邪馬台国畿内説 Part406
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1544455695/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 >>890
>その否定だけなら簡単だよ
ククチ(日本神話)≠クウチヒク(魏略)(=河内彦?)
魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰「拘右智卑狗」 不属女王也
少なくとも無条件で『=』とできるものではない<
魏略は、「間違い引用の多い」二次的資料であるから、
魏志の記載をよりははるかに信頼性が低く、
だから、魏志の「南≠東」に拠って、これらの議論そのものが始めから、×。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30−1
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
(本項、続く) (承前)
◆FAQ 30−2
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。 ◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 >3世紀半ばには九州でも環濠集落は廃れているぞ
⇧
こんなこと言ってるからキナイコシは馬鹿だと言われる ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。
墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 途中で糞をしてから、再開したのではないのか 、、、
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>897
>右の字の行書体は古とほとんど同じ。
倭人伝の時代は、行書主体とされる。
魏略の右字は、古字の写し間違いともいえる。<
類似音地名は、列島にも非常に沢山あり、根拠にならないし、
拘右智を狗古智とみなしたとしても、河内とも吉野付近にもならない。
大和説の崩壊。 >>899
>その平野を埋め尽くしたのは「奴国」であって、邪馬台国とは別の国だけどさw <
奴國は、伊都国の東南百里にあるんだから、にある福岡平野にはならず、と×であり、
邪馬台国なんてなかったことでも、×。 >>96
なんで崩壊するんだ?
お前の脳が崩壊してないか? >>905
>>彩色古墳、沖ノ島祭祀など、<
>彩色古墳は九州独自だと認めるけど、九州全域の文化ではないし<
中国の臣下というスタンスの倭国の中心であった東海姫氏系の墓祭祀。
>むしろ小さめの古墳に見られるものこれを以て興隆しているというのはいかがなものか? <
当然、中国の皇帝らの墓よりも極端に大きくする事は出来ないものだし、
薄葬令の影響もあった。
>沖ノ島祭祀については、三角縁神獣鏡が祭祀に使われているなどヤマト王権が
主導していたとされている 九州独自の発展という例としてはいかがなものか?<
沖ノ島は、(姫氏系というよりは)、天照時代から、天孫族の阿毎氏系の祭祀島であり、
従って、伊都国の阿毎氏系が中心となった祭祀であり、だから△の祭祀が行われ、
同じ阿毎氏の大和が、やはり阿毎氏出身であった磐井を倒して倭國の王家に参画出来た後は、
大和も沖ノ島祭祀に参加するようになったもの。 >>907
>残念だったね 古墳を見られたらすぐ 磐井が反乱失敗者だって事実が
バレちゃうんだよ <
残念だったね。
岩戸山を見れば、
磐井が、倭王武らの東海姫氏國を引き継いで、中国的な法支配をしようとした事が分かり、
更に、ヲホド側が結局糟屋の屯倉を手に入れて、
倭国の親族王家の一員となって、政治にも参画出来ただけで、
その後は、結局は、「俀王姓阿毎字多利思北孤」が出て、天子を称しているんだから、
九州倭国の権威は全くびくともしなかったんだよ。 >>909
>「其」は、前段の「女王」に掛かっている。
魏略の「女王之南又狗奴国」の文章も勘案すれば、女王が都する所=邪馬台国の南に狗奴国がある、とするのがよい。
狗奴国は吉野熊野。
吉野熊野の北に女王が都を置く国(大和)がある。<
「南≠東」に拠って、大和は×。 >>922
>まあ、いずれにしても、クコチヒク(クウチヒク)は、熊野のククチでもOK。
ということは、熊本と紀州熊野との綱引きになる。
熊本一択は、消えた。
大和=邪馬台国の可能性の復活。<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの造語であるし、
「南→東」などに拠って、「大和」自体が×。 >>939
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの大和説は、
もう分裂幻覚の妄想のファンタジーになってるからな。
わからんものは、否定曲解せずに分からんでいいのに、
無理矢理こうだった、って答えようとするから。 >>942
>これも、熊本一択でなくなったので、無意味。
南→東が成り立たないのは、狗奴国が熊本一択である時。
いまや、吉野熊野も狗奴国である選択が成り立つのだから、(南→東は無理)は意味がなくなったの。
阿波は、吉野熊野は狗奴国にあらず説をはやく出さないと。<
関係なし。
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南。
狗奴國は、「此女王境界所盡。其南有狗奴國」だから、女王支配地の直ぐ南。 >>947
>>大和政権がわざわざ沖ノ島で、大和でより大規模な祭祀を筑紫で行う理由がある?<
>半島政策にとって大切でしょ?<
半島政策も、倭王武らの東海姫氏時代までは、
九州倭国の「渡平海北九十五國」政策であったのであり、
大和が口出し出来たのは、継体の反乱以後。 >>950
>>大和政権が祭祀を行うなら、三輪山か淡路島ででも行えばよい。 沖ノ島まで来る必要はない。
大和政権がわざわざ沖ノ島で大和でより大規模な祭祀を筑紫で行う理由がある?<
>沖ノ島祭祀というか、宗像三神が対馬海峡の渡海安全を祈るための神なんだから、
その航路を主宰するヤマト王権が沖ノ島祭祀を行うのは当然<
宗像三神も、天照の系列だから、天孫族の阿毎氏系であり、倭国内の伊都国系。 >>955
>和名抄に記載の熊本の菊池の読みは、(くくち)だそうだ。
となると、吉野熊野の(ククチ)とまったく同じ。
いよいよ、クコチヒクは熊本一択ではなくなってきた。<
吉野熊野は、「南≠東」に拠って、×。 ×の人は意見を押し付けてるだけで全く説明する気無さそうだな 前スレの最後で、平塚川添遺跡とか言ってる人がいたが、
平塚川添遺跡は環濠集落として特に大きい方じゃないぞ
比較的全域が発掘、保護できた貴重な遺跡だが、中央集落の面積は2ヘクタールほどしかない
それをもって、3世紀半ばに九州ではますます環濠集落が栄えていた、と言われてもな
そして、2世紀から古墳時代初期まで存続した遺跡とされているが、古墳時代初めには
環濠の大半は埋没している
まさに、卑弥呼の時代(3世紀前半、古墳時代草創期)には九州でも環濠集落は衰退していると
こちらが書いたとおりの展開が明らかになっている遺跡だよ >>965
>行程以外の国の位置関係は、不明。
それらの国が邪馬台国の南にあるとは、倭人伝のどこにも書いてない。<
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言。
また、魏志は、女王共立諸国と「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」とをはっきり書き分けているので、
共立諸国が東方に存する事は否定され、
郡から「東南」方向に渡海して来てやって来たので、北や西は海である事になって、否定され、
結局「九州内」であり「南」である事になる。
>しかし仮に、邪馬台国の南にその20国があったとした場合、
邪馬台国は会稽東治(冶)の東にあるとみられているので、<
これもダメ。
漢書後漢書がともに、「東テイ人の国が会稽海外に20国あった」事を記し、
海賦に後漢最末時に東テイ人の遣使が来て、「序に就いた」事が記録されており、
会稽海外という表現は、直接的に九州南部から琉球列島を意図しており、
倭人の「郡から東南」の位置表現と明らかに区別している。
つまり、倭人の地は南九州以北位。
>その南に20国を入れると台湾の東あたりの位置になる。
その20か国の南に狗奴国を設定するとなると、狗奴国はフィリピンに近い位置になってくる。<
ならない。 >>110
>×の人は意見を押し付けてるだけで全く説明する気無さそうだな
×の人は、zarakokuというハンドルネームでYahoo掲示板を出禁になった人だよw
説明する気がないんじゃなくて、説明する能力がない
古田史学を妄信していて、しかも半島儒教の道徳に従うから教祖の考えを
変更するのは悪だという思想で、もう時代遅れになった古田武彦氏の九州王朝説の
劣化コピーを無駄に書き続けているだけの人 九州説は何で九州北部に拘るのかわからん
帯方から1万2千里を無理に解釈すれば九州南部を指してると言えなくもないのに >>116
>畿内説弱すぎ
九州説は根拠なしのまぜっかえし以上のことはできないんだよなぁ
本当にオワコンで惨め極まりないことだ 畿内説はオワコンって言葉を気にしてるんだなぁwカワウソw オワコン(おわコン、終わコン、終わったコンテンツ)
往時は栄えていたが現在では見捨てられてしまったこと。
ブームが去って流行遅れになったこと。
および時代に合わなくなったキナイコシを意味するインターネットスラングである。 >>116
>畿内説弱すぎ
そういう曖昧な表現がよくない。
どこが弱すぎなのかを教えてあげないと今後の成長につながらない。 >>111
>前スレの最後で、平塚川添遺跡とか言ってる人がいたが、
平塚川添遺跡は環濠集落として特に大きい方じゃないぞ
比較的全域が発掘、保護できた貴重な遺跡だが、中央集落の面積は2ヘクタールほどしかない
それをもって、3世紀半ばに九州ではますます環濠集落が栄えていた、と言われてもな <
北部九州の倭國では、倭國亂の後の卑弥呼共立で、
卑弥呼の都そのものが「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」の記載であるから、
環濠の記載はなく、環濠の必要性が減り始め、
狗奴國との争いや「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」の後の壹與共立で、
ほぼ戦闘が無くなって安定期に入り、環濠が無くなって行った。
>そして、2世紀から古墳時代初期まで存続した遺跡とされているが、古墳時代初めには
環濠の大半は埋没している
まさに、卑弥呼の時代(3世紀前半、古墳時代草創期)には九州でも環濠集落は衰退していると
こちらが書いたとおりの展開が明らかになっている遺跡だよ<
壹與の頃に九州倭國の「西服衆夷六十六國」がほぼ終わって、
環濠の必要が無くなった。 >>110
>×の人は意見を押し付けてるだけで全く説明する気無さそうだな
⇧
この人は南⇒東を明瞭に説明できるのだろうか?
すれ主同様に誤情報で片付けるつもりだろうか? >>111
>平塚川添遺跡は環濠集落として特に大きい方じゃないぞ
その通り。
九州は栄えていたから、同程度のものはたくさんある。
>そして、2世紀から古墳時代初期まで存続した遺跡とされているが、古墳時代初めには
>環濠の大半は埋没している
筑紫が肥国を統合すれば、もはや環濠を維持する意味はない。
>まさに、卑弥呼の時代(3世紀前半、古墳時代草創期)には九州でも環濠集落は衰退していると
女王の支配下で脅威がなくなれば、環濠は不要となる。
考古学的状況は、九州説に一致している。 >>115
考古学的に、九州南部はあり得ない。
魏志倭人伝も、郡使は九州北部の伊都にとどまっている。
九州上陸までで一万里以上を消費しているので、対馬海峡が三千里であることを考えると、福岡県を出られるかどうかもあやしい。 >>111は
無知の投稿をして論破され
悪あがきに転じたおバカ >>113
>×の人は、zarakokuというハンドルネームでYahoo掲示板を出禁になった人だよw
説明する気がないんじゃなくて、説明する能力がない <
Yahooでも、
15年位前から「九州王朝」トピと「邪馬台国好きな人集まれ」トピを中心に投稿していたが、
大和説の天誅やハイエナやhn京大医師やmkpoらが、私との議論に負けて次々と脱落し、
Yahooも私の投稿に何度もクレームを付けていたが、
数年前に突然textreamという掲示板に変更する事にして、
以前の投稿を全て削除して一切見れなくしてしまい、
そのtextreamでは、始めから「倭国」とか「倭奴」の文言を禁止文言にしてしまい、
古田説紹介や松野連や東海姫氏國や祇園山や二中歴や九州年号などまで禁止文言にしてしまい、
その後、私の指摘に拠ってかなり「禁止文言」は減ったが、
「倭国」と「倭奴」という文言の禁止が続行され、
そして、とうとうzarakoku名での投稿を禁止して来たので、
私は、2chに引っ越す事にした。
そして、Yahooには、ネームを少し変更して、数回現状報告投稿をしたが、
textreamは、どうやら今年一杯で無くなるらしい。
そして、2chも5chも同じ。
今でも尚、私の投稿を拒否したり、抹殺しようとしたりを続けている。 >>120
あんたが適任だ
南⇒東を明瞭に説明してくれなか
すれ主みたいにご都合主義の誤情報で片付けないでな キナイコシはいつも無知で、結果的に九州説を支持するレスをたくさんつけてくれる。 >>127
おいおい。俺は九州説だぞ。
南⇒東を明瞭に説明するなら、
文献を改竄して畿内に邪馬台国を持ってくるための暴挙、
とでも言っておこうか。 畿内説はもはやスレ主とキナイコシしかいないのではないか? >>114
>短里は完全破綻
1魏里は430mと資料から判明<
魏志などや周髀算経の史料記載事実や史料実態から、「長里のみ」説は完全破綻。
魏朝の使用里は、1里≒76.5mと判明。
この男の言う「資料」とは、はるか後代の唐代の晋書解での解釈であり、
魏代の問題に関しての根拠にはならない。 あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主とキナイコシくらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。 ジョーカー懐かしいなあ。
僕のお父さんは本当に偉い人なんだぞ、ってのが印象的だった。
孝霊厨もいつの間にかいなくなったね。
ひょっとして日本人壊滅? >>115
>九州説は何で九州北部に拘るのかわからん
帯方から1万2千里を無理に解釈すれば九州南部を指してると言えなくもないのに<
「自郡至女王國萬二千餘里」としており、
郡からの「折れ線的行程の道のり里数」の合計が、
九州北岸の不彌國でほぼ萬二千余里に達してしまっており、
だから、その不彌國から南至邪馬壹國女王之所都は、北部九州の筑紫付近になってしまう。 >>117
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しや、
根拠なしの、(口先でのヘイトスピーチ的な)まぜっかえし以上のことは、
できないんだよなぁ。
本当にオワコンで惨め極まりないことだ。 >ジョーカー懐かしいなあ。
>僕のお父さんは本当に偉い人なんだぞ、ってのが印象的だった。
お父さんに叱られて消えたんじゃねwww >>122
南⇒東なんてとっくに解明済み
邪馬台国は東にある国だけど陳寿が南と書いたんだよ
九州説はアーアー聞こえないをするだけだろうけど >>120
>>畿内説弱すぎ<
>そういう曖昧な表現がよくない。
どこが弱すぎなのかを教えてあげないと今後の成長につながらない。<
「畿内」なんて古代に存在もしなかった嘘つき騙しの文言であるし、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをしている事がバレているし。 陳寿という謎の中国人が、魏志倭人伝を作製したので、熊本城の地下に邪馬台国があったことが、判明したのではないのかな。。。 >>124
九州上陸まで1万里は
世界の果ては帯方、楽浪より1万2千里という
淮南子の伝承に里数を当てはめた数値
邪馬台国まで南1万2千里もその類で実際にどこを指すものでもない
指しているのは仮想上の倭の極南界 >その類で実際にどこを指すものでもない
>指しているのは仮想上の倭の極南界
今日も安定のキナイコシ >>137
>南⇒東なんてとっくに解明済み<
「南≠東」で、とっくに解明済み。
>邪馬台国は東にある国だけど陳寿が南と書いたんだよ<
人類は、日の出と日の入りの方向や区別を知っているから、
東西南北は間違えないの。
>九州説はアーアー聞こえないをするだけだろうけど<
思想宗教に狂った・・・・アホ詐欺師の大和説者は、
アーアーと、聞こえないをするだけだろうけど。 >>131
魏志倭人伝が短里で書かれてる事の証明を
魏志倭人伝の距離は短里で書かれているjからとするのは
循環論法
魏でどういう尺度が使われていたかを証明するには
使われていた尺度の書かれている律歴志とモノサシの実物によってするしかない
それによれば1魏里は430m >>96
類似音地名が倭人伝掲載の地名の根拠の一つとできないのなら、クコチヒクは熊本の菊池にも、同じ熊本の河内にも適用できない。
とたんに、狗奴国=熊本説は崩壊し、あわせて邪馬台国=熊本の北部説も崩壊する。
要するに、邪馬台国九州説がなりたたなくなる。
自分で墓穴掘るような論理振り回してはアカンなあ。 魏は新興国です
238年にようやく公孫氏を滅ぼしました
が、魏は265年には滅亡しました
よって
魏の尺度なんぞ存在したかも怪しいし
それが東夷世界で使われた可能性は限りなくゼロ >>142
間違いとかじゃなくて
陳寿があえてそう書いたんだよ
淮南子の地の果ては帯方、楽浪から南1万2千里
倭の都はその極南界にあるという伝承に合わせるために うーん
邪馬台国は北部九州だとして
朝鮮半島南岸は倭人の支配地? >>146
魏で使われた尺度は1里=300歩=1800尺と
晋書律歴志に載っているぞ
捏造する理由もあるまい >>150
反論になっとらんなー
あんた馬鹿?w
魏は新興国です
238年にようやく公孫氏を滅ぼしました
が、魏は265年には滅亡しました
よって
魏の尺度なんぞ存在したかも怪しいし
それが東夷世界で使われた可能性は限りなくゼロ >>103
(南は東にあらず)が成り立たなくなったのに、まだ気がついてない。
狗奴国が吉野熊野に設定できないから、大和=邪馬台国が成り立たないのであって、狗奴国が吉野熊野に設定できるのなら、邪馬台国を大和に設定することは普通に可能。
つまり、邪馬台国の位置決定ができる記述は、倭人伝の中では狗奴国だけなの。
その狗奴国が吉野熊野なら、自動的に邪馬台国は大和になるのだ。 >>151
意味がわからない
魏が新興国だろうと何だろうと
魏で使われてた尺度が律歴志に書いてあるんだもの
しょうがないだろ
そしてそれは短里ではないxしな >>152
誰も賛同してくれないと思うけど、発言するのは自由だからね。
拳法で保障されてるし。 >>104
狗奴国が吉野熊野だから、自動的に邪馬台国は大和。 淮南子という謎の物質が、韓国政府の宣伝材料に悪用されているな。。。 >>104
狗奴国が吉野熊野なら、邪馬台国の南に狗奴国があるんだから、邪馬台国は吉野熊野の北じゃないか。
倭人伝、ちゃんと読んでる? >>153
倭は魏ではないから、魏の尺度を使う理由がない。 >>134
九州北部の端の不彌国まで1万7百里
残り1300里を南に水行する想定で書かれている
ちなみに残り1300里は普通の里の想定で陳寿は書いてる
魏に短里なんてなかったんだから 倭人は里を使わないとあるから、
公孫氏の里程だろうね。
東夷伝の里程すべてが通称短里=東夷伝里で記載されているという現実。 >>158
吉野熊野にそんな強い大国があったはずがない。
遺跡が何もない。
肥後熊本なら鉄精錬遺跡があり、膨大な稲の収量がある強国で、北の筑紫倭国(邪馬台国)と対抗できる。 >>163
ほれ、日本人がまっとうな説明をしているぞ
では、韓国人の反論は?
↓ >>161
>ちなみに残り1300里は普通の里の想定で陳寿は書いてる
そうそう。
短里のデータを魏の里で理解したから、うっかり会稽の東なんて書いてしまったわけだ。
短里が使われていた証拠だよ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>164
>>162で反論してるけど、韓国の人には見えないのかな?
