邪馬台国畿内説 Part396
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541317892/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこ降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこ降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこ降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこ降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこ降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこ降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12−1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。 (続き)
◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 後円部墳丘が造られた後に前方部墳丘が造られた発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
孰れも、丘尾切断・基壇部削出→円丘造成・墓室構築→前方部完成などの順で築造
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳は大きすぎて、人民の少ない纏向では、馬がいないと製作できません。
箸墓古墳には、石や土を製作中の古墳の上に運んだ馬が通行した、スロープの痕があります。
朝鮮半島で高句麗の馬と馬主を捕獲した倭国と日本国が取引をして、馬と馬主を連れてきました。
倭国が新羅を降伏させて、高句麗の馬と馬主を捕獲したのは、4世紀後半です。
だから、箸墓古墳は4世紀後半に作製されました。。。
3つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
4つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 5つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
6つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
7つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
8つ目の理由
畿内説の宣伝係には、インターネットの掲示板での、悪質な荒らし行為を実行する人が多いです。
根拠が必要な討論では、敗北したからです。
だから、悪質な荒らし行為を実行する畿内説が、破綻しました、、 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳は大きすぎて、人民の少ない纏向では、馬がいないと製作できません。
箸墓古墳には、石や土を製作中の古墳の上に運んだ馬が通行した、スロープの痕があります。
朝鮮半島で高句麗の馬と馬主を捕獲した倭国と日本国が取引をして、馬と馬主を連れてきました。
倭国が新羅を降伏させて、高句麗の馬と馬主を捕獲したのは、4世紀後半です。
だから、箸墓古墳は4世紀後半に作製されました。。。
3つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
4つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
◆FAQ 41
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳) ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
https://i.imgur.com/MRmSyqP.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。暮壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。 ◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 23に加筆 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 破綻してしまった畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを論破されたので、スレッドが寂れてしまったな。。。 破綻してしまった畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを論破されたので、スレッドが寂れてしまったな。。。 破綻してしまった畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを論破されたので、スレッドが寂れてしまったな。。。 破綻してしまった畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを論破されたので、スレッドが寂れてしまったな。。。 破綻してしまった畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを論破されたので、スレッドが寂れてしまったな。。。 破綻してしまった畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを論破されたので、スレッドが寂れてしまったな。。。 破綻してしまった畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを論破されたので、スレッドが寂れてしまったな。。。 >>1のばかが他スレ荒らすからこの始末
おとなしくしろ 畿内説が畿内説スレ荒らしてどうするの
九州説じゃないんだから 9501 ◆UiepmfCeDJqf 2018/11/06(火) 13:20:20.89
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541475577/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 荒らしは、畿内説完勝の証明さ
こんな醜悪な方法でしか抵抗できないんだからな そういえば、ボコボコに論破されて泣きながら逃げた葛城爺さんはどうした?
よもや自殺とかしてないといいが 最近の考古学の月刊誌を読むか
母校の研究室、訪ねる事だね 寺澤先生は纒向遺跡を純粋に研究してる唯一の人物
寺澤先生の初期は邪馬台国と結び付けようしてたのは確か
石野先生の説を寺澤先生に押し付けた結果が横道それた
橿考は關係ないです
本来、橿原考古学研究所は明日香、藤原の研究です
橿考は邪馬台国の研究機関ではありません しったかぶって偉そうに大嘘を書き込むのはキウスの特徴だな >>350=>>1
前スレ埋まったか
悪いけど他スレ荒らすと倍返し食うぞ >>354
埋まった 19:17:45.85
1000 名前:日本@名無史さん 2018/11/06(火) 19:17:45.85
前スレ埋めないで
掟破れを犯したんは名無しスレ主wwww そんな事よりも『サカキバラ事件』、wikiを読んでみた?
『団扇』のようなマークが載っていたり
漫画やアニメ・・・ゲームの話じゃないの? 『酒鬼薔薇聖斗のマーク』調べてみて
『うちは一族』? 本当に・・・謎の震災後
人の家の話なんじゃないのか?
と言っている人がいたり、何なんだろう
漫画やアニメ、ゲーム・・・その他、
などの話のことでしょ 『きゅうり 祇園』?
八坂何やら〜とか、ほとんど同じ話
三種の神器? 『聖徳太子 ペルシャ』だと言ってる人がいたり、
『魔法のペルシャ』? 和田萃さんが指摘したように国宝中平銘鉄刀の保持者和邇氏の系譜にトヨがいるかどうか
考昭天皇の母・トヨ津媛である。
ならば邪馬台国は葛城になる。
話しはまずこれだけ。
トヨ津媛以外にいるなら出せ。
>>1は前スレで2回も無視した。 本物は?寺院に通っていたみたいな話なんだけど、
サカキバラ事件でも同じような事を言っていたり
バラモン? さかきばら事件
あまり良いとは言えない〜暮らし、生活をしていた?、
みたいな事も書いてあったり、
泥棒のようなものに入られたという話じゃない? ほとんど老婆の話と同じなんだけど、
本当は家の話?
肉も食べなかったような事を言っていたり、
葱の華、きゅうりの葉の写っている写真の家の話
『松傾』
このような名前の家なんだけどw 山のほうに住んでいて、
機織りなどをしていたという話とか
どう考えても・・・日本昔話 親戚か何かなのかな、それらしき話が出てくるし
『八坂東院』 >>351
こういう妄想を書き散らすのがトンデモ爺の特徴ね ガンダムの話なのかな、何なんだろう
どのスレだったかな、
そのような話ばかりしている人がいたような? 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>377
ハイ逃げた。
もうこのスレ止めろ、目障りだ。 354日本@名無史さん2018/11/06(火) 20:00:47.22>>355
>>350=>>1
前スレ埋まったか
悪いけど他スレ荒らすと倍返し食うぞ >>1
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
和邇氏はトヨから始まる。
これでいいかな?
ならば邪馬台国は葛城なので二度と纏向だ箸墓だと言わないように。
分かったら返事しろ。・ >>368
>>>1は前スレで2回も無視した。
ずっと前からFAQに記紀の人物を当てはめないと書いてあるんだから
永遠に無視されるだろうね
されて当然だし 「邪馬台国纏向説が破綻した理由part3」に
スレ主が荒らした結果だよ >記紀の人物を当てはめないと書いてあるんだから
逃げ。
崇神がおおよそ4c前半。
箸墓古墳を卑弥呼墓とするならばその少し前の卑弥呼やトヨを説明できるはず。
日本の歴史は崇神から始まったわけではないのだから。 >>388
>「邪馬台国纏向説が破綻した理由part3」
キウスが何を言ったって無駄
議論をする気もない無駄スレ、うそスレを立てる時点で荒らし行為だ 九州から東海までめぼしい場所は全部掘ってるのに、卑弥呼の冢の候補すら全く見つからないっておかしい(箸墓は径二百歩&殉葬なし)。
でも箸墓の地下に埋められているならそれも納得で、【宮内庁が箸墓の墳丘表面しか調査させない】のはそのため。
箸墓は定型化した最初の前方後円墳だから、卑弥呼の冢を潰すために天皇家によって造られたとすれば、目的に合致する。
次の西殿塚古墳は台与の冢を潰すために天皇家によって造られたということ。
つまりこの2つの前方後円墳は、女王台与の死後、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)により、
相次いで後円部の大きさが設定&築造されたため、一気に巨大化したということ。
天皇家によって邪馬台国(卑弥呼&台与)の痕跡が跡形もなく地上から消し去られたわけで、邪馬台国の痕跡を覆い隠すために、
全国津々浦々にその真上からおっ被せる(環濠で近付くことも、近付いたとしても壊すことができない)前方後円墳を造らせることで、古墳時代が始まったのである。 >>384
ムリ >>1は病気だから
>>1に語るには深夜が良い
つぶやきシローに変身してるかも >>396
つぶやきシロー=>>1
でんな
夜中に新スレ立てる時につぶやきシローは現れないのだ 左側スロープ君の貼り付けた画像
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/67_137f27c647.png
この白線で示した部分が高天彦神社境内の径百歩の塚で150メートルあるらしい
円丘ではないと言われて貼った画像
https://goo.gl/maps/1Z6MRTKx9iB2
明らかに、横長の雑木林で、塚がどこにあるのかも不詳
検証画像
蜘蛛窟のあるところの雑木林は63メートル
https://i.imgur.com/VyzBCru.jpg
白線部分は278メートル
https://i.imgur.com/J9GI9e5.jpg
さらに150メートルと言い張るための画像
>奴婢埋葬痕跡のある150mの前期墳墓w。
https://yahoo.jp/Vb3hX8
>前にも言ったが参道を歩いてると急に盛り上がる部分がある。
>そこから計測して何が悪い。
その検証画像
https://i.imgur.com/XqaI9PY.jpg
青い点が蜘蛛窟のところ
赤い点が左側スロープ君の言う道の傾斜が変わるところだよ
3Dを傾けると分かりやすい
https://i.imgur.com/8cHUHKW.jpg
前スレ>858の左側スロープ君の捨て台詞
>まぁ俺は今日の夜、お前を完全に打ちのめしてやるから覚悟しろw
お待ちしてますよ
どうやって、完全に打ちのめしてくれるのやらwwwww >>395
その理屈で行くと、卑弥呼の宮殿跡にも前方後円墳を造ってその痕跡を消した、というこつ?
じゃあ、邪馬台国がどこにあったかなんて、もう永久に判らないじゃん! >>396=>>397=キウス
丸わかりだけど念のため >>351
>橿考は邪馬台国の研究機関ではありません
纒向と邪馬台国は関係ないと発表させろよ。 巻向
ほんまかいなそうかいな
巻向
ほんまかいなそうかいな
箸墓
ほんまかいなそうかいな
葛城でんな
葛城でんな
石野も寺澤も葛城には手を出せないのは地方公務委員上がりだから領域を理解してる
畿内説の関西の大学教授も酷い
巻向の花火をを石野や寺澤のせいにした
桜井市は犠牲者だよ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>387
>ずっと前からFAQに記紀の人物を当てはめないと書いてあるんだから
三輪山伝説を持ち出しておいてよく言うよ。
二枚舌。 >>399
もちろん。
邪馬台国の跡地(卑弥呼の宮殿跡&冢)に、自らの権力を示す前方後円墳を造らせてしまえば、大和朝廷(天皇家)にとって一石二鳥だからなw
何万人も動員して築いた巨大な墳丘は、同じ人数を動員しないと崩せないし、崩したとしても大量の土と葺石て、その地下に何があったかなんて判らないw
しかも周濠で立ち入れないように念には念を入れている。もう邪馬台国の跡地は大和朝廷の天皇陵の地下に埋められしまっており、永久に見ることができないのである。
つまりそれだけ入念に大和朝廷は邪馬台国の跡地を消しているわけで、大和説が正しいことは疑う余地がない。 >>398
>http://i.imgur.com/XqaI9PY.jpg
立派な円丘だが?
すぐ横に奴婢埋葬痕跡もあるし。
全然ない箸墓と大違い。
それより第一段階としてトヨについて答えてもらおうか。
和邇氏の祖・考昭天皇の母でいいのかな? 三輪山伝説は邪馬台国と関係づける
アホは畿内説を語るな ガンダムの話なのかな、何なんだろう
どのスレだったかな、
そのような話ばかりしている人がいたような? >>405
ほんとそれ。
都合の良い時だけ記紀を引用。 >>407
>立派な円丘だが
高さは何メートル?
バカですか? >>406
巨大古墳が@邪馬台国の痕跡を消すA大和朝廷の権力を示すためのものだったとゎ…にわかには信じがたい。
でもそうなら証拠は大和朝廷の大王墓に隠されちゃって、邪馬台国論争自体が無意味になるよね? >>405
>>ずっと前からFAQに記紀の人物を当てはめないと書いてあるんだから
>三輪山伝説を持ち出しておいてよく言うよ。
>二枚舌。
記紀の人物を当てはめてないよなぁ
つまり舌は一枚だ
葛城おっさんより少ない >>411
>高さは何メートル?
尾根伝いの墳墓のどこから測れというのかな?
バカですか? >>412
大和朝廷はそれほど非情な権力者だったからこそ、今まで続いているのである。
これが邪馬台国の痕跡を残してしまうような権力者だったら、とっくの昔に別の王家に乗っ取られて滅びていただろう。 >>413
だからトヨは和邇氏の祖トヨ津媛で」いいのかな?
走り高跳びで例えれば1m30をクリアしようねw
それから高天彦神社の円丘について答えようや。
1m30をクリアできないおまえが2mの飛び方を云々言ってるわけだ。 >>414
高さのない墳丘って・・・
バカですか? >>418
等高線見れば高さがあるのはわかるよね。
それよりトヨは和邇氏の祖トヨ津媛でいいのかな? 王都は京都
河内から日本海に及ぶ京都
奈良は墓地 狗奴国は紀伊半島か沿岸沿いの伊勢、知多半島 ガンダムの話なのかな、何なんだろう
どのスレだったかな、
そのような話ばかりしている人がいたような? >>414
>尾根伝いの墳墓のどこから測れというのかな?
おいおい
これ、自分で書いてたんじゃないのか?
>前期古墳はこ゚の雷塚古墳のように尾根の上にあるため、
>どこからが古墳なのか難しい。
>http://inoues.net/club/new_katano10.jpg
墳丘なら、ちゃんと高さがあるぞ >>419
何メートルある?
誤魔化さないで言ってみろ >>422
だからちゃんと高さがあるではないか、どこを見てるの。
それよりトヨ津媛がトヨでいい?
ならば邪馬台国は葛城であって纏向説なんて終わりなのだが。 >>415
別に悪く無いですよ
引用例は良いですよ
BUT
引用例は外向けのアピールだから
引用例を出すときはある程度の賛同者を想定すべきでと思います
間違ってますか >>423
等高線があるから図れ。
で、トヨは無視かい、この下人。 >>139
三角縁神獣鏡の銘文
京都産業大学の森博達教授の三角縁神獣鏡の銘文についての研究を紹介する。
そもそも魏の時代は、曹操父子を中心として詩壇が形成され、「建安詩」「正始詩」の時代として
文学史上高く評価されている。詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。
卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、まさにこのような詩文隆盛の時代である。
そのとき明帝(曹操の孫)は卑弥呼に銅鏡百枚などを賜わり、次のように詔した。
「これらすべ てを汝の国内の者たちに示し、わが国家が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ。
それゆえに鄭重に汝に良き物を賜与するのである」
この荘重な詔書とともに、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が下賜されたと、魏鏡論者は主張する。
魏の 詩人がこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑うだろう。
「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。
親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。
こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはずがない。
三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm もう邪馬台国の重要な痕跡はすべて大和朝廷の巨大古墳の地下に埋められてるんだから、おまいらが下っ端の墓をいくら議論したところで、時間の無駄だよ。 炙り出されるとしばらくは&コテトリで書き込むが
すぐに名無しに戻って自演を始めるのがキウスのデフォ 三角縁神獣鏡ですが
大和説の根拠にならないと思います
奈良を中心として▲があると言いますが
京都でも兵庫,大阪が中心点でも良いと思います
京都周辺(近江、出雲・・)なら鉄も絹も丹山もあります >>407で>>398に答えたつもりか?wwww
>立派な円丘だが?
これで答えたつもり?
やはり「左側スロープ」君は、常人には見えないものが見えるんだなww
150メートルの測定起点に関しては、頬被りで逃げる気満々だなwwwww
それでいつ「完全に打ちのめしてくれる」んだい?
またおもちゃが踊ってくれるかと、楽しみにしてるんだが?ww キウス ◆PyuQX798ps
あんたの投馬国や狗奴国の比定地を述べろ www 今月中旬には白石太一郎先生の「古墳の被葬者を推理する」って本が出版されるから各自図書館に注文しとくようにな
もちろん箸墓古墳も対象だぞ キウス ◆PyuQX798ps
南は南なんだよボケーー >>425
よくつぶやいてるキナイコシがキウスだったの? >>429さん
スイマセン過去もスレ主に指摘受けてます >>437
あなたがそう思うならそれでいいでしょう
私は彼とは違いますと主張しておきます
巻向や箸墓は対吉野ヶ里の産物と思いますから 纒向の発掘は70年代
吉野ヶ里の発掘は?
笠井新也の論文は? >>426
だから、何メートルある?
答えられないの? >>434さん
・・
キウス ◆PyuQX798ps
あんたの投馬国や狗奴国の比定地を述べろ www
・・
投馬国は宮崎周辺です
狗奴国は関ケ原(伊吹山)が分岐点で濃尾から北勢だと思います
北陸は倭種の別国の範疇です >>444
まず等高線をおまえが見ればいい。
わしが現地でもこっとした部分の感じは5mほどかな。
それより1m30cmの走り高跳びの話をしようか。
トヨはトヨ津媛で良いのか?
