【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五

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1日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:31:29.28
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!

邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!

*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁

2日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:33:41.64

3日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:34:50.01
張氏の解説を踏まえて進めていきたい。
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を

間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。

では、何が正しいのか?問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の「起点」は「末蘆国」である。しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。

つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。

「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、

それ以外の読み方はできないそうだ。まだ途中だが、ここまでくると、今までの学者の解読が
いかにいい加減かが分かってしまう・・・。
距離、方位等を考えると比定地は現在の「潜木」となる。

ここでひとつ矛盾が生じた。実は「奴国」には「至」が使われていることだ。つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になる

はずだが、張氏は違うとはっきり言っている。
「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、

「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけないそうだ。

つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」へは行っていない、当然そこを「起点」にしてはいけない

ということだ!・・・続く!

4日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:36:56.77
ここからはよく知られている文面になる。
『南して投馬国にいたるに水行二十日』に関して、ここでは距離が示されていないため、「邪馬台国」の比定の後になる。

さてさて問題の『水行十日、陸行一月』だが・日本では、「まずは水行を十日、その後で陸行を一月」と読んでいるが、張氏は「これも間違い」と指摘している。

もしそのように読むならば、間に「又」のような字が入らなければいけないし、水行十日の後、どこに着くのか、

陸行一月はどこから始まるのかが書かれていなければならないと言っている。それがなければ、上記のようには読めないそうだ。

従って、正しい読み方は「水行するならば十日、陸行するならば一月」・・・「ならば」が正解だそうだ。当時の船は命がけなほど危険な乗り物だったため、

「末蘆国(佐世保)」についた後、好きな方を選べるように両方記載したと思われる。

現代でも、「電車なら〇〇駅から〇分、車なら〇〇インターから〇分」と記載するようなものだろう。この場合の「起点」は文献上、「末蘆国」以外に無いのは

上記の説明の通りだが、さらに追加すると、「水行」したり「陸行」したりできる地域でなければ「末蘆国」に

なり得ないのだから、「直線読み」や「畿内説」で当てはまるかどうか、考えてもらいたい。ここまでで、素直に理解された方は、この本の信憑性を理解してもらえると思う。

張氏は、1・語学的に絶対に無理が無いこと。

2・原文を絶対に修正しないこと。

3・国々の位置が陸上にあること。・・・という前提を絶対に守らなければいけないと言っている。これを見ただけで、幼い時から感じていた矛盾を払拭された感じがする。・・・続く!

参照 張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・

5日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:38:38.76
『南して邪馬台国にいたり、女王の都するところ、水行すれば十日、陸行すれば一月』・・・
ここで問題になるのは、肝心な「邪馬台国」までの距離が記されていないことだろう。

しかし「魏志倭人伝」には『都より女王国までは、万二千余里』・・・つまり1万2千里なのだから、引き算すれば残りの距離が出てくる。

翻訳と計算が正しくできていれば・・・の話だが・・・!「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・

残りは二千里ということになる。つまり、水行十日=二千里になる。「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、

『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で無ければならない。

これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。

そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」

と言っている。「えーーー」っと言われる人も多いだろう。「畿内説」は問題外で、「北九州説」も完全に否定されてしまったからだ。

しかし、まだ比定されていない「投馬国」にもたどり着ける地域でなければ「魏志倭人伝」と矛盾してしまうため、他の地域では有り得ないということだ。・・・続く!

6日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:40:24.16
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国

7日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:41:01.99
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

8日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:41:02.87
えーーー

9日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:45:45.84
「女王国以南の投馬国は、天領の邪馬台国と全く同じで、邪馬台国からの司令官が統治していたと思われる。一大国の司令官が統治したのは、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国が主だと思われる。
そして、司令官による統治は、つまり、軍政だということである。だから諸国は恐れたり、畏怖したりしたのである。
しかし、司令官による統治は、軍政だということであるから、小国に対してはできたが、伊都国のように“世有王”という半独立国にはできない。
したがって、いつも伊都国に対する統治の仕方は、国の中に刺史に似たような長官を置いたのである。つまり、一大国の司令官で統治するような軍政を行わずに、刺史のような長官で、伊都国王に一目おきながら伊都国を統治したのである。」
誤読だらけの邪馬台国

10日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:47:24.69
北薩の遺跡
「出水地方の弥生時代遺跡は,出水市六月田や高尾野町柴引・下高尾野町一帯に濃密に分布しているが調査が行われたことがない」
http://www.jomon-no-...ikodai_hokusatu.html

11日本@名無史さん2019/01/08(火) 23:49:13.74
末廬国=糸島加布里(千里 壱岐から72km)
奴国 =糸島三雲(百里 泉川から8km)
伊都国=大宰府 (五百里 泉川から38km)
邪馬台国=雲仙 (二千里 泉川から145km)
狗奴国=人吉 ( 境界の尽きる所)
投馬国=大隈半島 (薩摩)

12日本@名無史さん2019/01/09(水) 01:57:30.10
>>1
サンクス!

13日本@名無史さん2019/01/09(水) 09:42:20.41
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

14日本@名無史さん2019/01/09(水) 09:44:14.38
>>1
Good job 乙

15日本@名無史さん2019/01/09(水) 10:31:49.16
伊都国の描写が重大なヒントになってる。
「丗有王 皆統屬女王國」
丗有王の意味するところが、かつては王が居たが今は居ないの意なのか、過去にも王は居たし今も居る、のなのか判然としないが、「皆」という複数形から
「歴代の王は女王国に従属」であったことは間違いない。歴代つまり、女王と伊都国王は上下関係はあれども並立する存在だった。
伊都国王が男王から女王に継承されたわけはなくて、伊都国王と女王は別に存在したんだよ。

そしてその伊都国王は「女王」ではなく女王「國」に従属したんだ。女王国という政体に対して従属したのであって、女王個人を伊都国の王として頂いたということではない。
つまり、ここには女王は居ないし、居たらとんでもなくとんでもなく珍妙なことになる。
千戸ばかりの伊都国に女王が居て、さらに王も居て、複数の官も居るって、どんな統治体制だよw

伊都国は女王国直轄でない、王が居る独立国、ただし、形式上は独立国でも女王国からの官を受け入れている従属国、ということだ。
小邑とはいえ、出入国管理局があったり、一大率本部があったり、重要地ではあっただろうが。

漢委奴国王印の委奴は、倭の奴ではなく委奴=イト=伊都国王であるという異説も、あながち否定できぬかも知れぬ。

16日本@名無史さん2019/01/09(水) 10:42:30.21
やれやれ、どこもかしこも在日だらけだ

17日本@名無史さん2019/01/09(水) 10:51:44.73
伊都国は距離が合わないし
そもそも魏志倭人伝にそう書いて無いから
完全に破綻してる

18日本@名無史さん2019/01/09(水) 10:57:31.31
このスレ的には
阿蘇説、雲仙説、熊本平野説、阿久根説
が興味深い

提唱者出てきてバトルやってくれよ

19日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:09:14.98
そもそも「倭30国による共立女王体制」とは、どのような統治体制だったのかを考慮に入れていない論者が多いな。
表は鬼道、わかりやすく言えば宗教(古代神道)による、まあまあなあなあの連邦統治であり、
陳寿は其のきれいごとをことさら見事にかきあげてみせた。。
だが、当然ウラは最新の武力による支配だったのだから、単純に、現代の日本国の形になぞらえてみても意味はない。

20日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:13:57.84
女王国はイコール邪馬台国ではなく、中華側から見たらむしろイコール倭国と言っていいほどの範囲なわけだが、倭の圏内には伊都国のような独自の王の存在が許された地域、狗奴国のような女王国敵対勢力も存在するから、陳寿は倭、女王国、邪馬台国と書き分けた。

狗邪韓国を倭に含めるか否か?
弥生期の朝鮮半島における倭人の存在は濃厚であるし、中華視点では倭圏内という認識も、ありえる。
だが、女王国の官が置かれず戸数も知れず、他の史書との比較からも「倭人は居たけど倭国女王卑弥呼の勢力圏外」という、視点によりどちらとも取れる微妙な地域。

21日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:17:47.72
倭人は帯方郡の東南、大海の中にいる。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時代には、朝見する者がいたが今は交流の可能な国は三十国である。

22日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:19:07.74
帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、倭の北岸の狗邪韓国に到着する。そこまでは七千余里だ。

23日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:28:14.27
狗邪韓国から海を渡り始めると千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。

土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。

24日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:33:06.91
また南へ海を渡る事千余里。名はカン海という。一大国に至る。官は、またヒコウといい、副はヒドボリという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。

三千ばかりの人がいる。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。

25日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:35:13.53
>>23
>千余戸の家がある

「千余人住んでいる」の可能性がある

26日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:42:02.96
>>21
対となる原文もあるとわかりやすい。

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

倭人は帯方郡の東南、大海の中にいる。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時代には、朝見する者がいたが今は交流の可能な国は三十国である。

27日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:44:24.77
>>22
取り敢えず、訳文は22のものを採用しとくんで、訳文に異論があっても、俺は知らん。

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、倭の北岸の狗邪韓国に到着する。そこまでは七千余里だ。

28日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:50:07.03
>>23
始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

狗邪韓国から海を渡り始めると千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。

土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。

>>25
魏志倭人伝は他の国も含めて、戸数の表記になってるので、ここだけ人、ここから戸のような読み替えは根拠が必要になる。
昨日燃えてた伊都国も有千餘戸とある。

一戸辺りの人数の計算は根拠資料になりそうなものが無いのでよくわからない。

29日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:51:58.91
>>24
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

また南へ海を渡る事千余里。名はカン海という。一大国に至る。官は、またヒコウといい、副はヒドボリという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。

三千ばかりの人がいる。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。

30日本@名無史さん2019/01/09(水) 11:56:43.30
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

31日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:22:42.58
また海を渡る事、千余里。末盧国に至る。四千余人が住んでいる、山と海すれすれに沿って住居がある。

草木が盛んに茂り、行く時、前の人が草木に隠されて見えない。人々は魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、水に潜ってこれを取っている。

32日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:33:11.72
>>31

よって、末盧国=福津・宗像辺り。  @阿波

33日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:36:53.17
>>31
山と海すれすれに沿って住居がある。・・・魏使が着いた呼子や名護屋浦付近の風景。

草木が盛んに茂り、行く時、前の人が草木に隠されて見えない。・・・東松浦半島を通過中の風景。

人々は魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、水に潜ってこれを取っている。・・・二丈付近の海岸の風景。

末盧国から伊都国に行く途中で目にした風景ですね。

34日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:39:18.32
倭の内で「女王国」の範囲に含まれないのが明確になってるのは、今のところ此女王境界所盡より遠方の諸国と、狗奴国。
狗邪韓国を倭に含めるなら、狗邪韓国も女王国には含まれない可能性が高い。
伊都国については、魏志記述時に王を廃して完全に女王国統治下に入っていれば女王国内だし、名目上の王が存在するなら形としては女王国外。

近代のような明確な国境線があるわけでもなし、詳細記載の他の国邑のどこからどこまでが女王国内か、というのは難しい。
全部女王国外とも言えるし、全部女王国内とも言える。

自女王國以北 其戸數道里可得略載

とあるが、「以」を「もって」と訓じることからもわかるように、女王国を以て北、とは女王国も含まれると解釈できるからだ。
A以上、A以下などと表現する場合、その範囲にはAが含まれる。

その場合は、「以北」の境界線は狗奴国と女王国の国境、ということになる。

ただ、(誤用に近いが)Aを含まないとする用例もなくもないから、以北が女王国を除いて北、であると言えなくもない。

「以」の字義を考えると、前者の方が可能性が高い。

35日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:40:07.49
>>33
>魏使が着いた呼子や名護屋浦付近の風景。

「対馬海流」に流されて、「魏使が着いた呼子や名護屋浦付近」は有り得ない と、何度言えばw  @阿波

36日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:43:37.79
)>>15
>「丗有王 皆統屬女王國」

前半と後半は別々の文章だろ。
伊都に(女)王がいて、皆統属していた。

37日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:45:15.18
>>31
又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

また海を渡る事、千余里。末盧国に至る。山と海すれすれに沿って四千戸余りの住居がある。

草木が盛んに茂り、行く時、前の人が草木に隠されて見えない。人々は魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、水に潜ってこれを取っている。

※人と戸が間違えてたので少し修正した。

38日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:45:15.09
末盧国から東南に陸上を五百里行くと伊都国に到る。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余人いる。代々、王が有り、みな女王国に従属している。帯方郡からの使者が往来し、常に足を止める所である。

39日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:47:01.94
>>36
まぁまぁ、  
文章がどうあれ、たびたび中国・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波

40日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:49:37.34
>>38
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

末盧国から東南に陸上を五百里行くと伊都国に到る。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸ある。代々、王が有り、みな女王国に従属している。帯方郡からの使者が往来し、常に足を止める所である。

※ここも人から戸に修正
その他の訳文は38ままなので、悪しからず。

41日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:53:05.17
>>34
・自女王國以北 其戸數道里可得略載

>ただ、(誤用に近いが)Aを含まないとする用例もなくもないから、以北が女王国を除いて北、であると言えなくもない。
>「以」の字義を考えると、前者の方が可能性が高い。

そのような混乱を回避する対策として、陳寿は、
文頭に「自」を付して、女王国が含まれることを明示している。自郡至女王国の自も同様。

42日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:04:01.31
末廬国から東南へ行くと奴国に至る。そこまでは百里である。官はシバコといい、副はヒドボリという。人口は二万余人。

43日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:05:12.77
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

44日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:06:18.55
末廬国から東に行けば不弥国に至る。百里である。官はタボといい、副官はヒドボリという。人口は千余人。

45日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:06:21.25
>>40
郡使往來常所駐

この訳は

帯方郡からの使者が往来し、常に足を止める所である。

これで良いんだろうか?

魏志倭人伝に記載されている限り、帯方郡使が倭国に赴いたのは240年と247年の2回だけ。
使者が常に足を止めるという割には使が来てない。

46日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:09:10.72
末廬国から南へ行くと、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。人口は、およそ五万余人。

47日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:12:52.46
末廬国から南へ行くと、邪馬壱(やまい)国に至る。そこが女王の都である。水行十日、陸行一月。

官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。人口およそ七万人。

48日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:18:17.80
>>46
起点が末廬国なら
投馬国の方が邪馬台国までの道のりより遠いのに先に書いてあるのが不自然

普通なら近い方を先に書くだろ?
と、言う事は
投馬国まで水行20日投馬国から水行10日が
文脈的には正しい読み方じゃね?

49日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:18:44.27
>>36
>「丗有王皆統屬女王國」
>前半と後半は別々の文章だろ。
>伊都に(女)王がいて、皆統属していた。

相変わらず、イトクズ固有の改ざん解釈だな。

丗に王あり、(其の王たちは)皆、女王國に統屬す、。・・・となる。

50日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:38:22.42
>>45
それは公孫氏の帯方郡使

51日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:39:37.24
>>48
伊都国も奴国よりも遠いが先に書いてある所を見ると文脈的には問題ないかと
投馬国から水行10日と読むと九州の外に出てしまう

52日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:41:52.90
>>48
先に書いてある伊都国は奴国よりも不弥国よりも遠いよ

53日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:43:58.80
>>51
>>52
なら一番先に一番遠い投馬国から
書けばよいだろ?
起点が間違ってるんじゃね?

54日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:48:17.61
>>53
いや、起点は末廬国で良いと思う
先に陸行で行ける所を書いて、水行で行ける所を後にしただけかと

55日本@名無史さん2019/01/09(水) 13:51:28.24
>>45
郡使が駐留したのはこの時一回だけだろ。

往来駐留するのは、丗有王皆統屬女王國 だよ。
だから、首都だってことになるんでしょ?

丗有王 じゃ、伊都は 世 じゃない訳で
だからなんだよ? って文章になっちゃうw

56日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:04:50.00
>>55
240年と247年の2回ではないかい?

その後の文は意味がわからない。

原文を抜き出すと
丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
なので、駐留は郡の使者の事を指している。

57日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:06:00.40
>>55
おまえのオツムが、だからなんだよじゃねw

58日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:07:50.59
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

59日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:17:27.94
魏志倭人伝を改竄して読むのは
このスレの趣旨じゃないので
伊都国と四国の人は
新しいスレを立てて下さい

60日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:19:24.92
1・語学的に絶対に無理が無いこと。

2・原文を絶対に修正しないこと。

3・国々の位置が陸上にあること

前提を絶対に守らなければいけないスレです

61日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:22:01.59
>>60
与那国島の海底遺跡は含めていいですか?

62日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:23:32.92
馬韓54国、辰韓12国、弁辰韓12国の南に接する倭が 
帯方郡から、南至 投馬國 水行二十日を要し 狗邪韓國を含む 投馬国○○国で

そこから水行十日が 邪馬台国 女王の所都へ 陸行一月 を要する。
自郡至女王國 萬二千餘里 つまり、これが水行30日と陸行1月

次有 ―列記21国―、此の次有の21国が全部で、女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
と、書いてあります。

投馬国と邪馬台国は隣接する国であって、
247年の『到』伊都國 で終ってる行程の
都市間の里程を示した文章の都市、末蘆国や不彌国から、
直列行程で繋がるなんてことは、有り得ません。

到と至、動詞の用法の違いが存在し、国の概念と時系列も違います。
南至 投馬國 へ 行程が直列で繋がるという読みは、
>文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。

63日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:31:53.21
倭人伝が2/3ほど進んだところに、次の文章が出てくる。
この文より前に書いてあるのは、まだ卑弥呼が邪馬台国のみの女王であった、共立前の古い時代のことである。

其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。


その次には、以下の文が出てくる。
これ以後が、景初二年の朝貢時より後の出来事である。
倭人伝は時代区分に添って、順々に書かれているので、年代をごちゃまぜにしないよう、ご注進。

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰

64日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:44:17.42
>>63 ???
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
(これは、女王国の歴史)

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至
(これは中華の 女王国と東の倭、その他、倭全体の概念)

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
(そのうえで、参問倭地は九州北部2千里の周旋可五千餘里の小国21国連合だった)
これが、倭人伝の結語。

景初二年六月 以降は238年から247年で終った、魏と女王国との外交史。

65日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:45:14.57
>>63
これも嘘デース
糸クズ糸クズ

66日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:47:45.45
与那国があったか、どう読んで
与那国になったのか興味深いなw

67日本@名無史さん2019/01/09(水) 14:49:20.98
志賀島金印からも明らかなように、北九州域は漢代ですでに中華の冊封体制に組み込まれていた。
ゆえに、北九州には常的に郡使が来てたわけ。
郡使往來常所駐というのは、そういうこと。

魏帝が汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝と賞賛したのは、卑弥呼使がそれより遥か遠くから来たから。
数百年前すでに冊封された北九州から朝貢に来たところで、特筆するわけがなかろう。

金印文と卑弥呼に与えられた称号を比較しても明らか。
印文は
「漢委奴國王」、つまり漢の支配下における委のうちの奴国の王、もしくは漢の支配下の委奴国王と、小ボス扱い。
もしも倭王扱いだったら、印文はシンプルに「倭王之印」となる。実際、滇王に贈られた印は「滇王之印」だ。
出雲や吉備の出土からもわかるように、中華は倭の範囲が九州を遥かに越えることを知っていたから、「倭王」とするわけにはいかなかった。

ところが、卑弥呼に与えられたのは
「親魏倭王」と、出雲や吉備など本州勢力も含めた上での倭王と、大ボス扱いの称号。

このとき、すでに北九州は女王国によって「官」の置かれる、地方政体となっていた。

68日本@名無史さん2019/01/09(水) 15:19:10.49
>>67
東夷伝序文
而公孫淵 仍父祖三世 有遼東
天子爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷 東夷不得通

倭人伝 評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

このどこが、
中華の冊封体制に組み込まれていた。
に、なるんでしょう?

官を置いた?
246年、郡は韓王朝を滅ぼし、馬韓と辰韓には、臣智を置いた。
これは、官と呼べる。

しかし、弁韓には王が残り、南岸の倭域には屁のツッパリも及んでいない。
嘘はいかんね。

69日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:25:37.77
>>64
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
(以下三行略)
(これは、倭人が共立女王を建てたいきさつであるので、共立女王国(共立の「倭女王国」)の歴史)

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至
(これは中華から見た共立倭女王国と、その東渡海の先の「倭種=倭人ではないが、それに類する一種属」の国々との位置関係の概念)

70日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:42:40.99
>>34
女王国と「此女王境界所盡」や「不屬女王」「去女王四千餘里」の女王とは意味が違う
女王国とは伊都国、奴国のことであり、女王とは邪馬壹國のこと。

71日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:46:20.17
郡使とあるのは、実は帯方郡成立前の公孫氏の使いも含むのでは?
あと、倭国内の官は魏が任じたものではなく、卑弥呼が任じたものだろ。
親魏倭王という大王扱いの金印を与えたのは、狗奴国との対立の中で卑弥呼に統治を任せるための箔付けだよ。
魏志倭人伝には、魏が卑弥呼に属さない地域がたくさんあることは認識されていたみたいだからね。

72日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:53:35.43
帯方郡を作ったのは公孫氏

73日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:54:18.73
>>70
なぜそうなるのかさっぱりわからない。

74日本@名無史さん2019/01/09(水) 16:57:08.53
女王や女王国と伊都国・奴国とは関係ない。

女王国とは、まずは女王の都があった邪馬壹國のこと。
卑弥呼が共立女王に選ばれてからは、倭30国から成る倭の連邦女王国(倭女王国)のこと。
なお「女王」とは、その時々に女王の影響力が及んでいた範囲(境界)を云う。、

75日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:00:47.51
>>74
違いますよ
女王国とは郡から12000里の地点
即ち伊都国と奴国の中間地点
「女王」とは、女王の影響力が及んでいた範囲、邪馬壹國のこと。

76日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:18:30.14
>>75
女王国とは郡から12000里の地点にあった。
この12000里の地点は、まさに邪馬台国の中にあった女王の都で、現在の高千穂町三田井神殿地区である。
なお卑弥呼の塚は、神殿地区の高千穂神社本殿背後のさほど大きくはないご神体山。

77日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:21:17.79
女王国とは郡から12000里の地点
即ち伊都国と奴国の中間地点 ・・・死せる古田教祖の悪しき弟子たちのいつものセリフ

78日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:23:33.40
>>76
>なお卑弥呼の塚は、神殿地区の高千穂神社本殿背後のさほど大きくはないご神体山。

倭国(阿波)のパクリかと思ったが、円墳じゃなくて、・・・単なる山かww  @阿波

79日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:25:45.52
>>76>>77
陳寿は帯方郡から女王国まで12000里と書いてるんだから
里程を合計して12000里になる場所が女王国だよ
伊都国と奴国の中間地点・・・日向峠付近が女王国だよ。 

80日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:42:16.75
>>56
丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

丗有王 皆統屬女王 國郡使往來常所駐

これだと前後のバランスがとれる

81日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:47:20.73
>>79
>伊都国と奴国の中間地点・・・日向峠付近が女王国だよ。←←←死せる古田を食いモノにする悪しき弟子たちのいつものセリフ

82日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:48:15.46
>>46
>>44
>>42
うんうん
めちゃくちゃしっくり来るぞ

83日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:52:13.84
>>48
日本的な読み方

84日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:52:40.14
>>78
>倭国(阿波)のパクリかと思ったが、円墳じゃなくて、・・・単なる山かww  @阿波

卑弥呼の墓は円墳ではなく、塚(ちょう)であった。
それにふさわしいのは、そう大きくはないご神体山である。著名な神社に守られているならば、さらにサイコー。

85日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:54:47.74
>>37
誤読だらけの邪馬台国によると
戸は人の意味だから間違いではない

86日本@名無史さん2019/01/09(水) 17:59:25.51
>>76
水行で三田井まで行けないから
高千穂は無いかな

水行10日 陸行1月は
水行でも陸行でも行ける所、畿内説もここを誤読してるんだよね
今では水行陸行足さないのは常識

87日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:08:45.32
>>86
>水行10日 陸行1月は
>水行でも陸行でも行ける所、畿内説もここを誤読してるんだよね
>今では水行陸行足さないのは常識

水行陸行足さないのは明白な非常識。
役人のしきたりとして、水行でもOK、陸行でもOK、というような両道掛けたあいまいな記述は絶対しない。
既述されるのは、最も確実なただ一つの方法だけだ。
水行10日に陸行1月を足すのが大正解。

88日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:41:39.94
>>87
はっきり言えるが違うな

89日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:44:14.00
>>87
>水行10日に陸行1月を足すのが大正解。

間違いです

その場合は「又」と言う文字が入らないと
意味が伝わらないのです

90日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:46:05.39
>>87
「役人のしきたり」でどうしてそうなるのか?
ここまでの記述では、「始」とか「又」とかできちんと直列つなぎだとわかるように書かれている。
足すのなら「水行十日又陸行一月」と書かれると思う。

91日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:53:00.99
帝国とは、帝の権威の及ぶ範囲。
王国とは、王の権威の及ぶ範囲。
ハン国とは、ハンの権威の及ぶ範囲(オゴタイハン国とか)。

女王国とは、女王の権威の及ぶ範囲。
卑弥呼は「倭王」として封じられてるのだから、倭そのものが女王国。

これは、魏そのものが公式に認めていること。

但し、形式的にはそうでも>>71の指摘にもあるとおり、現実では倭内に非女王国勢力も在ったから、実情はイコールではない。
陳寿は実情に合わせて、倭内の女王勢力圏の意味で女王国という言葉を使っている。

92日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:53:16.35
ここからはよく知られている文面になる。
『南して投馬国にいたるに水行二十日』に関して、ここでは距離が示されていないため、「邪馬台国」の比定の後になる。

さてさて問題の『水行十日、陸行一月』だが・日本では、「まずは水行を十日、その後で陸行を一月」と読んでいるが、張氏は「これも間違い」と指摘している。

もしそのように読むならば、間に「又」のような字が入らなければいけないし、水行十日の後、どこに着くのか、

陸行一月はどこから始まるのかが書かれていなければならないと言っている。それがなければ、上記のようには読めないそうだ。

従って、正しい読み方は「水行するならば十日、陸行するならば一月」・・・「ならば」が正解だそうだ。当時の船は命がけなほど危険な乗り物だったため、

「末蘆国(佐世保)」についた後、好きな方を選べるように両方記載したと思われる。

現代でも、「電車なら〇〇駅から〇分、車なら〇〇インターから〇分」と記載するようなものだろう。この場合の「起点」は文献上、「末蘆国」以外に無いのは

上記の説明の通りだが、さらに追加すると、「水行」したり「陸行」したりできる地域でなければ「末蘆国」に

なり得ないのだから、「直線読み」や「畿内説」で当てはまるかどうか、考えてもらいたい。ここまでで、素直に理解された方は、この本の信憑性を理解してもらえると思う。

張氏は、1・語学的に絶対に無理が無いこと。

2・原文を絶対に修正しないこと。

3・国々の位置が陸上にあること。・・・という前提を絶対に守らなければいけないと言っている。これを見ただけで、幼い時から感じていた矛盾を払拭された感じがする。・・・続く!

参照 張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・

93日本@名無史さん2019/01/09(水) 18:54:38.68
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
この書き方では、水行十日陸行一月が並列という読み方はある。

一連の行程中の文であるなら、動詞の位置としては
南水行十日 至邪馬壹國 陸行一月 到女王之所都
となる。

しかしこれは、行程を直列した文ではなく
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

南に投馬國へ至るには水行20日、
邪馬台国へはさらに南へ水行10日と女王之所都へは陸行一月を要する。
という、
地理的説明の文章であり、投馬國と邪馬台国は 隣接する国である。

前文の里程を示せる町や都市名での行程を示している
到達点の 到伊都國や至不彌國 と 直列で繋げてはいけない。

さらに、この文には、
次有 ―列記21国― 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

が 続き、女王国が21国で構成する事、
水行30日と陸行一月が12000里であることが説明されている。

94日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:01:52.72
>>93
何言ってるか全然わからない。

95日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:45.13
前スレまでのこのスレ的
邪馬台国有力地域

熊本平野、川内平野、阿蘇、高千穂、雲仙、
日向

阿蘇高千穂は水行陸行を足してるのが判明しましたので除外させていただきます

今ここ

熊本平野、川内平野、雲仙、日向

96日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:08:55.59
>>90
渡海の場合は、始度一海で、今日は始めの一つの海を渡った、しかしあしたは、
又もう一つの海を渡り、あさっては更に又もう一つの海を渡る・・・、合計、三つの海を渡るのだ、という感じが良く出ている。

だが上陸後は、いずれのケースでも、始や又は使われていない。
逆に「水行十日又陸行一月」と書けば、水行十日、又は陸行一月、と読まれて今う危険さえ生ずる。
ちなみに、又の語源は、木の股(枝分かれ)からきているそうだ。

97日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:11:43.63
>>96
それ、中国語じゃなくて日本語でしょ?

98日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:13:41.28
>>95
大分絞られて来たな
俺は日向に一票

99日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:14:05.96
>>96

ピンインyòu

1副詞 動作・行為・状態などの繰り返しや連続を示す.◆(1)主語は同じ場合も異なる場合もある.(2)‘又’は既に行なわれた行為を表わし,‘再’はこれから行なわれる行為を表わす.⇒再 zài .
@(前後2つの節にそれぞれ同じ動詞を用いて重複する動作を示し)また,またしても.
https://cjjc.weblio.jp/content/amp/%E5%8F%88

100日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:15:44.27
チャンさんの根本的な間違いは、

2・原文を絶対に修正しないこと。

古文書には必ずといっていいほど誤謬や誇張が含まれており、他資料などと照合して修正を加えていくのが「正しい読み方」。
チャンさんは残念ながら宮崎や古田、安本あたりと同じく素人研究家に過ぎないから、史書の「正しい読み方」を理解していないんだね。

101日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:19:51.78
>>85
魏志倭人伝中でも、人は〜人で数えられてるんで、それはない。

一例を挙げると
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人

卑弥呼が死に、直径百歩程の大きな塚を作り、徇葬者は百人余りの奴隷であった。

102日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:19:52.07
>>100
張氏は研究者じゃないよ。
古典を読むのに長けた中国人。だから、
どう書いてあるか、だけを見てる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%98%8E%E6%BE%84

103日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:20:21.49
>>91
女王国は帯方郡から12000里の場所
倭そのものが女王国では意味が通じないよ
魏志倭人伝で女王国とは伊都国、奴国
女王が女王の影響力が及ぶ範囲で邪馬壹國のことだよ。

104日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:21:09.80
>>95
定番中の定番の、吉野ケ里遺跡は?

