X



邪馬台国はここだ!
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001日本@名無史さん垢版2019/08/05(月) 15:29:28.14
邪馬台国が九州島内にあることは99.99%確定した。

そこで、九州島内のどこに邪馬台国はあるのか、決定しよう!
0010日本@名無史さん垢版2019/08/05(月) 15:56:50.78
指宿
0011日本@名無史さん垢版2019/08/05(月) 17:54:57.45
熊本城。。。
0106日本@名無史さん垢版2019/08/09(金) 16:48:29.85
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0108日本@名無史さん垢版2019/08/15(木) 10:04:51.87
まあ、記紀を調べればわかることだが、西暦672年の改暦以前の日本書紀にはいろいろ矛盾してるようにみえる記述がたくさんあって
その時期の暦についてある事実を仮定すればそれら大量の矛盾点がウソのようにぴたりと整合するわけで
その事実をもとに日本の歴史を組み直せば、記紀の記述はじつはすべて真実の記録であり、欠史八代もなく、神武天皇も実在するのだが
その場合、神武天皇の即位は紀元前ではなく、紀元後の西暦377年3月12日となる

つまり、それ以前はまだ神武東征の前であり、天皇家は九州の宮崎にいたわけで、
畿内に邪馬台国のような30カ国をも従えるような強力な王権など、あるわけがない
0109日本@名無史さん垢版2019/08/15(木) 10:42:12.65
神武即位の年代を絞り込むことは難しいが、概ね同意する。
おそらく卑弥呼の前の男王70〜80年が日向三代なのではないか。
そうすると伊都国の甕棺墓が天孫族、伊都国の官のネギがニニギの末裔。
いかにも多くのことが矛盾なく収まる。
0110日本@名無史さん垢版2019/08/16(金) 09:58:08.46
放置スレあげ
0111日本@名無史さん垢版2019/08/16(金) 11:57:03.81
日本人じゃない人間が書いた客観的証拠である魏志倭人伝が邪馬台国が九州にあると証言してるんだからこれは歪めようのない事実だよ
0112日本@名無史さん垢版2019/08/16(金) 15:04:23.17
それどころか、日本人が書いた史書でも、筑紫は神代の王都なんだよ。
0113日本@名無史さん垢版2019/08/16(金) 16:48:51.14
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
博多湾沿岸は、倭国の王権の発祥の地として知られている。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
0114日本@名無史さん垢版2019/08/16(金) 16:58:50.93
天皇の祖先がどこにいたのか、邪馬台国がどこにあったのかという話は別にして、巻向で岡山から新潟、愛知あたりの土器が発掘されていること、三角鏡の材料が岐阜ってことを考えれば、当時既にかなり広範に影響力があるシステムが既に奈良にあったのは確かだよ。
0115日本@名無史さん垢版2019/08/16(金) 17:04:07.61
奈良にあったのではなく、尾張にあったんだよ。
西日本の覇者である天照国照ニギハヤヒの末裔たる物部氏、尾張氏の本拠地だ。
0117日本@名無史さん垢版2019/08/16(金) 17:04:36.80
土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。

https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg

また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
記紀の出雲の国譲りが倭国の対外交渉権の移譲だったのだのだろう。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。
0118日本@名無史さん垢版2019/08/16(金) 17:08:43.78
もともと筑紫は天孫ニニギの、関西は天孫ニギハヤヒの国とされている。
神武は何らかの理由で筑紫を出て、大和にいたニギハヤヒを頼って来た。
ニギハヤヒについては塩土爺から聞いたと書いてある。
畿内にいた勢力も、もとは筑紫の分家なんだよ。
西日本の全ての王族は、博多湾沿岸に誕生したイザナギの王家の末裔であり、海運を司る海人族またの名をアマツカミ。
0119日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 00:06:40.10
>117
集散地ってのがよくわからない。
物流上の中継地にするなら山に囲まれた奈良盆地は経由しない。
当時の物流は水路、平地、山道の順でかなり困難になる。
奈良盆地にモノを運ぶにはかなり迂回しなければならない。
尾張から北九州にモノを運ぶなら、関ヶ原を超えて琵琶湖に入り、巨椋池から淀川経由で河内湾を経て海路で瀬戸内海、九州だよ。
0120日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 01:06:08.17
>>119
正解。
多分、元の図はそれをあたかも纒向経由であるかのように見せかけている。
それでも、周囲に一番影響を与えているのが終わりであることは隠せていない。
0122日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 01:55:50.64
いや、寧ろ逆で
にもかかわらず、巻向で各地の土器が出土して岐阜の原料使った三角鏡がわんさかでてくるんだから、巻向に何か有りましたよ、っていう証明だと思うんだけど。。。
尾張は大規模な遺跡が無い上に河川が当時は大規模に氾濫してた筈だから、吉野ヶ里みたいに河川の氾濫を利用した米作中心の弥生時代型集落は想定出来ても、古墳時代型の集落があったと考えるのは農業技術的に厳しいと思う。
0123日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 03:59:31.91
岐阜の材料ってなんのことだ?
尾張の朝日遺跡とか知らないのか?
0124日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 08:22:51.59
>>117をみてると、当時の日本が出雲と筑紫の2箇所で海外交流してたことがわかる
魏志倭人伝によると、倭国は「もと百余国」とされ、その後5世紀の倭王武の時代には「東国55カ国、西国66カ国」の計121カ国からなっている中
邪馬台国はそのうち30カ国の長なわけで、全国の4分の1を代表してたわけだ
だとするなら、筑紫が邪馬台国であり、出雲は残り4分の3の代表国だってことで確定だろう
0127日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 10:02:39.02
>>117
そもそも邪馬台国は北九州確定、たぶん大分。

その図を見る限り北九州の国が瀬戸内海、出雲、四国と交流あるはずなのに倭人伝には詳しく載ってないんだよな。

女王国の東の海を渡る和種の国や侏儒国は佐田岬半島と土佐中村あたりと個人的には推定できるにしても。
0128日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 10:06:51.23
>>120
纏向は愛知静岡の土器が多いことから
東海地方勢力の西側前進基地として築いた説あるけど
大和と伊勢方面の交通って利便性良いわけないのにどうして?と思った。
0130日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 11:54:14.41
>>127
>そもそも邪馬台国は北九州確定、たぶん大分。

「丹」の採れない九州に、邪馬台国など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0131日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 11:57:20.99
>>127
>女王国の東の海を渡る和種の国

女王国(阿波)の東の海(紀伊水道)を渡る倭種の国(和歌山・奈良)   @阿波
0132日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 12:41:45.65
>>128
やはり地理だけでは決まらない分断があったのだろう。
大和と河内が絶交状態だし。
尾張に強大な勢力がいたとしか考えられない。
0133日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 12:56:18.78
>>132
>大和と河内が絶交状態だし。

違う! 河内より大和への「忌部はん」 の入植が遅れただけ。  大和は大湿地帯だったからね、開拓が後回しになったのさ。


>尾張に強大な勢力がいたとしか考えられない。

尾張忌部だね。  倭国(阿波)の海人族だ。   @阿波
0134日本@名無史さん垢版2019/08/17(土) 22:38:07.08
異常者晒しあげ
0135日本@名無史さん垢版2019/08/18(日) 07:35:16.11
「若杉山遺跡(阿南)坑道発見」
「辰砂採掘 弥生後期 日本最古か」

阿南市と徳島県教委は31日、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(同市水井町)で、

辰砂を採掘していた坑道が見つかったと発表した。これまでは露天掘りなどの手法が取られていたとみられており、

より高い技術が必要な坑道で採掘されていたことは分かっていなかった。日本最古の坑道の可能性があり、今後、詳しく調べる。

遺跡は、太龍寺山(標高618m)の標高約140〜250mの地点の斜面にあり、坑道は約250mの地点で見つかった。

奥行きは約14m、高さは約70〜90cmある。

市が国史跡指定に向けて昨年8月から行った調査では、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点見つかった。

このため、辰砂の鉱脈を含む岩を横穴式に掘り進んだ坑道だと断定した。

入り口から約50m離れた斜面では、掘削する際に出たがれきなどが捨てられた「ズリ場」も確認された。

その付近で弥生土器の破片が発見されており、坑道も弥生時代に使われていた可能性があると判断した。

市などは来年度以降、坑道内部の調査を本格化させ、時代の特定につながる土器などを探す。付近で他の坑道の有無も調べる。

現在、日本最古の坑道は奈良時代に銅を採掘していた長登銅山(山口県美祢市)とされている。

若杉山遺跡調査検討委員会の大久保徹也・徳島文理大学教授(考古学)は「この時期は、むき出しの岩を石杵で砕くなどして辰砂を採掘していたと考えられていたため、

これまでの考え方を覆すかもしれない」と指摘している。  徳島新聞 平成30年2月1日   @阿波
0136日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 08:39:15.28
尾張の朝日遺跡は弥生時代だろ。
古墳時代とは数世紀ずれてる。
なにより弥生時代後期の灌漑技術ではクニを作れる場所自体が限られる。
朝日遺跡の時代では周りに数十カ国クニがある状態にはなってないだろう。
古墳時代前期の大規模集落遺跡が出てこないことには尾張説は説得力が無い。
0137日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 08:44:10.18
そして纒向はその尾張の流通センター
0138日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 09:06:22.63
斉明天皇は朝倉に遷都してるんだよね
なぜ朝倉か、つまりそういうことだろ
0140日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 09:44:37.28
大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。

徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。

(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)   @阿波

http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm
0141日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 11:39:06.87
倭人伝に書いてある邪馬台国なら

帯方郡から南へ12000里(3千里東行含む)
在海中の州島の上、東に渡海しても倭地
糸島、福岡、筑紫平野の次有(和音漢訳名の)21国で7万戸
この21国は、徒歩周旋可5千里
この21国が女王国の全てで、南に接する狗奴国は女王に属さない敵性国。

基本的には、後の筑紫国である。
邪馬台国の概念として、>>106 程度まで読めれば、まあ上出来。
>この21国は、徒歩周旋可5千里
によって、長崎(肥前)や北九州〜宇佐(豊国)は含むのは無理。
0142日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 11:42:26.64
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
0143日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 11:47:21.72
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいたw)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる!
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12000里となる「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
0144日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 11:48:05.74
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
0145日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 11:49:00.76
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大物主→饒速日の纏向宮殿→神武東征→倭迹迹日百襲姫の祭殿)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」
0146日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 11:50:24.28
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
0147日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 11:51:12.16
>>143の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>145
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」
0148日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 11:55:16.17
>>143
>>147
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀への牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉への牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権を得ること。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)

畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を支配下に置くのは物理的に不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
0149日本@名無史さん垢版2019/08/19(月) 22:05:36.35
狗奴国の位置の話をするなら後漢書で東になってる点に触れないと
0150日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 05:27:32.88
>>132
その尾張の支配者である尾張氏は北部九州から日本海と瀬戸内海沿岸を制していた海人族・安曇氏と同じく
海神・豊玉彦=大綿津見を祖神とするいわば兄弟氏族で皇室ともごく近い親戚である
(神武天皇の母も父方の祖母も豊玉彦=大綿津見の娘)
http://img-cdn.jg.jugem.jp/472/1262880/20190718_2587894.png

また、後に大和の地を治めた倭国造の祖・珍彦も同祖氏族
つまり大和政権というのは東征した北部九州の海人たちの政権なんだよ
0151日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 06:22:38.32
>>150
だから、尾張忌部 だと、何度言えばw   @阿波
0152日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 06:32:51.61
>>148の続き
すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明!!!
古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交=日出処「天子」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…前方後円墳の大連物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の歴代倭王権(九州王朝)内の交代が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0153日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 06:55:52.79
纏向は墓地遺跡。
今も昔も大人口を抱える大阪周辺から見て東北に位置する高地で寒冷地。
土葬の埋葬を考えると死臭を避ける意味でもそうなるし、各地域の土器の
出土も副葬品とみれば納得できる。
奈良の語源も朝鮮語由来よりも仏教由来の奈落からの方が合ってると
思う。
0154日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 07:13:46.86
>>152の続き
邪馬台国女王台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼし前方後円墳築造を廃止。その妹推古が悲願・仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0155日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 07:14:05.63
>>153
>纏向は墓地遺跡。
0156日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 07:16:03.94
纏向遺跡は、「忌部はん」 たちの古墳造営前線基地。   @阿波
0157日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 07:18:51.96
>>154の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
漢〜魏晋南北朝〜隋唐まで、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との連携外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として実行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を裏付け&定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである!
0158日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 07:25:49.25
>>157の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都太宰府を殲滅できた大帝国・唐外交への忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、

A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智の都・太宰府)にあったこと
 →3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
 →天智以降の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
 →同時期の大和分家・厩戸皇子と合成して、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造し抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
 →舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)

-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html
0159日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 08:40:15.28
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0160日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 09:35:30.68
畿内厨によれば、
「 (偽りの)陳寿の行程記事の通りに進めば、東南陸行500里にあった伊都国は、
(今は何もない)佐賀川上だった」、という。 
・・そう、たとえ偽りであっても それでいいんだよ。。。
0161日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 09:45:34.04
>>150
>その尾張の支配者である尾張氏は北部九州から日本海と瀬戸内海沿岸を制していた海人族・安曇氏と同じく

尾張氏は饒速日の末裔で物部氏と同祖ではなかったですかね?
まあ、饒速日が玄界灘の高天原の天孫なので、大同小異ですけど。
その尾張の傘下であった纒向も尾張物部の物流基地なわけですよ。
記紀によると纒向は崇神の宮という説も成り立つけれど、崇神の母方は物部らしいので、同じことを違う角度から見ているだけ。
0162日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 09:46:07.46
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合も纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
考古学的には邪馬台国畿内説は成立することが困難である。
0163日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 09:46:36.28
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。

その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。

この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。

古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0164日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 09:50:32.17
族誅とは、封建時代の中国において、重罪を侵した者について、本人だけでなく一族についても処刑すること。
族滅もしくは三族/九族皆殺しとも呼ばれる。
三族について、『史記集解』中で張晏は「父、兄弟及び妻子」と、如淳は「父族、母族及び妻族」と注している。
一方で『周礼』春官宗伯の鄭玄注では「父、子、孫」としている。
九族については、『三字経』では高祖父、曾祖父、祖父、父、本人、子、孫、曾孫、玄孫としている。
0165日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 10:23:39.12
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0166日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 10:25:26.62
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?

なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?

近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0167日本@名無史さん垢版2019/08/20(火) 12:49:53.81
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww
0169日本@名無史さん垢版2019/08/25(日) 18:32:35.33
>>168
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?   @阿波
0170日本@名無史さん垢版2019/08/29(木) 05:23:53.85
八幡(ヤバダ)≒邪馬台(中国の発音でジャバダ)
...ガチの主張というより言葉遊びに近いけど。
0171日本@名無史さん垢版2019/08/29(木) 05:28:22.21
縁起不明ながら日本全国に広がる八幡信仰の正体としてはロマンがあると思いご紹介。
0172日本@名無史さん垢版2019/08/29(木) 06:38:45.40
>>171
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?   @阿波
0173日本@名無史さん垢版2019/08/29(木) 09:56:52.73
八幡の語源はヘブライ語の「ヤフダ」、秦氏の「ハタ・ハダ」と同様、イスラエル12部族中のユダ族を意味する。
0174日本@名無史さん垢版2019/08/29(木) 15:25:10.73
フェニキア語じゃないの?
0175日本@名無史さん垢版2019/08/29(木) 16:14:53.99
>>173
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?   @阿波
0176日本@名無史さん垢版2019/08/31(土) 07:31:05.54
日本書紀と古事記を1300年に渡り鵜呑みにさせられてきた我々には衝撃的ですが、
本当の歴史、史実を一子相伝で口伝、伝承してきた元出雲王国の王家(本宗家)末裔がタブーを破ってその内容を世間に公開しています。


未だにあれこれ憶測や仮説がプロアマ入り乱れて世間に氾濫していますが、古事記や日本書紀の記述共々一蹴してしまっています。

出雲王国の興亡。徐福の渡来が弥生時代を開いたらしい事。徐福の子孫らの神武東征の真実、欠史8代?や天皇家は出雲王国の末裔(我が国は一度滅ぼされた出雲王国(天照大神)が諸々あって再び王家の直系血筋が大王(天皇)になった(岩戸が開き天照大神が再来))、、、諸々
事実関係、由来、憶測や余談を挟まず
0177日本@名無史さん垢版2019/08/31(土) 07:46:46.58
>>176
それは、倭国(阿波)の真実の公開かな?  わははははは   @阿波
0178日本@名無史さん垢版2019/08/31(土) 08:08:11.48
魏史倭人伝に言う卑弥呼は二人いて、

実際に魏に使節団を送り親魏倭王に叙任された卑弥呼=媛巫女(ヒメミコ)は豊国宇佐の豊玉姫。
当時、その少し前に徐福(自称ニギハヤヒ)の渡来以来吉野ヶ里を本拠地(宮都)としていた物部王家(筑秦国→筑紫国)のイニエ王は始祖、徐福以来の悲願である大和を平定して大王となる大業を実行に移して

吉野ヶ里を旅立ち南下、兵を集め鹿児島(アタ地方)の出雲王国系豪族の娘に一目惚れして一夜必中の濃い種水により見事懐妊したお姫様(アタつ姫/コノハナサクヤ)はイクメで男子を出産。
出生地のイクメに因んでイクメ御子と呼ばれます。
イニエス王は宮崎の都万に至り国を建てました。
このお姫様(后)、美人薄命だったようで都万の都でお亡くなりになりました。
(ニニギ、コノハナサクヤ姫、火中出産(ワニになって(ワニは出雲族の信仰による)出産)。ウガヤフキアエズ、神武、崇神、、、等の神話を創作)

北の雄、太古より栄える豊国宇佐族と対峙して一触即発の緊張の中、講話、和平が成されて

豊国宇佐王家の月読神の媛巫女、豊玉姫と都万国物部イニエ王は政略結婚する事で
豊国都万国の連合王国が成立。

イニエ王は大和攻略の準備に各地の有力者や豪族らに参加、協力を促し招聘。

その中にいわゆる武内宿祢大田根(初代)もいました。

やがて西都原周辺にまで広がった人口が増大して魏史に言う様に七万戸にもなったようです。

そのイニエ王も長生き出来ず若死にしていまいました。

その後を媛巫女の豊玉姫は大后として都万国豊国の実権を掌握して女王として君臨。

彼女は亡き夫の遺志を奉じて、
強力な権威と勢力をゆうする後ろ楯が必要と考えて
魏帝国に使節団を送り、属国化しました。
その際に「親魏倭王」に叙任され、魏帝国の「軍旗、錦の御幡が八流」が下賜されて
宇佐の宮に翻っていた事が後世、「宇佐宮を八幡宮」と言う端緒になったようです。
0179日本@名無史さん垢版2019/08/31(土) 08:30:53.95
>>178
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?   @阿波
0180日本@名無史さん垢版2019/08/31(土) 08:35:12.58
>>178
使節団が帰国、魏帝国の使節団が豊国都万国連合王国の都の宇佐に至り、
魏帝国の使節から正式に皇帝からの叙任、儀式を済ませ、軍事顧問団が駐留。

いよいよ豊玉姫は総帥として全軍を率いて勇躍出師しました。
が、大和王朝の親戚の吉備王国が予想外に頑強に抵抗して行く手を阻み足止め状態を余儀なくされる中、
今度は有ろう事か、総帥の豊玉姫が陣中で没してしました。
交戦中の事ゆえに遺体は安芸の宮島に仮埋葬。
後に遺体は宇佐に移送されて宇佐王家の御陵山に埋葬され宇佐神宮に祖先霊と共に祀られた由

仕切り直しを余儀なくされた九州勢は戦略を建て直して
まず、平定に際して媛巫女の存在は民衆を心服させる為に不可欠なため、
豊玉姫とイニエ王の娘の豊姫が豊玉姫の後継者 となり親魏倭王、月読神の媛巫女
(大和入した後布教した彼女は「稚日霎貴命/稚日女命」と称された)に就任。

戦略は日本海を進軍して大和王朝の本宗で後ろ楯であった出雲王国を殲滅して平定した後北から大和に入る別動軍と、

イニエ王の遺児で嗣子のイクメ王率いる本隊は瀬戸内海を突っ切って真っ直ぐ大和に入るり二面挟み撃ちの戦略を建てて改めて全軍が進軍。
0181日本@名無史さん垢版2019/08/31(土) 08:35:57.89
>>180
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?   @阿波
0182日本@名無史さん垢版2019/08/31(土) 08:49:53.23
ウソつき纒向学と桜井市は閻魔さまに召された。
これからは橿原学と橿原市の時代。・・・これは卑弥呼さまのお告げ。
0183日本@名無史さん垢版2019/08/31(土) 09:11:00.70
>>182
倭国(阿波)は、類まれな遺跡の裏付けで、盤石。  これからは阿波の時代である。  わははははは   @阿波
0184日本@名無史さん垢版2019/08/31(土) 09:13:31.36
>>182

ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの?  畿内の近場に温泉がなかったの?   @阿波
0188日本@名無史さん垢版2019/09/13(金) 06:51:22.22
>古風土記編纂時に温泉が九州にないってことは無いと思うよ。

だよね。  では、

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0191日本@名無史さん垢版2019/09/15(日) 16:11:42.95
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0192日本@名無史さん垢版2019/09/15(日) 16:22:59.47
>>189
>古風土記編纂時に温泉が九州にないってことは無いと思うよ。

だよね。  では、

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0194日本@名無史さん垢版2019/09/15(日) 17:29:28.69
>>189
>古風土記編纂時に温泉が九州にないってことは無いと思うよ。

だよね。  では、

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0196日本@名無史さん垢版2019/09/16(月) 10:38:21.69
【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0197日本@名無史さん垢版2019/09/16(月) 14:20:29.73
>>196
書いてて虚しくならない?

畿内でしかありえないのに脳内のファンタジーキューシューアイランドに比定して意味あるのかww
0198日本@名無史さん垢版2019/09/16(月) 14:42:47.96
九州説の考古学的根拠が圧倒的すぎて罵倒しかできないウソツ畿内であった
0199日本@名無史さん垢版2019/09/16(月) 15:11:39.42
畿内説は宮内庁か文科省から金でももらってんのか
金印も九州
曹操と同じ鉄鏡も九州
鉄製品も九州
巻向の桃と蛙の骨で何を語るのよ

 
0201日本@名無史さん垢版2019/09/17(火) 19:24:45.33
>>124で確定だろ
邪馬台国よりも前の倭国が分かれて百余国で、邪馬台国よりもあとの倭王武の頃が合計121カ国なんだから、邪馬台国の時代も倭国は合計121カ国前後なわけで、そのうち30カ国が邪馬台国陣営
残り90カ国のほうに畿内があるわけだ
0204日本@名無史さん垢版2019/09/19(木) 10:04:19.11
>>189
>古風土記編纂時に温泉が九州にないってことは無いと思うよ。

だよね。  では、

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0209日本@名無史さん垢版2019/09/19(木) 18:39:39.94
>>189
>古風土記編纂時に温泉が九州にないってことは無いと思うよ。

だよね。  では、

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0211日本@名無史さん垢版2019/09/19(木) 19:13:42.72
投馬国は女王国より以南の国
0212日本@名無史さん垢版2019/09/20(金) 06:36:12.94
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。  @阿波
0214日本@名無史さん垢版2019/09/20(金) 11:44:15.44
仲哀とかウソくさ
0215日本@名無史さん垢版2019/09/20(金) 12:21:27.42
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。  @阿波
0218日本@名無史さん垢版2019/09/20(金) 18:05:02.08
何回唱えても嘘は真実にはならないのに。
0219日本@名無史さん垢版2019/09/20(金) 23:02:43.22
投馬国は出雲だろ
0220日本@名無史さん垢版2019/09/21(土) 07:11:13.33
島根県民によると、出雲が邪馬台国。
0221日本@名無史さん垢版2019/09/21(土) 07:43:46.29
三国志魏志の「卑弥呼」「邪馬台国」は当時朝鮮半島南部にあった
「卑弥国」「邪馬国」という小国をネタに稀代の知謀家司馬仲達が
でっち上げた歴史を変えたお芝居・フィクションなんだよ

司馬仲達の一番の派手な軍事的功績は公孫淵の撃破だが
それにより最大の敵呉の後背に位置するインド亜大陸並の巨大な倭人国家群を
魏の勢力圏下に納めたというのがこの軍功のセット(嘘だけど)

それまでその知謀の評価は高かったものの軍事的能力については
ヘボと言われていた仲達はこのフィクション込みの軍功により
魏朝で他を圧倒する臣の地位を確立する

司馬仲達の孫が魏をのっとって晋を樹立できたのも
このフィクション込みの軍功のおかげ

皇帝でもない司馬仲達を「高祖・宣帝」とよび
爺ちゃんをヒーローとする三国志正史がこのお芝居を
追認することでフィクションは「史実」となった
0222日本@名無史さん垢版2019/09/21(土) 13:06:25.98
朝廷の祭祀には玉が祭料,幣帛として使われた。 忌部は,大和朝廷が祭祀に必要としたその玉類の生産,調達にかかわっていたとの指摘がある。

忌部の祖神である「天太玉命」に玉の文字が含まれていることも偶然ではないはずだ。

「日本書紀」(神代下第九段)に忌部に関する記述があり「…櫛明(くしあかる)玉神を作玉者とす…」とある。

「古語拾遺」にも似た記述があり,忌部氏はいろいろな神を率いて幣帛・祭具の生産に従事した。

櫛明玉神は出雲国の玉作の祖という。

さて,島根県で玉作といえば,出雲玉作遺跡がある玉湯町,松江市忌部だ。 つまり旧意宇郡忌部郷を中心とする地域だった。

「延喜式祇式」臨時祭条に「…毎年十月以前令意宇郡神戸玉作氏造備…」とある。

これを「出雲風土記」と照らすと,毎年十月に玉を調達した玉作氏の住む意宇郡神戸が,「和名抄」に出てくる「忌部神戸」であることが明らかになる。

つまり出雲の玉作りは忌部が行っていたわけだ。

もちろん,忌部の祖神を祀る天太玉命神社がある奈良県橿原市の近くにも玉作遺跡である曽我遺跡がある。 大和朝廷の官立の玉作工房だったようだ。

徳島の玉作遺跡は,徳島市国府町矢野の「矢野遺跡」と三好市三加茂町の「稲持遺跡」がある。 両遺跡とも緑灰色の蛇紋岩を使用し,勾玉の製作をしていた。

矢野では気延山や眉山から石を運んできたようだ。 時代は矢野が若干古く弥生時代後期後半とみられる。

矢野遺跡周辺は,いうまでもなく古代阿波が最も栄えていた土地である。  @阿波
0224日本@名無史さん垢版2019/09/22(日) 11:25:00.72
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0225日本@名無史さん垢版2019/09/22(日) 15:22:45.42
投馬国は女王国より以南の国、ぞな!
0228日本@名無史さん垢版2019/09/25(水) 00:00:48.28
魏志倭人伝の東西南北はおかしいよ。フィーリングで方角決めてる感じがする。

南=奥という解釈が航海ルートを瀬戸内海に比定した場合畿内説に一番しっくり来る
0230日本@名無史さん垢版2019/09/25(水) 07:49:30.69
>>228
フィーリングだけで国の代表がフラフラ移動するのか。
畿内説は脳内お花畑だな。
0231日本@名無史さん垢版2019/09/25(水) 10:54:38.03
記述どおりに移動したら沖縄よりはるか東の海の上になるんじゃなかったっけ?

