【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾肆
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
or
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
倭国=阿波だと言い張る人はコチラ↓に移動
「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張る人はコチラ↓に移動
日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1549585819/ 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>5により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる 朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg 383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 歴史の真実は一つだけ!日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 .
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
. >>7
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう >>7
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです >>13
このスレを使用するならテンプレくらい守りましょう♪
糸チョンの声闘は禁止です
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレ
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
> 一部の頭のおかしいキナイコシが必死に捏造を繰り返してますけど気にしないでね
彼の卑しい企みは↓こちら
107 :日本@名無史さん :2020/10/19(月) 21:40:36.35
>>97
もちろんそれもあるんだけど、キナイコシ君が必死に安曇=奴国王家だと捏造したがるのはそれが彼らの逆転シナリオだからだよ
海人族の重要性が知れ渡り、畿内説が不利になっている現在、彼らは逆転の一手として「奴国裏切り説」を打ち出そうとしている
つまり彼らが畿内系とする土器や3世紀中頃、つまり魏志倭人伝時代の前方後円墳が奴国領域にあることを根拠に、
「奴国の安曇は北部九州を裏切って畿内側についた。だから畿内の邪馬台国が北部九州を支配できたし瀬戸内海の海人族の遺構は畿内側のものなのだ。」
とやるのが彼らの狙いなんだよ
ところが安曇が伊都国だとはっきりしてしまえばこの戦略は使えない
糸島の前方後円墳は魏志倭人伝以降のものばかりだからね
だからキナイコシ君は狂ったように安曇が伊都王家であるという事実を否定しようとしているわけ
でも考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない >>15
このスレを使用するならテンプレくらい守りましょう♪
糸チョンの声闘は禁止です
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレ
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
> >>17
このスレを使用するならテンプレくらい守りましょう♪
糸チョンの声闘は禁止です
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレ
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
> >>7
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw 648 :日本@名無史さん :2020/11/14(土) 01:20:27.04
熊襲の王がクマソタケル
出雲の王がイズモタケル
じゃあイソタケルはイソ国の王、当たり前のことだな >>20
このスレを使用するならテンプレくらい守りましょう♪
糸チョンの声闘は禁止です
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレ
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
> >>21
このスレを使用するならテンプレくらい守りましょう♪
糸チョンの声闘は禁止です
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレ
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
> キナイコシ君の得意技・声闘(ソント)とは
821 :日本@名無史さん :2020/11/18(水) 04:59:39.47
https://blog.goo.ne.jp/mannizawa/e/84c2c259b1f71ebaff516783041f0fdc
> 朝鮮半島には、声闘(ソント)とという朝鮮人の古くからの伝統があり、現在でも彼らのお家芸である
>
> 声闘を平たく説明するなら。声の大きさで相手の言論を封じること。
> 人と議論をするとき、議論の内容は関係なく、ただ大声で早口で居丈高に話し、 相手が何も言い返せなくなれば勝ち、という思考形態であり、そこには道理も真実もない。。
> 古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である
>
> 相手が論理的に反論しても、聞こえないか 聞こえないふりをして大きな声で意味不明な反論を威圧的に繰り返す。
> そして相手を加害者に仕立て上げ自分を被害者にする。自分に非があっても決して認めず、大声で反論を繰り返して相手が、疲れ呆れて黙り込んだら勝利宣言をする。
ビックリするくらいキナイコシ君の行動パターンそのままで笑う
キナイコシ君はチョンチョンうるさいけど彼自身の行動が一番朝鮮人的なんだなw
彼が朝鮮人を嫌うのは同族嫌悪でしかないわけだ >>24
このスレを使用するならテンプレくらい守りましょう♪
糸チョンの声闘は禁止です
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレ
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
> >>9,13,15,17,20-21,24
あのさぁ、いつまでもしつこく被害妄想にかられて長文コピペの連投繰り返してるけどキナチョンとバトりたいならキナチョンのスレ行ってやってくれよ。
お前のせいでこのスレだって半分が駄レスになってる現状が迷惑だって言ってるのが理解できない?
九州関連スレのテンプレにお前を排除する文言があるのは九州勢みんなの総意なんだよ。
そろそろ理解を示してくれよ。 >>26
キナイコシ君おつw
総意なんてありません、単に君が自分に都合の悪い真実を排除しようとしているだけです
恥を知りなさい >>1
魏志倭人伝の議論をする上で"伊都"をNG指定するのは難しくないか? >>28
このスレを使用するならテンプレくらい守りましょう♪
糸チョンの声闘は禁止です
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレ
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
> 参考資料として記紀等の日本側資料を参照するときの重要なポイント
それは記紀の嘘のつき方
一人の人間を別名を使って復数に分割し、神代と人代などに分けて複数回登場させるという手法を使っているのです
紀年論のように全体が120年ずれてるなどという単純なものではありません
人物や出来事の順序も疑わなければいけないということです
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1566335692/
504 :日本@名無史さん :2019/09/07(土) 00:07:42.69
>>496
まさにそこが今回最大の収穫かもしれない
つまり記紀神話の年代のでっち上げの手法が判明したということだ
五十猛は素戔嗚命の息子なので神代の人間、というか神だが、五十迹手を褒めたのは仲哀だし、磯良は神功の水先案内を務めているから人代の話である
つまり実在の人物として人代に記録されている人間が別名を使って素知らぬ顔で神代にも書かれていることになる
従来考えられていたように神代が九州で人代が畿内というような分かれ方ではなく、人代の出来事を神話仕立てにして遠い過去の出来事として
投影したのが神代であり、人代と同一人物が重複して登場しているのだ
これはつまり、他の神々にも人代におけるモデル人物が存在する可能性を示している
例えば天照大神のモデル人物は神功皇后かもしれない、とかな
スサノオの子であるイソタケルが安曇磯武良なら、天照大神はその伯母にあたるから一世代上だが概ね同時代の人物とみると
むしろそう考えたほうが自然なくらいだろう
単に伊都国が安曇の国であることを実証するのが目的だったのだが、思いがけず記紀の嘘を暴いてしまったのかもしれない
五十迹手と五十猛についてはこちら
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg >>29だが、"キナイコシ"をNG指定すれば糸チョンのレスもほとんど消えると思うんだが?
次スレからで良いから"伊都"はNGから外しといてくれないか? >>31
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人のウソは不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf.png >>32
全ては糸チョンが諦めるかどうかだな
一応検討はしておく >>28
冷静に考えればキナチョンと罵る俺がシナイコシとやらであるわけがないと分かりそうなもんだが・・・
それが火病というやつなんだろうな。 伊都厨と自治厨の見にくい争いも要らない
取り敢えず前スレ消化してからこっち使おうや >>36
このスレを使用するならテンプレくらい守りましょう♪
糸チョンの声闘は禁止です
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレ
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
> >>37
むしろ勝手にルーラー気取りの自治厨が消えれば全て解決しそう >>39
いやチョンのお前が消えれば余計なテンプレ消せるんだぞw >>37
自治厨というかアンチ朝鮮系厨でしょ。
同時刻に上がってるスレ見ればシンプルに朝鮮系嫌いの九州民だと分かるぞ。 >>1
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
ぜんぜん論理的に反論してないじゃん
ただただ罵ってるだけじゃん
まー罵られて当然だとは思うけども >>39
確かに
伊都厨は少なくともちゃんとソース出してくるし根拠のないことを言ってるわけじゃないけど
伊都アンチのほうはソース全然無いし 糸チョン自分でスレ二つも立ててるんだからそっちで頑張れよ
ここに粘着しても延々とディスられるだけやんけ >>43
そんな妄想しか出せない無能が???
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>39
ほんこれ
なんか勝手に総意とか言い出してるし存在自体が迷惑 >>50
それもだけど、なぜ古代天皇は100歳を超えるのか?ってスレもだいたい同じ時間帯にAGEられてるな 朝鮮が話題になっていないのに持ち出すのはこのスレを立てたバカだろ。
コンプレックでもあるんじゃないの? 天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われている。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波
正一位、延喜式に記録された式内名神大社
「天石門別八倉比賣神社」:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm 三国志・呉書・孫権伝抜粋 ここも読め
二年
(略)
遣將軍衞温・諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
亶洲在海中、長老傳言
秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、
求蓬?神山及仙藥、止此洲不還。
世相承有數萬家、
其上人民、時有至會稽貨布、
會稽東縣人海行、
亦有遭風流移至亶洲者。
所在絶遠、卒不可得至、
但得夷洲數千人還。
呉の黄龍二年(230)
(略)
将軍衛温・諸葛直に甲士万人を率いて浮海して夷洲および亶洲を求めさせた。
亶洲は海中に在り、長老が伝え言うには
秦始皇帝が方士徐福に童男童女数千人を率いて入海させ、
蓬?の神山および仙薬を求めさせ、この洲に止まって還らなかったと。
世々に相い継承して数万家があり、その上の人民は時に会稽に至って布を貨(あきな)う者があり、
会稽の東の県の人が海に行き、
亦た風に遭って流移して亶洲に至る者もあった。
所在は絶遠であって卒(つい)に至る事が出来ず、
ただ夷州の数千人を得て帰還した。 お前らは学がないから知らないかもしれないけど
三国志(歴史書)はとても評価が高い歴史書だぞ
信頼性の高い記録のみを抜粋して簡潔に書いてる
わかりにくい表現や複数に取れる書き方をしてないので
読んだ第一印象がそのまま伝えたいことになってる
そういった三国志(歴史書)の文体とか形態とかを把握しろ
そしたらアホみたいに放射説とか円形配置説とか帯方郡基点説とか
アホみたいな考えに至らないはずなんだよ >>56
元を辿れば韓国や北朝鮮の過度な反日洗脳のせいで愛国者=反日主義者という構図が出来上がってしまい、目過ごせないレベルの朝鮮起源説が増えてしまったのが原因。
口数少ない日本人を尻目に大きな声で何度も何度も吠える唯朝鮮起源主義者たちの活動が事実認定されそうになったことも何度も経験してるから、同じ轍を踏まないためにも同じ声量と発言数で唯伊都国主義者の嘘と捏造を叩かなければならない現状。 >>5
あ、これテンプレになったんだ
大事なとこだよね ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国1】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国2】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>63の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年」 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>65
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / >>63-64
その小学生の空想みたいなやついつまで貼るの? >>63
>>64
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>68すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 取り敢えず、意見が分散してしまうから前スレから先に消化しようよ。 前スレからコピペ失礼!
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/957
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/965 高天原が沖ノ島だとしたら、天孫族は玄界灘から博多湾に侵入し糸島に定着した。これが筑紫日向王家。
それを助けたのが宗像。
それを迎えた志賀島の海神が豊国王家で、博多湾沿岸の倭連合王国が成立した。
ここまでは記紀にそのまま記されている。
それに対して有明海沿岸の肥国から北上して倭国大乱の末に女王に共立されたのが火の国王家の卑弥呼だった。
ただし後漢書の定義では倭国とは狗邪韓国以南奴国以北なので、倭王とは博多湾沿岸に君臨する王のこと。
博多湾沿岸を統合したからこそ倭王と呼ばれた。
倭国の王都は博多湾沿岸。 後漢書トンデモ解釈で、魏志倭人伝を正しく読むつもりか(笑 瀬戸内海を根城にしていた村上海賊の因島砦
同様に、玄界灘を根城にしていた博多海賊の糸島砦 イギリスが海賊を使ってのし上がったのと同じで、玄界灘の海賊が倭国の始まり。
天津神(アマツカミ)は海の王のこと。 >>992
>安曇氏は地祇系で、畿内(五十猛→天香具山説)の色が強い一族です
こういう嘘を平然と言うからあなたは相手にされないんですよ
安曇は伊都の王族なんだからどっからどう見ても九州どっぷり
→WIKI
阿曇氏(あずみうじ、安曇氏)は、「阿曇(安曇)」を氏の名とする氏族。
海神である綿津見命を祖とする「地祇系氏族」。阿曇族、安曇族ともいう。
海部氏の家系図と安曇氏の家系図比べてみた事あります? .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>73
わざやってる?前スレで完全否定されとったやん >>75
書き込む前にテンプレに目を通そうな
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾肆
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
> 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 歴史の真実は一つだけ!日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf 朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>84
>無論だが、女王国は「九州」である。
その通りだ。共立女王国は「九州」=倭国である。故に卑弥呼は「親魏倭王」の金印紫綬を拝したのだ。 読み方なんてどうでもよくね?
地方によって呼び方が異なるだけの話。
ただ、徐フツと息子の五十猛は最初に出雲五十猛海岸にたどり着き、畿内の海家→天家になったのは徐フツに嫁をやった出雲王家の伝承。
九州に行ったのは、一時帰国して再来日した徐フツ。
宗方家からイチキシマヒメを貰い物部氏の祖になった。 >>88
言葉遊びで何でも伊都国にこじつけようとするキチガイがおるけん反復調教せんといかんのよ
ところで除福やなくて徐フツと書いとのは何か理由があると?
ちなみに胸形家が成立したのは5世紀以降やけんイチキシマビメの伝承のほうが先
このスレでは安曇家から三神信仰と島信仰を奪った(奪い返した?)水間家が出雲のタケミナカタ家と合併して胸形家になったという説が支持されとるばい 徐福と経津主(布都怒志)を掛けて徐フツとしているのだろう
まぁ言葉遊びの範疇だな 昭和の頃にイケドンで作られた伊都国博物館に縛られて、
上下にも左右にも前後にも動きが取れなくなってしまってるイトクズ イトクズは、声は大きいがせいぜいポチ犬の遠吠え・・、
どのみち、世間に出てくるこたーないから手間が省ける。つまり永遠に糸島に幽閉されてるようなものだ。 >>92-93
書き込む前にテンプレに目を通そうな
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾肆
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
> >>89
国譲りでやられたタテミナカタは、母親の実家がある越前に一緒について行った。
昔は母系社会だったから。
コレは賀茂氏の祖になったクシヒカタも同じ。
三島の姫の実家が摂津の国だったから。
タテミナカタは、南方富の神ともいい、最終的には長野県の諏訪にて第二の出雲国を作ったので、九州独特の伝承かと思う。
タテミナカタの伝承があるのなら、出雲系の誰かが来たと言う事でしょう。
九州には諏訪神が来たと言う伝承があるんですな。
宗方家は徐フツが来る前から九州に居たよ。
それより前にいたのは宇佐家。
国引き神話の出雲第六代オミツヌの子供の一人、アタカタスが九州に行った。彼が宗方神社の大神様
本来の宗方家は氏族として発展する前からの家系がある。 >>91
漢字で書くと徐市。
大陸にはその名前で出る事もあります。
徐福って書くと直ぐに怒られるからw >>95
けっきょく魏志倭人伝にカンケーないやんか
何でここにダラダラと妄想書き連ねとーと? >>96
スレタイに沿った内容なら別に誰も文句言わんしw >>97
関係大有りですよ。
物部氏は徐市と宗方の姫の血筋。
九州の王権の元になる血筋はBC2〜BC1から始まっているのです。 >>100
徐福が出るのはBC2でしょ。そんなに難しい話ではないし、吉野ヶ里遺跡と言う邪馬台国より古い、徐福時代の遺跡もある >>102
倭人伝に出てくる人たちは物部氏とその親戚と連合相手でしょ。
思いの外、九州説も記紀の影響受けてるのね 九州説は、中心に論じられる一族がもっと古くから存在し、地域の発展に寄与していることを理解した方が良い。
うんと古い歴史がある。
畿内の太臣家も九州に行ったのは紀元前後
だから、前スレに、伊都の長官がミミである。王族につく名前だよと教えられて目から鱗だった。 (原文)
東南陸行五百里到伊都国。官曰爾支(ニキ)、副曰泄謨觚、柄渠觚。
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥(ミミ)、副曰弥弥那利(ミミナリ)
>>104
伊都の長官がミミであるって、そんなんどこから来てんだよ。。。 >>103
できる限り多くの史書と矛盾がないように考慮する上で、記紀も大きな手がかりだからです。
耳が王族の名前であることは、神武の息子たちなど記紀の人物名を見ればわかります。 >>105
伊都国長官が饒速日に近いニギ。
物部氏が長官やってた時期があるのかもねー。 耳(みみ)様が登場したことにより、この人はどう言う人たちなのかと言う事になり
畿内の村雲の家系、尾張連にはミミ様が多い。
さらには九州には出雲と習合した名前の太臣家があり、太安万侶も太宰府経験がある。楽浪さらには香取鹿島の関係で藤原不比等とも親戚。
なんと記紀とは、特に古事記は、九州勢とも言い換えても良いくらいのメンバーが編纂に関わってるのか?と言う仮説が、このスレッドのミミについて書いてくれた人のおかげで私の中に生まれてて、オラワクワクしてきたぞになっているのです。 >>110
訂正
楽浪はスマホの候補変換。誤字です。削除願います。 そして記紀には、魏書に出たメンバーが出てきています。
大陸に対しごまかしの万世一系を演出し、日本の独自性、長い歴史を大陸に主張するための史書が記紀。
しかし、史ではありません。
大陸には歴史を保存する習慣があり、記紀の編纂者は明らかな嘘を書くわけには行かなかったと思われます。
紀ですよ、これはと前置きして大陸に見せてるわけですね。
記紀の編纂者は、まさか比定する登場人物の件や、ヤマトの位置がどこかでこうまで揉めるなんて考えではいなかっでしょう。
元々は万世一系が目的でしたので。
え?揉めてるのそこ?とか今頃思ってるかもw .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 誰か記紀スレ建ててやれよ
自分の主張することでパンパンになってスレタイすら読めない文盲が多すぎる >>86
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw キナイコシ君の得意技・声闘(ソント)とは
>>24 >>88
イソタケルは伊都国王が代々名乗る称号なのでそれはあり得ません
神話でもイソタケルと父親のスサノオは高天原(=九州)追放後に新羅へ行き、そこから戻ってきた場所が出雲ですね
元々九州人なんですよ >>86のような一部の頭のおかしいキナイコシが必死に捏造を繰り返してますけど気にしないでね
彼の卑しい企みは↓こちら
107 :日本@名無史さん :2020/10/19(月) 21:40:36.35
>>97
もちろんそれもあるんだけど、キナイコシ君が必死に安曇=奴国王家だと捏造したがるのはそれが彼らの逆転シナリオだからだよ
海人族の重要性が知れ渡り、畿内説が不利になっている現在、彼らは逆転の一手として「奴国裏切り説」を打ち出そうとしている
つまり彼らが畿内系とする土器や3世紀中頃、つまり魏志倭人伝時代の前方後円墳が奴国領域にあることを根拠に、
「奴国の安曇は北部九州を裏切って畿内側についた。だから畿内の邪馬台国が北部九州を支配できたし瀬戸内海の海人族の遺構は畿内側のものなのだ。」
とやるのが彼らの狙いなんだよ
ところが安曇が伊都国だとはっきりしてしまえばこの戦略は使えない
糸島の前方後円墳は魏志倭人伝以降のものばかりだからね
だからキナイコシ君は狂ったように安曇が伊都王家であるという事実を否定しようとしているわけ
でも考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない >>77
そこじゃねえよアホ
安曇が畿内の色が濃いとかいう妄想のことだ
安曇は志賀島を本拠地とする九州の氏族だってどこ見ても書いてあるだろ
畿内などの他地域には交易や資源確保、ときに侵略のために進出してるだけ
東征のときに安曇の同族である珍彦が先導したのもそのため 前スレ>>999
> 999 :日本@名無史さん :2020/11/22(日) 08:06:02.62
> >>996
> 糸島にも志賀島にも宮はあったということでいいだろ。
> どうせ目と鼻の先。
> これが倭国の王統だったんだよ。
> つまり伊都国王=倭王。
>
> 連は倭国の連合王国を構成する王家の意味だったかもしれないね。
> 記紀が編纂された時代には天皇家の一強になったから、「連は神代からの臣下のこと」という説明にすりかえられたということ。
別にそれでも構わんけど、キナイコシ君の狙いが>>118だからね
きっちりしておいたほうがいいだろう
> つまり伊都国王=倭王。
前スレにも書いたがそれはもっと古い時代だろうな
俺の考えでは安曇の航海術を活かして光武帝に朝貢し、漢委奴国王の金印を受けたのが伊都国で、
暫く北部九州連合の盟主だったが倭国大乱でその地位を失い、代わりに台頭したのが筑後山門の邪馬台国だと見ている
魏志倭人伝の頃には筑後山門の邪馬台国に従属している > 989 :日本@名無史さん :2020/11/21(土) 23:18:49.29
> >>987
> それは県主が畿内系という解釈が間違っているだけ
> 連(ムラジ)の姓を持っているということは神武以前からの皇室の家臣の家系
>
> のちの氏姓制度には古代氏族の関係性が現れている
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)の2つだが、この両者には外様と譜代の違いがある
>
> https://kotobank.jp/word/%E6%B0%8F-34455
> > 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> > 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> > 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> > すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
> > 実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
>
> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征以前から皇室に付き従っていた元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となる
> 逆に畿内の土着勢力の王家は臣姓となった豪族の中にいると考えられる
>
> 筑後山門の物部氏は大連となった連の中の連なので、当然東征前からの重臣ということになる
> 筑後山門の邪馬台国に仕えていたと見るのが自然だろう
連姓の氏族といえば大伴、物部、安曇、尾張あたりか
海人系だと和邇氏は臣姓だな
宗像は古くは宗像君とあるがのちに朝臣になってるからやはり臣系
和邇氏の祖は宗像と同じアタカタスとされているから東征時には大国主系はまだ従属していなかったのか >>115-121
必死にウソの上塗りする前にこのスレのテンプレに目を通そうな
このスレに伊都ネタは不要! やりたきゃ他所でやれチョン!
>>1
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾肆
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
> このスレでは
伊都国=一大率が外交の玄関口である治を置いた漁村でFA
イトテ=高麗から来た日拝の苗裔であって五十猛命とも阿曇磯良とも無関係でFA
以降、伊都ネタかました場合は荒らしと認定して運営に通報することとする >>119
もう一度安曇氏の家系と海部氏の家系を見直したほうが宜しいですね。
そもそも珍彦は紀国国造家。物部五瀬の東征の時は彼らを攻撃している。
先導などあり得ん話。
記紀に依存した説など九州説ですらない >>119
もう一度書きますが
丹後の海部氏(籠神社宮司家)と博多志賀島の志賀海神社宮司家の安曇氏は親族ということです。
妄想なのかどうか、ご自身でもし調べれば宜しいのでは? 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 >>124
>そもそも珍彦は紀国国造家。物部五瀬の東征の時は彼らを攻撃している。
>先導などあり得ん話。
それこそ有り得ん話
珍彦の子孫は大和朝廷ど真ん中の倭国造になっている
畿内攻略の功績がなければ九州人がつけるポストではない >>125
それは丹後が安曇の分家というだけの話
安曇本家は北部九州の伊都王家なので畿内なんて微塵も関係ありません >>123
キナイコシ君は真実を述べられると都合が悪いようだが
どのスレであろうと歴史の事実は一つしかない
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg >>123
ついに自治厨も本気になったかw
これで糸クズは書き込む度に通報され、浪人垢とIPが焼かれ続けることになるんだなwww
ザマァwwwww >>130
キナイコシ君は真実を述べられると都合が悪いようだが
どのスレであろうと歴史の事実は一つしかない
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg 糸島=イトコク(伊都国)でなくては、畿内説が成り立たぬから必死、必死!
まさに生命線なのだが、なんせそれが消え飛んでしまったからねえ >仲哀天皇は五十迹手(イトテ→イソトテ)を褒め称えて
>「伊蘇志(イソシ=勤)」といいました。
>それでその時代の人は五十迹手(イトテ→イソトテ)の本土を名付けて「伊蘇国(イソノクニ)」といいます。
>今、伊覩(イト)というのは訛ったからです。
意図的に入れ替える人が少なくないようだが、
倭人伝の伊都国(イツコク)と、仲哀天皇記の伊覩国(イトコク)は違う国だよ。 (追記修正)
意図的に入れ替える人が少なくないようだが、
三世紀・倭人伝の伊都国(イツコク)と、実質4世紀・仲哀天皇記の伊覩国(イトコク)は違う国だよ。 >>131
歴史の真実は一つだけ!日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>131
歴史の真実は一つだけ!日本史板に
在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>133-134
朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>128
>それは丹後が安曇の分家というだけの話
プw
それはない。即席でそんな切り返しを考え付くとはw >>127
香具山と五十猛が同じ大屋姫を貰ってる訳でしょ?
同一人物という考えなら、奈良の村雲王とタカクラジは異母兄弟になり、タカクラジの息子が珍彦
敵味方が入れ替わる。
記紀だけを根拠にしてたら無理だって前振りしたのにw
更には異母兄弟の穂屋姫どうするわけ?彼女も二人になってしまうが?
あなた先代旧事本紀と海部氏家系図は見てない人なのか? 出雲の伝承だと、五十猛は丹波で香語山と名を変える前に、出雲で大年神の信者となり大年彦と名乗ったとされる(大年神とは出雲の幸の神の正月祭りの神)
住んでいた「島根の大屋」には大年神社が建てられた。
調べればわかるが、大年神社は播磨に密集している。全国427社のうち280社が兵庫県にある。地域性が強い神社。
播磨には播磨国総社、射楯兵主イタテヒョウズ神社がある。
射楯神は五十猛、兵主神は古代斉国(徐市の故郷)で信仰された八神のうちの西方の蚩尤シユウ、戦の神です。
村雲(の子孫?)は三輪山の西方にある穴師の地に射楯兵主神社(現在は穴師坐兵主神社)を建て、父を祀った。
これがのちに播磨国の八丈岩山に分遷された(現在は移されている)
出雲の大屋姫は大国主=八千鉾の孫でタカクラジの母親。珍彦はタカクラジ、紀国国造家の家系
物部五瀬を倒した名草戸畔に関連する宇賀部神社の社家(ルパング島から帰還して有名になった小野田家の口伝)にも敵が珍彦だったと伝承がある
更には物部五瀬の子孫の社家の伝承(五瀬は亡くなった後に竈山に葬られている)
長く竃山神社の社家であったが、今は氏子となった。五瀬は東征の最高指揮者であったが、怪我を負ってここで亡くなり埋葬され、息子たちが墓を守るためにここに残った。少人数だったため、敵は攻撃をやめた。敵とは高倉下の子孫の珍彦ウズヒコである。物部東征は瀬戸内海を通っていない。
高倉下の子孫は紀伊の国造家になった。そして日前神宮を建てた。紀伊家と五瀬家は後に婚姻関係を密に結んだ。五瀬家は日前神宮の横に国懸神宮を建てて五瀬命を祀った。
やった側もやられた側も珍彦がヤマト政権側で物部氏と戦ったという伝承を残している >>138
>朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
自分自身がイトチョンを装う隠れ畿内説在日なんだろ。
日本では、こういうのを「語るに落ちる」というんだよ。 国懸宮って五瀬を祭っていたのか?
知らなかったよ。
八咫の鏡の前身がある宮だが、やはり五瀬は八咫の鏡を持っていたのか?
