天皇家の開祖が分かった「ツヌガアラヒト(天日槍)」
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【天日槍=ニニギ=ツヌガアラヒト】
《基本情報》
・天日槍は、正妻で太陽の子「阿加流(アカル)比売(ヒメ)」を追って日本にやって来る。
→名前からも分かる通り、太陽信仰&優れた冶金技術を持った部族だろう。
実際の所は半島2世紀に起きた戦乱に耐えかねて安住の地を求めやって来たという所か。
・神功皇后母方の祖先
《不自然な点》
・外国の王族なのに何故か天孫と同じ姓『天(あめ)』を名乗る。
(※人間の癖に『天(あめ)』を名乗ってるのは記紀でもこいつ1人だけ)
・天日槍は日本で在地豪族の姫を娶る。名は『麻多烏(マタガラス?)』
・登場する時代が記紀では垂仁応神期になっているが、播磨国風土記では神代
↓
天武朝にとって天日槍の渡来時期が「神代」だと都合が悪いので、記紀では捏造した?(実際に朝廷は出雲風土記でも同じ事をしている。風土記は記紀よりも有力者の手垢が少ないので、捏造前の情報が若干仄めかされているか)
《播磨国風土記にも登場する天日槍》
大暴れし伊和大神=大国主(高天原からやって来た天皇家の祖先へ国譲りした人)と壮絶な戦いを繰り広げた神、として書かれる。
↓
これが【倭国大乱】であり【欠史八代】に起きたことと推定
天日槍は剣を逆さまにし、海をかき混ぜ波を立ててその上に座る神業を見せつけ大国主を脅迫。
☝
日本書紀でタケミカヅチが大国主に対して国譲りを求めて行ったとされる脅迫方法(剣を波の上に逆さまに突き立て切っ先の上に胡坐する)と酷似。
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_13.html そもそも記紀編纂以前に「天皇家」なるものは本当に存在したのか?
最強の豪族が皇后を擁立し、強力な外戚政治を行ってきたのは疑いようがない。
【結論】
伽耶から天日槍がやって来て日本は植民地になってしまった。
(※日本列島で本格的な製鉄が始まるのは5世紀後半、遅れた技術の在地豪族軍相手に弁韓人は鎧袖一触、速攻で『国譲り』に追い込めたのだ。)
しかしその後崇神天皇の時代になり、広大な日本列島開拓に本腰を入れるため本国伽耶から正式に遷都した。
だから、崇神は神武以来10代目の筈なのに日本書紀には「御肇国天皇」。古事記には「所知初国天皇」と記されているのだ。
参考:実在可能性がある最古の天皇『崇神天皇』の諡号↓
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえ)
御間城入=みま国から来た=任那から来た
日本書紀や古事記は百済復興戦争に日本が敗北した後で半島コンプレックスが強かったため、ニニギ(本来兄弟ではなくニギハヤヒと同一人物)が半島から来た天日槍であったという事実は朝廷にとって都合が悪く、改ざんせざるを得なかったのだ。 ヒボコの渡来時期は記紀により偽装され、垂仁期三年にされたが、その頃は邪馬台国事件の舞台
ヒボコは新羅ではなく辰韓時代に紀元後100年代に渡来したらしい
ホアカリと同じく最初に出雲に来たが、態度が悪すぎて出雲の八重垣の法を守ることを拒否。
それで土地を世話してもらえず船上生活になり、出石の富岡盆地の沼地の水を抜いて開墾
日本人の嫁の実家の神床家から認められて土着した。
神功皇后の母系の先祖とある様に、日本の皇室の父系になった事はないにも関わらず、うざったらしい朝鮮人により、皇室は朝鮮系とか言われる様になる
そんなこと言ったら朝鮮のキム王朝は第4代で日本人の嫁が入ってるんだから朝鮮王朝は日本に乗っ取られたとなるのだがね
任那は三国史にある様に、朝鮮半島における倭国領域のことで、それ故記紀にも書かれる様になった。つまり別段朝鮮人というわけではない。
記紀は、村雲の時代、磐余彦の時代、崇神〜邪馬台国の時代を圧縮して一つの時代の出来事として書かれているため、倭国大乱期から神功皇后期までが曖昧にされ、空白の時代があるかの様になってしまっている
ヒボコも同じく圧縮され、邪馬台国時代のタジマノモリの時代と、ヒボコ渡来の垂仁期が重なっていて、別人の当麻蹴速が野見宿禰に倒される話で誤魔化され、わからなくなっている
当麻蹴速はタジマノモリの事を書いている
記紀編纂時には、神功皇后の実家の息長家への配慮が必要だったと考えられ、それによりタジマノモリは忠臣にされた様である
播磨風土記の出来事が古く書かれているのは、最初の倭国大乱期の戦乱の初端が、丹後のヒボコ族の播磨侵攻から始まったことによるものである
最初の播磨侵攻後にヒボコ族はボコボコにされますが、一部が現在の糸島と、淡路島に流れた
神床家は、本来は日本人であるが、ヒボコとの関係で、渡来人の役職である糸井造家になるが、糸島の語源は、ヒボコ族という説がある 播磨風土記だけじゃないぞ
天日槍は九州にも影響力あったみたいだ
しかも天から降りてきたってすげーなw
筑前国風土記「高麗国の山に天から降ってきたヒボコが同じ国の怡土郡の県主の先祖である」 >>6
倭国大乱期初期には優勢だったヒボコは、尾張氏と海部の連合軍にやられて分断される
糸島に逃げ込んだ一派は糸島の語源になった様である
淡路島に逃げ込んだ派閥は、ごっさかいと遺跡の元になったと思われ、景初の戦闘の前の鉄遺跡として、口伝の裏付けの様な位置付けになっている
その後、フトニが吉備の出雲領に侵攻
勢いが盛んになっていたヒボコ族は分断され、散り散りになってしまった
フトニはさらに出雲国まで攻撃
その際に出雲国の青銅材料を寄越せと要求
主王である大国主の神戸家の分だけ差し出し、副王スクナヒコの向家(富家)の分の青銅器はそのまま埋めて隠す方針がとられた
のちに、当時の日本全国から出た銅剣の数を上回る発掘になったその遺跡からは、向家の所有を表す✖ジルシの刻印のある銅剣が多数出土することになった
一方、フトニは出雲から奪った銅から新型の平型銅剣をつくり、勢力下の豪族に配った
そのことにより、出雲とヤマトは丹後や播磨で分断される形になり、特に瀬戸内海はフトニの勢力下になったことによりヤマト側の朝貢ルートが寸断された
二度目の大乱期が景初の大乱で、その時はヒボコの子孫のタジマノモリの時代だった
タジマノモリはナシメとも呼ばれる魏国への朝貢メンバーの一人であった
人間に知覚出来る神などいない
天から人が降ってるくなどあり得んわww
ちょっと文章再構築してみます
まず分かりやすいように時代背景を整理しよう
《1.半島各地で戦争勃発→2.新天地を求め人々が渡来→3.新天地で縄張り争い(倭国大乱)》
[年号]『史料』〈人名〉
・高句麗-漢戦争[125-169]
ソース:『魏志東夷伝』
「〈順・桓〉之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。靈帝建寧二年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、〈伯固〉降。」
👇
「訳)順帝・桓帝の間に遼東へ進攻。途中で帯方県(平壌あたり)知事を殺し、略奪行為を働くも169年に漢帝国から本軍が派遣され、高句麗王伯固は降伏する」
・半島南部が大荒れ[146年 - 189年]
ソース:『魏志東夷伝』
「〈桓・靈〉之末、韓濊彊盛、郡縣不能制」
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「訳)桓帝・霊帝の末、韓・濊(扶余毛民族)は彊盛となって郡県では制御できなくなった。」
・倭国大乱[146年 - 189年]
ソース:『後漢書(卷85 東夷列傳第75)』
「〈桓 靈閒〉 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主。」
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「訳)桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れ互いに攻め合い、何年も主がいなかった。」
・欠史八代[???-238年?]
ソース:『古事記』
「戊寅年十二月崩」
実在可能性のある最古の天皇〈御間城入彦五十瓊殖〉の没年を戊寅年から258年と推定。
かつ、後の天皇の登場年と外国史書の年号から比定、逆算し在位年数を約20年と推定。
(※古事記の記述をそのまま信じると168歳まで生きて在位年数70年となるが、まあありえない。)
https://www.hyogo-koukohaku.jp/modules/guidance/index.php
繰り返す、天皇家の祖先は半島が大荒れになった時に新天地を求めやって来た人物だ。
では何故天皇家は、自分たちの祖先が半島から来た。という事実を隠したかったのか?
それは記紀の編纂された時期が、百済回復戦争で倭陣営が惨敗を喫した後だったから。
大陸から完全追放された天皇家は、大陸伝来でなく列島在来の神話が必要になったというわけ。
それに『中華』と比肩する偉大な『日本』を演出する必要もあった。
(だからどう考えても下賜だろうに、中華の使いが倭に“献上”したとかいう明らかにおかしな記述も多々ある。
外国に見せたりする上で完全隠滅は苦しいから、存在自体は認めながら都合の悪いことを若干誤魔化す手法だ。)
【天皇家の始祖は「天日槍(アメノヒボコ)」】
本題に入ろう、結論から。
天皇家の祖先、それは半島から来た王子「天日槍(アメノヒボコ)」だ。
しかし先述した通り大陸がルーツじゃ都合が悪い、天武朝は天日槍と天皇家の連続性を隠蔽するため例のごとく「存在自体は認めながら都合の悪い所を誤魔化す手法」を用いたのだ。
だが、誤魔化しきるには影響力の有り過ぎた人物だったのだろう。
天日槍に関して残っている記録は整合性が取れず不自然極まりない記述だらけになってしまっている。
まず天日槍について基本的な事を知るために、記紀から見ていこう。
【天日槍の人生~記紀編~】
「天日槍(アメノヒボコ)」は半島で、或る国の王子として生まれる。
妻は、人と“太陽”の間に生まれた「阿加流(アカル)比売(ヒメ)」。
献身的な妻だったが、夫のDVに耐えかねて東へ失踪、天日槍も追いかけ垂仁天皇[3世紀後半頃]が治めていた日本列島へ上陸したらしい。
結局アカルと会うことは叶わず、天日槍は但馬の豪族から姫を娶る事になった。
[以上古事記より。(日本書紀では何故か、このエピソードが伽耶国王“都怒我阿羅斯等”の物になっている=都怒我阿羅斯等と天日槍は同一人物か)]
そして姫の名はあの神武天皇を導いた八咫烏...ではなく麻多烏。
間に生まれた子どもは神功皇后母方の祖先になる。
[以上日本書紀より。(古事記では何故か、姫の名前が“前津見”になっている)]
また、天日槍は四種類の宝具
『鏡(日鏡)』
『武器(出石刀子、出石槍)
『珠(羽太玉、足高玉、鵜鹿鹿赤石玉)』
『熊の神籬』
を持ち込み大切に扱っていたとされている。
....『は?』と思った人も多いだろう
『いや確かに天皇家と所々似てる所あるし人物の名前とか整合性取れない所あるけど、天日槍が渡来してきた時は既に垂仁天皇が日本を治めてるじゃん、3世紀じゃん倭国大乱どうしたんだよ。』と
『しかも但馬国で定住して終わったポット出の雑魚じゃん。』と
そう、中央で作られた記紀だけ見てたら確かにそう思うのも当然。
しかしこの国には『風土記』がある、そして風土記には比較的中央の手垢が付いていないんだ。早速見てみよう
播磨国風土記、
【天日槍の人生~播磨国風土記編~】
天日槍は“神代”に、韓の国から渡来した。
そして上陸を拒否する葦原志挙乎命=伊和大神(国津神筆頭の大国主と同一視される、大国主は天津神へと国譲りをした)に対してとんでもない方法で臨んだ。
あたかも日本書紀で国譲りを要求したタケミカヅチの如く剣を逆さに突き立て、イザナミイザナギの如く海をグルグルと掻き混ぜて島を出現させ、そこに居座ってしまったのだ。
そに後天日槍は大国主と死闘を繰り広げる事になる。
...?そう、記紀では11代天皇の時代[3世紀後半頃]に上陸した事になっている筈の天日槍が、しかも但馬で終わった筈の天日槍が神代に渡来して、播磨国で大国主大神と互角に戦っているのだ...明らかにおかしい
播磨国風土記だけでなく、摂津国風土記にも天日槍は登場する↓
【天日槍の足跡?~摂津国風土記編~】
新羅から逃げてきたヒメは当初九州の筑紫国に住んでいた。が夫の追手から更に東へ逃げて摂津に来たという。
うん、天日槍の話と酷似している。
この夫が天日槍だとすれば、九州から侵入し神武東征の如く近畿に迫ったという事だろうか、まさか神武東征のモデルも天日槍なのか?
ラストは九州の風土記
【筑前国風土記】
伊都県主、首長の五十迹手(イトデ)はこう言った
「私は高麗の国の“意呂山”に天から降った日鉾[ヒボコ]の苗裔である」
伊都といえば、魏志倭人伝に記されていた、邪馬台国と併存していたとされる国だ。
そこの首長が、自分の祖先を、記紀では若狭湾から入って但馬(兵庫北部)に定住した筈の天日槍だと宣言しているということ。あまりにも整合性が取れないじゃないか?
記紀の記述は、記紀の中ですら整合性が取れていない上に風土記全てに否定されているのだ
意図的に、九州から近畿にかけての広大な範囲で影響力を持っていた筈の「天日槍」の存在を必死に中央が矮小化しようとしていた努力と、それでもなお地方の記録には残ってしまった「天日槍」の強大さが伺い知れる。
不可解な点はそれだけではない
ちょっと考えてみれば「天日槍」という名前だっておかしい。
だって「天(あめ)」という天孫族と同じ姓を使っている人間は天日槍以外に、記紀の中には【誰一人として】いないじゃないか
そのたった1人が、よりにもよって外国から来たただの王族?しかも但馬で定住して終わり?しかも来たのは3世紀後半?
そんなわけがない
正しいのは風土記の方なのだ、記紀は証拠隠滅に失敗した
つまり播磨国風土記が言うとおり、天日槍は神代に来て国譲りを要求し戦争(倭国大乱=欠史八代)を起こした人物だ
日本書紀「国譲り神話」で登場した天孫族タケミカヅチの大国主に対する態度と、播磨国風土記で登場した天日槍の大国主に対する態度、脅迫方法が似ている理由もこれで判明した
同一人物だからだ
イザナミイザナギと同じように海をかき混ぜて島を形成した理由もそうだ
そもそも日本神話が天日槍神話の改変だったのだ
まあ以上の考察によって、天日槍が半島から上陸してきた時代を確定させた
記紀に書かれているような応神垂仁期[3世紀後半頃]などではなく
桓帝・霊帝の間[146年 - 189年]だ
>『後漢書(卷85 東夷列傳第75)』
「〈桓 靈閒〉 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主。」
それならば朝鮮半島に、当時誰か太陽信仰の者が日本へ渡来していった証拠が残っていたりしないか....
そんな都合よく見つかる筈が無いか....
いや、あった。
『三国遺事』、「延鳥郎・細鳥女」だ
>>18
『三国遺事』「延鳥郎・細鳥女」
新羅の第8代・阿達羅王即位4年(157年)東海の浜に、延鳥郎と細鳥女の夫婦が住んでいた
延鳥郎が海岸で海藻を取っていると、岩があらわれ、延鳥郎を乗せて日本へ行ってしまった。
日本の国の人はただの人ではないと言って延烏朗を国王にしてしまった。
細鳥女が帰ってこない夫を探しに行ったら、岩がまた、彼女を乗せて日本へ行ってしまった。
すると、新羅から太陽と月と光が消えた。
占い師は王に「日月の精が、我が国にあったのが日本に去ったために、このような事が起こりました」と奏上した
新羅王は困り果てて使者を出し二人にもどってくることを求めたが、戻ってこなかった。その代わりに細綃(“布”天日槍が宝器として持ち込んだ物と一緒)が送られてくる。
その細綃を天にかざすとたちまち新羅に太陽と月と光が戻った───。
158年7月13日 皆既日食
https://i.imgur.com/mqYtESd.jpg
https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEcat5/SE0101-0200.html
この話、『岩戸隠れ』に似てると思わないか
太陽神天照大神がお隠れになると高天原も葦原中国も闇となり、様々な禍が起きた。
困り果てた高天原の神たちは策を講じて天照大神を岩戸から引きずり出す
するとたちまち光が高天原と葦原中国に戻った───。
そうなんだよこれで分かった
157年に延鳥郎という男が岩(船?)に乗ってやって来る。
彼は半島から優れた鉄器を持ち込み、太陽の精を自称し王となった。名は太陽と鉄器で「天日槍」だ。
そして播磨国風土記に記される通り在地の神(豪族)と大いに争った、それが倭国大乱。
天皇家の祖先は天日槍。上陸した年は157or158年 >>17
天日鷲は天孫か?
天手力雄は天孫か?
天津甕星(天香香背男)は天孫か?
天目一箇
天兒屋
天鈿女
天香山・・・・・・ 結果ありきの逆算だな。おもしろくは繋げているが。
これが言いたいからニダか?www
>伽耶から天日槍がやって来て日本は植民地になってしまった。
>>22
それ全部天津神だし
記紀では天日槍は新羅から来た王族、つまり人間
なのに「天(あめ)」姓使ってる
こいつしかいない 但馬(兵庫北部)に定住した筈の天日槍
伊都県主、首長の五十迹手が日鉾の子孫を自称する事の何がどうおかしいの?
天日槍の子孫は但馬から移動してはいけない決まりでもあったの?
記紀だと、3世紀頃天皇に帰順し兵庫県北部の但馬に定住した筈の天日槍が
播磨国風土記では神代に渡来し伊和大神(大国主大神)と互角に戦う強大な外来神として登場
北陸の敦賀に都怒我阿羅斯等として現れ(エピソード全く同じだから同一人物)
九州の筑前国風土記では、伊都(魏志倭人伝に邪馬台国と一緒に記されてた歴史ある国)首長の祖先として書かれてる
明らかに記紀が間違ってるんだよな
大陸と天皇家の繋がりを誤魔化すために小細工した結果
記紀の中でも名前が変わったりエピソード滅茶苦茶になって、しかもめっちゃ影響力あった人物だから消しきれず各地の風土記に残っちゃったわけだ >>24
>それ全部天津神だし
では君は阿波忌部の祖である天日鷲命は神であるから
人間としては、存在していないと主張しているのか?
忌部は天孫の系譜ではないのだが?
日本書紀の一書では素戔嗚尊も一度、新羅に降ってから
日本に来た事になっているが素戔嗚尊は神なのか人なのか?
私は特定時代以前の王族を神と呼んでるだけだと思うのだが? >>26
>明らかに記紀が間違ってるんだよな
それはそうかも知れない。
>大陸と天皇家の繋がりを誤魔化すために小細工した結果
それはどうだろう?素戔嗚尊が新羅へ降ったとする一書も消すべきだったのでは?
>記紀の中でも名前が変わったりエピソード滅茶苦茶になって、しかもめっちゃ
>影響力あった人物だから消しきれず各地の風土記に残っちゃったわけだ
おそらくだが伊和大神(大物主大神)ほど重要な位置にはいなかったって事だろう。ただそれだけ。
神裔の三輪氏などは朝廷の中枢に入り込んでいる。天日槍の子孫はそうではない。
中央からはさほど重要とされていないので伝承が乱れた(または神でありながら天皇に降った事にされた)のだろう。
また、『古事記』にも面白い記述がある。
アメノヒボコが招来した八つの神宝を、伊豆志の八前の大神と呼び祀った。
その伊豆志の八前の大神にはたいそう美人な娘がいて、多くの神々(八十神)が娘と結婚を望んだが、叶わなかった。
その後いろいろないきさつがあったのち、
ある一家の弟神が乙女と結ばれ子どもが生まれる。
一方、恋の叶わなかった兄神は、呪いにあって衰弱する。
これ、八上姫の話と似てるよな 天日槍の年代に目をつけるのはいいのだが他が支離滅裂だね。
>天皇家の祖先、それは半島から来た王子「天日槍(アメノヒボコ)」だ。
祖先?なんじゃそりゃ?そんな事を言ったら伊和大神だって祖先。
日本書紀が新羅と関連を示唆する素戔嗚尊もしかり。
君は日本書紀を読んで天忍穗耳尊の父は素戔嗚尊だと思わなかったのか?
本当に勾玉から生まれたとでも?
>>28
いや、三輪氏よりも中枢に入り込んでるぞ
まず天皇家の皇統が天日槍(ここは百済復興戦争失敗後に改ざん)だし
それだけじゃなく、天日槍が拠点を築いたとされる但馬、出石に関係する重要な氏族の祖先いるだろ
そう『出石心大臣命』
物部氏だよ
丁未の乱で敗北した物部な
だから、中枢に入り込んでなかったんじゃなくて中枢に入り込んでた記録が二重で隠蔽されたんだ
>>30
ん?当然だが国津神と天津神は別々だよ同根じゃない
元々出雲系の国津神系西国神道しかなかったものの、天皇家がやってきて支配を正当化するために出雲系神道の上に『高天原』という概念をでっち上げ、同根です。という風にしたわけだ
まあ天津神は人気無かったみたいだがな
実際万葉集でも詠まれてる神は国津神だらけで、天津神を詠んだ物は殆どないだろ
出石には高倉下の子孫『角屋姫』もいるな
そう、角(ツヌ)
※古代語では母音の o を u という場合が多い
ex.)篠はシヌ。楽はタヌシ。古日本語の姿を若干保っている琉球方言でも角はツヌと読む。
天日槍の別名『“ツヌ”ガアラヒト』と関係ありそうだなあなんて思っちゃうのも考えすぎだろうか?
すまん出雲系しか無かったってのは間違ってるし罰当たりだな
ヌシ以外にも神(ミワ)とか居たし
>>33
これって結構世界中で行われてることなんだよね
例えばインド
北からやってきたアーリア人がバラモン教でヴェーダの神だけ信仰してたんだが、土着の民(ドラヴィダ)に受けず
焦ったバラモン教は宗教改革を行って土着の神話、例えばラーマやクリシュナをヴィシュヌの化身って事にしたり土着女神をシヴァの王妃にしたりして見事復活した
それの日本バージョン >>33
>ん?当然だが国津神と天津神は別々だよ同根じゃない
神武天皇の皇后の父は誰なんだっての?
綏靖天皇の母方の父だよ。祖先だろ?
