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邪馬台国畿内説 Part707
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0001◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:01:59.56
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1624855927/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:02:50.77
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:03:22.20
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:03:54.53
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:04:26.76
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:04:58.28
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:05:31.49
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:06:04.67
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:06:38.26
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:07:11.67
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:07:42.02
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:08:14.26
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:08:47.24
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:09:19.74
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:09:51.55
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:10:23.64
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:10:55.17
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:11:27.38
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:12:00.20
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:12:32.06
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0021◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:13:04.28
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:13:36.60
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:14:08.87
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:14:40.37
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:15:11.84
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:15:43.30
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:16:15.46
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:16:47.72
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:17:17.71
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:18:32.19
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:19:14.68
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:19:50.27
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:20:22.47
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:20:53.64
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:21:26.39
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:22:00.99
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:22:31.93
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:23:03.86
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:23:34.38
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:24:07.47
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:24:44.70
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:25:17.18
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:25:48.58
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:26:20.58
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:26:53.04
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:27:30.29
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:28:03.07
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
0048◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:28:37.64
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:29:09.19
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:30:03.19
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0051◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:30:39.84
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:31:15.15
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:31:47.10
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:32:20.46
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:32:52.10
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:33:45.40
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0057◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:34:17.98
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0058◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:35:00.10
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0059◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:35:33.52
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0060◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:36:12.34
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0061◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:36:47.04
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0062◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:37:16.52
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0063◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:37:48.20
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0064◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:38:19.78
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
0065◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:38:51.91
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0066◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:39:21.81
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0067◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:39:53.32
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0068◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:40:25.24
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0069◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:40:57.61
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0070◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:41:43.32
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0071◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:42:46.25
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0072◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:43:19.53
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0073◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:43:52.86
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0074◆n7jxAxKCBhb6 垢版2021/07/16(金) 19:44:41.88
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0075日本@名無史さん垢版2021/07/16(金) 21:23:05.75
>>969
「南→東」や、
「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の無視などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをして、
証拠は出さない、理由は言わない
ないない尽くしの大和説
理由を言わずに結論だけワメいて、そんなの「説」と言わないんだよ

大和説学者らは終わってるよ
0076日本@名無史さん垢版2021/07/16(金) 21:25:19.23
オモシロ畿内説まとめ

Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!

Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:そんなん知らへん!!

Q:シナで見つからず、魏志倭人伝に記載がなく、実在しない年号が記された三角縁神獣鏡ってなんですか?
A:そんなん知らへん!!

Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:そんなん知らへん!!

Q:纒向遺跡から大陸系遺物は出土しましたか?
A:そんなん知らへん!!

Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:そんなん知らへん!!

Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:そんなん知らへん!!

Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ

Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らへん!!知らへん!!
0077日本@名無史さん垢版2021/07/16(金) 21:25:23.19
>>75
そうやって嘘をついていれば
傷つくのは九州説自身
0078日本@名無史さん垢版2021/07/16(金) 22:01:30.93
>>76
>オモシロ畿内説まとめ

もう九州説は畿内説に負けちゃって全く歯が立たないから
そうやってニセの畿内説を作って鬱憤を晴らすしかないんだろうけど
それってミジメ過ぎない?
0079日本@名無史さん垢版2021/07/16(金) 22:36:42.24
九州説というのは隠れ蓑だし、九州人でもないし
日本に来る前は人以下だったわけだから
0081日本@名無史さん垢版2021/07/16(金) 23:11:31.14
>水行十日 陸行一月 について

水行一日 = 1000里
※魏志倭人伝の里程より

陸行一日 = 50里
※三国志に精通してる先生曰く

1000里 × 十日(10日) = 10000里
50里 × 一月(30日) = 1500里

合計11500里

およよ! 約12000里!!

また答え出ちゃったねw
0082日本@名無史さん垢版2021/07/16(金) 23:12:42.24
ちなみに12000里は

世界の中心にいる天子の徳が届く
もっとも遠くの範囲ギリギリの距離ですw
0083日本@名無史さん垢版2021/07/16(金) 23:15:53.62
つまり観念的な里数
0085日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 05:35:26.91
九州説には時間と歴史の観念が無いからな
0086日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 06:10:18.66
経路を距離つきで列記したあと、最後にトータルの所要日数を書いたと読めば、すべて解決

太陽みれば分かる方角を間違えたと、どこかの説のようなトンデモとは違う
0087日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 06:17:02.53
>>86
それってモロ辻褄合わせにお読み替えだから
0088日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 06:22:32.02
>>87
読み替えてない
書いてあることそのままだ

帯方郡の東南の海の上にある、という冒頭の記述とも一致する
0089日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 06:22:45.93
>>86
>経路を距離つきで列記したあと

それが不彌國までしか書いてないことになるから
自己都合優先のトンデモ読みなのがバレバレでございます

そもそも「太陽みれば分かる方角を間違えた」と言うのが
これ見よがしに反論するために捏造したニセ畿内説だし
0090日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 06:28:00.64
>>88
そのまま?
一致する?

口先だけで結果だけ言ってもねー
それってインチキでしょ
だって、どう一致するのか言えないじゃない
つまり、ただの嘘
0091日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 06:29:52.40
>>89
奴国は場所を含め実在するかどうか不明だったが、魏志倭人伝の記述どおりの場所から金印が出てきた

ならば、その南に邪馬台国があるという記述も信憑性が高い

方角を間違えないかぎりな
0093日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 07:47:06.42
>>86
まさにその通り
>>87
辻褄が合ってるからこそ、大正解なのだ。 合わない奴ほど原典が間違ってるとぬかす。
0094日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 07:51:34.37
行程どおりに行ったら會稽東冶之東まで南下することになるから
大東島〜小笠原くらいに倭が在るという地理観
0095日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 07:52:48.07
帯方郡から女王国までは1万2000余里だと、行程論を締めくくっている。
伊都国まで1万500里。不彌国までは1万600-700里だ。引き算すれば答えは出る。小学生程度の算数な。
0096日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 07:56:09.43
>>94
そうだな、それがつじつまの合わない畿内説読みというもの。
0097日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 07:59:01.25
>>94
魏志倭人伝の会稽東「治」の東は鹿児島辺り
後漢書の会稽東「冶」の東は沖縄辺り

東西に離れてるから、九州北部は角度にしてせいぜい5°ぐらいしか違わない
0098日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:02:39.83
倭人伝の行程はつじつまの合わない地理的世界観で書かれている
だから隋書でも夷洲だと考えた
0099日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:04:29.54
鹿児島辺りなら鹿児島辺りだろw
人種的にすぐちょろまかす
0100日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:08:31.89
>>99
会稽東「治」からの距離なら鹿児島と九州北部なんて、角度にしてせいぜい5°ぐらいの相違

中には、角度にして記述と90°以上違ってるという珍説があるんだぞ
0101日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:16:04.54
>>100
だめだね
どのくらい南か陳寿が計算したなら
角度じゃないんだよ。
0102日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:17:58.31
>>101
もう試合は終わってるんですけど〜

清掃の人たちが困ってるんで、早くリングからどいてもらえませんか、

敗者さんw
0103日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:19:09.05
>>101
東の範疇だろ
これが東の範疇を越えるなら
畿内など、奴国からみて南どころか東ですらない
やや北よりだからな
0104日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:26:10.91
5°ぐらいの範囲でいいなら西日本全部入るだろ
0105日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:27:24.43
訂正

東北まで入るな
0106日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:43:12.61
>>97
>魏志倭人伝の会稽東「治」の東は鹿児島辺り

だとか誤魔化す理屈すら言わないとは
さすが詐欺師の九州説
0108日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:45:08.39
>>103
>東の範疇だろ

ちょうど東じゃないからダメ
0110日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:48:04.16
>>102
根拠レスの勝利宣言ワラタ

負けてるのは九州説なのに詐欺で誤魔化すのは
商売だからなのかな?
九州説醜すぎるよ
0111日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:49:11.13
奴国から南、帯方郡から12000里、
この時点で畿内説はきれいさっぱり消える
0112日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 08:52:29.44
八方位表示なんだから、「東」には東北東から〜東南東までが含まれる
0114日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 09:13:41.32
>>112
>八方位表示なんだから

誤魔化しはだめ
陳寿はちょうど西と書いている
0115日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 09:14:32.63
>>111
消える理由は?
また呪詛唱えてるだけかな
0116日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 09:25:04.40
>>111
>帯方郡から12000里、

九州説きれいさっぱり消えてるな
0117日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 09:25:58.76
>>114
ミスった

誤魔化しはだめ
陳寿はちょうど東と書いている
0118日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 09:29:15.95
>>112
そもそも、中国で言えばどれほど南方なのかという趣旨の文章に
東へ行けば行くほど北になる「八方位表示」を使うと言う発想が
ほとんどお脳死んでます
0119日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 09:47:16.78
考古学的に博多湾沿岸は福岡の南側からの影響は受けていない
0120日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:06:54.63
>>118
「八方位表示」の意味・意義さえ理解できないのか、悲しい限りだ。

>>119
博多湾沿岸は弥生時代からの盟主・金印の倭奴国王の地盤。
これに対して、1-2世紀ごろから末盧国に上陸し、肥前肥後日向へ進出していった新興勢力(後漢勢力)とは対立していた。その両者の衝突が倭国大乱であった。
だから南からの文化文明的影響と言えるようなものはなかったのであろう
0121日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:08:51.02
>>120
>「八方位表示」の意味・意義さえ理解できないのか、悲しい限りだ。

反論できなくなると罵って逃げるって
議論に負けた人な証拠ですよ
0122日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:31:21.77
>>77
そうやって、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の無視などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘をついていれば
傷つくのは大和説学者ら自身
0123日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:35:16.01
>>78
もう、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の大和説は、
九州説に負けちゃって全く歯が立たないから
そうやってニセの九州説を作って鬱憤を晴らすしかないんだろうけど
それってミジメ過ぎない?
0124日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:37:51.43
>>120

肥後北部は頭蓋顔面ど変形バケモノ国
0125日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:39:56.36
>>85
大和説学者らには、史料事実や史料実態からの帰納的でより高確率的な推論や、
時間や方向や、歴史の観念が無いからな
0126日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:40:12.15
>>122
それ、舊唐書以外は史料事実じゃなくて珍説だし
舊唐書を無視していると言うのは単純な嘘
0127日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:42:19.94
>>125
他人に何も証拠のない悪口を言うのは
九州説が負けた証拠
0128日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:45:58.22
>>94
>行程どおりに行ったら會稽東冶之東まで南下することになるから
大東島〜小笠原くらいに倭が在るという地理観

「会稽東冶之東」ではなく、「会稽東治之東」と書かれているのであり、
「東治」という文言は上海付近の呼称であった証拠も出て来ていたから、
「ほぼ九州島付近」を示していた事になり、
「大東島〜小笠原くらいに倭が在るという地理観」とかいうのは、全くの間違い。
0129日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 10:52:47.52
>>128
>「東治」という文言は上海付近の呼称であった証拠も出て来ていたから、

そんな証拠、ないよ
トンデモ
0130日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:01:59.61
>>98
>倭人伝の行程はつじつまの合わない地理的世界観で書かれている

倭人伝の行程は、
同時代の魏の役人らに拠る実地での見聞計の記録を元にして書かれているから、
信頼性も確率も非常に高い。

>だから隋書でも夷洲だと考えた

後代史書での「実地の見聞計測を伴なわず、
後代史家の「解釈や判断」で書かれた情報は、客観性が落ち、
信頼性も確率も落ちるもの。
0131日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:05:41.39
>>128

こうやってラインを少しずつずらすのが竹島どろぼう反日有害種族の手口
0132日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:08:12.51
>>106
「会稽東治≒上海付近」という史料事実や史料実態の、
曲解や否定や誤魔化す理屈すら言わないとは
さすが詐欺師の大和説
0133日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:10:38.60
>>110
根拠レスの勝利宣言ワラタ
負けてるのは大和説なのに詐欺で誤魔化すのは
商売だからなのかな?
大和説学者らは、醜すぎるよ
0134日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:13:50.77
>>133みたいなことするから九州説はバカにされる
0135日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:15:01.96
>>132
>「会稽東治≒上海付近」という史料事実や

それ、史料事実でも何でもないから
0136日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:16:36.68
>>113
ちなみのこの大和説男(学者?)も、二重の詐欺だな
「東→真東」だとか、「会稽東治→会稽東冶」とか
捏造に捏造を重ねてる
0137日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:22:18.94
>>116
>>帯方郡から12000里、

>九州説きれいさっぱり消えてるな

郡から狗邪韓國で七千余里。
大和説は、(南≠東だけではなく)、
郡から狗邪韓國で七千余里でも、さっぱり消えているな。
0138日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:27:11.69
>>137
消える理由がありません
0139日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:29:48.10
>>130
>後代史家の「解釈や判断」で書かれた情報は、客観性が落ち、
>信頼性も確率も落ちるもの。

舊唐書の
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」
とかが、その典型でございます
0140日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 11:40:42.01
>>119
>考古学的に博多湾沿岸は福岡の南側からの影響は受けていない

姫氏松野氏系図に拠れば卑弥呼は「大野」付近の出であり、
風土記に拠れば、福岡平野と筑紫平野の間の峠を収めた甕依姫であったようであり、
女王之所都はおそらく安徳台で、久留米の祇園山に葬られた。
その宗女の壹與は、「壹」が付くから、おそらく糸島の伊都国系の「阿毎氏のイ氏」の出であり、
松野氏姫氏系図では熊襲の「市鹿文」と書かれ、肥前の「與止姫≒淀姫」であり、
平原1号墳に葬られた。
0141日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 12:06:16.64
>>140
そんな偽書に頼るから九州説は死んだ
0142日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 12:17:46.56
>>124
まさしく鬼道の卑弥呼に連なる系譜だな!!
0143日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 12:21:13.09
>>127
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「(唐会要の)正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
「(舊唐書の)日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の隠蔽などのような、
確率の非常に高い史料事実や史料実態の曲解をして、
他人に何も証拠のない悪口を言うのは
大和説学者らが負けた証拠。
0145日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 12:43:07.73
>>143
九州説こそ魏の年号が入ってて
洛陽でも見つかってる三角縁神獣鏡などの史料実態を無視している
0146日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 12:56:33.87
持ち運びできる鏡のような超貴重品は、東遷に伴って簡単に畿内へ運ばれ、或は伝世する。
畿内で出たからといって何の証拠価値もない。
0147日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 13:01:34.12
けれど魏の銅鏡は畿内から見つかるものだから
魏から畿内に直接持ち込まれたという可能性も否定できない
0148日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 13:12:39.12
>>142

松本智津夫に連なるだろ
0149日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 13:32:12.61
>>146
そうやって、たとえ箸墓から親魏倭王の金印が出ても認めないでいられる九州説は融通無碍で結構な説だな
だが、九州からちっとも出ないということは東遷説が全然支持されてない現実に繋がっている
九州説支持者よ、現実を見ろ
大衆は見るからに苦しい言い訳ばかりを言うお前たちを既に見放した
0150日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 14:37:21.40
>>145
実在しない元号入ってたり、洛陽の骨董品屋から出てきた鏡のことか?
そもそも、魏志倭人には銅鏡としか書いてないし、100枚しかないはずなんだけどな

この手のゴッドハンドは畿内説にありがちだな
0152日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 14:41:28.41
実在しない元号を刻む意味がない
0154日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:20:38.07
滇王之印は石寨山6号墓から
廣陵王璽は甘泉二号漢墓付近から出ているが
志賀島は出土場所不明なのでどこかから盗まれたのだろう
0155日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:21:09.74
>>153
それって三世紀前半に作られて鏡だと認めるってことだね?
0156日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:23:32.24
>>150
実在しないと言う立証もできていないし
100枚しかないという証明もできていないんだから
九州説の負けは決まってるでしょう
0157日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:25:04.55
改元してるのを知らないで景初を使ったなら
魏の斉王曹芳の治世の正始元年制作鏡ということになる
0158日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:29:57.51
>>155
魏の人間なら当然知ってるはずの改元を、知らずに作ってあるパチモンが見つかってるじゃないか
畿内からな
0159日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:33:13.99
パチモンなら制詔の年の景初二年(か三年)を刻まないと意味がない
0160日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:33:32.35
>>156
皇帝が親魏倭王に褒美にと贈った銅鏡の同型品があちこちからボロボロ出てきてたまるか
0162日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:45:23.36
それは商標権侵害を逃れるためだから今とは違う
0163日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:55:31.83
>>160
>皇帝が親魏倭王に褒美にと贈った銅鏡の同型品があちこちからボロボロ出てきてたまるか

あんたは知識が少なすぎ
そういうもんは「先例」になるんだ
朝貢のたび100枚下賜するようになる
それが役人の感覚
0164日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:56:48.79
パチモンといえば、平原1号からは中国にはない製作途中で錆色を塗ったパチモンがたくさん出ている
0165日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 15:56:53.52
>>158
>魏の人間なら当然知ってるはずの改元を、

「魏の人間なら当然知ってる」と決めつける理由は?
0166日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:02:57.67
製作途中で錆色を塗った、という根拠は?
0167日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:04:48.95
>>166

その手法は柳田の著書に書いてある
0168日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:05:58.98
銅鏡百枚は特に汝に賜うとして国中の人に示すように言ってる
配るとどうしても足りなくなってしまう
そこで追加注文をするときに倭地の産物を送ることになる
0169日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:10:50.62
>>167
だから錆色塗装というのは現代復元不可能な技法と言われているのに、
完成品の銅鏡に上塗りすることはできず
製作途中に塗られたとわかる根拠は?
0170日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:13:19.61
>>169

塗った後削ってるから
0171日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:16:49.75
>>170
元からある銅鏡に塗装を上塗りして分厚くなり、それを削ったのではない、
という根拠は?
0172日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:24:45.75
>>171

分厚くなって削ったのではなくて
研削、研磨したのは鈕、鈕座、乳、乳座、方格溝、TLV溝
お前柳田の著書すら読んでないのかよ
0173日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:26:43.49
>>172
分厚くなって削ったのではないという根拠は?
0174日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:28:12.15
>>173

鈕、鈕座、乳、乳座、方格溝、TLV溝を削っても薄くならんだろ
0175日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:32:29.93
>>174
研削、研磨したのが鈕、鈕座、乳、乳座、方格溝、TLV溝、だったら、
元からある銅鏡に塗装を施したのではない、という根拠は?
0176日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:33:57.56
そして平原のパチモン鏡制作技術は北部九州のどこにも分配されなかった
0177日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:35:12.77
>>175

元からある銅鏡って何?
0178日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:40:15.89
要するに九州説の人は調査報告とかは一切読まないということ?
0179日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:40:16.62
要するに九州説の人は調査報告とかは一切読まないということ?
0180日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:44:40.00
>>177
舶載鏡
0181日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:44:46.26
>>165
自分とこの皇帝が死んで、暦が変わるとふれ回って、期限までに税を払えと言ってくる
なのに、なんで自国の改元を知らんと思えるのか
0182日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:48:39.96
自国の改元を知らん時点で魏皇帝から卑弥呼への銅鏡百枚ではなかろうて
0183日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 16:59:04.84
難しいことを言っとるんじゃなくて、
技法が謎なんだろ?
舶載鏡に上塗りして一部削ったり、
特殊加工して一部削ったり、ではないという根拠は?
0184日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 17:02:51.45
ということで、この200年ごろの平原パチモン1号がある糸島が3世紀に女王国に従属していた千餘戸の伊都國
倭人の風習である卜骨は糸島からは一欠片も出ていない
0185日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 17:07:30.06
>>184
畿内説はいつも通り逃げた
0186日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 17:12:15.04
>>145
>九州説こそ魏の年号が入ってて
洛陽でも見つかってる三角縁神獣鏡などの史料実態を無視している

洛陽で出土の0〜1枚の△では、当然列島の500枚以上の△の根拠にならず、
楽浪の何枚かの△のにもにもならず、
列島の景初三年以後の紀年△も、
明帝の景初二年12月の詔書の銅鏡百枚の根拠にもならず、
列島の大量の△などは、魏の楽浪帯方攻撃戦争から逃れ、馬韓の不彌部族の縁故で、
列島の藤崎西新町の不彌國へ避難渡来して来た渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏らの関与鏡であった可能性が、
最も高い。
0187日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 17:13:18.95
>>185

いやいるけど?
0188日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 17:19:42.14
平原パチモン墓地には韓伝の「立大木縣鈴鼓事鬼神」の大木が立てられ、
近くから朝鮮式小銅鐸が出土している
0189日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 17:57:51.31
>>182
>自国の改元を知らん時点で魏皇帝から卑弥呼への銅鏡百枚ではなかろうて

だから、そう思う理由は何?
0190日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 18:00:45.38
>>181
>自分とこの皇帝が死んで、暦が変わるとふれ回って、期限までに税を払えと言ってくる

いつ触れ回った?
0191日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 18:00:52.47
>>189
じゃあ、そう思わない理由は何?
0193日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 18:12:38.56
で、錆色塗装が舶載鏡になされたものではない根拠は?
0195日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 18:38:55.09
逃げ恥説
0196日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 18:52:32.17
>>147
>けれど魏の銅鏡は畿内から見つかるものだから
魏から畿内に直接持ち込まれたという可能性も否定できない

畿内なんて存在もしなかった不正文言であり、
大和やその近辺で見つかった銅鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡や、
九州倭國の東征毛人五十五國の将軍らに与えられた銅鏡群である。

魏の洛陽からの出土の0〜1枚の△では、
列島出土の500枚以上の△の証拠になる筈がない。
0197日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 18:56:51.25
>>149
そうやって、たとえ箸墓から漢委奴國王印や親魏倭王の金印が出ていなくても、
九州説を認めないでいられる大和説は、融通無碍で結構な説だな
だが、大和からちっとも出ないということは大和説が全然支持されてない現実に繋がっている
大和説支持者よ、現実を見ろ
大衆は、
見るからに苦しい言い訳ばかりを言うお前たちを、
既に見放した
0198日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 18:58:50.23
>>197
そりゃあ別の理由で九州説がダメだというのが常識化してるんだから
九州説は世間から認めてもらえないさ
当たり前だろう?
0199日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:01:31.83
ふーん
錆色塗装が舶載鏡になされたものでありうるんだ
0200日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:02:12.48
>>194
>畿内説はいつも逃げる

いつ、どこで何から?
また事実無視かな?
0201日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:03:49.98
>>192
>お達しと呼んでる
>通達とか告示とかな

いつ、どこにあった何を?
九州説さん他人に通じる日本語喋ってくださいにね
0202日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:05:06.61
九州説さん他人に通じる日本語喋ってくださいにね
0203日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:06:49.80
錆色塗装が舶載鏡になされたものでありうる
0204日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:08:21.96
舶載鏡に倭国の独自塗装をして、一部研磨をかけたら、
なぜか国産鏡と勘違いされている
0205日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:13:28.60
三角縁神獣鏡が魏で作られたとして、
その鏡師は、元はどの鏡を作っていた職人なのだね?

畿内説ご自慢の肉彫り?だったか
を技術の発展として、それまでに試行していた形跡はあるのかね?
0206日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:14:18.03
>>150
>実在しないと言う立証もできていないし

明帝が景初二年12月の詔書に「銅鏡百枚」の下賜を記載し、
「正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦𦋺、刀、鏡、采物,倭王因使上表荅謝恩詔」
したんだから、卑弥呼の元に実在した事になる。

>100枚しかないという証明もできていないんだから
九州説の負けは決まってるでしょう

銅鏡百枚は卑弥呼へ下賜が完了しているんだから、
大和説学者らの負けに決まっている。
0207日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:18:24.89
銅鏡百枚、と記載されているのだから、
100枚であったことが基準であって、

100枚以上あった証明をキナイコシがしなくてはならない。

ほんと醜悪で見苦しいね。キナイコシは。
0208日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:22:27.18
〆た食材をコトコトと煮込んでいる
0209日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:25:56.22
>>178
>要するに九州説の人は調査報告とかは一切読まないということ?