細かいことですまんが、五瀬軍は瀬戸内海を抜けて大阪湾から熊野方面に回ったはず。
記紀の東征で敵味方が捻れているのは認識している。 >>139
いや、籠神社が饒速日なら、筑紫の分家に相違ない。 魏志倭人伝でも重点的に述べられている伊都国について触れないで、どうやって魏志倭人伝を語れと言うのか。
そんなバカな主張は誰も耳を貸さないだろう。 >>145
倭人伝のは間違いなく三世紀の伊都国であるし(注:伊都国イトコクは、記紀ではイツコクと読ませている)、
2運繰り上げられている仲哀天皇・神功皇后記を、正しく120年繰り下げれば、実質4世紀後半となる。
またそこで述べられているイトコクとは、
伊蘇志(の国)が訛って、伊覩(の国)と呼ばれるようになった・・、と丁寧に付け加えられている。
つまり記紀読みでは伊都国はイツコクで、伊覩国はイトコクであるからやや似てはいるが、時代も漢字も読みも明らかに違う。 言い換えれば、
「8世紀にまとめられた記紀・風土記によれば、4世紀の糸島は、伊蘇が訛って「伊覩国/イトノクニ」と呼ばれていたから、
三世紀中国の倭人伝に出てくる伊都国は糸島で間違いない・・」と言っているわけだ。
8世紀の伝承を根拠に三世紀を断言するのは、畿内吉本喜劇団と変わらぬお笑い冗談ジョーダン。 そもそも神功皇后にまつわる命名譚は眉唾すぎる。
日本書紀は神功皇后を卑弥呼の年代に当てているが、実年代はおそらく4世紀後半だろう。
魏志倭人伝の伊都国についての記事は3世紀前半だから、日本書紀の命名譚が偽りであることは明らかだ。
さらに、日本書紀は畿内訛りとでも言うべき表記の歪みが各所に見られる。 つまり怡土郡は糸島にあった伊都国だと言いたいのだけどね。 >>131
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>143
まず前置きとしまして、こちらに来たときの一番の衝撃は、東征が二度起きているのでは?と言及していた方がいらした事です。
相当に驚きました。出雲伝承を経ないでその視点に立てる方は相当のレベルの方ではないかと推測いたします。
最初の東征は磐余彦のお兄さんの五瀬の東征。倭国大乱期に当たります。
この時は吉備国が瀬戸内海を抑えており、そのルートを避けました。
物部勢力下にあった四国南側を通り、紀伊国で抵抗に遭い、和歌山から入っています。
四国南側には現在でも物部川という地名が残っています。
伝承を裏付けるかの様に物部のシンボル銅矛が四国南側から出ています 伊都国に触れずにどうやって「魏志倭人伝を正しく読む」のか、皆目見当もつかない。 >>147-150
さすが糸チョンとの対話を試みようとするだけあって日本語が下手だなぁ。 >>152
五瀬と磐余彦は同時でしょ(少なくとも記紀では)。
その他に、饒速日もいれば三島溝杭耳もいる。
筑紫から畿内への東征というか入植が何次にも及んでいたことは、すぐに気がつきますよ。
出雲もそれに加わったのでしょう。 >>153
通過点としての存在価値は誰一人として否定していないよ
糸島朝鮮人の戯言は専スレがあるんだからそっちでやれよってのがここの総意 紀元前から始まる北部九州の外交交渉により卑弥呼の邪馬台国が認知され、それから300年程
経過して奈良にヤマト政権が産声を上げた、邪馬台国(ヤマト国)が存在しない限りヤマト朝廷
は存在していない、邪馬台国と隼人が東征し、出雲、古志等を含む一団がヤマト政権を樹立した。 邪馬台国=筑紫、福岡
投馬国=隼人の国、宮崎
出雲=島根
越=若狭湾から東? 本州の迷惑チョンがキナチョン
四国の迷惑チョンがアワチョン
九州の迷惑チョンがイトチョン
オクキョンX2うるせぇのが在日ヒトモドキ >>156
通過点じゃないだろ。
郡使が常に滞在した終着点だよ。 【駐】ちゅう
>車馬をとめる。一定の場所にとどまる。一時的に滞在する。
>用例:駐在・駐車・駐屯・駐蹕・駐留・進駐
郡使が常時詰めていたのではない。
原文は、常所 駐、であるから、
伊都国には郡の館が常設されており、(留守居役や飯炊きが居て)、郡使がやってきたときにはここに一時的にとどまることができた・・、という意味合いだ。 しばらくしたら郡使は帯方郡に帰るからね。
倭にいる間はずっと伊都国にいたということ。
郡使は伊都国を通過地点ではなく、目的地だと認識していた。 郡使は、伊都国の郡館で酒と女に浸っていたわけではなかろ。
あちこちの国へ出向いては風土・・地誌・国情調査や政治工作をしつつ、邪馬台国や投馬国へも出向いてはまた伊都国へか帰るという
隠密みたいな生活をしていたのだろう。
伊都国は倭国統治のための工作拠点だったわけだ。
魏王朝がもう10年長く続いたなら、楽浪郡、帯方郡と並んで、伊都国も伊都郡に昇格していたのではないかな。 奴国不弥国はともかく、他へは出かけた様子がないですね。
邪馬台国は特定の国邑ではなく、7万戸の領域の名称でしょう。 邪馬台国=倭国 の名称
「倭」は「やまと」と発音する
九州人「やまとばい」
畿内人「わてら、やまとやん」
ぽまえら「ホワーイ ワジンピーポー?」
なんで、邪馬台国あっちこっちあんの?
だから「倭国=邪馬台国だって。これで整合性とれるでしょ」 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>161
その通り
あくまで一大率が置かれたのは女王国の北限であり、伊都国にあったのは関税機能
だから常に駐する所=毎回足を止める場所
一大率の検察が終われば筑紫官家に移動したのだろうな >>162
それは糸島朝鮮人の願望であって現実ではない あんなあ、遠く離れた辺境の遅れた国を支配しようなんて蜀も呉も相手せにゃならん魏は思っとらんし、明帝は我甚哀汝とは言わないの。もう少し普通に読んだ方がいいよ >>167
その女王国の北限に置かれた筑紫官家が早良区の有田遺跡 >>155
いえいえ、五瀬の東征が2世紀、倭国大乱期であるという時点で実は危険レベルでございまして。
矢を放った大彦はそれより後の孝元天皇の御子になるので時代が合わなくなります。
そうすると今の所伝承により紀伊国の珍彦が敵方になる説が強くなります。
五瀬家、小野田家、出雲王家の三者が同じ伝承なのです。
つまり、系譜上の神武はもっと古くなり村雲あたりになります。これは海部氏の家系図然りです。
そうすると宗方家と、太臣家、安曇氏も皆さんが思ってるより随分と昔から九州に居た事になります。
アタカタスは、記紀に迎合した誤記、もしくはごまかしの挿入で、尾張氏の人ではありません。
物部氏が書いたとされる先代旧事本紀ですら、五瀬が物部氏である事は言及してません。
小野田伝承でも五瀬が物部氏である事を発言していません。
記紀の重要な隠蔽部分が最初の物部氏の東征になるのです。
スレタイに戻しますが、邪馬台国事件は2回目の物部東征の時期の出来事なのです。
この時は豊国と物部の連合軍は瀬戸内海を通り、吉備国と正面衝突しました。
出雲は別働隊により邪馬台国事件の時に滅んでいます。
出雲は東征のお手伝いはしていません。 楽浪郡や帯方郡の使いは、どんな目的で対馬海峡の荒波を超えてやってきたのか??
まさか、昼は唐津競艇で賭博に浸り、夜は中州のキャバクラで金を落とすためだったのか?
そんな悠長な時代ではなかった。
あわよくば、倭地で数千・数万の兵卒・奴隷狩りをして帯方郡に連れて帰りたかったのだろう。
倭人伝は、そんな下心を隠して、限りなく美しく書かれているのだ。 >>167
ここはすごく合っていると私も思います。
出雲伝承でもその様になっています。
〉あくまで一大率が置かれたのは女王国の北限であり、伊都国にあったのは関税機能
だから常に駐する所=毎回足を止める場所
しかし重要なのはその先で、主体として伊都国の太宰府の様な機能を動かしていたのは畿内奈良という点です。
記紀は神功皇后を含めると三回あった東征を一つにまとめて圧縮して属国の歴史、朝貢の事実を消し去っています。
だから神武と磐余彦、村雲が同じような扱いになっています。
確か山門地名は神功皇后の記述の所で出る地名だったかと。ちょっと山門に関しては自分の記憶が曖昧ですが。
魏志倭人伝、記紀においても最重要の地点の一つ伊都が、それで曖昧にされてしまったのです。 本当の九州説は、地元の伝承。
記紀により消し去ることのできない旧家の家系図。そこに出てくる人物名が特に重視されるべきと思います。
それも記紀に依存しない伝承が何よりも価値があり、出雲系のアタカタスの興した宗方家よりも古い宇佐家、祖人が物部氏である事をひた隠しにしてきた高良玉神社などの伝承がなによりも確かな道標となると考えます。
伊都国にはあまり引っ張られるべきではないと考えます。 >>167
>あくまで一大率が置かれたのは女王国の北限であり、伊都国にあったのは関税機能
関税機能はあっただろうけれど、北限は狗邪韓国。
>一大率の検察が終われば筑紫官家に移動したのだろうな
筑紫官家の役割を果たしていたのが、3世紀においては伊都だったことが魏志倭人伝からわかる。 末盧国・唐津の東南500里、
伊都国は佐賀平野にあった。
これで、すべての謎は解けた。 >>176
>
> しかし重要なのはその先で、主体として伊都国の太宰府の様な機能を動かしていたのは畿内奈良という点です。
>
3世紀の奈良は湿地帯だったという悲しいお知らせはひとまず置いておいて…
その当時の太宰府のような機能は奴国側の有田遺跡にあったと考えられる郡衙または屯倉であろう
古墳を除くと伊都国側からは漁村の遺跡と輸入品の残骸程度の遺物しか出土していない >>178
> 関税機能はあっただろうけれど、北限は狗邪韓国。
倭国の北限が狗邪韓国て、女王国の北限は有田遺跡に比定される那津官家(屯倉)。 一大率は舟が入港する度に那津官家から出勤していたのだろう。
> 筑紫官家の役割を果たしていたのが、3世紀においては伊都だったことが魏志倭人伝からわかる。
それは糸島朝鮮人の願望であって現実でははない。 >>176
魏志倭人伝や記紀において、最重要の地点の一つ伊都国を曖昧にしているのはオメ自身です。
伊都国は佐賀平野中央部にあったのです。そしてその東隣りには不彌国・吉野ヶ里・・、 >>182
伊都国は外交・交易の玄関口としてはもちろん重要ではあっただろうが「最」重要ではないな
倭人伝においての最重要事項は女王≒女王国、次いで投馬国と奴国くらいまで >>182
帯方郡の郡使が入港したのは有明海だと言うのか?!
壱岐から志摩は目視できるのに?! >>177
>記紀により消し去ることのできない旧家の家系図。そこに出てくる人物名が特に重視されるべきと思います。
それは同意するよ。
>伊都国にはあまり引っ張られるべきではないと考えます。
でも、彦火々出見や木花咲耶姫など、後に皇祖とされる人物たちを直接祭る伝承があり、三種の神器をはじめとする考古学的物証がある中で、伊都が倭の中心であったことを否定するのは無理がある。
高良が物部であり、卑弥呼も筑後の出かもしれないということはずっと主張してきている。
その上で、倭王となる条件が博多湾沿岸(倭)にいることだとすれば、筑後から攻め上った勢力が天孫族を追い出して卑弥呼を共立したのではないかと考えるのは、様々なバランスを考慮した結果だよ。
筑後が邪馬台国発祥の地であっても、筑後にいたのでは火の国(有明海沿岸)の女王に過ぎず、倭王(=博多湾沿岸の王)にはならない。 >>183
ではもっと重要な国邑または卑弥呼がいたであろう国邑を挙げてくれ。 >>185
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>186
テンパらずにちゃんと>>183読めよ… >>184
壱岐から志摩は目視できるのだから、誰が考えても帯方郡の使いは糸島の港に入港すべきだろう。
あえてそうせずに、帯方郡の使いは末盧国松浦(今の唐津)に入港した。
そして唐津ー多久ー小城の古道伝いに、東南500里の佐賀平野に向かった。そこに目的の伊都国が有ったからだ。
だから今でも唐津はれっきとした肥前国佐賀県唐津市だ。
唐津は福岡県ではないのだよ、。 >>180
おお〜奈良湖の事でありますね。さすがですね。
〉3世紀の奈良は湿地帯だったという悲しいお知らせはひとまず置いておいて…
実はそれより前の水稲遺跡がきちんと奈良から出ております。
纏向遺跡のあるところは昔は湖のほとりの辺りだったらしいですね。
BC2頃の出雲の国譲り事件以降、王家の御子は母系社会の慣しにより奥様の実家に一緒に帰る事になります。
出雲の王家の富家の事代主の息子、クシヒカタは摂津豪族の三島家について行き、そこからヤマトの発展性を見出したとされます。水を抜いて水田にと。奈良の御所あたりはその水田遺跡とされています。
これは出石神社のある冨岡盆地を開拓したヒボコと同じですね。
クシヒカタの次の代で高鴨家と婚姻し、建飯勝の代で富家の分家の磯城登美家が起こります。
タケミカヅチはその家の人です。
クシヒカタを頼って次に来たのは出雲王家の片割れ、神門臣家。これが高鴨家になります。
そして、最後に来たのが丹後に移住していた海香具山。のちに天家になります。
みーんな葛城山の東側の山麓に居着きました。
そこから奈良湖を次第に開拓していったそうです。
神門臣家は高鴨神社。
磯城登美家は一言主神社。鴨津波神社。
海家、天家は二上山手前の高尾張村。そこで葛城坐火雷神社(笛吹神社)
御年神社はもしかしたら海家が建てたのかもしれません。
初期のヤマトは確かに奈良湖があり真ん中がポッカリ空いていました。 >>190
>クシヒカタの次の代で高鴨家と婚姻し、建飯勝の代で富家の分家の磯城登美家が起こります。
登美の長髄彦... >>191
長髄彦は、実は磯城登美家の人ではなく尾張家の人です。
系譜上の神武は、彼を含め三代続けて磯城登美家から奥さんをもらったことにより、出雲血が濃くなりました。
これにより出雲の血筋が尊重されるようになり、長髄彦はトビを名乗っていた時期があるのだそうです。
尾張家第8代クニクル大王の御子。
当時の磯城登美家は、クシヒカタから数えて8代目の加茂建津身。八咫烏でした。彼の時代が熊野勢を案内した時期になります。
邪馬台国事件はそれから60〜75年くらい後のことです。 >>192
>邪馬台国事件はそれから60〜75年くらい後のことです。
この部分、根拠がないように思えます。 >>185
〉でも、彦火々出見や木花咲耶姫など、後に皇祖とされる人物たちを直接祭る伝承があり、三種の神器をはじめとする考古学的物証がある中で、伊都が倭の中心であったことを否定するのは無理がある。
実際にその通りで、後に機能が引き継がれた太宰府も、要は外部からは都が太宰府にあるように見せかけて防衛するための機能。
伊都はその機能を有していたとされますので、バッチリ魏志倭人伝から見れば都があり王様のように見えていなければならないのです。
そこで一つ。物部のシンボルである銅鏡のお話を。
海童や秦氏の集団が来た故郷は漁業、製鉄、織物、塩作り(塩土翁を連想)で、構造船の技術を有していました。畑が少なかったので、実は稲作は無関係の一族。
その証拠に既に九州では凄い遺跡が出ていて、最後の水稲遺跡は紀元前10世紀ですよね。
それとは別に重要な技術が日本にもたらされました。水銀の一つ上のレベルの精錬方法と合金の技術、つまり、青銅です。
添加剤の鉛と錫は輸入しなければならず、日本では出雲銅が和銅以前から掘られていたのみです。
その青銅素材の製作が行われていたのが九州とヤマトなのです。
これにより伊都の機能がどちら側だったかという話に戻ってくるわけです。
銅鐸の故郷出雲でも青銅そのものの製作は苦労しており、吉備国ができるよりも早くから銅鐸を畿内から交易で手に入れていたそうです。 日本の青銅鏡は、唯一、三角縁神獣鏡を除けば全て九州発祥で各地に散らばって行きます。
魏志倭人伝の直前の後漢鏡の分布なんてまさにそれ。九州は、銅鏡王国なのです。
交易や朝貢を伺わせるのが鏡。
対して銅鐸は特徴的な出土となっており、今まで全くと言って良いほど九州からは出土がありませんでした。
それも、小型銅鐸の鋳型は出ても肝心の銅鐸本体が出なかったという不思議な状態。
それが変わったのが吉野ヶ里遺跡。
あそこからようやく初期の古い小型銅鐸が出ました。
このことと、出雲が銅鐸の完成品をいつの時代からか畿内から手に入れていた事から、機内ヤマトにも朝貢、貿易のルートがあったはずだと。
九州の銅鐸の供給を受けていたとするのなら畿内型銅鐸にはならないので、出雲で出土する後期型銅鐸とは合わないので、
また伊都の機能の話に戻ってきて、重要性が高いのは分かるが、九州説の独自性となるとかえって足枷になる側面があるのではないか
という話を申し上げた理由になっていくのです >>193
はい。二度目の東征は景初年間で魏志倭人伝に載っていますね。
五瀬の時の東征は当時のヤマトの政権の三代前。孝元天皇の頃ですので、概算で一代20年。
熊野勢が奈良入りしてから大彦軍が琵琶湖方面に撤退するのが180年代になり、五瀬東征開始から15年ほどグダグダがあったので60〜75年としています。
出雲伝承だと五瀬東征開始は、165年近辺とのことです。
記紀では長髄彦は紀元前の人になるので、記紀に引っ張られると、九州の古い伝統のある歴史が一緒に消えてしまうのです。 >>166
在日ヒトモドキは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
※学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
https://library.knou.ac.kr/user/login?returnUrl=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061&__referer=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
※ウルサン市公式サイト「ムゴドン オクヒョン遺跡」
http://ulsan.grandculture.net/Contents/Index?local=ulsan
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない
賤しくも憐れな無能生物なのです。 >>189
ん?お前は帯方郡使はキチガイかクルクルパーってことを言いたいのか? >>190
このスレ的にそっちはどうでも良い些末なこと
重要なのは後半 >>198
うん、まあそういうことだ。
キチでクルパーだったから、東南の佐賀平野なんぞに迷いこんじまったってことさ。生きて帰れたかどうかは知らん。 >>197
おまえの正体
孔子学院(こうしがくいん)とは、中華人民共和国が諸外国の大学などの教育機関と提携し、
中国語や中国文化の教育及び宣伝(プロパガンダ)、中華人民共和国との友好関係醸成を
目的に設立した中国政府の機関である。中国共産党中央統一戦線工作部の強い影響下に
置かれている。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2
. >>166,202
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>200
魏志倭人伝の話なのに、何をカリカリしてるんだ? >>196
年代からいえば、五瀬と磐余彦の東征が魏志倭人伝の倭国大乱でいいのでは? 「こっちの話」って、そもそも何だ?
魏志倭人伝だろ?
その中で一番詳しく述べられている国邑は? >>204
伊都国が女王国にだって話題も名前も出てこない伊都国王の話題も魏志倭人伝には関係のない話題やんか
しかも狂ったようにキナイコシに敵意むき出しで長文コピペ連投し出すから迷惑千万でしかないやん >>206
伊都ネタは伊都スレで
あちらでやる分には全く邪魔する気はないよ
こちらでは邪魔と言うだけのこと このスレを使いたいならこのスレの趣旨に沿って書き込みをしましょう
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
>
> 倭国=阿波だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
>
> オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張る人はコチラ↓に移動
> 日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1549585819/ 今日は珍しく糸チョンと在日ヒトモドキが同じ時間帯にカキコしてんな
在日朝鮮人同士で共同戦線でも張っているのだろうか? >>207
魏志倭人伝に伊都国王なんて語はなくて、単に伊都国に王がいると書いてあるだけなんだよ。
魏志倭人伝を正しく読もうよ。
それは倭王のことだろ?
その時の倭王は誰だった? >>211
このスレを使いたいならこのスレの趣旨に沿って書き込みをしましょう
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
>
> 倭国=阿波だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
>
> オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張る人はコチラ↓に移動
> 日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1549585819/ >>210
いや、同一人物だろ。
糸島への郷土愛が滾ってるときはイトテイトテと大騒ぎし、朝鮮半島への祖国愛が滾ってるときはオクキョンオクキョンと大騒ぎ。
たまたま今日は郷土愛と祖国愛の両方が滾ってる日なんだろうよ。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>199
はい。ではこんなのは如何でしょう。
BC6世紀〜BC5世紀の奈良の水稲遺跡
https://mainichi.jp/articles/20191120/k00/00m/040/379000c
全国有数レベルです。九州の前10世紀の凄さには及びませんが、徐市が来る前から奈良では水稲が栽培されていました。
三島家は、出雲や香具山が来る前からの古い豪族です。 >>205
>年代からいえば、五瀬と磐余彦の東征が魏志倭人伝の倭国大乱でいいのでは?
はい。出雲伝承、小野田伝承、神床家伝承でもその通りです。
おそらく宇佐八幡の伝承も似通ってると思われます。
その倭国大乱期が過ぎた後が、魏志倭人伝の時代になります。
物部東征の成功は、五瀬の軍勢が奈良入りして葛城国と習合した事により成功に導かれます。 >>138
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>139
ホアカリの子孫なんだから安曇と同族だが
天村雲命がイソタケルであり安曇磯武良なんだからな >>140
>香具山と五十猛が同じ大屋姫を貰ってる訳でしょ?
>同一人物という考えなら、奈良の村雲王とタカクラジは異母兄弟になり、タカクラジの息子が珍彦
大屋姫は先代旧事本紀では五十猛の妹だが
先代旧事本紀読んでないのはお前だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1
> 日本紀講筵の際提出された偽書とされる『先代旧事本紀』巻第四 地祇本紀[2]の記述は以下のとおり。
> 一説曰 素戔烏尊之子 號曰 五十猛命 妹 大屋姫命 次 抓津姫命 凡三神 亦能分布八十木種 則奉渡於紀伊國 及此國所祭之神是也
> 素戔烏尊 此尊與天照太神共誓約(中略)次 五十猛命 亦云 大屋彦神 次 大屋姫神 次 抓津姫神 已上三柱 並坐 紀伊國 則紀伊國造齋祠神也
結局イソタケルという称号を伊都王家の安曇族長が代々名乗ったから血縁関係の記録に混乱があるだけ
天村雲命の別名がアメノイタテなのだから射楯神=五十猛なのは明白 >>141
>村雲(の子孫?)は三輪山の西方にある穴師の地に射楯兵主神社(現在は穴師坐兵主神社)を建て、父を祀った。
このソースある?
穴師坐兵主神社に射楯神が祀られていたという記録が見つからんのだが >>147
その120年繰り上げ説が間違っていると言ってるわけだが
>>31にあるように、記紀の年代偽装の方法は一人の人格(神格)を別名を用いて復数に分割し何度も登場させるというもの
記紀は考古学に照らして嘘だらけなのは明白であるが、それでも当時最高の知性を持つ人々が知恵を絞って編纂している
九州倭国時代を隠すためにつく嘘だって可能な限りバレないよう徹底していて極めて高度
単純に120年ずらしたなんて程度の低い嘘のつきかたはしていない >>176
>しかし重要なのはその先で、主体として伊都国の太宰府の様な機能を動かしていたのは畿内奈良という点です。
こうやって正体が畿内説であると馬脚を表しちゃってるのがね
当初は妄想ですとか謙虚なふりをしていたけど化けの皮が剥がれてきたね
当時の畿内奈良に主体なんてありません
3世紀までには既に近江や河内など近畿一帯に鉄器を持った北部九州の安曇が進出していました
山に囲まれた奈良盆地内だけかろうじて土着勢力がいたようでそこには鉄器がありません
それが東征で屈服したのが魏志倭人伝以後の3世紀末か4世紀始めで、それ以降奈良盆地内にも
突如として鉄製品が増加します
830 :日本@名無史さん :2019/09/14(土) 13:46:47.04
>>829
三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない
証明終わり 天才が導き出した、水行十日陸行一月の答え
三国志時代、使者は1日50里ほど歩いた
50里は、箱根駅伝のヒト区間=20キロちょい
いわゆる長里だ
陸行一月 = 30日×50里 = 1500里
自郡至女王國 萬二千餘里=
水行10000里+陸行1500里+方700里
(本来は11500里だが、方700里をプラスして、萬二千餘里に)
狗邪韓国←7000里 水7日
對海国 ←1000里 水1日
方400里 余里の部分
一大国 ←1000里 水1日
方300里 余里の部分
末盧国 ←1000里 水1日
計 10700里 ◆水行十日
伊都国 ← 500里 歩10日
奴国 ← 100里 歩2日
不彌国 ← 100里 歩2日
残り 800里 歩16日
計 1500里 ◆陸行一月
つまり、「水行十日陸行一月」は解釈としては合ってる
よく残りの距離は1300里と言われるが
それだと陸行40日になってしまう
陸行一月その逆算から、残り800里と計算が出た >>222続き
鉄器分布の変遷にあわせて北部九州の文化であった破鏡が本州西部に大挙して流れ込みます
791 :日本@名無史さん :2020/07/30(木) 00:01:06.27
>>752の状況は破鏡の分布の変遷とも一致している
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する
その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より
弥生時代後期〜終末期
https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg
古墳時代前期
https://i.imgur.com/AeBKKnz.jpg
弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している
破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する
これが出土品が語る歴史です
畿内は征服された側でしかあり得ません 銅鏡と有田遺跡と八咫鏡
有田遺跡の事を書いてくださった方がいらしたのでちょっとまとめてみました。情報ありがとうございます。
三種の神器の一つである八咫鏡。それは物部のシンボルであるという説は一部では聞かれることだと思います。
勾玉は出雲王家、剣は畿内王家の尾張氏。
更には「出雲伝承には八咫鏡の事は伝わっていません」「正に九州の独壇場と言ってもよいのが銅鏡」
その銅鏡を魏書で卑弥呼が欲しいと申し出たこと事態が非常に注目すべき点だと個人的に思います。
糸島半島(という書き方が適切かどうかはおいておいて)の平原遺跡ひらばるいせき(2〜3世紀)からは全国有数レベルの巨大内行花文鏡(八葉)が出土しています。古代の伊都のエリアに該当するらしいですね。
この大きさの内行花文鏡は大陸では出土例が無いらしく、現在の処、仿製鏡。驚くことにこれほどの古い鏡が国産鏡扱いになっているのです。
http://wi12000.starfree.jp/img.m/8ko4yo.htm
一番左が国内最大級の平原遺跡遺跡産出の鏡。
左から二番目が柳本大塚古墳から出た完全な形の割れてない大内行花文鏡
一説によると、この大きさが中国式の尺だかなんだかに照らし合わせると八咫になるという話をどこかで見たことがあります。
平原遺跡の地籍は前原市大字有田1番地。有田遺跡と関係が凄くありそうな気がするのです。
九州地域の古地名の残存率は存じませんが、ロマンを感じる地域であることは間違いありません。(ばる、という呼び名が古さを示す気がします)
神道五部書によると、八咫鏡の模様は八葉八頭花崎形とされています。(書自体の真偽は不明) つづき
村雲の子孫である丹後の海部氏の「伝世鏡二面」(前漢、後漢時代のもの)も内行花文鏡ではありますが、直径が9.5pと17.5pなのでかなり小さいです。
出雲伝承には鏡はありませんが物部氏の系譜の伝承があります。
先代旧事本紀にも出てきますが「アマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒ」から、物部氏と尾張氏が出ている。
市杵島姫は徐市(ジョフツ)(和名:天火明命、和名:ニギハヤヒノ命)の后になっています。
徐市は吉野ケ里に住んだということなので、市杵島姫は丹後ではなく九州にいたことになります。
満を持してですが、これが出雲伝承、磯城登美家の本家の家系図です。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sorafull/20190518/20190518161143.png
実は筑前国風土記の逸文に、宗像大社の辺津宮で八咫鏡を依代としていたと書かれています。流石は九州の風土記。
もちろんそれが内行花文鏡かどうかはわかりませんが、辺津宮といえば現在は市杵島姫を祀っています。
そしてトドメが日本書紀
日本書紀では八咫鏡の別名を真経津鏡(まふつのかがみ)としています。
フツ(経津、布都、布津)・・・・
九州と物部氏ヤバくね?すごくね?と思いました。 >>180
>その当時の太宰府のような機能は奴国側の有田遺跡にあったと考えられる郡衙または屯倉であろう
>古墳を除くと伊都国側からは漁村の遺跡と輸入品の残骸程度の遺物しか出土していない
こういう嘘を平気で言うバカがいるからいつまでたっても伊都国が話題の中心になるんだと理解できないのかね
伊都国は出雲とも交易を行い海外へ碧玉製品を輸出していた
それは魏志倭人伝にも倭国が真珠や青玉の産地であると書かれたくらい中国側にも知られていた
そもそも博多沿岸部はまだ伊都国だし、遺跡の配置を見ても早良は伊都国内
奴国王都の須玖から100里では西新あたりまでしか行けない
http://www.yoshinogari.jp/contents4/files/1412321758_5.pdf
> 玉つくり工房群の発見
> 平成 16 年度に行われた潤地頭給遺跡の発掘調査では、これまでの想定を覆す大発見があった。玉つくり工房群である。
> 調査した弥生時代終末〜古墳時代前期の 30 棟近くの竪穴住居から、碧玉、水晶などの原石、製作途中の勾玉、管玉、丸玉や剥片、叩き石や工作台、
> 玉の整形に用いた砥石、穿孔用錐など、玉つくりの工具が出土した。
> 石材の主流を占めるのは碧玉で、科学分析によってその原材が出雲の花仙山産であることが明らかとなった。
> 集落から出土した土器の中に出雲特有の土器が多く含まれていることから、この工房の運営には出雲の玉つくりの工人たちが関与していたとみられる。
> 弥生時代終末〜古墳時代前期において、これほど大規模な玉つくり工房は国内では知られておらず、当時、わが国最大規模の工房だったとされる。
>
> ところが、当時伊都国をはじめとする北部九州における装身具への嗜好は、平原王墓に代表されるようにガラスであった。
> ガラス製勾玉や大量のガラス小玉を用いた首飾りが当時の権力者たちのステイタスであり、逆に玉製装身具は伊都国での需要度は極めて低かった。
> 「倭人伝」には、当時の倭地の産物のひとつに「真珠」や「青玉」があげられている。
> 「青玉」は碧玉製の玉だったと考えられ、輸出品の一つが碧玉の玉だったことがわかる。輸出用の「青玉」つくりの最前線であった可能性は極めて高い。
> このことから、潤地頭給遺跡の玉製装身具の供給先は海を越えた大陸側にあったと考えることができる。 >>200
>>227を嫁
アホが現実を認めればすぐ終わる話 >>219
はぁ・・
前スレの家系図もう一度出しておきますね。
あとは自分で考えて
http://kamnavi.jp/it/murakumo.htm
>「結局イソタケルという称号を伊都王家の安曇族長が代々名乗ったから」
これは間違ってはいないけど、記紀では誤魔化してるけど、海幸彦は五十猛。
本流は尾張氏の系譜がそれを名乗った。
物部氏系の神社である弥彦神社は五十猛系。
大彦が後に高橋家を出すけど、新潟の弥彦神社の元社家は高橋家。
大彦の狗奴国は五十猛系統。五十猛が出雲(大屋)に居た時から丹後に行く前に香具山に名前を変えた。
九州を拠点として住んだことはない。村雲の父親。
安曇の分家が海部氏とか言ってるうちは何言っても無理だろうね。実際はその逆だもん。 >>190
>クシヒカタの次の代で高鴨家と婚姻し、建飯勝の代で富家の分家の磯城登美家が起こります。タケミカヅチはその家の人です。
武甕槌は安曇磯良と同神です
つまり天村雲命と同一人物
だからこそ武甕槌は神武東征の助力を天照大神に頼まれたときに紀伊にいた弟の熊野高倉下に援軍を命じた(剣を届けさせたは比喩)わけです >>229
ため息をつきたいのはこっちだよ
その系図をどう見たってアメノイタテと書かれた天村雲命が五十猛で全く問題が無いわけだが
>大彦の狗奴国は五十猛系統
この時点で全く事実と異なる妄想なのはハッキリしたね
伊都王家のイソタケルがどうして邪馬台国の敵国の系統なのやら
>>15を100回くらい読んで出直してきてください >>220
承知しました。
この名前の付け方はとても特徴があると思います。
本当によく見られておられますね。実は私も調べたんです。
穴師坐「射楯」兵頭神社の名称は出雲伝承本によるものです。私個人の創作ではありません。本の内容を正確に記述しました。
五十猛(天香具山)の子孫=尾張氏が作ったとされ、元々は今の形態の神社になる前は「村雲王が蚩尤を祭る神社」の形態だったようです。
自分たちの住む拠点の西側に、蚩尤を祭る。昔の眞名井神社も同じ目的で西側に建てられたそうです。
島根の五十猛神社も当時の拠点の西側に建てられています。
原初は「五十猛の子孫が祀る蚩尤信仰の祭祀形態」だったようです。
まあ当然疑問はそうなりますよね。直近の先祖、父親を祭るわけがないw
こんなページもありますね。
https://blog.goo.ne.jp/akuto508/e/f58abc123d94deb68478f223a9d9e239
ここからは出雲伝承は無関係なのですが
途中から五十猛をすっ飛ばして朝鮮系の神、ヒボコが入り込むようになります。私がどう調べても奈良の兵頭神社には「正式に五十猛が祀られていた記録は現在確認できないのです。」
現在の奈良のそれは昭和期までは右段ミケツ神、中段ワカミタマ、左段アメノウズメが祭神(昭和の頃の名前が大兵主神社となってた頃の情報)
実は隠されていましたが、本当は左段がアメノヒボコ。明治維新以降にウズメに変更されています。
ご神体は日矛と鈴の矛。 つづき
ちょっと話は逸れますが、出雲を滅ぼす手引きをした千家(千家俊信)は、天保十四(1843)年に伊太氏神をして五十猛神、伊太祁曽神と定義付けしています。これが後々まで影響力を出してきた経緯があるようです。
何らかの意図を感じますね
播磨の兵頭神社も元々は五十猛を祭ってはおらず、五十猛の子孫が蚩尤を祭る形態だったと思われます。
播磨風土記には因達の里の話があります。
「因達というのは・・伊太代(いだて)の神がここに鎮座・・里の名前となった」
しかし、この里は播磨国造の本拠地の一部で、シラクニ村がありました。ヒボコは丹後から播磨に侵攻していきます。これが倭国大乱期の発端となりました。(出雲伝承)
『播磨国風土記』、記紀が伝える葦原志挙乎命・伊和大神と天日槍との戦いは、魏志倭人伝に伝えられる倭国大乱を思わせる処があります。
何が言いたいかと申しますと、兵頭神社や五十猛計の地域は日矛勢に上書きされた時期があるという事です。
石窟に隠れた天照大神を誘い出すべく作った「日矛」は紀の国の日前国懸神宮に祀られていると言われます。近くの太田黒田遺跡は銅鐸から銅鏡への祭祀の変遷を語る遺跡。
また日前国懸神宮の地にはかっては素盞嗚尊の御子神を祀る「伊太祁曽神社」が鎮座しており、社地交代があったと言われています。一種の国譲りであろうかと。
『大倭本紀』には、天皇始めて天降り来ましし時、ともに斎鏡三面・子鈴一合を副え護らしめたもう。鏡の一つは伊勢神宮に、一つは紀の国の国懸神宮に、残る一つの鏡と子鈴は「穴師社」におさめたたとあります。
国懸神宮のご神体は「日矛の鏡」とも呼ばれているはずです。(五瀬家の伝承の言でもある) >>231
226の家系図も貼っといたので。では。w
要点は記紀のように海幸彦は隼人族ではなく、実は五十猛(畿内)という事。
じゃなきゃ古事記の様に誓約のシーンの様にはならない。
伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない。 >>222
淡路島の五斗長垣内遺跡を参照されたし
九州より先に鍛冶設備を整えた国内最大級の鉄器生産集落跡(1〜2世紀)がヒボコの播磨侵攻の伝承を裏付けるかのように存在する
畿内が鉄器の普及が取り残されたように遅いのは事実。本当の事です。
しかし朝鮮からの鉄鉱石輸入ルートをお忘れではないかと。
東征時期には、九州の産出量を超えるほどの鉄器の生産編年になってるはずですよ。 >>226
>村雲の子孫である丹後の海部氏の「伝世鏡二面」(前漢、後漢時代のもの)も内行花文鏡ではありますが、直径が9.5pと17.5pなのでかなり小さいです。
饒速日に与えられた十種の神宝の中の鏡だそうですよ。 糸島平原は、伊蘇志(イソシ=勤)の伊蘇国(イソノクニ)であり、のちに訛って伊覩国(イトノクニ)というようになった。
それにも関わらず、
これが倭人伝の伊都国で伊都王家のことと即断するのは、錯覚軽率で混乱のもと。糸島平原にはそんな名前の国も王家もなかった。
この悪性先入観を払い捨てて諸系図を読んでみてはどうか・・。 >>215
このスレ的に奈良の水稲遺跡はどうでも良い些末なこと >>214
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>217
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>219
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>222
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>224
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>227
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>228
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>231
当スレッドの方針に反する荒らしのため運営に通報しました。 >>214
在日ヒトモドキは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
※学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
https://library.knou.ac.kr/user/login?returnUrl=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061&__referer=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
※ウルサン市公式サイト「ムゴドン オクヒョン遺跡」
http://ulsan.grandculture.net/Contents/Index?local=ulsan
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない
賤しくも憐れな無能生物なのです。 郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、歴史の真実は一つだけ。
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
そして一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました 歴史の真実は一つだけ!日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>222
>>224
破鏡の件は、古代の軍勢武人の動きを語る貴重な証拠だ、強い関心を以て見ている。
もう一つ関心があるのは、その破鏡をつなぎ合わせると、特定の鏡の形式が見えてくるのではないかという点だ。
例えばだが、卑弥呼がもらった銅鏡百枚は、破鏡となって武人たちに配られたのではないか。
つまり、こういう形で世に知らしめることになったのではないかということだ・・?? >>250
>二十日=ハツか、三十日=ミソか、四十日=ヨソか、五十日=(イソか→)イか、百日=モモか、がヤマト読み
上記、五十日=イソカ→イカ、のように、自分勝手に読み替えることから イカサマ というようになった(笑 >>256
五十日をイソカなんて読み方する実例ってあるのか?
五十日の祝も五十日餅もイカしか聞いたことも見たこともない >>259
韓国や北朝鮮では五十日をイソカと読むんじゃね?しらんけど イカと読んだ例として、平安時代の読みが出ていた。だからイカと読んだ人も時代もあったのだろう。
またあるいは、イソカと読むと舌を噛んでしまう漢民族のような舌長人種が、イーカのように読んだのかもしれない。
ともあれ、四十日をヨソカとよむのに、五十日をイカと読むのはいかにも不自然だ。 [語誌]
(1)平安時代には子供の誕生五十日目・百日目に祝いをしたことから、五十日・百日の仮名書き「いか」「ももか」の例は多く、
「色葉字類抄」にも載る。 ・五十日鬘 ごじゅうにちかつら
・五十 ごじゅうの賀が
・五十日 いかの祝いわい
・五十串 いぐし(季語)
・五十展転 ごじゅうてんてん
・五十路 いそじ
・五十集 いさば
五の次に来る十は、時代により、人により、地方により、発音される場合もされない場合も、その他の音に代えられる場合もあって、一律には言えない。 平安時代の暮らし
第6回 紫式部日記絵巻「敦成親王五十日の祝」
・場面:敦成親王の「五十日の祝(いかのいわい)」。
・場所:土御門邸(つちみかどてい)の寝殿(しんでん)。
・時節:寛弘5年(1008)11月1日。
この時代には、祝い事の場合において五十日をイカと読ませたようだ。
これを知る現代の高貴知識人のあいだで、祝いの五十日に限って 紫式部気分でイカ と洒落るのではないか。
オメのような貴族はそうかもしれないが、しもじもの身分のオレは聞いたことはない。まして三世紀にどうだったかは誰も知る由は無かろう。 9日本@名無史さん2020/11/20(金) 02:48:23.74
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
これでほぼ間違いないよ
2ちゃんにもちゃんと考察できる人がいるんだな >>236
残りのなんとか玉は、秋田物部氏に伝わっています。
自称神宝かもしれませんが。
秋田物部文書の本に白黒写真が出ています。
あとは、海部氏にそれが伝世されているという点。
とても分家とは思えません >>238
あら、そうだったのですか?
てっきり当時の奈良には人は居なかったというお話かと思いましたので。 >>266
饒速日物部が筑紫ないし高天原からの分家だよね。 >>263
>・五十路 いそじ
なるほど!
イソと読んでいるね。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>261
ソースは?
個人的にはミソカ、ヨソカと来てるのにイカとしか読まないことが五十=イとしか読まない証左だと思うけど >>269
絶望的にイソと読む例が少なすぎて五十猛命=イタケルのミコトが正しいと言わざるを得ないという悲しい結果になってきてるな >>270
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 マジできしょいなこのスレ
寄ってたかって1人に粘着して育ちがどうだの人格形成がこうだのって
ここで匿名を良いことに人を叩いて嬉々としてるテメェらの方がよっぽど気持ち悪いわ
俺はイジメとかそうゆう1人vs他人図の構図がすげぇ嫌いなんだよ
お前らみたいなゴミ見てると虫酸が走る
あたかも卑怯者であるかのような印象操作の書き込み、決めつけで人の未来まで馬鹿にして何が楽しいんだ?
まぁ、どうせここに居る奴らは匿名でしか人の悪口言えないクソ野郎だから何言っても無駄なんだろうな
お前の親や友人の前でその書き込み呼んで来いやボケナス
読めねぇだろ?
本当に醜くて卑怯な連中だよ、お前らが一番卑劣で愚かでみっともないわ
もういいからネットやめろ、この板に一生来んな
本当にお前ら人間じゃねぇってマジで
ガチでキレそうだわ
もうこのスレの落とせ
流石にお前らやり過ぎだわアホが
こんなに差別用語書き腐りやがって
ネットだから好きな事なんでも書き込んで良いとでも思ってんのか?
お前のその書き込み親戚や親の前で読んでみろよ
読めねぇだろ?
やっぱくそ気持ち悪いなお前ら
そうやって現実じゃ人に向かって言えない言葉を匿名の場所で嬉々として書き込む卑怯者が
マジで狂ってやがる、敢えて言うけど死んだ方が良いぞお前ら
地球にお前が居ても二酸化炭素が無駄に消費されるだけなんだよ、醜い肉の塊め ちゃんと読み込んでるかお前らに問題出す
問一
各国の長官副官まで記入されている魏志倭人伝だが
それでは諸国を巡検し諸国が畏怖した一大卒の長はだれでしょう? >>228
まあ、残念だけど、五十猛に嫁さんをやった旧家の伝承の方が信ぴょう性があると思わざるを得ませんね。
神社というのは祖神を祭るところで合って本人を祭るところではない。 >>278
ニギハヤヒは物部の祖だけど、ニニギは物部系ではないよ。
両者を総称するなら天孫系(どちらも天照の孫)。 >>279
>神社というのは祖神を祭るところで合って本人を祭るところではない。
これは一般論としては概ね正しいのだけれど、九州北部についてはその限りではないようだ。
王が住んでいた宮が、今日においては神社と分類されていることが多い。
神とは、王族の異名に他ならないからだ。 それでは細石神社は伊都国の王の宮殿があったという解釈でいいのか? .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. あれは別。
三雲南小路遺跡の祭殿だろう。
でも細石神社を母と仰いで御渡りしていたという高祖宮は、実際に王宮だったろうね。
そこにいた祭神は彦火々出見だそうだ。
つまり筑紫の日向に降臨した天孫族の王宮だよ。 細石神社は伊都国王の宮殿なんて大夢を見るのも湧くはないが、
記紀風土記では、「都」はツと読み読ませていた。
都万→ツマ、都農→ツノ、都怒賀→ツヌガ、伊都之尾羽張→イツノオハバリ
つまり怡土(イト)や五十途手(イトテ)は、伊都(イツ)とはまるきり無関係なのだ。 伊都高祖宮の近くには倭国大乱より古い王墓である三雲南小路遺跡とその宗廟である細石神社がある。
そして倭国大乱後の最初の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
博多湾沿岸の伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、女王国から北にある対馬海峡を支配するのが伊都国に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国の中枢である。
そして三雲南小路遺跡が伝承通りに木花咲耶姫(と邇邇芸)の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
高祖宮には木花咲耶姫の息子である彦火々出見が祭られており、かつては細石神社まで御渡り神事があったという。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、邇邇芸や彦火々出見の王宮であった高千穂宮の実体だろう。
天孫族の王たちや卑弥呼は、日の神として太陽を背にして天神として君臨したのである。
神武「我々は天神の子なので日の出に向かって戦ってはいけない」
すなわち天神は王都の東側の神奈備に日の出を背にして鎮座するという考え方があったことになる。
伊都なら高祖神社、京都なら八坂神社、奈良なら大神神社(三輪神社)が同じ位置関係にある。 細石神社は伊都国王の宮殿なんて大夢を見るのも湧くはないが、
記紀風土記では、「都」はツと読み読ませていた。
都万→ツマ、都農→ツノ、都怒我→ツヌガ、伊都之尾羽張→イツノオハバリ
つまり怡土(イト)や五十途手(イトテ)は、伊都(イツ)国とはまるきり無関係なのだ。 >>250
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>286
細石神社は祭殿だと言っているのに。
王宮は高祖宮の方だよ。
高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めた天孫ニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
高祖山周辺の福岡県内の王墓の多くが三種の神器に相当する副葬品を備えている点も、高祖山周辺の博多湾沿岸が、彦火々出見ら天孫族の王都であった筑紫の日向であった証拠となるだろう。
彦火々出見の名を最後に継承した人物であった神武は、筑紫の日向の高千穂宮を出て大和へ移ったとされている。 >>288
それこそ記紀の嘘に嵌っているだけ
記紀編纂の目的は天皇の権威強化であり、その源泉を天照大神の下した天壌無窮の神勅に求めている
即ち王権神授説である
その天照大神の正体が卑弥呼という生身の人間であり、しかも中国に朝貢して臣下の礼を取っていたというのは
大和朝廷にとって致命的に都合が悪いんだよ
だが実在が確実視されている古代天皇の平均在位期間から逆算すると神武天皇は280年頃、
卑弥呼は天照大神の世代に当たる
>>224の破鏡の分布変遷とドンピシャ
キナイコシ君にしろ妄想屋さんにしろ、こういう考古学的事実から出発しないから真実に辿り着けない
https://ironna.jp/file/w480/h480/cover/b5088bb621886ce3234badcc2fe432fd.jpg
21代雄略天皇から50代桓武天皇までは平均在位期間約10年でほぼ一定
https://ironna.jp/file/w480/h480/cover/9acf111959dd4a0085f1d48c22dd6b8f.jpg
そこから計算すると神武天皇は280〜290年ころの人
卑弥呼は天照大神の世代 >>273
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>233
>ちょっと話は逸れますが、出雲を滅ぼす手引きをした千家(千家俊信)は、天保十四(1843)年に伊太氏神をして五十猛神、伊太祁曽神と定義付けしています。これが後々まで影響力を出してきた経緯があるようです。
イタテ=五十迹手がイソタケル
単に事実が述べられているだけだな
イソタケルが安曇磯武良であるのは>>15の対馬伝承のとおり
間違いなく伊都国王だな 伊都に関してはスゴイ仮説を持っているのだが
君たちは知的に疎いしこの場で発表するのはもったいないからやめておく
もう少し伊都周辺のあらゆることを勉強せよ >>234
系図を鵜呑みにする前に自分の頭でちゃんと考えたか?
大国主の子孫であるはずのアタカタスがなぜ大国主より前に書いてあるんだ?
あんたの主張どおり天香語山命をイソタケルとするならばその父である天火明命はスサノオでなければならないわけだが
そのスサノオの六世孫である大国主がスサノオの義父とか、ちゃんと整合性考えてる?
その時空がねじれまくった系図を見ると、やはり>>31の指摘こそ正解としか思えんぞ >>235
それはまったくの勘違い
北部九州では紀元前から鉄器制作が行われているし、淡路島の鉄工房からは北部九州の技術を使った鉄製品が見つかってる
淡路島の遺跡は当時既に瀬戸内海を制圧していた北部九州の海人族の遺跡だ
301 :不要不急の名無しさん :2020/08/30(日) 22:50:58.33 ID:t3VPUgZu0
>>283
淡路島の製鉄所からは北部九州式の返しのついたヤスが見つかっている
瀬戸内海を制していた北部九州の海人族の遺跡だよあれは
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
弥生時代の海の勢力図
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【筑紫の海神族・天孫族による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ >>234
>伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない
そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない
古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元
まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ
https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
> 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3〜4世紀のもので、
> 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。
> 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
分かるかい?
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ >>252
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>289
〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>292
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>298
二条町は伊都国比定地ではないだろ
何でもかんでも伊都国にこじつけようとするなよ糸島朝鮮人 >>299
糸島朝鮮人の声闘も猿芝居も猿真似も見飽きたよ
オリジナルは>>2 >>254
>破鏡の件は、古代の軍勢武人の動きを語る貴重な証拠だ、強い関心を以て見ている
カンがいいね、ここは極めて重要だと俺も思う
集落で殺傷痕のある人骨とかは見つかっているが、軍勢と呼べるほどのものの動態がわかるのは珍しいからな
実際畿内説の学者なんかはそれを口実にして神武東征を示す考古学的事実は無いとか強弁してるし
でも破鏡の分布変化を見ればはっきり東征の痕跡が見て取れる
>もう一つ関心があるのは、その破鏡をつなぎ合わせると、特定の鏡の形式が見えてくるのではないかという点だ。
この元論文の最後の方に破鏡の鏡種が載った一覧があるよ
方格規矩鏡と内行花文鏡が圧倒的に多い
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/3703/KJ00004171957.pdf >>303
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>302
糸島市は全域が伊都国だよ
残念だったなキナイコシ君 >>259
https://azisai1707.exblog.jp/22046362/
> 今日は、先月亡くなられた親戚の方の「50日祭」がありました。
> 宗派によって、49日とか50日祭とかいうけど、今日は神主さんが「いそかさい」と言われて、そういう言い方もあるんだと知りました。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 >>254
あと破鏡の分布は弥生時代の大分周辺にも注目してほしいね
大野川流域に多数の分布がある
https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg
これが以前話題になった鉄鏃の分布密集地と一致している
つまり破鏡が出征した邪馬台国の軍人の持ち物だったということが分かる
87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0
面白いものを見つけた
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が
九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ
https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg >>305-306
お前の朝鮮民族願望も被害妄想も見飽きたよ >>307
必死にググってそれ一例くらいしか見当たらないんだろ
いい加減に諦めろよ糸島朝鮮人w >>310
反論はそれだけか?
ちゃbとした反論になっていないようだが? >>311
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>312
キナイコシ君が反論に窮して罵倒だけになるのはいつものことだよ
彼のお決まりの負けパターンだと認識しておけばいいさ >>313
無能の糸島朝鮮人は興奮するとマトモに日本語読めなくなるから分割してやる
一節毎にちゃんと読めよ
朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白 >>313
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
30日がミソカ、40日をヨソカと読むにも関わらず、続く50日は「ソ」と読ませず五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい >>313
そして何より五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>315
糸島朝鮮人の猿芝居は敗北宣言と同じだから五十猛の件に関しては自分でも負けだと認識してるという証拠だなwww 〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 出雲伝承にこだわってる人へ
https://blog.goo.ne.jp/akuto508/e/3e19ee86bbfb767430d8f5e9f9f257f2
> もちろん、伝承ですので、明確な根拠、資料は提示されません。だから本当に正しいのかは読み手は客観的に判断できません。
> また、斉木氏の本でも、本ごとに記述が違う事もあります。考古学の成果と年代が合わず、補足説明が欲しい時もあります。
> しかし、学者ですらも"想像で歴史を語らざるを得ない"古代史研究において、個人の楽しみ方として、
> この伝承を基準の一つにして、講演会や研究者さんの話を聞いていっても良いと思っているのです。
これが貴方のスタンスならば尊重しますが、今のように伝承が絶対正しいかのごとく振る舞い続けるのなら考古学や他の文献を元に否定します
一度頭を冷やすことをお勧めします >>317-318
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして>>15のとおり対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にはイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>321
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>323
朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました まあ出雲の人は自前の伝承を絶対視しすぎているきらいはあるね。
記紀が正しいとも言えないけど、独自の解釈と伝承の境界が曖昧になるのはまずいと思うよ。
でもネタとしては面白い。 >>324
〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 伊都の支配者の変遷は、
安曇=綿津見=五十猛
天津神=天孫=天神
卑弥呼=日御子
かねえ? 糸島朝鮮人?
俺の先祖はコテコテの薩摩隼人なんだけどなコテコテの縄文系だよ >>325
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして>>15のとおり対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にはイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>329
縄文系が声闘なんてするわけないだろ糸島朝鮮人
薩摩隼人の末裔を自称する糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>331
朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>330
朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf .
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
. このスレを使用するならテンプレくらい守りましょう♪
糸チョンの声闘は禁止です
>>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレ
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
> >>326
俺も面白いとは思っているよ
それだけになんか急に畿内説混ぜ込んできたりするのが残念
>>322にある通り、日本の古代史は文字史料の少なさから想像で語らざるを得ない部分というのもまああるだろうし
俺もここにはまだ書いてないがこれまであれこれ調べてきた内容からの想像(妄想)はある
例えばスサノオ=ウマシマジとかな
ネタ切れでスレが膠着するようならそれを披露して語り合うのも悪くないかと思っていたんだがな >>333
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして>>15のとおり対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にはイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>339
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>328
伊都王は代々イソタケル(イソ国のタケル=王)を名乗っただろうね
だから各地の五十猛伝承も実は代の違う別の王を指してることは少なからずあるだろう
綿津見は比較的古い時代の王だと思う
射楯兵主神社に伝わる射楯神としてのイソタケルはもっと後代の人物
アマツカミは海人関係の神格化の総称かな
卑弥呼は台与と合わせて天照大神のモデルだろうと見ている
岩戸隠れが卑弥呼の死で、岩戸開きが台与即位、その間の暗闇は男王が立って国中不服相攻伐の暗黒時代の比喩 >>340
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして>>15のとおり対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にはイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>342
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>332
>声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。
随分と詳しいじゃないかw
馬脚を現したかな? >>344
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして>>15のとおり対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にはイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>345
薩摩隼人の末裔を自称する糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>346
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>338
>それだけになんか急に畿内説混ぜ込んできたりするのが残念
元々は畿内説なのかもよ。
でも出雲の視点だから畿内説ゴリ押しでもなさそうだ。
九州説の立場からも、いつどのような過程で畿内が(九州勢力の手によって)開拓されたかは明らかにするべきだろう。
>>341
>だから各地の五十猛伝承も実は代の違う別の王を指してることは少なからずあるだろう
わかる。
大山祇とかも、世代が明らかにおかしいもんね。 熊襲の王がクマソタケル
出雲の王がイズモタケル
じゃあイソタケルは?
イソ国の王である、当たり前のことだな >>348
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして>>15のとおり対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にはイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>352
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>353
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして>>15のとおり対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にはイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
正式な大和読みで30日をミ「ソ」+カ、40日をヨ「ソ」+カと読むにも関わらず、続く50日は「ソ」と読ませず五十「イ」+日「カ」なわけだから、やはり五十は「イ」と読むのが正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」は誤りです
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り で す
声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました 〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧,糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧,糸∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>356
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw 〜糸島朝鮮人だけが持つ独特の「正義」の概念を理解しよう♪〜
糸島朝鮮人の考える「正義」の概念は非常に独特で、根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠もなく、糸島朝鮮人がその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
象徴的なのが糸島朝鮮人の声闘連投である>>359です。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、糸島朝鮮人は「相手の正義」を認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解や捏造など)する事で「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういった糸島朝鮮人の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となります。
しかし、糸島朝鮮人独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
この特殊な「正義観」には「論点をすり替えさせる隙を与えない」ことで対処可能です。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
糸島朝鮮人にとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に声闘連投と猿芝居を投稿して負けかけたことをなかった事にしようとします。
糸島朝鮮人以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、糸島朝鮮人独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「自分だけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 薩摩隼人の末裔を自称する糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧,糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧,糸∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
正式な大和読みで30日をミ「ソ」+カ、40日をヨ「ソ」+カと読むにも関わらず、続く50日は「ソ」と読ませず五十「イ」+日「カ」なわけだから、やはり五十は「イ」と読むのが正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」は誤りです
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り で す
声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲�」
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>296
流石に考古学的知見も裏付けもなにもない思い込みはやめたほうがいいですね
丹後の国は五十猛が村雲と一緒に移住したところだけど、その後にヒボコが入ってきている。
和国大乱期は、卑弥呼の景初の前。三世紀のあの動乱の100年位前に、九州と同レベルの鍛冶を備えた製鉄があった事自体が重要なわけです。
単純な古代製鉄なら出雲も、九州も、奈良も紀元前からやってるよ。
輸入鉄器ならもっと時間は遡る。
もう少し製鉄の知識を学んでから意見を言うべき。
脱炭や浸炭、焼き入れなどの技術は日本の製鉄の第二世代。古墳から出てくる鉄はその第二世代の話。
三世紀の製鉄とその伝播の話と単純な製鉄そのもの話は別。
そして丹後の鉄の成分は半島製の鉄鉱石由来の鉄器が含まれる。
九州レベルの製鉄が最初の磐余彦の熊野入りの少し前に行われていたことは何を意味するか?
九州と畿内という関係性を論じる際に、鉄器と政治は連動しないという事。ベンチマークにするのなら青銅器ですでに説明は終わる
淡路の製鉄遺跡は倭国大乱期初期の遺跡。景初の東征の前。磐余彦の東征の際にはまだ九州には導入されていなかった技法
そのころは淡路島にはほとんど人が居なかった。
瀬戸内海北は吉備国が葛城国から分裂するまでは出雲領。出雲型銅剣、銅鐸の勢力圏内。 >>298
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
だから?その時には伊都国なんて存在しないじゃん。大丈夫? >>302
そもそもそんな時代に伊都国なんて存在しないのにちょっとヤバいですよね、あの人 >>341
アマテラスって元々は男神でしょ。
畿内ヤマトの三輪山の太陽の女神と習合して今の形になった。
アマテルクニヒコが元々の祭神。物部系の神様だよ >>322
出雲伝承だけにこだわっている訳ではありませんよ。そもそもそう思う根拠は私が出雲伝承と注釈を入れているからでしょう
八咫鏡の処でも書きましたが伝承に無い部分はない部分はないと申してますし
自分でも調べて裏付けをとれなかったところは、兵頭神社の処でも確認がとれないときちんと書いてますよ
鉄器の分布や編年は出雲伝承とは関係ないし、青銅器の添加剤の話も水銀の話も同様で出雲伝承には無関係です。
逆に私がその立場、出雲マンセーであると言わないと何かお困りごとでもあるのですか?と聞きたいですね。
既出の話などもう出尽くしてつまらんでしょう。堂々巡りが続くだけです。
それと神社などは自分で回って収集した情報も書き込んでいます。
自分は漢文はダメですが、そういうのを足で調べるのは少々得意
出雲伝承の中心の人が誰だか知っていますか?
それと、出雲伝承本に出てくるのは他の旧家の、歴史的事件の当事者の子孫です。
実際に取材した内容も公開されています。伝承本も単独で自分の家の歴史を垂れ流ししている訳ではありません。
日本最古の鉄斧だかの情報もその本には出ていますよ。
神様として書かれている対象が、氏子や子孫から見れば先祖の話でしかないわけですよ
神話と史実の区別もつかないのは、議論にする根拠としては問題ありでしょう。 つづき
たとえば九州説の方はもっと宇佐の伝承とかにももっと耳を傾けたらいかがですか?
国譲りの当事者、天のホヒの子孫は千家と北島家(本来はこっちが本家)
出雲をタジマノモリと一緒に滅ぼした物部の別動隊、物部守屋の先祖、トオチネの子孫秋上氏
ヒボコに嫁をやった富岡盆地の豪族、神床家
三輪山祭祀の卑弥呼の弟として出てくる加茂氏分家の太田氏は現在でも墨坂神社の社家
第一次物部東征の五瀬の子孫
西出雲王家の神門臣家
尾張家の分家の海部家関係者
列挙いとまがないですが、敵方、見方も含め、まだ直系が存命ですよ?
既存の情報に対し、実際の取材や伝承のまとめ、裏付けとなる遺物を、今までの議論で欠けていたピースと認識できるかどうかが焦点
既存の情報の解釈だけで話が終わるのなら、もうとっくにジャッジは出ているはずですよ。
あと「斉木氏の本でも、本ごとに記述が違う事もあります。」という記述は正しくはありません
大元出版の書き手は、もともと複数で、個人個人が自分の知見をきちんと述べています。
出雲伝承は単独で旧家の都合で孤独に書かれているものではないのですよ 現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 >>295
>大国主の子孫であるはずのアタカタスがなぜ大国主より前に書いてあるんだ?
記紀の編纂には太安万侶、藤原不比等などがかかわっていますが、もう一人重要な人物が居ます。
それが千家。出雲風土記の千家です
出雲国司の忌部子人と連携して、新造の神、素戔嗚を作ったのはこの二人。
素戔嗚は、出雲王初代の「菅之八耳」の業績を取り込んで、出雲の舅に位置付けられた架空の神。
実は出雲には全く無関係の神様。徐市の陰、象徴です。
八神群の一角である奥出雲の熊野大社には元々スサノオが入っていませんでした。
この神社は杵築大社上官家筆頭の冨家が景初の物部東征時に国が滅んで逃げ込んだ先で作った神社だからです。
かつての社家である熊野家は富家(向家)の分家でした。祭神はクナトの大神などの所謂、幸の神三柱
出雲にある1700年以上前のクラスの神社にスサノオが入っている場合は、千家の息がかかった神社なので非常にわかりやすい構造になっています。
神話と史実は区別したほうがいいです。
元、出雲大社の上官家筆頭は、現在も続く向家。出雲伝承本を書いた、国譲り、邪馬台国事件の当事者の家の伝承です
まあ、流石に自分の処の親戚を間違えるはずがないでしょう? >>338
国譲りや、邪馬台国事件の関係者の直系の複数の旧家の伝承と
出雲大社を作った元王家の片割れである向家の邪馬台国への考え方は、「九州説ですよ。」
私自身は皆さんと交流できるのならそれでよいので「正直どっちでもいい。どうでもいい。」 九州の覇者は宗像と組んだ物部氏であり、宇佐族との連合でそれはかなった。
何故か伊都の安曇連を王に出来ないとお困りで、すぐに感情的になる人が居るのだが
五十猛と安曇が近づくほど、物部から遠ざかる事に気付いてないのがなぁ・・ >>281
>>280
徐市は日本名でホアカリまたはニギハヤヒと名乗り(センダイクジホンギでも同様
)、記紀ではニニギノ命やスサノオとして描かれています。
菅之八耳と習合したスサノオのイメージの場合は確かに物部というよりは出雲っぽい扱いでしょうかね。
しかしブブーとな?くっwww悔しいwww >>295
出雲の大国主の17代はすべて記紀に書かれています。
最後は山崎帯
6代から分かれたアタカタスはもちろん大国主の子孫
あの系図は、第八代を大国主とする場合の系図
記紀は出雲乗っ取りの千家の蛮行を消すために神武東征をBC660年に設定した。
この年数は初代の八耳の頃の出雲王国の年数
>天香語山命をイソタケルとするならばその父である天火明命はスサノオでなければならないわけだが
全くその通り。千家は徐市を顕彰したい立場なので、素戔嗚を作り出しました。
素戔嗚の人物上の投影は菅之八耳
素戔嗚の血筋上の投影は徐市 簡単に言うと
日本には、ほぼ同時に大陸の文化が持ち込まれ政治体への萌芽が、「畿内と九州にほぼ同時に発生していた」という事
鉄よりも確かなベンチマークは、戦いではなく宗教とリンクした、合金である青銅器。銅鐸、銅剣、銅鏡
出雲伝承の立場では、畿内のヤマトはきちんと昔から存在し、村雲神武からの系譜は、磯城登美家の家系、海部氏家系図からも証明できるとしている
しかし、それでも景初の邪馬台国は九州という立場が出雲伝承本の内容。 そして、各旧家の伝承と証言を集めたその本の内容は
「九州説は安曇は無関係で成立する」という内容。伊都という重要な拠点の話は出るが
伊都王家などという一般的でないものに関しては全く言及がない。 >>366
ではその鉄器は誰が作ったのかw
伊都国があったという証拠だろ。 >>379
>伊都王家などという一般的でないものに関しては全く言及がない。
伊都王家はキナイコシが言い張っているだけ。
九州説では、伊都にいたのは倭国王家としての安曇または天孫族。
宗像でもいいけど、「4世紀がー」と言い張るアホがいるし、宗像は天孫より下だから別にいいや。
>>370
>たとえば九州説の方はもっと宇佐の伝承とかにももっと耳を傾けたらいかがですか?
無視はしていないですよ。
ただ、ついていくのにエネルギーが必要なんですよ。
従来の史書と食い違う部分は特にね。 >>304
>でも破鏡の分布変化を見ればはっきり東征の痕跡が見て取れる
古代のことだから、いったん出征すれば誰が誰だかわからなくなる。
だから同士討ちや闇討ちを避けるため、同一種族であることを証明できる身分証明物として分割された銅鏡がモチられたのだあろう。
このことによって、東征軍の先三根が占領地に橋頭保を確保すると、後続部隊はそれを超えて更にその先に橋頭保を築いて行った。
こうして効率よく確実に勢力範囲を拡大していったのだろう。なるほど名案妙案である。
>方格規矩鏡と内行花文鏡が圧倒的に多い
こうした例は古くからあったとしても、数多くの鏡を配布できた種族がその中核であったことは想像に難くない。
つまり大規模な部隊の東進は、多数の方格規矩鏡と内行花文鏡を入手できた種族が行ったということになる。
銅鏡は祭祀のためというより、軍勢の統制拡大のために必須だったわけだ。 >>291
>>288
>それこそ記紀の嘘に嵌っているだけ
なにか勘違いしてるな、たしかに記紀風土記は細石神社周辺が倭人伝の伊都国であったかのように装っている。
しかしよーく読んでみれば決してそうではない。記紀を編纂した役人たちは、似てはいるが同一だったとは断言していないのだよ。
>>224の破鏡の分布変遷とドンピシャ
>キナイコシ君にしろ妄想屋さんにしろ、こういう考古学的事実から出発しないから真実に辿り着けない
そうすると、破鏡の源流は細石神社一帯だったという主張かな。
そもそも破鏡の問題はその原点がどのあたり(どの国)にあったかということだが、破鏡は占領地に残されたのだろう。
が、それは倭人伝のどの国に関係していたのかいなかったのか、破鏡分布でそれがどのように説明証明できるのかねえ・・?? >>382
砂鉄がないのに作れたと思い込めるのが糸島朝鮮脳 >>383
倭国王や阿曇が漁村にいる理由がないだろマヌケ 伊都王朝説の人間の話の持っていき方が、ほぼ作話になってるのは笑える。 >>382
何でもかんでも伊都にする「作話中心」の理論展開w
阿波と同じレベルのペテン師じゃな
>ではその鉄器は誰が作ったのかw
伊都国があったという証拠だろ。 糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 .
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
. >>222
>このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない。
別勢力であったという時点で畿内ヤマトの存在を認めているようなものでは?w
逆に鉄器が祭祀の中心になった事実は考古学的にもないはずだが?
だから割れた鏡の裏付けも必要なわけだw
その青銅器は既に畿内ヤマトは銅鐸という形で普及している。九州にはほとんど存在しないわけだが?w
吉備は倭国大乱期に鉄器を持ったヒボコ族と習合し、まがね吹くと歌われるほど鉄器生産で有名になった
畿内ヤマトは瀬戸内海が吉備により分断されるまでは普通に朝貢してたよ
だいたい、魏なんて 45年間しか続かなかった王朝でしょ
>神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない
貴方は神武を誰に比定しているのだろうか?
尾張氏の系譜の村雲王、神武は東征していない。
物部五瀬の兄弟の磐余彦は最初の東征だが、卑弥呼の前。
その時は銅鏡をヤマトに持ち込んでいる。だから後漢鏡などがヤマトからも出土するようになった
武器としての鉄器の利用は急速な分布を示してるはずだよ。景初の卑弥呼の頃の二度目の東征の時に重なるようにね。
魏志倭人伝の戦いの開始は240年。吉備には元出雲領の砂鉄とヒボコ系の製鉄技術があったから東征開始時には既に鉄器があった
その後ヤマトは物部イクメに制圧される。畿内ヤマトには突然鉄器がもたらされたのはこういう流れ
安曇は関係ない。作話。考古学的に何の裏付けもない話。 物部氏のまとめた先代旧事本紀にも、出雲伝承にも
物部氏と尾張氏の祖が同一人物と書かれている。出雲の分家の登美家の人間も本紀に出てくる。
異母兄弟での婚姻も両方に出ている情報
思いっきり「お互いが親戚であるという事を認識できる距離感」でしょ、穂屋姫との婚姻は
その人たちが争った。故に記紀に、互いが同じ一族であることを確認したかのような誓約の記述がなされているんだよ。
畿内説も、九州説も、どちらか一方が政権として存在しなかったとか言い張るからおかしなことになる。
磯城登美家の第8代(=加茂家代6代)、畿内王家の第8代孝元天皇の時代が「八咫烏」の時代なのに、その前の7代の神武から続く系譜が存在している時点で
もう記紀の作為が7代を消している事を認識したほうがいい
孝元天皇の息子である2世紀の大彦が紀元前のニニギだかに切られるわけがない
系譜上の神武は村雲
古事記の磐余彦の神武は五瀬の最初の東征の人物
学説上の神武(諡号で神武を論じる学説の根拠が同一名称ハツクニシラス)は崇神で、物部イクメの父親。物部イニエ。
最後の日向ソツ彦王と行動を共にした神功皇后は最後の東征を行った
これらがすべて一度に行われたことにされている。
だから神功皇后記ではわざと魏書が引用されている。 物部のルーツは天日矛
o 国玖流命
o 大毘々命
o 印恵命
の3代が一セットで天日矛
倭國乱直前に渡来した海の民
天日矛は天孫族の別の言い換えで
先住の安曇という名の海の民とは別ものだけど
先祖を辿ると同族だともいえる 出雲の伝承は、穂屋姫との婚姻、ヤマト系と九州の物部氏が親戚関係であるという事を
補完するに過ぎない伝承。世の中がひっくり返るような説ではない。
各地方の政権の協力者となった・九州の出雲の分家である宗像と・奈良の出雲の分家である登美家のはなし。
そーんなトンデモ説ではないことは記紀と本紀を読んでる人なら判る筈だ。
個人的には徐市の方が破壊力がありすぎて書くのをためらう位。
しかし、九州説の方なら徐市への抵抗は比較的少ないと考えている。2度目の来日の拠点は九州だからね。
伝承も多いはずだしね。
九州にも、出雲説と同じように物部氏の歴史を紡ぐ一族が存在して、まだ世に出してないとか、出してても九州説の人がスポットを当ててないだけの状態。
出雲説でも不足している所は彦ホホデミから渚武の間の系譜が何代であるか不明である点。
宇佐家は卑弥呼を出した家系だよ。九州説の方はもっとそっちの情報に詳しいのではないのか?
実はそれを期待してここに来た。出雲伝承でも持ってない話を知ってる人が居るのではなかろうか? >>395
物部氏の一部がヒボコの子孫であると言い始めたのは、政権から転落した後。
物部氏が圧迫される時代があったから。
あれほど強かった物部氏が、ヒボコの子孫を言うようになったのは神功皇后から続く武内宿祢の子孫、平群王朝の頃から。
ヒボコの渡来は前100年くらいだったらしい。出雲王に土地を世話してもらえなくて船上生活になったが、富岡盆地の開拓に成功し土着できた。
この時の恨みがずーっと続いていたのか、魏書にも乗ったタジマノモリが2回目の物部東征の際に出雲の攻撃を指揮した(神床家伝承) 先住の安曇という名の海の民も渡来人で
先に列島に到着した外来者
安曇の活動域は本来は響灘沿岸域
後の時代に宗像と呼ばれる領域は響灘沿岸の西端部
リアルな宗像族の渡来は4世紀になってからのこと >>398
先住の民は隼人と宇佐族。
安曇は先住民族ではない。
宗像家は物部の母方の祖神になる人物なので、時系列に入らなければ九州の王朝の大前提が崩れる。
水沼の祭祀も宗像三女神関連だよね? 海の民というのは流動性がたかいものだから
安曇という名の海の民の首長は沿岸域各地を訪れ
各地で竜宮城接待をうけるわけです
博多近辺では倭國王を名乗り
出雲方面は中広形銅矛が製造された時期には彼らの勢力圏に編入されている
つまりはオオアナモチの時期です 過去に存在したものを8世紀の先祖騙りに使用するのは自由度が高いですから
8世紀以降の資料の扱いはかなり注意深く行わねばいけない
こうした場合の史料批判の常道は同一史料での記述の矛盾点を突くというやつです >>390 な〜るほど
なんでんかんでん阿波w
なんでんかんでん箸墓w
なんでんかんでん伊都国ww >>400
海の民?朝鮮起源説だらけでウンザリしてるのに今度はギリシア起源説でも始めるつもりかキチガイ 飛ぶ鳥落とした邪馬台国の怪も、刻は移り、糸島の夕日の如き黄昏れ時のようだ >>386
実際に作れていたという事実を無視するなよ。
朝鮮半島から延板で輸入していたんだよ。 >>405
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>384
>つまり大規模な部隊の東進は、多数の方格規矩鏡と内行花文鏡を入手できた種族が行ったということになる。
博多湾沿岸の海人族ですね。
わかります。
>銅鏡は祭祀のためというより、軍勢の統制拡大のために必須だったわけだ。
なるほど。
新しい視点ですね。 〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) .
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
. >>405
砂鉄がないのに作れたと思い込めるのが糸島朝鮮脳 古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 >>393
>その青銅器は既に畿内ヤマトは銅鐸という形で普及している。九州にはほとんど存在しないわけだが?w
その銅鐸は魏志倭人伝に書かれていない。
書かれているのは銅鏡のことばかり。
この時点で、畿内は魏と交流がなく、邪馬台国とは九州だったと言うことが確定する。
>物部五瀬の兄弟の磐余彦は最初の東征だが、卑弥呼の前。
こらは同意。
五瀬らが筑紫を去った後に卑弥呼が共立された。
>その時は銅鏡をヤマトに持ち込んでいる。だから後漢鏡などがヤマトからも出土するようになった
持ち込んでいない。
ニギハヤヒとの会談で提示したのは羽矢。
>安曇は関係ない。作話。考古学的に何の裏付けもない話。
安曇は志賀島の海神であり、日向王家の親族にあたる。
五瀬らの祖先。 弥生中期後半の鍛造鉄戈というやつは列島独自ですごい鍛造テクでらしいね >>394
>畿内説も、九州説も、どちらか一方が政権として存在しなかったとか言い張るからおかしなことになる。
そんなことはない。
ただ、畿内の王権は出雲または筑紫の分家であり、従属する立場だったということ。
列島を代表して倭王に冊封されたのはあくまでも博多湾沿岸の王だったと言うこと。
私は以前から尾張家と物部家についても書いているし、登美家について教えてもらって感謝している。
その上で、邪馬台国はやはり九州北部なんだと考えている。 >>395
>天日矛は天孫族の別の言い換えで
>先住の安曇という名の海の民とは別ものだけど
>先祖を辿ると同族だともいえる
記紀にちゃんとそう書いてある。
安曇=志賀島の海神、つまり豊玉姫らの豊国王家だよね。
天孫族つまり筑紫王家とは別の氏族だが、イザナギまで遡れば同じ祖先になる。
それが伊都において、男系は天孫族、女系は安曇族からなる連合王国すなわち倭国を形成していたと言うこと。
記紀は男系重視で天孫族を持ち上げているが、倭王=博多湾沿岸の王なら、天孫の先代の倭王は志賀島の大山祇または綿津見、すなわち安曇イソラタケだっただろうね。 >>408
つまり朝貢した卑弥呼が強く銅鏡を望んだというその本音は、
東征を思い立った邪馬台国軍の更なる強化拡大を計りたかったからであろう。
そして、その筋書きを描いたのが難升米(難斗米)で、のち(正始6年)に大元帥の証したる黄憧を授けられることになる・・、 >>403
そいつら歴史を学んだことがない無能の在日朝鮮人たちだから海の民という固有名詞を知らないだけでギリシア起源説を唱えたいわけではない 糸島を伊都国とする根拠は全く乏しいのだが、
糸クズや邪馬台国の怪人は、8世紀の記紀風土記の怪しげな怡土記事を頼りに、無理やりこじつけるから動きが取れなくなるのだ。
三世紀のことは三世紀の倭人伝に聞け、そして末盧国松浦から東南の佐賀平野へ進め、そうすれば活路が開ける。 現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 >>399
>先住の民は隼人と宇佐族。
隼人は海幸彦を祖とする、筑紫の日向王家の分家。 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 >>422
糸島平野を中心に、志賀島や奴国も含めた、博多湾沿岸が倭国だと言っている。 >>425
その意見には激しく同意するんだが、糸島朝鮮人はその領域と伊都国ニダ〜と声闘し出すから困りもの このスレで「朝鮮人」とか別の時代の別の地域を連呼するのは止めようや
関係ない話はすんなよ みなさん呼称の統一化を推進しましょう!
糸島朝鮮人→糸チョン
畿内朝鮮人→キナチョン
在日ヒトモドキ→オクチョン
徳島朝鮮人→泡チョン >>424
そうなると隼人は水間と同じく山祇から分派した種族ということになるのか
海人族じゃないんだ 1000戸の伊都國は著しく志摩郡の方にずれておって
そこから東南100里のところの三雲が奴國発生の地となる >>430
それはいくら何でも言い掛かりだ
>>422の示す怡土郡の平地30平方キロメートルの中に平原遺跡、三雲井原遺跡、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡と伊都国に連なる遺跡が集中してるわけだし
個人的には県道565号線辺りが弥生時代の海岸線でJR筑肥線あたりはガッツリ干潟だったわけだから当時の糸島平野は30平方キロメートルもなかった小さな漁村だと思ってる 当時の海岸線を考慮して、人が住める平地がどれくらいあったのかと勘案すれば30Km2なくても不思議ではない
奴国も比恵遺跡群辺りまで海だったことを考えれば、せいぜい200Km2で2万戸
1千戸の伊都国が国道565以南の12-5Km2だとしても、小さすぎるということはない >>431
その平原遺跡、三雲井原遺跡、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺が1世紀の倭奴国王のもので、
その後、三世紀の倭人伝で傍奴国とされた博多湾岸旧宗主国だったのだ。
残念ながら、佐賀平野の伊都国+肥後の邪馬台国から成る親魏倭王の肥国勢力に蹴散らされたという次第な。 >>433
佐賀平野から糸島平野に続く道なんて鎌倉時代になるまで存在しないんだが? 佐賀平野から伊都国に行くには唐津湾に続く谷を下ってから海岸線を進むか
筑後平野から筑前平野に抜けて博多湾で舟に乗るしかない >>434
ここは地形図も読めない、当時の海岸線の知識もない阿呆ばっかりやけん仕方がないとってw 中国の歴史書『新唐書』
>新唐書では、天御中主からウガヤフキアエズ(彦渚)まで32世が、筑紫城(九州)に居て、
>その後、神武天皇の時代に大和州(奈良)に移ったとある。そして神武から皇極天皇までの天皇名を列挙する。
>712年成立の『古事記』と720年成立の『日本書紀』でも、
>初代神武天皇が九州から奈良に移り住んだことになっている。
天御中主からウガヤフキアエズ(彦渚)まで32世というのが博多湾岸の旧宗主王家であり、32世のときに娘が肥国王家のウガヤに嫁入りし政略結婚したのであろう。
そしてその後に生まれた神武が旧宗主王家の支援も得て連合軍の総司令官として東に向かったわけだ。 >>434
>>435
地元の地理を知らぬものが、思い付きで適当スカポンをしゃべくるなよ。
唐津が末盧国であり、そこから松浦川に沿って上流(南)へ上り、小さな峠を越えれば、たったの300里で佐賀平野の入り口の多久(高来)に出る。
この沿線からは、三世紀ころの遺跡も遺物も出ている。最近では三世紀当時の硯も発見された。
この道は、古代の峠越え主要道だったのだ。
この多久からは東へ200里、合計して唐津から東南500里で、佐賀平野の伊都国に到ることができた。倭人伝の記述通りなのだ。 【九州説】魏志倭人伝以外の中国の歴史書を正しく読む Part.1 でも建てるか >>439
> 佐賀平野から糸島平野に続く道なんて鎌倉時代になるまで存在しないんだが?
> 佐賀平野から伊都国に行くには唐津湾に続く谷を下ってから海岸線を進むか
> 筑後平野から筑前平野に抜けて博多湾で舟に乗るしかない
> ここは地形図も読めない、当時の海岸線の知識もない阿呆ばっかりやけん仕方がないとってw >>439
地形図も読めない、当時の海岸線の知識もない阿呆さん、こんにちは! .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 簡単に唐津から佐賀平野とか言ってるけど
俺は中学生の時に実際に唐津から七山北山ダム通って佐賀まで自転車で走ったことあるぜ
舗装された道路を自転車でもキツイのに道が無ければ100%無理な行程 >>423
機内でできた記紀に影響した九州説はかえって目眩しになる。
日向西都原の王者襲津彦は日向水軍を掌中に納め三韓征伐の功労者になった。
後に葛城氏の祖になったので少し時代が遅くなる 日向神話の中心は宇佐豊玉姫と物部イニエ。
豊国と物部の連合軍。
魏志倭人伝の時代。 >>429
大山祇は綿津見の兄弟で、志賀島の倭王だよ。 >>431
30キロ平方キロメートルの小さくて守りの固い王都だよ。
ただの漁村にはあれほどの莫大な財宝は集まらない。 古事記の書き手は
倭難升米を
いなしこめ と読みなしたらしい 守りの固い王都が1000戸だと言い張るところがへん >>447
その豊玉姫こそ、志賀島の綿津見こと安曇大神豊玉彦の娘だろ。
倭国は志賀島の豊国王家と、伊都の筑紫天孫族の連合王国だよ。
記紀に書かれたまんま。 >>452
守りは地理的要因から来るものだよ。
3方が山で、峠は限られている。
しかも糸島平野ではなく、高祖神社がある高祖山の中腹や山上に宮城を構えれば、難攻不落になる。
万が一の時は奴国にも博多湾にも逃げられる。 志賀島に王家の巣があるというところがへん
王家の巣があるところは
発祥地の三雲と略奪婚で担ぎ出して成立した須玖 発祥地の三雲は弥生前期の支石墓の段階から突出した副葬品を出す
女王ファミリーは海の民の系統ではないから
天孫族系でもなければ安曇系でもないのよ 三雲にある糸島市立の歴史博物館の名前が悪いというのもあるけど
市教委が看板を各所に設置して
三雲を伊都國だと嘘をまぶした誘導やらかしているのが痛い >>444
そりゃ、唐津から東へ進んで海抜数百メートルもある七山山道を超え、そこで南へ下る大変な道だ。
相当な頑張り屋さんご苦労さんであった。
だがオレのお勧めは、まず唐津から松浦川本流に沿って南(上流)へ向かう。
この道沿いには、明治のころに開通した国鉄唐津線が通っている。今も走っているぞ。
そして巌木という標高100余mほどの小さな峠を越えるとあとは平坦な下り坂だ。
なんせ昔は蒸気機関車がスンスン石炭を運んでいたというから、さしたる勾配ではない。
唐津からほんの20q(300短里)ほどで佐賀平野の入り口の多久市だ。この道なら、ご高齢になられた今でもルンルンでありますぞえ。
ここからは山裾のて到んな旧国道を東の佐賀市大和町(真正の伊都国)へ向かえばよい。今度の休日にでも GO TO どうぞ。 >>455
実際に金印が出てるし、王宮なら安曇磯良が立てたという志賀海神社(表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮)があるしね。 >>456
支石墓や甕棺墓が海人族の墓だろ。
支石墓が安曇で甕棺が天孫族か?
そして弥生時代の最後に登場した木棺墓が海人ではない卑弥呼だろうね。 >>457
外交特使を海辺の辺鄙なところに留め置かないだろ。
特別行政府的な役割を持つ三雲こそ伊都国だよ。
硯も出ているしね。
ここで国書をしたためて郡使に託したのだろう。
あれ?
卑弥呼はどこにいた? 三雲の支石墓からの副葬品の出方は
朝鮮半島西南部の麗水半島あたりとの関連性が指摘されている
この辺りは実のところ遼寧式銅剣とか遼寧式銅矛の出土数では
半島内でも突出した区域 要するに吉武高木地区に金海式甕棺墓人が移動してきた時期には
すでに三雲には女王ファミリーのご先祖が先住していた
金海式甕棺墓人が木棺墓人の神輿を担いでいたらしいことはご存じの通り 卑弥呼がいたところは
2万戸の奴國の中の
その発祥の地の三雲だろ 卑弥呼が海人ではないなら、むしろ最後に三雲に入ってきたのだろう。 >>464
奴国に王はいない。
王がいたのは伊都国。
魏志倭人伝を正しく読もうよ。
だから三雲が伊都国。 だから佐賀平野に伊都国
魏志倭人伝を正しく読もうよ 3世紀の灌漑の事情からいうと
三雲は最小限の労力で広い水田が利用できるという
アドバンテージを持つとても恵まれた地なのですよ
そのような恵まれた地が1000戸というのはありえない
卑弥呼にしても壹與にしてもいたところは12000里の女王國
伊都國は郡から〆ての道里が11900里
いずれの女王國も2万戸の奴國の内数
卑弥呼の女王國の三雲を奴國の代表地点として記すのも
奴國の発祥地なのだから当然のこと ジジイどもよ
委奴国考察は紙の地図じゃいかんよ
グーグルマップでグリグリ画面を弄って考察してみ、色々見えてきて面白いぞ >>459
いや志賀島は聖地
後の沖ノ島の原型
祭祀の痕跡だらけで居住した痕跡は皆無
だから志賀島を本拠地と考えるのがナンセンス
そもそも志賀海神社に伝わる君が代は安曇を奴国から志賀島にお迎えする内容
つまり安曇は奴国に居住し、祭祀ために渡海して来ていたという証拠 聖地というのは本質的にはそこに王がいたから神聖なんだよ。
そこで王が祭祀すなわちマツリゴトをしていたということ。 >>471
その通り。
ここの住人はグーグルマップで地形図や航空写真を見れるの知らないんじゃないかって毎回感じるわ >>473
そういうケースもあるだろうが弥生時代の海人族は違うって事
居住痕跡がない祭祀の聖地が志賀島と沖ノ島
共に政をしに渡海するというスタイル >>475
違うという根拠がないよ。
むしら「王がいる」という博多湾沿岸の特殊事情を鑑みて述べたつもりだ。
弥生時代とあう背景を考えるならば、数少ない宮がそのまま考古学的に確認できる可能性は低い。
もとの宮の上に新しい宮を立てているかもしれないし、その場合は見つからなくて当然ということになる。
志賀海神社の境内でも掘れば住居跡が出てくるかもね。
ただし王族すなわち神様の住まいだから、神社の高床建物として見つかって、祭祀の跡に分類されているかもしれない。
あなたがいう祭祀遺跡こそ、古代の王がマツリゴトをしていた証拠かもよ。
当時だと奴国まで日帰りということもないだろうし、志賀島に倭王がいてマツリゴトをしていたという仮説は揺るがない。 いや弥生時代の志賀島住みにくいやろ
ほぼ全部山林で水の確保も厳しい
沖ノ島みたいな海運の安全を祈願すしてお供え物をするだけの聖地的な扱いの島ではないか? 沖ノ島にしても志賀島にしても、当時は日帰りは難しいだろう。
実際に宮を建てて云々という話が残っているのだから、無理ではないよ。
アマテラスなんて磐座にいたんだろ?
そういうのが弥生時代の王なんだよ。
高床建物の祠に住んでいたんだ。 俺は弥生時代の王は
城柵に守られ見張り台で周囲を見張り
官人と軍人が存在できる領域の広さと養える倉庫が必要だと思うがね
志賀島が重要なのはわかるが王レベルが常駐している土地ではないな じゃあやはり志賀島で祭祀をしていた王は、普段は伊都の高千穂宮にいたんだな。 北部九州で凄まじく水運が発達してて
志賀島自体が巨大な要塞で防御設備やら巨大水軍の痕跡やらなんやら大量に出てきたりしたなら夢を見れるが
志賀島で出てきたのは金印だけだし 水軍は海上だし、その基地は那の津だもの。
聖地にはそんな不粋なものを陸揚げするわけない。 >>480
>俺は弥生時代の王は
>城柵に守られ見張り台で周囲を見張り
>官人と軍人が存在できる領域の広さと養える倉庫が必要だと思うがね
つ 怡土城 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>477
いやだから居住の痕跡がゼロなんだって何度言わせんだよ妄想野郎w >>486
志賀島は広すぎてむやみに探しても見つからないだろ。
でもイソラが宮を立てたという伝承はあり、その宮は今でも神社として残っているわけだ。
建物そのものは何度も再建しているだろうが、その下を掘れば出てくるんじゃないの?
どうせ誰も掘ってないでしょ? >>486
住居って、竪穴住居を意味している?
倭王になるくらいの高貴な神様なら、住居は高床建物だと思うよ?
そして遷座していなければ、今でもその上に社殿があって、発掘は難しいだろうね。 >>485
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / >>490
住居やなくて居住
つまり弥生時代の生活痕が一切出てこないってこと 倭王とその取り巻き数人がひっそりと祭祀をして、どれだけの生活痕が残るんだ?
無茶を言うなよ。
食料を含めたほとんどの物資は船で運んできて、祭が終わったら撤収だろ。
祭器は大事に回収するだろうし。
沖ノ島が特殊すぎるだけ。
祭祀跡が残っているなら、それこそ倭王だか安曇だか綿津見だかがそこにいた証拠じゃないか。 そもそも王宮としての表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)が生活痕そのものだろ。
九州の神社の最大の特徴は、王宮としての性格を保ったまま維持されていることにある。
他の地域の神社は、もともと王がいない地域だから昔の神様を抽象的に祭るだけ。 >>493
なんでひっそりと祭祀する必要があるんだ?
古代の権威の象徴なんだから大々的にやるのがマツリゴトの語源でもあるだろーよ
自分の妄想のためにテキトーこくクセやめろよw >>494
そこに居住の痕跡が一切ないから志賀島は聖地って話になってるわけだが・・・ これは古代の五畿七道の主要道路である
https://i.imgur.com/lmYJeDr.jpg
これは日本扶桑国之図である
https://i.imgur.com/ISJ07wQ.jpg
これは国交省の古代の道マップである
https://i.imgur.com/hsFvhYC.jpg
対馬壱岐から九州上陸後は
糸島→福岡→太宰府→鳥栖→久留米ルートとわかる
=魏志倭人伝における陸路の行程にも予想・当てはまるだろう >>497
なぜ意図的に唐津(末廬国)を無視するんだ? .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>497
壱岐からは真っすぐ糸島に上陸したように読めるな
唐津上陸と、そこから東南方向へのびる佐賀道はどうした。嫌いなのか?? >>499
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / >>500
糸島にはまともな港がないのに気でも狂ってるのか? >>495
天皇家の祭祀も、沖ノ島の祭祀も、伊勢神宮の祭祀も、大々的に公開なんてしない。
それらの現代の祭祀の痕跡も、数十年もかからずに消えてしまうだろう。 >>503
神功皇后は深江湾に入り上陸した。秀吉もだ。
深江が末盧国だったのかもな。 >>504
現代の祭祀はマツリゴトじゃないだろマヌケ >>506
同じじゃないという根拠はあなたの妄想かな?
現代の祭祀は古代の祭祀を可能な限り再現していると考えられる。
全く違う国ならともかく、皇祖である倭王の祭祀なら大同小異だろう。
枕元に鏡を置いて一晩過ごしたり、神田で取れた米を食べたりするんだろうね。
どのような痕跡が残るのかな? >>507
それはお前の妄想にこじつけた解釈
少なくとも江戸末期までの皇室行事には数千人規模の関係者が従事し、各大名がさらに従者を付き連れて参列しているという大規模なものというのが現実
厳かに粛々とというイメージは国民に無理をさせてはならぬという宮内庁の意向で戦後に出来上がったもの マツリゴトが政治の政と祭事の祭と同じ語源で同じ音なのはそれが古来同一だったから
古代のマツリゴトは大賑わいだった証左
志賀海神社の神楽歌にもそう唄われている 〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 大事なことです。繰り返して書きます。
〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
・記憶喪失
・文盲病
・チヨンコロ目 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>516
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / >>365
>流石に考古学的知見も裏付けもなにもない思い込みはやめたほうがいいですね
>>296にはちゃんと考古学的裏付けのソースがあるのに見えないフリか
なんだ、結局君もキナイコシ君と同様に声闘に逃げちゃうのね
どんどん化けの皮が剥がれてきたな
>単純な古代製鉄なら出雲も、九州も、奈良も紀元前からやってるよ。
やってません
そういう嘘を言うから君の妄想は真実に辿り着けないんですよ
>淡路の製鉄遺跡は倭国大乱期初期の遺跡。景初の東征の前。磐余彦の東征の際にはまだ九州には導入されていなかった技法
ハイ嘘ですね
https://news.goo.ne.jp/article/kobe/region/kobe-20201120018.html
> 淡路市の調査では、鍛冶工房を含む竪穴建物20棟の跡が見つかり、釣り針などの漁具や小刀を含め、鉄器170点以上が出土した。
> 九州産のヤリガンナや山陰地方の土器なども見つかっており、鉄器生産とともに、他地域との交易を担った拠点的な集落だったと考えられる。
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
九州のほうが鉄器の加工技術が優れていたから鉄器工房に九州製品があるんですよ
他地域との交易ができたのが瀬戸内海を制圧していた北部九州の海人族だけなのは>>296にソースを示しました >>366
クニが無いのに海外交易は出来ていたって?
凄い珍説ですねw >>369
はぁ・・・
神話も伝承も考古学の裏付けが無ければ信用に値しないという点で同レベルですよ
これは神話じゃなくて伝承だから信じられるとかはありません
そして君が事実のように語る妄想には裏付けとなる考古学的事実がありません
妄想は妄想でしかない >>370
>既存の情報の解釈だけで話が終わるのなら、もうとっくにジャッジは出ているはずですよ。
それがまず現状を正しく認識していませんね
例えば考古学者の多くは神武東征伝承には考古学的な証拠がないとしています
実際は>>224のようにちゃんと考古学的証拠があるにも関わらずにね
それは彼らがそうした事実を知らないのでは無く、正しく解釈できていないだけのことです
それも恐らく能力的に出来ないのではなく、彼らのイデオロギー(例:畿内説)に合致せず都合が悪いから受け入れを拒んでいるだけ
既に正しくジャッジ可能なだけの情報はあるのに、自らが信じるドグマを優先させる人ばかり
こんな状態でジャッジなんて出来るわけがありません
ゆえにジャッジが出ていないことは情報の不足を意味していません >>371
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない >>518-520
〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>518-520
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>518-520
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 >>518-520
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>518-520
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
正式な大和読みで30日をミ「ソ」+カ、40日をヨ「ソ」+カと読むにも関わらず、続く50日は「ソ」と読ませず五十「イ」+日「カ」なわけだから、やはり五十は「イ」と読むのが正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」は誤りです
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り で す
声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました >>372
千家陰謀論ですか
千家がスサノオを祭り上げたというなら、完本とされる出雲国風土記にスサノオの八岐大蛇退治を載せなかったのは矛盾しますよ
あれこそスサノオの偉大さをアピールする絶好のエピソードなんですから
>実は出雲には全く無関係の神様
ここだけは同意
天村雲命(=アメノイタテ=五十迹手)の先代の伊都国王だから九州人
出雲の人じゃありません >>518-522
〜糸島朝鮮人だけが持つ独特の「正義」の概念を理解しよう♪〜
糸島朝鮮人の考える「正義」の概念は非常に独特で、根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠もなく、糸島朝鮮人がその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
象徴的なのが糸島朝鮮人の声闘連投である>>359です。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、糸島朝鮮人は「相手の正義」を認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解や捏造など)する事で「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういった糸島朝鮮人の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となります。
しかし、糸島朝鮮人独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
この特殊な「正義観」には「論点をすり替えさせる隙を与えない」ことで対処可能です。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
糸島朝鮮人にとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に声闘連投と猿芝居を投稿して負けかけたことをなかった事にしようとします。
糸島朝鮮人以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、糸島朝鮮人独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「自分だけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 >>528
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>528
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
正式な大和読みで30日をミ「ソ」+カ、40日をヨ「ソ」+カと読むにも関わらず、続く50日は「ソ」と読ませず五十「イ」+日「カ」なわけだから、やはり五十は「イ」と読むのが正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」は誤りです
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り で す
声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました >>522
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 このスレのテンプレに目を通そうな
このスレに伊都ネタは不要! やりたきゃ他所でやれチョン!
>>1
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾肆
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
> >>374
伊都国には代々王がいると魏志倭人伝に書かれているんだから伊都国の安曇連が王なのは当然なわけだが
むしろこんな明確に記されていることを感情的に否定する人間がいることのほうが不思議だ
スレタイ読めないのかね
>五十猛と安曇が近づくほど、物部から遠ざかる事に気付いてないのがなぁ・・
高良大社の創建時からの神職に安曇氏も物部氏もいる
安曇と物部はかなり密接な関係にあった氏族で遠ざかるどころかすぐ近く
そもそも俺は>>338で触れたようにウマシマジとスサノオは同一人物ではないかと疑っている
アメノイタテこと天村雲を五十猛とすればその父である天香語山がスサノオであり天火明の子であるから
系図だけ見てもウマシマジ本人か兄弟ということになる >>534
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>379
>伊都王家などという一般的でないものに関しては全く言及がない。
伊都国に代々王がいるのは魏志倭人伝に明記されている
少しでも古代史に興味がある人間の間では極めて一般的だが?
君がスレタイが読めない人なら退出してくれ >>536
このスレのテンプレに目を通そうな
このスレに伊都ネタは不要! やりたきゃ他所でやれチョン!
>>1
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾肆
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
> 古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 >>385
>そうすると、破鏡の源流は細石神社一帯だったという主張かな。
北部九州の女王連合圏内には破鏡が広く分布しているから源流はそんなピンポイントには絞れないし、絞る必要も無い
だが弥生時代の本州の分布を見ると安曇が進出していた沿岸部には既に破鏡が存在している
ごく僅かに存在する内陸部の出土地も安曇が翡翠を取りに行ってた長野や尾張への移動ルートにあった岐阜など安曇絡みの土地ばかり
https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg
伊都からも出土があるし、伊都の安曇も破鏡文化の一員であったゆえの現象だろう
少なくとも海を隔てた本州に持ち込んだのは海人族とみていい
>が、それは倭人伝のどの国に関係していたのかいなかったのか、破鏡分布でそれがどのように説明証明できるのかねえ・・??
少なくとも伊都国の安曇が関係していたのは上記の通り間違いないし、北部九州の女王連合圏内にも広く存在する
それが古墳時代になると本州西部が丸ごと破鏡分布下になるのを東征以外で説明するのは難しい >>393
>別勢力であったという時点で畿内ヤマトの存在を認めているようなものでは?w
「それが東征で屈服したのが魏志倭人伝以後の3世紀末か4世紀始めで、それ以降奈良盆地内にも突如として鉄製品が増加します」
と書いてあるだろ
奈良盆地内にいた勢力は東征時に滅ぼされたと書いているわけだが日本語が理解できなかったのか?
服従した豪族は臣姓を賜ったりして政権内に残った可能性はあるがね
>逆に鉄器が祭祀の中心になった事実は考古学的にもないはずだが?
祭祀の話なんてしてないが
魏志倭人伝に倭国では鉄の矢じりが使用されているとあり、魏志韓伝には倭人が弁辰に鉄を採りに来ていることが記されている
その鉄が3世紀まで九州にはあって奈良盆地内に無いということは、当時の奈良盆地内の土着勢力は邪馬台国ではないというだけのこと
4世紀以降にそれが突如として鉄器を大量に出土するようになるのは、九州の邪馬台国が東征したから
>吉備は倭国大乱期に鉄器を持ったヒボコ族と習合し、まがね吹くと歌われるほど鉄器生産で有名になった
考古学はその歌が事実であることを示していない
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
見ての通り吉備の鉄器保有数は凡庸であり、九州には遠く及ばない
九州と安曇の進出地が圧倒的に多数を占めている
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
鉄原料が国産化されていないこの時代に、海無し県の長野に鉄があるのも象徴的
ここには糸魚川の翡翠を求めた海人族が姫川を遡って古代から来ていた >>400
同意する
出雲の東の米子には安曇地名が残っている
>>540の鉄器分布を見ても出雲のある島根より安曇のいた鳥取のほうが鉄器が多い
http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg
出雲は大国主の転封先として与えられた土地であって大国主もまた本来出雲の人間ではないと思われる
筑後山門の領主であった大国主は武甕槌=安曇磯良によって領国を天照大神=卑弥呼へ譲らされ、出雲へ転封された
完本とされる出雲国風土記に国譲り神話が載っていないのも、それが出雲の出来事ではないからだろう
94 :日本@名無史さん :2020/09/30(水) 00:45:40.49
筑後山門の地に古来よりオオクニヌシを祀る神社があり、 『筑後国高良神名帳』に、「堤大国玉神」として記載されている
オオクニヌシはもともとこの地の領主で磯良により出雲に移されたのだろう
だから完本とされる出雲国風土記には国譲り神話が載っていない、出雲で起きた出来事ではないからだ
恐らくだが、高良大社に伝わる「この地にいた高木の神が高良の神に一夜の宿を貸したところ居座られて追い出されてしまった」
という神話も同じ出来事を語っているのではないか
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12490490549.html
> 3.堤大国玉神について
> 『筑後国高良神名帳』の山門郡二十六前の神々に、「堤大国玉神」が記載されている。
> 「大国玉神」とは「大国魂神」のことであり、国家に寄与した古代の神に付けられる名前です。今までに3例見かけています。
>
> 倭大国魂神:大幡主、孝霊天皇
> 武蔵大国魂神:大国主
> 山門郡の地名に旧山門郡瀬高町大字山門に堤集落が存在します。ここ堤の字東塚原に天満神社が鎮座です。
> 福岡県神社誌によると境内社・古天神社、祭神・大国主神が記載されています。さらに、「筑後国神名帳に出たり。」とあります。
> 一致します。堤大国玉神とは武蔵大国魂神こと大国主です。
> ここ瀬高の堤に大国主が「大国魂神」として祀られているのです。驚きです! >>541続き
95 :日本@名無史さん :2020/09/30(水) 01:02:15.91
国譲り神話ではオオクニヌシがアマテラスに葦原中津国の支配権を譲り渡す
これが筑後山門の地で起きた出来事であるならば、アマテラスとは魏志倭人伝にいう邪馬台国の卑弥呼その人ということになるだろう
それを主導したのが邪馬台国の懐刀・伊都国の安曇族であり、その王であった磯良ことタケミカヅチ
追われたオオクニヌシの子孫が安曇に代わって玄界灘の覇権を握ったのは祖先の借りを返したということなのかもしれない
だがアマテラス=卑弥呼は東遷した後の大和朝廷にとっては極めて不都合な事実であったため、徹底的にそれを隠さなければならなくなった
アマテラスの「天壌無窮の神勅」に天皇の支配権の正統性を求める記紀神話にとって、アマテラスが神ならぬ生身の人間、
まして中国に朝貢して臣下の礼を取っていた人物では困るのだ
ゆえに文献学的に上記のストーリーを証明するのはほぼ不可能だろう
せいぜい各地の古い神社に残る社伝などに断片的な情報があれば御の字といったところか
考古学遺物からの推定以外に方法はない >>524
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>531
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>532
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない >>468
>そのような恵まれた地が1000戸というのはありえない
単に伊都国の人口は魏志より魏略の戸万余が正しいというだけのこと
それはこの膨大な遺跡数から見ても明らか
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html 泣きごとに続いて卓袱台返しかよ
真面目に倭人傳読む気はありませんて宣言されてもねえ >>539
>北部九州の女王連合圏内には破鏡が広く分布しているから源流はそんなピンポイントには絞れないし、絞る必要も無い
>だが弥生時代の本州の分布を見ると安曇が進出していた沿岸部には既に破鏡が存在している
>ごく僅かに存在する内陸部の出土地も安曇が翡翠を取りに行ってた長野や尾張への移動ルートにあった岐阜など安曇絡みの土地ばかり
>伊都からも出土があるし、伊都の安曇も破鏡文化の一員であったゆえの現象だろう
東征軍との関連とすると、この東征軍は連合軍であったというから、安曇はその一翼であったわけだ。
ただ問題は、連合軍を統御し、鏡を下付していた大本営(源流)は誰であったかということだが、記紀によればそれは安曇でなかったのではないか? >>536
>伊都国に代々王がいるのは魏志倭人伝に明記されている
「名を曰く卑弥呼と」 >>546
糸島地区に一つの独立のイト国があったと考えると、隣との切れ目が見つからず、
早良区もイト国だった、志賀の島もイト国だったと際限なくなる。
これを逆に言えば、そもそも糸島に独立イト国などは存在せず、
博多湾岸〜糸島加布里湾一帯は、かって1世紀に金印をもらった倭奴国(那の津国)という大国の領地だったと考えるべきではないか? 〜糸島朝鮮人だけが持つ独特の「正義」の概念を理解しよう♪〜
糸島朝鮮人の考える「正義」の概念は非常に独特で、根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠もなく、糸島朝鮮人がその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
象徴的なのが糸島朝鮮人の声闘連投である>>539-546です。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、糸島朝鮮人は「相手の正義」を認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解や捏造など)する事で「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういった糸島朝鮮人の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となります。
しかし、糸島朝鮮人独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
この特殊な「正義観」には「論点をすり替えさせる隙を与えない」ことで対処可能です。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
糸島朝鮮人にとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に声闘連投と猿芝居を投稿して負けかけたことをなかった事にしようとします。
糸島朝鮮人以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、糸島朝鮮人独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「自分だけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の民族妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
正式な大和読みで30日をミ「ソ」+カ、40日をヨ「ソ」+カと読むにも関わらず、続く50日は「ソ」と読ませず五十「イ」+日「カ」なわけだから、やはり五十は「イ」と読むのが正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」は誤りです
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り で す
声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました 〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 委奴国の領域?
王都は細石神社辺りだろうが
イキと地名に残る地域までだろう
東は生の松原とか壱岐団地とか室見川西岸までは領域だろう
東は一貴山辺り深江まで直轄地だった .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>557
〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>557
>イキと地名に残る地域までだろう
根拠は? >>558-559
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / >>547
ホント、伊都国には王がいると書いてあるのを無視するバカには困ったもんだよな >>548
>東征軍との関連とすると、この東征軍は連合軍であったというから、安曇はその一翼であったわけだ
九州から海を超えて本州に攻め入るわけだから、当然安曇たち海人族の海上輸送能力に大きく依存するわけでね
否応なくメインプレーヤーにならざるを得ない
記紀でも安曇分家の珍彦が先導役として功績を立てて倭国造に任じられてるしね
>だ問題は、連合軍を統御し、鏡を下付していた大本営(源流)は誰であったかということだが、記紀によればそれは安曇でなかったのではないか?
違うだろうね
大本営はあくまで筑後山門の邪馬台国だと思うよ
じゃなかったら占領後の奈良にヤマト地名をつけてないだろうし
東征伝承でも神武が長髄彦に負けたあと、タケミカヅチ=安曇磯良に援軍要請したのはアマテラス=台与
多分神武は台与の息子か孫だろう
要請を受けたタケミカヅチが命を下した高倉下は天村雲=アメノイタテ=五十迹手=五十猛の弟だと海部氏勘注系図にある
邪馬台国から伊都国王に援軍要請が出てるわけだから主体は邪馬台国で伊都国は乞われて兵を出した立場ということだね
ただ上にも書いたとおり海の向こうだから何かというと海人族が頼りにされたのだろう >>549
それは違うと思うよ
伊都国王はあくまでイソタケル
熊襲の王がクマソタケル
出雲の王はイズモタケル
ならイソタケルは?
イソ国(後の伊都国)の王でしょ >>566
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
正式な大和読みで30日をミ「ソ」+カ、40日をヨ「ソ」+カと読むにも関わらず、続く50日は「ソ」と読ませず五十「イ」+日「カ」なわけだから、やはり五十は「イ」と読むのが正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」は誤りです
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り で す
声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました >>564
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の民族妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>565
〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>550
そう考えたい気持ちも分からないではないけど、それだと魏志倭人伝を無視しすぎになってしまうと思う
伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう
では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
http://inoues.net/iron_nakoku.gif
博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区〜南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう
春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる
奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう >>551
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>567
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>554
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない >>570
>伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
>青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる
無茶だ。
どう見ても勢力圏としては一つで、役割分担していただけ。
呼称として奴国と伊都国は別だが、それがあくまでも国邑としてであって、国家としては一つの倭と呼ぶのが正しい。 >>574
>どう見ても勢力圏としては一つで、役割分担していただけ。
それこそ無茶そのもの
鉄器は農耕にも大きな威力を発揮するのに農耕国の奴国で生産していないのは役割分担のありかたとしておかしい
人口の多い奴国は警戒されて鉄加工技術を渡してもらえなかった
そう解する他にない >>570
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の民族妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>571
〜糸島朝鮮人だけが持つ独特の「正義」の概念を理解しよう♪〜
糸島朝鮮人の考える「正義」の概念は非常に独特で、根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠もなく、糸島朝鮮人がその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
象徴的なのが糸島朝鮮人の声闘連投である>>539-546です。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、糸島朝鮮人は「相手の正義」を認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解や捏造など)する事で「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういった糸島朝鮮人の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となります。
しかし、糸島朝鮮人独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
この特殊な「正義観」には「論点をすり替えさせる隙を与えない」ことで対処可能です。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
糸島朝鮮人にとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に声闘連投と猿芝居を投稿して負けかけたことをなかった事にしようとします。
糸島朝鮮人以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、糸島朝鮮人独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「自分だけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 >>572
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>573
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 >>575
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>575
魏志倭人伝に奴国に王が記載されていないのだから、抵抗勢力ですらない。
奴国は完全に伊都国の支配下だよ。
単に倭国では農機具に鉄を使わなかっただけとしか言いようがない。
もしくは百姓は重視されていなかった。 >>582
千余戸の漁村に支配される二万余戸の大国ってあまりにも滑稽な妄想だね笑 その漁村が棒状鉄斧を頂点とする鉄素材の流通を管理していた そいつらがやってきたから倭国乱が起きた
なまの権力の武力からいえば誰もかなわないトップ
征服王朝側が現地の伝統的な権威に
いかにして己を溶かしこむかのゲーム そいらへんも海が入り込んでいて砂丘上に海の民が住む
弥生前期の先来の海の民がなした遺跡が石崎曲り田 ttp://wi12000.starfree.jp/map/yitu+mikumo+afumi+yiqi_z.gif.html >>580
>常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり・・、
怡土郡だから伊都国ではなくて怡土国だったのだろう。それが素直な受け止めだ。 〜糸島朝鮮人が何でも伊都国にしたがる理由を知ろう♪〜
依然として古代史関連スレで長文コピペ連投という声闘を続ける糸島朝鮮人は何でも伊都国にしたがる性質を持っています。
幼少期から現在まで続く劣等感と出生の卑しさを認めたくないという感情が「我が家は薩摩隼人の血筋で縄文系ニダ!」という幻想を抱かせてしまいました。
歪んだ郷土愛が「伊都国が女王国の首都に違いないニダ!確定ニダァ!」という願望から即座に伊都国起源を主張し出します。
さらに「五十迹手は五十猛!そして安曇磯良ニダ!」と喚き散らし志賀島まで伊都国にしたがる荒唐無稽さは朝鮮人特有の疾患「火病」として知られています。
このように糸島朝鮮人は何でも伊都国にしたがりますが、ネットの普及や考古学、文献学、民俗学の研究が進むにつれ、そういったウソが即バレする環境になってきています。
しかし残念なことに、いくら即バレしても厚顔無恥な糸島朝鮮人は半日も経つと声闘を再開し、自治厨にレスバを仕掛けるという悪循環によって古代史関連スレが荒れまくるというのが現状です。
しかし、一番の問題は「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とする朝鮮人特有の価値観にあります。
この価値観はホモ・サピエンスへの迷惑行為もさることながら、在日朝鮮人社会にも大きな影を落としています。
韓国経済新聞/中央日報日本語版のコラムを読んでみましょう。
http://japanese.joins.com/article/029/204029.html
>特に韓国の人々は他人を意識して生きる傾向があり、虚礼虚飾もこうした傾向から出たものだ。
>これは奴隷のような人生だ。
>奴隷は主人を意識して生きなければならない。
ここからも糸島朝鮮人には半万年の実績に基づいた「奴隷根性」が遺伝子レベルに深く刻み込まれていると言えます。 >>589
イトという音を持つ国邑をチャイナは伊都と表記し、当人たちは漢字の普及後に怡土と記しただけで同じ国邑だろ。
アメリカという国家を日本人は米利堅と表記し、当人たちはAMERICAと表記してるのと同じ。 >>591
記紀風土記では、怡土と書いた場合はイトと読ませる。周知のことだ。
しかし記紀風土記では、伊都と書いた場合はイツと読ませている。
つまり記紀風土記の編纂にあたった大和朝廷の役人らは、怡土と伊都は別の地名と理解し、区別して記述していたわけだ。 五十迹手(イトテ→イソトテ)
伊蘇国(イソノクニ)
伊覩国(イトコク)
記紀風土記に於いて、
糸島地方を上記のように呼んだという記述は出てくるが、「伊都国」とは言っていない。 刀伊の入寇は女真だというが
名前に同文字の伊を冠する渡来人の入寇があっての倭國乱
倭國乱の時期は210-225年頃
そのころ北の方で王家から追われた伊の付く大王がいたけど
「更作新國 今日所在是也」と周知のこととしてさらっと触れているけど
なんか意味深だなあ .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 刀伊とは:
夷狄 (いてき) を意味する朝鮮語で,女真族 (→女真 ) をさした。
寛仁3年 (1019) 、刀伊は高麗を襲い,さらに五十余隻の軍船で対馬,壱岐を攻め,ついに筑前怡土 (いと) 郡から能古島へ侵入した。
当時,眼病の名医を求めて任地にいた大宰権帥 (ごんのそつ)の藤原隆家ら大宰府の官人が防戦にあたった。
刀伊はさらに肥前松浦などを侵した。
前肥前介源知らが防戦に努めてやっと撃退。
防衛にあたった隆家やこれらの武士から,菊池,原田など九州の有力武士が出た。
(参考:この菊池が熊本の菊池氏、原田が糸島高祖城主の原田氏になった) >>583
工房や硯が出るのだから、漁村ではなく、第二次産業と第三次産業を集約した弥生時代の先進都市だろ。 >>593
五十迹手をイソトテと読むのは糸チョンだけだろ >>594
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
>>595
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / >>597
千余戸の漁村に支配される二万余戸の大国ってあまりにも滑稽な妄想だね笑 記紀風土記に於いて、
伊覩(イト)と伊都(イツ)、の取り扱いはちがう。 郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 >>606
考古学的証拠を無視するなよ。
弥生時代において伊都は先進都市だぞ。 前職が率善中郎將の倭國王のところにも節が假授されたが節は黄色だったと 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 2名の率善中郎將が伊都國王に相当
いずれも母は卑彌呼と同じ
父をちがえた3名の子たちであった 突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 ttp://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/tikuzengunezu/hyojun/hyojun5-8.html
陳壽のいう「伊都國」は8世紀以降の地名区分でいうと志摩郡の方だ
糸島水道沿岸域は志摩郡に属する 「伊都國」の3世紀のローカル音は[yu-tu]で
8世紀以降だと「湯津」に置き換えられている可能性がある 「伊都國」の3世紀のローカル音は[yi-tu]から[yu-tu]で にしよう >>594
古代史関連スレの四大迷惑チョンの
泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘
陳壽のいう「伊都國王」の初代とは
明帝から銀印青綬を假せられた2名のうちのひとりだ
この人は天日矛の3代目で
爾支[ni-qi]の名號を持つ太陽の化身で
ハンコをもらったのがこの上もない誇りで印恵を自称する
出生地は三雲 伊都國の発足は魏代なんだから
むだに伊都を拡張したり古いことにしても無駄だよ 「伊都國」の3世紀のローカル音は[yi-tu]から[yu-tu]といったが
壱岐地方の発声では[yi]は[yu]に容易に遷移しうるような現状があるらしい >>622
魏志倭人伝によると、後漢代に少なくとも70〜80年の間の男王の時代がありますね。
1世紀末には成立していないといけません。
それより前も、倭王帥升の朝貢が107年、倭奴国王の朝貢が57年。
いずれも博多湾沿岸の王と考えられており、三雲南小路遺跡の年代とも被ります。
伊都国の王家の成立は少なくとも後漢の初めです。 奴国や志賀島を治めていた安曇族や天孫族の倭王がいたのが伊都であったことは、すでに繰り返し述べられているよね。 >>620
>この人は天日矛の3代目で
>爾支[ni-qi]の名號を持つ太陽の化身で
>出生地は三雲
この人は天照の3代目で
邇邇芸の名号を持つ太陽の化身で
終焉の地は三雲
(生誕の地は高天原) 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
「女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、
諸国はこれを畏憚す。 常に伊都国に治す。
女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを
恐れはばかっている。 常に伊都国で政務を執っている。 (帯方)郡より女王国に至る。万二千余里。
(帯方)郡から倭に至るには、北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。
狗邪韓国より末盧国に至る。三千余里。
(末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。
(伊都国から)東南、奴国に至る。百里。
(奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。
(末盧国から)女王国まで、二千余里。
(不弥国から)女王国まで、一千三百余里。つまり九州の圏外はあり得ない。 収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」
租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、
大倭にこれを監督させている。 倭国造(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、
後世の大倭国(大和国)中央部にあたる領域を支配した国造。
大倭国造や大和国造とも表記される。
『古事記』、『日本書紀』では倭国造、
物部系 『先代旧事本紀』「国造本紀」では大倭国造と表記される。 祖先
『古事記』では若御毛沼命が吉備国の高嶋宮を出発した後、速吸門(明石海峡)で出会い、
水先案内や献策などを行った国津神の槁根津日子を倭国造に任命したとされる。
『日本書紀』では日向を出発してすぐに出会った椎根津彦(珍彦)が、
神武東征の功により、神武天皇2年に初めて倭国造に任じられたという。
『先代旧事本紀』「国造本紀」では大倭国で出会い、
水先案内を行った彦火々出見尊の孫・椎根津彦命が後に大倭国造に任命されたと伝わる。 神戸市東灘区、金鳥山中腹に保久良神社(ホクラジンジャ)という古社が鎮座している。
創立年暦不詳なれども境内外地は上代祖神の御霊が鎮座せる磐境の遺跡地にして
其れらより発見されつつある石器時代の石斧、石剣、石鉋丁、石鏃類、青銅器時代の
銅戈(重美)弥生式土器が前期中期後期に亘り多数出土し西暦紀元前二、三世紀頃より
西暦紀元三世紀頃のものにしてそのいづれもが儀礼的なものたることの
考證せられてあるを見ればその頃にはもはやこの霊地に祭祀せられたる證拠なり。
また当社は始めに椎根津彦命の子孫たる大和連倉人水守(西暦七六九)等が祭祀したるとも。
御祭神は、椎根津彦命が配されている。
天つ神の御子(神武天皇)が東・大和に向かうことを聞かれ、青亀に乗り、
和田岬の浦にて釣りをしながら、速吸の門(ハヤスイノト)(明石海峡)にて待機、
「私は国つ神、名は珍彦(ウヅヒコ)」と名乗り、「皇船の先導者とならん」と申され、
椎槁(シイザオ)を通して船中に入り、神武天皇と対面、「椎根津彦」の称号を賜り、
後、大倭国造を命ぜられ、海導者として浪花に上陸。 >>632
>水先案内を行った彦火々出見尊の孫・椎根津彦命が後に大倭国造に任命されたと伝わる。
おや?
これは不審な記事ですね。
彦火々出見の孫は、記紀では大和で即位したとか言う神武本人なのですが。
それが大倭(大和)国造とは... 神武天皇時代より数代下ると思われる卑弥呼時代には、
明石神戸地域に、倭・大倭と呼ばれる一族、豪族が勢力圏を築いてて、
のちに神武東征時、奈良盆地の大倭国造として着任したんだろう。 案外、倭人伝の「大倭」とは神武の数代下がる子孫だったのかも知れん、
邪馬台国と「大倭」とでは主従の関係にあったようで。
ただ近畿の「大倭」はヤマトと発音してたかどうか不明? 三輪とか大和田とか地名もあるし。 ただ卑弥呼も「親魏倭王」の金印から「倭王」ではある、ヤヤコシイな。 彦火々出見
天照の曽孫、神武の祖父。
伊都を見下ろす高祖山の中腹にある高祖神社の主(祭神)。
すなわち伊都にいた倭王。 実は大和を含む畿内の実権は三輪山の神や饒速日(三輪山の隣、石上の物部の神)が掌握しており、神武は大和の一地方を任されただけなのではないか?
それを記紀では大和で即位した(何にとは書いてない)と書いただけ。
「嘘はついてないよ〜」(太安万侶)
主従関係の捻れが大倭国造で露呈したのかな。 旧唐書、倭国伝
「倭国はいにしえの倭奴国である」
そして倭王は伊都にいた。 きちがいしかいないねw
一つ言っとくが今時5chなんか見てるやつ、ほとんどいないぞw .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>641
〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>643
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>570
鉄遺跡が政治の範囲の判断になるという指標は学術的に示されては居ない
安曇族、海部家の分家ではヒットするが
逆はヒットしない。噂にすら登っていないということか、通説としては少数派としか判断できないな。
連がついている段階でもう新しい勢力だよ。 >>639
彦ホホデミは物部氏の系譜だから、安曇族とは無関係 >>648
彦火々出見は今でもれっきとした高祖神社の祭神ですよ。 伊都国の範囲が高祖山の東側まで含まれるというのなら、話は非常に簡単になる。
伊都国=筑紫の日向となるからだ。
高祖山の北側に筑紫の日向の小戸、東側に日向川、南側に日向峠があるが、伊都国は主に高祖山の西側とされていた。
伊都の範囲を高祖山の全域に設定するのなら、伊都にいた倭王の王宮は筑紫の日向の高千穂宮となる。
これは高祖神社(高祖宮)の祭神が天孫族の彦火々出見であることと一致する。 天孫族は志賀島の海神の娘を妃にするのが習いだったので、志賀島の王族を安曇と呼ぶなら、伊都とも関係は大いにあったことになる。
彦火々出見の妃は綿津見豊玉彦の娘の豊玉姫である。
その正体は鰐であったそうだが... >>649
そういう事ではなくて、安曇が王家だとすると本家が物部なのにおかしな事になるという事。
日向は都万国。
そんなに版図が広がると記事倭人伝とも合わない >>651
ワニは出雲族や、その血縁の投影。
ヤマトの都もかつてワニにあった。
今の石上神宮の近く。
ヤマト政権を倒した物部は石上神宮の辺りに宮を作った >>652
ここで言う日向は宮崎県ではなく、福岡県北西部のこと。 >>640
確か安曇村時は大神氏頼と同祖って出てたよな。
思いっきり畿内系 >>649
彦火火出見の火は、日神の孫ニニギ降臨の地の霧島火山地帯の火を表しているので、日向四代は南九州。
北部九州はありえない。
火山がない。 >>654
なん・・だとw
ちょっとお勉強したい。
どこかに出ていますか? >>657
ホは稲穂の穂。
その父の邇邇芸や、叔父の饒速日のニギは稲穂が賑々しく(賑やかに)実る様を言う。
いずれも豊穣を祈願するめでたい名前というわけだ。
日ならともかく、火は当て字にすぎない。 >>659
おいおい、このスレでは頻出だよ。
高祖山の北側に筑紫の日向の小戸、東側に日向川、南側に日向峠がある。
つまり高祖山周辺が筑紫の日向。
高祖山の南側の峰は古くはクシフル山と呼ばれていた。
そして決定的なのが高祖神社が祭るのが彦火々出見、細石神社が祭るのが木花咲耶姫だということ。
伊都の王墓は三種の神器が副葬されているのが特徴。
つまり伊都にいて博多湾沿岸を支配していた倭王が天皇家の祖である天孫族だったということ。 宮崎の方の日向国は、景行天皇に因むため、かなり後世の話になる。
都万は投馬国でいいのだが、それは山幸(彦火々出見)により筑紫を追われた海幸が逃れて立てた王国だよ。
九州南部の隼人の祖が海幸とされている。 >>650
> 伊都国の範囲が高祖山の東側まで含まれる
このスレにチョン妄想は不要 >>651
志賀島に弥生時代の居住痕跡はない
奴国王安曇の居住の伝承が残るのは名島神社だけ
よって漁村伊都国は無関係 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 >>660
穂(ホ)は、上につぼまる火の形から生まれた言葉。
火明(ホアカリ)などのホは、火を表している。
この火を表すホは、モンゴル語の熱いを表すhaluun(ハルン)や女真語のhalkan(ハルカン)と同系の言葉。
ホが火を意味するのは、火は熱いから。
火照るやホト(女陰=熱い戸口)のホが、熱い意を表しているのと同じ。
稲穂のホは、火を表すホに由来している。
北部九州に火山はない。 >>666
>稲穂のホは、火を表すホに由来している。
どちらにしろ、弥生時代の稲作の伝来地、弥生文化の中心地である博多湾沿岸の王に相違ない。 沿海州から上陸したなら、上陸地は宮崎県ではなく福岡県でなければならない。 【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>667
まあもとに戻れば、物部がどういうわけで博多のぬしだったのが、わからんのだが。 >>578
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 物部の流れの[息長帶]は[壱岐那から渡ってきた]とよめる
物部本触あたりが根城なんだろ
一大國:天國が拠点化されてそこから竹斯に侵寇したんだろ >>579
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない >>582
>単に倭国では農機具に鉄を使わなかっただけとしか言いようがない。
吉野ケ里では鉄の刃がついたクワやスキが出土しているからそれは無理な主張だ
単に奴国は伊都国から製鉄技法を伝えてもらえなかっただけとしか言いようがない
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/occupation03.html
> 弥生時代の農業生産を画期的に高めたのは、鉄製農具の普及です。
> 鋤や鍬に鉄が使われるようになったことにより、土を耕すことが容易になり(ある研究成果では木製農具に比べ作業効率が約4倍に伸びたと算定しています)、
> 新しい土地を田や畑として切り開く開墾も盛んになったと考えられます。
> 鉄製農具が普及するようになった中期後半以降の集落の急激な増加がそれを裏付けていると言えるでしょう。
> 鉄製農具は農業の生産性を左右する重要なものでしたが、鉄素材は朝鮮半島から得なければならず非常に貴重なものでした。
> 吉野ヶ里遺跡は全国の弥生時代遺跡のなかでも鉄製品が多く出土し、鋤・鍬の鉄製刃先や鉄鎌など鉄製農具も豊富であったことがわかっています。
> このような「鉄」の豊かさは弥生時代の吉野ヶ里が大きな力を持つ集落であったことを示していると考えられます。 淡海[あふみ]の西新は不彌[ふみ]ですよ
>>669の地図に書いてあるよ >>583
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>586
そんな寝言を言ってるのはキナイコシ君ただ一人
現在の糸島市は全域が伊都国の一部
考古学的に見て伊都国の東端は内陸は福岡市の樋井川以西、沿岸は東区まで達する
>>570の通り >>592
別と理解したのではなく別物に仕立て上げたかったんだよ
大和朝廷こそ九州倭国を一番隠蔽したい勢力だということを忘れてはいけない >>612
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>622
>伊都國の発足は魏代なんだから
どこにそんなソースが?
君の妄想が根拠ですか? >>631
どうせなら肝心の箇所も引用しようぜ
氏族
倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。
天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。
その遠祖・椎根津彦は綿積豊玉彦命の曾孫とされ、一族は神別の地祇に類別される。
また八木氏や安曇氏と同族とされる海人族の一族。
また八木氏や安曇氏と同族とされる海人族の一族。
また八木氏や安曇氏と同族とされる海人族の一族。
また八木氏や安曇氏と同族とされる海人族の一族。 >>647
>鉄遺跡が政治の範囲の判断になるという指標は学術的に示されては居ない
明確に文化が異なっている地域が同じ国に属するというタワゴトは学術的に示されてはいないw
>通説としては少数派としか判断できないな。
ツウセツガーで考古学的事実から逃げられるとでも思っているのかねキナイコシ君
それだから畿内説は破綻したんだといい加減理解したまえ
>連がついている段階でもう新しい勢力だよ。
何を寝言を言っているのやら
連は東征以前からの天皇家の臣下だぞ
>>121を100回読んで出直してこい >>648,652
>>534のとおり、安曇と物部は非常に近い親戚筋 >>678
それでは奴国が存在出来ない
不弥国は宇美町と解するべきだろう 魏代には伊都國王がいたと記されている
帝の上級の官にあたる國王は帝からの叙任によって発生する
東夷の王には銀印が与えられるのが普通
伊都國の國とは漢魏晋の行政区画を示すものとして史書に記されていることを認識せよ
難升米の率善中郎將叙任は武官としての率衆王叙任で
明帝によって親魏倭王の守護者として設定されたものだ >>652
>そんなに版図が広がると記事倭人伝とも合わない
逆だよ
伊都国を糸島までとすると>>675のとおり奴国王都の須玖まで300里以上離れてしまって倭人伝と合わなくなる
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度だろう 倭國乱の直前までは須玖に倭國王がおったにちがいないんだが
須玖の王家は三雲の女王家の分家にすぎない >>673
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>675
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 >>679
千余戸の漁村に支配される二万余戸の大国ってあまりにも滑稽な妄想だね笑 >>680
石崎曲り田遺跡って伊都国比定地の外じゃん
古代史関連スレの四大迷惑チョンの
泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 >>682
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>686
伊都国は千余戸の漁村
だからこそ女王国の北限に配された一大率が治を置き検察するのに都合が良かった
これが魏志倭人伝に書かれている現実 >>689
〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました 歴史の真実は一つだけ!日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf 書き込む前にテンプレに目を通そうな
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾肆
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
> >>698
伊都国は漁村ではなく、鉱工業と外交と内政を担う倭国の中心地ですね。 >>704
〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 時系列で言ったらこんな感じPCじゃないと見にくいと思われるスマソ
「出雲大国主順」
1菅八耳(BC600)
2八島篠
3八島手
4布葉之文字巧為
5深渕之水遣花
6臣津野(国引神話)→「子の次男」吾田片隅(宗像家)
7天之冬衣
徐市渡来(219)
8八千鉾(+副王事代主)「磯城登美家」・・・・・「海部氏」・「尾張氏」・・・・・・・・・・「物部氏」
事代主・・・・・・・・・五十猛(香具山)・・・・・・・・・・・ 彦ホホデミ
9鳥鳴海・・・・・・・・・天日方奇日方・・・・・・天村雲・・・天村雲(神武)・・・・・・(不明)
10国押富・・・・・・・・・健飯勝(磯城登美家)・・天御蔭・・・沼川耳(綏靖)→多氏分岐・(不明)
11早瓮之建沢谷地乃身・・・武瓮槌・・・・・・・・・笠水彦・・・玉手看(安寧)・・・・・・(不明)
12瓮主彦・・・・・・・・・豊御気主「A」・・・・・笠津彦・・・懿徳・・・・・・・・・・・(不明)
13田干岸円味・・・・・・・大神饌主・・・・・・・・建田勢・・・孝昭・・・・・・・・・・・(不明)
14身櫓浪・・・・・・・・・大神饌持・・・・・・・・建諸隅・・・孝安・・・・・・・・・・・(不明) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−「和国大乱期開始(147〜188):ヒボコ勢播磨侵攻(150年代)」
15布忍富取鳴身・・・・・・加茂建津乃身(八咫烏)・大和得玉・・孝霊(吉備国分離)・・・・ 彦渚武
16簸張大科戸箕・・・・・・建魂依彦・・・・・・・・意富那比・・孝元(子に大彦)・・・・・ 彦五瀬+磐余彦(記紀の神武)
−−−−−−−−−−−−−−−「和国大乱期終了180年代に大彦が奈良から撤退・三輪山祭祀に銅鏡が入る」
17遠津山崎帯・・・・・・・五十手見(+太田田根子)小縫・・・・開化・・・・・・・・・・・(系図不明:物部イニエ:記紀の崇神)
−−−−−−−−景初年間・魏志倭人伝の時代 豊国・物部連合軍が月の女神を奉じて東征開始
X弩美宿祢(野見宿祢)・・小登与・・・彦坐(+子の彦道主命)・・物部イクメ(記紀の垂仁)
出雲国は17代山崎帯の代で東征により滅びる。
「A」の処に吾田片隅が入ると安曇含め九州全体の歴史が大幅に遅れることになる。
安曇氏は連の姓で海部氏からの分家とされ、帝紀の編纂の時にもメンバーに入る。古代には遡れないとされるのが通説 物部氏はホホデミから渚武までの間の5〜6代が不明。
村雲はBC2〜1世紀の人物。
絶対年代は景初だが、倭国大乱期から行っても八咫烏の時代はある程度見当がつくので記紀に影響を受けない形での考察は各旧家の家系図がないと難しい まぁ九州もむずい
いわゆる皆既日食を見られるラインていうのがあってこれによると
実は対馬がほぼ食分0.99以上で見ることができたようだ
日食がなぜ大事かといえば卑弥呼が見た
あの天と岩戸隠れの伝承になるものとされ
実は天文記録でもチャイナの洛陽あたりで部分日食は観察された記録がある
ただ計算方法の違いでもう少し北緯が上になるという説もある
その説だと富山新潟あたり緯度36度前後この説になると
九州も畿内も大きく外れるw しかしながら出雲伝承、ヒボコの神床家伝承共に邪馬台国は九州説をとっているのです。
おそらく魏書の卑弥呼の実家、宇佐家も同じ。
概要はこんな感じ。
・畿内ヤマトは昔から存在した。尾張家の村雲王は魏志倭人伝以前からの王権で、朝貢も以前から伊都を窓口にしてやってた。
・魏の張政は東征軍に随伴し、最終的には奈良入りしている。そして八坂彦に送られて帰国している。
・しかし朝貢した魏志倭人伝のヤマトは九州勢によるもので、大陸が誤認した、もしくは正当なヤマトの勢力としてお墨付きを与えた。
この説なら安曇も無関係、九州に景初以前の大王陵墓も存在しなくとも九州説が成立する。
そういう立場になっています。
その辺の理由が武内宿禰の父親、フツオシマコトが九州に来ていた事と、本に書かれています。 >>685
製鉄遺跡と単純な鉄器の発掘は意味が全く異なるという事だよ。
なんでその程度のことがわからないのかw
砂鉄で東征ができる物量を賄えるのかどうか少しは考えたらいいのに。
単純な古墳などからの残りやすい環境の下での鉄の出土は、編年(年代による生産量)を考慮しなければ意味がないし、半島の鉄鉱石などの素材の分析も欠かせない。
単純な製鉄なら出雲ですら紀元前からやってる。
しかし、激戦の場となった妻木晩田遺跡からは思いの外鉄の出土は少ない。
鉄は国力や武力の指標にはなっても政治や宗教的結びつきが発生した時期より遅いものなので、そもそもが政治が存在していたからどうかを論じる際に列挙する根拠にはなり得ない。
青銅器の方が重要視されるのは普通のこと。 >>677
ヤマトには農機具ありましたよ?
鉄の刃先が付いていなかっただけの話。
纏向遺跡は、特殊な遺跡で生活の痕跡はほとんどなく、祭祀の痕跡ともう一つ、木製農機具の出土が顕著。
沼地の奈良湖の開拓には鉄の刃先のついた農機具が必要なかったらしいね。
野ダタラと言って、鍛冶の設備の伴わない古代製鉄なら出雲も奈良もやってたよ。
矢の先につける鉄程度なら戦いの際に現地調達しながら戦闘をやってた様だよ。 >>665
事代主、八重波津身の子供であるタケミナカタが九州に行ったという伝承は知らない。
北陸に母親と一緒に行ったという伝承が主体。
九州に行ったというのはどう考えても独自論だね。 >>686
畿内五十猛系の安曇氏が、物部と近いとは考えられない。
祖が同じというだけの遠い親戚 >>662
隼人族はウサと同じで物部や宗方より先に居た九州土着の民族。
親戚ではない。祖は別 >>624
〉倭王帥升の朝貢が107年、倭奴国王の朝貢が57年。
この倭王帥升が畿内政権のクニオシヒトであるという説が明治の頃からある。
物部関係者の淡海三船がつけた諡号の考え方は面白い。
クニオシヒトの天皇名は当時の大陸の皇帝と同じ。
朝貢した国を滅ぼしたので大規模な朝貢を行い、釈明したとする説がある。
実際に、魏志倭人伝の数倍の規模の朝貢であるにもかかわらず、大陸の扱いは非常に冷淡で、何ももらった形跡は無いどころか、メンドという蔑称まで使って卑下している。
伊都の安曇や多臣家は、その後に赴任した可能性がある。 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>540
図をみたけど吉備国の位置分かってる?
思いっきり瀬戸内海に鉄が出てるよね?
畿内の鉄が遅れていたという説明にはなっても、ヒボコ勢力の、朝鮮半島ルートを持ってた丹後と吉備国の瀬戸内海には鉄がありましたよという図に過ぎない。 >>717
伊都に阿曇氏や多氏が居た根拠がないから却下 >>718
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / >>694
物部本村触の車出遺跡では、弥生系の土器は出るものの、半島系の土器は出てないようだけど。
物部の名はあとから付けたもんじゃないの? >>711
>・魏の張政は東征軍に随伴し、最終的には奈良入りしている。そして八坂彦に送られて帰国している。
魏志倭人伝には来た形跡はないし、妄想に近い。
畿内は魏と交流を持っていない。 >>665
>敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
>のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
ふむふむ
>そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
具体的な根拠をお願いします。
むしろ天孫族は安曇らの係累だと思っています。
安曇や天孫族などの海神もしくは天津神を排除して肥国からやってきた勢力が共立したのが卑弥呼だと思っています。 東征軍に随伴したと書いてあるよ。落ち着いて読もうね 三輪氏、大神氏って海人族だったっけ?
大神神社でお船祭りやってるか調べてみるか >>725
伊都に阿曇氏や多氏が居た根拠がないから却下 阿曇や多や天孫族の物部などの外部から渡来してきた酋長は
客として竜宮城待遇されるから固有の生活痕は残しにくい 529日本@名無史さん2020/11/30(月) 07:30:52.07
>>526
>燕の南からの渡来の倭人らの末裔と思われる天孫族の阿毎氏らや、
>出雲系と思われる宗像氏や、呉王夫差の遺民の火の国山門系の姫氏や、
>徐福系の関与があったと思られる肥前や、東テイ人と思われる南九州勢や、
>在地の毛人と思われる猿田彦系原住民などの混在地域であった
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する生活文物や服飾や住居を伴う中国大陸系の生活痕遺構が一切存在しない
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する生活文物や服飾や住居を伴う中国大陸系の生活痕遺構が一切存在しない
それらを全く考古立証できません
中卒すぎるので2回言いました >>729
博多湾に面した名島神社には龍宮城伝承がある
古来から博多湾や対馬など安曇の活動領域では浦をナと呼ぶ痕跡がある
郷ノ浦=ゴウナや辻が浦=ツジナなど
名島も安曇読みではナジマとなるが大和読みではウラシマとなるそうな >>731
その通り
名島に宮を構え、政を執り行うときに志賀島に渡って祈祷していた
それを証明するのが志賀海神社や名島神社、風浪宮に遺る神楽歌 >>732
その言葉遊びを文字にできたのは太宰府近くにいた畿内五十猛系多臣家や漢文が操れた中臣家の関係者ではなかろうかと。
弓前文書の隠し方に近い。縄文や弥生の古語ヤマト言葉を組み合わせた隠し方 安曇の3世紀的な漢字表記は「阿都彌」だとおもう
「阿」というバウンダリーを纏める「彌」である
「彌」が女酋長を示す呼称である可能性も無しとはしない
安曇は4世紀に宗像が渡来する以前には響灘を中心として各地と交通
3世紀初の天孫族渡来後にはある種の共存体制をとり生き残った大勢力だ
むろんのこと三雲の「う」のつく女王家とは別勢力だ
ただし 三雲の「う」のつく女王のことを
我らが「彌」として「阿都彌」と呼んだ可能性もあったかもしれない
多婆那・龍城国で新羅史に出てくる脱解=帥升=スサノヲの本貫が
穴戸近辺ということだ >>735
ふむ。九州説の人は帥升が、スサノオ説をとられる人が多いのですか?
「阿都彌」の、み、の字の考え方、なんか魏志倭人伝的に興味をひいて参りますな
あと、 「倭王因使上表答謝恩詔」
「上表」できるのだからこの段階で既に漢字使い 外交上漢字が使えたからと言って漢字使いと考えるのは間違い
現在でも外交上フランス語もスワヒリ語も使える日本政府だが、首相らがフランス語やスワヒリ語を扱えるわけではない 出雲伝承が、いくら当事者であり、先祖の話と言っても、一子相伝の頭の中から取り出した古い伝承に過ぎません。
文字になったものはすべからくそういうものだと思いますが。
知らない方から見たら当然妄想に近いと思いますが、皆さんの音感のセンスや、九州の古語の発音とヤマト言葉の違いなどの、お話を聞くとワクワクが止まりませんな。
妄想結構。どれをとっても確度の高いものがないのですから、いろんな説や伝承や、噂程度のものでも持ち寄るしか無い事には変わりはありません。 >>739
魏志倭人伝の九州勢の朝貢メンバーに、ヒボコの子孫であるタジマノモリが選ばれたのは朝鮮語が扱え、漢文が読み書きできたからだと言われています。
朝鮮渡来と言われている藤原家ですが、漢文が扱えたから重宝されたのかもしれませんね。
昔は重要な役は世襲が多かったから、後の世に影響を及ぼす氏族には特技みたいのがあるのではないかと考えます。 「阿都彌」の、あ、の字のほうも、
魏志倭人伝的に暗示しておいたのにお気づきですか >>741
> 言われています。
誰が言ってんの??? >>742
新宮町は古くから安曇郷
長野を始め全国に散ったアズミは安曇
にも関わらず大和朝廷に下ったアズミは阿曇
そして志賀海神社、名島神社、風浪宮の神職も安曇ではなく阿曇さん
何か意味があるのだろう 2世紀の半ばに安曇に潜り込んで一体化したのが多氏のご先祖
この系統が韓傳に埋め込まれた秦人に似たるありの東方人 >>743
当事者の家系。
神床家と向家。
鉄器を持ってるヒボコ勢力を味方につけるのは東征軍にとって重要案件だったみたいね
神床家は後の神功皇后を出した家系なので、その子供が養子である伝承まで向家と一致している >>745
それなら後漢鏡が籠神社に伝世している事の説明がつかない。
新撰姓氏録によると、安曇氏は海神・綿積豊玉彦命の子、穂高見命の後とあります。ワタツミ信仰が海童たちのものであるなら、安曇族が九州古来の倭人であるとするのは難しい。
金印の家系は安曇族の前の一族。 >>746
糠床の言い分はどんなかたちで継承されてるん??? 安曇は穴戸をも含んだ響灘沿岸域が活動中心域で
墓制は箱式石棺墓
多氏のご先祖に続いて天の日矛の天孫族も安曇に潜り込む形態をとる
籠神社の前漢鏡+後漢鏡は天日矛の招来品で
倭國乱直前あたりがその招来時期
8世紀の先祖騙りは為すこと騙るもののフリーハンド >>748
実は先代の口伝の伝承者の向家の娘さんが神床家に嫁入りしています。
昔は相当やりあった様ですが今では親戚関係。
普通に取材して、会話の記録を本に載せています。
神床家は現在では明治政府の方針で、世襲の社家ではなくなり氏子さんになっています。
出石文書や、神床家文書というものがある様ですが、千家や富家(向家)文書、物部トオチネの家の秋上文書の様に書籍化はされてない様です。 >>749
〉多氏のご先祖に続いて天の日矛の天孫族も安曇に潜り込む形態をとる
まるで阿波さんじゃ無いのww
ブラックホールじゃ無いんだからw >>749
天孫族は新羅出身てこと?
倭国乱は新羅人vs越人だったと言いたいの? >>750
その糠床の口伝やら向の古文書やらの信憑性は何%くらいあるの?
ぶっちゃけトンデモにしか感じられないんだけど >>744
安曇も阿雲も一緒では?
穂高神の兄弟が分かれて信濃に来たという説があります。
狙いは水銀。
水銀の砂が取れたらしい。
中央構造線からは外れているのでヤマト鉱床ほどの採掘は無かったと思われますが けっきょく糸島朝鮮人がいなくなっても次の朝鮮起源説がその隙間を埋めるように湧いてくるんだな >>753
当事者の伝承が信じられないのならそれはそれで仕方がありませんね。
しかし他に確度の高いものは既出の記紀などの出尽くしたもの以外にはもう何も無いと思われるので、現状は国造本義や何とか録から名字を掘り出すしか手がないのも事実。 >>757
海人族が、我が出身地ではありますが、あんなとんでもない山の中に来るなんて相当のメリットが無ければ来ませんよ
昔は上高地なんて、松本電鉄の終着駅から山の中を16キロ歩いてやっとこさ穂高神社の奥社の対岸あたりに出るくらい。
正直人の住むところではありません 古事記に安曇はイザナギ以前からとちゃんと書いてあるのだが >>760
イザナギ、イザナミは出雲系の神様ですよ。
用明天皇木には既に存在していたとされる神魂神社で最初に祀られました。 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 用明天皇は倭国王が先祖認証されて天皇に登録されたもので
本来天皇と称すにはあたらない
7世紀初頭には天皇の称はまだ使用されなかった
というのが教科書的な基礎知識 >>753
あとはですね、子孫のタジマノモリが出雲国を滅ぼしたんですよね。
正確には、兎上王、物部朝倉、物部トオチネの連合軍ですが。
敵対する陣営の伝承が一致しているという事で「多少は」確度があがるのではないかとw
しかし、トンデモ説と言えば、一般的なお話ではないので当然そうなってもとは思います〜。 >>765
>7世紀初頭には天皇の称はまだ使用されなかった
というのが教科書的な基礎知識
だから何だというのですか?記紀により天皇呼称にされただけの話で、別に通じない話ではないのでは?
現代語で言うのならそうなるというだけの話。 >>764
766参照
利害関係者どころか仇敵です。
辰韓王家から追い出されて日本に来た時に、当時の出雲王にちょっと態度が悪くて上陸する土地を世話してもらえなかったそうな。
そのことをずっと恨みに思ってて出雲攻めの時に、瀬戸内海の本体ではなく、わざわざ分隊の出雲攻撃軍に加わった位。 >>763
信濃の安曇族が水銀を目当てにこちらに来たのではないかというお話です。
ちなみに、松本電鉄の終点、新島々近辺は、秦氏の地盤だったらしく、今でも波多の地名になっています。
ワダツミと秦氏(海童)は近い氏族ですよね >>769
こちらってのはどこの事を指してるんだ? >>770
こちら=長野県です〜
因みに、秦族がワダツミの神を奉じていたのは出雲風土記にも出ていますよ〜 丹後のコノ神社も極秘伝をもう書籍化してて
「元初の最高神と大和朝廷の元始」は数万円の部が付くTT
とても買えません。 >>769
>ワダツミと秦氏(海童)は近い氏族
>>745 >>773
そもそもが神武の家系、尾張氏の宮に草薙の剣がある時点で、尾張氏の分家である海部氏が、安曇の分家である説はトンデモ説になる。 8世紀の先祖騙りは父系でそのルーツを辿る作業だ
しかし実際には3世紀の酋長たちのファミリーは母系原理でまとまっている
母の血筋で連綿と纏まり続けているところのものを
父系で先祖認証してあげること自体がトンデモ認証なのですよ >>749
>籠神社の前漢鏡+後漢鏡は天日矛
饒速日の十種の神宝では? 故其天之日矛持渡來物者 玉津寶云而 珠二貫 又振浪比禮 切浪比禮 振風比禮 切風比禮 又奧津鏡 邊津鏡 并八種也 辰韓の朝鮮人ヒボコが、海部氏、物部氏の親族の宗像家を象徴とする前漢鏡、後漢鏡を持ってきてるはずがないのだがな。
古事記のこの分は、てんこ盛り過ぎて一番隠したい氏族が誰なのかさっぱりなのである。 >>744
邪馬台国連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇 >>692
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>693
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度だろう >>695
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>698
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>701
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>704
考古学的に見て正しい認識だね
どう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ
福岡、国内最古級の「すずり」か 糸島市の御床松原遺跡
https://www.tokyo-np.co.jp/article/71187
> 福岡県糸島市の御床松原遺跡で出土していた板状石製品は弥生時代中期前半(紀元前150年ごろ)で、国内最古級のすずりとみられることが分かったと
> 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が28日、九州考古学会総会で発表した。
> 柳田氏は御床松原遺跡の発掘報告書で「くわ」とされた石製品(長さ18・6センチ、幅6・8センチ、厚さ1・2センチ)を鑑定。
> 柳田氏が2017年に墨の付着跡などから完形品のすずりと発表した薬師ノ上遺跡(同県筑前町)の石製品(長さ15・3センチ、最大幅6・3センチ、厚さ0・7センチ)と同じ形状と分かり、
> 御床松原の石製品は製作途中のすずりと判断した。 >>707
>安曇氏は連の姓で海部氏からの分家とされ、帝紀の編纂の時にもメンバーに入る。古代には遡れないとされるのが通説
どこの通説なんだかw
まあ本人がトンデモだと認めたようなのでいいけど、連は>>121のとおり東征以前からの皇室の家臣の家系で古代氏族そのもの
結局そうやって事実を無視しなければ成り立たない妄想っていうのは単に間違ってるだけなんだよな >>711
およそ考古学を完全に無視した暴論だな
卑弥呼の3世紀までには既に近畿一帯は北部九州の安曇の進出を受けていて包囲されていた状態なのが考古学的事実
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w
まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)
包囲される奈良盆地の図
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg >>781
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>782
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 >>783
千余戸の漁村に支配される二万余戸の大国ってあまりにも滑稽な妄想だね笑 >>784
伊都国は千余戸の漁村
だからこそ女王国の北限に配された一大率が治を置き検察するのに都合が良かった
これが魏志倭人伝に書かれている現実 >>785
朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>786
古代史関連スレの四大迷惑チョンの
泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技
こじつけ
思い込み
盲信
猿芝居
声闘 >>787
〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>788
郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 〜糸島朝鮮人が何でも伊都国にしたがる理由を知ろう♪〜
依然として古代史関連スレで長文コピペ連投という声闘を続ける糸島朝鮮人は何でも伊都国にしたがる性質を持っています。
幼少期から現在まで続く劣等感と出生の卑しさを認めたくないという感情が「我が家は薩摩隼人の血筋で縄文系ニダ!」という幻想を抱かせてしまいました。
歪んだ郷土愛が「伊都国が女王国の首都に違いないニダ!確定ニダァ!」という願望から即座に伊都国起源を主張し出します。
さらに「五十迹手は五十猛!そして安曇磯良ニダ!」と喚き散らし志賀島まで伊都国にしたがる荒唐無稽さは朝鮮人特有の疾患「火病」として知られています。
このように糸島朝鮮人は何でも伊都国にしたがりますが、ネットの普及や考古学、文献学、民俗学の研究が進むにつれ、そういったウソが即バレする環境になってきています。
しかし残念なことに、いくら即バレしても厚顔無恥な糸島朝鮮人は半日も経つと声闘を再開し、自治厨にレスバを仕掛けるという悪循環によって古代史関連スレが荒れまくるというのが現状です。
しかし、一番の問題は「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とする朝鮮人特有の価値観にあります。
この価値観はホモ・サピエンスへの迷惑行為もさることながら、在日朝鮮人社会にも大きな影を落としています。
韓国経済新聞/中央日報日本語版のコラムを読んでみましょう。
http://japanese.joins.com/article/029/204029.html
>特に韓国の人々は他人を意識して生きる傾向があり、虚礼虚飾もこうした傾向から出たものだ。
>これは奴隷のような人生だ。
>奴隷は主人を意識して生きなければならない。
ここからも糸島朝鮮人には半万年の実績に基づいた「奴隷根性」が遺伝子レベルに深く刻み込まれていると言えます。 〜糸島朝鮮人だけが持つ独特の「正義」の概念を理解しよう♪〜
糸島朝鮮人の考える「正義」の概念は非常に独特で、根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠もなく、糸島朝鮮人がその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
象徴的なのが糸島朝鮮人の声闘連投である>>539-546です。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、糸島朝鮮人は「相手の正義」を認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解や捏造など)する事で「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういった糸島朝鮮人の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となります。
しかし、糸島朝鮮人独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
この特殊な「正義観」には「論点をすり替えさせる隙を与えない」ことで対処可能です。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
糸島朝鮮人にとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に声闘連投と猿芝居を投稿して負けかけたことをなかった事にしようとします。
糸島朝鮮人以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、糸島朝鮮人独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「自分だけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の民族妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf 朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
正式な大和読みで30日をミ「ソ」+カ、40日をヨ「ソ」+カと読むにも関わらず、続く50日は「ソ」と読ませず五十「イ」+日「カ」なわけだから、やはり五十は「イ」と読むのが正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」は誤りです
「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り で す
声闘連投で精神勝利するしか能のないち糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してあげました >>712
>製鉄遺跡と単純な鉄器の発掘は意味が全く異なるという事だよ。
それを主張しているのはこっちなのだが
なんでその程度のことが分からないのかw
鉄器という"製品"は交易でも手に入るが製鉄技術はそうはいかない
伊都国領域にしか製鉄の痕跡がないのは奴国には製鉄技術を渡さなかった以外に解釈のしようがない
>砂鉄で東征ができる物量を賄えるのかどうか少しは考えたらいいのに。
当時砂鉄からの製鉄は行われてないというのが通説なんだが
鉄は朝鮮半島からの輸入品で、その流通を支配したのが半島航路を独占した伊都の安曇族
当然製鉄の技も安曇のもの
>鉄は国力や武力の指標にはなっても政治や宗教的結びつきが発生した時期より遅いものなので、そもそもが政治が存在していたからどうかを論じる際に列挙する根拠にはなり得ない。
宗教が結びつかなきゃ国の違いの根拠にならないというお前の自分ルールなんて無価値なんだよ
文化が全く異なるということは国が違ったということである
この当時に一つの国邑の中に全く違った文化が併存したというお前の主張こそ全く根拠を欠く非現実的なものである >>713
畿内大和の農機具は木製だからなんの関係も無い話
農機具に鉄を使えたのは安曇と付き合いのあった女王国連合とその友好国、そして安曇の進出地
>野ダタラと言って、鍛冶の設備の伴わない古代製鉄なら出雲も奈良もやってたよ。
だからそのソースを出せと言ってるわけだが
>矢の先につける鉄程度なら戦いの際に現地調達しながら戦闘をやってた様だよ。
その妄想もソース出せ >>715
君のトンデモ妄想は根拠にならない
天村雲=アメノイタテが安曇の族長である五十迹手=イソタケルなのだから、その父天香語山とウマシマジが兄弟または同一人物という時点で
ほとんど同族に近いくらいの氏族 >文化が全く異なるということは国が違ったということである
銅矛文化圏→鉄器文化圏
銅鐸文化圏→桃核文化圏
なるほどね。 >>801
御床松原遺跡は旧志摩郡だろ
勝手に伊都国領域にするなよ糸島朝鮮人w
海人族の安曇が伊都国と何の関係があるんだよ糸島朝鮮人ww もののけはどっちかいうと、狗奴国側。
負けて九州では熊本に追いやられたし、九州外ではなんもない奈良に追いやられたんじゃないの。
石の動きからして。 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 >>719
>図をみたけど吉備国の位置分かってる?思いっきり瀬戸内海に鉄が出てるよね?
「見ての通り吉備の鉄器保有数は凡庸であり、九州には遠く及ばない 九州と安曇の進出地が圧倒的に多数を占めている」
って書いてるんだけで日本語読めないの?
岡山県の291個は福岡県の1621個や安曇の進出地である若狭湾岸(福井)の1100個、>>541で指摘した鳥取の671個、
射楯兵主神社のある安曇ゆかりの兵庫の351個に比べても明らかに少ない
吉備が鉄器生産で有名になったというのは少なくともこの時代には全く当てはまらない
>畿内の鉄が遅れていたという説明にはなっても、ヒボコ勢力の、朝鮮半島ルートを持ってた丹後と吉備国の瀬戸内海には鉄がありましたよという図に過ぎない。
朝鮮半島ルートを持っていたのは伊都国の安曇という図そのものだが
瀬戸内海沿岸の国とて結局製鉄遺構のほとんどは海辺に集中していて単に安曇のコロニーがそこにあっただけの話に過ぎない
君の話は徹底的に願望のみで構成されていて考古学と完全に反している
それは事実ではないということだ
弥生時代の鉄鍛冶工房
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg >>728
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない >>744
アズミの音が先にあって後世に漢字が当てられたのだから表記がブレているだけだろう
字の表記に過剰な期待を寄せている人はリアルタイムではまだ漢字が使われていなかったという事実を忘れている >>754
長野への安曇族進出はおそらく翡翠の取れる姫川を日本海側から遡上したことによるものだろう
海人族である安曇だが地下資源の獲得にもかなり貪欲であったことが各地の川沿いに大きく遡上した形跡があることなどから見て取れる >>761
無い無い
イザナギが禊をした小戸は博多湾岸だしオノコロ島は能古島
九州の人物 >>789
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>782
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度だろう >>790
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度だろう >>791
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>792
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>793
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>800
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>805
そんな寝言を言ってるのはキナイコシ君ただ一人
現在の糸島市は全域が伊都国の一部
考古学的に見て伊都国の東端は内陸は福岡市の樋井川以西、沿岸は東区まで達する
>>570の通り >>809
伊都に阿曇氏や多氏が居た根拠がないから却下 >>810
邪馬台国連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇 >>814
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ >>815
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 >>816
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 >>817
千余戸の漁村に支配される二万余戸の大国ってあまりにも滑稽な妄想だね笑 >>818
伊都国は千余戸の漁村
だからこそ女王国の北限に配された一大率が治を置き検察するのに都合が良かった
これが魏志倭人伝に書かれている現実 >>819
朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>820
朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>821
御床松原遺跡は旧志摩郡だろ
勝手に伊都国領域にするなよ糸島朝鮮人w
海人族の安曇が伊都国と何の関係があるんだよ糸島朝鮮人ww 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の民族妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf 歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度であったのだろう。 〜糸島朝鮮人特有の三種の神技〜
∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧_,,∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) 郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 〜糸島朝鮮人が何でも伊都国にしたがる理由を知ろう♪〜
依然として古代史関連スレで長文コピペ連投という声闘を続ける糸島朝鮮人は何でも伊都国にしたがる性質を持っています。
幼少期から現在まで続く劣等感と出生の卑しさを認めたくないという感情が「我が家は薩摩隼人の血筋で縄文系ニダ!」という幻想を抱かせてしまいました。
歪んだ郷土愛が「伊都国が女王国の首都に違いないニダ!確定ニダァ!」という願望から即座に伊都国起源を主張し出します。
さらに「五十迹手は五十猛!そして安曇磯良ニダ!」と喚き散らし志賀島まで伊都国にしたがる荒唐無稽さは朝鮮人特有の疾患「火病」として知られています。
このように糸島朝鮮人は何でも伊都国にしたがりますが、ネットの普及や考古学、文献学、民俗学の研究が進むにつれ、そういったウソが即バレする環境になってきています。
しかし残念なことに、いくら即バレしても厚顔無恥な糸島朝鮮人は半日も経つと声闘を再開し、自治厨にレスバを仕掛けるという悪循環によって古代史関連スレが荒れまくるというのが現状です。
しかし、一番の問題は「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とする朝鮮人特有の価値観にあります。
この価値観はホモ・サピエンスへの迷惑行為もさることながら、在日朝鮮人社会にも大きな影を落としています。
韓国経済新聞/中央日報日本語版のコラムを読んでみましょう。
http://japanese.joins.com/article/029/204029.html
>特に韓国の人々は他人を意識して生きる傾向があり、虚礼虚飾もこうした傾向から出たものだ。
>これは奴隷のような人生だ。
>奴隷は主人を意識して生きなければならない。
ここからも糸島朝鮮人には半万年の実績に基づいた「奴隷根性」が遺伝子レベルに深く刻み込まれていると言えます。 〜糸島朝鮮人だけが持つ独特の「正義」の概念を理解しよう♪〜
糸島朝鮮人の考える「正義」の概念は非常に独特で、根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠もなく、糸島朝鮮人がその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
象徴的なのが糸島朝鮮人の声闘連投である>>539-546です。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、糸島朝鮮人は「相手の正義」を認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解や捏造など)する事で「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういった糸島朝鮮人の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となります。
しかし、糸島朝鮮人独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
この特殊な「正義観」には「論点をすり替えさせる隙を与えない」ことで対処可能です。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
糸島朝鮮人にとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に声闘連投と猿芝居を投稿して負けかけたことをなかった事にしようとします。
糸島朝鮮人以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、糸島朝鮮人独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「自分だけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 伝承があるなら、脚色や解釈を加えず、原文のままできちんと出版や学術報告で世に出すべきなのではないか? 4世紀までしか遡れないとか3世紀までしか遡れないとかいう発言は、畿内説をゴリ押ししたいだけのキナイコシ >>838
>敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活で
>ノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
>のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する生活文物や服飾や住居を伴う中国大陸系の生活痕遺構が一切存在しない
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する生活文物や服飾や住居を伴う中国大陸系の生活痕遺構が一切存在しない
百越の渡来定着を全く考古立証できません
中卒すぎるので2回言いました .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず
. >>842
伊都国は千余戸の漁村
だからこそ女王国の北限に配された一大率が治を置き検察するのに都合が良かった
これが魏志倭人伝に書かれている現実 >>840
それは現実を直視できない糸島朝鮮人の被害妄想 >>843
在日ヒトモドキは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
※学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
https://library.knou.ac.kr/user/login?returnUrl=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061&__referer=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
※ウルサン市公式サイト「ムゴドン オクヒョン遺跡」
http://ulsan.grandculture.net/Contents/Index?local=ulsan
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない
賤しくも憐れな無能生物なのです。 >>846
おまえの正体
孔子学院(こうしがくいん)とは、中華人民共和国が諸外国の大学などの教育機関と提携し、
中国語や中国文化の教育及び宣伝(プロパガンダ)、中華人民共和国との友好関係醸成を
目的に設立した中国政府の機関である。中国共産党中央統一戦線工作部の強い影響下に
置かれている。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2
. >>847
在日ヒトモドキは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、
同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。
1999年に学術論文「ウルサンムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、
玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
そもそも玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、
そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、
中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、
在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、
グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、
中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない
賤しくも憐れな無能生物なのです。 >>811
その方向性は安曇族と大彦(尾張家正当)の狗奴国とある程度仲良くなければ無理
タケミナカタは事代主が母方共通の先祖だから通過できるけど、縁のない勢力は通れない。
畿内五十猛と九州五十猛が喧嘩しないシナリオが無ければ4世紀の出雲や尾張家国造の地域を通る事は困難。 隋書:都斯麻國 (つしまこく)
記紀:伊都之尾羽張(いつのおはばり)
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
隋書でも記紀でも都は「つ」。 ゆえに伊都国も「いつこく」と読む。 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 >>850
(邪馬)壱国→伊都国だしね。
トでもツでもあんま変わらないというか、
上古音(ト)→中古音(ツ)の変化でしかないし。 天のところが〆て壱萬戸弱で
天のところの治所が伊都で
天のところの域称が伊で
天のところの別称が壹 天のところの治所の伊都には魏代に王がいて
その王は女王に絡んでいたとも書いてある 天+山+海で構成される倭國の仮想上の課税徴収単位は
壱萬戸弱+六萬餘戸+五萬餘戸となり
それぞれに
銀印青綬+金印紫綬+銀印青綬 が眀帝から 假せられた 伊都国は千余戸の漁村
だからこそ女王国の北限に配された一大率が治を置き検察するのに都合が良かった
これが魏志倭人伝に書かれている現実 >>822
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない >>823
そうやって根拠ゼロの妄想を連呼するのはキナイコシ君の故郷・朝鮮半島に伝わる伝統「声闘」ですねわかります >>824
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>825
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度だろう >>827
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>828
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>829
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>830
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>831
そんな寝言を言ってるのはキナイコシ君ただ一人
現在の糸島市は全域が伊都国の一部
考古学的に見て伊都国の東端は内陸は福岡市の樋井川以西、沿岸は東区まで達する
>>570の通り >>833
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度だろう >>844
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>849
>その方向性は安曇族と大彦(尾張家正当)の狗奴国とある程度仲良くなければ無理
そういう考古学的な裏付けのない妄想は無用
尾張は安曇と同祖氏族
http://img-cdn.jg.jugem.jp/472/1262880/20190718_2587894.png >>857
伊都に阿曇氏や多氏が居た根拠がないから却下 結局キナイコシ君も出雲妄想の人も主張に一切考古学的な裏付けが存在しない
それは当然で、考古学に基づいて考えれば安曇は伊都王家にしかなりようがないし、
鉄の分布を見れば3世紀の畿内に王権があったとかの寝言は成り立ち得ないからである
考古学の裏付けを得られない妄想は等しく無価値である >>858-859
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>869
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない >>860
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 >>871
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>873
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度だろう >>861
千余戸の漁村に支配される二万余戸の大国ってあまりにも滑稽な糸島朝鮮妄想だね笑 >>862
伊都国は千余戸の漁村
だからこそ女王国の北限に配された一大率が治を置き検察するのに都合が良かった
これが魏志倭人伝に書かれている現実 >>863
朝鮮起源説に結びつけようと画策する在日朝鮮人たちの妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>876
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>877
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>878
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>864
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>865
御床松原遺跡は旧志摩郡だろ
勝手に伊都国領域にするなよ糸島朝鮮人w
海人族の安曇が伊都国と何の関係があるんだよ糸島朝鮮人ww >>866
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 >>866
〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>882
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>883
そんな寝言を言ってるのはキナイコシ君ただ一人
現在の糸島市は全域が伊都国の一部
考古学的に見て伊都国の東端は内陸は福岡市の樋井川以西、沿岸は東区まで達する
>>570の通り >>867
歴史の真実は一つだけ!日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
〜仲哀天皇八年一月〜
イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
分明に山川海原を看て
十握剣をひっさげて天下を
平定していただきたいと
願っておりまするニダ
あ、ウリは高麗意呂山に降りた
日拝の苗裔ニダよ〜
仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
じゃっ!
〜現代〜
糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!
これはきっとスサノオと新羅に降りた
エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!
つまり海人族も伊都国王ニダ!
んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
異論は認めないニダ!
糸チョンの妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf >>884
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度だろう >>870
〜突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜
∧糸∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)
∧糸∧
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)
∧糸∧
<;l|l;`田´>
チョンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る) >>872
伊都に阿曇氏や多氏が居た根拠がないから却下 >>874
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>875
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 >>879
千余戸の漁村に支配される二万余戸の大国ってあまりにも滑稽な糸島朝鮮妄想だね笑 >>880
伊都国は千余戸の漁村
だからこそ女王国の北限に配された一大率が治を置き検察するのに都合が良かった
これが魏志倭人伝に書かれている現実 >>881
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>886
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>887
御床松原遺跡は旧志摩郡だろ
勝手に伊都国領域にするなよ糸島朝鮮人w
海人族の安曇が伊都国と何の関係があるんだよ糸島朝鮮人ww >>891
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない >>889
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 >>892
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>899
伊都に阿曇氏や多氏が居た根拠がないから却下 >>901
突如として薩摩隼人の末裔を自称し出した糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>893
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある >>894
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>895
糸島の遺跡分布の多さから見て伊都国の人口論は魏略の戸万余が正しい
それだけのこと
まして>>570の通り樋井川以西は伊都国なんだからなおのことだ >>896
>>15の事実に一切反論できず声闘か
さすがキナイコシは朝鮮人と同じ精神構造だなw
キナイコシ君の体に脈々と流れる朝鮮人の血が声闘をさせずにはおかないんだなw
関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw >>897
キナイコシの得意技・猿真似乙
オリジナルは>>24 >>898
そんな寝言を言ってるのはキナイコシ君ただ一人
現在の糸島市は全域が伊都国の一部
考古学的に見て伊都国の東端は内陸は福岡市の樋井川以西、沿岸は東区まで達する
>>570の通り >>900
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw
日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない
須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度だろう >>904
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 >>905
千余戸の漁村に支配される二万余戸の大国ってあまりにも滑稽な糸島朝鮮妄想だね笑 >>906
伊都国は千余戸の漁村
だからこそ女王国の北限に配された一大率が治を置き検察するのに都合が良かった
これが魏志倭人伝に書かれている現実 >>907
朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白
五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴はイ、糸ちょんが愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは五十日からの転用(誤読)だろう
5日=イツか、10日=トオか、20日=ハツか、30日=ミソか、40日=ヨソか、50日=イか、100日=モモかが正式な大和読み
50日は五十「イ」+日「カ」なわけだから、五十は「イ」と読むのがやはり正しい
そして五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している
書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです
「イソタケルノミコト」 は誤りです
無能の在日朝鮮人工作員にも理解できるように三回連呼してあげました >>908
糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。
声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 5ちゃんねるで言えば長文の連投と言えるだろう。
議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。
古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返す。
そして相手を加害者に仕立て上げ、自分を被害者にする。
自分に非があっても決して認めず、大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。 >>910
歴史の真実は一つだけ!
日本史板に在日朝鮮人工作員の妄想は不要です!
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。
常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。 >>1
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
>
> 倭国=阿波だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 「邪馬臺国」は阿波だった Part.8
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/
>
> オクキョン?遺跡が名畑遺跡より古いと言い張る人はコチラ↓に移動
> 日本に対する朝鮮起源説を真面目に考えるスレ
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1549585819/ 地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと
現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)
敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)
青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)
天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 被害妄想に苛まれて統合失調症を発症している火病の糸島朝鮮人はこのスレに不要です♪
> 九州に決まっとろうが?
> 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
>
> ここは畿内説を始め、阿波説や伊都説などの言葉遊びを論理的に反論するスレやで
>
> 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
>
> 前スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
> 同じ轍を踏まないためにも、このスレでは阿波ネタ、伊都ネタ、オクキョンネタ、キナイコシネタを禁じます。
>
> 必須NGワード:@阿波、伊都、五十迹手、オクキョン、キナイコシ
>
> 伊都国王=海人族だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 伊都国王は五十猛で阿曇磯良で伊都国は邪馬台国
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603956031/
>
> 伊都国=邪馬台国だと言い張る人はコチラ↓に移動
> 女王國=伊都國=邪馬台国の首都 Part.2
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/
> or
> 邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
> https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/
>>1 〜糸島朝鮮人が何でも伊都国にしたがる理由を知ろう♪〜
依然として古代史関連スレで長文コピペ連投という声闘を続ける糸島朝鮮人は何でも伊都国にしたがる性質を持っています。
幼少期から現在まで続く劣等感と出生の卑しさを認めたくないという感情が「我が家は薩摩隼人の血筋で縄文系ニダ!」という幻想を抱かせてしまいました。
歪んだ郷土愛が「伊都国が女王国の首都に違いないニダ!確定ニダァ!」という願望から即座に伊都国起源を主張し出します。
さらに「五十迹手は五十猛!そして安曇磯良ニダ!」と喚き散らし志賀島まで伊都国にしたがる荒唐無稽さは朝鮮人特有の疾患「火病」として知られています。
このように糸島朝鮮人は何でも伊都国にしたがりますが、ネットの普及や考古学、文献学、民俗学の研究が進むにつれ、そういったウソが即バレする環境になってきています。
しかし残念なことに、いくら即バレしても厚顔無恥な糸島朝鮮人は半日も経つと声闘を再開し、自治厨にレスバを仕掛けるという悪循環によって古代史関連スレが荒れまくるというのが現状です。
しかし、一番の問題は「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とする朝鮮人特有の価値観にあります。
この価値観はホモ・サピエンスへの迷惑行為もさることながら、在日朝鮮人社会にも大きな影を落としています。
韓国経済新聞/中央日報日本語版のコラムを読んでみましょう。
http://japanese.joins.com/article/029/204029.html
>特に韓国の人々は他人を意識して生きる傾向があり、虚礼虚飾もこうした傾向から出たものだ。
>これは奴隷のような人生だ。
>奴隷は主人を意識して生きなければならない。
ここからも糸島朝鮮人には半万年の実績に基づいた「奴隷根性」が遺伝子レベルに深く刻み込まれていると言えます。 〜糸島朝鮮人だけが持つ独特の「正義」の概念を理解しよう♪〜
糸島朝鮮人の考える「正義」の概念は非常に独特で、根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠もなく、糸島朝鮮人がその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
象徴的なのが糸島朝鮮人の声闘連投である>>539-546です。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、糸島朝鮮人は「相手の正義」を認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解や捏造など)する事で「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういった糸島朝鮮人の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となります。
しかし、糸島朝鮮人独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
この特殊な「正義観」には「論点をすり替えさせる隙を与えない」ことで対処可能です。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
糸島朝鮮人にとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に声闘連投と猿芝居を投稿して負けかけたことをなかった事にしようとします。
糸島朝鮮人以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、糸島朝鮮人独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「自分だけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 >>914
妄想に取り憑かれた狂人は哀れだな。
伊都国は寒村どころか、最先端の工人が集まり、外交官が駐在し、弥生時代でも屈指の繁栄した都市だったことがわかっている。 テンプレ軍団の巣窟。気持ち悪がられても全然平気とはもはや人間ではない。 五十猛神社があるとそこが上陸した土地ニダだってよ。
スゲー考古学だな
和歌山にも徐福伝説があるから徐福も大忙しだったんだな
五十猛も同じだわ。
そういや徐福は朝鮮にも伝説があったな >>923
伊都国は千余戸の漁村だったことは確定済み。
だからこそ女王国の北限に配された一大率が治を置き検察するのに都合が良かった。
これが魏志倭人伝に書かれている現実。 >>924
続いて記されているのは皆臨津捜露
(一大率は)津に臨みて捜露す
一大率が津(伊都国)に駐在してなかった動かぬ証拠が魏志倭人伝には克明に記されている >>925
それが捏造を生きがいとする朝鮮人という存在
無論、自治厨も似た者同士 縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する生活文物や服飾や住居を伴う中国大陸系の生活痕遺構が一切存在しない
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国大陸系の
衣食住に関する生活文物や服飾や住居を伴う中国大陸系の生活痕遺構が一切存在しない
徐福なんて全く考古立証できません
中卒すぎるので2回言いました >>926
何でも面白そうな物は全て伊都国に擦り付けないと死んじゃう病なのだから仕方がない
せめて伊都国スレがあるのだからそっちでやってくれれば良いのだが糸島朝鮮人は人に迷惑をかけることに存在意義を見出してるキチガイなのだろう >>931
タケミナカタまで九州に居たとかもう後付けのごちゃ混ぜ。なんなんだあいつは。 >>932
それが朝鮮学校の反日教育が産み落とした糸島朝鮮人という狂人。 なんだったか淡路島の遺跡で出た釣り針?かモリの先端かなんか鉄器の時も即座に脊髄反射して九州式とか張り付いてたけどあれって普通に畿内からも出てる。
珍しい事は珍しいのだが。 スレッドが進む毎にいろんな人の話を見た後に
それ九州安曇の話な
と語尾をつけてくるだけの展開しか見えてこねー >>934
九州を中心に分布していたら九州式でいいだろ。
それが畿内まで広まっただけ。 >>928
伊都は内陸だから、伊都にいた大率がわざわざ港まで出向いてきていたんだよね。 >>935
糸チョンは安曇を伊都国王だと捏造しないとただの漁村だとバレてしまうから必死なんだよ
必死に捏造作業を連投し過ぎたから浪人垢を焼かれたわけだが(笑) 全部伊都王家から始まったとかいう話はまるで@阿波。 >>936
即座に脊髄反射して後付けする
と言われた直後にそれヤルんかよ。 >>932
そんなことは言っていない。
建御名方は高志沼河姫(コシノヌナカワヒメ)の息子なので、越の生まれだろう。 >>936
畿内のやつの方が古かったら畿内式になるのだが裏付けも無しに九州を中心にとかいう段顔で既に狂気の片鱗を感じるわ
自分のやってることが理解できてない .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. https://www.google.com/search?tbm=isch&q=%E8%88%88%E9%9A%86%E7%AA%AA%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%8E%89%E7%8E%A6
龍だとされる興隆窪文化の玉玦ですけど
これに似たものを弥生人はもち込んでいますね
弥生前期の勾玉はまだ定形化されていません
後進地を含めて言えば弥生前期は縄文併行期になりますけど けつ状耳飾りは7500年くらい前の縄文時代早期末には伝来してるよ
おそらく沿海州から入ってきたのではないか? カルトって表現良いな
糸チョンだの糸島朝鮮人など人種差別的な表現より品位が保てる
今後は糸カルトで統一しないか? ちょっといい感じになってきたので横から入ります〜
実はあそこから100点を超える鉄器や「朝鮮半島製とされる板状鉄斧」が出土しています。
鉄器の中では鏃が多く、戦闘を意識した生産がなされている、3世紀には打ち捨てられるというところが生活遺跡ではないとされるゆ所以。
確か纏向遺跡も土地の開削や祭祀と関連し、生活の場ではなかったみたいな分析があったと記憶しています。
鉄の話は物量、時代による編年が重要という話は致しましたが、平成19年度のわずかな発掘であの量ですから今後どのくらいの鉄器が出るのかはまだだれにも分からないレベル。
鉄製ヤスの話も九州と朝鮮半島の関連という話なら、別に丹後の影響を受けた可能性のある淡路島も単独で朝鮮半島からのルートの話になっても全然おかしくない。
しかし、それほどの遺跡ですら「今のところは野ダタラの跡もない」ようなので、鉄の加工を行う鍛冶場として機能していたというのが確実に言えるレベル。
五斗長垣内遺跡の「鍛冶復元実験」では1000度を超えることが実証済で、出雲や奈良の紀元前からの古来の製鉄とは一線を画している。
摂津の血の海、褐鉄鋼の古代製鉄なら700度もあれば鉄は作れました。より実践的に発達した摩耗に耐えうる当時最新の技術が既に淡路島に存在していた事の実証がなされたのです。
五斗長垣内が1世紀半ばに現れ、2世紀半ばに鉄器生産の最盛期を迎え(建物の巨大化)、間もなく交代するかのようにさらに大きな舟木遺跡(舟木氏とは無関係)が出現、3世紀前半には「消滅」している事は分かっています。
和国大乱前から古墳時代直前の景初の東征の時期に符合するかのように生産量が増加している事が伺えます。そこから朝鮮半島製と思われる鉄製品が出土。
朝鮮半島からの鉄素材輸入ルートがあったと思われる丹後とのつながりが強い遺跡。 単純な鉄器の出土ではなく製鉄遺跡という話なら丹後は歴史が古いです。少し時代は後になりますが「炉」というレベルの製鉄遺跡なら
六世紀後半の遠所(處)遺跡(えんじょいせき:弥栄町):古墳時代後期から平安時代にかけての複合遺跡
岡山県久米市の大蔵池南遺跡と並ぶ国内最古級の製鉄「炉」遺跡が存在します。
ガラスと鉄の話題で、伊都と同じレベルの作話が出来るほどの条件のそろった場所が、ヒボコが入り込んだとされる豊岡盆地の近辺の丹後地方。
そして、540で「伊都」さん?が引用としたと思われるのは九州鉄器バンザイのサイトではなく、「丹後が九州と同じレベルで鉄器が発達してた」のではというHPの画像w
そこの中心になってる話が6世紀の製鉄「炉」
これで自説の伊都説に都合の良い部分だけ引用してるのだったら、確かにほかの方に継ぎはぎと言われても仕方がないでしょうね。
考古学的裏付けも何もないでモノを言ってる証拠と指摘されても仕方がない。
「考古学的には」完全に実証されるレベル、誰が文句も出せないレベルの純国産製鉄なんて、単純な鉄器の出土とは一線を画し、まだまだ時代は後になるというのが現状。
それが覆されたのが淡路島というのが話の組み立て。
http://inoues.net/tango/enjyo_iseki.html
大和は本当に「武器や農機具用の鉄」を重要視してなかったようで、丹後の実用鉄器の普及は出雲を通り越して100年ほど早く、ヤマトより200年近く早かったかと。
丹後も淡路島と同じく倭国大乱期には九州を超えるほどの生産量があったとされます。 和国大乱期の先陣を切ったとされるのが丹後のヒボコ。物部氏に騙されて共同で出雲の勢力地を落とすはずが騙されて単独で挙兵。
丹後から播磨に侵攻したとされます。160年代(卑弥呼の景初より前)目当ては出雲領の砂鉄だったとされます。
しかし、その時は物部が動かなかった結果、ヒボコ勢力が孤立して、フトニ王と海部、尾張勢力に攻め込まれて地方にバラバラに分断される。
その際にイセサリ彦とワカタケ彦に攻め込まれた播磨のヒボコの一部が当時人口の少なかった淡路島に逃げ込んだとされます。(しかし出雲伝承と遺跡稼働開始年には数十年間のズレがあるので鵜呑みにはできない)
タジマの新羅系の渡来人の中には、船を使って日本海側から筑前の糸島半島に移住した人たちが居たとされます。
後に伊都からまた播磨へ移住した人たちも居たらしく、播磨風土記には伊都の地名が出る(現在の御津町あたり)
播磨の牧野(しらの)の里の新羅系の人もこの時に村を去ったと考えられるが白國の地名だけは残り、広峯神社に、「後に入ってきた海部系統の人たちが」「秦族の先祖として」「素戔嗚と五十猛」を祭ったとされます。
それが、私の233に帰結していきます。 「播磨の兵頭神社はヒボコ勢に上書きされた時期がある。」です。播磨の兵頭神社はイタテの地域の人たちによる兵頭神との習合の結果、イタテ兵頭神社になったと思われます。
その後、神功皇后が播磨の広峯神社で大斎をおこない、牛頭天皇を祭り、新羅国明神になります。その後祇園にここの祭神がうつされたことにより、秦国系の圧倒的多数の渡来人と新羅系渡来人を混同する人が出るようになりました。
牛頭人口の最初は広峯神社が最初です。
未だに蘇我氏(出雲、紀伊國国造、尾張氏、物部氏の混血)やスサノオ(大陸渡来の、出雲で千家により作られた新造の神:徐市の陰)が朝鮮から来たという人が居るのはそのためです。 ごめんなさい
953のタイトルを
「五斗長垣内遺跡(ごっさかいと遺跡)が朝鮮半島と関係が強い件についてと、ヒボコ勢が伊都に入ったとされる伝承について。
」
にします。
いきなりタイトル飛ばしてしまいました。すみませんです〜 まとめますと、伊都には景初に入る前から朝鮮人が逃げ込んできてて、製鉄の最新技術を九州に持ってきていた可能性があるという事。
そしてこれからちょっとまとめますが、志賀島には裏付けの様に朝鮮系の神事がいつからか入り込んでいるという事です。 ヒボコ勢力の一部は播磨から吉備にも流れていったようで、ヒボコ勢力と須佐族の習合が倭国大乱期を境に一気に進んだようです。
丹後の製鉄炉の話のHPの画像にも、吉備国の鉄器の出土が多めに出ています。
当時最新の鉄の技術はごく短期間に九州からヤマトの手前まで一気に広がった事が伺えます。
鉄製のヤスは島根と鳥取の境あたりからも出土しています。九州勢とは反目する地域からの出土は一考に値すると思われます。 伊都国説は考古学に忠実なんですよ。
筑紫から越までの日本海側の文化的優越性を認識した上で、淡路島など瀬戸内海にも九州の影響が出始め、それでも大和など畿内の内陸は後進地域であった。
そのような倭国を代表して中国と国交を結んでいたことが明らかなのは、筑紫しかない。
しかもその中で王都たりうるのは伊都しかないということです。
畿内と九州の対立ではなく、筑紫が首班となった日本海側の倭国と、それ以外の属州なのです。 出雲伝承だと、九州に先に入ってた出雲勢力は、宗像家だけみたいな印象がありますが
安曇族を辿ると、どうやっても安曇磯良とは何者なのかを調べれば調べるほど、徐市の息子ともいわれる五十猛に繋がっていく傾向が強いと思われます。
ここの書き込みを見てもそういう印象が強いように思われます。
BC2〜BC1に居たと伝えられる村雲大王(神武)の系譜、つまり畿内尾張氏からの分家説なら、紀元前からとも言われる安曇族の存在を無理なく説明できるような気がしますね。
大王第二代の兄弟、天御蔭から分かれた海部。その親族からの分派であれば、安曇族が紀元前に九州に居ることは時系列的に可能。
元々が畿内が五十猛を祭る一族なので、徐市の再来日に間に合い、九州物部の発展に協力できるのは安曇や多臣、宗像家などの勢力しか考えられず
その後の「鹿にまるわる信仰」香取や鹿島に繋がる展開が描けない気がします。 出雲伝承では、徐市の連れてきた海童たち(少年少女)は漁業を営む者が多く、彼らは綿津見の神(海神)を信仰していたと伝えています。彼らはやがて出雲の竜神も拝むようになり、両方の神が合体して竜宮信仰が生まれたのだといわれます。
伊都や志賀島のイメージが竜宮城という意見トンデモ説のようなご意見が出ていましたが、じつは真実に相当にかすりまくった重要なイメージの様な気がします。 >>961
>その後の「鹿にまるわる信仰」香取や鹿島に繋がる展開が描けない気がします。
なぜそう思う?
鹿島が志賀島に由来する名であるならば、志賀島の海神である五十猛と繋がるのは容易であろう。
熱田を領土とした一族がさらに東に向かい、関東に達するのは時間の問題だ。 記紀制作に関わり、漢文が読め、九州の伝説にも直接かかわり、邪馬台国時代を生き延び、それを畿内で書かせることが出来るのは
畿内から分派した勢力が無ければバックボーンが薄いように感じますね。 >>964
ここのスレの前半で知的な方が太安万侶と中臣氏、鹿や鹿島、香取に関して言及なされてましたよね?
鹿が居ないと言われた方もいましたが、あの神社の神事を見たのか?とも私言いましたが、思いっきり鹿が出てきますよね?
それと、関東の国造はみんな出雲系、安倍系です。それが北陸の同じ系列の国造地域と手を結び、出雲蘇我連合になり、継体帝選出につながります。 >>964
五十猛と志賀海神社に何の関係があるのか?
まさか磯良と五十猛を同一視するチョン発想か? >>967
磯良さんにかんしては出雲伝承は相当に弱いですね。
全然出てこない
むしろ磯良は椿大社の神楽に起源を有するとされる筑紫舞の中にある源流翁、磯良舞のほうが強く残る印象
これは筑紫舞のブログの方が情報量が多い。 そもそも「五十」という綴り自体が怪しいのは
「姪ヶ浜」の名前が不自然であるのと同列 海部氏と住吉神に関して
海部氏の籠神社には塩土翁の石板がある。
塩土翁、小さい字で、大綿津身神(Windowsってワタツミって入れると海神がでるのね)、亦名「豊受大神」と出ている
ま、内宮だけじゃなく、下宮の元宮にもなってるからかもしれませんが、いずれにしろ豊受の神は籠神社とつながりがある海神とは言えますかね
もう感の良い方はどういうまとめの方向か分かっちゃうと思いますが
更に銘版の塩土翁の下には「亦名住吉同体」ともかかれており、日本書紀でも山幸彦(物部氏)が海辺で塩土老翁とあうと書かれている
まずは塩土翁と塩土老は同じかと。 住吉同体の住吉神社は海神3柱方式で、九州だと、宗像社が更に起源が古く、三女神の影響で三翁神を祀る様になったのではないかと本には書かれています。
これが綿津見の神(海神)と出雲の竜神信仰の融和、竜宮信仰の源流ではないかとも。そしてクジホンギの住吉神
底、中、表の津小童命の産3柱
→阿雲連らが斎いまつる「筑紫、斯香神」である
そして、新撰姓氏録の、「右京神別」で
安曇宿祢は、海神綿積・豊玉彦神子(竜宮信仰)・穂高見命の後である
筑紫、斯香神が発展して住吉神になる。クジホンギでは
底、中、表筒男神
→津守連らが斎いまつる「住吉三前」の神であると書かれる
津守連は、海部氏の親族だと新撰姓氏録に書かれている
まとめると「綿津見三神が住吉三神という呼び名に変わった」という事だね神功皇后の時代に大出世するのが安曇連。 >>971
邪馬台国に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇
山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)
出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君
葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)
そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼 という事で最後の安曇さんへのまとめ。
出雲伝承本ではこう書かれています。
筑前国、博多湾沿岸の志賀島に、志賀海神社がある。そこの社家が阿曇氏で、海部氏の親族である。
後漢の洪武帝から受けた金印は、このアズミ氏との関連が考えられる。万葉集1230番
ちはやぶる 金の岬を 過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神
この歌は、志賀海神社の社家の阿曇氏と、海部氏が皇族と血縁であるという事を示すものかもしれない。
・・・・いや〜伊都さんは出雲伝承お気に召すかと思ったのですが、そんなにお嫌でしたか〜www
出雲伝承もド真ン中で安曇が金員を貰った家だよ、王家に近かったよという立場だったのですがw
何でもかんでも利害がぶつかると逆のことを言いたいように受け取られるのですかね?w
という事で、もう安曇の話はもうやめましょうね?伊都さん?w
倭人伝に出てくる伊都の話以外に安曇の王家の話はもう本スレッドには関係ないのでやめましょうね?w という事でスレッドに近い話をすると、伊都周辺には景初の前から朝鮮系の一族が既に住んでいたという事です。
景初の東征開始前に、ヒボコ勢力の豊岡のタジマノモリに協力を呼び掛けることのできるチャンネルは既にできていたという事になりますかね。
それが魏志倭人伝の倭国大乱期、ヒボコの播磨侵攻と、そこに攻め込んだフトニ。葛城国から吉備国の分裂。
吉備国と出雲の戦闘による日本海朝貢ルートの寸断
吉備国のヒボコとの習合により鉄器武装が急速に進み、瀬戸内海が分断され、畿内ヤマトが今までの海部氏親族(太氏や中臣?宗像?安曇?)を通じた朝貢が出来なくなってしまった状況の説明になります。
安曇関連はオマケ。 この状況であっても、少なくとも二つの旧家は魏志倭人伝の邪馬台国が九州だったよという立場なのです。
景初の東征には畿内から九州に出ていた一部が西軍に参加したような事はにおわされて居ますがね。 >>973
安曇族が北九州から全国へと移住していった時期は、物部東征後。
基本的には地元でも4世紀近辺なのか?と言われている。
前200年の国譲り事件とは全く時系列が合わない。
もうその辺の話はやめたほうが良い 安曇の祖とされる住吉はイザナギの国生みのステージですでに出てくる
4世紀に渡来した宗像が彼らの先祖に設定しても当然
竺紫日向之橘小門之阿波岐原にあったのが元祖の住吉で
安曇は宇都志日金拆命の子孫
ニニギの渡来は遥かに後日
ニニギの別派が日本海を辿る >>979
それだと加茂氏の八咫烏の時代より後になるからもう記紀レベルの時代の圧縮になる。
景初の卑弥呼が230年代でしょ?そこから天クシヒカタから10代が一瞬で吹き飛ぶ >>975
伊都国は縣主の祖が高麗から来た日拝の苗裔を自称しているのだから朝鮮半島からの移民であることは確実だが、日拝と日ボコは同じ半島でも出身国が違うのだから別の氏族だろうな
そもそも日ボコの苗裔なら息長帯比売が黙ってなかっただろう >>974
>・・・・いや〜伊都さんは出雲伝承お気に召すかと思ったのですが、そんなにお嫌でしたか〜www
いや、面白いよ。
ただ、記紀に忠実な立場としては、いきなり山幸が物部だとか、神武が村雲だとか言われると、前提がいろいろ狂ってしまう。
記紀は絶対ではないけれど、記紀とのすり合わせというか、なぜ違っているのかを説明しともらいたいです。
>出雲伝承もド真ン中で安曇が金員を貰った家だよ、王家に近かったよという立場だったのですがw
その結論にはおおむね同意します。
安曇は間違いなく倭王です。 印恵が目立つとまずいことになるから7代ほど掻き集めてふかす >>982
伊都の主そのものご何度も入れ替わっているのでしょう。
神功皇后の時代、すなわち4世紀にいたのは朝鮮半島からの渡来人だったのでしょう。
でも卑弥呼の時代や金印の時代は違うのですよ。
それなのに伊都だから半島と脊髄反射しているアホも板を荒らし回っていますけど。 >>977
北九州と言うと語弊が生じるから北部九州または博多湾としたほうが良いね。
4世紀には宗像が玄界灘の覇権を握っているのだから安曇の移動は3世紀。
よって国譲りとの時期と合致する。 >>985
入れ替わっていると証明できる遺物も史書も存在しない以上妄想としか言いようがない >>983
畿内大王家二代から分かれたとすれば、一族の誇りや立場と言えば正に王様と自認してもおかしくはないレベルとは思いますが
クジホンギのアマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒから数えて約5代。
大陸からすれば国の代表とか、大物と見なされても全然おかしくはない発展をしてたでしょうね。
しかし、単独で発生した王家というには、噂程度の物、妄想であっても土着の伝承とか、背景が全くないのが現状。
宇佐家も阿曇に関してもう少し伝承があればいいのですが、出雲とひとくくりにしているのか、今もって不明
オマケに他の旧家が畿内の分家だよと言及。
王家と認識してもよいのかどうかは学術的には結論が難しいと思われますね。
>その結論にはおおむね同意します。
>安曇は間違いなく倭王です。
なんか途中まで厳しいこと言ってませんでした?wwwwww 三雲の女王家の娘が生んだ子は
安曇系でも倭国王になれる >>987
記紀では天孫族は筑紫を去ったことになっているので、誰かがそこに入ったでしょう。
さらに景行天皇や神功皇后も筑紫で討伐を繰り広げているので、何度も筑紫の主は変わっているはずです。
神功皇后が倒した田油津姫は、景行天皇と共闘していた神夏磯姫の末裔です。
4世紀だけでも筑紫の支配者は2回以上入れ替わっている。
しかも宗像も4世紀に筑紫の覇権を掌握したことになっているしw
倭武命がクマソタケル(筑紫野で襲われて佐賀川上に逃げた)を倒したのも4世紀?
全部筑紫が舞台です。
筑紫の王権が入れ替わった記事は腐るほどありますね。 帶中日子は安曇系の三雲の女王家の娘が生んだ子で穴戸から通い婚 穴門は分家、本家は志賀島。
志賀島(豊国)の女系相続と伊都(筑紫)の天孫族の男系相続は相性が良かった。 三雲の墓は卑弥呼の前の男王のもの。
志賀島の安曇の姫が嫁入りした。
当時としては妻どいではないのは珍しいかも。 >>994
でも住吉の神つまり安曇に倒されてしまった。 >>986
宗像家は相当前から九州に居ます。
その時に安曇族も一緒にいたのではというのが先ほどまでの基本ベースの話でしたが
確かに986さんの様に、そうなってもおかしくはない根拠があります。
実は一度、宗像家本体と思われる人たちが一度奈良に行ってるんです。
何と奈良にも宗像神社があります。
出雲の分家の名前の山、登美山に宗像神社があります。
磯城登美家が葛城山麓東に拠点を構えて奈良の開拓を始めると
次に来たのが神門臣家(高鴨家)。次に香具山と名前を変えた後の五十猛と村雲親子(尾張家)
いつのまにか宗像家も奈良の開拓に参加する人たちが居たようなのです。
中臣氏が最初に始めたのではないかとも言われる沖ノ島祭祀、宗像家の影が濃くなるのは4世紀
宗像家の家系図を見ても、名前が和風で、そもそも他の旧家に比べて圧倒的に代数が足りない。
つまり、物部守屋の様に、宗像家における中興の祖が表れてから沖ノ島祭祀を引き継いだと言う仮説ですね。
あと、九州には、宗像という地名が複数あり、日向方面にもありますね。
後はアタツ姫に見られるように。アタの地名。
初期の宗像家は、アタカタスからくるアタに因んだ名前があったのではないかと考えています。
もしかしたら、センダイクジホンギの誤記、磯城登美家の家系図にアタカタスを挿入したのは意味があるのかもしれません。 うつファミリーのセットアッパーの名前を持つその人は
三雲の女王家の酋長だから安曇を駆使できたりするのね アタは安曇
4世紀に渡来した宗像のほうは安曇を先祖認証して安曇を自身の出自とする
中身が入れ替わっても同じ看板を使用するのは百済なんかもそう このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 12日 16時間 8分 39秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。