早く答えろ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある
同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある
また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
これが平安時代の朝廷の認識
天でも日でもないということ
魏志倭人伝で言うなら、狗奴国の勢力が600年の内乱を経て倭国大乱前の有り様を取り返したと言えるだろう。
記紀なら神武東征による被害者である畿内の在地の勢力が、600年の内乱を経て平安を取り戻したと言える。 >>446
>わしが現地でもこっとした部分の感じは5mほどかな。
本当にダメ人格だな、左側スロープ君は
前スレ>819で「前にも言ったが参道を歩いてると急に盛り上がる部分がある。 」って
言ってたのと整合性がないぞ
そしてその道の急に盛り上がる部分も>>398の3Dの図で特定してある
逃げっぱなしで恥ずかしくないのかい?
それでいつ「完全に打ちのめしてくれる」んだい? >>449
>キウスは畿内説分派だなww
キウスは九州説で、日本sageだけが目的のダメ人間だよ >>451
>前スレ>819で「前にも言ったが参道を歩いてると急に盛り上がる部分がある。 」って
言ってたのと整合性がないぞ
急に盛り上がる部分から頂上まで5mだが、なにが整合性ないの?
あとトヨの話しからずっと逃げてるのはお前。 >>454
横綱に向かって「寝技でオレと勝負しろー」と叫びながら
土俵に駆け上ろうとするクレーじいさん発見 天王、天皇の出自から・・・アプローチすると京都
邪馬台国は人権問題だと思います
朝鮮差別、被差別部落・・・・・・・・・・・・・・・ 天王、天皇の出自から・・・アプローチすると京都
邪馬台国は人権問題だと思います
朝鮮差別、被差別部落・・・・・・・・・・・・・・・ >>454
記紀の登場人物あてはめゴッコにはまーたく興味ナシ 395の>>120
「南→東」などに嘘つき騙しの、なんにも出来ない大和説がナニいってるんだ?。
身の程を知れ。 >>460
ザラコクの間違いを正しく指摘することができる 395の>>122
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、自分の頭では何もしない。
嘘吐き騙しらの大和説学者らが発表した説明をうのみにして隷従して、
「こんな(珍)解釈すれば大和有利」
とゴネるだけ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 395の>>123
現実の史料事実や史料実態から取り残された、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説ってミジメ 。 >>459
>記紀の登場人物あてはめゴッコ
ここは日本史板だ、それがいやなら考古学板にスレ立てろボケナス。
崇神の数十年前のトヨ一人答えられないで邪馬台国は纏向などと偉そうにぬかすな。 395の>>125
>魏が銅鏡を下賜するに当たって
それまでの形式で作った方が手間はかからなかったろうな
それがわざわざ新デザインで作ってあげたんだろう
文はそれまでのは中国内向けだからちょっと砕けた感じにしたんだろうけど<
明帝らは、当然、「尚方作」鏡や、民間から買い上げてあった立派な鏡を、
卑弥呼に贈ったの。 キウス想定はこれだろうが
ブーーー
「椿井大塚山古墳」は前方後円墳 年代も違う >>468
ここは学問板の日本史板だよ
記紀の登場人物あてはめゴッコは場違いだ 395の>>126
つまり「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師の大和説者の言ってることは、
理由は無いが、オレ様の認めないことは存在しない
というだけだな、。
じつに大和説らしい ... >>470
だから、「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 395の>>135
大和説め
大和は中国に朝貢した事など無い
戦前戦中の天皇中心の皇国史観を広める積もりだな
と書けば、
大和説に対する最高の嫌がらせになる >>472
他人の発言をまるまるコピペして
主語だけ書き換えるザラコクのやりかたは
コピペ荒らしそのものだな >>461
キウスは
アンチ九州説 アンチ大和説かい
よそでやれよ
相手にされんぞ >>443
年代も重要だが
畿内に吉野ケ里級の遺跡が見つかって無いのも気になる >>354
畿内説スレが荒らされてれば
九州説が追い詰められてる感が出るだけだろ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>471
>記紀の登場人物あてはめゴッコは場違いだ
その言葉を和邇氏の系譜に卑弥呼がいるという和田萃さんに言えるのか。 鴨先生だめだって
歴史の意味わかってない板違いの考古バカだからさ。愉快犯っていったでしょ >>468
>崇神の数十年前のトヨ一人答えられないで
この時点で間違っているのにどうしろとww おいおい
ここは畿内説のスレなんだよな
テンプレもクチャクチャじゃん
5ちゃんだからいいけど::畿内説本拾い集めすぎ自己主張無し(畿内説本でも千差万別の意見だろ〉
畿内説のスレと語るにはお粗末 >>482
>この時点で間違っているのにどうしろとww
どこが間違えてるの?
寝るのではっきり書いておけ。 桜井市教委および纒向学研究センターの公表
「公表」って何????????
事実を告げるだけだけでいいよ。
公費が入ってるから定期的な調査報告は求められるだろうが
あたかも邪馬台国と結びつけるニュアンス公表は✖ >>454
>急に盛り上がる部分から頂上まで5mだが、なにが整合性ないの?
本当にダメ人間だなww
https://i.imgur.com/XqaI9PY.jpg
この図の赤い点が左側スロープ君の急に盛り上がる部分だってのはいいかい?
そこから一番高いところまで「等高線を2本またぐ」のは見て分かるだろ?
国土地理院の地理院地図で確認してもらえば分かるがこの縮尺では
「等高線の間隔は標高差10メートル」なんだよ
つまり20メートルくらい登ることになる
自分で何度も「等高線を見れば分かるだろ」と言っておきながら、自分でまったく分かってないし
根拠のない適当なデタラメを言い続けているのがまた明らかになった訳だ
ねえ、ここまでバカをさらして恥ずかしくないの? 左側スロープ君は、恥の上塗りをしただけで、まったく
「完全に打ちのめしてくれ」なかったねぇ
まあ、能力的に限界なんだろうなww >>486
なんの話だかわからない投稿をする男の知性が疑われるのは当然の結果 突然話を戻してイイデスカー
蜘蛛窟って土蜘蛛の巣穴って伝承なんだよね?
それがどうして奴婢を殉葬した説に変わってるの? >>485
>どこが間違えてるの?
卑弥呼の遣使が239年、卑弥呼の没年が248年頃
纒向遺跡の編年が、辻地区祭祀土坑出土の桃核の14C年代測定法で西暦135〜230年
記紀記載の宮居が、崇神・磯城瑞籬宮、垂仁・纏向珠城宮、景行・纏向日代宮
この三代が纒向遺跡の王だろう
崇神天皇より6代前の懿徳天皇の皇后では年代が合わないんだよ 元々葛城にいたのは土蜘蛛だろ?
今でも大切に伝承を残しているのは、葛城の人々の先祖だからじゃないのかな
何で土蜘蛛の土地に卑弥呼がいるんだ? part395の871に書かれているが、森将軍塚古墳は後円部と前方部がほぼ同時に完成し、そこで初めて後円部上で祭祀が行われたということだから、テンプレが力説するような後円部先造前方部後回し説がトンデモ説であることが確定した。
前方後円墳は前方後円一体の墳墓だというごく普通の常識に、テンプレは箸墓円墳邪馬台国大和説のために捏造で挑戦して見せたが、あえなく沈没した。
そして、大和説はことごとくこのような捏造捏ね上げによって成り立っていることをうかがわせる顛末となった。
前方部先造説が大和説の墓穴となったというのは、まさにこうしたことを指している。
ようするに、大和説の底が割れてしまったのだな。
もう、何を言っても無駄。
大和説者は、はやく泣きながら寝るように。 >>491
>蜘蛛窟って土蜘蛛の巣穴って伝承なんだよね?
>それがどうして奴婢を殉葬した説に変わってるの?
左側スロープ君の言い分では、
神武皇后の媛蹈鞴五十鈴媛が卑弥呼で夫の神武は当然同時代
それで、神武天皇の東征説話には「土蜘蛛」討伐があるから、
これが卑弥呼の殉葬奴婢に違いないって決めつけてるんだよ
高天彦神社近くの蜘蛛窟は、神武天皇とは無縁なんだけどねぇ >>486
そんなもんよ纏向は県も国も手を引いたからな
何が起こったかわからん
公表は「桜井市教委と纒向学研究センター」と連盟にする必要も無い
なんか可笑しいよ
「橿原考古学研究所」も手に負えてないと思う。橿原考古学研究所も研究員を送ってるのに
公表に「橿原考古学研究所」が出て来ない
終った感がある 纏向 >>495
んでも高天彦神社の近くにあるのは土蜘蛛の巣穴って伝承であって、墓じゃないよね?
スロープくんが勝手に墓にしちゃったってこと? >>497
纏向から県も国も手を引いたって証拠は? >>494
>part395の871に書かれているが、
Part395の814に
「森将軍塚古墳は、後円部墳丘が造られた後に、前方部墳丘が造られた前方後円墳である。
またその接続にあたっては、後円部葺石に前方部葺石をすりつけて一体の墳丘を形づくっており、
後円部裾から前方部墳項へ続く石垣は、墳丘内に埋まっていたと考えられる。」
(森将軍塚発掘調査団 調査主任 矢島宏雄)
とあるのは無視かい? >>497
誰が何を公表したって話なのか
まったく見えない投稿を
ずっとしてるこの男の
脳の構造には
あきらかに
断線が
ある >>498
>んでも高天彦神社の近くにあるのは土蜘蛛の巣穴って伝承であって、墓じゃないよね?
そうだよ
>スロープくんが勝手に墓にしちゃったってこと?
ただ、後世になってその辺を墓地にしてたってことはあるらしい(未確認)
墓所(時代は気にしない)と、土蜘蛛というキーワードだけで、
土蜘蛛なら神武、神武は卑弥呼の旦那(根拠なしの決めつけ)という
連想ゲームで、ここが殉葬奴婢100人の墓ってことになるらしいよ
左側スロープ君の脳内ではねww 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 よそでやれ
前方後円墳の前方部が先か後円部が先かは
なんならオラがスレ建てたろか
邪馬台国と関係ねーじゃん >>500
この814の記述の前半は、先に書き出した更植市教育委員会の調査既報の記述とおんなじ。
後の石垣については、やはり先に書き出した荒井研究所の荒井仁氏の論文にも書かれており、この石垣は墳丘築造に際して盛り土の安定のための措置と書かれている。
つまり、ワイはこの矢島氏の報告そのものには何も触れていないが、その内容はワイが書き出したものと相応しており、矢島氏の論を無視しているわけではない。
むしろ、矢島氏のこの記述には書かれていないことも書き出しているので、この3行の記述では分からないことも分かるような補完になっているつもりだけどな。 邪馬台国を乗っ取った大和朝廷により、卑弥呼の冢は箸墓の、台与の冢は西殿塚の地下に埋め立てられてしまった。
ちょうど徳川が豊臣大坂城を埋め立てて、その痕跡を消し、現在我々が見ている巨大な大阪城を築いたように。
だから、箸墓を卑弥呼の墓、西殿塚を台与の墓と言うのは、現在の大阪城を豊臣秀吉の大坂城と言うのと同じで、時代錯誤であり、完全な誤認であり、誤解。
これら三者は現在我々が見ている上物を取り除かない限り、残念ながらもう永久に見ることはできないのである。 >>509
「またその接続にあたっては、後円部葺石に前方部葺石をすりつけて一体の墳丘を形づくっており、
後円部裾から前方部墳項へ続く石垣は、墳丘内に埋まっていたと考えられる。」
だから
「この石垣は墳丘築造に際して盛り土の安定のための措置と書かれている。 」
というのはウソ
盛り土の安定のための措置で「後円部裾から前方部墳項へ続く石垣」なんて作らない
違うというなら
「後円部裾から前方部墳項へ続く石垣」が
「墳丘築造に際して盛り土の安定のための措置」と
書かれている文章を見せてごらん >>509
完全否定はふつう補完と言わない件について 395の>>161
>鈕孔が長方形 鏡背の乳突起 これらは魏鏡に特有の特徴<
福永の 「鈕孔長方形」論は、
www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai5/sankakuf.html
に拠って、否定されている。 よそでやれ
前方後円墳の前方部が先か後円部が先かは
なんならオラがスレ建てたろか
邪馬台国と関係ねーじゃん 395の>>166
>三角縁神獣鏡は使われてる銅が呉の滅亡以降に中国大陸で広まってるから
どう考えても三世紀末からら四世紀のもので魏とは関係ない <
ふーん、成程。 395の>>168
>>(△)中国では出所不明の鏡以外一枚も発見されてない <
>それ「三角縁」神獣鏡に限定するからそう見えるだけ
「斜縁」神獣鏡は普通に出てる
そして日本で三角縁神獣鏡と一括している鏡のうち、
鏡式編年で最初期のものは実は「斜縁」神獣鏡<
△と「斜縁」とは、発注者や鏡師グループが別であった、と考えるべき。 395の>>169
>景初とか正始とか魏の年号が入ってるんですが<
年号を入れる事自体が、余り普通ではないんだから、
作者は、「魏の年号」を入れなければならない、という特殊な事情や理由があったんだろう、
という事になる。
それが、呉系の楽浪鏡師らの渡来、という事に繋がる。 朝からザラコク横車
あいかわらず理由はなんにも無し 395の>>170
>>・下賜品として生産した割に規格に全く統一性がない <
>大陸の鏡には同汎鏡がほとんどない 基本的に一つずつ鋳型を作るもの
三角縁、鋸歯文、神獣画像というモチーフまで一致していれば 同一「企画」だろう <
それは無理。
www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai5/sankakuf.html
でも述べられているように、
基本的には、「紀銘文内容と画像」の一致が原則であり、
△は、殆どが「紀銘文内容と画像」が違っており、
「同汎鏡?」は、僅かであり、逆にそれが列島の△は魏鏡ではない、
という事の証拠になる。 ザラコクの情報源って古田史学の会しかないのなw
そりゃあ偏った知識ばかりで基本認識のおかしいカルト爺しかできあがらない訳だわ 分かる様に書いたら?
理解してないから書けんのかもしれんが >>517
>作者は、「魏の年号」を入れなければならない、という特殊な事情や理由があったんだろう、
一番普通に考えて、その理由は「魏の領民だから」 >>520
他の人には見えないスロープや墳丘が見える人よりは、ほんの若干マシかも知れないが >>510
ワロタw
豊臣大坂城って現在の大阪城の数メートル下に埋まってるんだっけ?? ザラコクはスロープに興味ない
俺も興味ない
前方後円墳の作り方教室に関わりたくない 前方後円墳そのものが邪馬台国と関係ないだろ。
時代錯誤なんだよ。 395の>>178
>繰り返しますが「明帝詔」とはどこにも書かれていませんよ。
こちらは「景初三年」という主張なので、『景初二年の天子は明帝。』 なんてのは当然の事で、だから何?って話ですね。
書かれていないことを、主張するのが嘘や詐欺なのではないですか?<
明帝が、景初二年大晦日から景初三年元旦にかけて亡くなったんだから、
景初二年12月の詔書は、明帝にしかならず、
それを否定するキミのような人間は、「口先での嘘吐き詐欺師」なのであり、
人間の屑なのではありませんか?。
>嘘を付くな詐欺師。
>「司馬宣王之平公孫氏也。」が見えないの?「二年」てのは、これのこと。
しかも司馬懿が公孫淵を破ったのは八月。 「倭女王〜」は「二年」とは限らないでしょ。
しかも六月だし。雑な引用なんだし。<
晋書は、はるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」の多い唐代史書であるから、
「ついうっかり」記載以外は、信頼性がなく、根拠にならない。 395の>>178
>《通典》は君がいつも否定抹殺している後世の書き換え文献の一つではないの?<
晋書以来の唐代史書の「自己解釈に拠る書き換え」という事が流行していたにも拘わらず、
魏志の記載通りについうっかり、
「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」と記載した、
とという事が、信頼性があるの。
>魏志の引用については一番量が多いのが《通史》。 さらに言えば「景初三年」「正始元年」「正始四年」を揃えているのは日本書記だけ。<
唐代以後の後代史書は、原則として、3世紀の魏志倭人伝の直接的な証拠にならない。
>>明帝の詔書の史料実態は、叙勲や慶賀だ。<
>仮に慶祝であったとしても、君の説ですと「二年十二月」に叙勲は終わっているのですよ。
一年放置する理由には全くならないようですね。<
叙勲が終わった瞬間から、卑弥呼や難升米らは魏の臣下であり、
当然業務の打ち合わせがあり、その間に明帝が亡くなってしまったら、卑弥呼や難升米らも、喪に服さなければならない。
>司馬懿の遼東への出発は「景初二年春正月」。 作戦の連動性を考えれば、劉マの帯方への出発も同時期。
到着まで数ヶ月かかるから、「景初二年六月」に劉マの後任の劉夏が帯方郡に居るなんてことはあり得ないわけです。
「景初三年六月」が正しいのです。<
劉マらは戦争が主任務であって、
終わった後は、行政が主任務であった劉夏が着任していても、何らおかしくもない。 >>527
>前方後円墳そのものが邪馬台国と関係ないだろ。
>時代錯誤なんだよ。
ということにしたいんだねw
でも、卑弥呼の時代は既に古墳時代に踏み込んでいるんだよ
そして弥生時代終末期と古墳時代草創期は古墳を作るかどうか以外の差異はない
前方後円墳の分布中心が邪馬台国の所在地なのは疑問を差し挟む余地もない >>529
>景初二年12月の詔書は、明帝にしかならず、
ちゃんと考えている人は
「景初三年12月の詔書」が正しいと考えているよww >>513
>福永の 「鈕孔長方形」論は、
>www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai5/sankakuf.html
>に拠って、否定されている。
読んでみたけどさ、「3枚」の三角縁神獣鏡を見た結果、古田氏が違うと判断したってだけじゃん
その判断の内容もすべて古田氏の想像だし、いつものことながらチェリーピッキングによる
思い込み以上のものはないな >>530
>劉マらは戦争が主任務であって、
それ、誰が決めたの? >>526
>俺も興味ない
自分は興味がない、という理由で他人がやってることを禁止できると思ってる人って、どんな人生を送ってきたんだろうね >>531
Wikipedia「箸墓古墳」より、
橿原考古学研究所が箸墓の築造年代を西暦280年〜320年としていることについて、ご意見をどうぞ! >>536
纒向型前方後円墳が作られ始めた頃から古墳時代とするのが大勢になってるよ?
何か問題でもあるかな? >>536
>橿原考古学研究所が箸墓の築造年代を西暦280年〜320年としていることについて、ご意見をどうぞ!
出所不明情報は基本的に信用する必要がない 古田さんもう亡くなってるからもう新しい情報には対応出来ないのだろうな 怪しげなネット情報を
見境なくツルッと信じる
九州説の脇の甘さがよく出てる ウィキは短里の可能性が高いとか九州説の人が熱心に編集してるのが分かる >>543
理由も言わず「どう見ても」
それが九州説 >>536
ウィキペディアには、土器の年代が、と書いてあって築造年代とは異なるという反論も書いてあるぞ。
「墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていたが、陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、
奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が多量に出土した。」
「これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している。」
「しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から
発見された土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、
この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているので
それが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、仮に3世紀後半であったとしても卑弥呼の没年より新しいことになる。さらに魏志倭人伝では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕から馬具が出土していることも矛盾点である。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3 卑弥呼の崩御により、西日本全域のパワーバランスに変動を生じたのだよ。
それは九州に始まり、畿内に及んだ。 >>545
だから、これ
>「これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している。」
情報の出所がまったく書いてない記事は信用してはダメ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 つまり、纏向遺蹟は、邪馬台国とは無関係だったのだね。。。。 九州説の狂った爺さんはどんな嘘でも平気でつくと
このスレにいる人はよく知ってる筈だよな >>547
だから、その「これ」は土器なんだろ?
築造でなく、出土土器の付着物に関することだと書いたつもりだったんだが、何か? 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳は大きすぎて、人民の少ない纏向では、馬がいないと製作できません。
箸墓古墳には、石や土を製作中の古墳の上に運んだ馬が通行した、スロープの痕があります。
朝鮮半島で高句麗の馬と馬主を捕獲した倭国と日本国が取引をして、馬と馬主を連れてきました。
倭国が新羅を降伏させて、高句麗の馬と馬主を捕獲したのは、4世紀後半です。
だから、箸墓古墳は4世紀後半に作製されました。。。
3つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
4つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。 5つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。
6つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
7つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
8つ目の理由
畿内説の宣伝係には、インターネットの掲示板での、悪質な荒らし行為を実行する人が多いです。
根拠が必要な討論では、敗北したからです。
だから、悪質な荒らし行為を実行する畿内説が、破綻しました、、 >>487
>「等高線の間隔は標高差10メートル」なんだよ
つまり20メートルくらい登ることになる
そんなにあったの、忘れてた。wでも君が改めて塚だと証明してくれたわけだありがとう。w
>>489
>「完全に打ちのめしてくれ」なかったねぇ
君はトヨについて答えれない。つまり打ちのめされてるのにそれが分からないパンチドランカーなんだよw >>491
>蜘蛛窟って土蜘蛛の巣穴って伝承なんだよね?
>それがどうして奴婢を殉葬した説に変わってるの?
神武が制した高尾張邑の伝承なんだよ。
書き方を変えて別人を装っても>>1君とバレバレだよw >>492
>纒向遺跡の編年が、辻地区祭祀土坑出土の桃核の14C年代測定法で西暦135〜230年
記紀記載の宮居が、崇神・磯城瑞籬宮、垂仁・纏向珠城宮、景行・纏向日代宮
この三代が纒向遺跡の王だろう
あのなぁ。ならば景行が3世紀前半に収まるというわけか?こんなポン助初めてだw
15代応神が金石文の出た百済王系譜との兼ね合いや誉田御廟山の須恵器の編年から390年元年が妥当。そしてお母さんの神功皇后が五社神古墳である蓋然性や、また凱旋する神功皇后軍を迎え撃とうと戦ったカゴ坂皇子ゆかりの神戸五色塚古墳から考えて4世紀後半。
そして仲哀が河内平野最初の大王墓・津堂城山古墳で4世紀後半。
そこから2代遡る景行が3世紀前半になるわけなどない。
だから【常識人」の大よその考察では崇神が4世紀前半、古事記の没年干支を信じて318年没。
ここまで酷いバカははじめてだw
アホの>>1 アホのぉ>>1 >>493
>何で土蜘蛛の土地に卑弥呼がいるんだ?
また書き方を変えて別人を装ってるのだね>>1君w
BC3世紀ころ、出雲から畿内や中部に神々が拡散している。拡散した理由は海の向こうに「秦」という想像を絶する大国が出来たその恐怖心であろう。
それは加茂岩倉と兄弟銅鐸である松帆銅鐸の時代がBC2〜BC4という事でも分る。
奈良では上牧に加茂岩倉と兄弟銅鐸がでる。
何で土蜘蛛の土地に卑弥呼がいるんだという答えはヒミコはその出雲系だから。
事代主神の娘ヒメである。後に踏鞴と五十鈴を付け加えられ姫蹈鞴五十鈴媛という長ったらしい名前で呼ばれ、
女王にも関わらず皇后に格下げされてしまう。 >>498
>>502
自作自演丸出し、みっともねぇwww
>土蜘蛛なら神武、神武は卑弥呼の旦那(根拠なしの決めつけ)という
連想ゲームで、ここが殉葬奴婢100人の墓ってことになるらしいよ
根拠なしの決め付けでなくて中平銘鉄刀の保持者和邇氏の系譜が根拠だよ。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
おまえはトヨが誰なのかいまだに答えてない。
スルーすること15回くらいかwww >>552
いや、そもそも橿考研は
2002年に箸墓の築造を260〜280とした報告書を出して以降
年代について何も発表していないんでは? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>560
>おまえはトヨが誰なのかいまだに答えてない。
ずっと前から宣言出てる
記紀の人に当てはめないってさ 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、同士討ちに敗北し、立ち小便男に降参したのではないのかな。。。
564日本@名無史さん2018/11/07(水) 09:12:39.99
>>560
>おまえはトヨが誰なのかいまだに答えてない。
ずっと前から宣言出てる
記紀の人に当てはめないってさ >>564
え?
>纒向遺跡の編年が、辻地区祭祀土坑出土の桃核の14C年代測定法で西暦135〜230年
記紀記載の宮居が、崇神・磯城瑞籬宮、垂仁・纏向珠城宮、景行・纏向日代宮
この三代が纒向遺跡の王だろう
記紀の人物に当てはめてこんなアホな事言ってるのに? >>565
そうだね、、、
邪馬台国が、前方後円墳を作製した天皇の一族だという意見が、証明できないのでは、宣伝が失敗したことになるな。。。 >>567
破綻した畿内説の宣伝係は、邪馬台国と天皇の一族を、関係がないと考えている可能性も、高いのではないのかな。。。 >>568
破綻した畿内説の宣伝係は、前方後円墳を作製した者達が、天皇の一族ではなく、別の闇の勢力だと考えているのではないのかな。。。 395の>>180
>テンプレの「推定」は「きちんとした根拠をもとにしたもの」で
断定はできないから推定としているもの<
スレ主は、は、始めから「南≠東」の直接的議論から逃げて、
大和説に都合の悪い史料実態を隠蔽曲解して、
史料の言葉尻や断片を繋ぎ合わせて、大和説を唱えた・・・・詐欺師。
>その根拠を否定できないから、九州説の人はこのテンプレを目の敵にしてるw<
人間ではなく・・・・詐欺師と判ったから、
目の敵になどしないで、原則として黙殺放置している。
おそらく国民の7割も黙殺している。
大和説者の推定(笑)は、根拠なしの憶測か妄想さらには捏造まであるw。 395の>>187
>里程の書かれてる不彌国までで1万7百里
残り1300里を魏里の1里430mで計算すれば約500km
余裕で畿内に届く
まあ畿内説は里程は参考程度だからお遊びだけど<
「南≠東」などに拠って×。 395の>>200
>最初から邪馬台国七万戸の範囲は「大和+河内〜環大阪湾」の
畿内第V様式土器の出る範囲<
邪馬台国も畿内も存在しないし、
最初から「南≠東」などの嘘つき騙しに拠って、×。
>狗奴国は「S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。」とテンプレにも明記してあるだろ?
狗奴国の存在を消してるってどんな妄想だ?ww<
倭人伝では、狗奴國も「南だ」と書いてあるだろ。
狗奴国の位置を曲解するってどんな妄想だ?ww。 >>566
はて
倭人伝の登場に当てはめた形跡は
とんと見当たらないが? 395の>>205
>畿内の範囲に狗奴国があったら
庄内式の土器を使い首長クラスは前方後円墳に葬られていたという事になるな<
畿内なんて存在もしないし、「南≠東」まどに拠っても×。 >>578
倭人伝の登場に当てはめた形跡は置いといて、
記紀の登場人物がいつ頃なのか、それでその論者の年代感が分る。
景行が3世紀前半までに収まるという>>1はトンデモない年代観だったw
まぁおまえだけどなw 395の>>208
>ヤマトの地も2世紀末まで狗奴国の版図 <
「南≠東」などに拠って、×。 一晩で凄い進んでるから何かと思ったらキチガイ九州説が荒らしてたのか
九州説は畿内スレを荒らすと九州に邪馬台国が出てくると思い込んでる異常者の集まりだからな
理解を絶する異常者だと分かる 395の214
>畿内説では狗奴国を前方後方墳の中部地方に比定する人が多いんでないかい<
「南≠東」などに拠って、×。 >>556
>そんなにあったの、忘れてた。wでも君が改めて塚だと証明してくれたわけだありがとう。w
あのさぁ、自分が何一つ把握できていないことをさらされて、恥ずかしくないの?
それにこの20メートルの比高差は、「塚であることを示し」ているものではなく、
道が「谷寄りのところから尾根に上る比高差」
前スレの>826できちんと説明してあるぞ
「左側スロープ君が言ってる道は、尾根筋にまっすぐに入ってなくて
途中から尾根筋に上がるんだが、そこで「道の」傾斜が変わってる
それを墳丘の端だと判断してるんだろう
道の付け方次第でいくらでも墳丘サイズが変わるなww 」
返事をせずにスレを流せばごまかせると思ってるかもしれないが、
記憶のきちんとした人とのやり取りではそういうズルは通らない 395の>>216
>西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。
首都が筑紫から宗教色の強い大和に移った。<
「南≠東」などに拠って、×。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 395の>>223
>中立公平なNHKがそう言ってるなら相当有力なんだろな<
キョクウ戦争狂の安部自民や文部省が支配するNHKじゃ、
相当悪質な嘘つきなんだろうなあ。 >>555
>君はトヨについて答えれない。つまり打ちのめされてるのにそれが分からないパンチドランカーなんだよw
あのさぁ、欠史八代の人物で何の事績も記されていなくて、想像だけで何でも言える人を
「立天『豐』津媛命爲皇后」の一文字だけでトヨだと言い張るトンデモに付き合う人がいないってだけだろ?
そんなんでよければ倭國『豐』秋狹太媛でもいい訳だ
それに懿コ皇后は賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命であって、トヨにはかすりもしない テンプレートを貼り付けている小汚い老人は、この意見の発表を実行したので失敗したのではないのかな。。。
492日本@名無史さん2018/11/06(火) 23:35:06.51
>>485
>どこが間違えてるの?
卑弥呼の遣使が239年、卑弥呼の没年が248年頃
纒向遺跡の編年が、辻地区祭祀土坑出土の桃核の14C年代測定法で西暦135〜230年
記紀記載の宮居が、崇神・磯城瑞籬宮、垂仁・纏向珠城宮、景行・纏向日代宮
この三代が纒向遺跡の王だろう
崇神天皇より6代前の懿徳天皇の皇后では年代が合わないんだよ >>590
全一病が何人もいるのか
それとも同じ人なのか
w >>590
そうだね、、、
箸墓古墳を作製した崇神天皇が、西暦135〜230年の間の最初の頃だったので、卑弥呼とは関係性が無くなってしまったな。。。 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシは、焦ったり論破されたりすると、すぐに癖を出して、それを公表してしまうな。。。
591日本@名無史さん2018/11/07(水) 10:14:34.08
>>590
全一病が何人もいるのか
それとも同じ人なのか
w >>580
>景行が3世紀前半までに収まるという>>1はトンデモない年代観だったw
崇神、垂仁、景行が纏向の王とは言ったが、景行が3世紀前半までに収まるとは誰も言ってないな
例えば箸中ビハクビ古墳は、概ね4世紀末頃と推定されている
志賀高穴穂宮に移るまでは、纏向にいたというだけ >>589の修正
それに懿コ皇后は「古事記では」賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命であって、トヨにはかすりもしない >>592
破綻した畿内説の宣伝係は、崇神天皇が、4世紀後半の乗馬時代の人物だということを、隠そうとして、辻地区祭祀土坑出土の桃核の14C年代測定法という時代の捏造を、古くしすぎてしまったのではないのかな。。。 >>592
>箸墓古墳を作製した崇神天皇が、西暦135〜230年の間の最初の頃だったので、卑弥呼とは関係性が無くなってしまったな。。。
連続句読点に絡んでも意味がないんだが、ちょっと解説
西暦135〜230年の間というのは、庄内期の辻地区建物跡近くの祭祀土坑から出土した
桃核の14C年代推定値
2世紀後半から纏向遺跡がしっかり存在したことを示している
でも、この建物は庄内期で廃絶されていて、卑弥呼の時期にかかる宮室は別の場所が
推定値とされている
「日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から」橋本輝彦
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2741/1/BA89557434pp81-102.pdf
の13ページ目の「図2 布留式期 (3世紀中頃〜 4世紀初頭)の中心地と遺構の広がり」に
居館域の推定値が描かれているから見てごらん
そして、箸墓古墳は布留式土器の時期だから、西暦135〜230年の間よりも後だよ
箸墓古墳を作ったのが崇神天皇である可能性は、それなりに高いけれどね >>597
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシは、頭が悪いので、魏志倭人伝の翻訳や、算数の計算を失敗したのではないのかな。。。 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシは、頭が悪いので、魏志倭人伝の翻訳や、算数の計算を失敗したのだが、指摘をされて、恥ずかしくなって胡麻化し始めた可能性が高いな。。。
598日本@名無史さん2018/11/07(水) 10:26:25.84
>>592
>箸墓古墳を作製した崇神天皇が、西暦135〜230年の間の最初の頃だったので、卑弥呼とは関係性が無くなってしまったな。。。
連続句読点に絡んでも意味がないんだが、ちょっと解説
西暦135〜230年の間というのは、庄内期の辻地区建物跡近くの祭祀土坑から出土した
桃核の14C年代推定値
2世紀後半から纏向遺跡がしっかり存在したことを示している
でも、この建物は庄内期で廃絶されていて、卑弥呼の時期にかかる宮室は別の場所が
推定値とされている
「日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から」橋本輝彦
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2741/1/BA89557434pp81-102.pdf
の13ページ目の「図2 布留式期 (3世紀中頃〜 4世紀初頭)の中心地と遺構の広がり」に
居館域の推定値が描かれているから見てごらん
そして、箸墓古墳は布留式土器の時期だから、西暦135〜230年の間よりも後だよ
箸墓古墳を作ったのが崇神天皇である可能性は、それなりに高いけれどね 395の>>252
はい、また、
「南→東」などの嘘つき騙しのの大和説が敗退 w 。 >>601
纏向学研究センターの寺澤薫と橋本輝彦師弟に、箸墓と西殿塚の地下を地中レーダーで調査するように言ってやれw 395の>>270
原義は無視して、
わざと「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に引き寄せた解釈をして、
キョクウの正義面して、言葉狩りをしてるわけか。
学問的には九州説に歯が立たないから、
政治思想で「畿内」説というという用字で誤魔化そうって、
それこそ、敗者は哀れよのー。 395の>>278
相変わらず、敗者の大和越は具体的な指摘ができず 、
空想な頭を晒してるなー 。 >>510
新しい権力者(徳川幕府/大和朝廷)は、古い権力者(豊臣政権/邪馬台国)の痕跡を消しつつ、凌駕したことを示すのが歴史の常。
特に邪馬台国は魏使により卑弥呼の冢の大きさまで海外の歴史書に書かれてしまった以上、新しく倭王となった大和朝廷は何としても卑弥呼の冢を地上から抹殺する必要があった。
邪馬台国の卑弥呼?そんな女王はいませんよ。そんなことより我々が築造したこの箸墓を見てくださいよ!と宣言するために。
徳川大坂城の地下に豊臣大坂城が埋まっているように、箸墓の地下に卑弥呼の冢、西殿塚の地下に台与の冢が、今も埋まっているのである。
それらは残念ながら墳丘ごと破壊して全部取り除かない限り、もう永遠に見ることができないのである。 >>607
それでいくなら、大宰府跡地の下に邪馬台国の名残りがあるかもな。
記録によると伊都国か不彌国の南らしいけど。 邪馬台国の墓が、天皇の一族が作製した前方後円墳だという意見が、証明できなかったので、邪馬台国の墓が、前方後円墳の地下に埋まっているという宣伝方法に、変換したのではないのかな。。。 >>609
邪馬台国の墓が、天皇の一族が作製した前方後円墳だという意見が、畿内馬具の発見で崩壊したから、仕方がなかったのではないのかな。。。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>594
では、
>纒向遺跡の編年が、辻地区祭祀土坑出土の桃核の14C年代測定法で西暦135〜230年
記紀記載の宮居が、崇神・磯城瑞籬宮、垂仁・纏向珠城宮、景行・纏向日代宮
この三代が纒向遺跡の王だろう
の解説を頼むわ。
西暦135〜230年はどういう意味で言ったのかな? 395の>>335
>そこ・・・ 石床などが存在しないから。<
元々、「居處宮室樓觀」と書かれているだけであって、
纏向のような「太い柱の大型建築」だとは書いていないから。 あぁ>>600に書いてたのだね。
でも余計に意味が分からない。
結局、崇神から景行はいつ頃と推定してるのかな? 395の>>379
あんたの思想に合わない「南」を、
証拠もなく「南→東」だとする嘘つき騙しを言い張るのは、
止めよう。 まだ言ってるの?
