古代天皇はなぜ100歳を超えるのか ★ 4 ★
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
文字があったのなら王統の伝達は可能なわけで、
7世紀の朝廷はそれまでの王のおおよその実年を把握しており、
後漢書東夷伝のAD107年の倭国王師升(Shuai sheng )がスサノオだと分っていたでしょう。
白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
かつてヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢し、
後漢・安帝に謁見したいと土下座した事実は、
白村江敗戦という傷口に塩を塗られるように惨めであり、
自尊心がズタズタであったでしょう。
だから、7世紀の朝廷は記紀編纂に際し、古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を大きくずらす事でごまかしました。
また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップし、まるで男王国であったかのような脚色をして、
卑弥呼(Bei mei hu)、比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ(蹈鞴五十鈴)后の記述を最小限にとどめました。
そして神武天皇即位をBC660年という途方もなく遠い過去に葬り去りました。
神武以降の天皇もそれに合わせました。
これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相でしょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1619554762/l50 天皇は日本に襲来して、征夷大将軍を組織して
日本の原住民狩りをしていた
捕獲されて首を落とされる日本の原住民は、
天皇にひれ伏し震えおののく姿が、風になびく草のようであるため、
日本土人を民草と呼んだ
日本土人=縄文人も鉄器は作っていたのだが
殺し合いはしないので武器は作らなかった
だから天皇の襲来で、あっさり制圧されてしまったのだ
でもそれは島国の英国も同じで、英国王室はフランス人だ
そして英国土人は労働者階級で、国を動かせるポジションには就けない >>3
騎馬民族説の出来損ないみたいな説だな。
残念ながら神武の系統は縄文系D1a2a。
渡来人は、むしろ被差別集団になっている場合がある。
大阪の複数の被差別地域が、そのルーツに渡来系の謂れを持っている。
実際、南大阪の某被差別地域は、6人の百済人が祖であり、名前まで判明している。 古代の長寿の天皇を直接調べてない時点で話にならんでしょ
タイムマシンで過去を直接観測しろよ
ガチで↓だから
大麻を食べていたから寿命が今よりも長かっただけ
大麻を食べる儀式を外に出してから天皇の寿命は今と変わらない長さになった
外に出した大麻を食べる儀式は老いを嫌う皇族の女が担当した
若いままか確認するための鏡を添えて
だから伊勢の隣の伊賀で大麻育てていた伊賀忍者と神宮大麻 孝明天皇を殺して、新たに始まった北朝でも南朝でもない天皇を英国がデザインした
その中に、天皇をダビデの末裔にするというのがあって
すると、バビロンに攻められてユダヤ人が逃げ出した時点で天皇が始まったことにしたいので
初代天皇より、もう千年間の天皇をでっちあげることにした
でっちあげ天皇の墓を適当に古墳に割り当てている(仁徳天皇陵とか)
だから天皇の墓周辺の古墳についても年代測定されるとウソがバレてしまう
それで宮内チョンが古墳の調査を禁じるのはなぜだろうという謎が解けるのだ
もう仁徳天皇陵とは言わなくなって今は大仙古墳と呼ぶようになった
仁徳天皇の存在は否定されているのだ
学者連中を筆頭にかなり広い知識人の範囲で共通認識になってる
ここで神武天皇が存在すると叫んでも、もう遅い
悔しかったら第41代以前の天皇の墓の年代測定をしてみろって やっぱりわかりずらいから伝・仁徳天皇陵と呼ばれている >>8
>第41代以前の天皇の墓の年代測定をしてみろって
10代崇神天皇の行灯山古墳はおおよそ4世紀初頭に建造開始。
景行天皇の渋谷向山古墳はその後。
また最新の須恵器編年から誉田御廟山は応神で間違いなく、
大仙は仁徳で間違いなかろう。 今年から使われてる中学歴史教科書にはちゃんと仁徳天皇陵って書いてるぞ 大山守命の墓でないから大山陵としたアホ名は消せばいい。 どうしても大山とするなら 不伝大山陵 がいいだろう。 徐福が不老長寿の薬を見つけて天皇になったと考えれば全部筋が通る >>1
二倍年暦・春耕秋収をはかり年紀となす。(今も春祭り、秋祭りがある)
日本の記紀では古代の人物の年齢が異様に高く記してある。
このようなことは日本以外の国でも珍しくない。これは、古代の人間が、
現代の暦と違って1年を2年に考えていたからなのは?という説である。
次の中国史書の記載がそれを匂わす記述である。
其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
その俗正、歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす。
引用元:魏略逸文〜三國志魏書東夷伝倭人・裴松之注
不知正歳四節、但計秋收之時以為年紀。人多壽百年、或八九十。
一年の歴や四節を知らない、ただ、秋の収穫時を以て年紀としている。
人の多くが百歳、あるいは八〜九十歳の長寿である。
引用元:晋書倭人伝
また、古事記や日本書紀の記述では、登場人物の年齢が異様に高かったりするのも、
その当時の日本の暦が、半年で一年と数えていたからだとも言われている。 『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。
故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。
扶余王第2代、仇台は(クタ)と発音できる。(例・邪馬台ヤマト、台風タイフウ)
記紀では百済の音に(久太良・久多良)とあり後世のクダラの様に濁らない
これは、百済の音に仇台(クタ)羅=クタラと扶余王第2代仇台から来てる様に思う。 公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、
公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。
尉仇台、のち伯済国の王となる。
ちょうどAD170~180年の話で卑弥呼の共立年ころに近い
「名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 」が生きてくる。 公孫度の息子、公孫康
建安 9年(204年)、父の後を継いで太守 となった。
同年、楽浪郡 18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて
帯方郡 を設置し、韓や倭 まで勢力を広げた 。
(是後倭韓遂屬帶方"『三国志』魏書 東夷伝韓条より)
魏志韓伝
桓霊之末韓濊彊盛郡縣不能制民多流入韓國建安中公孫康分屯有縣以南荒地
爲帯方郡遣公孫模張敞等収集遺民興兵伐韓濊舊民稍出是後倭韓遂属帯方
「桓帝の末と霊帝の末には韓濊が強勢になり、郡や県は制御することができず、
住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の帝、献帝の)建安年間(196〜219)に
公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。
公孫模や張敞等を派遣して遺民を集めて兵を興し、ワイ・韓を伐ったので、
元の楽浪郡民が少しずつ出てきた。 この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。」
そして、公孫度の宗女卑弥呼は倭王として共立された。 そして、一大率であった伊都国に後漢の公孫時代から魏へと、
倭の女王として着任してたのである。やけに中原朝廷との外交交渉が上手なはず。
後世の大和の歴史家たちは不名誉な卑弥呼の事を歴史から消し去ったのだった。 >>15
前スレでも書いたのだが、応神天皇は仲哀天皇の死亡日の前々日から十月十日で生まれている。
これは後世の人間に余計な詮索(=応神は本当に仲哀の子なのか)をさせない為であろう。
つまり7世紀の朝廷には「時代を思いっきり引き延ばしている」という自覚があった証拠。
よって倍歴ではない。 3倍暦もやったぜ。
↓
【成務紀の日数統計表】
1日 1 11日 1 21日 0
2日 0 12日 0 22日 0
3日 0 13日 0 23日 0
4日 0 14日 0 24日 0
5日 1 15日 0 25日 0
6日 1 16日 0 26日 0
7日 1 17日 0 27日 0
8日 0 18日 0 28日 0
9日 0 19日 0 29日 0
10日 1 20日 0 30日 0
上表の11日以外は全て月の上旬の日数記事である。
11日は成務紀末の6/11の成務天皇崩御の日であり、これのみ
月の中旬に在る。崩御日のみは、次帝仲哀の代
の通常暦(あるいは2倍年暦)での日数記載だったと
観るのが相当なのである。 日数は世界的にズレようがない尺度だが年については天文の知識を元にするか季節風、雨季乾季とか文化毎にバラバラ。十月十日だから倍歴はないとか意味不明なこじつけ。 >>22
同表の11日は次代の仲哀の即位日と重合してるもの。 >>23
>十月十日だから倍歴はないとか意味不明なこじつけ。
仲哀天皇9年2月6日に没。
応神は仲哀天皇9年12月14日に産まれる。
倍歴って1年を2年に数えるのだよね?
でも仲哀天皇9年という同じ年なんだから、1年を2年に数えてないよね。 >>23
>十月十日だから倍歴はないとか意味不明なこじつけ。
仲哀天皇9年2月6日に没。
応神は仲哀天皇9年12月14日に産まれる。
倍歴って1年を2年に数えるのだよね?
でも仲哀天皇9年という同じ年なんだから、1年を2年に数えてないよね。 >>25
仲哀の代は通常暦に変えてたのさ。
ただ神武から現在まで通常暦を行使してはいない。
仲哀は頓死したので神を畏れて前代の成務の3倍暦に戻したのさ。 >>27
答えに窮したか?
>>28
A天皇は倍歴
B天皇の時代は3倍歴
C天皇の時代に通常歴に戻し
D天皇は倍歴
なんて都合よい話があるか、どアホ。 >>29
神功の代から3倍暦をやってるのなら、
なんで仲哀天皇の没年と、
応神天皇の生年が同じ「仲哀9年」なのかと聞いてるのだよ、このハゲ。 >>30
オマエ、浅はかだな。当時の朝廷は科学的知識なんかいまのように
持ちあわせてはいない。数字計算は億計尊もおられるからけっこう
できたんだぜ。アホウドリの声で泣け。ww
朝廷は岐美二神の黄泉国脱出時の呪いを知っていて,千頭殺戮と千五百の産室
を造るぞの言い合いから二神各々の怒りを買わないために
1000:1500=2:3
の割合を承知していて、比率2の美神に味方して2倍暦を行使し、適当な時代
がすぎたら岐神の怒りがないように今度は3の比率で逆に岐神に肩を
もって怒りを回避してたのだ。通常暦だとどっちつかずだが、ひいきが
まずいと神の怒りの回避ができにくい時があったのだろう。外國神だ。
仲哀天皇は頓死したのさ。成務から続いて3倍暦をしてたところ、通常暦の
金銀お宝ある国の外国神の申し入れを拒否したのでしてやられたの
かもしれない。それで崩御の直後即位年から通常暦計算を外来神の怒り
うをなくためかこの天皇世は通常暦になってるのさ。外国は通常暦があった。
神功になればまた3倍に戻してるぜ。 >>32
時代を大きく引き伸ばす動機、理由があるからさ。
>>33
せっかくの長文だが最初の2行しか読んでない、消えてくれ。 引き伸ばした結果は何の効果なし。あっ島国だから血統主義と言う古臭い物が残ったんだなとバカにされただけ。 >>34
オマエも裁判所の地下の拘置室にこもっているカレンダー・マンのように
ここから隔離されるのが最善だ。pp
同所地下に行ったバットマンもカレンダー・マンも助けてくれねえ。ww
これで確認しろ。
→ アーカム・シティ(ps3) リターンド・アーカム(ps4)ppp >>35
>引き伸ばした結果は何の効果なし
引き延ばした効果はあっただろ。
卑弥呼が誰なのか、いまだに誰も分かってない。
それが最大の効果じゃないか。
江戸時代の国学者たちは気づいてたけどね。
それに気づいた彼らが心にもない「邪馬台国は九州だ」と唱えることにより
「邪馬台国論争」が創られたのだよ。 引き伸ばした結果は中国からさらにバカにされる事だった >>37
カレンダーの言霊を分解して→カダレーン(荷田霊園)
荷田春満は 1/3 誕生 死亡が 7/2 で間は丁度1年の半分だ。
つまり2倍暦の天意の示唆。 古代の始祖がやたら長命というと旧約聖書のユダヤが有名である
一方多少長いけどまあ常識的範囲内のエジプトやペルシャ、中国もか
この違いはなんによるものなのだろうか >>19
卑弥呼は、百済の前身である公孫氏の出自だということ? そりゃ初代天皇が127歳なんて中国どころか日本の子供にも笑われるからね。
当時の平均寿命は40歳に満たないから、おおよそ3倍、今でいえば240歳みたいな感覚。
しかしそうまでしても隠さなければならない事があった。
そういうことだ。 そう言う事じゃない。中国は天皇が長命だったことには何の関心を抱いてない。 >>45
春夏秋冬、こんなはっきりした国で倍歴ってアホかw
山桜でも、セミの声でも、紅葉でも、雪や氷でも、何を元にしても1年が分かる。 前スレから言ってることだが、
倍歴論者は、
何天皇以前を倍歴にするのか知らないが、
はっきりした年表を一度作ってくれ。 倍歴説者って古田史学の連中でしょ。
バカは死ななきゃ治らない。 過去に年表を出したよ。長いから時間がかかるし、疲弊する。
またやるとなると身の消耗が激しい。
とりあえず少し言うが、神武から倍暦をやってたよ。
ただし神武即位からだ。即位の前は通常暦で、倍暦行使にて通常暦も並行
してなくさず行使してたようだ。
神皇紀の神武の個所に太陽暦をする勅だったかあるから、これもやって
たのさ。 二毛作か、田植え関係で半年を1年としてたようだな。
『畔』の字にも半年の「半」の字の
ツクリがある。 継体天皇 今城塚古墳 6世紀前半
仁徳天皇 大仙陵 5世紀前半
応神天皇 誉田御廟山 5世紀初頭
崇神天皇 行灯山古墳 4世紀初頭
ここまではガチ。
ならば崇神の数十年前に13歳で即位したトヨがいるはず。
崇神の数十年前に天トヨ津媛がいる。
中平銘鉄刀の和邇氏の祖・孝昭天皇の母である。
そしてその3世代前にヒメ(蹈鞴五十鈴)后がいる。
2人の住処は葛城である。
よって邪馬台国は葛城である。
ハイ終了。 畿内の豊の字がつく女が1與ではないな。中平年間は孝霊の末期。 歴代天皇の中で、「神」と名付けられた天皇が3名いる
神武天皇、崇神天皇、応神天皇、
この3者に「神」名を付けたのは歴史上ブレークスルー、大変革をもたらしたから
記紀の編者たちは特別扱いをする必要があった。 記紀編者たちは中国の古典魏志倭人伝などを好く読み込んで
天照や神功皇后などにそれとなくエピソードなどを盛り込んでる
なのに、卑弥呼の名や倭王の金印をもらった事などは完全無視
日本の歴史書にとって外交関連や金印授受など第一級の史実のはずで
時間的にも300年程前の話で伝承としても記憶してる人たちは居たはず
400年前の戦国時代、信長がどうたら秀吉がどうしたとかは現在でも沢山伝承されてる。
なのに、卑弥呼や豊の事は一切記紀に記載がない、なぜだ?? 現皇室は応神朝からの直系子孫という扱い
14代仲哀天皇が熊襲征闘の戦闘中に毒矢に射られて崩御
それから十月十日後に息長足姫が福岡箱崎宮でホムタワケを出産
十月十日後出産なんて意味あり気でワザワザ記録する必要があるか?
本来なら適当に1月後出産でいいはず、疑われずに済むはず。なぜか?? それは、記紀編者たちが前崇神王朝とは別王朝ですよを
暗に示したかったから。
応神朝こそY-DNAがD1b1の王朝なんだよ。
そしてホムタワケは志賀海神官一族、阿曇氏に全国海人の宗家を命じたんだよ。 >>57 ゴメン訂正。 福岡箱崎宮でホムタワケを出産
正しくは、宇美八幡宮でホムタワケを出産でした。 >>56
>なのに、卑弥呼や豊の事は一切記紀に記載がない、なぜだ??
あるよ。
しかし意図的に気づかないようにされてるだけ。
卑弥呼は神武東征紀の中に隠されている。
「サザエさん」を「マスオさん」に変えるがごとく、
主役のはずの「ヒメ(蹈鞴五十鈴)后」を「神武」に変えたんだ。 日本に殉葬という惨たらしい文化がない。
あれば複数の痕跡が出てようものだが、一切ない。
ということは卑弥呼の殉葬奴婢百余人とはどういうことか。
どちらにしても、崇神をおおよそ4世紀前半の人物として、
それ以前に、奴婢あるいは奴婢になったであろう集団の大量死はないか。
あればその場所が卑弥呼の墓と大きくかかわることになろう。
奴婢あるいは奴婢になったであろう集団の大量死はある。
神武軍が大和入りしてからの土蜘蛛征伐だ。
その場所は葛城という一地域の2ヶ所しかない。
卑弥呼の墓はそこにある。
高天原=高尾張邑だ。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg 紀の神功39年に卑弥呼の記述があるから、隠匿どころか逆の公開だ。
だから隠匿説は真っ赤だデタラメなのさ。
卑弥呼は独身だったんだから神武の后だというのもデタラメの盲象。
盲象のいかれた脳内に覚醒しないで飛躍しすぎのダンボ主張を頑張って言い訳
しながら、そういう主張が間違いだと気付かぬブレーキ、左右後部確認を
怠った暴走オツム。pp そもそも中国側の史書に記載がある物を日本側が単独に隠匿捏造が出来ると思える方がおかしい あいつはその不合理を指摘するとが少し激高するようで、それからそのダンボ脳
をおかしいと思考せず色々と自説成立の考えがないかと自説遺棄をしないで
想起し、うっちゃりというか無理ある自説肯定論を持ってきて頑張る脳内なのだ。
ここに奴の考察の盲象が落ちないオツムのイカレ性が強いことを物語る。
飛躍ダンボはネズミー・ランドかその映画くらいでいい。w >>57
>十月十日後出産なんて意味あり気でワザワザ記録する必要があるか?
記紀編纂時において、仲哀の実子でないことが世間に知られていたので、ギリギリ十月十日ですと言い訳している。
その一方で、神功皇后は出征にあたり石を抱いて出産を遅らせたという伝承があるのは、実際には十月十日より長かった記録もあったからだろう。
神功皇后紀は日本書紀の中でもいちばん胡散臭い話が多い。 >>47
>倍歴論者は、
倭人は倍暦を使うというのは、中国側の記録にあるんだよ。 >そもそも中国側の史書に記載がある物を日本側が単独に隠匿捏造が出来ると思える方がおかしい
だから時代を大きく変えて卑弥呼の時代に神功皇后を当て、
真の卑弥呼を隠匿いるわけだが。
頭悪いなぁwww 日本側だけでそんな操作を単独でやっても中国側の史書に記載がある以上隠匿出来ない 公開だから神功39年に卑弥呼の記事が載ってるわけさ。
隠すなら武漢右居留守の情報を中国強酸糖が徹底して隠してるように、
紀に徹底してこの部分を載せっこない。 同意。独身の卑弥呼に実子が後継者となった神功を当てわざわざ中国側から違うじゃないかと突っ込まれるような捏造を敢えてする理由がない だから時代を大きくずらして卑弥呼を隠匿できてるじゃないか。
誰もまともに卑弥呼がだれなのか答えられてない。
倍歴論者のおバカさんは卑弥呼がだれなのか答えてみ。 誰に対して隠匿出来てると思ってるんだこのおバカさんは 時代ずらしは紀の編者が卑弥呼の真の時代が分からんために、神功じゃ
ないのかと神功39年に載せたもので、隠匿にはならない。
隠匿でないのに盲象を頑張ってるな。w >>75
卑弥呼を隠匿したのなら、
卑弥呼が誰なのか答えられない君が証拠という事になるw 卑弥呼はヤマト王権とは関係ないのだろうよ。
神功皇后だって、その足跡はほとんど福岡県だしね。 >>78
神功皇后は五社神古墳で齟齬はない。
また凱旋する神功皇后軍を迎え撃とうと、仲哀墓を造るという口実で兵を集めていたカゴ坂皇子ゆかりの墓は神戸の五色塚古墳が有力。
ともに4世紀後半であり時代が合う。
福岡なんて出る幕がないのだがね。 >>78
神功皇后は五社神古墳で齟齬はない。
また凱旋する神功皇后軍を迎え撃とうと、仲哀墓を造るという口実で兵を集めていたカゴ坂皇子ゆかりの墓は神戸の五色塚古墳が有力。
ともに4世紀後半であり時代が合う。
福岡なんて出る幕がないのだがね。 おおよそだが、継体天皇を507年即位として、それ以前が倍歴だとしたら、
実際の応神元年390年が、270年ぐらいになり、日本書紀の記述とおおよそ合う。
あくまで「おおよそ」ね。
しかしそうなりゃ神武がBC76年あたりになる。
どうすんのこれ。
当時の平均寿命その他から話にならないだろ。
かつての「安本・古田論争」はそのあたりのことだったのかな?
そうなら神武を3世紀後半にしてる安本さんが圧倒的に正しい。
ただし安本さんも平均在位をごまかしてるので実際は神武2世紀末が正しい。 >>77
そんなものはならねえから心配ねえ。
神功は紀では公開されてるっていうことだ。隠匿と頑張るオマエのオツム
をよく点検せい。盲象ダンボはネズミー・ランドとそこの映画くらいでいい。w 雄略天皇
古事記 124歳
日本書紀 62歳
124÷62=2 ←2倍年暦 >>84
ま、倍歴を使ってますという引っ掛けだな。
アホを釣ってるわけさw
その実、全然合わない。
神武が紀元前なんてw 合わないのはオマエの紀年がまずいからさ。
コチラはピタリと合ってるぜ。
雄略のように余りがなしにこんなピタリと2になるわけがねえぜ。 >>87
何がピタリ合ってるの、神武はいつの時代なのかな? >>89
だから
神武即位元年=西暦元年 辛酉
だったのさ。 >>79
>神功皇后は五社神古墳で齟齬はない。
「齟齬はない」
便利な言葉で、これに当てはまる古墳は二桁以上取り上げることができるだろう。
つまり大した根拠もない。 >>90
アホ。
>>91
>便利な言葉で、これに当てはまる古墳は二桁以上取り上げることができるだろう。
複数出してみてみ。 あまりにもレベルの低いスレだな
参考になりそうな意見がほとんどない 創作神武、史実卑弥呼に降伏とか、馬鹿池沼キチ丸出しだな〜www >創作神武、史実卑弥呼に降伏とか、馬鹿池沼キチ丸出しだな〜www
どこの誰が神武が卑弥呼に降伏したなんて言ってるのかな?
ニギハヤヒが神武に降伏したという話なんだが、やはり奥山はアホなんだねwww 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」やらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 天孫族の定義が曖昧。
物部は自ら「天孫」を名乗るが、勝手にそう名乗っているだけ。
俺の天孫族の定義とは「高天原の神々の末裔」。
高天原とは金剛山の麓・御所市高天。
だからむしろ葛城出自を自称する蘇我が本来の天孫。
また宗族としての天(あま・あめ)なので名前に天がつく。
ニギハヤヒ関連でいえば天香久山命、この人物のお母さんが天道日女だから、
ニギハヤヒは高天原にいた高貴な女性と結婚したのであろう。
ニギハヤヒも、もう一人の子ウマシマジも天孫ではないと思う。 タトゥといって日本にはなじまない他島におくべき蛮族的習慣。
神武はハーフではない。半島人と別者だな。
日本の四大島で半島に最も近いのが九州であって、記の国生みに
筑紫國 白日別
豐國 豐日別
肥國 建日向日豐久士比泥別
熊曾國 建日別
といって九州四面全部に「別」の字がある。神国日本と半島とは別もので
あって同じではないのだ。よって日猶同祖論も成立しない。同じではなく
別なのだよ。神国日本は全世界の別格の創造主天帝の直轄国家であって、
他島と同格ではない。それ故神国日本は萬邦無比の國體を誇るのだ。
数か月前だったかNHKで日本列島の生まれる科学的成因を地質学者が
研究成果でそれを放送していたが、当時日本列島は五大陸の磐盤プレートから
外れ別れてできたのだという。大陸を5で割りその割り算の余りとして
大陸の磐盤プレートから別れて日本が成った大陸の余りそのものだ。
だから神武はイワワレ(磐割れ)彦と申され、大陸の磐盤の余りだから
磐余彦と称されるわけで、ハーフではなく純金の黄金の国ジパングの
民族の人なのだ。ハーフは成立しない。ハーフは半島の半であり、
九州四面の別の字からも日本と半島は太古別者民族なのだ。
半島は銅像建ての得意な人参の〜五輪にたとえて世界第参位の民族だが、
わが神国日本は東方見聞録のいう黄金の国たる世界第1位の天帝が
邪馬1国を置いた金メダル国家であって銅が半分も入る12金国家
ではない。 神武軍は葛(かずら)で編んだ網で大和先住民の土蜘蛛を討った。
その場所が高天原(=高尾張邑・御所市高天)である。
10代崇神は4世紀前半とほぼ確定、それ以前に大量の奴婢または奴婢になったであろう集団が大量殺戮された記録は、
この神武東征紀の土蜘蛛誅殺以外にない。
これが魏志倭人伝の卑弥呼墓の「殉葬奴婢百余人」の真相であろう。
網では人を殺せない。
葛(かずら)で編んだ網は土蜘蛛を奴婢とするための生け捕り用に使われたのであろう。
かつて本居宣長が指摘したように奈良でカシハラという地名は今の御所市柏原しかなった。
そして土蜘蛛=奴婢を束ねた神武が住んだ柏原は、20世紀になって水平社宣言が為され、部落解放運動の原点となる。
では殉葬奴婢百余人とはどういうことか。
私が地元で聞いた話では、高天原の洞窟にいた土蜘蛛が出られないように、
神武軍は洞窟の入り口に大きな岩を置いたようである。
だから今でも土蜘蛛窟という史跡になっている。
ただし洞窟自体は不明である。
私は、7世紀の朝廷が、神武軍が洞窟の入り口に大きな岩を置いて土蜘蛛を殺戮したこの話を知っていたのではないかと推測している。
しかし日本書紀には書けなかった。
書いてしまえば魏志倭人伝の卑弥呼墓の「殉葬奴婢百余人」の事だと気づく人も出てくるからであろう。
せっかく時代を大きくずらして神武をBC7世紀の人物に設定してるのに、これがばれてしまえば元も子もない。
だから、7世紀の朝廷はこの高天原の洞窟の話を官製神話にして置き換えた。
高天原、洞窟、岩、戸。
それこそがアマテラスの天岩戸神話であろう。 少しも確定ではない。
八幡愚童訓の
黄龍2年=230年=開化48年
で決まり。
これは崇神没年258年説を裏付けているし、10年ばかり前の千葉考古班の
年代機器測定の箸墓240年〜260年の結果と矛盾はない。
機器は機械だからウソはない。各位の車の速度計も狂いなく速度を
指してくれるように、高価な年代機器は正確に年代を示し、ウソはみら
れない。
当時卑弥呼は九州、百襲媛は畿内の女性で、いずれもほぼ崇神年代の女性
だったということが真だったのだ。
そして
神武元年=西暦元年 辛酉 が正解となる。 千葉考古班の年代機器測定www
少しは正確な文章書けイ。 日本書紀の神武東征の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だと地理学、土木学で証明済み。
神武天皇の橿原宮跡地とされる橿原神宮の地下から出土した縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木をC14年代測定した結果、約2700年前のものだと考古学で証明済み。
明治時代に設定された宮内省による陵・古墳の比定が間違えているという落ち。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み。
(古代の日向は現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域)
つまり、約2700年前に神武東征によって南九州から稲作と弥生土器などの弥生文化が日本中に普及したということ。
邪馬台国=大和国 (三国志において台=ト)
卑弥呼=神功皇后
台与=豊姫(神功皇后の妹) (三国志において台=ト)
興台産霊=コゴトムスビ (日本書紀において台=ト)
倭国大乱=三韓征伐
終わり 卑弥呼≠神功皇后
>>117
イなんかつけてるが、イばらき?
境界線あたりはチバラギ県ッテイウソウダ。w 千葉考古班(笑)の年代機器測定(爆笑)の箸墓古墳・240〜260年に賛成するなら、
箸墓を卑弥呼の墓だと認め邪馬台国畿内説でいいのかな?
九州説者がこんなものに賛同してどうするw >>120
よく読め。卑弥呼も百襲媛もほぼ同時代の女性だったのさ。
卑弥呼は九州、百襲媛は畿内の女性だから不合理はない。
崇神当時、九州には女王国、畿内には天皇国があったということだ。
静岡大学に原教授という人がいた。今も現職かわからんが、同教授も
この説だったが、合ってるな。 >>121
>卑弥呼は九州
墓は?
あとトヨと、2世紀前半から続く男王墓も言えよ。 当然墓は九州だよ。昨日の熱海のように洪水とか、噴火台風の災害で
無に帰せばそれ以上の判明は無理だな。
トヨなんか倭人伝にはない。1與のほうだ。
いいか国名とこの女性の名と2回も漢字多用の当時の中国人が間違えるわけ
がない。しかも南下するのに東方に畿内へとまた3度目の書き間違いなど
ありっこねえのさ。 だから九州のどこなのか聞いてるんだろうが、このハゲ。 だから九州の中だよ。そこまでは確かだ。
そんな口をたたくなら熱海に行ってオメエ独りで復旧してみい。泣け。ブハハ… >>126>>128
そこまでぐずつきたいなら、オマエは箸墓のどのへんに卑弥呼の遺体があるのか
出せるなら違反でなくやってみろ。地下100mか〜〜??w
それとも百襲媛に卑弥呼が変装してたのか?p
卑弥呼と百襲媛がレスビアンやって箸墓の中にともに遺体でチチクリ合い
でもしてんのか? どうなんだよ。早く行ってみい。ppp 卑弥呼は引きこもりなのにモモソヒメとか言ってる奴は池沼 >>127
>だから九州の中だよ。そこまでは確かだ。
九州と言っても広いのでね、その中のどこか言えないのかこのバカ。 >>132
箸墓っていうのも広いのでね、その中のどこか言えねえのか。
アホウ鳥の鳴き声で叫んでろ。
箸墓のどこに卑弥呼と百襲媛がつるんでレスビアン中なのか、
言ってみろ。違反にならないようその証拠のディルドゥを発見して鳴き騒げ。ppp >>133
質問返しでごまかすな。
だいたい俺は卑弥呼墓が箸墓だなんて一言も言ってない。
あれはイカガノシコオの墓であろうし。 そんじゃあオマエは全部がイカ様の出鱈目王だ。うははは・・・
イカガノシコオじゃあそんなドでかい墓なんか作らねえよ。
オマエの論だともう少し極端なら農民でも埋葬者にしてしまうイカれオツム。pp >>134
じゃあオマエは畿内のどこに箸墓でない卑弥呼の墓があるというのか。
畿内といっても広い。早くごまかさずに言ってみい。
なぜ卑弥呼の記述が記紀にねえのか、その理由は?
神功39年のは純畿内の伝承記事でなく倭人伝からのだ。
畿内卑弥呼情報の記事なんて記紀にねえんだよ。なぜなのかいな、
しかと答えてみろ。
隠匿ではねえぞ、神功39年に卑弥呼が公開されてるからな。 質問返しで逃げるなクズ。
卑弥呼の墓は九州のどこなんだ、お前がまず答えろ。 >>137
オマエの論はクズとかの文言が持ち駒なわけだ。
オマエも不明な無コテで逃げねえで来い。どういう名なんだ?
有コテだと怖いのか?w
毒には毒を持ってだ。質問返しはオマエを崩す一番いい攻めだ。。
卑弥呼の墓は畿内のどこなんだ、質問したお前がまず答えろ。言えねえのか?
卑弥呼が畿内のどこに墓があるのか言ってみろ。
オメエが言い出したんだから、自ら言ってみい。 オメエこそそれを
不問でぼかしてるではないか。
いいか卑弥呼の記事が大陸の伝の神功39年という借り物記事だけで純畿内
からの卑弥呼の記事が記紀にはない。神功のこの記事があるんだから卑弥呼の
記紀隠匿説は成立しない。これは女王国が畿内に情報の届かない遠方の
九州にあったからだよ。
だいいち畿内の女王国があったなら天皇国の天皇と女王国卑弥呼との交易
戦争婚姻等の出来事があって締りだがこれが記紀に無い。このことは畿内に
女王国がなかったからだ。いくらオメエがほざいても紀無い説は成立
しない。オマエの脳内がクズのお粗末なオツムだから紀無いにないことに
オマエは気付かない。大泣きしてろ、え〜んえ〜んとな。bbbbb >>124
>墓は?
平原遺跡
>あとトヨと、2世紀前半から続く男王墓も言えよ。
三雲の王墓群 >>138
西都原にあったのは投馬国(都万神社、西都市妻) >>140
結局答えられないのだな、ぶざまなやつ。
おれはスレ主で卑弥呼の墓は高天原にあるとスレまで建てていた。
5ちゃんはキチガイが多いので荒らされて放置したが。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg
4世紀前半の崇神以前、
日本で大量の奴婢が埋葬されている場所がここしかない。
また大量の奴婢を誅殺した記事は神武東征紀の土蜘蛛誅殺しかない。
したがって卑弥呼の墓はここしかない。 >>138
西都原は最古の81号墳墓が出土土器から4世紀前半、
ちょうど景行天皇の九州遠征時の諸県君泉媛の「饗応」の時代と合う。
そして九州最大のオサホ塚・メサホ塚は仁徳の妃で、
美人の誉れが高かった髪長媛と父親の諸県君牛諸井で合う。
つまり西都原古墳群は諸県君の集団墓。
卑弥呼とは関係がない。 答えねえのは無様なオメエだよ。ww
畿内も広いんだよ。オマエが言い出したんだから、まずオマエができねえんじゃ
オマエの負け。大泣きしろ。ウヒヒヒ・・・
どうせ卑弥呼が畿内にないことは確か。記紀に伝の借り物以外卑弥呼の記述が
ねえんだから、当時女王国と天皇国が同時に二国畿内あったためしはない。
あったなら女王と天皇との交易、婚姻、付き合い、情報が記紀に万歳され
て然りだ。記述がないのは畿内から遠方に女王国があったからだぜ。 >>143
ならば有コテで来い。怖いのか。ウハハハ・・・
オマエの持ってる車があれば運転中速度計を見るだろう。
車中搭載の精密機器の計器で速度を正確に示してくれてる。
千葉考古班の機器測定で箸墓は240〜260年で高価な機械だから正確は確かだ。
こうなると崇神が4世紀前半のわけがねえ。
オマエがイカガシコオだとか言ってるが、あんな大きな墓に
しては有名度功績活躍度がまるで少ないから箸墓がこの者の墓とはいえない。
オマエのオツムの盲象飛躍ダンボがはっきり分かる。
ダンボはネズミー・ランドとその映画位でいい。ww こんなとこでコテなんてお前みたいなバカしかいないだろ。
箸墓被葬者はイカガノシコオしかいないわけで、
それについてはいつでも根拠を述べれるが、
その前に、卑弥呼墓について九州のどこかを答えられなかったお前が、
何で俺の説の「反論」してるの。
順序が逆でありながらも先に俺が答えたのだから、今度はお前が答える番だ。
早く答えろ朝鮮ジジイ。 >千葉考古班の機器測定で箸墓は240〜260年で高価な機械だから正確は確かだ。
正確は確かだ(大爆笑) いかがしこおなんかどうでもいい。あんなでかい墓に活躍度もあまり
ねえ奴なんか埋葬されてるわけがねえ。
その前に、卑弥呼墓について畿内のどこかを答えられなかったオマエが、
いかががわしいお で何でコチラの説の「反論」してるのだ。w
畿内だというなら天皇と女王の会見話でもしてみろ。ppp 朝鮮ジジイが暴れてます。
悪いこと言わない、30秒息を止めて見ろ。
そしてあの世に行け。
梅雨明けまでに実行しろよ、夏になったら暑いのでみんな迷惑する。 >>150
オマエのは論説でねえ。ひっこんでアホ踊りでも踊ってろ。
くやしかったら有コテで来るんだな。
畿内説なら、畿内のどこで女王卑弥呼と天皇が会見したのか答えてみい。
そのときミマキ媛とかサホ媛とかあるいは播磨稲日媛とか天皇の皇后高官
を率いて女王卑弥呼と宴会でも開いたのか、どこでだかぬかしてみろ。pp >畿内のどこで女王卑弥呼と天皇が会見したのか答えてみい。
今の奈良県御所市・姫の宮こと長柄神社であろう。
水源は葛城水分神社として今もある。
神武が住んでたのは御所市柏原。
通い婚の時代にはちょうど良い距離だ。
ところで自分の意見は言わず、すっと質問返しで逃げているが、
卑弥呼の墓は九州のどこなのか答えてもらおうか。
君、ずっと逃げてるねw どうしてそこなのか。答えてみろ。
そのとき稲日媛とか眷属高官を連れて行ったのか。ウハハハ・・・
会った形跡がドコにあるのだ。
女王の親族と天皇の皇族との婚姻でも約束はしたのか。
真子さまと小室氏のように。
神社の内部か、神社の絵図にでも画かれてるのか?bububu[
ならばそれは誰と誰で、巻向と御所に二国あったならなぜ記紀にその記述が
ゼロなのか言ってみろ。会見したなどと始めて聞く話だ。
どうして今までそれが公表されてなかったんだよ、おい!
ただ会見したじゃあまずいじゃないか。神社の古文献とかどっかに載って
て然りだろうが、その文言がねえんだよ。はっきり会見した何かブツでも
持って来い。無ければそれはオオウソだから泣けだよ。wwwwwww
勝手に会見など造るんじゃねえよ。会見などあるわけがねえ。ブハハハ
あるならブツを出すんだな。 >どうしてそこなのか。答えてみろ。
何を偉そうに質問返しで逃げてるんだ。
おまえがまず九州のどこなのかを答えてからだ。
さぁ言え、朝鮮ジジイ。 >>155
うるせえ。逃げずにコテをつけてみろ。
いいか藤井九段だってたとえば5五銀引とか1五金引とか指すんだよ。
逃げは場合によっては最善手だ。ww
オマエのインチキ御所水分論のオオウソを発表したから、オマエの論切
は不届き至極でオマエの説の切腹申し付けるものなり。ppppp >>153
時代が違うね。
宇佐の赤塚古墳も3世紀末ごろ。 >逃げは場合によっては最善手だ
なんで自分と藤井九段を一緒にしてるんだよ。
おまえなんてウンコ食ってる朝鮮ジジイだろ。
どっちにしても逃げてる奴には教えない。
ウンコ舌の朝鮮人に高級フレンチは合わないだろ。 朝鮮盲象ダンボのエレ半島マンよ。
オマエに教えてもうらうものなんてねえぜ。
これを聴け、アホウ鳥の声で合唱しろ。bbb
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U >>159
春日大社に祀られる比売神などは、千年外戚藤原が自分たちの系譜に卑弥呼あり、
みたいに主張する為なのではないかと考える。
海部氏勘注系図に「日女命」なんて出てくるのも、
我が系譜に卑弥呼がいたと主張したいがための後書きではないかと思う。
だって日女命と弟彦命なんて「いかにも」な名前が出てくるし。 結局大人気ない人たちの、罵倒合戦になってしまうんだな
ご苦労さんなことで その「〇〇はどこどこ」と、根拠なくただ言い切るだけのレスは止めて欲しい。 日本書記のどこの何が根拠か言え、
一言しか書けない馬鹿なのか。 >>164
宮崎県都万は日向国国府があったところ。
魏志倭人伝にある投馬国。
鹿児島は不毛の大地だ。 クマソタケルは亡くなる直前に川上タケルと名をあらためている。
その地にある河上神社は現在では與止日女神社と名をあらためている。
肥前一宮である。
クマソタケルの墓は大願寺廃寺跡にある。 芋と大根しか取れない薩摩は弱小国。
豊かな海の幸と膨大な稲の収量を得られた有明海沿岸地域が肥国であり、その盟主が熊襲。
筑紫の日向にいた倭王卑弥呼を苦しめた狗奴国は、肥後熊本。
卑弥呼の後継である壹與は肥前川上の與止日女。
筑紫の天孫族の親戚筋に当たるのが、のちの日向国となる投馬国。 >>175
言い張るだけでなんの整合性も示せない無能は引っ込んでろ。 安本美典のいい加減な平均在位ではなく、
用明、雄略、応神、垂仁の4人の天皇を基点にする平均在位から、
神武即位時期はことごとく卑弥呼の若いころに一致する。
つまり神武と同時代に卑弥呼がいたという事で、
もし九州に邪馬台国があるとすれば、神武の出立地・宮崎かもしれないし、
その宮崎でも神武の妻アヒラツヒメの痕跡が濃厚な日南市あたりが有力であろう。
といっても「強いて言えば」の話だが、
というわけで邪馬台国論争で福岡は出しゃばらないでくれ、迷惑だ。 やはり倍歴だろう
天照大神が卑弥呼なのは間違いない
神武が4世紀はじめだろう 一致しないぜ。
千葉考古班の機器測定で箸墓240〜260年とあって、八幡愚童訓の
黄龍2年=230年=開化48年
から、卑弥呼は崇神年代だよ。高価な精密機器だから測定に誤りはない。
なると 崇神没年=258年 が正であり、崇神の年代で百襲媛も卑弥呼も
ほぼ同時期にいた女性たちだったとなる。百襲媛は畿内に、卑弥呼は九州に
いたことで不合理はない。 >>171
私は女王国が日向だと思います。
日向はもともと日女だったと思います。 宮崎県の日向国なら、筑紫の日向(福岡県西部)からの分国だろう。
日本ではゆかりのある地名人名を借りるのはよくあること。
魏志倭人伝で邪馬台国(福岡県)と投馬国(宮崎県)が並列で書かれているのは、福岡県が山幸彦、宮崎県が海幸彦の国だったから。
山幸彦は、伊都の高祖山にある高祖神社の祭神だ。
海幸彦は隼人の祖とされている。
そして卑弥呼は火の国(肥国)の女王だったのが、神武ら天孫族が伊都を去ったために共立されて筑紫の日向の女王となったのだろう。
これで卑弥呼と神武が同世代ということも矛盾なく収まる。 卑弥呼が九州北部の女王であったと考えるもう一つの根拠は、肥前一宮の與止日女神社の與止日女が壹與と思われるため。
筑紫の邪馬台国が肥後狗奴国を統一した後に都をどこに置くべきか。
両者に睨みが効くのは筑後川流域となる。
当時の佐賀川は筑後川の支流であり、與止日女神社こと河上神社は、筑後川の川上にあった。
さらに言うと、この肥前川上はクマソタケルが討ち取られて川上タケルと名を改めた由来となる地名でもある。
景行天皇の御世であるから、実年代は4世紀初頭、壹與の時代と重なる。
つまりクマソタケルは壹與と同時代、同地域の権力者であり、九州北部を支配していたのは佐賀だったことになる。
卑弥呼の時代までは伊都を王都としていた倭国は、壹與の時代に佐賀平野に拠点を移していたのである。
この4世紀に、佐賀平野は急速に干拓が進み稲作が急成長している。
壹與や川上タケルの功績であろう。 せっかく、卑弥呼と神武が同世代という話に合わせてやっているというのに。 また肥前一宮はそもそもヨドヒメでもチリクでもないのです いくら頑張っても、大量の奴婢埋葬痕跡は日本で一か所しかない。
そこが卑弥呼の墓。
残念ながら九州ではない。 欠史九代が捏造だと仮定してもわざわざ記紀編纂時に没落していた葛城をあげて書く必要性は確かに謎だな 記紀に卑弥呼の女王国と天皇国との交易婚姻葛藤戦争などの記述はない。
あるのは伝の借り物の神功39年の記事くらいだ。
交易等の記述がないのは、女王国が当時畿内から並外れた遠方の
九州にあったからだ。
つまり双方の国の繋がりがなかったから記紀に記述が残らないわけ。
当時の日本の政局は畿内と九州の二本立てだったのは大陸が諸葛孔明の
いう鼎の三分政局と同様で、日本はおおむね二分だったのさ。 大量の奴婢埋葬痕跡は日本で一か所しかない。
大量の奴婢殺戮記事は記紀で一か所しかない。
その二つが見事に重なる。
太古より神々が住んだ高天原で重なる。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg
大量の奴婢を殺戮したのは神武軍だ。 ・585年即位・用明天皇
用明天皇以後20人の平均在位から割り出した神武即位は216年
用明天皇以後30人の平均在位から割り出した神武即位は190年
・458年即位・雄略天皇
雄略天皇以後20人の平均在位から割り出した神武即位は207年
雄略天皇以後30人の平均在位から割り出した神武即位は202年
・390年即位・応神天皇
応神天皇以降20人の平均在位から割り出した神武即位は202年
応神天皇以降30人の平均在位から割り出した神武即位は211年
・318年即位・垂仁天皇
垂仁天皇以降20人の平均在位から割り出した神武即位は191年
垂仁天皇以降30人の平均在位から割り出した神武即位は195年
神武と卑弥呼が同時代であったことがお分かりいただけると思う。
しかもことごとく卑弥呼の「若い頃」に一致します。
なぜか?
二人は夫婦だったからです。
もはや卑弥呼は一人しかいません。 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 神武と卑弥呼は同時代だとは、10年ばかり前の千葉考古班の箸墓測定結果の
240〜260年
からして間違いであり、箸墓百襲媛の陵墓からして神武ではなく崇神の代
である。高価な精密機器だから各自の持ってる車の速度計が正しく速度を
示すごとく、この精密機器は正確に年代を示しているとするのが相当で
あって、これにより脳内の盲象主張をしっかり棄却できうる。
上の年代は八幡愚童訓の
黄龍2年=230年=開化48年
の内容と矛盾がなく、神武が卑弥呼の年代ではないことが同機器と訓
の年代からはっきりしている。 歴博が放射性炭素測定で箸墓古墳開始時期を240〜260年にしたからと言って、
「神武と卑弥呼は同時代ではない」とはならない。
なぜなら箸墓古墳が卑弥呼の墓とは決まってないからだ。
箸墓被葬者は崇神陵墓(行灯山古墳)の前時代、崇神天皇の少し前の人物。 ようく考えろ。
箸墓は卑弥呼の墓ではねえんだよ。
卑弥呼の墓は円墳のはずだ。
百襲媛と卑弥呼はほぼ同時代の女世だよ。
卑弥呼は九州に、媛は畿内にいたのさ。不合理はねえ。 >>200
>箸墓は卑弥呼の墓ではねえんだよ。
そりゃそうだ、俺は一言も箸墓古墳が卑弥呼の墓だなんて言ってない。
>百襲媛と卑弥呼はほぼ同時代の女世だよ。
適当な事を言うな。
モモソヒメは崇神と同世代、4世紀前後。
卑弥呼とは100年約5世代違う。 ×女世
〇女性
コチラも、一言も箸墓古墳が卑弥呼の墓だなんて言ってない。
文字通り適当で、適正だぜ。
オマエの脳内より機器の測定結果がモノをいう。
ほぼ同世代だよ。
機器の測定結果は卑弥呼の関係年代たとえば239年とかに切迫している。
紀には卑弥呼の情報が倭人伝の借りものの神功39年等以外なく、
つまり純粋の日本の原書からの卑弥呼の記述は皆無である。
これは卑弥呼とその女王国が当時畿内に情報の届きにくい九州に
あったたことを物語っている。日本の卑弥呼の出来事が日本の原書になく
外国の大陸に倭人伝としてあったということは、当然畿内よりも
日本の情報が届きやすくなる大陸に近い九州、畿内より近隣の九州に
女王国があったと観るのが不合理が少ない。
ということは測定結果と合わせて百襲媛と卑弥呼はほぼ同年代だったと
なるのだ。だからオマエの脳内より同年代とさせる精密機器の測定結果
が当然優先であり、オマエの盲象は退けられる。 千葉考古班の使った高価な精密機器の計器が
240年〜260年
の結果だ出たということは、八幡愚童訓の
黄龍2年=230年=開化48年
のこの内容が正しいということを裏付けている。
開化年代の次代が崇神の代だから、オマエのいう4世紀前後という主張が
盲象のデタラメだということを意味してくる。
オマエはオマエのはめてる時計あるいはスマホ画面の時計の指針が
大幅にずれないことを信じないのか?w これらも精密だぞ。
だから千葉考古班の高価な精密機器の測定結果に大きな誤針などない。
このことから 崇神没年=258年 の説がほぼ正しいわけで、318年説が
誤りだと決まりである。 記紀の記述通りだと、モモソヒメと吉備津彦の姉弟は崇神の2世代年上になるが、
崇神が30歳で四道将軍を派遣したとすれば、一世代間20年として、四道将軍・吉備津彦は70歳になる。
これはまったくあり得ないわけで、モモソヒメと吉備津彦は、崇神と同世代かほんの少し歳上と見るべき。
また先代旧事本記ではイカガノシコオの孫・武諸隈が5代孝昭天皇の時代に大臣であったとする。
つまり記紀の系譜は、ある目的があって、時代を長く引き伸ばすために書かれたことは明白なので、
そのまま信用することはできない。
天皇系譜でいえば、6代孝安から11代垂仁まで、実際には2世代以内に収まるであろう。
崇神天皇陵墓が古事記の記述からも行灯山古墳であることは疑いがない。
行灯山は4世紀初頭の古墳なので、モモソヒメもほぼ同時代。
したがってモモソヒメは卑弥呼とは約5世代100年違いの人物。
モモソヒメが卑弥呼であるわけがない。 倍暦やってたからおかしくないよ。引き延ばしたというより1年が現今の
半年だとかだったんだから、矛盾が消える。
また器械にごまかしは殆ど無い。 >倍暦やってたからおかしくないよ。引き延ばしたというより1年が現今の
>半年だとかだったんだから、矛盾が消える。
おかしいですね。
仲哀天皇死亡日の前々日から十月十日で応神が生まれたことになっている。
仲哀天皇は、 仲哀天皇9年2月6日に亡くなり、仲哀天皇9年12月14日に応神が生まれています。
倍歴って半年を1年に数えるのでしょ。
少しも倍歴ではないですね。 通常暦をしていた時代もあって、仲哀は西国の珍宝をよせるという天啓を
仲哀が拒否して頓死したので、元年にさかのぼり外国の通常暦に変更したと
いうことと、
やっていた倍暦も消極的に使っていたので、その暦の混交で計算が合わなく
なっただけのことで、そこを今後はっきりさせれば合うに至る。
消極的使用っていうのは、現今は太陽暦に平行して旧暦があるように、暦の
並行使用が当時にあったということだ。
允恭の時世もこの天皇が病気にかかって半島の良医を呼んで治癒したようで、
元年からさかのぼって先帝の2倍暦を廃し感謝のためか半島の通常暦を
使って2倍暦を止めたが、消極的には残って通常暦と平行に両暦使用を
していたのだ。允恭以後雄略世を通じてまだ並行の暦使用をしてたのさ。
これが下 ↓ を見れば明確だろ。
雄略の年齢
古事記 124歳
日本書紀 62歳
62×2=124歳 で2倍暦をしてたのさ。混交に成ると計算合わせが
難しくなる。 >元年にさかのぼり外国の通常暦に変更したということ
>暦の混交で計算が合わなくなっただけのこと
そんないい加減で適当な話は通用しない。
春夏秋冬がはっきりしてる日本では、もちろん普通の歴を使いながらも、
古代天皇の年代を途方もなくずらさなければならない切実な理由があったという事。 ずらす動機は何だね?
神武まで古くしても、大陸の夏、殷とか三皇五帝の時代に到達しないはずだ。
そのかなり後代に前660年が位置するから、大陸の古さに勝てる年代になって
はいないよ。これでは大陸と比べとほうもなく古くとはいえない。
雄略の記紀の年齢を見れば、2倍暦を一時的にもしてたのが真。 >>211
>ずらす動機は何だね?
卑弥呼を隠す事。
本当の卑弥呼を途方もなく遠い時代に設定し、
その開いたポジション、2世紀末から3世紀半ばのポジションに、
干支を2運120年ずらしてまで神功皇后を置いているね。
卑弥呼を隠した理由は、卑弥呼の5世代100年前に帥升がいるからだ。
帥升を隠すことが記紀編纂の最大の目的、そのために卑弥呼も隠したという事。 紀の神功39年に卑弥呼の公開記事があるよ。
これは隠匿ではなく、その反対の存在記事だろ。読んでないのか?
だいいち年代ずらしをやれば、公文書偽造で当時の糾察官吏にとっ捕まり
失脚だよ。 >だいいち年代ずらしをやれば、公文書偽造で当時の糾察官吏にとっ捕まり
失脚だよ
何を言ってるんだ。
帥升=スサノオの渡海しての安帝への謁見要請=土下座から始まる国史なんて書けるわけなかろう。
だから未来の日本人のために行った国ぐるみの隠ぺいだ。 コチラがご本家だ。土下座は白鵬が子供に負けてやるようなことであってw、
支邦という分支分家に本気で土下座なんかする必要なんかない。
チュルドレン(中琉土連)といって、奴らはご本家日本からみれば
子供同然。pp
いいか、畿内の朝廷は五王やなんかとはだいぶ違う。
朝廷に本気の土下座なんかはねえ。
中国の五惑星の旗より太陽の旭日旗のほうが上位なのだ。
将棋でいえば、中国皇帝は玉将、日本天皇は王将で先手が下位の中国側で
後手が上位の日本側だ。玉が下位の先手、王が上位の後手だから皇帝の
先手側が歴史が古いのであって、神国日本が上位は動かない。
李鵬が日本はいずれ中国の属国になると豪語してたと聞くが、
それは逆だ。日本が中国を従えるのが天意だ。天文学でも太陽が五惑星を
従えるのが太陽系の姿だ。土下座は白鵬が子供に負けてやる大陸へ
のお土産のようなもの。w 朝廷には真の土下座はないから安心せい。ww
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U 書けるわけがねえなら、雄略武烈の大悪天皇の記事も記紀から削ってるぜ。
ところがこの今なら重要犯罪的天皇の記事が載ってるんだから、そんな隠蔽
なんかしてはいないぜ。隠蔽ならこの二天皇の記事も都合悪いから
削るはずだ。
だが載っているし、帥升なんか皇族の関係者でもねえ。つまりオマエの盲象。
スサノオが帥升だとする根拠も不十分で別人だ。
卑弥呼の記事も隠蔽でねえから紀の神功39年の記事に公開され載ってるし、
年代ずらしは公文書偽造で当時逮捕失脚するから、そんな危険な行為は
やる必要もない。
世界で倍暦の事実があるし、日本も例外ではない。
古代マヤの月暦も外国の2倍暦の天啓だし、雄略の記紀の年齢は当時一時的
にも2倍暦をしてた文証だ。 ×天啓
〇典型
マヤの月暦は絵文字だが、学術的には6個の月たる
C₁ C₂ C₃ C₄ C₅ C₆
での一年が6ヵ月の半年で暦を編んでいて、2倍暦だ。
日本も例外ではない。 だから、おまえは消えてくれ。
他所のスレに行けって。 な〜んだ、オマエはこの前の野郎か。
オマエは中国人かその関係だろう?
オマエの祖国の中国を誇っていくら日本を卑下しようとしても無駄だ。
早くオマエは大陸に消えろ。
いくらオマエが手泥巣のように中国に肩を持っても太陽の旗の神国日本の
ほうが五惑星の旗の中国より格上だ。
オマエの主張は神国日本には通用しない。
神国日本は全世界の別格の国家であり天帝たる創造主の直轄地の天領
であって、他の各国とは格が違うのだ。それゆ神国日本は萬邦無比の
國體を誇るのである。
土下座などと日本を卑下する中国人よ、大泣きしろ。 俺は日本人でこのスレのスレ立て人だ。
お前は消えてくれ。
邪魔だ。
他のスレにいけ。
もしこのスレに居たいと哀願するなら、九州にある卑弥呼の墓とやらを答えてみろ。
どうせくだらないバカ古墳しか出せないのであろうが、一応、聞いてやる。 人間で万物の霊長の一たる自分を猫以下に位置付ける野郎は間抜け
以外の何物でもなかろう。
日本人ならチャンコロに土下座などというのは上の位置つけの野郎と
似たようなイカレ脳だ。w オマエは好きらしい中国に消えてくれ。
ご本家の日本人なら分支分家のの支邦人以下だというわけがねえ。
どうみてもオマエは手泥巣のように中国に肩を持ちすぎる。
じゃあ中国人に国籍変更すればよかろう。オマエなんか神国日本に必要
ない野郎だ。日本人らしくねえ。言動がちゃんころひいきだ。
オマエこそ畿内にある卑弥呼の墓とやらをまず答えてみろ。
言い出したのはオマエだ。想定じゃあダメだぜ。
しっかり納得できる根拠をいえよ。
だってオマエが言い出してるんだから自信があるんだろう。
オマエから言い出したんだから、根拠資料証拠を具体的に言って
説明してみい。テメエが合理的にいえねえならコチラにいえというなよ。
いいかオマエは原文に邪馬1国とあるのに邪馬台国に鞍替えしている。
1與もだ。二文字改変をやっている。
南女王国に至るを東に2回目の変更をしている。(1は漢字)
次に女王は生涯独身のはずなのに夫の神武の夫帯だと3度目の変更を
している。
さらに女王なのに皇后へと4度めのすり替えをしている。
こんなに変更すればどんないかれた論も出来上がるよ。そんなにクルクル
変更して論が正しく成立するわけがねえ。オマエは変更王だ。pupu >>221
>オマエこそ畿内にある卑弥呼の墓とやらをまず答えてみろ。
俺は>>185で答えている。
おまえこそ質問返しで逃げるな。
何度逃げてるんだクズ男。
さぁ九州にある卑弥呼の墓を答えてみろ。 訂正
>>195で答えている
>女王は生涯独身のはずなのに
生涯独身ではないよ。
なぜなら生涯独身なら「年すでに長大なのに夫はいない」「年長大であるにもかかわらず夫はいない」
など、
「なのに」「〜にもかかわらず」といった逆接の接続詞があるはずだ。
それがなければ、そもそも文体として意味をなさない。
が、魏志倭人伝の原文にはそれがない。
だから、
「年すでに長大 夫はいない」と訳すしかない。
これは今の英国のエリザベス女王がそうであるように寡婦の可能性の方が高い。 なんだこれは。九州でねえか。ウハハハ・・・
ただ神武の時代にしてる。
オマエは九州にいて神武年代だと言ってるのか?
オマエ畿内説だったと思ったが、変更したのか?
じゃあ場所なんかつつくことでねえだろうが。
だって九州ならこちらと同意見だろうが。
つつくのは年代じゃないか。
オマエ松沢病院に即行く仕度をしろ。これはもうホントに真性かもしれんぞ。 >>223
まあそういうのがより正確かも知れないな。
いずれにせよ女王は皇后でねえよ。
女王は言い回しが違うが女天皇に相当だ。
これは推古の世からだ。だから奴は改変してるのさ。
このようなクルクルクルクル改変なら、どんな論でも作れてしまう。
これじゃダメ。 >>222
クズはオメエだろ。いつから畿内説を九州説に変更したんだ?
オマエ最初は畿内説だったはずだ。紀無い説だとおかしいのを
自覚したわけだな。bbbb けっこうではないか。
なら正々堂々と有コテで来い。怖いのか。へへへ・・・
同じ九州説ならそんなことでつつき合う必要もなかろう。
年代をつついたらどうだ?www
松沢病院推薦も九州説が正解だと盲象に気付いたなら、その脳内に盲象治療薬
のカキコミでの薬効を投与させたのがコチラではないか。病院行きは回避
できるぞ。
よくよく治療できてコチラに感謝しろ。ハハハハ・・・ >>224
>なんだこれは。九州でねえか。ウハハハ・・・
どこを見てるんだ>>195は大和だ。
バカだろおまえ。 >女王は皇后でねえよ。
皇后という称号は7世紀に出来た。
だから卑弥呼の時代に皇后なんて称号はない。
7世紀の朝廷は魏志倭人伝の女王を皇后に置き換えた。 皇后でないは分ったよ。
こちらの言ってるのは女王でねえっていうことだ。
文字にこだわるな。
じゃぁ皇后という前は何て言ってたんだよ?
>>227
オマエの書き方が悪いんだろう。コチラは老齢で視力が弱ってるんだ。
爺になってるのを2.0のつもりでいるのか?
もう一回書き直ししろ。いずれオマエも目がいかれる年貢の納め時が
来るのだ。そうなるとオマエも大馬鹿だろになるわけだな。bb
いいか記紀に女王国と天皇国の交流記事なんどねえし、卑弥呼は公開
されてるんだから隠蔽でもねえ。これはオマエのいい直す大和に卑弥呼
がいねえのいい論拠だろうが。九州のどのあたりなどとオマエが
したい論をそらす前にこれを反論してみろ。できねえか?
畿内に女王国がありゃあ、天皇と女王の何らかの交流が記紀に載る。
それがどこにもねえし倭人伝の女王国周辺の国々の記述にも天皇国
があるという文はねえ。畿内に女王国はねえから大泣きしてろ。 >>229
>じゃぁ皇后という前は何て言ってたんだよ?
ヒメだろう。
ヒメというのはたくさんいるけど、
最高位のヒメには別にこれと言って称号はなかろう。
>オマエの書き方が悪いんだろう。コチラは老齢で視力が弱ってるんだ。
そんなこと知るか。
>>195に卑弥呼の墓を示してるが、それが見えないのならもネットはやめろ。
で、おまえが言う九州にある卑弥呼墓がどこなのか、
これは視力に関係なく書き込めるはずだから、
はっきり言ってもらおうか。
逃げ回るな。 オマエいつから九州説に鞍替えしたんだよ?
オマエ消えろといってて逃げるなとは自語相違で正反対の注文だから、
スーグ松沢病院に駆けつけろ。これはどうやら真性に近いぞ。 >>231
だから>>195のどこが九州なんだよ、アホか。
あれは大和朝廷の発祥地、奈良県御所市だ。
おまえが松沢病院とやらに行け。 なにをほざくか。オマエ紀無いと九州に二股かけて逃げ場所を作ってたわけだ。w
紀無いで反論できねえと九州だといつでも鞍替え用意てカモフラージュ
なわけだな。bbb
要するにオマエこそ左右吉の論パリで卑弥呼の居場所がはっきりしてないことだ。
神武が卑弥呼の時代だというなら、次代綏靖以後の各代の即位年を資料根拠など
を書きこんで応神仁徳くらいまで説明してみい。おまえこそここを全然兎と亀
の競争での寝兎だ。天皇が寿司詰めになって暑くてしようがねえと各天皇が
文句を言い出すぞ。うははは・・・・・ 泣け。 >>233
九州にある卑弥呼の墓を言えないから、喚いて、ごまかして、
質問返しして、逃げ回ってるんだね。
答えてみ。 藤井九段も2三金引とか駒を引き動かすんだよ。それで将棋の冠を取るのさ。
五輪のフェシングでも下がってるぞ。うひひひ・・・
故大山名人なんかそういう金の使い方引き方が上手だったのだ。
だから将棋の名人になれたんだよ。逃げは名人最良の受けの一つだ。
オマエは猪突盲進ばかりだから盲象に増幅最大となるのだ。wwww
早く神武から仁徳くらいまで各即位年を資料根拠を出して説明してみい。
そしてアホ踊りでも踊ってろ。pupupu ほら、まだごまかし続けてる。
80過ぎてみじめな事このうえない。
もうとにかく消えてくれ、邪魔。 オマエこそ手泥巣の脳内で日本を最下位の土下座にしたい松沢病院特別入院級
のいかれた主張が大好きだから、中国人になって神国日本からとッとと消えろ。
この神国日本はオマエのいう土下座最下位の国家ではなくマルコポーロの教えた
過去に邪馬1国の在った数字通り世界第1位の金メダル級国家であって、その神州
を最下位土下座に位置させたいオマエはもう日本人とはいえない。
オマエの故郷は土下座させてるという中国だから中国人になって神国日本から消えろ。
オマエのような野郎は右翼の怒りを買うトンデモ日本史論であり、即失せろ。
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U ほら、まだごまかし続けてる。
80過ぎてみじめな事このうえない。
もうとにかく消えてくれ、邪魔。 オマエの日本侮辱のインチキ土下座国賊論はもう結構月光。
相手の中国は白鵬の日本に勝たせてもらった子供たちのチュルドレン(中琉土連)
同然。ド土の土下座の連続がご本家日本の分家分支の支邦のナイチャうチャイナ
の身分だ。
オマエの土下座論は神国日本を世界最下位に位置つけたいトンだ国賊論であり、
左党中国の金丹左丹同然。サタン中共の中国人になって5ちゃんから消えろ。
https://www.youtube.com/watch?v=THqeDZ9g8Rg 「消えろ」と「逃げるな」とは物理的に全く逆のカキコミで自語相違。pubupubu
つまりオマエは支離滅裂やはりオマエの脳内はショートしており真性の症状が
発症している疑いが濃い。
すぐオマエは松沢病院に駆けつけろ。 織田信長の時代に宣教師のフロイスが地球儀をもってきた。
そしておおよそ江戸時代になって、この大地は丸い球であるという事実が日本人に定着。
それ以前は仏教にもみられる平面世界観であった。
この大地は円盤状の世界で、その中心に高山がそびえ、月や太陽はその周りをまわっているという考えである。
その高山を模したものがお寺の塔(ストゥーパ)であり、
その高山の頂上、神が住む有頂天を表したものが各家庭にある仏壇(須弥壇)である。
記紀に登場する「高天原」も、この大地は丸い球であるという事実を知る以前の平面世界観での産物である。
だから蘇我馬子が推古天皇に高天原のある葛城の領有を願い出たた時、
私は今まで叔父の言う事は何でも聞いてきましたが、それだけはできませんと断られる。
この大地の、この世界の中心、日本の最も神聖な場所を蘇我に明け渡すわけにはいかなかったのである。
江戸時代に登場する本居宣長に代表される高天原=天上説は、
この大地は丸い球であると知って以降の考え方であり、
それ以前の平面世界観での高天原を説明できるものではない。
以上、平面世界観では、高天原は「どこか」に見立てられているのであり、
それは古来から高天山と言われた金剛山の麓、奈良県御所市高天しかない。
そこに卑弥呼の墓もある。 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 中国のほうが日本より文明の誕生も国家の成立も古い。
しかし中国の王朝は何度も王朝が臣下の者によるクーデターで
交替していた。だから日本は中国より国家の成立は新しいが
統治者(歴代の天皇)は国土を産み出した神々の子孫であり、
その王朝は一度も交替していないというスタイルの歴史を作り
たかったということでしょう。ただし、日本列島で起きた歴史が
その通りであったかは不明です。むしろ疑わしい。 物部氏など他の氏族の系図を参考にすると
神武〜履中まで次世代への継承が順調であったはずがなく、
ここは17世代ではなく17代と見るべきだ。
17代を17世代に変えたのは神武天皇が即位した年を紀元前660年
と定めたから無理やり父子継承が連続していることにしないと
いけなくなった。高齢で子供を作ったとしても明らかに有り得ない
年齢にしたくない。
しかも崇神天皇より前の天皇は邪馬台国の女王の時代と被ってしまう。
ではこの17代は実際には何世代か
神武〜崇神まで6世代。応神までだと9世代。
応神からきちんと世襲が確立したから神武〜履中は11世代。 >>244(続き)
古代天皇の平均在位年数を考えるのもいいけど、
「何年で世代が交替するか?」に注目してもいいはずだ。
神武天皇の即位元年を西暦196年とし、以降25年で世代交替した
とする。奈良時代初めまで、古代天皇の崩御年(西暦)を y とする
と、天皇の世代xとの間に y = 25x +196 の直線近似が成り立つ
かどうか確かめてみた。
1世代目(神武天皇崩御)西暦221年
2世代目(安寧天皇崩御?)西暦246年 卑弥呼死去(248年頃)
…
6世代目(崇神天皇崩御)西暦322年 古事記では318年
…
8世代目(神功皇后崩御)西暦396年 日本書紀 269+60×2=389年
9世代目(応神天皇崩御)西暦421年 日本書紀 310+60×2=430年
…
12世代目(雄略天皇崩御)西暦496年 日本書紀 479年 古事記489年
…
15世代目(欽明天皇崩御)西暦571年 日本書紀と一致。
16世代目(崇峻天皇崩御)西暦596年 日本書紀 592年。
17世代目 天皇なし。 西暦621年 西暦622年に聖徳太子が
49歳で死去。一世代前の推古天皇は西暦628年に75歳で崩御。
… 19世代目(天智天皇崩御)西暦671年 日本書紀と一致。弟の天武天皇は
同世代だが天智の娘婿でもあり、天智より更に15年生きる。
20世代目(持統天皇譲位)西暦696年 日本書紀では697年に孫で男系系図
では一世代下の文武天皇に譲位。彼女の崩御は西暦702年(58歳)。
妹でわが子の嫁でもある元明天皇は696年より25年先の721年に61歳で崩御。
21世代目 (元正天皇譲位) 西暦721年 史実では西暦724年に
甥の聖武天皇に譲位。太上天皇となった元正は24年後の748年に69歳で崩御。
22世代目(聖武天皇譲位)西暦746年 史実では西暦749年に皇女の
孝謙天皇に譲位。太上天皇となった聖武は7年後の756年に56歳で崩御。
23世代目(称徳天皇崩御)西暦771年 史実では西暦770年。女性の天皇では
短命かもしれない。
男性の天皇は50歳ぐらいで死亡する人がざら。
卑弥呼が神武と同世代かどうかは分からない。そうであってもお互いを
知っていたかどうか。しかし本スレ通り同世代だとすると、卑弥呼は
夫の神武天皇が死んでも更に27年生きていたことになる。
卑弥呼や推古天皇のように女性の王は男性の王より更に一世代分(ひ孫が生
まれる頃まで)長生きする傾向があるようだ。元明天皇と元正天皇もそうで、
この式に更に25年足して丁度いい。 間違った
>男性の天皇は50歳ぐらいで死亡する人がざら。
そうじゃなくて男性の天皇は50歳も生きたら長生きなほう。 卑弥呼が神武と別世代
神武が卑弥呼活動の239年ころに位置すると、以後の古代天皇の在位年数が
すし詰めになる。だから同世代ではない。
同世代がこの不合理をつつくと自論を間違いだと覚醒せず、途中の天皇を
増やしただとかして盲象の同世代を抱えこんで津田病の症状になる奴が多いと思う。 >神武が卑弥呼活動の239年ころに位置すると、以後の古代天皇の在位年数が
すし詰めになる。だから同世代ではない
卑弥呼は当時としては異例の長寿であり、70歳後半あたりまで生きた可能性が大。
神武は卑弥呼即位頃には、すでに中年であったなら、3世紀初頭にはなくなっていただろう。
一世代間25年というのは、平均寿命を40歳として15歳で先代を継ぐことになるので、
少し無理があると思われる。
だから一世代間20年くらいが適切なのではないかと思われる。
これなら20歳で跡を継ぐということになるからね。 >>249
それだと以前からいってるが、八幡愚童訓の
黄龍2年=230年=開化48年
と合わなくなるのさ。
この等号は10年前の千葉考古班の箸墓測定
240年〜260年
と整合しており、機器が等号の裏付けをしている。
だから卑弥呼は神武の代ではない。崇神のころだ。
昨日だったか、TV放送でコロナ右居留守に関係してか、機器によるCO₂
濃度測定が正確かを電気通信大学だったか専門家が試験してを放送してたが、
大学の立派なこの測定機器はよく測定できてて、他の8個くらいあったか
他の私的か同濃度測定機器では3つ4つくらい不正確測定のインチキ結果が
判明した。だからこういう精密機器は高価で私的一般向け機器では
信用0に近い器械のものが多少あるとなる。インチキの一つは中国製のだった
そうだ。大学で使うのは本格的精密年代測定器で信用は間違いないと思うし、
インチキなら彼ら大学の研究連が見破るに決まっている。一般向けだとまだ
安心できないが、専門用機器だから心配は薄い。 ×高価で私的一般向け機器では
〇安価で私的一般向け機器では >>249
>一世代間25年というのは、平均寿命を40歳として15歳で先代を継ぐことになるので、
>少し無理があると思われる。
神武以降実際には父子継承より兄弟間継承が多かったはずだ。
あなたは平均寿命40歳だと言っているが、叔父→甥間の王位継承なら
ある王が40歳で死んでも次の王(兄の子)は20〜25歳ということもありうる。
また長男が生まれるのは17〜20歳で合っているだろうけど、
長子継承は必ずしもうまくいかない。次男あるいは三男、どうかしたら四男の
子孫が跡を継いでいくこともある(例:綏靖天皇、応神天皇、欽明天皇、天智天皇
これらの天皇は正妻の子というより後妻が産んだ子が跡を継いだ例。)。
少なく見積もっても、応神天皇や天智天皇は父親と33歳程度の年齢差、綏靖天皇や
欽明天皇は父親と40歳ほどの年齢差があっただろう。仁賢天皇も30歳頃まで雄略天皇の
追跡を避けて隠れていたから子供を作る年齢が遅く、皇女5人が生れた後、39〜40歳で
ようやく長男の武烈天皇が生まれている。
実際には清寧天皇→顕宗天皇、推古天皇→舒明天皇のように長子の子孫へ王位が戻る
場合もあって複雑なわけで一世代20年より25年が妥当だと思う。応神天皇や仁徳天皇
は110歳から60年を引いて50歳ぐらいまで生きたことは確実。在位23年の雄略天皇も
40歳以上生きただろうし、舒明天皇が49歳、天智天皇が46歳、天武天皇も50歳は確実に
生きただろう。古代天皇の平均寿命は40歳よりもう少し上げていいのでは? 女性は男性より長生きする傾向がある。
しかも日本書紀で先妻との間に子どもがいて、
52歳で即位したとされる神武からすると
媛蹈鞴五十鈴命はかなり若い女性であり、決して年齢が釣り合った
夫婦ではなかったはずだ。
仮に神武天皇が50代で死んだとして30歳の妻は更に40年は生きうる。
日本書紀を見ても皇后に先立たれた天皇は少ない。
女帝は概して父や男の兄弟たちより長命。
推古天皇 75歳
皇極(重祚して斉明)天皇 68歳(61歳とする説もあり)
持統天皇 58歳
元明天皇 61歳
元正天皇 69歳
孝嫌(重祚して称徳)天皇 53歳 (珍しく短命?)
明正天皇 74歳
後桜町天皇 74歳 神武は現今の1年365日余の1年計算だと宝算は77歳で、
かなり当時では長寿だったようだ。 古事記の137歳から60年を引いて
52歳で即位し在位25年77歳で崩御といったところかな。
でも大した事績がないし子供も少ないから
42歳で即位し在位16年57歳で崩御あたりが無難そうじゃない? 52歳で即位、そのとおりだ。
皇紀76年神武崩御だが、倍暦計算で真の崩御はA.D.26年、それで、
52−1+76=127歳
倍暦で76年時に西暦26年だから実年代は 76−2=50年 つまるから
127−50=77歳 が真の宝算。 在位25年77歳→在位26年77歳
神武の死後王位継承を巡って兄弟殺しが起きている。
イスケヨリヒメがタギシミミと再婚したとするなら
神武はイスケヨリヒメが産んだ子供たちが成人する
あたりまでしか生きていないだろう。女性が再婚する
として30代半ばが限度だろうし。 50年つまるから、五十鈴媛と後付けで名をつけたのか? >>245をよく見ると間違っていた。
6世代目の崇神天皇の崩御年は西暦346年になる。これはおかしい。
322年は崇神天皇即位元年だ。いや、実際には崇神天皇の在位年数は
短くて、垂仁天皇崩御年が346年でちょうどいいのでは?
その後7世代目景行天皇が371年没、8世代目神功皇后が396年没…
空いているところを埋めると
3世代目崩御 西暦271年、4世代目崩御西暦296年、5世代目(開化天皇?)崩御
が西暦321年、
10世代目(仁徳天皇崩御)西暦446年
11世代目(允恭天皇崩御)西暦471年
13世代目(仁賢天皇崩御)西暦521年
14世代目(継体天皇崩御)西暦546年 日本書紀 531年か534年 古事記527年
継体天皇と長男の安閑天皇、次男の宣化天皇は仁賢天皇の娘婿である。宣化天皇
の崩御年は西暦539年。
18世代目(舒明天皇崩御)西暦646年 日本書紀 641年
男性天皇だけだったら その世代最後の天皇の崩御年はy=25x+196で
結構実年代に近い値が得られそうだ。女性天皇が最後に来る場合は更に
25年をプラスする。 初代から17代まで次世代ヘの王位継承が順調だったとする
皇室系図を信用するなら、紀元1世紀に神武天皇が即位した
でもおかしくないけど、本当にその頃から現天皇のご先祖が
大和を治めていたんだろうか?いちおう学校の歴史教育では
邪馬台国の後、西暦3世紀後期〜4世紀初頭から大和政権が
発展すると教えるからなあ。紀元1世紀には大和に王権はあったけど、
それは天皇家より前の王朝だよというのがこのスレの主張だしなあ。 卑弥呼の前の男王70〜80年が、筑紫の日向三代、邇邇芸や彦火火出見の王朝、伊都国王統だとすれば、神武と卑弥呼は同世代、大和の発展は3世紀ごろでだいたい合う。 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 卑弥呼が神武の代でないことは千葉歴博考古班の精密機器ではっきりしている。
自分の考えた決めこみからの論は間違いが大半。
黄龍年代が開化年代末期だから、崇神の代が真。 神武はマルコポーロのいう黄金の国の黄金民族の長であって
半島の朝鮮人参の世界第参位級民族の銅メダル近族国家とは別の近族たる黄金
であって、ハーフではない。
半島人は銅メダル近族だからあのブスの銅像を各地にぶっ立てる風習があるのだ。 >>253
>あなたは平均寿命40歳だと言っているが、叔父→甥間の王位継承なら
>ある王が40歳で死んでも次の王(兄の子)は20〜25歳ということもありうる。
世代間という事では25歳もあるのかもしれないが、神武から崇神まで父子継承が降ること9世代も続いていたとは考えにくく、
それはモモソヒメと吉備津彦が日本書紀の記述なら崇神の2世代上になり、
四道将軍の命を崇神が30歳で出したとしたら、一世代間20年で吉備津彦は70歳、
一世代間25年なら80歳というとんでもない話になるので、
つまり、崇神から神武まですべて父子継承で、さかのぼること9世代などはあり得ない。
だからここで有効になるのは平均在位だ。
古事記の没年干支から10代崇神天皇318年没の信憑性が非常に高く、
また考古学的にも行灯山古墳が布留1式=4世紀初頭の建造開始であるから、
次代の垂仁を崇神の没後すぐに即位、つまり318年即位と考えて良いのではないかと思われる。
そして神武まで遡ることわずか10人であるから、+30年-10年や+20年-5年と言った平均値の幅も必要なく、
出てきた数字とほとんど等しいのではないかと考えられる。
では計算してみる。
@ 垂仁即位318年として、神功皇后を含め20人後は29代欽明天皇で在位は571年まで。
571-318=253 253÷20=12.65 平均在位12.65で神武まで10人遡ると126.5.
318-126.5=191.5
神武即位は191年。
A 垂仁即位318年として、神功皇后を含め30人後は、40代天武天皇で686年まで在位。
686-318=368 368÷30=12.266... 平均在位12.266で神武まで10人遡ると122.6
318-122.6=195.4
神武即位は195年。
やはり神武は卑弥呼の時代である。 いやあ神武の時代じゃないね。
千葉考古班の測定がモノを言う。
箸墓 240年〜260年 の結果は、崇神没年が318年だとの説を否定しているし、
八幡愚童訓の 黄龍2年=230年=開化48年 をこの精密機器が正しいことを意味
している。だから258年説がほぼ正しい。
箸墓年代から卑弥呼は百数媛とほぼ同時代の女性だったということだ。
これから卑弥呼が九州にそのころいたことで不合理はない。 >>268
いやいや、>>244からちゃんと読んでくれ。
神武から崇神まで父子継承が降ること9世代も続いていたとは
言っていない。6世代だろう。神武から履中までの17代は17世代
ではなく実際には11世代でその間は兄弟間継承が多かったということ。
その仮定で一世代25年と見なして近似的に y = 25x +196が成り立つと言っている。
神武天皇即位(仮定)は195年で崩御年は221年。
一世代は平均25年で交替するで間違いなくこのスレ的にも矛盾はない。 >千葉考古班の測定がモノを言う。
>箸墓 240年〜260年 の結果は、崇神没年が318年だとの説を否定しているし
歴博が箸墓建造開始を240年〜260年だとしてるが、
それは、崇神没年が318年だとの説を否定するものではない。
箸墓がモモソヒメの墓だと決まってないからだ。 >>270
>神武天皇即位(仮定)は195年で崩御年は221年。
ほぼ賛成です。
問題は卑弥呼が誰なのかという一点。 器械だから測定結果は出ても318年を否定するとかいう言動はするように作って
ないだろうが、これじゃ合ってないよ。
機器の測定結果だと、古来から百襲媛の墓だというのと矛盾がない。
神武即位は西暦元年辛酉であって、機器の測定結果から否定に行かない。 千葉歴博考古班機器の箸墓測定結果の 240年〜260年 は
八幡愚童訓の
黄龍2年=230年=開化48年
からして、古来から箸墓が百襲媛の陵墓だという伝えと合ってるわけで、
箸墓が同媛の墓だという伝えをなおさら正しいということを意味している。
開化48年が230年なら、318年では年代が遠すぎて不合理だし、
神武の代に卑弥呼がいたのなら綏靖以後の歴代天皇の在位が寿司詰めとなり、
各天皇方が超満員電車に入れれれて窮屈この上ないと言われても仕方が
ない不合理状態。よって卑弥呼は神武の代にはなりえない。 >器械だから測定結果は出ても318年を否定するとかいう言動はするように作って
ないだろうが、これじゃ合ってないよ。
何を言ってるのか分からないから黙っててくれ。
>機器の測定結果だと、古来から百襲媛の墓だというのと矛盾がない。
記紀に箸墓がモモソヒメの墓と書かれてるからモモソヒメの墓だとするなら、
記紀には神功皇后が卑弥呼の時代にされて、
神功皇后紀に魏志倭人伝の卑弥呼の記事まで挿入されているので、
神功皇后は卑弥呼で間違いないという話になる。
しかし時代が全然違うので神功皇后は卑弥呼ではない。
こういう簡単な史料批判もできないなら古代史探求をやめればよい。 それは倍暦をしてたから知らぬ紀の編者が神功年代に入れたのさ。
機器のほうは直接倍暦とはいわないよ。機器は1年365日余の通常の1年計算だろ。
それが 249年〜260年 だとしてるのは、オマエの車のスピードが
例えば 時速60km と指針のときオマエの脳内でいま30kmだと計器を無視して
決めこんでも速度計のほうが正確だ。不正確だったら運輸省から車走行停止の
何らかの文句が車販売会社に行くように、あの精密機器が不正確なら他国の
考古学関連等から粗悪な機器だから使うなとか停止要求が来る。 古事記の没年干支と4世紀代の大王墓はおおよそ符合する。
仲哀天皇崩御年「壬戌(みずのえいぬ)」362年 河内平野最初の大王墓・津堂城山で間違いなかろう。
成務天皇崩御年「乙卯(きのとう)」355年 陵墓不明
景行崩御年干支記載なし
垂仁崩御年干支記載なし
崇神天皇崩御年「戊寅(つちのえとら)」は、仲哀362年、成務355年という流れからも318年であろう。
当時の平均寿命からも258年はありえない。
また古事記の記述からも崇神陵墓は行灯山で間違いなく、その建造時期は4世紀初頭。
これも崇神318年没が正しいことを示す。 >あの精密機器が不正確なら他国の考古学関連等から粗悪な機器だから使うなとか停止要求が来る。
不正確だよ。
だってJcal,Intcal20で4世紀の可能性も示してるのだから。
https://nihonkodaishi.net/knq/20dec/images/zu3.png 不正確なら精密機器の製造会社の信用は0だぜ。
会社の存率に関わる重要事だ。それこそ大騒ぎになる。そんな騒ぎはみられない。
いいか私的使用の安価のだとオマエのいうインチキな機器は確かに出て来るが、
ああいう歴博で使う学者研究用のは高価でインチキなどねえよ。
オマエの車も速度計がインチキか?
80kmの速度指針のときインチキだからオマエがオマエの考えで40kmだと走行したら
まずケーサツの取り締まりを受ける。ケーサツも速度機器の数字豹を出して
違反だと告げて来る。それほど高価な機器はインチキがねえ。
市販の安物は確かにインチキあって信用できない。
数日前放送のコロナ関連で室内目張りをして厳格検査をしたが、3つ4つだったか
8個位の中にインチキ市販機器があった。だからオマエのいうインチキはあるが、
大学や博物館研究員用のに誤差なんかほとんどねえよ。安価の一般用のはある。
オマエの出したそんなの、どうしてインチキかの説明がない〜単なるグラフ
だけであって、それこそインチキにしたいだけでウソが見え見えだ。ww >精密機器の製造会社の信用は0だぜ。
精密機器の製造会社の信用(爆笑)
精密機器の製造会社(笑)の信用は0ではない。
この結果を自分たちの恣意的な説に強引に結びつけようとした歴博の信用がゼロ。
なぜなら箸墓の建造時期は布留0式古相と判明してるが、
その時代と併行する北陸の二口かみあれた遺跡出土の木片が、
年輪年代で258年と判明している。
つまり箸墓の建造時期は布留0式古相=258年とすればいいのに、
それじゃ248年に死んだ卑弥呼墓にはならない。
おかしい、なんとかなるはずだと考えた歴博の連中が、
上記の放射性炭素測定で4世紀前半もありうるにもかかわらず、
240〜260年と強引に烙印を押したわけだ。
こんないい加減な連中の出す数字なんて無視すればよい。
どっちみち箸墓被葬者なんて先代旧事本紀と照らし合わせればすぐに判明する。
それはもちろん卑弥呼ではない。 オマエのほうが信用0だ。
そうなら解雇処分がきて然りだ。そんなことはきいたことがないし、
オマエのいうのがそうなら首にできるほどもっともっと大騒ぎになるさ。ww
とにかく箸墓を百襲媛でないなどと箸墓を別人の墓としないと合わない論じゃあ
なおさら信用できない。箸墓測定は八幡愚童訓の開化48年が230年だとする年代に
不合理はない結果でなおさら媛の墓だとの裏付けになっていて、どうころんでも
崇神没年が258年説が正確だとするのが正しい。オマエの書きこみは機器でなく
盲象飛躍ダンボそのもの。箸墓は卑弥呼の墓でないことはオマエのいうとおりで
ここは正解だぞ。だって箸墓は円墳でないから、ここはオマエの脳は正常だ。 首になってないから正解ってどんな論法なんだ、
頼むからおまえは消えろ。
というか暑苦しいので死ね。
分ったか? 死ねは論説でねえんだよ。もう持ち駒ねえんだろ?
故意にまげたら徹底してつつかれて処分が来る。
それがあそこの歴博で処分されたのか?
インチキならこの前の秩父原人だったか捏造したとかいう大騒ぎがあったと
思ったがもう考古学界にいられなくなる追放処分に近い処分がくる筈だ。
そんな処分がされたという話は聞いたことがない。
盲象飛躍ダンボのオマエこそ消えるんだな。もうインチキは書きこむな。
どうせ機器から318年にはなりっこない。w じゃあ盲象ダンボの両耳に栓でもしていろ。
https://www.youtube.com/watch?v=G8VdQY95Rtc
いいかオマエの脳の正常部分もちゃんとオマエに告げてるのに、
コチラに死ねはねえだろうが。もう一度オマエの論を点検してみろ。 >>272
卑弥呼が大和の歴史書である記紀に登場しないのは、大和にいなかったから。
おさらく九州だろうね。 >>287
その通り。遠隔の九州や特に同奥地の情報は記紀に届きにくいから登場しない。
四道将軍が旅しても女王の情報を得てないことから、九州だと観て正しい。
神功39年の卑弥呼公開の記述は大陸の伝からのもので、九州なら畿内より
大陸に近い。 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 外国の風習で天皇に直接タトゥは関係ない。履中の世にその紀の記事があったな。
外国っていうのは『外』の字でわかるように、タトゥの「タ」と「ト」の文字構成
になってるのはそのへんのため。あれは外国用で神州では不要的で893氏の
やるもの。
なお神武は黄金民族の長。半島人は黄銅のほう。
いずれも近族で肌の色も似てるようだが、別物の近族で神武はハーフではない。
半島は人参民族の世界第3位の民族で、だから各地にあのブスの銅像をうんと
立てるのだ。 >>287
>卑弥呼が大和の歴史書である記紀に登場しないのは、大和にいなかったから。
登場します。
但し誰も気づかないだけ。
気づかないように編集されてたのだから気づかない。
>おさらく九州だろうね。
九州説というのは、邪馬台国が大和だと分かった新井白石が、
大和だと言えない状況に陥り、
「邪馬台国は九州だ」と心にもない虚説を述べたのが始まり。
どうやって邪馬台国が大和だと分かったか、それは倭国王師升(Shuai sheng )が名前の似たスサノオではないかという一つの仮説を立ててみたら、
5世代後にヒメ蹈鞴五十鈴媛がおり
その3世代後にトヨ津姫がいることで分かったのであろう。
しかしそれは自分の生まれ育った日本が、AD107年、中華皇帝への謁見要請=土下座から始まるという言いようのないショッキングな事実であった。
だから邪馬台国は九州だと言った。
本居宣長もしかり。 気付くさ。天皇国の近隣に人民がわんさといて女王のうわさは入れば絶えないし、
天皇国と女王国が畿内に並立してても、なんとどの神社にも女王国があったと
いう由緒書きははない。当時天皇は男、女王は女で畿内にこれで二朝両立が
あったとは到底いえない。
四道将軍が四方に散って帰ってきても、畿内周辺に女王国がありゃあ、当然上奏して
相当の国の付き合いが始まる。そんな状況が微塵もない。
女王国がありゃあ、天皇国の住民さえ噂が増幅して隠すせやしない。
火のないところに煙は立たない。 チャンコロに土下座は朝廷はしないぜ。
五惑星の旗より太陽の旭日旗のほうが格上さ。中国人のチャンコロよ。泣け。 東の天皇が敬いて西の皇帝に白す
煬帝にか〜。w
西の横綱より東の横綱のほうが格上だから、土下座なんかする必要もなかろう。
日本人を装った中国人が日本卑下を増幅させたいためのイカ様のカキコミよ。
これを破折するのさ。w
星の旗より太陽の旗のほうが上位だ。
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U 江戸時代に日の丸を藩旗としていたのは福岡藩。
餅紋とも呼ばれるが、赤いから日の丸にしか見えない。
江戸時代までは福岡こそ古の倭国(邪馬台国)だと皆が理解していたのではないか? 日本書紀は神功皇后=卑弥呼+台与だと印象づけているけど
そもそも邪馬台国が大和政権と無縁の地方勢力だったら
日本書紀編纂者もそんなの無視すればいいだけなのに
卑弥呼ってよほど有名で無視できない人物だったんだろうね。 崇神天皇の崩御年が318年だったらその先祖の天皇たちは
確実に邪馬台国の時代に実在したことになるよな。
困ったことに崇神天皇より前の天皇たちの崩年干支が分からない。
魏志倭人伝の記述に引っかかるから意図的に伏せた?
しかも崇神天皇の寿命が古事記では168歳と日本書紀の120歳を
超えて異様に長生きすぎる。こういう数字を「解読」する方法はない
だろうか? 解読は倍暦だと知ることから始まる。
だから天皇方は通常の寿命さ。
引きのばしたんではないな。八代くらい伸ばしてもメリットが殆んどない。
太陸は夏殷、三皇五帝の世まであって追いつかない。 >>299
>困ったことに崇神天皇より前の天皇たちの崩年干支が分からない。
>魏志倭人伝の記述に引っかかるから意図的に伏せた?
その通りでしょう。
崇神が318年没なら、それ以前の時代の記述は、
魏志倭人伝の卑弥呼やトヨの時代になるので、
卑弥呼やトヨが誰なのか?を説明してしまう事になります。
それを避けた。
だからいわゆる欠史8代に事績がない。 避けるなら神功39年の記述をせずにこの記述も避ける。そうなってないから、
八代間の無記述は卑弥呼の記述を避ける目的のためではない。
倍暦で合わない年代ばかりの記紀の原書のため、記載を見送ったという
ことだな。むしろ雄略武烈の大悪事こそ記述をさけるはずなのに記述が
あるんだから、卑弥呼の所在を避けるためなんてするはずもなかろう。 >>298
>卑弥呼ってよほど有名で無視できない人物だったんだろうね。
その通りです。だから卑弥呼の時代、つまり女王国の時代を、
神武東征紀という「武勇伝」「男王国のイメージ」で覆い隠した。
https://3.bp.blogspot.com/-Io0AwxXW7h4/VawIDEqtQzI/AAAAAAAAESI/oHXaUOfXDEk/s320/586a99c13f4b473caa51959a02e280be.jpg
神武天皇のこの強烈なイメージから、まさかこの時代が卑弥呼の時代であったなんて誰も想像できないでしょ、天才の私以外は。 >>302
>避けるなら神功39年の記述をせずにこの記述も避ける。
そんなことをするなら祖先から伝わる日本の歴史をすべて無視するという事になる。
それは祖先への冒涜である。
祖先から伝わる記述は子孫へ語りつがねばならない、
しかしそのままの時代で語り継ぐことはできない。
だから神武127歳、BC660年即位などという「奇形の史書」になったのだ。 神武が卑弥呼の時代だと以後の天皇の人数が即位年にてスシ詰めになるから盲象。
崇神の代だと不合理はないし、八幡愚童訓の開化年代と合致するし、
千葉考古班の測定でも合致する。 >>304
当時二倍暦等を行使してたから不合理はない。
神武即位は西暦元年辛酉だよ。 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>05
>神武が卑弥呼の時代だと以後の天皇の人数が即位年にてスシ詰めになるから盲象。
スシ詰めにならない。
古事記の没年干支から10代崇神天皇318年没の信憑性が非常に高く、
また考古学的にも行灯山古墳が布留1式=4世紀初頭の建造開始であるから、
次代の垂仁を崇神の没後すぐに即位、つまり318年即位と考えて良いのではないかと思われる。
そして神武まで遡ることわずか10人であるから、+30年-10年や+20年-5年と言った平均値の幅も必要なく、
出てきた数字とほとんど等しいのではないかと考えられる。
@ 垂仁即位318年として、神功皇后を含め20人後は29代欽明天皇で在位は571年まで。
571-318=253 253÷20=12.65
平均在位12.65で神武まで10人遡ると126.5.
318-126.5=191.5
神武即位は191年。
A 垂仁即位318年として、神功皇后を含め30人後は、40代天武天皇で686年まで在位。
686-318=368 368÷30=12.266...
平均在位12.266で神武まで10人遡ると122.6
318-122.6=195.4
神武即位は195年。
やはり神武は卑弥呼の時代である。 神武はマルコポーロのいう黄金の国の黄金民族の長であって
半島の朝鮮人参の世界第参位級民族の銅メダル近族国家とは別の近族たる黄金
であって、ハーフではない。
外国の風習で天皇に直接タトゥは関係ない。履中の世にその紀の記事があったな。
外国っていうのは『外』の字でわかるように、タトゥの「タ」と「ト」の文字構成
になってるのはそのへんのため。あれは外国用で神州では不要的で893氏の
やるもの。
なお神武は黄金民族の長。半島人は黄銅のほう。
いずれも近族で肌の色も似てるようだが、別物の近族で神武はハーフではない。
半島は人参民族の世界第参位の銅級国家であり、黄銅と黄金とは色が似てても
非たる別の近族である。
半島人は銅メダル近族だからあのブスの銅像を各地にぶっ立てる風習があるのだ。 やはり神武は卑弥呼の時代ででない。
神武即位は西暦元年辛酉だ。
これで倍暦行使だと660年分後代に行き、西暦元年に神武が即位したのだ。
オマエのじゃあ、八幡愚童訓の
黄龍2年=230年=開化48年
に合わないインチキである。開化48年が230年だったということは、
卑弥呼の活動した239年にピタリ合致する。
しかも箸墓の千葉歴博考古班の測定結果たる
240年〜260年
の数字は訓にも矛盾なく適合し、崇神没年=258年 の説にも合って矛盾がない。
がんばっても318年説は機器に適合しないイカ様論なのだ。
当時畿内に百襲媛、九州に卑弥呼がいて、両人はほぼ同年代に生きた女性だと
はっきりした。 >神武が卑弥呼の時代だと以後の天皇の人数が即位年にてスシ詰めになるから盲象。
飛鳥〜奈良時代や平安時代でも120年間に10〜12人天皇が入れ替わっている
ところがあるから、神武+欠史八代の9代が120年はむしろ長いほう。
第34代 舒明天皇 在位629〜641
第45代 聖武天皇 在位724〜749
5世代12代121年
第50代 桓武天皇 在位781〜806
第59代 宇多天皇 在位887〜897
5世代10代117年 後代の天皇と比較したって、参考にはなろうが結論するには早計。
239年+120年=339年
で崇神没年までの年代を入れると318年と40年位は多すぎみたいで、
120年では少ないな。他の時代の天皇を入れての比較じゃあ、参考にはなるが
役には立たない。履中反正と顕宗仁賢あたりなんか在位年が低いし、逆に昭和
なんか在位60年だから、これでは説得力はあまりない。
神武、八代、崇神のころの各天皇の在位年を調べて判断すべき。
当時では一代25年前後だよ。10年ちょっとじゃあまずおかしいぞ? >>312
>239年+120年=339年
この「239年」という数字はどこから出たんだ? な〜んだい、知らないのか。景初3年じゃないか。
神武が卑弥呼のころだとか言ってるやつがいるからよ。
それと9代間加えると右辺になろう。w
ただ神武がこの同3年あたりじゃないよ。 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>312
>当時では一代25年前後だよ。10年ちょっとじゃあまずおかしいぞ?
一世代25年ならわかるが、10年ちょっとというのは一代平均在位ね。
お前意味わかってねぇだろ。 >>314
ああ本当だ。卑弥呼が魏に使者を送った年だね。
でも卑弥呼は239年よりずっと前から女王の地位にいたわけで
夫の神武は239年よりとうの昔に死んでいると>>1は言っているようだが? >239年+120年=339年
339年を359年に修正しておけよ
神武天皇即位は180〜190年頃でそこから9代120年であれば
開化天皇崩御、崇神天皇即位が300〜310年頃となり、崇神天皇が
崩御するのが318年で問題ないぞ。 >>315←半島人
神武はマルコポーロのいう黄金の国神国日本の黄金民族の長であって
半島の朝鮮人参の世界第参位級民族の銅メダル近族国家とは別の近族たる黄金
であって、ハーフではない。
外国の風習で天皇に直接タトゥは関係ない。履中の世に紀の関連記事があった。
外国っていうのは『外』の字でわかるように、タトゥの「タ」と「ト」の文字構成
になってるのはそのへんのため。あれは外国用で神州では不要的で893氏の
やるもの。
なお神武は黄金民族の長。半島人は黄銅のほう。
いずれも近族で肌の色も似てるようだが、別物の近族で神武はハーフではない。
半島は人参民族の世界第参位の銅級国家であり、黄銅と黄金とは色が似てても
非たる別の近族である。
半島人は銅メダル近族だからあのブスの銅像を各地にぶっ立てる風習があるのだ。 >>316
10代までか、一年10年、そんなに平均在位が少ねえよ。
>>317
それじゃあ卑弥呼が幼年に近いよ。崇神即位の2年位前に女王に即位してたと
観る。女王即位とは皇后ではない。
>>318
いいか八幡愚童訓で 開化48年=230年
おまえらのほうは 神武元年=239年ころ
だというわけだ。神武〜開化の間7代も天皇がいるわけで、
オマエのは開化48年の9年後あたりに神武が即位してたということになる。
全く合ってねえぞ。しかも十年前の千葉歴博考古班の測定結果の箸墓
240年〜260年
にも童訓の言う年代に適合している。だって百襲媛と崇神はほぼ同時代
だからおかしくないし、これだと 崇神没年=258年 説がほぼ正解だとなる。
318年は間違いは機器測定で明解。
崇神元年は西暦元年辛酉だったのさ。 >10代までか、一年10年、そんなに平均在位が少ねえよ。
・585年即位・用明天皇
用明天皇以後20人の平均在位から割り出した神武即位は216年
用明天皇以後30人の平均在位から割り出した神武即位は190年
・458年即位・雄略天皇
雄略天皇以後20人の平均在位から割り出した神武即位は207年
雄略天皇以後30人の平均在位から割り出した神武即位は202年
・390年即位・応神天皇
応神天皇以降20人の平均在位から割り出した神武即位は202年
応神天皇以降30人の平均在位から割り出した神武即位は211年
・318年即位・垂仁天皇
垂仁天皇以降20人の平均在位から割り出した神武即位は191年
垂仁天皇以降30人の平均在位から割り出した神武即位は195年 平均在位なんて昭和天皇が在位60年、履中反正とか顕宗仁賢だとか2〜3年在位で、
あてにはならないよ。参考までだ。」 >>322
>あてにはならないよ。参考までだ。
用明天皇、雄略天皇、応神天皇という複数の天皇の、
即位元年からの平均在位を計算しての神武即位が、
ほぼ同じ時代を示しているという事は、統計学的に真である。
おまえの神武即位が西暦0年などというのは痴呆の戯言。 そんな詭弁には騙されねえよ。
こんな部分的平均在位が真などというのは大痴呆の戯言。
真の神武即位は正暦元年の辛酉だ。
うんと泣け。 >そんな詭弁には騙されねえよ
ただの馬鹿であるおまえを騙そうなんてこれっぽっちも思ってない。
80歳は軽く過ぎてるようだが、
物事を論理的に見れない時点で、哀れな80年の人生だったのだろうなと思うだけ。
お願いだから消えてくれないか。 馬鹿の語がオマエの持ち駒か。オマエが根拠資料を豊富に持ってて研究が十分
されてれば、こんな名誉棄損の持ち駒を出す必要もなかろう。
要するにオマエはもう持ち駒のないガソリン切れに近い車を運転して計器の速度
指針を信用せず自脳を過信、計器を無視して暴走する如き論法なのさ。w
これじゃあダーメ。
いいか機器の測定をうっちゃらずにその測定年代をしっかりと根城にするのだ。
それをしないで機器の測定を棒に振って平均値がどうのといかにも数学的で
合ってるようにみせかけても、高価な学術用機器の測定は誤魔化しがきかない。
ただ市販の安価な機器にはインチキ測定が多少なりともあるから、これは重々
注意が必要だ。オマエの318年説は千葉考古班の測定年代に合わないオマエの
脳内がオマエの言う馬鹿になってるんじゃぁ松沢病院行きだぞ。 >いいか機器の測定をうっちゃらずにその測定年代をしっかりと根城にするのだ。
箸墓古墳の測定結果はモモソヒメの年代を示すものではない、
そして崇神の年代を示すものでもない、
なぜなら崇神の墓は4世紀初頭の行灯山古墳が最有力だからだ。
持ち駒のないガソリン切れはおまえだ、失せろ。 その有力っていうのは記紀の記述でねえんだろ?
持ち駒はコチラはいくらでも持ってるぜ。
有力、有力じゃねえはこれも資料じゃねえ。有力っていうのはそういう奴がその説
にしたいから持ち上げてるだけで信に当たらねえ。
オマエか、コチラに逃げるなと言ってて失せろと兼用してた野郎は?
失せろと逃げるなとは物理的に全く正反対の要求だ。
ならばオマエは支離滅裂であり、即刻松沢病院に行け。
これは真性かもしれねえ? >その有力っていうのは記紀の記述でねえんだろ?
「山邊道勾(まがり)之岡上」は古事記の記述だが。
モモソヒメを箸墓古墳被葬者にして240〜260年とするなら、
崇神の墓はどこなのかな。
九州の卑弥呼墓を答えられず、質問返しで逃げたお前のことだから、
どうせまともな答えは出てこないとは承知しつつも、
一応聞いてやろう。 オマエなんか、まず
@として邪馬壹国の数字を邪馬臺国に改変捏造している。
さらに壹與もトヨに捏造して変えてしまうようだ。
1の数字なんぞ漢字使用の盛んな中国人が間違えると思ってるのか。
コンビニで1円を10円に間違えるやつは松沢病院行きだぞ。
A女王国へは南下すると伝がいってるのに、オマエは東方に捏造改変している。
B女王は独身のはずなのに天皇という夫がいることに捏造している。
C女王は即位してこそ女王なのに皇后に鞍替え改変している。
Dで箸墓古墳百襲媛の伝えを今度は行燈山に有力だとかで改変している。
このようにオマエはくるくる替える得意技の改変王であり、合わなくなると
上のように改変のうっちゃり捏造を即興で繰り返し、今後もまた合わないと
改変キングの得意業継続でオマエの脳内のインチキを防衛していくようだ。
こんなに改変してて真に合うわけがねえ。その盲象に気が付かないのが
オマエの行かれた脳内構造だ。消えろといってて逃げるなという二枚舌で、
どちらを選択するのか、PCでもショートしてしまう。
これでは支離滅裂で松沢病院に緊急入院をしなければもう治癒不可能。ハハハ… オマエは消えろっていっててオマエがけしかけてるわけさ。
オマエ一人でスレ違いをやってろ。
いいかさっきもいったとおり、消えろと逃げるなというのは正反対の言い草だ。
つまりオマエは自語相違の支離滅裂なんだよ。
このままだと真性になっちまうから、まずアホウ鳥の鳴き声で大泣きしろ。ww
そしてスーグ松沢病院に出向して診てもらえ。 何もむつかしいことは聞いてない。
モモソヒメを箸墓古墳被葬者にして240〜260年とするなら、
258年没の崇神の墓はどこなのかな。
こんな簡単な質問にも答えられない様じゃダメだね。
消えてくれ、邪魔。
俺は崇神318年没説なので何も困らない、崇神陵墓は行灯山であろう。 崇神の陵なんか測定してねえだろ。した結果が出たら能書きを垂れろ。
オマエのように改変王で真の歴史がモノになるわけがねえ。
2回以上合わねえならテメエの論がおかしいと感dづくのが正常な賢脳だ。
6回も変えてまだ合ってると思うオマエの猛象症状は松沢病院に行って
治療しようとしてもなかなか正常に戻りそうもねえな。
318年説なんか測定結果とあわないんだから、間違い。こちらはそれを信じるほど
マヌケではねえ。
それをオマエはまた行燈と箸墓と改変してま〜だ
おや? ここまで6回もうっちゃり改変を繰り返して来たが、こんなに
変更するのは変更しすぎじゃないのか? と気づかないイカれた脳がオメエ
だよ。うひひひ・・・ こんなに変えるのは変だなと感じない不細工脳。ww >崇神の陵なんか測定してねえだろ
その崇神の陵墓はどこだと聞いてるのだが。
崇神を258年没とするわけだろ。
答えろよ、逃げまわらずに。 オマエが論外の方向へ逃げるためけん引してるのさ。
本題に戻ればいいんだよ。それに逃げるなといってて消えろとは自語相違で
オマエ自身が矛盾してると思わないのか。思わないならだいぶ症状が進んで
いるようだから、即刻松沢病院へ駆けつけろ。
アンドンとアンポンはオマエのほうから説明すればいいのさ。
だいいちオマエがいいだしたんだろ。
オマエがこういう資料根拠を掲げて、またよければ証拠がありゃぁなおいいが、
そうやってアンドンが百襲媛の陵墓だったとその怪説をオマエが十分モノを出して、
それにどう考えるかとコチラに尋ねて、それがオマエの正攻法的立派な論陣だよ。
怪説を言い出したうるさい犬の遠吠えのようなうぬのほうから逃げないで披露
してみい。 >アンドンとアンポンはオマエのほうから説明すればいいのさ。
ほら質問返しで逃げたw
情けなく卑怯な男。
あとsageるな。
何突然sageてるんだよ、ビビったのかw
俺はスレタイの>>1が多くの人の目に留まればいいだけ。
ここにもおられるが、感性の鋭い人にはスサノオの土下座隠しが古代天皇が100歳超える理由だとわかる。
そういう人が何人か増えればいいだけ。
お前みたいなバカはただこのスレをageてたらいいの、バカなんだからそれくらいの役割は果たせ。 上げ下げがビビるだとよ。E欄にたまたま文字が入ってからで、ビビるとは
関係ねえよ。オマエはこれだけで盲象を決め込む。ウハハハ・・・
sageは嫌いであまりしないのさ。
帥升はスサノオじゃねえ。これだけでもオマエは資料根拠に基づく解説など
したことがねえ。オマエが勝手にスサノオのしたまでのこと。
何の根拠もねえで別人を同一人にしてしまう愚を行っている。
オマエこそ馬鹿とかいう持ち駒しかねえわけで、話をそらしてアンドンに
鞍替えしている。オマエはアンポン論を支持してるのだろ?
へへへ・・・ 中国人よ、オマエの国こそ神国日本に土下座するのさ。
5惑星の旗より太陽の旗のほうが格上だ。太陽に土下座は土星を含む中国旗の
ナイチャうチャイナのほうさ。ww
古代で白鵬が子供に土俵で負けて華を持たせるから中華の華があるのさ。
チャンコロナ・ウイルス発生地へ華を持たせてるわけさ。だから
チュルドレン(中琉土連)といい、中国が土下座だから中と土の字がついて
いるわけだ。アホウ鳥の鳴きマネをしえ大泣きしろ。bububu 逃げるなというなら消えろというな。
逃げるなと消えろは物理的に正反対だ。これで馬鹿はどっちだかわかる。ヒヒヒ…
これじゃあ自語相違だ。つまりオメエは支離滅裂であり、即松沢病院へ明日にでも
行ってろ。
5惑星の中国旗が上位の太陽の旗の神国日本に土下座するのが当たり前。
それ故神国日本はオマエの中国の格下とは違い全世界の別格の天帝直結の国家で
あって、それ故神州は萬邦無比の國體を誇るのだ。
そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。 正ニ神州ハ不滅ナリ
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U 今回の豪雨災害で貴重な遺跡なども被害に遭ってるんだろうか?
また、土石流などで新たな証拠金が見つかったりすると良いのだが。 >帥升はスサノオじゃねえ。
それは反論ではない、ただ喚いているだけ。 倍暦で帥升は西暦元年より後の人物さ。
スサノオは神武より古く、紀元前の人物だから帥升ではない。
オマエはスサノオが帥升だと言ってるんだから、オマエが先に論じるの当たり前。
反論はオマエの主張をきいてからやるもの。だがただくっつけてるだけで、
どうして同一人だか説明したことがねえ。イカ様論で引っ込みがつかねえオマエは
もっとすすり泣け。ww オマエのほうは勝手に同一と決めこんだ盲象そのものだ。
双方は別人だぜ。うはっは・・・・ >倍暦で帥升は西暦元年より後の人物さ。
倍歴ではないことは、仲哀天皇の死亡日の前々日から、同じ年の十月十日で応神が生まれてることからも明らか。
倍歴論者なんて痴呆の集団だ。 この前書いたろう。読んでねえらしいな。
仲哀世は西方の外国から珍宝をくれるという天啓があって仲哀は拒絶
して頓死したのだ。その凶事を畏れて外国は通常暦(勿論倍暦の外国もあったが)
の為で、半島なんかこれだから通常暦をその時代だけ仲哀元年にさかのぼって
この一時代だけ行使して神功から3倍暦をやったんだよ。だから武内宿禰
なんかべらぼうな長寿だが、現今の日本最高或いは世界最高寿命位の手前あたり
まで超長寿だったのだ。倍暦だって当時全部じゃねえぞ。中国人よ分かったか。
オマエの国は3位の半島より格下の4〜7位の民族クラスだ。
だからシナ(4・7)というのさ。思い知れ。仲哀世はさかのぼって改正的に
倍暦をやめ通常暦だよ。 >>344
雄略天皇の記紀の年齢の記述は
古事記 124歳
日本書紀 62歳
で 62×2=124歳 だから、2倍暦行使の跡が見えるさ。
允恭の前代2倍暦をしてたから通常暦だった雄略のとき、消極的に2倍暦もして
たのだよ。二暦並行でな。 >半島なんかこれだから通常暦をその時代だけ仲哀元年にさかのぼって
この一時代だけ行使して神功から3倍暦をやったんだよ。
この一時代だけ通常暦を行使したというなら、
神功皇后は本当に100歳だったという事になるがそれでいいのか? なるわけがねえだろ。神功誕生から崩御まで倍暦行使の時代もある。
今見て見る。・・・・・・・・・・
過去のノートをみた。神功は宝算40歳だよ。百年じゃねえぞ。 >>346
同母妹と関係を持ってしまった若い長兄を自殺に追い込んで
即位したった在位3年で崩御した安康天皇の没年齢が56歳ということは
ありえないから半分すると28歳。そうなると同母弟の雄略天皇は
22歳ぐらいになるだろう。さて雄略天皇が62歳で崩御したとすれば
在位年数は40年に達してしまう。 混乱する書きこみだが、安康の代は通常暦だよ。勿論雄略世の記紀の
数字からも安康の代も通常暦を兼ねて2倍暦潜行をしてたのがうかがえる。
現今も太陽暦を通常暦としてるが、旧暦も存在するのと似たようなもの。
允恭まで2倍暦をしてたが、允恭の病気を半島の良医に診てもらい快癒
したことで允恭も允恭元年にさかのぼって半島の通常暦に改めたのさ。
以上、並行でやってたから記紀の年代が一見合わなく感じるのさ。 >>349(続き)
古事記の124歳は単純に日本書紀の62歳をそのまま2倍しただけ
とも考えられ、倍年暦が使われていた証拠にはならない。
日本書紀の62歳もアテにならない。允恭天皇は即位した時点で37歳。
この年齢なら従姉妹で皇后の忍坂大中姫との間に雄略天皇を含む
子供9人全員が生れていて当然だ。允恭天皇の在位年数は、
日本書紀では42年だが古事記では17年。こちらのほうが現実味がある。
允恭天皇17年+安康天皇3年+雄略天皇23年=43年。
允恭天皇が即位前に18歳で長子の木梨軽皇子をもうけたとして、
1年おきに子供を作ると7番目の雄略は30歳で生まれたことになるから
允恭即位の時点で8歳、安康即位の時点で25歳、28歳で即位し50歳で
崩御したという計算になる。 安康天皇が26歳で即位し28歳で崩御したとすれば、雄略は6歳ほど年下だから、
安康即位の時点で19歳でなければならない。そうなると允恭天皇の在位年数は
17年−6年=11年あたりだ。
允恭天皇の崩御時の年齢は78歳ではなく48歳、雄略天皇の崩御時の年齢は62歳
ではなく44歳。彼の死後妃の吉備稚媛が15歳ぐらいの星川皇子を天皇にしようと
画策して失敗するが、雄略天皇はどうやら30歳あたりで皇子をもうけていたことが
分かる。
応神天皇が西暦390年に即位したとする。家系図的には問題はない。
応神41年(幼少で即位?)…合計41年
仁徳 空位2年+87年−60年…合計29年
履中6年・反正5年・允恭11年 …合計22年
安康3年・雄略23年…合計26年
清寧5年・顕宗3年・仁賢11年…合計19年
一世代平均 137÷5=27.4年 で交替。しかしこの後で
武烈天皇の在位8年を足すと、武烈天皇の崩御年が534年になって
しまい、継体天皇をすっ飛ばさないといけなくなる。仁徳天皇の
在位年数をもう少し削る必要があるだろうか? だったら大成経の雄略年代をみてみい。
ひっこしで段ボールの奥にこれがはいりこんでて直接だせないが、
雄略の文で同じ出来事が紀の文と春秋が逆になってて半年差なんだよ。
一言主神あたりだったと思う。それが立派な文証だよ。春が半年後の秋に
なってるんだからやはり2倍暦だったのさ。八代間も出したろ。当時1か月が
2週間のほぼ半月だ。
【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0 >>350
安康天皇は允恭天皇と忍坂大中姫との間の4番目の子、雄略天皇は7番目の子。
安康天皇が401年生まれで456年崩御(56歳)、雄略天皇が418年が生まれで
479年崩御(62歳)では、同母兄弟なのに年が17歳と離れすぎている。
しかも彼らの叔父で仁徳天皇の末子と思われる大草香皇子には7歳の眉輪王
しか子供がいない。従兄弟でも56歳と7歳では年が離れすぎている。
眉輪王を産んだのは履中天皇の皇女中磯皇女、もしくは
安康天皇の同母姉長田大娘皇女だとも言われている。安康天皇は大草香皇子を殺して
その女性を妻にした。日本書紀では52〜56歳、古事記では60歳のおばあさんに
7歳の子供がいるとは滑稽すぎる。だから允恭天皇の在位年数42年はありえない
と言える。允恭天皇の在位年数から31年引けば、この問題は解決する。 【成務紀の日数統計表】
1日 1 11日 1 21日 0
2日 0 12日 0 22日 0
3日 0 13日 0 23日 0
4日 0 14日 0 24日 0
5日 1 15日 0 25日 0
6日 1 16日 0 26日 0
7日 1 17日 0 27日 0
8日 0 18日 0 28日 0
9日 0 19日 0 29日 0
10日 1 20日 0 30日 0
上表の11日以外は全て月の上旬の日数記事である。3倍暦だ。
11日は成務紀末の6/11の成務天皇崩御の日であり、これのみ
月の中旬に在る。崩御日のみは、次帝仲哀の代
の通常暦(あるいは2倍暦)での日数記載だったと
観るのが相当だ。この11日は仲哀即位日と同じ11日なのさ。 >>320
>それじゃあ卑弥呼が幼年に近いよ。
そうなんだよね。神武天皇と結婚したとすれば14〜17歳のとき
のことだろうから、卑弥呼が175年生まれで、神武天皇即元年位が
190年なら16歳だが、即位元年が180年頃なら6歳になってしまう。
もしこの時点で16歳だったとするなら在位68年84歳と結構長生きした
女性だったことになる。 >>344
仲哀は成務の3倍暦を継承しようとしたが、西国からの珍宝受け入れを仲哀が
拒絶したことからか、仲哀は頓死したから朝廷は倍暦変更を考え、いったん
変更で2倍暦にしたところ外国神の怒りかと考え、西方の半島大陸の通常暦
に変更したのだ。
宇佐神宮史の「八幡大菩薩示現記」に
『第二十五、仲哀天皇治天下十六年、元年辛酉』
とあるという。実質上仲哀9年の崩御までで8年分ばかりだから、
8×2=16年
つまり2倍暦行使をしてたのさ。倍暦計算でコチラは 仲哀即位年=344年
を得てるが、16年後は神功の変更3倍暦計算に変えるに注意し実年代361年で
あって、この361年は倍暦の干支だと辛酉になるのだからピタリ合致している。
361年辛酉は倍暦換算で神功9年(皇紀885年)だ。上の計算は仲哀が通常暦
のところ2倍とみて、神功は3倍暦だから361年が出る。 >>356
何言ってるんだ。卑弥呼は独身だよ。
神武の皇后が卑弥呼なんかになりっこない。また変更病の症状が出ている。
すぐ松沢病院に急行しろ。 >>348
>なるわけがねえだろ。神功誕生から崩御まで倍暦行使の時代もある。
>今見て見る。・・・・・・・・・・
>過去のノートをみた。神功は宝算40歳だよ。百年じゃねえぞ。
倍歴なら十月十日で応神を産んでいるのはおかしいだろ。 >>358
>何言ってるんだ。卑弥呼は独身だよ。
エリザベス女王も「年すでに長大 夫はいない」が? >仲哀は成務の3倍暦を継承しようとしたが、西国からの珍宝受け入れを仲哀が
拒絶したことからか、仲哀は頓死したから朝廷は倍暦変更を考え、いったん
変更で2倍暦にしたところ外国神の怒りかと考え、西方の半島大陸の通常暦
に変更したのだ。<
すぐ松沢病院に急行しろ。 明治天皇になるまで1500年間、天皇は伊勢神宮を参拝しなかった。
壬申の乱の際、伊勢になだれ込んだ大海人皇子(のちの天武天皇)でさえ、遠くから望拝したに過ぎない。
何故だろうか。
「天皇」は伊勢神宮が怖かったからである。
4世紀前半、ミマキイリヒコ(後の崇神)が易姓革命をおこし、大物主を殺した。
殺された大物主とはモモソ媛の夫であり、太古から続くイズモ最後の王・阿田賀田須である。
崇神は阿田賀田須の怨霊を怖れ、大神神社を建て慰霊する。
それでもまだ怨霊が恐い崇神は、神殺しの自分の姿が映ったのであろうか、祭器の鏡を手元から放逐した。
その鏡が今は伊勢神宮にある。
その鏡は今も居場所がなく、20年に一度「式年遷宮」という形で伊勢神宮境内を彷徨う。
だから「天皇」は1500年間、伊勢神宮を怖れ、参拝しなかったのだ。 百済・武寧王の生年462年が雄略5年になるので、遡って判明する雄略元年はAD458年である。
日本書紀では安康天皇元年が甲午、清寧天皇元年が庚申であり、これを基に計算すると457年になるが、
1年違いなので平均値には影響がないと思われる。
ゆえ雄略元年458年で計算してみる。
@ 雄略458年即位とし、20人後は重祚一人も計算すると41代持統天皇で697年まで在位。
697-458=239 239÷20=11.95
雄略から20人後の平均在位は11.95年。
11.95で神功皇后を含めて21人遡り、神武のおおよその即位年を推測する。
11.95×21=250.95、四捨五入で251 雄略即位458-251=207
神武即位は207年。
A 雄略458年即位とし、重祚が二人いるので30人後は52代嵯峨天皇で823年まで在位。
823-458=365 365÷30=12.1666
雄略から30人後の平均在位は四捨五入して12.167年。
12.167で神功皇后を含めて21人遡り、神武のおおよその即位年を推測する。
12.167×21=255.507、小数点を切り捨て255.5として、
458-255.5=202.5
神武即位は202年。
雄略天皇元年458年から20人後、30人後の平均在位から計算しても神武は卑弥呼の時代である。 >>359
おかしくねえよ。おかしいのは通常暦で多数も百数十歳も生きられるわけがねえ。
だから倍暦行使してたのは当然だ。だが全時代全部倍暦をしてたんじゃねえんだよ。
昨日それを書きこんでたろうが。仲哀世は最初倍暦を始めてたが、西国から珍宝
を届ける旨の天啓のあったのを仲哀が頓死したことで、これは外国の神の怒り
だと考えて仲哀元年から遡って大陸半島の通常暦で数えるようになったのだ。
この時代は通常暦なら倍暦でねえからおかしくないんだよ。応神は仲哀世末に
生まれてるのさ。
>>361
行くのはオメエだよ。いいか、古代の朝廷は神の怒りが怖いのだ。
熱帯の蛮族なら日食を神の怒りだと考えて恐れるのだ。
当時の真相を知るには、まず古代人は神の怒りをえらく怖がるということを
知らねばダメだ。頓死すれれば外国神の怒りがと考えておかしくない。
オマエは高等教育をうけていて、その知力が当時の朝廷の知力と同じレベル
にしてるからいつになっても古代史の真相はうかがえないのだ。古代人の
知能に合わせて目線を古代人に合わせないと真相は理解できねえよ。
古代人の朝廷連が怖がるのはより古代の黄泉国の岐美二神の言い合いで
あって、千人絞殺と千五百人産室造り呪いの宣言だ。
1000:1500=2;3
の割合が2倍暦、3倍暦行使の大元の原因だ。朝廷は美神の意向を聞いて2倍を、
時代がある程度の経過すれば岐神の肩を持つに鞍替えし3暦に変更、こうやって
二神双方の怒りにふれないよう両肩での倍暦変更で怒りを回避してたのさ。
うんと泣いてろ。うははは・・・ 神武が卑弥呼の時代というのは大うそ。
これは千葉歴博考古班の箸墓機器測定結果の
240年〜260年と適合しない。
大学とか研究所、博物館のこういう機器は高価品であって、
測定の数字は十分松沢病院行きの脳内とは違い、格段に信用できる。
それに合わないから、箸墓を別人の墓に変更王の得意業で変更を試みて
盲象を防衛する。うはっはは・・・
もう変更は結構月光。ww
箸墓が神武の皇后の墓と捏造論創作をしたいのだろう。pp >神功は宝算40歳だよ。百年じゃねえぞ。
記と紀では神功皇后は100歳だよな。
ところがおまえは実際には40歳だという。
なら2.5倍歴になるがそれでいいのか、このドアホ。
おまえアホすぎ。
消えてくれ、しつこすぎ。 アホか、オマエは。何回言えばわかるんだ?
仲哀では2倍暦とかは現今の旧暦同様継承されていたが、この天皇の代は半島の
通常暦と変わってたった正味8年余の時代のところ、神功は成務とご当人の代の
倍暦行使で寿命が短縮されてくる。
いいか、古代マヤのツォルキン暦なんぞ1.4倍暦だぞ。
もっと勉強しろ。通常暦と倍暦をまたいでいれば百年から複雑に実際年齢が
詰まってくるのさ。 逃げるなというなら消えてくれなどと矛盾正反対のいかれた注文を
するんじゃねえ。
バリ島には今まだやってるのかわからんが、ウク暦っていうのがあって
1か月が35日方式で1年が6つのトゥンプック(Tumpek)からなるという。
これは6ヵ月の210日で暦が一巡するという。
210日=7日×30週
で、これがWuku暦の1年であり、ほぼ1.7倍暦だぜ。
このように世界各地で倍暦行使があって、日本だけがないわけがなかろう。
オマエも早くオマエの盲象飛躍ダンボに気付いて眉沢病院で脳内の治療を
してもらってこい。 >仲哀では2倍暦とかは現今の旧暦同様継承されていたが、この天皇の代は半島の
通常暦と変わってたった正味8年余の時代のところ、神功は成務とご当人の代の
倍暦行使で寿命が短縮されてくる。
そんな屁理屈が通用するかこのバカ。
仲哀は最後の年の10月に応神が生まれているから倍歴ではないし、
「神功は成務とご当人の代の倍暦行使で寿命が短縮されてくる」にいたってはバカを通り越している。
人によって暦がくるくる変わるのか、このクルクルパー。 >このように世界各地で倍暦行使があって、日本だけがないわけがなかろう。
そのバリ島が人によって歴をコロコロ変えてるのか、このバカ男。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>370
あるぜ、途中の月をなくせばできるだろうが。
たとえば6月以前をなくし7月始めの即位すれば、12月で半年だ。
安寧なんて7月即位だぞ。
コロコロ変えてるぜ。オマエのは人類始まってから全部恒久的にいまの太陽暦wp
してたというマヌケな論だ。熱帯の蛮族は大学教育なんか受けてないぞ。
古代の朝廷は陰陽二神の怒りを受けぬよう双方の両肩をもつ算段だ。
美神の3倍暦をある期間経過後、こんどは岐神に肩をもって交互に行って双方
の神の怒りを外そうとしてたのだ。オメエの暦は古代からいままで単純にコロコロ
替えずに恒久に太陽暦をしていた考えで、蛮族全員が大学院でも行ってたような
いかれた考え。アホウ鳥の鳴き声で泣いていろ。pp >たとえば6月以前をなくし7月始めの即位すれば、12月で半年だ。
安寧なんて7月即位だぞ。
何でそんなことをするんだ。
>コロコロ変えてるぜ。オマエのは人類始まってから全部恒久的にいまの太陽暦wp
してたというマヌケな論だ。
A天皇は倍歴 B天皇は通常歴 C天皇は3倍歴なんてあるわけなかろう。
もう少しまともなことを言え。 オマエ脳内がいかれてるのか?
そんなことは本来当時の朝廷に聞けということだ。
だが少しオマエのように帥照=スサノオだという具体的解説をしないコチラ
ではない。
当時の朝廷は蛮族とはいえないが、オマエとかコチラのように高等教育なんか
受けていない。まだオマエは朝廷の連中を高等教育の目線で考えるいかれた脳内
に陥っている。朝廷以下の蛮族なんか現今のまともな脳内でねえんだよ。
そういう連中の的もでないオツムに目線を下げねえからまともを
いえとかオマエはぬかすわけだ。あいつらの論理は日食も神の怒りだと
考えて生活してるまともの連中じゃあねえから、まともでないのが
当時の考えの近く正解だとなる。おめえはあいつらの目線にあわせられないから
疑惑を持つわけで、そういうのは近代史現代史での目線だ。
神武当時皇兄の五瀬命が戦死したのだ。彼らはまともな脳でなかろうが、計算は
得手だぞ。億計尊とかいうからな。死亡日が5/8で命の名の五と命日の5月の
数字の一致からかれらは5月を大凶と恐れたのだ。命をなくして神武軍は大いに
悲しんだのさ。だから神武は即位以後だが1年のうち5月以後のない
1年を1月〜4月までとして大凶と考えて五月以後を削除したんだよ。1月〜4月
で暦を編んでいったのさ。1年が4ヵ月での3倍暦だ。
安寧は詳しく分からんが、7月〜12月と仮定すればここに5月がないから、
7月以後で2倍暦と出来うる。もっとよく研究せい。 ×帥照
〇帥升
朝廷は日神の天の岩戸隠れの時の五月蠅なす萬の禍悉くに起こりきという暗雲
のころを知ってたわけで、五月は方位の五黄殺と同様大凶と考えていたようだ。
今上も5月即位だから令和はえれえ大凶の時代になろうとコチラは読んでいた。
いまのコロナ・右居留守もその5月の呪いなのだ。仏伝ころ外来の佛教が
盛んとなり、この考えはわきに追いやられた。紀が5月成立だからそれが分かる。
だが5月は本来的に大凶なんだよ。但し5日は五瀬命の命日でないので吉と
朝廷は考えていた。五黄殺って黄泉の呪いの方角と想えるぞ。 そんなことは本来当時の朝廷に聞けなどと逃げるのなら最初から書き込むな。
応神元年390年は百済武寧王の買地券からも疑うべくもない。
そして当時の平均寿命が40歳に満たない事はおおよそ生物学的に判明している。
そこから一世代20年くらいであろう。
しかし世代間というのは応神から神武まで何世代なのか分からないので、
ここで重要になるのは平均在位だ。
応神天皇元年390年で20人後、30人後の平均在位を採ってみる。
@ 15代応神390年即位、20人後は34代舒明天皇で641年まで在位
641-390=251 251÷20=12.55
応神以降20人の平均在位は12.55年。
A 15代応神390年即位、30人後は45代聖武天皇で749年まで在位
749-390=359 359÷30=11.966
応神以降30人の平均在位は11.966年。
@の12.55年で神功皇后を含み15人遡り「+20 -5」あたりに収まるであろう神武の即位年を計算する。
12.55×15=188.25 小数点切り捨てで188
応神元年390-188=202年
202年を基点に「+20 -5」あたりが神武の即位年と思われる。
Aの11.966年で神功皇后を含み15人遡り「+20 -5」あたりに収まるであろう神武の即位年を計算する。
11.966×15=179.49 小数点切り捨てで179
応神元年390-179=211年
211年を基点に「+20 -5」あたりが神武の即位年と思われる。
やはり神武と卑弥呼は同時代である。 丸投げはオマエの得意業だろうが。コチラにオマエの習癖を糊塗するんじゃねえ。
それに一応説明しただろうが。オマエのほうは全然帥升がスサノオだとの説の
説明をただの一度も資料根拠を出してやったことがねえ0なんだよ。持ち駒ねえん
だろ? オマエが古代史に興味をもって勝手に決めこんだけのことだ。
はっきりいうが、これは全くの別人だよ、こんなんで他人を説得できると思う
のか。これを最初から説明できねえで逃げるなら書きこむな。
>>373 7月
いいか、開化なんて11月即位なのに何で春日宮だとなるのか?
春に即位したけりゃあ3月とか4月とかそのへんで即位するはずだ。
だがそうでなく11月即位なんだよ。だから11月が春で暦をやってたからさ。
そうなると開化が2倍暦をやってて当然だ。外国と同様日本も倍暦を行使
してたのさ。オマエのは神武をヒミコ時代としていて天皇がスシ詰めで
おかしいと感じない鈍感脳内だな。泣け泣け。ww 応神は390ねんじゃねえ。
仁徳即位年=391年 だ。
宇佐神宮史の「八幡大菩薩示現記」に
『第二十五、仲哀天皇治天下十六年、元年辛酉』
とあるという。実質上仲哀9年の崩御までで8年分ばかりだから、
8×2=16年
つまり2倍暦行使をしてたのさ。倍暦計算でコチラは 仲哀即位年=344年
を得てるが、16年後は神功の変更3倍暦計算に変えるに注意し実年代361年で
あって、この361年は倍暦の干支だと辛酉になるのだからピタリ合致している。
361年辛酉は倍暦換算で神功9年(皇紀885年)だ。上の計算は仲哀が通常暦
のところ2倍とみて、神功は3倍暦だから361年が出る。
実年代で 神功9年=361年 の辛酉だ。そうなると
応神即位元年=376年 で 仁徳即位元年=391年 だ。
オマエは日本と半島を通常暦として合わせてるから合ってねえんだよ。
これがオマエの見過ごしてる大きな盲点でお陀仏。
393年に仁徳は天文台(高台)に上って竈の煙がないからよく星辰が観測できた。
この年超新星の強光が夜間に昼間のように輝いたので、壁穴から超新星の光
が室内に漏れ届いた事が仁徳の始めころに記述が紀にある。オメエのはデタラメ。 >応神は390ねんじゃねえ。
>仁徳即位年=391年 だ。
考古学の金石文を否定するなボンクラ。 >オマエのほうは全然帥升がスサノオだとの説の
>説明をただの一度も資料根拠を出してやったことがねえ0なんだよ
用明天皇、雄略天皇、応神天皇、垂仁天皇の即位年から割り出した神武即位は卑弥呼の時代である。
そして卑弥呼から5世代100年前が倭国帥升の時代。
つまり神武の5世代100年前とは遡ってフキアエズ、ホオリ、ニニギ、オシホミミ、スサノオ。
倭国王帥升とはスサノオである。 仮にも時代が同じっていったって、当時百万千万の人々が世界中にうんといた。
その中でどうして帥升がスサノオになるのか?
オマエはこの説明が0だ。確かに同一人ならオマエの論は正しい可能性が出て来る。
それをオマエは勝手にイコール人とするなら、宝クジの当選のように当たりっこ
ねえよ。これを勝手に決めたみたいで、これでオマエの論はお陀仏。ww 金石文を出したところで、向こうは1年365日暦だ。
コチラは倍暦だ。だからオマエの説は紀の編者が卑弥呼を神功39年
に位置させたようにデタラメだ。暦法が大きく違うのに双方通常暦の365日暦
でやってれば大きく狂う。この盲点をオマエは看過していた
いかれた小豆脳オツムでもうミス高山に墜落だ。クスッ!ww >金石文を出したところで、向こうは1年365日暦だ。
>コチラは倍暦だ。
何を言ってるんだ、頭がおかしいのか。
武寧王の金石文から百濟アケ王擁立が392年、それは日本書紀応神3年条の事だから、
遡って判明する応神元年は390年だ。 金石文を出したってコチラは倍暦、あっちは365日暦で大きく狂うぜ。
だから向こうの文献と碑は分離しておくのが賢脳だ。オマエのは日本も半島も
365日暦で観てるから、そんな年代をくっつければもう南無お陀仏。ww
仁徳即位が391年なのさ。そんな半島資料を当てはめると暦の本質が違うんだから
帥升と須神とが別人のように別にしておくのがいいのさ。
393年によるが夜に昼間のように超新星が輝いたので、仁徳紀に壁穴から星光が
漏れ見えたとあるのだ。当時さそり座の星とこの星が並んで見えたので、
高台(天文台)に上って二星を観察していた仁徳が山上で観察したくて二上山
の登山をしたのだ。二星を見にいったからこの山を二上山というのだ。思い知れ。 そこは触らないのが賢明得策だぜ。向こうと日本とは暦が違う。
いいか、紀の編者がなぜ神功年代に卑弥呼の記事を置いた原因は何だね?
大陸半島と日本もともに365日暦をしてたのなら、卑弥呼の正確な年代の天皇世
に彼らが紀に載せるはずで、こんな年代不合の失敗なろ彼らはしっこねえのさ。
オマエのいう考えならこんな年代間違いはありえない。それが大幅にずれて神功
代にしているのだ。失敗からいえることは、大陸半島と日本の当時の関係記述は
合ってないとの露呈だと感づくのが賢明な脳内だ。オマエは此の彼らの失敗の
ワナにまんまとはまってまだ盲象のワナから逃れられず金石文がどうのこうの
とこれに癒着の愚を重ねている。ww
だからコチラは合わないのを暦法大きな違いにあると睨んでたので、
金石文に手をつけて年代合わせのオマエのような愚はおかさないのさ。ははは…
半島と日本とを別ものと考え半島暦には特別の事情がない限り触らぬほうが
いいのだ。触らぬ神にたたりなしだ。それが仲哀の時に西国の天啓で頓死したの
なら、向こうから触ってきたんだからどうしようもない。
それで示現記のいう2倍暦をやめ、半島暦を仲哀元年にさかのぼって通常暦に
したのだ。紀は仲哀9年だとしてて正味8年だが
示現記は8×2倍暦=治天下16年
だとオマエの言い分を棄却している。示現記は仲哀を2倍暦で紀は通常暦で
の記述としていた。だからコチラのいう並行に両暦を編んでたのは堅い。泣け。w >フキアエズ、ホオリ、ニニギ、オシホミミ、スサノオ。
倭国王帥升とはスサノオである
これじゃあ、宝くじの主だった番号五つ選んで、最後のが当選券だとの
根拠が薄い決断買いをしているだけじゃないか。
これで当選するならコチラも宝くじを買うぜ。甘い甘い大甘だ。
残念ながら、オマエのこの論は外れクジだ。ウハッハッハ・・・ >>363
雄略元年=458年 だと、1年違うがそれくらいはいいが、
これでは紀の記述を殆どそのまま支持してるようだな。
じゃあオマエは2代後では
顯宗即位元年=486年 とでもしてるのか? 485年でもいいが。
どうなんだよ? >金石文を出したってコチラは倍暦、あっちは365日暦で大きく狂うぜ。
倍歴なら時代を半分にして西暦に合わせられるだろ、何を言ってるんだお前は。
金石文を無視し、自分の妄想を優先させるような人間は歴史を語るな。
お花畑板に行け。 じゃあなんでオメエは向こうもコチラも通常暦と考えるのか?
根拠をいえ。行けと逃げるなとは逆の言い回しだぞ。
オマエは支離滅裂だから早く松沢病院に駆けつけろ。
オマエに出した表の月後半のないことや中下旬のないことを無視するのか?
半島のは最後の最後にやればいいことだ。
コチラは半島のアリラン・マンではねえ。
金石文ばかり言ってるから、オマエは中国人か半島人なんだろう。
だから土下座がどうのとか半島に行ったスサノオに拘るわけだ。
オマエの出した5人いずれもスサノオではねえ。大外れだ。
宝くじに当たったようなオマエの盲象夢。
当たらねえからアホ踊りでも踊って泣け。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに木骨泥墻が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出して
土壁の住居の時代に入っていた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では7000年前に高床式住居も登場するが、先行した木骨泥墻に
吸収されて5000年前までに消滅し、4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>390
たとえば古田という馬鹿が言ったように、継体天皇以前が倍歴なら、
神武は紀元前になる。
おまえの西暦0年というのも同じだが。
それは生物学的におかしい、論外。
当時の寿命は40歳に満たない、首長層で辛うじて40歳程度。
仁徳陵墓5世紀前半、応神陵墓5世紀前後、崇神陵墓4世紀前半と考古学的にも決定しつつある。
そこから神武が紀元前になるなんて、科学というものが全く頭にない痴呆の説。
アホは消えてくれ、しかもしつこく連続書き込みしやがって、全く迷惑。 あほか、オメエは。
コチラは全部古田説だとは言ってねえぞ。
オマエはなんで消えろと逃げるなと逆の行動をするよう書きこむのか?
だからオメエは支離滅裂だといってるんだよ、中国人よ。
コチラの言い分がいずれ真だと決定されるのさ。
科学を否定無視するのはオマエのほうだから、千葉考古班が科学の粋を集めて
造った精密年代機器の結果に全く背反してるイカ様主張を続けているわけさ。
それはコチラの言うセリフだね、中国人よ。
土下座する国は5惑星旗のオマエらの中国のほうだ、太陽の旭日旗の日本の
ほうが格上だからな。頑張ってもその逆はない。
神国日本は全世界の別格の国家であって、それ故萬邦無比の國體を誇るのだ。
中国人よ、態度がでけえから、祖国の中国へ帰れ。そこで旗を見て大泣きしてろ。
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U >コチラは全部古田説だとは言ってねえぞ。
神武紀元0年なら古田と目くそ鼻くそだろ。 じゃぁオメエはアンポンじゃねえのか。
神武即位元年は西暦元年辛酉だ。
オマエの故郷の中国はシナ(4・7)といって、世界第4位〜7位の国柄であって、
オマエの国の李鵬は中国が日本をいずれ属国になるとか盲象を言ってたと聞くが、
それは逆だ、水銀の丹造りの国の中国がマルコポーロがいった黄金の国の
邪馬1国があった世界第1位の神国日本より随分格下なのだぜ。
銅メダルの人参民族の半島は世界第参位の国家であって、オマエの中国のほうが
さらに格下だ。半島が銅メダル国家だから、各地にうんとあのブスの銅像を
立てて気勢をあげる習癖があるのだ。水銀じゃあ液体でメダルなんか作れっこ
ない。よく思い知れ。 >神武即位元年は西暦元年辛酉だ。
と、ただ叫んでるだけ。
だいたい「天皇」という役職もないのにどうして即位できるのかな。
以下は全く読んでない、どうせ大したことは言ってない。 当時は確かに天皇とはいわないだろうし、オオキミとか称してたから
便宜上天皇を使うのは殆どのスレ民がやってるぜ、
じゃあ聞くが、役職の語なんか当時ねえだろ。だったら便宜上こういう語句を
使うのは当然だ。だいいち日本@名無しさんというのもオマエの本名じゃなかろう。
これじゃあオマエは自語相違同然だ。オオキミでも即位は出来る。
英語のクイーンでも即位が外国にもある。
早く松沢病院に行く仕度をしろ。 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 神武はマルコポーロのいう黄金の国の黄金民族の長であって
半島の朝鮮人参の世界第参位級民族の銅メダル近族国家とは別の近族たる黄金
であって、ハーフではない。
黄銅(半島)と黄金(日本)とは別の近族であって、貴近族商は正確にこの
判別を行う。
半島人は銅メダル近族だからあのブスの銅像を各地にぶっ立てる風習があるのだ。 ×大したことは言ってない
○進行性痴呆老人のいつものうわごと 古墳時代が一世代20年として、たとえば纏向古墳群を例に考えて見ます。
10代崇神が318年没で行灯山古墳であることがほぼ正しいと仮定し
そこから纏向古墳群最古の纏向石塚まで約100年から120年ですから、
一世代20年なら5〜6世代です。
私はあの纏向古墳群を物部の墳墓と見ていますので、先代旧事本記の物部の系図で考えれば、
崇神と同時代は建胆心大祢命(たけいこころのおおね)あるいは多弁宿祢命(たべのすくね)ですからそこからさかのぼってみます。
建胆心大祢(崇神時代)→伊香色雄→欝色雄→大水口宿祢→大祢→彦湯支→宇摩志麻治(神武時代)となり、
おおよそ大和における前方後円墳の開始時期と合致すると思われます。
物部以外の系図でも、これはネットで拾ってきた情報で不確かかもしれませんが、例えば中臣ですが、
神耳勝(崇神時代)→梨津臣→伊賀津臣→御食津臣→宇佐津臣→天種子(神武時代)
忌部は
玉久志古(崇神時代)→阿加佐古→佐久耳→和謌富奴→彌麻爾支→天富(神武時代)
と時系列が合います。
先代旧事本記・巻第四の地祇本紀のスサノオ直系・鴨=大物主の系図では、
阿田賀田須(崇神時代)→大御気主→豊御気主→建甕尻→建飯勝→天日方奇日方(鴨王=神武時代)
これも合います。
つまり纏向石塚の時代=2世紀末の庄内0期が神武の時代であり、
物部の宇摩志麻治、中臣の天種子、忌部の天富、大伴の道臣、大久米、スサノオ直系の天日方奇日方(鴨王)の時代であり、
それは卑弥呼の時代でもあるわけです。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后、
ヒメ(踏鞴五十鈴)后であります。 昔、地球が若かった頃は
太陽の周りを走るのも速く
従って1年は速かった >>405
紀元前7世紀でもそうだったの?
既に中国、インド、エジプト、中東、ギリシャ、ローマで文明が栄え
歴史が記録されている時代に、どうやら日本だけが異常な長寿者の国
ということみたいですが。 >>402
最後の3行だけ飛躍している。
卑弥呼が大和にいたことが前提となってしまっている。 ヒメなんか記紀に多数いるから、こんなことでヒミコと同一人に
なるわけもねえし、おまけに5人ばかり名をあげて、うち一人を
帥升だと言っている。(笑
宝くじで5枚買って、うち一枚のこれが当選クジだと言ってるわけで、
そんなのは全部外れでこんなのにだまされる馬鹿は殆どいねえ。bbbbb >>407
>最後の3行だけ飛躍している。
>卑弥呼が大和にいたことが前提となってしまっている。
卑弥呼と神武は同時代であるが、大和にいたと決めつけるなというわけね。
なるほど、これは面白い指摘。
でもな、その九州に、ヒミコという発音に近い、最高位の女性がいるかな。
もし九州にいたなら、それは宮崎の日南市にいた、神武の先妻アヒラツ媛かもしれない。
夫の神武が大和に行ったわけで、「年すでに長大 夫はなし」状態ではある。
ただ名前に共通点がない。
日南にはアヒラツ媛を祀る古社もあり、当地のカツオの水揚げで有名な油津港の語源がアヒラツであるともいわれる。
またタギシミミを祀る神社があるのも驚きだ。
古事記に登場するだけだが、幼い故に神武の東征に加わらず、当地に残ったキスミミの存在も気になる。
男の子だから、その後、当地で王として君臨してたのかもしれない。
以上、日南は面白い場所ではあるが、これだという決定打がない。 同時代ではない。どこにそんな根拠があるのか?
それだと天皇に人数がスシ詰め状態となって、おかしいとまともな脳内なら
そう感づく。それに卑弥呼が独身なのに神武という夫がいる。おかしいからこんな
説に真は0。
おかしくて吹き出したくあるイカ様の最低二万哩。w
https://www.youtube.com/watch?v=P96TAjThoEs 用明、雄略、応神、垂仁各天皇即位年からの平均在位、
そして>>402で示した各豪族の系図からの神武の時代、
または纏向遺跡に見られるような崇神時代から神武時代まで、
100年から120年という考古学的な証拠。
どれ一つとっても神武は卑弥呼の時代。 なんないね。
いいかい昭和天皇は在位60年だし英女王はそれ以上だろ。
古代エジプトのティニス王も在位が昭和天皇の60年より長い。
これで平均で合ってるという甘い甘いオツムの脳内に気付け。ww
八幡愚童訓に
黄龍2年=230年=開化48年 呉兵沖縄襲来
からして全然神武じゃあ合ってねえし、だいいち天皇の在位がスシ詰めで
一見して満員電車の状況にあっておかしいと通常の脳内なら気付くが、
コイツはおかしいと思わないイカ様脳。pupuou
孫健は230年に兵を渡海させてたというから、年代に間違いなかろう。
上の等号は10年前のハイテク機器での箸墓測定で 240年〜260年 との数字の
結果が出た。これだと上の等号とほぼ合致するのは開化の次代が崇神であって
百数媛関連の年代だから、箸墓が媛の陵墓だの見解にも矛盾がない。
つまり神武の年代ではないわけだ。ww >いいかい
よくない。
以下読んでない、どうせ大したことは言ってない。 初代の神武天皇から開化天皇までの時代が
魏志倭人伝の女王二人の治世と重なるだけでなく
しかも同じ大和を支配していたとなれば
そりゃ大和政権が必死に証拠隠滅やるのは当然だな 神功39年に卑弥呼の記事があるねえ。証拠隠滅ならこれも記事にしてないぜ。
そんな記事を隠すなら、雄略武烈の大悪天皇の悪事を削るはずさ。それが載って
るんだから隠匿などないねえ。神功39年の記事でむしろ隠匿でなくて
これは卑弥呼のいたのを公開してる記事なんだよ。ww 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>414
畿内に女王国があったなら、人民がうんといるし、森元首相じゃあないが多数の
女性の口から長い井戸端会議でのうわさで全国にその所在がばらまかれる。
畿内のどの神社にも天皇国の畿内に女王国があったとの由緒伝承は聞いたことが
ない。こういう由緒伝承は各々別人の赤の他人的で神社双方の交流がどこも
かしこもあったのではない独立的で、別人で宮司禰宜等で運営してるから口が
別ものであって口裏合わせがしにくいから隠避は困難であって、女王国があれば
所在の伝がどこかの神社に漏れ残る。だが全くそれがない。
つまり女王国と天皇国が同じ畿内に在ったのではなく、卑弥呼とその女王国は
畿内に情報が入りにくい遠方の九州にあったのさ。あれば四道将軍が四方に散って
るから、彼らが女王国の情報を畿内にもたらす。ところがこれもない。
つまり四道将軍の旅した所に女王国がなかったからであり、そうなると海
を隔てた九州に女王国があったのだ。これで決まり。卑弥呼の所在は紀の
神功39年に公開されている。 神武はマルコポーロのいう黄金の国の黄金民族の長であって
半島の朝鮮人参の世界第参位級民族の銅メダル近族国家とは別の近族たる黄金
であって、ハーフではない。
黄銅(半島)と黄金(日本)とは別の近族であって、貴近族商は正確にこの
判別を行う。黄金の国神国日本は創造主たる天帝の直轄の地であって世界の
別格の国家であり、故に神国日本は他国と異なり萬邦無比の國體を誇るのだ。
半島人は銅メダル近族だからあのブスの銅像を各地にぶっ立てる風習があるのだ。 スレタイと関係ないことでボロクソに言われて朝鮮人かわいそうやな 魏志倭人伝に出てくる2世紀前半にはいた其国の男王とは帥升であろう。
つまり卑弥呼と帥升は同じ王国、同じ王権にいた。
帥升は160人もの生口を貢ぐのだから、王都には大変大きな奴婢郷があったことになる。
王都の謂れと奴婢郷があるところ。
それは九州ではない、纏向でもない。
大和朝廷の発祥地・葛城しかない。 スサノオ(帥升AD107年)━━アマテラス
┃ ┃
┃ オシホミミ
┃ ┃
オオナムチ ニニギ
┃ ┃
┃ ホオリ
┃ ┃
事代主 フキアエズ
┣━━━━━━━━━━━━┓ ┃
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 三国志東夷伝倭人の条の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 天皇は黄金の国ジパングの黄金クラスの人物だ。
半島人は朝鮮人参の世界第参位の五輪でいえば銅メダル民族であって、
黄銅と黄金とは似てても非の別の近族だ。
貴近族鑑定商は確実に黄銅と黄金の近族を見分ける。
つまり神武は半島人とのハーフではない。 >>424
神話は人の手が加わっているから
どうしても世代数がおかしいよな 一年に2回歳をとってたから
倭人は稲の二毛作をしてて収穫すると同時に歳をとるから年2回歳をとる、みたいなことが中国の書物に書いてあったと昔教えてもらったことがあるけど真偽のほどは定かじゃない 日本列島には漢の光武帝から漢倭奴国王の金印をもらった人物や
ここで挙がっている帥升や卑弥呼・台与、倭の五王のように
古くから中国に来朝する王がいたわけだが、
建前上大和政権が紀元前7世紀に建国し(邪馬台国の女王を除いて)それらの
王たちの事績を採用していないということは、皇室はそれらの王たちとは
異なる一族で、それらの王たちはおそらく大和政権が成立した後で誕生した、
大和政権に従わず自らを王であると偽った地方の豪族どもだろう
と言いたいと考えられる。 スサノオという倭語を帥升という漢字で表記したのではなく、
もともと彼は帥升という名の中国系渡来人の倭王だったが
それがなまってスサノオという呼称で言い伝えられたというほうが
しっくりくる 天皇の事績はおおよそ分かっていただろうけど
寿命や在位年数は分かっていなかったんだろう
だからありえない嘘の数字で誤魔化した
古代の天皇が100歳も生きたわけがないと中世や近世の日本人も
思っていたはずさ。だからこれは俺らも分からないから
お前たちが解明してくれという日本書紀編纂者たちから後世の
人たちへの問いかけなんだよ
こういうなぞを解くことに苦労することで日本人の思考力が高められ、
日本はアジアの中でも飛躍的に発展を遂げることができたのかもしれん スサノオ≠帥升
これが同一人物だという根拠がまるでなく、買った宝くじを当選券だと勝手に
決めて糊塗したウラの無いイカ様デンパ説。当然外れ券で別人が正解。ww
また
誤魔化すならこんな超長寿で、一見ありっこないような百数十歳などと書くわけが
なく、誤魔化しが分からないようにもっと巧妙に年齢を現代の当たり前の通常人
の寿命で記載して誤魔化すはずだ。
だから誤魔化しではない。この前のニセ1万円札行使の犯罪は東南アジア人だから
あのニセ札をつかったのだが、日本人だったら相手に見破られるから聖徳太子の
ではなく福沢諭吉の肖像画で犯行するはずだ。日本人だったなら間抜けな犯人
だとなる。紀の編者らはそんなに間抜けとは考えられない。
それを考えたとき、一見こんな長く生きられっこない数字で記述することは
いてを誤魔化すにしては巧妙なやり口とはいえない。だから紀の当時の天皇の
百数十歳というのは誤魔化しをしようとした記述したとは考えにくい。
当時2倍暦とかを行使してたのさ。 倍歴でないことは仲哀天皇没日の前々日から十月十日で応神が生まれていることでも分かる。
これは7世紀の朝廷が、時代を大きくずらしてしまっているという「自覚」があったから。
この時代を大きくずらしたことで一番割を食ったのが神功皇后。
応神は本当に仲哀の子なのかという疑問も出てきて、
住吉大社神代記のように住吉大神と神功皇后の密事を書かれるというような隙を与えてしまった。 それは判断が早計だ。仲哀は2倍暦を行使して暦を編んでたが、半島大陸の
西国から珍宝を授けるぞという天啓を拒否したことで頓死したと朝廷が、
不吉を睨んで天啓神が外国神だったために日本の倍暦を中断して半島でやって
た通常の暦法に仲哀元年から遡って暦変更をして編み直したのだ。
宇佐神宮史の八幡大菩薩示現記に
仲哀天皇治天下十六年
とあるのはその裏付けになっている。仲哀9年に頓死したが在位は正味8年余
であり、2倍暦計算で示現記は 8×2=16年としたのだ。
そして神功に至り半島暦をやめ3倍暦行使に戻した。
成務が3倍暦だったから2倍行使で頓死したので2倍でない3倍暦を神功朝廷が
行使したのだ。三種の暦法が混線した時代だったので十月十日の計算
が攪乱して合わなくなってるだけのこと。」 【成務紀の日数統計表】
1日 1 11日 1 21日 0
2日 0 12日 0 22日 0
3日 0 13日 0 23日 0
4日 0 14日 0 24日 0
5日 1 15日 0 25日 0
6日 1 16日 0 26日 0
7日 1 17日 0 27日 0
8日 0 18日 0 28日 0
9日 0 19日 0 29日 0
10日 1 20日 0 30日 0
上表の11日以外は全て月の上旬の日数記事である。
11日は成務紀末の6/11の成務天皇崩御の日であり、これのみ
月の中旬に在る。崩御日のみは、次帝仲哀の代
の通常暦(あるいは2倍年暦)での日数記載だったと
観るのが相当なのである。成務の代は上の表から3倍暦を行使してたのが真。 あのころの時代は3倍暦行使が長く続いていたのだ。
それは倍暦では武内宿禰の寿命の300歳近い超長寿が説明できない。
だから3倍で行使してたのだ。ただ仲哀の代は通常暦(半島暦)でも8年余の
短期だから、武内大臣の異常な超長寿の説明にそんなに支障にならない。
そしてこのまま応神仁徳の代も3倍暦でやってたのは宿禰が仁徳の代まで
生存してたから当然であり
仁徳即位元年=391年
だったと倍暦換算ではじき出る。
すると3倍暦で紀の仁徳4年が392年に相当し、その後の記述で
紀に壁穴から 星辰の光が漏れ見える があって、夜間壁穴から星の光輝が
流れて見えるのはよっぽど光輝が強力でないと見られる現象ではない。
だが393年に超新星発現があってサソリ座に強光が昼間の明るさにまで近く
天空に出たことで、壁穴から見えて当然だ。これを倍暦を知らぬ大成経の編者が
仁徳4年を応神4年を間違えて同経に書きこんでいるのだ。 問題は神功皇后が卑弥呼の時代と重なってしまうことだけではない。
日本書紀では垂仁天皇は、新羅の王子天日槍が彼の治世の始めに渡来して
但馬諸助をもうけ、但馬諸助の曾孫の田道間守が生れた頃まで生きていた
とされている。垂仁天皇から常世の国に行き非時香菓を取ってくるように
命じられたとき、田道間守が20代〜30代だとして、
日本書紀が記す在位年数99年はその通りの数字だと解釈せざるを得ない。
この99年に3倍暦が入り込む余地はない。
実際には天日槍が日本に渡来したのは垂仁天皇の時代より昔で
曾孫と玄孫が生きていた時代が垂仁天皇の治世と重なるのだろう。
また、新羅国は紀元前1世紀に建国されたと信じられていたから
垂仁天皇の元年を紀元前29年に置くのももっともだと考えられる。 日葉酢媛のことだが、秀真伝で樺井月姫と書くそうだが、この文献は
神代文字?という字で書かれていて、漢字書きではない。
だから樺井月姫はそれを漢字に当てたものだが、カバイツキ媛に戻して
考えたとき、秀真伝の作者は漢字というものを知っていたか、故意でか
神代文字?にて記載したのではあるまいか?
題の語の「秀」だが、この反対語は『劣』つまりレツとなる。
このレツから、カバイツキ媛のツ→レとすればカバイレキ媛(加倍暦姫)
と読めるのだ。
天日槍の「日」だが、この人は大王、天皇ではないが、隅田八幡鏡に「日」
の文字で「日十大王」という文字がある。時代が多少ずれるが、当時1ヵ月が
十日の時代があったのさ。だからこの名があるし、十日間は3倍暦になる。
崇神の代に3倍暦を行使していて、次帝の垂仁も同暦を行使していたのだ。
焦点は、半島は当時通常の暦法であり、日本の暦年と対照して合わせると、まず
失敗する。そのいい例が紀の神功39年に卑弥呼の代に想って編者らが挿入
したのが完全に時代錯誤だから、対照はやらないことが真の年代把握につながる。 >>438
秀真伝の垂仁のタマキ宮の9年9/16、樺井月媛(日葉酢媛)が釈迦の母の
マヤ夫人が象が胎内に入る夢を見て釈迦が誕生したという伝説の如く倭大国神
から紙垂をもらう夢を見て妊娠し、3年後の同月同日に倭姫命が誕生したと例の
神代文字?での文がる。これは垂仁の代が3倍暦をしていた文証なのだ。 ×神代文字?での文がる
○神代文字?での文がある
>垂仁天皇の元年を紀元前29年に置くのももっともだと考えられる
先述したが、半島関係と年代の突合せは失敗につながりやすいからやらないほう
が無難だ。どんなワナ的ものが伏在してるか分からない。
垂仁即位が前29年だといってますが、
垂仁即位元年はA.D.260 年だ。
崇神没年が258年説であるのが正解(コチラは259年と計算)であって、
ここから垂仁即位が260年と把握できる。
そうなると10年位前の千葉歴博考古班の箸墓 240〜260年説とほぼ適合して来る。
崇神即位年が237年であって、これは景初元年だ。この年に崇神が即位したのだ。
すると箸墓が百襲媛の陵だという記紀の文と年代合っていてここもおかしく
ない。さらに 八幡愚童訓 に
黄龍2年=230年=開化48年
とあり、これも年代が考古班の測定結果と矛盾なく合っている。
垂仁は前29年でなく260年に即位したのだ。 崇神は4世紀前半。
考古学的にも四道将軍の吉備津彦の中山茶臼山、同じく会津の一箕古墳群、
稲荷山鉄剣のヲワケの7世代前のオオヒコが4世紀前半であることからも確定である。
また百済のアケ王擁立が392年、これは百済の王統が武寧王墓の金石文によって確立されているので変わらない。
その392年は日本書紀応神3年条であるから、応神元年は390年。
ならば崇神の数十年前のトヨは一人しかいないので、邪馬台国論争はそのトヨが住んだ葛城ということであっさり終わる。 トヨなんで倭人伝にはいない。
いたのは1與(イヨ)さ。数字の1なんて中国人が古代でも間違えっこねえ。
今の中国のコンビニでも1元でも間違えるアホな中国人じゃあコンビニで
務められねえさ。w
@國名と女王名の漢字を変え
A南下しろっていうのに東方に変えている。
Bヒミコは独身なのに皇后にして夫たる天皇がいて独身でないことに鞍変え
こんなに鞍替えしてて自説を構築したんでは出鱈目だ。
しかも千葉考古班の箸墓はハイテク機器測定で240〜260年との結果が出て
箸墓の百襲媛年代がこれに近いのに318年説を主張したり、あげくの果てに
C箸墓を同媛でねえ別人の墓に鞍替えして
まだ盲象だと気が付かない。
こんなに変えてはどんな説でもできちまう。つまりイカ様の最低2万哩だ。w
https://www.youtube.com/watch?v=P96TAjThoEs >Bヒミコは独身なのに
今の英国のエリザベス女王も独身だが?
「年すでに長大 夫はいない」という描写に合う。
>しかも千葉考古班の箸墓はハイテク機器測定で240〜260年との結果が出て
箸墓の百襲媛年代がこれに近いのに318年説を主張したり、あげくの果てに
C箸墓を同媛でねえ別人の墓に鞍替えして
まだ盲象だと気が付かない。
箸墓の建造を240〜260として、その被葬者をモモソヒメとすると、
モモソヒメは2世紀末に即位してAD200年ごろに25〜30歳。
弟の吉備津彦もおおよそその頃に四道将軍であったであろうという事になる。
しかし四道将軍は上記のように複数の考古学的根拠からも4世紀前半なので、
全然、時代が合わない。
論外。 夫がいないではなく夫が死んだんだろ。
いたんだよ、もともといなかったのをすり抜けしたいんだろ。
死んだんなら独身でなく未亡人だよ。鞍替えとすり抜けがオマエの説だ。
もうオマエの説はお陀仏。w
四道将軍が四方に散っても女王国があったという報告はなかろう。
もし畿内に女王国があったんなら、天皇国と女王国が畿内の中の近隣に
あるんだから、双方の交易戦争遣使交流等の記事が記紀にあってしかりだが、
皆目記紀に女王国との交流が天皇国とあってそういうことをしたとかいう記述
はどこにもないの。純に畿内の紀の原書群に女王国の情報がねえから記載
されてないわけで、女王国が畿内から遠方の九州にあったことを意味するのだ。
しかも大陸の遣使の通行路周辺では遣使からの情報で女王国の所在が通行途中
にあったっと朝廷にもたらせられるから、九州でもそのへんにはない。となれば、
九州でも北九州よりもっと南方だ。南下しろとの伝の記述と合致して来る。
紀が卑弥呼を神功39年で公開してるので、隠匿した論は成立しない。
八幡愚童訓に
黄龍2年=230年=開化48年
にオマエのは全然、時代が合わない。
論外。八幡愚童訓は千葉考古班の測定と合致する。 エリザベス女王の今の様相は「年すでに長大 夫はいない」で、卑弥呼と同じである。
卑弥呼は生涯独身ではない、なぜなら「(年長大)なのに」「(年長大)であるにもかかわらず」など、逆接の接続詞がない。
「ない」という事は生涯独身ではなく、今は夫はいないという描写に過ぎない。 神功皇后没=応神即位390年
仲哀没 362年
成務没 355年
景行没
垂仁没
崇神没 318年
これで決定。 いやいやすり抜け鞍替えの常套手段だ。夫が死んだんなら最初から独身などと
記載なんかしねえよ。
開化48年が230年なのだ。そうなると開化は2倍暦行使だから
崇神元年=237年=景初元年
だったのさ。崇神は3倍暦行使に変更してたからこれで換算すると
崇神没年=259年
が算出される。これは一般にいわれてるらしい 崇神没年=258年 が
ほぼ真であったことを物語るのだ。
崇神が3倍暦を行使してたことの文証だが、熊野本宮大社の社伝に
崇神65年に熊野連大斎原の大きな櫟の木に三体の月が降りて来たという。
真中の月が「我は証誠大権現なり両側の月は良所権現である。社殿を造り祀れ」
との啓示があった。このことは崇神が3倍暦だよとの暗示なのだよ。 垂仁も日葉酢媛こと加倍暦媛との秀真伝の示唆があり、垂仁の代も
3倍暦を行使してたのだ。
先に仲哀治天下16年の示現記の文から垂仁から下って
神功元年=353年
が算出される。以後3倍暦が仁徳の代まで行使してたのは、
2倍暦だと武内宿禰の3百歳近い超長寿が長すぎて説明できない。
だから仁徳の代まで3倍暦の行使だったのさ。ただ仲哀は短期普通の暦だから
大臣の超長寿の不合理にそんなに支障はない。
そこでさらに 仁徳元年=391年 が把握される。すると392年の紀の文の仁徳4年
の星辰光が壁穴から漏れ見えた文は仁徳が高台(天文台)に上って煙雲がなく
天空の星座と超新星を容易に観測できたことを物語る。仁徳はその後数年の間に
二上山に登山した。これはさそり座のアンタレスと発現の超新星を観測しに頂上
に行き二星が上天に強力に輝いてたことから、二上山の名がついたと観て確かだ。 書き洩らしたが、超新星の発現は393年で、宋史に太元18年に同星(客星)
発現の記事がある。
太元18年=393年
ところで倍暦を知らなかった大成経の作者は通常暦で考えてたので応神4年に
時代錯誤している。応神は天文台に上った記事は紀になく星光漏れの記述は
応神紀にないので経の作者は間違えたのだ。オマエも編年の間違いを犯している。 卑弥呼は生涯独身ではない、なぜなら「(年長大)なのに」「(年長大)であるにもかかわらず」など、逆接の接続詞がない。
「ない」という事は生涯独身ではなく、今は夫はいないという描写に過ぎない。 BBAになって野郎を見つけたとよ。うははは・・・
すり抜けを考える前に、オマエの主張がいかれてると気づかない盲象脳
が盲象の象復をして酔象→暴象に進行している。畿内に女王国があれば、
天皇国との付き合い戦争婚姻がいくらでもあるからな。隠避もウソ。
ヒミコの女王国は天皇国ではな〜い。諸葛亮が天下三分を言ってたように、
当時の日本が天下二分の時代だったのだ。当時天皇国は畿内、女王国は九州
の二分政局だったのだ。独身だから卑弥呼は皇后ではないし、すり抜け
てま〜だ盲象に気が付かないアホ踊り舞踏推奨論。ppppp >>451
>「ない」という事は生涯独身ではなく、今は夫はいないという描写に過ぎない。
詭弁を弄するクズ。 すり抜けと改変をするな。イカ様に直結する。脳内の盲象に気付け。
倍暦計算で神武即位元年が西暦元年辛酉と決まった。
すると見かけだが安寧即位元年は皇紀113年(見かけで紀元前548年)だが、
実年代の安寧即位元年は倍暦計算でA.D.63年になる。
これは神武元年からの3倍暦と通常暦に戻した綏靖年代と綏靖崩御年まで
計算して翌安寧元年が63年になるということだ。
すると興味深いことが以下のとおりある。捏造のインチキだと噂が
立ってた故池田仁三氏という男がいたが、彼はハイテク機器で金印の
側面に目に見にくい文字を見つけた。57年の漢倭奴國王の金印の側面に
なんと 『常根津日子命』 の名があることを発見した。
うわさではえらくインチキ捏造だといわれてたらしい池田氏が畿内と九州の
各古墳を同機器で調べ上げた結果、各古墳等に種々の古代人の名と死亡
あるいは建造年代か、干支年月日での文字を見つけ出版してたようだ。
だが捏造にしては全国の古墳など多数の調べからして規模が膨大すぎる。
だから逆にイカ様とは思えないし、イカ様なら古代史学者、研究機関が
捏造だと例の秩父原人のねつ造と同様抗議が来ておかしくないし新聞、
学術誌等で叩かれて葬られるはずなのにそういう状況はない。
命の生存年代がA.D.20 〜60年だといわれ、57年の金印の出来事と年代の
不合理はないし、コチラの倍暦計算の安寧即位年とも年代が合っており、
不合理はない。つまり当時倍暦を行使してたのだ。命の父は安寧天皇だ。 常根津日子が金印時代だったわけで57年だから
安寧が父なる日子は神武以後の人物だ。
ということは神武の后が卑弥呼であるわけがねえ。泣け!
当然帥升がスサノオのわけもない。ここから倍暦計算で後代に
行けば開化48年が230年の黄龍2年に至って不合理は出ない。
なると
崇神元年=景初元年=237年
だと分かるし、 崇神没年=258年 も合っている。
318年は誤りだな。 >>454
逆接だというなら接続詞を提示してみろ。
>>455-456
長い書き込みのようだが読んでない。 皇統譜で計算するとそうなるんだから
皇統譜作った人に文句言うしかないだろ >>458
文句言うんじゃなくて、何か強い意図や動機があって神武がBC660年に即位し、
127歳で没なんてトンデモな年齢になったのであろうから、
その「強い意図や動機」を考えればいい。
本当の事は書けなかった事情があるのだ。
それは>>1に書いた。
世界のどこに、外国皇帝への土下座から始まる歴史があろうか。
残念ながら、わが日本はそうであった。 中国人よ
白鵬が土俵で子供たちに勝ちを譲ってるようなものさ。w
オマエの国の中国の五惑星の旗より旭日旗の太陽の旗のほうが格上だ。
土下座はその子供がいずれ大人になろう中国のほうさ。
だからチュルドレン:中琉土連と土下座の土をつけて英語でいうのだ。
そして西の皇帝より東の天皇のほうが格上だからな。ww
西野横綱より東の横綱のほうが格上なのだ。
そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。
神国日本は全世界の別格の国家であって、それ故萬邦無比の國體を誇るのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U >>459
中国人よ
世界のどこに、日本天皇への土下座の未来の歴史がくる国があろうか。
残念ながら、オマエの中国はいずれナイチャう泣く国でのチャイナであり、
そうなるのであった。神国日本は金甌無欠ゆるぎなき。
日清戦争の前の昔でも日本人義経に中国全土をとられた。
世界のどこに大国の広大なる中国全土を土下座で義経にとられた歴史があろうか。
残念ながら、オマエの祖国の中国はそうであった。
東天皇敬白西皇帝
https://www.youtube.com/watch?v=DGw_50OnNJ8 >>462
オマエ、横浜や神戸、長崎の中華街でコロチャンに毎日土下座をしてろ。ppppp >>463
おまえこそコロナで行け。
何の役にも立ってない、ただ酸素を吸っているだけ、日本の貴重な酸素がもったいない。 >>464 日本だとぅ〜。bb
オマエは左党大舐めの虫国強酸糖の古代史工作員だな。w
いくらほざいても星の旗より太陽の旗の神国日本のほうが格上だ。
早くコロチャンの国へ帰国しろ。
思い知ってうんと泣け。 >>460
偉大なる新羅国の真の継承国は日本
日の丸は新羅の国旗
そして、日本国天皇こそ真の皇帝と言える >>466
新羅の4代目王・昔 脱解を婿養子にした2代目王・南解次次雄はナカツツノオと読める。
これは神功皇后が屈服した新羅王の門に住之江大神を祀るという古事記の記述にあう。
つまり新羅とは建国時から倭人の国であり、丹波・尾張系の豪族が建てた国。 >>459
>世界のどこに、外国皇帝への土下座から始まる歴史があろうか。
中華文明圏のほぼ全ての国々はそうなんだけど。 >>468
>>459は半島人か中国人か、いずれかの工作員だよ。 >>468
今でもそれを「格好いい」と思ってるのであろうか? >>468
>中華文明圏のほぼ全ての国々はそうなんだけど。
通常、朝貢は使者が行くものであり、倭国王帥升のように王自ら出向いたという例はあったかな。 >>458
皇統譜どうりなら神武天皇即位は前660年ではなく西暦1世紀なんだろうけど、
成務(叔父)→仲哀(甥)を除いて17世代も父子継承が順調に続いた
王室てのは世界中探してもかなり珍しそう。普通子供が生まれなかったり、
跡継ぎが幼少で成人するまで身内の誰かが後見したり、兄弟間とかで争いが
起きたりするものだから。だから、ここは実際は17世代ではなく17代と見た
ほうが自然かもね。太国殿が言っているようなきっかり紀元1年だという
決定的な歴史的な根拠は今のところ不明。 太国が言うことの反対がだいたい真実と思って間違いない 仁徳の崩御は日本書紀だと399年、古事記だと427年
大仙陵出土の須恵器はON46型式で実年代観の主流は5世紀第2四半期の後ろより
応神の崩御は日本書紀だと310年、古事記だと394年
誉田御廟山外堤の須恵器はTK73型式で実年代観の主流は5世紀第1四半期
現時点での最古の須恵器はTG232型式で実年代観の主流は4世紀末
仁徳・履中・反正の百舌鳥三陵は
宮内庁治定の歴代順だと大仙陵→百舌鳥陵山(上石津ミサンザイ)→田出井山だけど
考古学的な年代観による築造順は百舌鳥陵山(上石津ミサンザイ)→大仙陵・田出井山 応神天皇の在位期間は百済の記事と合わせるなら、日本書紀の西暦270〜310を
そのまま390〜430へずらすしかない。当時の平均寿命を考慮して41年も在位した
ことが史実なら、応神は即位した時点では幼なかったと考えるのが妥当だ。
それとも41年のうちいくらかは神功皇后が摂政している期間と考えるか。
問題はこの後、仁徳87年、履中6年、反正5年、允恭42年、安康3年、
雄略23年…と続けていくと、継体天皇の元年が627年になってしまう。
これはどう考えてもおかしい。
古事記では応神天皇の5世孫である継体天皇は485年生まれ、日本書紀では
7世孫の推古天皇が554年生まれ、8世孫の厩戸皇子が574年、10世孫の
天智天皇が626年生まれだから、応神天皇が390年に即位したとして
世代数では特に差し支えない。
応神天皇即位から継体天皇即位前年までの天皇たちの在位年数の合計である
237年から最低でも100年を削る必要がある。 >>476
応神や継体などは高尚な天皇などの名称は無かったよ
当時首長クラスが用いる大王という号で
正しくは応神大王、継体大王と呼ばれていたし
天武朝時代の大宝律令から天武天皇として格式が整った 仲哀天皇の崩御・応神天皇の誕生が362年であれば、
応神天皇が生れてから継体天皇が生まれるまで一世代あたり
24.6歳の間隔で子供を作ったことになる
362年でなく日本書紀で仲哀天皇が崩御したとされる
西暦200年と同じ干支の380年(260年と320年は不自然)だ
とすれば一世代あたり21歳の間隔で子供を作ったことになる
80歳で玄孫が生まれる人もいないことはないから
5世孫と105歳差は絶対にないとは言えないけど
応神は362年生まれのほうがやっぱり自然かな
その場合崩御年は405〜410年あたりだろうか >>477
それは分かってるよ。ただ面倒だから後世つけられた〇〇天皇
という仮称を使っているに過ぎない。その上での議論だよ。 >応神大王、継体大王と呼ばれていた
いや、漢風諡号は淡海三船が作ったものだろw >>471
莫大な領土である中国全土を日本人の義経に占領され大汗にぬかづいた土下座皇帝
といえる高慢な天狗の国がどこにあろうか。wwwww 大仙古墳が仁徳天皇の墓であろう根拠は、この5世紀前半という時期に地方の豪族の墓も巨大化する。
例えば全国4位の吉備の造山古墳。
また西都原古墳群には九州最大墓のオサホ・メサホ塚ができる。
この両地域とも、仁徳の妃関連で説明できるのだ。
吉備の造山古墳は仁徳の妃であった黒日売(くろひめ)、あるいはその父親の吉備海部直。
九州最大墓のオサホ・メサホ塚は美人の誉れが高かった日向髪長媛、あるいはその父親の諸県君牛諸井。
被葬者として考えられるのは他にいない。
とくに西都原古墳群は、最古の81号墳墓が布留1式=4世紀前半、ちょうど景行天皇の九州遠征時の諸県君泉媛の歓待時期と一致する。
西都原古墳群は諸県君一族の墳墓と見て間違いない。
このように文献と考古学を照らし合わせれば見えてくることも多いのだ。 >>481
義経に中国大陸を蹂躙するだけの野望と才能があったなら、
平家を滅ぼしたら今度は兄の頼朝から追われることぐらい
分かっていたはずだし、何も朝廷に頭を下げて仕えなくて
も困らないだろう。俺が義経ことチンギスハンだったら
頼朝を殺して皇室も廃止して自分が日本列島の支配者になった
だろうね。チンギスハンは女好きだから身分の高い女にも手を出すぞ。
平家の生き残りの女性で、亡き高倉天皇のお后で安徳天皇を産んだ
建礼門院が美人だったら彼女のご身分を無視して間違いなく側室にしている。
史実では義経は相当なヘタレ >>467
継体天皇は尾張一宮生まれ根尾育ち
最後は新羅王にまで登りつめた偉大な
天皇
この人に天皇の謚は似合っている >>483 >>471
中国の工作員よ。能書きは結構だ。w
世界統治は天皇か例外として日本人しか天帝はさせねえのさ。
オマエたち中国全土は源義経に元の国として統治されたのだ。
当時の中国は有史以に始めての経験か世界最大の領土を誇ることになる日本人
に奪還され、中国皇帝は日本人の土下座的皇帝になったといことだ。
有史以来こんな屈辱の皇帝がいただろうか。w
そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。
百年後現中国は日本の天皇の統治地域になる。 工作員よ、泣け。 >>477
>正しくは応神大王、継体大王と呼ばれていたし
w
タラシヒコとかヲホド王とかだよ。 >>471
>通常、朝貢は使者が行くものであり、倭国王帥升のように王自ら出向いたという例はあったかな。
それなんだけど、帥升は実は王ではないのではないか。
漢が勝手に王だと思い込んでしまっただけで、王の使いではないのか。
筑紫の帥は王の補佐役の称号だろ。 >>485
源義経は、チンギスハンの参謀になったと聞いたことがあるんですが、いかがですか? チンギスハンは義経だよ。
むこうで墓が見つかってるし、あるむこうの建物の上には笹竜胆の紋所が
あったとかの話も聞いたことがある。
チンギスハン→チンハスギアン(朕は杉暗)
といって、義経の影武者の名に杉がつくというし、杉目とかいったか、
珍の蔭は杉だよと大汗位の義経が暗示してるのさ。
https://www.youtube.com/watch?v=puF-iO0Fu7o
https://www.youtube.com/watch?v=J5VhAFaQ2Fg ×珍の蔭は杉だよ
〇朕の蔭は杉だよ
テムジンっていうのもジンムテ(神武天皇の略)から言うのではないのか。 すげー歴史ww
一応、義経は日本と天皇陛下、もちろん神々に大義大忠でしょうよね?
まじに大日本世界帝国だったのか。
平安鎌倉、室町からの安土桃山。
さすが神国。
今の若者自信なさすぎですよね。 元の国は日本人がいずれ世界統治をする前編的歴史なのさ。
中国もロシアも米国も世界統治はできない。これができるのは神国日本
だけだ。
そのリハーサルが明治維新からの大東亜共栄圏構想であり、まだ本番でないから
突き進んで日本敗戦となった。本番は日本が連戦連勝的で、元の国より領土は
さらに広大になる。それにはまだ百年ある。
いまは台頭の中国が国家のジョーカーになっており、世界に力づくで中華民族
の世界征服を虫国強酸糖が企んでるが、まあこの世が力の世界と彼らは知って
いて現実的で強兵政策の強大軍事力での支配を考えて力づくでやってやろうで、
この国は世界の上に力の世界の論理でどこの国の批判も受け付けずに上位国家
をめざしており、中華はのぼせの上華(ジョーカー)になってしまってるのさ。
だが支邦民族は世界征服はできないで、いまは天帝の後押しがあって彼らの
左党蜜の養蜂を天帝がしてるのでこのような中国警戒の世界の政局になって
いるということだ。だが上華は後で泣く運命が50年も経ってくると到来する。
ここで虫国強酸糖の凋落の時代へと進む。 馬鹿のまま死んでいくのは幸せなことなのかもしれないね。 中国共産党員って、がちで喧嘩したらむちゃくちゃ喧嘩弱そうですよね。 日本という国家が既にオワコンなんだが、
お前らみたいな馬鹿はまだ悟らないようだな
第二次世界大戦で戦争に負けた時点で天皇は日本国を支える神
ではなくなり、この時点でこの国の終わりは始まっていたのよ
皇室は今跡継ぎとなる若い親王がお一人しかおられず、
女系天皇が実現するのがそう遠くない状況だぞ
眞子さまも佳子さまも自分が置かれているご境遇に不服をこぼしなさっている
東日本大震災で日本の土壌や水、自然が汚染され
福島では子供が甲状腺がんで苦しんでいると知り合いから聞いたぞ
これだけ科学文明を享受している日本人はもう自分を産み出した
自然の神々を太平洋戦争以前のご先祖たちほど恐れていないだろ
政府はどんな不正を犯しても責任をとるけじめをつけられず、
コロナ禍でも日本人は戦中と同じ全体主義の体質を克服できていない
ことが判明した。経済は停滞し、少子高齢化が進んで国民じたいが
減っていて、劣化した右翼が日本すごーいという自画自賛しかできない
状況で、今の日本が斜陽国家へ転落していることが分からない
ってどんだけ頭の中がお花畑なんだろうね
まあ、皇室自身が自分らに不都合な歴史を封印し、建国年もうやむや
に誤魔化した時点で俺もお前らも含めて日本人は既に詰んでるよ 今の自民党政権の不正や悪を正して真っ当な民主主義を実現しないと
富国強兵とか無理だからな そんなことばっかり言って変な政党に投票して、さらにドツボにはまるのが見え見え。
民主党の時に懲りただろ。 皇統は不詰めの棋譜のごときで天皇は萬世一系であって古来一人として
これを倒した奴はいない。将棋でいう詰みが存在しない。
神国日本がアメリカにこの前の戦争で敗北したのは、エンタメでのスーパーマン
の映画の中の、クリプトン元素によって主役スーパーマンが死の危機に直面
してダウンした状況の如くであって、これでスーパーマンがここから九死に
一生を得るごとく危機を脱する。天帝は現実の歴史をエンタメ的に作って
るので、あのころは日本の最衰運の時であったが、再び神国日本は強く底
から立ち上がるように現実の物語を作る。だから神国日本は地球終末まで
終わりというのはない。 共産圏が核爆弾を乱れ打ちする危険性は、日本にはないのですか? 通常の軍事の手で警戒してれば起らんだろう。
まだ天帝の本懐は過去にもまだ未達成だから、ないと観ていい。
日本が世界統治すれば全世界が一国形式になるが、こうなると敵国が
無くなるから核兵器も不要となり、廃絶の可能性が出て来る。
いまのような多国分立ではいつまでたっても廃絶は無理だし、増加につながる。 >天皇は萬世一系であって古来一人として
>これを倒した奴はいない。
崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺されたけどね。 日本核武装の是非をお聞かせください。
私の考えでは、日本がもし持ったら、皇国日本も持ったのだからと、核拡散が進むから、やめるべきと思っています。
核への対策は、急務とは思います。 >>504
その気になればいつでも作れるように、
それこそ1日で作れるように、技術を高め、
準備をしておくことかな。 >>503
そんなことは知ってるぜ。
倒したというのは天皇を葬るだけでなく天皇制そのものが無とさせること
だよ。安康だって殺されてるし、だが皇統は途切れない。
これを言ってるのさ。他の天皇でもえらいあってる方もいるが
皇統の自体は詰めがないのさ。
それに天皇暗殺っていうのは天地の神々の抗争がひどいからで、そこから
因縁というかそういう不祥事が出て来るのだ。
皇統自体は今も残ってて倒されていないし、今後も日共がやろうと企てても
それは不可能だ。 >>504
天が日本に核武装しろとの天啓はなかろう。
そういうことよりも全世界が一国になれば敵国がないんだから、
核廃絶につながる。各々多国が存立すれば手離さないからいつになっても
核は無にできないと思う。
その全世界が一国に為す天命の国がこの神国日本だ。
他国には天帝がさせないから、中国もアメリカもロシアも世界統一の
役はない。 まぁ神武東征の時、和歌山で名草媛の体を頭、胴体、足と八つ裂きにした、
それはそれは尊い血筋だからな、神武の血筋はw
ベトナム戦争時の韓国軍と変わらないね。 >>507
私が恐れますのは、国運が衰退すると、世界大戦で神国皇国でも負けてしまうわけですから、例えば年運も大凶月運も大凶日運時運も大凶、しかも日蝕の日とか、また政治経済混乱の日とかに、なにか戦を仕掛けられたら、どうなっちゃうのかなあと、概念理屈では考えてしまいます。 >>509
この頃に絞れば東日本大震災は別として3回来る。
1回は太平洋戦争での日本敗戦。
2回目が令和のコロチャンの右居留守。
3回目があるようだ。128代天皇の治世であろう。これがいかような災難かは
分からないが来るだろう。
これは西遊記の孫悟空(日本)が師に秘法伝授を懇願したとき、
大厄の災難が3回来るぞという話があるのがそれだ。
孫悟空(神国日本)は万難を排してこれを克服し、西天へ旅する。
〜〜31:50〜〜
https://www.youtube.com/watch?v=K3KNpyKILHM >>508
難波大助もムショで殺されてるぜ。当然だろうが。 俺の勘。
世界連邦政府への攻撃。前後として。
悪側各方向から。もしくは同時。 なんか、地上天国成立とか、世界連邦政府樹立に、相当危機感持ってるようだよ、悪側は。そりゃそうなんだが。
自分達の居場所がなくなっちゃうんだから。 そこは天の配剤だ。
必ず成ろう。
但し西欧、アメリカのほうは天皇の統治はゆるかろうが、
間違いなく世界統治の時が来る。
そうなると、ジンギスカンが連戦連勝のように天が味方してるから
あらゆる困難も突破口が出来て元の国が成ったように、さらにそれ以上の
広大な領土が天皇の御稜威になるだろう。130代天皇の治世だ。
女帝の可能性がある。その時コチラは生きてないがね。
義経の元の国成るは、そのときが来る天からの暗示の
兆候たる史実だ。 コロナに関しては、
ドイツ振動力学さんが英進すれば、
解決しちゃうだろうな。
だって、インターネット治療だもん。
世界患者全員が治る可能性ある。
科学には科学で対抗すべきですよ。
また、力には力で。まあ、神風吹いたりして頂くわけですが、人力なんですから。 天義 天智 天信 天仁 天清
すげえな人類。ちゃんとやってる!! 仁の戦は、百戦百勝!!
まあそうでもないんだろうけどさ 金沢大学医学部薬学部のみなさん!!
各、最高峰大学院大学のみなさん!!
是非就職は、ドイツ振動医学さんへ
貴方達に、人類の命運がかかってるよ!! 9次元は、元気の世界。先天の気
8次元は、波動の世界。これが全て
7次元は。色の世界。花は紅柳は緑。唯一絶対 文理
どっちが優秀なんだろう?
最澄と空海どっちが上かみたいな話だね 月星座射手座と、
易経の95の位、どっちが強いんだろう? コーヒーブレイク
スマホ脳の須磨子です
横浜大洋の大野じゃありません! >>521
最初最澄はエリートとして国費による中国の浙江省天台山留学は果たして
帰国後、法華経に基づいて比叡山に天台宗を立ち上げたけど
四国の在野の修行青年であった空海は私費によって中国の長安留学に向かい
帰国後、当時日本に無かった膨大な密教の典籍や多数の仏像などを持ち帰り
一躍時の人となり名声は朝廷まで届き天皇の援助で和歌山に高野山が造成される
空海の名声に最初対抗心を燃やした元祖エリート最澄であったが
民衆や皇室を惹き付ける密教の趨勢に遂に空海の元に自分の弟子を派遣し
遠まわしに密教の教えを請うことになる
が後に空海と初めて対面した最澄は密教の奥義といわれる理趣釈経を貸して欲しいと
空海に願うが最澄の上から目線な態度に「あなたに貸す経典など此処にはない」と
強い口調で言われ、最澄は激高し二人は罵詈雑言の問答となり金輪際の絶交となる。 高野山の宿坊で35年前頃に夏泊まったが、閑静でいいところだった。
一回は行くといいね。有名な人物の墓も多い。貴重な思い出だな。 戦国大名達が安土桃山を経てご冥福されたんですからね。高野山で。
至福だったでしょうね。 理趣経。
書物対身体。
まあ、身体ですよね。
身口意 三蜜 比叡山は、藤原氏として、
高野山は?
16菊と五三の桐かなんからしいですが 真言密教はお経の最後に十字を切る。
数珠=ロザリオ、
戒名=洗礼名、
空海が持ち帰ってきたお経はマタイの福音書ではないかという話もある。 儒教はユダヤ教
比叡山は旧約聖書
高野山は新約聖書
って書いてる人いました 日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説
https://news.yahoo.co.jp/articles/77c1bbcb94e1efa1ec0fe7a526c6df3d713f8dd6
金沢市で見つかった約1500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人や弥生人にはなく、現代日本人に見られる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかった。日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆している。
金沢大や鳥取大などの国際研究チームが18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表する。
日本人の起源は、列島に住み着いていた縄文人に、大陸からの渡来集団が混血して弥生人となり、現代の日本人につながったとする「二重構造モデル」が定説とされてきた。1991年に東大名誉教授だった埴原和郎氏が唱えた。
研究チームは、約9千年前の縄文人や約1500年前の古墳人など計12体のDNAを解読。すでに解読済みの弥生人2体のデータなどと比較した。親から子に遺伝情報が受け継がれる際に生じるわずかな違いの痕跡から、どの集団が遺伝的に近いのかを調べた。
その結果、弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血していることも確認できた。一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。さらに、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。 ■大陸からの移住、新技術持って次々に?
