食物と酒、嗜好品の歴史@日本史板 4皿目
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越後の一風習を以て天下諸国に敷衍するはあやまちたらん >>202
>>203
ありがとうございます。
雑煮という名称が一般的であったかどうかであって、餅を汁で食す習慣自体は古くからあったのですね。 新潟県でもうちのあたりだと雑煮のことをこうとうと年寄りは呼んでいたな >>196
お侍は金銀銅銭を扱わなかったよ。
全部札差に丸投げ。
今風の役割で言い換えると、蔵屋敷が公金出納銀行、札差が信販会社、腰に佩いてる刀がクレジットカード。
あらゆるサービス購買がツケで、そのツケは、札差に請求が行く。
旗本のナニナニ家を禄米を預かってるのはどの札差かというのはまあみんな知ってるからな。 >>202
「小松菜」の語源は、「菘」の誤読もしくは誤記載が元だろうよ。 201です。調べてみました。
新潟市西蒲区松野尾出身の女性美容師が「実家には雑煮が無くて、御正月には「こうと煮」っていうのを食べてました。」と言ったのが始まり。
で、松野尾から潟東村に婿に来た男性に聴くと「ああ、年寄りが「こうとう」とか言ってたなあ」と。
早速、村で聴いて廻ると、大根を短冊切りにして作る「こうとう汁」という料理が有り、それに煮た餅を乗せたのが雑煮の定番であった事が判明.新潟市のHPにも「餅雑煮」という名称で、この大根の短冊切りを使った雑煮が郷土料理として紹介されていた。
どうやら、大根の短冊切りを「こうとう」と呼んだらしい。
しかも、この大根の短冊切りは「雑煮」以外では食さない事が判明。
ふだんから大根の味噌汁は作るが、それは千切りか銀杏切りで、短冊切りは絶対にしないとのこと。
この事については遠く南魚沼出身の女性(戦前生まれ)からも聴いた。
なぜ大根の短冊切りは雑煮にしか使わないのか?
なぜ「こうとう」と呼ぶのか?
で、村のお婆ちゃんから昔の様子を聞いたのだが、29日に餅を搗き(普通は苦餅と言って、29日には餅を搗かないが、浄土真宗の根付いた地域では餅を搗く事が多かった、らしい)、糯米を蒸かした鍋に残った湯に、「こうとう突き」(木で出来た料理用スライサーみたいな道具)で突いた数本の大根を入れて煮る。それを大鍋や甕に入れて台所に置いておくと勝手に凍る。正月にはそれをガンガンと割って「こうとう汁」を作り、煮た餅を乗っけて雑煮の出来上がり。
ちなみに、今でこそ、「こうとう汁」に豚肉、鶏肉、鮭やイクラなどを入れるが、昔は本当に大根9割みたいな感じだったらしい。
あと、この村では年寄りは雑煮より焼き餅の方が好きみたい。それも、焼いた餅に餡子や黄粉をたっぷり付けて食べる。 追加
国文学を学んだ方から、「ハレの日には短冊切りにする」というような記述を読んだ事が有る、と教えてもらいました 小麦粉を水で捏ねて伸ばして切る、幅広の麺。
本当はそれが食べたいんだけれど、小麦粉は明治の後半になるまで高価だった。
で、外見出せ似せて大根を切っていた。
そのうち、元が小麦粉の麺ということも忘却。
日本の雑煮はもとはチャイナの餃子だからな。
餅(水で練った小麦粉)で餡(味付をした刻んだ肉)を包んで湯(スープ)で煮たもの。
中途半端に原型が残って餡だけ日本魔改造されたのが、蒸米を撞いた餅に甘い小豆餡の入った讃州の雑煮。
チャイナでは、麺も餅もどっちゃも小麦粉を水で練ったもので、区別は難しいよ。 >>199
福岡県ら辺にも雑煮専用の菜っ葉あるよ。
そっちの呼び名は「かつお菜」 ずっと鎖国してたらこれ
http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/mame.files/syokuji-01.jpg
江戸のOLのランチみたいなもん
https://pbs.twimg.com/media/DhMv35CU8AEUmHv.jpg
ところで、うちの婆ちゃんは盆も暮も赤と緑の寒天だらけ、子どもたちは誰も手を付けないのに毎回冷蔵庫に入ってんの
俺だけでも食べてやれば良かった
https://i.imgur.com/Y1pRaVe.jpg
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1644570754/44