『松傾』
皇后?何やら〜?家の話なんだよ 松傾〜〜〜と結婚した家、
わかりやすく言うと、もれ(仮)の老婆、母親もそうなんだよ、
その前の代に結婚した人、その前も・・・・ >>615
>でも余計に意味が分からない。
>結局、崇神から景行はいつ頃と推定してるのかな?
その前に、高天彦神社近くの雑木林は塚でも何でもありませんでしたって認めたら?
それはさておき
纏向遺跡は、2世紀から4世紀にかけての遺跡
⇒ 考古学的に分かること
その間に、崇神、垂仁、景行が、この土地に宮居を置いている
⇒ 記紀に書いてあること
これだけのことがなぜ分からない?
箸中ビハクビ古墳のころまで、景行天皇がいたとも思わないけどね
標準的な推定では、卑弥呼の頃の天皇が崇神天皇
そこから6代前の天皇の皇后が卑弥呼、あるいは卑弥呼と同時代ということは
普通の人は考えないww >>601
>それマジ?!ソースきぼんぬ!
そんな話はないよ
このスレでいろいろとこじらせている人が勝手に言い出しただけの妄想 >>598の誤字修正
でも、この建物は庄内期で廃絶されていて、卑弥呼の時期にかかる宮室は別の場所が
推定地とされている
「日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から」橋本輝彦
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2741/1/BA89557434pp81-102.pdf
の13ページ目の「図2 布留式期 (3世紀中頃〜 4世紀初頭)の中心地と遺構の広がり」に
居館域の推定地が描かれているから見てごらん 三貴神(仮)が何やらとか、
一系ではないよと言ってる人たちがいたり、
〜の系統に戻ったとか
家は『松傾』←という名前の家 伊達郡という掲示板
むかーし香野という家があった?と言っている人がいでしょ、
その人も皇后(不明)実際は何ていうの? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>618
>纏向遺跡は、2世紀から4世紀にかけての遺跡
⇒ 考古学的に分かること
その間に、崇神、垂仁、景行が、この土地に宮居を置いている
⇒ 記紀に書いてあること
これだけのことがなぜ分からない?
2世紀から4世紀って大雑把に書くな。
2世紀末から4世紀のいつ頃だ。
>標準的な推定では、卑弥呼の頃の天皇が崇神天皇
そこから6代前の天皇の皇后が卑弥呼、あるいは卑弥呼と同時代ということは
普通の人は考えないww
卑弥呼の頃の天皇が崇神天皇なんて標準的な推定はない。
標準的な推定では崇神は4世紀前半だ。
根拠は上に書いたが応神からの系譜や崇神墓=行燈山=4c初。
ごまかすな。 >>618
>高天彦神社近くの雑木林は塚でも何でもありませんでしたって認めたら?
塚であることはお前が調べてくれたね、こんもりした部分は20mもあるのだってね。
知らなかった、ありがとうwww
あと箸墓には全然ない「奴婢埋葬痕跡」もあるからねw 畿内説の妄想が底なしな件www
178 ニュースソース検討中@自治議論スレ [sage] 2018/11/07(水) 09:27:01.44 ID:eSXKKXmB
>>171
>邪馬台国探しというのは、文献に記録されているものを探すことなんだよ。
ヨコだが一言
文献に書かれているものをどうやって文献だけで探すんだよ?
物証と突き合わせるしかないだろが
文献には30ヶ国の連合とあるが、祭政一致の時代なんだから祭祀の観点で30ヶ国の連合を探るのは有力な方法だろ
実際、後世その祭祀連合を発展させて、日本は統一されたんだ
日本の古代史を根底から否定しようとしてるが、それならきちんと根拠を示せばいいだけ 『何者にもなれない お前たち』
こういうのも家の写真でしょ、・・・・などの写っているやつw 小刀、ナイフの事はわからないんだけど、
むかーし住んでいた家があって、
部屋に凄い刀が〜?同じような話ばかりしているし >>598
解説?ぷ
ごまかし
キナイコシがよくやる
桃核を理由に3世紀を3朝に比定した論は撤回だね。 >>624
>2世紀から4世紀って大雑把に書くな。
>2世紀末から4世紀のいつ頃だ。
初頭から前半だね
常識 もれ(仮)が言っているんだから、そうだと思うw
『松傾』?
こういう名前の家で、伊達郡川俣町というところがあって、
むかーし住んでいた事があるんだよ、あと山の上のほうの話とか
ほとんど老婆談なんだけど、
実際に住んでいるところは神奈川県の川崎というところ >>558
>あのなぁ。ならば景行が3世紀前半に収まるというわけか?こんなポン助初めてだw
纒向が4世紀なんだよね。 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシは、崇神天皇の即位した時代が、2世紀末で、景行天皇が死んだ時代を4世紀前半ということにしたのではないのかな。。。 >>637
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシは、崇神天皇の即位した時代が、2世紀末で、景行天皇が死んだ時代を4世紀前半ということにしたが、本当はキナイコシ自身も、信じていないのではないのかな。。。 >>638
観光関連の宣伝のために、自分にも、嘘をついているのではないのかな。。。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>625
>塚であることはお前が調べてくれたね、こんもりした部分は20mもあるのだってね。
本当に左側スロープ君は、自分の都合の悪いことは見ない聞かないでごまかす
どうしようもないチェリーピッカーだねぇ
何度でも書いてあげるよ
>>584を再掲
あのさぁ、自分が何一つ把握できていないことをさらされて、恥ずかしくないの?
それにこの20メートルの比高差は、「塚であることを示し」ているものではなく、
道が「谷寄りのところから尾根に上る比高差」
前スレの>826できちんと説明してあるぞ
「左側スロープ君が言ってる道は、尾根筋にまっすぐに入ってなくて
途中から尾根筋に上がるんだが、そこで「道の」傾斜が変わってる
それを墳丘の端だと判断してるんだろう
道の付け方次第でいくらでも墳丘サイズが変わるなww 」
返事をせずにスレを流せばごまかせると思ってるかもしれないが、
記憶のきちんとした人とのやり取りではそういうズルは通らない >>625
>あと箸墓には全然ない「奴婢埋葬痕跡」もあるからねw
ごまかすな
自分で、神域は発掘できないから証拠も痕跡もないって白状してたじゃないか
あるのは、左側スロープ君の妄想に基づく憶測だけ あと妹がいるんだけど、
5月(15日)生まれ『おうし座』(金牛宮)という話とか?
偶然にしては、出来過ぎ? どういうことなんだろう、
機織りが何やら〜という話もしていたり
家が機織りをしていたのか、
結婚した家の人がしていたのか?
老婆の話によると、
結婚した家の人だと言っていたような 葛厨にキウス、ザラコクに連句に関西弁爺
なんでまあ交代で一日中ウソついてんだろうね >>628
御神域の円丘でなおかつ地元「高天」の墳墓。
そして奴婢埋葬痕跡がある。
奴婢埋葬の痕跡など全くなく、150mの円墳部分だけしか根拠のない箸墓支持者は少し黙ろうか。 本当のスサノオというスレ
>神武天皇が授かったフツノミタマは「横刀」であり、
>十拳剣ではない(古事記による)
老婆も同じ説明していたし、
腕を横に広げて「こーんなに凄い刀が飾ってあった」 >>642
>ごまかすな
>自分で、神域は発掘できないから証拠も痕跡もないって白状してたじゃないか
発掘できないのは箸墓も同じ。
高天の円丘には奴婢埋葬の「痕跡」や「謂れ」がある。
箸バカ古墳にはないw >>631
(4世紀)初頭から前半だね
ならば、
崇神=行燈山
景行ー渋谷向山
でいい? >>646
>そして奴婢埋葬痕跡がある。
「奴婢埋葬痕跡」これのソースを出してくれと何度言っても出せないし、
ご神域だから発掘できないって言ってたじゃないか
うそ、ごまかしは、情けないぞww ✟の意味なのかな?
川俣町という掲示板でも、ブラジル〜の話をしている人がいたり、
移民として渡った人がとか >>649
>(4世紀)初頭から前半だね
捏造、ごまかしをするなっての
>>631は
「>2世紀末から4世紀のいつ頃だ。
初頭から前半だね
常識」
2世紀初頭から4世紀前半だよ、纏向遺跡の存続期間は
常識! 銀という親戚がいたと言っていたり、
そういう漫画(作品)よりも前に生まれている人なんだけどw 驚いたな。。。
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシは、論破され、発狂してしまったな。。。
652日本@名無史さん2018/11/07(水) 13:53:55.71
>>649
>(4世紀)初頭から前半だね
捏造、ごまかしをするなっての
>>631は
「>2世紀末から4世紀のいつ頃だ。
初頭から前半だね
常識」
2世紀初頭から4世紀前半だよ、纏向遺跡の存続期間は
常識! >>652
>2世紀初頭から4世紀前半だよ、纏向遺跡の存続期間は
>常識!
おかしなことを書いてるやつがいるな
纏向遺跡は2世紀末から4世紀始め頃までの遺跡ってのが常識だろ? >>655
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシは、発狂したので、天皇が、3代で200年の政権を実行したと考えてしまったのではないのかな。。。 >標準的な推定では、卑弥呼の頃の天皇が崇神天皇
そこから6代前の天皇の皇后が卑弥呼、あるいは卑弥呼と同時代ということは
普通の人は考えないww
卑弥呼の頃の天皇が崇神天皇なんて標準的な推定はない。
標準的な推定では崇神は4世紀前半だ。
根拠は上に書いたが応神からの系譜や崇神墓=行燈山=4c初。
ごまかすな>>1。 >>654
>投稿さ20m
また「てきっとう」なことをww
「標高差 36.5m」って、左に書いてあるのが見えないのか
それに前に自分で言ってた「道の傾斜が変わるところ」ってのも無視してる
そして、左側(西側)からは単調減少で下がっているだけ
このライン上には、盛り土も塚もない >>659
>応神からの系譜
崇神ー垂仁ー景行−ヤマトタケルー仲哀(神功)−応神で6世代あるんだが?
記紀の系譜をどこまで信じるかってこともあるけれど、これは天皇の代数ではなく
生物学的な世代数
応神の即位が390年で4世紀末っていう設定なんだろ?
そこから6世代遡って100年以下ってのはきついだろうに
崇神天皇の陵墓が行燈山というのは現在の比定だけれど、それが正しいと決まった訳ではない
崇神陵こそ、箸中山古墳だとする見解も少なくない 驚いたな。。。
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシは、論破され発狂し、小便男を相打ちで論破するために、箸墓古墳が卑弥呼の墓という意見を廃棄し、箸墓古墳を崇神天皇の墓の可能性があると発表してしまった。。。 >>662
箸墓古墳に埋まっている、天皇の娘が、卑弥呼で、魏の役人に崇神天皇が弟だと誤認されたという少し前に発表した意見を、廃棄したのではないのかな。。。 >>661
>崇神ー垂仁ー景行−ヤマトタケルー仲哀(神功)−応神で6世代あるんだが?
遡ること5世代な。
ただし各豪族の系譜や新唐書の神功皇后は開化の曾孫から推定して3〜4世代。
記紀は明らかに時代を古くしようとしてるのでそのまま受け取るやつはいない。
崇神から神武まで遡ること9世代をそのまま真に受けるやつもいないだろう。 大和に出現した邪馬台国の文化的要素の波及元をたどっていくと
吉備→播磨、讃岐→摂津・河内・近江→大和
という過程が見えるな
吉備の影響は播磨を通じての間接的な物で、大和の邪馬台国は播磨、讃岐周辺の文化が大きく背景にある様子が見える
墳墓、土器ともに播磨周辺との密接な関係がうかがえる
吉備の影響が語られることが多いが吉備の影響が出てくるのは定型化された箸墓以後
邪馬台国の祖型は播磨、讃岐にあるのかも知れない >>660
>「標高差 36.5m」
ならばますますわしの説が有利だw 景行天皇の熊襲征伐伝説と九州の初期古墳の分布は奇妙な一致を見せるな
初期の大和朝廷による九州征服の流れを描いていると思われる
ただその動きも4世紀に入ってからの物だから邪馬台国以後の畿内による九州への征服行動の物語だろうかね >>661
まあ、ヲシロワケはホムタワケの先代で大足彦と習合したからタラシ二代+α伸びてるという説もあるのだが >>664
畿内説の宣伝係のキナイコシは、その場しのぎで、意見を変えながら、嘘を言ってきたので、破綻してしまったのではないのかな。。。 大和は確かに邪馬台国の出現場所だけどここに何かの中心地があったわけじゃないんだよね
弥生時代の後期に入るとむしろ周辺地域と違う独自路線をひた走ってる独特な地域
邪馬台国の時代になったらそれまでの様相とガラっと変わっている
もしかしたら周辺の勢力による征服のような事態があったのかもしれない >>661
>応神の即位が390年で4世紀末っていう設定なんだろ?
そこから6世代遡って100年以下ってのはきついだろうに
記紀の通りだとしても5世代遡るので1世代間20年で問題はない、
むしろお前の卑弥呼の世代=3世紀前半とする方がきつい。 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、論破されてしまったので、討論を放棄し、空想小説の発表を開始したな。。。 >>672
>西側の道路と標高差は何メートル?
面倒臭い、自分で計測しろ。
いやらしく重箱の隅をつつくような反論をするのなら、
箸バカ古墳に奴婢埋葬痕跡がまったくない事を恥じようねw 小便男が、天皇の妹の墓に礼儀を無くし、暴言を吐いてしまった可能性が、高いな。。。 >>676
つまり墳丘なんて無いと認めるしかないね
残念でした 歴代天皇の系譜がそのままあってるとは言えないが、畿内から広まる影響の過程と記紀の伝説は面白い一致が見えるな 小便男が、天皇の妹の墓に礼儀を無くし、暴言を吐いてしまったが、討論ではキナイコシより、少し頭が良いことを証明したのではないのかな。。。 395の>>452
>張政(魏使)は卑弥呼の墓の完成は見てないだろうね。
張政が最後の魏使だから、
卑弥呼の墓の完成を見た魏使はいないね<
×だ。
張政らは、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」と、
冢だけではなく、大きさも殉葬も記録しているから、
墓の完成は見ている。 >>679
墳丘あるよ、
で崇神4世紀前半でいい?
ならば和邇氏系図にいるトヨは決定。
トヨは葛城の鴨族、聖地は高天原。
おまけに奴婢埋葬痕跡まであるしね。
箸バカ古墳って(笑) >>680
歴代天皇陵とされた古墳の新古も意外と順番が合ってて、七世紀頃にはなんか情報が残ってたのかも知れない
逆に言えば年代の合わない古墳を当てられてる人は系譜が怪しい >>685
バカには見えないシステムになってるのだw 395の>>454
>いろんな可能性を示して、どの場合でも箸墓を径百余歩と書きしるしておかしくないと言ってるんだろう<
いくら「可能性」を示しても、
「南≠東」だから、箸墓は始めから×。 >>686
なんでお前に見えるのだ
おかしいでは内科医 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 頭の悪いキナイコシが、小便男に古墳の高さを、質問しているな。。。 >>693
小便男の、周到に用意した罠に、吊るし上げられてしまう可能性が高いな。。。 景行天皇の遠征経路とこの地域の古墳の分布を考えると景行天皇の時代は3世紀末〜4世紀前半だな
その前の崇神天皇、垂仁天皇の時代は3世紀半ば〜3世紀末と言う事になるな
箸墓の被葬者を崇神天皇や垂仁天皇と考えるのも妥当と言える >>694
そうだね、、、
卑弥呼の墓が山の上にある古墳だという小便男が、高さを聞かれても、高さを知りたければ径150mの範囲の高低差を自分で測れ、と言ってしまえば、それまでなのだからな。。。 >>696
僕達だったら、もっと、小便男が困るような質問ができるのだけれどもね。。。 395の482
>>土が雨などで削れて、そのあたりの葺き石が次第に崩落してしまう可能性がある。<
>つまり、この時点で、後円部はあるが、前方部がないってことだよね?
つまり、後円部先造ということになる<
前方後円墳の墓全体がほぼ出来上がっていなけりゃ、埋葬祭礼は行えるものではなく、
魏使らも「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」と記録出来ない。 >>697
小便男が、馬が通行した左側スロープを発見したので、許してあげれば良いのではないのかな。。。 395の>>489
>横から。
「鉗」は、金属の枠ではさんで閉じ込めることだそうだ。
「鉗扭」は、とじておさえることだという。
なので、「鉗文」は、金属の箱の表面の模様のことだろう。
卑弥呼に贈る鏡を小分けして、誰かが言っていたようにこれを紙で包んで防湿し、紐でしっかり縛って、模様のはいった青銅の箱に入れたということだろう。
決まりきった形式をやめるという意味ではないようだ。 <
成程。 >>698
そんな、わけもなくアンタの思想を演説されてもな 395の>>497
>畿内説どうしで前方部が先か後円部が先が盛り上がっているが長すぎ<
畿内なんて存在もしなかったから、×。
>とりあえず、径百歩は前方後円墳でなく円墓でいいんだろ<
先に周濠を「前方後円墳」形に造ってあった限り、
「前方後円墳」形が完成形であったのであり、
「円墓」も×。 395の>>503
>二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集 <
ふーん、成程。 >>702
清正公の家来が、熊本城の地下に埋まっている、卑弥呼の殉葬の奴婢の亡霊に、惑わされて、殉死を実行したのではないのかな。。。 395の>>510
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
そういう捏造をするから大和説は、
国民の7割に否定され、信用を失った。 >>665
>崇神から神武まで遡ること9世代をそのまま真に受けるやつもいないだろう。
それ、普通の人が言うなら、普通の見解だけどさ、左側スロープ君は
日本書紀の系譜を信じて天豐津媛命だって言ってるんだろ?
ダブスタが過ぎやしませんかね? 朝日遺跡の変遷は興味深い
紀元前後
木棺、玉作り勢力→銅鐸埋葬→日本海側と共通点が見られる勢力に変わったみたいだな
弥生末期、朝日遺跡の人々は何処に行ってしまったのか? 395の>>518
>ちゃんと読んでほしいが、その下段の処理が終わって、上段部分は前方部、後円部同時に工事が進んだというもの。
葺き石設置段階では後円部も途中までしかできてない。 <
成程。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 395の>>533
ここの板の人は説明不足多いな
特に「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説支持者は
口が悪いのもさることながら
断片的に自説のチラ見せして何故そうなのか明らかにしないし
柔道の技の掛け逃げみたいに反撃を恐れてのことかね >>676
>面倒臭い、自分で計測しろ。
自分が>>654で張ったこのYahoo!mapで簡単に計れるじゃないか
https://yahoo.jp/L_i5xA
代わりに計ってあげたよ
高天彦神社前からだと、0.8メートルだなwwwwwwww
>いやらしく重箱の隅をつつくような反論をするのなら、
いやいや、塚があるかどうかってのは重箱の隅じゃなくて
左側スロープ君の立論の根幹じゃないか
それを確認しないとまったく意味がなくなるよ?
で、実際に、150メートルの塚なんてないことが暴露されたから、
今までえらそうに言ってきたことが「全部デタラメ」ってはっきりした訳だww
>箸バカ古墳に奴婢埋葬痕跡がまったくない事を恥じようねw
陵墓参考地を貶す書き込みができるあたり、
価値観を共有できないかの国と同じ感性なんだね
左側スロープ君も、「発掘できないんだから」というばかりで
「奴婢埋葬痕跡」とやらの根拠も証拠も一切示せないじゃないかw
まあ、その前に「塚がない」んだから、殉葬の有無などを議論する以前だけどなw 神話結び付け馬鹿はテキトーに大した根拠もなく物語を作り出して妄想喚いてるからな
手に負えん >>686は裸の左側スロープ君だww
>バカには見えないシステムになってるのだw
大丈夫、左側スロープ君だけに見える服だから 305の>>536
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説斜の主張は、
全部反論済みでもう主張点がない。
まともな人は全くおらず、
残っているのは荒らしと顔つきの大和おかしい人間だけ。 >>717
>「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説斜の主張は、
>全部反論済みでもう主張点がない。
反論ってw
「南→東」などの嘘吐き騙しぃぃぃ
って連呼しただけだろ 395の>>562
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の三輪ソーメン?、
スープは良い味だか麺がイマイチ・・・と、思ったら、
賞味期限切れの味の素ブチ込んだだけの、糞尿?スープだった、ってオチ。 葛城小便男って、さすがにソレは酷いだろ
まあ東遷脱糞厨って人もいたけどさ >>719
それを、良い味だと思うザラコクの味覚に問題がある 395の>>574
>常識的解釈
古代中国人が見て「こら槨やな」と思えるものは当時の日本にあらしまへん<
卑弥呼のいた倭国は、魏使らが見ても「有棺無槨」であったんだから、
ホケノのような「槨」的な構造物があった纏向は、
卑弥呼のいた国ではないの。 395の>>577
>和田萃さんが言われるように、
金関さんが発掘した国宝中平銘鉄刀の保持者和邇氏の系譜にまずトヨがいるかどうか。
いる。
この、孝昭天皇の母・トヨ津媛がトヨなら住んだ場所は葛城。
邪馬台国は葛城だとあっさり証明できる。<
「南≠東」だから、始めから×。 阿波バカも葛城バカもちょっとしたことを全てに結び付けて「日本の支配者だった!」とか珍説を喚き続けるからな
秦氏バカや安曇氏バカとか古代史関連によく湧いてくるキチガイ 395の>>591
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説・・・・
三輪ラーメンもおいしいぞ
と思ったら海に捨てられた残飯だった。 まぁ確かに葛城氏はとても重要な一族だからな
九州キチガイよりは多少マシとは言えなくもないが >>724
粟は、倭人の活動全て=忌部って言うだけの簡単なお仕事だからww ヤフー地図は10cm単位で標高が計測できるのだろうか、、、
それとも、破綻した纏向説の宣伝係のキナイコシが同士討ちの罠で、葛城小便男に吊るし上げられてしまったのだろうか。。。 >>728
神武天皇が、土蜘蛛を捕獲して埋めたか、どうか、興味が湧いてきたのではないのかな。。。 皇祖神?
アマテラスというのも土蜘蛛だと言っているんだよw テンプレートの貼り付け係が、土蜘蛛に反応して、出現した可能性が高いな。。。 >>728
>ヤフー地図は10cm単位で標高が計測できるのだろうか、、、
「できるのだろうか」とか言ってないで、自分で試せばいいじゃないか
ものさし(距離)ツールで、始点と終点を決めれば二点間距離と標高差を出してくれるよ
標高差はメートル単位だけど、小数第1位まで出してくれる
まあその前に、その始点と終点の間の直線上の起伏・高低がグラフとして表示されてるから
「塚なんてない」ことが一目瞭然なんだけどねww
「塚がある」と主張するために、https://yahoo.jp/L_i5xA を貼る意図がよく分からない
これ、「塚がない」ことを示す根拠にしか見えないんだが?ww 左側スロープ君の貼ったYahoo!mapを開くのが面倒な人のために
画像を貼っておくよ
https://i.imgur.com/hgPuwjG.jpg
左側の高低差を示すグラフを見てもらえば、
西から東に向かって下っているだけで「塚なんてない」ことがすぐに分かると思う 家にあった絵本と同じ話、日本昔話?
旅の道中、瓢箪のようなものがぶら下がっていて、
あっちに行け、そっちにいるよ・・・と道を教えたり・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
川が流れていて、滝があって、その滝の裏が洞窟になっていて?
瓢箪が道を教える・・・・というのは少し違ったかも? 犯罪者か何かの話なんだろうwと言ってる人もいなかった?
隠れている人の話 探し(退治)に行くのも、武士の一団という話じゃなかった? 395の>>599
≧前スレで、台与の箸墓(280年〜320年築造)は、卑弥呼の冢(248年築造・直径150mの円墳or帆立貝型前方後円墳)を
タイムカプセルのようにスッポリ覆い尽くす形で後円部が160mに設計された説が出ていたが、
通常、古墳は亡き(女)王の権力を後世に伝えるためにに造る物だから、次の(女)王がその上から全く別の形式の大型古墳を造ることは考えにくい。
ということは、たとえば、王朝交代により【邪馬台国・卑弥呼の痕跡を跡形もなく消し去るために】天皇家によって箸墓が築造されたのではないだろうか?
西殿塚も同様に、その後円部の地下に台与の墓がタイムカプセル状態で埋まっているのではないだろうか【邪馬台国・台与の痕跡を消し去るために築かれた】?
というわけで、(天皇家によって造られただろう)箸墓と西殿塚の後円部(直径160m・140m)地下には、
卑弥呼の冢(直径150m)・台与の冢(直径130m)が埋まってるから、
地中レーダーで調べるように、誰か纏向学研究センターの寺沢薫所長に電話してぇええ!!!<
「南→東」などの嘘つき騙しの、分裂幻覚の妄想の・・・・ね。 >>727
>粟は、倭人の活動全て=忌部って言うだけの簡単なお仕事だからww
そう! まさにその通り。 実に簡単なお話だろ? @阿波 『雲隠れ』
そういう用語じゃなかった?
『NARUTO』
という作品のwiki、〜級(犯罪者)と書いてあったり >>739
>そう! まさにその通り。 実に簡単なお話だろ? @阿波
それ、倭人であって忌部じゃないw
カルトの人にはそれが分からんとですよ 『2ch aa オマワ・リサンコッチ』
こういうネタとか 高天彦神社前の雑木林は大きすぎるから
道路挟んで北側の小さい雑木林にしたらいいんじゃないの?
3ヶあるみたいだし >>741
>それ、倭人であって忌部じゃないw
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
と、何度言えばw @阿波 あまてらす〜皇祖〜、
正統性が何やら〜という話とか
実際、関係の無い人には関係の無いことでしょ、
無理に、そういう話を作り広めて・・・・皇国史観?詐欺?
このスレでも同じような事を言っている人がいた 公式のインターネットで調べると、ヤフーには、10cm単位で、標高を正確に、計算する能力はなかったことが、判明した。。。 dead or alive『turn around and count 2 ten』
関連動画を観てみて、いざなぎ?左目から〜という話 >>743
>高天彦神社前の雑木林は大きすぎるから
>道路挟んで北側の小さい雑木林にしたらいいんじゃないの?
>3ヶあるみたいだし
いや、その辺に土が盛り上がった塚がないからしょうがない
それにそうすると高天彦神社から離れちゃうから、高天彦神社の境内にーって言えなくなる
まあ、今問題にしている東に下る雑木林も、神社の境内でもなんでもないんだけどね 西から東に向かって下っているだけで「塚なんてない」のだろうか、、、
それとも、破綻した纏向説の宣伝係のキナイコシが同士討ちの罠で、葛城小便男に吊るし上げられてしまったのだろうか。。。 >>749
天気が良い時に、ドライブで、現地に行けばよいのではないのかな。。。 395の>>615
>天皇家によって邪馬台国(卑弥呼&台与)の痕跡が跡形もなく地上から消し去られた...
あるいは、邪馬台国の痕跡を覆い隠すために、
全国津々浦々にその真上から前方後円墳を造らせることで、古墳時代が始まったとかw<
邪馬台国も台予も天皇家もなかったし、
「南≠東」や、倭國は「正北抵新羅」に拠って北部九州であり、
その倭國が「東征毛人五十五國」をした、と言っているのであり、
大和は、「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であったんだから、
×ね。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 何々の陰謀〜・・・
実際に、あるんだよという話ばかり 『日本昔話 姥清水』
神隠しに〜・・・雲隠れ?
していた人物が現れたという話なのかな?
本当に老婆と同じ話 395の>>637
>ヒミコはエベッさん(事代主)の娘さん。<
「南≠東」などに拠って×。 395の>>640
>太宰府は
陸路あつかい
関門を
出雲起点で
陸路一月(少し苦しーが解決 <
「南≠東」などに拠って、×。 老婆談というのも
その日本昔話の放送された日(年)、
制作?よりも前(昔)の話
どういう事なのか・・・なんだよ 395の>>642
>補足ありがとう。
箸墓は定型化した最初の前方後円墳だから、卑弥呼の冢を潰すために天皇家によって造られたとすれば、その目的に合致する。
次の西殿塚古墳は台与の冢を潰すために天皇家によって造られたということ。
つまりこの2つの前方後円墳は、女王台与の死後(234年〜?)邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)により、
相次いで後円部の大きさが設定&築造されたため、一気に巨大化したということ。 <
「南≠東」などに拠って、×。 高天彦神社に拘らないなら、いい雑木林があった
高鴨神社の西300mの雑木林が150m弱
横に周溝もあるし 何度説明しても同じw
むかーし住んでいた事があって・・・ >>748
>いや、その辺に土が盛り上がった塚がないからしょうがない
盛り上がってます。
>神社の境内でもなんでもないんだけどね
鳥居があるので境内です。
行ってもいないくせに適当な事を言いすぎ。 >>754
>左側の高低差を示すグラフを見てもらえば、
西から東に向かって下っているだけで「塚なんてない」ことがすぐに分かると思う
右側の高低差を示すグラフを見てもらえば、
東から西に向かって上っているので「塚である」ことがすぐに分かると思う >>760
高鴨神社は古事記の最高神・迦毛大御神(かものおおみかみ)=あじすきたかひこね=スサノオ >>764
Dead Or Alive『You Spin Me Round』
ここに出てくる人物が親なの? 395の>>660
>卑弥呼・台与の冢を潰されたということは...
女王国周辺の数十カ国の国名(烏奴国とか志麻国とか)が現在のどこにあったのか全く比定が出来ないのは、
大和朝廷によって邪馬台国時代までの地名は、とことん塗り替えられたかもわからんな...orz <
台与も大和朝廷も邪馬台国もなかったし、
「南≠東」などに拠っても、×。 高天原神社の前の林は単なる尾根の端っこだよね
小川の側からだと高さ8mくらい
葛城氏が有力氏族である事も考えたら被葬者本人の伝承が消えて土蜘蛛塚だけ残るって疑問だよな >>714
>「奴婢埋葬痕跡」とやらの根拠も証拠も一切示せないじゃないかw
痕跡があるのだが?
蜘蛛窟と高天彦神社拝殿。
何言ってるのおまえ。
しかも神武天皇だと記紀に書かれている。
箸バカ古墳には「奴婢埋葬痕跡」が全くない。 >>767
>被葬者本人の伝承が消えて
御所市高天は高天原最有力地。
江戸時代まで普通に高天原と認識されていた。
あと、あの塚は個人の墓ではない、神々の墓。
鴨族の鴨の語源はカミ(井上光貞) 395の>>663
>(年已長大は25歳か?問題)蜀書董允伝にあるそうな
呉書諸葛瑾伝では長夫とあるが34歳だってさ<
有難うございます。 景行天皇の熊襲征伐伝説と九州の初期古墳の分布は奇妙な一致を見せるな
初期の大和王権による九州征服の流れを描いていると思われる
ただその動きも4世紀に入ってからの物だから卑弥呼以後の畿内による九州倭国への征服行動の物語だろうかね >>762
>盛り上がってます。
>>763
>東から西に向かって上っているので「塚である」ことがすぐに分かると思う
よくもまあ、恥も外聞もなくこういうのが書けるね
いくら書いたって、実際にグラフを見た人には「塚がない」ことはひと目で分かるのに
特に>>763の方は、ザラコク並みの言葉を入れ替えただけのオウム返し
これぐらい凝り固まってないと、トンデモ説に固執するってのは無理なんだろうな 伊達郡の川俣町という掲示板に、
このような謎の書き込み
かーくんが住んでいる=ひかるげんじ
という意味でしょ『ザ・モモタロウ』 高天原は本当は半島の事だと思うんだが。
神代は中国の事でさ。
それをまるで日本国内の事のように書き上げただけだろ?
当時の豪族たちに伝わっていた伝説には、大陸や半島時代の倭人の歴史が含まれてたんだよ。
きっと。 >>768
>痕跡があるのだが?
>蜘蛛窟と高天彦神社拝殿。
蜘蛛窟は別の伝承が残ってるし、物的証拠0だろ?
高天彦神社の拝殿のどこが痕跡なんだ?
高天彦神社は西に向かって拝む形だぞ!
東側に王墓があるとしたら矛盾する
結局、痕跡だと「言い張っている」だけで、何も出せない
もう諦めなww >>720
小便は自分で言っていたことだからな。
鴨厨と呼ばれていた頃の方がまだ良かったな。 >>743
>高天彦神社前の雑木林は大きすぎるから
>道路挟んで北側の小さい雑木林にしたらいいんじゃないの?
>3ヶあるみたいだし
そのあたりも古代から地元の墓域だと思う。
おそらく土葬。
普通なら畑にされててもおかしくないのになぜかされていない。
そのあたりのことを地元の人に聞いてみたいのだが、
過疎化が進んでるのか人がいない。 『ザ・モモタロウ』
に出てくるテング・テング
なぜか、ひかるげんじの曲の歌っていたり、
あとローラースケート? >>715
どこまでを神話と呼ぶんだ?
応神とかを神話と呼ばれたらたまらないな。
神代(神武東征まで)を神話と呼ばれならまだわかるけど。 >>774
>高天原は本当は半島の事だと思うんだが。
縄文時代の遺跡って、結構山の中の標高の高いところにあるんだよな
そういう、縄文集落から平地に降りてくるのが天孫降臨なんじゃないかと、妄想したりもする >>775
>高天彦神社は西に向かって拝む形だぞ!
東側に王墓があるとしたら矛盾する
鳥居から見れば塚が西側にあり、さらに奥に拝殿がある。
何も矛盾しない。 >>774
高天原は対馬海峡周辺のどこかだと思う。
出雲や筑紫に行き来しているからね。
大和まで来ると、饒速日のように「行ったきり」扱いされてしまっているから、大和の近くではないだろう。
あと、神代の巻の後半は筑紫から見た視点になっている。 >>777
>そのあたりも古代から地元の墓域だと思う。
本当に憶測だけの適当さ >>782
>鳥居から見れば塚が西側にあり、さらに奥に拝殿がある。
>何も矛盾しない。
拝殿から何を拝むのかと聞いてるんだよ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>780
>>783
普通に考えりゃそうなるよね。
葛城の高天原ってただの空き地だもん。 >>529
>明帝が、景初二年大晦日から景初三年元旦にかけて亡くなったんだから、 景初二年12月の詔書は、明帝にしかならず、
>それを否定するキミのような人間は、「口先での嘘吐き詐欺師」なのであり、 人間の屑なのではありませんか?。
景初二年なら明帝で当たり前。誰もそれを否定していませんねぇ。
景初三年の誤というのが主流であって、かつ「明帝詔」という記録は存在しません。
どこに嘘がありますかぁ?
>晋書は、はるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」の多い唐代史書であるから、
>「ついうっかり」記載以外は、信頼性がなく、根拠にならない。
《通史》《通典》の話に、突然《晋書》が出てくるのか、さっぱりわかりませんねぇ。
「ついうっかり」とか呆れます。「イイとこ取り」なのでしょうね。 >>785
>拝殿から何を拝むのかと聞いてるんだよ
鴨系神社のご神体は山 >>782
>鳥居から見れば塚が西側にあり、
これ、グーグルストリートで拾ってきたけど、鳥居と言えるか?
https://i.imgur.com/yKLearP.jpg ざまぁみろw
スレのほとんどを葛城の高天原の話題にしてやったぜw
裏返せば箸墓だという説がいかに説得力がないかということなのだがw >>789
>鴨系神社のご神体は山
つまり、拝殿より東にある、葛城川に向かって下る「ただの尾根」は
拝む対象ではないってことだよな
で、どうして高天彦神社拝殿が奴婢殉葬の痕跡になるんだ?w >>532
>晋書以来の唐代史書の「自己解釈に拠る書き換え」という事が流行していたにも拘わらず、
>魏志の記載通りについうっかり、
>「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」と記載した、
>とという事が、信頼性があるの。
流行とか妄想でしょう。
「ついうっかり」で「イイとこ取り」ですかぁ。
>>魏志の引用については一番量が多いのが《通史》。 さらに言えば「景初三年」「正始元年」「正始四年」を揃えているのは日本書記だけ。<
>唐代以後の後代史書は、原則として、3世紀の魏志倭人伝の直接的な証拠にならない。
まさに全文献の否定ですねぇ。
日本書紀の引用は北宋の刊本より古いのですよ。
>叙勲が終わった瞬間から、卑弥呼や難升米らは魏の臣下であり、
>当然業務の打ち合わせがあり、その間に明帝が亡くなってしまったら、
>卑弥呼や難升米らも、喪に服さなければならない。
それって君の思い付きでしょ。
・「漢魏の制」前漢文帝によるもので三十六日喪。
・儒教では「三年の喪」(袁紹や趙雲が服喪。)
・曹操の遺令では「葬畢、皆除服。」つまり埋葬まで。
明帝の葬は「癸丑、葬高平陵」だから、服喪期間は三年正月癸丑まででしょうか。
>劉マらは戦争が主任務であって、
>終わった後は、行政が主任務であった劉夏が着任していても、何らおかしくもない。
公孫淵を倒すまでは作戦中だから終わっていませんね。
それに正始元年には、弓遵に代っています。
劉夏が「行政が主任務」なら短期間で代らないでしょう。 395の>>663
>(年已長大は25歳か?問題)蜀書董允伝にあるそうな
呉書諸葛瑾伝では長夫とあるが34歳だってさ<
有難うございます。 >>791
>スレのほとんどを葛城の高天原の話題にしてやったぜw
全部、左側スロープ君の言い分を否定論破するものばかりなんだけど?
>裏返せば箸墓だという説がいかに説得力がないかということなのだがw
畿内説は磐石だからねぇ
箸墓が卑弥呼の墓かどうかは、編年次第だよ
三日月湖年縞による14C年代のスタンダードが作られたら、さらに精密な編年が
できるようになるだろうし 395の>>674
>しかも、河内朝の倭の五王(讃=仁徳、珍=反正、斎=允恭、興=安康、武=雄略)は、倭の総人口500万人の時代、百済に援軍を送り高句麗と戦争しながら、300m〜500mの超巨大古墳造ってたんだよね?
古墳時代の日本って凄くね? <
「讃=仁徳、珍=反正、斎=允恭、興=安康、武=雄略」は、
名前も年代も事績も全く合わないから、×。 >>794
>鳥居だが?
注連柱(標柱)って言うらしいよ? >>792
>つまり、拝殿より東にある、葛城川に向かって下る「ただの尾根」は
拝む対象ではないってことだよな
前にも言ったが塚には墓石群がある。
死者=神を拝んだであろう。
それがどうした。
>で、どうして高天彦神社拝殿が奴婢殉葬の痕跡になるんだ?w
拝殿左に土蜘蛛を埋めた石がある。
標識も何もないので見逃す。 そう言えば、注連縄と鳥居はどう使い分けているんだろう? >>799
どっちみち聖地の結界だ。
お前の様な下人は来るな。 >>794
>鳥居だが?
これに比べると相当、お粗末だねw @阿波
物部氏・蘇我氏・葛城氏の祖、伊迦賀色許売(イカガシコメ)・伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、ここ阿波で生まれ、暮らし、葬られたのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/44664411.html >>797
>全部、左側スロープ君の言い分を否定論破するものばかりなんだけど?
一番肝心なことは「常識人」が言うように崇神が4世紀前半かどうか。
4世紀前半ならトヨは一人。
中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。
ならば彼女は鴨族であり邪馬台国は葛城になり、その聖地は高天原。
おまえはこの一番肝心なことをスルーしてて何をエラそうに言ってるのか。 395の>>688
>殉葬はよくイメージされるような 奴婢を古墳の周りに埋めるものじゃないぞ <
魏志の「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」は、
魏使らが直接的に「卑弥呼の墓で百余人の奴婢の殉葬を見た」というような記録だぞ。
>古代から王墓には行われて来たとあるが大き目の古墳からそんな跡は見つかってないから
そのかわり古いものでは特殊器台や円筒埴輪が見つかるからそれで何がしかの儀式を行っていたであろうという事<
箸墓に、殉葬墓が見つからなくて、
その代わりに特殊器台や(人骨入りの)円筒埴輪があったんなら、
箸墓では殉葬はなかった、という事であり、卑弥呼の墓である事も否定される、
という事。 >>804
>中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。
それ、どこから出たと思ってる?
東大寺山古墳って、どこにあるか分かるか?
和邇氏の本拠地はどこだと思ってる?
葛城とは関係ないだろうがw >>800
>前にも言ったが塚には墓石群がある。
その墓石群、写真なりソースなり出せるかい?
いつの時代のもの?ww 395の>>693
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者やスレ主は、
よほど「史料事実や史料実態」が怖いようだな。 鳥居之祓
神の在座鳥居に伊禮は
此身より日月の宮とやすらげくす
鳥居は元々日、月の宮の印
四天王寺も創建当時から寺なのに、木造の鳥居があったと言われている
調神社とか鳥居がない神社もある 豊津姫とか言ってるけどさ、その前に塚がなかったら殉葬も何もないだろ?
という疑問には一切答えないよねww
左側スロープ君には、他人には見えないものが見えるらしいw 395の>>699
>邪馬台国は現京都市を王都とした地域 出雲、丹波、近江、大和一円の国が邪馬台国<
邪馬台国なんて存在もしないし、「南≠東」で×だし、
九州倭国の「東征毛人五十五國」などを完全に無視して逃亡しているから、×。
>ザラコクさんは南≠東で片付けるだろうが
大平洋ルートを検証していない 投馬国は宮崎周辺<
「南≠東」でも×であるが、
皇帝の詔書や金印や大量の下賜品を持った魏使らは、
「安全最短」が最も大事な原則であり、九州北岸から近畿に行くのに、瀬戸内を通らずに、
わざわざ大回りの黒潮での漂流するような危険路を選択する事など、
有り得ないから×。
狗奴国は東海か北陸かは決めかねています 395の>>703
>当時の列島に殉葬の風習自体あったのかね
死後の世界があって奴婢に主人の世話をさせようという死生観が <
魏志にははっきりと、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
があった事を記録している。 邪馬台国の南なのだから狗奴国が東海や北陸にあるわけ無いじゃん
ここだけ読み替えるなんて変なの >>813
>邪馬台国の南なのだから狗奴国が東海や北陸にあるわけ無いじゃん
>ここだけ読み替えるなんて変なの
魏志倭人伝は、帯方郡に近いところから順に記載する体裁で書かれており、
遠くの国ほど、より南にある、ということになっている
「ここだけ読み替える」ではなくて、順番が後のものほど
「南と書いてある」=「帯方郡から遠い」と読めばいいんだよ 径百歩は纒向だが
箸墓の前方後円墳の径なんてどうでもいいし倭人伝の記述の径百歩と土器の炭化物だけで
卑弥呼の墓なんて((´∀`*))ヶラヶラ
発掘物では葛城
ヤマト王権の発生の地は葛城王朝だよ
一部の九州説もおかしいな 東遷は邪馬台国じゃねーよ
邪馬台国に変わる九州勢力か連合体が倭種の別国を制圧したのだよ かもきみの湯でもいいんじゃない?
完全に破壊されちゃってるけど元は雑木林だろうし
泉質はいいらしいよ、年中無休だし >>806
>それ、どこから出たと思ってる?
>東大寺山古墳って、どこにあるか分かるか?
>和邇氏の本拠地はどこだと思ってる?
>葛城とは関係ないだろうがw
孝昭の后・世襲足媛以降が天理の和邇。
トヨ津媛は葛城だ、バカ者。 395の>>705
>そう垂仁紀にあるように
人を古墳の周りに生き埋めにした痕跡は見つかってない
つまり魏志倭人伝にある殉葬とは人が古墳の周りに埋めるような物じゃなかった <
魏志にははっきりと、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
があった事を記録しており、
魏使らが、徑百餘歩の冢に「jun葬者奴婢百餘人」があった事を見たように、
記録している。 >>712
>いやそこらへんは同時期でもいい。
卑弥呼が死んでから150mの塚を作ったわけではないであろう、というのと同じ。<
魏使らは、周髀算経の一寸千里の法を使っており、
それは「1里≒76.5m」だから、
1里=300歩に拠って「1歩≒25.5cm」の短歩になり、
「百余歩≒25.5m」位になるから、
「150mの塚」は×。 朝日遺跡だよなー
元々畿内と同じ木棺墓の勢力だったのが、紀元前後に日本海側と関係が深い土器棺墓の勢力に変わったのでは?
更に弥生末期にヤマトに攻め込んで拠点を移したのかな 395の>>716
>記紀それから魏志倭人伝の記述を信じるなら
神武天皇が大和を平定したのは考霊の間で西暦180年ぐらい <
二中歴の年代歴の、
「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政
継体五元丁酉の(五一七〜五二一)・・・」
において、
517−39−569×2=−660
が成立するから、
569年間が二倍年歴で書かれていた、という事になり、
−660+569=−91であるから、書紀の神武即位元年は紀元前91年、
という事になるから、
「神武天皇が大和を平定したのは考霊の間で西暦180年ぐらい」というのは×。 短里なわけ無いって
夏侯淵は3日で500里6日で千里って行軍する速度を称えられてるのに短里だったらショボすぎるわ アチメは朝鮮語で朝日
アチ、アユチ、アイチ、
卑弥呼と何か関係があるかもしれない >>720
>魏志倭人伝に考霊の間(考帝〜霊帝の間、160年〜180年)倭国大乱とあるから<
魏志倭人伝には「孝霊の間」なんて書かれていないし、
倭国大乱もなかったから、×。
>そして日本書紀には神武天皇は東征し苦しい戦いを経ながらも畿内を平定したとある
神武が畿内平定したのはその頃だったろうという事<
畿内なんて存在もしなかったし、
二中歴の証言では、神武即位元年は、紀元前91年頃だから、×。 935の>>723
>倭国大乱と神武は直接関係ないと思うが、<
倭国大乱なんてなかったから、×。
>かなり年上であったろう神武とヒミコは同じ時代でいいよね。
そう言ってるわけだが。<
神武は二中歴に拠って紀元前91年頃即位であり、卑弥呼は3世紀だから、
全く合わず、×。 >>819
一寸千里の法とは夏至の北緯35度から南北千里離れた棒の影長差は
一寸づつで計2寸差になるだろうという空想の数値
太陽が真上にくる夏至の北緯22度付近ならともかく
北緯35度付近では南北千里づつ離れた棒の影長差が
丁度1寸づつで計2寸とはならないのだ >それ、どこから出たと思ってる?
>>中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。
>東大寺山古墳って、どこにあるか分かるか?
>和邇氏の本拠地はどこだと思ってる?
>葛城とは関係ないだろうがw
孝昭の后・世襲足媛以降が天理の和邇。
トヨ津媛は葛城だ、バカ者。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というわけで>>1は見事に撃沈wwww やり直し。
>>中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。
>それ、どこから出たと思ってる?
>東大寺山古墳って、どこにあるか分かるか?
>和邇氏の本拠地はどこだと思ってる?
>葛城とは関係ないだろうがw
孝昭の后・世襲足媛以降が天理の和邇。
トヨ津媛は葛城だ、バカ者。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というわけで>>1は見事に撃沈wwww >>1は見事に撃沈しましたですよ、皆さんw
すっきりしました。
これでこのスレも平和になる事でしょうw >>826
>孝昭の后・世襲足媛以降が天理の和邇。
>トヨ津媛は葛城だ、バカ者。
それもこれも全部、葛城の地に卑弥呼の径百歩
150メートルの塚があって初めて言えること
その塚がないことがあばかれた時点で、葛城が卑弥呼の本拠地とか
その後のもろもろも全部破綻しているw
>というわけで>>1は見事に撃沈wwww
トンデモさんがみんな全1病なのはどうしてなんだろうねww >>828
>>>中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・トヨ津媛だ。
で、東大寺山古墳の被葬者は誰なんだい? 九州説もイライラするくらいなら
このスレに書き込まなければいいじゃないか >>831
まずトヨ津媛がトヨだと認めるのかどうか。
どっちだ。
他に有力候補者がいるなら遠慮なく出せ。 >>832
4c後半なら神功皇后時代の武振熊命あたり。 >>815
賛同
邪馬台国は九州で滅びたか
新たな九州和国連合が東に向ったんだよ
ヤマトは平和の地で魏と対等にやりえない
遺物をみれば一目瞭然
畿内は倭種の別国だよ >スサノオ
『スサノオ 犯罪者』
いつ頃の話なのか知らないけど、
そういう話ばかり >>834
>まずトヨ津媛がトヨだと認めるのかどうか。
誰も認めてないだろ?
ザラコクもキウスも認めてないぞww
トンデモなんてのはそんなもんだよ 395の>>725
>神武東征とか考古学的に何の痕跡もない物を
当たり前のように史実に結び付けて珍説を喚き続けるサルの滑稽な事よ<
五瀬命らは、大阪湾から生駒山地の西岸の「日下」にまで舟で直接的に着いて、
そこで長脛彦らに負けて大阪湾に退却して、そこで五瀬命が亡くなって、
磐余彦の神武が後を継いだ、
という伝承が記載がされているが、
という事は、長柄付近の南方から日下の間が、河内湾という状態であった訳で、
しかし、その河内湾は、記紀が書かれた8世紀始めには土砂の堆積で無くなってしまっていたので、
記紀の筆者らは、河内湾の存在を知る筈がなく、
という事は、神武東征伝承には、大阪平野の歴史や考古と一致していた、という考古証拠があった、という事になるから、。 >>835
>4c後半なら神功皇后時代の武振熊命あたり。
どうして、そこまで伝世したの?
トヨが持ってたんじゃないの?
元をただせば、卑弥呼がもらった五尺刀だって言いたいんだよね?
卑弥呼も台与も倭王だったのに、どうして分家筋の和邇氏に伝わるの?
それから、どうして和邇氏は葛城にいないの? 巻向は3世紀でいいよ それ以前にも纏向に人は住んたんだろ
日本全国3世紀に人が住んで地なんか山ほどある」
巻向が3世紀なんてどうでもいいじゃん 3世紀以前に人が纒向に住んで無いのか
どあほ 倭国大乱により筑紫を出て東遷したのは伊都の先代王家とされた天孫族。
倭国大乱の後に肥国から共立されたのが卑弥呼。 前方後円墳の作り方教室は終わった
完成形は前方後円墳でいいんでねーの >>838
トヨ津媛の3世代前にヒメがいる。
神の娘だ。
長生きしたヒミコの後に男王が立ち争乱、
そして13歳のトヨ擁立だから3世代差というのはピタリと合う。
ヒミコの甥っ子の孫がトヨだ。
これが王族の宗家だ。
これらを認めずに対案も出せないのは負けということ。
自覚せよ。 >>844
中平銘鉄刀が和邇氏に伝わってたのは事実。
その祖がトヨ.
何も問題なし。
>和邇氏は葛城にいないの?
世襲足媛は物部系尾張氏。
だから物部の本拠である天理に住んだのであろう。
それが何か? >>851を訂正
×ヒミコの甥っ子の孫がトヨだ。
〇ヒミコの姪っ子の孫がトヨだ。 俺もそう思う
⇓
>>849日本@名無史さん2018/11/07(水) 20:43:08.20
前方後円墳の作り方教室は終わった
完成形は前方後円墳でいいんでねーの 395の>>732
>畿内説だと叩く人多いが<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから×であるし、
「南≠東」などに拠っても×。
>俺は2世紀後半ごろに神武東征伐そして畿内に王国共立が
あったとしてもいいかもなと思っている <
「思う」のは自由であるが、
「嘘で世間の人々を騙す」のは犯罪者的であり、黙過し難し。
>もちろん九州征服の根拠づけの為に大和王朝の先祖は
九州から来たという事にしたのかも知れないけれど<
それも、
史料事実記載は、筑紫城の倭奴國から神武東征があった事や、
九州倭国の「東征毛人五十五國」があった事であるから、
嘘つき騙しになり、×。 前方後円墳のは近江始原の前方後方墳真似やな
近江から高尾山に伝播したのと企画書一致やらなにやら? >>726
>200年くらいで神武40年と断定しているけれど
倭国大争は考霊の間(160〜180年)だから
AD200年年の頃は60くらいで
卑弥呼が魏と国交を結ぶ頃生きていたら100歳くらいになるな
しかも卑弥呼には夫が居ない<
二中歴で、神武即位元年は紀元前91年頃になり、
卑弥呼は3世紀であるから、×。 天火明神降りました
Softening a question? 395の>>843
>倭国大乱と神武の畿内平定物語は本当に無関係かな? <
倭国大乱なんて存在せず、あったのは倭国乱であり、九州島付近で起きた。
また、倭国乱は早くでも200年頃で、神武東征は紀元前1世紀頃だから、時期的に関係がなく、
神武東征や引き続き起こった「東征毛人五十五國」は、高地性集落の原因になった。 倭人伝脳も厄介だけど記紀脳も手に負えんな
根拠薄弱な自説を喚き散らかしてるだけ >>857
>近江から高尾山に伝播したのと企画書一致やらなにやら?
その「高尾山」古墳は、「蛇紋岩製勾玉」や「水銀朱」から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓
と、何度言えばw @阿波 河内潟が完全に姿を消すのは江戸時代なのを古田は知らずに大恥をかいた
今でも盲目的な信者が恥をかき続けている >>862
だうと!三好君はどこまでまじかわからん? 935の>>779
嘘を付いては×。
周朝と魏朝と西晋朝の「歩」は、
一寸千里の「1里≒76,5m」と「1里=300歩」に拠って、
1歩≒25.5cm≒1尺」の「短歩」であり「単歩」。
魏晋歩=約 1.45 m >>864
>だうと!三好君はどこまでまじかわからん?
いつも大真面目なんだけどw @阿波 395の>>782
>>孔明は「 墳と冢は別文字別意味」として使い分けた <
>文字の意味が別というのと、ザラコクの主張とはなんの関係もない
因山爲墳、冢足容棺 は 山に因りて墳と為し、冢は棺を容れるに足る だが
山を墳に見立て、冢は棺を容れられる程度の小さなものにせよという遺言であって
山のように大きいものが墳で、棺を容れるだけのものが冢という意味ではない
山のように大きな冢を作らないようにという遺言 冢は山のように大きな高墳を含む概念<
孔明の頭の中では、
墳は、山のようなサイズのもので、
冢は、棺を容るに足る、のようなサイズのもの、
という認識であったから、
因山爲墳、冢足容棺、と書けた。 ユニークアクセスすくなひこな?
まーごけんとーあれ 半分以上荒らしだし書き込んでる奴は10人も居ないかもしれんな 395の>>784
>>知り得た範囲内の事実や実態からの推論。<
>知り得た範囲に一例しかなかったら、帰納的推論はできないんだよ
それが理解できてないからバカだっていうの! 島巡り仮説なんてのがその最たるもの<
一例であっても、
それに関する史料批判するだけで、最低でも正否の二つの確率的情報が得られ、
更に、その確率の割合を考察出来れば、幾らでも確率的情報が得られ、
幾らでも、帰納的推論の可能性が広がる。 >>865
>周朝と魏朝と西晋朝の「歩」は、
>一寸千里の「1里≒76,5m」と「1里=300歩」に拠って、
>1歩≒25.5cm≒1尺」の「短歩」であり「単歩」。
逆だ逆!
魏晋歩が1.45メートルだから、1里=435メートルで、短里がないことが分かるんだよ
短里原理主義とか意味ないってww >>845
>あほやなあ?
>和邇さん本家やろ
どうして本家の方が移動するんだ?ww
馬見古墳群の時代まで、葛城氏は移動してないぞww >>786
>>漢代以降も、短里の使用例が唐代頃まで残存していた。<
>一例もないよ
伝説上の山など、現実とは関係のないところで使われている大盛りに盛った数字を
短里の例だとかこじつけているだけ<
勿論、魏志などの短里記載情報の踏襲例もあるが、
梁書は、文身國や大漢國の位置説明に短里を使っており、
他にも、古田谷本共著の「古代史の歪みをただす」に、
列島の風土記や書紀の記載や、半島文書などに、短里の使用例をいくつか挙げておられた。 >>852
>世襲足媛は物部系尾張氏。
もう何でもありだなw
チェリーピッキング、サイツヨじゃね?
でもその前に、高天彦神社の近くに卑弥呼の塚なんてないことがはっきりしたから
左側スロープ君の立論は、根本から否定されてるんだよw >>845
>あほやなあ?
>和邇さん本家やろ
倭王の本家が和邇氏だったら、どうして和邇氏が皇統になってないの? >>875
>勿論、魏志などの短里記載情報の踏襲例もあるが、
>梁書は、文身國や大漢國の位置説明に短里を使っており、
天柱山も含め既に全部否定されてるよw 粟鹿明神って何やろー
阿波と関係があるのかな
アワカ、アワガ
香川、カガ
阿波も香川も元々は国境やったのかなぁ 短里は諦めるべきだが教祖様はもう居ないので信者は命尽きるまで彷徨うしか無いのだ >>876
>でもその前に、高天彦神社の近くに卑弥呼の塚なんてないことがはっきりしたから
いやしていない、ある。
その話以前のトヨについてはわざと話を避けてるが、
トヨ津媛以外の誰なのか言えないならもう黙ろうか。 395の>>794
>>周制への復古は、魏朝の政治思想や行事などの全体の方針になり、
明帝の頃にほぼ固まった。<
>これも大ウソ
周制への復帰は、景初四年正月問題を解決する便法として、1月をずらす理由にされただけ<
「明帝の頃」とは、暦法の改正ではなく、度量衡や短里採用の話。 >>877
>倭王の本家が和邇氏だったら、どうして和邇氏が皇統になってないの?
横レスだが、ヒミコの時代の王統は大物主。
和邇氏もその大物主系。
崇神がその大物主を倒した。
だから慰霊の為に大神神社を建ててるだろ。
お前が言う皇統はその崇神以降だから和邇氏が皇統ではないのは当たり前。
とはいえ和邇氏は孝昭を祖とするので見方によっては皇統ともいえるが。 395の>>796
>>王維が、阿倍仲麻呂の「帰る地」を「九州だ」と書いた事と、<
>そんんなこと書いてないし<
ハッキリ、戻る場所として「九州」と言っている。
>仲麻呂は日本に帰ると書いてる<
これも、問題。
「日本国」とは書かず、「日本」と書き分けており、
「日本国」であれば、旧唐書や唐会要の「日本国伝」の日本國を示すんであろうが、
「日本」では、
九州倭国の筑紫付近に「日の本」の地名が幾つか存在していた事と、
釈日本紀に、倭の使節が晋の惠帝に「日本」と名乗った、という記録を紹介しており、
旧唐書や唐会要も、「或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」というように「日本」と書いて、
区別しているように、見える。 >>881
>いやしていない、ある。
左側スロープ君がいくら文字を書き並べたところで、ないものはないって!
左側スロープ君が出してきた画像ではっきりしたじゃないかww
標高差って言ってたのは、ただの谷筋と尾根筋の高さの違いだし
西から見たらまったく上っていない
画像を出すごとに言うことがころころ変わるし、150メートルの円丘なんて
どこにもないww
天豊津媛命も「豊」一字だけの単なる語呂合わせだし
そもそも卑弥呼の塚がない時点で、左側スロープ君の考えた「僕の最強の葛城説」は
最初っから破綻してるww >>884
>とはいえ和邇氏は孝昭を祖とするので見方によっては皇統ともいえるが。
いや、それ単なる皇別氏族
本家じゃないだろ? 395の>>800
>仮に箸墓や西殿塚を築造したのが大和朝廷ということになると、
天皇家の出自は吉備王家なんだろうか?<
大和朝廷も天皇家もなかったが、
8世紀〜現代の「天皇家」の出目は、新唐書に拠って、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から大和に別れた神武らの後。 >>881
>その話以前のトヨについてはわざと話を避けてるが、
「その話以前」も何も、卑弥呼の塚がない時点で、トヨ云々は単なる語呂合わせにすぎず
何の根拠もないものになるんだよ 395の>>803
>久住猛雄の「比恵那珂遺跡群」では、庄内甕と筑前型庄内甕の時代を3世紀半ば頃から後半としている。
また、宇美町の光正寺古墳の築造時期からしても、大和が博多地方に影響力をもちはじめた時期が推定できる。
大和の庄内編年を基準としている。<
久住の大和側の庄内の年代比定根拠や使用胎土の地名と、
筑紫側の庄内の年代比定根拠や使用胎土の地名の、
それぞれ、両方を提示してもらう必要がある。 延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある
同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある
また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
これが平安時代の朝廷の認識
アマでも日でもないと書いてあるだろ
天照大御神が皇祖神にされたのは明治
勝手なことをした明治政府の罪は重い
国家神道を作った馬鹿たち 395の>>820
>どうしてザラコクは殉葬って書けないんだろう?
宗教的理由か? <
変な男。私は「殉葬」と書いている。 395の>>848
>石垣は難点のある地形で安定的に築造するための措置だとかんがえられている。
築造順について、荒井研究所の荒井仁氏の記述は、次のように書かれている。
「…前方部第1段階は後円部第1段階と、前方部第2段階は後円部第2段階と、前方部第3段階は後円部第3
および第5段階とともに施工され、前方部は後円部と一体に完成したと考えられている」<
成程。 敏達天皇
538年、百済で生まれ育つ(百済大井宮)
青年時代は父、欽明天皇の念願である任那復興のため、百済に駐在して百済や新羅との交渉にあたる
百済にて百済王族の広姫を皇后とし、押坂彦人大兄皇子を生ませる
新羅との交渉により「任那の調」を送ることを約束させる
押坂彦人大兄皇子を任那に駐在させる(水波宮)
572年(34歳)父、欽明天皇の崩御に伴い倭に帰国
改めて額田部皇女を皇后に立て天皇として即位、皇居を訳語田幸玉宮(奈良県桜井市)に移す
585年(47歳)崩御 敏達天皇の皇居は百済大井宮
舒明天皇の皇居は百済宮
百済に住んでいた
つまり百済の王子が倭国に人質として来ていたように、
倭の王子も交換人質として百済に行っていたってわけだよ
「百済宮」って書いてあるのに無理矢理日本の地名に当てはめようとする旧来の解釈は意味がわからないわな
普通に考えて、同盟の条件として百済が王子を人質に出すなら、倭国も同じことをするだろう 395の>>868
「南→東」などの嘘吐き騙しちゃんの脳内の妄想を、
基本的な知識と称するのが、
大和説者とスレ主くん。 >>890
筑紫側の庄内の年代比定…という意味が分からんが。
大和の庄内式と時期が合う筑紫の土器は西新町式だが。 395の>>869
それ
俺様の「南→東」などの嘘吐き騙しのスゴイ新説を理解できないのは、
おまえらがパーだからなんだよぉぉぉの、
という・・・ いつものパターンな。 畿内説の人たちは、崇神天皇と卑弥呼の関係についてはどういう整理にされているのでしょうか?
卑弥呼が記紀のモモソヒメだとすると、魏志倭人伝の記述とだいぶ違うなぁという気がするのですが。 >>884
崇神は宮中からアマテラスを追い払って、蛇神である大物主を祀ってますよね。
それが大物主を倒したと言うのには無理がないですか? >>901
倒したから祟られないように祭るんでしょ
周だって殷王家を祭ってるわけだし 戦後に行われた籠神社の宮司と出雲大神宮の宮司の対談の記事を見たことがある
お互いの秘密を暴露し合っていた
籠神社には隠してある【主祭神】がある
出雲大神宮の祭神の中央は【空位】になっている
という内容だった
筆者はどちらもクナトの神だろうと推測していた
籠神社の本当の主祭神は天火明命ではないんだろうな 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 記紀の人物比定なら安彦良和のマンガで十分よ
実在すら定かでないのに正解なんて出しようが無い >>904
火明命は、籠神社の海部氏の氏神だからなあ。
その海部氏の祖神である火明命が奥宮真名井で祀ったのが、豊受比売神。
籠神社には隠した神がいるて、どういうことなのかなあ。 >>895
>倭の王子も交換人質として百済に行っていたってわけだよ
というか、1つの王家だったのかもね。 倭文神に屈服したホシノカガセオは何処にいたのだろうか?
武甕槌の進軍経絡から言えば、瀬戸内海と思われるが 前方後円墳の形は「勃起したチンコ」に似ている。
「稲妻」という言葉があるように雷が妻で、台地が夫である。
「稲妻」は「稲交接(イナツルビ)」とも呼ばれており、雷が台地を孕ませて稲が出来ると考えられていた。
昔から「雷の多い年は豊作になる」と言い伝えられている。
雷(妻)を勃起した前方後円墳(チンコ)に落雷させて
生まれ変わりの儀式を行うのが前方後円墳であると思われる。
※交接は、交尾するという意味の言葉 そういや石塚古墳はその周囲に方形周溝墓や土坑墓があるのが確認されているな
時期は前後するけど
方形周溝墓とかが一族の墓を集中的に墓域の中に作ると言う方法が一般的なことを考えると、周囲に墓を固めて作るのは別に珍しい物でもないだろうな
こういうのを殉葬とか呼んでいたのかも知らんね 俺もそう思う
⇓
>>849日本@名無史さん2018/11/07(水) 20:43:08.20
前方後円墳の作り方教室は終わった
完成形は前方後円墳でいいんでねーの 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541619466
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>909
>海部氏の氏神は海神だろ
そう、海部氏は読んで字のごとく、阿波国旧海部郡周辺の海人族
と、何度言えばw @阿波 935の>>927
>九州説の悲劇・・・吉野ヶ里・・・<
こりゃ、全く「大和説の悲劇・・・纏向・・・」という話とそっくりだね。 >>934
>>史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論。<
>確認できる全ての史料が、「歩は複歩」であることを示しているんだが?