九州だと思ってる人らは記述のどこをどういじって九州に辿り着いたことにしてるの?

方角は正しく里程が誤ってると言いたいのならそちらの方が不自然じゃないのか。

邪馬台国に至るまでの水行20日が存在するのだから、九州に巨大な内海か湖でもない限り瀬戸内海通ったとしかありえないだろ。

魏志の著者は日本列島が九州を付け根に南に伸びた列島だと思っていた節がある。

方角が分からなかったとしても移動した距離や日数くらいは正確なはずだよ。もしあの日数をかけて九州の同じ所をぐるぐる回されてたとするならそれに気付かない方が不自然だ。
0234日本@名無史さん垢版2019/09/25(水) 16:24:56.61
>>231
>記述どおりに移動したら沖縄よりはるか東の海の上になるんじゃなかったっけ?
>方角は正しく里程が誤ってると言いたいのならそちらの方が不自然じゃないのか。
>邪馬台国に至るまでの水行20日が存在するのだから、九州に巨大な内海か湖でもない限り瀬戸内海通ったとしかありえないだろ。

それはすべて畿内説の主張だろ?
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、そのうち一万里で九州に上陸するんだよ。
残り二千里では縮尺から言って福岡県を出ない。
方角も里程も、魏志倭人伝の中では辻褄が合っている。
日程は、邪馬台国と投馬国(郡使は行っていない)までの所要日数をあらためて述べたもの。
里程と日程を分けないといけない。
邪馬台国までの水行10日は、朝鮮半島沿岸と対馬海峡について、1日千里で対応していると考えられる。
0235日本@名無史さん垢版2019/09/25(水) 19:19:24.50
>>233
キナイコシさん

フェイクニュース流すのは自分の崩壊スレだけにしてくださいよw
0236日本@名無史さん垢版2019/09/25(水) 19:46:29.60
二千里って8000km弱あるんだぞw自分の都合の良いように解釈するなよ。距離の長さは適当でいいのか?九州北部と

その謎の里の定義を教えてくれ?
それに朝鮮半島から九州に渡るのになんで10日もかかるんだよ。
0238日本@名無史さん垢版2019/09/25(水) 20:18:01.97
>>236
九州になってしまうからちゃぶ台ひっくり返すしかないわけだw
0239日本@名無史さん垢版2019/09/25(水) 20:24:43.79
>>238
碌な集落遺跡や資源の無い九州に、邪馬台国など在る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波
0240日本@名無史さん垢版2019/09/26(木) 06:24:29.56
九州って平安時代までずっと縄文の頃と変わらない生活してたんだろ。
0241日本@名無史さん垢版2019/09/26(木) 07:46:30.41
2 :日本@名無史さん :2019/09/18(水) 06:58:40.88
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
0242日本@名無史さん垢版2019/09/26(木) 07:47:07.57
4 :日本@名無史さん :2019/09/18(水) 06:59:23.74
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
0243日本@名無史さん垢版2019/09/26(木) 08:15:44.73
こいつの論理ならムー大陸やアトランティス文明も九州にあったことにされそうだな
0244日本@名無史さん垢版2019/09/26(木) 15:30:06.22
>>236
なんで1里4km計算なんだよ
日本の江戸時代限定の特殊ルールをなんで魏志倭人伝に適用しようとするんだ?
0246日本@名無史さん垢版2019/09/27(金) 12:06:09.08
九州だと思う
地理的に考えても九州山陰地方までと思う
0247日本@名無史さん垢版2019/09/27(金) 12:31:23.36
つまり筑紫と出雲だけ。
日本の古代史の主役はこの二国(と高天原)。
0248日本@名無史さん垢版2019/09/27(金) 14:17:41.87
筑紫が九州の国々の中心地で、出雲が本州と四国の国々の中心地だったんだろうな
邪馬台国よりも後の倭王武の時代、日本は東国55カ国、西国66カ国の計121カ国で成ってたらしいから、そのうち狗奴国1カ国を除いて、邪馬台国30カ国と、東の海を渡った倭種の国々90カ国とをそれぞれ考えれば
邪馬台国30カ国のほうが筑紫を中心とする九州の国々で、東の90カ国のほうが出雲を中心とする本州、四国の国々だったんだろう
0249日本@名無史さん垢版2019/09/27(金) 15:12:10.51
>>248
碌な集落遺跡や資源の無い筑紫や出雲に、中心地など在る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波
0250日本@名無史さん垢版2019/09/27(金) 15:19:44.11
魏志の他の地域の章で使われてる里の長さも九州説の言うとおりなの?
0251日本@名無史さん垢版2019/09/27(金) 15:27:50.94
九州説なんてありえないよ。それだけ力があって人口も農業生産力もあった九州がなんで古墳時代以降歴史の表舞台に出てこなかったんだ?
0252日本@名無史さん垢版2019/09/27(金) 15:31:20.37
奈良盆地が何か言うとる
0255日本@名無史さん垢版2019/09/27(金) 18:20:06.27
>>251
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg


> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と


> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ
0257日本@名無史さん垢版2019/09/27(金) 22:25:32.36
来週北九州遊びに行くから、
お前ら的に九州説を確信できるような遺構あれば教えてくれ。

儂は関西在住で大和説側の遺跡は一通り見てどう考えても九州よりこちらの方があり得ると思ってるのだが。

人間の主観と政治的思惑が組まこまれてる書物よりも実地検証の方がよほど価値があると思う。
0258日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 00:10:20.96
九大伊都新キャンパスおよびその周辺は
まだ大規模な掘り返しをやってるはずだから
うろうろしてみたらいいんじゃないかな

掘り返しと言っても遺跡の発掘のためじゃなく
大型ビル群建設のためだけど

「いやそれそんまま上物建てちゃって良いのかよ?」
みたいなもんがわんさか


おれは「邪馬台国」というものの存在自体が
まさにあんたが言うところの「政治的思惑」の産物すなわち
フィクションだと確信している

だから「こっちの遺跡のほうがスゴイ!!だからヤマタイコクはここ!」
とあんたらが喧嘩していること自体が馬鹿げていると思う

当時の日本列島内の政治権力の最大規模の拠点がどこだと仮にわかったところで
それは「ヤマタイコク」の実在の証明にはならないと
何度言ってもあんたらにはわからない
0259日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 06:53:55.77
>>258
>それは「ヤマタイコク」の実在の証明にはならないと

「其山有丹」で決着済み だと、何度言えばw   @阿波
0260日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 09:29:04.66
>遺跡は一通り見てどう考えても

なにいってんだこいつ
だったらどの遺跡を見てきたんだ言ってみろよ
0261日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 09:43:38.18
>>257
自分も行ったことはないが、高祖山ハイキングとかは?
東に奴国、西に伊都国、北に博多湾や志賀島があり、倭国の中心部が一望できる。
中国の史書で倭として確認できる一番確実なエリアだよ。
筑紫に降臨した天孫ニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」
高祖山のすぐ北にイザナギが禊をした筑紫の日向の小戸がある。

まあ、観光なら太宰府天満宮と九州博物館のセットの方がいいだろうけど。
あと福岡市内にかつての王宮だったと思われる古い宮がたくさんあるね。
0262日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 10:42:05.73
>あと福岡市内にかつての王宮だったと思われる古い宮がたくさん

例えば?
香椎とかのこと?
0263日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 11:02:04.55
そうそう。
奈良県以外では福岡県に王宮の集中が顕著だね。
香椎宮
住吉宮
箱崎宮
櫛田宮
高祖宮
高良玉垂宮
筑紫橘広庭宮
筑紫岡田宮

おそらく紀元前の吉武高木遺跡の高床建物も王宮で、長らく博多湾沿岸が倭国の王都だったのだろう。
三種の神器を副葬された王墓が複数あるのも特徴だよ。

大宰府羅城は全長50キロと列島最大の城郭だったことがわかってきているし。
0264日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 12:59:13.54
そんなのあっても今出雲大社のようになってない事から察しが付くよ。

朝鮮の植民地だったんじゃないの?九州は。
0265日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 13:33:17.25
九州の宮の特徴は、遺構ではなく今でも丁重に祭られていることだな。
打ち捨てられた奈良の宮とはだいぶ違う。
0266日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 14:07:39.70
出雲と比較してみよう。古代出雲は多くの武具や神具が発掘されてることから強い王権があったのは確実であろう。

国譲りの神話が正しかったとしてかつて出雲の王権を大和に譲ったのが事実としても出雲大社はずっと宗教的な権威であり続け現在まで崇められている。

奈良だって平安京に遷都したあとでも多くの寺社仏閣が今も残っている。

だが九州はどうだ?どのように王権を移譲したか分からぬが何も残ってないではないか。

平安時代まで未開だった非文明地域九州に古代文明が有ったとは到底考えられない。
0267日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 14:25:01.42
>出雲と比較してみよう。古代出雲は多くの武具や神具が発掘されてることから強い王権があったのは確実であろう。

だったら、古代九州には圧倒的に多くの武具や神具が発掘されてることから
古代九州に圧倒的に強い王権があったのは確実であろう。


>国譲りの神話が正しかったとしてかつて出雲の王権を大和に譲ったのが事実としても出雲大社はずっと宗教的な権威であり続け現在まで崇められている。
>奈良だって平安京に遷都したあとでも多くの寺社仏閣が今も残っている。

仏教の前は神道。
九州には神社の総本山が今も多数存在して、現在まで崇められている。

ここまでぶっ飛んでると議論にもならないな。
パラレルワールドの日本に住んでるのか?
0268日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 14:30:16.62
>>257
畿内説なら関西から歩いてくれば卑弥呼の偉大さが体感できるかもしれない。
海をまたいだ広域をカリスマで治めたという古代のロマンや幻想にふけってみては
0269日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 14:48:12.11
マジレスすると真面目に弥生遺跡を見学したなら、
(遺跡そのものは看板しかないから、博物館や郷土資料館)
九州と畿内のあまりの文化レベルの差に愕然とするだろうよ
0270日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 16:02:05.84
出雲は大和に降伏したのではなく、高天原に降伏した。
それを受けて天孫とやらが豊葦原中国の王となるために降臨して即位したのが筑紫だよ。
その時の国見の詔が高祖山から眺めた博多湾の情景を的確に描写している。
記紀は筑紫の日向を日向三代の王都としている。
しかしそれ以前にも筑紫の日向の小戸でイザナギが禊をしているから、神代の伝承の大部分は筑紫が舞台であることがわかる。
例外が出雲と高天原だ。
0271日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 16:25:58.28
>>266
>国譲りの神話が正しかったとしてかつて出雲の王権を大和に譲ったのが事実としても出雲大社はずっと宗教的な権威であり続け現在まで崇められている。

福岡県内の古社も甚だ栄えているな。
住吉神社も宗像大社(厳島神社)も宇佐神宮(八幡神社)も、全国に膨大な数の末社を抱えている。
出雲は末社の数で足元にも及ばない。
奈良に至っては、末社を持つ神社そのものが少ない。
畿内では京の八阪神社(稲荷神社)が末社を多く持っている。
0273日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 18:09:14.66
神社の分布、鏡信仰の分布からすれば、筑紫とその末裔が全国制覇を成し遂げたと言える。
近所の神社に行ってごらん。
半分以上の確率で九州系の神社に鏡を祭ってあるから。
0274日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 18:15:08.97
>>273
倭国(阿波)の神社を前にして、恥を知り給え!   @阿波
0277日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 19:09:17.03
>>275
>阿波で一番有名な神社は?

すべて。  とても決められない。   @阿波
0278日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 19:12:57.32
>>276
>銅矛→鉾祭りもそうだな。

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】

徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。

この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。

また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。

一つは「大己貴命 木造彫刻立像」

二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」

三つ目が「二品家政所 下文 」

四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。

この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。

八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。

出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。

大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。

大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。

オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。

オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。

コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。

平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://awanonoraneko.hatenadiary.com/entry/47852915
0279日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 19:43:29.84
九州だったものを他に持っていこうとするから文献も考古学もねじまげてねじまげて悲惨なことになるんだよ
0280日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 20:29:00.53
>>279
倭国(阿波)だったものを他に持っていこうとするから文献も考古学もねじまげてねじまげて悲惨なことになるんだよ    @阿波
0281日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 21:35:40.90
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
0282日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 22:03:59.94
>>281
>金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。 それには卑弥呼も含まれる。

碌な集落遺跡や資源の無い博多湾沿岸に、倭国の代表に冊封された王たちや卑弥呼などが居る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波
0284日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 23:10:19.18
玄界灘から稲作文化を持った弥生人が上陸して日本(倭国)が成立したんだよ。
0285日本@名無史さん垢版2019/09/28(土) 23:25:06.32
いや、コメって熱帯の植物だから南から来てるだろ
むしろ玄界灘を渡って日本から朝鮮に伝えてる
0286日本@名無史さん垢版2019/09/29(日) 00:51:01.57
なにをもって日本人と言えばいいかだな。
縄文人だって元は渡来人だし。
九州は阿蘇破局噴火で数千年は無人地帯だったし。
0287日本@名無史さん垢版2019/09/29(日) 07:21:09.63
>>285
玄界灘に上陸とは書いたが、朝鮮半島から伝わったとは言っていない。
荒廃した南九州をスルーしただけだろう。
0288日本@名無史さん垢版2019/09/29(日) 12:38:10.21
宮崎の地名にハングル読みが多用されてるように魏志倭人伝の時代の九州はほとんど日本語通じなかったんじゃないかな。邪馬台国はあくまで大和国にあり、九州は朝鮮半島の半植民地状態だったと考えられる。
0289日本@名無史さん垢版2019/09/29(日) 12:42:30.19
>>288
碌な集落遺跡や資源の無い大和に、「邪馬臺国」など在る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波
0290日本@名無史さん垢版2019/09/29(日) 13:24:59.58
>>288
宮崎が移民の地というだけでは?
0293日本@名無史さん垢版2019/09/29(日) 17:04:56.46
朝鮮に限らずアジア全体で共通の地名の形式だという話だろ?
なぜわざわざ朝鮮だけ取り上げるのかね?
0294日本@名無史さん垢版2019/09/29(日) 17:07:24.70
タカアマハラの語義はそれによると

高 高貴な、祖先の
天 海人族の
原 集落、城

アマテラス(海を照らす=支配する王)の王城の名にふさわしい。
0295日本@名無史さん垢版2019/09/29(日) 17:20:35.51
むしろ韓国に縄文語が残ってるんだよ
0297日本@名無史さん垢版2019/09/29(日) 20:45:58.53
宋史日本国伝
其《年代紀》所記云:
初主號天御中主。
次曰天村雲尊,其後皆以『尊』爲號。
次天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,
次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,
次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次炎尊,次彥瀲尊,
凡二十三世,並都於築紫日向宮。
彥瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。
0298日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 14:35:13.54
韓地・半島南部は言語も民族も古代とは連続していない
半島に縄文語が残るなどありえない
0299日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 15:05:27.68
>>296
>神武までは筑紫とは書かれているよ。

その通り。   ただし、筑紫国とは書かれていない!  残念!  わははははは    @阿波
0300日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 15:17:45.32
>>298
だから、その件はアホが半島に結びつけているだけで、本質的には関係ない。
東アジア全体で同じ用語が使われているのでは?という話。
0301日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 16:04:25.57
とある時代までは同じ民族だったんだよ、
大陸があるでしょ、あと渡来人?〜〜〜〜〜〜〜次々と東(南下)のほうに移動してきて
0302日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 16:05:56.96
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜その後も同じでしょ、例えばモンゴルとか
0303日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 16:07:42.86
むかーし渡ってきた人々は・・・どこの国の人だったんだろう、
中華?
0304日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 16:10:59.65
>>298
『モンゴル帝国』の話をしているんだろう
0305日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 16:16:51.69
朝鮮半島や中国河北と「忌部はん」 が交流していたのは、事実。   @阿波
0306日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 16:32:41.64
ロシアの話?
0307日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 16:42:48.98
『イワン・シュテンドルフ』(酒吞童子)と『ウラシマまりん』

なぜか、むかーしの知り合い?知っているな〜という話になっていたり、
ウラシマの何かなのかな?
0308日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 16:59:58.16
ガンダム?たしか扇子のようなものを持っているキャラで、
あと寒いな〜・・・w
0309日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 17:26:12.83
朝鮮半島や中国河北と「忌部はん」 が交流していたのは、紛れの無い事実。   @阿波
0310日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 17:28:13.97
なぜ知っているんだろう・・・?となるでしょ、
先祖とか?
0311日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 17:29:48.52
『姥清水』
むかーし、この辺りに住んでいたんだよと言っていたり。
0312日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 18:37:28.66
>>309
河北よりはむしろ満州じゃない?
0314日本@名無史さん垢版2019/09/30(月) 20:42:54.74
コトバンクとは、どこの素晴らしい会社が運営しているのかな、、
0315日本@名無史さん垢版2019/10/02(水) 16:13:05.01
>>300
>東アジア全体で同じ用語が使われているのでは?という話。

それは想定からして無理がある
日本のように古代の音韻が文字記録から推定できる言語はほとんどない

そして、日本でも縄文語は復元不能
0320日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 04:18:48.46
>>318宇土半島には興味ある
師升はこのあたりかもねぇ
0321日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 07:00:22.60
熊本県の鉄器集中地域が
玉名、山鹿などの北部地域と
宇土半島付け根の熊本市や宇城市
0322日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 07:06:49.55
>>321
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い熊本に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波   
0323日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 09:44:58.81
帥升はその名のとおり、後の大率や太宰の帥に対応する名前だろう。
福岡の人物だよ。
志賀島の金印と年代もわずかしか違わない。
0324日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 09:57:22.91
>>323
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い福岡に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波   
0326日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 13:11:32.13
>>325
君ねぇ、いったいいつの時代の遺跡を出してくるんだよ!  矜持というものが無いのかね?

>>323
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い福岡に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波   
0327日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 13:20:45.10
>>326
弥生時代の鍛冶工房(大塚遺跡第14次調査:弥生時代終末)
 大塚遺跡は西区今宿町にあります。第14次調査地点は、古墳時代中期初頭の前方後円墳である大塚古墳
(全長64m)の西側に隣接しており、弥生時代終末期から古墳時代中期にかけての集落跡が発見されました。
 弥生時代終末期の竪穴住居から鍛冶関連遺物とかまどが見つかりました。かまどをもつ住居としては
国内でも最も古い段階のものになります。また、鉄製品を製作する際に生じる大量の小さな鉄片や、鍛冶具
と見られる石器がセットで出土しました。鉄片は小さな三角形や棒状の形をしています。三角形鉄片は、
薄く延ばした四角形の鉄板の四隅をタガネで切断して鉄鏃や鉄鎌を製作した際に生じた残滓だと考えられ
ています。
0328日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 13:40:50.09
>>327
で、それだけ?   @阿波


>金武青木A遺跡で鍛冶炉が、大塚遺跡で鍛冶工房がみつかってる
>むしろありすぎていちいち特筆してないだけ
0329日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 14:05:33.38
>>323
師升は九州に移民してきた朝鮮系の豪族のリーダーだろう。時の権力者に媚びて自分を強く見せかけようとして失敗してる。今の南朝鮮がよくやってるのと同じだよ。
0330日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 15:38:18.63
遺跡データベースの検索結果

弥生時代 鉄関連出土遺跡数
福岡県 492件
佐賀県 78件
熊本県 96件

奈良県 46件 
徳島県 41件
0331日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 15:40:23.66
>>330
九州は、倭国(阿波)による、鉄器被供給地域!   @阿波
0332日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 15:42:00.19
徳島県(阿波)の鉄関連遺跡はそれだけか。
0333日本@名無史さん垢版2019/10/17(木) 15:44:30.21
>>332
鉄関連遺跡ってなんのこと?   @阿波
0335日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 07:23:26.41
>>334
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」や「狗奴国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波   
0336日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 07:55:43.97
邪馬台国 糸島
狗奴国  菊池
0338日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 13:06:18.52
>>336
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」や「狗奴国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波   
0339日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 14:22:44.24
銅鐸阿波が何を言う
0340日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 14:25:03.03
銅鐸がなにか?  欲しいの?  わははははは   @阿波
0341日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 19:04:41.38
銅鐸すら無いらしい九州w九州なんて朝鮮系の移民に支配された半植民地だっただけだろ。ヤマトとも邪馬台国とも無関係の土人文化だよ
0342日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 20:13:19.63
物部の植民地粟
(哀れ)が阿波になっただけなのに
0343日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 20:16:01.82
倭人とは「忌部一族」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。

その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。   @阿波
0344日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 20:18:25.44
「忌部一族」は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた、

日本唯一無二の「祭祀族、海民族、産業・文化技術集団」なのである。   @阿波
0346日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 21:19:42.88
まあ、阿波が日本各地に進出して大集団を形成したのが事実だとすると、なおさら、それは邪馬台国ではないな
邪馬台国以前の倭の奴国の時代に倭は「分かれて百余国」からなっており、邪馬台国のあとの倭王武の時代に、東国55国、西国66国の計121国から成っていた
邪馬台国はそのうちわずか30国を支配していただけの地方政権だ
残りの91国を支配してたのが阿波だったんだろう
0347日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 21:51:09.69
>>346
>邪馬台国以前の倭の奴国の時代に倭は「分かれて百余国」からなっており、

邪馬台国以前の倭の奴国の時代?の「百余国」とは、卑弥呼共立前の大吉野川流域で争乱した「百余国」。


>邪馬台国はそのうちわずか30国を支配していただけの地方政権だ

これは、卑弥呼共立後の、統廃合された大吉野川流域の国々のこと。   @阿波
0348日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 21:54:36.91
>>347
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0349日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 21:55:39.87
>最古の円形周溝墓は香川県でみつかっており、吉備の円墳は香川の影響かもしれない。

まぁ、讃岐も阿波も一緒だから、なんだが
すぐ隣の阿波国西部三好町の昼間遺跡でも円形周溝墓。 おそらく讃岐の円形周溝墓の兄弟墓だろう。   @阿波

昼間遺跡(西貝川地区):弥生時代の円形周溝墓
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023039
0350日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 21:56:30.14
同じく、阿波国西部三好町の弥生時代の積石墓群  これは、萩原2ごう墳と時期を同じくする最古級の墳墓群である。   @阿波

「足代東原遺跡」 
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023037
0353日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 22:17:58.99
>>352
九州は、倭国(阿波)による、鉄器被供給地域!  わははははは   @阿波
0354日本@名無史さん垢版2019/10/18(金) 22:29:51.51
奈良盆地は倭国じゃない。
倭国女王卑弥呼など奈良盆地にはいなかった。
倭国を代表できるのは筑紫の大宰府。
0355日本@名無史さん垢版2019/10/23(水) 08:48:42.65
>>354
まあな 太宰府の下を掘り進めたら歴史が覆るからな
0356日本@名無史さん垢版2019/10/23(水) 09:46:50.96
倭国とは、言うまでもなく九州にあった倭国のこと
当時の畿内は倭種の地方に過ぎなかった
0357日本@名無史さん垢版2019/10/23(水) 17:49:17.28
>>356
根拠まったく無し!  言い張るだけ!