柳田も含めて大和説学者らは、
「南→東」や、「卑弥呼らの冢→前方後円墳」や、
「唐会要の正北抵新羅」の倭國の中心は北部九州の否定や、
舊唐書の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の隠蔽などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の虚偽論法を使っており、
私の短い人生に、そんな虚偽学者らの論文など、読む必要が全くない。
0210日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:27:26.72
まあそう言わず、長い人生を生きてくださいよ
0211日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:33:55.51
>>181
>自分とこの皇帝が死んで、暦が変わるとふれ回って、期限までに税を払えと言ってくる
なのに、なんで自国の改元を知らんと思えるのか

渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏らは、魏も楽浪帯方攻撃戦争で殺される可能性があったから、
「吏人=楽浪役人」や「母人」も引き連れて、
(不彌部族の縁故で?)列島に避難して来たのであり、
魏の正始改元も知らずに、列島で一旦「景初四年」鏡を造って少し恥をかいた。
0212日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:36:48.58
公孫氏の滅亡時なんて15歳以上の男は全員虐殺されたんだから、
そりゃあ辺境の日本列島で銅鏡を作れと言われたら喜んで移住するでしょうて
0213日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:39:42.31
神社崇拝はゴミ
ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1612714702/

1 名前:日本@名無史さん 2021/02/08(月) 01:18:22.34
神社崇拝はゴミクズ以下の
畜生だという
出自を隠さずに旅に出る
等というお告げがでた。




おや?
キナイコシの好む「ゴミクズ」という言葉が使われておるな
0214日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 19:44:29.77
油かけてる奴って、キナイコシを監視したほうがいいんじゃねーの?
0215日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 20:31:07.17
しばらくお待ちください

末端でやりすぎキナイコシが本部に対処法を問い合わせ中です

しばらくお待ちください
0234日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 20:45:37.12
>>193

実見してないど素人がテキトーに舶載鏡に錆色塗装したと妄想して、そうではない根拠を求めるのではなくて
舶載鏡に錆色塗装したような痕跡があった場合にそう判断される
まず調査した柳田が観察して分析した内容を読みなさい
0235日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 20:57:19.08
神社崇拝はゴミ

41 名前:日本@名無史さん 2021/07/17(土) 20:46:37.57
日本に神社を広めたのは高句麗の人食い馬賊の秦氏
人間を食う連中の神社だよ
中国に万里の長城を作られて、追い払われたから半島を通って日本に人間を食いに来た

祭で神輿に乗ってるヤクザを見てくれ
神輿というのは日本人が頼んでも乗れないぞ
朝鮮の文化だからさ

ヤクザは朝鮮神に仕える者で
朝鮮神たる天武天皇が684年に、自分の取り巻きである豪族に定めた
「八色(やくさ)の姓」が由来

神社のみならず、天皇含めて古代からチンピラ朝鮮人てこと
なんせ人間を食う連中だし


邪馬台国畿内説 Part707

234 名前:日本@名無史さん 2021/07/17(土) 20:45:37.12
>>193

実見してないど素人がテキトーに舶載鏡に錆色塗装したと妄想して、そうではない根拠を求めるのではなくて
舶載鏡に錆色塗装したような痕跡があった場合にそう判断される
まず調査した柳田が観察して分析した内容を読みなさい
0236日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 21:28:09.27
しばらくお待ちください

末端でやりすぎキナイコシが大陸本部に対処法を問い合わせ中です

しばらくお待ちください
0244日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 21:55:28.13
>>235
なるほどね
朝鮮がそういう扱いなのね

漢委奴国王金印は委奴=伊都で伊都に集約して
親魏倭王はド辺境の箸墓にあることにして
日本の基盤は中国王朝の信任から始まることにしたいのね

それが、
漢委奴国王は奴国王で、伊都国王に滅ぼされた
親魏倭王は平原女王で、これも代有王の伊都国王=次の男王に滅ぼされた

ありゃりゃ
日本国って、倭人日本人の国粋国家じゃん、ってことになるから、
必死なのねん
0245日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 22:03:26.92
日本だけじゃなくて、アメリカが後ろにいるから。

漢皇帝や魏皇帝が、
半島南部の領有権を倭王に認めていた、となると、
困るのは韓人ではなくて、(だって傘下に入って堂々と発展できるし)

あれ?
方可五千里なのに、
七千里かかっちゃう

これは揉めるぞぉ
0246日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 22:48:53.77
こわっ

キナイコシが沈黙しちゃった

こわっ

日本史板の反日スレタイってキナイコシの?

こわっ
0247日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 23:11:12.59
>>207
この人、ちょっと頭おかしいんじゃないの?
正始元年に銅鏡が百枚以上下賜されたとか誰も言ってないのに
0248日本@名無史さん垢版2021/07/17(土) 23:16:56.14
ヤクザが神輿に乗ってるって浅草三社祭だろ
0249日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 01:09:40.99
九州説老人の妄想癖はもう病気の域だな
0250日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 02:01:49.65
>>210
黄昏時かな?
0251日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 03:00:10.22
>>184
>ということで、この200年ごろの平原パチモン1号がある糸島が3世紀に
女王国に従属していた千餘戸の伊都國いい倭人の風習である卜骨は糸島からは
一欠片も出ていない

女王に共立された卑弥呼や(その宗女の)壹與は、当然「鬼道」的手法であり、
「ト骨」的手法ではないから、倭國の中心部では、ト骨は殆ど廃れて、
肥前などに僅かしか残らなかったが、
元は出雲のNo.2で、(魏の支配下である事を示す「戸数」ではなく)、
「家数」で書かれて、独立的でもあった「一大國の壱岐」では、
ト骨習俗は、相当残存していた。
0252日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 03:16:54.19
>>193
>で、錆色塗装が舶載鏡になされたものではない根拠は?

平原1号の「21枚の尚方作方格規矩鏡」は、
「尚方作」の記銘の通りに魏の工房での製作鏡であり、
明帝の下賜の銅鏡百枚の中の残存鏡であり、
卑弥呼から壹與に相続された鏡で、
渡来の呉系楽浪鏡師らが「錆色塗装」に関与した鏡であったんでしょうが、
46cmの巨大内行花文鏡などは、当然、
渡来の呉系楽浪鏡師らの製作や錆色塗装の関与があった鏡であったんでしょう。
0253日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 03:16:54.20
>>193
>で、錆色塗装が舶載鏡になされたものではない根拠は?

平原1号の「21枚の尚方作方格規矩鏡」は、
「尚方作」の記銘の通りに魏の工房での製作鏡であり、
明帝の下賜の銅鏡百枚の中の残存鏡であり、
卑弥呼から壹與に相続された鏡で、
渡来の呉系楽浪鏡師らが「錆色塗装」に関与した鏡であったんでしょうが、
46cmの巨大内行花文鏡などは、当然、
渡来の呉系楽浪鏡師らの製作や錆色塗装の関与があった鏡であったんでしょう。
0254日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 03:23:13.57
>>198
そりゃあ,、
文献考古の史料事実や、それからの帰納的確率的な推論で得られた史料事態、という、
別の理由で、大和説がダメだというのが常識化してるんだから
大和説は世間から認めてもらえないさ
当たり前だろう?
0255日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 03:31:43.63
>>205
>三角縁神獣鏡が魏で作られたとして、

洛陽からの出土が0〜1枚では、列島の500枚以上の△の説明は不可能だし、
三角縁も神獣鏡も呉付近で盛行していたんだから、
やはり、列島の△の始まりは、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡で始まった、
であったんでしょうね。

>その鏡師は、元はどの鏡を作っていた職人なのだね?

楽浪出土鏡のような鏡。
0256日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 03:45:03.59
>>195
>実見してないど素人がテキトーに舶載鏡に錆色塗装したと妄想して、そうではない根拠を求めるのではなくて
舶載鏡に錆色塗装したような痕跡があった場合にそう判断される
まず調査した柳田が観察して分析した内容を読みなさい

柳田が、
「大和説学者だ」という、史料事実や史料実態の曲解や否定をするスタンスを捨てて、
史料事実や、それからの帰納的高確率的な推論の史料実態を求める事に変わったら、
「調査した柳田が観察して分析した内容」も読んで上げる。
それまでは、柳田の報告は、半分偽報告であり、信頼性が全くない。
0257日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 03:50:55.78
>>256の訂正
>>234
>実見してないど素人がテキトーに舶載鏡に錆色塗装したと妄想して、そうではない根拠を求めるのではなくて
舶載鏡に錆色塗装したような痕跡があった場合にそう判断される
まず調査した柳田が観察して分析した内容を読みなさい

柳田が、
「大和説学者だ」という、史料事実や史料実態の曲解や否定をするスタンスを捨てて、
史料事実や、それからの帰納的高確率的な推論の史料実態を求める事に変わったら、
「調査した柳田が観察して分析した内容」も読んで上げる。
それまでは、柳田の報告は、半分偽報告であり、信頼性が全くない。
0258日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 04:02:10.48
>>249
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
唐会要の「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
舊唐書などの「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の議論隠蔽などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の、大和説学者らの妄想癖は、
もう病気の域だな
0259日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 04:06:49.81
>>258
正北抵新羅の倭國の中心は北部九州?
倭国の条は書かない
史料事実や史料実態の曲解や否定
なのでバツ
0260日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 07:38:56.06
魏からの使者は食料やらお土産やらを運んでたわけで、賊に襲われたらイチコロ
当然、ホストである邪馬台国が護衛や通訳をつけたはず

すると、同盟国の領地しか通れない
出雲や吉備は通過できないから、畿内入りは無理
仮に、出雲や吉備が同盟国なら、書いて残さないはずがないしな
0261日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 07:56:44.13
そのホストがつけた護部隊というのが一大率な(率=師)
女王国以北〜末盧国(唐津港)の古代街道の安全を守っていたのさ
0262日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 09:19:05.66
>>260
>出雲や吉備は通過できないから、畿内入りは無理

どうして?
出雲や吉備が同盟国じゃないと決めつける理由は?
0263日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 10:39:10.94
特に一大率が置かれたのは女王國以北=異民族との境界域
共立女王国内(連合内)は各国が賊に対処する
0264日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 11:08:25.82
>>262
>>出雲や吉備は通過できないから、畿内入りは無理

>どうして?
出雲や吉備が同盟国じゃないと決めつける理由は?

出雲は、出雲神話では、
「木や綱を使っての越や新羅や北朝鮮や沿海州からの国引き神話の建国譚」があるから、
縄文期からの(侏儒國や東テイ人を除く)西日本のほぼ全域の盟主にまでなっていて、
その内の九州には、紀元前5世紀の呉王夫差の遺民の姫氏が火の国山門に渡来し、
燕の南方にいた倭人が海峡周辺に渡来建国して、天孫族の阿毎氏の天照らは出雲のNo.2になっていて、
「国譲り戦争」で出雲に勝利して、能古島から姪浜や糸島水道方面に上陸建国(天孫降臨)して、
委奴の地で火の国山門から別れた姫氏も合流し、
北部九州の出雲の支配地の宗像や宇佐や岡田宮も支配下にし、
更に国生み神話や五瀬命らの「瀬戸内地域からの東征」で東方に吉備などの植民地を沢山造り、
漢委奴國王や(帥升らの)倭國王が与えられた。
五瀬が敗戦して亡くなったあり、弟の神武が熊野を迂回して、
大和の在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の首長らを騙し討ちに殺戮して、
磐余の地を奪って建国し、その後の欠史八代の頃には、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職になって、葛城や唐古鍵などの在地部族と共存したが、
開化や崇神の頃に、再び九州倭國の大彦らの東征毛人軍が来て、
(出雲以外の)東海や北陸関東東北近くまで進出し、大和も占拠支配して、
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にして、巨大墓を造らせた。
しかし、梁書には、(倭國以外に)、
出雲に文身國、越には大漢國、足摺付近には侏儒國、大和には扶桑國、
東海以東以北には「女國(≒紅毛碧眼の白人蝦夷國?)の存在が記載され、
この内、扶桑國の王は「ヲケ」と書かれ、
大和の顕宗と仁賢の名前が「ヲケとオケ」である事から、扶桑國は大和王権の事であり、
九州倭國の別種分家の大和王権が、5世紀後半には独立的になっていたのだな?、
と思われる。
0265日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 11:25:01.15
>>258
>>259
早朝に一方が書き込むと
わずか4分後に反論の投稿

自演を隠すつもりがないのか
そういう配慮もできない知的水準なのか
0267日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 11:27:56.09
>>265
ちょっと錯覚しました
4分後ではなく、12分後でした(^^;
0268日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 11:37:01.65
>>267
錯覚したというのが錯覚でした(^^;
投稿の間隔は4分でした
0269日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 11:50:47.25
>>264
そんなラノベ書いても歴史モノじゃない
0271日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 12:27:08.59
伊都国は共立された倭女王とは別の王がいる従属国
0272日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 12:54:09.07
>>270
>同盟国なら魏志倭人伝に載ってる
>伊都国のように

伊都国が同盟国だとか思い込む理由は?
0273日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 13:39:58.48
>>272
また聞くだけ聞いて逃げる畿内説の手口か

魏からのお客さんは、食糧やら土産物やら持ってる
賊に襲われたらイチコロだから、護衛と通訳がいる

伊都国まで無事案内してもらったのは伊都国が同盟国の証しだ

で、同盟国と思わない理由は?
はい畿内説逃走
0274日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 13:47:23.27
辰韓人の言語は馬韓と同じではなく、秦人に似たところがある
楽浪人は本は自分たちと同じで楽浪に残った人といい、秦韓という者もいる
糸島の特定の遺跡からは生活用楽浪土器が出ているのでおそらく伊都国王は楽浪の秦系の人
秦の武将が嶺南に建国した南越国の南のベトナム中部を中心栄えていたのが
甕棺墓に豊富な副葬品を持つサーフィン文化
南越王墓からは径41cm、38.4cmの大型彩画鏡が出ている
平原1号から大型鏡、三雲南小路1号甕棺墓から径27.3cm重圏彩画鏡
0275日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 14:22:01.36
>>273
>で、同盟国と思わない理由は?

「統属」してるんだから下位の立場だ
倭人伝を尊重する限り同盟国ではないよ
0277日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 14:46:37.43
郡とのパイプ役で千戸しかないから女王国連合が保護してるんだろうな
通訳は伊都国人だろう
0278日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 14:50:30.85
>>276
伊都国が共立に参加してたっていう根拠は?
0279日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 14:50:52.21
>>273
1>で、同盟国と思わない理由は?
2>はい畿内説逃走

質問する前に回答することって物理的に不可能だよね
だから1と2を同じ投稿に書くのは妄想だ

>>273は妄想ばっかりしてる思い込みの強い人と証明されてしまった
0280日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 14:52:38.06
>>276
>女王を「共立」してるから、形式的には対等

それは確実に間違ってるね
臣下が君主を共立しても君主と臣下は対等にはならない
0284日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 15:06:19.05
>>276
>すべての同盟国が等しく統属

だったら伊都国しか「統属」と書いてないのは何故?
書いてなくても「統属」でいいなら
書いてなくても同盟国でいいよね?
0285日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 15:18:36.67
>>283
>実際逃げたじゃないか

いつ、どこで?
証拠は?

また妄想?
0286日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 15:20:41.86
>>282
>邪馬台国の客を迎えてる

迎えたら、なんで同盟国なの?
そんなこと決めつける根拠は?
下僕の国は迎えないの?
奴隷の国は迎えないの?
なんで?
0288日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 15:34:33.23
>>286
親魏倭王だから、護衛をつけて送り届けてる
敵対国の客を、なんでわざわざ迎え入れるんだよ
0289日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 15:35:28.11
>>287
質問に質問返して誤魔化すなよ無能
0290日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 15:56:01.60
>>288
>親魏倭王だから、護衛をつけて送り届けてる
>敵対国の客を、なんでわざわざ迎え入れるんだよ

日本語がおかしいので意味がわからない
誰が誰に護衛をつけて送り届けたの?
それ、倭人伝に書いてある?
「敵対国の客」だと誰が言った?
また突然相手の言っていないことを妄想?

病気ですか?
0291日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 15:59:38.40
>>283
>実際逃げたじゃないか

誤魔化してないで回答プリーズ

いつ、どこで?
証拠は?

九州説さん、また平気で嘘ついたの?
0292日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 16:14:10.68
>>288
>敵対国の客を、なんでわざわざ迎え入れるんだよ

通説は伊都国=属国なんだから反論になってない
統属下の国だし人口も7万:1千と小さい
通説が自然で、お前の説は不自然だ
0293日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 16:16:13.83
甲論乙駁の与太話おつ
吉野ヶ里と佐賀川上の発掘が一段落するまで、間を持たせてくれよな・・
0294日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 16:17:51.43
>>293
永遠に相手にされない説は待ってられない
0295日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 16:21:32.67
同盟国ってのは邪馬台国7万に対して投馬国5万とか、せいぜい奴国2万までだろう
2千、3千の国は属国だな
0297日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 16:42:38.19
>>292
王がいると明記してるのは伊都国、邪馬台国、狗奴国だけ
しかも、伊都には一大率まで置いてる
これで、同盟国じゃないと本気で言ってるなら脳が沸いてる

畿内説は、脳内の定説ばかりに蝕まれてるから真実が見えないんだぞ
0298日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 17:03:33.78
>>296
>答えてるぞ

どこで何に?

>逃げてるのは畿内説

いつ、どこで何から?
九州説はまた嘘ばかり?
せめて一人前の日本語話してね
0299日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 17:05:29.19
>>297
>しかも、伊都には一大率まで置いてる

そんなもの置かれれたなら、属国でしょ
0300日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 17:10:02.02
>>293
>甲論乙駁の与太話おつ

賛成です。伊都国にも「王」がいたし一大率もいた、という事が史料実態です。

>吉野ヶ里と佐賀川上の発掘が一段落するまで、間を持たせてくれよな・・

お気の毒ですが、伊都國は、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
ですから、「臨津」である地であり、
背振山地南麓部の多久や小城や大和付近では、海が遠過ぎて「臨津」出来ないし、
魏の役人らが長崎半島などを大回りして有明海に入って来る筈もありません。
そして、「南東陸行五百里到伊都國」の行程説明は、
やはり「出発説明+途中説明+到着説明」の順の人類の常識通りの書き方になっており、
「東南」は、末盧國の外縁部からの出発時点での出発方向説明であり、
「陸行五百里」は途中での「案内人に拠る道なり道」の説明であり、
伊都國は、「皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物・・・」出来る地であるから、
ほぼ前原付近〜糸島水道付近になります。
0301日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 17:23:19.10
>>300
何に賛成だかわからない
0302日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 17:28:20.04
>>300
>そして、「南東陸行五百里到伊都國」の行程説明は、
>やはり「出発説明+途中説明+到着説明」の順の人類の常識通りの書き方になっており、

そんな常識はない
出発した方角だけ書いて、その後に方向転換しても書かないとか
どこからどこまで五百里なのか書かないとか
そんなのは非常識だ
非常識すぎて他人と意思疎通ができない
0303日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 17:52:24.13
>>300
オメは、「臨津」を、臨港都市と同じように「津を臨む、津に臨む」などとかいしゃくしているからそうなる。


しかしここで「臨」とは、
「天皇陛下のご臨席を仰いで・・」の例のように、超高位の人物がわざわざ遠い地方まで出向くことを云う。
「天孫降臨・・」もそうだ。天孫が天からわざわざ地上へ降ってきたことを「降臨」と言っている。

くだんの「臨津」の場合も、高官である一大率が、佐賀川上の伊都国からはるばる唐津の末盧港まで出向いて女王宛の荷を受け取り、
(護衛の部隊に守られて、再び佐賀川上の伊都国を経由し)高千穂の女王の都まで届けていたことを表しているのだ。
お気の毒ですが、これが正解!!
0304日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 18:19:28.91
>>303
>しかしここで「臨」とは、

津はどこ?
0305日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 18:34:12.46
>>304
オメは、漢検1級くらは持っているんだろ。それにしては読めないねえ。

>しかしここで「臨・津」とは・・・、
具体的には唐津の競艇場の正門前の古代港・中原遺跡だ。
一大率は、夜駆けの伝令の報告をうけて、早朝出発し、その日の夕方には中原港に着いた。その程度の距離な。
0306日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 18:43:03.02
>>300
それからな、前原〜糸島水道付近の伊都国で「皆臨津搜露,」と解するなら、
荷物は海からイトコクへやってきたことになる。
ならば、何もわざわざ末盧国・唐津へ寄港し、客人を下すことはない。
客も荷物も前原〜糸島水道の港へ、直接上陸する/させるだろう。辻褄が合っておらぬわ・・、
0307日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 18:45:24.06
>>305
じゃあ、なんで中原遺跡にいないの?
0308日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 19:01:17.85
邪馬台国とは卑弥呼を女王に戴く連合国のようなもの。

卑弥呼が邪馬台国の王であるとか、何処かの国の王であると言った描写は一つも無い。
そもそも卑弥呼は国を持っていたのか?甚だ疑問である。

ただの巫女の婆で連合国の盟主だけの存在。
それが卑弥呼。
0309日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 19:17:01.20
>>307
当時のことだから、船は櫓櫂と帆と潮流の知識で海峡を渡ったので、渡海は季節・月齢に依った。
倭人伝に出てくる朝貢の時期は12月と6月だが、それは現代の知識で見ても、一番安全に海峡を渡れる時期なのだそうだ。

つまり当時は、1年に2回(2シーズン)だけしか船の出入りはなかった。
仮に臨時の船が出入りするにしても、新月と満月の前後2-3日だけ、。
だから、年中末盧国唐津に待機して競艇にのぼせている必要はなく、その他の時期は街道の安全確保(盗賊退治と道直し)が任務だったのだろう。
0310日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 19:46:41.36
>>306
>ならば、何もわざわざ末盧国・唐津へ寄港し、客人を下すことはない。

倭人伝には、末盧国・唐津へ寄港し客人を下すとか書いてない。
0311日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 20:01:59.18
>>310
倭人伝には、前原〜糸島水道の津へ寄港し荷物を下すとか書いてない。
が、末盧国へ寄港し、上陸したことは明白に書いてある。
0312日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 21:00:40.53
>>311
誰が「末盧国へ寄港し、上陸した」とか全く書いてないね
0313日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 21:42:34.04
末盧國には官名が書かれていないからマージナルマン(境界人)地域
草木が盛んに茂っているところの津だけを倭国が押さえていた
0314日本@名無史さん垢版2021/07/18(日) 21:50:20.52
対馬ー壱岐、壱岐ー唐津の南方位はずれているので
唐津からの東南方位を根拠にはできない
0315日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 01:01:29.77
>>314
それって当時の人は正しく東西南北を把握できないってことだね?
0316日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 01:03:17.51
>>313
それ、国じゃないし
0317日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 01:11:42.19
>>315

定点ではできるけどね
案内されて移動したら正確にはわからないだろうね
0318日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 01:15:53.38
>>316

末盧國は倭国に編入されてないんだな
0319日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 02:37:58.99
>>306
>それからな、前原〜糸島水道付近の伊都国で「皆臨津搜露,」と解するなら、
荷物は海からイトコクへやってきたことになる。
ならば、何もわざわざ末盧国・唐津へ寄港し、客人を下すことはない。
客も荷物も前原〜糸島水道の港へ、直接上陸する/させるだろう。辻褄が合っておらぬわ・・/

違うな。
今回の魏使らは特に、
大切な詔書や金印や重くて大量の下賜品を「安全に運ぶ事が必要」であり、
だから、危険な渡海や道無き道の峠越えルートなどは、出来るだけ最小限にする必要があり、
だから、古田説にもあったように、
對海國や一大國も海岸沿い二辺の陸路を選択しており、
末盧國の上陸も、東松浦半島の東海岸の「唐津港」付近と考えられ、
末盧國の出発地は、唐津の町の東南端付近から東南方向に出発して、
松浦川も少し上流の浅瀬を選択し、出来るだけ峠越えを避けて、
砂浜海岸沿いの道を選択するもの。
また、都市牛利の都市氏は、後の松浦水軍家であり、
東松浦半島の西北沖の鷹島や黒島が本拠地であり、
渡海の安全航行法や末盧國での道なき道の選択や韓での会話も可能であり、
だから、難升米の次使に選ばれたのであり、
更に「率善校尉,假銀印青綬」を受けて魏の臣下にもなっており、
だから、末盧國には、「官や副」の呼称が不要であったのである。
従って、今回の魏使らは、直接伊都國には上陸しておらず、
だから「自女王國以北,特置一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國,於國中有如刺史」による
「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯」
の「臨津搜露」は、特別に「前原〜糸島水道」付近で行われた事になる。
0320日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 02:50:30.99
A:4世紀前半の崇神以前に大量の奴婢を殺害した人物は一人、

B: そして大量の奴婢を埋葬している場所は一か所。


大量の奴婢(=土蜘蛛)を殺害した人物は神武。
埋葬している場所は大和葛城の高天原=高尾張邑=御所市高天。

https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg

卑弥呼=ヒメ(踏鞴五十鈴)后の墓もそこにある。
大和朝廷の発祥地なので文句なかろう。

纏向説者・九州説者=知恵遅れはそろそろ黙ろうか。
0321日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 02:52:08.02
>>314
>対馬ー壱岐、壱岐ー唐津の南方位はずれているので
唐津からの東南方位を根拠にはできない

海峡の渡海の担当は、松浦水軍家の都市牛利であり、
彼らは、3渡海を「南北方向」だと認識し、魏使らに説明していた可能性が高い。
しかし、末盧國からの陸行の出発方向は、当然案内人がいるから、
その案内方向を計測すればよく、計測も出来るので、魏の役人らは実際に計測記録した。
0322日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 05:37:40.14
それなのに方向を今違えた?
0323日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 06:00:45.15
卑弥呼て邪馬台国の王と共立王と兼任なの?
0324日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 06:26:08.24
古田説にもあったように、
對海國や一大國も海岸沿い二辺の陸路

古田てキチガイ?
危険なら、港で停泊するよ。
0325日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 07:57:56.00
>>319
古田は、血気盛んだった若いころのヨミが外れたため、
(自分ではわかっていたのだと思うが)、引っ込みがつかず、何でもありの言い訳論争を重ねるようになってしまたのではないか。
そしてついには、東日流に活路を見出そうとして力尽きたのだろう。今さら蒸し返すな、南無・・・
0326日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 08:24:42.69
>>319
>松浦川も少し上流の浅瀬を選択し、出来るだけ峠越えを避けて、
>砂浜海岸沿いの道を選択するもの。

古田も実際の地理を知らないで空想してるから、こういうデタラメを書いちゃうんだよね
松浦川はとても川幅が広いから東南陸行で糸島に向かうのは無理なのに
0327日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 09:34:37.41
メモ
■新唐書
其の王の名は「あめ」氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」を以って号と爲し、筑紫城に居す。
彦瀲の子神武立ち、更に「天皇」を以って号と爲し、治を大和州に徙(うつ)す。
0328日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 09:52:22.29
>>327
つまり筑紫にいた頃は王じゃなかった
0329日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 09:59:45.88
>>328
正確に言うと、「天皇」という称号は無かった
まあ常識だが最初の「天皇」は天武だからね
0330日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:21:31.43
【まとめ】
倭の王は32世まで筑紫城に居たが、大和へ移動し天皇と名乗るようになった
この移動時期は7世紀中頃であり、最初に天皇という称号を使ったのは天武天皇

■旧唐書
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。

・倭国条(〜631年の記録):倭国は古の倭奴国なり。
 倭奴国とは、金印が発見された福岡を中心とした国家だった

・日本条(701年〜の記録):日本は倭の別種なり。
 遣唐使の説明に「かつて日本は小国だったが倭国を併合した」とある

【参考】倭国の使者と日本の使者がはちあわせ?
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている

■新唐書
其の王の名は「あめ」氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」を以って号と爲し、筑紫城に居す。
彦瀲の子神武立ち、更に「天皇」を以って号と爲し、治を大和州に徙(うつ)す。
0331日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:28:23.86
>>329
筑紫にいた頃は王ですらなかったと書いてある
0332日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:29:24.11
>>331
どこに?
0333日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:33:05.38
>>323
>卑弥呼て邪馬台国の王と共立王と兼任なの?

違うな。
魏政府や魏役人らが、倭地の中で「王」と認めたのは、
共立女王の親魏倭王の卑弥呼と、その一大率の地位の(卑弥呼共立に同意した)伊都国王と、
卑弥呼共立に同意しなかったらしい狗奴國王の、3人。
その他の共立國のそれぞれのトップは、原則として「大官」や「官」と表示され、
それが、共立以前の各国のトップ(王的地位)であった、と思われ、
だから、邪馬壹國は、単に卑弥呼女王之所都の国であっただけであり、
当然邪馬壹國全体が女王之所都の地である、という事にはならない。
また、狗邪韓國と末盧國には官以下が書かれていないが、
末盧國に関しては、村上水軍家の都市氏と同じ姓の「都市牛利」が、
魏の「率善校尉,假銀印青綬」の地位を貰ってしまっているので、
魏の直轄支配地の形になっており、「官」以下の役職やその人名は省かれたんだろう、と思われる。
また難升米や掖邪狗等も「率善中郎將印綬」を受けているが、
彼ら大夫は、松野氏姫氏系図によれば「姫氏の卑弥呼の親族的関係」であり、
卑弥呼の直属の親族であった可能性が高いが、
しかし、狗邪韓國にも「官」が書かれておらず、
難升米の「難」氏の本貫が百済と華中にあり、近年に双方の先祖供養が百済の地で開かれた事もあり、
難升米は百済語も中国語も可能であったから、卑弥呼の遣使の代表に選ばれた可能性も高く
そうすると、難升米も狗邪韓國の管理者的地位であって「率善中郎將印綬」を受けて、魏の役人にもなったから、
(末盧國の時と同じく)、狗邪韓國の「官」名が省かれた、
という可能性がある事になる。
0334日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:34:15.02
>>330
まとめとか言ってトンデモ作文書いても世間は騙されてくれないよ
0335日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:36:01.00
>>332
自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」を以って号と爲し、筑紫城に居す。

王ではない
0336日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:40:15.08
>>335
中国から見た「王」について
倭人独自の呼称が「尊」というだけのことだが?
0337日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:43:12.27
【初心者向けまとめ】

後漢の時代の倭は100国あった
この頃は畿内からも朝貢を出していた

倭国大乱後、女王を共立した連合国誕生
魏に朝貢した女王国は30国(北部九州一帯)
畿内含む東の倭種の70国は魏に朝貢しなかったので記録が無い
0338日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:50:27.14
>>336
王とは書いてないんだから、勝手に作文はダメ
0339日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 10:51:05.33
>>337
いや、その空想は初心者以下だから
0340日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:05:27.60
>>330
だいたい。神武が大和に徒って初代天皇とか30代欽明11年が西暦552年相当とか書いてある史料を使って
「大和へ移動し天皇と名乗るようになった
この移動時期は7世紀中頃であり」
とか平気で書いちゃう神経がわからん
0341日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:06:47.44
>>328
魏志には記がないので
魏志より後にできた国、

魏志には登場しない国(九州ではない)
のいずれか。
0342日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:11:22.33
畿内説って、やはり先人の言った通りだなw

@畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。
O東西南北が分からない。
P日本製を中国製と偽る。

ことで畿内説は成立しています。
0343日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:14:15.33
>>342
ほら、ひとつも証拠がないことを言い張るのが九州説
0344日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:19:39.54
>>341のように、理由がまったく言えないのも九州説の特徴だね
0345日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:23:48.50
>>336
>中国から見た「王」について
>倭人独自の呼称が「尊」というだけのことだが?

中国人も王と呼んでいないんだから、その言い訳はインチキだろう
0346日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:28:32.40
>>345
そうか、畿内説は漢字が読めないんだったなw
0347日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:32:11.21
>>324
>古田説にもあったように、
對海國や一大國も海岸沿い二辺の陸路

この事は、
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の計算が、
「倭地」であり、「絕在海中洲島之上」であるから、
「陸路での参問」里数を計算して、それが「可五千餘里」になる筈であり、
魏の役人らの侏儒國近くまでの陸路部分の里数を合計してみると、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
の計算になるから、方四百余里の對海國と方三百里の一大國の、
それぞれの海岸沿いの二辺の陸路を算入している事になり、
魏使らは、對海國と一大國の海岸沿い二辺を陸行した事になり、
古田解釈が正しかった事になる。
0348日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:33:04.29
『大庭脩氏は中国側が壬申の乱で、倭国(天智政権)が日本国(天武政権)に倒されたという見解も持っていて、
結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している』

なるほど、現行の日本史で正しいという事だな
0349日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 11:47:21.47
>>325
東日流問題に関しても、
安本らの筆跡鑑定で、喜八郎さんの筆跡である、とされた原稿が、
娘の章子さんの清書原稿であった事が判った事と、
藤本さんの原稿への「喜八郎さんの加筆」筆跡部分が藤本さんから提示され、
その筆跡が余りの悪筆で撥字であり、東日流の筆跡とは全くかけ離れた異なる筆跡である事がバレて、
安本らの筆跡鑑定が全くの虚偽であった事になり、
和田家の東日流などは全くの真書であり、
偽書説派の全面的な敗北である事で決着している。
0350日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 12:01:28.69
>>349
>娘の章子さんの清書原稿であった事が判った事と、

判った?
喜八郎さんがそう言っただけでしょ
0351日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 12:21:37.44
誤字まで同じ
0352日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 12:26:19.80
>>346
>そうか、畿内説は漢字が読めないんだったなw

論破されると反論をしなくなり
このように悪口雑言だけになるのが
九州説の特徴
0353日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 12:38:03.80
>>337
>畿内含む東の倭種の70国は魏に朝貢しなかったので記録が無い

倭種の国々は「倭国」ではなかったから記録がなかった、つまり「倭国」とは九州の事。
0354日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 12:44:14.92
>>353
畿内の東の海を渡ったら九州があるのかw

認知症の薬貰ってこいw
0355日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 12:45:43.67
>>352>>342のK
0356日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 13:00:32.46
>>344
理由?
魏志に記がないと書いている
0357日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 13:05:32.27
>>347
>「陸路での参問」里数を計算して、それが「可五千餘里」になる筈であり、

自己矛盾してるから、もう崩壊してる珍説だよ
末盧国のとこの五百里って、どこからdコマでだか言えるか?
その説じゃ、言えないんだよ
自己矛盾で崩壊するから
0358日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 13:22:32.05
>>356
>理由?
>魏志に記がないと書いている

1)魏志に記がないという理由は?

2)魏志に記がないと
    魏志より後にできた国、
   or
    魏志には登場しない国(九州ではない)
  という理由は?
0359日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 13:26:45.22
>>347
對海國と一大國の海岸沿い二辺を陸行した事にしたいのがミエミエ
停泊して島の様子を使者が見れば済む
下賜品等の荷物まで同行させる事はない。
荷物ごといくわけない。
それに陸路の記もない。
史料に加筆だよ。
史料実態によってバツだな。
0360日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 13:29:56.56
>>358
魏志の国々に
筑紫にあたいする国名がないからだよ。
あんたは、どう思うの?
0361日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 13:35:33.50
>>360
魏志の国々に
筑紫にあたいする国名がない

と、どうなるの?
論理的にお願いします
0362日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 13:39:42.15
後にできた国か
他の国になるかどっちかだな。
あんたは、どう思うかは書かないんだな。
0363日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 13:50:05.06
>>362
「あたいする」って言葉の意味がよくわからない
後にできた国か
他の国になるかどっちか
になるって理由は?
0365日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 16:06:01.54
日教組廃止でな
0366日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 16:25:23.37
反論ができず悪口専門になった九州説は、誰からも相手にされない
0367日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 17:18:43.20
>>360
>魏志の国々に
>筑紫にあたいする国名がないからだよ。

日本語として意味わからん
0368日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 21:08:53.01
>>340
列島の王たちの中で、誰が一番早く「天皇」を称したのか?に関しては、
常陸風土記に「倭武天皇」という文言があり、当然東海姫氏國の「倭國王の武」の事になるが、
宋末から梁初の倭王武が実際に「倭武天皇」と称したのか?は、中国文献には存在せず不明である。
そして、その次は書紀の継体紀の記載の、
或本云:「天皇二十八年,歲次甲寅,崩」
而此云:「二十五年歲次辛亥崩」者,取『百濟本記』為文。
其文云:「太歲辛亥三月,師進至于安羅,營乞乇城。是月,高麗弒其王安。
又聞,日本天皇及太子皇子俱崩薨」由此而言,辛亥之歲當 二十五年矣。後勘校者,知之也。
とあり、そのような事件は、「磐井」の話しかなく、
従って、517年頃に東海姫氏國の倭國王哲に変わって王になった「阿毎氏の磐井」が、
535年頃に大和のヲホド(継体)の命で磐井を倒した話である事になり、
従って、「日本天皇及太子皇子俱薨」の「日本天皇」は磐井の事になり、
東海姫氏國の倭國王哲から王権を奪った?磐井が内外に「日本天皇」と称していた事になり、
従って、列島での「天皇」を実質的に称した最初は、磐井であった、という事になる。
そして、磐井や葛子の40〜50年後の「阿毎タリシホコ」は、
列島で初めて「天子」を称した事になる。
0369日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 21:11:31.37
アホか

それじゃ日本に中国人らが住んでいたってことになるだろ
0370日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 21:12:07.21
もすこしまじめにやれ
0371日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 21:37:00.44
卑弥呼が死んで作られた「冢」は、覆う・上からかぶせるという意味、つまり石室あるいはハカドコロのことでしょう。

始皇帝陵が「冢」と表記されている例は『史記』高祖本紀に「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、
等で分かります。

これは始皇帝陵(墳)の中に「冢」があるという意味でしょう。
始皇帝陵は発掘されてませんが、2003年11月、リモートセンシングという国家プロジェクトでの、
赤外線、電磁波、磁気など最新の科学技術を駆使した調査により、
始皇帝陵の地下30mに宮殿のような空間があることが判明してるようです。
つまり始皇帝冢の「冢」とは上から覆いをした、この地下宮殿のような空間の事なのでしょう。

それを卑弥呼墓最有力の箸墓に例えれば、陵(墳)の一部分に「冢=石室」があるという事、
もし箸墓が卑弥呼墓なら、卑弥呼の死後に陵の一部分、おそらく円墳部分に「冢=石室」を作ったという事です。
けっして卑弥呼の死後に「墳丘」を造り始めたのではありません。

これなら魏志倭人伝の卑弥呼の死後に冢を作ったという記述も納得できます。

しかしそれなら箸墓は卑弥呼墓にはなりません。
なぜならば卑弥呼の死亡時期248年にはとっくに墳=陵が完成していたという事になるからです。
箸墓は建造開始時期が布留0式古相、年輪年代で258年、
この時点で248年死亡の卑弥呼の墓というのはかなり苦しいのですが、
歴博が言うように箸墓建造開始の布留0式古相を240〜260年として、その240年を採用するとしても、
248年にはすでに墳丘が完成していたというのなら、なおさら時代が合いません。
いや、240年に墳丘を作り始めて248年には完成してたはずだという理屈は通るかも知れませんが、
当時の平均寿命は40歳に満たないわけで、
2世紀末に即位した卑弥呼は当時としては異例の長寿であったわけです。
常識的に考えて、平均寿命である40歳くらいまでには卑弥呼の墳=陵を造っていたでしょうから、
箸墓がもし卑弥呼墓なら、卑弥呼40歳の時期=3世紀初〜前葉、庄内0期または庄内1期には墳丘は完成していたはずです。

つまり歴博の言う240年でも常識的に合わず、年輪年代の258年ごろからでもさらに合わないわけです。

以上、箸墓は卑弥呼墓ではない。
0372日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 21:53:32.58
>>351
>>娘の章子さんの清書原稿であった事が判った事と、

>判った? 喜八郎さんがそう言っただけでしょ
>誤字まで同じ

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&;ei=UTF-8&gdr=1&p=%E8%97%A4%E6%9C%AC%E5%8E%9F%E7%A8%BF%E3%81%AB%E5%8A%A0%E7%AD%86%20%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E7%AD%86%E8%B7%A1
の先頭にある「藤本原稿への喜八郎さんの加筆部分の筆跡」を見てみな。
ついでに、
安本ら偽書説派が「喜八郎さんの筆跡だ」とした章子さんの「丑寅原稿」の筆跡や、
明治写本群の筆跡とも、比較してみな。
素人でもアホでも・・・・でも、違う筆跡であり、別人だ、と判るから。
0373日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 21:56:54.72
>>352
論破されると反論をしなくなり
このように悪口雑言だけになるのが
大和説学者らの特徴
0374日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 22:02:42.99
>>357
>末盧国のとこの五百里って、どこからdコマでだか言えるか?

末盧國の出発地(おそらく唐津の町の東南端付近の出口」から、
到着地の伊都國の入り口付近(おそらく前原付近)の、海岸沿いを中心とした道のり里数。
0375日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 22:11:01.79
>>366
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態に反論ができず、
悪口専門になった大和説学者らは、誰からも相手にされない
0377日本@名無史さん垢版2021/07/19(月) 23:57:02.10
素人でもアホでも・・・・でも、
竹島どろぼう反日有害活動員も違う筆跡であり、別人だ、と言い張っている
0378日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 00:19:51.86
>>375
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」などの、
史料事実や史料実態によってあんたはバツだな
0379日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 00:22:12.85
>>367
日本語として意味わからん
理由がわからん
0380日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 06:33:21.17
九州説って、もう何も考えてないだろ
0381日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 07:06:33.57
>>374
>末盧國の出発地(おそらく唐津の町の東南端付近の出口」から、
到着地の伊都國の入り口付近(おそらく前原付近)の、海岸沿いを中心とした道のり里数

末盧国からの「五百里」が通説の「伊都國の中心(政庁)」まででなく「伊都國の入り口付近」までというヘンテコ特諸説だということは
この五百里と、伊都国から不彌國への百里とは繋がっていない。
つまり部分里程の合計=総里程という原則が破綻している
つまり、万二千余里で女王国に着くという古田説の根本が崩壊していて
自己矛盾のため破綻している、という証しなのだな
0382日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 07:22:56.03
>>381
マツロは松浦だからかなり範囲が広い
長崎県平戸市、同松浦市と、佐賀県東松浦郡までが旧松浦郡(マツロ国)だ
0383日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 07:39:15.83
>>374
>末盧國の出発地(おそらく唐津の町の東南端付近の出口」から、
>到着地の伊都國の入り口付近(おそらく前原付近)の、海岸沿いを中心とした道のり里数。

その行程は500里に満たないが、それよりもっと問題なのは、倭人伝に云う東南でなくて、北東に当たることだ。
古田も、安本も、その他大勢も、方向感覚が90度ネジレてる。
「唐津の町の東南端付近の出口」からは、東南(の佐賀市方面)へ向かへと書かれている・・、
0384日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 07:46:26.11
>>382
それで、その旧松浦郡(マツロ国)のどこに上陸したのか?
官が(常駐して)いなかったというから、きっと辺鄙な津だったんだろうけどな・・、
0386日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 07:56:14.77
九州説はまず九州内予選を戦って勝ち抜いてこないと、纒向に収束してる近畿説と同じ土俵に立っちゃいけない
九州のどこかわからんが九州ですっておかしいだろ
五輪開催地でも、まず国内を勝ち抜いてから世界に立候補するもんだ
0387日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 08:03:38.86
>>386
偉そうなことをぬかしとるではないか!
纒向に収束といっても、首根っこの糸島・伊都国がお陀仏になれば、纒向も共倒れなんだが、そこんとこお忘れなく・・、
0388日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 08:04:27.37
>>386
ピンポイントで指定するのが、ここでなくちゃ困るという場所ありきの畿内説の特徴だな

30か国連合の本拠地というのが、卑弥呼の居所なのか、政治の中枢なのか、交易の中心なのか分からんのだから、ここら辺とするのが当然の姿勢
0389日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 08:15:03.72
>>385
大松浦市なら、官の2-3人の記述は有って良いはずだ。
それから、松浦は文字通り「浦(海沿いの海水の港)」であって、「津(流入河川を利用した真水の港)」ではないな。
ちと苦しいが、でもまあ一応松浦市だったとしても、その東南の伊都国・奴国・不彌国はどこだったかと言えば、結局は佐賀平野になる・・、
0390日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 08:27:55.28
>>376
>三角縁神獣鏡や甲冑 福岡・朝倉市の古墳出土品を展示
https://www.iza.ne.jp/article/20210719-H6YTGEQU4FIJ3NLZQW2UVNLFGA/
・・・邪馬台国の女王、卑弥呼が魏から贈られたと伝わる三角縁神獣鏡や・・・

また大和説者が、邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っており、
また、三角縁も神獣鏡も、いずれも江南付近で盛行しており、
△は、楽浪からは幾つも出土しており、洛陽からは0〜1枚の出土であり、
だから、列島の500枚以上の△は明帝の下賜の「銅鏡百枚」では有り得ず、
魏の楽浪帯方攻撃戦争で身の危険を感じた(陳氏らの)呉系楽浪鏡師らが、
吏人(役人)や母人らを伴なって、
馬韓の不彌部族の助けで、列島の不彌國付近に、流浪避難して来て、
列島各地の王や豪族らに、△を含めて大量の鏡造りに関与したもの。

>・・・同市教育委員会などが調べたところ、中国で作られた三角縁神獣鏡と確認された

朝倉市教育委員会の学者らの間違い。
彼らは、「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
唐会要倭國伝の「北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定や、
舊唐書日本國伝の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の隠蔽などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定をするエセ学者ら。
0391日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 08:45:10.91
>>381
>>末盧國の出発地(おそらく唐津の町の東南端付近の出口」から、
到着地の伊都國の入り口付近(おそらく前原付近)の、海岸沿いを中心とした道のり里数

>末盧国からの「五百里」が通説の「伊都國の中心(政庁)」まででなく「伊都國の入り口付近」までというヘンテコ特諸説だということは
この五百里と、伊都国から不彌國への百里とは繋がっていない。
つまり部分里程の合計=総里程という原則が破綻している

いや、魏の役人らや陳寿の国間里数の計測区間の原則は、
双方の国の居住外縁部や、門や柵の間の里数が原則であり、
双方の国内移動里数は、「余」という近似表記に含まれるもの。

>つまり、万二千余里で女王国に着くという古田説の根本が崩壊していて
自己矛盾のため破綻している、という証しなのだ

伊都国と奴國の間や、伊都国と不彌國の間も、
それぞれの「外縁部間距離の近似里数」記録。
だから、伊都國と不彌國の間の百里も、
糸島水道出口付近から不彌國の入り口の小戸付近までの間の、
近似的里数であった可能性が高い。
0392日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 08:52:54.11
>>391
倭人伝や、魏略や、廣志の記述に背く、末盧国北東の糸島水道方面が、
伊都国や奴国や不彌国であった可能性ほとんどゼロ・・、
0393日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 09:20:14.51
>>371
>しかしそれなら箸墓は卑弥呼墓にはなりません。

残念でした
冢は「封土作冢」
出発点から間違いです
0394日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 09:23:01.80
>>392
でも末盧国北東の糸島水道方面が、
伊都国や奴国や不彌国であった
というのが通説だしね
あなたのいうことは
誰も信じないよ
0395日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 09:28:11.28
>>391
>伊都国と奴國の間や、伊都国と不彌國の間も、
>それぞれの「外縁部間距離の近似里数」記録。

だという古田珍説は合計が1万2千余里になる「部分里程の総計=総里程」の原則と自己矛盾するから、崩壊しちゃったんだよ
0396日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 10:12:33.55
>>388
>30か国連合の本拠地というのが、卑弥呼の居所なのか、政治の中枢なのか、交易の中心なのか分からんのだから、ここら辺とするのが当然の姿勢

邪馬台国が女王所都という出発点を忘れた妄想説は支持者いないよ
0397日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 10:18:12.93
松浦からなら、一度伊万里に大きく南下するから、そこからダラダラと北東(糸島)に進んでも、全体的には東南という印象になってもおかしくない
0398日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 10:20:04.20
>>396
たとえば江戸時代、天子様の都は京都だったが、政治の中心は江戸、交易は横浜や長崎だった
0399日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 10:27:52.30
>>384

肥前唯一の名神大社である田島神社は松浦郡呼子の加部島にある
航海技術が進歩した遣唐使も航海の安全を祈願した
源頼光が寄進した頼光鳥居や秀吉が祈願した太閤祈念石がある
0400日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 11:12:15.04
>>394
定説は定説どまり、通説は通説どまり、
多数が信じているからというのは鬼道や宗教の信者どまり、教祖の云うことは(科学的な)真実とは限らない・・、

>>397
真っすぐ捻じ曲げても、ダラダラと捻じ曲げても、結果、捻じ曲げたことに変わりはない・・、
0402日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 11:24:34.95
>>400

根拠がないお前のは説以前
0403日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 11:26:45.17
>>400
金印という物証が出てる
魏志倭人伝で、奴国があると記載されている場所からな
0404日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 11:35:49.13
>>401
>これがねじ曲げなら、畿内説などとっくにねじ切れている