だいたい天津神、国津神って分類も、須佐之男命はどっちなんだ言ってみろ? >>32
>いや、三輪氏よりも中枢に入り込んでるぞ
はぁ?大神(おおが)氏も三輪氏族だぞ。大神比義命は八幡大神を初めて見たとされる人物で、奈良の三輪明神を祀る大神神社の社家の生まれと言われている。欽明天皇29年(568年)に勅命を受け、宇佐に派遣された。
だいたい、天日槍ごときが神奈備形式(神体山を持つ原始の形態)で祀られ「倭成す」と讃えられる大物主大神より重要なわけがなかろう。
>まず天皇家の皇統が天日槍
この変な妄想をいい加減にやめませんか?
>物部氏だよ 丁未の乱で敗北した物部な
始祖は宇摩志麻遅命だろうが!父は饒速日で母は長髄彦の妹だが飛鳥大神の娘とされている。バリバリの出雲系。
抜粋
丹後宮津藩主本荘氏の系譜『本荘家譜』には、物部の祖・饒速日命の子の麻斯麻尼足尼命(ウマシマチのこと)の右註に「母飛鳥大神之女登美夜毘売」と記される。長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったということであり、早くに太田亮博士も、「磯城彦は即ち三輪氏に外ならず」と指摘した。 >伽耶から天日槍がやって来て日本は植民地になってしまった。
まぁこんな事を言う奴は御里が知れるわw
wikiより
アメノヒボコ伝説は『日本書紀』『古事記』のうちで代表的な渡来伝承になるが、一般には1人の歴史上の人物の説話ではなく、渡来人集団をアメノヒボコという始祖神に象徴した説話ではないかという考えもある。「アメノヒボコ(天日槍/天之日矛)」の名称自体も日本名(もしくは新羅名)であり出石地域を中心とする渡来系一族(出石族)が奉斎した「日矛/日槍」を人格化したことに由来する意見もある。
全面的に賛成だな。但馬に居着いた伝承の人物をメインにその他の渡来してきた人物を集約したんだろう。
伊和大神と争ったとされる神は名が失われた別人って事だな。
>>38
いや神武天皇なんていないって
欠史八代存在すると思ってるなんて科学的じゃないぞ
神武天皇と欠史八代は当然創作
元にした人々は天日槍(ツヌガアラヒト)の集団
>>39
ニギハヤヒもツヌガアラヒトを元に創作した人物だし
海の向こうから来たでしょ 高句麗の南下に伴い半島から日本への玉突き現象が起きた
という部分までは合意出来る人が多いだろう
あとは玉突きに伴う混乱による出来事をうまく説明できるか >>41
神武がいない、欠史8代がいない=崇神が神武であるという話は記紀の書き方の通りの話なので、それでは本末転倒では?
・村雲の時代(本来の神武)
・磐余彦(ウマシマジ)
・崇神(景初)
この三つの時代が圧縮されて一つの出来事にされて消されてるから欠史が生まれているわけですから
そももそもヒボコは垂仁3年(景初の動乱以降)だかに偽装されているのでその時点で皇室の源流にはならない
神床家は現在でも続いていて歴史を残してる
ヒボコは末子相続のために辰韓から追い出されたと伝わる 天日槍(ツヌガアラヒト)は当然創作。
存在すると思ってるなんて科学的じゃないぞ www >>42
銅剣より銅鐸の方が先なのだから時代考証的に可能性は低いと考えられます だよな〜。板で一二を争うアホバカ説。
全く根拠も論拠すら示さず空想を垂れ流してやがる。 >>48
いえ、記紀の通り崇神の時代が神武とするのであれば、よく出来てる考察と考えられます
>>47
なんで銅剣の話してるの?鉄剣の話をしてるよ 当時製鉄技術を持っていたのは大陸だけ
そして名前からも分かる通り鉄器もたらしたのが天日槍の一族だ
天日槍一族の子孫たる物部(モノノベ)が物具(モノノグ=武器、兵具)に由来するのも当然
タイムライン纏めてみました!
1.天日槍(延鳥郎)が157年に渡来
>『三国遺事』「延鳥郎・細鳥女」
実際に158年7月13日、朝鮮半島で皆既日食起きてるからこの話(後の岩戸隠れのモチーフ)は信憑性結構高い
https://i.imgur.com/mqYtESd.jpg
2.上陸した天日槍が伊和大神(大国主=先住在地豪族のメタファー)と大いに争う[157-?]
>『播磨国風土記』
この時期も、後漢書の「桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れ互いに攻め合い、何年も主がいなかった。」の
桓帝・霊帝[146-189]と一致
つまり倭国大乱のレンジは[157年-189年]に確定
3.実在可能性のある最古の天皇、御間城入彦(崇神)が即位[238年]
倭国大乱終結の189年から崇神即位238年の50年の間に天日槍一族が勢力拡大を成し遂げ、崇神天皇に繋がるってことだね >>50
青銅器は我が国にもたらされたのが徐福時代の紀元前3世紀
程なくして我が国で青銅器生産が開始されたというのが考古学的な我が国での考え方
現在のところ。ヒボコ渡来の最も古い説がヒボコの嫁さんの実家の神床家ですが、紀元後100年代
青銅器はその前からのものなので、明らかに青銅器の方が古い
また、我が国の製鉄は、たたら製鉄=直接製鉄
景初前後に我が国で急激に増えた鉄=鍛造可能鋳鉄は、間接製鉄
たたら製鉄は、神武の嫁さん多々良五十鈴姫にある様に昔から存在する
大陸は間接製鉄の流れなので新しいものになります >>50
物部氏はヒボコ族より前から北九州に拠点を作ってました
物部の里とも言われた吉野ヶ里は紀元前3世紀頃の遺跡
明らかにヒボコ時代より古いものになります >>42
記紀の編纂、とりわけ最終的に採用され、大陸に提出されたのが日本書紀
日本書紀は太安万侶や、藤原鎌足の系統、神武の息子の兄弟である八井耳系の一族がまとめたもの
自分の先祖を捏造して記紀に書く必要は全くない 記紀服属の典型例、宇佐氏古伝
宇佐氏は後継者不足のこともあり、秘してきた古伝を公開、書籍化している
重要な点は、宇佐津姫と、応神天皇の下り
神武の息子が応神天皇だよという内容は一見、古伝が古いことによる情報の変質と考えられがちだが実は違う
崇神を神武とするからこういう書き方ができる
母系ヒボコの物部政権の皇后息長家出身のタラシ姫は、自分の子供が死んだので、群馬の上毛野に流れて隠遁していた上毛野家の竹葉瀬君を呼び寄せたと一部に伝わる
竹葉瀬君は、ミマキイリヒコと宇佐津姫の息子であると弥彦の子孫
故に、欠史八代の記紀の内容に服属して、自分の家から神武の息子が出ていると主張出来るわけだ
ヒボコ族が我が国の男系になったことは一度もない
>>53
流石に吉野ケ里の時代とヤマトの時代は関係ある一族だれもいないと思うなぁ >>55
訂正
弥彦の子孫 →豊彦の子孫
豊彦は、トヨの兄
記紀最大のタブーは、物部氏と宇佐氏の存在 応神天皇の即位に伴って、物部が復権したかのような動きをするのは確か
しかし迂遠だなあ。日矛など介さずもっと色々シンプルに出来ないのか >>56
確かにw
しかし、本当の海幸彦、山幸彦の事に注目すれば比較的この考えに至る人は居ると考えられます
先代旧事本紀には、ホアカリと饒速日は同一人物で書かれています
八井耳系は、海部と尾張の政権の一族
つまり、物部氏と海部は腹違いの兄弟になります
ヤマトでの製鉄(直接製鉄)は、紀元前後にはすでに行われており、和泉市では紀元前後の製鉄遺跡と小型仿製鏡が出土しています
>>52
だけど発掘調査から確認出来る最古のたたら製鉄は5世紀後半くらいなんだよね
朝鮮で製鉄した鉄素材を加工する鍛冶屋はたくさんあったんだが、残念
倭人は半島から鉄を貰ってた↓
「國出鐵 韓・倭皆従取之 諸市買皆用鐵 如中国用銭 又以供給二郡」
>>61
>鉄を加工した工房とみられる
これ加工であって製鉄の証拠じゃなくない?
あと、鉄の矢じり作るのと鉄の剣や鉾作るのとじゃ難易度全然違うし >>60
後漢においては鉄はご禁制の品物で、鉄は国力そのものでした
当時最新の間接製鉄法は、炭素量が調整でき、鋼が取り出せる画期的なものであったとされます
さらに、素材として優れていたのは朝鮮半島の産出する磁鉄鉱です。
故に、大陸は幾度となく彼の地を支配下に置きました。
そのタガが外れたのが、民間銅鏡の乱による後漢の滅亡です。
国力そのものの鉄を輸出すること自体が基本おかしなことであり、景初の時代の直前の北九州における鉄器の急激な生産量の上昇は、我が国が朝鮮半島における権益を持っていたという説が現在では言われ始めていることになります
輸出ではなく、我が国が朝鮮半島で製鉄をして我が国に運んでいたことになります
三国志にある様に朝鮮半島における倭国領域の存在が本当であったと考えられ始めているわけです
>>63
ふむふむ、ぼくも半島南部と倭に同じ様な人達が住んでたってのは同意
だけどむしろ本体は半島南部だったと思うな
あっちのが鉄器持ってて強いんだから
参考:実在可能性がある最古の天皇『崇神天皇』の諡号↓
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえ)
御間城入=みまの国から来た=任那から来た
済州島(耽羅)とか別言語使ってたみたいだしな
日本書紀に記されてる人物名も
宇麻(ウマ🐴)とか
都羅(ツラ?トラ?🐯)とか
久麻伎(クマ🐻ぎ)とかだし、倭人系だったのかもね
スレが盛り上がってきましたね
良いですね >>62
〉鉄の矢じり作るのと鉄の剣や鉾作るのとじゃ難易度全然違うし
素晴らしい視点と考えられます
簡単に言うと我が国の製鉄の歴史は直接製鉄と、遺存性の高い間接製鉄を区別して居ないと考えられます。
景初の動乱前の大規模な鉄遺跡は淡路島の、ごっさかいと遺跡ですが、2世紀、つまり神床家が最初に播磨侵攻をして敗れたとされる時期の遺跡になりますが製鉄炉がありません
つまり鍛治遺跡になるわけです
たたら製鉄は、せいぜいが現地調達の砂鉄で鏃の先端の部分を作れる程度のものであったとされ、品位も悪く、すぐに錆びてなくなってしまうものだったらしいですが、自然の風でも作れるものであっそうです(ふいご不要)
鍛造可能性鋳鉄はまさに武器化可能な鉄であり、製鉄炉は、五世紀だか6世紀になるまでは我が国では見られないものであったと言うのが現在での学説であると記憶しています。
間接製鉄による北九州の輸入鉄は、景初以前に急激に増え、直ぐに衰退
丹後が日本一の生産になります
これは製鉄の炉がなかったから直ぐに遷移したと考えられます
丹後や丹波はまさにヒボコの地盤ですね
>>67
へえ!詳しくありがとうございます
勉強になりました 物部氏は、朝鮮半島に権益を持っていた一族と私は考えております。
故に、倭国領域の事が魏書に書かれているのを八井耳系の編纂者は把握した上で、物部イニエをミマキイリヒコと後年にネタバラシしたのだと考えています
倭国領域に居た、イニエをという解釈なら大陸に出す歴史書としては我が国の権益が他国にまで及んでいたことになり、書きたい内容であったと推測できるからです 2019/09/19
【都怒我阿羅斯等】頭に「悪魔の角」を持つ男性、除去手術が無事成功 これまでは近所の理髪店で時々カットしてもらっていた インド
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1568905006/
【海外発!Breaking News】頭に「悪魔の角」を持つ男性、除去手術が無事成功(印)
https://japan.techinsight.jp/2019/09/masumi09181181.html
https:
//japan.techinsight.jp/wp-content/uploads/2019/09/thesun1909182238_001-300x444.jpg
http:
//japan.techinsight.jp/wp-content/uploads/2019/09/thesun1909182238_002-180x300.jpg
5年前から角が生え始めたシャムさん(画像は『The Sun 2019年9月18日付「LIFE OF HELL Terrifying four-inch ‘devil horn’ growing from the top of man’s head is finally removed by doctors」(Credit: SWNS:SOUTH WEST NEWS SERVICE)』のスクリーンショット) 製鉄炉が我が国に存在しない鉄製品というのがミソで、つまり、景初の戦闘から古墳時代までの前後で、鉄の生産量が増えている地域は、出雲とヤマトをボコボコにした一族の拠点という事になります。
一部の古伝では、景初の動乱はヤマト攻撃のための戦闘で、九州物部氏と豊国の宇佐氏、そして朝貢の通訳としてヒボコの子孫のタジマノモリが中心人物だったと伝わります ヒボコが天皇家の祖先だったってのはよくわからないけれども、古代日本史のキーパーソンだったのは事実だろうな。
記紀が何らかの意図を持ってヒボコの存在を矮小化しようとしてるのも感じる。 >>64
〉だけどむしろ本体は半島南部だったと思うな
あっちのが鉄器持ってて強いんだから
そうですね。私は人口的に流石に列島本体と、あくまで朝鮮半島の一部に過ぎない南部国領域では規模が違いすぎるかな〜と思っています >>58
〉応神天皇の即位に伴って、物部が復権したかのような動きをするのは確か
いえ、ちょっとその辺難しい話になっていまして、あくまでエンタメレベルの説として頂きたいのですが。
景初動乱で、連合軍はヤマトの海部尾張朝を倒しますが、最終的に息子のモノノベイクメは、政権を独り占めにして、タジマノモリとトヨ姫、豊彦をヤマトから追い出してしまいます。
そのため、宇佐古伝ではおかしな事が書かれています。
崇神の息子→応神天皇(正統)
物部政権の皇后であるタラシ姫の子供→ニセモノ
これは父親であるイニエを顕彰し、裏切り者である息子の垂仁の血筋を認めないと言うヤバ目の事を書いているわけです
宇佐氏は命懸けでこの話を表に出したのだと思われます 新羅初代王の赫居世(朴氏)は
新撰姓氏録によると神武兄である稲氷命の子孫とされ、
「朴」姓が辰韓語で瓠(ひさご)=瓢箪を意味することや「赫居」と「瓠公」が同音であることからも、
当時宰相だった倭から渡来した倭人・瓠公と同一人物と考えられる
「赫居」とは<ほこ>の意だろう
天日槍が建立した若狭新羅神社によると日槍は父の国を訪ねて飛来したとされている
そして新羅4代王の脱解尼師今(昔氏)は多婆那国に出自して渡羅後に瓠公家を簒奪したが、
その多婆那国とは日槍が定住した但馬や丹波と考えられてる
こうしたことからもそもそも新羅王家それ自体が倭国に発祥するものと推測されるのである 三国遺事なんて13世紀編纂じゃないか、と思ったが日食が一致してるのか
うーんどういう事だろう
1000年も話が語り継がれてるなんて事あるのか? ツヌガ、は新羅の最高官位(角干)のことかもしれないよ >>76
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/96875?page=6
https://gendai.ismcdn.jp/mwimgs/b/a/2048m/img_ba2445a1839fb07625ddd44cd45b6c37125802.jpg
【写真】袴狭遺跡から出土した船団の線刻画の模式
(1)円山川をさかのぼって豊岡から姫路へ
「水行」を川の移動と考え、但馬から円山川をさかのぼって豊岡(現在の兵庫県豊岡市)まで移動するルートです。
それだけで10日は日数がかかりすぎですが、但馬まで中国船で来て、但馬から倭船に乗り換えたことは考えられます。円山川を行くことになったため通常よりも喫水の浅い小型の倭船が必要となり、その調達に時間がかかったのかもしれません。
豊岡に上陸してからは、現在のJR西日本播但線と同じ経路で姫路まで出て、瀬戸内沿いに陸行で奈良へ向かいます。
ただし、もう一つのルートも可能性としては考えられそうです。
(2)丹後半島を回って舞鶴から大阪へ
但馬に入ったあと、丹後半島をぐるりと反対側まで回り、舞鶴から上陸するルートです。これも普通に考えれば10日もかからなそうですが、この航路は途中に寄れる港がなく、波も荒い難所なので、但馬で海が凪ぐのを待って出航したと考えれば、水行
10日は十分にありえます。舞鶴からは陸行で福知山を経て、大阪から奈良盆地へ出ます。
(1)(2)ともに、陸行は水行よりもはるかに時間がかかりそうですので、1ヵ月は妥当な日程と思われます。
『魏志倭人伝』を合理的に読むならば
筆者が豊岡から上陸するルートを有力視する理由の一つは、豊岡には「アメノヒボコ伝説」があるからです。朝鮮半島の新羅の王子アメノヒボコが豊岡に流れ着き、大陸から鉄などをもたらし治水事業に尽力してくれたおかげで、泥海だった豊岡盆地が肥沃な土地に変わったという言い伝えです。
当時の豊岡は、日本海を代表する「海の城」であったともいわれています。豊岡が大陸からの「鉄の道」の終点として機能していたことから、こうした伝説が生まれたのでしょう。
そして豊岡から円山川を15km下ったところにある袴狭遺跡(兵庫県出石市)からは、朝鮮半島と日本を行き来する船団を描いた板絵が出土しているのです。 >>76>79 のルート、
もう1つ、
(3)敦賀から琵琶湖を経て淀川を下って大阪へ
も考え得るのではないかな?
水行10日が説明しやすくなるし、
日槍・都怒我の敦賀伝承とも符合する
するとその先陸行1月だから、
邪馬台国は和泉もしくは淡路や阿波が想定されてくる >3>64 >>80
阿波徳島に美馬という地名があるんだよな
これが妙にひっかかる 美馬郡は古くから馬の産地として知られ、名馬を多く産出したことからともいわれるが、吉野川の河谷の水辺の土地で「水間」の意味とする説が有力である。 皇室大嘗祭に麻織物の麁服を献上するのが美馬市の忌部氏直系三木家である >>75
〉こうしたことからもそもそも新羅王家それ自体が倭国に発祥するものと推測されるのである
ヒボコは実は辰韓時代の渡来で、辰韓は元々は秦国系の韓の国だから秦韓とも言われていました。
出雲にはヒボコと同じく天孫を冠する一族がいます。それが出雲大社宮司家の千家。天ホヒです。
千家は実はコヤネが祖神で、藤原氏(中臣家)にコヤネを差し出したというお話があります
北九州の筑紫は元は築秦国と言い、つまりは秦国系なのです
ヒボコ族が天孫を帯びる様になったのは、天孫族との習合があったからと思われますが、元々は近い系統の一族だったからかもしれません
出雲系の分家である忌部氏が、大陸系が強くなると自分の系図をいじってコヤネの系譜であると流布した時期があります
その系図には、コヤネはスサノオの母親、タクハチヂヒメの夫であると出ています
ヒボコは大陸系の韓の国の渡来人であり、所謂朝鮮人ではないと考えられます
故に、漢字も扱え、通訳もでき、子孫のタジマノモリが景初動乱の際の朝貢に参加できたと考えられます >>79
〉岡が大陸からの「鉄の道」の終点として機能していたことから、こうした伝説が生まれたのでしょう。
我が国の朝鮮半島の鉄のルートは、新羅系と百済系がありますが、確か百済系が対馬ルート
新羅系が隠岐島ルートであったと記憶しています >>76
丹後などの国は昔はもっと広いエリアで稲葉や京都山代近くまでの範囲だった様ですね
広義に大丹波とも表現する説がある様です
系譜上は明らかでありながら天皇扱いされなかった最後の海部尾張の王朝、その最後が一般的にはヒコイマス王とされます
景初動乱開始時には実は、崇神とヒコイマスは亡くなっており、主役は次の代である垂仁(イクメ)と、ヒコタツヒコ(ヒコミチヌシノミコ)であったようです。
田庭(丹波)は、最初は出雲領域で、そこに海部尾張が入り、紀元後100年代にヒボコが入った様です。
イクメに敗れたヒコミチヌシノミコは、名前を昔のものに戻して、ヒコタツヒコとして稲葉国造家になったそうです。その際に父親を祀った様ですね
つまり、海部尾張王朝の最後は亀岡に遷都した様な感じが認識としては正しい様です
のちに、稲葉国造からは、ミカドワケの様な名の人物が出ているはずです。
丹波と出雲の間くらいが稲葉でしょうか?
因幡隣が出石でしょうか?
後に丹波では歴史がまとめられ、丹後古事記でしたっけ?本を持っています
故に、丹後古事記の主役はヒコイマスとヒボコになっていたと記憶しています
ヒボコ系の息長家はヒコイマスに奥さんを出してたりとかしてたはずですよ >>50
〉なんで銅剣の話してるの?鉄剣の話をしてるよ 当時製鉄技術を持っていたのは大陸だけ
天村雲の剣は銅剣であったと言う話を聞いたことございませんか?
天の村雲の剣はいつの間にか物部の草薙の剣=鉄剣にすり替えられました。
一般論として、三種の神器のビジュアルだと銅剣が出てきませんか?
銅鏡に対して鉄剣ではおかしいわけですね。
スサノオの剣はまたの名を川砂の剣とも言われ、鉄剣であるかの様に変えられましたが、そもそも熱田にあり皇室には写ししか無いのは、本質が異なるからです
村雲王就任の際に、母系の婚姻相手の出雲族から銅剣が尾張氏に贈られたそうです
故に尾張氏が作った熱田には剣があるわけでございます イザナギイザナミが国産みに使った矛が天沼矛(アメノヌボコ)
多分コイツだよなあ >>1
いや天日槍なんていないって
天日槍が存在すると思ってるなんて科学的じゃないぞ 縄文人はアイヌのご先祖様や! 君たちの先祖ちゃうよ
和人の先祖はこれ!
土井ヶ浜弥生人
http://www.iokikai.or.jp/doigahama161.jpg
>核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどは土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
>>90
はて、記紀では崇神より後に天日槍が来たことになっているが
欠史八代より後の話ってことになってるんだから実在可能性は高いだろう
都怒我阿羅斯等って名前もあるし
まあ本当は播磨国風土記が言うように神代に来たんだがな >>93
>神代に来たんだがな
いや神代なんていないって
神代が存在すると思ってるなんて科学的じゃないぞ
神代が存在するなら2から9代天皇が存在しない理由ない。
日本書紀は皇紀を古く見せかけようと歴代天皇の在位や年齢を大幅に伸ばしている。
そんな不自然な事をするなら、後20人ほど追加すれば良かっただけ。
名前と宮名程度は伝承されていたと考えるべき。 >>1の主治医です。
この度、このようなスレッドを1が立てるに至ったことは、
主治医として、大変残念な事であり、また、治療の効果が
まだまだ現れていないことを証明しているため、そろそろ
最終的な決断を下す必要があるようです。
みなさんお聞きになったことがあるかもしれませんが、
必ずしも心の病は、特殊な病気ではなく、誰もがそうなる
可能性があります。しかし、だからといって、これ以上、
1を放置することは、例えば何の関係もない人を傷つけたり、
逆に1自身の将来にとり、名から図示も良いことではありません。
そこで、私は、1の両親、臨床心理士などとも相談して、
1をしばらくの間、ネットの出来る環境から離して、
濃密な人間関係の中で治療をすることにしました。
1にとっては、納得がいかないことかもしれませんが、私も、
医師免許をかけて、1を徹底して直すことに致しました。
どうかみなさん!1が戻ってきましたら、このような人を悲しませる
スレではなく、みんなに感動を届ける以上の人間になっていると思いますので、
暖かく見守ってやってください。
>>94
神代ってのは崇神前の時代を指して便宜的に使っているだけですね
確かに勘違いされる表現だった
神代(崇神前)と表記するようにします >>93
いや崇神天皇なんていないって
崇神天皇が存在すると思ってるなんて科学的じゃないぞ
崇神天皇が存在するなら2から9代天皇が存在しない理由ない。
日本書紀は皇紀を古く見せかけようと歴代天皇の在位や年齢を大幅に伸ばしている。
そんな不自然な事をするなら、後20人ほど追加すれば良かっただけ。
名前と宮名程度は伝承されていたと考えるべき。
>>97
崇神の存在可能性はある
崇神以前はない
これが通説だよ その昔、ミノムシなるオカルト系の輩が居たっけな~w おバカを回収しました。
ごめんなさいm(_ _)m >>98
>これが通説だよ
天日槍は田道間守の祖先。
天日槍からは神功皇后への系譜もがあるが皇祖と呼ばれる存在ではない。
わかるよね? これが通説だよwww 中華卑弥呼といい、皇祖日槍といい日本史板のキチ度の高さには閉口する。 安倍が阿輩倭王家関係者なところをみるに、上級国民界隈では、倭王本家なんかは知られてるのじゃないか。日本の国旗国歌は阿度部大王を讃える旗印。土御門そのまんま土蜘蛛大帝。 崇神は存在するよ
崇神と名が付いてなかっただけの話でしょ
書く豪族の血筋がつぎはぎになってるだけの話
男系血筋の嘘を認めないのなら継体天皇以前は全て仕組み上存在しない事になる 記紀、とりわけ日本書紀を補完するのが後年に後付けされた先代旧事本紀や、諡号でしょ
物部の血が入った最後の海部尾張の人間が藤原中臣の指示で纏められた 淡海は、開化天皇系
つまり大丹波亀岡の関係者
当然に八井耳系の親戚なわけだ >>105
海部の系図の読み方も解らない様ではレベルが低すぎてw
神武は村雲だよ
自分のところの先祖を間違える間抜けはいない
自分のところの分家が纏めた歴史書の解釈を本家が把握できないなどあり得ない
たまにいるよな、自説を強要してるだけの認識すら持たずに他人の家の口伝や伝承にインチキの烙印を押す思い込みヤロウってw
図々しい奴だわ 昔の天皇は、適当に当てはめをしてるから、記紀編纂上のプロットに過ぎない
しかし物理的には存在した
先祖が一人でもかけたら子孫は存在しない
子孫がいるのに先祖だけ居ないなんて科学的にあり得んだろ
考えが浅く、言葉が軽いのが不存在説 先祖の数なんて、指数関数だろ
自分を基点として、先代が2の一乗、爺さんの代が2の二乗
数理学的に一人かけても自分が生まれないのだから、先祖は絶対に存在する
過去のやったことは編纂時から逆算して、今我々が論じてるとこと同じ程度のことをしてるだけの話
「大王誰にしようかな〜」 @村雲〜開化→男系海部尾張の政権
A崇神→景行→男系物部
B仲哀→中津臣(中臣家)の便宜上の当てはめ
C応神→男系物部復活(宇佐氏古伝)
D仁徳〜武烈→武内宿禰の子孫、平群氏
E継体〜現在→男系北陸蘇我氏
しかし、実態としては少し変わる
戦闘があったのだから当然にダブるわけだ
@村雲〜ヒコミチヌシ(ヒコイマス以降は崇神とダブるので大王から外された)
崇神とヒコイマスは同時期
垂仁とヒコミチヌシは同時期
そうでなければヒバス姫が輿入れ出来ない
景行以降は物部はヤマトから追い出され、それにより景行の九州親征になる(大陸の史書に書かれたので仕方なく記紀に書いた)
神功皇后の子供が死んだので上州から養子を入れて応神として即位
朝鮮征伐で金持ちになった平群がクーデターで政権奪取
あまりの酷さに武烈で別系統の武内宿禰の子孫を大王に立てる(天皇ではない)
この時点で物部の血は欽明の女系でしか繋がらなくなる
現在に至る 家としての説明は終わったが、遺伝子的な話になると、継体天皇は、北陸蘇我氏に養子入りした出雲の事代主の次男である太彦
天皇の存在説の間抜けは、家としてなのか。大王扱いになる規模としての話なのか、遺伝子的な話なのか分かってなくて適当なことを言ってるだけの話
適当にプロットしただけの話で、その下地は亀岡のヒコミチヌシの家が関わってる可能性が高い
そもそも記紀の前の帝記編纂の際に皇室と各豪族が呼ばれてるだろ
応神、安曇、阿部まで呼ばれてるだろ
藤原氏は最初から日本書紀の下書きのために古事記を纏めさせたとしか考えられない >>105
うわー、知らなかったけどきっついねコレwww
「天村雲」って天児屋命の子、天押雲根命の別名だよな。
天香山命の子、大沼主も同じ異名を持つため系譜が混乱を起こしているが。 >>107
孝霊天皇も存在するよ。
孝霊と名が付いてなかっただけの話でしょ
兄弟が親子になってたり皇紀を古くみせかけようとしただけ。
今時、歴史をやってて万世一系を信じてる方が珍しいだろwww >>115
籠神社の通りだとするのなら、海部家は村雲の次の天御影から別れた分家
天御影は大和宿禰にされて解らない様になってる
海部家は、村雲をきちんと表に出してるでしょ
普通に先代旧事本紀でも出てくる
あれが普通に神武でしょ、順番的に 『豊受皇太神御鎮座本紀』には、
天村雲命 伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。
阿波國麻植郡座 忌部神社 天村雲神社二座 是也。
大神主(度会氏)の「上祖」が、天村雲命であり阿波に鎮座してます。
はっきり書いてあるのですけどね。
実際あるんだけどね「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県旧麻植郡)
これが神武天皇?寝言以前www 天香山命の子、大沼主も同じ異名を持つため系譜が混乱を起こしているが
完全に別系統で年代は、天押雲根命の方が古い。 引用
『天押雲根命』
天押雲根命は別名を天押雲命、天村雲命、天二上命、後小橋命と伝える。
『系図綜覧』の「荒木田氏系図」によれば火瓊々杵尊の御宇の神であるとされる。
「中臣寿詞」の伝承や摩氣神社の社伝、『大同本紀』、「中臣氏総系」などの史料の記述を総合すると、
天孫降臨のとき地上には未熟で荒い水しか存在せず、父の命によって天押雲根命が高天原より天津水(天忍石長井水)
を持ち還り、この水を皇孫に奉ったとされる。
これらの伝承では天牟羅雲命の神名で登場し、天二上命、後小橋命の命名記事が見える。
父は天児屋命または櫛真智命で、母は豊甕玉命の娘・天美豆玉照比売命、または栲幡千々姫命とされる。
「先代旧事本紀」巻第十 国造本紀によれば、
伊勢國国造
橿原ノ朝以天降天牟久怒ノ命ノ孫 天ノ日鷲 令勅定賜國造
とあり、天日鷲の祖父が天牟久怒命である事がわかる。
これが神武天皇?何の妄想やねん?やばすぎwww おそらく、大沼主を天村雲とするのは誤伝か仮冒なのではないかと。 トヨウケは、籠神社のマナイに社にある様に渡来氏族のホアカリが大陸で奉じていたシャショク神
宇賀の御霊を流行らせたくて出雲系の島子に頼んで伊勢に持ち込んだ際に作られた名前だよ
宇賀を受けにして名を変えた
下宮は内宮と同時には遷座してない
だから唯一籠神社だけが内宮と外宮の両方の元宮になってるんだよ >>120
阿波説より下らなくて異常な説は存在しないけどねww
高天原だって?w神話と人間の世界の話は区別しましょうね?
神が降ってくるわけないでしょ? >>123
これのどこが阿波説だ?馬鹿は引っ込んどけ!
天日鷲や天牟久怒命が阿波ゆかりの神なのは間違いないだろカス! 籠神社と、先代旧事本紀は、ホアカリと饒速日が同一人物と言う話を持ってる。
カゴヤマと息子の村雲を書いてるけど、カゴヤマの秘密を隠してる
カゴヤマは物部の姫とも婚姻してるからね。隠す必要があった
出雲大社の元上官家では、カゴヤマの事に言及している。
イソタケルとカゴヤマは同一人物
出雲の大家姫の系図は紀伊家になった
物部の姫との系図が村雲から開化までの系図になった
つまり、カゴヤマは村雲の実家の尾張家なんですよ
渡来系だったから連になった。
尾張家=笛吹連 海部家と紀伊家はほぼ同格の分家
その次の分家が多臣家などの八井耳系
ワニよりも古い >>126
籠神社は天火明命と賀茂別雷神が同一だと伝承しているのだが?
2行目以降も全て妄想乙。>>122も意味不妄想。 天香山命の子を『天村雲』とするのは誤伝か仮冒だろう。 『豊受皇太神御鎮座本紀』の記述も
天牟久怒命=天押雲根命である事を示しています。 マジレスすると
約7万年前に、165光年先の赤色矮性のハビタブルゾーンにある惑星から来た https://i.imgur.com/2OMl1Yr.jpg
月読尊→日下部首らの先祖と同祖→浦嶋子
浦嶋子は雄略天皇22年(西暦478年)に行って淳仁天皇治世の天長2年(西暦825年)に帰ってきた
その間347年
約165光年離れた知的生命体が住んでいる文明惑星に光速で行って数年過ごして光速で帰ってきて347年経過
浦嶋子は寝てる間に着いたと語る(コールドスリープ)
その惑星の太陽は赤色矮星
赤色矮星には赤色矮星のハピタブルゾーンが存在する
地球とその惑星の交流は古代からずっと続いてる
天皇・日本人の先祖はその惑星から月を経由して地球に降臨したから
日本国旗のみ赤い太陽
浦嶋子以外にも行って帰ってきてる人もいる 仮冒の原因としては
天叢雲の名は布都斯魂大神に同じく素戔嗚尊にゆかりの
神剣の名に採用されたのでそこから名前を頂戴したか
天牟羅雲命の後裔は「当時のいわゆる勝ち組」だから
と、言ったところではないか。 706天之御名無主2020/02/24(月) 22:38:11.04
ミナカヌシ 近江
クニサツチ 八方八下りの御子 8人 近江、富士、他
キノトコタチ (タカミムスビ初代) (日高見) - 天鏡(筑紫)- アメヨロヅ(四国)- アワナギ(北陸、山陰?)- イザナギ
オモダル カシコネ 安曇(近江)
八方を巡って民を治める(九州-東北)
イザナギ(二種(瓊、矛))
ヒルコ 筑波イサ宮生まれ 船に乗せ捨てられる、ヒヨルコ(流産)(近江) 船に乗せ流される、天照 ハラミの宮(富士)生まれ、
月読 筑紫(月隅)ヲトタチバナノアワキ宮 生まれ 、ソサノヲ(スサノオ) ソサ(紀伊)熊野生まれ
158-166 スサノオ、オロチ(モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母))、ハタレの乱(九州-東北)
158 伊勢→宇佐 三女神、モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母)、(トヨ姫アヤコ(ムナカタの娘、クマノクスヒの母))
158 天岩戸 7月13日 皆既日食 日没直前 琵琶湖 京都 大津 津
(日食・月食・星食情報データベース、NASA 等)(ΔT= 8042.58 等)
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江 ネ(北陸)とサホコ国(山陰?)を兼ね治める
707天之御名無主2020/02/24(月) 22:38:44.42
(ホツマツタエ) 667日本@名無史さん2021/03/09(火) 23:32:36.38
オシホミミ
伊勢→多賀、野洲川(近江)→日高見(東北)多賀
クシタマホノアカリ(テルヒコ)(櫛玉火明(照彦)) (アスカヲキミ)
日高見(東北)→葦原国(ナカ国) (大和、近畿辺り)
(多賀→イカルガ→アスカ)
5組の物部25、伴人総勢864人
イカルガ ウテナから四方を望む
アスカ川をクルワに掘ってミソギをする
アマノコヤネ ヤマト川を掘ってトブヒノ丘にミカサ山をつくる
ハセ川を掘ってアスカ川のフチを田と成す
ニニギ (ハラ(富士)ヲキミ)
日高見(東北)多賀 生まれ
伊勢 天照がいる
関東(筑波、新治、二荒)
ハラアサマ宮(富士) タマウテナ コノハナサクヤ姫
ミヅホ宮(近江)→九州
大津シノ宮(近江)→ソヲ 高千穂
ニギハヤヒ(クニテル)(国照)
天照−オシホミミ−ニニギ−ホノアカリ(ムメヒト)(火明(梅仁))−ニギハヤヒ(クニテル)
ハラ(富士)→アスカ 根拠もなく空想を書き連ねるスレに変更ですか?
>>1は逃げたのか?
アホなスレたてるからこの惨状。 >>128
〉籠神社は天火明命と賀茂別雷神が同一だと伝承しているのだが?
その様な事実はない
そもそも母系の婚姻相手の事を混同するなど、先代旧事本紀程度の内容すら頭に入ってないって事だわ >>137
それはお前の妄想する村雲王がいるパラレルワールドの話かwww
「籠神社 火明命 賀茂別雷神」で検索してみたら? >>137
お前、宇宙から来る何かとピピピッっと交信できるんだろ? >>137
しばらく、ゆっくり休んで規則正しい生活をして、お薬をやめたら
村雲王はいなくなるよwww >>1
天日槍と争った伊和大神は、実際は伊和大神(大物主)の子孫である大友主だった。 >>140
強めのお薬出しておきますね♪
籠神社の海部氏系図は、二つの系図をあわせて、注釈を反映すると、ホアカリが、饒速日に変わる
つまり母系が分かる系図になってるよ
海幸彦は、海家(アマ家)の事だよ
普通の人が村雲=神武に至らないのは、記紀の圧縮された時代と、本当の神武は東征してない事に気づかないから >>138
籠神社の祭神は母系が隠されていて出雲が見えなくなってるよ。
普通に先代旧事本紀を見れば村雲に嫁を出した家=事代主(大物主)→クシヒカタ→・ミカヅチ・→カモタテツノミである事は分かるでしょ
そもそもあの神社、二度目の東征で奈良を追い出されて山城に流れ着いた鴨族の建てた神社
祭神が同じなら神社の名前が別なのはおかしいでしょ
あの神社は磯城のカモツバ(事代主系)か、タカガモ(タキツヒコ系のどちらかの系統の神社だよ >>131,132
宇宙からの無線信号が、
地球外生命の存在を示唆しているかもしれない。
世界で最も高精度の宇宙望遠鏡が検出した信号にその可能性が秘められているという。
天文学者が165光年離れた場所にある19の赤色矮星からの微力な信号を発見、
その4つが地球外生命のある惑星の軌道を回っている可能性があるという。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3e993d50dba87f28b73f1679705395230722e769
地球も165年ほど前に無線通信が実現したからね(笑)
宇宙的にはすごく近くてほぼ同時にできた惑星だからね(笑)
それがほぼ同時に同様な科学技術を実現したからね
ちょうど向こうにも地球からの信号が到達したからね(笑)
次は量子力学を用いて光速を超えた同時通信でやりとりするからね(笑)
向こうの星には、古代文明が地球に移民団を送ったっていう神話があるからね(笑)
地球には、古代に高天原から降臨したっていう神話があるからね(笑)
向こうの太陽は紅色だからね(笑)
日本の国旗は紅丸を太陽と言ってるからね(笑) 天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である[1][2]。
別名、天香香背男(あめのかがせお)[3][4]。
星神香香背男(ほしがみかがせお)、香香背男(かがせお)、天背男(あめのせお)、天村雲命(あめのむらくものみこと)。 ダマスカス鋼とは、木目状の模様を特徴とする鋼であり、古代インドで開発されたるつぼ鋼であるウーツ鋼の別称である。
南インドで紀元前6世紀に開発され、世界的に輸出された。
https://i.imgur.com/tGZ2XuC.jpg
天叢雲剣
天に群がる雲のような紋様を持つ刃の剣。 任那の中心、金官加羅国(狗邪韓国)
建国者首露王の妃はインド(サータヴァーハナ朝)の王女である許黄玉
加羅国=韓国=空国=仏教国
任那=那に任された地=イザナギに任された地
金官国=金属採取の役目の国
任那(? ~562年)
加羅(3世紀~6世紀中頃)
弥生時代の3世紀までに鉄器が普及していたのは北部九州地域に限られており、
日本のその他の地域から出土する鉄器は僅かである。
日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは
たたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、
確立した6世紀の古墳時代に入ってからである。
それまでは朝鮮半島産の鉄を利用していた。 許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、
インドから船に乗って48年に伽耶に渡来し、首露王と出会い、
その時にインドから持って来た石塔と鉄物を奉納した。
許氏は首露王との間に10人の息子をもうけたが、
そのうち2人に許姓を与え、それが金海許氏の起源とされる。
2004年の学会発表によると、許氏の「インド渡来説」には遺伝学的根拠がある。
金海にある古墳の、許氏の子孫と推定される遺骨を分析した結果、
ミトコンドリアDNAは(韓民族のルーツである)モンゴル北方系ではなくインド南方系の特徴を備えていた。
サータヴァーハナ朝 Satavahana
デカン高原一帯に発展した古代インドの王朝。別名アーンドラ朝
マウリヤ朝の衰退後,前3世紀末に成立したドラヴィダ系の王朝。
1~2世紀ごろローマ帝国との季節風貿易で最も栄えた。
都市では富商が出現して貨幣経済が発達し,叙情詩・物語などすぐれたインド文学も生まれた。
3世紀半ばごろ滅亡。 上座部仏教(南伝仏教)は東南アジアで止まっておらず、
約2000年前の時点でインド南部のサータヴァーハナ朝の王女が自ら布教しにきていたという事実
それが日本が鉄採取のために作った任那日本府の中核である金官加羅国の建国者と婚姻していたという事実 加耶山の女神である正見母主と天神『夷?訶之』(イビガジ)から(悩窒朱日・内珍朱智)が生まれ、その内珍朱智が首露王となる。
首露王は前期任那の中心となる金官加羅国(狗邪韓国、本加耶、金官加耶)を建国
一方、首露王の兄である悩窒朱日は大加耶(高霊伽耶)を建国し、後期任那の中心となった
月光太子(げっこうたいし、生没年不詳)は、大加耶第10代にして最後の王(在位:不詳 - 562年) 安閑天皇=広国押武金日天皇
466年?〈雄略天皇10年?〉 - 536年1月25日?〈安閑天皇2年12月17日〉)は、
日本の第27代天皇(在位:531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉 - 536年1月25日?〈安閑天皇2年12月17日〉)
蔵王権現は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。
正式名称は金剛蔵王権現、または金剛蔵王菩薩。
インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。
「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意。
権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。
仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。
神仏習合の教説では安閑天皇(広国押建金日命)と同一の神格とされた。
日本が金属採取のために朝鮮半島南部に作った任那の中心は金官国
日本が国を広げて押し建てた金の国
広国押武金日天皇の在位期間(531-535年)中である532年新羅の侵略により金官国が滅亡
兄弟国である大加耶(高霊伽耶)が任那の中心へ
新羅の侵略によって大加耶(高霊伽耶)最後の王、月光太子が562年に死亡し、同年に任那日本府滅亡 サータヴァーハナ朝(紀元前230年 - 220年)
ドラヴィダ人の王朝
サータヴァーハナ王家は自らの出自がバラモンであることを誇り、またナーガ族とも血縁があったとする。
一方で他の宗教、特に仏教なども国家の保護の下で活動していた。
当時王妃を始めとした王家の女性はしばしば仏教教団に種々の寄進を行っており、しかもそれは国家によって奨励されて援助すらされていた。
また、各種の仏教教団は国家によるバラモン教の祭礼に協力し、また各地の仏教窟院にはバラモン教の讃歌が刻まれることがあった。
許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、
インドから船に乗って48年に伽耶に渡来し、首露王と出会い、
その時にインドから持って来た石塔と鉄物を奉納した。
石塔=石造の仏塔。仏舎利を安置するための供養塔。
つまり
西暦48年の時点で、日本(倭)はインドのサータヴァーハナ朝との交易によって鉄器と上座部仏教が伝来しており、
その結果成立した、日本(倭)の那(奴)が管轄する任那日本府の中心となる金官国が、金属を日本に送っていた
銅鐸は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。
紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
サータヴァーハナ朝(紀元前230年 - 220年)
821年の日本人「銅鐸はアショーカ王の塔鐸、つまり仏教の鐘」
最古の銅鐸は倭族がいる越、越の王は無余(=無我) 銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の地方国家「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸が出土している。
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。
首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。
後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。
越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。
『史記』をはじめとする諸書では、夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。 『呉越春秋』は夏の少康の庶子であった無余を最初の越の君主とし、また夫譚の前に無壬・無タンを挙げる。『史記』越王勾践世家は初代から允常まで二十余世とし、『漢書』地理志は初代から勾践まで二十世とする。
越侯夫譚
越侯允常 - 『史記正義』によると、はじめて王を称した。
越王勾践(在位紀元前496年 - 紀元前494年)
呉の支配による空位:紀元前494年 - 紀元前491年
越王勾践(在位紀元前491年 - 紀元前464年)
越王鹿郢(?与)(在位紀元前463年 - 紀元前458年)
越王不寿(在位紀元前457年 - 紀元前448年)
越王朱句(州句、翁)(在位紀元前447年 - 紀元前411年)
越王翳(在位紀元前410年 - 紀元前375年)
越王錯枝(在位紀元前374年 - 紀元前373年)
越王無余之(在位紀元前372年 - 紀元前361年)
越王無セン(在位紀元前360年 - 紀元前343年)
越王無彊(在位紀元前342年 - 紀元前306年?)