あれ? >>160
倭人は里を知らないんだぞ
魏志倭人伝の里の記述は魏・晋の人間が書いたに決まっておろう
さらに帯方にいたのは漢の役人だから
そこで使われていたのは魏里とほぼ同じの漢里
東夷の里なぞ存在する余地はないのである 【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。 >さらに帯方にいたのは漢の役人だから
>そこで使われていたのは魏里とほぼ同じの漢里
帯方にいたのは公孫氏だよ。
はい、韓人の理論は崩壊 >>140
>九州上陸まで1万里は世界の果ては帯方、楽浪より1万2千里という
淮南子の伝承に里数を当てはめた数値<
魏使らは、
計測もせずに淮南子の数字を拝借するインチキズボラをして、
従者や後続の使者らに拠って皇帝らにバレたら、首が危ないから、
そんな事はしない。
計測出来るんだから、きちんと近似計測をした。
それに、侏儒國や裸國や黒歯國まで記載していて、淮南子の説明通りになっていない。
>邪馬台国まで南1万2千里もその類で実際にどこを指すものでもない<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
この男は、大和のつもりで書いているんだろうが、大和は「南≠東」に拠って始めから×であるし、
魏志には「邪馬台国まで南1万2千里」だなんても書いていないし、
「自郡至女王國萬二千餘里」の事なら、
「折れ線的道のり移動里数」合計が不彌國で萬二千余里にほぼ達しているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南にある事になる。
>指しているのは仮想上の倭の極南界、
後漢書の「極南界」は、「後代の范曄の自己解釈に拠る造作文言」であるから、根拠にならない。 >>157
韓国の人間だろうとどこだろうと
律歴志を見れば1里=300歩=1800尺と書いてあるのがわかる
わからんのはバカと短里説で頭のおかしくなった九州説の人間だけ >>106
邪馬台国は不彌の南なんて、倭人伝はどこにも書いてない。
書いてあるのは、狗奴国が邪馬台国の南にあるといことだけ。
な〜んにも分かってないなあ。 >>173
魏は新興国です
238年にようやく公孫氏を滅ぼしました
が、魏は265年には滅亡しました
よって
魏の尺度なんぞが東夷世界で使われた可能性は限りなくゼロ
説明できないんだねえw >>169
倭人の使う里は短すぎておかしいから、
「倭人は里を知らない!」
と怒って書いたのかもしれない。
あと、帯方郡の役人は公孫氏の役人がスライドしていたと思われ、使っていた尺度は魏が進出する前からのものでもおかしくはない。 朝鮮半島の横幅
対馬海峡の距離
全ての尺度が弥生時代で考えると正確に地理上の距離を示している
あれ?
東夷伝里が存在してるじゃん >>141
>>その類で実際にどこを指すものでもない 指しているのは仮想上の倭の極南界<
>今日も安定のキナイコシ<
今日も、
「南→東」などの史料事実や実態の否定曲解のウソ付き騙しの大和説者の、
新たな嘘つき騙しの造作をしなければならない不安定な、キナイコシ。 日本人はみんな撤退したけど
韓人の粘りには頭が下がります >>172
後漢の時代から
倭国は万里の彼方にある国という事になっていたんだよ
そんな遠くまで皇帝様の威光によって朝貢に来る
皇帝様すごいとやるためにそうなってた
魏の時代もそれを踏襲した
魏使が実際は1万2千里じゃなくて3千里くらいでしたなんて報告したら
そっちの方が首が飛ぶ >>105
「南→東」の意味は、狗奴国を吉野熊野に設定できない苦し紛れに東の東海にあったと捏造したことを指す。
邪馬台国の南に狗奴国があると倭人伝は書いているのだから、東にあるとするのは捏造、よって南→東は成り立たない、だめ、というもの。
なので、吉野熊野に狗奴国が設定できのなら、(南→東はダメ)はもう関係ないの。
分かった? >>175
東夷は里を使わず
日数で距離を表すと書いてあるね
東夷の里など存在しなかった 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、キナイコシや3寸男の首が飛ぶ高さについての討論が、開始されたのでは、ないのかな、、 >狗邪韓国は倭人領土だな。
これが全て。
韓人にとっては洒落にならない話。
倭人襲来に何百年も苦しめられて
白村江で勝ってようやく記紀に倭人領土は対馬までと明記させたのに
(9条みたいなもんね)
なんで21世紀に亡霊のようによみがえるのファビョーン キナイコシや3寸男の首が高く飛んだら、面白いのでは、ないのかな、、 >>176
怒った割には何でそれを使うんだ
1万2千里は淮南子に出てくる概念上の地の果てであり
女王国まで1万2千里はそれを当てはめただけ
当然魏志倭人伝に書かれてる距離も実際のものとは違ってくる >>163
弥生時代の遺跡なら、吉野周辺にいくらもある。
また、熊野の海岸にも弥生時代の遺跡は多数ある。
紀州は、江戸時代には米の生産が全国有数だった。
無数の川筋に水田が開発された。
また舟材の楠や、その他の木材は無尽蔵にある。
つまり、吉野熊野は生産性の低い僻地ではなかった。
戦後になって、生産性が鹿児島と並ぶようになっただけ。 >>186
血液が、沢山、噴射されるので、対馬の防衛が実行されて、日本の国民は、喜ぶ可能性があるね。。。 >>186
皇帝に邪馬台国は短里で南1万2千里でしたなんて報告して
余の定めた尺度以外を使うとは何事じゃとクビをはねられるのは九州説
空気読める畿内説は邪馬台国は帯方より魏」里で南1万2千里
伝承の通りでございましたと報告し褒美を貰って出世もする >狗邪韓国は倭人領土だな。
これが全て。
韓人にとっては洒落にならない話。
倭人襲来に何百年も苦しめられて
白村江で勝ってようやく記紀に倭人領土は対馬までと明記させたのに
(9条みたいなもんね)
なんで21世紀に亡霊のようによみがえるのファビョーン 1万2千里は魏志だけじゃないんだよなあ。
あわれなりキナイコシ >>143
>魏志倭人伝が短里で書かれてる事の証明を
魏志倭人伝の距離は短里で書かれているjからとするのは 循環論法<
「魏志倭人伝が短里で書かれてる事の証明を魏志倭人伝の距離は短里で書かれているjから」
としていない。
魏志倭人伝に記載された里数群、という史料の事実や実態から、
1里の長さを帰納的確率的な推論しただけであり、
それがや秦漢代に公認されていた1里≒430mとは全く違っていて、
1里≒50〜90m位という非常に短い距離になっていたから、
それを「短里」と呼んだだけ。
どこにも結論先にありきの循環論法になっていない。
>魏でどういう尺度が使われていたかを証明するには
使われていた尺度の書かれている律歴志とモノサシの実物によってするしかない
それによれば1魏里は430m <
尺の「モノサシ」は、秦漢代から魏代でも、殆ど変わっていないし、
律歴志は、(魏朝や西晋朝の度量衡ではなく)
秦漢代の度量衡を採用していた唐代に書かれた晋書の記載であり、
そんな全く違う度量衡を使っていた時代の律歴志の記載は、証拠にならない。 淮南子の地の果てもそうだよ
その伝承に邪馬台国を当てはめたんだよ
当然距離は正確なものじゃない
短里で測ったんじゃなくて >>177
こんなふうに軽々と断定するくせ
具体的なデータを何も出さないのが
トンデモ説の特徴 短里は場所によって50mになったり100mになったりするが 朝鮮半島の横幅
対馬海峡の距離
全ての尺度が弥生時代で考えると正確に地理上の距離を示している
あれ?
東夷伝里が存在してるじゃん >>194
だから
魏志倭人伝の距離を換算して
それが短里になったから短里はあったというのは循環論法
魏で使われた尺度が記された律歴志の尺度と違ってるんだから 吉野熊野のククチは、ワイがディベートのために作り出したフェイクじや。
吉野熊野にククチは存在せん。
存在するのはククノチ神社だけだ。
それも、明治中頃に改名したもの。
あとはみな、ワイのディベート用の論理構成に過ぎん。
狗奴国に比定できるのは、熊本しかないわい。
邪馬台国は大和ではない。
邪馬台国は筑後山門じゃ。
それにしても、阿波は弱いなあ。
わははははは。 >>200
「循環論法」という言葉を使ってみたかったんだね。
よしよし >>202
循環論法の意味がよくわかってないからそういうツッコミが出てくるんだな
あー恥ずかし 循環論法の意味がわかってないよな。
東夷伝里が存在することは事実なわけで、
それを >>144
>類似音地名が倭人伝掲載の地名の根拠の一つとできないのなら、
クコチヒクは熊本の菊池にも、同じ熊本の河内にも適用できない。
とたんに、狗奴国=熊本説は崩壊し、あわせて邪馬台国=熊本の北部説も崩壊する。
要するに、邪馬台国九州説がなりたたなくなる。
自分で墓穴掘るような論理振り回してはアカンなあ<
この男も、全くの嘘つき騙しの紹介をする詐欺師だな。
「類似音地名」に関しては、当然、
「類似音地名」それだけでは日本中などにも一杯あり過ぎて特定根拠にならない、
という言い方をしておいた筈であり、
という事は、「類似音地名」という事以外の証拠を挙げなければ、確率が上がらない、という意味であり、
それをこの男は、「類似音地名」だけがダメなら、その地は100%×だ、という曲解を吹聴して、
議論に勝った、かのように、世間の人々を騙そうとしている。 東夷伝里がある事をどうやって証明するん?
何かに書かれてるの?
東夷は里を知らないとかは書かれてるが >>206
ホケノ山
椿井大山
2つの古墳だけで合わせて300点ぐらい出てる 古墳だけ
征服者の古墳だけ
あれ?お得意の民衆は??? >>206
この人は
悪魔の証明とか
循環論法とか
ぜんぜん意味がわかってないよ >>210
弥生九州の管理がザルなだけだろ
国家形成のレベルが低いってことだ 魏志倭人伝は短里で課かれてるから短里はあった
これ循環論法 >>209
>2つの古墳だけで合わせて300点ぐらい出てる
申し訳ないんだけど、それ、「忌部はん」 の副葬品だからwww @阿波 >>134
>>>115
>>九州説は何で九州北部に拘るのかわからん
>帯方から1万2千里を無理に解釈すれば九州南部を指してると言えなくもないのに<
>
>「自郡至女王國萬二千餘里」としており、
>郡からの「折れ線的行程の道のり里数」の合計が、
>九州北岸の不彌國でほぼ萬二千余里に達してしまっており、
>だから、その不彌國から南至邪馬壹國女王之所都は、北部九州の筑紫付近になってしまう。
折れ線の総和が萬二千余里になるのは計算すればわかるから、そういう意味なら「自郡至女王國萬二千餘里」なんて書き直さないと思う。
群から直線的に12,000×74.3km=371kmで測れば北薩から延岡あたりまでがレンジになる。
http://hokanko.mond.jp/wordpress341/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%81%AF%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%81%AB%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%9A%E6%B8%AC%E9%87%8F%E6%8A%80/amp >>214
だから何だ
畿内にあるから畿内のモンだ 魏志倭人伝は短里で書かれていた
これだけのことなので、どこも循環論法ではない ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>216
>だから何だ
>畿内にあるから畿内のモンだ
そんなにムキになって怒らんでもwww 本当のこと言っただけなのにwww @阿波 魏志倭人伝は短里で書かれていた
これは単なる事実なので、どこも循環論法ではない >>146
>魏は新興国です 238年にようやく公孫氏を滅ぼしました が、魏は265年には滅亡しました
よって 魏の尺度なんぞ存在したかも怪しいし<
魏の初代文帝が即位の受命改制の詔書で、
(始皇帝の1歩=6尺の命令で混乱している)度量衡の統一を指示し、
重臣たちが、次々と「周制への復古」の上表文を上奏し、
明帝の頃に新しく「周髀算経の度量衡」の周里に変更する事になった、
という事が史料実態。
そして、陳寿の三国志の記載でも、蜀や呉の記載にも周里の記載が起こり、
魏志では殆どが周里での記載になり、
特に東夷伝では全部周里での記載になっていたようであった。
>それが東夷世界で使われた可能性は限りなくゼロ<
魏志では、郡の役人たちは、全員周里での記録をしていた事になる。 >>217
まあ実際は短里なんてないんだけどね
魏の里は1里約430mの普通の里
律歴志と当時のモノサシでそう換算されたから
これが帰納的証明 畿内は独自の文化を放棄させられ、九州北部の文化が西日本を席巻した。
記紀も神武が筑紫から来たと書いている。 >>221
搬入されたものだとしても
3世紀のホケノから出てるから畿内が強大な邪馬台国だった証拠 >>225
読んでどうしろと
帯方より南1万2千里は淮南子の概念上の地の果てと同じ数字だな
魏志倭人伝の距離はそれに当てはめて書かれてるんだなと思うだけだが >>123
>その通り。
>九州は栄えていたから、同程度のものはたくさんある。
中央集落は2ヘクタールってところは引用しないんだww
唐古鍵が30ヘクタールだっけ?w
2ヘクタールと同程度じゃなくて、繁栄している遺跡を紹介してよ
奴国の3倍以上が邪馬台国なんだからさw >>147
>間違いとかじゃなくて陳寿があえてそう書いたんだよ
淮南子の地の果ては帯方、楽浪から南1万2千里
倭の都はその極南界にあるという伝承に合わせるために <
陳寿の三国志や魏志倭人伝は、淮南子の記載に合っていないし、
お前が書いた「呉〜大月氏の萬6千里」の三国志情報?は、当然長里であり、
淮南子の短里と合っていないではないか。 >>226
畿内がもっと強大な筑紫の支配下に入ったことを示しているだけじゃん。 >>229
>奴国の3倍以上が邪馬台国なんだからさw
誤読だね。
奴国は邪馬台国の一部だよ。 魏略にあったらしい西域伝が三国志には採られなかったのは不思議でならんな >>123
>女王の支配下で脅威がなくなれば、環濠は不要となる。
>考古学的状況は、九州説に一致している。
グダグダ言ってるけど、前スレで環濠集落じゃないから纒向は邪馬台国じゃないって
言ってたのは完全に見当違いのバカ丸出しのただのイチャモンってことだなw
纒向は卑弥呼の共立で倭国が落ち着いたところで建設されたものだから
環濠がないんだよ >>232
そうだったとしても3世紀中葉までには
巨大古墳が作られ鉄器がたくさんある畿内が邪馬台国な事に変わりはないよ? 【畿内の鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
<こ れ だ け>
【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。 >>150
>魏で使われた尺度は1里=300歩=1800尺と
晋書律歴志に載っているぞ 捏造する理由もあるまい<
晋書は唐代に書かれた史書であり、
当然、唐政府の公認?の「秦漢里という長里」を肯定するしかなく、
周里を採用した魏朝や西晋朝の公定度量衡の根拠にはならない。 >>238
伊都国や奴国もすでに環濠を必要としない状態だったけど?
しかも繁栄ぶりに天と地ほどの差があったね。 >>231
淮南子では南の地の果ては国境より南1万2千里
魏志倭人伝も国境の帯方より南1万2千里
合ってるだろ
歯黒国だのも淮南子に書いてあるらしいし
大月氏まで1万6千里は実際の里より2倍程度長い
普通の里の2分の1でありいわゆる長里ではない >>150
何だ?、こりゃ?。
大和説者の長里派同士が、内輪もめしているらしい。 >>151
>よって
>魏の尺度なんぞ存在したかも怪しいし
>それが東夷世界で使われた可能性は限りなくゼロ
その場合は秦漢里が使われるだけ
秦漢里と魏晋里はマイナーチェンジで大差はないけどな
公孫氏は最後の直前まで漢の官職(左将軍)に就いていた漢人で、
漢の度量衡で生まれ育っている人
短里を使う理由がない
というより、短里は「存在していない」 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>152
>(南は東にあらず)が成り立たなくなったのに、まだ気がついてない。
狗奴国が吉野熊野に設定できないから、大和=邪馬台国が成り立たないのであって、狗奴国が吉野熊野に設定できるのなら、邪馬台国を大和に設定することは普通に可能。
つまり、邪馬台国の位置決定ができる記述は、倭人伝の中では狗奴国だけなの。
その狗奴国が吉野熊野なら、自動的に邪馬台国は大和になるのだ。<
邪馬壹國女王之所都は、
「自郡至女王國萬二千餘里」の「折れ線的道のり里数」記載の合計が、
不彌國でほぼ終わっているから、
九州北岸の不彌國の直ぐ南になってしまう、という事が先に決まってしまっており、
狗奴國は、その女王の居地の南になるから、
「南≠東」に拠って、大和も吉野熊野も×なの。
」 ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、」鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。 >>193
>1万2千里は魏志だけじゃないんだよなあ。
???
そうだよ?
淮南子他でも普通に書いてある、大陸知識人にはなじみの数字
それが各史書で踏襲されているだけ
>あわれなりキナイコシ
「キナイコシ」連呼厨の人もそろそろ限界だね
もうケチを付けられるところも残ってないのかな?ww >>250
>そろそろ限界だね
お前の周りはとっくに解散してるぞw >>249
申し訳ないんだけど、それ、「忌部はん」 の副葬品だからwww @阿波 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、 >>220
>魏志倭人伝は短里で書かれていた
魏志倭人伝は短里で書かれていない
伝承の数字に合わせた、誇張された距離が書いてあるだけ
>これは単なる事実なので、どこも循環論法ではない
ということで、循環論法ですらなく、単なる事実誤認が発端の捏造なんだよw 九州説にアドバイス
ここでいくら九州説をのたまったって誰も騙されんぞ
ニュー速とかそっちで魏志倭人伝は短里で解明された!とかやった方がまだ騙される人間はいると思うぞ 魏志倭人伝は東夷伝里で統一記載されており、
実測の距離と一致している
以上。 >>233
>唐古鍵って30ヘクタールしかないの?
中心集落の環濠の内側だけで、30ヘクタールくらいあるんだよ
この他に周りに複数の衛星集落があり、唐古鍵の墓域と見られる遺跡もある
九州ご自慢の吉野ヶ里遺跡より集落部分は大きいよ >>253
>名前書いてないから違うと思うよ
いや、水銀朱に倭国(阿波)産って書いてあるよ。 @阿波 >>234
>誤読だね。
>奴国は邪馬台国の一部だよ。
奴国は女王国の一部で、卑弥呼の共立に参加した国の一つだけれど、
邪馬台国とは別の国
奴国が邪馬台国の一部とかいうのは、九州説の中でもトンデモ度の高い一部の人だけww ええ?
唐古鍵って30ヘクタールしかないの?
しかも鉄器ゼロ??? 短里で書かれているjという謎の物質が、韓国政府の宣伝材料に悪用されているな。。。 >>242
>しかも繁栄ぶりに天と地ほどの差があったね。
そうだね!
倭国の中枢で倭女王の都のある畿内と、九州最大といえども辺境の奴国では
魏志倭人伝でも人口が3倍以上の差が記録されるほど繁栄には差があるね!ww >>265
>そもそも書いた覚えないし
そりゃ君が書いたんじゃないんだから、当たり前だよ。 書いたのは「忌部はん」なんだから。 @阿波 韓国から研究費をもらってるかどうかって調べられるの? >>268
忌部はんです。
名前を書いた覚えもないし古墳の鉄器は私のものじゃないです >>153
>魏が新興国だろうと何だろうと
魏で使われてた尺度が律歴志に書いてあるんだもの しょうがないだろ
そしてそれは短里ではないxしな <
魏が新興国だろうと何だろうと
魏朝で使われてた尺度が魏志に書かれているんだから、
しょうがないだろ?。
そしてそれは長里ではなく短里だしな。 >>262
>唐古鍵って30ヘクタールしかないの?
奴国の中心の那珂遺跡の環壕内面積が2ヘクタール弱なんだが?
三雲遺跡「群」が40ヘクタールあるとか言うのも見かけるけど、
これは墓域まで含めて目一杯風呂敷を広げた数字
集落遺跡(集落部分)では、唐古鍵遺跡の30ヘクタールというのは
ほぼ弥生時代で最大面積なんだが? >>267
いや、半島系パヨク、ホロン部が九州説で工作してるんだよ >>155
>狗奴国が吉野熊野だから、自動的に邪馬台国は大和<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、その南なんだから、
自動的に邪馬壹國は筑紫であり、大和は×な。 >>271
魏志倭人伝に魏で使われた尺度は書かれてないね
淮南子の尺度は使われてるけど >奴国の中心の那珂遺跡の環壕内面積が2ヘクタール弱なんだが
よう、韓人!
それって広大な那珂遺跡の中の
畿内系庄内土器集積地
つまり畿内からいらっしゃった「労働者の方々」を集めておく
環濠部分でしょ?
しょ?