「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。   大和国の 「大和」である。

「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。   阿波国なのに「倭」である。

これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0358日本@名無史さん垢版2019/10/23(水) 20:56:24.54
>>356
倭種とは別種じゃない?
あそこは呉の属国でしょ
0359日本@名無史さん垢版2019/10/23(水) 20:57:43.81
>>357
しかし銅矛に乏しい時点で記紀のスタートラインにすら立てない阿波なのであった
0360日本@名無史さん垢版2019/10/23(水) 21:01:43.69
>>359
銅矛? 「八鉾神社」のこと? 

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】

徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。

この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。

また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。

一つは「大己貴命 木造彫刻立像」

二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」

三つ目が「二品家政所 下文 」

四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。


この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。

八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。

出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。

大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。

大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。

オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。

オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。

コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。

平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://awanonoraneko.hatenadiary.com/entry/47852915
0363日本@名無史さん垢版2019/10/25(金) 06:23:22.91
>>361
太宰府になる前があるんやで
0366日本@名無史さん垢版2019/10/26(土) 23:14:22.80
たしかに南に邪馬台国があるが、そのルートで水行すると20日かかるはず
当時の水行は、現在のソウルにあった帯方郡から邪馬台国の使者が黄海を渡って黄河を遡って洛陽に至る2400kmを行くのにまる半年かかる速さだから、その速さでそのルートをたどるとだいたい20日だ
0367日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 00:55:24.34
あり得ない。20日水の上を一方向に船で移動すれば九州縦断できるよ。瀬戸内海通ったとしか考えられないよ
0368日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 02:41:10.79
>>367
瀬戸内は当時航行出来んのよ
0371日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 07:05:53.98
>>368
当時は関門海峡も通行できない。
神武(2世紀?)のルートである宇佐経由、瀬戸内経由というのは、画期的だったんだよ。
0372日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 07:25:51.59
人が住んでたんだから瀬戸内航行ができないなんてことはありえないだろ。

村上海賊の祖先みたいな水先案内人が居て案内してたはずだぞ。2世紀に技術革新が起こって急に全面航行できるようになったとでも思ってるのか?
0373日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 08:02:41.03
>>372
>村上海賊の祖先みたいな水先案内人が居て案内してたはずだぞ。

卑弥呼の時代は、統制が効かない、無法地帯だよ。  何を考えているんだかw   @阿波
0374日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 08:29:25.21
そうか
瀬戸内は無法地帯だったのか、、。
0378日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 12:12:14.24
>>377
神武あたりは「春秋二倍暦」だからだよ。   @阿波
0380日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 18:45:59.36
>>378
どう考えてもこじつけだし、だとしても邪馬台国が徳島に比定される可能性はゼロ
0382日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 18:59:10.72
>>360
ご心配なく!  「其山有丹」で、とっくに決着しているからww  わははははは   @阿波
0383日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 19:22:15.81
邪馬台国畿内説は点と線をつないだだけで、日本史の大きな枠組みを無視した暴論に見える。
前後の歴史と繋がらない。
0384日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 19:42:38.74
>>382
> 「其山有丹」で、とっくに決着しているからww

  「其山有丹土」だよ。ベンガラだよ。
0385日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 19:52:06.63
>>384
>「其山有丹土」だよ。ベンガラだよ。

九州の古墳は、ベンガラ!  お粗末!  わははははは   @阿波
0386日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 20:07:19.53
倭人伝の脱字を范曄が修正してるだろ


土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績爲[糸兼]布。出白珠、青玉。其山有丹土。
0390日本@名無史さん垢版2019/10/27(日) 20:52:36.83
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→伊勢→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
0392日本@名無史さん垢版2019/10/31(木) 16:09:56.36
>>391
台湾てタピオカミルクティー飲んでろ
0393日本@名無史さん垢版2019/10/31(木) 16:42:57.24
>>391

台湾の中央研究院が言え、それがば正しいのか?
0395日本@名無史さん垢版2019/11/03(日) 07:17:47.36
今日は文化の日。

親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。

その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。  

ちなみに、深曽木の儀で踏む「青石」も、手に持つ「山橘の小枝」も、倭国(阿波)の特産物。   @阿波
0396日本@名無史さん垢版2019/11/03(日) 10:44:41.95
>>395
倭国というよりも併合前の日下(日本)の資源供給地の名残り
0397日本@名無史さん垢版2019/11/03(日) 10:54:52.37
「日下姓の起源」

古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。

日下姓は、聖徳太子様の時代には存在していた名前である。 

「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在していた名前である。

勿論、日本書紀にも出てくる。

阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。

徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。

香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。

このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、

よって、記紀に登場する日下姓をみても、記紀は四国地方を記したものと言える。   @阿波
0398日本@名無史さん垢版2019/11/03(日) 14:13:26.48
お?
日本は日下から転じたのか?
そうすると畿内の中心は大阪湾沿岸だな?
その方が自然だよ。
内陸の大和は弥生時代においては交通の便が悪い辺境でしかない。
0400日本@名無史さん垢版2019/11/05(火) 10:04:47.51
>逆になんで自生してなかったと思うの?

気候!  公孫氏の領域が温暖な地域なのかね?  帯方郡に「橘」が自生すると?  頭大丈夫?   @阿波
0401日本@名無史さん垢版2019/11/05(火) 10:38:55.42
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%90%E3%83%8A
概要
日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、
九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。近縁種にはコウライタチバナ(C. nipponokoreana)があり、
萩市と韓国の済州島にのみ自生する(萩市に自生しているものは絶滅危惧IA類に指定され、国の天然記念物
となっている)。

邪馬台国って、萩市あたりだったんじゃね?
0402日本@名無史さん垢版2019/11/05(火) 11:18:02.19
>>398
経済の中心と政治の中心が違っていても構わないのでは?
0403日本@名無史さん垢版2019/11/05(火) 12:15:49.96
>>402
首都を指すなら、政治の中心の方。
だから日本が日下なら、それは大阪湾のほうに首都があったことになる。
ただし、それは難波宮などの前身などを指すのだろう。
少なくとも神武記の日下は都として扱われていない。
0404日本@名無史さん垢版2019/11/05(火) 12:17:54.14
どちらにしても、今の畿内説は古代の畿内の状況すらいかなる史書とも一致しない妄想を繰り広げており、およそ日本の歴史を論じているようには見えない。
0406日本@名無史さん垢版2019/11/05(火) 13:25:34.77
戦前までは福岡は栄えていたんだよ。
鉱工業が盛んで半島への輸出入も多かった。
日本の歴史の二千年間の中で、福岡が衰退するのはほんの数十年だけなんだよ。
わかったか、ゆとり。
0407日本@名無史さん垢版2019/11/05(火) 23:24:04.20
>>397
お前が今自分で証拠を出したのだよ

阿波は日下(日本)の支配下にあり
倭国に有らず

決着だな@阿波
0408日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 00:57:42.42
>>403
神武紀の日下は奈良の港扱いだよな
0409日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 07:26:16.94
そうすると、やはり纒向は饒速日物部一族の都だな。
邪馬台国とは関係ない。
0410日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 08:30:06.07
vvv
0411日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 08:32:49.64
>>407
>阿波は日下(日本)の支配下にあり

そりゃ、阿波に聖徳太子が居たんだから、当たり前!   @阿波
0412日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 08:47:55.81
奈良「法隆寺」の本社は、ここ「救世山峯薬師 法谷寺」

「小治田宮天皇は推古天皇ですので、「由緒によれば」下手したら607年建立の法隆寺より古い建立であるかもしれないところなんです。」

http://goutara.blogspot.com/2011/10/blog-post_29.html




こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0413日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 09:48:29.59
>>412
法隆寺は九州から移設されたって聞いたがな
ソースは何だったか?
YouTubeだったか?
0415日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 10:47:06.53
>>413
兎にも角にも、文献等で根拠を示せるのは、倭国(阿波)以外にはないんだよ。  わははははは   @阿波
0416日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 10:57:30.51
>>415
大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。

徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。

(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)  

このことから、文武天皇の御宇に、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことが分かる。   

http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0417日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 16:23:24.53
>>416
他からの移設
0418日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 17:06:02.89
>>417
>他からの移設

大和の大神神社と、倭国(阿波)の「大御和神社」   神社名からして、一目瞭然!   @阿波
0419日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 17:20:20.29
阿波言ってる奴はワコクとアワコクが同一だと主張してるのか?(笑)その発想はなかったよw
0420日本@名無史さん垢版2019/11/06(水) 17:28:12.02
>>419
アワ以外のトンデモには、到底発想できないこと!  わははははは   @阿波
0421日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 12:17:41.64
今日は文化勲章親授式。

その親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。

その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。  @阿波
0422日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 21:07:58.60
いいか、これから核心を突いた指摘をする。
仮に邪馬台国九州説が正しいとして魏志の作者がそこまで行ったとしよう。その東に人は住んでなかったのか?
朝鮮半島まで来て海を渡った使節だぞ。

邪馬台国=九州の東に本州がありそこに人が住んでることは分かっていたはずなのになぜそこまで調査しに行かなかったのか?

魏志倭人伝の作者が九州まで来て調査を止めた事がそもそもおかしい。

畿内であれば東にクナ国がある事は調査済みだし、そこで倭種の国家はほぼ網羅したと判断して帰ったのは理解できる。(北海道は当時は認識されてなかった)
九州から調査をできる範囲で倭種の国家を調べ尽くしたと考えるのがそもそもあり得ない
0423日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 21:13:07.16
>>422
>邪馬台国=九州の東に本州がありそこに人が住んでることは分かっていたはずなのになぜそこまで調査しに行かなかったのか?

ただでさえ辺境の国なのに、その都から離れてわざわざお役人様が危険を取る必要はない。
0424日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 21:14:50.30
>>422
>畿内であれば東にクナ国がある事は調査済みだし、

いいか、これから核心を突いた指摘をする。

狗奴国は南にある!   @阿波
0425日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 21:16:55.82
アホか、そもそも日本列島を代表する政権がなんで西の端の九州にあると考え、結論づけられるんだよw

東にもっと強大な勢力があるかも知れないと普通は考えるだろ。使節は何しに来てるんだ?
0426日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 21:19:02.92
九州説なんて論理的にあり得ないんだよ。少なくとも九州の東にもっと広い島(本州)がある事は分かってたはず。

朝鮮半島を調査した人間が九州に渡ってその東の島を調査しに行かなかったのかとは考えにくい
0427日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 21:24:36.64
>>426
>少なくとも九州の東にもっと広い島(本州)がある事は分かってたはず。

少なくとも、倭人在帶方東南大海之中(四国)がある事は分かってた。   @阿波
0430日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 21:41:44.31
ギリギリ倭国(福岡)は文字が通じて、使節が住める快適な建物があり、防衛もしっかりされた安全な土地で、中華文明の行き届く限界ギリギリの土地だったんだよ。
0431日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 21:42:54.38
>>429
朝鮮半島の西北部は楽浪帯方の郡が置かれているから、魏の直轄地だよ。
そこは文明の地だ。
0432日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 21:45:25.80
おかしいな、韓伝では馬韓、辰韓、弁韓、と綿密に調べてるのになんで日本は九州だけで調査をやめてしまったんだ?

当時、本州に人が住んでなければ別だがあまりにも手を抜き過ぎだろ
0434日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:04:51.45
>>432
>当時、本州に人が住んでなければ別だがあまりにも手を抜き過ぎだろ

だから、「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と記している。   @阿波
0436日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:09:31.29
「京都や大阪も見たい」と思っても、「そんなところには何もありませんよ」「危ないですからやめてください」と言われて終わり。
0437日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:11:16.96
本州に支配が及んでたら連れて行っただろう。

使節の認識が倭国は九州だけの小国家であったとしたらそこで調査をやめたのも理解できなくはない、
その東の島に邪馬台国の手の及ばない倭種の地がまだまだ続いてると言う事を知らなかったのか。もし知っていたとしたらそちらまで調べに行かなければおかしい。もし本州の存在を知らなかったとしたら倭国の案内役が意図的に情報を隠したのか、そんな訳はないだろう。
0438日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:17:44.19
魏志倭人伝に倭種がいると書かれているから、秘匿はしなかったようだ。
しかし、福岡より未開の地となる本州にわざわざ行く必要はない。
0439日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:18:11.71
いやそもそもそれが不自然だろ。九州はとても小さい島だ。朝鮮半島と変わらない。

魏志の作者のスタンスでは九州だけを細かく調査してもその向こうについて何も言及しないのは流石におかしい。

その東に人も何も存在しないのなら別だが実際は人は住んでて九州とも当然交易はあった訳だから。
あれだけ長く滞在してその東の土地について何も知らなかった訳は無いだろ。
0440日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:19:01.69
>>426
>少なくとも九州の東にもっと広い島(本州)がある事は分かってたはず。

少なくとも、倭人在帶方東南大海之中(四国)がある事は分かってた。   @阿波
0441日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:19:57.61
使いが来た理由は未開の地の探検ではなく、同盟先を探す外交に過ぎない。
目的は卑弥呼との会談、金印の授受である。
彼らは郡使は外交特使であり、探検隊ではない。
0442日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:21:41.28
海の東にも倭種がいると書かれているから、本州の存在は知っていたが、取るに足らない存在だと判断したのだろう。
0444日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:22:58.89
>>441
>彼らは郡使は外交特使であり、探検隊ではない。

その通り。   @阿波
0445日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:23:10.57
有力な同盟先の国力をちゃんと調べなきゃいけないのに九州だけ見て帰ったのか。

その東にもっと豊かな土地があるのにもっと強大な国があるとは考えなかったのか。
0446日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:24:15.41
>>442
そんなわけねーだろ。本州の方が広いし国土は豊かだわ、それは古代から変わらない。
0447日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:24:26.83
>>443
>倭腫は敵国地域だぞ

まったく違う!   敵国は狗奴国だけ。   @阿波
0448日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:28:06.07
>>442
海の東にも倭種がいると書かれているから、本州の存在は知っていたが、取るに足らない存在だと判断したのだろう。

違う!  おなじ倭人がいると書かれている。   @阿波
0449日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:30:14.12
最大の国邑が奴国だから、それ以下の小さな弱小地域を調べて何になろうか。
文字すら持っているかどうか怪しい未開の東夷の地だ。
福岡なら、使いなれた楽浪土器で食事が提供され、香辛料の使い方が今ひとつと言いながらも、冬でも生野菜が出ることに驚いたりした。
(郡使は帯方郡から来たので、冬はキムチでも食べていたのだろう)
福岡なら硯があり文字が通用したから、筆談だか通訳だか知らないが、意思疎通が可能であり、女王の庇護のもとに安心して滞在できる。

女王の支配が及ばない倭種の国になんて行ってみろ。
言葉も通じないままに身ぐるみ剥がれて帰ってこれなくなる。
それが常識的な判断。
0450日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:30:47.67
>>441
>彼らは郡使は外交特使であり、探検隊ではない。


その通り。   

少なくとも、商人や工人はしょっちゅう倭国(阿波)に来ている。   @阿波
0451日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:32:13.13
いや九州は朝鮮よりかなり小さいな。

いくら誇大広告してもそんな取るに足らない邪馬台国よりも 本州の国を従わせて組んだほうが良いと考えるのが普通だと思うがな。
まともな国があるかどうかは別としても少なくとも視察しに行く動機にはなるし行ってないとおかしい。
0452日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:34:47.23
魏志倭人伝の時点では邪馬台国の事も何もわかってなかったんだから、身ぐるみ剥がされて吊るし上げられる危険性は福岡でも同じだろ。
本来の目的を果たすなら福岡で適当な倭人の案内役を連れて本州に行ってないとおかしい。 
0453日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:35:34.64
>>446
広いが、国土は未開発なんだよ。
何しろ稲作が伝来したのが九州北部なんだよ。
国力が一番あったのが九州北部。
半島との通商で潤っていたから、物資も豊富だ。
女王は年増だが、平原遺跡の主だったとすれば中国から輸入した宝飾品で着飾っていたはずだ。
それらは本州にはないものだ。
0454日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:35:49.51
>>445
服喪のため難升米が手ぶらで帰ったので
梯儁がとどけに来ただけだ
0455日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:36:52.86
>>452
>魏志倭人伝の時点では邪馬台国の事も何もわかってなかったんだから

違う! 前漢時代から倭国(阿波)と通交している。   @阿波
0456日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:37:52.16
>>452
福岡が邪馬台国なら、先に福岡の使いが洛陽まで来ていたんだよな。
しかも、一時的に交流が途絶えていたとはいえ、かつても友好国として金印を与えていた国だ。
特使が招かれて行ったのに、身ぐるみ剥がされるようなことはないだろう。
0457日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:40:37.60
>>456
>福岡が邪馬台国なら

いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い福岡に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0458日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:41:10.19
福岡は文字による中華文明が届いており、百年以上前から金印を与えていた友好国。
本州は、郡使が福岡まで行って初めて、あっちにも島があるくらいの紹介を受けた。
その規模なんて分かりようがない。
少なくとも、魏志倭人伝は通過した土地だけは概要がわかるようなことを書いているから、実際に見ていない本州の大きさや人口は不詳のままだった。
0459日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:42:25.22
>>458
>福岡が邪馬台国なら

いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い福岡に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0460日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:43:41.62
>>458
福岡は、倭国(阿波)への通過国にすぎない!   @阿波
0461日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:44:43.27
資源は半島から入手したし、後には香春岳などの鉱山も開発された。
九州と四国では、鉱山資源では雲泥の差がある。
しかも鉄は半島から輸入していたことが史書に明記されている。
どこが一番有利かわかるよな?
0462日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:45:32.52
>>461

いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い福岡に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波   
0464日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:48:00.65
>>463
たしかに石炭鉱業は近世で活発ではあったな。  わははははは   @阿波
0465日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 22:54:28.48
>>463
聞くところによると、九州では「丹」はベンガラらしいね。  ベンガラでさぞ儲かったことだろう。  わははははは   @阿波
0466日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 23:17:00.59
魏志倭人伝を軍事情報として読んでみよう。
仮に倭を攻めるとすると、まずは帯方郡に駐留している部隊を動かすことになる。
移動に見合った兵糧を準備する必要がある。

九州説
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、日数では水行10日陸行1日(1月は誤字)。
ふむ、往復で少なくとも20日余りの兵糧か。

畿内説
帯方郡から福岡まで一万里、福岡から邪馬台国まで水行10日陸行1月。
または帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、そのうち福岡から邪馬台国まで水行10日陸行1月。
え?それって結局は何日分の兵糧を用意すればいいの?
0467日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 23:19:25.65
>>466
>魏志倭人伝を軍事情報として読んでみよう。

勝手にどうぞ。   @阿波
0468日本@名無史さん垢版2019/11/07(木) 23:20:47.82
しかも畿内説だと、福岡からどちらに進むのか、関門海峡を通るのか通らないのか、どこで上陸するのか、まったく記録がない。
郡使が「お前ら、本当に邪馬台国まで行ったのか?」とカラ出張を疑われるレベルに報告書になってしまう。
0469日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 08:04:02.88
>>439
いやまったく逆
本州に首都があるなら辺境である九州を詳細に調査するわけがない
九州のことが詳しくかいてあるのはそこが都周辺だったから
0470日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 08:16:44.06
だからさ、畿内が首都ならなんで九州に上陸してとことこ歩いて行くの
0471日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 08:36:10.57
>>470
だからさ、畿内が首都じゃないからw   @阿波
0472日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 23:17:48.13
まともな反論が出てないじゃないか。
邪馬台国九州説はもはや机上の空論でしか無いな
0474日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 23:24:05.26
九州論者は当時の本州は支配下だったと思ってるの?それか敵対勢力があったのかイースター島みたいな未開の土地だったのか本州には何があったと考えてるんだ?

のちにそれほど時間が掛からずにヤマト王権が畿内に成立してるんだから本州側にもある程度の文明と交易圏と王権はあったはずだ。本州の勢力と九州邪馬台国との関係はどうだったのか教えて頂きたい。 
0476日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 23:27:00.95
>>474
イースター
ただし出雲だけは前政権の地だから厚く祭るし交流も深い特別な場所
大国主を祭ると約束したからね
0477日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 23:32:38.78
アマテラスの孫の天孫族には二系統ある。
摂津の交野に降臨した饒速日と、筑紫の日向に降臨した邇邇芸だ。
つまり畿内の王権も分家なんだよ。
倭国を代表していたのは、金印があった筑紫の邇邇芸の王家だろうね。
前方後円墳は饒速日の末裔の物部氏の墓だろう。
筑紫の天孫族は、国が乱れていたために筑紫を逃れて、東の方で王国を樹立したという饒速日を頼って筑紫を出たとされている。
しかし東夷の世界で最大級の国邑である奴国を含むおうとはまだ筑紫にあるわけで、そこで共立されたのが卑弥呼ということになる。
0478日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 23:36:58.00
そうそう、纒向は尾張の傘下の辺境の地だったが、尾張氏は饒速日の末裔だから。
三種の神器の一つの草薙の剣は熱田神宮にあるし。
そして纒向宮と言えば、崇神天皇がうなされて八咫の鏡を追い出して、結局は伊勢に八咫の鏡を置くことになったんだよ。
纒向宮に卑弥呼なんて関係ない。
こういう日本史を無視して成り立っているのが、畿内説なんだ。
0480日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 23:48:26.99
だから饒速日の国だろ。
だから摂津や尾張も中心なんだよ。
そして吉備は邇邇芸の末裔の神武が立ち寄ったところ。
そういうところの要素が合わさって、前方後円墳を作る畿内の王権が誕生したわけだ。
邪馬台国なんて関係ない。
0481日本@名無史さん垢版2019/11/08(金) 23:57:21.02
畿内に中国産の銅鏡が大量に出土してる時点で機内の勢力も中国と関係は持ってたことは推察できる。機内が未開出なかったことの何よりの証拠だよ。

仮に邪馬台国が福岡にあったとしてやはりそこで視察を終えて、本州の勢力を視察しに行ってないのは明らかにおかしい。
0483日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 00:21:31.54
本州の勢力と敵対してたとしたならそれはそれで一大事だよ。

本州の方が大きく土地も豊かなことはわかってたはずだからそこと敵対してるような朝鮮半島よりも遥かに小さい九州一国だけの邪馬台国と手を組むなんてありえない。

しかも東の本州の勢力と敵対してて、四面楚歌だ。そんな危険な国と手を組むより本州側の勢力と直接手を組んだ方が魏としては良いに決まってるだろ。地政学的事情で九州説はまずあり得ない。
0485日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 00:35:37.57
邪馬台国はあくまで畿内で九州は鉄器の供給地と考えたら全てつじつまが合う。
昔から鉱山や工業地域の近くに都は作らないから九州に都があった事は考えにくい。そもそも日本列島を統治するには九州は辺境過ぎる。

邪馬台国九州説が正しいとしても九州が日本列島を統治して代表する政権でないとおかしいだろ、だがそれはあり得ない。
0486日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 00:43:54.88
鉄は朝鮮半島で産出し、延べ板の状態で九州に運んで利用していたんだよ。
そして畿内はかなり後までその恩恵を受けなかった。
稲作も九州に方が盛んであり、国力が上だった。

>>483
>本州の方が大きく土地も豊かなことはわかってたはずだからそこと敵対してるような朝鮮半島よりも遥かに小さい九州一国だけの邪馬台国と手を組むなんてありえない。

まったく現実を見ていない妄想としか言いようがない。
前提が間違っている。
0487日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 00:45:08.84
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
0488日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 00:47:14.04
>>483
対馬海峡を伊都の大率が押さえている以上、畿内も出雲も筑紫の頭を越えて大陸と国交を結ぶことはできないんだよ。
0489日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 08:33:54.97
九州説が正しいとしたら魏志倭人伝が本州の存在をガン無視してるのが不自然。

この指摘を説明できないなら九州説はあり得ないよ。韓伝では三韓地方を詳細に調査してるんだから小さな九州だけで記述を終わらせてるとは考えられない。

九州説の主張が正しいなら本州が当時存在しなかったか無人状態であったと考えるしかないがそんな事は考古学的にはえり得ない。
0491日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 10:03:35.24
後漢の頃は本州は知られていなかったが、魏の時に帯方郡からの使いが九州まで来て、さらに東にも倭種がいることが中国側に知られることになったんだよ。
0492日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 12:20:42.09
>>489
九州に都があるのに辺境の本州を記す必要性がない
そもそも中華思想によれば倭国自体が東夷の辺境なのに、更にその倭国の中でも辺境の地が書いてないからおかしいというのは
頭のおかしい人間の主張
東にも倭種の住む土地があると記すだけで十分すぎる
0494日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 16:15:57.85
↓これが本州だよ

女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。
倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。
0495日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 16:30:54.63
倭地が周旋五千里ってことは、邪馬台国の東から千里の地点までの往復も含めると、七千里で倭地の国々をだいたい歴訪できるってこと
釜山の狗邪韓国から対馬まで千里、対馬から壱岐まで千里だから、この七千里という距離は、瀬戸内海をぐるっと一周する距離にほぼ等しい
0497日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 17:41:00.72
>>492
>九州に都があるのに

碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「都」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   
0498日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 20:01:27.18
だから周旋はぐるっと回るんじゃないってば
うねうね曲がりながら進むさまを表す

倭地が周旋五千里ってことは、
朝鮮半島南部を起点に半径五千里の扇型の中に収まる範囲内ですよってこと

いい加減に誤解釈で不毛な議論するのをやめい
0500日本@名無史さん垢版2019/11/09(土) 23:39:15.49
女王国の東の、海を渡ったところにある国または土地

1.女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 
2.又有侏儒國在其南 人長三四尺 
3.去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 
4.復在其東南 船行一年可至 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

1.国名なし、皆倭種とのみ記載された国(複数)。
2.1の南にある侏儒国。
3.女王国から四千里の距離にある裸国と黒歯国。
4.3の東南、船で1年(女王国起点か)で至るところ。国ではなく倭地で、周旋五千里。

九州説を前提にすると、1.は広島あたりで、2.は愛媛あたり、3.は大阪らへんで、4.は伊豆諸島らへん。
3.の2国が岡山から関東あたりにかけて支配してるからこそ4.の伊豆諸島以外に国も土地もないんだろう。
この時代が崇神天皇の時代で、四道将軍の範囲を支配してたとしたら辻褄が合う話で、裸国黒歯国のうち一方が天皇家で、もう一方が武埴安彦の国だろう。
0501日本@名無史さん垢版2019/11/11(月) 13:03:56.12
卑弥呼一味が最初か知らんけど移民だよ。海神族の商売でもあるんだろ。
0502日本@名無史さん垢版2019/11/11(月) 20:55:14.93
邪馬台国は当時の日本を指す意味で、
女王国は九州のどっかにあった、そこらへんまとめてた
今でいう広域(県)連合で、
別に卑弥呼は女王国の女王で邪馬台国の女王ではない、
ということにはならんの?
もし畿内とか四国でもいいけどもっと大きな権力はどっかにあったかもしれんが
魏志倭人伝でいう「卑弥呼」は九州の広域連合の長だったと。
0503日本@名無史さん垢版2019/11/11(月) 22:17:02.39
>>502
>別に卑弥呼は女王国の女王で邪馬台国の女王ではない、
>ということにはならんの?

ちょっと意味がわからない。
卑弥呼は倭国女王だよ。
王都は邪馬台国。
都知事と総理大臣をごちゃ混ぜにしないように。

>魏志倭人伝でいう「卑弥呼」は九州の広域連合の長だったと。

正解。
それが九州説。
この連合の名前が倭。
0504502垢版2019/11/12(火) 23:47:16.42
「倭国」はどの範囲?
「邪馬台国」はどの範囲?
「女王国」はどの範囲?

「卑弥呼」はどこまでの女王だったの?

これらをはっきりさせないから
論争はかみ合わないまま。
0505日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 00:19:34.73
あり得ない。

本州を支配してない邪馬台国なんて中国から見たら地方の豪族にも満たない先住民の村に過ぎない。そんなのをわざわざ特筆するわけ無いだろ。

魏志倭人伝に単独の章でピックアップするくらいならせめて三韓と肩を並べるくらいの領土と国力がなければあり得ないよ。
九州説なら邪馬台国はせいぜい福岡県の一部を支配してたに過ぎないし、しかも周りに小さな敵国を沢山抱えてる邪馬台国なんて中国史にとっても無価値だし、日本史にとっても全くの無意味な存在だ
0506日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 00:32:29.76
本州なんて中国人の視界に入ってない。
奴国はすでに単一の国邑としては東夷の世界で最大級の大都市であったから、魏が交渉する相手としては十分だった。
0507日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 00:33:45.35
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

卑弥呼が女王であった倭国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。
0508日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 09:07:07.49
いっそのことよ九州説が正しいなら卑弥呼も邪馬台国も歴史の教科書から削除すべきじゃね。

取るに足らない先住民族の文化ってだけだし。日本史の本流とは無関係の中国人の旅行者が書いた日記に出てきた架空の国名って事で十分だよ。

もし邪馬台国が機内にあってそこそこ広い統一政権ができてて更に大和朝廷との連続性も認められるのなら当然特筆すべきだし、日本史本流の源流と言っても過言ではないが。
九州の一豪族が勝手に名乗ってただけのものなら歴史学上無意味な存在だよ
0512日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 14:58:52.06
畿内政権はいちおう九州倭国の後継と位置付けられているから、そういうわけにもいかない。
いつどのように政権交代が行われたかが不明なだけ。
唐の時代からすでに要領を得ない説明をしていたらしいから、もはや真実は闇の中だけどね。
倭国を教科書から削除するなら、白村江以前の歴史が丸々削除されるけど?
0514日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 17:44:53.05
>>512
>いつどのように政権交代が行われたかが不明なだけ。

不明なのは、トンデモだからだよ。  わははははは   @阿波
0515日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 20:32:56.64
>>500
裸国が天皇家で、黒歯国が武埴安彦だろうね
黒歯国は「こしのくに」だろう
天皇は日本語で「すめらみこと」だけど、「すめ」+「ら」+「みこと」で、「すめ」は「すめがみ(皇神)」「すめろぎ(皇祖)」「すめみま(皇孫)」の皇、ラが国名で、みことが君主という意味だろう
中国人が日本の国名に卑字を使うのは通例なので、ラ国と聞いて裸国という文字を当ててもふしぎはない
四道将軍は北陸、東海、吉備、丹波だから、岡山から先に他に国がないのは理にかなってる
0516日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 21:37:53.40
そうそう普通に考えて岡山から向こう特に九州なんかに文明があるわけ無いと考えるのが自然
0517日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 22:01:29.95
九州から見ても山の向こうに
文明なんかないと思ってたんだろうな。
0518日本@名無史さん垢版2019/11/13(水) 23:22:35.70
中国人から見たら、地の果てからさらに海を渡った倭(九州北部)の向こうにまともな文明の国があるとは思わないでしょう。
0519日本@名無史さん垢版2019/11/14(木) 18:00:56.64
国があるかないかと、文明があるかないかの区別もつかないやつらばかりかよ
岡山から向こうはぜんぶ裸国が支配していて、四道将軍を派遣して統治してたから国がないのであって、文明はあるだろ
0520日本@名無史さん垢版2019/11/14(木) 18:12:59.03
四道将軍を知らん人のために説明すると、崇神天皇が遠くの地を統治するために派遣した4人の将軍のこと
北陸(いまの福井以北)に大彦命(おおびこのみこと)
東海(いまの三重以東)に武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
吉備(いまの岡山と広島東半分)に吉備津彦命(きびつひこのみこと)
丹波(いまの京都北半分と兵庫北半分)に丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと
つまり、魏志倭人伝の記述で国の記述がない空白地帯をほぼ完全に埋めてるわけよ
0522日本@名無史さん垢版2019/11/14(木) 18:27:03.16
魏志倭人伝は魏に親しい国を重視してるだけのこと
逆に呉中心の史書があって、周辺国の記述もちゃんとしていれば、裸国を重視して、その巨大な版図を詳細に記述してただろう
もしかしたら「裸国」のような卑字を使わなかったかもしれない
0523日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 09:22:04.74
大嘗祭の主要儀式「大嘗宮の儀」では、最も重要な祭祀の場「悠紀殿」と「主基殿」の神座に徳島産の麻織物「麁布」が供えられた。

麁布とは何だろう。

先月、29日、皇居に納められた美馬市木屋平貢の三木信夫さん(83)によると、大嘗祭の責任者、宮内庁の楠本祐一賞典長は「神が降りる依り代が麁布です」

と語ったという。

平成の大嘗祭の賞典長鎌田純一さん(故人)は、著書「平成大禮要話」(錦正社)で、麁布を置く神座の重要性をこう話した。

「古来神座は神の坐す座として天皇もつつしみ対されて来たところ」

徳島新聞 2019年(令和元年) 11月15日 朝刊   @阿波
0524日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 09:30:02.94
 いくら言っても九州が日本の代表となるような事は歴史を百回やり直してもあり得ない。
仮に魏志に書かれてる邪馬台国が九州にあったとしても本州にヤマト王権に直結するより強大な統一政権があったはずだから、九州なんかにあったとする方が邪馬台国の存在価値を下げ、貶める事になるな。
0525日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 09:36:44.21
>本州にヤマト王権に直結するより強大な統一政権があった

倭国と何も関係ない
0526日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 10:03:07.91
>>524
むしろ逆に、もともとそういう国だった邪馬台国を勝手に本州と結びつけるアホがいただけの話で、九州説はそれをもとの正しい存在価値に戻しただけ
0527日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 10:28:41.10
>>524
>本州にヤマト王権に直結するより強大な統一政権があったはずだから、

妄想だよ。
弥生時代においては九州北部が先進地域であり、富と権力が集中していた。
0530日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 10:43:26.50
大国でもなんでもないわ、邪馬台村とかって名付けた方が良いな
0531日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 11:08:53.76
邪馬台国は小国でいいのだよ

「魏志倭人伝」とは倭人の住む地域の伝承であって、当時大国と呼べる国はまだ無かった(もしくは認識されてなかった)のだ

タイトル「魏志邪馬台国伝」ではないのだから
0533日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 13:23:12.51
>>529
逆に畿内説だと邪馬台国がでかすぎるんじゃね?
>>500のような海を渡った東の国々が、畿内説だとハワイとかアメリカ大陸とかになるんだろうけど、さすがに倭種じゃないでしょ
0534日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 13:29:32.94
>>533

「邪馬臺国」は、大吉野川流域 および 鮎喰川流域に展開する、弥生集落群のこと。   @阿波
0535日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 14:35:52.14
>>534
その考えだと29の傍国が本州の国々で、海を渡った千里先の国々がハワイで、その南の襦袢国がタヒチで、女王国から四千里の黒歯国裸国がカリフォルニアらへんで、その東南の倭地がアステカ文明、という理解でOK?
0536日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 15:50:56.91
「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域・鮎喰川流域)に所属する国々の説明である。     

「其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国に所属する21カ国のこと。

「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)は、阿讃山脈を越えた遠く瀬戸内海地域などの国々(吉備など)。   

女王国東渡海千余里復有国皆倭種は、阿波から東へ1000里渡海で奈良周辺。




こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0537日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 16:45:37.42
>>536
てことは、阿波って奈良周辺とは無関係じゃん
やがて奈良周辺の天皇家に滅ぼされる国か
0538日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 17:27:36.96
>>537
>てことは、阿波って奈良周辺とは無関係じゃん

当たり前じゃん。  なんで倭国(阿波)が奈良に関係するんだい?   @阿波
0539日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 17:32:43.05
「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域・鮎喰川流域)に所属する国々の説明である。     

「其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国に所属する21カ国のこと。

「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)は、阿讃山脈を越えた遠く瀬戸内海地域などの国々(吉備など)。   

女王国東渡海千余里復有国皆倭種は、阿波から東へ1000里渡海で奈良周辺。




こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0540日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 17:34:18.56
奈良は阿波の植民地じゃないの?
0541日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 17:40:00.90
真逆だよ!  わははははは   @阿波
0542日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 17:41:38.75
>>540
初心者かな?

大嘗祭の主要儀式「大嘗宮の儀」では、最も重要な祭祀の場「悠紀殿」と「主基殿」の神座に徳島産の麻織物「麁布」が供えられた。

麁布とは何だろう。

先月、29日、皇居に納められた美馬市木屋平貢の三木信夫さん(83)によると、大嘗祭の責任者、宮内庁の楠本祐一賞典長は「神が降りる依り代が麁布です」

と語ったという。

平成の大嘗祭の賞典長鎌田純一さん(故人)は、著書「平成大禮要話」(錦正社)で、麁布を置く神座の重要性をこう話した。

「古来神座は神の坐す座として天皇もつつしみ対されて来たところ」

徳島新聞 2019年(令和元年) 11月15日 朝刊   @阿波
0543日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 21:53:49.83
なんか勘違いしてない?
0544日本@名無史さん垢版2019/11/15(金) 22:08:45.84
なにを?   @阿波
0546日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 08:00:12.34
魏志の使者もしょぼっちい九州邪馬台国を見てがっかりしたろうな。朝鮮半島より遥かに小さい九州で三韓のどれよりも小さな領土しか有してない「文明国」だなんて記述のどこをどう読んでも解釈できない訳だが。

九州説が正しいとしたら邪馬台国と倭人国家の規模からして倭人伝を独立して記述すること自体が不自然極まりない。
0547日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 09:32:16.53
女王国は東夷伝で最大の国邑となる奴国を含み、女王の宮城は楼閣高くそびえていたと書かれている。
三国志の世界の城邑を知っている魏の郡使は、もし邪馬台国が纒向なら、しょぼくてとてもそんな記述はしなかったろう。
0549日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 09:50:38.39
韓は4千里四方、倭は周旋五千里なので、倭の方が大きい。
ただし短里なので九州北部のことだけどね。
本州はあっちにも倭人がいる程度の情報だから、魏からは全体像なんて見えていない。
まあ、それでも最大の国邑は奴国なんだけどね。
0551日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 11:40:21.16
韓=1辺4000里の正方形
邪馬台国=韓の南にある周旋5000里の円=直径1600里
邪馬台国の海を渡った東1000里に倭種の国、その南に襦袢国
邪馬台国の海を渡った東4000里に黒歯国裸国

どうみても邪馬台国が九州で、倭種の国が広島、襦袢国が愛媛、そして黒歯国裸国が大和だろ
0554日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 11:52:34.20
奴国は福岡平野。
延々と弥生遺跡が連なっている。
弥生銀座とも呼ばれる巨大な国邑。
0555日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 13:32:07.62
>>554
>奴国は福岡平野。


奴国(二万戸)(田川辺り)

奴国 : 「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」    @阿波
0556日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 15:19:31.85
>>524
「あったはず」では駄目ですね
7,8世紀よりも前に統一した物証がないと

話は変わりますが近畿の古墳は向きが統一されていません。
そこすら統一出来ないのですから国土を統一なんて発想は生まれなかったのでは?
0557日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 15:22:25.38
>>528
そもそも文化が違いますから
0559日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 16:05:24.42
古墳の向きって五芒星かなにかと関係あるんじゃなかったっけ。

魏志の使者も方角間違えるくらいだから当事東西南北を正確に共有する事は不可能に近かった。
0560日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 16:19:00.88
>>542
どうせ 天武代に始まった儀式を誇られてもな
0561日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 16:19:04.90
前方後円墳の前方部から後円部の中心線の先には、必ず重要な基準点が存在する。
その多くは、付近において特徴ある山の頂。あるいはその当時からすでに存在した聖なる場所、
つまりは神社の存在地などが該当する。
0562日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 16:23:07.99
>>559
仁徳天皇陵とされる物と応神天皇凌とされる物の方角を揃えられない時点でその程度の文化
若しくは
そこら辺の山を造成整備し他から移して来た

奈良はその程度

阿波は天皇凌の比定すら危うい
0563日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 16:36:59.31
>>561
一つの地域でもデタラメな方向を向いて並んでいるから、それは間違いですね。
0565日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 16:55:37.76
>>564
その基準は盛り土ではなく造成成型しやすい山の向きだな
0566日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 18:12:17.62
>>558
>古墳が向きを気にせず作られたのは本当に謎。

「忌部はん」 の豪族墓なんだから、そんなもんだよ。  わははははは   @阿波
0567日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 19:22:13.48
仁徳陵なんか近くで見たら何かわからんただの繁みだぞ。ナスカの地上絵じゃあるまいし空から見ないと分からないような法則を込めるとでも思ってるのか。

お前らが言ってるのは東京都内の20階建て以上のビルのエントランスの向きがバラバラだから非文明的だって言ってるのと同じ。
0568日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 19:39:17.93
非文明的だとは言ってないけど。
あと、繁みになったのは明治以降に禁足地に下からだ。
0569日本@名無史さん垢版2019/11/18(月) 20:24:39.38
>>567
それで似たような形をいくつも作るのだから文化的である事には変わるまい
0572日本@名無史さん垢版2019/11/19(火) 01:46:58.22
>>190私も九州だと思うけど
当時のこの辺は殆ど海だよ
0574日本@名無史さん垢版2019/11/19(火) 08:02:07.07
>>571
これでも面積的には奈良盆地くらいはあるし単独ならこんなもんだろ
奴国とかが別に書かれているところを見ると共立国はまた別なんだろうし
0576日本@名無史さん垢版2019/11/19(火) 18:52:21.15
奈良盆地と人吉盆地が同じくらいの
大きさらしい。
0577日本@名無史さん垢版2019/11/19(火) 22:00:56.82
やはりこの程度のなんの力もない小国をわざわざ現地視察しに行って特筆してるのは明らかに不自然だわ。

日本列島における最大の島である本州に全く勢力を持たない弱小寒村になんの価値があると言うのか。

九州説は当事日本列島が九州しか存在しなかったと言う荒唐無稽な仮定に基づいてる。
0578日本@名無史さん垢版2019/11/19(火) 22:08:09.71
当時、日本列島を認識していたというのが荒唐無稽な想定だろうな
0579日本@名無史さん垢版2019/11/19(火) 22:35:26.57
本州は確実に存在してたし少なくとも倭人がそこそこ住んでいた。

人が住んでて交流がなかったなんてことは絶対に無い。

九州倭人と本州倭人の間に交流交易はあったと考えられるし、その情報が魏志の使節に伝わらないわけはない。

本州のほうが九州より遥かに広く土地も豊かで有用な鉱物も産出し、当然そこに何らかの勢力があったのは間違いない。

それを全く記述せず帰ってる事が明らかにおかしい。
0580日本@名無史さん垢版2019/11/19(火) 22:47:48.92
魏使は倭国に行くのが目的のであって、倭地を全部巡る必要は無い
0581日本@名無史さん垢版2019/11/19(火) 23:10:24.77
現代で言えば台湾や香港に行っただけで中国に行ったと言ってるようなもんだな。

本土と文化も経済も全く違うのに全部を代表する地域を見たと主張するようなもの
0582日本@名無史さん垢版2019/11/19(火) 23:15:14.23
九州邪馬台国が本州の畿内や中四国付近に勢力があり支配してたとしたら九州説もあり得るがな。

九州政権が本州に影響力があったという証拠もなにもない。あるのは本州で大量に出土される鏡だけだ。
0584日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 00:11:01.76
>>579
>九州倭人と本州倭人の間に交流交易はあったと考えられるし、その情報が魏志の使節に伝わらないわけはない。

伊都国に滞在した郡使に通訳したのは九州の人間なんだから、本州の情報なんてわざわざ伝えない。

>本州のほうが九州より遥かに広く土地も豊かで有用な鉱物も産出し、当然そこに何らかの勢力があったのは間違いない。

広いだけ。
当時は鉱工業も農業も商業も九州の方が盛んだった。
0585日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 00:13:18.08
>>582

鏡だけで十分だよ。
本州は銅鐸祭祀を放棄して、九州北部の銅鏡文化を取り入れて、祖先を象徴する神器として祭った。
それは支配者層が九州北部の出自であったことを意味する。
0586日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 00:38:57.50
弥生遺跡数

福岡県 4000
奈良県 600
0587日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 00:46:39.01
おかしいな大和で見つかる鏡は中国産だと証明済みなんだが。九州で受け取った鏡が根こそぎ本州に持ち込まれないとこんな事にはならないよ。ジャイアンが本州にいたってわけだな
0588日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 00:50:48.31
中国と通じてたのが畿内でそこに銅鏡が送られたと解釈するのが道理というもの。

何もひねりもない文字どおりヤマト王権の原型が奈良にあってそれが邪馬台国だったってだけだよ。九州や阿波にはいまも昔も文明なんて一度たりとも無かった訳だ。
0589日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 00:57:55.82
>>587
九州が本州を教化するため配布したんだよ。
魏志倭人伝にも、そうするように皇帝が卑弥呼に指示しているだろ?
0590日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 06:21:21.93
中国産とされていた緻密な鏡と
国産とされていた荒い作りの鏡が、
ヒビの型などから同じ型で作られていた兄弟鏡と判明。

仕上げの違いでは、中国産と
識別できないことがわかっている。
0591日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 06:54:46.23
>>586
碌な弥生「集落」遺跡や資源の無い福岡や奈良に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   
0592日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 10:15:53.20
>>588
問題は、その「中国」が魏なのか、それとも呉なのかだよ
呉だったら、魏がそんな国を好意的にとりあげるわけがない
しかし、行程記事を詳細に見れば、そこに大国があったことが判明する
それが>>551だよ
0594日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 10:19:23.02
で、古語で天皇をスメラミコトと呼ぶことから、裸国が天皇家の国だと解明したのが>>515
0595日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 11:37:54.62
>>591
それと邪馬台国を結びつけるのがレプリカ倭国の阿波らしいコジツケ いいとこ取り 
0596日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 11:43:34.30
>>592
だとしても天下の魏様がそんなしょぼっちい九州のど田舎の弱小寒村と手を組むかね?クナ国の方が良かったんじゃ。
0597日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 13:10:57.98
言葉が通じたからじゃない?
0598日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 16:26:41.64
倭(九州北部)とは卑弥呼の100年以上前から国交がある馴染みの国だったんだよ。
狗奴国は倭の人間から間接に聞いただけで、直接の交流チャンネルがそもそもない。
0599日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 16:36:05.68
>>598
狗奴国と対比するのは、邪馬台国であって、倭国ではない!  倭国は、邪馬台国や狗奴国などを併せたある程度、広範な国家。   @阿波
0600日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 21:34:49.86
いま我々が使ってる漢字の読みは漢音と呉音があるけど漢音は唐の時代に伝わったもので、それ以前の読みは呉音だ
邪馬台国の時代は、大和朝廷の国々は漢字を呉音で読んでただろうから、呉の人たちにはよく通じただろうけど、魏の人たちには通じなかっただろう
0602日本@名無史さん垢版2019/11/20(水) 23:43:51.47
大和朝廷は知らないが、倭国なら漢とも国交が長く、金印までもらっているよ。
言葉が通じないわけがない。
0603日本@名無史さん垢版2019/11/21(木) 06:58:17.55
>>601

>>602
今の関西弁の発音が呉の地域の発音と似ていると言う人もいる。
YouTubeにその地方の発音があるが確かに関西弁に似ている。
0604日本@名無史さん垢版2019/11/21(木) 07:01:08.32
倭王武は宋に上奏文を出しており、大和政権が中国の南朝と親しかったのは明らか
0606日本@名無史さん垢版2019/11/21(木) 10:48:52.13
呉音はそもそも百済が呉の末裔を自称したからだからな
0607日本@名無史さん垢版2019/11/23(土) 10:57:29.55
おれ高志国越前説に傾きつつあるんだけど注目してる人いる?

キーワード  稲作・鉄器・翡翠(勾玉)・日本海・ヤマタノオロチ・継体天皇etc..
0608日本@名無史さん垢版2019/11/23(土) 11:12:09.39
キーワード追加  和紙・神功皇后・三韓征伐・蘇我氏・元伊勢・出雲
0609日本@名無史さん垢版2019/11/23(土) 14:15:27.20
おそらく日本海側はすべて越だった時代がある。
それを東に追いやって出雲が支配した。
それをさらに東に追いやって筑紫が支配した。
0610日本@名無史さん垢版2019/11/23(土) 14:48:33.60
>>607
コシの国は黒歯国じゃないのかな
崇神天皇の時代、四道将軍を派遣されそうになって武埴安彦命が反乱を起こしてることからみて、当時のコシの国は現在の京都をも含む、奈良よりも北の地域のうちのかなりの部分を支配する大国だったことがわかる
魏は大和朝廷と仲が良くなかったから、大和朝廷とコシの国が大国であることには触れず、位置関係のみを記録して裸国黒歯国と書いてる
その位置関係を>>500のように確定して初めて、裸国黒歯国が岡山から先の広大な領土を有する大国だとわかる
0613日本@名無史さん垢版2019/11/23(土) 20:30:59.84
>>231
水行20日の中に経由地での滞在日数だったり風や波待ちだったり災害で出向できない日数だったり船の修理や交換の日数も含まれるかも知れません。

陸行にしても経由地での滞在日数 天候や災害に見舞われた場合の出発までに要した時間 病人が出た場合の回復日数などあるかも知れません

上の人から予定期間を決められていたが予期しない予定を超える期間を要してしまった為に水行や陸行で辻褄を合わせたのかも知れません

想像を膨らませると途中で野蛮な人達に絡まれ戦わなければならなず日数が掛かったかも知れません

九州説で一般的に言われている放射状換算かもしれません

今の常識に当てはめては行けませんね
0614日本@名無史さん垢版2019/11/23(土) 20:32:41.79
BC年代に長江南河口の会稽付近から対馬暖流に乗って稲作、黥面、龍蛇信仰を携えて渡来した人々あり

「越」の海人安曇族の一部が日本海ルートで能登に上陸、のちに大国高志国を作る支えになったのである

温暖期から寒冷化に伴い大和国河内国の湖面海面が引けて陸地化するまでは人が多く住めないのだから
大国たりえない
仁徳陵など河内の古墳群は陸地化耕地化の賜物なり
0616日本@名無史さん垢版2019/11/24(日) 12:22:19.45
>>231
昔、それを言った人は無知で、水行、陸行を、数世紀あとの奈良時代の基準で計算したんだよ
同時代の基準で計算せず、その後のずっと進歩した基準で計算すれば、当然長くなる
同時代の基準としては、ほかでもない邪馬台国の使いが帯方郡を6月に出て、黄海を渡り黄河を遡って洛陽まで行くのに同じ年の12月までかかってる
それをもとに計算すれば、九州にふつうに収まる
0617日本@名無史さん垢版2019/11/24(日) 12:26:00.90
>>612
襦袢国は女王国の海を渡った東1000里にある倭種の国々の南だから場所がぜんぜん違う
当時の1000里というのは釜山から対馬、対馬から壱岐までのそれぞれの距離だから、九州の東1000里は広島あたりで、その南は愛媛だよ
コシの国は崇神天皇の時代に畿内を舞台に争っていたわけで、女王国の海を渡った東4000里でぴったり合ってる
0618日本@名無史さん垢版2019/11/24(日) 13:57:36.41
>>617

関門海峡についての説明なしで瀬戸内海に入ったとは思えない。
千里はせいぜい穴戸、4千里で若狭湾のあたりでは?
0619日本@名無史さん垢版2019/11/24(日) 15:19:31.44
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所 

帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
 帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km 
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km 
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km 
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km 

水行10日、陸行1月の邪馬台国 
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km 
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、黒歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km 
熊本緑川流域-奄美大島 580km 
熊本緑川流域-沖縄本島 824km 

おまけ 
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、 
韓国  面積 100,210km^2 
0620日本@名無史さん垢版2019/11/24(日) 15:36:10.74
>>619
>松浦までで

末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。   @阿波
0621日本@名無史さん垢版2019/11/24(日) 18:52:44.28
>>619
>>241のとおり、水行陸行はそれぞれの手段で行ったときの距離を箇条書きにしてあるだけ
水行の後に陸行は不要
0622日本@名無史さん垢版2019/11/24(日) 21:48:09.96
>>620
水行が長すぎる
数世紀あとの奈良時代の基準で計算してないか?
同時代の、まさに邪馬台国の使いが帯方郡を6月に出て、黄海を渡り黄河を遡って洛陽に着いたのがその年の12月だ
当時の水行の速さはそんなもんだぞ
0623日本@名無史さん垢版2019/11/24(日) 21:58:33.19
>>622
豊後水道は、瀬戸内海ほどではないが、同じく満潮・干潮により、潮流が起こるのよ。 知ってるかい? 

だから、対馬海流や黒潮に乗るようには楽に航行できないわけ。  だから、汐待ちなども含めて、日数がかかるのよ。   @阿波
0625日本@名無史さん垢版2019/11/25(月) 11:20:16.47
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王
勝手に行ったのならともかく、洛陽で皇帝への謁見を願ったうえで帯方郡の太守に洛陽まで送ってもらって、洛陽に着いてから謁見以外の行動が自由にできると考えるほうがまちがってる
0627日本@名無史さん垢版2019/11/25(月) 11:54:18.33
>>625
皇帝の詔書が出たのが12月というだけ、洛陽に着いてすぐ土産物の準備ができたとか考える方がおかしい
0628日本@名無史さん垢版2019/11/25(月) 13:48:31.78
「送詣京都」→「其年十二月 詔書」
の時系列だから、洛陽到着は12月より前のいつかでしょ
0630日本@名無史さん垢版2019/11/27(水) 01:52:30.72
>>629
因果関係の証明がない「だったらいいな」説だからどうにでもコジツケられる
0631日本@名無史さん垢版2019/11/29(金) 09:14:20.68
イヨ、トヨ、ヒメ・・
ヒメ神を祀る神社は宇佐はじめ各地に多数あるし人物の特定困難
呉の姫氏由来なものと混在していたりもする
後付け説を跳ね返すだけの物証無ければね
0632日本@名無史さん垢版2019/12/03(火) 00:48:46.96
親魏倭王の金印は天皇家で保管されてたりしないのかね?

宮内庁保管かもしれないけれど。
0633日本@名無史さん垢版2019/12/03(火) 04:07:46.64
>>628
卑弥呼の使いが勝手に行ったわけじゃなく帯方郡の太守に送ってもらってるわけで、滞在費用も向こう持ちの話なんだから、そんなに無駄な時間を使うことがそもそも考えられない
正味6ヶ月かかったと考えなければ話がおかしい
0634日本@名無史さん垢版2019/12/03(火) 08:48:38.43
いずれにしろ12月の記事の前にある話だから、それ以前のできごと
0636日本@名無史さん垢版2020/01/25(土) 14:15:07.60
>>586
それ、奈文研のデータベースだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
 1 遺跡地図
 2 遺跡地名表
 3 発掘調査報告書(報告書抄録)
 遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
 最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
 地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」

と書いてある

『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ
0637日本@名無史さん垢版2020/01/25(土) 14:17:27.45
奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
 182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵
唐子・鍵遺跡は、唐子と鍵にまたがる大遺跡で、かつ、弥生時代前期から古墳時代に至るまで
拠点集落として存続した、異なる時代の遺物もてんこ盛りに出る遺跡だけれど、
奈良県の(というか田原本町のかな?)の、データベースへの登録方針だと「1件」になる

唐子鍵遺跡と、三雲遺跡群では、唐子鍵の方が遺跡の範囲、存続期間ともに長いけれど、
それが、24倍の件数の差で登録されている

データベースの検索件数で福岡が多いっていうのは意味がないだろ?
0638日本@名無史さん垢版2020/01/25(土) 14:17:27.85
奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
 182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵
唐子・鍵遺跡は、唐子と鍵にまたがる大遺跡で、かつ、弥生時代前期から古墳時代に至るまで
拠点集落として存続した、異なる時代の遺物もてんこ盛りに出る遺跡だけれど、
奈良県の(というか田原本町のかな?)の、データベースへの登録方針だと「1件」になる

唐子鍵遺跡と、三雲遺跡群では、唐子鍵の方が遺跡の範囲、存続期間ともに長いけれど、
それが、24倍の件数の差で登録されている

データベースの検索件数で福岡が多いっていうのは意味がないだろ?
0639日本@名無史さん垢版2020/01/25(土) 14:19:44.20
三雲・井原遺跡で地区登録が15件 その他個別登録で9件
合わせて24件

341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403739 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ2582・2583地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ2582・2583
403734 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ428・429地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ428・429
403738 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ434地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ434
403726 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西526-1地区 福岡県糸島市三雲字下西526-1
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
0640日本@名無史さん垢版2020/01/25(土) 14:19:58.31
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2
153426 個別 40230 三雲・加賀石支石墓 福岡県糸島市三雲加賀石 333236.3 1301440.0
348190 個別 40230 三雲井ノ川遺跡 福岡県糸島市三雲
153421 個別 40230 三雲原際所在7-729墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際 333223.5 1301400.3
153432 個別 40230 三雲原際所在7-740墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際
153430 個別 40230 三雲屋敷所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲屋敷
153431 個別 40230 三雲所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲
153428 個別 40230 三雲柿木所在7-736包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
153429 個別 40230 三雲柿木所在7-737包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
445195 個別 40230 三雲郡所在包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲郡
0641日本@名無史さん垢版2020/01/25(土) 14:22:58.53
福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる

そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ
このように九州説の主張は中身を見ると根拠として不正なものばかりだ

要はチェリーピッキング体質なんだよな
現状、まともな学会では九州説の立場をとる研究者はいない

専門誌の論文は3世紀の倭国の中心は奈良盆地という立場で書かれている
0642日本@名無史さん垢版2020/01/25(土) 15:58:29.73
>>637
>奈良県の(というか田原本町のかな?)の、データベースへの登録方針だと「1件」になる

そのかわりに大規模(面積が大きい)と言い張れるからいいじゃないかw
0644日本@名無史さん垢版2020/01/25(土) 17:52:11.23
他説の追随を許さない、阿波の圧倒的遺跡群。   

考古学会・マスコミが阿波に膝まづくのは、時間の問題。  わははははは   @阿波
0645日本@名無史さん垢版2020/01/25(土) 18:19:54.15
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0646日本@名無史さん垢版2020/01/26(日) 03:58:10.69
>>288
>>宮崎の地名にハングル読みが多用されてる
一行目からデマ
わかると思うけど一応
0647日本@名無史さん垢版2020/01/26(日) 11:10:57.15
魏志倭人伝の記述通りだとすると
邪馬台国は宮崎の可能性が高いと思う

それが大和朝廷に繋がるかどうかは別として
0648日本@名無史さん垢版2020/01/26(日) 13:15:23.77
>>241を前提にすると、投馬国から邪馬台国までは水行10日または陸行1ヶ月ってことで
それを前提に>>366を適用すると、他の人のいうような事情で多少の誤差があるとしても、それ込みでだいたい150kmぐらいの距離だということになる
問題は不弥国から投馬国までの距離
水行20日とだけ書いて陸行を書かないのは、陸行不可能か、あるいは陸行だと即日に着いてしまって書く必要がなかったかだろう
前者だとすると水行20日ということで、南に300km離れた位置にある島に投馬国があることになるが、そんな島は存在しない
てことで後者であり、投馬国の位置は吉野ケ里あたりになる
吉野ケ里は筑後川経由で海につながっていて、不弥国のある糟屋郡宇美町から水行すればほぼ300kmぐらいだ
吉野ケ里から南に150kmの位置にある、水行も陸行も可能な地点にあるのが邪馬台国だろう
0649日本@名無史さん垢版2020/01/26(日) 13:37:44.69
>>648
>前者だとすると水行20日ということで、南に300km離れた位置にある島に投馬国があることになるが、そんな島は存在しない

鹿児島まわりで宮崎だよ。
0651日本@名無史さん垢版2020/01/27(月) 04:14:45.44
>>650
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
景初2年(西暦238年)6月 倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わし、天子に朝獻を求める。太守の劉夏は吏將をつけて京都(魏の都)に送った。

其年十二月 詔書報倭女王 曰(中略)
その年の12月、倭の女王に報いる詔書が出された。曰く(中略)

半年まるまる移動に費やした保証はないから若干の誤差はあるだろうが、それを見込んでも10日で150kmぐらいだろう
もし違うというなら同時代でもっと信頼できるソースが必要
0652日本@名無史さん垢版2020/01/27(月) 21:20:38.97
>>651
>半年まるまる移動に費やした保証はないから若干の誤差はあるだろうが
いや大半は待ちだろ
皇帝はそんなすぐ返事くれるほど暇じゃないよ
0653日本@名無史さん垢版2020/01/27(月) 21:20:38.97
>>651
>半年まるまる移動に費やした保証はないから若干の誤差はあるだろうが
いや大半は待ちだろ
皇帝はそんなすぐ返事くれるほど暇じゃないよ
0656日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 00:30:28.28
大半が待ちだろ、と疑問文をひとつ書けばなにかを否定できると本気で思ってるのか?
まずは大半が待ちなのかどうかをソース示して実証しろよ
0657日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 21:05:33.50
寝言は寝て言えよ
まずソースだと言いはるお前が大半が移動時間であることを証明しなきゃいけないんだが
それが出来ないのならそれはソースとして無効というだけのこと
0658日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 21:29:09.92
いや、他になにをしたとか記事がないんだから、無いものは無いだろ
この半年間に、移動以外の何かをしたと主張する側に照明責任がある
0659日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 21:53:07.07
>>658
寝言は寝て言えよ
景初二年六月の時点じゃまだ帯方郡は公孫淵の支配下なんだぞ
司馬懿が公孫淵を破ったのは景初二年8月23日だから劉夏が帯方郡に赴任するのはその後
更にそこから金印やら銅鏡100枚やらを準備しなきゃならん
大半が待ち時間なのは疑いの余地がない

結局お前は移動時間が大半だという証明はできませんと
じゃあソースとしては使えません
以上
0660日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 22:15:39.74
三国志を読む限り、帯方郡に向かったのは船で直行した司馬懿とは別部隊
司馬懿が遼東で公孫淵を破る前に既に陥落済と推定できる
0661日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 22:33:28.24
>>660
あり得ないね
景初二年六月時点では司馬懿がようやく遼東に到着して戦端が開かれた頃
別働隊が司馬懿を追い越して先に帯方郡を攻略なんてできるわけがない

『三國志』魏書 二公孫陶四張傳 公孫度
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-kosn.html
>二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。
0662日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 22:39:10.65
ちなみに>>661にはこうも書かれている

>壬午、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。
>城破、斬相國以下首級以千數、傳淵首洛陽、遼東,帶方,樂浪,玄菟悉平。

公孫淵を斬り首を洛陽に送ってから帯方郡や楽浪郡を平定している
0663日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:03:16.91
ウィキペディアの帯方郡の記述によると、倭の使いの訪朝はまさにその公孫淵に対抗するためになされたようだから、まだ公孫淵の勢いがある時期に出発したのでないとむしろおかしな話になる
そして、そのような動機によるものだとするならできるだけ急いで朝貢関係を構築しようとするから、移動中に同時に洛陽で金印やら鑑やらを準備してるだろう
当時の状況をいうならば、むしろ半年という移動時間が当時の最速ギリギリだったとしか考えられない
0664日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:06:22.08
「景初中、明帝密遣帶方太守劉マ樂浪太守鮮于嗣、越海、定二郡。」

密かに楽浪・帯方は平定したのよ
0665日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:12:29.82
>>663
>ウィキペディアの帯方郡の記述によると、倭の使いの訪朝はまさにその公孫淵に対抗するためになされたようだから
ウィキペディアは素人編集でその箇所にはソースが無いからただの作文に過ぎない
司馬懿が公孫淵を滅ぼしたおかげで倭は中原への接点を回復したというのが一般的な解釈だし
正史でも帯方郡が平定されたのは襄平で公孫淵を破ってからと書いてある
>>662参照
0666日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:16:03.77
なお、景初2年6月には、帯方郡太守は劉夏に変わっているので、劉マが帯方郡を落としたのはそれ以前ということになる
0667日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:17:10.75
>>664
>>662のとおり、それは公孫淵が死んだ後
公孫淵は4万を率いた司馬懿が「賊は大軍、我々は寡兵である」と述べているほどの兵力があり
こっそり送った程度の軍で帯方郡を落とすのは不可能
0674日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:23:40.33
>>670
倭人伝には倭人が使者を送ったのが六月とあるだけで劉夏が送ったのが六月とは書かれていない
妄想おつ
0675日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:26:46.64
>>669
襄平を落とさずに楽浪や帯方を平定はできないし
六月からずっと公孫淵と対峙中なのに他には行けない
襄平の後で行くしか無い
0676日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:27:01.11
「景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。」
0680日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:30:31.95
>>667のとおり、最低でも司馬懿が襄平で包囲戦に入ってからでなければ帯方の攻略は不可能
これが論理的帰結
0681日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:31:21.82
>>675
ホントに三国志読んでないねw
明帝が直接海を渡って攻撃するための船を作らせてるだろ
0685日本@名無史さん垢版2020/01/29(水) 23:42:59.29
結局三国志の記述と矛盾し、移動時間が大半であったことの証明もできなかったので
>>366はただの妄想だと確定しました
0687日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 01:52:08.38
くだらない言い争いだな
そんなもん

>>366
そんなに遅かったら対馬海峡を渡れない
最低限、狗邪韓国〜対馬北端までの60kmを一気に渡れなければならない
ハイ論破

で終了の話だろ
0689日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 07:25:44.20
>>664
誰に対して「密かに」かといえば、紛うことなく遼東の公孫淵に対して、陸路を避けて背後の海を通って「密か」にである。
公孫淵討伐後の二郡平定であれば「密かに」行なう理由は何もない。すなわち二郡平定は、遼東半島と楽浪・帯方二郡
が公孫淵の支配下にあったとき(公孫淵討伐の前)に行なわれた論理に帰結するね
0692日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 12:57:38.31
>>685
まだ確定してない
半年間のタイムテーブルを描いて、この期間は移動できない、この頃にはもう洛陽に着いてると確定して初めて、移動に使った割合が確定する
いまの時点ではたんなる言いがかりだ
0693日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 21:26:53.04
>>687
既に実証実験した人がいる
56kmを13時間弱で漕ぎ切っているから対馬へも渡れるな
半日以上漕いだらさすがに海人族でもヘトヘトで翌日は対馬国で休息だろうが

1982年:縄文の丸木舟で日本海を渡った先生方がいた
https://www.aki104.com/entry/2019/02/03/235302
>1982年7月24日朝4時40分:15kgの黒曜石を積込んで、丸木舟が隠岐島から本土に向けて漕ぎ出した。
>乗組むのは5人の小学校の先生方だ。4人が漕ぎ最後尾の1人が丸木舟の方向を制御する。
>幸いなことに50km先の本土が見える。
中略
>全行程56kmを12時間43分で漕ぎ切った。時速にして4.4kmだ。
>丸木舟の長さは6m、直径70pだ。
>以上、「縄文の丸木舟日本海を渡る : 縄文時代の再現に挑んだ教師達」という本から引用した。
0694日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 21:34:38.53
>>693の実験結果から考えると、休める場所のない対馬や壱岐への渡海は半日かけて一気に渡りきり、
翌日は多分対馬国や一支国で休息するんだと思う
魏志倭人伝で対馬国や一支国の描写が細かいのは水夫が休んでいる間に魏志が国邑を見て回ったんだろう

寄港地のある沿岸での水行はそこまで無理をしないだろう
時速4kmで8時間漕ぐとして32kmだから、水行1日はだいたい30q程度が妥当だと思う
0695日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 21:40:01.07
現代人の恵まれた体格で実験してもなんの参考にもならん
同時代の記録で判断すべきだろう
0696日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 21:51:36.85
船漕ぎは素人の先生にできたことが日々海にでている海人族にできないと思うのは無理がありすぎる
諦めろ
0697日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 22:38:46.75
もう海人族の時点で史実に即してない、解釈ありきだから話にならん
どこの使節が相手国に足を丸投げにするもんか
0698日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 22:59:31.07
>>693
>半日以上漕いだらさすがに海人族でもヘトヘトで翌日は対馬国で休息だろうが

漕ぎ手を交代すればいい。
0699日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 23:01:07.25
現代人のヒョロイ体格で実験してもなんの参考にもならん
同時代の記録で判断すべきだろう
当時の倭人の船はもっと速かっただろう
0700日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 23:04:37.18
>>697
>どこの使節が相手国に足を丸投げにするもんか

魏志倭人伝を読むに、渡海技術は倭人が独占していたのだろう。
対馬海峡は伊都の大率の管轄で、倭船以外は自由には航行できなかっただろうね。
だから帯方郡からの郡使も倭船で移動。
相手国の中の移動は相手国の用意した移動手段を使うのが普通だよ。
狗邪韓国から南はもう倭人の領海であり、そこにある諸国は伊都にいた大率を皆畏れ憚った。
0701日本@名無史さん垢版2020/01/30(木) 23:37:20.60
>>700
相手国の中の移動で相手国の用意した移動手段を使ってる例が魏志にあるならそうかもしれないな
0704日本@名無史さん垢版2020/01/31(金) 07:34:49.33
>>694
>時速4kmで8時間漕ぐとして32kmだから、水行1日はだいたい30q程度が妥当だと思う
それで考えると>>190の邪馬台国の位置はほぼ10日ジャストだな
0706日本@名無史さん垢版2020/01/31(金) 08:23:39.51
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、そのうち3日は対馬海峡三千里。
残り7日は朝鮮半島の七千里に相当。
邪馬台国までの一万二千里のうち残りの二千里は陸行。
邪馬台国は九州北部。
0707日本@名無史さん垢版2020/04/04(土) 07:33:42.64
バカな今の日本政治家じゃないので国防上の理由から使節団を遠回りして案内した
0708日本@名無史さん垢版2020/04/08(水) 01:04:34.28
邪馬台国は朝鮮にあった
0710日本@名無史さん垢版2020/04/08(水) 14:17:20.99
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8


.
0711日本@名無史さん垢版2020/05/12(火) 10:41:00.98
御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓

よって当然邪馬台国もこの周辺

ただし、邪馬台国は移動しており

山門(発祥の地)→御井周辺→甘木・朝倉→太宰府(倭京)

の流れ
0712日本@名無史さん垢版2020/05/12(火) 12:58:55.62
不彌国とは、吉野ヶ里(砦遺跡)のこと。、
その不彌国の国衙主邑は、東南接の微高地に開けた旧三根=彌根郷、つまり現在の上峰町だった(「彌」は先君の廟を意味する)。
この吉野ヶ里の南方に、邪馬台国と投馬国があった・・。
0713日本@名無史さん垢版2020/05/12(火) 13:58:08.11
>>149
>>162
狗奴国が大和政権
0714日本@名無史さん垢版2020/05/12(火) 17:37:54.49
>>712
間違い
0716日本@名無史さん垢版2020/05/13(水) 01:50:27.49
古代の日本では大和政権は征服した国を取り潰したりせずそのまま国造として存続させているが、その国の総数は陸奥国を除くと、令制国設置直前で130カ国ぐらいだ
5世紀の倭王武の上奏文によると、大和政権は東国55カ国+西国66カ国、計121カ国から構成されていたという
1世紀の漢書地理志の時代にはすでに「夫樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」だから、それ以来、令制国を設置するまで、国の数はずっとほぼ同じくらいだったということになる
大雑把に見て120カ国だろう

で、邪馬台国の時代には、「舊百餘國漢時有朝見者 今使譯所通三十國」だから、「昔、漢の時に100余国と朝見があった。いま使訳が30国に通じる」ってことで、残りの「使訳が通じない国」が存在することになる
120から30を引くと90だから、残りの「使訳が通じない国」の総数はおよそ90カ国であり、どうみても、そっちのほうが日本の主流派である
だとすると、大和政権はそっち側だろう
0717日本@名無史さん垢版2020/05/13(水) 18:16:37.59
>>711
邪馬台国が移動したというより、山門から太宰府あたりまでの広範囲が全部邪馬台国の領地で
その中で遷都が行われたって感じじゃないかな
弥生銀座を誇る奴国の3.5倍もの人口があるわけだし、単一の遺跡でそれが実現できるとは思えないから
相当広い範囲が邪馬台国だったんだと思う
0718日本@名無史さん垢版2020/05/13(水) 19:04:09.74
同意。
邪馬台国が領域国家なのは明らかだから、現在の福岡県を全て含むだろう。
0719日本@名無史さん垢版2020/05/13(水) 23:06:56.11
>>717
間違い
>>711で良い
0720日本@名無史さん垢版2020/05/13(水) 23:12:14.01
邪馬台国が大統領で奴国が実際に仕切っていた宰相の関係
だが実際は、奴国がデンと腰据えてて
邪馬台国はチョロチョロあちこち移動しているわけな
現実ってこういうもんw
0721日本@名無史さん垢版2020/05/13(水) 23:58:00.11
祇園山は新しすぎる。
平原の方が古いが、それでも平原は倭国大乱より後だから、平原こそ卑弥呼の墓。
祇園山は壹與あたりだろう。
0722日本@名無史さん垢版2020/05/13(水) 23:58:58.39
>>720

7万戸の国がちょろちょろ動くわけはない。
邪馬台国の中で宮がちょろちょろ動いたかもしれないが。
0723日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 00:42:45.52
>>721
間違い
祇園山古墳でよい
0724日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 00:43:10.15
>>722
アホ黙れw
0725日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 01:12:15.14
>>715
後漢書に根拠
自女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種
0726日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 03:51:46.53
>>725
それただの間違い
0727日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 06:25:48.27
間違いという根拠は?
0728日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 06:57:03.66
>>727
https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
正しくは以下の通り

(前略)…其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 
 自郡至女王國 萬二千餘里 

 男子無大小 皆黥面文身…(以下、倭人の特徴の記載)
 計其道里 當在會稽東冶之東 
 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭…(以下、倭人、倭地の詳細な特徴)
 其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歷年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國  自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 
唯有男子一人 給飲食 傳辭出入  居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞 
 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種  又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 
又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至 
 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里 

狗奴国は南にある国、東の海を渡った先にあるのは襦袢国や裸国、黒歯国など
0729日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 10:54:08.28
魏志には、
次有奴國  此女王境界所盡 
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 

卑弥呼の属する奴国の南であり、邪馬台国の南ではない。

後漢書は
自女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種

その接点に拘奴國

位置関係

            奴国(女王の属する国、若狭湾あたり)
             ↓

             ↓南
     東 千餘里
邪馬台国→→→→→→→→狗奴國(大和政権) 
0730日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 13:11:15.24
千里は約80キロ。
その図だと奴国が福岡県、邪馬台国が佐賀県、狗奴国が熊本県みたいな配置になる。
0731日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 15:18:02.96
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡 とある。
別の奴國が登場する。これだけありゃ、短里で十分

正し、後漢時代 千里は414kmで計算
0732日本@名無史さん垢版2020/05/14(木) 16:00:40.51
こんな日本語の文字を考案した(画像有り)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3689-0
こんな人工言語を作った
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3648-0
人類の品種
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3625-0
言葉の起源
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3623-0
日本語は海豚の言葉に由来する
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3622-0
ペンギン(ウルトラマン)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3626-0
殷と商&燕国と斉国(日本)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3644-0
日本語と中国語との同源語
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3701-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0
0734日本@名無史さん垢版2020/05/16(土) 22:00:51.93
>>733
中国人「おまいらどっから来た?」
倭人「ヤメたい」
こんなふざけた理由でヤマタイを名乗るなよ
マジレスすると邪馬台は中国語でヤマタイとは読まないから「八女たい」とか言ってる時点で八女じゃないと白状したようなもんだ

はい、論破終了
0735日本@名無史さん垢版2020/05/17(日) 01:04:28.22
>>734
たぶんそんな理由じゃなく、広川町との境目付近にある古墳群が筑紫君磐井の墓に比定されてるからじゃないの?
0736日本@名無史さん垢版2020/05/18(月) 00:20:51.14
>>725
地理についてはアバウトな後漢書が正しくて
緻密で精緻を極めている魏志倭人伝が誤りと言うのはムリがある
どちらかを選ばざるを得ないのだから天才陳寿による魏志倭人伝の記述を選ぶべき
0737日本@名無史さん垢版2020/05/18(月) 21:28:37.10
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8


.
0738日本@名無史さん垢版2020/06/11(木) 22:56:36.41
天神は筑紫の日向の倭王のこと。
高天原の天照も出雲の素戔嗚も、生まれは筑紫の日向の小戸。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。
京都を代表する祭祀である祇園祭を行う八坂神社の祭神は筑紫生まれの素戔嗚である。
畿内は筑紫の祖先崇拝の祭祀様式を丸ごと継承している。
全国のほとんどの神社は鏡が神宝で、八坂神社は例外的に矛。
いずれも筑紫を中心として広まった青銅器である。
特に鏡は天照が八咫鏡を自分のかわりに奉斎せよと神勅を下しており、大半の神社は天皇家の祖先神として筑紫で生まれた神を祭っていることになる。
神道の祝詞の中でも最も重要な大祓の祝詞は、筑紫の日向の小戸におけるイザナギの禊について述べている。
そして筑紫の王家の権威を継承することで天皇家の正統性を主張しているのが正史として定められた日本書紀なのである。
0740日本@名無史さん垢版2020/06/12(金) 21:19:11.98
.

(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0741日本@名無史さん垢版2020/06/12(金) 21:23:46.19
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.
0742日本@名無史さん垢版2020/06/13(土) 13:33:58.36
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.
0743日本@名無史さん垢版2020/06/14(日) 21:19:25.95
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.
0744日本@名無史さん垢版2020/06/15(月) 13:56:23.85
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.
0746日本@名無史さん垢版2020/06/16(火) 21:21:26.03
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.
0747日本@名無史さん垢版2020/06/17(水) 21:36:02.02
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!


.
0748日本@名無史さん垢版2020/06/18(木) 08:15:23.64
.



早くから、稲作の起源が長江中・下流域にあると主張してきた北京大学の厳文明教授は、
一九八八年に静岡市で開かれた「日本における稲作農耕の起源と展開」のシンポジウムで、
遺跡から出土した資料による栽培稲の年代と分布からみて、北回り説が最も可能性を
持ったルートだと講演しました。

中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から稲作伝播の
様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、
日本(縄文晩期終末=弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、
水田が造られた地形、土壌などを比較しました。

また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、
クワの系譜が山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm


.
0749日本@名無史さん垢版2020/06/18(木) 21:10:12.61
>>718
九州の北半分が邪馬台国だろ
南が狗奴国。
帯方郡から12000里だから女王国は伊都国、奴国
卑弥呼は伊都国に居た。
0750日本@名無史さん垢版2020/06/18(木) 21:15:48.31
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.
0751日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 01:44:14.55
免田式土器という弥生土器のグループがある
卑弥呼の時代に作られた土器であり、古墳時代に入ると消滅する
その分布を見ると、免田式土器は狗奴国の土器であると考えられる

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同lじ頃と考えてもよいでしょう。

https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇地域
菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれはそこで生産されたのではなく交易などによって散発的に拡散したものだろう
0753日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 01:58:13.05
>>751-752を総合すると、魏の使者が上陸した九州北岸から熊本の菊池川以北が共立国を含めた女王の勢力圏であり
菊池川以南の熊本平野、人吉盆地、阿蘇地域が狗奴国の主な国邑だろう

狗古智卑狗=菊池彦からの推論で菊池は狗奴国というイメージが強いが、菊池と呼ばれる地域は南北に広く、
菊池川よりもっと南の白川流域にも熊本県菊池郡が存在しており、狗古智卑狗の本拠地はそちらと考えられる
菊池市の菊池川以北に肥後の山門(肥後國菊池郡山門郷)があるのも無関係ではあるまい

これらから考えられる邪馬台国の位置は>>190に近いものとなるだろう
0755日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 08:03:42.15
卑弥呼はやはり火の国の女王なんだろ。
そして前の男王らは筑紫の日向(糸島)の天孫族。
筑紫と肥前を統治した卑弥呼は王都であった伊都の平原遺跡に葬られたのだろう。
0756日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 14:00:36.75
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.
0757日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 19:26:45.52
また転写保存
>>707
「証拠出してなかった」って証拠は?
口先だけの空手形
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「冢≠前方後円墳」などの史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、
いつもそれ
0758日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 19:29:36.92
>>718
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、×。
馬鹿のおかげで大和説の嘘つき騙しの詐欺が露わに
0759日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 19:31:01.26
>>725
発言の端々に、
「大和説には自分の思想や欲望が第一で、事実はどうでもいい」
って体質がよく出てると思うね
0760日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 19:33:53.57
>>727
ほら、
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの証拠は、
絶対に出さない
具体的なことは言わない
それが大和説の捏造体質じゃないのか?
0761日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 19:35:42.13
>>730
文献考古の史料事実や証拠を軽んじる大和説が、
学問でいられないのは当然だが
むしろその徹底して証拠を出したがらない態度は
言ってることが捏造だという告白ではないのか?
0762日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 19:43:04.48
>>733
その割に、学閥の先輩の駄説は証拠もないのに後生大事に奉る・・www、
これ、むしろ大和説の話では?
だって、「南→東」や「正北抵新羅の議論逃避」や「冢→前方後円墳」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの証拠を聞かれて答えないのは大和説でしょ?
せいぜい昔の学者の名前を言う程度
それもたいてい故人
定年過ぎなら、まだマシな方
0763日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 19:43:55.34
>>739
いつもボコボコにやられて手も足も出ない大和説
ただ荒らして溜飲を下げる
0764日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 19:49:16.71
>>768
>>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」などの、
史料実態の指摘に反論出来ない大和説って、

>真っ赤なウソ
再三反論が書き込まれてるし、いつもテンプレに貼られてる

テンプレには、Part175頃に2〜3回、全部に対して反論を書いたが、
スレ主からの再反論は全くなかったので、もう読まないよ。
読んで欲しけりゃ、その部分を転写しな。
0765日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 19:56:07.06
>>780
>倭人伝のまんま読めば、邪馬台国は九州南端から種子島あたり

これ間違い。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×だであり、
九州北岸の不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都は、九州北岸のすぐ南にある事になる。
0766日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 20:01:44.08
>>795
>>筑紫の△は、最も古いものは3世紀中頃の志登遺跡や祇園山から出土しており、
大和の△は、すべて4世紀の墳墓から出土しているので、

>ソース不明
考古学者の書いていることと全く違う

志登遺跡の事は、Yahooでの議論で、大和説者が言い出し、
東大→京大に渡り歩いた天誅と自称名の学者も承認した。
0767日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 20:57:49.21
>>813
まーだ「貼り付け」をやってらっしゃるのか
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」などの、
史料実態に拠って、
ハイ「大和説」終了
解散!
0768日本@名無史さん垢版2020/07/26(日) 21:54:19.32
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.
0769神話となった邪馬台国や倭国とは垢版2020/07/26(日) 22:42:38.54
倭人達は帯方(朝鮮半島中西部にあった中国による朝鮮統治拠点)の東南に
そして大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林多く、良田はない。倭人は主に海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接し、魏の時に至って三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万有り、男子は大人、子供は皆、顔と体に入れ墨を施す。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人達は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。
いにしへの夏朝(中国史上初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国・浙江省”)の東に当たる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせて繫ぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れ、皆おかっぱ頭で裸足である。
0770神話となった邪馬台国や倭国とは垢版2020/07/26(日) 22:42:48.84
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。

倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

倭国における重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

晋書 第九十七巻 『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰

神々からの日本最古の教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国の官僚には正確に記述されてた
伝説なる邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本列島の何処にあったんだろう?
0771神話となった卑弥呼や邪馬台国とは垢版2020/07/26(日) 23:10:43.29
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

その土地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない。
武器は矛、盾、木の弓を用い、弓の下部を短くして上部を長。
竹の矢に鉄の矢じりや骨の矢じりを用いる。
産物の有無はタンジや朱崖と同じである。
稲や苧麻を植え、桑で蚕を飼い、紡いで細い麻糸、綿、絹織物を作る。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北には、一大率を置き諸国を検察し諸国これを畏憚す。
常に伊都国で以北諸国を治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し、卑弥呼の邪馬台国に詣らすに、差錯するを得ず。

魏書 第三十巻収蔵 『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0772日本@名無史さん垢版2020/07/27(月) 00:18:09.61
https://b.imgef.com/2aM6igs.jpg
一方その頃、未開な農業作業だけが唯一の取り得の土人近畿の未開人にとって
古代開けた海洋を通して海外交流の手段さえ田舎ぶりの土人近畿の民は
銅鐸お祭りだけが唯一の文化程度という土人ぶりが明らかになってる有様w
0773日本@名無史さん垢版2020/07/27(月) 01:00:58.91
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
0775日本@名無史さん垢版2020/07/27(月) 07:52:43.73
>>752
むしろ逆に、その青い線が邪馬台国の領域なんじゃないの?
もとは漢の時代に奴国が中心だったわけで、倭国大乱を経て邪馬台国が奴国その他の国を抑えてただけじゃん
その後邪馬台国は消えてるし、一時的な強国でしょ
0776日本@名無史さん垢版2020/07/27(月) 14:41:57.50
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!


.
0777日本@名無史さん垢版2020/07/27(月) 21:35:26.49
>>775
邪馬台国は奴国を含む。
奴国の王の権威が失墜して卑弥呼が共立されたのだから、奴国を含まないわけがない。
青線で示されているのは邪馬台国の南にある狗奴国。
0778日本@名無史さん垢版2020/07/28(火) 13:07:04.03
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.
0779日本@名無史さん垢版2020/07/28(火) 15:09:04.20
>>752
当時の国境を固定的永続的に考えてはイカンな
倭国大乱は後世の戦国時代と同じで、取ったり取られたり追っ払われたり、国も種族領主も国境線も激しく入れ替わったのだ
0780日本@名無史さん垢版2020/07/28(火) 17:05:52.20
ご承知の通り、魏は220年〜265年の短命王朝だった。
倭人伝に描かれたのは、その僅か45年間に繰り広げられた親魏倭王の共立国体のことである。
なのにその短命政権の所在を、確たる製造年代も知れぬ某土器の分布で占おうとするのは、いささか心もとない手法と言わざるを得ない。
0781日本@名無史さん垢版2020/07/28(火) 17:41:24.13
しかもその次に倭が大陸の記録に出たのは倭王武の上表文
あきらかに南朝よりの政権が大和政権として統一主体となったわけだから、それ以前に北朝よりの政権があったとしても歴史の彼方に消えていったと思ったほうがいい
0782日本@名無史さん垢版2020/07/29(水) 03:46:02.43
>>779
もちろん>>752は免田式土器が作られていた卑弥呼の時代の国境だ
免田式土器はその後古墳時代に入ると忽然と消えるので狗奴国は邪馬台国に滅ぼされたわけだな
0783日本@名無史さん垢版2020/07/29(水) 07:42:52.65
免田式土器の範囲を邪馬台国だと考えた場合は
その後古墳時代に入ると忽然と消えるのは邪馬台国が大和朝廷に滅ぼされたことを示すことになる
だから考古学はあてにならない。文字資料がなければどうとでも言える
0784日本@名無史さん垢版2020/07/29(水) 07:54:27.14
>>783
>免田式土器の範囲を邪馬台国だと考えた場合は
その可能性は無いから考える必要はない
魏使が上陸した玄界灘沿岸が免田式土器の範囲外だからな
0785日本@名無史さん垢版2020/07/29(水) 09:14:48.59
免田式土器は狗奴国固有の文化で、その終焉は古墳時代だったとしても、
その始まりがいつ頃で、最盛期はいつごろだったのかを明らかにしなくてはならぬ。。

例えば、免田式の最大分布が狗奴国の最大範囲であったとしても、それが邪馬台国と同時代だったという保証はない。
紀元以前だったのか、1世紀だったのか、2世紀だったのか、3世紀だったのか・・・、それがつぎの問題を解くカギになる。
0786日本@名無史さん垢版2020/07/29(水) 09:26:09.30
また仮に、免田式土器の狗奴国が邪馬台国と同時代だったとしても、
その国境線が数百年にわたって終止固定されていたかどうかは不明である。
というより争っていたのであるから、国境線は始終南北に押したり押されたりしていたのであろう。
だから肝心なのは、魏の時代にその国境線はどこにあったのかということなのだ。
0787日本@名無史さん垢版2020/07/29(水) 12:45:47.06
免田式がどれくらいの間作られていたのかわかれば、狗奴国と邪馬壹国の関係がよりわかるかもしれないな。
0788日本@名無史さん垢版2020/07/29(水) 13:12:14.65
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0789日本@名無史さん垢版2020/07/29(水) 20:24:53.21
>>784
邪馬台国は倭国大乱を経てできた新しい国ですよ
旧ソ連が70年間かけてもバルト三国はじめ構成国を文化的に統合できてないわけで、文化というものは数年単位で統合するようなものではない
0790日本@名無史さん垢版2020/07/29(水) 22:25:27.77
>>786
まあ少なくとも免田式土器の分布外である菊池川以北はずっと邪馬台国だったとは言えるな
南の白川あたりで攻防が繰り広げられていたのだろう
0791日本@名無史さん垢版2020/07/30(木) 00:01:06.27
>>752の状況は破鏡の分布の変遷とも一致している
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する

その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より

弥生時代後期〜終末期
https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg
古墳時代前期
https://i.imgur.com/AeBKKnz.jpg

弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している

破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する
0792日本@名無史さん垢版2020/07/30(木) 00:23:05.73
ちなみに>>791の古墳時代初期に東征という年代感は、実在が確実視されている古代天皇の平均在位期間から逆算した
神武天皇の時代とも一致している

https://ironna.jp/file/w480/h480/cover/b5088bb621886ce3234badcc2fe432fd.jpg
21代雄略天皇から50代桓武天皇までは約10年でほぼ一定

https://ironna.jp/file/w480/h480/cover/9acf111959dd4a0085f1d48c22dd6b8f.jpg
そこから計算すると神武天皇は280〜290年ころの人
0793日本@名無史さん垢版2020/07/30(木) 01:17:31.70
これから、日本書紀で卑弥呼を粗略に扱っているのはなぜなのかを説明しないと邪馬台国東征説は根拠を持てないだろ
記紀の編者が魏志倭人伝を読んでないはずはない。
東征の前に邪馬台国は滅んで奴国か投馬国かどこかが大和王朝になったでもいい。
0794日本@名無史さん垢版2020/07/30(木) 04:44:32.74
日本書紀はちゃんと魏志倭人伝の卑弥呼の記事を神功皇后紀で引用してるね
粗略に扱ってはいない
0795日本@名無史さん垢版2020/07/30(木) 07:54:12.00
>>793
もちろん九州邪馬台国を隠すためだよ
記紀の目的は天皇の権威の正当化にあり、その源泉は
天照大神が「天壌無窮の神勅」によって天皇に日本の統治を命じたという物語に依拠している
つまり王権神授説である

その天照大神の正体が単なる生身の人間であり、しかも中国に朝貢して臣下の礼をとっていたというのは
大和朝廷にとって極めて都合の悪い事実であり
なんとしても隠蔽しなければならないんだよ
0796日本@名無史さん垢版2020/07/30(木) 13:14:06.57
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


.
0797日本@名無史さん垢版2020/07/30(木) 13:21:57.58
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0798日本@名無史さん垢版2020/07/30(木) 19:19:44.96
神武の年代の推定には幅がある。
少し年代がずれるだけで、
「神武らが九州を出た後に筑紫倭国の王となったのが卑弥呼」
という仮説が成り立ってしまう。
そうすれば、記紀は神武の一族の歴史書だから、卑弥呼について取り扱わなかった理由が成り立つ。
0799日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 00:58:50.91
>>798
ほぼただの言いがかり
>>752>>791といった考古学的な証拠と照らし合わせればそんな仮説は成立しない
0802日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 07:53:54.33
>>801
完全に矛盾する
破鏡の分布の変遷を見れば弥生時代に北部九州一帯を制した勢力が古墳時代に東征したのは明らか
0803日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 08:21:49.06
>>802
それも否定しない。
その上で、卑弥呼は東征しなかった方の勢力だということ。
これで、記紀が卑弥呼の邪馬台国について述べていない理由が説明できる。
0804日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 09:59:49.07
破鏡習慣=邪馬台国(その女王ヒミコの後裔が東遷した)

免田式=狗奴国(弥生後半のクニ、古墳時代に消滅した)
0805日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 10:07:43.17
破鏡とは(推測):
 遠征する武人大部隊の身元保証として、一枚の鏡を割って各部隊長・小隊長に与えた。
 遠征中、部隊がはぐれ、あるいは遭遇した場合、これを割符として敵味方を識別・確認した。
(現在いう認識票の如し)
0806日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 13:37:02.68
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.
0807日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 20:42:01.19
>>804

破鏡習慣=邪馬台国(その女王ヒミコの遠縁が東遷した)

免田式=狗奴国(弥生後半のクニ、古墳時代に消滅した)
0808日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 22:51:39.58
>>791
よく考古学者は「神武東征の痕跡を示す考古学遺物が無いこと」を根拠に神武東征を疑問視するけど
これ見たらはっきりと民族大移動の痕跡が残ってるじゃんかよ
単に神武東征が卑弥呼より後だと畿内説に都合が悪いから見て見ぬフリをしてやがったんだな
やっぱり畿内説は【ウソツ畿内】だ
0809日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 23:29:47.52
移動したというより、拡散したんだろう。
その中で7世紀まで最終的に生き残って台頭したのが畿内勢力だった。
邪馬台国は4世紀に神功皇后が滅ぼしちゃったんだよ。
畿内説は嘘つきだけど、神武は200年頃でもいいよ。
卑弥呼政権下で不遇だったから東征したのかもしれないし。
0810日本@名無史さん垢版2020/07/31(金) 23:35:35.01
旧約聖書の出エジプト記の舞台となったエジプトは、ピラミッドなどを建造した時代だが、旧約聖書にはエジプト王の詳しい事跡やピラミッドの話は出てこない。
あれはユダヤ人たちの歴史書だから。
同じように、記紀には東征(出九州)の話はあっても、その時に九州では誰が王であったかは書かれていない。
移動した先の畿内は饒速日が王国を築いていたが、その話もさらりと済ませている。
九州の邪馬台国は天皇家に繋がらないから記録するに値しないと判断したんだよ。
0811日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 08:16:39.64
卑弥呼伝説 ≒ 天照大神神話

このように置けば300年のなぞは解ける
この世には、上り坂と下り坂がある、そしてもう一つマサカという坂もある。卑弥呼≒天照大神はこのマサカだったのだ。
0812日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 13:15:23.62
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》


クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!

耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!


伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.
0813日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 19:57:54.22
また転写保存
>>969
>三角縁神獣鏡と魏鏡の銅の成分(銀・アンチモン)はお互い完全に一緒

「完全一致」ではない。
使用した材料銅成分が近縁であった、という事を示すだけ。

>つまり魏鏡と三角縁神獣鏡は同じ銅で作られているということ

つまり、△製作の使用材料銅に、同じ銅山の銅が混じっていた、という事を示すだけ。

>三角縁神獣鏡がよく見つかる畿内は魏と交流があった証拠

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使った東大理系博士号男は、
・・・・宗教男であった、という事が分かるだけであり、
△は、魏の楽浪帯方攻撃から避難して来た渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
当初は大和から出土せず、
4世紀になって、大和でも製作に関与出来るようになったもの。
0814日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 20:01:55.83
>>974の訂正
>>933
>北部九州に残る古代の大王の痕跡は二人しかいない。
一人は古代北部九州の覇権を握った高良玉垂命、もう一人はそのライバルタカミムスビ。
卑弥呼の痕跡はまったくない。

松野氏姫氏系図では、卑弥呼は「大野」に移った分家の出であり、
大野に近い安徳台が、周りに「王」の名の付く地名もあるなど、
卑弥呼の所都であった可能性が高い。
0815日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 20:07:39.87
>>983
まーだ「嘘つき騙しの貼り付け宣伝」をやってらっしゃるのか
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や「冢≠前方後円墳」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説は、ハイ終了
解散!
0816日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 20:15:47.08
>>984
>中国の度量衡は1歩=6尺が基本

中国の周代や周代以前の「里歩系」度量衡の始まりは、
「1歩≒1足底長」であり、
また、「1里≒1田畑」や「1里≒1耕作集落」であり、
それから、「1歩≒1尺」にもなった。
0817日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 20:20:01.21
>>986
>景初三年後12月のあとは当然正始元年1月だよ
つまり景初の時と比べれば暦が1か月後ろにずれ込むということ

何だ?、「当然」という推定文言を使ったという事は、
東大理系博士号男は、
「正始元年1月」の使用例が見つけられなかった、という事か。
0818日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 20:30:05.05
>>987
>垂仁天皇(3世紀後半)の宮城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)の宮城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)
日本書紀の記述

年代が少しおかしいな。
纏向の柵は当然「宮城」の根拠になるべきものであり、
その柵の下に「庄内3の土坑」が発掘された、という事は、
その宮城は「庄内3の土坑」よりも後のものになる、という事であり、
庄内3は3世紀最末〜4世紀であるから、
その宮城は、4世紀になるという事であり、
「3世紀後半」論は×だな。
0819日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 20:40:56.02
>>993
>皇帝の改元という行事が大事なら
当時は踰年(ゆねん)改元という制度があって皇帝の死後1年は喪に服して改元を行わなかった
景初四年はどうやら七月ぐらいまで使われていた痕跡が散見されるから
その状況から考えると景初三年1月1日に死亡した事になっている明帝は
実は景初三年七月くらいまでは生きていて
そこから踰年改元でぴったり1年間景初年号が使われ続けたと考えるなら
景初四年が7月ぐらいまで存在していたらしい状況に説明がつく
つまりもしかしたら景初四年と記してある方が
踰年改元に基づく皇帝の改元の行事をもっと大切にしているという事になるのかも知れない

まあ、分裂幻覚の妄想のような「かもしれない」とか「説明がつく」というのは、
証拠にならんよ。
明帝が「景初二年大晦日から景初三年元旦」の間に亡くなった、
という事は、隠そうとしても隠せる事ではない。
東大理系博士号自称男の脳がおかしい、という事を示すだけだな。
0820日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 20:49:36.71
>>997
>距離の違う事の明らかな対馬海峡の島々の間が全部千里でひと括りなのに?

一寸千里の法に拠る、有効数字1桁程度の近似値。

>その他にも魏志倭人伝に書いてある国々の間の距離は
百里と五百里しか出てこない
この2つの単位だけで正確な距離を測るのは不可能

嘘を付くな、東大理系博士号自称男?。
韓の「方可四千里」もあるし、
「七千余里」や「方四百余里」や「方三百里」や、
「去女王四千餘里」の説明が出来ていないではないか。
0822日本@名無史さん垢版2020/08/01(土) 21:06:55.91
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》


クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!

耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!


伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.
0823日本@名無史さん垢版2020/08/02(日) 13:34:14.95
.



日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.
0824日本@名無史さん垢版2020/08/03(月) 14:18:46.13
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.
0825日本@名無史さん垢版2020/08/05(水) 10:37:09.35
唐津で弥生時代後期〜古墳時代前期(約1700〜2000年前)の工房・集落跡
(読売新聞佐賀版)
 唐津市教委は、同市相知町の「黒岩前田遺跡」で発掘した竪穴式住居跡から、同じ鉱物成分の粘土塊や土器片を確認したと発表した。
市教委はこの住居が「集落の工房跡だった可能性がある」としている。
同遺跡からは、他に計6か所の住居跡も見つかった。このうち「4号住居」と呼ばれる一角からは、
古墳時代前期のツボ、ハチ、カメなどの土器や破片、粘土の塊などが出土。
土器に使われた粘土と粘土の塊を電子顕微鏡で分析したところ、含まれる花こう岩、石英などの割合や種類が酷似していることが分かり、
同市教委生涯学習文化財課の立谷聡明さんは「ここで土器を作っていたのではないか」とみている。

 また、すりこぎに似た石製の道具も出土した。土器の強度を高めるため、破片を粘土に混ぜる手法はこれまでも確認されており、
立谷さんは「土器片をハチに入れ、石製の道具で細かくすりつぶして再利用していたことも考えられる」と話している。
同遺跡は、唐津湾から南に約8キロの松浦川沿いにある。
2018年7月から市教委が調査し、19年3月に終了した。
0826日本@名無史さん垢版2020/08/05(水) 10:52:00.41
唐津市相知町は、唐津湾から南へ向かい、
小さな峠を超えて佐賀平野へ出る唐津古道の途中にある。このあたりでは硯も出土した。
0827日本@名無史さん垢版2020/08/05(水) 13:45:40.68
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.
0828日本@名無史さん垢版2020/08/06(木) 13:40:22.44
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0829日本@名無史さん垢版2020/08/06(木) 16:11:15.24
「末盧国東南陸行500里到伊都国」:

読売新聞も、毎日新聞も、西日本新聞も、佐賀新聞も、
唐津港から佐賀平野へ抜ける唐津ー佐賀古道に注目し始めました。
0830日本@名無史さん垢版2020/08/07(金) 14:27:35.40
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


.
0831日本@名無史さん垢版2020/08/07(金) 14:32:09.35
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0832日本@名無史さん垢版2020/11/01(日) 22:16:09.78
魏志倭人伝の現代語訳しか読めないが
あれ読んで邪馬台国は畿内だ、というのは
ちょっと無理ありすぎな気がするね素人的に。
0833日本@名無史さん垢版2020/11/03(火) 17:48:50.86
ふつうに山門郡だろうね
だいたい「大和」の漢字をヤマトと読むのは無理筋なんだから、その読み方が定着したのは、どこか他の「ヤマト」を征服するなどして承継した結果だと考えたほうが自然だろう
0836日本@名無史さん垢版2021/01/21(木) 16:52:45.05
農業生産力はあまりなかったようだな
対馬は良田がなく、壱岐は良田が少なくて南北交易してたとされ、松浦から先は海産物が主な食料源みたいな書き方になってる
逆に言うと、畿内みたいに大阪平野で大々的に農業やってたような場所は「葦原の中つ国」であって、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国とは国情がまったく違うってことになる
0837日本@名無史さん垢版2021/01/21(木) 18:53:39.11
天孫邇邇芸は豊葦原中国の王となるために、筑紫に降臨した。
記紀の重要なポイントだからな。
神代の王都は筑紫。
0838日本@名無史さん垢版2021/01/21(木) 21:41:00.23
>>836

伊都では野菜を食べているから、海産物だけではなく、山のものも食べていた。
壱岐対馬が農耕に適さないのは今でも同じ。
0839日本@名無史さん垢版2021/01/21(木) 21:41:41.96
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
0840日本@名無史さん垢版2021/01/21(木) 22:21:21.78
>>838
壱岐は今では長崎県下で諫早に次ぐ穀倉地帯なんだがな
平戸藩の石高も本土じゃなく殆ど壱岐のものだったんだが
0841日本@名無史さん垢版2021/01/22(金) 11:44:57.50
だから邪馬台国は漁業の国だって
魏志倭人伝にしっかり書いてあるだろ
もちろん山菜ぐらいは取っただろうし、稲も多少は食っただろうが、主食ではない
魏志倭人伝の記述に従うならばそうなるはず

稲が主食なのは邪馬台国とは別の、葦原の中つ国とかいう国のことだ
0842日本@名無史さん垢版2021/01/22(金) 13:31:07.89
邪馬台国は陸行一月の内陸ではなく、陸行一日の海岸沿い。
帯方郡から水行十日で九州上陸で、そのうち三日が対馬海峡(海上泊はできないため)。
つまり博多湾沿岸に上陸後、陸行一日で邪馬台国。

「郡使は常に伊都に駐在する」
0843日本@名無史さん垢版2021/02/11(木) 14:36:46.41
.






今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません

遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず





.
0844日本@名無史さん垢版2021/03/14(日) 13:51:50.43
>>843
在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。

1999年に学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
※学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
https://library.knou.ac.kr/user/login?returnUrl=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061&__referer=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061

加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
※ウルサン市公式サイト「ムゴドン オクヒョン遺跡」
http://ulsan.grandculture.net/Contents/Index?local=ulsan

本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。

玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。

にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない
賤しくも憐れな無能生物なのです。
0845日本@名無史さん垢版2021/08/29(日) 16:49:23.65
邪馬台国とは九州全体の事だと思います
魏志倭人伝の時代
日本の使者が「ヤマトの国」又は似たような国の名前等と言ったが中国人が聞き取れず
勝手に「邪馬台国」と当て字をされただけじゃない
0846日本@名無史さん垢版2021/08/29(日) 17:22:20.16
九州全体のことは「倭地」で、其れから狗奴国を除いた部分が「倭国」だ。

そして「邪馬台国」とは、
邪馬台国に近縁の国々(伊都国、邪馬国、投馬国)が馬韓系種族で構成されていたことから、
馬韓の血筋の倭系統(邪なる馬)の台(都)が置かれた国という意味だったのだろう。
0847日本@名無史さん垢版2021/08/30(月) 00:05:41.68
邪馬台国と投馬国(宮崎県)が並列に書かれているのだから、邪馬台国は九州北部だけでしょう。
狗奴国(熊本県)も含まないと思いますし。
邪馬台国とは福岡県、佐賀県、長崎県ということになるでしょう。
0848日本@名無史さん垢版2021/08/30(月) 06:38:16.21
単純に、福岡県の山門郡だと思う
のちに葦原中津国から仲哀天皇がここを制圧して以来、葦原中津国が対外関係で山門を次ぐことになって、葦原中津国のことを「やまと」と呼ぶようになって大和の漢字が当てられたのだろう
0849日本@名無史さん垢版2021/08/30(月) 12:04:02.04
仲哀天皇の宮は穴門豊浦宮と筑紫香椎宮だからな。
ほば九州北部の倭王。
0850日本@名無史さん垢版2021/08/30(月) 12:05:32.38
九州にゆかりの深い景行から仲哀までの天皇は、和風諡号がタラシヒコ。
0851日本@名無史さん垢版2021/08/30(月) 18:23:19.40
福岡県山門郡の中心は柳川市だった。
所謂山門郡の瀬高町(今のみやま市)は付けたし、海辺の小さな邑々ばかりで、戸数7万どころかせいぜい700戸だな。
0853日本@名無史さん垢版2021/08/30(月) 19:03:07.89
なーんだ、
オメも唐津から北東へ突っ走って、怡土・那の津・宇美の官製迷路に迷い込んだクチか。
0854日本@名無史さん垢版2021/08/30(月) 22:26:24.78
マヤはヤマ
0856日本@名無史さん垢版2021/09/20(月) 14:05:51.20
コレは簡単。
帯方郡 ソウル近郊
狗邪韓国 金官伽耶
對海国 対馬
一大国 壱岐島
末盧国 松浦
伊都国 糸島怡土
奴国 那の津、那珂
不弥国  宇美
投馬国 妻、都間
狗奴国 隈、球磨
侏儒国 種子島
これらの国と地域は既に確定しており、
これらの国を地図上にプロットして、
あぶり出された空白地域のうち、
狗奴国と南を接する山門八女から
豊前豊後までが邪馬台国になる。
0857日本@名無史さん垢版2021/09/20(月) 14:17:49.63
不彌国から投馬国まで水行20日と書かれており、
日本書紀によれば、神武の東征の際に、
日向生目から福岡岡田宮までおよそ
1ヶ月かかったと記述されており、
投馬国の都は彌彌、彌彌那利のいた
美々津と考えられるので、
およそ2/3の距離の20日であり、
不彌国から投馬国まで20日は、
美々津までの行程で考古学的に
立証されたと言えるだろう。
0858日本@名無史さん垢版2021/09/28(火) 20:55:25.54
山門八女=邪馬台国。
0859日本@名無史さん垢版2021/09/29(水) 21:18:19.37
卑弥呼って日の巫女さんじゃなくて火(地名)の命(みこと)の聞き間違いだと思う
そして卑弥弓呼も火の命
つまり火国同士で争っていた

肥前肥後の間に筑後が挟まってるが恐らく卑弥呼の時代は火の地域で邪馬台国はここだろう
しかし一族の有力者が東征し当地を離れ支配力が低下したところを筑紫の者に横領された、と。
0860日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 08:29:17.45
概ね近い意見だけど、筑後で肥国の女王であった卑弥呼が倭王になったとき、筑紫の日向つまり伊都(糸島市)に移動したのだろう。
そうでなければ倭国(博多を含む対馬海峡国)の王としての要件を成さない。
筑紫を離れたのは、先代王家の磐余彦や五瀬らだろう。
彼らは東にあると言う饒速日(彼らの大叔父)の王国を目指したんだよ。
それと、卑弥呼の次の倭王になった壹與は肥前川上の與止日女様だから、やはり邪馬台国は東征などしていない。
0861日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 20:12:40.90
卑弥呼の原音は、忌処(斎処=いみこ)。
シャーマン王の祭祀場を忌処(いみこ=清めた場所)と呼んだが、やがてシャーマン王自身の呼称となった。
これは、御門(みかど)は天皇の居所を意味したが、やがて帝(天皇)自身の呼称となったのと同じ。
そして、魏志倭人伝の著者陳寿は、このシャーマン王の忌処(いみこ)を、卑しい呪術者の意味で(い)を(ひ=卑)に変えて卑弥呼とした。

卑弥弓呼は、忌隈処(いみくこ=清めた奥まった場所)が原音。
この忌隈処(いみくこ)も、菊池のシャーマン王の呼称となった。
陳寿が、これを卑弥弓呼と変えた。
0862日本@名無史さん垢版2021/09/30(木) 20:23:47.40
邪馬台国というものは、魏志倭人伝にしか出てこないが?

女王の処都が帯方郡の南1万2千里で、
次有21国が女王の境界で、周旋可5千里、7万戸の国だよ? 

筑紫だろ? ココだろ?
0863日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 10:37:14.46
西都原
0864日本@名無史さん垢版2021/10/01(金) 19:42:15.97
九州上陸から二千里で邪馬台国。
対馬海峡は三千里とされている。
つまり宮崎県には届かない。
0865日本@名無史さん垢版2021/10/03(日) 02:04:57.54
邪馬台国や奴国など倭国の主要国は皆、卑字が当てられている。
その中で唯一、伊都国だけには雅な字を当てている。
魏にとって、伊都国は倭国対策で重要な役目を果たした国だったことが分かる。

その雅な伊都国を都にした女王が、卑の字を当てられているのは変だ。
やはり、卑弥呼は伊都国を都としていなかったと考えるのが正解だろう。
0866日本@名無史さん垢版2021/10/03(日) 08:54:57.18
肥国の女王から抜擢された卑弥呼は、筑紫の王都であった伊都においては目の上のたんこぶみたいなもの。
天孫族の末裔と思われる禰宜こそが本来なら倭王であったはず。
卑弥呼を女王として頂きながらも、複雑な国内事情があったのだろう。
卑弥呼が筑紫にいたことを否定する根拠にはならないね。
0867日本@名無史さん垢版2021/10/03(日) 10:50:44.49
卑弥呼が筑紫にいたことを肯定する根拠はないね。
0868日本@名無史さん垢版2021/10/03(日) 10:54:25.68
卑弥呼は宇宙から飛来した
0869日本@名無史さん垢版2021/10/03(日) 19:34:50.88
魏略逸文を読めよ。

倭は対馬海峡を渡ったところにあって、女王はそこに居ると書いてあるだろ。
その倭から東へ千里舟で行くと、また別の国があるとも書いてある。
その別の国が纏向国だ。
纏向国に女王がいたなんて、今時、考古学者しか言わんことだよ。
0871日本@名無史さん垢版2021/10/04(月) 21:21:01.62
1里=430m。
0872日本@名無史さん垢版2021/10/04(月) 22:00:59.56
熊本に一票
中心地は益城と見る
0873日本@名無史さん垢版2021/10/04(月) 22:33:38.02
卑弥呼が行っていた鬼道が五斗米道に近いものだとすると
米を寄進していただろうし、弥生時代から本格的な稲作が始まったとすると
人口が多かった国=米の生産量が多かった国とも捉えられる
稲作は広大な平地ほど有利で、地形の変化は数千年単位では殆ど変化しない
つまり現代の米の生産量と類似している可能性は高い
現代における九州の米の生産量は熊本>佐賀>福岡だとすると
当時人口が多かった国は邪馬台国>投馬国>奴国なので
熊本に邪馬台国があった可能性が高い
その南にあるとされる狗奴国は明確な距離が記載されていない事から
比較的近い所にあったと推測すると、八代市辺りが有力である
0874日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 00:09:26.89
今と昔では領土が違うと思うので分かり易く説明すると

奴国=福岡平野
投馬国=筑紫平野
邪馬台国=熊本平野
狗奴国=熊本平野南部

不弥国から投馬国へ行くのに水行なのは筑紫山地があった為
日本海を反時計回りしていかなくてはならなかった為と推測
0875日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 13:21:19.21
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
0876日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 13:23:26.25
投馬国(宮崎県都万神社)へは対馬海峡を渡ってから鹿児島まわり(反時計回り)で回らなくてはいけない。
関門海峡が現在の姿となったのは、4世紀だからである。
それまでの関門海峡はトンネルのような構造で、穴門と呼ばれていた。
0877日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 14:46:23.58
熊本の鉄器は、鏃が主だからなあ。
熊本邪馬台国説のネックだよ。
0878日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 16:39:45.80
狗奴国が人吉盆地だったとしたら小国でも強かったかもしれない
周囲が山に囲まれた盆地は道が限られるので罠や奇襲が容易だろうし
記述的にも天皇系が狗奴国に攻め込んでた感じっぽいから
ただこれはあくまでも卑弥呼=神功皇后、狗奴国=熊襲での話だけど
0879日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 19:00:13.25
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、足仲彦は筑紫香椎宮で急死してしまう。
大足彦は神夏磯姫と共闘していたが、足仲彦の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、筑紫は勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。

田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫は八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならない。
その中でも、肥前・筑後・筑豊に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。

足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の死から応神の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳に腐心している。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。
0880日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 21:00:36.24
景行天皇から仲哀天皇までの筑紫の天皇たちは、タラシヒコの諡を持つのが特徴。
隋書には、天のタリシヒコなる倭王が日出処の天子を自称して国書を送ってきたと記してある。
無論、筑紫の倭王だったのであろう。
0881日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 21:21:35.16
卑弥呼が誰なのか、
その墓はどこなのか、
その墓に殉葬奴婢百余人の痕跡はあるのか、
臺與(台与、とよ)は誰なのか、
その墓はどこにあるのか。

これを言えない福岡説、宮崎説はボッシュート。
0882日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 21:23:04.79
>>880
>景行天皇から仲哀天皇までの筑紫の天皇たちは

アホの古田説者がまだ生きていた。
はい、解散!
0883日本@名無史さん垢版2021/10/05(火) 22:57:32.91
タラシヒコと言えば
大国主の十七世神の最後が遠津山岬多良斯神なのが気になる
それまでの世代はだいたい〇〇ヌの神か〇〇ミの神なのに唐突にタラシの神って
0884日本@名無史さん垢版2021/10/06(水) 15:29:47.33
卑弥呼の鬼道と思われていたものは天道であり
太陽神である天照大神を崇拝していた宗教である
これを行っていたのは神功皇后とされているので
卑弥呼=神功皇后説は有力である
そうなると日本神話の舞台でもある高千穂を含んだ
熊本平野や阿蘇山一帯が邪馬台国だった可能性がある
西暦200年前後の九州は稲の凶作が原因で倭人大乱が起こり
193年には千人余りが朝鮮に食料を求め移住している
この凶作がきっかけで五穀豊作を祈願した卑弥呼に
大衆の支持が集まったと思われる
0885太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/06(水) 15:38:48.55
神功皇后の年代は卑弥呼の時代ではないですよ。
紀の編者は神功年代に卑弥呼の記事入れたが、これは間違いであり、
卑弥呼は崇神の年代の女性です。
0886日本@名無史さん垢版2021/10/06(水) 16:32:19.68
記紀神話の舞台である筑紫の日向や高千穂は、実は古代倭国の王都である筑紫の日向(福岡市と糸島市)のこと。
宮崎県ではないぞ。
0887日本@名無史さん垢版2021/10/06(水) 16:33:02.25
神功皇后の年代は卑弥呼にすり合わせるため120年繰り上げて書かれている。
0888太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/06(水) 16:42:46.45
逆だと思うが? ↓ こうじゃないかな?

卑弥呼の年代は神功皇后にすり合わせるため120年繰り下げて書かれている。
0889日本@名無史さん垢版2021/10/06(水) 17:33:25.62
ここで言う日本神話の舞台とは天孫降臨の事であり
高天原から高千穂峰へ神々が降臨したという話
筑紫(九州)の日向(宮崎)の襲(熊襲)の高千穂峰へ天降
という意味であり、現在の高千穂町付近の事である
0890日本@名無史さん垢版2021/10/06(水) 20:46:08.32
日向(=南九州)の襲(=於襲地方)の高千穂峰(=霧島連山の御鉢のすぐ東隣の高千穂峰)。

この霧島火山の火の神を部族の祖先神としたのが薩摩阿多族。
ホノニニギやホホデミなどのホはこの霧島火山の火にちなんだ名。
つまり、書記の天孫とは薩摩阿多族の祖先神のこと。
0891日本@名無史さん垢版2021/10/06(水) 22:23:55.35
魏志倭人伝にある投馬国と邪馬台国は実際には訪れていないのかもしれない
奴国は「二万余戸ある」のに対し、この二つは「〜万余戸ばかりか」になっている
距離も大まかなので恐らく地図や文面、若しくは説明による情報なのかもしれない
もしその情報が倭人によるものだとすると、外交問題に繋がる恐れもあるので
安全なルートを優先したり、何らかのアクシデントによる遅延なども考慮して
最長で掛かる距離や日数を伝えた可能性がある
0893日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 13:05:51.96
>>891

投馬国には訪れていないが、邪馬台国には訪れている。
なぜなら、女王に謁見して金印を渡しているからだ。
0894日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 13:11:12.94
>>889

だからさ、天孫降臨の地が実は南九州ではなく北九州だということ。
天孫は王として君臨するために三種の神器を帯びて筑紫へ降臨した。
それが霧島連山の山の上?
そんなところで王様になれるのか?
そこに三種の神器はあったのか?
九州で三種の神器が副葬された王墓は福岡か糸島しかない。
0895日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 13:12:24.88
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
これらの神を祭る神社の元宮は現人神社(福岡県那珂川市仲)であるとの説があり、弥生時代の倭王であったイザナギの王宮であったとも考えられる。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif
0896日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 13:16:31.74
邪馬台国は、奴隷貿易で繁栄していた。
魏への主要献上物も奴隷
0897日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 13:17:30.22
>>890

番能邇邇芸ほホは稲穂のホであり、稲穂が賑やかに実る様子を謳う名前だ。
弥生時代において、稲作こそ生活を支える主力産業であり、灌漑や暦法などの稲作にまつわる技術は王の専権事項だったはず。
王の名が稲の豊作を祈念するものであるのは自然なこと。
0898日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 14:31:36.53
>>894
霧島連山の峰に降りて、その付近の山地に住んだとしているのは古事記。
書紀では、南西の方向に山の尾根伝いに進んで海岸の吾田(阿多)に至り、そこに住んだとしている。
書記では、そのののちに海神のことなどが書かれているから、書記のほうが筋が通っている。
この点については、古事記は信用できないな。
第一、薩摩の阿多は、シャーマンの呪具である貝輪造りのそもそもの起源地。
そのことについての伝承があった可能性は高い。
ホノニニギが住んだ海辺の場所は、その阿多が設定されている。
0899日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 15:02:20.99
>>897
記紀では天照大神の子のオシホミミのホは稲穂の穂が当てられているが、
これは水田稲作の王地王民の思想を表した天照大神とオシホミミの関連でホに穂の字が当てられたもの。
そのあと、古事記では、その編集目的に沿って忠実にオシホミミの子のホノニニギのホに番の字を当てているが、
この番は播の略字であり、種を播くことを表している。稲の種籾を播く者がホノニニギの意味になる。

しかし、書記はそこまで付き合う気がないらしく、ホノニニギのホについては火の字が当てられている。
そして、ホホデミのホにも火の字が当てられている。
こうしたことを考えると、天照大神と子のオシホミミは記紀の編纂段階で調整された神とみるのが妥当。

このようにホノニニギ、ホホデミらのの天孫のホが書紀の通りに火を意味していたとすれば天照大神とは無関係の神であり、
それらの火の神は伝承された薩摩阿多族の霧島連山の火山の火を祖神とする部族神だったとするのがよい。
0900太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/07(木) 16:35:16.05
>>892
確定は正しいとは限らない。
紀の編者らが神功年代にしてるが、そうだと歴代天皇の寿命が百数十歳だったと
いうことも確定になる。そんなことはありえないよ。

八幡愚童訓に

 黄龍2年=230年=開化48年

だと明確に開化年代を教示している。
それにこのことは10年間の千葉歴博考古班の箸墓測定結果の

  240年〜260年

と辻褄が整合して百襲媛の生存年代とも合って不合理はなくウラがとれている。

そうなると239年の記述を神功39年にしてる紀のここの記述は年代の誤りを
編者らが犯してるということを意味している。

これは卑弥呼が崇神年代の女性であって、彼女は百襲媛ではないから、前者は
九州の女性であり後者の百襲媛は畿内の女性で双方ともほぼ同年代の人物
だったと確定するのだ。
0901日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 17:45:33.88
年代で人物を当てはめるのは難しいと思う
重要なのは誰が何をしたかという事で
重要人物であればその功績は歴史に残るはず
歴史的記述は無いけど時系列的にはこの人だ
という考えは合理的ではない
天皇の系図が100%正確とも限らない
0902太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/07(木) 17:56:13.10
いずれにせよ神功年代ではないよ。

そうなら当時の天皇の大半が百数十歳の超長寿になっちゃう。
だから神功の時代ではないよ。

訓から230年が開化年代だから

 崇神元年=237年=景初元年

だと判明して来る。

卑弥呼も百襲媛もこのへんの時代だったのさ。

これが分かると

  崇神没年=258年 説が合ってると分かってくる。

そうして倭の大乱は孝霊の時代のへんだ。
孝霊天皇はこれを視察に吉備行幸してる。日野郡誌に記述がある。
0903日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 18:22:08.68
当時は地図などは無かったと思うので陸行の距離に関しては
直線状の距離ではなく、道なりの距離と考えた方が妥当である
しかし方角は太陽の位置で判断できるので正確なものと思われる
0904日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 18:56:34.33
投馬国は久留米の辺りだな
卑弥呼=アマテラスを補佐していた高木神の本拠地
0905太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/07(木) 19:36:18.64
卑弥呼はアマテラスではないですね。
前者は崇神の代ですから、後者は神武以前であって別時代ですから別人ですよ。
0907太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/07(木) 21:16:08.82
卑弥呼とアマテラスは時代が違うから別人。

百襲媛は畿内の女性。しかし彼女は四国には行ってたそうだ。
0908日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 21:39:50.98
鳥取の青谷上寺地遺跡で100人分の人骨が見つかってるけど
卑弥呼が死んだ時に殉葬された奴婢100人とは関係ない感じ?
0909太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/07(木) 21:41:19.01
無関係でしょうね。
0910日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 22:08:30.46
だから卑弥呼は九州にいたという説でもいいけど、
卑弥呼は誰なのか、墓はどこなのか、そこに殉葬奴婢百余人の痕跡はあるのか、
はっきりしてくれ。

それが明確にできないなら、卑弥呼は九州にいないという事で終わり。
0911太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/07(木) 22:11:20.48
オマエのほうも紀無いのどこにいたのか、それを証明できねえんじゃ紀無いに
いないという事で終わり。

紀無いでは女王は推古からだから、ハイこれで紀無いにいないという事で終わり。
0912日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 22:27:32.17
>>898
>書記では、そのののちに海神のことなどが書かれているから、書記のほうが筋が通っている。
>この点については、古事記は信用できないな。

古事記の方が原典に近いはず。
日本書紀は、筋が通るように改変したんだよ。
8世紀においてはすでに筑紫の日向が福岡のことだということが忘れられていたか、または意図的にそのことを隠したかったのかもしれない。
そのために、一見筋が通るように微妙に表現などち、「調整」を加えたのだよ。
0913日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 22:30:04.96
>>899
>この番は播の略字であり、種を播くことを表している。稲の種籾を播く者がホノニニギの意味になる。
>しかし、書記はそこまで付き合う気がないらしく、ホノニニギのホについては火の字が当てられている。

