邪馬台国畿内説 Part416

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1◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:26:35.00
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546950095/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:28:26.08
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:28:45.76
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:29:03.05
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:29:19.24
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:29:35.41
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:29:53.41
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:30:20.59
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:30:36.12
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

10◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:30:53.50
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

11◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:31:09.71
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

12◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:31:29.27
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III    ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

13◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:31:48.45
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

14◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:32:04.75
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)

15◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:32:28.40
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

16◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:32:45.06
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

17◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:33:00.24
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

18◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:33:20.97
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

19◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:33:36.58
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910

20◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:34:05.40
 の指摘は今日も有効である。


◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

21◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:34:22.72
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

22◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:34:37.35
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

23◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:34:51.65
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

24◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:35:09.62
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:35:26.04
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:35:45.32
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:36:05.29
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

28◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:36:24.05
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:36:40.64
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:36:59.42
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:37:16.29
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

32◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:37:32.88
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

33◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:37:49.22
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

34◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:38:06.42
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

35◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:38:24.21
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

36◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:38:40.63
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

37◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:38:57.04
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

38◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:39:14.80
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

39◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:39:29.87
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

40◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:39:46.48
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

41◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:40:03.07
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

42◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:40:20.43
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

43◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:40:39.46
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

44◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:40:54.52
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

45◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:41:10.63
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

46◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:41:25.76
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

47◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:41:44.16
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

48◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:42:00.49
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

49◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:42:18.77
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

50◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:42:34.10
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

51◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:42:51.81
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:43:07.60
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:43:24.01
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:43:39.55
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:43:54.93
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:44:13.53
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

57◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:44:30.02
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。

58◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:44:51.01
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

59◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:45:09.12
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

60◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:45:26.88
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

61◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:45:43.16
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

62◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:46:01.27
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

63◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:46:20.53
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

64◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:46:38.30
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。

65◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:46:58.78
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

66◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:47:22.14
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

67◆UiepmfCeDJqf 2019/01/12(土) 03:48:01.80
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし

68日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:18:01.94
前スレ>996
>日本国は倭国の別種である。

九州説は旧唐書のこの記述にすがりついてるけど、
「別種」っていうのはもともと「同じものの別の呼び方」って意味だぞ

根底から的外れ

69日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:18:05.55
415の>>995
百済なんてずっと後にできる国なんだから、知っていたら魏使はタイムトラベラーだぞwww

70日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:25:16.77
117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間
というところまでしか言えない

『n=3の試料で統計学的に言えることなんてない』

117はこの範囲の中央値というだけで
-225メートルから459メートルの間の「どこに真の値があるのか」ということには
何の情報もない

71日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:29:25.82
そもそもが仮定の比定地間距離だから

72日本@名無史さん2019/01/12(土) 11:49:39.08
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

73日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:06:00.47
>>194
また新しいバカが湧いてきたか
肝心の部分は全部何の根拠も提示せず「そうだから」としか言ってない辺りバカ丸出しだな
こいつ論破してやる!とか意気込んできたんだろうけど自分がバカなのを露呈してるだけだな
こういう低能が大和説なんだろうな

74日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:08:35.03
肝心の根拠を提示しないって九州説のバカは自分の事を言ってるのかね

75日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:09:44.71
半日オウム返しでバカを証明しているんだよ

76日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:10:28.44
>>196
>辻地区の建物跡は、「柱穴の口」が擦れていることから柱の抜取りが行われたと推定されていて
その年代も、その建物あとと同年代とされる祭祀土坑の桃核の年代から3世紀前半とされ<

纏向の土坑は、庄内3であった筈だから、3世紀末になる筈。

77日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:29:08.62
九州説は何で年代を偽るの

78日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:36:08.14
説ではなく呪詛の類だから

79日本@名無史さん2019/01/12(土) 12:51:25.21
邪馬台国論争は卑弥呼が誰なのか、その一点。

応神陵=誉田御廟山(5世紀初)
神功皇后陵=五社神(4世紀後半)
景行陵=渋谷向山(4世紀前半)
崇神陵=行燈山(4世紀初〜前半)

崇神の数十年前にトヨがいてその3世代前に事代主神の娘ヒメがいます。
住んだ場所は葛城、墓は高天原。
神武東征紀とはことさら武勇伝を強調し、女王国時代を男王国に見せかける事を意図したものでしょう。

卑弥呼が分かればその100年前の帥升も分る。

日本の歴史がAD107年後漢皇帝・安帝へのスサノオの土下座から始まる、
その屈辱的史実を覆い隠すために記紀は編纂されました。

80日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:03:34.83
>>197
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする大和説の・・・・バカの特徴、
「結論先にありき」での結論だけ言い張るが、
理由がぜんぜん説明できない。
「テンプレや大和説学者が説明した」とか「蹄鉄だ」とか言い張り、
いくら聞いても頑として答えない ←(答えない所がミソ)。
そして相手をバカにする書き込みを延々と始めて煙に巻く。

81日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:10:08.76
>>80
同意
キナイコシは理論もわからないボケ老人だよ

82日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:10:58.01
>>198
3世紀半ば頃以前には248年が含まれるから、それ自体はなんの問題もないんだが、
卑弥呼の墓は冢であり、前方後円墳ではないから、
全ての前方後円墳は3世紀末頃以後にしかならない、
という事が、なんで判らず、
「相当無理がある」とかいう結論がとび出して来るのか、
大和説さんの思考は読めないなあ。

理由が説明できない…・人種と会話をするのは難しい 。

83日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:16:43.04
>>201
「ぼくちゃんらの先生がそう」の仰ったった、
という「結論先にありき」の思い込みから「そうなってる」と言うだけだからな。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説に、
まともな理論なんてあるわけがないのが分かる。

84陳寿90度回転さん2019/01/12(土) 13:24:22.68
『近代以前の日本の人口統計』(Wikipedia)−1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年)−
によれば、紀元200年の日本人口は594,000人。

うち、北九州と南九州の合計が105,100人で、北海道を除く本州・四国が489,800人。
四国を除く本州だと459,700人。

このように本州が九州を圧倒する人口分布なのに、魏国が本州をスルーして九州とだけ外交を行い、
九州の女王に『親魏倭王』の称号を与え、本州については、

『女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺』
(女王国の東に千余里海を渡るとまた国があって、人々はみな倭種である。またその南には身の丈三、四尺の侏儒の国がある)

などと、まるで人種の違う人々が住む人跡未踏の地としてたった28文字だけの記事を残すなど、
いくら何でも不自然だよ。

85日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:37:38.39
ちなみに『陳寿90度回転説』によれば、

『女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種』
これは本州に対して『東→90度回転で北』にある宗谷海峡を渡った先の、北海道アイヌ。

『又有侏儒國在其南 人長三四尺』
これは90度回転で北海道の東、アイヌが『コロポックル』と呼んだ南千島の小柄な先住民。

に比定される。

86日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:39:40.24
>>71
>そもそもが仮定の比定地間距離だから

そうなんだよな
末盧国、伊都国、奴国まではほぼ正しいが、不彌國は定説がないからな
そうなると試料は末盧国ー伊都国間の一里=200メートルと
伊都国ー奴国間の一里=50メートルのn=2の試料しかないことになる

これで計算すると
平均:125 不偏分散:11250 となるから
125±4.48×√11250=125±475

まとめると
125(-350〜600)ただし( )内は95%信頼区間
となる

これで短里があるって言っちゃうのが九州説なんだよなww

安本美典氏も数理歴史学なんて言ってるけれど、
信頼区間も一切考慮しないレベルでしか統計が使えない人だからなぁ

87日本@名無史さん2019/01/12(土) 13:50:28.13
>>71
比定地が間違ってますね
魏志倭人伝の行程文は国の端に着けば至る
末盧国・・・呼子か名護屋浦付近
伊都国・・・伊都CC付近
奴国・・・日向峠付近
1里80mくらいですね。

88日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:01:31.03
>>87
このバカ嫌いなんだけどww

>末盧国・・・呼子か名護屋浦付近

呼子も名護屋浦もない
そんなところに四千戸の国の遺跡はない
末盧国四千戸は唐津平野に求めるしかない

>伊都国・・・伊都CC付近

おなじく伊都GC付近には遺跡がないからそこを伊都国とするのは不可
それに距離のつじつま合わせだけから無理やりそこだと言っているだけで
そこに至る妥当な経路がないww

>奴国・・・日向峠付近

国境概念はないと何度言えばww
山越え、峠越えの区間は人里の外であり、どこの国でもない
国に着いた所までだと強弁したところで、奴国についたところは
日向峠を下りきって人里についたところにしかならない

こういう嘘にウソを重ねる九州説が大嫌いだし軽蔑してる


同じ解説を何度聞かされても、無視して意味のない数字合わせを書き続ける辺りが
九州説の人材不足と惨状を明示している

九州説のまともな人が一人もいないww

89日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:14:54.13
日向峠は「ひなたとうげ」
「ひむか」でも「ひゅうが」でも無い

90日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:18:46.72
>>88
国邑の端だから遺跡は無いんだよ。
国に国境概念はないとか頭おかしいよw
>>89
記紀の日向の読みとかも分からんよ。

91日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:24:13.93
>>87

九州説は比定地が皆違う

92日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:35:32.08
一つにまとまらない民族性だな

93日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:41:50.72
>>90
>国に国境概念はないとか頭おかしいよw

領域国家じゃないんだから国境概念はない

>国邑の端だから遺跡は無いんだよ。

伊都GCの辺りまで国邑が広がっていたことを示す遺蹟は一切ない
つまりそこが国邑の端であるなどと、考えるべき根拠も理由も一切ない

伊都GCが末盧国と伊都国の国境だと言い張るなら、
末盧国が背振山脈を越えて糸島平野側まで広がっていたことになるが、
「背振山脈という自然国境をまたいだ末盧国」の存在はありえない

さらに、しばらく前のスレで末盧国から伊都国に行くときは、唐津湾沿いに歩いて
背振山脈を越えずに行くって言ってたのは>>90だろ?
そのときも海岸沿いに糸島平野に入ったら、伊都GCより前に伊都国中心国邑の
三雲遺跡群に着くからそこを通り過ぎて伊都GCが国境と認識されることはありえないと
教えたんだがなww

数字合わせだけで、人里離れた「ゴルフ場が作れるくらいの未利用地」に
伊都国比定地を持ってくる>>90の厚顔無恥な態度が大笑いのタネだww

94日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:44:00.98
可耕地に乏しい九州は小国家が分立して当時から争いの絶えない修羅の国だったそうだから奈良の大国である邪馬台国の傘下に入って調停してもらったのだろうな

95日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:44:54.21
奈良湖のほとりで何を思う?

96日本@名無史さん2019/01/12(土) 14:51:24.47
>>89
>日向峠は「ひなたとうげ」

伊都国推しの根拠として、日向峠を重視する九州説の人がいるけれど、
日向川が室見川の支流にあったり「日向」という地名そのものは
日向峠より東側の奴国の領域の地名

つまり「日の出とともに『日向』になる高祖山塊の東側斜面」が日向の地名の由来と考えられる
日向は奴国の地名であり「伊都国が日向」というのは、おかしい

97日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:00:03.18
>>14
文中最下段の「行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み」は、古代中国の歴史事実を勘案しないことに起源する誤認識と言える。
方位・距離ともに正確な内容であり、誤情報を含むとは言いがたい。
ただ、実際の邪馬台国の位置比定のための情報としては、用いることはできないのはその通り。
しかし、この行程・距離の由来が解けない限り、中国史の一部を解くことも、倭人伝の正しい理解に行き着くこともできない。
そこのところを、認識すべきである。

98日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:02:38.12
>>96

伊都説が言ってるのは高祖山を囲む地域が伊都国だから、それでいいのでは?

99日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:25:55.01
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

100日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:28:43.59
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。

101日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:29:13.33
魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、

102日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:31:34.42
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。

103日本@名無史さん2019/01/12(土) 15:45:19.31
>>98
伊都国(糸島市東部)と奴国(福岡市とその周辺)が女王国なんだ
高祖山を囲む地域が女王国ね。

104日本@名無史さん2019/01/12(土) 16:11:34.80
妄想を連呼する民族性でもある

105日本@名無史さん2019/01/12(土) 16:21:39.29
西北九州にしか拡がらない朝鮮半島由来の墓制があり
日本列島に拡がった中国由来の祭祀である
「灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆」が
九州本島には拡がらなかった

106日本@名無史さん2019/01/12(土) 16:25:01.63
東夷伝序文には、
「夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり」
と記す

107日本@名無史さん2019/01/12(土) 16:32:23.51
>>97
あんた、言ってることが支離滅裂だよ
なんで正確なのに使えないんだ

108日本@名無史さん2019/01/12(土) 16:51:42.96
>>196
>辻地区の建物跡は、「柱穴の口」が擦れていることから柱の抜取りが行われたと推定されていて
その年代も、その建物あとと同年代とされる祭祀土坑の桃核の年代から3世紀前半とされ<

纏向の土坑は、庄内3であった筈だから、3世紀末になる筈。

109日本@名無史さん2019/01/12(土) 16:56:02.25
>>98
文化の境い目になってる自然国境をまたいでソコだけ一つの国とか、どんだけトンデモなんだか

ww

110日本@名無史さん2019/01/12(土) 16:58:05.82
>>108
>纏向の土坑は、庄内3であった筈だから、3世紀末になる筈。

筈って・・・アンタひとり理由もなく言い張ってる
ばかですか

111日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:08:24.54
>>103
>伊都国(糸島市東部)と奴国(福岡市とその周辺)が女王国なんだ
>高祖山を囲む地域が女王国ね。

この辺からトンデモなんだよなww
まあ、つまりは「最初から」トンデモなんだが

ある山の両側が一つの国っていう例はないだろ?
山は人の行き来をさえぎる自然国境になる
ご都合主義もここに極まれりだな

112日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:08:39.34
>>202への反論を書いたが、
また、よく分からないが、
5chからの拒否?のような画面になって消えてしまったから、
面倒なので、パス。

113日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:09:32.01
>>194
また新しいバカが湧いてきたか
肝心の部分は全部何の根拠も提示せず「そうだから」としか言ってない辺りバカ丸出しだな
こいつ論破してやる!とか意気込んできたんだろうけど自分がバカなのを露呈してるだけだな
こういう低能が大和説なんだろうな

114日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:12:10.26
>>203
その大和説者や大和説学者らの、
「南→東」などの嘘つき騙しの「ぼくちゃんの思い込み」を、
よそや外国で恥をかくといけないから、
丁寧に根拠も示して「それは違うんだよ」って教えてるのに、
類スレ主らは、聞きやしない。

115日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:24:56.96
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

116日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:27:35.42
>>112
ザラコクのやってることが
迷惑メールやイヤガラセ電話と同じだと
人工知能が客観的に判断しただけだよ
現に同じようなこと、やらかし続けて
yahoo掲示板に出禁になったでしょ?

やっぱり投稿数の異常な多さと
内容の薄さ(=コピペ率の高さ、連呼多さ)
差別用語の多さ
でしょ
ザラコクは誰からも顔を背けられる投稿者なんだよ
だから投稿を断られる

117日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:36:31.23
怒ってばかりいる人は脳が萎縮してしまうそうだから九州説の人は気を付けろよ

118日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:37:21.44
>>90はどこへ行った?
>>93にまともに答えられないだろ?

もう二度と、どのスレであっても
「末盧国・・・呼子か名護屋浦付近
 伊都国・・・伊都CC付近
 奴国・・・日向峠付近
 1里80mくらいですね。」
こういうインチキは書くなよ!

この辺の衛星写真に、>>90の想定する経路や国名その他の情報を入れた図を貼っておく
https://i.imgur.com/h2ujlEL.jpg
名護屋浦に国があるってのは無理だろ?
伊都GCの位置、背振山脈の位置、日向峠の位置を確認してごらん

>>90が以下にひどいインチキか分かるだろう

119日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:43:52.62
どっか脳に異常がないと九州説やるの無理でしょ

120日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:55:16.73
九州説は露骨なウソついてナンボだから
曰く「会稽東治は江蘇省だぁー」

脳、死んでるよね

121日本@名無史さん2019/01/12(土) 17:59:46.44
666儒教九州説は人を壊す
主に主張者を

122日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:51:11.39
関西の考古学を志す学生に畿内説の老人たちが洗脳している現状をいかにするかが課題
何も九州説になびけとは言わない・・・真摯に倭人伝と向き会うことと、論より証拠を大事にしてほしい
畿内説に傾注するのいいだろう 立証にもとずく持論を築けばよい
間違えたら訂正すればよい 意地は学問には禁物
就職のために考古学を専攻したなら あんたの人生だから何も言わないが・・人に迷惑をかけないように生きて欲しい

123日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:51:47.58
関西の考古学を志す学生に畿内説の老人たちが洗脳している現状をいかにするかが課題
何も九州説になびけとは言わない・・・真摯に倭人伝と向き会うことと、論より証拠を大事にしてほしい
畿内説に傾注するのいいだろう 立証にもとずく持論を築けばよい
間違えたら訂正すればよい 意地は学問には禁物
就職のために考古学を専攻したなら あんたの人生だから何も言わないが・・人に迷惑をかけないように生きて欲しい

124日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:51:52.53
関西の考古学を志す学生に畿内説の老人たちが洗脳している現状をいかにするかが課題
何も九州説になびけとは言わない・・・真摯に倭人伝と向き会うことと、論より証拠を大事にしてほしい
畿内説に傾注するのいいだろう 立証にもとずく持論を築けばよい
間違えたら訂正すればよい 意地は学問には禁物
就職のために考古学を専攻したなら あんたの人生だから何も言わないが・・人に迷惑をかけないように生きて欲しい

125日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:53:10.62
魏志倭人伝の記載と実際の比定地から、統計学的に言える一里の長さ

海上距離は測定できないので、利用できる試料は九州上陸後の陸行部分のみ
不彌国の比定地はいまだに定説がないので、結局使えるのは

末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=50m/1里

のみ

この50m/1里、 50m/1里 の2試料(n=2)から計算される平均と分散は
平均:125 不偏分散:11250

nが30未満で、母集団の分布についての情報もないので、正規分布、t-分布ともに
平均値の信頼区間の推定に使えないため、チェビシェフの不等式から95%信頼限界を
求めると、
125±4.48×√11250=125±475

まとめると
125(-350〜600)ただし( )内は95%信頼区間 単位はメートル

魏志倭人伝から統計学的に推定できるのはここまで
どの区間を見ても短里でぴったりというのが、でたらめだというのがよく分かる

魏志倭人伝から推定される一里の長さは-350〜600メートル
意味ないだろ?

126日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:54:22.75
>>124
連投荒らしに返信するのも間抜けだが

>間違えたら訂正すればよい 意地は学問には禁物

九州説は訂正できないよww
学問じゃなくて、カルト宗教の信者しかいないからねww

12790度回転寿司へ2019/01/12(土) 18:54:49.68
魏志「韓伝」を未だ読んで無いのかな???

128日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:57:33.31
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、

129日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:59:14.77
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

130日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:59:28.00
>>204
>>そもそも邪馬台国が大和にあったとする推定は、各種のデータから否定される。<

>これとか暫く腹がよじれるほど笑ったわ  各種のデータからwww
一番肝心な部分を脳内ソースで済ませると言うバカ丸出しぶり
これでなんか語ってる気になってんだからな。<

これとか暫く腹がよじれるほど笑ったわ。
一番肝心な反論根拠内容を言わず、
おそらく「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らの説」などの嘘つき騙し、
という「結論先にありき」の、
脳内ソースで済ませると言うバカ丸出しぶり。
これでなんか語ってる気になってんだからな。

131日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:59:27.81
>>126
お言葉ですが
九州説は九州に邪馬台国はありで統一されてます
邪馬台国や王都の比定地は強要しません
いろんな意見を許容してます
個人的には甘木・朝倉です 課題も多々ありますが今後の研究の期待大です
纒向の研究費の少し分けていただくとありがたいのですが・・

132日本@名無史さん2019/01/12(土) 18:59:58.47
>>118の衛星写真の図を見て思ったんだが、伊都GCというのは
名護屋浦と日向峠を直線で結んで、5対1になるような点を選んだってだけなんだろうなw

だから、遺跡とも現在の集落(≒人の住めるところ)を無視したゴルフ場付近なんてのが
出てくるわけだww

しかも、名護屋浦から日向峠まで直線を引けば、その時点で東南ではないのは
一目で分かるのにそれもごまかしてるww

>>90はインチキ専門の九州説の人だな

まあ、九州説でインチキ専門ではない人を見たことはないんだがww

133日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:01:38.22
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、

134日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:03:04.82
>>127
>魏志「韓伝」を未だ読んで無いのかな???

頭悪いんだろ?
90度回転説は、半島、対馬、壱岐、九州上陸までを回せなんて、
今まで誰一人言っていない

壱岐から渡っていった先の、倭国本土がそこから会稽の東まで南へ長く続く
洲島だと陳寿が考えていたというだけのものだ

韓伝に何が書いてあっても、関係ない

135日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:04:31.66
>>134
そこまで狂わないと辿り着かないのだなあ

136日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:06:56.06
韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した、韓国人の3寸男の脳が、90度回転し、破裂した可能性が高いのではないのかな。。。

137日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:08:14.92
>>131
>九州説は九州に邪馬台国はありで統一されてます

九州の「どこ」だよwwwwwwwwwwwwwwwwww
あんまり笑わせないでくれw

>纒向の研究費の少し分けていただくとありがたいのですが・・

分けてもらうのではなく、自分で申請して予算を取ればいいんだよ
公的予算じゃなくて、民間のスポンサーでも、クラウドファンディングでもいい

九州説を信じているのが日本国民の7割いるんだったら、クラウドファンディングを
立てればすぐに予定額に届くんじゃないの?w

>個人的には甘木・朝倉です

そこの中心集落は、川添平塚遺跡
6重環濠を持つ立派な遺跡だけれど、一番内側の環濠内面積は「2ヘクタール」だ

問題があるとか以前に、周辺を合わせても七万戸の都と見るのは不可能
正直に言えば「ふざけるな」というレベル

138日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:10:53.99
韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、韓国人の無駄な抵抗が、面白いな、、、

139日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:11:46.23
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

140日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:13:45.52
熊本城は、大きくないが、御城下には人民が多かったな、、、

141日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:15:59.00
>>229
>弥呼共立の倭國は、北部九州。<

賛成。

>倭國の乱は、玄界灘側の連合と筑紫平野側の連合との騒乱。
筑紫平野側の連合有利で和平の手打ちしたため、祭祀王は筑紫平野側が擁立した。<

成程。

>その頃、大和に結集した広域連合政権では、<

「広域地域連合」というよりは、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に依って出雲系銅鐸祭祀部族や毛人を支配し、
地方の市を監督する大倭職の小国家群が出来、
また、そのの中心は、(大和ではなく)おそらく河内であった。

>纏向の微高地を平らにする土木工事が行われていて、やがてそこには大型建物の祭祀施設が建てられた。
政権加盟勢力から持ち回りで代表祭祀者を出して、毎年盛大に農耕祭祀などを行っていた。
これが、リアルな2世紀末の歴史。<

纏向に東征将軍らが入って支配したのは、おそらく、3世紀末。

142日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:16:29.67
大物主の倉庫の周りには、人民の住所が無かったのでは、ないのかな。。。

143日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:19:00.44
>>137
申し訳ありません
畿内説のように税金で研究してないのです
多くが ボランティアです
だから、私利私欲はありません
人件費はいりません

144日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:20:48.80
熊本城の修理も、寄付金が多いのではなかったのかな、、、

145日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:20:58.67
いつも書きこんでるが
なぜ纏向から大集落跡が見つからんのだぁぁぁ---------------------

146日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:24:24.47
>>243
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
国内の万世一系皇国史観学会教育界や右翼マスコミや安部文部省らの、
キョクウの国家権力が推進しようとしているだけで、
日本以外の世界のまともな学者らからは、学術的に淘汰されかかった仮説だけど。

147日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:28:06.50
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。

148日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:29:18.24
>>144
行政や経済の仕組み何も分からないで書きこむなよ



熊本城は後世の建造物だから邪馬台国と関係ないよ

149日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:31:00.30
>>144
寄付金なんだよな熊本城修復は
纒向はほとんど税金ジャン

150日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:31:36.95
いつも書きこんでるが
なぜ纏向から大集落跡が見つからんのだぁぁぁ---------------------

151日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:32:07.91
国内の万世一系皇国史観学会教育界や右翼マスコミや安部文部省らの、
キョクウの国家権力が推進しようとしている邪馬台国畿内説は、ゴキブリを叩きつぶすように、叩きつぶすせば、良いな。。。

152日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:32:37.22
宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

153日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:34:31.02
守衛 鉄鏃

154日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:35:53.69
>>143
>畿内説のように税金で研究してないのです

だから、クラウドファンディング立ち上げろって言ってるだろ?
税金を取ってこなくても、研究も発掘もできるぞ
ただ、きちんと手続きは取れよ

九州説を信じている人が国民の七割なら、すぐにいくらでも集まるって
逃げ口上ばかりで行動しないやつはだめ人間だww

>多くが ボランティアです

そういう話じゃなくて、狂信者が遺跡を荒らすのはだめだって話
きちんと発掘許可その他の手続きを取れよ

155日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:36:01.05
三輪山神話は下記としっくりいかない 倭人伝にも三輪山は言及されていない


其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆 

156日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:37:01.66
上げてる荒らしは九州説
分かりやすいねww

157日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:38:25.65
今日は、統計的に正しい一里の長さの推定値(信頼区間)を示せたし、
「魏志倭人伝を読めば短里が正解」というのが、デタラメだと明確になったな

またひとつ、物事がはっきりした

158日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:38:28.16
其死有棺無槨

159日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:39:27.79
 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃

160日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:39:29.10
あと、伊都GCが伊都国の入り口、とかいう戯言も衛星写真を示されて崩壊したな

短里がなくなるだけで、九州説は根拠がなくなるからなww

161日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:40:33.23
>>107
分かってないな〜。
沖縄あたりに邪馬台国があるというのは、古代中国人の強固な固定観念。
そこに実際の邪馬台国があるわけではない。
なので、実際の邪馬台国の位置を割り出すのにこ“理想郷=邪馬台国”へ行く行程はほとんど意味がない。
ただ、唯一重要なのは、唐津→伊都→奴→不彌の国名。
これは、実際にの邪馬台国への道筋であるが、方角は地図をみれば分かるように、唐津から北東方向へ行くもの。
南東へ行く倭人伝の行程ではない。
ここのところを勘違いしてはいけない。
倭人伝の行程は、南東へ行くもの。
この南東から南へ行く方位は、実際の沖縄諸島へ行くためには重要であっても、実際の邪馬台国へ行くためには、まったく重要ではない。
実際の邪馬台国に行くには、唐津→伊都→奴→不彌→筑後山門だ。

162日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:42:12.87
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

16390度回転ずし 教えて2019/01/12(土) 19:43:04.02
日本90度回転VS参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

164日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:44:10.28
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 

165日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:46:34.30
畿内説の瀬戸内航路は
四国を何も語っていないのは卑怯だよな

166日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:49:46.18
瀬戸内航路は、卜骨や吉備型甕が出ている愛媛を通るだろうね
山口、広島西部は少ないから

167日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:52:30.95
>>245
>女王國東渡海「千餘里」、復有國。皆倭種。 の「千餘里」を隠してごまかすなよww
九州と本州の間を「千餘里」とするのは、九州説お得意の短里でも無理w
つまり、本州の勢力は九州から見て東渡海「千餘里」の国とするのは不可能<