大陸からの渡来人の大規模な移住は、約3千年前の弥生時代にさかのぼる。研究チームは、それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し、織物や土木などの新技術を伝えて古墳時代を築き、現代の日本人につながっていったとみている。
古墳時代は3世紀後半〜7世紀にかけて続き、弥生時代末ごろには邪馬台国が栄えたとされる。
今回分析できた古墳人の骨は、金沢市で発掘された3体にとどまる。新説を裏付けるには、さらに分析数を増やす必要があるという。
研究チームの金沢大古代文明・文化資源学研究センターの覚張(がくはり)隆史助教(考古科学)は「日本人が縄文、弥生、古墳の三つの祖先集団からなることを示す初めての証拠だ。今後、ほかの古墳人や弥生人のゲノムを広く調べることで、日本人の起源の謎に迫っていきたい」と話している。
論文は以下のサイト(https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419)から読むことができる。(石倉徹也) 三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>508
後世神武天皇が率いた皇軍は悪い豪族たちを退治して
理想の国作りに貢献した人々というイメージで宣伝されているけど、
実際にはベトナム戦争時の韓国軍と同じように、略奪も強姦も
やったはずだよね。神武は媛蹈鞴五十鈴命(ヒミコ?)と結婚した後は
そういう都合の悪い過去を包み隠して生きたのかな オマエに都合の悪い過去の書きこみになるでねえのか。
量子コンピュータだと個人情報漏れが激しく凄いらしい。
そういう書きこみが五輪でクビになった連中のように、オマエらが成功出世
したとき暴露されてもう失脚だな。w
人生敵は多い。調べられれば即弱点になってお陀仏。やめたほうがいいぜ。 インターネット名誉毀損過去訴求法出来たらどうするんだろ? とにかくやめたほうがいいな。いまも女子レスラー自殺で損害賠償告訴だという。
江戸時代など敵討ちしないでいると腰抜けだといわれて殺人たる敵討ちを
しないわけにいかなかった風潮の時代だ。
大石内蔵助らなどもそれで吉良殿を殺害した。そして切腹が名誉だった。
いまなんかでも米軍がタリバン内の誤爆で包み隠さずかどうか知らぬが、だいぶ
認め出している。
神武当時なんか敵を殺すのが当時の手法で、江戸時代も戦国の世も、刀を
持つのが当たり前で、いまなら銃刀法違反に問われることが濃厚だ。
現代は通常殺せば刑法の殺人罪だが、当時は逆が多い。自分の目線現代の
目線で非難しても意味がない。 >>535
豊鍬入姫命(=崇神の娘)巡歴先に元伊勢である紀伊国・奈久佐浜宮があります。
奈久佐=名草、これはもう、豊鍬入姫命にとっては数世代前の祖先である神武の名草媛八つ裂きの残虐行為を謝り、
慰霊し、祟(たた)らぬように崇(あが)める目的で巡行した以外にないでしょう。。
同じく、豊鍬入姫命は元伊勢である丹波にも巡行してますが、
これも彼女の叔父である彦坐王が、
丹波の福知山あたりで、土蜘蛛の首領である匹女(ひきめ)を惨殺、
その血が一面に広がり、血原と呼ばれた(=丹波風土記残欠)の、
その怨霊を封じ、慰霊が目的としか考えられないわけです。
余談ですがテレビでおなじみのお笑い芸人の千原兄弟は福知山出身、
その珍しい千原姓は、この血原が千原となったようです。 >>535
あと、嫌な日本語だけど「なぐさみ者=慰(なぐさ)み者」という言葉があります。
この語源が分からない。
自分はもしかして、神武軍の名草媛虐殺の際、
当然ながら男どもは性的欲求を満たすためにレイプもしたであろう、
その哀れな名草媛が「慰み者」の語源ではないか、などと考えてます。 戦前は、神武と欠史八代の実在性を疑問視する学説を発表したら、それだけで不敬罪で処刑されたらしいな
そんなカルト宗教さながらのノリで突き進んだのが大東亜戦争
あほすぎて笑えてくる
日帝が無条件降伏したときに、天皇制を廃止して、アイヌのエカシを日本の新たな王にしてくれればよかったのにな
アイヌ
https://i.ytimg.com/vi/DnDYucmevCE/maxresdefault.jpg
天コロ(百済チョン)
https://rapt-neo.com/wp-content/uploads/2015/10/135693548197813109885_20121231153121.png 民コロ工作員よ
スーパーマンがクリプトン元素で殺されそうになるが、これを脱して起死回生
してこのエンタメの主役が最後まで死なずにストーリーが出来てるように、
日本敗戦はこのクリプトン元素でスーパーマンが死の危機に至ったときに
比される。天帝は現実の歴史をこのようなエンタメ風に物語の筋を作って
来ており、日本敗戦しても皇統は主役が最後まで物語にいるように絶対
倒すことができない。
皇統は萬世一系であるからして、地球の終末まで継続させるぞというのが天帝の勅
たる天壌無窮の神勅であるからして天皇制の廃止は頑張ってもできない。
つまり神国日本の辞書に「ラスト・エンペラー」という項目は無い。
そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。
正ニ神州ハ不滅ナリ
それ故神国日本は全世界の別格の国家であって萬邦無比を誇るのだ。うんと泣け。 今日は介護ヘルパーさんのケツを見て発情するも勃起せず。
寄る年波には勝てぬ。
うんと泣いた。 >>544
そのアイヌ、完全にアーリアの顔だな。
アジアではないわ。 おまえに偽者も本者もあるか、本者が糞なんだから偽者の方が上だ。 >>553
オマエが今後出世したとき、この悪口がオマエの身分を失脚させるのだ。ww
今後量子コンピュータとPCが変わってくる時代となるから、この機器
だといまの機器より容易にえらく速い時間で個人情報が洩れるそうだ。
オマエにも敵が必ずできるから、出る所に出たときオマエは五輪での失言で失脚
した連中のように葬られるツケとなる。オマエは自分で自分の未来の弱点をこさえ
た愚を犯したのだ。うんと泣け。うははは・・・・・ 書きこみの中味ですぐにせ者は発覚だ。
オマエが人生出世して出る所へ出れば、偽者になってたと分かってオマエは失脚だ。
これからは量子コンピュータの時代になるわけで、専門家の話によるといままで
のコンピュータより極めて速成で個人情報をつかめるから、そこでオマエの
偽者操作が発覚し、五輪で更迭された連中と同様オマエは葬られる。
つまり自分でオマエは人生の弱点を造作っていることになる。ウハハハ・・・ 泣け。 工作員よ
偽者で装っても頑張っても皇統は倒せない。うひひひ・・・ 書きこみの中味ですぐにせ者は発覚だ。
本者がどんだけアホでクズなのか思い知らせてやる。 >>561
>皇統は倒せない。うひひひ・・・
黙ってても悠仁さま以降、皇統は倒れる。うひひひ・・・ だいぶくやしいようだな。
永くやってて、コチラのニセ者はオマエが4人目だ。そろそろくやしいとニセ者
が出るころだと予想はしてたからな。
今日はまた大グソを出して来たのか。ウハハ・・・
>>562
じゃあオマエは本ものでねえと自認してるわけだ。pupububu 半島の工作員よ
トリップなんて取り換えることねえしな。
もっとクソが出たか。ハハハ・・・ おいおい、「さま」付けしてるぜ。ww
半島の工作員よ、ニセに成りすますくらいくやしいのか。bububu
オマエの国は人参民族であり、「参」の人種だから五輪でいえば銅メダル民族だ。
神国日本は黄金の国ジパングたる金メダル国家であって、黄金と黄銅とは似て非
なる近族なのだ。貴近族商は厳しく黄銅か黄金かを鑑定して判定する。
オマエの国は銅級民族だから、各地にあのブスの銅像ばかりぶっ立てる習癖
があるのだ。天帝から天誅がこないよう気をつけるんだな。神妙にしろ。 一体おまえの何に悔しがるというのだ?
恥を知らずに終える一生か?pupububu 五輪で更迭され連中同様、オマエももう上は立てねえ。
今後の量子コンピュータだと個人情報もれは迅速で漏れ拡散するから、
オマエの敵に足元をこれで救われる弱点ツクリご苦労。
アホウ鳥の声で泣け。うははは・・・
トリップの記号でスレ民は誤魔化せねえ。pupububu 昨今、ニセ札行使の容疑者が逮捕されたな。
コンビニに使えば早急に店員はニセ札に気付く。w
さて今週はお彼岸だな。みんな墓参に行こう。 >>567
神の国日本は新羅王の息子である文武天皇が作った国だ
新羅を、また秦帝国を継承してるのは日本 >>572工作員よ
神国日本は神武天皇が作った国なんだよ。
そして今はオマエの国には皇帝はいない。
こちらには天皇としている。
任那は崇神の名のミマキから名付けた国であって、そのころから神国日本が
すでにあったのさ。オマエの国は人参民族で世界第参位の五輪でいえば銅メダル
の国家なのさ。こちら神国日本はマルコポーロが東方見聞録で教えてたように
黄金の国ジパングつまり古代邪馬台1国が在った数字通り世界第1位の金メダル級
国家であって、半島の銅メダル国家とは格が違うのだ。
だから半島は世界各地にあのブスの銅像を立てる習癖があるのだよ。
そして創造主たる天帝の直轄地が神国日本であり、
それ故に神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。
なお全世界の統帥権は大元帥陛下にある。
神国日本は半島大陸のご本家の国家であるから、国号に『本』の字が
つくのだ。星や月の旗より太陽の旗たる旭日旗のほうが格上であって、
中国の五惑星の旗や北の月星の旗より旭日旗のほうが上位だ。
天文学で太陽系は太陽が5惑星、月を従えるのが天則だ。思い知れ。 邪馬台国畿内説に有力な考古学的証拠が出ても、
畿内説論者の多くは、卑弥呼=モモソヒメのような見解を
採用して「邪馬台国は大和政権の一時期だ」と結論づけ、
このスレのように「大和に邪馬台国と初期の大和政権が
並立していた。しかも大和政権の初期の天皇たちは邪馬台国に
仕えていた」とは言わないんだろうな。それだけ、初期の天皇
は、多くの豪族から推戴された男王だったみたいなイメージが
強いんだろうね 女帝は推古からだし神功は女帝でなく天皇でない。
だから当時卑弥呼は畿内にいないわけ。九州だな。
皇后は女帝でないし夫帯では独身とはいえない。
つまり畿内に女王国はない。 中国の史書にならったから
初期の天皇は親子間のみの直系相続、男子のみなんだろ
実際の天皇家は女帝もいれば、兄弟姉妹、おじおば甥姪相続だって多かった >>575
>女帝は推古からだし神功は女帝でなく天皇でない。
神功皇后の時代に天皇なる称号はないので当たり前。
しかし神功皇后が最高位の地位にいたのは間違いない。
>だから当時卑弥呼は畿内にいないわけ。九州だな。
「だから」ってなんで話が飛躍してるんだボケてるのかこのジジイ。
神功皇后が天皇ではないことと、卑弥呼が畿内にいるいないがなんで結びついてるんだこのハゲ。 崇神の時代に易姓革命があったのは確実、だから崇神はハツクニシラススメラノミコトとも言われる。
古代中国でも易姓革命の際、実際には武力で革命を起こしていながら、「前王から禅譲された」となる例があるようだ。
日本でもそれは同じ、つまり日本では「出雲の国譲り」となった。 何が神国日本だ、神武軍による和歌山の名草媛惨殺にみられるように、
現皇室には猟奇集団の穢れた血が流れている。
だからと言ってどうという事はない、我々現代人にも多かれ少なかれその同じ血が流れている。 易姓革命の國體はは古代の中国のほうだ。
だから毎回易の卦数に例えられて毎回国が変わるのが大陸だ。
易占いはあちらのもので大陸のほう。日本は太占のほうだ。
神国日本は萬世一系の國體。日本は國體が常に一貫している。
故に萬邦無比を誇るのである。
>>577
便宜上天皇皇后の字を使うのだ。皇后は即位しねえから女帝でねえよ。
アホ踊りでダンスをしてろ。 皇室は明治天皇になって初めて伊勢神宮に参拝した。
「天皇」は1500年間、一度も伊勢神宮に参拝していなかった。
その理由は怨霊が怖かったからさ。
大神神社には前天皇が参拝している様だ。
しかし大神神社は最後の大物主・阿田賀田須の和魂、奇魂を祀っているのであり、
皇室にとってそれは怖くはない。
阿田賀田須の荒魂を祀っている狭井神社には天皇は参拝していない。
というかできない。
そして皇室は出雲大社にも参拝していない。
崇神という祖先が出雲振根から神宝を奪い、振根を殺した殺害現場に立つ出雲大社には未だ参拝できてはいない。 >>580
神国日本の萬世一系とやらは、お前と同じ穢れた血筋だけどな。 名草媛惨殺されたって同媛が神武軍の配下をうんと殺してるならそうなっても
当然だろうが。オマエのは最初から媛が善人で神武が悪人と決めこんでるだけの
ことだな。いまも悪女はいるぜ。数人の男性を欺いて薬殺したとか、江戸時代
だって八百屋お七なんで火付けで死罪だ。
媛の名があったってワルはいる。悪女大師の号をもらわねように
せねばいかん。当時は今と違いそういう場合殺していいことになってたわけ
だから、しようがない。忠臣蔵なんて君の仇をとらないと腰抜け扱いされるから、
いやでも吉良殿をやったわけで、江戸時代は敵討ちが美徳だったわけさ。吉良殿
もかわいそうだし、松の廊下の真相なんかはっきりしない。女だといって
あまく見ちゃあだめ。真相は逆かもしれないぞ。
オマエは最初から女が善人男が悪党にしてたんじゃあ、盲象に爆走。
随分女に甘いな。ww うははは・・・ >>582 工作員よ
オマエも血が汚れてるというか半島の血がオマエの体にだぶついてるのうだろう。pp >>580
>神国日本は萬世一系の國體。日本は國體が常に一貫している。
>故に萬邦無比を誇るのである。
戦争に負けましたが? >>583
>同媛が神武軍の配下をうんと殺してるならそうなっても
当然だろうが
殺したという根拠は?
あと神武軍はヒコであった名草彦は殺していない。
男相手にはビビり、女子供を殺すのは得意なようだw
ほんとベトナム戦争での韓国軍と同じメンタリティw >>585
天帝は史実をエンタメ、小説風にストーリーを人前につくってるのさ。
日本のあの敗戦はスーパーマンという主人公がクリプトン元素にて危機に切迫
してると同様の時代だ。だがスーパーマンは危機から起死回生となり、主役は
最後まで死なずに残る。
日本敗戦も同元素にしてやられたときだが、このときは日本の大衰運の底の
時代だった。だから天帝はある程度相手に味方をするストーリーを組んでるのだ。
日本敗戦の兆候が515事件226事件だ。ここから日本は底に至る。
アメリカもタリバンに負けたとかいわれてるぜ。 >>580
>便宜上天皇皇后の字を使うのだ。皇后は即位しねえから女帝でねえよ。
天皇も即位してないだろ、アホ。
天皇なんて役職がないのにどうやって即位するんだアホ。 >>588
即刻松沢病院に急行しろ。オマエは真性の可能性が出て来た。 >>587
>アメリカもタリバンに負けたとかいわれてるぜ。
タリバン以前にベトナムに負けてるだろ。
それでもアメリカが無敗だと思ってるアメリカ国内の知恵遅れと、
神国日本は萬世一系の國體などというお前のような日本の知恵遅れは同じ穴の狢。 >>586
コチラが聞きてえよ。
神武が殺した根拠はどれだ。
オマエの文か?ハハハ・・・
子供なんか昨日もニュースでやってたが、暴走行為で数人検挙。
ガキだからといって甘く見てちゃあいけませんぜ。
当時は教育なんかあまりねえし、つまりオマエはオマエの目線で
古代を考えるからおかしくなるのさ。
名草媛っていうのはナクサヒメといって、数字的に7951とメの言霊で、
これは朝廷にとって凶なのだ。置換すれば 9751 だが、サ音は
5にも3にも読んで 9 7 5 3 1 の等差(党左)数列になるのだ。
神国日本に神武のころから左党は入れるわけにいかない。
オマケにメの字はこの場合は増幅で『凶』を示唆。この字の中に「メ」のカタカナ
があって、こいつはうまくねえんだよ。ナクサが脱するとヤクサの893に
なるので、これもうまくねえ。『暴』に日共の字があるのは、神国日本では
うまくない字。 >>590
同じ穴のムジナではねえ。
同じの逆の別だ。
九州の国生みでは四面全部に『別』の字をつけて半島大陸と別もの
だとはっきり古事記に記述がある。
筑紫國 白日別
豐國 豐日別
肥國 建日向日豐久士比泥別
熊曾國 建日別
日本は外国とは『別』ものの国なのだ。
神国日本は全世界の別格の国である。 >>591
また質問返しで逃げてるね。
名草姫の軍勢が、先に神武軍を殺したという根拠は?
だいたい大伴や久米や椎根津彦は死んでないのに誰が殺されたというのか。
だいたい名草媛の土地に神武軍という武装軍団がぞろぞろやってきたなら抵抗するのは当たり前。
名草媛側には落ち度はない。
その名草媛を頭、胴、足に分断、このキチガイ猟奇集団が、お前の言う神国日本の祖だ。
恥を知れ。 >>593
オマエのほうから出しただろうが。
逃げてるのはオメエのほうさ。
それに逃げるのはスポーツでも将棋でもやってるぜ。
5九金引く
とか名人も藤井九段も指すんだよ。オメエは猪突猛進の前方指しだけか。
うははは・・・ 随分単純だな。
へぼ将棋でもして、金引く銀引くを覚えるんだな。うんと泣け。 >>591 工作員よ
天帝はそんなもんじゃねえぞ。東日本大震災でねえが災害で人間を殺害
するぞ。このごろ大雨洪水噴火で大変らしい。だいぶ創造主に殺されて
るぞ。
古代人は神を畏れ崇めるのだ。朝敵よ、のぼせてるんじゃねえぞ。
いくらオマエはほざいても天帝は皇統を崩させねえんだよ。
だから皇統を敬え。
昔の法規に目線を合わせなきゃあ、当時の法規が悪に見える。
現今の法規なんかまだ70年くらいだ。
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U >>595 訂正
〇>>593
いいか創造主たる天帝はいくらでも大災害をおこして殺人をしている。
この現実をよくかみしめろ。
神武の時は謀反人を葬るのにそれが当時のやり方で妥当だったのさ。
いまは殺人罪で禁止されてる。
いいか江戸時代戦国時代は武士の帯刀は当たり前で当然だ。
だがいまは日本では銃刀法違反で犯罪だ。
だからオマエのいいぶんだと、オマエの先祖もイマの目線では犯罪者でオマエは
その血を引いてるわけだ。オマエ一人で善人ぶってるんじゃあねえ。 >>594
>オマエのほうから出しただろうが。
俺の方から出した質問にお前は答えてない。
名草姫の手勢が先に神武軍を殺したという根拠は?
逃げるな、オカマ右翼。 どこから出てきたんだ、その名草媛というのは?
この点オマエのほうがどこかに資料を持ってるわけさ。
それを出さねえオマエこそ逃げてるわけだよ。
つまりオマエも藤井九段のマネをして5七金引くのような手を指してるおさ。
オマエが引いて逃げてて、コチラも金引くの手はいけねえわけはねえぜ。
オマエの先祖も銃刀法違反でその刀剣で人殺しをしてるかも知れんぞ。
銃刀法違反でオメエの先祖らは日本を威張り腐って公道を歩いてたんではないのか?
オマエもその血を引いてるんではねえのかよ?
皇家の悪口をたらふくぬかしたって皇統は天帝の配下の蔭の防備があり、
倒せねえから神妙にしろ。これが天皇の世界統治となれば、オメエは真に
官軍に捕縛されようぞ。半島の工作員よ、ズが高いぞ。 >>598
日本書紀にも出てくるだろ。何言ってんだこのボケナス。 そこまでいうなら出してみい。神武紀のどのへんに首切りとかした記述があるのか?
朝敵よ、もっと具体的に書きこんだらどうだ。
いまだからいいが、オマエ戦前だったら特高にとっつかまって地獄がまって
るぞ。そこでオメエはお陀仏だ。皇家を責める前にオメエの先祖はどうなんだか
よく調べつくして物をいえ。工作員よ、これがオメエ幕末だったら近藤勇の
ように打ち首だ。この前某議員が天皇にはがきだか封書を送った不届き者
がいたが、あいつなんかも戦前だったら特高に逮捕されるんだからな。
天皇に直訴したら、もうこれ身が危ない。
これだけオマエと天皇とは段違いに格が違うのだ。
口のきき方を気をつけろ。いいか〜
いくら皇家を崩そうとしても絶対にくずせない。いまだかつてたおした奴が
ダレもただ一人でもいない。皇統は不詰めの詰将棋であって、金剛不壊の皇位だ。
工作員よ、やるだけ無駄だぜ。戦争で負けても外国は天皇死刑をうるさく
言ったが、これでも死刑にならない。フセイン大統領は米軍に捕まって
死刑になったが、おやおや天皇は死刑にならない。キーナンも東京裁判で
勝ち誇って東条を責めたが、天皇は奴も追及しようとしたか、これも
死刑にできない。天皇は萬世一系なのだ。いくらオメエが責めても皇統
は地球終末まで続く。 神州ハ不滅ナリ
https://www.youtube.com/watch?v=ndCD1eTsWvo >>600
>首切りとかした記述があるのか?
神武の王朝なのにそんなもの書けるかアホ。
日本書紀には「誅した」としか書いてない。
しかし地元では首、胴体、足をそれぞれ別々の場所に移しそれぞれ神社になっている。
状況証拠からしてこの猟奇行為は神武軍以外にないだろ。
だから崇神の娘・豊鋤入姫命が祖先の蛮行の慰霊に行った、その場所が元伊勢だ。
その紀伊一宮の日前神宮は名草宮と呼ばれ、その中言社 に今も名草媛が祀られるわけだ。 >天皇は萬世一系なのだ。いくらオメエが責めても皇統
は地球終末まで続く。
悠仁様の代で終わるかもね(笑) >>601
書けねえんじゃあ、オマエ神武に対する無実の罪を擦りつけたわけだ。
善人ツラを装ってイカ様罪を糊塗するとは、オメエはトンだ工作員だな。
オメエは半島か中国の工作員のようだな。
もうそんなんじゃあ信じる訳にはいかねえ。なにが状況だ。
オメエは最低の野郎で、なんでも熱象を象服させてる朝鮮人らしいな。
オマエの大イカ様論は最低2万哩同然のワル。天誅をもらえ。
https://www.youtube.com/watch?v=P96TAjThoEs 三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく タトゥっていうのは日本と相いれねえ外国の風習だ。
この字の「タト」で『外』の字ができるのはそのためだ。
履中の世に紀に記述がある。この前の五輪で醜怪な刺青連中が多くいたな。
まあ外国の蛮族の習癖だ。日本だとさらに893のやる醜怪な彫り物。
半島人は人参民族の世界第参位の連中で五輪でいえば第参位とは銅メダル級で
あって、わが神国日本という黄金の国ジパングの金メダルたる世界第1位国家の
日本民族とは別の近族であって、別ということは黄金の近族でなければ天皇には
成れないということだ。黄銅と黄金とは似てて非なる別の近族であって、半島人
は天皇には成れない。貴近族商は厳しく黄銅と黄金とを正確に判別する。
ハーフでは天皇にはなれない。
半島人は銅メダル国家だから、世界各地にあのブスの銅像を多数ぶっ立てる習癖
があるのだ。 >603
名草姫を殺してると言ってるだろ。
名草媛側から神武軍を殺したという証拠がない以上、神武軍による虐殺だ、ボケ。
おまえはもう早く氏ね。
生きてる甲斐などない、市ね。 天皇のマン毛一本には説明が必要だ
大嘗祭で降りてくる薄汚い朝鮮天皇霊が憑依した「天皇」が続くという意味で
憑依される者はどこの馬の骨朝鮮人でもいいわけ >>606 半島の工作員よ
出すのはテメエのほうだぜ。もともとテメエが言い出したのだ。
いいか、オマエなんか戦前だったら特高に逮捕されてオメエの命は
風前の灯だ。はやく半島に消えろ。ウヒヒヒ・・・
いくらほざいても皇統は倒せねえ。証拠がどうのといっても
まだ皇統は旧江戸城内にあってオマエの工作は何の成果も出ていねえ。ww
倒せるんだったら、どこまで出来るか見ものだから見ててやる。出来っこねえ。ppp
皇統は万年経っても断絶できない。できねえと知って泣いてアホウ鳥の鳴き声で
また泣け。bbb >>607 朝鮮人工作員よ
オメエの小汚ねえ珍毛で代用してろ。 いひひひ・・・ >>608
>出すのはテメエのほうだぜ。
出してるが。
神武軍が先に名草媛の軍勢にやられたという根拠をおまえは出してない。
がんばれ朝鮮右翼。 朝敵の半島の工作員よ
根拠はオマエが言い出いたんだから、オマエが出すんだよ。
出せねえならそんなものは証拠にならねえ。だいいち具体性が殆んどねえ。
紀も中途半端で書き込まねえくらいだから、証拠は完遂されてねえ。
つまりオマエの論は捏造そのものだ。
工作員よ
くやしいならオマエが天皇制廃止をやってみてからモノをいえ。
古今だれも皇統を倒した奴はゼロだ。天帝が皇統を防御してるから、
オマエがそれ以上の実力がない限り不可能だ。地震洪水噴火台風をオマエは
止められっこねえ。だから皇統を崩すことはできない。日本に原爆が落ちても
まだ皇統は続く。工作員よ、もっと泣け、なくんだよ。ウハハハ・・・
いいか、天帝の殺人数はもっとすごいぜ。そんなもんじゃねえ。
天から地から災害は毎年だ。それで災害から人間はうんと殺されている。
創造主は多大な殺人をやっている。これがこの世の現実だ。
だから古代人は神を畏れて敬うのだ。
そんな書きこみをしてる余裕があるなら、創造主の災害殺人でも文句を言ってろ。
半島人よ、オマエは銅メダルの身分でコチラは黄金の国ジパングの金メダル民族
だ。オマエの国は銅級だからあのブッブッブスの銅像をうんと立てて
気勢を上げるクセがあるのだ。うははは・・・ >>611
>根拠はオマエが言い出いたんだから、オマエが出すんだよ。
日本書紀と和歌山の神社の例を出してるが?
あとはおまえが先に神武軍が手を出されたという根拠を言う事。
言わないのなら神武軍はレイプ及び名草姫の体を八つ裂きにしたということになり、
ベトナム戦争時の韓国軍並みの猟奇集団という事になる。
さぁ早く出せ、朝鮮右翼www >>612 朝鮮アリラン工作員よ
紀のどこに具体的文言があるのか?
神社を出すなら、その由緒伝承社伝がある。それを書かないで神社だけしか
いわないところをみると、オメエのイカ様の糊塗増幅が行われてるを見て確定。
朝敵土台人工作員よ
天帝からの天誅がこないよう気をつけろ。
オマエが言い出したのに、なぜコチラがいう必要があるのか。
オマエが七草の講義してるとなると、コチラは聴講生のほうだ。
その御講義が全く不十分でオメエの根拠も薄弱なんでは教授どころか助手に
もなれねえ助平デンパ説がオメエの論。ウハハハ・・・・・
コンナンデ聴講生がうんと云うと思ってるのか?
オメエは落大学教授でいい。ヒヒヒ・・・・・
オメエの先祖もどうやら刀を指した野郎ばかりで、銃刀法違反で銃砲で
脅しの経歴が沢山いたということはおめえの言動から血の臭いが感じて想像
できうる。
こんなんではオメエのチンポ大のすごい強姦王もオメエの先祖に山ほど
いたんだことではねえのか。女遊びがひどいひねくれ先祖がオメエの肉体の精液
の成分から臭くただよって感じ気分がよくなく、コチラの心臓が破裂するくらい
オメエは醜怪だ。pubupubu
もっとオメエのチン毛を観察して朝鮮野郎たるオメエの、その先祖のエッチ度
を思い知んだな。ppp えんえんとうなって泣いてろ。 >>613
お前が先に答える方が先だ、こっちが先に質問してるのだからな。
いつも質問返しで逃げる、ヘタレ朝鮮ジジイw できそこないの朝鮮土台人の工作員よ
言い出したのはオメエだよ。
つまりオメエが一番手なわけだ。オメエのイカ様説をそう睨んでオメエの
クソ書きこみを読んでたのがコチラだ。その説明が不十分でコチラに丸投げ
をやってきてるということは、証拠もなにも無くオメエの捏造だと確定だ。bbpp
オメエに天誅が来ないうちに天帝に天を拝んで詫びねえと、忘れたころ
災厄が来ても知らんぞ。天帝は毎年大災害を起こし人間をゴキブリのように
殺人を行う創造主だ。だから古代人が恐れて神を崇敬して物を捧げて
無事を祈るのだ。オメエはそれがねえ不届き至極の脳内保持者だ。
もう天皇の悪口をやめて墓参に行ってオメエの先祖らの悪業を調査しろ。
いまは彼岸だ。口を慎め。
いいか、藤井九段も羽生さんも1三金引くとかやるのだ。これで名人、竜王
とかタイトルをとるのだ。それがオメエもやってるくせに逃げるなとは何だ。
オメエこの前コチラに消えろとかか書きこんでたろう。
今回は言わねえな。ww 松沢病院で少しは治療したからか?ウハハハ・・・ まあまあ落ち着いて。古今東西、戦争で女が敵軍の男に強姦される
なんてことはごまんとありすぎて、むしろなかったほうを挙げるほうが難しい。
神武天皇の東征から百何十年か経って子孫の豊鋤入姫命が名草姫の慰霊に行った
のならそれでいいんじゃないかと。 強姦はまだいいよ。何も強姦した女性をバラバラにして埋める
までしなくてもいいよね。今でもこういう事件は起きてるけど
神武の東征軍のまねをした犯罪なのか。 面倒くさいからwiki
日本書紀では、「巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月」冒頭の
「六月乙未朔丁巳 軍至名草邑 則誅名草戸畔者〈戸畔 此云妬鼙〉 (鼙は鼓の下に卑)
(旧暦6月1日、軍が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者〈戸畔はトベと読む〉を誅殺した。)
地元の伝承は次のように伝える。
熊野古道を現海南市に少し入ったそばのクモ池周辺が戦場になった。名草戸畔はここで殺され、頭、胴、足(脚の意か)が切り離された。
名草の住民により、頭は宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはらさん)、足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬された。
和歌山市のいくつかの神社は名草姫命(名草戸畔)と名草彦命を祀っており、その本社は吉原の中言神社である。名草姫命と名草彦命の関係は姉弟である
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
はい、次はお前の番。
名草姫軍が先に神武軍を攻撃したという証拠は?
はやく出せやヘタレ朝鮮人。 土台人の工作員よ、オメエが講義してるのさ。
なんでコチラに丸投げするのだ。論じ手はテメエで、聞き手がこっちで
逆じゃねえんだよ。
いいか、そんなものはもっと古代の火神のバラバラ切断の2番目的事件だ。
火神は出来がわるかったので、葬る他はなかったのダ。
今でいえば身体ご不自由の方に精神的傷を与える可能性あるから本来論じる気
はないが、ここの朝敵土台工作員がどうのこうのいってるから、責任はこいつ
に全部ある。戦前だったらこの朝鮮工作員は特高の餌食でこいつは殺され
るだろう。この女の事件は太古の因縁のような事で、葬るべき正当防衛
そのもの。オメエのように紀違いに刃物で、女にも気違いに刃物でその成敗は
正当防衛でハイ確定。工作員よもっとオメエの醜怪な赤マラをのぞいて
オメエのレイプ願望をコントロールしろ。クスッww
天はできがまずいとやむをえず葬るからな。
つまりこのいかれた土台人のいう名草とやらは火神のごとく出来が悪かったわけ
だから葬られたのだ。いまでも毒入りカレー事件だとか火付けのお七だとか
悪女といわれてしようがない女がいるし、悪女大師級の女は世界にうんといる。
おまけに天帝は毎年大災害でゴキブリを潰す殺人活動をやって来る。
神武の女成敗は当たり前だ。なお現今の刑法は古代には無効であるし、この
土台人工作員の先祖も多数刀剣で暴れっをやってるだろうから、人のことを
いえるかと文句をたっぷりこいつに行ってやろう。ウハハハ・・・
正当防衛の半欠で一見落着だ。うんとさけんで泣くんだな。ppppbbbb >>619
神武軍が先にやられた証拠を出せないという事で良いね。
つまり神武軍の名草媛に対する蛮行を認めるという事で良いね、ハイ終わり。
そのような穢れた血筋が、おまえが言う神国日本の初代天皇なんだ、分かったか。
日本は偉くもなんともない、何が金メダルだボケナス。 朝鮮野郎の工作員の朝敵よ 今日はクソ酒と紀無知を喰ったか。ww
つまり正当防衛が崩せねえという事で良いね。
オメエがこさえたオメエの攪乱目的のデタラメだったで良いね。
神武が蛮行した書きこみなんてオメエの証拠の捏造工作で良いね。
オメエのくせえ赤い珍ンポの土助平が神武をレイプしたにインチキ糊塗
したで良いね。ww
つまり強姦大好きのオメエが神武にレイプを擦り付けた好色脳が蛮行土台人の
オメエの正体で良いね。wwうははは・・・
オメエの先祖もどうやらやばいことやってる血の汚れた蛮行土台人なわけだ。
朝鮮工作員よ、えんえんと泣いてろ。ppbbppbb
いくらゆすぶっても皇統は詰め将棋の不詰めの棋譜同然で
倒すことができねえのさ。出来るなら見本を見せてみろ。
皇統は地球終末まで続くのが天帝の天勅だから、朝鮮人のオメエが
がんばってもオメエの赤い一本たちの醜怪のチンポ・ポールが立っても皇統は
倒せねえのさ.くやしいか土台人工作員よ。倒せねえから安心しろ。
オメエたちは銅民族だからあのブブブのブスの銅像をあちこちに立て
るクソ風習があるのだ。bububu ハハハ、ウハハハ・・・
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U >>621
>つまり正当防衛が崩せねえという事で良いね。
何が正当防衛だぼけ、一方的な侵略だろ。
正当防衛というなら名草媛側が先に攻撃したと証明してみろ。
だいたい名草媛の土地に神武軍が武装してぞろぞろやってきてるのだから、
これは一方的な侵略だ。
名草媛側が先に攻撃したと証明してみろ。
できないだろウンコ漏らしの介護ボケ老人が、市ね。
おまえなんか早く氏ね。 民コロ朝鮮男よ
正当防衛が崩せねえでいいですな。ww
皇統はまだありますが倒せねえでよろしいですな。ウフフフヒヒヒ・・・・・
だいぶ暴言ばかりのオメエの興奮状態を見るとえらく悔しいのだろう?アハハ・・・
ウハハハ・・・ 皇統を説朕詰めにできねえで、工作員よ目が脹れるまで泣け。pp 神武天皇のキャラクターは後世かなり尾鰭をつけて
脚色されているようだが、大国殿にとってこの方はまさに
神の化身、東洋のイエス・キリストであり、日本という
国は創造主のご加護にある国だそうなので、神武天皇の
人格を攻撃することは彼の信仰心を傷つけることになるので
そっとしてあげましょう。 不老長寿の王だからに決まってんだろ!日本列島は蓬莱であり、中国山東人が仙人になる目的で生み出したファンタジー。始皇帝も漢武帝も憧れたのが天皇! 中国メディア 古代日本は想像を絶するほど開けっぴろげだった
http://news.searchina.net/id/1702628?page=1
「古事記」の中に、古代日本人の非常にオープンな思想が見られる
イザナギとイザナミの性交、アメノウズメが天岩屋に閉じこもったアマテラスを誘い出すために
乳房と性器を露出して踊るといったエピソードから伺える、古代日本の性に対する感覚は
至極オープンだったことがはっきりと見て取れる。
さらに、「古事記」からは性と巫術との関係も垣間見ることができる。古代の人びとは生殖器に不思議な力が宿ると信じ、
石柱や陶器で作った生殖器の模型を農業生産力を象徴する神として崇めていた。その風習は現代にも脈々と受け継がれており、
今も全国各地に生殖器を象った石や木などを「御神体」として祀っているケースが多く見られると紹介した。
このほか、古代の日本には男尊女卑の概念がなかった。原始社会は概ね女系を主体とした家庭生活が営まれ、
結婚しても夫が妻の家に通うという形式が一般的だった。このため、妻が子と一緒に自分の実家に住み、
夫と共同生活を送らないことで、夫との関係において非常に強い独立性を保っていたと説明している。
原始社会では男性が狩りを行い、女性は食べられる食物や貝を集めていたとし、
女性が労働生産の主力として担っていた役割は後世に比べて遥かに大きく、
当時女性は社会の各方面において非常に高い地位を得ていたのだ。 7世紀の朝廷は、魏志倭人伝の卑弥呼も、後漢書東夷伝の倭国王帥升も、
それらが誰の事なのか、すべて分かっていた。
しかしそれは未来永劫隠さねばならない史実だった。
なぜなら倭国王自ら渡海して安帝に会いたいという謁見要請、
日本の歴史が中国への土下座から始まるという、この屈辱。
未来永劫隠さねばならないこの史実、その帥升の約5世代100年後に卑弥呼がいる。
日本書紀では、この時代を、女王の時代ではなかったかのように脚色せねばならなかった、
そこで日本書紀に記されたのが神武東征紀であり、新称号「天皇」だ。
そしてその神武の時代をBC7世紀に設定、だから神武以降の天皇がことごとく100歳を超えるようになってしまった。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后である。
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼とは、夫の神武に先立たれたヒメ(蹈鞴五十鈴)后の姿である。 卑弥呼は独身だから皇后は女王でもないし卑弥呼にはならない。
畿内での女王は推古の代までいない。
A.D.57年の金印の即面に安寧の皇子たる「常根津日子命」があったことから、
卑弥呼はもっと後代の人物であり、同57年の以前の人物が神武である。
卑弥呼は崇神の代の女性であって、57年から不合理はない。
これは八幡愚童訓の
黄龍2年=230年=開化48年
とあって、この9年後が 景初3年=239年 の卑弥呼活動年代だから、
卑弥呼は開化の次代の崇神の代だと判明する。
これが千葉歴博考古班の箸墓測定結果
240年〜260年
とも整合している。訓の年代が班の測定結果が裏付けているのだ。
ここから卑弥呼も百襲媛もほぼ同年代の女性と確認がとれ、卑弥呼は九州、
媛が畿内に同時代ころ生存していたということだ。これで決まり。 三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく タトゥ人種は日本国外に流出用の連中。
だから「外」はタとトの構成文字だ。
五輪で醜怪なこれをやってる外人が多かった。外国用がタトゥとみて可。
九州の国生みでは四面全部に『別』の字をつけて半島大陸と別もの
だとはっきり古事記に記述がある。
筑紫國 白日別
豐國 豐日別
肥國 建日向日豐久士比泥別
熊曾國 建日別
日本は大陸半島とは『別』ものの国なのだ。
神国日本は全世界の別格の国である。
黄金の国神国日本と半島の世界第参位の人参民族とは同等ではない。
半島は参位の銅メダル国家であって、黄金の国ジパングの金メダル国家
とは完全に別ものなのだ。それゆえ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。
半島は銅級国家だからあのブスの銅像を各地に設置して銅だと
自認してるのさ。w
金メダル国家がこの神州であるからして、天意は日本に邪馬1国の
世界第1位の国家を置いてるのである。
したがって太古の日本人が半島から来たのではない。こちらの神国日本が半島の
ご本家だ。ご本家だから日本の国号に『本』の字がつくのだ。
天皇は萬世一系である。そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。 >>631
何度同じこと言ってるんだ、引っ込め。
今の英国のエリザベス女王は「年すでに長大 夫婿はいない」だが、曾孫までいる。
魏志の卑弥呼の記事は、
年すでに長大「なのに」夫はいない
年すでに長大「にもかかわらず」夫はいない
ではない。
「なのに」「にもかかわらず」に類する接続詞がないからだ。
つまり逆接ではない。
だから卑弥呼は生涯独身ではない。
おまえアホだから理解できないだろうが。 >>633
>神国日本は全世界の別格の国である
おまえは全世界の別格のアホである >>634
エリザベス女王は皇后王后ではねえ。女王だ。神武の皇后は女王でねえんだよ。
畿内で女王は推古からだから239年ころに畿内に女王はいねえのさ。
つくろうんじゃねえ。変えるんじゃねえ。
神武が卑弥呼の代だと天皇の在位がすし詰めになって
おかしいのは一目瞭然。www アホウ鳥の鳴き声で叫んでろ。
>>635に告ぐ
全世界の統帥権は大元帥陛下にある。さっさと引っこめ。
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U >>633 半島の工作員よ
オマエらの半島と神国日本とは格が違うんだからな。
お前らは人参民族の世界第参位の、五輪でいえば銅メダルの国家だ。
神国日本はマルコポーロの伝えたように黄金の国ジパングであって世界第1位の
国家クラスだ。だから天帝が九州に邪馬1国を置いたのは神国日本が全世界で
第1位の金メダル級国家だからなのだ。
それ故神国日本は天帝の直轄地であって、萬邦無比の國體を誇るのだよ。
オマエなんか戦前だったら特高にとっ捕まて首根っこを絞り上げられるぞ。
ズが高いから末席に引っ込んでろい。
お前たちの半島は銅級だからあのブスの銅像を各地にぶっ立てる習癖が
あるのだ。ww >>636
>エリザベス女王は皇后王后ではねえ。女王だ。神武の皇后は女王でねえんだよ。
女王だったから、7世紀に新称号「皇后」にしたのだ。
女王だったと書いたら卑弥呼がすぐにばれるだろ。
卑弥呼を隠す=帥升を隠す=土下座朝貢を隠す
これが日本書紀編纂の原点になるので、女王の時代を神武東征紀で「男王国」のように演出したのさ。
だから君は引っ込んでくれ、センスのかけらもない。
まぁ倍歴論者にセンスなんて求めても意味はないと思うが。 もう神功39年に公開記事があるから、隠匿もねえし、時代が合うと言い訳
しても紀の編者らのばれるに困る始末にしては頭隠して尻隠さずのやり方
だから、そんな間抜けなもみ消ししないで同39年に卑弥呼の記事を残す愚行
を編者連がやるわけがない。神社の由緒とか祭神とかが全国に分散で残ってるん
だから、いた事実をもみ消すにしては無理で出来っこねえわけだ。
だからオマエの主張は絶対通用しねえのさ。皇后の名はオマエのいう後代でも
そんなことは重要ではない。皇后の意味が女王と別だから、これもオマエの得意
の変更なわけデタラメ。w 倍暦はしてたのさ。当時天皇の年齢に不合理はない。
白鵬が土俵で子供らに華をもたしてるだけ。中華はチュルドレン(中流土連の
土俵の真ん中での子供が中華なんだよ)ww そこに土の字があるだろ。ww 【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
ことごとく月前半の2週間に収まっている。二倍暦はこれではっきりしてるぜ。
今の1年が当時は半年とかだったんだから、紀の編者らはそれを知らず年代
がこれで狂って神功年代に卑弥呼が神功かと思って記述したのだ。 チュルドレン(中流土連)に土下座の「土」の字があるだだろうが。
土下座は中国の五惑星の旗のほうなのだ。この旗より太陽の旭日旗のほうが
格上なのは、天文学で太陽が五惑星を従える天則からはっきりしている。
倭の五王は天皇でねえし、東の天皇は西の皇帝より格上なのは、東の横綱の
ほうが西の横綱より格上の如くだ。先手の玉将より後手の王将のほうが格上
だから、大陸のほうが先手番で日本より時代が古くなってるだけで、神国日本
があいつらより格が上なのだ。
紀に神功は神功39年に公開されていて、オマエのいう隠匿ではない。
おまけに57年金印の側面に安寧の皇子の名があったそうで、57年が金印の時代
じゃあ、卑弥呼の239年が神武のわけがない。神武は57年より以前の人物だ。
そうなると名もにてねえ帥升がスサノオだというのも合っていねえ。 な〜んだ、そんな言い訳をしてたのか。
女王だったから7世紀皇后にしただと?
じゃあなんで元明元正も女王(女天皇)にしないでこの両陛下は皇后で通せば
いいではないか。これがオマエの得意技の合わないので毎回やってるすりぬけ
なのさ。「1」なのに「台」に鞍替えし、南下するのに東方行きに鞍替え、
夫帯でない独身なのにまたすり抜け変更して夫帯に鞍替え、お后は女王でねえのに
7世紀に皇后のほうにしたとか、くるくるくるくるすりぬけ変更ばかりの得意技
をしていて、こんなに合わねえのをすりぬけて合ってる論に工作している。
こんなに変更すりぬけが効くわけがねえ。
さっき言ったろ。卑弥呼は男だと主張してるやつに倭人伝はちゃんと女王と
の記述があって女性だぞと反論すれば、こいつがオマエだとするとおまえの
得意技のすり抜けで、いやぁ〜卑弥呼は性転換手術をしてたからもともと
男だったのさとして自説をしてしまうのと同様のイカ様だ。
もういい加減に間違いだとオマエは気づくべきだろうが。盲象害毒は
図り知れねえ。 少し前は夫帯。
女王は皇后でないし、畿内での女王は推古から。
つまり紀無い説は南下を東行にすり替え、女王を皇后にすり替え、夫帯を期間
の少しの独身にごり押ししたもの。卑弥呼は年も長大となると紀無いの皇后
と合う長寿女はいない。紀無い説はすり抜けしか成立しないインチキ説。 王族とされる全ての始祖はエジプト文明の王族
あまり報道や追求されないけどファラオの頭蓋骨は後頭部は突起して人類の骨格ではない つまりは他の惑星から来て簡単な学問を民衆に授けた
それが王になり世界の各地に子孫が移り住み人類と交配した 血は語り継がれるので王族となり継承された >女王は皇后でないし、畿内での女王は推古から。
皇后は7世紀以降の称号。
それ以前には皇后なるない、ならば事代主の娘で兄が鴨王(カモのオオキミ)である女性こそ真の女王。 × それ以前には皇后なるない
〇 それ以前には皇后なる名称はない >>649
エピソードを読む限り、女王たる威厳はかけらもないな。
しかも再婚している。
魏志倭人伝では卑弥呼は独身。 長大となってれば夫帯なんかありえない。歳いって婚姻もないな。
昔は若く10代で結婚だろうから夫帯はしてなかったとなって然り。
皇后であろうとエンプレスであろうと、言い回しは意味が同じならどうでも
いいことよ。 長大って、年寄りではなく成人していたということ。
次の壹與が13歳であったことと対比させての表現だよ。 そうなら長大などという必要もなく、通常の寿命のように書くだろ。
13歳あたりで長大か〜?pppp
じゃあ5,6・・・9歳だと普通なのか?w 壹與は13歳で即位したのが若すぎるけど、卑弥呼は即位した時にすでに成人していた(長大)という意味。 >655
それは都合よくそんな主張を即興で不合理がないよう年齢幅を
考えただけで、そんなにうまくいくわけがねえ。
20歳で大陸人が長大だと記載するとは到底思えないよ。
紀無い説はいつもこういうすり抜けを探して作るわけで、いつもそんなうまく
いくわけがねえ。
いいか、南下となってるのに長く東行せねば畿内にならない。これもえらく
おかしい? 次だが記紀に卑弥呼の記事が外国産の倭人伝からの神功39年あたり
の記事にしかなく、畿内の卑弥呼がいたなら純日本産の原書から卑弥呼の記事
が載るはずだが、これが無くゼロなのだ。だから畿内に卑弥呼の情報が
ないからであって、情報がないのは畿内から遠方の地域に女王国があったと
考えて当然だし、九州だと大陸にもっと近いから外国産の伝に卑弥呼の記事が
載るのはおかしくない。これを紀無い説の某は卑弥呼を隠匿したというが、
これも同39年に公開記事があるわけで、隠匿するなら頭隠して尻隠さずのトンマ
なヘマを紀の編者らがするわけもない。完全に同39年の記述をもみ消して無に
するに違いない。だから隠匿は大ウソの主張。
畿内で女王が始まったのは推古の時であり、神功は皇后で女王格ではないから
239年ころ女王は畿内にいるわけもない。皇后の名がそのころねえとか言っても、
別の言い回しがあるわけで、これもおかしくない。
長大なのに20歳くらいで長大ではどう転んでも少なさすぎる。
つまり女王国は紀無いにはなかったのだ。ご苦労。w >>651
>エピソードを読む限り、女王たる威厳はかけらもないな。
父親はスサノオ直系事代主、つまり主=王。
>しかも再婚している。
再婚するまでの間、どくしんだね。
しかも再婚相手は宮に出入りできるただ一人の男子の説明になるし。
>魏志倭人伝では卑弥呼は独身。
生涯独身の意味ではないからね、アホだね君。 >>655
だいたい2世紀末に即位。
248年に死去。
だから即位したときに「長大」ではない。 卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津媛 E孝安 D孝昭
トヨ津媛 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
これで決定、トヨ津媛やヒメ(踏鞴五十鈴)后の住処に、
隣りに奴婢埋葬痕跡のある径百余歩の冢もある。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg だいたい2世紀末に即位と書いたが、
3世紀初頭即位説というのもある。
その場合なら「長大」という事もある。
そして夫はいない。
さらに宮に出入りできるただ一人の男子がいることになる。
誰だ?