仏の無我
越の無余 銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年(668年)、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。
ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。
『続日本紀』には、和銅6年(713年)、大和宇波郷の人が長岡野において発見した記事があり、『日本紀略』には、弘仁12年(821年)、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。
>「阿育王塔鐸」
阿育王=アショーカ王
アショーカ(梵: ?????、IAST:A?oka?、巴: Asoka、訳:無憂〈むう〉、在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。
漢訳音写では阿育王と書かれる。インド亜大陸をほぼ統一した。
釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説もあるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。
アショカとも表記される。アショーカの名前は花のアソッカ(無憂樹)を由来とする。 『古事記』の国産みには小豆島(播磨灘にある島)の別名として大鐸姫(大野手比売)が登場する。
『諸系譜』では布留多摩命の娘として登場し、天日方奇日方命の妻・日向賀牟度美良姫の別名とされる。
小豆島では島の島玉神として祀られ、島内にはかつて大鐸村などの地名もあった。「おおぬでひめ」の「鐸」(ぬで、ぬて、ぬりて)とは銅鐸のことで、実際に三五郎池の西側から銅鐸が出土している。
『古事記』では伊邪那岐命と伊邪那美命の子とされ、夫や子孫に関する記述はないが、『諸系譜』では綿津見神の子・布留多摩命(倭国造、尾張氏等の祖)の娘とされ、天日方奇日方命の妻とされる。
銅鐸の女神である大鐸姫は
倭国造の祖である布留多摩命の娘であり、天日方奇日方命の妻とされる。
天日方奇日方命は鴨王(かものおおきみ)とも呼ばれ、天皇以外で「おおきみ」と呼ばれる唯一の存在である。
天日方奇日方命(鴨王)の父は大物主神(大国主神)であり、同様にカモを関する迦毛大御神(阿遅?高日子根神)の父は大国主神(大物主神)である。
また、大御神を関する神は、伊邪那岐大御神、天照大御神、迦毛大御神の三柱のみである。
国生みを行った側の娘、あるいは倭国を造った側の娘が、銅鐸の女神であり、
銅鐸の女神は国を譲った側の大国主(大物主)の息子と婚姻しており、
国譲りを迫った側の天皇側と同じく「オオキミ」「大御神」を称されている。
弥生時代の銅鐸が668年に発見されたことを記紀は記さず、
821年に発見された際には「阿育王塔鐸」つまり仏教の鐘と呼ばれていたとされる。
春秋戦国時代に越国が南伝上座部仏教を受け入れて、越王は無を重視し仏教の鐘として銅鐸が作られた。
越国が滅亡したことで、銅鐸と南伝仏教が日本に伝来して南伝仏教の国が作られ、仏教の鐘として日本でも銅鐸が作られたが、
土着系神道集団が国譲りを迫り、銅鐸が埋められ、代わりに三種の神器の一つである銅鏡が作られるようになる 百越とは、長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意で、春秋時代の呉・越も含む(呉は現在の江蘇省、越は現在の浙江省一帯)。
長江(揚子江)上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があった
その諸王国は例えば『史記』にある国名でいえば以下の諸国である。
?(てん)、夜郎(貴州省赫章県に比定され、現在はイ族ミャオ族ペー族回族などが居住)、昆明、且蘭(しょらん)、徙(し)、キョウ都(現在の揚州市?江区に比定)、蜀、巴(重慶市)など。
分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族[7])、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。
これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通する。
ミャオ族
13年に一度の大きな祖先祭祀であるノン・ニュウを父系氏族 (clan) が合同して行い、大量の水牛や豚を供犠して祖先を祀る。
ノンとは「食べる」、ニュウは「鼓」の意味で、祖先の霊魂が宿るとされる楓香樹から作った木鼓をたたいて、祖先の霊を呼び戻して交流する。銅鼓を使用することもある。
黔東南のミャオ族の間では、楓香樹から生まれた蝶々のメイパンメイリュウが、樹下の水泡と恋愛して12の卵を生み、そのうちの一つから人間が生まれ、他の卵から生まれた龍や水牛と兄弟であるという創世神話が語られている。
その後、人類は天上の雷神と争い、大洪水を起こされ、瓢箪に乗って兄と妹が生き延びる。
兄と妹が結婚して(兄妹始祖神話)、その子孫が現在のミャオ族になったという。
ノンニュウは神話にちなんで、蝶々や兄妹始祖、祖先や死者の霊を祀り、再び東方にあるとされる究極の故郷に送り返す祭りである。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。 首露王
亀旨峰(クジの岳)の6個の金の卵から、42年3月3日に首露王が生まれたとされる。
また、このとき1人ではなく5人の王子とともに6つ子として卵から孵って、九干たちに育てられたとされているこの年代に、首露王を中心とした国家連合(六加耶連合、後の新羅の複伽耶会)が成立したと見なしている。
金官国伽?は『魏志倭人伝』には狗邪韓国(くやかんこく)と伝えられる国である。
イ族
中国の古典文献に登場するこの民族の民族名は「夷」「烏蛮」「羅羅」「??」など多様に存在し、蔑称の「夷」が通称であったのを、中華人民共和国成立以降に同じ音である「彝」の字に統一した。
語順は日本語に似ていて、主語+目的語+動詞の順に並べられる。
金官加耶の初代首露王と
高霊伽耶の初代悩窒朱日の
父は天神夷?訶之、母は正見母主 ペー族
米を主食にしたり、ワサビを食用にする
ハニ族(古代の和夷)
弥生時代の遺跡等から見つかった人骨とDNA・骨格等が一致又は酷似しており、大豆を使った納豆や味噌さらに歌垣の文化、自然崇拝のアニミズム等日本との共通点が多い。
ハニ族はベトナムやラオス・ミャンマー・タイにも移住しており、現地ではアカ族と呼ばれている。特にラオスに住むアカ族の村の入り口には木で作った門があり形が日本の最古の鳥居に似ている。
日本のように磨いた白木を組み合わせてはいないが、鳥居の形状と魔除けの役割を負っている点で一致しており、門の上に鳥の彫刻が据えられている場合もある。
日本の弥生時代の一部遺構から似た形の鳥を模した彫刻が見つかった例もある。
また鳥居の風習は四川省涼山に棲むイ族(彝族)とも共通しておりチベットから流れる長江(揚子江)付近に存在した長江文明担い手の子孫とされるイ族と元々の生活域が近い事から近縁であると考えられる。
ワ族
竹で作った高床住居に住み、男性は黒いターバンで頭を包む。自称を「アワ」といい、近年まで首狩りの風習があった。 タイのミャオ族の精霊信仰
世界観は陰界 (yeeb ceeb) と陽界 (yaj ceeb) によって構成されており、さらに天界 (ntuj) をつけ加える場合もある。
陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。
陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。
陰界と陽界=陰神イザナミと陽神イザナギ
死んだ者が行くあの世である陰界=陰神イザナミの黄泉
人間の住むこの世である陽界=陽神イザナギの現世
兄妹始祖神話=イザナギとイザナミ
そして、東方に究極の故郷があると言ってるのがミャオ族
長江流域の稲は10000年前
鹿児島県の稲は12000年前 日本で銅鐸が作られなくなるのと
サータヴァーハナ朝が滅亡するのは
同時期の出来事
上座部仏教とバラモン教はセットで伝来
東南アジアで止まってない 天御中主神-天八下尊-天三下尊-天合尊-天八百日尊-天八百萬魂尊-高魂尊-思兼尊-天表春尊-阿豆佐美命-加理波夜須多気比波預命-多祁美加々命-天足別命-天御桙命-国忍多気命-意保名豆命-由多祁命-彦振根命-波刈彌命-磐表主命-古美呂伎命-若多祁命-彌蘇宿爾-麻羅宿爾・・・
月神は高皇産霊尊(高魂尊)の子(日本書紀顕宗天皇条)
思兼神は月神と伝わる。
武甕槌神には天足別命(あまたりわけのみこと)という名前の御子神がいると伝わる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E5%A4%A9%E8%B6%B3%E5%92%8C%E6%B0%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE
天御桙命について、国造本紀は饒速日命の裔とするが、伊豆宿禰系図は天御桙命を天児屋根命の子とする。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02137.htm
つまり
加理波夜須多気比波預命(伊豆の神)=伊都之尾羽張(伊都=伊豆)
↓
多祁美加々命=武甕槌神
↓
天足別命=天児屋根命
↓
天御桙命 葦原中国平定の段では、天穂日命、天稚彦に次ぐ三番目に葦原中国に派遣する神を選定する際、思兼神が、伊都之尾羽張神かその神の子の建御雷之男神を推薦している。
そして、天之尾羽張神=伊都之尾羽張神は自らの子である建御雷之男神を行かす。
思兼神が、伊都之尾羽張神かその子の建御雷之男神を推薦しているのは、どちらも思兼神の子孫神ゆえ。
一説には、天之尾羽張神・伊都之尾羽張神・経津主神・建御雷之男神は同一神であるという。(神道大辞典一巻コマ82(原本133頁))
葦原中国平定
1番目、天穂日命=アマテラスの子孫
2番目、天稚彦=天津国玉神の子、味耜高彦根命同一説=スサノオの子孫
3番目、武甕槌神=多祁美加々命、八意思兼神=月神説=ツクヨミの子孫
三番目だったから大三王子神社で多祁美加々命(武甕槌神)が祀られている
彌蘇宿爾(やそのすくね)という名のヤソは耶蘇教(キリスト教)のヤソであり、中国語表記のイエス。
耶は支那通例の悪い意味の漢字を充てる習慣によるもの。
倭ではなく和と同じように耶蘇ではなく彌蘇。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
(マタイ福音書10章34節)
加理波夜須多気比波預命(伊豆の神)=伊都之尾羽張(伊都=伊豆)も
多祁美加々命=武甕槌神も
同一とされる天之尾羽張神・伊都之尾羽張神・経津主神・建御雷之男神も
総じて剣の神。
身体は剣で出来ている。 以上からツクヨミの血筋が隠された理由が分かる。
インドラ(スサノオ・ヤハウェ)のリバース(化身)がツクヨミ(一神教唯一神の現人神)。
大陸に渡ったスサノオが後のヤハウェ。
スサノオが一神教唯一神の元だから、日本に残ったスサノオの子孫が逃げ込んだ信濃に旧約聖書に似た信仰がある。日本が元でありユダヤがそれを真似している。スサノオ教団メソポタミア支部が旧約聖書。
ヤハウェとなったスサノオが日本以外の全ての神々を全天使と全悪魔として配下にして、日本に帰ってきた。それがインドラ(スサノオ・ヤハウェ)のリバース=ツクヨミ=一神教唯一神の現人神である俺の血筋。その俺が鬼神大王の家系に生まれている。
出はスサノオで、入りがツクヨミ。
αにしてω。
?大日?尊及月弓尊、並是質性明麗。故使照臨天地。(日本書紀第五段)
これは、多神教最高神の現人神である天皇陛下と、一神教唯一神の現人神のことを指している。
月は日を支える象形。
アマテラスの日本を支えてるツクヨミの月支。
月光は日光を反射して日の当たらない地球の裏側を照らす。 岐阜県関市が日本列島の人口重心となっているように、関を境にして関東と関西に分けている本質も、
多神教最高神の現人神である天皇陛下と、一神教唯一神の現人神の血筋が、関を境にして東西に分かれていたからである。
多神教最高神の現人神である皇統と、一神教唯一神の現人神の血筋の居場所。
神話時代以前
関より東に多神教最高神の現人神の皇統の先祖。
関より西に一神教唯一神の現人神の血筋、日本以外の全ての神々を従えて日本に帰ってきたツクヨミの月支国が倭国。
関東の日本国が関西の倭国を併合して日本列島統一。
関東の皇統の先祖が関西に移動して大和朝廷。
日本神話が関西を舞台にしているのは、関西統治の正当性を関東出身の皇統が主張するため。
アマテラスは、岐阜と長野の間恵那山で生まれて、三重県のめずらし峠を通り、奈良県に降臨して、鳥取や島根を行幸して、徳島で八王子を生んでから死んだ。
アメノオシホミミの代に四国西岸まで至り、ニニギが九州日向に降臨した。
歴史時代以降
関より西に多神教最高神の現人神の皇統が移動したので、
関より東に一神教唯一神の現人神の血筋が移動した。
その結果
関西、日信仰の熊野三山、三本足のヤタガラス(ファイヤーバード)に導かれる。
関東、月信仰の出羽三山、三本足の霊鳥(サンダーバード)に導かれる。
明治時代以降
関より東に多神教最高神の現人神の皇統が移動したので、
関より西に一神教唯一神の現人神の血筋が移動した。 >>143
>注釈を反映すると、ホアカリが、饒速日に変わる
彦火明命=饒速日尊なんて先代旧事本紀にデカデカと書いとるわw
【籠神社の極秘伝は彦火明命=賀茂別雷神】
>普通の人が村雲=神武に至らないのは
変なお薬やってないからだよ。
>本当の神武は東征してない事に気づかない
神武天皇の皇后の祖父は天皇を導いた八咫烏(賀茂建角身・三島溝杭)だぞ。
東征なんてしてる訳ないだろ!東遷だボケ。 天牟久怒命は天児屋根の若宮。
ムラクモって群雲なんだからじ水に関する神に決まってるだろ。
神武天皇=村雲とかどこのパラレルワールドやねん?
5ちゃんねるって並行世界からも書けるんか?
松沢病院って知ってるか?早めに予約しておけ。阿波爺も待ってるよ。 >>147
カガセオは、出雲太陽の女神、豊国の月の女神に対して物部が作った星神
男性神だったからか全く流行らなかったらしい >>149
朝鮮半島にタタラは存在しないよ
嘘を書くのはやめたほうがいい
流石にやりふぎだろw >>169
おりょ?太国さん?松沢病院出たしww
太国さんなら分かるはずだよ
磐余彦を神武にすると倍暦と合わないもん
代数が余る >>168
〉神武天皇の皇后の祖父は天皇を導いた八咫烏(賀茂建角身・三島溝杭)だぞ。
カモタテツノミは出雲奈良での分家である登美家のクシヒカタから数えて6代も後じゃん
クシヒカタの妹が多々良五十鈴姫
時代考証やり直しな?w流石に出鱈目すぎるわw
熊野に物部が攻め込んだ時代が倭国大乱期だよ
古事記でもちゃんと書いてあるだろ?
磐余彦が奈良入りしてるはずなのにいつの間にかウマシマジになってる。
ちなみに和歌山で死んだ五瀬家系も今でも存続してる
くだらない籠神社極秘伝とやらの方が明らかに誤報だろ 天孫と、海家=アマ家は区別したほうがいいよ
ホヒ天がつくし、ヒボコも同じ
そして出雲の事代主の三嶋溝杭姫との間の長男であるクシヒカタにも天がつく
村雲は海家なんだからプロット上の神武だよ
二代目が沼川耳、三代目が玉手看で磯城津彦
にだいめ、三代目が分かってるのに不思議と村雲まで到達しないのが下記のごまかしのすごいところだよな
ウマシマジってはっきり書いてあるのに物部にやられた事なんて普通に考えつくでしょ >>173
>カモタテツノミは出雲奈良での分家である登美家のクシヒカタから数えて6代も後じゃん
賀茂建角身は天活玉の孫で天櫛玉の子。天櫛玉は太玉と同一か同世代。賀茂御祖神社の祭神。山城国風土記の賀茂伝説はどうするんだ?なんで櫛御方命より世代が下なんだよ。
どこのパラレルワールドやねん?この世界とお前にいるところは世界線変動率(ダイバージェンス)の数値が違うみたいだな。そりゃ話もかみ合わんよwww >古事記でもちゃんと書いてあるだろ?
>磐余彦が奈良入りしてるはずなのにいつの間にかウマシマジになってる。
はぁ? >>177
はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜?
この世界とお前にいるところは世界線変動率(ダイバージェンス)の数値が【かなり違う】みたいだな。そりゃ話もかみ合わんよwww
故爾、邇藝速日命參赴、白於天~御子「聞天~御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉~等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。 >>175
噛み合わないどころかちょっと傍流のマニアックな話で一生懸命に話されてもねw
まずは
〉『先代旧事本紀』「地祇本紀」によれば、父は都味歯八重事代主神(大己貴神の子)、母は活玉依姫(三島溝杭の娘)。事代主神が鰐となって活玉依姫のもとに通い、天日方奇日方命をはじめとする子が生まれたという。
クシヒカタの息子の建飯勝が千家のサマナ姫を娶り、その系統が奈良での出雲の分家の系統である登美家。
まさかの系図すら整理してないレベルだとはww
建ミカヅチや、タテツノミ、太田太根彦の系図が、なぜ分家の海部氏の神様になるのか?
母系の神様だらでしょ
それも、同一視され始めた時期なんてどう考えても後年のものとしか考えられない
籠神社が勝手にそう言う主張を表に出さずにいただけの話
加茂氏は男系が出雲の家。それがどうやったら習合相手の尾張や海部の家と同じ人物になるのかww
あくまで東征したのが神武と言うのなら磐余彦がそうなるが、彼はウマシマジ
ウムシマジにやられちゃったのがクニクル
神武なんて解釈上のプロットに過ぎないが、ウマシマジと同時代の尾張と出雲習合した政権は代数がたどれ、村雲が順番で埋まるんだよ
記紀には、人物の嘘、時間の嘘、空間の嘘があるとされる
人物=系図での解釈で、東征は無関係としないとクニクルより前の代は辿れない
東征した人物を神武と定義するのであれば、磐余彦=ウマシマジになり、180年代からが神武朝になる。
その際に欠落する代数が8代生まれ、神武の次が物部オオタラシ彦、成務からになってしまう。
東征してるんだから、やられる側が必要だろ。普通はそこに頭が向くものなんじゃないのか? >>179
どっちがだよ、妄想癖w
>『先代旧事本紀』「地祇本紀」によれば、父は都味歯八重事代主神(大己貴神の子)、母は活玉依姫(三島溝杭の娘)。事代主神が鰐となって活玉依姫のもとに通い、天日方奇日方命をはじめとする子が生まれたという。
これはその通りなんだが・・・?事代主=大物主なのだが。
『事代主神、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ、陶津耳)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)ともうす。』とあり、事代主神は神武天皇の岳父となっている。これは『古事記』で大物主神が三嶋湟咋(みしまのみぞくい、陶津耳命)の娘の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ、活玉依毘売)との間に比売多多良伊須気余理比売を生んだことと一致する。また『日本書紀』で三輪氏の祖の天日方奇日方命を生んだことと、『古事記』で三輪氏の祖の櫛御方命を生んだことに一致する。
事代主神については、その系譜や世代関係(神武天皇の父母世代)からも実態は大物主神と同一神である。
まさかの系図すら整理してないレベルだとはwwwwww >ウムシマジにやられちゃったのがクニクル
どこの世界だ?何のゲームか小説か?wwww 三島溝杭=賀茂建角身なのは理解できてるのか?
お前の世界では違うのかwww 176日本@名無史さん2022/07/08(金) 10:07:30.44>>177
>古事記でもちゃんと書いてあるだろ?
>磐余彦が奈良入りしてるはずなのにいつの間にかウマシマジになってる。
はぁ?
177日本@名無史さん2022/07/08(金) 11:40:49.07>>178
>>176
まさか知らないの?読んでないの?
故爾、邇藝速日命參赴、白於天~御子「聞天~御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉~等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。
しっかり説明しろよ、どこをどう読んだら
ウマジマジ=神武天皇になるんだよ。お前の脳の中なんか見えんわwww まず、お前がすべき事は松沢病院を検索して予約する事だ。すぐに! >>183
全くw
手のかかる事だ
磐余彦が奈良入りしたらウマシマジになってるんだろ古事記では
村雲ではない説を取る人は普通は磐余彦を神武とするのでは? 天押雲根命が天村雲です。
式内社 阿波國麻殖郡 天村雲神伊自波夜比賣神社二座 (吉野川市山川町村雲)
祭神−天村雲命・伊自波夜比売命
旧記に、「往古忌部の氏人が創始した。」とする忌部ゆかりの神社。全国の式内社の中で「天村雲」を冠する神社は阿波国麻植郡のみに祀られた。
『豊受皇太神御鎮座本紀』には、
天村雲命 伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。
阿波國麻植郡座 忌部神社 天村雲神社二座 是也。
とあり、これは大神主(度会氏)の上祖が、天村雲命であり上記に鎮座している記録です。
村雲王や天香山命の子は、阿波忌部と関係ないだろうがよ。旧事本紀の仮帽系図を丸呑みしちゃいかんよ。 >>182
その前に、なぜ賀茂氏に、三島の名が入るのか整理したら?