不彌國から長門海岸でも大体短里で千里に近いし、
豊前海岸から周防なら、ほぼで短里で千里であり、
それから南へで短里で三千里で足摺西沖の沖の島の侏儒國にも、ほぼぴったり合う。
しかし、難波や大和では、短里では全く合わないし、
長里でも侏儒國説明が全く合わない。

168日本@名無史さん2019/01/12(土) 19:56:23.90
>>250
このように「南→東」などの明らかな嘘つき騙しの日本人学者の説を、
承認しなければ成り立たなくなってしまったのが、
大和説。

169陳寿90度回転さん2019/01/12(土) 20:02:33.66
北九州で末盧国、伊都国、奴国、不弥国に比定される場所は、直線距離で測れば確かに短里に近いんだけど、
実際の当時の陸路は直線ではないだろうし、海路の場合も湾から湾に大回りする航路となり、これも直線からは大きく外れる。

標本和nが2とか3とかで信頼区間を求めるのは統計処理としてスジ悪だけど、それに入れるデータも直線距離を入れてはダメだと思う。

170陳寿90度回転さん2019/01/12(土) 20:04:46.99
まあ、長里でも短里でも、投馬国や邪馬台国の比定にはあんまり関係ないんだけどね。

171日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:05:34.39
特に陸路部分は末蘆から奴国までは山越えだからね。
歩数で測るしかなかったろうから、直線距離とは大幅に異なる。

172日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:06:49.11
>>141
2世紀末頃、各地から大和に結集した勢力の中に、河内はいなかった。
この頃の纏向から出る土器の中には、河内の土器はない。
3世紀初頭頃になって河内の土器が出るようになる。
それと引き換えに、吉備や西部瀬戸の土器が減少し始める。
河内は、石塚古墳が造られる頃になってから、纏向臨時政権に加盟してくる。
河内は、様子見していたのだろう。
で、河内が来たので、吉備や西部瀬戸らは嫌気がさしてきたのだろう。

173日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:12:33.56
理由もなく起点を変えるのは九州説の悪いところ
結論ありきのいい加減な姿勢だとバレバレ

174日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:12:36.31
>>165
四国はいつも、忘れられる。
神武も、四国を忘れたし。

175日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:12:38.42
直線距離ならソウルから纒向まで約860km
ソウルから紹興市の真東まで約830km

176日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:20:21.30
>>134
陳寿が想定していたのは北部九州から南へ伸びる巨大島であって、この巨大島倭國の北部から東に千余里船で行くとまた別の倭人の国があると言っているように、普通に西日本も想定していた。
なので、九州島が巨大に想定されていること以外には、普通の日本の地理記述となっている。

177日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:23:04.59
今度は九州島を巨大にし始めたぞ
日本列島全体だと魏の版図よりデカイんじゃないかw

178日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:23:57.18
>>317
>『又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南』これは北東。
北海道を深く深く分け入ったところの話かも知れない。 <

北海道では、冬が寒過ぎて、裸では生きられない。

179日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:24:50.88
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

180日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:26:45.78
かきかえれど かきかえれど なお

わが比定地に至らざり

ぢっと地図を見る

181日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:26:50.66
>>167
紀伊半島の縄文系の人民は背が低かったのだろう。
紀伊半島から一年かけて東南へ行くと、ちょうどイースター島がある。

182日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:28:11.04
渡来人から見たら縄文系の人はみんな背が低いよ

183日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:30:34.40
>>177
今度は、じゃないだろう。
ずっと前から、そう言っている。
お主が知らなんだだけじゃ。
魏の版図よりデカいから、魏は倭國を味方に引き入れる価値
有りと判断したのだろう。

184日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:32:09.77
>>182
紀伊半島は、特別低かったのだろう。

185日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:42:37.61
『山海經』には黒歯国では「蛇をくらう」と書いてるが
沖縄は郷土料理が「イラブー(エラブウミヘビ)汁」
かつては宮廷料理

186日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:43:34.74
>>322
>メタメタなのは九州説の方だろ?w ・・・
それを全部つぶして回るのが面倒でしょうがない
まあ、一つ一つは矛盾だらけだから、簡単につぶせるんだけどねw <

九州説は、各種あっても、いずれも文献解釈での「可能性のある小差」の範囲内であり、
考古証拠も十分であるものばかり。
それに対して大和説は、始めから「南→東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などの文献との矛盾や、里数との矛盾があり、
考古においても、倭人伝記載考古では、九州よりも明らかに劣勢。

187日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:45:58.21
>>325の訂正
まぁ、大和説者は、
後漢書の会稽東冶の誤字をいいことに、会稽を限界まで南へ移動させて、
あまつさえ会稽郡の南にまで「会稽東治」を仕立て上げるという騙し計画も失敗して、
会稽東治が上海やが揚州(江蘇省付近)である事を否定する計画も、
水泡に帰したしなぁ。

もう大和説の生き残る道は無いでしょね 。

188日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:57:09.57
>>336
>「水行」は沿岸航行に限らず単に海を行くことだよ <

「水行」は、海であれ川であれ湖沼であれ、「水上を行く」事。
「渡海」は、文字通り「海を渡る」事であり、
「水行」の中に含まれる特別な移動、を意味する文言。

189日本@名無史さん2019/01/12(土) 20:58:43.86
>>336
>女王を去ること四千余里。
女王(邪馬壹國)の東4000里とあるここは問題だな
邪馬壹國の先まで里数が分かっている
先まで里数が判明してるんだから途中から日数で邪馬壹國の行程を説明する必要がない
里数と日数を連続して読むのは間違いなんだ。<

賛成。

190日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:04:08.76
>>341
「南→東」などを口先で誤魔化して、すぐ逃げる、
無能な大和説 。

191日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:07:58.97
奇妙な読みの開陳は九州説スレでどうぞ

192日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:10:13.26
>>343
>半島南部のリアス式海岸を出たり入ったりしながら航行するはずがないからな
座礁しないためには陸が見える範囲で沖に出るんだよ
そして半島の概形に沿って進むのが循海岸の意味 <

それじゃ「歴韓國」は全く出来ないし、
南岸は倭だから「歴韓國」にならないし、
「乍南乍東」にもならないし、
「七千余里」をはるかに越えてしまうから、
全てにおいて×。

193日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:13:32.44
>>346
反論したかったら、論点を明確にして具体的な指摘をしてくれ。
「南→東」などの論点から逃げてるのは大和説者の方だ。

194日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:17:08.18
>>353
>飛び飛びロムですがスレの結論は卑弥呼さんは伊都で壹与ちゃんは葛木でOK?<

卑弥呼も壹與も筑紫倭国の女王であるから、×。

195日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:29:36.03
九州説は短里や九州倭国に逃げちゃダメよ
矛盾を指摘されるとそれとは別だと遁走してさ

196日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:30:07.83
>>193
>「南→東」などの論点から逃げてるのは大和説者の方だ。

逃げてないぞw

たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうるし、
実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

次に、記録の不備の可能性も高い
投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、最後の丹波から大和への「南陸行」が水行二十日以降の方角とされる可能性が高い

記録はおそらく木簡や竹簡を使ったと考えられるが、東水行と書いた木簡がどの行程のものか分からなくなれば、朝鮮半島南岸の東水行と紛れてしまう

また、水行時は海岸沿いなので方角を気にせずに進むことができるので方角を記録していないとしても問題ない

さらに、陳寿が倭国を会稽の東にある相当な南国だと考えていたことから、倭国を南北に長く続く州島だと考えていたのは明らかで、
その場合倭国内での長距離移動は「南北方向でなければ整合性が取れない」ことになる

以上、
1.その場の方角認識と、史書記述の方角記述は同一視できない
2.実際の史書では方角の間違いが複数存在する
3.記録の不備から方角の錯誤は容易に生じる
4.陳寿の認識(倭国は南国)から、長距離移動は「南向き」が妥当とされる
という理由から、「南→東」と考えるべき状況証拠は十分にある
番外
ザラコク理論では、実際の方向ではなく出発方向が記されていれば、あとは倭人の案内や道なりで到着できることになる
つまり、最初に5メートル南向きに水行し、その後倭人の案内で日本海の海岸沿い(道なりに相当)に東に進めば邪馬壹國に到達できる、ということで構わない
ザラコクは「南≠東だから×」といえる立場にないww

オウム返ししてもただのウソにしかならないぞww

197日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:32:22.54
>>366
>2世紀末の大和行きは都落ちなのに、なんでそんなに東征したがるの。
尾羽うち枯らしてみすぼらしく流れていくのに、都へ上るように意気揚々な鼻息はなんで。 <

国生み神話や神武の昔から、
九州倭國ではうだつが上がらないと自覚した天孫族の将軍などが、
「猶東に行かむ」として、
生きて行くために、武装流民として、繰り返し東征して行ったの。

198日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:32:36.42
そんなことよりも



なぜ「CHOSEN ONE」(朝鮮No.1という意味でしょ)なのか?
実際は神に何やら〜選ばれたという意味みたいだよ

199日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:34:15.71
長崎県を中心に分布する西北九州弥生人骨と南九州弥生人骨は低身長

200日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:36:24.40
>>370
>それは無理筋
水行と渡海は区別されてるし、玄界灘から山陰の海岸へ移動するのは水行だよ
記録するのは魏使だからね<

それは無理筋。
「南≠東」などによって、「玄界灘から山陰の海岸へ移動」」は、始めから×だよ。
記録したのは魏使だからね。

201日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:37:41.22
>>77
庄内式土器の編年の実年代について、学者によって相違がある。
従来説では、庄内3式は270年〜290年だった。
しかし、寺澤編年では3式は3世紀中頃となる。
従来説からみると、寺澤編年は年代を圧縮し過ぎのようにみえる。

202日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:37:47.56
調べてみた?
そういう話ばかりだし・・・、
日本の神話とか、半島が何やらとか、半島辺りから始まったの?

203日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:39:39.83
>>197
都落ちね。

204日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:40:33.48
まさかアニメ起源という話でもないだろうし

『選ばれし者 ガンダム』

205日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:44:38.46
『何者にもなれない お前たち』?

206日本@名無史さん2019/01/12(土) 21:50:42.27
>>379
>北部九州より大国の出雲の人も大和の人も北部九州に来てるし<

卑弥呼の頃は、筑紫が倭国の都であったから。

>郡使も出雲を知ってるなら北部九州は倭国も代表と認められない<

出雲は、天照の頃に国譲りで筑紫に負けて、盟主の地位を失っていた。

>そして建中校尉梯儁は金印・皇帝詔書を倭国の都、大和まで運んでいるし <

倭国の都は、筑紫だから、×。

>塞曹掾史張政は以檄告喻壹與で、臺與のいる都まで行っているのが分かる <

臺與なんて存在しないし、壹與も筑紫の女王。

>その記録で、北部九州から都まで水行陸行合わせて2ヶ月と伝わっている訳だ <

「南≠東」に拠って×。

>九州のみの倭国は、状況からあり得ない <

女王國も倭国も九州島付近。「女王東渡海」地域は倭種。

207日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:06:48.96
『chosen 意味』

ガンダムも、そういうストーリーだったでしょ

208日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:08:03.21
さっきから、どこどこは低身長とかいうのがたくさんあるけど、侏儒は人長三,四尺だから
10センチ低いとかではないんだよ
魏晋尺は23センチだから、三、四尺なら69センチとか92センチとか、1メートル以下になる
もっとも身長が低い短身種族のネグリロでも身長137〜159cm

1メートル以下とかの、そんな低身長なのは人間じゃない
要は伝説であって、具体的な比定地を探しても意味がない

209日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:09:16.24
『何の理由も言えない お前』

210日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:11:31.98
>>200
>「南≠東」などによって、「玄界灘から山陰の海岸へ移動」」は、始めから×だよ。

そんなことはない
のこの島辺りから一旦南に出発してから、海岸沿いに行けばそれは
「南至と出発方向が記載される」そうなので、方角が違うというのは否定の根拠にはならない

末盧国−伊都国間が90度間違った方角が記録されているのと同じだよ

211日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:11:38.21
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

212日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:16:23.21
>>201
>>九州説は何で年代を偽るの

>庄内式土器の編年の実年代について、学者によって相違がある。

大した違いではない
九州説だけが異常に違う
それも、理由を誰も言わない不思議な年代を主張する


>従来説では、庄内3式は270年〜290年だった。

「従来説」とは、誰が主張した、どんな説?


>従来説からみると、寺澤編年は年代を圧縮し過ぎのようにみえる。

みえるという理由すら言わない
九州説は不思議だ

誰も理由を言わない世界
ほんとうに不思議だ

213日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:18:08.87
>>201

年代を圧縮し過ぎと言ってる学者は?

214日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:33:07.49
>>383
>大和は当て字 大陸側は邪馬臺という当て字で記録している<

後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、記載対象が違うもの。

>長里はないな あるのは1里=435メートルの魏晋里だけだ<

魏志の記載は、「1里=435メートル」ではなく、周朝や魏朝や西晋朝の短里だな。

215日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:34:02.60
聖化 日神・・・、
あの人物のところにも同じような事が書いてなかった?

どういうことなんだろう

216日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:36:50.88
>>208
北海道のアイヌが、道東に住む先住民コロポックルを身の丈3、4尺だと信じて青森辺りの倭人に伝え、
それが伝言ゲームで魏使まで伝われば、そう書かれても不思議ではないと思う。

217日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:40:45.48
あの謎のキュウリの葉、葱(葱の華)・・・などの写っている写真、
事情はわからないんだけど、泥棒のようなものに入られたという話とか、
有名人、有名な話なのかな


『ネギ坊主』wikiによると

>ロシアあるいはソビエトを表す隠語として用いられることがある。

218日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:41:38.27
>>384
>出雲の四隅突出型墳丘墓は
筑紫の甕棺が没落するころから大型化し北陸にも拡がる<

出雲の四隅突出墓は、それまでの出雲や筑紫の墓とは全く違うし、
モンゴル方面に同じ型の墓があるから、
やはり、モンゴル方面からの(筑紫とも別の)新たな部族の進出渡来、
があったんだろうなあ。

219陳寿90度回転さん2019/01/12(土) 22:43:06.79
>>216
を書いたのは、私『陳寿90度回転さん』です。

いずれにしても、当時はメルカトル図法による正確な地図などないのだから、
歪みに歪んだ地理感の上に、クニとクニが街道や海路で結ばれており、
そこで言われる距離というのはGPSで測るような直線距離ではなく、
歪みに歪み、湾曲し、迂回し、山地では直線距離の軽く数倍にもなる、
街道や海路に紐づけられた実体感距離なんだ。

220日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:45:34.73
>>188
史記・河渠書

禹抑洪水十三年 過家不入門 陸行載車 水行載舟 泥行蹈毳 山行即橋

(陸行載車)は車に載ることなので、陸行は(陸上)というよりも(陸路)を行くこと。
(水行載舟)は上と同じ用法なので、水行は(水上)というよりも(河路、海路)を行くこと。
陸路と同じで、河の場合も航路があり、海の場合も海の航路があって、その路(みち)を行くことを意味している。
つまり、道なき道を行くのとはわけが違う。

渡海は渡河と同じ用法で、岸から岸へ海を越えること。

221陳寿90度回転さん2019/01/12(土) 22:47:08.34
むしろ当時としては直線距離に全く意味がない。
現代人感覚のままメルカトル図法で考えると間違う。

クニとクニ、集落と集落が街道や海路で結ばれた、
グラフ理論のグラフ的な地理感に頭を切り替えないといけない。

222日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:48:35.03
本当に偶然なのかな?
『聖化 日神 日霊』〜と同じ家の写真w

AD200頃に〜という話でしょ、〜〜〜と渡ってきたとか

223日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:48:50.23
>>387
史料事実を否定し、自在に空想を繰り広げるのは、
一種の宗教的な小説や、分裂幻覚の妄想の患者と同じだな。

224日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:51:23.75
>>389
>神武の東征は邪馬台国よりずっと後だよね <

二中歴に拠れば、神武即位元年は、紀元前91年頃だな。

225日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:52:35.57
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

226日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:52:58.93
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

227日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:55:02.05
中国では短里なる架空の長さでは国家が運営された事は無いのは土地税制から明らかだ

228日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:55:51.26
>>390
>『東』を陳寿90度回転させると『北』なので、普通に考えればそうだよね。<

普通に考えれば、
「『東』を陳寿90度回転させると『北』」という事を言い出す大和説者も、
人類の常識が分からない、分裂幻覚の妄想の患者だろうね。

229日本@名無史さん2019/01/12(土) 22:59:28.16
四隅突出型墳丘墓の発祥は出雲じゃないから

230日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:03:42.66
>>405
>「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」
女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。
畿内説では説明できません。単純な話です。<

成程。

231日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:06:19.88
シルクロード関係なのかな?

『仏教 肉 食べない』

かなり詳しい人がいたり、あと老婆も同じような事を言っていた、
あの写真の話なんだけど、肉は食べなかった・・・

『肉 食べない 宗教』何だったんだろう

232日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:16:00.20
>>421
>崇神、垂仁、景行が纒向(周辺)に宮を置いたことが記されており、彼らが纒向のヒコ王
そして、纒向が卑弥呼の時代なのは確定<

記紀は、半分偽書であり、根拠価値も半分以下。
考古的にも、纏向は庄内3であり、
前方後円墳の庄内の石塚が、卑弥呼の冢のはるか後になるので、、3世紀末であり、
纏向は×。

233日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:23:55.39
『聖化 日神 日霊 津』

こういう名前の家の写真だから、
確実に宗教関係

234日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:28:27.89
これも以前書いたはず

テレビ・・・マスコミなどがあるでしょ、
なぜデタラメなことばかりしているんだ

日本の話

235日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:29:03.53
>>425
>辻地区の大型建物跡は周辺の祭祀土坑とセットの施設と考えるのが妥当
柱の抜き取り跡があるのは事実
祭祀土坑の供献土器、桃核の推定年代が230年程度まで
卑弥呼の遣使の頃には、宮は別の場所に営まれていたと考えるのが通説<

「祭祀土坑の供献土器」は庄内3。
桃核の推定年代は、AMSだから、50年位古く出るので、纏向は3世紀末。

>ただ、2世紀末に共立され248年頃に死去という卑弥呼60年在位説を採るなら
230年以前も大和の盟主は卑弥呼なのだから辻地区の建物も卑弥呼の宮の蓋然性が高い <

卑弥呼は240年頃に「年已長大(=30〜35歳)」であったので、
だから誕生が205〜210年頃で、
共立女王になったのが20歳とすれば、即位は225だから〜230年。

236日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:31:14.96
>>197
九州書紀には、そんなふうに書いてあるのか。

237日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:32:48.36
本当に日本の話でしょ?


肉は食べてはいけないんだけど、
誰が食べても良いと言ったんだ


騙り、成り済ましか・・・、
何かなんだろう

238日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:40:33.40
>>235
>桃核の推定年代は、AMSだから、50年位古く出るので、纏向は3世紀末。

zarakoku科学なら月刊ムーにでも投稿しなさい

239日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:42:36.59
もう無くなっている、絶えた家・・・・?、
そのように思っていたのかな?


「生きてたのか!」
「本当にそう、もう私ではない」・・・、
「真似なんてしているから、こんな事になってしまった」と言ってる人がいたり、
数年前の△の陰謀というスレ

240日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:49:15.58
>>232
>考古的にも、纏向は庄内3であり、

九州説さん・・・
そんなこと言ってる学者は世界に一人もいない

241日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:54:33.41
>>214
>後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國と、記載対象が違うもの

九州説は平気でこういうことを言うからなw

後漢書
桓・靈閨@倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 
年長不嫁 事鬼~道 能以妖惑衆 於是共立爲王 
侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語 
居處宮室・樓觀・城柵 皆持兵守衞 法俗嚴峻

三国志
住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。
事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。
自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。

卑弥呼という固有名詞が一致していて、各事項も明確に対応している

三国志 邪馬壹國、女王之所都
後漢書 其大倭王居 邪馬臺國

で表現は違うが「王之都」「王居」と倭国の都を
「邪馬壹國」「邪馬臺國」としているのだから違うものと考える方が頭がおかしい

242日本@名無史さん2019/01/12(土) 23:58:50.87
本当に、わかっている人はわかっているんだよ


「肉は食べなかったと言っていた」という書き込みをしたあと、
「肉を食べすぎた」というレスがあったり

数年前の△の陰謀というスレ

243日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:12:56.97
『僕は好きさ サカナが好きさ 筋肉少女帯』

こういう曲も・・・なぜ詳しいんだろう

244日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:14:59.35
『浦島太郎』〜『』〜『』『』『』・・・・・・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『松傾』

245日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:28:40.00
『聖書 漁師』

このような話があったり、どういう事なんだろう

246日本@名無史さん2019/01/13(日) 00:44:03.65
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

247日本@名無史さん2019/01/13(日) 01:12:30.70
>>20
庄内甕と併行し、あるいは後続する筑前型庄内甕が比恵那珂遺跡で出るのは、久住のTB期新相だけどな。

248日本@名無史さん2019/01/13(日) 01:36:18.63
>>212
石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
“大した違いではない”どころではない。
不思議だとか、どうだとかばかり言ってないで、自分でいろいろ調べてみるさ。

249日本@名無史さん2019/01/13(日) 02:13:34.42
>>248

それ河内庄内V期だろ?

250日本@名無史さん2019/01/13(日) 02:59:46.78
>>196
どうしても南を東にしたいのはわかるが
憶測で語るのは?????????

251日本@名無史さん2019/01/13(日) 03:05:35.12
ザラコクの南と東は違うは
子どもでも理解できるか明快な反論である

252日本@名無史さん2019/01/13(日) 03:16:38.21
そして子供並みかそれ以下である

253日本@名無史さん2019/01/13(日) 04:33:30.86
>>429
>>卑弥呼が記紀から抹消されたのは朝貢外交だけだろうか<

>単に古すぎて十分な記録・記憶がなかっただけだと思うよ
欠史八代くらいの年代だから
卑弥呼の名前で書いてないだけとも考えられるし <

大和政権は、
卑弥呼や壹與が自国内の歴史伝承には存在しない、別の国の九州倭国の女王であった、
という事を知っており、
それが大和国内にもかなり周知であったから、完全無視も出来ず、
だから、書紀の神宮紀に「卑弥呼と壹與の名前を書かずにの事績のみを紹介する、
というインチキをして誤魔化した。

254日本@名無史さん2019/01/13(日) 04:35:51.21
>>250
誰だって間違えることはある・・・これ人類の常識

255日本@名無史さん2019/01/13(日) 04:43:32.01
>>430
>>女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。<

>魏略では、対馬や壱岐のこと
倭国ら辺にある島は、渡海千里で離れている島も含めて「皆」倭種だって言ってるだけ<

この大和説男は、何を言いたいのか?がよく判らず、バカ過ぎる。

>旧唐書の別種表記に引きづられて、別の国だと思っているのがバカすぎる<

記紀も、卑弥呼や壹與の名前が、大和内の伝承には存在しない、という事を知っており、
それを、「同じ大和國の中の女王だった」とするこの男は、バカ過ぎる。

256日本@名無史さん2019/01/13(日) 04:57:37.66
>>433
>>畿内説は倭人伝の大部分を否定しないと成立しないの?<

>畿内説は「陳寿が倭国を会稽の東まで続く南北に長い島だと誤認していた」とするだけで
そのまま読めるよ <

「会稽の東」ではなく「会稽東治之東」だし、
信頼性や客観性が高い史料記載を、「都合が悪い記載を誤認だとする」、
というようなインチキ騙しの詐欺をすりゃ、
そりゃ、どんな小説でも妄想でも偽作出来るよ。

>まあ、個人的には末盧国から東南500里は、伊都国行きじゃない旅程が
紛れ込んでると判断しているけど <

まあ、スレ主や「類スレ主」らは、普通の人間ではなく、
・・・・詐欺師人種だろう、とは思っているけど。

257日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:01:09.92
>>434
>>撤去する理由が良くわからないので教えてくれないか <

>あの建物はね三輪神社の初期の祭殿
柱は三輪明神大神神社に移転されたのだよ
纒向は神社
境内で市も催されてるし、祭事も行われている
境内だから集落跡がなくてもOK
邪馬台国の王都では無い <

ふーん?、これは「葛城」の投稿か?。

258日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:02:26.69
>>248
>石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
>庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
>“大した違いではない”どころではない。

庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だって
どこの誰が言ってるの?

どこの誰が?


不思議だなあ

259日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:07:50.99
>>436
>>不彌國から、北へ玄界灘へ一旦出て、東回りか西回りで、海岸沿いに水行二十日した。<

>ザラコク理論では、出発方向が北なんだから北至邪馬壹國って書かれなきゃいけないだろ?ww<

投馬國説明は、「出発+途中+到着」の中の途中移動の文言がないから、
魏使らの移動行程説明ではなく、不彌國からの側副傍線國の位置の説明になっているの。

260日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:19:43.61
>>455
>理由もなく間違っていると言っても意味はない 現実には勝てないww <

「東南」は出発時点での出発方向だし、
「陸行五百里」の途中では、伊都国は全く見えていない。

261日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:21:24.77
>>259
「出発+途中+到着」の中の
途中移動の文言がないと
移動行程説明ではないって
誰が決めたの?

262日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:24:59.84
>>457
>>「東至安南如至成都,通水陸行」は、陽苴棟驍ゥら安南へ向かう通行路の説明 。
成都へ至る道と同じような東向きのコースを通って通水陸行をして至れる、
という説明文。<

>それだと今度は「『東北」至成都二千四百里」が間違いになる
最初は同じ昆明行きの道だからな<

「東北至成都二千四百里」には、「通水陸行」がないから、「通行路説明ではなく、
「至」は「位置説明」。

263日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:28:47.90
>>262
じゃあ、なんで伊都国のことは「位置説明」しないの?

264日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:30:28.26
>>462
>九州説の脳内では各種のデータからそうなってるんだよ<

大和説の脳内では、
「客観性や信頼性が高くで都合の悪い史料事実データ」を、
なんでも「過誤だ、誤認だ」とするインチキから、
なってるんだよ。

265日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:31:38.79
>>264
という証拠は?

266日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:32:14.37
>>465
ほら、また論破された大和説が荒らしをはじめますよー 。

267日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:36:40.40
>>266が、荒らしだよ

268日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:36:47.25
>>468
九州説は、史料事実や人類の常識に基づいた帰納的確率的な推論を組み立ててるからな。

大和説は、今日も史料事実や史料実態からの反論が出来ず、
インチキギャグで、世間の人々を騙そうとする事しかできないんだろうなぁ。

269日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:39:14.91
いっぱい書き込むけど決して証拠は明かさない
情報ソースは常に秘密

それが九州説

270日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:39:43.27
>>268
そんなことした証拠は?