俺は答えれるぞ、タギシミミだ。 女王はナンバー・1で、后はアトをとる名で直接政権に関わらないナンバー・2
あたりで女王ではない。
女王は畿内では推古から。
即位は崇神即位年かその少し手前の年代。
八幡愚童訓
黄龍2年=230年=開化48年
だから、卑弥呼は237年かその少し前。
237年=景初元年
このことは神武の皇后が卑弥呼でないことをはっきり示している。 >>661
同じことばっかり書くなら消えてくれ。
せめて九州にあるという卑弥呼の墓を言え。 >>662
オマエも畿内のどこにいるか、根拠を出してものをいえ。
神武の皇后は女王でねえし夫帯だ。
伝では南下する記述なのに東行なんてデタラメだ。しかも訓から神武の
年代ではねえ。畿内の女王は推古からで紀無い説はする抜けのデタラメばかり。 >>663
>オマエも畿内のどこにいるか、根拠を出してものをいえ。
何度も言ってる、大和朝廷の発祥地・葛城(=奈良県御所市)
>神武の皇后は女王でねえし夫帯だ。
夫に先立たれた時期の描写。
卑弥呼は生涯独身ではない、アホ。
で九州にある卑弥呼の墓について答えられず、また質問返しでに出る卑怯な朝鮮ジジイ。
最低だなこいつ。 いうのは簡単だ。最低はオメエさ。なんで南下するのに東行するのか?
一般に売られてる旅行の案内書で90度も方角が変わってたら苦情が莫大に
来て廃本だ。だから伝の方角が東行をいってるわけがねえ。
こんなこともおめえの小豆脳はおかしいと思わねえのか?w
またどうしてそこなのかを聞いてるのさ。根拠資料、証拠あればなおいい。
偽証じゃあだめだしな。九州内ならどこで九州だよ。
オマエのいう場所なんか何も根拠等書くことができねえ。
これはオマエが言い出したんだから、ただここだとかじゃあ役に立たねえ。 >>657
>再婚するまでの間、どくしんだね。
違うよ。
神武が亡くなってすぐだよ。
タギシミミは前妻の子だから、イスケヨリヒメと歳が近かったのだろう。 >>658
そうなんだよね。
人間の寿命から考えると、即位時に二十歳でも亡くなったのは70代から80歳くらい。
それを魏志倭人伝は即位した時既に長大と書いている。 >>660
>さらに宮に出入りできるただ一人の男子がいることになる。
>誰だ?
>俺は答えれるぞ、タギシミミだ。
タギシミミはしばらくして倒されてしまうから、魏志倭人伝の頃にはもういない。
つまり卑弥呼とイスケヨリヒメはぜんぜん話が合わない。 >>662
>せめて九州にあるという卑弥呼の墓を言え。
平原遺跡。
後漢滅亡後、3世紀の倭国女王の墓。 >>665
九州のどこか言えないのだな。
シッ シッ >>666
>神武が亡くなってすぐだよ。
日本書紀では確か3年だね。
だから何だろ。
その間、夫はいない、宮に出入りするただ一人の男子タギシミミがいる。
魏志倭人伝の通りではないか。 >>668
魏志倭人伝の頃にはもういないってどういう意味かな。
魏志は卑弥呼が即位してから一部始終書いてるわけではない。
宮に出入りするただ一人の男子の記事は卑弥呼即位後の一時期の描写。
上記、神武が死んでからは、
夫はいない、宮に出入りするただ一人の男子タギシミミがいる。
魏志倭人伝の通りではないか。 >>669
>平原遺跡。
>後漢滅亡後、3世紀の倭国女王の墓。
時代が合わない(柳田さんは卑弥呼の母親世代と言ってる)、
大きさが合わない、
当地に王権があったという文献も伝承もない、
ワレ塚古墳など、古墳時代中期の古墳の説明がつかない。
論外。
平原・曽根遺跡群という名称からも筑紫物部の墳墓であろう。
関西では曽根は池上曽根遺跡や、
庄内土器の命名元・豊中市庄内の近くに曾根という名称があり、
それらの土地は物部と深くかかわっている。、 >>670
紀無いの証拠が言えねえんだね。pp
場所をいったって根拠、証拠等がねえんじゃオメエの作文。ハイ終わり。 >>673
ほう。平原女王卑弥呼は物部だったのか。 曽根って物部なの?
全国各地にあるけど。根拠とかある? >>674
卑弥呼の時代に皇族という呼称はない。
王族という呼称もない。
あるのは王(きみ)大王(おおきみ)でもわかるように、神々。
神々がどこにいたか、高天原だね。
その高天原とは平安鎌倉の文献からも葛城(御所市高天)しかない。
その御所市高天に径百余歩で、となりに奴婢=土蜘蛛が埋葬された塚がある。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg
つまり卑弥呼の墓とはここである。 >>677
池上曽根遺跡の曽根神社配神が二田物部神。
またこの遺跡の近くが久米物部、田尻物部、弦田物部の本拠地。
豊中市曽根の近くの庄内には穂積という物部の地名がある。
また両地域とも前方後円型周溝墓が見つかっており、纏向遺跡に先行する。 その呼称はここではどうでもいい。
確かに今と当時と言い回しが違うだろうが、便宜上現代の語でOKだ。
そういうのは大学の文学部のほうにおうかがいをたてろ。
高天原は記紀で国生み前の冒頭あたりに出る名だから、ここの高天原が島が
ないのに葛城になるわけがない。
だが本来の高天原でないが、二次的に高天原といわれる場所があるから、そういう
意味ではオマエのう場所みたいのが出てくる。
だが、これじゃあ卑弥呼の場所だとはならない。
ここだといったって、高天原が邪馬1国になるべくもない。別ものだな。 >>679
>また両地域とも前方後円型周溝墓が見つかっており、纏向遺跡に先行する。
ん?
前方後円墳は物部のってこと? >>681
>前方後円墳は物部のってこと?
そう、ほぼ間違いない。
大和では纏向が前方後円墳の発祥地だが、
物部の祖ニギハヤヒが神武に屈した場所、つまり物部の奥津城である。
またニギハヤヒは幾多の瀬戸内集団を伴っているが、纏向古墳群の瀬戸内要素の強さは言うまでもない。
大阪交野に箸墓古墳と同時期か少し後とも言われる森古墳群がある。
この古墳群は被葬者として考えられるのは交野の語源になった肩野物部しかいない、一択だ。
つまり箸墓と同時期辺りに、物部という一豪族が前方後円墳を造っていた証拠になる。
前方後円墳という墓制が古代物部の物であった証拠である。
だから物部守屋の死・6世紀末に前方後円墳の造営が終了するわけ。 >>680
何言ってるのか分からないし、
書く事ないなら黙っててくれないか。 >>682
じゃあ、箸墓古墳の百襲姫も物部ってことになるけど
ホケノ山古墳も、それ以前の纏向古墳群も
多すぎない? >>684
>箸墓古墳の百襲姫
俺は百襲姫だと思わない、箸墓はイカガノシコオ。
>ホケノ山古墳も、それ以前の纏向古墳群も
多すぎない?
いや、そうは思わない。ニギハヤヒ以降、イカガノシコオまで物部の首長は5人くらいだから丁度数が合うと思う。 >>683
だったら紀無い説のスレに言ってろ。
漢字の1という数字を今もそうだが当時の古代中国人が間違えるわけがねえ。
中国もコンビニに行って1元でも彼らが間違えて会計計算を間違えるはずが
ねえ。これをオマエ達は邪馬台国に変更する間違いをしでかしていて、南下の
ところ東行に90度方角変更して大きく恣意的間違いを重ねている。日本だって
コンビニで1円でも計算間違いに店員が気づいて当然だ。
女王が畿内は推古の代からなのに女王でない皇后にすり替えてさらに独身なのに
英女王を持ち出して狭小期間のこの頃の夫帯を超誇張してごまかしている。
英女王は皇后の身分でねえぞ。
さらにそこから時代も神武にしてるから当時の天皇の在位期間が寿司詰めで
これも合理的でない。おまけに記紀に伝から出ない純日本産の卑弥呼の記事も
まったく無く、ゼロ。これは卑弥呼が紀無いにいなかったから紀の原書群に
情報がないわけで、九州奥地付近なら畿内に卑弥呼の情報がないのは超遠隔
だから不合理がないし、大陸だと畿内よりだいぶ近いから大陸にその情報
が行ってておかしくない。それを卑弥呼を隠匿したとかいうが、神功39年の伝から
の卑弥呼の公開されてるんだから隠匿説は成立しないし、頭隠して尻隠さず
なんかの間抜けな紀の編者らのはずがない。
はやく紀無いに女王卑弥呼はいないのだと盲象に気付け。w >>1
そもそもが、須佐男は出雲乗っ取りの千家と、当時の右大臣、藤原氏の名代として、国司として派遣された忌部氏が作り上げた新造の神で、出雲王家の初代の管八耳の業績と、千家の親玉の徐福の合算の投影
忌部も徐福時代の渡来者だったから利害が衝突しなかっただけ
おおよそ八年間は出雲に滞在し、風土記と記紀の編纂に関わった
現在でも東出雲王宮跡地の神魂神社の山の反対側が忌部町になっている
千家と忌部の最大の目的は、出雲母系の先祖となること
乗っ取りの汚名を隠したかったのだろう
故に、BC3世紀の渡来時代を遡り、BC600年代から歴史を始めたので長寿になった 藤原氏が何故、村雲大王から神武朝を始めたかというと、ご先祖様だったから
神武の家系は初代を抜き、3代目まで耳の字が入る
これは出雲系の、母系尊重で、出雲初代の管八耳から来ている
2代目大王は、八井耳
3代目大王は沼川耳
太安万侶は八井耳系、多氏の家系で古くから九州にも拠点を持っていた
中臣鎌足は、実は渡来人ではなく、鹿島の近くの豪族の子供で、両親の先祖も何と八井耳
中臣家と婚姻しなかった方の子供に不比等
つまり、太安万侶と不比等は親戚筋
だから神武が村雲から始まった
彼らが行った記紀での細工は、タテカシマを登場させた事
出雲、大彦系で占められた関東国造家から祭祀を奪って祖神に加えた藤原だが、タテミカヅチは、母系側の先祖にあたる人物で、事代主系の奈良での分家である磯城登美家の実在の人物
これを国譲りの場面に登場させると、まるで立役者の様に映るわけだ 何故出雲大社の神は怨霊と言われ、鹿島の神はそう言われていないのか
それは先祖の神であるかそうでないかによるのでは?
千家からすれば征服した相手が作り、相手側の祖人の神を祀る神社の宮司に収まってるわけだからね
怨霊という噂は、周囲の人たちから見た、宮司家に対する当て擦りがいつしか根付いた物だと思う 記紀編纂前に集められ、最終的に破棄されたとされる全国の風土記
しかし、完本が出雲だけ残っている
これには理由があり、最初に作られた出雲風土記は一度書き換えられている。
千家果安が作った最初の風土記は、出雲王家に見せることを要求されたが、千家は空を遅延させた
目的は、記紀の編纂に合わせて風土記を書き換えるため(記紀の編纂方式に反しなければ公開が可能になる)だったと言われている
現在残る出雲風土記は、向家に提出された書き直された方の風土記
故に、原本はやはり失われているか、千家が秘匿していると考えられる >>18
ナイナイw
その娘が鬼道やってるなんてあり得んだろ
景初年間は民衆の蜂起を防ぐため、国家管理の道教以外は弾圧されてた時代
そもそもが、魏志倭人伝の宗女の言葉はトヨにしか書かれていない
トヨと同年代の歴史家がそんな事を間違えて書くわけがない >>19
伊都なんて太宰府と同じで国の首都を偽装した防御機構に過ぎない
卑弥呼の時代の前から各豪族が奈良と九州に拠点を持ち、独自の朝貢を行なっていた時代が終わった後に玄関口の伊都が作られている
神武の次の八井耳を祖にもち、出雲の親戚である証の臣姓を持つ、多臣家が九州に拠点を持っていた
宗方家は出雲第6代のオミツヌの次男で、出雲は九州に親戚がいた
丹後から奈良に移住した海部や尾張は、安曇という親戚が九州に居た
当時の朝貢は貿易的側面が強かった
九州や奈良に文化差はほとんどないよ
九州論者は、航行に必要な板切れを組み合わせた構造船が機内から出土しているにも関わらず、何もなかったと言い張るが、本家を蔑ろにする姿勢はクーデターでもない限りあり得ない
それくらい氏素性は尊重された時代 魏志倭人伝に卑弥呼墓の奴婢の殉葬が書かれてるが、日本には殉葬という習慣そのものがない。
では魏志倭人伝に書かれた奴婢の殉葬とは何であろうか。
分からない。
ならばとりあえず、奴婢、または奴婢になったであろう集団の大量死の記事はないか。
またその痕跡はないか。
たった一人、それを為した人物がいるだろ。
それは神武だ。
殺されたのは大和先住民・土蜘蛛。
そして奴婢の大量死の場所は、今も判明してるのは2か所。
葛城一言主神社参道、そして高尾張邑=御所市高天だ。
このどちらかに径百余歩=150mの塚があれば、それが卑弥呼墓の最有力だ。
径百余歩=150mの塚があるのは後者・高尾張邑=御所市高天だ。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg
邪馬台国論争は終わりだ。 >>58
ホムタ大王は、上州の竹葉瀬君でしょ
安曇とは全く無関係
イニエと景初の卑弥呼の子供であるトヨ彦の子孫だったから神功皇后に呼び寄せられた
彼の子孫、応神朝の子孫は帝紀編纂の際にも呼び寄せられている
上毛の地名は九州にもある
物部は、トヨ姫とトヨ彦の両方を始末しようとしたけど、関東からは先に出雲兵により追い払われていた為、難を逃れた 紀の神武の文に独身の卑弥呼の記事はない。神武の皇后は夫帯だし歳も長大
とは思えない。
つまり神武の代に紀無いに卑弥呼はいない。
57年金印の側面に「常根津日子命」の名があるという。
命は安寧の皇子だから、239年=景初3年 からして神武より卑弥呼はずっと
後代だ。卑弥呼が神武の代でないことはもう歴然。 >>59
実は、宇佐八幡では当初はホムタ大王を祀っていなかった
上州の竹葉瀬がホムタ大王であるという話を聞いた後に合祀している
景初の卑弥呼とホムタ大王は宇佐氏の血縁だからね >>64
卑弥呼は単なる役職名
姫巫女の大陸側の蔑称に過ぎない
姫巫女職は世襲制で限られた血筋の者しかなる事が出来なかった
三輪山祭祀の太陽の女神を奉じていたのは出雲。
磯城登美家の者しかなれなかった
もう一つある。それが宗方氏と習合していた宇佐一族の奉じていた月の女神
神功皇后は卑弥呼にはなれない >>67
旧家の伝承では、実は神功皇后は、仲哀天皇の前の大王、物部政権最後の皇后だったそうです
万世一系の偽装方針で行けば、ミマキから仲哀天皇の前の大王は物部の政権である事を隠さねばならず、本来であれば神功皇后も隠されなければなりませんでした
しかし、彼女の残した実績が偉大で、大陸の歴史書にも書かれていなかったので記紀登場したのです
朝鮮半島に権益を持ち、徴税していた事実は大陸に対しアピールしたい点であったでしょう
記紀には恐ろしい事が書いてあります
武内大臣と大王の誕生日が一緒であると
それが旧家の伝承です
母方がヒボコの血筋であった為、大陸に対して相続権を主張するのに自分の子が死んだとなると都合が悪い
故に上州から物部と宇佐の血を引く彼を呼び寄せたのです >>70
伊都チョンが出張してきてるだけだから相手にしないほうが良い 萬世一系は後代名づられたとなれば、当時でないから偽装は成立しない。
後代皇統がいくら危機に陥っても永く継続してきて、一系が万年も続くと
わかって萬世一系といわれるようになったとみてる。
いくらうそだとか倒そうとかゆすぶっても皇統は倒すことはかなわない。
皇統は将棋でいえば詰めのない不詰めの棋譜なのである。
絶対詰まない。
それ故神国日本は萬邦無比を誇るのだ。 >>73
大陸に提出するために、事前に偽書に目を通していながら誤魔化し方が分からないなどあり得んよ
我が国は、他に同時代の歴史書が大陸にはないことも見抜いていた可能性すらある
古事記の柿本人麻呂は、大陸の渡来者の語り部の家系、綾部家の出身で、柿本家には養子入りという形式をとっている
中臣鎌足は、親戚の多臣家に、朝鮮王族の姫を嫁に迎える算段までつけている
彼らにしか偽装はなし得なかったであろう
朝鮮との歴史に注意を払い、大陸を誤魔化す
実にバランスの取れた誤魔化し方を記紀はしてるよ >>77
記紀でいえば日向神話の豊玉姫
宇佐氏が公開している歴史においては宇佐津姫の事だよ
結婚してて、宗女トヨの親に当たるのが月の女神の姫巫女、豊国の女王
遺骨まで回収されて一部は宇佐八幡に収められてるよ >>112
当時の重要な遺物として、水銀砂が挙げられます
土蜘蛛は水銀鉱石を表しているという説があります
水銀鉱石の品位の低いものは、まるで蜘蛛の巣の様な模様になる様です
他にも水銀中毒とも取れる記載がヤマトタケルの三重の語源の逸話
しかし、大陸に出す歴史者に馬鹿正直に水銀自慢をすると攻め込まれかねません
神功皇后のこと含め、記紀は実に知性や慎重さを帯びてる様な気がします >>579
和歌山から奈良入りした磐余彦軍は、物部氏だよ。
物部の男系は、継体天皇の代で途絶えてるから、男系を辿ると現在では出雲の事代主の家系に行きつく。 草薙の剣が何故皇室に無く、熱田にあるのか
それは尾張氏と関連がある。
村雲王就任の際に、出雲側の天クシヒカタから尾張家に送られたもの
しかし、いつの世でも近しい親戚程争うもので、出雲側から三代続けて嫁さんを貰ったら、子育てにおける母系の考えと衝突
大事な世継ぎがオズも側で育てられ続けることに異を唱えた尾張家と距離が出来てしまったそうなのである。
三代目以降、尾張家は草薙の剣を大王家(出雲と尾張の習合=海部家)に渡さなくなったそう
結局、力のあった大王は3代目までで、その後、出雲、尾張、海部の三すくみで大王と呼べる人物が輩出されてないそう
大王の系譜は、淡々と代を重ねるような淡白な記述がクニオシヒト大王まで続くんじゃないかと
クニオシヒトは朝貢している。それが金印の事が大陸の史書にのった約50年後
記紀では魏書に載った人物を誤魔化すのに、ある手法を使う。決して隠さない。
時代をを圧縮し、思うような人物を誤認させる手法(神功皇后)
大王自らが朝貢している場合は、兄弟を作り、その人物が朝貢したように見せかける事
面戸と言われた後漢書東夷伝のAD107年の倭国王師升は、クニオシヒト大王
後に諡号を作り出した人物の一人は物部の関係者
クニオシヒトの韓風諡号は孝安天皇
わざわざ当時の大陸の皇帝の安帝に合わせている。
九州論者はこれを聞くと発狂するから面白いw畿内なんて未開の地で、朝貢なんてしてなかったニダって言うんだよww 卑弥呼はクニオシヒトの三分の一ほどの規模の朝貢だったにもかかわらず、厚遇されている。
対してクニオシヒトへの大陸の塩対応は、特筆に値するであろう。ハンコひとつ貰えずに帰国している。
これは他の説でも言われている事だが、奈良のヤマトがナ国を滅ぼしたから、その釈明で朝貢したという説がある
確かに、大国がお墨付きをくれた国をやっつけたら流石に国のメンツを潰されたようなものだからな。
じゃあ、という事になる。
旧家の複数の家の伝承によれば景初の卑弥呼は九州の卑弥呼であると
だがしかし、卑弥呼は自国の名をヤマトと呼んでいる。すでに朝貢していた国をなぜ挙げたのか?
これは東征が開始されて、長官オウキに武内宿祢が戦況報告をしてる事で分かる。
男王、ヒコミチヌシの皇子が敵方の狗奴国の長であると ヒコミチヌシは、記紀では隠されているが、海部王朝最後の第10代の大王だった
彼はヒバス姫の父親であり、東征後も生き延び、物部氏により編まれたセンダイクジホンギの国造本紀にバッチリ出てしまっている。
稲葉国造家が、海部王朝最後の大王の落ち着き先になった。
イニエこと崇神は、実際には東征開始前に九州で無くなっており、大和入りしていない
故に、万世一系の血筋のつなぎの時に変な事になってるはずだよ
息子であるイクメは奈良で政権を掌握し、ヒバス姫を娶って権力の正当性を確保した
つまり、景初の卑弥呼は朝貢した国を倒すとは言えず、自分の国がヤマトだと大陸を誤魔化したのだ
これが旧家に伝わる伝承。邪馬台国など解釈の違いであって、大陸から見たヤマトは畿内のヤマトであり
実際の内情のヤマトは九州物部と宇佐の連合軍である、東征軍が最初に集まった西都原、つまり都万国の事を差す
学者さんたちが研究しても答えが出ないわけだなw
神武は三人いる。海部王朝初代の村雲王、一次物部東征の磐余彦、第二次物部東征、いわゆる邪馬台国事件の物部イクメ王
この時代が圧縮され、物部政権が滅んだ後の神功皇后が、上書きされた。
磐余彦の東征開始は160年代。大彦のヤマト撤退と阿部氏への改名が180年代
いずれも倭国大乱期である。
磐余彦の時代の東征は、第八代クニクルの時代。三輪山の姫巫女は登美(とび)家のモモソ姫。
宮司家は太田タネコの時代であった。
旧家の伝承によれば未婚の方の卑弥呼はモモソ姫の事であり、世話人の弟は太田氏だったそうである。
魏書には、複数の卑弥呼が描かれている
記録を書くのにメモ書きから書き起こしている部分がある
魏書の編纂者はトヨ姫と同年代の人物なので、それ以前の卑弥呼の話はメモ書きから出ないと書き起こせない
邪馬台国への道順も不自然に距離測が変わる場面がある。
案内人が変わったとか、放射説とか色々あるが、そもそもが余程の事がない限り、伊都から瀬戸内海方面は入ることが出来なかった訳で
そもそものヤマトの位置が伊都での伝聞である可能性は否定できない 三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>695
>紀の神武の文に独身の卑弥呼の記事はない
ある。
寡婦は独身。
>57年金印の側面に「常根津日子命」の名があるという
オカルト板にいいくか、早く氏ね。 >>672
>魏志は卑弥呼が即位してから一部始終書いてるわけではない。
>宮に出入りするただ一人の男子の記事は卑弥呼即位後の一時期の描写。
違うよ。
男子がただ1人出入りしているのは、郡使が訪れたときの描写。
つまり卑弥呼の晩年の姿だ。
しかし、タギシミミとアレコレというのはどう考えてもイスケヨリヒメの若い時の話だ。
その後でタギシミミは滅ぼされてしまうので、晩年の卑弥呼の側にいるはずがない。
つまりイスケヨリヒメと卑弥呼は全く関係がない。 >>673
>時代が合わない(柳田さんは卑弥呼の母親世代と言ってる)、
それは間違い。
副葬品の八咫の鏡は後漢滅亡後に作られたと考えられる。
卑弥呼の母親の世代は後漢代にかかってしまう。
しかも卑弥呼政権は半世紀続くので、八咫の鏡の鋳造がその期間に含まれる可能性は高い。
時代が合わないというのは根拠がない。 >>673
>平原・曽根遺跡群という名称からも筑紫物部の墳墓であろう。
名前は後世の呼称に過ぎない。
また、物部だからといって、卑弥呼との関係を否定する根拠ではない。 前方後円墳が物部の墓制だとしても、平原遺跡は方形周溝墓なので関係がない。
高祖山周辺は記紀にある筑紫の日向であり、イザナギやニニギがいたとされる神代の王都と伝えられている。
年代が違う?
そう、まさにそこがポイントであり、神武ら天孫族が東征して筑紫を去った後、この王都の主となったのは誰だったのか。
記紀はその後の筑紫についてしばらくは記事がないが、大陸との交通の要所であった筑紫は栄続いていたはずで、そこを支配したのが卑弥呼である可能性が高い。 >>688
>出雲、大彦系で占められた関東国造家から祭祀を奪って祖神に加えた藤原だが、タテミカヅチは、母系側の先祖にあたる人物で、事代主系の奈良での分家である磯城登美家の実在の人物
後半の記述の根拠は?
登美の長髄彦も出雲の末裔か? >>692
>卑弥呼の時代の前から各豪族が奈良と九州に拠点を持ち、独自の朝貢を行なっていた時代が終わった後に玄関口の伊都が作られている
どう読んでも、伊都が全国支配を確立したようにしか読めないw
筑紫の日向が倭国を代表していたことに変わりがない。 >>692
>神武の次の八井耳を祖にもち、出雲の親戚である証の臣姓を持つ、多臣家が九州に拠点を持っていた
>宗方家は出雲第6代のオミツヌの次男で、出雲は九州に親戚がいた
>丹後から奈良に移住した海部や尾張は、安曇という親戚が九州に居た
全ての氏族が一族の者を筑紫に出しているなら、そこが王都ですね。 【畿内の鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
<こ れ だ け>
【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg >>698
>しかし、彼女の残した実績が偉大で、大陸の歴史書にも書かれていなかったので記紀登場したのです
偉大?
景行天皇から仲哀天皇に至るタラシヒコ皇統を滅ぼしたことが? >>704
>和歌山から奈良入りした磐余彦軍は、物部氏だよ。
磐余彦を迎え撃ったのが、物部氏の祖である饒速日の支配下にあった長髄彦の軍であったはず。 九州の国生みでは四面全部に『別』の字をつけて半島大陸と別もの
だとはっきり古事記に記述がある。
筑紫國 白日別
豐國 豐日別
肥國 建日向日豐久士比泥別
熊曾國 建日別
日本は大陸半島とは『別』ものの国なのだ。
神国日本は全世界の別格の国である。
黄金の国神国日本と半島の世界第参位の人参民族とは同等ではない。
半島は参位の銅メダル国家であって、黄金の国ジパングの金メダル国家
とは完全に別ものなのだ。それゆえ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。
半島は銅級国家だからあのブスの銅像を各地に設置して銅だと
自認してるのさ。w
金メダル国家がこの神州であるからして、天意は日本に邪馬1国の
世界第1位の国家を置いてるのである。
したがって太古の日本人が半島から来たのではない。こちらの神国日本が半島の
ご本家だ。ご本家だから日本の国号に『本』の字がつくのだ。
半島人は銅、土台人というときは4位以下の上位3名を載せるその下の表彰台。
黄金は天皇で黄銅と黄金とは別の近族。
天皇は萬世一系である。そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。 >>709
歳長大でBBAとなったの卑弥呼をもらう男はオマエくらいだ。w
57年金印側面の命の名から、安寧のころが57年なのさ。
だから神武の代のわけがねえ。
この側面の名から年代が判明し、オマエのいう神武の代が
卑弥呼のころというインチキ盲象がはっきりみてとれる。それがオマエは困るから
オカルトという糊塗をしてまだお前の気づかない神武世盲象の防衛に
えらくあせっている。w
安寧世が57年から、八幡愚童訓の
開化48年=黄龍2年=230年
とも年代の整合してるのがわかる。
どう転んでもオマエの寡婦すり抜けイカ様説は成立しねえよ。ppbabaa 三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>714
>後半の記述の根拠は?
登美の長髄彦も出雲の末裔か?
登美家の事を知らない段階でもう知識的に乏しい方でしょw
八咫烏の加茂氏の家系、事代主の子孫の家系、奈良でのトミ家の分家の呼称の事
まずそれを自力で調べてからだね。
正式に磯城家と呼ばれるようになったのは建飯勝からだけどね
途中でアタカタスが御挿入されているから注意が必要だが概ね合ってる
モモソ姫、太田タネコ、八咫烏、クニクル大王、御子の大彦
これが同じ時代で165〜180年代の倭国大乱期になる
登美ナガスネヒコは、純粋な海部王朝の系統で、母系出雲を尊重していて自らそう名乗っていた
最初の東征の磐余彦軍が八咫烏に引き入れられた際に、トミを名乗ることを禁止され、安倍氏に名前を変えた >>715
>どう読んでも、伊都が全国支配を確立したようにしか読めないw
それは個人の印象に過ぎない
単なる個人の読み方と旧家の伝承では次元が違うw >>716
>全ての氏族が一族の者を筑紫に出しているなら、そこが王都ですね。
あの場所そんな広くないだろ
そもそも九州と書いただけなのに筑紫とかバイオスかける当たり、お可哀そうな人としか
自分のスレッドにお帰りなさいw
春日、鹿島、志賀島は鹿でつながる神社で、藤原、中臣、多臣氏の拠点
更には大彦系の拠点でもある。磐井は大彦系だからね
国に見えたかどうかは、大陸の印象に過ぎない。 >>719
記紀の最大のタブーは物部氏が政権を取ってた時期がある事だよ。
物部は、垂仁、景行、成務天皇で終わり。
崇神ことイニエは、諡号をいじられて、任那から来たように改変されている
イニエは東征開始前に死亡している。これは向家、神床家の共通の伝承。
神床家は、ヒボコの家で、二回目の東征の際に出雲を攻撃したタジマノモリを出した家系
磐余彦がニギハヤヒ系の子孫。4人だかが居て、五瀬が現在の熊野本宮大社近くで毒矢に当たって戦死
名草のトベの頭を守ると伝承されるオコベ神社にも当時の伝承が残っていて、サバイバルの小野田さんと言えば有名人で所
戦後にインタビューに答え、本にもなってるよ >>721
旧家の伝承でも、大陸の歴史書は驚くほど正確に時期が書かれているそうです
神武に比定された村雲がBC2くらい
そこから始めないとなーんにも合わないらしいです
旧家の伝承によると、日本に欠史は存在していないそうですよ
景初の頃が開化の後の世代で(この人物部の血が入っています)の息子ヒコイマス、ヒコミチヌシの時代だそうです
かなり近いですね〜 逆に、九州にしか拠点を持ってなかったのが物部氏
それが山幸彦で弟の家系
ヤマトは同じ人物からの腹違いの兄の方の家系
薩摩隼人じゃ兄弟関係にならない。クライマックスの誓約の話にすらならない。
帝紀の編纂者には物部だけ呼ばれていない。記紀成立後に、単独のクジホンギを編纂できたのは手打ちなのだろう。
物部氏ですら記紀の内容に反した事は書けなかった。それが時事に準じたナガスネヒコの書かれ方でも分かる。
ナガスネヒコは二世紀の最初の東征、磐余彦の時代の人で、景初になる前に奈良から居なくなってた
ナガスネヒコは琵琶湖から北陸方面の豪族を紹介されて移動。最終的に長野県で没する。将軍塚古墳がお墓らしい(しかしこれは伝承ではなく、向家が後年に調査したもの)
関東方面にはナガスネヒコの息子が展開していった
彼らは会津で合流したとあるが、実際には合ってない。四代将軍は作り話 アマテラスは元々男神で、奈良には複数のアマテル神社があるけど全部男神
アマテル神社は物部の神社
クジホンギに一人の人物が出てくる
アマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒ。これは一人の人物を差している
こんなことが記紀にかけるわけが無い。大陸から軽く見られるのは必定。
物部が記紀最大のタブーなんですよ
後年に相当に圧迫されたらしく、九州のある神社では**が物部であることは秘すべし、出なければ全山焼き討ちじゃ、という伝承を残している >>722
九州の国生みでは四面全部に『別』の字をつけて半島大陸と別もの
だとはっきり古事記に記述がある。
筑紫國 白日別
豐國 豐日別
肥國 建日向日豐久士比泥別
熊曾國 建日別
日本は大陸半島とは『別』ものの国なのだ。
神国日本は全世界の別格の国である。
黄金の国神国日本と半島の世界第参位の人参民族とは同等ではない。
半島は参位の銅メダル国家であって、黄金の国ジパングの金メダル国家
とは完全に別ものなのだ。それゆえ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。
半島は銅級国家だからあのブスの銅像を各地に設置して銅だと
自認してるのさ。w
金メダル国家がこの神州であるからして、天意は日本に邪馬1国の
世界第1位の国家を置いてるのである。
したがって太古の日本人が半島から来たのではない。こちらの神国日本が半島の
ご本家だ。ご本家だから日本の国号に『本』の字がつくのだ。
半島人は銅、土台人というときは4位以下の上位3名を載せるその下の表彰台。
黄金は天皇で黄銅と黄金とは別の近族。ハーフは天皇にはなれない。
タトーは外国行きの人民。だから五輪でも醜怪なタトーは外国勢ばかり。
外国の『外』はタトーのタとト。
天皇は萬世一系である。そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。 イクメは最終的に、奈良の方の卑弥呼のサホ姫と手を切り、前政権のヒバス姫を娶り政権はとったけど
九州勢から相当な反発(特に宇佐氏)くらい、貢物が少なく、副王的な協力者、加茂氏の方が勢力は上だった
仕方なく、戦闘を仕掛けて体制に組み入れる戦を仕掛けることになった。
これが記紀にも書かれてしまい、親征として記紀に書かれることになる
大王自ら群を率いての戦闘になったため、みっともないとされ、大部分は架空の御子、ヤマトタケルのやったことにして大陸からの目を誤魔化すことになった。
物部大タラシ、物部ワカタラシ彦は結局奈良には戻れず没する。
故に、記紀の間では、宮の位置がそれそれ入れ替わって奈良ではない処に書かれている
神功皇后が三韓征伐を検討した際には、彼女は奈良には居なかった。
最終的に日向水軍を掌握していた武内宿祢の子孫と手を組んだことにより、全国から人が集まり、朝鮮王たちは戦わずして降伏し、税を納めることになったそうだ
成務の妻であった彼女は、朝鮮半島侵攻を持ちかけたがそれが原因で疎遠になり、成務は若くして没する
次に彼女が相談したのはナカツ彦。何と彼は、地方の豪族で大王でも何でもなかった人物
彼にも断られ、最終的に武内ソツ彦が協力者となって征伐は成功した
そして皇后は奈良に凱旋する
武内ソツ彦は長江から葛城に移転。葛城氏になる。これが記紀からは上手く使われ、葛城国を隠ぺいする手段として使われた。
葛城国=海部王朝と、葛城氏は別物である。 大タラシヒコが九州でやったのは、父親のイクメの古墳造り
父親の実家の地域の生目古墳群がそれなのだろうだ。
九州に唯一残る大王陵は生目古墳群という事になる。 武内臣は、海部、出雲、紀氏、物部の全ての血が入った一族で、最初の160年代の東征の際に海部王朝との手打ちで物部の姫が嫁入りした際の子供の家系
開化は初代の武内宿祢の祖父に当たる。
父親はフツオシマコトで、物部のフツが入り、名前に母系継承が見られる。
神功皇后の子供が若くして夭逝した際に、上州の上毛野から竹葉瀬を呼んだのは、崇神ことイニエと九州に卑弥呼、宇佐津姫の子供がトヨ彦(豊鍬入彦)で血を残していたから
物部の男系だから相応しいと考えたのだろう。
しかしそれも継体の代で男系は途切れ、現在の皇室は男系を遡ると出雲の事代主の家系になる
だからゼーンぶ、アマテルクニヒコが誰であったか、バレちゃっても全然問題ないはずなんだけどね。 >>731
訂正
これが記紀にも書かれてしまい、親征として記紀に書かれることになる
↓
これが大陸にも書かれてしまい、親征として記紀に書かれることになる >>673
曽根は大彦系だよ〜
初代の海部系統(大彦系ともいえる)、二代目の八井耳は早くから九州に拠点を形成してた
中曽根地籍は新潟にまで伸張している 奈良の天カゴヤマは、紀氏の祖でもあり、出雲系から大屋姫を貰っているが
別の嫁さんに物部の姫である穂屋姫を貰ってる
奈良は早くから九州と親戚状態でお互いがそれを認識してた
穂屋姫は先祖返りで、実は男系を高めるための政略結婚
腹違いの兄妹で結婚している。そして息子に村雲王が生まれる
これが先に奈良に進出して開拓をしてた磯城登美家と習合して村雲の家系が神武に比定されている
三代に渡り事代主の家系から嫁さんを貰い、海部王朝が圧倒的に出雲の血が濃くなってしまった
男系の血を高めて母系をけん制しようとしたら、姫巫女の人気が高まり、三輪山祭祀を無視できなくなってしまったらしい。
それが160年代の物部一次東征をいったん収束させる原因にもなった そういう経緯からも九州物部は残念ながら後発組で、正に弟の立ち位置になる。 BC三世紀、アマテルクニヒコ何某が、最初に先遣部隊として派遣していたタケヒナドリ事千家の手引きで出雲に上陸する。
その際に、銅鐸に似たクヨウを持ち込み、我が国に新しい合金の技術、青銅器を持ち込んだ
何某は西出雲の大国主、第八代の八千鉾から嫁さん高照姫を貰う(神門臣家の姫)
何某が構造船で大船団でたどり着いた場所は現在でも五十猛海岸と呼ばれ、五十猛神社が存在する
彼は国内では和名を名乗り、ホアカリと言った
しかし、仕掛けた国譲り事件が失敗し、一度帰国する事になる。
子供と奥さんには、丹後に移住するように申し付ける
その後大陸から再度来日した何某は、今度は九州に行き、第六代のオミツヌの次男であるアタカタスの興した宗像家から嫁さん、イチキシマヒメを貰う
これが物部氏になる
記紀で更に都合がよかったのは五十猛。嫁さんの影響で大歳の祭祀に関わり、それがきっかけで和名を名乗ることになった。
それがカゴヤマ
現在でも五十猛神社の近くに大年神社がある筈だよ
カゴヤマは物部から嫁さんを貰い村雲とともに奈良入りする。少なくとも嫁さんを貰うまでは何某は生きていただろう。
そこは、国譲り事件で実家に帰った姫の拠点であった。
事代主の嫁さんの一人摂津の三島家には、クシヒカタが一緒に帰ってきていた。
その家系が村雲に嫁を出し、歴史が紡がれていくことになる
クシヒカタの子孫に八咫烏の加茂氏がある。京都の加茂神社には三島も祀られている
尾張氏や海部は、男系で五十猛やカゴヤマを祀る。つまり、弥彦神社は大彦などの海部系統であり、物部の投影が若干入るイメージの神社
九州説とか、トンデモ説の伊都説の拠り所の五十猛は、残念ながら八井耳とか、海部系統の信仰だよ。
故に、九州物部より以前に、伊都がどうのなど、政治体制的にあり得ない。
単なる海部の親戚だよ、安曇は。山幸彦、弟の家系である物部より古いなどあり得ない 籠神社は、現在でも隠しているけど、母系出雲の大神を祀ってる
先代宮司が出雲大神宮との飲み会でカミングアウトしたらしいエピソードが残っている 東征は、親戚同士のイザコザ
三韓征伐と本質は変わりはない。 >>709
>オカルト板にいいくか、早く氏ね。
ホントそうですよね。
「常根津日子命」の文字を捏造して画像を変更してまで垂れ流しているサイトもありましたよ
普通に博物館の写真を見ると、なーんにも出てない >>727
>神武に比定された村雲がBC2くらい
神武から20世代目の継体天皇がおよそ700年も後の人物?
家系図的におかしい。天皇が何世代も省略されてるの?
古代の天皇が一世代25歳ぐらいの間隔で次期天皇を作った
としたら神武天皇は西暦1世紀の人物だよ。 >>724
全ての氏族の代表が集まっていたところが王都ですよ。
それご伊都なら伊都が王都。 >>743
当時は一代15年くらいでしょ。
それくらいで子供を作ったから。 >>742
じゃあなんで秩父原人とか津軽文献のように大騒ぎしねえのかよ?
偽造なら考古の年代を狂わすインチキなので考古学者や同研究所員らがつつく
はずだが、それがねえのさ。千葉考古班の時だって結構文句が出てたが、それが
ねえのさ。オマエらが本ものだと怖がって腫れ物に触らず当たらず触らずで
ケムにまいてるからろうが。
命は安寧の人物だから金印は57年で、同班の即位結果の 240〜260年ともよく
整合してる。神武の代を卑弥呼にすることが、これこそ捏造だ。
オマエが現物を見て文字の有無のわかる精密機器で測定してから
モノを言え。 すぐ見てあるならもっと早く考古に議論が出てるぜ。
うっすらあるんじゃ見えねえわけだ。神武が卑弥呼の代だというのこそ捏造だ。
見えねえというが、記紀の外国産の伝からの神功39年の記事以外記紀に卑弥呼
の文字が見えねえのさ。どうしてくれるんだい? >>743
神武は1世紀ころの人物で、25年くらいの主張もあってるね。 >>721
>歳長大でBBAとなったの卑弥呼をもらう男はオマエくらいだ。
長大というのは熟女40歳前なら十分だろ。
>57年金印側面の命の名から、
だからいい加減にしてくれ、荒らすなボケ。 >>742
こんなのに簡単に飛びつくやつがいるというのが驚きだね。 >>746
>じゃあなんで秩父原人とか津軽文献のように大騒ぎしねえのかよ?
誰も相手にしてないだけ、アホなのか。 うざい書き込みばかりだが、
奴婢の大量死の場所、それを行った人物について誰も言えてないね。
奴婢の大量死の記事は神武東征紀の土蜘蛛誅殺しかないという事でいい?
他にあればどうぞ。
言えないなら決まりだ。
卑弥呼の墓は高天原(=御所市高天)にある。 >>717
>ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。
おもしろい指摘だね。
八尾は物部の領地。
物部守屋も八尾で死んでるしね。
防人=武人が鉄器の持ち主であったのだろう。 >>749
>長大というのは熟女40歳前なら十分だろ。
魏志倭人伝の頃の卑弥呼は80歳以上だ。 うははは・・・・・
当時40歳で老嬢でもらうのはオマエのような奴だな。ブブブ・・・
ヤハリ卑弥呼独身は動かないな。
だいいち金印側面に名を刻むイカさまをするなら、劉備玄徳とか諸葛孔明とか
張飛とか関羽にするだろう。
それが場違いな「常根津日子命」だとあるということは、イカ様とは考え
にくいし、秩父原人のイカ様捏造の大騒ぎもないし津軽文献のアンポン先生
からの大騒ぎもなく、シーンとしていて騒がねえ。これはひっこみがつかねえ
かえから当たらず触らず傍観してるということだな。
神武は1世紀ころの人物だから、2代後の安寧が金印の57年の史実と符合して
るし、八幡愚童訓の
開化48年=黄龍2年=230年
とも整合してさらに千葉歴博考古班の年代機器測定の
240年〜260年
の結果ともピタリ符合する。
このことは黄龍2年の9年後が伝のいう景初3年になるわけで、これは
崇神の代だったと決まりだ。だから神武の代が卑弥呼の代ではなかったん
だよ。これで九州説の勝ちと決まり。 >>753
物部とはモノノフのことだという説もあるし、物部氏はヤマト王権において祭祀と軍事を司っていた。
その祖である饒速日は筑紫で生まれて、東国に下って王国を建設し、神武らはそれを聞きつけて東征した。 三雲南小路遺跡がニニギと木花佐久夜毘売の王墓であるならば、1世紀はまだ神武より数世代前になる。
神武が2世紀末くらいでちょうど良い。
神武は卑弥呼より少し年上くらいか。 卑弥呼より前の男王70〜80年こそ、記紀にある筑紫の日向の天孫族の三代に合致する。
卑弥呼即位前夜の倭国大乱が神武らが筑紫を逃げ出すきっかけだったのか、彼らが逃げ出したから倭国が乱れたのか。
いずれにしても、饒速日を頼って神武らが東征に出発してしばらくして、2世紀の末に卑弥呼が即位して、半世紀に及ぶ長期政権を実現させたのだろう。 だから逃げだしとらんて。
神武の子供が筑紫日向派と筑紫日本派で後者が勝っとるじゃろ。 >>754
>魏志倭人伝の頃の卑弥呼は80歳以上だ。
時系列が無茶苦茶。
卑弥呼即位189年説があるが、まぁ18歳くらいで即位して、248年に没。
70数歳だろう。
「魏志倭人伝の頃の卑弥呼は80歳以上」って何を言ってるのか意味不明。 >>756
>その祖である饒速日は筑紫で生まれて、東国に下って王国を建設し、神武らはそれを聞きつけて東征した。
ニギハヤヒの奥津城・桜井には北部九州の要素はほとんどない。
あるのは吉備や瀬戸内。 >>757
>神武が2世紀末くらいでちょうど良い。
>神武は卑弥呼より少し年上くらいか。
全く賛成。
用明、雄略、応神、垂仁の20人後、30人後の平均在位からも神武と卑弥呼は同時代。 >>758
>卑弥呼より前の男王70〜80年こそ、記紀にある筑紫の日向の天孫族の三代に合致する。
筑紫は関係がない、高天原の王権。
卑弥呼より前の男王70〜80年というのは帥升ことスサノオだろう。 >>755
>当時40歳で老嬢でもらうのはオマエのような奴だな。ブブブ・・・
チンポも立たないくせに何言ってるんだ糞ジジイ。早く氏ね。 >>764
オマエなんか東京吉原の高級ソープで遊んだことがねえんだろ?wwwww
オメエのほうはチンポどころかインポだろ。ブブブ・・・ 「奴婢の大量死」の場所を言えない。
誰が関わったかも言えない。
それじゃダメだろ。
「奴婢の大量死」の場所は高尾張邑=高天原=奈良県御所市高天。
その事件に関わった人物は神武だ。
纏向でも、筑紫でもどこでもない、高尾張邑=高天原=奈良県御所市高天に卑弥呼の墓はあった。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg 垂仁紀に埴輪生誕の説話がある。
そこには惨たらしい殉葬があったと書かれている。
しかし日本には殉葬はない、考古学的にも全く認められてない。
ではなぜ垂仁の時代まで殉葬があったと書かれているのか。
それは間接的にモモソヒメの箸墓古墳の時代には殉葬がありましたと言いたいがためだ。
日本書紀ではモモソヒメの箸墓古墳に異例の紙幅を割いて、
昼は人が造り、夜は神が造ったなどと書いて、
まるで読み手に魏志倭人伝の卑弥呼墓を連想させるように仕向けている。
卑弥呼を隠すために書かれている日本書紀で、
卑弥呼墓を連想させる記事は、わざと書かれたと勘ぐるべきである。
事実、モモソヒメは卑弥呼ではない、100年は時代が違う。 百襲媛と卑弥呼はほぼ同時代の人物。
千葉歴博考古班の箸墓測定 240年〜260年 だから、景初3年=239年 から
測定結果の始まりのころの年代になってるから、ほぼ同時代の女性。
そのころ卑弥呼は九州におり百襲媛は畿内の女性だったということだ。
これをウラ付けるのが八幡愚童訓
開化48年=黄龍2年=230年
だから、この9年後が 景初3年=239年 で開化の次代の崇神の初期のころと
わかり、卑弥呼も百襲媛もほぼ同時代とわかってくる。 >>769
>百襲媛と卑弥呼はほぼ同時代の人物。
はぁ?
立ったらお前が言う「倍歴」ではないじゃないか。
こいつ真正のアホやわ。
もう消えてくれ、お前がいるとレベルが下がる。 開化の世は2倍暦をしてたのさ。同暦から
八幡愚童訓の 開化48年=230年 とあるんだから 崇神元年=237年=景初元年
になるんだよ。
つまり卑弥呼の活動年代も考古班の箸墓測定結果の 240年=260年 なんだから、
百襲媛と卑弥呼はほぼ同年代だったのさ。
ここから 崇神没年=258年 が正解だと決まる。
両女が同年代なら、百襲媛が畿内、卑弥呼が九州の女だとわかり、もう
決定的だ。どっちみち畿内の女王は推古からでそこに卑弥呼はいない。
これもおかしくない。うんと泣け。w >>771
適当なことを言うな。
おまえなんか早く氏ね。 合ってるものはしようがねえだろうよ。
上から金印の側面の「常根津日子命」が安寧の皇子なんだから、金印57年が安寧
あたりの時代だとなる。すると倍暦計算で童訓の 開化48年=230年 と年代の
間隔に不合理はみられないし、57年が安寧世なら 神武元年=西暦元年(辛酉)
だったとわかってくる。氏ねは論説ではねえ。 全国2位の大きさの誉田御廟山、全国3位の上石津ミサンザイ、この両古墳が5世紀初頭。
誉田御廟山が応神の墓であることは間違いない。
なぜ5世紀初頭かというと、両古墳の陪塚(ばいちょう)から、
五胡十六国時代の鮮卑・北燕宰相の馮素弗(?〜415)と同型の馬具が出ている。
このことから両古墳が5世紀初頭から前半であることは動かせない。
おそらく404年の倭軍の帯方界侵入時期にこれらの馬具を手に入れたのであろう。
応神が5世紀初頭であるという事は、そこから神功皇后を入れて6代前の崇神が、
4世紀前半である事が分かる。
この時点で邪馬台国論争は終わる。
なぜなら4世紀前半の崇神の数十年前の臺與(台与、とよ)は4代懿徳皇后・トヨ津媛しかいないからだ。
そしてその住処は葛城(=奈良県御所市)である事が分かる。
邪馬台国論争は葛城で決着である。 そんな所で決着なんかないな。
葛城なら、何で記紀の卑弥呼の記述がないのか?