機能的推論の余地すらなく、全てが「歩=複歩」だ<
誤魔化して、世間の人々を騙そうとしても無駄だよ。
周朝が採用した一寸千里の法が、
谷本確認計算という史料実態に拠って、
「1歩≒25.5cm≒1尺」という「短歩=単歩」である事が判ってしまっていたんだよ。
つまり、秦政府や始皇帝の「1歩=6尺」という「複歩的規定」の方が、
史料実態の曲解改竄であったんだよ。 >>936
>>当然「その後の学者」というのは、
魏朝や西晋朝の直属の学者ではなく、それ以外の学者ら、という意味。<
>バカか? バカだったなwwごめん
前スレの>320でザラコク自身が
「漢代の学者が、「歩」を、「止まっている状態」ではなく 、始皇帝の命令に従った解釈をし、
その後の学者らも、漢代の解釈を踏襲したから。」って書いてるじゃないかww
「漢代の学者」と「その後の学者ら」の間に、「魏晋代の学者が入るけれどそれはノーカン」って、
詭弁にもなりゃしない <
あっそう?。・・・・アホ詐欺師であったの?。
ごめんごめん、ついうっかり、・・・・をまともに相手にしてしまった。
私の説明相手は、世間や国民の皆様だった。
魏朝と西晋朝が周制への復古の方針で、周髀算経の度量衡を採用した、という事は、
もう数え切れない位説明して来てあったんだから。 >>942
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者や、
スレ主や、学会教育界や、右翼マスコミや、
文化庁や安部自民文部省が正常である、とは言えない… 。 >>943
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者らは、漢文が読めないだけではなく、
漢文を否定曲解したコメントするからバカにされるんだよな。
二次情報だけで議論に参加しても、頭の足りなさや知識の足りなさが露呈するだけ。
しかもその二次情報が、旧石器捏造犯や、
唯我独尊人種差別殺戮戦争狂のキョクウの学会教育界や、
右翼マスコミや安部自民文部省経由だから、どうにもならんww。 >>944
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
まともな学者らだけじゃなくて、
国民の7割にまで不人気だからな。 >>887
>本家じゃないだろ?
だからなに?
和邇氏の祖はトヨ
その3世代前にヒメ
おまえのは反論でなくていちゃもん。 >>953
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って、
稲田や高市や明恵明恵らのような・・・・女性も含めて、
精神的にも顔貌的にも、異常者の巣窟であったらしいな。 >>955
またも常惨敗者大和説が発狂してるようだな。 >>957
「南→東」などの嘘吐き騙しで惨敗の大和説。
できることは、荒らしだけ。 >>900
>畿内説の人たちは、崇神天皇と卑弥呼の関係についてはどういう整理にされているのでしょうか?
>卑弥呼が記紀のモモソヒメだとすると、魏志倭人伝の記述とだいぶ違うなぁという気がするのですが
そうそこを聞いてみたいね。
俺は畿内でも葛城説だから葛城にいたトヨの治世が終わるころに箸墓ができて、
実質の王権が磯城(しき)に移行したと思ってる。
その以降は武力ではなく女子力。
物部の世襲足媛、ウツシコメ、イカガノシコメあたりが色仕掛けで実験握った様な感じ。 >>970
>どうやって勝者がそうなるの?<
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説者が、敗者になったの。 >>925
>だからなに?
だから、倭王が中華皇帝から下賜された王宝が、
王統ではない傍系に伝承されると考えているのがご都合主義
まあ、左側スロープ君の論立ての根幹だった高天彦神社近くの
径150メートルの塚が、思いっきりガセネタだってことがはっきりしたから
何を言ってもムダなんだがな
重箱の隅じゃなくて、重箱がなかったって話だよ >>974
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
負け続けすぎたトンデモ大和説信奉者は、
結局最後は、顔貌も性根が歪むのさ。 >>892
>変な男。私は「殉葬」と書いている。
気づいてないのか?
いつもザラコクは「jun葬」って書いてるんだが? >>929
>俺は畿内でも葛城説だから葛城にいたトヨの治世が終わるころに箸墓ができて、
葛城って、王都らしい集落遺跡 あるのかね? 神社だけが頼りの説? @阿波 >>982
>どっちとも帯方から1万里で倭地な
偶然の一致ではない
さもなければ漢も魏も短里を使って計測したという事になってしまう
そうではなくて帯方から倭地まで1万里
女王国まで1万2千里は実測ではない概念上の数字 <
バカだね。
大月氏記録は長里的。
魏志の倭地への記録は短里的。
だから、関係のない別情報。 >>900
>卑弥呼が記紀のモモソヒメだとすると、魏志倭人伝の記述とだいぶ違うなぁという気がするのですが
記紀の系譜は、だいぶ現実とは違うなぁと思ってるよ
おそらく古い口伝は、「○○の大王、××の宮で天の下しろしめししとき」のような形で
大王の継承順だけが記憶されていて、系譜的なつながりは残ってなかったのだと思う
それをすべて直系父子相続として強引に繋いだのだろうと思っている >>920
>周朝が採用した一寸千里の法が、
これが大ウソ
周朝はそんなものを採用していない
>谷本確認計算という史料実態に拠って、
谷本氏の間違いだと結論済み
九州説は情報がアップデートされず30年前の知識しかないから話にならない >>934
>葛城って、王都らしい集落遺跡 あるのかね? 神社だけが頼りの説? @阿波
宮跡って基本は神社になってるね、崇神もそうだし。
葛城には3世紀、またはそれ以前の複数の式内・名神大社が存在している。
そんな地域は日本の中でも葛城だけだ。
その中でも特にわしが注目してるのが名柄遺跡のある長柄神社。
別名「姫の宮」だ。
名柄遺跡は弥生中期。 葛城は実は王都で
土蜘蛛と称される人々が初期天皇家の係累だった説が最近の流行り。
葛城から天理市に都が移るのは
和邇氏が一時期皇統になったからよん。 >>921
>魏朝と西晋朝が周制への復古の方針で、周髀算経の度量衡を採用した、という事は、
>もう数え切れない位説明して来てあったんだから。
これも大ウソ
でもザラコクの脳内では真実だと思い込んじゃってるからどうしようのない >>925
>だから、倭王が中華皇帝から下賜された王宝が、
>王統ではない傍系に伝承されると考えているのがご都合主義
倭王が中華皇帝から下賜されたものは五尺刀一本ではないのだが?
まぁ一族で別けたのであろうね。
それが全部出土すると思ってる君の頭の中ってwww >>722
「有棺無槨」の「槨」とは【埋葬後に人が出入りできる出入り口付の】構造物を言う。
ホケノ山のように「棺と副葬品を密閉するだけ」の目的で造られ、【出入り口もなく埋葬後に人が出入りできない】ような構造物は槨とは言わないから、「有棺無槨」で良いのである。。 >>936
古代人が一番関心があるのは「系譜」ですよ。
記紀では、神代も人の世も、ひたすら系譜の話にボリュームを割いています。
例えば業績の少ない天皇などは、系譜の話しか書かれていない。
これはどう思われますか? 度量衡変えるくらいなら漢字も元に戻すわな
秦や漢で整えられた漢字を使う必要は無い >>938
> 宮跡って基本は神社になってるね、崇神もそうだし。
だから、その宮を支える民草が暮らした集落遺跡はないのかね?
葛城って、王都らしい集落遺跡 ないのかね? 神社だけが頼りの説? @阿波 >>943
古代は「馬の骨」や「鰯の頭」を拝まないようにするために、当時貴重だった紙で系譜を残した。
競争馬でいう「血統証」と同じで、なければ値段が付かないw >>943
>古代人が一番関心があるのは「系譜」ですよ。
そんな「系譜」以前に、民草が生きていく集落遺跡だよ。 古代人が一番関心があるのは。 @阿波 >>943
>古代人が一番関心があるのは「系譜」ですよ。
えーとこの、ぼんぼんの発想。 @阿波 >>607
古墳時代は邪馬台国の痕跡を消しつつ、大和朝廷の威光を示すために、前方後円墳が全国に造られていった。
その国家事業が完了したからこそ、飛鳥時代の仏教祭祀へと埋葬方式が変化したのである。 >>950
>大和朝廷の威光を示すために、前方後円墳が全国に造られていった。
大和朝廷は8世紀から
と、何度言えばw @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>950
なるへそ...4世紀初頭にはすでに東アジア標準となっていた仏教を、倭国が受容するのは6世紀末だもんね >>943
抗争してた部族同士が手打ち式をやるとき
「ワシら元は兄弟」
ってフィクションを作るんだよ
それで調停役を務めた偉い立会い人さんの6代前当主の弟とかにして登録してもらうのさ ..956
なるほど、
万世一系とは、「ワシら元は皆兄弟」の意味か! >「ワシら元は皆兄弟」
「ワシら元は皆忌部」
と、何度言えばw @阿波 >>983
>渡来鏡師については何故鏡以外のものを遺さなかったのかという疑問があるな<
そりゃ、渡来鏡師らは、呉も滅んで帰るところも無くなってしまえば、
沢山の鏡を残す他は、倭地で生きて子供を作って死ぬしかなく、
骨や遺伝子を残すしかないんだろう、と思うよ。 >>984
>>逆だな。
若しも作者が魏にいたのであれば、
「銅は徐州だ」なんて言っても何の自慢にもならんし、
「師は洛陽出身だ」なんて事も何の自慢にもならない。
という事は、この三角縁の作者は、中国以外の場所にいて、
そこでは、「銅は徐州に出て師は洛陽に出ず」という事が誇りになる、
という事であり、
この△は、河内の国分の出土であるから、
この作者の鏡師は、渡来して来た呉系の楽浪鏡師のであった可能性が高い、という事。 <
>自慢じゃなくて事実を坦々と書いただけだろ <
鏡の銘文に「作者の事実を坦々と」書かれちゃ、
購入者にとっては迷惑なだけだよ。 >>987
>国内で作られた鏡は国内生産銅鏡の線分として出るから
素材の銅が魏晋鏡と同一なのは三角神獣鏡縁が
魏晋鏡である事を肯定し魏年号、銅出除州師出洛陽などの文言は
国内の呉系の楽浪鏡氏の関与を否定<
国内の△は、
明帝の下賜の銅鏡百枚にはならず、
渡来して来た呉系楽浪鏡師らの材料銅であった、
という事で、説明が十分に出来るもの。 >>990
そんなにテンプレが可愛いのかい?。
まあ、素人でもこれを読み、「南≠東」などの嘘つき騙しの指摘だけでも、
大和説を全論破できるようになる位、だからねww 。 >>997
>>「銅は徐州だ」なんて言っても何の自慢にもならんし、<
>「銅はdoko産だ」って銘文なら中国で普通にあるぞ<
だから、銅鏡に「銅は徐州だ」なんて書いたって、倭人には何の価値もないんだよ。 >>1000
九州説が盤石すぎて、
「南≠東」などの嘘つき騙しでは太刀打ちが出来ず、
トンデモ大和説ガキらを狂わせたら。 >>1000
九州説が盤石すぎて、
「南→東」などの嘘つき騙しのトンデモ大和説ガキさんらの、人生を狂わせた。 >>965
役人でも文人でもない一介の職人が、そんなことまで気が回るわけないだろ >>941
>倭王が中華皇帝から下賜されたものは五尺刀一本ではないのだが?
それはよいとしても
>まぁ一族で別けたのであろうね。
これはもう、言いっぱなしの「何の根拠もない想像」
そして、その前に高天彦神社近くに卑弥呼の「塚がない」んだから
左側スロープ君の立論は全て破綻していて何を言っても無駄 >>943
>例えば業績の少ない天皇などは、系譜の話しか書かれていない。
>これはどう思われますか?
系譜は,書かなきゃいけなかったから書いた
各豪族と皇統を結ぶ(=皇別氏族とする)目的で系譜を整えた
の2点でいいだろう
そして、実際の系譜については伝承がなかったから、
大王の継承順の伝承に従って、全て父子直系相続とした
まあ、想定できるのはこれくらいだね
情報が少なすぎるから、「憶測、想像の隣」の程度の論証しかできないし
それ以上を言うのはただのトンデモ >>947
>古代は「馬の骨」や「鰯の頭」を拝まないようにするために、当時貴重だった紙で系譜を残した。
木簡 >>950
>古墳時代は邪馬台国の痕跡を消しつつ、大和朝廷の威光を示すために、前方後円墳が全国に造られていった。
大間違い
「邪馬台国=大和国」中心の祭祀連合が成立=「卑弥呼の共立=ヒメ王・祭祀王の統一」
前方後円墳は、その連合に参加しているという証 >>957
>万世一系とは、「ワシら元は皆兄弟」の意味か!
そうだよ
日本(倭国)は、擬制的家族として国家を表現している
皇統はその総本家・本宗家で、天皇は本宗家の家長
日本はそういう構造 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>970
>>まぁ一族で別けたのであろうね。
>これはもう、言いっぱなしの「何の根拠もない想像」
2口のうち一つが見つかったならもう1口がどこかにあるはず。
あたりまえなのだが。
そして、その前に高天彦神社近くに卑弥呼の「塚がある」んだから
箸バカ円墳先造君の立論は全て破綻していて何を言っても無駄 >>945
>だから、その宮を支える民草が暮らした集落遺跡はないのかね?
日本最古最大級の中西遺跡から古墳時代の鴨都波遺跡までいろいろあるんじゃない?
高天原は神々の住まいだから平民は暮らせなかっただろうけど、 自説の憶測を根拠に他説を否定する奴はその時点で間違ってるだろ >>977
小便爺さん以外誰にも見えない「塚」のことだろうか >>977
>その前に高天彦神社近くに卑弥呼の「塚がある」んだから
もう、本当に無能で無脳
左側スロープ君の貼り付けた画像
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/67_137f27c647.png
円丘ではないと言われて貼った画像
https://goo.gl/maps/1Z6MRTKx9iB2
明らかに、横長の雑木林で、塚がどこにあるのかも不詳
検証画像 白線部分は278メートル
https://i.imgur.com/J9GI9e5.jpg
さらに150メートルと言い張るための画像
>奴婢埋葬痕跡のある150mの前期墳墓w。
https://yahoo.jp/Vb3hX8
>前にも言ったが参道を歩いてると急に盛り上がる部分がある。
>そこから計測して何が悪い。
その検証画像
https://i.imgur.com/XqaI9PY.jpg
青い点が蜘蛛窟のところ
赤い点が左側スロープ君の言う道の傾斜が変わるところだよ
3Dを傾けると分かりやすい
https://i.imgur.com/8cHUHKW.jpg
最後に出してきたYahoo!mapの
https://yahoo.jp/L_i5xA
最初の画像と指摘している部分が全然違うww
そしてこの左端の標高を示す図(グラフ)では、
「西側が平らで塚なんてまったく存在しない」ことが一目瞭然ww >>978
>日本最古最大級の中西遺跡から古墳時代の鴨都波遺跡までいろいろあるんじゃない?
たったそれだけ?
だから、その宮を支える民草が暮らした弥生集落遺跡はないのかね? @阿波 あれは巨大古墳の想定だとあまりに低過ぎるかな
上部が削られたなら既に墓室が露出してるんじゃね
川側からは土取りが出来ないだろうから当時の土木工法とも合わない
また楕円墳なんて他に類例あるの? http://yahoo.jp/L_i5xA
左端の標高を示す図(グラフ)では、
「東側が塚である」ことが一目瞭然ww http://yahoo.jp/L_i5xA
左端の標高を示す図(グラフ)では、標高差 36.5m
完全な塚だwww >>983
>たったそれだけ?
日本最大級だよ。
>だから、その宮を支える民草が暮らした弥生集落遺跡はないのかね?
橿原考古研のHPをまた見ておくよ、何かあるはず。 ほぼ葛城スレになってきたwww
それだけ箸バカ説には説得力がないという事www >>990
常に事実の逆を言う男に
このスレは褒められた
wwww >>991
トヨを明確に出してるワシに対して君が対抗馬を出せない時点で勝負あり。
邪馬台国はトヨ津媛が住んだ葛城である。
終了wwwwwwwwwww >>988
>左端の標高を示す図(グラフ)では、標高差 36.5m
西側の道の農業小屋前と標高差2.5m
塚ではない >>993
なんで対抗馬とか出さないといけないの?
塚はない
葛城終了 こっちばかり書き込まないで自分とこの本スレ盛り上げてきたら? >>993
いいかげんなモノを出すと負けが確定するって知ってる? >>996
とんでも葛城スレなんて、訪れる人もない閑古鳥スレだろ 誰にも見えない円墳とかスロープとか言い張る時点で
嘲笑しか買えないのは決定済みなんだよね このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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