つまり、日本書紀の方が原典からの改編が大きく、信用できない。
火に関係するという考え方は後世(日本書紀の編纂時)のものであり、本来の天孫族は稲作の神だよ。
0914日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 22:34:29.05
>>908

高天原の勢力が、出雲攻略前に見せしめとしたのでなはないか?
その話を出雲の大国主らも知っていたからこそ、稲佐の浜でイエスかノーかと問われて決戦前に降伏したのかも。
0916日本@名無史さん垢版2021/10/07(木) 23:18:33.11
三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく
0917太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/08(金) 07:45:31.83
九州の国生みでは四面全部に『別』の字をつけて半島大陸と別もの
だとはっきり古事記に記述がある。

 筑紫國 白日別
 豐國  豐日別
 肥國  建日向日豐久士比泥別
 熊曾國 建日別

日本は大陸半島とは『別』ものの国なのだ。

神国日本は全世界の別格の国である。
黄金の国神国日本と半島の世界第参位の人参民族とは同等ではない。
半島は参位の銅メダル国家であって、黄金の国ジパングの金メダル国家
とは完全に別ものなのだ。それゆえ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。

半島は銅級国家だからあのブスの銅像を各地に設置して銅だと
自認してるのさ。w

金メダル国家がこの神州であるからして、天意は日本に邪馬1国の
世界第1位の国家を置いてるのである。
したがって太古の日本人が半島から来たのではない。こちらの神国日本が半島の
ご本家だ。ご本家だから日本の国号に『本』の字がつくわけだ。
0918日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 08:22:56.70
>>911
卑弥呼が誰なのか、墓は何処なのかを何度も言ってるけど、
ただ違う違うの連発でごまかされてるだけ。

5ちゃんはお前のようなクズが来てレベル低い。
0919日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 08:24:57.14
>>915
>平原遺跡だよ。

そうすると祇園山と言ってる奴や、みやま市の権現塚と言ってる奴は馬鹿という事だね。
あと卑弥呼が誰なのか、君は言ってないが。
0920太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/08(金) 08:35:44.74
>>>918
現代でも九州人が九州居住なら、宮崎県に住もうと大分県に住もうと福岡県に
住もうとどこでも九州内だ。卑弥呼が九州と決まれば紀無いでないこと
がはっきりしたんだから、それ以上細くしようとしなくても紀無いではないのだ。

オメエが言い出したんだから、そういう口をたたくなら、紀無いのどこに
卑弥呼がいたのか、まずオメエが詳細をいわなきゃだダメだ。
九州内ときまりゃあ、九州のどこでも九州だ。泣け。

紀無いでは女王は推古からだ。それまでは紀無いに女王はいねえのさ。
これで九州だと決まり。

神功も皇后だから女王でねえし、まさか卑弥呼が
三韓征伐をしてるわけがなかろうが。独身だからこれも皇后のわけはない。w
0921日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 10:39:23.53
卑弥呼はアマテラス
卑弥弓呼はスサノオ
トヨは豊玉姫
神武天皇は山幸彦
邪馬台国は高天原で多分筑紫平野の水没しない高いとこ。
0922太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/08(金) 10:52:14.66
卑弥呼≠アマテラス

邪馬1国≠高天原
0923日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 10:58:36.72
アマテラスは蛇。
0924日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 14:05:41.18
>>913
古事記では、海幸こと火照も、山幸こと火遠も、どちらも火(ホ)なんだけど。
ということは、海幸や山幸の親のホノニニギのホは火だったとするのが合理的。
それを古事記はホノニニギのホに番(播)の字を当てて、その親のオシホミミの穂と同じく、
天照大神から稲穂を与えられたとする話につなげるための工作をマジに行っているわけ。

その点、書紀はホノニニギのホに火の字を当てて伝承の通りの表記を行ったのは、伝承のその歴史に忠実だったことを表している。
一方、古事記は奈良政権のプロパガンダに最大限忠誠心を発揮して、伝承を改竄したツワモノだったことが分かるのよ。
0925太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/08(金) 14:18:40.03
公文書偽造は当時でも敵につつかれて失脚の材料にされる。
流罪か打ち首か幽閉か〜。
故意の改竄なんかねえよ。
0926日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 14:26:31.82
>>919
冗談じゃない。
卑弥呼は死んだときに何歳だったか知ってるだろう。
70歳くらいの高齢だったのだから、当然、卑弥呼が死後に入るべき寿陵は造られていた。
卑弥呼の居所が山門にあったのなら、その生前に造られていた寿陵は権現塚とするのが妥当だ。

しかし、山門は狗奴国に攻められて、卑弥呼は邪馬台国の北の境の御井あたりまで避難した。
疲労が祟ったか御井で急死したので、急遽、近くの山を削って円墳とし、そこに葬った。
それが祇園山だよ。

だから、寿陵の権現塚と卑弥呼が葬られた祇園山のサイズが、ほとんど同じなの。
0927日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 14:30:08.95
>>925
古事記は政権の宣伝係をしたのだから、勲章もらっても不思議ではない。
0928日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 14:33:16.94
>>926
そもそも、「卑彌呼」の時代に、「前方後円墳」など存在しない。   @阿波
0929太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/08(金) 14:35:05.57
政敵が当時もいるから葬られるさ。
0930日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 15:26:23.95
「前期弥生人」
弥生時代前期に倭人が長江から九州南部へ上陸

「中期弥生人」
弥生時代中期に倭人が朝鮮から本州西部へ上陸
スサノオ(国津神)が高天原(大陸)から根の国(島根)へ上陸した時代

「後期弥生人」
弥生時代後期に倭人が呉越から九州北部へ上陸
ニニギ(天津神)が高天原(大陸)から葦原中国(九州)北部へ上陸した時代

つまりアマテラス自身は大陸から日本へは来ていない
0931日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 17:27:26.99
>>919
>あと卑弥呼が誰なのか、君は言ってないが。

卑弥呼は卑弥呼だ。
他の誰でもない。
記紀は畿内大和の伝記なので、筑紫倭国の女王であった卑弥呼は登場しない。
神武と同時代の別の王朝だ。
0932日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 17:32:51.66
>>924
日本書紀の方がプロパガンダ色が強いのはよく知られている。
古事記で稲穂だったものを、火に言い換えて脚色したのは日本書紀の方。
一般に、古事記の方が古い要素を残しているとされる。
0933太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/08(金) 17:45:37.40
記紀には外国産の神功39年の記述を除いて卑弥呼の記述は全然無い。
つまり純日本産の原書から採用したといえる卑弥呼の記述が記紀にゼロなの
である。このことは卑弥呼が畿内周辺にいなかったから畿内産の卑弥呼の記事
が無いわけで、これから彼女は九州にいたと考えるのが正解である。
紀無い説論者は記紀の編者らが卑弥呼を隠匿するために卑弥呼の記述を記紀に
載せなかったというが、そうなら神功39年に卑弥呼を公開してるわけで、この
主張は成立しない。それに紀無いでの女王は推古からだから、なおさら卑弥呼が
紀無いにいなかったことが確かだといえる。

ただ卑弥呼が神武のころではないことは10年前の千葉歴博考古班の箸墓のハイテク
機器での年代測定で240〜260年と結果だ出たことで、239年の景初3年の卑弥呼の
活動からして百襲媛は崇神の頃の女性であるからして神武の年代ではない。
239年の翌年は測定年代に入る240年の前年だからである。
つまり崇神のころが卑弥呼の時代であったとなる。ということは百襲媛も卑弥呼
もほぼ同年代の人物と確定し、前者は畿内、後者は九州に同年代ころ
生存していたと考えるのが正解である。
0934日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 17:46:45.01
卑弥呼の時代と言ったって、全国津々浦々まで3世紀前半は卑弥呼の時代だったんだけどな。
0935日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 17:48:47.30
上の>>934は、>>928宛てな。
0936日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 17:56:56.86
>>932
この頃は、古事記は史書としての意味合いが相当低下した評価となり、
一方、日本書紀の史書評価が上昇している。

古事記が奈良政権のプロパガンダ書であることは、まず変わらないよ。
0937日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 18:00:23.04
>>923
卑弥呼が急死して誰が一番得をしたか。
大和の纏向政権なんだな、これが。
0939太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/08(金) 18:09:58.46
神武天皇≠崇神天皇
0940日本@名無史さん垢版2021/10/08(金) 22:46:34.72
豊玉姫が卑弥呼で弟の宇都志日金拆命が奴国の王
弟は姉がいる邪馬台国の政権も握っていた
豊玉姫の夫である山幸彦(伊都国の王)とは早くして別れている
夫の兄である海幸彦(狗奴国の王)と仲が悪いのも理解できる

後は火須勢理命が女性だった場合に、卑弥呼に当てはまる可能性がある
0941日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 02:53:35.02
神武東征は、紀元200年頃。
戦いで荒れ果てた九州に見切りをつけて、畿内へ逃亡。
九州のことは親戚の卑弥呼に任せた
0942日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 06:38:11.26
「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3兄弟。  
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」

これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波
0943太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 08:00:43.14
阿波ない。

四国は古事記で二名島といって、数字の2が強調されてる。
邪馬1国は数字の1であって、四国とは言い難い。

金印の側面に「常根津日子」の字があるという。
ならば金印はA.D.57年だから、神武は200年よりもっと古い。
0944日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 08:03:24.87
※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみ。

「天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)」

阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。

これは、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。    @阿波
0945日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 08:07:53.83
古代の文書は、どうにでも都合のいいように解釈できるから恐ろしい
0946日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 08:21:09.86
>>945
どうにでも都合のいいように解釈するのは、お前のようなトンデモ説信者だ。   @阿波
0947日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 08:23:50.92
>>936
一般的な知識と違うことを言う俺様カッコいいとか思ってる?
原典に近い古事記に対して、畿内政権のプロパガンダ色が強いのは日本書紀だよ。
古事記で倭とあるのを日本書紀では日本にあらため、古事記で稲穂だったものを日本書紀では火に言い換えてある。
0948太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 08:26:28.50
崇神のころ、四国と朝廷は関係があることはある。
百襲媛は四国へ旅してるから・・・。
0949日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 08:28:27.07
神武東征は、紀元180年頃。
戦いで荒れ果てた九州に見切りをつけて、畿内へ逃亡。
九州の人々は責任を放り出した天孫族に見切りをつけて、火の国から女王を迎えた。
伊都国の官であるネギ(ニギ)が、残された天孫族(ニニギから始まる一族)の末裔だろう。
仮に卑弥呼が天孫族と血縁があったとしても、かなり遠いだろうね。
そうするとおそらく卑弥呼はいわゆる国津神に属するのだろう。
0950日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 08:43:06.66
畿内で、大和王権の元になる連中が勢力を拡散させようとする一方で、九州では魔導師卑弥呼がカリスマ的な存在感として君臨していた可能性がある
そして日食が起こり、卑弥呼は生贄にされ消えた
0951日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 08:49:31.26
畿内で力をつけた大和王権は、次第に周囲を征服。日本書紀の日本武尊や神功皇后の記事に、その一部が含まれている
0952太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 10:34:23.64
金印が57年で、側面に「常根津日子」の名があることは、神武はそれ以前で
280年より古い。
0953日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 11:47:50.59
字体がぜんぜんちがうから、側面のは後世に追加で刻まれた可能性がある。
0954日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 12:11:28.48
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊
トヨ津媛          E孝安 D孝昭
トヨ津媛      (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武

トヨ津媛 もヒメ(踏鞴五十鈴)后 も墓は葛城の高天原(=御所市高天)にある。
卑弥呼の時代に皇族(こうぞく)という呼称はない、王族(おうぞく)という呼称もない。
あるのは「神々(かみがみ)である。
神々は高天原にいた。
だから墓も高天原にあるのである、至極単純明快な話である。
この高天原に、径百余歩で隣に大量の奴婢埋葬痕跡がある【冢】がある。

https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg

奴婢とは土蜘蛛である。

邪馬台国論争は終了である。
0955日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 12:19:23.36
>>933
>ただ卑弥呼が神武のころではないことは10年前の千葉歴博考古班の箸墓のハイテク
機器での年代測定で240〜260年と結果だ出たことで、239年の景初3年の卑弥呼の
活動からして百襲媛は崇神の頃の女性であるからして神武の年代ではない。

建造開始時期が240〜260であったとしても、
箸墓古墳被葬者の埋葬時期は4世紀前後。
それは椿井大塚山、桜井茶臼山、葛本弁天塚と同型の近畿系大型二重口縁壺が箸墓に出ている事で分る。
箸墓古墳被葬者がモモソヒメなら4世紀前後、つまり318年に死んだ崇神と同時代を生きていたことになる。
ゆえ、崇神没年258年説は否定される。
0956日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 12:32:35.09
>>931
>卑弥呼は卑弥呼だ。
>他の誰でもない。

それはおかしい。
田油津媛などは日本書紀に書かれてるのだから、
卑弥呼が九州にいたのなら普通に書かれているだろう。
もちろん「卑弥呼」なる書き方はされてないだろうが。
0957日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 13:06:54.25
>>947
日本書紀も当時の政権のプロパガンダを受け入れたのは明らか。
天照大神の子のオシホミミのホに穂の字を当てているからだ。
天照大神が天降る予定のオシホミミに稲穂を手渡すわけだから、
オシホミミのホに穂の字を当てて、皇統に稲穂収穫の権利が引き継がれていることを示しているわけだ。
これが当時の王土王民の政治思想なのよ。

しかし、古事記が、実際に天降ることになるオシホミミの子のホノニニギのホにまで番(播)の字を当てて、
水稲播種の権利の大宣伝をしているのに比べ、書紀はそこまでは付き合えないとして伝承されていた通りにホノニニギのホに火の字を当て、
またニニギの子たちにもその火の字を当てて、皇統が火の神の血筋であることを宣明したわけ。

日本書紀が火の神の血筋としてホの音に火の字を当てたのがホノニニギからであり、
その前のオシホミミに火の字を当てていないことは、天照大神とその子オシホミミは皇統の祖神の伝承とは無関係の別の神だったからだと考えることができる。
天照大神とオシホミミは水稲栽培の権利が皇統にあると宣伝するために設定された神だったというわけだ。
つまり、その政治思想が皇統の血筋の上に加上されたのが天照大神とオシホミミのニ神ということになるのよ。
0958日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 13:38:21.05
アマテラス(太陽神)=中国の王
ツクヨミ(月神)=朝鮮の王
スサノオ(海原神)=日本の王

高天原=大陸
黄泉国=日本(出雲)
0959太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 14:11:20.70
>>953
字体が違うというが、誰が字を刻んだか知ってるのか?

字の写真を撮った人物が見学者らに見えるようになぞったから字体が
違うように感じるだけのことだろ。通常なら字体が違うと感づかれないよう、
字体もそこからインチキだと発覚しないよう工夫するはずだ。
まあ稀にはそういう頓馬の捏造者もいよう。
これで思いだすのは、アンポン氏に字から捏造だと大騒ぎになったあの
津軽外文献がある。w
インチキなら、あの秩父原人の捏造のように大さわぎになる。
しかし、トンとこれはそんな大騒ぎにならない。
本ものだと見た奴が自説と合わないので、ひっそり黙ってるから騒ぎにならぬわけ
だと想える。自説を出したのと年代の合わないことに感づき、腫れ物に
さわらぬよう、ひっこみのつかない自説が露呈されないよう当たらず触らず
してることだと見てよいがね。
0960太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 14:21:25.47
>建造開始時期が240〜260であったとしても、
箸墓古墳被葬者の埋葬時期は4世紀前後

同考古班の測定結果は百襲媛の生存年代と矛盾がない。
八幡愚童訓に

 黄龍2年=230年=開化48年

とあるから、景初3年=239年 から百襲媛の年代が開化の次世代の崇神年代
と決まる。

230年の9年後が景初3年の卑弥呼の年代だから、卑弥呼も崇神年代だと
決まる。ということは卑弥呼と媛は別人だから、卑弥呼は九州、媛は畿内の女性
で、両人がほぼ同一年代の人物たったと確定できる。

すると 崇神没年=258年 が不合理のない年代だと決まり、 318年は間違いだと
理解できる。訓が千葉考古班の測定結果が正しいとのウラ付けになっている。
0961太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 14:27:09.26
アマテラス(太陽神)≠中国の王

中国の旗は五惑星の旗であって、太陽の旗ではない。
太陽の旗は旭日旗の日本のであって日章旗も日本のであり、
アマテラスは始原的に日本の天皇の神である。
これを  ↓  見れば決定的。

https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U
0962日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 14:37:26.63
>>960

何を言ってるんだ、箸墓古墳の被葬者の埋葬時期が4世紀前後、
もし被葬者がモモソ媛ならば崇神318年没には合うけど、258年には合わないだろ。

こんね計算もできないのなら失せろ。
0963太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 14:50:08.90
どうやって埋葬時期が出たのだ?

それをオマエは解説がなってない。
318年じゃあ訓のと合わねえだろうが。開化48年の次代が崇神だ。
それが230年なら、9年後が景初3年の卑弥呼活動年代だ。

だいいちそんなに60年も多く崇神が生きてたわけがねえ。
それに紀無いでは女帝は推古の代だから、紀無いに卑弥呼はいなかったと
いうことになる。まさかオマエだって卑弥呼が神功だとはいわんだろうが。
だって卑弥呼が三韓征伐なんてやってるわけがねよ。w
0964日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 14:55:56.16
中国の王というか倭人の王かな
日本人の起源が中国の長江にいた倭人だから
日本神話も中国神話である道教由来のものだろうし

因みに当時は日本=九州だったので海原=九州であり
スサノオは母が亡くなった黄泉国(出雲国)に降りた
0965太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 15:01:24.82
日本がご本家だから国号に『本』の字がつくわけだ。

ご本家が始原なわけよ。
0966日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 16:45:15.84
邪馬台国は北九州30ヶ国の総称で間違いない
0967日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 16:51:54.33
邪馬台国は倭国30ヶ国の総称で間違いない
0969日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 17:26:58.68
使譯所通三十國(いま外交関係にあるところ)の三十国は、

「自女王國以北」の国々=「東西に貫く大吉野川流域に広がる弥生後期集落遺跡群」のことである。   

「阿波」以外に、このような一大流域弥生後期集落群は存在しない。   @阿波
0970太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 17:42:07.48
>>968 工作員よ
日本がご本家だよ。

中国という支邦の『支』は分枝、分支の枝国であってご本家日本の分派なのさ。

それ故神国日本は萬邦無比の國體を誇るのだ。
そして全世界野の統帥権は大元帥陛下にある。
0971日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 18:08:24.87
神武東征は260年辺りでトヨの時代
先行する饒速日の東征は卑弥呼(アマテラス)の時代
倭国の人々は九州から見て東=日が昇る方にある地域を日本と呼んだ
0972日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 18:13:41.03
>>964
>因みに当時は日本=九州だったので海原=九州であり

これと、

>スサノオは母が亡くなった黄泉国(出雲国)に降りた

これは矛盾するだろ。
黄泉の国は豊葦原中国つまり稲作の伝来の地である博多から黄泉比良坂つまり峠を越えた陸続きのところ。
つまり黄泉の国も九州なんだよ。
出雲周辺に比定されるのは後世の倭国拡大のせいだ。
0973太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 18:20:23.71
×全世界野の
〇全世界の

金印の常根津日子の名から、57年ころが金印時代となると、それ以前が
神武の代に位置してくる。

260年ではない。八幡愚童訓では開化48年が230年だから、神武が260年代には
ならない。
0974日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 18:22:30.39
>>963
だから4世紀前後の古墳と同型の土器が出る。
なのに箸墓だけ3世紀中ころに被葬者が埋葬されたなんて話になるまい。

石野さんが箸墓を290年ごろとしてたのもそういうことだ。
0975日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 18:37:05.77
日本=九州は陳寿の中ではな
0977日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 18:44:49.91
>>973
自分はトヨ=豊玉姫、神武天皇=山幸彦だと思ってるので東征は260年程度と見てる
0978日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 18:54:27.50
>>977
神武東征も壬申の乱も、「阿波」国内で起こった戦闘。 がっかりしたか?  真実はそんなもの。   @阿波
0979日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:00:47.39
>「阿波」国内で起こった戦闘。
という話が成り立ちうるのならば、
「九州倭国」国内で起こった戦闘。という話も成り立ちうるのだな。
0980日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:05:13.63
まあ、無理だな。 九州は神武天皇や皇室との繋がりが認められない。 つまり、蚊帳の外だ。   @阿波
0982日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:18:15.27
>>981
>九州の日向で産まれ九州で準備して出撃したのだが…

「九州の日向」 だとどうして分かるんだ?   @阿波
0984日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:28:29.78
>>983
真実はそんなものだ。   @阿波
0985日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:32:03.08
>>982
たしかにな。
だが、現在残る地名や、
これまでの日本全体の総意、
考古学的な弥生文化の西高東低などから、
九州以外ありえないだろう。
0986日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:34:21.58
スレ終わるけど邪馬台国は熊本でFA?
0987日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:35:06.88
>>983
真実はそんなものだ。  
兵站(物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持など) を考えたらスケールもそんなもの。   @阿波
0988日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:37:50.30
>>985
>だが、現在残る地名や、

筑紫も出雲も日向も阿蘇も隼人も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
その後付け地名に踊らされている、三流学者ども。  わははははは   @阿波
0989太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 19:45:32.18
>>974
それじゃあ千葉考古班の測定とは会わない。
いいか、オマエの持ってる車があるなら、速度計の針が10kmも狂うと思うか?
そんなに狂えば車メーカーの信用はガタ落ちだ。徹底して正確かを綿密に調べて
正確だと認定できて初めて走行できる。そうでねえと、ケーサツの取り締まりで
運転手が無実を着せられる可能性が甚大となる。だから高価なハイテク機器の
計測にウソは殆ど無い。ただし私用の安価なそういう時間測定機器とかなると、
インチキ、手抜きがあることは相当程度ありうる。この前も電機大学の教授
だったかインチキ不正がないかを8個か10個あたりの機器を調べてみたら、
やはり私用向きのそういう安物機器はだいぶ欠陥があって信用できないことが
認められたとのTV番組があった。だから用心は必要だが、大学とかの研究用のは
高価で十分正確度に耐えうる。あの番組では一例で中国製のをダメみたいに
包装してたな。
考古班の測定を拒否してることは、オマエの脳内が自説防備に終始してて
間違いだとの感づき判断が先入観優先でダメになってるのさ。
そんな土器は供養とかで後代陵墓に埋めたとかそのへんだ。
訓の開化48年の9年後が景初3年の239年なわけで、百襲媛の年代が訓と班測定年代
と照合して不合理はない。だから卑弥呼も媛のほぼ同年代の人物で、当時
前者は九州、後者は畿内にいたのだ。
0991太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 19:49:44.42
×包装してたな
〇放送してたな
0992日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:51:17.11
>>989
>それじゃあ千葉考古班の測定とは会わない。

だから歴博のは箸墓建造開始時期の測定。
そこからかなり時間が経過して被葬者が亡くなったのが4世紀前後。

いい加減理解しろ、おまえ頭が悪すぎ。
おまえはコテつけるような人間ではない、5ちゃんから消えろ。
0993太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 19:52:46.38
>>990
百襲媛が九州の媛だというのか? 
そんなはずはなかろう。ただ媛は四国に旅してたときがあるという。
0994日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:55:11.12
>間違いだとの感づき判断が先入観優先でダメになってるのさ。
>そんな土器は供養とかで後代陵墓に埋めたとかそのへんだ。

>そんなはずはなかろう。
0995日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 19:55:20.17
>>986
葛城(=奈良県御所市)でFA

日本で唯一の奴婢埋葬痕跡があり、
だいたい神武から6代孝安までの宮が葛城。
当時、天皇なんて役職はない、しかし彼らが日本のエスタブリッシュメントであったことは確か。
その彼らが葛城に住んでいたのはそこに王権があったから。
0996太国 ◆ZgyHKik.H2 垢版2021/10/09(土) 20:01:19.16
>>992
オマエの脳内がいかれてるのさ。
童訓でオマエの主張じゃあおかしいぞ。
開化後期が230年で、どうして崇神没年が318年になるのか?

開化後期から88年で崇神没年なわけがねえぜ。
黄龍2年が230年から、崇神即位年が景初元年の237年でおかしくない。

 318−237=81年  だぞ

崇神即位から81年も生きるわけがねえ。
それに即位年は誕生年じゃねえ。
となればなおさらだ。258年が崇神没年だと即位後21年で崩御だ。
258年で矛盾はねえぜ。班測定と訓といずれも整合してる。泣け。
0997日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 20:02:40.30
>>983
真実はそんなものだ。  
兵站(物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持など) を考えたらスケールもそんなもの。   
夢を壊して悪いが、早く現実に気づけ。   @阿波
0998日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 20:04:10.95
>>985
>だが、現在残る地名や、

筑紫も出雲も日向も阿蘇も隼人も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
その後付け地名に踊らされている、三流学者ども。  

夢を壊して悪いが、早く現実に気づけ。   @阿波
0999日本@名無史さん垢版2021/10/09(土) 20:05:15.42
>>995

ブー!残念不正解!
10011001垢版Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 796日 4時間 40分 53秒
10021002垢版Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況