邪馬台国畿内説 Part508
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1568572040/
◆0-1【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
(本項 続く) ◆0-2
(承前)
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 奥山氏は、長文を貼り付けられなくなった可能性が高いな。。。
11 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/19(木) 13:55:04.69
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1568572040/
◆0-1【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
(本項 続く) ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2-1(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
(本項 続く) 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 ◆2-2
(承前)
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約
した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から
或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3-1(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
(本項 続く) 342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ
箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない
この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である
この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる 705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな
955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので周の1尺は20cm弱
谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど 周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる
ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった ◆3-2
(承前)
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4-1(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
(本項 続く) ◆4-2
(承前)
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た ◆6-1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6-2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
(本項 続く) 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た ◆6-3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、
気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 問題です:次の文の空欄を埋めよ
1 ◆q8leUXpsw. → #okuyama
1 ◆UiepmfCeDJqf → #okuyamakouyou
1 ◆n7jxAxKCBhb6 → #[ ] ◆7-1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
(本項 続く) ◆7-2
(承前)
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た ◆8-1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
(本項 続く) ◆8-2
(承前)
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 お前たちの話を聞いている?
読んでいると、ただ頭が悪いんだろう?としか思えないんだけど
他のスレも同じ、テレビ()なども同じ >>46
手伝ってあげれば、良いのではないのかな。。。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) >>48
少し手伝ったので、奥山氏から感謝される可能性があるな。。。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。 ◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向
成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハ
ノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬
が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 何やら参照、参考文献、そういう本などがあるでしょ、
そもそも、どこから拾ってきた話なんだ 奥山氏よ、スレッドを作製することよりも、体を大切にしてください 奥山氏は、雑技団の練習で、疲労した可能性が高いな。。。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。 ◆FAQ100
Q:なぜ、邪馬台国畿内説は、破綻したのですか。
A:畿内馬具が致命的でした。 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た 奥山蹴球雑技団という雑技団は、どのような雑技団なのだろうか。。。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 スレッドよりも、奥山氏の体の方が大切なので、このスレッドは倉庫に送った方が良いのではないのかな。。。 FAQの順番がめちゃくちゃなんだが、もしかしたら酔っ払いながらやっているのか? 奥山氏の仕事が雑なのは見てのとおりで、雑技団とはそういう人の集まりだろう。 奥山氏よ、朦朧としているのではないのかな。。。
451 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/19(木) 14:53:43.16
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
701 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/19(木) 15:14:53.70
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 >>1
一つ提案
テンプレはどこかにHPにまとめて、リンクだけをここに貼るだけでもいいと思う
連投規制されたりすると、テンプレを全部貼れなくなる
それに、コピペするだけでもかなり面倒で時間もかかるし
現実的に持続可能な方法でやった方がいい
テンプレ本文だけをここに貼って、FAQはリンクだけにするとかでも負担軽減になるでしょう
この辺は他の畿内説論者の意見も聞いて、総合的に判断して決めてもらいたい >>75
奥山氏のスレッド作成が、堂々巡りを始めた可能性が高いな。。。 >>74
雑技団の仕事が忙しすぎて疲れているのかな? >>73
年代順もままならない畿内説なんだから気にしない気にしない。 奥山氏よ、スレッドを作製することよりも、体を大切にしてください ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。 奥山氏よ、スレッドを作製することよりも、体を大切にしてください 驚いたな。。。
奥山氏は、座禅を組んで、玉を頭に載せられるのだな。。。 倭人?
古代中国人でもないんだけど、どこの池沼なんだ、
家の話をしているんだろう、河伯〜カッパ?古代中国の人 『天財若子』
調べると出てくるでしょ、同じ名前の家 わけのわからない呟き荒らし行為は、テンプレートを貼り付けることを断念した奥山氏の仕業なのだろうか、、、 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
(関連:◆FAQ 40) 故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。
また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、
伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) 『かっぱっぱー』
亀に乗っているキャラ、
龍宮〜酒〜?このような動画(CM?)があったり >>91
>>52にすでに書き込んであるだろ?なんでまたコピペしてんの? ◆FAQ3-2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 奥山氏よ、また、テンプレートが重複したのでは、ないのかな。。。。
911 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/19(木) 15:30:15.25
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか! 奥山氏よ、スレッドを作製することよりも、体を大切にしてください キュウリのような葉・・・あの写真
そのような曲(かっぱっぱー)も無かったんだけど、
どういう事なんだろう 奥山氏の脳が、壊れてしまった。。。
521 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/19(木) 14:58:30.36
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
911 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/19(木) 15:30:15.25
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか! 奥山氏よ、スレッドを作製することよりも、体を大切にしてください ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 じんむ?じんむ以前?
なぜか、とある日本の神話と同じ ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 奥山氏よ、後は僕達が暇を見て、テンプレートを貼り付けるので、休んでください。。。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし スレッドの者達に挨拶します。
始めまして。
邪馬台国畿内説が破綻してしまいましたね。 ★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆UiepmfCeDJqf は今後、トリップを
1 ◆n7jxAxKCBhb6 に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★ ★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆UiepmfCeDJqf は、変更しました。
★★★★★★★★★★★★★★★★★ ◆elvTenpDshSGが、新しいトリップです。 あの写真の家の〜本人が言っているんだから、正解だろう、
どこの基地外なんだ? 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が
弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示す
と判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」 とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。
彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 78 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/09/19(木) 13:40:10.52
ここは学習能力のない奥山が綴る妄想説のスレです。
88日本@名無史さん2018/06/18(月) 00:47:39.88
スレ主は奥山で正解
okuyamaと自分でミスってかき込んでしまった
2017/12/05(火) 18:49:51.41
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★ ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 あと家は福島県にも住んでいないし、
成り済まし、騙り〜何だか知らないけど、
なんていう宗教(宗派など)の人間なんだ? 人生の時間を無駄にするテンプレートは、必要ないのではないのかな。。。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) ◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 テンプレ手伝ってやろうかと思ったが面倒くさいからやっぱりやめた 奥山氏の心身を気遣う人物が、奥山氏の作業を肩代わりしているので、感動的なのではないのかな。。。 なんていう宗教、宗派の人間なんだ?
べつに信者でも良いんだけどw やはり、僕達と同じ状態になったのだな。。。
1291 ◆UiepmfCeDJqf 2019/09/19(木) 16:00:22.30
テンプレ手伝ってやろうかと思ったが面倒くさいからやっぱりやめた 魏志倭人伝によると邪馬台国の男はみな入墨をしていたという。
同書には、水に潜って漁をするときのまじないとして入れていたものが装いに転じ、地域や階級によって刺青が異なるとも書かれている。
古代の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。
これは、古事記の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述を論拠とするものである。 家は川崎区というところに住んでいるんだけど、
川崎区の南部のほう テンプレもこれだけあると毎回全部コピペするの結構大変だな
毎回毎回これを許している5ch日本史板の管理体制も如何なものかと思うわけだが ◆FAQ 12-1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、
鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
(本項続く) はやく刑務所に行けと言っているんだよ、
どこの池沼なんだ ◆FAQ 12-2
(承前)
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 刑務所に行けと言っているんだよ、
わからないのか? >>138
せっかく俺がFAQ24まで貼ってやったんだから続きを貼れよ 何を偉そうなことを語っているんだ、
頭が悪いんだろう? ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。 ◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であ
ったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ちゃんと、言うことを聞けと言っているんだよ、
かなーり前の、とあるスレにも書いたはずなんだけどw
低脳なんだろう ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 問題:空欄を埋めよ
◆q8leUXpsw. → #okuyama
◆UiepmfCeDJqf → #okuyamakouyou
◆n7jxAxKCBhb6 → #[ ] 自殺、刑務所、それとも精神病院か・・・?
選べと言っているんだよ ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 魏志倭人伝時代の分度器は、どのような分度器だったのだろうか、、、 奥山氏が、元気を取り戻した可能性が高いな。。
1491 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/19(木) 16:23:49.24
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 奥山氏が、元気を取り戻した可能性が高いな。。
1491 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/19(木) 16:23:49.24
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 魏志倭人伝時代の分度器は、どのような分度器だったのだろうか、、、 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 魏志倭人伝時代の分度器は、どのような分度器だったのだろうか、、、 奥山氏が、元気を取り戻した可能性が高いな。。
1491 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/19(木) 16:23:49.24
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考えない方に妥当性があろう。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間の各個の盟主的首長には
各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。 FAQ1:次の文の空欄を埋めよ
1 ◆q8leUXpsw. → #okuyama
1 ◆UiepmfCeDJqf → #okuyamakouyou
1 ◆n7jxAxKCBhb6 → #[ ] 奥山先生に>>147の答えを教えていただきたいものだ 陽子は、永遠に不滅なのだろうか、、、それとも、自己崩壊してしまうのだろうか、、、 >>182
陽子は31億年で崩壊するという説が出て、日本で検証されたけど崩壊しなかった。
その後34億年で崩壊するという説も出てきたが、もう誰にも相手にされなかった。 魏志倭人伝時代の真実の情報が、完全には取り戻せないのならば、邪馬台国は、原子内の電子が電子雲のように存在しているようにして、日本列島に邪馬台国雲として存在している可能性があるな。 FAQ1:次の文の空欄を埋めよ
1 ◆q8leUXpsw. → #okuyama
1 ◆UiepmfCeDJqf → #okuyamakouyou
1 ◆n7jxAxKCBhb6 → #[ ] 奥山先生に>>147の答えを教えていただきたいものだ >>978
>少なくとも九州北部ではないな<
ダメだ。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、投馬國は側副傍線国説明であり、
だから、南至邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南に(入り口が)ある事になる。
>魏志倭人伝の記述でも九州上陸後南に水行して邪馬台国に向かうと書いてある<
ダメだ。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
「上陸後南に水行して邪馬台国に向かう」事には全くならない。
>魏志倭人伝を書いた陳寿も邪馬台国は会稽東冶の東にあって
九州北部とは認識していなかったという事<
ダメだ。
陳寿は、「会稽東治之東」と書いたのであるから、この男はウソを書いているのであり、
女王國のある会稽東治之東は、ほぼ九州島付近になり、
不彌國の直ぐ南の邪馬壹國女王之所都は、北部九州の筑紫付近である事になる。 宇宙戦艦ヤマトも日本の話、
ドラゴンボールも、あと・・・? >>185
邪馬台国雲は、熊本城に濃く漂っているのだったな。。。 陽子は、永遠に不滅なのだろうか、、、それとも、自己崩壊してしまうのだろうか、、、 そんな事よりも成り上がり〜、
そういう人物がいたりするでしょ、何がしたいんだ
〜電力の話なども、ほとんどそうだし あと土地などがあるでしょ、
本当は、お前(企業など)の土地でもないのにw
調べてみてわかったでしょ? 九州説がなぜスレ荒らしするのかは普通の人なら察しがつく 『水神』画像
なぜか、ほとんど老婆談と同じような話ばかり出てきたりw
亀戸に行ったりもした〜とか、亀戸天神、亀戸水神?
老婆の世代よりも前の話なんだけど >>195
まともな日本人とは価値観が異なる人たちなんだよ 巻向で圧倒的祭嗣を見せびらかす理由は新王朝樹立ということか?畿内は以前はどういう状態を想定か? >>197
「南→東」などの嘘付き騙しをしてまでして、大和説を唱える学者や大和説者は、
国民の7割のまともな日本人とは、
価値観が異なる宗教的な人たちなんだよ 陽子は、永遠に不滅なのだろうか、、、それとも、自己崩壊してしまうのだろうか、、、 まともな脳を持っている人間ではないので、邪馬台国畿内説を宣伝できるのではないのかな、、、 真実の奥山氏は、亡くなってしまったのだろうか、、、 >>198
基本的には伊勢遺跡の後継なのだと思う
伊勢遺跡でも各地から人が集まって、政治を行った=祭祀を行った、と考えられる
それが、卑弥呼の共立に伴って、より広範囲の首長が集まり、より大規模な国家祭祀になった >>202
奥山氏は、最期の力を振り絞り、テンプレートを貼り付けている最中に、憤死してしまったのだろうか、、、 >>204
奥山氏は、邪馬台国畿内説を完全に論破されたので、自殺体になってしまった可能性が、そうではない可能性より高いのではないのかな、、、 >>203
祭祀の元締めは、大本営倭国(阿波)。 地方の祭祀は、倭国(阿波)の模倣。 頭が高い! @阿波 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。昨日、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 陽子は、永遠に不滅なのだろうか、、、それとも、自己崩壊してしまうのだろうか、、、 奥山氏は、元気なのだろうか、、、それとも、自殺体になってしまったのだろうか、、、 陽子は、永遠に不滅なのだろうか、、、それとも、自己崩壊してしまうのだろうか、、、 奥山氏よ、生きているならば、◆n7jxAxKCBhb6という名前を、名前欄に表示して、生きていることを証明すれば、良いのではないのかな、、、 >>203
>基本的には伊勢遺跡の後継なのだと思う
伊勢遺跡でも各地から人が集まって、政治を行った=祭祀を行った、と考えられる<
伊勢遺跡は、出雲系の銅鐸祭祀が中心で越も関係があった所へ、
九州倭国の東征毛人五十五國の主力の軍がやって来て、
そこで、3者の妥協合同政府を造った場所であっただろう、と思う。
>それが、卑弥呼の共立に伴って、より広範囲の首長が集まり、より大規模な国家祭祀になった<
これは、大和の話なので、「南≠東」などに拠って、全く×。
大和は、九州倭国の東征毛人五十五國の軍の(主力軍ではなく)別動隊的軍が、
大和に既に拠点確保していた神武後継の阿毎氏の協力で、
在地の出雲系銅鐸民や毛人を征服支配した、という事なんだろう。 >>169
>築造に相応の時間差が想定されていること
そりゃ当たり前。
人夫が500人いたとして、一人一人の間隔を20m開けて工事するのではなく、
ほぼ一カ所に集中させて工事をしたのだろう。
近くのマンションの改修工事を見てても、端から順番に仕事してるが、それと同じ。
だからと言ってそれが一定期間は円墳だけであった証拠にはならない。 >>203
祭祀の元締めは、大本営倭国(阿波)。 地方の祭祀は、倭国(阿波)の模倣。 頭が高い! @阿波 石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」
森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」
白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」
菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」 陽子は、永遠に不滅なのだろうか、、、それとも、自己崩壊してしまうのだろうか、、、 邪馬台国畿内説は、永遠に不滅なのだろうか、、、それとも、自己崩壊してしまうのだろうか、、、 乳幼児死亡率の高かった古代、王家に跡継ぎの子供が生まれたからといって、
すぐにその子の墓を作り始めるわけはない。
だからと言って、王が死んでから慌てて墓を作るわけでもなかろう。
完成まで10年として、その間、王の遺体を殯ってたのかということになる。
一番考えられるのは、次期大王にふさわしいと周囲が認めた時期、
古墳時代に皇太子という称号はないが、
分かりやすく言うと皇太子の時期に墓を作り始めた、
そう考えると一番矛盾がない。
例えばおおよそ17歳くらいで次期大王と期待され、その次期大王の墓を作り始める。
しかしその人物が早逝ということもあったろう。
その場合は、作り始めてた墳墓の、その円墳部分にとりあえず埋葬し、
そして方部を後から作ったということもあったであろう。
しかしだ、2世紀末に女王になり、3世紀半ばに死んだ卑弥呼は当然だが高齢。
そんな女王の墓を死んでから作り始めた、または途中で埋葬した、なんて話はあるわけがない。
わかったか、アホの>>1 アフォのぉ>>1 【邪馬台国畿内説に常駐する九州人】
このスレはいつもアンチ畿内説のガイジ九州人が常駐している。
スレ伸ばしするくらいなら九州説について語ればいいのだが、いかんせん語るものがないから妄想九州説とか呼ばれているのである。
東を西と言ったり、嘘を百回つく習性が九州人にあるのは九州人のDNAが朝鮮人と99%酷似していることと関係があると言える。 邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮人の奥山氏よ、永遠に、さよなら。。 >>226
邪馬台国畿内説は、完全に自己崩壊したのだったな、、 【渡来系九州人と朝鮮人】
東京大学の遺伝子研究チームによると
現代日本人の43/44は渡来系九州人
この渡来系九州人の遺伝子は現代の朝鮮人と酷似していることは研究で明らかになっている
天皇の顔見てみろよ
朝鮮耳でエラ張りツリ目だろ?
たまに古代朝鮮人と現代朝鮮人は違うとか言うバカいるけど
それ違うなんて学説は世界のどこにもないから
是非東京大学に入学して論文発表してもらいたいね
https://i.imgur.com/8vIwAxZ.gif 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「ウソつき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。
https://i.imgur.com/ZDOilxS.png
https://i.imgur.com/rRNBLFG.jpg >>228
中身のない単なる想像
こういうのは左側スロープ君だ
自分の巣で闘っておいでw >>222
>そりゃ当たり前。
人夫が500人いたとして、一人一人の間隔を20m開けて工事するのではなく、
ほぼ一カ所に集中させて工事をしたのだろう。
近くのマンションの改修工事を見てても、端から順番に仕事してるが、それと同じ。
だからと言ってそれが一定期間は円墳だけであった証拠にはならない。<
賛成です。
最初に墓区域を確保した時に、前方後円墳の形に地面を確保しており、
周濠もその区域に沿って外側に掘られたから、
箸墓は、始めから前方後円墳全体で一つの墓だ、とするつもりで造っている。 >>228
>しかしだ、2世紀末に女王になり、3世紀半ばに死んだ卑弥呼は当然だが高齢。
>そんな女王の墓を死んでから作り始めた、または途中で埋葬した、なんて話はあるわけがない。
左側スロープ君の妄想だと、卑弥呼の場合皇太子の時期はないから、共立後すぐに
寿墓を作り始めることになる
そして、築造に10年かかったとして、2世紀末の共立で3世紀初めには完成してるなw
それから卑弥呼がなくなるまで数十年雨ざらしになるww
倭国まで来た張政さんが、既に何十年も前に作られた墓を見て「卑彌呼以死、大作冢」と
書くはずがないだろ?