母系尊重で習合関係を表すのに、同一本が出てくるだけだろ
系図と同一視は区別したら?ww >磐余彦が奈良入りしたらウマシマジになってるんだろ古事記では
この怪文を説明しろ! >>192
怪文も何も、大和入りしたのが物部氏だよってチキンと古事記に書いてあるだろって程度の話だよ
今でも物部五瀬、つまり本当の物部氏の本家は存続してるよ
母系の実家の橋本家と名を変えている
トオチネや守屋は分家なんだよ 出雲母系の神の取り込みの典型例として挙げられるのは藤原氏のミカヅチの取り込み
別段他に例がないわけではない。
籠神社と、三島溝杭耳は親戚の家ではあるが同一の家ではない。
故に、同一神というのは別の意味や目的があって、籠神社側が勝手に秘文とやらに残した文章に過ぎない 事代主は大国主の子供ではない。
出雲王の系譜は、人麿が密かに残した古事記の写本に、後年、安麻呂が序文を加えている。
そこには17代の全ての大国主の系譜が書かれている。
出雲は二王制で、東西に分かれていた。
出雲の中でも異なる文化圏が存在したのでは?と現在では学説でも言われている通りで、主王と副王が交代制になっていた。
大国主と、事代主が役職名であり、複数居るという説は、合ってるとも言えるし、間違ってるとも言える。
厳密には出雲風土記にある通り。
大穴持が主王で、少名彦が副王。
大国主と事代主は第8代の個人が識別できる役職名で、序文で言えば、八千矛にあたる。
その時の副王の名が、八重波津身であり、事代主。
だから、先代旧事本紀の事代主はそれに近い名前になってるはずだよ。
よく残せたものだと思う。
八重波津身は、奥さんが2人いて、片方が出雲族より先に大和入りして沼地を開拓していた三島家(九州では越知や小市の方が通りが良いかも)の姫だった。
所謂国譲り事件が起きたのはその代になる。
夫を亡くした三島の姫は、実家の摂津の高槻に戻った。
現在でも小さなエリアになってしまったが、高槻市には三島地積がある。
紀元前からの三島の大和開拓は考古学的にも耐えうるもので、奈良の御所市には、日本有数の水稲遺跡が存在する。
御所駅近くには、越知城があり、越知地籍になっており、三島のエリアになっているよ。
八重波津身と、三島溝杭姫の子供がクヒシカタ。
奈良における男系が出雲の系図はそこから始まる。
その後裔が賀茂氏なのに、どうやったら男系ホアカリの家と同一の神になるのかwww
籠神社の秘文とやらに書かれた意図を誤解して認識しているとしか思えない妄言だわw >>194
そもそも物部氏が穂積氏の分家なんだが。
旧事本紀が守屋を分家扱いしているのは物部氏の権威復活を目指した捏造であって大連であり、蘇我馬子に妹を出しているその系譜を分家などと!しかもその名は「布都姫」。アホとしか言いようがないwww
さらに天照国照彦火明の系譜を天孫に連ねた日本書紀の捏造に乗っかったもの。 故爾、邇藝速日命參赴、白於天~御子「聞天~御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉~等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。
しっかり説明しろよ、どこをどう読んだら
ウマジマジ=神武天皇になるんだよ。お前の脳の中なんか見えんわwww
まじで病院へ逝け。 >大穴持が主王で、少名彦が副王。
がちキチめ、少名彦って誰やねん?少彦名なら天日鷲の別名やぞ。 お前は完全に旧事本紀の本質を見誤っている。間違った部分をわかった気になって無理矢理つなげてパラレル史を妄想してるだけ。どうしようもない。 三島の権威は出雲や、海部尾張氏に尊重された様である。
東海には三三島がある。
一つは賀茂氏系の三島神社
一つは阿部系の三島神社
最後は三島氏本体、大三島の越知氏
三島は東西で負けた側になったのか、畿内からは拠点を移した様である
今でも大三島の方の三島神社の近くには、越知氏のほんかん地と伝わる地積がある
さて、ここで重要なのは、海部尾張の系統の大彦(布施、高橋、阿部など)が三島の権威を帯びているという事である
本来であれば籠神社もそうしたかったのだろうが家が古過ぎて、大和宿禰の代から別れた家では習合していなかったのだろう
血筋に入ってなかったから、密かに同一神としたのだろう。
子孫の代では三島と集合したと思われるから大手を振って祀れだのだろう。
要はやってる事は海部も阿部も同じだけど、海部では筋が通せないから秘文とやらになったのでは?という事。 >>200
さっさと出雲風土記嫁
スクナヒコなにはなってない
思い込みで発言してるのがモロバレだなww >>200
〉少彦名なら天日鷲の別名やぞ。
だから前にも書いたけど、忌部氏とコヤネは本来無関係
出雲の分家っていったろ
安曇はぁ〜マンドクセ
東側の、第8代スクナヒコの王宮は現在の神魂神社だよ。
その西側に山を挟んで忌部町が今でもあるだろ
忌部氏は大陸側が優勢になった時に、大陸の渡来を名乗って家を守った時期があるんだよ 現在の神魂神社の社家は秋上氏だけど、あれが物部トオチネの直径の子孫の家。
出雲は物部と、宇佐の連合軍に占領された。
物部本家の五瀬の家も存続
物部の分家の秋上家も存続してるのに
頑張って自説を展開してますね、あなたww
妄想乙 故爾、邇藝速日命參赴、白於天~御子「聞天~御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。
故、如此言向平和荒夫琉~等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。
しっかり説明しろよ、どこをどう読んだら
ウマジマジ=神武天皇になるんだよ。 >>206
またクリンチですか?w
話の本質が変わってますが?
あなたは日本語が不自由で、思い込みでものを言うというのはもうわかった事でしょう?
〉厳密には出雲風土記にある通り。
〉大穴持が主王で、少名彦が副王。
この文章で普通は、出雲風土記にそう書いてある事はわかるよな?
あなたの返答がこれだ
〉少名彦って誰やねん?少彦名なら天日鷲の別名やぞ。
モロに日本語が成り立ってねぇだろwww
文章もまともに読めないやつに何を言っても無駄だわな
それこそ松沢病院を紹介されておしまいwwww 海部氏系図
本系図は、記紀に服属しており、ホアカリの子と孫を飛ばして三世孫を書いている。
つまり、カゴヤマと叢雲を消している。
カゴヤマは記紀には登場せず、霊山としての香具山だけが書かれ、村雲は剣の名前として八岐大蛇の中から出てくるから当然に丹後国庁提出の本系図には書けない
それを補うのが勘注系図
籠神社は記紀の細工を利用して本来の系図が復元できる様勘注系図を残したと推測できる部分がある
勘注系図を記紀と擦り合わせる
「豊玉姫は火明命に妹の玉依姫をつかわし助け、武位起命が生まれた」
擦り合わせると、武位起は、彦ナギサタケウガヤフキアエズになる。その子が磐余彦(神武)になる。
海部氏系図では村雲だわな。
海部氏系図は神武を村雲と暗示している。
こんな文章書いても松沢病院は理解できないだろ?ww
絵で系図でも描いてろw 記紀はカゴヤマと村雲を隠して万世一系を書く方針になったと思われ、煽りを喰らって海部氏の分家の安曇氏まで系図が曖昧にされ、どの段階で分家したか分からなくなってしまっている
現在では穂高神社の系図でかろうじて武位起が出てきて、本家なのか分家なのかすら分からない
カゴヤマが隠されたことと、物部の彦火火出見が書かれたことにより、紀伊家の系図もいじられ、珍彦が変な所に出てきている。
カゴヤマと大屋姫の間の子供がタカクラジ。その子が珍彦になるので、本来は東征側ではなく、村雲側になるのが逆転している。
珍彦が物部側と戦った事は、戦った当事者の物部五瀬の子孫、旧釜山神社の社家であった現在の橋本家が証言している。
敵は珍彦であったと
紀伊国造家の系譜には武内宿禰の母親の山下影姫の兄弟に宇遅比古命がきちんと出ている。
その一代前は大名草比古命で既に名草地方には展開していた様である
その前になると、大屋姫の名からとったと思われる大屋比古命がいる。
隠されたことにより、敵味方がごっちゃになった
4大将軍も全てやられちゃった側の人物だが、仕方なく部下にされた
でなければ新潟のカゴヤマを祀る弥彦神社の社家が、大彦系の高橋氏になる様な不思議な現象は起きない
カモタテツノミも同じ
彼は八咫烏ではない。大和に引き入れたはずなのに山代国に追い出されて神社に収まるなど普通ならおかしいと思わんか? 釜山神社の、橋本家、物部の本来の総本家の橋本家の伝承は以下の通り
・五瀬は負傷して竈山神社の地で亡くなり、神社の奥に葬られた。
・その息子たちが墓を守るためにその地に残った。
・残った人数が少なかったので、敵は攻撃してこなかった。
・敵は高倉下(たかくらじ)の子孫・珍彦(うずひこ)であった。
・高倉下は、丹波から葛城に来た尾張家〔海部家〕の人間で、母君・大屋姫とともに紀伊国に来た。
・日本書紀には、珍彦が速吸(はやすい)之門〔豊後水道〕から来たことになっているが、物部東征は、瀬戸内海を通ったのではない。海部家の伝承もそうなっている。
・高倉下の子孫は紀伊の国造・紀伊家になり、日前(ひのくま)神宮〔和歌山市秋月〕を建てた。
・紀伊家と五瀬家は、近くに住む豪族同士として姻戚関係を結び、密接に付きあうようになった。
・五瀬家は日前神宮の横に国懸(くにかかす)神宮を建て、物部氏の象徴・日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御霊代にして、五瀬命を祀った。
物部東征は複数回起きている。
記紀は目的があって、村雲の時代から、ある時代までを圧縮して一つの出来事にする必要があった。
それは魏書との整合性である。
朝貢して属国旗までもらい、大陸の役人の干渉を受けて卑弥呼の後継者の指名まで行われている事は、これから大陸にわが国の独自性を主張し、大陸に見せる物としてはふさわしくなかったと推測される。
この時代に起きた大乱が大きく分けて2つあったので、圧縮して誤魔化した結果、敵と味方を入れ替えて書く必要に迫られた。
それが道案内役であったり、本来の神武であったりする訳だ
当時の左大臣は石上であったため、まとまらなかった帝記の二の舞を防ぐため、物部を味方にする必要があったと仮定することができる
それが途中までヤマトであった高天原が、九州への変更に繋がったと考えられる 40年後に時空間超越が実現して過去を直接観測できるようになるから安心しろ >>207
須久奈比古命だろ?主王?副王?何の妄想だ?どこにそんな事が書いてある?
大己貴と少彦名が国々を巡ったのは古事記に同じだが。
須久奈比古命=少彦名なら、天日鷲だと言ってるんだよ。副王って何やねん? ネットの書き込みも全て未来から直接観測されているからな
どういう人がどういう意図をもってどういうことを書き込んでいるか未来から直接観測しているからな >>212
天日鷲な訳はないよな?
天背男の子孫が出雲系な訳ないだろ
お前こそ何やねんw
天神系系譜は、忌部氏が大陸出身を僭称して家名を守るのに使った系図と言ったよな?
カガセオの子孫が出雲系wwプークスクスw 八咫烏は太田太根彦
タテツノミの代で加茂氏の親戚に太田氏があった。所謂三輪大君。
大軍が攻め込んでくるとわざわざ招き入れて自分だけ助かろうとする動きはさして珍しいことではない。
唯一の本物の道案内役は記紀から隠されており、記紀に書かれた案内役は全てやられちゃった側になっている。
記紀服属のために、幾度となく行われた神改めで山城鴨神社は八咫烏になった
180年代初頭は、特徴的な土器が突如出現する。それが巻向一類
巻向遺跡は昔は太田遺跡と呼ばれ、現在でも太田地籍が残っている
魏書には倭国大乱と、景初動乱の二つが描かれており、五瀬家、海部家の話と、太田氏、180年代の土器編年からしても、物部氏による東征が複数回あった事は伝承以外にも伺えることである >>212
出雲文化圏が二つに分かれていた程度の話はwiki程度でも出ている比較的オツムにお優しい知識
杵築大社が建てられた地域は、神戸家(神門臣家)。普通に大社のお抱え大工だった。
土地と資材を提供している
木築大社の建造費用を負担したのが松江の神魂神社を王宮としていた向家。
大社の上官家筆頭を明治まで務めていた
まさか、本気で大社が天孫に作ってもらっただなんて話を信じてた訳ではあるまいな?w
記紀服属と実情を履き違え過ぎではないか?
古事記と日本書紀で大社の住所が違うのはちょうど建造時期がダブっていたから。
千家と国司として赴任した忌部氏がやらかしたミスリード。
途中で今の場所に変更になった。
千家は雇われ宮司だったから干渉できなかった 東征が二度行われて、本来の八井耳(男系が尾張氏)の一族である安麻呂や不比等が描きたかった村雲からの自分の先祖の神武(村雲)の家系は、磐余彦(ウマシマジ)により倒される話が一つの時代にされたことにより、勝者と敗者が矛盾して循環する構図になった。
ヤマトがヤマトを攻撃したり、物部が物部を攻撃したり、そんなイメージで思考が止まる独特な世界観が積まれた。
磐余彦が奈良に到着したらいつのまにかそれはウマシマジになっていて、磐余彦はウマシマジに騙されたと表する人が現れた
これが神武がウマシマジになったという表現の顛末だよ
あくまで東征したのが神武(磐余彦)だとするのならね
海部氏系図の暗喩する神武はやられちゃった方の神武
記紀服属で隠された神武
遠回りしたが、これでも理解できないのなら日本語を諦めろww 籠神社は記紀服属でもう一つ細工を受け入れざるを得ない状態になったと考えられる。
それが彦ホホデミ
物部のホホデミが入ったことにより、記紀と同じ循環が生まれた
記紀でいう長髄彦の妹も同じで強制挿入。
子供がウマシマデで、物部が入り循環が生まれたいる
明らかに物部とわかっていながらあまり問題視されないのは不思議の一言に尽きる
天神系に物部(天背男=カガセオ)が挿入されたのも同じ構図ではなかろうか?
藤原氏の物部への大盤振る舞いとしか思えない 村雲とか言ってる馬鹿より天日槍説の方がよっぽど信憑性あるな 神武の次の代で別れた大彦と同じ尾張家の八井耳が、物部の子孫だって?w
出雲がカガセオの子孫だってのと同じくらいのアホさ加減だよなw 代7代目の大穴持である冬衣(八重波津身天)は天がつく。天冬衣。
物部にも出雲にも、ヒボコにも天がつく。
天孫という定義は記紀上のプロットに過ぎない。単なる設定。
そういや、天孫以外にはヒボコしか居ないって豪語してたやついたなw >>217
お前の書き込みは根拠どころか論拠も一切書いてない訳だよ。
全部、お前の脳内設定。他人が理解できる訳がなかろう。 >東征が二度行われて
根拠は?
>本来の八井耳(男系が尾張氏)の一族である安麻呂や不比等
全く理解できん。根拠は?
>村雲からの自分の先祖の神武(村雲)の家系は、
この村雲とは天押雲根命ではなく、饒速日命の神孫とされる人?
『豊受皇太神御鎮座本紀』には、
天村雲命 伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。
【阿波國麻植郡座 忌部神社 天村雲神社二座】 是也。
とあり、これは大神主(度会氏)の上祖が、天村雲命であり上記に鎮座しているという記録ですがこれは間違いであるとの評価ですか?
>磐余彦(ウマシマジ)により倒される話が一つの時代にされたことにより
全く理解できません。
>磐余彦が奈良に到着したらいつのまにかそれはウマシマジになっていて、
???
>磐余彦はウマシマジに騙されたと表する人が現れた
それは誰ですか?
あなた以外の現実世界の人間でこれを理解できてる人はいるのですか? >>224
日本語が読めない人には説明しても無駄。
あれで分からないのなら自分に見切りをつけろw >>223
〉全部、お前の脳内設定。他人が理解できる訳がなかろう。
海部氏も五瀬家も出雲側でも宇佐氏でもそのようになってる
そもそもが、倭国大乱期にあたる事は説明済みであり脳内ではない事は明らか
日本語が読めていないだけの話 >>224
〉この村雲とは天押雲根命ではなく
海部尾張家の村雲の事 物部東征(笑)
やっぱり村雲王wは飛び切りのキチガイだな >>225
わかる人はいない。>>228さんのカキコが一般的な評価になると思うよ。
脳内設定の孤高の史学者やってなさい。
スレチだから、そろそろ皇祖日槍にスレを還してやれよ村雲王さんよw >>228
おいおい、崇神から景行までは物部氏だぞ?
磐余彦や五瀬も同じだ。ウマシマジもな >>229
皇祖日槍w
本当にそう思ってるのか?w >>229
〉わかる人はいない。
少なくとも今の時点ではお前だけだろ >>233
物部氏が入ったことにより高天原が九州に変更になった
そもそもがそんなことをする必要がなかった >>232
本当か?これが理解できる人が他にいるのか?
この脳内設定は、一般相対性理論より難解だぞw
>磐余彦(ウマシマジ)により倒される話が一つの時代にされたことにより
全く理解できません。
>磐余彦が奈良に到着したらいつのまにかそれはウマシマジになっていて、
???
>磐余彦はウマシマジに騙されたと表する人が現れた
それは誰ですか? 血はだいぶ薄まったがヒボコ系の大王は一人いる。
これは中臣家と息長家に対する配慮であろう。
血筋はつながっていないが、仲哀は中臣家。
中臣家はかつては中津臣家といい、女系に出雲が入った事で臣姓になったが、基本は息長家に近いヒボコの家でもう一つの習合相手は卜部氏
後年にまとめられた諡号では取ってつけた様にナカツヒコとネタバレがされている ナカツヒコは、前後で血縁がないから完全な中臣家へのサービスで挿入されただけの存在 >>238
村雲で根を上げてる様ではもう一人の神武にはついて来れんぞww 神社は基本的に日本書紀に出ている様に祭神を変えるとことが求められた。
例えば
ミホススミは✖ ミホツヒメは◯
3人比定される神武は、東征してない村雲
東征した磐余彦
東征してないが息子が東征した崇神
故に、宇佐氏の古伝は、応神を神武の子供とする記紀服属の形式で発表され、書籍化されている。
これは政権が変わったからだよ 村雲以外は記紀の方針に反しないので罰せられる事はなかった 倭国大乱期のことを調べると、wikiでは、外国の戦いはは政権交代があった際に書かれると出ている
根拠や出典は不明だが、古伝を保持している旧家からすると、大陸の歴史書は驚くほど正確に描かれているそうだ 阿波の村雲や、建御名方は記紀の締め付けが弱くなってから
後年になって作られた神社と推測する。 >>243
「海部尾張家の村雲さん」と「天押雲根命の別名である村雲さん」は明らかに別人で時代で言えば天押雲根命は天孫と同世代でこちらの方が古いからね。 このスレで自説を披露してるのは頭のおかしいやつばかり 全員未来で個人情報付きで晒上げられてるから安心しろ >>244
同じ人物の話だろww
wiki見たけど、後付けの天神の系譜を丸々反映してて、高木神の夫が小屋根になってるやつだろ?
関連氏族のところに八井耳系の藤原氏が入ってるだろw
春日大社の小屋根の本殿の位置はど真ん中ではない。明らかにランクが下がる。 コヤネは辰韓の神と考えられ、大陸系の神様。朝鮮半島には秦国系の辰韓があり、ヒボコは辰韓の皇子(長男だった)
千家の先祖のホヒも小屋根が祖神だったが、記紀編纂の際に藤原に差し出した。
故に、出雲の系譜も120数代、皇室もほぼ同じだが、千家だけ88くらいの代になってる。
小屋根との間はツハヤムスビを入れると足りない40台が埋まる。
これは神魂神社の秋上氏の証言
紀元前2世紀には村雲とカゴヤマ(イソタケル)は奈良入りしてる。
それが海部、尾張家
確か、籠神社も、おかしな事に代数を少なく公表しており、千家と同じ80数代になってるはずだよ
ドヤ顔して何を言い出すかと思ったらそんな程度のことかよ
なんかめっちゃ盛り上がってるじゃん ヒボコは、記紀だと垂仁三年になってるがその時代はヒボコの子孫、タジマノモリの景初動乱の時代。
紀元後100年頃に出雲にたどり着いたらしい(向家と神床家の証言)
渡来時期が違うので小屋根が海部の先祖になる事はできない。したがって、村雲の先祖ではない。
いや、垂仁天皇が居た時代って紀元3世紀後半だろ
記紀の年表そのまま信じてるんか?天皇が160歳とかになってんの信じてんの? 春日大社の第一殿は、ミカヅチ。
先代旧事本紀より、村雲と習合した事代主の家、つまり鴨氏の四代目あたりの人物
春日大社は主祭神が出雲系で、記紀服属で、国譲りを再現した神を祀ってる。
コヤネは鎌足の養子入りした先の中臣家の祖人に過ぎない
コヤネのランクが下がるのは当然。藤原が建てたのだから。 >>251
いえ、下記の年表はワカタケル辺りまでは倍暦で誤魔化してますよ。
景初の際に垂仁は朝貢して銀のハンコを貰っています。
九州でのもう一つの名はイクメではなくイサチ。
イサチは魏書に載っていますよ。
イサチ(物部イクメ)とヤシャク(八坂入彦)の名で載っています。
村雲の時代は出雲口伝では紀元前二世紀
単純なワカタケルから倍暦変換すると紀元前140年代
一般の倍暦論では紀元前後が村雲の時代と仮定される事が多い様です
太国さんもこの辺りの時代を主張されてましたね
説明しづらいな
まず押雲と村雲は同一人物だ、物部が滅ぼされて中臣氏が祖先変更しなきゃいけなくなったから別物にしたけどね 垂仁は景初動乱ですから239年でしたっけ?
3世紀ですかね
でニニギもニギハヤヒも同一人物
元々饒速日(天日槍)しかいなかったが、白村江の戦いで敗北し皇統を日本在地に求める必要があったため
ニニギという新しい天孫を作った
だから申し訳ない村雲クン
村雲は饒速日(天日槍)の子孫だよ >>254
守屋の変のことでありますか?