>現在私たちが食べている多くの野菜は海外から日本にもたらされて根付いたものがほとんどです。
>日本原産の野菜は独活(うど)や、芹(せり)、三つ葉、蕗(ふき)、山葵、自然薯など数えるほどです。
>大根や茄子、蕪、茗荷や葱などは古くから食べられていますが、
>海外から伝わったものと考えられています。
>牛蒡も古くに中国大陸から伝わったとされていますが、食用としているのは主に日本で、
>他の国ではほとんど食用とはされていません。
>鍋や漬物に欠かせない白菜が日本で栽培されるようになったのは明治時代以降のことです。 江戸時代魚は肥料
373 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 2ec7-9pEf) sage 2022/03/18(金) 21:36:40.19 ID:cUXY24mt0
昔の日本人は1日に動物性たんぱく質はわずかしかとっていなかった
日本は海に囲まれた国だが日本は米至上主義だったので
化学肥料の生産量が増える前の時代は漁獲高の半分は魚肥として肥料になり
口に入るのは残りの半分なので
昔の日本人は現代人が思うほど魚は食べてはいなかった
https://imgur.com/a/RxD9K2h
https://imgur.com/a/NIsSq2p
https://imgur.com/a/NsT4HDU
【画像】昔の日本人の食事 すぐ飽きそう [511335184]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1647588741/ >>214
私娼じゃん。OLでなくて、エンコーとかパパカツの方じゃん。
女が通いで働ける数少ない職場の機屋や髪結は稼がる上に人集めが大変だったから、雇用主から昼食は出されてたよ。
女中は住み込みなので、当然、三食出る。 箱に茶碗・汁椀・箸・皿が一人分ずつセットで入れてあって、各自マイ食器セットを持っている
毎食、自分の専用の箸皿椀に食事を入れてもらって箱の上に載せて食べる
という形式から
家族分の茶碗や皿がごちゃ混ぜで水屋に保管、箱が無く部屋の隅に立てかけてたチャブ台を
引っ張り出してきて食事
というふうに変わったのはいつ時代? >>217
都市では早く、農村では遅かっただろう
都市部で明治期からちゃぶ台が広まってきていても、農村では戦後も高度成長期以前まで箱膳は残っていた
ちゃぶ台時代、テーブル時代になってもマイ茶碗、マイ箸の伝統は根強く残っているな
我が家にそんな伝統はないという書き込みを見て、へーぇと思ってしまった やはり、日本人は北方起源で遊牧民系統なんだな。
伝統的生活しているモンゴル人やチベット人の遊牧民は胡服の懐に湯呑・汁椀・小皿・箸・小刀・匙を重ねていつも持っている。
ついでに極圏のエスキモーみたいな人種も、小刀と匙(小さの目の椀)と皿兼懐紙兼小刀の鞘の一尺四方のなめし皮で包んで常時もっていた。
出かけた先で茶湯や食事を供されたときも、マイ皿椀によそってもらって食う。 今のように食事のあとには食器をまとめて洗剤で洗うのならば、誰のものということなしに取り扱える
箱膳の時代には食事の最後には食器に茶を入れて残しておいた沢庵かなにかで食器をぬぐうようにして、洗いもせず箱にしまって終わりだ
これだと自然、誰それの箱膳、誰それの食器、箸ということになる
今でもマイ茶碗、マイ箸となるのはこの伝統 >>4
江戸や京坂で白米食ってたのは、
燃料の不足と、都市型の時間に追われる生活の。調理時間の短縮、と、
量産効果。
水車で搗いた白米を買ってきて、少ない燃料で短時間炊く場合と
玄米を買ってきて、多量の燃料で長時間焚く場合との、経済メリットの差。 ところで、茶碗に米飯を盛って食べるのが当たり前になったのは、いつ時代ら辺? インド等みたいに皿ではなくて、日本は椀状なのが興味深いです。
品種による炊きあがりの状態の違いによって器が違うのでしかね? 森の石松が江戸っ子に勧めた雄氏はハコ寿司で場所は大坂 映画『エノケンの森の石松』(1939)では海苔の太巻
『次郎長富士』(1959)では江戸前の握りずし