105日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:22:19.33
>>103
倭国=女王国+狗奴国

106日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:29:04.52
>>105
倭国=投馬國+邪馬壹國+倭種+侏儒國、裸國、黒齒國
狗奴國は倭王卑弥呼に従わず自称王がいるから倭國には含まれない。

・倭國(倭王卑彌呼の支配下)
・・・投馬國(朝鮮半島南岸地域)
・・・・・狗邪韓國
・・倭人(日本列島に住む)
・・・邪馬壹國(北部九州地域)・・・女王と書かれる場合もある。
・・・・・對馬國、一大國、末廬國(自女王國以北の地域)
・・・・・不彌國
・・・・女王國(卑彌呼を共立した中心国)
・・・・・伊都國、奴國
・・・・傍國(斯馬國〜烏奴國の20か国)
・・倭種(中国地方)
・・侏儒國、裸國 黒齒國(四国、関西地方)
・狗奴國(南九州の卑彌弓呼の支配下)

107日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:29:50.29
>>96 の追加
渡海の場合は、始度一海で、今日は始めの一つの海(海峡)を渡った、しかしあしたは、
又もう一つの海(海峡)を渡り、あさっては更に又もう一つの海(海峡)を渡る・・・、合計、三つの海(海峡)を渡るのだ、という感じが良く出ている。

今の我々は、唐津から釜山まで一続きの海だとみてしまう。
しかし機械船のなかった古代の人たちにとっては、海水面を行くのは当然だが、
それよりも、潮の流れの脅威の方が1000倍も10000倍も関心事であった。
つまり一つの海峡を成功裏に横渡りできるかどうかが、最大の関心事であったであろう。

よし今日は無事一つの海峡を渡ったぞ。明日も同じようにもう一つの海峡を渡り切ろう、、、という繰り返しの心境だな。

108日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:29:59.19
>>106
違うと思うけどね

109日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:31:11.87
>>107
99 名前:日本@名無史さん :2019/01/09(水) 19:14:05.96
>>96

ピンインyòu

1副詞 動作・行為・状態などの繰り返しや連続を示す.◆(1)主語は同じ場合も異なる場合もある.(2)‘又’は既に行なわれた行為を表わし,‘再’はこれから行なわれる行為を表わす.⇒再 zài .
@(前後2つの節にそれぞれ同じ動詞を用いて重複する動作を示し)また,またしても.
https://cjjc.weblio.jp/content/amp/%E5%8F%88

110日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:35:28.36
>>107
「役人のしきたり」ではそんなに気持ち入れないんじゃない?
陳寿がまとめるときにそんな情緒的なものだったら削除すると思うぞ。

111日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:37:31.78
>>100
>チャンさんの根本的な間違いは

到伊都國で行程が終わり、動詞の無い奴国 と 不彌国を 紹介して終わった。
これは、正しい。

なぜ、末蘆国に戻る? 根本的に誰が見てもおかしいだろ?
港町である末蘆国から、狗邪韓國を含む半島南岸倭人国名の投馬国に戻るのかね?
奴国や不彌国から、奴国を含む邪馬台国に行くの?

奴国が2回出てくるのは、
247年の行程と240年の印綬で参問した女王属21国が重複してるからだよ。

投馬国5万が邪馬台国と並ぶ、半島南岸倭人国だってのは
5ちゃんのチラ裏意外じゃ、禁句なんじゃないのかな?
三国志なんて、韓国で禁書にしとけよ。 
焼いてブルで埋めりゃいいだろwww

112日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:47:17.49
>>103
女王の影響力の範囲が邪馬台国だと、倭人伝はまったく意味不明になる。
卑弥呼に与えられた号は「倭王」。

女王の支配範囲が邪馬台国の域を大きく出ないなら、号は「邪馬台国王」になる。
滇王之や委奴国王と同じようにね。

しかし現実は「倭王」。非属勢力は存在するにしてもね。
妄想をいくら並べても、現実は変わらんよ。
伊都国のような例を除くと、官の置かれてる国邑は女王国に含まれる可能性が高い委ね。
女王勢力圏外だったら、官は誰が任じたんだよ?っていう。

113日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:51:35.05
陳寿自身が役人だからねえ
最近思うのだが、倭人伝を、文学博士や考古学者が読んでも大したことにはなりそうもない。
その基本は、まさに、ギンギンの役人思考でコリコリの役人の文章だからな。、
解読を頼むなら、むしろ霞が関のお役人の方がよかろう。
ということは、宮内庁のお役人ならまさにサイコーというわけだ。。

宮内庁のお役人は、とうの昔に倭人伝を読みといており、
ときどき 5ちゃんをのぞき込んでは、ニタニタ、ゲタゲタお笑いになっておられるのではなかろうか。
(そうだ、こいつらアホに、箸墓や西殿を散歩させてやれば、少しは、正気に戻るかもしれぬ・・・)
というようなお下品は、決してまおされないであろうが・・・・、

114日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:51:43.82
>>100
修正しだすと
あれも間違い、これも間違いとか
言って原文を大幅に塗り替えていく輩がいるから
張氏の基本姿勢は正しい

115日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:56:51.73
基本姿勢は正しくても読書範囲が限定されているのか
恥ずかしくて頭抱えてしまうようなものも盛られている

116日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:58:30.23
>>112
邪馬壹國は女王卑弥呼の北部九州地域に於ける勢力圏
倭王の称号は北部九州地域だけに止まらず朝鮮半島南岸地域から四国、中国地方までのもの。

117日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:00:01.50
一つ...いや二つ言えるのは

南と東は間違えない
一月と一日を間違えない

118日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:02:45.19
>>112
倭王は漢時100人いたw 

魏では、女王属国21国の大夫は王を称し、
狗奴国以南、壱岐、対馬、狗邪韓國など、30国だのを知る。

半島南岸倭人系諸国、東渡海千里の倭本州や、奇譚の遠国、
絶在海中洲㠀之上周旋可五千餘里、以遠は女王に属さない。

この非統一国で、魏使の行程中には必ず任命される、多分、魏が給料払って雇ってる
魏使が記録しなきゃなんない官は 誰が任じたんだよ?

119日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:06:57.97
>>116
南至邪馬壹國女王之所都 の骨格部は
南至女王之所都

邪馬壹國は倭國女王壹與の名に冠されている
壹與の直接統治範囲

120日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:11:15.56
>>117
南と東は間違えないけど一月と一日を間違える可能性は高いよ
当時は木簡や竹簡を使っていたんだから滲みで月と日は間違えやすい
南と東は形が違い過ぎて間違えようがない。

121日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:13:58.25
>>119
「南至邪馬壹國女王之所都」これは朝鮮側の投馬国に女王の都はない
九州側の邪馬壹國に女王の都が在るとの意味です。
 

122っト2019/01/09(水) 20:18:51.01
>>118
>この非統一国で、魏使の行程中には必ず任命される、多分、魏が給料払って雇ってる
魏使が記録しなきゃなんない官は 誰が任じたんだよ?

いやだから、倭内の官は女王国によって任じられたんだよ。
つまり、原則的に官が置かれたところは「女王国内」。
名目的にはイコール倭だけど、現実には非属勢力もあるから、女王国は倭の範囲よりは狭い。

たぶん、官の置かれない狗邪韓国は倭人が居たとしても、女王国には含まれない。
別途王の居る狗奴国も女王国には含まれない。
出雲勢力・吉備勢力などについては、従属関係なのか同盟関係なのか、敵対関係なのか中立なのかわからないので不明。

対海国には「大官」が置かれているので、伊都国以上に特殊な関係かも。
独立国でありながら、国王が女王国の官も兼ねているとか。

123日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:19:38.19
>>119
普通に前から読めばいいさ

南至邪馬壹國女王之所都
南に進んで邪馬台国に至る。女王の都である。

変な色眼鏡で読むから、余計にややこしくなる。

124日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:45:29.86
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

125日本@名無史さん2019/01/09(水) 20:48:22.98
>>122
出雲や吉備は本州にあり倭種に比定されるだろ?
つまり、倭国では詳しくわかっていなかった。

126日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:32:31.43
九州に上陸してからの
起点が末廬国と言うは定説になりつつある
そこから水行10日陸行1月で行ける所が邪馬台国だ

そうなると絞られてくるし
今世紀中には答えが出ると思う

127日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:33:57.43
このスレで上がってる地域のどれかだと思う

128日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:34:12.32
一月は1日の間違いだろw

129日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:37:09.75
>南と東は間違えないけど一月と一日を間違える可能性は高いよ

そんな可能性は高くない
間違える奴は見たことないし
3歳児でも間違えない
いないと断言出来るレベル

130日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:38:35.52
>>129
>そんな可能性は高くない

根拠は?

>間違える奴は見たことないし

お前の経験なんか根拠にならねえよ

131日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:42:02.35
>>114
張氏の読み方はどの邪馬台国研究家よりも秀逸だよなぁ、川内に発掘されていない弥生遺跡があると言われてるし、本当にそれが邪馬台国だと思うよ

132日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:46:06.39
南至邪馬壹國女王之所都 の骨格部は
南至女王之所都

  女王之所都
=女王治所
=女王國

邪馬壹國は倭國女王壹與の名に冠されている
壹與の直接統治範囲

邪馬壹國は陳壽の命名でしょうか
いずれにしても卑弥呼とは無関係らしい

133日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:48:28.18
>>131
俺も張氏の読み方に一目をおいてるが
佐世保を末廬国に比定したのは間違いだと思う
魏志倭人伝を誤読はしていないが読解もしていないのが張氏の読み方

134日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:57:04.82
>南と東は間違えないけど一月と一日を間違える可能性は高いよ

間違える可能性は高いが、だから間違えたとは言えない
それに、十日の次の一月だからねうちがあるのであって、そこが1日ではちゃんちゃらおかしい。

135日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:57:46.68
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

136日本@名無史さん2019/01/09(水) 21:58:29.34
>魏志倭人伝中でも、人は〜人で数えられてるんで、それはない。

戸は家ではなく人
古代都市の人口は首都で七万人が妥当
戸を人の意味で使われてる資料もあるそうだから、けしてない事でははないですね

137日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:02:05.47
>>133
だから末廬国は糸島だね
張氏の読み方を踏襲しながら
末廬国の比定を周辺遺跡を元に割り出す
と言う方法をとれば、かなり真理に近づくはずだ

138日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:03:00.27
>>129
紙じゃなくて木や竹を削って書いてたんだぜ。

>>134
言ってる意味が分からんなw

139日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:04:30.27
>>131
張氏の読み方なんて糞じゃんw
お前頭悪いなwww

140日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:05:12.42
邪馬台国は海から近かったんだよ。
そもそも日本には陸行一月かかる土地がない。

141日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:10:58.64
>>132
邪馬壹國は240年に印綬で王宮迄行軍した建中校尉梯儁の命名。

この時女王国の国勢として、列記21王国を参問し、総戸数7万戸と報告した。
和名の所属国21国に、漢字を当てたのも梯儁以外にない。

この一国、邪馬国に、女王の王宮、臺が有った。
これを、筑紫21王国連邦の総称、邪馬台国とした。

ちなみに、梯儁命名の
奴国の王は 
奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
は 比定可能。

142日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:21:24.91
>>140
陸行一月だとどんなにゆっくりと進んでも九州から関西くらいまでは着くな
当時九州から関西までの道なんて存在してないだろうし
船で近くの海岸まで行って最後の1日くらいを歩いて目的地まで行くのが合理的だよな。

143日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:22:48.77
>>140
陸行一月が2千里で対馬海峡の三分の二。
九州上陸後、筑紫平野の南麓を越えない。

この南限に女王宮が有った。
という、報告が倭人伝。

144日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:23:12.43
>>140
佐賀から熊本は湿地帯でクリークが多かったようだから、一月かかってもおかしくないのではないかな?
クリークには橋はないから上流に回っては浅瀬を進まないといけないから。

145日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:24:13.98
>>133
佐世保にも松浦があるし
まんざら間違いでもないと思うが

146日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:26:27.69
>>143>>144
お前完全に頭逝かれてるぞw

147日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:29:17.29
>>145
魏志倭人伝の記述によると末廬国は東松浦半島から糸島市西部
西の端が佐世保付近まで有ったか無かったは分からないな。

148日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:37:04.02
松浦(まつら)から、松浦ー釜山間の2/3にあたる二千里といえば、
どう見ても、筑肥山地を超えた熊本平野だな、
コリャどうしようもない事実、
東京帝国大学の白鳥庫吉博士も、すでに明治のころから指摘していたこと。

149日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:40:33.17
水行一日が千里で、陸行一月が2千里で
気が狂ってるなw

150日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:42:58.80
>>144
佐賀から熊本なら船で行く。

151日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:45:23.28
>>140
>そもそも日本には陸行一月かかる土地がない。

「陸行一月」

陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河

投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   だと、何度言えばw  @阿波

152日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:45:37.03
佐賀と熊本って凄く近いよな。

153日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:47:58.54
>>145
佐世保を良しとしても
伊都国を塩田に比定してる
回りにそれらしい遺跡は無さそうだし
距離と方角だけで読んだらこうなりました
と言う例題的な比定地だと思うよ

154日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:49:11.69
>>145
張氏の読み方?

佐世保は考古立証的には、
邪馬台国=女王属国ではないのではないかな?

女王属国は、西の唐津は微妙、
東の宗像、飯塚、田川は外。
南、日田、大牟田は微妙なのではないかな?

張氏の読み方は結局
意味不明の直列読みで逝っちゃってるでしょ?

投馬国は半島南岸倭人国
これを、言うと韓国ガァガァなだけ。

今日ビは、5ちゃんの中学生でも
BC200以前から青銅移入で存在した半島南岸倭国の存在を理解している。

張氏の読み方? じゃ 現代人には無理じゃないかな?

日本は、友好国、239年公孫氏滅亡や246韓王朝滅亡を見て
魏と結んだ九州邪馬台国を一大卒による統制下にして
高句麗戦で牛馬や鉄の国内生産を為し350年の百済、新羅の建国を支援した。

155日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:50:14.08
>>149
>水行一日が千里で、陸行一月が2千里で

水行一日は千里が、当時の中国の相場がそれだったのよ。
もっとも、陸行は道なき道を行くのだから、実際の日数はみちによりてんでばらばら、
倭人伝に、2千里を一月と書いてあるのだから、それもやむをえまい

156日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:54:42.14
>>139
>>131
>張氏の読み方なんて糞じゃんw
>お前頭悪いなwww

じゃあ、糞じゃない読み方は誰のやつ?
まさか、あなたのオリジナル?

157日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:54:51.07
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

158日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:55:43.73
>>153
塩田は音読みでイェンティェ
伊都はイィトゥ

さほど遠くも無いかと

159日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:57:05.42
末盧国からは、邪馬台国のいくつかの友好国を通て女王の都へ到る古道を示しているわけだ。。
古道を行かず、直接に卑弥呼の都へ行くだけなら、もっと便利な水行の道もあったであろう。が、それは別問題。

160日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:57:25.57
>>156
張氏の読み方は秀逸
読解は糞

161日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:58:02.49
>>155
対馬海峡は千里×3回であっても水行十日だが?
里程と日程が同列で繋がらないということは理解できるかな?

162日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:59:20.07
>>158
ほーほー
末廬国=佐世保松浦
伊都国=塩田

で、潜木は本当に奴国??w

163日本@名無史さん2019/01/09(水) 22:59:48.46
>>155
>水行一日は千里が、当時の中国の相場がそれだったのよ。

ソースは?

>倭人伝に、2千里を一月と書いてあるのだから、それもやむをえまい

何処に?

164日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:00:35.69
>>154
アンタ、張氏の本読んだことなくて書いてるだろ

165日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:02:55.35
>>161
>対馬海峡は千里×3回であっても水行十日だが?

水行10日の起点は帯方郡の港。
帯方郡から狗邪韓国まで7000里それに3海峡を3日で3千里、合計して1万里を水行10日の中国式勘定だよ。

166日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:03:10.26
>>164
佐世保は水銀の鉱山があったらしいんだよね。「其山有丹」には有利なんだけどなぁ。

167日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:04:52.89
>>159
末盧国は邪馬台国21王国の中に無い。
邪馬台国を構成する王の有る21国の中の 
いずれかの国に所属する港町なのではないかな?

168日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:07:31.81
>>165
それで残り2000里を陸にしたのかw
幾ら何でも2000里を1月は無理筋だなwww
アホwww

169日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:08:56.35
>>167
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」
ですから違います。

170日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:10:17.76
>>164
張氏の倭人伝解釈の間違いは明白だが?
君がアタシの倭人伝解釈の何を否定し何を聞きたいのか?

171日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:13:04.74
>>162
距離はあってるだろ

172日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:13:51.86
高校の漢文の教科書を一からやり直して
まずは漢文を読めるようにしろよ、痴呆老人共

173日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:14:48.25
>>167
末廬国は伊都国の玄関だ
奴国が繁華街

174日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:17:05.89
>>172
張氏によると漢文で読むからダメみたいだぞ。
中国語で読まないと。

175日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:17:28.70
>>170
張さんは解釈とか読解に進む前に
まずは普通に読む事から始めましょう
と言うスタンスだろ

176日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:18:51.87
>>170
アンタのオリジナルは興味ないです。

177日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:22:44.49
>>168
ほう、なか察しが良いではないか。
此の松浦(まつら・唐津)から熊本市まで、中世九州路の駅家は20余有る、1日1駅として20日かかった計算だ。
倭人伝のも、けっこう適切な日数であろう。

178日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:22:52.06
>>171
柚木の方が距離も方角も合ってるな

179日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:27:28.74
>>161

対馬海峡は水行3日。
半島沿岸七千里で7日消費している。
帯方郡から九州の北岸まで一万里、日数なら10日。

180日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:29:44.03
>>177
>1日1駅として20日かかった計算だ。

1日に10駅分くらいは進んだんだよ。

181日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:33:43.38
古代の陸行は食料調達に雨宿り
野宿や宿泊先での滞在時間も含めて
1日平均5キロ程度進めば上々だろ
5×30=150キロ
ちょうど二千里だ

182日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:42:32.15
畿内説に限界を感じてお邪魔しに来ました
良スレですね、しばらくロムりますが、よろしくお願いします

183日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:46:41.08
>>166
佐世保はマッチョ海人もいるし
21国の比定地が長崎、佐賀が多い

184日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:47:30.09
>>182
九州説へようこそ

185日本@名無史さん2019/01/09(水) 23:56:45.26
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg

186日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:09:15.35
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

187日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:16:37.90
九州着いてから陸沿いに船で行くと熊本より佐賀の方が遠くなると思うんだけど
熊本→邪馬台国 佐賀→投馬国って無いかな?熊本まで10日だと宮崎まで20日で行けると思えないんだよね
素人考えなんだけど

188日本@名無史さん2019/01/10(木) 00:59:31.25
>>187
熊本は狗奴国で、男王卑弥弓呼素がいたんじゃないかな?

定説通りの吉野ケ里を邪馬台国と比定した場合、南に位置し、争っていた位置関係的にも無難でもある。

3世紀後半から4世紀にかけて、どうせ熊襲側が女王国を駆逐してるんだし、わざわざ負け組にならなくてもいいよ。

189日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:01:23.79
>>187
雲仙のような気がしてきたわ

190日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:06:28.22
張氏の読み方を踏襲しながら
周辺遺跡を考慮して比定地を探すと
以下の地域が浮上する

雲仙、熊本平野、川内平野、延岡、日向

191日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:19:08.33
女王国の南に侏儒国がある。人の背丈は三、四尺(72p〜96p)で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。

192日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:27:06.64
>>190
侏儒国を種子島に比定すると
四千余里南に該当するのは
雲仙、熊本、延岡、日向に絞られるぞ

193日本@名無史さん2019/01/10(木) 06:52:06.60
>>192
つうか、雲仙、延岡が五千余里になってしまう
日向はギリかな

熊本平野はほぼ一致する
熊本かなぁ...

194日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:23:19.25
>>187
陸行一月は陸行一日の誤記ですよ
陸行一月だとゆっくりと進んでも鹿児島まで往復してしまう。

195日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:25:21.35
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種  又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里  又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至

女王国(博多)の東、海(関門海峡)を渡ること千余里(80km)。復(また)国(山口県)有りて、皆、倭種。

又、侏儒国有りて、その南(関門海峡を南に抜ける)に在り。人長は三、四尺。

女王(邪馬壹國)を去ること四千余里(320km)。又、裸国、黒歯国(瀬戸内海東

部地域)有りて、復、その東南に在り。船行一年(船行十二日)にして至るべし。

196日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:26:34.37
大陸本土内では日陰長測量も可能であっただろうし、船に指南魚のようなものが装備されていれば、九州上陸までの方位は測定可能だ。
しかし、海路においては距離は測れないし、実際に各島間の距離比率は魏志の記述と現実は相違している。


九州上陸以降は信頼に足る測量が不可能なのは明らかで、距離方位記載は鵜呑みにしない、が「正しい読み方」。

信頼に足るのは、不弥国から倭船に乗った、水行20日、水行10日陸行1月の情報のみ。
当時のエリートたる魏使が日数を数え間違えるのは、まずあり得ない。

197日本@名無史さん2019/01/10(木) 08:28:42.53
不弥国は那珂川町、春日市付近
不弥国から倭船には乗れない。

198日本@名無史さん2019/01/10(木) 09:42:56.18
松浦(まつら)から二千里といえば、松浦ー釜山間の2/3の距離にあたる
その距離を、東南〜南へ下るのだから、どう見ても筑肥山地を超えた熊本平野だ、
すでに明治のころから、東京帝国大学の白鳥庫吉博士が指摘していたことである。

それを、南は東の間違いだーーー、と強引に捻じ曲げたのが京都帝国大学の内藤湖南。
自らの名の南も捻じ曲げたあげく、100年たってみると、箸墓説が吹き飛んで、京都学閥も吹き飛んだ。
結局、その時々の論敵を大声でやっつけて、気分爽快になればよかっただけのことだったのだろう。あはれ也。

199日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:01:46.00
てか白鳥東大閥もないけどな
もう東大は邪馬台国とかやっとらん
結論の出ないことは学者の業績にはならんから

200日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:11:22.40
>>194
一月と一日は間違えようが無い
「30と1」
間違えない

絶対間違えないw

201日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:11:50.03
このスレ的には、倭の国々は「連続読み説」と「放射読み説」とどっちが優勢なんだ?

202日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:26:34.81
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

203日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:38:23.59
特に修正を加えなくても
行ける場合があるのに、修正だらけの場所は
信用出来ないな

204日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:39:54.72
>>201
内容的には末廬国を起点とした説の方が
説得力がある

205日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:52:05.69
>>192
日向の場合は
末廬をどこに比定するの?

206日本@名無史さん2019/01/10(木) 10:56:10.20
>>205
鐘崎

207日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:00:50.99
鐘崎に比定すると東南に伊都国らしき都市はあるかな?奴国は?
つうか、日向までの距離が全く合わない

鐘崎→日向 280km000里=約150kmだから日向は消えるな

残りは熊本と雲仙

208日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:08:01.54
>>201
どっちが優勢なのかはわからんねぇ
てか、邪馬台国の場所自体がカオスな状態だしw

ただ畿内ではなく、九州北部のどこかであるとは思う。

209日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:27:35.61
>>208
>ただ畿内ではなく、九州北部のどこかであるとは思う。

それは無理。 「其山有丹」でも無理。 「橘」でも無理。 「楠」でも無理。 なにがどう転んでも、無理。  @阿波

210日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:27:45.11
>>208
北部は破綻したと何度言えば...

最有力地 熊本平野、
他の候補地、南島原市、雲仙市、天草
もう、これだけだ

211日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:29:22.58
>>210

東に海がない。 即アウト!  @阿波

212日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:34:18.22
実際七万の規模を抱えられる遺跡は畿内を除けば吉野ヶ里遺跡ぐらいしかないけどな。

213日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:40:50.10
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

214日本@名無史さん2019/01/10(木) 11:51:33.63
>>209
橘も楠も四国以外にもあった。
無論九州もな。
楠に至っては、九州のがメジャー。

丹も大分、熊本、徳島、奈良で採れる。

全部ウィキペディアレベルでわかる

215日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:12:17.52
>>211
島原と雲仙にはある
セーフ!

216日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:23:53.18
まさか四国君に答えを導かれるとは
思わなかったわ

邪馬台国は
雲仙、島原でほぼ確定
恐らく公式に見つかるのは50年以上先になると思うが
遂に見つけたな、みんなありがとう!

次スレ
【邪馬台国5chで遂に発見される】邪馬壱

217日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:42:43.18
>>214
>橘も楠も四国以外にもあった。
>無論九州もな。

北部九州は無理 と、何度言えばw  @阿波

218日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:52:03.28
>>215
>島原と雲仙にはある

「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
で、島原が女王国なのかな? それとも雲仙が女王国なのかな?
そして、東へ千里いったところの倭種の地が熊本市あたりになるのかな?  これでいいの?  @阿波
 

219日本@名無史さん2019/01/10(木) 12:53:47.85
>>216
見つけてあげたよ。  @阿波

220日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:05:13.68
雲仙島原説に待った!

女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。

「女王の東」だから雲仙にも熊本にも東に海はある、むしろ雲仙から有明海を渡れば千里進まなくても国はある、と言う事は国と言うのは本州、四国の事をさしてるわけで、延岡、日向も
浮上せざるを得なくなる

221日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:09:25.60
>>217
ソースだせ

222日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:15:51.17
>>220
いや、やはり雲仙界隈だと思う
雲仙から熊本まで約65km
雲仙市の隣の諫早市から熊本までは84kmここは正に千余里だね
そして境界の尽きる所に人吉(狗奴国がある
さらに南に薩摩(投馬国

完璧...だと思うんだが

223日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:23:51.95
>>222
南島原半島の東側先端から熊本まで千里あるよ

224日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:29:45.38
>>200
日を月に見間違えたんだよ
一日なんて短いから一月のことだって決めつけた奴がいたんだ。

225九州王2019/01/10(木) 13:39:52.66
>>201
里行程と日行程の部分をそれぞれ連続読して
里行程と日行程は同じ行程を距離と時間で説明したとする
並列読みが正しい
里行程も日行程も帯方郡から女王国までの説明。

>>210
熊本市民として一言
熊本平野は邪馬壹國の一部ではあるが傍國のどれかであり
卑弥呼の都は糸島市東部である。

>>214
こみかん、温州みかん、デコポン・・・日本で柑橘類は全て肥後発祥

226日本@名無史さん2019/01/10(木) 13:41:18.18
【倭人伝、行程の文法について】
帯方郡から歴韓国で乍南乍東し 循海岸水行(が終わり) 『到』 狗邪韓國
(『到』以降の起点として、『始度』)
『始度』一海千餘里 至 對海國
又 南渡一海千餘里 『至』 一大國
又 渡一海 千餘里 『至』 末盧國
東南 陸行五百里  『到』 伊都國(『到』は一連の行程の終わりを意味する)
(ここまでは、動詞、距離、至、地名の語順で直列行程)
東南 『至』 奴国  百里
(動詞無し、紹介しただけ、行っていない。後出国勢と重複し2回出てくる)
東行 『至』 不彌國 百里
(動詞、至、地名、距離の語順。247年張政の行程が『到』で終った後の紹介)

次の2文は 動詞と距離 が 地名 の後。前文の行程とは繋がらない。
>>3 張先生の言う“行くならば”です。これは240年卑弥呼印綬の際の梯儁の行程。

南『至』 投馬國 水行二十日
(至、地名、動詞、距離 全文の行程外の紹介。地理解説である。)
南『至』 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
(至、地名、動詞、距離 前行程外の紹介。行程であれば終点『到』であるべき)

投馬國は、倭へ向う為の馬韓の向こうの倭人国であり、起点は当然、帯方郡。
この文は、陳寿の説明 >自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
以降、さらに続く

次有 ―列記21国― 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

女王之所都によって邪馬壹國と命名した女王国は、国勢として、所属国は21国で7万戸
南『至』 投馬國 水行二十日 と 南『至』 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
は、里程で示すならば、 自郡至女王國 萬二千餘里 である。

227日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:30:27.42
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

228日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:41:43.13
>>225
>熊本市民として一言
>熊本平野は邪馬壹國の一部ではあるが傍國のどれかであり
>卑弥呼の都は糸島市東部である。

例の、なりすまし熊本市民だろう

229日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:47:08.14
>>225
>卑弥呼の都は糸島市東部である。

あり得ないかな、糸島東部(三雲)は奴国だね
伊都国(大宰府)は古都
卑弥呼がいたのは南島原市の可能性が高い

230日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:51:57.44
>>220

水行十日陸行一月を足さない説を採用すると

延岡、日向は末廬国の比定が出来ない
末廬国の比定地が決まらないと伊都国、奴国も比定出来ないんだよ

231日本@名無史さん2019/01/10(木) 14:53:18.59
水行陸行を足したり
一月を一日にしたりすると一気に胡散臭くなる

232日本@名無史さん2019/01/10(木) 15:02:45.80
>>231
水行と陸行を並列にすると、行程の信頼性が、ここで一気に崩れる。
その中途半端さの印象は、全文に及ぶから、
格式を重んずる王朝文書としては、全くあり得ない。

233九州王2019/01/10(木) 15:05:13.45
>>228
お前は何処の人間だ?

234日本@名無史さん2019/01/10(木) 15:16:03.29
>>233
俺も、福岡・熊本にはいささかのゆかりがある。

235日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:10:30.26
奈良に住んでる、九州説民もいるんだぜ?

236日本@名無史さん2019/01/10(木) 16:29:14.86
ま、畿内説崩壊で都落ちして九州に来ても、居場所は糸島のイか福岡ナあたりだわな、
さもなくば、熊本にくだって熊本狗奴国説を唱えるか、
椎葉・五木辺りを通って南に逃げ延びて、球磨地方で世を忍ぶか・・・、末路はそんなところ

237日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:06:41.69
>>236
一人でなにをぼやいてんのか

238日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:08:31.14
>>225
>卑弥呼の都は糸島市東部である。

東に海がない。 即アウト!  @阿波

239日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:09:52.73
>>229
21国を時計まわりにそれっぽい順で比定されてる
レスをどっかで見かけたな

240日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:18:53.52
>>238
糸島説は信じていないが東に海はあるわ

女王國東渡海千餘里

「東にある海を渡って千より」もしくは
「東に海を千より」
だから比定地にが島原半島だとしたら有明海
比定地が糸島だとしたら真ん前の海を東に行くか本州と九州の間の海を渡るか、しかない

241日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:38:13.96
>>240
女王国の東だからな?
邪馬台国のすぐ東が海である必要はないんだぜ?
21国の領域の東が海であれば、その文章は成立する。

242日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:41:22.40
>>240
>糸島説は信じていないが東に海はあるわ

渡海千里に当てはまる海は無い。


>だから比定地にが島原半島だとしたら有明海

それだと、島原半島が女王国で、倭種の国が熊本市辺りとなるが???


>比定地が糸島だとしたら真ん前の海を東に行くか

真ん前の海を渡った所が倭種の国となるが???


>本州と九州の間の海を渡るか、しかない

関門海峡?  弥生時代にそりゃ、無理。  @阿波

243日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:44:17.63
>>241
>21国の領域の東が海であれば、その文章は成立する。

畿内説とおなじ言い訳w   やれやれ・・・   @阿波

244日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:48:22.52
女王國東渡海千餘里 って? 倭人伝って、そんなこまっかい話じゃないでしょ?

後漢書で、400年までに、倭の五王に征服されてるって知って、
戦争してたはずの、狗奴国が東の倭種になった訳だけど、

本州四国が東国だけど、瀬戸内海なんて知らないし
女王国は福岡、筑紫平野であって、張先生以降とは思うが
九州東岸は考古物証的には、非女王国だった可能性が高くないかな?

有明海なんて、2回しか来てない魏使はどっちも見てないと思うぞ?
247年の末蘆国は糸島半島北岸で、南東5百里の伊都は早良付近。

240年の上陸地は、糸島東岸より奥の博多湾で、女王宮直行で伊都には拘束されてない。

卑弥呼に印綬の皇帝の使者を一大卒が検閲したら、
建中校尉梯儁は 魏軍将校で、魏の軍船で来てんだから、意地でも戦争始まるだろw

使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯

は、247年、倭人船に便乗して来た、査察官の塞曹掾史張政の時だけの話だね。
魏志倭人伝は、大雑把にw 正しく読もう。

245日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:52:23.45
>>244
>魏志倭人伝は、大雑把にw 正しく読もう。

それ、トンデモ説の常套句。   @阿波

246日本@名無史さん2019/01/10(木) 17:57:05.43
>>243
書いてる文面を、そのまま一切歪曲してないのに絡むなや

247日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:01:12.09
>>246
>書いてる文面を、そのまま一切歪曲してないのに絡むなや

だから、畿内説と同程度のトンデモ説と言ってるんだよ。   やれやれ・・・   @阿波

248日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:01:50.34
>>245
常套句だったのかorz
初出かと思ったのに・・・

四国説のトンデモっぷり、おそるべし。

249日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:04:08.40
>>246
文献的にはあなたの方が正解と思うよ

250日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:08:24.25
>>249
>文献的にはあなたの方が正解と思うよ

畿内説信者ですか?  その気持ち分かりますw  @阿波

251日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:24:30.23
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」

まじ、これに該当する地域は、宮崎か倭国(阿波)だけだね。  @阿波

252日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:27:26.91
>>242
東に海はある
これがすべて
九州と本州は陸続きだと思ってんの?w

253日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:28:59.99
>>251
熊本と島原
宮崎は起点と距離がどうしても合わない
四国は問題外

254日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:31:36.04
>>253
四国の奴は言い張るだけだから
無視しとけよw

255日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:34:55.13
@阿波のコンピューターは馬具ってるから議論しても無駄だよ。

256日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:36:10.45
>>250
またか? なにガキみたいに意味不明なこと言ってんだよ?
邪馬台国が21国で構成される、って話は、アタシは持論以外で初めて見たよ。

アタシは倭人伝本文以外の所説は、
アラシの京大キッドちゃんにも勉強不足と言われるほど
ほぼ九州説も知らんけど、21国が邪馬台国構成ってこと、を読めれば、九州説だろ?

阿波や土器厨以外の アラシでない皆さま、
文法という概念、張先生や、スレの皆様のおかげで持論は確信です。
ありがとうございました。

257日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:38:20.84
「海を渡って千余里行く」か「千余里の距離を渡る」とで意味は変わってくる

258日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:40:20.72
>>257
「千余里の距離を航海する」
と言う意味
後者だと思う

259日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:46:23.81
どっちにせよ女王国の先が里で記されているのだから
女王国までも里で着いてるってこった。

260日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:47:19.25
>>244
倭人伝中、景初2年6月以降に書かれている記事内容、例えば、240年や247年の見聞記事だが、
この時の知見が、それ以前に書かれた記事まで、さかのぼって適用されることはない。
つまり歴史書は歴史を記載しているのであるから、書かれた行の内容は、その行以降に適用されるものであり、
過去、つまりそれ以前の行に記載された内容にまでさかのぼって、適用されることはない。
(これ不遡及といって、初歩の初歩)

261日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:52:10.67
阿波って、文盲トンデモ説だって自己紹介してるようなもんだぞ?

262日本@名無史さん2019/01/10(木) 18:55:12.97
>>261
@阿波をNGワード登録してデータ再取得マジオススメ

263日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:06:01.55
>>252
>九州と本州は陸続きだと思ってんの?w

渡海千里に当てはまる海は無い と、何度言えばw  @阿波

264日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:08:45.40
『女王国東渡海 千余里』

北部九州邪馬台国から東に海を渡って、千余里進むと、

265日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:11:00.78
渡海する事千余里だろ

266日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:16:19.94
>>265
>渡海する事千余里だろ

まじ、これに該当する地域は、宮崎か倭国(阿波)だけだね。  @阿波

267日本@名無史さん2019/01/10(木) 19:55:58.64
「あいだに入って協力する」「上手くいくように協力する」などは全部詐欺

ある日突然、就職・昇進・恋愛などであいだに入って協力するという親切な人が登場し、
時には親身に話を聞いたり、時には盛り上がって一緒に酒を飲み、おごってくれたりもします。
警察官や公務員のケースもあります。

しかし、実際には何も協力などせず、勝手にその人の人生が上手くいくのを待っているだけです。
そして、ターゲットが自力で人生を切り開いた時から、本格的な詐欺が始まります。
あいだに入って協力したとして、「御礼」を要求されるのです。
不法行為に協力させられると、泥沼にはまって経費流用や情報漏洩も要求されます。

上手くいかない時には、適当な人物の名前をあげ、○○が政治的な動きをしたから駄目になった、
○○がいなければ上手くいったのに、あいつのせいだと言い逃れをするのも特徴です。

皆さんも、詐欺にだまされないよう気を付けて!

268日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:29:36.72
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

269日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:36:39.73
>>265
島原、熊本も該当するわな

270日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:41:48.65
女王国東

東の女王国だね、東側の女王国、つまり女王国の支配域の東海岸から渡海する事千里
だからそこに卑弥呼がいなくても問題無い

271日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:42:54.27
>>252
陸続きではないが、仮に関門海峡を渡るとなると幅700mほどしかない。
つまり短里だと余十里ってレベル。

魏志倭人伝風に書くと

自門司北西渡海 余十里 至壇之浦古戦場

門司から北西に十里渡海すると壇之浦に至る。古の戦場である。

まあだから何?ってはなしで、千里といっても意外と70kmしかなくて、九州東岸から、本州、四国へはいくらでもルートがある。

272日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:45:02.71
☗☖

273日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:55:03.26
張氏の読み方で導きだそうとしてる人に聞きたいのだが

末廬国に鐘崎を比定すると
別府か大分辺りも美味しそうに見えんか?

274日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:58:07.97
>>270
>東の女王国だね、東側の女王国、つまり女王国の支配域の東海岸から渡海する事千里

畿内説信者ですか?  その気持ち分かりますw  @阿波

275日本@名無史さん2019/01/10(木) 20:58:16.64
>>273
俺もそこは美味しそうに見えるが
奴国と伊都国に該当しそうな場所を見つけなくてはいけないのだよ

276日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:02:28.00
>>274
九州の範囲内だけの小さなエリアだよ
伊都から東海岸中部まで女王国の領域
なんの問題も無い

277日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:05:31.05
>>276

じゃあ、畿内説と同レベルのトンデモ説ということだね。  やはりトンデモ同士は・・・  @阿波

278日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:08:33.96
>>273
大分はなんかありそう
「王いた」って言うぐらいだし...

279日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:26:20.85
>>278
ここ最近のレスのうちでは、まことに上出来、座布団十枚!!

なかなか話題には上らぬが、大分市中心部には、古国府という地名がある。
大和朝廷が開いた国府の更にその前から、ここに古い国衙があったのではないか。

それから、前にも紹介したが、
豊後の中津の三保には、彌奴国王の国衙だったとみられる円形4重大環濠の遺構が認められる。
其の径30余里の超巨大国衙であったと思われ、日本神話の豊葦原中つ国とは、ここのことだったのではないか。

280日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:33:39.96
今、気付いたが糸島泉川河口から東南500里に
吉野ヶ里がある、伊都国は大宰府かと思ってたが吉野ヶ里もありだね

281日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:34:06.85
オラが町

どの町にも掘りまくれば弥生遺跡の一つはあるだろう。
どの町にも神社の一つくらいあって、基本的には天照大御神のお札が置いてある。

あれ?
この弥生遺跡はオラが町で一番大きい。
あれ?
オラが町に天照大御神がいたのか。

この遺跡が奴国。
この神社が卑弥呼の宮殿跡。
こういう仕掛けである。

282日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:38:00.58
>>281
卑弥呼が天照大神だとは思えない

283日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:42:37.97
>>280
島原説に拍車がかかったな
これに大分説がどう絡んで来るか見物

284日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:45:06.49
>>279 の続き
倭人伝の遠絶傍国の5番目・中津の彌奴国に続いては、6番・好古都国がある。
好古都国は、大分市中心部の古国府に相当するのではないか。
好古都が訛って、古国府の呼び名になったように思われる。、

285日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:53:44.54
中津は末廬国から真東だよ
厳しい...かなり厳しい

286日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:55:13.28
好古都国は博多説もある

287日本@名無史さん2019/01/10(木) 21:58:31.78
大分説で考えるとすれば
俺なら古国府を邪馬台国に比定するわ
距離が糸島辺りから2000里ぐらいじゃね?

288日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:02:49.60
>>287
トンデモ説は自由でいいね。  @阿波

289日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:03:50.41
邪馬峡で卑弥呼が雄叫びを上げてたんちゃうん?

290日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:03:50.95
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

291日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:25:13.62
>>250
伊都説です

292日本@名無史さん2019/01/10(木) 22:34:03.68
>>291
>伊都説です

これといった根拠・物証も無いのに、よく頑張れるね。  ある意味感心するよ。   @阿波

293日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:14:40.89
吉野ヶ里

海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、遺構からは港のようなものがあったと推定されている。
[2]吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、この港と交流を持ったと考えられている。

伊都国の津と言うのはこれか

294日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:17:50.85
そだねーw

295日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:20:28.12
>>270
邪馬台国と女王国と書くように、
女王国は、高千穂で、祭祀をして、
九州北部の豪族が、安の河原にきて、
相談。日向市は、邪馬台国の北側入口。
西都原が、邪馬台国のいわば、人口最大地域。
日向市から東に70キロで、四国。
日向から高千穂にむけての
五ヶ瀬川沿いは、鉱山の宝庫。
丹土も有名。
景行天皇は、日向髪長大田根を妃としている。
応神天皇は、日向泉長媛を妃としている。
仁徳天皇については、日向国諸県君牛諸井の
娘髪長媛(かみながひめ)を妃としている。
日向系の妃が、4〜5世紀頃に、日向系と大和国家の大王との間に、交流があった。

日向市には、大王谷と呼ばれる地域もある。

296日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:24:22.30
景行天皇は九州中に妃がいただろ。
子女の数が80人とか。
記紀を編纂した頃にはもう半分くらいしかわからんと編者が匙を投げたw

297日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:30:16.37
マジな話をすると、山幸彦(伊都高祖宮の祭神ヒコホホデミ)の末裔である天孫族が筑紫日向を捨てて東征して卑弥呼が筑紫で即位しても、喧嘩別れして追い出された海幸彦の末裔が日向国都万(投馬国)にいたから、畿内政権としては日向国と組むのは当然なんだよ。
でも景行天皇は筑紫の女王神夏磯姫とも共闘している。
神夏磯姫は八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて現れて、景行天皇をまんまと使って自分の政敵を倒した。
この時の敵の中に、耳垂などの旧邪馬台国の官が含まれているんだよ。

298日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:30:55.07
>>292
結構古参なので、阿波さんは頑張ってるな、と感心してますよ〜
四国は重要な地域とも思います。

始めはありえないと思ってましたが、伊都説は自分なりに行き着いた、現段階の押しですね
卑弥呼前夜が重要と思っているので、考古学的にも素直に解釈できるし、
紀記等にも絡めると面白いので

299日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:41:17.62
>>297
魏志倭人伝では、
投馬国の南に邪馬台国があるが、
その解釈では、投馬国の北側に邪馬台国がある
ことにはならないのかな?

300日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:45:09.90
大足彦(景行天皇)が海路で九州に入るとき、筑紫の魁帥である神夏磯媛の出迎えを受け、かわりに朝敵である土蜘蛛を討伐することを求められた。
このとき、神夏磯媛は賢木に八握剣、八咫鏡、八尺瓊を掛けて神威を示している。
これは皇位を象徴する三種の神器そのものである。
日本書紀は神夏磯媛と大足彦のどちらの立場が上であったかぼかしてあるのであるが、
神夏磯媛が筑紫を支配して三種の神器を保有していたのであるから、神夏磯媛こそが当時の筑紫倭国の女王であり、アマテラスやニニギ、卑弥呼の後継者であったと考えられる。
その尊号には筑紫の支配者を意味する帥(そち)の字が使われている。
神夏磯媛は朝廷にまつろわぬ者として、
菟狭(うさ、豊前国宇佐郡、大分県宇佐市)の川上の鼻垂(はなたり)、
御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)、
高羽(たかは、豊前国田河郡、福岡県田川市)の川上の麻剥(あさはぎ)、
緑野(みどりの、福岡県北九州市紫川)の川上の土折猪折(つちおりいおり)
を挙げて討伐するように求めるが、いずれも卑弥呼時代の倭国連合の範囲内にほぼ収まる。
耳垂の名は、魏志倭人伝において投馬国の官と副官である彌彌(みみ)と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
大足彦より前とされる神武東征の折にはすでに菟狭の川上には後の宇佐国造家の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がいたことになっている。
すなわちこの戦いは異国や異民族との戦いではなく、倭国内部の権力闘争であり、筑紫の女王である神夏磯媛にしてみれば分家(ワケ)である大足彦忍代別の兵力を借りて国内にいる政敵を倒したことになり、
神夏磯媛が言う朝廷は大足彦ではなく自らの倭国王権を指していたことになる。

301日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:45:56.48
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県都万)までは水行20日

302日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:48:31.89
日本に国名を変えて半島南岸を放棄したのにね。
1400年ぶりの悪夢か。

303日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:56:12.62
ちなみに神武の息子たちの名も〜耳とあり、当時の王族の称号でもあったようだ。
ミだけの用法もあり、大山祇(おおやまつみ)と綿津見(わだつみ)も語源は同じだろう。
※大国主(すべての陸を支配する王)と天照(海を照らす王)との対比も面白い。
※海幸山幸も同じセットの名称だ。

304日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:56:31.19
>>300
投馬国の官と副官である彌彌(みみ)
と彌彌那利(みみたり)とも同じである。

魏志倭人伝で書かれた5万戸などは、
食邑体制をあらわしているから、官、副官は、
一族で、
特権継承できるんだよな?
ならば、中津が投馬国としたら、
日向、西都が邪馬台国でよくないかい?

305日本@名無史さん2019/01/10(木) 23:57:31.95
生口

口で生きている

耳や鼻は?

秀吉出兵

306日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:02:24.50
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

307日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:10:54.83
大山祇が出たついでにその子孫の紹介をしよう。
娘は、天照の孫で筑紫の日向で倭王に即位した邇邇芸の妃となった木花咲耶姫だ。
息子は溝杭耳といい、名前からして筑紫の王族なのだが、愛媛の三島神社に祭られている。
大阪でも三島神社に祭られている。
京都では賀茂神社、奈良では登美に祭られている。
瀬戸内を拠点に関西方面を開拓した張本人だが、そこに天照の孫の饒速日がやって来る。
三島溝杭耳の孫のナガスネ彦は妹を饒速日に娶らせている。
そこにさらに筑紫から神武が来て、ナガスネ彦は怒る訳だ。
「なぜ次々に天神の子がやって来て人の土地を取るのか」
饒速日と神武は同族であることを互いに確認すると、従わなかったナガスネ彦を排除してしまう。
その姪のイスケヨリ姫が神武の妃となり、2代目の天皇が生まれる。

308日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:19:05.23
>>304
景行天皇は日向国を命名するのだが、いかにも新規開拓という感じなんだよね。
むしろ本拠地は豊前に定めている。
また共闘した神夏磯姫は筑紫にいた。
あくまでも記紀は九州北部を舞台にしているんだ。
日向国の存在感は邪馬台国には程遠いなあ。

309日本@名無史さん2019/01/11(金) 00:39:36.55
>>305
生で口に入れるからじゃない?
当時、羊や豚や鶏は生で食べるのは危険だし
牛は農耕用、馬は騎乗が主だろうし
膾に入れた肉は人肉の可能性が最も高いんだよねえ

310日本@名無史さん2019/01/11(金) 01:07:20.20
>>295
この場合の女王国と言うのは
邪馬台国の領土全体を指すわけで
卑弥呼の都が東の海に面していなければ駄目と言う必要性は無い
そこまでは同意する

が、邪馬台国は後の大和王権に直結しているとは限らない、むしろ連続性は無い可能性の方が高い、と言うのは魏志倭人伝に書かれている女王国の領土はほぼ北部九州に固まっている
そのすぐ南に邪馬台国があり中南部から下は
他国の領土
と言う事は邪馬台国は北部のすぐ下の中部から
やや北にあった可能性が高い

魏志倭人伝に出てこない日向や西都市は投馬国の領土であろう
投馬は殺馬の略字だと言うから薩摩と宮崎は
ほぼ投馬国、投馬国の豪族が日向から
畿内へ遠征し大和王権を作った可能性は
多いにありだと思う

311日本@名無史さん2019/01/11(金) 01:11:10.47
>>299
古いなぁ
邪馬台国は投馬国の北だよ
どうやったらそんな解釈になるんだ?

312日本@名無史さん2019/01/11(金) 06:48:34.74
>>298
>卑弥呼前夜が重要と思っているので、

倭国(阿波)では「卑弥呼前夜」どころか、縄文時代から西日本各地と交易しています。 レベルが違います。


>考古学的にも素直に解釈できるし、

とにかく、考古学資料が余りにも限定的で、貧弱です。 それをもって、説を唱えるのは蛮勇ですよ。  @阿波 

313日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:06:01.20
>>310
概ね同意見だが、南にあったのは狗奴国ではないかな?

また魏志倭人伝から100年ほど後の、仲哀天皇と神功皇后の時代にはもう邪馬台国がない点や
その2代前、景行天皇の時代には北九州で土蜘蛛討伐が行われてる事から、邪馬台国やその連合体は卑弥呼の後壱与を立てたが
畿内に東遷したのではなく、滅んだと考えるほうが無難。

土蜘蛛の長に女が何人かあてられている事から、そのどれかが壱与であった可能性と
当時の北九州では、女性のシャーマンをトップに据えるプチ邪馬台国的な統治が広まっていたとも考えられる。

そもそも欠史八代を除いたとしても、カムヤマトイワレビコの一団が、東征したのはもっと前の時代の話だしね。

314日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:17:11.48
投馬国が宮崎って言ってるけど、それ以外の比定はなにもできてないんだよね。
考古学的な考察も皆無だし。

315日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:35:53.96
>>313
ヤマト王権と邪馬台国は別の国ということだろう。
トップの神夏磯姫は筑紫にいたのだから、その時点では筑紫倭国として存続していたのだろう。

316日本@名無史さん2019/01/11(金) 07:42:36.11
>>313
>当時の北九州では、女性のシャーマンをトップに据えるプチ邪馬台国的な統治が広まっていたとも考えられる。

プチではなく、それこそ中国から倭と呼ばれた国だよ。

317日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:24:18.64
年代的には、神功皇后が海外の史書との比較から4世紀末とされるので、景行天皇は4世紀初頭であり、筑紫を支配していた神夏磯姫は卑弥呼の死後60年目くらいの話になる。
卑弥呼の後の男王、壹與、その次に神夏磯姫が来るくらいか。
神功皇后の時代の田油津姫は神功皇后の末裔とあるので、2代後くらいの倭国女王だろう。
その次の倭国女王が田油津姫を倒した神功皇后になり、応神朝につながっていくのだろう。

318日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:34:00.78
>>314
投馬国は朝鮮半島南岸地域でしょう
宮崎では5万戸は無理。

319日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:37:41.48
宮崎平野なら可能。
国内屈指の規模の西都原古墳群もあるし、日向一宮として都万神社がある。
半島南岸にツマと呼ばれる土地はあるのかい?

320日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:38:39.88
女王国の先の、あきらかに到達してないと思われる場所にまで千余里と里程を表記しいるかとからもわかるように「真偽不明の噂話でもとりあえず書く。距離も適当」が陳寿流。

魏使が女王国の先までノコノコ物見遊山に出かけたか?

ありえねぇだろw 失くせば首が飛ぶこと確実な大事な国書携えて。
魏使は一番合理的なルートで直行直帰だよ。

321日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:41:37.22
>>319
宮崎の代表的な弥生後期集落遺跡ってどれ?  @阿波

322日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:43:05.44
>>312
昔からいる阿波さんなら耳にタコができるほど見ていると思いますが、三雲〜井原〜平原の王墓の存在の事ですよ

323日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:45:56.34
>>320
>真偽不明の噂話でもとりあえず書く。

そんなことしたら、それこそ首が飛ぶよ。  @阿波

324日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:48:34.10
>>322
>三雲〜井原〜平原の王墓の存在の事ですよ

それ、墓地でしょ?  墓地だけじゃ余りにも限定的で、貧弱です。 それをもって、説を唱えるのは蛮勇ですよ。  @阿波

325日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:48:58.27
>>319
馬韓で10萬戸
奴国で2萬戸
宮崎平野なら1萬戸以下。

326日本@名無史さん2019/01/11(金) 08:53:45.16
宮崎平野で5萬戸なら九州全体で40〜50萬戸になってしまうw

327日本@名無史さん2019/01/11(金) 09:01:05.61
>>315
神夏磯姫がいと

328日本@名無史さん2019/01/11(金) 09:36:14.33
>>320
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

倭地を巡り巡って五千里=350km
郡使意外と健脚である。まぁ武官だしそんなもんか。

まぁグルグル移動した範囲は九州北部の女王の支配地域内だけだろうけど

329日本@名無史さん2019/01/11(金) 10:32:19.78
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

330日本@名無史さん2019/01/11(金) 10:36:53.50
>>327
壹與のこと?
それならそれらしい名前にしたと思うのだけど。
確かに年代は近いけれど、20年もあれば一世代ずれるからね。

331日本@名無史さん2019/01/11(金) 10:48:50.29
>>313
狗奴国は人吉だと思う
投馬国は薩摩+宮崎
狗奴国は邪馬台国と投馬国に挟まれる形で存在した小国家

332日本@名無史さん2019/01/11(金) 10:51:37.82
狗奴国は小国家にしては存在感があるんだよなあ。
卑弥呼と卑弥弓呼がどちらも肥国王家で家督争いしていたくらいがいいのではないか。

333日本@名無史さん2019/01/11(金) 10:58:18.34
>>332
熊本南部と北薩(阿久根、川内)も狗奴国の領土かもしれない
川内に人吉と同様の遺跡が見つかってるらしいし奴と付く国は港が大概ある

投馬国は南薩摩、大隈半島、宮崎の大部分

334日本@名無史さん2019/01/11(金) 11:07:44.38
張氏の倭人伝読方を採用していますが
邪馬台国の位置は
帯方郡からの距離と方角、末廬国(糸島に設定)からの距離と方角、さらに侏儒国からの距離と方角がピッタリと一致するのは熊本平野のみ、と言う結果になりました

少し妥協して島原、天草、雲仙も可能性はある
と思います

335日本@名無史さん2019/01/11(金) 11:23:31.37
>>320
至魏志倭人伝 読解諦奴 数千甘考到

魏志倭人伝の読解を諦めた奴は
すぐにそういう甘ったれた考えに到る

336日本@名無史さん2019/01/11(金) 11:37:21.75
>>326
五万戸は五万人だと何度言えば...

337日本@名無史さん2019/01/11(金) 11:53:02.09
数字は大法螺吹いた可能性大だからまじめに考えないほうがいい
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、
渡りて海北を平ぐること九十五国なんて言ってるんだから

三国志でも赤壁の戦いで曹操軍は100万だの
夷陵の戦いの劉備軍は75万だの
日本史では太平記で千早城を攻めた鎌倉軍が100万とか言ってるからな
幕末でも島津久光が7千を率いて上洛したと公言していたが、実際は700だったとかいうし

338日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:08:27.73
>>336
んなもん根拠がないじゃん。
そもそも魏志倭人伝中で、戸と人は使い分けられてる。

卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人

卑弥呼の墓の徇葬者が奴婢百人
男王が立って国が乱れて千人ほどやられてる

339日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:15:22.30
>>333
狗奴国はけして小国では無いな
それだけあれば古代としては十分大国
邪馬台国全体で七万戸、狗奴国三万戸、投馬国五万戸と言う感じじゃないだろうか?

340日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:17:16.89
>>338
戸=人口

341日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:24:33.93
『千余戸ありて・・・』とあるが、張氏は、当時の「戸」には「人」の意味があり、むしろその使い方の方が多い

と説明している。

こういう部分が、正しく翻訳できる能力があるのかないのかが別れるところだろう。

現在を考えると、一家4人ならば、小さな対馬の島に4千人もの人がいたことになるが、この解釈は間違いだと言っている。

「Y」氏の文献は、「戸」を一家と考えているため、

後々の比定地に対して、人口が多すぎて住めない・・・と解釈している場所がある。
おそらく「Y」氏は頭の良い方だと思うが、それが解釈を誤らせたということになる。
科学的に分析するのでは無く、正しく読むことが重要なのだが・・・。

342日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:31:09.92
三国志の他の部分は 戸=人ではないな

343日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:35:24.46
中国人だから分かるニュアンスだろ
ここは張氏を支持したい

古代の村レベルの都市で二十万人、三十万人とかどう考えても多すぎる

344日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:35:53.41
「人」が何人か集まると「戸」になる可能性無いですかね10人=1戸みたいな感じで

345日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:38:32.02
>>343
三国志の全文検索をしてみろよ
倭人伝以外の部分で戸=人と考えられるところはない

346日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:39:55.59
張氏はいい加減な奴だなw

347日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:40:54.63
三国志で使われてる「戸」は諸侯に与えられる食封のベースであり
収税の単位でもある

348日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:41:09.25
>>344
そんな単位なんてどうでもいい話。  

弥生時代後期集落遺跡の多寡を取り上げるべき。

が、それが出来ないトンデモ説の実体。  @阿波

349日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:44:12.82
17世紀の江戸の人口が20万人に満たないぐらいだから邪馬台国30万人説はあり得ない
7万人ぐらいが妥当だろうな

350日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:51:41.99
>>348
それだと遺跡が沢山有ったから人が沢山住んでた→人が沢山住んでたから邪馬台国だ!
のトンデモ説になりそうなんですが

351日本@名無史さん2019/01/11(金) 12:56:41.66
>>350
>それだと遺跡が沢山有ったから人が沢山住んでた

ただし、人が沢山住んでた「弥生時代後期集落遺跡」。 古墳じゃないよ!  @阿波

352日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:00:19.39
>>346
中国古文にこう言うニュアンスがあると言う事実を言ってるだけだろw

353日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:03:19.29
>>345
そこが解釈の分かれ道だと言ってるから
お前はお前で自由に考えれば良いだろ

354日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:08:02.39
どんな言語にも他国には無い表現の仕方や
ニュアンスはあるだろうな
外国人はイッポン、ニホン、サンボン、ヨンホン、ゴホン、ロッポンと不規則に続く日本語に納得いかないと良く言ってるわw

355日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:08:28.97
>>353
全然違うから
「戸」は三国志においてきわめて重要な概念で頻繁に出てくる
例えばある人物を「候」に封じる場合、ふつうは五千戸が与えられる
これは税を納める戸数が五千あるという意味で
それに応じた面積の土地が付随しているわけだ

356日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:10:46.40
わざわざ338で、人の表記の実例出したのに、戸=人は誰も根拠を示さない、、、

357日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:15:01.60
>>355
お前はなまじ知識があるから納得いかないんだろうな、常に上から目線で人に教えたがるから
新たな情報を受け付けず己の干からびた引き出しを持ち出して否定する
安本とかお前みたいな奴は一生たどり着けない
魏志倭人伝はむしろにわかの方が素直に読めると思うよ

358日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:15:06.69
例えば三国志では
「植為平原侯,據為范陽侯,豹為饒陽侯,食邑各五千戸」などと出てくるが
(植を平原侯になし、據を范陽侯になし、豹を饒陽侯になす、食邑は各五千戸)
この「戸」は収税の単位となる門戸のこと

359日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:25:07.35
>>352
根拠が示されてないんだよなwww

360日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:26:11.20
>>358
張氏は、三国志12 魏書12 崔毛徐何邢鮑司馬傳第十二にある
“太祖破袁氏、領冀州牧、辟琰爲別駕從事。謂琰曰「昨案戶籍、可得三十萬衆。故爲大州也」琰對曰「今天下分崩、九州幅裂。
二袁兄弟親尋干戈、冀方蒸庶暴骨原野。未聞、王師仁聲先路存問風俗救其塗炭。而校計甲兵唯此爲先。斯豈鄙州士女所望於明公哉」太祖改容謝之。于時、賓客皆伏失色。“

「昨案戶籍、可得三十萬衆。故爲大州也」
に部分を戸=人に例に引いていたぞ。

361日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:31:54.04
>>360
てにをはを入力し損なった

「昨案戶籍、可得三十萬衆。故爲大州也」
の部分を戸=人の例に引いていたぞ。

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B712

362日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:36:03.45
>>356

この根拠、根拠氏は=最近伊都氏=ウンコ氏
だと思われ

363日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:37:11.42
>>361
「戸籍を調べたら30万人がいるので大州としたのだ」
だいたいこんな意味だな
これがどうして戸=人になるのか?

364日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:38:04.18
現代でもそうだが、一人住まいの世帯はたくさんある。
当時、水田開発が盛んだったそうだから、諸方から集まった来た単身者もいたことであろう。
爺たちは、わが身を思い出してみよ。
戦後の一時期、集団就職の列車で、地方から多くの若者男女が集まった東京・大阪などの例もある。、
一戸は5人見当だ、と決めつけてかかるのが可笑しい。

365日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:41:12.00
リンク先をうまく閲覧できるコツ
誰か教えてくれ
エロ広告が邪魔をして見れねぇ

366日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:50:43.23
>>363
今我々がいう「戸籍」は唐の時代に初めて整備されたものらしいので、三国時代には「戸籍」という単語自体がないので、戸=人(=衆)となるってことかな。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_china.htm

367日本@名無史さん2019/01/11(金) 13:58:33.82
>>366
それは張という人が意図的に曲解というかごまかしをしてるだけ
戸は中国ではもともと家の門という意味

368日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:02:11.10
一戸は一人を意味する、だとか、
一戸は、5人である、だとか、最初からそうきめつけてかかるのが可笑しいんではないか。
各々、そう主張したいのであれば、
まずは、戸=1人、もしくは戸=5人、であることを証明してからにされたい。

369日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:06:32.83
まず、日本の弥生時代の後期あるいは古墳時代の前期に
「私有田」という概念があったかどうかはきわめて怪しい
考古学的には、リーダーのもとで集団で開梱し、耕作、収穫していたという意見が大きいな
そして収穫された米が各戸に分配された
また、鍛冶や玉作りなども集団による分業

370日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:07:01.70
ウンコさん
に何を言ってもダメかと

371日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:11:53.52
17世紀初頭のパリやロンドンも同じぐらいだね
ローマは6万人ぐらいらしい

372日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:13:32.63
まあ実際は、人口7万人だろうと35万人だろうと
どっちもあの時代にあっては
かなりの面積の大都市なんだよ

373日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:13:36.73
>>349
>>371

アンカー忘れ

374日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:16:37.39
戸は税収単位、もしくは徴兵義務単位でいい。「人」という単位は別に出てくるから。
が、壱岐国、不弥国は「家」だ。使い分けるには、それなりの理由があったのかもしれないが理由は不明。

確実なのは、末盧国〜不弥国の、おそらく北九州の先進地域を全部足しても投馬国、邪馬台国にはまったく及ばないということ。
北九州の盟主は奴国であったことは疑いようがなく、それとは別のところに投馬国・邪馬台国はあったという蓋然性が高い。

375日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:18:16.17
戸=5人っていうのは、

史記「為戸籍相伍」
漢書地理志「五口之家」

なんかが根拠

376日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:18:46.01
人口を考えるベースとしては
吉野ヶ里遺跡が、最盛期で環濠内の人口は1300くらい
周辺部の神埼郡を合わせても4000くらいと
九州説の考古学者、高島忠平氏は推測している

377日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:19:11.22
デジタル大辞泉の解説
こ【戸】

[名]
1 と。とびら。また、家屋の出入り口。とぐち。
2 家。一家。「戸を構える」
3 律令制で、行政上、社会組織の単位とされた家。普通は2、3の小家族を含む20〜30人の大家族が多い。
[接尾]助数詞。家の数を数えるのに用いる。「戸数500戸」

倭人伝の戸は、最後の例の「家の数を数えるのに用いる助数詞」だろう。「戸数500戸」

378日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:26:03.31
考古学的にみた弥生終末期の人口は
佐賀平野全体で2〜3万人くらい

379日本@名無史さん2019/01/11(金) 14:47:48.24
其俗 国大人 皆四五婦 下戸或 二三婦
有屋室 父母兄弟卧息 異處

で、戸数とすると、一家は10人以上になって
ちょっと多すぎると思うけどね。

380日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:16:16.26
ともあれ、35万人を持ち出して、
九州に邪馬台国はおさまらない、とか言い出すのは、畿内説の難癖常套手段。
奈良平野は熊本平野の1/4ほどしかないのだから、
畿内にこそ納まるべき場所はないのだ。

381日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:30:46.57
>>375
それは中華の制度。

其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦
とあるように、下戸ですら多妻であることを考えると、一戸10人もザラということもあり得る。
これに非市民階級の奴婢を加えると?

