邪馬台国畿内説 Part404
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543505552/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、 卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。 ◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位 系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。暮壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。 ◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし >>87
>A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
だからそんな時期はないってw
無茶苦茶やな、zarakokuと変わらんぞw >>89のように
トンデモ説は決して理由を言わない 卑弥呼の墓は箸墓ではない。
だからと言ってホケノ山や勝山だとするのはさらに迷路に迷いこむ事になる。
卑弥呼の墓は日本の歴史の原点である高天原にあるからだ。 >>92
見えないも何も地元の墓域なのは事実。
太古からそうであったのだろう。
ま、せいぜい箸墓に奴婢の痕跡を探したまえw
一生かかっても無理であろうがww 迷路に迷い込むというより、
ホケノ山や勝山マターの諸君に任せた(もう、オラしらね・・) >>93
ぶぁかたれが!
ただの雑木林かと思ったら、
お前地元の人たちの墓域で立小便したのか
なんちゅう非礼な爺だ >>96
俺が小便したのは高鴨神社ご神体横のフェンス。
社務所まで戻るの面倒臭いからね。
祭神が神殿で糞をしたスサノオ= 迦毛大御神(かものおおみかみ)=アジスキタカヒコネなんで文句も言われまい。 >>727
>金印を保管していたと言われる細石神社。
神社の建築は古代の王宮そのものだ。
三雲地区は硯が出土したり郡使も滞在した中心行政地区だろう<
成程。 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf 纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の中では瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。 >>735
>>>726はザラコクの意味不明な書き込みの解説だよ?
水行の起点を帯方郡からにするのは、古田史学関係なしでバカ読み<
またこの・・・・大和説男が、変な事を言ってるな?。
「從郡至倭、循海岸水行・・・」だから、郡出発は、水行だ。
>水行陸行を無視しないとダメな時点で九州説はおかしい <
「無視」なんてしていない。 石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」
森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」
白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」
菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 ホマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重の原料となります。 >>99
高鴨神社の境内で立小便するくらいなら
ただの雑木林でやれ
ばかたれが >>750
>「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。
同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。<
成程。凄いね。
梁書は、日本でも文身國や大漢國で、短里を使っていたが、
インドシナ〜インドでも短里を使っていたんだね。 風と言えば、風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
火と言えば、カグツチか。カグツチと鴨はどういう関係があるのか? >>751
>更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。
結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当
である。<
成程。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか? 杵築大社の天井図、八雲が一つ欠けて七つしかないだろ?
出雲地方で【オオナムチ】以前に信仰されていたのは【幸神】、【東!】から来て文物をもたらした【クナトの神】、そして二神の子【サルタヒコ】
追放されたんだろうな。八雲が欠けた理由
八雲を出た一族、出雲。
逃れたサルタヒコが見つかったのは、天の【八衢】
道が幾つにも分かれるところ、【方違】
堺に方違神社があって、方違【幸】大神が祀られている
畿内に逃れてきた幸神一族、出雲族と元々畿内にいたクナト族が一緒に国作りをしたんだろう
1世紀半ば〜2世紀後半の出来事
倭国大乱前に畿内にあったクニは、この二つの勢力が中心となってできたんだろうな
【八衢】と延喜式祝詞にある道饗祭の神々との関係が興味深い
【八衢】彦、【八衢】姫、クナト
上記の神々は、高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。 スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します 3世紀前半。
大和は纏向連合政権。
纏向の前方後円型墳丘墓は連合有力勢力派遣の持ち回り代表祭祀者の墓。
北部九州は邪馬台連合政権。
卑弥呼の宮室は山門。
卑弥呼の墓は、現時点では久留米の祇園山古墳が最有力。
中国魏の政権は、大和の連合政権を非常に気にしていた。
大和は卑弥呼と博多を攻めるのではないか、との情報を入手していた可能性がある。 >>752
>沃祖の墓制
東夷伝に沃祖の墓制の記述がある。
「其葬作大木槨、長十餘丈」とある。当時の単位と言われる「丈」であれば長さが23m以上と言う事である。
幾ら大木槨と言っても25mは長すぎであろう。五分の一で5mくらいの長さでも大木槨で十分通用する。
沃祖は洗骨を実施して小さな骨壷として家族の墓としていたのだから。 <
丈は尺寸系の単位であり、
1丈=10尺で、1尺は3世紀頃は23〜24cmですから、
「十丈余り」は、2.3〜2.4mとなって、丁度よい寸法になり、
しかも、短里では1歩≒1尺ですから、
沃祖でも短里を使っていたのではないか、という事の傍証にもなります。 倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか? 仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか? >>755
>1里約430m 不彌国までが1万7百里は倭地まで1万里に割り当てた数値 <
魏使らは、そんなズボラをして、バレたら首が飛ぶから、しない。
>残り1300里は普通の里で約500kmに換算 <
魏使らは、そんな騙しをして、バレたら首が飛ぶから、しない。
>なぜなら魏に短里など存在してなかったから 陳寿は当然その感覚で書いている <
陳寿だけではなく、魏略の筆者も、魏使らの記録を採用しているから、
魏使らの記録は、短里であった。
>九州南端か東に行けば畿内に到達<
「南≠東」だし、畿内なんて存在もしない文言だからでも、×。 ミソサザイは鳥の王様という昔話がある
ミソサザイが猪の耳の中に入って暴れ回り、猪は石にぶつかって倒される
耳の中に入るとはどういう意味なんだろうか?
ミミってなんだろう >>757
>九州説は小保方脳なので新しい単位を捏造する事も平気<
大和説者は、
小保方の研究成果を妬んで「幹細胞の作り方を小保方に教えなかった」若山脳なので、
陥れる証拠の捏造する事も平気。 >>768
「南→東」などの嘘吐きばかりをし、
おかしな中傷ばっかりしてる大和説が、
国民の7割から相手にされなくなるのは、
理の当然。 >>782
は?.
具体的な計測と結果の提示なく、「長里」だけがある、と断定されても返答しかねる。
追試ができないから。
帰納的にそういう単位があると立証して主張するなら考慮するよ。
そうでなきゃ、過大な計測誤りの実例として、大和説が非難されるだけの事例だ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 狗邪韓國の比定地は畿内説では何処?
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
郡から狗邪韓國まで7000里まで 長里(1里430メートル)だと約3000キロなのだが
海岸沿いでも、1,000キロもいかない
また倭人伝の記述では郡から狗邪韓國まで海岸沿いだから、
海岸沿いでも、1,000キロもいかない
>>790は不正解となる
>・海の距離は測れない ・遠くの国は遠めに書く ・伝聞で不正確
の合わせ技だろ >>955 :::::::、、、、、、、
畿内説の会稽東治の東の九州説への反論はこれで済み
7世紀でも日本は中国からみて日本は東だよ
「日出処(日本=東)の天子書を没する処(隋=西)の天子に致す」 >>978
テンプレの論では「行程はアテにならない」でしょ
これってご都合主義だよ 御都合主義で倭人伝を解釈するなら邪馬台国はいたるところに存在してしまう
あなたに南⇒東の明快な解説を望んでるんだが・・まじで解答くれないか 981畿内説への素朴な疑問2018/12/07(金) 18:35:29.73
魏の使者が邪馬台国に一回しか行っていないなら、
南⇒東の誤認の可能性は低いが少しは譲歩できるかも
しかし
一回しか行っていないのなら、卑弥呼の墓の径百歩は伝聞??
さて
畿内説では魏の使いは何回 邪馬台国に行ったのですか? バカは何度行っても理解しないが、水行は海の沿岸航行
ただし川でもガンジス川、ソンホン川クラスの、現在でも内陸航路に使われている大河では
後の史書で水行とされている例がある
しかし、大陸史書の地理・旅程記事で、これ以外の川の水行は一例たりともない
川の水行はない! >>129
南⇒東の明快な解説ならテンプレに書いてあるだろう?
読んでないのか? >>130
1回で譲歩できるんなら
2回でもできるよな? >>134
おばかさん
2回目は南に進むから畿内に到着しない >>133
FAQ3のA
>行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。 石野も寺澤も邪馬台国畿内説から少し離れ、
ヤマト王政の成り立ちの研究に変わってきたみたいだね
纒向は邪馬台国の王都とのトーンが下がったみたいだね 138日本@名無史さん2018/12/08(土) 06:04:59.55
>>133
FAQ3のA
>行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えない
中國の正史にイチャモンつけるなら、日本国内でなく中国に言えよ>>1
倭人伝を解き明かすのが日本の研究者の姿勢じゃねーか
短絡的にあれこれへ理屈つけて南を東にするなよ
中國にへ理屈つけて、説明してこいよ・・正史は間違ってるとな >>102
それ全部、「東阿波型土器」が源流。 @阿波 >>120
>仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
>弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか?
その犯人は「忌部はん」。 @阿波 >>139
>石野も寺澤も邪馬台国畿内説から少し離れ、
そりゃ、いっぱしの考古学者なら、倭国(阿波)の遺跡を目の当たりにすれば、そうなるよ。 @阿波 ここのテンプレみたいな妄想を信じている学者様はいないと思うよ。
テンプレは嘘だらけと言うことだ。 >>101
>私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
高天原を無視してるからこんな妄言になるわけだ。 学者さんは圧倒的に畿内説だから九州説は嘘ばかりという事になるじゃないか ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>101
>新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
ニギハヤヒだしw
学者さんというのは「〜命」とかそう言う名前を出せば自分の沽券にかかわるとでも思ってるのか。 >>788
>そもそも「長里」なんてないんだよ あるのは、漢里あるいは魏晋里だ
「短里」などという捏造をするから「長里」などというものまで作らないといけなくなる 「短里」という単位があって、その単位で距離を実測したというのは、完全に否定されてる<
議論に負けたからって、興奮するな。
周朝や魏朝西晋朝が公定した里は、1里≒76.5mの里であり、
秦朝や始皇帝の私的な里は、1里≒430m位の里であり、長い里だから、長里だ。
>現実は、西域の大月氏を朝貢させた曹真の功績に見合うように、
東夷で最遠の朝貢国・倭国を遠く見せかけるために、淮南子に見える世界の果てまでの
距離を女王国までの距離に当てはめただけ
晋の高祖・司馬懿の功績を褒め称えるために、距離を誇張して盛ってあるだけだよ<
西域での使用里と、東夷での魏使らの使用里戸隠神社、違っていたらしいだけだ。 >>949
しゃーねえな
悪いが細かく書くのは面倒だから端折るが
魏志倭人伝の行程で
里数の書いてある帯方〜不彌国までの里数を合計すると1万7百里
ここまでは倭国まで1万里という漢の伝承に沿って国々の間に
そうなるように距離を当てはめていった記述
そして帯方より女王国、邪馬台国までは1万2千里だから残り1300里
不彌国より残りの1300里を陳寿は1里75mの短里ではなく
1里430mの感覚で書いている
なぜなら魏で使われた尺度が記載されてある律歴志には
短里じゃなく普通の里しか載ってないから
1魏里430mだから1300里は約500km
不彌国から南へ水行するんだから九州南部に到達
東へ行くとするなら畿内に淘汰もする距離 これ、魏志の里程が書いてある数字は妄想で、日程しか記載がない箇所が、一里430mの実測と言ってわけでしょ。
まさしく文献無視の畿内説って感じだよね。
頭おかしいんじゃない? 前スレで >>151 を書き込んだノータリンは、
陳寿が、里程を測ったところを里程を使わず、わざわざ日程で書いた理由を説明しろよ。 >>152
短里なぞ存在してないから
そうなるのは必然だろう? ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>155
「短里が存在しない」という前提から出てるので、
論点先取り、結論ありきだな(笑)
やっぱり文献無視の畿内説だな >>152
実測ではなくてそういう想定で辻褄を合わせているという事
伝承で帯方から倭国まで1万里
その都まで2千里だから
九州上陸で1万里
不彌国までで計1万7百里
邪馬台国まで1万2千里だから残り南に1300里
1里75mの短里なんてないから
陳寿の感覚では1里430m
南に1300里は約500kmで九州南部か
東なら畿内にも到達 対馬海峡が三千里なんだぞ。
残り千三百里でどうやって畿内にたどり着くんだ? >伝承で帯方から倭国まで1万里
どこの伝承だよ??
妄想むごすぎ >>149
>ニギハヤヒだしw
>学者さんというのは「〜命」とかそう言う名前を出せば自分の沽券にかかわるとでも思ってるのか。
そうなんだよね。
三島溝杭耳の東征、饒速日の東征、神武の東征のコンボで九州から畿内に弥生文化が拡散しただけなんだよ。 >>159
魏で塚wれた度量衡を記した律歴志では
1里=300歩=1800里とあり
1尺は約24cmの当時のモノサシが見つかってるから換算すると
魏の1里は約430mと判明していて定説であり常識
そっちこそ魏は短里という前提だから話がおかしくなる 短里を主張するなら中国で認められるように活動しなって >>162
1300里は1魏里430mで換算すると約500km
東に九州北部から畿内に十分到達
まあ実際は1万2千里が現実の場所を指してるわけではないけど >>163
倭まで1万里
その都まで2千里と
魏志倭人伝か後漢書だったかにはっきりそう書いてある >>165
>そっちこそ魏は短里という前提だから話がおかしくなる
そんなことを言うのはザラコクぐらいだろ。
東夷では短里だが魏では長里だったので、報告書を読んだ中央の人間は、倭が実際よりも南方の会稽の東にあると思い込んだんだよ。
だいたいキナイコシの反論は的外れだから、何にも説得力がない。
ごまめの歯ぎしり。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>170
九州上陸で1万里で
それから女王国まで南に2千里なら
九州北部にはならないね
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部(饒速日の末裔)ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 >>172
対馬海峡が三千里だから、二千里はそれより短い。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>121
魏使か魏の学者が皇帝に上げる報告書まとめる時に
倭まで1万里でその都まで南に2千里の当時の伝承に合わせる形で
伊都国までの行程の里をそれに当てはめたんだよ
陳寿はさらに邪馬台国までをそれに沿う形で付け足し
オマケに東1万6千里の大月氏と交流のあった呉に対抗して
南に4千里つけ足した >>174
>>175
比例計算とかそういったレベルの話ではない
九州説の短里説はあまりにも稚拙と言わざるを得ないな >>178
短里説こそ妄想
違うと言うなら必死こいて証明するこったな >>180
魏志倭人伝を無視していいなら、邪馬台国を畿内にでも関東にでもマレーシアにでも沖縄にでももっていけるよなw >>181
魏志倭人伝を無視しているのはむしろ九州説
畿内説は色々資料を比較して魏志倭人伝の記述を解明する
>>182
悔しいのう 里の長さの計算が実行されて、畿内説が破綻したのだね、、、 >>184
破綻したのはどうやら九州説のようだよ。。。 纒向は物部の屋敷。
邪馬台国と関係なく、中国との交流を示す帯方郡の楽浪土器もない。
九州北部は漢委奴国王印や平原遺跡や三雲南小路遺跡でもわかるように中国との関係が深く、魏の使いも滞在したところとされている。
郡使が九州を出ていないのに卑弥呼に金印を渡してその人となりまで伝えているのだから、邪馬台国は九州以外にない。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 倭人伝は、文字通り倭国・倭人についての伝記。畿内は倭国ではなかったのだぞ。
畿内厨は、畿内が倭国であった証拠を出せ。 韓国政府が応援を実行している、邪馬台国畿内説が嘘だと判明したので、日本国が対馬の領地を防衛できるのでは、ないのかな、、、 >>169
東夷は里を知らない
もし使われていたとするなら帯方郡にいたのは
漢の役人公孫氏なので漢里 >>189
天皇中心の戦争主義の右翼死ねだの言うザラコク見るように
韓国が支援してるならそれは九州説 >>790
>・海の距離は測れない<
一寸千里と大体の方向からの簡易三角測量や、日数測で、大体なら測れる。
>・遠くの国は遠めに書く <
セレモニーでもあれば、誇張があるが、そうでなければ、普通に計測する。
>・伝聞で不正確 の合わせ技だろ<
間違えれば罰せられる場合には、出来るだけ正確な報告をするもの。
>九州説でも「梁書の時代に短里を使ってた」と主張しているやつはいないぞ<
始めから、出雲文身國と越の大漢國の位置説明は短里であった、と説明して来ておいた。 文字通りって倭人伝という単語は東夷伝内に無いでしょ
勝手に我々が付けた名称に根拠めいたものを見いだしてしまうのが九州説の悪いところ
短里なんかの主張も同じ構造なのだろうな >>195
短里という言葉にこだわって、一里が100メートルである魏志倭人伝を無視しているのは畿内説の方だろ。 >>198
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 >>195
畿内厨が(魏誌)倭人伝というから倭人伝といったまでのこと。
それが気に入らぬのか。
ならば、畿内人が倭人とされた証拠を出せ。 まあそうだな
九州説は魏志倭人伝んの里を換算したら
1里約70mになったから短里はあったと繰り返すしかないわな
しかし度量衡を記した資料などから換算した1魏里は約430m
そして魏志倭人伝が短里で書かれてる証拠は
魏志倭人伝がそうかかれてるからだは循環論法に当たると言っとく >>198
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>793
>>つま先と踵をつけて歩くと測定できる。<
>また出たよww
「歩」は、文字の成り立ちから徹頭徹尾、複歩を表す文字であり
大陸史書では複歩の長さ以外では使われていない<
また出たよww。
「大股の強歩」になったり、「小股のちょぼ歩行」になったりするような、
恣意的で不安定な「単位設定」では、
度量衡単位としては使い物にならないもの。
だから、「一足底長」のような、万人にもほぼ共通する寸法で、
後から補正計測もできるような決め方にしなければならなかった。 >>797
>「短里は捏造」(合言葉)ww<
「短里は史料実態」(合言葉)ww。 阿波が、福津から鳴門までの間をチョロまかしとる
根性ワル、、、 ちょぼ足で歩いて帯方郡〜邪馬台国までの距離を測ったのか
普通に歩いて測ったほうが楽じゃね? >>802
>>現実は、西域の大月氏を朝貢させた曹真の功績に見合うように、
東夷で最遠の朝貢国・倭国を遠く見せかけるために、淮南子に見える世界の果てまでの
距離を女王国までの距離に当てはめただけ
晋の高祖・司馬懿の功績を褒め称えるために、距離を誇張して盛ってあるだけだよ<
>じゃあ「計其道里當在會稽東治之東」なんて記載したら台無しじゃん?
「會稽東治」はちゃんと具体的に伝わる距離なんだから。<
成程。賛成です。
陳寿は、(西域とはかんけいなく)女王國の位置として、
はっきり短里とした記載をしていた。 >>201
>魏志倭人伝がそうかかれてるからだは循環論法に当たると言っとく
魏志倭人伝がそのように書かれているのだからしょうがない。
それを無視する方がおかしい。 >>208
漢の国境から地の果てまで1万2千里とした
淮南子に合わせるように書いてるね
これは無視できないなあ
そうなると魏志倭人伝の距離は短里で正確に測ったものじゃないね >>809
>だからさー 1里=430mが不適当だという理由は? <
表記された区間能力実態距離がが6倍位も違うから。 >>209
漢の国境から地の果てまで1万2千里とした
淮南子に合わせるように書いてるね
その縮尺が短里ということだね >>211
漢でも1里は約420m
短里は使われてなかったね 750 名前:日本@名無史さん :2018/12/07(金) 05:37:29.78
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。
同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。 751 名前:日本@名無史さん :2018/12/07(金) 05:38:21.89
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。
結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当
である。 752 名前:日本@名無史さん :2018/12/07(金) 05:49:51.81
沃祖の墓制
東夷伝に沃祖の墓制の記述がある。
「其葬作大木槨、長十餘丈」とある。当時の単位と言われる「丈」であれば長さが23m以上と言う事である。
幾ら大木槨と言っても25mは長すぎであろう。五分の一で5mくらいの長さでも大木槨で十分通用する。
沃祖は洗骨を実施して小さな骨壷として家族の墓としていたのだから。
「径百歩」の1歩の単位も考え直す必要が有るかもしれないが、これについては確たる根拠を持ち合わせないのでやめます >>814
長里マンは
「計測区間の実態距離と6倍位合わない」=「別の単位系が存在しない」
というおかしな論理を使っているだけ。
「測定を間違っていない」という一番ありそうな可能性を認めない。
大和説者は、自分が使ってる論理の どこが「おかしい」か を自覚できないので
どんどん一般人の感覚からズレていく。
それが、大和説の衰退した理由なんだ。 韓国政府が応援を実行している、邪馬台国畿内説が嘘だと判明したので、日本国が対馬の領地を防衛できるのでは、ないのかな、、、 >>216
改変するにしてももうちょっと上手くやれよ 後漢書は、朝鮮半島南岸から九州北部までを倭国としている。
卑弥呼が倭王となるのはそのすぐ後。 >>179
>比例計算とかそういったレベルの話ではない
九州説の短里説はあまりにも稚拙と言わざるを得ないな <
里の距離が倭人伝では行程の途中で変わったとでも言うのかな⁇ナンセンスだな なぜ、右翼には、韓国の国籍を持つ者たちが溢れているのだろうか、、 >>822
つまり、「南→東」という解釈が間違いだってことだろ。 >>205
>阿波が、福津から鳴門までの間をチョロまかしとる
帯方郡→女王国までの直線距離。
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m @阿波 東夷伝全体で一里が百メートル以下で統一されているから、思想的なもので片付けるのは難しいな。
韓が4千里四方は地形をそのまま表現したのだろうし。
キナイコシの主張だと帯方郡や狗邪韓国を除いた朝鮮半島中央部の大きさが千キロをはるかに超えることになる。 >>823
>方2万4千里が短里なら中国内地だけで世界が尽きてしまう<
元々、中国は、中原地域の、
東は東シナ海で、西は西域の手前で、北はゴビ砂漠などで、、南は揚子江付近まで、
という事であったんではないか?。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨 >>229
早々に敗北宣言wwww
楽しい畿内説
終わり
NHK 阿波が、今度は、帯方郡→女王国までを直行直線距離に書き換えてチョロまかしとる。
根性最悪、、 >>227
彼が見た資料に日数で書いてあったからさ 小学生でももう少しまともな理由を考えるな
まさしくクソスレ
おわり >>824
>短里を使っているとも言えない <
史料実態はいずれも短里で「ほぼ説明が出来る」から、
短里を使っていた、と言えるし、
長里を使っていた、とは全く言えない。 >>828
>あのー 「具体的な計測方法の提示なく『短里』があると断定されても返答しかねる」<
「里」記載の、それぞれの大体の出発地と到着地の比定地間の距離を、
その記載里数で割り算して、(長里ではなく)短里であった、と計算されていますけど。
>「追試ができない」<
当然、部下や後の使節らの「追試」がなされているし、
短里の存在なら、周髀算経や淮南子や三国志の他の里記載や後漢書や梁書などでの、
追試だされていますけど。
>「帰納的にそういう単位があると立証して主張するなら考慮する」
と指摘されてますけど <
古田さんは、三国志の他の「里」記載での立証をされ、
谷本さんが、周髀算経の一寸千里で立証され、
どなたかが梁書などでも立証しておられましたけど・・・。 >>236
九州説は今日もまた
反論をせず罵ることしか出来ない
つまり君たちはまた畿内説に論破されたというわけだ >>839
>・海の距離は測れない
・遠くの国は遠めに書く
・伝聞で不正確
の合わせ技
これに尽きる<
全部、説明済み。これに尽きる。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨 >>241
>古田さんは、(以下略)
つまり帰納的に立証できなかったということだね >>838
>それ、三世紀に正しく測れたっていう根拠は?<
有効数字1桁程度の記録であり、それで合っている。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨 >>243
説明して、それ・・・なんか意味があるの?
夕日がなぜ赤いのかを「恥じらっているから」っと説明したって意味がないのと同じ 有効数字一桁とか言ってるけど統計的なデータは提示されたことが無い >>248は心を病んだ人のようだ
他人の話を聞かず同じことを連呼している >>844
>経験論ですが、頭の悪い人は九州説になります<
経験論ですが、
「戦前の万世一系の八紘一宇の皇国史観」の人種差別的殺戮戦争に賛成する頭の悪い人や、
阿部自民らや、右翼マスコミや、学会教育界や、
ヤクザ暴力団やヘイトスピーチキョクウらは、
大体大和説や畿内説になります。 >>252
合っていない例を列挙したら?
その方が早いぞ。 中国史では日本の政権は変化してないと認識している
台与の後に男性王が立ちその後も晋、宋、斉、梁、隋と使節が続いているとしている
そして、隋の時代の使節の主であるアメノタリシヒコを唐書では用明天皇であるとしてる
その上で、当時の天皇(光孝天皇)の系譜とタリシヒコが繋がっているとして記録している
この記事は日本からの王年代記の記事を無視しての中国独自の記録を採用しているので中国側の認識がよく分かる
更に、宋史では「日本は小国だが王統がずっと変わらずに継続している」と皇帝が称賛している記事が見えている
なので、旧唐書の話も「自分で名前を変えた」と言う記事が併記されているように壬申の乱と天武天皇の事を示している
中国はどこかの正体不明の国が日本になったと考えておらず、日本の政権は邪馬台国から継続していると認識している 考古学的に考えても「台与の後に男性王が立つ」と言うのであればこの時期は完全に古墳時代に入っている
古墳時代ともなれば畿内の中心性は明らかで、
その影響力は時代を追うごとに強くなり最早どこかに別の中心地を見出すことは困難であると言える
この王が台与に続く王であると言うのであるから中国の邪馬台国の認識はそのまま大和を示していると理解できる
考古学、史書的の両方に符合する場所が大和であると考えるのが最も理にかなうと言える >>858
いくら言っても、半島や海峡の里数記載が短里だとなるのは、
史料実態ものだしな。
長里説は、現実世界と結びついてるものが何も無い。 >>147
九州説では、教授の椅子も出版も見込みなしだからな。
飯食うには、大和説。 >>256
何が言いたいかわからんが
>中国はどこかの正体不明の国が日本になったと考えておらず、日本の政権は邪馬台国から継続していると認識している
の「中国」は不連続で正体不明の国が変わり続けているぞ。王朝が変わる度に前王朝の全否定から始まる。
連続した認識などあるはずがない。
しかも民族も変わっている。例えば唐なんて確か突厥の王朝だぞ。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨 >>868
>>後代の後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧の
史家の「自己解釈に拠る内容説明的な高慢な書き換え」は<
>誹謗中傷しても史料価値は貶められない <
写本版本の正確さは、99.5%以上。
後代史家の「自己解釈よ拠る内容説明的な書き換え」は半分×書であるから、
信頼性は50%以下。 >>263
短里説がメタメタに崩れ去って頭に来てるのはわかるけど
ちょっとは落ち着けよ で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨 >>262
お前みたいなバカは何も考えなくていいよ
バカなんだから >>254
>魏志倭人伝を読んでね。
いつも根拠提示を拒み、こうやって逃げるのが九州説の常 まともに答えられせませんといってるようなもの。
ほとんど敗北宣言に等しいぞ。
で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨 >>258
それがなんで「正しく測れたって根拠」になるの? バカはどうせバカなんだからちゃんと説明してもバカだから理解なんてできないからな
バカが分かる必要なんてないから好きなだけバカ丸出しの九州説とか妄想してればいいよ
別に構わない で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨 >>258
計測地点も示さずに回答した気になってるのが
笑止 >>873
>>方二万四千里の思想に合わせるため、淮南子も短里を使っていたということか。 <
>おいおい、計算もできないのか?
東西方向は、中央之極、東方之極、西方之極がそれぞれ萬二千里で、合計三万六千里
南北方向も同じで、三万六千里
淮南子は、誰も言ったことのない世界の果てまでを「観念的に」描いた世界観なんだから
実測値とは関係ない
つまり、「短里で実測した」という九州説の主張とは、「根本的に無縁」のもの <
おいおい、「方二万四千里の思想」ではなく、
「東西方向は、中央之極、東方之極、西方之極がそれぞれ萬二千里で、合計三万六千里
南北方向も同じで、三万六千里」
なら、東西南北の全方向が三万六千里で、全方向が短里になってしまうではないか。 >>274
相手の回答を全く無視して同じ質問を連呼するって
異常だよね >>146
(私の言う「新生倭國」の誕生)なんて、妄想。
倭國は九州。
大和にできたのは、新生纏向連合。
偉い先生の言う(吉備を中心とした瀬戸内海勢力)は、纏向連合の中心勢力にあらず。
連合の中心勢力は尾張、近江、大和、吉備、北陸。
まったく新しい協同組合式の政権だった。 >>875
また「南→東」などの嘘吐き騙しの、
「戦前の万世一系の八紘一宇の皇国史観」の人種差別的殺し合い戦争狂の大和説の、
イヤガラセ狂人が活動してるようだようだな。 韓国政府が応援を実行している、邪馬台国畿内説が嘘だと判明したので、日本国が対馬の領地を防衛できるのでは、ないのかな、、、 なぜ、右翼には、韓国の国籍を持つ者たちが溢れているのだろうか、、 事実になんて興味のないバカが九州説だからな
バカに何を話しても無駄
バカなんだから >>278のように全く理由を言わないのが九州説のデフォルトなんだから
九州説はもう完全に学問の世界から消えたってことでしょう 「ぼくちゃんはみとめない!」「ぼくちゃんはそれをしらない!」
が反論になってると思ってる馬鹿の集団だからな
九州説は >>876
いや、チンパンジーやゴリラは、
手話を教えるときちんと会話ができるらしいんだよらしい。
彼らはある程度の抽象概念も理解していることが確認されてる。
大和説のスレ主、阿部文部省、右翼マスコミ、学会教育界、キョクウのヘイトスピーチ狂、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らは、
「戦前の万世一系の八紘一宇の皇国史観」の人種差別的殺し合い戦争狂なので、
会話が成立しないから、
チンパンジー、ゴリラ以下。 >>285
あなたが今やっているのがヘイトスピーチです >>893
>結局九州説の主張する「短里の例」は ・観念上のもの ・誇張して盛った距離
・遠くでよく分からない距離 しかなくて、実際の地理を実測して得られた例が「一例もない」
これらが「現実の地理に合わないから短里だ」と主張するのは、
論理の方向が最初からおかしい <
いや、一寸千里や簡易三角測量や、記里車や、歩測や日数測などで、
有効数字1桁程度の近似値は、十分に得られる。 >>256
後漢書が、最初の邪馬台国大和説。
その後漢書から誤解が始まっている。
倭國と纏向連合は別。
倭國は北部九州。
卑弥呼の宮室は筑後山門。
纏向連合は、新生協同組合政権。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 >>257
台与のあとに男王が立ったという記録が、どこかにあるのかね。
邪馬台国は、台与の死とともに消滅したのだから、男王が立つという記録があるはずがない。 >>235
根拠は???
どの資料を参照したのかな?
魏略でも魏書でも、該当部分を言ってみれば?? >>283
理由は、ちゃんと書いているがな。
尾張、近江、大和、吉備、北陸が主要勢力だから、吉備・瀬戸内海勢力が主導なんてありえん話。 >>296
どこに理由が書いてあるの?
具体的に示してね >>284
大和説は、なんつったって円墳先造説だからなあ。 実際のところ西域伝が東夷伝に比べて非常に詳細なのは漢代に中国の軍事行動が盛んに行われてたからなのだろうな
軍隊だとより慎重に補給とか計算しないといけないから >>289
その資料は、倭をなんでヤマトと読んでるの? >>295
根拠は魏志だね
道里が日数でしか書かれていないということは
そのもっとも合理的な理由は
「彼が見た資料に日数で書いてあったから」だろう で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 >>294
「ぼくちゃんはしらない」が反論だと思ってる低能九州説さん
「南斉書」
倭國在帶方東南大海島中,漢末以來,立女王。
土俗已見前史。
建元元年,進新除使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍
「梁書」
從帶方至倭,循海水行,?韓國,乍東乍南,七千餘里始度一海;海闊千餘里,名瀚海,至一支國;又度一海千餘里,名未盧國;又東南陸行五百里,至伊都國;又東南行百里,至奴國;又東行百里,至不彌國;
又南水行二十日,至投馬國;
又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國,?倭王所居
至魏景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親魏王假金印紫綬
正始中卑彌(呼)死更立男王國中不服更相誅殺 復立卑彌呼宗女臺與為王 【其後復立男王】並受中國爵命
晉安帝時,有倭王贊。
贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。
齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖?位,進武號征東將軍。
其南有侏儒國,人長三四尺。又南K齒國、裸國,去倭四千餘里,船行可一年至
又西南萬里有海人,身K眼白,裸而醜。其肉美,行者或射而食之
「北史」
魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼始遣使朝貢
魏主假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王
【其後復立男王】、並受中國爵命
江左歴晉、宋、齊、梁、朝聘不絶 >>301
漢字の訓読みに
なんでそう訓読したのか
判明してる漢字は幾つある? >>298
主要勢力は、尾張、近江、大和、吉備、北陸て書いてるでしょ。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 >>306
話そらしちゃ、ダメ。
倭(ワ)を、ヤマトと訓読みするのは、なぜ。
その資料がヤマトと読む根拠は、なに。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 >>286
昔は漢字がなかったのでやまと
あえて当てはめるなら山の入り口という意味の山戸
漢が日本に倭とつけたのでやまとに倭の字を当てていた >>313
は?
夜麻登と書いてあるだろ?
まさか、知らないの? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 >>321
自分が質問されても答えない人が、ちゃんと相手してもらえると思う? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 九州説は論破されて反論ができないから発狂してる人が多いのだろう で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」
>>267 「陳寿のその時の気分」
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 >>329
倭迹迹日百襲姫と夜麻登登母母曽毘売は別人だとでも言うのかね? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>336
結局なにも反論できないのがトンデモ旧習説 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら??
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
笑 >>344
無能だから反論できず
的外れな悪口しか言えないという
九州説の惨状 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?? 畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?? 畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
笑 >>348
あなた、反論できないからって、いくら何でもそこまで醜態晒す? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?? 畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
笑 議論する能力どころか、他人と会話する能力すらない
可哀想すぎる旧習説
ナイワー まいど偽スレ立ててなんか凄いことしたと思ってる程度のバカの集団だからな
九州説は
邪馬台国の会とか言うバカ量産地の被害者だろう で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?? 畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
笑 「問題外:とか「根拠なし」とか定型句を呟くだけで
なーんも反論できないという
この問題外な無能さ
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー
笑 >>359
「安倍の指示」って・・・
zarakokuあたりの入れた茶々だって
ちょっと考えりゃ分りそうなもんだが
脳が無いのか腐ってるのか・・・ と言うか本当は九州バカも分かってるんだよ
何の根拠もない思い込みしかないと言う事に
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから
だから狂うしかないんだよ で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>320
とぼけてんの?
倭は(ワ)。
その倭(ワ)を、なんで夜麻登と万葉仮名で読んだのかって話。
理由、知らないの? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>940
>倭人伝が、沖縄あたりに邪馬台国があると書いたその理由を解読できない者が<
倭人伝では、陳寿は、「沖縄あたりに邪馬台国がある」なんて書いていないし、
その記録をした魏使らも「沖縄あたりに邪馬台国がある」とは書いていない。
勿論「邪馬台国」なんて文言も存在しないし、
後漢書は「後代の自己解釈に拠る書き換え」を実行する半分×人間であるから、
そんな人間の「東冶」の記載など、全く根拠にならない。
>必然的に至る結論がそれ。
ということは、>>673は、倭人伝の解読に失敗しているということになる。<
という事は、この「沖縄あたりに邪馬台国がある」なんて書いた大和説男は、
必然的に、倭人伝の解読に失敗している、ということになる。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>955
結局そうやって、
史料批判に拠って信頼性が確認された、都合の悪い史料を、
恣意的に抹殺していかないと、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、主張できないわけだ。 >>372
ダメダメ。
会稽東治(冶)の沖は、地図上では沖縄あたりになるの。
そのあたりに女王国(邪馬台国)があるにちがいない、と倭人伝は書いてるわけ。
わざわざそう書いたのには、理由があるの。
その理由が解読できなければ、倭人伝ちゃんと読んでるといえないんよ。
だから、倭人伝の解読に失敗してると言ったの。 >>370
>その倭(ワ)を、なんで夜麻登と万葉仮名で読んだのかって話。
馬鹿だなあ
じゃあお前さん、猿をなんでサルと読むのか知ってるのか? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>376
理由は明らかだ
南水行と書かれている南は本当は東だったのさ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 もう「みとめない!みとめないやい!ぼくちゃんはしらないんだから!」と泣きわめいてのたうち回ってる九州馬鹿の姿で笑いが止まらんw >>957
>魏志倭人伝の行程で里数の書いてある帯方〜不彌国までの里数を合計すると1万7百里
ここまでは倭国まで1万里という漢の伝承に沿って国々の間に
そうなるように距離を当てはめていった記述<
魏使らも、部下や後続の使節や、皇帝らの確認検閲を受ける立場であり、
「適当に当てはめていった」なんて事がバレれば、首が危なるから、
そんな事をしないし、
陳寿も、そんなバレバレになっていたことなら、魏志倭人伝に書くような事もしない。
>そして帯方より女王国、邪馬台国までは1万2千里だから残り1300里<
對海國と一大國の陸行があるから、残りは殆ど0里。
>不彌国より残りの1300里を陳寿は1里75mの短里ではなく
1里430mの感覚で書いている
なぜなら魏で使われた尺度が記載されてある律歴志には
短里じゃなく普通の里しか載ってないから<
これも同じ。途中から「里の単位距離」を書き換える、というインチキがバレれば、
首が危ない。
>1魏里430mだから1300里は約500km
不彌国から南へ水行するんだから九州南部に到達 <
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、×。九州南部は、側副傍線國の投馬國。
>東へ行くとするなら畿内に淘汰もする距離 <
畿内なんて存在もしないし、「南≠東」などに拠っても×。 >>275
約80kmが千余里
対馬と壱岐のどこからどこまで測っても「余里」の部分で誤差は飲み込めるから計測値店なんか要らないよwww で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>385
>約80kmが千余里
>対馬と壱岐のどこからどこまで測っても「余里」の部分で誤差は飲み込めるから計測値店なんか要らないよwww
九州説ってマジ頭狂ってるな
対馬って南北80km以上あるんだぞ O1b2(旧O2b) もO2(旧O3)も元々はバイカル湖あたりから拡散しただけ。
バイカル湖あたりのブリアートに今もちゃんとその痕跡が残っている。
満州にも残っている。
日本には縄文末に沿海州南部経由で、O1b2(旧O2b) 、O2(旧O3)、C3の3つが
山陰に渡来して拡散した。
http://file.kojoryoshu83.edoblog.net/48182e96.jpeg で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 書かれた内容は研究すればだんだんわかるけど
書いた理由なんて本当は本人にしか解らない場合の方が多いだろ で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>958
と、ま、こんな具合に、大和説は、
あらゆる分野の既存の観察実験計測など事実や、
それからの学問や科学や、人類の常識などに、
ケンカを売らないと立ち行かなくなった、
悲惨な袋小路だね。 >>960
>魏志倭人伝の邪馬台国までの1万2千里に
呉が国交を持っていた大月氏までの1万6千里に対抗して4千里足したんだよ
両方ピタリと数字が合う<
これも×。
郡から侏儒國までの実距離と、呉から大月氏までの実距離を比べれば、
呉から大月氏までの方が数倍以上長い。
だから、この二つは、「1里の実距離は違う」記録である事になり、
それを同じとして書いた、という事は、
郡〜侏儒國が短里であり、呉〜大月氏が長里であった、
という事。 >>961
>畿内説は誰も1万2千里を
短里だろうが長里だろうが正確に測ったなんて主張してないねえ<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しの文言も使っているし、
大和説者は、「南→東」などのように、
もう、史料事実に対しての否定曲解捏造ばかりをやっていて、
まともに史料事実に向き合っての推論をしようとしていない、
・・・・詐欺師的人種。 >>962
「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」の人種差別的殺人鬼戦争狂の大和説学者や、
阿部自民や右翼マスコミや学会教育界ややくざ暴力団達は、
九州説側の話を何も聞かず、
自分の、分裂幻覚妄想の脳内にある仮想敵國相手に、
反論ゴッコしてるだけ。
だからな 「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」とか
「人種差別的殺人鬼戦争狂」とか毎日喚いてたら
正気を疑われて当然だろうに >>963
>なら律歴志も晋時代の記録であるから
扱いは魏志倭人伝と同列という事にならなければおかしいではないか<
そもそも、晋書の律歴志は、
晋書だから(魏朝代ではなく)唐代の著述であり、
内容も、始めから魏朝の「周制への復古」の方針に逆らった民間学者らの、
九章算術の「始皇帝の度量衡」を採用しており、
魏朝の「採用度量衡」の根拠には全くならない代物。 >>296
>尾張、近江、大和、吉備、北陸が主要勢力だから、吉備・瀬戸内海勢力が主導なんてありえん話。
その「主要勢力」とやらは、すべて「忌部はん」 が開拓したところなんですがwww @阿波 >>402
魏朝の「周制への復古」なんて無いんだよ
現代人の作った架空の物語だ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>964
>残念ながら魏志倭人伝そのものに魏で使われた度量衡は記されてないね<
史書を著述しようとする(良心的な)陳寿らは、
記述対象事件に際して、出来るだけ正確な記述を心がけるものであり、
一々どんな度量衡を採用して記載する、か?、なんて説明を書かないもの。
該当する記録に書かれた度量衡記載を踏襲し、
それに準じた説明やを書くもの。
だから、蜀や呉の記載には「短里での記載」と「長里での記載」の混在が見られ、
魏朝の記載でも、漢代記録や上表文転写のような場合には、
「長里」記載が混在する事も起きている。 >>387
おお、そういうことか。
まさか対馬最北端から最南端を勘定に入れるとは思わなかった。
2つの島の間の常識的な距離の測り方をすれば計測地点などは千余里の「余里」で吸収できるという意味だ。
「常識的な」、わかるよね? >>409
そ〜かい?
そんなこと思ってる人は君だけだと思うよ。 >>408は常識の持ち主
ただし
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m @阿波 狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>406
なら魏皇帝は尺度を1歩=1尺に改めたなんて話は魏志のどこにも載ってないから
短里なんてものはなかったんだ そもそもが
1歩=6尺を1歩=1尺にしたなんて
1m=100cmを1m=1cmにしたと言っとるようなもんだぞ >>966
>奴国が副側なんちゃらとはどういう事だ?
邪馬台国に向かう途中にあるのに行かなかったという事か?
奴国を通らずにどうやってその先の不彌国に行くんだ?<
「至」には、「実際に移動到着した事を示す」事と、
単なる四至的な「位置方向を示す」場合などの使用例があり、
陳寿は、行程移動の説明では、原則として、
「出発の説明+途中移動の説明+至(到)に拠る到着説明」を書き分けており、
奴國と投馬國の説明では、「東南至奴國」や「南至投馬國」などにように、
「出発」の後に直ぐ「至」が書かれている事になるから、
途中移動の説明がなく、だから「移動しておらず」、
だから「行けば至る」というような「四至的な位置説明」文である事になり、
だから側副傍線行程国の説明である事になる。
これに対して、不彌國の場合などでは、「東行至不彌國」のように、
「至」の前に「行」という移動を示す動詞が書かれているから、
実際に移動があった事になる。
「東南陸行五百里到伊都國」の場合同じ。
「東南」が出発説明で、「陸行五百里」が途中移動説明で、「到伊都国」が到着説明、
という事になる。
だから、「奴國」へは行っておらず、奴國は伊都国の東南百里に(入り口が)あり、
伊都国の次は不彌國へ移動した事になり、
不彌國から投馬國へも行っておらず、不彌國の南に邪馬壹國女王之所都があった事になる。
そして、 >>968
>卑弥呼が魏に使いを送ったのは
景初二年と書いているのは12世紀に復刻した魏志倭人伝のみ
それ以前の魏志倭人伝を引用した梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
景初三年 <
ウソを付くな。
通典が「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」と、
はっきり「魏明帝景初二年」と書き、しかも「明帝」とまで断定している。 九州説ゴミのザラコクはもはや酔っ払ったオヤジが
ベーケヤロウとか言いながらクダ巻いてる状態に等しい >>670
>度量衡の基準と6倍も違った距離が書いてあるなら
どっちが間違ってるかは一目瞭然 <
現実の地理的実態と、全て6倍も違った距離が書いてある事になるんなら、
どっちが間違ってるかは、「度量衡基準と6倍も間違った距離が書いてある」と判断した側である、
という事は一目瞭然。 >>472
>不彌国まで1万7百里な 対馬国と一支国は方400里、300里とあるだけで
そちらのいう行や至の途中移動の文言がないので移動はしてない
そもそも渡海中に島があって1周400里あったとしてもそれを行程には加えない<
「土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴」
という説明や、
「多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴」、という説明は、
上陸して見聞移動があった場合の経験内容として書ける事であり、
また、単に一海岸に寄港した程度で上陸もなければ全く書けない事であり、
また、上陸移動し計測しなければ、「方四百余里」とか「方三百里」なんて、
「里を知らない倭人」からの伝聞ではなく、
実地に移動見聞して近似的計測をしなければ書けない事。 倭人伝無視の畿内説は邪馬台国は存在し無かったことにした方がいいのではないかな >>973
いつまでも、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しや、
こういうレベルの低いこと言ってるから、
大和説は、国民の7割に拒否されて、亡んだ。 >>975
だからどなたかが書いたは通用しないと言っただろ 台と臺は別の意味だったと主張するなら
三世紀の魏で台と臺が別の意味で使われている文を出展付で書くしかない
出せなければ邪馬台国はあったし九州説ザラコク及び古田は嘘をついていた証拠証明 <
ダメだよ。
既に、魏志には「台」の文字使用が存在しなかったらしい事と、
「台」が、古田さんが書かれたように、
「星の名称文字」に使われた、という例しかない、
という紹介をした投稿子がいた。 破綻した畿内説の宣伝係が、完全に論破されて負け組になったのだから、負け組の掲示板で討論を続行すれば良いのではないのかな、、、
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/l50 >>982
>九州に三世紀の宮殿跡はナシ<
九州には候補地が幾つかある。
纏向には、三世紀の宮殿跡はナシ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>1
寺澤さんの評判を下げるようなスレは止めてくれるかな
纒向学研究センターのHPは読んでると思うが >>416
実際の地理で
伊都国(糸島市)と奴国(博多近辺)は
海岸沿いに東に向かう方向で並んでいる
その先に向かうなら当然通り過ぎざるを得ない
九州説は現実との乖離がますます酷くなってきた >>428
この九州説さんの言ってることは考古学者の言ってることと正反対なんだがね >>425
あ
「台」が「星の名称文字」に使われた、という例しかない、
という投稿したの俺だわ
間違いだったわスマン
3世紀ごろ中国で台の字が使われた例はなかったわ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>309
>あんたは倭迹迹日百襲姫をなんと読む? <
あんたは何と読むのかね 和訓は年代が違うから✖だよ >>420
海を渡る途中に島があってその周囲を計測したとしても
行程には加えない
その証拠に移動を表す行や至ではなく方と記されている >>417
>ウソを付くな。
>通典が「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」と、
>はっきり「魏明帝景初二年」と書き、しかも「明帝」とまで断定している。
通典では「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏」まで明確だけど
「倭女王始遣大夫詣京都貢獻」は「魏明帝景初二年」とは限らないよね
確実なのは、倭女王が始めて大夫を遣したのは司馬宣王が公孫氏を平らげた後だってこと
で、司馬宣王が公孫氏を平らげたのは魏明帝景初二年九月なんだな
ところが倭人伝にあるのは
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡」なんだよね
六月は九月より前だよね?
ということは
「景初二年六月」は「景初三年六月」の間違いってことにならない? >>425
どなたかが言ってたは証拠にならんが
3世紀に台と臺が別の意味で使われている文を出せなければ
そんな事実はなかったのであり
邪馬台国はあった事になる >>996
なになに?。
魏使らは、実際に計測もせず、淮南子情報で単純に、
倭国本土上陸までを一萬里に「設定」でするというインチキを報告して、
その前に渡海千里(実測距離じゃなくて、1日の渡海距離を一律千里としている)が3回あるから
10000−3000で七千里にする、というインチキ報告をして、
さらに、郡役人の計測である韓地方四千里からは出て来ない七千里を書くインチキウソ騙しをして、
さらに、郡役人らが計測報告していた遼東や高句麗や扶余の大きさや距離を、
相互に重複してしまって入りきれない位の大きな国にする、というインチキまでしていたんだと?。
そりゃ、部下や後続の魏使らの報告で、インチキ報告は直ぐにバレてしまい、
魏使らの首が幾つあっても足りないわ。 >>437
@阿波は方位や距離について言及無しだなww
そんなこと、うだうだ言っても意味ないでしょ。 倭人伝の「方位や距離」は倭国(阿波)への記述なんだから。 @阿波 >>435
?あんたは何と読むのかね 和訓は年代が違うから✖だよ
倭迹迹日百襲姫なら夜麻登登母母曾毘賣と読むけど、それが何か?
和訓は年代が違うという理由は、なに? 韓国政府や観光関連に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が、また、頭の悪い事を公表したな。。。
436 名前:日本@名無史さん 2018/12/08(土) 19:35:37.65
>>420
海を渡る途中に島があってその周囲を計測したとしても
行程には加えない
その証拠に移動を表す行や至ではなく方と記されている >>443
初めて書き込みますからよろしく
伊都国は奴国の隣になかったんですか? 畿内説は伊都国の比定地(北部九州)を変えるべきだが、変えられない理由は何? >>447
過去レスぐらい読む努力をしてください
スレの全容や流れがわかります >>997
>1万2千里は淮南子の概念の漢国境よりの地の果て
またはそれに則した後漢の概念上にある倭の極南界奴国
魏志倭人伝はそれを踏襲し行程に里を当てはめて記述されている<
いや、魏志倭人伝の里記載は、魏使らの実地のでの計測記録であり、
陳寿の「淮南子論の踏襲当てはめ」ではないから、×。
また、陳寿は、5世紀の後漢書の「極南界」の事はの、当然知らない。 >>450
読んできました
九州説はなんでズタボロになりながらなおもこのスレに粘着してるんですか? >>999
>短里説はもう跡形も無くなったな <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者や、
安部自民や右翼マスコミや学会教科書界らの大和説は、
国民の7割に否定されて、跡形もなくなったかのように見えるな。 >>1000
>住吉宮、高良宮、箱崎宮、香椎宮、高千穂宮、岡田宮、豊浦宮、香春宮、老松宮、、、
日本最古の宮である吉武高木の高床建物は紀元前まで遡る。
筑紫は弥生文化の担い手である倭国王権の成立の地だよ。<
成程。 畿内説が破綻したので、日本国の平和が守られたのではないのかな、、 >>437
@阿波は方位や距離について言及無しだなww
そんなこと、うだうだ言っても意味ないでしょ。 倭人伝の「方位や距離」は倭国(阿波)への記述なんだから。 @阿波 >>91
>卑弥呼の墓は箸墓ではない。
だからと言ってホケノ山や勝山だとするのはさらに迷路に迷いこむ事になる。
卑弥呼の墓は日本の歴史の原点である高天原にあるからだ。<
葛城説も、南≠東に拠って、始めから×。 >>403
阿波鳴門の人民は、後から来たということで。 >>451
淮南子の漢の国境(楽浪郡)より南の地の果ては1万2千里
魏志倭人伝の邪馬台国までの距離は帯方郡(楽浪郡)より南に1万2千里
一致してるな
魏使および魏の学者は淮南子の世界観に邪馬台国を合わせたんだよ
これは実測値ではなく概念的数字
後漢書の成立は5世紀だが
内容が5世紀のものではない
1世紀の後漢と倭奴国との交流記録が引き写されており
当然魏の時代にもその記録を参照することが出来る >>460
>阿波鳴門の人民は、後から来たということで。
後からって、どこの後? @阿波 >>437
@阿波は方位や距離について言及無しだなww
そんなこと、うだうだ言っても意味ないでしょ。 倭人伝の「方位や距離」は倭国(阿波)への記述なんだから。 @阿波 >>101
>私は第一の道を否定する立場である。 第二の道は多様である。私は
北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた
吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による
倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、
しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。<
寺澤は、この段階でもまだ、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」が、
吉備や近畿や大和の発展に一番強く影響した、
という事が未だに判らないアホであったんだ、という事だな。 >>433
ほらどなたかが3世紀の魏に台の字はなかったと言ってるぞ
どなたかが言ってたから3世紀に台と臺は別に使われてたはこれで成立しないな
臺は台の旧字体であり邪馬台国はあった
古田は嘘をついていたと証明された 魏使および魏の学者は淮南子の世界観に邪馬台国を合わせたんだよ
だから短里になった >>104
石野博信、森浩一、白石太一郎、菅谷文則、原口正三らにまで反対されても、
未だに、「△=(明帝の下賜の)魏鏡」説を唱えるスレ主は、
一体、何者なんだろうか?。
天誅らと同じく、「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」の人種差別的殺戮戦争に狂った、
単なる・・・・キョクウ人種なんだろうか?。 >>377
サルは、モンゴル語。
倭(ワ)をなぜヤマトと読むか知らないようだから、
質問を代えよう。
じゃ、ヤマトてどんな意味? >>465
九州説と古田説はイコールではない。
古田説はやっぱり妙な理屈だと思うよ。 >>468
オレはヤマトが日本を表すのは異論はないよ。
倭を後にヤマトと訓むようになったのも、今の日本が大和朝廷の治世から始まったのも全く異論はない。
でも、それと魏志倭人伝に記載された邪馬台国を中心とする国々は合致しないというだけだよ。 一系〜何やらでしょ?
きちがいだと言っているんだよ >>462
尾張や近江、大和などの人民が田んぼ開拓して、稔豊かになった後にやって来た。 >>470
3世紀の大和の政権と同じころ北部九州にあった倭国とは別の国ということであれば、OK。
問題ない。 >>472
>尾張や近江、大和などの人民が田んぼ開拓して、稔豊かになった後にやって来た。
稔豊かになってから、ずうずうしくのこのこやって来たら、なぶり殺しだよ。 @阿波 >>296
>尾張、近江、大和、吉備、北陸が主要勢力だから、吉備・瀬戸内海勢力が主導なんてありえん話。
その「主要勢力」とやらは、すべて「忌部はん」 が開拓したところなんですがwww @阿波 >>473
>3世紀の大和の政権と同じころ北部九州にあった倭国とは別の国ということであれば、OK。
丹の採れない北部九州に倭国など以ての外。 @阿波 >>117
>3世紀前半。 大和は纏向連合政権。
纏向の前方後円型墳丘墓は連合有力勢力派遣の持ち回り代表祭祀者の墓。<
違うだろうなあ。
大和は、倭奴國の阿毎氏から別れた別種の大倭職の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
だから、大和の前方後円墳は卑弥呼の冢や那珂八幡の前方後円墳よりも遅く、3世紀末以後。
>北部九州は邪馬台連合政権。 卑弥呼の宮室は山門。
卑弥呼の墓は、現時点では久留米の祇園山古墳が最有力。
中国魏の政権は、大和の連合政権を非常に気にしていた。<
魏は、大和を全く気にしていなかった、と思う。
>大和は卑弥呼と博多を攻めるのではないか、との情報を入手していた可能性がある。<
ないな。 >>119
>倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?<
倭国大乱なんて存在せず、
あったのは「倭国乱」であり、九州倭国内での乱。
>畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落 弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。<
神武東征は、在地の出雲系銅鐸祭祀部族系や毛人蝦夷部族の抵抗で、
熊野へ迂回してようやく大和盆地内の磐余付近に拠点が出来、
在地の出雲系銅鐸祭祀部族系や毛人蝦夷部族と共存していたが、
その後の九州倭国の「東征毛人五十五國」のために、
河内などから次々と九州倭国に支配されて、
出雲系銅鐸祭祀部族系や毛人蝦夷部族の銅鐸や勾玉文化が否定された。
>これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?<
九州倭国の東征将軍らに拠って、一部の技術者は生口にされ、
一部は東征軍の手助けをした大和で、墓守り人にされて墓造りに駆り出されて、
部落民になったらしい。 『事代主』
調べてみると、国造が何やらと言ってる人がいるでしょ
『松傾』は聖造? >>133
>南⇒東の明快な解説ならテンプレに書いてあるだろう? 読んでないのか?<
スレ主が、
都合の悪い直接的な証拠の「南」問題を、いったん棚上げにして逃げて、
間接的な大和説の傍証や、方向に関する非論理な傍証を挙げて、
それで「南」を否定して「東」にも可能性がある、
というようなインチキ論法を取った事は、
何度も指摘してあるよ。 >>147
>学者さんは圧倒的に畿内説だから九州説は嘘ばかりという事になるじゃないか <
違うね。
日本の大学の古代史学者の殆どは、
「南→東」などの嘘つき騙しの「大和説の文部省の支配下」にあるから、
文献考古共に、ほぼ全員が、始めから、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者になってしまっているんだよ。 >>150の訂正
>西域での使用里と、東夷での魏使らの使用里戸隠神社、違っていたらしいだけだ。<
は、
西域での使用里と、東夷での魏使らの使用里とが、違っていたらしい、
というだけだ。
です。
まだ、PCは、
カーソルを打って文や文字を挿入しようとすると、
その前に挿入した文言がを打つ出されてしまう、という変な故障が、
未だに直っていない。 >>483
それはな
つまらん妄言と書くなという神仏のお告げだ 『龍宮』
ググってみると
神武、水晶宮殿、シーモンキー?みたいな画像が出てきたり 『松傾』関係の話ばかりじゃない?
あの謎の写真とか
『何者にもなれない お前たち』 『浦島太郎』?
『うらしまマリン』というキャラクターとか >>155
>短里なぞ存在してないからそうなるのは必然だろう?<
「里記載」が実在しており、その里の史料実態が「短里」であれば、
短里を論拠にするのは、必然だろ?。 >>156
>日程情報しか手に入らなかった <
いや、「南」という方向情報が、手に入っているから、
やはり、大和説は、×。 >>160
>実測ではなくてそういう想定で辻褄を合わせているという事 <
いや、「実測ではなくてそういう想定で辻褄を合わせている」事がバレれば、
当然首が危ないし、
部下らや後続の魏使らはチェックすれば、当然バレる、という事。 >>165
>魏で塚wれた度量衡を記した律歴志では <
これが×ね。その律歴志は、晋書の記載であり、
晋書は、唐代に書かれたものであるから、
魏朝が「周制への復古」をして周髀算経の一寸千里の「里」を採用した事を、
知らない筆者であったから、
魏朝の使用度量衡の証拠にならない代物。
>1里=300歩=1800里とあり
1尺は約24cmの当時のモノサシが見つかってるから換算すると
魏の1里は約430mと判明していて定説であり常識
そっちこそ魏は短里という前提だから話がおかしくなる<
お前は、証拠にならない代物を証拠にしようとしているから、
お前の頭と神経がおかしい。 仏教、道教?
本当は、そういう話だと言ってる人もいた、
むかーし、寺院に通っていた〜という話でしょ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>166
>短里を主張するなら中国で認められるように活動しなって<
中国人学者であっても、千差万別。
魏朝が「周制の一寸千里の度量衡を使っていた」という事が、
分からない中国人学者であれば、
いくら活動したって無駄。 >>167
>1300里は1魏里430mで換算すると約500km
東に九州北部から畿内に十分到達
まあ実際は1万2千里が現実の場所を指してるわけではないけど 、
「南≠東」などに拠って、×。 >>168
>倭まで1万里その都まで2千里と
魏志倭人伝か後漢書だったかにはっきりそう書いてある<
倭までの1万里の5分の1の二千里では、大和には全く届かないので、
大和説は×。 ホンモノ(不明)?は・・・寺院に通っていた
みたいな事を言っているんだけど
どういう事なんだろう たまにいるでしょ、テレビ?とか、
そういうものが嫌いだという人がいたり
何がしたいのか、わからない、必要ないとか 中国史なのに中国に主張できない事を日本で主張されてもな
結局短里なんてでっち上げだから中国には黙ってるのでしょ 『ザ・モモタロウ』に出てくる、
うらしまマリンの紹介文、キャラ設定?
「テレビなんて見ないじゃーん」 >>477
博多の阿毎氏から別れた小国が大和だというのは、違うな。
北部九州の土器が大和で出土ためしがない。
東遷説は、分家の移動としても一切ない。
中国では、九州の倭国の乱が収まるかどうかずっと注目していたし、その後、魏の調査団がやってきたときには倭国から千里東にある国々のことをわざわざ記録に残した。
この東の国が九州阿毎氏の分家なら、そのように記録を残していただろう。
しかし、単に同じ倭人の国々だとしか書いてない。
阿毎氏の分家説は、ない。
そのような記録をわざわざ残したということは、各地から大和に集まった勢力の連合である纏向政権の動きが気になっていたということだろう。
魏の調査団が来たのは、卑弥呼の朝貢の直前だろうから、纏向に連合政権ができてから50年ほども経っている。
纏向で何が行われていたのか、邪馬台国の難升米らは薄々知っていたということになる。
そして、倭国が魏の冊封を受ける仕上げの直前に、狗奴国が邪馬台国に攻め込んだ。
大和と連携していたことは、明らか。
八女あたりに避難していた卑弥呼を背後から襲ったのは、大和の派遣軍の一隊だろう。本隊は博多を制圧した。 例えば『シーモンキー』
画像をググってみて、
何か気づいている人もいるはず 誰が作ったのか、わからないけど、
謎のチェーンソーのゲーム? >>159
>「短里が存在しない」という前提から出てるので、
「短里が存在しない」というのは、前提ではなく「事実」w ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>433
>3世紀ごろ中国で台の字が使われた例はなかったわ
それは間違い
ちゃんとあるよ
三国志巻三十 烏丸鮮卑東夷傳
夫餘本屬玄菟。漢末公孫度、雄張海東威服外夷。夫餘王尉仇「台」、更屬遼東。
時、句麗鮮卑彊。度、以夫餘在二虜之間、妻以宗女。尉仇「台」死、簡位居立。 >>509
ホントだ。あるね「台」。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_huyo/gisi_huyo.htm
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_huyo/huyo.pdf#page=3 >>511
このサイトで「台」をキーワード検索したら
http://www.seisaku.bz/search/word_count.php
◆ 三国志22 魏書22 桓二陳徐衞盧傳第二十二に 1件あります。
◆ 三国志24 魏書24 韓崔高孫王傳第二十四に 4件あります。
◆ 三国志28 魏書28 王毌丘諸葛ケ鍾傳第二十八に 1件あります。
◆ 三国志30 魏書30 烏丸鮮卑東夷傳第三十に 3件あります。
◆ 三国志64 吳書19 諸葛滕二孫濮陽傳第十九に 1件あります。
だと。 >>504
>この東の国が九州阿毎氏の分家なら、そのように記録を残していただろう。
>しかし、単に同じ倭人の国々だとしか書いてない。
卑弥呼政権はアマ氏(天孫族)ではなく、火の国王家熊襲の出身だったから。
狗奴国の王とは家督争いだったから「もとより不和」だったのだろう。
王の名が似ていることも説明できる。 >>510
わかったか「台」
だから「邪馬壹國」が正しいのだ 『梁書』諸夷傳・・・
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。
同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。
短里の86mだ。
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。
結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当
である。 渡海千余里・・・
50kmくらいの距離である。短里でも千里は76.6kmで少し長いが、
長里であれば435kmの海を寄港もしないで渡ったと中国人が考えていた事になる。
中国人はよほど馬鹿だったのだろうか。
短里があったと考えなければいけないだろう。 ●帯方郡から狗邪韓国まで七千余里 2006/ 9/27 21:18 [ No.53984 / 55388 ]
釜山空港から金浦空港まで航路408km。
金浦空港から海州まで地図に定規を当てて測定したところ、170km位。
あまり正確とはいえないが、あわせると578km位になるか?
金海から海州まで直線では550〜560km位になる。
短里76.6kmを想定するとその距離、7180里から7311里になる。
七千余里として妥当な数値だ。
全行程海路を取った場合、短めに見て800kmくらい、多く見れば900kmになる。
すると里に換算して一万里以上になり計算が合あわない。
三つの海峡の渡海三千余里と合わせて考えると、この時代には意外と距離の測定能力が有ったように思われる。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>518の計算が馬鹿みたい過ぎるって理解できない人
ひとりでもいるのかな
いたら、その人の人生は悲しいね 狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 魏志倭人伝の里程は淮南子の世界観に合わせたで解明済み >>525
そうならば、魏志倭人伝の邪馬台国も卑弥呼も忘れて、古代大和王朝の研究だけしていればいいよ。 >>521
で、アンタの人生は薔薇色だとでも?www。 >>526
ヤダね
九州説を絶滅に追いやってくれるわ >>528
アンタ「畿内説」っていうグループに属してるつもりになって喜んでるだけだな。畿内説ってのはアンタの友達じゃないぞ。
自分で考えないとずっとひとりぼっちだよ。 ここで誰も支持しない説を喚くだけのキナイコシの人生がどれほど虚しいことか >>525
淮南子の世界観でも、対馬海峡で三千里だから、畿内は届く筈もない。
畿内説に毒されるとこんなこともわからなくなる。
虚しい人生だなぁ。 >>534
淮南子の世界観に合わせるために短里になっているのかもしれないとも思った。
キナイコシの主張はことごとく九州説を補強してくれる。
実は隠れアンチ畿内説なのかも。 いかんと誰が言った
時代が同じで邪馬台がヤマトと読めるというだけだ 朝鮮戦争前に生まれてる一部の後期高齢者が、ヤマト王権と大和朝廷の区別がつかずトンチンカンに騒ぐけどな
邪馬台国畿内説とは関係ない話だね 倭人伝には歯黒国など伝説の国についての記述もあるが
邪馬台国の位置についても伝説を採用してる。
倭人は呉の王の子孫という伝説があるが
倭人伝には、倭国と呉の文化は似ている
それは倭国は呉(東治)の真東にあるからだとはっきり書かれている。
倭人伝の作者は、伝説を信じて倭国は沖縄県付近にあると認識していた >>540
それは原因と結果が逆
道里を計算したら倭人の国が沖縄あたりと出たから、伝説と結びつけた >>534
>淮南子の世界観でも、対馬海峡で三千里だから
そんなことがどこの書いてある?
対馬海峡三千里は、海上距離が計測不能だから一日で漕ぎ渡れる距離を
「千里の名馬」と同じノリの「遠い距離を意味する『千里』」にしてあるだけ
全体距離の萬二千里が、淮南子の世界観の世界の果てまでを示す観念的な距離を
持ってきたもので、途中の渡海距離も実測値ではない
これで短里があるって言える人はおバカさん以外にはいないよw >>448
>畿内説は伊都国の比定地(北部九州)を変えるべきだが、変えられない理由は何?
どうして?
変える必要は一つもないよ?
北部九州までまで来て、そこから玄界灘、日本海の沿岸を東に20日沿岸航行(水行)して出雲
そこからさらに東へ丹波まで水行十日で丹波に上陸
さらに南へ陸行一月で大和に着く
魏志倭人伝の通りだよ >>547
オレ様の説と合わないから畿内説は主張を変えろ
という、よくいるタイプの地方G Gなのでは? >>276
>なら、東西南北の全方向が三万六千里で、全方向が短里になってしまうではないか。
やっぱりザラコクはバカだなあ
淮南子のいう「世界の果てまで萬二千里」が観念的距離というのは、
誰も世界の果てまで行ったことがない上で、観念的に萬二千里だと設定してるってことだよ
「短里という決まった長さの単位があって、その短里と言う単位で実測した」とかいう九州説の
寝言とは根本から相容れないんだよww >>211
>漢の国境から地の果てまで1万2千里とした
>淮南子に合わせるように書いてるね
>その縮尺が短里ということだね
実測距離じゃないものに、縮尺を考えるだけ無駄
実測距離じゃないから、区間ごとに長さ(=縮尺)が4倍も異なる単位なんてないんだよ
言えることは、里程はあてにならない、ってことだけ >>552
当在会稽東治之東は「ちょうど東」だから真東 想定だからほぼ真東を考えてるだろよ
九州の西に呉があるなんて言わんだろ >>553
真東なら「正東」と書くだろう。
「當」は「在」の副詞だから、真東とは限らない。 >>555
「ちょうど在る」んだよ「東に」な
つまり真東だ >>557
いずれにせよ伝説の里程ではなく、測定できる里程だということだよな? >>555
じゃあ、何をどう計算して会稽東治の東にあると書いたの?
位置の指標にするなら、そこの真東になるような都市の名前を書くだろう >>244 他
>で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は??
陳寿は九州から畿内を千三百里と考えていない
萬二千里は世界の果てまでという符牒だし、対馬海峡三千里も遠い距離という符牒で
どちらも実測値ではないのは、書いた当人の陳寿が一番よく知ってる
それを引き算する意味がない
そして、そもそも萬二千里は邪馬台国までではなく、女王国までの距離
東京から北海道まで900キロは正しいが、それは東京から札幌までの距離を意味しない
>>244他を繰り返し書いてた人は、無知無能で、論理的思考ができない人だな >>558
その数字を最初に出した人と、書いた陳寿の考えが同じとは限らないから、何とも言えない >>559
風習が似ていたことからの連想で会稽が出てきて、それぐらい南に来たことになることが想起されたことを書いたんだろ? 陳寿は倭国が南方の国という中国古来の見方に引きずられていたという事で解決したな >>557
Aは、Bのちょうど東にある
A just exists in the east of B.
と
AはBの真東にある
A exists in the exact east of B
は
違うと思うけどね。 >>562
それは確実に間違いなんだが、倭人伝を読んでいないのか? ちょうど:ある基準に、過不足なく一致するさま。きっかり。ぴったり。きっちり。 短里の報告書を長里を使う陳寿が読んだら会稽の東くらいかなあという話になった。 >>538
>朝鮮戦争前に生まれてる一部の後期高齢者が、ヤマト王権と大和朝廷の区別がつかずトンチンカンに騒ぐけどな
どう違う?
大和朝廷の起源に自信がなくなっただけじゃないか?
まさか神武の紀元2600年にするわけにもいかないしね。 >>538
>朝鮮戦争前に生まれてる一部の後期高齢者が、ヤマト王権と大和朝廷の区別がつかずトンチンカンに騒ぐけどな
どう違うのか説明して。 >>565
>それは確実に間違いなんだが、倭人伝を読んでいないのか?
根拠もなく「確実に」というようなことは恥ずかしくてできないが、そのくだりが邪馬台国への行程でなく倭国の風習を記載した箇所に書かれているこyいから間違ってはいないと思うぞ。 >>577
間違いだという確実な根拠がそこにあるから
倭人伝を読んでごらん 古代において、巫女は兵団とセットなんだな
卑弥呼の役割は民、兵を教化して纏めることだったんじゃないか?
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女の埴輪も見つかっている
◎櫛、巫女、兵はセット
◎櫛は衛生道具、毛じらみやフケなどを梳き除く為の道具
記紀で櫛に変えられた姫がいたような
どういう意味があるんだろう >>949
しゃーねえな
悪いが細かく書くのは面倒だから端折るが
魏志倭人伝の行程で
里数の書いてある帯方〜不彌国までの里数を合計すると1万7百里
ここまでは倭国まで1万里という漢の伝承に沿って国々の間に
そうなるように距離を当てはめていった記述
そして帯方より女王国、邪馬台国までは1万2千里だから残り1300里
不彌国より残りの1300里を陳寿は1里75mの短里ではなく
1里430mの感覚で書いている
なぜなら魏で使われた尺度が記載されてある律歴志には
短里じゃなく普通の里しか載ってないから
1魏里430mだから1300里は約500km
不彌国から南へ水行するんだから九州南部に到達
東へ行くとするなら畿内に淘汰もする距離 陳寿は九州から畿内を千三百里と考えていない
萬二千里は世界の果てまでという符牒だし、対馬海峡三千里も遠い距離という符牒で
どちらも実測値ではないのは、書いた当人の陳寿が一番よく知ってる
それを引き算する意味がない
そして、そもそも萬二千里は邪馬台国までではなく、女王国までの距離
東京から北海道まで900キロは正しいが、それは東京から札幌までの距離を意味しない >>582
>陳寿は1里75mの短里ではなく1里430mの感覚で書いている
>>583
>陳寿は九州から畿内を千三百里と考えていない
w >>578
読んだ上で間違いとは思っていないということを言いたかったんだが。
気持ち悪いぐらい自信たっぷりだなwwwwwww >>582
実測値ではないというのはあなたの勝手な希望
そうでないと畿内説が崩壊するからw >>582
これだけの行数を書きながら、そのすべてが根拠のない妄想というのもひどいな もともとなんの根拠もなく、神武大和即位からの連想だから >>582
魏志倭人伝には女王国まで12,000里としか書かれてないしね
邪馬台国まで12,000里とは何処にも書かれてない >>584
あたりまえだ
漢文が読めれば解らないことはあり得ない >>592
どこをどう読めばそうなるのやら....www >>582
>そして、そもそも萬二千里は邪馬台国までではなく、女王国までの距離
>東京から北海道まで900キロは正しいが、それは東京から札幌までの距離を意味しない
領域としては壱岐で倭国に到着してるだから、万二千里というのは、
女王国という都市として考えるしかない。
これは単なる詐欺論法だわ。畿内説はこれだからタチが悪い。 >>596
本気で解らないのか?
冗談でトボけてるんじゃないだろうな >>570
>実測ではないという根拠は?
渡海距離、水行距離を測る手段がない
一寸千里などは既に否定されている
以上 >>596
じゃあ、気持ちの悪くなってる男よ
お前が倭人伝を読んだと言ってるのが真っ赤なウソでないかどうか、テストしてやる
「当在会稽東治之東」の直前に書かれている4文字を答えてみせろ
答えられなかったら、ウソついてると見なしていいな? >>585
>実測値ではないというのはあなたの勝手な希望
>そうでないと畿内説が崩壊するからw
短里で実測値だと言い張ることだけが、今や九州説の最後の根拠だから必死だなw
1.実測する手段はない
2.短里を使う人も、短里を使う理由のある人も3世紀当時どこにもいない
3.距離が誇張されているのは司馬懿の功績を大きく見せるため
4.萬二千里は淮南子等に典拠のある観念的な数値
ということで、短里説は無事死亡 >>169
>>そっちこそ魏は短里という前提だから話がおかしくなる<
>そんなことを言うのはザラコクぐらいだろ。
東夷では短里だが魏では長里だったので、報告書を読んだ中央の人間は、
倭が実際よりも南方の会稽の東にあると思い込んだんだよ。<
いや、短里は、周朝から唐代や書紀などの史料の記載実態として存在しているモノ。
だいたいキナイコシの反論は、「南→東」などの嘘つき騙しと同じように、
的外れだから、何にも説得力がない。
ごまめの歯ぎしり。 >>586、>>587、>>588
反論したいなら、どこがどう間違っているか、根拠とともに「具体的に指摘」しなよ
それをしないなら、蛤のあくび程度の意味すら持たないぞww >>594
相変わらず、情弱のバカだなww
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ >>600
なんのクイズ?
「計其道里」だが、まさかそう書いてあるから正確に真東と計算した、とか言うんじゃないだろうな?
当時は正確な地図だって作製されてないんだからな。 >>605
ほらな
「会稽東治之東」だと判断した理由が「計其道里」だと明記されてる
つまり、お前の珍説が確実に間違いなのだ <萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない 倭の国境は狗邪韓国であり、帯方郡から七千里
女王のいる(女王国)邪馬台国までが一万二千里 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >>610
不彌国までで1万700里で
残り1300里を南に水行30日陸行1月だよ >>610
>対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
なんで?
万と二千里あまりじゃないの?
二千里も誤魔化すの?
九州説って詐欺なの?
ねえ、詐欺なの? 狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>179
大和説では、記載里数と実際の地理的距離は、6倍位も違うんだから、
比例計算とかそういったレベルの話ではない。
大和説の「長里だけ説」は、あまりにも稚拙と言わざるを得ないな。 >>606
相変わらず気持ち悪いやつだなぁ。
まぁ「自郡至女王國萬二千餘里」は、「淮南子のいう『世界の果てまで萬二千里』が観念的距離ではなく、
実測可能な距離だとは思ってるんだな? >>181
>短里説こそ妄想 違うと言うなら必死こいて証明するこったな<
「長里だけ」説こそ、6倍位も違うんだから、あまりにも妄想。
短里説なら、記載された有効数字1桁の里数の範囲内にきちんと入っている。 >>183
魏志倭人伝を無視しているのはむしろ大和説。
九州説は、色々資料を比較して魏志倭人伝の記述を解明する。 >>612
残り二千里では九州にとどまっている。
さらには、途中にいくつかの余りがある。
実質的には伊都国または奴国と不弥国で道程は終了している。 >>622
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>619
どこを無視したのか、具体的に言ってもらおうか
言えなきゃ九州説は中傷野郎 >>622
>残り二千里では九州にとどまっている。
証拠は? >>185
破綻したのはどうやら大和説のようだよ。。。 >>628
このように、まったく理由を言わないのが九州説
つまり、トンデモ >>604
その北岸の狗邪韓国についた時点で倭国には到着しているので、一万二千里の女王国は、
都市としか考える以外ないというのがこちらの主張。後代の資料をいくら出してきても無駄なんだよ。
リテラシーゼロは、どちらだろうね。
畿内説はマジ文盲
笑 >>627
対馬海峡で三千里だから九州から出れないだろ。
比例の計算もできないの?マジ何回言わせんの?
畿内説はマジ氏ねよ >>190
>東夷は里を知らない
もし使われていたとするなら帯方郡にいたのは
漢の役人公孫氏なので漢里<
太守弓遵は魏の家臣であり、梯儁等は魏帝の詔書や親魏倭王印などを運んでいるので、
魏朝の役人。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>192
>大倭であった証拠を出せ。<
国生み神話でも「大倭」であったし、
古事記の欠史八代の中の四人に「大倭」の号が付けられている事。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>630
狗邪韓国が倭国とか言ってるのは
アマチュアの九州説じいだけなのでは? >>631
なんで比例するんだ?
九州説は思い込みが強いな
だから学問になれないで終わった
w >>638
そこはポイントじゃない別の論点。だから >>594 壱岐と書いている。
要は一万二千里で到着するのは、領域ではなく、都市ということ。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの?
馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>642
>で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして
ヨコだが、陳寿はそんなこと、考えていないよ。
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 悪い事は言わんから九州説はここに書き込むの止めよう
九州説スレもあるんだし
わざわざ書き込んでも気分悪くするだけだから >>601
>1.実測する手段はない
三国志他、中国の正史の距離をすべて否定するつもりかい
2.短里を使う人も、短里を使う理由のある人も3世紀当時どこにもいない
短里は存在したが短里との呼び名が無かっただけ・・これはいろんな人が文献で証明している
3.距離が誇張されているのは司馬懿の功績を大きく見せるため
思のは自由だが確証は無いでしょ
4.萬二千里は淮南子等に典拠のある観念的な数値
淮南子は距離を説いたのでなく 哲学的な思想であるから実態を伴わない >>652
そう思いたいのだろう
九州説はもう学者たちからは見放されてるし
強がるしかないのさ >>602
ザラコクはついに唐まで短里だと言い出した
周、漢、魏、唐が短里だったと
中国古代史を足元に踏み砕きながらながら九州説の短里説はどこまで突き進むんだろうか 連呼爺さん>>649は
「安倍の指示」とか答えた人間が
畿内説なわけがないってことも
理解できない脳障害持ち
惨 もういっその事中国は古代史通じて全部短里だったと主張した方がよほどいさぎいいしスッキリするわ 中国にしっかりした測量が根付く時代まで通用するぞ
ちょっとでもその時代の公里に会わない距離記載があったら
短里だ短里だって騒げばいいんだから で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 畿内説のスレで他説批判展開するほど
畿内説は自信が無いと見たww
他説の批判は他説のスレでが常識だろ
テンプレに従え
>>1のメッセージ
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>201
>まあそうだな
九州説は魏志倭人伝んの里を換算したら
1里約70mになったから短里はあったと繰り返すしかないわな
しかし度量衡を記した資料などから換算した1魏里は約430m <
「度量衡を記した資料」というものが、はるか後代の唐代の資料だから、
「自己解釈に拠る勝手な書き換え」をしている可能性が高く、
信頼性がなく、根拠にならない。
>そして魏志倭人伝が短里で書かれてる証拠は
魏志倭人伝がそうかかれてるからだは循環論法に当たると言っとく<
史料事実や史料実態を根拠西谷帰納的な推論は、循環論法にならない。 >>660
頼んでなくても九州説が向こうから寄って来るからだよ
それで負けた腹いせに荒らすんだからしゃーない 文献だけで行程を地理に当てはめてみると
郡から狗邪韓國まで海岸水行で七千餘里だから
韓の南岸は4分の3しか東に進んでいない
なので、狗邪韓國から對海國への渡海は南ではなくて東に近い
對海國から一大國へは南渡で、一大國から末盧國への方位は書いてないので、
壱岐から、(半島南岸の4分の3〜対馬)と同じくらいの距離だと
長崎県西海市のほうか、あおり運転県の宗像のほうに渡海しないと距離が短過ぎる >>656
揚げ足とるにしても超グダらなすぎるな。知能あるの?
なんら反論・主張ができない畿内説
笑 >>664
>史料事実は1魏里約430m
なんの資料なの >>206
>ちょぼ足で歩いて帯方郡〜邪馬台国までの距離を測ったのか
普通に歩いて測ったほうが楽じゃね? <
歩測以外にも一寸千里や簡易三角測量や記里車や日数測も出来るんだし、
歩測を使う場合には、計測者は、
各自の「普通に歩いた場合の平均的な歩幅が1足底長の何倍か?」を計測計算しておいて、
それで普通に歩いて距離を出してもよいの。 >>663
>長崎県西海市のほうか、あおり運転県の宗像のほうに渡海しないと距離が短過ぎる
末盧国はその「あおり運転県の宗像」だよ。 @阿波 >>664
それで「計其道里」して「當在會稽東治之東」になるのかい? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>666
魏で使われた度量衡が書いてある晋書律歴志
それと魏の時代のモノサシ正始弩尺
これから割り出すと1魏里は約430m >>663
>文献だけで行程を地理に当てはめてみると
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>209
>漢の国境から地の果てまで1万2千里とした
淮南子に合わせるように書いてるね これは無視できないなあ
そうなると魏志倭人伝の距離は短里で正確に測ったものじゃないね<
魏使らは、
「淮南子に合わせるように書く」というインチキを天子に報告した事がバレれば、
首が飛ぶから、
そんなインチキはしない。 >>210の訂正
>だからさー 1里=430mが不適当だという理由は? <
表記された区間の実態距離が6倍位も違うから。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>674
當在會稽東治之東は後漢書にもちょっと違った表現で出てくる
すなわち陳寿が後漢の倭奴国の伝承を邪馬台国に重ね合わせた表記
実際の邪馬台国の場所を指してはいない >>212
>漢でも1里は約420m 短里は使われてなかったね<
淮南子も、介山にも、短里が使われていたね。 >>676
それは表記された区間の実態距離とやらの方が不当という事では? >>678
おお、それは初めて聞いた。
でも、誰も納得しないだろうなぁ...。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>672
末盧国(福津市辺り)までの文献からの仮説はまだいいとしても
帯方郡→秘境(限界集落阿波まで)の900kmはどういう計算? >>681
魏志倭人伝の邪馬台国の表記そのものが
後漢と交流した倭国の極南界にあるといわれた倭奴国に重ね合わされている
だから道里途中の方角も南へ南へとズレていくし
帯方から南へ1万2千里と書かれている
後漢に朝貢した古く由緒ある倭奴国と邪馬台国をすり合わせて
邪馬台国までの距離方角は書かれた
当時の皇帝への一種のゴマスリ >>238
>九州説発狂w<
「南→東」の嘘つき騙しや、「東夷伝は長里」の嘘つき騙しの大和説、発狂。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>679
という事は淮南子では短里で正確に東西南北のこの世の果てまでを測られてるのか? >>369
距離が軍事的表記水行なんたら陸なんたらになったんはクナが魏に敵対表明したからよ?
爺どもいーかげんわかれ?起点は帯方 >>685
それ、誰か納得する人が一人でもいると思ってる? w >>242
>九州説は今日もまた 反論をせず罵ることしか出来ない
つまり君たちはまた畿内説に論破されたというわけだ <
大和説者は、今日もまた反論をせず、罵ることしか出来ない。
つまり君たちは、また九州説に論破されたというわけだ。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>690
さあどうかな
納得するかしないかはその人次第だろうな 基本的なこと聞くけど議論の的になる邪馬台国への道のりの話、
途中までは何里表記なのに途中から何日表記。
これは伊都国まで魏の人間は行ってなくてそれより先は倭人から聞いた話だとされるよね。
これって魏の使者は邪馬台国までは行ってなくて直接卑弥呼とは会ってないということ?
それとも使者は行ってるが道のりを書いた人が行ってないってだけなのか?
後者だとしたらなぜ陳寿は邪馬台国まで行った使者の書いた手記を引用しなかったのか?
その資料を入手できなかったため途中までしか行ってない人の証言を記したのか? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>688
ん?
【わい】なんしはセンガイ並みのアホ曝しやな
王充も曹操も陳壽も腹抱えて死にかけました で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>695
魏使が行ったのはおそらく伊都国まで
魏略の記録がそれに近いだろう
魏志倭人伝が書かれたのはそれから50年ほど後
魏使の記録に陳寿が色々つけ足し脚色して魏志倭人伝が完成 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>697
淮南子の世界観では漢の国境(楽浪、帯方郡)から1万2千里がこの世の南の果てとある
魏志倭人伝も女王国まで帯方郡より南1万2千里
両者は数値が一致してるから
九州説の言うようにこれを短里で正確に測ったものとするなら
淮南子もそうでなきゃおかしいという話になる
ちなみに淮南子は東西南北全ての国境より外の極は
1万2千里としている で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>684
>帯方郡→秘境(限界集落阿波まで)の900kmはどういう計算?
帯方郡→秘境(限界集落阿波まで)の直線距離が900km。 測り方は関知しない。
対馬海峡間等の距離の測り方も関知しない、が、実距離とほぼ合致している現実がここにある。 @阿波 >>675
むしろ漢の時代から倭国は祭事的理由で帯方より南1万里
その都まで1万2千里という事になっていたんだろ
空気読まずそれと違う報告したらそれこそクビが飛ぶ 狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>703
>淮南子の世界観では漢の国境(楽浪、帯方郡)から1万2千里がこの世の南の果てとある
>ちなみに淮南子は東西南北全ての国境より外の極は
>1万2千里としている
『梁書』諸夷伝に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」 とあるそうだよ。
「外の極」の外へ行っちゃってるけど。
>>703
516 名前:日本@名無史さん :2018/12/09(日) 04:06:09.49
『梁書』諸夷傳・・・
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。
同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。
短里の86mだ。
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。
結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当
である。 >>641
>要は一万二千里で到着するのは、領域ではなく、都市ということ。
ポイントがずれてるw
これは女王国がどの辺にあるか、という情報であって、
萬二千里で「どこかに到着」したりなんてしないんだよ >>709の補足
女王国は邪馬台国ピンポイントではなく、卑弥呼を女王に共立した範囲だよ で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>699
魏の使者は邪馬台国までは実際は行ってない、でオーケーなの?
張政は帰国するまで20年近く倭国に滞在したらしいが
それなら伊都国にずっといたとしても邪馬台国までの正確な距離や倭国の実情について詳しいレポート残してそうなものだが。 >>710
女王国は文脈によって邪馬台国中心の連合国全体をあらわす場合と
邪馬台国そのものを指す場合があるよね。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>708
淮南子の記述通りじゃないなんて梁書は間違った事を書いてる
とはならなくて
魏志倭人伝でも1万2千里に追加で南4千里つけ足したりしてるよ
これは呉が東1万6千里にあるという大月氏と国交を結んでいたため
それに対抗した表記
短里で書かれてるらしい距離を換算したら短里になったから短里は証明されたというのは
循環論法的証明 >>713
>魏の使者は邪馬台国までは実際は行ってない、でオーケーなの?
少なくとも、誰かは確実に行ってるよ。
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を倭国(阿波)内各地で実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。
「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。 @阿波
>>256
>中国史では日本の政権は変化してないと認識している <
歴代中国史書群は、「正北抵新羅」にように、倭国は北部九州にあった国だとし、倭奴國の後裔だ、としており、
日本国は、伝を倭国伝とは分けて記載して、倭奴國から別れて大和に移った別種の旧小国だとし、
日本国が初めて中国に国交を持とうとしたのは開皇末だったとし、白村江で戦った相手は倭国であったとし、
大和日本国が盟主として中国に遣使を派遣したのは長安3年だった、としている。
>台与の後に男性王が立ちその後も晋、宋、斉、梁、隋と使節が続いているとしている<
台与なんていない。
>そして、隋の時代の使節の主であるアメノタリシヒコを唐書では用明天皇であるとしてる<
用明は「目多利思比孤」と書かれており、隋書の「俀王姓阿毎字多利思北孤」ではない。
>その上で、当時の天皇(光孝天皇)の系譜とタリシヒコが繋がっているとして記録している <
大和日本国の建国の祖は、倭奴國から別れて大和に移った神武だ、とはっきり書かれており、俀國の多利思北孤とは、間接的にしか繋がっていない。
>この記事は日本からの王年代記の記事を無視しての中国独自の記録を採用しているので中国側の認識がよく分かる<
王年代記は、大和王の紹介をしており、九州倭国の紹介をしていない半分×書。
>更に、宋史では「日本は小国だが王統がずっと変わらずに継続している」と皇帝が称賛している記事が見えている
なので、旧唐書の話も「自分で名前を変えた」と言う記事が併記されているように壬申の乱と天武天皇の事を示している
中国はどこかの正体不明の国が日本になったと考えておらず、日本の政権は邪馬台国から継続していると認識している<
宋の皇帝も、旧唐書や唐会要に書かれた「或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」
という事件の事を忘れて、王年代記にて半分騙されたアホであった。 >>713
>魏の使者は邪馬台国までは実際は行ってない、でオーケーなの?
少なくとも、誰かは確実に行ってるよ。
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を倭国(阿波)内各地で実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。
「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。 @阿波
>>709
また得意の詐欺だな
「女王国」が「倭国」とまた違った領域といいたいの?
まずは「女王国」の範囲を示してみろよ。
例えば、壱岐は領域としての「女王国」に入るの?入らないの? >>653
面倒くさいなぁ
>三国志他、中国の正史の距離をすべて否定するつもりかい
歩測したりできるところは計れるし、騎馬で一日で進む距離でも概算はできるだろ
だが、大陸王朝に水行や渡海の距離を測る手段はない
>短里は存在したが短里との呼び名が無かっただけ・・これはいろんな人が文献で証明している
どこで誰が証明してるんだよ?www
インチキを文字にして並べても証明にはならないw
短里なんてないんだよ
3世紀に短里を使う人はどこにもいない
>思のは自由だが確証は無いでしょ
親魏倭王と親魏大月氏王は、この二つしかない特別な称号
曹真の功績と並ぶためには、倭を大月氏と対等以上に遠くする必要があるんだよ
>淮南子は距離を説いたのでなく 哲学的な思想であるから実態を伴わない
そう言ってるじゃないか
その哲学上の観念距離を当てることで、地の果てであるという主張をしてる
それは「短里で実測」という九州説の妄想とは相容れないものだ >>705
じゃ半径およそ900km範囲内という仮説だな >>659他
>>589で答えてあるのは無視するんだww >>713
魏使が倭国に来たとして最初は240年頃
これが恐らく伊都国まで
そして魏略にあるような伊都国までの報告書が作られる
張政が倭国に来たのは260年
この時は恐らく畿内の邪馬台国まで行っている
その後280〜290年に陳寿が魏志倭人伝を書いて
邪馬台国までの情報が魏使の報告書にプラスされる >>709 >>723
また得意の詐欺だな
「女王国」が「倭国」とまた違った領域といいたいの?
まずは「女王国」の範囲を示してみろよ。
例えば、壱岐は領域としての「女王国」に入るの?入らないの? >>695
>これは伊都国まで魏の人間は行ってなくてそれより先は倭人から聞いた話だとされるよね。
されませんw
そんなん言うてるのは九州説のカルトの人だけw 「おいの体はおはんらに差し上げ申す」
卑弥呼さーは言われもした。 >張政が倭国に来たのは260年
>この時は恐らく畿内の邪馬台国まで行っている
おいおい、酷い妄想だな、
さすが畿内説
笑 卑弥呼時代は、「邪馬台国」=「女王国」
台与時代になって、【「邪馬台国」=「女王国」 + 「狗奴国」】=倭(国)
そして、卑弥呼時代以降の倭(国)は、県外(淡路・讃岐・吉備等)を包含しながら順次拡大していく。 @阿波 >>257
>考古学的に考えても「台与の後に男性王が立つ」と言うのであればこの時期は完全に古墳時代に入っている<
前方後円墳は、壹與の後の王の那珂八幡等が始まりで、一貴山銚子塚などが続き、
大和の前方後円墳は、九州倭国の東征毛人五十五國の将軍らに拠って齎され、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を墓守り人に出来て、巨大化出来た。
>古墳時代ともなれば畿内の中心性は明らかで、<
大和の天皇の始まりは、白村江の後の天智からであるから、畿内なんて存在もしておらず、×。
>その影響力は時代を追うごとに強くなり最早どこかに別の中心地を見出すことは困難であると言える<
大和は、白村江で大敗した九州倭国を併合吸収継承して、701年に列島盟主になれた。
>この王が台与に続く王であると言うのであるから中国の邪馬台国の認識はそのまま大和を示していると理解できる<
台与も邪馬台国なんても存在もせず、中国の認識は、白村江後までは九州倭国が列島盟主であった。
>考古学、史書的の両方に符合する場所が大和であると考えるのが最も理にかなうと言える <
文献考古共に、白村江までは、九州倭国が列島盟主であった事を示していた。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>699
>魏略の記録がそれに近いだろう
まだこんなバカなことを言う人がいるんだw
魏略は「翰苑に引用された部分」が、伊都国で止まっているだけで、
「その先が書いてなかった」ことを意味しないんだが?
翰苑本文の「分軄命官統女王而列部」に対する註だから、魏志倭人伝にも
対応部分がある「其國王皆属王女也」までが引用されてるだけ で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>722
>じゃ半径およそ900km範囲内という仮説だな
違う。 帯方郡→秘境(限界集落阿波まで)の直線距離900km(万二千里)に邪馬台国(女王国)が位置するってこと。
ただし、魏の測り方は関知しない。 @阿波 >>732
魏志倭人伝よりは魏使の記録に近いはず
それに使者は伊都国で留まるとある
記録がそこで途切れてるのもそういう事情からじゃないかな >>724
だとしたら北九州の伊都国から畿内まで一気に距離が伸びるんだから
前のレポートに足して済む程度の違いとは思えないんだが。
畿内説なら北九州からそこまでの瀬戸内の国々についての記述があってしかるべき。 卑弥呼時代は、「邪馬台国」=「女王国」
台与時代になって、【(「邪馬台国」=「女王国」) + 「狗奴国」】=倭(国)
そして、卑弥呼時代以降の倭(国)は、県外(淡路・讃岐・吉備等)を包含しながら順次拡大していく。 @阿波 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>736
九州北部から瀬戸内海航路で投馬国(鞆の浦)にしばし停泊
そこから邪馬台国に向かう
航路だから距離を稼げるのでそんなに停泊しなくてもいいはず >>735
少なくとも、誰かは確実に行ってるよ。
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を倭国(阿波)内各地で実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。
「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。 @阿波
で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>736
卑弥呼の時代には、瀬戸内海は使い物(航行)にならなかったから、当然記載がない。 @阿波 >>260
>九州説では、教授の椅子も出版も見込みなしだからな。 飯食うには、大和説。<
国内では、「南→東」などの嘘つき騙しの、
「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」の人種差別的殺し合い戦争狂のキョクウの、
安部文部省や右翼マスコミや学会教科書界が、
教授の椅子も出版も支配しているからなあ。
飯を食うなら、海外へ。
飯よりも良心や正義が大事なら、大学へ。
瀕すれど貪せず。 >>265
大和説や長里説がメタメタに崩れ去って、頭に来てるのはわかるけど、
ちょっとは落ち着けよ 。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 「安倍の指示」って書いた問題外男はザラこきじゃないの? >>269
>>魏志倭人伝を読んでね。<
>いつも根拠提示を拒み、こうやって逃げるのが九州説の常<
いつもこうやって、「南→東」などの嘘つき騙しの根拠提示を拒み、
口先で逃げるのが、大和説者の常。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>272
バカはどうせバカなんだから、
ちゃんと説明してもバカだから理解なんてできないからな。
バカが分かる必要なんてないから、
好きなだけバカ丸出しの大和説とか妄想してればいいよ。
別に構わない 。 @阿波と書いてる人って邪馬台国が徳島平野説の人か? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>755
> @阿波と書いてる人って邪馬台国が徳島平野説の人か?
徳島平野というよりも、吉野川流域・鮎喰川流域だね。 @阿波 おーいザラコク
「安倍の指示」って書いたの、お前だろ >>282
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「短里の記載はなかった」だなんて史料実態を否定するよう中村、
事実になんて興味のないバカが大和説だからな。
バカに何を話しても無駄、 バカなんだから 。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>283
このように全く理由を言わないのが、大和説のデフォルトなんだから。
大和説はもう完全に国民の頭からも、
まともな学問の世界からも、
消えたってことでしょう。 >>284
「ぼくちゃんはみとめない!」「ぼくちゃんはそれをしらない!」
が反論になってると思ってる馬鹿の集団だからな、
大和説は。 >>757
なら南の敵対国家、クナ国は那珂川流域にあって
今の国道193あたりの峠で戦闘になるとかかな(笑) 壊れてなきゃなんぼ論破されても
懲りずにまた突撃してくるなんてできんわな で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>750
「其北岸」だから、倭に属する。
韓伝に記載も記載がないし。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>734
秘境限界集落阿波は方位が一致してないから
直線距離およそ900kmならどこでも成り立つ仮説 >>765
>なら南の敵対国家、クナ国は那珂川流域にあって
>今の国道193あたりの峠で戦闘になるとかかな(笑)
神山辺りまで戦闘があったようだね。 @阿波 >>287
>あなたが今やっているのがヘイトスピーチです<
はい、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者の、
「まともな理由を書かずに口先だけでヘイトスピーチ」の投稿に、
国民が騙されてはいけない、と思うからの、
鸚鵡返し的な「お返しヘイトスピーチ」の投稿です。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>750
>クヤ韓国って倭人の国だっけ?
倭人の国だったら狗邪倭国になるだろうに
>>768
弁辰狗邪国が韓伝にあるからこの国だろ
韓伝の中では弁辰に属することを示し、倭人伝では韓に属することが示されている >>770
>秘境限界集落阿波は方位が一致してないから
一致しているよ。 「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑」 @阿波 >>773他を繰り返しコピペしてるやつは、連続句読点だろw >>771
知ってると思うが吉野川沿い、鮎喰川沿い、那珂川沿いはそれぞれが川に沿っては東西はそこそこ広いけど南北の交通の便は極端に悪いよな。
南北の道は酷道として知られる193号ぐらい。四国山地の3桁と国道だから押して図るべし。
徳島県山間部を南北に貫くトンネル欲しいよね! >>775
それは西日本ならどこでも東南大海之中だから で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>774
>>>750
>>クヤ韓国って倭人の国だっけ?
>
>倭人の国だったら狗邪倭国になるだろうに
固有名詞だからそうなるとは限らないだろw
>>>768
>弁辰狗邪国が韓伝にあるからこの国だろ
>韓伝の中では弁辰に属することを示し、倭人伝では韓に属することが示されている
たまたま名称が似ているだけだなw >>294
>台与のあとに男王が立ったという記録が、どこかにあるのかね。
邪馬台国は、台与の死とともに消滅したのだから、男王が立つという記録があるはずがない。<
また変な大和説男。
台与も邪馬台国も存在しない嘘つき騙し文言だし、
梁書倭伝には、
「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛・・・」
と書かれている。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>778
>それは西日本ならどこでも東南大海之中だから
だから、東南大海之中で万二千里の倭国(阿波)なんだよ。 「大海之中」を注視してね! @阿波 >>784
東南大海之中で直線距離およそ900kmならどこでも成り立つ仮説 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>303
>根拠は魏志だね
道里が日数でしか書かれていないということは そのもっとも合理的な理由は
「彼が見た資料に日数で書いてあったから」だろう <
「彼が見た資料に日数で書いてあった」というのが、
また大和説者の嘘つき騙しになるね。
魏志には、邪馬壹國女王之所都への里数の「萬二千余里」が、
ほぼきちんと書かれているから。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>777
>徳島県山間部を南北に貫くトンネル欲しいよね!
それは超弩級のトンネルになるね。 一応、酷道193号で神山⇔木屋平(三木家)⇔穴吹ルートはあるんだけど、酷道には違いない。
そのルートが、天孫降臨とか神武東征に関わってくるだけどね。 @阿波 狂ったサルが暴れまわりザラコクがお経を唱える
嫌な動物園だねここは >>780
>固有名詞だからそうなるとは限らないだろw
倭国の国名で固有名詞で「倭」の字が入っているのがあるかい?
韓地の国名で固有名詞で「韓」の字が入っているのがあるかい?
どちらもないだろ?
そういう国名の付け方はないんだよ
>たまたま名称が似ているだけだなw
要するに否定する根拠は皆無ってことだ
詭弁ではごまかせないぞw >>785
>東南大海之中で直線距離およそ900kmならどこでも成り立つ仮説
当然、どこでも成り立つ仮説だよ。 だから、倭国(阿波)の数ある根拠のひとつに過ぎない。 @阿波 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 お経を唱えるザラコクと暴れ狂うサル
あとブタとカッパが揃えば西遊記やんけ >>790
僕は四国の人間だから分かって書いてるさ。
高知道も道がつけれないところを高架とトンネルで金と手間暇かけて力づくで通してるのがよく分かる。
ドライブしてて吉野川沿いの国道32号にしても一昔前までは下は断崖絶壁の狭路だったと感じられるし。
いずれにしろ四国は四国山地のため南北の移動が極めて困難。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>796
>いずれにしろ四国は四国山地のため南北の移動が極めて困難。
そうだね、だから昔から阿波と土佐は疎遠。 @阿波 >>792
>倭国の国名で固有名詞で「倭」の字が入っているのがあるかい?
>韓地の国名で固有名詞で「韓」の字が入っているのがあるかい?
>
>どちらもないだろ?
>そういう国名の付け方はないんだよ
へぇ、そう思うんだね?
でもそうは書いてないね。
狗邪韓國は倭の最北と書いてある。
>要するに否定する根拠は皆無ってことだ
>
>詭弁ではごまかせないぞw
へぇ、そう思うんだね?
でもそうは書いてないね。
狗邪韓國は狗邪韓國、弁辰狗邪國は弁辰狗邪國だね。
同じなら同じ名前を書くだろう? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>792
狗邪韓国が倭人の国だなんて
それこそ学界で全く相手にされないトンデモ説の極みだ
よな >>319
>漢が日本に倭とつけたのでやまとに倭の字を当てていた<
これ×ね。
漢が倭と書いたのは、北部九州付近の事であり、
大和の事ではない。
大和は、
古事記の(神武東征以後の)欠史八代の内の4人が、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職」を任じていたようだから、
大倭であったのであり、
白村江の後になって、「大倭→大和」に変更した。 狗邪韓國は弁辰狗邪國や金官伽耶国や金海と色んな呼び名があったらしいぞ >>799
>倭国の国名で固有狗邪韓國は倭の最北と書いてある。
なんという史料に?
まさか
魏志倭人伝じゃないよね? >>801
時代に拠りけりでしょ? 倭国であったり、なかったり。 @阿波 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 邪馬台国畿内説は、破綻したので、SF小説になったな、、、、 狗邪韓國=弁辰狗邪國=金官伽耶国は
そこの王族がインドから妃を迎えたという伝説がある
ここは鉄の取引を取り仕切っていたらしい
古代鉄といえばインド
インドの製鉄技術がそこには伝わっていたのかもね
メタルの事を金属というのは案外ここから来ているのかも で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 魏志倭人伝を読んだら、日本国民は、99.5パーセント短里を信じたので、畿内説は破綻したな。。。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 島の南岸は島の一部だけど川の北岸は川じゃない件について 韓国政府や観光関連が宣伝していたことが発覚したので、邪馬台国畿内説が破綻しました、、、 そして切れ味鋭い事で有名な日本刀特に古刀
これは柔鉄と硬鉄をねり合わせて刀身を作り上げるが
これは同じ構造の鉄斧が百済辺りで見つかっているらしい
たぶんインドのダマスカス鋼の製法と同じなんじゃないかと
あれも硬材と柔材の鉄をるつぼで練り合わせた
るつぼ鉄という物を使ったらしい
そうなると歴史に名高いダマスカス剣=日本刀だった事になるな で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>804
魏志倭人伝に
「倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」と書いてある。
「其北岸」はその(倭の)最北という意味だ。 >>819
つまり
「倭国の国名で固有狗邪韓國は倭の最北と書いてある」
というのはウソで
あなた独自の「解釈」なんですね? で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 畿内説、あいかわらず追い込まれてんな
勝者の貫禄なんてまるでないな で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>820
「“岸”といえば、海や川を連想するが、この字は、“山”“厂”“干”の組み合わせであり、山と高利用して守る(干)ところであり、辺境または涯を意味する。
つまり、“其北岸”というのは、倭の北端のことであり、狗邪韓国は、韓の南岸ではなく倭の北岸である。」
「誤訳だらけの邪馬台国」 張 明澄著
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
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>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>326
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの詐欺ばかりをする大和説者は、
おそらく、脳もおかしいだけではなく、
顔つきも醜くて異常な者ばかりだなろうなあ。 >>327
その大和説者も、心を病んだ荒らしだぞ。 で、陳寿が九州から畿内を千三百里と考えたとして、それをわざわざ日程で記した理由は?? 早く答えろよ、畿内厨
現在の回答↓
>>229 「さぁ 知らね」 (問題外)
>>235「彼が見た資料に日数で書いてあったからさ」(根拠なし)
>>267 「陳寿のその時の気分」(問題外)
>>328「安倍の指示」(問題外)
>>390 「書いた理由なんて本人にしか解らない」(解釈放棄)
文献軽視も甚だしいね。もう魏志を読むのはやめたら?
無能だから反論できず 、的外れな悪口しか言えないという畿内説の惨状
畿内説って、どうしてこんなに無力なの? 馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから狂うしかないんだよ
笑 >>331
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
論破されて反論ができないから、
発狂してる人が多いのだろう。 >>827
それ以前に
九州説が狂いザルと化してるぞ!? >>333
>倭迹迹日百襲姫と夜麻登登母母曽毘売は別人だとでも言うのかね? <
記紀の「倭」は、大和が、
倭国の別種分家の旧小国の附庸國であった事の盗用や名残りや、
「大倭」職の国であったことの名残りなの。 >>340
結局、「南≠東」などの指摘に、
なにも反論できないのがトンデモ大和説。 >>671
>>>666
>魏で使われた度量衡が書いてある晋書律歴志
>それと魏の時代のモノサシ正始弩尺
>これから割り出すと1魏里は約430m
魏志倭人伝から割り出してみろよ。 >>343
「南≠東」などの指摘に、大和説って、どうしてこんなに無力なの?。 >>347
無能だから「南≠東」などの指摘に反論できず、
的外れな悪口しか言えないという、
大和説の惨状 。 >>841
割り出して
短里になったから短里はあったとするのは
循環論法 >>354
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
口先でのヘイトスピーチの荒らしをするしか手がないらしい。 >>843
そうやってオウム返しばかりするオマエって、無能だろ >>355
議論する能力どころか、他人と会話する能力すらない。
可哀想すぎる大和説 。 オラ九州説よ
もっとサル踊りを踊って我々畿内説を楽しませろや >>356
まいど「南→東」などの嘘吐き騙しスレ立てて、
なんか凄いことしたと思ってる程度のバカの集団だからな、
大和説は。
「戦前の万世一系八紘一宇の人種差別的戦争狂の皇国史観」の、
学会教科書会や、右翼マスコミや、安部自民とか言うバカ量産地の被害者だろう... >>829
>つまり、“其北岸”というのは、倭の北端のことであり、狗邪韓国は、韓の南岸ではなく倭の北岸である。」
倭の北岸が狗邪韓国で、南端が倭奴国
すなわち倭国とは対馬海峡の国
そして卑弥呼はその倭国の女王
畿内は関係ないね >>844
そんな詭弁は誰も使っていない。
魏志倭人伝の里は100メートル未満だというだけ。
それを区別するために短里と呼んでいる。 >>360
「問題外」とか「根拠なし」とか「定型句」とかのイチャモンを呟くだけで、
なーんも反論できないというこの問題外な無能さ。
大和説の馬鹿に生まれつくって悲しいことだなー。 >>364
と言うか本当は大和説バカも分かってるんだよ。
何の根拠もない思い込みしかないと言う事に 。
今更自分がバカでしたと認められない下らないプライドだけのサルだから
だから狂うしかないんだよ。 >>374
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が、
悲惨なことになっている。 >>376
>ダメダメ。
会稽東治(冶)の沖は、地図上では沖縄あたりになるの。
そのあたりに女王国(邪馬台国)があるにちがいない、と倭人伝は書いてるわけ・・・<
ダメダメ。
会稽東治の沖は、地図上では沖縄あたりにならないの。
そのあたりに女王国がない、と倭人伝は書いてるわけ。 >>376
>ダメダメ。
会稽東治(冶)の沖は、地図上では沖縄あたりになるの。
そのあたりに女王国(邪馬台国)があるにちがいない、と倭人伝は書いてるわけ・・・<
ダメダメ。
会稽東治の沖は、地図上では沖縄あたりにならないの。
そのあたりに女王国がない、と倭人伝は書いてるわけ。 >>379
理由は明らかだ。
南水行と書かれている南は、本当に南だったのさ。 >>383
もう「みとめない!みとめないやい!ぼくちゃんはしらないんだから!」
と泣きわめいてのたうち回ってる大和馬鹿の姿で、
笑いが止まらんw。 >>851
それがあった証拠を示すものは?
短里のあった証拠に短里で距離が書かれてるらしい書物をあげるのは
循環論法
つまりどれだけこの書に書かれてるどこそこからどこそこの距離が
短里相当になったとしても
それは全て循環論法になるという事だ
それから脱却するには
1短里は通常の5分の1里で・・・と体系が明記されてる書が必要 >>395
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説ガキさん方=死ぬまでG行為?.するサル ザラコクが誇示する一寸千里もブッ潰すか
一寸千里は循環論法 >>397
冗談や侮辱ではなく、「南→東」などの嘘吐き騙しや、
ヘイトスピーチ的投稿ばかりの、
スレ主や大和説者約2名には、狂気を感じるわ。 >>401
「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」とか
「人種差別的殺人鬼戦争狂」とかに疑われるような投稿を毎日喚いてたら
大和説者らは、正気を疑われて当然だろうに。 >>404
>魏朝の「周制への復古」なんて無いんだよ
現代人の作った架空の物語だ <
周朝の周髀算経の一寸千里の法の度量衡の短里を用いて書かれていた、
という史料実態の存在が、「修正への復古」があった証拠なんだよ。 ここまで読んでると 纏向は王都どころか
倭人伝の行程記述では
纏向まで魏の使者は到達できないのがよくわかった
ヤマトは倭種の別国でよいと思うな >>862
あんたの頭の構造はどうなってんの?
勝手な謎論理を展開しても、誰も畿内説にはなびかないよ? >>799
>狗邪韓國は倭の最北と書いてある。
書いてない
魏志倭人伝の記述は「到其北岸狗邪韓國」だ
捏造は止めなw
この部分の解説はテンプレにちゃんとある
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。 >>799
>狗邪韓國は狗邪韓國、弁辰狗邪國は弁辰狗邪國だね。
>同じなら同じ名前を書くだろう?
本質的には狗邪国なんだよ
のちの伽耶だ
韓伝で 所属が分かるように弁辰狗邪国とし、
倭人伝では倭人の国ではないことを示すために狗邪韓国としてある >>869
>周朝の周髀算経の一寸千里の法の度量衡の短里を用いて書かれていた、
>という史料実態の存在が、「修正への復古」があった証拠なんだよ。
周髀算経は周朝の物でもなんでもないし
ましてや魏朝ろは無関係だ
魏朝の「周制への復古」なんて無いんだよ
歴史に暗い現代人の妄想だ 周髀算経や蓋天説に魏の使いは精通していただろうな
南を東には間違わないだろうな
周髀算経でなくても天文学の基礎知識ぐらいあっただろう
一般人でも太陽は東から昇るのは周知だろうな この時代は科挙なんて無いからそんなに学は無いでしょ >>407
>という証拠が出せない九州説<
「南→東」などの嘘吐き騙しを主張し続ける大和説者。
地球に生まれた人類は、
太陽や月や星は、東の方から見えて来て、西の方に沈む、
という事をほぼ100%知っており、間違えないもの。
それを敢えて、「南→東だ」という事を主張し続ける大和説学者らや、
それを応援する学会教育者や右翼マスコミや安部文部省らは、
何らかの宗教や狂気に狂った・・・・犯罪者である、というにしかならない。 >>417
大和説者らは、
「人類は、太陽などの動きを見て南→東などの方向間違いはほぼ100%しない」
という事が分からず、
「南→東」の嘘吐き騙しをし続けるから、・・・・的な詐欺師だ、と言われるんだよ。 >>414
>なら魏皇帝は尺度を1歩=1尺に改めたなんて話は魏志のどこにも載ってないから
短里なんてものはなかったんだ <
「1歩=1尺」なんて言った筈がない。
魏朝は、周制への復古を目指したから、
周髀算経の一寸千里の「1歩≒1尺」の度量衡にした、
と言ってきた。 >>879
後漢・魏晋時代における教育と門閥士族の形成
The Education and the Making of Lineary Clan in Hou Han and Wei-Jin Periods in China
・・・・・陳 雁
魏国では大学もあったのだよ >>418
人類は、
日の出日の入り方向に拠って、南と東とを間違える事は、ほぼ100%ない。
大和説ゴミのスレ主や学会教育者や、右翼マスコミや安部文部省は、
もはや酔っ払った・・・・詐欺師が 、
ベーケヤロウとか言いながらクダ巻いてる状態に等しい 。 >>423
なんか、「南→東」などの嘘吐き騙しの異常な・・・・犯罪者の大和説者が、
更に重症化してるじゃないか。 >>431
>>実際の地理で 伊都国(糸島市)と奴国(博多近辺)は 海岸沿いに東に向かう方向で並んでいる
その先に向かうなら当然通り過ぎざるを得ない
九州説は現実との乖離がますます酷くなってきた<
奴國は、伊都国の「東南」だ、とはっきり書かれていて、
「東」だとは書かれていない。
「南→東」などの人類の常識を否定する嘘吐き騙しの・・・・詐欺師の大和説は、
史料事実や現実との乖離がますます酷くなってきた。 >>432
>この九州説さんの言ってることは考古学者の言ってることと正反対なんだがね<
人類は「日の出日の入り方向」を知っているから、
東西南北を間違える事は、ほぼ100%ない。
それを敢えて、「南→東」などの嘘吐き騙しでの解釈をする大和説考古学者は、
ほぼ100%、嘘吐き騙しの・・・・詐欺師である、という事になる。 >>433
>あ
「台」が「星の名称文字」に使われた、という例しかない、
という投稿したの俺だわ
間違いだったわスマン
3世紀ごろ中国で台の字が使われた例はなかったわ <
有難う。
確か古田さんも、3世紀だ、とはされず、
もう少し古い情報であったような表現であった。 ERROR: We hate Continuous....
連投ですや
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名前: 日本@名無史さん
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内容:
>>433
>あ
「台」が「星の名称文字」に使われた、という例しかない、
という投稿したの俺だわ
間違いだったわスマン
3世紀ごろ中国で台の字が使われた例はなかったわ <
有難う。
確か古田さんも、3世紀だ、とはされず、
もう少し古い情報であったような表現であった。 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
謁見を請うということは外交儀礼として土下座。
日本の歴史は中華皇帝への土下座から始まった。
その屈辱の史実を隠すことが記紀編纂の目的。
だから基点となる卑弥呼の時代を神武東征紀で猛々しい男王国に変え、
BC660年即位などとトンデモない時代に設定し、
それ以前のスサノオを神話化した >>436
>海を渡る途中に島があってその周囲を計測したとしても
行程には加えない
その証拠に移動を表す行や至ではなく方と記されている <
「海を渡る途中に島があってその周囲を計測した」なんて言ってもいない。
對海國と一大國とは、国の大きさが計測記載されており、
魏使らは、その計測が出来るルート地を通った、と言っている。
そして、その国の大きさは、対馬や壱岐の島の大きさの比率に全く合わないから、
例えば對海國の方四百余里は、対馬全島の大きさではない、と言っている。 >>884
>日の出日の入り方向に拠って、南と東とを間違える事は、ほぼ100%ない。
その場では、の話だ
それを記録して、持って帰って、報告して、報告書にまとめられて、
それを参照して史書を撰述するまでの過程で、いくらでも錯誤が入る
そして、最終段階の撰述を行う陳寿が、倭国は南国という認識なんだから
その最終段階だけでも南とされる蓋然性としては十分だ
陸行一月の行程が南向きだというのも、水行方向の錯誤の原因の一つになり得る
ザラコクの論証は無意味w 画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は、二十四節気3年暦のカレンダーだよ。
魏志倭人伝の注に、倭人は暦を知らないと魏略の文を引いて書き入れているが、この文章は倭人は暦に無知だという意味ではなく、理想的なところなので暦を必要としていないという意味であることが分かる。 >>438
>>ウソを付くな。
通典が「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」と、
はっきり「魏明帝景初二年」と書き、しかも「明帝」とまで断定している。<
>通典では「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏」まで明確だけど
「倭女王始遣大夫詣京都貢獻」は「魏明帝景初二年」とは限らないよね
確実なのは、倭女王が始めて大夫を遣したのは司馬宣王が公孫氏を平らげた後だってこと
で、司馬宣王が公孫氏を平らげたのは魏明帝景初二年九月なんだな
ところが倭人伝にあるのは「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡」なんだよね
六月は九月より前だよね? ということは「景初二年六月」は「景初三年六月」の間違いってことにならない? <
ならない。明帝の詔書は、景初二年12月であった事が実態だ。
という事は、難升米らは、「戦中遣使」であり、公孫氏滅亡後の景初二年12月の詔書の前に都に到達しており、
従って、銅鏡百枚も、ほぼ在庫の鏡で準備されたという事であり、
「特注説」の否定になるのだ。 >>439
>どなたかが言ってたは証拠にならんが
3世紀に台と臺が別の意味で使われている文を出せなければ
そんな事実はなかったのであり 邪馬台国はあった事になる <
ならんよ。
臺の使用意味は「盛り土」や「天子の宮殿や中央政庁建築」の意味であり、
台の使用例は星の呼称文字であり、
混乱する事はない。 >>452
>読んできました
九州説はなんでズタボロになりながらなおもこのスレに粘着してるんですか?<
それでは、あなたも、
大和説者が、
ほぼ100%間違いのない「南≠東」などの、人類の常識に逆らってまでして、
「南→東」などの嘘吐き騙しまでして、大和説に執着固執している、
という悲惨な状況にある事も、
判らないんでしょうね。 >>459
>もうまさにザラコク九州説はお経を唱えてるだけ<
日の出日の入りの方向に拠って、東西南北を決めてきた人類は、
「南と東」を間違える事は「ほぼ100%あり得ない」というお経は、
人類誕生以来の人類の常識であり、
だから大和説は成立しない、という事も、人類の常識ね。 >>459
>もうまさにザラコク九州説はお経を唱えてるだけ<
日の出日の入りの方向に拠って、東西南北を決めてきた人類は、
「南と東」を間違える事は「ほぼ100%あり得ない」というお経は、
人類誕生以来の人類の常識であり、
だから大和説は成立しない、という事も、人類の常識ね。 >>461
>淮南子の漢の国境(楽浪郡)より南の地の果ては1万2千里
魏志倭人伝の邪馬台国までの距離は帯方郡(楽浪郡)より南に1万2千里一致してるな
魏使および魏の学者は淮南子の世界観に邪馬台国を合わせたんだよ これは実測値ではなく概念的数字<
いや、ほぼ経験実測値に拠ったもの。
>後漢書の成立は5世紀だが 内容が5世紀のものではない
1世紀の後漢と倭奴国との交流記録が引き写されており
当然魏の時代にもその記録を参照することが出来る<
有難う。
という事は、漢代から5世紀まで、「短里」が使われており、
(「正北抵新羅」の)倭国は、北部九州にあったという事であり、
(人類の常識に反する)「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
×であった、という事だね。 コンパスのある現代でさえ方向間違う奴おるのにアホな理論だ >>465
>ほらどなたかが3世紀の魏に台の字はなかったと言ってるぞ
どなたかが言ってたから3世紀に台と臺は別に使われてたはこれで成立しないな <
3世紀の魏に「台」の文字がなかったんなら、
大和説者の「邪馬台国」なんても存在しないな。
>臺は台の旧字体であり邪馬台国はあった<
後代に類似語である、という事であっても、であっても、
やっぱり、大和説者のいう「邪馬台国」はなかった。
>古田は嘘をついていたと証明された<
大和説者の「邪馬台国」は、嘘をついていた、と証明された。 >>466
>魏使および魏の学者は淮南子の世界観に邪馬台国を合わせたんだよ
だから短里になった<
淮南子も短里を使っていて、魏使らも短里を使った計測をしたから、
同じ萬二千余里が出て来た。 >>895
>憶測で語るほど地に落ちたかなww
考古学的遺跡・遺物という現実が、邪馬台国=ヤマトを示しているからね
九州説のような、ただの捏造寝言とは違う、確度の高い推定だよ >>896
>台の使用例は星の呼称文字であり、
それを一度も示せないのがザラコクww
3世紀の星の呼称として使われている実例を早く示してくれよwwww >>901
>いや、ほぼ経験実測値に拠ったもの。
世界の果てまで行った人が、一人もいないのにどうやったら実測できるんだ?
バカも休み休み言えww >>904
>淮南子も短里を使っていて、魏使らも短里を使った計測をしたから、
>同じ萬二千余里が出て来た。
淮南子は、実測値じゃないんだって!
つまり短里はない
そして、それと一致している時点で、同じく魏志倭人伝の萬二千里も
実測値ではないし、短里もない >>502
>中国史なのに中国に主張できない事を日本で主張されてもな
結局短里なんてでっち上げだから中国には黙ってるのでしょ<
唐会要の倭国伝が「正北抵新羅」と書いて、北部九州説であった事になるから、
唐会要の筆者も「短里」説であった事になる。 >>504
>博多の阿毎氏から別れた小国が大和だというのは、違うな。 北部九州の土器が大和で出土ためしがない。<
土器は、支配地から中心地に搬入上納があるもの。鏡や鉄器や武具は、中心支配者から、田舎の支配地への下賜や持ち込みがあるもの。
>東遷説は、分家の移動としても一切ない。 中国では、九州の倭国の乱が収まるかどうかずっと注目していたし、
その後、魏の調査団がやってきたときには倭国から千里東にある国々のことをわざわざ記録に残した。<
魏使らは、東方倭種に関しては、国名を残す必要も感じないほど、関心がなかった。
>この東の国が九州阿毎氏の分家なら、そのように記録を残していただろう。<
大和の事は、魏使らはおそらく、知らされてもいなかったんだろうし、関心もなかった。
>しかし、単に同じ倭人の国々だとしか書いてない。 阿毎氏の分家説は、ない。<
新唐書が記録していた。
>そのような記録をわざわざ残したということは、各地から大和に集まった勢力の連合である纏向政権の動きが気になっていたということだろう。<
瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の国々。
>魏の調査団が来たのは、卑弥呼の朝貢の直前だろうから、<
何だ?、お前は・・・・だったのかい?。 >>504
>纏向に連合政権ができてから50年ほども経っている。<
石塚でも。3世紀末であり、卑弥呼から50年ほども経っている。
>纏向で何が行われていたのか、邪馬台国の難升米らは薄々知っていたということになる。<
東征将軍らが来ていたから、時々知っていた。
>そして、倭国が魏の冊封を受ける仕上げの直前に、狗奴国が邪馬台国に攻め込んだ。大和と連携していたことは、明らか。
八女あたりに避難していた卑弥呼を背後から襲ったのは、大和の派遣軍の一隊だろう。本隊は博多を制圧した<
「南≠東」や、後漢書は半分×書であるから、×。 >>509
>それは間違い ちゃんとあるよ
三国志巻三十 烏丸鮮卑東夷傳
夫餘本屬玄菟。漢末公孫度、雄張海東威服外夷。夫餘王尉仇「台」、更屬遼東。
時、句麗鮮卑彊。度、以夫餘在二虜之間、妻以宗女。尉仇「台」死、簡位居立。<
おや?、有難う。
普通名詞ではなく、固有名詞の中の一文字、としての使用があったんだね。 >>511
>古田って嘘ばかりついてるのか こりゃ短里も嘘だな<
古田さんは、
三国志の中の「台」の使用例も有無に関しては、何も書いておられず、
ただ、「台」の使用例としては、署名を挙げられずに「星の名前」に使われている、
という事を紹介されただけだよ。
古田本の頃には、まだPC検索など全く出来ず、
「臺」の時も、二か所紹介漏れがあって、後で訂正追加しておられたが、
三国志全部の確認は非常に困難であったんだろう。 >>914
>三国志全部の確認は非常に困難であったんだろう。
おいおい、>>509をちゃんと見てるか?
いわゆる魏志倭人伝と同じところ「三国志巻三十 烏丸鮮卑東夷傳」に「台」が3箇所あるんだぞ
それすら確認してないって、古田武彦氏もいい加減だなってことにしかならないww >>518
>釜山空港から金浦空港まで航路408km。
金浦空港から海州まで地図に定規を当てて測定したところ、170km位。
あまり正確とはいえないが、あわせると578km位になるか?
金海から海州まで直線では550〜560km位になる。
短里76.6kmを想定するとその距離、7180里から7311里になる。
七千余里として妥当な数値だ。
全行程海路を取った場合、短めに見て800kmくらい、多く見れば900kmになる。
すると里に換算して一万里以上になり計算が合あわない。
三つの海峡の渡海三千余里と合わせて考えると、この時代には意外と距離の測定能力が有ったように思われる。<
成程。 邪馬台国畿内説は、破綻したので、SF小説になったな、、、、 魏志倭人伝を読んだ、99.5パーセントの日本国民は、短里を信じたので、畿内説は破綻したな。。。 >>918
魏志倭人伝を読んだ、99.5パーセントの日本国民が、邪馬台国が九州にあることを、確信したのではないのかな。。。 >>525
>魏志倭人伝の里程は淮南子の世界観に合わせたで解明済み<
魏志倭人伝の里程は、淮南子の短里と一致していた、
という事で解明済み。 >>920
>魏志倭人伝の里程は、淮南子の短里と一致していた、
萬二千里は淮南子から採った数字というのを認めると、
その時点で「短里で実測」説が破綻するのに気づいていないところがすごい
淮南子は、測ってないからね
誰も世界の果てなんて行った人はいないんだからw >>536
>なんで ヤマト王権論じゃいかんのかね <
倭奴國から別れた別種の旧小国の、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国だった、
という大和王権なら、構わないが、
大和が列島の盟主であった王権だ、というのなら、×であり、認めない。 >>540
>倭人伝には歯黒国など伝説の国についての記述もあるが
邪馬台国の位置についても伝説を採用してる。
倭人は呉の王の子孫という伝説があるが
倭人伝には、倭国と呉の文化は似ている
それは倭国は呉(東治)の真東にあるからだとはっきり書かれている。
倭人伝の作者は、伝説を信じて倭国は沖縄県付近にあると認識していた <
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」という位置推定をはっきり記載しており、
會稽東治之東は、ほぼ九州にそうとうしているから、
沖縄説は×。 >>543
>それは原因と結果が逆
道里を計算したら倭人の国が沖縄あたりと出たから、伝説と結びつけた <
沖縄とは出ておらず、
會稽東治之東は、ほぼ九州に相当しているから、
沖縄説は×。 韓国政府が応援を実行している、邪馬台国畿内説が嘘だと判明したので、日本国が対馬の領地を防衛できるのでは、ないのかな、、、 >>546
>対馬海峡三千里は、海上距離が計測不能だから一日で漕ぎ渡れる距離を
「千里の名馬」と同じノリの「遠い距離を意味する『千里』」にしてあるだけ
全体距離の萬二千里が、淮南子の世界観の世界の果てまでを示す観念的な距離を
持ってきたもので、途中の渡海距離も実測値ではない <
そんなインチキをして、同行した役人たちや後続の魏や郡の使節にインチキがバレて、
皇帝らに知られれば、そりゃ、魏使らの首が危ないもの。
これで長里があるって言える人はおバカさん以外にはいないよ。 >>548
>北部九州までまで来て、そこから玄界灘、日本海の沿岸を東に20日沿岸航行(水行)して出雲
そこからさらに東へ丹波まで水行十日で丹波に上陸
さらに南へ陸行一月で大和に着く 魏志倭人伝の通りだよ <
「南≠東」などに拠って、×。 神の声が聞こえるという体で、国を治め人々を従わせるのはボロが出るもんだよ
大川カンターレをみているとそう思う
13歳の少女・台与に神の声が聞こえるという理由で、
国を治め人々を従わせるのは重荷だったと思うわ
いかつい大人の男たちも「神の声が聞こえるから」という理由だけで、
13歳の少女に従っているだけだから、少女のプレッシャーは半端ないだろう 邪馬台国畿内説が破綻したのは、2013年だったな。 >>550
>>なら、東西南北の全方向が三万六千里で、
全方向が短里になってしまうではないか。<
>淮南子のいう「世界の果てまで萬二千里」が観念的距離というのは、
誰も世界の果てまで行ったことがない上で、観念的に萬二千里だと設定してるってことだよ
「短里という決まった長さの単位があって、その短里と言う単位で実測した」とかいう九州説の
寝言とは根本から相容れないんだよww <
中国には、山海経にような、遠地の情報書があった筈だし、
山海経にも、短里と長里との混在記載があった筈。 >>551
>>漢の国境から地の果てまで1万2千里とした淮南子に合わせるように書いてるね
その縮尺が短里ということだね <
>実測距離じゃないものに、縮尺を考えるだけ無駄
実測距離じゃないから、区間ごとに長さ(=縮尺)が4倍も異なる単位なんてないんだよ
言えることは、里程はあてにならない、ってことだけ <
何だ?、自分から
「4倍」も異なる単位の記載があった
と証言してしまっているではないか。 >>873
819 名前:日本@名無史さん :2018/12/09(日) 22:21:21.94
>>804
魏志倭人伝に
「倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」と書いてある。
「其北岸」はその(倭の)最北という意味だ。
829 名前:日本@名無史さん :2018/12/09(日) 22:39:08.37
>>820
「“岸”といえば、海や川を連想するが、この字は、“山”“厂”“干”の組み合わせであり、山と高利用して守る(干)ところであり、辺境または涯を意味する。
つまり、“其北岸”というのは、倭の北端のことであり、狗邪韓国は、韓の南岸ではなく倭の北岸である。」
「誤読だらけの邪馬台国」 張 明澄著
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ >>560
>陳寿は九州から畿内を千三百里と考えていない<
陳寿は、畿内なんて存在もしない事を考える筈もない。
>萬二千里は世界の果てまでという符牒だし、対馬海峡三千里も遠い距離という符牒で
どちらも実測値ではないのは、書いた当人の陳寿が一番よく知ってる
それを引き算する意味がない<
萬二千里や三千里の記録も、魏使らの部下や後続の使者らのチェックは入った情報だから、
陳寿も実測値だろう、というつもりで書いたもの。 >>905
>考古学的遺跡・遺物という現実が、邪馬台国=ヤマトを示しているからね
言い張るばかりで何も根拠を示せないキナイコシ >>562
>風習が似ていたことからの連想で会稽が出てきて、
それぐらい南に来たことになることが想起されたことを書いたんだろ?><
いや、会稽の話は魏略にも書かれているから、魏志も魏略も両方が見ており、
だから、魏使らの判断記録であった、という事になる。 >>563
>陳寿は倭国が南方の国という中国古来の見方に引きずられていたという事で解決したな <
いや、魏志も魏略も同じ会稽情報を書いているから、その情報は魏使らの記録にあった情報。
だから、陳寿は、会稽を起点にして、
それからその「東治之東」という女王國位置の判断をした。 >>571
>短里の報告書を長里を使う陳寿が読んだら会稽の東くらいかなあという話になった。<
陳寿は、
短里の報告は、そのまま記載する律着な性格の筈だから、
この話も×。 >>573
>いったい誰が短里で報告書を書くの? <
普通は、距離や方向を計測する係の役人が、同行しているもの。 >>581
>東へ行くとするなら畿内に淘汰もする距離<
「南≠東」だから、×。 >>582
>萬二千里は世界の果てまでという符牒だし、対馬海峡三千里も遠い距離という符牒で
どちらも実測値ではないのは、書いた当人の陳寿が一番よく知ってる
それを引き算する意味がない、<
報告記録を「符牒」でなんか書いたら、同僚や部下や後続の使節に確認されて、
嘘吐き騙しがバレるので、×。 >>591
大和説 イズ デッド
今までありがとう >>599
>渡海距離、水行距離を測る手段がない <
見えていれば、簡易三角測量が可能、
見えていなければ、「一寸千里と大体の方向」からの作図や、日数測などが可能。
>一寸千里などは既に否定されている <
一寸千里や短里は、既に肯定され、種々の文献で根拠に使われていた。
以上 >>601
短里や実測値やではないと言い張ることだけが、
今や大和説の最後の根拠だから必死だな。
>1.実測する手段はない <
一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や日数測などがある。
>2.短里を使う人も、短里を使う理由のある人も3世紀当時どこにもいない <
漢代の淮南子や介山記録や如淳注や、三国志や、江表伝や、海賦などがある。
>3.距離が誇張されているのは司馬懿の功績を大きく見せるため<
誇張されていない。嘘を書いてバレたら、首が危ない。
>4.萬二千里は淮南子等に典拠のある観念的な数値 <
淮南子も短里を使っていたから、ほぼ一致した。
ということで、長里説は無事死亡。 >>604
相変わらず、情弱のバカだなww 。
>九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと <
大和説の頭の悪いところは、「邪馬台国」なんて存在もしないインチキ騙しの造作文言を使う事。 >>607
><萬二千里の変遷> 淮南子:碣石山→東方之極 > 後漢書:楽浪郡→倭 魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない <
後漢書は、「後代での高慢な自己解釈に拠って、
前代史書の内容説明的な書き換え」を実行している半分×史書であるから、
根拠にならない。 >>611
>不彌国までで1万700里で
残り1300里を南に水行30日陸行1月だよ <
不彌國までの距離の8分の1位の距離に、「水行30日陸行1月」を要した、
という奇妙な読み方をしたから、×。 最近の九州説の頼みの綱は「誤読だらけの 張邪馬台国説」 張 明澄著 だけしかないのかい?ww
しかも、どう見てもこの本自体が「誤読だらけ」というメタ的展開で嗤える >>933
どこまでも、ザラコクはバカだなぁ
>「4倍」も異なる単位の記載があった
>と証言してしまっているではないか。
短里と魏晋里で「4倍」異なると言っているんじゃなくて、
九州説が短里と言っているもの同士で「4倍」異なるんだぞww 以前のスレで計算間違いを指摘されて3倍ないし2倍に減らしただろ。
ほとぼりが冷めたらまた4倍に戻すのかい? 邪馬台国、九州王朝(倭国)、ヤマト王権、出雲王朝
これら既存の情報内で無理くり整合性を持たせようとするから矛盾だらけになる。常識的に考えて闇から闇に葬られた大国の1つや2つがあったのは当たり前の話。 >>629
このように、既に根拠や理由を説明してある事に足しして、
それには知らん振りして、聞いていなかった振りをして、
かた「根拠は?、理由は?」と言いだして、
簡単な紹介をすると、「まったく理由を言わない」と言い出して、
九州説を誹謗馬頭のヘイトスピーチをするのが、
「南→東」には何の理由も言えないで逃げた大和説。
つまり、トンデモ。 >>634
また「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
発狂し出したな。 >>955
>これら既存の情報内で無理くり整合性を持たせようとするから矛盾だらけになる。
矛盾だらけになるのは、そうやって倭国(阿波)から逃げるからだよ。 @阿波 >>639
>なんで比例するんだ?<
同じ魏使らの仲間で協力して計測した数字だから。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は思い込みが強いな 。
だから学問になれないで終わった。 w 魏使でいう倭が九州に相当するのは考古学や歴史学でいっても常識的な話なんだよね?
じゃあ邪馬台国=九州ってシンプルな話でしょ。 地理的に近い百済や新羅の王に倭人が何人もいるわけだし >>640
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者って、ほんと狂ってる奴多い。 >>650
悪い事は言わんから、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、ここに書き込むの止めよう。
スレ主も全く出てこないし、「南≠東」で論破されているので、
わざわざ書き込んでも気分悪くするだけだから。 >>652
「南≠東」や「短里ばっかり」などで、八方塞がりなのは大和説じゃないのか?。 少数民族は九州という語を使いたがるけど
考古では九州が一つのような纏まりはない >>962
あんた・・・
テンプレに論破されたままで反論なにも出来てないだろ
ウソばかりついて何が楽しいの? >>654
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者や大和説学者らは、そう思いたいのだろう。
大和説学者はもう「南≠東」がバレているし、国民の7割からは見放されてるし、
強がるしかないのさ。 >>「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説<<
⇧
これへの反論があればいいのだが・・・
テンプレ(畿内説)も南⇒東の根拠が言い訳じみて国民に受け入れられない
纒向も集落跡は未発見だし、大陸との交流を示す遺物も・・・・
念仏のような「前方後円墳」「三角縁神獣鏡」も効果ないし
よって他説批判に走るしかないのかなーーーそれも返り討ちに合うし
畿内説のスレにしてはお粗末至極
なにを根拠にしているのか畿内説はよくわからない >>655
>ザラコクはついに唐まで短里だと言い出した 周、漢、魏、唐が短里だったと
中国古代史を足元に踏み砕きながらながら九州説の短里説はどこまで突き進むんだろうか<
梁書は、唐代に書かれたのであり、
私は、梁書の文身國や大漢國の位置が短里で書かれている事を指摘して置いたが、
今回の議論で、東南アジア方面でも、短里での記載がある事が幾つも示されたから。 >>953
>以前のスレで計算間違いを指摘されて3倍ないし2倍に減らしただろ。
間違いなんて指摘されてないよ
「末盧国を呼子にしたら」なんてのは、ただのインチキ >>967
「前方後円墳体制」は畿内教のアレだ、「南無阿弥陀仏」みたいなものよ。
ちなみに天理教とは関係ないらしい。 >>657
>もういっその事中国は古代史通じて全部短里だったと主張した方がよほどいさぎいいしスッキリするわ <
これは×。
魏西晋朝以後、歴代中国皇帝は、周髀算経の一寸千里が長里ではどうしても合わず、
何度も確認計測をしたが、
そりゃ長里だったから、全く合わなかった、という経過がある。 >>970
天理教信者か?
天理市は移住者差別が話題になってたな 畿内説は
長里では辻褄が合わないのは知ってるでしょ
方位も辻褄が合わないのは知ってるでしょ
かと言って手だてが無いから
倭人伝や他説批判に転じたのでしょね
倭人伝なかりせば邪馬台国が存在しないのわかってるはずなのだが・・・
畿内ヤマト王政の研究に水をさすつもりは無いが、邪馬台国とヤマト王政とは何かのつながりはあるが
倭人伝以降の日本史の範疇だと思う
誰かが言っていたように、ヤマト王政の成り立ちもいいだろうが・・・・ >>972
いやね、天理教の奴に邪馬台国の話をしても全く通じないんだが。
それと田舎の村八分は奈良はじめ全国どこにでもある話だろうよ。 >>663
>文献だけで行程を地理に当てはめてみると
郡から狗邪韓國まで海岸水行で七千餘里だから
韓の南岸は4分の3しか東に進んでいない
なので、狗邪韓國から對海國への渡海は南ではなくて東に近い <
「歴韓國乍南乍東」は、
倭王武の上表文の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」に拠って、
韓内陸行であるから、×。
>對海國から一大國へは南渡で、一大國から末盧國への方位は書いてないので、
壱岐から、(半島南岸の4分の3〜対馬)と同じくらいの距離だと
長崎県西海市のほうか、あおり運転県の宗像のほうに渡海しないと距離が短過ぎる<
安全最短の原則で、やはり東松浦半島であろうし、
渡海よりも沿岸航行の方が安全なので、
郷ノ浦〜唐津で良い、と思う。 >>671
>魏で使われた度量衡が書いてある晋書律歴志<
晋書は、唐代に書かれた書であり、
魏志の記載を「自己解釈に拠る書き換え」をしている半分×書であり、
史料批判無しには、根拠にならない。
>それと魏の時代のモノサシ正始弩尺 <
尺定規の寸法は、大きくな変わっていないから、関係がない。
>これから割り出すと1魏里は約430m <
始皇帝の「1里=6尺」を用いた計算も、根拠ににならない。 >>968
普通の里と合わない=全て短里は思考に欠陥のある人間の考え 里数の話なら魏志韓伝と合わせて考えるべきだな。
なぜ韓国が方可四千里なのか? >>678
>當在會稽東治之東は後漢書にもちょっと違った表現で出てくる
すなわち陳寿が後漢の倭奴国の伝承を邪馬台国に重ね合わせた表記
実際の邪馬台国の場所を指してはいない <
後漢書も、「自己解釈に拠る高慢な書き換え」があるから、
後漢書の記載は、史料批判無しには根拠に使えない。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>977
倭人伝の距離の謎を解こうとしない姿勢は「邪馬台国は無かった説」になる
おまえは論争に必要無いから去れ >>967
帯方から邪馬台国まで南に1万2千里は
淮南子およびそれを受け継ぎ倭の最南端にあるという想定の
倭奴婢と国交した後漢の世界観
魏志倭人伝は政治的祭事的理由で
その漕艇場の倭奴国に邪馬台国をすり合わせて記述している
よって帯方より南1万2千里は現実の場所を指すものではなく
それを東にしたところで邪馬台国に到達はしない
九州説は畿内説が畿内説は魏志倭人伝の南と書いてあるのは
東であるから邪馬台国は畿内と主張している空気を出そうと必死だけど
畿内説は今までずっと
帯方まで南1万2千里は実際にどこを指すものでもないという事を主張している >>688
>という事は淮南子では短里で正確に東西南北のこの世の果てまでを測られてるのか?<
いや、当然一人では、全部の計測は全く無理だろうし、
周髀算経の記載や、山海経の記載も参考にしたんだろう。 畿 内 説 の 究 極 は
邪 馬 台 国 は 存 在 し な い 説 畿 内 説 の 究 極 は
邪 馬 台 国 は 存 在 し な い 説 畿 内 説 の 究 極 は
邪 馬 台 国 は 存 在 し な い 説 畿 内 説 の 究 極 は
邪 馬 台 国 は 存 在 し な い 説 >>981
まともなカキコミですが
>畿内説は今までずっと
帯方まで南1万2千里は実際にどこを指すものでもないという事を主張している <
この根拠付けが問題なのでは? >>981
>倭人伝の距離の謎を解こうとしない姿勢は「邪馬台国は無かった説」になる
>おまえは論争に必要無いから去れ
「誤情報である」で、倭人伝の距離の謎とかは合理的に解けたんだよ
100年前から無理筋と確定してる旧式の方法論から抜け出せないあなたがた固陋な人々は、とっくに論争に必要とされてないんだよ
残念だったね >>978
>なぜ韓国が方可四千里なのか?
それももう何度も説明しただろ?
倭国本土まで一萬里ありき
渡海一回、一律千里ありきで、
渡海三回だから残り七千里
半島の二辺の半ばまで行って七千里に合うように
倭国までの旅程の都合に合わせて、逆算で韓地方四千里としているだけ
ただの机上の数合わせ
短里の実測値なんて、どこにもないww >>989
誤情報の魏志倭人伝とか邪馬台国とか卑弥呼とかと離れて存分に大和王朝成立期の古代史研究をしたらいいよ、って言われてるだけだよ。
気を悪くすることはないだろう? 最近、明らかになったこと
『アポロガイスト』〜『デス ラー』太陽神 >>989
>「誤情報である」で、倭人伝の距離の謎とかは合理的に解けたんだよ <
誤情報で片付けるのでしたら、各説 邪馬台国は至る所に存在してしまう >>983
実際に短里で中国の東西南北を計って
2万6千里あまりとなるなら
2500km四方の中国はえらく小ぢんまりした国になる
ちなみに日本は南北3千km
それと国境より1万2千里は日本に届かなくなるな >>695
>基本的なこと聞くけど議論の的になる邪馬台国への道のりの話、
途中までは何里表記なのに途中から何日表記。
これは伊都国まで魏の人間は行ってなくてそれより先は倭人から聞いた話だとされるよね<
ならない。
「折れ線的道のり距離」の合計が、不彌國でほぼ終わっているから、
それからの「日数記載」は関係がなく、
女王之所都の邪馬壹國は、
不彌國の南側の7万戸の大きな国(おそらく筑紫)である事になる。 >>993
>誤情報で片付けるのでしたら、各説 邪馬台国は至る所に存在してしまう
どうして?
邪馬台国の所在地なら考古学で確定できるから何も問題ないでしょ このスレッドは1000を超えました。
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