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邪馬台国畿内説 Part833
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0001◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:45:01.20
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1670066597/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:45:58.71
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:46:30.55
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:47:06.83
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:47:38.18
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:48:10.65
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:48:42.58
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:49:14.57
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:50:02.68
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:50:36.85
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:51:19.05
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:52:01.91
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:52:37.71
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:53:10.66
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:53:42.79
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:54:17.28
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:54:50.31
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0019◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:56:00.74
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0020◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:56:32.30
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0021◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:57:04.74
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
0022◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:57:37.02
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0023◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:58:09.61
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0024◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:58:41.14
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0025◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 17:59:04.57
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0026◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:00:05.02
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0027◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:00:37.97
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0028◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:01:16.71
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0029◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:01:47.82
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0030◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:02:19.77
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0031◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:02:51.69
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0032◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:03:24.36
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0033◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:03:57.52
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0034◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:04:30.65
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0035◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:05:02.88
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0036◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:05:34.83
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0037◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:06:07.05
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0038◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:06:39.58
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0039◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:07:11.36
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0040◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:07:44.24
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0041◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:08:16.63
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0042◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:08:49.23
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0043◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:09:22.71
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0044◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:09:55.59
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0045◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:10:27.40
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0046◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:11:00.15
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0047◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:11:32.80
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0048◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:12:08.01
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0050◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:12:40.91
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0051◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:13:12.63
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0052◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:13:45.14
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0053◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:14:17.52
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0054◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:14:51.11
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0055◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:15:24.62
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0056◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:15:58.14
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎——黄鐘律管が容積・重量の基準——になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0057◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:16:31.87
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0058◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:17:03.72
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0059◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:17:36.57
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0060◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:18:08.90
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0061◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:18:40.90
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0062◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:19:13.73
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0063◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:19:45.90
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0064◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:20:18.25
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0065◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:20:51.07
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0066◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:21:24.32
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0067◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:21:58.54
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 
0068◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:22:31.57
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0069◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:23:04.30
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0070◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:23:37.74
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0071◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:24:10.69
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0072◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:25:01.01
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0073◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:25:34.50
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0074◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:26:07.17
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0075◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:26:40.12
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0076◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:27:12.20
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0077◆n7jxAxKCBhb6 2022/12/06(火) 18:27:44.53
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0078日本@名無史さん2022/12/06(火) 21:59:15.83
>>1
前スレでも指摘しましたが間違ってますよ
テンプレ修正してください

誤)3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
正)3世紀中葉には、古墳時代が開始していたという説を畿内厨が唱えているが、intcal20により信憑性がなくなってきている

https://agora-web.jp/archives/220907081125.html
「残念ながら60%以上が求められるモデルの適合度は16%と低く…参考程度の結果と捉える必要がある…」
「古墳時代開始の定義を箸墓とするのであれば、「古墳時代は3世紀半ばから」といった特定は、現段階では避けるべきだと思われる。」
0079日本@名無史さん2022/12/06(火) 22:16:01.55
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0080日本@名無史さん2022/12/06(火) 22:17:39.98
>>78
ここは>>1のオナニースポットだからね。
0081日本@名無史さん2022/12/06(火) 22:25:34.52
>>78
なんでintcal20により通説の信憑性がなくなるの?
理由がまったく不明なんだけど
0082日本@名無史さん2022/12/06(火) 23:15:55.62
歴博のインチキで成り上がった【通説】とか聞いて呆れるってのw
0083日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:17:09.72
>>78
箸墓周濠から出土した土器付着物には240~260年の較正年代の確率が高いものがあり、
240~260年の可能性が低いとまでは言えないが、限定はできない。周濠の土器は古い年代の土器が
廃棄された可能性も否定できず、試料として望ましくない(最も望ましいのは埋葬施設からの出土遺物)。

なんか批判のトーンが弱くなったと思ったらこういう事か
箸墓の埋葬施設からの出土遺物は今のところ手に入らないもんな
0084日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:26:18.61
>>83
ゴリゴリ九州説の素人さんもIntcal20を見て
箸墓が240〜260年なのを認めざるを得なくなってきたけど
まだ「古い年代の土器が 廃棄された可能性も否定できず」とか支離滅裂な夢物語でか弱い抵抗をしてるようだ

これを見て「intcal20により通説の信憑性がなくなった」とか言ってる人は
知能が無いのでは?
0085日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:31:39.39
箸墓の周濠から出土した布留0式土器は何処から来たのか?

大池は箸墓築造後の姿では無く後世に拡張された部分と埋め立てられた部分が存在する。池として拡張された部分の土砂は外堀の埋め立てに使われて田んぼになったと想像出来る。現在の画像を見ると掘られた部分は、隣には民家がたっているので当時は住居として使われていた可能性がある。
田んぼの埋め立てに使われる土砂に含まれていた不要な土器片は近くの第81次調査の周濠に廃棄されたのであろう。つまり箸墓の周濠が出来てから布留0式土器が廃棄されるまではある程度の時が経ている事が考えられる。

https://i.imgur.com/ebG1wln.jpg
https://i.imgur.com/yudYxcs.jpg
0086日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:38:38.91
>>83
>箸墓周濠から出土した土器付着物には240~260年の較正年代の確率が高いものがあり

この文をより正確に言うと、「240~260年の較正年代の確率が高いものが数点あり」となる
なにしろ適合度はたったの16%なんだから
大事なことなのでもう一度言います
適合度はたったの16%です
0087日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:47:34.65
【適合度の合格点は60%】
適合度がたったの16%では間違ってる可能性の方がはるかに高い。
いや、むしろ間違ってるでしょうwww
0088日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:48:07.33
>>86
それで何が正しいの?
0089日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:51:31.98
>>88
「箸墓の築造は240〜260年」が正しいんでしょ
0090日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:51:38.68
歴博は纏向遺跡だけでなく、全国4万4425件(2022年10月現在)の炭素14年代測定のデータベースを構築しています。うち土器付着物は5567件(12.5%)です。そのうち焦げ・吹きこぼれが1037件ありますが、煤が941件あります。単に「土器付着物」が3083件もあり、区別されていないものが多いです。もし煤か、焦げ・吹きこぼれかを区別できていないとしたら、かなりの測定が無駄になっている可能性があり心配です。

このように、歴博の箸墓古墳の年代推定は、根本的な問題点があります。
0091日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:53:23.27
>>86
>なにしろ適合度はたったの16%なんだから
>大事なことなのでもう一度言います
>適合度はたったの16%です

なんの適合率が?
0092日本@名無史さん2022/12/07(水) 00:54:42.32
INTCAL20 を使用すると、実年代が大きく変化し 100 年新しくなる。すなわち AD220~AD260 年あるいは AD290~AD340 年の二か所が候補となるが、AD300 年頃 ~4世紀前半が有力となる。同様に、箸墓周辺布留0式土器の年代も AD290~AD340 年が有力となる。
0093日本@名無史さん2022/12/07(水) 01:02:59.13
>>92
INTCAL20 を使用すると、実年代が大きく変化し 100 年新しくなる?

それ、証拠でもあるの?
何も証拠がないなら、妄想だよね
0095日本@名無史さん2022/12/07(水) 01:26:29.98
IntCal20のデータを見ると古墳時代の始まりが2世紀末になる。
0096日本@名無史さん2022/12/07(水) 01:40:20.00
>>94
適合度とは何だか言ってみな
0098日本@名無史さん2022/12/07(水) 04:36:33.67
墓の大きさでイキるバカ
0099日本@名無史さん2022/12/07(水) 04:56:30.14
>>98
古墳の常識
0100日本@名無史さん2022/12/07(水) 05:16:44.55
箸墓はベスト10圏外だけどな
0101日本@名無史さん2022/12/07(水) 05:32:02.33
>>100
九州説爺さんって、そこまで無知なの?
それともおツムが弱いの?
何と比べてベスト10圏外とか言ってるんだ
マジ白雉じゃねえか
0103日本@名無史さん2022/12/07(水) 05:40:27.70
>>102
どうしてお前はそんなに頭が悪いの?
教えてよ
0104日本@名無史さん2022/12/07(水) 05:42:20.07
>>103
キナイコシがバカだというのは世間の常識だけどな
0105日本@名無史さん2022/12/07(水) 05:43:41.29
すぐ釣れるキナイコシのアホw
0106日本@名無史さん2022/12/07(水) 05:49:00.54
釣られるキナイコシ
\  ∩――、
 \/ ●ヽ_ ヽ
  /\( ● ●|つ =
 | X入_ノ ミ  ==
 人 (_/  ノ /⌒)
  /\___ノ_/ / =
 (     __ノ =
  \ \_  \ ズザザ
   \__)  \ ==
    \  __\__
     \___)__)
0107日本@名無史さん2022/12/07(水) 05:52:18.79
九州説ってのは、人間どこまでバカになれるかのコンテストでもやってんの?
w
権力のバロメータとしての古墳の大きさは同じ時代で比較するってことくらい古代史研究の常識なのに
0108日本@名無史さん2022/12/07(水) 05:59:15.12
権力が大きい=卑弥呼の墓ってのが単細胞なんだよ
0109日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:04:59.76
──ほう。畿内説の根拠となるものは何ですか?

福永 そこに3世紀前半ごろ、強大な権力があったことが、近年の調査・研究で明らかになったことです。
https://i.imgur.com/g6KObdJ.jpg
0110日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:05:29.67
>>108
一番大きいのがその時の大王の墓
第一期でダントツに大きいのは箸墓
だから箸墓は初代倭国王の墓
ちょうど時代が合うので卑弥呼の墓
シンプルなロジックには一番説得力があるものさ
0111日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:09:03.20
>>110
その当時の畿内は倭国じゃないから、盗人猛々しいとはこの事だ
0112日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:11:52.59
>>111
それ、妄想だから
0113日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:12:39.22
時代が合ってるじゃなくて、無理クリに合わせてるが正しい
0114日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:14:31.84
>>113
証拠なし
妄想
0115日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:14:40.33
>>112
箸墓=卑弥呼の墓は畿内説考古学者の誇大妄想ならぬ古代妄想
0116日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:16:18.33
>>115
反論できずに悪口しか言えないのは
負け犬
0117日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:18:07.23
>>116
ブーメランが身体中に刺さって立ち往生のキナイコシ
0118日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:21:36.47
>>117
ほら、また一言も反論できずに罵るだけの負け犬
それが九州説
0119日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:25:11.62
>>118
事故紹介ありがとうキナイコシ
0120日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:30:56.71
>>119
畿内説はいつもキッチリ反論して、トンデモ九州説を論破してるよ
0121日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:33:20.99
倭国として魏と行き来したという物的証拠が乏しいというか無い
0122日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:39:07.35
>>121
乏しいって証拠は?
0123日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:52:25.94
>>122
乏しくない証拠は?
0124琪瑛教祭酒2022/12/07(水) 06:55:13.55
九州にあるのは阿人の痕跡だよ。
阿人を研究しなよ。秦王国がその後どうなって行ったか?興味深いよ。かなり影響があっただろ?半島鉄豪族も来てただろうしな。
0125日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:56:49.24
魏の使者が畿内に向かうのなら、隋の使者のルートで行くのが合理的なのに実際は九州内を周旋している、この事をしても畿内には行っていないのがわかる。
0126日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:58:47.91
>>125
九州内を周旋していると思う理由は?
0127日本@名無史さん2022/12/07(水) 06:59:18.38
>>124
秦王国は宇佐神宮の荘園になったよ
0128日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:00:51.58
>>126
九州を周旋していないと思える根拠は?
0129日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:03:22.06
3世紀の倭国=後の日本という畿内説の前提がおかしい
倭の五王より前に書かれた中国の史書で書かれた日本の地名・人名は北部九州のものしかない
少なくとも北部九州以外であることがはっきりしている地名・人名はない

また当時の中国の史書によれば朝鮮半島南部にも倭と認識されている地域がある
さらに倭の地域としては海も強調されている

つまり、当時の中国が認識していた倭の領域は、対馬海峡一帯の北部九州から朝鮮半島南部にかけての地域(海域)だ

奴国は倭国の極南界という表現も、邪馬台国連合から東に海を渡ればまた倭種の国があるという表現も、後の中国の史書で日本と自称する連中は我々が昔から知っている奴国あたりの倭国とどういう関係なのかと疑問を持っているのも、全ては上記の倭領域の認識から生まれたもの
0130日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:04:51.00
>>128
>九州を周旋していないと思える根拠は?

九州内を周旋していると思う理由を聞いたら
答えないから
0131日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:07:06.49
中国の史書に北部九州以外の日本列島の人名が表れるのは倭の五王から
0132日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:08:17.21
>>129
>倭の五王より前に書かれた中国の史書で書かれた日本の地名・人名は北部九州のものしかない

証拠は?

>また当時の中国の史書によれば朝鮮半島南部にも倭と認識されている地域がある

理由がない
該当する場所もない
0133琪瑛教祭酒2022/12/07(水) 07:09:33.53
隋の行程通り、同じだね。投馬が吉備、狗奴国が河内。
伊万里、一万里。そっから800キロ。畿内で合ってる。
我々は科学的地理で正しい姿と認識させられているが、当時の者らに全体像はわからない。
初めて渡海、初めて太陽系を出る、何光年行くと何々、と魏当時の記録や話ではわからんよ。
0134日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:12:09.84
>>130
阿波でさえ無理クリに九州に上陸してるぞw
0135日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:14:16.09
1000年変わらない田園風景が広がる世界農業遺産の郷
田染庄も宇佐神宮の荘園の一つ
https://i.imgur.com/GtB1ghO.jpg
0136琪瑛教祭酒2022/12/07(水) 07:17:19.01
127.荘園になっていく過程を説明して行かないから九州は説得力がないのよ。鉄が貴重だったんだろ?鉄で力があるのは半島だよ。
0137日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:17:20.72
>>134
>阿波でさえ無理クリに九州に上陸してるぞw

それ、「九州内を周旋していると思う理由」にならないから
因果関係がない
0138日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:17:30.13
魏志倭人伝の邪馬台国は北部九州(筑紫)の一地方勢力だ
弥生時代の日本列島は吉備も出雲も大和も高志も尾張も毛野もそんなもの
後にヤマト王権が生まれる大和も神武東征前はナガスネヒコ程度の勢力しかいなかった

公孫氏を滅ぼして帯方郡を接収した魏が周辺諸国に朝貢を促した時に、日本列島で朝鮮半島から一番近くて交流があった筑紫勢力に声を掛けたらたまたまそこのリーダーが卑弥呼という巫女女王だっただけの話だ

ただ、晋の実質的建国者司馬懿の公孫氏征伐の功績を大きく見せるために、魏志を書いた晋の役人陳寿が邪馬台国を呉の背後を脅かす東の大国のように脚色したために、邪馬台国(連合)は大層な書かれ方(魏志の異民族列伝最多の約二千文字)をしてしまった

一部の畿内説の考古学者が一生懸命に大和の「強大な権力ぶり」を強調するが、邪馬台国はそもそもそんな強大で中央集権的な存在ではない
頓珍漢も甚だしい
0139日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:17:37.91
2世紀末頃に女王国誕生
3世紀前半で卑弥呼の邪馬台国は消滅する
そして男王が立つ内乱を引き起こし収拾がつかなくなる
臺与を女王とし、266年に朝貢を再開
ここでようやく平和が訪れた
纒向は無関係
0140日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:22:00.56
>>138
>一部の畿内説の考古学者が一生懸命に大和の「強大な権力ぶり」を強調するが、邪馬台国はそもそもそんな強大で中央集権的な存在ではない

そんなこと決めつける理由は?
0141日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:26:40.06
>>137
畿内説が魏志倭人伝を読んでいないことが確定したな
0142日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:29:33.71
>>141
反論もしないで、ただ罵るだけ?
それって論破された証拠だよ
0143日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:31:25.92
>>140
質問をするより自分の歴史観を書きなさいよ
記紀や中国の史書や考古学的成果を全て考慮に入れて全体を整合させた形でね
説得力があったら私も畿内説に転じるよ
0144日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:35:09.63
九州には六郷満山の国東半島がある。名の由来は倭国もしくは秦王国の東に位置するからなのだろう。画像は秦王国のエリア
https://i.imgur.com/7X5z4pf.jpg
0145日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:36:34.70
>>143
質問じゃない
主張するなら理由を言えと責めてる
理由が言えないなら
お前の主張は他人に通用しない

それだけ
0147日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:42:38.57
畿内説がアマチュアに説得力を持たないのは、記紀や魏志倭人伝を軽んじて考古学的成果とそれら文献との整合を殆ど取らないからだ
ひたすら畿内から出てきた遺跡を強引に卑弥呼の時代に当て嵌めようと拘泥するのみ
動機は邪馬台国名目で纏向発掘費用を税金から引っ張って来るためだろうが、あまりに露骨だし理論の中身が伴っていない
0150日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:51:28.38
>>147みたいに、なにひとつ証拠を出さずに言い張るだけの人って
アマチュア古代史マニアとか素人研究科じゃないね
偏った思想の煽動屋だ
0153日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:58:38.14
畿内説の致命的な弱点は文献(記紀、魏志倭人伝等中国史書)との整合性だ
文献と考古学的事実を丹念に付きわせて行き着くのが九州説
0154日本@名無史さん2022/12/07(水) 07:59:43.12
>>153
だから、そうだっていう証拠は?
0155日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:02:12.80
>>151
>好きなだけ罵りなさい

ある九州説の人について証拠のあることを言っただけ
0156日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:05:29.51
奈良盆地は異民族に征服された場所だから、何としても日本人になりすませる邪馬台国が欲しいのさ
0157日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:07:50.84
>>156
九州説って、おかしな政治思想?
0158日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:10:16.30
そう言えば、邪馬台国は秦族に滅ぼされたという趣旨の本があったな
0159日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:28:18.57
畿内説つって、魏志倭人伝を読まずに僕が考えたさいきょうの邪馬台国を夢想しているだけに見えるな
0160日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:29:02.43
>>159
そう思う理由は?
0161日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:30:36.23
キナイコシの得意技はクソの投げ合いに持ち込む事
0162日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:34:02.67
>>161
そうやって、いつも決して証拠を出さず罵るだけなのが
九州説
0163日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:37:50.94
>>162
お前がキナイクソかw
0165日本@名無史さん2022/12/07(水) 08:44:11.24
畿内説はエウドクソス
0166日本@名無史さん2022/12/07(水) 09:21:44.80
畿内含め女王国の東の倭種の国さん達は銅鐸文化の後、東日本から教わった巨大古墳造りに没頭していたようです
後に東への敬意を示し日出る国「日本国」と名乗るようになりました。

https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

しかし中国への朝貢を怠っていたため、朝貢を開始した8世紀以降の記録しか残されていません。
0167日本@名無史さん2022/12/07(水) 09:53:30.66
>後に東への敬意を示し日出る国「日本国」と名乗るようになりました。
違います。神武天皇より先に大阪・奈良に降臨した物部氏等の祖、宇摩志麻遅命の父・櫛玉饒速日命が眩しくて目を細めて「虚空見日本国」とおっしゃいました。
0168日本@名無史さん2022/12/07(水) 09:55:25.88
古代にかかわる人口推計と、魏志倭人伝の戸数データから当時の人口を推測したものはほぼ同じ数字を示す
魏は当時の倭人の人口を正確に把握できていた

九州説は成り立たない
0169日本@名無史さん2022/12/07(水) 09:56:55.81
「日本は乃ち小国、倭の為に併す所となる。故にその号を冒す。」
饒速日命の日本国を神武天皇の倭(邪馬台)国が降し国号を併用しました。
0170日本@名無史さん2022/12/07(水) 09:58:19.58
倭人伝では距離も人口も司馬氏の自己顕示欲のために当然に過大にされている。
0171日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:16:59.36
>>169
成る程、倭・日本(邪馬台国・卑弥呼)
と倭(漢委奴国王)ですね。
0172日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:17:46.41
司馬氏は曹氏からの簒奪扱いじゃなければ良いのであって、魏の勢力を盛る必要はない
0173日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:26:58.25
公孫氏を滅ぼしたのが魏の将軍としての司馬懿の功績だ
魏で司馬懿の政敵だった曹爽の父親曹真の実績である西の大月氏国(クシャーナ朝)朝貢に匹敵させるために、司馬懿の功績である東の邪馬台国朝貢を大きく見せる必要があった
司馬氏の普朝の禄を食んでいた陳寿はそこに忖度する必要があった訳だ
0174日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:28:34.74
九州説は何でも超解釈でお手盛りフリーハンドにしちゃうから、比定地を特定する力が無くなって自分の首絞めてる
0175日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:33:51.69
魏の勢力を盛る必要はないよ。
ちょうど十年前に司馬仲達のライバルだった曹爽の父親が西方の大月氏国の使いを万六千里彼方から連れてきたことがあったのである。邪馬台国はその大月氏国よりさらに遠い国だと司馬懿仲達は触れ回ったのである。
司馬懿仲達が帯方郡から邪馬台国までの距離、千二百里を十倍にして万二千里と報告したため、邪馬台国は洛陽から万七千里彼方の国とされた。
0176日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:41:56.20
>>166
銅鐸の銅を中国から手に入れてたでしょ
0177日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:46:00.30
陳寿は233年頃の生まれ
台与より2最年上
卑弥呼が248年頃に亡くなり、台与が13才で即位したときは15才くらい
その3年後251年に司馬懿は死去している
0178日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:46:04.59
>>174
明らかに間違ってる物を比定する力はある畿内説?
0180日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:48:17.14
畿内説がホケノ山古墳を卑弥呼の墓と言わない理由って何だ? 小さいからかw
0181日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:48:42.01
>>177
その過大な距離の記録は当然魏の公式文書に残され、後に陳寿が倭人伝を書く資料になった。すでに司馬懿仲達はこの世になく時代は孫の時代になっていたので帯方郡から邪馬台国までの距離は実際には千二百里ほどだということは知られていたと考えられるが、現皇帝の祖父で、事実上の初代皇帝の事跡であった「万二千里」は陳寿にしても訂正できなかったのである。
0182日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:49:14.11
>>174
畿内説はオール妄想だろ
文献無視するやつが何言ってんだか
0183日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:55:08.44
文献にない放射説と短里でギャグをでっち上げる九州説
0184日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:59:06.26
>>183
韓国は四千里四方

同じ魏志でそう書いてあるんだから短い里を使った表現に問題は無い
0185日本@名無史さん2022/12/07(水) 10:59:12.53
魏志が韓伝と倭人伝だけ一里が顕著に短いのは確か
短里なのか露布十倍なのかは知らないが
おそらく邪馬台国までの距離をオーバーに記録した魏の公式文書との整合を取ったのだろう
(オーバーに記録した意図は司馬懿の功績強調)
0187日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:03:10.62
>>175
>司馬懿仲達が帯方郡から邪馬台国までの距離、千二百里を十倍にして万二千里と報告したため、邪馬台国は洛陽から万七千里彼方の国とされた。
どこにその記録があるのか教えてほしい
0188日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:03:17.16
畿内説の弱点はキナイコシが布教係な事
0189日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:04:53.10
>>179
半島の何処の銅だよ?
0190日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:07:04.33
万二千里はすっごく遠くだよって意味じゃないか?
0191日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:12:11.31
>>180
>畿内説がホケノ山古墳を卑弥呼の墓と言わない理由って何だ? 小さいからかw

箸墓があるからだ
0192日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:18:34.98
>>175
>司馬懿仲達が帯方郡から邪馬台国までの距離、千二百里を十倍にして万二千里と報告したため、邪馬台国は洛陽から万七千里彼方の国とされた。

別に十倍にする必要ないではないか
欲しい答えに合わせて勝手に万二千里にすればいい
0194日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:24:42.47
>>193
いや、比定する遺跡名すら聞かないな
0195日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:25:19.47
漢書地理志に唐代の顔師古が注釈を入れているが、

「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歳時來獻見云。〔一0〕」

〔一0〕如淳曰:「如墨委面,在帶方東南萬里。」
    臣?曰:「倭是國名,不謂用墨,故謂之委也。」
    師古曰:「如淳云『如墨委面』,蓋音委字耳,此音非也。倭音一戈反,今猶有倭國。魏略云倭在帶方東南大海中,依山島為國,度海千里,復有國,皆倭種。」

この如淳は魏の官僚であり、当然、陳寿より前の人、卑弥呼朝貢時に既に倭は帯方東南萬里とされていた
0197日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:47:01.85
>>191
科学的にホケノ山古墳の築造年代はいつなのか?
0198日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:47:38.97
隋書
昔は、楽浪郡境及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、
會稽(郡)の東にあり、?耳に近いと言われていた。

だから実際はこの通りじゃないんだ
0200日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:52:59.24
>>196
あんたは病気だ
医者に行け
0202日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:55:17.17
吉野ケ里だってもう何年調査やってるんだって話しで
十倍の規模の纏向ならそら百年かかるだろうよ
こういうの他と比較しないと気づかないのよ
0203日本@名無史さん2022/12/07(水) 11:59:18.63
>>181
帯方郡から邪馬台国の記述はない
0204日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:03:48.01
>>199
なんで鏡が出ないんだ
0205日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:06:10.34
発掘中の近くからは前漢鏡が出ているから
0207日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:10:34.18
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0208日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:14:00.99
>>195

翰苑もそうだけど、倭国については魏志じゃなくて魏略を引いてるんだよな

魏志の倭国行程は信頼されていなかったんじゃないかな
0209日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:16:53.34
>>193
何でもいいからこれにしようって糞いい加減なヤツが少ないからだろう。
0210日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:17:02.72
纒向は単なる墓域
纒向遺跡は古墳造営基地局

畿内説は不都合な領域については何かと言い訳をして調査しようとしない
これは一生真実に辿り着けない手法である
考古学は理系が不都合な領域を徹底的に調査するのと対称的
0211日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:20:12.87
>>209
そうそう、そして肝心な殉葬の痕跡は一切探そうともしない

はじめからデカい墓としか頭に無い

メモリーが少ない劣等民族だから
0212日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:20:22.11
>>210
不都合な領域って、どこよ
まだデッチ上げか?
九州説はウソまみれだな
0214日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:23:19.43
>>209
比定地が無いなんてダメだろ
0215日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:26:18.18
記紀のエウカシ・オトウカシにしろエシキ・オトシキにしろ、神武東征前の大和では男の兄弟による祭祀と実務の支配体制が見られる
神武東征後もリーダー(大王)は常に男だ

一方、北部九州には神夏磯媛、八女津媛、田油津媛など巫女的女王が頻出する
山門の田油津媛などは、兄弟が実務を執るところまで卑弥呼の体制にそっくりだ

だから邪馬台国は北部九州だとまでは言わないが、邪馬台国は大和と考えるよりも北部九州と考えた方が、魏志倭人伝に限らず記紀の内容も細かいところまでしっくりいく
0216日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:26:24.01
遺跡は根拠になるって事が何故わからんかな?
0217日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:31:26.79
文献を無視すれば畿内説でもOK、文献を考慮すればほぼ九州説しか成り立たない

考古学は畿内説と言うが、そりゃ文献を無視すればいくらでもこじつけられる

しかし無知なマスコミは騙せても、ちゃんと調べているアマチュアは騙せない
0218日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:37:19.13
>>217
逆でしょ
その時代に何があったか考古学的資料こそが重要
0219日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:39:24.17
>>218
考古学的資料と文献的資料(魏志倭人伝、その他の中国・朝鮮史書、記紀等)の突き合わせが重要
0220日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:40:20.75
>>205
>発掘中の近くからは前漢鏡が出ているから

そんなもん卑弥呼は貰ってないよ
0221日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:40:29.13
文献なんて明らかにこじつけでしょう
0222日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:48:30.35
文献資料を考慮したら短里なんて妄想出て来ない
0223日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:48:42.88
神社に起因する伝承とかやめてもらいたい
平安時代にできた神社なんて関係ないし文献的資料と突き合わせてない
0224日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:50:12.12
文献を否定または軽視しなければ成り立たないのが畿内説
文献と考古学を突き合わせたところから導かれるのが九州説
0225日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:52:57.59
>>224
八百年後にできた神社と何の関係があるのよ?
0226日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:53:15.07
>>215

8世紀の日本書紀は中国の歴史に倣って男系継承なので
地方には名草戸畔のような女性首長がいる
0227日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:56:42.06
文献と考古学突き合わせても卑弥呼の墓が不明な九州説
0228日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:57:10.00
そもそも畿内説はヤマトの正史である記紀すら無視してるのがなあ
0230日本@名無史さん2022/12/07(水) 12:58:14.19
畿内説が年代操作やり過ぎて余計にわからなくなってるんじゃないのかな
0232日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:01:04.37
アレもこれも3世紀に寄せちゃうから3世紀大渋滞w
寒冷期でもあり異常気象や飢饉も発生していた時代だというのに
あたかも物凄く栄えていた時代であるかのように
今時点で既に歴史歪曲だろ
0233日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:01:20.43
>>220
北部九州は紀元前から中国と交流があった事の証拠になるだろう。須玖岡本遺跡からは30枚出土している。
当然奈良でも出土してるよな?
0234日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:02:35.98
>>219
文献に相違があった場合はどうすんの?
0235日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:03:15.69
>>233
銅鐸作ってるからね
0236日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:04:36.43
>>219
それを一つもやらないのが九州説な
w
0237日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:05:57.59
>>235
前漢鏡の出土はあるのかな?
0238日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:06:58.16
>>237
大量の銅は何処から手に入れたんだ?
0239日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:07:15.64
曹魏は前漢の景帝の末裔を称した劉備を滅ぼした側
0240日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:10:01.03
たくさんある青銅器には触れずに何故前漢鏡だけが照明になると考えるのか?
0241日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:10:50.48
>>232みたいに
古代の歴史も現代の他説も
みんな捏造してファンタジーするのが
九州説

しかし絶対に証拠を出さないので
作り話なのが一目瞭然だから
誰からも信用されない

それが九州説
0242日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:13:06.86
>>238
何の銅?

少なくとも奈良の大仏には香春岳の銅が使われている
0243日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:13:32.85
>>242
>>235
0244日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:17:32.55
青銅器はたくさん出てる
これこそが考古学の証明
0245日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:25:07.22
>>241
そんなに必死に誤魔化そうとするのは何か心当たりでもあるから?w
0247日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:38:14.13
>>246
おまえ、やった実績を出せないだろ?
ほら論破
0248日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:39:36.56
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0249日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:39:40.05
陳寿は元は蜀漢の官僚だった
蜀漢の滅亡後に推挙され西晋に仕えた
0251日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:41:50.73
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
0252日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:44:29.28
九州では漢の遺物は出土したが何故か魏の遺物はない
0253日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:47:58.65
>>223

平安時代にできたという根拠がないし、古史古伝を無視するなら日本史は闇の中になってしまう。
0255日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:48:35.68
>>179
古い銅鐸は朝鮮半島産で新しいのは中国産みたいね
でも古いのは紀元前で漢の時代は中国産
0256日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:49:34.94
>>254
実際神社の遺跡がねえじゃん
0257日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:50:16.12
>>251
>帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
>また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日

おい、進む方角は南だぞ
帯方から南水行しても海の上だ
陸は無い
つまり
おまえの説、どーしょもなく破綻してるから
0259日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:55:01.99
これは弥生時代の神社じゃないかってのが出てないでしょ
0260日本@名無史さん2022/12/07(水) 13:58:04.36
そういやアホが纒向の建物は伊勢神宮に似てるとかこじつけコメント吐いてたな
希望的観測しか発言できないアホ=畿内説
0261日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:02:07.17
南至が帯方郡からの出発方向なら、
東と南は間違えないという雑多九州説の主張は使えない
0262日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:12:29.85
>>251
魏志倭人伝と一致せず。
0263日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:32:22.54
>>251
対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となりません。方300、400里
11400余里です。伊都国で500里
11900余里、分岐で不彌国、奴国が100里。
12000余里。
0264日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:35:03.15
>>261
九州上陸地から東南もあります。
何故か?北東に進む
0265日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:36:52.23
>>263
そういう二重帳簿サギ、普通の人には通用しないから
0266日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:37:39.48
>>265
魏志倭人伝無視ですか?
0267日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:41:09.06
>>266
その後南至投馬國水行二十日があるんだからそこもちゃんと説明しなきゃ
0268日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:41:21.35
>>266
いや、古田式トンデモ読みとか、世間に通用しなかったってだけ
0270日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:43:58.25
魏志倭人伝には対馬→壱岐の位置関係が南北と書いてあります

これに従った視点で見るとこういう景色です
https://i.imgur.com/t1La2wr.png

邪馬台国はこの視界の中に存在するはずです
0271日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:44:16.69
>>267
北部九州では南に水行できない。
東に行くか西に行くしかない。
0272日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:46:08.79
>>270
耐えずこの視点で移動しているのか?
0273日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:48:34.41
吉野ヶ里は松浦半島の東南にあるが漢倭奴国王印が見つかった地からは南南西になる。つまり九州説自体に矛盾が発生
0274日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:50:52.30
【解析結果】畿内説はお門違いでした
魏志倭人伝において里数で書かれた行程は中国国内の伝承であり、日数で書かれた行程は朝貢に来た倭人から得た情報である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が次々と出てきたため
中国側は混乱し、とりあえず知っている行程のすぐ後に倭人の説明を追記してしまった。
この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国の位置は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている

■半島南部の倭人領が「投馬国」である根拠の一つ
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
https://nazology.net/archives/110991
0275日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:51:16.98
>>273
漢倭奴国王印が見つかった地からは南南西になる。伊都国や奴国ではないかもしれん。
なんせ、移動できるもん。
0276日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:52:05.15
>>274
筑紫まであって邪馬台国ではない
0277日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:54:20.13
>>274
何故不弥国の後に南至投馬國水行二十日としたのかの説明だよ
0278日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:54:52.53
>>274
>■半島南部の倭人領が「投馬国」である根拠の一つ

ねえよ根拠なんてw
帯方から南水行してちゃ
伽耶には着かねーよ
0280日本@名無史さん2022/12/07(水) 14:59:24.33
>>278
そうだな。東へ方向転換する記述もない。
0281日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:02:24.79
>>278
伽耶は投馬国のうちの一国
倭人による半島南部一帯の呼称が投馬国と言う事だ
0282日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:02:38.64
>>251
後漢書は魏志倭人伝を基に倭国について語っている、その中で女王は邪馬台国にいたとしている
私たちが読む魏志倭人伝と同じことを言っているだけ
0283日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:02:47.37
>>278
斉州島ルートかな?
0284日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:03:47.99
>>279
何が言いたい?
不弥国の場所が違うと言いたいのか?
0285日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:05:20.17
>>282
范曄説という事で理解していいか?
正しいとかは定かではないて事?
0286日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:07:58.51
>>282
魏略があるし違うんじゃないか
0287日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:09:01.30
>>284
東へ行けば不彌国に至る
だから行程には含まない
倭国の南端、女王国の境界とするところは奴国だ
0288日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:12:08.61
>>287
何言ってるのかわからん
南至投馬國水行二十日だから
0289日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:12:29.43
>>286
そこなんだよね。
伊都国から方向のみで里数なし、日数もない。
魏志倭人伝では不彌国、奴国の方向と里数ある。
投馬国、邪馬台国の方向はあるが
里数でなく日数である。
文献の一致せず。
0291日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:14:43.54
>>290
じゃあ結局不弥国は何処にあるのよ?
0293日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:17:15.50
>>292
だったらその不彌国だがな、魏志では馬鹿の一国でもあるんだよてのはなんだ?
0294日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:17:30.55
>>288
投馬国からどこに上陸するの?
0295日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:18:30.01
>>292
博多起点にしなければ?
0296日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:19:08.53
>>294
不弥国じゃないなら何処からよ?
不弥国を書いた意味は何?
0297日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:20:49.61
>>296
わからんが聞いたのみ
投馬国のどこから出発したのかわからん
0298日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:21:12.78
わからないならわからないで考えれば良いけど
説明しないで誤魔化すのやめてくれ
0299日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:21:19.23
>>293
馬韓50国で紹介されてるだろ
書き込む脳が無いならロムっとけカス
0300日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:22:15.55
>>298
だからわからんと書いている
0303日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:22:53.66
>>285
引用の後漢書の記述は魏志倭人伝を基にしたもの
范曄が後漢書に取り掛かったのは432年ころ、三国志成立から150年ほど後のこと
卑弥呼と同時代を生きた陳寿とは史実のとらえ方に誤解も生じている
0304日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:23:06.56
>>299
じゃあ百里離れた奴国は何処よ?
0307日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:26:48.49
>>303
陳寿にせよ、范曄にせよ
私観が入っても不思議でもない。
文献のみでは判断できない。
0308日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:33:39.20
>>306
DDだな
0310日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:36:34.33
>>302
そこもわからん、何故必要ないのか?
0311日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:37:24.79
>>306
九州説はただの詐欺な
行程を短くするために放射式とか考えて
次は島巡り詐欺
果ては帯方まで無断で引き返す詐欺
そんな曲芸みたいなルートを記述するわけないだろ
0312日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:40:05.91
>>271
頭が硬い、東京湾の芝浦から北海道に船で行く場合は北に水行するだろ
0313日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:41:00.99
畿内説統一狂会が壺を売る時の謳い文句

「纏向遺跡は三世紀の初めに忽然として出現した巨大な政治的な計画都市であり、列島規模での内外物流の中心になっており、ヤマト王権のシンボルともいえる前方後円墳がここで誕生している…。
三世紀の前半という時間幅で日本列島を切ったときに、これだけの要素をもった遺跡は他にあるでしょうか。ないだろうと思われます。…」

列島規模での内外物流の中心になっており←おいおいw

実際の纒向調査結果は
・定住者がほとんどいない大集落という空き地
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖や猪の骨)
・大型建物(古墳建造中の遺族の宿泊所?)
・農具は無く木製の土木用具ばかり
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)

纒向一帯は古墳造営キャンプ場であり、作業員は通勤または野宿をしていた、と考えるのが妥当だ
0315日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:44:36.46
今後九州で金印やら封泥が発見されたら
考古学統一教会に質問権を行使しようぜ
全員吊し上げて国外追放だ
0316日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:44:57.14
大倭の「大」は、ただの美称だと何度言えばw

邪馬台国は、伊都国から陸行or水行できる行程と答え出てますよ

244 日本@名無史さん sage 2022/11/14(月) 21:16:43.81
伊都国からの放射説と答え出てます

1日50里は20数キロ、箱根駅伝の1区間とも言ってます

282 日本@名無史さん sage 2022/11/01(火) 22:21:06.28
渡邉先生は、こうも語ってる

当時の中華の使者は1日50里歩くので
クシャーナ朝(大月氏国)までの距離は、わりかし正確だと

1日50里×陸行一月(30日)=1500里

答え見えてくるよねw

1万2000里に対して、伊都国から残り1500里

陸行一月と里数が一致w

ということは
投馬国の水行二十日も、水行十日も、陸行一月も
起点(伊都国)からの放射説だとw

水行十日 or 陸行一月 と読むとw
0319日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:47:33.24
>>310
どっちも邪馬台国をm中心国としているからじゃないのか?
卑弥呼が中心なのにね。
邪馬台国に鉄や絹が多いとかの記述もないし

既にこの政治連合の傘下にあったとか?
卑弥呼亡きあと男王たつも死者千人で争う
傘下でなく参加では?
0320日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:48:13.53
>>316
陳寿は何故そんな書き方をしたのか?
どうやって読者はそれを理解したのか?
0321日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:49:33.90
>>316
渡邊さんの見解言われたも
しょうがない。見解は人それぞれ。
0322日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:49:38.16
>>312
詐欺はダメだよ
東京港から太平洋航路で函館に行くのは北に水耕で構わんが
平壌とか沙里院から南に水行しても九州には着かない
東シナ海へ直行だ
0323日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:52:13.70
陳寿は読者に理解できない書き方はしないんだよ
0324日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:52:39.65
>>322
やっぱ、沖縄かな?
べつに中心国でもなんでもないなら無問題
0325日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:52:59.29
>>314
悪口しか言えない九州説は常に負け犬
0326日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:53:44.41
俺はここまで独自に答え導いてます!

●1万2千は「中華思想における概念」
中華思想の方万里において、天子の徳がギリギリ届く距離

●1000里は「長い距離の例え」
赤兎馬のwikiより
「千里」という言葉はしばしば長い距離の例えとして用いられる。

●二十日、十日、一月(三十日)は「十干的な日数」
十干のwikiより
殷では、10個の太陽が存在してそれが毎日交代で上り、10日で一巡りすると考えられており、十干はそれぞれの太陽につけられた名前と言われている。この太陽が10日で一巡りすることを「旬」と呼ぶ。上旬、中旬、下旬と言う呼び名もこれに由来する。
0327日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:54:21.96
陳寿は原本から引用しただけ。内容に矛盾する他資料がなきゃそのまま転写
0328日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:54:27.10
>>320
陳寿に地理観は無い
かき集めた情報を自分なりに並べて文章化したまで
倭人の説明は距離を日数で表現するし、投馬国や邪馬台国という国名は中国でも知られていない名前で混乱したはずだ
0331日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:55:08.22
>>256

纏向遺跡は神社の様式を持つ遺跡の代表例だな。
直線上に配置された本殿と拝殿、それらを囲む玉垣。
0332日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:55:59.85
>>328
陳寿は間違える事はあっても
意図して理解できない事は書かないんだよ
0333日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:56:41.43
>>259

伊勢遺跡や吉野ヶ里遺跡はより古い聖域の様式だろう。
多重の柵や堀に囲まれた宗教施設だからね。
0335日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:58:42.00
>>271

水行の日程は別記事なので、里程としては九州北部で終わり。
そこから水行することはない。
0336日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:59:41.63
>>332
しかし行ったこともないのでそう書くしか無かったんだろう
陳寿は倭人伝を一度諦めかけたというエピソードもあった
ちなみに陳寿の里は435km
しかし入手した記録は75mだったというオチだろ
0337日本@名無史さん2022/12/07(水) 15:59:51.79
>>332
情報不足、データ不足もあるだろう。
さっさと書いて終わりだろな。
メインが呉蜀魏であり、付け足しみたいなもん
0338日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:00:18.23
>>281

お前もくどいな。
投馬国は九州南部日向国国府都万神社。
邪馬台国は九州北部。
0340日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:01:25.12
>>336
陳寿にすれば超巨大大陸だったかもしれん
0341日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:01:54.87
>>289

後漢書では楽浪から邪馬台国まで一万二千里。
里程は九州北部で終わっている。
日程は別記事。
0342日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:02:08.09
魏志倭人伝を読んだ後世の人間が
独自に解釈して、勝手に改変されている

例えば

邪馬壹国 ← 司馬懿の「馬壹」が入ってる

陳寿自身がいくら春秋の筆法を使ったとしても
これはさすがにバレバレだろうw

魏志倭人伝を読んだ後世の人間が
倭人の記述は、司馬懿の功績を大きく見せるのデタラメためだと解釈し
わざと、「馬壹」と加筆修正して
さらに後世の人間に教えたと紐解ける

これが答えの出し方の一つです
0344日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:03:22.16
>>341
一致せず、採用しない
0345日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:04:38.12
>>341
別記事はどこにあるの?
0347日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:06:19.37
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
東夷で使われていた短里で道程が記録されていたが、一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で書かれている)。
0348日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:07:17.88
>>343

考えられない。
魏志倭人伝にない内容を創作するなら、畿内説と同罪だ。
0350日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:08:49.88
>>345

里程と日程が別々の記事なんだよ。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
0351日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:10:02.37
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
0352日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:11:39.73
>>341
だから陳寿は何故そうしたのか説明がない
0353日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:14:55.57
>>322
南に行って東に行くと書いてる
0354日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:15:48.05
>>352
つまり「里程は九州北部で終わっている」ってのが妄想で
台湾も東の海上まで行ってる
0355日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:17:46.91
>>353
だから郡から南水行だけで投馬国や邪馬台国に着くという説は支離滅裂な妄想
0356日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:18:51.64
俺の永平寺アーカイブより

300 日本@名無史さん 2021/02/08(月) 17:26:11.78
洛陽→大月氏の首都だった現ペシャワール 約5000キロ
https://i.imgur.com/7MolHFx.jpg

同じくらいの距離である邪馬台国は
洛陽→邪馬台国 日本に上陸して約2000キロ

そこから畿内に向かっても5000キロも無い

304 日本@名無史さん 2021/02/08(月) 17:36:39.71
畿内だと、洛陽から日本海ルート経由で
約3000キロってとこか
https://i.imgur.com/JnnsR32.jpg

大月氏の約5000キロには程遠い事実
0358日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:20:47.67
>>355
畿内説にとっては致命的だから発狂してんのか?
本間ゴミやな
0359日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:22:21.88
>>357
読んでも理解できない事を陳寿は意図して書かないから
0360日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:25:32.66
>>359
既存の説も調べてないのか?

陳寿は会稽東冶の東だとも書いてる
南国だという記録も読んでいたから里程の後に日数行程を追記してやらなきゃ辻褄が合わないと思ったんだろうよ
0361日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:26:38.01
陳寿には東の海上の夷人のことなど書いてやるだけでも感謝などうでもいいこと
0362日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:30:07.86
陳寿は東夷伝は書く必要があった、そして西戎伝は書いてはいけなかった
0363日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:30:21.31
不弥国の次に投馬国が書いてあるけど実は実は不弥国からではなく
伊都国からでした
更に邪馬台国も伊都国からでした
こんなもん読んで分かるかボケ
0364日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:33:59.66
>>358
いや、発狂してないと
投馬国が半島にあるとか
投馬国や邪馬台国へは郡から南にだけ進んで着くとか
そんな説は言わんだろ
実際、他の人は誰も言わん
0365日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:38:09.75
>>363
水行の起点は帯方郡
陸行一月は陳寿の勘違い
上陸後は陸行、水行を含み計30日の行程だという倭人の説明を誤解して陸行一月と記した
当時ならあり得る誤解だろ
googleマップも無ければ地球が丸いことを知っていたかもわからない時代なんだし
0366日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:41:07.47
>>364
倭人の説明が大雑把過ぎたんだろうよ
海洋民族だから水行も航行も区別なく、漠然と船で南へ向かうとだけ説明して終わったんだろうよ
0367日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:41:30.62
陳寿は原史料を転写しただけ。誤解もクソもない
0368日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:44:29.16
>>367
魏略には女王国とだけしか記載されていない
中国はその女王国は具体的に何処に位置するのかを倭人に聞いてみたら大雑把な説明に終始してイマイチよくわからなかった
そういう空気を読めよ
0369日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:47:41.87
>>368
>大雑把な説明に終始してイマイチよくわからなかった

陳寿は、「倭人(阿波勢力)」の詳しい資料を見て、倭国(阿波)までの詳しい行程を書いている。   @阿波
0371日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:58:09.08
>>349
勝手じゃないよ。
一致しないからだよ
0372日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:58:11.95
「魏志倭人伝」の行程記事に沿った詳しい行程を示せるのは「阿波」だけ。   @阿波
0373日本@名無史さん2022/12/07(水) 16:59:49.42
>>372
それ阿波台国な
0374日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:03:29.60
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0375日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:03:43.10
>>372
倭国のエリアはどこまでじゃ
0376日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:04:26.39
>>359
読んでも理解できない事を陳寿は意図しようが
しまいが書いたのみじゃないの?
陳寿自体、全て正確に完璧に細部までわかっていない。
会稽東治(ニスイ説あり)の東とか?
0377日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:04:36.13
畿内説の
きっと卑弥呼が前方後円墳を始めたニダとか
きっと女王国連合は前方後円墳を造った仲良し仲間ニダとか
貧相な纒向建物はきっと卑弥呼の宮殿だったニダとか
こういう類は残された記録を度外視した妄想でしかない
0378日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:06:34.64
>>377
近畿一帯説にはないな
前方後円墳とは限らない。
0380日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:10:38.01
>>376
不弥国の次に投馬国が書いてあるから当然不弥国からだと思ったでしょ?
でも実は伊都国からなんだなあ
こんな書き方しないから
0382日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:13:07.62
>>377
いや、お前が笑い者だから
0383日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:13:14.75
>>380

日程と里程を続けて読む方がおかしい。
邪馬台国まで一万二千里で、九州北部上陸でもう一万里なのだから、水行を何日もするわけない。
残り二千里は対馬海峡より狭い。
0384日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:13:48.08
>>375
>倭国のエリアはどこまでじゃ

倭国は範囲は、時代が下るにつれ、拡大していく。
「卑彌呼」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+讃岐+南部淡路島 程度だろう。   @阿波
0385日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:13:56.94
>>380
両建て考えている
伊都国かもしれんな
0386日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:14:26.22
魏志倭人伝は魏国から見て倭国の事を書いている。
倭国内に奴国有りは漢の時代からの書籍で先ず確定。奴国は北部九州も確定に近い。倭国=奴国=九州が成り立つ。

倭国の女王の国から東に別の倭種と記載があるから魏は本州、四国が倭国に近いが倭国とは認識してないように感じる。

魏志倭人伝に出てくる国は倭国のみでよって邪馬台国も九州。
投馬国も狗奴国も九州。
もちろん、本州や四国にも強大な大国はあり認識はしているが倭国とは認識してなく倭人伝なので記載はない。
ただ、それだけ。
今風に言えば中国九州伝。

後、邪馬台国と言う国は存在しない、約30の国の連合国家を邪馬台国と呼んでいるだけに感じる。

いろんな人のブログや文献をかるく読んで感じた根拠のない俺の意見。
0387日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:14:58.61
>>375
>倭国のエリアはどこまでじゃ

倭国は範囲は、時代が下るにつれ、拡大していく。
「卑彌呼」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+讃岐+南部淡路島 程度だろう。   @阿波
0388日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:15:46.33
中国の歴史学者から嘲笑された放射説を唱える軽薄で愚鈍な九州説。
0389日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:16:03.30
畿内説が被葬者を卑弥呼とすり替えているのは本当の被葬者に対する冒涜だよな
0390日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:17:14.74
>>381
魏志倭人伝では邪馬台国とは書いていない。
女王国しかない。
0391日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:18:09.57
水行20日、水行10日・陸行1月を無視する池沼老害九州説。
0392日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:18:32.83
>>382
どうしたんだい?
そんなにエラ広げて
興奮してるのかい?
韓国式畿内説も解散させられるのかな?w
0393日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:22:51.28
>>384
そのどの国も壱岐に鉄を仕入れに行く時は、豊前から陸行して平戸まで行き、新たに船を作って海を渡ったのかな?
0394日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:23:35.74
短里とか戯言を言っている腐った豆腐の九州説は1寸が何cmか答えられない。
0395日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:24:13.44
>>319
当然、近畿一帯説では中心国でもない。
広範囲で集落が点在。
鉄が絹が多いとかもない。
ト骨の出土も合わせ
少なくても出土があればいいこと。
0396日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:31:55.44
魏志倭人伝だと仮説すら困難な畿内説が魏志韓伝までも否定し
短い里を認めようとしない
かといって里数が合わない理由さ何一つ説明出来ず妄想を重ねるだけ
ここまでくると歴史洗脳型の宗教だろ
明らかに違法だよな
0397日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:32:25.30
>>393
>新たに船を作って海を渡ったのかな?

新たに建造する場合もあるだろうし、係留している船もあるだろう。
なんせ、たびたび半島へ行かにゃならんからな。  わははははは   

勿論、不弥国(築上町辺り)でも同じことだ。   @阿波
0398日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:33:40.29
>>397
度々しんどい行程で泣けてくるなw
0399日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:36:18.81
>>398
如何とも、し難いことだ。   @阿波
0400日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:37:38.80
>>398
関東や北陸行きも命がけ。   @阿波
0401日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:47:46.52
>>400
自虐的なマゾとしか言いようがないw
0402日本@名無史さん2022/12/07(水) 17:52:30.57
>>396
短里とか言うからじゃないの?
一定ではないし、魏が定めている文献もない。
だから1里は何メートルとかは換算しない。
そのまま使う。邪馬台国近畿一帯説。
0403日本@名無史さん2022/12/07(水) 18:02:23.21
>>396
あとは
線上近辺に遺跡や植物はないかで判断。
なのです。
0404日本@名無史さん2022/12/07(水) 18:06:02.75
>>396
>魏志倭人伝だと仮説すら困難な畿内説が魏志韓伝までも否定し
>短い里を認めようとしない

そりゃそんな根拠薄弱なキワモノ説、認めてもらえるわけないでしょ
0405日本@名無史さん2022/12/07(水) 18:16:16.61
そんなこと、どうでもよろしいがな。  
単利がどうあれ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。  わははははは   @阿波
0406日本@名無史さん2022/12/07(水) 18:18:31.02
短里なんてもんは幻想。司馬氏が俺らはもっと遠くから連れてきたもんって10倍しただけ。
0407日本@名無史さん2022/12/07(水) 18:39:10.20
短里か露布十倍かはわからないが、魏志は韓伝と倭人伝のみ一里が顕著に短いのは客観的事実
小学生レベルの四則演算が出来る人なら誰でも確認できる
キナイコシはそれすら出来ないらしいが
0408日本@名無史さん2022/12/07(水) 18:41:36.74
何にでも言えることだが、まずは勘違いやうっかりミスの可能性から考えていくべきなんだよ
魏と久しぶりに訪問してきた倭人とがどれほど意思疎通出来ていたのか?
0409日本@名無史さん2022/12/07(水) 18:43:39.01
一里が顕著に短いのではなくて、
中華の地理感では東夷が西域と同等に大きいということ
0410日本@名無史さん2022/12/07(水) 18:50:00.20
>>408
>魏と久しぶりに訪問

違う。 「倭人(阿波勢力)」は、数え切れにない回数で訪問している。   @阿波
0414日本@名無史さん2022/12/07(水) 19:04:06.26
>>404

魏志倭人伝で使われているのに、畿内説に都合が悪いから認めたくないと騒いでいるだけ。
0415日本@名無史さん2022/12/07(水) 19:13:29.94
度量衡もわからない無知・無能・老害の九州説。
0416日本@名無史さん2022/12/07(水) 19:34:24.99
>>415
妄想癖の治らない畿内説爺さん、そろそろお休みの時間ですよ
0417日本@名無史さん2022/12/07(水) 20:08:43.90
キナイコシは今日は早起きしたからオネムなんだろう
0418日本@名無史さん2022/12/07(水) 20:28:06.57
不埒な悪徳団体である邪馬台国の会が推奨する甘木朝倉説。
首謀者の安本美典が朝倉市の親善大使に就任して癒着がバレてしまった。
0419日本@名無史さん2022/12/07(水) 20:35:17.67
不逞な悪徳団体である邪馬台国の会が主催する温泉旅行ツアーに13000円もぼったくって批判される。
0420日本@名無史さん2022/12/07(水) 20:46:12.22
温泉旅行ツアーに13000円でぼったくりってどういう感覚?安すぎない?食事によるけど。
0421日本@名無史さん2022/12/07(水) 20:56:52.62
それって遺跡の見学して温泉入って料理を食べて?
行きたくなってきた。
0422日本@名無史さん2022/12/07(水) 21:07:02.63
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0423日本@名無史さん2022/12/07(水) 21:07:16.27
参加してここの誹謗中傷の事教えて、訴えるように勧めて来ようっと。
0424日本@名無史さん2022/12/07(水) 21:21:44.94
邪馬台国の会ってなんだろうと検索したけどよくわからんかった
てかこれって邪馬台国を利用した金儲けじゃないの?
0425日本@名無史さん2022/12/07(水) 22:17:43.12
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0426日本@名無史さん2022/12/07(水) 22:25:24.07
頭がおかしい奴ってコピペを繰り返すね。
0427日本@名無史さん2022/12/07(水) 22:38:35.48
日本の1stティア事件

神武天皇  vs 安倍長髄彦 出雲国消滅
継体天皇  vs 安倍磐井  倭国弱体化
唐新羅   vs 安倍薩夜麻 倭国消滅
後冷泉天皇 vs 安倍頼時 日高見国消滅
昭和天皇  vs ルーズベルト 大日本帝国消滅
山神大明神 vs 安倍晋三  倭国復興阻止
0428日本@名無史さん2022/12/08(木) 01:09:37.17
まあ、元々が九州説は歴史学じゃなくて皇国主義の右翼政治思想だからな
なんせ出発点から書名に「馭戎」だもん
0429琪瑛教祭酒2022/12/08(木) 06:55:00.82
>>428.ほう、そうなのか。本居言挙げ派か?
伊勢に生まれながらいいかげんな話をしてるゴマすりを元にしているのか。
0431日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:03:07.67
そのようだな。  妄想説の限界。  わははははは   @阿波
0432琪瑛教祭酒2022/12/08(木) 07:12:58.31
まあ、何に影響されていようが、今日、箸墓は魏尺であり、纏向が伊勢の祖形であり、秋成が言うように中華の影響は拭
えないものと言えるでしょう。
箸墓が卑弥呼の墓であり、巻向が1000人がイキイキと動き、卑弥呼を失うと後を追う者もいた邪馬臺とされた道徳経道観のあった場所ですな。
0433日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:15:04.65
畿内説統一狂会が壺を売る時の謳い文句

「纏向遺跡は三世紀の初めに忽然として出現した巨大な政治的な計画都市であり、列島規模での内外物流の中心になっており、ヤマト王権のシンボルともいえる前方後円墳がここで誕生している…。
三世紀の前半という時間幅で日本列島を切ったときに、これだけの要素をもった遺跡は他にあるでしょうか。ないだろうと思われます。…」

列島規模での内外物流の中心になっており←おいおいw

実際の纒向調査結果は
・定住者がほとんどいない大集落という空き地
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖や猪の骨)
・大型建物(古墳建造中の遺族の宿泊所?)
・農具は無く木製の土木用具ばかり
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)

古墳造営キャンプ場であり作業員は通勤または野宿と考えるのが妥当
0434日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:19:11.10
いや市場だな
【纒向は市場説】
魏志倭人伝によると、女王国に市場の監視役として使われていた大倭という組織が居たそうです
日本書紀には、纒向はかつて大市と呼ばれた市場であったと書いてあります

纒向遺跡の大型建物が何度も建て替えられていた事や周囲に住居が無い事から、ここが収穫祭などで市が開催される時だけ臨時に設営される会場であったと考えられます
纒向の建物を建てたのが大倭たちである可能性も考えられます
0435日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:20:58.40
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体(邪馬台国)であったと見なせます。

弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
0436日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:27:11.93
>>434
>ここが収穫祭などで市が開催される時だけ臨時に設営される会場であったと考えられます

うら寂しい人の居ない寒村に、市など開催される訳もなし!  @阿波
0437日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:30:53.52
>うら寂しい人の居ない寒村とは今の阿波 @阿波
0438日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:31:51.93
>>435
>魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。

それよりもずっと前の、弥生時代中期末には到来している。   @阿波
0439日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:40:18.32
>>430
>九州説、畿内説の限界?

そのようだな。  妄想説の限界。  わははははは   @阿波
0440日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:42:21.49
>妄想説の限界。それが阿波 わははははは   @阿波
0441日本@名無史さん2022/12/08(木) 07:49:45.17
箸墓が卑弥呼の墓であるとしよう
そうすると以下の疑問が湧く

纏向は3世紀前半にそれ以前の大和の弥生遺跡とは不連続的に外来の権力によって作られたと纏向学(寺沢薫)は言うが、魏志倭人伝の記述によれば卑弥呼共立は2世紀後半でさらにその数十年前から男王がいたのだが、それとの整合性はどう説明するのか?

卑弥呼死後の戦乱、殺し合いの痕跡は纏向にあるのか?

纏向が邪馬台国であると同時に崇神朝の遺跡であるとするなら、戦乱の後に共立された台与は崇神朝の誰にあたるのか?
また逆に崇神天皇は魏志倭人伝の誰に当たるのか?

纏向邪馬台国を苦戦させた南の狗奴国はどこで狗古智卑狗は誰なのか?

3世紀前半の纏向から大陸由来の銅鏡等の出土品(魏・帯方郡との交流があったはず)や、九州由来の土器等の出土品(筑紫の伊都国に出先機関を置いていたはず)や魏志倭人伝に記載された絹や鉄鏃が殆ど出ないのはどう説明するのか?

纏向=邪馬台国と仮定すると、魏志倭人伝や記紀との不整合ばかりで疑問しか湧かない
0442日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:00:11.69
>>435
福井、石川まであるな。
九州説は没
0443日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:01:29.60
考古学では畿内説と言うが、この言い方はある意味正直だ
文献まで考慮すれば畿内説は成り立たない

九州説は文献と考古学的成果がばっちり符合する
0444日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:01:34.22
スジンなんていない。
0445日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:03:03.27
>>443
ト骨の出土がない所は没
0446日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:03:59.06
何の証拠もなく記録と整合しない歴史を作り上げようとするのは韓国人と畿内説だけ
0447日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:04:21.02
>>445
当然、卑弥呼時代出土
九州では有明海沿のみ。
0448日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:10:11.06
>>435
魏志倭人伝には多い、少ないの記載はない。

魏志倭人伝無視ですか?
0449日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:12:50.07
邪馬台国を北部九州とすれば文献と符合する

3世紀前半以前の遺跡から大陸由来の銅鏡が出まくる

3世紀前半以前の遺跡から絹も鉄鏃も出まくる

倭国大乱や卑弥呼死後の殺し合いと整合する環濠や戦傷遺骨が出まくる

南に狗古智卑狗(菊池彦)のいる狗奴国(隈・熊・球磨=熊本県の領域)がある

東に海を渡ったら別の国がありみな倭種である(本州、四国)

さらに記紀の神武東征伝承と結び付く東遷説型九州説なら、纏向の権力を外来勢力と考える纏向学とも理論的に整合し得る
0451日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:14:37.95
>>449
理論的に整合しない。
0453日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:19:52.59
>>449
>倭国大乱や卑弥呼死後の殺し合いと整合する環濠や戦傷遺骨が出まくる

どこの遺跡から?

九州説さん、嘘はダメ
そういう嘘は、つけばつくほど九州説がダメになる
0454日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:23:33.60
>>452
だから九州は没
0456日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:29:13.65
文献を無視すれば畿内説(だろうが何だろうがこじつけ可能)
文献と考古学を突き合わせれば九州説
0457日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:31:12.54
>>452
>共通文化圏が見て取れる

太占の痕跡がない玄界灘側と鏡の多量副葬をしない佐賀
畿内系を受け入れる博多と受け入れない糸島

共通文化圏じゃないよね
そもそも共通文化圏じゃないから使ってる土器や葬制が違うんだし
0458日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:32:39.32
>>455
山口県もあり
青谷上寺地遺跡もあるし
九州説は没
0459日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:35:25.93
>>455
>多数あるがone of them

それ、「倭国大乱や卑弥呼死後の殺し合いと整合する環濠や戦傷遺骨」じゃないよ
時代がぜんぜん違うもの

九州説さん、嘘はダメ
0460日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:36:10.73
>>457
ト骨は?
0461日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:38:47.02
>>457
共通文化圏でなくていいじゃないか?
九州では九州系土器以外にも出土するのだから?
0462日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:47:57.85
>>460
太占で使う
0463日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:50:28.87
>>461
九州珍説特有の「倭国」という範囲の根拠が無くなっちゃうだろ
常識で判断すれば畿内も上信越も倭国なんだから
0464日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:52:25.01
畿内説はかすりもしない妄言集でした
で終わりそうだ
0465日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:57:45.16
>>462
ト骨がある地域なんだか九州限定はない
0466日本@名無史さん2022/12/08(木) 08:58:25.70
>>464
畿内説、九州説も終わり
0467日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:03:22.95
>>464
そういう悪口しか言えなくなった九州説は、もう完全に終わりだな
説じゃなくなっちゃったから
0468日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:14:38.30
>>441
纏向は卑弥呼の即位に伴って新たに造成成された都
それ以前は倭国大乱で争った国々の都とは別の場所に都を移した造営した
倭国大乱以前の男王の時代の都は伊勢遺跡が時代・規模とも相当すると思う

倭国大乱は北九州、出雲・山陰、近畿にかけての地域に及んでいただろう

卑弥呼の後の男王を立てたが国中が不服で千人が殺害された
これも広い地域で発生した反乱だったろう

天皇の系統が始まるのは台与の代以降

狗奴国は熊本あたり、後の熊襲・隼人の集団の当時のリーダー


>日本で三角縁神獣鏡があらわれる前の3世紀前葉には、神獣鏡類の画文帯神獣鏡と呼ばれる中国鏡が畿内を中心に出土している。
ほとんど出土しないと君が言うものも、出土している
0469日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:20:36.50
九州説は「こう言えば畿内説を倒せる!」みたいなインチキカンペでも売ってんだろうか
intcal20とか絹とか戦傷人骨とか、明らかなニセ情報を単語だけで流してるみたいだ
内容を聞くと、何も知らないばかが言ってるだけと分かる
0470日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:22:37.32
>>469
畿内説では魏の使者は九州に上陸していない事になってるのか?
0472日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:25:43.52
>>468
>天皇の系統が始まるのは台与の代以降

誤解を避けるための追加説明
卑弥呼も台与も巫女で天皇の先祖にはなれない
台与の後の倭王の時代に神武が現れ
>橿原宮に初代天皇として即位した。
0473日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:30:15.89
>>471
通勤または野宿てのは無茶苦茶だ
まずあり得ない
0474日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:30:24.00
>>471
>畿内説のインチキカンペの方が有名ですね>>433

そんなものは存在しないよ
あるなら出典を示せるだろう?
出来ないということは、きみの捏造なんだよ
0475日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:31:46.79
箸墓が卑弥呼だとしたらホケノ山は誰なんだよ?
卑弥呼を断定出来るならホケノ山も出来るだろ
だから畿内説はインチキ臭い。
0476日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:33:31.59
箸墓は布留1式の方が妥当だろな
0477日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:36:21.46
>>473
理由は?

あんたの言ってることは反論じゃない
ただの拒絶だ
0478日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:36:54.38
>>126

> >>125
> 九州内を周旋していると思う理由は?

九州に上陸していないとおもってるんだろ?
0479日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:37:30.80
>>476
>箸墓は布留1式の方が妥当だろな

ほら、まったく理由を言わない
だから九州説はダメなんだ
0480日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:38:22.38
>>478
>九州に上陸していないとおもってるんだろ?

君はなぜ、そんな妄想するの?
0481日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:38:41.86
>>477
通勤だと纏向遺跡は必要ないでしょ
野宿だと生活の痕跡が残る
0482日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:39:35.65
>>479
布留0式は証拠としては疑わしいからだよ、後世の廃棄物だからな
0483日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:40:21.52
>>480
じゃあキサマは上陸していると思ってるのか?
0484日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:40:35.92
>>475
>箸墓が卑弥呼だとしたらホケノ山は誰なんだよ?
>卑弥呼を断定出来るならホケノ山も出来るだろ

どうして?
理由は?

なぜ箸墓を卑弥呼の墓と断定できるとホケノ山も出来ることになるの?
どこにも論理がない
0485日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:41:05.70
>>475
特定されていないが、私自身は台与の墓だと思う
0486日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:41:19.85
>>483
>じゃあキサマは上陸していると思ってるのか?

思っているけど、何か?
0487日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:42:08.43
>>482
>布留0式は証拠としては疑わしいからだよ、後世の廃棄物だからな

後世の廃棄物だという理由は?
0488日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:43:20.26
>>481
>通勤だと纏向遺跡は必要ないでしょ

なぜ必要ないの?

>野宿だと生活の痕跡が残る

何が残る?
0489日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:44:17.46
>>484
だから畿内説はダメなんだよ、ただ大きいだけで卑弥呼の墓と決めてるだけじゃないか
0490日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:45:11.86
>>488
立ち入らない場所なんて必要ないでしょ
煮炊き、ゴミ
0491日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:45:46.15
>>489
「ただ大きいだけで決めてる」とか
そんなこと決めつける理由は?
0492日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:46:17.25
>>486
畿内に行くのに九州で陸行する理由は何?
0493日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:47:25.28
>>490
>立ち入らない場所なんて必要ないでしょ

「立ち入らない場所」って何のことい?
なぜ必要ないの?

>煮炊き、ゴミ

ちゃんと日本語を喋って下さいね
0494日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:48:30.03
>>492
>畿内に行くのに九州で陸行する理由は何?

誰が陸行したの?
0495日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:48:36.19
>>493
生活の痕跡がない纏向遺跡だよ
0496日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:49:40.38
>>494
何のためにどこに上陸したんだよ?
0497日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:50:39.70
九州説さん
カタコトで喚き散らすだけだダメだよ
ちゃんと意味の通じる文章を書いてごらん
0498日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:51:23.60
>>496
>何のためにどこに上陸したんだよ?

だから、誰が?
0499日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:52:11.07
始まったよキナイコシの無駄な時間を費やすだけのバカのふり論法
0500日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:52:39.51
>>495
>生活の痕跡がない纏向遺跡だよ

だから、何?
話の筋道が見えないよ
0501日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:53:58.98
>>499
お互いだ
俺はちゃんと答えてるのに>>493はなんなんだ?
0502日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:54:24.60
>>489
鉄や絹が多いとかもそうだよ
邪馬台国の事ではないかもしれん。
0503日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:54:55.11
>>499
そうじゃなくて
あなたの文章が下手すぎて意味が他人に通じてないと
そう指摘してるんだが
0504日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:55:07.50
>>499
>>500をレス辿って見てみろ
0505日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:58:52.01
>>501
>お互いだ
>俺はちゃんと答えてるのに

何と答えました?

>立ち入らない場所なんて必要ないでしょ
>煮炊き、ゴミ

ですよね?
文章になっていません
話に突然出てきた「立ち入らない場所」とは何のことですか?
唐突に言い出した「煮炊き、ゴミ」とは何のことです?
0506日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:58:58.17
>>504
それは別の人だ、バカ
0507日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:59:32.75
>>504
ちゃんと他人に通じる文章を書いて下さい
0508日本@名無史さん2022/12/08(木) 09:59:45.27
>>501
これも別人だ、バカ
0509日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:00:43.41
>>505
>>488がおまえの質問
0510日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:01:06.15
キナイコシはバカのふりじゃなくて真正の低脳でしたな
0511日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:02:02.64
>>506
レスを辿れと言ってるんだよ
誰とか関係ない
0512日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:03:47.56
>>474
畿内説学者のコメントだが
あと纒向遺跡の説明会も同じような誇大妄想しか発言しないだろ
まるで宗教だよ
0513日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:04:35.79
>>510
だからお互いだって
>>506のレスを辿って見てみろ
0514日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:05:04.85
>>509
で?
「立ち入らない場所」とは何です?

「煮炊き、ゴミ 」って、それが無いと言うのです?
それが有ると言うのですか?
0515日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:06:51.94
>>512
>畿内説学者のコメントだが

あなたは出典を聞かれました

>あと纒向遺跡の説明会も同じような誇大妄想しか発言しないだろ

誇大妄想だという理由は?
あなたは罵っているだけですね?
0516日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:09:24.71
>>514
俺の書き込みは>>473からだからレス辿って見てみろ
そんなにたくさんないからできるだろ
0517日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:11:40.65
>>468
とにかく、集落遺跡が無さ過ぎ。 お話にならん!   @阿波
0518日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:12:02.58
>>516
で?
あなたが突然言い始めた
「立ち入らない場所」とは何です?
0519日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:12:56.03
>>518
>>495
0520日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:15:28.26
倭国の範囲をみんな勘違いしている。
当時の魏国が倭国をどう認識していたかわからない。倭国の範囲に答えはないよ。だから、みんな正解。

女王国に東にまた別の倭種がいるみたいな記載がある、これをどう判断するか⁈でかわる。
俺的には魏志倭人伝は今風に言えば「中国九州伝」みたいな感じに思える。当時の魏は本州、四国は別の倭種族の国と認識しているように感じる。
その理屈から俺は魏志倭人伝に出て来る国は全て九州、だから邪馬台国も九州。場所は知らん。
遺跡やら古墳やらは完全無視して魏志倭人伝の 女王国の東の海の向こう側に別の倭種族がいる からのみ感じた感想。
0521日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:18:46.43
>>520
当時の魏は本州、四国は別の倭種族とは認識できてないって
地形を知らないから本州、四国の事も知らない
0522日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:21:07.77
>>519
生活の痕跡がない纏向遺跡が
立ち入らない場所」だから必要ないと
そう言ってるんですか?

「生活の痕跡がない」というのは農業生産をしていた形跡がないという意味ですが
「立ち入らない場所」と言うのは誰の意見です?
多くの人が働かないと出来ない土木工事の跡や大量のイネ花粉や煮炊きを伴う祭祀跡、工房的遺構
などたくさん見つかっていますが?
0523日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:22:04.44
漠然と大海の中に浮かぶ島くらいの認識でしょ
0524日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:22:15.91
>>521
心配ご無用!
「倭人(阿波勢力)」から聞いて、知り尽くしている。   @阿波
0525日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:23:53.84
>>522
大勢の人が煮炊きをした痕跡なんてないでしょ
0526日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:24:35.78
>>523
>漠然と大海の中に浮かぶ島くらいの認識でしょ

まぁ、そんな感じ。  四周を海に囲まれた四国だから。   @阿波
0527日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:27:15.45
>>525
煮炊きの痕跡はあるけど、大勢って何人のつもり?
0528日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:28:23.78
>>527
箸墓古墳造ってたんじゃないのか?
0529日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:29:57.23
>>525
大量のイネ花粉が検出されてるけど、それって炊く以外なんに使う?
0530日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:30:33.87
畿内説はどう足掻いても落ちこぼれ学者の妄想集でしかないな
纒向古墳造営基地局を宮殿だとか、大市に葬られたモモソ姫が卑弥呼だとかw
狂人丸出し
0531日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:30:40.96
>>528
大溝も作ったな
0532日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:31:29.38
>>529
纏向遺跡で煮炊きしてたら痕跡が残るでしょう
0533日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:32:57.81
倭の五王より前の中国の史書には日本列島では北部九州の地名・人名しか出て来ない
少なくとも北部九州以外であることがはっきりしている地名・人名の記載はない

一方で、朝鮮半島南部にも中国が倭と認識する領域があった

総合すると、おそらく当時の中国(前漢~西晋あたり)が認識する「倭」「倭国」の領域は、北部九州から朝鮮半島南部にかけての対馬海峡一帯の領域だ

その認識が前提にあるから、東に海を渡ったらまた国がありみな倭種だ、の記述にも繋がった
(これは本州、四国を表すと考えられる)
0535日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:35:15.17
>>533
日本海沿岸水行の畿内説だと東が陸続きなのは知っていたはず
つまり畿内説は瀬戸内航路しか選択の余地はない
0536日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:35:37.38
後の中国の史書でも、この日本と名乗る連中は我々が昔から知る奴国あたりの倭国とどういう関係なんだ?と疑問を呈している
倭国は北部九州という認識だったのだろう
0537日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:36:34.96
>>530
ほら
論破された九州説信者があたり構わず罵り始めたw
0538日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:37:15.95
>>523
九州から水行30日、陸行1カ月しても倭国29か国の8か国目にようやく到着
さらに遠方に残り21か国がある
そのような規模だと把握していた
0539日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:37:41.47
>>534
ゴミは?貝塚は?
纏向遺跡は150年程存在したんだぞ
0540日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:39:28.52
>>539
弥生時代の内陸に貝塚?
w
w
0541日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:40:56.70
>>539
生ゴミとか生分解するけどね
0542日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:41:33.13
山陰から北陸の日本海沿岸から入植し、銅鐸作りや東日本の開拓、そして古墳の巨大化に明け暮れ中国への朝貢を怠っていた連中がのちのヤマトだ
旧唐書で初めて日本国として記載されたのがヤマトだよ
0543日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:42:48.71
>>539
継続して存在したわけでは無い
建物は何度も建て替えられている
抜き差しして広がった柱穴もあった
0544日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:43:52.37
>>539
工業団地まるまる発掘できる吉野ヶ里とかと違って纒向はひとが住んでるからね
農転とか建て替えとかあった所をコマ切れに発掘してるけど
ひとが生活したゴミが発掘されてる遺跡って、どこかある?
0545日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:46:04.53
>>536
>倭国は北部九州という認識だったのだろう

それはない! 「倭人(阿波勢力)」は「阿波」を事細かに報告しているから。  わははははは   @阿波
0546日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:46:29.71
>>533
当時の中国側の書簡の書き方から推測すると俺もそう思えるよ。本州や四国にも大国があったけど別の倭種族の国だから魏志倭人伝には記載しなかっただけ。
邪馬台国は九州、阿波、ヤマト、出雲、吉備にも強大な大国があったと思うが別の倭種族の国だから魏志倭人伝には登場しない。
0547日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:46:41.80
>>544
生活した痕跡がないのに工事した跡があるなら
働いてた人は通勤してたんだろ
0548日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:48:17.86
いまだに九州だー、畿内だーって不毛ですよw

俺は生口の数から
卑弥呼時代は北部九州10国の女王連合
トヨイヨ時代に西日本一帯30国の女王連合

卑弥呼は九州、邪馬台国(トヨイヨ時代の都)は畿内
こう結論付けて答え導いてます!
0549日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:49:34.41
>>548
とにかく、集落遺跡が無さ過ぎ。 お話にならん!   @阿波
0550日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:52:14.41
>>546
当時の日本列島には各地に地方勢力があった
その一つの北部九州勢力に帯方郡が朝貢を促したのだろう
地理的に一番近くて元々大陸との交流も一番活発だったから
遺跡が大和が大きいか九州が大きいかにこだわる畿内説の視点はそもそも全く頓珍漢だね
0551日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:52:54.74
>>548
以前は俺もそう考えた事はある
しかし纒向は関係ないと見てる
纒向は邪馬台国とは関係ない東日本の遺跡だよ
0552日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:54:03.83
>>550
とにかく、集落遺跡が無さ過ぎ。 お話にならん!   @阿波
0553日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:55:17.95
>>550
とにかく、集落遺跡や各種工房遺跡が無さ過ぎ。 お話にならん!   @阿波
0554日本@名無史さん2022/12/08(木) 10:59:19.40
>>552
遺跡は失われたとしても文献から全く付合しない阿波はない。
0555日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:17:24.80
>>551
>しかし纒向は関係ないと見てる

理由をまったく言わないのは、おれトンデモ説ですぅと名乗ってるのと同じ
理路が示せないってことだから
0556日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:24:06.20
>>547
通勤ならなんのために纏向遺跡はあるんだ?
0557日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:29:15.52
>>550
>遺跡が大和が大きいか九州が大きいかにこだわる畿内説の視点はそもそも全く頓珍漢だね

伊都国王が統属するような上位者がいるんなら
それは大和纒向にいる大王しか候補者いないんだけど?
0558日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:31:38.43
>>556
>通勤ならなんのために纏向遺跡はあるんだ?

女王が都するため
0559日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:34:30.24
>>558
それなら問題ない
女王かどうかは別にしてあれは王宮だ
0560日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:39:18.02
>出雲地方あたりから広がり、西日本一帯を席巻した刻目突帯文土器だけです

「阿波」から西日本一帯へだ。  
稲作も「阿波」から西日本一帯へだ。   @阿波
0561日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:51:39.57
>>557
それは全く根拠がない
伊都国も含めて北部九州内で女王を共立することに何の不自然さもない
むしろ1000kmも離れた場所にいる交易の痕跡も極めて希薄な全く別の地方勢力が突然しゃしゃり出てくる方が不自然極まりない
0562日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:54:07.70
どういう思考を辿れば、交易の痕跡も殆どない伊都国の上に遠隔地にぽっと出た纏向勢力が立てると思うのだろうか?
畿内説のファンタジーぶりに驚く
0563日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:56:38.90
纏向勢力が伊都国の上に立っていたとすれば、その可能性が生まれるのは伊都国王族の東遷が纏向勢力だった、ぐらいかな
0564日本@名無史さん2022/12/08(木) 11:59:58.52
まあ、纏向は大和土着の弥生勢力の延長線上の発展ではなく外来勢力によるものと纏向学も言っているので、大きな方向性としては東遷説型九州説と統合し得る
0565日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:02:52.44
>>561
>それは全く根拠がない

あるけど?

>伊都国も含めて北部九州内で女王を共立することに何の不自然さもない

伊都国王が統属するような上位者が現実にいないと指摘してます

>むしろ1000kmも離れた場所にいる交易の痕跡も極めて希薄な全く別の地方勢力が突然しゃしゃり出てくる方が不自然極まりない

遠いから刺史の如き者を置く
実に自然

>交易の痕跡も極めて希薄な

濃厚にありますが?

>全く別の地方勢力が

九州は前方後円墳体制に取り込まれつつある

>突然しゃしゃり出てくる方が

ちゃんと歴史があるよ
人の交流も文化交流も

>不自然極まりない

あなたの非現実的な理解がね
0566日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:03:43.27
>>561
>伊都国も含めて北部九州内で女王を共立することに何の不自然さもない

とにかく、集落遺跡や各種工房遺跡が無さ過ぎ。 お話にならん!   @阿波
0567日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:04:50.07
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!
0568日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:05:31.25
>>564
歴史の時系列を破壊しないと無理
0569日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:06:25.17
>>564
>大きな方向性としては東遷説型九州説と統合し得る

畿内纏向を批判しておきながら、畿内纏向を目指すダブスタ。   
九州東遷説は、畿内纏向を批判しながら、自らを否定し続けているということ。
畿内説も九州説も、結局畿内纏向でどツボにはまる構図なのである。   @阿波
0570日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:06:49.77
>>564
違うな
伊勢遺跡だ
0571日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:08:16.98
>>570
とにかく、集落遺跡や各種工房遺跡が無さ過ぎ。 お話にならん!   @阿波
0572日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:09:37.91
畿内説のファンタジーってか、ちょっと足りない人の妄言集
0573日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:15:05.48
>>572みたいに反論を諦めて
罵り専門に堕落するのが
九州説の負けフラグ
0574日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:17:17.87
>>573
そうやって反論もせず現実逃避するしか無い畿内説ってもはや宗教w
0576日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:25:35.86
>>574
>そうやって反論もせず

何に反論?
九州説の主張ならぜんぶ反論されて轟沈済みでしょ?
まだ反論が必要なのものって、一つでも生きてる?

無いよね?
0578日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:28:28.10
>>577
どこが破綻?
具体的にプリーズ
0580日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:33:56.83
>>577
こう聞かれて
どこが破綻してるのか具体的に言えないなら
畿内説はどこも破綻なんかしてないということで
いいよね?
0581日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:35:18.44
>>580
そんな負け犬の遠吠えばかり
みっともないですよ畿内説さんw
0582日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:36:47.15
鉄器も少ない遅れた大和勢力に日本列島最先端の伊都国が屈する理由が全くない
むしろ逆は大いにあり得る
鉄器を携えた九州勢力に文化の遅れた大和の土着勢力が征服された、ということ
纏向学が纏向権力は外来勢力と捉えていることとも、記紀の神武東征伝承とも整合する
0583日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:39:52.53
>>579
その空想のどこが畿内説の破綻なのかな?
0584日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:42:02.68
>>581
なにが負け犬の遠吠えなのかな?
きみら畿内説に対して反論ひとつ出来てないのに
0585日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:43:54.40
はい、簡単に畿内説の思考が停止しましたね
頭弱過ぎw
0586日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:44:15.29
>>582
>鉄器を携えた九州勢力に文化の遅れた大和の土着勢力が征服された、ということ
>纏向学が纏向権力は外来勢力と捉えていることとも、記紀の神武東征伝承とも整合する

おやおや
纏向遺跡には潤沢に鉄器があったと認めるんだね?
0587日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:46:00.90
>>582
>記紀の神武東征伝承とも整合する

畿内纏向を批判しておきながら、畿内纏向を目指すダブスタ。   
九州東遷説は、畿内纏向を批判しながら、自らを否定し続けているということ。
畿内説も九州説も、
結局、山奥寒村泥沼地獄の畿内纏向でどツボにはまる構図なのである。   @阿波
0588日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:46:38.12
>>585みたいな
具体的事実の指摘を欠いた悪口雑言が
九州説敗北の証拠になるんだよ
0589日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:48:14.08
寺沢薫は纏向を作った外来勢力として九州イト国の勢力と吉備勢力の混合を想定しているようだ

一方で記紀によれば、神武天皇は畿内に入る前にしばらく吉備に滞在した
もちろん物見遊山で滞在したのではなく軍事同盟を結んで共同軍を編成したりしたのだろう

九州勢力(邪馬台国連合の中の有力勢力)と吉備勢力が連合して奈良盆地に強力な権力を打ち立てたのが纏向であり崇神朝ということだろう
0590日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:50:01.80
>>589
と言う根拠は?
0591日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:50:27.74
>>589
>寺沢薫は纏向を作った外来勢力として九州イト国の勢力と吉備勢力の混合を想定しているようだ

寺沢薫はひたすら「阿波」から逃げているようだ。  わははははは   @阿波
0592日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:50:28.06
纏向から出る桃の種は当時の吉備地方の祭祀のようだ
0593日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:51:15.67
>>592
桃太郎ランド
0594日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:51:24.30
>>582
まあ武力制圧の時代ってわけじゃ無いけど、災害や飢饉で貧しい時代だったならそれなりに治安も悪化してたはず
それ考えると纒向遺跡なんてあまりに無防備でしょ
しかも狗奴国と戦争しながら次々に巨大古墳造るなんて不可能
その古墳も殉葬も無し槨有で魏志倭人伝と全く縁がないし
記紀のモモソ姫の記事とも整合しないし
頭おかしいんだよ、考古学会って
0595日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:55:07.00
そもそも卑弥呼の墓の比定地がない九州はホントおかしい
0596日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:55:57.20
そもそも前方後円墳なんて前方後方墳の後継でしょ
あたかも前方後円墳が古墳時代の始まりであるかのような印象操作は間違いなく犯罪だよ
最近統一のおかげで印象操作や洗脳が犯罪だと皆気付き出した
考古学が吊し上げくらうのも時間の問題だ
0597日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:56:07.44
>>594
>しかも狗奴国と戦争しながら次々に巨大古墳造るなんて不可能

どこで戦争してたかとか情報ないんで、それは妄想

>その古墳も殉葬も無し槨有で魏志倭人伝と全く縁がないし

古墳に殉葬するとか倭人伝に書いてないんで、これも妄想
しかも古墳に槨は無い
当たり前だが
0599日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:57:05.33
>>596
>そもそも前方後円墳なんて前方後方墳の後継でしょ

根拠なし
妄想
0600日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:58:00.31
>>597
卑弥呼の墓は大きく造ったと書いてあるが首長の墓もお揃いだなんて書いてない
畿内説は妄言多すぎ
0601日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:58:41.84
>>594
その通りでおかしいんだよ
だから攻め込まれる心配が無かったんだよ
0602日本@名無史さん2022/12/08(木) 12:59:48.75
卑弥呼は弥生時代の北部九州に多数いた巫女女王の一人だからな
倭国大乱を収めるためにそのうちのカリスマなり霊力なりが強いとされた一人が諸国の合意で連合の王に立てられただけだ
たまたまその時期が魏による帯方郡接収と重なって魏・普側の政治的事情で史書に大きく記載されてしまったに過ぎない
日本書紀を見ても、北部九州には卑弥呼そっくりの巫女女王が神夏磯媛や八女津媛や田油津媛など何人も出てくる
0603日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:02:18.08
>>597
箸墓が槨有かどうかは当時基準であり、現代の畿内説学者基準では無い
倭人の墓は槨無し棺有りで土を盛った塚だと書いてあり、形状や葺石を積む記述は無い
前方後円墳は畿内説の勝手な妄想で確定だ
0604日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:03:23.39
>>594
>頭おかしいんだよ、考古学会って

と言うよりも、「阿波」を徹底的に避けている状態。   @阿波
0606日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:05:58.47
>>603
それ、畿内で一般的な木棺直葬の方形周溝墓にぴったりな描写で
一般人の葬式について書いた箇所だけど?
0607日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:11:41.65
>>603
倭人の墓は槨無し棺有りで土を盛った塚だと書いてあり
石で槨みたいなのを作る記述とか無いよん
つまり北部九州で一般的な箱式石棺は合わないんだけど
九州説ってのは勝手な妄想で確定かな
0608日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:20:50.90
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0609日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:20:58.96
3世紀に九州を支配していた邪馬台国連合があり、近畿にもたくさんの国があり、もちろん四国や北陸、出雲、関東にもたくさんの国があった。
魏志倭人伝はその中で九州の邪馬台国についてだけ記載した。
その後、いろいろあって結果的に近畿のヤマト国が日本国を名乗り日本をまとめた。
だから、日本のそこら中に遺跡、古墳がある。
第一、日本で九州だけ、近畿だけ国があるのはおかしい。3世紀にも戦国時代みたいに群雄割拠していたはず。
なんとなく邪馬台国は大友氏、ヤマト国は織田信長のイメージ。

それで、いいんじゃない?
0610日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:24:49.78
>>609
3世紀前半のうちに畿内勢力は北部九州に進出してたから、それはない
・・てのが支配的な説なんですが
0611日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:30:14.15
>>610
それなら3世紀前半に織田信長が九州を勢力圏にして大友氏を従属させた。従属した大友氏は北九州を与えられて小大名を麾下に加えて邪馬台国と名乗り女王卑弥呼を擁立した。
これでいいんじゃないない?
これだと近畿説、九州説も正解になる。
0612日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:30:53.18
卑弥呼の墓があったとして、台与の墓が無いのは何でかな?
0613日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:32:21.61
布留0式はゴミの測定だから根拠にはなり得ない
0614日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:34:04.57
>>613
理由にならんな
0615日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:36:01.10
>>611
それじゃ「倭女王卑弥呼」にならんだろ
0616日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:36:19.49
>>614
なぜ?
0617日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:38:59.05
箸墓の周濠から縄文時代の土器が出たら縄文時代の築造と断定するようなもの
0618日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:40:00.30
>>616
いつゴミとして捨てられたか科学的に測るんだから
正確な年代が出るだろ
0619日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:42:29.46
>>618
1次的に捨てられた時期と2次的に捨てられた時期は特定出来てないだろ
0620日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:45:00.95
>>617
最後はそういう反科学に走るから、九州説をトンデモと喧伝する効果が雑大だ
0621日本@名無史さん2022/12/08(木) 13:51:48.84
布留0式よりもむしろ109次出土の馬具の年代の方が築造時期に近いと思うな
0623日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:00:54.35
>>621
>布留0式よりもむしろ109次出土の馬具の年代の方が築造時期に近いと思う

理由なし
明らかに間違っているという理由あり
0624日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:03:45.69
>>619
>1次的に捨てられた時期と2次的に捨てられた時期は特定出来てないだろ

出来ているよ
いや、そもそも壊れやすい消耗品が二次的に捨てられると言う想定もおかしいが
測るモノは最後に炊飯された痕跡だ
つまり壊れる直前の年代が出る
0625日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:07:49.80
史書を解読もせず穴掘って妄言垂れ流す考古学馬鹿は放置で宜しく
【総合解析結果】
魏志倭人伝において里数で書かれた行程は中国国内の伝承であり、日数で書かれた行程は朝貢に来た倭人から得た情報である。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ
<以下、倭人による行程説明>
・帯方郡から船で20日南下し、半島南部の投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計30日(1か月)の道のりであります

このように倭人が距離を日数で答えたり、半島南部の投馬国、北部九州の邪馬台国など初耳の地名が次々と出てきたため
中国側は混乱し、とりあえず知っている行程のすぐ後に倭人の説明を追記してしまった。

行程図:https://i.imgur.com/yUjuU71.png、倭の国々:https://i.imgur.com/L3EsH9c.png

この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島全体を指すと解釈すれば全国何処とも考えられる。
しかし倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)

■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
 魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
・古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
https://nazology.net/archives/110991
0626日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:10:47.87
>>625
>史書を解読もせず穴掘って妄言垂れ流す考古学馬鹿は放置で宜しく

逃げたかw
0627日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:10:58.13
>>622
倭人伝にあった記述どおりのことですが?
0628日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:12:48.64
魏志倭人伝記載の戸数から導き出される当時の倭国・倭地の人口の合計と
現代の歴史人口学的研究から導き出される人口推計とほとんど違いがない
200年の推定人口は594,900人
とてもじゃないが九州に収まり切れない

ちなみに同研究で九州の人口は
北九州40,500人、南九州64,600人
南九州は狗奴国のテリトリー
残りは40,500人
この数字を見れば九州説の人は夢から覚めるはず
0629日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:13:14.39
>>575
当然、卑弥呼は吉野ヶ里及び周辺
でも邪馬台国は近畿一帯。
なんら中心国でもないから行く必要性もないから
水行の行のみ。まあ、投馬国、邪馬台国には行っていない。
0630日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:13:35.08
箸墓の馬具は4世紀中頃のもの
布留1は4世紀中頃、布留0は3世紀末
だから百歩譲っても薹与の墓だろうと言われていた
それがまた卑弥呼の墓ニダーと韓国式畿内説が騒ぎ出した
明らかに計画的犯行だよ
0631日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:14:58.57
>>627
畿内説の韓国式解釈は統一狂会内部でしか通じないんですよ、低IQさん
0632日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:20:50.10
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいですね( *´艸`)
0633日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:24:06.86
>>632
侏儒国なんてのが本当にあったと思ってるのか?
0634日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:28:04.51
邪馬台国の位置関係で一番重要なのは、南に隣接している狗奴国の位置だよ。
畿内説…尾張(✕東)狗古智卑狗(✕河内彦=西の大阪平野)支離滅裂w
筑紫説…熊本(〇南)狗古智卑狗(〇菊地彦)
0635日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:32:34.56
>>632
>>634
IQテストと言われる所以だなw
0636日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:40:30.00
>>630
>箸墓の馬具は4世紀中頃のもの

と言ってる人はいないよ
捏造乙
0637日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:44:58.37
箸墓は真の神武陵
0638日本@名無史さん2022/12/08(木) 14:45:33.13
3世紀前半ではなく5〜6世紀に畿内勢力の織田信長による九州平定なら魏志倭人伝的にも合う。
3〜4世紀には大友氏を盟主とする北九州連合あった。大友氏は自ら盟主になると連合国から反感があるので卑弥呼を盟主にして北九州連合(邪馬台国)を運営した。
奴国が大友家、狗奴国は薩摩大隈の島津家、投馬国は肥後の国衆(相良家、阿蘇家)こんな感じ。

近畿のヤマト王朝は4〜6世紀に九州に勢力を伸ばしてきてその頃には北九州連合は弱体化していて簡単にヤマト王朝に蹂躙され邪馬台国は滅び歴史から消えた。

大まかな動きはこんな感じがする⁈

同じように四国の国や出雲、吉備も4〜6世紀にヤマト王朝に蹂躙されたんだろう?
0639日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:00:06.31
>>638
伊勢遺跡があるっつってんだろうがバカ野郎
0640日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:04:12.47
>>636
じゃああの馬具は誰がいつのものだと言ってるんだ?
まさか低能畿内説じゃないだろな?
0641日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:05:13.60
箸墓は馬を使って作ったという証拠だな
0642日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:06:29.39
実際に箸墓開けて若い女性の遺骨が出てきたとしても
畿内説は実は卑弥呼は若かったニダーとか言い出すんだろうよw
0643日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:08:40.29
>>640
4世紀初頭
0644日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:09:11.22
>>624
最後の炊飯から廃棄されるまでの時間が全く考慮されてないおバカさん
0646日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:19:53.11
>>644
普通考慮しない
割れたら捨てる
だから最後に着いた炭素の年代が破棄の年代
0647日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:32:06.90
>>634
近畿一帯説では
卑弥呼は九州なので
近畿一帯説 熊本(〇南)狗古智卑狗(〇菊地彦)
0650日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:42:39.85
私が考える歴史の流れは以下のような感じ

1.2世紀後半~3世紀前半に北部九州の邪馬台国連合内の朝倉あたりの勢力が吉備を経て(吉備と組んで)畿内に進出(神武東遷伝承)
  契機は北部九州の戦乱や飢饉からの脱出
2.3世紀後半に東遷した神武勢力の何代目かの王が奈良盆地の王(大王)に就任(後に崇神天皇と呼ばれる)、その拠点が纏向
3.4世紀半ばから後半に掛けて玄界灘沿岸と朝鮮半島南部で勢力を広げた海人族が筑後方面にも領域を拡大
  (神功皇后の田油津媛討伐・三韓征伐、広開土王碑文)
4.4世紀後半に上記北部九州海人族勢力が畿内に進出し崇神朝を滅ぼす
5.4世紀末~5世紀初め頃に海人勢力の跡継ぎが畿内で大王に即位(後に応神天皇と呼ばれる)

割とドメスティックな性格の崇神朝と対照的に応神朝が朝鮮半島で活発に活動し中国とも積極的に交流(倭の五王)したのは、元々朝鮮半島と九州を股にかけて活動していた海人族だったからと考える
0651日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:43:44.52
>>650
北部九州には邪馬台国はない。
0652日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:44:55.82
>>649
>ススでわかるのは燃やした木材の年代だろ

ススでなく、飯を炊いた吹きこぼれのオコゲを測る
0653日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:46:00.33
>>648
学者みんな
0655日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:53:46.16
>>65
魏志倭人伝・記紀・考古学が整合する邪馬台国候補地は北部九州しかない。
0656日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:55:02.66
北部九州には卑弥呼の墓に比定される場所はない
0657日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:56:32.62
>>653
学者みんなって、それが皆考古学者だったら実質1人なんだが?
誰が何を測って4世紀初頭と判断したんだ?
0658日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:56:41.83
>>654
全員
0660日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:59:38.35
>>659
学者全員
0661日本@名無史さん2022/12/08(木) 15:59:50.07
箸墓の馬具の年代を誰がどうやって推定し公表したのか?

普通の社会人なら5W1Hで答えるのが当たり前なんだがな
0662日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:01:03.14
ただただ学者ガーっと言って逃げてるだけのキナイコシじゃ宣伝係も務まらんなw
0663日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:10:54.23
崇神朝の初期天皇がイリヒコ系の名前(外部から入ってきた人の意味だろう)、応神朝の初期天皇がワケ系の名前(分かれた家系・別系統を意味するか)なのも、崇神朝と応神朝の成り立ちを示唆していると考える
0664日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:11:55.56
>>663
俺は考えない。
0665日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:12:52.83
>>661
発掘者である桜井市埋文センター橋本輝彦がH10/11/19検討会に報告して、層位から決定した
0666日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:14:27.88
さて、畿内説論者から魏志倭人伝や記紀のいろんな要素と複合的に整合する歴史のストーリーを一生に一度でいいから聞いてみたいものだ
いまだに一度も聞いたことがない
0667日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:16:59.97
>>662
誰が一言っているかと言う質問だから、全員が言っている
どうやって推定したと聞かれたから決定プロセスと判定方法も答えた
0668日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:17:29.99
畿内説の論はどれも断片的、一点突破的で薄っぺらい
記紀のいろんな記述、魏志倭人伝のいろんな記述と複合的に整合した形の歴史の流れを彼らは語れない
畿内説は記紀の記述、魏志倭人伝の記述とあまりに矛盾するからだ
0669日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:17:59.88
>>666
テンプレ読めば?
0670日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:19:02.66
「考古学は畿内説優勢」
なるほど、文献をとことん軽視したい彼ららしい標語だ
0671日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:21:07.40
>>669
長ったらしいテンプレを貼り付けている奥山が、そう言うとります。   @阿波
0672日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:21:39.61
>>668
>畿内説の論はどれも断片的、一点突破的で薄っぺらい

という証拠は?
0673日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:24:53.58
>>669
読んだから言っている
あれを読んで畿内説が正しそうだと思う人はたぶんいないと思う
実際キナイコシと同じ意見の人はこのスレにいないし(畿内説の人はいるがキナイコシとだいぶ違う)
0674日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:25:17.06
どちて坊やくん。知能が低いと思われるから「という証拠は?」だけで反論するのはやめなさい。
「こういうところが重厚である」と反論したらよいのではないか?
0675日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:28:20.71
>>674
証拠がなければ人は信じない
それだけ
0677日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:31:16.15
>>674
お前が証拠を出せないことを確認されてるんだよ
あさはかだな
0679日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:35:22.96
>>670
文献を正確に読み解ける脳があれば文系に入れたかもしれないが、漢文すら読めない連中は考古学で土方やるしか無いんだよ
0680日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:35:51.27
>>678
層位から
0681日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:38:20.82
>>665
ほーら畿内説ありきの身内で決定したとかw
低能だという自覚が無いから自分達で決めたがるんだよな考古学って
0682日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:46:17.34
>>681
学者が会議でそう決めたことをそう呼ぶなら、そうやってどんどん世間から遊離していけばいい
0684日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>326
妄想乙
1万2000里はちゃんとした根拠がある
帯方郡から女王国西端に位置する烏奴國(すなわち穴戸)までの距離の事だ
0687日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:51:05.26
>>682
学者って自称学者という底辺の寄せ集めだろw
世の中はそんなにレベル低く無いんだぞ?w
0688日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

一大率の役割は遠の朝廷と呼ばれた太宰府と同じ
外交・防衛・内政
0689日本@名無史さん2022/12/08(木) 16:53:05.32
>>686
東の倭種の国で流行った銅鐸文化圏だな

邪馬台国は銅矛文化圏だから
0690日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>689
いいえ
特殊器台が分布した時期は倭国大乱後なので銅鏡文化圏に移行しています
九州説論者は基本的な事すら勉強していない
妄想で作り上げた奇説
0692日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

倭国大乱が終結して特殊器台が吉備から拡散
つまり大乱の舞台は本州であり、九州は蚊帳の外
0694日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:02:27.62
>>652
飯を炊いた時期とその土器が最終的に周濠に捨てられた時期の誤差は数十年から数100年あると考えるべきだろ
0695日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:02:39.53
>>684
妄想乙

中華思想の方万里
その外側四方2千里以内は
天子の徳が届く範囲で朝貢国です

それ以上の外側を化外の地
天子の徳が届かない蛮族の地

加えて
イワレヒコは、この中華思想の概念を真似て
日本の地形の中心地である畿内で旗揚げしたのです

当たり前な答えですよw

イワレヒコは
中華思想と日本の地形も把握していたわけです
(もっとも最初は倭の中心地として阿岐国で旗揚げするので
実際の倭の領域は西日本と半島南部だったと読めます
畿内以東は毛人の地)
0696日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

そんな九州を治める王族が住んでいたのが「伊都国」

昔から王が居たと特筆されていること。
国名に使われている文字。
豊富な副葬品。三人官吏が居ること。などから推測できる
https://i.imgur.com/to3nUvz.jpg
0697日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>695
そもそも不弥国まで「1万700里」と記述しておきながら「1万2000余里」が遠方の国だということを表す観念的数字だというのはありえない

根拠無し
0699日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

女王の境界尽きる所は烏奴国と奴国の間とされている

烏奴國(アナコク)が、かの仲哀天皇が九州遠征の際に行宮を築いた穴戸國。すなわち現在の長門であり山口県であるのならば、女王国は関門海峡以東を指すことになる

そして実際に、伊都国から関門海峡までは100km1500里で完全一致だ
0700日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

12000余里を観念的な数字だと思い込んでる阿呆は魏志倭人伝を読んでいないと断言できる

奴國で女王の境界が尽きると書かれているのに一切無視
0701日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

半径100km(1500余里)図
https://i.imgur.com/LOa5wuk.jpg

女王国傍国の最後の国、烏奴国が長門(古名:穴戸)であれば全て一致するだろ
これでも12000余里が観念的数字だと曲論を呈するのか
0703日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:15:01.70
太宰府は

wikiより
晋において再度太師、太傅、太保を置いたが、「師」が景帝司馬師の諱であることから避けて太師を太宰と称した。

一大率は
馬韓の後身である百済の官に
達率(たつそつ)- 二品官
恩率(おんそつ)- 三品官
徳率(とくそつ)- 四品官
扞率(かんそつ)- 五品官
奈率(なそつ)- 六品官
とあります

基本、別だと答え出てますよw
0704日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>703
ごめん何が言いたいのか分からない
名称の話してるんじゃなくて実態、果たしていた行政的役割の話をしているんだよ
0705日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:26:35.34
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0707日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

魏志倭人伝の邪馬臺国の四官をご覧ください

伊支馬→イキマ
弥馬升→ミマソ
弥馬獲支→ミマワキ
奴佳鞮→ナカテ


ですが、「弥馬獲支(ミマワキ)」は崇神天皇の和風諡号である「御間城入彦(“ミマキ”イリヒコ)」と対応する様に思えます

おそらくここの記述は張政が情報源なので247年以降に四頭政治が敷かれていたのでしょうね
0708日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

崇神天皇(和風諡号:ミマキイリビコ。※魏志倭人伝に記載のある邪馬臺国の官:弥馬獲支[ミマワキ]が対応)は祭主の力が強い事を不服に思っており、百襲の死後には斎王を建てず男王として即位

四道将軍を派遣して諸国と戦争

しかし戦いは長引いてしまったので、妥協案として斎王を再び立てる代わりに皇居外へ追い払う事にする(豊鋤入姫命[トヨスキイリヒメ※魏志倭人伝の臺与に対応]を磯堅城に祀らせる)

って感じでしょ
日本書紀と人名も起きた出来事も完全一致
0709日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:34:49.54
>>706
適当に決めてもだめ。

強大国「狗奴国」に相応しい遺跡がない!   @阿波
0710日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:37:53.22
箸墓古墳に吉備特有の特殊器台(百襲の弟は“吉備”津彦)
吉備津彦は彦五十狭芹彦命が吉備に入って平定してからの名前だから何が言いたいのかよくわからない?
0711日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:41:00.25
>>702
短里なんて存在しない空想。
0712日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>710
それは後世に吉備地域をヤマトが占領する大義名分に用いた系譜仮冒だろう
2ー3世紀の吉備は独自の勢力をまだ保っていたのだから、崇神紀に征服されていたなんて一瞬でわかる作り話
0713日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>711
いや短里じゃないと帯方郡から九州までの里数が現実と合致しないでしょ
0714日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:47:28.29
>>713
司馬氏が10倍したんだよ。俺たちの方が遠くから連れてきたぜってな。
0715日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

吉備津彦はヤマトの人間ではなく、当時ヤマトの同盟相手だった吉備國統領
0716日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:48:11.15
短里などと存在しない物を言ってる時点で間違い説確定。
0717日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:48:34.69
>>715
お前の妄想はいらん。
0718日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>714
まあそうだとしても1万2000余里は観念的数字になりませんね
0719日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>717
倭人伝と現実の距離を照らし合わせると1里60m~90mになる
これは動かし難い事実
0720日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:54:39.82
>>718
1万2000里ないと大月氏国より近くなってしまうんだよ。
0721日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:56:32.36
>>718
司馬懿仲達が帯
方郡から邪馬台国までの距離、千二百里を十倍にして万二千里と報告したため、邪馬台国は洛陽
から万七千里彼方の国とされたためである。ちょうど十年前に司馬仲達のライバルだった曹爽の
父親が西方の大月氏国の使いを万六千里彼方から連れてきたことがあったのである。邪馬台国は
その大月氏国よりさらに遠い国だと司馬懿仲達は触れ回ったのである。

アホっぽく言うと「答えでてますwww」
0722日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>720
そんな意図があるなら女王国も大月氏と同じく洛陽を始点に距離カウントするだろ
でもしてないよ
はい破綻
0723日本@名無史さん2022/12/08(木) 17:57:34.12
>>709
ございますよ

沼津の足高尾上遺跡群

狗奴国を相応しい弥生後期から古墳期前半にかけての大集落遺跡です

その側にあるのが卑弥弓呼柳の高尾山古墳
0724日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>721
それ後漢書の記述じゃん
魏志倭人伝から100年以上経ってるよ
0725日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

大月氏国を意識してるなら女王国だって「洛陽から万何千里」とそのまま書くよ
わざわざ別の情報と足し算させる理由がないと前から指摘されてるだろ
0726日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

1万2000余里=観念的数字説唱えてる人は九州説論者に転向してくれねえかな
その暴論九州説との親和性高いだろ
0727日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:03:33.69
>>723
それ一つだけか? 「狗奴国」はそんなショボい国じゃない!   @阿波
0728日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:06:34.12
>>722
何も破綻してない。ただの足し算が出来ない人?www
0729日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:16:13.03
洛陽からが帯方郡の距離は嘘を言ったら即バレ。
0730日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:19:04.91
万里の長城は1万里もありませんが万里なのです。
0731日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:19:56.19
あなたの説に短里なるファンタジーが含まれていたら100%間違いw
0732日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:25:00.45
短里なのか露布による十倍なのかはわからないが、魏志の韓伝と倭人伝は一里の距離が明らかに大幅に短い(一里ざっくり70mくらい)

帯方郡から邪馬台国の距離一万二千里から帯方郡から伊都国までの距離一万五百里を引くと伊都国から邪馬台国の距離は一千五百里
先程の一里70m程度を考えると伊都国から邪馬台国は概ね100km程度
これは北部九州から出ない範囲

距離でも九州説、方角でも九州説だ
0733日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:25:53.83
>>690
銅鏡は紀元前から国産化していたわけで
何でも3世紀に寄せたがる畿内説は時空間無視してここから始まったニダとか言い出す認知症よ
0734日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:27:13.61
>>662










で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?











早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス
0736日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>735
いや伊都国から半径1500余里の円周には女王国はないってことな?
女王国は本州で九州は女王国に含まれない
0737日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:29:13.42
>>732
正解!
0738日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>732
>帯方郡から邪馬台国の距離一万二千里

はぁ?そんな事魏志倭人伝に書かれてないんですが
なんで書かれてないことを勝手に脳内補完してるの?


帯方郡から「女王国」まで12000里だぞ
邪馬台国じゃないぞ
0739日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:30:58.34
>>736
お前女王国以北の意味を誤訳してるだろ

女王国以北は女王国の中の北部という意味だ

日本語の以北とは意味が異なるんだよ
0740日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

頼む。
妄想九州説論者はまず魏志倭人伝読んでからこのスレに来てくれ
0741日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:33:03.21
>>740
お前が妄想世界に浸ってる以上、噛み合わないのは当たり前だ
0742日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:34:12.80
魏志倭人伝すら読めない畿内説は歴史はもちろんのこと考古学すら無理だろ
エセ考古学ども
0743日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

邪馬台国=女王国だと思ってるやつって馬鹿なの?
何のために書き分けてると思ってるの?

そもそも女王は共立されてんだから女王国が邪馬台国一カ国のみを指してる筈ないだろうが
https://i.imgur.com/DjxSR6Q.jpg
0744日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

邪馬台国∈女王国に決まってんじゃん

もっとわかりやすく言おうか?邪馬台国は女王国の部分集合だよ
0745日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>742
>帯方郡から邪馬台国の距離一万二千里


書いていない事が見える
幻視まで始めたシャーマン九州論者には敵いませんwww
0746日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

邪馬台国と女王国の区別が付かないお笑い九州論者
0747日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:43:11.10
>>744
そこは諸説ありというのが常識だろ馬鹿

・卑弥呼の居る日本列島の事を中国は女王国と呼び、倭人は邪馬台国と呼んだ
・邪馬台国の一部が女王国である
・女王国の一部が邪馬台国だある
0748日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

というか7世紀初頭の都と魏志倭人伝の邪馬臺が一緒だと隋書倭国伝に書かれているのだから、畿内以外ないだろう
https://i.imgur.com/SdS0yFj.jpg
0749日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:50:08.58
ロシアから日本までの距離を稚内までだと言い張るのね。
0750日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:53:19.60
>>748
東遷を知らなかっただけ。唐書で再訂正。
0751日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>749
sageついてない方は畿内論者だっけ?
なら話が早い

・都は畿内にある
・女王の境界は奴國(福岡県)にある

なら九州、少なくとも奴國以西が女王国に含まれないのは明白だろ違うか?
0752日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:55:09.28
で、隋書は正しくて唐書は間違い云々ですか?www
0753日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:55:22.26
無いもんは誰も知らんさ
0754日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:58:01.85
景初2年(238年)年6月卑弥呼は難升米を帯方郡に送り朝献を求めた

景初元年は公孫淵が遼東の襄平城で燕王を自称し独立を宣言し帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属した
これを景初2年に司馬懿の軍が打倒することになるが問題はその時期

景初2年6月には、魏軍は、公孫氏を遼東半島に追い詰め、包囲を完了
238年8月司馬仲達の軍は遼東半島にて公孫氏を打倒

難升米が帯方郡に着いたときは、帯方郡が燕から再び魏となった直後
ただ、このときはまだ遼東半島で戦闘が続いていた


卑弥呼が難升米を派遣することを決めた段階では帯方郡はまだ燕に取り込まれていた時期だと思われる
なぜ未来を予測するように難升米を派遣することを決定できたのか
しかも、あとの経過は卑弥呼の予想通り支障なく朝献が実現した

いずれにしても、卑弥呼がこの判断を行った
並外れた状況分析能力が彼女にあったということだと思う
0755日本@名無史さん2022/12/08(木) 18:58:12.71
>>751
自分の仮定から結論を導き出すとか当然の帰結。

>sageついてない方は畿内論者だっけ?
こんな決まりは知らん。どこに書いてある?
0756日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>755
いやこのスレID無いから誰が誰だか判別つかねえんだよ
0757日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>752
笑って誤魔化すのやめたら?
旧唐書の編纂時期は日本書紀編纂後だから、そりゃ日本書紀に書いてある東遷が記されてるのも当然でしょ

だが歴史学的には同時代史料に近いものを参考にするのが基本だ
実際、だからこそみんな記紀より魏志倭人伝を史料にしてるんだろ?
そして魏志倭人伝の次に同時代に近い文書は隋書倭国伝になるのだから隋書倭国伝をより信頼するのも当然
0758日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>754
百襲姫命(卑弥呼)は未来のことも分かる人だ。と日本書紀にも記されているくらいですからね
0759日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:04:06.61
>>754
強大な中華様ならどこでも良かったんじゃないかね?
どっちみち帯方郡方面にしか行けないんじゃないの?
卑弥呼を過大評価しすぎだね。ただの王族の女ってだけだろう。
呪術行為も王族の特権だっただろう。
皇子同士の王位継承問題の先送りに「女」ってだけ。
0760日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:07:33.42
>>757
だからヤマト王権の主張を無視すんなって言ってんだよ。
百襲姫だけ引っ張ってんじゃねーぞカス。
0762日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:18:02.54
>>594

3世紀に九州でもっとも発展している外港都市博多にも
防衛施設はないし、3世紀前半九州最大の前方後円墳を築造している
0763日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:22:46.47
いわゆる欠史八代は本当はほとんど兄弟継承だ。神武天皇から崇神天皇まで数十年ってところだろう。
神武がいないなら百襲姫も存在しない作り話って事だ。良いところ取りし過ぎなんだよ畿内カスの連中はよ。
不敬で糞で税金泥棒って事なんだよ。百襲姫が仕えた「倭大物主大神」も無視してくれんじゃねーぞ。
0764日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:32:43.98
お笑い、神武天皇陵。幕末に徳川幕府が適当に選定して明治政府がコンクリートで築造した。
0765日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:36:13.59
お笑い、欠史八代の天皇。天皇家の御先祖である磯城県主葉江を持ち上げるために書かれたフィクション。
0768日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:51:03.36
>>747
倭人は邪馬台国と読んで言ったけ?
0769日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:51:34.59
>>762
墓地公園
0770日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:52:44.73
魏志倭人伝に女王国の語は5か所に使われているが、その意味は以下のように使われている場所によって二種類の意味に使われている


1.伊都国は世々王あり、みな女王国に統属する
  ⇒広義(邪馬台国連合)
2.女王国以北については戸数と道里を記載できたが
  ⇒狭義(邪馬台国)
3.女王国より北については特に一大率を置き諸国を検察させている
  ⇒狭義(邪馬台国)
4.帯方郡から女王国までは一万二千余里
  ⇒狭義(邪馬台国)
5.女王国から東に海を渡ること一千余里、また国がある
  ⇒広義(邪馬台国連合)か狭義(邪馬台国)か不明

4の意味なので、帯方郡から邪馬台国までが一万二千余里だ
もしここを広義で解釈すれば、最初に到達した邪馬台国連合の国を狗邪韓国と考えても対馬国と考えても(ついでに伊都国と考えても)そこまでに記載された里数が一万二千余里と合わない

ちなみにキナイコシは以北を勝手に「北部」と解釈したり帯方郡から一万二千よりは広義の意味だとか「短里は認めない」と騒いだりするが、それは単に畿内説ありきの彼にはそれらを認めると論が崩壊するからだ
実に結論ありきで理屈は後付けの畿内説らしいパーソナリティだ
彼こそ100%悪い意味で「ミスター畿内説」だ 笑
0771日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:54:40.78
>>735
普通に考えて
もっと広いよ
0772日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:55:59.37
邪馬台国を何としても大和に持ってきたいだけの畿内説(キナイコシが典型)
九州説は、丹念に魏志倭人伝と記紀の記述を考古学と照らし合わせた結果、全てが整合する唯一の結論として導かれるものだ
0773日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:56:56.49
>>772
導かれないな。
0774日本@名無史さん2022/12/08(木) 19:59:12.10
>>770
あたま狂ってるね
畿内説のだれを見ても区別がつかない低知能だから
複数の一人の人間だと勝手に思い込んで
自分自身が支離滅裂になってる
0775日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:00:51.11
>>772
>九州説は、丹念に魏志倭人伝と記紀の記述を考古学と照らし合わせた結果、全てが整合する唯一の結論として導かれるものだ

してないじゃねえか
第一おまえ考古学のこと何も知らないし
0776日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:01:17.03
>>774
ああ、キナイコシじゃないのも混ざってたか
どれが違うんだ?
0777日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:02:49.82
>>762

3世紀の九州北部の中心地は博多ではなく伊都。
三方を山に囲まれ、残る一方は自らが制海権を持つ玄界灘。
これほど強固な守りの土地は九州北部にもなかなかない。
おそらく王城があったのは高祖山で、後世の山城であった怡土城や高祖神城の前身だろう。
そして記紀においては筑紫の日向の高千穂宮と呼ばれているものがそれなのだろう。
日中の史書は全て神代すなわち弥生時代の倭の王都は博多湾沿岸で一致している。
0778日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:04:43.39
>>751

倭国の境界は狗邪韓国。

後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
0779日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:12:21.43
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:皂帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)

大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。

率は帥と同義であり、倭(九州北部)における行政最高官のこと。
最初の帥の記録は「倭王」とされた帥升であるが、なぜか王のはずなのに自ら漢を訪問したことになってしまう。実は王ではなく帥だったのだろうと考えられる。
律令制においてはこの役職は太宰の帥と呼ばれた。
最後の帥は有栖川宮熾仁親王であり、明治2年に帥の役職は廃止された。
0780日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:14:10.62
>>778
ほら
馬鹿九は漢文なんか読めやしない
0781日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:28:20.64
>>770
魏志倭人伝に女王国の語は5か所に使われているけど、二種類の意味に使われていないな。
0782日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>778
そう
つまり倭国の境界と女王の境界が異なるということ

倭国の中に女王国という多国家同盟があり、邪馬台国はその盟主的立ち位置にあった。と
0783日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:33:30.04
>>779
>>率は帥と同義であり
なんでそうなるのか?
有栖川宮熾仁親王は検察するのか?
0784日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

倭奴國が倭国の極南界ってのは九州のことね
0786日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:35:49.35
>>782
邪馬台国はその盟主的立ち位置にはないかもしれん。
0787日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:36:46.42
九州説の人は>>628が読めないのかなんの反応もない
なぜなのか 不思議です
さらに不思議なのは畿内説派の人からも反応がないこと
つまらない子供のような言い合いに夢中になっている

>魏志倭人伝記載の戸数から導き出される当時の倭国・倭地の人口の合計と
現代の歴史人口学的研究から導き出される人口推計とほとんど違いがない
200年の推定人口は594,900人
とてもじゃないが九州に収まり切れない

ちなみに同研究で九州の人口は
北九州40,500人、南九州64,600人
南九州は狗奴国のテリトリー
残りは40,500人
この数字を見れば九州説の人は夢から覚めるはず
0788日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:37:38.03
>>779
>大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。

無知
刺史は地方長官
治所は地方都市の州治に置かれていて、彼は都から出かけたりしない
0789日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:45:00.52
>>786
当然、邪馬台国が中心ではなく
卑弥呼や壹与が中心。
国々のひとつに過ぎない
水行の行のみ。
中心国なら細かい経路や停泊場所を記載するのでは?
0790日本@名無史さん2022/12/08(木) 20:55:36.70
>>789
だな。倭人は鉄求め、半島へしかないのに
鉄が多い所が邪馬台国とか?
絹もそうだよ。女王国の国々にあればいいし
別に邪馬台国でなくていい。
0791日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:09:50.17
>>777

伊都国は奴国の20分の1の弱小属国
福岡平野産の庄内式土器が多量に搬入され
那珂八幡に続いて3世紀後半に前方後円墳が造られるのは今津湾沿岸
高祖山から3世紀の遺構は見つかっていない
0792琪瑛教祭酒2022/12/08(木) 21:11:54.04
邪馬臺国は畿内だが女王国は刺使がおる対海国まで卑弥呼の国だよ。否従属国に刺使はおらん。
0793日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:13:10.01
>>791
奴国が拡大し
弱体化したかもしれん。
0794日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:45:47.52
>>790
>女王国の国々にあればいいし

あればいいが、畿内に無い!   @阿波
0795日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

伊都國が奴國より強大だったのは間違いない
というか九州全域の長に君臨してただろう
0797日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>793
伊都国は断じて衰退などしておらず、畿内大王家と統合した
タイミングは筑紫で生まれた応神天皇が畿内にやってきた時。
そして丁度時を同じくして政治の中心地が奈良から大阪に移る

このダイナミックシフトが起きた理由が九州伊都国と畿内ヤマトの合併なのだ
0798日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:52:24.18
>>794
別に畿内説でもないが
女王国の国々にあればいい。
まあ、多い少ないは関係なく
絹も鉄も出土もあるが?
近畿一帯説だから畿内も一部
0799日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:53:18.22
>>797
王はどこに?
0800日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

三種の神器
「八咫鏡」は伊都国のレガリア
「草薙剣」は出雲のレガリア
https://i.imgur.com/to3nUvz.jpg

揃える事で、畿内政権による中国地方から九州にかけての支配を正当化出来た
0801日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

伊都国にだけは「ヒナモリ」が居ない

つまり伊都国はヒナ(辺境)ではなく中心であるということ
また、官名『ニキ』はニニギに類似する
https://i.imgur.com/bI8FryN.jpg
0802日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:56:17.18
>>798
>女王国の国々にあればいい。

女王国の国々にあればいいが、女王国の国々が畿内に無い!   @阿波
0803日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:56:32.78
>>787
距離も国力(人口)も司馬氏がマシマシで報告したからだよ。
逆に司馬氏の嘘に合致したら間違いって事。
0804日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:57:27.44
>>800
支配?共立なのに?
なんで卑弥呼後男王たつも千人の死傷者。
支配しているのか?疑問に思う。
0805日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:58:35.49
>>803
>距離も国力(人口)も司馬氏がマシマシで報告したからだよ。

それがお前の間違いいって事。    @阿波
0806日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>804
いや畿内が九州や中国地方を支配したのはもっともっと後世の話
0807日本@名無史さん2022/12/08(木) 21:59:44.19
ヒナモリは伊都から見た周辺地域を守る仕事だろ。
0808日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

女王国は共立だから連合国家である
版図は吉備・畿内・出雲
https://i.imgur.com/DNfxkjm.jpg

そして九州は伊都国を中心とする独自勢力
だから九州だけは女王国メンバーにはならず、本州女王国に敗戦し従属している状態
だから一大率が置かれている
0809日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:01:40.87
>>802
なぜ、無いのか?
阿波はト骨、絹の出土がない
0810日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:03:10.81
>>805
短里などと言うありもしない物を作り上げて成立させる馬仮説の論者はそうだろうねw
0811日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>807
同意。ヒナモリを派遣しているのは伊都国

女王国からすれば、伊都国さえ抑えれば附属品の北九州全域を抑えられるということ。だから伊都国に一大率が置かれた
0812日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:05:09.26
>>800

面白いことに、神武は三種の神器を持っていなかったらしい。
饒速日との会談で身の証に用いたのは天の羽羽矢だった。
饒速日も同じものを持っていたため、同族だとわかった。
神武が三種の神器を扱う話は出てこない。
0813日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>809
そんな物、何の根拠にもならない
0814日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:06:27.18
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0815日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

帯方郡使は基本、九州伊都国に往来し留まっていたと書かれてるのだから現地の事を倭人の風習として書くのは当たり前

伊都国より先には行ってないのだろう
0816日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:06:53.59
>>806
別に支配しているとかは書いていない。
卑弥呼時代は支配などない時代。
九州では57年まではあったかもしれんな
0817日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>814
そうは思わない
支惟(kiwi)國なる物があるが、こちらが吉備國だろう
0818日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:08:40.44
>>815
そこは同意見、或いは不彌国までかもしれん。
中心国でもない邪馬台国に行く必要性もない。
なので水行の行のみ。
0819日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:09:33.19
>>807
大宰府など北部九州は、倭国(阿波)王権を皮切りに、後に続く代々王権の防人出先機関でしかなかった。   @阿波
0821日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:09:50.38
>>797

応神というより、その前の仲哀天皇の時ではないか?
仲哀天皇が香椎宮に入る時に出迎えた怡土県主は、伊都高祖宮つまり筑紫の日向の王族の末裔だろう。
また、崗県主は、筑紫岡田宮の王族だ。
仲哀天皇は彼らの承認を得て、つまり共立されて筑紫に入ったことになる。

まあ、仲哀天皇と皇后と皇子二人を倒て神功皇后と武内宿禰が天下をとってしまうのだけど。
0822日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:10:26.04
>>809
それがどうした?   @阿波
0823日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:12:57.02
>>815
邪馬台国の官名の4人
上下関係が表す字がないのである。
何を意味するのだろう?
0824日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:13:57.21
>>822
阿波に没だな
0825日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:14:09.04
>>795

伊都の大率を周辺諸国が畏怖したというから、伊都は内政の権力の座だった。
考古学的には列島で初めに稲作が始まった地に近く、一番初めに鉄器の生産が始まり、最初に銅鏡の生産が始まったところ。
しかも三種の神器を副葬された歴代倭王の墓が集まる王家の谷でもあった。
さらに帯方郡使など外交特使が滞在する外交の舞台でもあった。
0827日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:16:27.20
>>820
古語いつからなの?
0828日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

しかし、伊都国の王は代々女王国に統属してきたと書かれている

つまり
①伊都国を中心とする強大な九州北部勢力が居た。
②出雲・吉備・畿内が支配ー非支配関係の無い同盟組織『女王国』を形成し、伊都国に対抗した。
③伊都国はリンチを受けて敗戦し『一大率』を置かれた。


こうだろうよ
女王国の版図は関門海峡から畿内まで
だから帯方郡~女王国まで12000里なのだ
0829日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:18:48.20
>>793

奴国が大山祇や海祇、つまり海人族または安曇の倭王の国なら、1世紀くらいに政権交代したとも考えられる。
天孫ニニギは、大山祇の娘を娶っている。
ニニギの息子らも、海祇の娘を娶っている。
そもそも出雲の大国主も、素戔嗚が大山祇の末裔の娘を娶って、その娘を大己貴が娶っている。
つまり倭奴国王であった大山祇の権威を女系で継承しているのが出雲や筑紫伊都の王家ということになる。
0830日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>823
邪馬台国もまた豪族連合国家であった。ということなのでしょうか?
ミマワキやイクメなど、後の天皇和風諡号と対応する様な官名が見受けられますよね
0831日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

イクメじゃなくてイキマか
0832日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

当時の邪馬台国の範囲がどんなもんなのか分かりませんが、河内と奈良じゃ結構違いますもんね
三輪山の麓と生駒山の麓とでもまた差がある
0833日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>826
天之日矛ですよね
ニギハヤヒの十種神宝と持ち物が似ていたり北陸でも活躍したり中々謎多き人物
0834日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:25:58.66
>>793

奴国は人口が増えすぎて王族が住むには賑やかになるか水が足りなくなるか、環境が悪くなったのだろう。
伊都なら王族とそれに仕える者たちだけを住まわせて、防御が高い王都を作ることができる。
生活用品は奴国で作りそれを運び込めばいい。
奴国から大量に土器が搬入されたということは、人口比に比べて伊都国の住人は豊かな暮らしぶりだったということ。
現代の日本が中国から大量に日用品を輸入しても、日本が中国に従属していたことにはならないだろ?
奴国は生産地、伊都国は消費地なんだよ。
同じ国内なら、どちらが裕福な支配層か、もう一度考えてみるといい。
0835日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:26:01.20
魏の使いは伊都国までしか行ってなく他の国の事は伊都の通訳の役人に聞いた話を書いたのでは?
通訳の役人は魏が攻めてくるのを牽制する意味を兼ねて上司から盛り盛り増し増しに言えと言われていたのでかなり盛り盛りの戸数や日時を言った。
だから、行ってない伊都国以外の戸数は倭国側の割り増しされた報告をそのまま魏に持ち帰り書簡にした。
こんな感じもありえるから行ってない国に戸数は盛り盛りの可能性アリ。
0836日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:29:11.62
>>830
元々、大西遺跡や唐古・鍵遺跡がある
水害等で東海、近畿、四国被害、
各地からの避難地になる。
また、妻木晩田や青谷上寺地からの流入も
あるだろう。毛人も含め。異文化の集まる
なんらかの、共同コミュニティの構築があったかもしれん。墳丘墓にせよ古墳にせよ形状が様々。
0837日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:29:27.23
>>790

鉄は女王を守るため、絹は女王が着るためにあるのだよ。
絹織物つまり錦を王族または官僚以外が着ることは、弥生時代の社会において考えにくい。
0839日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:30:52.83
>>834
意味不明?
0840日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:31:56.32
>>787

魏志倭人伝において奴国だけでも二万戸つまり10万人前後はいただろうと考えられるため、その研究の推定値は間違いだとわかる。
0841日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

応神天皇以降(いわゆる河内政権)の朝廷が九州と深い関係を有していた事は出土品(ex.河内長持山一号・河内唐櫃山菊池川産の灰色石石棺)からも疑いの余地がない。

そんな河内政権が断絶し、北陸からやって来た継体大王が奈良入りして僅か九ヶ月後、呼応するかの様に磐井の乱が起きた事に因果を感じざるを得ないわけだよな
0842日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:32:27.98
>>837
だから邪馬台国でなくてもいいだよ。
卑弥呼がそういう場所にいれば住む。
伊都国か、不彌国かもしれん。
0843日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:35:24.19
倭人伝の距離はおかしい(紛れもない事実)
→短い里があるんじゃないか。
アホすぎる。そんな物が混在したら使えない。

→そもそも距離が間違ってるんだろう。
ごく自然の当たり前の思考。しかも、司馬氏のライバル曹爽の父親が西方の大月氏国の使いを万六千里の彼方から連れてきたのが10年前。帯方郡から万二千里で万七千里となりそれを超える。
0844日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:39:15.84
>>783

率または帥は人を指揮する役職、つまり将軍のこと。
有栖川宮熾仁親王は最後の太宰の帥あるとともに、最初の福岡県知事、最初の日本陸軍大将でもある。
この点では明治政府は卑弥呼直下の大率の伝統をよく守っていたといえる。
0845日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:39:23.23
伊都国は倭国最大の工業地帯だった。
だが工業地帯は単体で成立できない。
労働者の住居や、食糧生産の地域が付随する必要がある。
すなわち、単体の環濠集落で完結する国邑ではなく、複数の国邑が機能を分化させて担っていたのである。
これが連合国家または領域国家としての邪馬台国である。
そしてその中で最大の権威として周辺諸国から畏れられていたのが伊都国であった。
魏志倭人伝は、その支配機構を大率と記録している。
率は帥と同音同意であり、後世の大宰の帥と同じく、国王の代理人である。
郡使は常に伊都に滞在し、女王に謁見していた。
0846日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:41:45.07
>>840
文献鵜呑みや盲目も困りもん。
0847日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:42:55.90
短里説を採用する阿波説などは当然に脱落。アホすぎる。
0848日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:42:57.15
>>782

東や南の境界は二重三重になっていただろうが、伊都から北、対馬海峡については伊都の大率が検察して回り睨みを効かせていたから、狗邪韓国まで卑弥呼の支配下であったことは間違いない。
邪馬台国を福岡周辺だけに限定しても良いだろうが、倭国の西北界は狗邪韓国であるというのは動かない。
0849日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>836
避難民が多かったからこそ畿内は他地域に先駆け巨大な墳墓を量産出来たのかもしれませんね
土地を持たない流浪民は奴婢に落とされるのが常ですから、奴隷が掃いて捨てるほど居たと。

また異文化の集まる共同コミュニティーと聞くと、マーケット。日本書紀にもある「大市」や東海地方の土器等が出土する纏向遺跡を連想しますね
0850日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>848
すみません。私は邪馬台国畿内論者です
0851日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:44:58.87
>>846

魏志倭人伝に書かれた邪馬台国なる国を論じようというのに、その魏志倭人伝を無視して妄想しても仕方ない。
同時代の文献である魏志倭人伝を無視した推定など、妄想に過ぎない。
0852日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:48:07.95
>>849
木製仮面とか毛人文化
地元以外の外来土器、伊勢東海、吉備とかね。
鉄は丹後、吉備 近江経由と
淡路島、香川、徳島経由、復興や開拓時代では?
纏向終われば次の現場へ。
0853日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:48:17.29
>>842

そう。
卑弥呼が住んでいたとすれば、伊都国か不弥国だろうね。
筑紫伊都の高祖宮か、筑紫香椎宮ということになる。
香椎宮は卑弥呼とほぼ同時代とされる仲哀天皇や神功皇后の宮としても知られているため、その時代にはすでにあった可能性が高い。
0854日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:49:05.50
>>851
無視?鵜呑みにしないだけだからね
0855日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>853
何を言っているんだ
女王は邪馬台国に居ると書かれているではないか
0856日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

邪馬台国は女王の都する所ではなかったか?
0857日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:51:55.94
邪馬台国は北海道にあった。
0858日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:52:23.17
>>839

奴国の十分の一しか人口がない伊都国が奴国から大量の物資を移入して消費していたなら、奴国の庶民の数倍の豊かな暮らしをしていたことになるだろう。
つまり伊都にいたのは貴族や王族の階級だったということが考古学的に説明できる。
0859日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:54:26.87
>>835

さすがに伊都国から目と鼻の先の奴国と不弥国へは足を伸ばしたのだろう。
だからこの二国は里程も記録されている。
だから奴国二万戸は伝聞ではない。
0860日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:56:30.60
>>832

奈良が河内と交流が乏しかったのに、遥か遠くの帯方郡や洛陽など、夢のまた夢。
0862日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:57:54.72
こんなところに書き込んでないで、
ファーストガンダムでも見返したほうが、
面白くねえかい、みんな
0863日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>860
中継地点を無視してはいけない

伊都国。ここで外交文書や贈り物を確認し女王のもとへ伝送するとある
https://i.imgur.com/FN9PnNN.png

帯方郡→畿内へ直伝していたわけではない
0864日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:59:32.94
>>853
戸、家の違いも倭国独自かもしれない。
兵役義務とか税免除とかという説もある一方
宗がほとんど占めるのが家。混合するのが戸。
一大國、不彌国が家。

不盗竊少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者没其「門戸及宗族」
より推測
0865日本@名無史さん2022/12/08(木) 22:59:41.52
>>855

邪馬台国七万戸が複数の国邑を含む連合国または地域名なら、その女王が支配する地域の中に伊都国や奴国、不弥国が含まれているのは当然。
0866日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>865
それはおかしくない?
投馬と奴国で合計7万で残りも含めたらオーバーしますよ
やっぱり邪馬台国ノットイコール女王国なのですよ
0867日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:01:34.77
>>861
魏志倭人伝には
ヒナは都から遠く離れた地方とかの解釈はない。
0868日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:01:59.20
>>863

女王への献上品の確認をする、つまり荷を改めるとは、荷を解くこと。
これはつまり伊都国が最終目的地またはそのすぐ近くだからこそ。
もし畿内に運ぶなら、中間地点である伊都国で荷を改めるわけがない。
0869日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:04:37.10
>>868
なんで?
0870日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:04:56.51
>>866

邪馬台国は投馬国と列挙されているから、邪馬台国七万戸には投馬国五万戸は含まない。
投馬国が宮崎県都万を中心とする南 九州南部、邪馬台国が福岡県伊都を中心とする九州北部。
残りは海の東に倭種
0871日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:06:48.96
>>869

荷を解くのは、最終目的地において。
伊都の大率が荷を解いたなら、そこが終着地または限りなくその近く。
0872日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:07:09.78
伊都国で封泥を破って国書や荷物を開封するわけがない。そんな事をしたら斬首だ。
0873日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:08:37.96
>>871
だからなんで?
0874日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:09:15.84
伊都で中身を確認していたことが魏志倭人伝からわかる。
それが問題とならないのは、伊都が目的地の女王の王都である場合だけ。
陳寿は、間違いなく伊都を王都と想定して魏志倭人伝を書いている。
0875日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:10:10.02
>>873

王都に着く前に荷や国書の封泥を破って中身を確認したら斬首ものだ。
0876日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>868
>数の違いや間違いは許されない
と書いておいた筈です

皇帝の詔書・金印や贈り物には皇帝の封印が押されています
当然これを開封できるのは贈られ倭国王だけで、開封しなくても中身が分るように、個々の荷物には荷札がついているもの
さらには、こうした贈り物には品物の格と序列に従って目録がついてくる
倭国王以外の人間が品物の確認をする場合は、絶対的な信頼性をもつ皇帝の封印・荷札・目録とを照合することになる
当然のこととして、荷札と目録が合っているかどうかを確認するのが一大率の仕事です

まさか役人如きが荷ほどきなどしません
0877日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:10:51.80
>>874
わかった。
卑弥呼が伊都国にいる。
0878日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:12:13.27
畿内説が罷り通るなら北海道説が出てきても不思議じゃ無いな
0879日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:12:46.95
いねーよ
0880日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:16:43.39
玄界灘沿岸で活動した海人族が筑紫の内陸部(田油津媛討伐)と朝鮮半島(三韓征伐、広開土王碑文)で勢力を伸ばし、畿内に進出して崇神朝を倒したのが応神朝
その応神朝から簒奪したのが継体天皇(黒幕は大伴金村)
当然応神朝の母体の九州勢力は認めず継体朝と戦争になったのが磐井の乱
応神朝が半島に持っていた領地を継体朝が百済に割譲したのが任那四県割譲
旧応神朝側が一族の手白香皇女が生んだ広庭皇子を担いで逆クーデターを起こし、継体天皇と二人の皇子(安閑・宣化とされている皇太子と皇子)を殺害して広庭が即位した
これが欽明天皇
百済本紀にAD531年に天皇と皇太子と皇子が倶に崩御と記載しているのがこの事件
欽明即位直後に大伴金村が失脚しているのもこの逆クーデターと同じ流れ(大伴金村もおそらく殺害されただろう)
0881日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:17:13.62
>>877
当然、まさか水行30日かけて行くような邪馬台国には行かないし、使者との交流等を考えると
伊都国になる。
邪馬台国は中心国でもないし重要ではない。
倭国の都や女王国の都の記述でなく
女王の都の記述
水行の行のみとなる。
0882日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:17:50.01
伊都国にいたのは幽閉され頭のハゲた古い世代の名前もない王だ。
0884日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:19:33.34
>>882
別に居てもいい。
0885日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:21:30.44
>>876

国書を伊都で確認したとはどういう意味なのか。
表書きに女王の宛名が開いてあるの確認して伝送するだけなら、それは他の中継地点の全てで行っていたはず。
しかし伊都においてわざわざ確認して女王に届けたとあるなら、女王の代理人が城の入り口ででも受け取り、それを城の中の卑弥呼に届けたということ。
もしかすると卑弥呼は漢文が読めなくて読み上げてもらったかもしれない。
いずれにしろ、そのような工程がすべて伊都で行われていた。
つまり卑弥呼は伊都にいたというのが、陳寿の理解。
0886日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>885
いや受け取るのは女王国から伊都国に派遣された一大率なので、女王国に伝送されるという理解だったでしょう
0887日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:26:15.70
>>885
邪馬台国の水行から推測される。
中心国や重要なら方角も停泊場所も
細く記載すると思うが?
0888日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:26:27.30
>>840
奴国は二万戸、一戸4人とすると8万人 これだけで北九州の40,500人をオーバーしてしまいます
しかし歴史人口学の研究者は様々な要素を基に人口を科学的に推計している
古代から複数の時点での人口の推移も同時に考察している
魏志倭人伝を示してあなたの推定は間違っているとは指摘できません

興味深いのはこの場合、魏志倭人伝の戸数による推計の方が多めの人口になること
私の推計でも四国や南西諸島の分も考慮すれば、若干多めになります

ポイントは200年の人口推計値594,400人にさらに南西諸島と四国の人口を加算した値は九州には収まり切れないということ
0889日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

一大率は伊都国の人間じゃありませんよ
女王国が伊都国に一大率を派遣する
その一大率が贈り物を確認する


となったら女王国に送る以外ないでしょう
0890日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:28:53.67
邪馬台国論争は、陳寿がどのように理解していたかを考えなくてはいけない。
陳寿は、邪馬台国は帯方郡から一万二千里の彼方にあり、そのうち一万里で九州北岸なのである。
そして九州北部には後漢代まで王家があった倭奴国があり、その近くには玄界灘つまり倭国の領域の大半を支配する伊都国があった。
そこには女王の代理とも言える刺史の如き強大な将軍職としての大率がいて、引きこもり女王の代わりに周辺諸国の視察などを行う内政官である大率がいた。
0892日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:31:26.92
>>888
可5万、可7万、見積だよ。
実際にはないかもしれん。
開拓地要素と推測。
有力者がいない四国が投馬国。

其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國・••••
は有力者がいる山陰山陽等だろう
0893日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:33:18.20
>>890
その内一万二千里は不彌国や奴国まで
投馬国、邪馬台国はさらに遠い
0894日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

投馬(ヅマ)國は出雲だと思います
魏志倭人伝では日本海航路を紹介したのでしょう
だから瀬戸内海沿岸諸国は傍系21カ国として特筆しなかった
0895日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:34:25.76
>>889

江戸時代の将軍様は江戸の人ではないという解釈が通じるだろうか?
江戸時代において、諸国を支配していたのは将軍がいた江戸であり、江戸が権力の座であった。
同様に、魏志倭人伝においては諸国を支配していたのは大率つまり将軍がいた伊都であり、伊都が権力の座であった。
0896日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:35:29.13
>>893

後漢書において、邪馬台国は楽浪郡から一万二千里とある。
魏略においても同様である。
0897日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>893
そうもっと遠い

魏志倭人伝「烏奴國の次の奴國は女王の境界尽きる所」

つまり女王国は関門海峡以東。出雲・畿内・吉備連合!
0899日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>895
いや刺史は地方に派遣される役人なんで
0900日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:37:29.12
>>897

女王国は九州内で終わるということ。
本州や四国は卑弥呼の支配域の外となる。
0901日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:37:35.24
>>894
見解異なる部分だな。
出雲 当時は杵国と思う。
0902日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:38:28.07
>>899

魏志倭人伝の他の記述を無視して、その決めつけにしがみついているのは見苦しく、根拠がない。
0903日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:39:42.63
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県北西部の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。

「刺史」・・・地方を検察する中央官僚
「大率」・・・百済などにあった上級の中央官僚
0904日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

てか何回書いたか分からないんだけど

>「世有王皆統属女王国」
これを理解しやすくするため同じSVO型言語である英語に訳すと

At all times, there is a king.
Everyone belong to queendom.となる。

Everyoneってのは歴代の王の事
女王が女王国に統属するなんて成立しないだろ
伊都国に倭王はいないよ
0905日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:41:39.67
>>900
翡翠等で北陸も含むと推測
富士山の記述がないので
伊勢志麻から東海・関東が東千里
行って事がある倭国外の人から聞いたかもしれない

支配?共立なのに?
0906日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:42:57.80
>>904
英語変換が間違い
0907日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:47:42.41
陳寿は伊都またはその周辺を邪馬台国として書いているという前提で読むと、魏志倭人伝は非常に素直に読める。
畿内説の抵抗は、刺史は地方官という決めつけくらいなものである。
仮に伊都が女王のいるところでなかったとしても、邪馬台国が帯方郡と交流していた証拠が提示できない纏向になることはあり得ないのだけども。
0908日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:48:09.72
「世有王皆統属女王国」
理解しやすくするため同じSVO型言語である英語に訳すと
At all times, there is a king.
Everyone belong to queendom.
となる。
代々の倭王は全て伊都国にいて、全ての者は女王国(伊都国)に統属した。
0909日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:48:10.59
卑弥呼は鬼道を行って初めて卑弥呼たるもの
卑弥呼の鬼道と呼ばれたものは三輪山の大物主神の語ることを人々に伝えること
卑弥呼が三輪山を離れた場所で暮らすという想定は考えられない
0910日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:49:08.99
>>905

北陸なんぞ含んだら、楽浪帯方から邪馬台国まで一万二千里でなくなってしまう。
却下
0911日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:51:17.68
>>909
三輪山の勢力つまり纏向遺跡の主たちは、帯方郡と交流がなかった。
交流があったというならその証拠を出せ。
0912日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:53:31.97
>>909

三輪山に鬼道があろうがなかろうが、陳寿の耳には入らない。
魏の使いの報告書には記載されない。
邪馬台国とは関係ない。
0913日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:54:37.61
一大率は帯方郡が任命したもの
卑弥呼が任命したものであれば大和言葉の音を漢字で表した官命となるだろう
卑奴母離は夷守(ひなもり)の音だけを漢字で表したもの
0914日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:55:46.34
>>908
さらに理解不能。
0915日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:57:35.30
>>910
邪馬台国まで万二千里余の記述は魏志倭人伝にはない。後漢書にはあるが范曄の解釈である。
0916日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:58:05.05
>>904

Everyoneが王というのは考えにくい。
Every king? All king?
それならそのように書くだろう。
だが異なった時代の王について、卑弥呼に統属するというのもおかしな話である。
伊都の王とやらが卑弥呼とは別にいたとしても、同時代は一人だから、わざわざEveryoneとするのも不自然。
単にEveryoneと書くなら、唯一無二の存在である女王以外の全ての者の意味に相違ない。
0917日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

North of queendom, especially Queen places 一大率 that maintains order of countries, that frightens them and that usually governs 伊都国


で、一大率が伊都国だって?SVO構造を意識して読解しましょうや
0918日本@名無史さん2022/12/08(木) 23:59:46.27
>>917
なんで英語なんだ?
0920日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>916
クイーンダムは女王ではなく女王国ですよ
歴代王様が居て、彼らはみんな女王国に統属していた。

そう書かれているだけです
0921日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:00:47.34
>>915

後漢書と魏志倭人伝は同じ元資料を使っている。
そこにある里程の内訳だけを陳寿は記載した。
まさか1000年以上も経って、足し算すらろくにできない畿内説などという読み方が出てくるのは想定外だったろう。
0922日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:01:51.71
>>912
鬼道という言葉は魏志倭人伝に書かれているもの
0923日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:02:05.64
>>920
だよね。なんでわざわざ
、何回も英語が出てくる。
0924日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:03:47.10
>>923
続き
余計に理解不能になる。
0925日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:04:39.81
>>917

usually governs at 伊都
だろ。
大率が検察して回る対象は女王国から北の国々とあり、伊都ではない。
0927日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:05:21.30
>>921
畿内説でもないが
ぜんぜん、想定内
だが?
0928日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:06:47.59
>>925
又、英語か?
0929日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:07:11.71
>>920

伊都に代々倭王がいて、卑弥呼の時代は女王国だから王ではなく女王と書いてあるだけで、代々の王には卑弥呼も含まれるのですよ。
伊都が代々の倭王の王都であると陳寿は高らかに宣言しているのに、まさかこんな馬鹿な誤読をされるとは思ってもいなかったはず。
0930日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:08:04.95
>>929
はず?
0931日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:08:08.63
>>926
文章をよく読んで!
>三角縁神獣鏡があらわれる前の3世紀前葉には、神獣鏡類の画文帯神獣鏡と呼ばれる中国鏡が畿内を中心に出土している。
0932日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>925
常治伊都国って書いてあるじゃないですか
「治O」は、後ろに来るOを統治するって用法以外ないですよ
0933日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:08:32.40
>>927

後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
0934日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:09:23.17
>>933
だから范曄の解釈。
0935日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:10:15.37
>>932

じゃあ大率が女王国以北を検察したという文章とどう整合性を取るのですか?
この場合の女王国から北とは、実際の地理でどのあたりのことですか?
0936日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:11:18.49
>>934

彼の解釈は陳寿のそれと一致してますよ。
後漢書は三国志より後に書かれ、三国志と整合性が取れるようになっています。
0937日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:11:32.94
>>935
女王国から北とあったけ?
0938日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:11:59.07
伊都国まで運ぶのが中国側の責任、それ以降は日本側の責任て事だよ
確認は横領を防ぐため
0939日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:12:50.47
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

女王国より北の国々に対しては、一人の大率を特設して検察している。
北の国々は大率を畏れ憚っている。
大率の役所は伊都国に常設してある。
中国本土における刺史のような「検察官の役目」を果たしている。

・里程部分で既に地方官の説明がなされている
・自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある
・大率の業務についての説明は検察官のものだけ
・三国志では「治+場所」はその場所に役所を構えるという意味が多い

女王国=邪馬台国の首都である伊都に、
邪馬台国政庁(国会議事堂:女王卑弥呼や大臣達)
伊都国都庁(都庁:都知事爾支と部下たち)
大率執務室(検察庁:検察官大率→北方諸国巡回でほとんど伊都にはいないが)
などなどの重要官庁が集中していた。

刺史は本来は領地を持たないただの「検察官」であり、
首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
大率の職務も同じ検察官。

中国大陸は広いので、報告するのに刺史本人でなく使者を立てるようになり、
本来の地方官と居座った刺史の二重権力を解消するために、結局は刺史や牧が地方官になった。
邪馬台国とその北の諸国であれば、対馬海峡を行き来するだけだから、
大率は伊都国に執務室を構えて、そこから各国へ行き来して検察していただけ。
0940日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>916
>Everyoneが王というのは考えにくい。
Every king? All king?
それならそのように書くだろう。



ほら、これが日本人の考え方でしょ
漢文は直前に出した主語は省略しますよ。基本です
0941日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

一つの文に何度も王王王王王書きません
0942日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:17:15.89
>>936
狗奴国は?字も違う、方向も違う
魏志倭人伝
今、使訳通ずるところは三十国
その(倭の)北岸、狗邪韓国に到る

後漢書倭伝
今、使訳通ずるところは三十国
その北岸、狗邪韓国に到る 使駅、漢に通ずるは三十許国
その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里
と一致しない点等が多々あるが?
0943日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:17:30.34
>>938

そんなことは魏志倭人伝に書いてありません。
国境は狗邪韓国ですし。
女王の元まで郡使を案内してその安全を確保するのは、ホスト国である倭国の義務です。
郡使に万が一のことがあり卑弥呼の元まで辿り着かなければ、対応した役人の首が飛びます。
郡使が運ぶ女王への献上品も同じ。
郡使は、無事に女王がいる伊都までちきんと荷が運ばれているのを見て感心していたのです。
で?
その郡使は伊都に滞在して、卑弥呼のところまで行ったのですか?
卑弥呼に会えたのですか?
卑弥呼に会うまでの里程はどこに記載されているのですか?
0944日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:19:40.67
>>939
自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある?

対馬国より北にあったけ?
0945日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>943
そもそも女王国まで1万2000余里なんだから帯方郡から10500里の伊都国が女王国なわけないじゃん
0946日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:21:30.52
>>943
何のために確認するんだよ?
皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯  
0947日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:21:55.48
>>944

伊都国が女王国なら、伊都の大率が検察した女王国以北は狗邪韓国、対馬、壱岐あたりでしょう。
では畿内説なら?
0948日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>929
いや女王国まで12000余里なんで
伊都国は女王国に含まれませんよ

やっぱり女王国が伊都国に一大率置いてたんすよ
いい加減認めましょうや
0949日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:22:54.76
>>946

こちらが聞きたい。
何のために途中地点の伊都でわざわざ確認するのか?
畿内説だと不合理です。
0950日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:23:49.59
恐らく伊都の港に入港する前の船上で確認してるね
0951日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>949
後身の太宰府と同じ役割を果たしていたからです
帯方郡使が常に往来し~という記述を見ても分かるとおり、伊都国が倭国の正門だったのです
0952日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:24:37.54
>女王国より以北は、特に一人の大率を置き、検察す。
とは帯方郡と倭国の間あった三韓内の国々のこと
馬韓・弁韓・辰韓に分けられ
馬韓54か国
弁韓12か国
辰韓12か国
これらの三韓自体は国としてまとまっていたわけではい
0953日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:25:58.76
>>947
畿内説でもないが
北東や西については書いていません。
行が飛んで東千里はあるけど?
0954日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:25:59.52
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その(邪馬台国の)西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、(帯方郡から)女王国まで一万二千里。
※対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。
0955日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>947
伊都の大卒では語弊がある
女王国によって伊都国に置かれた一大率。ね
0956日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:26:34.32
>>949
中国側か日本側かどっちが不正するかわからないでしょ
女王の元に運んでから目録と違えばどっちが横領したかわかんねえじゃん
0957日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:27:14.80
>>954
なりません、方300、400里の
魏志倭人伝は無視ですか?
0958日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:27:51.83
>>953

伊都の大率は女王国以北を検察したとあるのですが?
この場合、畿内説だとどこのことか意味不明ですよ?
0959日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

日琉祖語から日本語と琉球語が分岐したのが1700~1450年前と推定されますから、魏志倭人伝の時代はまだ一緒だったか分岐して間もなかったか

であればまだ、北をニシと呼称する人々が九州には残っていて、本州との間で齟齬が生じて方角がグッチャグチャになっていた。可能性がある
後世沖縄のニシバル(“北の領地”の意)を日本役人が勝手に西原と変えてしまったようにね


と我々畿内論者は解しております
実際に隋書倭国伝では方向修正が成されていますし
0960日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:29:44.83
>>958
畿内説でもないが
其餘旁國遠絶 不可得詳
  次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國
では?
0961日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:29:45.31
アホの九州説は水行20日、水行10日・陸行1月を無視するのをやめなさい。稚拙ですよ。
0962日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:29:50.31
>>956

伊都で確認したら、その問題は解決しますか?
畿内まで船で水行するなら、なぜわざわざ内陸の伊都まで荷を揚げるのですか?
0963日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:31:20.06
>>960

そこまで伊都に置かれた大率が検察して回ったと?
それは具体的にはどこのことですか?
大率は山陰地方まで支配していたのですか?
0964日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:32:40.56
>>962
卑弥呼がいるから、或いは不彌国にいるかも。
引き継いだから邪馬台国へ送ってちょうだいかもしれん
0965日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:32:53.90
伊都国上陸前の船上での事は日本側は責任を負えません
逆に上陸後の日本の行程では中国側は責任を負えませんて事でしょ
0966日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>962
玄関口だからです
後世でも唐物は一度太宰府のあった博多湾に集合して、朝廷はそこに先買役人の唐物使を派遣し都に送りましたよね
0967日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:33:17.31
>>963
支配?
0968日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:34:11.59
>>963
検察して回ったの?
0969日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>960
傍系21カ国は本州四国瀬戸内海沿岸だと思うよ
つまり女王国の中であって一大率関係ない
0970日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:35:52.37
一大率が捜露する文書や賜遣の物は、女王が京都(洛陽)、帯方郡、諸韓国に送るもの以外は帯方郡の使者が女王に送るもの
監査を受けるのは中国の役人ということになる、一大率が中国の役人だからこそ取り締まりができる
0971日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:36:24.03
伊都国は属国なので、女王国が使用している伊都国の津だけが女王国の玄関口
0972日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:37:26.50
>>969
北以外だから含むよ。
津に派遣、大倭も各地へ貿易監視
0973日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

やはり一大率は本州女王国の命令で北九州全体を検察していたのです
0974日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:38:53.19
>>971
意味不明、各津(港)に派遣だよ。
中央官庁みたい所
0975日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

後世にも
筑紫太宰
周防総領
吉備総領

が置かれますよね
結局後者2つは消えて筑紫太宰だけが生き残るわけですが、結構な広範囲を管轄していた事が伺えます
0976日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:40:33.21
伊都国は内陸ではない
これは絶対違う
0977日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

・一大率を置いた国は女王国
・一大率を置かれた国は伊都国
・一大率を畏れているのは官に「ヒナモリ」がいる伊都国以外の九州諸国
と解します
0978日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

中央から派遣される『宰(ミコトモチ)』は一大率と同じく恐れられていましたよね

そしてミコトモチを統べるヤマトのこの上なくやんごとなきお方は『スメラミコト』と呼ばれる様になった。と
0979日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:45:45.73
帯方郡の使者が倭国に来た時に伊都国の津で(倭国側が)積荷の確認をするというのは、
伊都国の津までは帯方郡の使者が文書、賜物を持って来て
そこから先の女王国内は倭国の役人が伝送する
0980日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:47:30.28
>>976
海岸でもない。
0981日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>962
僕が纏めた画像をしっかり読んでください
右下の枠に注目!

一大率は津(港)まで出向いて調査してるんですよ
内陸じゃない!
https://i.imgur.com/FN9PnNN.png
0982日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:54:14.15
因みに俺は伊都国が女王の属国だと思ってない
伊都国の王こそが一大率
それじゃ不正が起こるだろうと思うかもしれんが
中国の使者や卑弥呼の後ろについてるのは魏の皇帝だからな
0983日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>982
伊都国王が一大率に任命されたと
確かに面白いですね
0984日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:58:06.88
伊都の大率が検察したのは、伊都ではなく伊都の周辺諸国です。
伊都に権力が集中していたのです。
0985日本@名無史さん2022/12/09(金) 00:59:03.82
伊都国王が軍隊を率いてたんでしょう
0986日本@名無史さん2022/12/09(金) 01:00:30.03
>>965

魏志倭人伝からは、対馬海峡の制海権は伊都の大率が掌握していました。
対馬海峡の渡海は倭人の船で行いました。魏志倭人伝には、その時の願掛け役の記事も載っています。
つまり伊都までの航路も倭国側の責任です。
0987日本@名無史さん2022/12/09(金) 01:01:37.07
一大率とは刺史のようなものだから
0988日本@名無史さん2022/12/09(金) 01:02:25.74
>>968

そうですよ。
大率は伊都から出かけて周辺を検察していて、それらの国々から畏怖されていたと魏志倭人伝に書かれています。
伊都から出かけて諸国を支配する様子が、刺史のようだと評されたのでしょう。
0989日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>988
まあ女王国が置いたんですけどね
0990日本@名無史さん2022/12/09(金) 01:06:54.54
伊都国は一大国の3分の1しかない属国だから
伊都国王は郡使の世話が仕事だな
0991日本@名無史さん2022/12/09(金) 01:06:57.53
>>977

いいですね。
その場合、九州で最高の権力の座は伊都です。
そして本州は倭の別種と書かれていて、倭国の外です。
0992日本@名無史さん2022/12/09(金) 01:07:59.01
>>985
奴国だよ。人口比で見るとね
又、ヒナモリも卑弥呼、奴国。卑奴母離。
0993日本@名無史さん2022/12/09(金) 01:08:49.42
>>991
本州は倭の別種と書かれていないが?
0994日本@名無史さん2022/12/09(金) 01:09:43.27
>>989

その女王が伊都の近くにいてもいいのですよ。
何せ卑弥呼は引きこもりで実務には興味がなさそうなので。
いやむしろ、卑弥呼が遠くにいたら、伊都国王や大率は卑弥呼に従う理由などないですよね。
0996日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>992
ヒナモリは日本書紀にも登場する役職です
そんな適当な造語ではありません
0997日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

>>994
女王の都する所は邪馬台国だと書いてありますね
0998日本@名無史さん2022/12/09(金) 01:11:14.98
伊都国は倭国最大の工業地帯だった。
だが工業地帯は単体で成立できない。
労働者の住居や、食糧生産の地域が付随する必要がある。
すなわち、単体の環濠集落で完結する国邑ではなく、複数の国邑が機能を分化させて担っていたのである。
これが連合国家または領域国家としての邪馬台国である。
そしてその中で最大の権威として周辺諸国から畏れられていたのが伊都国であった。
魏志倭人伝は、その支配機構を大率と記録している。
率は帥と同音同意であり、後世の大宰の帥と同じく、国王の代理人である。
郡使は常に伊都に滞在し、女王に謁見していた。女王が畿内にいたら不可能な話である。
1000日本@名無史さんNGNG?2BP(1000)

1000なら邪馬台国は畿内
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