さらに言えば、卑弥呼存命中に来た梯儁さんも、既に卑弥呼の墓を見ていることになるが
そんなことは一言も書いてない
言霊の国で「もし死んだら」という仮定の話すら忌避されるのに、生きているうちから
死んだときの準備を大々的に行うのは日本人の感性に合わない 韓国大好きな連続句読点の立てたスレはすべて糞スレ。。。 韓国大好きな連続句読点の立てたスレはすべて糞スレ。。。 韓国大好きな連続句読点の立てたスレはすべて糞スレ。。。 韓国大好きな連続句読点の立てたスレはすべて糞スレ。。。 >>234
古代朝鮮人の血を引いてるなら良い血統だなw
近代朝鮮人の血を引いている関西人は全国規模で劣化チョンに指定されてるがw 78日本@名無史さん2018/11/04(日) 20:35:28.97
ムダスレを立てるのは荒らし行為
79日本@名無史さん2018/11/04(日) 21:00:30.94
ムダスレを立てるのは荒らし行為
80日本@名無史さん2018/11/04(日) 21:57:32.08
お前の存在が無駄
81日本@名無史さん2018/11/04(日) 22:35:08.55
ムダスレを立てるのは荒らし行為
82日本@名無史さん2018/11/04(日) 22:35:33.84
ムダスレを立てるのは荒らし行為
83日本@名無史さん2018/11/04(日) 22:35:48.58
ムダスレを立てるのは荒らし行為
84日本@名無史さん2018/11/04(日) 22:36:08.80
ムダスレを立てるのは荒らし行為 【朝鮮人の歴史の真実】
科学の発展と共に現在の韓国人の人骨が持つDNAから彼ら韓国人の起源が判明しました。
東京大学の遺伝子研究チームによると
日本人の43/44は渡来系九州人
この渡来系九州人の遺伝子は現代の朝鮮人と酷似していることは研究で明らかになりました。
何故かと言うと倭人つまり日本に来た最初の日本人は36.000年前に九州や沖縄などに住み始めました。倭人が対馬を経由し朝鮮半島に渡ったのが9.000年前です。それまでは半島は無人だったことが発掘調査により明らかになりました。
4.000年前に西は中国から北はモンゴルから民族が半島に流れ込んできて、半島は幾多の戦争と支配の繰り返し、また対馬との盛んな貿易の中で混血しいまの朝鮮人になりました。
現在の朝鮮人の先祖は九州人であることが現在の九州人とのDNAの解析によって解ったのです。
つまり朝鮮人は九州人の子孫であるのです。
https://i.imgur.com/rn4kLti.gif
https://i.imgur.com/rydb8Xc.png 23日本@名無史さん2019/09/19(木) 16:23:23.37
連続
24日本@名無史さん2019/09/19(木) 16:23:34.23
句読
25日本@名無史さん2019/09/19(木) 16:23:43.42
点が
26日本@名無史さん2019/09/19(木) 16:23:55.14
精神
27日本@名無史さん2019/09/19(木) 16:24:09.34
医学
28日本@名無史さん2019/09/19(木) 16:24:16.69
的な
29日本@名無史さん2019/09/19(木) 16:24:26.92
治療の
30日本@名無史さん2019/09/19(木) 16:24:36.04
対象 信長はキリスト教こそが日本の国教になると信じていたのだろう。
日本のキリスト教の伝来は速くても500年以前。
秀吉の罪が重い。
キリスト教を早いうちから享受していれば、ユダヤ拝金主義や仏教勢力にここまで国を乗っ取られることはなかった。
ユダヤ教に太刀打ちできるのは、キリスト教だけ。
歴史を逆戻りさせるのを辞めたまえ。日本は神の国なるぞ。 信長は神主の家系やぞ。もともと神道と仏教は対立するもんや。
信長は当時の仏教の坊主が堕落しきってたから仏教徒を大量虐殺
したんや。仏教の坊主どもに比べればイエズス会の宣教師のほう
がずっと立派な人物たちだったから、信長は宣教師を尊敬したんだ。 日本の貴重な遺産群を焼き払い、天皇に対抗して
自らを神格化しようとした信長は偉大な日本人
天皇など木を彫るか金を鋳るかして造った像で
代用すればいいと放言した高師直は偉大な日本人
稲荷の祠のご神体を道端の石ころと入れ替えたり
お札を踏みつけたりしても罰が当たらないことを
証明した福沢諭吉は偉大な日本人 >>258
>信長は神主の家系やぞ。
信長は「忌部一族」神主の家系やぞ。 @阿波 宮古島と八重山諸島もかつては独立国家だったが、琉球王 尚真が1500年に戦艦100艘で出兵し、武力で制圧した。
宮古と八重山から統治権を奪い、明へ朝貢するための金品を強制的に献上させた。
もともと宮古・八重山にあった独自のタイサンピン文化を破壊し、強制的に琉球に取り込んだ。 >>258
>信長は神主の家系やぞ。
信長は「忌部一族」神主の家系やぞ。 @阿波 織田信長なんかイエズス会を保護してイエズス会の日本侵略の片棒を担いで、
諏訪大社、日吉大社、延暦寺など世界遺産級の神社仏閣を焼き払った日本史上最悪の国賊だろ? 延暦寺焼き討ちは悪魔の所業だな
よくあんなことやれたもんだよ
人間とも思えない キリスト教の布教のために正親町天皇に謁見させて
くれるように頼んだ宣教師に対して「私がこの国の支配者
で国王と内裏(将軍と天皇?)を兼ねてるから、帝なんか
に謁見しなくていいよ」って不敬な返答したので、宣教師たち
も権威を畏れぬ信長の傲慢さに仰天したんだってね。彼が本能寺で
滅んだ理由についてルイス・フロイスは、信長はネブカドネザル王
のように思い上がって自らを神格化し人々に崇拝させようとしたから
デウス様から罰せられたのだと結論づけた。 貴族で固めた文化財のなかからは宗教は生まれぬ、霊性はわき出さない。
美しい女の子が生れないで尊貴の身分に近付けぬ悩み、位が上がらぬので威張れぬ悩み、
文芸の際がなく男振りがよくないので異性に持て囃されぬ悩み・・・
そんな悩みくらいで宗教は生れぬ。
なるほど宗教は現成世界の否定性をもっている。しかしそれは心の底の底から感じられるものでなくてはいけない。
霊性そのもののおののきでなくてはならぬ。
平安時代の多くの「物語」または「歌集」中に見られる如き憂愁・無常・物のあわれなどというものは何れも淡いものである。
人間の魂の奥から出るような叫びは、どこにも聞こえぬ。
(『日本的霊性』鈴木大拙・石川県金沢市出身の仏教学者) 平成「大量殺人事件」、オウムなのだよ
上佑はペテンシ >>258
>信長は神主の家系やぞ。
信長は「忌部一族」神主の家系やぞ。 @阿波 >>232
>畿内説ってヘイトスピーチばっかりじゃん。
つ>>230「邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮人の」
九州説だろ?ww わざわざ畿内説のスレに来て
まったくぎ具体的なことを言えない
あまりにみじめな九州説 畿内説大いに結構もっとやれ
だけど知るほどにここじゃない感が沸き上がるのだよな
発掘したものを年代合わせてるだけで記紀と同じく由来や系譜に矛盾を感じる
邪馬台国はトヨの時代以降に畿内に引き継がれたと考えたほうがしっくり来る 壹與は肥前川上の淀姫様。
福岡の邪馬台国と熊本の狗奴国を平和的?に統合したんだよ。 >>285
魏志倭人伝に240年頃に卑弥呼が銅鏡100枚貰って250年辺りに死去
トヨの記述が260年頃からになっている
畿内では239年に相当する魏の年号景初三年が記銘された銅鏡が出土している >>287
でもその鏡が出土した古墳はもっと後世のもの。 テンプレ作成中に奥山に何かあったのかな?
脳梗塞? >>255
>論争で負けた九州説は荒らしに生きる<
「南≠東」や「遺伝子」などの論争に負けた大和説者は、
荒らしや放火テロや殺し合い戦争に生きる。 >>283
わざわざ「南→東」や「冢→前方後円墳」などの嘘を付き、
「畿内」や「邪馬台国」や「天皇」や「朝廷」などの存在もしなかった文言を使い、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」などを無視して、
まったくぎ具体的な反論を言えずに、国民を騙そうとし、
あまりにみじめな大和説 >>287
>畿内では239年に相当する魏の年号景初三年が記銘された銅鏡が出土している<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙しの文言であり、、大和からの出土ではなく、
明帝の詔書は景初二年だし、
景初三年鏡の△は、明帝が下賜に選択しない呉系の鏡だし、
寸法が22〜23cmで明らかに魏鏡ではないし、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与製作に拠って、地方の豪族らに配布鏡。
から、景初三年鏡は >>237
>2世紀末の共立で3世紀初めには完成してるなw
>それから卑弥呼がなくなるまで数十年雨ざらしになるww
それが何か?
>倭国まで来た張政さんが、既に何十年も前に作られた墓を見て「卑彌呼以死、大作冢」と
書くはずがないだろ?
何度も言おう、作ったのは棺を容るに足る塚。
墳を作り始めたのではない。
>生きているうちから
死んだときの準備を大々的に行うのは日本人の感性に合わない
10年間、女王の遺体を殯ってた方がよほど日本人の感性に合わない 。
特殊器台に奴婢のバラバラ遺体を乗せてたなんて言ってたお前が日本人の感性を語るな。 卑弥呼墓を箸墓で単独墓なんて言ってるから2世紀前半の其国の男王の墓を答えられなくなる。
そして>>1はその逃げ口上として「2世紀前半の其国の男王の墓には興味がない」ときた。
「興味がない」www
2世紀前半の其国の男王もヒミコもトヨも、
大和盆地の最上座、最高の位置にある塚に葬られているという意見だからだ。
一族の集団墓だな。
それが高天原だ。
https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
その点、俺は楽なものだ。 × 大和盆地の最上座、最高の位置にある塚に葬られているという意見だからだ。
一族の集団墓だな。
〇 その点、俺は楽なものだ。大和盆地の最上座、最高の位置にある塚に葬られているという意見だからだ。
一族の集団墓だな。 >>287 :>畿内では239年に相当する魏の年号景初三年が記銘された銅鏡が出土している
この手のことをいう論者は少なくないが、
百枚ももらって配りまくったんだから、すでに10枚や20枚出土していてもおかしくない。 >>237 >生きているうちから 、死んだときの準備を大々的に行うのは日本人の感性に合わない
これは、そもそも古墳というものを「墓」と誤解しているからではないか。
卑弥呼の塚は間違いなく墓の一種であった、つまり棺に入れた亡骸を葬った土饅頭でよい。
しかし古墳は、死後も安らかに生活するための地中の宮殿である。だから生前から建設に取り掛かるのは当然である。
また、死後も(生きて)生活しているのであるから、あとから誰かが訪ねて来ても、お茶など飲みながらにこやかに談笑できる(という建前)。
であるから、墓誌のようなものを入れる必要もなかったわけだ。
つまり「大古墳を作れば、あなたは(死後も)救われる」という一種の新興宗教だったのではないか。
(なおその後に広まった仏教では、それが仮想で安上がりな極楽浄土に替わったと考えればよい) 和泉黄金塚古墳(4世紀後半頃)の築造・・・景初三年鏡
誰の墓かも不明
発掘当事者の一人である森浩一(元同志社大学名誉教授)は魏から贈られ物では無いと断定 >>293
>何度も言おう、作ったのは棺を容るに足る塚。
>墳を作り始めたのではない。
それでは大作冢にはならない
冢が径百餘歩だぞw
やはり左側スロープ君は現実と折り合いがつかない、つけられないデタラメだ 箸墓を卑弥呼の墓と断定したkない説の学者は一人もいない
「じゃないか」「候補かな」「ようだ」「かもしれない」「思われる」程度
あまりにも畿内説互助会が騒ぎすぎ
巻向も王都もしかり つまり死後に大急ぎで作るのが、土饅頭の墓であり、それを大きめに作ったのが塚であった。
対照的に、生前から建設に取り掛かり、死後もゆうゆうと暮らすための地中の宮殿が大古墳だったというわけな、、。 >>294
>2世紀前半の其国の男王もヒミコもトヨも、
大和盆地の最上座、最高の位置にある塚に葬られている<
「南≠東」などに拠って、×。 寺澤氏は巻向型前方後円墳としているから
卑弥呼の墓は円墳でないと認識しているのであろうww >>301 >それでは大作冢にはならない 。冢が径百餘歩だぞw
ま、それはそのように上手に記述しただけだろう。
狗奴国といざこざが有るなかで、いくら急いでも10年はかかる大古墳や大塚を作れるわけはない。
カタチの良い径百余歩の自然丘陵の頂上付近に塚を作り、丘陵の裾には百余名の殉葬を並べた程度だろう。 >>295
>和泉黄金塚古墳(4世紀後半頃)の築造・・・景初三年鏡
誰の墓かも不明 発掘当事者の一人である森浩一(元同志社大学名誉教授)は
魏から贈られ物では無いと断定<
ふーん、成程。 径百歩の墓が1800年間径百歩のまま残ってるはずがない。 >>1
FAQ2.次の熟語の空欄を埋めよ
・奥山
・奥山紅葉
・奥山[ ] >>312
やはり日本人じゃないんだろうな
普通は 公用 と考える ここは学習能力のない奥山が綴る妄想説のスレです。
>88日本@名無史さん2018/06/18(月) 00:47:39.88
>スレ主は奥山で正解
>okuyamaと自分でミスってかき込んでしまった
>>2017/12/05(火) 18:49:51.41
>>★★★★<重要なお知らせ>★★★★
>>1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
>>1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
>>★★★★★★★★★★★★★★★★★ ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>317の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│(沖縄亶州)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│(台湾夷州)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 >>317
>>319
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 「絹」という記述に対し「麻」を証拠として提示する畿内説は韓国人という病気w >>321すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 >>323の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
(本項続く) >>325の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トルーマン大統領)への土下座外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである! ◆FAQ 31−2
(承前)
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 >>327
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の倭京(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A新羅からの朝貢で調子に乗って、宇宙の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
(本項続く) (続き)
◆FAQ 34-2
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 畿内では、後漢との交流を示す証拠は何一つ見つかっていない。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 現実は、論より証拠だ。
例)纏向の現状からすると、古墳造営時に造られた臨時集落であったと考えられる。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。
玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。
弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認された。(金原2011)
SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解についての裏付けとなろう。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のの不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 >>346(修正)
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。 ◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ★★★★<重要なお知らせ>★★★★
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識別かたよろしくお願いします。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
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識別かたよろしくお願いします。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:古墳建造に参加した大勢のドカタが寝泊まりした寄宿舎です。
どれほどの工事規模だったかを知るうえで大変貴重な遺跡です。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:全くありません。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 >>320
>Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。<
ダメだ。大和に、何の絹の経験もなく、突然縑という高技術絹が発生出来る筈がない。
当然九州で発生したものが、東征毛人五十五國将軍らに拠って齎されたんだろう、という事になる。
また、下池山では、箸墓の後頃であり、当然4世紀であり、3世紀ではない。
布目は、大和説学者に騙されているか?、元々「南→東」などの嘘付き騙しであったのか?、という事だ。
>九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。<
筑紫では、その後、久留米や宮地嶽で、金刺繍の絹織物に進化している。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:はい、畿内には到着できませんでした。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。 ◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積•重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。 ◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 間違った前提に結論をこじつけようとするから砂上の楼閣になるのよ >>378
>間違った前提に結論をこじつけようとするから砂上の楼閣になるのよ
その「前提が間違っている」というのを具体的な根拠を挙げて論証しないから
無能だって言われるんだよ
九州説は常に根拠なしの思いつきで物を言う 3751 ◆x9DCiEwb70Tj 2019/09/20(金) 12:03:51.28
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
A :非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、
上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行(糸島を目指す北東行)」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
ここまでわかっており、立派な地図もあるではないか。
であれば此の中原遺跡から松浦川に沿って南へ進み、(多久で東に折れ)、東南陸行500里の佐賀川上を目指さなかったのか不思議でならぬ。
とはいえ、すでに先学諸兄によって堅い纒向路線が引かれていたから、そうはできなかったのであろうがな。。。 ★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆x9DCiEwb70Tj は今後、トリップを
1 ◆bL7iehB8vcに変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1568572040/
◆0-1【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
(本項 続く) ◆0-2
(承前)
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 テンプレートは、完全に論破されたので、撤去しました。。。 1 ◆x9DCiEwb70Tj
長文アラシやめろやカス >>388 も連続句読点なのではないか?