しょしょしょ???www >>158
>狗奴国が吉野熊野なら、邪馬台国の南に狗奴国があるんだから、邪馬台国は吉野熊野の北じゃないか。
倭人伝、ちゃんと読んでる?<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、その南なんだから、
自動的に邪馬壹國は筑紫であり、大和は×な。
倭人伝、ちゃんと読んでる?。 韓国から研究費をもらってるかどうかって調べられるの? >>160
>倭は魏ではないから、魏の尺度を使う理由がない。<
「夷人不知里數、但計以日」だから、倭人の殆どは「里」を知らず、
魏志の記録をしたのは、魏使らの魏の役人だから、
魏朝の尺度を使うしかないからな。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>161
>九州北部の端の不彌国まで1万7百里<
いや、對海國と一大國の国内見聞移動をしており、
投馬國と奴國へは移動した記載がないから、側副傍線國説明であって、魏使らは移動しておらず、
だから、不彌國までで「折れ線的道のり里数記載の合計」はほぼ萬二千余里。
>残り1300里を南に水行する想定で書かれている<
書かれていない。
>ちなみに残り1300里は普通の里の想定で陳寿は書いてる
魏に短里なんてなかったんだから<
魏朝は、周里(短里)を使っており、魏使らも周里で記録した。 >>169
>倭人は里を知らないんだぞ
魏志倭人伝の里の記述は魏・晋の人間が書いたに決まっておろう
さらに帯方にいたのは漢の役人だから<
これが嘘つき騙し。
楽浪にも帯方ににも、 既に魏の支配下になっていて、魏の郡役人らがいた。
>そこで使われていたのは魏里とほぼ同じの漢里
東夷の里なぞ存在する余地はないのである<
そこで使われていたのは周里とほぼ同じの魏朝里。
秦漢の里なぞ存在する余地はないのである。 >>173
>韓国の人間だろうとどこだろうと
律歴志を見れば1里=300歩=1800尺と書いてあるのがわかる
わからんのはバカと短里説で頭のおかしくなった九州説の人間だけ<
律歴志は、秦漢里を踏襲した唐代の、晋書の記載であり、
魏朝の里ではないから、根拠にならない。 >>174
>邪馬台国は不彌の南なんて、倭人伝はどこにも書いてない。<
不彌國の後には、「南」という文字しかなく、「東」なんて書かれていない。
>書いてあるのは、狗奴国が邪馬台国の南にあるといことだけ。
な〜んにも分かってないなあ。<
この男も、「南→東」などの史料事実の否定曲解をする・・・・詐欺師だなあ。 >>284
>そこで使われていたのは周里とほぼ同じの魏朝里。
何の根拠もないどころか
定説と正反対
ww >>283
卑弥呼の女王国の中では環濠なんていらないもんな。 >>175
>魏は新興国です 238年にようやく公孫氏を滅ぼしました
が、魏は265年には滅亡しました
よって 魏の尺度なんぞが東夷世界で使われた可能性は限りなくゼロ<
いや、魏の初代文帝が度量衡の統一を指示し、重臣たちが周制への復古を上表し、
周髀算経の周里が採用されました。
・・・・アホの大和説者は、どうしてもわからず、
納得できないんだねえw。 >>176
>倭人の使う里は短すぎておかしいから、 「倭人は里を知らない!」
と怒って書いたのかもしれない。
あと、帯方郡の役人は公孫氏の役人がスライドしていたと思われ、
使っていた尺度は魏が進出する前からのものでもおかしくはない。<
倭人伝の記録は、魏使らの魏の役人らが記録したものだから、
関係がないの。 >>275
>淮南子の尺度は使われてるけど
短里ですね。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 >>180
>後漢の時代から倭国は万里の彼方にある国という事になっていたんだよ
そんな遠くまで皇帝様の威光によって朝貢に来る
皇帝様すごいとやるためにそうなってた
魏の時代もそれを踏襲した
魏使が実際は1万2千里じゃなくて3千里くらいでしたなんて報告したら
そっちの方が首が飛ぶ <
魏使らの部下や、後続の使者らが確認しているから、
魏使らが、インチキした事がバレたら首が危ないからので、
魏使らはインチキをしない。 >>207
ワイは、まず類似音地名で選定し、そのうえで適格条件を上乗せすべきと言うたのじゃ。
類似音地名を大事にするのがよい、ということだ。
オメみたいに、類似音を軽んじるのじゃ、そもそも比定なんかできんわい。 >>289
周だって短里なんか使われてない
1尺18cm程度だったそうだから
1里=300歩=1800尺で周の1里は約330m ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>293
倭国の首都は帯方より南1万2千里と最初から決められてるんだよ
魏使も別に嘘を報告してるわけではなくて >>285
魏志倭人伝の」距離記述こそ証拠にならない >>292
>魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
そんなことは書かれていないな。
伊都には代々王がいて、(その王は)女王に従っている(統属している)と書かれている。
伊都国は女王の都とする邪馬台国とは別。女王属国の1つ。 >>292
1里76.5mで1万2000里を換算すると、918kmになる。
この918kmをソウルを起点として地図上で図ると、鹿児島市や大隅半島のつけ根付近になる。
福岡県をでることが常識。
鹿児島市やお墨半島のつけ根付近が、邪馬台国の候補地になる。
それが“短里”説の正体。 >>290
>倭人伝の記録は、魏使らの魏の役人らが記録したものだから、
関係がないの。
そんな証拠は何もないの。 >>289
>いや、魏の初代文帝が度量衡の統一を指示し、重臣たちが周制への復古を上表し、
周髀算経の周里が採用されました。
そんな記録は一切ないな
九州説は妄想でできている >>294
帯方郡から九州上陸までで一万里なんだろ? >>276
環濠内集落面積が30ヘクタールってのが大遺跡だってのは理解できたのか? >>302
魏が倭國と冊封関係を結ぶと決まったとき、魏の役人としては、倭國の詳細を調べて皇帝に上奏する必要が生じた。
それで、魏本国か帯方郡の役人がやってきて、あれこれ調べて帰り、倭國とはこういう国ですと皇帝に上奏した。
その時の調査記録が残っていた。
魏略や魏志倭人伝は、その記録を活用した。
そういうこと。
冊封関係を結ぶのに、相手国の調査もしないなどはあり得ん。 >>301
>1里76.5mで1万2000里を換算すると、918kmになる。
計算の順序が逆だろ。
この詐欺師め。 >>282
いや、存続してるよ
一旦環濠が埋まるけどもう一度掘り直してるし
案外、地震か大雨で環濠が壊れたってことがあったのかもしれない >>302
魏の役人が実際に見聞したからそれが記録されているんだろ。
畿内説はついにここまで狂ったか? >>283
いずれにしても九州にあった環濠集落で30ヘクタールなんてのはないってこと
吉野ヶ里は墓域まで環濠で囲んだ「最大の環濠」を持つ集落で、
集落部分は唐古鍵より小さい >>304
計測したものじゃないよ
淮南子および後漢の伝承を当てはめたもの >>284
>そこで使われていたのは周里とほぼ同じの魏朝里。
周でも、一歩=六尺、一里=三百歩は変わらない
そして周歩=約 1.35 m
1割弱違うだけだから、まあ大きくは変わらないなw >>310
>魏の役人が実際に見聞したからそれが記録されているんだろ。
それ、証拠でもあるのか?
ww ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>308
30ヘクタールを小さいっていってるもの知らずを啓蒙してるだけだよ
まあ、唐古鍵は邪馬台国の中でも中心的な集落だけどな >>299
倭人伝の唐津から沖縄あたりまでの行程記述やその倭國の周囲の距離、倭國の東の倭種の国までの距離などは正確無比だ。
倭人から魏の役人が聴取したものであることが分かる。
そんな距離、行程を魏の役人が想像だけで書けるものではない。 >>306
まー嘘ばかりだな
近代国家と勘違いしてるのか >>316
>まあ、唐古鍵は邪馬台国の中でも中心的な集落だけどな
妄想(根拠のない思い込み) >>317
倭人は里を知らない
そもそも魏で使われる里と5倍違う
そして1里が50m」だったり100mだったり
とても正確とは言えない >>318
国交を結ぶのに相手を調べないわけないだろ。
三国志の時代だろ。 >>112
行程上で書かれている国以外の各国の位置関係を示す文章は、倭人伝の中にはない。
北部九州の中にあるのだろうくらいしか分からん。
それをそれらの傍国が邪馬台国の南に位置するというのは推測以外の何者でもなく、何の根拠もないと思われる。
東テイ人のことはしらんが、その会稽東治(冶)の東にあるにちがいないと倭人伝が書いている邪馬台国の位置は、沖縄あたりになる。
そのさらに南に傍国20国がるとすれば、石垣島や台湾あたりになってくる。
そして、そのさらに南に狗奴国があるのにら、もうそれはフィリピンありだろう。
その狗奴国と邪馬台国の戦争はどういうふうな戦争だつたのかと、というのがワイの疑問なわけや。
そうじゃなく、本物の邪馬台国はここで、狗奴国はここで、さらに傍国20国はここだというのなら、そのように説明書きが必要だというわけ。 >>322
敵にならないと言ってくればそれで充分だろ。事前に調べるだのなんだのは郡使がちょいちょい行ってた話を聞けばそれでおしまい。 >>316
弥生後期まであった物作り大拠点そのままの物作り拠点が、古墳時代前期に復活したのかどうは分からんのじゃないか? >>304
帯方郡から狗邪韓国(釜山)が直線的に7,000里+α、
そこから邪馬台国が直線的に5,000里+α。
狗邪韓国対馬間 1,000里+α、対馬壱岐間 1,000里+α、壱岐末盧国(比定地未確定)間 1,000里+αだが、これは進んだ行程だから単純な引き算にはならない。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>307
アホだなあ。
1万2000里の内訳が、韓7000里、三海峡3000里、そして残りが2000里と倭人伝は書いてるのだろ。
それらを合計したら1万2000里。
その1万2000里を1里76.5mで現代距離に換算したら、918km。
918kmは、ソウルから計れば鹿児島市、大隅半島のつけ根付近になる。
テメはこの計算まちごうとる、いうんか。 今日は九州説が嫌韓ヘイトスピーチして暴れてるな
どうしたんだ
韓国料理店でマナー悪くして入店拒否でもされたか? >>330
どっちにしろ中国人が短里なんて使うわけもないし
相手の知らない単位で報告する馬鹿もいない >>209
ホケノ山
椿井大山
2つの古墳だけで合わせて(鉄器)300点ぐらい出てる
もっと古い遺跡の吉野ケ里と変わらん数だな >>209
ホケノ山
椿井大山
2つの古墳だけで合わせて(鉄器)300点ぐらい出てる
もっと古い遺跡の吉野ケ里と変わらん数だな ちまちま寄せ集めた合計より多く、一つの墓から出てくる
スケールが違う 畿内説は倭人伝の距離については探求しないなぁー
九州説の短里計算にいちゃもん付けるしか能が無いのかなぁー >>336
それも真っ赤なウソ
テンプレに書いてある >>335
吉野ケ里はほぼ年代比定されてるのだが、
ホケノ山、椿井大塚山古墳の年代比定はいつ? 弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがう
邪馬台国は北部九州にはなかった・・・邪馬台国は戦場では無い
防衛の最前線は北部九州であるから鉄器が多いだけである >>338
ホケノ山は三世紀第2四半期、椿井大塚山は第4四半期だな >>340
サンキュウー
畿内の集落に鉄器が普及していないから、九州から搬入された物 確定だな 纒向は王都なんだろ
鉄器がザクザク出てもいいのだが 無い >>339
邪馬台国というか、魏志倭人伝の倭は多くの戦乱が書かれていて、鉄も使われていたことが書かれている。
どちらの痕跡もとぼしい畿内こそ、当てはまらない。 >>337
テンプレは誤情報で片付けるんだろ
こんなの願望じゃんww >>330
韓と海峡で一万里だろ。
余や上陸してからの距離も考えると、残り二千里未満だろ。
対馬海峡の半分くらいしか進めないんだよ。
多く見積もっても熊本あたりまでしか行かないよ。 歩と里は比例関係なんだろ。
東夷の里が魏の1/5なら歩も1/5、足の長さだったんだよ。
概ね25cmくらいだな。 >>348 しかり
畿内説の奴は算数に弱いからダメだよな
比例配分は小学校で習ったはずなのにな >>181
>・・・なので、吉野熊野に狗奴国が設定できのなら、(南→東はダメ)はもう関係ないの。
分かった?<
「南≠東」だから、狗奴國は吉野熊野に設定できないの。
分かったか?。 >>182
>東夷は里を使わず 日数で距離を表すと書いてあるね
東夷の里など存在しなかった <
だから、魏志に書かれた東夷の里は、郡役人や魏使らが計測したものなの。
分かったか?。 >>187
>怒った割には何でそれを使うんだ
1万2千里は淮南子に出てくる概念上の地の果てであり
女王国まで1万2千里はそれを当てはめただけ<
いや、そんなインチキをしたら、
部下や後続の使節らに拠ってインチキがばれて首が危なくなるから、
魏使らは、実際に女王國まで来た時に、実地に計測した。
>当然魏志倭人伝に書かれてる距離も実際のものとは違ってくる<
いや、魏使らの計測値は、有効数字1桁程度の近似値であり、
大体合っていた。 >>191
皇帝に邪馬壹国は長里で南1万2千里でしたなんてウソを報告して、
余の定めた尺度以外を使うとは何事じゃとクビをはねられるのは大和説学者
正直ものの魏使らは、邪馬壹國は帯方より魏」里で南1万2千里
伝承の通りでございましたと報告し褒美を貰って出世もする >>195
>淮南子の地の果てもそうだよ
その伝承に邪馬台国を当てはめたんだよ
当然距離は正確なものじゃない
短里で測ったんじゃなくて <
魏使らはズボラしていい加減な報告をしたら、
後続の張政らにバレて首が危なくなるから、
出来るだけきちんと魏朝里で計測したの。
それが短里。 >>198
>短里は場所によって50mになったり100mになったりするが<
元々有効数字1桁程度の近似値計測であった。 >>200
>だから 魏志倭人伝の距離を換算して
それが短里になったから短里はあったというのは循環論法
魏で使われた尺度が記された律歴志の尺度と違ってるんだから <
計測史料事実からの「1里の距離」推定は、循環論法にはなっていない。
「魏朝で使われた尺度が律歴志の尺度だった」と決めつけるのが、
結論先にありきであり、循環論法。 >>208
>東夷伝里がある事をどうやって証明するん?
何かに書かれてるの?
東夷は里を知らないとかは書かれてるが<
魏志に書かれた「東夷での里記載データ」は、郡役人や魏使らの計測データであり、
東夷人の計測や使用データではないの。 短里で書かれた報告書を、長里で解釈したから、九州北部の倭が会稽の東にあることになってしまった。
つまりはそういうことだな。 >>360
めちゃくちゃだな
一体なんで郡役人や魏使らが
母国の度量衡を使わずに
ワケのわからない正体不明の単位を使って計測して
そんなもんで報告されても絶対理解できない人々に
報告したんだ?
そいつら発狂してたのか? >>301
>1里76.5mで1万2000里を換算すると、918kmになる。
>この918kmをソウルを起点として地図上で図ると、鹿児島市や大隅半島のつけ根付近になる。
倭国(阿波)も該当するからね。 @阿波 >>330
>1万2000里の内訳が、韓7000里、三海峡3000里、そして残りが2000里と倭人伝は書いてるのだろ。
>それらを合計したら1万2000里。
アホだなあ。 ウソはイカンぜよ。 @阿波 少なくとも邪馬台国は北部九州にはなかった、ということがわかる程度の情報でしかない >>345
>76.5はどこから降って湧くんだよ
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70。6mは、概ね妥当。 @阿波 >>345
>76.5はどこから降って湧くんだよ
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70、6mは、概ね妥当。 @阿波 >>209
>ホケノ山
>椿井大山
>2つの古墳だけで合わせて(鉄器)300点ぐらい出てる
だから、それらは「忌部はん」 の副葬品 と、何度言えばw @阿波 >>366
妥当?
うまく合うように比定地を都合つけただろだろ
アホらし >>368
>うまく合うように比定地を都合つけただろだろ
たまたま、対馬海流の流れにより、比定地を都合つけただけ。 短里なんて無いのは確定でしょ
実際に使われた形跡が無いのだから >>353
漢時代に書かれた神仙思想の淮南子に出てくる
国境からの世界の果て1万2千里と
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は帯方から南1万2千里
一致してるだろ?
これは魏の役人が計測したものじゃなく概念的な地の果て1万2千里を
仮想上の邪馬台国に当てはめただけ そしてその縮尺は一里が100メートル以下の短里であった。 >>354
1万2千里は淮南子に出てくる地の果てまでの数値と
当時の知識人ならわかる
嘘をつく積もりでそんな数値を報告すればすぐバレる
倭国とその首都は当時から国境から南1万2千里にある国という事になっていた
魏使はそれに即して報告をした
実際の距離でまなくて >>377
実測したものじゃない概念的数字だから
1里が何メートルとか出しても無意味 でhs実際の倭国がどこにあったかと言えば、やはり九州北岸であったということになる。 >>380
ならん
九州北部は伊都国や奴国だから
魏志倭人伝の邪馬台国はそれら北部の国々を監視させたとあるからそれより南
記述では九州南部辺りにあることになるが
考古学的証拠からは畿内で確定 >>355
魏に短里なんてなかったんだから
それを使いましたなんて報告して首をはねられるのは九州説 >>382
畿内説は結論先にありきの妄想なんだね。 >>356
国境より南1万2千里は世界の最果ては当時の常識
倭国はそこにある国で都はその極南界にあるというのも共通認識
それに則して報告書を作成したというだけだ
短里を使って計測したものではなくて >>357
50mも1里で100mも1里なんざ正確な数値とは言えねーな >>358
魏志倭人伝の距離を割り出してそれが実際に使われていたとするのは循環論法
現在でいえば100mの所を200mと間違って印刷してる地図を見て
通常の2分の1の短メートルがあったと言ってるようなもの
そんな物ないのは距離の基準が載ってる教科書を見れば明らかになる
魏の里も同じで教科書的書にあるのは1里約430mの普通の里のみ
1里75mの短里は載ってない >>387
>国境より南1万2千里は世界の最果ては当時の常識
あのさ
伊都国まで1万500里でしょ
なんで
1,500里を足しただけで世界の果てになるの
バカじゃね >>388
弥生時代で、しかも測定が難しい海上も含めてなら、むしろ頑張って精度を出した方だと思うよ。 >>390
知るかよ
淮南子に世界の最果ては国境より1万2千里四方と書いてあるから仕方ないだろうが 畿内が中国人の眼中になかったことは明白だな。
卑弥呼がいた倭とは九州北岸だ。 >>389
『梁書』諸夷傳
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。
同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。
短里の86mだ。
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。
結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当
である。 >>391
2倍も違うならどこ指してるかわからんぞ
もしかしたら1万2千里は畿内を指しているかも知れなくなる 世界の最果てって、中華世界の最果てのことじゃないのかね >>320
>邪馬台国と関係ないじゃん。
奈良盆地の中の3つの国、ソフ(サホ)国、カツラギ国、ヤマト国のうちの
ヤマト国の中心となる拠点集落が唐古鍵遺跡だよ
この奈良盆地の国々に、さらに河内の国〜環大阪湾の国々まで合わせた範囲が
魏志倭人伝にいう邪馬台国七萬餘戸の範囲
こういう「勢力の内部構造」の研究すら一切進んでいないのが九州の現状なんだよね
なかなか同じレベルの議論ができないのもある意味しょうがない >>397
だつて、中国が認識する倭国の外なんだから、邪馬台国論争からいえばどうでもいい。
それは名前が似ているだけのヤマト王権の話に過ぎない。 >>392
引用が悪いだけだから気にしなくていいよ >>397
>奈良盆地の中の3つの国、ソフ(サホ)国、カツラギ国、ヤマト国のうちの
カタカナ単語が出てきたらマユツバだとばっちゃが言っていた。 >>394
短里で説明つかないのも同じかそれ以上にある
計測が不正確か淮南子の世界観に合わせようとしたかで
そもそも短里やらは1里50mになったり120mになったり 倭国は南ってのが当時の中国人の地理感でしょ
沖縄〜台湾の辺りってのが陳寿の意見なのだし
金印の蛇鈕も南方の国に贈られるものの証だし 弥生時代にしかも中国の領土外で2倍くらいの誤差だったらじゅうぶん正確ですな。
キナイコシがダダこねてるだけ。 ×沖縄〜台湾の辺りってのが陳寿の意見なのだし
〇沖縄〜台湾の辺りってのがキナイコシの屁理屈なのだし 後漢書には倭奴国が倭の極南界とある
魏志倭人伝は邪馬台国をそれに合わせるようにして記述してある >>403
弥生時代に2倍から3倍の誤差で十分正確だとして
それがどうかしたのか >>326
>弥生後期まであった物作り大拠点そのままの物作り拠点が、
>古墳時代前期に復活したのかどうは分からんのじゃないか?
古墳時代になって、環濠が要らなくなって、さらに周りに面的に展開した範囲に
鏡作神社(複数)がある
鋳型が出ている訳ではないので、確定的なことは言えないが、三角縁神獣鏡の
仿世鏡を作っていたのはこの辺りだろう
また、鏡作坐天照御魂神社には、宮中の八咫鏡を作ったという伝承もあり、
この地域が重要拠点だったのは古墳時代も変わらない なんだ なんだ 今日は
畿内説が論破されるどころか ひっちゃかめっちゃかになってるぞ >>408
福岡は通り過ぎるよ
そもそもそこは奴国だし >>330
>1万2000里の内訳が、韓7000里、三海峡3000里、そして残りが2000里と倭人伝は書いてるのだろ。
最後の「残りが2000里」とは書いてないんだよ
それは引き算しないと出て来ない 単に意識として遥か遠いと思える数値にしただけで短里
なんて単位の実在の主張は飛躍しすぎ >>353
>だから、魏志に書かれた東夷の里は、郡役人や魏使らが計測したものなの。
>分かったか?。
「郡役人や魏使らが計測」したのなら、短里になるはずもなかろう
郡役人や魏使は、「世界中のどこでも使われていない短里」を「どこで」「習った」んだ?
これを説明できた人がどこにもいないんだが?ww >>401
巻き尺で計ったわけじゃないか誤差はでるよ
径百歩の距離だって、個人の身長差で1.5倍ぐらいは変わるよ 畿内説の人は距離について説明できないから
短里に興味があるようだねwww >>365
>狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
>対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
ここでいう対馬って対馬の中のどこを指すの?
対馬って、南端から北端まで70キロくらいあるんだが?
九州説の人が言う短里だとほぼ千里ある
この中で自由に点を取ってよければいくらでも短里の長さを調節できるよな?ww
そして、対馬の方四百里というのと南北千里(短里w)というのも整合性が取れない
デタラメってことだろ?ww >>418
東夷野蛮のド田舎へんぴ地方は、チンケな短里で書くのが習慣だったの。これ常識。
いつまで古田の亡霊に悩まされてんだよwww >>359
計測データではないよ
淮南子の世界観世界の最果ては国境より1万2千里
それに当てはめたもの
だから淮南子の世界の最果てと
魏志倭人伝の仮想上の倭の極南界1万2千里は一致している 壱岐対馬のは島じゃなくて国なんだから
一大國や対馬國の海域だとか 対馬は明らかに南北に長いのに方400里っていい加減だった証拠だよね >>420
1.5倍程度じゃ短里にならないね
1歩は約150cm程度
そこから換算すると1里は約420m
短里は1歩が20cmくらいじゃなきゃならないんだから
そんな物はなかったという証拠だ >>427
短里は3倍程度誤差があるというのは常識だよ
一説にはひと区間180mにもなる箇所もあるそうだから
まあ短里そのものがなかったんだけど 始度一海 千余里 至対海國 〜 所居絶島 方可四百余里
対馬「島」とは書かれていない。
対海「國」だ。
海を渡って千余里で対海國に到着。
対海國の居住部分、つまり対馬島については、絶海の孤島である。
対海國の海域が四百余四方ある。 ーーキナイコシに良い事教えてやるよーーー
算術が苦手のようだが、
「電卓」と言う計算機があるから、それで計算したらよいよ
百円ショップでも売っているから活用した方が良いよ
お店で「電卓・・でんたく」と聞けばよいよ >>432
解釈はしてるよ
1万2千里が指しているのは仮想上の倭の極南界
具体的にどこを指すわけではない 自分が説明できないから、他説の足を引っ張る、その姿 >>394
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、
前にも書いたと思うが
・遠くのことはより遠くに書く(誇張)
・水行距離は測定不能
・古伝承混じりで不正確
の合わせ技だろ
短里なんぞを捏造しなくても説明できるよ
短里を捏造して説明というのはかなり質が悪い 説明できない人の言い訳
「具体的にどこを指すわけではない」
、、、 畿内大和説は、いまだに古田の亡霊の短里に悩まされてるww 魏志倭人伝の行程を九州北部にしようと必死の
哀れな九州説 >>390
>伊都国まで1万500里でしょ
>なんで
>1,500里を足しただけで世界の果てになるの
伊都国の時点で世界の果てのすぐ近くなんだよ
倭国の中なんだからw
そういう世界観に合わせるために韓地の大きさも逆算で方四千里に「されてる」 >>435
九州説はこのスレに書き込まない方がいいんじゃないかなあ >>441
なるほどね。韓人からしたら、韓地はもっと大きいはずだ、、、という不満があるわけか。 >>396
>世界の最果てって、中華世界の最果てのことじゃないのかね
淮南子の世界観では、中華世界(王朝の直轄地)が中央之極でそれも萬二千里だよ
五行相応の
中央之極
東方之極
南方之極
西方之極
北方之極
がそれぞれすべて萬二千里になってる >>429
>1歩は約150cm程度
それ箸墓を意識してるだろ
身長や人によって歩幅が違うの知ってるだろ
俺は身長165センチで1歩は135センチなんだな
また度量衡で一歩の長さ示した文献あるのかねー 九州説は初めから邪馬台国は九州北部にあったんだから全てが出発するからそれに証拠合わせをしようとして全部循環論法になる >>400
>カタカナ単語が出てきたらマユツバだとばっちゃが言っていた。
漢字表記に揺れがあるから便宜的にカタカナにしてあるだけだよ
カツラギは葛城でいいけれど、
ヤマトは、倭、大倭、大和、日本といろんな表記があるし
ソフは、層富、添、狭穂、佐保のどれで代表すべきか難しいからね
葛城、大倭、狭穂の表記が個人的には好きだけれど >>403
4倍違うんだよ
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
そんなのは誤差とは言わないww >>446
律歴志によれば魏の1歩は6尺
1尺約24cmの当時使われていたモノサシが見つかっているから
そこから換算して魏の1歩=約144cm >>405
>後漢書には倭奴国が倭の極南界とある
>魏志倭人伝は邪馬台国をそれに合わせるようにして記述してある
つまり九州北部が邪馬台国 >>451
倭の極南界の事を言ってるんだから北部じゃないだろ
まあ仮想上のもので九州南部を指すわけでもないんだけど >>422
>対馬って、南端から北端まで70キロくらいあるんだが?
>九州説の人が言う短里だとほぼ千里ある
じゃあ、古田みたいに島の大きさも計算に入れる?
そうすると伊都国と奴国で一万二千里を完全に消費するので、都合はいいよ。 中華世界(王朝の直轄地)は貴い人間様の住む世界、
その東南の外側は、人間以下の東夷南蛮が住む外界、そのまた外が倭種の住む畿内大和。 >>429
>短里は1歩が20cmくらいじゃなきゃならないんだから
お、平原遺跡が径100歩になるぞ。
ますます九州北部で決まりだな。 >>405
>後漢書には倭奴国が倭の極南界とある
>魏志倭人伝は邪馬台国をそれに合わせるようにして記述してある
大陸の王朝順では後漢→魏の順だけれど、史書の成立順としては
三国志(3世紀末)→後漢書(432年)の順だから、後漢書の方が三国志に合わせている
後漢書の建武中元二年「倭奴國」奉貢朝賀 使人自稱大夫「倭國之極南界也」光武賜以印綬は、
魏志倭人伝の次有「奴國、此女王境界所盡」の奴国を倭奴国と勘違いしたためだろう >>433
そだね キナイコシは電卓を買うべきだね 倭奴国が倭の極南界なのは、そこから南は中華の文明が及ばない狗奴国しかないから。
東は、そっちにも倭種がいるけど、やはり中華の文明が及ばない。
親魏倭王はもちろん中華に従う倭奴国までの範囲にいる。
世に王あり、とされた伊都だろうね。 >>423
>東夷野蛮のド田舎へんぴ地方は、チンケな短里で書くのが習慣だったの。これ常識。
「チンケな短里」も、そんな「常識」も現実世界にはないよ?
古田説を否定して安本説をとるのか?wwwww >>457
後漢書には後漢と倭奴国の交流記録が引き写されているから
そこの部分は1世紀の記録
後漢でも倭国とその都は楽浪より南1万2千里にあるとされていた可能性は十分ある >>456
そう。そこと連動するんだよね。
短里を認めると、自動的に径百余歩も縮小されて、平原遺跡で確定。
行程と女王墓はセットになってるわけだ。
逆に言うと、九州説の完勝で結論出てるんだけどね。 >>457
勘違いがあるとすれば、倭奴国とは奴国ではなく伊都国であったこと。 「東夷世界で使われとる」里があったという主張なら
周髀算経は関係ない >>459
>そう、末盧国は比定地未確定。
なに言ってんの? 「世界文化遺産」で決定済みだろ? @阿波 >>460
キナイコシに無駄な出費させたらかわいそうだろ
キナイコシじいちゃんのガラケーにも電卓が入ってますよと教えてあげる優しい俺様 >>450
>律歴志によれば魏の1歩は6尺
1尺約24cmの当時使われていたモノサシが見つかっているから
そこから換算して魏の1歩=約144cm
ならば、径百歩と記述せず径600尺と表現するのが普通じゃねー
歩いたとしか思えんがね・・いかに? ・使人自稱大夫「倭國之極南界也」
「倭国の南の(萬二千里の)果てまでを極め、支配する也」と自慢し、ハッタリをかませたということだ。 >>464
実際は短里なんてない事が明白になって
九州説は根本から瓦解したんだけどね >>446
>それ箸墓を意識してるだろ
>身長や人によって歩幅が違うの知ってるだろ
>俺は身長165センチで1歩は135センチなんだな
>また度量衡で一歩の長さ示した文献あるのかねー
秦の始皇帝による度量衡の統一以降、長さはすべて公定尺だよ
そして一歩=六尺と定められている
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更) キナイコシは、距離は概念的なもの、方角は東が南、あちゃー >>469
径600歩は900mになるぞ
そんな古墳はないが
径100歩だと144m
箸墓古墳の円墳部が丁度の大きさ >>463
伊都国の三雲南小路遺跡などがその時代の弥生王墓になる。 >>456
>お、平原遺跡が径100歩になるぞ。
一歩20センチなんていう「デタラメ」を使わないと
平原1号墓は径百歩にならない時点で「デタラメ」 平原遺跡説は朝鮮半島南部に5万戸の投馬國だから
九州説じゃない >>450
一歩130センチの奴が歩いたら
実測では130センチ×100歩=130m
しかし、
一歩は144センチと規定してるから畿内説では架空の144mが採用ってこと 足の長さは普通25センチくらいだな。
歩幅は人により誤差が大きいが、足長は誤差が小さい。 >>473
九州説は1万2千里は現実的なもの
あちゃー >>477
投馬国は宮崎県の都万ですよ。
名前まで今日でもそのままですね。 >>459
>そう、末盧国は比定地未確定。
ということにしてごまかそうとする九州説であったww
末盧国を唐津平野に比定するのは、ごく一部のトンデモ九州説以外の
すべての人が認める定説 >>445
古墳から見つかったのだろ
集落からじゃないから 何処かから持ち込まれたのだろ
そこがどこか比定してくれん無いか 帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日 >>464
>短里を認めると、自動的に径百余歩も縮小されて、平原遺跡で確定。
周髀算経を短里の根拠にするのは諦めるの?ww
八尺棒も6分の1の長さになるぞww >>478
架空じゃなくて当時のモノサシ等の史料から換算して
1里=約430m
1歩=約144cm
1尺=約24cmと判明してるんだよ
古代中国で今まで使われてきた尺度とそう大きな差はなし こういうスレはいつでも「反畿内説」論者が湧いてきて、どんなに議論しても
証明できない「水行」「陸行」方角が南ってやつを「議論」しだす。
奈良は寒いから生野菜は取れないとか、意味不明なことを言い出す。
各地の平均気温も知らず、当時の海も知らず、九州は広大な平野があったとか言い出す。
弥生中期までの遺跡の鉄の発掘を元に、「近畿には鉄がないから勝てない」とか、
「圧倒的に鉄は九州が持っている」とか言い張る。
あげくに、事実無根のヤマト説は国から発掘予算をいっぱいぶんどってるからいっぱい
発掘できるとか言い張る。
ヤマトはほぼ無人の地でそんな所が全国を制覇出来るわけがないとか言い張る。
あげく、奈良盆地は湖だったとか。 >>482
末盧国が唐津平野として、そのどこに上陸するかで距離計算が変わってくるだろ。 >>464
>短里を認めると、自動的に径百余歩も縮小されて、平原遺跡で確定。
歩はもとが身体尺だから長さが6分の1になるような尺度にはどうやってもならないよ
歩は複歩なんだから複歩が20センチって足を10センチずつしか進めないことになるww >もとが身体尺だから
じゃあ、魏の尺は何センチだよw >>482
>そう、末盧国は比定地未確定。
>ということにしてごまかそうとする九州説であったww は比定地未確定。
ということにしてごまかそうとする九州説であったww
@阿波が言ってるのですけど・・・
唐津近辺でいいと思うよ
ところで、畿内説の末盧国の比定地は何処?
「畿内に邪馬台国があればいいから、末路国は比定しない」じゃぁ畿内に到達しないよ >>483
畿内でも鍛冶場跡が見つかってるから畿内で作られたものなんじゃないの
刀剣類は輸入ものかも知れんが 放射読みの根拠って何かよくわからんな
同じ起点からの距離を書く場合〇〇を去ること△△里って繰り返すじゃん 楽浪土器も伊都止まり。
魏志倭人伝の旅行記事も伊都止まり。(考古学的に判明している大都会奴国の描写がありませんからの) >>487
>弥生中期までの遺跡の鉄の発掘を元に、「近畿には鉄がないから勝てない」とか、
弥生時代後期の畿内の鉄はどこにある? 鉄器出土数
奈良県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 0 弥生中期 0 弥生後期・終末期 1 弥生後期・終末期 5
徳島県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 3 弥生中期 0 弥生後期・終末期 28 弥生後期・終末期 0
福岡県 弥生前期 2 弥生前期 48 弥生中期 46 弥生中期 365 弥生後期・終末期 213 弥生後期・終末期 753
熊本県 弥生前期 0 弥生前期 1 弥生中期 20 弥生中期 21 弥生後期・終末期 311 弥生後期・終末期 1254
各時代が2つあるのは(前)鉄鏃と(後)その他鉄器に分けてあります。
弥生時代九州が鉄器時代だったのに対して本州は未だ石器時代 >>481
宮崎と糸島、博多は弥生末期に何の交流もないよ >>497
古墳時代に入ればあっという間に逆転するんだが >>482
>そう、末盧国は比定地未確定。
>ということにしてごまかそうとする九州説であったww は比定地未確定。
ということにしてごまかそうとする九州説であったww
@阿波が言ってるのですけど・・・
唐津近辺でいいと思うよ
ところで、畿内説の末盧国の比定地は何処?
「畿内に邪馬台国があればいいから、末路国は比定しない」じゃぁ畿内に到達しないよ >>488
唐津平野のどこを起点にしても、どうやっても3倍以上にはなるよw >>498
だから投馬国という名前が伝わっている程度で、詳細情報(里程)がないんだよ。 >>499
>古墳時代に入ればあっという間に逆転するんだが
>>497さんのような
データ見せてもらえますか?
特に、奈良における生活空間からの鉄器出土遺跡を教えてください。 >>490
>じゃあ、魏の尺は何センチだよw
何度も書かれてるだろうが?
「1尺約24cmの当時使われていたモノサシが見つかっている」 土器の動きは畿内→北九州なのだから畿内人が北九州に防人で出張してたのでしょ? >>500
末慮国は松浦と九州説でも畿内説でも同じはずだけど >>491
>@阿波が言ってるのですけど・・・
>唐津近辺でいいと思うよ
唐津は対馬海流に流されて、有り得ない と、何度言えばw @阿波 >>499
畿内説は卑弥呼より後のことしか持ち出さないよね。 >>503
ホケノと椿井大山2つの古墳だけで合わせて300点くらい見つかってるよ 畿内説は行程の里数、方位を不正確と考えて
考古遺物を根拠にするから唐津→糸島に比定してるが
九州説の行程記事が根拠なら唐津→糸島にはならない >>511
>>503に対する答えになっていませんよ。 >>488
異なことを言う
そんなに変わらねーよ 唐津平野って海岸沿いは砂丘が多い
使者が着いたのは唐津市近辺ででいいよ
吉備近辺を投馬国と比定するなら使者が着いたのは吉備の何処と聞いているのと同じ >>490
>>もとが身体尺だから
>じゃあ、魏の尺は何センチだよw
歩という長さはもともとは複歩の身体尺
周朝(西周)の頃は人によって長さの異なるだいたいの値
それが春秋戦国(東周)時代の、国ごとの変法の時代を経て、秦の始皇帝の統一により
度量衡も公定尺として固定値となる
尺の長さが規定され、その6尺が一歩という定義となる
ただ、その際ももともとの「複歩の身体尺」から大きく外れない値に決められているし、
普通に歩いた複歩から何倍も異なる長さを、「歩」の文字で表すのは無理 >>510
邪馬台国と卑弥呼の時代はもう古墳時代に入っている >>511
内行花文鏡を含む、九州北部の文化の影響が畿内に到達したことを示す古墳ですね。
その頃に畿内が征服されたんですね。 >>512
>畿内説は・・・考古遺物を根拠にするから
・・・またまた御冗談を。 @阿波 ホケノと椿井大山2つの古墳だけ?
他に鉄器は無いのかい? >>494
>奈良盆地は湖だったとか。
以前にキナイコシの馬鹿が水行に奈良湖や大和川入れてたぞ 笑うだろ >>502
>だから投馬国という名前が伝わっている程度で、詳細情報(里程)がないんだよ。
ちゃんと「水行二十日」と「道里」はきちんと略載されてるよ 古墳の中に、内行花文鏡+鉄器
では、外で暮らす人々に鉄器は?
考古遺物を根拠にするキナイコシさーん >>517
>内行花文鏡を含む、九州北部の文化の影響が畿内に到達したことを示す古墳ですね。
またまた御冗談を。 @阿波 尺の長さや枡の大きさなんかの税に関するものは増税のためか役人が横領するためか後代ほど徐々に長く大きくなる傾向はあるね >>513
別にどうでもいい
畿内に古墳は7千基ほどあるから
2つの古墳で鉄器が300点見つかるなら総計100万点は鉄器が埋まってる事になるな >>525
なるほど。
じゃあ歩は小さいほうがいいな。
同じ田んぼの面積が、
魏本国だと1歩なのに、
辺境だと4歩で、大幅な増税www 逆転したと言うからにはデータがあるのかと思っていたら、まさかの無回答、、、あちゃー >>509
>でっかい身体尺だこと
まだ理解できないのか
秦の度量衡統一以降は、公定尺だ
そして、商売人の都合や税の徴収のために、尺の長さは次第に長くなっていく
文句付けるだけではなく、少しは自分で調べてみたらどうだ?
そうすれば、九州説はオワコンってよく分かるようになると思うぞ >>517
それが恐らくは西暦160年〜180年にあったと言われる倭国大乱だろう
卑弥呼の時代より60年は前の話だな
まあ後漢書と日本書紀が正しいとしての話だけど >古墳時代に入ればあっという間に逆転するんだが
データ見せてもらえますか?
特に、奈良における生活空間からの鉄器出土遺跡を教えてください。
>別にどうでもいい
キナイコシの考古学 >>528
収穫は枡で量るから長さは関係ないんよ
尺が長くなるのは布の長さを測るため
租庸調の調ですな >>510
>畿内説は卑弥呼より後のことしか持ち出さないよね。
そう思っているのは、未だに九州説を信じ込んでいる(自己洗脳している)人だけ
古墳時代に入るのが卑弥呼の時代 >>527
ホケノ山が3世紀中ごろより前の造営だから
古墳が出来たのがそのくらいだから卑弥呼の時代は古墳時代
オレがそう決めた 度量衡で丈尺寸分が定義されているが
里、歩は定義されておらず
少なくとも日本では記録の残る範囲では
中国歴代の里を使用した痕跡はない。 >>532
ホケノ山と椿井大山2つの古墳から合わせて300点
ウィキペディアとかでも見れるよ
そしてそちらの言う生活跡からの鉄器の発見に何の意味があるのか >>536
ホケノ山築造前に作られた
5世紀の堂ノ後古墳というのがありましてね。 >>536
卑弥呼の時代は萩原2号墓時代より若干前だな。 @阿波 >>528
>じゃあ歩は小さいほうがいいな。
もとが身体尺で、文字の成り立ちからして「複歩」だから、
複歩から大きくずれる「歩」はあり得ない
税の徴収その他の都合で尺が長くなった結果、複歩との差が大きくなり
すぎることになった時点で、一歩=五尺に修正されていることからも確認できる
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)←ここ >>539
この2つの古墳は
北部九州の様式に近いんですよね。
箸墓古墳以降のものと違って
北部九州と共通点のある副葬品が
多いことで有名ですね。 >>531
年代を前倒しし過ぎ。
畿内説はいつもその手を使う。
ホケノくらいの規模の古墳が2世紀だという根拠はない。 >>539
>そしてそちらの言う生活跡からの鉄器の発見に何の意味があるのか
思考停止してるのね。あちゃー
行程の説明がつかない あちゃー
鉄器が出土しない あちゃー >>533
>収穫は枡で量るから長さは関係ないんよ
枡の大きさが尺で定義されてるんだよ >>542
だから増税したいのなら歩が小さいほうがいいでしょ。
1歩あたり米俵10俵を年貢として取るのなら、
同じ面積の田んぼで
魏本国だと1歩から米俵10俵
東夷の異民族相手だと4歩だから米俵40俵の重税。 逆転したと言うためには、畿内と九州それぞれのデータを出して比較する必要があるのだが、キナイコシさん 内行花文鏡古墳の副葬鉄器を持ち出しても意味がない、
という議論をしているのに、ほっかむりするだけか。
>そしてそちらの言う生活跡からの鉄器の発見に何の意味があるのか
これはひどい。 >>540
ないな
埋葬されてる棺の木片を炭素年代測定法で検査したら
120〜240年と出たホケノ山古墳の後に作られた
5世紀の堂ノ後古墳ならあるが
>>544
その頃に九州には前方後円墳はない
>>545
ホケノ山の埋葬されていた木棺の木片5つを
炭素14C年代測定した結果
120年〜240年のものと判明
副葬品から見ても3世紀の前半のもの >>532
邪馬台国七万戸ってどこ?
投馬国五万戸ってどこ?
教えて >>536
卑弥呼の時代は萩原2号墓時代より若干前だな。 @阿波 >>546
>>550
>>249
畿内に鉄器がないと言う度に
考古資料でブン殴られる九州説
あちゃー ホケノ山古墳
>墳形:纒向型前方後円墳(葺石あり)[1]、円墳に短い前方部を東南方向に付けている。
>規模:全長約80メートル。後円部径約55メートル(約60メートル)3段築成、前方部長約25メートル(約20メートル)、
後円部高さ約8.5メートル、前方部高さ約3.5メートル。周濠幅約10.5-17メートル(西側のほうが広い)。
>発掘調査:1999年9月から奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって実施された。
葺石有りで、後世のものに決定だな。
それと箸墓組は、ホケノ発掘者の橿考研に振ってトンズラ決め込んだようだなwww >>249
倭国(阿波)産の水銀朱も出てるよ。 @阿波 ホケノが卑弥呼時代でもおかしくはないけどね。
吸収から邪馬台国系の将軍がやってくるとしたらその頃だし。 >>534
>古墳時代に入るのが卑弥呼の時代
根拠なし >>556
ホケノ山に収まられていた木棺の木片サンプル5つを
放射性年代測定したら120年〜240年のものと判明
副葬品からも3世紀前半〜中ごろと決定だな >>536
邪馬台国が畿内だという前提だろ?
循環論法ですね。 九州説だけど、それでいいと思うよ。
狗奴国の荘園に、邪馬台国の将軍が新領主としてやって来た。 >>552
>その頃に九州には前方後円墳はない
つまり、前方後円墳の年代そのものが邪馬台国論争に意味がない。 >>563
邪馬台国が九州という前提こそ循環論法
九州になかったんだから 邪馬台国は狗奴国と戦争中だから、人手不足。
魏志倭人伝にも書いてあるでしょ、貴族だけじゃなくて平民でも奥さんが何人もいるって。
なのに巨大古墳を作るっておかしいでしょ?
貴重な男手を浪費していたら戦えないじゃない。 >>561
>生活空間から鉄器が出土しない、、、あちゃー
そして片や、九州では、生活空間から銅鏡が出土しない、、、あちゃー @阿波 古墳の年代が繰り上がってるから卑弥呼の晩年は古墳時代なのでしょ >>561
>生活空間から鉄器が出土しない、、、あちゃー
だから何が問題なの?
日本語喋れないの? >>564
つまり九州の奴国は畿内邪馬台国の将軍に征服されたという事でいいのか
>>561
生活空間から鉄器が出るということは
そこは戦乱などで急に破棄された遺跡という事
それがたくさん出てしまう九州
あちゃー
>>565
意味はあるだろ
でかい古墳が作られるような大きな勢力が
卑弥呼の時代3世紀の畿内にあったという事だ 畿内に何があっても、魏の視野に入っていないなら意味ないね。
中華文明が及ぶ範囲が尽きるのが、帯方郡から一万二千里の九州北部なわけだから。 >>567
そんくらい国力に余裕があったんじゃねーの
なにせ7万戸だからな >>569
>古墳の年代が繰り上がってるから卑弥呼の晩年は古墳時代なのでしょ
畿内説お得意の年代前倒し詐欺? 562日本@名無史さん2018/12/16(日) 12:57:20.63
>>556
ホケノ山に収まられていた木棺の木片サンプル5つを
放射性年代測定したら120年〜240年のものと判明
放射性年代測定はゴッドハンド、衆を良く惑わす手法な >>572
残念だけど帯方より南1万2千里は概念的な数字で
どこを指してるわけでもないよ
それに中華文化圏という事なら畿内から三角縁神獣鏡やその他中国鏡が多数見つかっている 北部九州の最初期古墳は段築、葺石がない
(豊前、豊後は一部葺石はあるが段築は未定型)
UB期以降に畿内型の段築、葺石を備える(御道具山、光正寺) >>577
科学的手法を否定しないと成り立たない九州説は
それが非科学的説である事の何よりの証拠 年代は土器鏡年輪炭素一致してるのだし疑う必要無いでしょ
編年については半世紀前の考古学より明らかに優れてるじゃん >>582
誤差を含んでホケノ山の棺の木片サンプル5つはは120年〜240年 通説に逆らって
無理に時代を繰り下げようとする九州説が
年代の根拠をなにも言わない不思議 いやだから九州説にとってもホケノが3世紀で問題ないですってば。 文科系は、科学の舞台裏にトンとうといなあ
ま、親分も橿原に投げてトンズラしたことだし、
上も上なら、下も下。苦しくなると、科学に投げて逃亡かい、、、 しかし恐ろしい話だよなあ
九州説はアルかニダの関与が強く疑われるけど
よその国の歴史を嘘で塗り変えてやろうとか >>587
ほう
その科学の裏舞台とやらの話を詳しくお聞かせ願おうか 北部九州は弥生遺跡が多すぎて
(福岡4000、奈良600)
当時は人口が飽和、農地不足だったと
考えられる。
北部九州からはみ出た一族が
波状的に畿内まで入植していたのだろう。
神武天皇自身がそうだし
先に行ったナガスネさんもいるしね 那珂遺跡が水揚げ場だったのだから、
そこに集まる土器の産地=北部九州勢力の領土拡大 >>590
「考えられる」って
なんの理由もなく
なんで「考えられる」の?
考えてなくね? 土器の移動から見ると北九州から畿内への人の流入は無いからな >>589
科学測定というのは、しかじかかくかくの方法で測定したら、こういう数字が出ました。
この数字が、どんだけ正しいかどうかは、オラしらね、、、というだけのこと。 >>592
集落が飽和しているからだろ。
ちゃんと書いてあるのに理解できないのは、キナイコシがコミュ障だからだな。 畿内に何があっても、中華の目が届かない(一万二千里より遠い)ところでは、邪馬台国とは関係ないよね。 >>548
>魏本国だと1歩から米俵10俵
>東夷の異民族相手だと4歩だから米俵40俵の重税。
封王の民には魏本国は税をかけられないよ
何も考えてないだろww
その前に、短里を使う人も使う理由のある人も3世紀にはどこにも
いないことに対する反論が一切ないんだがww
短里は捏造(合言葉)w 筑紫が畿内の土器を模倣してるから
目が届かないというのは研究者は考えていない 魏が課税しないなら、魏の尺度を使う必要すらないのだけど。 >>599
筑紫は畿内の存在を認識していても、中国は間接的に耳にしている程度だろ。 >>553
>邪馬台国七万戸ってどこ?
大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器を共通に使う範囲
>投馬国五万戸ってどこ?
中国地方日本海側(丹波以西)の四隅突出墓を共通の墓制として採用している範囲
どちらも単一集落ではなく、既に広域が一人の首長に統合された領域国家段階に進んでいる
有○○戸ではなく、可○○戸の書き方になっているのは、広域国家だからという見方もできる 中華の文明が及ぶのは、帯方郡から一万二千里の九州北部で尽きているからね。
交流のない勢力が邪馬台国の海東にもあるということは魏志倭人伝にも書かれている。 >>601
畿内の土器を模倣して在来の土器は消失するから
研究者は耳にしている程度とは考えていない
お前の願望 603 名前:日本@名無史さん 2018/12/16(日) 14:20:13.69
中華の文明が及ぶのは、帯方郡から一万二千里の九州北部で尽きているからね。
北部九州で尽きていたのは、後漢書が記述した後漢時代のこと。 >>560
>根拠なし
根拠は何度も示してあるとおり、土器編年が十分に検討されており、
また、庄内期の土器と纒向型土壙内に同時に供献された桃核の14C年代から
纏向型前方後円墳が、3世紀初頭から前半に築造されたことが分かっているからだよ >>609
交流のない勢力が邪馬台国の海東にもあるということは魏志倭人伝にも書かれている。 >>567
>邪馬台国は狗奴国と戦争中だから、人手不足。
そんなことはどこにも書いてない
妄想乙
>なのに巨大古墳を作るっておかしいでしょ?
いや逆に、魏志倭人伝には「大作冢。徑百餘歩」って書いてあるじゃないか
大が「大きい」じゃなくて「大いに」だって言ってごまかそうとするのが
九州説の常だが、「大いに」だったらそれこそ「大勢で盛んに」作ったという意味にしか
ならないし、卑弥呼の墓の造営に大勢が参画していたことをそのまま表している
戦争だから人手不足なんてのは通らないww >>606 名前:日本@名無史さん 2018/12/16(日) 14:30:48.79
魏志倭人伝も邪馬台国まで一万二千里だよ。
だからといって、魏の時代にも博多湾沿岸で尽きていたわけではない。
中華文明の及ぶところは、更に南下していたのだ。 >>590
>北部九州は弥生遺跡が多すぎて
>(福岡4000、奈良600)
まだそのゴマカシを言うかww
それは登録数であって、遺跡の数や密度を表してないと何度教えればww
その福岡4000のうち、
実際に検索してみると
0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件 「弥生時代の集落遺跡」
2. [福岡県] 1703件
3. [調査 (除外検索)] 723件 「調査を除外」
福岡県の「弥生時代集落」のデータのうち、980件が調査報告の件数で遺跡数ではない
また、福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる
この204件は、遺跡としては汐井掛遺跡「一つ」だ
そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ >>614
南下はしていたかもしれない。
けれども、東側(本州)は魏と交流していない。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 >>600
>魏が課税しないなら、魏の尺度を使う必要すらないのだけど。
だから、倭人は里を知らないんだろ?
そして、記録は魏使という魏朝の役人が見た範囲での記録なんだから、
魏の公定尺以外の尺度が入り込む余地はない
報告の不正確さ、陳寿の思い込みによって、魏使の見た通りが
魏志倭人伝に書かれている訳でもないけれど
いずれにしても、どこかの誰かが「短里なるもの」を使った理由はどこにもない
短里は捏造(合言葉) >>603
>中華の文明が及ぶのは、帯方郡から一万二千里の九州北部で尽きているからね。
尽きてないよw
島巡り仮説を導入したら、嗤われるだけって早く認識できるといいね! キナイコシが出てくると議論が進まなくなってつまらないな。 >>616
北部九州と南九州との交流は弥生終末期にはほとんどない >>623
南下は狗奴国(熊本)のこと。
南九州ではない。 >>621
ちゃんと筋の通った話しの出来ない自分のせいだろ >>625
卑弥呼と卑弥弓呼が肥国出身なら、倭国大乱の前後に倭国が南に拡大したのでしょう。
後漢代では倭奴国が倭の極南界とされていますから。 北部九州と南九州との交流がほとんどないのに、畿内が九州北部を支配下に置いているなんて、あり得ないだろ。 >>628
なんで?
理由が、まったく書いてないけど? >>630
他人に理解できる文を書く能力がないの? >>602
>大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器を共通に使う範囲
↑
その「畿内第V様式土器を共通に使う範囲」とは、「忌部はん」 が開拓・活動した範囲ってことさ。 @阿波 >>602
>中国地方日本海側(丹波以西)の四隅突出墓を共通の墓制として採用している範囲
↑
その「四隅突出墓を共通の墓制として採用している範囲」とは、出雲忌部・北陸忌部などが拓殖・活動した範囲ってことさ。 @阿波 >>627
>卑弥呼と卑弥弓呼が肥国出身なら
話を勝手に作ったらダメ
キリがないから >>628
>畿内が九州北部を支配下に置いている
テンプレFAQ 26-1に書いてあるように
まだ首長間の不安定な点のネットワークだろうと思うね >>637
>まだ首長間の不安定な点のネットワークだろうと思うね
だったら、「畿内が九州北部を支配下に置いている」とは普通の人は言わないもんだ。 @阿波 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、 韓国政府が宣伝していた、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだから、新しい討論を開始すれば良いな。。 >>209
>(大和は鉄器0か?)ホケノ山 椿井大山
2つの古墳だけで合わせて300点ぐらい出てる<
問題は、3世紀の卑弥呼の頃の話。
ホケノは、3世紀末以後であり、卑弥呼の時代ではない。
椿井大塚山は、大和ではないし、4世紀。 >>637
ならば畿内の人物が倭王となる理由はないね。 >>644
ホケノはノカツギと小枝の問題があるね
土器編年(久住)では布留0
並行関係では布留0は楽浪土器の激減期にあたる
後、例の箸墓の鐙は布留1の土器と共伴
溝の堆積状況と年代感は合致
倭人伝時期は交流があるから、楽浪土器の激減期には当たらないだろうね
土器編年はもう古くするのは限界が来ている >>209
>(大和は鉄器0か?)ホケノ山 椿井大山
2つの古墳だけで合わせて300点ぐらい出てる<
問題は、3世紀の卑弥呼の頃の話。
ホケノは、3世紀末以後であり、卑弥呼の時代ではない。
椿井大塚山は、大和ではないし、4世紀。 >>215
>>「自郡至女王國萬二千餘里」としており、
郡からの「折れ線的行程の道のり里数」の合計が、
九州北岸の不彌國でほぼ萬二千余里に達してしまっており、
だから、その不彌國から南至邪馬壹國女王之所都は、北部九州の筑紫付近になってしまう。<
>折れ線の総和が萬二千余里になるのは計算すればわかるから、
そういう意味なら「自郡至女王國萬二千餘里」なんて書き直さないと思う。<
合計距離を総括的に改めて書く事など、幾らでも有り得る。
>群から直線的に12,000×74.3km=371kmで測れば
北薩から延岡あたりまでがレンジになる。<
元々有効数字1桁程度の概数であったし、それの単純加算になるのであるから、
1〜5割位の誤差は、十分に有り得るもの。 >>223
>まあ実際は短里なんてないんだけどね 魏の里は1里約430mの普通の里<
お前の言い方では、それが循環論法。
>律歴志と当時のモノサシでそう換算されたから これが帰納的証明<
律歴志は、はるか後代の唐代に書かれた晋書の記載であり、3世紀当時の文書でないので、
それが正しい、として、それを根拠にしたら、
そっちの方が、結論先にありきになって、循環論法になる。 >>226
>搬入されたものだとしても
3世紀のホケノから出てるから畿内が強大な邪馬台国だった証拠<
畿内も邪馬台国も存在しなかったから、×であるし、
ホケノは、卑弥呼の時代ではなく、3世紀末以後の墓であり、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の筑紫城の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった。 >>649
魏志倭人伝が短里で書かれてる証拠は
魏志倭人伝に書いてる距離が短里だからだの方が循環論法
循環論法と言われて悔しかったから
よくわからなくてそのまま言い返そうとして恥をさらす九州説 >>228
>読んでどうしろと
帯方より南1万2千里は淮南子の概念上の地の果てと同じ数字だな
魏志倭人伝の距離はそれに当てはめて書かれてるんだなと思うだけだが <
「思うだけ」なんて、何の価値もない。
淮南子の「萬二千里」を当てはめた、という事だけでは、
東夷の間や高句麗や扶余や、それらと遼東とに地域間距離が、
(長里ではなく)短里で書かれた事の説明が付かず、
勿論、他に魏志などの記載に短里での記載が出現している事も説明が付かないから、×。
有り得る事は、淮南子も一寸千里の類似論を書いて短里を使っていたから、
魏志の里記載の距離と一致したんだろう、という事。 >>229
>>その通り。 九州は栄えていたから、同程度のものはたくさんある。<
>中央集落は2ヘクタールってところは引用しないんだww
唐古鍵が30ヘクタールだっけ?w
2ヘクタールと同程度じゃなくて、繁栄している遺跡を紹介してよ<
集落跡なら、弥生銀座および、その周辺地域。
>奴国の3倍以上が邪馬台国なんだからさw<
邪馬台国なんて、存在しない。 ERROR: Samba24:Caution 15 秒たたないと書けません。(1 回目、6 秒しかたってない)
2ちゃんねる快適ツールを使うと、待ち時間が大幅に短縮されるんだ。
(Samba24-2.13) 問い合わせID:489ff6d70d90209c
ホスト:p4021-ipad208kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さんE-mail: 内容:
>>229
>>その通り。 九州は栄えていたから、同程度のものはたくさんある。<
>中央集落は2ヘクタールってところは引用しないんだww
唐古鍵が30ヘクタールだっけ?w
2ヘクタールと同程度じゃなくて、繁栄している遺跡を紹介してよ<
集落跡なら、弥生銀座および、その周辺地域。
>奴国の3倍以上が邪馬台国なんだからさw<
邪馬台国なんて、存在しない。 >>238
>纒向は卑弥呼の共立で倭国が落ち着いたところで建設されたものだから
環濠がないんだよ <
ダメだ。
筑紫の「第X様式〜庄内」は三雲や祇園山が早く、卑弥呼の頃だが、
大和の「第X様式〜庄内」の石塚は、3世紀末だ。 >>239
>そうだったとしても3世紀中葉までには
巨大古墳が作られ鉄器がたくさんある畿内が邪馬台国な事に変わりはないよ?<
ダメだ。
鉄鏃が初めて沢山出たホケノで、3世紀末以後であり、
3世紀中葉ではない。 >>653
イミフ
魏志倭人伝が短里で書かれているのは明白だろ? >>654
帯方〜仮想上の倭の極南界の行程に
淮南子の概念上のこの世の果て1万2千里を当てはめたんだよ
もちろん短里で計測したものではなくて
淮南子のこの世の果て1万2千里と
帯方から邪馬台国の1万2千里
二つが一致している事の説明を短里で計測したじゃ説明がつかなく
九州説は詰んだ >>661
>九州説は詰んだ
願望?
これで何かを説明できた気になっているなら、頭がおかしい。 >>659
それをどう証明する
資料から1魏里は76mじゃなくて約430mと判明しているが >>662
書いてることが難しくてわからなかったかな?
周りの大人に聞こうね 韓国政府が宣伝していた、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのだから、このスレッドでは、読みやすい句読点の場所がどこなのかについて、討論すれば良いなw >>656
兵庫の神戸とかIPADとかIDが出ておるが
大丈夫か >>659
>魏志倭人伝が短里で書かれているのは明白だろ?