こういうのが、中身のない言い返しの典型だな。
ぜんぜん反論できないお手上げって事だろ。
情けないなあ
0405日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 11:46:08.58
>>398
それが何か?
なんの弁明になるの?
0406日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 11:51:02.35
>>404
中身がないのはお前だろ

大きく南下した後、ほぼ東にむかった
東といっても東北東だから、現在の正確な地図では、最終的に微妙に北東にあたる
でも測量しながら進んだわけじゃないから、歩いた感覚的としては南東と感じてもおかしくない

これがねじ曲げなら、南とあるけど実は北東だった、なんてとっくにねじ切れてる

そのまんまの意味だ
0407日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 11:54:05.81
>>405
女王国の都なるものが、卑弥呼の居所とは断定できない
政治の中心地(たとえば江戸時代の江戸)や交易で栄えてる場所(たとえば横浜)の可能性もある

お前は断定できるのか?
0408日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 12:02:35.53
>>406
>でも測量しながら進んだわけじゃないから、歩いた感覚的としては南東と感じてもおかしくない

おかしいんだよ
「最終的に微妙に北東にあたる
でも測量しながら進んだわけじゃないから、
歩いた感覚的としては南東と感じてもおかしくない」

「南とあるけど実は北東だった」
は、おんなじだ
お脳がねじ切れてるぜ

畿内説の主張は「記載されている方位には間違いがある」だから
なんの問題もない
0409日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 12:03:37.16
>>407
断定できるよ常識で
0410日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 12:09:28.70
>>408
ところが全然違う
南下したあと東に向かったと思ったら角度が北に10°ぐらいズレてた、に対して
畿内は90°以上ねじ切ってる

墓穴だな
0412日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 12:43:27.85
>>403
倭人伝には奴国が二つ出てくる。
一つは伊都国の東南100里の「奴国」、これは現在の佐賀市街(佐賀県庁・佐賀城あたり)で、当時の水田開拓前線だ。

二つ目は、遠絶の傍国の最後に出てくる「奴国」だ。
遠絶とは上品な言い回しで、じつは間柄が疎遠な不仲な国だったと解釈すべきだろう。
つまりかって倭奴国と呼ばれて全九州島の王として振る舞い、57年には漢倭奴国王の金印をもらったあの博多奴国だ。
このように考えれば、二つの奴国の謎が解けるし、
伊都国/邪馬台国勢力が、辺鄙な西の唐津からひっそり上陸し、間道を伝って佐賀平野へ進攻進出したナゾも解ける。
0413日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 13:08:16.43
「末盧国の東南に伊都国あり」と書かれているにも関わらず、
大勢が北東の糸島水道方面へ流れたのは、言い出しっぺの新井白石の影響が大きい。
白石は、神功皇后こそ卑弥呼と信じていたので、半島帰りの神功皇后が立ち寄った糸島水道西端の深江湾あたりを伊都国と考えた。

それを踏襲したのが明治43年の白鳥庫吉で、
上陸地の長崎平戸から海岸伝いに糸島〜博多へ至ったと推定し、その博多で南へ転じ、肥後菊池の山門郷へ向かったと考えた。
これに猛反発したのが内藤湖南であるが、奇妙なことに糸島〜博多までは白鳥と呉越同舟なのに、
博多の次の段になると急に仲たがいし、直進して東の畿内へ向かったのだーと論じた。
要するに、唐津北東の糸島方面が通説になったのは、
明治の東大×・京大✖が共に「北東だー」と叫んで共闘したからそうなったのであるが、考えてみれば邪馬台国論争300年の最大の不思議だな。
0414日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 13:09:34.23
>>411
中国人にとって都とは最高行政機関の置かれている場所で君長の
が住んでいるのが常識
常識と違う都なら注記する
でないと読者に伝わらない文章になる
0415日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 13:11:07.14
>>413
>要するに、唐津北東の糸島方面が通説になったのは、
>明治の東大×・京大✖が共に「北東だー」と叫んで共闘したからそうなったのであるが、考えてみれば邪馬台国論争300年の最大の不思議だな。

違うよ
いまだに異論がないからだよ
0416日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 13:48:21.50
>>410
>ところが全然違う

畿内説の主張は「記載されている方位には間違いがある」だから
どこも違わない
0417日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 13:58:58.37
論理性の基準がズレてるので何を言っても妄想家の独り言にしかならない低能畿内説あわれ
0418日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 14:06:32.60
>>417
そういう具体性のない総論だけ呟いてても
妄想家の独り言にしかならないんだから
低能であわれなのは九州説なんだけどね
0419日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 14:11:59.13
>>412

チョンの恨と同じ
0420日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 14:16:45.46
「(倭人伝に)記載されている方位には間違いがある・・」というセリフが、そもそも大間違い、台本を良く読んで桶。
いや、そのどこぞの帝国大学編の台本が間違っとるんだろな・・ww
0421日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 14:21:09.69
>>415
であるからして、
遠くは森村伊作先生や吉本彰先生が、近くはオレ様が、佐賀平野だーと超特大の異論を唱えているのだ。
0422日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 14:31:58.68
>>421
学説じゃないのでカウントされず
0423日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 14:34:11.19
>>420
反論できないくせに、そういう態度って
最低脳の所業だね
0424日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 14:46:41.51
>>422
学者の森が火焔に包まれてるように見える、折角の学説も、まもなく灰になるんじゃないの・・、
0425日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 14:47:58.91
>>424
錯覚だよ
立論できないだろ?
0426日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:04:31.43
チョンボをこいてしまわれた森先生は九州説(東遷説)
0427日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:05:49.74
>>425
そうだな、どうせ灰になっちまうものだ、根拠も理由も残らない紙屑相手に立論も無駄。
0428日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:06:08.92
チョン式論法は畿内説
0429日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:09:30.29
>>428

竹島どろぼう反日有害民族オウム返し
0431日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:14:01.49
>>429
誰だと思って話しかけてんの?
0432日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:17:21.15
住むなら住に相当する文字入り
首都なら国が入り、
女王国之所都となる。
0433日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:22:14.35
つまり、邪馬台国は中心国でない事がわかります。
0434日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:23:38.43
by 忘れた。
0435日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:26:25.26
都は多くの人々で賑わう場所
そこには邪馬台という何かが置いてある

今で言う首都ではない
首都に該当するのは伊都国
0436日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:27:30.61
>>435
なんか根拠でもあるわけ?
ないよね
0437日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:29:50.87
>>432
>女王国之所都となる

おばか
動詞「都する」の主語は人だよ
0438日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:36:43.98
by説が有利ですよ。
紛争地域でもないから鉄鏃も極端に少ない。
クワの植生もないので養蚕は後の時代。
絹も出ません。
農業生産が上がり、丹の出土があり
宗教地で開拓中の国です。近畿を大和州と考えます。
0439日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:39:42.64
倭人伝に書いてない作り話のくせに説っていうなよw
0440日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:40:08.00
>>437
じゃ、どう書くの?
0441日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:40:43.92
>>438
手前味噌ミットモナイ
0442日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:41:33.32
>>439
書いていない箇所をどうぞ?
0443日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:42:59.47
>>

書いていない箇所?w
0444日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:43:53.38
倭人伝に書いてない作り話のくせ?
0445日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:46:40.31
>>倭人伝に書いてない作り話のくせに説っていう>>なよw

理由は?
0446日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:47:12.78
>>436
「憑山負海鎮馬臺以建都」
0447日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:49:52.34
>>445

書かれている箇所を示せカス
0448日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:49:55.00
どういう意味なんだろうな

「憑山負海鎮馬臺以建都」
(邪)馬台の山と海に頼って首都を建てる
0449日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:52:04.11
>>447
何を?
0450日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:52:50.99
>>440
「女王之所京都」

実際の用例は
「《王名》所都」が圧倒的に多く
「《国名》所都」の方が少数派
0451日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:53:14.63
>>446

馬臺じゃなくて邪馬臺
0452日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:56:16.46
臺の字も違う
0453日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:56:17.73
>>450
何か根拠がある統計データがあるの?
0455日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 15:59:36.44
中国留学生、何人かに聞いみるね。
0456日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:03:43.78
現代文じゃないから留学生じゃだめだろ
0457日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:05:39.11
>>456
何専攻ならいいの?
0458日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:06:36.70
ユダヤつながりか?

馬臺(マタイ)
マタイは、新約聖書の福音書に登場する人物でイエス・キリストの十二使徒の1人。
マタイはヘブライ語系の名前
0459日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:07:34.76
中国の史学者だな
0460日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:12:24.91
【重要】魏志倭人伝に書いてあることをしっかり読みましょう。

@女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
A@以外は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
B南には敵対する狗奴国がある
C東には海があり、その先にまた倭種の国がある

よって女王が居た邪馬台国は女王国北部の南端と考えられる

水行行程の部分は朝貢に来た倭人の説明を書き写したものであり、その始点は帯方郡である
図:https://i.imgur.com/r68VjFt.png
この道のりが12000里

参考)
・倭人は里を知らず日を使って距離をしめした(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
0461日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:13:17.46
>>453
前四史中
55例が「帝王名or称号」+「所都」
18例が「国名or民族名」+「所都」

圧倒的に「人」+「所都」
0462日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:18:20.27
437、450は学者ではないので
たんに自説でいいのだな?
0463日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:18:58.24
馬臺(マタイ)というのは、倭人語で「女王」を意味する

つまり邪馬台国は女王国という意味であり、
邪馬台国という一国があるのではなく、女王連合国全体を意味する
0464日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:20:43.99
>>463

作り話
0465日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:23:11.52
>>461
0ではない事がわかりますね。
主語が人ではない場合はどう書くのだろう?
東京は日本の首都です。
0466日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:28:07.86
馬臺(マタイ)というのは、倭人語で「巫女」を意味する

つまり邪馬台国は巫女(女王)国という意味であり、
邪馬台国という一国があるのではなく、巫女を中心とする国家を意味する

当時の国家体制は「一国につき巫女が一人居る」体制だった

巫女の取り合いをしていたのが倭国大乱だ
0467日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:31:53.93
邪馬臺はヤマタイでなく、シャマンタイと読む

※ツングース語で呪術師の一種を指す「?aman, シャマン」
0469日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:33:23.25
>>468
マジ話
0470日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:34:18.98
卑弥呼ではなく卑弥娥になっている
0471日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:37:00.64
呪術師の巫女はシャマンと呼ばれていた
そのシャマンが治める国を倭人はシャマタイゴ「邪馬臺国」と呼んでいた
0472日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 16:38:49.43
卑弥呼はツングース系の呪術師だったのかもしれない
0473日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:02:21.79
シャマン、サマンはエヴェンキ語
0474日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:11:32.93
>>393
>残念でした
>冢は「封土作冢」
>出発点から間違いです

だから、墳丘に「封土作冢」だから、卑弥呼墓は箸墓ではないね。
だって墳丘の建造開始が布留0式古相=258年だからね。
その後、「封土作冢」だから、だいたい20年後くらいだろうね。
箸墓は卑弥呼墓でも何でもない。
0475日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:13:49.09
>>474
土を盛っただけなら今頃はもう平地になってるかもね
0476日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:17:46.10
https://www.sankeibiz.jp/business/news/200110/bsm2001101033004-n1.htm

橿考研が24年に実施した3次元航空レーザー計測で、後円部の最上段に直径約39メートル、高さ約4・7メートルの特殊な円丘があることが分かっている。

これが「封土作冢」ということだろうね。
でも258年頃から造り始めた墳丘がすでに10年後くらいに完成していて、
その後に「封土作冢」だから、箸墓は卑弥呼墓なんてトンデモない。

あれはイカガノシコオさんの墓だよん♪
0477日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:22:39.17
>>476
馬具は発見されたのか?
0478日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:24:14.34
>>476

冢 高墳也。『說文解字』
0479日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:34:32.89
墳丘の造り始め時期(258年)と後円部の特殊円丘の時期が乖離する。

よって箸墓は248年に死んだ卑弥呼墓ではない。
0480日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:40:45.19
>>479
どう乖離するの?
0481日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:43:41.01
>>474
>その後、「封土作冢」だから、だいたい20年後くらいだろうね。

また根拠なし?
九州説はこれだから(笑
0482日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:43:53.45
>>408
>畿内説の主張は「記載されている方位には間違いがある」だから
なんの問題もない

魏の役人らは、当然周髀算経や礼記の東西南北の方向の決め方を読んでいるんだから、
魏志の東西南北に関する記録には、ほぼ間違いがない。
0483日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:48:56.11
>>465
>0ではない事がわかりますね。

無意味な頑張りです

>女王国之所都となる。
という主張が「女王之所都」のままでいいという主張にかt4えないことが
わかりますね?
0484日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:48:56.72
畿内説は魏志倭人伝を横読みしてるんだよ
90度ズレてるから
0485日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:53:29.80
>>474
>だから、墳丘に「封土作冢」だから、卑弥呼墓は箸墓ではないね。

だから、「墳丘に『封土作冢』だ 」っていう根拠なし
普通の人は「土を封じて作った冢」=墳丘と正しく理解している


>卑弥呼墓は箸墓ではないね。
    ↑
  無意味な連呼
0486日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:54:57.33
タイプミス訂正

483日本@名無史さん2021/07/20(火) 17:48:56.11
>>465
>0ではない事がわかりますね。

無意味な頑張りです

>女王国之所都となる。
という主張が「女王之所都」のままでいいという主張に勝てないことが
わかりますね?
0487日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 17:59:10.06
>>462
>437、450は学者ではないので
>たんに自説でいいのだな?

いや、統計データだよ
0488日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:08:24.71
>>412
>倭人伝には奴国が二つ出てくる。
一つは伊都国の東南100里の「奴国」、これは現在の佐賀市街(佐賀県庁・佐賀城あたり)で、当時の水田開拓前線だ。
二つ目は、遠絶の傍国の最後に出てくる「奴国」だ。
遠絶とは上品な言い回しで、じつは間柄が疎遠な不仲な国だったと解釈すべきだろう。
つまりかって倭奴国と呼ばれて全九州島の王として振る舞い、57年には漢倭奴国王の金印をもらったあの博多奴国だ。
このように考えれば、二つの奴国の謎が解けるし、
伊都国/邪馬台国勢力が、辺鄙な西の唐津からひっそり上陸し、間道を伝って佐賀平野へ進攻進出したナゾもおなじ

不彌國が馬韓と倭のどちらにもあった、という事は、
魏の役人や陳寿が、同じ「不彌」部族で、それから別れた二つの国だろう、
と認識していた事と同じで、
倭地の「奴國」も、同じ「奴」部族の国同士であり、おそらく最後に書かれた「奴國」は、
二万戸の奴國から別れた分国であったんだろう、と認識していた、という可能性が非常に高い。
そして、最後に書かれた奴國は、
伊都国の東南百里の「早良平野全域から日向峠の西麓平野部の二万戸の奴國」から別れて、
その南の山地を山越えした所にある吉野ケ里付近の国であった可能性が高い。

また同じ事で、半島の国々でも、列島の21國群でも、同じ文字を使った国名が多数見られるが、
それらも、その文字を使う部族の分裂で発生した国々である可能性が非常に高い。
0489日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:08:59.85
「昼は人が造り、夜は神が造った」

信じられない速さで造られたことが後世に伝わっているのだろう
0490日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:11:32.75
韓伝と同じ文字を使った国名は
通訳の発音だから同じ漢字が当てられただけだろう
0491日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:13:14.24
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせるテクニック。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
0492日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:16:39.32
>>491の模式図だyo!【魏志倭人伝の「倭国=南越(儋耳朱崖)」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」(出雲・吉備) 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏≒西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年」
0493日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:18:35.33
>>490
当時の中国人が聞き取って同じ音だと判断したものに同じ漢字を当てる傾向があったというのは割と通説に近い
そこから辞書の発音順索引の先祖みたいなものがもう存在したという説がある
0494日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:20:51.79
>>492
AAじゃ何が何だかわかんねえよ
読んで欲しきゃ、ちゃんと画像にしてUPしろよ
0495日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:27:44.17
日本に漢字が入ってきたのは、邪馬台国から2〜300年後
その時の音が万葉仮名であり音読みなのだから、音読みから大きく違うはずがない

一支国、マツロ国、伊都国が証拠
0496日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:37:17.23
>>483
無意味でもありません。
例が出てきてラッキーです。
国土地理院の解説を支持する事にします。
0497日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:39:07.13
>>489
>信じられない速さで造られたことが後世に伝わっているのだろう

それは言える
土木の専門家が土の総量から見積ったところでは一日千人動員して5年かかるという話だったが、自然丘陵を削って芯に使っているので、もっと短期間かもしれない
0498日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:40:18.91
>>480
>どう乖離するの?

墳丘完成まで10年。
そして被葬者が死んで後円部の円丘。

これを建造時期258年からの乖離という。
0499日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:41:23.99
>>496
国土地理院の解説ってなに?
0500日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:42:29.35
>>489

ならばモモソヒメの墓とすればいい。
卑弥呼=モモソヒメとすればいい。
しかしモモソヒメは一皇女。
女王ではない。

おいしいとこ取りはやめようね。
0501日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:43:40.58
>>498
だから、仮の冢は北部九州、
移動先が箸墓と推測。
壹与かもしれませんが。
0502日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:43:40.91
>>497
一日千人も動員できるかよ。
0503日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:45:28.73
>>499
リンク貼っていますが?
0504日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:46:33.03
「昼は人が造り、夜は神が造った」

これを読めば誰でも卑弥呼を連想するね。
7世紀の朝廷は「わざと」そうしてるのさ。

アホが卑弥呼と間違えてくれるようにね。

本当の卑弥呼は神武東征紀に隠してある。
0505日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:47:08.11
>>430
>地理学院では、邪馬台国を首都とするのは間違いと記があります。

倭人伝は地理書(地誌)であるから、行程説明は建前として現状実態(魏の時代)を記述したものであろう。
それにもかかわらず、その一部に、何の注釈もなく突然過去形の一節が出現するというのは、おかしな読み方〜恣意的な解釈だ。
中国人は、いわゆる時制がないのは百も承知なのであるから、
冒頭の「旧100余国、今30国」のように、過去なら過去、現在なら現在で、それとわかる字句が添えられたであろう。地理学院は読み方不足の×。
0507日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:50:08.72
>>485
>だから、「墳丘に『封土作冢』だ 」っていう根拠なし

後円部に円丘があると橿原考古学研究所が言ってるじゃん。
0508日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:53:06.86
>>505
何が言いたいのか
さっぱりわからない。
0509日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:54:02.35
>橿考研が24年に実施した3次元航空レーザー計測で、後円部の最上段に直径約39メートル、高さ約4・7メートルの特殊な円丘があることが分かっている。

特殊な円丘がある、これが「冢」。
0510日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:57:27.92
>>504
違うと思う。
星による測量ではないか?
何ら知識のない一般人から見れば
神がかりと思うけど?
0511日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 18:58:32.14
>>496
>無意味でもありません。

無意味でしょ
「首都なら国が入り、 女王国之所都となる。」
が間違いだと
もう分かったんだから
0512日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 19:04:57.01
人(ヒト)は霊(ひ)が止(と)やると書いて人と読む

人=霊止
0513日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 19:05:20.69
止やる→止まる
0514日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 19:05:48.53
>>510
>何ら知識のない一般人から見れば
神がかりと思うけど?

記紀はわざとそう思わしてるという話だ。
まず神功皇后を強引に卑弥呼の時代に当てはめ、
神功皇后紀に魏志の卑弥呼の記事を挿入してるね。
これは7世紀の朝廷が本当の卑弥呼を誰なのか知ってた証拠。

その朝廷が箸墓古墳に紙幅を割いて「「夜は神が造る」などと書いてる時点でこれも隠蔽。

アマテラスに弟がいて独身、別名がオオヒルメ、これも隠蔽。
0515日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 19:14:10.31
>>511
意味不明
0516日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 19:18:22.97
>>514
>記紀はわざとそう思わしてるという話だ。
>まず神功皇后を強引に卑弥呼の時代に当てはめ、神功皇后紀に魏志の卑弥呼の記事を挿入してるね。

全くその通りだ。
神功皇后=卑弥呼を匂わせて、のちのち大勢のアホどもが引っかかるのをニヤニヤしながら待っていたのさ、、、
0517日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 19:44:49.45
>>516
あと、箸墓伝承もそう、アマテラスもそう。
のちのち大勢のアホどもが引っかかるのをニヤニヤしながら待っていたのさ。

あ、ここにも引っかかってるアホの>>1がいるw
0518日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 19:58:40.16
>>515
>意味不明

理解できないんですか?
「首都なら国が入り、 女王国之所都となる。」
が間違いだと
証明されたでしょ?
足掻いても無駄です
0519日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 21:04:48.05
>>509

冢は高墳なので違う
0520日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 21:04:51.72
バグった?
0521日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 21:48:02.04
なんで九州説の人って
何も理由を言わずに
常識と違う結論だけを叫ぶのだろうね
0522日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 21:59:40.14
>>519
>冢は高墳なので違う


冢は文字の形から見ても遺体の上に蓋をするもの。
土をかぶせる様子。
墳墓にも冢があるゆえ、墳も冢と言った場合もあるという事。
たとえば野球場とグラウンドの関係で説明がつく。
野球場の中にグラウンドがあるわけだ。
しかしグラウンドだけで観客席がない場合もあるわけだ。
0523日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 22:32:43.64
>>522
>冢は文字の形から見ても遺体の上に蓋をするもの。

それ、あんたが考案したんだろ?
漢字の意味を現代日本人が創作しちゃ、イケナないよ
0524日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 22:39:04.58
糸島半島が末盧国だと伊都国が博多で辻褄が合うんだけどな
0525日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 22:40:53.78
>>523
誰が見てもそうだろ。
ワ冠の下に有機物があるだろ。
0526日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 22:42:57.59
>>518

足掻いても無駄?

さらに理解できません
0527日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 22:59:37.56
>>525
>誰が見てもそうだろ。
>ワ冠の下に有機物があるだろ。

あんたが個人的にひとりで考え出したと認めるね?
0528日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:06:09.37
>>493
>当時の中国人が聞き取って同じ音だと判断したものに同じ漢字を当てる傾向があったというのは割と通説に近い
そこから辞書の発音順索引の先祖みたいなものがもう存在したという説がある

いや、韓伝や倭人伝の国名は、郡役人や魏使らの役人が記録した事になり、
また韓でも、明らかに漢字を知っていて、それを使って国名を区別しようとしており、
倭人も、「大夫」を使うなど、上層部は漢字を知っており、
だから、韓でも倭地でも、漢字国名に意味ある文字使用をしていた、という可能性は非常に高い。
0529日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:11:09.98
奴は古の罪人
0530日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:13:44.55
>>507
>後円部に円丘があると橿原考古学研究所が言ってるじゃん

円球的な墳丘では、「冢=錐体(台)」にはならず、バツ。
0531日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:17:12.26
>>509
>>橿考研が24年に実施した3次元航空レーザー計測で、
後円部の最上段に直径約39メートル、高さ約4・7メートルの特殊な円丘があることが分かっている。

>特殊な円丘がある、これが「冢」

「冢=錐体(台)」的な形状であり、
「球体面」状であれば、冢にはならず、バツ。
0533日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:21:56.77
自己絶対正義人種だね
0534日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:23:44.51
>>521
なんで大和説学者らの人って
何も理由を言わずに
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は大和」や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の無視などの、
史料事実や史料実態と違う結論だけを叫ぶのだろうね
0535日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:33:51.47
倭人は「人頗恬靜」(すこぶる落ち着いている、安らかで静か)
九州説とは真逆の民族性
0536日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:38:23.42
>>527
>あんたが個人的にひとりで考え出したと認めるね?