それは倭人伝の外国産の卑弥呼の記事は紀にあるが、畿内産の卑弥呼の記事
なんか紀にはない。これは紀の元となった畿内の多数の書に卑弥呼の情報が
ないからだよ。ということは卑弥呼が畿内より遠方でしかも伝に情報が行くべき
大陸に近い地に卑弥呼とその女王国があったということだ。そこは九州だとなる。
ところが紀に卑弥呼を隠匿したとかいうが、これはウソで、伝の記事からの
神功39年に卑弥呼のことを公開してるから隠匿だというのはウソだね。 >葛城なら、何で記紀の卑弥呼の記述がないのか?
あるよ、気づかないだけ。
気づかないのは真の卑弥呼を隠したから。
だから干支を2運繰上手まで神功皇后を卑弥呼の時代に当てたのさ。 >>776
紀の編集者らは神功39年に卑弥呼を公開してるのさ。
君の言い分じゃあ、彼らは卑弥呼を「頭隠して尻隠さず」だ。p
そんな彼らは間抜けではねえ。隠すんなら完全にこの記述ももみ消してるぜ。
当てたのは畿内では倍暦を行使していて、それを彼らはわからんかったから
通常の暦計算で神功にあてたのだ。倍暦計算から卑弥呼は神功の代ではなく、
崇神の代あたりの女性だったのだよ。 >神功39年に卑弥呼のことを公開してるから隠匿だというのはウソだね
ならば卑弥呼は神功皇后という事か?
お前は上の方で卑弥呼はモモソヒメと同じ時代と言ってるだろうが。
神功皇后とモモソヒメは全然時代が違う。
時代が違う人を卑弥呼にしてることが隠匿だろうが。
おまえ、アホすぎ、もう消えろ。
邪魔、早く氏ね。 >>778
それは紀の編者らが神功皇后かと思って同39年に記述してたわけだ。
その彼らの考えは間違いなわけで、卑弥呼が三韓征伐なんかしてねえだろと
いうことだよ。だから卑弥呼は神功ではない。
卑弥呼は百襲媛とほぼ同時代だから、神功のもっと前の時代であって神功は
卑弥呼ではねえよ。
編集者らは時代を間違えただけで、伝の卑弥呼情報を時代を誤って神功に
公開したわけだ。隠匿ならこんな記事を入れる訳がねえし、完全にもみ消す。
オマエのは「頭隠して尻隠さず」を隠匿にしてオマエの脳内がおかしいのに
オマエが気づかねえわけさ。w
オマエがこの支離隠さずを公開だなと感づけば、オマエの脳は正常なわけだ。
つまりそれを気づかねえオマエの脳内は、支離滅裂だから、早くその小豆脳内
を点検してオマエ自身の盲象に気づくんだな。 >>746
福岡市博物館の金印見た?
あんな文字何処にもないけど?www
流石にアレは朝鮮人並みの捏造だわww
>オマエが現物を見て文字の有無のわかる精密機器で測定してから
モノを言え。
プっww
http://museum.city.fukuoka.jp/gold/
だいたい、大陸から下賜されたものに「命」なんて書くわけがねぇだろwww >>743
まずは、出雲王朝第八代のスクナ彦=事代主の八重波津身だが、奥さんが二人いた。
片方が古志の奴奈川姫。タテミナカタのお母さんね
もう一人が玉櫛姫=ヤセダタラヒメ=ミシマミソグイヒメ(三島溝咋姫)
ミソグイの意味は、溝は農業用水の水路を意味し、その溝を支えるのが咋=杭であったことによる
八咫烏は母系尊重で二つ名を持っている。それは出雲と三島家。三島溝咋耳とも言うよね。
摂津の三島家は安威 (あい)川の水利(=溝)を管理していたと言われるように奈良の土地開発に関わってきた一族
これは出雲伝承は無関係なのですが、奈良の一番古い水稲遺跡は何処だと思いますか?
御所にある中西遺跡です。古い物だと2400〜2500年前からの遺跡になります。
10万平方メートル超とも言われる全国大規模の水稲遺跡です。
前二世紀には新たな移民者が、手つかずだった奈良湖を開拓したとされる伝承の下地は既にできていました。
BC3世紀の国譲り事件から、ホアカリの孫の神武だと、ずいぶん長生きになりますよね。 >>744
ナイナイ。水銀の産出量も少なく、分家が集まったところでそっちが首都になるなどあり得ない
そもそもが八井耳の一族は神武から見れば分家だからね。
九州の水銀朱は輸入が主だった時代があるから明らかに中心ではない。
瀬戸内海が混合。奈良は大和鉱床持ってたからほぼ古墳には国産が使われてた
そもそもが、青銅器に使われる鉛と鈴は国産が無かったから、近畿で、それも九州で殆ど出てこない銅鐸の国産の青銅器が作れた事自体が注目すべき点
銅剣は銅鐸の後
出雲ですら途中からヤマトから手に入れてたのが銅鐸。 >>753
和歌山から最初に奈良入りした物部氏、磐余彦は、最初に和邇に向かったはずだよ。
だからあの近くに石上神宮がある 事代主の息子であるクシヒカタは天日方奇日方と書かれる。
天の奇しき力を持つ日(太陽)を祭る人、という意味。
妹のタタラ五十鈴姫は三輪山の太陽神を祀る最初の女司祭者、姫巫女ヒメミコとなった。
現在では三輪山の穴場だけど、三輪山の西北に出雲屋敷と呼ばれる斎宮を建てた。
タタラ五十鈴姫は葛城の人々から、三輪山の女神のように崇められたそうな。初代卑弥呼。
三輪山の祭祀も出雲王国と同じく代々の王の后が司祭者となり、その姫巫女の人気が王国を牽引する力となっていく。
宗教と政治が一体となったマツリゴト。いわゆる「ヒメ・ヒコ」制であり、政治家のヒコよりも司祭者のヒメのほうが尊敬されたようだ。
女系文化と男系文化はそうそう都合よくは変わらなかったという事ですわ 因みに時系列的にこれ
神武朝@村雲(神武)A沼川耳(綏靖)B玉手看(安寧)因みに八井耳は玉手看の弟C懿徳D孝昭E孝安(クニオシヒト:朝貢で塩対応くらう)F孝霊(吉備国王)G孝元(クニクル)第一次物部東征:皇子に大彦:八咫烏の時代:180年代H開化(母系に物部が入った方の血筋) Iヒコイマス(神武朝最後の大王。記紀では消されている。子供にヒコミチヌシ、サホ姫、サホ彦:邪馬台国事件)
磯城家@天クシヒカタA健飯勝(磯城家)B健瓮槌(タケミカヅチは磯城家三代目。ここで八井耳の母系がミカヅチであることが分かる)C豊御気主D大神饌主E大神饌持F建津乃身(八咫烏:165〜180年代)G建魂依彦(その子供に太田太根彦)邪馬台国事件の際には大田太根子は居ない
海部家@村雲A天御蔭(沼川耳の弟の家系が海部家。つまり八井耳系の多臣家より格上)B笠水彦C笠津彦D建田瀬E建諸隅F大和得玉G意富那比H小縫I小登与
安曇は海部のどこから分家したのかは不明 因みに、物部氏がまとめたクジホンギには磯城家にアタカタスが誤挿入されてる。
アタカタスの娘が宗像三女神。絶対に物部氏が間違えるはずがない。何かの意味があってわざと挿入している。 大彦は神武朝
記紀の演出は、神武側の大彦が物部(記紀では磐余彦神武に偽装された)にやられた事を万世一系で一つにつなげられたこと 神武朝Fで第一次物部東征開始165年頃。孝霊天皇は親戚である出雲を攻撃。磯城家Fの加茂氏は和歌山から物部氏を引き入れ、孝霊を奈良から追い出す。
孝霊は吉備のいち地方の大王になり下がる
親戚筋のG孝元が政権を取るが、磯城家FGの代の卑弥呼、モモソ姫が三輪山祭祀に物部の祭祀を合わせることで手打ちにする。
三輪山祭祀に初の銅鏡祭祀が加わる。故に出雲屋敷から銅鏡が出土している。
Gの第で神武朝に物部の姫が入り、次の代の開化が母系物部の血筋の大王になる
物部嫌いの大彦はここで退場。阿武山の名を取り、安倍氏と名を変えて琵琶湖方面に撤退
神武の年代はEのクニオシヒトから逆算するのが良いのではなかろうか。大陸の史書に載ってるしね 旧家の伝承では、九州物部と連合した宇佐の卑弥呼が、自分らの国をヤマトと偽装したと書いた。
記紀では「まんまそのままが書かれている」
それが神武朝が物部にやられているのに、東征して攻め込んだ方を神武と書いている点だ。
これなら大陸を胡麻化せるわなw 因みに、朝貢した初代武内宿祢はHの孫だから、ちょうど邪馬台国事件の時代の人になる。
武内宿祢は、結局イクメに暗殺されそうになって、出雲に匿われる。
故に、景初の年号の入った銅鏡が出雲から出土する事になった。
武内宿祢が作った三角縁神獣鏡は初期の物が10面作られたそうだ。
景初三年の鏡は10枚存在する可能性がある 物部氏だけは系図が歯抜けになっていて全く分からない。イクメから逆算してもどうしても代が足りない。
宇佐氏あたりなら知ってるかもしれないが、記紀のタブーである物部氏の系譜が明らかになるのにはまだ時間がかかると思う。
(マイナス@)彦ホホデミ@〜不明〜F彦渚武G彦五瀬とウマシマデH物部十千根・物部イニエI物部イクメ(垂仁)・物部朝倉
物部氏はどれが本家筋なのかも実際には不明
物部守屋は十千根入彦の家系で、現在でも出雲の神魂神社の秋上氏が直系の子孫。クジホンギを見る限り、十千根は本家筋ではない。 >>779
>それは紀の編者らが神功皇后かと思って同39年に記述してたわけだ。
その彼らの考えは間違いなわけで、卑弥呼が三韓征伐なんかしてねえだろと
いうことだよ。だから卑弥呼は神功ではない。
干支を2運120年ずらし、100歳にしてる人物を卑弥呼だと思うわけがないだろ。
卑弥呼が誰なのか、とっくに分かっており、
大変都合が悪いから、神功皇后を120年ずらしてまで卑弥呼の時代に当てたのだ。
おまえ頭悪すぎ。
とにかく金印に文字があるなど信じてる奴はオカルト板にいけ、目障りだし邪魔。 >>780
見えねえからいままで発覚しなかったんだろ。
見えればなにも高価なハイテク測定機器なんか必要ねえ。
目に見えないというオマエのだらしねえ両眼が文字が存在しないという判断
をしたとしても、ハイテク機器はに逃さねえ。ww
記紀に命の字があるんだし徐福も日本に来て漢字を広めてたとなると、朝廷と
大陸とは遣使の行き来で「命」の字使用くらい知ってておかしくねえ。金印の
表面自体が漢字なんだから英文だったらこれはおかしいが、漢字なら当たり前。
もっと古代の須佐之男命にもこの字がついてるし多用だし、あって当然だ。
だいいちこれが捏造文字ならば、劉備玄徳とか張飛とか関羽とか
にしてるだろうが。ところがあまり倭奴国王と関係のなさそうな「常根津日子命」
があったとなれと、この名は中国人ではないし、捏造するならもっと諸葛亮
とかにしたほうがイカ様に見えないはずだ。
それに秩父原人や津軽文献などのような捏造攻撃を考古紀学者や研究員が
シーンとしててつつかない。字が出ればこいつらの盲象がばれるて引っこみ
がつかねえしな。ww
つまり卑弥呼は神武の代でないということが57年金印から判明したと
なるから、当たらず触らずにいるわけだ。pp 三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>792
オマエが泥棒なら、ケーサツが捕まえるのに手間くわねえな。bububu
間抜けなドロはこれで足がつくゼ。
オマエはオマエの小豆脳がいかれてるのさ。ウハハハ・・・ 九州の国生みでは四面全部に『別』の字をつけて半島大陸と別もの
だとはっきり古事記に記述がある。
筑紫國 白日別
豐國 豐日別
肥國 建日向日豐久士比泥別
熊曾國 建日別
日本は大陸半島とは『別』ものの国なのだ。
神国日本は全世界の別格の国である。
黄金の国神国日本と半島の世界第参位の人参民族とは同等ではない。
半島は参位の銅メダル国家であって、黄金の国ジパングの金メダル国家
とは完全に別ものなのだ。それゆえ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。
半島は銅級国家だからあのブスの銅像を各地に設置して銅だと
自認してるのさ。w
金メダル国家がこの神州であるからして、天意は日本に邪馬1国の
世界第1位の国家を置いてるのである。
したがって太古の日本人が半島から来たのではない。こちらの神国日本が半島の
ご本家だ。ご本家だから日本の国号に『本』の字がつくのだ。
半島人は銅、土台人というときは4位以下の上位3名を載せるその下の表彰台。
黄金は天皇で黄銅と黄金とは別の近族。ハーフは天皇にはなれない。
タトーは外国行きの人民。だから五輪でも醜怪なタトーは外国勢ばかり。
外国の『外』はタトーのタとト。
天皇は萬世一系である。そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。 >100歳にしてる人物を卑弥呼だと思うわけがないだろ
伝で歳は長大とあれば百歳くらいかと編者らがら思っておかしくなかろう。
だって武内大臣なんか3百歳近い年齢で記に載ってるわけだし、オマエ全然
紀のこういう所を読んでねえのか?
卑弥呼は歳が長大となれば、神功かなあと編者ら思うぜ。
こちらだって研究し始めたときはそう思ったんだから、彼らだって
そう考えてやむをえない。 >>793
>目に見えないというオマエのだらしねえ両眼が文字が存在しないという判断
をしたとしても、ハイテク機器はに逃さねえ。ww
うん。ただのバカだったんだね。www >>793
>見えねえからいままで発覚しなかったんだろ。
>見えればなにも高価なハイテク測定機器なんか必要ねえ。
なんという高価なハイテク機器なのかメーカーは?w
あれは画像処理。
パソコンがまだまだ古かった時代のね。
熊本の装飾古墳に天照大御神の名前が見れた云々で普通の人間は「おかしい」と気づく。
どちらにしても早くオカルト板に行け、迷惑にも程がある。 >>797
>こちらだって研究し始めたときはそう思ったんだから、彼らだって
>そう考えてやむをえない。
7世紀の記紀編纂時の優秀な文官と、金印に文字があるというアホのお前を一緒にするな。 >>761
>ニギハヤヒの奥津城・桜井には北部九州の要素はほとんどない。
記紀や先代旧事本紀に文句を言え。 >>782
>ナイナイ。水銀の産出量も少なく、分家が集まったところでそっちが首都になるなどあり得ない
平原遺跡を見る限り、輸入品の水銀朱の方が珍重されていたようだ。
玉なども、ほとんどが輸入品だしね。
>>782
>そもそもが八井耳の一族は神武から見れば分家だからね。
神武は末弟なので、神武の方が分家。
>>782
>そもそもが、青銅器に使われる鉛と鈴は国産が無かったから、近畿で、それも九州で殆ど出てこない銅鐸の国産の青銅器が作れた事自体が注目すべき点
平原遺跡の八咫の鏡は国産だから、問題ない。 神功皇后が卑弥呼であったとするのなら面白いことになるよなw
大陸で政変が起きて、朝鮮半島が属国化
帯方郡を通じた朝貢が可能になった直後が卑弥呼
その卑弥呼が三韓征伐したら話が台無しになるだろwww
汝も国内で大変な時に我に挨拶に来た汝は健気である。我に孝順を尽せ。戦闘にはバックアップを使用。黄色の我が国の8本の旗を汝らに託す。
必ずや勝利してみせよ
そういう流れで東征が始まってるのに、三韓征伐やったら魏様は激オコプンプンだろw
恩を仇で返す様なものだ >>783
最初に筑紫から大和に入った物部氏の祖である饒速日は、大阪湾に上陸して交野に降臨した。 >>804
お前自分のスレに帰れよww
ハイテクや、阿波と同じレベルの人間だろw
村雲が末子だなんて話は一切確認されていない
末子相続は、基本は出雲の文化
磯城家、海部家、尾張(神武)の代数で、九州に大王陵作るほど暇な奴は居ない
生目古墳群以外にナーンにもないのが九州
それと、人間の言葉を喋れ
合金に使われる錫は全量輸入
それに対する返答が「国産だから問題ない」ってバカなの?ww
国産出来てないとは一言も言ってない。
材料が絶対に手に入らないものがあったという説明をしただけ
お前も目からビームが出せる様だな。何か文字でも浮かび上がって見えるのか?w >>806
ニギハヤヒはヤマト入りしていない
宗方家から市杵島姫、弁天様を貰って物部の祖になっただけ
山幸彦は九州発祥
そもそもが腹違いの兄弟のイソタケルと彦ホホデミだが、その時点で義理の兄に妹の姫を嫁にやってるだろww >>803
>>ニギハヤヒの奥津城・桜井には北部九州の要素はほとんどない。
>記紀や先代旧事本紀に文句を言え。
いや文句を言うのはお前だろ。
だいたい北部九州と神武は関係がない、関係があるのは宮崎。 >>802
太国ほどウザいコテはいない。
しつこい、馬鹿、偏屈、性格が糞、
4拍子揃ってる。 ある複数の旧家が揃って言うのが、徐福時代に相当する吉野ヶ里遺跡
あそこにニギハヤヒが居たと
昔は出自を隠す必要が無かった為、筑紫の国は、築秦国と呼んでいたと。
吉野ヶ里から大規模な墓が出るかもしれないと言ってる。 水銀の話は記紀には本当に多いから、その側面からの話ってあまりされていない。
息長垂姫(神功皇后)の三韓遠征の際に爾保都ニホツ姫が現れ、「私をよく祀れば赤土の威力で平定できるだろう」と言って赤土をお出しになり、武器や船などに塗ったところ無事帰還でき、皇后はニホツ姫を紀伊国管川藤代の峯に祀ったと記されている。
ところが実際に紀伊に祀られているのは丹生都ニウツ姫であることから、ニホツ姫とニウツ姫は同神であるということになった。
本来、ニホとニウは違うものなんだけどね。
また播磨国風土記はニホツ姫を「国を堅めし大神の子」と説明しており、これを後代にイザナギ・イザナミの子と解釈したため、天照大神の妹神である稚日女ワカヒルメノ尊と同神だと説明されることがある。しかし「尊」は天孫族を、「命」は国津神を示すことから同一神とすることは無理がある。
播磨国風土記の話のままに受け取れば、神功皇后の時代にはニホツ姫だったのが、紀伊に祀った際にニウツ姫に変わったことになる事は確か。なぜ神名を変える必要があったのか?
大陸から水銀の新しい製錬方が伝わったと言うことでニホからニウになったという説になっていくのが最近の研究家の流れ
神社のお水取りは、水銀鉱石を熱して気化して冷まし、水銀を集める様子が神事になったと言う説もあるのだ 水銀といえば丹生氏
丹生氏
丹生氏の出自についてある研究家は、丹生神社の家系図を信用しない立場をとっている。
一方蒲池明弘氏は、丹生都比売神社の元宮司である丹生廣良氏の著作「丹生神社と丹生氏の研究」に示されたルーツを取り上げてている。
それによると、丹生氏の祖先は伊都国の王族であり、その後主流は畿内へ東遷して紀伊の丹生氏となり、九州に残った一派が大分県の丹生郷(豊後国風土記の)に進出したという。
ただし根拠は不明で、一族の伝承でもあるのかどうかまでは私も調査不足。
伊都国といえば平原遺跡の王墓から国内最大の銅鏡が5枚も出土、また施朱もみられる。平原以外の墳墓でも施朱や朱の入った壺が出土。紀伊には伊都郡がある。この話に添うとすれば、丹生氏が紀伊にやって来たのは物部東征の時。2世紀後半か3世紀後半になる。
魏書には卑弥呼が鉛丹を献上したかの様な記述があるが、実は鉛丹はこの時代に全く出土していない。おそらくは大陸側の誤記とと思われる。
この頃、大陸には鉛丹があり、我が国にはなかった時代。
伊都に地方の王クラスが居たとされる話は丹生氏くらいで、それも渡来系
安曇がどうのなど、確たるものは何にもない
そもそもが、倭人伝の際の伊都国長官は物部らしいニギ、それと海部系を思わせるビビ(耳)くらいしか出ていない
安曇はない
あの狭い地域で日本の中心などあり得ない。狭過ぎw それと、倭国大乱期の初端を開いたのがヒボコ族。
物部氏と結んで葛城国を挟み撃ちにしようと言う話になったが、物部氏に騙され単独での戦闘になってしまった。
播磨に侵攻したヒボコは結局葛城国のフトニ(孝霊)と、尾張氏にボコボコにされ、一部は淡路島に、一部伊都に逃げ込んだとされる。
実は鉄器の製造に関してはきちんと考古学的な編年が分かってきており、何とヤマトが一番鉄器の普及が遅れていた事が分かっている
沼地の水田開発に鉄の刃先農具がなくとも開拓ができたからとも考えられ、実際に奈良湖のほとりであったとされる巻向遺跡からは木製農具しか出てこない
倭国大乱期の初めまではヒボコの丹後が最盛期を迎え、邪馬台国時代では九州を超える産出量が導き出されている。
いずれにせよ、ヒボコが伊都に逃げ込んだ2世紀以降に九州の鉄器が急激に増え、破鏡の出土と同じように生産量が東征している。
伝承を裏付けるかのように、淡路島のゴッサカイト遺跡には邪馬台国時代より古い2世紀の大規模な鉄遺跡が発見されている
丹生氏やヒボコの朝鮮半島産磁鉄鉱の輸入など、伊都には確かに歴史はあるが、どう考えてもその中心が安曇であるとは考えられないのである。
東征の際にも記紀には切れていない泡沫の一族という判断しか出来ない
そもそもが、金印の事すら記紀はガン無視だからね その金印には「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれていた。
刻まれている字は「委」であり、「倭」ではないが、委は倭の人偏を省略することがあり、この場合は「委=倭」である。
このように偏や旁を省略することを減筆という。
しかし、伊都チョンのように、「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」と訓じて委奴を「伊都国」にあてる説を推す意見がないわけでもないが、安曇なら、家系図的に畿内より先になることはないと言う矛盾を抱え込むことになる
現在では魏書に書かれている内容は伊都国の出先機関で役人が派遣されるところと言う解釈が一般的である >>809
いえ、旧家の伝承では、ホアカリとニギハヤヒが同一人物であり、天カゴヤマの嫁さんが物部の彦ホホデミの妹を貰うので、バッチリ親戚で関係ありのスタンスであります
イソタケル(カゴヤマ)と彦ホホデミは、異母兄弟
腹違いの妹であるホヤ姫とカゴヤマが村雲を産んだと言う話であります故 >>800
記紀に日本産の記紀の原書からの卑弥呼の名前が見れない云々で普通の人間は
「おかしい」と気づく。
どちらにしても紀無い説は早くオカルト板に行け、迷惑にも程がある。 >801
>記紀に外国産のしか卑弥呼の記事がなく日本産の原書からの記紀の卑弥呼の文がない。
7世紀の記紀編纂時の優秀な文官と、記紀にこの卑弥呼の文字がないとなるアホのお前
を一緒にするな。 >>805
なんで?
韓人なんて帯方郡太守の弓遵を反乱して殺すぐらいの敵勢力だぞ
幾ら征伐しても魏が怒るわけないじゃん >>818
>記紀に日本産の記紀の原書からの卑弥呼の名前が見れない云々で普通の人間は
「おかしい」と気づく。
記紀に卑弥呼なんて出てくるわけないだろボケ。
>迷惑にも程がある。
このスレは俺が立てたんだ、偉そうに。
お前が出て行け。 >>822
伝の外国産のしかねえんだよ。
純日本産の記事は記紀に無い。
これがどういう意味を持つか、オマエの豆脳が死ぬまで考えて当然だな。
外国産のから記紀に卑弥呼は公開されていて、隠匿は大うそだ。
イカ様説は神国日本に不要だ。
即刻オメエはちゃんころ国に消えろ。 卑弥呼という呼称に中国側は「卑」なんて夷字を使ってるが、実際には何と呼ばれたか。
ピンインで解いても意味がないと言われるかも知れないが、
さほど発音が変わってないのなら、何かヒントがあるはず。
ピンインでは卑弥呼は(Bei mei hu)。
この発音に近いのは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉。
つまり卑弥呼とはヒメ后であったのだろう。
ならば一人しかいない。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津媛 E孝安 D孝昭
トヨ津媛 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 女王は皇后でねえ。
おまけに夫帯でもなく年長大だ。
だから夫帯のわけがねえ。40歳の老嬢を欲する変態らしき野郎がここにいるらしい。
しかも年代が神武の代に卑弥呼がいるわけもねえのは、童訓と千葉考古班の
年代測定ではっきりしている。
しかもチュルドレン(中流土連)の中国のいる土俵に華を持たせるから中華
といって、カッコ内に中の字があるわけだ。まあ子供に白鵬が故意にたおれて
子供に華をもた演出なわけで、東天皇が西皇帝より上位だし、義経に中国は
全領土をとられて土下座同然だった。w
それ故に神国日本は萬邦無比を誇るのだ。 >女王は皇后でねえ。
そりゃそうさ、生きていたころには皇后なんて役職はないので皇后ではないよ。
7世紀以降に皇后と呼ばれる。
>おまけに夫帯でもなく
その通りだ、夫はいない。
>年長大だ。
その通りだ、年長大だ。
卑弥呼=ヒメ(踏鞴五十鈴)后への反論になってない、ワロタwww 一応、旧家の伝承によれば、三輪山の卑弥呼職は、磯城登美家か、磯城登美家から嫁入りした大王のお嫁さんはなれたらしいから、必ずしも独身とは限らんらしい
実際に3代目までの奥さんはクシヒカタの妹や姪になってたしね
未亡人だったこともあるだろうし、大陸から見て夫は居ないとされていても実情は分からない なってるぜ。畿内で女王は推古からだ。
いっとくが英女王はお后ではねえ。
オマエが40歳の老嬢好きなわけだ。ppppppp >>829
>いっとくが英女王はお后ではねえ
1800年前の日本にも女王がいた。
7世紀の朝廷はそれが誰なのかわかっていた。
しかし誰なのかを日本書紀に書くことができない。
その女王の100年前にいる土下座王・帥升が誰なのか分かってしまうからだ。
だから女王より先に亡くなった婿の英雄譚を強調、その婿を新称号「天皇」にして女王を皇后にした。
そしてその初代天皇の時代を紀元前7世紀に設定した。
だから後続の天皇も100歳を超える馬鹿な年齢になった。
これ以外に古代天皇が100歳を超える解釈は成り立たない。 2000年前だから、BC2世紀まであともう一息だね〜 >>830
成り立つからおもしれえ。
当時は2倍暦等を行使してたんだから、今の半年が1年に相当だから
不合理はない。つまり紀の記述は年齢長大にみえて一見ウソに見えるが、
実はウソでなかのたのさ。バカな年齢ではねえ。いまの半年が当時の1年とかさ。
世界で倍暦行使はけっこうやってたのさ。日本も例外ではねえ。
中国人工作員よ
土下座は土俵の子供のオマエ達のほうだぜ。
白鵬が子供たちに華をもたせたようにな。w
チュルドレン(中流土連)で土下座の「土」の字がついてるわけだ。
東の天皇のほうが西皇帝より格上だ。
五惑星の国旗の中国を従えるのが旭日旗の太陽の旗だ。天文学でも太陽が5惑星
を従属させるのだ。その逆はない。
帥升は朝廷の人物でなく九州の将軍あたりだ。
それに須佐之男命ではない。読み方もにてねえし一致しない。外れさ。
オマエが老嬢好きの野郎か?ウハハハ・・・ 中国人はそういう好みか?ww >>808
>ニギハヤヒはヤマト入りしていない
大和で神武と会談しているけど? >>809
>だいたい北部九州と神武は関係がない、関係があるのは宮崎。
神武が出発した筑紫の日向は、イザナギがいた筑紫の日向だろ。
筑紫の日向の小戸は、現在の福岡市西区小戸。
弥生時代に最も栄えていた福岡が倭国の王都だよ。
宮崎県には福岡県に匹敵するほどの遺跡はない。 三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 九州の国生みでは四面全部に『別』の字をつけて半島大陸と別もの
だとはっきり古事記に記述がある。
筑紫國 白日別
豐國 豐日別
肥國 建日向日豐久士比泥別
熊曾國 建日別
日本は大陸半島とは『別』ものの国なのだ。
神国日本は全世界の別格の国である。
黄金の国神国日本と半島の世界第参位の人参民族とは同等ではない。
半島は参位の銅メダル国家であって、黄金の国ジパングの金メダル国家
とは完全に別ものなのだ。それゆえ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。
半島は銅級国家だからあのブスの銅像を各地に設置して銅だと
自認してるのさ。w
金メダル国家がこの神州であるからして、天意は日本に邪馬1国の
世界第1位の国家を置いてるのである。
したがって太古の日本人が半島から来たのではない。こちらの神国日本が半島の
ご本家だ。ご本家だから日本の国号に『本』の字がつくのだ。
半島人は銅、土台人というときは4位以下の上位3名を載せるその下の表彰台。
黄金は天皇で黄銅と黄金とは別の近族。ハーフは天皇にはなれない。
タトーは外国行きの人民。だから五輪でも醜怪なタトーは外国勢ばかり。
外国の『外』はタトーのタとト。
天皇は萬世一系である。そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U >>835
どの神武の事を言ってるのか不明だけど最初の磐余彦の東征は卑弥呼を伴っておらず、薩摩半島経由で隼人族を仲間に引き入れたあと、四国南ルートで紀伊半島
そこで名草に追い払われて和歌山から入ってる
ルートは記紀の通り、地名を豪族名に変えて書いてある
最後のクジラは奈良の御所のクジラ地籍の事だよ
160年代の話
2回目の東征の話は景初
西都原に東征軍は集結した。その頃は都万国 系図上の神武は村雲王。彼は東征していない。やられちゃった方の神武
東征した神武は2人。五瀬の兄弟(四男らしい)
と、崇神てことになってるけど実際は垂仁のイクメがヤマト入ている 835
福岡には神武の先妻アヒラツ媛の痕跡がない。
あるのは宮崎県日南市。
当地の油津港の語源はアヒラツ。
そしてタギシミミを祀る神社まである。
したがって神武の出立地は宮崎。 >>841
出雲伝承ですと、日向からの東征を計画したのは崇神こと、物部イニエ王と、豊国の宇佐豊玉姫。
イニエには先妻がおり、アタツ姫(記紀では木花咲耶姫)
イクメはアタツ姫との子供で、トヨ姫、豊彦は、豊玉姫との間の子供だそうです
当時の西都原は方々から人が集まっており人口は数万になっていたそうです
葛城国が再び分裂し、開化天皇系の息子、フツオシマコトと、孫の武内宿禰が西軍側についたことにより、戦乱を収める大義名分を得た彼らは、魏から8本の黄色の属国旗を貰い、宇佐八幡に納めます。
ホムタ大王はその頃祀られていませんので、つまり八幡は8本の旗を示しています
黄色の旗に、鏡を吊り下げて進軍を開始したそう
張政は後からついてきたらしいので、安芸国で無くなった豊玉姫の仮埋葬の墓は出来上がった後に見ている様ですね >>841
アヒラツヒメは『日本書紀』によれば、日向国吾田邑の人であるとされるので、アタツ姫と同じではないですかね
記紀は圧縮した時代の人物総監もうまく重曹させていると思います 東奈良遺跡は実に興味深い
前2世紀からの拠点で銅鐸の鋳型も出ており、阿波の銅鐸もここから出ているそうである
出雲伝承通りの紀元前二世紀で近畿で足りないは古代製鉄遺跡のみとなっている
あともう200年遡れれば 日本書紀のニニギからウガヤフキアエズ、五瀬までは物部の家系
その後ろの神武の家族関係が元から奈良に存在した村雲神武の家系
昔の物部の家系に耳は入らない
村雲と出雲母系尊重の名前だから
日向神話の家系図は面白いよ。
豊玉姫の夫にイニエを当てはめる
豊玉姫の方に市杵島姫を当てはめてみる
それぞれの結末が、彦ナギサタケと、ウガヤフキアエズ
アマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒはと同じで、確かウガヤフキアエズもナギサタケと合体した名前が出てるものありませんでしたっけ >>846
実際にはイニエと豊玉姫の子供は男子が豊彦
さて、彦ナギサタケとはいったい何者なのかw おそらくだけど、上家野の一族が宇佐系物部氏の本家筋、物部の男系を伝える家系と言うことになる
応神の本物の家系が男系物部の本家になると言うことになるのだろう。
継体天皇は、曽我氏に養子入りしていた事代主家出身の人物
現在の蘇我系皇室の男系は事代主に遡る 旧家の伝承では女系アタツ姫系の物部氏は、系譜で言えば成務天皇で終わり
側室の子が居れば本家は続いているかもしれないが、それなら神功皇后が上毛野の竹葉瀬を呼び寄せる訳がない ヒボコの家系の神床家と出雲の向家の共通の伝承だと、6歳の時に皇后の子供が亡くなり、同じ歳の上毛野を呼んだとされる
景行天皇の御子が他にいればまだ名前を変えた物部氏が存続しているのかもしれない >>815
>現在では魏書に書かれている内容は伊都国の出先機関で役人が派遣されるところと言う解釈が一般的である
「一般的である」
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
「不自然ではない」
などのキナイコシが頻用する主観的な表現は、彼が根拠のないことを言い張る時に使うものだ。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説や個人的な主義主張を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。 >>851
自分のスレッドに帰れよ
何の役立つ情報もないくせに出張して来んなや
@阿波と同程度では話にならない そういや伊都クズもテンプレで「見なして良い」とか抜かしてたな はい一般論
http://www.eonet.ne.jp/~temb/10/ito/ito.htm はいここでも出先機関
https://books.google.co.jp/books?id=jYqdlv_8RYMC&pg=PT90&lpg=PT90&dq=伊都+出先機関&source=bl&ots=pfVra6AXUi&sig=ACfU3U2kxdW2Y-73Fgl_ykd3uroo6Qa9gQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjyjNqx9O7zAhUUxpQKHbuMDYwQ6AF6BAgzEAI#v=onepage&q=伊都%20出先機関&f=false ほれほれ
https://books.google.co.jp/books?id=bfult15NYREC&pg=PA127&lpg=PA127&dq=伊都+出先機関&source=bl&ots=4RQuh9bQ5A&sig=ACfU3U1qc0HI3c5kl71wr70Un2eEmeHWIg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjyjNqx9O7zAhUUxpQKHbuMDYwQ6AF6BAgQEAI#v=onepage&q&f=false あの@阿波ですら出先機関と言ってるのだからレベルが知れると言うものだ さらにヒボコ関連では
『筑前国風土記』逸文では筑紫に行幸した天皇を出迎えて奉ったため、勤し(伊蘇志[いそし])と讃えられた。それがなまって伊覩(いと)になったと伝える。また、五十跡手が「高麗の意呂山(おろのやま)に天より下った日拝(≠天日鉾命)の苗裔である」と天皇に奏上したとある。 さらにコトバンク
https://kotobank.jp/word/伊都国-31720
そもそもが神功皇后や景初以前から伊都は存在する
貿易の中継点であり、窓口であり、本土防衛上の防波堤であった
他国の役人はそこで留め置かれ、大王クラスの親戚などが長官を務めた
これは後の太宰府と同じやり方
邪馬台国時代より前から、少なくとも前一世紀の遺跡から二つ目の硯が出ているので、出雲、奈良村雲の海部、九州物部しか候補はない
村雲と九州物部は親戚だから伊都国長官にニギ、の様な物部の名前が出ても不思議ではない 太宰府は簡単に言えば日本の中の日本府
そこに首都がある様に見せかける構造
伊都も同じ用途
国の出先機関なんだから、九州の卑弥呼の国も恐れるわけだよな
国の出先機関を勝手に使うと金印の国の様に始末される
土に埋めると言う行為は銅鐸と同じでそう言うものだ 御三家が尾張紀伊常陸なのも、
ものすごい秘密があるぞ
ただ要衝っていうだけじゃねえな
鹿島熱田熊野だからか?
対外国対策の気がしてならない 御三家が尾張紀伊常陸なのも、
ものすごい秘密があるぞ
ただ要衝っていうだけじゃねえな
鹿島熱田熊野だからか?
対外国対策の気がしてならない 御三家が尾張紀伊常陸なのも、
ものすごい秘密があるぞ
ただ要衝っていうだけじゃねえな
鹿島熱田熊野だからか?
対外国対策の気がしてならない 仙台に伊達
常陸に水戸
尾張水戸
加賀に前田
摂津は誰だっけな
安芸
など、
物凄い重計があるように思う
江戸織田信長
大阪前田利家
加賀徳川家康
説も挙げとくぞ 戦国から江戸にかけては、
諸悪の権源は外国だと気づいたんだな。
もっと前からか。 >>867
一般論でないというのが思い込みなんだよ >>833
帥升は、倭国王帥升の記述からクニオシヒトだって解釈が昔流行った時期があるんだよね
諡号の付け方の遊びだと思う 伊都チョンは目からレーザー光出して倭人伝読んでるから見えない字でも見れるんだろ 測らずも伊都の特性と、畿内の親戚の安曇の存在が畿内政権を説明する事になる。
朝鮮語が話せ、漢文が読めるヒボコ族だけの土地ならまだ分らなかったが。 >>842
>出雲伝承ですと、日向からの東征を計画したのは崇神こと、物部イニエ王と、豊国の宇佐豊玉姫。
その出雲伝承というのを教えてくれ。 >>843
>アヒラツヒメは『日本書紀』によれば、日向国吾田邑の人であるとされるので、アタツ姫と同じではないですかね
日南市吾田ではないだろうか。
アヒラツからアタツの変化は少し無理があるような気がする。
アヒラツからアビルあたりならあり得るかもね。
アヒラツヒメは大和に行った夫の神武を後を追い、
御所市柏原でわび住まいをしたようだ。
その痕跡は地元で「ほんぐらさん」と呼ばれて小さな祠が今も残る。
この御所市柏原こそが真の神武の宮。
それは「大和誌」や本居宣長の「菅笠日記」にも書かれている。
この柏原はいわゆる被差別部落である。
神武の真の宮が被差別部落である事、これは日本の古代史にとって避けては通れない問題なのである。
これは神武東征の複数の土蜘蛛征伐の最後、高尾張邑での網で捕まえた土蜘蛛と関連しているのであろう。
神武軍は同時に土蜘蛛の殺害もしてるわけだ。
日本で、奴婢、または奴婢になったであろう集団が大量に誅殺された事件はこれしかない。
つまり日本書紀の神武東征紀での土蜘蛛征伐と、
魏志倭人伝の卑弥呼墓の殉葬奴婢百余人の記事が一致するのである。 >>864
尾張紀伊常陸なら奈良にいた方の神武系、大彦系だね
藤原もそれだし、徳川も賀茂系
本来なら清和源氏ではないので征夷大将軍にはなれないのを井伊氏だか何かの細工で誤魔化したんだっけか >>865
伊達はイタチ、イタテから来ているから、大彦系の投影が強いね
弥彦神社の社家の高橋姓は新潟、山形が多い
福島との境の飯豊山は豊姫伝説もあるから、上毛野の一族も来てると思う >>873
承知致しました
まず、出雲国譲りで渡来系にやられちゃったのは、当時の大国主である神門臣家の八千矛
当時の事代主である向家の八重波津身
今では千家に追い出されていますが、前者は大社お抱えの大工、後者は大社運営の上官家筆頭を務めていました
国譲りに登場する出雲の王族の家系は現在でも存続しています
向家の方は歴史伝承者が代替わりしていて、本を出版しています。
大元出版で伝承の内容は書籍化されていますので、誰でも読むことができます。
検索すれば事前に書いてある内容は大体分かるかもしれません >>874
アタツ姫ですが、名前が二つあるんですね
神吾田津姫
豊吾田津姫
豊の字が何気にドキドキさせますw
https://genbu.net/saijin/konohanasakuya.htm >>873
出雲伝承に限りませんが、記紀に出ている家系は結構ありますよ
糸井国造家、元出石神社の神床家
先代の方に言わせると、ヒボコにお嫁さんをやった家系らしい。子孫にタジマノモリ、神功皇后。
西出雲王家の神門臣家。しかし、まだ歴史の公開は単独ではやっていない
東出雲王家の向家。富家ともいわれ、奈良の文化は登美家と呼ばれる
先代の伝承者が一部だけ歴史を公開して、徳間書店の書籍、謎の出雲帝国、が出されます。
それから30年以上経て、次の代の方が出版社を立ち上げて、お仲間の方と一緒に本を出しています。
海幸彦は奈良のイソタケルの子孫で、物部神武に倒された、尾張神武
そんな様なことが書いてあります
因みに伊都に関しては数行のみw
記紀と同じでほぼガン無視ですw
東征した物部神武は、宇佐八幡の宇佐氏の姫と連合を組みました
宇佐氏は、魏書の卑弥呼の家系なので邪馬台国の真実を知る一族です
卑弥呼の遺骨の一部を現在でも神社で守っています
籠神社の海部氏は、奈良神武の親族から別れた家で、家系図が国宝になっています 〉この柏原はいわゆる被差別部落である。
神武の真の宮が被差別部落である事、これは日本の古代史にとって避けては通れない問題なのである。
なんかそれ聞いたことあります
神武の関係者が、墓守の為にそう言う地位に落とし込まれたと
負けちゃった方の神武なのか、東征して奈良を支配した神武の、さらに負けちゃった姿なのかは判然としませんが、役目者が墓を守ると言う資料か何かと、墨絵の様な天皇陵の画像を見た事があります >>877
>まず、出雲国譲りで渡来系にやられちゃったのは、当時の大国主である神門臣家の八千矛
当時の事代主である向家の八重波津身
意味が分からないのだが、山陰出雲は弥生時代から四隅突出墳墓が続く。
ところが4世紀になるとその造営が終り、出雲には珍しい鏡が副葬され(神原神社古墳)、やがて前方後円墳もできる。
この間、山陰出雲に大きな変化がある。
日本書紀によれば、山陰出雲では崇神により出雲振根が殺され、祖先から伝わる出雲の神宝を奪われている。
そして次の垂仁の代に出雲大社を建てて出雲の大神の祟り、つまり振根の祟りを封じ込めている。
この記事が本当なら、出雲の神宝を、今も崇神の末裔である現皇室が受け継いでいるという事になる。
この神宝とは何であろうか。
出雲と言えば古来から勾玉づくりが盛んで、全国的に有名な玉造温泉などもある。
そして四隅突出墳墓の西谷3号から豪華なコバルトブルーの勾玉も出ている。
出雲の神宝とは勾玉ではないのか。
ならば現皇室がその勾玉を受け継いでいるか。
受け継いでいるではないか。
それこそが皇室に伝わる三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」ではないのか。
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQM4IsYMlaEC0FlR3y6IE5kJ0WuymXWQypTXg&usqp=CAU
出雲国譲りとは、「振根のおっさんを叩き殺して宝を奪ってやったぜwww」とは言えないから、
古代中国の易姓革命の際の「禅譲」に倣い、官製神話として「国譲り」が創られたのであろう。
とりあえず渡来系は関係がない。 >>880
>神武の関係者が、墓守の為にそう言う地位に落とし込まれたと
>負けちゃった方の神武なのか、東征して奈良を支配した神武の、さらに負けちゃった姿なのかは判然としませんが、
神武の墓守集団は柏原とは別の被差別地域になる。
彼らはずっと神武の墓がある畝傍山に住み続け、大正時代に山を降り、近くに被差別部落を形成したようだ。
彼らは神武天皇と共に九州からやってきて、神武天皇のお墓を守り続けてきたという伝承を持つ。
自分は、この集団は久米ではないかと思っている。
根拠は久米の居住地・橿原市久米に近いこと、
また久米は神武東征の大久米以降、なにやらメインストリームに出てこず、
没落したのではないかと考えられること。
おそらくタギシミミの反逆でタギシミミ側についたのではないかと推測している。
そして敗れ、一部は奴婢階級に落とされたのかもなどと考えている。
やがて律令時代の五色の賤「陵戸」になったのかもしれないと考えている。 俺もそうおもう。
歴代天皇を覚えながらお話読んでると
そうおもう。 おれがすごく思うのは八紘一宇。
ほんとうに実現してる。しちゃった。 みんな知らないから当たり前に日本がある
とおもってる。違う。日本を作るまでに
たくさんの人が犠牲になってる。
それをいま我が物顔して生きて売国やってる。 古代史については批判がある。
専門家は専門しかやらないとか、
名前を売るためだけに人と違う論を立てて混乱させる
とか。
でもいちばんどいつもこいつも足らないのは
そこに生きた人を想う心だよ。 豊玉姫マグダラ様は、
ものすごい性的魅力あるんでしょうかね・・・
まあいいけど・・・
まさか救済のイエス・キリストやりすぎたんじゃねえだろうな・・・
俺自身の前世かもしれないが それはないと思うけど。
まあ、奥さんいっぱい居ただろうしね。
マグダラ様の西洋絵画は大変素敵です。 小室圭の母の彼の子なんだね
となると、その彼がだれか。
ヒントは白組 作者は、中森明菜さん?
絵心は無かったでしたっけ?
しかし皇女は5000万皆さん美人でお可愛いですね。
きっと天母の影響だろう。 白組>赤組か
土星人か
一白水星
二黒土星
三碧木星
四緑木星
五黄土星
六白金星
七朱金星
八白土星
九紫火星
わかんねこんな難しい学問
みんな簡単に考えよう
神典だこれ
紫微神界があるのかな? >>881
出雲10神宝事件は紀元後の話なのでもっと後の話ですよ
千家そのものが、出雲風土記と記紀編纂の際に千家と忌部氏の作り出したスサノオの部下の家系
天ホヒの家系
千家の存在そのものが渡来系の証明なんですよ
因みに出雲大社はやられちゃった方の東西出雲王家が作った神社です
国譲りの事件はBC3世紀
出雲人の奈良への移住が始まり、丹後から素戔嗚の孫の村雲が奈良に入ったのがBC2世紀 三島と言ったら、
伊豆長岡ww鉄道
修善寺
伊豆長岡とは???