何度も教えてるんだけどねぇ
韓伝倭人伝も含め、東夷伝は最遠の朝貢国、倭国を誇張した遠距離に置き、
また世界の果てを想起させる淮南子の萬二千里に合わせて数字が調整してある「だけ」
その動機は西晋の高祖、司馬懿の公孫氏討伐の功績を、それによって可能に
なった東夷の朝貢を遠く見せることで持ち上げること
ある意味司馬懿のライバルだった曹真が西域の萬千六百里の大月氏の朝貢を
取り付けているので、それに見合う朝貢国に倭国を仕立て上げる必要があった
そこには「短里」など入り込む余地はないww
誇張された距離を実距離に照らせば、誇張した分だけ単位距離が縮む
ただそれだけのことを「短里で書かれていることを見出した!」とか
寝ぼけたこと言い張っているのが九州説だよw >>621
>キナイコシが出てくると議論が進まなくなってつまらないな。
きちんとした論証を書かれると言い返すことすらできなくなるってことかな?w
まあ、九州説は根拠なしの言い放し以外は何一つ書き込めないから、
もともと議論などしたことがないんだが?ww >>243
>淮南子では南の地の果ては国境より南1万2千里 魏志倭人伝も国境の帯方より南1万2千里
合ってるだろ 歯黒国だのも淮南子に書いてあるらしいし <
ダメだ。
淮南子の説明と魏志の説明とは、一致しない部分が沢山あるから、
魏志が淮南子情報を盗用した、という事にはならないし、
淮南子は、周髀算経の一寸千里を知っているし、山海経などの記載も知っているから、
淮南子自身が、短里を使っていた事になり、だから、魏志の記載に似た記載を持っていた、
という事になるだけだ。
大月氏まで1万6千里は実際の里より2倍程度長い
普通の里の2分の1でありいわゆる長里ではない >>667
>韓伝倭人伝も含め、東夷伝は最遠の朝貢国、倭国を誇張した遠距離に置き、
>また世界の果てを想起させる淮南子の萬二千里に合わせて数字が調整してある「だけ」
>
>その動機は西晋の高祖、司馬懿の公孫氏討伐の功績を、それによって可能に
>なった東夷の朝貢を遠く見せることで持ち上げること
>ある意味司馬懿のライバルだった曹真が西域の萬千六百里の大月氏の朝貢を
>取り付けているので、それに見合う朝貢国に倭国を仕立て上げる必要があった
それを示した史料の提示をお願いしますね。 >>670
その前に短里を記した史料の提示が先じゃないかい
いつの時代に使われて1短歩は何尺でとか書かれた >>667 名前:日本@名無史さん 2018/12/16(日) 18:36:00.90
何をウダウダ言ってるのか、倭人伝が短里で書かれているのは明白だ >>245
>その場合は秦漢里が使われるだけ
秦漢里と魏晋里はマイナーチェンジで大差はないけどな<
ダメだ。魏の初代文帝の即位の詔書は、
秦漢里のために発生した度量衡の混乱を是正し統一しようとした。
>公孫氏は最後の直前まで漢の官職(左将軍)に就いていた漢人で、
漢の度量衡で生まれ育っている人 短里を使う理由がない <
魏代に入れば、当然文帝の即位の受命改制の詔書を知っており、
公孫氏も短里を使った可能性がある。
また、魏志に書かれた高句麗や扶余や韓の大きさや距離記録や、倭人伝の距離記録は、
楽浪郡や帯方郡の役人らや魏使らの計測であって、
公孫氏には直接的な関係がない。 >>669
侏儒国とか歯黒国も淮南子に出てくるぞ
陳寿が淮南子を下敷きにして魏志倭人伝を書いたのは明白
あと後漢書の原資料もだな >>249
>ホケノ山 畿内 3世紀中葉 鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口<
ホケノは、3世紀中葉ではなく、3世紀末以後。
また、その副葬からは、東征将軍そのものではなく、
その部下の「祭祀」担当者的地位の人物の墓。
>椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、」鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本 その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。
椿井大塚山は、竪穴式石室であるからホケノよりも後であり、4世紀以後。
また山城の地であるから、大和の東征将軍とは違った別の東征将軍自身の墓。 >>675 名前:日本@名無史さん 2018/12/16(日) 19:08:42.59
まだ、ウダウダ言うのか 倭人伝が短里で書かれているのは明白だ >>673
漢でも短里だった事にしないと
短里説は辻褄が合わなくなってきたな
周・漢・魏・晋全部短里だったと
終わったな >>250
>>1万2千里は魏志だけじゃないんだよなあ。<
>??? そうだよ?
淮南子他でも普通に書いてある、大陸知識人にはなじみの数字
それが各史書で踏襲されているだけ <
淮南子も、周髀算経の一寸千里も知っていたから、短里も使えた、
という事であっただけ。
魏志は、淮南子情報とは違った説明を書いているから、淮南子を盗用しておらず、
むしろ、訂正していた事になる。」 >>676
ホケノは木棺サンプル木片5つの炭素年代測定法から
AD120〜240年な
副葬品から3世紀前葉〜中葉の間と推定
椿井大塚山も3世紀後葉に区分されている >>255
>魏志倭人伝は短里で書かれていない <
書かれている。
>伝承の数字に合わせた、誇張された距離が書いてあるだけ<
魏志は、淮南子とは違った事を書いているから、伝承の数字に合わせていないし、
魏使らは、実地に見聞計測した事を記録しただけ。
>>これは単なる事実なので、どこも循環論法ではない <
>ということで、循環論法ですらなく、単なる事実誤認が発端の捏造なんだよw<
ということで、この男の「魏志が淮南子を盗用した」という主張が、
循環論法であった、という事になった。 >>680
>>682
この辺がザラコク九州説の限界だな ホケノが3世紀前葉〜中葉の間だったら魏志倭人伝でいうところの誰なのだ?
記紀でもいいが。 さあねえ
個人的な印象だとホケノはもう少し古くて
2世紀最後半か3世紀初頭で初代大君の墓のセンもあると思うけど
証明するものがないから何とも言えない >>266
>そうだね!
倭国の中枢で倭女王の都のある畿内と、九州最大といえども辺境の奴国では
魏志倭人伝でも人口が3倍以上の差が記録されるほど繁栄には差があるね!ww <
この男の、「倭国の中枢で倭女王の都のある畿内」という前提が、
「南≠東」などに拠って、×ね。 >>659
理由もなく言い張るだけなら
サル並みと呼ばれても
仕方ない >>684
>ホケノが3世紀前葉〜中葉の間だったら魏志倭人伝でいうところの誰なのだ?
>記紀でもいいが。
鳴門市萩原周辺の豪族であるのは間違いないだろう。 ナガスネヒコ(土蜘蛛)の可能性がある。 @阿波 >>658
このダメだ爺さんも、まったく理由がないんだよね >>684
倭人伝だと、もう死んでて出てこない人だろ
記紀は関係ない 卑弥呼の墓はともかく、
ホケノや纏向古墳群のようなバカでかい前方後円墳がいくつも存在していたのなら、
当然魏使の目にとまって記録され、
各地の墓制にうるさい陳寿が記載しただろうな。 >>673
>魏代に入れば、当然文帝の即位の受命改制の詔書を知っており、
つまり短里なんて無いと知っている >>690
もう死んでて出てこない人の巨大な墓、しかも箸墓と同型の墓が
卑弥呼時代の真っただ中に作られたわけ? >>272
>奴国の中心の那珂遺跡の環壕内面積が2ヘクタール弱なんだが?<
奴國は、日向峠西麓〜早良平野部の国であって、
那珂遺跡は、奴國の中心ではなく、卑弥呼の首都である弥生銀座の一部分でしかない。
そして、倭國亂時代には環濠が必要であったが、
卑弥呼共立で、環濠の必要性が減って来て、
壹與の頃からは殆ど必要がなくなったんだよ。
>集落遺跡(集落部分)では、唐古鍵遺跡の30ヘクタールというのは
ほぼ弥生時代で最大面積なんだが?<
唐古鍵は、出雲系銅鐸祭祀部族の集落であり、
侵入して来た神武らの天孫族やその後の東征軍から、集落を守る必要があったから、環濠が必要であったんだよ。
そして、東征軍側の纏向には、環濠がない。 >>671
>>667
>韓伝倭人伝も含め、東夷伝は最遠の朝貢国、倭国を誇張した遠距離に置き、
>また世界の果てを想起させる淮南子の萬二千里に合わせて数字が調整してある「だけ」
これはそう「思う」ってだけね
>その動機は西晋の高祖、司馬懿の公孫氏討伐の功績を、それによって可能に
>なった東夷の朝貢を遠く見せることで持ち上げること
>ある意味司馬懿のライバルだった曹真が西域の萬千六百里の大月氏の朝貢を
>取り付けているので、それに見合う朝貢国に倭国を仕立て上げる必要があった
これもそう「思う」ってだけね
なぁんだ、何の根拠もないんじゃん。
なのにディテールまで真に迫った妄想ですことwwww >>674
>侏儒国とか歯黒国も淮南子に出てくるぞ
侏儒国は出て来ない
淮南子に出てくるのは裸国と黒歯国だよ >>275
>魏志倭人伝に魏で使われた尺度は書かれてないね<
魏使らは、当然魏朝の「里」を使う。
>淮南子の尺度は使われてるけど <
魏志の記載は、淮南子の記載とかなりはっきりした違いがあるから、
淮南子の尺度を使った事にならない。 >>677ほか
>まだ、ウダウダ言うのか 倭人伝が短里で書かれているのは明白だ
そういうのはいいから、誰がどういう理由で短里を発明して
誰が使ったのかはっきりしてもらえるかな?
魏でも漢でも、短里を使っている人は一人もいないんだが? >>700
>魏使らは、当然魏朝の「里」を使う。
そして、それは短里ではない >>701
でも短里じゃないと郡から7,000里進むと朝鮮半島南端を突き抜けちゃうね >>683
>この辺がザラコク九州説の限界だな
限界も何も、ザラコクはまったく知識がないから、オウム返しの否定しかしてないじゃないかw
短里で書かれていないと言われれば、書かれているって書くだけww >>287
>何の根拠もないどころか定説と正反対 ww<
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの定説の大和説なんて、
何の価値もない。 >>687
>サル並みと呼ばれても
>仕方ない
5ちゃんではこういうことを書くと
「九州説と一緒にするなんて、サルに迷惑!」
「サルに謝れ!」
って言われるよw >>703
筆者はそのつもりだがら会稽東治之東と明記してる
九州ではない >>698
>ディテールまで真に迫った
そりゃ、真実だからね
誰が読んでも納得できるだろ? >>294
>短里じゃねーぞ<
淮南子の一寸千里も、短里だぞうー。 現在に至るまで、
日本国内で魏の里使った痕跡は存在しない。 >>706
それはアンタの信仰でしょ
他人に強要するなよ >>711
一寸千里は儒教の教典であって地理じゃあないんだよ
政治思想なの >>295
>ワイは、まず類似音地名で選定し、そのうえで適格条件を上乗せすべきと言うたのじゃ。
類似音地名を大事にするのがよい、ということだ。
オメみたいに、類似音を軽んじるのじゃ、そもそも比定なんかできんわい。<
完全同一文字であるならまだしも、
「類似音」だけでは、確率が低過ぎて、根拠にはならないんだよ。 魏の里を日本国内で使用した
痕跡や文献は存在しないが、
短里は魏志倭人伝という文献が存在する。 九州説が歴史学の世界からドロップアウトした理由が、よくわかる >>716
何かドヤ顔が目に浮かぶようだけど
それ循環論法だから >>716
>短里は魏志倭人伝という文献が存在する。
魏志倭人伝という文献から
短里なんて出て来ませんけど? >>296
>周だって短里なんか使われてない <
周朝の周髀算経やその一寸千里が短里だし、
山海経や戦国策にも短里も使われている。
>1尺18cm程度だったそうだから1里=300歩=1800尺で周の1里は約330m<
周髀算経の一寸千里の法では、谷本確認計算に拠って、1里≒76.5mであり、
だから、1尺≒25.5cm。 >>720
>周朝の周髀算経やその一寸千里が短里だし、
証拠は? 九州説というのは
歴史知識皆無の人が
なんの理由もなしに
出所不明情報を振り回す
そういう世界だと
よくわかるスレ 仁徳天皇陵の下って何があるんだろう
あんな広大な範囲に古墳以前に何もなかったとは思えないしな >>298
>倭国の首都は帯方より南1万2千里と最初から決められてるんだよ <
いや、決められてなんていない。
決められていたんなら、途中の部分行程里数や、全体里数なんても、
一々記載する必要がない。
という事は、最初から決められていなかったから、魏使らは、実地に計測記録した。
>魏使も別に嘘を報告してるわけではなくて<
当然の事。
魏使らの記録は、部下や後続の使節らに拠って確認されてしまうから、
ウソを書いておれば、直ぐにバレてしまって、首が危ない。 >>720
>周髀算経の一寸千里の法では、谷本確認計算に拠って、
谷本計算って、古代中国でずっと妄説と呼ばれてきた周髀算経の一寸千里がもしモノホンだとすると・・・って仮定の話でしょ?
誰も学問的根拠にしたりしない >>299
>魏志倭人伝の」距離記述こそ証拠にならない<
同時代の魏使らの実地での見聞計測記録である倭人伝の距離記述は、
客観性や信頼性や証拠性が非常に高く、
後代学者や、現代の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らの、
「自己解釈に拠る距離の記述」よりも、
はるかに証拠になる。 >>728
>同時代の魏使らの実地での見聞計測記録である倭人伝の距離記述は、
魏使らの実地での見聞計測記録であるって証拠が
なんにも無いんですけど >>728
自己解釈なんて変なコトバを創作してしまう日本語センスの無さに藁 九州説も本当におかしい人以外は消えたな
まあ、九州説の根拠とされていたものが全部否定されちゃったしね
いくら否定されても無視して同じことを書き続けられるカルト系の人しか残っていない >>731
鷲っさんとか、安物の後釜で10年は飯食えるとか
シタタカな計算もありそうだけど 鷲崎さんも賢い人だから、年輪年代法以外にはそんなに噛みついてないみたい
引き時は考えてそうだけどね >>734
このスレでな派手な害吉しか見たことはない 今までに消えたコテハンってだれだれ? 畿内九州問わず 九州説を論破するのは簡単
ひとこと根拠を聞けば
悪態をつきながら逃げていく >>301
>1里76.5mで1万2000里を換算すると、918kmになる。
この918kmをソウルを起点として地図上で図ると、鹿児島市や大隅半島のつけ根付近になる。
福岡県をでることが常識。
鹿児島市やお墨半島のつけ根付近が、邪馬台国の候補地になる。
それが“短里”説の正体。<
いや、「萬二千余里」は、有効数字1桁概数の足し算合計求められた里数だから、
「萬二千余里」にも1〜5割位の差異範囲を持つ事になる。
そして、南九州は、投馬國の地であるから、共立女王國範囲になっており、
問題はない。 >>302
>>倭人伝の記録は、魏使らの魏の役人らが記録したものだから、 関係がないの。<
>そんな証拠は何もないの。<
倭人が「里」を知らないんだから、
測定記録出来るのは、魏使らや郡の役人らしかいない。 >>303
>>いや、魏の初代文帝が度量衡の統一を指示し、重臣たちが周制への復古を上表し、
周髀算経の周里が採用されました。<
>そんな記録は一切ないな <
この男は、私の秦政明氏らの論考の紹介紹介を、探しもせず、確認もせずに、
ヘイトスピーチしているな。
>九州説は妄想でできている<
大和説者は、嘘つき騙しのヘイトスピーチの妄想で、出来ている。 >>741
>測定記録出来るのは、魏使らや郡の役人らしかいない。
そして、魏使らや郡の役人らは、秦漢里または魏晋里しか知らない
短里を知っている人は3世紀には一人もいない
なぜなら短里なるものは、20世紀の捏造だからww >>305
>環濠内集落面積が30ヘクタールってのが大遺跡だってのは理解できたのか?<
唐古鍵が、弥生銀座よりは比べ物にならない位狭い、という事が理解出来た。 >>740
>南九州は、投馬國の地であるから
投馬国が邪馬壹国より南になった時点でその説は破綻している
投馬国は戸数道里ともに略載されている女王国以北の国 >>744
唐古鍵の30ヘクタールってのは環濠内面積だけで、
その周囲に展開する衛星集落や随伴する墓域も含めたらもっとずっと広いんだよ
ただ、それこそどこまでを唐古鍵の勢力圏=狭義のヤマトとするかっていうと
難しいけれどね >>742
だから、短里の記録とか、一切ないんだろ? >>311
>いずれにしても九州にあった環濠集落で30ヘクタールなんてのはないってこと
吉野ヶ里は墓域まで環濠で囲んだ「最大の環濠」を持つ集落で、
集落部分は唐古鍵より小さい <
何だ?、それじゃ、
吉野ケ里の環濠の方が、唐古鍵の環濠よりも大きい、
という事になるではないか。 魏志倭人伝に「環濠」なんぞ全く書いてないんだが。
何を喧嘩しとるんだ? >>745 名前:日本@名無史さん 2018/12/16(日) 21:49:14.65
>投馬国が邪馬壹国より南になった時点でその説は破綻している
単純にそう思うのが素人の悲しさ、大和説・博多説の未熟さよ。投馬国は南九州で大正解! >>753
投馬国は五万戸の大国、
鞆の浦はたった五百戸の港遊女の風待ち波止場。笑わせんな。 意味不明だなあ。
唐古鍵の周辺域まで含めて7万戸の邪馬台国と言っておきながら、
環濠集落部分だけだと唐古鍵が最大だから九州じゃないとか言う。
マイルールすら破綻しているし、もう自分でも破れかぶれでわけワカメなんじゃないのか? >>312
>計測したものじゃないよ
淮南子および後漢の伝承を当てはめたもの<
淮南子の記載とは、一致していない部分が多くあるから、
淮南子の記載を踏襲したものであることにはならない。 >>751
>魏志倭人伝に「環濠」なんぞ全く書いてないんだが。
>何を喧嘩しとるんだ?
九州説はバカだからすぐに話の発端を追えなくなるんだが、もともとの話は
纒向には環濠がないから邪馬台国じゃないとか抜かした九州説のバカがいるんだよ
そのバカ本人は既に消えて話に絡んでこない
ザラコクは関係ないのに口を挟んで意味のないことを書き散らしてるだけww >>754
投馬国の先に邪馬台国があるんだぞ
九州南部に7万戸の集落遺跡があると思っているのか >>750
>吉野ケ里の環濠の方が、唐古鍵の環濠よりも大きい、
吉野ヶ里は墓域まで環濠で囲んだ「最大の環濠」集落
集落部分で見れば唐古鍵の方が大きい >>313
>>そこで使われていたのは周里とほぼ同じの魏朝里。<
>周でも、一歩=六尺、一里=三百歩は変わらない そして周歩=約 1.35 m
1割弱違うだけだから、まあ大きくは変わらないなw<
周朝は、周髀算経の一寸千里を使ったから、
谷本確認計算に拠って、周歩の一寸千里1歩≒25.5cm。 >>757
淮南子に一致してる部分もあるんだろ
なら魏志倭人伝がそれを下敷きにしてないと否定する事は
原理的に不可能 >>710
727 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/12/16(日) 20:42:24.90
>>725
それ、アンタのただの想像だから >>698
>>>671
>>>667
>>韓伝倭人伝も含め、東夷伝は最遠の朝貢国、倭国を誇張した遠距離に置き、
>>また世界の果てを想起させる淮南子の萬二千里に合わせて数字が調整してある「だけ」
>
>これはそう「思う」ってだけね
>
>>その動機は西晋の高祖、司馬懿の公孫氏討伐の功績を、それによって可能に
>>なった東夷の朝貢を遠く見せることで持ち上げること
>>ある意味司馬懿のライバルだった曹真が西域の萬千六百里の大月氏の朝貢を
>>取り付けているので、それに見合う朝貢国に倭国を仕立て上げる必要があった
>
>これもそう「思う」ってだけね
>
>なぁんだ、何の根拠もないんじゃん。
>なのにディテールまで真に迫った妄想ですことwwww
738 名前:日本@名無史さん :2018/12/16(日) 21:16:53.61
ひとこと根拠を聞けば
悪態をつきながら逃げていく >>756
本当に話が追えないんだな
>>758に書いたとおり、もともとは環濠なしなら邪馬台国じゃないというバカ話の否定
その中で九州でも3世紀には環濠集落は衰退してると言ったら、平塚川添遺跡があると
言い出したから、そこは中心集落2ヘクタールの小さな遺跡だと教えてやったんだよ
その比較で唐古鍵は環濠内面積だけで30ヘクタールあるって教えたのに、
30ヘクタールぽっちかとか訳の分からない負け惜しみを言い出して今に至るという流れ 魏志倭人伝には環濠なんて出てきませんよ。
奈良は基本的に湿潤だから水堀でしょう。
環濠です。
吉野ヶ里などは空堀だから土塀+城柵≒城柵でも許容範囲でしょうか。 >>316
>まあ、唐古鍵は邪馬台国の中でも中心的な集落だけどな <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
唐古鍵は、出雲銅鐸祭祀系部族の集落であったのであり、
九州倭国の東征毛人五十五国に負けて、倭国の支配下になったもの。 >>321
>そもそも魏で使われる里と5倍違う
そして1里が50m」だったり100mだったり とても正確とは言えない <
魏朝で使われる里データの、有効数字1桁 程度の計測値。 短里で盛りあがっているようですが
短里は倭人伝、梁書等の距離を比例計算で解く人間の知恵です
畿内説は知恵が出ないから、距離については誤情報と言い張ります。
しかし、九州説も距離については誤情報で通してもいいですよ
倭人伝に基く遺物は圧倒的に畿内より多いのですからね 比例計算+現実の距離にあてがい距離を解く人間の知恵です >>324
>それをそれらの傍国が邪馬台国の南に位置するというのは推測以外の何者でもなく、
何の根拠もないと思われる。<
「傍国が邪馬台国の南に位置する」なんて嘘吐き騙しは、言っていない。
>東テイ人のことはしらんが、
その会稽東治(冶)の東にあるにちがいないと倭人伝が書いている邪馬台国の位置は、<
倭人伝は「冶」とは言っていない。
>沖縄あたりになる。<
沖縄あたりは、東テイ人の地域になる。
>そのさらに南に傍国20国がるとすれば、石垣島や台湾あたりになってくる。<
傍国20国は、ほぼ九州北半部付近。
>そして、そのさらに南に狗奴国があるのにら、もうそれはフィリピンありだろう。<
狗奴國は、「火の国」付近。
その狗奴国と邪馬台国の戦争はどういうふうな戦争だつたのかと、というのがワイの疑問なわけや。 九州説が邪馬台国を九州北部に持っていくのは大変だなあ
魏志倭人伝によれば九州北部は伊都国奴国で
邪馬台国が出てこないし
邪馬台国はそれら北部の国々を監視させたとある
邪馬台国は帯方から南1万2千里とあるけれど
里程も足し算すれば端の不彌国までで1万7百里
残りは南に水行陸行
やまとという地名が畿内にあり
九州にある山門を古墳や銅鏡等の考古資料で圧倒
そもそも邪馬台国まで帯方から南1万2千里は
淮南子の概念的なこの世界の果ての数字
魏志倭人伝の里程はそれを当てはめたもので
現実の土地に無理に当てはめても指すのは九州南部
これらをクリアしないと邪馬台国は吸収北部にはならない >>770
それで人間の知恵で距離を解き明かせば
邪馬台国はどこになるんですかいの? >>330
>アホだなあ。
1万2000里の内訳が、韓7000里、三海峡3000里、
そして残りが2000里と倭人伝は書いてるのだろ。<
書いていない。
對海國と一大國の中の見聞移動と、
側副傍線國説明になっている奴國への百里を除外して、
不彌國で萬二千余里は、ほぼ終わっている。 >>774
方位に狂いが無ければ九州でしょう
畿内説では距離も方位も誤情報とするしか手立ては無いと思いますが >>332
>どっちにしろ中国人が短里なんて使うわけもないし
相手の知らない単位で報告する馬鹿もいない <
どっちにしろ倭人が里なんて使うわけもないし、
皇帝の知らない単位で報告する・・・・アホもいない 。 >>776
帯方より南1万2千里は
淮南子の概念的な世界の果てを示す数字を踏襲したもので
概念上の倭の極南界を示すもので現実の場所を示していない
考古資料的に見れば邪馬台国は機内 >>334
>ホケノ山 椿井大山
2つの古墳だけで合わせて(鉄器)300点ぐらい出てる
もっと古い遺跡の吉野ケ里と変わらん数だな <
椿井大塚山は、東征毛人五十五国将軍の墓。
ホケノは、東征毛人五十五国の家来の祭祀係位の墓。 >>337
>それも真っ赤なウソ テンプレに書いてある<
スレ主は、「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師であることが確定しているから、
普通の人は、テンプレは読まない。 >>338
>吉野ケ里はほぼ年代比定されてるのだが、
ホケノ山、椿井大塚山古墳の年代比定はいつ? <
ホケノは、3世紀末以後。
椿井大塚山は、4世紀以後。 >>778
淮南子は概念ですから実距離では無いです
魏の使者は倭国に赴いていますから >>771
>比例計算+現実の距離にあてがい距離を解く
現実には比例もしてなくて区間ごとに4倍も違う数値になるんだがな
>人間の知恵です
思い込みで人間はこんなに愚かになるという見本だなw >>778
魏の使者は実測
国から国の比例計算で北部九州までの距離の推移はニアイコールだと思います。
1万里余りでしょうか・・すると残り2千里で畿内には届きません >>783
魏使は倭国に赴いたけど魏志倭人伝に書かれたのは
淮南子にある概念的数値
>>785
2千里を普通の里で換算すると約860km
畿内に十分届く
魏晋は短里なんて使ってなかったから
陳寿は当然普通の里の積もりで書いてる
最も距離方位はあくまで概念的なものだからどこを指すわけでもないが 淮南子に合わせて縮尺を調整したら一里が100メートル以下の短里になったんだろ。 >>786
>陳寿は当然普通の里の積もりで書いてる
その通り。
だから実際より南の会稽の東という記載になった。
東の畿内なんてまったく視野にはない。 >>787
それを短里とは言えないな
>>788
けどそこはあくまで概念の倭国の極南界
邪馬台国じゃあない >>773
>そもそも邪馬台国まで帯方から南1万2千里は
>淮南子の概念的なこの世界の果ての数字
>魏志倭人伝の里程はそれを当てはめたもので
それを示した史料の提示をお願いします。 >>778
>帯方より南1万2千里は
>淮南子の概念的な世界の果てを示す数字を踏襲したもので
>概念上の倭の極南界を示すもので現実の場所を示していない
それを示した史料の提示をお願いします。 >>784
>現実には比例もしてなくて区間ごとに4倍も違う数値になるんだがな
各比定地は対馬と壱岐以外未確定なのにどことどこの区間が4倍も違う距離になるのか提示をお願いします。 >>786
>>>785
>2千里を普通の里で換算すると約860km
>畿内に十分届く
>魏晋は短里なんて使ってなかったから
>陳寿は当然普通の里の積もりで書いてる
>最も距離方位はあくまで概念的なものだからどこを指すわけでもないが
苦しいねぇ。
文章の前後で自己矛盾してきてるぞwwww >>775
なにいうとるの。
全部で1万2000里。
7000里+3000里=1万里。
唐津〜不彌まで700里。
残りは何里? >>793
>各比定地は対馬と壱岐以外未確定なのに
はい
短里でピタリ合う、という説が死にました
ww 気づいている人もいるだろう、
家に来てみればわかると言ってるのに、
なぜ家に来ない、来ることが出来ないのか?
家が「ホンモノ」だからなんだよ
そのまま、無かった?
みたいな事にしようとしているという話
メディア関係、テレビなどを盲信していたり お前のやっているゲームおもしろいの?
と書いてみても何のレスもない
なぜだと思う?
つーちゃんねるに書き込みをしているだけだからw
まさかね・・・・・となるでしょ その他いろいろとあるでしょ
漫画、アニメ・・・・とか、
それ、おもしろいの?と聞いてみても、何の返事のもない 他のスレにも書いたことがあるんだけど、
侵害、詐欺師的なもの
そういうシステム(不明)は必要ない
と言っているんだよ 対馬国 対馬
一大国(一支) 壱岐
末盧国 唐津
伊都国 怡土
奴国 儺県
までは対馬、壱岐と同程度には確定してる >>802
ところが、具体的な計測ポイントを明示して短里を論じた九州説者がいないという
この不思議 >>340
>ホケノ山は三世紀第2四半期、椿井大塚山は第4四半期だな<
ホケノは、前方後円墳で有棺有槨であるから、卑弥呼の冢や有棺無槨よりも後であり、
庄内〜布留であるから、庄内の石塚より後であるから、3世紀末以後だな。
椿井大塚山はの石塚竪穴式石室であるから、有棺有槨のホケノよりも後になるので、
4世紀以後だな。 >>345
>76.5はどこから降って湧くんだよ <
一寸千里の法の「里」の長さの確認計算をされた谷本氏の計算結果。 >>796
>>>793
>>各比定地は対馬と壱岐以外未確定なのに
>
>はい
>短里でピタリ合う、という説が死にました
末盧だけ未確定だけど、他はほぼ比例関係があり、一里は100メートル以下となっている。 >>803
>>>802
>ところが、具体的な計測ポイントを明示して短里を論じた九州説者がいないという
>この不思議
古田氏? >>786
>2千里を普通の里で換算すると約860km 畿内に十分届く
あなたの計算では郡から北部九州沿岸まで
1万里=1万里×(860キロ÷2千里=千里430キロ)=4300kmになるね
九州はは何処にあったのだろう?はるか南方???
対馬は天気の良い日には釜山から目視できるのですが・・・
北部九州まで短里でそれ以降は長里????????? >>360
>短里で書かれた報告書を、長里で解釈したから、九州北部の倭が会稽の東にあることになってしまった。
つまりはそういうことだな。<
違うね。
魏使らの報告に拠って、
卑弥呼共立の女王國は、投馬國までになるから、海峡〜南九州までの地域になり、
その女王之所都は、不彌國のすぐ南の筑紫付近である事になり、
だから、陳寿は、
会稽の東方の治域に相当する「浙江省や江蘇省海岸の東方」に、
女王國がある事になるな、
という推定計算をしたんだよ。 >>808
短里なんて有りません
非現実的な数字が書かれてる箇所があるだけ >>806
>末盧だけ未確定だけど、他はほぼ比例関係があり、一里は100メートル以下となっている。
どこがどう比例関係にあるんだ?
対馬は南北に70キロあって、短里説のほぼ千里に相当するんだが?
具体的に基準点の位置を示し、具体的な数値計算を示した上で主張するのでなければ無意味
短里説は結論ありきの旬間論法以外の何ものでもない
周髀算経を持ち出すのもザラコクだけになったが、周髀算経は漢代に既に
誤りであると認識されていた蓋天説を前提とした机上の計算に過ぎない
周髀算経の中でも一里=三百歩、一歩=六尺の関係は維持されているのだから
短尺、短歩が存在しない以上、「周髀算経から導かれる短里」も存在しない >>361
>めちゃくちゃだな 一体なんで郡役人や魏使らが 母国の度量衡を使わずに
ワケのわからない正体不明の単位を使って計測して
そんなもんで報告されても絶対理解できない人々に 報告したんだ?<
この・・・・大和説男もめちゃめちゃだな。
郡役人や魏使らは、きちんと母国の度量衡を使って計測した記録を報告していたの。 >>809
>だから、陳寿は、
>会稽の東方の治域に相当する「浙江省や江蘇省海岸の東方」に、
>女王國がある事になるな、
>という推定計算をしたんだよ。
ウソつくなよ
会稽の東方の治域に相当するあたりって屋久島以南でしょ >>806
>末盧だけ未確定だけど、他はほぼ比例関係があり、一里は100メートル以下となっている。
すると
「各比定地は対馬と壱岐以外未確定なのに 」
と言ってた人が嘘をついてたってこと?
それともアナタが嘘をついてる?
九州説さん・・・・
ご託宣の総論ばっかりじゃなくて、具体的な話をしてハッキリさせて欲しいんだけど >>812
>郡役人や魏使らは、きちんと母国の度量衡を使って計測した記録を報告していたの。
そんなら陳寿が「会稽東治之東」って書く訳ないよな
北緯30°より南に九州などない >>364
>少なくとも邪馬台国は北部九州にはなかった、ということがわかる程度の情報でしかない<
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙しの造作文言。
少なくとも、女王之所都の邪馬壹國は北部九州の筑紫付近であった、
ということがわかる情報であって、
別種の旧小国の倭種の大和は、全く無関係であった、という事でしかない。 >>816
>少なくとも、女王之所都の邪馬壹國は北部九州の筑紫付近であった、
>ということがわかる情報であって、
なら「会稽東治之東」じゃないよな 短里で計測した報告書を、中央の人間が長里で解釈したから、実際より南に思われてしまったんだ。
会稽の東の記述は、短里が使われていた証拠だね。
畿内が入り込む余地はない。 >>814
お行儀が悪いですよ嘘をつくなんて断定するのは
勘違いか??私見でしょう? >>819
短里で計測した報告書なんて誰が書くの?
有り得ない想定をしたら九州説の崩壊だよ >>369
>たまたま、対馬海流の流れにより、比定地を都合つけただけ。<
関係がない。
魏使らは、狗邪韓國からは、持衰が乗った倭船で渡海したのであり、
海峡も南北を目指して、きちんと渡海出来て、記録出来た。 >>824
>魏使らは、狗邪韓國からは、持衰が乗った倭船で渡海したのであり、
それ、なんか証拠あるの? >>821
証拠出すのを拒否したら
嘘って確定するよ >>373
長里なんて使われなかった、というのは確定でしょ。
実際に使われた形跡が無いのだから。 >>376
>漢時代に書かれた神仙思想の淮南子に出てくる 国境からの世界の果て1万2千里と
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は帯方から南1万2千里 一致してるだろ?
これは魏の役人が計測したものじゃなく概念的な地の果て1万2千里を
仮想上の邪馬台国に当てはめただけ <
淮南子の記載を否定する事も記録されているし、
魏使らが、実際に計測もしないで、
淮南子の数字を盗用するインチキズボラ報告をして、
部下や後続の使節によってバレれば、
魏使らの首が飛ぶ。 >>827
このように
なにも証拠のない結論だけを
ただ、ボソッと呟くだけで
他人と会話しないのが
九州説 >>378
実際には、
淮南子の記載を否定する事も記録されているし、
魏使らが、実際に計測もしないで、
淮南子の数字を盗用するインチキズボラ報告をして、
部下や後続の使節によってバレれば、
魏使らの首が飛ぶ。 >>828
>魏使らの首が飛ぶ。
それ、あなたの空想でしょ >>810
>短里なんて有りません
その通りです
計算上から導きだされた仮定の呼び名です
倭人伝(どなたが書き込んでおられた梁書もしかり)の距離を解明するために1里をどのくらいの長さにすれば良いかと言う仮定の呼び名です
それが、ある程度あてはまれば理論上の問題はありません。 >魏使らが、実際に計測もしないで、
>淮南子の数字を盗用するインチキズボラ報告をして、
国威発揚の誇大宣伝なら上層部による捏造を疑うほうが現実的だね
政府って、そんなもんでしょ >>832
>それが、ある程度あてはまれば理論上の問題はありません。
あてはまらないのて
短里など無いと言われる >>388
>50mも1里で100mも1里なんざ正確な数値とは言えねーな<
魏使らの記録は、有効数字1桁程度の近似値であり、
始めから「100%正確だ」となどとはしていないし、
この大和説男らも、始めから、
出発地店到着地点の比定そのものをインチキしていた可能性が高いので、信頼性がなく、
より正確な比定地で計算すれば、60〜90m位で、
平均75m位。 余輩の考ふる所に據れば、卑彌呼問題をして此の如く解決に困難ならしめたる原因の一は『魏志』倭人傳に記されたる里數の標準が概して短少にして、支那國に行はれたる古今の尺度に合せざるに在るが如し。
例へば帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。
故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。
故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。
此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり。
曾て『魏志』倭人傳に見えたるが如き短少の里程制度ありしを聞かず。 >>389
>魏志倭人伝の距離を割り出してそれが実際に使われていたとするのは循環論法
現在でいえば100mの所を200mと間違って印刷してる地図を見て
通常の2分の1の短メートルがあったと言ってるようなもの
そんな物ないのは距離の基準が載ってる教科書を見れば明らかになる
魏の里も同じで教科書的書にあるのは1里約430mの普通の里のみ
1里75mの短里は載ってない<
殆どが不可知部分である自然や歴史において、
「基準が載ってる教科書」の説明が正しい、なんて決めつけた主張する事が、
結論先にありきであり、循環論法。 >>837
役人が公式の度量衡を使わないって、無理な話でしょ >>835
>より正確な比定地で計算すれば、60〜90m位で、
>平均75m位。
正確な比定地って、どこよ? 国威発揚ね〜・・・、
日本場合、それは朝鮮人のやることなんだけど、
むかーし日本に来た朝鮮系の人々?
ネットなどでも、
そのような事を言ってる人がいたり
老婆も、そのような事を言っていたようなw
陛下、陛下と言っていたりする人たちの類 >>838
>結論先にありきであり、循環論法。
何が、どう循環してると?
循環論法って言葉を使ってみたかっただけ? >>838
>殆どが不可知部分である自然や歴史において、
そう言いながら、何で九州説は証拠も出さずに断定ばかりするんだ? >>392
>知るかよ
淮南子に世界の最果ては国境より1万2千里四方と書いてあるから仕方ないだろうが<
知るかよ。
魏志倭人伝には、淮南子に書かれたような国以外に、更に、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
という新規情報も書かれているんだから、
淮南子の記録に拠ったものではない、という事が自明だ。 本当の話
『松傾』?
朝鮮人、韓国人?ではないでしょw なんで畿内説は文献を否定してばかりいるんだ?
ああそうか。
畿内説は文献と一致しない妄想だからか。 >>395
>2倍も違うならどこ指してるかわからんぞ
もしかしたら1万2千里は畿内を指しているかも知れなくなる<
2倍も違わない。
60〜90m位の間だから、1.5倍位であり、
中心値の75m位からなら、15m差の範囲内であり、
5分の1位であり、20%位の範囲内のデータだ。
だから、大和説は始めから×だ。 >>844
はいはい
大月氏の東1万6千里に対抗して1万2千里に4千里付け足した記述ね >>846
また具体的なことを言わないで非難ばかりするんだね、九州説は >>844
>魏志倭人伝には、淮南子に書かれたような国以外に、更に、
>又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
裸国も黒齒国も淮南子に出てくるよ
余傍国の所に出て来ないからこれらは魏使の報告情報ではない
つまり、淮南子等の既に大陸にあった情報が典拠だと分かる 陛下・・・そんな人間のことなんて知らないんだよw
みたいな話
ホンモノはそうなの、陛下なんて知らない
でも仏教などの話は知っている >>848
>大月氏の東1万6千里に対抗して1万2千里に4千里付け足した記述ね
大月氏が1万6千里という数字が広まっているけれど、これは三国志より
後に成立の後漢書の数字
魏志倭人伝の倭国萬二千里と比べるべきなのは漢書の萬千六百里の方だと思う それで結局、九州説は旅程の比定地が確定してるのか?
してないのか? 根本から「会稽東治之東」という文献と合わない主張をしてる九州説には
もとから未来なんてないでしょう
本当の話でしょ
持ち上げ(神輿?)て、何かに利用しようとしているだけだとかw
ネット、サイト?などを読んでいると詳しい人がいたり 「倭國王・帥升はスサノオではないか」
新井白石など江戸時代の国学者にとっては日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まるわけで、
最悪の仮説ですが一応立ててみたでしょう。
そうすると帥升の約100年後にヒメ、そしてすぐ後にトヨがいるわけです。
107年倭國王・帥升 スサノオ
・
・
・
238年 卑弥呼(ヒミコ) ヒメ(踏鞴五十鈴)
・
266年 台与 トヨ津
神武東征紀とは女王国を隠ぺいするための大袈裟な記述であったことが分かります。
邪馬台国はやはり大和である。
しかしそれは古代天皇の朝貢を意味する。
新井白石など江戸時代の国学者にとっては絶えられない屈辱である。
だから「邪馬台国とはどこだろう、私は九州さと思うが。高天原は常陸である。」
などとしらを切り邪馬台国論争をスタートさせたのです。
つまり九州説なるものは虚構なわけです。 >>397
>奈良盆地の中の3つの国、ソフ(サホ)国、カツラギ国、ヤマト国のうちの
ヤマト国の中心となる拠点集落が唐古鍵遺跡だよ <
まだ判っていないな。当初神武が占拠したのは、磐余付近であり、
それ以外の盆地は、まだ出雲系銅鐸祭祀部族や毛人が共存していて、
唐古鍵もその一つ。
神武らも欠史八代史も、婚姻などでの共存をしていた。
そこへ、九州倭国の「東征毛人五十五国」軍が入って来て、神武らの後裔の助けを借りて、
銅鐸祭祀国などを征服支配してしまった。
>この奈良盆地の国々に、さらに河内の国〜環大阪湾の国々まで合わせた範囲が
魏志倭人伝にいう邪馬台国七萬餘戸の範囲<
「南≠東」などに拠って×。
>こういう「勢力の内部構造」の研究すら一切進んでいないのが九州の現状なんだよね
なかなか同じレベルの議論ができないのもある意味しょうがない <
大和説男らは、万世一系皇国史観教に脳が侵された・・・・アホ的な存在。 >>847
>2倍も違わない。
>60〜90m位の間だから、1.5倍位であり、
50メートルから200メートルだから、4倍違うよ
末盧国、宇木汲田遺跡
伊都国、三雲南小路遺跡
奴国、 須玖岡本遺跡D地点
の各王墓間の直線距離でそれくらいの差が出る
25.8キロ 五百里 51.6メートル/1里
19.4キロ 百里 194メートル/1里
まあこれらの王墓はすべて卑弥呼の時代よりもずっと古いが、
国の位置の目安としては妥当だろう >>857
>当初神武が占拠したのは、磐余付近であり、
カシハラという地名は、かつて本居宣長が指摘したように、
また鳥越憲三郎さんがしてきしたように、今の御所市柏原しかない。
>神武らも欠史八代史も、婚姻などでの共存をしていた。
そこへ、九州倭国の「東征毛人五十五国」軍が入って来て、神武らの後裔の助けを借りて、
銅鐸祭祀国などを征服支配してしまった。
という夢を見たんだねw いつまでたっても具体的な否定地の出せない九州説って
要するに脳内でナントナク思ってるだけで
説でも何でもないのだよ 畿内説は
倭人伝の方位も距離の記述は出鱈目説でいいのかな? >>802
壱岐唐津間は対馬壱岐間に比較して近過ぎる。したがって唐津は末盧国比定地として不適格 >>862
一部にデタラメが混入しているという認識だね
現地に行ったスタッフのミスなのか、政治的歪曲なのか、伝言ゲームの失敗なのか
はたまた翻訳の錯誤なのか
そこは想像するしかない
間違ってるということだけが確認できる事実 >>863
唐津市街は三世紀にはさびれてるから、当然といえば当然だかま >>863
近過ぎる数字の方が不適格なのかも知れんよ あと、あの『AKIRA』という作品だよ
『ラッセラー』? >>822
>>>819
>短里で計測した報告書なんて誰が書くの?
>有り得ない想定をしたら九州説の崩壊だよ
淮南子に書かれた架空の距離を転載した上に方位を間違えた報告書なんて誰が書くの?
有り得ない想定をしたら畿内説の崩壊だよwwww >>861
>いつまでたっても具体的な否定地の出せない九州説って
九州説を否定する気マンマンでワラタ >>839
>>>837
>役人が公式の度量衡を使わないって、無理な話でしょ
役人が公式の度量衡を使ったとしても淮南子の空想の里数を書くって無理な話でしょ つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、 >>868
誰が書く?
へんな思想に凝った権力者がいれば、迎合する役人など、腐るほどいるだろ
めっさ、ありうるね >>401
長里で説明つかないものが、殆ど。
長里では、淮南子の世界観にも全く合わない。
そもそも長里とやらは、として1里300mになったり450mになったりする?。 >>848
>>>844
>はいはい
>大月氏の東1万6千里に対抗して1万2千里に4千里付け足した記述ね
それ、なんか証拠あるの? 韓国政府は、なぜ、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を、宣伝し続けているのだろうか、、、 >>821
証拠出すのを拒否したら
嘘って確定するよ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 御大の寺沢は、
ホケノを手掛けた橿原研に卑弥呼ネタを押し付けてトンズラしたというのに、
置き去りにされた兵卒はまだ抵抗してるのか。桜井市の小野田少尉もいいとこだ。 >>402
>倭国は南ってのが当時の中国人の地理感でしょ<
当時の中国の地理観では、倭国は「会稽東治之東」という地理観。
>沖縄〜台湾の辺りってのが陳寿の意見なのだし<
陳寿の意見も「会稽東治之東」という意見。
>金印の蛇鈕も南方の国に贈られるものの証だし <
後漢は、金印を、細石神社や志賀島付近の王に与えた。 >>876
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 韓国政府は、なぜ、完全に破綻してしまった邪馬台国畿内説を、宣伝し続けているのだろうか、、、 >>880
そういう根拠ナシの中傷しかできなくなった九州説って
・・・終わってるよねw >>864
わからないでもないが
どこが間違いで どこが正しいのかは
各説の都合で決めれば、真実は見えてこないのでは
そこそこ理屈に合う説明ができれば良いのでしょうが
郡から伊都国まで1万500里 この長さを基に
比例配分で伊都国から半径1500里の円を引くとおおよその地域の範囲は比定できると思う >>405
>後漢書には倭奴国が倭の極南界とある <
はるか後代の後漢書の范曄も「自己解釈に拠る前史の書き換え」が多いから、
半分偽書であり、根拠に使い難い。
>魏志倭人伝は邪馬台国をそれに合わせるようにして記述してある<
アホか。
前代の魏志が、後代の後漢書に「合わせるようにして記述」する事が出来る筈がない。
勿論「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しの造語であるから、それも×。 >>864
九州説の比定地がみんな同じ訳ではない。
九州島内ということは一致しているだけで、壱岐以降の各比定地は確定していない。
まだ「諸説あり」の状態
畿内説はみんな揃ってるの?
誰かの提唱した説に全員乗っかってるだけ? 本当に、どこの雑魚なんだという話ばかり
『松傾』輿が何やらでしょ?縄文人? >>883
韓国政府は、魏志倭人伝時代までは、倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 >>406
>弥生時代に2倍から3倍の誤差で十分正確だとして それがどうかしたのか<
魏志の里記載は、1里が60〜90m位であり、中心地の75mとは15m位の差であるから、
誤差は、20%位以内。
それに対して、長里は450m位とすれば、75mの6倍位の誤差であり、
長里説は×。 言ってる人がいたでしょ
ねつ造?物語、神話でも何でも良いけど、
すり替え
そういうことが行われたとか >>881
>当時の中国の地理観では、倭国は「会稽東治之東」という地理観。
つまり、短里など存在しなかった
南だという方位も間違ってた
だって九州はもっと北
そういうこと 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを変換すればよいのでは、ないのかな。。。 >>894
ザラコクといい、こいつといい
九州説は政治思想に狂ってる奴が多いな >>886
>比例配分で伊都国から半径1500里の円を引くとおおよその地域の範囲は比定できると思う
比例配分って、理屈に合う説明じゃないだろ >>894
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 >>888
>九州説の比定地がみんな同じ訳ではない。
それを「九州説」ってくくるの、無理じゃね? >>886
>どこが間違いで どこが正しいのかは
>各説の都合で決めれば、真実は見えてこないのでは
この日本語が、わからない >>898
畿内説の人がそう読んでるだけだよ。
畿内説はみんな一緒なのか? 『松傾』
蝦夷、エミシ(不明)ということになってない?
本当は、むかーしの中華なんじゃないの?
中華も無かった頃の家、人物なのかな ・・・・・・・えみし、えびす?
『マータ・ハジマータ』?自演? >>900
は?
あんたらの感覚では
「邪馬台国○○説」ってのは
「邪馬台国の比定地は○○だ」って意味じゃないのか? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>896
すこし間違えましたゴメン
〇郡から伊都国まで1万500里 この長さを基に比例配分で 1500里の距離だし
伊都国から半径1500里の円を引くとおおよその地域の範囲は比定できると思う
縮小地図でコンパスを使ってやってみるといいですよ。
畿内には届かないですよ。 >>906
だから、比例配分なんて変なことする理由は? >>410
>福岡は通り過ぎるよ そもそもそこは奴国だし <
奴國は伊都国の東南百里であるから、日向峠西麓〜早良平野部。
福岡海岸地域は、不彌國。
福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地が邪馬壹國。 >>904
じゃあ、「畿内」ってどこなんだ?
後学の為に言葉のを教えてくれ >>906
伊都国の比定地は未確定だから、コンパス使うなら狗邪韓国を釜山として5,000里(12,000-7,000)の円を描くべき。狗邪韓国も巨済島と言っている人もいるから、それを考慮すれば帯方郡をソウルとして12,000里の円。 >>416
>ほー 九州になんか見つかったの<
金印が見つかり、吉野ケ里が見つかり、糸島の遺跡群が見つかり、
「何本もの大道」のある弥生銀座が見つかり、卑弥呼の冢の祇園山が見つかり、
沢山の鏡片が見つかり、21枚の「尚方作」鏡が平原で見つかった。 >>908
>奴國は伊都国の東南百里であるから、日向峠西麓〜早良平野部。
>福岡海岸地域は、不彌國。
伊都国から東南百里が日向峠西麓〜早良平野部だったら
伊都国から東南百里は福岡海岸地域にならないだろう
福岡海岸地域は、不彌國。 >>912
帯方郡ソウル説も否定されてるからコンパス使うの無理 何やら天皇というのも、
実際は馬の骨だろう
おかしな名前ばかりだし、
本名なの?
あと蝦夷というのが中華(中央)の人で? 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 ほほでみ・・・何やら、
中華(中央)の名前ではないだろう >>863
>壱岐唐津間は対馬壱岐間に比較して近過ぎる。したがって唐津は末盧国比定地として不適格
どうして
「壱岐唐津間は対馬壱岐間に比較して近過ぎる。」
したがって、「3回の渡海を一律千余里としている距離表記は実測値ではないし正確でもない」
と素直に考えられないのかねぇ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 私()が〜「中央、中心」だと自称した人物がいるとか?
そうだろう 対馬国 対馬
一大国(一支) 壱岐
末盧国 唐津
伊都国 怡土
奴国 儺県
までは対馬、壱岐と同程度には確定してる
50メートルから200メートルだから、4倍違うよ
末盧国、宇木汲田遺跡
伊都国、三雲南小路遺跡
奴国、 須玖岡本遺跡D地点
の各王墓間の直線距離でそれくらいの差が出る
25.8キロ 五百里 51.6メートル/1里
19.4キロ 百里 194メートル/1里
まあこれらの王墓はすべて卑弥呼の時代よりもずっと古いが、
国の位置の目安としては妥当だろう
これに反論できない以上、短里は捏造で確定
短里に見える理由は、司馬懿の功績を持ち上げるための誇張
誇張する際の参考資料が、淮南子の東方之極萬二千里という数字
綺麗に説明できてるだろ? >>417
>単に意識として遥か遠いと思える数値にしただけで短里
なんて単位の実在の主張は飛躍しすぎ <
史料事実や史料実態を否定する嘘つき騙しをして、
「単に意識として遥か遠いと思える数値にしただけ」だなんて主張は、
論理の飛躍をし過ぎであり、脳の病気。 『松傾』という人物がいて・・・この人物が『蝦夷』えびす? 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 わかりやすく言うと『松傾』、
または『松傾』の家の騙り、成り済ましがいるんじゃないの? 『ほほでみ』
とか、そういう話があるけど、
悪く言うと『松傾』(うらしまん、何伯?)の家のパクリなんだろう >>920
>>>909
>正規の学校教育受けてないの?
「畿内」なんて言葉は一般的には誰も使わない。
ましてきちんとした範囲を示した定義なんてどこの学校で教わるんだ? >>418
>「郡役人や魏使らが計測」したのなら、短里になるはずもなかろう <
文帝の即位の詔書の指示に従い、重臣たちの「周制への復古」の上表に従って、
周髀算経の一寸千里の法を勉強すれば、短里になるしかなかろう。
>郡役人や魏使は、「世界中のどこでも使われていない短里」を「どこで」「習った」んだ?
これを説明できた人がどこにもいないんだが?ww <
再収集注釈された周髀算経で習った。
・・・・アホは、勉強不足なだけ。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 少し調べてみて『河童』『河伯』
キュウリの葉の写っている写真があって・・・
『松傾』こういう名前の家の写真 >>422
>ここでいう対馬って対馬の中のどこを指すの? 対馬って、南端から北端まで70キロくらいあるんだが?
九州説の人が言う短里だとほぼ千里ある
この中で自由に点を取ってよければいくらでも短里の長さを調節できるよな?ww
そして、対馬の方四百里というのと南北千里(短里w)というのも整合性が取れない
デタラメってことだろ?ww <
對海國は、その呼称から見て、
浅茅湾という海を介して対する南北両岸地域が中心で、
南は巌原付近までの「方四百余里」の国。
何も考える事が出来ないこの大和説男は、脳が全くデタラメ。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 浦島太郎、うらしまマリン?
家の話のような気がするんだけど、
同じ学校(とくに小学校)に行っていた人にしかわからないのかな >>939
テンプレに書かれてる
読まないのはお前の勝手 >>423
>東夷野蛮のド田舎へんぴ地方は、チンケな短里で書くのが習慣だったの。これ常識。
いつまで古田の亡霊に悩まされてんだよwww<
魏使らは、魏朝の公認の度量衡の短里で計測し、皇帝に報告するの。これ常識。
いつまで「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者や人武将の亡霊に、
悩まされてんだよwww。 >>936
まさかこれじゃないよな?
これじゃ広すぎるもんな。
「日本では、畿内とは以下の5国である。近現代の行政区分では、奈良県の全域と、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部に当たる。なお畿内という地域概念は現在でも存在し地方分権などの行政区分や観光などの産業分野でしばし取り上げられる。
山城国(京都府京都市以南。ただし左京区広河原、右京区京北は山陰道丹波国)
大和国(奈良県)
河内国(大阪府東部)
和泉国(大阪府南西部)
摂津国(大阪府北中部および兵庫県神戸市須磨区以東。ただし高槻市樫田と豊能町牧・寺田は丹波国、神戸市須磨区須磨ニュータウン西部と北区淡河町は山陽道播磨国)」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%95%BF%E5%86%85 どこの小学校なのか?
神奈川県の川崎市、川崎区の・・・・。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 >>424
計測データであって、
「淮南子の世界観世界の最果ては国境より1万2千里 それに当てはめたもの」もの、
ではないよ。
そんなインチキをして皇帝らにバレれば、魏使ら首が飛ぶ。 >>946
依拠する文献(魏志倭人伝)を否定するのは普通でない >>428
>対馬は明らかに南北に長いのに方400里っていい加減だった証拠だよね<
對海國は、あきらかに、南北対馬全島ではないんだよね。
おそらく浅茅湾の南北両側地域の事。 むかし畿内は海に接してないと言い張っていた九州説のチエオク君がいました
なつかしいなあ >>952
>依拠する文献(魏志倭人伝)を否定するのは普通でない
普通でないという根拠は? >>935
>唐津の比定が誤りと考えるのが普通
全然普通じゃないぞww
唐津平野は松浦川が流れる平野で、王墓級と考えられる遺跡も、
規模の大きい集落遺跡もある
壱岐から渡ってくる場所としても妥当
松浦郡
『魏志倭人伝』に見える「末廬国」は松浦のことと考えられており、現在の唐津市付近と想定されている。
郡衙は現在の唐津市内に置かれていたと推定されている。 >>429
>1.5倍程度じゃ短里にならないね 1歩は約150cm程度
そこから換算すると1里は約420m
短里は1歩が20cmくらいじゃなきゃならないんだから
そんな物はなかったという証拠だ <
周髀算経の一寸千里の拠れば、「1歩≒25.5cm」であり、
史料実態からは、短歩だ >>952
>依拠する文献(魏志倭人伝)を否定するのは普通でない
古文献の「史料の限界」を考慮せず「とにかく正しい」と原理主義に陥るのは、普通ではない
というより、学問ではない >>958
>>>952
>>依拠する文献(魏志倭人伝)を否定するのは普通でない
>
>古文献の「史料の限界」を考慮せず「とにかく正しい」と原理主義に陥るのは、普通ではない
>というより、学問ではない
ご都合主義との境目があいまいだね。
だから、罵りあってるわけか。 >>959
いまさら短里で争っても、ぜんぜん勝ち目ない。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 >>960
あいまいだと思うのは、歴史学がわかってない証拠 >>430
>短里は3倍程度誤差があるというのは常識だよ
一説にはひと区間180mにもなる箇所もあるそうだから
まあ短里そのものがなかったんだけど<
史料実態からは、記録された1里の距離は60〜90mの範囲内であり、
3倍程度の誤差なんてなく、平均の75mの2割位の誤差しか発生していない。
まあ、この大和説男ら自体が、「南→東」などの「史料事実の否定曲解」をする、
嘘つき騙しの詐欺師人種であるんだから、
信頼性が全くない人間だからな。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論することを、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかの討論に、変換すれば良いな。。。 >>965
だから、九州説は結論だけ言い張るんじやなくて
証拠出せよ >>964
そんな人によって線引きが変わるようないい加減なもんが歴史「学」とかちゃんちゃらおかしい。
本当にわかってるやつは所詮推論の域を出ないものを、おまえみたいに「歴史学がわかってる」みたいなダサい言い方で正当化しないもんだと思うぞ。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>960
>ご都合主義との境目があいまいだね。
>だから、罵りあってるわけか。
罵っているのは九州説側だけだよ
畿内説側は「そんなことも分からないのかい?」くらいしか言ってないw 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>971
>そんな人によって線引きが変わるようないい加減なもんが歴史「学」とかちゃんちゃらおかしい。
九州説側が、「まともな人なら誰も考えもしないような勝手な線引き」をして、
「新たな線引きをした人がいるから、線引きが人によって変ってる」って、ただのマッチポンプやんww
「まともな人なら誰も考えもしないような勝手な線引き」をする人が歴史を語るのがチャンチャラおかしいんだよ
そこをごまかすから、>>971も含めて九州説の人はまともな議論ができない 寺沢親分は、とっくにトンズラした。
いまごろ、うまいもん食って、うまい酒飲んで、www >>975
>>977
>>>971
>>そんな人によって線引きが変わるようないい加減なもんが歴史「学」とかちゃんちゃらおかしい。
>
>九州説側が、「まともな人なら誰も考えもしないような勝手な線引き」をして、
>「新たな線引きをした人がいるから、線引きが人によって変ってる」って、ただのマッチポンプやんww
>
>「まともな人なら誰も考えもしないような勝手な線引き」をする人が歴史を語るのがチャンチャラおかしいんだよ
>
>そこをごまかすから、>>971も含めて九州説の人はまともな議論ができない
>>975
>罵っているのは九州説側だけだよ
>畿内説側は「そんなことも分からないのかい?」くらいしか言ってないw
畿内説も罵ってるだろ? 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>978
議論その他で負けてる方が、「どっちもどっち論」を言い出すww
というか、半島声闘の常套手段で、よく野党やパヨクの人が使うレトリック 九州説はいつも
証拠を出したり根拠を言うことを嫌がる時点で
論として負けが確定するんだよ
自覚したまえ 中傷もなにもない
そろそろ頭の病院に行けと言っているんだよw
お前たちのような人間、クズは必要ないの >罵っているのは九州説側だけだよ
>畿内説側は「そんなことも分からないのかい?」くらいしか言ってないw 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ちなみに、とある陰謀スレというのは
△+目?左目?の陰謀というスレ >>987
670 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/12/16(日) 18:50:09.89
>>667
>韓伝倭人伝も含め、東夷伝は最遠の朝貢国、倭国を誇張した遠距離に置き、
>また世界の果てを想起させる淮南子の萬二千里に合わせて数字が調整してある「だけ」
>
>その動機は西晋の高祖、司馬懿の公孫氏討伐の功績を、それによって可能に
>なった東夷の朝貢を遠く見せることで持ち上げること
>ある意味司馬懿のライバルだった曹真が西域の萬千六百里の大月氏の朝貢を
>取り付けているので、それに見合う朝貢国に倭国を仕立て上げる必要があった
それを示した史料の提示をお願いしますね。 『タツノオトシ号』グーグルで検索してみて
⇒【THE MOMOTAROH 6巻】 >>994
事実関係はすべて三国志にあるとおりだな
推定部分は書いた人の頭の中だろう 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>996
>推定部分は書いた人の頭の中
根拠はそれか。 宗室側が司馬氏の台頭に危機感を持っていたのは間違いない
仲達と親しかった明帝が死んで、巻き返しの好機とみた曹爽が功を焦って父の曹真並みの功績を挙げようとしたと言う方が真実なのではあるまいか 2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、テンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されました。。。 このスレッドは1000を超えました。
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