五万戸、七万戸ともなれば、純粋な人口は数十万は下るまい。
北九州の平野部におさまりきらないどころか、弥生後期の列島総人口にも匹敵する。

ま、陳寿の記述がテキトーなフィーリング値である可能性も高いが。
近現代の統計ですら、現実とはけ離れた数値をのたまうお国柄だ。

382日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:43:03.48
列島は通い婚だろ、婦人が同居してたとでも

383日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:52:23.47
平安貴族が通い婚だったとしても、弥生後期の庶民がどうだったかは、わからんな。
父母兄弟卧息異處と、父母兄弟が別居だったことは明記されているけど、嫁については書かれてないから同居だったんだろ。
農耕と狩猟と戦争以外のときは、3P4Pでセックスしまくってんだよ。
弥生後期から古墳期にかけて人口が急増したらしいしな。

384日本@名無史さん2019/01/11(金) 15:59:21.82
古代日本の婚姻と家族:母系社会と通い婚
https://japanese.hix05.com/Folklore/Sex/sex01.old.html

385日本@名無史さん2019/01/11(金) 16:14:40.79
おー。じゃ、そうかも知れんね。別にそれでもいいよ!
嫁別居でも一人暮らしではないだろうし、父母と同居でそこで子供育てたんなら、一戸2人とか3人とかいうことはないだろうしね。
投馬国邪馬台国だけで人口数十万は確実なわけだし、北九州程度でおさまりきらんのは一緒。
大和盆地にもね。

386日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:25:02.17
>>365
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リンクも恋愛も何事もタイミングだ

387日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:27:15.67
魏志倭人伝の書き方では
邪馬台国の支配域全体で七万人じゃなくて
卑弥呼の都、単独で七万人じゃね?

388日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:33:22.82
>>387
末廬国から南へ進むと邪馬壱国に至る。女王の住む都である。水行で十日、陸行で一月かかる。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。(邪馬壱国の)人口はおよそ七万余人。

389日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:49:25.11
>>387
邪馬台国で7万「戸」だよ。
支配地域全体の戸数は不明。

弥生時代の北九州の人口は4万人程度。7万戸が7万人でも無理。
たとえ北九州人口が倍の8万でも、北九州には2万戸の奴国と他の小邑があるので無理。

畿内含め、単独の盆地平野で邪馬台国人口を賄える地は、倭にはない。

390日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:55:15.24
人口統計資料リンク貼ろうと思ったけど蹴られたわ。
地域別人口の超長期推移
で検索するとヒットするよ。

391日本@名無史さん2019/01/11(金) 17:55:24.34
>対馬千余人、一大国三千余人、末廬国四千余人 伊都国千余人、奴国二万余人、不弥国千余人

倭人伝のおおよその人口ついて書いてたら気付いたのだが、狗邪韓国の人口が書いてない!

何故だ??

392日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:00:05.99
倭種がいても「倭」として認められてないところは、書いてない。
倭内であっても遠すぎてよくわからんところは書いてない。

393日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:02:49.28
あと、「人」ではなく「戸」な。
人口はその5〜10倍程度。陳寿の記述が正しいとすれば、だけど。

394日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:06:05.45
>>389
単一平野では無理としても周辺を含めればよい。
熊本平野と阿蘇地域は、地形的にも、伝承的にも火の国としてひとつながり。
ここを一体として7万戸とすれば、入るだろう。というかそれ以外には見当たらぬ。

395日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:06:07.29
>>391
半島南岸はリアス式でほとんど人は住んでいない。
一応、倭の制海権が及んでいる。

396日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:10:43.98
>>394
南九州全域でも人口は6.5万人と推定されているから、7万戸は話にならないぐらい無理。
九州全域でも無理。

397日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:11:57.11
最近なんとなく、高島鬼平一派が点数稼ぎに乗り出してる感が有るな。
ま、ただの気のせいかもしれぬが,,,,,,

398日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:14:23.27
>>396
根拠が薄い

399日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:16:49.02
>>395
ぶっちゃけ
狗邪韓国って本当に倭国なん?
最近ネトウヨが言い出した説じゃないだろうな?

400日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:22:09.99
>>398
資料元は
鬼頭 宏「人口から読む日本の歴史」(講談社学術文庫)

それより信頼度が高い資料もあるかも知れんけど、俺は知らん。

この統計から人口を倍にしても、九州で邪馬台国7万戸(20〜70万人?)は無理だね。
さらに奴国2万戸とその他を入れなきゃならんのだから。投馬国5万戸はどうすんの?って話にもなるし。

401日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:22:53.91
>>396
文献無視の推定に意味はない。

402日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:23:44.09
>>400
その資料がクソ。
奴国の人口すら入らない。

403日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:24:18.61
倭人伝をしっかり読めば、邪馬台国は
@ 北部九州からは遠い場所 A かなり広い地域
になるだろ

404日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:25:38.36
>>400
七万戸は七万人だと何度言えば...

405日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:27:58.50
温暖肥沃な九州に入らぬものが、貧しい畿内に入るわけはない
畿内厨、本末転倒の言い掛かり

406日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:28:44.49
>>403
島原半島全体で七万人は余裕だよ
過疎ってる今でも倍の15万人以上いるのに
古代とは言え首都に七万人いても何ら不思議では無い

407日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:30:48.08
>>399
なんで人口が書いて無いんだろうな...

408日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:32:16.16
>>401
まさにそのとおり。文献には「めっちゃ遠いところから来た!感動した!」って書いてあるんだから、これを無視した推定には意味がない。
倭国之極南界から朝貢に来た倭奴国王ですら、「倭王」としては認めて貰えず、漢の支配下の倭の奴国王という限定的な扱いだったんだから。

「倭王」号を下賜された卑弥呼は、九州よりさらに遠く、もっと広大な地域を支配下に置いていたということ。

409日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:36:42.31
>>407
倭人が住んでいただけで
倭国の領土ではなかったのかも
その頃は出雲ですら魏には認識されてないし

410日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:44:13.30
出雲の戸数も狗邪韓國の戸数も
〆てまとめて
投馬國五萬戸の内数

411日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:44:17.12
陳寿の曲筆癖は同時代人にも知られたところだし、距離里程と同じく適当な数値書いてるってこと。
まー、まるっきり創作でもないだろうが、当時手に入った資料を検証もせずにコピペしたんだろね。

そもそも、弥生人に戸籍に類するものがあったかどうかも怪しいところだ。

412日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:46:23.56
>>410
投馬国は薩摩と宮崎だと何度言えば...

413日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:51:18.82
「昨案戸籍、可得三十萬衆。故爲大州也」
ならば
「為戸籍相伍」で
投馬國五萬戸の口数が25萬衆 であるから

投馬國:25萬衆:大州也

サイズ的には内地の郡のサイズで
それも比較的大きい部類のサイズの郡

414日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:53:12.62
狗邪韓国と投馬国を倭人領土から外したいだけの連呼君

他の比定地や経路説明など一切なし。

415日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:55:23.09
>>412
>投馬国は薩摩と宮崎だと何度言えば...

ということは、邪馬台国は倭国(阿波)ということだね。  @阿波

416日本@名無史さん2019/01/11(金) 18:57:46.20
>>409
後漢書

倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ百余国ある。(前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてから、三十余国が漢に使訳を通じてきた。

国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は、邪馬臺国に居する。楽浪郡から

その国(邪馬台国)へ去ること一万二千里、その(倭の)西北端の拘邪韓国へ去ること七千余里

「倭の西北端の狗邪韓国」だから倭国の領土だったのは間違いない、ただ半島は岩場が多くて荒れ地だったんじゃないかな

417日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:00:46.19
>>400
8世紀以前は資料は殆ど無く信頼度は極めて低いよ
実質的には8世紀の人口を使うしかない。

418日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:02:38.68
>>416
朝鮮半島南岸地域は比較的に温暖で稲作も出来て人口もそこそこいたんじゃないの。

419日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:05:07.87
>>418
地形的に平野がない。
気候の問題ではない。

420日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:05:45.65
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。

421日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:06:16.68
>>381
記録したのが漢人だから中華の制度に乗っているんだよ。

422日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:07:57.82
>>420
関西は兎も角、九州の人口は『延喜式』の人口と大差なかったんじゃなかろか。

423日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:14:05.61
平野が無いったって、
高句麗なんかたったの三千里四方に三万戸だぞ。
北の山岳地帯。

424日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:14:53.66
>>418
狗邪韓国ってオクキョン遺跡の所?

425日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:18:42.14
伽耶は光州あたり、オクキョン遺跡は慶州あたり。

426日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:19:06.22
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

427日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:28:44.73
>>424
釜山じゃないか?
慶尚道はもう少し内陸

428日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:39:06.88
>>423
>平野が無いったって、
>高句麗なんかたったの三千里四方に三万戸だぞ。
>北の山岳地帯。

それ、短里なんだけどね。
じゃあ周旋五千里の邪馬台国に七万戸はいけるよね。
九州だけで収まる。

429日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:47:53.00
狗邪韓国は倭地である事は分かった
人が住んでいる事も分かった

では何故人口が書いてないのだ?

430日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:48:02.52
>>428
三千里と言うと、イタリアのジェノヴァからアルゼンチンのブエノスアイレスまで12000kmを旅した某少年を思い出すが
短里だとたった200kmの小旅行なんだよなぁ

いやまあそれだけの話しだが

431日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:48:23.09
だから周旋五千里は邪馬台国の周囲径じゃなくって、
合計一万二千里の残り五千里のことだと何度言えば。

土地の形状に関わらず、
何度も何度も方可方可と繰り返してるんだから、
周囲径五千里なら方可千二百余里って書くでしょ。

432日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:53:18.77
>>429
三国志東夷伝をちゃんと読んでるの?

小国の戸数まで書いてるのなんて、倭人条だけ。
他は韓伝はじめ、全体戸数しか書いていない。

弥生時代にあっても、倭国だけが先進国だったんだよ。
文字を扱い、各自治体の戸数まできっちり把握していた。

433日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:57:02.72
周旋を計る測量方法がないから、単なる噂話を記載した。

中華から見れば朝鮮半島の外は戦略範囲外ゆえに、テキトーな情報で許された。

434日本@名無史さん2019/01/11(金) 19:58:52.30
金印持って来とるじゃん

テキトーとか馬鹿じゃないの?w

435日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:00:40.91
実際、リリパット国があるとかテキトーなこと書いてるからねぇ。

436日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:01:35.38
>>432
狗邪韓国の人口は?

437日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:02:00.09
悔しいのう

狗邪韓国 悔しいのうw

438日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:02:36.15
>>436
投馬国5万戸の一部であることはわかる。

439日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:04:48.58
>>429
魏志倭人伝でも戸数の書いてない国は他にもいっぱい出てくるよな?
書いてないことに目くじら立てて意味あるか?

魏志倭人伝が信用おけないなら、韓伝のコピペ貼るから諦めて?

韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里
有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓
辰韓者 古之辰國也
馬韓在西


韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。
韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。
辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある。

440日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:04:52.26
>>437
狗邪韓国の人口は?

441日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:05:39.93
やっぱあれだなw

九州説を攪乱するためにスレ立てたはいいものの
結局は倭人の半島南岸領土を否定するのが最大目的だから、
キナイコシと同じ論調になるw

宮崎だー熊本だー島原だー
→九州説は邪馬台国の位置すら決められないのか

じさくじえーん

442日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:07:05.30
>>439
どう見てもお前が目くじらを立ててるんだろw
知らないなら、知らないと言えやカス

443日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:08:15.82
>>442
知らないよ?
書いてないんだからわかるわけがない。

で?

444日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:09:00.46
狗邪韓国は倭人は住んでるけど、女王国の管理下には無かったから官も戸数も記載してないんだよ。
かといって、韓人の国でもないから、そっちに記載するわけにもいかないなーって、中間地帯。

445日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:10:10.70
狗邪韓国は千戸未満だったんだろ。
港に集落があった程度だったんだろう。

福岡を出て長崎県、佐賀県の海岸を進んで筑紫に戻ってごらん。
方などで表現できずウロウロ(周旋)するから。

446日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:10:16.28
>>444
韓伝での扱いは倭のようだが?
第4の韓の国という扱いはしてない。

447日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:11:40.51
狗邪韓国が他所にとられたら壱岐対馬もヤバくなる。
当然、女王国より北(対馬海峡)を支配した大率が狗邪韓国にも目を光らせて支配下におさめていただろう。

448日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:12:40.32
>>441
他の21国は通りすがりや伝聞で聞いただけの国だろ、海を渡る出発地点の狗邪韓国は明らかに
対馬、壱岐と同じぐらい重要な地点

人口は気になって当然だと思うが

449日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:15:29.21
>>446
韓人の国ではないから、韓伝には載せない。
かといって、女王国の支配下にもないから、女王国の官はいない。そういう地勢。
狗奴国だって倭内にあるが、女王国の支配下ではないから、女王国の官はいない。狗奴国の王はもちろん居るけど。

450日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:20:45.89
は狗邪韓国朝鮮、倭のどちらにも支配されない、倭寇の祖みたいなとこだったんだろうよ。国っていうか、集落。

451日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:21:18.67
半島南岸の官なら、
投馬国に耳がおるぞい

452日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:22:45.38
あーあ
また韓人が大暴れか

戸数少ないから戸数書いてないんだよ
中間地帯


はい、韓人は東西が海で、南は「倭」

はい、投馬国五万戸

453日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:29:01.18
仮に狗邪韓国に倭人集落があったとして、魏にとっては特筆すべき重要性は無かったんだろうね。
官や王はいなくても、村長とか海賊の親分ぐらいは居たろうが、名を記すほどでもないという。

454日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:34:35.45
キョンサンドウの遺跡の規模って
どんなもんなの?

455日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:35:06.45
狗邪韓国は漢代だよ。
魏代は投馬国。

五万戸。
官がいる。
韓人の南は倭でしょ。そういうこと。

456日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:37:04.42
狗邪韓国に倭国の中心都市があったと言う
記事をどっかで見たが、それはデマ?

457日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:40:12.20
狗邪韓国に投馬国の中心都市があった

458日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:43:00.21
最も情報の少ない投馬国は
何とでも言える

459日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:44:32.89
帯方郡から南に20日で、北部九州邪馬台国より北。

韓人は東西が海で、南は倭。

半島南岸の倭=投馬国。

460日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:46:06.43
>>455
>狗邪韓国は漢代だよ。

魏志倭人伝に郡使の通過する国として出て来るから、それは間違い。

461日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:49:08.77
>>456
分からない、半島の大乱で狗邪の倭人が追い出されて九州に移動したと言う説もあるが、

それを言い出すと、やれ馬韓だー、卑弥国だーってなるから止めとけ

462日本@名無史さん2019/01/11(金) 20:50:35.50
もうすでに投馬だー!
ってなってるよ

463日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:02:26.64
狗邪韓国は金官伽耶で、現在の韓国金海市
弥生土器が多数出土しており
後代の任那に繋がる地域だな

464日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:12:12.67
日本人としては別に何の欲がある話でも無くて
対馬海峡という地の利が大きくて
倭人は対馬海峡の南北に領土を広げた。

その発展は目覚ましく、
金印を2回ももらうほどだった。

あれこれあったけれども、
白村江で大敗して、
第二次世界大戦の敗戦時と同じく、
国境をかなり譲歩して終戦調停を飲まざるを得なかった。

そこで日本国と改名して、記紀に壱岐対馬までと明記することで
手打ちしてもらった。
軍事力が消滅したから、北部九州からは総撤退。

けれども史書は史書であって、
魏代とか昔の中国史書には、倭国=ヤマト国時代に朝鮮半島南岸を領有していたことが残っている。

倭国直系が現在も残っていて国家元首だから、
その気になれば・・・

というのを危惧してファビョーーーーーん

最近の国際社会は不穏なふいんきだから、
あっちにとって、相当シビアは話ではある。

465日本@名無史さん2019/01/11(金) 21:51:04.46
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

466日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:33:17.97
725年推定人口・・・奈良時代推定人口
・・・(鬼頭宏)・・・・・・・・・(澤田吾一)
・・・・・・・・・・・・・・・(弘仁式)・・・(延喜式)・・・MAX
筑前 112,000人 ・85,400人 ・92,900人 112,000人
筑後 ・59,300人 ・75,300人 ・73,300人 ・75,300人
豊前 ・47,200人 ・75,300人 ・71,600人 ・75,300人
豊後 ・51,600人 ・82,500人 ・87,400人 ・87,400人
肥前 ・48,300人 ・85,400人 ・81,400人 ・85,400人
肥後 108,700人 178,000人 185,500人 185,500人
日向 ・30,800人 ・47,700人 ・43,800人 ・47,700人
大隅 ・40,600人 ・21,100人 ・28,400人 ・40,600人
薩摩 ・38,400人 ・17,400人 ・28,500人 ・38,400人
壱岐 ・12,100人 ・・9,400人 ・10,600人 ・12,100人
対馬 ・・9,900人 ・・7,000人 ・・7,000人 ・・9,900人

壱岐は3,000家だから12,100人÷3,000家≒4人/家
一家は4人?
筑前は伊都国1,000戸、奴国20,000戸、不弥国1,000家だから
112,000人ー4×1000家=108,000
10,8000人÷21,000≒5人/戸
一戸は5人?

467日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:39:39.13
筑前 112,000人
筑後 ・75,300人
豊前 ・75,300人
肥前 ・85,400人
壱岐 ・12,100人
対馬 ・・9,900人
合計 370,000人(74,000戸)

468日本@名無史さん2019/01/11(金) 22:48:20.70
最小を使うと
筑前 ・85,400人
筑後 ・59,300人
豊前 ・47,200人
肥前 ・48,300人
肥後 108,700人
壱岐 ・・9,400人
対馬 ・・7,000人
合計 365,300人(73,060戸) 

469日本@名無史さん2019/01/12(土) 00:00:59.37
>>464
金印が誇らしいって言ってる時点で中国のスパイ

470日本@名無史さん2019/01/12(土) 00:03:55.00
>半島の大乱で狗邪の倭人が追い出されて九州に移動したと言う説もあ

狗邪の倭人が邪馬台国を作ったの?

471日本@名無史さん2019/01/12(土) 01:10:30.93
>>470
晋書には

王名は卑弥呼。宣帝が平定した公孫氏なり

472日本@名無史さん2019/01/12(土) 01:27:42.64
>>399
ヒナモリもいないし、あきらかに倭国じゃないよ。
同盟国ではあったろうけど

大和朝廷に追い出されたクマソの王族を
かくまっててくれたようだから
感謝こそすれ、見下すような真似は良くない。

473日本@名無史さん2019/01/12(土) 01:32:43.87
正直、魏志倭人伝の戸数に関しては
なにが根拠なのかわからない。

畿内より文字や数字は早く入ってきてたろう
当時の九州でも、そんな正確な人口数値を
割り出せたとは思いにくいんだ。

数値そのものが怪しげなのは確かなんだけど、
はたして、なにを根拠にしてるのかがわからない。

あるいは、編集者が適当に入れてしまったパターンか?

474日本@名無史さん2019/01/12(土) 01:42:45.91
というか、倭国と朝鮮の関係は思ってるほど深くない。

これは、文献的な物とも関係なく。
(と言うより、当時の文献や噂話や伝説が
あまり信憑性がなさそうに思われる)

単純な話、日本語と朝鮮語が
どっちも孤立言語で遠すぎる。
(密な、つながりがあったとしたら
もっと言語も、つながりがあって良さそうなもんだ)

おそらく、日本海が間にあって
本当に長い間、それほどつながりがなかったんだろう。

支配する関係でも支配される関係でもなかった
……そのあたりが真実だよ。
へんな民族主義には取りつかれぬ事だ。

475日本@名無史さん2019/01/12(土) 01:54:15.87
3世紀の話に8世紀の人口資料を持ち出す馬鹿ありw
一般的には弥生後期の日本の総人口(関東東北含む)は60万人満たず。
8世紀の平城京の人口ですら10万人台と言われとるな。

陳寿の数値報告は基本的にどれも出所不明の怪情報。
女王国南4000里の小人国って誰が行って計ったんだよw身長3〜4尺とかw

476日本@名無史さん2019/01/12(土) 02:04:50.57
>>475
それちょっと違う
鬼頭宏氏の人口推移で、縄文・弥生時代の部分は
国立民族博物館の小川修三の研究を取り入れたものだが
小川修三は後に講演で、弥生末人口60万を200万程度に訂正している

477日本@名無史さん2019/01/12(土) 02:14:03.00
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

478日本@名無史さん2019/01/12(土) 02:15:49.88
横からだけど
戸籍なんて近代まで、いい加減で
江戸時代ですらまともな戸籍なんて無いからね。

3世紀の人口調査なんて
まず、ありえないだろう
(ついでに言うと、資料はウソつく。
兵の数とか、めちゃくちゃ盛ったりしてるだろう)

後世、当時の人口を概算して出すなんてのも
おそらく、かなり大雑把なものなはず。

479日本@名無史さん2019/01/12(土) 02:22:56.85
おそらくそうだろうな
そもそもその国の首長が自分のところの人口なんか把握してなかっただろ
信じられる部分が多少でもあるとすれば
邪馬台国7万、投馬国2万、奴国2万という比率くらいか

480日本@名無史さん2019/01/12(土) 04:11:48.91
マトモな研究者で倭人伝の数字を額面通りに受け取る人なんて居ないからね。
ど〜しても倭人伝の戸数を当て嵌めたけりゃ、九州北部と目される不弥国以前の国々を九州全域に拡大するしかない。
奴国は漢代には『倭の極南から来ますた!』って申告してるんだし。
一戸
5人で13万人ほどか。記載されてない非女王国勢力を考えると、これでも厳しい数字。


の前に考古資料的にかなり難しい無理筋だけどな。

481九州きうす2019/01/12(土) 07:31:30.95
キッキッキー

482日本@名無史さん2019/01/12(土) 07:55:11.65
>>474
ズーズー弁が韓国南部の言語に似てるってのはデマ?

483日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:02:18.99
>>475
>女王国南4000里の小人国って誰が行って計ったんだよw身長3〜4尺とかw

熊本からピッタリ4000里に種子島がある
小人族伝説がいまでも残っていて身長3尺、四尺の成人の人骨が多数発見されてる

侏儒シュジュ=種子シュシ
これも一致
恐ろしいほど正確な情報だよ

484日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:04:20.74
>>480
一戸=一人...

485日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:10:46.29
>>482
似て非なる物
英語ならゆっくり喋ってもらうと結構理解出来るが
韓国語はどんなにゆっくり喋ってもらっても
まったくわからんよ

486日本@名無史さん2019/01/12(土) 08:52:56.18
ニダニダ

487日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:02:42.13
>>478
江戸時代は檀家制度があったからだいたいは分かってるよ
3世紀は人口に付いての文献が無いから分からない
魏志倭人伝に對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴國、不彌國の戸数が書かれてるくらい
8世紀になると、国毎の米の取れ高とか記録があるからある程度人口を推定することが出来る
弥生末人口60万は8世紀等の人口を基に推定すると明らかに少なすぎて誤り
小川修三が200万程度に訂正したのは当然ですね
魏志倭人伝の九州の記述を見ると3世紀と8世紀の人口は大して変わらなかったのではないかと思います
その後歴史から考えて3世紀から8世紀に人口が急増したのは関西方面なんでしょうね。

488日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:06:48.06
一晩中、何を中途半端なことを議論しとるのか。
狗邪韓国と書いてあるんだから「韓国」の範疇に決まっとる。ガーと目を開けて、しっかり漢字を読め。

489日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:10:23.86
鬼頭の数字は、テ・キトー

490日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:15:28.38
>>487
>その後歴史から考えて3世紀から8世紀に人口が急増したのは関西方面なんでしょうね。

2世紀末から始まる卑弥呼の時代はまだ畿内は未開拓で、卑弥呼の死後に発達していったわけですね。

491日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:16:36.25
>>488
半島側にあったから韓国とつくが、支配していたのは倭の卑弥呼であり、倭国の一部というのが後漢書や魏志倭人伝の立場だよ。

492日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:29:01.70
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

493日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:39:44.28
>>491
正月も開けようとしているのに、飲み疲れで寝ぼけたことを云っとるのか。
狗邪韓国を、「クヤカンコク」とカタカナ読みで記憶してるから原義を忘れる。漢字で読め!

・従郡至倭、循海岸水行歴「韓国」、乍南乍東到其北岸狗邪「韓国」。
この後ろの韓国は、その前の韓国を受けて書かれておる。相通じているのだ。最近の日本人は劣化が激しい倭奴。

494日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:42:54.67
其北岸・・・倭の北岸・・・倭の北の海岸・・・狗邪韓国は倭の北の海岸・・・狗邪韓国は倭

495日本@名無史さん2019/01/12(土) 09:53:32.92
>>491
大陸にあった倭人連合が追い出されて拠点を九州に移動、大陸地区の端だけかろうじて残ってたんじゃないのか

496日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:02:44.27
245年当時の、半島、韓4郡以南の状況として
馬韓54国10万戸、辰韓12国と弁辰韓12国5万戸、邪馬台国21国7万戸であるが、
馬韓、辰韓、弁辰韓の南は倭と接する。 女王国以北の 行程人口の示された、
投馬国○○国5万戸は、ここに存在しなければならない。
馬韓、辰韓、弁辰を構成していない狗邪(韓)国は、この投馬国○○国の構成国である。

南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
が、投馬国○○国5万戸〜邪馬台国21国7万戸 の対馬海峡で隣接する、国邑だが、
この南至の行程を、それ以前の寄港寄宿集落間、里程行程の、末蘆国や不彌国から
直列で繋がるという読み方が、おかしい、ということは小学生でも判る。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
という、陳寿の解説の後

列記21国 が 此女王境界所盡  邪馬台国を構成する21国。この南に
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
があり、
南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 は
自郡至女王國 萬二千餘里 なのである。

497日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:05:56.95
大陸側からしたら大陸の真ん中こそ世界の中心で東の果てなど化外の地だろ

498日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:10:45.31
馬韓、辰韓、弁辰韓の南は倭と接する。
これが狗邪韓国であり、朝鮮半島南岸が倭の領土であったことがわかる。
しかしその土地はリアス式で平地に乏しく、魏志倭人伝にも人口が記載されないほどである。
おそらく対馬海峡渡海に備える補給地程度の機能しかなかったのではないだろうか。

499日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:15:41.80
伊都国の記載を見るに常に使が留まる所なので
水行&陸行が正しい、水行or陸行は無い
唐津まで水行10日、唐津から陸行
また奴国が博多なら唐津に上陸する意味が無く
博多は女王国の支配下では無く奴国でも無い

500日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:16:47.03
投馬国は邪馬台国の南、狗邪韓国関係ない
狗邪韓国の人口が明確では無いのは簡単、倭国の首都は九州にあるから、政治的な管理が海に隔てられているため対岸までは及ばなかった、狗邪韓国も倭国ではあるが自給自足の倭人が住んでるだけ、実質的に管理が及んだのは対馬まで

501日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:18:32.37
>水行&陸行が正しい

誤読、その場合「又」と言う文字がつかないと
意味が通らない

502日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:20:46.43
>>494
>其北岸・・・倭の北岸・・・倭の北の海岸・・・・
そもそも↑この解釈が間違っておる。ここの其の北岸とは何をさしているかだが。。。。

「岸」というときは、この川の向こう岸とか、手前の岸というように、川面を基準に云う。
黄河の北岸、長江の南岸も同様だ。仏教でも三途の川の向こう岸を彼の岸、つまり「彼岸(ひがん)」という。
同様に倭人伝でも、冒頭文中の「大海」の北の岸を「北岸」と記述しているのだ。
すなわちここでも「北岸」とは、海水面(対馬海峡、或は瀚海)を基準にしてのことなのである。

・倭人在帯方東南「大海」之中、依山島為国邑。旧百余国。
・従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到「其北岸」狗邪韓国。

503日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:22:52.69
>>502
同じことを言ってないか?