ちなみにわーるどめいと総本部は、伊豆大仁、田京にあります。 >>895
>出雲10神宝事件は紀元後の話なのでもっと後の話ですよ
国譲りは崇神の時代だと書けるわけないだろ。
出雲神話で乱暴者の兄神に火傷を負わされる優しい大国主が出てくるが、
神宝を崇神側にあっさり渡してしまった飯入根がモチーフで、
乱暴者の兄神とは振根たちに相当するのは言うまでもない。
山陰出雲では考古学的にも4世紀を境にした時代にしか大きな変化はない。 >>881
〉日本書紀によれば、山陰出雲では崇神により出雲振根が殺され、祖先から伝わる出雲の神宝を奪われている。
そして次の垂仁の代に出雲大社を建てて出雲の大神の祟り、つまり振根の祟りを封じ込めている
出雲大社は、元は杵築大社といい、実は記紀成立前後に出来ています。
あの辺りでは、奥出雲の熊野大社、松江の神魂神社の方が圧倒的に古く、神魂神社で言えば用明天皇期にはあったそうです
大国主は神門臣家の八千矛で、元々は雲南の三刀屋神社で既に祀られていました
国造職が廃止され、国司がおかれてから、失職を恐れた千家が神社の共同運営を元王家に持ちかけます。
資材と土地は神門臣家が、資金の大半は向家が出資し、大社の鍵は神門臣家の分家の別火家が管理して、千家は勝手に大社に入る事すら出来ませんでした
それが今では、式年遷宮の際に、特別参観者に、天皇陛下でも勝手に入れませんと自慢げに説明するほどにww
千家が封じているのは自らが手引きして滅ぼした出雲王家の御霊が祭神だからです。
普通の人には怨霊でも何でもないんですよ >>874
高尾張邑は、イソタケル=カゴヤマの息子の村雲(系図上の神武=海幸彦)が、丹後から移動してきて最初に拠点にした所で、二上山近く。
笛吹連や尾張氏と呼ばれた人の拠点です
神武の宮とされたところはこそからすぐ近くなんですよね >>882
〉彼らは神武天皇と共に九州からやってきて、神武天皇のお墓を守り続けてきたという伝承を持つ。
自分は、この集団は久米ではないかと思っている。
根拠は久米の居住地・橿原市久米に近いこと、
また久米は神武東征の大久米以降、なにやらメインストリームに出てこず、
没落したのではないかと考えられること。
おおお。
出雲伝承ですと、崇神は奈良入りする前に九州で没し、魏書にも載った、イサチイリヒコイクメが実際に奈良を掌握したとあります
彼は崇神こと、イニエの実家近く、イキメで生まれた為に、イクメノコと呼ばれたそうです
生駒山や、クメの地名に因んだ名前。九州から来たとされるのならバッチリハマりますね >>887
伊都チョンや@阿波に聞かせてやりたい言葉ですな >>901
高尾張邑は、古来から高天原と呼ばれる奈良県御所市高天。
神武の真の宮とされる柏原は、今では同じ御所市内だけども、
歩いて1時間半という感じかな。
御所市高天から少し下ると、神武の墓があるといわれる畝傍山を見下せる。
見下せる位置に初代天皇・神武の墓がある。
これはどういう意味か。
神武という男は「大王(おおきみ)」ではなかった。
高天原の神々ではなかったという事。
神武の義理父の事代主こと「えべっさん」が真の「大王(おおきみ)」。
神武というのはその娘婿。
ちょうど真子様と小室圭の関係に似ている。 >>897
国譲り事件の頃の事代主奥さんは摂津の大豪族三島家の人。ミシマミソグイヒメ。
あの家との協力ががなかったら奈良の発展は無かった >>899
飯入根は確か出雲王家の親戚で、大国主でも事代主でもなかったと記憶しています
景初時代の邪馬台国事件の際に物部と、タジマノモリとの戦いで、タワヤマか、ムキバンダの拠点のどちらかで戦死しているそうです >>899
〉山陰出雲では考古学的にも4世紀を境にした時代にしか大きな変化はない。
四隅突出型墳丘墓は厳密には古墳というカテゴリーではない様ですね。
あの古墳の源流は吉備国との境の山間地域らしく、初期型の物は突出部分が小さかったはずです
吉備の影響としては、突出部に、円筒埴輪の前の特殊器台が置かれた墳丘墓が発見されている事で説明ができます
4世紀だと既に物部政権末期から神功皇后にかけてですので、墳丘墓からの視点としてはそれで合っていると思います
しかし、出雲の青銅器はもっと古いですよね
実用鉄器が我が国に導入されるのが三世紀頃。
その鉄器以外の物では、出雲、九州、奈良にはそれ程の文化差無いはずなのです >>904
〉神武という男は「大王(おおきみ)」ではなかった。
高天原の神々ではなかったという事。
あ。何となく分かってきました。
金剛山麓の土蜘蛛塚のある辺りには高天原伝承が有りますよね。
九州から来たイクメは前政権の娘、ヒバス姫を娶りましたので、バッチリ婿的な立ち位置ですねw ただし、開化天皇の前、クニクル大王の代でイカガ何とかと言う物部の姫が母系で嫁入りしているので、物部系のイクメには何の権利もない純粋な入婿かと言うと、そうでもないのです >>881
出雲十神宝に関しては、詳しいことは伝承にもありませんが、取り敢えず、邪馬台国事件の後、出雲王国が第17代の山崎帯以降に奥出雲に建てられた熊野大社に安置されていたそうです
その中には、徐福が八千矛に献上した銅鐸の元になる青銅器と、勾玉があってそうです
三種の神器の出所の推測として、鏡の物部、勾玉の出雲、熱田の草薙の剣がありますが
確か、鏡は継承の儀式からは外されていませんでしたっけ?
あと、草薙の剣の本体は熱田にあり、元々の社家の尾張氏の所有でした
鏡に関しては、出雲伝承に於いては銅鏡祭祀が2世紀に物部五瀬軍、いわゆる磐余彦により持ち込まれたとされますが、最近、近畿から紀元前後の小型の国産鏡と、原初の製鉄遺跡が出ましたので、厳密に九州物部の象徴かと言うと、考古学的には古くからあったのでは?という考え方を持っています
それとその遺跡、摂津との交流を伺わせると言う内容なので、摂津にはもっと古い小型の国産鏡か、製鉄の遺跡が出ているのかもしれませんね
タタラ、いすゞは、製鉄用語です
伝承に従えば、ヤマトからは前2世紀の製鉄遺跡が出てもおかしくはありません >>907
>四隅突出型墳丘墓は厳密には古墳というカテゴリーではない様ですね。
あの古墳の源流は吉備国との境の山間地域らしく、初期型の物は突出部分が小さかったはずです
突出部分が小さかろうが古墳。
高塚墓の発祥は出雲である。
>4世紀だと既に物部政権末期から神功皇后にかけてですので
4世紀こそ物部の全盛期だ。 >>911
学術的にはどれだけ巨大でも出雲それは墳丘墓扱いなんですよね
私もそれはおかしいと思います
四隅突出型墳丘墓の古い物の話は一般的にいわれている事で、出雲伝承は関係ありません
前方後円墳の元になっているのは吉備の楯縫だかなんだかの弥生式墳丘墓という説があり、特殊器台が有名で、出土品の独特な模様が巻向の木製品からも出土していて重要視する研究者がいますね >>911
〉突出部分が小さかろうが古墳。
高塚墓の発祥は出雲である。
確か、島根県だかなんだかの資料で検索してた時に、今までとは違った埋葬方法を作り出そうと言う機運が高まった時期があって、それで古墳が作られる様になったと言う書き方をしてありました。
んで、元々は出雲親戚であって、奈良から追い出された孝霊天皇の吉備国が、新しいことをやり出した
それが古墳祭祀という流れを個人的に考えています。
というのは、元々出雲最高礼装は風葬だったからです。
磐座祭祀、アメニズムですね。
遺体に朱を流し込んで、とある山のあたりでヒモロギを作り、数年後に洗骨。
磐座に埋葬したとあります。
ヒモロギの現物は神魂神社に常時展示してありますね。
向井家の磐座は、奥出雲の天宮山。今は天狗山と呼ばれています。
どうも磐座の右側の下の部分が納骨する場所だったみたい。
磐座の下に湯呑みが押し込まれています。
死の汚れを極端に嫌う出雲に古墳という考え方が生まれたのは他地域からの影響だったのではないかと思います。
四隅突出型墳丘墓のデザインは出雲独自のものだと思います
ちなみに、千家は、水葬と決められ、出雲には千家の古墳は一つもないそうです
だから後年、千家は出雲臣家を名乗り出したのかもしれませんね。 >>899
フルネの話
所謂邪馬台国事件、第二次物部東征で出雲は滅びます。
当時の西出雲王家の神門臣家の大穴持が「遠津山崎帯」
王宮は出雲大社近くの真幸ヶ丘の北方(出雲市神門町、智伊神社の辺り)
当時の東出雲王家の少名彦が「富太田彦=野見宿祢」
王宮は松江市の神魂神社
東征軍の集結地は、現在の石見の国の物部神社。
宇佐家豊彦の息子の八綱田・菟上王が進軍を開始する
西出雲側陣地は東征軍の侵入経路を想定して幾重にも堀を作って備えていた。
ところが東征軍はそれを知っていたかのように、空いている側から攻め込んで来た。出雲伝承では千家(ホヒ家)のウマシカラヒサと息子のウカツクヌが道案内をし、東征軍の手引きをした。
これは東出雲王宮においても同じで手薄な経路を手引きしたそうだ。
まるで秀吉の朝鮮出兵の時の朝鮮人の様である。
神門臣家の将軍、「振根」はここに残って王宮を守る為奮戦するも戦死。西出雲王宮は東征軍に占領される。
王宮を占領された山崎帯王と多くの西出雲軍は、南方の古志町に逃げて久那子(現久奈子)の丘に集結する。ここはサルタ彦大神のこもる聖なる鼻高山を遥拝する出雲の霊畤であった。丘の上に新しく宮を建て、体制の回復を図る。
しかし攻めて来た東征軍と激しい争いを繰り返した末に、山崎帯王が降伏。東征軍将軍の物部朝倉彦と山崎帯王との間で講和条約が締結。そしてこの久那子の宮が「和秤宮」と名付けられ、この名が江戸時代まで使われていた。今は出雲の大神であるクナト神の息子神、サルタ彦にちなんで久奈子神社と変わっている。 >>899
イリネの話
対して東出雲王宮を攻撃した東征軍の大将は、熊野系物部軍の十千根入彦
物部本体の吉備国との戦いの後、出雲に進軍してきた。
戦線を変えながら応戦するも、田和山神殿の戦いにて「飯入根」が戦死
能義郡の白田村で激戦が繰り広げられるが多勢に無勢の中、東出雲軍は戦闘を諦める。
副王である富太田彦は軍の解散を宣言。戦後処理を王家に仕えていた千家のカラヒサに任せて奥出雲に逃げ込む。
カラヒサと十千根入彦の間に講和が結ばれ、出雲は滅んだ
富家(向家)は奥出雲の熊野で、熊野大社の元になる邸内社、クナト社を建て、始祖のクナト王と、事代主を祀った。
後にそこは八神群の一角を担う、熊野大社になる。
出雲において、王宮後の神魂神社と、熊野大社は出雲大社より格上。出雲大社より先に成立している。 つまり出雲10神宝事件は、邪馬台国事件、物部東征(記紀では神武東征)において滅んでいる
古事記
ヤマトタケル(景行天皇の御子に挿入された架空の人物、物部王朝時代)が出雲の頭目、イズモタケルを倒しにいく。まずは友の契りを交わし、心を許させたあと、水浴びをしている時に偽の剣とすり替え、その後太刀合わせを願い出、斬り殺してしまう。だまし討ちの後、ヤマトタケルはイズモタケルを嘲る歌をうたう。
日本書紀
崇神天皇(実際には大和入りしてない九州で没したイニエ)が出雲大神の宮に収めてある神宝を見たいと言い、武諸隅(十千根)を遣わす。出雲振根(西出雲王家)が神宝を管理していたが筑紫に行っており不在。その弟の飯入根(東出雲王家)が皇命を承り、弟(実際には部下の千家=ホヒ家)のカラヒサと子のウカツクヌに持たせる。出雲振根は帰ってきてそのことを聞いて怒り、弟の飯入根にたやすく神宝を渡したことを責め、水浴びに誘った際に、兄は弟の剣を偽ものとすり替え、斬り合いとなって弟を斬り殺す。兄は弟を嘲る歌を歌う。
このことをカラヒサとウカツクヌが朝廷にチクる。そして吉備津彦とヌナカワワケを遣わして、振根を殺させて終わる。
物部本体に滅ぼされた吉備と、何故か大彦の息子のヌナカワワケを登場させて出雲の滅びを内紛という事にして隠ぺいした。
古事記は朝廷が出雲を征服したと書き、日本書紀ではそれを隠すため出雲の内部抗争によって滅亡したとした。
水浴びでのだまし討ちや嘲りの歌など全く同じ話を使って、本筋を異にしている。
太安万侶、柿本人麻呂の間で表現が異なっている。 トオチネイリヒコの子孫は秋上氏と名を変え、後年出雲王家側と和解。
フツの御霊を剣神社に移し、和解の印として千木の半分を、出雲式、物部式として建立
王宮後はその後も継続して管理を向家から任され、現在に至る。
神魂神社の祭神を出雲に戻した際に、クナト大神と、姫巫女の幸神(サビヒメ)を名前を変えて祭ることになる。
それが我が国で初めてのイサナギ、イザナミになった。これが記紀に書かれることになる。
これが現在の海部や藤原の母系の血筋、出雲の血筋の尊重の形として残る事になった経緯。
イザナギ、イザナミは九州には行ってない。 少なくとも@阿波や伊都チョンの話がチャンチャラ可笑しいのは明らかw
薩摩隼人が海幸彦だってよ。プッw
少なくとも依存するものが記紀である以上、九州説は説明できない。 >>916
訂正
>つまり出雲10神宝事件は、邪馬台国事件、物部東征(記紀では神武東征)において滅んでいる
>つまり出雲10神宝事件は、邪馬台国事件、第二次物部東征(記紀では神武東征)において滅んでいる出雲の事が書かれている訳です。
トオチネは、160年代の第一次物部東征の際に奈良入りした物部氏で、それゆえ熊野系物部氏と書きました。こっちの熊野は和歌山の方の熊野の事です。
記紀における入彦、入姫は、東征に絡んだ重要人物です。 出雲国風土記にこの第2次出雲戦争のことがさらりと書かれています。
〈意宇の郡、母理の郷〉
天の下をお造りになった大神大穴持の命が、越の八口を平定なさってお帰りになる時に長江山においでになって仰った。「私が造って治めている国は、天つ神のご子孫が平安な世としてお治め下さい。ただ出雲の国だけは私が鎮座する国として、青垣のような山々をまわりにめぐらして、(霊力のこもる)珍宝を置いて国を守りましょう」と。
つまり、出雲国を除く広域出雲王国の支配権を物部王朝に渡したということです。もちろん出雲国とて国造は物部の支配下にあります。ただ、王家の血筋を絶たれなかったことは幸いでした。財筋たからすじとして王家は秘密裏に存続してきたのです。そして歴史の表舞台からは消えましたが、その財力と他豪族へと繋がっていた血脈によってその後も影響力を持ち続けます。また、日本の歴史を裏側から、第三者の目で見続けた稀有な存在として今に至ります。 >出雲国を除く広域出雲王国の支配権を物部王朝に渡したということです
物部王朝というのは物部の女性・イカガノシコメを母に持ち、ハツクニシラススメラノミコトと呼ばれる崇神以降だな。
ただ崇神は振根の出雲国も倒しているし、四道将軍は東北の会津にまで古墳群を残すので、ほぼ全国制覇と言ってもいいと思う、もちろん残存反抗勢力はあっただろうが。、 >>921
はい、分類上は崇神からと言うことになりますが
実際の重要人物は子供の垂仁のイクメの方で、彼が奈良と出雲を倒しました。
崇神の任務は、諡号をいじり、任那から来た様に見せかけることです。
物部関係者が諡号を付けましたが、記紀には逆らえずだったのでしょう
当時の日本は長野県あたりまででした。
後年の平家の落武者ですら、逃走としては長野より北は行っていないそうです
坂上田村麻呂が長野県に来たのはそう言うことなのでしょう
つまり会津は当時は訳分からん土地で、大彦と、息子のヌナガワワケは、朝廷の大将ではありません、やられちゃった前政権、神武の政権の王族です
前方後円墳は、物部に限ったものではありません
前政権も作っていました。故に東国に前方後円墳があるのです。 皮肉にも、物部政権の証明が、邪馬台国=奈良のヤマトになるのです。
二度にわたる物部のヤマト攻撃は、魏書の解釈上も、神武が神武を攻撃したと言い換えることが出来るものでした。
母系に物部の姫が入った開化天皇政権から見ても、大彦のクナ国(クナト国)は、物部にとっても共通の敵でした
開化天皇の息子は奈良の政党後継者、我こそがヤマトであると言える立場でした
故に、朝貢の卑弥呼たちが、我らはヤマトであり、クナ国と戦っていると申し出ても嘘にはならなかったのです。
そこに記紀の都合上、2回の東征が隠され、神武にされ、神武が神武を攻撃すると言う緩い誤認が真実とされ、書物として残されたのです。
大陸は最後まで東征軍がクナ国と戦っていると思い込んでいた様です
真実としては単なる利権継承者同士の内紛で、大陸としてはどちらの肩も持てない状態でしたが、朝貢メンバーの政治力が優ったのでしょう。
大陸から見たら邪馬台国は奈良のヤマトのことであり、我が国の内情を考慮した邪馬台国は、事実上、東征軍が集結した都万国と言えると思います。
大陸の記載上、東征という戦闘直前から始まっているので、国の実態がなくとも、大陸の誰も不思議には思わなかったのでしょう
事実、張政は、戦闘終了間近に、宗女トヨを金印の継承者として正式に指名して、戦乱の終結に導いています。
魏書を書いた人間はトヨと同年代の人なので、その辺はリアルに把握できてる立場だったと言えます >>874
>日本で、奴婢、または奴婢になったであろう集団が大量に誅殺された事件はこれしかない。
イスケヨリヒメが妃になる前の話だから、殉葬とは関係ない。
いい加減に妄想を繰り返すのはやめろ。
イスケヨリヒメが仮に卑弥呼だったとして、そこから二児を産んで、さらに90歳になってから殉葬が行われたはず。
半世紀以上も時間差がある。 >>879
>因みに伊都に関しては数行のみw
>記紀と同じでほぼガン無視ですw
そりゃあ、出雲にとって筑紫は天敵だろうからなあ。
それは伊都に王権を奪われたことを否定する根拠にはならない。 >>925
お前には話しかけてねぇんだよ歴史の冒涜者
さっさと自分のスレに帰れストーカー 筑紫の日向が倭国の王都であった時期があるということから目を背けてはいけない。
それこそ歴史に対する冒涜だ。 >>927
か え れ
と言われてるのが分からない段階で分かれや
ここはそんな下らない妄言を垂れ流すスレではない >>924
>イスケヨリヒメが妃になる前の話だから、殉葬とは関係ない。
いい加減に妄想を繰り返すのはやめろ。
何を偉そうに言ってるんだお前は。
日本に殉葬はない。
しかし奴婢の大量虐殺はあった。
卑弥呼が誰なのかスパッと言えない分際でほざくな ちょっとヨウツベ見てたら面白いことがあった。
横道にそれて申し訳ないが
https://www.youtube.com/watch?v=H9RcFp7PrRw
【ゆっくり解説】邪馬台国シリーズついに完結!? 邪馬台国の場所はズバリここだっ!
大陸が、邪馬台国への距離測に伝聞が入ってるんじゃないかという視点。
魏書の作者が過去の話のメモから書き起こしている所があるんじゃないかという点
そこから邪馬台国への道順を導き出している。
場所は日向。宮崎の西都原辺り。
面白いのは、ナ国が邪馬台国と名乗ったというところ。一見九州説ともとれるが
邪馬台国(東征軍)が伊都を窓口にしている連合国であったという点
マツロ国の立ち位置など、興味深い話になっている
日本の旧家も、東征軍は宮崎に集結し、敵は狗奴国と発言し、その実ヤマトを倒しに行ってる。
であるがゆえに、邪馬台国は奈良であり、魏書の朝貢の卑弥呼の名乗った邪馬台国は東征軍の集結した日向という話と符合する。
物部氏の隠された歴史に火がともり始めたような気がしてならない。 ここで出雲伝承の年表を出してみます。
和国大乱(147〜188)年代はおよそ。
150年 ヒボコの勢力が播磨へ侵攻
大和の豪族同士の覇権争い始まる(ヒボコに影響され領土拡張の口火が開かれる)
160年 吉備のフトニ大王(孝霊)が出雲王国を攻撃(第1次出雲戦争)
165年 葛城国分裂に乗じ、物部五瀬が東征を開始(第1次物部東征)フトニは奈良に戻れなくなり吉備国を建国
175年 八咫烏の引き入れで、和歌山物部勢の大和入り
183年 大彦が物部に敗れ大和から北へ退却(クニクル第八代孝元天皇の代で物部の姫を嫁に貰う)
所謂景初の時代は、吉備国が山陰と瀬戸内海を押さえており、畿内ヤマトが朝貢ルートを失っている時代でした。
それを踏まえて先ほどの動画や、魏書を考え直すと、驚くほど正確に魏書は卑弥呼の拠点に関して理解をしていたのかもしれないという事になります。
また、倭国大乱期から系図を戻していけば、なんとなく歴代天皇に比定された人物たちの時代が明らかになってくるのではないでしょうか?
キーワードはやはり物部氏ですよね。あれが記紀最大の秘密と言ってよいのでしょう。 孝霊天皇は倭国大乱の様子を視察に吉備行幸をしていた。
日野郡誌に詳細がある。 景初の時代は、葛城国が二度目の分裂を迎えていた時期でした。
開化の後のヒコイマス王の息子の代でサホ彦、ヒコミチヌシが勢力争いを始めます。
本来であれば強力な国家に成長していた吉備国を避けたいところでしたが、物部宇佐連合軍は真正面から戦いを挑みます。
物部本体は吉備国を倒した後、トオチネが出雲方面に展開
イクメはそのまま進軍しますが、途中の安芸の国で豊玉姫が病死。
仮埋葬は厳島で行われたそうです。それゆえ、トヨ姫、トヨ彦の奈良入りが遅れます。それが後にトヨ姫暗殺、豊彦の奈良追放に繋がり
ひいては、物部政権の弱体化の原因になっていきます。
物部政権が短命に終わったのは、宇佐を裏切ってしまったからとも言えましょう。
それと、武内宿祢を暗殺しようとして失敗し、その後の物部の子孫たちが平群、蘇我の政権で圧迫されるようになる原因になりました。
先の方が神武天皇陵に関して言及されていましたが、実に理にかなった考え方と私は思いました。
私も神武天皇陵の守り人たちが九州由来の方々であると思います。
ただ、イクメの遺骨の一部は九州に移され、イクメ古墳群に収められている様ですよ。 土蜘蛛と土雲
日本書紀や風土記では「土蜘蛛、土蛛、都知久母」と記されている。
Wikipediaでは〈上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土着の豪族などを示す蔑称〉とある。
単一の勢力ではなく各地に存在すると。国栖くずや八束脛やつかはぎ(スネが長い)とも呼ばれます。
・・・・・ナガスネヒコwwwwww
日本書紀では土蜘蛛のことを〈身短くして手足長し、侏儒と相にたり〉と表現します。侏儒とは小さい人のことです。
土蜘蛛は近世以降は蜘蛛のような妖怪として描かれ、これは朝廷が土蜘蛛を迫害し征伐したことによる怨霊の意味があると思われます。
記紀では神武天皇が大和に侵攻した時、「高尾張村にいた土蜘蛛」を征伐しています。のちにその地を葛城と改めたとしていますが、出雲王家の伝承によると、元々、高尾張村には海部氏の祖である尾張家が、葛城には出雲の加茂家が住んでいました。神武東征以前、両者は親戚となって村雲王から始まる大和の国を治めていました。
つまり、神武が物部であるならば、当然に二上山から金剛山のあたりは蹂躙されたでしょうね。
蜘蛛という字をよく見ると、「朱を知る虫」と書かれている気がする。もしかしたらこの字はこの時代に作られた文字かもしれない。
朱とは辰砂、丹砂、朱砂のことであり、中国の皇帝たちも求めた不老不死の薬であり、錬金術によって金を産むとされた鉱物であり、日本では縄文時代から日常的に使われていた鉱物。
古代では特に大和で多く産出しました。この辰砂を採掘していたのが土蜘蛛の可能性は無かろうか?。
三重の鉱床ですら大和鉱床の一部であり、宇陀では古くから採掘されてきました。
また朝廷が土蜘蛛を征伐する時、「誅殺」とか「誅伐」と書かれます。ここにも朱の字が入っています。
罪を咎めて殺すこと、らしい。
記紀や風土記を読めば、先住民への虐殺のように思えるのは当然だと思いますが、記紀においては日本の国力=水銀の事が凄くよく書かれているような気がしてならないのです。 宇佐家極秘口伝書
伝承を持つ旧家がいくつかあると書きました。
そのうちの宇佐氏は既にかなりヤバい線を走っています。それが物部氏に関する事柄
大分県の宇佐神宮宮司であった故宇佐公康氏(宇佐国造池守公より57世)が、宇佐家に代々伝わる極秘口伝書の内容を1990年に著書「古伝が語る古代史」にて公開している。
次世代に受け継ぐ者がいないため、一子相伝の「口伝書」と「忘備録」を世に公表して残そうと決意。
ただし引き継がれたそのままの形ではなく、氏が口伝書を考証しながら、その解説として記されているので、内容すべてが口伝そのままではないらしい。
まあこれは出雲伝承も同じだとは思いますが。
今更ながらですが、宇佐神宮は全国4万社以上ある八幡宮の総本社。
一時は伊勢神宮を凌ぐほど皇室と密接になり、崇拝されてきた経緯がある。
この宇佐家伝承によると、物部氏の原住地は筑後平野で、「高良神社」が氏神であり、「神武東征以前」にニギハヤヒが部族を率いて大和へ移ったとあります。そして崇神天皇は物部氏の首長であったと。
記紀に触れる物部五瀬は避け、饒速日としている処はエスプリを感じますな。
《 筑後一宮、高良大社(久留米市高良山)の祭神である高良玉垂命こうらたまたれのみこととは誰なのか。
古代史界では謎の存在であるようです(ゲフンゲフン)
九州王朝説の古賀達也氏によると、4〜6世紀の九州王朝の都が筑後地方にあり、この高良玉垂命は天子の称号で歴代倭王であるとしている。
さらに玉垂命の最後の末裔とされる稲員いなかず家の家系図があり、初代玉垂命とは物部保連やすつらであると記されています。(ゲフンゲフン) また高良大社の文書、高良記(中世末期成立)には、「玉垂命が物部であることは秘すべし、それが洩れたら全山滅亡だ」と、穏やかではないことが書かれている。
「出雲の伝承」では筑紫は2世紀まで物部王国だったとの事である。
武内宿祢の子孫の系譜である、蘇我氏出身の推古天皇(在位593〜628年)が587年に蘇我が物部を滅ぼしたことを気にして、吉野ヶ里に近い三根の郡に経津主ふつぬしの神(物部の祭神)を鎮めるための社を建てたそうである。
その地は物部の郷と呼ばれていたそうだが、記紀に物部のことが書かれなかったことから、忘れられていったという。
現在では九州説を研究する人ほど、物部の影が見えなくなるというジレンマを抱えているように思う。 何故徐福時代の吉野ヶ里を物部の故郷と思ったのか。それは「謎であるゲフンゲフン」 >>938
高良玉垂命は4〜6世紀という事なので、大和への東征に参入しなかった物部の一派がその後も筑後に残っていたという事は当然に考えられることですよね。
ただ、その後の偽装が余程完ぺきだったのか、高良玉垂命=武内宿祢説まで出ていますよね
私はそのまま垂の字から垂仁=イクメの事かと思っています。
何しろハツクニシラスの子供ですからね 諡号を付けたのは物部氏
奈良時代後期に「文人の首」とまで称された人物が、石上宅嗣と淡海三船であり、当時の文人として名を馳せました。
淡海三船(おうみのみふね)
【生没】 養老6年(722年)〜延暦4年(785年)
【父】 開花天皇(第2子)
【母】 伊香色謎命(大綜麻杵の娘)
開化天皇は、母系が物部。伊香色謎命も物部(クジホンギに出ていますね)
帝紀の編纂委員会から思いっきりハブられていた物部氏ですが、バッチリ良い役目を貰ってたのではないかと思います。
その後も活躍してたんじゃないかと思いますよ〜 九州王朝に詳しいねえ。
玉さんは知っていたが、研究してわけがわからなかった。
年号もうんと出てるし、当時の政局は畿内と九州の二本立てだった。
大陸は卑弥呼当時鼎の三分の政局だった。日本も単一政局でなかった。
コチラは倍暦での仏伝までの年代研究をメインとしてたので、同王朝は貴殿
のほうがずっと詳しいな。 >>941
物部王朝は本当に復元可能だと私は思っているんです。
仮に出雲伝承が正しいとして、祖は奈良と九州が同じだとすれば
邪馬台国時代までは第八代。
それくらいの短い家系図すら秘密にされるほど、物部の歴史は隠されてきたと言えます。
でも、絶対に居るはずなんですよ、口伝か何かで必死に守り続けてる人たちが。
筑紫舞の継承者の師匠、菊邑検校さんも、それを知ってた節があります。
筑紫舞の本来の舞い手は九州の出でないと意味がないそうですね。 >>931
実年代が
孝霊即位年=162年
で、貴殿の年代の主張はだいぶ合ってるね。 >>941
倍歴のお話ですが、面白いことがありまして
結果から言いますとインド式の暦という説があります。
宇佐氏は出雲族が渡来してくるより前から土着していた一族だったそうで
出雲族が渡来した時期に関して言及しています。
時代差はありますが、出雲の伝承だと、インドからロシア経由で日本に来たそうなんです。
そして暦の話になりますが
初代主王の王宮は大神山(大山)を望む現松江市大庭の神魂の丘にありました(東出雲側)。
春分と秋分の年2回、各地の豪族たちが集まって、主王の后が司祭となりクナト大神を遙拝。
拝所を霊畤と呼び、大祭をマツリゴトと言ったそうです。
主王と副王が各地に出掛けて、豪族たちに参加するよう声をかけました。力ではなく言葉による統率です。訪れる人はその土地の土産を持って集まるようになりました。
インドの風習と同じく春分、秋分それぞれが元日としていたそうで180日が1年です。 歴代大名持は岩をよく拝んでいたので、岩神、伊和の大神とも言われました。
古事記では大山津見の神が、娘の木花開耶姫コノハナサクヤヒメと石長姫イワナガヒメを天孫ニニギノ命に差し出すも、醜い石長姫は突き返されてしまいます。そこで大山津見の神は怒って「天つ神の命は岩のように永遠のものとはならず、花のように短くなるだろう」と告げました。
古事記の中では大山津見の神の娘が実はもう1人いて、コノハナチル姫です。スサノオ系統の息子の妻ということになっていますが、スサノオは出雲族ではありません。そしてその息子とは出雲3代主王であり、生まれた息子は4代主王です。石長姫とコノハナチル姫は同一人物であることを暗示しているのでしょうか。
石長姫は縄文の女神であろうと言われていますが、詳細はわかりません。Sorafullには出雲を象徴している気がしてなりません。大山津見の神(クナト大神)の子であること、そして大国主が岩の神と言われていたこと、また天孫族の寿命が短くなるということは、インド式の1年で2歳年をとる数え方から現在の1年1歳に変わることで年齢が半分、つまり寿命が半分になるからです。
古事記では何か表現したいことがあったのかもしれませんね 実は、私は虎の巻があるのです。
出雲伝承の本と、それらを詳しく説明したブログ。
本を読んだだけでは足りなくて、独自の情報を補完したような視点が非常に参考になって抜粋をここに乗せています。
私は受け売り以外の情報以外の核心的情報はあまりありません。自力で研究、独自の理論に到達した方に比べれば足元にも及びませんです。
30年以上前から出雲の歴史には注目してて、昭和の徳間書店の謎の出雲帝国、から全国歩き回って神社も実際に見てきただけの人間です。
大国主が幽閉されたと伝わるもう一つの神隠れの岩屋とかも見に行きました。足を使うほうが得意です。
今回は、色々引用してたのはSorafullさんのブログですよ。
出雲伝承には水銀の事、筑紫舞等の話はほとんど書かれていません。
出雲伝承は考古学の編年と完全に一資するほど発掘が進んでいる訳ではありませんのであくまで説という位置づけですが
出雲以外の歴史を継承する旧家からしてみても、大陸の歴史書は驚くほど正確に書かれているそうですよ。 インドも2倍暦を行使してたと思ったな。少し調べたことがある。
ノートに書きこんでたな。
世界で結構2倍暦等を行使してたから、日本も例外ではないと思う。
でも否定論者はかなりいる。紀の日数、月数統計をやれば、いくら彼らが否定
しても崩せないと考える。否定するのは殆どが卑弥呼畿内説が成り立たなく
なるから、統計表を色々見せても必死に連中は否定する。
だが表から歴然として二倍暦等やってたのが分かるね。 神無月、出雲では神有月と言うそうですが、出雲の文化は物々交換の様なものが非常に発達してて
ある地方で職利用が足りないと色々融通するような仕組みがあったそうです。
それで地方の豪族さんたちが土産物をもって出雲に集まり、そして返礼品を貰って帰国したそうです。
神無月の逸話は、出雲の二倍歴と、交易の習慣に関連している様に思えます。
あと、あまり一般的ではありませんが、諏訪も昔は神在月という習慣があったそうです。
何しろ、タテミナカタが巨大な体つきで出雲までくるのは大変だから特別に免除されたとかなんとかw
出雲伝承の本にも、春宮、秋宮との呼称は倍歴とも関係するのではと言及してた気がします。 私も殉葬に関しては本当にそういう習慣があったのかどうかに関して考えていました。
仮にですが、邪馬台国事件の際は、これから東征軍立ち上げます、鏡ください、ハタ下さい。
そして、武内宿祢が現在ヒコミチヌシと交戦中とか言ってますので
戦争中って埋めちゃうほど人に余裕ってあるのかな?って考えていました。
魏の張政は、完成した後の墓を見たと思われ、100人は、埋められた後で全く確認は出来ない状況ですよね。
それと、当時は死者の怨霊が亡者となることを怖れる文化があったと思われ、敵方の人間を埋めたとも考えられません。
親戚一丸となって東征してる訳ですから、魏の張政治は、我が国の威容を示すためについた方便を真に受けたのではと妄想しています。
出雲伝承では卑弥呼の墓を「仮埋葬」という形で、魏書の「家」に近い字の簡便な墳墓を表現しています。 >>947
出雲族がロシア経由であることの補足としてロシアのブリヤート人があります。
ググって写真検索をすると、日本人に激似ですよ〜 殉葬っていえば垂仁天皇がやめさせたんではなかったかな?
記憶が薄れてるので・・・? それで埴輪で代替えとしたと思ったが?
二倍暦だと、1月〜6月までと7月〜12月の各半年を1年としてて、現今の1年だと
当時は2年経過してるということになる。これは単純な二倍暦の方法。
それで安寧なんか7月即位したのもそのためだし、景行も安寧に則って7月即位
したようだ。 >>951
出雲の向家、最後の副王が、富太田彦でした。
彼は野身太田彦と名を変え、垂仁の要請に応じ、奈良に軍を出します。
そう、出雲は滅んだ後に、垂仁の要請応じて、戦後処理の戦闘に参加しているのです。
その功績で野見宿祢に名を変えられ、古墳造りの土師氏は、野見宿祢の直系の子孫になります。
しかしながら、吉備国で円筒輪の元になる特殊器台が始められた盾築墳丘墓が二世紀後半でありますので
野見宿祢の子孫が土師氏になるまでに時間差があり過ぎるような気がするのです。
また人物埴輪が盛んになると、物語性というか、行列の様な賑やかなものになったりしますよね。
とてもついでに埋めちゃう人の代わりというよりはもっと楽し気な雰囲気を感じるのですが。 あと、残念なことに、野見宿祢はほどなくして毒殺されてしまったようです。
奈良からの帰途、地方の豪族の家に呼ばれて食事をした際に死亡。
関係者にヒボコ族の出身の人が居たそうです。
つまり、時間的には彼が進言したというよりは、記紀作者の配慮の様な気がします。
タジマノモリはイクメと同じ銀印を貰っていたことにより次第に制御できなくなり(男王を立てるも国安定せず)
その追放の為に出雲兵が奈良に呼び込まれましたが、タジマノモリの話はミカンの美談に変化しています。 虎の巻に毒殺が載ってるんですか?
被疑者は?
銀員は出雲からかねえ? >>954
虎の巻にはどの豪族なのかは出ていませんね。
しかし地名は記述があります。
播磨国の辰野で亡くなったとの事です。
それこそ仮埋葬レベルの古墳しか作れなかったそうです。
野見宿祢古墳と名前がついている様ですね。
現在でも兵庫県「たつの市」にあります。
播磨風土記にその逸話が残されています。
没した際に出雲の人が来て「野に立ち」並び、それで立つ野の地名となったとあります。 相撲が強いから、格闘じゃあ彼を倒しにくいし、記紀にはそんな話がないから、
参考文献ではかなり役に立つかな?
そんな文献があるのかねえ?
物部文書なんか非公開ではなかったかな?
いまも非公開かなあ? >>955
タジマノモリが貰ったのは魏からの銀印です。
大陸の人物名は、日本の名前を音感で短縮して付けられています。
朝貢メンバー
伊聲耆(イサチ入彦イニエ 何とイニエ本人は直接朝貢しています。とても記紀には書けません)銀のハンコ
難升米(タジマのモリ)ナシメではないそうです→銀のハンコ
掖邪狗(ヤサカイリヒコ)
奴佳革是(額田宿祢。武内宿祢の腹違いの弟)
都市牛利(二つの説有物部十千根説、十市瓊入姫命説)
載斯烏越(武内宿祢 無役に終わったことにより大和側に鞍替え) >>957
相撲の古事。なんとタイムリーなww
相撲の古事が、野身宿祢がタジマノモリを三輪山から追い出し、淡路島に逃走させた古事を表しているそうです。
物部文書の本、持ってますよ〜
あれ、白黒ですが、物部の10の神宝の写真が出てるんですよね。
物部文書の本体は非公開のままですね。
ちょうど先ほどヨウツベでも確認しました。 >>958
ゴメンナサイ間違えました
伊聲耆(イサチ入彦イニエ 何とイニエ本人は直接朝貢しています。とても記紀には書けません)銀のハンコ
↓
伊聲耆(イサチ入彦イクメ イクメ本人が朝貢しています。物部氏の書いた諡号も相当スレスレのヤバい名前を付けています。イクメのもう一つの名前がイサチなのです。) 出雲王家本の大元出版ですが、結構面白くて、作者が複数います。
上官家の血を引く現在の伝承者は「斉木雲州」さんのペンネーム
親魏倭王を書いたのは「勝友彦」さんのペンネーム
斉木さんは、邪馬台国は奈良であると、大陸側からの視点で表現。
勝さんは、朝貢メンバーが我々はヤマトと名乗ったので、邪馬台国は都万(日向の西都原)と日本国内から見た視点で表現。
記紀も神武が神武を攻撃しているのでヤマト国がヤマト国を攻撃した構図
邪馬台国にはロマンがありますな〜 出雲王家本だと、青銅製の国産技術は徐福時代に日本に入ってきたという事になっています。
更には、畿内のヤマトと九州の物部は同祖の親戚であると。それが本当の海幸彦、山幸彦であると。
鉄器に関してはかなり早くから製鉄をタタラで行っていたと断言していますが
ヤマトに関しては本当に鉄器の普及が遅れたという考古学上の編年があります。
原初の製鉄は、矢じりの先に使うようなもので、摩耗も早く残りずらいとかいてありましたがそれを裏付けるかのような発見があります。
九州→仿製鏡の起源がBC2まで遡る
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H9E_X20C15A5CR8000/
一般的に銅鏡の物部と言われる地方の面目躍如とと言ったところでしょうか
そしてヤマトも起源前後にまで仿製鏡と製鉄が遡っています。
https://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/sankei-_west_west_life_75RGI6VFHFO65IYKHWI27P7DQM.html 福岡市の市教委によると、剣や矛などの青銅器は、紀元前3世紀ごろに伝来してまもなく国内生産が始まった。
とありますので、大陸の史書にある徐福時代BC3世紀という事は割と言われている様ですね。 >>931
>183年 大彦が物部に敗れ大和から北へ退却(クニクル第八代孝元天皇の代で物部の姫を嫁に貰う)
時系列がグダグダ、八代孝元は3世紀末から4世紀初頭の人物。
孝元、開化、崇神、垂仁、このあたりは父子でなく、
兄弟または従兄弟か傍系。
日本書記は、時代を大きく引き伸ばす意図のもとに書かれたので、
兄弟または従兄弟か傍系を「父子」にして時代を引き延ばしたのであろう。 書き忘れた、大彦も4世紀初頭から前半の人物。
それは稲荷山鉄研剣のヲワケの系図からもわかる。
オオヒコを当時にありふれた名前だから四道将軍の大彦と決められないという意見もあるようだが、
鉄剣に刻むほど先祖自慢をしたいオオヒコは四道将軍の大彦以外にないであろうから間違いないであろう。
ヲワケの辛亥年471年から一世代20年弱で7世代さかのぼればオオヒコの時代、
それは4世紀前半、やはり崇神もこの時代である。 471年=雄略元年
これは倍暦計算からの年代で、鉄剣のワカタケルは雄略天皇で間違いないな。 >それは4世紀前半、やはり崇神もこの時代である
八幡愚童訓に
黄龍2年=230年=開化48年
とあるから、その9年後の 239年=景初3年 の卑弥呼活動年代が把握でき、
開化の年代から次代の崇神がほぼ卑弥呼の年代と重なる。 >>964
大彦はクニクルの息子ですよ〜。これが180年代だから二世紀。
ニニギは便宜上物部の象徴として挿入されているので架空の人物です。
故に、400年ほどズレがあるので文書が記紀の影響を受け、後年のモノかどうかは、大彦がどの時代に書かれているかで分かります。
そういう意味ではクジホンギも記紀の影響を受けています。
第9代開化のあとが、記紀では隠されていますがヒコイマス。磯城王朝最後の10代大王です。
ヒコイマスは、クジホンギの稲葉国造でバッチリ名前が載ってしまっています。
崇神は開化とは血縁関係なしです。物部氏。
だから開化から崇神で結婚関係が変なことになってるはずですよ
大彦と、息子のヌナガワワケは親子で、四代将軍という職がつくり話との事です。
大彦とヌナガワワケは会津では会っていません。
長野県の将軍塚古墳が埋葬地との事です。最後は布施氏と組んだみたいですね。
神社は布施神社になっています。
物部東征は二回あったという事が重要な点です。
九州研究の人は、東征が二回あったと、どういうわけか気付いている人も居ますね。
崇神は東征開始前に九州で無くなっていて、東征には参加していないそうです。
471年になると、鉄器の生産量の編年から考えれば邪馬台国時代を通り過ぎてしまいますよ 魏書に出てるクナ国の男王は、ヒコミチヌシノミコとの事です。
訂正
ヒコイマスは、クジホンギの稲葉国造でバッチリ名前が載ってしまっています。
↓
ヒコミチヌシは 10代が隠されているので、もう一世代入るって事の様ですね。 崇神は九州なんか行幸等してないよ。畿内の人物で、四道将軍に畿内から
四方の地に調査視察に行かせたわけで、崇神が九州に行ってるわけがない。
九州に関係の当時の天皇は神武と景行だよ。
景行は九州行幸したのだ。ただ例外で開化も記紀には記載漏れだが、大成経だったか
神皇紀だったかに畿内から外へ行幸してたというから、開化も行ってたかも
知れない? 八幡愚童訓に開化48年呉兵沖縄襲来とあるから、九州行幸も開化
はしてた可能性がある。 ヒコイマスと、息子のヒコミチヌシ。大負けに負けたとして、40年挿入すればいい線行くと思いませんか?
そうすると、160年の朝貢が、クニオシヒトにぐんと近づくわけです。 物部による九州遠征は、垂仁の子供二代です。大タラシヒコとワカタケル。
結局物部政権は奈良に戻れずに終わったとされます。
垂仁から三代で潰えました。
崇神イニエは九州から出ずに没しているそうです。景初の段階ではすでに死亡 10代大王ヒコミチヌシは第2次物部東征が始まる直前に亡くなったそうです。 魏書の続きでは、使者の張政が到着した時には、卑弥呼はすでに死んでいたと書かれている。
宇佐家伝承ではウサツ姫(豊玉姫)は安芸に6年滞在したことになっているので、241年頃にはすでに安芸にいたのか?。
出雲伝承では246年には瀬戸内へ向けて東征を開始したとありますね。 九州から畿内への東征は何回もあった。
しかしそれを全て物部だとか神武だとか一つの名前で呼ぶと、訳がわからなくなる。
ちゃんと別の名前で呼ぶべきだ。
饒速日、三島溝杭耳、磐余彦。
皆それぞれに役割がある。 >>976
物部氏は系図が何代か抜かれているので難しいですよ
クジホンギ使ってもちょっと足りないくらい
崇神とか、記紀成立後の物なので仕方がないとは思いますが 崇神は九州とは関係ない。二代後の景行の九州行幸が記紀に記載があって、崇神が
九州行幸した事実が記紀に記載されないわけがない。崇神からは欠史八代ではない。
崇神没年=258年 だから景初の年代で崇神は生存していたね。
開化48年=230年=黄龍2年 だから、9年後の 景初3年=239年 の卑弥呼活動
のころ崇神は開化の次代だから生存は確かだ。 >>968
>大彦はクニクルの息子ですよ〜。これが180年代だから二世紀。
だからなんで180年代なのか。
四道将軍は4世紀初頭あたり。
オオヒコと建沼河別命が合流した会津の一箕古墳群(いっきこふんぐん)は4世紀前半。
また新潟にも畿内系の古墳があるようで4世紀初頭。
吉備津彦の中山茶臼山が4世紀前半。
崇神の行灯山が4世紀初頭。
相変わらず津田史学系の学者は四道将軍など「ない」といってるようだが、
四道将軍は神話でも何でもなく実際にあった。
ただし、この時代を卑弥呼の時代に持って行っても何の説得力もない。 >471年=雄略元年
百済武寧王墓から買地券=金石文が発見されており、
そこから計算すると458年。 そっちは二倍暦をやってないから、半島暦とは別で合わないわけで、
471年辛亥が雄略元年だ。半島のを見ると紀が卑弥呼年代を間違えたように失敗する。
ただし雄略当時朝廷も通常暦を蔭で残してい、まの旧暦のように
残ってはいた。雄略の記紀双方の歳は2倍ピタリの差がある。 男性にエロ動画を見せる理由は、
素神。つまり、
あいつらがいうところの、
女神探しです。
目を、女というところなど。
本国というのは、
海王星か、土星か、
アメリカか、ロシアか、イギリスか、オランダか、南アフリカでしょう。 まず、47歳の男の母親っていうところから計算しろよ アメリカを潰して、
新政権つくりたいそうです。
アメリカが核実験失敗で国が亡くなるというのも、
み化されたんじゃないかな。 山下達郎ちょっとあやしいな。
なんであんな目なんだ?
悪側宇宙人ぽくない?
昔から嫌いだった。
俺に好きにさせない力が働いたのかもしれないが。 竹内まりやさん。
もう家に帰らないほうがいい。
何かがおかしい。
セックスに何か秘密があるみたいだ。
男女が絶頂に達した時、
神界に通じると思ってるようだ。
そして、
神星を狙っているのかもしれない。
なんだろうか、ものすごい悪い意志が働いている気がする。
だからって、
素神がいる国なんて、
各次元星の話をしたように、
たくさんある。
特定なんてそもそもない。
もしかしたら、
生きた神居る星を探しているのかもしれない。
暗黒霊界魔王。 少なくとも、
地球と人類をめちゃくちゃにする意図はあるようだ。
サタニスト。
ドラコニアン。
恐竜。
猿の惑星。
なにかあるな。 人類誕生の秘密を探っているようだ。
結局、進化論に従って、
原人までは進化したのよ。
知性をどうして持ったかは知ってるから書いてもいいが、
魂がどうして造られたかは教わっていない。
御魂は菊理姫がつくり、
肉体は天照大神が造ったと教わっただけだな。 風俗産業の方でも、
人殺しでも、
自民党でも、
プーチン、オバマ、内藤雄でも、
心底詫びれば、
それで神様は許してくださいますからね。
逆に言うと、
そうしなければ、
ただただ罰せられて、
無辺地獄でどんどんどんどん下落ちするだけです。 魑魅魍魎とは、
つまり全て、
天獄宇宙人なんだってさ 風俗嬢でも誰でも、
お付き合いしてあげてくださいね。
セックスが開発されて、
よりよいセックスをさせてくださる方たちですよ。
別に、他の男に抱かれてたって、
魂や神性、霊性まで落ちていませんよ。
そんな事言いだしたら、
モテる男女というのは、
もう何人も経験ある人達ですからね。
それをあなたは嫌だといいますか?
優しくいたわってあげましょう。 真善美といいますが、
正しくは、
神全美です。
美化。み化。 内藤雄とは、
周瑜です。
お前が水軍指揮力100もあるわけねえだろ!! このスレッドは1000を超えました。
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