いいや?
「其死有棺無槨封土作冢」

冢は土で蓋をしたお墓のことだが。
0537日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:41:09.82
冢は盛り土のこと
葬るときに盛り土にするのは元来は目立たせるため
中国の武侠ドラマなどで旅先で仲間が亡くなったとき、手ごろな場所に盛り土をして冢を作るシーンがある
これは墓の場所がわからなくなるのを防ぐため
0538日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:46:29.77
冢,大也 《尔雅》

当然目立つ
0539日本@名無史さん垢版2021/07/20(火) 23:58:52.46
上陸地点から2000里不弥国からずっと南に1300里
有明海沿岸だと思うんだけど末盧国から東南に500里てのが
平戸に着いて伊万里だとそんな感じかな
0540日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 00:10:20.28
全羅南道に数万基存在し、西北九州に分布する支石墓は壱岐対馬福岡市にはないので
倭人とは別の海上ルートがある
0541日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 03:02:55.76
しかし、阿波さんて、
ちょっと昔からいたよなあ
大分前から頑張ってたんだなあ
@阿波さんじゃなかったっけか
なんという名前だっけ
阿波邪馬台国説の正論書いてたの
何人かいるのかな?
0542日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 04:14:12.12
いない
0543日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 06:19:00.06
地名こじつけ阿波くんは、大化の改新まで徳島市周辺が阿波ではなく長(那賀)国だったことを教えたら詰んだよ
0545日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 07:03:20.51
阿波から「親魏倭王」の金印でも発掘でもされたら大ニュースになるんだろうなー
そんなモンが出てきたら「もしや、この地が邪馬台国なのか?」って、、、

別に阿波の地に限った話じゃないけど金印みたいな物が出ない限り永遠に邪馬台国論争は続くだろうなw
0546日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 07:12:18.89
高校生ですら邪馬台国論争は決着しつつあると学校で習っているのに
永遠に続くと言ってる人ってどこの国の人?
0547日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 07:18:34.52
>>540
>全羅南道に数万基存在し、西北九州に分布する支石墓は壱岐対馬福岡市にはないので
倭人とは別の海上ルートがある

ふーん。
0548日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 07:28:42.96
>>541
>しかし、阿波さんて、ちょっと昔からいたよなあ 大分前から頑張ってたんだなあ
@阿波さんじゃなかったっけか なんという名前だっけ
阿波邪馬台国説の正論書いてたの何人かいるのかな?

私が、5chから全面的投稿拒否にされ、
仕事場も自宅も何軒ものネットカフェからも全部投稿拒否された数カ月間には、
「阿波」氏の投稿も無くなっていたから、「阿波」氏も投稿拒否をされたのか?、
ひょっとしたら、お亡くなりになったかも?、と思っていた。
しかし、最近また、私の投稿に5chからのクレーム画面が出て来ているから、
また、全面的な投稿拒否をされるかも知れない。
0549日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 07:44:26.63
>>548
阿波爺はニュー速+で暴れてたぞw
0550日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 07:52:16.47
>>544
以前も何度か、同様の図レスを見かけたことがあるな。
このうち白地のアクセント地帯は、
オレが唱えている末盧国(唐津)〜伊都国(佐賀川上)〜不彌国(吉野ヶ里)〜邪馬台国(熊本阿蘇)〜投馬国(日向)の主要女王国領域に重なる・・。
0551日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 08:05:45.31
>>548
無内容のオウム返しばっかりやってるから
たぶん運営から荒らし認定されてるんだよ
0553日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 08:11:08.35
>>548
どんなクレーム?
コードとか入ってる?
0554日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 08:17:07.41
全羅道≒百済:
三国時代(高句麗・新羅・百済)には、百済に属していた地域で、高麗時代になって初めて全羅道という名で呼ばれた。
朝鮮王朝の末ごろの1896年に、全羅南道と全羅北道に分かれて2つの道になった。
(なおこのうち光州市は、現在特別区として独立)
0555日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 08:23:10.83
>大和国で決着済み

その通り、邪馬台国はヤマト国のこと。
しかし王権の場所は纏向ではない。
神武からE孝安まで宮は葛城だろ。
そしてC威徳の后が天トヨ津媛。

魏志倭人伝に書かれた13歳で即位した臺與(台与、とよ)とはこの女性しかいない。
しかも3世代前にヒメ(踏鞴五十鈴)后がいる。

神武もC威徳も天皇とされる。
彼らが女王の婿(=王配)であったことをごまかすための称号が「天皇」だ。
そして女王は「皇后」とされた。

邪馬台国は葛城だ。
0556日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 08:30:42.43
>>555
そうか、ごまかすためか、、、
0557日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 08:35:22.75
神武からE孝安まで后はいても妃がいない。

これは典型的な王配(=女王の婿)であった証拠。
王配は女性は女王だけにするよう厳しく律せられる。
世界中の王配がそうである。
他に子供を作ると、その子が王位継承を主張し、ややこしくなるからだ。
0558日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 08:35:46.11
>>552
古事記では「倭」、日本書紀では「日本」と書いてヤマトの読ませている
つまり、大和はそれ以降の命名であることが確定し、候補から外れる
普通に考えて、大和朝廷の大和
0559日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 08:44:29.75
つまり大和説は、方角ちがい、時代ちがいの通説どまり
0560日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 08:48:50.97
>>557
シナや日本では、夫が生きてるうちに妻が即位した例は皆無
したがって、伝統的に王配などいない
0562日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 09:29:39.70
女王国が島原や天草であれば海は挟んでるし4千里離れた侏儒国は大分宮崎辺りか
東南方向にある裸国・黒歯国は四国になるけどそれだと何故本州の記述が無いのかが問題
まあこの辺はかなりいい加減かも知れんけど
0563日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 09:38:24.71
>>552
>卑弥呼の金印なんて出てなくても邪馬台国は畿内の大和国で決着済み

邪馬台国も畿内も存在もしなかった虚偽文言であり、
大和説は、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅」の倭國の中心は北部九州や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,併倭國之地」の無視など、
史料事実や史料実態の無視に拠って、バツ。
0564日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 09:40:32.67
侏儒国・裸国・黒歯国と言ってもどうせ小さい集落で無数にあったはずで
そんな中4千里も離れた集落を記述してるのは魏と交易があったからじゃないか
0565日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 10:05:24.07
>南は東なのか?

緑色でしめした
北部九州と本州中国地方の地形が酷似
https://i.imgur.com/XajP3ZC.jpg

もう答え出ちゃったねw

九州の地形 = よく見たら日本を横にした地形

大宰府あたりが関門海峡で
有明海が、瀬戸内海に見えるってことw
https://i.imgur.com/y6ByMEw.jpg

これは海流によって方角を見失うと
日本の地形を誤認しちゃうよねw

また答え出ちゃったねw
0566日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 10:11:30.00
捻じ曲げ学者乙
0567日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 10:14:58.40
壱岐までは来てるだろうし末盧が何処か分からんけど対岸でしょう
それと何度も来てる伊都国の記述を間違えるとは思えない
0568日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 10:21:00.63
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径【円墳】百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大いに】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」bセけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が継続中!

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
魏使「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩四神鏡そのもの。まさに倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しよう(陳寿、心の声)w
0569日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 10:22:16.30
>>566
ねじ曲げ無学者の呟きにワラタ
0570日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 10:26:19.72
>>492
>>568
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種【〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道】
−其南有狗奴國 不属女王【〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂)

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
0571日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 10:30:36.88
>>570
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0572日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 10:41:49.65
天智が蘇我入鹿を誅殺… 天皇が菅総理を… いや、何でもないw
0573日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 10:49:53.53
【百済建国】
>3世紀半には朝鮮半島西南部に馬韓が50カ国あったが、
百済のおきた金浦平野は帯方郡に近く、その影響を受けて百済国が力を強めたと考えられる。
>国政には、帯方郡の中国人も関与していたとみられている。
>しかし、帯方郡の消滅とともに高句麗と直接対峙せざるをえなくなったようである。
0574日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:02:54.14
同盟者帯方郡の代わりだからな。百済は。応神期の坂上氏とかは北方華人。
0575日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:08:39.35
>>491
>>492
ま、魏志倭人伝には九州島内のことしか書いてないというのは何となく判る希ガス
0577日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:12:20.27
倭が、普通、やまとと読まないことからも、
大和、つまり奈良邪馬台国説は、
無理があると思うなあ
誰だろ、倭、わを、やまとと読ませたの
0578日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:19:15.46
>>571
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が100年前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年8月の白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0579日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:20:45.82
>>577
それは猿知恵だな
猿は普通サルと読まないのか?
0580日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:21:44.57
>>578
ダイワ(オオワ)としか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書の古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、国民の無知に付け込み、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。
0581日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:22:55.78
>>577
和は倭でしょう
ヤマトの言葉にどんな文字をあてても良かったのにこの字を選んだんだから
0582日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:23:51.47
>>580
馬鹿そのもの
現実に倭はヤマトと読む
0583日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:24:19.67
>>580
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子(以和為貴)」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html
0584日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:25:44.93
畿内説は文章読解力が無いよね
都合の良い単語をピックアップしてるだけ
他の文献との整合性や物理的制約や自然科学など何も考えてない
考古学者が考古学に向いてないというおかしな話だ
0585日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:28:27.46
元々やまとのやまは山だと思うけど当時既にやまとはそんな意味では無かったから山ではダメだったんだろう
0586日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:32:27.36
具体的な指摘のできない>>584は、自分が文章読解力無いと自白してるのと同じだな
0587日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:35:31.10
今城塚古墳に眠る治天下大王のピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0588日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:36:54.26
>>586
そういう文章読解力が無いレスが証拠だ
0589日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:37:59.18
ピンクの石棺…阿蘇ピンク石? ああっ、そういうことか?!
0590日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:40:58.29
>>583
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+中国皇帝への朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄、独占輸入権要請→親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→欽 明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
0591日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 11:41:23.67
>>588
>>586 に文章読解力が無いレスという証拠は?
0592日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 12:14:25.21
>>576
モノは云いようだな
本体領域より、境界領域の方が何倍も広いとか、そりゃないだろうよ・・、
0593日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 12:20:38.28
>>582
もともとヤマトは地名だったが、親魏倭王のお墨付きとなったためブランド化した
倭王であるためには、ヤマトの代表でなければならない

だから、ヤマト政権はブランドを強奪し、記紀では邪馬台国の痕跡を消して、初期天皇の在任期間をメチャクチャな設定にした
0594日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 12:33:11.13
>>592

本体領域(東京式)のほうがはるかに広い
0595日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 12:41:29.58
>>593
空想乙
0596日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 12:44:39.68
>>595
ならば、連続してるならドヤ顔で書きまくるはずの邪馬台国時代の描写がないことと、初期天皇があり得ない在任期間の設定になってる理由をどうぞ
0597日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 12:46:00.70
具体的な指摘のできない>>588は、また自分が文章読解力無いと自白してるな
0598日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 12:52:04.26
倭って、
なにか直感というか、
わかるっていうもので、
俺は、わ、と読めるが、
やまととはちょっと読めないなあ
まあ、やまとって言う読み方もあるのかも知れないが。

しかし、邪馬台国が滅んたあと、
また畿内に大和政権ができたって言うのも、
ちょっと考えにくいというか。

確か、魏志倭人伝に、
丹という言葉が出てくるんでしょ?
四国で採れて、
畿内で採れないとしたら、
もう答えは明白と思うんだけど。

また、九州に邪馬台国があったら、
海外と速攻戦争だよね。地理的に。
そっちの方が面白いけどw
0599日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 12:54:42.17
何となくの感覚で語るやつは
歴史をはじめ学問全般向いてないよ
0600日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 13:02:54.19
>>594
東京式にも、内・中・外・その他と、いろいろ変種があるじゃないか、
その各変種こそ、崩壊中の東京アクセントとみなされるべきものだ。
ま、東京中心主義の解釈をせず、九州地域のアクセント分布について解説してみよ。
0601日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 13:06:35.94
>>596
>ならば、連続してるならドヤ顔で書きまくるはずの邪馬台国時代の描写がない

連続してるわけでもなく同じ畿内を地盤とする政権なだけだし、無文字社会が続いたので所伝が正確でない
それに加えて中国に朝貢した事実を認めない政府方針があった
これが通説で、説得力がある

初期天皇があり得ない在任期間の設定になってる理由は、単なる絶対年代再現の失敗や、讖緯説尊重など歴史学的現代常識と違う価値観で書かれていること、そして諸家の所伝との妥協
0602日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 13:09:08.04
>>598
>丹という言葉が出てくるんでしょ?
>四国で採れて、
>畿内で採れないとしたら、

畿内は朱の一大産地なんだが
0603日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 13:10:29.14
そもそも3世紀以前のヤマトが何処だったかは不明なのだから
■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
 『倭』   19首(1)
 『山跡』  18首
 『日本』  14首
 『夜麻登』 5首
 『八間跡』 1首(1)
 『也麻等』 1首
 『夜萬等』 1首
 『夜未等』 1首

例)
大倭には 群山あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
可怜し国ぞ。
あきづしま大倭の国は。
0604日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 13:11:26.79
>>598
>俺は、わ、と読めるが、
>やまととはちょっと読めないなあ

ほかの人には読めてるから
0605日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 13:14:36.88
>>603
現代人的リアリズムで詠んでないだけ
0606日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 13:24:58.70
>>600

内・中・外・その他変種はアクセント形式は崩壊していない
九州二式との境界地域は崩壊している(決まりがない)
0608日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 14:21:02.47
>>606
>無アクセントとは、
>京阪式アクセントや東京式アクセントなどの有アクセントには、単語と単語を区別する弁別的機能がある。
>しかし無アクセントでは、「橋」と「箸」、「型」と「肩」、「一語」と「苺」、「歯医者」と「廃車」など
>同拍同音語を同じアクセントで発音し、区別しない。
>多くの場合、全ての語が平板的、あるいは語の真ん中がわずかに高くなる音調で発音される。

>これを一型アクセントと言う場合もある。
>宮崎県都城市などの尾高の一型アクセントでは、尾高が文節のまとまりを示す統合的機能を持つが、
>完全な無アクセントではこれもないので、「平板一型アクセント」、または>「無型アクセント」、あるいは「崩壊アクセント」と言う。

崩壊アクセントといっても、両側から攻められてアクセントが崩壊したわけではない。
崩壊という命名が誤解を生んでいるのであって、本来は平板アクセントというべき特殊な形式なのだ。
0609日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 14:30:51.41
無アクセント(平板アクセント)の起源説

>1.京阪式アクセントをもたらした集団が、日本に渡来する前に分布していた何らかの基層言語に由来するとするとする説(固有集団に起源する説)
>2.元来は有アクセントであったものが変化し、アクセントの型が統合平均化されて、弁別機能を失ったとする説、とがある。

つまり、1の「日本に渡来する前に分布していた何らかの基層言語に由来するアクセント」とは、
大陸・半島から渡来した特定集団の母言語に由来する特殊なアクセント形式という説だな。
0610日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 17:43:35.34
>>603
九州説な馬鹿は
倭迹迹日百襲姫をなんと読む気だ?
0611日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 17:58:36.02
>>610
何世紀の話してんだよ池沼
0612日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:03:00.97
>>564
>侏儒国・裸国・黒歯国と言ってもどうせ小さい集落で無数にあったはずで
そんな中4千里も離れた集落を記述してるのは魏と交易があったからじゃないか

おそらく魏の役人たちは、倭人から「裸国・黒歯国」の情報を得て、
そこへの出立地の地まで確認しておこう、と考えたから。
0613日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:05:44.16
>>599
そうだろうけどもうちょっと素直に解釈しても良いと思うけどな
否定する物が出てこない限りは
0615日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:21:29.91
>>614
こんなふうに罵しるだけで反論出来ない人は
惨めに論破された人
0616日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:24:48.05
陳寿が間違えたってのは結論ありきで酷い
0617日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:28:04.37
>>615
畿内説のやり方をお返ししただけだぞ
レスたどってみろよ

それでは確認な
倭の五王は朝貢してるが、この中に天皇はいなかったとするのが畿内説では通説なんだな
あと遣隋使ってのもあったな

ある日とつぜん邪馬台国と同じところにヤマト政権が発足し、あっという間に邪馬台国を倒して全国統一した
これが畿内説の通説なんだな

おそるべし畿内説
0618日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:33:39.77
>>617
まったく証拠なしにワケワカラナイことを主張しだす九州説
気が狂っているのだろか?
0619日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:35:11.00
>>560
>シナや日本では、夫が生きてるうちに妻が即位した例は皆無
したがって、伝統的に王配などいない

それは夫が王であった場合の話。
3世紀の日本には女王がいた。
その女王は「生涯独身」ではない。
夫がいた。
それを王配という。
0620日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:37:07.76
>>618
おれは倭の五王の朝貢と、ヤマト政権の全国統一という史実しか書いてないぞ

それを、畿内説の通説とやらに当てはめただけだ
0622日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:41:52.02
>>620
当てはめたという証拠は?
主張するとき常に証拠を出さないのは、気が狂ってるということ?
0623日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:45:11.68
当てはめたという証拠が出せないと、捏造したという証拠になります
0624日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:50:41.72
>>622
畿内説の通説とやらを読んだのか?
記紀に邪馬台国の記述がないのは、朝貢した事実を隠す方針があったからというのが通説らしいぞ

この方針に従えば、朝貢したとされる人物が、記紀に出てくるわけないだろ
隠さなきゃならんのだからな
0625日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:54:43.60
>>624
だから何?
なぜ起承転結のある文章が書けないの?
r知能が極度に低いから?
0626日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:57:12.45
>>625
空想だと最初に指摘してるじゃないか
倭の五王の誰かを天皇とするのが本物の通説だし、遣隋使もいるからな
0627日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:59:44.03
>>626
空想だと指摘する理由は?
0628日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 18:59:45.81
>>621
卑弥呼や壱与の事を言ってるのだが。
0630日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:02:50.78
>>626
あなたは脳の推論エンジンが壊れてないか?
aだからbだって言明が出来ないの
0632日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:04:17.12
>>629
>記紀には朝貢されたとする人物がいるからだ
>隠していない

誰が誰にと書いてある?
0633日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:04:25.92
>>630
お前がバカなだけだろ
じゃイエスノーで答えてみろ

記紀は朝貢の事実を隠そうとしているか?
俺の答えはノーだ
お前はどうなんだ?
0635日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:05:51.60
どうして九州説信者は知能が極度に低いのか理由を教えて欲しい
0637日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:06:59.18
>>633
ノーだという理由は?
0639日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:07:40.84
>>634
どこに書いてある?
0641日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:09:11.57
>>636
反論する文脈でないので成り立たない
0642日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:10:25.46
>>640
誰が?
日本語が破綻してる
0644日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:11:38.17
>>596
>・・・初期天皇があり得ない在任期間の設定になってる理由をどうぞ

平安末期の学者らは、二中歴の中の年代歴において、
「年始五百六十九年、内丗九年無号不記支干、其間結縄刻木以成政
継体五元丁酉(注五一七年)・・・」
という書き始めがあり、
奈良時代から平安時代の学者にとっては、「年始」というのは、当然、
日本書紀記載の紀元前600年の神武即位元年を意味するのであり、
しかし、その数字のままでは、569年と39年では517年には全くならず、
しかし、数え計算で、517ー39−569×2=ー660(年)にきちんとなるので、
年代歴の学者らは、神武即位元年から569年間は二倍年歴を使っていて、
その後は、39年間からは結縄刻木に拠る一倍年歴で年数を数えた、という事を示す事になる。
従って、「初期天皇があり得ない在任期間の設定」になっていた事の説明も可能になるし、
神武即位元年は、西暦では、
ー600+569=−91年で、紀元前91年頃であった事になる。
また、同じような計算に拠って、
書紀に書かれた各天皇らの即位元年や長過ぎた寿命なども、
補正計算する事が出来る事になる。
0645日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:11:40.43
>>642
畿内説は、倭の五王の兆候を知らない
だから、どこに書いてあるかを尋ねてきた
0646日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:12:20.76
>>638
イエス
0647日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:13:36.19
>>643
>そう書いてる
>反論できてない、畿内説は反論はしてないとな

いつ、何処で誰が?
0648日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:15:21.80
>>645
>畿内説は、倭の五王の兆候を知らない

という理由は?


>だから、どこに書いてあるかを尋ねてきた

という事実がある証拠は?
0649日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:16:47.12
それでは、畿内説の驚愕の通説をおさらいしよう

601 日本@名無史さん 2021/07/21(水) 13:06:35.94
>>596
>ならば、連続してるならドヤ顔で書きまくるはずの邪馬台国時代の描写がない

連続してるわけでもなく同じ畿内を地盤とする政権なだけだし、無文字社会が続いたので所伝が正確でない
それに加えて中国に朝貢した事実を認めない政府方針があった
これが通説で、説得力がある

中国に朝貢した事実を認めない政府方針があった
これが通説で、説得力がある

中国に朝貢した事実を認めない政府方針があった
これが通説で、説得力がある

朝 貢 し た 事 実 を 認 め  な い 政 府 方 針 が あ っ た
0650日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:17:37.44
>>645
あなたの書く文章は常に不完全だ
dそれは知能が低い証拠だ
0652日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:19:29.43
>>649
それが何?

あなたの文章は常に論理構造を欠いている
0653日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:22:14.90
>>649
あなたは、aだからbだ
という因果関係が文章で書けない
これは極度に知能が低いという証拠だ
0654日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:27:12.83
>>631
>ほう、卑弥呼や壱与に亭主がいるのか

普通にいるが?
0655日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:33:09.53
朝貢を隠そうとしたというより
日本側は神功皇后を魏志の卑弥呼と思っていたんだろ
そして神功皇后が中国に朝貢してた事はないから
事実ではないとして日本書紀には記さなかった
0656日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:34:24.72
>中国に朝貢した事実を認めない政府方針があった

その通り。
その朝貢の最たるものはなにか。
107年の倭国王帥升の朝貢だろう。

卑弥呼より約100年前だ。

これを隠すために、記紀では時代を大きくずらした。
だから古代天皇がことごとく100歳を超える。

帥升(shuai sheng)とはスサノオだ。
0657日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:37:20.99
>>655
>日本側は神功皇后を魏志の卑弥呼と思っていたんだろ

思っているわけないだろwww
仲哀天皇死亡日の前々日から十月十日で応神が産まれたことにしてるあたり、
記紀編纂者は大変な「苦労」をしてるわけだ。
神功皇后を強引に卑弥呼の時代に充てたからだ。
0658日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:42:23.19
>>657
それ、万世一系を否定した春秋の筆法だぞ
0659日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 19:47:20.02
>>658
春秋の筆法であろうがどうでもいいが、
7世紀の朝廷は本当の卑弥呼を知ってたからこそ、その時代に強引に神功皇后を当てた。
その本当の卑弥呼は帥升=スサノオの5世代100年後にいる。
だからその時代を神武東征紀という武勇伝で「男王国」のように書いた。
そして新称号「天皇・皇后」を採用、女王を皇后にした。

卑弥呼は初代皇后にされた。
0660日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 20:03:55.26
朝貢は日本は苦々しくは思ってたかもな
日出づる処の天子だからな
0661日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 20:06:51.78
帥升の朝貢は何やら失敗してるね。
普通、中国側からなにか見返り品を貰うのだが、何も記されていない。

朝貢=謁見要請が失敗。

だから新羅のソシモリから泣きながら帰ってきたのだろうw
0662日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 20:13:24.01
連合国家なら漢の金印なんか要らねえよって感じかも
0663日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 20:14:48.01
>>659
知っていたけど
誰だとする時点で苦慮した
結局、モモソ姫と神功皇后に分割し、さらに皇極=斉明帝のイメージを混ぜた
0664日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 20:59:12.93
>>608

行かないから攻めはしない
肥人が隣接している日本語の二大アクセントである東京式のピッチの下がり目を真似ようとしたけども
うまくいかずに崩壊してしまったということだな
0665日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 21:03:38.98
>>609

1は「何らかの」じゃ何も判明していないということだな
2は崩壊したということ
0666日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 22:00:08.82
>>663
アマテラスも追加ね。
0667日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 22:19:23.43
>>654
魏志倭人伝には
>其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者
と書かれている
卑弥呼は女王として即位したときは、すでに年齢が長大とある これは普通の王や女王が即位する年齢と比較してより年長という意味 それをあえて記入したのは高齢を強調したもの
そのときに、夫婿はいないと書かれている
それ以後に婚姻という記述もない
0668日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 22:24:04.17
>詰り、大倭=邪馬臺(台の旧字)國=邪摩堆(ヤマト)音の訛り也。
>卑弥呼時代より200年ほど後には大倭を邪摩堆(ヤマト)と発音したと云う。

「後漢書倭伝」(宋)范曄著(424年頃)
國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
国はみな王を称す。世世伝統。その大倭王は邪馬臺国に居す。
(今名を案ずるに邪摩惟音の訛なり)。

「百衲本(宋本)『三国志』 - 紹興年間(1131年-1162年)の刻本が現存する最古。

7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)
唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。
これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用しており全て(堆)となる。
0669日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 22:33:28.86
>詰り、貞観二年(628)の時点で倭人の都は明らかに奈良ヤマトで
>卑弥呼時代の200年後「後漢書倭伝」より200年後に
>倭人の都は邪靡堆に都するで。魏志いうところの邪馬臺なる者なり。と方角も修正してる。

隋書俀国伝
隋書は唐の魏徴撰。唐の二代目、太宗(李世民)の貞観二年(628)、学者を率い、
数年かけて戦乱の間にバラバラになってしまった四部書(経、史、子、集)を
校訂したとされている(旧唐書魏徴伝。新唐書では貞観三年)。

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 
皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 
地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近

俀国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山島に依りて居す。
魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。夷人は里数を知らず。
ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。
地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり。
古くは云う、楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びて一万二千里。
会稽の東に在りて、儋耳と相近しと。
0670日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 22:37:43.46
古くは云う、楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びて一万二千里。
会稽の東に在りて、儋耳と相近しと。

但し、この距離間には少し疑問に感じて、「古くは云う」と断ってる。
0671日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 22:51:24.81
>>667
>そのときに、夫婿はいないと書かれている

卑弥呼が共立されたのは2世紀末あたり。
その時点で高齢ではない、そうならば248年死亡時にはいったい何歳なんだとなる。

魏志の卑弥呼の描写は、すでに卑弥呼が熟年で。
ただ一人の男が宮に出入りする時点でのもの。
その時点で夫に先立たれていた可能性が高い、
なぜなら日本の歴代女性君主で生涯独身などひとりもいないからだ。

世界的に見てもエリザベス1世くらい。
0672日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 23:08:16.34
夫が王だったら共立一女子為王とはならんだろ
0673日本@名無史さん垢版2021/07/21(水) 23:39:04.32
600:名無しの報告:2021/07/21(水) 23:37:54.86 ID:MpaXC9q/0
・埋め立て
・マルチポスト
0674日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 01:50:45.71
また「埋め立て」「マルチポスト」を理解してないキチですか
0676日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 07:16:20.16
>>672
だから夫は王ではない。

王ではなかったから「天皇」という新称号で虚飾した。
0677日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 07:20:47.29
>>675
8世紀以前には一人もいないに訂正。
0678日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 07:34:46.06
年已長大 無夫壻

ここには接続詞「〜にもかかわらず」「〜だが」「〜なるも」がないので、
逆接ではない。
つまり「年すでに長大 夫はいない」としか訳せない。
今のエリザベス女王がそうであるように、卑弥呼には夫も子供も孫もいた可能性が高い。
もちろん生涯独身の場合もあろうが。

こういう状況なのに「生涯独身」と決め込んでたから卑弥呼が誰なのか分からなかっただけ。

ヒメ(蹈鞴五十鈴)后の子・綏靖の宮の場所(御所市森脇)から卑弥呼の住処がおおよそわかる。
近くの御所市名柄の長柄神社(式内名神大社)であろう。
別名は「姫の宮」だ。
0679日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 07:36:34.85
624日本@名無史さん2021/07/21(水) 18:50:41
畿内説の通説とやらを読んだのか?
記紀に邪馬台国の記述がないのは、朝貢した事実を隠す方針があったからというのが通説らしいぞ

この方針に従えば、朝貢したとされる人物が、記紀に出てくるわけないだろ
隠さなきゃならんのだからな
629日本@名無史さん2021/07/21(水) 19:02:09
記紀には朝貢されたとする人物がいるからだ
隠していない

632日本@名無史さん2021/07/21(水) 19:04:17
誰が誰にと書いてある?

634日本@名無史さん2021/07/21(水) 19:05:35
倭の五王が宋に朝貢したな

639日本@名無史さん2021/07/21(水) 19:07:40
どこに書いてある?

640日本@名無史さん2021/07/21(水) 19:08:33
それは、倭の五王の朝貢を知らないと受け止めていいんだな?

645日本@名無史さん2021/07/21(水) 19:11:40
畿内説は、倭の五王の兆候を知らない
だから、どこに書いてあるかを尋ねてきた


この投稿をした624=629=636=640=645はとても知能が低い
倭の五王の朝貢がどこに書いてあるか答えられない
0680日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 07:56:02.87
綏靖の宮の場所(御所市森脇)にも殉葬奴婢の痕跡がある。
百余人かどうかは分からないが痕跡はある。
それは葛城一言主神社の参道にある土蜘蛛を埋めた蜘蛛塚だ。

土蜘蛛を殺害し埋めたのは神武軍だ。

しかし、魏志に書かれた殉葬奴婢百余人の痕跡は、
この後におきる高尾張邑(=高天原)でのこと。
それも神武軍によって為された。
洞窟にいた土蜘蛛を出られないように、入り口を大きな岩で封印した。

7世紀の朝廷はこの話を知っていた。
だが書いてしまうと魏志の卑弥呼墓の殉葬奴婢百余人の事だと後世の人間に気づかれてしまう。

だから官製神話を創作しごまかした。
それが高天原での「天岩戸」だ。
0681日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 08:21:05.80
>>668
>「後漢書倭伝」(宋)范曄著(424年頃)
國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
国はみな王を称す。世世伝統。その大倭王は邪馬臺国に居す。
(今名を案ずるに邪摩惟音の訛なり)。

後代史家が、「はるか前の魏の役人の実地の見聞計測の記録やそれに基づいた陳寿の記載」を、
実地に見聞計測確認もせずに、自己解釈に拠る書き変えを実行した事になる後漢書の范暢の文は、
絶対性がなく、史料事実にはならない。

>「百衲本(宋本)『三国志』 - 紹興年間(1131年-1162年)の刻本が現存する最古。

三国志の写本や版刻の底本写本や版本における「一つの文字にかんする差異文字の発生確率」は、
0.5%位であり、99.5%の文字は陳寿原本のままであった、という事になり、
「邪馬壹國」に関しても、「邪馬臺國」などの異文字表記の本は0であり、
「邪馬臺國」などは、三国志の証拠にならない。

>7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)
唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。
これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用しており全て(堆)となる

この「則魏志所謂邪馬臺者也」の文も、
唐代の隋書の魏徴らの「魏志倭人伝の記載に関する自己解釈に拠る書き変え文」になり、
3世紀の陳寿の魏志の記載の根拠にならない。
0682日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 10:04:42.83
>>681
>三国志の写本や版刻の底本写本や版本における「一つの文字にかんする差異文字の発生確率」は、
>0.5%位であり、99.5%の文字は陳寿原本のままであった、という事になり、

九州説さん、ニセ情報はダメよ
0683日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 10:11:25.51
>>678
老女で夫はいない
普通に読んで、独身だ

せいぜい、夫に先立たれた可能性もないとさ言えない、ぐらい

どうすりゃ、夫がいた可能性のほうが高くなるのか、畿内説は結論ありきだから困る
0684日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 10:26:38.78
>>676

日本の歴代女性君主は夫の天皇が崩御した後に即位した女性天皇だろ
0685日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 10:38:04.56
>>683

畿内説ではない
斜面説
0686日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 11:30:29.42
>>681
>唐代の隋書の魏徴らの「魏志倭人伝の記載に関する自己解釈に拠る書き変え文」になり、
>3世紀の陳寿の魏志の記載の根拠にならない。

「魏志倭人伝の記載に関する自己解釈に拠る書き変え文」
であるという根拠が一切示されていないので
いかなる反論の根拠にもなり得ない

そもそも「自己解釈」という日本語が存在しない
0687日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 11:35:55.11
>>684
飯豊は?
0688日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 11:53:45.46
>>687
正式には即位してない扱いだし、皇女という肩書きから、少なくとも執政時には独身
0689日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 12:07:18.77
>>688
死去は崩で墓は陵と書いてるよ日本書紀
0690日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 12:38:53.76
>>689
墓が陵と書かれているのはモモソ姫と同じだな
0692日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 17:17:32.91
>>691
卑弥呼も数えてなくていいよね?
0693日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 17:58:05.70
奴が奴隷っての現代解釈やもんな
0694日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 18:08:09.76
んだね

老婆、卑弥呼の跡継ぎとして宗女の壱与が選ばれたって書かれとるからな

だいたい孫くらいの年齢やろ
0695日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 20:30:17.69
弟が補佐してたのに、子がいて孫がいる設定
さすがトンデモ畿内説
0696日本@名無史さん垢版2021/07/22(木) 20:50:56.91
>>695
カッツの斜面説は畿内説じゃないから
0698日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 08:14:55.41
>>695
そr、畿内説への批判にならないから
0699日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 12:48:36.32
葛城マンは畿内説じゃないよ
0700日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 13:12:39.98
>>683
>老女で夫はいない
>普通に読んで、独身だ

長大は熟女。
独身だよ、夫がいないのだから。

ただし生涯独身であったかどうか、その可能性は低い。
0701日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 13:14:23.55
>>694

3世代差、曾孫世代。
0702日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 13:17:54.03
>>695
>弟が補佐してたのに、子がいて孫がいる設定
さすがトンデモ畿内説

男弟ね。この場合は徒弟の弟の意味でもある。

(年已長大、無夫壻)
今の英国のエリザベス女王はまさにその通りだよね。
しかし子も孫もいる。
0703日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 13:23:04.16
>>702
ババァで夫がいない、と書けば、独身だったと考えるのが普通だぞ
夫は死んだとも子がなかったとも書いてないのだから

夫がいない確率もゼロじゃないというなら、まだ少しは分かるが、どこをどう読めば夫のいた可能性のほうが高くなるんだよ
0704日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 13:48:50.31
記紀の登場人物にアテハメたいからゴリ押ししてるだけだろう
0705日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 14:39:44.71
>>702

エリザベス女王は国王の王女だから「共立一女子為王」ではない
0706日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 15:50:55.36
>>705
共立か自立かは血筋に関係なし
0707日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 16:22:32.49
>>703
>ババァで夫がいない、と書けば、独身だったと考えるのが普通だぞ

だから独身だろ。
今のエリザベス女王のように。

>夫は死んだとも子がなかったとも書いてないのだから

卑弥呼にも親はいたはずなのに書かれてないね。
トヨもその後結婚したのか書かれてない。
書いてないから「いない」とはならない。
0708日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 16:24:07.64
>>704

記紀に登場しないと決め込んでたから解けなかっただけ。
そういう固定観念こそ捨てるべき。
0709日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 16:29:34.54
>>703
>どこをどう読めば夫のいた可能性のほうが高くなるんだよ

(年已長大、無夫壻)

これは逆接ではない。

「〜であるにもかかわらず」「〜なるも」「〜なのに」
を意味する接続詞がない。
だから生涯独身を意味しない。
ゆえに「年すでに長大 夫はいない」としか訳せない。
0710日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 16:30:24.24
>>706

卑弥呼は、「倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王」で共立以前に倭国(連合)の盟主は定まっていなかった
エリザベス女王の場合は父親の王位を第一位で継承したのだから「共立一女子為王」とはまったく違う
0711日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 17:16:19.05
>>709

未亡人は寡妇
0712日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 18:32:31.58
>>709
違う違う

高齢で夫はいないというのを自然に読めば、未婚と読む
いたけど死んだと読むほうが不自然
未亡人ならそう書いたほうが早い

可能性でいえば、圧倒的に未婚だ
0713日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 19:04:31.00
>>712
っていうか、夫って死んだら「亡」くなっても「無」くならないだろ
0714日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 23:21:51.13
ちなみに記紀だと
神功皇后に当てはめてるぞ
0715日本@名無史さん垢版2021/07/23(金) 23:56:28.90
>>714
>ちなみに記紀だと神功皇后に当てはめてるぞ

いや、古事記も書紀も、九州倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であり、
魏志倭人伝の卑弥呼と壹與の二人の記載を、神功皇后一人の事にように記載しているから、
その事だけでも半分偽書である。
0716日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 01:55:13.29
完全な偽書は竹島どろぼう反日有害活動員が真書だと言い張っている東日流外三郡誌
0717日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 09:02:45.58
>>712
>高齢で夫はいないというのを自然に読めば、未婚と読む
いたけど死んだと読むほうが不自然
未亡人ならそう書いたほうが早い

可能性でいえば、圧倒的に未婚だ<


つまり生涯独身という意味かな?
上にも書いたが、[年已長大 無夫壻」は逆接ではない。

逆接とは、例題として

「4月も後半なのに大阪で雪が降った」
「東大生であるにもかかわらず簿記2級の試験に落ちた」

など。

だから[年已長大 無夫壻」は

「年すでに長大であるにも関わらず夫はいない」
「年すでに長大なるも夫はいない」
「いい歳こいて結婚しとらん」

という意味ではない。
「にもかかわらず=除了」 「なのに=尽管」
という逆接の接続詞がないからだ。

だからに[年已長大 無夫壻」は「歳すでに長大 夫はいない」としか訳せない。

生涯独身ではないのに夫がいないという事は中国側が描写した時点で卑弥呼は寡婦であった。
0718日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 09:23:30.74
>>717
無夫であって亡夫ではない
そもそも障害独身ではないなんて、どこにも書いてない
0719日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 11:35:55.75
「有一女子名曰卑彌呼年長不嫁」(後漢書)

当時の中国人は「嫁せず」と考えている
0720日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 11:50:38.26
>>718
>そもそも障害独身ではないなんて、どこにも書いてない

生涯独身ならば、

年すでに長大「であるにも関わらず」夫はいない
「年すでに長大「なるも」夫はいない

という逆説の接続詞が必要。
そうでないと文体として意味をなさない。

ところが「にもかかわらず=除了」 「なのに=尽管」という接続詞がない。
ということは生涯独身ではないという事。

>>719
後漢書は同時代資料ではない。
魏志の恣意的解釈。
0721日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 11:50:47.69
斎王は未婚の内親王が神に仕える伝統が後にも残っている

Qなんで斎王は未婚の女性なの?
A「斎(いつき)」というのは、身を清浄に保って世間から離れるという意味です。
斎王が神宮に赴くのは年間三回だけですが、斎宮にいても精神的にはずっと神さまに仕えていることになります。
従って、普通の社会生活はできません。だから、家庭を持つ人には務められなかったのです。
また、神さまの妻と見なされていたから、という説もあります。

斎宮歴史博物館
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/50370036192.htm#saiou11
0722日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 11:51:47.92
>>720

お前は現代のど素人
0723日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:04:12.02
卑弥呼が生涯独身なんて頑なに理解してても、結局、卑弥呼が誰なのか分からないだろ。
アマテラスなんて言うなよ、時代も違うし、そもそもアマテラスなんて人物はいない。

卑弥呼は2世紀末から3世紀半ばまで実在した女王だ。
それが分からないという事は、分からない人間の卑弥呼に対する解釈の「前提」が間違えてるから。



【年已長大 無夫壻】は、今のエリザベス女王がまさにこの状況である以上、

1800年前の卑弥呼も同じ状況であったと仮定して見るがよい。


卑弥呼:Bei mi hu は比桃@(Bi mie hou)比売后〈Bi mai hou〉。

4世紀前半の崇神天皇以前、この女性は一人しかいない。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 

住処は葛城だ、墓もある。
もうそろそろ諦めるが良い。
0724日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:12:48.21
>>723

エリザベス2世と3世紀の卑弥呼とは何の関係もない
0725日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:13:58.58
>>722
古代史界の「フンコロガシ」こと古田史学、乙w
0726日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:14:41.09
>>720
>後漢書は同時代資料ではない。

同国人があの文を読んで「不嫁」という意味だと読んだという例証
0727日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:14:55.89
>>724
関係があるなんて言ってない、状況が同じだと言ってるのだ、
そんなことも理解できないのか。
0728日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:17:22.87
>>726
だからと言って正しくない。
何で女王が「嫁に行く」なんてことをするのだ。
当時の日本に家制度はない。

魏志には逆説の接続詞がない。
したがって生涯独身ではない。
0729日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:19:22.90
>>727

まったく違う
0730日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:32:35.99
 >>729
どう違うか言ってみな
0731日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:38:01.46
>>720
順接でも同じだろ

高齢そして無夫
高齢だけど無夫

順接でつなぐか逆接でつなぐかは筆者の主観的な評価だから、客観的事実とは関係ない
0732日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:39:54.40
>>730
エリザベスは、イングランドとウェールズと北アイルランドが共立して王にしてない
親から引き継いで即位した
0733日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:43:03.52
>>730

卑弥呼は共立された祭祀女王で鬼道
エリザベス2世は王位を継承した女王でキリスト教(英国国教会)
0734日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:43:42.40
>>723
魏志倭人伝の倭人の名前は倭人の発音を漢字に当てはめて記録したもの
漢字の意味とは無関係
「后」のように漢字の意味を含意して名付けられていたものではない
0735日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:47:26.94
>>723
卑弥呼が誰なのか分からない?
卑弥呼は卑弥呼だろ
無理やり記紀の誰かに当てはめようとするからおかしくなる

記紀では邪馬台国がなかったことにされていると考えれば、記紀にないのはむしろ当たり前
0736日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 12:49:02.78
>>730

ついでに、
范曄は歴史家
お前は高鴨神社境内立小便犯人
0737日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 14:42:40.39
>>731
>順接でつなぐか逆接でつなぐかは筆者の主観的な評価だから、客観的事実とは関係ない

何をいってるのだ、いい歳こいて結婚してないは逆接だろ。
なら必ず必ず接続詞が必要だろ。
でないと文章として通じない。

それがないという事は逆接ではなく順接。
0738日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 14:46:39.65
>>735
>卑弥呼が誰なのか分からない?
>卑弥呼は卑弥呼だろ

はいはい、分かってないね。

>無理やり記紀の誰かに当てはめようとするからおかしくなる

無理やりではなく、普通に当てはまる。
何よりも、その卑弥呼が住んだ地域に、日本で唯一、大量の奴婢埋葬痕跡がある。

>記紀では邪馬台国がなかったことにされていると考えれば、記紀にないのはむしろ当たり前

記紀では時代を大きくずらして卑弥呼をごまかしてることにそろそろ気づこうか。
0739日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 15:06:13.74
奴婢埋葬痕跡とか、ないから
0740日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 18:24:17.64
>>737
いい歳こいて独身
高齢で独身

書き手がどんな印象をもってるかの違いで、客観的事実の違いではない
0741日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 18:25:54.74
>>738
時代を大きくずらして卑弥呼をごまかしてる?
つまり、無理やり当てはめてる証拠じゃないか
0742日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 19:28:34.74
>>739

日本で、崇神(4世紀前半)以前の奴婢埋葬痕跡の場所は一地域の2ヶ所しかない。
葛城の一言主神社参道と葛城の高尾張邑(=高天原)だ。
そして隣に径百余歩の「冢」があるのは後者。
そしてこの2ヶ所とも関わったのは神武だ。

卑弥呼と神武は同時代、そして夫婦であった。
0743日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 19:32:08.97
>>740
【年已長大 無夫壻】は逆接ではない。
逆接の接続詞がないだろ。
書き手がどんな印象をもってるかではなく、客観的事実だ。
0744日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 19:36:57.40
>>743
逆接や順接は、書き手の印象、評価、価値観の違いでしかなく、書かれてる事実自体はなにも変わらない
0745日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 19:37:04.02
>>741
>時代を大きくずらして卑弥呼をごまかしてる?
>つまり、無理やり当てはめてる証拠じゃないか

無理やり当てはめられてるのは神功皇后だよ。
息子の応神の即位元年を干支2運120年ずらしてまで卑弥呼の時代に当てた。
そして日本書紀の神功皇后紀に魏志の卑弥呼の記事を挿入してるだろ。
漢文で書かれた日本書紀は、中国側に神功皇后=卑弥呼と認識して欲しかったからだ。

7世紀の朝廷は本当の卑弥呼が誰なのか分かっていたんだ。
0746日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 19:39:05.40
>>745
シナに分かってもらいたかったら、そのまんま書けばいいじゃないか
事実のとおりにな
0747日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 19:43:06.18
>>744

中国側が卑弥呼を描写した時点で(おおよそ210年ごろか)、
年が長大(熟年)で夫がいないという事実を、「生涯独身」などとしてきたのが間違いだろ。
だから卑弥呼が誰なのか分からなかったんだ。
0748日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 19:47:16.82
>>746
どアホ。
本当のことを書いたら倭国王帥升=スサノオだと分かってしまうだろ。
世界のどこに外国皇帝への土下座から始まる国史があるんだ。
残念ながら日本はそうだった。
だからスサノオから5世代100年後の、基点である卑弥呼の時代を神武東征紀でごまかし、
天皇皇后なる新称号を採用し、その時代をBC7世紀に設定したんだ。
0749日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 20:29:49.33
処女じゃないと鬼道
神降ろしの神通力が無くなるんよw

ほと突かれて、昇天してるでしょw

卑弥呼のイメージは
処女で、ベジタリアンで、お婆さん

これだったよね、俺のガキの頃に言われてた卑弥呼様はw
0750日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 20:37:50.18
>>745
>中国側に神功皇后=卑弥呼と認識して欲しかった
これだけはありえない。魏志と突き合せれば、卑弥呼と壹與二人の女王を一人の女王と
誤認しているクソ馬鹿民族だと思われるだけだぞ。
大体、漢文としての文法もメタメタな日本書紀が中国向けプロパガンダ文書であると
いう認識は時代遅れだ。そうしたいなら渡来人が書いたと思われるパートはまともな
文法なんだから、彼らにちゃんと推敲をさせるはずだ。
0751日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 21:04:13.96
白村江で唐・新羅に楯突き敗北した百済系移民の大和政権は、唐新羅軍による報復を恐れ、
「半島に出兵したのは、怡土〜博多を根城にした者たちで、古くは神功皇后と共に半島に侵攻した前歴もある・・、」
われら善良な(百済系の)大和政権はあずかり知らぬこと・・、と言って、責任を北部九州の神功皇后後裔に擦り付け、逃げを打とうとしたのさ。
0752日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 21:35:35.31
卑弥呼の崩御の後、次の男王がもし卑弥呼と何らかの血縁関係があるとしたらそのことは記録されただろう
その男王では国はまとまらなかった
次の壱与は卑弥呼の宗女、卑弥呼の一族の娘というだけで卑弥呼と血縁関係がある訳ではない もしあったのならそれは記録されるだろう
つまり、卑弥呼と何らかの血縁関係のあるものが後の天皇の血筋と結びついた痕跡はない
壱与の時代まで天皇はまだ存在していなかった
0753日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 21:45:27.27
>>752
同じ一族から女王が二人共立されているんだから、大王家みたいなもんから未婚女性が斎宮みたいな形で担ぎ出されていたと想像するのが自然だろ
0754日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 22:05:03.77
言い張るだけの自己絶対正義人種
それが立小便爺の斜面作り話
0755日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 22:14:19.68
万葉集や源氏物語を読むと母系社会の婚姻の様子が垣間見える
おそらく農耕社会が成立したときからこの風習は生まれたものだろう
中国や朝鮮半島の一部にも見られたが
我が国の古代の大きな特色だと思う
当然卑弥呼の時代もそうだったろう

婚姻は通い婚で男性が惹かれる女性を見つけたらアタックする
運よく受け入れられたら夜這いで婚姻が成立
女系社会の一族の族長は当然女性の年長者で、その人が求婚された女性にアドバイスすることもあったろう
子どもが生まれたら母の一族が育てる
お互いの愛情が薄れてきたら夜這いを止めることで婚姻関係も解消

この辺の感覚が今は完全に失われているので、源氏物語を呼んでも異世界の話のようで理解できなかった
0756日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 22:17:41.04
まあ卑弥呼は夫も婿もいない身で、王位を継ぐ子供の影も見えないから、まあ独身だと皆が思う
読んだ中国人も納得して不嫁と書く
0757日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 22:52:45.30
>>750
神功皇后を強引に卑弥呼の時代に合わせてるね?
何で?
0758日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 22:52:48.61
>>750
神功皇后を強引に卑弥呼の時代に合わせてるね?
何で?
0759日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 22:54:20.94
>>753
>大王家みたいなもんから未婚女性が斎宮みたいな形で担ぎ出されていたと想像するのが自然だろ

全然自然じゃないね。斎宮は女王ではない。
0760日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 23:03:47.90
>>752
>卑弥呼の崩御の後、次の男王がもし卑弥呼と何らかの血縁関係があるとしたらそのことは記録されただろう
その男王では国はまとまらなかった
次の壱与は卑弥呼の宗女、卑弥呼の一族の娘というだけで卑弥呼と血縁関係がある訳ではない もしあったのならそれは記録されるだろう

記録されてるが。
地祇本紀を読んで日本書紀と照らし合わせば分かる。
https://9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000143M.png

トヨ津姫の3世代前がヒメ后。
トヨ津姫の1世代前に建甕尻、別名がタケミカヅチ。
卑弥呼の死後に千人が死ぬ大戦争があったわけだが、
タケミカヅチとタケミナカタの争いだった事が分かる。
7世紀の朝廷はその争いを神代に設定してぼかした。

宗女の宗の名は「天(アマ・アメ)」
天日方奇日方や天トヨ津媛で分かる。
0761日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 23:07:05.70
崇神が4世紀前半かどうか、それで邪馬台国論争は終わる。
なぜならその数十年前の最高位のトヨは天トヨ津媛しかいないからだ。
そしてその3世代前にヒメ(蹈鞴五十鈴)后がいる。

邪馬台国論争は二人が住んだ葛城で終わり。
大和朝廷の発祥地なので文句あるまい。
0762日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 23:11:11.20
>>749
>卑弥呼のイメージは
>処女で、ベジタリアンで、お婆さん

それを固定観念という。
そんなくだらない固定観念を打ち破れないのは君がバカだからだ。
0763日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 23:14:07.38
>>760

>>734を読んで何か感想は無いのか?
0764日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 23:31:35.86
>>759

ヒメタタライスズヒメも女王じゃないだろ
0765日本@名無史さん垢版2021/07/24(土) 23:58:20.68
ヒメタタライスズヒメには弟もいない
0766日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 02:40:30.54
5代 孝昭天皇

|――天足彦国押人命----[和珥氏族](天理市和邇氏族の領地東大寺山古墳)
| (から西暦184年-188年にあたる「中平」年間の紀年銘を持つ鉄刀が出土)
6代 孝安天皇

7代 孝霊天皇

8代 孝元天皇

|――倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼と云われる)

|――吉備津彦命(西道将軍・桃太郎のモデル)

|――稚武彦命-------[吉備氏族]

9代 開化天皇―― 大彦命-----[阿倍氏族]

|――  ◇  ◇   武内宿禰---[葛城氏族]

10代 崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖尊)(AD 300年頃か?)
0767日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 03:00:39.92
豊前宇佐地域は秦氏・宇佐神宮が来る以前は吉備一族の管理地で
宇佐神宮、上宮が鎮座されている小椋山は亀山には2組の石棺が埋葬された古墳で
比売大神(卑弥呼)と台与の石棺では無いかと云われてる
後世に石棺に改装された可能性もある。それと側には百体神社もあり殉葬者ではと。
0768日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 03:21:55.89
宇佐市は丁度、伊都国の南方日田市の東方山国川を下った場所にあり
帯方郡の使節が邪馬台国は伊都国の南方に有るとの印象を持ったのでは?

勿論、卑弥呼時代には九州北部、博多湾沿い、筑後川流域も邪馬台国の領域だった。
関西、瀬戸内海、九州北部地域は既に大倭ヤマト国の共立領地で
九州北部地域だけ楽浪郡からの伝統的影響で倭国ヤマトを許容してたんでわ?。
0769日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 03:41:01.90
だから400年代の奈良・河内ヤマトは「大倭」時代だけれども
仁徳時代の「倭の五王」たちの中国皇帝への官職要求には倭国、倭王としてるが

同時に臣下に与える鉄剣には江田船山古墳出土鉄刀の銘文
「治天下大王」の称号大王と名乗ってる。
0770日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 06:33:38.72
>>763
弥生時代から硯があり文字が入っていたようなので、
后(ごう)的な音読みはすでにあったのだろう。
0771日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 06:35:45.27
>>764
女王だと書いてしまえば話は終わる。
だから隠したという話だ。
5世代100年前に倭国王帥升ことスサノオがいるからな。
0772日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 06:40:17.11
>>765
中国語には女弟という表現もある。
だから男弟は弟ではなく徒弟の弟、つまり臣下、部下という意味だろう。
日本書紀に鴨王(かものおおきみ)と書かれている実兄の天日方奇日方だろう。
妹を王に立て、自らはオオキミから少し退いた。
0773日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 08:11:06.68
>>771
隠したいなら何も書かなければいい
>>772
そんなもん、卑弥呼の周辺はみんな部下だらけだ
ところが弟と書かれてるのは一人だけ
0774日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 08:29:57.63
>>767
2組の石棺は石棺と確認されたわけではない、
掘り下げたら板状の石に当ったので石棺だろうと思ったということ。1つは台与だが、もう一つは瓊瓊杵尊だろう。
そもそもの卑弥呼の墓は、
宇佐神宮の大元の守り神で、大蛇が住むとされた南の日向祖母山の麓の高千穂神社のご神体山だ。
(祖母山に大蛇が住むと揶揄したのは平家物語だが、それは卑弥呼が拝した親魏倭王の金印のつまみ紐座が蛇だったからだろう)
0775日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 08:43:50.62
>>770
万葉仮名の時代は漢字の「音」で大和言葉を表現した
漢字は音を記録する道具として用いられた

名前に漢字の意味を持たせるのはさらにその後
0776日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 08:44:54.99
>>768
豊秋津師姫(台与)は瓊瓊杵尊らと共に中津国へ下ったというが、
それは、日向高千穂宮(邪馬台国女王之所都)を出で、曹操所縁の金銀鉄鏡を懐に、
九州山地の古道伝いに北上して日田の月隈神社に至り、そこに数年とどまったのち、山国川沿いに宇佐へ下ったということではないか・・
0777日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 09:41:51.84
なお参考までに、、
日田の中心部にある月隈神社の御祭神は、豊秋津師姫と瓊瓊杵尊となっている。
0778日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 10:41:00.12
>>773

「無夫婿 有男弟 佐治國」

夫婿は無く、男弟は有る、ということだね
0780日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 11:44:52.86
嘗(なふらい)だね
0781日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 12:59:17.92
邪馬台国大研究のHPに、その比定地と卑弥呼の人物像の一覧表が載っている。
論者は合計135名だが、其のうち卑弥呼は天照大神とするものはわずかに10名(8名+白鳥・近藤)にすぎない。

しかし、たとえ少数の論であったとしても、卑弥呼が天照大神であったとするのなら、
統計学的には、その都(女王之所都)は、日本神話の日向高千穂であったと論ずる者が2-3名くらいはいてもよさそうなものであるが、
それはゼロである。まことに不思議なことだ・・。
ここに邪馬台国論争の出発時点における精神状態(心情)の片寄り・色眼鏡を感じ取ることができるのである。
0782日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 13:06:58.20
>>781
そうやって予告編ばっかりで一向に論じないのは中身がない証拠
0783日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 13:19:44.76
>>782
映画でもテレビドラマでもそうだが、
チラリ予告編から、本番のストーリのあらかたが読み取れるもの。何事によらず、そこが肝心かなめ、一を聞いて十を悟るというもの・・、
0784日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 13:38:32.93
>>783
予告編しか無いのは詐欺か、途中で倒産したゴミだよ
0785日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 14:38:38.04
通常、神話と言えば仮想的空間(バーチャルな世界)を描いた物語と受け止められる。
しかし日本神話は、これを逆用して結構巧妙に作られたようだ。
つまり根底には古代の実話・実録が有ったのだが、あまりにも生々しくて記紀編纂には問題が多かったので、
如何にも非現実的で実態を伴わないバーチャルな物語(神話)として編集し直したのであろう。

空から雲に乗って降りてきたとか、100才、200歳の天皇がいたとか・・、そんなのあるわけねーだろう、と一般人には、わざとそう思わせたわけだ。
しかし読む人が読めば、ふんふん、あの天ツ神は我がご先祖のあの人物で、この地神は、あの部族のあの荒くれ頭目で・・、という具合にだ、、。
もちろん卑弥呼がどの大神で、女王の都がどこだったかも、8世紀頃の大和政権の中枢知識人には丸見えだったにちがいない。
0786日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 15:20:20.24
空から雲に乗って高千穗に降りてきたのは天照のお孫さん
そこにはお猿さんしかいなかったので笠狭御前に行った
また誰か降りて来るかもしれないから毎日空を見張っていなさい
0787日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 15:39:41.15
>>774
謎の石棺の目撃証言
宇佐神宮改修時に石棺が二度目撃されている(明治 40 年、昭和 16 年)。
明治 40 年(1907 年)、神楽殿前の広場にそびえる楠の大木と、内陣・三之御殿の向って
右側にある楠の巨木が根を張り出し、建物の一部が傾きかけた。

そこで、内陣の部分をある程度掘り返し、根を切断すると同時に建物の一部を修理する
市役所職員立ち合い工事が行われた。 その時、巨大な石棺がその全貌をあらわした。
目撃証言によれば、「角閃石の一枚岩をくりぬいて作ったと思われる完全な長持形の石棺だった。

石の節理の条件からいって耶馬渓付近のものと思われるし、
国東半島にはこういう石は存在しないそうである」「この石棺にふれることは許されなかったので、
目測にたよるほかはなかったわけなのだが幅も高さも1メートル強、長さは2メートル数十センチ、
しかも表面はまるで鉋(かんな)でもかけたようなきれいな平面になっていた。

とうぜんのことだが、蓋はべつになっており、その間からはみ出したと思われる朱が、
横に一線正確な直線を真赤に描き出していた」
(目撃者の山本聴治の証言を高木彬光が著書『邪馬台国推理行』角川書店 1975 年で紹介)。
0788日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 15:41:53.43
古来、33年毎の式年造営にあたって、
「二之御殿の位置を動かすことは絶対にまかりならぬ」と口伝されてきたそうです。 
二之御殿の真下には御量石(みはかりいし)と呼ぶ、石を中心に二之御殿が建てられているからです。
そして、言うまでもなくこの御量石が、石棺の蓋石ということです。

それによると、石棺は長さ約2メートル、幅約1メートル。石棺の蓋は真っ平なものだったという。
弥生時代によくある甕棺墓に被せた大きな石蓋のような印象だったと証言。
0789日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 15:52:33.23
作家・故高木彬光先生は、著書「邪馬台国の秘密」の中で、
「宇佐八幡の鎮座する小椋山(または亀山)は邪馬台国のヒミコの古墳ではないか」
と示唆しておられます。 ここが古墳だったことは確実でしょう。

地元の人々からも、宇佐神宮の亀山は“神山”がなまったものであり、
ここが古墳であるという認識をお持ちでした。

亀山は南北に120m、東西に160mほどの小さな山ですが、
この山頂付近には人工的に手を加えてあり、ここが墓だとすれば、
諸葛亮の墓と同様に自然の山を墳に見立て「冢」を作った、と言えるでしょう。
しかし残念ながら、ここを発掘することは難しく、
被葬者と副葬品が確認されていないのが弱点です。
0790日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 15:53:11.55
長持形石棺なら5世紀だな
0791日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 16:23:24.82
いや、応神天皇を祀る為に卑弥呼の伝承があった小椋山(または亀山)に
八幡宮を建てる時、弥生の石蓋墓が見つかり後世の石棺で改装し直したんでは、

宇佐八幡宮が造営されたのが700年代だったはず。
0792日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 16:39:43.13
>>773
>隠したいなら何も書かなければいい

ならば国史なんて出来はしない。
日本書記の本質、それは「伝えなければならない、しかしそのまま伝えることはできない」
だから時代を大きくずらした。
0793日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 16:43:37.44
>>773
>ところが弟と書かれてるのは一人だけ

弟ではなく男弟。

>そんなもん、卑弥呼の周辺はみんな部下だらけだ
代わって
卑弥呼に代わって政治をつかさどるのは一人だ、ごまかすな。
0794日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 16:44:18.17
>>792

つまりお前の改竄書記=作り話
0795日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 16:45:16.23
>>789
卑弥呼が誰なのか言えてないので0点。
落第。
0796日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 16:48:33.96
>>781
新井白石の江戸前期以前、高天原は日本で一つの場所しかない。

それは九州ではない。
だから卑弥呼=アマテラスで九州にいたなんて論者は、
はっきり言って馬鹿ではないかと思う、安本美典のような。
0797日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 16:51:23.83
>>794
おまえは卑弥呼が誰なのか何ひとつ言えてない。

4世紀初頭のから前半の崇神天皇の数十年前にいたトヨはトヨ津媛でよいか?
はっきり答えてもらおうか。
0798日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 17:08:16.69
>>793

男弟は弟

「後子夫男弟步廣皆冒衛氏」(史記)

後に子夫(衛子夫)の男弟歩廣、皆衛氏を冒す
0799日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 17:48:57.55
>>798
女弟という熟語もあるから却下
0800日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 17:50:20.46
じょ‐てい ヂョ‥【女弟】

〘名〙
@ 妹。
※史記抄(1477)七「女人なれども呂后の女弟ぢゃほどに如此をそろしいぞ」 〔史記‐李延年伝〕
A 女の弟子。女弟子。
0801日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 18:03:22.82
>>799

女弟ではなく男弟。
0802日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 18:19:36.38
>>801
だから男の弟子という意味もあるという事だ。
おまえって1年365日このスレに居ついてて馬鹿なのか。
0803日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 18:20:29.36
>>792
身内に伝えたいことは遺言でも残せばいい
隠したい国書に残さなくてもいいはずだな
0805日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 18:24:32.39
>>803
日本の歴史には未来永劫隠さなければならない事柄があった。
だから時代を大きくずらして隠した。

卑弥呼が誰なのか言えないボンクラはそろそろ黙ろうか。
0806日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 18:34:36.74
>>805
学説になれないトンデモが黙るとよい
0807日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 18:45:43.27
>>802

出典を書きなさい
0808日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 18:48:08.11
高鴨神社境内立小便犯人には葛城の自然斜面を墓だと言い張らなければならない事情があるのだろう
0809日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 20:50:11.99
『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、
崇神天皇はその原因が天照大神・倭大国魂神の2神を居所に祀ったことにあると考えた。

崇神天皇6年に天照大神を皇女豊鋤入姫命に命じて大倭国の笠縫邑に移して祀ることとし、
倭大国魂神は皇女渟名城入姫を斎主としてこれも宮中の外で祀らせるようにした。
しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。

ほとほと困った崇神天皇の元に倭迹迹日百襲姫命が夢枕で「市磯長尾市をもって、
倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた、
「天神」と「地祇」を分けて祀る様にとの倭迹迹日百襲姫命からの助言だった。
崇神天皇の血統では「地祇」倭大国魂神を祀ると災いが起きるのだろう。
0810日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 21:03:13.66
この、天照大神を祀る皇女豊鋤入姫命が
伊勢神宮(桜井市三輪にある桧原神社ひばらじんじゃ)の実質、初代斎王であった。

あとを引き継いだ倭姫命(やまとひめのみこと)が倭笠縫邑から
三重県の今の場所、伊勢神宮に遷し祀ったといわれる。
0811日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 21:18:08.59
つまり、倭人伝の宗女台与とは豊鋤入姫命(とよすきいりひめ)の事で
卑弥呼とは崇神の夢枕に現れた
吉備津彦命の姉、「倭迹迹日百襲姫命」の他には考えられない。

なお、「迹迹日」とは日神に神憑りした、エジプト神話にもトト神(月神)がいる、
「百襲姫」とは多くの熊襲を統べる姫の意味ではと思う。
0812日本@名無史さん垢版2021/07/25(日) 21:41:23.27
卑弥呼時代と崇神の皇女豊鋤入姫命とでは年数の開きが有るようだが
別の書き物などでは崇神と兄妹のようにも書かれてて、混乱してる。
卑弥呼が死してから男王が立ったが国中服さず千数百名以上の死者をだす戦乱が起き
混乱状態に陥り終息のため再度、年13歳の台与が共立され平和が訪れたようで、

卑弥呼から台与までの間には可なり年数が経ってるように思う。
0813日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 00:51:37.98
卑弥呼が亡くなったのが248年
その後立てられた後継者の男王に不服として内乱になるが、次に台与が立てられて安定する
この台与の即位は最短であれば248年、13歳で即位している
内乱の期間によって時期はずれるが長くても数年であろう
266年に朝貢した記録があり、これは台与とされている
このときの台与の年齢は、即位の時期が卑弥呼の崩御から最短であれば31才、ずれがあっても数年ということになる
0814日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 06:38:44.92
>>806
なぜ古代天皇が100歳を超えるのかについてまともな学説はない。
せいぜい倍歴程度。
0815日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 06:40:33.25
>>807
女弟の意味で女弟子・徒弟というソースを上に出してるだろ。
何度も同じことをさせるな面倒くさい。
0816日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 06:45:43.06
>>781
>たとえ少数の論であったとしても、卑弥呼が天照大神であったとするのなら、
統計学的には、その都(女王之所都)は、日本神話の日向高千穂であったと論ずる者が2-3名くらいはいてもよさそうなものであるが、
それはゼロである。まことに不思議なことだ・・。
ここに邪馬台国論争の出発時点における精神状態(心情)の片寄り・色眼鏡を感じ取ることができるのである。

待ったくその通りです。
自分が九州人だから、九州出身だから、あるいは政治的に反権力・反中央、反天皇制、
金出して買った本が古田武彦であった、安本美典であった、
まぁその程度の人間が九州説者になるのです。
0817日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:07:58.59
>>810
豊鋤入姫命の行った場所が元伊勢になってます。
彼女はまず丹波に行く。そして大和に戻ってから今度は和歌山に行く。
丹波と和歌山に何の共通点があるのか。
実はある、それは女性の怨霊。

彼女の叔父にあたる彦坐王が丹波で匹女(ひきめ)という土蜘蛛の棟梁女性を殺す。
あたり一面が血の原になり、その地は血原となり、やがて千原と呼ばれる。
そこが今の福知山の千原であり、お笑い芸人の千原兄弟の出身地。
豊鋤入姫命はその匹女の怨霊封じのために滞在したのであろう。

そして和歌山は名草媛の怨霊。
彼女は神武軍に頭、胴、足と分断され、殺された。
おそらくレイプ=凌辱も受けていたのであろう。
豊鋤入姫命はその名草媛の怨霊封じのために滞在したのであろう。
今も紀伊一宮の日前神宮・國懸神宮の中言社 に名草媛が祀られる。

神武軍とは猟奇集団であった。
そして「元伊勢」という意外な存在から神武東征が証明されるのである。
0818日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:12:49.44
宇佐神宮は、俗に全国八万社の八幡宮の総本山として君臨しているというが、
其の宇佐神宮も、更に別格高位の祖宮として、古くから日向高千穂の宮々を奉ってきた。
其のうちでも、とりわけ高千穂町三田井神殿(みたい こうどの)にある高千穂神社は格別である。
この社は旧名を十社大明神と言い、皇祖に連なる10名の神々を祀る。しかし不思議なことに天照大御神は除かれ、別途天岩戸に祀られている。
0819日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:20:00.08
>>808
隣りに奴婢埋葬痕跡がある経百余歩の「冢」はここだけ。

しかも大和朝廷の発祥地であり、日本神話の原点「高天原」

ここ以上の候補地はない。
あれば言ってくれ。
0820日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:25:07.06
>>818 の続き
(但し天岩戸は神社建物でなく、川沿いの深い断崖の途中にある浅い洞窟にようなところというから、おそらく「もがり」の場所であったのであろう)
0821日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:29:37.38
>>815

だから女弟ではなくて男弟
辞書ではなくて出典=その意味で使われている文献
0822日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:41:21.07
>>819

奴婢埋葬痕跡は無い
西に向かって参拝する高天彦神社は役行者の後に金剛山の山岳信仰が盛んになってからの創建だろう
0823日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:42:10.99
>>821
女弟の弟に女弟子の意味があるなら、男弟も同じだろ。

パラノイアかお前は。
俺の車に傷ついたとごねてるヤクザか、死ね。
0824日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:44:38.71
>>822
史跡としてある、グーグルマップでもわかる。
あるものが何で「ない」になるのだこのキチガイ。
0825日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:49:22.78
>>823
夫はない、弟がいる
そう書いてるのに、弟ではなく部下だというトンデモ畿内説らしい

そもそも、徒弟というが、これは弟子という意味であって部下ではない
師弟というように、弟子なら師匠がいるはずだけど、卑弥呼は明らかに師匠ではない
0826日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:53:39.19
>>825
夫はない、男弟がいる、宮に出入りする一人の男子=タギシミミがいる。

はい、卑弥呼はヒメ(踏鞴五十鈴)后で終了www

で、君の卑弥呼候補は誰?
どうせ九州の汚いオバハンだろうが、言ってみてw
0827日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 07:56:57.11
>>820 のつづき
世上、アマテラスという神には2つの漢字が当てられている。
一つは「天照大御神 アマテラスオオミカミ」で、天岩戸にお隠れになった祖神をいう。
二つ目は「天照皇大神 アマテラススメラオオカミ」で、天岩戸からお出ましになり、活躍された神をいう。
伊勢神宮内宮に祀られているのはこの神のほうである。

つまり天岩戸事件の前は天照大御神であったが、その後は天照皇大神に替わっており、ここで入れ替わりが行われたことを示している。
云うまでもなく、卑弥呼と台与の交代劇を想起させるのである。
0828日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 08:02:31.19
>>827
神武軍が高尾張邑=御所市高天で土蜘蛛を討った。
地元の伝承では洞窟にいる土蜘蛛が出られないように入口に大きな岩を置いた。
7世紀の朝廷はこの話を知っていただろう。
しかしそのまま日本書紀に書いてしまうと、魏志倭人伝の卑弥呼墓の殉葬奴婢百余人を想起されてしまう。
せっかく神武の時代をBC7世紀に設定したのに元も子もない。

だから官製神話として創作されたのが「天岩戸」
0829日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 08:02:38.04
>>823

出典がないならお前が同じだと思うというだけのこと
我々大和民族は神社で鳥居をくぐるとまず手を洗い身体を清める
斜面爺は神社の境内で下等動物のように立小便をする
こうした民族の根源的な違いがある
0831日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 08:10:42.35
>>795
>卑弥呼が誰なのか言えてないので0点。落第

卑弥呼は、姫氏松野氏系図に載っている「大野」付近の「刀良」という女性。
「卑弥呼」の「卑」は、「卑氏」という苗字文字であり、「卑弥呼」は称号。

それが言えない時点で、君も0点、落第。
落第。
0832日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 08:55:40.15
消去法で百襲姫では無い

695 日本@名無史さん sage 2021/05/27(木) 18:04:10.77
卑弥呼は天照大御神

卑弥呼の死は日食を暗示

臺與=たいよう(卑弥呼の次の太陽)

すべて、辻褄が合う

畿内説は
卑弥呼=百襲姫=大物主を神降ろし=大物主を祀ることで治め
かつ天照大御神を外へ出すと言う論外ぶり

いかに畿内説が逆説であるか
おわかり頂けただろう
0833日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 09:12:04.37
記紀の時代には漢字を習得している
シナの史書も知っていただろう
それでもなおかつ辻褄が合わないのだから、ヤマト政権に都合が悪いため意図的に隠してるとしか考えられない

畿内勢力が九州邪馬台国を滅亡させるか併合して、ヤマトの看板を奪ったのだ
自らが倭王を名乗るために
0834日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 10:18:24.51
>>833
なんで名乗るの?
理由がない
0835日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 10:42:57.02
三〜四世紀に奈良盆地を乗っ取って大和を名乗ったのは、「いわゆる魏志の邪馬臺なる者也」、
ま、簡単な歴史の問題です。
0837日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 10:57:20.08
>>829
出典がないも何も今も普通に中国語としてあるものを,
なんでいちいち出典求めてるのかな。
0838日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:00:11.24
>>832
>卑弥呼は天照大御神

もはやほとんど知恵遅れの説。
高天原は九州にはない。
大和にしかない。
0839日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:03:38.67
>>829
>斜面爺は神社の境内で下等動物のように立小便をする

フェンスの穴に亀頭を差し入れ、敷地外に放尿した。
おまえにとやかく言われる筋合いはない。
0840日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:09:22.91
>>832
>消去法で百襲姫では無い

あなた消去法使ってませんね
0841日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:27:06.08
>>837
>出典がないも何も今も普通に中国語としてあるものを,
>なんでいちいち出典求めてるのかな。

当時あったという証拠が出典だから
0842日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:27:26.82
>>838
大和にしかない。×
山門にしかない。○
0843日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:28:46.66
>>837

今の用法ではだめだから
0844日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:30:03.28
>>839

我々大和民族は神社でそのような穢れた行為はしない
お前が日本の信仰を理解するのは無理
0845日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:33:41.38
葛城斜面、山門信号機付近、高千穂神社下
これらの作り話には考古学的根拠が一つも無い
0846日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:35:44.78
>>841
なら中国語の辞典にすべて出典を求めて見ろ。

だいたい普通に弟(Younger brother)なら弟とだけ書いてるだろ。
わざわざ男弟となってることを考えろ。
0847日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:39:06.08
>>846
>なら中国語の辞典にすべて出典を求めて見ろ。

出典がなければ現代だけの用法
0848日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:39:25.86
>>845
考古学的根拠はあるよ。
名柄と多厨細文鏡。
纏向遺跡(2世紀末以降)より前、弥生時代からこのあたりに王権があった証拠。
長柄神社に祀られているのは父親が祀られで母親が宗像三女神のタギリ姫であるシタテル媛(=高姫)。
0849日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:40:45.00
>>847
魏志倭人伝に書いてある。
何で「弟」とだけ書いてないのかな?
何でわざわざ男をつけてるのかな?
0850日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:41:26.93
× 名柄と多厨細文鏡

〇 名柄銅鐸と多厨細文鏡
0851日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:43:03.51
>>844
>我々大和民族は神社でそのような穢れた行為はしない

スサノオは神殿で糞をしたが?
0852日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:46:37.84
>>846
古代中国では弟も妹も「弟」と書いた
甥も姪も「姪」と書いた
これ常識
0853日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:47:06.70
畿内は博多湾から見て東の国であり、南ではない

@女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
A@以外の国は女王国の東西に存在する(斯馬国,已百支国,伊邪国〜etc)
B南には敵対する狗奴国がある
C女王国の東に海があり、その先にまた倭種の国がある←これが近畿

よって女王の都は女王国北部の中央付近で(筑後川流域)と考えられる

水行行程の部分は朝貢に来た倭人の説明を書き写したものであり、その始点は帯方郡である
図:https://i.imgur.com/r68VjFt.png
帯方郡〜女王の都まで12000余里

参考)
・倭人は里を知らず日を使って距離をしめした(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
0854日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:48:24.73
あかんボロボロや。
× 長柄神社に祀られているのは父親が祀られで母親が宗像三女神のタギリ姫であるシタテル媛(=高姫)。

〇 長柄神社に祀られているのは父親が大国主で母親が宗像三女神のタギリ姫であるシタテル媛(=高姫)。
0855日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:48:47.60
>>848

ただの斜面とぜんぜん場所が違う
0856日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:51:05.91
>>852
だから普通の弟(Younger brother)を「男弟」と書いたソースは?
0857日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:52:17.66
>>855

ふもとではあるが同じ高天原だが。
0859日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 11:58:26.47
>>857

ただの斜面の3世紀の考古学的根拠だ
0860日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:01:35.42
>>858
ならば兄と弟を間違えたでもいい、殉葬が実際には神武との結婚前であるのと同じ。
通訳もそうだが文化齟齬もあり、魏志の記述は100パーセントではない。
どちらにしても九州にいた卑弥呼を全く示せない時点でお前は落第。
0861日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:02:53.84
>>859
神社の聖域を発掘なんてできるかアホ。
逆に言えば発掘できる場所は卑弥呼の墓ではない。
0862日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:04:40.23
>>860

つまりお前の作り話は倭人伝とは一致していない
0863日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:05:59.99
>>861

高鴨神社の境内で立小便をしたのが穢れたお前だ
0864日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:16:14.40
>>862
崇神は4世紀初頭〜前半で良いか?