当時中臣は守屋と同じ側だったので、地方に流される側でした。
おそらくですが八井耳系の藤原の先祖であるタテカシマが古くは関東の出雲領域、出雲系のミカヅチの祀られている領域に入り、そのあと卜部氏が鹿島の司祭を担ってた時期に入ります。
中臣家は卜部氏の分家
守屋は死にましたが、長男は田原本町のムラヤニイマスミフツメ神社の社家になり、事代主の娘で、ミナカタの妹であったミホススミを祭ります。
物部が出雲神を祀っています。
次男は母方の諏訪族を頼り、守矢家の第3代に養子入り。80数代を数えます
守屋山の山頂磐座に守屋の遺体の一部を埋めたそう。
守屋の頭部は守屋山なのか、善光寺なのか分からなくなってるそう。
守屋氏は、諏訪においてはミナカタ、やはりここでも出雲系を祀っています。
それがいつのまにか天武期には右大臣藤原、左大臣石上になってるので壬申の乱は面白い動乱でしたな。 >>256
ニニギと饒速日は同一というか、物部の象徴として挿入された架空の人物。
記紀によって圧縮された時代を埋める役割で、同一人物である大彦と長髄彦と似た様な考え方。
先代旧事本紀より、海部尾張の先祖であるホアカリと、物部の先祖の饒速日は同一人物。
日本書紀には古事記の記載を修正して、両者は同一と修正されてるよ
神功皇后期以降、物部氏は圧迫された時代があり、家名を守るためにヒボコの子孫を名乗る物部族が現れた。
神功皇后や、武田宿禰系の蘇我までは冷や飯食いだったと考えられる
ちなみに、景初動乱で滅ぼされた出雲の、神門臣家は、朝鮮半島由来の一族の名に変えて生き延びている
一部に春日家がある。現在でも島根に存続していて、事代主系の富神社の社家も引き継いでる >>257
惜しい、そこだけが違うw
それだと三韓征伐に繋がらないんですよ。
三韓征伐は成務期に起きた四世紀中ごろの話
ヒボコの実家が、統一新羅となり、血筋が部下の国に代わった事により、朝鮮半島での物部とヒボコの検疫を失わぬ様、相続権を盾に皇后が起こした戦い。
物部氏と、海部氏は記紀の編纂時に新しく作られた神である須佐男系。
コヤネとは無関係。
須佐男(ホアカリニギハヤヒ)は、大陸にそれが誰か正体がバレても問題のない様に作られた神で、出雲の母系の実家だよという事にして誤魔化された。
とある先生が昔残した言葉に
記紀最大の演出はスサノオを出雲の舅にすることであったと説いている。
男系の中国に対して、渡来人が幅を利かせてる歴史を書いても舐められるだけだからね。 コヤネは文字通り、息長系のヒボコが男系となり中臣家になったと考えられるが、文字通り、小さな屋根の様な勢力だったみたいだね
権威をいじるのには既存の家系図に自分の先祖を書けば良い
藤原を名乗るのは鎌足と、不比等の系統だけとされたが、結局は言うことを聞かず、藤原を名乗る中臣がいたとの事。
その鎌足は、出雲の母系の事代主の親戚を表すトミを名乗っていた
故に今でも当て字でナカトミの鎌足になっている。
ナカトミは忌部氏と同じく、コヤネを何と尾張氏の上にくっつけた。
スサノオの母親の高木神(タクハチヂヒメ)の夫であるとのちに注釈を加えたのでる
そこに本来は出雲系の忌部氏も乗っかった様で、天神の系図にはついでに忌部氏の祖が出ている。 天神の系図は本来の物部や尾張氏の共通の系図であったと考えられ、天背男(カガセオ)とあるので記紀編纂後に作られた系図と考えられる
ツヌガアラシトが上陸してから約200年後
当時の日本は未だ在地の国津神系神道が支配的だった
そこで仁徳天皇らは自らの支配を正当化するため、自分の祖のツヌガアラシトを彦火明(大国主大神の子ども『参照:播磨国風土記』)であると対外的には言い始める
しかし武烈天皇で断絶、継いだ継体天皇は天皇家の神道(天津神、高天原)と在地の神道(国津神)の融合を図り
祖先である彦火明の名前を
【天照】【国照】彦天火明櫛玉饒速日尊
と改名
こういう経緯があるから、先代旧事本紀には不自然にも(饒速日命が神武天皇の一世代前だから神武天皇の二、三世代前にあたる天火明命と同一神という事は“記紀”を信じるならばありえない)彦火明は饒速日と同一神と書いてあるのだ
これでツヌガアラシト=天日槍=彦火明=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒに決定
その後の倭は百済回復戦争に負けてしまう
すると辰韓から来たニギハヤヒ(天日槍)が皇祖だってのは記紀編纂した天武朝にとって都合が悪くなるわけ
よってニニギノミコトの存在を付け足し、こっちが皇統ですよってことにした
だから、最初から大和に天孫降臨して兄弟で力をあわせず別々に来るという不自然な話になったんだよね
まぁ、村雲は天日槍(ニギハヤヒ)の孫なのでこのスレよりちょっと後の話かな アマテルクニテルってアマテラスオオミカミ関係ある? >>264
村雲がヒボコの子孫なら、海部氏系図に出るでしょ。流石に先祖は違うと思いますよ それと。ヒボコの嫁さんの実家の神床家でもヒボコの渡来は紀元後100j年代。つまり2世紀だからホアカリや饒速日の先祖にはならない
それどころかヒボコの霊廟を守る出石神社の方は記紀服属で新羅の時代の渡来(神功皇后期)に更に後年に押しやられて紹介してるから、更にあり得ないんですよ。
>>267
2世紀より前の記述は殆ど捏造ですよ
>>267
それに火明命や饒速日の先祖なんて書いてないです
同一人物だと>>263で書いてる >>269
〉それに火明命や饒速日の先祖なんて書いてない
あるえ?コヤネはスレ主さんからすると無関係なのですか?
タクハタチヂヒメ(高木神)が、同一人物ホアカリ饒速日の母親で、後々にコヤネが夫として追加されて、天神系譜になってるんですが?
コヤネの子供がヒボコという主張の話ではないかと思っていたのですが? >>268
〉2世紀より前の記述は殆ど捏造ですよ
そう、故に旧家の古伝が重要になってくるわけです。
ヒボコは尾張家、海部氏よりも後の渡来という事なんですよ。ヒボコの義理実家の話ですとですね。 各家の旧家の伝承は自分の家の隆盛をモリモリにする傾向がありますが、唯一の利点は時系列。
欠史が存在しないんですよ、旧家の古伝は
>>270
無関係ですね
コヤネの存在が初めて誕生したのは大化の改新~白村江敗戦後でしょう
皇統を外国人の饒速日(天日槍)と分離させるために作った存在ですから
や、コヤネ誕生は物部が滅ぼされた頃かな
皇統がニニギになったのが百済回復戦争敗北後
もう一度書きます
ツヌガアラシトが上陸してから約200年後
当時の日本は未だ在地の国津神系神道が支配的だった
そこで仁徳天皇らは自らの支配を正当化するため、自分の祖のツヌガアラシトを彦火明(大国主大神の子ども『参照:播磨国風土記』)であると言い始める
しかし武烈天皇で断絶、継いだ継体天皇は天皇家の神道(天津神、高天原)と在地の神道(国津神)の融合を図り
祖先である彦火明の名前を
【天照】【国照】彦天火明櫛玉饒速日尊
と改名
こういう経緯があるから、先代旧事本紀には不自然にも(饒速日命が神武天皇の一世代前だから神武天皇の二、三世代前にあたる天火明命と同一神という事は“記紀”を信じるならばありえない)彦火明は饒速日と同一神と書いてあるのだ
これでツヌガアラシト=天日槍=彦火明=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒに決定
で継体期は物部の最盛期だったから中臣はその恩恵に預かるため祖先を饒速日(天日槍)の子孫であった村雲に変更
しかし物部が滅ぼされ蘇我が興隆
物部の恩恵に預かれなくなり蘇我に睨まれるようになるので祖の村雲を一文字変えて押雲に変更(この時にコヤネ誕生か)
その後の倭は百済回復戦争に負けてしまう
すると辰韓から来たニギハヤヒ(天日槍)が皇祖だってのは記紀編纂した天武朝にとって都合が悪くなるわけ
よってニニギノミコトの存在を付け足し、こっちが皇統ですよってことにした
だから、最初から大和に天孫降臨して兄弟で力をあわせず別々に来るという不自然な話になったんだよね ヒボコの系譜は、大国主と同じで役職名という考え方をしている人達がいる
古事記の序文にある様に大国主は17代まで続き、景初動乱で滅びた。
ヒボコの系譜が詳しく出ているという事で最近購入した但馬古事記本(実際には既知の系譜だった)によればヒボコは系譜上はヒコイマスと同時代に描かれており、本来のタジマノモリの時代から時期がずらされている。
単純に時期を合わせると5代遡るので、ヒボコは人皇4代となり、懿徳から孝昭期になる。
記紀は開始される時期や出来事がいじられているが、系譜は順番通りになってる難解な構造になっている。
人の順番と、大陸の史書のベンチマークから、倍暦で直す必要がある。
紀元後100年代あたりかと。
少なくとも紀元前2世紀の饒速日やホアカリの後の渡来にしかならない。
吾郷清彦著の但馬古事記の収穫は、筆者が出雲大社上官家の先代の富マサオ氏にも取材している事が判明した事。
ヒボコは襲名であった為(伝承により象徴的にヒボコにされ記述される)取り上げられるものにより年代が異なってしまうとの事であった。
マサオさんの代で娘さんが神床家に嫁入りしている関係で、今代の大社旧上官家の人も神床家に取材した上で、ヒボコの渡来を100年代、紀元後二世紀として本を出している。
先代のマサオさんの本は発売日に千家により買い占められ、版権ごと抑えられてしまったので、世の中にはほぼ出回ってない
昭和年代後半から30数年を経てようやく旧上官家の本が出版された。
一読をお勧めする。
タジマノモリの家(神床家)、タジマノモリや物部、宇佐にやられた家(海部尾張、出雲)はまだ存続していて、各家の伝承は内容がほぼ同じですよ。 但馬古事記は伝承の少ない二田物部にも言及されているので面白い。
日本海における二田物部は、家名を守るために三島や越知が名乗った名前と思われ、ほぼ唯一の二田物部神社は弥彦の神を案内し、そこに留まったとされ、現在でも三島郡鎮座である。
大彦(長髄彦)が北陸に流れた際に事代主向家が紹介した豪族は三嶋氏と思われ、長野県の小布施辺りまでは越知神社が重層する。
越知は後年に白山と戸隠信仰になったと考えられ、岐阜と長野にはその両方が重層する。
但馬は元々は出雲の領域(6代オミツヌの代で北九州から新潟まで)になっており、人の住めなかった沼地を水稲田に変える技能があったので、既存の一族と争う事がなく版図を広げる事ができた様である。
その母系の受け皿がおそらく九州佐賀の水稲を持ち込んだ三嶋溝杭の一族
二田物部の三嶋宮司家は記紀の影響をうけず、代数が130代である。80代に減らされていない。 「魏志倭人伝」・「記紀」に罪はない。
悪いのは、好字二字令である。
それによって、後世に多大な誤解を招いた。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 出雲に行って土地を世話してもらおうと考えたヒボコだったが、ちょっとツッパリが抜けておらず態度が悪くて大国主の御癇気に触れて追い出され、船で北上。
但馬の円山川からの上陸も出雲族に追われて敵わず2年ほど船上生活になった。
円山川の河口付近は川幅が狭く川底が浅かったそうである。
そのため、豊岡市付近は広い沼地であった。
そこに舟を浮かべていたそう。
ヒボコは人々を指揮して津居山の端を削り瀬戸の岩を取り除く工事を行なった。
但馬古事記は農業関係の伝承が多く残り、今でも出石神社では絵馬などでも当時の工事の事を説明している。
最初に陸地になったのが出石。
はらかずも三嶋と同じ様に沼地を開拓して自分達の新しい土地を作り出した。
彼らは敵が多かったが地道な開拓で豊岡盆地では広大な肥沃な平野部が出来たので、ヒボコは豊岡盆地の大恩人となっている。
ヒボコは円山川の水害と戦い続け、その地で亡くなった。
故に、出石神社の禁足地はヒボコの墓と現在でも伝わる。 先代の神床家は、自分の家をヒボコに嫁をやった家系で朝鮮半島の血筋ではないと言っていた。
厳密にいうとヒボコの直系なのかどうかという事であるが、今代の上官家の本では直系として登場。記紀服属で情報を再現していたのかどうかは別として、両家に伝わる伝承は以下の通り ・ヒボコは開拓の仕事で忙しく、そのまま出石の館で亡くなった。
・ヒボコは末子相続のために半島から追い出されたが、父親から和人の妻を娶る様指導されていた(古事記の記載では追いかけてきた)
・息子がヒボコを埋葬し、その前に出石神社を建てた
・ヒボコには敵が多かった為、破壊を恐れて禁足地が墓である事は長らく秘密にされてきた。
本家の人間は墓を守ることだけに気を遣っていた(物部五瀬の家とも共通する) 昔は政治と宗教が一体であったので、先住民族を追い払いながらの開拓の時代、ヒボコ一族の祭祀は当初は銅鐸であったそうである。
気比川上流の気比神社があるがそこの大岩から銅鐸が出ている。
その鋳型は賀茂岩倉銅鐸と同じ鋳型であった
3号銅鐸は東奈良遺跡からも出土している。
つまり、ヒボコ族が来る前には既に銅鐸祭祀が始まっていた。
但馬は古くは出雲と海部尾張土地であった。
景初動乱で海部が今の籠神社、ヒコイマスが大丹波エリアのうちの亀岡(稲葉国造エリアに端を発する)に逃げ込む事が出来たのはそういう理由で、出雲に恨みのあったヒボコ族はスサ族と集合した事もあっだのだろうか?後にヒボコは天の天を頂いた。
ヒボコが来る前後は、大屋姫とカゴヤマと名を変える前のイソタケルが出雲を頼って入植した。
その後、海部尾張の王朝初期に、天御陰(記紀の時代操作で物部の役職である大和宿禰と名を変えられた)が豊水富姫と共に但馬に来た。
大和宿禰の子供は、笠水彦、笠津彦だが、モロに地名を表している(本当の名は隠されているのだろう)
笠はウケと読み、丹後風土記に加佐の由来が出ている。
加佐の群は、もと笠の群の字を用い、ウケノコオリと読んだ
つまり大和宿禰か、笠水彦の時代に尾張海部の政権の分家が丹波に来たと考えられる。
舞鶴市の弥加宣(みかげ)神社には海御陰が祀られる。
故に、沼地開拓の関係で、ヒボコは河口に近く、海をかき混ぜる話に
籠神社では海水が遠かったのか、マナイの話になったのであろう。
要は、ヒボコの本質は農耕の神でおり、農家のおっさんなのである。
皇祖とかいう話は大丹波の領域では殆ど伝承されてないと考えられる 先述したが、トヨウケの神は籠神社が仕掛けた祭神としたが、豊岡の土地名や、ウケノコオリから来ているのだろうね。
トヨウケの神はトヨを排出した宇佐氏の月の女神とは無関係の可能性があるね。 >>275
仁徳天皇は武内宿禰系の平群氏だから、ヒボコの威光はなくとも良い一族
父系が開化天皇、母型が大家姫系の紀伊国造家
開化天皇は母方に物部の血があり、要は、海部、尾張、物部、出雲の全ての血を父系に持つ一族。
ヒボコとは無関係
穂積氏、物部氏、天皇家は全員饒速日(天日槍)の子孫
関係ありますよ 「魏志倭人伝」・「記紀」に罪はない。
悪いのは、好字二字令である。
それによって、後世に多大な誤解を招いた。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 >>286
その饒速日とヒボコは時代が違っていて同一人物ではないという意味です。
当事者(向井家、海部家、神床家)の家の伝承でもそうなってるという意味です。 >>286
穂積氏も、物部氏も、天皇家も、饒速日(天日槍)も、
みんな元を正せば「倭人(阿波勢力)」。 @阿波 ヒボコは操作されたコヤネを中心とする偽装の系図、神統譜(天神系)があるから同一説が出るのもわかるけど、阿波忌部はヒボコ以上に無関係
明らかにあの系図に相乗りで書き加えただけ
千家が無関係な野見宿禰を自分の家の子孫として書き加えたのと同じ 天神系譜は、いくつかあるが天背男が乗ってる系譜の大元は神魂命で、物部の神が先に来てその後に背男という順序がおかしな系譜になっている。
その系譜に大麻比古命があり、忌部連の祖になっている。
本来は、臣系の氏族である忌部が、渡来系の連になってる。
もう一つの天神系譜は、高皇産霊尊で、本来は命のはずが尊となっている。
更に天太玉命の子供に宇佐氏豊国のトヨである天細女が来ており、記紀服属の系譜を更に二次使用した様な内容が伺える。
太玉命の次が櫛耳、次が天富命であり、出雲の事代主の系譜が天神の下に付けられているので全体がデタラメである。
富命から、6代後が多良斯富命であり、忌部首の祖になっている
そこにはコヤネは出てこない
最後の天神系譜の天御中主の系図は、千家が差し出した津速魂命が出ていてその三代下にコヤネが来ている。
この系譜のことをスレ主さんは言っているのだろう。
コヤネの下に天押雲あなたが出てきている。
中臣家に養子入りした鎌足が出てくる系図なので、これは八井耳が養子入りした家の系図、中臣家の、系図になる。
鎌足までの間に、息長宿禰系と習合している人物が居たのではと考えられる
一般の系図だと母系と父系を弄れる性質を利用して当たらずとも遠からずの細工をしているはずだ。 中臣御家子の二代前には鎌子の子として伊波礼があり、その孫に稗田阿礼が来ている。
渡来の綾部家から小野家を通じて柿本家に入ったのが綾部人麿=柿本人麿
その人麿が、稗田流の口伝の継承者であった為、日本書紀の下書きをさせるために海部氏の手引きで大和に呼ばれ、記紀編纂の進行が捗ることになった
つまりは天神系譜は創作の色々なお家の事情が反映された特殊な系図になる
ヒボコを論じる系図としては不適な系図になる。 柿本家はワニ氏の系譜であるため、中臣家の系譜に登場するのはおかしなことになる。
家の箔をつけるために、後年に色々操作れた系図としか思えない
口伝と違い。文字化された系図は容易に改変される >>294
いいえ、そうなっても不思議ではないほどにスレ主さんのの知識量はあると思います
明らかに@阿波とはレベルが違うかと まあヒボコはニギハヤヒじゃなく倅のカゴヤマの方なんだけどな >>296
?
通常であればツヌガアラシトは須佐男でしょ。
記紀はスサノオを出雲の女系の先祖にして男系は無関係としたかった様だが、それだけでは不安だったのだろう。
故に牛頭山の話を神功皇后記で書いたと考えられる。
そして、朝鮮半島に降り立ち、こんなところは嫌だと。日本に来たことにして、朝鮮半島に立ち寄っただけなのか分からないようにした。
大陸系と半島系の混同は記紀と神功皇后時代の牛頭以降に起きている。 アメノホアカリ饒速日=須佐男
我が国はアメノホアカリ饒速日の正体がバレても問題ない様にし、更にスサノオを新たに作り出し、大陸出身なのか朝鮮半島出身であるなのか判断がつきづらくした
しかし効果があり過ぎて、武内宿禰系の蘇我氏まで朝鮮半島渡来と勘違いする日本人までが現れる結果になってしまった。
大陸の史書に、一度日本に渡って帰国し、更にもう一度日本に行った伝承を持つ者がいる。
その片方がスサノオだ。
須佐男は記紀以降の新造の神で、それ以前は出雲には存在していなかった。
出雲を滅ぼす手引きをした千家は、その歴史を忘れさせるために、出雲の初代、管八耳の頃にスサノオを持っていき、管八耳の奥さんの稲田姫を娶った形に変えてしまった。
千家果安と、国司忌部は8年ほどかけて記紀の最初の部分を作ったとの事である。 物部の饒速日と、最初に出雲に来た(ヤマト入りしてない)ホアカリは同一人物の渡来人
記紀の関係で出雲と大家姫系の系譜はイソタケルを扱う方針になった様である。
尾張海部はカゴヤマと表現する方向性が強い。
出雲に流れ着いたホアカリは、出雲から姫を娶り土着化するかに思えたが程なくして国譲り事件を引き起こす。
第8代の大穴持と少名彦が同時に暗殺される。
手引きしたのが、先遣隊のホヒと考えられており、それが後々の出雲國か隠された事、野見宿禰の系図を弄って自分の家の子孫に偽装する事に繋がったと考えられる。
渡来した場所は出雲においては石見の後にイソタケル海岸と呼ばれる場所であったとされる。
和名ホアカリと名を変えた人物はイソタケルと部下のホヒを置いて大陸に一度逃げてしまった。
再び我が国に来た際は北九州に行き、出雲の分家の宗方氏に取り入り、二つ目の和名である饒速日と名乗ったそうである。
ホアカリ=饒速日=海幸彦、山幸彦
置いてかれてしまったイソタケルは仕方なく母系の実家で育てられる事になったが、事件が事件だったので、世話は大年教の巫女である大屋姫が行う事になった。
丹後に入植する前に、イソタケルは、名を変えて守られていた時期がある。それが大年彦。
故に、石見のイソタケル神社の南側には今でも御歳神社がある。
丹後でいう今の籠神社の辺りに大屋姫と一緒に移り住んだイソタケルは、そこでカゴヤマと名を変える。カゴヤマのカゴ籠神社のそれであり、今でも奥宮マナイが鎮座する山は名前がカゴヤマとなっている
イソタケル=大年彦=カゴヤマ
つまり、イソタケルやカゴヤマは九州には行っていない。 大陸の渡来の血筋のイソタケルは後に神功皇后記などの記述により牛頭と混同が始まり、大屋姫系統の蘇我氏が、何故か朝鮮渡来と誤解される様になった。
そういう方向性であるから、父親である饒速日やホアカリが、朝鮮のイメージ=ヒボコとして考えられる話はあり得ないことではないのです。
逆にお勉強をすればする程そういう考えに行き着く人が出てくるのではないでしょうか?
また、中臣家だったり、政権を担う豪族の勢力がどちら系であるかによって、政権そのものが百済や新羅系とまで発想が飛躍して論じられる様になったと考えられますが、実際には親戚同士の揉め事に漁夫の利を狙った一族がいたという側面の方が強いと思われます。 出雲とホアカリの関係が奈良に入植して、奈良湖の水田化を、進めたらしいです。(クシヒカタと三島家が開拓を開始し、その後に出雲系を頼り、カゴヤマと大屋姫が奈良入りしたことの事です。
カゴヤマの拠点は当時の奈良湖の地形から遠い場所、高尾張村北部、二上山辺りで、その他の南部に後に笛吹神社(葛城坐火雷神社)が出来ました。
その南は事代主の鴨津波神社(八重波津身から取られた)や、一言主神社
後に、大国主系(タキツヒコ系)の高鴨神社が出来ました。
鴨三社のうち、御年神社は一番最後にできたと思われ、当時の配置でも水田化が進んだ、奈良湖中心寄りに神社があります。
その北西部には、ホアカリの母親の高木神を祀る高木神社。
二度目の来日の際に饒速日は母親を連れてきたらしく、一番新しい神社と考えられます。
高鴨神社北西には武内宿禰系の葛城氏が持ち込んだと思われる高天彦神社がありますのでもしかしたら高木神社は神功皇后期以降かもしれません。
高天彦神社は九州に変更される前の高天原候補地になっていましたので現在でも教育委員会の高天原候補地の、石塔が存在します。
後にやられちゃった側の政権になるのであの辺りには土蜘蛛伝承があります。
最初の入植地の北東は御所市の開拓の中心であったと考えられます。
紀元前3世紀、つまりカゴヤマや出雲が入る前からの水稲遺跡、中西遺跡があります。
御所インターすぐ東の、セブンのあるあたりが越知地籍なので、三島の拠点であったのでしょう。 三島の集合相手が
ヒボコになっているケースは稀と思われ、白髭神社との配置から見てもホアカリがヒボコ勢と判断できる材料は少ないと思われます。
ヒボコが侵攻した播磨と、奈良の神社の比較でも比較的明らかな対比は出来ると思いますよ カゴヤマは後に九州物部となる腹違いの妹ホヤ姫と婚姻します(嫁入りさせる方が下手になるので、手打ちの側面があったのもしれません)
先代旧事本紀にある様に、村雲はそうして生まれました。
銅鐸祭祀文化圏は、出雲とヤマトから始まりました。
九州では早くからシンボルを変更したと考えられています。
九州は銅鐸の鋳型は出るが、銅鐸が殆どでない特殊な地域でした。
数年前に、吉野ヶ里からようやく小さな銅鐸が出ましたが、それは出雲初期の小さな銅鐸に近い形だったと記憶しています。
後のものは銅鏡などに鋳直されたと個人的に考えています。
出雲口伝の継承者は、最初にホアカリが出雲に銅鐸の元になるクヨウの様なものを持ち込んだと伝えいます。
出雲の十の神宝のうちの一つであったらしい
考古学的にも、我が国の青銅器は紀元前三世紀頃に持ち込まれ、程なくして国産化が始まったとされ、口伝と学問が不思議な一致を見せています >>303
反論するにしても本とか読み込んでからにしたら?w 丹後風土記や、後年にまとめられた丹波古事記や、ヒコイマスの、稲葉国造エリアなどの後丹波歴史から行っても、アメノホアカリニギハヤヒはヒボコであると言う判断はできません。
ヒボコもヒコイマス(海部尾張氏)も、やられちゃった側の配置になっていますからね。
元いた拠点に引っ込んでます。 奈良で白髭神社を検索すると、ぜーんぶ中心から外れたど田舎におしやられていますよ。
これはタジマノモリが負けちゃったからです ソースも出せないキチガイが「本を読め」ってすげーギャグだな >>309
少しご紹介しましたが、それ見からにしたら?w
あの私も全部は頭には入っていませんので本屋な見ながら書いてたりしますがね
人の発言が妄想でなければ困る特殊なご事情でもあるんですか?ww
自分で調べましょうね?妄想を押し付ける前にw 奈良と九州の勢力が同じヒボコであるのなら、両方の祖神であるヒボコ関係の神社は、子孫同士の間に争いがあっても無くならない。
祭神が土地からいなくなることはない。 巻向(太田)和邇などの都に一番近い白髭神社は、タジマノモリに因んだと思われる奈良の但馬駅近く
昔の文章にある様にあのあたりは三宅と言われ、ヒボコ勢が三宅連になったと書かれている事に一致する。
そして隣の田原本町は物部守屋の長男が今でも宮司をやる村屋坐彌冨都比賣神社(大神神社別宮)がある。
昔は名前を変えて遠くに行くと許す習慣があった。
村屋神社は、現在では守屋姓になってる。
諏訪の守屋家も同じなのだろう。
秋田物部の様に、物部姓を名乗ることは稀だった
少なくとも但馬や田原本町のあの辺りまではそういう境界エリアだったと考えられる。
あそこより都に近い白髭神社はない。
あ、ガチで確定したわ、饒速日命=天日槍
法庭神社の記録
「旧記によると、饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。」
天日槍命に関する但馬の伝承
「日槍は但馬国に船をつけると、そこに落ち着くことになった。日槍は土地の娘と結婚して、子孫も栄えていた。ところがその当時の豊岡や出石盆地のあたりは、一面が泥の海だったので、とても生活しにくい土地であった。そこで日槍は五社大明神の神々と力を合わせて、この地を開拓しようと考えた。
まずは、来日岳の下流を切り開くことになった。そこは固くて大きな岩がさえぎっているため、水がせき止まって瀬戸になっていたのである。みんなで力を合わせて横たわっている大岩をとりのぞくと、泥水がすさまじい音をたてて日本海へと流れ出し、やがて水の引いたあとには、肥えた広々とした平野が少しずつ広がっていった。日槍も神々も大喜びであった。」 >>313
この唐突な空気感
さすがスレ主さんww
・ニギハヤヒが降臨した時に持って来た持ち物[十種神宝:現存せず]
《鏡》
沖津鏡
辺津鏡
《剣》
八握剣
《勾玉》
生玉
死返玉
足玉
道返玉
《比礼(スカーフみたいなもん)》
蛇比礼
蜂比礼
品物之比礼
・天日槍が半島から持ってきた物
[古事記の記述より]
《鏡》
奥津鏡
辺津鏡
《勾玉》
珠 2貫
《比礼》
浪振ル比礼
浪切ル比礼
風振ル比礼
風切ル比礼
・天日槍が半島から持ってきた物
[日本書紀の記述より]
《鏡》
日鏡
《剣》
出石小刀
出石桙
《勾玉》
羽太玉
足高玉
《社》
熊神籬
・ニニギが天照から貰ったもの(三種の神器+α)
《鏡》
八咫鏡
《剣》
草薙剣
《勾玉》
八尺瓊勾玉
《社》
天津神籬 来年度から認可される中学歴史教科書では
日本神話から始まり天皇を軸にした歴史教育が再開されるから
必死だな
>>320
これまじ?ソース教えてくれ >>319
いや、ちょっとした細工でヒボコになる。 奥津鏡と辺津鏡持ってきたのってニギハヤヒノミコトとヒボコだけ?なら確かに同一人物の線も否めないナ 倭国大乱期の初端を開いたのがヒボコ族
出雲系の領域の鉄の産出地を狙いに定めて侵攻した。
戦乱に明け暮れていた小国の乱立する朝鮮半島出身のヒボコ族は巧みな戦術を受け継いでいたので、出雲族を圧倒した。
それが領土欲を刺激し、ヤマトのフトニがヒボコ族に戦いを挑む
実は神床家には伝承があり、本来は物部氏と共闘してヤマトを挟み撃ちにする計画だったとされる
結果、物部氏は動かず、単独行動になってしまったヒボコ族は、先に述べた様に丹後に地盤のあった尾張、海部氏のと間で挟み撃ちになり破れる。
一部は淡路島に、一部は琵琶湖方面の坂田に(白髭神社あり)、さらにもう一つは、九州の糸島半島に逃げ込んだ
伊都の語源はもしかしたらヒボコ族に縁があるのかもしれない
フトニが播磨に構ってるうちに別の親族がヤマトで造反。太田太根彦の熊野系物部氏を奈良に引き入るまで戦乱は続いた。
景初はそれから50年ほど後の話になる。
卑弥呼は二人いる。時系列的に戦乱を収めた卑弥呼と、亡くなったトヨの卑弥呼は別人
亡くなった卑弥呼にできないのが戦乱を50年前に収めるという行為 籠神社の鏡は、銅鐸祭祀だったヤマト出雲関係からすると物部色が強い品物であり、古くに神社に来たのかどうか分からない >>324
でも実物があるのって籠神社だけだった気がする アマテラスに関してはよく分からない。
奈良の古い神社のアマテル神社は全てが男神。
出雲の三輪山の太陽の女神に対して、物部は道教の関係から北極星(北斗七星?)=カガセオ
そして宇佐氏の豊国は隠された月の女神
物部のアマテルがいつ太陽を帯びたのか、実は不明なのである。
基本的にはアマテル信仰と三輪山の太陽の女神が集合して女神アマテラスになった
太陽の女神が伊勢に落ち着くまで元伊勢がいくつか出来ることになった。
三輪山には太陽の女神と、事代主が祀られていたが、女神が持ち出されたことにより、男神の山になった。
後に大物主と名を変えられた。
三輪山祭祀の中心だった太田氏本家は、現在では墨坂神社の社家になっている。
景初動乱の際には、三輪山西方の檜原神社にトヨが月神を祭り、太陽のオオヒルメムチに対してワカヒルメムチと呼ばれたそうである。
三輪山には太陽と月の信仰が同時に存在していた時期がある。
トヨは豊鋤入姫と名を変えられた >>324
まあ100%妄想の村雲王(笑)よりはちゃんと根拠を示せるだけ>>1の方がだいぶマシだな >>329
お前が一番役に立ってないだろw
そもそも村雲の話は籠神社の話だ
お前の願望など、塵芥に等しい
私も村雲さんと同じで饒速日と火明は同一人物だと思ってますよ
てかそれはもう常識でしょう
まず旧事に同一神だと書いてありますね?それだけじゃない
籠神社。神宝は火明から受け継いだ息津鏡(おきつかがみ)と辺津鏡(へつかがみ)。
そして饒速日が天照大神から渡された鏡の名前は、というと嬴都鏡(おきつかがみ)と辺津鏡(へつかがみ)。
また天日槍が持ってきた鏡の名前も...
奥津鏡・辺津鏡
つまり火明=ニギハヤヒ=ヒボコ
皇祖とされるニニギは多分百済回復戦争後頃に捏造した存在だから
ヒボコ=ニギハヤヒ=火明=ニニギ 626年6月ヤマトの大豪族、石川臣麻古が病に没する。
麻古は日本書紀に蘇我馬子と書かれた人物であった。彼の死因は暗殺ではなかった。石川臣麻古の父親である稲目は欽明大君に嫁がせた二人の娘からは穴穂部皇子や初瀬部皇子が生まれていた。
626年に麻古が病に伏した際に彼の回復を祈念して1000人もの人間が出家した。(仏教)
それを見た息長家の田村王は戦慄したとされる。
石川家が推していたのは、かみつ宮法王(聖徳太子)の子、山背王であり、次期大君候補として圧倒的優位に立っていた。
田村王は手を結んでいた中臣家の御食子を使って暗闘を展開する。神道派の中臣家からしても蘇我家は邪魔な存在であった。
その頃には既に忌部はが中臣家に抑えこまれていた時代。
そして仏教を好んだと言われる継体大君時代にで力をつけた北陸の三国国造家と宗家の石川臣家の、連合との争いが記紀編纂の際の下地になった。 田村王の兄弟である茅淳王の娘であるタカラ姫は石川臣武蔵に嫁いでおり、大海人皇子を産んでいた。
田村王に姪のタカラ姫を嫁がせれば石川家の力は削がれ、息長家の結束は強くなる。
中臣家は、ヒボコの系譜の息長に近い系図とも言われ、親戚だった様である。
御食子の計略で石川臣武蔵とタカラ姫は離縁となり、628年には舒明大君が即位した。
依然、山瀬王の人気は衰えず、前大君が生前に山背を大兄に指名していた事もあり、麻古の弟、境部摩理勢は大君に逆らって彼こそが後継者との主張を曲げなかった事で誅殺
ただ一人残った石川臣雄正(蘇我蝦夷)は641年に、葛城皇子と、御食子の養子である鎌子(鎌足)に豊浦の邸宅で暗殺され、蘇我宗家とも言われた石川臣家はあっけなく滅びた。
舒明大君がタカラ姫に生ませた子、葛城皇子は、中大兄となった。
記紀においては最後に山背王は、石川臣林太郎(蘇我入鹿)の仕業に見せかけ、乙巳の変は幕を閉じる。
しかし、山瀬王と、彼の異母兄弟であり、上宮法王の皇子である日置王は出雲に流れ、木築大社上官家により匿われ、血筋が続くことになった。
大海人皇子は、中大兄皇子の異父兄弟であった。
日置臣家は、後に家名を守るため、朝鮮渡来の系図を新たに作り、誤魔化した。
日置氏には二つの系図があり、片方は祇園社執行家の系図であり、高麗系譜になっている。
記紀の話をすると、海部氏に育てられていた大海人皇子の乳母が、綾部家の人麿の母親であった。
そして稗田流口伝を継承した母親から、人麿が海部氏を通じて、ワニの家系の柿本家に養子入りした事から古事記に繋がる。 中臣家、藤原家が記紀編纂際にヒボコ系の息長家に配慮しなければならなかったのは当然のことである。
のちの諡号に息長の名前が入る。
舒明はオキナガタラシ云々
皇極にはタカラ姫とタラシヒメの名前が入る
斉明もタラシヒメが諡号に入ったかと
日置臣家と同じく、物部氏も圧迫された時代に、勢力が強かった一族の子孫であると発言し、家名を守る様な風潮が生まれた
物部氏はヒボコの子孫、新羅系を名乗り、家名を守った時期がある。
皇室ヒボコ論の出現はやむなしの側面もあるが、基本有り得ない。
西出雲神門臣家の主要三家も朝鮮系を名乗り、家名を守った。
東出雲の冨家は、向家と何度も名を変えた。
我が国では生まれで身分が決まると言っても過言ではない世の中で有り。新撰姓氏録や尊卑分脈など、血筋が徹底管理されてきた経緯がある。
基本的に渡来最高位が連、母型出雲の王家との婚姻を表すのが臣。
後年に朝臣とかの位ができて形骸化するまでは臣連制であった。
ヒボコの実家の神床家は、旧糸井造家で有り、連の下位である。 日置王は、出雲の大社町に日御崎神社を建てた。
あの神社は出雲大社より古い神社である。
ふむ >>336
物部総本家の五瀬子孫の竈山神社の社宝は、ヒボコの鏡と言って、大事な鏡4枚のうちの一つであったと記憶しています。 >>336
ヒボコの分家の息長系の大王も存在しますので、中臣家(中津臣家)由来のナカツヒコ(仲哀)が血縁関係もなく系譜に登場するのには舒明大君(息長家)と、中臣家(鎌足の養子先の党首)が、関係しています。
不比等は、左大臣の石上にも気を配る必要があったので、色々調整には苦慮したのではないでしょうか? ヒボコ系は確実に系譜に入っていますが、連続性という考え方からは、現在の皇室は臣系の、蘇我王朝とも言えるでしょう。
曽我を朝鮮渡来と誤解する人も居ますので、そういう話が出るのは全く不自然なことでは有りません。
DNA的には継体天皇は、出雲上官家から養子入りした人物なので、男系が出雲系とも言えると思います。
物部の男系は継体の代で途切れました。 >>336
御免なさい、嘘描いちゃいました。
ヒボコの鏡は珍彦の系図である日前神宮・國懸神宮の社宝でした。
竈山神社のしそれでは有りませんでした。訂正します。
ちょっと本読み込んできます 訂正です。
日矛の鏡はやはり五瀬家の社宝であっていました。
彦五瀬と戦っていたタカクラジの子孫の珍彦は、日前神宮を建てました
そしてその横に国懸神宮を五瀬家が建てました。
故事に習い、八咫鏡の前身の二枚の鏡が 日像鏡・日矛鏡の鏡になります。
物部総本家の橋本家は日矛の鏡を祀っています 記紀の製作者は、不比等の父親と中臣家の行ったクーデターを隠し、正当化する事を強要されました。
継体天皇の蘇我系の大王の歴史を消す事は万世一系の方針にもあいます
不比等は石川家の存在を隠し、横暴な豪族、馬子・蝦夷・入鹿として蘇我臣石川から古くに分家していて半ば別の家であるのに強引に蘇我家に書き換えさせました。
流石に大王家であるので形を変えて名前を残す必要を感じたらしいです。
血みどろの戦いを蘇我入鹿の行いに見せかけ、その入鹿を中大兄王と父、藤原鎌足が成敗するという英雄譚に、不比等は見事、歴史を書き換えたのです。
石川林太郎=入鹿は殺されていませんでした。
山背大兄は出雲に流れ出雲郡健部郷の丘に隠れ住みました。
大兄はその丘の東に三井寺を造り修行し、その北方には一緒に来た三輪氏が大神神社を建てて住み、山背大兄一家を守った、と云うことです。
それで出雲に伝承が上官家に残ることになりました。
____________
643年の11月11日、書紀によると蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させたとあります。
「石川臣派の三輪君は、山背王に『東国に逃がれ、兵を集めれば、大和国を攻め奪うことが出来る』と戦いを勧めたが、山背王は『戦えば、勝てるやも知れぬが、己一人の利益のために、万人を戦に巻き込むことになる。わが身を捨て、国を安定させることこそ、人の道ならずや』と言って斑鳩寺に入り、一族共々自害した。その時、空は五色に輝き、後に黒雲に変わった」と記しています。 現在の皇室が蘇我系と言うのは本当は少し違っていて、天武天皇が石川武蔵の子であったため、竹内宿禰系の子孫の系譜の一部、石川家が大王になったと言うのが実際の認識です。
いきなり石川家を書いても無理だと思ったのでそう書きました。 天皇呼称が始まった天武天皇だけを切り取ると、万世一系で男系のつながりのない天智天皇が、息長家(女系ヒボコでもどうにでも誤魔化せる)の子供なのであっという間に皇祖ヒボコの出来上がりです
ほんのちょっとの細工でそうなります
あんまり意味のない考え方かもしれませんね まあ、結局天武天皇になって元通りになるんですがね。 真正武内文書だと、彦五瀬の兄弟である四男は佐野命となっていますね。
空が磐余彦となった様です。
物部本家の伝承でも公開してない情報が武内文書にあったとは驚きです。
磐余彦が熊野古道らしき所を通った場所が、途中で歌う和歌や豪族の名前になっています。
磐余に入る前にクジラが出てしますが現在でも櫛羅地籍が残っているんですよね 魏書東夷伝で他国は国なのに
倭だけ倭国伝じゃなくて倭人伝なんだよね
東夷伝の他国の内容と信憑性はどうなってんの? >>350
>>350
完伝ですと、逆に国がないのが朝鮮半島と言うことになっていますね。
属国化が進んでいたと思われ、大陸の役職が当てはめられています。
逆に王様の金のハンコとか出てくるのが我が国になってると記憶しています
我が国は大陸で相当する役職がなかったとされ、序列でのみ語っている部分があったと思います 物部氏である彦五瀬家の四男(神武)は、南九州では佐野命であるという伝承があり、武内文書でもそうなってる。
彼のいたとされるのが日向の西都原の近く
和歌山の五瀬家は佐野命の事は公開していない
記紀は、この四男が誰だったのか分からなかったか、隠す必要があると考えたと思われる
2回目の東征の際、武内宿禰の腹違いの弟であるウマシウチ(後に額田宿禰と改名)が生駒超えのルートを通った事を利用してウマシマジになったと言う説がある
記紀と合わせると
佐野命→磐余に辿り着いて磐余彦→いつのまにかウマシマジ
太田太根彦の熊野案内の際には物部氏は瀬戸内海を通過してない。これは吉備国で瀬戸内海が分断されていたから(平型銅剣エリアを避けて通った) 着眼点は悪くない
親百済の王朝が書いた史書で新羅人がそこらの神より崇高な名前をつけられ尊ばれる
ヒボコはちょと異常な存在だわな
結論から言うとヒボコ=スサノオだよ >>353
出雲大社にはヒボコがいない
故にそれはない
ヒボコと須佐男が習合したのは吉備や丹波地方かと 丹後地方に土着化したヒボコであるが、後年の東漢氏との協力で生活は安定したと伝わる。
少し脇道に逸れる
倭漢(東漢)(やまとのあや)氏の祖は応神大王の時代(3〜4世紀初頭?)に百済(安羅国)から渡来した阿智使主(あちのおみ)の後裔で、檜隈(ひのくま)に住み着いた技術者集団の名称と言われる。
使主は後世の臣(おみ)で、檜隈は明日香村の西部になる丘陵地帯で、北を高松塚古墳・文武天皇陵、南をキトラ古墳にするあたりの地区になる。
単一部族ではなく、血縁もばらばらで、移住者たちが祖先の伝承をもとにまとまっていった多部族の集合体だったらしい。
阿智使主を祀るのが於美阿志(おみあし)神社で、東漢氏が氏寺として建てた檜隈寺の跡地にある。於美阿志の名称の由来は不明だが、「使主阿智」が訛化した音に文字を当てたものではないかと思われる。
彼らが同族であったかどうかも不明な点が多いが、後漢の霊帝の子孫とするのは漢の文字から彼らがのちに作った伝説であろう。
これが、蘇我、物部など各派に分かれて勢力を構成していた。
居住地域と趨勢からすると西漢氏は物部氏派(つまり中臣家もこちら陣営になるだろう)で倭漢氏が蘇我氏側だったと考えられ、倭漢氏が渡来以来、蘇我宗家に直接に従って技術と軍事の両面で支えた大集団だったことはまちがいなく、宗家(石川家)滅亡後も後世まで漢氏の大勢は倭漢氏が占めていた。
東漢直の姓は東漢掬(5世紀後半)が賜ったもので、下に記す東漢直駒のあとで宗家が一時的に衰退したあとは分家の坂上氏が宗家を受け継いだと考えられています。また、坂上氏の祖になる坂上直駒子が東漢駒だったとも思われる。 そして、「天武紀」六年(677年)六月、天皇が東漢直たちに対して、「汝等(なんじら)党族は今までに七つの悪逆を犯している。小墾田の御世(推古大王の時代)から近江朝まで常に汝等が謀(はか)り事を為してきた。朕の世に当たり罪に処そうと思ったが、漢直の血筋を絶やさないために、大恩を下す。以後罪を犯す者は赦(ゆる)さない」と勅したことを記している。
彼の考え方は大陸系と半島系を明確に区別している様に思えます。
それと、近江朝を田村王と、先述した聖徳太子の話と絡めると、中臣家、物部家を暗に敵視しているという視点になります。
ヒボコとスサノオが同じだという事であればこの様な事は起きないと考えられます。
因みに、柿本人麻呂は、祖母が幼少の時の乳母であった関係で、天武の落とし子であると伝わります。
東漢氏の一部である綾部家はまったく手心を加えられた形跡はありません。
むしろ冷淡に扱われたと考えられます。
むむ、気多神は欠史八代の時代に来た異国の王子の事である。と気多社島廻縁起に記されているのか
これ天日槍の可能性なくもないな
マークしておこう
天武天皇が始めた大嘗祭
最初期は天日槍と深い関係がある播磨、丹波、但馬、を斎田に選ぶケースが異様に多いな
https://i.imgur.com/sda5s2D.jpg >>357
気多系統はバッチリど真ん中でヒボコや神功皇后だと思います。 >>358
宮中祭祀に半島系「らしき」ものがあるのは通説ですが
実態は誰にもわかりません。
半島には神社はないし、そもそも朝鮮王朝は滅んで日本に帰化しているから確かめようがない
そう言われているだけでみんな納得している >>358
大陸由来という説もありますね
https://www.sankei.com/article/20220204-W3PY2GKC2ZMJPNLFIUXHUFGAU4/
ただ、内容的には出雲的な色彩もあるとの説もありますね。
あと、我が国の宮中祭祀ですが、高麗なのか神羅なのか、そういう点も見逃せません >>358
多いというよりは。ほぼそれですよねww >>363
逆に渡来人が来てないという方が妄想
狛犬だって大陸から来るでしょ?
普通に神事に大陸や半島の習慣は取り入れられている 狛犬なんてずっと後の時代の文化じゃん
糞味噌一緒にするのは半島のお家芸か 邪馬台国のために捏造するならなんで親魏倭王印じゃなくて漢委奴国王印なんか作ったんだ?国も時代も違うのに >>366
狛犬と渡来人が同時期に来たとかいう思い込みを押し付ける異常な返答ww
脊髄反射まで思い込みとはww
まるで半島気質そのものだなw 日本書紀の系図が発見される可能性ってゼロなの?
これがあれば欠史八代を始め初期の天皇や継体天皇の皇位継承の経緯が明確になるのに
天皇家の系図なのに写本すら一切伝わってないのは逆に違和感を感じる
本巻はなんだかんだと伝わってきたのに何で系図だけ丸々散逸するんだ >>369
別時期なら狛犬と渡来人には何の関係も無く
>>364はただの詐術だということになるわけだが
自分で自分を否定する馬鹿wまさしく朝鮮人w >>371
言われたら言い返さずにはおれないその気質
正に朝鮮人ww
自分と向き合いましょうね?子供じゃないんだから 魏志倭人伝の華奴蘇奴国が華奴蘇支(かぬさき)の誤記で、神埼(吉野ヶ里)なのではないか
對蘇国(とさ)、蘇奴国(さぬ=さぬき)などの読みとも合うし >>372
論破されたら自己紹介を始めるのも朝鮮人そのものだぞお前
そんなに力いっぱい自己紹介しなくてもお前が朝鮮人だとお前以外は全員もう分かってるからw >>374
お前は日本語がおかしい
伊都チョンや阿波レベルの異常さ。
〉狛犬なんてずっと後の時代の文化じゃん
糞味噌一緒にするのは半島のお家芸か
に対し
〉狛犬と渡来人が同時期に来たとかいう思い込みを押し付ける異常な返答ww
と返したら
〉別時期なら狛犬と渡来人には何の関係も無く
>>364はただの詐術だということになるわけだが
と、正に意味不明の返答ww
自分の中でだけわかってるファンタジーww
これで日本人なら目も当てられないなw
朝鮮人なんて何度も渡来してるわけだが、こっちが言い出した狛犬に対し、お前のその意味不明な裏付けもない前提の会話でどんどん論点がずれていくww
正にクリンチの朝鮮会話ww
日常生活でもその異常さは発揮され、周りの人間ももはや気の毒すぎて誰も突っ込まないパターンw
何か新しい発見はありましたか
みなさん >>375
バカ「宮中祭祀は朝鮮由来!渡来人!」
俺「朝鮮人の妄想やめろ」
バカ「狛犬だってあるだろ!渡来人なんだよ!」
俺「狛犬はもっと後の時代だろ朝鮮人」
バカ「狛犬と渡来人が同時期に来たとかいう思い込みを押し付けるな!」
俺「狛犬と関係無いなら何で言い出したんだよキチガイ」
バカ「お前は日本語がおかしいー」
日本語が不自由なのは誰がどう見てもお前
やっぱり>>372は自己紹介だったなw >>376
>>372がお前のことを嘲笑してるぞw
ブーメランw >>377
>>364が一人で大恥をかいただけで特に何も >>380
それ全部俺だけどww
願望を押し付けるようになったら手遅れだなww >>382
村雲が神武であることは籠神社も出雲大社上官家も指摘してること
お前の知識が乏しいだけww
多氏や藤原の八イ耳系が纏めた歴史書なんだから当然
物部の佐野命=磐余彦が神武な訳ねーだろww ヒボコ=須佐男は傑作の思い込みだな
師升=須佐男と同じくらいのアホさ加減
須佐男は記紀編纂の際にに作られた新造の神で、須佐男が出てくる書物は全て記紀成立後の服属記述
出雲の歴史を消すために出雲初代の須賀八耳の時代に遡らせた、紀元前3世紀の渡来者、ホアカリ饒速日の投影
故に、八耳の奥さんである稲田姫の夫になってる
出雲の滅びを招き入れた千家の蛮行を隠すために、千家果安と、国司として赴任していた忌部子人が作り出した神
八井耳の耳は、出雲母系尊重でつけられたもの
実は出雲風土記の本物は破棄され、杵築大社上官家に見せるために約12年後くらいに作られた私製の風土記
故に破却を免れて現存している。そもそもがあれは風土記ではなかったからね。
因みに杵築大社の住所は記紀成立と重なる時期で、当初は雇われ神主であった千家の立場は非常に弱く、資材と土地を提供した神戸家や、資金の大半を負担した富家に逆らえなかった。
故に途中で社の位置が変わり、日本書紀と古事記で場所が変わってしまった。
木築大社は天孫が作ったものではなく、出雲側が自分達で作った神社なんだよ 出雲大社の真裏の須佐神社だが、元々は富家から北陸蘇我に養子入りした次男の太彦(後の継体)を顕彰するための神社で、須佐男はまったく関係なかった神社
本来の名前は素鵞社
禁足地である真裏の八雲山に触れることのできる唯一の神聖な場所
大国主神隠れの窟は猪目洞窟ではなく、脳磯の洞窟であるとの話があり、実際には存在しない鵜鷺峠に存在すると書かれているが、遺体が発見された場所から近くの磐座に最初に葬られたらしい
そこは鵜峠と鷺浦の行政界の境目の近くで、御陵神社とも言われている。
そこから御霊は三刀屋神社で祀られたが最終的に杵築大社が作られた際に、八雲山に遺骨が移されたとある。 須佐男がヒボコであるのなら杵築大社にヒボコが居る筈なのだがそのような事実は存在しない
ヒボコは明治維新の際に、朝鮮系の神が圧迫された時代にほぼ全て書き換えられている
田舎の白髭神社はミナカタ
ちょっと都会の白髭神社は猿田彦とウズメに
故に、タイマノケハヤに変えられたタジマノモリの相撲神社の近くの穴師坐兵頭神社にはヒボコが居ない
現在ではウズメに変えられている。
今じゃ表立ってヒボコを祀ってるのは出石神社くらいの物だと思う 大国主=八千矛の最初の埋葬地の磐座である御陵神社だが、近くの川は今でも形を変えて八千代(八千予)川となっているよ 脳磯の洞窟はかつては鵜峠と鷺浦の境から参道が続いていたと思われるが波の侵食で最後の岩場の階段が削られてしまい、今では鷺浦マリーナかからの道なき陸路か、船を出してもらわなければ現在では辿り着くことは出来ない
空から見るとわかりやすいが洞窟の手前の巨岩がまるで脳の様な形をしている しっかし、久々に見たよ論破王ww
今時論破とか抜かす様なアホがまだ痛んだなw >>357
出雲の伝承でも紀元前100年代(正確な年代は分からないらしい)に渡来したとありますので、150年代の伝承はかなり正確なんじゃないでしょうか? ただ、150年代になるとクニオシヒトの辺りになるので皇祖にはなれませんが。
最初の東征、佐野命=磐余彦を神武とするのなら物部ですから更に整合しない。
磐余彦を神武とすると欠史八代が生まれる事になるので矛盾は解消されない
紀元後100年代初頭が辰韓のヒボコの時代かと >>383
ブーメランの意味もわからないバカw
皮肉って分かってるか?w >>382
まあ結局日本語が不自由な村雲王クンが見事に大恥をかいただけだったな しかしウリナラ起源を主張している朝鮮人がそれを否定している俺を朝鮮人呼ばわりするとか頭おかしいにも程がある
論理的思考力がゼロの人間って存在するんだな
道理で村雲が神武とか得体の知れない妄想を始めるわけだわ
有りもしない伝承をデッチ上げられた籠神社やら出雲大社上官家やらもいい迷惑だな 論破王ww
もう恥の上塗りはやめたらいいのにww
村雲が神武であることは、籠神社も出雲側もそう言ってる訳なのだが、そもそも既に上官家は本を出してる
その本の内容を書き込んだるだけ
調べもしないで自分の願望を押し付けてると何度も何度も言ってる訳だが、まだ日本語が不自由で意味を理解できないらしい
最終的に上官家を持ち出して、さも自分側のサイドであるかのような願望を押し付けるww
お前マジでヤバいぞ?ww
前にも言ったけど、お前が一番役立たずで法螺吹きなんだよww そもそも論破とか言いながら論破の意味すら分かってなくて使ってる可能性があるなw
次は何するニダ?上官家を法螺吹きとか言い始めるか?wお?ww 論破王の面白いところは、日本人でありながら、思考そのものが半島だよ、気の毒だね、と指摘されてるのにそれすら理解できないところw
周りの人間も相当苦労してるわなw >>397
恥はお前しかかいてないから心配しなくていいぞw
>村雲が神武であることは、籠神社も出雲側もそう言ってる訳なのだが、そもそも既に上官家は本を出してる
お前の脳内世界にしかない妄想を書き込まれてもw キチガイ「宮中祭祀はウリナラ起源ニダ!否定する奴は朝鮮人ニダ!」
流石にここまでの狂人は見たことなかったw
そりゃ村雲が神武とか狂ったことを言い出すわなw 籠神社は天村雲命は海部の三代目だと言っている
もちろん神武だなんて言ってないw
キチガイの嘘はすぐにバレるw
https://www.motoise.jp/about/okunomiya/
この水は籠神社海部家三代目の天村雲命が神々が使われる「天の眞名井の水」を黄金の鉢に入れ、天上より持ち降った御神水です。
天村雲命はその水を初めに日向の高千穂の井戸に遷し、次に当社奥宮の眞名井原の地にある井戸に遷しました。 皇孫ニニギの道を通らなかったことで別名を授かった村雲がニニギの曾孫の神武なわけねーだろw
本当に村雲王(笑)はキチガイにも程がある
https://genbu.net/saijin/amanomurakumo.htm
皇孫は天牟羅雲命にどの道を上って行ったのかお聞きになり、 天牟羅雲命は、大橋は皇孫の道なので、私は後の小橋を上りましたと答えた。
皇孫は天牟羅雲命に天二上命(あめのふたのぼりのみこと)、後小橋命と二つの別名を授けた。 【真実】半島南部にあった「ミアヤマ国」 そう、日本最古の神社の神体「ミワヤマ」とはここが由来だったのだ。。。 [237216734]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1660415644/ 神っていうのは、
運動会でも、教室でも、家庭でも、降りてるのな
高級神は、そりゃ皇居とかワールドメイトとかにしか降りないぞ? >>400
よっ朝鮮人、お盆は母国に帰ったか?
相変わらず日本語が異常な狂人だなww
物象があるかどうかの議論の反証は
その本の名前とか存在不存在の話になるだろ
本当に異常だなww
楽しいおもちゃを見つけた気分だ。
存分にその狂気を撒き散らすがいい >>402
ドヤ顔で籠神社のページかよww
このお盆で行ってきたんだけど、あそこの本来の祭神すら分からない程度の知識量でドヤ顔されてもなw
あの神社と出雲大神宮の宮司の対談の内容くらい把握してから出直してこい
レベルが低くて話にならない 要は、村雲が系譜上の神武なんだけど、神武という呼称の方が架空なんだよ
邪馬台国がゴッソリ抜けてるんだからそれくらい気づけ
なんどもなーんども説明して書き込んでるのに分からないんだろ?恥ずかしいという認識のない朝鮮人そのものじゃん
ま、右翼にも朝鮮人いるからそれこそお前は両方に朝鮮人入ってるんだろ?
川流れのドキュンレベルで笑えるわ
圧縮の結果、村雲、ウマシマジ、物部イニエが合わさって架空の神武になったけど、系図の並びは誤魔化してない
だから村雲が神武になるんだよ
それは記紀成立後に丹後国庁に提出した系図と極秘の系図を合わせたらわかる様に籠神社が作ったんだよ
系図の説明すらお前頭に入れて理解して書き込んでないだろ
クズっぷりには乾いた笑いしか出てこないなww 人間に知覚できる神などいない
記紀にもそんなものは出てきていない ちなみにニニギも前三世紀から2世紀にかけての饒速日の投影で架空の存在
九州から東征してるのに物部の名前のやつがヤマトにいる訳ねーだろ
アホなのかこいつw 論破王はこの乏しい知識量でよく今まで精神の平衡を保てたよな
それはそれで凄く笑える 籠神社の家は本来の村雲から、ヒコイマスまでの物部にやられちゃってる欠史8代を含む家系なんだよ
村雲の次の大和宿禰に変えられた天御影の家が海部家
だから出雲大神宮は、元々は出雲の神社ではなく、ヒコイマス系の神社。だから亀岡にあるし、後ろの山は今でも御影山になってる。
あの神社が元出雲と言われてるのは、出雲より古いとかいう意味ではない。(論破王には教えない)
籠神社と出雲大神宮は基本は遠い親戚の神社。
大神宮の宮司家がずーっと同じかは不明だけどね
トヨウケという名称は籠神社が作った名称でこの神を出雲系の島子に依頼して下宮に収めさせたんだよ
ヒボコの地盤、豊岡盆地と御影の次のウケミズヒコの受けは元々笠の字が当てられていた
丹後風土記からもわかる様に、ウケノコオリから来ている
トヨウケの語源はそれ。
故に籠神社は、内宮と下宮の両方の元宮を名乗れるわけだ
論破王は記紀の説明しかできないアホだから、そんな程度の話ならイラねーんだよ
わざわざ書きに来るな 村雲に嫁を出して大王就任の祝いとして出雲族が贈ったのが叢雲の剣(銅剣)
それは村雲の実家の尾張氏が管理することになった。
記紀にもあるように三代続けて出雲から嫁さん貰ったら出雲の勢力が強くなってしまい、尾張家は3代目大王のシキツヒコのあたりから剣を渡さなくなってしまった
それ故、大王家が作ったのが勾玉
勾玉は出雲じゃなく、大王家のシンボル
物部のシンボルは銅鏡
尾張海部のシンボルは銅剣(鉄剣の草薙剣ではない)
3種の神器はこんな感じ
本来の神武の家は勾玉しか持ってない
それ故、草薙剣の疎開先に、ヒコイマスの関係に近い岐阜の水無神社が選ばれたと考えられる
あそこには因幡国造となったヒコイマスの息子のヒコミチヌシの子孫も住んでたらしく、因幡神社もある
丹波と岐阜は近い関係の地域と考えられる
飛騨王朝伝承は記紀で初めて作られた新造の神スサノオが出てくるので記紀成立後に作られた負けちゃった神武(村雲)家系の事を書いている >>401
え?また話の本質をずらしてクリンチですか。ww
自分と向き合いましょうね?朝鮮人w >>405
大神神社は、オオミワ神社ではなく
オオミカミ神社が本来の意
それを適当に当て字だよと言って誤魔化してるだけ >>833
そもそもがカゴヤマは五十猛の父親であってお前の認識は間違い
五十猛=射楯の大神として記録されているのは息子のムラクモ=アメノイタテ
行くも何も元々九州人
スサノオの神話に記されている通り生国九州を追放されたあとで日本海から上陸して紀伊方面に移動しただけ
途中で経由する近江にイカトミを祖とする伊香氏がいたりするのはスサノオの正体が雷大臣であることを裏付けている >>418
よっ伊都チョン
なんなところで奇遇だなw
霹靂神社は鴨系の神社だぞ?w
法螺吹きは自分のスレでやれww >>418
〉途中で経由する近江にイカトミを祖とする伊香氏がいたりするのはスサノオの正体が雷大臣であることを裏付けている
www伊賀臣家は阿部系の家だろww
だから冨が入る
多臣家がその昔、意冨と書いたのと同じ
また出雲系との集合の家系をスサノオヒボコに強引に結びつけか?w >>205
大陸と「阿波」が常態的に交流していたんだから、どうでもよい話。 わははははは @阿波 >>403
〉皇孫は天牟羅雲命にどの道を上って行ったのかお聞きになり、 天牟羅雲命は、大橋は皇孫の道なので、私は後の小橋を上りましたと答えた。
皇孫は天牟羅雲命に天二上命(あめのふたのぼりのみこと)、後小橋命と二つの別名を授けた。
これは順序が逆でな、ヤマトの二上山は、村雲の実家の尾張家の拠点で、ホアカリの系統が丹後から始めて奈良入りした際の拠点
二上山ともう一箇所に落ち着いたという事を暗示してるのではないか? >>402
海部の籠神社は、記紀服属で九州物部の佐野命が磐余彦という立場の話を書いているだけ。
マナイのあたりの山は、カゴヤマとなっており、五十猛→大年彦が、ここでカゴヤマに名を変えたことによるもの。
村雲の次の代で別れた家系の海部が本来の神武を知らないはずがない。
お上の立場には逆らいませんよというポーズがこの由緒というだけの話
籠神社は、この神社ではなく、カゴヤマのカゴの神社。 >>396
等の籠神社と上官家の伝承。
上官家は既に本を出している。
君の場合は単なる知識不足 >>1
ヒボコが最初にやって来たのが出雲だったからそういう書き方になったのかもね >>423
>籠神社は、この神社ではなく、カゴヤマのカゴの神社。
そのカゴヤマとは、阿波小松島市の日の峯山・籠山(かごやま)。
小松島は、海原に、鴎立ち立つ「飛鳥の地」。
小松島は、香具山・畝傍山・耳成山(日の峰山・中津峰山・津の峰山)が並び立つ「飛鳥の地」。 @阿波 >>427
つまりは丹波の元は「阿波」という事だ。 @阿波 >>430
牛のトテームを、表しているのかもしれない バイキングの兜みたいに、角の生えたヘルメットしてたのかも いろは歌を順に辿ってみると暗号になっているという話
https://www.historyjp.com/article/512/
https://kf-planning.blogspot.com/2015/09/blog-post.html
https://www5.hp-ez.com/hp/namikata/page4/bid-392477
常世長鳴鳥
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E4%B8%96%E9%95%B7%E9%B3%B4%E9%B3%A5-1378645
鳥啼歌
https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/torinaku.html
明治36年(1903年)に新聞上で公募・発表された「いろは歌」の一つ。
鳥啼歌を平仮名に変換
とりなくこゑす ゆめさませ みよあけわたる ひんがしを そらいろはえて おきつへに ほふねむれゐぬ もやのうち
鳥啼歌を357に区切って逆読み
ちうの やもぬゐれ むねふほにへつ きおて えはろいら そをしがんひる たわけ あよみせま さめゆすゑこく なりと
↓
後半に文章が隠れている
そをしがんひる たわけ あよみせま さめゆすゑこく なりと
↓
そを此岸ひる たわけ 早よ見せま 覚めゆ末国 なりと
文章が半分しか分からない場合の適切な対処法
↓
雪山童子
https://myoshinji.net/2020/07/10/%E9%9B%AA%E5%B1%B1%E7%AB%A5%E5%AD%90/#:~:text=%E9%9B%AA%E5%B1%B1%E7%AB%A5%E5%AD%90%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%80%81%E9%87%88%E5%B0%8A,%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
いろは歌と雪山童子
https://true-buddhism.com/teachings/irohauta/ >>1
https://i.imgur.com/BBKh6sE.jpg
https://i.imgur.com/UZqMeNA.jpg
https://i.imgur.com/g6sh7A5.jpg
https://i.imgur.com/WyPcpqf.jpg
化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究(2018)
>私たちの結果は、東アジアの3つの集団、漢族、日本人、韓国人は、見た目は似ているものの、遺伝子構成が異なり、
>明らかにゲノムレベルで区別されていることを示しています。
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています
日本人と韓国人はどちらも独立したクラスターに属する。
>Japanese and Korean each has each independent cluster,
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
★日本人は他民族とDNAで完全に区別可能。韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。後古代半島人とDNAが違う >>1-10
https://i.imgur.com/BBKh6sE.jpg
https://i.imgur.com/UZqMeNA.jpg
https://i.imgur.com/g6sh7A5.jpg
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化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究(2018)
>私たちの結果は、東アジアの3つの集団、漢族、日本人、韓国人は、見た目は似ているものの、遺伝子構成が異なり、
>明らかにゲノムレベルで区別されていることを示しています。
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています
日本人と韓国人はどちらも独立したクラスターに属する。
>Japanese and Korean each has each independent cluster,
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
★日本人は他民族とDNAで完全に区別可能。韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。後古代半島人とDNAが違う >>1
>>3
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化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究(2018)
>私たちの結果は、東アジアの3つの集団、漢族、日本人、韓国人は、見た目は似ているものの、遺伝子構成が異なり、
>明らかにゲノムレベルで区別されていることを示しています。
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています
日本人と韓国人はどちらも独立したクラスターに属する。
>Japanese and Korean each has each independent cluster,
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
★日本人は他民族とDNAで完全に区別可能。韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。後古代半島人とDNAが違う >>1
スレ立て年月日・日時は2022/07/02(土) 17:36:38.28ですね? >>439
なして朝鮮人にしたがるのかなあ?www
まず言葉が朝鮮語とは違うやろって話www
そんなに日本人にあこがれるのかなあ?www ツヌガアラヒトにしろ アマタリシヒコにしろ、どう聞いても日琉語族の言葉の響きだろ。
朝鮮語の響きとは違うよね。 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ >>442
宮本一夫の日琉語説なんかとっくに破綻してるよピピンミョンくん(嘲笑
まず縄文人の祖先の旧石器人の大半は朝鮮半島から入った集団だよ
残りの旧石器人は樺太から入って来ている
両旧石器人の融合人種が縄文人だよ
残念ながら縄文末から弥生開始時にかけて朝鮮半島から入植した考古痕跡はないよ
沿海州南部から入植した考古痕跡ならあるが
沿海州南部と同じ刻目突帯文土器土器を作る集団が縄文末に出雲地方に現れるが、
土器を同じくするその子孫たちによって稲作は朝鮮半島から取り入れられている
そこに朝鮮半島から入植した考古痕跡はない
弥生土器は沿海州南部の刻目突帯文土器が元になっていて松菊里文化の土器が
元ではないよ
それが事実なら、その当時の朝鮮土器である欣岩里式か先松菊里式土器を
もっぱら作っている生活痕遺構があるはずだろ
ない
よろしいですかな?よろしいですかな?
短絡的な思考回路のピピンミョンくん(嘲笑 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています