【新田楠木】後南朝スレ★4【西陣南帝】
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https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1474548493/ 670 名無しさん@お腹いっぱい。[] 2023/06/06(火) 09:11:17.59 ID:UG6RwsWi
うちは南朝の天皇に関わる公家だった
代表者の屋敷あとまでは掴んだが
かなりの資料が故意に消されてる
うちに残る資料をもし公開したら
日本史的にかなり話題になるというか
かなりヤバいと思う
よってすべては墓場まで持ってくし
寝たきりになりそうになったらすべて燃やすつもりだ
厄介な資料は俺の代以降には残させない 679 名無しさん@お腹いっぱい。[] 2023/06/06(火) 10:56:35.76 ID:JiICLbSM
>>670
いろいろマスコミが騒ぐとか大迷惑だからな
子孫に迷惑かけたくなかったらそれもあり
そもそも私的理由で重要資料を破棄するとか普通にあるからな >>861
ぶっちゃけ、旧南朝所属の公家って、南北合一の際に役職を全部失って官界を去るのが普通、ごくまれに、格下の公家の家に養子入りして細々と生き延びる事例があるだけ、て感じなんでな
滅亡王朝たる吉野朝になんて、ほとんどの人が関心を持ってなかったから、記録もろくに残らない。
消されたのではなく、ただ忘れ去られただけなんだよ
応仁の乱ごろまでは多少は旧南朝への関心も残ってたが、その後はもう、完全に滅亡してるよ 南朝関連の古文書とかが発見されたとして今さら厄介なことにもマスコミが騒ぐような大ニュースにもならないんだろうな いちおう、発見そのものには少なからぬニュース価値はあると思う、そこそこのニュースにはなるだろう、主に新聞では。
テレビニュースには、あまり出てこないかも?
ただ、ニュースに期待する人々の期待と内容がマッチしてなくて、続報はほぼニュース価値無しになりそうだ 後南朝の公卿補任とか外記日記が出てくると研究が進むんだけどな
家に所蔵している人はぜひ発表してほしい それらの作成に関与しそうな官人が、南朝にはいなかった可能性が高い
南朝は、公家の数だけは北朝と比べてもさほど遜色なかったが、実務を担うべき官人はほとんどいなかったとされている
また、合一後には南朝関係者の大多数は官界を逐われて没落したことが知られているから、仮に貴重な資料を作成していた家があったとしても、それを残すことはできなかった可能性が高い 京都から後南朝について行った地下官人はあまりいなかったんだね
ついて行ったのはせいぜい女官とか随身くらいかな?
公卿の家司も連れて行かなかったのだろうか? 南朝の時点でさえ、一族を挙げて南朝についた貴族は少なくて、貴族のほとんどは相続争いの都合で一族を離れて南朝についてただけだから、その家臣も京都に残るのが多かったのが必然
まして、後南朝ともなると、参加する貴族は少なかったからなあ 南朝の朝廷で編纂された和歌集に新葉和歌集があるが、
作者は皇族・公卿が多くて諸大夫・地下官人は少ないんだよな
南朝・後南朝の朝廷の人的構成を反映している 綸旨が相当数発給されているところから見ると、蔵人所は設置されていたんだよな
頭弁・頭中将クラスの殿上人のほか、六位蔵人や雑色クラスの官人はいたのでは? 平治物語ですら為朝を臨時に蔵人に任ずる下りがあるし、6位の蔵人くらいはいくらでもでっち上げられたのでは >>868
綸旨が特に多く発給されていた後醍醐帝の時代(後南朝ではなく南朝の時代だが)には、後醍醐帝の直筆、宸筆の綸旨が少なからず出されているが、それらが相手に遭わせた階級の蔵人が発給した文書の体裁を装っていたことも知られている 後醍醐天皇は綸旨を自筆して、蔵人頭の署名や花押まで天皇自ら自筆していたみたいだね
後南朝期の南帝ならなおさらそういう文書発給だったのかも >>874
これを「綸旨の厚礼化」と呼称し、
天皇がその居住地を拠点とした一円直轄統治を志向する地域権力、即ち「戦国大名」に遷移しつつあったことを示すものとされている。
嘘です。
足利成氏の例からテキトーに書きました見逃して下さい。 関白・近衛経忠を筆頭に相当数の公卿が吉野宮に出仕しているんだよな
諸大夫や実務を担う官人は少ないながらそれなりにいたと考えてよいのでは? >>876
公卿はそこそこの人数がいたけど、下、官僚はほとんどいなかったことがわかってる、
特に作暦など特殊技能を要する官僚は南朝にはいなかったのがとても重要 ※騙されるな!「明治天皇すり替え説」のウソ【明治維新/孝明天皇/伊藤博文/田布施システム/大室寅之祐/黒幕/天皇/薩長/幕末/朝廷/徳川慶喜/後南朝】 (絶望の歴史チャンネル)
https://www.youtube.com/watch?v=ki7imgSTJu0 ちなみに、天照大神から、神武天皇を経て、なんとかという天皇までは、
皇室紋は鶴丸だったらしい >>877
勘解由小路家とか土御門家は連れて来れなかったということか
でも、吉野朝廷は年号は制定しているから、勧申者を任せられる儒官は連れて来ていたんだな 文章博士菅原氏は摂関家の家司だったので近衛関白が吉野行宮に伴ったか >>877
故実に強い実務に長けた人ほど吉野に移ると聴いた時点でこりゃついて行かない方が良いって考えたんだろうな >>882
実務にたけた人はついていかなかったろう
故実にたけた人なら、壬申の乱を想起して積極的についていった可能性もある
だが、官人の大多数が京都に残留したことは間違いのない事実 官人たちが居住する屋敷を吉野京には用意しきれなかった事情もあるんじゃない?
南帝でさえ金峰山寺の塔頭を内裏にするしかなかったし、公卿たちの屋敷を用意するだけで精一杯になりそう
地下官人を内裏に昇殿させるわけにいかないし、官人が実務をする外記庁を置くスペースがあったかどうか?
本来なら内裏の建春門の付近に外記庁が置かれるけど、塔頭の付近に外記庁を増設するのも難しそう
文殿も建てないと官務の文書行政はできないけど、無理そうだしね 吉野に随行しても生活の糧を得られないと思ったから随行しなかったんでしょ 官人たちに俸給を支払うには税収が必要だからな
国衙領でどれだけ検田・年貢の執行ができたか
南朝・後南朝系の国司・在庁官人・保司の割合にもよる >>886
当時は所領ってのは荘園単位であって国単位ではないから……
ちうても、南朝方は荘園の領有が少なくて財政が厳しかったからこそ和議のときに国衙領を特に求めたんじゃないかと思わなくもないが。 >>886
当時は所領ってのは荘園単位であって国単位ではないから……
ちうても、南朝方は荘園の領有が少なくて財政が厳しかったからこそ和議のときに国衙領を特に求めたんじゃないかと思わなくもないが。 >>886
当時は所領ってのは荘園単位であって国単位ではないから……
ちうても、南朝方は荘園の領有が少なくて財政が厳しかったからこそ和議のときに国衙領を特に求めたんじゃないかと思わなくもないが。 すまん、書き込みエラーでリトライしたら全部書き込まれてたみたい >>890
エラーが出ても焦らず二、三回リロードしてみること。
大概の場合は「書込完了」の信号が返って来ていないだけで、書込そのものは出来ている。
大覚寺統が持ってた荘園を吉野朝がいつまで実効支配できていたのだろう?後醍醐の時点で河内、和泉の経済基盤しかなかったんじゃないの? 吉野朝の荘園は禁裏御領と関白近衛経忠が保有する殿下渡領かな
領家の公家や地頭が吉野朝側に付いたかどうかがカギだ 家族全員で南朝についた家はともかく、家を割って一部だけ南朝についた家の場合は領地も割れてるからなあ
たいていは北朝がわにとられて、残ってない気がする 朝用分・朝要分(ちょうようぶん)は、日本の南北朝時代に南朝が兵粮と財政収入確保のために自己の支配下の寺社領などに臨時に課した税。
同じ時期に北朝を擁する室町幕府が行った半済令(兵粮料所)と対比される。なお、半済令が年貢収入の半分を臨時徴収したのに対して、朝用分は1/3の徴収だったとされているが、記録が乏しく詳細は分かっていない。後村上天皇の正平年間から明徳の和約による北朝との合一直前まで何度か出され、紀伊・和泉・河内など、南朝の勢力が強かった近畿地方南部を中心に適用されたが、他の地域については美濃や土佐などにわずかに記録が見られるものの、実際には北朝/室町幕府の勢力を前にほとんど行い得なかったよう。 後村上天皇時代の終わりごろに朝用分を臨時徴収する綸旨が頻出するらしいね
つまり、このころに吉野朝廷(賀名生行宮)の税収が低迷し、臨時税が必要となったということ
南朝・後南朝系荘園・公領の検注・年貢収納が次第に滞るようになったと考えられる そろそろ後南朝をテーマとした大河ドラマをやらないかな
「後南朝の落日」とか 落日というか後南朝の頃にはとっくに日が暮れて真っ暗闇じゃないか
日はもう登らぬ永遠の夜にもがいてるみたいな状態だろう 大河ドラマ 後南朝
小倉宮聖承 松本潤
小倉宮教尊 細田佳央太
小倉宮恒敦 リリーフランキー
北畠満雅 大森南朋
楠木正秀 松重豊
四条資行 山田裕貴
橋本兵庫助 杉野遥亮 >>898
うん
後村上の晩年から後亀山の降伏までが落日で、以後は闇夜だよな 後南朝は色んな事件を起こすにしてもそれが日本史に大きな役割を果たすってことはないしマイナー過ぎてそれ単独では難しいだろうけど
大河ドラマ的にやるなら衰亡していく後南朝の視点からの室町時代の隆盛と動乱、戦国時代への導入を書く感じになるんだろうな
三部構成で各部南朝方と室町武家のダブルキャストとかで
第一部 後亀山と足利義満 日本国王義満の主導する明徳の和約による南北合一とその後の約定破棄に悲嘆する後亀山の吉野への再逃亡まで
第二部 源尊秀(自天王)と足利義教 南朝断絶方針をとる悪御所義教の嘉吉の変、後南朝復権を目指す尊秀の禁闕の変・長禄の変という二人の破滅への道
第三部 西陣南帝と伊勢宗瑞 応仁の乱により崩れ出す室町体制と歴史から消滅する後南朝そして戦国の始まり 第一部は後亀山が松本潤、北畠信子が有村架純、二条教子が広瀬アリスか 第三部で西陣南帝が登場して、紀伊・大和の後南朝方の武士に擁立されて蜂起して山場を迎えるんだな
ついに上洛を果たし、西陣の内裏に入って後南朝天皇が洛中で即位するのがクライマックス
視聴率もここで一気に上がるはず 第三部で西陣南帝が登場して、紀伊・大和の後南朝方の武士に擁立されて蜂起して山場を迎えるんだな
ついに上洛を果たし、西陣の内裏に入って後南朝天皇が洛中で即位するのがクライマックス
視聴率もここで一気に上がるはず 最終回は西陣南帝と出羽王が夕日を浴びて暗闇に消えて行くところでエンディングだな どこまでいっても吉野が山奥過ぎて誰もついていけないよ。
足利側の事情だけで残っていただけなのに、当の本人はそれに気づかず大真面目に活動してたんだから、映像化すると滑稽にならんかしら。 >>906
> エンディング
伊豆半島東岸。
宗瑞に厄介払いされて大時化の相模灘へと木ッ端舟で船出させられる西陣南帝。
ドンヨリ垂れ込めた暗雲を睨みつつ「嵐が…来る…。」の一言で終劇。
すいませんっ『ターミネーター』をぱくりましたっ。 >>907
足利義満と後亀山の死後は本人たちも皇位を狙えるとまでは本気で思ってないんじゃないか
大覚寺統が京において宮家としての地位がちゃんと担保されてればそれで諦めはついたんじゃないだろうか
義教の治世以降南朝断絶とかになって再び滅茶苦茶やりだしたけどぶっちゃけ江戸時代より前の日本の偉い人達って
気に触ることあると勝手に領地に帰ったり反乱おこしたりみんな滅茶苦茶なことやってるしな 自力救済が原則の社会やから、実力行使しないと衰退しかしないからな >>909
小倉宮聖承は一時は本気で、あるいはいちかぱちか皇子の教尊を皇位に就けようとしたんじゃないかな?
嵯峨の屋敷を出奔して北畠満雅の挙兵に合流したのは、そこそこ覚悟を決めていたと思う
後南朝の最初の賭けは、この聖承の挙兵への合流だったと思う
自分は治天の君のような立場になろうとしたのかも レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。