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邪馬台国畿内説 Part803
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2022/08/16(火) 20:14:08.04
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1660462752/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:15:26.17
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2022/08/16(火) 20:16:09.47
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2022/08/16(火) 20:17:27.50
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
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2022/08/16(火) 20:18:02.95
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:18:34.61
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:19:05.97
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:19:38.48
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
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2022/08/16(火) 20:20:20.87
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2022/08/16(火) 20:20:58.76
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:21:33.12
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 20:21:58.63
筑紫の日向は、日向灘?
その橘だから、文旦、
小さい戸の阿波岐原だから、やはり、鳴門の渦潮か・・・
しかし、原だな・・・
つまり、阿波そのものでは?

701 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 19:57:26.13
小戸は小さい港とすると、小松島?高松?

702 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 20:00:37.09
橘が文旦ではというところから思いつきました。
0013◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:22:10.57
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0014◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:22:47.04
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0015◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:23:22.68
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0016◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:23:54.45
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0017◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:24:26.60
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0018◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:24:53.50
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:25:27.05
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0020◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:25:59.97
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0021◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:26:31.04
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0022◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:27:04.11
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0023◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:27:37.73
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:28:10.88
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:28:42.48
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0026◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:29:11.98
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0027◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:29:42.95
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:30:14.96
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:30:46.23
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0030◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:31:20.45
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
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2022/08/16(火) 20:31:53.39
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:32:31.53
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:33:47.37
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:34:21.82
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
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2022/08/16(火) 20:34:53.64
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2022/08/16(火) 20:35:24.66
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2022/08/16(火) 20:36:02.77
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
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2022/08/16(火) 20:36:33.63
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2022/08/16(火) 20:37:08.02
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2022/08/16(火) 20:37:44.07
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
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2022/08/16(火) 20:38:15.77
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2022/08/16(火) 20:38:48.07
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2022/08/16(火) 20:39:19.36
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
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2022/08/16(火) 20:39:51.82
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
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2022/08/16(火) 20:40:30.43
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
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2022/08/16(火) 20:41:01.22
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2022/08/16(火) 20:41:32.34
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2022/08/16(火) 20:42:05.14
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2022/08/16(火) 20:43:05.39
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2022/08/16(火) 20:43:32.00
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2022/08/16(火) 20:44:18.26
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2022/08/16(火) 20:44:59.22
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2022/08/16(火) 20:45:36.68
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2022/08/16(火) 20:46:10.31
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2022/08/16(火) 20:46:43.81
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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垢版 |
2022/08/16(火) 20:47:17.44
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2022/08/16(火) 20:47:50.89
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
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2022/08/16(火) 20:48:22.72
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2022/08/16(火) 20:48:54.72
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2022/08/16(火) 20:49:28.05
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2022/08/16(火) 20:50:01.91
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2022/08/16(火) 20:50:41.09
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2022/08/16(火) 20:51:13.87
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2022/08/16(火) 20:51:46.34
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2022/08/16(火) 20:52:18.67
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2022/08/16(火) 20:52:51.65
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
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2022/08/16(火) 20:53:24.89
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2022/08/16(火) 20:53:58.18
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2022/08/16(火) 20:54:30.11
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2022/08/16(火) 20:55:00.91
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
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2022/08/16(火) 20:55:32.95
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
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2022/08/16(火) 20:56:03.61
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
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2022/08/16(火) 20:56:32.63
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
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2022/08/16(火) 20:57:12.80
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0075◆n7jxAxKCBhb6
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2022/08/16(火) 20:57:44.01
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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2022/08/16(火) 20:58:21.02
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0077日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:01:47.13
筑紫の日向は、日向灘?
その橘だから、文旦、
小さい戸の阿波岐原だから、やはり、鳴門の渦潮か・・・
しかし、原だな・・・
つまり、阿波そのものでは?

824 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 19:58:33.14 ID:wfepn0cq [2/6]
小戸は小さい港だから」、高松?小松島?

825 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 20:00:12.45 ID:wfepn0cq [3/6]
橘が文旦ではというところから思いつきました。

826 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 20:07:28.70 ID:wfepn0cq [4/6]
これ、地理に強い人なら、簡単にわかります。

827 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 20:54:42.15 ID:wfepn0cq [5/6]
ブンタンの原生地は中国・台湾とされ、江戸時代に日本に伝わったと伝えられています。
ってこれなんの話しやねん?
704 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 20:53:17.82
>>703
天津祝詞しりません?

705 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 20:54:03.67
>>703
ああ、じゃあ、私の論は破滅しました。

828 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 20:58:08.33 ID:wfepn0cq [6/6]
橘と言ったら、日向夏も考えられますが、
普通は、日向灘ですから、
愛媛橘蜜柑と考えるのが自然でしょう。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:05:03.79
でも、伊弉諾大神だから、淡路島かな?
伊弉諾神宮・・・
これ、正解に近くない?
0080日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:06:44.56
伊弉諾尊を祀ってる神社って、阿波にありましたっけ、阿波さん
0081日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:08:52.99
小殿阿波岐原か・・・
問題は、岐をどう訳すかだなあ・・・
0082日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:10:43.82

?岐? キ ギ・わかれる

1.
わかれる。ふたてにわかれる。ふたまた。えだみち。
?「岐路・岐道・分岐・多岐」

多分、阿波だろうな
阿波の大河が2つに分けてるということか・・・
0083日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:10:51.04
纏向遺跡・桜井市立埋蔵文化財センター・橿原考古学研究所

出土土器の特徴として、全体量のおよそ15%が九州から関東にいたる広範囲な
外来地域からのもので、その内の49%を東海系の土器が占める。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:12:23.24
阿波国守護神だろうか?
しかし、淡路島に伊弉諾神社があるなあ・・・
0085日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:12:45.65
>弥生時代中期BC3世紀代ころの弥生・海人族たちの旺盛な活動範圏がよく分かる。

 青谷上寺地遺跡 (あおやかみじちいせき)この弥生の村の成立は、
日本列島に中国の戦国時代の鉄器の流入が始まる頃でBC3世紀代頃と考えられ、
集落の終焉は古墳時代前期初頭のおおむね3世紀後半と考えられている。
https://09270927.at.webry.info/201908/article_1.html?from_sp

『卜骨(ぼっこつ)、シカやイノシシの肩甲骨を火で焼いたりして吉凶を占った。
左右の肩甲骨を重ねる埋葬方法が朝鮮半島の勒島遺跡と共通する。』 
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/409/58/N000/000/000/156469753986455539610.jpg
 卜骨の出土数で青谷上寺地遺跡は群を抜いているが、
関東地方の三浦半島の先も卜骨の出土数が多い。
卜骨は海人族が行った占いだったのであろう。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:13:48.29
>>83
その49%の東海系の土器が「東阿波型土器」という・・・   @阿波
0087日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:13:53.36
【唐朝那些事兒】第185章
「隋煬帝與蕭後等率 侍女千余人 就房飲酒 杯不離口 晝夜昏醉」

隋の陽帝と蕭(しょう)皇后、千人以上の侍女を従え、
部屋で酒を酌み交わす。盃は彼らの口を離さず、昼も夜も飲まれた。

慶長伏見地震は、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)伏見城が倒壊
秀吉は難をのがれたものの女房.侍女570人余が圧死した。(女房.侍女の総勢1000人位か?)

徳川時代、江戸城大奥には1000人くらいの侍女.下女が居たと云われてる。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:15:46.91
魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述には、
「以婢千人自侍」侍女千人を用い、自律的に侍る。
卑弥呼が住んでいた館の周りで、千人もの女性たちが自主的に世話をしていた。

侍女千人を抱える統治者と云えば、隋の煬帝、太閤秀吉、徳川将軍家、

クラスの国主、統治者でないと財政が持たない、と言う事は、
すでに邪馬台国の国家レベルがその段階で有る事が連想される。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:16:46.53
卑弥呼時代には既に東海地域から西日本一帯は
倭国大乱の後、統治されてて邪馬台国連合が成立していたんだろう、
唯一、九州中南部の狗奴国(熊襲)だけが統治されず状態だった。

記紀、歴史時代の何代にも渡って九州中南部、熊襲征伐が大和朝廷の頭痛の種だった。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:24:21.54
伊弉諾神宮だから、淡路という、実に簡単な話であった。
大体、心理・真実が、難しいわけないんだ。
高天原とは、サウジアラビアアシール地方とも受け取れるが、
大倭天津祝詞なのだから、
これは、邪馬台国阿波。
神漏岐神漏美は、おそらく、これも、伊弉諾・伊弉冉か・・・
0093日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:26:02.30
真理

神漏岐神漏美か・・・
ソロモン・シバか?
じゃあ、伊弉諾尊とは誰か?
伊弉諾神宮は、ナザレのヨセフの墓所
0094日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:30:36.57
それも踏まえて、
上沼恵美子は淡路島を買い漁ってるのかな?
豊川稲荷か?
名前がそれっぽい
0095日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 21:38:55.15
前スレの最後に浦島太郎の話が出ていたね
丹後国風土記にもあるように浦島太郎は丹後半島の出身でしょうね
浦島太郎は常世に行った
スクナビコナや黄泉に逃れたイザナミと同じだね
常世は何処にあったのか?

万葉集1740

春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦島の子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ
0097日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 21:40:19.78
上の歌には反歌がある

万葉集1741
常世辺に住むべきものを剣大刀汝が心からおそやこの君

いつまでも常世の国に住んでいられたのに、お前の心のせいでこうなってしまった、バカな男よ
0098日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 21:43:46.31
>>90

ところがどっこい
卑弥呼の次の女王たった壹與は與止日女だと思うのだが、與止日女神社こと河上神社は、熊襲タケルあらため川上タケルの宮の近くにある。
場所は肥前川上大願寺。
壹與と熊襲タケルはおそらく同族。
壹與は卑弥呼の縁類なので、卑弥呼は熊襲の女王、または有明海沿岸の肥国の女王。
0099日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 21:47:34.15
>>95

住吉と2度も地名が出てるじゃないか。
博多の歌だよ。
海神の宮は志賀島の綿津見神社。
0100日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 21:52:18.94
高天原の天津神が国津神を下して筑紫に天孫族の政権が誕生したというのが出雲国譲りから天孫降臨までの記紀のストーリー。
その後は筑紫が倭国の中心となるのだが、彼らが来た高天原とはどこだったのか。
原が九州では集落を意味する語であることを考慮すると、高天原は高貴なる海人(あま)の都という意味になる。
長年にわたり国家的規模の祭祀が行われた沖ノ島は高天原の候補となるだろう。
高天原から筑紫に降臨する天孫を守護したのが宗像だったのも、高天原を沖ノ島、降臨した筑紫の日向を福岡市西部と考えると地理的な整合性も高い。
高天原から筑紫に降臨した天孫族は、代々にわたり志賀島の海神と婚姻関係を深めていく。
高天原は綿津見の竜宮城とも意味が通じている(同じものだというわけではない)。
海神族こそ、玄界灘沿岸を起源とする弥生文化の播種の担い手である。
0101日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 21:52:30.94
ええと、、、
神漏岐神漏美
イザナギ・イザナミ・・・

・・・
0103日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:06:16.66
■ 大祓の祝詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす

708 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2022/08/16(火) 22:05:51.66
違うか?
小戸の阿波岐原に 禊祓給いし時になりませる
祓戸の大神達等
だから、
小戸とは、恐らく港
阿波岐原とは、徳島平野
だとおもうけども・・・
ああ、伊弉諾大神は、そのまま淡路伊弉諾神宮でいいのだろう
邪馬台国が阿波と隠したいだけなのだから・・・
0104日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:09:46.32
神話アテハメごっこの話聞いても100人いれば100話ある
どれも正しいって証拠出せないものだから
聞いても意味ねえわ
0105日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:11:19.70
高天原に神留り坐す皇親神漏義・神漏美の命持ちて、
皇御孫命は豊葦原乃水穂国を安国と平けく知食せと、天下寄さし奉りし時に、
事寄さし奉りし天都詞太詞事を以て申さく、
 神伊佐奈伎・伊佐奈美乃命、妹背二柱嫁継ぎ給ひて、国の八十国・嶋の八十嶋を生み給ひ、八百万神等を生み給ひて、
麻奈弟子に火結神を生み給ひて、美保止焼かえて石隠り坐して、
夜は七夜昼は七日、吾をな見給ひそ、吾が奈^背乃命と申し給ひき。
此の七日には足らずて、隠り坐す事奇しとて、見そなはす時に、火を生み給ひて、御保止を焼かえ坐しき。
如是る時に、吾が名^背乃命の吾を見給ふなと申すを、吾を見阿波多志給ひつと申し給ひて、吾が名^背能命は上津国を知食すべし。
吾は下津国を知らむと白して、石隠り給ひて、与美津枚坂に至り坐して思食さく、吾が名^背命の知食す上津国に、心悪しき子を生み置きて来ぬと宣りたまひて、返り坐して、更に子を生みたまふ。
水神・匏・川菜・埴山姫、四種の物を生み給ひて、此の心悪しき子の心荒びそば、水神匏、埴山姫川菜を持ちて鎮め奉れと事教へ悟し給ひき。
0106日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:12:45.54
隠したかったか、修飾か
恐らく、修飾だ。
何故なら、阿波岐原といっているのだから
0107日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:15:37.63
イザナミが流れた先は下津国の与美津枚坂
推測はつくが内緒だな
0108日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:35:38.85
アテハメごっこ聞いても全然おもろないわ
0109日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:35:39.32
アテハメごっこ聞いても全然おもろないわ
0110日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:36:24.59
魏志倭人伝の記述をまとめてみた!

伊都国(一大率→壱岐や末盧国・奴国・不弥国など九州北岸の国々を監視)
 ↑北
女王国(筑紫平野)
 ↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野)
0111日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:41:26.30
>>110
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が(帯方郡→建業→会稽東冶)までの「中国大陸沿岸の行程(12,000里)」を倭国(不弥国→投馬国→邪馬台国)にダブらせて転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

おそらく洛陽(後漢〜曹魏〜西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)魏のために呉を牽制しようとしてくれている「可愛い国♡」という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。
0112日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:41:46.83
誰でも自由に考え出せて、誰にもどれが正解でどれが間違ってるかわからない話は
誰が聞いても面白くない
これが九州説の滅んだ本当の理由じゃないかな
0113日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:43:03.36
>>111
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
★邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸
0114日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:44:17.95
>>111
>3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく

とは専門家は思ってない
調査した学者は否定している
0115日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:47:17.31
>>113の模式図だyo!スマホやタブレットじゃなくて、PCで見てね【倭人伝の「会稽東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」
0116日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:47:58.05
>>114
またしても口から出まかせ畿内説のデマw
0117日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 22:49:57.75
>>111
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0118日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 22:58:03.17
>>111
>>115
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は『狗奴国の位置』であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種
〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「【大作】冢径百余歩(実は尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
0120日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 23:03:40.52
畿内説の「女王国【東】渡海千余里複有国皆倭種」は東海なんでしょ?
「其【南】有狗奴国、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」も東海なの?w
しかも纏向からは東海地方の土器が出るって、言うじゃない?(ギター侍)
さすが「殉葬のない箸墓ありき」畿内説は支離滅裂だねw
0121日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:08:36.84
>>116
>またしても口から出まかせ畿内説のデマw

ただ罵ったって反論にならないよ
祇園山に殉葬があるとか三世紀中頃だとか言ってる学者はいない
いるなら名前言ってみな
0122日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 23:11:53.61
>>120
>さすが「殉葬のない箸墓ありき」畿内説は支離滅裂だねw

何が支離滅裂なのか畿内説の言ってることを引用できない人は
妄想シャドーボクサー
0123日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:13:27.32
>>120
マジャームーン「畿内説がじぇんぶ、じぇーんぶ正しい!殉葬なんて嘘よ、嘘!箸墓が卑弥呼の冢。解りました?!」
0124日本@名無史さん
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2022/08/16(火) 23:14:45.76
まやかしに騙されずに真実を知るには、眉に唾をつけ物事を見ること
大切なのはマユとツバ(キ)
0125日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:17:27.84
>>118
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0126日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:24:45.13
>>122
卑弥呼が死んだ後に男王が立って国中が争い、千人近く死んだんでしょ?そんな状態で280mもの巨大古墳作れるわけないっしょw
吉備特殊器台の箸墓に殉葬がないどころか、纏向大型建物群に楼閣も濠もなし、猪除けの板塀だけw
「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」どころか、東海地方との戦乱の痕跡が全くない平和そのものの纏向遺跡w

どこが学問的なの?畿内説w
0127日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:29:09.35
>>125
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:30:37.76
>>126
>卑弥呼が死んだ後に男王が立って国中が争い、千人近く死んだんでしょ?そんな状態で280mもの巨大古墳作れるわけないっしょw

なぜ「わけがない」の?

>吉備特殊器台の箸墓に殉葬がないどころか、

ないと、何が問題?

>纏向大型建物群に楼閣も濠もなし、猪除けの板塀だけw

だと誰が言った?

>東海地方との戦乱の痕跡が全くない平和そのものの纏向遺跡w

それの何が問題?


あなた思い込みが強すぎます
0129日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:32:07.45
思い込みが強すぎるのは「箸墓ありき」の畿内説ってことw
0130日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:33:38.99
>>127
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年は皇紀2682年w)。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:35:07.47
>>129
「鰯の頭も信心から」畿内説ですねw
0132日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:35:45.40
>>129
>思い込みが強すぎるのは「箸墓ありき」の畿内説ってことw

だという理由は?
0133日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:36:40.53
>>131
ただ罵っても反論になりません
0134日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:37:06.61
>>132
思い込み強すぎ畿内説君、しつこいよw
0135日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:38:22.33
>>130
>魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず

そんなことが有ったって証拠は?
0136日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:38:35.04
>>130
まとめると、今から1359年前、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
0137日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:39:29.42
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なせ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:39:55.17
>>134
>思い込み強すぎ畿内説君、しつこいよw

「思い込み」とは何?
言ってることに具体性が皆無なのだが
0139日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:41:45.40
>>137
ハロー、連句点さん
0140日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:42:24.80
またしても、「イワシの頭も信心から」無様な畿内説が論破されてしまったのだね・・・
0141日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:57:17.15
「思い込み」「妄想」くんは議論できる知能ないからワードNGしてええと思うよ
0142日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/16(火) 23:58:34.91
>>140
そして連句点はただウソをつくだけ
つまり畿内説常勝
0143日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 00:00:29.79
>>141
それは妄想思い込みオンリー君の逃亡で敗北宣言

まったく反論できなかったってことだからね
0144日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 00:02:04.42
>>141
そうやって罵るだけって事は、あなたの負けってことでしょ?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 00:28:08.55
こうして九州説は今日も惨めに敗退するのだった
0146日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 01:35:50.77
帯方郡→水行二十日で投馬国→水行十日で日本上陸(伊都国?)→陸行一月で邪馬台国
今まで投馬国は半島の任那だと思ってたけど対馬かも
日本側から見て対馬は近い朝鮮半島側に属してると認識してたんじゃないか?
0147日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 01:37:32.84
宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛
冢は九州だろうな。共立で九州に居る
邪馬壹国にある記載はない。
女王の都になる所、開拓、復興地、宗教地
近畿一帯だね。可7万戸と見積る。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 01:53:04.56
南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸

これ以外に詳細な事の記載はない。
官も副はなく、4名いる広範囲だろうな。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 07:08:32.71
>>146
対馬に五万戸あるわけないだろう
0150日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 07:26:22.53
そもそも対馬はちゃんと別に書いてある。
もう畿内説は苦し紛れに適当なことをつぶやくしかなくなったのか。
畿内説の学者ですらイワシの頭や桃の種が出たから邪馬台国かもと主張するくらい、馬鹿馬鹿しいレベルになっている。
このスレのテンプレも、まともに読もうと思うと頭がおかしくなるレベルで妄想だらけ。
畿内説はオワコンだよ。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 07:28:52.76
>>147
>近畿一帯だね。可7万戸と見積る。


しまいには、畿内から近畿一帯へ拡大かよww

たかだか一国だけの「阿波」からハンディもらい過ぎだろうがよ。 情けない。  

いかに根拠に乏しいトンデモ説なのかがよく分かる。   @阿波
0152日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 07:34:25.62
マジャームーン「安倍さんの畿内説がじぇんぶ、じぇーんぶ正しい!殉葬なんて嘘よ、嘘!箸墓が卑弥呼の冢。畿内説の勝ち!解りました?!」
0153日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 07:52:13.82
>>113
>>114
魏志倭人伝の記述をまとめてみたyo!

伊都国(一大率→壱岐や末盧国・奴国・不弥国など「九州北岸の国々」を監視)
 ↑北
女王国(筑紫平野)7万戸
 ↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野)
0155日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 07:54:48.82
>>153
つまり伊都国の南、狗奴国の北に邪馬台国7万戸があるという事だね!
0156日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 07:59:56.39
>>150
>そもそも対馬はちゃんと別に書いてある。
>もう畿内説は苦し紛れに適当なことをつぶやくしかなくなったのか。

明らかに頭がおかしいのは>>150
畿内説の者が「投馬国は半島の任那だと思ってたけど対馬かも」などと言うわけがない
九州説の男の発言だ
明らかだろうに

>畿内説の学者ですらイワシの頭や桃の種が出たから邪馬台国かもと主張するくらい、馬鹿馬鹿しいレベルになっている。

そんな主張をした者はいない
おまえは捏造する病気のやつだば

>このスレのテンプレも、まともに読もうと思うと頭がおかしくなるレベルで妄想だらけ。

これも、なにも反論できずに抽象するだけ

>畿内説はオワコンだよ。

終わってるのは、おまえの脳だ
0158日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:15:19.45
>>157
帯方郡の郡使がそんな誤認するわけなかろう
0159日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:17:01.45
>>156
近畿説てか伊勢遺跡説なんだけど
0160日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:19:35.23
>>158
これこそ現地の人に聞かなきゃわかんないし投馬国も言葉に文字をあててるんでしょう
0161日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:20:38.60
>>159
で、>>150は頭がおかしいんだろ?
0162日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:21:56.39
そもそも対馬は對馬國として記述されてるんだから投馬が対馬なわけがない
0163日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:23:11.90
>>161
俺は行程は帯方郡→投馬国→邪馬台国だと言っている
0164日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:24:06.08
>>162
別の資料だと言ってるだろ
0165日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:26:50.27
別資料でも集成するときに地名表記ぐらい統一させるだろ
0166日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:30:24.19
>>165
陳寿はそんなこと知らないから不弥国の後に投馬国をくっつけたんだよ
0167日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:30:30.04
>>163
九州から陸行して、どこ行く気だ
0168日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:31:43.08
>>167
九州からとは限らない
0169日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:32:54.58
はいはい俺の考えた最強の倭人伝解釈はいいからもっと積極的な根拠を集めてね。ただの妄想だよそれじゃ
0170日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:34:37.97
>>168
言ってることがコロコロ変わりすぎ
おまえ誰かのナリスマシだろ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:37:04.72
投馬は魏の頃の発音はヅマ。当時の日本には語頭を濁音にする習慣はないと推察されている
0172日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:38:33.41
>>171
うむ。従っておそらく元の音はアヅマ、かつてはイヅモをアヅマと発音していたのだろう
0173日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:53:34.92
>>115
宝探しの地図みたいだね
邪馬台国島(幻)がワロタw
0174日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:54:11.05
高天原に神留り坐す 神魯岐神魯美命以ちて

皇御祖神伊弉諾尊 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に

御禊祓ひ給ふ時に生座る祓戸大神等

諸々の枉事罪穢を 祓ひ給へ浄め賜へと申す事の由を

天津神国津神八百万の神等共に 天の斑駒の耳振り立てて

聞食せと恐み恐みも白す


だから、注目するべきは、」まず、命と尊。尊の方が古い代だから、
神漏岐神漏美は、おそらくソロモンとシバ。
伊弉諾尊は、皇御祖神だから、うーん、ちょっと俺には正体不明だ。
ソロモンととらえられなくもないが。

715 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2022/08/17(水) 08:51:42.77
私なりに解釈すると、
筑紫国の下の方の日向国の日向の四国の小さい港小松島の阿波徳島平野
と訳します。

716 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2022/08/17(水) 08:53:12.01
そもそも、橘って、四国を表す言葉じゃないかな・・・
すると、橘氏も、見えてくる。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:57:22.59
>>115
邪馬台国が投馬国の南(奴国2)と北(奴国1)の両方にあるよ!
0176日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 08:57:31.32
源平藤橘
源が平らな富士の橘
平とは水だから、
白山菊理姫が祖神だということだろうか?
0177日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:07:35.85
>>175
九州説は謎解きゴッコで迷路にハマっちゃった感があるな
0178日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:12:16.26
朝鮮半島に五万戸もある倭人の国を突っ込む無謀は成り立つ余地なし
0179日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:13:01.21
>>176
>白山菊理姫が祖神だということだろうか?

その「菊理媛神」を阿波市阿波町で祀っている。

「伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせた菊理媛神を祀る阿波」
阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)
「阿波誌」に、「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。
菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とある。
なんと、伊奘諾尊と伊弉冉尊が泉平坂で相争ったとき、二人を仲裁した菊理媛神(くくりひめのかみ)が、
阿波市阿波町で祀られているのである。
http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html  
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外にはどこにも存在しないのである。   @阿波
0180日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:19:50.99
>>175
そう、幻の邪馬台国(会稽東冶の東)と本当の邪馬台国(筑紫平野)の2つが、投馬国の南北に書かれちゃって、混乱しちゃってるんだよ。
正解は以下の通りw

伊都国(一大率→壱岐や末盧国・奴国・不弥国など「九州北岸の国々」を監視)
 ↑北
女王国(筑紫平野)7万戸
 ↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野)
0181日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:24:34.33
>>115
投馬国の北には本当の邪馬台国(筑紫平野)が、
投馬国の南には嘘の邪馬台国(沖縄と台湾の間=福建省の東の海上)が、
ダブって書かれてるってことか!
0183日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:32:18.11
>>180
もう九州説は陳寿を嘘つきにしないと話を作れないのか
0185日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:35:28.54
>>182
そう。
>>115
陳寿の忖度で投馬国(宮崎)の南(沖縄と台湾の中間=洛陽から見て孫呉の真後ろ)にあると追記されたため、混乱を生じ、畿内説がそこに付け込んでいるw
0187日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:44:18.54
>>180
ドンピシャだね
0188日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:47:26.16
>>180
狗奴国と戦争していたわけだから、背後(以北)の国々を監視させておかないと、邪馬台国は挟み撃ちに遭う。
当時の内乱状態を見事に解明して見せた筑紫説には説得力がある。

其八年太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
「その八年、太守、王頎官に到る。倭女王卑弥呼は狗奴国男王、卑弥弓呼と素(もと)から和せず、倭載斯烏越等を遣はし、帯方郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣はし、因って、詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為りてこれを告諭す。」
「正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼と素(もと)から和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。」
0190日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 09:59:06.58
>古墳は全体で幅25メートル、縦35メートルの規模と推測され、発見されたのはこのうち2割程度とみられる。墳丘部分は削り取られ、ひつぎなどは発見されなかった。当時の小田原について文献史料はなく、具体的な埋葬者は不明だが、ヤマト政権とつながりの強い地元の有力者とみられる。
>遺構内では底に穴を意図的に開けた底部穿孔(せんこう)土器も出土。当時は祭祀(さいし)用の土器を墳丘の上に並べて被葬者を守り、後に埴輪(はにわ)の原型となったとされ、東海大学の北條芳隆教授の調査で日本最古級とされる箸墓古墳(奈良県)とほぼ同時期の3世紀末の築造と判明したという。

つまり、吉備特殊器台の箸墓始め、前方後円墳に殉葬はないってことだねw
0191日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:00:33.54
>>189
>東海大学の北條芳隆教授の調査で日本最古級とされる箸墓古墳(奈良県)とほぼ同時期の3世紀末の築造と判明したという。

ん?箸墓が3世紀末?w
0192日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:14:32.26
>>185
連続読みしなければいいだけ。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:23:29.80
邪馬台国が畿内とか完全に終わった説なのに何でスレ続いてんの?
0194日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:26:23.98
畿内説も九州説も完全に終わる。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:28:10.35
大和も、古墳も外来。弥生人も、縄文人も外来。なので、日本人は外来である。
先住民はあとから来た民に食われ、ウンコになり、日本の土となった。
めでたし、めでたし
0196日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:28:13.33
>>191
知識の古い新聞記者もいるさ
0197日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:30:06.38
>>193
>邪馬台国が畿内とか完全に終わった説なのに何でスレ続いてんの?

今も通説だからだろ
0198日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:30:49.84
吉備特殊器台の箸墓に殉葬があると思う人なんて今どきいるの?
0201日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:48:48.50
>>198
あろうと無かろうと関係ないし
0202日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 10:53:07.30
>>198
有ったかもしれないし無いかもしれない
0203日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 11:04:02.50
>>198
>吉備特殊器台の箸墓に殉葬があると思う人なんて今どきいるの?

吉備特殊器台と殉葬なんて、関係あるの?
0204日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 11:06:18.00
最近の学生向けの教科書だと、畿内説と九州説の両方が記載されている
個人的には両方(九州から畿内に遷都)だと思う
0205日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 11:12:17.85
>>204
”倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている”とかもな
纒向の話だが
0207日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 11:40:40.91
畿内説というのもおかしな話
山城、摂津、河内、和泉も邪馬台国なの?
邪馬台国は大和盆地、大和説が正確でしょう
人々に誤解を与える畿内説という言葉は非常によろしくない
0208日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 11:43:31.69
倭人伝には宮城とあるのだが、纒向を見て城だと思う人はいない。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 11:44:14.88
大和だけだと明らかに七万戸は無理だから、誤魔化しているんだよ。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 11:52:06.41
つまり、畿内説は「早撃ちマック」ってことだねw
0212日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 11:54:00.47
>>201
まさに「箸墓ありき」の畿内説だねw
0214日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:12:57.23
>>200

小田原市には関東でもっとも早い水稲栽培の中里遺跡がある
兵庫県周辺の瀬戸内系土器が東海を飛び越えて出ている
0215日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:15:01.44
東海とその傘下の纒向がますます後進地域になるだけじゃん。
畿内説はオワコンだな。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:17:32.39
>>204
>個人的には両方(九州から畿内に遷都)だと思う

と言いながら、遷都先を言えない単なる妄想。   @阿波
0217日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:18:28.64
何から何まで書かなきゃわからんとかめんどくせえなまったく
帯方郡→投馬国(対馬で半島に属する 渡平海北九十五國)
→日本上陸(伊都国?対馬から海流に流されるから何処が目的地かはっきりしない)
→邪馬台国(伊勢遺跡)
0218日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:22:43.62
小田原市城山の前方後円墳にも、
それより古い神奈川県海老名市秋葉山3号墳(前方部は小さい)にも周溝がある
0219日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:32:41.18
>>217
伊勢遺跡は銅鐸祭祀だから時代が違う

>>218
ホタテ貝型?
0220日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:33:55.94
>>219
伊勢遺跡から纏向遺跡に王宮移転したんでしょう
0221日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:39:05.39
>>212
また反論できなくなる九州説
惨敗しすぎだよ
0222日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:39:15.89
>>220
なぜ王宮が移転せにゃならんのだ?  そうとう遠いぞ。  妄想を掻き立てろ!  わははははは   @阿波
0223日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:41:41.14
>>207
>邪馬台国は大和盆地、大和説が正確でしょう

他人の説を勝手に作ってはダメ
それは捏造だから
0224日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:41:44.80
卑弥呼の即位が190年頃として、鉄も絹も文字使用痕は未だに出ない大和盆地に七万戸もあったの?w
0225日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:44:50.62
>>215
>東海とその傘下の纒向が

根拠のないことしか言えない負け組って、みじめだね
0227日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:46:50.86
>>224
九州説さん、捏造すると即負けですよ
0228日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:50:26.29
>>220
なぜ王宮が移転せにゃならんのだ?  そうとう遠いぞ。

藤原京→平城京  平城京→平安京 より遠い所へなぜ王宮が移転せにゃならんのだ?  @阿波
0229日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:52:43.08
>>225

纒向の外来土器の大半が東海のものなんだよ
それが根拠
0231日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:54:48.70
>>227
箸墓の築造年代が捏造ですからなw
0232日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:54:57.93
>>228

邪馬台国の時代の倭国の王宮は、王一人につき王宮一つであり、基本的に移動しない
纒向は崇神天皇の磯城瑞籬宮
0233日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:55:12.88
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:55:34.87
纒向遺跡への搬入土器(全体の15%)の出身地割合
伊勢・尾張系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合、纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
尾張氏は饒速日の末裔であり、記紀では大和も饒速日の支配下であったとされる。
邪馬台国とは関係ない。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 12:58:41.59
>>229

纒向の外来土器も在来土器も全部、「東阿波型土器」なんだよ。   @阿波
0237日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:00:09.25
>>229
>纒向の外来土器の大半が東海のものなんだよ
>それが根拠

根拠んなるわけないぞ
出稼ぎがいくら来たって支配者にならんだろ?
しかも十人中ひとりか二人だ
王者の墓を畿内の流儀でお祭りしてる以上、東海の支配下とか妄言言ってれば馬鹿にされるだけだ
0238日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:01:34.75
>>237

あなたの言ってあることがわけわからない
妄想はほどほどに
0239日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:03:16.28
>>231
>箸墓の築造年代が捏造ですからなw

証拠もなく捏造捏造いうのがホントの捏造
0240日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:04:23.94
前方後円墳は物部氏の墓制
東海は物部氏と同祖の尾張氏の地盤
同じ墓制、同じ土器で、尾張の方がより広域と取引して勢力があった
0241日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:08:08.43
>>240
>同じ墓制、同じ土器で、尾張の方がより広域と取引して勢力があった

その勢力が、東海忌部。  反論できず。  わははははは   @阿波
0242日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:08:20.70
>>238
わからないのはお前の頭が悪いせいだな
纒向にいる人の十人に一人が東海の人だとして
それがどうして纒向が東海の傘下ってことになる?

そんなこと言ってる自分が、世間から相手にされると思う?
典型的な妄想だから、それ
0243日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:17:48.02
>>240
>前方後円墳は物部氏の墓制

根拠ねえし
0244日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:20:17.97
全体の15%の伊勢・尾張系が49%だから
伊勢と尾張合わせて全体の7.35%
0246板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 13:29:39.81
2世紀末に東四国付近で始まった前方後円墳型の墓制は3世紀末には関東まで伝播している。

ちなみに、前方後円墳が一番多く発見されている県は
今の千葉県、
0247日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:36:47.58
>>240
>前方後円墳は物部氏の墓制
>東海は物部氏と同祖の尾張氏の地盤

ならどうして前方後方墳の本場が東海なんだ?
0248日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:39:19.33
>>234
>目と鼻の先の河内との交流も乏しく、

これまた妄想でしょ
どうしょもないな
0249日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 13:59:43.38
当時の福岡からも楽浪郡に加えて尾張と吉備の土器が出ているんだよな
0250日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:01:39.18
>>246 板野に居たの
>2世紀末に東四国付近で始まった前方後円墳型の墓制は3世紀末には関東まで伝播している。

隠れ畿内説信者よ、2世紀末に東四国付近で始まった前方後円墳型の墓制を
3世紀末には関東まで伝播させたのは、誰なんや?   @阿波
0251日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:01:44.06
吉備と尾張を阿波が結びつけた可能性もあるな
宮崎もそうかもな
0253日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:13:30.64
>>234
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない?

そもそも、その決めつけが違う。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:17:06.04
女王の都だけど
倭国の都ではない。
邪馬壹国に
鉄が多いとかの記載はない。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:23:55.74
>>254
倭国の女王の都だろ
どこの国の都だ?
0257日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:27:15.21
>>255
邪馬壹国の都だよ。
共立された卑弥呼亡き後の男王は
邪馬壹国なのか定かではない。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:36:11.49
卑弥呼以前の倭国の都は?
0259日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:38:45.07
初期の天皇なんて代ごとに宮変えてたし、卑弥呼の頃もそんなもんだろ
0260日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:45:12.96
共立だから世襲制ではない。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:48:35.62
>>258
倭国はまだ成立していない
0262日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:51:44.08
>>249
要するに住み着いたり長期逗留した人が居たって事だ
日帰り圏の土器は多くない
0263日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:51:57.50
>>261
倭国の都はないて事?
0264板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 14:53:25.14
>>250
粟で力を蓄えた忌部が、畿内王朝の祭祀のブレーンとして、墓制も広めた。
また、安房に渡った忌部が、房総半島で勢力をひろげた。
忌部一族は、中央や関東で繁栄した一方、粟では衰退し、
その後長い間忘れ去られていた。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:54:31.83
>>257
>邪馬壹国の都だよ。

じゃ、卑弥呼はどこの女王だ?
0266日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:56:07.56
うむ、そもそも当時の土器なんて運搬に使うものではないんだから物流を直接意味するものではない。尾張人や吉備人で博多に逗留するものがいたということだろう。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:58:51.75
>>264
忌部は畿内の中央豪族なのに?
0268日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 14:59:17.32
>>265
倭国の共立王。
邪馬壹国が中心国ではなく
卑弥呼が中心だ。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:14:07.25
>>268
卑弥呼はどこにいるの?
0270日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:15:50.16
>>222
近畿では王宮移転なんか珍しくない
0271日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:16:22.88
>>269
九州だよ。邪馬壹国にはいない。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:18:43.48
>>264 板野に居たの
>粟で力を蓄えた忌部が、畿内王朝

畿内王朝の痕跡はあるのか? お前の妄想なのか? 言うてみい。  わははははは   @阿波
0273日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:24:13.63
伊勢遺跡は祭祀場跡だよ
周辺に墓もなく定住していた跡もない
1年に1回くらい首長たちが集まる場所だったんじゃないの

縄文人や移動民みたいに
0274日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:27:03.33
>>273
それこそ政の場所だろ
共立であって卑弥呼の独裁じゃないから
0275日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:27:25.75
>>264 板野に居たの
>粟で力を蓄えた忌部が、畿内王朝

しれっと「畿内王朝」などと忍ばせているが、盗人みたいな奴じゃのう、板野の売郷奴は。  わははははは   @阿波
0276日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:29:17.34
卑弥呼は領土なんて持ってないだろう
0277日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:31:17.96
>>274
近くに稲部遺跡(鉄)
服部遺跡(田)等あるね。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:32:58.26
>>276
当然だよ。
邪馬壹国に宗教地があるのだろう。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:33:53.44
領土を持たない卑弥呼にとっての邪馬台国って何か考えろよ
全てが漠然としてるから他人の意見にケチつけるしかできないのよ
0280日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:34:24.95
>>273
>伊勢遺跡は祭祀場跡だよ

今の段階では、そうとは言い切れん。
祭祀場跡ならば、近くに祭祀供献土器の捨て場があるはず。   @阿波
0281日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:36:00.25
>>277
>近くに稲部遺跡(鉄)

近くない。 むしろ遠い。   @阿波
0282日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:38:00.98
>>281
近いよ。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:40:57.39
彦根から守山は川が何本かあるくらいでずっと平野だ
何より船が使える
0284日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:44:59.69
>>244

> 全体の15%の伊勢・尾張系が49%だから
> 伊勢と尾張合わせて全体の7.35%

残りは纒向の在地の土器でしょ?
つまり纒向は外部との交流が少なく、特に目と鼻の先の河内との交流が少ないので、瀬戸内海へのアクセスを持たない地域だったのですよ。
他の地域との交流には、必ず東海を経由しなければならない。
対外交流は東海に頼らざるを得ない。
まして、独自に遥か遠い中華大陸と交流するのは不可能。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:45:36.77
>>282
現代感覚ではな。   @阿波
0286日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:49:10.61
>>284
>特に目と鼻の先の河内との交流が少ないので、

根拠なし
0287日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:51:22.18
>>245

それは博多全体の何%ですか?
九州北部全体の何%ですか?
一部だけ故意に誇張して取り上げても意味はない。
博多には全国から人が集まっていたというだけのこと。
博多にちょっぴり畿内形の土器が出たから博多が畿内の影響下だというのなら、纒向に東海の土器が出たら纒向は東海の影響下ですよね。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:52:27.74
>>248

河内型の土器がごくわずかしか出ていないからですよ。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:52:45.48
>>279
誰に言っている?
0290日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:53:36.12
>>249

福岡には、西日本全域およひ朝鮮半島の物資が一極集中して出るのです。
その中のごく一部の畿内型とやらを取り上げて騒いでいるのが畿内説。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:54:22.26
>>288
日帰りすればいいじゃん
0292日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:55:13.34
>>271
>九州だよ。邪馬壹国にはいない。

女王がどうして女王の都にいないの?
0293日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:55:18.40
そもそも当時の領土って何?
0294日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:56:09.03
>>247

尾張氏と物部氏は同祖なので、墓制も同じなのでしょう。
熱田神宮の近くにも大きな前方後円墳がありましたよねを
0295日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:57:13.33
>>253
違うというなら、纒向から出た楽浪土器の数を示したらどうですか?
0296日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:57:18.32
>>284
複合だよ。
東海・伊勢
若狭滋賀
阿波、大阪
吉備
唐古・鍵遺跡もある。
官名に副がいない。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:57:26.82
>>293
豪族達は持ってるでしょ
吉野ケ里にも王は居ただろうし
0298日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:58:34.59
>>254
魏志倭人伝には、邪馬台国では鉄を使うと書いてあるのに、纒向からは鉄が見つからず、人々は木器で土木工事をしていたことがわかっています。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:59:22.52
部民の居住地が国で、卑弥呼は直属の部民を持っていなかったってこと?何でそんなことわかるの?
0300日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 15:59:40.65
>>257
魏志倭人伝を読み直した方がいいですね。
邪馬台国が、倭国女王である卑弥呼のいた都です。
邪馬台国の都という表現はありません。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:00:55.01
>>295
意味不明
邪馬壹国に楽浪土器が豊富にあるとは書いていない。
女王国の一部である九州にあるだろう。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:01:04.20
>>299
祈祷師が領土を持ってるのか?
0303日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:01:28.17
>>261

> >>258
> 倭国はまだ成立していない

畿内説は見苦しくなってきましたね。
倭国は後漢の頃から帥升らが朝貢していましたよ。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:03:00.29
>>288
>河内型の土器がごくわずかしか出ていないからですよ。

全く理由になってない。
すぐ近所の人が飯炊き甕持参で来る意味がわからないし
そもそも同じ畿内第V様式の土器や分化前の初期型庄内式を持って来てたら区別がつかない。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:03:04.21
>>300
居た記載もない
都となる所、
0306日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:03:32.70
>>262

伊勢の土器があって河内の土器がない理由になりません。
しかも日帰り圏の外の土器のほとんどが東海に限られます。
北陸などその他の地域の土器は、地理的配置から全て東海経由と思われます。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:04:25.94
>>303
>倭国は後漢の頃から帥升らが朝貢していましたよ。

それは本当に倭国だった可能性が低い
0308日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:04:36.25
>>302
少なくとも宮殿があって、兵士がいて、召使1000人ぐらいいて、殉葬もあったんだろ。誰がそれ出したの。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:05:37.76
>>306
北陸から何故東海経由かわけわからん
0310日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:05:48.27
>>271

魏志倭人伝では邪馬台国は女王が京都を置くところとされているので、それなら九州が邪馬台国です。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:06:25.38
>>270

> >>222
> 近畿では王宮移転なんか珍しくない

纒向纒向言っている畿内説の人に教えてやってください。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:06:52.71
>>305
>居た記載もない

じゃあ、なんで女王の都する所なの?
0313日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:07:19.08
>>308
卑弥呼に仕えてそいつらに何の得があるんだ?
0314日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:07:46.42
>>273

そこは出雲の神奈月というべきです。
稲の収穫が終わった秋の祭りなので、弥生稲作文化の一部です。
後の新嘗祭の原型でしょう。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:08:20.87
>>311
纒向も百年ほどで捨てられてるでしょ
0316日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:08:52.21
>>311
知ってるから教わる必要ないよ
0317日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:09:03.51
>>280

上古において、祭祀と政治の区別はなかったでしょう。
どちらもまつりごとなのだから。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:09:08.09
>>264 板野に居たの
>粟で力を蓄えた忌部が、畿内王朝

畿内王朝の痕跡はあるのか? お前の妄想なのか? 言うてみい。  わははははは   @阿波
0319日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:09:51.39
>>308
奴国だろうな。
卑弥呼が共立され九州へ
共立王になる前
近畿から布教活動、
副官 卑奴母離
0320日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:09:57.03
>>286

纒向遺跡への搬入土器(全体の15%)の出身地割合
伊勢・尾張系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合、纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
尾張氏は饒速日の末裔であり、記紀では大和も饒速日の支配下であったとされる。
邪馬台国とは関係ない。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:12:41.00
>>296
すべて魏志倭人伝にでない地名
少なくとも郡使の視野に九州以外の西日本はほとんど入っていない。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:13:16.73
>>320
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方

そういう記述はない。
女王国の一部である九州の事
0323日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:13:45.78
>>320
なに勝手に筑紫とか言ってんの?
0324日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:13:53.52
>>301

逆に、九州北部以外が女王国に含まれたという証拠がない。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:14:27.07
>>313
当時の属民に損得で帰属先を選択できる自由なんてあったのか?
0326日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:14:39.75
>>304
纒向から河内へ当時の交通事情で日帰りできますか?
0327日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:15:37.24
>>321
だから邪馬壹国は遠方。
水行、と大雑把。
卑弥呼が重要であって邪馬壹国行っていない
0328日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:16:52.00
>>325
そら部下が全く居ないとは言わんけど王になる前は領土がないんでしょ
養えないじゃん
0329日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:17:22.59
>>324
丹、橘、糸魚川の翡翠
とあるが?
0330日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:18:28.91
>>328
そこらの馬の骨連れてきたわけでもあるまいし、卑弥呼だって基本は王族の誰かでしょう
0331日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:18:29.13
>>326
弁当持参で来ればいいんじゃないか
0332日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:18:46.70
>>304
あなたに区別できなくても、学者は区別しています。
文句があるなら他のデータを示すべきです。
あなたの妄想や思い込みは無意味です。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:19:35.77
稲部遺跡、曽根遺跡 阿波にも鉄
さてどこから?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:19:59.59
>>330
王族の誰かで領土あるの?
てか何の為に卑弥呼に仕えるんだ?
0335日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:20:11.89
>>307

あらゆる史書を否定しなければいけないなら、ラノベ板にでも行ったらどうですか?
0336日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:20:51.30
卑弥呼は女王に擁立された時点で出身一族の長者にはなっているはず。争いが起こらなかったのは、卑弥呼が既に高齢で王統の始祖になり得なかったから。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:23:43.25
>>322

畿内説は本当に魏志倭人伝を読み直した方がいいと思いますよ。
卑弥呼の魏への朝貢は、帯方郡が仲介しました。
また、帯方郡からの郡使が伊都を訪れて魏からの金印を卑弥呼に渡しました。
卑弥呼と帯方郡(かつては楽浪郡の一部)が交流していたことは明記されています。
しかし纒向からは楽浪土器だ出ない。交流した証拠がない。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:26:39.70
>>337
別に無くてもいい。
一部だから。纏向説でなくて近畿説ですよ。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:27:46.90
>>336

狗奴国と争いになっているのと、即位してから少なくとも50年以上は治世があったので、あまり即位の時点で高齢とも言えなかったかと。
年長大は成年という程度の意味かと。
壹與が13歳で即位した話が続くので、それとの対比でしょう。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:28:15.74
>>337
土器なんて重くて割れやすいもの運搬しないでしょう。楽浪人が纏向まで行って定住しなければ、そりゃ出ませんよ。技術者集団の移住はもう少し後なんじゃないですか。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:28:30.50
>>338

で、近畿ではどれくらい楽浪土器が見つかっているのですか?
0342日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:28:59.05
>>336
そういう人物を共立で王にするかね?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:30:51.63
纒向には各地からの土器が運ばれて来ていたというのが畿内説の主張だったのに、各地というのが嘘で東海ばっかりだったことが指摘されると、途端に土器は運ばないと言い出す始末。
畿内説はまったく根拠なしだな。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:30:54.20
>>333
鉄器王国「阿波」から。   @阿波
0345日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:30:56.28
>>337
読んでるよ
伊都国ってどこなんだろうな?
0346日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:31:18.25
>>341
なんで楽浪土器にこだわるのか?
水行20日、10日だよ
鉄で十分。べつに多い少ないは関係ない。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:31:59.15
>>342

もともとは火の国あたりの女王だったのでは?
共立後は伊都国の近くに移動した。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:32:12.04
>>344
阿波の鉄はどこから?
0349日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:32:54.76
>>346

土器を根拠にしたのは畿内説なのに?
鉄でもいいですけどね。
纒向からはどれだけ鉄が出ていますか?
0350板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 16:33:29.89
>>318
畿内王朝の痕跡は、畿内一円あちこちにあって、掘ると遺跡が出ちゃうから、開発の障害となっている。奈良のような場所もある。

畿内王朝を否定するの日本の歴史を根底からひっくり返したい、いわばテロリスト見たいなものだよ。

阿波カルトとなづけても良いかも。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:33:48.34
>>287

何も誇張してないが?
>>234で搬入土器の内訳比率が書いてあるので
>>244で全体に占める割合を計算してあげたんだが
0352日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:34:36.78
>>336
>争いが起こらなかったのは、卑弥呼が

争いが起こらなかったのは、卑弥呼が優秀な鬼道使い(シャーマン)だったから。   @阿波
0353日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:34:53.71
>>349
だったら銅鐸を根拠にしようか?
伊勢遺跡だ
0354日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:34:59.36
>>339
50年も治世があったなんてどこかに書いてありましたっけ?確認できるの230年代後半~240年代ぐらいなのでは?
0355日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:35:07.48
>>349
近畿説と言っている。
なんで畿内説や纏向説になるんだ。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:35:21.09
>>350

畿内王朝にこだわるのは、大和に神武が即位したという日本書紀の一文に寄りかかった皇国史観そのものですよね?
時代錯誤なんですよ。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:35:32.52
>>306
>伊勢の土器があって河内の土器がない理由になりません。

なるだろ
距離が2.5倍だ
伊勢は日帰りじゃない
0358日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:36:05.21
>>351

博多における畿内型土器の割合も出すべきです。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:37:47.11
>>354

180年台の倭国の乱を治めるために卑弥呼が共立されたとあります。
200年より後ということもないでしょう。
1世代も時間か空くとは思えない。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:38:25.84
>>353
吉野ヶ里からの出土もあるな
交流はある。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:39:37.24
>>353

土器がダメなら鉄
鉄がダメなら銅鐸
畿内説は追い込まれて来ましたね
魏志倭人伝には、九州で多く出土する銅鏡や鉄鏃は書かれていますが、銅鐸については記載がありません
ますます近畿が邪馬台国とは関係ない地域だということが分かります
0362日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:40:08.89
>>358

纏向遺跡の搬入土器の割合を書いたのは>>234
博多の畿内系土器の割合を出すべき理由は何?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:41:11.02
>>338
>纏向説でなくて近畿説ですよ。

しまいには、畿内から近畿一帯へ拡大かよww

たかだか一国だけの「阿波」からハンディもらい過ぎだろうがよ。 情けない。  

いかに根拠に乏しいトンデモ説なのかがよく分かる。   @阿波
0364日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:41:50.33
>>357

> >>306
> >伊勢の土器があって河内の土器がない理由になりません。
>
> なるだろ
> 距離が2.5倍だ
> 伊勢は日帰りじゃない

纒向から河内へ、弥生時代に日帰りできたのですか?
0365日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:42:38.94
>>348
何回も言わすな!   @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:43:02.56
>>359
なるほど。当時、同一人物の統治が50年以上も続いたというのは俄に信じがたいですが、理屈はわかりました。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:43:09.12
>>363
可7万戸でせ。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:43:23.96
>>245

> 3世紀前半に博多で模倣制作してるのは大和型庄内甕

これは何のために書いたのか?
0369日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:44:28.41
>>350 板野に居たの

能書きはいらん!

結論:畿内王朝の痕跡は無い。   @阿波
0370日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:44:43.29
>>363
それ 飽きた
何回も書いていいぞ
0372日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:45:04.55
伊勢遺跡と吉野ケ里遺跡は交流があるみたい
吉野ケ里の王が伊勢遺跡の会合に来てたんでしょ
時代は合致するし
0374日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:46:58.42
>>366

いちおう、纒向遺跡の主人と思われる崇神天皇も、治世は68年あるのですよ。
纒向遺跡がおよそ100年で使われなくなったというのも、崇神天皇の宮ならおよそ一致します。
つまり邪馬台国とは関係ない。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:48:21.09
>>343
>纒向には各地からの土器が運ばれて来ていたというのが畿内説の主張だったのに、各地というのが嘘で東海ばっかりだったことが指摘されると、途端に土器は運ばないと言い出す始末。

各地というのは本当だが?
土器は普通運ばないのも本当
纏向まで行って定住した人が持ってきたり纒向で作ったりした生活必需品だと言っている
0377日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:48:23.34
>>371

頭から疑えというわけではないのですよ。
しかし微塵の疑いもなく、後漢書や魏志倭人伝と食い違う皇国史観を頭から盲信するのは、学者として恥ずかしい。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:50:01.59
>>375

博多から出土する土器のうち、畿内型はどれくらいの割合が聞いているのです。
何のために博多でも畿内型土器を作っていると書いたのですか?
0379日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:50:03.09
>>374
記紀盲信は皇国主義
0380日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:50:37.00
>>376

纒向には東海からしか人がこなかったということですよ。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:51:57.28
>>372
>伊勢遺跡と吉野ケ里遺跡は交流があるみたい

証拠は?
0382日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:52:22.43
>>379

崇神天皇からは実在性があるというのが一般的な見解。
そして記紀の記述に沿った配置の宮である纒向遺跡が見つかったのですよ。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:52:34.35
>>372
吉野ヶ里ではないが
有明海沿いに弥生時代後期のト骨の出土がある。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:53:35.56
>>378

博多から出土する全土器のうちの畿内系の割合などというデータは見たことない

比恵・那珂の首長墓への土器供献は、
①在来系主体+「B系統」少数(ⅠA期の比恵 120 次周溝墓)
→②在来系+畿内系(B・C系統)半々(ⅠB期古相の比恵 36 次周溝墓)
→③畿内系(B・C系統)主体+在来系少数(ⅠB期新相の比恵6次ほか比恵1号墳、那珂八幡古墳)
→④畿内系土器群(C・D系統)のみ(ⅡA期の那珂 62 次 SX028 周溝墓ほか)、という段階を経ている(久住)

B系統 畿内第Ⅴ様式
C系統 庄内系
D系統 布留系
0386日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:54:12.63
吉野ヶ里からは伊勢遺跡の大国主による新嘗祭に出席して、お土産に銅鐸を持って帰ったのかもしれませんね。
しかし吉野ヶ里では他の青銅器を製作しても、銅鐸は製造しなかったようです。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:54:17.05
>>378
>何のために博多でも畿内型土器を作っていると書いたのですか?

それを使って首長が祖先祭祀をやってるから畿内政権傘下とわかるので
0388日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:56:02.20
>>381
銅鐸があるし昨日貼ってあった吉野ケ里出土の土器は守山で出土したのと同形
前方後円墳とか近畿の文化が入ってるでしょ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:56:30.85
>>386
銅、鉄そのもの流通から考えると
九州は重要。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 16:57:36.07
>>382
>そして記紀の記述に沿った配置の宮である纒向遺跡が見つかったのですよ。

「記紀の記述に沿った配置」って、何?
0391日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:01:28.81
>>380
>纒向には東海からしか人がこなかったということですよ。

なぜそんなウソを?
外来系土器の過半数は東海以外
0392日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:04:53.92
鉄とか銅とか日本海側は独自に入手してるでしょう
0393日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:04:54.71
>>388
>昨日貼ってあった吉野ケ里出土の土器は守山で出土したのと同形

どこに貼ってある?
なに式土器?
0394日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:05:23.16
>>371 板野に居たの
>畿内王朝の存在を頭ら疑ってる歴史学者も居ない。

お前の軽薄さがよく出ているのう。  わははははは   @阿波
0396日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:08:21.93
>>298
>纒向からは鉄が見つからず

ホケノ山からたくさん出てるが?
0397日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:09:03.56
>>392
日本海側の鉄や銅はどこから?
0398日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:10:21.32
>>388
>前方後円墳とか近畿の文化が入ってるでしょ

どこから?
吉野ヶ里には前方後円墳は無い
0399日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:10:26.44
>>396
当然だよ。
宗教地でもあるから野ざらしにはしない。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:10:44.49
>>387

祭祀で使ったという根拠となる遺跡はどれですか?
魏志倭人伝では奴国はあまり重要視されていませんが、奴国にたまたまいた畿内出身者の祭祀ではありませんか?
0401日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:10:53.65
>>397
海流に流されて
対馬からだと頑張って九州に向かうより楽でしょう
0402日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:11:35.62
>>391

約半数は東海です。
誇張しないように。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:12:01.13
>>392

> 鉄とか銅とか日本海側は独自に入手してるでしょう

どのルートで?
無理だと思いますよ。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:12:13.77
>>403
>>401
0405日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:12:16.30
>>401
水や食料どうすんの?
0406日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:12:52.50
>>397
博多経由でしょう。
纒向には分けなかったようだすが。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:13:45.77
>>405
海流に流されてだしそんなにかからないでしょ
0408日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:14:31.42
>>396

ホケノは何世紀ですか?
ホケノの墓制が魏志倭人伝と異なるから、むしろ邪馬台国と関係ないと思いますよ。
畿内説はボロボロですね。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:15:31.50
>>401

行きはどうするんですか?
0410日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:16:12.91
>>409
しんどいでしょう
0411日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:16:34.00
>>399
宗教地だという根拠は?
桃の種と鰯の頭?
0412日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:16:40.17
>>388
>前方後円墳とか近畿の文化が入ってるでしょ

近畿にそんな文化の発祥は無い!   @阿波
0413日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:18:11.83
>>411
その後でっかい古墳ができる。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:18:38.07
>>410
というか無理でしょう。
鉄や銅の輸入のために往復するのは、博多から壱岐津島経由しか不可能。
出雲や越など日本海沿岸は筑紫と交流していたけれど、纒向は無関係。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:19:13.87
>>413
後世を持ち出しても意味がない。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:19:31.09
>>414
直進も結構しんどいぞ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:20:29.93
>>414
邪馬壹国近畿説では無問題。
たんにそういう地域があるだけだな
0418日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:21:17.98
>>399

古墳造りのための木の工作道具は見つかっているのですよ。
しかし鉄器がない。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:22:10.39
>>416
しんどいですが、魏志倭人伝では実際にそのルートが使われていたことがわかります。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:22:22.93
>>415
なんで?下地がなくいきなりですか?
0421日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:22:56.91
>>418
纏向も出て行くとき片付けたんじゃないか?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:23:11.09
>>417

では、近畿の中で卑弥呼はどこにいたのですか?
0423日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:23:36.46
>>418
古墳から出てくるよ。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:24:01.29
>>421
木器は片付けなかった?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:24:23.83
>>420
年代前倒し詐欺?
0426日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:24:24.87
>>419
俺は帯方郡→投馬国→邪馬台国だと言っているだろ
0427日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:25:01.53
>>423
どこの古墳?
何年ごろの古墳?
0428日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:25:28.31
邪馬台国って古墳時代?
畿内説はなぜ古墳時代の話しかできないの?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:26:06.59
>>428
伊勢遺跡は弥生末期
0430日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:26:18.45
>>395
それは弥生終末の層から出たものだから時代が合わないな
0431日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:26:55.30
>>422
どこだろうな?琵琶湖周辺かな
共立で九州にいる。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:26:56.02
>>430
何故?
0433日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:29:18.76
>>400
>祭祀で使ったという根拠となる遺跡はどれですか?

那珂八幡ほか
0434日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:30:06.30
>>427
ホケノ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:31:26.09
>>432
弥生終末だから
「吉野ケ里の王が伊勢遺跡の会合に来てたんでしょ
時代は合致するし」
がウソ
0436日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:32:25.24
>>435
何故かわかんない
どれくらいズレてる?
0437日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:32:54.09
>>431
それ、卑弥呼が都とする邪馬台国は九州と言っているのと同義ですよ。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:33:45.23
>>434

で、ホケノは卑弥呼が亡くなった247年より前に作られたと?
0439日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:34:18.93
>>408
>ホケノは何世紀ですか?

三世紀第2四半期

>ホケノの墓制が魏志倭人伝と異なるから、むしろ邪馬台国と関係ないと思いますよ。

異ならないけど?
0440日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:35:17.26
>>437
全然、違うよ。
邪馬壹国も女王国の一部
0441日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:35:25.53
>>437
だってそいつ九州説だもん
0442日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:37:12.11
>>428
>邪馬台国って古墳時代?

そうだね
0443日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:38:19.44
>>439
纏向遺跡は何世紀ですか?   @阿波
0444日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:39:11.21
>>439
阿保過ぎる。
弥生末期に使っていたもの三世紀第2四半期
の墓に収めた。奉納。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:39:22.20
>>424
>木器は片付けなかった?

壊して捨てる儀式に使った
0446日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:41:34.18
>>411
>宗教地だという根拠は?

纒向型土壙祭祀がずっと行われている
0447板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 17:42:19.48
>>394
内野に反論できなくなると個人攻撃、ワンパターンやな、おまはんも。

いつもの事なんですが、残念としか言いようが無い。
もっと勉強しなはれ。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:42:57.05
>>356
もし神話の世界の天皇が実在して、古代の天皇と同じくらいの在位期間と仮定して逆算すると
神武天皇の東遷は3世紀の後半
卑弥呼のあとになる
邪馬台国は九州にあったが東遷で畿内に移動した、あるいは分裂して九州と畿内の両方になったが九州は滅ぼされた、と考えたらしっくりくる
0449日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:44:14.49
>>441
邪馬壹国は近畿だよ。なので近畿説。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:44:29.50
>>448
しっくり来ないよ痕跡は?
0451日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:45:27.63
>>447 板野に居たの
>畿内王朝の存在を頭ら疑ってる歴史学者も居ない。

お前の軽薄さがよく出ているのう。  

畿内王朝の存在を示せんくせに。  わははははは   @阿波
0452日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:48:34.08
>>332
>あなたに区別できなくても、学者は区別しています。

できないよ
まだ未分化だもの
庄内式の分化が庄内II以降
第V様式は同じ
0453日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:50:37.98
>>448
九州説って皇国史観だね
0454日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:52:30.64
>>453
>九州説って皇国史観だね

板野は自虐売郷史観だがな。  わははははは   @阿波
0455日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:54:19.88
>>444
令和に墓つくって
江戸時代の壺、収める事もできる。
中に収めるもんと墓築は同時代とは限らない
0456日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:56:44.35
>>455
だな。サンキュー
0457日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 17:57:46.96
>>436
>何故かわかんない

歴史知識ゼロ?
伊勢遺跡の大型建物は弥生後期で終わり
2世紀末まで
吉野ヶ里の内郭はそのあと弥生終末で終わり
Ib期が崩壊の時期
0458日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:00:51.17
>>444
>阿保過ぎる。
>弥生末期に使っていたもの三世紀第2四半期
>の墓に収めた。奉納。
>を

何言ってるのかわからない
日本語になっていない
0459日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:01:06.31
>>457
その土器いつ手に入れたの?
0460日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:10:43.73
>>439

木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む。
石囲い木槨(割竹形木槨)を持つことが『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし。」という記述と矛盾する。
仮にホケノが卑弥呼の時代であったとしても、墓制が魏志倭人伝の記述と異なるため、畿内が邪馬台国と関係ないという証明になってしまう。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:11:32.59
>>361
>土器がダメなら鉄
>鉄がダメなら銅鐸
>畿内説は追い込まれて来ましたね

だからそいつ畿内説じゃないってば
卑弥呼は九州にいたと言っている
0462日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:12:03.55
畿内説にかかるとゴミ捨て場がすべて祭祀場になだてしまう。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:12:37.48
>>446

それが祭祀だったという根拠は?
どのような祭祀だった?
0464日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:14:11.13
>>448

仮に神武がいたら、実年代は200年頃だと思います。
倭国大乱で筑紫を出たのかもしれません。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:15:27.17
>>452

纒向遺跡の報告書を書いた研究所に文句を言いなよ。
彼らは区別できるとして報告しているのだから。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:15:30.77
>>464
魏志倭人伝に筑紫はない
0467日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:16:48.88
>>457

時代区分は地域によりズレがあるからね。
どちらも卑弥呼の時代の直前に終わるということです。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:18:09.11
>>457

あと、吉野ヶ里は崩壊ではありません。
平和的解散で、片付けていなくなりました。
崩壊とう用語を用いるのは、事実と異なるあなたの主観が入っています。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:21:10.38
>>466

記紀ではその時代より以前から筑紫の語を用いているし、いやなら福岡県と書き直してもいいけど、大和とか河内とかと矛盾するだろ?
歴史上の地域名としてはやはり筑紫が一番しっくりする。
それよりも畿内とか近畿とかとあう用語も魏志倭人伝には出てこないのだけど?
ダブルスタンダード?
0470日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:21:41.57
>>335
>あらゆる史書を否定しなければいけないなら、ラノベ板にでも行ったらどうですか?

いいや
倭国王帥升は信憑性が低い

倭国王本人が来るのもおかしいし
倭国王帥升等と集団になってて変
史料も倭面土国王とか色々ある
倭国の主帥の「升」だという説もある
安帝は後漢ドン底時代の皇帝で、東夷の朝貢自体怪しい
0471日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:23:11.54
>>469
大和あるし
0472日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:23:19.53
纒向遺跡の建築

日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。

纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。

黒田龍二

結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
邪馬台国とは関係ない。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:25:19.00
>>470
王が朝貢に行かない方が普通じゃないでしょ
0474日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:25:29.30
>>468
中心だった内郭取り壊して余所者の墓が作られる
これが崩壊でなくて、何?
0475日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:26:44.74
後漢書も魏志倭人伝も日本書紀も否定して、畿内説は妄想を繰り広げようというのか。
それはもはや邪馬台国でも何でもない。
ラノベだ。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:27:05.28
>>472
根拠脆弱すぎ
0477日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:28:01.78
>>474
出ていった後は別の用途につかわれてるよ
伊勢遺跡だってそうだし
0478日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:28:30.73
>>474

片付けて誰もいなくなった場所の再利用。
吉野ヶ里そのものはきちんと片付けられている。
前方後円墳が作られたのはかなり後だということがわかる。
卑弥呼と前方後円墳の時代は重ならないんだよ。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:32:25.04
>>476

あやたは建築の専門家なの?
反論があるなら具体的にどうぞ。
それとも理解できないだけ?
0480日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:34:28.79
纒向遺跡だってその土地は他の目的に転用されている。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:36:36.20
吉野ヶ里も片付けて出て行ったのか
普通に生活してただろうに何故そんなことしたんだろう?
0482日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:36:51.93
纒向遺跡は、石上神宮や大神神社のような永世の宗教的聖地ではなく、一代限りの施設だった。
ちなみに崇神天皇の宮は65年間使われた。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:39:21.55
>>471
大和は使っていない
同等とは思っていない
邪馬壹国と現代での地域のみ。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:41:00.15
>>483
何言ってんのかわからん
0485日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:42:25.36
>>463
纒向特有の土壙祭祀
湧水層まで穴を掘り
お供物の山海の珍味や、剣や弓の模型、ミニチュア土器など壊して焼いて埋めている
祭祀土壙というのが定説
0486日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:44:50.65
倭国王帥の升等(トラ)やろうね
0487日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:45:16.61
>>478
>前方後円墳が作られたのはかなり後だということがわかる。

吉野ヶ里に前方後円墳なんて無いよ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:46:31.07
>>447 板野に居たの
>畿内王朝の存在を頭ら疑ってる歴史学者も居ない。

お前の軽薄さがよく出ているのう。  

畿内王朝の存在も示せんくせに、自虐売郷史観ではある。  わははははは   @阿波
0489日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:47:06.20
だから漢字を使うとややこしいのよ
ヤマトだしツクシだし
0490日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:48:31.34
>>475
否定している学説がある以上
まるっと信じるのは学問じゃない
0491日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:51:58.79
>>477
>出ていった後は別の用途につかわれてるよ

いや
すごく人口が減って集落は続いてる
そして余所者に支配された
コレが崩壊だよ
0492日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:54:47.39
>>479
>あやたは建築の専門家なの?

関係ないやん
素人のあんたの結論が根拠脆弱なのは誰でもわかるやろ
0493日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 18:56:49.12
>>473
>王が朝貢に行かない方が普通じゃないでしょ

じゃ、自分で朝貢に行った王の名前をいっぱい挙げてね
普通なんだから何十人もいるよね?
0494日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:00:09.40
>>493
日本は遠いから特別扱いで他の国は定期的に王が行かなきゃいけないと読んだ気が
0495日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:03:26.72
日本も本当は王が行かなきゃいけないけど無視してたんじゃなかったかな
0496日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:09:13.37
>>465
>纒向遺跡の報告書を書いた研究所に文句を言いなよ。

40年以上前の報告書に文句つけても意味ないし
分化前のものが区別できないのは当たり前

>彼らは区別できるとして報告しているのだから。

外来だと区別できたものを報告しただけ
北部九州産の庄内式も出ているが区罰できていない
まだそんなもんあるって分かっていない頃だから
0497日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:11:46.54
>>485

貧弱で後世に影響を与えなかった田舎の祭りか。
魏にまでその名が届いた倭国女王のものじゃないな。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:15:21.48
この前、滋賀に行ったんだけど、伊勢遺跡って三上山の川を挟んだすぐ麓なんだな。
三上山は典型的神奈備(円錐状の山)で中腹から銅鐸も出ているようだ。
多分、銅鐸が出た所は水源があるはず。
あと庚申と書いた表示が目立った。
庚申というのは荒神(こうじん)が訛ったものだろうし、出雲系を祀ってるのか。

銅鐸自体が弥生時代に出雲から畿内へ大量拡散してるから、出雲系祭祀ともいえる。
この辺りを支配した三上祝は出雲系かもしれない。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:15:22.76
卑弥呼だったら、本物の剣を使って祭祀をすればいいわけだし。
例えば、もし平原遺跡が卑弥呼の墓なら、世界最大の八咫の鏡と、鉄剣を使って祭祀をしただろう。
なんだよミニチュアって。
纒向遺跡って本当に貧弱だな。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:16:23.54
>>490
魏志倭人伝を否定して邪馬台国を語るなんて、馬鹿げている。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:16:58.20
>>491

人口が減ったのは、出て行ったからだよ。
馬鹿なの?
0502日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:19:15.44
>>496

だったら代わりのデータを出しなよ。
データを示せるものだけがものを言うことができる。
それが科学だ。
そして文献の解釈によるものが史学だ。
畿内説はどちらでもない。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:23:41.02
安の河原を挟んで御神山の麓に伊勢遺跡はある
と書けば有難みもでるか
0504日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:24:32.30
>>469
>記紀ではその時代より以前から筑紫の語を用いているし

和銅6年(713年)の「好字二字令」によって、後世に多大な誤解を招いた。   
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0505日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:28:59.58
>>504
だな。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:28:59.65
纒向遺跡は、本殿に相当する建物は一つしかない。
伊勢遺跡は、それが20も円周上に配置されていた。
首長層が集まる場であり、それこそここが実は出雲でしたと言われれば納得できるくらいだ。
地理的にも、日本海と瀬戸内海をつなぐ淀川水系の要所となる。
それと比べると、纒向はいかにも貧弱で、地理的にも不利だ。
弥生時代の主力交通であった河川水行のアクセスの悪さは地名的とも言える。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:30:21.80
>>505
それより古い地名が知られていないから、しょうがなくないか?
邪馬台国とでも呼べばいいのか?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:30:54.03
>>506
訂正
致命的とも言える。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:31:13.33
>>506
訂正
致命的とも言える。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:31:18.41
>弥生時代までは小型犬が主流で、今回は中大級に該当し、
>古墳時代になって大陸からもたらされた可能性を示すという。

纏向遺跡は古墳時代のようですな。  わははははは   @阿波
0511日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:33:07.52
>>507
>それより古い地名が知られていないから、しょうがなくないか?

このように、
和銅6年(713年)の「好字二字令」によって、後世に多大な誤解を招いた。   
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0512日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:38:25.18
>>494
あなたの根拠は「気がする」だけ?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:40:14.34
地名は何か根拠がないと後付けの可能性があるからそれ自体を根拠にされてもな
神社の由来もそうなんだけど
0514日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:40:56.03
>>512
はい
調べてみて
0515日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:42:13.02
つまり、筑紫というのは、九州を表しているんじゃないの?
筑紫がある九州の日向国って言う意味では?
0516日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:44:09.80
>>515
>つまり、筑紫というのは、九州を表しているんじゃないの?

このように、
和銅6年(713年)の「好字二字令」によって、後世に多大な誤解を招いた。   
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0517日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:44:53.11
>>513
奈良県を大和と呼ぶのがまさにそれ。
大和だから邪馬台国だなどと、根拠になってない。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:45:02.40
阿蘇も磯城も飛鳥も出雲も伊勢も日向も筑紫も大津も吉野も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。

その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0519日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:46:55.68
>>515

宮崎県を日向国と呼ぶのは、景行天皇の命名。
しかし筑紫の日向は伊奘諾まで遡ります。
筑紫の日向の小戸で伊奘諾が禊をし、それが福岡市の小戸とされているので、筑紫はやはり福岡県。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:47:58.96
>>517
それは邪馬台をどう読むかってはなし
0521日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:48:12.35
>>511
だな。違う時代の地名と
魏志倭人伝に出てくる国々

広さも範囲も違うと思う
筑紫と言われてもな。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:48:12.89
そもそも、律令制以前の九州は筑紫と肥国、豊国、熊襲と分類されています。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:49:17.77
>>521
九州北部と呼べば解決しますか?
畿内は何と呼びますか?
奈良県は何と呼びますか?
0524日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:50:46.66
>>523
それでいい。北部あたりでいいよ。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:51:00.19
>>519
>宮崎県を日向国と呼ぶのは、景行天皇の命名。

記紀に日向「国」などどこにも書かれていない。   @阿波
0526日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:53:39.02
ずいぶん前に書いたんだけど対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国は
阿蘇の蘇の字が入ってるから阿蘇の近くだと言ってるのがいたけど
いやいやアソだから
0527日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 19:54:59.56
>>523
>奈良県は何と呼びますか?

「有國皆倭種」   @阿波
0528日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:03:35.25
地名を根拠にする場合カタカナで書け
文字がないんだから
0529日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:05:13.24
>>526
単にソを中国人が漢字を当てただけです。
個人的には華奴蘇奴国は吉野ヶ里ですけど。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:06:01.65
>>527
それ、阿波を含みますよ。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:11:05.24
>>529
へえ、カナザワの原型(金沢)範囲は翡翠が出る糸魚川。まあそれぞれ。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:14:52.37
カナザワは越の国。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:16:44.70
>>532
律令制ではな。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:23:25.66
筑紫と言っても、日向と言っても、
それがダイレクトに国名を指すかどうかはわかりませんよね。
文学と地理学の素養が要ります。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:23:35.45
華奴蘇奴は華奴蘇岐(かぬさき)の誤記で神埼、つまり吉野ヶ里ですよ
0536日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:26:16.86
>>535
なるほど。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:26:24.05
例えば、日向二字だけでは、
それが国名をあらわすのか、日向灘を表すのか、
日向夏を表すのか、
日向高千穂を表すのか、
日向霧島神宮を表すのか、
はたまた神武天皇を表すのか、
わかりません。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:29:07.77
>>535
筑紫は都支国かな?
0539日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:32:04.08
阿波岐原というだけで、それは阿波徳島ということがわかりますね
0540日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:33:55.37
>>502
>だったら代わりのデータを出しなよ。

大和型と河内型が未分化の初期型庄内甕と区別つかない畿内第V様式は、庄内I期には纒向で出る畿内系土器の75%を占めている
大和型と河内型が分化すると40%と少しまで落ちるが、河内型も8%出ている
三世紀中葉の纒向3式期には河内産は外来土器の20%近くに増え、東海系は30%少しまで減るが中勢のものである。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:36:58.07
>>537
「日向」や「出雲」は、地名などではなく、ある方角をさしているんだろう。   @阿波
0542日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:41:24.00
>>539
記紀ですね。魏志倭人伝に比類の国はない
0543日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:43:20.19
>>539
あほw
0544板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 20:48:08.38
>>539
それはどうかな?

少なくとも今の徳島県阿南市は、古代は粟国では無く、長国だったので、
阿波岐原を、徳島県の県南に比定するのは誤りです。

徳島の北部、旧粟国内に阿波岐原を比定した説を、私は見たことありません。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 20:58:05.74
>>544 板野に居たの

そんなことより、

畿内王朝の痕跡を言うてみい。  わははははは   @阿波
0547日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:00:32.75
>>517
>大和だから邪馬台国だなどと、根拠になってない。

畿内説には関係ない話だな
0548日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:03:31.46
九州の外に筑紫の日向の小戸の阿波木原を求めようとしても無駄だろうに…
0549日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:05:42.71
>>548
>九州の外に筑紫の日向の小戸の阿波木原を求めようとしても無駄だろうに…

このように、
和銅6年(713年)の「好字二字令」によって、後世に多大な誤解を招いた。   
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0550日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:13:09.90
>>549
だな。筑紫も邪馬壹国と関係ない。
0551板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 21:14:16.73
珍しく気があうな。
>
> このように、
> 和銅6年(713年)の「好字二字令」によって、後世に多大な誤解を招いた。   
> その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0552日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:17:25.52
>>543
お前の書き込み方だと、
ユダヤ教徒の筑紫黄帝というのがバレバレだな
お前、まだ邪馬台国研究してるんだな
0554日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:19:02.40
>>551 板野に居たの
なんの痕跡も無いくせに、畿内王朝などと、たわけた事をほざく、自虐売郷奴といっしょにすな! 汚らわしい!   @阿波
0556日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:24:20.46
>>501
>人口が減ったのは、出て行ったからだよ。

つまり崩壊した
0557日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:26:25.21
>>555

アホの大物主バカしかいない閑古鳥スレ!  わははははは   @阿波
0558日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:26:26.54
日向って難しい言葉ですね
筑紫の日向で
四国を表すんですね。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:28:18.98
>>556

卑弥呼の元でより大きな国を作るためだろ。
吉野ヶ里はもともと周辺都市を従えた中枢都市だったから、卑弥呼共立の立役者の一つ。
卑弥呼政権成立と同時に吉野ヶ里は放棄され、一族は邪馬台国に集結したんだよ。
もしかすると、吉野ヶ里こそ卑弥呼共立前の肥国の王都であったかもしれない。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:29:42.32
>>494
>日本は遠いから特別扱いで他の国は定期的に王が行かなきゃいけないと読んだ気が

なら、倭国王帥升本人が直接行ったらおかしいよね?
0561日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:30:14.49
吉野ヶ里の墓域は近代まで安全に保護されてきた。
特にその中心部分は、21世紀になっても神社として守られた聖域のままだった。
今年、ようやく神社が移転して、吉野ヶ里遺跡の墓域の中心部に考古学の研究のメスが入る。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:35:48.68
>>557
阿波説論者がビビって来ないからなwww
間違いが確定した阿波説をいつまでやるの?
0563日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:38:49.52
>>559
伊都国かも?
0564日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:38:50.54
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原
橘が古語で四国という意味でしょうかね
0565日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:40:34.03
小戸を港と教えてもらってから、理解がどんどん進んだなあ
ありがとうございます
0566日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:42:10.57
古語がわからなけれれば、わからないわけです。
だって、天津祝詞なんですから。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:43:37.01
悪側は、
スーパーコンピューターに、
古語大百科事典をインプットした方がいい
0568日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:43:38.61
>>560

通訳のミスで帥升は倭王扱いされたが、本当はナンバーツーの太宰の帥だったのだろうと思っている。
倭王は博多湾沿岸にいた。
金印をもらった倭奴国王も博多湾沿岸にいた。
倭とは、博多湾沿岸のことに他ならない。
卑弥呼もまた倭の女王であった。
倭王帥升の朝貢は107年。
倭王卑弥呼の即位はおよそ190年頃である。
魏の郡使がわざわざ邪馬台国を訪れたのは、朝貢して来た卑弥呼が本当に帥升や倭奴国王の後継であるのかを確認する意味があったはず。
そこで、倭までの詳しい里程と、後漢末から卑弥呼共立までの国内事情を報告したのである。
邪馬台国か博多湾沿岸でなかった場合、卑弥呼が倭王帥升の後裔であり真の倭王であることを証明するものはなくなってしまう。
だからこそ、倭の王都までの里程が詳しく記録されている。
そしてその記録は伊都国奴国不弥国という福岡県内の地名で終わっている。
0569板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 21:46:53.86
阿波岐原を、粟でも無い、長国の橘湾付近に比定するのは誤りである、と明確に意見が一致しただけでも、本日は大きな成果が有りました。

日本@名無史さん(中略)@阿波氏も、きっと喜んでいる事でしょう。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 21:57:58.08
160人の生口を献上して金印がない理由として明白だな。存在しないから。
0572日本@名無史さん
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2022/08/17(水) 21:58:57.73
>>565
筑紫の日向の小戸で生まれた住吉の神を祭る博多住吉神社は、博多古図によるともともとは今より海沿いの岬にあったそうです。
この博多湾に突き出た岬が立ち鼻、つまり橘です。
それより東の大戸が後の那津、博多港です。
では西側の小戸は何かというと、糸島側なので、伊都国の港なんですね。
伊奘諾が黄泉の国から帰ってきて禊ぎをしたのは、王都である伊都国の港にたどり着いて水浴びをしたということです。
筑紫の日向の橘の小戸は、伊都国の港のことです。
0573日本@名無史さん
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2022/08/17(水) 21:59:41.11
>>569 板野に居たの
そんなことより、

なんの痕跡も無いくせに、畿内王朝などと、たわけた事をほざくな、自虐売郷奴! 汚らわしい!   @阿波
0574日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:02:45.47
>>572
>筑紫の日向の橘の小戸は、伊都国の港のことです。

このように、
和銅6年(713年)の「好字二字令」によって、後世に多大な誤解を招いた。   
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波
0575日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:03:41.61
>>572
筑紫国になにか古代遺跡群でもあるの?
そりゃ、少しはあるだろうけど・・・
0576板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 22:05:21.21
つまり、当時阿波でも無い長国の橘湾に阿波岐原などある訳無いって事ですね。

スッキリしました。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:07:16.98
>>575
福岡平野はどこを掘っても遺跡に当たります。
三種の神器を副葬された倭王の墓がいくつも見つかります。
魏志倭人伝では、東夷で最大の国邑です。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:07:31.62
>>576 板野に居たの

そんなことより、

なんの痕跡も無いくせに、畿内王朝などと、たわけた事をほざくな、自虐売郷奴! 汚らわしい!   @阿波
0579日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:09:53.26
>>577
>三種の神器を副葬された倭王の墓がいくつも見つかります。

あるのは凡庸なお墓ばかり。   @阿波
0580日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:09:58.98
郡使が伊都国に辿り着くために、小戸ではなく末盧に上陸した理由がなんとなくわかった気がした。
小戸は王族専用の聖地だったからだ。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:11:54.90
>>577
>三種の神器を副葬された倭王の墓がいくつも見つかります。

あるのは凡庸なお墓ばかり。   @阿波

そして聞くところによると、石室は赤土で塗り固められているそうな・・・  わははははは   @阿波
0582日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:12:08.65
>>560
お前バカなのか?
行けば歓迎されるに決まってるだろ
0583板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 22:13:13.47
好字令以前の粟国に、アワキハラが有ったか無かったかかと言う問題は、まだ未解決ですね。

長国の橘湾は論がとして、粟国内に候補地はあるのか、どうか。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:14:19.86
>>583 板野に居たの

そんなことより、

なんの痕跡も無いくせに、畿内王朝などと、たわけた事をほざくな、自虐売郷奴! 汚らわしい!   @阿波
0585板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 22:14:26.19
好字令以前の粟国に、アワキハラが有ったか無かったかかと言う問題は、まだ未解決ですね。

長国の橘湾は論外として、粟国内に候補地はあるのか、どうか。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:18:09.83
>>581
赤土ではなく、水銀朱ですよ。
秦の始皇帝は不老不死の象徴として、自らの墓の周囲に水銀のプールを作らせましたた
それと同様に、倭王も復活を願って水銀朱を使っだのかもしれない。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:23:13.39
>>586
>赤土ではなく、水銀朱ですよ。

ところが九州土民には、「丹」=赤土らしいよ?  わははははは   @阿波
0588板野に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2022/08/17(水) 22:25:37.18
正直なところ、つい先程まで、阿波岐原は実は阿波なんちゃうかなと思ってたんやけどなあ。

日本@名無史(中略)@阿波さんの書き込みで、ほれは間違いって事に気がついたわ。

ほんま有難うな。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:30:18.26
平原遺跡など王墓に使われていたのは、中国産の水銀朱
0590日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:41:50.71
ああ、地方の本当に地方の人は、
本当に学力がないんですよ。
私、茨城県出身だから、わかります。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:43:27.36
私も、丹が水銀とは薄っすらとしか知らなかったんですが・・・
0592日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:46:29.89
卑弥呼が倭国の王として即位したのは倭国大乱の後
倭国大乱は梁書によれば、178~184年ころ
卑弥呼が即位して大乱は収まった

大乱以前は70~80年間男王の時代が続いた
中国王朝が公認した初の倭国王・帥升が後漢へ使者を出した107年にまたがることになる

これらの歴史事跡に最初に触れた歴史書は私たちの研究対象である三国志

後代の歴史書はに政治的な干渉を受けて歪んでいる部分もある
最初の倭国王から卑弥呼・台与までをとかく軽んずるようなバイアスが、現在もある

三国志を学ぶ我々は、そのことに注意すべきだと思う
0593日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:53:57.28
>>592
で、何が言いたいの?
0594日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 22:57:17.91
倭王卑弥呼がいたのは、倭王帥升と同じ博多港沿岸だろうということじゃないかな。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:04:33.29
倭王帥升が朝貢した西暦107年は、景行天皇37年。
卑弥呼が即位した190年頃は成務天皇60年頃。
卑弥呼が亡くなった247年は神功皇后47年。

畿内の時間軸は、中国から見た倭国と全く関係がなく流れてしまっている。
記紀と三国志、どちらを信じればいい?
0596日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:10:10.56
>>591
酸化水銀は真っ赤な化合物。
平原遺跡は、それが雨で墓から流れ出ていたため発見されたと。
棺の中は真っ赤に塗られていた。
これは福岡の王墓では昔からあったが、後の古墳時代の畿内の古墳でもしばしば用いられていた。
畿内の古墳文化は、福岡の伝統を継承している。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:17:42.72
福岡に邪馬台国が有ったら、大陸半島に攻撃されちゃうよ
0598日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

半島から攻撃されたから、韓と濊貊が楽浪郡で制御できないくらい強勢だった桓帝霊帝の時代に倭国大乱が起きたのだ
邪馬台国が誕生したのはもう攻撃された後の話だ
0599日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:23:38.36
>>593
倭国のはじまりから台与まで、ひとまとまりの歴史事象として扱うべきだと思う


>>594
帥升の都は個人的には滋賀県の伊勢遺跡を想定しています

>>595
あなたの中で答えは出ていると思います
0600日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:26:20.41
庄内土器の発祥の地は吉備だという説がある。
前方後円墳も吉備が発祥の地だという。
饒速日の足跡と一致するが、その饒速日は宇佐を船出して瀬戸内海を東に進み、畿内に入ったのだとか。
ではそもそも饒速日はどこの生まれなのか。
宇佐より西には筑紫しかない。
神武も筑紫の生まれだ。
天照大神もスサノオも筑紫の日向の小戸の生まれだ。
そしてそこは魏志倭人伝では伊都国と呼ばれている。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:28:37.94
>>599
多くの学者は、倭王帥升について、その直前の倭奴国王と同じ、博多湾沿岸にいたと考えています。
倭奴国王印は、小戸の目の前の志賀島から見つかっています。
0602日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

ニギハヤヒの正体は朝鮮半島から来た天日槍だ
播磨国風土記には、神代に渡来してきたと書いてあるでしょう 伊和大神と大いに争ったと
0603日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:31:52.35
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
0604琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/08/17(水) 23:32:51.15
倭国大乱と卑弥呼の生存時期は合わない、何の話をしているのかサッパリ解らん九州説。
箸墓(魏尺)が卑弥呼の墓、纏向が宗教道観、斎宮に続く神明。
前方後円墳が3官、天地水、大仙陵まで続く象徴、列島における原始道教の始まりの場所。
0605日本@名無史さん
垢版 |
NGNG?2BP(1000)

そういや伊都県主の五十跡が、自分の祖先は天日槍だって言ってたな
筑前国風土記に書いてある
0606日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:34:43.04
卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は官僚による代筆でもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
漢委奴国王印を最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
その返信とともに卑弥呼は新しい金印を受け取っていて、それを携えた使いは福岡県に滞在して卑弥呼に面会したと魏志倭人伝は伝えている。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:35:35.43
>>596

丹後の弥生中期(紀元前2~1世紀ころ)の日吉ヶ丘方形貼石墓(32m×20m)の木棺に
多量の水銀朱が撒かれていた
0608日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:35:57.06
>>605
その記事の実年代は、卑弥呼から120年も後です。
それまでに伊都の主人は入れ替わった可能性があります。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:38:33.25
>>604
わからないのなら、わかるまで魏志倭人伝を読み直すべきです。
倭国大乱を収まるために卑弥呼が倭王に共立されたのです。
畿内説は妄想ばかり。
纒向のイワシの頭の信心など、魏志倭人伝には登場しません。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:40:14.11
>>604
それに日本は道教の国ではありません。
神道の国です。
神道の最高の経典を教えてあげるので、音読しなさい。

■ 大祓の祝詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0611琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/08/17(水) 23:42:23.92
>>604、愚かだな、いくつだ卑弥呼わ。
大乱期の者なぞ生きとるのは少数だわ
0612日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:42:44.18
>>601
高地性集落が畿内から瀬戸内海沿岸部にかけて多く建造されており
この地域が倭国大乱の舞台だったのだろうと考えています
0613琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/08/17(水) 23:45:17.25
では、そなたの道教で無いものの始祖は誰でどの様に学び、斎を行い太乙はどっから出てきたのだ?
0614日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:45:41.52
ちなみに斎宮のモデルも卑弥呼なんだろうなあ。
平原遺跡にまさに八咫の鏡そのものがあった。
卑弥呼は子供も夫もなく、弟が身の回りの世話をしていた。
卑弥呼の次に女王となったのは、娘ではなく宗女とされた壹與であった。
おそらく生涯独身で、人目につかない王宮の奥で神鏡を奉じていたのだろう。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:47:11.88
>>611
魏志倭人伝を読み直すといいですよ。
90歳くらいまで生きれば可能です。
弥生時代においてはとてつもない長寿ですが、外に出歩かなければ感染症などのリスクが減りますから、当時でも長生きしたかもしれません。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:47:48.25
鉄生産用の地上炉跡が見つかった壱岐のカラカミ遺跡は高地性集落
0617日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:48:23.61
>>613

■ 大祓の祝詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0618日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:48:33.91
>>609
>纒向のイワシの頭の信心など、魏志倭人伝には登場しません。

頭悪いんだなあ
それで纒向が河内と交流がないとか妄想だって分かるのに
0620日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:52:02.28
>>618
イワシは三重県でも取れますよ。
0621日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:52:06.77
昔の人が長寿だった可能性はありますね。
倭姫は、600年生きたなんて伝承があるくらいです。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:55:18.11
>>621
さすがにそれは生物学的におかしい。
上古の天皇の治世を、後世を参考にして現実的な数字に補正すると、神武が筑紫の日向を出発したのが倭国大乱の頃になるのだとか。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:56:45.91
倭国大乱だから、当然、白村江だと思うけどなあ
0624日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:56:49.98
>>615
みんな可能性を考えれば良いんだよ
0625日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/17(水) 23:59:27.93
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
これらの神を祭る神社の元宮は現人神社(福岡県那珂川市仲)であるとの説があり、弥生時代の倭王であったイザナギの王宮であったとも考えられる。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山と言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり、朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高祖宮こと高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif
0626日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:00:10.39
邪馬台国が阿波にあって、白村江に負けて、大和朝廷が樹立したとは考えやすいですね
0627日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:01:05.58
阿波岐原じゃなくて、阿波木原なんですか?
それだけで、間違いのようですが・・・
0628琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/08/18(木) 00:01:18.51
弟も長寿か、もちっと現実的な話でないとな。
この時代の人間は我々と違い一生が短くあっという間だ。だから永遠を求めたし1日が大切だっただろう。が卑弥呼が90もあり得るは否定するよ。自説に合わないからでなく、そんな辺境の倭人のばばあに魏は協力しない。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:01:37.78
>>626
やすくない
0630日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:02:49.21
橘はどうされます?
0631日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:03:12.40
卑弥呼の王城の楼閣高くという魏志倭人伝の記事は、纒向では全く当てはまらない。
吉野ヶ里のような高殿ならあり得る。
しかしその他の可能性として、怡土城のような中国式山城だった可能性もないだろうか。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:04:00.72
駄々こねてもしょうがないですよ
理論と証拠で攻めていきましょう
0633日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:04:18.45
>>620
>イワシは三重県でも取れますよ。

何時間で着く?
0634日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:04:23.14
阿波でも邪魔だと思ったことがない
それぞれ思うことを書けば良いんだよ
理解出来ない奴が悪いと思うからイラつくんだよ
0635日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:04:29.78
>>627
当て字なので、書により揺らぎがありますし、漢字そのものに意味はないでしょう。
立ち鼻の岬が橘と置き換えられているくらいですから。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:06:58.95
>>630
上で書いたはずですが、タチハナこと立ち鼻は、大戸と小戸の間の岬のことです。
博多住吉神社がもともとあった場所。
住吉の神は、筑紫の日向の小戸の生まれです。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:07:04.32
>>635
そんなもの、天津祝詞になりますかね?
0638日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:07:55.97
まあ、物証が有れば返す口も有りませんがね
0639日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:07:57.40
>>625
佐賀 七ヶ瀬遺跡からも出土。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:09:27.03
>>633

纒向は内陸ですからね。
干物でしょう。
あの臭いを悪霊が嫌うらしいです。
もし纒向で本当にイワシの頭を神事に用いていたなら、そういうことです。
本当に神事に使ったのかって?
私に言わないでくださいよ。
畿内説の学者がまじめに纒向が邪馬台国だとする根拠で主張しているのです。
たから畿内説など馬鹿馬鹿しいのです。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:12:44.08
昨日も文旦とか書いてるのが居たけど邪馬台国と柑橘類になんの関係があるんだ?
0642日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:16:29.37
>>639

これは知りませんでした。
ありがとうございます。
場所は大和町川上ですか…
よりによって…
壹與に比定される肥前一宮與止日女神社こと河上神社があるので、邪馬台国ゆかりの地ですね。
卑弥呼が肥国女王の出身なら、この一族かもしれませんね。
そして卑弥呼を倭王に推挙したのが近くの華奴蘇奴国の吉野ヶ里。
いや、吉野ヶ里が卑弥呼のふるさとかもしれませんけど。
0643琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/08/18(木) 00:17:48.88
610.で始祖はどの様に学び、誰に受け継がれのだ?
0644日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:19:38.71
邪馬台国は暖かく、冬でも生野菜を食べている。
ミョウガやショウガ、橘やサンショウはあるが、倭人はそららの食べ方を知らないと。

魏志倭人伝

奈良県は冬暖かく、柑橘類が取れるのですか?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:21:25.95
>>642
いいえ、こちらこそ
邪馬壹国は近畿ですよ。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:25:01.47
>>641
あなた、橘も知らないんですか?
0647日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:26:36.43
>>644
それは邪馬台国や倭国についてではなく、狗奴国や西南諸島について記述した部分
石垣島の緯度はハワイと同じくらい
0648日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:30:58.42
>>640
>干物でしょう。
>あの臭いを悪霊が嫌うらしいです。

何にも知らないでいい加減なこと言うんだね
イワシ類・タイ科・アジ科・サバ科・その他淡水魚が出てる
0649琪瑛教祭酒
垢版 |
2022/08/18(木) 00:34:07.24
邪魔するから寝るが、
当時列島に独自の思想でもあれば歴年主無しにはならないでしょう。無いんでしょうこの時点でわ
0650日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:35:26.28
今年から、吉野ヶ里の墓地聖域の発掘がいよいよ始まります。
そこからも三種の神器が出たら面白いことになります。
倭奴国王や倭王帥升は、年代から考えると伊都国の三種の神器付き甕棺墓のどれかなのでしょう。
吉野ヶ里も甕棺墓なので同族ですが、王族としての関係は不明でした。
吉野ヶ里の王族が筑紫の王族の遠縁なら、卑弥呼の前の男王たちが帥升から70〜80年で失脚した時に、肥国王家が倭王を継ぐ資格があったことになります。
卑弥呼が肥国女王であったなら、同族であっただろう狗奴国つまり肥後熊本の王も同じ。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:36:48.86
>>649
でも紀元前から三種の神器は副葬品としてありました。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:37:52.27
>>648

しかし畿内説の学者が注目したのはイワシの頭でした。
文句は畿内説の学者にどうぞ。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:39:39.13
>>647
邪馬台国に滞在した郡使が倭人の振る舞いを見て記録したものです。
食べられるのにもったいないなあと。
敵国の狗奴国の話ではないですよ。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:43:26.04
>>653
>>邪馬台国に滞在した?
していないだろうな。
伊都国だよ。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:52:01.08
地図を見ていて気がついた。
福岡市には、小戸の近くに山門の地名がある。
上山門と下山門。
なんでもありだな。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:52:01.79
だな
郡使往来常所駐
0657日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 00:56:49.72
>>656
郡使が往来した時常に立ち寄るところ
0658日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:00:30.36
>>657
郡使往来し常に駐する所なり。
邪馬壹国に行っていない。
0659日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:01:15.95
>>658
駐する所ってなんだ?
0660日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:01:18.29
>>652
>しかし畿内説の学者が注目したのはイワシの頭でした。

証拠は?
0661日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:03:10.30
>>659
滞在だよ。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:05:05.51
>>659
目的地に行く途中で一旦寄るところ
0663日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:05:10.02
学者が個別に何研究してても良いけど
発掘して出てるんだしそっちを考えろよ
鯛は美味いから食ってたのか?
0664日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:09:30.00
>>661
滞在を駐する所なんて言わないよ
0665日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:09:30.49
>>662
目的地が伊都国
なので到を使う。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:12:47.10
>>664
立ち寄るもないけど?
0667日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:13:54.96
伊奘諾が小戸で禊ぎをしたのは、黄泉の国で別れた伊奘冉による穢れを祓うため。
小戸までの逃走経路は、黄泉比良坂。
ヒラは上り坂、サカは下り坂なので、峠のこと。
小戸は港なのに、伊奘諾は陸路で帰ってきているのです。
つまり黄泉の国は福岡市から山を越えたところであり、本州や瀬戸内のどこかではない。

今まで漠然と日田あたりかとも考えていたが、吉野ヶ里でもいいですね。
もともと伊奘諾と伊奘冉は兄妹なので、筑紫と肥国が同祖になります。
思いつきですけど。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:14:43.44
>>666
立ち寄るって言葉使わないか?
駐するなんて言葉は使ったことないけど
0669日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:15:18.34
>>664
駐在という言葉がありますね。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:16:21.48
>>669
あるね
でも駐するは使ったことない
0671日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:17:11.92
東京からニューヨークに派遣された駐在員が、ニューヨークを通過した他のところまで足を伸ばすのか?
伸ばさないよな。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:18:56.96
>>671
俺は駐する所ってのはなんだと聞いてるんだけど
0673日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:21:12.49
外交官が派遣先の国に滞在する時、駐在という言葉を使いますね。
帯方郡から倭国に派遣された郡使は、倭国の中でも伊都国に駐在したのです。
そしてそこで卑弥呼に会って金印を渡しました。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:23:22.97
>>672
駐在する所という意味でしょう。
伊都国は、郡使が倭国に派遣された時にいつも駐在する所。
後世の筑紫館や鴻臚館、迎賓館の機能が伊都国にあったということです。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:25:11.37
>>674
常があるからそうなるね
0676日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:25:52.45
>>668

立ち寄ると駐在するだと、駐在するの方が駐するに近い意味でしょう。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:26:24.89
卑弥呼に会ったなんて書いてないよぉ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:26:32.35
わけわからん言葉を使っときながら理解させようなんて無理よ
0679日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:27:07.11
つまり卑弥呼は伊都国から目と鼻の先のどこかにいたと。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:27:17.90
>>676
駐するってなんだと聞いてるんだが
0681日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:27:33.98
>>677
邪馬壹国で会ったも書いていない。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:27:51.45
>>678

駐在が理解できないなら、もはやあなたの日本語のリテラシーの問題ですよ。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:28:29.41
>>681

> >>677
> 邪馬壹国で会ったも書いていない。

卑弥呼がいるところが邪馬台国。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:29:15.69
>>680

> >>676
> 駐するってなんだと聞いてるんだが

駐在するという意味です。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:29:35.88
>>682
駐するがなんなのかわかんなかったね
言葉自体知らない
0686日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:30:04.92
>>679
伊都国内もありうる。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:32:40.25
>>684
>駐在するという意味です。

だと決めつける根拠は?
0688日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:34:03.82
>>686
ズバリ高祖宮だと思いますね。
山城ですし。
筑紫の日向の高千穂のクシフル峰にありますから、伊都国に代々の王がいたという記事にピッタリです。
郡使が滞在した三雲地区の目と鼻の先です。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:35:25.94
>>683
いないよ。
なんせ水行20日、10日。詳細な経路、里数はない。
共立で伊都国、不彌国、奴国のいずれかにいる
魏志倭人伝はデータ不足
0690日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:44:09.01
>>681
勿論、会ってない
郡使は伊都国までしか来ていない。卑弥呼は邪馬台国にいる。従って直接は会っていない。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:54:45.86
>>690
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王

これはどう解釈?
0692日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 01:57:37.78
里程と日程を混ぜたらいけませんね。
邪馬台国へは後漢書に楽浪帯方から一万二千里、九州北部と書いてあります。
伊都がその中心国邑だったのでしょう。
諸国は伊都の大率を畏怖したと書いてあります。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:00:49.15
>>692
>邪馬台国へは後漢書に楽浪帯方から一万二千里、九州北部と書いてあります。

それ、明らかに嘘でしょ
0694日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:01:52.08
>>684
>駐在するという意味です。

これも嘘
0695日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:05:04.19
新唐書

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。

記紀に筑紫の高千穂宮と書かれた場所は、新唐書では筑紫城となっています。
これが筑紫の日向の小戸の近くにあったはずです。
この辺りの城は高祖山の怡土城または高祖城しかありません。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:05:05.94
>>692
帯方から一万二千里とは書いてても九州北部とは書いてない
諸国は伊都の大率を畏怖したからなんなんだ?
お前こそ混ぜるな
てか言いたいことは根拠を示してはっきり言え
誤魔化しとけばわかってもらえるだろうと考えるな
0697日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:06:07.75
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
0698日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:09:04.13
>>696
楽浪帯方から狗邪韓国までで七千里、そこから対馬海峡が三千里で、九州北部上陸まであわせて一万里です。
そこから邪馬台国まで二千里しかない。
それは対馬海峡より短い距離です。
福岡県を出ません。
0699日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:09:52.45
>>692
では後漢書
自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王

狗奴国の字は違います。
また、東になっています
0700日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:13:04.03
>>695
>記紀に筑紫の高千穂宮と書かれた場所は、新唐書では筑紫城となっています。
>これが筑紫の日向の小戸の近くにあったはずです。

時系列が逆だよ
それの元ネタは「凡二十三世,並都於筑紫日向宮」
そのさらに元ねたが記紀の筑紫の高千穂宮
0701日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:14:31.60
>>698
>福岡県を出ません。

二千里あれば畿内に着くよ
0702日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:15:50.19
>>684
>駐在するという意味です。

ねえ、なんでこんな嘘つくの?
0703日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:20:34.56
>>691
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王

正始元年に帯方郡の太守弓遵は建中校尉の梯儁らを派遣し、詔書・印綬を奉じて倭国に行き、(卑弥呼を)倭王に仮に任命した
0704日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:22:11.86
大倭王居邪馬臺國
卑弥呼のみの事かな?
魏志倭人伝では邪馬壹国
其國が邪馬臺國さしているのか?
倭国のことか?
0705日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:24:22.63
>>703
拝暇倭王
この部分は?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:25:42.20
>>705
倭王に任命した
0707日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:28:37.90
>>706
つまり会ってる
0708日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:33:23.89
会ってない。拝が任命すること、仮が金印を与えることで、直接会うというような意味は含んでいない。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:38:57.77
後漢書、魏志倭人伝
一致しないな。
これも不確定だ。
>>里程と日程を混ぜたらいけませんね
混ぜていないけど。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:47:02.41
邪馬壹国が九州なら合うだろう。
或いは卑弥呼が九州に居れば会う
使者て国賓じゃないの?
0711日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:47:33.52
>>708
>直接会うというような意味は含んでいない。

含んでますよー
だって任命の儀式だもの
0712日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 02:55:36.73
邪馬壹国
どこに鉄、絹、楽浪式土器が豊富とかの記載あるのか?
これもわからない。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:01:22.57
>>711
含んでいない。そんな儀式を行ったなど一言も書かれていない。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:03:00.22
逆、20日10日とかかるからむしろ遅れる
弥生後期から古墳時代に
かけて増える所では?
稲部遺跡、曽根遺跡等
0715日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:08:08.90
>>710
邪馬台国は近畿なので会っていない。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:10:43.44
>>715
卑弥呼が九州に居れば会える。
邪馬壹国は近畿でいいよ
0717日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:10:52.25
>>713
拝仮ってのは皇帝にやって貰うもんなの。
遠方の場合は皇帝の代わりに勅使が行く。
皇帝が詔書で「任命します。はんこ上げます」と書いても発効しない。
勅使が本人に会って叙任しないと「未拝」の状態のままで任命されていない
0718日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:12:38.19
>>717
倭国て無礼なんだな。
卑弥呼みずから魏との交流求めているのに?
0719日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:21:19.65
>>717
そんな事実はない。伊都で一大率が代理で受け取ればよい。

>>718
むしろ郡使への配慮として伊都に外交窓口を置いている。郡使はそこから水行30日もかけて糞田舎の倭国の都まで行かなくてもよい。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:31:00.15
>>719
だよね。卑弥呼亡き後の男王は
邪馬壹国とは限らない。
卑弥呼、壹与の時だけ倭国の都が邪馬壹国になっただけだな。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:31:13.64
>>719
本来は皇帝にあってすることを、皇帝の代理である勅使がやりに来ているのに?
会わずに任命することは皇帝でも出来ないのに、なんで二千石の役人が出来ちゃうわけ?
0722日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:40:30.35
>>720
卑弥呼亡き男王の時代の
倭国の都は、熊本あたりか?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:40:51.05
>>721
そもそも洛陽から勅使が直接来ているわけではない。詔書と金印紫綬は帯方太守に付託されており、太守が建中校尉の梯儁を派遣して詔書と金印を伊都まで届けている。その時点で皇帝が直接授与する形にはなっていない。あとは郡使が倭国側に詔書と金印を引き渡すだけ。伊都まで届ければ十分。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:45:06.69
いずれにせよ、魏志倭人伝には郡使が女王に直接会ったとは一言も書かれていない。会ったに違いないというのは(特に根拠がない限り)憶測に過ぎない。
邪馬台国が九州にあったとしたら郡使は女王に直接会ったかもしれない。しかし郡使は女王に直接会ったはずだから邪馬台国は九州にあったはずだというのは本末転倒で、論として成り立っていない。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 03:47:19.07
>>722
わからない
卑弥呼、壹与の時は近畿だよ。
水行30日、卑弥呼らが共立で九州に定住と思う。
礼節重んじる国と信じたい。会っているだろうn
0726日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 04:24:18.02
>>724
会ったに違いないんじゃなくて、合わないと任命できない
そういう制度
0727日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 04:25:23.24
>>726
そんな事実はない
0728日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 04:39:18.22
>>727
会わずに叙任できるなら、勅使送る必要無いじゃないですか
0729日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 04:53:08.92
実際、漢和奴国王の時はそうしてるかも。洛陽に来た使者に授けて持ち帰らせているように見える。記述が少ないのでよく分からないが。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 05:05:40.47
何も書いてないからわからない
じゃ、勅使はなんのために送ったの?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 05:20:20.69
そもそも勅使を送ったかどうかも分からない。おそらく難升米たちを洛陽まで引率した郡使に持たせて(倭国を統括する)帯方太守に授け、帯方太守から倭国に授けたのだろう。帯方まで勅使を出したかもしれないがそれは書かれていない。帯方の郡使はおそらく勅使とは言わない。

魏志倭人伝の他の部分を見る限り、郡使は伊都に滞在するようだし、女王は邪馬台国にいるように見える。また「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」とあるように郡使がもたらした文書や賜物は一大率が検査して女王に伝送するらしい。なので変な逆張りをして読まない限り、郡使は女王に直接会ってはいないと読む方が自然だろう。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 05:23:47.24
「しかし詔書や金印紫綬のそれ(引用者注:封泥)が開かれることはない。詔書らを開 くことができるのは,仮綬する梯儁と倭国王に叙せられる卑弥呼だけだからで ある。」『資料の不在と考古学』高倉洋彰.
0733日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 06:20:12.58
>>732
飛躍し過ぎでしょう。封泥が伊都では開封されないってのは分からなくもないけど、梯儁が邪馬台国までついていく意味がわからない。難升米ならともかく、梯儁は洛陽で封泥押されたときに立ち会ってないんだから、開封に立ち会う意味あるんですかね。伊都まで荷物届けたらシゴオワでは?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 06:55:14.74
畿内説が敗北を認めたくなくて駄々をこねているようにしか見えない
0735日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 06:56:19.38
>>718
だから必ず会って直接渡している。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 06:57:08.56
>>719
そんな記述は魏志倭人伝にはない。
あなたの勝手な妄想であり、三国志の世界においてあり得ない。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 06:58:26.72
>>722
三国志の世界だから、中心国邑は基本的に変わりません。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:00:11.38
>>724
会うのが原則なのだから、代理に渡したという記事がない限り会っている。
あなたの方が苦し紛れの言い訳をしている。
畿内説はとっくに破綻している。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:03:38.58
>>725
郡使が滞在したのは伊都。
郡使は九州から出ていない。
出たなら、朝鮮半島の部分と同じく、里程が書かれているはず。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:05:16.32
>>731
逆張りはあなたの方に思える。
畿内説に誘導したいがため、無理な言い訳を積み重ねている。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:07:11.68
>>731
畿内まで荷を送るなら、伊都で開封して確認したらいけないだろう。
せめて大阪か京都の港でないと。
畿内まで運ぶなら、伊都ではまだ行程の半分にもならないのどから。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:09:43.69
>>733
女王に会って渡すのが仕事なのに、本当に女王に渡るかどうかも怪しい知らない相手に託すわけがない。
帯方郡主は皇帝が直接の任命しているからまだしも、倭国の誰に託したと言うのか。
倭国の誰が伊都からさらに運んだのかも書かれてはいないではないか。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:17:25.45
>>741
邪馬壹国、近畿説では
共立されて卑弥呼は伊都国、不彌国、奴国の
いずれかに、居るから合っている。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:40:21.38
>>743
それ、九州説でしょ
0745日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:42:33.10
>>733
>梯儁が邪馬台国までついていく意味がわからない。

倭女王卑弥呼に仮授に行く役目の勅使だからだよ
0746日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:43:38.61
>>744
邪馬壹国は近畿と宣言だから近畿説。
なんで九州説にしたがるのか?
0747日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:45:40.50
>>746
卑弥呼が九州にいるなんて言うから
0748日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 07:55:03.13
「假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝」って詔勅が出てるんだから
卑弥呼に假授するのが使者の役目

そして
「梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王」と明記されてるんだから
使者は卑弥呼に拜假した
つまり会った
0749日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 08:00:48.49
>>739
>郡使が滞在したのは伊都

滞在したって一時のことだ
女王の都まで行くよ
それが使者の仕事なんだから

つまり「駐」を駐在と訳したのが誤訳
0750日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 08:08:55.55
>>747
関係ない。もう一度言う
邪馬壹国は近畿
奴国、不彌国、投馬国、邪馬壹国等に王の名はない 官名のみ。卑弥呼が共通した王。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 08:12:23.69
>>747
関係ない。もう一度言う
邪馬壹国は近畿
奴国、不彌国、投馬国、邪馬壹国等に王の名はない 官名のみ。卑弥呼が共通した王。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 08:22:06.18
”この制書と「親魏倭王」の金印とは装封していったん帯方太守に付されており、前述のように難升米の帰国に
同行した梯儁によって倭国に齋された。一方、回賜品や好物は装封して難升米・都市牛利に付されており、卑弥呼の制書の前半部
に記されたものと後半部のものとの扱いには明らかに差がある。
これは、「親魏倭王」の金印やその根拠となる制書を難升米らの使者に手渡した場合、その使者が身に着けて自ら親魏倭王となっ
てしまうことを防ぐ用心を示したものであろう。当時の国際関係における印章の授与の仕方を示す、貴重な事例である。”
金子修一
0753日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 08:23:54.45
>>740
だから畿内説じゃ無いんだよ
0754日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 08:31:21.94
>>723
>そもそも洛陽から勅使が直接来ているわけではない。詔書と金印紫綬は帯方太守に付託されており、太守が建中校尉の梯儁を派遣して詔書と金印を伊都まで届けている。その時点で皇帝が直接授与する形にはなっていない。

リレー式だっていいんだよ
梯儁らは倭王に拝仮したと明記されてる
0755日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 08:57:27.11
>>739
>郡使が滞在したのは伊都。

駐したからって、そこから先へ行かないなんて意味はない
返事の上表文もらってさっさ帰っているんだから「駐在」したなんて妄想

>郡使は九州から出ていない。

まったく根拠がない
短里説?
当然ながら学問的に相手にされていない

>出たなら、朝鮮半島の部分と同じく、里程が書かれているはず。

まったく根拠がない
里程と日数表記の混在は珍しくない
むしろ現実とかけ離れた里程が書かれているのだから、そっちの方が使者の報告じゃないのだ
0756日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:07:29.46
>>753
意味がわからん。
不弥国とかは九州だから、近畿でもないのだが?
もしかして近畿という言葉の意味を知らない?
駐するという言葉の意味がわからない馬鹿といい、拝仮するという意味がわからない馬鹿といい、畿内説はリテラシーのない人間だけが引っかかるということがわかったよ。
畿内説を信じる人間は、魏志倭人伝が読めないから、頭の中で勝手に妄想して魏志倭人伝と矛盾する結論に平気で飛びついているんだ。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:09:02.36
>>754
拝仮は倭王に任命し、金印を与えるという意味
直前の「今以汝為親魏倭王假金印紫綬」と対応している
拝を拝謁とでも思っているんだろうが、明らかな誤読


①おがむ。(ア)おじぎをする。「拝跪(ハイキ)」「拝礼」(イ)神仏をうやまう。「拝殿」「参拝」
②>>官をさずかる<<。「拝命」
③自分の動作に添える謙譲語。「拝啓」「拝見」「拝借」


①かり。かりの。かりに。「仮装」「仮定」「仮病(ケビョウ)」
②かりる。かす。>>かしあたえる<<。「仮借」
0758日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:10:57.63
九州説は拝仮を読み間違えて直接会ったとゴネてるだけ
会ったかどうかは魏志倭人伝にはかいてないし、近畿説なら多分会ってない
0759日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:11:46.06
>>756
あなたは誰?
ばかの人?
駐するという言葉をぶざまに間違っている人?
畿内の定義を知らなう人?

どれかな
0760日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:14:22.59
>>755
駐したということは、伊都が任務の目的地なんだよ。
そこで卑弥呼に会ったたいうこと。

学問的に相手にされないのはあなたの方。
女王国までの里程はきちんとわかると書いてあり、伊都国奴国不弥国までの里程はその通り書いてある。
畿内までの里程は書いていない。
つまり女王国は九州北部のみ。

一続きの行程を、一部は里程で、一部は日程で記すことがよくあることだと言うなら、例を挙げてくれるかな?
三国志にあるのかな?
0761日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:14:39.25
>>758
畿内説だよ
拝仮してるなら会っている
目的語が倭王
他の人にではない
0762日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:16:20.28
直接会わなかったら拝めないじゃん。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:18:33.25
畿内説と近畿説のバトルか。
どちらにしてもリテラシーの低い者同士だな。
低レベルの争いを高みの見物といくか。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:19:20.05
>>760
>駐したということは、伊都が任務の目的地なんだよ。

理由が言えないでしょ?
学問的でない

>伊都国奴国不弥国までの里程はその通り書いてある。

証明できないでしょ?
学問的でない

>一続きの行程を、一部は里程で、一部は日程で記すことがよくあることだと言うなら、例を挙げてくれるかな?

テンプレにあるよ
0765日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:21:34.43
>>763
いちばんリテラシーの低いのは九州説だから
逃げてばかりだもの
kinkyの方が逃げないだけマシ
0766日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:21:59.63
>>758
勝手に決めるな
邪馬壹国近畿説ですよ。
共通王として伊都国、不彌国、奴国の
いずれかに居る。卑弥呼に会っています。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:32:49.99
>>764
理由が書いてあるのに理解できない低レベルのアホ
0768日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:34:24.55
卑弥呼が伊都国奴国不弥国のいずれかにいて郡使と直接会ったというところまで共通認識となったと会うことでいいのだね。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:38:03.75
>>768
いいですよ。
つまり万2000余里地点に卑弥呼がいる。
邪馬壹国はそこから30日の水行所にある都。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:47:54.08
>>767
>理由が書いてあるのに理解できない低レベルのアホ

ほら、絶対に理由を言わないで逃げ回るパターン出ました
さすがチキン九州説
0771日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:53:24.88
>>767
口が開けても理由を言わないのは
行ったが最後論破されるって自覚してるから逃げ回るんでしょ?
0772日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 09:58:06.13
理由が書いてあるのに、日本語が通じていない。
さすが畿内説。
度し難いアホ
0773日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:06:53.40
>>772
なんで言えないの?
その文章かも示せない
再掲もできない

どうしてそんなに理由を隠したいの?
自分の主張なのに
0774日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:08:26.71
>>772
口が裂けても言えないのは、ホントは書いて無いからだよね
0775日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:09:26.88
明らかな誤読すら認められない
後で言い訳できるように明確な言及をさける
学問に向いてないですよこれは
0776日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:16:04.47
「駐したということは、伊都が任務の目的地なんだよ
という理由が言えない
いくら聞かれても「もう言った」「書いてある」とか言い張るだけで
決して言おうとしない
どーしよーもない人
0777日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:17:04.15
>>775
と言うより人間に向いてなくね?
0778日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:18:42.06
>>762
九州説だと、皇帝の勅使が辺境の王を「拝」したって中国側の文献に書いてあるの?滅茶苦茶では?
0779日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:24:44.41
>>772
>理由が書いてあるのに、日本語が通じていない。
>さすが畿内説。
>度し難いアホ

おーい
また逃げちゃった?
「駐したということは、伊都が任務の目的地なんだよ」っていう理由、そんなに言いたくないの?
自分の主張なんだよ

どこに書いてあるかも言えないの?
再掲もできないの?

おーい
0780日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:52:15.75
まてまて、きちがいは畿内説だと見せかける為の工作をしてるつもりなのか?
当然使者は近畿に来て卑弥呼に会ってるよ
0781日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:56:27.17
使者が近畿に来て不都合な事なんて無いじゃん
0782日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 10:57:53.14
魏志倭人伝には邪馬台国までの道程に2つの別系統の情報が混在している。

@魏使が書いたオリジナルの情報(正)
伊都国(一大率→壱岐や末盧国・奴国・不弥国など「九州北岸の国々」を監視)
 ↑北
女王国(筑紫平野)7万戸
 ↓南
狗奴国(狗古智卑狗=菊池平野)
(卑弥弓呼=熊本平野)

>>115
A日数表記「南水行十日陸行一月」→帯方郡から会稽東冶までの12,000里…陳寿の補足(嘘)

これら虚実2つの情報が混ざり合ってるから、投馬国の@北とA南両方に邪馬台国があるようにしか読めず、無意味な論争の火種になるわけ。
0783日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:00:19.71
確かに会ったか会わないかは割とどうでもいい
0784日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:01:59.45
>>782
里数表記が魏使が描いたオリジナルの転写、日数表記が倭人からの伝聞ではなく、陳寿が補足追加した嘘(忖度)ってことやな?
だから投馬国の北と南両方に、2つの邪馬台国があるようにしか読めない、ってことか。。。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:05:38.03
伊都厨の醜態ワラタ

駐したとあるから駐在さんだ
ずっと伊都にいたんだ近畿に行くわけナイナイ・・・って

0786日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:06:32.27
近畿まで来てたら、もう少し行程詳しく書けてそうなもんだけどな
それに帯方郡からの使者って多分梯儁と張政の2回しか来てないよな?郡使往来常所駐って、この2人が伊都に滞在したってことじゃねーの?
0787日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:07:27.52
「其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
【年已長大】無夫婿、有男弟佐治国。自為王以来、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
【宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛】」

↑これは曹魏の使節団が卑弥呼の宮殿を実際に見て、会っていないと書けない情報。

つまり里数表記の末盧国(松浦)、伊都国(糸島)、奴国(博多)2万戸、不弥国(宗像)のどれか。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:08:38.97
>>787
別に伝聞で書けるだろ。現に今俺たちも伝聞でそれを知ってるわけだし
0789日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:10:02.16
「箸墓ありき」の畿内説がまたしても、木っ端みじんに論破されてしまったのだね。。。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:10:38.26
>>786
>近畿まで来てたら、もう少し行程詳しく書けてそうなもんだけどな

九州だって詳しくない
ある国が小粒だから小刻みなだけ
0791日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:11:36.17
>>790
邪馬臺まで行ってるなら全部里数で書くくね?断定はできないが…
0792日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:12:08.55
>>789
連句点が呟き始めるのは九州説敗勢のサイン
0793日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:12:40.50
>>786
畿内じゃないからだよw
>>111
0794日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:14:00.30
そもそも郡使が近畿まで行ってるなら東と南を間違えるはずがなさそう
0795日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:15:32.30
>>794
天才現る!w
>>782
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が(帯方郡→建業→会稽東冶)までの「中国大陸沿岸の行程(12,000里)」を倭国(不弥国→投馬国→邪馬台国)にダブらせて転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

おそらく洛陽(後漢〜曹魏〜西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)魏のために呉を牽制しようとしてくれている「可愛い国♡」という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:16:32.96
>>791
だから、勅使は測量したり里数報告なんてしてないんだよ
現実と合わない最初の一万里が中央官僚の創作だ
0797日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:17:21.33
>>796
方位は?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:18:40.76
>>794
間違えちゃいないだろ
ツンジュの手に入る前に歪曲があったんだよ
0799日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:21:03.77
それはさすがに無理がある。破綻だな。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:21:20.90
>>794
天才!!
「南→東」としないと成立しない畿内説の弱点は45度傾いてたとかそんな問題じゃなくて、
「東渡海千里複有国皆倭種」と「其南有狗奴国」が共に東になる点w
0801日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:23:00.15
>>797
九州までを1万里に作文しても足りなかったから方角ネジ曲げたんだろ
九州からざっと二ヶ月という記録はきっと使者が日誌みたいなの付けてたんで手をつけなかった
0802日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:24:59.94
>>800
>「東渡海千里複有国皆倭種」と「其南有狗奴国」が共に東になる点w

別に弱点でないでしょ
後漢書と同じだから
0803日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:27:37.17
陳寿は記録をまとめただけ。
三国志の片隅の倭国の記録について、わざわざ創作などしない。
郡使の残した記録に、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、そのうち九州北部までで一万里という内容が記載されていただけ。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:27:57.12
>>800
なんで弱点だという理由がなくて結論だけ有るか
これが、おバカ九州説男「説明できない」君の特徴
0805日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:27:59.24
>>791
魏使は邪馬台国の卑弥呼の王宮で卑弥呼に会ってるよ!
>>788
0806日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:29:34.88
>>803
>郡使の残した記録に、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、そのうち九州北部までで一万里という内容が記載されていただけ。

と言う理由は?
キミも理由言えないクン?
0807日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:29:55.51
>>118
0808日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:30:40.86
>>115
0809日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:31:11.04
>>803
>三国志の片隅の倭国の記録について、わざわざ創作などしない。

と言う理由は?
0810日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:35:21.13
九州説って「理由言えない」病が流行ってんの?
それとも同じ人間?
0811日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:36:33.71
>>799
誰に言ってるのかも
そう結論する理由も書いてない
0812日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:38:13.32
>>810
>>118
話題の無限ループにウンザリしてるのw
0813日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:38:21.05
考古学研究成果により、九州でもっとも発展している外港都市博多の首長層が畿内と密接に交流し、
筑前の南側の九州とはほぼ交流がないことが明らかになったので
学者の通説は畿内説になった
0814日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:40:22.56
>>800
>「南→東」としないと成立しない畿内説の

実際、日本列島は会稽東冶の東になんてないから、それで正しいんだよ
0815日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:41:17.83
>>813
どんなに年代繰り上げ操作しても、吉備特殊器台の箸墓に殉葬なし!の一言で畿内説は消える
0817日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:44:05.89
>>812
一度も理由言わなきゃ永遠に聴かれ続けるが
それはループではない
0818日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:46:04.77
>>815
>吉備特殊器台の箸墓に殉葬なし!

と言う理由を一度も言わないと
畿内説は永遠に健在です
0819日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:49:23.73
>>803
帯方郡から邪馬台国の記載はない。
女王国ならある。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:50:02.02
>>815
思い込みで結論だけ言っても
他人は「ハァ?」って言うだけ

なぜだか全然わからないから
0821日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 11:54:33.94
>>813
そりゃ南側は狗奴国なんだから、仲良くしていたらおかしいだろ。
だからと言って、魏志倭人伝を無視していたら邪馬台国を考える意味がない。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:06:24.13
>>671
>駐在
「駐在だから伊都国より先に行かない」君も思い込みだから理由が言えない
強く思い込んじゃってるから、自分が突然言い出した結論を連呼するだけで
誰も理解してくれなうと、お前らバカだと言ってむずかる
これが「説明できない」クン

このパターンになってないか気をつけてね
破滅パターンだから
0823日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:14:00.90
使者が卑弥呼と会わないと言ってるのは伊都国が中心とか言ってる九州説論者でしょ
自分の意見をはっきり言えよ
0824日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:17:51.79
こんな事やってるからこのスレに来て他人所意見にケチ付けるしかできないんだよ
0825日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:18:21.03
>>822
そりゃ米州にNYしか駐在員いない機関なら、駐在員はナッソーでもトロントでも行くわ
0826日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:24:18.63
>>823
ちゃんと理由の言えない奴は同病だろう
程度の差こそあれ
0827日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:26:35.42
使者は伊都までしか来てない
卑弥呼は大和にいる
だから会ってない
QED
0828日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:27:46.91
九州説は卑弥呼が九州にいるんだから会ってる論者だろ
0829日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:32:02.55
>>826
理由が言えなくても自分はそう思うで良いんだよ
とことん誤魔化してるくせに理解出来ない他人が悪いと言ってるのはたち悪い
駐するなんてどういう状態か誰もわかんないでしょ
0830日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:34:19.71
>>821

博多が密接に交流しているのが東の本州の畿内
洪水地帯の筑後から南は纏まりはない
0831日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:34:54.39
>>828
使者が近畿に来てないなんていってる奴居ないでしょ
行程を考える必要もないんだから
0832日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:41:15.28
>>831
来てないよ。来てたら方角間違えないもの。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:44:55.72
>>832
おまえは近畿説九州説のどっちの立場で言ってるんだ?
近畿に来てないなんて言ってる奴居ないでしょ
0834日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:47:12.51
>>827
卑弥呼が
大和にいるという根拠がないんだよな。
根拠なく結論を先取りして連呼しているのは畿内説
0835日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:48:16.36
九州派
└使者は伊都までしか来てないよ派
 └卑弥呼も九州にいたから使者と会ってるよ派
近畿派
├使者は伊都までしか来てないよ派
┃├卑弥呼は近畿にいるから会ってないよ派
┃└卑弥呼は九州に来てるから会ってるよ派
└使者は近畿まで来てるよ派
 └卑弥呼は使者に会ってるよ派

少なくともこれだけパターンあるから自分が代表ですみたいな語り方されてもね
0836日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:48:17.43
>>831
なぜ行程を考えずに畿内まで来たことがわかるの?
0837日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:49:00.16
>>833
俺がいるが?
0838日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:49:41.54
近畿説はバラバラで、説としての体を成していない
0839日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:54:02.97
>>836
帯方郡→投馬国→邪馬台国
俺はこれを何度も書いてるぞ
0840日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:54:55.42
>>837
初めて聞いたから聞かせてくれ
0841日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:55:21.22
近畿説というのはby一人しかいない
邪馬台国は近畿で、有力な遺跡がないから卑弥呼の墓だけ筑後にしようという説
0842日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:56:32.41
>>838
だったら九州は何処なんだよ?
バラバラで当たり前だろ
0843日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 12:58:42.06
>>841
そんな説知らない
どんなのか聞かせてもらわないとわかんねえ
0844日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:01:14.25
>>840
このスレでずっと言ってるのでお前が先入観で黙殺してただけだよ。拝仮は会うことを意味していない。使者は伊都に常所駐とあり、一大率が外交窓口になっているように見える。使者が近畿まで行ったなら方角が南になっているのは不自然。
等々の根拠を総合するに、使者は伊都で詔書や印綬を倭王の代理として一大率に引き渡した、というのが俺の見解だよ。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:02:58.54
纏向を唱えてる人は使者が纏向に来てないなんて言ってないだろ
今まで散々纏向批判しておいて言い訳が酷いな
0847日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:05:36.10
>>844
使者が近畿に来てないなんて誰もいってないから
九州説のお前が勝手に擬態しないように
0848日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:05:37.90
>>845
言ってるんだわ
そもそも近畿説は投馬、邪馬臺までの行程は倭人からの伝聞であって使者が直接行ってないからああなってる、っていうのが基本なんじゃないの?どうやら違うやつもいるようだが
0849日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:07:49.98
>>846
これと言われても何が言いたいのかわからん
0850日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:08:18.27
>>847
いや九州説は会ってる説なんで^^;
要するに、お前の頭の中では会ってない説=九州説になってて混乱した、ってことでいいのかな?
0851日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:08:55.20
>>848
そもそもじゃない
聞いたことないから
0852日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:09:35.84
>>851
まあお前はそうなんだろう
0853日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:10:51.09
>>850
だったら使者は邪馬台国に行き卑弥呼に会ったってことだよな
0855日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:11:52.50
>>853
九州説=会ってる説
畿内説=会ってない説
が基本ですよ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:12:45.26
>>854
「会った」ことを含意しないというのは「会っていない」を含意するのとは違いますよ…
0857日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:15:35.27
>>856
それは良いけどおまえはどうかんがえてるの?
0858日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:16:10.50
いいですか。拝仮というのは任命し、授けるというだけの意味で、どういう風に授けたか、会ったか会ってないかは含意していないんです。
私は他の部分の解釈から、使者は近畿に行っていないし、卑弥呼は近畿にいたはずだから直接は会っていないと解釈しています。難升米は使者に直接会える立場でしょうから、実際に会って拝仮を受けているでしょうね。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:18:00.54
>>859
この部分だけでは、そういうことになりますね。会ったか会ってないかは他の根拠で考察する必要があります。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:19:22.69
>>858
直接会える立場と会えない立場の違いがわからん
どっちも会えるでしょ
0862日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:21:23.39
>>861
空間的に同じ場所にいなければ会えません。使者が伊都までしか来ておらず、卑弥呼が近畿にいたのであれば会えないでしょう。
難升米が普段どこにいたかは分かりませんが、使者として洛陽まで行っているくらいだから会う機会はあったんじゃないでしょうか。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:22:30.01
>>863
可能性としてはあるでしょうね。それは分かりません。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:25:09.23
>>862
それが会える理由と会えない理由なのか?
0866日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:25:39.16
>>865
他になにかあるならどうぞ?
0867日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:27:07.76
>>864

卑弥呼にも難升米にも会ったとは書いてないという主張だから

「これ持っていけって言われたから、卑弥呼に渡しといて」
「これ、難升米に渡しといて」
かもしれないという主張だな
0868日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:28:34.75
>>866
俺は王と合わせず返すなんてあり得ないって立場だから
0870日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:33:17.24
>>867
勿論、会えるなら会っていると思いますよ。極端にぞんざいな扱いを仮定する必要はありません。
伊都が外交窓口になっていたのは本国が遠すぎて使者に御足労願うのに不便すぎたからでしょう。なので一大率がいわば代理として受け取ったのだと思います。
卑弥呼は基本的に宮殿から出なかったようですし、この時点ではかなりの高齢だろうから九州まで来たとは思えませんが、難升米なら伊都まで来て受け取ったかも知れないですね。あるいは、もともと外交官的な人物だったので伊都に常駐していたか。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:34:56.16
>>869
実際、難升米に持たせた目録と、後から郡使が運んだ荷物を伊都で照合するというようなことをやっていたみたいですから、ちょっと宅配便っぽくはありますねw
0873日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:36:16.58
>>870
そら勝手に日本に入ってきても使者も場所わからんし何処かを目的地にするでしょ
0874日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:37:14.90
>>872
そうですね。あくまで仮説ですが、いろいろな条件を総合するにこれが一番蓋然性が高いと考えています。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 13:40:42.35
以前書いてたけど大率は軍隊で使者を女王の元に送り届けるのも役割
0877日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 14:41:53.55
近畿説は2種類

邪馬壹国は近畿、卑弥呼が伊都国、不彌国、
奴国にいる。

近畿が邪馬壹国であって、卑弥呼も邪馬壹国にいる。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 14:47:15.73
>>877
女王の所都で女王が居ないとかどういう解釈かまったくわからん
0879日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 14:59:47.04
>>878
女王国の都でも倭国の都ではない。
たんに女王の都。
各国に王名はない
官名のみ。卑弥呼が共通の王。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 15:01:57.84
>>879
王の居ない所都とは何
そこで何やってるの?
0881日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 15:05:22.33
>>880
では聞く。不彌国、投馬国等に
王名が出てこない。官名のみ
どうして?
0882日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 15:13:30.24
>>881
正直言うと知らないしその辺正確な事を書いてると思ってない
不弥国や奴国なんて存在しないと思ってる
こういうと都合が悪いからと言われるだろうが存在しててもしてなくてもどうでもいい
俺の説は帯方郡→投馬国→邪馬台国だから
0883日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 15:21:04.39
>>882
それでいいんじゃないの?
俺とは違うだけの話。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 15:22:19.78
対馬国一支国末盧国は記述内容からワンセットであったんでしょう
次の伊都国は詳しく書いてるし何処かにあったでしょう
奴国不弥国それにたくさん書き連ねてる国々は何処から引っ張ってきた名前なのかわかんねえ
奴国不弥国は同名が二つずつ出てくるいい加減さ
0885日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 15:26:35.46
>>863

> >>858
>
> 「これ、難升米に渡しといて」ということもあるという主張だな

天皇から内閣総理大臣の任命でこれがあり得るかどうか考えてみろよ。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 15:27:55.17
>>871

> >>869
> 実際、難升米に持たせた目録と、後から郡使が運んだ荷物を伊都で照合するというようなことをやっていたみたいですから、ちょっと宅配便っぽくはありますねw

それ、やるなら卑弥呼の宮の最寄りの港でやるでしょ。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 16:15:48.60
>>883
結局邪馬台国は何よ?
0888日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 16:16:21.96
・伊都説→丁寧口調
・阿波説→@阿波
・筑後説→自分含め何人かいる

・畿内説→ゾンビ
・近畿説→まともそう
・板野→左翼っぽい

・謎の人→地名が気になっている模様

こんなところか
0889日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 16:25:32.10
邪馬台国は何かってのは核心なのにそれ答えないってどういう事よ?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 16:28:33.77
>>855
なんでそんなことを決めつけるんだ
理由は?
0892日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 16:31:52.20
九州説であろうが近畿説であろうが使者が王と会ってないなんて思ってるのなんて殆ど居ないでしょ
0893日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 16:38:09.65
>>844
>このスレでずっと言ってるのでお前が先入観で黙殺してただけだよ。拝仮は会うことを意味していない。使者は伊都に常所駐とあり、一大率が外交窓口になっているように見える。使者が近畿まで行ったなら方角が南になっているのは不自然。

それ、理由も言わずに言い張っているだけだろう?
結論だけ言い張るのって、それ主張じゃないから
0894日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 16:39:28.25
>>892
学者も全員そうだろうね
0895日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 16:56:06.10
>>892
駐と書いてあるから伊都国から先へは行ってないなんて言ってるのも
世界で伊都厨ひとりだろう
0896日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 16:56:11.39
じゃあ、郡使が福岡までしか来てないのは、どうするんだ。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 17:56:51.72
伊都説って伊都こそが首都だって主張してるやつだろ
伊都までしか来てないって言ってる奴は近畿説の亜種だぞ
0898日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 18:39:31.61
>>897
違うでしょ
だから邪馬台国は女王の所都で近畿にあるけど
卑弥呼は九州に居るとかわけわからん事を言っている
この場合の邪馬台国ってなんなのよ?
0899日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 18:48:31.65
結局駐するって言葉と同じで誤魔化せるだろうと思ってるんだろうよ
0900日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 18:51:25.89
畿内説こそ誤魔化しばかりじゃん。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 18:54:10.92
筑後が邪馬台国と主張すると該当する遺跡を聞かれてしまって困るので
邪馬台国はどうでもいい大きな国ということにして、
卑弥呼だけ近所の吉野ヶ里に間借りさせて、
朝鮮系の祇園山集団墓地を卑弥呼の墓にしようという手法
0902日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:06:54.02
筑紫平野が一望できる絶景の高良大社は、卑弥呼の王宮跡地に倭王阿毎多利思比狐が建ててあげた新しい同盟国・高句麗(昨日の敵は今日の友)の大使館ジャマイカ?
須恵器が出土している集団墓地があるし、畿内説はわざとその時代の違う朝鮮系集団墓地と混同させようとしているわけだからw
0903日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:18:44.88
>>900
>>902
ワロタw
素人の無知に付け込んで、箸墓の築造年代50年繰り上げ(同時に筑紫平野の弥生遺跡の繰り上げと古墳遺跡の繰り下げ=「卑弥呼の時代は何もなかった」)を吹聴・喧伝するしかない畿内説!w
0904日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:21:19.78
>>898
女王の都だよ。
倭国や女王国の都ではない。
各国、同様に王はなく
官名のみ。
共通王として紛争地域
貿易の出入り口でもある九州にいる。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:23:09.30
朝鮮系の祇園山集団墓地は、
竹島は韓国に統治権があると主張している故ザラゴキが卑弥呼の墓だと言い張っている集団墓地
反日有害活動員ザラゴキは、いかなる権力にも従わないというスローガンを掲げた会に所属している
0906日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:34:50.35
>>904
何言ってんのかわかんないわ
邪馬台国が近畿にある根拠がないし
0907日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:48:27.64
>>906
あるだろう。不彌国から30日の水行。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:50:44.80
>>907
それだけかよ
おそらく卑弥呼の出身地なんだろうし何処でも良いじゃん
0909日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:50:46.37
山に丹もある。
三重に橘が自生。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:54:45.61
>>908
どこでもいいなら九州以外でもいいて事だな。
邪馬壹国どこでもいい説てことね?
0911日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:56:18.00
不彌国から30日の水行の場所だから近畿に違いないと本気で思ってたのかよ?
そういうのが誤魔化しだっつってんだよ
0912日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 19:59:34.72
>>911
本気でせ。
山に丹あり、三重に橘
稲部遺跡、曽根遺跡等に
鉄あり。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:00:56.80
>>912
それが何故卑弥呼の出身地の根拠になるんだ?
0914日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:05:43.31
>>913
ト骨だな。
九州で弥生後期から古墳期時代の出土が
2つのみ。近畿では弥生全般から古墳期に出るんだよ。唐古・鍵遺跡等。

で君は何説?
0915日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:06:10.58
>>914
伊勢遺跡説
0916日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:08:20.09
>>915
伊勢遺跡も近畿だろー
伊勢遺跡 ト骨出ている?
可7万戸あるかな?
0917日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:09:43.37
邪馬台国は何処なのかという核心の話しなんだが答えがいい加減だな
0918日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:11:23.99
最近この時代に興味を持ちはじめたんだけど
邪馬台国の卑弥呼が天皇の血縁者という説をとると
ヤマト政権と邪馬台国は
天皇家同士で争っていたということになるんですか?
そうではなく生き残った大王が最終的に天皇と呼ばれるようになった?
0919日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:13:14.65
>>916
伊勢遺跡が祭祀の場というか政の場だろう
それと7万戸は日本の戸数だとおもってるから
0920日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:14:09.98
>>917
あんたがいい加減。
可7万戸だよ。広範囲。奴国で2万でせ。
官も4名と多い。官に副がいない。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:15:14.37
7万戸なんてのは近畿とか九州とかの範囲じゃないな
0922日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:15:16.11
>>919
思うのは自由。
俺は近畿一帯で7万戸。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:18:13.15
>>921
君は何説なのか先に書いてくれ。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:18:51.36
>>923
伊勢遺跡説だと言ってるだろ
0925日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:20:37.13
>>919
可7万戸
可があるのは投馬国、邪馬壹国。
見積もりだよ
0926日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:22:04.15
>>924
いろんな人がぶっこんでくるから
先に書いてくれば助かる。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:22:06.16
>>925
それにしてもね
だからこそ邪馬台(ヤマト)
0928日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:24:13.05
>>927
邪馬壹国近畿説
大規模 開拓があるから
纏向も一部。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:25:27.12
>>928
意味わからん
なんだそれ?
0930日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:28:07.48
3世紀の話で朝鮮系とか何を指しているのだろうか。基本的な知識が欠落しているのか。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:32:23.70
>>929
奈良は近畿だろー。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:33:44.11
>>930
意味不明、纏向説ではない。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 20:48:17.72
また畿内説のデマが飛び交うスレに堕したかw
0935日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:02:46.35
>>930
3世紀 201〜
0936日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:04:11.73
箸墓の築造年代は3世紀第四四半期(275〜300年)
0937日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:05:53.43
最近出没している伊勢遺跡説は、大阪城説と同一人物w
0938日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:05:53.71
3世紀
朝鮮半島と交流あった。
弥生後期〜
稲部遺跡、曽根遺跡に鉄
倭人伝と合致。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:08:10.14
>>936
箸墓説ではなく近畿一帯説
0941日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:21:42.38
>>940
だから何
0942日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:31:51.61
>>937
そうなんだけど規制で他が書けないからここに来るしかないんだよな
0943日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:35:09.27
>>941
邪馬壹国は近畿説
卑弥呼は九州説。
冢は九州と思うが
箸墓は引っ越し先かもな。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:38:33.21
>>944
又勝って決めつける。
邪馬壹国は近畿だよ。
なので近畿説。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:40:26.67
>>944
もう一度書く
九州には邪馬壹国なし。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:40:55.47
>>945

女王がいる王都の比定地論争が、学問畿内説や夢ロマン一人一説九州諸説
0948日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:45:21.59
>>947
意味わからん。九州は否定している
九州には邪馬壹国はない
近畿一帯だからね。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:55:26.72
>>949
定義が違うから無理だな。
邪馬壹国が何処にあるのかだよ。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 21:56:28.46
伊都国の郡使についての話題がありました

「(伊都国は)郡の使者が往来し、常に駐在するところ」という文言があります
駐するは、英語で言えばstationの意味合いだと思います

郡の使者は伊都国まで定期的に往来し、そこに滞在している
出先機関の事務所のようなものがあったのだと想像します
派遣された使者は一定の期間滞在し、任地を離れるときには次の使者と交代する

なぜそんな機関が設けられたのかについては、私の想像ですが、当時の中国の人々の中華思想に基づいた行動のように思えます
東夷と呼ぶ国から頼られたからにはそれなりの援助をすべきという考えだったのでしょう

正始元年の詔書・印綬を届けた使者は伊都国駐在の使者とは違い特別の使者だったでしょう
贈り物を運ぶ役人もそれなりの人数だったと思います

彼らは奈良にあった卑弥呼の宮殿まで詣でて、そこで皇帝からの文書・贈り物を届けました
卑弥呼は使いの人に皇帝への感謝の手紙を手渡します

このあたりの部分には倭国内での文字の使用に関する文言があります
難升米と牛利に付託した贈り物については「記録して受け取り、国中の人に示す」ことを求めていました

三国志の時代は内戦が続き、自然災害や疫病などにより中国の人口が大幅に減少した時代です
そういう自国の困難な時代に、我が国に親身になって援助しようとしたことは忘れるべきではないと思います
0952日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 22:02:53.83
畿内説は祇園山をどうしても4世紀にしたいみたいだなwww
0953日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 22:15:27.57
吉野ヶ里 楽しみだな。
水銀朱 出土があれば分析だな。
どこ産なんだろうね。
中国産、大和産、三重産、阿波産
どっちらにも当てはまらないなら
混合もあり得る。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 22:51:53.77
>>954
邪馬壹国近畿説
卑弥呼は共立で九州にて紛争止めている
奴国の南に狗奴国

面白いな
東海大学の北條芳隆教授の調査で日本最古級とされる箸墓古墳(奈良県)とほぼ同時期の3世紀末の築造。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 22:57:02.00
>>950

お前一人だけ論争の定義が違う
柳田は卑弥呼は糸島出身だと思うというような話をするが王都は畿内説
だからお前は一人一説九州諸説の佐賀説の三重人拉致監禁バージョン
0957日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:01:51.61
>>956
サッパリ、わからない
単純に
邪馬壹国がどこにあるのかが定義。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:08:04.44
>>957

邪馬台国に卑弥呼の王都があると皆考えてるから邪馬台国論争という
お前の主張は有明海沿岸の者たちが三重から少女を連れてきて
吉野ヶ里で見るもの少ないようにしてたのだから
一人一説九州諸説の佐賀説の三重の少女拉致監禁バージョン
0959日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:11:50.37
>>958
さらにサッパリ
邪馬壹国も女王国の一部。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:14:58.71
>>959

お前と他の人とは邪馬台国に卑弥呼の王都があるという前提が違う
邪馬台国論争ではお前のは九州説
一人一説九州諸説の佐賀説の三重の少女拉致監禁バージョン
0961日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:15:19.43
>>958
別に考えていないけど?
>>959
だなw
0963日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:20:46.97
>>954
小田原で前方後円墳発見 3世紀末築造 王権の勢力圏示す
2 日前 ? 同市内で前方後円墳の発見は初めてで、県内でも海老名市の秋葉山3号古墳
で日本最古級とされる箸墓古墳(奈良県)とほぼ同時期の3世紀末の築造 ..
0964日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:25:33.92
>>963
元々連合国家ではあるけど統一はされてたと思うのよね
だから一斉に変わる
0965日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:27:34.98
>弥生時代中期BC3世紀代ころの弥生・海人族たちの旺盛な活動範圏がよく分かる。

 青谷上寺地遺跡 (あおやかみじちいせき)この弥生の村の成立は、
日本列島に中国の戦国時代の鉄器の流入が始まる頃でBC3世紀代頃と考えられ、
集落の終焉は古墳時代前期初頭のおおむね3世紀後半と考えられている。
https://09270927.at.webry.info/201908/article_1.html?from_sp

『卜骨(ぼっこつ)、シカやイノシシの肩甲骨を火で焼いたりして吉凶を占った。
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/409/58/N000/000/000/156469753986455539610.jpg
 卜骨の出土数で青谷上寺地遺跡は群を抜いているが、
関東地方の小田原、三浦半島の先も卜骨の出土数が多い。
卜骨は海人族が行った占いだったのであろう。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:28:12.59
>>960
やっぱりサッパリ
邪馬壹国は近畿ですね
0968日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:29:44.73
やっぱり伊勢遺跡にみんな集まって会合にやってたんだよ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:31:07.32
>>966

お前は九州説
一人一説九州諸説の佐賀説の三重の少女拉致監禁バージョン
0970日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:31:27.43
>>965
近畿もあるね。
問題は九州。
弥生後期〜もんは二箇所。
吉野ヶ里が楽しみ。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:35:31.84
>>969
やっぱ、サッパリ
邪馬壹国は近畿にある。
九州には絶対にないと書いて置く
九州説の諸君はどうみるの?
0973日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:36:24.16
>>971
いや、近畿説ですがね
0974日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:38:12.67
実は、邪馬台国論になると九州か奈良か?が多いけども

九州北部の前方後円墳は案外少ないし出現が遅い、神奈川・三浦半島あたりより遅いかも?
0976日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:40:32.15
>>975
邪馬壹国は絶対に九州にはないな。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:45:36.45
>>978
なら聞く、邪馬壹国の根拠となるもんは?
0980日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:49:14.75
>>979

九州で最も発展している外港都市博多の首長と緊密な交流関係の
畿内第Ⅴ様式圏が畿内説の女王の王都がある邪馬台国
0981◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2022/08/18(木) 23:51:11.23
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1660831509/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0982日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:53:22.44
>>980
それだけですか?
畿内式以外にも出ていませんか?
0983日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:54:37.16
緩やかな連合であっても統一はされてた
その名前がヤマトで卑弥呼はヤマトの王で中国では倭王
0984日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/18(木) 23:59:08.69
>>982

博多の首長層の墓に採用されているのは畿内の供献土器
卑弥呼が遣使したころは畿内系主体+在地系少数で
3世紀半ばからは畿内系だけになる
0985日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:04:14.37
>>984
博多の首長層の墓て
具体的に?どこ
0986日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:05:20.47
比恵・那珂の首長墓への土器供献は、
①在来系主体+「B系統」少数(ⅠA期の比恵 120 次周溝墓)
→②在来系+畿内系(B・C系統)半々(ⅠB期古相の比恵 36 次周溝墓)
→③畿内系(B・C系統)主体+在来系少数(ⅠB期新相の比恵6次ほか比恵1号墳、那珂八幡古墳)
→④畿内系土器群(C・D系統)のみ(ⅡA期の那珂 62 次 SX028 周溝墓ほか)、という段階を経ている(久住)

B系統 畿内第Ⅴ様式
C系統 庄内系
D系統 布留系
0987日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:08:58.06
なっ、言っただろ卑弥呼時代には関東から九州までほぼ統一されてたんだよ
そうじゃないと、侍女1000人食べさせて家、衣服、提供する財力が賄えない。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:19:22.01
>>986
で卑弥呼が居た所とどう関係する。
機内も近畿の一部。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:23:53.12
>>987
×卑弥呼時代には関東から九州までほぼ統一されてたんだよ

○卑弥呼時代には先進地九州から発展途上地関東までほぼ統一されてたんだよ
0990日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:24:25.82
>>987
緩やかな連合国家であって強いリーダーが居たとは思わない
命令じゃ無いから文化の波及もまばらにズレがでる
だから敵対してて征服されたとかじゃないと思うけどね
0991日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:25:09.32
>>988

畿内説は、纏向が当時最大の遺跡ということだけじゃなく
九州で最も発展している外港都市博多の首長と緊密な交流関係ということが重要
0992日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:29:32.27
>>991
頓珍漢だ。
卑弥呼が畿内にいた証拠でもない。
交流だな。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:32:08.49
>>992

博多の首長層は畿内の影響下にある
九州内の影響なども三重の影響なども受けていない
0994日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:33:16.44
>>991
魏志倭人伝に沿った遺跡は?
0995日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:37:02.96
>>993
もう一度言う
邪馬壹国に卑弥呼がいた証拠なんだけど?
0996日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:37:03.19
>>994

倭人伝では、確実に博多湾沿岸の情報を魏使は得ている
その最も発展している外港都市博多の首長と緊密な交流関係が畿内
0998日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:39:46.20
>>996
別に交流はないとは書いていない
ト骨の出土がないけど?
1000日本@名無史さん
垢版 |
2022/08/19(金) 00:43:13.11
サッパリ、わからない
共通の王なんだから
畿内系の土器があっても当然。
10011001
垢版 |
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