頭のおかしな九州説の人数は想定よりも少ない可能性が高い 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 >>388
畿内説のテンプレに文句があるなら
汚いヤジばかり飛ばしてないで反論すれば? >>382
このスレッドは、滅茶苦茶になってしまったので、新しいスレッドを作製してください。 >>389 も連続句読点なのではないか?
頭のおかしなキナイコシのアラシ自演の可能性が高い ◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
A :非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、
上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行(糸島を目指す北東行)」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
ここまでわかっており、立派な地図もあるではないか。であれば、、
此の中原遺跡から松浦川に沿って南へ進み、(多久で東に折れ)、東南陸行500里の佐賀川上を目指さなかったのかが不思議でならぬ。
とはいえ、すでに先学諸兄によって堅い纒向路線が引かれていたから、そうはできなかったのであろうがな(哀。。。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 >>382
このスレッドは、滅茶苦茶になってしまったので、残りの番号は、バンビシャスが存続するにはどうすれば良いのか、といことについての意見や、
陽子は永遠の存在なのか、寿命のある存在なのかということについての意見を、発表して、埋めていっても良いですか、、、 >>288
仮に三世紀の鏡が四世紀の古墳から出ても四世紀のものにはならない
>>292
魏の年号の景初三年と記銘されているのは三角縁神獣鏡だけではなく
画文帯神獣鏡にも入っている
また同じく魏の年号青龍三年銘の方格規矩鏡み畿内から出土
明帝の詔書は景初二年だとしても
原本に近い時代の魏志倭人伝を引用して書かれた梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
卑弥呼が魏に使いを送った年は景初三年と引用
なので渡来の楽浪鏡師が存在した可能性は低く
景初や青龍と魏年号の記銘された三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡や方格規矩鏡は
魏との交流によって畿内にもたらされたものと推定される ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 >>397
許可します。。。
397日本@名無史さん2019/09/20(金) 12:48:05.97
>>382
このスレッドは、滅茶苦茶になってしまったので、残りの番号は、バンビシャスが存続するにはどうすれば良いのか、といことについての意見や、
陽子は永遠の存在なのか、寿命のある存在なのかということについての意見を、発表して、埋めていっても良いですか、、、 陽子は、永遠に不滅なのだろうか、、、それとも、自己崩壊してしまうのだろうか、、、 まあ、Part500を超えるシリーズなんだからこんなスレもあるさ 1個の陽子が崩壊するときに放出されるエネルギーは、どのようなエネルギーなのだろうか。。。 1個の陽子が崩壊するときに放出されるエネルギーは、1個の陽子の質量から1個の陽子が崩壊するときに変換される全ての物体の質量を引き算した質量と等価なのではないのかな。。。 1個の陽子が崩壊するときに放出されるエネルギーは、他の陽子の崩壊を引き起こすという恐ろしい連鎖反応を起こす可能性はあるのだろうか、、、
それとも、ないのだろうか。。。 陽子は、永遠に不滅なのだろうか、、、それとも、自己崩壊してしまうのだろうか、、、 ◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
A :非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、
上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行(糸島を目指す北東行)」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
ここまでわかっており、立派な地図もあるではないか。であれば、なぜ奥山が、、
此の中原遺跡から松浦川に沿って南へ進み、(多久で東に折れ)、東南陸行500里の佐賀川上を目指さなかったのか不思議でならぬ。 宇宙空間の全ての陽子のうちの一つが1年に1個、自己崩壊してしまう確率は、どのような確率なのだろうか、、、 陽子の中には、どのような物体が蠢いているのだろうか。。。 陽子の中に蠢いている物体同士は、どのような確率で、衝突をしてしまうのだろうか。。。 陽子の中に蠢いている物体の数や、その大きさや、動き回れる大きさを、知る事はできるのだろうか。。。 >>399
荒らすなよ!
407へは誤爆した(//∇//) 奥山氏が生きている間に、奥山氏の脳細胞を構成する原子を構成する陽子の一つが、自己崩壊する可能性はあるのだろうか。。。 >>322
>「絹」という記述に対し「麻」を証拠として提示する畿内説は韓国人という病気w <
ふーん?。どちらかが、「絹]dehanaku,「麻」なのか?。 原子を構成する陽子の一つが、自己崩壊するとき、原子内の他の構成要素は、どのような状況になるのだろうか。。。 原子を構成する陽子の一つが、自己崩壊するとき、原子内の他の陽子や中性子は、どうなってしまうのだろうか。。。 奥山氏が生きている間に、奥山氏の脳細胞を構成する原子を構成する陽子の一つが、自己崩壊すると、原子内の他の陽子や中性子は、どうなってしまうのだろうか。。。 >>415
絹の出土した弥生遺跡
福岡県 15地点
奈良 2地点 >>324
>隔年の職貢が途絶したこの時から
「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを
動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は
3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。<
関係がない。
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」
というように、張政は「卑弥呼に詔書黄幢を拜假し檄告喩之」しないで、
卑弥呼の臣下でもある難升米に対してやっている、という事は、
卑弥呼は「会えないような状態=病気?)であった、という可能性が高い。
>以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。 <
ダメだ。箸墓は(3世紀中頃ではなく)4世紀だ。
>なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、
張政派遣に関する一連の記事は
嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。<
魏朝のもめ事が倭国に影響を与える筈もなく、×。 元々は、陽子は、どのようにして、出現したのだろうか。。 >>326
>A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。<
「南≠東」や「南≠東北」などに拠って、×だ。
>考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、
及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場<
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五穀」があった、という事で説明が付き、
征服された地には、九州倭国の「地方の市を監督する大倭職」が置かれることもあった、
という事で十分。 2013年、電子ニュートリノ出現を発見した者がいるのだったな。。。 魏志倭人伝時代の真実の情報が、完全には取り戻せないのならば、邪馬台国は、原子内の電子が電子雲のように存在しているようにして、日本列島に邪馬台国雲として、熊本城に最も濃く漂いながら、存在している可能性があるな。 >>424
邪馬台国雲は、奈良には漂っていないのではないのかな。。。 陽子は、元々、陽子として存在していたのだろうか。。。 陽子は、素粒子という物体が幾種類か特殊な状況で合成されて、出現した可能性が高いな。。。 人間は、陽子を作製したり、陽子を破壊したりできるのだろうか、、、 邪馬台国畿内説は、嘘という物事が幾種類か特殊な状況で合成されて、出現した可能性が高いな。。。 人間は、反陽子という物を作り出せるのではないのかな。。。 陽子と反陽子が触れ合うと、どうなってしまうのだろうか。。。 >>301
>それでは大作冢にはならない
冢が径百餘歩だぞw
高天原ならそれでいいよ。
冢が径百餘歩だしね。
おそらく中国側から見れば径百餘歩の冢を、
卑弥呼の為だけに作った、と見たか、そのようにまた聞きしたのであろう。
どっちにしても「墳」を女王の死後に慌てて作ったという箸墓古墳では話にはならない。 >>328
>優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。<
吉備は、文献からは、当初は出雲の大国主少彦名の西日本支配化にあり、
出雲から「国譲り」をさせた筑紫の、「国生み」植民神話や、五瀬命らの東征で、
出雲と筑紫の双方の拠点状態になり、そこへ更に、
九州からの東征毛人五十五國に拠って、筑紫の附庸國の状態になった、と解せべきだ。
>畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。<
「畿内」なんて存在もしな語った嘘つき騙し文言であり、
「足守川流域、ならびに纒向」は、九州倭国の東征支配下の旧小国化であり、
地方の市の王がいた所、という程度だ。
>これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。<
「東征毛人五十五國」という史料事実を隠蔽抹殺すりょうな論は、始めから×だ。 >>330
>Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ! 伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)<
平原1号は、21個という大量の、
魏の工房で造られた、としか考えようが無い「尚方作」の金石文的な方格規矩鏡が出土しており、
卑弥呼か?卑弥呼から相続した壹與か?の所有であって、呉系楽浪鏡師らが塗装に関与した、としか考えられず、
絶対年代が250年頃〜270年以前位、という事になり、
西新式直前、という柳田の曖昧な説は、全く価値がない。
>原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。<
玄界灘交易が低下したのは、西晋が北方部族に攻撃され、
高句麗に拠って楽浪郡が滅亡した313年が契機であり、
317年には西晋滅亡後に東晋が建国され、
倭国でも、博多湾岸から久留米付近の筑後に遷宮があったためである。(聖徳太子伝暦に類似事項あり) >>330の続き
>副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。<
巨大内行花文鏡群は、当然呉系楽浪鏡師群の関与であろうが、
21枚の「尚方作」方格規矩鏡は、サイズ的にも明帝の下賜鏡を元にして呉系楽浪鏡師らが関与したものである。
>当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。<
いずれも、渡来の呉系楽浪鏡師らの持参の「古鏡」や「材料銅」や「列島内の古い銅製品」の使用で説明が付く。
>大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)<
そりゃ当然有り得る。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。 ◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆n7jxAxKCBhb6 は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。 ◆FAQ 85
Q:電子は原子核にとってどんな存在?
A:原子核が太陽で、電子はその周りを回る水星のようなものだよ(科学音痴の奥山談) このテンプレは、畿内説がいかにこじつけで妄想に満ち溢れたものであるかを晒しているようなものだ。 >>450
曲解だーとかこじつけだーとか
悪口言うだけで
具体的な反論はまったく出来ない
情けない姿を見てると
九州説の終焉を実感する >>334
>(出雲)それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。<
こりゃダメだね。
出雲は、縄文期から、越や新羅地域や沿海州方面からの「国引き神話」に拠って建国し、
大国主と少彦名の頃には、海峡や宗像から瀬戸内近畿東海から諏訪付近までの広範囲の盟主であり、
海峡の天孫族の阿毎氏らに拠って九州が独立し、
九州倭国の東征毛人五十五國に拠って瀬戸内近畿東海まで征服されて、縮小し、
梁代の頃にも、文身國として、越の大漢國や足摺の侏儒國や東北の女國らと共に、九州倭国に対して独立的であったが、
隋代には、出雲や越は、倭国に組み込まれていたらしい。
>※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。<
「箸中山古墳に後続する3世紀後半」というのがおかしい。
箸墓は4世紀。 >>452
おかしいという理由は?
なんで九州説はいつも理由を言わないんだか 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、頭の悪すぎる奥山氏が、元気を取り戻した可能性が、高まってきたな、、、 僕は、頭が悪すぎるので、あまり、苛めないで下さい。 >>458
駄目です。
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している貴方は、頭が悪すぎる嘘つきなので、苛められます。。。 >>455
ニセ1さん、あなたは九州説にもう詐欺師しか残ってないと証明してくれる大切な人です >>462
奥山氏が、孤独のせいで、自殺体にならないように、僕達は奥山氏の討論の相手をすれば良いな。。。 >>461
狂気でない九州説など
ここ数年見たことがない >>467
いや、そんなのは自作自演常習の連句点一人しかいない >筑前国風土記逸文に・・・
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 完全に論破されたのに続いている往生際の悪いスレはここですか。 連続句読点が連続句読点を付けずに成りすますのが増えてるな こんばんは。
奥山です。
私は誰にも成りすましていませんよ。 ほんとーに、まがい者ばかりなんだろう?
小椋佳の曲と『姥清水』
さいばば?のようなキャラが出てきて、呼ばわってみろや?と言っているでしょ。
やまびこの爺さん〜とか、どっぺるげんがー、鏡・・・。 なぜか『河童』という作品も、
登山に行き・・・という話だし。 日本の神話?
同じような話があるでしょ?
何やらの一行と、同じ姿形をした〜〜〜〜が現れ
何やらの一行は死ぬの? やまびこ、やまのかみ?
なぜか、ほとんど老婆談と同じ、
山の上のほうに住んでいたとか かっぱっぱー、龍宮〜。
なぜか、あの日本の神話と同じだしな。 うらしまマリンというキャラ、
テレビなんて観ないじゃーんみたいなことが書いてあったり
なぜだと思う? 『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』
このような広告が出てきたこともあったりw >>489
そいつは畿内説だろ。
どうにかしろよ。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、頭の悪すぎる奥山氏が、発狂した可能性が、高まってきたな、、、 あと、お前たちの書き込みなど、
相手にされていないんだけどな、その他も同じ、なぜだと思う? 連続句読点
ザラコク
キウス
川上
阿波
左側スロープ
呟き
こんなもんかな? はやく精神科に行ったほうが良いぞ、
すでに気づいているだろう、どこのキチガイなんだ 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 精神病院に行けと言っているんだよ、
調べると出てくるでしょ もう、邪馬台国畿内説は、学部では、完全に下手物扱いされているのだから、奥山氏が自殺体にならないように、スレッドの者達が、慰めれば良いな。 >>502
嫌です。悪い者達は、追い詰めれば、良い世界になります。 >>335は、反論を書いた筈だが、探しても見つからない。
しかし、どこかにある筈なので、パス。 >>480
嘘つきが違うって言うんだから正解だなw >>503
もう。許して管蔡。僕は嘘つきで、邪馬台国畿内説を電線しましたが、宣伝しましたが、失敗者です。
たから、貴方に負けたので、許して管蔡、 >>507
頭が悪すぎるな。。。
許してやるから、貴方は、もう、邪馬台国畿内説という嘘をつかないで、生きていけば良いな。 >>510
あらがてう。ゅるして暮れたので、喜びます。 >>337
>纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。 <
九州倭国の「東征毛人五十五國」軍に拠って新たに構成され、地方の市を監督する「大倭」職の国である。
> 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>496
糸クズってのは呼子上陸バカのことかな? テンプレ 途切れた件について?????
誰だ!キナイコシをイジメ倒したのは????
馬鹿な子ほど可愛いから投稿してたのに >>512
貴方は、頭が悪すぎるな。。
もっと、貴方の頭が良くなるように、祈ってあげます。。 糸クズは伊都国が邪馬台国と言ってるやつ
こいつも呼子上陸ということにして、倭人伝の方角が正しいと言い張ってる >>338
>「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。<
卑弥呼の寝床やトイレや、「以婢千人自侍」の居所がないから、×。 その奥山氏というのは
『奥山 UFO 失踪』?
神代〜という話が出てきたり なぜ家の話をしているんだ?
川俣町という掲示板があるんだけど、
そこでも家の話をしているし 伊都国と邪馬台国は緊密な関係にあったのは確かだろう
伊都国の「有千餘戸」はおかしいと思う・・伊都国の一部の地域の戸数じゃなかろうか
伊都国は吉野ヶ里も含め南北に長かったと思う >>339
>A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。<
倭人伝には「對應聲曰噫」の「噫」や、「持衰」のような 二重母音例があるから、×。
>女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。<
宋明清代の校勘学者は、誰一人「邪馬壹」を否定して「邪馬臺」とした人はいないんだから、
魏志の写本も原本も皆「壹」であった事になり、この男は、×。 UFO〜、まいね
そのような話(書き込み)もしていたり 例えば、北海道=伊都国と同じ規模とすると
函館に一大卒を置いたみたいなもんじゃないのかな
伊都国は本来、大国だったと思う。 マイネというのはミュージシャンでしょ?
あと小生、川崎に住んでいるので〜詳しいとか
家は川崎区というところなんだけど これは老婆談なんだけど、
歌舞伎、芝居〜とか、そういう話もしていたり みなさん、こんばんは。奥山です
畿内説は破綻しました 「邪馬壹」⇒「邪馬臺」⇒「邪馬台」
これは無理筋
ヤマトとは関係ない
また「倭」はワ、ヰ、ウェイ、ゥオーであり
「ヤマト」と中国では理解できない 某まいく・おーの曲(MV)があるでしょ?
ほとんど『最古そるじゃー』と同じ >>339
>A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。<
その個所は、その書陵部本を写真に撮って帰った張元済が、百衲本で、
「計其道里當在會稽東治之東」とは逆に、校勘して「東冶」と訂正されたもの。
その個所は、明らかに「地名」として書かれており、「普通名詞」としては書かれていない。 >>340
>Q:平原1号を見よ! 九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。<
誤魔化すな。
平原は、「出現期前方後円墳」ではないし、鉄素環頭大刀 1口も出土している。
>出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。
玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。<
大和は、始めから「南≠東」に拠って×だ。 荒らせば荒らすほど九州説のヤケクソっぷりが明らかになるのみだと言うのに >>532
だから会稽東治も地名だろ
普通名詞ではない 以前から書いている事なんだけど、
キュウリのような葉、葱の華などの映っている写真があるでしょ?
河童という作者の写真ではないし、家の写真なんだけど、なぜだと思う? 龍宮〜うらしまんの話?
>竹疏長竿節(密生していない竹の長い幹は節が目立つ)
>松傾小蓋陰(傾いている松・・・)
家は漁師というわけでもないし、
親も、その前の代も漁師ではないし、どういう話なんだろう
竹取物語? 荒らしばかりやってると
九州説が邪馬台国論争に敗れ去ったことが
天下にさらされて
九州説自滅 >>335
>A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)<
「3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散」などない。
大和の庄内は、3世紀末の石塚の庄内1からだ。
伊都国は、一大率を要して、女王國の軍事支配の中心的な役割を果たした。
>文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。<
鏡片は、女王から親愛なる家臣に対して下賜されたペンダントのようなもので、
筑紫付近に沢山出土しており、祇園山の墳裾の1号甕棺の成人女性も付けており、
金海付近や播磨や阿波や大和や北陸東北方面からも出土し、九州倭国の東征や渡平海北将軍らに下賜されたものだろう、という事になる。
>また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。<
ホケノに鏡片があったような話があるし、桜井茶臼山にもあった、と思う。 >>548
>大和の庄内は、3世紀末の石塚の庄内1から
根拠ないだろ
いくら妄想してに反論にならないぞ >>522
>宋明清代の校勘学者は、誰一人「邪馬壹」を否定して「邪馬臺」とした人はいないんだから、
そこを誰も校勘してないだけだよ >>308
>狗奴国といざこざが有るなかで、いくら急いでも10年はかかる大古墳や大塚を作れるわけはない。
>カタチの良い径百余歩の自然丘陵の頂上付近に塚を作り、丘陵の裾には百余名の殉葬を並べた程度だろう。
全くその通り。
諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
これそっくりな場所がある。
日本神話の原点、高天原だ。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_23_2.jpg
奴婢こと土蜘蛛の塚も隣にある。 >>548
>鏡片は、女王から親愛なる家臣に対して下賜されたペンダントのようなもので、
ちまたの素人爺さんが理由もなくそんなこと決めて宣言しても
誰も信用しないよ
場末の飲み屋でテレビ野球中継見てる肉体労働者が酔ってまくし立てる野球解説と同じレベル >>554
横からだが、対案がなければ反論として不十分だよ。
ペンダントに加工された痕跡があったはず。 >>555
あなた大学行ってないでしょ
主張する方が証明する責任を負うのよ
観客に根拠聞いても仕方ないよ >>55
>横からだが、対案がなければ反論として不十分だよ。
意味わかんね
間違いだって証明するのに対案なんで不要に決まってるの また、僕が作製したテンプレートが論破されてしまった。 常識で考えればよい
冤罪で起訴されても無罪になるために真犯人を見つける必要ある?
ないよね
証拠不十分を立証すればいいだけだ OKUYAMAKOUYOU#okuyamakouyou 邪馬台国畿内説は、なぜ、破綻してしまったのだろうか、、、 >>559
九州説のナリスマシ荒らし男(70歳台)は
常時発狂中 >>556
何十年も前から完全否定されてる話に望みをつなぐ九州説
こりゃ滅びるわけだわ 僕は、邪馬台国畿内説のテンプレートを作製したが、邪馬台国九州学の立場の者達に、頭が悪いことをバラされ、テンプレートを論破されたので、恥ずかしいな。 ナリスマシ爺さんは老人ボケのせいで狂ったのだろうか
それとも若い頃から狂っていたのだろうか >>566
貴方のテンプレートは、仮説を前提にした仮説を積み上げたので、論破されてしまったのですよ。
分かりましたか。 Good morning, everybody. My name is Okuyama Kouyou. >>568
分かりました。これからは、もう、仮説を前提に仮説を積み上げません。だから苛めないで下さい。 俺様は、頭が悪いが、邪馬台国が桜井市にあれば良いと思っている者だ。
なぜなら、観光関連が活発になるからだ。 やはり、BBAは、頭が悪いな。。
557日本@名無史さん2019/09/21(土) 08:41:42.42
>>555
あなた大学行ってないでしょ
主張する方が証明する責任を負うのよ
観客に根拠聞いても仕方ないよ >>572
そうだね。。。
「主張する方が証明する責任を負うのよ」という主張が真ならば、「主張する方が証明する責任を負うのよ」という主張を証明する責任があるな。。。
そして、「「何かがペンダントに加工された痕跡がある」という主張が、間違っている」という主張も、主張だな。。。 >>568-572
ナリスマシ荒らし爺さん朝から狂気の連投 >>573
つまり、「主張する方が証明する責任を負うのよ」という主張や「何かがペンダントに加工された痕跡がある」という主張の真偽は、今のところ、観客である僕達には、真偽不明なのだね。。。 >>573
ナリスマシ爺さんは
「入場券を持ってなければ会場には入れません」
と注意する係員に食ってかかる狂人 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝しているBBAが、論破されたので、討論を放棄し、また、敗北宣言にしかならない悪口を言い放ってきたな。。。 ほおら
一般市民並みの知性と常識を持っていたら
決して九州説を主張できないことは
もはや誰の目にも明らか 陽子が、永遠に自己崩壊しないことをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、陽子が、自己崩壊することをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、そのどちらも、永遠に証明できないのだろうか、、、 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝しているBBAが、論破されたので、討論を放棄し、また、敗北宣言にしかならない根拠のない嘘の悪口を言い放ってきたな。。
579日本@名無史さん2019/09/21(土) 09:42:23.41
ほおら
一般市民並みの知性と常識を持っていたら
決して九州説を主張できないことは
もはや誰の目にも明らか 今朝、僕達以外に◆UiepmfCeDJqfを名乗っている者は、本物の奥山氏なのだろうか。。
5781 ◆UiepmfCeDJqf 2019/09/21(土) 09:41:22.54
アホの奥山でーす! 畿内説は荒らしばかりする
本スレは畿内説に荒らされまくってヒドイ状況だ >>582
邪馬台国畿内説を論破された奥山氏の精神が、壊れてしまっている可能性もあるな。。。 ナリスマシの連投してる九州説が
正常な市民生活を営める知性も良識も持ち合わせないって
誰が見てもわかる状況になってきたな
ww 真実の奥山氏が出現した可能性があるな。。。
5831 ◆UiepmfCeDJqf 2019/09/21(土) 09:45:44.54
畿内説は荒らしばかりする
本スレは畿内説に荒らされまくってヒドイ状況だ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝しているBBAが、論破されたので、討論を放棄し、また、敗北宣言にしかならない根拠のない嘘の悪口を言い放ってきたな。。
586日本@名無史さん2019/09/21(土) 09:47:36.75
ナリスマシの連投してる九州説が
正常な市民生活を営める知性も良識も持ち合わせないって
誰が見てもわかる状況になってきたな
ww 陽子が、永遠に自己崩壊しないことをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、陽子が、自己崩壊することをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、そのどちらも、永遠に証明できないのだろうか、、、 荒らしの連句点といい
暴言吐きすぎでよその掲示板追放されて流れてきたzarakokuといい
九州説には正常な人間はもう残っていない 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝しているBBAが、論破されたので、討論を放棄し、また、敗北宣言にしかならない根拠のない嘘の悪口を言い放ってきたな。。
590日本@名無史さん2019/09/21(土) 09:49:53.89
荒らしの連句点といい
暴言吐きすぎでよその掲示板追放されて流れてきたzarakokuといい
九州説には正常な人間はもう残っていない >>592
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に論破されてしまったのだね。。 うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩 真実の奥山氏が、完全に壊れてしまった。。。。
5941 ◆UiepmfCeDJqf 2019/09/21(土) 09:53:30.41
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩 陽子が、永遠に自己崩壊しないことをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、陽子が、自己崩壊することをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、そのどちらも、永遠に証明できないのだろうか、、、 邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏が、自己崩壊してしまった。。。 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1556294803/303 >>341
>Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。
弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。<
これは、以前に反論済みの事。
武末が、伽耶の陶質土器の年代を古くして、
それで久宝寺や加美の陶質土器とそれと共存した庄内3も古くして、
次いで箸墓も卑弥呼の時代にしよう、とした犯罪者。
伽耶に突然大型木槨墓が現れ、騎馬民族的な遺物があった、のであれば、
当然それには原因理由があるのであり、扶余の「有槨無棺」とそっくりであり、
286年の「扶余の乱」の流民が渡来した、という事が最も有り得る。
>申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。<
高久は、武末のインチキの先導役ね。 うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩 独立した根拠が幾つ発見されるかは、永遠に分からないし、そもそも、恣意的に根拠を選択できるのだったな。。 優れたザラコク氏が出現し、、、
伽耶に突然大型木槨墓が現れ、騎馬民族的な遺物があった、のであれば、
当然それには原因理由があるのであり、扶余の「有槨無棺」とそっくりであり、
286年の「扶余の乱」の流民が渡来した、、、
という事を発表したのではないのかな。。。 >>604
日韓の黄砂と関係性が高い物事なのではないのかな。。。 陽子が、永遠に自己崩壊しないことをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、陽子が、自己崩壊することをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、そのどちらも、永遠に証明できないのだろうか、、、 >>600
それ、想像しか言ってないだろ
反論じゃないぞ 超対称性粒子だけが存在する、この世界とは異次元の世界があるのだろうか、、、 頭の悪い奥山氏の想像が正しい、この世界とは異次元の世界があるのだろうか、、、 >>603
キウスは昔から東遷脱糞厨の名で知られてきたからな 卑劣な何者かが、真実の奥山氏の性癖を、優れたキウス氏に擦り付けた可能性があるな。。。
610日本@名無史さん2019/09/21(土) 10:22:34.39
>>603
キウスは昔から東遷脱糞厨の名で知られてきたからな >>342
>・・・以上から 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期) という実年代が得られており、
このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)<
ここで突然楽浪木槨墓V期を出して来ているし、その終了時期を書いていない。
>凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)<
その根拠も書いていない。
>よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。<
平原1号は、倭の女王クラスの墓であり、西新式を必要としなかった、と思われ、
21枚の「尚方作」方格規矩鏡の存在に拠って、明帝への遣使以後であり、
3世紀半ば以後にしかならず、
箸墓は、冢ではなく前方後円墳であって、布留であるから、4世紀にしかならない。 テンプレートを作製した奥山氏が、根拠を曖昧にした部分を、優れたザラコク氏が追い詰めているのではないのかな。。。 >>583
畿内説が畿内説のスレ荒らしてどうする?
荒らす動機があるのは九州説
畿内説の証拠の前じゃまるきり勝てないからな >>612
>ここで突然楽浪木槨墓V期を出して来ているし、その終了時期を書いていない。
うそ書くな
書いてあるだろう併行すると >>612
>>凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)<
>その根拠も書いていない。
いや、誰がどう見ても出典書いてありますけど 併行という言葉は、誤魔化しの多い言葉なのだったな。。。 日韓の交差という物事は、併行という言葉を巧みに使用しているので、物事が起きた年代を巧みにずらすことが、出来るのだったな。。 >>620
つまり、本当は、邪馬台国畿内説の根拠は、何もないのだね。。。 >>621
二つの式があって、その二つの開始時期が一致し、その二つの終了時期も一致し、つまり、どちらか片方の式が存在した時期が全くなく、二つの式が同時にしか存在しないことを併行というのでは、ないのだったな。。。 >>622
二つの式があって、その二つの開始時期が一致はせず、その二つの終了時期も一致はせず、つまり、どちらか片方の式が存在した時期があっても、二つの式が同時に存在した期間あれば、その期間だけを併行というのだったな。。。 >>623
奥山氏は、頭が良くないので、そのことを理解できずに、根拠の全くないテンプレートを作製してしまったのだったな。。。 奥山氏の古い先祖A氏と、奥山氏の新しい先祖B氏が、併行し、
奥山氏の新しい先祖B氏と奥山氏が、併行したとしても、
奥山氏の古い先祖A氏と奥山氏が併行したことにはならないのだったな。。。 奥山氏の古い先祖A氏が、子孫を残す前に亡くなった世界には、奥山氏は存在しない可能性が高いな。。 超対称性粒子だけが存在する、この世界とは光すら往来できない異次元の世界があるのだろうか、、、 奥山氏の思考だけが存在する、この世界とは光すら往来できない異次元の世界があるのだろうか、、、 陽子が、永遠に自己崩壊しないことをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、陽子が、自己崩壊することをいつの日か証明することができるのだろうか。。。
それとも、そのどちらも、永遠に証明できないのだろうか、、、 ◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬がある。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行上記の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆n7jxAxKCBhb6は、誰が名乗っているのだろうか。。。 356日本@名無史さん2019/09/20(金) 11:42:32.32
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆n7jxAxKCBhb6 は今後、トリップを
1 ◆x9DCiEwb70Tj に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。
3571 ◆x9DCiEwb70Tj 2019/09/20(金) 11:42:56.36
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ! どうやっても議論に勝てなくなった九州説はとうとう荒らす事しか出来なくなった
何となく予想していた通りの結末
これは畿内説勝利の証 ◆x9DCiEwb70Tj を名乗った者は、偽物だったのだろうか、、、 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、完全に論破されたので、討論を放棄し、また、敗北宣言にしかならない根拠のない嘘を言い放ってきたな。。
633日本@名無史さん2019/09/21(土) 11:36:35.32
どうやっても議論に勝てなくなった九州説はとうとう荒らす事しか出来なくなった
何となく予想していた通りの結末
これは畿内説勝利の証 >>635
併行関係のことで、反論できなくなり、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、完全に論破されたので、討論を放棄し、敗北宣言にしかならない根拠のない嘘を言い放ったのではないのかな。。。 ◆n7jxAxKCBhb6は、誰が名乗っているのだろうか。。。 ◆x9DCiEwb70Tj を名乗った者は、偽物だったのだろうか、、、 本当は、邪馬台国畿内説の根拠は、何もないのだね。。。 新井白石の頃から数えれば数百年続いた九州説も
ここでついに終焉を迎える
九州説は説じゃなくて九州荒らしに降格 やはり、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったな。。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、完全に論破されたので、討論を放棄し、また、敗北宣言にしかならない根拠のない嘘を言い放ってきたな。。
641日本@名無史さん2019/09/21(土) 11:50:59.10
新井白石の頃から数えれば数百年続いた九州説も
ここでついに終焉を迎える
九州説は説じゃなくて九州荒らしに降格 >>643
併行関係のことで、反論できなくなり、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、完全に論破されたので、討論を放棄し、敗北宣言にしかならない根拠のない嘘を言い放ったのではないのかな。。。 本当は、邪馬台国畿内説の根拠は、何もないのだね。。。 畿内説が勝ったから畿内説は説
九州説は説じゃなくてただの荒らし >>644
>併行関係のことで、反論できなくなり、
誰の何に?
九州説の言うことはいつも漠然としてて意味がわからない
ww >>343
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。<
明帝の詔書は、景初二年12月であり、その下賜鏡に紀年が書かれたとすれば、景初二年以前であり、
列島で見つかった景初四年鏡は、始めから明帝下賜鏡にはならず、
渡来の呉系楽浪鏡師らが明帝の死も全く知らずに造ったものだ、という事にしかならない。
>中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。<
魏にいた鏡師らにとっては、後十二月の間に造った鏡であっても、
そんな「後十二月」なんてヘンテコな格好の悪い年号記銘などする筈もなく、
「景初四年」という魏政府が認めない年号の記銘も始めから起こり得ない。 >>652
>そんな「後十二月」なんてヘンテコな格好の悪い年号記銘などする筈もなく、
「後なん月」というのは当時の人にとって普通の暦だけど? 歴史の致命的基礎知識不足が
九州説という毒を生み出しているのだよ >>345
>ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。<
ホケノ自体が有棺有槨の前方後円墳であるから、3世紀末〜4世紀の墓にしかならず、
画文帯は魏や西晋よりも呉系に多い鏡であるから明帝の下賜鏡にはならず、楽浪系の鏡のようであり、
筑紫経由か?、出雲から吉備や阿波を経由の鏡であったようで、
鏡片が出たようであるから、卑弥呼か壹與から「東征毛人五十五國」将軍らに下賜された鏡である可能性が高い。
>箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。<
新井さんは、韓國からの古韓尺技術者の渡来説である。
>その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。 <
箸墓は、4世紀であり、九州倭國の「東征毛人五十五國の将軍らの墓で問題はない。
>倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認された。(金原2011)
SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解についての裏付けとなろう。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。<
それらも、いずれも3世紀末以後であり、東征毛人五十五國将軍らの関係物、として問題な何もない。 >>616
論戦で勝てないから悔し紛れに畿内説自身が荒らしている。
畿内説が不利になると呟きが出現する。 >>1のFAQは長すぎ。
ただダラダラ纏向遺跡や箸墓について語ってるだけで、
一番肝心な纏向遺跡および箸墓が卑弥呼と繋がってる根拠がない。 朝廷の祭祀には玉が祭料,幣帛として使われた。 忌部は,大和朝廷が祭祀に必要としたその玉類の生産,調達にかかわっていたとの指摘がある。
忌部の祖神である「天太玉命」に玉の文字が含まれていることも偶然ではないはずだ。
「日本書紀」(神代下第九段)に忌部に関する記述があり「…櫛明(くしあかる)玉神を作玉者とす…」とある。
「古語拾遺」にも似た記述があり,忌部氏はいろいろな神を率いて幣帛・祭具の生産に従事した。
櫛明玉神は出雲国の玉作の祖という。
さて,島根県で玉作といえば,出雲玉作遺跡がある玉湯町,松江市忌部だ。 つまり旧意宇郡忌部郷を中心とする地域だった。
「延喜式祇式」臨時祭条に「…毎年十月以前令意宇郡神戸玉作氏造備…」とある。
これを「出雲風土記」と照らすと,毎年十月に玉を調達した玉作氏の住む意宇郡神戸が,「和名抄」に出てくる「忌部神戸」であることが明らかになる。
つまり出雲の玉作りは忌部が行っていたわけだ。
もちろん,忌部の祖神を祀る天太玉命神社がある奈良県橿原市の近くにも玉作遺跡である曽我遺跡がある。 大和朝廷の官立の玉作工房だったようだ。
徳島の玉作遺跡は,徳島市国府町矢野の「矢野遺跡」と三好市三加茂町の「稲持遺跡」がある。 両遺跡とも緑灰色の蛇紋岩を使用し,勾玉の製作をしていた。
矢野では気延山や眉山から石を運んできたようだ。 時代は矢野が若干古く弥生時代後期後半とみられる。
矢野遺跡周辺は,いうまでもなく古代阿波が最も栄えていた土地である。 @阿波 >>346
>A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。<
洛陽晋墓からの出土であれば、当然故人の生存中のお宝であり、
ほぼ魏代以後に使われたお宝であり、
前漢に盛行の鏡であれば、魏代以後にもその形態の踏襲(前漢式鏡)が起きた、
という可能性の方が高い。
>内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失という順に簡化していき、
漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、
2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)<
これは、中国と倭地の、どちらの話をしてんだい?。
蝙蝠鈕座内行花文鏡は、筑紫からもいくつか出土していた筈。
そして、平原1号に呉系楽浪鏡師らの関与の内行花文鏡の沢山でているから、
その3世紀後半の時点で、列島での内行花文鏡の縮小崩壊、という事が起こっていない。
>倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、
女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 <
「南≠東」などに拠って、スレ主は×ね。 どこの基地外なんだ?
精神病院に行けと言っているんだよ
例えばカッパなどw
渡来人だという話などが出てくるでしょ あと宇宙、船(舟)が〜という話や曲ながあるでしょ、
七夕関係のことでしょ 以前から書いている事なんだけど、
家の話・・・ほとんどw
日本の神話などがあるでしょ、
漫画やアニメとか 施設の大きさと動物の数が合ってないんじゃないか?
シナの見世物小屋とどう違うんだ
動物虐待じゃないか?エイとか壁にぶつかってたし。 『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』とは言っているものの
実際、お前たちのしていることは・・・詐欺師、犯罪なんだけど 七夕なども、どこから拾ってきた話なんだ?となるわけ
池沼理論から行くと、むかーかしから、知っていたとか、
そういう風習もありましたと言うんだろうけどw マナー悪い奴が信者だったらまだ救われるけどな…
信者は目立つようにバッチでもつけてくれよ、まだ割り切れるから 小手子の像?
川俣町、そこに書いてある話があるでしょ
ほとんど大陸から人(渡来人)が渡って来てからの話なんだけど >>349
>内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、
漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。<
それなら「圏帯の無い II型」は、3世紀にも存在し得た、という事になる。
>この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。<
いや、後漢末期における「前漢式鏡の製作」という可能性は、十分にある。
>雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。<
筑紫では、蝙蝠鈕座内行花文鏡が出土していた筈。
何故、それを論じない?。 『姥清水』なども同じ
実際は・・・寒いな〜の家の話だし キナイコシとその仲間の奴らが本スレを荒らしまくったことが許せない
その上重複スレまで立てて一体何を考えているのか? >>676
うわあ・・・
九州説の連続句読点は人をナメ過ぎ >>350
>魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、
これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。<
「伊都国王」なんて断定はとても出来ない。松野氏姫氏系図にその王の事が書かれている。
>これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、
帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、
漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、
2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに
最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)<
衰退していない。
卑弥呼や壹與や一貴山銚子塚などの後、久留米から筑後に遷宮して東海姫氏國として、
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」などして、勢威を誇った。
>倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、
女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。<
「南≠東」などの嘘付き騙しに拠って、スレ主(類スレ主?)は、×。 >>677
なめたことを言っているのはお前の方
今度本スレ荒らしに来たらマジで通報するぞ
ここは重複スレで偽物のスレ >>351
>桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、
天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、
柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、
調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、
我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。<
結局、根拠は殆ど揃っておらず、僅かな発掘からの「妄想レベル」という事だな。 本当に頭の良い人は知っている(気づいている)
ほとんど、大陸から渡って来てからのもの、
むかーしから「あった」とか、そういうのは後付け 予言スレでも何か知っているような人がいたり、
まま〜、まま〜と言っていたりするのは、サトシというキャラ(人物)だとか >>352
>Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。
上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、
「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い<
「倭」が「委」よりの少し蔑視の意味があった、という事は否定しようがない。
九州倭國が、西晋惠帝への遣使で「日本」を名乗っているし、
タリシホコのように、「俀」という呼称に変えた時もあるし、
旧唐書も九州倭国は、「或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」と書かれ、
唐会要も九州倭国は、「則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之」と書かれた。 >>353
>Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか? どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、
計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
成程。
>画期的と言う意味では、
建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、<
想起しないよ。
>接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。<
伊勢遺跡でもよいが、
掘立柱建築であれば、三内丸山や出雲にもあったようであり、
甘木の掘立建物は、纏向とは違って「地下の床固め」がなされていた筈である。
>勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば
誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、
現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば
時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、
立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。<
纏向は、勿論卑弥呼の宮殿としては×であるし、
地下の補強工事がされていない、というだけでも、長期の宮殿としては無理である。 >>354
>Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
>A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。<
魏使らの移動地域にト骨習俗が見聞出来れば、十分である。
卑弥呼は「鬼道」であり、卑弥呼の都付近でト骨が見られなくても、何ら問題はない。
>弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。<
当然、卑弥呼以前の出雲系や毛人蝦夷系の習俗である。
>壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、
海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、
この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、
後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、
後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。<
唐古鍵は、当然出雲系銅鐸祭祀集落であったから、ト骨をして当然であり、
その唐古鍵を征服した纏向にも、ト骨が残存していて当然である。 まともに畿内説の議論をすれば良いのに、もはや荒れ放題。
嘆かわしい。 ここは重複スレだから荒れても構わんだろ
本スレを荒らしまくったキナイコシとその仲間が憎い 重複スレでも荒らしを見るのはチェックがうざい。
本スレが終わるまで放置したい。
荒らしているキナイコシや呟きは許さん。 他人に成りすますのは荒らし
偽スレ立てるのも荒らし
荒らしの肩を持つのも荒らし >>690
ここは本スレ
執拗に偽スレ立てるお前はl狂気の荒らし >>355
>甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で<
面白い情報だが、当然、
老司・鋤崎両古墳の主らが、「東征毛人五十五國」の将軍や部将として参戦していた、
という可能性がある訳で。 >>688
>唐古鍵は、当然出雲系銅鐸祭祀集落であったから、ト骨をして当然であり、
>その唐古鍵を征服した纏向にも、ト骨が残存していて当然である。
纏向が唐古鍵を征服したとかw
九州説の場当たり妄想は
一般人の失笑買うだけ
九州説は衰退の一途 >>695
>老司・鋤崎両古墳の主らが、「東征毛人五十五國」の将軍や部将として参戦していた、
>という可能性がある訳で。
その新しい妄想でなにが説明できるの? >>355
>Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、
博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。<
関係がない。
検察すべき事は、当然「女王之所都〜遠隔地」のどこにでもあり、どこにでも行かねばならないもの。
>当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。<
これも余り関係がない。
夏侯淵が、都に在したり、長安を屯したり、各地を転戦したのと、同じような事だろう。
>此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。<
「大率」に関しては、どなたかが「百濟」の臣下のトップクラスの身分である事を示しておられた筈。 >>655
>ホケノ自体が有棺有槨の前方後円墳であるから、3世紀末〜4世紀の墓にしかならず、
いや・・・だからさ
なーんも理由言わずに
あんたの思想信条を連呼されても
誰も付いてこないからさー
九州説はそこがわかってないねー >>699
>検察すべき事は、当然「女王之所都〜遠隔地」のどこにでもあり、どこにでも行かねばならないもの。
そんなことアナタが勝手に決めたらダメでしょ
アナタ過去を知らない現代人なんだから 存在しない荒らしに発狂しまくってる九州説ヤバイ
やけになってどっかに火でもつけないか心配 >>357
>Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!<
>A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。<
またスレ主(類スレ主?)が、何か変な嘘つき騙しを言っている。
「其toku廬國與倭接界」と書かれているから、
弁辰の「toku廬國」は倭と「界を接する」であり、境界を接しており、
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」の「接」を詳述しており、
倭が南岸全体にあるのではない事も示しており、
当時の半島の地図でも、南岸の全部が倭ではなく、東南部に局在しているような説明であり、
南岸の大半は馬韓になっている。 >>703
>「其toku廬國與倭接界」と書かれているから、
>弁辰の「toku廬國」は倭と「界を接する」であり、境界を接しており、
>「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」の「接」を詳述しており、
だから海を教会にして接してるジャン
何が問題なの?
>当時の半島の地図でも、南岸の全部が倭ではなく、東南部に局在しているような説明であり、
南岸の大半は馬韓になっている。
当時の半島の地図なんて、どこにあるの?
誰が作ったの?
九州説は妄想多すぎ >>704
>だから海を教会にして接してるジャン
いやそんな信仰ないから
単なる境界だから >唐古鍵は、当然出雲系銅鐸祭祀集落であったから、ト骨をして当然であり、
>その唐古鍵を征服した纏向にも
唐古鍵は銅鐸祭祀。
そこに前方後円墳+鏡祭祀の集団が瀬戸内から来た。
2世紀末のことだ。
だからと言って征服されたわけではない。
前方後円墳+鏡祭祀勢力が実質、王権を手に入れるのは4世紀初頭、
それは崇神の時だ。 >>360
>Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか? 必然性がない!
A・・・畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、
近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。<
おそらく、九州倭国の「東征毛人五十五國」の(主力ではなく)別動隊が入って来て、
(神武の後裔の)市を監督する大倭職の助太刀で、
在地の出雲系銅鐸祭祀集落国であった唐古鍵を征服したから、
その近くの纏向に新たな市などを造った。 >>708
その人たちに、どうして九州の気配がまるでしないの? >>362
>Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、
所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)<
方位は、魏の役人や普通の成人は東西南北の決め方は知っており、ほぼ間違えていないし、
距離も、周代からの算術書などで、
一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や日数測や目測などが出来るようになっており、
有効数字1桁以内位の計測は出来た。
>・・・以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。<
口先で誤魔化しても無駄。
「南≠東」などや「不彌國で萬二千余里はほぼ終わっている」ので、
大和説は始めから×。 >>710
>方位は、魏の役人や普通の成人は東西南北の決め方は知っており、ほぼ間違えていないし、
そんな勝手に決めつけることを世間じゃ反論と言わないよ
意固地という 奥山氏は、配管工の職を解雇されてしまったのだったな。 奥山氏は、統一教会の信者なのだろうか、、、
704日本@名無史さん2019/09/21(土) 18:36:19.48
>>703
>「其toku廬國與倭接界」と書かれているから、
>弁辰の「toku廬國」は倭と「界を接する」であり、境界を接しており、
>「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」の「接」を詳述しており、
だから海を教会にして接してるジャン
何が問題なの? バンビシャスが、死力を尽くしたが、残酷な結果になってしまったな。 バンビシャスは、ハチを雇用すれば勝てるのではないのかな、、、 >>365
>Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」の起点は帯方郡である!
畿内に到着し得ない!<
ウソを書くな。
私の説明は、「水行十日陸行一月」という数量説明文言は、そのすぐ前にある「女王之所都」の説明文言であり、
「女王之所都」は郡からの最終目的地であるんだから、「水行十日陸行一月」は、
郡から女王之所都の所要日数説明になる、」という主張だ。
つまり、「女王之所都」の前にある「南至邪馬壹國」は、
「水行十日陸行一月」とは直接関係が無く、その「南」は郡からの「南」ではない。
>A:不合理である。 「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。<
これも私は、類スレ主のいう「南至」の「南」は、「倭人在帶方東南大海之中だの「東南」」と矛盾する、と言って来た事だ。 >>365
>また 1「南至投馬國水行二十日」 2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、<
投馬国へは、至の前に途中移動をした文言がないから、側副傍線国行程説明であり、
主行程は「南至邪馬壹國」であり、こちらは途中移動がないから、
不彌國の直ぐ南に邪馬壹國女王之所都がある、という説明だ。
>「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、<
関係がない。
>投馬国には水行のみで到着し得る。<
不彌國から、一旦玄界灘に出て、東西いずれかの海岸沿いの水行二十日に拠って、おそらく、南九州の投馬国に着く。
>よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。<
倭王武の上表文の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」・・・に拠って、
昔から、百済へは陸道であり、従って「歴韓國乍南乍東」も、韓國陸行である。 >>720
>投馬国へは、至の前に途中移動をした文言がないから、側副傍線国行程説明であり、
素人じいさんが勝手に考えた新法則で中国語の読み方が変わると思うのか?
九州説は世間を舐めすぎだ 九州説の狂いっぷりがまた一段ヒートアップしてるのがすごいな >>719
>私の説明は、「水行十日陸行一月」という数量説明文言は、そのすぐ前にある「女王之所都」の説明文言であり、
>「女王之所都」は郡からの最終目的地であるんだから、「水行十日陸行一月」は、
>郡から女王之所都の所要日数説明になる、」という主張だ。
「南至投馬國水行二十日」 って文章の
「南至」が不彌國からなら
「水行二十日」も不彌國からだな
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」 の
「南至」が不彌國からで
「水行十日陸行一月」が郡からだなんて
気の狂った人しか思わないよ ザラコクは無内容なそれらしい事言って畿内説を論破した気分を味わっているだけ
それを俗にマスターベーションと言う >>724
最近はもう「それらし」くすら
なくなってるが >>724、>>725
ザラゴキのやってるのはボケ防止の脳トレなんだよ
「反対の意味の言葉を考えて書き込みましょう」レベルの言葉遊びで
脳の衰えを防止しようとしているだけ
ただ、認知症というのは、一度発達した知能が不可逆に退行することと
いうのが定義だから、最初から知能が発達していない人は
認知症にもならないんだけどね >>366
>Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。・・・<
陳寿の魏志倭人伝は、混在などしていない。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、萬二千余里は里数だけで書かれている。 >>714
>だから海を教会にして接してるジャン
間に海があったら「接している」とは言わない。 >>704
>>当時の半島の地図でも、南岸の全部が倭ではなく、東南部に局在しているような説明であり、
狗邪韓国に人口の記述がないと言うことは、おそらく小さな漁港みたいなのがあっただけなのだろう。 >>700
>あんたの思想信条を連呼されても
これ、キナイコシへのブーメランw >>729
その物部が瀬戸内から来た前方後円墳+鏡祭祀の集団ということだ。 >>367
>Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」 これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!<
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。<
韓の方四千里などとほぼ同じなど「里」距離単位。
>戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。<
魏の役人らがそんな事をしたら、首が飛ぶ。
>また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)<
如淳も、一寸千里などでの、およそ「萬里」の計測があった事を知っている。
>さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。<
帯方郡からの「循海岸水行」の出発港は、おそらく海州である。 >>728 名前:日本@名無史さん 2019/09/21(土) 20:56:11.23
>間に海があったら「接している」とは言わない。
あのな、満員電車で肌と肌が接しているのだけが接するじゃないんだよ。
近接する、接近するのように、近くにあるのも接するという。この例では、現代語でいえば「近接する」と読むのが最も適切。 >>733
>帯方郡からの「循海岸水行」の出発港は、おそらく海州である。
いくら史料で否定されても
自分の都合がいいなら
相手に一言も反論しないまま
なんの理由もなく言い張り続ける
それが九州説 >>370
>楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、
沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。 <
5世紀の倭王武の上表文の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」により、
3世紀にも、金海と牙山湾を結ぶ陸路の道keiが、おそらくあった。 >>736
なんで「道」っていうと陸路だと決めつけるんだよ
海上だって「道里」っていうだろ
九州説はデタラメ過ぎる 銅鐸の謎の一つに、酷く破砕されたもの、逆に丁重に埋められたものという両極端がある事。
これは倭国大乱が銅鐸勢力VS非銅鐸勢力だったということ。
非銅鐸勢力とは前方後円墳+鏡の物部だろう。
銅鐸は鴨(神)族。 >>371
>Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
>A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。<
旧唐書の次に書かれ、旧唐書を補填した形の唐会要倭國伝でも、
「倭國 古倭奴國也」と書き、
その位置を「在新羅東南、居大海之中」とし、
更に「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」と詳述して、
倭奴國と同じ北部九州にある事を示している。
そして、大和の日本国に対しては、伝の位置を全く分けて別の場所に、
「日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。
或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、呑併倭國之地」
と、違う国であるとして、はっきり書き分けている。 >>732
>その物部が瀬戸内から来た前方後円墳+鏡祭祀の集団ということだ。
その通り。 その物部は倭国(阿波)から来た「忌部はん」 。 @阿波 >>739
「在新羅東南、居大海之中」だったら
日本列島でいいよな
九州に限定する理由にならないわ 天神本紀にはニギハヤヒに随伴してきた複数の物部が記されている。
播磨の物部、讃岐の三野物部、筑紫の聞物部など
これらが三人称複数になってることに留意。
彼ら播磨の物部は…という意味だ。
ではこれらを三人称で呼んでる一人称の主体はどこか。
播磨、讃岐、筑紫の間にある強国。
それは吉備であろう。
ニギハヤヒは吉備から来たと思われる。
そして住んだのは纏向だ。
だから桃の種、吉備という地名、特殊器台、内面削りの技法など共通してるのだ。
なによりも吉備にある双方中円墳の楯築遺跡が纏向の櫛山古墳につながる。 そういうわけで纏向遺跡は物部遺跡。
こんなところに卑弥呼なんておるかい、
アホの>>1 アフォのぉ>>1 >>743
誰が変えてるんんだ?
異常九州説だよな >>742
播磨の物部、讃岐の三野物部、筑紫の聞物部、吉備の物部など一人称の主体は、すべて「忌部はん」。 わははははは @阿波 >>742
>内面削りの技法など
「東阿波型土器」の土器技法。 @阿波 >>371
>Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。<
基礎知識の誤りである。
「歩」の文字の始まりは、「止」の文字が背中合わせに上下に貼り合わせた形であり、
前後の動きが止まった事を示し、だから足を踏み出してはいけない事になり、
その「1歩」の文字寸法は「1足底長」位になる。
そして、周代の周髀算経の一寸千里の法で用いられた「里」はおよそ76.5mであり、
1里=300歩であるから、「1歩≒25.5cm」になる。
>上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、<
尺定規の尺寸系の寸法は、里や歩の「里歩系」の長さとは元々別の単位系であり、
周代での1歩と1尺の換算関係の混乱で、始皇帝が秦の「1歩=6尺」の換算命令をだし、
漢代には、「1歩=6尺」と「1歩≒1尺」の混乱があり、
魏の初代文帝が即位の受命改制の詔書で度量衡の統一を指示し、
重臣たちが「周制への復古」の上表をして、
明帝の頃に周髀算経の度量衡の「1歩≒25.5cm」の採用になった。
>ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)<
いずれも漢代の「1歩=6尺」の説明であり、魏朝の度量衡ではない。 >>746
ここでいう「忌部はん」 とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
「忌部はん」 とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>746
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、みんな元を辿れば全部、「忌部一族」。 @阿波 >>746
「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族」。 @阿波 九州説は自分が何か反論してるとカンチガイしてるんだろうな
実際は理由も言わずに自説の結論だけ連呼してるのだから
世間一般の常識からすれば
それは反論じゃない 畿内説は本スレを落書き、荒らしでうめた
とんでもない奴らだ うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩 邪馬台国論争で惨めに負けた九州説が
今夜も発狂しいるな >>759
次のスレ番さきに取りたくて自分で埋めたんだろ
九州説は卑しいな 畿内説を否定する本スレを必死で荒らして埋めたヤツがよく言うわ >>764
自分でやったんだろ
だいたい畿内説を否定するスレが
畿内説の本スレな訳ないって、それ誰でもわかるし
ホント
荒らし爺さんは脳ないんだよね >>745
なんで自分のことを他人に転嫁するのかな? こんばんは、アホの奥山です。みなさん、おやすみなさい 奥山 あんたが他スレ荒らすから報復を受けてるのだよ たぶん 荒らしを謝るなら今のうちやぞ
あんなめちゃくちゃな荒らしやって通報されたら書き込みできなくなるぞ
謝れば通報しないでおいてやる こういう自分勝手な正義感の行き着いた先が
あの放火事件なんだよなぁ 新しいスレを立てる権利は誰にでもあるんだよ
しかし、荒らすのは間違った行為だろ
だから規制の対象になる場合もあるわけだ 九州説は議論で負けたので荒らしで醜い報復をしてる
現行犯だ
惨めな連中だ
畿内説は荒らしなんてする動機がない
粛々と畿内説を語るだけだ 通報されたら書き込みできなくなるのはキナイコシなんだが つーかここ数日奥山が出張か旅行かなんか知らんけど、どっかアクセス環境の悪いとこにいて上手くスレ立てできてないのは見ててわかるはずだ
その奥山が大量投稿で荒らししてるとかナニソレ?
中傷ってより被害妄想が異常っぽいぞ ずっと受け継がれてきたテンプレを無視したり
他人の振りしたりして立てるのは
嫌がらせや荒らし行為そのものだろ 新スレ立てはスレに参加している人なら誰でもする権利ある だいたいテンプレなんかどうせ一回の書き込みで終わらないんだから付け加えればいいだけ
重複スレ立てた上に本スレを荒らしまくる行為はだれがみても間違った行為 それはテンプレをきちんと受け継ぎ
他人の振りをしないで立てる場合だろ >>781
荒らし常習のナリスマシ犯人が
スレ番泥棒して偽スレ立てても
誰も認めててくれないよ >>781
荒らし犯人はスレに参加している人じゃないから そもそもアンチが立てたら
本スレじゃあり得ないから このスレは畿内説に賛成する人と反対する人がいるんだよ
昔からな
どっちがスレ立てしたって問題ない 連続句読点は自分の荒らし用キャラだと自白してるようなもんだなw >>789
アンチが立てたらいかんのよ
常識を知れ 誰にでも立てる権利があるとか抜かしてる奴が
新スレ立てが始まったら散々邪魔ししてた件 おばかさんは、自分の素行が悪いのでスレ主になれないって
まだ理解できないのかな >>776
>通報されたら書き込みできなくなるのはキナイコシなんだが
通報のやり方教えて!
連続句読点とキウスとザラコクと左側スロープ君は是非、通報したいしして欲しい 5ちゃんだ ここは
ツイートに変えればいいじゃんキナイコシ >>778
受け継がれてきたと言うのは、いろんな人が大事に書き写したり書き足したりしたものだろ?
あの長いテンプレは奥山が勝手に書いているものだから、受け継がれてきたものではなく、ただの鼻つまみもの。 >>782
>だいたいテンプレなんかどうせ一回の書き込みで終わらないんだから付け加えればいいだけ
いや、100レス近いのはもはやテンプレではなく、スレの独占に近いだろ。
>重複スレ立てた上に本スレを荒らしまくる行為はだれがみても間違った行為
キナイコシに言ってやれ。 >>805
そんなこと言ったってお前、アンチ畿内説だろ >>806
反論があるなら反論すればいいだけのこと
スレ立てを妨害したり
荒らしたり
ナリスマシしたり
嘘ついたりする人間になんの資格もない >>806
>いや、100レス近いのはもはやテンプレではなく、スレの独占に近いだろ。
最近のどのスレでも連続句読点とザラゴキは100以上書き込んでるよ?ww
それで>>806は、呼子上陸バカなの?
それとも連続句読点の別キャラ?
連続句読点の乱立させてるスレに興味を持つやつなんていないだろ?ww
連続句読点のスレ乱立板荒らしを放置している九州説が何を言っても
共感してくれる人なんていないよ >>798
>アンチが立てたらいかんのよ
アンチ畿内説スレを立てればいいじゃん
まあ、よってたかって論破されて終わりだと思うがw 畿内説に反論があるなら反論すればいい
力づくで議論を邪魔したり嘘を書いたりするのは
負け犬の嫌がらせだ >>805
>あの長いテンプレは奥山が勝手に書いているものだから、
違うよ
この畿内説スレシリーズで、話題になったことがまとめられてる
例えばFAQ65の平原1号墓の46センチ鏡が八咫鏡だっていうお鏡さんの否定は
もともとは私が提起した話題だし、FAQ78の伊都国は女王国より以北の国というのも
私が書いたのが元になっている >>776 2度目
>通報されたら書き込みできなくなるのはキナイコシなんだが
通報のやり方教えて!
連続句読点とキウスとザラコクと左側スロープ君は是非、通報したいしして欲しい >>808
本スレを荒らしまくった奴にそんなこと言われてもな >>816
スレに参加している人とは
連続句点のことだが? スレ立ては自分以外は認めない、自分以外が立てたら荒らす、
というくらいならTwitterとかFacebookで自分の考え書いていればいい
ここは不特定多数が集まるインターネットの掲示板
そんな自分勝手な考えは通用しないし、なんでも自分の思い通りに事が運ぶと思ったら大間違いだ >>819
自分以外が立てたら荒らすって
誰かそんなことしてんの?
証拠でもあんの? 連続句点は畿内説でもないのに
畿内説スレを乗っ取りたいという
歪んだ欲望で荒らしをしてたのか
異常だな >>372
>Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。・・・<
『説文解字』九、尺部「咫」に、「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也。」とあるんだから、
基本的には、そのような長さの単位であった、と見てよい。 >>373
>」『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、 古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、
「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。<
つまらん。別に誤りだとせず、そういう寸法もあった、とすればよい。
>秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。<
これも同じ。
『説文解字』九、尺部「咫」に、「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也。」とあるんだから、
周尺は一種類だけではなく、二種類あったんだな、と解しておけばよい。 >>375
>・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。<
ダメだ。
魏の役人らも陳寿も、行程説明は、
「出発説明→途中説明→到着説明→付加説明」という人類の常識的な説明方法を採っている事は、
直ぐに理解出来る事であり、
「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は末盧國の出発時点での出発方向説明であり、
「東南」方向は間違ってなどおらず、
案内人の道なりに行けば、(皆臨津搜露が出来る)伊都国は前原〜糸島水道付近であり、
三雲 細石神社は×であり、
「東南至奴國百里」は、「途中説明」がないので、側副傍線国説明であり、
「(伊都國から)東南に出発すれば、奴國に至り、百里である」という意味であり、
春日 岡本遺跡は、方向距離共に×である。 >>376
>Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より<
桜井茶臼山は、竪穴式石室であり、有棺有槨のホケノよりも明らかに新しく、撥型の箸墓のよりも新しいから、4世紀頃である。
>正始元年銘鏡が発見されている。<
発見されたのは「鏡片」であり、「正始元年」銘部分は発見されていない。
>それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。<
黒塚も竪穴式石室であり、4世紀である。
>ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。<
外周濠の土器では、永年使用後である可能性があり、絶対的根拠にならない。 >>376
>墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。<
「B.C.230〜250頃製造の魏鏡」なんてアホだな。また「非完鏡」なら鏡片の可能性もあり、
神獣鏡であれば、明帝下賜鏡ではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡の可能性がある。
>布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。<
ダメだ。大和の△は、4世紀だ。
>箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、
ホケノ山の年代と整合性がある。<
ホケノは、鉄鏃時代であり、箆被をもつ銅鏃も含めて、九州倭國の東征毛人五十五國の将軍か部将の墓だ。 >>377
>◆FAQ 69
>Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。
「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。<
夏侯淵は、(長安ではなく)、
首都での「対応を協議する会議の場」での「公在鄴、反覆四千里」の発言であったのであり、
だから「このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌である」でよい。
また、この頃はまだ「魏朝」にはなっていなかったのだから、
(魏朝の短里ではなく)秦漢の長里を使った発言であった可能性もあるし、
記載されたのが、魏西晋代であったんなら、短里に書き直された可能性もある。
>上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。<
関係がない。夏侯淵に対する曹操や上層部らの信頼は、非常に厚い。
>淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。<
長安にいては、会議そのものが出来ない。夏侯淵は首都にいた。
>長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。<
前述のように、不明。 >>822
>『説文解字』九、尺部「咫」に、「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也。」とあるんだから、
>基本的には、そのような長さの単位であった、と見てよい。
つまり平原で見つかったのは八咫の鏡じゃないってことだよな 本スレかどうかの尺度はどうすればいいのか
スレ主が名無し投稿を止めれば、ある程度認められるけど >>827
>夏侯淵は、(長安ではなく)、
>首都での「対応を協議する会議の場」での「公在鄴、反覆四千里」の発言であったのであり、
そういうデタラメを言い張るから
九州説は三国志を読んでる人全員からソッポ向かれるんだよ
夏侯淵が西部戦線の総責任者として長安に赴任してたのは常識だ >>829
スレ主の名無し投稿とかイミフ
全一病の発作か >>824
>魏の役人らも陳寿も、行程説明は、
>「出発説明→途中説明→到着説明→付加説明」という人類の常識的な説明方法を採っている事は、
>直ぐに理解出来る事であり、
なんも根拠のないマイルール作ってもダメだ
支持者いないよ
帰納してないだろ(藁 >>380
その「前提が間違っている」という事の、否定の反論を、
具体的な根拠を挙げて論証しないから
大和説者は、無能だって言われるんだよ
「南→東」などのように、大和説は常に口先での嘘つき騙しの思いつきで物を言う 庄内0 AD177+18 纏向石塚
庄内1 AD222 二口かみあれた
庄内2 AD240 下田
庄内3 AD258 二口かみあれた
布留0
布留1
布留2
だいたい一画期が20年、職人の手癖が微妙な違いを生み出すと>>1は言ってたよね。
ならば布留0は280年くらいでいいね?
石野さんと同じだね。
箸墓は卑弥呼の墓ではないでいいね?w >>383
>纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>384
>倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和の庄内は、3世紀末の石塚の庄内1からだから、×。
>博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。<
「南≠東」などによっても、×。 >>389
スレ主の貼り付けが始まってから、類スレ主が出て来なくなったし、
たまに、スレ主に変わって「代返事」したような事もあった。
「類スレ主=スレ主」なのではないかな?。
「南→東」などの嘘付き騙しで、頭のおかしな大和説者の人数は、
想定よりも少ない可能性が高い >>391
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説者が、九州説に文句があるなら
汚いヤジばかり飛ばしてないで、
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘に対して、
論理的に反論すれば? >>838
その「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言
とかいうの
理由がないって「論理的に反論」してるだろ >>835とか>>836とか
こういうの本気で畿内説に反論してつもりだとしたら
感覚ズレすぎだぞ >>834
>だいたい一画期が20年、職人の手癖が微妙な違いを生み出すと>>1は言ってたよね。
? >>1のカキコにそんなの無いぞ
>ならば布留0は280年くらいでいいね?
だからその年表どっから出てきたんだ
また怪情報か? >>833
「前提が間違っている」という事の、否定の反論?
「前提が間違っている」と言ってる人がその主張の根拠を挙げてないって
具体的な事実が指摘されてるでしょ
九州説の無能がまた証明されてしまった >>841
前スレか前々スレでURL出して言ってただろ。
探すの面倒くさい。
>だからその年表どっから出てきたんだ
また怪情報か?
連続句読点が森岡さんの年表が出てる本、確か東京。美術何とかを説明していた。
あいつに聞け。
というかおまえに何度も見せてるけどな。 >>843
>というかおまえに何度も見せてるけどな。
またウソついてるのか
だから九州説は信用されない >>843
何度も見せてるんなら、もう一回見せられるでしょ
なんで絶対に証拠を出さないの?
ウソだからだよね >>843
>連続句読点が森岡さんの年表が出てる本、確か東京。美術何とかを説明していた。
>あいつに聞け。
つまり典型的な聞きかじり怪情報であるな >>843
>連続句読点が森岡さんの年表が出てる本、確か東京。美術何とかを説明していた。
もちろんウソ >>396
>Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、
王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。<
構わんよ。「苑≠宛」であり、
「苑」は襄陽と新野の間の新野付近の、川から離れた地にあり、
「諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴」であったのだから、
「乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」に移ったのだ。
>銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で
「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。<
魯弼も中華書局も、史料事実を「自己解釈に拠る書き換え」が多い事で、
悪名が高い事で有名だ。
>襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。<
新野〜襄陽は60km位で、苑は、新野の近くで、
新野よりもおそらく襄陽にずっと近かったが不便であったので新野に戻ったんだから、
苑〜襄陽もおそらく60kmよりずっと近くであり、それが三百里なんだから、
1里は200mよりずっと少なかったのでありであり、短里に近い。 >>395
>Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか!
真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。<
倭王武の上表文も、唐会要倭國伝も、倭國の王や中心部に関する視点の話だ。
>中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半) 「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png<
はるか後代の、実地に見聞計測や証言を見ていない地図は、
自己解釈に拠る造作部分が多く、根拠には全くならない。
>魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。<
スレ主が、大和説にとっては都合の悪い史料事実を否定抹殺してしまう、
という犯罪者であるからだろう。
>当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。<
倭國伝に記録された、という事は、
その遣使らは、まさしく唐にたいして「倭國」遣使である事を名乗った、という事であり、
日本国使を名乗っておらず、
自らが九州倭國に属する出である、という事を示した事になるんだろう。 >>848
>「苑」は襄陽と新野の間の新野付近の、川から離れた地にあり、
そんな場所にそんな地名はないよ
九州説は捏造するからダメなんだ >>849
>自らが九州倭國に属する出である、という事を示した事になるんだろう。
平安時代の藤原氏の貴族がですか?
九州説ってそこまでトンデモなんでスカ? >>822
>基本的には、そのような長さの単位であった、と見てよい。
秦の始皇帝による度量衡の統一で、単位系が身体尺から公定尺に移行するときに
咫という単位は実用単位として使われなくなって、ものを計ったりものの大きさを示すのには
使われなくなっているんだよ
咫尺の書という表現と、粛慎の矢の故事にしか出てこないし、出てくるところには注釈がつく
つまり読んだ人が理解できない単位だった訳だ >>821
>連続句点は畿内説でもないのに
>畿内説スレを乗っ取りたいという
>歪んだ欲望で荒らしをしてたのか
とにかく、畿内説スレのテンプレが人目につかないようにしたいんだよ
テンプレの内容に反論一つできないからねw
そして素人さんがここのテンプレを読むだけで、畿内説が正しいことが分かってしまうから
九州説はここのテンプレを嫌っている 倭国に連合してる国までの距離が1万2千里で伊都国、奴国がある
邪馬台国はもっと南
>計其道里 當在會稽東治之東
その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。 >>776 3度目
>通報されたら書き込みできなくなるのはキナイコシなんだが
通報のやり方教えて!
連続句読点とキウスとザラコクと左側スロープ君は是非、通報したいしして欲しい
元民主党の代議士でツイッターのレスに対してすぐに訴訟を起こすっていう人がいるけど
同じ感性なんだろうな >>398
>仮に三世紀の鏡が四世紀の古墳から出ても四世紀のものにはならない<
当たり前。しかし、問題になるのは、何世紀の古墳なのか?、という事であり、その鏡の副葬時期。
>魏の年号の景初三年と記銘されているのは三角縁神獣鏡だけではなく
画文帯神獣鏡にも入っている<
景初三年の記銘がある限り、景初二年に詔書を出した明帝の下賜鏡ではなく、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>また同じく魏の年号青龍三年銘の方格規矩鏡み畿内から出土<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、高槻も竹野の大和ではない。
また、明帝が「紀年」鏡を下賜鏡に採用するのか?、という問題であり、
年次を入れて古くなれば価値の下落は避けられないし、紀年のない鏡とのアンバランスがあるし、
「尚方作」鏡のような価値の持続はない。
また「顔氏」鏡は他になく、平原に「陶氏」鏡が幾つもあるが、鏡師名を入れるのも少し疑問。
また、呉系楽浪鏡師らの△は殆ど22〜23cm鏡であるが、
明帝下賜鏡は、17〜18cm鏡が多いようだから、それはパス。 >>398
>明帝の詔書は景初二年だとしても
原本に近い時代の魏志倭人伝を引用して書かれた梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
卑弥呼が魏に使いを送った年は景初三年と引用なので<
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は、
後代の自己解釈に拠る書き換えのインチキをした半分偽書であるから、証拠にならず、×。
>渡来の楽浪鏡師が存在した可能性は低く<
「海東」鏡や、「徐州」鏡や、〜神獣鏡など、証拠はいくつもある。
>景初や青龍と魏年号の記銘された三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡や方格規矩鏡は
魏との交流によって畿内にもたらされたものと推定される<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
明帝下賜鏡の可能性があるのは、方格規矩鏡や内行花文鏡など。 女王國=倭国連合国 邪馬壹國=女王國の都
魏志倭人伝がこう分けていた場合は九州北部説は破綻する
女王國=邪馬壹國
九州説はこうだと主張するしか説明がつかないけど
陳寿がそんなミスをするとは思えない
この1点のみで九州説の否定も可能
九州説ってそのくらい脆弱 >>858
相変わらず、読み方が貧弱だな。
当然だが、共立前の女王国の定義と、共立後の女王国の定義とは異なる。
陳寿は、このことを考慮し、時代ごとに定義を移し、それを踏まえて記事を書いているのだ・・。 >>399
>Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
>A:「以力服人者、非心服也」(孟子)「服」は他動詞として使う。<
本来は自動詞か?他動詞か?は、「する」を付けて見れば判る。
「服」は「服する」であるから、自動詞。
しかし、倭王武は、「征する」や「平する」の他動詞に合わせて、
「服」も他動詞のようになるように「服せしめる」という使用をした。
>「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。<
ダメだ。唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭国の中心部は北部九州だ。
勿論、畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和は「南≠東」などに拠って、始めから、×だ。 >>856
>自らが九州倭國に属する出である、という事を示した事になるんだろう。
理由のないこと言い張ってもダメでしょ九州説 女王國は5ヵ所
>東南陸行 五百里 到伊都國 (略) 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南陸行。五百里。伊都国に到る。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。
>自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國
>(略) 次有奴國 此女王境界所盡
女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。
(略) 次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。
>自郡至女王國 萬二千餘里
郡より女王国に至る。万二千余里。
>自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。
>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南
>人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。又、侏儒国有りて、その南に在り。
人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。
邪馬壹國は1ヵ所
>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 (略) 可七萬餘戸
南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。
この状況で陳寿が女王國と邪馬壹國の分けていなかったとは考えにくい
はいこれで九州北部説の否定完了
>>859 時代で分けてるとこないけど 説明よろ >>859
>相変わらず、読み方が貧弱だな。
>当然だが、共立前の女王国の定義と、共立後の女王国の定義とは異なる。
相変わらず、論理が貧弱だな
その定義がどういうもので。どう異なるのか
全く説明する能力がない
つまり人並みの主張が出来ていない
気の毒だな アホでーす!奥山でーす!
みなさん、おはようございます >>862
だから、共立の前と後でわけろといっただろ。
こんバカタレめが! 陳寿は書物をまとめるのが得意で
蜀漢出身だけど魏の誰よりも優秀だから撰者に選ばれたとすると
それだけで九州北部説は破綻するよ
九州北部説は 女王國=邪馬壹國 と主張するしかないけど
これが破綻したら終わるくらい適当で脆弱
ちなみに九州南部は否定してないよ
これがあるからね
>その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
鹿児島の可能性は残る まあ遺跡はないんだけどね
>>862 どれが共立前でどれが共立後なの?
漢文で示してくれてかまわないよ おれわかるから >>866
自分の考えを説明できないのか
能力ないんだね
悲しいね >>868
こんバカタレめが、ま〜だわからんとか・・。
卑弥呼共立の記事の行より前が共立前。後ろが共立後だ。 九州北部は他にも否定材料があって
>南至投馬國 水行二十日
>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
シンプルに舟いらないじゃん 歩いていける >>870 魏志倭人伝読んでないね そんなふうに書かれてない
都合のいいことが書かれている部分しかみないのは九州の悪いとこだね >>872
小中学校の歴史の本を思い出せ。
奈良時代のことは奈良時代に書いてある。
平安時代のことは平安時代に書いてある。
鎌倉時代のことは鎌倉時代に書いてある。
倭人伝も歴史書なんだから、すべからく歴史順に書いてある。
共立後の女王国は1か所で最後の女王国だ。これは、女王国=共立倭国のことと読む。 >>438
>古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。<
それなら、
「5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。」はは世紀に入ると集落が確認されなくなるが、<
それなら、
「5世紀第3四半期」は、九州倭国の倭王武らの「東征毛人五十五國」の話になり
「6世紀に入ると集落が確認されなくなる」は、
継体の反乱で九州倭国の磐井が倒されて、九州倭国の東征がストップし、
「7世紀には激増する」は、
今度は九州倭国が大和を従えて、また東征を再開した、という事になる。 >>439
>萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。<
ダメだ。佐々木は、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」があった事を全く隠して、
筑紫における庄内の3世紀前半を肯定しながら、
大和の庄内が3世紀末の石塚の庄内1からである事を隠蔽して、3世紀前半にして、
大和が筑紫を文化的権力的に支配していたかのような嘘つき騙しをしているから、
×人間。
>奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。<
まあ、「南≠東」などに拠っても、×。
>前方後円墳のネットワークを
「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、
擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。<
「南≠東」や九州倭國の「東征毛人五十五國」を、全く隠蔽しているから、×。 うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩 破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻
破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻
破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻
破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻
破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻破綻 >>440
>日数で表記された距離は「道里」に該当するので、<
陳寿は、「道里」記載と「所要日数」記載とをはっきり書き分けており、
「日数で表記された距離」は「道里」に該当しない書き方をしているから、×。
>投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する<
不彌國や邪馬壹國女王之所都で萬二千余里が終わっているから、
投馬国は「自女王国以北」にならず、×。
>『九章算術』巻第六「均輸」に ・・・<
九章算術は、「道里」と「日数」を混乱させた記載をしたアホ本であるから、証拠にならない。
>三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に・・・<
「道里近遠」という表現であり、「日数」を出していないから、関係がない。 >>878
>陳寿は、「道里」記載と「所要日数」記載とをはっきり書き分けており、
証拠ないよな
また口先だけで主観を言い張ってる
いるも九州説は、これ >>873
>共立後の女王国は1か所で最後の女王国だ。これは、女王国=共立倭国のことと読む。
そう読む理由は? うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち💩 バイアス抜きで魏志倭人伝を読んだ場合邪馬台国は会稽、東冶の東だよ
それを歪ませて九州北部や奈良やその他のあてると無理がでる
あきらめろ
当時の中国人は800年間本気で倭国は会稽、東冶の東にあると思い込んだ
そのくらい魏志倭人伝は当時の人たちにとっておかしなところがない この中国人の勘違いの象徴が遣隋使を別種と称したことだな
中国人にとって倭国は会稽、東冶の東にないといけない
奈良から来るのはおかしい そして遣唐使がこの誤解を訂正するが
五代十国時代の戦乱の中の旧唐書作成時にその資料が集められず
宋が統一して国が安定して資料もそろってからやっと新唐書で
800年にわかる勘違いが判明する これは遣唐使の資料をみればわかる
たしかに遣唐使は訂正していたことが資料として今も残ってる >>441
>倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。<
そんな事で、「倉庫群」が規定出来る筈がない。
>纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)<
「市」などの倉庫であれば、十分に有り得る。
>建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、
低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
考えられても、他の可能性を全部否定出来なければ、確定にならない。
>建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。
これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。<
これも同じ。他の可能性を全部否定出来なければ、単なる可能性や妄想にしかならない。
>建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。<
「される」と言われてもねえ。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。 【民族(みんぞく)】
人種的・地域的起源が同一であり(または同一であると信じ)、言語・宗教などの文化的伝統と、歴史的な運命を共有する人間の集団。
ある辞書には「民族」をこのように定義している。
日本人と沖縄人は人種が異なるし、地域的起源も同一ではない。
さらに言えば沖縄ではもともと琉球語を使用していて、日本語は19世紀後半になって大日本帝国の皇民化政策や同化政策によって押し付けられたものである。
沖縄で「あなたの信仰宗教は何か?」と問われても宗教名を答えず、「祖先崇拝です」と答える人が多いことからも、本土の日本民族とは大きく異なる。
そして日本と沖縄は歴史的運命を共有してこなかったという歴史的事実もあり、日本民族と琉球民族は異民族であると考えられている。 >>878
>九章算術は、「道里」と「日数」を混乱させた記載をしたアホ本であるから、証拠にならない。
都合の悪い史料はいわれもなく誹謗すればノーカンになるとか思ってる精神性だから
九州説は荒らしに堕ちるんだよ >>886
>考えられても、他の可能性を全部否定出来なければ、確定にならない。
倉庫だ倉庫だと決めつける九州説がブーメラン自傷死した >>887
あなたの文章は主語が抜けていてわかりにくいけど
要するにあなたの中ではそうだってことね >>441
>Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!ただ当時の風説を書いたのだ! <
賛成。
>A:初歩的な誤りである。<
スレ主は、「南→東」などの嘘付き騙しの、口先上手な詐欺師である。
>子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。<
魏志が謂ったのは「邪馬壹」であり、「邪馬臺」ではない。
つまり、魏徴らは嘘つき騙しである。
>助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。<
同じ事。魏徴らがウソを付いている事には変わらないし、
スレ主が、その事を伏せている詐欺師である事も変わらない。 >>891
>つまり、魏徴らは嘘つき騙しである。
都合の悪い史料はいわれもなく誹謗すればノーカンになるとか思ってる精神性だから
九州説はいつも追い詰められて誹謗中傷するばかりになるんだよ 沖縄が日本固有の領土でないことは140年前の1879年3月27日に当時の日本政府が軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで証明されている。
琉球王国が日本の領土だったなら、その琉球王国を日本政府が軍隊を動員して武力併合するわけがないし、併合する必要もない。
沖縄の前身である琉球王国が日本の領土でなかったことは皮肉なことに日本政府自らが軍隊を動員して武力併合したことで証明してしまった。 >>442
>A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。<
△は、「海東」鏡や「徐州」鏡の列島での存在に拠って、
呉地域の神獣鏡の鏡師らが一旦楽浪に行き、その中の△鏡師らの中の数組が、
列島に渡来して来て、製作したもの。
中国では、殆ど出土しないが、楽浪からは出土する。
>後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。<
楽浪からは「紀銘△」は4つ以上発掘されているが、
それでは、列島の300個以上の△を説明出来ず、
「海東」△や「徐州」△や 斜縁などの説明が不可能。
>三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。<
△は、世界中で殆ど列島のみであり、僅かに楽浪など。 >>442
>魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは<
楽浪鏡師らの渡来のきっかけは、最初は公孫氏征伐戦争であり、次は楽浪滅亡戦争。
>・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー <
されていない。
>・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。<
魏晋内から△はほぼ0〜1枚しか出土しない。
>三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。<
三角と斜縁は同じ「陳」氏が造っているが、造り分けている。 >>776
畿内説スレ荒らす人がいますと通報すれば捕まるのは九州説 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏が、元々は、上海や沖縄や九州に居住し、日本列島の東にも移動した日本人種を分断するための、間違った意見を発表しているな、、、 >>856
四世紀の墓に三世紀の鏡が入ってても2つの年代観に何の問題もないね
逆なら問題あるけれど
そして三角縁神獣鏡は三世紀の古墳からも見つかっている
すなわち三角縁神獣鏡は三世紀から存在し
記銘されている景初三年等の魏の年号に反する要素は何も見つかっていない
記年鏡を下賜鏡に採用しないと思われる理由は何かな
それと年号を入れて古くなれば価値が下がるとはどういう発想に基づくものなのか
頭が畿内説に対する憎しみに支配されるあまり正常な思考が不可能になっているようだ >>443
>A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。<
当たり前の事だが、卑弥呼に下賜された品物の中に「葬具」などない。
皇帝が卑弥呼のそんな失礼な嫌味な事をする筈がない・
>「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)<
立派な大事な鏡は、当然棺内に置かれ、大事さが落ちる鏡は棺外に置かれる。
>初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。<
初期道教の作法?。九寸鏡や凸面鏡など、どこにあったの?。
>黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。<
棺外は、やはり、価値が低い。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏は、朝鮮半島に最初に国を作成した者達が、元々は、上海や沖縄や九州に居住した倭人であり、ほとんど無人だった朝鮮半島にも居住地域を拡大していたことを隠そうとしているのだったな。 >>1
邪馬台国畿内説が、完全に破綻しましたね。。 >>857
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧その他の史書は
当時の魏志倭人伝を引用、つまり本文を引き写しして書いているので
誤字は別として著者の自己判断が入る余地はないよ
海東鏡が楽浪呉系鏡師が倭にいた証拠なら
現在の楽浪に相当する場所で同じような鏡が出てなくてはならない
三角縁神獣鏡は銅の素材が魏鏡と同じであり魏の年号の記銘もあり
洛陽近郊でも発見があって魏との関連性が強く認められる
もし倭国に渡来鏡師がいたのならそれは魏系の鏡師という証拠が揃っている事になる
徐州も魏の領土であり神獣鏡も魏では一般的なものだった >>444
>Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。<
何だ?、スレ主は、三角鏡師は呉方面にはいない、とか言ったばかりではないか。 >●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
>●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。<
どこが「明らか」なんだ?。鏡が自分で海を渡って日本に来たんか?。
陳氏は、鏡を造って、後は放りっ放しかい?。
列島の「陳氏」鏡も皆放りっ放しだったのかよ?。
>吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。<
「海東」鏡には、神仙が「至海東」したなんて、書いていない。
>続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。<
要するに、スレ主は、「海東鏡」が自分で船に乗って、列島にやって来た、とでも言うんだね?。
・・・・だね。 琉仏条約、仏にも原本 「琉球は独立国」認識
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-238566-storytopic-3.html
琉球国が1855年にフランスと交わした琉仏修好条約のフランス側の原本が、フランス・パリ東部に隣接するヴァンセヌ市の海軍公文書館に保管されていることが7日までに分かった。
(琉球新報2015年2月8日より)
沖縄の地元紙である琉球新報が報じているようにアメリカのみならず、フランス、オランダも琉球は独立国と認めていた。
1854年に琉球とアメリカが結んだ琉米修好条約、1855年に琉球とフランスが結んだ琉仏修好条約、
1859年に琉球とオランダが結んだ琉蘭修好条約の原本が存在することが琉球が独立国であったことを証明している。
よって独立国だった琉球を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。 うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち
うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち テンプレの論法は、まさに韓国人の思考パターンを示している。
奥山の家系にチョンがいるどうか調べてみろよ。 >>445
>A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である<
「高墳也」とは、「冢」は、(底面サイズに対して聳えるような)、
「高さをはっきり感じる墳」だ、と言っているのであり、
始皇帝の墓や馬韓の家屋のように、尖った「錐体台」的な形状を言い、
前方後円墳は、低い丘陵状だから、×だ。
>本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。<
日本の学者が悪い。
>中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。<
最後の文は、「南≠東」などに拠って、×だ。 >>909
>始皇帝の墓や馬韓の家屋のように、尖った「錐体台」的な形状を言い、
>前方後円墳は、低い丘陵状だから、×だ。
尖った「錐体台」的?
典拠なし
ただの妄想 >>446
>Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から
西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。<
「破鏡」ではない。
K1墓は、剣なども所持した成人女性であり、
墳頂に主体から与えられたペンダントのような「鏡片」を付けていたのだ。
>石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、
柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。<
柳田は、三雲の古い庄内も(偉い大和説先生らに言われて)引っ込めたし、
平原でも「尚方作」鏡を無視して、西新式がないとかで2世紀末?にまで変えたし、
人間性が信用ならん。
>今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。<
久住も、祇園山の△や庄内を知っている筈なのに、また甕棺を、
(大きな空白期間を造ってまでして、橋口編年に逆らってまでして)
4世紀に持っていっていたのか。 >>446
>Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ! 日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png<
一部分の急峻さだけではない。
全体の「尖り方」や「高峻さ」や「錐体台さ」だ。 >>451
曲解だーとかこじつけだーとか
悪口言うだけで
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘や「冢≠前方後円墳」などに、
具体的な反論はまったく出来ない
情けない姿を見てると
大和説の終焉を実感する >>454
>>「箸中山古墳に後続する3世紀後半」というのがおかしい。
箸墓は4世紀。<
>おかしいという理由は? なんで九州説はいつも理由を言わないんだか<
?。「箸墓は4世紀」という理由を言っているのに。
なんで大和説は、いつも、
「理由を言っても、理由を言わない」という宣伝をするんだろうか?。
こっそり教えますね。
大和説者って人種は、ほぼ全員、・・・・アホ詐欺師であり、
その内京都アニメ犯人のようなテロをする人種だから。 >>466
「南≠東」などのような、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しで狂気でない大和説者など
ここ数年見たことがない >>537
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
荒らせば荒らすほど大和説のヤケクソっぷりが明らかになるのみだと言うのに >>539
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者には、
客観性と論理性と、人類の常識としての倫理性が欠如している >>545
「南→東」などの嘘付き騙しばかりやってると
大和説が女王國論争に敗れ去ったことが
天下にさらされて
大和説自滅 >>914
>?。「箸墓は4世紀」という理由を言っているのに。
いつ、何処でなんと?
どうして今その理由を言わないの?
九州説って詐欺なの? 畿内説は魏志倭人伝に書いてる南は本当は東だから邪馬台国は畿内という嘘つき騙しをしているという嘘つき騙し >>565
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
何十年も前から完全否定されてる話に望みをつなぐ大和説
こりゃ滅びるわけだわ >>579
ほおら
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
一般市民並みの知性と常識を持っていたら
決して大和説を主張できないことは
もはや誰の目にも明らか >>586
「南→東」などの嘘付き騙しの連投してる大和説が
正常な市民生活を営める知性も良識も持ち合わせないって
誰が見てもわかる状況になってきたな >>590
荒らしの葛城といい
「南→東」などの嘘付き騙しのスレ主といい、
暴言吐きすぎでよその掲示板追放されて流れてきた類スレ主(=スレ主?)といい
大和説には正常な人間はもう残っていない ザラコクが南→東だから大和説は嘘つき騙しと連呼し始める時は
いい加減やる気が無くなってきた時 >>616
荒らす動機があるのは「南→東」などの嘘付き騙しの大和説。
九州説の証拠の前じゃまるきり勝てないからな。 >>617
>ここで突然楽浪木槨墓V期を出して来ているし、その終了時期を書いていない<
>うそ書くな 書いてあるだろう併行すると<
それで、何時になるんだ?。 >>617
>ここで突然楽浪木槨墓V期を出して来ているし、その終了時期を書いていない<
>うそ書くな 書いてあるだろう併行すると<
それで、何時になるんだ?。 >>633
「南≠東」などに拠って、
どうやっても議論に勝てなくなった大和説はとうとう荒らす事しか出来なくなった
何となく予想していた通りの結末
これは九州説勝利の証 >>641
内藤の頃から数えれば150年位続いた大和説も
ここでついに終焉を迎える
大和説は説じゃなくて嘘つき騙しの荒らしに降格 >>646
「南→東」など、言ってること支離滅裂だな大和説 >>647
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
九州説が勝ったから九州説は説
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
説じゃなくてただの荒らし >>654
「南→東」などのような、
歴史や人類の常識に関する致命的基礎知識不足が
大和説という毒を生み出しているのだよ >>681
いくら暴れて荒らしても,
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、大和説は九州説に負け >>702
「南→東」などの嘘付き騙しの荒らしに発狂しまくってる大和説ヤバイ
やけになって、京都アニメのように、どっかに火でもつけないか心配 新唐書宋書が終着駅なんよ。これを説明できるか、或いは覆すほどの新たな説明が出来るかという話。1の勝ち誇りましょう何てのは愚の骨頂。 >>754
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
自分が何か反論してるとカンチガイしてるんだろうな
実際は理由も言わずに自説の結論だけ連呼してるのだから
世間一般の常識からすれば
それは反論じゃない >>858
>魏志倭人伝がこう分けていた場合は九州北部説は破綻する
勝手ルールを作ればどうにでもできるよね。 >>762
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
女王国論争や「南≠東」などで惨めに負けた大和説が
今夜も発狂しいるな 奥山さん
畿内説の投馬国の比定地の質問も私はしました。
それに応えたあなたはどこへ行ってしまったのですか?
今
5チャンネルにあなたが何を求めているのですか? >>882
>バイアス抜きで魏志倭人伝を読んだ場合邪馬台国は会稽、東冶の東だよ
九州の大きさを過大評価しただけ。
それは報告書が短里で書かれていたことの証拠でもある。
少なくとも畿内ではないことは確かだ。 都合の悪い史料はいわれもなく誹謗すればノーカンになるとか思ってる精神性だから
畿内説はいつも追い詰められて誹謗中傷するばかりになるんだよ >>775
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
議論で負けたので荒らしで醜い報復をしてる
現行犯だ
惨めな連中だ
畿内説は荒らしなんてする動機がない
粛々と畿内説を語るだけだ >>790
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説、
完全発狂
怖いよう。 >>882
>バイアス抜きで魏志倭人伝を読んだ場合邪馬台国は会稽、東冶の東だよ<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
陳寿の女王國の位置比定は「会稽東治之東」だから、×。 >>898
>記銘されている景初三年等の魏の年号に反する要素は何も見つかっていない<
明帝は景初二年12月に詔書を示しているから、
その時点で銅鏡百枚は用意済みであり、
景初三年鏡は、明帝の鏡ではない。 >>899の訂正
>このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している<
△は、魏の敵国の呉系の鏡だから、明帝が銅鏡百枚に採用したくない鏡。 約20万年前にアフリカで誕生した原生人類が日本に渡ったのは約3万8000年前とされている。
日本列島や琉球諸島に渡ってきた人類は大きく分けて以下の3つのルートがある。
1.朝鮮半島から対馬を通り九州へ渡った「対馬ルート」
2.台湾から南西諸島を北上する「沖縄ルート」
3.ユーラシア大陸の北側からサハリンを経由する「北海道ルート」
本土の日本人は朝鮮半島から渡った「対馬ルート」が大半で、南の台湾から南西諸島を北上してきた沖縄人とは明らかに民族が異なる。 >>952
詔書が景初二年でも卑弥呼が魏に使いを出して取りに行ったのは
当時の魏志倭人伝の引用文から景初三年
また景初三年鏡とそれに続く景初四年鏡や正始元年鏡の記年鏡の存在が
畿内と魏の継続的交流を証している >>949
自分で発狂しておいて畿内説が発狂してると言う九州説の一人踊り 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏は、朝鮮半島に最初に国を作成した者達が、元々は、上海や沖縄や九州に居住した倭人であり、ほとんど無人だった朝鮮半島にも居住地域を拡大していたことを隠そうとしているのだったな。 うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち >>903
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧その他の史書は
当時の魏志倭人伝を引用、つまり本文を引き写しして書いているので
誤字は別として著者の自己判断が入る余地はないよ<
写本版本での書き間違い確率は、0.5%以下だが。
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は、自己解釈に拠る書き換えを大量にやっている。
>海東鏡が楽浪呉系鏡師が倭にいた証拠なら
現在の楽浪に相当する場所で同じような鏡が出てなくてはならない <
△はある程度出ているが、列島のように、300枚以上、というような事はない。
渡来して来た鏡師らは、列島で大量に造った。
>三角縁神獣鏡は銅の素材が魏鏡と同じであり<
全く同じではない。材料銅が近かった、というだけ。
>魏の年号の記銘もあり<
景初三年以後の紀年鏡は、明帝の銅鏡百枚ではない。
>洛陽近郊でも発見があって魏との関連性が強く認められる<
0〜1枚では、列島の300枚以上の△の説明にならない。
>もし倭国に渡来鏡師がいたのならそれは魏系の鏡師という証拠が揃っている事になる
徐州も魏の領土であり神獣鏡も魏では一般的なものだった<
神獣鏡は、華中や呉の鏡であり、明帝の 選択には入らない。
二つの「海東」鏡は、呉系楽浪鏡師の渡来の証拠。 【起源煮だ】「日韓断絶」叫ぶ滑稽さ 朝鮮半島経由した弥生人との混血で薄まる縄文人の血 上皇陛下「韓国にゆかりを感じる」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1569143686/ >>957
北朝鮮に操られている韓国の考古学が、朝鮮人の利益のために、邪馬台国畿内説を作製したのだったな。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏が、正体を隠さなくなってしまった、、、
960日本@名無史さん2019/09/22(日) 18:46:22.57
【起源煮だ】「日韓断絶」叫ぶ滑稽さ 朝鮮半島経由した弥生人との混血で薄まる縄文人の血 上皇陛下「韓国にゆかりを感じる」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1569143686/ やはり、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰したことは、真実究明のためだけではなく、日本分断工作防止にとっても、正解だったな。。。 >>946の訂正
>畿内説は荒らしなんてする動機がない
粛々と畿内説を語るだけだ <
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「南」など史料事実からの帰納的確率的推論の九州説は、
荒らしなんてする動機がない
粛々と九州説を語るだけだ 終息するには、
次回 長いテンプレをもっと長するのがいい
アラシが来ても
テンプレだけは守ってください
FAQは、支離滅裂になるからふよう マキムクとか箸墓とか言うから
畿内説は追い込まれてしまったと思う 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏は、北朝鮮の手先なのだったな。。。 >>955
>詔書が景初二年でも卑弥呼が魏に使いを出して取りに行ったのは
当時の魏志倭人伝の引用文から景初三年 <
書紀と通典が、ついうっかり、「明帝」の名前を出してしまって、
景初二年である事がバレがてしまった。
>また景初三年鏡とそれに続く景初四年鏡や正始元年鏡の記年鏡の存在が
畿内と魏の継続的交流を証している<
倭人伝では、景初三年以後は、鏡を貰えるような遣使はなかった。 >>956
自分で「南→東」などの嘘付き騙しをして発狂しておいて、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っておいて、
九州説が発狂してると言う大和説者の一人踊り 吉野ヶ里のインパクトはすごかった
そこに、付け入ったのが橿原考古学研究所の名もなき研究者(所詮 地方公務員 >>959
史書は引用文の内容を勝手に書き換える事はしない
もし内容に著者の見識を入れるなら原文に注釈として書き添えられる
そして複数の史書が景初三年と何も注釈を入れずに書いてあるのは
原文である魏志倭人伝にそのように書かれていたという事
つまり複数の史書の学者が特に勘案せず
問題なく卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年としていたという事
楽浪から三角縁神獣鏡は1枚も出ていない
そもそも中国から洛陽の1枚しか見つかってないと常日頃から言っているのは九州説
三角縁の銅の銀・アンチモン比は魏晋鏡と同じグループに属する
つまり同じ鉱山からの銅で作られているという事 慶応大学のISONOは完ぺきに寺澤を馬鹿にしてるな
けしからん >>969
ついうっかりって何だ
中国の学者は歴史を通じて結託して九州説を葬ろうとしていたとでも言うの >>969
魏志倭人伝に
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国
拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦?刀鏡采物
「正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、
詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す。
並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、?、刀、鏡、采物を賜う」と書いてある
景初三年と同じく正始元年にも邪馬台国は鏡を貰ったのである
その正始元年鏡も畿内より出土 >>970
畿内説が魏志倭人伝の南を東と読み替えてるという嘘つき騙しをし
一人発狂して踊っているのはザラコク マキムクとか箸墓とか言うから
畿内説は追い込まれてしまったと思う 長いテンプレで本スレかどうかを識別しているのだが・・
>>1はどうでもいいが、一応感謝しないとーーー
だれも>>1みたいに24時間は無理だよ
サンキュウ >>1 >>959
正始元年にも倭国は鏡を賜ったと魏志倭人伝に書いてある
また三角縁神獣鏡は洛陽から出土があっただけではなくて
魏の年号の記銘、使われている銅が魏晋鏡と同じもの、
銅出徐州、師出洛陽(徐州の銅で洛陽の鏡師が作成)との銘文など
複数の根拠から魏鏡である事は明白
もし倭国に渡来した鏡氏を想定するならそれは呉系の楽浪鏡師ではなくて
魏系の洛陽鏡師としなくてはならない サンキュウ >>1
に追加・・・・
少しは常識的な投稿ヨロシク サンキュウ >>1
に追加・・・・
少しは常識的な投稿ヨロシク 982日本@名無史さん2019/09/22(日) 19:43:20.48
ザラコク=オクヤマの件について
↑
イコールじねーよ
奥山の自演はあるけどな >>972
>史書は引用文の内容を勝手に書き換える事はしない <
史書は、(写本とは違って)自分の歴史解釈を解り易く説明する書であり、
自分の考え通りに書こうとするもの。
>もし内容に著者の見識を入れるなら原文に注釈として書き添えられる<
そういう書き方をする史家もおそらくいるが、大半は、自分の見識通りに書く。
>そして複数の史書が景初三年と何も注釈を入れずに書いてあるのは
原文である魏志倭人伝にそのように書かれていたという事<
それは、写本版本の場合。
>つまり複数の史書の学者が特に勘案せず 問題なく卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年としていたという事<
梁書や翰苑や太平御覧は皇帝の名前を書いていなかったが、
書紀と通典が「明帝」という文言を書いた、という事は、
明帝であった、という情報を見ているから。
>楽浪から三角縁神獣鏡は1枚も出ていない
そもそも中国から洛陽の1枚しか見つかってないと常日頃から言っているのは九州説<
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
を見ればよい。
>三角縁の銅の銀・アンチモン比は魏晋鏡と同じグループに属する
つまり同じ鉱山からの銅で作られているという事 <
手持ちの材料銅の銅産地が、同じようであった、というだけ。 >>984
三角縁は魏系の洛陽鏡師が徐州の銅を倭国に持ってきて国内で作ったという事だな 982日本@名無史さん2019/09/22(日) 19:43:20.48
ザラコク=オクヤマの件について
↑
イコールじねーよ
奥山の自演はあるけどな 982日本@名無史さん2019/09/22(日) 19:43:20.48
ザラコク=オクヤマの件について
↑
イコールに近い
NO50超えでスレ主の名無しはいかんぜよーー
いまさら無理だろうな ご愁傷さま >>975
>魏志倭人伝に
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国
拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦?刀鏡采物
「正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、
詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す。
並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、?、刀、鏡、采物を賜う」と書いてある
景初三年と同じく正始元年にも邪馬台国は鏡を貰ったのである
その正始元年鏡も畿内より出土<
景初三年元日に明帝が亡くなり、景初三年は喪に服し、
翌年一月を「景初三年後十二月」として喪を終り、
その翌月から正始元年が始まって、梯儁等が詔書印綬などを奉じて詣倭国奉じてしたの。
つまり、景初二年の詔書に書かれたものを持って来たの。 >>984
そういう書き方もする史家もいるではなくて全ての史家がそう
明帝がどうでも魏志倭人伝の引用で卑弥呼の遣使が景初三年と書いてあるのは
1冊だけではなくて複数 >>989
それなら景初三年鏡や正始元年鏡は魏の下賜品で間違いないという事 >>979
>正始元年にも倭国は鏡を賜ったと魏志倭人伝に書いてある<
景初二年の詔書の実行。
>また三角縁神獣鏡は洛陽から出土があっただけではなくて<
0〜1枚。列島の300枚の証拠には全くならない。
>魏の年号の記銘、<
明帝の下賜鏡は、景初二年以前の鏡。
>使われている銅が魏晋鏡と同じもの、<
銅産地が一緒であったか?、手持ち材料銅が同じような銅であったか?。
>銅出徐州、師出洛陽(徐州の銅で洛陽の鏡師が作成)との銘文など<
鏡師が自分の出身地を書かなければならないのは、出身地以外の他の地へ行って鏡を造った場合。
洛陽で出身が洛陽だと書いたって、(尚方作ならまだしも)、何の自慢にもならない。
>複数の根拠から魏鏡である事は明白<
複数の根拠から、明帝鏡や魏鏡ではない事が明白。
>もし倭国に渡来した鏡氏を想定するならそれは呉系の楽浪鏡師ではなくて
魏系の洛陽鏡師としなくてはならない <
二つの海東鏡や徐州銅鏡がある。 >>950
が次スレを立てるのが慣例だろう。
個人がスレを独占など、おかしなことだ。 >>992
海東鏡や徐州銅鏡は魏系の洛陽鏡師が倭に来た証拠
出身地の魏以外で鏡を作ったから師出洛陽と出自を自慢
呉系の楽浪鏡師は存在しなくて倭に来たのは魏系の洛陽鏡師で丁度説明がつく >>985
>三角縁は魏系の洛陽鏡師が徐州の銅を倭国に持ってきて国内で作ったという事だな <
△が起こったのが(洛陽ではなく)呉付近であり、
二つの「海東」鏡があり、どちらも「海を浮由」した事が書かれ、一旦山東半島から楽浪へ浮由し、
更に海峡を浮由して九州に来た。 >>995
三角縁神獣鏡は洛陽から見つかっており
2つの海東鏡は魏系の洛陽鏡師が海を浮由したつまり韓半島を浮由し
対馬海峡を浮由して畿内に来た >>990
>そういう書き方もする史家もいるではなくて全ての史家がそう
明帝がどうでも魏志倭人伝の引用で卑弥呼の遣使が景初三年と書いてあるのは
1冊だけではなくて複数<
明帝と書いているのが、全ての写本版本と、書紀と通典。
景初二年と書いているのが、全ての写本版本と通典・ >>997
卑弥呼の遣使が景初二年と書かれるのは12世紀以降の倭人伝
それ以前の倭人伝には景初三年 >>993
固執する必要ねーよ
誰が立ててもいいよ
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