残った形態が前方後円墳の祖。
魏志に合わせて都合よく解釈するな。
0180日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:05:22.29
>>177
畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりし、テンプレートも完全に論破されてしまった今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、
0181日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:05:58.57
>>171
自爆男の葛城さんは下半身丸出しだよね
そんなところに後円部に上るスロープがあったと誰も言っていない
あなた以外・・・
0182日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:07:10.79
マスゴミに吹聴してなんとなく世論作ってっていう・・・
性奴隷慰安婦と同じ構図の畿内説
0183日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:07:51.74
ていうか破綻しているし
0184日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:08:12.90
それよりも『小泉八雲』wikiを読んでみて

>16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、
>白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、
>写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、
>あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。
0185日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:08:52.81
>>178
>列島最大の墳丘墓を作る主体が王じゃなかったら何なんだ?
>列島最大の墳丘墓そのものが、王権の所在を直接示してるんだよ

磯城の王権ね。
崇神の一世代前の王権はイカガノシコメ・イカガノシコオというヒメヒコ制
二世代前の王権はウツシコメ・ウツシコオというヒメヒコ制

箸墓のミニチュアである五塚原や雷塚との関係から箸墓被葬者はイカガノシコオが最有力。
0186日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:09:03.42
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0187日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:10:20.72
>>1

どうしても箸墓を円墓にしたいのかな
0188日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:11:13.32
>>179
「古墳の造り方としては、後円部側を先に造り、それに付け足すように前方部をくっつけていることがわかった。」
橿考研 坂靖 朝日新聞2012−9−28
0189日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:13:00.67
>>187
事実を追求してるからだろ
0190日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:14:36.29
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
0191日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:17:06.07
>>188
ソースをはっきり示せ。
0192日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:17:37.52
葛城自爆爺さんの愛称、「バーン葛城」ってどう?
0193日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:18:45.04
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。
0194日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:19:27.89
>>191
ちゃんと朝日新聞って書いてあるじゃね?

発狂した?
0195日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:20:20.08
>>188
中山大塚古墳の一例だね。
全部がそう(後円部が先)とはならない。
0196日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:20:43.15
>>193
発狂したな
0197日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:22:31.24
>>185
>箸墓のミニチュアである五塚原や雷塚との関係から箸墓被葬者はイカガノシコオが最有力。

適当な名前を挙げて知った風な顔をしているけれど、その理論では
纒向石塚古墳の被葬者は誰?
矢塚古墳の被葬者は誰?
勝山古墳の被葬者は誰?
東田大塚古墳の被葬者は誰?
ホケノ山古墳の被葬者は誰?
0198日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:22:35.49
しかし円墳部を先に造り埋葬しました。
魏使はそのことを記述しました。
そのあと方丘を造りました。

こういう姿を妄想してるのだろうが幼稚www
0199日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:22:42.11
キナイコシが論破されてしまっている話題が、性奴隷慰安婦と朝日新聞のことのようだね。。。
0200日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:23:15.44
このスレも終焉に近づいてきたようだ
テンプレを変えて残してもらいたいが
>>154
>箸墓、纒向はそのうち消えてなくなるだろうな
少しの遺物と 大風呂敷を広げた論 
こんなの長く続かない <

>>161
>石野さんはとっくに降りて勝山説、
寺澤さんはホケノ山説らしいよ(また聞き)<
0202日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:25:01.91
>>198
論破されて苦渋の罵声を張り上げるトンデモ説
0203日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:25:12.97
>>199
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。
0204日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:25:45.72
>>197
>適当な名前を挙げて知った風な顔をしているけれど、

適当な名前でなくて記紀にも崇神の叔父として登場する。

>その理論では
纒向石塚古墳の被葬者は誰?
矢塚古墳の被葬者は誰?
勝山古墳の被葬者は誰?
東田大塚古墳の被葬者は誰?
ホケノ山古墳の被葬者は誰?

面倒臭いから全部物部。
筑紫、吉備、、讃岐播磨(2013寺沢)だろ?

纏向を基盤にした瀬戸内勢力は物部以外にない。
0205日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:26:32.99
>>260
>大和朝廷(崇神)は、邪馬台国(女王台代)を乗っ取って、出来たんだよ。
だから、邪馬台国は畿内にナイトおかしい。<

大和朝廷も邪馬台国も台与も畿内もなかったから、分裂幻覚の妄想であり、×。
0206日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:28:04.73
>>204
>纏向を基盤にした瀬戸内勢力は物部以外にない。

その物部も「忌部はん」と何度言えばw   @阿波
0207日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:29:09.26
出かけるわ。

ヒミコはヒメ(踏鞴五十鈴)で墓は高天原だよ。
塚の大きさも魏志どおり、奴婢まで埋葬されております。

まぁ纏向説のボンクラに反論はできないだろうがw
0208日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:30:03.58
>>266
>くだらない 荒らししか出来ない 九州説は もう死んでるってこと<

くだらない
荒らししか出来ない
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は
もう死んでるってこと。
0209日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:30:18.27
なぜか『ボーボボ』の話ばかり
0210日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:30:33.95
葛城カッツはん、スロープはどうしたね?
0211日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:30:36.28
>>189

あのー箸墓が前方後円墳なのは定説じゃ無いのかな?
0213日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:33:46.04
>>271
≫纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。
現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、
物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。
遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための地と考える学者も多い<

成程。
0214日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:34:50.67
>>271
>関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、
また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、
また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている <

成程。
0216日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:37:42.51
>>276
>卑弥呼の死亡時期だと考えられている、247、8年頃の纏向遺跡には中国文化が急速に浸透した痕跡がありません。
「魏志倭人伝」を見ると、帯方郡や魏本国との外交接触でおびただしい文物が持ち込まれているのですが、
痕跡すら確認できなくて、「どのような事をやっていたのか分かりませんが、桃を大量に使っての妖術的な祭祀や、大きな建物や、
だだっ広い空間、柵列」があるだけで、中国文化の匂いもしません。
そのような纏向遺跡が、「倭国連合の都が邪馬台国に置かれ、倭女王として卑弥呼が共立されていた所だとは到底考えられません。<

成程。
0217日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:39:42.33
負け犬のスレ流しw



w
w
w
0218日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:42:11.27
特殊器台を持つ巨大古墳は吉備文化であり、墓はその出自を示すから、箸墓の被葬者は大和・唐古鍵王(ホケノ山古墳の被葬者)を征服し、王墓を一気に巨大化させた吉備王。
特殊器台では手間がかかりすぎるため、円筒埴輪に簡略化。
西殿塚はその次の代の吉備王。纏向遺跡は彼の遺跡(桃の種)。弥生銀座(北部九州)の邪馬台国とは別物。
邪馬台国第2代女王壱与の死後、伊都国王(天皇)家が親魏(晋)倭王を継承し、西晋朝の内紛→西晋帝の威信失墜→中国大陸の大混乱の悪影響から逃れるため大和に東遷。
その際、西殿塚に眠る吉備王の娘に入り婿して(ミマキ入り彦)、大和朝廷成立。
0219日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:42:41.33
>>284
大演説する割に証拠を一つも出さないのが
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の貧困を物語る
0220日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:43:52.65
『天皇 人権がない』

どういう意味だと思う
0221日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:46:30.20
>>294
>3世紀の古墳ホケノ山やら椿井からは合わせて400点くらい鉄器が見つかってるが <

ホケノで3世紀末以後。椿井は4世紀。
0222日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:49:19.95
>>296
事実、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説や阿波説は、
いま揺らいでるどころか、倒壊済みだから。
0223日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:49:42.35
>>218
「伊都」国王家は古くから漢王朝と親交があり、漢「委奴」国王も「伊都」国王ではないかとの説もあり、邪馬台国の外交を一任されていた程(一大卒)。
しかも「伊勢」神宮の御神体である八咫鏡は、「伊都」国王1号墓(平原遺跡)で出土した国内最大の内向花紋鏡(直径46.5p)と同一と見られることから、天皇家の出自は伊都国王と見て間違いない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
0224日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:50:58.39
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0225日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:51:16.83
Dead Or Alive『Turn Around and Count 2 Ten』

ちゃげ&あすか?みたいな事を言っていたり、
どういう事だと思う?
0226日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:51:26.32
zarakokuが言い張れば言い張るほど、ウソだという
良い宣伝になりまつ
0227日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:53:02.69
>>298
>魏の鏡も見つかってるね <

ホケノには魏の鏡はないね。
0228日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:56:32.08
>>305
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、なんで捏造ばかりするんだろうね
0229日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:58:02.71
>>306
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に、
有利なものが何も無いから
0230日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 08:59:35.85
>>307
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説には根拠がないから、捏造して創るんだよ

歴史がないから歴史を捏造するw
0231日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:06:34.27
詳しい人なら知っているはず

ぼくは死にません

という台詞とか、どういう事なんだろう
0232日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:08:02.86
九州説が死んだってことだろう
0233日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:11:27.91
>>213-216
畿内説の悲劇は、考古学の成果(箸墓・纏向=吉備王・桃)を、限られた文献学(魏志倭人伝)で説明しようとしてしまったこと。
箸墓→3世紀の列島最大墓→倭王墓=(魏志倭人伝)卑弥呼の墓→邪馬台国=大和(最先端・中国文明の香りが全くしない纏向遺跡)
この結論ありきで、他のすべての歴史を説明しようとするあまり、逆に考古学の成果を歪めてしまったこと。
0234日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:12:57.23
飲まなきゃソンソン
みたいな事を言っていたり


空耳
0235日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:27:20.25
皇国史観だか何だか知らないけど、
工作員のような人がいるんだよwという説

本当は皇国(不明)というのが嫌いな人物

ガンダム?
0237日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:31:13.16
LOOK『シャイニン・オン君が哀しい』

という曲?
0238日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:43:50.87
『ボーボボ 田ぼ』

演技と言っているでしょ、どういう事なんだろう

『ボーボボ』
0239日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:44:56.42
>>233
まったくだ、畿内大和中は、
贔屓の引き倒し、贔屓の引き倒し、贔屓の引き倒しww
0240日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:48:20.39
>>308
>大阪府の和泉黄金塚古墳から景初三年銘四神四獣鏡が「棺外」から出土したが、
これも稚拙な倭製鏡と見られ、卑弥呼の貰った銅鏡100枚のコピー品と思われるw<

明帝の詔書は、景初二年12月だから、
景初三年鏡は卑弥呼の貰った銅鏡百枚にもならないし、コピー品にもならないならない。
0241日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 09:51:14.22
なんで詳しい人がいるんだろうw

表向きだけ〜悲しい(哀しい)フリ、演技

『ガンダム サングラス』
あとサングラスと同じような人物が数人いると書いてあったり
0243日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:02:50.63
>>233
例えばそのページのこれ
「墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸や弥生式土器などの絵画に
 見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、
 この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている」

柱というには細すぎるから建築物があったとは考えられてないよ
穴の位置も適当で四角になってないし

原田氏個人の考えに引きずられすぎの適当な記述になってるよ

いまだに「鏡の外周は鏡の『円周の単位』で八咫」とか根拠のないことが書いてあるしww

原田大六氏は「建築物の周りに鏡を並べたのではないか」と考えているが
墓坑周りの穴は、建物ではなく、杭を立て並べたものと考えられているので
鏡を飾ったとすればこんな感じになるだろう
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcQLluhMz5um-Cl7YbChUHDC9zJ4hTUVoz_bAI7Hq9pOdDIEZIn5
0244日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:03:43.03
>>242
誰が言ってるの?
中国の正史なんだけど
0246日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:06:37.49
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0247日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:06:39.00
>>314
景初四年鏡国産説は、大和説にとって致命傷だね
三角縁神獣鏡自体が、明帝の下賜鏡である事を否定し、
西暦240年以前に、呉系の楽浪鏡師らは渡来して来て、△を作った、ってことを、
認めることになるんだから
0248日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:07:19.22
気づいている人は気づいている?

本当はウラシマン・・・・あと某が主人公なんじゃないの?
酒飲み童子?
0249日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:09:17.06
『ウラシマまりん』
0250日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:13:26.43
>>354
>景初四年鏡が偽物だとしても
だからといって景初三年鏡や正始元年鏡が偽物とはならないのである
まあ実際は景初四年は存在したんだが <

景初四年鏡は、景初四年が実在しなかったんだから偽物であったんであり、
だからといって景初三年鏡や正始元年鏡が明帝下賜鏡とはならないのである。
まあ実際は、渡来の楽浪鏡師らが、製作したんだから。
0251日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:15:50.13
>>244
・粱書倭人伝
・日本書紀神功皇后39年条の注で引かれてる魏志
は景初3年となっているというのが根拠だとさ
現行の魏志倭人伝は宋の時代の写本なのだがそれより古い時代に魏志倭人伝を参考に書かれた本の記述が景初3年となってるからそちらが正しいだろうという判断だね
0252日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:20:32.22
他のスレにも書いていることなんだけど、
なぜ家の話ばかりしているんだ


写真も貼り付けたはず、
沖縄の人形なんかも飾ってあったでしょ
0253日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:22:06.54
あと白い服?着ていたわけではないのかな、
写真も貼り付けたはず

写真の裏に『松傾』?こういう名前
0254日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:25:43.78
確か貼り付けたはずなんだけど、
キュウリの葉、葱の華・・・・あれも家の写真
0255日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:29:30.63
>>330
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧の
卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年という記述から
メモリアルイヤー説はむしろ肯定されてしまう
現在見る魏志倭人伝は3世紀の陳寿の書いた原本ではなく
それが失われた後の12世紀に復刻されたものであり
原本魏志及びそれを引用した史書と記述が食い違っているのが明らか<

後代に、前史の記載を「自己解釈に拠る書き換え」をしたものは、前史の証拠にならず、
写本版本に存在した記載の方が、99.5%以上の信頼性がある。

>12世紀以前、失われる前の原本魏志を魏志曰くと引用した史書の記述には
卑弥呼が魏に使者を派遣したのは景初三年とあり
よって景初三年と記銘のある三角縁神獣鏡は
魏から卑弥呼への下賜鏡として考えて疑念の入り込む余地はなし<

通典が、魏志の写本版本と同じく「魏明帝景初二年」と書いた事で、
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧の「景初三年」は、×になる。
0256日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:31:23.71
>>333
最近、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の言ってることの、
倫理や論理の破綻ぶりが目に余る。
0257日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:32:21.69
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0259日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:39:01.09
ゲーム、漫画・・・その他

家の話ばかりだし
0260日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:39:21.91
>>336
景初三年記年銘鏡は、コピー鏡もあるだろうからそれがすべて下賜鏡と断定は現時点ではできないけれど、<

明帝の詔書は、景初二年12月だから、下賜鏡である事は否定出来る。

>「景初三年を記念する鏡」を大事にするのは、その年のできごとが重要な社会においてのみであるのは確実<

関係ない。渡来の呉系楽浪鏡師らが、自分等の鏡の権威を上げるために刻んだ。

>そして、「景初三年を記念」するためには、その年代の魏との修交が必須であり、<


いや、不必要。

>結局景初三年の朝貢は 畿内を中心とする勢力が行ったことを否定する材料がない<

畿内なんて存在しないし、朝貢も景初二年の出来事。
0261日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:41:21.40
>>337
>『斜路状平坦面』は『箸墓古墳』のレーザー測量で前方部の側面に全国の古墳の中
で唯一発見されたということだね。
前方部の側面ということは最初から前方部があったということだね。<

成程。
0263日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:43:21.75
なぜ家の話ばかりしているんだ?
0264日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:43:52.11
>>338
河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳の例だけでも、
前方部が必要であったんなら、
後円部と前方部が同時築成である、とするのには十分だと思うが。
0265日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:45:56.01
ゴジラ〜〜〜何やら〜?
あれも家の話だし
0266日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:46:40.44
>関川尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、 魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている

>「魏志倭人伝」を見ると、帯方郡や魏帝との外交接触でおびただしい文物が持ち込まれていると考えられるのですが、
卑弥呼の死亡時期と考えられている、247、8年頃の纏向遺跡には、中国文化が浸透していた痕跡がありません。
痕跡すら確認できなくて、「どのような事をやっていたのか分かりませんが、桃を大量に使っての妖術的な祭祀や、大きな建物や、
だだっ広い空間とそれを囲む柵列」があるだけで、中国文化の匂いもしません。
そのような纏向遺跡が「倭国連合の首都で、親魏倭王として卑弥呼が共立されていた所だとは到底考えられません。

≫纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。 都市遺跡ではないということです。
現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、
物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。
遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まった市場、輪山の祭祀遺跡と考える学者も多い 。
0267日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:48:18.96
畿内説・大和説は、
贔屓の引き倒し、贔屓の引き倒し、贔屓の引き倒し、ww
0268日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:50:57.54
川俣町という掲示板があるでしょ、
以前何々という家があって、機織りをしていたという話


家の話
0269日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:53:29.26
>>340
>『斜路状平坦面』は、箸墓が唯一じゃないねぇ
前方部と後円部が同時築成なら、段数が異なるのはすごく難しいと思うよ?<

何故難しいの?。
前方部が二段で、後円部が三段なら、
前方部の「斜路状平坦面」が、後円部の3段目の造成に使えて、
便利な筈だよ。
0270日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:55:31.25
すこし読めばわかると思う、
川崎に住んでいると言ってる人がいたりw

川崎市川崎区のことだと思うんだけど
0271日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:57:05.67
>>342
>どうして?
実際、後円部がほぼ完成していて、前方部がほとんど盛り土なしで低い古墳の
実例があるってことなんだけど? <

部族が違えば、違う形態の墓を造っても、何らおかしくない。
0272日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:58:03.34
家は『松傾』?

こういう名前なんだけど、どういう事だと思う
0273日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 10:58:52.81
纏向遺跡に中国文明の痕跡や北部九州の土器がほとんど出土しないことから、女王卑弥呼の時代、弥生銀座(北部九州)と畿内連合(古墳文化)、2つの大勢力が併存していたことを示す。
この重要な事実に目を見て見ぬふりをし、箸墓=卑弥呼の墓→邪馬台国=大和の結論ありきで、屁理屈で本当の歴史を見えなくしているのが畿内説関西人である。
畿内説は真実を探求する学問ではなく、結論ありきの在地信仰。それも淫祠邪教であるw
0274日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:01:10.30
それと人工地震の話


頭おかしくなるわ!
と言っていた人はどうなったの?死んだの?
0275日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:03:36.84
数年前の△の陰謀というスレ読んでみた?

・真似しているから、こんなことになってしまった!

・だっつーの!そういう事なんだっつーの!
 何度も言いました、生きてたのか!

このような書き込み
0276日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:07:07.94
他のスレにも書いていることなんだけど、
家に来てみろと言っているんだよ

あの写真などもあるから、
キュウリのような葉に葱の華・・・・w
0277日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:08:25.83
春日周辺の「弥生銀座」の銀座は各時代の遺物が出るという意味で
銀座のように栄えているという意味じゃない
弥生終末には中心が畿内の庄内式土器を模倣製作している博多周辺に移っている
0278日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:11:02.09
なぜか知っている人もいたでしょ


川崎に住んでいるんじゃないの?とか
0280日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:14:39.03
本当に聞きたいこと

お前はデスラーか!頭おかしくなるわ!!
と言っていた人のことなんだよ


地震の余震などで、なったのかな?
0281日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:18:15.68
>>353
>九州に一枚もないから否定できるな<

△なら、九州にも沢山出ている。
呉系鏡師らは、卑弥呼の遣使の前に楽浪の戦乱から逃れて来たようだが、
筑紫では、明帝の下賜の銅鏡百枚が出来て商売にならなくなって、
一部は残って卑弥呼や壹與の依頼製作をしたようだが、
大半は、地方の豪族に頼まれて造ったり、
大和などのような「鏡造り神社」で鏡造りを教えた。
0282日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:22:34.99
>>344
>4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成 以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。

レーザー計測では前方部側面のスロープがみつかったわけだから、
「以上の段階1〜4で方丘が存在していない。」というのは嘘。
おまえ平気でうそをつくな。 人間のクズだろ。<

成程。
0283日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:23:19.67
兄、弟、妹がいて?


この書き込みをしているのも弟だから、
家に来てみろと言っているんだよw
0284日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:28:31.80
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0285日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:28:56.51
銀〜〜〜という親戚がいるという事もわかるから、
偶然なのかな?
0286日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:31:06.38
>>375
>>皇帝が詔書で、金印や下賜品などを書いて、難升米らに告示した、という事は、
当然、それらの準備が出来たから詔書が出せた、という事、<

>それはzarakokuの空想でしょ
皇帝はいちばん偉いんだから、細かいことなど気にせず命令すればいいだけ<

皇帝は一番偉いんだから、部下は、
皇帝に絶対恥を書かせてはいけなく、準備が出来てから、皇帝に詔書を書いて貰うもの。
若しも、まだ準備が出来ておらず、皇帝に恥を書かせたら、首が危ないもの。
0287日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:35:13.60
宇宙皇帝?
0288日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:42:33.86
君は1000パーセント


なぜか・・・同じような話、
ゴーストライター?
0289日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:45:21.87
>>244
・其年十二月が詔書出される
・正始元年に建忠校尉梯儁が倭に渡る
時系列を考えれば其年=景初三年と考えざるを得ない
(詔書を一年放置する理由がない)
※建中校尉も建忠校尉の誤とされる
0290日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:47:05.74
>>393
>あなたの日本語能力はとても低いね
産経新聞が言ってるのは前方部段築の平坦面が
「前方部の先端に向けて上昇するスロープ状」
だという話
1の言ってる
「箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ」
とはまったく別のものだ <

ふーん。
0291日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:47:16.27
家の話というか、
なぜ妹の話ばかりしているんだという話

気づいている人は気づいている
0292日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:51:05.55
>>397
>「計其道里、當在會稽東治之東」 陳寿がどんぴしゃと書いている<

「計其道里、當在會稽東治之東」は、「計其道里、當・・・」だから、
陳寿が「大体の位置推定」を書いている。
0294日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:56:16.55
>>398
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のように、
大体の記載であるものに、更に可能性に可能性を重ねて、それを断定するようなするような大和説には、
ついて行けねー
推論を何重も重ねたら確率下がるやん。
0295日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:57:46.74
うらしまん〜〜〜〜太陽の紋章?
0297日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 11:59:13.63
ウラシマンには妹もいる、
あと兄もいるから・・・実際は兄の話なのかも
0298日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:03:25.36
入江にうかぶ物語


『浦島太郎』

教えても、わからない国の人たちなの?
ここにいる住人のことだよ
0299日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:04:08.91
>>403
>「前方部の先端に向けて上昇するスロープ」で
後円部に登れるか
普通の知能があれば分かりそうなもんだが
九州説は悲惨だな <

箸墓は、前方部は先端の方が少し高いし、
後円部も(前方部の2段築に対して)3段築だから、
円頂付近の傾斜のなだらかな部分になるし、
方墳中央部にスロープを造れば、両方に残りの作業が楽になる。
それが判らないらしい大和説者って、悲惨だな。
0300日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:08:02.34
SALT WATER

という文字、普通に海()のことなんだけど、違うの?
0301日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:16:26.01
>>408
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
「大和」や長里などをあった事にするために、更にいくつ捏造を続けるんだ。
嘘を一つつけば結局たくさんの嘘をつかなきゃならないんだな。
0302日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:19:05.71
>>410
>箸墓築造工程関連で述べている見瀬丸山古墳の前方部の高さが全然間違っている。
見瀬丸山古墳の前方部には盛り土がないとしているが、ウィキ「丸山古墳(橿原市)」では前方部の高さは15mとしている。
この15mは、箸墓の16mと比べて遜色がない。
また、河内大塚古墳の前方部は4mの高さがあり、まったく盛り土がないというものではない。
河内大塚古墳、見瀬丸山古墳ともに、築造途中に放棄された古墳という見方は間違いだ。<

成程。こりゃスレ主のインチキがバレた可能性があるね。
0304日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:22:11.48
それにしても、おかしな話

むかーし、写真を撮らせてくださいと言って、
家に来た人がいるんだよ(老婆談)


有名人なのかな?
0305日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:27:57.36
>>432
>大地は平面じゃないから南北で棒の影が丁度1寸ずつ違うという事はないね
太陽が真上にある夏至の北緯22度ならともかく

周地付近の大地平面と考える事が出来る地域で、
有効数字1桁程度の近似値での推論なんだから、一寸千里は十分成立するね。
0306日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:31:16.06
老婆も、おかしいんだよ、
モレ(仮)にだけなのかな、そういう話をしたり

父親に聞いたりしても、
そんな話は知らないと言ったり
0307日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:35:54.05
一寸千里は使われてないと思うがね
なにせ1年に1回しか測れないのだから
漢の領土はベトナムまであったのに
使ってたら変だと気付くわな
0308日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 12:45:58.55
『入江 海』

浦島太郎でしょ、髪の毛の色が〜というキャラがいたり
0309日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 13:17:57.66
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』

どういう意味だと思う、
このような仕事をしているわけではないんだけど、
広告が出てきた事があったり
0310日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 13:23:44.03
わかりやすく言うと


被災地などに行き、そこで働けと言っているんだよ
0311日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 13:32:33.96
>>305
>有効数字1桁程度の近似値での推論なんだから、一寸千里は十分成立するね。

一寸千里で有効数字一桁程度の精度だったら、その下の百里の単位だったら
完全に誤差に埋もれるなw

つまり末盧国に上陸してからの距離は全てあてにならないってことだなwww
0312日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 13:38:38.80
前方後円墳のどこから被葬者を墳頂まで上げたかというと、
前方部と後円部の付け根であろう。
後世には「造り出し」となる部分。

「造り出し」で祭祀を行ったと聞いたことある。

つまり後円部を先に完成させて葬儀を行い、
方丘を後から造ったなど考えられない。
0313日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 13:42:36.17
漫画〜アニメ・・・芸能、チンドン屋〜
メディア何やらなんていう商法は
必要ないんじゃないのか?と言ってる人がいたでしょ


数年前の△陰謀というスレ
0314日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 13:43:44.30
人の家に寄生(ゴキブリ)しているだけだと
気づいている人がいるんだよ
0315日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 14:01:25.89
必要ないと決まったのに、いつまで続けているんだ
0317日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 14:11:53.41
それで、お前の名前は?
0318日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 14:15:34.42
お前たちが決めることではないんだよ、
何やらを作っても良いか〜〜〜〜〜不明、
許可を取りに来いと言っているんだよ
0319日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 14:24:39.93
どこのスレだったかな

誰々って、川崎に住んでいるんじゃないの?
と言ってる人がいたよな

いまの福島県のほうにある、????という城が何やらとか
0320日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 15:30:01.37
>>277
>春日周辺の「弥生銀座」の銀座は各時代の遺物が出るという意味で

長い時代に渡って、銀座のように栄えていたということだね。
0321日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 15:33:25.10
卑弥呼がいた倭国とは、対馬海峡を中心とする王国だよ。
そこをまず認識しないと。
0322日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 15:43:34.87
倭国とドラクエ(不明)の関係は?

それらしき設定なんだけど、
実際は他の家の話だったとか?
0323日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 15:45:22.85
すさのお?
0324日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:26:10.91
大和に成立した邪馬台国を逆算して行っても弥生時代の大和にならないのが面白い

弥生時代のヤマトが段階的に発展成長して邪馬台国になったのではない
かと言って周辺国のどこかが主体になったわけでもない
周囲の全ての要素が結集して邪馬台国が大和に誕生してる

ここでとても興味深い点が二つ

@邪馬台国成立直前の時期は各地域の個性が最高潮を迎えいわば盛期であり、なぜ連合の道を選んだのかと言う事
A中心地となった大和はむしろ弥生時代を通じてかなり独自路線を進んでいて必ずしも周囲と同調関係を持っていなかったのになぜ中心となったのか

これがとても面白い
0325日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:32:30.24
それよりも
『1000パーセント』
なぜガンダムなのか?なんだよ・・・・・・・・・・
0326日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:33:00.61
勿論軍事的に征服されたとかそういう状態にもない

自主的に各地域の強盛の文化圏が大和に中心をおいて連合を形成したような姿が見える
この動きは中々に興味を引く
0327日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:34:08.05
『菅野力夫』〜『サカキバラ事件』
0328日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:42:29.26
>>436
>魏志が短里で書かれてあるという事の証明を
儀志は短里で書かれてあるからあるとするのは循環論法<

「魏志が短里で書かれてあるという事」の根拠は、
「魏志の記載の史料事実や史料実態が根拠だ」、
という意味だ。
つまり、史料記載事実が根拠だ、という事であり、循環論法になっていない。
それを、この・・・・大和説男は、
根拠を「魏志が短里」という文言に擦りかえて、
循環論法に曲解捏造した。
0329日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:46:34.59
>>324
>A中心地となった大和はむしろ弥生時代を通じてかなり独自路線を進んでいて必ずしも周囲と同調関係を持っていなかったのになぜ中心となったのか

これに、記紀の神武東征説話が重要なんじゃないかと思っている
要するに、聖なる血筋という「神話」が畿内の祭祀王の共立の根拠とされたのではないか
0330日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:47:54.51
>>437
>一寸千里で計測なんてできねーぞ<

この・・・・大和説男も、曲解捏造している。
「南北千里を計測し、その両地点での夏至正午などでの8尺棒の影長を計測」して、
その差を計算したら1寸だった、
という事だ。
0331日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:51:41.67
まあ循環してるのに気付かないから短里なんてのを信じてるのだろうけど
0332日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:52:12.46
>>438
>ホケノ山が3世紀中庸は定説 バカはお主 <

3世紀中葉の卑弥呼の墓は「冢」であり、
ホケノは全く違ったであるから新しい「前方後円墳」である、
という事などから、
「ホケノ山は3世紀中葉」は、×だ。

お前も・・・・詐欺師の大和説者。
0333日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:55:06.19
『セイラ・マス』

画像を調べてみて、
1000パーセントと同じ
0334日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:55:58.20
>>442
>台与の時代になって河内の土器が急増する
前方後円墳の誕生に何らかの影響を与えたのかもしれないな
武埴安姫を娶って河内を取り込んだ勢力が力を得たのかもしれない
武埴安彦の乱も気になる<

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」という上表文の記載を無視した空論は、×だ。
0335日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:57:21.10
>>331
>まあ循環してるのに気付かないから短里なんてのを信じてるのだろうけど

ザラコクも信じてるわけじゃないと思うよ

ただ、もう何を言われても自分で信じていなくても畿内説スレの邪魔をする、というのが
ザラコクの行動の第一義だから

ザラコクでも否定しようのない、「歩」は文字の成り立ちから、古典の記載、考古出土遺物まですべて「複歩」であるのが確実なのに、
『歩には「止」が入っているから歩いていない、複歩じゃない』って言い張るんだからww

まあ、ザラコクの相手をする人もほぼいなくなったよねw
0337日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 16:59:19.33
それともNARUTO(ボーボボ 田ぼ)

女になったというシーン?
0338日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:14:00.33
ガンダムのサングラスが女になったという曲なのかな


『SDガンダム カード 百式』

同じようなカードがあったり
0339日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:21:05.99
>>324
>A中心地となった大和はむしろ弥生時代を通じてかなり独自路線を進んでいて必ずしも周囲と同調関係を持っていなかったのになぜ中心となったのか

中心になったということ自体が思い込み、妄想の類でしょう。
0340日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:21:19.43
>>449
>それがレーザー計測で精密測量したら、前方部側面の部分で段築が確認できてしかも
平坦部が後円部に向かって斜路・スロープになっていることが分かったってこと
その上に前方部の次の段を乗せたらスロープとしての役をなさないから、
スロープを必要とするとき、つまり後円部の墳頂の工事および祭事の時には
まだ前方部の盛土は行われていないと考えるのが妥当<

それなら、前方部の段築は二段はあった筈だから、
「後円部の墳頂の工事および祭事」の時には、既に、
前方部の盛り土が行われていた、
という事になるではないか。
0341日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:27:53.78
>>460
>前方部も同時に盛土したら棺を上げるのが大変だろ<

大和説者は、盛り土をしたところにスロープを造った、というような話をしたんだろ?。
0342日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:38:46.95
>>464
>輝彦だったかな<

そうか。
桜井教育委員会の男は、やっぱり橋本輝彦だったのか。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の立場で、
九州説や古田説に反論批判していた男だったな。
0343日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:40:57.70
>>341
>大和説者は、盛り土をしたところにスロープを造った、というような話をしたんだろ?。

ザラコクは理解できてないのに口を挟むんだよなぁww
バカだから

あと面白いのは、バカ呼ばわりされることに対してはザラコクは反論しない
0344日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:45:03.55
>>468
>写真に写ってないものが見えちゃう九州脳・・・<

「南→東」などの嘘つき騙しや、
史料事実の紹介を不完全にしておいて、九州説者や国民が誤解するようにして、
その不完全紹介を推定した九州説者を、細かい差異をあげつらって誹謗罵倒して、
議論に勝った、とヘイトスピーチ宣伝する大和説者脳・・・。
0345日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:48:16.23
>>328
魏志の記載に使われた尺度は1歩=1尺であるなどと書いてあるのかの?
律歴志によれば魏の尺度は1歩=6尺とあるが
0346日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:50:24.75
>>344
いくら畿内説をが否定しても、九州に有ったってことにはならないぞ
邪馬台国が九州に有ったってことの根拠を書いてみな
0347日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:53:14.35
>>345
>魏志の記載に使われた尺度は1歩=1尺であるなどと書いてあるのかの?

ザラコクさんの主張では「1歩=1尺」ではなく「1歩≒1尺」らしいよww
1尺=約24センチで
1歩=約25.5センチらしい

じゃないと、古田史学の会がいう短里の長さに合わないからねww
1歩=6尺は認めないのに、1里=300歩は正しいらしい

短里の根拠にしている周髀算経でも1里=300歩になってるから、
ここは捏造できないポイントになってるwwww
0348日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 17:54:28.87
>>473
>「五塚原古墳」でググって、発掘調査書を見てごらん 報道発表資料でもいい
「段築上面」が後円部に向かって斜路になっている部分が示されてるから
>>456のいう「せりあがってストンと落ちる「へ」の字型」は、
「斜路状スロープ」の上に次の段が乗せられた後の形<

という事は、
五塚原古墳でも、一旦前方部の下の段築が造られていた、というの事になり、
やはり、後円部と前方部とは、「ほぼ同時築造」であった事になるではないか。
0349日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:03:32.46
>>348
>五塚原古墳でも、一旦前方部の下の段築が造られていた、というの事になり、

最初に、前方後円形の地割をするので、その時点で外形は決まっている
前方部の墳丘が積まれていなければ、円墳に見えるという話
テンプレ読みな

といっても読みに行かないだろうから転載

 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
   
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
0350日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:03:48.14
 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
     
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと。
 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
・椿井や黒塚で見られた土質相違、中山大塚の葺石構造、河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳での前方部盛土欠如
・円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
 
※隆起斜路 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
0351日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:16:49.25
>箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
はいはい推定ね。
全く根拠なし。
0352日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:21:20.23
>>351
>はいはい推定ね。
>全く根拠なし。

こいつ、バカだなww

「根拠があるから推定できる」んだぞ?

まあ、九州説の方ではいつも「根拠なしに捏造」して
それを「推定」と言い張っているから、同じだと思ってるんだろうけどww
0353日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:23:40.18
>>351
推定の根拠が四項目も箇条書きしてあっても
何も無かったかのように全く無視して
根拠なしと断定する

それがトンデモ爺さんの性癖
0354日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:25:19.22
>>312
その通りだ。
声を大にして主張しよう。
0355日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:25:26.06
>>476
>漢の時代から倭国と呼ばれて来ただろ<

後漢書の「倭國」は、
後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」の多い范曄の記載であるから、信用出来ないよ。

魏志の「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國」の「倭國」は、
同時代の実地の見聞に拠る記録だから、信頼性が高い。
そして「倭國亂」の倭國は、陳寿は魏志を書いているんだから、魏代の呼称として書いた可能性が高い。

>さらに魏志九州人伝でなく魏志倭人伝であるから
九州は九州と呼ばれて来たと主張するなら魏志倭人伝には九州の事は一切書かれてないという話になるが<

魏志の「倭人」伝の「倭人」は、陳寿の選択文字。
しかし、倭人は、自分等の出目を中国人に説明する時に、
自分等が「燕の南」の「九州の一つ」にいた、という事を自覚し、
阿倍仲麻呂への送別の歌の王維らも知っており、
7世紀の多利思北孤らが天子を名乗った時に、九州島をわざわざ「9国」に分割する、
という事をしたのだから、
倭人は、自分等は「九州」の住民であった、という事を知っていた。
0356日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:26:02.79
前期古墳にはないが中期頃から造り出しが登場する。
ここで祭祀を行ったということはこの場所から棺を上げる慣例があったということであろう。
古墳の一番低い部分だからね。
やはり前方部と後円部は同時に造られていた。
後円部が先なんて希望的観測してるんじゃないぞ、アホの>>1www
0357日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:28:04.48
>>353
>推定の根拠が四項目も箇条書きしてあっても
何も無かったかのように全く無視して
根拠なしと断定する <

推定だから根拠にならない。
0358日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:28:39.24
造出がある古墳は100基くらいしかない
0359日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:30:28.33
>>357
トンデモじーさんは「根拠から推定する」ということを知らない
つまり彼の人生は今まで一度も「推定」したことがない
0360日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:33:05.91
>>356
>前期古墳にはないが中期頃から造り出しが登場する。
>ここで祭祀を行ったということはこの場所から棺を上げる慣例があったということであろう

つまり、造出しがない頃はそこから場所から棺を上げる慣例がなかったんじゃね?
0361日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:37:21.97
>>490
>魏書曰くと出典が明記されていて
記述も一致してるから書き換えがあったというのは破綻 <

何度も出して上げた事だが、
www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
で見ても、
「記述が全く合わない」部分が沢山あるから、「書き換え」が確実にあった。

>呉からは三角縁神獣鏡が1面も出ていない 魏の洛陽付近では出ている<

洛陽から、0〜1枚では、列島の500枚以上の△の説明にならない。
0362日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:40:34.37
>>360
>つまり、造出しがない頃はそこから場所から棺を上げる慣例がなかったんじゃね?

前期からそういう習慣があったから造り出しができたのであろう。
大山陵でも造り出しに須恵器があって祭祀を行ったようだ。
0364日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:43:25.99
>>361
>「記述が全く合わない」部分が沢山あるから、「書き換え」が確実にあった。

確実にあったよ
いまの三国志は宋の学者たちが研究してマチガイだと思ったところを「書き換え」ていまの形にしたんだから

そのホームページを書いた畿内説の人も、そういうつもりで書いてる
0365日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:43:38.29
だいたい一番低い部分から棺を上げるというのは当たり前。
箸墓でも前方部と後円部の継ぎ目あたりね。

円墳に基壇を作って上げたってwww
0366日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:44:10.57
>>324
この2点は、古代史の核心ポイントです。
@の成立の理由について、あまりとりあげられないが、次のことが理由。
弥生後期後半の低温進行でいわゆる倭國の乱が起こり、クニグニの合理化と統合のための騒乱となった。
ところが、その低温化が一時的に緩み、180年頃から気温が上昇に転じ、やがて元の平時の気温にまで回復した。
その気温上昇のピークに起こったのがクニグニの騒乱停止による卑弥呼共立。
これで、低温化による社会不安がなくなったのかと思うとそうではなく、その気温上昇は一時的で、再び気温低下が急激に進んだ。
これが、卑弥呼在位期間にぴったり重なっている。
そして、気温の低い状態が恒常的に続くいわゆる古墳寒冷期に突入する。
A弥生時代の大和は、孤立していたわけではなく、近江〜木津川〜大和の緩やかな連合体制をとっており、墓制も共通し、生産資材の域内流通も整っていた。
この近江、木津川、大和連合に近江と深い関係にあった尾張と北陸を加えた同盟が成立し、纏向連合の核心となった。
このことが、とても興味深い。
日本の古代の歴史の大転換点の核心がここにある。
0367日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:45:06.13
>>362
>前期からそういう習慣があったから造り出しができたのであろう。

そういう「推定」をする根拠は?
0368日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:47:55.37
>>366
それが吉備と同盟して、全国政権の核が出来たわけだね
0369日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:48:44.85
>>330
それがどうかしたか
そもそもお互い千里離れた距離の8尺の棒の影の長さが
丁度1寸差になりましたなんて偶然はありえん
一寸千里は適当に作られた数字
0370日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:49:38.36
>>365
そうやって全く根拠を出さないのが「ナンチャッテ推定」ね
推定ではない
0371日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:50:08.80
>>499
>畿内から景初、正始年号三角縁神獣鏡が見つかってるんだよ<

畿内なんてそんざいしないし、
大和からは「景初、正始年号三角縁神獣鏡」は出ていない。

>これは畿内と魏が交流していた証拠<

戦乱を避けて渡来して来た呉系の楽浪鏡師らが、自分たちの身の安全のために、
魏の「景初や正始」年号を書いた。

>九州じゃなくな<

呉系の楽浪鏡師は、九州でも△を造っていたが、
明帝→卑弥呼の銅鏡百枚を知って、地方の豪族や東征将軍に鏡を造って上げた。
0372日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:50:39.94
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0373日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:52:10.28
>>362
>大山陵でも造り出しに須恵器があって祭祀を行ったようだ。

そのころはとっくに竪穴式石室の時代じゃないとか
まったく知らないんだろうなあ
0374日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:54:24.63
>>356
>前期古墳にはないが中期頃から造り出しが登場する。
>ここで祭祀を行ったということはこの場所から棺を上げる慣例があったということであろう。

こういうのが根拠なしの憶測っていうんだよ
左側スロープで懲りないのかねww

前期古墳と、中期古墳では墳丘の見られる方向に対する意識が変わる
前期古墳では墳丘の長軸方向が重視され、山裾の尾根を利用した古墳(行燈山古墳など)では
前方部末端が人里に向けられている

それが中期古墳になると、後円部と前方部が両方見える側面からの視点が重視されるようになり
その側面から見たときの中央に作り出しが置かれるようになる

それから、葬送祭祀そのものは後円部墳頂点に方形壇があるので、そこで行われたことが確実
葬送祭祀を墳丘下で行ってそれから棺を上げるなどというのは想像としてもレベルが低すぎ

作り出しでの祭祀は形象埴輪を用いた祭りであり、葬送+代替わり後の年祭に当たるものと
考える方が蓋然性が高い
0375日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:55:10.31
>>505
>漢でも魏でも1里は430mくらい これはもちろん短里じゃない <

漢朝は原則長里であったし、魏朝は原則短里であったが、
漢でも魏でも、民間では、長里と短里が混在していた。
0376日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:56:00.80
>>371
桜井で正始元年鏡が出てることを今だに知らないの?
それとも九州説には都合が悪いことを無かったコトにする習性があるの?
0377日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:57:08.13
>>355
漢倭奴国王印

>倭人は、自分等は「九州」の住民であった、という事を知っていた
魏志倭人伝にそんな話は一切出てこないが
0378日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 18:58:28.13
>>375
相変わらず、根拠ヒトコトも言わず、か



九州説はどいつもこいつもマイ妄想を言い張るばっかりだな
0379日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:00:06.65
無知と思い込みが九州説を作った
0381日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:01:27.77
>>373のこれも重要ポイント
「そのころはとっくに竪穴式石室の時代じゃないとか
 まったく知らないんだろうなあ」
0382日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:04:25.39
>>375
陳寿は過去の文献を寄せ集めて編纂しただけ
元となった陳寿が入手出来た倭国関連の文献として、漢の文書、呉が遺した文書、公孫氏の遺した文書、魏の文書の四つが考えられる
魏志倭人伝ではその4つの勢力の距離単位がごっちゃ混ぜになってると考えなければならない
0383日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:04:52.86
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0384日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:05:21.40
>>510
>>韓の四千里で、東に行くのが四千里になるし、<

>あのね 七千余里しか進んでないのに東に四千里行ったとデッチ上げると
半島南部まで着いてない事になるよ メチャクチャ<

この大和説男も、頭がメチャクチャらしいね。
韓の部分の「東方向」距離成分の話をしているのに、
郡〜狗邪韓國の道のり里数の話にすり替えている、
という事に気が付かない。
0385日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:05:28.25
「魏志倭人伝小考」より
「例えば江戸時代に起きたある事件を、目の前で見ていた人が文章化した資料でさえ、
 他の文献と比較すると、やはり多くの齟齬が見つかるんです。ということで、ある
 文献について、「書かれていることはすべて正しい」とするのは、最初から無理なんですよ。」
「まして「魏志倭人伝」の場合、撰者の陳寿が日本に来たわけでもありませんし、
 内容のほとんどは伝聞、あるいは別資料を引き写したものです。
 当時の日本(倭国)は辺境であり、中国人に知識はありませんでした。
 現代のような正確な地図もない時代です。ですから、当然、
 その情報には多くの誤謬が含まれているはずです。そしてそのことが、
 邪馬台国の問題を複雑にし、これまでに多くの論争を生んできたんですね。」

九州説は、こうした「史料の限界」を無視して、魏志倭人伝原理主義を振り回し
現実の地理を魏志倭人伝の記述に合うようにするために、読み方を「発明」するww
0386日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:05:36.94
>>371
現在畿内と呼ばれる地域で魏の年号が入った三角縁神獣鏡が見つかる
なので現在畿内と呼ばれる地域はかつて魏と交流していた
魏志倭人伝に魏は邪馬台国女王に銅鏡を下賜したとあるので
魏年号入りの胴鏡が見つかる機内は邪馬台国と考えられる
0387日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:06:44.78
>>511
泣きごと漏らす大和説。
0388日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:07:09.89
>>382
>漢の文書、呉が遺した文書、公孫氏の遺した文書、魏の文書

でもその4つの文書の距離単位は、すべて秦の始皇帝の度量衡統一後の
1里=1800尺の単位なんだが?

短里なんて使う人がどこにもいない、捏造単位だよ
0389日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:08:27.71
「魏志倭人伝小考」より
「現在目にすることができる『三国志』は、
 「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
 これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
 陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
 この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。
 ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
 かなり内容が変わってしまっているんです。」
0390日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:09:22.43
>>375
正規の役人が民間の短位なんて使って記録書いてもいいのか
バレたらたぶん斬首だぞ
0391日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:11:00.09
「「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の『三国志』の写本の一部分で、
 現在までに6編ほど見つかっています。その中に、「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)
 虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。

 姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、それによると、
 全1192字中、画数の同じでない文字が416字。全体の1/3を越えます。
 また、用語から見て、「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。」

ザラコクは99.5%は正しいっていうが、実情はこんなもの
0392日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:11:56.15
>>512
>>前方部の先端に向けて上昇する<

>この「前方部の先端」を誤解してるみたいだよ
「後円部に繋がる部分」がここでいう先端だって教えてもらわないと分からない人がいるみたいだし<

この大和説男も、ひょっとしたらスレ主も、脳の病気だね。
前方後円墳という名称を付けた限り、
方墳方向が先端になるのであり、後円方向は後ろになるの。
0393日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:12:51.73
「魏志倭人伝小考」より
「ということで、「魏志倭人伝」の内容が正確かどうかには、大きな疑問符がつきます。
 ですが、邪馬台国について書かれた同時代資料はほとんどこれだけなので、他の資料と
 比較検討することもできません。
 そこで、邪馬台国問題では考古学資料が重視されるようになってきているんです。」
「でも、考古学重視というふうに書くと、「考古学の出土物に、ここが邪馬台国と書いて
 いるわけじゃないだろ!文献をないがしろにするな、邪馬台国は文献史学の問題だ、ムキー!!」
 と怒る人が、特に九州説の中にはたくさんいまして、困ったもんだなあと自分は思っているんです。」

完全同意ww
0394日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:13:10.84
>>385
墓制の変遷から考えればある程度見えてくるんだよね
漢時の百余国ってのは方形周溝墓だろう
それが青谷上寺地で方墳勢力に打ち破られて、これが倭国大乱の始まり
そして近江で前方後方墳が誕生し、大和で前方後円墳が派生
前方後方墳はその勢力を失わずに東日本へ広がった
0395日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:17:07.38
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0397日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:23:09.28
>>396
>九州説にザラコクがいる限り

しかも、九州説にはザラコクしかいない
キウスも連続句読点も、最近論破されすぎて「九州説の書き込み」は一切してないだろ?
荒らしはしてるけどww

あと、お鏡さんが日本海経由の畿内説と自称しなががら、メンタルが九州説なくらいだな
0398日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:23:57.73
逆に言えば、ザラコクがいなければ崩壊している。
まあ、ザラコクすらなんともできない無能なんだけど。
0399日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:25:08.41
邪馬台国は畿内で決まりすぎていて
九州説は最終的に荒らすしかないからな
0401日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:28:29.47
>>398
>逆に言えば、ザラコクがいなければ崩壊している。

また根拠のない推定?ww
造出の話はもういいの?w

ザラコクがいなくても崩壊しないよ? 
というか、ザラコクのいないときは結構きちんと話題が進む
0402日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:34:22.07
メチャ賢いAIに九州説やらせたらもしかして凄い理論考えて論破するに苦労するかもな
けど結局AIも最後には荒らすしかなくなったりして
0403日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:35:43.80
>>399
邪馬台国ってのは、どれよ?
1)倭国大乱前の方形周溝墓の近江
2)方墳勢力に権力を掌握された後の前方後方墳の近江
3)象鼻山に逃れ隆盛を築いた濃尾
4)両勢力の和合で生まれた前方後円墳の大和
0404日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:38:43.64
>>352
その推定の根拠が、第三者からみると、バカバカしいと言っているのじゃないの。
0407日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:41:05.64
>>394
うむ。
確かに、面白い。
0410日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:43:51.00
各地域で下克上があったのかもね
九州北部で下克上伊都国は実権を失い、住吉三神も殺されたんだろう
南部は隼人が追いやられ、山陰は大己貴による下克上の統一、南近江辺りも下克上があったんだろう
大山咋とかモロ下克上の名前

倭国大乱は弥生の神殺し
革命
0411日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:46:27.20
>>393
そういう大和説者に、九州説者は困ってるというのが実態。
大和説者の自己中には、いやあ、まいったなあ、と苦笑いするだけ。
0412日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:47:26.03
2世紀後半は食料危機があったんじゃないか?
九州北部から朝鮮半島に逃れた人々もかなりいたみたいだし

飢えた集団が食国目掛けて攻め込んだんだろう
0414日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:50:52.53
>>373
>>大山陵でも造り出しに須恵器があって祭祀を行ったようだ。

>そのころはとっくに竪穴式石室の時代じゃないとか
>まったく知らないんだろうなあ

造り出しの話をしてるので竪穴式石室云々は全然関係がない。
あと大山陵は5世紀前半から中頃であり、まだ竪穴式石室の時代だと思われるが?
どっちにしても何を言ってるんだ。
0415日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:51:07.68
>>389
原本がない以上、“かなり内容が変わってしまっているんです”て、どうやって確認したん。
自己中の妄想オジサンの言い分だろうね。
0416日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:51:46.33
邪馬台国ってのは、呉や公孫氏から武器供与されて反乱起こした(呉や公孫氏の言うところの)奴国に対して劣勢になってたけど、魏が帯方で公孫氏を滅ぼしたという情報を得て、魏に使者を送りそのお墨付きを得て形勢挽回した(同じく呉や公孫氏の言うところの)狗奴国の事だよ
0418日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:52:44.76
>>404
>その推定の根拠が、第三者からみると、バカバカしいと言っているのじゃないの。

それならそれで、バカバカシイト判断するポイントを「具体的に指摘」すればいいのにw
そして、「推定の根拠」は示されている訳だ

>>351は「全く根拠なし。」って言い切ってるよw
「推定だから根拠なし」って、どんだけバカなの?って話
0419日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:53:47.09
>>411
>そういう大和説者に、九州説者は困ってるというのが実態。

九州説スレでやればぁ?
0420日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:55:36.57
>>375
“短里”説は、お遊びだからなあ。
0421日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:55:52.68
>>417
魏の年号が入って
素材は魏・晋鏡と一緒
胴出徐州 師出洛陽と銘
兼題の洛陽付近で1面見つかって呉では1面も見つかってないから
三角縁神獣鏡は呉鏡じゃなくて魏鏡
0422日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:57:31.66
>>414
>あと大山陵は5世紀前半から中頃であり、まだ竪穴式石室の時代だと思われるが?

『大山陵絵図』(享保年間の絵図)等には、後円部頂上付近が竹垣で囲われ、その内側に石室天井石が露出し、その左側に大きな盗掘穴が開いている。
『全堺詳志』(1757年)によれば「御廟は北峯(後円部)にある、石の唐櫃があってその蓋石の長さ、幅、厚さの寸法が記されている。さらに、“内には尊骸ならびに明器等は無く、空櫃で、盗賊が暴いたのであろう”と盗掘被害を記している。」
『新井白石全集』(新井白石の著作集)によれば、「仁徳天皇の御陵はあばかれて、石棺の蓋石、堺の政所(豊臣時代〜白石の時代にかけての堺奉行所の呼称)の庭の踏石となれり」と記している。

こんな感じ
竪穴式石室ではないだろw
0423日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 19:58:57.78
>>420
>“短里”説は、お遊びだからなあ。

そんなことはない
九州説にとっては、積極的に九州だといえる(と思っている)唯一のポイントだから、
必死で「短里があった」ことしたがってるよ
0424日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:01:04.78
呉+公孫氏 vs 魏
呉+公孫氏+奴国 vs 狗奴国

が、魏が公孫氏を滅ぼしたことで、

呉+奴国 vs 魏+狗奴国

になって、

魏+狗奴国民

が、勝った
0425日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:03:26.20
>>415
>原本がない以上、“かなり内容が変わってしまっているんです”て、どうやって確認したん。
>自己中の妄想オジサンの言い分だろうね。

>>391を再掲
「「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の『三国志』の写本の一部分で、
 現在までに6編ほど見つかっています。その中に、「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)
 虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。

 姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、それによると、
 全1192字中、画数の同じでない文字が416字。全体の1/3を越えます。
 また、用語から見て、「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。」

「紹興本」と「紹煕本」でも異なるんだし、「かなり内容が変わってしまっている」のは事実だろ
0426日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:04:47.24
>>422
>竪穴式石室ではないだろw

どうして?
どっちにしても造り出しの話からなんで石室の話に変わってるの?
0427日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:05:22.61
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0428日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:07:56.52
>>418
>それならそれで、バカバカシイト判断するポイントを「具体的に指摘」すればいいのにw

何度も言ってるが円墳に基壇を付けた形でまず葬儀、その後に方丘を造るなんて頭おかしいとしか言えんわ。
何のために方丘を造るんだい?
また箸墓でそうであった痕跡はない。
0429日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:11:29.56
>>424
狗奴国が、公孫氏を滅ぼし帯方を手中に収めた魏へいち早く使者を送り同盟を結ぶことに成功したことで、アジア全体の歴史が変わった
0430日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:14:45.38
>>342
橋本輝彦は実直な研究者で、邪馬台国などには言及しないとのスタンスだったと思うけど。
人が住んだ痕跡はない、という見識。
あれこれ言ってるのは、考古学というものを言わない世界の不安にいたたまれず、何かの文献に寄りかかってしまわないと精神不安定地獄に落ちてしまう意志薄弱研究者。
そこへ、観光振興の政治家がニコニコと近づいて行くわけ。
0432日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:17:32.23
>>516
>旧字体で邪馬臺國は存在したという事だ そして新字体で邪馬台国という事だ
今までの邪馬台国はなかったという主張は嘘つき騙><

3世紀頃には、「臺」と「台」とは別字であり、
「邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国」という変更は、嘘つき騙しであり、×だ、という事だ。

>魏志にいう所の邪馬台国 魏志曰く〜中略〜邪馬台国と
それぞれ隋書、太平御覧に記述があり 後漢書、北史、通史も邪馬台国<

ウソを付くな。
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙しであるし、
後漢書は、邪馬壹國とは別対象の邪馬臺國であり、
唐代以後の「前史への自己解釈に拠る書き換え」をした史書は、根拠にならないから、×だ。

>3世紀の文書で星の名前に台が使われていると主張するなら出展を出せ
誰かが挙げてたじゃ証拠にならん<

知りたければ、このスレの検索でもして探せばよい。
古田本にも書かれている。
0433日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:19:35.81
>>518
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説は、本当に懲りないな。
仕事かバイトかわからんが。
0434日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:21:35.32
>>328
どっちにしろ、“短里”はお遊び。
0435日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:23:49.40
>>523
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の雇い主も、
どーせ金払うなら、もっと、頭のまともなの用意すればいいのに。
0436日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:26:01.33
>>428
ワイが思うに、円墳説者は前方部を円墳の突っ張りだととらえているポイね。
0437日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:26:04.09
>>431
もともと狗奴国の王が卑弥呼の知り合いで、卑弥呼とそっくりの名前だったということは、同族だったんだろう。
つまりは家督争いなんだよ。
だから世代交代の時に一族の若い娘をとりあえず代表とすれば、対立は治ったということ。
そもそも魏志倭人伝では、国が乱れてから治ったとだけあるので、狗奴国と邪馬台国のどちらが勝者かなんて書いてはいない。
0438日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:26:54.58
>>432
3世紀頃には、「臺」と「台」は別辞であるなら
3世紀頃の文章で、臺と台が同時に使われている実例を出せるはず
スレ検索しても見当たらないぞ

いやオレはいいんだよ出さなくても
けど3世紀に臺と台が別の意味で使われていると断言しときながら
いつまで経ってもその実例を上げられないなら
九州説ザラコクは周りから嘘つき騙しと思われるんじゃないかなと思ってさ
0439日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:29:47.59
>>437
狗奴国は邪馬台国と同一
蔑字が使われてるか否かでどの勢力なのかが判別出来るようになってる
0440日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:32:22.02
>>437
卑弥呼が魏に援軍呼んで
台与の代に狗奴国は平定されたと魏志倭人伝に書いてあるぞ
0441日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:33:37.55
>>529
>前方後円墳はいつからか?<

モンゴルや高句麗が早かったらしいが、列島では那珂八幡などから。

>卑弥呼より前か?後か?<

当然、卑弥呼の墓の「冢」よりは後。

>方形周溝墓→円形周溝墓→前方後円墳<

高句麗の前方後円墳の形は、那珂八幡に似ている。

>墓制が変わるのは権力の主体が変わった後じゃないか?<

当然の事。卑弥呼の前後にも乱があった。
0442日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:36:34.90
>>530
>おっ端墓古墳て後円部が140mあるのか
卑弥呼の墓は径百歩 換算すると「144mだから魏志倭人伝の記述に合うな <

不定形の前方後円墳の「径」は、前方部~後円部の「長径」であるから、×。
0444日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:45:11.86
奈良では瀬田遺跡に代表される前方後円形周溝墓は、
周溝墓の時代にすでに前方後円という形が定型化していたことを意味する。
その前方後円形周溝墓が高塚化していったのが前方後円墳だ。

円墳だけ先に造って方墳を後から造ったなどとは笑止千万。

分かったか、アホの>>1   アホのぉ>>1
0445日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:45:50.41
>>440
平定されたとは書いてない。
0446日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:45:56.48
常識的に考えたら、奴国と狗奴国、蔑字が当てられてるのと当てられてないのが有って(奴が蔑字かどうかは置いといて)、蔑字が使われてない方の女王、都に蔑字を使うなんてあり得ないわな
0447日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:49:00.47
狗奴国は河内彦が寝返り、台与の時代に吸収されたんだろう
卑弥弓呼は、吉備阿波連合に殺されたんだろうな
大阪南部の神社には吉備系支配の痕跡が残っているわ
0448日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:50:26.87
>>546
>あと、箸墓の後円部は100歩に近くて、これは間違いない
前方後円墳だから径100歩なんて表現しない、っつう反論はあるけど、
これもさっき書いたように、前方後円墳っつう概念に毒されてると思うわ<

関係がないの。
魏使らの実地の見聞での「径百余歩」という大きさだ、と言うんだから、
前方後円墳全体の長径なの。
0450日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:58:52.12
>>550
>そうだよ。 対馬海峡が三千里というのもおよその概算で、
帯方郡から九州の邪馬台国まで一万二千里というのも(九州上陸までで一万里だからね)、
観念的な数字だよ。<


ダメだ。
魏使らの記録は、当然同行者や後から来た張政らが確認している事になり、
観念的なウソ数字を書いてバレたら、首が飛ぶ。
0451日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 20:59:54.39
九州説と言いながら新しい発見を何も吸収しない
やはり九州説は嘘の塊
0452日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:02:13.20
>>450
短里とか短歩とかインチキな単位なんか使ったら当然クビが飛ぶよな
0453日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:02:30.35
>>552
>後円部の斜面上に前方部が乗る構造のものを作ろうとしてるんだから、
工程上どうしても後円部を先に作ることになるだろ<

箸墓は、円墳頂での埋葬祭祀が行われた時には、既に前方部が完成していた、
という形。
0454日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:05:21.33
九州説は吸収しない説と改名すれば
最低一つは本当の事を言ってることになる
0455日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:06:24.84
>>428
>何のために方丘を造るんだい?

島の山古墳て知ってる?
前方部に埋葬施設を持つものもある

それと、天円地方の思想から、天に上る先代の首長を後円部に葬り、
地上を治める新首長が前方部で登極すると考える人もいる
0456日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:07:37.75
>>554
>>だったらなぜ、墓の大きさが100歩というのだけが正確な数字だと思うんだ?<

>測れるからだ どこにもダブスタは無い <

魏使らが巨大前方後円墳を見れば、
当然「前方部~後円部」の長径が大きさだ、とが見る。
0458日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:09:57.60
>>557
>箸墓が100歩ピッタリというのだって、人によって墳長だったり後円部の径だったりする<

>誰が墳長だって言ってるの? <

魏使らは、当然墳頂で大きさを報告する。
0459日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:10:49.54
>>426
造出しがあるから造出しあたりから棺を持ち上げたんだって推定してるんだろ?
だから造出しのない古墳には該当しないだろって指摘されてるんだよ
石棺の時代になってんだから、とっくに(前期古墳時代のような)竪穴式石室じゃないってことだろ
0460日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:11:31.00
>>455
>島の山古墳て知ってる?

後円部に主体埋葬があるわけだろ。
だから何だろ。
島の山古墳が、後円部を作ってから第ニ埋葬者の為に後方部を作ったわけではなかろう。
例えとして稚拙すぎる。
0461日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:13:55.03
>>459
>だから造出しのない古墳には該当しないだろって指摘されてるんだよ

慣例があったのではないかと言ってるわけだ。
一番低い部分から棺を担ぎ上げるのは当たり前だろ。
何を言ってるんだこいつは。
0462日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:14:11.70
>>558
>その工程のタイムラグがどれだけあったのか知りようがない
と指摘されてるんじゃないの?<

魏使らが、箸墓の埋葬祭祀を見たとした時の、前方部は、
既に一段目以上の段築は出来ていた、という事になっていたらしい。
0463日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:14:20.01
>>426
>どっちにしても造り出しの話からなんで石室の話に変わってるの?

造出から棺を持ち上げたとか奇矯なことを言う人がいるからだよw
竪穴式石槨と横穴式石室を棺の搬入に関して同列には扱えないだろ?
0464日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:16:47.55
>>461
>慣例があったのではないかと言ってるわけだ。

その慣例があったと考える根拠がないよね?
それに左側スロープから持ち上げるんじゃなかったのか?
0465日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:17:27.96
>>566
3世紀末の纏向に、鉄も絹もあったと連呼してるから、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が自滅まっしぐらなんだけどね。
0466日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:19:32.48
>>567
>(箸墓)卑弥呼の冢の後円部を作った後に立った男王でちょっと揉めて中断したんだろ<

「南≠東」などによって、×。
0467日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:21:07.20
纒向には魏志倭人伝に出てくるものが何1つなく、代わりに桃の種…
0468日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:23:41.30
>>465
畿内説が間違いでも九州説が正しいなんてことにはならないよ
論理的思考は苦手な人ですか?w
0469日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:23:53.28
>>568
>ツーか、古墳って死んだ王様じゃなくて後継者の正統性のためにあるんだよね
ということは男王が作り始めて途中でモメて、壹輿たんが抜本的に作り直すってのもアリでしょ <

大和の墓は、「南≠東」などに拠って、始めから×ね。
0470日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:26:33.14
>>461
>一番低い部分から棺を担ぎ上げるのは当たり前だろ。

なら、前方部を作る前にスロープがあったのなら、とうせん使うよね?
0471日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:26:51.06
>>569
>大作冢って書いてるのだから工事は見たんだろうが 完成した冢を見たとは限らない
1段目まあるく積んでるところを見学して「ホーでかいなァ」とか言ってたのかも知れん
いろんな可能性はあるのさ <

最低「jun葬者奴婢百餘人」までは見ているし、
箸墓は、「南≠東」によっても、最低×ね。」。
0473日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:44:52.67
>>609
>死んでから径百余歩の塚を造るなんて10年近くはかかる。<

それ、「1歩=6尺」の「長歩」計算をしたんではないの?。
魏志らは、「1歩≒一尺」の「短歩」だよ。
0474日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:49:44.20
>>473
九州説は、このような妄想の中にだけ存在する
0475日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:51:10.03
>>617
>森岡秀人<

ああ、「南→東」などの嘘つき騙しのタカ派の大和説者で、
余り表には出て来ず、裏で研究員やマスコミ操作をしている国家権力的な学者ね。
0476日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 21:55:56.55
>>475
反論はできず中傷はできる
それが九州説
0477日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:01:42.02
>>636
>それが台湾くらい南なんだから、やっはり南水行は東の間違いだね
確定だ <

投馬國が、南九州であり、邪馬壹國が筑紫付近であるから、
共立女王國(≒倭国)は、九州島付近であり、
それが陳寿の位置推定とほぼぴったりであるから、方向も間違っておらず、
大和が×である事は確定だ。
0478日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:04:32.19
>>477
>投馬國が、南九州であり、邪馬壹國が筑紫付近であるから、

投馬國が南九州だなんて何の根拠もない
女王国以北と書かれてるんだから可能性ゼロだろ
0479日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:15:12.17
投馬國が南九州だなんて何の根拠もない
女王国以北と書かれてるんだから可能性ゼロだろ


邪馬台国が畿内だなんて何の根拠もない
南至と書かれてるんだから可能性ゼロだろ
0480日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:19:31.28
>>463
>竪穴式石槨と横穴式石室を棺の搬入に関して同列には扱えないだろ?

人であれ石であれ円墳の上に上げるわけだ。
それが墳丘のどのポイントかという話。
まだ分からないのか。
0481日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:22:18.59
>>477
南九州も会稽より北だよ
ダメだね
0482日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:22:45.96
>>464
>その慣例があったと考える根拠がないよね?

当然墳丘の一番低い所からだろ。
箸墓なら前方部と後円部の継ぎ目。

円墳が先にできて葬儀を行ったなんて大馬鹿だぜw
0483日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:23:57.08
>>480
じゃ、造り出しが左右にある古墳はどうするの?
0484日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:25:23.23
>>482
理由もなく言い張ってもダメだね
0485日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:26:09.79
>>483
どっちかでいいではないか。
0486日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:27:01.34
献って字は面白いね
南の犬
南の狗奴国が献上してきたってのが語源かもね
0487日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:27:38.89
円墳が先にできて葬儀を行っただとwww

アホの>>1  ド阿保の>>1 www
0488日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:27:42.17
>>482
ということで
そんな慣例があったという説はオジャン
で、よいね?
0489日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:28:59.90
>>487
罵るだけになるのは論破された人
0490日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:30:42.62
>>403
>前方後円墳の大和

違う、前方後円墳は瀬戸内集団物部。
纏向のような場所にヒミコはいない。

正しくは「高天原(葛城)の大和」
0491日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:32:07.89
>>487
スロープ爺さんヤケクソか?
0492日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:33:22.12
>>490
カッツはん、もう諦めなはれ
0494日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:36:51.69
物部氏なんてそんな昔からいないしな
0495日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:42:50.02
物部の始祖はニギハヤヒ、天磐船に乗って魏からの下賜品を持ち帰ってきた人物だな
0496日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:43:15.43
>>488
いいや。
0497日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:44:47.17
>>744
>「律曆志」の誤(983氏の間違いだね)<

誰か?にが「律暦史」と書いたから、それを踏襲しておいただけだよ。

>「漢書」にあるから、その解釈は間違いだ<

漢書では、魏志の根拠にならないよ。

>Part388 262で 「魏尺杜夔所用調律」 と教えたのはずだが(呆)
どうせ読まないだろうが、杜夔は《魏志》巻二十九に伝がある <

内容を紹介してくれなくっちゃ、史料批判も出来ず、
「南→東」まどの嘘吐き騙しは信用もしないよ。
0498日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:45:25.93
箸墓の円墳が先で葬儀を行ったなんて宗教だな、気持ちわりいw
九州王朝説を笑えないw
0499日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:47:21.56
>>494
物部氏の祖は天照の孫の饒速日だから、神武より前から大和に君臨していた。
0500日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:47:32.61
>>498
反論できなくて悪口いうだけの人は九州説以下
0502日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:50:09.03
>>499
五世紀の成り上がり者が
伝説の人の子孫を詐称しただけだな
0503日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:51:49.06
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。

高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。

https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m

卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 

ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。

ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。
0504日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:54:08.83
>>747
>>「435mの集落」では、町か国になってしまうではないか。 アホじゃん?。<

>郷里って言葉を知ってるか? もともと里は、今でいう町の概念を含んでるんだよ<

郷里なんて言う概念も、共同で田畑を耕作する集落の意味だよ。

>「435mの集落」で「町」になるのが問題だと思っているザラコクがバカすぎww<

共同で耕作する田畑を、435mの広大な田畑にするこの大和説男が、バカ過ぎ。
0505日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:54:25.01
>>747
>>「435mの集落」では、町か国になってしまうではないか。 アホじゃん?。<

>郷里って言葉を知ってるか? もともと里は、今でいう町の概念を含んでるんだよ<

郷里なんて言う概念も、共同で田畑を耕作する集落の意味だよ。

>「435mの集落」で「町」になるのが問題だと思っているザラコクがバカすぎww<

共同で耕作する田畑を、435mの広大な田畑にするこの大和説男が、バカ過ぎ。
0506日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 22:58:17.01
アマテラスとスサノオの誓約って奴国と狗国が和解して卑弥呼が共立されたときのお話かな
となると、卑弥呼がアマテラスで卑彌弓呼がスサノオってことになる
0507日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 23:21:15.47
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0508日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 23:43:54.01
>>505
井田法とか知らんのか?
0509日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 23:49:03.70
>>506
古代日本を記した貴重な魏志倭人伝が中国に存在してたから
格式高く書いたつもりの古事記日本書紀(史実をデフォルメした詐称映画)の虚構性が
如実に浮かびあがる共に詐称された神話歴史のモデル達がある程度読み解けるようになったのは良かった
0510日本@名無史さん垢版2018/10/27(土) 23:58:10.93
>>498
>箸墓の円墳が先で葬儀を行ったなんて宗教だな、気持ちわりいw

葬儀や祭祀のやり方というのが宗教そのものなんだがな
先帝の葬送と新帝の践祚大嘗祭は時差があるのが通常
0512日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 00:03:09.92
>>496
スロープ話をごまかすために始めた造出の妄想もうまくいかなくて
一言コメントでなんとか取り繕うとしてるのが小物だよな
0513日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 00:12:42.61
>>481
魏志倭人伝は八分方位だから、東北でなく東南でなければ東だよ。
0514日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 00:20:37.46
まだ言ってるの?

先帝(仮)なんていないんだけど、どこの国の話をしているの?
引用か何か?

その帝というのは、
なんていう名前なの?
0515日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 00:26:14.85
天帝の話?

天帝より授かり・・・聖化 日神 日霊〜

『菅野力夫』
同じ名前の家じゃない?祀れというやつでしょ、
自分の家で、落雁のようなものなどを作っていたとか
0516日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 00:28:57.28
キュウリの葉・・・葱の華・・・(写真)、
その家の話をしているんだけど、わかりやすくいうと家の話
0517日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 00:33:51.09
老婆が言うには
当時、結婚した家の人が、
作っていたんだよと言っていた

蚕を飼い、機織りをして、
落雁のようなもの・・・供えるもの
0518日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 00:42:43.15
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0519日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:01:19.06
畿内説の学者が前方後円墳と認めてるのだから
もう、前方が先か、後円が先かの話はやめにしないか
無意味なことで争うなよ
0520日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:14:45.36
卵丼をみて

鶏が先か卵が先かの議論みたいだ

どうでもいいじゃん

完成形が卵丼なんだから
0521日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:22:00.92
>>513
誤魔化しても九州説は破綻だ
0522日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:26:58.96
>>420
>“短里”説は、お遊びだからなあ。

行程はアテにならないとする畿内説より
倭人伝に素直に向き合っていると思うよ
0523日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:41:54.32
玉子丼って、鶏の生んだ卵を使うんだから
鶏が先に決まってるよな
0524日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:45:04.41
>>522
「会稽東冶の東」を誤魔化してる九州説は素直でない
0525日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:52:39.58
>>524
513 名前:日本@名無史さん :2018/10/28(日) 00:12:42.61
>>481
魏志倭人伝は八分方位だから、東北でなく東南でなければ東だよ。
0526日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:54:43.63
素直と言うより近視眼的
九州には奴国より大きな国は無さそうだと認められない愚か者
0528日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:58:34.76
>>526
ごめん。意味がわからない。
0529日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 01:59:12.73
>>527
ごめん。意味がわからない。
0530日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:08:07.00
>>529
筆者は計算で倭人の国の位置を弾き出したのだから
中国のどの都市のちょうど東なのか頭でわかってる

広稜の東と書くこともできたし、南陽の東と書くこともできた
それなのに
「北東から東南の間でいいんだから会稽の東と書いちゃおー」
だったら筆者はウソつきだ

そんな九州説みたいな筆者ではないので
九州説はマチガイでR
0531日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:08:54.09
きみは1000パーセント

ガンダム、神武の話でしょ


ファンタジーと書いてあったり
0532日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:12:17.37
『行ってみたいな  よその国』

 同じような曲があったり
0533日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:15:50.72
>>522
短里が率直て?
畿内説より乙女て?
客引きババアが清純なら、短里も清純だわ。
0534日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:20:45.62
確実に『ボーボボ』でしょ、どういう話なんだろう
0535日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:21:00.35
「会稽東冶の東」
「日いずる処の天子」
0536日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:28:36.75
『青い巨星』〜すさのお?

そういう家のキャラ?
0537日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:29:36.93
>>486
南の字が当てられているけど、元の字は虎のなどの飾りのついた立派な食器。
この食器に犬の肉を盛ってさしあげることが「献」。
犬、食ってたんだってよ。
狗奴国が食われたんだろ。
0538日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:32:41.64
>>523
正解
でき上りの卵丼は
鶏が先に生まれてきた
0539日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 02:35:24.33
>>472
ピンポ〜ン♪
0540日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 03:11:15.79
>>444
大和派までが、円墳先造説を批判してるのか。
身内にまで怒られてるなあ。
円墳先造説、アワレ〜。
0541日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 03:24:49.04
円墳先造説のおやじ、辞世の句詠んでそうだな。
0542日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 03:32:59.35
それと、歳を取って何やらという人物、
三國志(創作?)にも出てこなかった?

謎のチェーンソーのゲーム、
黄色が何やらと言っていたり
0543日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 03:37:00.03
誰が作ったのか知らないけど、謎のチェーンソーのゲーム、
黄色が何やらと言っていたり、調べてみた?

好きな色?
0544日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 03:39:18.57
『松傾』と同じような人物?
0545日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 03:49:51.58
黄忠?



むかーし庭殿?
そのような事を言われていたとか
本当に老婆だよ・・・・なぜ詳しかったんだろう?
0546日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:00:26.13
馬に乗り、刀を差し、城に通っていたんだよ、
庭殿様なんて言われていた

という話
0547日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:19:56.89
>>753
どうして「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の人は、
妄想を事実だと思い込むんだろうか?...
0548日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:29:22.04
キュウリのような葉が写っているから、
日本でいうと河童?

中国では河伯と書いてあったり
0549日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:31:47.29
>>777
>大和が中国王朝に朝見したのは、讃が最初だろう。<

唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国は北部九州であり、
讃も北部九州の倭国王であるから、×。
0550日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:36:55.33
王を名乗っていた?みたいなことが書いてあるし、
むかーしの中国の人なのかな
0551日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:42:20.34
>>781
>>>会稽東治【冶】<

>>会稽東冶は、後代の范曄の「自己解釈に拠る書き換え」そのものだから、×。<

>もう、その話は決着がついているね。
皆が言うように、東治は東冶で、福州市あたり。<

「皆」が言ったって、史料事実が変わるものではなく、根拠になんかならない。

>そうでないと、(陸行一月)分の行程が無いことになってしまう。<

史料事実や史料実態は、
「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明であり、
「郡から目的地である女王之所都」の所要日数説明。

>(陸行一月)分を勘定して、ちょうど卑弥呼の都は福州市ありたの沖になる。<

「郡から目的地である女王之所都」の所要日数を勘案して、
卑弥呼の都は、不彌國の南の筑紫付近になる。
0552日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:43:41.42
会津プロパガンダ?

詳しいことは、わからないんだけど、
そっちのほうの話ばかりしているし
0553日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:46:51.15
>>783
>巻向成立時代、丹後、吉備、大阪、近江、尾張他の関わりがあったことは間違いない。
庄内式土器は、元は大阪らしい。
まさに「女王を共立して都を作った」といえる状態になる。<

「南≠東」などに拠って×だし、
「自昔・・・東征毛人五十五國」があった事を隠しているから、×。
0554日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:49:10.30
>>784
>台与は、山門で平穏に余生を終えただろう。
纏向が派遣した監視員に見守られながら。<

「台与」なんておらず、纏向は「南≠東」に拠って×。
0555日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:52:51.81
『河童の三平』〜?何の写真なんだろう
0556日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:53:09.23
>>787
なんか、「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者が、
分裂幻覚の妄想を否定された焦りようが、効いてる効いてるとしか見えないw。
0557日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:53:32.53
>>551
もうちょと下って、山門までいこうぜ。
0558日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 04:54:59.43
>>549
九州王朝も遊びだし。
0559日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 05:07:31.93
>>788
>お前さんがどう言おうが、漢朝も魏朝も、晋朝でも、「歩」は今で言う複歩だよ<

お前さんがどう言おうが、周朝も魏朝も西晋朝でも、「歩」は「1足底」長だよ。

>現代日本語で一歩が片足を進める分だったとしても、古来大陸史書では歩は今で言う複歩<

周朝を倒した秦は、周代には周朝とは違った「歩」の寸法を持っていて、
だから、始皇帝は、「1歩=6尺」なんて変な命令を出したんだよ。

>そして、ザラコクさんは「止まるという字が入っているから歩かない」とか言ってるが、
現代日本語の新字体でも「止」が入っているのはどう説明するんだ?<

始皇帝の「1歩=6尺」は、歩かないと成立しないから、
漢代以後には、民間では、「歩く」意味に変質してしまい、
魏西晋朝の訂正変更も効無く、現在に至ってしまったんだよ。
0560日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 05:08:05.73
『日本昔話 天狗の羽うちわ』

同じような系統なのかな?鬼太郎?
0562日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 05:13:39.93
ゲームでも音楽でも良いんだけど

『Dead Or Alive』

日本の話なのかな?
0563日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 05:56:25.48
>>1
自分で荒すな
0564日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 06:04:30.20
この粘着偏執荒らし爺さんは
「援交買っただけ」とネットで拡散する強姦魔みたいな
品性下劣厚顔無恥の悪党だな
0565日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 06:22:41.45
K国の大統領狙って爆弾テロやっておいてK国の自作自演だとラジオで声明流すT国みたいなもんだろ
0566日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:15:01.04
>>526
奴国より大きい国邑を挙げてくれ。
投馬国は、邪馬台国と併記されているから、領域の名前だろうし。
0567日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:17:50.14
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人

殉葬者は生き埋めではない。
祀ろわぬ者どもが誅された。
可哀想なので王族と一緒の場所に埋め弔ったのであろう。
それが約150mの塚の周りの蜘蛛窟である。
https://goo.gl/maps/iwZmv3rL6112

そして今でも高天彦神社拝殿の左に小さな土蜘蛛塚がある。
https://omairi.club/img/pictures/posts/477/027/000/628d191c1692d889fb2b687b2d91da01.jpg?p=800&;v=1502740679

高天彦神社に参拝する行為は土蜘蛛の怨霊を鎮める事でもある。

祀ろわぬ者ども=土蜘蛛を誅したのは神武である。
0568日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:21:21.80
卑弥呼の墓が箸墓って(笑)
0569日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:25:10.69
>>566
>奴国より大きい国邑を挙げてくれ。

だから、投馬国と邪馬台国だろ
なんで除外するんだ?
0570日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:30:00.01
>>559
>お前さんがどう言おうが、周朝も魏朝も西晋朝でも、「歩」は「1足底」長だよ。

オウム返しは何も論証できない証拠
こっちは東周銅尺のような考古遺物の実物サイズ
律暦志に書かれた文献史学上の正当性
実際の歩測の例
などの根拠を示して、それらが全て一歩=六尺≒135〜150センチを示している
1歩=足底長は古田史学の会ですら主張しないザラコクオリジナルのトンデモww

>周朝を倒した秦は、周代には周朝とは違った「歩」の寸法を持っていて、
>だから、始皇帝は、「1歩=6尺」なんて変な命令を出したんだよ。

この辺りの知識のなさも致命的
始皇帝の統一前には周朝は既に統治していない
そのため戦国の各国が変乱法度をそれぞれに作っていた
先の東周銅尺は戦国時代の遺物だが、周朝の尺より少し長い

そして一歩=六尺は、周朝の身体尺の時代と同じ換算を維持している
0571日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:32:11.79
>>559
>始皇帝の「1歩=6尺」は、歩かないと成立しないから、
>漢代以後には、民間では、「歩く」意味に変質してしまい、
>魏西晋朝の訂正変更も効無く、現在に至ってしまったんだよ。

「步」は象形文字の時代から意味は「歩く」だよ
ザラコクのこの説明で納得する人間がいたら、バカ以外の何者でもない
0572日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:34:25.25
>>569
>だから、投馬国と邪馬台国だろ
>なんで除外するんだ?

別の行程で行くことが明記されている別の国だからに決まってるじゃないかw
0573日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:47:30.12
つまり九州説特有の珍解釈で除外するのね
0574日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 07:47:33.10
卑弥呼の墓が箸墓って(笑)
0575日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:15:49.96
>>573
横だが、どの解釈が正解なんてわからないよ

晋書は倭は七万戸の解釈みたいだし
つまり、邪馬台国=連合国=倭国の解釈だったか、または倭人伝が戸数誇大表記だったか、だね
少なくとも晋書では倭国は十数万戸の国ではない

まぁ、文献解釈で違う説同士が個々の説を認め合わず、考古学的状況で論じても話は平行線を辿るだけだよ
0577日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:37:41.10
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。

4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。

5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。

日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1
0578日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:38:23.22
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。

4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。

5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。

日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1
0579日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:46:07.85
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。

4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。

5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。

日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1
0580学術垢版2018/10/28(日) 08:49:52.59
テーマ日本史じゃないけど、邪馬台国から進まないのはなぜだろうね。
歴史家や文献は多いけど、日本史を生涯有意義にするには、時代時代の掘り下げるテーマを
時代にしばらせず、連関していって、研究する必要性を感じる。
0582日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:57:06.11
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
0583日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:57:24.97
2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
0584日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:57:45.64
3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。
0585日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:58:06.12
4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
0587日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 08:59:56.26
5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
0588日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:00:24.71
>>629
研究者は場所の特定からは距離を置いていて当時の社会や生活の研究がメインでしょ
邪馬台国は素人が色んな解釈が出来るのでファンが謎解きとしてそれを楽しんでるだけ
戦国時代だと本能寺の変みたいな存在
0590日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:02:50.11
文献学
-邪馬台国女王卑弥呼は、2世紀倭国大乱を収めた功績で、魏帝から金印紫綬「親魏倭王」と「朕が汝の背後にいることを従えた各国の王に示せ」銅鏡百枚を下賜された。
→遠く隔たった大和にいてどうやって、北部九州から瀬戸内海で展開した倭国大乱を収めたのか?
→倭国大乱の震源地にして、痕跡が生々しく出土する北部九州にいないとおかしい。

考古学の成果
-纏向遺跡は三世紀後半〜末(卑弥呼没後)の祭祀遺跡(×都市遺跡)≠邪馬台国(7万戸)、中華文明や北部九州との活発な交流、倭国大乱の痕跡なし。
-ホケノ山までは大和在地(唐古鍵)の王墓、その直後に一気に巨大化した箸墓は、吉備の技術(版築土木技術・葺石・特殊器台)で築かれた。
-伊都国王(平原1号)墓から出土した国内最大の内向花紋鏡は、伊勢神宮の八咫鏡と同じ。

この3つを総合すると、3世紀前半卑弥呼の時代、北部九州(邪馬台国)と畿内連合(吉備王が大和・唐古鍵王を征服して成立)は併存していた。
台与没後、邪馬台国に代わり倭王となった伊都国王が東遷して筑紫を大和を合併し、大和朝廷が成立したことを示している。
0591日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:18:08.19
>>590
トンデモ
0592日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:26:32.20
>>588
本能寺は、長曾我部側から阿波讃岐の四国東半分を差し出して臣従を申し出てたのに信長が無視したことや、三男信孝の四国攻めの前日に起こっていることから、四国説が有力になりつつある。
邪馬台国の所在地は、日本史最大のミステリー。九州説は証拠が出せないし、畿内説は矛盾だらけ。
「智恵の輪」みたいなもんw
0593日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:27:24.18
>>579
桜丼市教委は、「輪鐙(馬具)は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」と発表してる。
公的な見解は、馬具は、周濠に投げ捨てられた(落とした?)ものだ。

箸墓とは直接関係ない。残念だったな
0594日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:40:54.56
本能寺の出火は寝タバコが原因だろう
0595日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 09:43:26.13
>>593
国内最古…ねぇ
外国や他の地域の馬具や鐙の出土の平行関係を無視してないか?と思う

布留1の年代比定に問題が出てくるかも
0596日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 10:54:58.73
>>530
「夏后少康之子封於稽斷髪文身以避蛟龍之害
今倭水人好沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後以飾 諸國文身各異或左或右或大或小尊有差
計其道里當在稽東治【冶】之東」
のくだりは、倭国の風習について書いたところで、
1. 夏后少康の子が会稽に封じられた際に断髪して入れ墨をして蛟竜の害を避けようとした。
2. 倭の漁師は潜っては魚貝を捕えるのに、同じように入れ墨をして大魚や水生害獣を避けていた(装飾の意図も後にはあったが)。(中略)
3. (倭までの)道のりを見返すとここら辺は会稽東治【冶】の東にあたるのだな。
という文脈だから、入れ墨→会稽→倭が会稽に東という連想を書いてるわけで、
広稜だに南陽だのに入れ墨に風習があって夏后少康の子のエピソードに匹敵するものがなければ意味をなさない。
だから
「北東から東南の間でいいんだから会稽の東と書いちゃおー」
で全然問題ないんだよ。
「大阪は東京の西にあたる。」って言ってもうそつきにはならんだろ?
0599日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:06:43.90
この2つの考古学的成果に着眼してもらいたい。

@箸墓は、吉備の古墳技術がなければ出来なかった。
A伊都国王(平原1号)から出土した国内最大内向花紋鏡は、伊勢神宮の御神体八咫鏡と同一鏡。

これらか導き出される結論は、
@箸墓の被葬者は(大和の在地王ではなく)吉備王。畿内説なら、卑弥呼の出自は吉備王家。
A現・天皇家の出自は伊都国王家
0600日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:06:44.45
>>596
「當在稽東治之東」
「當」っていう字が入ってるから
倭人伝の作者は、邪馬台国は会稽の真東(沖縄県あたり)にあることを強調してる
0601日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:07:38.06
>>599
論理の飛躍がすごい
0602日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:10:51.52
なぜ倭人伝の作者は、邪馬台国は会稽の真東(沖縄県あたり)にあることを強調したのか。

1、純粋に邪馬台国のある場所を知らなかった。
2、呉(魏の敵国)の真東に邪馬台国(呉の同盟国)があるということにしたかった

おそらく2だろうな。
0603日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:14:40.27
延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、【天】之御蔭 【日】之御蔭と【隠】坐てとある
同じく、坐摩神社の【井戸】の神々は、皇御孫之命にお仕えして、【天】之御蔭、【日】之御蔭と【隠れていた】とある

また道饗祭の祝詞には、【クナト】が高天原で事を始めた皇御孫之命で、【根の国底の国の侵略に抗った】と書かれている。

これが平安時代の朝廷の認識

どう見ても狗奴国の系譜
0604日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:15:22.77
>>600
中国語に詳しくはないが、たぶんそれ真東って意味じゃないと思うよ。
中国語がちゃんと読める人に解説してほしいな。

だいたい他の記述の「南」と「東南」だって45°の方位角の誤差を許容してるだろ?
西南でなく東南でなければ南だし、
南でなく東でなければ東南なわけだから。
まぁ南は東にはならんけどな、
0605日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:28:46.31
>>602
会稽の真東(現在の沖縄あたり)の沖合に、南北に細長い三日月みたいな形をした倭列島があり、魏がそれ取り込むことで、呉の孫氏を挟み討ちにできると考えたのだろう。
「水行十日陸行一月」の記述は、まさにその希望的観測 魏→呉←)倭 の現われだろう。
0606日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:29:49.32
【国家神道】を作り、皇祖神を【天照大御神】に書き換えた【明治】政府の責任は重い

【伊勢神宮】の神紋に【菊】の紋章が使われるようになったのも【明治】から

現代の歴史認識が混乱しているのは、明治政府と国家神道が原因だな
0607日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:38:10.41
Google翻訳で英訳
計其道里當在會稽東治之東
→ In the east of Huiji, Dongzhi
0608日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:43:22.78
魏の地理認識としては、倭地(九州島)とは「北部九州〜沖縄まで陸続きの、南北に細長〜い島」ということだ。
そして女王の所都から、表(西)海岸を南に下ると交戦中の狗奴国、裏(東)海岸を南に下れば投馬国(宮崎)があるという認識の下、記述されている。
0609日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:54:23.07
>>604
「當」という字が入ると真東に近いニュアンスになる。
他の記述の「南」や「東南」には「當」の字は使われてないだろ
0611日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:57:09.06
>>600
Google翻訳で英訳
日本當在會稽東治之東
→ Japan is in the east of Huiji Dongzhi
日本在會稽東治之東
→ Japan is in the east of Kuaiji Dongzhi
現代では
當の一字で大きく意味は変わらないようだぞ。
0612日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 11:58:12.21
>>609
「まさに」と変換すると「當に」の候補が出てくるyo!
0613日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:04:08.55
>>599
トンデモの相手をするのもめんどいけど

>?箸墓は、吉備の古墳技術がなければ出来なかった。

箸墓からでかくなったと言ってるが纒向古墳群最古の纒向石塚古墳から
100メートル級(公式には96メートルかな)で、吉備の楯築墳丘墓よりでかい
>>590では吉備の版築技術がーとか書いてあるが、楯築墳丘墓は自然丘陵の地山成形で
版築はしていない

>?伊都国王(平原1号)から出土した国内最大内向花紋鏡は、伊勢神宮の御神体八咫鏡と同一鏡。

伊勢のご神鏡は「黄金の樋代」に入れたのちに、御樋代に入れられている

神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その御樋代の中に 「黄金の樋代」があり、
その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されているそうだ

九州説が平原1号墓出土鏡と伊勢のご神鏡が一緒だと言いたがるのは、御樋代の
内径が平原出土鏡の直径に近いからだが、伊勢のご神鏡はさらに口径9寸の「黄金の樋代」に
納められている

径二尺の平原の鏡は入らない
勝手に八咫鏡の権威に擦り寄るのは止めな
伊都国に八咫鏡があったという伝承は一切ない
0614日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:04:50.99
>>612
だから「まさに」って強調してるんだから、真東ってことだろう。
だいたい東って意味なら、会稽じゃなくもっと大都市を書くよ。
わざわざ会稽と書いてるのは
会稽の真東を強調したいから以外に理由がない
0615日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:06:27.53
>>612
そういう意味もあるってことだから、他の解釈がウソつきなんてことはないってことだね。
0616日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:08:57.54
>>614
倭国の風習について書いたところで、
1. 夏后少康の子が会稽に封じられた際に断髪して入れ墨をして蛟竜の害を避けようとした。
2. 倭の漁師は潜っては魚貝を捕えるのに、同じように入れ墨をして大魚や水生害獣を避けていた(装飾の意図も後にはあったが)。(中略)
3. (倭までの)道のりを見返すとここら辺は会稽東治【冶】の東にあたるのだな。
という文脈だから、入れ墨→会稽→倭が会稽の東という連想を書いてるわけで、
広稜だに南陽だのに入れ墨に風習があって夏后少康の子のエピソードに匹敵するものがなければ意味をなさない。
だから
「北東から東南の間でいいんだから会稽の東と書いちゃおー」
で全然問題ないんだよ。
「大阪は東京の西にあたる。」って言ってもうそつきにはならんだろ?
0617日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:09:07.73
「當在稽東治之東」

この文は、魏志倭人伝に書かれてる方角の中で最も重要
結論として邪馬台国は【まさに会稽の東】にあると書いてるわけ。

真東じゃなく、だいたい東って解釈するほうがおかしいよ
0618日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:12:06.42
>>616
「當在稽東治之東」は
「大阪は東京の西にあたる。」とは全く違うニュアンスの文章だぞ
0619日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:12:37.03
解り易く言うと、
ただの『北(11-1時)東(2-4時)南(5-7時)西(8-10時)』だけど、『當』が付くと
『當』+『北(12時)東(3時)南(6時)西(9時)』、
ただの『北東(1-2時)南東(4-5時)南西(8-9時)北西(10-11時)』だけど、『當』が付くと
『當』+『北東(1時半)南東(4時半)南西(8時半)北西(10時半)』。
0620日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:12:40.16
つまり、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだね。
0621日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:13:01.86
>>617
>>530
この文は行程を記載しているところでなく、
倭国の風習を書いている部分だから重要なのは風習に関する部分だ。
なんで「方角の中で最も重要」になる理由があるのか、さっぱりわからん。
0622日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:14:23.96
破綻した、畿内説の宣伝係が、また頭の悪さを公表してしまったな、、、

617日本@名無史さん2018/10/28(日) 12:09:07.73
「當在稽東治之東」

この文は、魏志倭人伝に書かれてる方角の中で最も重要
結論として邪馬台国は【まさに会稽の東】にあると書いてるわけ。

真東じゃなく、だいたい東って解釈するほうがおかしいよ
0623日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:15:14.75
>>618
中国語に詳しいの?
その「ニュアンス」って信用していいの?
ちょっとわからん。
0624日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:16:03.33
>>619
そんなことが三国志に書いてあるのか?
ソースを教えてくれ。
0625日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:17:56.34
>>622
そうだね、、、
頭の悪い畿内説の宣伝係員のキナイコシは、会稽の東にあるのが、邪馬台国だと結論してしまったのだね。。
0626日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:20:03.14
>>625
魏志倭人伝は、邪馬台国の説明文ではなく、倭人の説明分だということを、頭の悪い畿内説の宣伝係員のキナイコシは、理解出来なかったのではないのかな。。。
0627日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:20:55.37
>>618
Google翻訳で英訳
東京當在大阪之東
→ Tokyo is in the east of Osaka
東京は大阪の東にある
→ Tokyo is in the east of Osaka

同じ
0628日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:21:14.13
>>621
最終的な結論として書いてるんだから最も重要に決まってるでしょ
0629日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:21:36.50
会稽のちょうど東にも、倭人がいることを、魏志倭人伝の製作者が説明したのではなかったのかな。。。
0631日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:23:46.23
>>593
桜井市の公表は誰も信じて無い
0632日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:23:54.72
>>626
破綻した、畿内説の宣伝係は、論破されすぎたせいで、悪かった頭が、さらに、悪化した可能性が高いな。。。
0633日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:24:47.99
>>626
當の字のニュアンスを無視することで、会稽の(だいたい)東にすることで、邪馬台国を畿内に持ってこようと必死なのだからねw
0634日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:25:11.06
>>628
最終的な結論じゃなくて、位置に話は終わってそのあとに風俗習慣の話を書いているだけじゃん。
後に書いてあったら最終的な結論っていうのはおかしいな。
0635日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:29:21.79
>>627
Google翻訳を鵜呑みにするアホを始めてみたわw
0636日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:30:55.01
>>635
中国語のわからないアンタを信用するよりはずいぶんマシだと思うが。
0637日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:31:03.87
>>627
そもそもなんでわざわざ「会稽」という具体的な地名(中国人の共通認識)を持ちだしてきて、その「當に東」と書いたか、ことを頭の悪い畿内説関西人は考えるべきw
中国大陸全体から見てだいたい東じゃなく、まさに「会稽の」東にある、ということだからねwww
0638日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:33:15.65
>>637
だから
入れ墨の風習が共通してるからだろ?
0639日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:34:13.36
>>634
どう読んでも結論としてここにあるってことだろ。
「その位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。」
0640日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:34:36.89
>>633
>会稽の(だいたい)東にすることで、邪馬台国を畿内に持ってこようと

「ほぼ」東という言い方が大好きなのがザラコクで九州説だろww
0642日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:34:57.78
6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説は嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
0643日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:35:28.09
>>639
「どう読んでも」なんてのが他人に説得力があると思ってんの?
0645日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:37:12.21
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。

4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。

5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。

6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。

日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1
0647日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:38:45.86
駅から見て図書館は南東方向で
駅から東に800メートル行くとコンビニがあって、
右に曲がって南に3分くらい歩くと図書館に着くよ

と書いてあるときに、
3分が駅から図書館に行くのにかかる時間で、
コンビニの位置に図書館がある
と主張しているのが九州説

最初に南東と書いてあるのに、南に行けば着くと言い張ってるしw
0648日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:39:16.98
>>617
あなた真東なんて陳寿がわかるはず無いだろう
凡そだよ
太陽が昇る方ぐらい
(日出ずる国の天使、
0649日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:40:15.25
論破が不可能な、意見の発表で、大打撃を受けて、破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、焦っているな。。。

646日本@名無史さん2018/10/28(日) 12:38:03.01
困ったときの大量コピペ、スレ流しw
0650日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:41:09.80
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。

4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。

5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。

6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。

日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1
0651日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:41:17.92
>>647
ごめん
理解不能
0652日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:41:22.59
Google翻訳で和訳してみた

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

国の南部から悪女まで、クイーンズ・ハウスは10日目です。
0653日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:43:09.58
>>652
ギャグ?
0654日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:43:14.42
破綻した、畿内説の宣伝係が、また頭の悪さを公表してしまったな、、、

647日本@名無史さん2018/10/28(日) 12:38:45.86
駅から見て図書館は南東方向で
駅から東に800メートル行くとコンビニがあって、
右に曲がって南に3分くらい歩くと図書館に着くよ

と書いてあるときに、
3分が駅から図書館に行くのにかかる時間で、
コンビニの位置に図書館がある
と主張しているのが九州説

最初に南東と書いてあるのに、南に行けば着くと言い張ってるしw
0655日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:44:36.59
>>654
ごめん。わからない。
0656日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:44:58.29
会稽東冶の東を指摘されて
明らかに九州説が困りきって
スレ流しをしてるな
0657日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:45:25.30
>>654
そうだね、、、
頭の悪い畿内説の宣伝係員のキナイコシは、帯方の南東にあるのが、邪馬台国だと誤認してしまったのだね。。
0658日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:45:27.07
>>656
ごめん。わからない。
0659日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:46:18.70
>>657
魏志倭人伝は、邪馬台国の説明文ではなく、倭人の説明分だということを、頭の悪い畿内説の宣伝係員のキナイコシは、理解出来なかったのではないのかな。。。
0660日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:48:03.92
>>659
そうそう、僕たちの翻訳では、帯方の南東にも、会稽の東にも倭人がいることが、わかるのだったな。。。
0661日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:48:09.08
航海術に長けた当時の魏の人が
「駅から南に舟で10分、そこから歩いて1時間の場所に図書館がある」と書いてあるのに、
1800年後、「駅から東に船で10分、そこから歩いて1時間の場所に見つけた(本がない)遺跡を古代の図書館跡だ!」と大騒ぎしているのが畿内説関西人w
0662日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:49:05.07
>>660
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシには、どうしてこんな簡単なことが、理解できないのだろうか。。。
0663日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:49:35.46
コンビニから先がかかる時間で書いてあるのに
途中から時間表記になるのがおかしいという謎理論で
三分移動の起点を駅まで戻し、コンビニの位置に図書館があると言ってるのが九州説

駅が帯方郡
コンビニが北部九州
図書館が邪馬台国

北部九州までが距離表記
邪馬台国までが時間表記
0664日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:49:54.55
会稽の北東から東南の間だったら
朝鮮半島の南岸から沖縄くらいまでだから
道里を計算して書いてる意味がない
0665日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:51:04.89
文献も考古も、九州説はメチャクチャだ
0666日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:51:05.47
>>662
破綻した、畿内説の宣伝係は、論破されすぎたせいで、悪かった頭が、さらに、悪化した可能性が高いな。。。
0667日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:52:16.14
破綻した、畿内説の宣伝係は、論破されすぎたせいで、脳の活動を停止したのではないのかな。。。

665日本@名無史さん2018/10/28(日) 12:51:04.89
文献も考古も、九州説はメチャクチャだ
0669日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:55:42.05
>>660
魏志倭人伝の作者は、倭人の住所を正確に、究明していたのだな。。。
0670日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:57:41.06
破綻した、畿内説の宣伝係は、論破されすぎたせいで、脳の活動を停止したので、負け惜しみを言い放って、討論を終了しようとしているのではないのかな。。。

668日本@名無史さん2018/10/28(日) 12:53:32.12
また九州説が論破されて
連句店が呟きモードに入りました
0671日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:59:02.39
中国大陸や北部九州との交流の痕跡がほとんど出土しない纏向遺跡が、3世紀後半(卑弥呼没後)の祭祀遺跡(×都市遺跡=邪馬台国7万戸)であることをどう説明するのかな?
まさか箸墓=列島最大墓=倭王墓=(魏志倭人伝)卑弥呼の墓から大和=邪馬台国と短絡したんじゃないだろうね?w
0672日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 12:59:46.44
>>669
つまり、邪馬台国が現代の熊本城の地下になる場所にあったことも、そこに行くための道順も、正確に分かっていたのだね。。。
0673日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:01:27.35
>>664
正しくは東北東と東南東の間の方位角45°な。
もう一度地図を見てみてください。
0674日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:04:47.54
>>663

それは、伊都国=邪馬台国説と、どろぼう偽書王朝説
九州説は、コンビニからワシの家までが時間表記
0675日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:05:03.61
>>672
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の熊本城のすぐ)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、
0676日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:07:01.55
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。

4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。

5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。

6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。

日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1
0677日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:09:39.83
>>673

東北東と東南東の間は初めて言い出したなw
熊本から奄美くらいか
0678日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:10:32.28
>>671
>中国大陸や北部九州との交流の痕跡がほとんど出土しない纏向遺跡が

邪馬台国7万戸は、大和+河内〜環大阪湾の範囲であり、
その中の中心地大和の音訳で邪馬台国と記録されているだけ
纒向遺跡はその中心の宮室と祭祀のための場所

新宿にある都庁が  東京都という1000万都市じゃない、というのに意味はないだろ?
纒向にある祭祀中心が邪馬台国という七万戸の国じゃない、というのに意味はない
0679日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:11:40.29
>>660
僕達は、今、会稽の東の秘密をについて、解き明かしたかもしれないな。。。
0681日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:12:38.53
>>679
そうだな。。。
僕も、今、翻訳を見直して気づいた。。。
0682日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:13:15.22
>>677
北部九州説がお亡くなりです

アーメン
0684日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:13:32.93
>>681
女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって、絶えたり、連なったり、巡り廻って5千里、(と答えがあった)、、、
0685日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:14:49.44
>>268
会稽の東とは熊本城や八代宇土半島ではないかな、、、
0686日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:15:02.79
>>677
東北でなくて東南でなければ東だと言ったろ?
八分方位それぞれに±22.5°になるのは言わなくてもわかる話だよね?
0687日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:16:05.21
>>684
熊本城の卑弥呼に謁見して倭人の地の絶えているところを問うと、海の中の州や島の上にあって、絶えたり、連なったり、巡り廻って5千里、(と答えがあった)場所は、熊本城から、沖縄の先の、更に先の、南の果てだったのだな。。。
0688日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:17:27.37
纏向遺跡で見つかったのは、各地の土器、木のお面と鳥型木製品、大量の桃の種w 
銅鏡、刀剣類、勾玉、鉄製品などの貴重品は一切出土せずwww
0689日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:18:22.74
>>677
奈良は?
0690日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:18:29.00
僕たちの特徴を模倣した謎の考古学者が、出現して、僕たちが最初に考えたことを発表したな。。。
0691日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:22:16.78
>>686

>「北東から東南の間でいいんだから会稽の東と書いちゃおー」
>で全然問題ないんだよ。

って書いてある
0692日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:25:49.47
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

3つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。

4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。

5つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。

6つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。

日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/1
0693日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:26:02.51
>>680

お爺さんによって違う
最近は佐世保からという中国人の本を取り上げていたが
佐賀市あたりからがワシの家には行きやすいというお爺さんが多いみたい
0694日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:27:41.72
>>691
これが最初だった。
>>524
513 名前:日本@名無史さん :2018/10/28(日) 00:12:42.61
>>481
魏志倭人伝は八分方位だから、東北でなく東南でなければ東だよ。
0696日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:33:17.57
纏向遺跡の主な出土遺物
卑弥呼が魏などとの大陸と交流していたことを証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない。また、魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない。
弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての土器が出土しており、出土した弥生土器・土師器により纒向編年がなされている。
それによれば、弥生土器第V様式(纒向1類)、庄内式土器(纒向2類・纒向3類・纒向4類)、布留I式(纒向5類)の5期に時代区分がなされている。
しかし年代についてはC14年代測定法によるもので、実年代よりも100年以上古く推定されている可能性がある。
-朱色に塗った鶏形木製品
-吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組み合わせて文様を施した「弧文円板」と呼ばれる木製品。
-絹製の巾着袋(ただし、絹が畿内で生産されるようになったのは4世紀以降)
-瓦質土器(1996年(平成8年)に土器片の出土。胎土成分組成の分析により、2001年(平成13年)に国内で類例のないものであることが確認され、朝鮮半島の技術で作られたものと判明した)
-ミニチュアの舟
-木製鏃
-石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品
-多数の搬入土器(外来系土器)
しかし、銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど、確実な年代を決定する出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1
0697日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:36:45.90
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。
布と言えば、【木綿】、こもりくの泊瀬との関係も気になる。

矛の勢力、祇園八坂神社の鉾、天神祭の矛流し神事

アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 猟夫ラガ 持タ木ノ真弓 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス豊日霎カ 御魂欲ス 本ハ金矛 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 三輪山ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、穴師ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 木綿取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ

出雲国風土記とか見ても山陰は朝鮮半島と一心同体
時代は下るが、宮崎辺りは百済人が大量に流入しているし、奈良の明日香なんか朝鮮半島色の塊
畿内を征伐し支配した勢力は朝鮮半島と関係の深い勢力だったんだろう
0698日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:39:28.73
遣唐使も坊津から出航したことであるし、予想以上に八代は古くから開発されてたのではないかな、、、
0699日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:41:49.57
地元を愛している九州のお爺さんたちが
各々の地元の考古に関心を持つのは悪いことではない
妄想連呼で荒らしているのは、伊都国=邪馬台国チョンボと、どろぼう偽書王朝の会
お笑いが東側スロープ爺さん
0700日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:43:44.32
>>696
必死でニセ情報を流しまくる敗者、九州説
0701日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:47:46.88
やはり、熊本城の地下に邪馬台国が眠っているな。。。
0702日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:48:11.60
Wikipediaの纒向遺跡ページに複数の問題があるからな
0703日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:53:49.24
中国や韓国の研究者と共同でとんどん実年代が特定できる銅鏡、宝飾品などが未だにザクザク出てくる北部九州の学芸員が関西、特に纏向遺跡に来ると、あまりに稚拙な出土品のオンパレードに内心笑いが止まらなくなってしまうらしいw
逆に関西の学芸員が北部九州に出掛けると、出土品のあまりの豪華さに自信をなくし(やっぱり纏向は邪馬台国じゃないや)と内心思うが、関西に帰ると様々なシガラミから表向きは「纏向も候補地です」と取り繕うとかwww
北部九州の学芸員もそれを知っていて「出土品はアレでも、お墓は立派ですよ!」と言って、表向きは畿内説を持ちあげてあげるのだとかwww
0704日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 13:58:21.69
邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

最大の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
0705日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:06:44.46
>>569
それは単独の国邑の名前ではないだろう。
0706日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:08:24.16
>>593
>公的な見解は、馬具は、周濠に投げ捨てられた(落とした?)ものだ。

都合が悪いから無視したいだけでしょ。
考古学的な出土物を完全に無視。
0708日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:15:46.19
>>704
何度、討論を繰り返しても、5年前に完全に破綻してしまった畿内説が、嘘だったことは、インターネットの広がりで、国民には分かってしまったのではないのかな。。。
0709日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:16:23.68
>>693
>佐賀市あたりからが

その佐賀川上辺りからというのは、伊都国の比定地を全無視している
0710日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:21:22.74
箸墓の築造年代
畿内説(魏志倭人伝の記述)…248年(3世紀第2四半期)
畿内説以外の研究者…280年頃(3世紀第4四半期)

つまり「箸墓=卑弥呼の墓→邪馬台国=大和」という結論ありきの畿内説こそが、考古学の成果(土器の編年を100年早めるなど)を歪めているのである。
0711日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:24:19.10
>>706
>都合が悪いから無視したいだけでしょ。
>考古学的な出土物を完全に無視。

このようにトンデモ説は
考古学的な層位分析を完全に無視。
0712日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:26:06.89
新たな知見で年代が分かるのならそれで良いじゃん
抵抗するのは都合が悪いからでしょ
0713日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:26:44.71
>>710
畿内説以外の研究者って・・・素人です


w
0714日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:27:46.36
>>712
九州説は必死で抵抗
0715日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:29:07.43
破綻してしまった畿内説の宣伝係のキナイコシが、論破されてしまったので、論破されてしまった時の癖を出してしまったな。。。

713日本@名無史さん2018/10/28(日) 14:26:44.71
>>710
畿内説以外の研究者って・・・素人です


w
0716日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:30:28.46
>>689
奈良は話にならん
0717日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:30:45.66
考古学者たちの判断に
素人が「考古学的にマチガイ」とか
文句をつける喜劇的状況が
昨今の邪馬台国談義
0719日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:32:09.04
>>710
実年代が特定できない土器や木製品しか出て来ない纏向遺跡だからこそ成立する考古学編年トリックだなw
これに対して、幻の4世紀の馬具(金属製品)ならその装飾加工技術から、製造年代や地域が特定できる>>593
「箸墓=卑弥呼の墓→邪馬台国=大和」という結論ありきの畿内説関西人には、決して受け入れられないのである
0720日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:32:25.46
>>713
悔しいか!
0721日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:32:48.07
>>716
このように、まったく理由を言わないのが
トンデモ九州説だよ
最初から思考停止してる
0722日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:34:26.16
>>720
こういう発言を見るとアンチ通説の爺さんは頭がおかしいとしか思えないね
0723日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:36:00.15
畿内馬具は、誰が何時作製して、層位学的に、箸墓古墳作製から20年後の地中に埋まったのだろうか。。。
0724日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:37:22.98
八代はいまヤツシロと読むがヤシロと呼んでも良いのではないかな、、、
0725日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:38:28.89
>>719
その装飾加工技術から製造年代や地域が特定できる幻の4世紀の馬具(金属製品)?

なにそれ?
そんなものが纏向に存在するのか?
0726日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:39:48.83
僕たちの調べではヤシロとは沖縄では山城とか山代とか書くのだったね、、、
0727日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:40:38.52
>>723
乗馬軍団が、紀元400年頃に作製した畿内馬具が、箸墓古墳作製後から、20年経って、底が埋まった穴に落ちたのではないのかな。。。
0729日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:41:25.38
そういえばオモロソウシという沖縄の本ではヤシロは日本国という注記があることを教えてもらったね、、、
0730日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:41:30.42
>>593
>箸墓古墳を築造した際に掘ったとみられる穴に数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分から、4世紀(301年以降)の畿内製馬具が出土しました。
>ということは、箸墓古墳の完成は、早くとも280年頃とみられます。
0731日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:43:28.87
僕達以外に連続句読点を使用する者は、何者だろうか。。。
そして、沖縄と熊本はどう繋がっていたのだろうか。。。
0732日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:44:03.66
しかも優れた言語学者によると、上代日本語には二重母音を嫌ってaiの音をeと発音していたらしいね、、、
0733日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:45:33.11
高市皇子はタカイチではなく奈良時代はタケチと呼んだという話だったね、、、
0734日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:46:42.12
左側スロープの討論では、畿内説の宣伝係が、同士討ちで死体になっていたな。。。
0735日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:48:26.15
>>731
破綻した畿内説の宣伝係も、最近、僕たちの台本をオウム返しに使用しているのではないのかな、、、
0736日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:48:52.63
記紀が編纂された頃に発音が変わったということだろうか、、、
邪靡堆も原音はヤマタイだったものが奈良時代にヤマテに変わったということかな、、、
0737日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:51:04.43
邪靡堆とは、何だろうか。。。
0739日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:56:18.66
むしろ邪馬臺のヤマダイは山代ではないかな、、、
ヤシロは沖縄古語大辞典では山城と書くらしいね、、、
八代は邪馬臺国だったんだね、、、
0740日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:57:13.49
>>800
>畿内の方形周溝墓と吉備の円形周溝墓もハッキリ分布が分かれて最後まで一体化しないからな
畿内と吉備が必ずしも同一の存在とはとても言えない <

ふーん。
0741日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:58:34.37
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1

纏向遺跡の出土土器の特徴
全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められるものの、北部九州からの土器は非常に少ない。
祭祀関連遺構では搬入土器の割合は約30%に達するが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類の出土は一切ない。
このことは、当時の最先端地である北部九州や大陸とは関係の薄い地方王権が、この纒向地域にあったと考えられる。

奈良県立橿原考古学研究所の関川尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す前漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流はほとんどなく、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
0742日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 14:59:35.52
邪馬壱国はyamaitだから奈良時代にはヤメと言われたのではないかな、、、
0743日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:00:00.86
破綻した畿内説の宣伝係が、反論を諦めて、論破された時の癖を出しながら、脳の活動を停止してしまったな。。。

738日本@名無史さん2018/10/28(日) 14:55:01.75
>>730

破綻した九州説は
しかたなく
今日もまた
ひたすら

デマを流し続ける


w
0744日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:01:14.03
八女は邪馬國では、なかったのかな。。。
0745日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:03:44.88
>>809
>それがな、伊都国、奴国、おまけで末盧国は、魏志倭人伝に邪馬台国とは別の国としてはっきり書いてある
これらの国をはずして、3世紀の遺物というと、北部九州には「何もない」んだ
「短里の萬二千里」しか、北部九州説の積極的な根拠は何一つないんだよ<

邪馬台国なんて存在もしないし、
北部九州説の積極的根拠は、「正北抵新羅」や「不彌國の南」や弥生銀座の存在。
0746日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:04:36.56
>>703 だよねwww
0747日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:07:36.75
>>813
それがほぼ九州島付近なんだから→やっはり南→東は、間違いだね。
短絡頭脳の見本。
右脳〜左脳への脳幹障害じゃないの?
0748日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:09:37.32
ヤマタノオロチが飲んだヤシオリ酒とは
沖縄の古酒なのかもしれないな、、、
0749日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:11:06.30
つまり八代とは沖縄からやってきた人たちが入植したということなんだね、、、
0750日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:13:01.74
沖縄方言にはエ段オ段がイ段ウ段になると言っていた言語学者がいたな、、、
キは沖縄ではチになるとも、、、
0751日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:15:11.74
するとオキナワはウチナーになるわけだね、、、
沖縄人がウチナーンチュという自称なのはなるほどそういうことだと脱帽したね、、、
0753日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:19:33.62
ひょっとすると宇土とは今、ウドというけれども
沖縄人の土地という意味なのかもしれないね、、、
0754日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:20:38.75
>>824
>まあ、そんな形の難癖しかつけられないからだろうけどさ 本質は編年だよ
3世紀前半に、纏向を中心とする祭祀連合が列島の広い部分を覆っていたのは確実<

纏向は、大和での「庄内3」だから、3世紀末以後だよ。
0755日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:21:35.04
宇土という地名は
景行天皇の伝説地に偏って存在し、南九州にはないという研究発表が最近あったな、、、
0756日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:21:38.07
八代が邪馬台国では、城にするための良い丘や、人民の土地が無いのではないのかな。
0757日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:22:11.30
「箸墓=卑弥呼の墓→邪馬台国=大和」の結論ありきの畿内説信者を、脱洗脳して救うスレと化してますなw
今からでも遅くない、箸墓の築造は280年以降であり、卑弥呼の時代、倭列島には、筑紫連合(邪馬台国)と大和連合(ヤマト王権)の2つの勢力が併存しており、
両者の交流はほどんどなく、大和連合には大陸や半島との交流もない。よって箸墓や纏向遺跡は大陸や半島と活発に交流していた邪馬台国卑弥呼のものではなく、大和連合の王のもの。
そうすると、今まで見えなかった、いや、見えていても強固な洗脳により見えないふりをしていた灰色の歴史が、色鮮やかに見えてくるだろう!
0758日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:23:27.64
そういえば、宇土半島には息長氏の領地があったそうだね、、、
0759日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:24:08.58
沖縄の倭人が住んだ熊本城から八代までの領土が、八代で、邪馬台国と呼ばれていた可能性があるのではないのかな。。。
0760日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:24:14.81
景行天皇が息長氏の大王ということなのだろうね、、、
0761日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:27:14.48
連続読点を多用する、優れた学者が、倭人の正体を究明してしまった可能性があるな。。。
0762日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:28:00.99
沖縄からくる船が八代につき
有明海からくる船が古熊本湾につき
南北の往来の中継していた要衝にあったということではないかな、、、
0763日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:28:46.80
沖縄の者達が倭人の祖先なのだろうか。。。
0765日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:32:40.10
今地図を見て驚いたのは
宇土市の隣は宇城市と言うのだね、、、沖縄の痕跡があるね、、、
0766日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:32:43.75
なぜ、奈良の小汚い観光関連の者たちは、邪馬台国や倭人の真実の歴史を、盗むのだろうか。。。
0767日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:34:19.45
しかも宇土半島の付け根にある向野田古墳とは、被葬者が女性だったそうだね、、、卑弥呼女王と関係するのだろうか、、、
0768日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:35:18.90
>>834
「南→東」などの嘘つき騙しのトンデモ大和説には、日本語の読めない人が多いな。
妄想が目の前にある文字に先行しちゃうのかな。
0769日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:36:03.60
帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められているの役所の、、東にあるはずだ。
0770日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:36:32.01
その風俗は淫らではない。。
男子は、皆、頭髪を木綿で結って露わにしている。。
その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、
婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。
稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギはいない。
武器は矛、盾、木製の弓を用いる。
木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。
有るものと無いものは儋耳朱崖と一致する。
倭の土地は温暖なので冬も夏も生の菜を食べ、皆は裸足でいる。
屋内には部屋があり父母や兄弟は異なる場所で寝起きする。
赤い丹をその身体に塗る。。。。
中国で粉を用いている様なものだ、、、
食べたり、飲んだりするには、編んで作った籩豆という豆の字に似た食器を用い、手で食べる。。。
0771日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:37:15.97
倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、
死後から始まる喪は十日余りで明ける。。
その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。
葬ったのちに、家全員で水のあるところにいって、水を浴びて清めるのだが、それは塩や水で身を清める中国の練沐に似ている。
0772日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:38:13.22
中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。
名付けてこれを持衰という。
もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。
真珠と青い玉を産出し、その山には丹が有る。
その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、)
生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。
獮猴、黒雉がいる。
倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。
予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、
火によってできた裂け目を視て予兆を占うのだ。
倭人の社会では、同じ様に坐ったり起きたりしていて、父や子や男や女の別がない。
倭人は酒を嗜む性質がある。
魏略には以下のようにある、、、、倭人の習俗では正しい年を知らず、四季を区切るのではなく、ただ春の耕す時期と秋の収穫を年の区切りにしている。。。。
0773日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:39:25.12
古墳よりも前の弥生時代の遺跡に注目しないといけないのではないかな、、、
0774日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:40:29.90
魏志倭人伝の倭人の風俗は、やはり、九州から沖縄までを、住所にした者たちの物だな。。。
0775日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:41:23.04
緑川左岸の宮地台地に新発見があったそうだね、、、
0776日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:43:24.33
緑川の南からは、狗奴国の領土だったと思っていたが、侵略されたので邪馬台国の名前の元になった八代は奪われてしまったのだな。。
0777日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:45:06.62
宮地は、狗奴国の最前線の城下町だった可能性も高いな。。。
0778日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:46:40.28
宮地遺跡群のことだな、、、
弥生中期から奈良鎌倉に至るまでの大規模複合遺跡らしいね、、、
0779日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:47:46.22
緑川の上流の鰻を、網ですくって捕まえては、いけなくなったのではないのかな。。。
0780日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:47:47.42
>>837
>だから、後円部の葬送でスロープを使う時点では、前方部の盛り土はまだなかっただろうという
推測がなされる訳だ かなり単純な論理なんだが、九州説の人は論理を嫌うからなぁ<

だから、後円部の葬送でスロープを使う時点では、前方部の何段かの段築が、もう出来ていた、
と言ってんだよ。
そして、円墳祭祀が終わった時点で、前方部の更なる段築増築をする理由も必要もない訳。
つまり、前方部と後円部は、ほぼ同時築造。
0781日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:49:25.61
なぜ、奈良の小汚い観光関連の者たちは、邪馬台国や倭人の真実の歴史を、盗むのだろうか。。。
0782日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:53:32.79
>>780
>だから、後円部の葬送でスロープを使う時点では、前方部の何段かの段築が、もう出来ていた、
と言ってんだよ。

理由もなく言っても
意味がない
0783日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 15:57:06.70
方部なしに葬送してみたら?
0784日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 16:03:45.53
>>848
>中国の皇帝の墓の槨はすごく広いから少なくとも狭いものとは限らない <

槨が「凄く広く」なったんなら、そりゃ普通は「室」という。

>日本のは狭すぎて当時の中国人には槨とは見えなかっただろうという人もいる <

「南→東」などに嘘つき騙しの大和説学者は、人間ではない・・・・だから、
信用出来ない。
0785日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 16:07:15.77
>>1
博多で庄内式土器が出るのは庄内2式段階のもので、その庄内式土器を博多の土で造った筑前型庄内甕がでるのは古留0式期なんだけどなあ。
庄内2式は纏向3類と時期が同じで、実年代は250年〜270年頃。
この1の大和説者は、その庄内2式の時期を半世紀前倒しする古い年代観で論を張っている。
だから、高地性集落と倭國の乱を同定して、倭國の乱で成立した纏向政権は卑弥呼の政権だとしているわけ。
高地性集落と倭國の乱は時期がズレることはすでに通説となつていて、倭國の乱の具体的証拠がみいだせなくなっているのが実態。
倭國の乱は、瀬戸内以東のことは含まれず、北部九州での出来事ととらえるのがよい。
そして、博多で庄内土器が出るのは250年頃で、筑前型庄内甕がでるのはそれ以降のこと。
大和の勢力が博多に入ったのは、卑弥呼死去の前後ということになる。
0786日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 16:16:51.51
箸(中山)墓古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3
纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳。
かつては、この古墳を、魏志倭人伝が伝える邪馬台国女王卑弥呼の墓とする説もあった。
しかし、築造年代は3世紀後半〜4世紀初頭とする説が有力で、卑弥呼が死亡したとされる3世紀中期に遅れることや、古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっていることから、この説は現在では否定的に見られている。
周辺の周壕から出土した土器に付着した炭のC14年代測定法により、一時期、この古墳の築造年代が卑弥呼の没年(248年)に近い3世紀中頃とされたものの、
近年、炭素14年代測定法は実年代より50-100年程度古く推定されることが明らかとなり、また墳墓からは種々の特殊埴輪類が出土しており、また周壕から4世紀の畿内製馬具が出土していることから、4世紀以降の可能性もある。

推定築造年代には研究者によって若干の異同がある。
広瀬和雄は3世紀中頃〜後期としているが、「魏志倭人伝を見る限り、箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い。というよりは証明しがたい」と述べている。
白石太一郎は3世紀中葉過ぎ(250〜260年)としているが、「3世紀半ば過ぎにのは、卑弥呼は亡くなっているから、その後継者である台与の時代である」と言っている。
寺沢薫は260〜280年頃、石野博信は3世紀第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとしている。
0787日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 16:19:46.85
923名無しさん@1周年2018/10/27(土) 06:03:22.61ID:F3I5XNHQ0
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻 『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0788日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 16:21:21.26
筑前型庄内甕はTB期だから3世紀前半
0789日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 16:22:34.45
>>869
>唐津→伊都(糸島)方角まちがい
→奴(那の津)方角まちがい
→不彌(宗像)方角まちがい
→投馬(吉備)方角まちがい
→邪馬台(畿内)方角まちがいだ なんか問題ある?<

唐津→伊都(糸島)は、出発方向が東南で間違いはない
→奴(那の津)は、日向峠西麓〜早良平野で間違いはない
→不彌(宗像)は、博多湾岸で間違いはない
→投馬(吉備)は、方角まちがい
→邪馬台(畿内)は、方角も国名も畿内も間違いだ
なんか問題ある?
0790日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 16:42:04.49
>>786
九州説特有の妄想だな
0791日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 16:48:22.65
周濠から出土した壺の煤のC14年代測定結果(3世紀中頃→誤差-50〜-100年=実年代は4世紀以降w)は信じるのに、同じ周濠から出た4世紀の畿内製馬具(「倭地に牛馬なし」w)は信じない。
現在では畿内説の学者たちすら全員否定している「箸墓=卑弥呼の墓」と思い込んでいる可哀想な畿内説www
0792日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 16:53:51.61
>>945
>箸墓が卑弥呼の墓かどうかは今の段階では何とも言えないけれど
機内には3世紀の卑弥呼の時代に国内最大規模の前方後円墳が存在するのは確か<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しの大和説騙しだから×だし、
「3世紀の卑弥呼の時代」というのも、国内最大規模の前方後円墳は3世紀末以後だから、×ね。
0793日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:04:49.11
>>791
何も理由を言わないトンデモ説の老人が
何も証拠を出さないまま
支離滅裂な妄想に浸っているな
0794日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:05:55.50
>>955
>倭人伝が唐津から南東へ伊都、奴、東へ不彌と書いているのは事実。
しかし、倭人伝がそう書いたのは実際の邪馬台国へ行く道順がそうだったから、
伊都、奴、不彌の国名を南東へ振っただけ。<

邪馬台国なんて存在しないし、「国名を南東へ振る」必要もない。

>魏と倭國が冊封を結ぶと決まったときに、
渡倭した魏の使節団がとった実際の邪馬台国への道順が、
唐津から東北へ伊都、奴、そして東へ不彌で、その先に邪馬台国があったの。<

「その先に邪馬台国があったの」という所が嘘つき騙しであり、
邪馬台国なんて存在もしないし、邪馬壹國は、不彌國の南。



魏の皇帝の使節がたどったその道順は、魏志倭人伝の行程には地名だけしか反映されていない。
0795日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:07:46.21
>>956
>魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。<

「南≠東」などに拠って×。
0797日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:09:16.83
>奈良県立橿原考古学研究所は、箸墓古墳の築造時期を280〜300年と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
またC14炭素年代測定法による推定は実年代より100年程度古く出ることがわかっており、この墓が卑弥呼の墓である可能性は低くなっている。<

畿内説哀れw
0798日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:15:39.14
>>959
>そもそも殉葬はイメージされるような古墳の周りに奴婢を埋めるようなものじゃないらしいし<

いや、殉葬は、(全く無関係に埋葬するのではなく)、
周りの人に「殉じた死である」事が分かるように埋葬するもの。

>殷墟で検索すれば中国の殉葬が出てくるが似たような例は国内では発見がない <

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
にも殉葬と思われる例が幾つか書かれている。
0799日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:16:01.48
>一般に周濠には、古墳の築造より古い時期の土器がある程度使用された後に、多数遺棄されるので、たとえ周濠から出土した土器の付着物の炭素年代測定で3世紀とされても、それは遺棄された土器の古いものが3世紀であったとしか言えない。
ただし土器と言えども石室から出土したものは一番資料価値があり、ついで墳墓自体に史料価値があり、周濠から出土したものは年代測定としての史料価値は非常に低いというのが一般的な常識である。
さらに、この墳丘から吉備の特殊器台に類似した特殊埴輪が多数出土している点は、埴輪が置かれるようになった点からみても早くとも3世紀後半以降と考えるのが適当である。<

もう畿内説ムリポw
0800日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:21:44.51
女王卑弥呼が死んだ時、奴婢が100人殉死したんじゃなかったっけ?w
ホケノ山や箸墓の墳丘から人骨出てきたの?www
0801日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:22:59.99
>>799
>一般に周濠には、古墳の築造より古い時期の土器がある程度使用された後に、多数遺棄されるので、

考古学を知らん素人の思いつきだな
0802日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:26:49.39
>>799
一般に?
それ、常識と逆だから
0803日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:27:34.59
考古学のプロ学者集団
大恥を掻いたゴッドハンド考古学学会w
0804日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:27:46.81
>>973
>とにかく奴婢を回りに生き埋めにしたような痕跡は
古代からのどの古墳からも見つかっていない〉<

祇園山では、甕棺に鏡片や鉄剣を副葬した成人女性の甕棺があったり、
「差し違い」のような丁寧な複数埋葬が幾つもあったりするから、
「生き埋め」と断定するような書き方をしたこの男は、やっぱり、
おそらく、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者。
0805日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:28:39.20
>>797
ついに橿考研も見放したか…
0806日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:30:37.83
>>797
>またC14炭素年代測定法による推定は実年代より100年程度古く出ることがわかっており

それが文系の素人マニアが一人言ってるだけだろ
0807日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:33:15.64
>>805
ただのニセ情報なので意味なし
0808日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:33:23.71
>>979
>日本書紀には殉葬は奴婢を古墳の周りに埋めるとある
しかし古来からのどの古墳からもその痕跡の発見がない<

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
に、祇園山や他の幾つか?に、殉葬があった、という例が挙げられている。
0809日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:35:43.83
>>800
埴輪が殉死の代わりに発明されたと記紀に出てくるが、箸墓古墳に特殊器台があるということは、殉死はなかったということ。
つまり卑弥呼の墓ではないということ。
0810日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:36:46.32
>>804
>「差し違い」のような丁寧な複数埋葬が幾つもあったりするから、

ただの共同墓地だな
奴隷じゃない
0811日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:38:20.23
>>984
>どっちにせよ奴婢ウンヌンはなんの手がかりにもならないな
奴婢をどこに埋葬したか全くわらないんだから<

殉葬は、原則として、「殉葬であった事が分かる」ように、
殉死対象の人の墓の周りに埋葬するもの。
殉葬である事が分からないのでは、殉葬の意味もなく全くの無駄死に。
0812日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:39:29.61
九州説は情報の出所を絶対言わないから
デマだとわかりやすいね
0813日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:43:35.74
>>811
それ、誰が決めたの?

また「世界の常識」?
0814日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:46:46.34
「差し違い」の追葬は北部九州と中部瀬戸内で
4,5世紀の人骨が60例くらい見つかっている
0815日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:47:58.80
>>741
邪馬台国ではないことの痕跡は山のように出てくる畿内纏向遺跡w
箸墓の築造年代が畿内説信者たちの唯一の根拠、ということがよく判りますなw
0816日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:48:15.21
>>82
>邪馬台国が大和にあったのは間違いないが<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しであるし、
「大和」説は、「南≠東」などによって、×。
0817日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:50:14.44
殉葬説涙目
0818日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:52:52.06
>>88
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
このスレで、テンプレで突撃しても無駄だから、
大和説はいい加減学んだらいいと思うよ。
0819日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:53:24.41
>>809
>埴輪が殉死の代わりに発明されたと記紀に出てくるが、箸墓古墳に特殊器台があるということは、殉死はなかったということ。

それ、後世の人が人物ハニワを見て思いついた伝説だから意味ない
0820日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:54:47.90
>>84
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者やスレ主は、
だいたい返り討ちで悲惨なことになってる
0821日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:55:44.22
「箸墓の築造年代だけが根拠です」畿内説 

0822日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 17:57:19.78
>>815
ゴミな素人考えが山のように出てくる九州説って
切実な問題じゃないの?
0824日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:01:39.56
>九州説は情報の出所を絶対言わないから
>デマだとわかりやすいね

これ、決定打
0825日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:03:48.86
>>821
唯一最大の根拠である箸墓の築造年代を280〜320年とした橿考研に完全に見放され、事実上畿内説は消滅した。
つまり箸墓は邪馬台国卑弥呼とは別の、吉備と関係があるヤマト王権の王ということ。
0826日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:03:51.47
>>85
>吉備と大和も別文化圏を展開していて同一の勢力圏という感じではないな 周辺地域も同様
本当に邪馬台国の時代に一気に別の文化圏を形成してた地域が大同団結した様子が見える<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの虚言であり、
吉備も大和も、元は出雲系銅鐸祭祀や毛人の地域であったのであり、
それぞれ、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国 であったに過ぎない。
0827日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:06:21.22
>>86
>かの女王卑弥呼様を共立したからであろう <

卑弥呼共立は九州付近での事であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の吉備や大和は、関係がない。
0828日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:07:30.21
>>825
>唯一最大の根拠である箸墓の築造年代を280〜320年とした橿考研に完全に見放され、事実上畿内説は消滅した。


九州説は情報の出所を絶対言わないから
デマだとわかりやすいね
0829日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:12:03.11
>2018年4月、奈良県立橿原考古学研究所が、箸墓古墳前方部出土の壺形土器と壺形埴輪26点、後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片54点を調査した結果、
前方部の土器は大和地元の土であるのに対し、主体部である後円部は吉備地方の土の特徴と酷似していることが判った。
このことから吉備地方で製造された完成品を後円部に並べたこと、吉備地方の勢力が大きな力を持っており、箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことが推測される。<

もう畿内説はおしまいだぁ〜!www
0830日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:12:20.63
>>87
>2世紀末くらいには近畿地方の勢力は各々かなりの発展を遂げている
ちょうどこのころに各地域の文化圏の個性が頂点に達している
そんな中で邪馬台国への統合が始まる<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し。
また、「近畿地方」は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国群であり、
統合したのは、九州倭国やその東征将軍ら。

>衰退の上で統合したというよりも盛期の直後にまとまったように見える
どこかが突出したわけでも、どこかが弱まったからでもない
どうしてこのような近畿一円の連合が急に成立したのか不思議なところ<

この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の脳の異常性が、不思議なところ。
0831日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:16:21.00
>>590 ←この人、なかなか良い線行ってるんじゃないの?
0832日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:18:35.31
>>89
>FAQ23
>また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。<
根拠は? 誰の何という論文?<

「円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期」があったんなら、
その時に後円部の埋葬祭祀が終わってしまっていた筈であり、
その後に、前方部に段築を積む、なんて処理など、する必要が全くない。
という事は、このFAQは、スレ主らのインチキ騙しの証拠。
0833日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:19:33.79
>>829
テンプレに書いてあることを今更持ち出して
どうして畿内説がおしまいなんだ?

九州説ってやってると脳が病むのかな
0834日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:22:01.80
>>797 泣かないで〜♬www
0835日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:23:02.22
>>832
追祭祀も知らない無学がトンデモを言う
それが九州説
0836日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:23:19.50
>>90
>まあ即物的な考えだと畿内が3世紀派遣を握ったのは
魏との外交が大成功を収めたからだろうけど
三国時代 我こそは漢の後継と争っていた時代の魏も
漢時代に朝貢のあった倭と国交を結ぶのは政治的意義が大いにあった<

これも「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「覇権を握った」っていたのは、
縄文末には出雲であったが、弥生には九州倭人の倭国であったのであり、
大和などは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国群。
0837日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:24:57.75
>>741 泣かないで〜♪www
0838日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:28:58.95
>>93
>司馬懿には意義あるな 曹真が西域の大月氏に朝貢させてるから <

卑弥呼の遣使は、「戦中遣使」であって、公孫氏との帰趨は不明な時期であったし、
陳寿も執筆時には、司馬氏とは直接的には全く関係がない。
0839日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:34:07.05
>>838
>陳寿も執筆時には、司馬氏とは直接的には全く関係がない。

おいおい
晋の家臣だろ?
0840日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:34:10.27
>>831
誰も褒めてくれなかったんだね?


ww
0841日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:35:03.29
蘇我氏の墓があの惨状だからね
ヤマトを征伐し600年の苦しみの発端を作った卑弥呼の墓なんか、地元民がほっておくはずがない
破壊されてなんかの下敷きにされているんじゃないか?
0842日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:36:28.50
>>95
>畿内と言っても大和だけ浮いてる<

畿内なんて存在しないから、×。

>河内、和泉、摂津、山城は吉備、丹波、近江の地域と近い
大和だけ独自路線を進んでいる様子が出ている
むしろ広域連合に囲まれて独自路線を維持してるのが大和 <

大和も、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国に過ぎず、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の東征将軍たちの支配下であった。

>ここに近畿一円の連合体邪馬台国の中心地が現れる流れが興味深い <

「邪馬台国」なんても存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「連合体」も、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中での連合。
0843日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:39:54.86
箸墓の築造年代だけを唯一の根拠として、都合が悪くなると蛇足とも言うべき屁理屈を付けては生き延びてきた畿内説がたった今、完全崩壊したねwww
0844日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:40:04.49
畿内説は、魏志倭人伝と関係ないヤマト王権の始まりを無理やり邪馬台国だと言い張っているだけにしか見えない。
魏志倭人伝と関係ないことばかりを並べ立てても根拠とは言えない。
0845日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:48:10.62
>>99
>大和と一口に言っても
吉備+磯城から近江+添に変わって河内+葛城だろ
浮いているというより流れ流れてる感じ <

九州倭国の「東征毛人五十五國」があった、
という史料事実を無視隠蔽するは、全て×。
0846日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:48:37.99
などと、いっさい根拠を出さない九州説
0847日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:49:13.25
>>844
魏志倭人伝の都合の良い所だけいただいて、箸墓の築造年代が248年になるように考古学(土器編年やC14測定法)を操作して墓穴を掘り、
魏志倭人伝の他の重要な情報(南→東)はすべて無視して、邪馬台国=大和と結論付けてしまった。
畿内説は学問ではなく、信仰と揶揄される理由。以て反面教師となすべきだね。
0848日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:52:09.52
>>100
>魏にも受け継がれて倭が朝貢に来るのは魏は漢の後継であると
アピールする絶好の出来事
だから墓から溢れるくらい倭人が好む鏡をあげた<

これは、明らかに、「明帝の下賜の銅鏡百枚」は△だった、
という嘘つき騙しを匂わしている詐欺であるから、×。
0849日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:52:51.62
などと、いっさい根拠を出さない九州説
0850日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:56:31.96
古代現実推論
閉鎖空間大和盆地からは何も起こranai
0851日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 18:57:05.83
作り話と中傷だけで、九州説は息を吹き返さないよ

藁)
0853日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:01:18.42
>>852
情報古いよ
とっくにテンプレに書いてある
0854日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:01:24.43
>>850
 弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。
これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。
 それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
0855日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:03:33.17
>>741 泣かないで〜♪www
0856日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:05:09.09
>>114
>しかし玉壁も面白いな
まさに完璧なのが宮崎から見つかって発見の経緯が畑耕してたら出てきた石棺から見つかったとか面白い
どういう経緯で考古学的に主流ではない九州南部の宮崎に渡る事になったんだろうな<

元々、南九州は、東テイ人の20国の地域であったが、
糸島の天孫族の阿毎氏系の山彦やウガヤフキアエズ伝承が残っており、
更に同じ阿毎氏系の将軍であった「景行」の遠征があって、
卑弥呼の直前頃に投馬國となり、
東テイ人の漢への遣使は、後漢最末時を最後に途絶えたもの。
その投馬國は、卑弥呼共立の一国になって、伊都国の一大率の検察下になっていた。
だから、宮崎は、天孫族の阿毎氏系と同じような墓祭祀や文化を持っていた。
0857日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:13:47.56
>>855
そんなトンチンカンなコピペを何度貼っても
なんの効果もないぞ
0858日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:16:34.94
>>786 涙を拭いて〜♪
0859日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:34:04.14
九州説はデマ流しすぎ
0860日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:35:24.49
>>854
近畿中央部だけではなく、吉備から関東、近江、北陸など広範囲の勢力によって構成されていた、というのがが正しい。
0861日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:53:12.10
>>860
>関東、近江、北陸など広範囲の勢力

この辺りは国っていうより大きな村みたいなもんだったと思う
で地元の名産物を大和王権に気に入られようと貢いでたんだろう
0862日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 19:56:49.24
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」

「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」

「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0863日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:05:30.31
魏志倭人伝から離れて久しいな...
0864日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:06:41.51
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
👀
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
👀 👀
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
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「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
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「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
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「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
👀 👀 👀 👀 👀 👀
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
👀 👀 👀 👀 👀 👀 👀
「会稽東治の東」
日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
👀 👀 👀 👀 👀 👀 👀👀
「会稽東治の東」
日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
👀 👀 👀 👀 👀 👀 👀👀👀・・・・・ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0865日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:08:06.43
会稽東冶の東をやってたばかりじゃん
0866日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:08:48.61
平成30年10月28日。
邪馬台国畿内説崩壊記念日。
万歳三唱。
拍手、パチパチ。
神社参拝。
0867日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:09:54.17
>>862
脳が無きや?

w
0868日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:10:59.86
>>866
お前が脳崩壊してんだろ
0869日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:11:57.75
ヒソヒソ話。
(箸墓円墳先造説が墓穴だったな)。
0870「会稽東治の東」垢版2018/10/28(日) 20:13:06.15
畿内説の反論は✖✖✖

6世紀も否定する
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
👀
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
👀 👀
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
👀 👀 👀
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」
0872日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:15:27.76
>>869
それも反論いてた奴がみんな敗退してたな
スロープ爺さんとか
0873日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:16:06.71
箸墓円墳先造説www

恥という概念を知らないらしいw
0875日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:16:57.02
>>865
>会稽東冶の東をやってたばかりじゃん <
畿内説が散ったなwww

しかし又ゾロでドアホの畿内説が「会稽東冶の東」持ち出すなwww
0876日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:17:21.74
>>872
ここにいるよ。
みんな、お前みたいに一日中PCに居ついてないんだ。
0877日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:17:27.92
>>868
南を東に捏造失敗。
そして、箸墓円墳先造説が墓穴。

文科省から補助金カット。
纏向遺跡、草ぼうぼう。

むざんやな 遺跡の草に キリギリス
0879日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:19:41.92
>>871
魏志倭人伝は八分方位しか使ってないから
東は、東北東〜東南東の範囲
>>677 によれば
熊本から奄美くらい
>>689によれば
奈良は話にならん

ということがコンセンサスかな?
0880奥山元気で何より垢版2018/10/28(日) 20:21:10.22
いえ いえ  
何も無いよ 何も
0881日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:23:33.19
278mの前方後円墳の円墳部分だけをみて径百余歩(約150m)などとは実に馬鹿馬鹿しい。
ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。
だから強引に結びつけただけ。
そして放射性炭素測定で箸墓をAD240〜260年というトンデモないミスリードをしようとしている。
放射性炭素測定で20年幅なんて分るわけがない。
箸墓をヒミコの墓だという論者は箸墓の瀬戸内の強い要素など全く説明できない、
せいぜい卑弥呼共立に瀬戸内勢力が中心となったなどの屁理屈で逃げる。

彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
彼らは神話に耳を貸さない。
そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。

江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。
何も難しくない、日本の原点かつ聖地に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢も埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛であり、ヒミコの時代に土蜘蛛を征したのは日向から来た男・神武である。

https://goo.gl/maps/DocFtPTq6VJ2
0882奥山元気で何より垢版2018/10/28(日) 20:24:51.94
言い忘れた

酒はほどにしとけ

夜中に新スレ建てるのはヨカヨカ

夜中まで家族関りたくないから

新スレ建てるのは夜中はヨカ ヨカ
0883日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:27:19.08
>>143
大和説が死滅したことは、よくわかった。
0884日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:27:19.60
>>871
魏志倭人伝は八分方位しか使ってないから
東は、東北東〜東南東の範囲
>>677 によれば
熊本から奄美くらい
>>716によれば
奈良は話にならん

ということがコンセンサスかな?
0885日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:27:56.30
纏向?
アフォか、邪馬台国とは葛城なのだ。
葛城に住んだ姫様二人も判明している。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津        E孝安 D孝昭
トヨ津   (250年頃)C懿徳 
ヒメ踏鞴        B安寧
ヒメ踏鞴        A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 
0886日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:29:59.95
>>150
>江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。<

「南≠東」などに拠って×。
0887日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:32:57.62
>>877
夏草や つわものどもが 夢の跡
0888日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:33:07.69
 故・金関 恕(かなせき ひろし)氏が奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を出された。
また元橿原考古学研究所指導研究員の和田萃さんも和邇氏の系譜にヒミコがいるとの見解を出されたようだ。

仮にそうだとして、謎の豪族・和邇氏と卑弥呼の関係が分からなかった。

解いたのはわしだ、参ったか。

   事代主
     ┣━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━┓
     建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主             孝昭
     ┃              ┃
    阿田賀田須        天足彦国押人命
                   ┃
                和邇日子押人命
                 ┣━━━━━━━┓
               彦国姥津命    姥津媛(開化天皇妃)
   ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
 伊富都久命          彦国葺命   小篠命    乙国葺命
  ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫   【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
 彦忍人命   建耶須禰命    大口納命        【飯高氏祖】
(武社国造)    ┃       ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
       八千宿禰命  難波根子武振熊命   彦汝命     真侶古命
      (吉備穴国造)  【和邇氏祖】  【葦占氏祖】  (額田国造)
0889日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:35:04.43
>>160
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説者ってのが、
全てにおいて、信用出来ない犯罪者であった、という事は、よくわかる。
長里だけだという誤った主張を糊塗するために、
さらなる捏造を重ねてるのを見てきているからな。
0890日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:39:07.03
>>883さんよ

クダラン以下は無視しようよ 気持ちはわかるけど
畿内説のこいは無視しようぜ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>>143
大和説が死滅したことは、よくわかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大和説が死滅したことは、よくわかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こいつ こいつ 毎度のこいつ
畿内説が論破されたら出てくる奴
0891日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:41:21.89
>>162
>3世紀初頭の纒向石塚古墳で墳長96メートルあり、築造時点で列島内最大
この後、箸墓古墳まで纒向古墳群に列島最大の墳丘墓が作られ続ける<

石塚は、前方後円墳であるから、卑弥呼の冢よりも後であり、
撥型であるから、くびれ部が湾曲している那珂八幡よりも後であり、
「大和での庄内」でもあるから、3世紀末。
0892日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:41:44.01
>>884
無内容な連呼で無駄な抵抗w
0893日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:42:29.29
>>883さんよ

クダラン以下は無視しようよ 気持ちはわかるけど
畿内説のこいは無視しようぜ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>>143
大和説が死滅したことは、よくわかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大和説が死滅したことは、よくわかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こいつ こいつ 毎度のこいつ
畿内説が論破されたら出てくる奴
0894日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:43:01.00
「箸墓の築造年代を卑弥呼が死んだ248年にしよう!」を合言葉に、土器編年をどんどん繰り下げていき、
(最近、実年代より100年程度古く測定されることが明らかになった、当時の最新技術)放射性炭素測定法で3世紀中ごろに確定!と早まって、
まさに自らの墓穴を掘った畿内説は、今日自らその墓穴に入って行ってしまったな。
0895日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:46:01.57
>>892
何に抵抗?
ちょっと意味がわからないがわからない。
0896日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:46:32.89
>>891
ということは、箸墓の築造は4世紀初頭と考えるのが妥当だね。
0897日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:46:58.91
>>884
根拠もなく混線さすな
0898日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:47:29.92
畿内説か大和説か知らんけど

説じゃねーな

説ちゅうもんはな説得力が必用なんじゃ

大衆の支持を受けなきゃダメなんじゃ


説が確定したらいいんだよ
0899日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:47:43.73
>>897
ちょっと何言ってるかわからない。
0900日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:48:41.29
>>895
九州は会計東冶の東にならないって事実に無駄に抵抗してるね


w
0901日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:48:49.17
石野さんも寺澤さんも無責任だな
あの勢いどうかなったな
0902日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:49:32.29
>>161
荒らしは、「南→東」などの嘘つき騙しのの大和説の断末魔だから、
いい宣伝だ 。
0903日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:50:09.95
>>900
あんた論破されてるから
悔しかったら論じろよ
0904日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:50:10.01
>>900
884 名前:日本@名無史さん :2018/10/28(日) 20:27:19.60
>>871
魏志倭人伝は八分方位しか使ってないから
東は、東北東〜東南東の範囲
>>677によれば
熊本から奄美くらい
>>716によれば
奈良は話にならん

ということがコンセンサスかな?
0905日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:50:12.21
>>899
頭が悪いので
0906日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:52:02.88
>>1
よか よか
枯れ木も山の賑わいでよか
0907日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:53:57.33
テンプレもよか よか
枯れ木も山の賑わいでよか  よか
石野も寺澤も逃げたのは よか よか
0908日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:58:27.62
>>178
>列島最大の墳丘墓を作る主体が王じゃなかったら何なんだ?
列島最大の墳丘墓そのものが、王権の所在を直接示してるんだよ<

九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の、東征将軍らの中の一人。

>九州説はよく、畿内が邪馬台国なら記紀に記録がないのがおかしいというが
この纒向古墳群の被葬者、つまり纒向の王たちの記録もないだろ?<

畿内も邪馬台国なんても存在しないし、
「南≠東」などに拠って、大和はも九州倭国の別種の分家の旧小国。
0909日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:58:31.47
>>901
>石野さんも寺澤さんも無責任だな
あの勢いどうかなったな <

無責任じゃないぞマスコミや桜井市が騒いだだけだ
 石野さんや寺澤さんの最近の論調知らないだろ
0910日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 20:59:47.29
キナイコシは休みの日も一日中引きこもって畿内説などという妄想のために掲示板を荒らし続けているのか。
さみしいな。
0911日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:01:22.17
>>161
というか、彼らは畿内説「箸墓=卑弥呼の墓、邪馬台国=大和」の結論ありきで研究を始めてるから、
纏向石塚や箸墓の築造年代が50年以上も時代を下ることが判った現在でも、大ヤマト古墳群内で卑弥呼と台与の墓を比定するしかなかったんじゃないの?
内心(やっぱり中国や半島・北部九州の痕跡が出ない纏向が邪馬台国であるわけないわ…失敗だった><)と思ってるだろうね
0912日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:01:51.79
>>904
奈良も東京も東北東に収まるよ
福岡はダメ、佐賀もダメ
九州説死んだな
0913日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:05:46.93
>>911
そういう空想ばかりしてるから九州説が死んだんです
0914日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:09:21.34
だって土器と木製品しか出ないんだもの纏向 みつを
0915>>1に言え垢版2018/10/28(日) 21:11:40.04
>>909

>石野さんも寺澤さんも無責任だな
あの勢いどうかなったな <
無責任じゃないぞマスコミや桜井市が騒いだだけだ
 石野さんや寺澤さんの最近の論調知らないだろ<<<<
0916日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:12:49.50
>>188
>「古墳の造り方としては、後円部側を先に造り、それに付け足すように前方部をくっつけていることがわかった。」
橿考研 坂靖 朝日新聞2012−9−28<

「南→東」などの史料事実を否定曲解のウソ付き騙しの大和説学徒の坂が、
いくら「わかった」なんて自画自賛したって、
信頼性が全くなく、ダメだよ。

箸墓は、埋葬祭祀時点で、前方部の段築が既に出来ていたようであり、
祭祀が終わってから、前方部の段築を更に増築する必要は全くないんだから、
後円部と前方部は、ほぼ同時に出来た事になり、
魏使らが、「円墳だ」とも「冢だ」とも記録する筈もなく、
「南≠東」などに拠っても、
箸墓が卑弥呼の墓である可能性は0になった。
0917日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:14:13.61
>>784
>槨が「凄く広く」なったんなら、そりゃ普通は「室」という。

ザラコクに言ってもしょうがないんだが、槨は棺を納める構造物
棺を納める目的に空間を作るのが槨
0918日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:19:18.74
>>202
「南→東」などの嘘つき騙しでも、
「畿内」や「邪馬台国」や「壱与」や「天皇」や、
「纏向」や「箸墓」などでも、論破されて、
苦渋の罵声を張り上げるトンデモ大和説。
0919日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:25:02.14
あいかわれす、なんも証拠ださんな九州説は

ww
0920日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:28:49.54
>>916
>「南→東」などの史料事実を否定曲解のウソ付き騙しの大和説学徒の坂が、
>いくら「わかった」なんて自画自賛したって、
>信頼性が全くなく、ダメだよ。


坂靖は森浩一の教え子で、九州説最後の生き残りだよ
0921日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:30:07.76
>>232
「南→東」などの嘘つき騙しのの大和説が、
死んだってことだろう。
0922日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:30:52.09
>>916
>「南≠東」などに拠っても、

その「南≠東」が「会稽東治の東」で死んだわけだが。
0923日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:30:53.52
テンプレ新着情報ない
0924日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:33:01.81
>>923
ないと何だ?
0925日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:33:31.17
「親魏倭王」卑弥呼さまが、3世紀前半の大和なんて土器と木製品(お面w)しか出ないド田舎にいるわけないじゃないwww
弥生の大都会・北部九州の中心にいたに決まってるでしょ!
0926日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:34:36.00
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻 『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0927日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:34:59.09
>>925
土器と木製品しか出ないって証拠は?
0928日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:36:13.74
>>242
倭人伝の景初2年は、写本版本や校勘などによって99.5%以上の確率をもっていり、
唐代以後の後代史書の「景初3年の誤写という説」は、
後代史家の、前史の記載に対しての「自己解釈に拠る書き換え」という事で、
証拠になたない、という事でしょ。
0929日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:36:35.30
>>741 泣かないで〜♪www
0930日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:36:48.44
確率を無理に考えると
九州説と山形説がだいたい同じレベルw

山形説の人、ごめんなさい
0931日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:37:03.90
>>928
という証拠は?
0932キウス ◆PyuQX798ps 垢版2018/10/28(日) 21:38:50.62
スレ主さん
人権版に来てください
何故 畿内に同和地区や在日が多いかわかりますよ
百濟です 
桓武天皇の聖母が武寧王の末裔とか・・・・

東遷の謎が解けるかも
邪馬台国=倭人の地は九州ですよ   

倭人と渡来人連合が畿内を制圧したのですよ
0933日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:38:57.12
>>929
もうデマ流すくらいしか打つ手のない九州説


あわれ
0934日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:42:40.09
畿内説を今の感覚で言うと、穀倉地帯・北海道に皇居があったって言い張るようなもんだねw
日本一の大都会・東京にあるに決まってるでしょ!
0935日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:43:18.02
>>925
>弥生の大都会・北部九州の中心にいたに決まってるでしょ!

それにしては、北部九州の弥生後期集落遺跡って、パッとしたものがないねぇw  @阿波
0936キウス ◆PyuQX798ps 垢版2018/10/28(日) 21:45:58.46
畿内は
蝦夷と佐伯部と俘囚の地=倭種の別国
0937日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:46:51.26
>>251
>・粱書倭人伝 ・日本書紀神功皇后39年条の注で引かれてる魏志
は景初3年となっているというのが根拠だとさ
現行の魏志倭人伝は宋の時代の写本なのだが
それより古い時代に魏志倭人伝を参考に書かれた本の記述が景初3年となってるから
そちらが正しいだろうという判断だね <

魏志の写本版本校勘や通典では全て「景初二年」のであり、
その他の唐代以後の後代史書は、
「自己解釈に拠ってに書き換え」をしている殆ど×書であるから、
根拠にならない、という事だね。
0938日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:48:13.84
何も証拠の出せない九州説が、ひたすら足掻いてる
0939日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:50:20.84
蝦夷地に皇居があるわけないなwww
やっぱり日本一の大都会・東京の中心に皇居があるように、当時日本一の大都会・福岡の中心に「親魏倭王」卑弥呼の邪馬台国はあったのである。
0940日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:50:23.73
箸墓(笑) 平原(笑) 祇園山(笑)

全部卑弥呼墓からほど遠い。

真の卑弥呼墓は高天原だよ。
https://goo.gl/maps/JqFSyfxptZN2

だいたい卑弥呼が誰なのかキチッと煮詰めてないからそんなミスをするのだ。
この二人が葛城にいたヒミコとトヨだよ。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 
0941日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:51:37.53
テンプレもよか よか
枯れ木も山の賑わいでよか  よか
石野も寺澤も逃げたのは よか よか
0942日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:53:18.44
テンプレもよか よか
枯れ木も山の賑わいでよか  よか
石野も寺澤も逃げたのは よか よか
0943日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:54:40.53
>>940
葛城じいさんスロープはどこ?


w
0944日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:55:27.35
>>942
そんな妄想してるから九州が死んだ
0945日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:56:23.78
>>943
基本、箸墓に興味はないからどうでもいい。
あれはイカガノシコオの墓だし。
0946日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:56:54.27
どんな悲惨な歴史でも明らかにするのが、学者の仕事
0947日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:57:25.42
計算根拠の出せない確率とか
出所の示せない情報とかだけ

九州説は末期症状だね
0948日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:57:53.06
箸墓古墳被葬者とその相関関係だ。


               長溝(山城県主の祖・五塚原古墳)
                 ┃
  イカガノシコオ(箸墓)━━ 真木姫
             ┃
            タベノ宿祢(交野連・雷塚古墳)
0949日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:58:40.70
>>946
九州説の悲惨な歴史はもはや、明らか
0950日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 21:58:46.37
寄生虫説
0951日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:00:07.08
>>939

それにしては、北部九州の弥生後期集落遺跡って、パッとしたものがないねぇw  @阿波
0952日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:00:29.51
誰にも見えないスロープが見えてしまう葛城カッツには、どんな歴史が見えているのだろう
0953日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:02:20.55
なんでずれるのかなぁ…
長溝(山城県主の祖・五塚原古墳) の娘が真木姫。
イカガノシコオの妻だ。
ちなみに豊胸手術女優の真木よう子とは何の関係もない、念のため。
イカガノシコオと真木姫の子がタベノスクネ(交野連・雷塚古墳)

せっかく森浩一さんや上田正昭さんがその重要性を説き復権を言ってた先代旧事本紀を無視した報いを受けよ。
0954日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:02:36.31
>>277
>春日周辺の「弥生銀座」の銀座は各時代の遺物が出るという意味で
銀座のように栄えているという意味じゃない<

いや、中国や楽浪や韓や西日本全域からの搬入物や上納を受け、
数本の大道などの都市建設もされ、各種の金属器の鋳型を持ち、
ガラス工業や土器も自前の胎土で造る他、墓祭祀も発信源や伝播元になるなど、
弥生銀座は栄えていた。

>弥生終末には中心が畿内の庄内式土器を模倣製作している博多周辺に移っている<

第5様式や庄内も、筑紫が早かったようで、早くから筑紫の胎土で造られていて、
それを西日本に伝播せしめたようであった。
0955日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:04:17.35
>>954
なんの根拠もない「ようで」に失笑
0956日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:04:41.99
先住畿内土民は無能
入植地になって何とかなったってのが正解でしょ
0957日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:05:09.10
>>910

しかり
テンプレは死体 石野も寺澤も「纏向=王都  箸墓=卑弥呼の墓」と距離を置いてるよ
⇓  これ古いよなWww

>>1 ◆UiepmfCeDJqf 2018/10/26(金) 23:09:54.52
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0958日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:07:01.86
>>957
ほら、なんの根拠も出せない九州説



つまり、インチキ
0959日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:14:35.81
布留1がおおよそ崇神の時代で古墳は行燈山、
なら纏向石塚は2世紀末、約120年くらいのスパンがある。

な崇神以前の大王を想定できるだろ。
いわゆる8代は欠史ではなく実在したと考えられるだろ。

ならばその系譜の中からトヨ、そしてヒミコを探せばいい。
ヒミコもトヨも簡単に見つかるし、場所は葛城だと分るだろ。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 

おまえらは本当にアホだな。
0960日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:15:45.58
⇓  これ古いよなWww

>>1 ◆UiepmfCeDJqf 2018/10/26(金) 23:09:54.52
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0961日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:15:54.64
九州説ってのは、もともと学説じゃなくて政治思想なんだよ
だから街宣車みたいに連呼するけど
根拠を示す意思も能力もない
そういうことだ
解り易い
0962日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:19:12.85
>>912

反応してやるよ

年寄は太陽熱で身体を温めな
0963日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:19:34.49
>>945
>あれはイカガノシコオの墓だし。

その「イカガノシコオの墓」は、
伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命が日本で唯一で祀られている、阿波國麻殖郡 伊加々志神社と何度言えばw @
0964日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:21:14.91
キナイコシも
これから冬に向かうから太陽熱で身体を温めな
銭かからんから
甲羅干ししなはれ
0965日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:26:12.09
>>289
>・其年十二月が詔書出される ・正始元年に建忠校尉梯儁が倭に渡る
時系列を考えれば其年=景初三年と考えざるを得ない
(詔書を一年放置する理由がない) ※建中校尉も建忠校尉の誤とされる<

詔書を出した皇帝名は「明帝」の名前しか存在しないし、
その明帝は景初二年12月に詔書をだしているから、
景初二年12月以前の鏡しか「銅鏡百枚」にならないし、
明帝は景初三年元旦に亡くなったから、景初3年は祝賀的な行事は控えるもの。
0966日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:27:49.90
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人

殉葬者は生き埋めではない。

まつろわぬ者どもが誅されたのだ。
可哀想なので王族と一緒の場所に埋め弔ったのであろう。
それが約150mの塚の周りの蜘蛛窟である。
https://goo.gl/maps/iwZmv3rL6112

そして今でも高天彦神社拝殿の左に小さな土蜘蛛塚がある。
https://omairi.club/img/pictures/posts/477/027/000/628d191c1692d889fb2b687b2d91da01.jpg?p=800&;v=1502740679

高天彦神社に参拝する行為は土蜘蛛の怨霊を鎮める事でもある。

ヒメ=卑弥呼(ヒミコ)の時代、まつろわぬ者どもを誅したのは神武である。
0967日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:30:28.17
>>966
>あれはイカガノシコオの墓だし。

その「イカガノシコオの墓」は、
伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命が日本で唯一で祀られている、阿波國麻殖郡 伊加々志神社と何度言えばw   @阿波
0968日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:30:53.80
>>293
>呉系鏡師が逃れてきたってアホなん 呉に帰るでしょ<

呉では鏡では食えなかったんだし、
呉に帰ったらまた戦乱の地に舞い戻る事になってしまうので、
鏡好きで有名な平和な倭国へ逃避して来た。
0970日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:33:25.38
>>296
「南→東」などの嘘吐き騙しをしなしけりゃ生きていけない大和説者って、
かわいそうだね
0971日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:34:22.64
>>927
ごめん、桃の種もあったねw
0972日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:38:22.55
>>957
>⇓  これ古いよなWww
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

これ、2016年w
これより新しい九州説の論文貼ってよ

そしてこの論文中で
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
思いっきり畿内説そのもので、距離なんて置いてないよ
0973日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:39:42.57
五塚原古墳と箸墓はおおきさはちがうが形はほんとそっくりだ。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-1d-f9/tyokkomon/folder/1225920/20/40268520/img_2_m?1464842219

もう一つ、大阪交野の雷塚古墳も箸墓にそっくり、箸墓のミニチュアサイズだそうだ。

ここの>>1をはじめ、箸墓が卑弥呼の墓だと言ってるドアホに聞く。

山代の五塚原、纏向の箸墓、交野の雷塚、
この関係性を説明せよ。

出来ないだろ。
先代旧事本紀を無視してたから答えられないのだ、ざまぁみろw
0974日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:41:41.87
>>927
>土器と木製品しか出ないって証拠は?

その纏向遺跡「朱塗りの盾」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw  @阿波
0975日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:44:18.79
>>307
>一寸千里は使われてないと思うがね なにせ1年に1回しか測れないのだから<

この男は、周髀算経を読んでいないな。
周髀算経には、一年を半月毎に区切った時の正午の8尺棒の影長表が書かれている。

>漢の領土はベトナムまであったのに使ってたら変だと気付くわな <

この大和説男は、やっぱり周髀算経を読んでいないんだな。
周髀算経は、夏至正午の影長が0になる場所は、
(実際に行って測影したのではなく)、
千里南へ行けば千里毎に影長が1寸短くなる事から、
16寸→0寸(太陽直下)になるのは萬6千里南での測影だ、
という推論で求めている。
0976日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:46:21.62
>>972
>「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」


この仮称「ヤマト」国ってどこのこと?  機内なんていってないよね?  倭国(阿波)のことなんだろう。  @阿波
0977日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:49:29.67
>>311
>>有効数字1桁程度の近似値での推論なんだから、一寸千里は十分成立するね。<

>一寸千里で有効数字一桁程度の精度だったら、その下の百里の単位だったら
完全に誤差に埋もれるなw
つまり末盧国に上陸してからの距離は全てあてにならないってことだなwww<

いや、一寸千里は、千里位の長距離計測に適しており、
それよりずっと短い距離は、簡易三角測量や記里車や歩測や日数測などで計測した、
って何度も書いておいてある。
0978日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:50:24.44
>>972
最後まで読んでごらん。
畿内説に止まらなければいけなかった状況の中でも、最大限の疑問をにじませているよ。
実質的にはやはり西からの外圧を無視できず、時には東征論に近いことも述べてが、批判されたので引っ込めた経緯が述べられている。
0979日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:51:23.51
>>312
>前方後円墳のどこから被葬者を墳頂まで上げたかというと、
前方部と後円部の付け根であろう。 後世には「造り出し」となる部分。
「造り出し」で祭祀を行ったと聞いたことある。
つまり後円部を先に完成させて葬儀を行い、 方丘を後から造ったなど考えられない。<

賛成です。
0980日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:53:24.52
>>316
確かにこのスレの、
「南→東」などの嘘吐き騙しのの大和説は、
必要ないわな。
0981日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 22:58:30.38
>>324
>弥生時代のヤマトが段階的に発展成長して邪馬台国になったのではない
かと言って周辺国のどこかが主体になったわけでもない
周囲の全ての要素が結集して邪馬台国が大和に誕生してる<

邪馬台国なんて存在せず、嘘つき騙 文言であるから、×。
大和は、「南≠東」であるから×であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国である。
0982日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:01:04.64
>>979
俺は反対だな
後世では横穴式にして複数人埋葬されたり前方部分に埋葬したり祭祀が変遷していってるので短絡的な結論かと
0983日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:02:04.54
>>326
>勿論軍事的に征服されたとかそういう状態にもない
自主的に各地域の強盛の文化圏が大和に中心をおいて連合を形成したような姿が見える
この動きは中々に興味を引く <<

大和は、「南≠東」だから×であり、
九州倭国の別種分家の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国である。
0984日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:04:27.12
>>329
>A中心地となった大和はむしろ弥生時代を通じてかなり独自路線を進んでいて
必ずしも周囲と同調関係を持っていなかったのになぜ中心となったのか
これに、記紀の神武東征説話が重要なんじゃないかと思っている
要するに、聖なる血筋という「神話」が畿内の祭祀王の共立の根拠とされたのではないか<

大和は、「南≠東」だから×であり、
九州倭国の別種分家の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国である。
0985日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:08:17.83
>>331
まあ、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
「大和説ありき」の「結論先にありき」で循環してるのに気付かないから、
「魏志は長里だ」っていうのがなんてのを信じてるのだろうけど 。
0986日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:15:39.02
>>335
大和説者も信じてるわけじゃないと思うよ。
ただ、もう何を言われても、自分で信じていなくても、九州説の邪魔をする、
というのが大和説者の行動の第一義だから。
大和説者でも否定しようのない、「歩」は文字の成り立ちから、
周髀算経や魏志などの古典の記載、考古出土遺物まで、
すべて「単歩=短歩」であるのが確実なのに、
『歩には「止」が入っているが歩いていがいる、単歩じゃない』って言い張るんだからww 。

まあ、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の相手をする人もの、
ほぼいなくなったよねw 。
0987日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:19:31.64
>>336
辞書は、「簡単な別の数語以下位の文言での言い換え」に過ぎず、
その文言の全ての意味を網羅するものではないから、
「歩」≠「複歩」
「冢」≠「高墳」。
0988日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:21:38.18
>>982
>後世では横穴式にして複数人埋葬されたり前方部分に埋葬したり祭祀が変遷していってるので短絡的な結論かと


だからそれでも古墳のどこかから引き上げなければいけないわけだろ。
そのポイントがどこかという話。
一番低い部分から引き上げたと考えるのが合理的だろ。
ならば造り出しの部分だ。
0990日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:30:33.97
>>345
>魏志の記載に使われた尺度は1歩=1尺であるなどと書いてあ<

周髀算経の一寸千里という里歩系単位と尺寸系単位の換算が使われており、
谷本確認計算による1里距離と1里=300歩からの換算律だよ。

>律歴志によれば魏の尺度は1歩=6尺とあるが <

後代史書の「前代史への自己解釈に拠る説明」は、部分的な恣意的採用部分が多く、
根拠にならないんだよ。
0991日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:39:56.75
大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)

もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
0992日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:42:36.69
つまり寺沢氏は、もともとの倭国王権は筑紫や吉備、出雲などにあり、それらが合流して奈良盆地の既存の社会構造を破壊しながら流入してきてヤマト王権が成立したと考えている。
0993日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:46:07.11
>>991
>奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり

ここ笑う箇所ですか?w
0994日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:52:00.62
寺沢氏の論文のもう1つの特徴は、纒向学がヤマト王権の成立過程を論じているのに対して、もはや邪馬台国との関わりを積極的には取り上げていないところだ。
すでに邪馬台国畿内説は見放されていると言えよう。
0995日本@名無史さん垢版2018/10/28(日) 23:53:29.00
>>993
批判的に述べているから、笑う必要もないのでは?
0996日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 01:10:27.96
>>991
これは寺澤氏の論文の一部をコピーして、ここに転載したものということか。
とすると、UiepmfCeDjqf氏がテンプレの中で使っていた「新生倭国の誕生」と、この寺澤氏の論文コピーの(「新生倭国」の誕生)が一致しているのだから、
UiepmfCeDjqf氏は寺澤氏と同一人物ということになってくるじゃないか。
だがしかし、Uiepm氏が寺澤氏と同一人物であろが、箸墓古墳円墳先造説が同じ大和派からも反論される状況では、
邪馬台国大和説はみごとに崩壊しており、すでに崩壊記念日が制定され、皆が神社参拝しているのが今の状況なのだから、いさぎよくUiepmf氏も皆と一緒に神社参拝柏手パンパンくらいしなければいけない。
0997日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 01:19:28.34
>>994
>寺沢氏の論文のもう1つの特徴は、纒向学がヤマト王権の成立過程を論じているのに対して、もはや邪馬台国との関わりを積極的には取り上げていないところだ。
すでに邪馬台国畿内説は見放されていると言えよう。


というか纏向説を見放したのだろう。
2世紀前半の男王の根拠が全くない。
0998日本@名無史さん垢版2018/10/29(月) 01:58:33.01
>>957
そんなことはないだろう。
最近東京で行った読売主催の講演会では、寺澤は卑弥呼の墓はホケノ山などの前方後円型墳丘墓のうちのどれかだ、と言っている。
卑弥呼の墓は箸墓だという他のパネリストを尻目に、箸墓放棄を宣言してるだけだし。
0999◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/29(月) 02:36:40.47
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540745748/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
1000◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/10/29(月) 02:41:54.73
>>998
それは間違いです。
寺澤先生はもう20年前から意見を変えていません。
他のパネリストの方が新しい意見なのです。
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