ならば13で即位したトヨはトヨ津媛しかいないでいいかな?
他にいるのなら遠慮なくどうぞ。

その時点で邪馬台国論争は終わり。
おまえはただの負け犬。
0865日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:17:26.70
>>853
フェンスの外
敷地外という。
お前はキチガイ。
0866日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:20:55.52
>>864

記紀の人物に当てはめること自体が間違っている
0867日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:27:22.14
>>865

フェンスの外も神社の敷地
フェンスの外だからいいというのはお前の考え
高鴨神社の宮司に境内からフェンスの外に出すなら立小便していいか聞いてこい
大和民族はお前のような穢れたことはしない
0868日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:27:45.94
>>866
そこが畿内説の願望
邪馬台国は畿内にあったはずだから、必ず記紀に登場してるはず

そういう、結論ありきで探し始める
0869日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:29:18.92
>>866
何で間違えてるの?
記紀に登場するのなら九州説が負けたことになるので認めたくないだけだろ。
みっともない男だw
0870日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:30:12.61
>>868

葛城斜面作り話は畿内説とは呼ばない
学者の研究成果による通説が畿内説
0871日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:30:30.84
>>867
関係者でもないお前が偉そうに言う事ではない。
0872日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:32:22.32
>>856
>だから普通の弟(Younger brother)を「男弟」と書いたソースは?

色々あるよ
「後子夫男弟歩、廣皆冒衛氏」史記衛青殿とか
0873日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:32:54.76
>>870
>学者の研究成果による通説

奴婢埋葬痕跡が全く言えない通説ねw

馬鹿が100人寄ってもバカ説しか生み出せない好例だw
0874日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:32:55.08
>>871

関係者かどうかなど関係ない
我々大和民族にはお前のような穢れた習慣はない
0875日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:33:43.47
>>874
スサノオは神殿で糞したと繰り返そう。
0876日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:34:08.13
>>873

葛城斜面に奴婢埋葬痕跡などない
0877日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:35:52.77
>>875

神話と混同して開き直るな
0878日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:37:08.37
俺の質問

「崇神は4世紀初頭〜前半で良いか?

ならば13歳で即位したトヨはトヨ津媛しかいないでいいかな?
他にいるのなら遠慮なくどうぞ。」

に対して全く答えられないアホばっかりwww
華麗にスルーwww
0880日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:39:32.67
13歳で即位したトヨはトヨ津媛かどうか。
それで決まる。

あとは卑弥呼の墓を葛城に探せばいいだけ。

「13歳で即位したトヨはトヨ津媛かどうか」に答えられないで逃げまくるアホどもの醜態をご覧あれw
0881日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:40:44.93
>>879
3世紀当時に天皇なんて称号があるかよ、アホ。
0882日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:42:38.52
記紀あてはめゴッコに意味がない
0883日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:42:46.12
>>881

天豊津媛は女王ではない
0885日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:46:06.16
トヨ津媛は国宝中平銘鉄刀の和邇氏の祖なのだが。
あの刀がなぜ和邇氏の墳墓から出たのか、
トヨ津媛がトヨならその説明がつく。

もうあきらめろw
みじめだw
0886日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:47:52.43
>>883
記紀がトヨ津媛を女王って書くわけないだろ、書いたら魏志倭人伝を説明することになるだろ。
本末転倒だ、こいつ頭ワル〜〜w
0887日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:48:08.74
>>885

葛城自然斜面関係ないだろ
0888日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:49:20.78
>>886

記紀を改竄したらただの作り話
0889日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:50:33.67
>>872
少しはあるがほとんどないという事だね。
0890日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:51:34.01
>>849
>魏志倭人伝に書いてある。
>何で「弟」とだけ書いてないのかな?
>何でわざわざ男をつけてるのかな?

あなたは循環論法に陥って珍説が破綻しました
0891日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:51:47.56
>>889

お前は出典を一つも提示してないから
0893日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:53:46.90
>>887
古来から高天原と呼ばれた神聖な場所です。
尾張氏のルーツ高尾張邑でもあります。
穢れた君には理解できないだろうが。
0894日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:55:14.06
>>893

自然斜面には何も無い
0895日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:56:09.69
>>892
「祖先から伝わった伝承は書かなければならない、しかしそのまま書けない」

だから時代を大きくずらし神武BC7世紀にしたのだ。

センスねぇな、おまえw
0896日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:57:04.52
>>895

それはお前が作った話
0897日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:57:52.15
>>894
昔からお墓、江戸時代もお墓があり、今もお墓がある。

箸墓という低地にある糞古墳とは格式が違うのだ。
0898日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:58:23.77
>>895
そもそも、なんで伝承だからといって書かなきゃならんのだ?
さらに、わざわざ時代をずらしてカモフラしてるのに、どうして壱与だと分かるんだ?

壱与と分かるならカモフラする意味がない
完全に自己矛盾してるぞ
0899日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:58:56.81
「13歳で即位したトヨはトヨ津媛かどうか」に答えられないで逃げまくるアホどもの醜態をご覧あれw
0900日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 12:59:10.48
>>897

江戸時代、今のお墓は根拠にならない
0902日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:03:41.78
>>898
>そもそも、なんで伝承だからといって書かなきゃならんのだ?

祖先から伝わった伝承だからだ。

>さらに、わざわざ時代をずらしてカモフラしてるのに、どうして壱与だと分かるんだ?

トヨの即位前にタケミカヅチがいる。
卑弥呼の死後に千年が死ぬ戦いはタケミカヅチとタケミナカタの事だ。
記紀編纂者は当然わかっていながら、神代とした、

>壱与と分かるならカモフラする意味がない

だから時代をずらしてるのだ、何言ってるのか。
欠史8代には事績がないだろ。
書いてしまえば魏志倭人伝を説明することになるからだ。
0903日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:04:06.76
>>899

ご覧あれって、自然斜面が卑弥呼の墓などと連呼してるのも
神社の境内で立小便するのもお前一人だけ
0904日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:06:24.20
>>901
>記紀に邪馬台国は出てこないと書いてる

何処に出てこないと書いてるの?
日本書記では神功皇后を卑弥呼に当ててるね、卑弥呼だと断言してないけど。
0905日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:07:24.74
>>903
地動説も一人なんだよ。
おまえらは烏合の衆。
0907日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:16:47.19
>>845
>葛城斜面、山門信号機付近、高千穂神社下

あのな、高千穂神社の下ではな〜い。
本殿の背後にこんもり盛り土の小山が有って、ご神体山になっている、
これが卑弥呼の棺有り槨無し盛土の塚(=ちょう)だ。わざわざほじくり返さなくても、見ればわかる。
0908日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:19:37.27
>>905

地動説は学者の説
自然斜面作り話は高鴨神社境内立小便爺の作り話
0909日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:21:15.79
>>907

高千穂神社関係者は否定していてお前一人が言ってるんだろ
0910日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:27:19.94
>>908
微分・積分の関孝和は酒屋さん
0911日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:28:39.57
>>845
神社の聖域は掘れない。
0912日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:30:39.14
>>910

それ伊能忠敬
0913日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:34:59.64
そうか、間違えたw

どっちにしても学者かどうかは関係ない。
言ってることが正しいかどうかだ。

天トヨ津媛はトヨでいいな?
それで終わる話。
0914日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:36:51.56
>>913

作り話は正しいもなにもない
ただの作り話
0915日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:37:06.53
複数の学者が卑弥呼墓=箸墓だってよw
アホじゃないのかw

イカガノシコオ以外に被葬者はいないのになw
0916日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:38:20.35
>>914
記紀や系図は作り話ではないよ。

負け犬君、泣いてるのかw
0917日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:39:25.61
>>915

箸墓が卑弥呼の墓かどうか以前に
自然斜面はただの自然斜面
0918日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:41:07.42
>>916

お前は記紀を改竄して根拠にしてるから
ただの高鴨神社立小便犯人の作り話
0919日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:42:28.14
>>917
前期古墳は自然の形を利用する。

もっとも卑弥呼の墓は墳ではなく冢だがな。

あと日本で唯一、崇神以前の奴婢埋葬痕跡がある場所。

残念だな、箸墓古墳にはそんなもの無くてwww

泣いとけw
0920日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:44:16.89
>>918
>お前は記紀を改竄して根拠にしてるから

どこを改竄してるのかな。
もっとも神武BC7世紀とは思わないので時系列は正しく元に戻すけどね。
0921日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:44:45.93
>>919

葛城自然斜面は自然の形を利用して造った冢ではなくて
そのままただの奴婢埋葬痕跡もない自然斜面
0922日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:47:43.51
>>920

つまり年代を改竄している
后も女王に改竄している
倭人伝も書き間違いにしている
全てお前の作り話
0923日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:48:23.96
>>921
グーグルマップでも確認できる土蜘蛛塚・窟を「ない」というのは、
君には見えないのか、君が脳みそいかれてるからかしか考えられない。
0924日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:49:53.55
>>923

ただの自然斜面だろ
0925日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:51:36.55
>つまり年代を改竄している

考古学的にも応神5世紀前後、崇神4世紀前半。

>后も女王に改竄している

トヨがトヨ津媛しかいない以上、その3世代前の卑弥呼は一人しかいない。

>倭人伝も書き間違いにしている

通訳その他の問題もあっただろうから倭人伝は100%正しくない。
しかしほぼ正しい。
0926日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:53:13.10
>>925

つまりお前の作った話が根拠=自己絶対正義
0927日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:53:58.93
1年365日,朝昼晩居ついて奥山はただのアホww
0928日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:56:25.70
>>927

つまりお前は誰のレスかも区別できていない
0929日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 13:56:55.36
>>926
年輪年代は俺の創作ではない。
記紀や先代旧事本記も俺の創作ではない。
0930日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 14:00:13.67
>>928
烏合の衆の糞レスを天才の俺が区別する必要もない。
0931日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 14:02:51.58
陳寿が生まれたのは233年
台与が生まれたのは魏志倭人伝からの推定で235年
ほとんど同じ時代を生きたことになる
台与についての記述で注目すべき記述は「台与が立てられて内乱が収まり安定した」という点
ほぼ同時代に生きた陳寿がその安定の様子を見守っていたことになる
陳寿が西晋で役人になるのは蜀漢が滅んでからだいぶたってから
三国志の成立は280年以降と見られている

265年に曹魏が滅ぼされ西晋が建国される
日本書紀と晋書に266年に朝貢があったと記され、これは台与だとされている

それ以降の150年間は倭国の動静についての記録は無い
すでに魏が滅んでいるから三国志関連の魏についての記述には現れてこないのは当然としても
もし台与の政権が存続していたら、外交の記録は残ったと思う
266年の朝貢の記録の後に倭国で政変があり中国との外交関係が途絶えたということなのかもしれない
0932日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 14:04:40.15
>>929

お前は神武の后を女王卑弥呼だと連呼してるんだろ
0933日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 15:23:00.33
>>909
>高千穂神社関係者は否定していてお前一人が言ってるんだろ

なかなか鋭いではないか。
高千穂神社は天照大神を祀らず、長きにわたって素知らぬ顔をしている。
全国の神道関係者も、邪馬台国や卑弥呼や台与とのかかわりを取りざたされるのを嫌う傾向にある。
ゆえに、魏や邪馬台国とは敵対的関係にあった狗奴国による東遷説とかを、わざと流すものもいる始末だ。
理由は云わなくてもわかるであろう。
つまり、今も大和朝廷の側に連なる者たちの大人の事情が、邪馬台国論争を一段と複雑怪奇なものにしているわけだ。
0934日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 16:25:36.20
>>931
>すでに魏が滅んでいるから三国志関連の魏についての記述には現れてこないのは当然としても
>もし台与の政権が存続していたら、外交の記録は残ったと思う

そうはならない
中国側が八王の乱の惨状と楽浪帯方の衰退で、もう海外との交流がないから
0935日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 16:58:14.97
>>931
壱与の政権下で魏志倭人伝は書かれてる
魏の使いが来たとき、すでに卑弥呼は死んで壱与政権になっていたのだから
0936日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 17:31:09.70
卑弥呼の死亡は、247年以前だと思う。
男王が立つがどの位の在位だろう?
0937日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 17:35:06.56
>>935
西晋の政権下だよ
倭の下ではない
0938日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 17:36:29.66
>>936
根拠なし
岡上なみの馬鹿妄想
0940日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 17:44:55.13
>>833
日没する処の天子の金印なんか要らねえ
0942日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 17:52:09.31
>>938
否定する根拠もない。
0943日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 17:59:21.98
>>942
幽霊の存在を否定する根拠がないから信じる
という馬鹿の理屈だ
0944日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:03:02.13
>>943
さらに意味不明?
なんで幽霊の話になる?
0945日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:08:10.54
>>944
知能が低いんだな
自分の主張に根拠がなく
否定する根拠がないという理由で主張しちゃってるんだろ
同じ論理構造だ
0946日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:11:37.64
>>945
知能が低いんだな。
否定はできない。
わからないなら理解できるけど。
0947日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:20:01.12
知能の低い>>946さん、自分の主張に根拠がないのは認めるんだね?
0949日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:30:32.28
>>946
根拠がない主張をしちゃった>>946さん、あなたの知能が低いのは認めるんだね?
0950日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:46:18.08
>>945 さん
あなたは知能が低いんだよ

あなたの主張の信憑性が否定されたとき
あなたは
>否定はできない。
>わからないなら理解できるけど。
と答えちゃったから
あなたの知能の低さが証明されちゃった
0951日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:46:29.56
>>931
>もし台与の政権が存続していたら、外交の記録は残ったと思う
266年の朝貢の記録の後に倭国で政変があり中国との外交関係が途絶えたということなのかもしれない


全くその通りです、トヨの後に政変があった。
それは崇神の時代。
その証拠に大和で大神神社が建てられる。
スサノオ直系の大物主が殺され、刀が奪われる。
大神神社は殺された大物主=阿田賀田須の霊を封印するところ。

山陰出雲でも大国主=出雲振根が殺され神宝が奪われる。
それは大きな勾玉。
そして振根の怨霊封じのために建てられたのが出雲大社。

前王権から奪った刀も勾玉も崇神の末裔である現天皇家が持っている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f5/%22Inheritance_Ceremony_of_Kenji_and_others.jpg/450px-%22Inheritance_Ceremony_of_Kenji_and_others.jpg

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后。
今の天皇家ではない前王権の姫様。
0952日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:53:17.44
>>932
>お前は神武の后を女王卑弥呼だと連呼してるんだろ

そうだよ、悪いか。
おまえは卑弥呼が誰なのか全く言えてないだろ
0953日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:56:13.22
>>950
あなたの知能の低さが証明されちゃった
0954日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 18:56:28.90
ああ、だから卑弥呼に夫がいたことにしたいのか
結論ありきだなぁ
0955日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:02:40.64
>>952
卑弥呼は卑弥呼だろうに
0956日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:03:58.24
>>946 さん
あなたは知能が低いんだよ

あなたの主張の信憑性が否定されたとき
あなたは
>否定はできない。
>わからないなら理解できるけど。
と答えちゃったから
あなたの知能の低さが証明されちゃった
0957日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:07:46.11
未亡人なら夫無になる。
詳細な事がない以上
生涯独身なのか。未亡人なのか?
わからない。
0958日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:09:13.24
>>956
あなたが知能低いだよ。
否定する根拠がない。
0959日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:14:58.15
>>955
おれもそう思う
畿内説は、卑弥呼が記紀に出てくるはずだという強迫観念に冒されてる
0960日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:17:13.54
>>958
誰が何を否定したの?
否定されたのは、あんたの主張の信憑性だよ
0961日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:17:21.61
>>836
>シナの皇帝から倭王のお墨付きをもらったのは「ヤマト」だから

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國」は北部九州や、
「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。
或云:日本舊小國,併倭國之地」などの史料事実や史料実態に拠って、バツです。
0962日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:18:15.21
>>959
畿内説がそんな主張してるって根拠は?
0963日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:20:49.87
>>960
信憑性を否定する根拠がない。
0964日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:22:11.61
>>962
畿内説だと、卑弥呼の勢力が畿内にあったことになり、ヤマト政権の前身でなければ不都合だから
0965日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:24:09.16
>>963
>信憑性を否定する根拠がない。

根拠は再三提示されてるだろ
「根拠がない」って

マジで知能低い?
0966日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:28:30.83
>>965
その根拠がない

マジで知能低い?
0967日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:29:09.64
>>964
>畿内説だと、卑弥呼の勢力が畿内にあったことになり、ヤマト政権の前身でなければ不都合だから

不都合だから何なの?
あなた、いつのの日本語が異常に下手な人?
0968日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:31:19.35
>>966

>その根拠がない

>マジで知能低い?

何の根拠が?
そう主張する根拠は?

どうして正しい日本語が喋れないの?
0969日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:33:34.69
>>957
>生涯独身なのか。未亡人なのか?

その通り、どちらでもよいとして考えればいいものを、
卑弥呼は生涯独身で処女のババアと考えてるバカがいて、
当然そのバカは卑弥呼が誰なのか分からないらしい。

バカだからだ。
0970日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:34:06.55
>>968
何の根拠が?
そう主張する根拠は?

どうして正しい日本語が喋れないの?
0971日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:35:56.44
>>954

まずトヨが一人しかいない。
その3世代前。
時代も様相も合う。
0972日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:38:06.14
>>955
>卑弥呼は卑弥呼だろうに

卑弥呼は卑弥呼ではないと言ってる奴がどこにいるんだ?
0973日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:40:23.17
>>972
卑弥呼のほかに名前が欲しい理由は?
0974日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:45:30.63
>>973
もちろん卑弥呼という名前ではなかったからだよ。
ヒメ后が正しい。
1人しかいない。
0975日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:45:33.10
>>973
もちろん卑弥呼という名前ではなかったからだよ。
ヒメ后が正しい。
1人しかいない。
0976日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:51:30.04
卑弥呼には夫がいない。
生涯独身か寡婦かは別にして夫がいない。
しかし、

【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】

がいる。

誰も答えられないだろ。
この唯有男子一人とはタギシミミだ。
0979日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:54:20.53
神武東征紀の大げささに違和感を感じる人も多いだろ。

あれは実際には女王国であったことを隠すためだ。

神武の時代が卑弥呼の時代(庄内0期)だ。
0980日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:55:25.81
>>979
で、隠したいの?
伝承として伝えたいの?どっち?

その時々で言ってることが真反対に変わってるぞ
0981日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:55:45.42
>>977
反論が出来ないのは知能が低いから?
0982日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:56:25.70
>>978
女王と書いてれば話は終わるだろ、アホなのかおまえ。
0985日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 19:58:29.98
>>980
伝えなければならないが、ありのまま伝えられない。
だから時代を大きく変えた、と言ってるのだ。
神武がBC7世紀に設定されてるのがその証拠。
0987日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:00:52.02
>>984
>終わったら都合悪いのか?

悪いね。
本当の卑弥呼が分かると日本の歴史が倭国王帥升ことスサノオの土下座から始まることになる。
それに気づいた新井白石が九州説を唱えた。
それこそが300年論争の始まり。
0988日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:05:53.80
>>987
だったら書かなきゃいい

そう言うと、今度は、伝えねばならぬ!というんだろ?
0989日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:07:19.61
>>988
だから時代を大きく変えたと言ってるんだが。
0991日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:13:34.50
>>990
本居を含め何人かは気づいてただろうね。
君はその何人かに入らない。
俺は入る。
0992日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:21:44.25
>>951
>ヒメ后
などといっていては何の説得力もない

魏志倭人伝に登場する倭人の名前から、姓を名乗る習慣は私は無かったと思う
台与はどう考えても名前のみで姓はない
狗奴國の王、狗古智卑狗は姓が含まれている印象があるが、狗奴と狗が重なっているので国名が反映されているのだろう 姓とまでは言えないと思う
0993日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:23:59.29
>>983
>なんに反論してほしい?

>>983 お前は知能が低い」
0994日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:26:35.52
>姓を名乗る習慣は私は無かったと思う

姓はあえていえば「天(あめ・あま)」
それは兄の天日方奇日方や天豊津媛という名前で分かる。
トヨは卑弥呼の宗女だが、その宗は「天」
0997日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:29:47.06
卑弥呼=ヒメ(蹈鞴五十鈴)后説のみが、
なんで記紀は時代を大きくずらし、古代天皇が100歳超えるのか、
その理由を説明できる。
5世代100年前のスサノオが帥升になるからだ。

アマテラスもモモソヒメも、なぜ古代天皇が100歳超えるのか、
その理由を説明できない。
0998日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:30:46.12
>>994
魏志倭人伝に記録されていないのでなんの説得力もない
0999日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:30:53.37
>>995
おまえには伝わってなかったのだから隠したことは成功したと言えるね。
まぁおまえがバカ過ぎたことも一因だが。
1000日本@名無史さん垢版2021/07/26(月) 20:32:22.55
記録されてれば話は終わるってw
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