271日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:40:46.40
>>469
大和説者は、帰納的って言葉の意味が分かってないんだよ。
あと、史料事実や、
史料事実からの帰納的推論に拠って得られた史料実態、
って言葉の意味もわからないわからならしい。」

272日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:45:38.94
>>430
実際に距離も方向も九州の中で決着が付いているのに、
「南→東は絶対!」とか喚いてる馬鹿が何をほざいてるのやら 。

魏志倭人伝の記載を、伝説の頃からの記載と変わらん、と都合のいい解釈叫んでるだけのサルが。

273日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:48:10.68
>>272
どう決着が着いてるの?
邪馬台国の位置さえ
九州説の仲間内で
絞れないのに

274日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:51:33.50
>>476
>方向を間違えるわけがない!とか喚き散らした後に
「会稽の東に無いのは方向を間違えたからだ」とか平気な顔で言い出すからな<

言い出さない。
「会稽の東」という文言が間違い。「会稽東治之東」だから。

275日本@名無史さん2019/01/13(日) 05:58:37.12
>>477
>>それなら、太陽視角を0.5度として、
夏至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」と、
冬至正午の8尺棒の影端部での「地面での半影長」とを計算して調べて、
どれ位の半影幅の差があるのか?を比べてみな。<  

>それを自分で計算して、相手に検算をお願いするのでなければ書き込みは無意味だよ <

何だ?、「類スレ主」は、確認計算もせずに、脱げるんかいな?。
すれば、13.5尺は、太陽視角の半影に「ぎりぎり」であった、
という事が分かった筈なのに。

276日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:00:01.63
あのーー
まだ見つからないの
纒向の大集落跡まだなの
斎場で決まりなの

あのーー
まだ見つからないの
纒向の高楼城柵大まだなの
市場で決まりなの 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)

277日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:01:39.02
>>481
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説名物の、
論破された後の荒し行為、はーじまーるよー。

278日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:06:46.53
>>492
大和説者らの、
史料と常識に基づいた各種データからの判断、
なんてこの程度だと分かる。

279日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:08:41.51
>>274
「会稽東治之東」ならば
北緯30°の会稽よりはるか北の北部九州はあり得ない
つまり方位は間違いで、短里も使っていない
南九州には遺跡がない

九州説は絶望だね

280日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:10:01.85
>>278
この程度とはどの程度?
リンクに飛べないようにして
ウソ誤魔化しの大盤振る舞いか

281日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:13:54.85
>>502
都合よくぼくちゃんの妄想にすべてを合わせて好き勝手なことを喚き散らすのが、
大和サルの 「史料と常識に基づいた各種データからの判断」。

282日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:19:48.15
>>504
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って、
間違っているといわれても無視して間違ったコピペを張り続けるよな 。
荒らしってことだけどさ 。
「東南」は末盧國出発時点での出発方向で、
「陸行五百里」の途中では、目的治の伊都国は見えていない、
というだけの事だぞ!。

283日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:22:38.78
こんなふうに延々とデタラメを貼り付け続けるだけが九州説でございますよ

284日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:25:24.30
>>506
>逆だ 大陸中華の知識人の間では、倭国は会稽の東の南国だと思われているから、
「南と書かない」と、その文書の信用が失われる<

逆だ。
陳寿は、蜀の役人出であるから、猶更、
魏使らの記録を曲解改竄をしてバレれば、更に信用をされなくなるもの。

285日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:35:24.96
>>282
で?

その魏使さん一行は末盧から伊都に着くまで
行程の9割以上にわたってお天道様の下を東南以外の方向に陸行していたわけだけど
「東南陸行」と書き残すことになんの疑問も感じなかったの?

九州説って不思議ですね

286日本@名無史さん2019/01/13(日) 06:58:30.42
まぁまぁ、  

里程がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波

287日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:28:51.34
>>508
大和説は、方角が間違っていない、と認めた瞬間、
九州説の方が明確に妥当だと分かってるから
方角が正しいという「可能性」すら認められない
大和説は、長里がなかったらその瞬間、論立てが一切できなくなるから、
長里があるんだーと わめき続ける
惨めなものよの

288日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:34:33.71
>>511
>魏志倭人伝の短里もそうなんだが、誇張された盛った数字を短里だと言い張ってるだけ<

「誇張」されたウソだ、と判った瞬間に、魏使らの首が危ないし、陳寿は認められないし、
魏略も信用されなくなるもの。

>日本書紀のは、よその盛られた数字をそのまま持ってきただけ
日本に短里があったわけじゃないww<

この「ww=類スレ主」は、日本書紀の「どの里記載」の事を言っているのか?を隠して伏せて、
またインチキ詐欺をしようとしている。

289日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:34:35.88
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

290日本@名無史さん2019/01/13(日) 07:39:25.27
>>512
>仮に日本書紀にタンリとやらがあってだから何なんだ?w <

大和説者の「短里なし」説が×になるだけ。

>まぁ日本書紀を信じると言うなら神功皇后は卑弥呼に比定されてるんで畿内と言う事を主張してる事になるだけだがな
疑わしかろうが何だろうが信じるらしいし<

またこの大和説者は、変な事をしゃべっている。
書紀は、「卑弥呼と壹與の二人の事績」を一人の神功紀に入れてあるから、半分×書だ、と言われているんだよ。

291日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:11:54.13
畿内説だと卑弥呼の墓はどれ?

292日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:12:34.46
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

293日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:14:38.74
>>166
>瀬戸内航路は、卜骨や吉備型甕が出ている愛媛を通るだろうね

なぜ魏志倭人伝にはこれらの国への里程が書かれていないの?

294日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:18:21.74
【庄内式土器】

1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。

295日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:19:16.64
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。

296日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:20:56.34
その魏使さん一行は邪馬台国までお天道様の下を旅していたわけだけど
何日も東を南と思い込んでいたの?

畿内説って不思議ですね

297日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:25:55.28
嘘ばかりの九州説が陳寿の信用なんて心配するのは何かのギャグですか

298日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:30:55.16
>>293

東夷伝の他の国も書いてない

299日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:33:35.15
陳寿が信用できないと叫び続けている畿内説が何を言う。

300日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:34:40.80
>>298
倭については不弥国までは書いてあるんだから。

301日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:44:02.08
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

302日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:48:12.52
>>300

不弥国までは漢代の里程情報があったんだろう
従属している伊都國以降だんだんと詳細記述が薄くなっている

303日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:49:27.74
伝世文献を全面的に信用する方がおかしいのだが

304日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:50:38.04
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

305日本@名無史さん2019/01/13(日) 09:55:27.03
>>250
>憶測で語るのは?????????

これは憶測じゃなくて事実だろ?
史書に書いてある方角は間違うときは間違うんだよ

九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498

九州説の言い分がダメダメなのは、これを認めないところ
「たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうる」

これを否定するのは不可能であり、実際に間違っているという現実により九州説の言い分が間違っていることは、証明されている

>>250が憶測だと言っている部分も憶測ではなく推定
「史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうる」の、
多くの可能な錯誤の原因のうち、蓋然性の高いものが例示してある

>>250は批判にも反論にもなっていない
具体的な指摘もない

306日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:09:51.26
いくら騒いでも南は南。

307日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:29:34.75
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

308日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:35:51.75
>>262
>「東北至成都二千四百里」には、「通水陸行」がないから、「通行路説明ではなく、
>「至」は「位置説明」。

ザラコクや、お前さん本当にいい加減なデタラメ野郎だなww
以前は「成都に行く経路でも揚子江の上流の川が見えるから通水陸行するんだ」って
デタラメインチキを言い張ってたじゃないかww

それをザラコクは撤回修正してないぞw

つまり、「通水陸行」は成都、安南の両経路の説明というのがザラコクの主張だ
つまり両方ともザラコクの言う「通行路説明」になるんだよ、ザラコク定義ならなw

まあ、その前に、連続する一つの文中に、異なる概念がなんの説明もなく書かれていると
考えるのがそもそもおかしいんだがなw

どうがんばっても、成都行きまたは安南行きの方角は間違っている
旧唐書
皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,
東至安南如至成都,通水陸行

この陽苴?城から、成都が東北、安南が東という地理記事、明確に方角が間違っている
成都行きの東北は正しい
https://i.imgur.com/E4DWpA7.jpg
安南行きの東は、東南の間違い
https://i.imgur.com/RCcfxY6.png

地図を見れば一目瞭然

309日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:36:37.37
どうがんばっても南は南。

310日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:52:38.96
>>275
>何だ?、「類スレ主」は、確認計算もせずに、脱げるんかいな?。
>すれば、13.5尺は、太陽視角の半影に「ぎりぎり」であった、
>という事が分かった筈なのに。

それを論証する側が示さないと意味ないんだって!

半影まで考えた影の長さも計算されている

『周髀算経』の新研究1
 『周髀算経』影の測定 イワクラ(磐座)学会 江頭 務
http://www.geocities.jp/yamauo1945/shuhisankei1.htmlより引用


   測定条件      表の影の長さ
             夏至      冬至
A 本影(影は最短)S1  15.04寸    129.2寸
B 半影(影は中間)S2  15.42寸    130.6寸
C 半影(影は最長)S3  15.80寸    132.0寸
   『周髀算経』    16寸      135寸

一寸の影の長さを気にする周髀算経で3寸も影の長さが違ってたら何もいえないだろ?

周髀算経は影の長さを実測してない机上の計算の書で現実の地理とは無関係
従って短里の根拠にはならない

311日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:56:45.76
ほらな
やっぱり谷本計算の方が3寸間違ってたんだ

312日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:57:16.94
>>287
>大和説は、方角が間違っていない、と認めた瞬間、
>九州説の方が明確に妥当だと分かってるから

ならないよ?
方角が正しいと仮定しても、九州説では
会稽東治之東に合わない
水行十日陸行一月に合わない
径百歩の墓の候補すらない

などなど妥当だと考えるべき理由がない

313日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:58:08.93
あらら短里の根拠無くなったのか
短里に立脚してきた九州説終わったな

314日本@名無史さん2019/01/13(日) 10:59:53.93
短里なんてないさ
九州説なんてウソさ

315日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:03:40.24
>>291
>畿内説だと卑弥呼の墓はどれ?

何度も説明されているだろうが

纒向古墳群の、纒向石塚古墳、、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、箸中山古墳のうち
編年の合うものだよ

これらはすべて、築造時に倭国で最大の墳丘墓
卑弥呼という倭王の墓としては倭国最大の墓がその第一候補になる

編年研究の進展により、絶対年代は今後も変更される可能性があるが、
纒向石塚古墳から箸中山古墳まで100年以上の年代幅が想定されているので、
前後に平行移動したところでこの範囲に収まる

316日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:28:07.12
いずれにしても>>84に示したように、人口比で言えば本州は九州の4、5倍。

行程記事にある末盧国(4000余戸)、伊都国(1000余戸)、奴国(20000余戸)、
不弥国(1000余家)、投馬国(50000余戸)、邪馬台国(70000余戸)、
計146000余戸。

このうち奴国は、北九州最大の大人口地帯である博多湾地域に比定される。

そして投馬国と邪馬台国を合わせると奴国の6倍の戸数になるのだが、
博多湾地域の6倍もの人口を、九州の中部や南部の一体どこで養うのか?

その上、女王国の境界までの国として、
『次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國
次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國
次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡』
を入れ、さらに加えて狗奴国まで入れないといけない。

こんなの、九州のどこに入るのか?

こう考えると投馬国と邪馬台国は、本州に存在する巨大領域国と考えざるを得ない。
行程記事の書きぶりの変化(里数→日数)と行程の長大化も、これと附合する。

317日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:31:03.11
>>316
まぁまぁ、  
人口比がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波

318日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:33:13.92
おーい>>248

>石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
>庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
>“大した違いではない”どころではない。

庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だって
どこの誰が言ってるの?

どこの誰が?


不思議だなあ

319日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:46:12.75
>>303
>伝世文献を全面的に信用する方がおかしいのだが

歴史板から出て行っていただいて構いませんよ。

320日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:48:11.56
延喜式 出挙稲数

畿内 2,087,126
  山城 424,070
  大和 554,600
  河内 400,954
  和泉 227,500
  摂津 480,000

西海道 5,990,581
  筑前 790,063
  筑後 623,581
  豊前 609,828
  豊後 743,842
  肥前 692,589
  肥後 1,579,117
  日向 373,101
  大隅 242,040
  薩摩 242,500
  壱岐 90,000
  対馬 3920

321日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:49:19.04
>>318
まぁまぁ、  
石野や豊岡の編年がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波

322日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:49:31.73
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg

323日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:50:28.10
>>295
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。

本当にこの人もダメ人間だな

「その国(邪馬台国)から一万二千里である」

この「その国」が「倭国」じゃないとおかしいと言われて、
しばらくは「その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である」と書いてたのに
勝手な付け足し挿入は捏造って言われてまた、インチキ誤訳の(邪馬台国)に戻してる

「其」大倭王居邪馬臺國 
楽浪郡徼去其國萬二千里「其」西北界狗邪韓國七千餘里 
「其」地大較在會稽東冶之東

この三連続の一文中の「其」を、1つ目と3つ目を「倭国の」とし、
2つ目だけ「邪馬台国の」と読むのはご都合読みの極致

324日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:51:46.60
>>316
>こう考えると投馬国と邪馬台国は、本州に存在する巨大領域国と考えざるを得ない。

弥生時代にそんな巨大国家なんてあるわけない。
そもそも畿内には大陸との交易の痕跡がほとんどない。

325日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:54:21.97
>>323
>「その国(邪馬台国)から一万二千里である」
>しばらくは「その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である」と書いてたのに
>勝手な付け足し挿入は捏造って言われてまた、インチキ誤訳の(邪馬台国)に戻してる

古いバージョンを貼ってしまった。

326日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:56:04.82
鉄の国産化が5〜6世紀だから大和王権の勢力が伸びたのはそれ以後だな。

327日本@名無史さん2019/01/13(日) 11:58:31.60
>>326

大和朝廷は8世紀から と、何度言えばw  @阿波

328日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:00:43.91
>>296
>何日も東を南と思い込んでいたの?

1.現地のその場で間違えないことと、
2.木簡に記録するときに間違えないことと、
3.ある木簡の記録が他のも区間の記録と混同されないことと、
4.ある木簡の記録が紛失しないことと、
5.他の記録との整合性があるかどうか判断することと、
6.実際の史書にどう書かれるかということは
相互に独立した事象であり、ある意味互いに無関係

>>296は「1」は正しいと言っているだけで、
「6」が正しいかどうかには一切言及していない

問題にしなければいけないのは「6」についてであることおよび
間に「2〜5」があることを無理に無視している

さらに言えば、>>296は「1」は正しいという点にもなんの根拠も示していない

>畿内説って不思議ですね

>>296は科学を論じる能力が足りないんじゃないかな

329日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:05:36.14
>>299
>陳寿が信用できないと叫び続けている畿内説が何を言う。

そんなことは言っていない
陳寿は当時の大陸中華の認識に沿って「倭国は会稽の東の南国」と考えていただけだし
陳寿が入手参照できた資料が寄せ集めで正確さに問題のあるものも含まれていた、というだけ

「陳寿が信用できない」ではなく、史書(三国志だけではなく)が絶対に正しいと
考えるのはおかしい、史料の限界を想定しない議論は無意味と言っているだけ

330日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:06:23.98
だいたい九州説というのは
理由のない思い込みと
出所を明らかにできない怪情報
の2つだけから出来ている

331日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:07:24.62
>>300
>倭については不弥国までは書いてあるんだから。

投馬国や邪馬台国にも、水行二十日、水行十日陸行一月と道里は略載されてる

332日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:16:08.66
>>320
>延喜式 出挙稲数

延喜式は平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
七百年後のデータでごまかそうとしてるんだよww

古墳の作り出してから土木技術が上がって、最大の古墳が作られるようになった古墳時代中期に
記紀でも貯水池の造成などの大土木工事の記事が出てくる

その土木技術の進展があって初めて九州のコメの生産量と人口が増え始めるんだよ

333日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:29:40.04
>>324
三角縁

334日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:30:58.44
>>325
>古いバージョンを貼ってしまった。

ということは、
「其」大倭王居邪馬臺國 
楽浪郡徼去「其」國萬二千里
「其」西北界狗邪韓國七千餘里 
「其」地大較在會稽東冶之東

この四連続の一文中の「其」を、1つ目と3、4つ目を「倭国の」とし、
2つ目だけ「邪馬台国の」と読むのはご都合読みの極致であり、
間違いだというのは認めてるんだな?

であるなら、「その国(邪馬台国)から」というのは詭弁であり、インチキなごまかしだと
自覚しながら書いてるってことでさらに質が悪い

335日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:48:37.23
さーて九州説もそろそろ仕舞いやな

336日本@名無史さん2019/01/13(日) 12:59:32.00
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

337日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:01:20.81
>>319
そりゃあんただよ
歴史をあまりにも馬鹿にしてる

338日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:19:20.63
>>321
阿波に文明の機器が入るようになったのは、安曇が出張ってきた5世紀以降だろう。
それまでは、まったくのスルー地。
縄文系の人民が縄文時代と弥生時代のごった煮そのものの暮らししていたようだ。

339日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:22:16.44
>>318
脊髄反応で叫ぶな。
サイトをググってみたら、すぐ出てくる。
自分で調べろ。

340日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:24:31.09
>>315
卑弥呼は、筑後山門だからな。
念のために、言っとくよ。

341日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:32:23.33
>>294
福岡の比恵那珂遺跡で出たTB期新相の庄内甕は、どこ由来のものなの?

342日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:35:58.86
>>341
>福岡の比恵那珂遺跡で出たTB期新相の庄内甕は、どこ由来のものなの?

だから、筑紫忌部が持ち込んだ「東阿波型土器」 だと、何度言えばw  @阿波

343日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:36:42.29
>>293
博多から行橋へ出て、そこから周防灘を北へ渡り、瀬戸航路北岸を伝って行く。
神武の航路みても、愛媛には立ち寄ってない。
四国はスルー。

344日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:48:32.48
>>249
大和庄内2〜3式=250年〜290年
河内庄内V期=260年〜290年

345日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:54:52.43
>>218
尾張の朝日遺跡にも同じ四隅型の周溝墓があるぞ。

346日本@名無史さん2019/01/13(日) 13:58:35.94
>>214
76.5mを1里とする単位の記述は、中国文献のどこにもないな。

347日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:00:10.74
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。

同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。

更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。

結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。

348日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:01:13.60
>>213
庄内式の下限年代を250年頃とするのは、寺澤だけだろう。

349日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:04:13.60
>>348
そんなこと思う理由があるの?


ww

350日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:08:14.27
>>344
>大和庄内2〜3式=250年〜290年

また出所不明の謎数字を呟く九州説


デマご苦労

351日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:28:45.95
しっかしおおよそ喋る事の全部がウソとか
九州説の頭の中はどうなってんだよ

352日本@名無史さん2019/01/13(日) 14:35:16.81
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

353日本@名無史さん2019/01/13(日) 15:31:53.96
>>340
>卑弥呼は、筑後山門だからな。
>念のために、言っとくよ。

で?っていうww

筑後山門の七萬餘戸の遺跡はどこ?
宮室楼観城柵はどこにあるの?
卑弥呼の墓の候補はどれ?

筑後山門は、地名だけの候補地
弥生終末期にはみやま市の半分くらいがまだ海の底
下山正一先生が有明海の海岸線についてきちんと研究されてる
http://www.npo-ariake.jp/act-report/symposium/190203_00.html
この辺の図でも見ておいて

354日本@名無史さん2019/01/13(日) 15:36:46.05
>>347
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、

いいや?
短里なんて説明には不要だよ?

1.遠くのことはより遠くに書く誇張(王朝の徳を高く見せる)
2.伝説・伝承の数字の混入(神話などはなにごとも過大)
3.情報が不正確

これくらいで簡単に説明できる

>>347のコピペも意味ないから何度貼っても説得力ゼロだよww

355日本@名無史さん2019/01/13(日) 15:39:30.38
九州説シンパの鷲崎氏のまとめでも土器編年はこんなもんだぞw
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcRlIvVwy0laA-fIfliRkVd2-Xw8ZGO9nT6yqIXgBOF67T438oid

356日本@名無史さん2019/01/13(日) 15:41:52.84

357日本@名無史さん2019/01/13(日) 15:58:31.61
土器編年はいいからさ

鉄鏃編年で検討しようよ。

魏志倭人伝にも鉄鏃だよって書いてあるんだし。

358日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:02:19.68
>>516
「南→東」などの嘘つき騙しの大和猿の詐欺師は、
都合が悪いといつものように荒らしまーす 。

359日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:04:27.30
>>357
残念ながら、邪馬台国にあるはずの鉄鏃が纒向遺跡にはないので、編年がそもそもできません。

360日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:06:34.74
>>518
山ほどコピペ投下して荒らすスレ主らの大和説のヤマアラシ
「南→東」などと。平気でと嘘つくカワウソ
長里をゴリ押すゴリラ
このスレは見物料取れるな

361日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:11:42.25
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

362日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:28:50.22
>>359
ホケノ山から出てるんだが

363日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:30:57.71
>>362
ああ、そうだね。
ホケノ山の鉄鏃は、九州のと比べるとどのあたりの年代になるの?

364日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:32:48.88
箸墓は、3世紀第4四半期、もしくは4世紀に入ってから、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)が卑弥呼の冢(直径150m円墳)を埋め立て、
その上に築いた前方後円墳(後円部直径160m)である。
現在の徳川大阪城の地下に豊臣時代の大坂城が埋まっているように。
前の権力者に失礼のないようにその王墓は破壊せず、密かに裏で祀り、表歴史からその存在を消す、というウルトラCを成し遂げた天皇家は、列島支配者に相応しい。
確かに纏向遺跡には首都らしい住居遺跡はないが、箸墓を築造した作業員たちの住居遺跡もないことに要注意。

365日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:43:11.08
>>535
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
非合理的な考えを捨てたらどうだ? 。

まともな現代社会じゃ生き辛いだろ。

366日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:50:06.38
>>365
ザラコクさん、悪口しか言えないの?

367日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:50:51.93
では、北部九州にあった倭王が、どうして遠く隔たったド田舎・大和の卑弥呼に取って代わられたか?
それは主に首都圏だった北部九州で起こった倭国大乱のせいである。
西暦189年ニュージーランド北島タウポ山の大噴火による大飢饉が、大量の餓死者を出し、食糧の奪い合いから、
中国後漢では黄巾の乱を経て三国志の戦乱となり、倭国首都圏(北部九州)では大乱が発生した。
そして、倭国の盟主だった奴国には、代官はいるが王はいない、つまり倭王はいない、と魏志倭人伝に書かれている。
これらを総合すると、比較的凶作の影響を受けなかった、北部九州から遠く隔たり、田舎で人口が少なく、備蓄食糧が余っていた大和の卑弥呼が、
飢饉に陥っていた北部九州に大量に救援食糧を送ったため、北部九州の王たちも、民の命を救ってくれた大和女王卑弥呼こそ、倭王に相応しいとして、
奴国王を男弟として大和に送り、邪馬台国が成立したためである。

368日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:51:13.15
ホケノ山の鉄鏃は、九州のと比べるとどのあたりの年代になるの?

ホケノ山の鉄鏃は、九州のと比べるとどのあたりの年代になるの?

ホケノ山の鉄鏃は、九州のと比べるとどのあたりの年代になるの? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)

369日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:51:32.67
>>363
3世紀前半

370日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:54:43.82
そんなことよりも・・・・
『三等重役』

桑原、浦島・・・という登場人物(キャラクター名)、
本当の話でしょ?

あの写真の家の話(というか家の写真)、
蚕を飼い、機織りをしていた家だよと言っていたし

371日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:59:38.72
>>369
根拠なし

372日本@名無史さん2019/01/13(日) 16:59:57.16
ほとんど老婆談なんだけど

母親だという人だけ、素足(裸足)に下駄、
葱の華のほうにいる人、椅子に座っていて、子供(赤ちゃん)を抱いている


どのスレだったかな、同じ話をしたとき


「サザエさんの話じゃないのか?」
みたいなレス(書き込み)をしてきた人がいたり

373日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:00:01.81
>>536
普通の人類は東西南北などは間違えない、と言うのが史料から読み取れる事実。

大和説猿は事実を認めないで妄想を叫び散らすだけ

あわれあわれ

374日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:02:38.16
『松傾』

こういう名前の家なんだけどw
有名人なのかな、何なんだろう

375日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:04:05.34
>>371
>根拠なし



ちゃんと報告書が出てるのに?

オレ様の気に入らないモノは理由ナシで却下するのが九州説でスカ?

376日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:07:47.75
『河童の三平』『サザエさん』

・・・・・作者も生まれていない頃の写真だと言っているんだけど、
どういう事なんだろう


『河童の三平』
画像を検索してみて、同じでしょ?

377日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:09:03.41
>>537
>・会稽の東に無い <

これインチキ。「会稽東治の東にほぼ女王國がある。

>・九州の中でさえも方向間違いだらけ<

これ、類スレ主が魏志を曲解捏造している。
魏使らや陳寿は、方向を間違っていなかった。

>・記載が伝説の頃から変わってないとてもいい加減な物 <

魏志も魏略も「余」を付けて計測値である事を示していり、
全体としても、淮南子の記載とは全く違う。

378日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:10:38.18
>>538
合理主義者はよく聞くけど
非合理主義者の・・・・っていうのは聞いた事もねー
非合理主義者大和説

379日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:11:37.63
>>375
ホントに3世紀前半でいいの?

380日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:13:47.87
『分福茶釜 天津』
このような写真があるでしょ?

同じような感じなのかな?
でも家は芸能人でもないし・・・、

381日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:15:12.32
>>379
異論があるなら聞こうか

382日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:16:20.95
>>381
異論ないよー
ホケノ山は3世紀前半でいいんだね?

383日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:17:16.23
方向を「南→東」に変えないと、邪馬台国は沖縄になってしまいますよw

384日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:18:41.40
>>542
大和説は日本人の恥部そのもののくせに

385日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:19:04.24
>>377
>>・会稽の東に無い
>これインチキ。「会稽東治の東にほぼ女王國がある。

理由のひとことも言わず
My結論だけ連呼するのが
九州説のはしたない生き方

386日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:21:55.49
>>384
畿内説に何も反論できず、ただ罵る

それが負け犬の九州説

387日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:21:57.32
>>383
ならないよ。
帯方郡→壱岐対馬→北部九州→阿波朱儒国まで、
弥生時代基準で正確に記されている。

なんか悪いものでも食べたの?

388日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:22:07.26
>>543
頼むから海外の学会とかに向かって、
「南→東」とか、「魏志は1里434m位」とか、「前方後円墳が冢」だとか、
魏志倭人伝を正しく読んだら大和だ、とか発表しないでくれよ
日本人がみなこうだと思われたらかなわん

389日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:23:27.06
『天津・国津』?

390日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:26:40.07
-「会稽の東」という記述を厳密に解釈すれば、沖縄以外にないから、間違い。
-不弥国から水行二十日の投馬国(い・つま=出雲?)から「水行十日陸行一月」という記述を信じれば、九州には絶対納まらず、大和以外にない。
この2つの矛盾を解決するのは、「会稽の東」を大雑把に倭列島全体を指していると考えて、大和とするのが正しい。

391日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:27:13.80
>>546
周朝と魏朝は一寸千里の法や短里ではない、とかも、海外の学会に発表しないでくれよな
日本人はキチガイだと思われるから

392日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:27:21.90
>>381
異論ないよー
ホケノ山は3世紀前半でいいんだね?

393日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:31:51.91
従来見落とされていたことが、不弥国から投馬国まで水行(20日)ということは、投馬国が九州内にはないことが明白

394日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:36:07.03
>>549
魏帝らの大事な使節である魏使らの実地の見聞計測記録が元になった魏志の記載は、
現代の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説よりも、
客観性も信頼性も確率も非常に高い。

395日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:38:34.06
自身があるなら中国で短里を主張すればいいのにな
本当なら大発見だぞ

396日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:42:56.28
魏は呉の背後に南北に細長い列島だと誤認していた。そして呉を挟み討つ同盟国としての輪を重視した。
その希望的観測が邪魔して、実際より南に女王国があると書かざるを得ず、それに合わせて東にあるにもかかわらず、南と書かざるを得なかったのである。
不弥国までは九州島にありながら、そこから先投馬国以降が実際はすべて東の本州島にあるにもかかわらず、「会稽の東」つまり沖縄に女王(邪馬台)国があるとなってしまった。

397日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:44:41.71
>呉の背後に南北に細長い列島だと誤認していた。

意味不明。

398日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:44:59.89
ほとんど老婆談なんだけど

丹羽?ニワが何やらという話をしていたり・・・、
どういう事なんだろう

399日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:47:27.25
>>578
万世一系皇国史観儒教の大和説が、悪魔教の一種に見えてきたな
いやたぶん宗教学的に見ればそうなんだろうけど
悪魔の像はたいがい半獣半人
獣性をもつ人間として表されるし

400日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:48:40.14
孫呉は南から兵を集めるしかないから
倭国が会稽の南にないと、司馬懿の功績が曹真の功績と比べて劣るんだよな

401日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:49:46.71
>>585
悪魔教は人を狂わせ理性のない獣に変える
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説そのものじゃないか?

402日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:50:17.01
>>400
もうなにがなんだかわからなくなってるねw

403日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:51:17.22
逆に言えば、結論として『邪馬台国(女王国)は「会稽の東」にある』と書かなければいけない制約というか大前提があって、
北部九州の各国(〜不弥国)から、大和までの道程を記述しようと無理すると、ちょうど魏志倭人伝のような記述、つまり「東→南」に書き換えざるをえないことに留意されたい。

404日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:52:30.17
魏略にはあったらしい西域伝が三国志では欠落しているのは何か忖度があったのかもしれんね

405日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:53:33.38
>>397
なんで意味不明だと思うの?
テンプレに画像まで出てるのに

ただ理解したくないだけなのかな?

406日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:53:53.11
>>588
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のでっちあげ。
「いや…待てよ… 九州説は短里を76.5mと主張している これをならすと66・6… 」
恐ろしい… 。
黙示録に予言された獣…大和説…。

407日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:55:57.54
芝居、歌舞伎が〜好きで・・・、

本や書などが、ずら〜っと沢山並んでいた、
そういうモノなんかも、誰かにあげたのか、売ってしまったのかな・・・、
近所の人が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

408日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:57:08.30
>>405
>呉の背後に南北に細長い列島だと誤認していた。

意味不明。

409日本@名無史さん2019/01/13(日) 17:58:21.13
>>408
理科したくないだけなのだな

410日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:00:45.80
九州説のオジーちゃん達は現実を見たくないのさ
彼らにとって現実なんで苦痛でしか無いからね

411日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:01:50.98
九州説の人達に、もしわざと書き込んでいるのでなければ、歴史の真実を知って欲しい。
倭国の新しい女王卑弥呼の邪馬台国が、呉を挟み撃ちにできる重要な同盟国であるためには、
以前の倭王である奴国から、遥か彼方の東に遠く離れた大和と正直に書くと都合が悪い。
せめて奴国(北部九州)も邪馬台国も呉から近い場所「会稽の東」、つまり南部九州の西岸か沖縄、にないといけない。
その結論ありきで、大和の場所を記述しようと無理を重ねたのが魏志倭人伝であることを。
そして>>364 >>367を。

412日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:01:58.57
助詞の使い方が正しいとは言わんけど分かる範囲だな
分からないのはどこかに欠陥があるよ

413日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:03:36.88
>>589
>>陳寿は「会稽東治」と書いており、「会稽郡の東治」とは書いておらず、
「治」の主語がはっきりしない。<

>とうとう 「会稽東治」が 当時ぜんぜん会稽郡でない場所なのだと言い張りだす
末期症状の 九州説 合掌 <

陳寿の書き方からは、「計其道里當在會稽東治之東」の「会稽」は、
当然その前に書かれた「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」を指している事になり、
「会稽郡」の事だ、とは言えない。
そうすると「東治」の「治」の主語は「夏后少康之子」という事になる可能性がある。、

414日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:09:28.13
>>596
これ、何度も反論済みだから、
放置ね。

415日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:11:43.18
反論出来ないそうだ

416日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:12:40.11
>>601
そして自分にレスを付けて同意してバレてないと思ってる?、

まいどの、大和サル踊り

417日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:16:03.85
>>413
>陳寿の書き方からは、「計其道里當在會稽東治之東」の「会稽」は、
>当然その前に書かれた「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」を指している事になり、

それが会稽山のあたり
そして夏后少康之子の子孫が越の王家
つまり北緯30度よりも南だ
九州説は死んでいる

418日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:16:13.50
>>382
ダメですね。
ホケノ山は立派な槨があり、邪馬台国より後世の様式です。
なお、内行花文鏡の破片があり、平原の影響が伺えますが、完鏡はありませんでした。
せいぜい征東将軍でしょう。

419日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:17:10.58
>>415
九州説は反論しない
ただにげるだけ

420日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:18:05.73
>>418
このように九州説はウソばかりつく

421日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:19:32.13
キナイコシは平原の鏡が破られていたことを馬鹿にしていたけれど、その破片を大事に大和まで持ってきた人物に鉄鏃で畿内が征服されたわけだ。

422日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:20:02.83
>>418
>ホケノ山は立派な槨があり、

槨があるという証拠は?

423日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:20:53.65
>>604
>1魏里約430m<

魏朝里は1里≒76〜77mであるから、
これ×。

424日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:21:02.83
>>421
それ、なんか証拠あるの?
ないよね

425日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:23:09.89
>>423
「オレの説が正しいから、お前たちの説は間違いなんだ」

これが、九州説がダメになった理由だね

426日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:26:20.28
北部九州にあったことが確実な不弥国からの道程を
「南に」水行二十日で投馬国、そこからさらに「南に」水行十日陸行一月、と「東→南」に、例外的に方角を書き換えることで、
道程(所要時間)については正しく、かつ見事に、邪馬台国が(呉を背後からすぐに攻撃できる)「会稽の東」と書けることに留意されたい。

427日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:26:39.38
これは偶然ではない・・・、
大伴小手子?の像が建てられていたり、
むかーし、あの近所に住んでいたことがあったとか

428日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:30:46.42
九州説から答えがない
死んでいるようだ

429日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:31:44.49
>>367
>では、北部九州にあった倭王が、どうして

後漢書によると
桓・靈閨@倭國大亂 更相攻伐 「歴年無主」 
有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼~道 能以妖惑衆 於是共立爲王

倭國乱によって倭王と呼べる存在は居なくなったんだよ
それが何年も続いて、その後卑弥呼が共立されたとある

三国志では
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。

倭人伝の相攻伐歴年の間は王と言える者はいなかったということだろう

その状態から新たに共立されたのだから、遷都とかではない
ただ神武の東征が記紀に書いてあるのは、卑弥呼の共立の時に
卑弥呼の祖先(神武)が九州の血筋であることがある程度
重視されたことを反映している可能性はある

430日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:35:10.86
>>606
>帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里<

計測地点が全くのように示されていないし、国の範囲も考証されていないし、
660kmの計算根拠も示されていないなど、
データそのものがインチキであるから、×。

431日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:39:39.40
>>373
>普通の人類は東西南北などは間違えない、と言うのが史料から読み取れる事実。

読み取れません
史料から読み取れるのは、史料に記載された方角は間違うときは間違う、ということ

1.現地のその場で間違えないことと、
2.木簡に記録するときに間違えないことと、
3.ある木簡の記録が他のも区間の記録と混同されないことと、
4.ある木簡の記録が紛失しないことと、
5.他の記録との整合性があるかどうか判断することと、
6.実際の史書にどう書かれるかということは
相互に独立した事象であり、ある意味互いに無関係

「1」は正しいと一生懸命に言ったところで
「6」が正しいかどうかには関係ない

問題にしなければいけないのは「6」についてであることおよび
間に「2〜5」があることを無理に無視している

さらに言えば、ザラコクは「1」は正しいという点にもなんの根拠も示していない

432日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:41:07.98
>>609
>>「至」の前に途中移動の説明がないから、魏使らは移動しておらず、<

>ザラコク発明のこの珍説に根拠がないから、あと全部みなヨタ話に、なるんだよな<

行程移動の「出発+途中+到着」の順に説明する事は、人類の常識であり、
陳寿が、奴國と投馬國の行程説明に「途中移動の説明文言がない」という事は、
魏志の史料実態。

433日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:45:07.56
九州説は将軍様が大好きだな

434日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:45:52.06
>>432
>奴國と投馬國の行程説明に「途中移動の説明文言がない」

それはなにを示しているのでしょうか?

435日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:46:45.93
他の人物なのかな?

浅野セメント・・・関係の会社(企業)で仕事をしていたんだよ、
と言っていたんだけど

むかーしやっていたサザエさんのCM??

436日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:50:31.27
>>610
>女王国は邪馬台国だし<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言だから、×。

>会稽東治の東は台湾沖縄辺り<

会稽東治は、会稽の東方海岸地域になり、上海付近〜江蘇省海岸付近になるから、
会稽東治の東は、九州島付近であり、
台湾沖縄は×。

>1万2千里は概念的数字<

魏志と魏略には、「萬二千余里」というようにに「余」が就いているから、
計測値からの概数説明であり、
淮南子を踏襲していないを事になるから、×。

437日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:50:39.13
>>387
>帯方郡→壱岐対馬→北部九州→阿波朱儒国まで、

侏儒国、裸国、黒歯国を実在の国だと考えている人は
どうかしている

自郡至女王國萬二千餘里までに書いてあるのが実在の国

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種から後ろに書いてある部分は、伝説や伝承の引用

438日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:52:08.43
>>611
ほらな
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
まったく反論できない
つまり終わった説

439日本@名無史さん2019/01/13(日) 18:57:26.30
>>614
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、<

それについての、出発地や到着地に関して、何ひとつ具体的に証明できないから
大和説は支持者が消えたんでしょ?

440日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:02:13.00
>>617
いま、あなたがやってるのが、
「大和説にとって都合の悪い記載は何でも間違いだ」説という名の、
捏造だよ

441日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:08:20.52
>>621
>現実にあきらかな捏造をしてるのが 九州説だと証明されてるだろうが
会稽が、どうして江蘇省に移動するか?<

Wiki筆者は、
257年の会稽郡の分郡で、会稽郡の東方地域が、揚州(ほぼ現在の江蘇省)の管轄になった、
という証言を書いている。

442日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:12:08.09
>>404
>魏略にはあったらしい西域伝が三国志では欠落しているのは何か忖度があったのかもしれんね

お前さん、この前はこれを「呉書にはあったらしい西域伝」って書いてたよな?ww
魏略は逸文しかないのをいいことに、何でもありにしてるだろw

前は魏略には伊都国までしかないから伊都国が邪馬台国とか言ってたしww

魏略に西域伝があったとする話は聞いたことがない

443日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:18:57.38
>>622
時々、議論しているのは、
「正常な成人の大和説者だろうか?」という事に、
自信が持てなくなるよ。

444日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:23:11.19
>>624
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者に対しては、
もっと5歳児に話かけるような風にした方がいいのかも知らん。
或いは、さっさと警察に来てもらって、
病院か留置場に収容して貰った方がよいかも。

445日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:25:28.33
>>627
「南→東」などの嘘つき騙しのあの様子じゃ、
大和説者の症状はだいぶ進んでるな

446日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:26:32.13
>>628
大和説というものが
歴史学とは縁もゆかりもない
おかしな政治思想だということが
毎日どんどん明らかになって行くなあ

447日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:27:01.47
>>437
女王國東渡海千餘里や去女王四千餘里と距離が書かれてますから
伝説や伝承の引用ではなく漢人が実際に行ってますね。

448日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:29:23.96
>>447
人が嘘をつかない世界ではな

つまり、この世の話ではない

449日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:31:39.30
>>631
>つまり会稽は、ザラコクのいう揚州には存在しない<

言わない。
会稽の東治は、揚子江の北側の揚州に属していた、と言っている。

>ザラコクが今まで言ってきたことは すべてウソであった 確定<

大和説者が今まで言ってきたことは、すべてウソであった。確定。

450日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:39:49.71
>>663
もしかして66.5って、儒教的に何か、
「大和説に意味のある数字」などの嘘つき騙しのかも知れないな
だからいくら言っても谷本計算とは関係のない話であった事を
指摘されても変えられない
1短里76.5mを66.5mに変更したって、
長里の430mの否定である事には変わりないが、
そうすれ当然、・・・・大和説者や類スレ主は、
「谷本計算は×だった」という嘘つき騙し宣伝を、
言い出してくる!。

451日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:40:29.92
>>432
>陳寿が、奴國と投馬國の行程説明に「途中移動の説明文言がない」という事は、

南至投馬國「水『行』二十日」

これ途中移動の説明文言だよな?ww

東『行』至不彌國百里

の一字でいいって言ってたからこれもOKだよなww

いつも思いつきで適当な言い訳をでっち上げてるから
いつも矛盾だらけww

452日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:42:51.62
>>636
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
「畿内説」という呼称をつかっているように、
むしろ万世一系皇国史観の宗教思想だ
カルトな

453日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:47:41.12
>>639
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
とうとう「畿内」なんていう」なんていう万世一系皇国史観の念仏を唱え出した
いやアホな思想を念じてるから念アホだな

454日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:51:40.09
朝鮮人は雇わないほうがいいな

455日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:55:15.44
>>437
(女王国東渡海千余里復有国皆倭種)は、実在の国ということでいいの?

456日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:57:54.31
本州のことだお

457日本@名無史さん2019/01/13(日) 19:58:45.06
>>640
>王畿は千里四方であるべきだ、という儒教思想があった <

周髀算経にはそんな儒教思想は、書かれていない。

>王畿の南端と北端は地中(世界大地の中心)から夏至の日の影の長さがそれぞれ一寸違うという儒教思想もあった<

儒教思想は、孔子の思想であるなら、周公や商高の時代よりもはるかに後代。

>天文学ではない 逆算で76.5という数字を出したのは現代日本人<

谷本氏が周髀算経の一寸千里の法から、太陽仰角を使って算出した。

458日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:02:11.68
本当に、おかしな話ばかり

『三等重役』?

日本の神話、国造りの神話でしょ、
国を経営しているとか

気づかないというだけで、実際は
「ずっとオレのターン」
のような人物がいるんじゃないの?

459日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:03:14.11
兄と言ってる人がいたり・・・10月生まれ?

460日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:03:30.37
谷本も金が欲しかったんだろうね

461日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:06:35.31
>>644
>11から136メートルとか、-73〜306メートルとか、「意味のある数値」だと思いますか?<

元々、類スレ主が、距離計算の起点や到着点の比定のインチキをしたデータ、
からの数字だから、「意味がある数値」だとは思えないよ。

>これが正しい統計のやり方です。nが小さくて、ばらつきが大きいデータでは、
いかに統計処理をしても信頼性のある数値は出ないんですよ。<

どっちにしても、1里=430mは、確率は、5%以下だよ。

462日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:09:20.27
『ザ・モモタロウ』という作品も、〜石材店と言っているし、セメント?

463日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:19:45.21
>>442
>Wiki筆者は、
>257年の会稽郡の分郡で、会稽郡の東方地域が、揚州(ほぼ現在の江蘇省)の管轄になった、

ザラコクの言っているのはWikipediaの臨海郡のページの
「257年(太平2年)、三国の呉により会稽郡東部を分割して、臨海郡が立てられた[1]。
 臨海郡は揚州に属した。」
のことだな

これは誰かWikipediaを編集してきた方がいいだろう
Wikipediaの会稽郡の魏晋南北朝の項目に
「257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、
 266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。」
とあるが、最終的に残った会稽郡から見れば、臨海郡は南側

建安郡は臨海郡分郡後の会稽郡の中では南と言えば南だが、普通に見れば
臨海郡分郡後の西側半分になる

そしてザラコクは『揚州』を曲解している
Wikipediaの臨海郡のページの揚州は
「後漢のとき、揚州は九江・丹陽・廬江・会稽・呉・豫章の6郡92県を管轄した[2]。」

ザラコクの言う揚州は現在の揚州市

464日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:33:35.21
>>423
物差しの目盛りの単位が76m〜77mというようなアバウトな単位は存在しない。
小数点以下が延々と続くということがあっても、単位としては一つでなければならない。
76m〜77mが単位て、バカじゃないの。

465日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:34:08.86
『2ch 猿田彦神社』

このようなスレの話なんだけど、
まだあるのかな?

466日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:34:15.97
>>447>>455
>(女王国東渡海千余里復有国皆倭種)は、実在の国ということでいいの?

これは魏略の位置が正しいのだろう

魏略 (逸文1) 前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注

倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
倭は帯方東南大海の中に在り。山島に依て國を爲す。渡海千里にしてまた國有り。皆、倭種。

これに魏略 (逸文2) 翰苑 卷三十を続けると
従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
始「度一海千余里」 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴
南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里

渡海千里で渡っていった「対馬や一支も皆、倭種」と読むのが妥当

467日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:38:24.79
>>447
行ってたら、紀行文くらい書いていただろう。

468日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:40:29.76
>>645
>水行距離については、広めの海峡を渡ったらザックリ1000里なのだろう。<

いや、「余」がある、という事は、何らかの計測値からの近似である、という事だ。

>また短里でも長里でも、どちらにせよ<

長里は、×だ。

>北九州の沿岸のクニを南西から北東に向けて順番に巡っていることは変わらず、<

伊都国の後は、「東行」で不彌國であり、その後は、「南至邪馬壹國」だ。

>その後の『水行20日』と『水行10日+陸行1月』で
九州からはるか南の海上に出てしまうことも変わらない。<

「水行二十日」は、不彌國からの側副傍線國の投馬國への所要日数であり、魏使らは行っておらず、
「水行十日陸行一月」は、その直前の「女王之所都」の数量説明であるから、郡からの所要日数説明であり、
「九州からはるか南の海上」に出てしまわないから、×だ。

469日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:45:48.60
>>466
まさか。

470日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:46:03.93
>>646
この貼り付けにも、反論済み。

471日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:50:05.79
そのスレを読んでみた?
このような事を言ってる人がいるでしょ?


兄。
電気石。


電気石というのは、
10月の誕生石だと書いてあるし

472日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:52:43.48
>>446
そういうことだ。
マルクス主義を認めなければ政府の役人にはなれんという共産主義と、大和説を認めなければ大学の教授などになれないという大和主義は、よく似ている。

473日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:53:02.62
なぜか家の話ばかりしていたり

あと数年前のとあるスレ、
なぜ誰々さんの家は収入が無いのですか?

と言ってる人もいたような

474日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:53:11.98
>>648
>何か何の証明でもない九州説っぽい言い分
さては76.5または765は儒教的に何か意味がある数字なんだな <

一寸千里の法からの、太陽仰角を使っての谷本計算の結果。
そんな機械的な計算に対してイチャモンを付けるとは、
類スレ主二は、また、「万世一系皇国史観」という儒教的な意図があるんだな。

475日本@名無史さん2019/01/13(日) 20:58:09.51
本当は『松傾』このような名前の家の話でしょ?
キュウリの葉、葱の華・・・・写真も同じだし

476日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:01:57.17
>>650
>>陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」だと書いたのであり、
「会稽の東」だなんて書いていないし、<

>東冶だろうと東治だろうと、<

「東冶」は×だ。

>會稽東治(冶)が會稽の中なのは確定 中国語はそういう表記だ <

会稽が、「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」を指している、という事が実態。
従って、「会稽東治」と「会稽」とは、同じではない。

>だから、東冶だろうと東治だろうと「会稽の東」を見れば十分<

「会稽東治」と「会稽」とは、同じではないから、×。
「類スレ主」は、残念でした。

477日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:05:24.44
>>651
>唐津から沖縄までの巨大島は存在しないから、始めから×。<

>でも、陳寿はそれを大真面目に書いている訳だ <

陳寿は、「沖縄までの巨大島」なんて書いていないから、×。

>つまり、「陳寿の認識が間違っていた」という証明 <

つまり、「類スレ主」が、またインチキをした、という事の証明。

478日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:08:15.26
>>652
>話は変わるけども、『ニギハヤヒ』『ナガスネヒコ』と邪馬台国との関係は、
テンプレ作者的にはどのような整理なのだろう?<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、
「陳寿90度回転さん」は、×。

479日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:08:19.55
それとも『電気石 ポケモン』?

どちらにしても家の話でしょ、弟?

480日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:11:01.28
それとも妹の話なのかな、
五月生まれだし・・・メイ子?

『猫神やおよろず』

481日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:18:06.27
>>654
>今の所ただの推察だけど
765が儒教的意味のある数字というだけの事だったとしたら
九州説はとんでもねえな
ただ人を愚弄するためだけに説をでっち上げたって事だし
底知れない不可解な悪意 <

谷本氏の「一寸千里の法の太陽仰角から機械的に普通に計算されただけ」の、
「千里≒76.5km」を「儒教的」と愚弄するとは、
「類スレ主」は、「ただ人を愚弄するだけ」のとんでもない大和説者であり、
底知れない不可解な悪意であり、
外見は大人の・・・・幼児。

482日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:19:34.30
>>476
>会稽が、「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」を指している、という事が実態。

ならばこそ、会稽山のある現在の紹興市こそが会稽だな
どうやっても上海より北にはならんよw

483日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:20:21.72
>>655
いや、万世一系皇国史観の儒教精神的な大和説者らには重要なのかもな
わけわからん方法で相手を見下しバカにするのは
そうすれば儒教道徳的に相手より優位に立つわけだ

484日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:23:37.33
>>481
>「千里≒76.5km」を「儒教的」と愚弄するとは、

「儒教的」という言葉を「愚弄」と感じるあたり、やはりザラコクは
半島儒教的価値観で生きているカルト信者なんだなw

485日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:26:59.32
>>447
東渡海千里は一つの国ではないし、戸数道里が略載できない遠絶な国だろ
魏使は行ってないし、余傍国にも入らない

486日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:31:34.10
>>658
>古田が何があっても76.5mを崩さないのが怪しい <

古田さんは、「76.5m」とはしておられず、
「90m〜75m位であり、75mに極めて近い距離」とされただけ。

>そもそも谷本計算でも76.5mに合わせるために数字を操作してるフシがあるからな<

操作なんていておられない。
谷本計算は、南北での「76.3kmと76.6km」であったから、
zaraが、「大体1里17.5m」としただけ。

>1歩=25.5cmにして 本来そんな数字出て来るわけないのに<

これも、谷本さんがはっきり主張されたものではなく、
zaraが、Yahooでの議論で、1里=300歩を使って計算した数値。

487日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:39:25.22
>>664
「南→東」などの嘘つき騙しの万世一系皇国史観」大和説は、
人類学的にも興味深いサンプルかも知れない
非倫理的な人治主義の極み儒教支配の皇国史観で
1000年過ごした国民の思考と仕出かす事は、
どういう風になるか

学問的常識では、国民をまた侵略殺戮戦争に強制する事になるんだろう、と考えられる。

488日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:42:27.82
>>666
>50メートルと200メートルの平均って意味あるか?<

50メートルとか200メートルとかを計算した時の、
「出発地点や到着地点」の比定が、
始めからインチキで間違っていた、と思う。

489日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:47:08.52
>>675
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
説でも何でもなくて
万世一系皇国史観の儒教根性による人種差別的殺し合い戦争政治および祈祷の類
だんだんわかってきた

490日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:51:56.26
>>678
>ざんね〜ん。 東冶=現在の福州市 会稽東冶=紹興市〜福州市
東=そのヒガシ ↓ 屋久島〜沖縄本島=邪馬台国 <

ざんね〜ん。
後漢書の「東冶」は、後代史家の范曄の「自己解釈に拠る魏志の東治の書き換え」であるから、
×文言。

491日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:56:27.64
>>680
しかし「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らのとこの、
万世一系王國氏間の儒教は酷えな
近隣諸国民や弱者をバカにし見下すのが偉いという教義であり政治方式
内容も酷いわ心情的な政教分離もなされてないわ
しかも骨の髄まで染まってるわでどうしようもないな

492日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:56:38.14
最下層で市場で売られてた人種は腐れ儒教的価値観もないだろう

493日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:58:41.12
>>683
>バカだろう。

同意、「南→東」などのような嘘つき騙しの大和説には、
まともな思考力の人はいない

494日本@名無史さん2019/01/13(日) 21:58:51.09
家の話でしょ、なぜだと思う?

日本のメディア、マスコミというのも、
チンピラか何かが関係しているんだろう

部落?何なんだろう

495日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:01:56.64
漫画、アニメ・・・ゲーム・・・
その他

ほとんど家の話

496日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:07:12.22
>>1

お前、日本人を舐めてんのか?

497日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:08:08.29
現実では泥棒のようなものに入られたという話でしょ、
老婆が言っているんだから正解だと思う


『何者にもなれない お前たち』
住んでいるところも、このような家だし

498日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:10:53.19
あの写真自体、むかーしのモノなんだけど、
なぜ知っている人がいるんだろう・・・・・・・?という話

499日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:13:13.03
http://hello.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1293526890/


このスレを読んでみて・・・、
『松傾』の家の話でしょ

500日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:17:06.72
500

501日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:21:20.66
>>496

背乗りするな

502日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:22:10.40
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

503日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:27:47.76
>>492
>最下層で市場で売られてた人種は腐れ儒教的価値観もないだろう

その連中が「全員」「先祖は両班」って自己洗脳完了状態なんだよww

504日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:30:30.66
>>496とか、だんだん正体を隠さなくなってきたな
まあ、まともな日本人で九州説を信じる理由のある人はほぼいなくなったから、
未だに九州説で書き込みをする人はお察しだよなw

505日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:34:49.26
>>687
>會稽東冶から北に水行一月陸行一月行った地の東が
おおむね不彌國 <

「東冶」は、後漢書の「自己解釈に拠る書き換え」だから×だし、
水行二十日は、投馬國への位置表記であり、
水行十日陸行一月は郡から女王之所都の所要日数。

506日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:38:21.08
>>688
「南→東」などの嘘吐き騙しの万世一系皇国史観の大和説者の劣等感ってのも、
相手より優位に立たなければ
場合によっては天誅されるからな
必死に見栄を張るわけだ
日本の物を何でも大和起源主張するのも
そうしないと心情的に落ち着かなくやむにやまれずの行為
こういうのは何ていうのか
脳の病変とでも言うのか

507日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:41:51.79
>>698
おっ効いてる効いてる
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
万世一系皇国史観の人種差別的殺し合い戦争狂の大和説の、
儒教儒教バーカバーカ

508日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:44:34.97
天皇?
一系も何もない、本家というのがあるでしょ、
朝鮮に住んでいたんだよ

ホンモノというのは、
そういう話ばかりするでしょ

頭の悪い人間はこのような説ばかり、
誰々という人物が半島などに行き〜征伐したとか

509日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:44:45.28
>>694
>(陳寿90度回転さん)
キミたち、両派とも、品位ある議論をしなさい。<

大和説派の「陳寿90度回転」が言ったって、何の説得力もない。

510日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:45:43.44
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

511日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:47:50.23
>>697
「南→東」などの嘘吐き騙しの万世一系皇国史観の戦争狂の大和説者の、
儒教思想者は本当の害悪
世界中で迷惑かけてるからたぶんその内強制的な排除が始まる
倫理観価値観が普遍的常識とあまりに違いすぎるから

512日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:50:38.26
>>700
このスレは、
万世一系皇国史観の人種差別的殺し合い戦争狂の大和説者が、
どんな思考をするかのいいサンプルになるだろう

513日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:51:10.13
有力な説というか本当の話

三貴神というのがいるでしょ

現在のロシア周辺に住んでいた・・・、
漫画などでも有名

514日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:55:00.11
おーい>>248

>石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
>庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
>“大した違いではない”どころではない。

庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だって
どこの誰が言ってるの?

どこの誰が?

結論は口角泡を飛ばして盛んに言うのに
その結論を出すのに必要な元情報の出所は誰も言わない
不思議だなあ九州説って

515日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:55:40.44
>>704
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
万世一系皇国史観儒教の、人種差別的殺し合い戦争狂の大和説者が、
こうヘラヘラしてられるのも、本気、撫養で得体が知れない
儒教者は人間ではないと言われてるのに等しいのにな

516日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:56:25.33
『扶余 へブル人』?〜『ロシア ユダヤ』?

いつ頃の話なのか知らないけど、本当に、その辺りでしょ、

517日本@名無史さん2019/01/13(日) 22:59:18.18
あとガンダム?

なぜ知っている人がいるんだろう

選ばれし者〜〜〜??荒し、嵐の神?

518日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:00:36.08
>>708
「南→東」などの嘘吐き騙しの。
万世一系皇国史観儒教の人種差別的殺し合い戦争狂の大和説者が、
狂ったぞ

519日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:03:56.46
『松傾』
この家?の話ばかりしている人がいたり、
長い竿、釣り・・・。

520日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:06:17.57
>>714
しかし万世一系皇国史観の人種差別的殺し合い戦争狂の儒教の大和説の、
悪口を言われると、大和説者も腹が立つんだなー
面白い
いつか滅びる定めの非道義的な儒教なんてちっともありがたいと思えんが
そんな物なんか
異民族とか異教って歴史の話だと思ったけど
現代日本でもあるもんだ

521日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:08:07.34
九州説ってキモいな
異常な思想に染まってるのがわかるわ

522日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:10:49.16
>>718
まあ本家大和説の、万世一系皇国史観の人種差別的殺し合い戦争狂の儒教は、
ちゃんとした非道徳的なやつだろうな
腐れ儒教は大和説者的。

523日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:15:37.97
>>726
まああまり万世一系皇国史観儒教者を責めるのも可愛そうになってきた
今の人種差別的殺し合い戦争狂儒教式悪意に基づく支離滅裂から逃れたいと思うなら
仏教でもキリスト教でもまともな宗教を心から信じる
世界中の大多数は多かれ少なかれそうしてる

524日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:20:06.24
カルトは潰さないと。
はるか上古から大和が列島を支配していたとかいう妄想が拡大して先の大戦になった。
大和説は何かにつけ儒教儒教とヘイトスピーチを繰り返しているし。
歴史の改竄は人道への罪なんだよ。

525日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:23:04.60
♪ 一羽の雀が言うことにゃ おらが在所の陣屋の殿様・・・

526日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:33:04.65
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

527日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:45:51.70
>>524
太平洋戦争が起こったのも恐らく軍部の在日のせいだろ

528日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:48:27.17
>>524
>ヘイトスピーチを繰り返しているし

>>526みたいなのが本気のヘイトスピーチなのに、スルーしてるよな?
連続句読点は九州説のお仲間だからお咎めなしなのか?

身内のウリのやることは無条件に擁護するって言うのは、彼の国の道徳観だよな?
ザラコクの道徳観もこれと同じだww

529日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:52:44.61
>>399
人間オウムのザラコクが言ってもまるで説得力ないぞ
九州説が取り付くと人はこのようにオウムへ変わるというサンプル

530日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:54:43.20
>>527はなりすまし右翼のチョン。
「太平洋戦争 」でわかる

531日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:55:46.07
>>406
黙示録に予言されてるのは悪魔教儒教九州説じゃ

532日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:56:39.93

533日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:58:41.68
>>527>>528>>529>>531=チョン

534日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:59:20.80
>>436
淮南子と後漢書には萬二千里と書かれてるから
萬二千里余里は後世史家の自己解釈による書き換えだな

535日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:01:25.80
優れたなぞの人物が、3寸男のことをバラしたのではないのかな。。。

532日本@名無史さん2019/01/13(日) 23:56:39.93
>>527>>528>>529

536日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:01:38.18
>>450
76.5mのままでも
どっちにしても谷本計算は間違ってたと宣伝するぞ

537日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:06:20.16
>>453
念仏とは自身が御仏と成れるよう念じて唱えるもの
九州説は唱えてればそのうちアホになるから念アホ

538日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:08:43.69
畿内説は死んだ ろくな論客もおらず
そればかりか無知を晒すものさえおり
恥ずかしげもなくテンプレを信仰するものも多い

539日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:10:35.39
正体がバレてしまった、3寸男の脳が破壊したので、スレッドも、破壊したのではないのかな。。

540日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:11:11.28
戦いは同じレベル同士でしか起こらんのよ
九州説がレベル低すぎて小バカにされてるだけだぞ

541日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:15:45.25
スレッドが破壊したので、新しい討論のスレッドば、作製すれば良いな、、

542日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:15:47.66
>>461
1里76mは0%だよ

543日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:19:10.09
>>468
しかし女王国の位置は会稽東治の東
沖縄や台湾の辺りと魏志倭人伝に書かれてるぞ

544日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:31:39.65
>>474
76.5は儒教的数字よりかは何かの下らない語呂合わせ的な何かか
いずれにしても谷本計算の主張
1短里=300歩≒300尺はそもそも最初から計算が成り立ってない
なので1短里=300尺として1尺23cmとすれば69m
谷本計算でも1短里76〜77mの1歩25.5cmは本来出て来ない数字のはず

545日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:39:28.40
>>481
計算なんて設定次第でどうとでもなるわ
それに周の時代に実際測られたなら八尺の棒の影長が一寸違うのは約200里
一寸200里の法則になる

546日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:42:41.33
>>483
万世一系皇国史観は確かに儒教的かもなあ
実態はないけど古いから偉い的な思想で
在系の考えたスローガンかも知れない

547日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:45:43.93
>>486
計算の辻褄が合ってないんだろ
谷本計算では一尺23cmとしてたがそれだと1短里76mにならないから
1歩=25.5cmとして

548日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:49:24.11
>>487
皇国史観は戦中のものだろ
ロクに日本の歴史を知らないようだな

549日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:52:10.62
>>489
皇国史観は九州説だろ
つまり九州説こそ儒教根性の人種差別的なんたらの祈祷というか呪詛

550日本@名無史さん2019/01/14(月) 00:55:52.46
>>491
ザラコクよ
そんなに儒教をバカにしたら九州説の同胞から怒られるんじゃないか

551日本@名無史さん2019/01/14(月) 01:07:35.34
本来の儒教は支配層のための学問だから
市場で売られてた人種はオウム返しの習得に専念してただろう

552日本@名無史さん2019/01/14(月) 01:13:40.96
儒教の仁、義、礼、信などは
強制されなくても本来日本人には備わっているだろう

553日本@名無史さん2019/01/14(月) 01:31:13.74
武道や芸道で「残心」と言われる言葉がある
礼に始まり、礼で終る武道では、一本をとっても
その場でガッツポーズをしたら取り消される
日本にはそういう美意識がある

554日本@名無史さん2019/01/14(月) 02:43:30.05
どうやら九州説の二人は異常な政治思想にかぶれているようだ
そして歴史学には興味がないようだ

555日本@名無史さん2019/01/14(月) 03:02:35.57
そんなことよりも読んでみた?
なぜか家の話ばかりしているでしょ?

『 【謎の】椿大神社・猿田彦神社ほか【サルタヒコ】 』

556日本@名無史さん2019/01/14(月) 03:09:14.22
『松傾』
そうでしょ?

天津、国津。山主。漁が〜。幸。神輿。寒いな〜、
トラック野郎(山守?)・・・・・その他。

ちなみに住んでいるところは、
神奈川県の川崎区というところ。

557日本@名無史さん2019/01/14(月) 03:15:22.74
酒だ、酒を持ってこい。
打ち出の小槌。田、鬼の何やらとか(河童の三平、げげげ??)

と言ってる人もいたり。

558日本@名無史さん2019/01/14(月) 03:51:03.12
このような事を書いている人もいるでしょ

>赤酸醤に似多り。


酸漿〜ホオズキ・・・・・・調べてみて

559日本@名無史さん2019/01/14(月) 03:55:04.68
歌舞伎、芝居の話をしていたり、
311謎の震災が起きてからだったかな?

『旧広瀬座』というところの話とか、
ほとんど老婆談

560日本@名無史さん2019/01/14(月) 04:18:24.65
 今使譯所通三十國
いきなり飛んで吉備あたりに投馬国 そして飛んで畿内邪馬台国?
中国地方や四国に国が無いとは考えられないな
いずれも弥生期の遺跡は一杯あるのに

561日本@名無史さん2019/01/14(月) 04:19:11.24
本当に偶然なのかな?


ネットなども無かった頃の話、
家の隣に高野さんが住んでいて・・・、
〜〜〜〜〜〜〜ドラムをやっているとかw


仕事などを紹介したり、
よくわからないけど、そういう家だったんだよ、
みたいな事も言っていた

562日本@名無史さん2019/01/14(月) 04:24:35.98
奈良平野には古代奈良湖がそのほとんどを占め、縄文式土器の出土しょうがないし、
弥生式稲作は南の飛鳥の限られた平野でしか発展しなかった

563日本@名無史さん2019/01/14(月) 04:26:05.31
戦前、戦後の話なのかな?
確か、そのようなことを言っていた


仕事を紹介してもらったり、していたり?・・・
みたいな話

564日本@名無史さん2019/01/14(月) 04:29:55.05
鳥取県
青谷上寺地遺跡(鳥取市)
常松菅田遺跡(鳥取市) - 縄文から弥生、古墳時代の複合遺跡
智頭枕田遺跡(智頭町) - 縄文から奈良、平安時代の複合遺跡
妻木晩田遺跡(大山町・米子市)
福市遺跡(米子市)
青木遺跡(米子市)
島根県
古浦砂丘遺跡(松江市)
荒神谷遺跡(出雲市)
加茂岩倉遺跡(雲南市)
西谷墳墓群(出雲市)
岡山県
津島遺跡(岡山市)
百間川遺跡(岡山市)
楯築遺跡(倉敷市)
門田貝塚(瀬戸内市)
広島県
小丸遺跡(三原市)
松ヶ迫矢谷遺跡(三次市)
山口県
土井ヶ浜遺跡(下関市)
徳島県
矢野遺跡
香川県
紫雲出山遺跡(しうでやま、三豊市)

565日本@名無史さん2019/01/14(月) 04:36:39.10
>>754
そして「南→東」などの嘘吐き騙しの、反省もできない大和説者。

566日本@名無史さん2019/01/14(月) 04:53:39.06
>>785
>>目的地が見えていれば、「どの方向にすすむのか?」なんて書く必要がない。
目的地が見えていなければ、出発方向を教わった後は、
案内人や道標や道なりや、海流や風や進方向固定などしかないな。<

>これを言ったら最後、
『「南≠東」などに拠って、始めから×。』が
まったく意味をなさなくなるのが理解できないんだよな、ザラコクは<

すでに始めから、「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」という、
大体の方向が分かっている。

567日本@名無史さん2019/01/14(月) 04:59:54.63
>>786
>>陸行一月は、郡から女王之所都への行程の、陸路日数であり、
大半が「歴韓國乍南乍東」に費やした。 <

>古田史学の会以外はまったく考えもしないこの「韓地陸行説」を見るだけで
まともに考える気がないのが分かる <

倭王武の上表文の「自昔…道kei百濟、裝治船舫」に拠って、
中国への道は、半島陸行路であった事が分かる。

568日本@名無史さん2019/01/14(月) 05:07:51.91
>>792
>>人類は「南と東とを間違えない」から、×。<

>これは末盧国から伊都国の方角が間違っている時点で意味がない ・・・<

「東南」は、「伊都国への方角」ではなく、
末盧國からの出発時点での出発方向であり、
間違っていない。

569日本@名無史さん2019/01/14(月) 05:23:00.04
>>810
>また史料を見もしないで妄想してますね<

類スレ主が井田法の説明をした時には、「里」という数値の説明がなかったが、
晋代頃の説明をした時に、突然「1里」の説明が出ていたので、
井田法時代の「里」の定義は曖昧であった、という事が分かった。

570日本@名無史さん2019/01/14(月) 05:37:42.36
>>829
>言わないなら会稽東治が江蘇省だと言い張ってた事実はどう誤魔化す? <

そんなアホな事も言っていない。
会稽東治は、会稽の東部の「上海付近〜江蘇省」の海岸地域の事だ、と言って来た。

571日本@名無史さん2019/01/14(月) 05:42:27.53
>>832
>>会稽東治が福建省だなんても言う筈がないし、<

>あんたが言わなくても歴史上の事実は変わらないから <

福建省は、会稽南治だな。

572日本@名無史さん2019/01/14(月) 05:48:11.93
>>834
>>短里は、史料実態だ。<

>つまり泡沫古田派の珍解釈ということ<

「つまり、「南→東」などの嘘吐き騙しをしている通説大和説者は、
「史料実態」を否定する珍解釈の・・・・人種だ、という事。

573日本@名無史さん2019/01/14(月) 06:08:05.19
>>854
>つまり 実測かそうでないかで使いわけてるのだ という説は<

?。
「夷人不知里數、但計以日」なんだから、
魏志の「里」記載は、
原則として、魏の役人たちの計測値であった事になるんだよ。

>非現実的な空想だということで はい、決着 <

この大和説男も、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師仲間であった、
という事で決着。

574日本@名無史さん2019/01/14(月) 06:50:40.66
>>569
>類スレ主が井田法の説明をした時には、「里」という数値の説明がなかったが、
>晋代頃の説明をした時に、突然「1里」の説明が出ていたので、
>井田法時代の「里」の定義は曖昧であった、という事が分かった。

普通の人なら説明を受けたり調べたりして分かるものなのに
あなたは他人からの説明がないんで分かっちゃうんだね
異常な人の考え方って解んないな

575日本@名無史さん2019/01/14(月) 08:15:10.35
井田法の出典は孟子
つまり漢文をいちおう勉強した人はたいがい知ってる話
くどくど説明する必要を感じない人がいても不思議じゃない

576日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:09:17.53
>>856
>>いや、不彌國の外縁部の福岡平野中央部に邪馬壹國の入り口がある事になる。<

>行程に書いてある里数が中心地までじゃなくて 外縁部までの距離だというなら
部分行程距離の総和は総行程距離と一致しないことになる<

ならない。
まず、魏使らの記録や陳寿の記載は、最小距離が百里位であるから、
50里以下位は記録されなかった、という事になる事と、
對海國と一大國のように国内移動が数百里であれば記載している事と、
古代のような過疎地域時代には、部族国家の間は不連続が普通であり、
境界を接している場合には、
「其toku]廬國與倭接界」のように、逆にはっきり区別された書き方をされており、
そうすると、部族国家間の距離や里数というものは、人類の常識通りに、
原則は、居住外縁部間の距離や里数での記録という事になり、
部族長や王の居地への距離の場合は、
宮殿や臺の入り口までの距離で示す、という事も有り得る。

>古田説が全部崩れるな <

通説大和説が全部崩れるな。

577日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:09:48.52
井田法に反論するロジックはまだ思いつかないのか
必死に考えてるのだろうな

578日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:20:53.11
>>858
>撥形前方部は、弥生終末期の尾張で既に見られる形なんだがな〜。
その尾張の撥形前方部が大和の石塚古墳に採用されたということが、リアルな歴史なの。
撥形前方部が3世紀末なんて、世迷言の部類だよ。<

「撥形前方部は、弥生終末期の尾張で既に見られる形」という、
「弥生終末期」の絶対年代が、そもそも問題なのであり、
卑弥呼の冢を弥生終末期だとするんなら、
尾張の「撥型前方部」は卑弥呼の冢の時代よりも後になってしまうし、
那珂八幡などの前方後円墳よりも後になり、
だから、石塚は、3世紀末になってしまう。

579日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:53:11.45
支離滅裂だな

580日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:55:56.26
>>860
>>魏使らの計測記録は、一大國は丁度ほぼ三百里位であり、
對海國は、「四百里」より少し多い、という事であったんでしょう。<

>つまり「まったく測っていない」ということだな<

いや、夷人は「里」を知らないんだから、魏使らが測らなければ記録出来ない。

>現実の対馬と壱岐に、そのような長さで測られるべき部分などないww<

なければ、測れず記録も出来ない。

581日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:58:05.62
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

582日本@名無史さん2019/01/14(月) 09:58:53.79
あのーー
まだ見つからないの
纒向の大集落跡まだなの
斎場で決まりなの

あのーー
まだ見つからないの
纒向の高楼城柵大まだなの
市場で決まりなの 👀 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)

583日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:02:57.27
>>862
>つまり 魏使が倭船に同乗して持衰を実見した なんてのは
分裂幻覚の妄想 だということで よろしいな?<

つまり 魏使が倭船に同乗して持衰を実見しなければ、
魏使らは誰も、持衰の事を知る事もなく、倭人も話す筈もなく、
倭人伝に記載される筈もなく、
だから、「魏使らが実見しなかった」なんてのは、 分裂幻覚の妄想だということで
よろしいな?

584日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:05:03.70
なに言ってんだかわからないよ

585日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:13:37.80
>>582
纒向は宮殿跡とかだから集落は見つからないよ
どういうのが建ってたのかは家型埴輪見れば見当がつく

586日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:23:04.66
>>585
そうだよな
畿内説の学者が纒向は大集落群と言っているのは大嘘だな

587日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:23:58.66
>>876
>倭人が案内してくれるので記録の必要は無いな
そもそも異民族との外交使節団は多数あるのに行程を記録したものが発掘されてない <

半島に倭人がいたんだし、
魏が万一倭との戦争になって、
軍や黄幢を送らなければならないような事が起きる可能性は否定出来ず、
だから、当然魏使らは、倭国へ行く手掛かりになる道筋などの情報は、
記録して置く必要があるな。

588日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:30:07.59
>>880
>つまり会稽より南なんだよ<

会稽東治は、会稽よりも東だよ。

>会稽東治が会稽郡の外で会稽郡より北だとか 馬鹿すぎるだろう?<

wikiでは、会稽の東部が揚州に属した、と書いてある。

>嘘つき爺さんも騙し願望は捨てるんだな 稚拙すぎて誰も騙せてないから<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、騙し願望は捨てるんだな。
稚拙すぎて誰も騙せてないから。

589日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:32:24.67
>>586
桜井市纏向学センター
纏向遺跡ってどんな遺跡?
北飛塚地区の住居跡(桜井市大字太田)
纏向遺跡では竪穴式住居跡の検出例がほとんど無く、纏向遺跡第112・137・138次調査で確認されている程度です。
だってさ。  @阿波

590日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:34:35.74
邪馬台国は七万戸の大集落のはずだろ。
3棟では話にならない。
楼閣も柵もない。
魏志倭人伝にはほど遠い。

591日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:35:50.07
>>881
>弥生時代にどうやったら東シナ海を越えて真東かどうかわかるんだ?
東北や東南だろうが、東シナ海のはるか向こうなら東で合っている。<

正確には、東シナ海の西岸と倭地の両方で、同時期の正午の8尺棒の影長を測れば、
真東かどうか?が判る。
沖縄や台湾で測れば、真東ではない事もすぐに判る。

592日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:39:08.06
>>882
「南→東」や「一寸千里の否定曲解」などの嘘つき騙しがバレて、
開き直る「万世一系皇国史観の殺し合い戦争狂」の・・・・大和説者。

593日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:40:50.12
>>883
>地図もないのに真東なんてわかるわけないだろ<

一寸千里の法の計測で分かる。

594日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:44:46.88
>>884
>東シナ海の東北か東南かわからない
倭地がどこにあるのかまったくわかっていないということは
実際の地理観はないということ<

魏使らも倭地で一寸千里を使っており、
陳寿ら大陸の知識人も一寸千里を知っているから、
会稽東治の東であるのか?は、直ぐに判る。

595日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:48:43.53
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

596日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:48:48.10
>>533
>>527>>528>>529>>531=チョン

ほらほら、ザラコクさんよ
こういうのをヘイトスピーチって言うんだよww

ここに並べられた書き込みが九州説にはツラいって言う表出でもあるけどww

597日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:49:47.70
>>889
>方位と距離が正確で、行程で比定できるといいながら
倭地がどこにあるのかは中国人にはわからないと言張る<

「中国人にはわからない」とは言張らない。
一寸千里で判るから。

「南→東」の嘘つきや、「一寸千里の法」を無視する、
都合がいいとこ取りの、背乗りの・・・・アホ人種の大和説。

598日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:55:04.58
韓国人を、チョンと呼ぶのは、人種差別なのでいけないことでは、ないのかな。。。

599日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:55:35.16
>>562
>奈良平野には古代奈良湖がそのほとんどを占め、

やよいじだいの遺跡、いっぱいありますよ?
https://i.imgur.com/9j6LLzE.jpg

奈良盆地中央の大和川が膨らんでいるところを奈良湖と呼びたいなら呼んでもいいけれど
集落や水田を営む面積は不足してないよ

600日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:58:18.15
邪馬台国畿内説を宣伝する3寸男が、韓国人だという真実を発表するときには、人種差別にならないように、注意すれば良いな。。。

601日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:59:03.07
>>566
>すでに始めから、「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」という、
>大体の方向が分かっている。

それだったら「南至邪馬壹國」が総行程を示しているというのは矛盾するから大間違いだな
一言各毎に矛盾する
これがザラコククオリティだww

602日本@名無史さん2019/01/14(月) 10:59:26.49
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

603日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:00:34.84
>>891
>倭国にも牛はいたそうだから 魏志倭人伝は正確では無いという事でよろしいな<

そりゃ、魏使らが見聞した範囲内には、牛は見られなかったんだろう。
それに、「牛がいた」というのが、
どこの何時頃のどんな根拠であったのか?、という事が問題だ。

604日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:01:17.60
>>567
>倭王武の上表文の「自昔…道kei百濟、裝治船舫」に拠って、

倭王武の上表文でも韓地陸行はしてないぞww
ザラコクは書くことすべてがデタラメばかり

これがザラコククオリティww

605日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:02:52.84
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

606日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:04:09.24
邪馬台国畿内説を宣伝する3寸男が、韓国人だという真実を発表するときには、人種差別にならないように、注意すれば良いな。。。

607日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:06:17.10
>>568
>「東南」は、「伊都国への方角」ではなく、
>末盧國からの出発時点での出発方向であり、
>間違っていない。

これが通るなら、南は邪馬壹國への出発時点での出発方向だから
邪馬壹國への方角は東でも間違っていない、でいいなww

ザラコクの「東≠南に拠って×」に意味がないというのを自分で証明ww

608日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:16:28.85
>>895
>は?? 晋の役人だろうが魏の役人だろうが会稽までの距離はわかる。
だが、それを倭国までの距離と比較するのが、 弥生時代には無理、という常識レベルの話だ。
なぜなら東シナ海を越えての観測が無理だから。
なぜなら東夷伝里での里程記載は、弥生時代にしては驚くほど正確だが、
それなりの誤差があるから。<

一寸千里を使えば、同緯度位であるのか?や、南北間里数の概算は容易。

609日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:29:02.45
>>902
>つまり陳寿は短里など使っていないし<

長里は全く使っていないし、短里を使っている。

>書いた行程記事は現実と合わない 方角も間違ってのだよ<

見聞した現実を記載しているだけだし、
方角も間違っていないし、間違えない。

610日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:35:29.07
>>578
ダメダメ。
弥生終末期は、2世紀末〜250年頃までというのが相場。
これを否定する者は、モグリ。
尾張の撥型前方部は、その終末期前葉。
卑弥呼の墓は、今のところ、久留米の祇園山。
大和は、卑弥呼と関係しない土地。
那珂八幡は3世紀後半〜4世紀初頭。

611日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:38:55.54
>>560

飛んでるんじゃなくて、女王國内だから端折ってる
漢の時に朝見した者があったので、
不彌國までは漢の度量衡が伝わっている=教化が及んでいる
女王國はまだ里を知らないので、
日数で計っている=荒域(文化はつる地)の外

612日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:43:29.66
>>903
>陳寿は短里を知らなかった。
しかし彼が使った資料は短里で書かれていた。
だから実際よりも倭が南方にあると思ってしまった。<

陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」という推定を書いているから、
短里を使っており、
短里を知らなければ「赤道付近」だと思ってしまった筈であり、
という事は、短里を知っていた。

613日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:56:51.64
>>904
>陸路 平均117メートル 分散5833メートル の数値を使えば、95%信頼区間は
117±4.48×√5833=117±342メートルだ <

ダメだ。
「陸路 平均117メートル」という数字を出した史料事実の解釈がそもそもインチキであったし、
だから、その分散もインチキであった事になるし、
「歴韓國乍南乍東」の陸路を計算に入れない点もインチキであるし、
古田さんも、百里位の小距離の里数よりも、
千里以上の長距離の方が誤差が少なくなる、という意見であったし、

という事は、この大和説者の計算も、インチキだらけ。

614日本@名無史さん2019/01/14(月) 11:58:12.98
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

615日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:04:08.08
>>907
>>「東南」は末盧國からの出発時点での出発方向だ。<

>これを認めるなら、魏志倭人伝に書かれている方角はすべて意味を持たなくなる
書かれているのは出発方向であって、実際の方角を意味していないってことだからな
ザラコクが「東≠南に拠って×」と書き続けているのは茶番もいいとこww<

いや、郡からの位置方向は、
始めから「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と書かれており
各部分行程は、出発時点での出発の方向の指示であっても、十分。

616日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:05:07.20
>>590
邪馬台国は連合国だぞ
つまり畿内一帯
纏向は王宮跡とかそういうのだろ

617日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:08:56.63
>>597
中国人は一寸千里の法なんてデタラメと
それこそ3世紀頃に結論づけてるぞ

618日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:31:46.55
死人コウモリ

619日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:32:03.75
>>611
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 

女王國の東の里数も計測されてるのに女王國国内の里数は不明なの?

620日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:34:15.85
>>590
当時の日本国内に七万戸の大集落とかあり得ないよ。
邪馬台国は伊都国、奴国等の北部九州地域の連合国

621日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:37:06.73
七万戸の内訳に奴国も含まれるのだろう。

622日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:40:03.30
>>599
>やよいじだいの遺跡、いっぱいありますよ?

足りないし、倭種にすぎない。

>集落や水田を営む面積は不足してないよ

相対的に九州に比べて足りない。
圧倒的な後進地域であり、魏と交流するには途中に他の勢力が多すぎる。
纒向遺跡はどこにでもある泡沫遺跡の1つ。

623日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:43:45.46
この時代圧倒的に九州の耕地は足りないのだけどね

624日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:48:52.10
九州では稲作が紀元前1000年頃には始まっていたから3世紀には当時技術で開墾出来る土地は耕地化され人口も既に飽和状態
未開墾の関西等に殖民が始まっていたんだ。

625日本@名無史さん2019/01/14(月) 12:55:35.33
確かに纏向遺跡は首都遺跡にしては貧弱かもしれないが、箸墓を築いた作業員の生活遺跡も乏しいことに要注意。
河内平野+大和盆地の各集落を合わせて、七万戸(約35万人)と思われる。

626日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:01:32.83
>>588
>wikiでは、会稽の東部が揚州に属した、と書いてある。

ザラコクは漢籍古典の原文を見ないで、古田史学の亡霊しか見ていないから
どこまで行ってもトンデモ

ザラコクは揚州を誤解している
「後漢のとき、揚州は九江・丹陽・廬江・『会稽』・呉・豫章の6郡92県を管轄した[2]。」
もともと後漢から三国時代の揚州は会稽郡を含む広い範囲
会稽郡から分郡された臨海郡も当然揚州に属することになる

そして臨海郡は、分郡前の会稽郡のうち南側の大陸東岸の地域
この地図を見れば臨海郡と会稽郡の位置関係が分かるな?
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map1.jpg

東治だろうと東冶だろうと銭塘江より北にはならない

臨海郡に冶県・東冶県は含まれるから『会稽東治が臨海郡だ』というのは構わないけれど、
会稽山のある会稽郡(現在の紹興市周辺)よりだいぶ南になるぞ

ますます九州北部から遠ざかるw

627日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:03:10.90
>>619

渡海の千餘里が実測値なら
壱岐から北部九州沿岸は近すぎる

628日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:05:56.05
>>613
>という事は、この大和説者の計算も、インチキだらけ。

なら正しい計算とやらを出してごらんww
デタラメインチキしか書けないくせにww

629日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:05:58.78
北部九州の奴国(博多)にあった倭王権が、どうして遠く隔たったド田舎(大和)の卑弥呼に取って代わられたか?
それは当時首都圏だった北部九州で起こった倭国大乱のせいである。
西暦189年ニュージーランド北島タウポ山の大噴火による日照不足から大飢饉が発生し、大量の餓死者を出したため、
民の食糧を確保するのが仕事である各王同士が食糧の奪い合いを始め、人口の割に耕地の少ない北部九州地域では、戦乱が続いた。
魏志倭人伝には、漢委奴国王以来、歴代倭国の盟主だった奴国には、代官はいるが王はいない、つまり倭王はいない、と書かれている。
これらを総合すると、北部九州から遠く隔たり、耕地も広大で農業生産人口が多く、比較的凶作の影響を受けず、備蓄食糧が余っていた大和の卑弥呼が、
飢饉に陥っていた北部九州に大量に救援食糧を送ったため、北部九州の王たちも互いに食糧を奪い合い争う必要がなくなり、
民の命を救ってくれた大和女王卑弥呼こそ、倭王に相応しいとして、 奴国王を男弟として大和に送り、邪馬台国が成立したためである。

630日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:06:12.02
>>622

九州は大規模な水田跡があまり見つかってない

631日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:06:17.19
邪馬台国の南の狗奴国
魏志倭人伝の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう

元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな

狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう

632日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:06:54.69
>>620
>>621
魏志倭人伝に書いてる国々の戸数を全部足せば8万戸
邪馬台国は7万戸

633日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:09:33.75
>>620

7万戸の集落じゃないしw

634日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:10:20.04
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

635日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:10:45.23
>>625
仮に関西に邪馬台国が在ったとしたら7万戸は
関西全域+周辺地域でないと足らないな。

636日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:10:52.91
>>619
>女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 
>女王國の東の里数も計測されてるのに女王國国内の里数は不明なの?

それ、魏略だと冒頭に書いてあるんだよね
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種

倭は山島に依る国で、島の間の渡海千里してもそこも皆、倭種の国という程度の意味

そして、渡海は測距できないから一律千里になってるし、
計れたかどうかとか倭人は里を知らないはずなのにとかは意味がない

637日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:14:00.22
>>911
「南≠東」などに拠って×。

638日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:14:19.39
>>620>>621
>邪馬台国は伊都国、奴国等の北部九州地域の連合国

それでは7万戸にならないよww
奴国は二万戸しかないし、伊都国末盧国を入れても2万5千戸
投馬国はどこにあるんだ?

投馬国は女王国以北の国だぞ?ww

適当なことを言っても、九州説で整合的な説は作れないw

639日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:17:37.05
>>622
>足りないし、倭種にすぎない。

何をもって足りないというんだ?
それに倭種は「皆」倭種という表現だぞ

渡海千里の前も倭種だし、渡海千里の先も倭種という記述だ
旧唐書の倭の別種に頼りすぎ

さらに言えば別種というのは「同じものの別の呼び方」という意味だ

640日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:17:42.00
>>913
陳寿は、
「エイヤ!で日本列島を90度回転させる」ようなな、
・・・・アホな事はしないから、×。

641日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:18:45.90
>>630
菜畑、板付、吉野ケ里とか大規模な水田跡があるよ。

642日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:19:53.15
>>638
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

643日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:19:54.03
畿内説を有利にしたいために、投馬国を半島に追い出そうとしているのか。
邪馬台国は山幸彦の筑紫日向、投馬国は海幸彦の宮崎日向で兄弟国。
だから魏志倭人伝でも同じ規模で列記されている。
帯方郡からの日数は投馬国の方が長い。

644日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:20:36.07
>>639
キナイコシの詭弁は聞き飽きた。
何一つ真実がない。

645日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:21:53.35
>>641

菜畑は小規模、板付はもうない、吉野ケ里は水田跡は見つかっていない

646日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:24:09.38
北部九州にあったことが確実な不弥国から、投馬国(い・つま=出雲)まで南に(実際は東)水行二十日、そこから南に(実際は東そして南に)水行十日陸行一月。

これは当時関門海峡が浅瀬で、道もできず、船も通れなかったからだと考えられる。
そうすると、日本海側を遠回りして、投馬国(出雲)さらに鳥取県神谷青地池遺跡辺りまで水行して、そこから上陸し、大和まで陸行一月(もちろん誇大表現)。
なぜ東を南と書き換えなくなてはならなかったのかは、>>411

647日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:26:36.46
>>634のコピペを見るたびに九州説終わってるな、と思う

戸数道里が分からない国の戸数を勝手に決めて、
計算が合うんだーって言ってて情けなくならないんだろうか?

投馬国は五万戸もあるのに、そんな寄せ集めの邪馬台国より大国ってことになるぞ?
邪馬台国が寄せ集めで七万戸なら、投馬国は寄せ集めしなくていいのか?

魏志倭人伝では、
奴国二万戸
投馬国五万戸
邪馬台国七万戸が3大国として並列に書いてあるのに、
奴国二万戸を邪馬台国七万戸に算入して投馬国五万戸を入れないって言うのは
結論ありきの数字合わせのインチキであることの証明でしかない

畿内説だと
奴国二万戸  福岡平野 北部九州の中核
投馬国五万戸 出雲   中国地方の中核
邪馬台国七万戸大和   畿内地域の中核
で並列の大国として素直に理解できる

これだけで畿内説が正しいって分かるんだがね

648日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:27:36.06
>>919
>>魏略が「自帯方至女國萬二千餘里」<

>女王國が女国になるのは気にしないのに、<

魏略を引用した後代史家が、
「王」の文字を省略したか、転写ミスをした可能性ならある。

>萬二千里が萬二千餘里になるのは認めないって どんなダブスタだ?ww<

「余」という文字を加筆する事には、理由が全く存在しないし、あり得ない。

649日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:29:11.58
>>635
>関西全域+周辺地域でないと足らないな。

いや?そんなことないよ?
「大和+河内〜環大阪湾」の「畿内第V様式土器を共通に使う範囲」でいい

これで奴国二万戸の3.5倍の大国として十分だ

650日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:30:52.02
>>920
スレ主や類スレ主や「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らを見てると、
万世一系皇国史観の殺し合い戦争狂の・・・・宗教って怖いなと思う。
宗教は人をこんなに狂わせるんだな、と。

まあ、最初からスレ主らはまともな人じゃなかったのだろうけれどら。

651日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:35:29.18
>>644
>キナイコシの詭弁は聞き飽きた。
>何一つ真実がない。

「キナイコシ」さん、チーっすw
「キナイコシ」って言いだした時点で、まともに反論できませんて意味なんだよなw

こっちは漢籍古典の原文を典拠として示して、もっとも妥当な解釈を論拠として提示している
反論したかったら、同じレベルの具体的な根拠とともに具体的な反論をしないと無意味

いつも言ってるだろ?
反論したかったら「具体的な指摘」がいるってw

争いは同じレベルの間にしか存在しないって言うけど
九州説のレベルが低すぎて論争にならないんだよなww

652日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:36:57.69
北部九州にあったことが確実な不弥国からの道程を
「南に」水行二十日で投馬国、そこからさらに「南に」水行十日陸行一月、と「東→南」に、例外的に方角を書き換えることで、
道程(所要時間)については正しく、かつ見事に、歴代倭王権のあった北部九州の奴国同様、
新しく倭国の盟主となった邪馬台国が(北部九州同様、呉を背後からすぐに攻撃してくれる)「会稽の東」と書ける
つまり「邪馬台国=会稽の東」という結論ありきで不弥国〜大和までの道程を書こうとした時にのみ、まさに魏志倭人伝 のような記述になるの

653日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:38:09.97
>>922
>>けど、「類スレ主」の1尺=8寸だった、という説は、
前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定され、<

>短里もねー <

類スレ主は、本当に・・・・詐欺師なんだな。
周髀算経の一寸千里は、短里そのものだ。

>前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定されてるよ
六尺が一歩だから<

これも、類スレ主の嘘吐き騙しであり、×ね。
周髀算経に「1歩=6尺」で書かれた記載は存在しない。

654日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:41:07.04
>>646
>日本海側を遠回りして、投馬国(出雲)さらに鳥取県神谷青地池遺跡辺りまで水行して、

途中までは同意だけど、出雲の先の水行十日は丹波まで行くと思う
北部九州から出雲までの水行二十日と二対一くらいの距離感は当てにしていいと思うし
記紀に記された崇神天皇前後の丹波との通婚関係を見るに、上陸(陸行開始)地点は
丹波竹野付近が妥当だと思う

655日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:41:34.32
おーい>>248

>石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
>庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
>“大した違いではない”どころではない。

庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だって
どこの誰が言ってるの?

どこまでも逃亡中?

656日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:43:16.75
>>634
九州説は国名しか載ってない傍国三十ヶ国の戸数を
自由に創作するのが好きだよな

657日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:44:38.74
箸墓は、3世紀第4四半期、もしくは4世紀に入ってから、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)が卑弥呼の冢(直径150m円墳)を埋め立て、
その上に築いた前方後円墳(後円部直径160m)である。
現在の徳川大阪城の地下に豊臣時代の大坂城が埋まっているように。
前の権力者に失礼のないようにその王墓は破壊せず、密かに裏で祀り、表歴史からその存在を消す、というウルトラCを成し遂げた天皇家は、列島支配者に相応しい。

658日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:46:08.14
>>648
>魏略を引用した後代史家が、
>「王」の文字を省略したか、転写ミスをした可能性ならある。

>「余」という文字を加筆する事には、理由が全く存在しないし、あり得ない。

「余」という文字を加筆する事は、後代史家が文飾したか転写ミスした可能性があるなww
という以前に、淮南子成立から見れば、陳寿が「後代史家」だww

後代史家である陳寿が、淮南子から引用する際に
「余」という文字を加筆するという文飾をしたか転写ミスした可能性があるなww

659日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:46:39.79
>>648
自己解釈による書き換えなんじゃないの

660日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:47:10.74
>>654
弥生時代後期〜古墳時代前期の大船団の線刻板が出土した袴狭(はかざ)遺跡も、上陸地候補だぬ
http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000vyd.html

661日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:50:11.01
>>934
>筑紫は製塩遺跡、塩の道が少ない<

筑紫は、海が近いから、海水を熱したり蒸発させれば、無尽蔵に塩が取れる。
むしろ必要なのは、河川や湖沼の淡水。
人は、水がなければ生きていけない。

662日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:50:11.81
>>653
>周髀算経に「1歩=6尺」で書かれた記載は存在しない。

つ「以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正。
  則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一。
  以應周天三百六十五度四分度之一,審定分之,無令有纖微。
  分度以定,則正督經緯,而四分之一,合各九十一度十六分度之五,于是圓定而正。」

六尺=一步だよ

663日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:50:45.74
>>653
一寸千里は机上の数字
実測されたものなら当時の尺度だと一寸200里となる

664日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:51:57.78
弥生時代の水田遺跡

静岡県登呂遺跡   約70500u 弥生時代後期 1世紀
福岡県板付遺跡   約47500u 弥生時代早期
兵庫県玉津田中遺跡 約30000u 弥生時代中期
宮城県富沢遺跡   約40000u 弥生時代中期
岡山県百間川遺跡  約40000u 弥生時代後期末
奈良県中西遺跡   約20000u 弥生時代前期
滋賀県服部遺跡   約18700u 弥生時代前期

665日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:54:38.58
儒教の精神で嘘をつき続ける九州説

666日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:54:45.94
>>647
>奴国二万戸
>投馬国五万戸
>邪馬台国七万戸が3大国として並列に書いてあるのに、

嘘をつくな
投馬国と邪馬台国は並列だが、奴国は並列ではない

667日本@名無史さん2019/01/14(月) 13:57:11.58
>>664
本州はすべて倭種でしょ

668日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:00:02.33
>>660
久美浜湾も上陸地としてあると思うけれど、
京丹後市の市役所のある平地が当時の丹波の中心地だと思う
そうすると、離湖のある網野(網野銚子山古墳がある)か、
竹野川河口の竹野(神明山古墳がある)の方が候補地として妥当だと思う

開化妃に竹野姫があるのも竹野推しの理由

669日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:03:48.40
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

670日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:03:52.66
>>666
>嘘をつくな
>投馬国と邪馬台国は並列だが、奴国は並列ではない

並列ではない主張する根拠は?

具体的にどうぞ?

旅程の書き方は、二国分ずつセットっていうのは見れば分かるからそんなのは根拠にならないぞww

671日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:04:22.52
>>940
>じゃ魏略の著者が自己解釈で書き換えたんだな
淮南子が1万2千里で後漢書も1万2千里だから <

いや、
「萬二千何がし里」という数字が記録されていたものを、
「萬二千里」と簡略して書き換える後代史家がいても、
「萬二千里」と書かれていたものを、
「萬二千余里」と内容が変わってしまうような書き換える後代史家は、いないの。
だから、魏使らの記録に「萬二千何がし里」と書かれていて、
魏志や魏略は「萬二千余里」と書いたの。

672日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:07:26.82
>>941
>高校レベルの歴史をあまり勉強してない私大出身の理系は騙されやすくて大変だ <

谷本さんは、京大出の計量史学者だった筈だよ。

673日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:08:03.14
>>671
>「萬二千里」と書かれていたものを、
>「萬二千余里」と内容が変わってしまうような書き換える後代史家は、いないの。

いないと断定する理由は?

???

674日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:09:42.06
そりゃ谷本さんは騙す方だからな

675日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:11:28.15
>>667
>本州はすべて倭種でしょ

対馬も壱岐も九州も「皆」倭種だよ

676日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:14:51.87
>>542
結局「萬二千余里」は
淮南子を転写した訳でもなく、長里でもなかったし
魏志や魏略は、魏使らの詳しい桁崇記録を「余」を付けた説明に書き換え、
近似的に説明してるという事になるね。

677日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:17:48.83
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭

要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない

678日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:22:19.17
>>670
>旅程の書き方は、二国分ずつセットっていうのは見れば分かるからそんなのは根拠にならないぞww

は?
意味不明

679日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:30:46.01
>>946
>ダメだ そもそも九州倭国なんて無い <

ダメだ。
記紀の記録は、九州倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作している半分偽書であり、
証拠にならない。
また、大和日本国は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
隋文帝の開皇末に初めて「日本国」を名乗って拒絶され、
唐の武徳中になってようやく日本国名を承認して貰った後進國だ。

>さすがに奈良時代にもなれば伝世文献だけでなく木簡などの発掘文献も出てくるのを無視してる
書き分けなんて主張は九州説の恣意的な解釈の産物でしかない<

薜原朝常嗣が、唐会要の倭国伝に名前が載っている、という事が史料事実だ。
どういう事情で倭国使を名乗ったのか?は不明だ。

680日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:34:56.53
>>679
>薜原朝常嗣が、唐会要の倭国伝に名前が載っている、という事が史料事実だ。
>どういう事情で倭国使を名乗ったのか?は不明だ。

その「史料事実」から一直線に「倭国=日本」という結論が出てるわけですが

681日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:40:47.13
>>947
古田さんが亡くなられても、
いくら天誅らのキョクウの大和説者や台湾系出版社が、捏造魏志などをPCで宣伝しても、
張元済らの校勘本が残っている限り、
九州倭国の存在は否定出来るものではない

682日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:49:02.55
>>671
>>676
それっぽく見せるために魏の時代に
淮南子と後漢書の数値に付け足されたんだよ

683日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:54:57.79
漢の時代は概念的に一万二千里だったが、魏の時代ではもっと細かい情報が入って来て、実は一万五百里(伊都国まで)や一万千里(奴国まで)だったわけだ。
奴国および伊都国を含む広域である筑紫が邪馬台国なら、残りの千里は意味をなさないしね。

684日本@名無史さん2019/01/14(月) 14:57:19.38
九州倭国なんてのがあって大和朝廷が併合したなら記録残るわな
その立役者だったら政権内の地位も強力になるし

685畿内説の悪あがき2019/01/14(月) 14:57:48.27
テンプレ
>行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。

と自分たちは逃げておいて、謎を解こうとする他説にはイチャモンをつけるしかない大馬鹿モン
イチャモンつける暇があったら、纒向から大集落跡・環濠・楼観を見つけて来いよ。

686日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:00:34.42
ここが九州説スレなら通用するかもね

687日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:02:56.61
>>953
>飛鳥時代からも発掘されてるじゃん
遣隋使遣唐使による律令制の導入でこの時期に官僚機構が発達したからでしょ<

大和日本国が、日本国を名乗って中国に初めて遣使したのは、ようやく開皇末の事。
そして、難波宮などは、九州倭国の分都であり、斉明は、九州倭国の女王的な地位にあった。

>九州倭国なんて国家機構の痕跡すら無い<

当初は吉武高木であったが、卑弥呼の頃は、何本もの大道や安徳台がある弥生銀座で、
317年頃以後は八女〜久留米に遷宮し、
タリシホコの頃に久留米の「古宮遺跡」にいて、
720年頃に太宰府に遷都(倭京)した。

688日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:07:04.26
>>683
漢の時代の概念的空想的数字だった1万2千里が
魏の時代に短里が使われ出してから測ったらほぼピタリ一致したというのは
少し出来過ぎじゃないか

689日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:07:28.61
>>954
>九州は3世紀前半には畿内に服属してたのだろうな<

大和は、開皇末にようやく九州倭国からの独立を決め、
武徳中に唐に「日本國」呼称を認められて独立国になり、
白村江の後で、九州倭国を併合吸収継承した。

690日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:10:31.78
九州の前方後円墳の分布状況から見て、九州倭国など存在しないってことは誰にでもわかりそうなもんだが…

691日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:12:26.50
>>95
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説信者とは、
記紀や、学会教育界の万世一系皇国史観の人種差別的殺し合い戦争狂の大和説学者らの、
偽史を信仰する人々なのだな。

692日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:15:38.84
>>684
>その立役者だったら政権内の地位も強力になるし

藤原氏の祖である中臣鎌足のことかね?

693日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:16:24.92
>>688
漢の時代も東夷では短里だったということだよ。

694日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:17:41.55
>>690

前方後円墳が邪馬台国と何の関係があるのか。
そもそも邪馬台国は弥生時代の話だし。

695日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:18:07.34
>>693
東夷は里を知らないで日数で距離を表すんだぞ

696日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:18:38.95
被葬者が継体天皇に謀反を起こした筑紫君磐井とほぼ確実に特定できる八女市の岩戸山古墳は前方後円墳だよw
九州倭国なんて、古田がでっち上げたパラレルストーリーにすぎないw
さらば宇宙戦艦ヤマト〜愛の戦士たち(劇場版)と宇宙戦艦ヤマト2(テレビ版)みたいなもん

697日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:19:09.86
>>961
>邪馬台国の位置であるとされる会稽東治の東は台湾沖縄あたり <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「会稽東治の東」は、九州であり、台湾沖縄ではない。

>帯方より南1万2千里の地点はそこだと言っているから
それで換算すると魏志倭人伝の里は1里140m <

循環論法。

>魏使が正確に測ったんだとしても短里じゃないね <

その循環論法でも、長里ではないね。
なんせ長里では赤道付近にまで行ってしまうんだから。

698日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:19:43.30
>>695
それは倭人の話。
倭に来ていた楽浪帯方の人間は里を使っていただろう。

699日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:21:20.64

700日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:21:22.33
>>696
筑紫の君磐井と卑弥呼では王家が違うんだよ。
九州説を理解せずに批判しても筋違いの批判にしかならないから、痛くもかゆくもない。

701日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:21:43.70
>>964
全く合わないのだから、長里は無い、と考えるのが合理的な思考。

702日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:25:21.30
このように
何も論証しないのが九州説

703日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:25:32.11
>>967
筑紫倭国の弥生銀座の否定とか、「南≠東」とか、長里なんかの、
現実と乖離した虚説が前提の時点で
大和説はダメでしょ

704日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:26:28.82
>>698
それは漢の里になるな
帯方楽浪は238年まで元漢の役人が支配していたのだから

705日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:32:04.53
>>697
>その循環論法でも、長里ではないね。

自分の使った循環論法を指摘されて
鸚鵡返しに使った「循環論法」と言う単語を
意味も知らないまま乱発するようになったようだが
おのが無学を晒して恥をかくだけだよ


>なんせ長里では赤道付近にまで行ってしまうんだから。

理由も言わずにいくいく言っても反論にならない
だって、論になってないもの

706日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:33:09.49
>>697
会稽東治は現在の福建省福州市
その東は沖縄や台湾の辺り
帯方より南1万2千里はその地点と書かれているから
それで換算すると1里140m
当時の魏里1里約430mとは明らかに齟齬があるので
1万2千里は実測された数値ではない
全て現在でも確かめられる史料に基づいてるから循環論法じゃないね

707日本@名無史さん2019/01/14(月) 15:38:48.77
>>993
>>倭國伝と日本国伝とを、全く別の場所に記載して、別の国であった事を主張しているし、<

>同じ国で国号が異なる時期を別立てしているだけ<

ダメ。則天の前も後も、書き分けられている。

>>列島からの遣使に関しても、
則天以前でも以後でも、きちんと、人物を区別して書き分けているから、<

>倭国伝の人物も日本国伝の人物も全員、日本書紀や続日本紀で確認できる大和朝廷の人物だよ
九州王朝の人なんて一人もいないww <

これも、×。 書紀も続日本紀も、
倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作しているから、
根拠に使えない。

708日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:05:23.35
このように
纒向に大州ら鵜跡が無おのを論証しないのが畿内説
「大集落群」「大集落群」 「王都」「王都」とお経を唱えるだけ

709日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:08:59.67
>>664
板付遺跡とかは街中だから極一部しか発掘されてないよ。

710日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:09:15.60
纒向や箸墓を3世紀と決めつけるのは
桃の種と、土器の付着した炭化物の炭素年代法だけ?

3世紀に日本全国どこでも人が住んでたから、纒向に限った事じゃ無いけどな・・
纒向だけしか人がいないならともかく

711日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:13:25.06
>>664
佐賀県吉野ケ里遺跡約1,170,000u
静岡県登呂遺跡の17倍だなw

712日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:17:45.63
>>710
纏向遺跡や箸墓の時期を4世紀からとするのは、モグリだけだろう。
3世紀と判断する主力は、土器だ。
喪もC14などは、その土器編年の補完的な年代観。

713日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:18:00.14
>>707
>ダメ。則天の前も後も、書き分けられている。

書き分けられているって証拠は?
ひとことも理由言わずにダメダメ言っててもダメでしょ

714日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:22:03.93
>>706
誰かがすでに念入りに述べたように、1万2千余里は(遠いところ)の代名詞的里数。
その代名詞を地図距離で換算しても、何の意味もないのになあ〜。
腹減った、飯食ぉ〜。

715日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:26:06.17
>>664

>福岡県板付遺跡   約47500u 弥生時代早期

板付遺跡で見つかった水田は、
板付T式土器期が468uと268u
夜臼式土器期が500u

716日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:28:01.91
>>711

佐賀県吉野ケ里遺跡の水田遺跡は 0u

717日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:32:41.05
>>695
倭人が教えた日数距離を中国人が里数に換算して理解できていたということは、中国人にも水行日数距離の慣行があり、それを里数に換算して理解していたということ。

718日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:33:23.82
>>715
周囲は住宅密集地で発掘されてないの知らないの?
>>716
吉野ケ里遺跡の周囲には吉野ケ里遺跡に住む人々を養う水田地帯が広がっていたんだよ
吉野ケ里遺跡の17分の1しかない水田で人なんか殆ど養えないよwww

719日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:33:39.88
あのスレ読んでみた?

>そういえば、
>鎌田先生や細野晴臣さん主催の『東京サルタヒコ』っていう音楽イベントがあったね。


確実に繋がっているでしょ

『細野晴臣 広瀬座』

720日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:37:19.06
>>717
>倭人が教えた日数距離を中国人が里数に換算して理解できていたということは

いつ、どこでか?
あんたの脳内でか?

721日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:37:54.92
>>689
北部九州の博多が大和に帰服したのは、3世紀中頃。

722日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:38:29.63
>>718

発掘されてない水田47500uというのは誰の話?

「現在、吉野ヶ里公園の中に復元されている水田は、
その下から水田の跡が見つかったわけではなく、
他所の遺跡から発見されている水田の跡を参考に復元しています。
つまり、吉野ヶ里遺跡からは水田と断定できる遺構は見つかっていないわけです。」 吉野ヶ里歴史公園

723日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:42:40.47
>>720
脊髄反応するんじゃない。
一拍おいてから、反応せい。
倭人伝が、女王国の東千余里でまた倭種の国がある、と書いとるだろう。
倭人が水行日数教えたら、中国人がそれを里数に換算して、「あっ、千余里ね」と理解したということじゃ。

724日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:43:42.32
吉野ヶ里の環壕集落にいたのは王族や官僚、兵士だろう。
彼らは直接食料を生産する人間じゃないので
彼らを食わせるための生産人口が
吉野ケ里の周囲にいるわけだ。

それは非生産人口の最低10倍。
戦国時代の軍事動員目安は人口の2.5%だから
それらを食わせる生産人口は40倍くらいになるね。

725日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:44:13.03
吉野ケ里遺跡は田んぼの中の丘を工業団地にしようとして見つかる
丘が全体が遺跡だったんだよ、丘の周りには水田が今もあるの。

726日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:45:11.21
>>68
>>日本国は倭国の別種である。<

>九州説は旧唐書のこの記述にすがりついてるけど、
「別種」っていうのはもともと「同じものの別の呼び方」って意味だぞ
根底から的外れ<

いや、 「同じものの別の呼び方」なら、「異称」などという呼び方だ。
また、別れていないのなら「同種」ともいう。
別れて独立的になった場合が「別種」だ。

727日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:46:43.27

728日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:51:45.24
>>725

>水田が今もあるの。

ガジンw

729日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:54:44.40
>>716
吉野ケ里は都市だから

730日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:55:09.93
>>342
>117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間 というところまでしか言えない
『n=3の試料で統計学的に言えることなんてない』
117はこの範囲の中央値というだけで
-225メートルから459メートルの間の「どこに真の値があるのか」ということには
何の情報もない <

元々、魏志の行程に書かれた里数記載の、一部を取り出して、
その出発地点や到着地点を誤魔化し解釈して、
里数記載として安定した長距離里数記載を恣意的に抹殺したデータでの計算であるから、
詐術的な計算であり、
「類スレ主」は、ペテン師。

731日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:56:07.40
>>684
纏向政権は、北部九州の倭國を併合した。
そして、その事実をタブー化した。
で、おおぴらには語られなかった。
つまり、緘口令を敷いた。
なぜ、タブーにしたか。
纏向政権の命綱は魏や朝鮮半島と交易して貴重財を独占入手することだったので、魏の冊封国となった九州の倭國を潰して交易を独占したのが纏向政権だったことを知られたくなかった。
知られたら、交易をストップされる恐れがあった。
これが3世紀後半のリアルな歴史なのだ。

732日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:56:46.52
会稽東治は現在の福建省福州市
その東は沖縄や台湾の辺り
帯方より南1万2千里はその地点と書かれているから
それで換算すると1里140m
当時の魏里1里約430mとは明らかに齟齬があるので
短里が用いられていたことは明らかだ

733日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:57:08.22
>>712
どこから来た土器を指してますか?
その地にも3世紀に人が住んでたのでしょう

734日本@名無史さん2019/01/14(月) 16:58:13.30
>>74
肝心の根拠を提示しないって、という大和説のバカは、
「南→東」などに関する「肝心の証拠を提示しない」自分の事を言ってるのかね。

735日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:00:16.95
纒向編年
日本の奈良県桜井市に所在する纒向遺跡において、発掘調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所石野博信と、
豊岡卓之による纒向遺跡出土の弥生土器・土師器を分類・整理して得られた編年である。
1類から5類に区分されるが、暦年代については必ずしも考古学会で定説とは認められていない。

736日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:00:31.80
>>75
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの大和説者は、
連日オウム返しをされて、バカを証明しているんだよ。

737日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:02:01.75
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

738纏向編年は定説では無い2019/01/14(月) 17:02:36.38
纏向編年
布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している。
朝鮮の三国時代の陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったもので、慶尚南北道、新羅・加耶地域のものが日本列島に流入した。
地域性が発現する前のほぼ4世紀の慶尚南北道の「古式陶質土器」は馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、馬韓・百済の土器と区別するために,
武末純一がこれを古式新羅加耶土器と呼ぶことを提唱した。
その後5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、新羅土器と加耶土器が分立するようになる。
従って、古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のものを指すので、石野博信らの布留0式土器が3世紀後半であるとの主張とは合わない。

739日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:04:21.38
>>726
(別種)とは書いてないだろ。
倭人伝に書いてあるのは(倭種)だ、(倭種)。
これは、九州倭人と同種の人民たちだ、という意味。
ちゃんと把握してから、議論せい。

740日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:04:52.73
>>78
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、何で年代を偽るの??。
説ではなく、万世一系皇国史観の人種差別的殺し合い戦争の、
凶悪な宗教の呪詛の類だから?。

741日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:06:00.26
>>79
「南≠東」などに拠って×。

742日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:06:27.19
>>729

都市の周辺には都市の人口を支える農業地域が付随する。
常識だろ。
纒向遺跡にはそのような分化がなく、魏志倭人伝にあるような1000人の奴婢が働いた痕跡も、彼らを食わせる農地も炊事場も厠も、彼らを守っていたとされる楼閣も柵も見つかっていない。

743日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:08:02.73
>>723
それが脳内

744日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:08:28.51
邪馬台国畿内説を宣伝する3寸男が、韓国人だという真実を発表するときには、人種差別にならないように、注意すれば良いな。。。

745日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:09:10.03
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

746日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:09:17.45
>>738
この布留0式土器が4世紀のものだという説が定説となっていないから、現在も布留0式土器出土の箸墓が3世紀後半として位置づけられているわけ。

747日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:10:30.89
>>742
>纒向遺跡にはそのような分化がなく

ないって証拠は?
ただ言い張るだけ?


これだから九州説はww

748日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:11:04.58
>>743
それが脳内、といえるお主が脳内なんだよ。

749日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:11:30.30
>>738

>>38

◆FAQ 42

750日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:12:57.82
>>742

吉野ヶ里周辺のどこで水田跡が見つかってる?

751日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:13:53.66
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

752日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:14:36.47
>>738
それ、Wikipediaのインチキ記事だろ
元のまともな記載を九州説の荒らしがデタラメに書き換えてるやつだぞ
編集履歴見ると丸わかり

753日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:15:00.63
>>733
なに言ってるの。
纏向遺跡から出た庄内式土器。
人は住んどるかいな。
纏向は、人が住んでいない祭祀施設。

754日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:15:27.07
>>750
周辺は水田として現在も使われ続けているから遺跡はないの
キミ馬鹿?

755日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:18:57.98
>>84
>『近代以前の日本の人口統計』(Wikipedia)−1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年)−
によれば、紀元200年の日本人口は594,000人。
うち、北九州と南九州の合計が105,100人で、北海道を除く本州・四国が489,800人。
四国を除く本州だと459,700人。<

こういうような、
「南→東」などの嘘つき騙しの通説大和説学者に支配された筈の学者の人口推定など、
始めから、何の信頼性もない。
信用して欲しかったら、まずその鬼頭が「南≠東」や「大和説者か?」などを確認してからにする事だな。

756日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:19:06.36
>>754

じゃ水田だった根拠はないんだな

757日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:20:48.01
>>756
根拠なし

758日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:22:04.27
それにしても・・・、何の話なんだろう

りゅーま、りょーま?

そのような話もしていたり

759日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:22:52.37
>>85
>ちなみに『陳寿90度回転説』によれば、
『女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種』
これは本州に対して『東→90度回転で北』にある宗谷海峡を渡った先の、北海道アイヌ。
『又有侏儒國在其南 人長三四尺』
これは90度回転で北海道の東、アイヌが『コロポックル』と呼んだ南千島の小柄な先住民。
に比定される。<

「南≠東」などに拠って、×。

760日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:23:09.12
>>748が幼稚園児みたいなオウム返ししてて藁束ー
さすが九州説じーさんだわ
幼児化しとる

761日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:27:59.59
>>248 のガセネタ爺さん
どこに逃げたの?

>石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
>庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
>“大した違いではない”どころではない。

庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だって
どこの誰が言ってるの?

762日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:48:07.77
>>87
>そうなんだよな
末盧国、伊都国、奴国まではほぼ正しいが、不彌國は定説がないからな
そうなると試料は末盧国ー伊都国間の一里=200メートルと
伊都国ー奴国間の一里=50メートルのn=2の試料しかないことになる<

「末盧国ー伊都国間の一里=200メートル」も「伊都国ー奴国間の一里=50メートル」も、
出発地点と目的國や到着点を、史料記載実態にちっとも合わず、
おそらくインチキ比定であり、
それに、その他の里記載の抹殺も、おそらくインチキ騙し。

763日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:52:23.97
>>756
都市の周辺には都市の人口を支える農業地域が付随する。
水田なしで都市の人は何を食べていたと?
大きな遺跡が有れば当然周辺には広い耕地があったんだよ
水田が遺跡になるには土砂で埋もれるとかしないと
そのまま使い続けたら遺跡にはならないよ。

764日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:52:54.45
>>762
つまり短里説はサギ

765日本@名無史さん2019/01/14(月) 17:58:38.00
>>678
>は?
>意味不明

もぐりがエラそうにしてんじゃねーよw

魏志倭人伝の旅程部分だけを抜き出すと
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

 始度一海 千餘里、     至對馬國。
又南渡一海 千餘里、名曰瀚海、至一大國。

又渡一海 千餘里、至末盧國。
東南陸行 五百里、到伊都國。

東南 至奴國  百里。
東行 至不彌國 百里。

南 至投馬國、       水行二十日。
南 至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。

明確に二国分ずつで、書き方を揃えてるだろ
そして二国分ごとに、書き方を変えてる

有名な話だぞ
知らないのはもぐりか情弱ww

766日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:01:11.00
>>88
>国境概念はないと何度言えばww山越え、峠越えの区間は人里の外であり、どこの国でもない<

万を超えるような戸数の国であれば、低い峠越えに広がっている事など、幾らでも有り得る。

>国に着いた所までだと強弁したところで、奴国についたところは
日向峠を下りきって人里についたところにしかならない <

古代においての部族國間は、本来は過疎であり、通常は境界を接せず、
従って、居住外縁部間の距離記載になる。

「南→東」などの嘘つき騙しのような、嘘にウソを重ねる大和説が大嫌いだし軽蔑してる
同じ解説を何度聞かされても、無視して意味のない数字合わせを書き続ける辺りが
大和説の人材不足と惨状を明示している
大和説にはまともな人が一人もいない。

767日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:03:07.75
>>692
>藤原氏の祖である中臣鎌足のことかね?

中臣鎌足の九州征伐の逸話なんてあったっけ?(すっとぼけ)ww
ふざけたこと言ってんじゃねーよw

中臣鎌足は九州とは無縁だろw

768日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:03:17.03
本当に・・・家は芸能人とか、
そういう家ではないんだけど、何か知ってる人がいるのかな?

例えば『島津 菅野』

あの島津氏の遠い親戚?幼稚園も同じだったしな・・・、
『菅野 桜本 ロケ』家の近所に撮影に来たり。

何やら宗?とか、そういう関係?

769日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:04:01.93
>>766
でも実家には、毎日のように嘘を重ねてるのは貴方では?

770日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:05:33.59
>>694
>前方後円墳が邪馬台国と何の関係があるのか。
>そもそも邪馬台国は弥生時代の話だし。

それがな、九州説によると、古墳時代も九州倭国が存続していて
倭国を代表していたことになっているんだ

その倭国の代表政権たる九州倭国の古墳時代の王墓はどこにあるんでしょうね?って話

九州なんて、弥生終末期からずっと倭国辺境の一地方だよw

771日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:08:03.40
『旧広瀬座』(『福島 民家園』)
何関係のものなのか?なんだよな・・・、

『阿部 創価』?
それとも他の関係のもの?

772日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:08:47.94
>>700
>筑紫の君磐井と卑弥呼では王家が違うんだよ。
>九州説を理解せずに批判しても筋違いの批判にしかならないから、痛くもかゆくもない。

王家が違ったところで、九州倭国の王家は存続してるんだろ?
そして、九州でも古墳時代はずっと、各地域の盟主墓は前方後円墳だ
これが、考古学的「事実」

で、その存続していた九州倭国の王家の墓は、どこにあるんだい?ww
卑弥呼系でも、磐井系でもどっちでもいいけどさww

>>700は詭弁にもならない、バカ丸出しww

773日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:10:09.56
>>763

耕地はあったんだろうが水田とは限らないだろ
日本には拡がらない甕棺墓制なのだから
日本より朝鮮半島の遺跡、出土遺物と比較して想定しなければならない

774日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:11:09.89
>>707
>ダメ。則天の前も後も、書き分けられている。

それでいいんだって!
則天時に、倭国の使いが日本国への国号変更を伝えたって、唐会要に書いてあるんだから
そのままじゃないかww

775日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:11:43.37
福島県信夫郡?

家も、むかーし、
その辺りに住んでいたんだよと言っているし

伊達郡川俣町・・・?

776日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:12:38.14
>>711
>佐賀県吉野ケ里遺跡約1,170,000u
>静岡県登呂遺跡の17倍だなw

登呂遺跡は、水田遺跡
吉野ヶ里には水田跡がないっていう話題なのに何を言ってるんだ?ww

バカだろ?ww

777日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:16:27.99
>>717
>倭人が教えた日数距離を中国人が里数に換算して理解できていたということは、中国人にも水行日数距離の慣行があり、それを里数に換算して理解していたということ。

それが大体、1日=30里とされているね
で、北部九州からの水行二十日+水行十日陸行一月で計60日

30×60=1800で、九州までの万里と合わせて、萬二千里になる訳だ
まあ、この辺は数合わせでしかないけれど、陳寿的には納得のいく数値なのだろう

それが、「計其道里」當在會稽東冶之東というのの内容だろうな

778日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:18:22.51
緘口令って対中国だけで良いから九州征伐の国内の大手柄を無くす事は出来ないな
成果を上げた奴を粗略に扱ったら政権がもたんだろ

779日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:27:14.04
>>723
>倭人が水行日数教えたら、中国人がそれを里数に換算して、「あっ、千余里ね」と理解したということじゃ。

渡海と水行は、きちんと区別されている
混同しているうちはまだまだだな

むしろ脊髄反射は>>723の方だww

780日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:30:29.03
>>721
>北部九州の博多が大和に帰服したのは、3世紀中頃。

帰服というか、協力関係であり、祭祀連合だろうね
奴国、投馬国、邪馬台国(+吉備、日向)の協力関係が
倭国の全体構造を規定していたのだろう

781日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:35:13.03
>>730
>元々、魏志の行程に書かれた里数記載の、一部を取り出して、
>その出発地点や到着地点を誤魔化し解釈して、
>里数記載として安定した長距離里数記載を恣意的に抹殺したデータでの計算であるから、
>詐術的な計算であり、
>「類スレ主」は、ペテン師。

そう思うのなら、ザラコクなりの比定地とその間の距離を明確に示して、
詐欺的ではない正しい統計処理をして、推定値(信頼区間)を示せばいい

そして、双方の計算数値が出揃ったら、初めて同じレベルで議論ができる
論争は「同じレベルの間」でしか、できないんだよ

現状、九州説のレベルが低すぎて論争にならない
「お話にならない」ってやつだww

九州説側の、推定値が出てくるまでは、
117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ

反論は、「具体的な数値と計算」で示してくれ
それができなければ「ごまめの歯軋り」以下だ

782日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:35:43.77
家は『松傾』の直系なのかな?

783日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:38:39.44
>>731
>纏向政権は、北部九州の倭國を併合した。
>そして、その事実をタブー化した。

これが既に論理矛盾してるんだよなw
どこの歴史でも、外部勢力を倒したという征服譚は、誇るべきものであって
隠したりタブー化したりするものではない

記紀も四道将軍、景行天皇、ヤマトタケル、仲哀・神功皇后の征服譚を
誇らしげに書いてるじゃないか

端から、ご都合主義の言い訳でしかないんだよ
大和が小国で九州の邪馬台国を倒したなんていうのはww

784日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:45:57.62
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

785日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:49:36.01
>>766
>「南→東」などの嘘つき騙しのような、嘘にウソを重ねる大和説が大嫌いだし軽蔑してる

ウソだウソだってzarakokuが言い張ってるだけで、なんの証拠も無いんだろ?
それに実際には嘘にウソを重ねてるのはzarakokuでしょ
いくら証拠を突き付けられても臨海郡が江蘇省とか平然とウソ言い張ってるし

まともな人はきっとそんなzarakokuが大嫌いだし軽蔑してる

786日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:50:43.33
ここからは九州説による罵りタイムに入ります

787日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:55:20.49
>>749
テンプレ読んだけど
>このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 <

学会の定説では無いし 畿内説内での通説としか言いようがない
また、今日か強化の過程は?
テンプレも所かまわずの貼り付けや引用だけじゃ支離滅裂となるよ

788日本@名無史さん2019/01/14(月) 18:57:23.02
キュウリの葉、葱の華・・・・?

河童の三平、げげげ・・・の作者も生まれていない頃の写真だと言っていたり、
それにしても、なぜ知っている人達がいるんだろう?

789日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:00:03.74
>>786=>>1
24時間張り付いてるのもよいが
ネット情報だけでは乗り遅れる
だから、過去の畿内説の話しかできない
今は畿内説の学者さえ纒向から距離を置いてる現実を知らないの

790日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:03:35.11
>>789

ネット情報だけの全一病キウス

791スレ主さんへ2019/01/14(月) 19:10:33.79
畿内の3世紀ごろの互助組織の歴史はわかったよ 各地域歴史はあるから



 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

792日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:11:01.68
『分福茶釜 天津』

河童の三平?同じようなコンセプトだしな・・・w
どういう事なんだろう

793日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:11:20.63
箸墓の被葬者は、わざわざ吉備で焼い特殊器台と特殊壺が大和まで運ばれ、後円部に並べられたことから、吉備の首長らしい。

https://mainichi.jp/articles/20180430/ddn/041/040/004000c
定型化した最古の大型前方後円墳で卑弥呼の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、3世紀中ごろ〜後半)の後円部から出土した葬送儀礼用の土器「特殊器台」と「特殊壺(つぼ)」が、
岡山・吉備地方から完成品として持ち込まれた可能性が高いことが、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)の研究者の分析で分かった。土器表面の土と岡山県総社市周辺の土の特徴が酷似するという。
葬送儀礼に特殊器台・壺を用いる吉備地方の大きな勢力が、箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことを示している。

ということは、もし卑弥呼の冢なら、卑弥呼は吉備の女王だったのか?
もし、台与の死後、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷・天皇家によって、卑弥呼の冢の真上に築かれた>>364なら、天皇家の出自は吉備王だったことになる。

794日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:16:15.57
吉備の土器は出雲の西谷にも運ばれたからな

795日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:16:27.43
>>91
>九州説は比定地が皆違う<

九州説は、個人の自由で史料事実からの帰納的推論をしているから、「大同小異」。
大和説は、「南→東」な度の嘘つき騙しの大和説学者に
支配され隷従しているだけだから、全員×。

796スレ主さんへ2019/01/14(月) 19:16:28.75
後ね
畿内説はどちらを採用してるのかな?
「當在會稽東治之東」
倭人伝・・・「治」
後漢書・・・「冶」

他説攻撃のため使い分けていないですか?

九州説は倭人伝に基き「治」で統一されてます

797日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:18:10.57
天津神・国津神?

どういう事なんだろう、誰にもわからない?

798日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:18:27.64
>>793
>天皇家の出自は吉備王だったことになる。

天皇家の出自は、践祚大嘗祭で最重要の麁布を調進する、倭国(阿波)なんだよ。  @阿波

799日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:20:42.40
>>94
>可耕地に乏しい九州は小国家が分立して当時から争いの絶えない修羅の国だったそうだから
奈良の大国である邪馬台国の傘下に入って調停してもらったのだろうな <

邪馬台国なんて存在しないし、
大和は、九州倭国の別種分家の旧小国であったんだから、×。

800日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:20:48.32
>>794
>吉備の土器は出雲の西谷にも運ばれたからな

そりゃ、「忌部はん」 同志なんだから。  @阿波

801日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:22:08.88
>>790
あんたが有名な嘘つきオクムラでしょ

それで、どのように最近「通説が強化された」の

802日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:23:11.31
>>787
読んだんなら
どこが支離滅裂なんだか
具体的に言ってもらおうか

803日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:24:39.11
>>801

オクムラって誰だよ?w

804日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:26:53.69
>>801
〇オクヤマ
✖オクムラ
橿考の奥山誠義に気を使ってるようだが別人

805日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:26:59.60
>>796
後漢書のほう
現在見れる魏志倭人伝は12世紀の復刻で誤字が多い

806日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:29:50.42
>>776
都市部だけで水田の17倍の面積があったんだよ
吉野ケ里遺跡の17分の1の水田で何人養えるんだw
自分のバガさに気付かないの?

807日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:30:59.20
>>803
オクムラでなくオクヤマ=キナイコシ=>>1=スレ主

昔ね
スレ主氏が
#okuyamaのトリ解析されてしまい 冷や汗かいたのだよ
名無しでも特定可能なのにネ

808日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:31:51.27
>>756
じゃあ吉野ヶ里の住民は何を食べていたんだよ。
バカだろ。
今も昔もまわりは田んぼだよ。

809日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:32:27.12
吉野ケ里の水田跡は0u

810日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:33:24.10
>>805
後漢書は現物残っているのですか?

811日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:33:55.91
>>793
逆に考えると。天皇家が吉備の王じゃなかったら、
なぜ、飛鳥時代まで古墳時代300年間もの長きに渡り、箸墓を嚆矢とする前方後円墳で各地の王を従え、序列化していった理由が判らんだろ。
天皇家の出自は箸墓に葬られた吉備王でないと、他人の褌で相撲を取ってるようなもんで、論理的におかしい。
では各地の教育委員会がめぼしい場所は皆掘り尽しているのに未だに見つからない卑弥呼の冢がどこにあるのか?
現在立ち入れない場所、そして立ち入ったとしても、その存在を現在の構築物を破壊しない限り確認できない場所、つまり箸墓の真下にタイムカプセルのように埋まっているとしか考えられない。
まさに映画「ナショナルト・レジャー」の世界w

812日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:35:53.58
>>810
版が複数あって比較も可能

813日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:37:45.63
畿内説では曖昧ではないのかな
●女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る
 皆、倭種といえども女王に属さず

814日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:37:52.03
トリなんか普通適当に忘れない程度の語をつけるよ

815日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:38:05.89
117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ
短里があったことは確実だ

816日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:39:15.27
後漢書の東冶は実際に地名あるからな

817日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:40:21.26
>>812
もう少し詳細に語ってくれませんか

818日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:41:22.82
>>795
>九州説は、個人の自由で史料事実からの帰納的推論をしているから、「大同小異」。

機能的に推論して、一意解が得られないなら、それは帰納的推論ではないww
個人の自由で比定地が決まらないならそれはデタラメってことだよ

九州説の実態はそんなもんだww

819日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:41:42.98
>>783
>どこの歴史でも、外部勢力を倒したという征服譚は、誇るべきものであって

外部勢力ではなく、倭国内の政権交替であったから、裏切りと陰謀の経過をそのまま書くわけにはいかなかった。

820日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:43:28.93
サルタとか、天津・国津の話があるでしょ、
後の〜と言ってる人がいたり・・・、明治頃に〜とか

821日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:43:30.57
>>806
吉野ヶ里では水田跡は発掘されていない

これが事実だよww

822日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:43:59.78
>>793
>箸墓の被葬者は、わざわざ吉備で焼い特殊器台と特殊壺が大和まで運ばれ、後円部に並べられたことから、吉備の首長らしい。

吉備高島宮から大和に入った人物がいたような気がするんですけどねえ。

823日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:46:01.21
>>816
あのーー

東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ
さらに、一寸千里の法で測った帯方郡からの距離は17500里になり、12000里を遙かに超えて、意味をなさないことから、「会稽東冶」ではない
会稽東治を浙江省紹興市とすると、帯方郡はそこから12000里北になり、黄海北道周辺が正しいことを示しているソウルや広州はあてはまらない

824日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:46:17.70
謎の神話があるでしょ、
左目から生まれたという話になっていたり

825日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:49:30.85
>>821
吉野ケ里は農村じゃ無いからね

826日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:50:43.73
>>815
>短里があったことは確実だ

統計学のとの字も分からないやつが何を言ってもムダ

「117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
 というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ 」

これは認めるんだな?ww

95%信頼区間の中のどこに真の値があるか、という点に統計は何も示さない
当然、一里=435メートルもその信頼区間の中である以上、真の値である可能性は否定できない

ただまあ、-225メートルから459メートルという信頼区間から何かが言えると思う方がどうかしてる
というのが統計が分かっている人の通常の解釈だ

827日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:51:22.38
>>821
頭大丈夫?

828日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:52:22.70
>>823

>一寸千里の法で測った

地球表面の実際の鉛直方向は傾斜しているから
棒の影で測ったら正確な距離は出ない

829日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:54:27.55
>>104
「南→東」などの嘘つき騙しを敢えてする大和説者らは、
万世一系皇国史観で人種差別的殺し合い戦争という妄想を連呼する宗教でもある。

830日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:54:51.36
>>817
後漢書にはなになに本とか複数の書写バージョンがあって
お互い書いてる事の比較が出来るから誤字などはわかりやすい

例えば後漢書で邪馬台国は邪摩惟国、ヤマユイ国の事であると
書かれた版が一番有名だけど
版によってはそれが邪摩推国や邪摩堆国となっているものがある

北史や隋書では邪馬台国を邪摩堆と呼んでいるので
後漢書にあるヤマユイ国は実は元々は邪摩堆国、
ヤマト国だったのではないかと考える事ができる

831日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:56:06.27
『羽衣伝説』?

ほとんど同じでしょ?
浦島、小手子・・・というのも

832日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:57:35.29
>>793
>箸墓の被葬者は、わざわざ吉備で焼い特殊器台と特殊壺が大和まで運ばれ、後円部に並べられたことから、吉備の首長らしい。

筑紫から吉備高島宮を経て大和に入った人物がいたような気がするんですけどねえ。男性でしたけど。

833日本@名無史さん2019/01/14(月) 19:58:52.69
>>819
>裏切りと陰謀の経過をそのまま書くわけにはいかなかった。

ヤマトタケルのイズモタケル征伐は、もう目も当てられないようなだまし討ちだけれど
誇らしげに書いてあるぞ

ヤマトタケルが兄のオオウスノミコトを殺した場面も凄惨だし、皇統の一族のやってることが
美化されている訳でもない

オオハツセワカタケルノミコも一族内の皇太子イチノベオシハノミコを
裏切りのだまし討ちで殺してるけどそれもそのまま書いてある

>>819はご都合主義の思いつきに過ぎないし、記紀の記述から具体的に否定されるww

834日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:00:43.86
佐賀平野東部では、吉野ヶ里遺跡(神埼市・吉野ヶ里町)などの拠点的集落があり、また海に近い低地には本分遺跡(みやき町)、高志神社遺跡(神埼市)など貝塚をもつ集落が分布する。
本行遺跡(鳥栖市)、姉遺跡(神埼市)などでは、青銅器生産が行われた。三津永田遺跡(吉野ヶ里町)、二塚山遺跡(吉野ヶ里町・上峰町)、目達原丘陵の遺跡群(吉野ヶ里町)などでは、青銅器などを副葬した墓地が確認されている。
 佐賀平野中央部では、惣座遺跡(佐賀市)、土生遺跡(小城市)などの大きな集落が所在するが、その全体像はまだよくわかっていない。
 佐賀平野西部では、椛島山遺跡(武雄市)や釈迦寺遺跡(武雄市)で見つかった甕棺墓・石棺墓などから、青銅器などの副葬品が見つかっている。

835日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:02:52.42
>>832
神武天皇の墓なら、そう書くよね。なんで7代孝霊の娘の墓ってことにしたの?>箸墓

836日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:03:17.46
>>823
>東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、

おいおい、東冶県は臨海郡に属してたんだぞww
適当なことを書いてはいけない
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map1.jpg

837日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:03:36.51
>>111
>ある山の両側が一つの国っていう例はないだろ?
山は人の行き来をさえぎる自然国境になる
ご都合主義もここに極まれりだな <

奴國のように、2万戸もあれば、数万の人口であり、
低い丘陵のような峠の両側に広がっている場合は、幾らでも有り得る。

838日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:04:32.00
>>828
賛成
「當在會稽東治之東」は東の方でいいと思うよ
現在地図の畿内も九州も阿波も出雲も「當在會稽東治之東」

839日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:09:28.64
>>117
「南→東」などのような嘘つき騙しばかりして、
人種差別的ヘイトスピーチばかりして殺し合い戦争を鼓舞扇動するキョクウ人種は、
怒ってばかりして脳が狂ってしまうそうだから、
大和説の人は気を付けろよ。

840日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:11:28.97
>>839
九州説はくだらん中傷しか出来んのか

841日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:11:31.69
>>838
九州説がまた思考停止した

842日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:12:45.76
>>816
あのーー

東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ
さらに、一寸千里の法で測った帯方郡からの距離は17500里になり、12000里を遙かに超えて、意味をなさないことから、「会稽東冶」ではない
会稽東治を浙江省紹興市とすると、帯方郡はそこから12000里北になり、黄海北道周辺が正しいことを示しているソウルや広州はあてはまらない

843日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:12:57.20
>>819
>人種差別的ヘイトスピーチばかりして

その前に、ザラコクは辺り構わず名誉毀損の書き込みばかりしてるくせにww

844日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:13:11.46
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

845日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:14:44.48
>>842

ソントか?

846日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:15:05.00
>>823
>東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ

関係ない
ふつう卑弥呼のいた当時の地名を使うから

847日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:16:16.47
>>841
いつものことだが
何も論じないね
都合が悪いと思われるよ

848日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:19:58.18
>>846
え?そこは当時の陳寿の認識と思うが…

849日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:24:19.04
東冶は三国志内で使ってる地名だからな

850日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:28:02.27
畿内説の諸君 陳寿はこうも記述しています
「問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」

さて
「當在會稽東治之東」は九州説の反論になるのでしょうか

851日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:28:09.67
>>119
どっか脳に異常がないと大和説やるの無理でしょ

852日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:33:46.00
>>120
>九州説は露骨なウソついてナンボだから<

「南→東」などの嘘つき騙しの脳の病人の大和説者は、
露骨なウソのヘイトスピーチしてナンボだから。

>曰く「会稽東治は江蘇省だぁー」<

言わない。
「会稽東治は揚州に属す」と言った。

>脳、死んでるよね<

「類スレ主」や大和説者の脳は、腐っているね。

853日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:34:46.11
>95%信頼区間の中のどこに真の値があるか、という点に統計は何も示さない <

あーこれダウトな

854日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:36:45.08
あり?アホ曝しおじーちゃんさわってもーた(ごめん

855日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:37:26.65
>>121
万世一系皇国史観儒教の大和説者らは、
麻原や暴力団の親分のように、
国民の脳を壊して殺し合い侵略戦争に強制するらしい。

856日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:37:35.28
まー気にせず御歓談あれ

85790度回転寿司へ2019/01/14(月) 20:39:29.59
●『參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』記事が案内するのは、倭国の大きさである。
それが『可五千餘里』であることの意義は大きい。それも『周旋』出来ると言うのであるから、独立した島であることは疑いない。
●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。
●当然、『周旋可五千餘里』の起点が問題となる。これについても、陳寿は明確にしている。狗邪韓國から對馬國、一大國、末盧國へと移動する際には、
全て『渡海』の文字が見える。しかし、末盧國以降、『渡海』の文字は一切無い。つまり、末盧國以降の倭国は、全て陸続きであることが判る。
結果、『周旋可五千餘里』の起点は誰が考えても末盧國となる。
●それなら、『參問倭地、周旋可五千餘里』の範囲は、どう考えても、九州島とするしかない。陳寿は九州島を、『參問倭地、周旋可五千餘里』と規定していることが判る。
●『周旋』の字義も、ここで明らかにしておきたい。糸に錘を付けて、クルクルと回す。あるいは、手に物を持って、クルクルと振る。
その状態が『周旋』の意味するところである。空中とか、草原とか、海中とか、障害物の無いところでしか出来ない。三世紀の倭国なら、それは海中しか考えられない。
『周旋可五千餘里』が規定するのは、どう考えても九州島以外ではあり得ないことが判る。
それも、実情に合った、ピッタリの表現であることに感心する。

85890度回転寿司へ2019/01/14(月) 20:43:01.87
魏志韓伝を読みなさいと忠告したでしょう
陳寿は韓にも行っていません
ここがキー
●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。

859日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:48:07.89
>>842
>東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ

>>836でも書いたが、東冶県は会稽郡から分郡された「臨海郡」!
http://zae06141.client.jp/fukusyuu.html

現在の福建省の省都、福州市に東冶県の治所、東冶都城があったとされている

860日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:53:32.62
>>857
>それも『周旋』出来ると言うのであるから、独立した島であることは疑いない。

前提がすでにおかしい
周旋は、一周したり、元の場所に戻ったりしない
周旋はいろいろ寄りながら進むこと

単に、朝鮮半島の循海岸水行の七千里を萬二千里から引いて五千里というだけ

861日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:53:35.40
それにしても何の話なんだろう

九州の話はしていないと言ってる人がいるけど、
サルタというスレ、読んでみた?

862日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:55:34.29
九州の話はしていない
と言ってる人がいるでしょ?


ホンモノの家の話をしているのかな?
現在・・・どこそこに住んでいるみたいな話

863日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:56:37.37
蒲田が何やら〜とか・・・・川崎の話?

864日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:57:28.03
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、

865日本@名無史さん2019/01/14(月) 20:57:39.01
>>860
>周旋は、一周したり、

「一周」!
旋も回ること。

「周って旋って」と書いてあるのに回らないとは、これ如何にしたことか?

866日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:00:35.97
本当に家の話ばかりしているでしょ、
ちなみに家は川崎区の南部のほう

867日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:04:57.50
河童の三平、げげげ?
家に、あの写真などもあると言っているのに、
あと、むかーし住んでいたというところの紙のようなものとか


現在、小手子の像?というのものが建てられているんだけど、
あの周辺に住んでいたとか

868日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:09:30.89
老婆の言う広瀬座というものも保存されているでしょ、
ほとんど本当の話なのかな?

家は『松傾』
このような名前の家、上の名前の読み方が何やら〜とも言っていたり、
何なんだろう

869日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:09:40.21
>>865
それ、現代日本語だから

870日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:13:03.62
>>125
>魏志倭人伝の記載と実際の比定地から、統計学的に言える一里の長さ
海上距離は測定できないので、利用できる試料は九州上陸後の陸行部分のみ<

この時点で、インチキ。
半島や海峡部での、大距離で誤差の小さい部分を外して、国民を騙そう、としている。

>不彌国の比定地はいまだに定説がないので、<

これも、大和説の長里説では「定説がない」だけであり、九州説の場所「伊都国の東の百里位の位置に外縁部がある」という史料実態を無視している。

>結局使えるのは
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里<

唐津と言っても唐津港から松浦側付近まで広いし、
伊都国も、「皆臨津搜露」出来る場所、という条件を考慮した形跡がない。

>伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=50m/1里 のみ<

これは酷い。計算間違いをしているし、
福岡市中心部では、始めから伊都国から東南百里に全く合わない。

要するに「類スレ主」は、計算する前に、出発点や到着点を、史料事実や史料実態には合わない比定をするインチキをやっている。

871日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:15:25.32
>>852
>>曰く「会稽東治は江蘇省だぁー」

>言わない。
>「会稽東治は揚州に属す」と言った。


先生、ザラコクくんがまたウソついてます

872日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:17:04.28
>>126
「南→東」の嘘つき騙しにどっぷりと浸かった浸かった大和説は、
訂正なんかできやせんよ。
学問じゃなくて、万世一系皇国史観のカルト宗教の信者しかいないからね。

873日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:20:27.29
>>132
まあ、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者で、
インチキ専門ではない人を見たことはないんだが。

874日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:21:26.99
>>865
「周って旋って」と書いてあるのに回らないとは、これ如何にしたことか?

魏の大将軍曹真のお父さんの話
「初平中太祖興義兵、邵募徒衆、従太祖周旋。」
曹操は何の周りをぐ〜るぐ〜る回ってたの?

ww

875日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:27:43.08
>>852
>>曰く「会稽東治は江蘇省だぁー」
>言わない。
>「会稽東治は揚州に属す」と言った。

嘘つき

>134日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:42
>会稽東治は、
>257年に会稽郡から分郡された臨海郡を指すから、揚子江周辺から江蘇省の海岸付近であり、
>その「之東」は九州島付近を指す。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/134

ザラ・・・モロ言ってます

876日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:29:53.86
>>156
「南→東」などの嘘つき荒らしで狂っているのはいるのは大和説。
分かりやすいね。

877日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:35:09.11
>>157
今日も、大和説者の「類スレ主」の、
行程の里記載区間の選択や比定のインチキを示せたし、
「一里の長さの推定値(信頼区間)の計算のインチキデタラメも明確になったな。

またひとつ、物事がはっきりした。

878日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:36:34.84
>>160
短里がなくなるだけで、九州説は根拠がなくなるからなww

879日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:41:29.17
>>878の訂正(また途中で投稿ボタンを押した事になっていた)
>>160
短里がなくなるだけで、九州説は根拠がなくなるからなww<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
魏志の記載での「長里」が無くなるだけでも、根拠がなくなるからな。

880日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:47:46.95
畿内説は短里でも長里でも成立しないのですが

881日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:48:02.83
>>857
>その状態が『周旋』の意味するところである。空中とか、草原とか、海中とか、障害物の無いところでしか出来ない。三世紀の倭国なら、それは海中しか考えられない。

若き日の崔琰先生、黄巾の乱で出先の青州北海から帰れなくなる
「西道不通。于是周旋青・徐・予之郊、東下寿春、南望江・湖。自去家四年乃帰」
空中でも海中でもない
ぐるぐる回ってない

882日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:49:29.05
>>880
>畿内説は短里でも長里でも成立しないのですが

どうして?
理由は何もないの?
じゃあ君の主張は論として成り立たないね

883日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:51:22.29
>>161
>沖縄あたりに邪馬台国があるというのは、古代中国人の強固な固定観念。<

いや、後代の後漢書の范曄の「自己解釈に拠る魏志の書き換え」が犯人。

>実際の邪馬台国の位置を割り出すのにこ“理想郷=邪馬台国”へ行く行程はほとんど意味がない。<

邪馬台国なんて存在もしない「結論先にありき」のインチキ造語。

>ただ、唯一重要なのは、唐津→伊都→奴→不彌の国名。
これは、実際にの邪馬台国への道筋であるが、<

いや、奴國は伊都国からの側副傍線國の説明であり、道筋から外れる。

>方角は地図をみれば分かるように、唐津から北東方向へ行くもの。
南東へ行く倭人伝の行程ではない。 <

「東南」は「 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」の東南であり、
行程記載は、その方向への「折れ線的道のり移動」のルートであるだけ。

884日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:51:26.26
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

885日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:53:41.98
>>880
逆に九州説が短里でも長里でも成立しないんだが

886日本@名無史さん2019/01/14(月) 21:58:26.61
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

887日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:02:22.34
>>879
大和国=邪馬台国
三角縁神獣鏡
前方後円墳色々あるよ

888日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:05:21.05
>>883
いつも通りの九州説

結論部分だけを言い張る
理由は言わない
もちろん

証拠は絶対に出さない

889日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:06:05.41
周旋が一周したり元に戻ったりしないことが早く常識にならないかなと願っている
周旋はいろいろ寄りながら(一直線に、ではなく)進むこと

これが通じないと話にならない

890日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:06:19.62
>>887
だがしかし、肝心要の集落遺跡がないというお粗末。  @阿波 

891日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:08:55.68
>>883
全部間違いだな。

892日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:11:16.51
>>888
>証拠は絶対に出さない

それ(>>883)はザラコクだからいじるだけ無駄だよw

>>857のように根拠を言おうとする九州説もいるにはいるんだけど、
でもその根拠が古かったり間違ってたりするんだよなぁ

基本、九州説は思い込みとあと情弱

893日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:12:32.76
>>890
こんだけ証拠が揃ってれば
実際地面ほっくり返さなくても集落はあったんだろうで通用する
畿内はほとんど住宅街とかになってるから簡単に発掘はできないし

894日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:12:55.80
>>889
周旋=まわりめぐる。ぐるぐるまわる。(学研漢和大字典・藤堂明保編)

895日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:13:24.22
>>890
つ https://i.imgur.com/9j6LLzE.jpg

いっぱいあるねぇww

896日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:15:03.67
>>894
>(学研漢和大字典・藤堂明保編)

それ、現代日本語ww

897日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:16:32.12
>>894
周旋については諦めなさい
どうがんばっても一周という意味ではないから

898日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:19:48.97
倭は島国だと言い切っている点はどうなんだ?
倭が本州なら、津軽海峡を知っていないといけない。
それより、倭奴国が九州北岸なのに、いつ倭は大和に東遷したんだ?
教えてくれ。

899日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:23:19.11
>>897
周旋はくるくる回る
何周でもいいけど一周以上しないと。

900日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:26:28.89
『參問倭地』倭地に付いて情報を集める

『周旋可五千餘里』一周すると5000里余りかな

901日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:27:45.85
>>894
現実にそうじゃない実例が三国志にバンバン出てきてるのに、まだ頑張りますか?

じゃあダメ押ししてあげよう

壱岐対馬を倭地から外すのは、なぜ?
或絶或連と書いてあるのに繋がった1つの陸地と強弁するのは、どうして?

902日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:28:40.46
>>900
言い張るだけか・・・

903日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:29:54.90
>>170
>まあ、長里でも短里でも、投馬国や邪馬台国の比定にはあんまり関係ないんだけどね。<

大和説には関係がある。
大和説は長里も入れなくてはいけないが、
「南≠東」に拠って、大和説が、×。

904日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:33:08.85
>>898
>それより、倭奴国が九州北岸なのに、いつ倭は大和に東遷したんだ?
>教えてくれ。

>>429ですでに書いたんだけどな
再掲
後漢書によると
桓・靈間 倭國大亂 更相攻伐 「歴年無主」 
有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼?道 能以妖惑衆 於是共立爲王

倭國乱によって倭王と呼べる存在は居なくなったんだよ
それが何年も続いて、その後卑弥呼が共立されたとある

三国志では
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。

倭人伝の相攻伐歴年の間は王と言える者はいなかったということだろう

その状態から新たに共立されたのだから、遷都とかではない

ただ神武の東征が記紀に書いてあるのは、卑弥呼の共立の時に
卑弥呼の祖先(神武)が九州の血筋であることがある程度
重視されたことを反映している可能性はある

905日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:33:50.64
>>900

倭国一周で5000里だったら、短里とやらじゃ九州の南半分以上は倭国じゃなくなる
投馬國はどうするんだ?

906日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:34:18.59
>>881
于是周旋青・徐・兗・豫之郊

ここにおいて、青・徐・兗・豫の郊外を周旋す。
西道が通交できなくなったので、やむなく青・徐・兗・豫の都市の郊外をぐるぐると周った。

907日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:38:20.57
>>172
>(2世紀末頃、各地から大和に結集した勢力の中に、河内はいなかった。
この頃の纏向から出る土器の中には、河内の土器はない。
3世紀初頭頃になって河内の土器が出るようになる。
それと引き換えに、吉備や西部瀬戸の土器が減少し始める。
河内は、石塚古墳が造られる頃になってから、纏向臨時政権に加盟してくる。
河内は、様子見していたのだろう。
で、河内が来たので、吉備や西部瀬戸らは嫌気がさしてきたのだろう。<

これは、誰の編年なのか?は知らんが、
米田の編年とは、大分違うね。
「纏向臨時政権」なんて言っているようじゃ、
また「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者にたいだね。

908日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:39:58.40
>>173
理由もなく起点を変えるのは大和説者や「類スレ主」らのの悪いところ
結論ありきのいい加減な姿勢だとバレバレ

909日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:40:39.19
>>906
>ここにおいて、青・徐・兗・豫の郊外を周旋す。

「青・徐・兗・豫」は州なんだが?
郊外ってどこ?

離ればなれの所をどうぐるぐる回るんだ?ww

「青・徐・兗・豫」の順だとどうやっても一周にはならないぞw

910日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:44:37.21
>>905
投馬国は邪馬台国と併記されているから、邪馬台国ではないですよ。

911日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:46:39.09
>>176
>陳寿が想定していたのは北部九州から南へ伸びる巨大島であって・・・<

陳寿は、別に「巨大島」を想定していない。
水行二十日の投馬國ががある、とされただけ。

912日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:46:39.47
>>904
>その状態から新たに共立されたのだから、遷都とかではない

王家が違って王都も違っていたら、それは別の国ですよ。

913日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:48:07.21
>>910

邪馬台国ではないよ? だから?

914日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:50:49.60
>>874
邵募徒衆、従太祖周旋

邵、徒衆を募り、太祖に従いて(各地を)周旋す。

915日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:52:41.41
>>905
単純だが、1万2千里より7千里を引いただけっしょ

916日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:52:43.40
>>906
>西道が通交できなくなったので、やむなく青・徐・兗・豫の都市の郊外をぐるぐると周った。

家に帰れなくなって、やむなく青・徐・兗・豫の都市の郊外をぐるぐると周るって
辛さのあまり発狂したのかな?

面白い解釈を聞いた


ww

917日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:52:51.45
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

918日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:54:03.48
『分福茶釜 天津』

曹洞宗〜と出てくるでしょ?

老婆が言うには、
むかーし、クガ?コガという女優がいて・・・
と言っていたり、なんで詳しいんだろう、何かの家の人だったのかな

919日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:54:12.91
>>913
投馬国は九州には無い、朝鮮半島南岸地域
『周旋可五千餘里』は島原、天草、三角等を通って北部九州の有明海一周

920日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:54:23.37
>>915

そーゆーこと

921日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:54:27.91
>>911
そのあと、水行十日と陸行一月するんだけど。
で、沖縄あたりまで続く巨大島ということに。

922日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:54:43.22
>>914
何の周りをぐ〜るぐ〜る回ってたの?
周回じゃないよね
募兵のため各地を転々としてる

923日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:55:31.84
>>195
大和説は長里や「南→東」や「畿内」に逃げちゃダメよ
矛盾を指摘されるとそれとは別だと遁走してさ

924日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:55:46.10
>>919
無茶苦茶や。

925日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:55:51.40
>>912
>王家が違って王都も違っていたら、それは別の国ですよ。

王朝変わって都変わっても中国だがね

926日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:56:01.25
>>919

ムツゴロウ釣りか?
倭地一周じゃないじゃないか

927日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:56:23.40
老婆とは言っても・・・『松傾』?の家の嫁、
もれ(仮)の祖母なんだけど、それにしても詳しい

928日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:57:10.55
>>924
九州説ってそんなもんや

929日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:57:45.00
>>196
>実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている<

間違っていない。

930日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:59:16.82
>>914
各地をグルグル回った

931日本@名無史さん2019/01/14(月) 22:59:48.24
>>929
幼稚園児か

932日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:00:36.12
>>915
>>920
チミ達はノータリンだなw

933日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:01:52.44
>>931
魏使からしたら正しい
実際には東方向だけどな。

934日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:02:57.89
>>926
北部九州地域が倭地

935日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:04:40.28
>>934

で、倭国の投馬國5万戸はどこなんだ?

936日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:04:54.13
>>930
何の周りを?

ww

937日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:06:36.93
>>932
このように
九州説はいつも論破されると罵るだけになります

938日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:07:02.02
>>909
都市は城壁で囲まれている。
その都市の郊外。
青州など各地の(都市の)郊外。
そうした郊外を転々としたという意味。

939日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:10:47.39
>>938
何のために?

940日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:11:13.35
>>934
>北部九州地域が倭地

周旋できるから島って言ってた>>857に真っ向からケンカを売ってるなww

941日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:11:24.38
>>935
投馬國は朝鮮半島南岸地域の倭人の国
>>936
倭地を周旋

942日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:13:12.59
>>938
外周を一回りすると言う珍説はお陀仏で
よろしいな?

943日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:15:09.81
>>941

朝鮮半島南岸に5万戸も倭人が住んでるならそこは倭地だろ

944日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:15:50.98
>>941
外周できるんなら島だという珍説はお陀仏で
よろしいな?

945日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:16:00.36
>>938
>都市は城壁で囲まれている。
>その都市の郊外。
>青州など各地の(都市の)郊外。

その各地の郊外から郊外への移動は全然ぐるぐるしてないよな?
それに、都市の城壁の外をぐるぐる回る意味は何?
都市に来たら都市に入るだろ? 周りをぐるぐるしても無意味

>そうした郊外を転々としたという意味。

その「いろんな場所に転々と寄りながら進む」というのが周旋の意味だって言ってるんだよw

946日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:17:44.40
>>939
帰れなかったので青州・徐州・兗州・豫州の付近をグルグル回ってたんだ。

947日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:17:59.12
>>941
>投馬國は朝鮮半島南岸地域の倭人の国

これ言う人は何人いるの?
こんな珍説というかトンデモを信じる人は最少人数であって欲しいと願う

948日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:18:51.05
>>944
外周ではないよ
国邑から国邑を回ったっだよ。

949日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:19:02.18
邪馬台国欲しさに5万戸を朝鮮半島にしてるのは長崎県民か?

950日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:21:03.20
>>946
>帰れなかったので青州・徐州・兗州・豫州の付近をグルグル回ってたんだ。

ぐるぐる回る必要がどこにあるんだ?
都市に着いたら都市に入るだろ?

都市から都市へ転々と移動するのが周旋の意味
ぐるぐる回ったり一周したり元の場所に戻ったりはしない

951日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:21:05.70
>>946
だから、なんのために?

952日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:21:08.31
>>946
じゃあ寿春に行って、江湖を南に見てと言う話はどうなるの?

953日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:22:34.53
>>948
>国邑から国邑を回ったっだよ。

それでいいよ
元の場所に戻ったり、一周したり、ぐるぐる回ったりしなくていいだろ?

954日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:23:00.43
一度いいだした珍解釈を守るために
どんどん異常な主張になっていく九州説

955日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:23:02.78
>>907
この時期、卑弥呼は九州筑後山門にいた。
一方、東へ千余里の倭種の国は大和などを指している。
大和、尾張、東海、近江、北陸、吉備から派遣された要員たちが臨時政権を作っていた。
この大和の臨時連合政権が、のちにヤマト王権へ発展する。

956日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:23:06.77
くるくる回るのは円広志だけだ

957日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:24:45.30
>>955

だから山門の候補の遺跡は?

958日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:25:00.37
>>947
君のような朝鮮人には受け入れ難いだろうが
これが真実だよw

959日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:26:02.36
>>958

朝鮮人はお前だろ

960日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:26:52.57
>>950
郊と書いてある。
城の中じゃないな。

961日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:27:05.58
>>953
奴国から不弥国〜傍国(20か国)〜奴国
周旋だね。

962日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:29:48.69
>>961

倭地一周にならない

963日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:30:47.81
>>959
朝鮮半島南岸地域に倭人の領土が在ったなんて朝鮮人の君には認められないんだろw
日本人なら理解出来るはず。

964日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:32:53.08
>>958
>君のような朝鮮人には受け入れ難いだろうが

投馬国半島南岸説は九州説の人でもほぼ認めないトンデモだぞ?
多分このスレでは>>958一人しか支持者はいない珍説だ

965日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:33:11.63
邪馬台国はいくつかの国が連合した国だから
山門郡1つがそれというのは間違いだろう

966日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:34:06.87
>>963

朝鮮半島南岸の広範囲と日本のごく一部の北部九州だけが
倭国といってるお前が朝鮮人

967日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:40:07.23
>>966
都は伊都国にあるし、邪馬台国は7万戸、投馬国は5万戸
北部九州が中心ですね。

968日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:40:29.67
参問倭地 絶在海中洲之上 或絶或連 周旋可五千餘里

参問だから、やっぱり1万2千里−7千里の事だね

969日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:40:59.57
>>965
>邪馬台国はいくつかの国が連合した国だから
>山門郡1つがそれというのは間違いだろう

いくつかの国が連合した国は、女王國または倭國
邪馬台国はその連合の盟主の一つの国

ただ、山門郡には盟主の国と判断できるような遺跡が一切ない

970日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:43:42.68
>>967

邪馬台国の7万戸が二重帳簿で5万戸の投馬国が朝鮮半島なら
ほとんど半分近くお前の故郷の朝鮮半島じゃないか

971日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:44:39.76
>>968
つーかまあ
「絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
って書いてあるんだから
それを一周すると想う人の頭には
明らかに三本毛が足りない

972日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:46:23.39
>>913

『周旋可五千餘里』は現在の福岡県、長崎県、佐賀県等を通って北部九州の一周

973日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:48:18.25
半島南岸のわずかな地にそんなに大きな国は入らない。
邪馬台国は福岡県、投馬国は宮崎県。

974日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:49:44.37
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

975日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:50:03.13
>>953
>元の場所に戻ったり、一周したり、ぐるぐる回ったりしなくていいだろ?

国邑から国邑をウロウロぐるっと巡って、最後は奴国に戻って来ている。

976日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:50:23.37
>>961
>奴国から不弥国〜傍国(20か国)〜奴国
>周旋だね。

最初の奴国と最後の奴国は別の国
そうじゃないと、最後の奴国の此女王境界所盡が意味をなさない
同名異国か○奴国の欠字と見るのが通説

だから一周してないよ
九州説はこんな所も牽強付会にすぎる

977日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:50:51.79
そもそも邪馬台国は九州にはないと確定してるんだから
九州説の言ってる事は全部嘘であり循環論

978日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:51:05.37
邪馬台国周辺の国をめぐると奴国に戻ってくると書いてあるのだから、奴国が邪馬台国に含まれる。

979日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:52:47.24
>>978

書いてない

980日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:52:49.48
周旋が一周するというのは字面に引きずられた誤読だから諦めな

981日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:53:45.69
>>978
どういう理屈なんだ、それ

982日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:54:18.98
>>977
俗物知力しかない者には
それなりの紛い物な真実しか見えないのは事実

983日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:55:37.76
>>973の九州説さんも半島南部投馬国説はないって言ってるよw

でも
>投馬国は宮崎県。

これも投馬国が女王国以北にならないからダメだよ

984日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:57:53.69
倭地一周で5千里(短里)だとすると
投馬國を南九州にはできない

985日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:58:06.80
>>981
>>961と同じ人だと思うよ、>>978

余傍国の最後が奴国だからこれが福岡平野だと思ってるみたい

986日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:58:12.19
>>976
1周するかしないか?よりも
1万7千里から7千里引いた距離だった場合の方が畿内説には致命的なような…
陳寿は計算して記述していた事になるからね

どちらにしても5千里は畿内説では説明がつかないが、どうするのだろう?

987日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:58:13.85
しかし九州説がありとあらゆる嘘をついても
前方後円墳や三角縁神獣鏡という証拠の前では
崩れ去るしかなかいのだった

988日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:58:17.18
本当にサルタとか、
そういうのは何の話なんだろう?

そんな神、人物?いないでしょ

989日本@名無史さん2019/01/14(月) 23:58:56.19
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

990日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:00:08.72
九州説は嘘を言うんじゃなく嘘しか言わない

991日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:01:03.19
>>986

倭地の一部で参問した里数だから

992日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:02:06.95
>>983
投馬国が邪馬台国の北だなんてどこにも書いてない。
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、投馬国まで水行20日なんだから、投馬国は邪馬台国より南だ。

993日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:04:47.12
>>986
>どちらにしても5千里は畿内説では説明がつかないが、どうするのだろう?

何が説明つかないの?

具体的にどうぞ

994日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:05:12.62
帯方郡から七千里のところから倭国が始まるので、そこから五千里のように思えなくもないが、そうすると傍国の行き場がなくなってしまう。
まさか最後の千五百里に20カ国も詰め込めないし。
やはり王都までの一万二千里とは別に、九州北部に五千里の範囲で倭国が広がっていた。

995日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:05:34.29
>>991
ん?でも1万2千里で陳寿は考えてるよ?
一部ではなく、女王国に着いちゃってる

996日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:05:41.35
>>991
参問した里数だから倭人から聞いただけの未知の場所なんだ
聞いた話だから可が付いている。
>>992
帯方郡から邪馬台国まで水行30日、陸行1月

997日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:05:49.21
頭の良い人の意味でしょ、
天狗になる、本や書を沢山持っていた〜とか、
むかーし、そういう親戚がいたと言っていたり

菅野覚明氏?『グリグリメガネ  筋肉少女帯』

998日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:06:40.06
数字について何も語ることができない畿内説は議論から脱落だな。

999日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:07:28.02
>>998
は?
語ってますけど?

1000日本@名無史さん2019/01/15(火) 00:08:18.61
九州説がどんどんトンデモになっていく

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