広沢虎造の浪曲では、石松が大坂から京へ向かう三十石船に乗る前に大坂本町橋で名物の押しずしを買ったとなっているのである 押し寿司と、ハコ寿司は、同じものだよ。
木枠に詰めて押しをかけて作るから、押し寿司
作るときの木枠や供するときの折箱にみっちり詰まってる様子から、ハコ寿司。 え~と、
児童に供する給食と
幼児に供する給食の
区別がつかないオバカですという自慢? 部屋の広さを規制するとか。
畳の、公団サイズや田舎間サイズを禁止、京間に統一
ワンルームも、京間8畳相当が一塊の「部屋」として存在しない場合、貸出禁止
田舎間の畳で寝るから、五八よか丈が低くなるんよ >>199
福岡ら辺もに、ほぼ用途が雑煮に限定の「かつお菜」という菜っ葉がある。
小松菜とは見た目全然違う。白菜の外葉のような形で色を重いっり緑を濃くしたようなの。
独特の苦味があるので、下ゆでしてから使う。
福岡県全域佐賀県一部で使うけど、正月の雑煮の具がカツオ菜だけというのは
旧秋月領(筑紫野市、朝倉市等)のあたりの一部の地区にある。 期間と用途がほぼ限定されてる葉野菜の栽培が良く続いてるな
他の野菜の端境期かと思えばむしろかぶってるし >>11
実は国内で、白米(だけの主食)の大量摂取は歴史短い〔※配給制で普及〕
なお
「白米(だけ)の主食が一般に広まった時代」から、日本人は急速に体格向上
◆> お米が私たちの主食になったのは、
◆> 第2次世界大戦以降で、歴史としては短いのです。
> それ以前は、
★> 麦・ひえ・あわなどの雑穀(ざっこく)に、お米2~3割を混ぜたご飯を食べていました。
> 他には、
★> そば・いも・とうもろこし・大根・豆類などが、主な食糧となっていたのです。
> 参考/吉川弘文館「お米と食の近代史」
特に農民なんて、米を作っても、実際は「雑穀を多く食べ」てきたし
※地域によって、サトイモ・麦・サツマイモ…雑炊が主食だったり >>10-11
江戸時代の農民の食生活を『錦町史』では、以下のように記述している。
(引用元) www.ysn21.jp/~eipos/data/2006/WB18_001/kyoudoryouri/annkozusi/newpage1-4-2-2.html
『寛永十九年(1642年)の『郷村諸法度』には農民の食物は雑穀を用い、
米を多く食べないように申し渡す事とあるが、
年貢などの負担が大きくて、
こうした法度がなくても農民は米を食べることはほとんどできなかった。
(中略)
農家の食料は米と麦を二対八、又は三対七にして二度炊きにしたり、
粥や雑炊にして、雑穀を主食にしたものが多かった。
さらに、米麦の不足を補うために、大根飯、菜飯を食べ、
春先には令法(りょうぼ)の若葉を入れた令法飯や令法雑炊として食べ、
米を作る農民が米を食べられなかったのである。』 このスレ
世界史板に比べてあまり皿の枚数が進んでないな まとまったページ見つけた ≫ 貧乏人は麦を食え
> 昭和初期まで農家も米を食べられなかった
引用元:キヤノングローバル戦略研究所) cigs.canon/article/20220823_6945.html
> 当時は、米は高級財で、麦が劣等財だった。市場経済であれば、裕福な人は米を食べ、貧しい人は麦を食べる。
> 安い価格の米の配給制度を維持して、貧しい人にも米を食べさせる必要はない。
> 池田勇人の発言の趣旨は、
> 大蔵大臣としては金のかかる統制制度は廃止して自由な市場経済に移行すべきだというものだった。
~
> 戦前、米を食べられるのは裕福な家庭に限られていた。米は「銀シャリ」と呼ばれ、
> 一般人のあこがれだった。
> 日本人がすべて米を食べられるようになったのは戦後のことである。
> 明治から昭和の初期にかけて、かなりの農家は米を食べていなかった。
> 小農は、作った米を売って肥料代や生活費を捻出し、
> 自分たちは麦やアワ、ヒエといった雑穀に大根などの野菜を加えて増量した雑炊を食べて、
> 飢えをしのいでいたのである。
> 小農にとって、米はめったに食べられない高級品だった。
> 米を食べても、それは通常の商品としては流通しない屑(くず)米だった。
> 柳田國男は、明治時代の農民は、ハレの日以外、米を食べていなかったと書いている。 日本では昆虫食って流行っていたの?
戦争中とか飢饉を除いて 鹿児島が近年、お茶の生産量日本一になった
静岡平均2.6Ha
鹿児島平均6.5Ha
と比較的に大規模
とはいえ知名度的に九州ならトップは八女茶(佐賀県)だろう今後ブランド力を強化していくと思われる 「日本料理は過大評価されている」日本在住の外国人大学講師が英誌に寄稿
在日認定だ!!!! 中国人や朝鮮人は外国人にエセ日本料理なんかださずに
埃アル粗国の料理をだすべきだと思いま~す
外国でエセ日本料理をだす中国人と朝鮮人は粗国に埃をもたないイルボンの犬ニダー >>231-233
日本人が、ハワイの食事(高カロリー・高脂肪・大量の肉)だと
肥満は増えたのに、身長が…
日本人が太りにくいわけでない、ハワイの日系人を見よ
[元HP]gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/14/091100024/022400042/?P=3
○>日本人の平均体型が身長168cm、66.9kgであるのに対し、
▲>日系アメリカ人は身長167cmとほぼ変わらないが、体重は78.7kg。
▲>BMIでは英・米国人を凌いでいる(下図)。 >>240
んなこたない
庶民もコメは普通に食ってましたよ
穀物依存度が高いから白米に雑穀も混ぜて食べてただけや 下水処理水で生産量10倍に 近畿大がサツマイモ栽培
日本の伝統的な農業を守り抜く 文禄年間の大坂の町人の代表的な献立
一度に食うのでなく、食事ごとにそれぞれ1種を提供
・汁物
ザクザク(根菜類の汁)、ヨモギザクザク、干葉・ほしは(天日干しの大根や葉、茎などを汁の具にしたもの)、カブラ、イモノクキ、納豆、ツクシ、タケノコ、シメジ、ササゲ、ナメススキ(ナメタケやエノキダケの汁)
・菜
ナマス、柚子ナマス、細切り青スのナマス、鳥のナマス(鶉・ウズラ、小鳥)、マナガツオの刺身、鯉の洗い、酒ビテ(干した魚や肉を酒に浸したもの)、ナシモノ(塩辛)、ウメカツオ、アサツケ、香の物
・煮物
煮しめ(ハラハラ、芋、ゴボウ)、煮しめ(麩、青メ、豆腐)、串アワビ、蒸しカブラ、雲雀のノッペイ、葛豆腐、湯豆腐
・焼き物
鮭の焼き物、鯛の焼き物、小鮎の焼き物、鴈のヘギヤキ、カワラケ二雲雀、カワラケ二鶉(ウズラ)、田楽、ウナギ
・菓子
焼き栗、栗、水栗、炒りカヤ(カヤの実を炒ったもの)、センベイ、フノヤキ(小麦粉を水でといて薄く焼き、味噌をつけて巻いたもの)、コブアブリテ(昆布を炙ったもの)、ザクロ、梨、よもぎもち、焼き芋、黒豆、ヒヤシモノ(季節の瓜や野菜、果物を冷たい塩水に浮かべたもの 1939年8月6日 日本郵船筥崎丸の昼食
野菜の細切り入り澄ましスープ
種々の野菜入りビーフシチューアングレーズソース ブロッコリーのバターソース添え
トッセサラダ
グレープフルーツシャーベット
パン
コーヒーまたは紅茶
日本郵船筥崎丸
1945年3月19日上海沖で沈没 平安時代のピラフ
和名類聚抄より
油飯 楊氏漢語抄云膏味〈阿不良以比〉麻油炊飯也一云玄熟 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています