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侠客の歴史
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0001名無しさん@お腹いっぱい。垢版2010/11/02(火) 13:55:40ID:rA6bcckk0
清水次郎長
0952名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/05/13(月) 01:34:48.70ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke
ちなみに賭場ではないが、以前取材した甲州博徒の国分三蔵屋敷跡。
今は石垣しかないけど、この石垣が立派だった。
大親分の吃安や黒駒勝蔵を相手にした親分で、
幕末甲州ヤクザ抗争の中心人物だけに
財力や地位を感じさせるのに十分な感じさせる作りだった。
0953名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/05/13(月) 01:47:19.36ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke
ちなみに割と調べると、ここに賭場があったという記録は結構あるけど、
今もあるお寺や神社の境内なので名前を出しにくい。
賭場の場所代を「寺銭」というくらいだからねぇ。
明治になっても「○○寺の祭礼に賭場が立って、
混雑するから警官が整理に派遣された」なんて記述を見ると、なんとも・・・。
0954名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/05/13(月) 02:09:28.99ID:80VrI6010
白土晴一 @manetoke
天保水滸伝で有名な笹川繁蔵親分が地元の笹川の諏訪神社で奉納相撲を催し、
花会(博徒仲間に回状で呼んで行う臨時の賭場)を開いて
関東一円から親分が集まったという話もあるが、
こうなるともう観光資源なので問題もないんだろうけど。
0955名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/05/13(月) 13:54:48.87ID:mlShJi+70
<奥羽の義>番外編・列藩同盟群像(1)多くの伝説 型破りな生涯

> ◎仙台藩「からす組」隊長 細谷十太夫

> ゲリラ部隊「からす組」を率いて30余戦無敗。
> 新政府軍に恐れられた仙台藩士細谷十太夫の生涯は、多くの伝説に彩られている。

> 戊辰戦争勃発後、探索方(諜報活動)に従事し、侠客や博徒と人脈を築いたことが転機となる。
> 白河で大敗した仙台藩のふがいなさを嘆いた細谷は、彼らを集めて「衝撃隊」を結成。
> 夜襲を仕掛けて新政府軍に勝利を重ねた。
> 隊員が黒装束だったため、からす組の異名が付いた。

https://www.kahoku.co.jp/special/spe1195/20190407_02.html
0956名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/05/13(月) 19:32:40.34ID:HlfUu1Fj0
甲州侠客傳 竹居の吃安 純米吟醸 【山梨県】
https://www.47news.jp/2848916.html

日本酒研究会月例会 全6回の2

瓶の裏のラベルは吃安について、以下のように紹介している。

竹居の吃安(1811〈文化8〉〜1862〈文久2〉)
本名を中村安五郎という。
八代郡竹居村(八代町)の名主中村甚兵衛の四男に生まれた。
しゃべる時どもるので『吃安』と呼ばれた。
子供の頃、家を勘当されて吉田の人斬り長兵衛に預けられたのがきっかけで博徒の世界に入った。
賭博によって捕らえられ、伊豆の新島に流されたものの七年後、島を破って甲州に戻り、黒駒の勝蔵一家を引き立てた。
男伊達を看板に義理と人情の世界に生き、村人からも慕われた甲州の侠客の大親分の一人である。
0957名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/05/20(月) 01:14:21.20ID:UqlBpPuI0
親分、てぇーへんだ! 悪党はあっしらだとバレやした 『江戸の目明し』 | J-CAST BOOKウォッチ
https://www.j-cast.com/bookwatch/2018/10/20008106.html

> 目明かしの実態は改心したとみえる元犯罪者であり
> 「一般の町人が目明しになるのはおかしい」と著者は指摘する。
> その前歴から江戸の裏社会に通じており、役人にとって情報収集にはうってつけ。
> 「蛇の道は蛇」。犯罪の手口に詳しければ捜査にだって役に立つ。

> 著者は、将棋史や盤上遊戯史、賭博などについての研究者。
> 遊戯史学会会長を務めている。賭博についての著作を準備中に、
> 江戸の博徒を調べている間に目明しに行きあたり、さらに資料に当たるなどして本書を著した。
0961名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/11/19(火) 22:43:51.22ID:NXWSvzsH0
新潟市歴史博物館(みなとぴあ)@minatopia

みなとぴあファンクラブに入りませんか?
観覧料割引や史跡ツアーなどの特典があります。12月には会員向け館長講演会を開催!
テーマ:「博徒と抗争」
講 師:伊東祐之(当館館長)
日 時:12月8日(日)午後1時30分〜3時
※12月4日(水)申込み〆切
講演会申込みで新規入会できます!

https://twitter.com/minatopia/status/1194865559449374720
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0962名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/11/23(土) 19:01:02.47ID:cW2ruZ7f0
「姐御」の文化史 伊藤春奈著
https://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2019112200087.html
>上州(群馬県)は江戸期から養蚕が盛んな地域だったが、
>農家の副業である養蚕はその担い手である女に一定の現金収入と発言権をもたらしたという。
>なかには養蚕の技術と経営権を手にして一家の主導権を握る女性までいたそうだ。
>幕末の博徒・国定忠治を逃走中にかくまった菊池徳もそんな女性で、
>映画で拳銃をぶっ放したりする姐御・お品のモデルも徳だった。
0963名無しさん@お腹いっぱい。垢版2020/01/12(日) 14:41:25.13ID:eOJMPoGM0
新潟市歴史博物館(みなとぴあ)

講座「幕末蒲原地域の無宿・博徒と民衆世界」(全4回シリーズ)

日時:3月1・8・15・22日(いずれも日曜)13:30〜15:00
講師:伊東祐之(同館館長)
申込:2月21日(金)必着

第1回 3/1  無宿と幕藩制社会
第2回 3/8  博奕と民衆
第3回 3/15 無宿・博徒と町村
第4回 3/22 村のあぶれ者と騒動

http://www.nchm.jp/
0965名無しさん@お腹いっぱい。垢版2020/04/18(土) 10:07:58.87ID:o2kQSg/C0
新選組で暗躍した隊士・山崎烝の人的・情報ネットワーク?
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191219-00010989-besttimes-life

近江国八日市宿の四郎左衛門は、侠客であったという。
この人物は慶応3年(1867)3月、田村佐弥太の仲介で会津藩に頼みごとをした。
田村は現在の近江八幡市出身で、新選組に入隊後、江田小太郎と名乗ったといわれる。

なぜ山崎は、このような手荒なことまでして、侠客の願いを叶えたのであろうか。
ひとつには、この時期には京都町奉行といった従来からの行政機関が、
機能しなくなってきていたということがあるかもしれない。

しかし、それよりも侠客が持っていた「ネットワーク」が注目される。
京都に非合法的に潜入してくる長州系の志士たちを把握するためには、
社会の「裏」のネットワークを握っているアウトローを把握するのが、最も合理的な方法だからだ。
0967名無しさん@お腹いっぱい。垢版2020/04/23(木) 03:23:33.94ID:YeT2zSAM0
清水二十八人衆

清水次郎長
大政
小政
森の石松
増川の仙右衛門
大瀬の半五郎
法印の大五郎
小松村の七五郎
桶屋の鬼吉
大野の鶴吉
相撲の常吉
関東の綱五郎
寺津の勘三郎
追分の三五郎
国定の金五郎
舞坂の冨五郎
田中の敬次郎
三保の松五郎
四日市の敬太郎
問屋場の大熊
清水の岡吉
鳥羽の熊
辻の勝五郎
伊達の五郎
由比の松五郎
吉良の勘蔵
興津の清之助
吉良の仁吉
0970名無しさん@お腹いっぱい。垢版2020/05/03(日) 16:06:13.94ID:elJ/HjCa0
朝日新聞デジタル みちのものがたり
国定忠治の道 群馬県、長野県 侠客がヒーローだった時代

テキスト https://www.asahi.com/articles/DA3S14460709.html
画像 https://www.asahi.com/articles/photo/AS20200430001366.html

> 侠客(きょうかく)や博徒がヒーローではなくなったのはいつからだろう。
> 海道一の大親分といわれた清水の次郎長や、
> 勝海舟と交流があった新門辰五郎らが活躍する映画や時代劇も近年見かけなくなった。
> 彼らと並ぶ著名な侠客の一人が国定忠治(1810〜51)だ。
> 劇や歌謡曲「赤城の子守唄」などで知られる生涯はどんなも…
0972名無しさん@お腹いっぱい。垢版2020/12/10(木) 06:42:24.66ID:73/vDQdi0
初めに「仁侠」という言葉の定義から。
辞書的な意味は「弱きを助け、強きをくじく気性に富むこと。」
そうした生き方を建て前とする人を「侠客」と呼ぶ。
仁侠映画の第一人者、マキノ雅弘監督は、
侠客を「やくざな稼業をしていても、やくざな生活はしない人」と定義している。
たとえば、賭博を生業にした渡世人でも、普段は貧乏長屋で暮らし、
近所の人から頼まれた仕事は何でもやってやり、
周りから粋な男と思われるために、角帯をピシッと結んだり
刺青を入れたりしている――
そうしたストイックな生き方をしているのが、本物の侠客。
ところが今の暴力団は、運送業とか土建業とか稼業の方がまともで
生活がやくざだから困ったものだ、とマキノは嘆く。

※運送業、土建業のほとんどが暴力団とは関係ありません。
0973名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/04/27(火) 14:15:25.94ID:Uvu+CjRo0
誰か身延半五郎について詳しい人いますか?
いたら、教えてほしいです。
0974名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/04/29(木) 23:17:00.61ID:5YOP9JvG0
子孫や身内に関係なしにインターネットに墓写真をあげ、
文献資料も、出典を上げず、他人のそれを無断で使用するようなことが
まかり通る様になった。
このスレッドでの私の書き込みも
そんな手合いに利用されるに至ったようなので、猛省の意味もあって、
これでおしまいにする。
0975名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/06/29(火) 01:53:10.25ID:/jVsxlS50
清水次郎長の生誕200年記念 ゆかりの地を歩く
https://www.asahi.com/articles/ASNDL72X5NDDUTPB003.html

> 幕末の侠客として知られ、清水港の発展や
> 富士山麓の開墾などに力を尽くした清水次郎長(1820〜93)。
> 生誕200年を迎えた今年、改めて
> その人となりに触れてもらうための町歩きイベントがあった。
> 参加者らは、次郎長ゆかりの地を歩き、逸話が残る「名物」も堪能した。
0976名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/06/29(火) 01:55:58.07ID:/jVsxlS50
清水次郎長 生誕200年 虎造節は今…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/72712

> 今年は侠客、清水次郎長の生誕200年。
> 一家を率いたヒーローが大衆の心をつかんだのは浪曲、
> とりわけ二代目広沢虎造(1899〜1964年)の「次郎長伝」の力が大きい。
> 老いも若きもまねした「旅ゆけば駿河の道に茶の香り〜」のだみ声の名調子。
> しかし、浪曲ファンは減り、義理人情に厚い次郎長を知らない世代も増えている。
> 希代の名人が魂を吹き込んだ「海道一の親分」に未来は―
0977名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/06/29(火) 02:01:26.20ID:/jVsxlS50
紙芝居や講談 愛着育む
https://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/feature/CO044595/20210621-OYTAT50082/

> 竜王町立竜王西小で絵本の読み聞かせを行うボランティア団体「ぽえむ」。
> 2010年に紙芝居「近江牛を愛し育てる人たち」を作った。

> 講談では、牛を連れた久次が箱根で山賊に襲われた際、
> 「海道一の大親分」と称された清水次郎長に助けられた故事なども盛り込んだ。
0978名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/06/29(火) 02:08:30.42ID:/jVsxlS50
青年はいかにして侠客となったか…池波正太郎の小説をコミカライズ「侠客」1巻
https://news.mynavi.jp/article/20210628-1911670/

> 池波正太郎原作による落合裕介「侠客」の1巻が、本日6月28日に発売された。

> 主人公・塚本伊太郎は、主人の使いの途中に父・伊織が斬り殺される場面に遭遇する。
0979名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/06/29(火) 05:47:34.23ID:1+LxvbcH0
ある日突然、浪曲に惚れたB
https://www.jiji.com/jc/v4?id=21yk3rokyoku0001

> 浪曲を聴いていると、この人かっこいいと憧れたり、
> いやぁ面白い人だわと記憶に強く残ったりする登場人物がいます。
> 私にとっての一人は、清水次郎長伝の中の一話、
> 『お民の度胸』に登場する小松村七五郎の女房、お民です。

> 私自身が日本酒ファンということもあり、
> 飲みっぷりの良さにひかれるのは『天保水滸伝』の剣豪、
> 平手酒造です。
0981名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/06/29(火) 06:05:04.79ID:1+LxvbcH0
鶏食文化は福岡にルーツ 竹川克幸氏
https://www.sankei.com/article/20170901-G3ZYI4UAZFLH5DJYK7DUG6CJYU/

> 四国に亡命した高杉晋作を庇護したことでも知られる
> 讃岐国(香川)の勤王の志士、日柳燕石が弘化元(1844)年の
> 九州遊覧の際に記した紀行文「旅の恥のかきすて」

マスゴミは燕石を「漢詩人」とか「志士」としか言わねーな
「侠客」はダークサイドで都合の悪い事実だから無視ですかそーですかw
0982名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/07/06(火) 07:05:01.45ID:3n356Xz90
『灸まん』の由来

手前どもは昔 代々 麻田屋久八という旅宿でございました。
その頃のこんぴら(琴平)の宿屋は石段上の並びにあったもので、他人さまには麻田屋ですが、
私どもは石段屋のおじいさんとこと斯様に申し慣れていたのでございます。
天領地のこんぴらには他国から学者、画家、やくざと
それは、それは、いろいろな人種が出入りしたものでございます。

天保何年のことでしたか、江戸から小金井小次郎という親分が、私どもへ泊りまして、
これが、また苦味走った鄙には稀れな好い男ッ振りでございまして、
『おい、女中さんよ。ここには、こんぴら灸てえのがあるそうぢゃねえか。』
あ、申し遅れましたが旅の疲れを癒す脚灸で、私ども婆ァがお客さまへのサービスで
一点灸をすえて差上げていたのが、ひどく、よく効くので、方々評判になっていたのでござります。
0983名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/07/06(火) 07:05:18.69ID:3n356Xz90
何しろ、相手がいい男なもので、
女中共が奪い合いで果ては、ぢゃんけんで決めたということでございますから、
男前には生まれたいものでござります。女中が特別柔いのをすえたのでしょうか、
『こいつは甘めえお灸だわぁー。』
と親分が申したそうで、小金井小次郎が甘いお灸だといったのが始まりで、
よく効く甘いお灸の麻田屋の金比羅灸というので名物になり、
家運益々繁盛致したということでございます。

私で丁度七代目、時勢でございますな。
もうお灸ではあるまいと、折角祖先の創めた甘い灸というのをとりまして、『灸まん』。
これで旅の疲れを癒して貰おうと存じ創めたのが、石段屋の灸まん、卵解きの饅頭でござります。
どうぞ、よろしゅうお引立てのほど御願いいたします。
0984名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/07/08(木) 17:27:35.90ID:3hIDhKG20
幕末のアウトロー:激動の時代に散った裏社会のあだ花
(高橋敏 国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学名誉教授)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01117/

> 江戸時代末期、博徒は親分と子分からなる「一家」を各地に形成し、
> ばくちの胴元として地域社会に深く根を張っていた。
> 黒船来航で生じた混乱に乗じ、彼らは公的な場に躍り出て一躍民衆のヒーローとなった。
> その後、幕末のアウトローがたどった運命やいかに──。

> 武装した反社会的集団が誕生
> アウトローが取り仕切る裏社会が成立
> 仁政を行った武闘派博徒・国定忠治
> 天保水滸伝の英雄・勢力富五郎
> 黒船来航に乗じて島抜けした甲州博徒・竹居安五郎
> 明暗が分かれた黒駒勝蔵と清水次郎長
> 秩父困民党を率いた博徒・田代栄助
0985名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/10(火) 23:53:28.32ID:2hH/1XCK0
もう書かぬ、と言ったが、
事情が違う。
一つだけ書き込ませてください。

甲州の大親分・三井宇七郎さんの墓石が何の前触れもなく撤去されたことを
本日ただいま知った。
ほぼ破砕済みと考えられる。現在できうる限り最大限、追跡してはいるけれど。

一つにはSNS等でもっと広く知らせられなかった自分の責任だ。悔やんでも悔やみきれない。
だが、事情・状況を十分に知りながら断行した寺側、
現状の問題から、その貴重性を訴えたのに、一切耳をかさなかった市教委の面々など
心から私は絶対に許さない。
0986名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/12(木) 01:49:47.44ID:5LUzSIjr0
> 山梨郷土研究会会員で『甲斐』第150号掲載「博徒三井宇吉とその周辺について」を執筆した
> 博徒研究の雄・原祥氏が先年ある寺院の無縁墓石群中に三井宇吉の墓石を発見。
> しかし昨日墓参へ訪れると全ての無縁墓石がなくなっていたとのこと。
> 原氏が各方面へ発見報告と保存依頼を行っていた矢先の出来事…。

https://twitter.com/jack1972frost/status/1425306634478243842
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0987名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/12(木) 01:58:09.96ID:LGfzzHwV0
三井卯吉事、三井宇七郎の墓に関してもう一つ言うと
この墓石は「宇七郎妻」によって建立されており、このことだけでも
注目に値する。

安政四年正月四日、山田町二丁目で宇七郎が殺害された際には、
傍らに妾の「しも」の遺体があり、彼女もまた惨殺されていた。
このことから、当時の検視では「夫婦殺害」とされてきたが、
少なくとも、宇七郎には「しも」とは別に「妻」を任じる女性がおり、
彼女が「夫」の墓石を建立したのだ。
そして墓石には宇七郎と共に「彼女自身」の戒名も合わせて記載されていることから、
その結びつきを永久に残そうとした、
その様に解釈できるのだ。
0988名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/13(金) 00:05:36.95ID:RuCMlwMM0
撤去された墓石群は、甲府の中心街にあった寺院のもので、
およそ70基。
その中に、三井宇七郎の他に私が確認できたのは、宇七郎弟(孫とも)とされる三井健次郎、
宇七郎の父とされる三井庄蔵の三名の甲府牢番の墓。
他に甲府勤番士、香具師の帳元。商人などなど。

これらが全部消えてしまったのだ。
再三市の調査要請をしたが、遂にされなかったのだ。

特に、甲州では非差別身分の皮作りの人々や、猿引、ささらすりといった芸能民、などが
甲府牢番支配に入り、その勢力圏は厳格で、浅草の団左衛門も介入できない。
三井氏とはそういう家系であり、それだからこそ
三井宇七郎(三井卯吉)は甲州一の顔役になれたのだ。この点を考察する上で一番大事な
証拠史料がなくなってしまった。
0989名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/13(金) 21:44:55.33ID:RuCMlwMM0
ブログとかtwitterとかの上手い人は、本当に物事が紛糾したり、正念場を迎えてるときは
上手に静観している。
決して助け船なんか出してくれない。
そして一連の厄介ごとが終わったあたりで、無難な記事を出して(たいてい「本」や「墓石」を写真にあげて)
一席ぶつ。それに追従者がでてもてはやされる。
そういうバランス感覚が良い人間がうまくやってるようだ。
最近は侠客を取り上げる人間もそんな輩が多い。

一方、泥臭く、けったいで、目立たず地道な活動をする人々、加えるに、損を平気で引き受ける人々
はもてはやされない。だいたい昔から何か(任侠研究も含め)一途にやってる人なのだが。

でも困ったり、困難を覚えているときに、こういう人たちに限って、ささやかにアシストしてくれたり
助言をくれる。
そういうのこそ、万金にも代えがたい、心からありがたく心強いものなのだ。
0990名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/15(日) 22:56:30.87ID:uYJvh3UJ0
そりゃ一般人だし、年収も多くないから
公機関や、企業相手に突っぱねたり主張するのは勇気がいるさ。
でも、やらないと後悔が残るからね。
それに、できるとこまでやったなら、結果的に申し訳なくてもせめて言い訳になるから、
墓石の返還は続けるよ。

そして、ここに書き込めば、自分で火のついてる時の気持ちを忘れないからね。
それが大事。
それが有用だ。
0992名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/16(月) 04:20:27.42ID:iDm/5SRD0
日野の「河野日記」、明治12年には玉川要蔵(の身内)と砂川の平蔵が喧嘩をした
という個所が、本当に一行だけ書かれている。

正確に言えば、要蔵の子分筋にあたる立川(柴崎村)の者が平蔵の賭場で辱めを受けたため、
帰ってから仕返しをしようとしたところに、いち早く平蔵側が奇襲をかけたというのが
そのあらましである。喧嘩は平蔵側の一方的な勝ちとなったが、要蔵は全く参加していない。
上のどこかに書いたかもしれないが、武器類をみんな畑に埋けて管理の目をくらませたのは
この時の話の様だ。

興味深いのは、この喧嘩に平蔵の助っ人として、田無の徳蔵とその身内が加わっていることだ。
平蔵、徳蔵は共に小金井小次郎の子分で、小次郎の墓石でも上位のところに書かれているから
多摩地域の相当な顔役だったと考えられる。あるいは両者は兄弟分だったか。
一方で要蔵は小次郎の子分だった、という話がたまに聞かれるが、どうも違うらしく思える。
むしろ柴崎から日野、八王子に入るところまで独立して勢力を持ち続けた親分のようである。
0993名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/16(月) 04:34:13.37ID:iDm/5SRD0
武州多摩地域周辺は、幕末から完全に小金井小次郎一家の縄張り一色かというと、そうは言えないらしく、
砂川、田無の間にある小川(大沼田、鈴木新田等も)は当然小川の幸蔵の持ち分だし、
新座郡に入って片山から先もどうも本来は違うらしい。
八王子へ入ると、一ノ宮の蕎麦亀、日光屋の吉五郎(兵吉の子)、小仏の健次郎、橋本一家の常吉
がそれぞれ独立して持っていた。このうち日光屋は兵吉(”ひょうきち”と読むらしい、正確にはちょっと字も違う)
が小次郎の兄弟分だったといい、また中心地の天王森には、天王森の民(または寺町の民)
という小次郎の子分がいたらしい。
さらに「絹の道」である浜街道沿いには町田へ向かって、藪柑子幸次郎、橋本宿の歴代親分たち(複数いる)、
大戸の万次郎(下川尻"かわしり”の万次郎)、木曽の嘉十郎、淵野辺の喜六、原町田の弥兵衛なんかがいて
それぞれ独立の一家を成している。
0994名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/20(金) 18:09:53.63ID:wdGlldhA0
墓石の回収は、残念ながら成りませんでした。
40ミリまですでに細かく砕かれてしまったとのことでした。

前に自分はここに、「故人は自分が出ることを望んだ時に、史料や遺跡として姿を現してくれる」
みたいなことを書き込みましたが、同じように、
「用事が済んだので、帰って行かれた」と考えるのは、
自分に都合の良すぎる勝手な解釈でしょうけど、
今はそこに気持ちを落とすしか方法が無い。
わずか3年の間だったけど、確かに墓石が確認できていた間に
左右・正面の文字は全て記録できたので(お写真も一枚だけ)、それだけでも
(こっち側としては)よかったと、勝手に思っておくことにします。
0995名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/20(金) 18:32:47.76ID:wdGlldhA0
とにかく最大限、対象に好意的な視点で、
史料に基づいた調べを、これからも続けてゆく。今回のことをした奴らには
三井宇七郎がいかに大物で、その時代の歴史を語るのに必要不可欠な人であったかを証明してゆくことで、
後々、必ずやったことを後悔させる。
0996名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/20(金) 19:01:07.19ID:wdGlldhA0
黒駒勝蔵と信濃で抗争した行栗(七久里)の初五郎事黒田初五郎さんの墓石は、
前に訪れた際、天竜二俣のお寺にしかと残っていた。
やはり今回と同じように、無縁を含むお寺のお墓を整理した際に、
わざわざそれだけ、住職が山門の前に残してくれていたのだ。ほとんど名の知られていないこの人を
それでもしっかり地元で残してくれていたと言うのは、今思うとほんとうに素晴らしい判断だったのだ。
0997名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/20(金) 23:00:21.63ID:wdGlldhA0
結局のところ、墓石の保護を早く行えなかった自分の責任が大きいのだろう。
無縁の墓同士が隙間なく並んでいて、なきに等しいわずかな墓石正面の空きスペースに、
行くときは線香を立てていたのだけど、寺側にも存在を伝え、喜んでもらえて、市教委は鈍いけどいずれ理解して
そのうち広いところに移すはずだから…と高をくくっていた。信じて油断しすぎてた。世間の道理も危機の意識も働かない世間知らずとはこのことだ。
その結果、お花を供えたことが一回もないままに終わってしまったのだ。このことは悔やんでも悔やみきれない。
0998名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/09/07(火) 20:59:52.98ID:mgMZnzI40
侠客の墓石の情報は、開示すると、アホがやってきて、写真にして
twitterに上げたり、下手なブログで陳列したりする(線香立てて手を合わせるだけでいいだろうに)

と言って全くの秘密にすると、今度は世間に周知されないで、結果的に市町村文化財課が動かず、
墓石自体が無くなることにもつながる。

兼ね合いが非常に難しいが、最悪は「無くなってしまう」ことなので
やはりなるべく機会あるごとに、情報を出していった方がいいのだろう。
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