504日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:28:39.19
>>496
>投馬国○○国5万戸は、ここに存在しなければならない。
>馬韓、辰韓、弁辰を構成していない狗邪(韓)国は、この投馬国○○国の構成国である。

えらいハッキリ言い切ってるけど、構成国ってのは何かソースはあるの?
小規模な国邑が、大国の属国であったり連合関係にあったりする可能性は十分にあるとは思うんだが
当時の文献では見つけることができなかったんで気になった。

構成国であった可能性がある。高い。考える事もできる。
だったら全然オッケーなんだけど、言い切るならそれなりの根拠を出してほしい。

505日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:30:35.40
>>498
狗邪(韓)国 は
其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
の際の、
倭人帰国船便乗の寄港地で来日の張政が漢字を当てた和名国。(韓)は表意文字。

卑弥呼は帯方郡、対馬西航路で半島西岸を目指すので、狗邪は巨済島以西とするべき。
投馬国は女王属国ではないので、狗邪は寄港に関する友好交易もしくは支配地。

壱岐から釜山へ向かうなら、長辺で渡海同様、海岸水行1000里近い対馬が、
方可400里というのは西岸しか見ていない。

506日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:43:06.41
>>502
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國

到其北岸
到は、循海岸水行が終わり、到達したことを意味する。
始度一海千餘里 の始まる、海峡の北岸という意味である。

女王国属国は上陸後、周旋可五千餘里、21国で7万戸である。

狗邪韓國は、倭人国、投馬国に含まれる 卑弥呼の友好国。
女王国は壱岐対馬を含まず、女王国の北岸女王領の北限という意味ではない。

507日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:45:04.32
>>503
つまり「倭との国境である大海(海峡)に隔てられた北がわの岸の韓国側の狗邪韓国に到ったった・・・」という意味である。
この一文よって、狗邪韓国は、明白に倭地・倭国ではないことを示している。

なお現代でも、河の右岸左岸とは、
上流から見た川の流れを基準に、みぎがわの陸部分を右岸、ひだり側の陸部分を左岸という。

508日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:48:54.05
考える順番が変だな。

韓は南を倭と接する
→狗邪韓国もしくは投馬国が、半島南岸をカバーする大きさである
→じゃあ、五万戸の投馬国のほうだろう

509日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:55:15.82
>>504 根拠w
南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸←240年梯儁の通過国行程

(自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳)←陳寿の説明

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國←女王国所属
此女王境界所盡 ←次有21回 はこれが全てで 此所盡  を意味する。

其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里←寄港地間里程の無い水行30日陸行1月の行軍の行程を里程に直した。

510日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:59:56.43
今は川にも海にも長大橋が架かり、
海底トンネルも遠慮なく通うが、
当時古代は、大海や大河川が国を分ける大きな基準であったという前提・常識があった。
四海に至る、などはその好例である
韓は南を倭と接する 、といっても、(海峡を隔てて)倭と接するとの意味だったのではないか。
何しろ当時の国境は細い線ではなかった。
河川だったり、大沼だったり、山脈だったり、砂漠だったり、海・海峡だったり、何しろ幅のある国境(国境地帯)だったのだ。。

511日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:00:09.77
ほぼ誰も住んでなかった
一大卒の管轄外、それが狗邪

512日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:01:57.23
韓人が必死の防衛

513日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:02:00.63
国と付くのが引っ掛かる
しかも韓国

514日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:04:15.43
歴史上なんども攻め込んどるからな。
おまけに中国史書が領土を認めとったら、
あちらから見たら怖かろうて。

515日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:12:54.46
ほぼ人が住んでいない倭(一大率)の支配下の半島沿岸部が狗邪韓国

516日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:14:07.81
春愁やら戦国やらで呉越から脱出したら
対馬海流に乗って九州についた一派と狗邪についた一派がいた。

九州一派は倭国人となったが狗邪では3韓の侵略におびえながら倭人部落として細々と暮らした

517日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:15:23.18
倭は対馬海峡にあった海洋国「あまつくに(海の国)」。
北岸は狗邪韓国、南岸は倭奴国。
これが後漢が認識した倭の領土の全て。

518日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:17:14.37
そして百年後・・・

九州一派の支援を受けて、狗邪を中心とする五万戸の投馬国となったのである。

519日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:18:02.59
対馬海峡は中継地の離島

520日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:22:00.14
>>501
そんなこたぁーないw
>>502
この場合の「大海」は海水面(対馬海峡、或は瀚海)だけでなく
九州の周りの海全部の意味ですから北岸は狗邪韓国に限らないので
海基準は誤り。

521日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:27:52.82
>501日本@名無史さん2019/01/12(土) 10:18:32.37
>>水行&陸行が正しい

>誤読、その場合「又」と言う文字がつかないと
>意味が通らない

真逆だ、又(股)がつくと、水行又(股)は陸行が決定的となる。

522日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:29:39.06
>>476
>それちょっと違う
鬼頭宏氏の人口推移で、縄文・弥生時代の部分は
国立民族博物館の小川修三の研究を取り入れたものだが
小川修三は後に講演で、弥生末人口60万を200万程度に訂正している

それなら、鬼頭推計をざっくり3〜4倍して邪馬台国期の北九州人口を12〜15万人程度とすれば、帳尻合うね。
奴国2万戸とその他諸国を人数換算すると、ちょうどそのくらいでいっぱいになる。倭人伝に記載のない佐賀勢力も加算する必要があるとしても。

南九州人口は4倍しても30万人に満たず、投馬国5万戸邪馬台国7万戸を収容するのは不可能。
戸数記載からは、邪馬台国は九州以外のどこか遠く広大な地にある、ということになる。


>>483
>熊本からピッタリ4000里に種子島がある
小人族伝説がいまでも残っていて身長3尺、四尺の成人の人骨が多数発見されてる

はい、大嘘。
広田遺跡人骨は男子で154cmほど。
http://www.town.minamitane.kagoshima.jp/education/bunkazailist/hirotaiseki.html
陵墓の発掘によって身長155cm(サバ読み魏志で7尺160cm)と推定される曹操と変わらない。

523日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:30:42.33
水行or陸行が正しいですね

524日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:33:36.23
>>509
全然証明できてない。
やり直し

525日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:34:53.76
>>522
wiki

種子島から発掘された弥生期から古墳時代にかけての人骨の調査結果で、「極端な」短頭、低頭、低身長特徴を持ち、

魏志倭人伝に記述されている侏儒國の人類学的特徴と一致しているとの見解による。 この特徴は同時期の人骨が発見されている沖縄や九州、

本州などには見られない特徴で「小人並」の成人の人骨は種子島だけにしか見られないとのことである

526日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:36:26.40
>>523
>水行or陸行が正しいですね


水行or陸行が適合するのは倭国(阿波)だけ。

投馬国(五万戸)(土佐宿毛市辺り)

↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は、陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察

女王・卑弥呼のおわす 【邪馬台国 阿波】 到着(七万戸)

↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)

女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。

527九州きうす2019/01/12(土) 11:36:31.18
鬼頭宏は人口研究の専門家だが古代史は専門外なので
日本の歴史的な人口推移グラフをつくるにあたり
国立民族博物館の小川修三にその部分を依頼

小川はその当時発見されていた遺跡数から人口の試算をしたが
遺跡はその後も派遣されているし、渡来人の数をまったく考慮していなかったので
講演で弥生末200万程度と述べている
そのときの記録はPDFでネットに残ってたんだが今は消されてる

528日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:37:01.06
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。

529日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:37:54.15
>>523
>水行or陸行が正しいですね


水行or陸行が適合するのは倭国(阿波)だけ。

投馬国(五万戸)(土佐宿毛市辺り)

↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は、陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察

女王・卑弥呼のおわす 【邪馬台国 阿波】 到着(七万戸)

↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)

女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。

530日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:40:45.64
>>523
水行or陸行だとすると、当然経路は2通りになり、
自郡至女王国も、1万3千里or1万1千里のように二通りに書かれるはず。
しかし、「自郡至女王国は1萬二千余里」と、一通りしか書かれていないので、orでないことは明白。

531日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:42:45.49
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-19570231/

種子島における縄文時代人骨の資料数を増加させる目的で、鹿児島県熊毛郡南種子町一陣長崎鼻遺跡の発掘調査を行った。

今回の発掘で新たな縄文時代人骨は発見されたが、頭蓋の小破片のみであり、保存良好な古人骨資料は得られなかった。

種子島の弥生〜古墳時代相当期の人々の短頭・低顔・低身長という特徴、中世人の長頭・低顔・高身長という特徴、近世人の長頭・高顔・高身長という特徴を明らかにできた。

身体形質が、種子島においても時代を経るごとに小進化している。特に中世の日本列島各地で起こる長頭化は種子島でも起こっている。また、種子島における形質変化の大きな画期は、弥生〜古墳時代相当期と中世との間の時期に認められる。

これは、南九州以北の地よりの移住者による遺伝的影響に寄るところが大きいのではないかと思われる。広田遺跡から出土した人骨2体からミトコンドリアDNAを抽出され、これら2体は母系でつながる血縁関係は持たないこと、ハプログループはD4に属すると考えられ、

現代日本人にもそれほど珍しくない頻度で出現するタイプであることが明らかにされたまた、広田人骨からコラーゲンを抽出し、

炭素・窒素安定同位体比から食生活を検討し、広田人は海産物を含む3種類以上のタンパク質資源を利用していたことが明らかにされた。

532日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:49:05.24
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

533日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:53:21.31
鬼頭の数字はテ・キトー

534日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:18:04.31
>>527
数字がわかる奈良時代や平安時代の
記録の人工推移を見ると
自分では弥生時代末期には250万人は
居たと考えているけど

60万人よりは200万人のほうが
妥当な数字だと思うね。

535日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:24:44.77
>>523
南至 投馬國 水行二十日
これは、地名の後に動詞、距離(日程)なので、
南へ投馬國へは 水行二十日を要する。である。

半島南岸には、中華が記録しない正体不明の倭人国があり、
これが投馬國(5万戸の十数国〜20国で構成する国名)である。

南への起点は、既出の行程には 存在しない。 
起点は、半端な末蘆国では無く、帯方郡に戻る が正しい。

さらに、
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
邪馬壹國 女王之所都 の後に、動詞、陸行水行、と距離が並列である。
ここは、張先生も読みが、あいまいになるのは仕方がないかもしれない。

ただし後文で、邪馬壹國は21国の総称、女王之所都は邪馬台国の南限であることが判る。
邪馬台国へは海峡を 水行10日 さらに女王宮まで行くと陸行1月を要する。となる。

さらに
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里 

と続いて
水行30日と陸行一月が、自郡至女王國 萬二千餘里だと判る。

536日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:28:44.01
>>530
水行でも陸行でも行ける所
と言うのが正しい読み方

537日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:37:28.20
>>535
自郡至女王國 萬二千餘里
帯方郡から伊都国、奴国で既に萬二千餘里ですから
陸行一月は陸行一日の誤記でしょ。

538日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:40:43.97
末廬国(糸島泉川河口)から水行10日、もしくは陸行一月で行ける所だな

末廬国から500里→伊都国(吉野ヶ里
末廬国から100里→奴国(三雲

末廬国から南へ2000里→熊本平野、島原、雲仙
侏儒国(種子島)から北へ4000里→熊本平野

邪馬台国の所在地

熊本平野

539日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:41:08.69
「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」と女王国以東の距離を示しているんですから
女王国までの内訳の里数が書いてないなんてこたぁーない。

540日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:43:46.70
>>537
西と東を間違えないのと同様に
さすがに
一月と一日を間違えることは無いよ

541日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:48:56.54
墨で書かれた月と日は間違いやすいんですよ
日の下の突き出し量が長いと月に間違われる。

542日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:51:35.16
>>539
それが逆に
水行or陸行と言う裏付けになる
水行と陸行で距離が変わってくるから
書けなかったんだよ、おおよその距離は
それまでの記述で分かるしな

543日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:53:54.03
>>536
畿内厨特有の云い捨てか。
箸墓頓挫で都を追われ、九州に落ち来ても居所なしか、、、哀れよのう。

544日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:56:45.90
>>542
何を言ってるか意味が分かりません?
もっと分かるように書いて。

545日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:00:09.13
「女王国から東へ渡海」の場合は海があるから距離を書かないと目安になるものがないが
陸続きの場合は南へ陸行一月で伝わる

546日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:02:13.82
>>541
素人が何をほざくか。
日の下に突き出しするのは書道初心者の小学生でもしない。そこはまあるく上にもっていって、横棒につなげる。
その点、月はしっかり下に伸ばして最後を鋭角に跳ねる。
古代人の誤りを防ぐ知恵だな。

547日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:06:50.10
>>542
ごまかして逃げる帰化人。
自郡至女王国1万2千余里と明記されてる件はどうするのだ。どうせ、畿内説の骸じゃな。

548日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:11:03.34
>>545
何を言ってるのか分かりません???
女王国以東の1000里の距離が書かれているんですから
女王国までの12000里の内訳が全部書かれていないとおかしいでしょ?

549日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:12:22.99
>>542
まったくその通りですよね
末廬国から邪馬台国までは2000里
距離は出てるんだよね

550日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:14:27.40
>>548
ん?
おかしいからってなんだってんだ?

551日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:14:54.09
>>549
その2000里の内訳は?

552日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:15:52.68
>>550
12000里の内訳を示してよ。

553日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:17:09.48
>>551
それはお前が考えろよ
甘ったれが

554日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:24:39.92
距離とか比定地はこのスレにも、前スレにも
色んな人が色んな読み方で書いてるよね

555日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:26:26.60
魏の役人「帯方郡から貴国までの距離は何里ぐらいですかな?」
邪馬台国の役人「1万2千里です(計ったことないけど、そのぐらいでいいだろ)
魏の役人「では内訳は?まず狗邪韓国から帯方郡はどのくらいでしょうかな?」
邪馬台国の役人「えーとですね・・・(やば テキトーに言っただけなのにどないしましょ)」

多分こんな感じだろ

556日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:27:08.86
それも詳細に書いてあるのに
内訳は?内訳は?ってバカじゃねーのw

557阿蘇2019/01/12(土) 13:32:07.36
誰がどのレスか分からないから
頭に比定地を書いておけば良いんじゃないか?

558日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:34:54.95
何故 行程が2つあるか、の内訳が

到其北岸 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
又 南渡一海千餘里 名日 瀚海 至一大國
又 渡一海 千餘里 至末盧國
東南 陸行五百里 『到』伊都國 終了
これは、
247年 張政の行程 倭人船便乗による 為檄告喩之 の旅 寄港地間、総里程1万500里
(付) 東南 至奴国 百里 / 東行 至不彌國 百里
247年張政は 計1万500里 で伊都に『到』駐留 為檄告喩之 壹與と難升米

つぎに、
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

240年 梯儁 軍船による行軍 卑弥呼に印綬 国勢参問 可7万戸
列記21国 此女王境界所盡 其南有 狗奴國
自郡至女王國 萬二千餘里

240年梯儁は 卑弥呼に印綬 魏軍の行軍で初見の倭地 
投馬国と邪馬台国を通り宿営間の里程無し、総里程は 自郡至女王國 萬二千餘里

559別府2019/01/12(土) 13:37:15.69
>>557
イトウンコとかシッコクとか
自演したい人達が困るだろw

560日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:38:56.16
>>558
何処からその12000里は出て来たんだ?

561日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:40:42.80
>>555
邪馬台国の役人は倭人だろ
隋代まで倭人は里を知らない。

562日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:46:28.43
>>553
自分の説なのに説明出来ないのw

563日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:47:25.05
>>541
明らかに意味が変わってしまう字を間違えませんよ、「月」と「日」間違えようがない、「火」と「水」間違えようがない

どうやって間違えるの?

564日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:53:03.48
水行陸行を足し算と改ざんして
さらに一月を1日の間違いだと言い張る奴等は
畿内説論者と変わらんやんけ

565日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:54:27.16
>>563
当初は魏志倭人伝を含む三国志全部が木簡か竹簡に書かれていたんだからな
陸行一日とあったのを僅か陸行一日を記載するはずはないと誰かが勝手に判断して陸行一月としたんだろうな。

566日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:00:05.26
>>565
素直に水行でも陸行でも行ける所と読めば
水行十日陸行一月で、何の矛盾も無いですよ

567日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:03:24.50
倭人伝を普通に読めば
邪馬台国は北部九州からかなり遠い場所で領域も広い
熊本、佐賀、福岡と長崎の南部を合わせた程度はありそう

568日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:06:32.93
キナイチュウ、イトチュウの 難癖言い掛かり大会開催チュウ!!

569日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:07:33.07
あと人口は昨日も書いたけど
九州説の考古学者高島氏によれば
吉野ケ里の最盛期で環濠内1500人、周辺部合わせて4000人
佐賀平野全体で2〜3万人
これは遺跡の数からの推測で、かなり確かな数字

570日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:10:33.86
ヨオッ、鬼平軍団!!

571日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:21:34.70
吉野ヶ里は伊都国

572日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:48:03.86
>>571
吉野ヶ里は伊都国ではない
吉野ヶ里は傍国のどれかの国です。

>>566
隋書の月も日の誤記だよ。
其南海行三月 有𨈭牟羅國
其國境東西五月行南北三月行各至於海

573日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:49:25.40
>>572
お前の邪馬台国は改ざんだらけだなw

574日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:57:54.29
>>573
魏志倭人伝を正しく読むと伊都国が卑弥呼の都なんですよ。

575日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:58:39.07
晋書

「王名は卑弥呼。宣帝が平定した公孫氏なり」

これは何?

576日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:01:20.98
誤読です

577日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:02:02.99
>>574
どう読んでもそれは無いです
伊都国は女王国の領域ですが
官の名前も違うし卑弥呼の拠点とは別物です

578日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:06:40.74
>>577
都庁に大臣がいるかい?

邪馬台国は中央政府だから、大臣名が列挙。

伊都国は首都の都庁だから、他の県庁などと似た職名。

579日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:11:05.59
平安時代だって、山城国にも国司はいただろ?

女王卑弥呼がわざわざ伊都の道路整備や水路掃除なんか決裁してらんないだろ。
伊都国の官がやってたんだよ。それが書かれているだけ。

国会議事堂と都庁が両方東京にあるのと同じことだ。

580日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:16:56.54
伊都地方官 禰宜
対馬海峡を含む刺史監察 大率
対魏外交担当 難升米
国家代表 倭王卑弥呼

全て伊都にいた。
なかなか整った体制だね。

581日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:20:09.82
伊都地方官 禰宜
対馬海峡を含む広域監察 大宰率
対魏外交担当 難升米
国家代表 卑弥呼

の方がわかりやすい?

582日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:21:30.94
卑弥呼はラスボスだから
人の出入りが激しい都庁のような場所にはいないな、倭国の玄関から遠く離れた僻地かつ人口七万人が住める広大なエリア

僻地かつ人口七万人が住める広大なエリアだ

583日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:23:43.89
人口七万人が住んでいた広大なエリア 奴国弥生銀座を中心とする北部九州

僻地 伊都千戸(海と山に囲まれた要塞首都)

584日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:27:48.76
>>583
いいね!

585日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:36:51.83
ついに糸島組もへき地を自認するようになってくれたか

586日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:49:21.17
「自女王國以北」の内訳

對海國 1,000戸
一大國 3,000家
末盧國 4,000戸
伊都國 1,000戸
不彌國 1,000家
----------------
  〆て10,000戸あまり

総称として 伊・壹・壱・一 の名號
これを仮に「伊那」とおいて論を進めるのが有効かもしれない

伊那の治所は伊都國であり

伊那の代表者は伊都國王を称する卑弥呼の異父兄である
伊都國王が女王家の血筋にあることが記されているところが
「皆統屬女王」

伊那の発生は倭國乱による結果であり

倭國乱は「長大」補正を施すと
およそAD210年からAD225年の出来事であるとみられる

587日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:53:48.82
>>582
島原半島

588日本@名無史さん2019/01/12(土) 16:57:24.57
「道里」とはみちのりを里を単位として表現したものである
里を単位として記されたものの内の一部を除外するためには
それ相当の妥当な理由が必要である

道里記事 主文の骨格部
--------------------------------
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
舊百餘國 漢時有朝見者今使譯所通三十國
--------------------------------
循海岸水行歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里至對海國 方可四百餘里
又南渡一海千餘里至一大國 方可三百里
又渡一海千餘里至末盧國
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至女王之所都
--------------------------------
自女王國以北其戸數道里可得略載
自郡至女王國萬二千餘里
--------------------------------

  7,000里
  1,000里 +400里 +400里
  1,000里 +300里 +300里
  1,000里
   500里
   100里
--------------------
〆て12,000里

589日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:17:31.43
追記されたおまけの道里記事
--------------------------------
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國復在其東南 船行一年可至
參問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里
--------------------------------


追記された道里記事の骨格部
--------------------------------
女王國東渡海千餘里 復有國
又有侏儒國在其南 去女王四千餘里
--------------------------------
參問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里
--------------------------------

「去女王四千餘里」の「去女王」を「去女王(國)」として読み替えるむきがあるが
これは誤であって「去女王(境界)」の省略形が「去女王」と理解すべきである
陳壽に替わってより適切な表現を探ると
「去女王」は「去女王界」に差し替えてあげるのが妥当

1,000里 +4,000里 = 5,000里

ここでは女王國発 5,000里の追加の小旅行

590日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:24:15.88
末廬国(糸島泉川河口)から水行10日、もしくは陸行一月で行ける所

末廬国から500里→伊都国(吉野ヶ里
末廬国から100里→奴国(三雲

末廬国から南へ2000里→熊本平野、島原、雲仙
侏儒国(種子島)から北へ4000里→熊本平野

邪馬台国の所在地

熊本平野

591日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:26:30.72
>>588
それ相当の妥当な理由 も糞も方可三百や四百里は行程じゃない。
文法の話で言うと

始度一海千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可 四百餘里

動詞+里程+至地名 が行程文 
其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可 四百餘里 は土地の説明

本論
東南 至奴国 百里 は、至地名の後に里程、で動詞が無いから行ってない。
東行 至不彌國 百里 は 至地名の後に里程、行程中の文として直列しない町紹介。

なのに、末蘆でも奴国でも、行程文には繋がらない
南至 投馬國 水行二十日 至地名の後に動詞で里程 の起点が 末蘆国だと、
頓珍漢な読解力で、小学生も騙せないのが、>>3 なんだろ?

これ以下だって、判ってるか? 幼稚園?
文法スレだぞ、間違ってるけどwww

592日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:32:50.43
むだに「行程」という技術用語を持ち出す必要はない

陳壽本人が「可得略載」と宣言している「道里」に集中して思考すべし

593日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:34:03.95
現実に里が測られてるんだから行ってるだろ。恣意的に除外するなよ。
そもそも「合計12000里です」で行程記事を〆てるのに、
10700里で里の部分が終わってたら説明としておかしいだろうが。

594日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:35:17.00
>>590
悪くないぞ

595日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:39:17.51
ヒント:余

596日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:40:24.24
ヒント:最小単位が100里

597日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:51:02.95
>>593
247年張政の倭人船便乗の行程は
『到』伊都國 までの1万5百里 で終ってる。
東南 至奴国 百里 と 東行 至不彌國 百里 は女王国に向かっていない。

240年梯儁の行軍は 起点が、帯方郡に戻って、
南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
が、「合計12000里です」

投馬國 邪馬壹國 は、行程中の里程で示される寄港寄宿地名 では無く、
『到』伊都國までの1万5百里行程中の、歴韓国と 同様の概念での、隣接する国名。
この国に含まれる、都市間里程の行程と、直列で繋がるわけが無い。

598日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:08:20.30
「道里」とはみちのりを里を単位として表現したものである
と陳壽に替わって彼の用語説明をしてあげた場合
同類表現の
みちのりを「日」を単位として表現したものは 「道日」というべきである

陳壽本人が「可得略載」と宣言しているところのものは「道里」であって
「道日」 ではない

みちのりを「日」を単位として表現した 「道日」記事はふろくのおまけにすぎない

599日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:13:55.52
>>597
伊都が首都だが、女王国の中心が伊都であるとは限らないんだから、
別に12000里が奴国でも構わない。
ニューヨークやシドニーみたいなもの。

600日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:19:09.70
>>598
陳壽本人が「可得略載」と宣言しているところは
その、「道日」中に在る。

南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸(官略)

自女王國以北 其戸數道里『可得略載』 其餘旁國遠絶 不可得詳

以下 次有21国列記 此女王境界所盡 其南有 狗奴國
自郡至女王國 萬二千餘里

投馬國 は 女王國以北 である。

601日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:20:34.77
奴国と伊都国を合わせたのが倭国の首都圏である邪馬台国
倭語では筑紫の日向

602日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:25:40.11
伊都國は征服者の海の民1,000戸の居住区として
よりふさわしい所を伊都國として比定すべきところ
後漢代の奴國王の墓所のある三雲を伊都國と比定しているところが笑止

須玖地域は三雲・高木領域から拡張展開していく
奴國の拡張域に位置する新たな王都にすぎない

603日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:30:36.38
>其国本亦以男子為王住七八十年

そうだね。
後漢代の國王の墓所のある三雲だからこそ伊都國と比定している。
日本中でここしかない。

604日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:32:17.10
>>599
>伊都が首都だが、女王国の中心が伊都であるとは限らない ?

到 伊都國 が首都であることは
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
の説明に拠る。 なぜこの説明が、この行程中に必要か? は

247年の張政の渡航目的が、
黄幢拝假難升米 為檄告喩之 と 政等以檄告喩壹與 だからである。
伊都の機能が
女王に属する王や使者が常に往来する所で、郡使張政も一大卒の検閲で駐留した。

これによって、張政は行程 1万5百里の伊都で、任務を終えたのである。

605日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:32:23.29
後漢代の奴國王の墓所のある三雲だからこそ奴國

606日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:36:11.95
>>597
247年の後に240年の記事を挟むとか、1萬五百里と1万2千里をクロスさせるとか、
時系列、及び空間観念がぐちゃぐちゃ。珍しいほどの統合失調のお人だ。

607日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:36:21.47
奴國王ってなに?委奴国王のこと?
狗奴国王のこと?

608日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:39:49.12
>>606
陳寿の文章を、一字一句曲げないで読むとそうなる。
本スレの趣旨ではないのかな?

609日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:46:27.63
>>608
一字一句曲げないという気構えなら、歴史の順番も曲げてはならない。
まずは240年度の記事を先に書き、その後から247年度の記事を書くことをお勧めしたい。

610日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:46:27.69
>>588-589
これが全て。
女王国より先の道里まで書かれているんだから、
書かれた範囲の中で12000里ないと説明になってないだろ。
対海國と一大國のそれぞれ400×2と300×2も足さないといけない。

でもって、日程は別。

611日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:51:35.95
[委奴國王]の[委]は[奴國王]を形容する

[委奴國王]とは[委面]して[南面]する[帝]に[率俾]する[奴國王]の謂い

612日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:58:36.80
>>607
女王国に属する 大夫の国 は 21国で7万戸
次有
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國
此女王境界所盡 其南有 狗奴國

だが、これらの漢字は、240年印綬で女王宮を訪れた梯儁がつけた。
倭人に参問した、和音を中国語で記録する方法は他にない。
邪馬台国は、邪馬国に在った女王の臺 をランドマークに命名した21国総称の暫定国名。

この国名の 中で 遣使、大夫名の
奴国王/(難)升米
都支国王/(都市)牛利
巳百支国王/(伊聲耆)掖邪狗
が、該当する可能性が高い。
(内)の 文字は 郡での奏上和音を別の役人が漢字化した。

613日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:03:34.84
>>610
郡から女王国まで1万2千里と〆てあるのだから、
行程累計が1万2千里となる「奴国」が、邪馬台国であり、女王之所都であり、女王国でもあるというわけだな。

614日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:03:54.37
後漢代の倭奴国は実は伊都国のこと。

615日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:05:45.96
>>609
陳寿に伝えてねwww

616日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:06:24.95
>>613
ちがうだろ。

郡から女王国まで1万2千里と〆てあるのだから、
行程累計が1万2千里となる「奴国弥生銀座」が、邪馬台国の中心=ニューヨークである。

女王之所都は伊都=ワシントンであり、
女王国とは広域国家邪馬台国=アメリカ合衆国であるというわけだな。

617日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:11:28.77
邪馬台国なんて三国志には書かれていない

邪馬壹國女王というのは統治領域が添付された壹與のニックネームで
晋代初頭に陳壽がみつくろってあてはめたものでしょう

618日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:12:11.96
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

619日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:13:20.92
>>617
>邪馬台国なんて三国志には書かれていない

間違った説は結局そうなるよねww

620日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:14:23.71
「奴国弥生銀座」って倭國乱で蹂躙された須玖区域のつもりなの

621日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:32:04.23
邪馬壹國女王の統治領域は2つの領域により構成される
[邪馬]領域 +[壹]領域 である

 [壹] 領域のは[伊那]と仮称しておくが

[邪馬]領域とは[女王界]のことであり
[女王界] = [邪馬]領域 = [奴國] +[其餘旁國](20ヵ国)
これらは〆て60,000戸

[奴國] +[其餘旁國](20ヵ国)の構成は
20,000戸+40,000戸 となり
これに加えるに[伊那]領域が 10,000戸で
これらが〆て 70,000戸 となる

622日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:38:15.73
結局のところ、福岡平野の中に主要国が集まったもろ福岡説=北部九州王朝説だったというわけか。
古田説と安本説の合弁合作みたいな国だな。
ということは、
1世紀の倭奴国王の後裔の三世紀の女王卑弥呼が、再び親魏倭王の金印もらったということになるな・・・、

623日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:43:10.14
>>621
メチャクチャだなぁ

624日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:43:13.89
>>622

そうだろうね。
おそらく卑弥呼の最初の国書には漢委奴国王印で封泥がされていたはず。
そうでないと倭王からの国書であることを証明できない。
倭は一貫して福岡なんだよ。
そして卑弥呼の墓は平原遺跡ということになるのだろう。

625日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:52:03.19
女王卑彌呼は
女王俾彌呼とも綴る

[俾彌呼]の[俾]は [海隅出日罔不率俾] の [俾]
魏帝にたいするよいしょよいしょ
[委面]して[南面]する[帝]に[率俾]する成長した[奴國王]の謂い

[俾彌呼]の[呼]は [狗奴國王]の[卑彌弓呼]と共通
さらに[辰王]の [加優呼]とも共通する
ある種の統一酋長の名につく飾りもの

[狗奴國王]は倭國乱で弾き出された須玖区域の倭國王の流れかと推測される

626日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:52:43.36
そうすると福岡平野に、
奴国の2万戸と、邪馬台国の7万戸と、投馬国の5万戸と、伊都国不彌国の2千戸ほどがあり、
帯方郡の役人の駐在所があり、一大率の治所もあってそれらの国々を検察し、
兵士に守られた女王卑弥呼の侍女1000人の宮殿があって、その径百余歩の塚もあったというわけだ。
なかなか立派なものだ。では、夫々、遺跡を示して説明してもらおうではないか・・・。

627日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:55:08.41
>>624

倭waは越wo

628日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:56:51.61
投馬国5万戸は朝鮮半島南岸

北部九州邪馬台国7万戸の中に、
福岡平野奴国2万戸や、伊都国不彌国の2千戸などがあり、
帯方郡の役人の駐在所があり、一大率の治所もあってそれらの国々を検察し、
兵士に守られた女王卑弥呼の侍女1000人の宮殿が高祖山にあって、
その径百余歩の塚である平原遺跡もあったというわけだ。

629日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:56:56.33
>>623
トンデモだよな

630日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:59:03.49
邪馬台国は未だ発掘されてない地区に眠ってる可能性が高い

たぶん北薩

631日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:08:34.95
>>617
>邪馬台国なんて三国志には書かれていない

>邪馬壹國女王というのは統治領域が添付された壹與のニックネームで
>晋代初頭に陳壽がみつくろってあてはめたものでしょう

もともと『三国志』の中では“壹”と“臺”との間違いが非常に多く、有名な孫堅の兄の孫羌の字も、“聖台”であるのに“聖一”と間違えている。“孫聖台”は孫堅の兄として、中国で三国志のファンなら、ほとんどの人が知っている。
「誤読だらけの邪馬台国」張明澄 著

632日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:11:24.88
単に邪馬台国を邪馬一国と間違っただけなのか。
それとも邪馬一国も存在していて、邪馬台国と邪馬一国を混同したのか。
それともやはり邪馬一国が正しくて、邪馬台国のほうが誤読なのか。

要するに、1つなのか2つなのかでだいぶ解釈が変わってくるね。
北部九州なのは同じだが。

633日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:15:15.02
>>632
“一”は使われているから“壹”を“一”の意味では使わないのでは?

634日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:21:02.44
>2世紀末頃、各地から大和に結集した勢力の中に、河内はいなかった。
>この頃の纏向から出る土器の中には、河内の土器はない。
>3世紀初頭頃になって河内の土器が出るようになる。
>それと引き換えに、吉備や西部瀬戸の土器が減少し始める。
>河内は、石塚古墳が造られる頃になってから、纏向臨時政権に加盟してくる。
>河内は、様子見していたのだろう。
>で、河内が来たので、吉備や西部瀬戸らは嫌気がさしてきたのだろう。

東北地方を除けば最後に残された毛人地域だった河内。

九州倭国が銅戈軍で河内を攻め落としたことで、
畿内を抜けて東西の交通ができるようになり、
大和に交易拠点を作り始めたわけだが、
(九州の旧三輪町にあった「大倭」の、畿内版ね)
占領したばかりの河内の支配行政体制を確立するのに時間を要しただけでしょ。

石塚古墳が造られる頃にようやく、
河内の行政が整って、
河内からの税を他へ振り向けることができるようになったということ。

635日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:27:27.16
>>628
そりゃ大いに結構なことだ。
そうすると一世紀に金印を拝し、更に三世紀の祖孫も金印を拝受したのであるから、
後漢の王、並びに政権を禅譲された魏王朝の曹操らと、倭奴国王家とは長きに渡る親密な間柄にあったわけだ。
それはそれは、めでたいことだ。そういうわけか・・・。

636日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:44:19.03
>>635
そりゃそうだ。
そうでなかったら倭という国号を継承できない。
大乱で王統が乱れていたことはバレている。
しかし引き続き王都である倭奴国(伊都国)を支配しているのなら、とりあえず倭王でいいか、と魏は判断した。

もし邪馬台国が倭奴国以外の場所であれば、王統は違うし場所も違う。
そんなものはもはや倭ではない。
そもそも倭が遷都した記録もない。

637日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:22:08.68
国って別に王がいなくても村単位でもみんな
国なんだよな

638日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:23:32.92
>>636
そもそも倭が遷都した記録はなぞ有るはずもないだろう。
漢時からの、王統の正統継承にかかる諸事情は、お互い良くわかっていたのだろうからな。

639日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:26:09.37
爾支(ni-qi)の別称をもつ伊都國王王権の発生過程は倭國乱を通してのこと
それが公的に正式化されるのが景初二年(238)十二月の詔書
「今以難升米爲率善中郎將 假銀印青綬」
以降 難升米は正式に倭州率衆王を名乗ることが許容された
難升米こそは記紀に取り込まれて天孫族の孫の位置を占める邇邇藝

640日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:27:08.83
勘違いしている人がいるが
倭の最南端は倭奴国と言うのは
57年の話だからな

641日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:47:45.74
57年の話しと238年〜の話しが二重写しになってる人は少なくないね。

それは、日本でいえば江戸の天保時代と、今の平成時代ほどの違いがあるのだが、
その間に起こった数々の社会的・政治的・軍事的変動が受け入れられない人も少なくない。。。

642日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:55:06.05
畿内説は、その間に倭国が大和に東遷したことを証明しない限り成り立たない。

643日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:56:11.31
>>641
57年以前の倭人がどこにいたのかも
なんとなくタブー

644日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:56:54.16
江戸時代も現代も、政権は変わり都市の名前も変わった(江戸から東京へ)が、実体としては同じ町なんだよ。
倭奴国から伊都国へ。
弥生王墓は継続して糸島平野に作られ続けていた。

645日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:58:08.44
>>643
考古学的には筑紫と出雲が発展していた。
その出雲から政権を奪って成立したのが筑紫の日向の天孫族の政権であると記紀に記されている。

646日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:00:31.39
>>645
出雲の発展って、具体的にはどの遺跡のことを言ってるの?

647日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:05:04.14
>>644
それで、倭奴国から半島・大陸へ向かい、金印を拝受して帰国した倭船は、
どこの港から出港して、どこの港へ帰り着いたのだろう。
たぶん、博多湾か今津湾の港だったと思うのだが、、、

648日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:06:51.84
wiki 出雲国から引用

古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。
特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。
考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。

649日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:10:57.38
畿内説でも九州説でも陥りやすい問題だけど

ようは、大昔でも国外のことが
神の眼で正確にわかってるって幻想を持ちがちなんだよね

むしろ、古くなればなるほど不正確で
いい加減だと、考えるべきなのに

このネット社会ですら
中国やアメリカの流行りのアイドルを
どれだけ知ってるかって話

……いや、ぶっちゃけた話
この板に着てる人間なら
日本の若者に流行ってるアイドルだって
そんな、よく知らんだろ?

大昔の情報じゃ、もっといい加減でも不思議なく

「情報は絶対なはずだ!」……んな訳ねぇだろって

中立な視点で考えても
随所にヘンで不正確な記事があるとみるべきだよ

650日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:11:55.26
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

651日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:14:56.64
>>648
その文章の中で、根拠となるのは四隅突出墳丘墓だけじゃないか。
四隅突出墳丘墓が発展するのは邪馬台国時代。
一世紀にはその祖先が山奥にちょっとだけ作られていたんじゃなかったかな。

出雲出雲と持ち出す人が多いけど、
根拠がよくわからないんだよね。

652日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:17:32.46
>>649
不正確なはずだからといって史書を無視して勝手な理屈をこねるのが畿内説。
九州説の中でも伊都国説は内外の史書との一致、考古学的な証拠とに一致に成功しており、史書を否定する根拠がない。

653日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:22:21.52
57年の最南端が福岡で250年には熊本南部まで
広がって、4世紀には九州全土と畿内まで広がって、後は欽ちゃんの仮装大賞のメモリが伸びて行くように本州全土を支配した

でOK?

654日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:25:31.79
>>645
古代出雲は九州倭国とは別勢力じゃね?

655日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:27:39.09
だから古代出雲の遺跡ってどれよ?
検討したいが検討のしようもない。

656日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:28:30.78
>>653
西から東へ倭人メーターが伸びて行ったのなら
57年以前の倭国は東の出雲じゃなくて西の国だ

657日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:29:52.00
荒神谷遺跡だけでも、そこにあった銅剣の総数はそれまでに全国で出土した銅剣の総数を超えていたことから、出雲に強大な権力があったことは間違いない。
その年代はおよそ弥生中期とのことなので、伊都国の成立よりも早くなる。
少数の銅矛(九州北部製)と銅鐸も整然と埋納されていた。
想像を働かせると、出雲の国譲りにおける武装解除で埋納した武器かもしれない。
四隅突出型墳は、その後に出雲を支配した出雲国造家(天津神の末裔)のものかもしれない。
あくまでも想像だけれどね。

658日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:32:30.87
西からの流れ者と土着の縄文人が協力しあって
倭国を結成したのか?文字の無い百姓が国を作れるのか?

659日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:33:57.18
>>654
>>645
>古代出雲は九州倭国とは別勢力じゃね?

覇権を争った別勢力だろうね。
スサノオは新羅(朝鮮半島のこと?)まで行って来たとされているため、その時代は出雲も半島と直接交流していたのだろう。
魏の時代には九州倭国が代表権を握って外交に当たっていたため、出雲は倭種としてしか記録されていなかったと考えられる。

660日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:35:42.89
>>657
いや、それもう昔に何度も出てるし。

・強大な権力を想定したくても、その人々がいた遺跡がない。

どこぞの建物と同じで、
国とは人が集まっての国なわけだから、
栄えた集落遺跡がないことにはなんにも検討できない。

661日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:37:24.42
>>658
スサノオは稲作を含め農業を広めた神でもあるので、出雲は弥生系。
そして文字はむしろ西(筑紫)にしかなかった。
筑紫の日向の三国遺跡群からは硯などが出土しており、卑弥呼が魏と国書をやりとりしていたことからも、筑紫には文字があった。
畿内には弥生時代の文字の使用の痕跡は見つかっていない。
特に纒向は硯や銅剣・銅矛はおろか、金属器がほとんど見つかっていない。

662日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:47:05.74
>>661
一世紀から文字を書ける層の人達が
倭国を作ったんだろうね、そういう層の人達って呉の中枢にいた人達なのか?

663日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:47:30.90
>>648
米子には北部九州の海人族を代表する氏族、安曇が勢力を伸ばしていたから、九州系の勢力だったのかもね
https://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg

北陸との類似性も海を通じて繋がっていたと考えれば容易に理解できる

664日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:50:20.15
妻木晩田遺跡なんてどうだろうね。
濱田竜彦氏の「山陰地方の弥生集落像」という論文はネット上でも読めるみたいだ。

665日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:51:29.36
金印に文字が書いてあるし、硯が見付かってるし、文字があったのは間違いないが
一世紀から七世紀までの文献が残って無いのが不思議

666日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:51:40.58
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

667日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:54:58.56
四隅突出墳丘墓も何度も何度も話に出てる。

北陸地方まで分布するわけだけど、肝心かなめの丹後半島〜若狭湾に無いんだよ。

出雲国が中国地方から北陸地方まで分布する勢力なら、丹後半島〜若狭湾はまさに出雲国の中枢の中枢であり、
琵琶湖を通して畿内と連絡する要所でもある。
遺跡としても紀元前に扇谷遺跡があったんだから、
出雲国なるものがあったのなら、ここを押さえてなかったらもうなんにも無いわけだ。

そこに四隅突出墳丘墓が無くて、平原遺跡と同じ方形+木棺の太田南古墳群があるんだから、
四隅突出墳丘墓というのは東に渡海千里で広がる倭種の国々であり、
邪馬台国卑弥呼の単なる領地だっただけ。

668日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:57:08.65
>>662
倭人曰く、呉の太伯の末裔であると。

>>663
>北陸との類似性も海を通じて繋がっていたと考えれば容易に理解できる

半島大陸から直接輸入が可能な日本海側が先に発達したのだろうね。
筑紫、出雲、越が紀元前の倭人の有力勢力だったろう。
吉備や尾張の発展はそれより遅れ、内陸である大和はさらに遅れていた。
筑紫の吉武高木遺跡と大和の纒向遺跡では、おそらく500年は年代の差がついているだろう。

669日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:59:29.83
>>665
そりゃ7世紀に大きな政変があったから。
白村江における敗戦、唐による筑紫の占領、壬申の乱という内戦。
何よりも、筑紫倭国の滅亡。
記紀の編纂による歴史の改変、その際の元資料の収集と破棄。

670日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:01:40.40
妻木晩田遺跡も四隅突出墳丘墓だから邪馬台国の属領。
副葬品を見たらわかる。
まあ、出雲国と呼んでもいいだろうけどさ。

鉄器が多くあるのだから、倭国乱では邪馬台国側だった。
南に大山。東に開けた場所だから、南と東に対して防備を固めていることになる。

副葬品が乏しいことも、

671日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:42:40.62
妻木晩田遺跡は長期間にわたって使われた遺跡なので、四隅突出だけに縛られないようだ。

さて、出雲や越は地名のように思われているが、それでいいのだろうか?
福岡の香椎の語源が越という言われるくらいなので、かつての西日本の日本海側はすべて越だったのではないか。
イザナギより前の倭王の名も記紀には記されているが、イザナギは矛を使って能古島を拠点に博多湾沿岸を征服した。
志賀島のワダツミや、スサノオが婿入りしたヤマツミらはその末裔であり、出雲をはじめとする国津神は征服者の立場だったようだ。
その出雲の国津神の頭領を倒した天津神(海の神)の頭領が、孫を筑紫に送り込んで筑紫倭国が成立し、漢から正式に倭王に冊封されたと。
これは、それ以前は博多湾沿岸も出雲の国津神の支配地域であったことを示している。
倭では、新興勢力が次々に博多湾に侵入し、旧勢力は層をなして東側に追いやられ、越、出雲、筑紫が形成されたことになる。
そして2世紀の倭国大乱においても、敗者である天孫族が東征し、新たな支配者として卑弥呼が共立されたのだろう。

672日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:49:11.35
ある学者は、天孫族が金印を貰うのは中国の配下になるから問題だと言う
ある学者は、天孫族以外の王で金印なんか貰えた奴がいたら問題だと言う

ある学者は、記紀は天孫族が金印を貰っていた事実を封印するために金印を無視していると言う
ある学者は、記紀は天孫族以外に金印を貰う実力者がいた事実を封印するために金印を無視していると言う

つまりどちらでも問題はないということかw

673日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:56:22.09
海の民でも
ふるい層の海の民が あ系の海の民
新しい層の海の民が い系の海の民

両系の海の民は同族だが
あ系の海の民のところに い系の海の民が割り込むのが天孫降臨で
やま系の民とあ系の海の民のコラボに い系の海の民が割り込む

これが倭國乱で「長大」補正してあげると3世紀の初頭
およそ210年から225年の間がリアルな倭國乱の年代

674日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:13:18.34
中国の研究者が中国の文献を読み解いて
畿内大和の勢力が邪馬台国の勢力を滅ぼしたって
説を述べてるPDFを探してるのですがご存知のかたおられないでしょうか?

数ヶ月前にニュース速報のスレで見た覚えがあり
そのとき保存しておけばよかったのですが
ファイルをありかを忘れてしまってご存知のかたおられましたら
教えていただきたいです、どうぞよろしくお願いいたします

675日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:29:54.05
やはり倭国は長江文明を築いた越の末裔が興したのか

676日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:50:28.07
その証拠の越式鼎は?

677日本@名無史さん2019/01/13(日) 01:58:10.01
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

678日本@名無史さん2019/01/13(日) 03:54:09.97
一大率という地方監察部を置く必要があったのは。北九州域の女王に対する帰順度が相対的に低かったからだろう。
中でも奴国は北九州の盟主的地位にあり、女王にとっては脅威だったはず。

千戸余りの小邑に過ぎない伊都が郡使一時駐在所・一大率本部が置かれる要地となったのは、外様地域において数少ない親藩譜代と言える國だったから。

他の國も女王国の支配下にある事は明確なのに、伊都のみ「丗有王 皆統屬女王國」と歴代の王にまで言及があるのは、帰順してから長い=忠誠度が高いことを表現している。

679日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:53:30.46
>>667
>四隅突出墳丘墓というのは東に渡海千里で広がる倭種の国々であり、

「東に渡海千里」に該当するのは、宮崎か倭国(阿波)だけ と、何度言えばw  


>邪馬台国卑弥呼の単なる領地だっただけ。

というよりも、倭国(阿波)の海人族による入植地。  九州在地にそんな勢力は存在しない。  @阿波

680日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:51:20.39
>「東に渡海千里」に該当するのは、宮崎か倭国(阿波)だけ と、何度言えばw  

は?w

681日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:56:36.86
>>669
何世紀にも渡る資料を全部破棄したと言うのは
疑問が残る

682日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:59:50.89
明らかになっているのは、北九州には邪馬台国はない、ということ。
北九州その地に邪馬台国があるなら、出先機関などおかず直接統治すればよい。伊都国に出先機関があることからわかるように、その周辺にはない、ということだ。

倭人伝の記載をそのまま採用する立場からは、弥生期の人口統計の推定値が日本全土で60万だろうが修正200万だろうが、北九州には邪馬台国人口を収容できないということもある。
同様に、四国にも邪馬台国人口を収容できない。投馬国すら無理。

683日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:01:42.90
>>669みたいな人がまだ居るんだねw   @阿波

684日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:04:56.22
>>682
人口云々よりも
魏志倭人伝が北九州をはっきりと否定してる
はっきりと伊都国は卑弥呼の都では無いと言ってる

685日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:04:59.92
>>682
>同様に、四国にも邪馬台国人口を収容できない。投馬国すら無理。

まぁまぁ、  
人口統計の推定値がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波

686日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:06:50.89
>>681
畿内が平仮名を完成させた記念に
全部破棄したんじゃないか?

687日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:25:37.20
記紀にそれまでの日本人は文字を知らなかったと書いてあるって言う人がいるけど、どの部分に書いてあるの?

688日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:37:35.84
>>687
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『古事記』序

時有舎人。
姓稗田、名阿礼、年是二十八。
為人聡明、度目誦口、払耳勒心。
即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。


そのとき、一人の舎人がいた。
姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。
聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。
すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。

日本人は文字を知らなかったとは書いてないけど、古事記は稗田阿礼が『帝紀』『旧辞』を暗記してた事を太安万侶が書き留めたことになってるな。
でも古事記の編纂時には『帝紀』『旧辞』が単に失われてただけみたいだよな。

689日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:39:01.33
>>684
それは君が誤読してるだけだよ。

690日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:41:29.60
>>678
歴代の王じゃなくて
単に伊都国に魏の世に倭王がいたってかいてあるのw

691日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:44:00.04
>>687
1世紀の倭奴国の時代くらいから漢字が使われ始めてるから
8世紀まで日本に文字が無かったってのは事実ではないな。

692日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:46:48.77
天草は何気に惹かれるな。神武天皇を祀った神社は熊本が突出していて、その大半が天草に集中している。素人ながらに何かあるんじゃ?と。4〜5千年前の稲もみの圧痕も発見されている。

693日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:48:34.34
>>688
やっぱりそこの部分だよね。
文字を知らなかったとは書かれてないわけだ。

例えば、『帝紀』『旧辞』という書物はあったけど、
古事記は稗田阿礼にいったん覚えさせた記憶から編纂した
→だから間違いがあっても稗田阿礼のせい!編纂者の責任じゃないよ〜

という言い訳にも見えるんだよね。

694日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:49:32.52
このスレ的に邪馬台国は

@ 北部九州 A 伊都国=邪馬台国 B 甘木・朝倉 C 島原半島

D 太宰府 E 佐賀平野 F 熊本平野 G 西都原 H 都城 C 南九州

I 宇佐・大分 J その他 

のどれが優勢なのよ?

695日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:51:36.78
>>691
硯はペンダントだとか楽浪人だけ使ってたんだとか言ってたけど、
こんなに沢山見つかってしまってはどうにもならないね。
けど今までだって仿製銅鏡や鉄剣に文字は刻まれていたのだから、
文字があったと考えるのは当たり前と言えば当たり前だね。

696日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:52:38.52
3世紀の倭国で漢字が使われていたかどうかは
渡来人が来てたんだからあっただろう
ただし倭人の上位層0,1%(1000人に1人)しか使ってないのを
あったと言っていいかどうか
そういう話だろ

697日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:54:08.84
>>694
邪馬台国は北部九州で、首都が伊都。これが結論。

畿内説者が攪乱のため他を持ち出している。
CFGあたりはその信者がいるのかもしれんが、なんの裏付けも示さない。

698日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:54:14.45
725年推定人口・・・奈良時代推定人口
・・・(鬼頭宏)・・・・・・・・・(澤田吾一)
・・・・・・・・・・・・・・・(弘仁式)・・・(延喜式)
筑前 112,000人 ・85,400人 ・92,900人
筑後 ・59,300人 ・75,300人 ・73,300人
豊前 ・47,200人 ・75,300人 ・71,600人
豊後 ・51,600人 ・82,500人 ・87,400人
肥前 ・48,300人 ・85,400人 ・81,400人
肥後 108,700人 178,000人 185,500人
日向 ・30,800人 ・47,700人 ・43,800人
大隅 ・40,600人 ・21,100人 ・28,400人
薩摩 ・38,400人 ・17,400人 ・28,500人
壱岐 ・12,100人 ・・9,400人 ・10,600人
対馬 ・・9,900人 ・・7,000人 ・・7,000人

最小を使っても
筑前 ・85,400人
筑後 ・59,300人
豊前 ・47,200人
豊後 ・51,600人
肥前 ・48,300人
肥後 108,700人
壱岐 ・・9,400人
対馬 ・・7,000人
合計 416,900人(1戸5人として83,380戸)
500年前なので0.85を掛け 83,380戸×0.85=70873戸≒70000戸

699日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:55:38.20
>>696
江戸時代に寺子屋で読み書きを教えていた日本が異常なだけで、
古代どころか近代までは、
その国の貴族層しか文字をつかっていないのが普通だよ。

700日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:57:58.33
>>678
>一大率という地方監察部を置く必要があったのは。北九州域の女王に対する帰順度が相対的に低かったからだろう。

倭国にとって最重要地域が対馬海峡だったからだろうね。
仮に帰順度が低かったとしたら、それは卑弥呼が天津神ではなく国津神(特に肥国の)出会った場合だ。
対馬海峡は天津神の本拠地である天津国だからね。

ところで畿内説だと、女王国の北は若狭湾あたりだと思うのだけどw

701日本@名無史さん2019/01/13(日) 08:58:11.00
>>699
貴族というか役人だな
中国だと秦の始皇帝以前の木簡が全国各地からバンバン出てる
これは中国全土の村々にまで役人がいたから

702日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:19:45.15
>>692
あ?天草?あんなとこ
邪馬台国ぐらいしかないよ

703日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:23:50.02
天草が邪馬台国だと里程も遠すぎる。
しかも南にはいよいよろくな遺跡がない。

704日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:24:58.52
>>694
張氏の読み方を踏襲しながら
距離と方角と周辺遺跡と兼ね合わせて比定してる人達が今のところ一番説得力があるかな

705日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:33:29.97
>>703
天草は可能性あるよ
里程も方角ももろ範囲内
南(境界の尽きる所)に人吉があるし北薩にも
未発掘な弥生遺跡がある、恐らくそこが狗奴国だろ、更に南へ薩摩と東回りに大隈半島から日向まで投馬国だろう

706日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:40:18.52
宮崎に所縁の深い勢力が
のちの大和じゃね?
このスレ的に投馬国を宮崎に比定してる人が多いよね?

707日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:40:44.72
>>688
五経博士を擁した馬子−聖徳太子、の国記、天皇記は存在したはずで
天武天皇が保持する書を阿礼に誦習させるというのはおかしい。

まず、馬子が天皇記、国記を記すための 皇室の語り部が必要であって
それが、継承され消滅しなければ、阿礼は必要ないことになる。
この時、継承されていないなら、世襲王権が数十代も続いたわけが無い。

五経博士等、百済経由の僧や師による書は、ほぼ500年付近から伝わっているし、
記紀700年時点での天皇記と国記の焼失は、関連書籍の焚書である、とすべき。

現代では、情弱でもなきゃ、中学生でも、
みんな知ってる記紀神話も虚構、前提なのでは無いかな?

708日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:46:01.71
>>706
投馬国は邪馬台国の隆盛する以前からの土着の勢力で恐らく出雲のルーツ、薩摩、投馬、出雲は同族だと思う

709日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:51:19.55
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

710日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:21:04.79
>で恐らく出雲のルーツ、薩摩、投馬、出雲は同族だと思う

なぜ漢字を変える必要があるんだろ?

711日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:23:38.84
考古学的にまったく関連が無いことが裏付けられる。
単に投馬国を半島南岸から剥がしたいだけ。

712日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:30:48.26
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)

ほら、倭の訓読みはやまと
倭国は訓読みだとやまとくに=邪馬台国

現地に滞在して倭語を聞き慣れた張政が、親切に当て字してくれたんだよ。

倭國の伊都(日向)から神(お上=支配者)として、波を蹴立てて(水軍で)やって来た。

713日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:41:18.98
北九州〜出雲〜北陸・新潟は新羅系だったが、
福井・石川辺りは、のちに関西系が進出して割り込んだので、
断絶しているのではないか

薩摩と大隅と都万日向は混同されやすいが、ちがう
薩摩半島系は都城盆地までで、都城盆地と宮崎市のあいだに断絶がある。
なお都万日向は大隅半島系と近い
(古古代は、都万日向と大隅は一体の種族だったのかも)

714日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:44:53.64
どの地域にも歴史はある。
この神社が卑弥呼宮殿跡。この遺跡が狗奴国。
夢想することもできるだろう。

だが、金印というものは
東アジア全体の中でも邪馬台国卑弥呼だけが魏から貰ったわけだ。

自分の考える邪馬台国が、東アジア全体の遺跡の中で、何番目くらいの先進地域だったかをよく考えることが、恥をかかない第一歩となる。

715日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:48:30.19
投馬国が半島南岸にあったというのは、
そのもとは大隅半島南岸にあったという意味だろうな。

716日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:54:59.37
>>708
投馬国のルーツはと、言うなら、
日本の青銅器文化は、BC200年以前から半島南岸に支えられている。

銅鐸文明は、筑紫の対馬―楽浪貿易で生まれたものでは無い。
起源は糸魚川翡翠や隠岐の黒曜石を背景に持つ縄文海神である。

57年の金印委奴国以前から、半島南岸は鉄青銅でゴールドラッシュであり、
この倭域が、東夷伝は、天子爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷 東夷不得通 であって
前漢から台頭し半島に四郡を支配した遼東の公孫氏も不可触であった。

この、日本の青銅器文化を支えたのは、半島南岸であって、
この時期に、投馬国が存在しなければならないのは、必然と言える。

卑弥呼や金印の委奴国が、漢魏に好戦的、防衛的傾向だった形跡はなく
239公孫氏、246漢王朝滅亡、魏ー邪馬台国外交 終了の247年以降、
313年四郡撤退、高句麗戦で、百済新羅建国 の歴史に繋げたのは筑紫国では無く、
一大卒でこれを支配管理した瀬戸内海、畿内?勢力であったとするのが妥当。

牛馬の移入や鉄の生産、富国強兵の高句麗戦で、九州は東遷してる暇はない。
むしろ百済の馬の道や、高句麗戦で半島開拓に配流されていると見るべき。
昭和以降の邪馬台国論争というのは、投馬国の存在と、百済新羅建国支援の歴史を
表面化させないために、やってただけだろ。 

歴史業界も、もう、戦後レジューム要らんのでは?

717日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:01:20.00
>57年の金印委奴国以前から、半島南岸は鉄青銅でゴールドラッシュであり、

>一大卒でこれを支配管理した瀬戸内海、畿内?勢力であった

鉄器ゼロ

718日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:02:30.90
そだねー
戦後レジュームやめて北部九州邪馬台国首都伊都でFA

719日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:06:46.07
>>716
半島南部にはそのような重要な国があったが、
倭人伝ではその国を「狗邪韓国」と記している。
半島南部の「其の国」と、倭人伝のいう「投馬国」とは、別の国である。

720日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:10:17.33
鉄ゼロの畿内が力をつけたのはだいぶ後だろうな

721日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:15:59.83
半島南部の投馬国は筑紫倭国の領土だったのであって、
決して、大和日本の領土ではなかった。・・・念の為。

722日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:33:28.61
>>721
筑紫倭国ってなんだ?邪馬台国?
領土も何も投馬国は独立政権で後の大和王権と
直結してる可能性についての話じゃないの?

723日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:37:15.36
都万と大隅なら隼人だろ。
隼人の祖は筑紫を追い出された海幸彦とされている。
追い出した山幸彦(彦火火出見)は伊都高祖宮の主となっている。
陳寿は意味を理解せずに邪馬台国と投馬国を併記したが、実はそれぞれ山幸彦と海幸彦の都なんだ。

724日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:43:48.48
>>722
キミは、「倭国」も知らないで、このスレにカキコしてるのかね

725日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:00:46.08
>>723
しかも邪馬台国は筑紫の日向、投馬国は日向国と、日向の地名を分け合う兄弟国だ。

726日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:08:21.58
投馬国は紀元前からの土着の勢力で出雲まで進出したが、新興勢力の倭奴国によって領土を荒らされ分断された、投馬国は北部の領土を倭奴国に奪われたが畿内へ進出、北陸越州と同盟を
結び鉄を入手、徐々に力をつけて大和王権となった

こんな感じ?

727日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:11:29.31
>>725
お前、どこにでも乗り出して
「チクシ!」とか言ってる奴ちゃうん?

728日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:20:49.75
>>727 名前:日本@名無史さん 2019/01/13(日) 12:11:29.31
お前、どこにでも乗り出して
「チクショー!」とか言ってる奴ちゃうん?

729日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:39:15.05
>>728
なにそれ?w
凄いテクニックだな、どうやってやったの?

730日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:37:17.60
>>726
神武は筑紫の日向、つまり伊都国の出身。
伊都高祖宮のヒコホホデミの孫だからね。

731日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:09:40.06
それで、神武はどこの港から東へ向かったのだろうねえ

732日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:11:59.63
>>730
だから、お前、どこにでも乗り出して
「チクシ!」とか言ってる奴やろ?w
テクニック

733日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:14:10.51
筑紫の日向から出港したとか書かれてたっけ?

734日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:14:35.86
伊都国って言ってる奴は
チクシ張り付け荒らし確定だな

735日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:29:56.71
>>730
それで神武は、筑紫の日向、つまり伊都国のどこの港から出立したのかねえ??。

736日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:36:05.52
>>726
なんだその、カルフォルニアのゴールドラッシュで
アメリカ原住民がヨーロッパに進出したみたいな頓珍漢な話は?

737日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:43:41.08
>>736
日本語で

738日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:56:54.05
>>736
的確な例えだな。
つか、伊都説以外の書き込みが支離滅裂で笑える。
もう単なる願望の垂れ流し。

739日本@名無史さん2019/01/13(日) 15:43:23.51
>>730
それで神武は、筑紫の日向、つまり伊都国のどの港から東へ向かって出立したのかね??。

740日本@名無史さん2019/01/13(日) 15:56:21.57
>>739
地図を見て伊都国が面した湾の好きな場所を選んだら?

まさかと思うが、
弥生時代のどの波止場か証明できないから嘘だ、とか
言わないでねぇ。

741日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:13:54.38
>>740
その地を裏付ける港遺跡ぐらいあるだろう。
それに、神武の出立となれば、相当の船団・人員だったであろうから、
出立及び出立地の伝承の片割れくらい残っているだろう。
なんせ、倭人伝の伊都国の伝承が残っていると威張ってるんだからな・・・。

742日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:17:00.13
>>741
ほらね、我慢できずにきたきた。
弥生時代の里程を、現代の精密な地図と比較して、難癖つけるのと同じ輩だ。

743日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:24:29.69
>>738
自慰してる

744日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:29:54.14
>>743
こちらは数人いるようだが、そちらはまさかの一人なの?

もしキナイコシじゃないなら、さっさと足を洗うなり、
こちらに来た方がいいよ。精神衛生上。

745日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:35:29.70
>>726
邪馬台国がそのまま大和になった説よりかは
ましかな

746日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:35:39.47
>>742
まあ、そう遠慮せずに神武が出立したという港を示せ。
ハナから白紙地図じゃないんだろ。

747日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:38:16.27
>>746
神武って実在したの?

748日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:43:54.10
>>746
あ、ウンコだwww

749日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:44:09.52
>>747
伊都国に実在したといってる輩がおるようだ。
そいつに聞いたらどうだ。

750日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:45:56.46
しばらく見ないと思ってたら
なりすましで少しずつウンコしてたんだな

751日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:49:07.27
>>744
ずっと一人でウンコしてたんだなwww

752日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:50:49.44
攪乱スレでも敗北して悔しそう

753日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:51:11.00
>>744

>こちらに来た方がいいよ。精神衛生上。

え?あなた、バイ菌だれけでしょ
遠慮しておきます、衛生上www

754日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:59:43.49
まぁ、伊都国は無い

755日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:00:47.34
>>753
で、邪馬台国までの行程を説明してくんろ(鼻ホジ

756日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:00:54.35
日向三代が伊都にいたのなら、博多湾から船出するしかないでしょ。
ほれ
https://lunabura.exblog.jp/21301599/

757日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:02:08.41
ないとかあるとかいっても、
まともに説明してるのが伊都説だけだから、
他説と比較のしようがない。

758日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:03:13.42
熊襲が狗奴国で、隼人が投馬国なら
邪馬台国は大和だな

759日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:10:18.44
熊襲は狗奴国じゃないし、隼人も投馬国じゃないから
邪馬台国は大和じゃないな

760日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:21:45.59
>>756
伊都国には神武天皇の船団も出立したという良き港があるのですね。
それは確かな裏付けになる。

761日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:22:51.07
神武東征のルートは地名が移動しているから難しいな。
宇佐が現在の宇佐ではないことは確実。
地名の混同があったのだろう。

wiki 宇佐より引用
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。
宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説もある。

神武は宇佐へ船で行っているから、宇佐宮でも大分宮でもない。
しかし筥崎宮なら船で行ける。
しかも伊都高祖宮の近くの筑紫の日向の小戸から船出して、岡湊宮に向かう途中にある。

ああ、そう言えば神武らが船出したのは、伊奘諾が禊をして住吉三神を生んだ小戸だろうね。
伊都から東に船出するならここしかない。

762日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:23:04.32
はっはっは

島原だ西都原だと迷彩を施しても
結局は大和に持って行きたいのだなあ

韓人は

763日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:24:29.31
しかしまあ、福岡県はいったいいくつの王宮があるんだろう。
ちょっとググっても宮宮宮

764日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:33:56.15
卑弥呼は高祖宮にゆずるが、

俺の台与は香椎宮。これだけは譲れない。

765日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:35:54.03
太宰府天満宮所蔵の国宝「翰苑」に「邪届伊都、傍連斯馬」と書かれていて
邪馬台国は糸島市の伊都に届き、又、糸島郡志摩町の傍らに連なると読める。

http://www.meinohama.town/blog/59/

766日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:36:52.68
>>761
>しかも伊都高祖宮の近くの筑紫の日向の小戸から船出して、岡湊宮に向かう途中にある。
この日向の小戸の都跡というのは、今でいうとどの辺りなの、今津湾内なのかな?

767日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:46:13.04
>>766
朝鮮半島南岸の投馬国五万戸から四千九百里の辺り。

768日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:52:26.18
>>766
場所としてはそうでしょうね。
都ではありませんけど。

769日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:04:21.60
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-1tousen3.html

神武の福岡県内の伝承を集めたページを見つけましたよ。
ただしこの方は福岡のむしろ東側に着目しています。
しかし筥崎宮から岡田宮に向かう点は共通ですね。
岡田宮とはどこかも考察されています。
まあ遠賀川流域に違いはないのですが。

770日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:34:19.50
北部九州の大きめの神社はたいがいその手の伝承があるからな

771日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:38:16.08
遠賀川文化圏と博多湾文化圏の境目が
宮地嶽神社や香椎宮あたりだね。

博多湾を拠点とする神功皇后と
北九州を拠点とする仲哀天皇

その境目に仲哀天皇が亡くなったとされる
香椎宮が置かれている。

772日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:21:00.14
このスレ的に邪馬台国は

@ 北部九州 A 伊都国=邪馬台国 B 甘木・朝倉 C 島原半島

D 太宰府 E 佐賀平野 F 熊本平野 G 西都原 H 都城 C 南九州

I 宇佐・大分 J その他 

のどれが優勢なのよ?

773日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:29:18.15
A 伊都国=邪馬台国じゃなくて
A 北部九州(卑弥呼の都が伊都国)

774日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:34:32.44
郡から伊都国まで、〆て1万2千里・・、ですとさ。

775日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:36:31.85
>>765 「翰苑」
憑山負海 鎭馬 臺以建都

阿保だろ? これは馬韓を鎮圧した後の史料を引いている。
というか、倭の五王以降のソースが魏志、魏略を補填してる文だぞ。

馬韓、投馬国、対馬、邪馬(臺)国 は、一連の馬に対応する国名であって
さらに日本国王が天皇を名のった、アマノタラシヒコ、隋唐記録も混ざってるだろ? 

247年以降の終わってる 筑紫 世襲ですらない『女王国』という名称の国に、
邪馬台国なんて言う、梯儁の仮称は、誤字でもなく、採用しないと思うね。

776日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:38:26.19
>>769
畿内で書かれた記紀は畿内での戦いしか書いていない。
しかし実は神武は福岡でも戦っていたことがわかる。
それは倭国大乱の一部だったのだろうね。

777日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:51:57.21
卑怯なり 畿内説

778日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:56:59.49
とうに終わった畿内説の遠吠え

779日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:01:21.19
投馬の領土だった日向がいつの段階で邪馬台に渡って何時の段階で畿内へ東征したんだ?

780日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:03:16.61
>>771
考古立証的には、当たっているんじゃないかな?
女王属21国は、香椎、春日、筑紫野以東、
宗像、田川や宇佐は含まないだろう。

福岡平野=奴国については、蝙蝠的立ち位置が有って本州土器を受け入れてる。
九州側筑紫はそもそも諏訪のような宗教的習合であって、古墳、軍事立国ではない。

781日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:07:31.84
キウスはきっきっき

782日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:11:11.41
卑弥呼は公孫氏と晋書に書いてある
ここの住人、魏志倭人伝のみを信じて晋書は信じないんだな

783日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:12:13.80
劣勢になった〇人スパイが必死の抵抗

784日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:12:16.92
>>766
日向の小戸というのは淡海の西側の出口付近の小地名ですよ
三雲地区とか高祖山とかは日向には含まれませんよ
高地山クシフルに南北に連なる高地尾という尾根から東側が日向ですね

785日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:17:54.37
レーダー照射するくらいだから、もういいんだろう。
だが、
勝てばいいが

負けたら???

竹島どころか

投馬国五万戸???

786日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:18:42.64
>>779
投馬国は非統一の植民地状態であって、開拓地=大夫の領地じゃないかな?
基本は青銅交易背景の、半漁の制海権、海人属国の土地だろ?

開拓期のゴールドラッシュは無法地帯がデフォだよ。
馬仕入れて、高句麗と戦争できる軍隊が来ないと統一国にはならんのでは?

787日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:21:24.82
>>782
信じる云々より、その意味がよくわからない。
公孫氏は滅ぼされたはずだからね。
筑紫に残党が落ち延びて大乱の引き金になったとか?
百済から王族が逃げ延びて壬申の乱になったという説を思い出すけどね。

788日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:22:58.94
>>784
筑紫の日向の小戸が高祖山の北側
日向峠が高祖山の南側
日向川は高祖山の東側を流れている
では西側は日向ではないとそれはおかしいだろ

789日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:23:54.69
>>782
ただの誤訳

790日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:25:14.17
高祖山と高地山クシフルとをごったにしてはいかんよ

791日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:26:28.30
神武が船出をしたのは美々津でいいのかな?
地名について考えたのだが、ミミは九州では王の尊称なので、王族のための港ということになる。
民間貿易港だった那の津と対比した地名なんじゃないかな。
場所は今津湾でいいだろうと思うけど。

792日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:28:38.91
>>791
それでいいよ。
キナイコシが言うことの反対なら正しいことだ。


あれ?キナイコシさん?

島原とか北薩はどうなったのかなーーー♪w

793日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:29:32.48
>>782
晋書の著者に、卑弥呼という日本の僻地のシャーマン政権が
理解できると思うなら、それが、間違いなんだろ。 

公孫氏は遼東の中華貴族であって
半島では、以降日本統治までの半島貴族同様、唯の収奪者だ。

漢史や魏で、57年〜卑弥呼時代は公孫氏や韓王朝と友好的だった印象だぞ?
多分、生口程度は相当強制連行してると思うけどwww

794日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:31:27.02
今津湾は渡来した天孫族の初期ベースキャンプ
海の民の天孫族は高いところが大好きだから
高地山クシフルに登って周囲を鳥瞰してみたわけだが
高地山クシフルへの登山ルートは北の今宿側からの沢登り

795日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:34:14.36
博多の那の津(商用)
今津の彌々津(王族用)
前原の船越港(外国賓客用)、、。オー、伊都国周辺は、良港だらけではないか。さすがだ。

796日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:42:02.32
日向が宮崎とかの方の話なら、
400年辺りまで、日本のうちに入ってないだろ? 歴史は、記紀以降だなwww
女王国の卑弥呼王宮はみやま市南麓だろ。

247年の伊都は、今宿から早良。
早良は古都っぽいから247年以降なら今宿かな?
こっちの日向峠は山過ぎでは? 
必然的に末蘆は、糸島北西岸。

九州上陸後、この範囲しか移動していない張政の見た、
卑弥呼の墓はこの範囲に無ければならない。
出てなきゃ、もうない。

797日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:45:11.97
卑弥呼の墓はもう出てるし、一括国宝指定だし、
魏志倭人伝の記載とも合致してる。

行程もなにもかも説明されて、
今は束の間の勝利確定だけど、相手が反抗してくるゴールデンタイム。

798日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:48:03.94
海の民の天孫族の占領区が伊都國
主として砂丘上の海岸線から数百メートル程度の領域が
海の民の天孫族の居住区

799日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:52:55.87
>>798
ざーんねん!

投馬国五万戸ーーーwww

800日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:55:56.56
>>798
倭人伝を正しく読むためには
その他の文献の検証も必要だが

張政が一大卒に駐留させられた
247年以前に 伊都国が存在したという根拠はない。
ってことは、理解できるかな?

考古学が、石碑や金印や木簡以外で伊都を探せると思うか?
出来ないから、デタラメで古代史はぐらかしてんだろw

801日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:59:40.97
>>797
>卑弥呼の墓はもう出てるし、一括国宝指定だし、

そうか、そりゃ良かった。
ではこれで、もう何もすることないな。 さいなら、さいなら、さいなら!!

802日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:00:31.31
>>793
倭は公孫氏の属国だよ

803日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:00:48.28
張政レポートに依存したというの自体が謂れのない妄想

804日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:01:57.80
>>801
こっちはまだ詰める作業があるんでね。

そちらこそ無駄な屁理屈書類を一括廃棄おつかれさん。

805日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:03:03.25
遂周觀諸國 采其法俗・小大區別 各有名號 可得詳紀

247年以降に実施された周觀諸國の結果が盛り込まれている

806日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:03:29.94
キナイコシが忙しくなると島原が消えた。

あれ?

島原(の仮面被った日本人じゃないやつ)がんばれ!!!

裸踊りガンバレwww

807日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:04:58.34
半島南岸の投馬国五万戸を否定しないと、給料出ないんじゃないの?

だいじょうぶかキナイコシ?

808日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:06:04.69
張政レポート厨は同時代史の何たるかをよく理解できていないようだ

809日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:08:07.20
>>787
それはあると思う

810日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:14:48.24
>>782
倭国大乱を治める名目で
公孫氏から卑弥呼が担がれたんだよ

811日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:16:50.81
>>801
247年で、筑紫女王国と魏の国交は終わった。
139年公孫氏、246年韓王朝の滅亡で、古墳系の軍事王朝が
九州北部に一大率を置いたというのは、日本の歴史として、どの程度重用かな?

240年の梯儁の行軍は伊都に駐留してないし、させたら戦争だしw
240年に伊都の一大卒が有ったか無かったかは判らない。

しかし、九州平定と半島進出は、400年までで
新羅と百済の建国は、日本が百済に牛馬の道を作ったこの期間にしかない。

縄文海神の日本が作った、古代韓が
稲作や文字や青銅鉄器や仏教を伝えてやったニダと言っても
南岸が倭人国で、制海権に疑問がある百済人移民が、高句麗馬連れて来るかよ?
日本人騙せる、稲作導入神話には遅すぎだし・・・

これが、今どきの中学生でも判る東亜古代史なんだが?
日本の民間歴史厨の ネラーのみんなはど〜スンの?

812日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:21:48.71
山海経

「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」

紀元前の倭国は半島にあったのはほぼ確定だろ

813日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:24:37.05
>>800
歴史書は年代順に書いてある。倭人伝も、その事項は年代順に書いてある。
247年(其八年)の張政らの記事より前に書いてあることは、247年より前のことである。
よって、247年より前から、伊都国は存在していたことは証明されている。

・其八年、太守王頎到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊状。
・遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。

247年(其八年)の記事よりあとに書いてある記事は、
張政来倭よりのちのことである。以上、倭人伝の記載順序により証明されている。

814日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:48:11.29
>>813
>247年(其八年)の張政らの記事より前に書いてあることは、247年より前のことである。
>よって、247年より前から、伊都国は存在していたことは証明されている。

変な理屈作って、自滅してるだろ?
時系列の記述方法?

陳寿は魏の使譯2回の記録をソースにした。 
張政が生きていた可能性もある。
 
今 使譯 所通 三十國 從郡至倭 が発起文
循海岸水行 歴韓国
を置いた場合、寄港地間の里程を示した張政の寄港文でつなぐのが良い。
梯儁 の文は 紀行ではなく 隣接する経過国の投馬国と女王国の地理説明でしかない。

この梯儁の参問21所属王国を記載する筆法で、張政行程との記載順序が決まった。
次有 ―21国― 此女王境界所盡 
この 此 が 全てである21国 でないなら、無駄な 次有 を重ねる理由は無い。

其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘

南至 投馬國 水行二十日 以降の文節はこれで完結している。
ここって、文法的に正しく読む、スレだけれども・・・
陳寿にも若干の癖がある。

815日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:06:26.71
さすが血も涙もないな。

九州説を攪乱するためだけに
平和な島原や薩摩を持ち出しておいて

不利になったら見捨てて
>紀元前の倭国は半島にあったのはほぼ確定だろ




日本人を舐めてんのか?

816日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:09:50.55
倭国大乱の前にも70〜80年も倭王がいたことがわかっていて、その時代の王墓も倭王に叙された金印も見つかっている。
倭国の王都が博多湾沿岸であったことは確定している。
そしてそこに女王墓もあった。
もう邪馬台国論争は終了してもいいくらいだ。
そして記紀との擦り合わせまでできてしまった。
国内外の史書は伊都が王都で一致していた。

817日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:16:47.26
>陳寿にも若干の癖がある。
落ち、が後なんだよねw

238年帯方郡は倭王として卑弥呼を皇帝に紹介した

240年 印綬行軍の梯儁は、卑弥呼が筑紫21国7万戸
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
の王である事を確認した。

247年張政は
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯

女王国王は死に、そもそも倭王ではなく、外交でも主体国家でないことを、報告した。

これで、三国志覇者戦国王の 魏と 邪馬台国 の国交は終わった。
日本は、韓四郡追討、百済新羅建国、対高句麗、牛馬鉄移入の富国強兵を果たした。
以降が、400年からの、倭の五王だろ?

818日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:30:24.03
これ以外に247年の邪馬台国終了と350年の百済新羅建国
400年の倭の五王が繋がる、屁理屈が有るの?

300年から高句麗牛馬の移入、鉄の国内生産は、この他のルート無いよね。
多分これ、千年遅いけど、王の居るような国に、渡来人って勝手に来るの?

819日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:02:44.56
伊都はどうあがいたって、出先機関以上のものではないことは確定している。
伊都は特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國、「一大率が治めるところ」って明記してある以上、動かしようがない。
人口的に北九州に邪馬台国が収まりきらないことも確定しているし。

陳寿の報告は、(大陸本土ならともかく)距離方位は信用ならないが、人口統計はいささか信憑性がある。
なんたって、数かぞえて記録するだけなんだから。手間が膨大なだけで。
租税の賦課と生産人口把握は不可分。

820日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:10:58.40
>>819
伊都国が卑弥呼の都で決着しましたよw
「自女王国以北特置 一大率 檢察諸國畏憚之」一大率が置かれたのはは女王国以北ですよ
「常治伊都國」伊都国で卑弥呼が常に治めるところ
人口的に北九州に邪馬台国が十分に収まりることも証明されましたし
距離も方位も完全に一致してますからw

821日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:11:55.99
>>817
>落ち、が後なんだよねw

そうそう。
もったいぶるんだよ。
より遠い投馬国への日数の後に邪馬台国への日数を述べたり。
伊都国の紹介で王はここにいたとだけ書き、その名である卑弥呼は別のところに書いたり。

822日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:16:13.64
>>819
>人口的に北九州に邪馬台国が収まりきらないことも確定しているし。

人口の問題も解決したぞ!

>>698
>725年推定人口・・・奈良時代推定人口
>・・・(鬼頭宏)・・・・・・・・・(澤田吾一)
>・・・・・・・・・・・・・・・(弘仁式)・・・(延喜式)
(中略)

>最小を使っても
>筑前 ・85,400人
>筑後 ・59,300人
>豊前 ・47,200人
>豊後 ・51,600人
>肥前 ・48,300人
>肥後 108,700人
>壱岐 ・・9,400人
>対馬 ・・7,000人
>合計 416,900人(1戸5人として83,380戸)
>500年前なので0.85を掛け 83,380戸×0.85=70873戸≒70000戸

そもそも九州で無理な人口なら、稲作の生産力から考えて畿内全部合わせてももっと無理。

823日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:24:18.32
キウス

824日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:49:48.73
>>820
決着してたの?
このスレ的に?
おれは伊都国は無いと思っているが
みんな本当に伊都国だと思ってるの?

825日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:07:31.25
伊都はまず無いわ
魏志倭人伝を読みこんで
伊都だと思ってる奴らはどんだけ読解力が無いんだよ

826日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:12:58.19
>>821
完全に違うことにミスリードできることに感動したw

>投馬国は半島南岸で女王国以北だしw
>伊都国の紹介で 王はここにいた とだけ書き、?
女王の所属国の王や使、は伊都国を往来する、郡使は駐留させられた、訳で?
>その名である卑弥呼は
九州上陸から2千里の 邪馬国 の 臺=女王宮で印綬した
訳です。

そこまで、判って真実を拒否するってのは凄いと思う。
邪馬台国論争が、飯のタネになる訳だwww

827日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:15:00.52
>>824
誰も思って無い

828日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:31:34.94
伊都国は足し算で1万5百里で
邪馬台国の女王の所都は1万2千里だろが?
倭人伝を正しく読むスレだろ?

どっちが、女王の居場所だよ? クイズ馬鹿なの?
247年は、末蘆から首都機能の有る伊都までの 5百里間の 墓の中だし
240年は、上陸後行軍2千里に 女王の臺=王宮 が有ってその処都で卑弥呼に印綬だよ。
別の場所ってのは、明白だろ?

829日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:31:39.71
>>812
紀元前は倭国自体無い
その場合の倭は大陸倭人だね
日本列島の倭とは無関係

830日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:42:57.88
>>829
それが、知らないだけと読めないのは
大陸倭人というか、じゃなきゃ何?

831日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:47:58.96
>>821
伊都国も奴国より遠いのに先に書いてあるよ
単に文法だったり、古代中国語の書き方じゃないの?

832日本@名無史さん2019/01/14(月) 01:03:51.53
>>820
当該箇所に女王という単語はない。「女王国以北」の位置説明はあるが。

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

女王国以北の諸国を伊都国で「一大率が」治めてるんだよ。
常治伊都國の次に於國中有如刺史「我が国における監察官・州長官)である」と書いとるじゃろが。
主語が女王なら、「刺史」はどこにかかる形容なんだよ。


「女王が伊都国で(女王国以北の諸国を)統治している。(女王は)我が国における刺史である」

では、まったく意味不明。

「一大率が伊都国で(女王国以北の諸国を)統治している。(一大率は)我が国における刺史である」

一大率は刺史のようである、女王が伊都で統治しているなら
特置一大率檢察 諸國畏憚之 於國中有如刺史 女王常治伊都國 
になる。

人口が北九州に収まりきらないことは既に検証確定されているので割愛。

833日本@名無史さん2019/01/14(月) 06:21:58.04
このスレ的に邪馬台国は

@ 北部九州 A 伊都国=邪馬台国 B 甘木・朝倉 C 島原半島

D 太宰府 E 佐賀平野 F 熊本平野 G 西都原 H 都城 C 南九州

I 宇佐・大分 J その他 

のどれが優勢なのよ?

834日本@名無史さん2019/01/14(月) 08:13:34.93
>>833
九州北部は全てアウトであることが論証されている以外は未確定。
記載行程的には有力でも考古資料に乏しかったり、その逆だったり一長一短。

835日本@名無史さん2019/01/14(月) 08:14:46.10
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

836日本@名無史さん2019/01/14(月) 08:17:31.07
博多の那の津(商用)
今津の彌々津(王族用)
前原の船越港(外国賓客用)・・・一大率は、この港で出入国船を検めた
ほほう、糸島の伊都国周辺は、良港だらけではないか。さすがだぜーー。

837日本@名無史さん2019/01/14(月) 08:27:45.30
>>832
「女王が伊都国で(女王国以北の諸国を一大率を使って)統治している。(この女王が伊都国で女王国以北の諸国を一大率を使って統治している様子が)我が国における刺史である」

838日本@名無史さん2019/01/14(月) 08:30:54.51
>>829
その大陸倭人が邪馬台国の卑弥呼だろ
関係大有りじゃんw

839日本@名無史さん2019/01/14(月) 08:31:29.34
今津の彌々津ね

爾支が邇邇藝に化ける構図からすると
彌々津は彌の津
彌が地名のコアな部分
不彌とかあふみの彌なんでしょうね
このポートは今津湾から小戸を通って
ラグーンに入り込んだ内側にあるということですね

840日本@名無史さん2019/01/14(月) 08:41:21.86
もともと北部九州は伊都国・那国・不彌国の三国を想定し、巨大な邪馬台国は畿内にあるはずだった。
ところが肝心の畿内箸墓説が頓挫して、邪馬台国が北部九州へ出戻りになり、おまけに投馬国までついてきてしまった。
福岡平野は、急に7万戸+5万戸が転がり込んできて超満員状態。家も足りない、墓も足りない・・。
想定外のことで、一気に破綻してしまったようだなあ。、

841日本@名無史さん2019/01/14(月) 08:52:47.91
>>840
そこへ、真実の根拠を引っ提げて、颯爽と登場したのが倭国(阿波)。  @阿波

842日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:02:41.92
弥生時代に大きな人口を支えることができたのは、全国でも福岡、熊本、宮崎のみ。
それぞれ邪馬台国、狗奴国、投馬国。

843日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:15:43.27
>>832
一大率が複数かどうかわからない
諸国にそれぞれ置いたのかも?
壱岐対馬も含めるだろうから、その可能性はあると思うね

この文の"治"の主語は女王か一大率かわからない
その前の文の"置"は女王だろうけど

国中(国内)における刺史の様だから、体制の事を示せば、複数人いる事になる

解釈の仕方は2通りあると思うね
正しく読む、ならば断定してはいけないかもな

844日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:33:59.83
刺史は州ごとに置かれる
複数だとすると倭國は複数の州にまたがる規模なんですかね

845日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:01:36.98
>>842
>弥生時代に大きな人口を支えることができたのは、全国でも福岡、熊本、宮崎のみ。

と言いながら、弥生時代後期集落遺跡を提示できないお粗末さ。  せいぜい提示できる遺跡は古墳ばかりなり。  @阿波

846日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:13:01.38
>>845
オッケー分かった
寝言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458389654/

847日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:30:10.27
>>844 名前:日本@名無史さん 2019/01/14(月) 09:33:59.83
>刺史は州ごとに置かれる
>複数だとすると倭國は複数の州にまたがる規模なんですかね


刺使の如し・・、だ。
例によって陳寿が、もったいぶって筆を走らせただけのこと。中華の刺使制度の極くミニチュア版だったのさ。

848日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:33:14.13
>>843
>一大率が複数かどうかわからない

一なんだから、一人だろ。
水戸黄門みたいなのがいたんだよ。

849日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:08:31.68
>>829
卑弥国の存在を意図的に無視?

850日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:15:47.23
>>849
別に無視している訳では無いが、それを言い出すと、やれ半島起源だ、馬韓だと言う奴と皇国史観の奴とかも出てきて収拾がつかなくなる
馬韓スレでやれ

って話よ

851日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:45:15.94
こんな感じの数字で分かる資料とかも見て考えたいんですが何かいい資料ありますか?
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/maizobunkazai.pdf

852日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:50:04.77
諸國畏憚之と、諸国をビビらせてるんだから、女王国側の駐留軍隊があったんだろ。「率いる」ってぐらいだし。

官吏一人二人で諸国に目を光らせられるわけもなく、各国邑に支部というか駐屯部隊があって、北九州方面総督部が伊都に置かれたということだな。

終戦直後のGHQみたいなもんか。

853日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:58:37.33
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

854日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:14:04.46
>>832
原文の引き方でミスリードさせてるだけでしょ?
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
張政が(小倭である女王国に)大倭を見た所感として、
女王国以南には無い、女王国以北にだけ、特に置かれた一大率があり、
檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有 如刺史 でしょうが。

王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
王の書簡や、賜遺之物詣女王 まで検閲されて、完全に国家主権も無い状態です。

三国志時代の 刺史 は、地域王の上位にある中央軍の進駐軍指揮官であって
刺史 や 州牧 が 後に戦国王の魏王や蜀王や呉王になってるんだけど・・・
ちなみに
313年四郡を追い払った高句麗は350年、幽州刺史、楽浪候として中国貴族になった。

史刺 同様のミスリードなんで、ついでに、言っておくが
戦国王は辺境の勝者を味方に付けるものであり、
245年の 其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 檄 は
魏軍の旗の下、韓王朝 征伐戦に参加せよ、という招請。
これに応えなかった理由の査察で 247年張政は 為檄告喩之 で 来日した。

戦国時代の 檄 とはそういうもの。
狗奴国との戦争で、魏が卑弥呼の味方に着いたとか、なんのデタラメ解釈だよwww

855日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:27:01.19
>>832
>主語が女王なら、「刺史」はどこにかかる形容なんだよ。

「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
女王卑弥呼は女王国以北に特別に一大率を置き諸国を検察されている、諸国はこれを畏れ敬う。女王卑弥呼は常に伊都国に於いて女王国以北の諸国を一大率に検察させて治めている。
「於國中有如刺史」
この様子は国中に於ける刺史のようなものである。

856日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:28:03.21
>>832
>主語が女王なら、「刺史」はどこにかかる形容なんだよ。

「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
女王卑弥呼は女王国以北に特別に一大率を置き諸国を検察させている、諸国はこれを畏れ敬う。女王卑弥呼は常に伊都国に於いて女王国以北の諸国を一大率に検察させて治めている。
「於國中有如刺史」
この様子は国中に於ける刺史のようなものである。

857日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:34:09.05
>>854
>三国志時代の 刺史 は、地域王の上位にある中央軍の進駐軍指揮官であって

いや、だから、女王国中央郡の進駐軍指揮官が伊都国に置かれた、で綺麗に意味が通る。各国にはそれなりの部隊を配置しても、最高指揮官は伊都。
地域王である伊都王より上位(もしくは別権力)に一大率が存在するんでそ。

檢察諸國畏憚之から読み取れることは、代々女王に臣従した伊都国を除き、女王国と北九州の諸勢力とは不和、もしくは緊張関係にあったということ。

卑弥呼は征服王ではなく、共立王なんだから、中華の戦国王を引き合いに出すのは意味不明。
何のミスリードしたいの?

858日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:34:55.70
大率は卑弥呼が倭国の最重要地域である対馬海峡を統治するために定めた大将軍のことだよ。
広域を支配していたから、平時においては刺史になぞらえられた。
地方官というのは恣意的な解釈であり、誤りだ。

859日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:37:07.48
倭では一大率の仕事は檢察諸國だと書かれているんだけどね。

860日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:43:48.11
一大率が後の太宰帥になったという節はどう思う?

861日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:23:14.64
>>854
このレスは、論旨・論点不明瞭。何を言いたいかも不明朗。

862日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:26:10.65
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王

これが、検閲、駐留させられた張政の報告であるから かもしれないけれど、
一大卒は 特に九州の王族の 貿易や外交についての検閲を 主業にしてる
中央の軍事政府から派遣された、司令官に見える。

247年のこの報告で 魏と九州北部の女王国の国交が終わった
十分な理由が読み取れるんだけどね。 残念だけどw

後の大和朝廷は、親交のあった、
公孫氏や韓王朝を滅ぼした 魏、楽浪帯方郡 に対し、
これ以降、敵意をもって、半島進出と富国強兵に突き進んだ。

313年四郡撤退、高句麗戦での富国強兵、350年新羅、百済の傀儡建国は、
日清、日露戦争、半島統治、大韓帝国建国時代の日本並みに、
高等外交戦術が有ったと思うね。

卑弥呼の国にできる仕事じゃないと思うよ。
ネトウヨと呼ばれる覚悟を持てる、5ちゃんじゃないと、
真実は語れないかもしれないけど・・・

863日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:31:06.46
>>861
漢字飛ばして読んでる? 簡体字に訳してもらえば?

864日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:53:35.78
>>862
全くもって意味不明
大率が伊都に到着した荷物を確認したのは、伊都に女王がいたからだろ
途中で荷を解くわけがない

247年より後も国交は続いているし

大和にそのような強大な勢力があった痕跡はない

865日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:04:27.09
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

866日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:08:02.77
>245年の 其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 檄 は
>魏軍の旗の下、韓王朝 征伐戦に参加せよ、という招請。
>これに応えなかった理由の査察で 247年張政は 為檄告喩之 で 来日した。

魏の都合からすると 難昇米に韓地討伐戦に参戦されると困る
檄を読み上げて告諭してもらったのは難昇米だけではなくて
壹與も檄による告諭で女王になった
難昇米はこの時に黄幢をゲットして帝権の代行者として振舞うことを許容された
そのなかみは直接的な統制下にはない國國の軍団の指揮権
州刺史の持つような郡の軍団の指揮権と同列のもの

867日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:25:09.74
>>850
卑弥呼の出身はどこか大事だろ

868日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:43:25.18
遺跡だけで言うと倭の発祥はオクキョンじゃね?ただ倭人と韓人は別民族だからそれを持って韓国起源にはならないけどな

869日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:43:58.68
短里標準里、直線距離行程距離、どの読み方をしても女王国まで12000余里に当てはまらない伊都国で女王が治めたって意味不明。
普通に一大率は伊都国で治めた、我が国の刺史のようだ、、でいいよ。

870日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:48:48.59
>>862
わざと時系列をひっくり返して解釈するのが、
高級・高等で深読みなんだと、内心自慢し、見せびらかしてるようだ。

871日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:49:53.62
九州北岸まで一万里だから、畿内はもっとあり得ない。
伊都の方は一割程度の距離の誤差のようなもの。

872日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:51:23.50
>>870

畿内説は後の出来事から理由をこじつけて嘘をつくのが常套手段なんだよ

873日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:15:06.98
>>872
なるほど、そうなのか
まるで学生の解答を見てから、教官が試験問題を書き換えるようなものだな、
畿内の学校ではそういうイジワルな裏技も教育するのか、、、、。

874日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:20:09.40
阿久根で良いだろ

875日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:30:14.35
畿内説の極道わざのネタは、時系列をいじくることか、
そういえば、4世紀の古墳を繰り上げて三世紀中ごろだとホラ吹いたのもそのクチだったのか・・・、

876日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:34:30.53

877日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:35:00.63
わざと、主語を書かない、という手口も使うようだな。
それで議論を混乱させようとたくらむやつな。
相手の出方を見て、あれはそのことじゃない・・・、とかいって、主語逃れをするのな。

878日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:55:10.46
>>877 陳寿が か?

879日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:03:03.63
>>876
笑っちゃうね
このブログで「クナ国」と勝手読みしている勢力こそ、正真の卑弥呼の「邪馬台国」なのだが・・・。

880日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:55:35.68
狗奴国と邪馬台国は本来は同じ肥国王家の系統で、家督争いをしていたのだろう。
だから壹與を共立して和合したのだと思う。
どちらかがどちらかを滅ぼしたというような単純な話ではないだろう。

881日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:01:45.16
>>867
卑弥呼の出身は
1)不弥国
 沖ノ島が卑弥呼の島になってる。
2)伊都国、奴国
 倭王の外戚。
3)邪馬国
 邪馬国の女王。
4)公孫氏
 公孫氏のスパイ。公孫淵の配下に卑衍がいるし。
5)鮮卑
 卑から。
ぐらいあんのかな。

>>868
オクキョンの年代は土器編年で不正確だし、
たぶん、日本の方が古いっしょ。

>>880
卑弥呼は外様で狗奴国王と壱与が正統の血統かと思う。

882日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:02:29.16
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

883日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:08:46.88
卑弥呼は筑紫王家の外戚である肥国王家の女王で、筑後出身だが伊都で倭王に就任し、平原遺跡に葬られた。

884日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:18:55.14
シャーマンは王の血筋とは関係ないだろう。
寧ろ王の血筋で争って倭国大乱が起き、シャーマンを頭に据えて争いが収まったのに
その人物がどこかの血筋だったりしたら、収まる争いも収まらない。

一種の神官統治による宗教国家に様変わりした。

885日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:22:49.95
>>867
遼東半島

886日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:29:51.25
逆だろ。
卑弥呼に伊都国王は代々臣従して、伊都国が女王国の北九州方面出張所になったの。
臣従の理由が卑弥呼の外戚だったから、という理由はありえる。

漢代には北九州の盟主として委奴国王に封ぜられた奴国が、千戸あまりの小国の下座につくわけがなかろう。
バックに7万戸の大国が控えてるからこそ、女王国の官を受け入れ一大率の監察下という立場を受け入れてるのだよ。

ごく一部に平原遺跡の大型内行花文鏡を八咫鏡と同一視する向きもあるが、代々受け継がれるべき神体を副葬品とするはずはなく、形代のひとつかさらにランクの落ちる複製品か、ということになる。
平原一号墓が方形周溝墓であり、円墳でも径百余歩でもない事から卑弥呼の墓でない事はあきらか。

887日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:39:52.68
伊都国は九州古来の古都で
卑弥呼の名目上は大乱を静めるため
実体はガイ国の領土拡大ために来たんだろうな

888日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:45:17.24
>>887
>>885

卑弥呼が公孫氏だったら
魏に朝貢をする訳がない
ありえん

889日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:50:32.33
>>876
このブロガーは、福岡平野(博多那国)こそ邪馬台国に間違いない!、という立場で書きづづっている。
そう考えるから、其の南の熊本平野が狗奴国でこれまた間違いない!、ということになる。
先入観が10歩も100歩も先に出てしまっているとみた。

だから、全国の社寺遺跡を訪ね歩いたにしては、見ているのは、遺跡・遺物などの点々チェックばかり。
それに佐賀平野は全く考慮の外だ。
もしかして、佐賀モンはお好きでないのかな。

しかし、国と国をつなぐのは昔も今も道だ。
道こそ、古代〜現代〜未来を雄弁に物語る4次元ネットワークなのだ。。
唐津ー佐賀川上ー吉野ヶ里を結ぶ古道こそ、倭人伝陸行の道である。佐賀嫌いを言わず、一度訪ねてほしいな。

890日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:03:35.52
>>886
卑弥呼が日本=倭国の王であるなら、
数代に渡る戦国史である三国志で、
なぜ日本が女王国などと言う、一代個人の名で語られるのか。
実際、卑弥呼の後先で、世襲ですらない王の国は乱れている。

240年印綬の際は、女王の処都は、郡から万二千里にあった。
247年の伊都、女王属国の全ての王や使者が往来し、郡使が検閲で駐留させられた
首都は、張政の里程行程の合計、一万500里にあった。

帯方郡が、卑弥呼を倭王と間違えて印綬しちゃいました。
と言う経緯は、所属が 列記21国 で7万戸、九州北部2千里までの
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 でした。

使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
です。 で判るだろw 

残念な国が 邪馬台国 なんだよ。

891日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:06:00.20
これはひどいw

892日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:06:27.75
>>888
だからこそ
ごますってたのかもしれんよ

893日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:14:36.17
>>884
>一種の神官統治による宗教国家に様変わりした。

当にその通り。
軍隊は、諸国・諸藩の下にあり、それを神勅により統御した。これを原型として、その後の日本統治へ続く・・・

894日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:20:11.70
>>891
先生、おひさ ですw

895日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:22:05.31
>>890
畿内厨お得意の、時系列操作と主語隠しww

896日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:47:36.23
>>886
平原の大型内行花文鏡が八咫の鏡なのは大きさや文様からみて間違いない

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E9%8F%A1
>また、後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
>咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
>(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周を計る尺度なり)
>
>とある。「後漢の一寸」は2.3cmだから、一咫は2.3×8 = 18.4cmとなり、八咫は約147cmとなる。
>現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから考えると鏡はもっと小さいモノであるはずであり、このことから「八咫(やた)」は
>単に「大きい」ということを表しているだけで具体的な数値ではない、という説があった。
>しかし平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、
>弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった
中略
>福岡県糸島市にある遺跡「平原遺跡」において出土した国宝に指定されている直径46.5cmの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)
>4面(破片の分析からは5面)は原田大六によると八咫鏡そのものという[5][6]。
>この「大型内行花文鏡」は、図象のみの大型の青銅鏡である。つまり、文字や神獣などの図柄は無い。
>また、『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は
>現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

代々受け継がれるべき神体、という固定観念は同型鏡を1枚しか持っていなかった大和朝廷の概念であって
作ろうと思えばいつでも作れた伊都国の概念ではない(大型内行花文鏡は国産鏡)

897日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:52:45.04
>>888
公孫氏は漢代の冊封だけど、三国志では
魏の冊封内に居たんじゃないかな?
なのに、燕王を名乗り、呉との同盟を疑われて滅ぼされた。

ちなみに、倭人伝の 呉の太伯の後という関連文が削除されて、
その道里が、会稽東治の東 とか意味不明の 壊れた道理の文が有るのも
魏が三国志の戦国王だからだよ。

奴国の升米、都支国の牛利は、公孫氏と交易に行ったら
魏が帯方郡を滅ぼしてたんで、その場を取り繕って
洛陽まで案内されて、九州筑紫21国の宗教上のシャーマン卑弥呼が倭王だ、
とか言ったんじゃないかな? 
韓平定とかで、三国志出場資格有り、の 奴王で大夫で魏の将軍なんだけどねw

僻地引きこもりで、宮に女官千人の女王? 聖徳太子の後宮じゃないしw
卑弥呼に権力、軍事力は無い感じでしょ? ←これひどw

898日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:55:01.05
糸島のは制作年代不明の5枚だからな。
例えば、平安・鎌倉時代のものだったのかもしれぬし・・・。

899日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:09:12.40
>>898
青銅製品に関しては、
銅鐸が日本製でBC200年以前の可能性は有るんだから
銅鏡は制作出来てる。 鍍金はいつからかは微妙。

銅鏡は、本来の輸入物の多い九州に対し、九州平定と係わる日本海ルートでは、
平原以降の古墳導入という意味不明文化で、制作を取り入れてるんじゃないのかな?
まあ、考古資料はいずれ、騙せんだろ。

900日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:24:03.85
>>893
神勅ということは、卑弥呼がアマテラスのモデルだよな。
つまり平原遺跡の超大型内行花文鏡が八咫の鏡だ。
卑弥呼にたくさん副葬したからこそ、それ以後は残された鏡が伝世したのだろう。

901日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:29:09.61
>>897
>僻地引きこもりで、宮に女官千人の女王? 聖徳太子の後宮じゃないしw

それ、聖徳太子ではなく筑紫の倭王であった天の多利思比孤の話だろ。
郡使はそれを目撃しているわけだ(伊都までしか来ていないのに)。

902日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:34:39.89
>>900
鬼道の卑弥呼だけに、平原衆も、だんだん神懸かりの世界に近づいてきたかな

903日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:46:05.65
まだ発見されてない卑弥呼の墳墓がある!って主張ならまだしも、正しく読むスレで明らかに倭人伝の描写と違う平原1号墓を卑弥呼の墓とか言い張る奴、頭おかしいの。

904日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:29:22.10
>>903
何か違うか?
弥生終末期、大乱後の墓と考えられており、鏡文化で女王、複数の外国製品を身につけている事から外交能力も特出している様相

墓の大きさか?
誇張説だとちょうどよくなるが?

905日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:33:48.08
伊都国の他の倭王墓も方形周溝墓だしな。
三種の神器を完成させたのも平原女王。

906日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:36:16.62
>>904
>弥生終末期、大乱後の墓と考えられており、鏡文化で女王、複数の外国製品を身につけている事から外交能力も特出している様相

よくもまぁ、そんな程度のもので・・・  蛮勇だね。  @阿波

907日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:36:40.69
>>904
誇張説wwwwwwwwwwwwwwwwww

908日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:38:41.78
>>905
倭国(阿波)の爪の垢を煎じて飲む?  @阿波

909日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:44:50.24
>>876
>倭国を滅ぼしたのは狗奴国
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/tizudesiru.exblog.jp/amp/21790518/%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoAVgB

改めて多くの記事をよませてもらった。
結局のところ、ギンギンの北部九州王朝説で、福岡平野にあった那国が邪馬台国だった・・、
だが、熊本平野を地盤にしていた狗奴国に襲われて壊滅した。それが倭国大乱だった、という構図のようだ。

しかし、福岡平野に邪馬台国があったようだという根拠も紹介していないし、推測・推定すらも述べていない。
そしてやはり最大の特徴は、
松浦(唐津)や、東南陸行500里の佐賀平野を好ましく思わず、まして畿内説は、端から除外していることだ。
多くの北部九州説者同様に、古田・原田・安本の古典的理屈にマインドコントロールされたままの状態にあるとみた。

910日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:49:20.76
邪馬台国の怪

911日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:05:33.24
天草に興味ある自分からしたら、興味深い話だわ。天草からより近い陸地を辿って行けば宇土半島な訳で…

912日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:06:00.50
●人口的に収まりませんが?
→7万戸は7万人の意味だから問題ない!
●12000里には足りませんが?
→1500里は誤差の範囲だから問題ない!
●墳墓のサイズが合いませんが?
→誇張説ならちょうどいいから問題ない!

すげぇなwwwwwwwww

913日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:10:02.38
>>912
捏造乙

914日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:39:46.99
>>876 つづき
二世紀末の倭国大乱で大勝利したのは熊本狗奴国、大敗して村ごと壊滅させられたのは筑前邪馬台国、という構図なら、
その壊滅的敗者の邪馬台国を都とする卑弥呼が共立されて、三世紀の倭30国の女王になり、
魏から金印紫綬を受けて、再び大強敵の狗奴国退治に向かった、というのは、誰が見ても邪馬台国の怪談だし、倭人伝の記述にも反する。

逆に、熊本平野の邪馬台国によって筑前の那国が平定され、この邪馬台国は共立倭30国を立ち上げて、
その勢いで南の狗奴国をも平らげた、という筋書きのほうが有りうる。
であればこそ帯方郡も、勝ち馬に乗ろうと邪馬台国に金印紫綬をさずけ、軍師も送り込んで援助しだのであろう。。

915日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:56:40.91
>>907
知らないの?
「全解決」の人の説だね
わりとあるえるかも

誇張説は、今までも何人か読んだ事あるから、そんなに珍しいものでもないよ

916日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:00:53.43
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

917日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:48:24.03
>>909
倭国大乱は狗奴国ではなく、九州北部の覇権争いで卑弥呼が女王になる前の話しだよ?
卑弥呼の前男王が七、八十年治めていたがその後、後継者の座を巡って覇権争いがあった。それが倭国大乱。

ちゃんと魏志倭人伝に書いてある。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大
無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

邪馬台国の場所を無理なく比定することは難しいが、遺跡の規模からすると、吉野ケ里で良いと思う。
他に九州北部では、邪馬台国に比定して無理のない規模の遺跡が見当たらない。
存在した時期と、遺跡の規模だけで言えば、九州だと吉野ケ里
畿内だと纏向か唐古鍵ぐらいしか、邪馬台国の規模に合わない。

918日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:20:40.03
吉野ヶ里は伊都国かな

919日本@名無史さん2019/01/15(火) 05:06:32.74
>>915
あほか。
誇張説言い出したら、万二千余里も誇張、七万戸も誇張、水行計

30日陸行1月もみんな誇張で片付くマジックワードになるわ。
そのご都合主義を嘲笑されてる事に気づけよw

920日本@名無史さん2019/01/15(火) 07:30:13.85
拝假難升米 為檄告喩之

卑弥呼以て死す

卑弥呼は援軍を頼んだのに激告られたから
自殺したんだ

921日本@名無史さん2019/01/15(火) 07:34:24.92
>>919
当時の倭地・倭国・諸国をどの範囲に設定するかで、個人差がおおきい。
合わないと、ご都合主義になる傾向だ。。

古田・安本は福岡県内の村邑スケール
原田大六は西日本の府県スケール
んで、この正しく読む九州説は、九州内の旧藩スケールといったところかな。
(九州内旧藩は約30藩だから、これだとサイズ的・クニ数的に修正なしでいけるからね)

922日本@名無史さん2019/01/15(火) 07:42:40.84
>>917
邪馬台国を熊本県の熊本平野、狗奴国を熊本県の球磨地方に充てると、さらにピッタリ治まる。
球磨地方は、奈良盆地とほぼ同じ大きさの大平野だ。
ここに入る国は狗奴国くらいしかない。

923日本@名無史さん2019/01/15(火) 07:57:01.83
>>920
「激告を諭した」って...なんか切腹を命じた
とも取れるよな

924日本@名無史さん2019/01/15(火) 07:59:40.21
>>922
妄想はそれくらいでいいから、根拠を添えて言いなさい。  @阿波

925日本@名無史さん2019/01/15(火) 08:24:45.00
>>924
根拠はとうの昔に示した。
おおそうだった。球磨地方を根拠地にしたのはコマヒトと呼ばれた久米一族、阿波の久米氏の祖神だ。
@阿波は、朝夕、西の球磨山を遥拝するべきだが、怠りないな?

926日本@名無史さん2019/01/15(火) 08:25:18.46
>>919
>30日陸行1月もみんな誇張で片付くマジックワードになるわ。

一つの原因で統一的に説明ができるのなら、それは真実に近いという考え方がある。
九州説がそれ。
逆に、一つの嘘から次々に嘘を重ねなくてはいけない畿内説は真実から遠い。

927日本@名無史さん2019/01/15(火) 08:42:28.82
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

928日本@名無史さん2019/01/15(火) 08:57:44.07
>>920-923
遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。
卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、国中遂定。政等以檄告諭壹與。

A:拝假難升米為檄告諭之。←←難升米に対して告諭であり、ボケてた卑弥呼には会っていない
B:政等以檄告諭壹與。←←イヨちゃんには会って告諭だが、その後もイヨちゃんは、ゲンキはつらつ

929日本@名無史さん2019/01/15(火) 09:34:27.69
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

930日本@名無史さん2019/01/15(火) 09:45:09.77
>>928
張政は難升米に(激告=責任=処刑)卑弥呼を殺させたんじゃないか?

そして卑弥呼以て死す

壹與の場合の激告は頑張れ

国中遂定。政等以檄告諭壹與。

931日本@名無史さん2019/01/15(火) 10:18:17.97
>>922
熊本で規模の大きな遺跡と言えば、方保田東原遺跡あたりかな?
行程を連続読みで見た場合、規模的に無難なのはこの位?

行程と規模の両面で邪馬台国に比定して無難なのは、吉野ケ里か方保田東原のどちらかだろうね。

932日本@名無史さん2019/01/15(火) 10:43:40.27
>2・原文を絶対に修正しないこと。
無意味
倭国は会稽東冶の東に位置すると書かれていて、明らかな誤りがある
狗奴国が後漢書と違ってるし、どちらかが間違っているということ
邪馬壹国も修正しないつもりか?

>3・国々の位置が陸上にあること。
そのまま読めば九州の南方海上

結局、倭人伝を曲解、こじつけ読みをしてるだけじゃん
アホらしいわ

現在目にすることができる『三国志』は、
「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。

ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
かなり内容が変わってしまっているんです。
「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の
『三国志』の写本の一部分で、現在までに6編ほど見つかっています。その中に、
「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」
というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。

姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、
それによると、全1192字中、画数の同じでない文字が416字。
全体の1/3を越えます。また、用語から見て、
「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。
どう思われますか? これは一部分の話ではありますが、
全体としてみても、この傾向はあまり変わらないと考えられます。
ですから、みなさんが目にする「魏志倭人伝」も、陳寿が書いたものからすると、
1/3は画数の違う漢字が使われている可能性があるんです。

以下に、紹煕本と古本の違いを列挙していきます。

・よく似ていて誤写したと思われるもの。
単なる誤写の他に、筆記者の判断によって意図的に字形の似た別字に
置き換えられたものもあるでしょう。

・「孫権伝」
「[番β]」と「潘」
「免」と「勉」
「成」と「誠」
「麾」と「靡」
「俛」と「勉」
・「虞翻伝」
「偽」と「為」
「積」と「責」
「成」と「咸」
「中」と「忠」
「宜」と「=v
「日/丙」と「晃」
・「陸績伝」
「在」と「存」
「遇」と「逼」
・「張温伝」
「j」と「綜」
「任」と「恁」
「倍」と「陪」

・衍字・欠字

・「孫権伝」
「陸遜部将軍宋謙等攻蜀五屯皆破之」の「之」なし
「遜随軽重」の「随」の下に「其」あり
「君生於擾攘之際」の「之際」の二字なし
「古人之所恥」の「之」なし
「敕諸軍」の「敕」の下に「令」あり
・「虞翻伝」
「後権於楼船」の「権」字なし
「惟大司農劉基」の「司」なし
「大王以三爵之後手殺善士」の「手」なし
「曹孟徳尚殺孔文擧」の「尚」なし
「弧於虞翻何有哉」の「有」なし
「聳越騎校尉累遷廷尉湘東河間太守」の「累遷」以下10字なし
・「陸績伝」
「遠人不服則脩文徳以来之」の「則脩」2字なし
・「張温伝」
「温當今與誰為比」の下に「也」あり
「臣自入遠境」の「入」字なし

・その他、改変と思われるもの

・「孫権伝」
「猶冀言者不信」の「者」を「之」につくる
・「虞翻伝」
「何敢與吾君斉馬首乎」の「乎」を「也」につくる
「天下熟知之」を「誰不知之」につくる
「而遽」を「遽而」につくる
「當閉反開當開反閉」を「當開反閉當閉反開」につくる
「也」を「邪」につくる
「百」を「十」につくる
「在南十余年年七十卒」を「在南十余年_十九卒」につくる
「翻有十一子」を「子十一人」につくる
・「陸績伝」
「須當用武治而平之」の「須」を「唯」につくる
「虞翻旧歯名盛」の「名盛」を「成名」につくる
「有漢志士呉郡陸績」の「士」を「民」につくる
「遭命不幸」の「幸」を「永」につくる
「従今巳去」の「巳」を「以」につくる
「便欲大搆於蜀」を「便欲大構於丕」につくる
「功冒溥天」の「溥」を「普」につくる

938日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:01:35.46
>>932
不弥国から投馬国の水行二十日と、投馬国から邪馬台国の水行十日陸行一月が距離じゃないから何とでもなる。
絶対に不可能な距離や極端に短い距離じゃなければ、魏志倭人伝を改変したことにはならない。

おわかりいただけたでしょうか

現在目にする三国志テキストには、これだけ多くの誤記・誤写・改変があります。
もう一度くり返すと、
全体の1/3以上が異なる漢字に置き換えられ、
約1200字のうち、40句の熟語が違っているのです。

940日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:15:40.16
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

941日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:32:02.63
>>939
とはいえ、帯方東南大海の中の九州島の1/3以上が消えてなくなったわけでもなし、
また対馬や壱岐が漂流したわけでもない。。
倭人伝の「現場」と照らし合わせれば、「自郡〜至る女王国」までの行程は、ほぼ正確に復元できるであろう。

942日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:36:47.68
>>939
間違ってる。アテにならない。
だと、邪馬台国がそもそもあったのか?から疑ってかかる必要が出てくるし、帯方郡自体も、どこにあったのか、正確な場所がわかってないので
出発点から間違ってる可能性も出てくる。

つまり、こんなスレ覗いてる意味がないよ?

943日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:45:46.66
このスレ的に邪馬台国は

@ 北部九州 A 伊都国=邪馬台国 B 甘木・朝倉 C 島原半島

D 太宰府 E 佐賀平野 F 熊本平野 G 西都原 H 都城 C 南九州

I 宇佐・大分 J その他 

のどれが優勢なのよ?

944日本@名無史さん2019/01/15(火) 11:47:16.78
そういえば、ここは九州説の一方の雄である
安本美典の甘木・朝倉説ってほとんどいないんだな

945日本@名無史さん2019/01/15(火) 12:19:57.95
そうだねえ、九州じゃさっぱり聞かないねえ。

946日本@名無史さん2019/01/15(火) 12:39:49.37
>>943
九州北部ってものすごくざっくりしすぎててややこしい。
筑紫平野を2つに割って
筑後平野・・・福岡側
佐賀平野・・・佐賀側
位にしたらいいんでない?

947日本@名無史さん2019/01/15(火) 12:43:45.00
邪馬台国の滅亡を再検討する
https://tizudesiru.exblog.jp/238866410/


↑これは、朝倉市隣接の朝倉郡筑前町の惨状である。
倭国大乱のころ、この一帯の村々は、広く破壊しつくされた。隣接の朝倉・甘木の集落も同様であった。
安本の甘ちゃん甘木朝倉説など、あろうはずもない。九州の古代史家には広く知られていることだ。

948日本@名無史さん2019/01/15(火) 13:40:55.53
まあ安本東遷説は九州王朝説の全否定だからな

949日本@名無史さん2019/01/15(火) 13:42:07.54
>>947
>九州の古代史家
って耄碌したアマチュアの爺のことだろ

950日本@名無史さん2019/01/15(火) 13:59:50.60
うん、キミほどひどくは耄碌しとらんがね。

951日本@名無史さん2019/01/15(火) 14:05:46.49
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
この文が、前節の 都市間の里程を示す「行程中の文」であるためには、
まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、
「投馬國」「邪馬壹國」の場合、「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけない。

それどころか、邪馬台国 は後続文
次有 ―列記21国― 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 不屬女王
によって、ここで参問した所属21国の総称としての国名なのである。
都市間の里程を示しだ行程文に、国名が直列で繋がるわけが無い。
邪馬台国は行程の終わりとして『到』であるべきだがざっくりとした地理説明である。
また、行程中の都市で使われた、人口の『有』も『可』になっている。

この概念での 投馬國可5万戸 は 謎の半島南岸の倭人国 ということになり
南至 投馬國 の起点は、帯方郡以外には有り得ない。

邪馬壹國可7万戸 は、九州北部、南北2千里、周旋可五千餘里 で
糸島半島、福岡平野、筑紫平野、である。
女王之所都 は 邪馬壹國 上陸後、陸行一月=2千里を要していることから
現、みやま市辺りが想定される。

これは、240年卑弥呼宮に印綬に訪れた 
遣建中校尉梯儁等の行軍 の記録であり、
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都水行十日 陸行一月
が 247年張政の伊都国まで、計1万500里の里程行程文とは別の
自郡至女王國 萬二千餘里
である。

952日本@名無史さん2019/01/15(火) 14:07:32.33
まあ邪馬台国問題は素人が「学者様ゴッコ」をするにはうってつけの素材
そこは自覚しとかないと滑稽になるだけ

953日本@名無史さん2019/01/15(火) 14:09:40.55
倭国大乱で惨敗した甘木朝倉の邪馬台国勢力が、あわてて東へ逃げたのが、東遷説ということになる。
ではその後、三世紀の甘木朝倉を地盤とし、魏へ使いを送り、金印紫綬を授けられたのはいったい何者だったのか??
それも邪馬台国勢力であったというのは「邪馬台国の怪談」の部類だろうな。

954日本@名無史さん2019/01/15(火) 14:23:04.07
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955日本@名無史さん2019/01/15(火) 14:26:34.49
福岡県朝倉郡筑前町・弥生時代の遺跡消息(邪馬台国の滅亡ーその2)
https://tizudesiru.exblog.jp/238864962/

↑これは、朝倉市隣接の朝倉郡筑前町の惨状・その2 である。
倭国大乱のころ、この一帯の村々は、広く破壊しつくされた。隣接の朝倉・甘木の集落も同様であった。
安本の甘ちゃん甘木朝倉説など、あろうはずもない。九州の古代史家には広く知られていることだ。

956日本@名無史さん2019/01/15(火) 14:47:52.63
邪馬台国と狗奴国が参加した倭国大乱の跡とか?

957日本@名無史さん2019/01/15(火) 15:10:05.64
安本説に準拠するならば、甘木朝倉の在地の邪馬台国勢力に、
肥後熊本から攻め上った狗奴国が襲い掛かったということ。
だから、倭国大乱の時点で、邪馬台国は滅亡し、東へ逃走(東遷?)したということにしかならぬ。

958日本@名無史さん2019/01/15(火) 15:30:16.45
>>953
東に逃げてどこへ行った?
畿内はないぞ?
日本書紀と符合しなさ過ぎる。

959日本@名無史さん2019/01/15(火) 15:30:58.86
安本は畿内説なんだよ。

960日本@名無史さん2019/01/15(火) 15:34:14.18
>>959
ボンクラだからな

961日本@名無史さん2019/01/15(火) 15:48:08.27
どう見ても、甘木朝倉の在地勢力は福岡平野の奴国(奴国)の補完勢力だったのだろう。
そこへ肥後熊本から、最新の鉄製武器で完全武装した新興の邪馬台国勢力が襲い掛かった。
これが倭国大乱で、この戦いを優勢に進めた邪馬台国が、自国女王の卑弥呼の共立に持ち込んで、自国に有利な和平を達成した。
そして、三世紀・倭人伝の時代になると、邪馬台国が倭30国を代表して魏と通交し、金印紫綬を受けた・・・、

甘木朝倉の惨状を見れば、このような順番で考えるべきだろう。
つまり安本説は、敵と味方を真逆に解釈し、敗者(奴国勢力側)に乗っかっているということだな。

962日本@名無史さん2019/01/15(火) 15:55:09.86
そもそも、魏に朝貢した勢力を邪馬台国と呼ぶわけで。

963日本@名無史さん2019/01/15(火) 15:56:52.07
彌生集落を去るとき、人々は祭祀具も土器も捨てた(邪馬台国の滅亡ーその3)
https://tizudesiru.exblog.jp/238863297/

↑これは、朝倉市隣接の朝倉郡筑前町の惨状・その3 である。
倭国大乱のころ、この一帯の村々は、広く破壊しつくされた。隣接の朝倉・甘木の集落も同様であった。
安本の甘ちゃん甘木朝倉説など、あろうはずもない。九州の古代史家には広く知られていることだ。

964日本@名無史さん2019/01/15(火) 16:00:03.43
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965日本@名無史さん2019/01/15(火) 16:00:47.87
他の業界の話になるんだけど調べてみた?
なぜ背乗りのような人物がいるんだよw
という話ばかりじゃない?

本当は、ほんとんど家の話でしょ、
企業(会社)・・・・・なども売ってもらったか何かなのかな?

966日本@名無史さん2019/01/15(火) 16:03:47.59
『分福茶釜 天津』
『河童の三平』?のようなコンセプト写真があるでしょ


実際は『松傾』?こういう名前の家の写真、家のw

967日本@名無史さん2019/01/15(火) 16:09:12.62
『天津神』『国津神』?

968日本@名無史さん2019/01/15(火) 16:15:51.11
謎のサルタというスレ、読んでみた?

兄、電気石(10月生まれ)・・・と言ってる人がいたり

『ずっとオレのターン』というキャラ?

969日本@名無史さん2019/01/15(火) 16:22:35.56
乗っ取られた・・・ベジータ(カカロットの一族)みたいな話?
実際に、そういう話でしょ

970日本@名無史さん2019/01/15(火) 16:27:18.46
『三等重役』
追放〜という設定とか、
浦島という人物がいたり

971日本@名無史さん2019/01/15(火) 16:32:44.94
老婆談があるでしょ、
サザエさんと同じような話をしていたり、


「この写真の母親というのが・・・なぜか素足(裸足)に下駄、
 たしか蚕を飼い、機織りなんかをしていたんだよ」

とか

972日本@名無史さん2019/01/15(火) 17:03:15.84
河童の三平、
サザエさんの作者も生まれていない頃の写真だと言っているし・・・・、
どういう事なんだろう

973日本@名無史さん2019/01/15(火) 18:07:12.65
倭國乱によって邪馬台国が滅亡したとか逝ってるひとがいる

974日本@名無史さん2019/01/15(火) 18:15:05.52
難升米ファミリーの渡来によって倭國に嵐が引き起こされた
すなわちこれが倭國乱であり
難升米ファミリーの占領地は伊那と称されたらしい

975日本@名無史さん2019/01/15(火) 18:18:37.64
難升米ファミリーはどうやら
淮系に属するの渡来人のグループらしい

976日本@名無史さん2019/01/15(火) 18:28:47.07
難升米ファミリーの渡来後の占領区が
「自女王國以北」の5國

その内訳は

對海國 1,000戸
一大國 3,000家
末盧國 4,000戸
伊都國 1,000戸
不彌國 1,000家
----------------
  〆て10,000戸あまり

977日本@名無史さん2019/01/15(火) 18:32:39.36
この  〆て10,000戸あまりの領域は

総称として 伊・壹・壱・一 の名號を持つ
これを仮に古事記に出現する「伊那」という看板を転用して
論を進めるのが有効かもしれない

伊那の治所は伊都國であり

伊那の代表者は伊都國王を称する卑弥呼の異父兄である
伊都國王が女王家の血筋にあることが記されているところが
「皆統屬女王」

伊那の発生は倭國乱による結果であり

倭國乱は「長大」補正を施すと
およそAD210年からAD225年の出来事であるとみられる

978日本@名無史さん2019/01/15(火) 18:35:41.75
安本先生イチオシの福岡県甘木・朝倉地方は、倭国大乱で壊滅させられたようだ。
それは渡来人難升米ファミリ^−のアレだったのか?

979日本@名無史さん2019/01/15(火) 18:45:18.14
この地方では
住民の入れ替えに近いことが何度もあったらしい
玉突き現象というか

980日本@名無史さん2019/01/15(火) 18:51:02.69
>>979
そうだね。
九州北部の不安定な状況こそ、魏志倭人伝に記録された倭国の姿と一致する。

981日本@名無史さん2019/01/15(火) 19:17:06.09
>>973
卑弥呼が女王に就く前の倭国大乱で邪馬台国が滅んでたら、誰が魏に朝貢したんだろうな。

卑弥呼の死後、壱与が女王になった後というなら、確かに邪馬台国は滅んだが。

982日本@名無史さん2019/01/15(火) 19:20:44.01
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983日本@名無史さん2019/01/15(火) 20:15:29.51
引きこもりのシャーマン卑弥呼を擁立する女王国は
統一国として、軍事的、政治的ステイタスはそれほど高くない。

博多周辺の奴国は、本州縄文系の遠賀川地域とも交流が有り
おそらく金印の委奴国であろうし、文化的に先進的である。

卑弥呼はその倭人伝外交において渡来系と見られがちだが、
2世紀でのシャーマン信仰というのは、完全に渡来ではない縄文文化である。

九州関西で、縄文遺伝子が劣化して、男子が生まれなくなった傾向は見えるが
渡来人による、文明開化、稲作産業革命というのは相当な眉唾ものである。

半島南岸に関しては、渡来人というより、BC200年以前からの
縄文海神が進出して半島石器人や箕氏や秦遺民との融和を図ったように見える。
半島南部は、中原勢力の及ばない未開植民開拓地であった。
文化の伝達経路にはなり得ない。

984日本@名無史さん2019/01/15(火) 20:31:21.40
卑弥呼がいたのは弥生も末期
今さら縄文だなんだなどバカバカしい
九州北部ではシャーマン的文化は古墳時代にも続いており、縄文だなどと片腹痛い
むしろ九州における弥生文化の特徴がシャーマンだろ
特に稲作を司るための暦と太陽信仰の象徴である天照つまり卑弥呼はそうだ
卑弥呼をモデルとした神功皇后も神懸かりのシャーマンだった

あと、弥生時代に男が少なかったのは、戦い続いたため

985日本@名無史さん2019/01/15(火) 20:54:50.00
せっかくの甘木朝倉だが、こりゃ消えそうだね、
というより、乱で集落丸ごと消えちゃったのではどうしようもないわ。。。

986日本@名無史さん2019/01/15(火) 21:00:30.12
どこの基地外なんだ?
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか、
刑務所というのもあるだろう

お前たちが、
そのようにするまで、何度でも言う・・・、
何度書いても、本当のことは本当のことw



wwwwwwwwwwwww(大爆笑という意味らしい)

987日本@名無史さん2019/01/15(火) 21:07:07.51
>>984
歴史の話になんか壮絶なおとぎ話か神話みたいのが混ざってるけど頭大丈夫か?

988日本@名無史さん2019/01/15(火) 21:08:42.83
大爆笑だと言っているんだよw


wwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwww


草刈鎌

数年前だったかな同じことを書いたはず

「wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
 wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
「島(日本) 耕作?」

989日本@名無史さん2019/01/15(火) 21:12:22.01
『三等重役』?

浦島太郎・・・〜〜〜課長?という設定みたいだし、
読んだこともないし、観たこともないから、知らないけど

990日本@名無史さん2019/01/15(火) 21:15:04.21
w=草という意味でもあるらしい

991日本@名無史さん2019/01/15(火) 21:18:06.02
やっぱIDとワッチョイ無いと荒しNGするの面倒だな

992日本@名無史さん2019/01/15(火) 21:37:42.08
ひみこ(不明)も、いない時代の話だと言ってる人がいたり、
おかしな話ばかり

『浦島太郎』〜『松傾』長い竿?

993日本@名無史さん2019/01/15(火) 21:51:39.90
太陽、日本(人類)というの?
九州から始まった〜〜〜という創作(嘘の話)なんだろうという意味、
=神話と合致するように、偽造のようなことをしたり


大爆笑だろと言っているんだよ

994日本@名無史さん2019/01/15(火) 21:56:26.65
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


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995日本@名無史さん2019/01/15(火) 22:58:49.98
>>919
倭人伝の記述を元に
部分的に誇張するのではなく、里数単位を全体的に同倍率に誇張した説だから距離の比率は変わらない
どうとでもなる、は嘘だね
勿論ある程度の誤差はあるだろうが

都合よく解釈したのではなく、畿内説のいうように魏代の里数で考えると、単位の誇張があった、という説だし
女王の墓の大きさもそれに合わせただけだろ?

996日本@名無史さん2019/01/16(水) 09:03:10.82
>>995
短里に関しては、倭人伝と韓伝の一部で使われてるのは間違いない。
恐らく帯方郡の管轄区域でこんな事をやったんだろう。

そこからもう一歩進めると、何故こんな事をやったか?
本来度量衡なんてものは、すべて同じ尺度でないと意味を成さない。
魏の中で長里と短里が入り乱れたら、何が本当か分からなくなる。

意図的にやったとしたら、目的は一つしかない。
魏の東には巨大な島国があり、魏に朝貢してきている。
魏は強大だぞ。という虚仮威しの材料に使われたと言う事。

となると、女王国の各国の戸数や規模、特産物や生活、風習、文化レベル
全てが誇張されている可能性が高い。
最大数百人の村が、数万戸の大国になったり、生活様式も未開土人が、それなりの文化だったり。

距離だけが誇張されているとは考えないほうが無難ですらある。

997日本@名無史さん2019/01/16(水) 09:24:14.69
ただの空想

998日本@名無史さん2019/01/16(水) 10:08:58.93
>>996
まぁまぁ、  

短里や長里がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波

999日本@名無史さん2019/01/16(水) 11:47:34.07
元来、度量衡は時代的・社会的・地域的なことなのだよ
太閤検地のころにおいてすら、縄が伸びたり縮まったり、升口が広がったり狭くなったり・・・

1000日本@名無史さん2019/01/16(水) 12:26:46.75
>>996
既に魏が倒れて晋になってから編まれたのに、「魏は強大だぞ。」と主張することに何の意味がある?

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