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【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3
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0001名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/04(月) 16:07:25.28ID:414fLF8V0
幕末歴史ロマンー水戸天狗党の悲劇
−明治維新を待てなかった人々−
http://member.nifty.ne.jp/sasanuma/historio/tengu-to.html

明治維新も目前となった1865年,北陸の港町敦賀で,はるばる水戸からやってきた
武士や農民ら350人余りの大量処刑が行われた。「天狗党」とよばれた彼らは,
なぜ敦賀に来たのか。そして,なぜ処刑されなければならなかったのか

【幕末の】水戸天狗党【悲劇】2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1163300094/
0002 【東電 83.6 %】 2011/04/07(木) 10:58:30.22ID:gHWnxzFz0
保守
0003名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/10(日) 08:17:53.19ID:zoR+raCx0
なんで市川三左衛門は鬼のように、天狗党の家族まで弾圧したの?徳川慶篤の
意向?よかろう公だから意見なんてなかったんだろうけれども。。
0004 株価【E】 u2011/04/20(水) 23:52:27.64ID:MQeH/6/80
20 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/12/19(火) 02:39:56 ID:+c98a+d30
斉昭は藩主襲封の際上級藩士に妨害され、下級藩士の支持によって藩主の座に就けた為か、
上級藩士達に疑いの眼を向け、要職には自分を支持した下級藩士を中心に抜擢し上級藩士達を罷免した為、
上級藩士達に目の仇にされていた。結城は上級藩士の出だったが、才覚に優れていた為例外的に執政の座にあったが
斉昭失脚に関与したとして斉昭は復権すると結城を罷免し挙げ句に陰謀を巡らしたと疑い処刑している。
0005名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/30(土) 23:12:08.39ID:l0afNSRu0
敦賀で処刑された者 元治二年(1865)2月4日〜23日

相田健之助
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青山新太郎
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内山小六
0006名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/30(土) 23:12:25.26ID:l0afNSRu0
宇津木七之介(26)
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加藤木雄之介(24)
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加藤荘吉(24)
加藤政介
加藤柳之助(22)
金井國之丞(18)
0007名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/30(土) 23:12:36.24ID:l0afNSRu0
金沢啓蔵
金平与左右門(39)
金輪清之介
兜宗介(48)
亀山大介(34)
亀山祐衛門(26)
鴨志田伴七
唐津俊蔵(40)
川上清太郎(31)
川崎鉄之介
川島五郎
川島盛之介(19)
川澄鬼平(28)
川瀬専蔵(34)
河津丑之介(25)
河野藤四郎
川俣清左衛門
神田宗介
木内鎌次郎
木内貞五郎
菊池忠兵衛
北川元三郎(25)
木津雄太郎
木邑園三郎
木村宗八
木村雄六
桐山伊介
楠帯次郎(23)
楠要介
久保田久蔵(51)
栗田源左衛門(38)
栗俣新次郎(18)
栗飯原久七(20)
栗飯原留吉(25)
栗又鉄之介(20)
黒澤八郎
黒沢利八郎(34)
桑屋元三郎(20)
玄洞
小泉虎次郎(23)
小泉又介
小泉芳之介(18)
香内彦三郎
國分新太郎(21)
小島重次郎
小島彦次郎
小貫藤介(24)
0008名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/30(土) 23:12:48.10ID:l0afNSRu0
小沼栄介
小橋新作
小林貞七
小林勇次郎
小松崎荘之介
小松主殿
小森好右衛門(30)
近藤伴蔵

斎藤安之進
斎藤太介(21)
酒井八三郎
坂東蔵(24)
阪本勝次
坂本啓介
阪本源介
坂良介
佐川捨五郎
櫻井辰之介
桜井茂介
佐々木久介
佐々木重蔵
佐々木鉄之介(23)
笹目福次郎
笹目平三郎(25)
佐野信一郎
佐山覚之進
澤田信之介(27)
茂木浅吉(17)
篠原造酒蔵(21)
島田文右衛門(30)
清水八次郎(17)
下野廉三郎(17)
白須伊平太(41)
菅谷安兵衛
杉山弥一郎(18)
鈴木信蔵
鈴木荘三郎
鈴木秀太郎(27)
須藤敬之進(24)
関口伊介
関口熊五郎(33)
関口直次郎(54)
関登一郎(41)
関友七
関雄之介(21)
芹沢助次郎(20)
0009名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/30(土) 23:12:59.61ID:l0afNSRu0
荘司与十郎(25)

高木徳右衛門
高瀬秀之助(21)
高野長五郎(34)
高橋市兵衛(16)
高橋一楽(20)
高橋鎌太郎
高橋元次郎
高橋新兵衛(27)
高橋荘五郎
高橋辰三郎(25)
高橋秀之介
高松与四郎
高谷篤三郎(21)
瀧口六三郎(22)
瀧平主殿(27)
瀧広次
竹内百太郎(35)
武田魁介(37)
武田耕雲斎(62)
武田孝蔵
武田春吉
武田彦右衛門(40)
武川惣吉
立花新吉
田中重蔵
田中三之介
谷村与左衛門
玉造誠之進(27)
田丸稲之衛門(61)
田邑右三郎
田邑源太郎
千葉貫一郎
都賀厚之介
塚原五郎(30)
塚本重四郎
津久井衛門七(25)
土子竹次郎
堤三次郎
堤清八
坪山源介(31)
鶴田善五郎
寺門周吉(20)
寺門左右吉(24)
寺門善次
富川虎五郎(19)
0010名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/30(土) 23:13:10.05ID:l0afNSRu0
鳥山七蔵

内藤昇一郎(35)
内藤利兵衛(27)
直木藤平
永井小四郎(31)
永田兵介
中庭力蔵
中埜平介
中村延之介
中村貞介(33)
中村親之介(20)
中村清之允
中村東一郎
成井藤九郎(46)
難波源之進
根本熊太郎
根本新平(26)
野手熊吉(22)
埜木久次郎
野口主馬(21)
野口清吉
登戸藤之介


萩谷金次郎(37)
萩谷荘三郎
萩津甚兵衛
萩野利兵衛(40)
萩原造酒之介(31)
羽黒粂之介
長谷川幾之介
長谷川通之介(27)
畑弥平(46)
服部荘介
濱野松次郎(23)
早川吉兵衛
林芳之介(22)
原田武左衛門
原弁之介(26)
幡谷善七(21)
桧山三之介(27)
平野重三郎(45)
平山藤之介
平山良太郎
深谷四郎
0011名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/30(土) 23:13:23.77ID:l0afNSRu0
福田誠一郎(22)
房前長次郎
藤枝吉兵衛
富士半十郎
藤田小四郎(23)
藤田啓介
藤田中務
藤田秀五郎(22)
藤田平太郎
二方舎人(49)
星彦吉
堀兵介
堀江一壽
本田佐久之介(19)
本田己之太郎
本間信三郎(33)

前木六三郎(37)
前島武次郎(32)
前島徳之介(29)
前島雄三郎(21)
前野彦蔵
松崎熊之介(25)
松原彦兵衛
三鴨善七(28)
溝口太三郎
三田徳兵衛
皆川亀松(32)
箕輪啓一郎
箕輪又次郎
三橋半六(22)
宮崎安五郎(25)
宮田勝三郎
宮田銀蔵
宮本清介
宮本清蔵
宮本孫四郎(41)
宮本安五郎(20)
武藤宇兵衛
邑上栄五郎
村島萬次郎(37)
望月義太郎
森川長吉
森貞次郎(29)
森荘三郎(24)
森誠八郎(25)
森寅松
0012名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/30(土) 23:13:35.96ID:l0afNSRu0
森兵五郎(24)
森山勝蔵(50)
森山藤衛門

山口四郎右衛門(40)
山口新介
山口荘介
山国淳一郎(52)
山国兵部(72)
山崎貞介
山澤啓介(20)
山田才介
山田瀧之進(27)
山中市郎
山本儀平(23)
横田藤十郎
横田藤四郎(28)
横田弥四郎
吉川忠蔵(41)
吉川半兵衛
吉田藤蔵(25)
米川久蔵(39)
米川米吉(21)
寄金貞次郎(18)

和田健之介
渡辺金次郎
渡辺直次郎
渡辺雄之介
綿引誠一郎
渡部久介

伊介
市郎
右門
鎌次郎
吉兵衛
銀蔵
蔵介
啓一郎
源介
孝太郎
定吉
貞七
貞介
定蔵
定之介
0013名無しさん@お腹いっぱい。2011/04/30(土) 23:13:52.47ID:l0afNSRu0
重四郎
七蔵
荘三郎
清吉
清三郎
清七
清四郎
清介
惣次郎
宗八
忠介
長吉
長次郎
藤四郎
徳三郎
徳兵衛
彦蔵
兵介
又介
道之介
安兵衛
与三郎
良介

ご冥福をお祈りします
0014 忍法帖【Lv=14,xxxPT】 【東電 80.0 %】 2011/05/09(月) 22:05:44.65ID:/LQJZso20
遅ればせながら、映画『桜田門外の変』を見てきた。
維新政府に水戸が居なかったことは誠に残念だった。
0015名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:17:11.84ID:E1QAn+n+0
84 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2009/07/26(日) 21:35:25 ID:4hYQlsRi0
田沼意尊
天保11年(1840年)7月20日、家督相続。大坂定番をつとめた。
文久元年(1861年)9月14日、若年寄に就任。元治元年(1864年)、
幕府軍総督として水戸藩浪士による天狗党の乱の鎮圧につとめた。
慶応2年(1866年)10月4日、若年寄を解任。

明治元年(1868年)9月21日に上総小久保へ移封され、
明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により藩知事となった。
洋学を取り入れた近代的な藩校創設に尽力した。
同年12月24日、51歳で死去。


 明治政府は何やってんだか
0016名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:18:30.48ID:E1QAn+n+0
180 日本@名無史さん New! 04/08/27 23:19
 武田耕雲斎の伯爵位通贈というデータソースはないのかな?
断言はせんが、伯爵は従二位待遇だ。武田氏は贈正四位。伯爵は家に与えられるものだから
爵位追贈は意味がないだろ。そしたら子孫に襲爵させて華族として続く筈だ。
水戸藩の華族としてカウントされておらず、公式データにも容易に出てこないこと自体、怪しい情報かと。
武田姓の最高位が贈従三位武田信玄公だからなぁ。

 ちなみに爵位と位階、勲等、功級は大抵がかねあいがとれている。
従四位だったら勲三等だとかな。爵位でいえばこうだ。

 公爵    従一位
 侯爵    正二位
 伯爵    従二位
 子爵    正三位
       従三位
 男爵    正四位

 みたいな感じ。爵位が家に対する栄典であるのであり、位階が本当の身分を指す。
爵位保持者は華族のカテゴリーとして、様々な恩典があるが、世襲恩典として意味がある。
皇室を支える藩屏として期待された。位階は天皇を中心ととした地位の物差し。
 いくら勲功があっても、藩屏として期待されるか、それとも勲功が大きく子孫まで報いる必要があるとか、
政治的恣意が介入しない限り、位階を授ければそれだけで名誉なはずで爵位は稀だ。

 華族にならなかった、志士に対する贈位は贈正四位が最高。武田伊賀守はいわば志士の極位として評価されたといっていいだろう。

伯爵でも従一位とかありえるんだが、伯爵で従二位より下はありえない。
0017名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:19:12.89ID:E1QAn+n+0
174 日本@名無史さん New! 04/08/27 11:57
 諸生派の家老達

 太田丹波守従五位下資春
 鈴木石見守従五位下重矩
 結城寅寿
 市川三左衛門
 朝比奈弥太郎
 興津蔵人
 興津所左衛門
 尾崎豊後

 ・・・・死罪・致仕などの処分受ける。
0018名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:19:26.45ID:E1QAn+n+0
水戸藩・天狗党贈位贈号者 

 贈正一位   水戸藩主     徳川斉昭公     
 贈権大納言

 安政の大地震被災者 
 
 贈正四位   水戸藩家老(執政) 戸田忠太夫忠敞  
                 藤田東湖
 
 安政の大獄

 贈正四位   水戸藩家老(執政 )  安島帯刀信立 
        小姓頭取       茅根伊予介
 贈従四位   京都留守居役    鵜飼吉左衛門
        水戸藩士       鵜飼幸吉

 幕末維新期

 贈正四位   水戸藩士       会沢正志斎
 贈正五位   水戸藩士       大胡聿蔵
0019名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:19:41.01ID:E1QAn+n+0
桜田烈士  

 贈正四位   水戸藩士      高橋多一郎
                 高橋庄左衛門
                  金子孫二郎
 贈従四位   水戸藩士     関鉄之介
 贈正五位   水戸藩士      佐野竹之介
                 大関和七郎
                 広岡子之次カ
                 黒沢忠三郎
                  森五六郎
                 山口辰之介
       水戸藩士子息     岡部三十カ
        水戸藩属吏     稲田重蔵
                 広木松之介
         水戸神官     斎藤監物
0020名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:19:54.04ID:E1QAn+n+0
東禅寺事件

 贈正五位   水戸藩士        有賀半弥
                     前木新八郎
        水戸藩士子息     榊鉞三郎
       水戸藩属吏       池田留吉
                 石井金四郎
       水戸浪人      森半蔵
       水戸藩甲冑師    千葉昌平
        水戸藩士家従     小堀寅吉

 坂下門外の変
 
 贈従五位   水戸藩士        平山兵介
        水戸藩士子息     小田彦三郎
0021名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:20:05.08ID:E1QAn+n+0
 生野挙兵

 贈従五位    水戸藩士の子 小河吉三郎
         水戸藩吏      川又佐一郎
0022名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:20:20.28ID:E1QAn+n+0
 水戸天狗党

 贈正四位   水戸藩士    武田耕雲斎
                山国喜八郎
 贈従四位   水戸藩士    田丸稲之衛門
                藤田小四郎
                武田彦衛門
                武田魁介
                竹内百太郎
 贈正五位   水戸藩士    根本新平
                三橋金助
                村島万次郎
                杉山弥一郎
                川瀬専蔵
                国分新太郎
                前木六三郎
                長谷川通之介
        水戸藩士子息  朝倉源太郎
                須藤敬之進
        水戸藩属吏   小林幸八
                栗田源左衛門
                畑弥平
0023名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:20:35.69ID:E1QAn+n+0
水戸天狗党贈位者(水戸藩所属のみ)

  贈従五位    水戸藩士   秋山又三郎
                 大久保信之介
                 小野藤五郎
                 樫村平太郎
                 木村園太郎
                 杉山秀太郎
                 高橋市兵衛
                 滝口六三郎
                 玉造清之允
                 浜野松次カ
                 米川米吉
          水戸藩士子息 朝倉三四郎
                 桑屋元三郎
                 下野廉三郎
                 芹沢助次カ
                 中村親之介
                 檜山三之介
0024名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:20:51.78ID:E1QAn+n+0
  水戸天狗党贈位者

  贈従四位     水戸藩郷士   竹内百太郎(143訂正、藩郷士に収録)

  贈従五位     水戸藩吏    大久保信之介(144訂正、藩吏に収録)
                   高橋長五郎
           水戸藩属吏   安藤彦之進
                   市毛孝之介
                   木村園三郎(144訂正木村、藩属吏に収録)
                   鈴木秀太郎
           水戸藩刀工の子 関内熊五郎
           水戸領里正   前島徳之助
0025名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/12(木) 07:21:07.00ID:E1QAn+n+0
  戊辰戦争にて戦死・幕末期殺害された水戸藩士への贈位

  殺害された者

  贈従五位     水戸藩士    井樋政之允
                   豊田小太郎
           水戸郷士    白石内蔵進

  戊辰戦争

  贈従四位     水戸藩士    鮎沢伊太夫
0028名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/14(土) 09:54:46.29ID:s9NDxJLO0
34 日本@名無史さん New! 04/03/24 19:14
天狗党一行は諏訪から伊那、飯田を過ぎ、清内路峠を越えて木曽・馬籠へ向かった。
その長野県清内路村に以下のような記録が残っている。
11月25日、宿舎にあてられた某家では、浪士と聞いて戦々恐々として向かえた。
その家に入った浪士は、仏壇の場所を聞き、位牌にひざまずいて自分の氏名、目的を
述べ「今宵は図らずも奇縁をもってご厄介になるが何分よろしく」と生きている人に言う
ように拝礼し、その後、「ご主人は?」と言って同様に丁重な挨拶をしたので、恐怖は吹っ
飛び、やがて信頼、敬愛の念に変わり、心から歓待したという。
この清内路村に泊まった浪士らは884人と記録に残る。
(歴史の道百選ガイドブック「幕末の往来」より)
0029名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/15(日) 02:23:31.00ID:x7QRcqOy0
略奪騒動を起こして天狗党の評判を失墜させた田中愿蔵だけど
早くから倒幕を唱えていたとか甲府城乗っ取りを企てていたとか話をきくと
なかなかの行動力や先見の明をもっていたようだし
早死にせず生き延びていたらもっと活躍できたかもしれないな
0030名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/18(水) 02:43:21.30ID:yw6SUPZV0
その田中愿蔵を加えた天狗党の総勢が京都まで辿り着けたと仮定して、
新選組なんかと交戦したら、どっちが勝っていたのか?

みんなはどう思う?
0031名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/21(土) 21:51:09.96ID:oL3RMMY50
>>30
水戸天狗党の討伐軍出陣の前日に、新選組が禁裏守護職総督軍の偵察隊として、出動していた。
大津の勢田(瀬田?)まで出動していたようです。新選組同人会(研究会)

http://miburou.blog103.fc2.com/blog-entry-747.html
0032名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/21(土) 22:42:36.42ID:A7ZnLkwh0
>>30
天狗党と新撰組がガチで戦うかな?
新撰組自体はたいした人数じゃないけど、幕軍の一部として戦うから当然勝敗は決しているよ。

でも今日までたどり着いた段階でボロボロだろうし、まずは勤王藩として付き合いの長い薩摩藩に協力を頼むと思う。
その後で新撰組と戦うなら面白いね。人数多ければ、新撰組狩りでもするんじゃない?
0033名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/21(土) 22:45:50.26ID:A7ZnLkwh0
誤字訂正

今日×
京○
0034名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/22(日) 12:01:54.29ID:cskq4es10
>>31
御教示有難うございます。そうだったんですか。
大津まで偵察が来ていたと言う事は、やはり天狗党がいざ入京した時
には、一戦あり得たかも知れませんね。

でも、新選組独断ではなく、上層部が色々政治的駆け引きをした末の
決裂ならば、命に拠って戦ったかも知れませんね。

>>32
ご意見ありがとうございます。そうですよね。天狗党は長旅の上、各藩と
交戦ギリギリの交渉して、かなり遠回りで入京する訳だから、ボロボロで
すぐに戦えるとは思えませんね。でもそこが幕軍の狙い目で疲弊し切った
所を叩くかも知れませんね。

でも、薩摩藩と通じた場合は容易に手が出せないですね。
新選組狩りをやった場合は、近藤も土方も上層部に掛け合って
即座に戦闘開始を迫った可能性はありますよね。

特に土方は自分が創り上げた新選組だと思っていた節がありましたから、
隊士達を闇討ちされたら、政治判断無関係に斬り込んだかも知れませんね。

もし、はありませんがそんな事を考えると面白いし、何より天狗党が惨殺
されて行くシーンしか想像出来ないのが、当時の彼等の立場を理解させて
くれます。
0035名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/22(日) 16:20:07.60ID:ESDYPJLN0
幕府の兵隊は下妻で蹴散らされて以降、天狗党との直接交戦を避けており、
追撃の格好はするものの、道中天狗党が引き返すとあわてて引き下る有様で
幕府沿道諸藩や住民は幕府の末を感じ、加賀藩は天狗を討てと叫ぶばかりで
自らは決して先頭で戦おうとしない幕府の命令には従わなかった。
0036名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/26(木) 04:07:22.15ID:vnXo/obb0
負ければ自分だけでなく水戸の家族の命もないだろうし
後がないガチガチに凝り固まった思想集団で士気は高かっただろうけど
進路変更せず京入りを目指すってことは
頼みの綱と思っていた慶喜に直接刃を向けるということだから
そのことで士気が下がるか逆に激昂して戦意が高揚するか
脱走者も当然出るだろうし多勢に無勢だから京に入る前に壊滅しそうだ
0037名無しさん@お腹いっぱい。2011/05/27(金) 00:17:59.35ID:e1+NgS6a0
実際は慶喜の出陣を聞いて士気はがた落ちだったが、
それでも幕府兵は怖気づいていて決して自ら戦いを挑むことはしなかった。
加賀藩が吹雪の中で何とか布陣したが、幕府の戦えという現状無視の言葉に
プッツン切れて我等は一橋公の指図によって出陣したのであり、
足下等に指図されるいわれは無いと拒否した。
この加賀藩側の不服従に、及び腰の幕府側はどうにもできなかった。
0038名無しさん@お腹いっぱい。2011/06/04(土) 14:01:27.35ID:mrTw4rOR0
幕府の大将は田沼。慶喜は加賀藩に預けていて、幕府の田沼が慶喜に身柄を引き渡すよう要求し
慶喜が同意し加賀藩から幕府に引き渡されたことで虐待が始まったのであって、
虐待の判断・権限は田沼に帰す。慶喜は田沼に引き渡したことで非難はされたが、
虐待や大量処刑の権限は田沼・幕府によって執り行われた。
0039名無しさん@お腹いっぱい。2011/06/22(水) 04:14:28.99ID:stfNnxf80
幕府が強い間は保身のために尊攘派の天狗党を見殺しにして
幕府の雲行きが怪しくなって朝敵になりそうになると
今度は鳥羽伏見に佐幕派の部下を見捨てて敵前逃亡
利巧ではあったんだろうけどこんな二股侍ぶりは大将の器ではないな
0040名無しさん@お腹いっぱい。2011/06/25(土) 10:48:21.20ID:yyxVVPrK0
ほほう
0041名無しさん@お腹いっぱい。2011/06/25(土) 11:01:37.57ID:B5x2LXcF0
鞍馬天狗は天狗党の残党だったのか?
0042名無しさん@お腹いっぱい。2011/07/18(月) 09:34:07.85ID:TJOecy6w0
7 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 07:52:09 ID:QJZC9b5g0
水戸の台地は堀をやたら掘って風水が最悪になり
幕末明治の悲劇を招いた
0043名無しさん@お腹いっぱい。2011/07/26(火) 07:13:48.32ID:oFF4p5BT0
天狗側は三千、遠征し始めてからは千人前後とよくきくけど
幕府軍の兵力ってどれくらいだったかは不明なの?
0044名無しさん@お腹いっぱい。2011/08/15(月) 18:15:41.10ID:cqhPEwvu0
120 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2010/05/09(日) 00:28:45 ID:acPzO2HG0
慶喜が討伐軍の指揮を執っていると聞いて
天狗党の面々の戦意は一気に萎えて戦う云々どころではなくなった。



121 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2010/05/26(水) 01:53:11 ID:rUlmjcsp0
諸生党の詳しい情報ってネットにも中々ないね
水戸市とかは寝た子は起こすな的な消したい歴史なんだろうけど
市川の息子とか家族がどうなったか知りたいんだが
0045名無しさん@お腹いっぱい。2011/08/15(月) 22:19:13.78ID:A0TY7tQn0
正確な史実に関してはよく分からないけど、山田風太郎の『魔群の通過』って小説では
天狗党の生き残りが維新後に水戸に帰ってきて、殺された自分の家族達の復讐だってんで
諸生党派の重臣やその家族の投獄・拷問・斬殺を大々的に行ったって話が書かれてる。

小説だからあんまり信用は出来ないけど、天狗党の蜂起から京を目指しての行軍過程とかは
かなり史実に忠実に書いてるから、この維新後に起こった壮絶な内ゲバの話しにもそれなりに
信憑性はあるような気がしてる。
0046名無しさん@お腹いっぱい。2011/08/17(水) 15:07:40.68ID:tj4h8Grs0
諸生党は水戸を脱出すると
会津に合流して北越戦争や会津戦争を転戦して
会津の降伏後は留守の水戸城を奪還しようと奇襲をかけて
奪還に失敗してもそのまま房総半島まで南下しながら
最後まで降伏せずに追討軍と何度も戦闘を続けたんだよな
市川の息子もその途中で戦死してた気がする
諸生党も天狗党に劣らぬ信念の集団だったけど
そのせいでお互いあんな酷い殺し合いをすることになったというのがいたたまれない
0048名無しさん@お腹いっぱい。2011/08/28(日) 20:14:41.86ID:DhR8qEPmO
市川の息子は全員戦死みたい。斬首された武田の子達に比べたら温い死に方のよう
娘は長次ともに釈放され、水戸を離れて後は曾孫まで血を残したらしい
武田は唯一残った金次郎が孤独に死に直系が絶えたのとは対象的
0049名無しさん@お腹いっぱい。2011/08/28(日) 21:02:03.44ID:KbXqEx6V0
旧諸生派にとって天狗派は仇敵であっても藤田東湖だけは別格だったらしく、
東湖が生きていてくれればという思いは天狗派と同じであったという。
0050名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/10(土) 13:14:51.95ID:FMLAVSyA0
 諸生派の家老達

 太田丹波守従五位下資春
 鈴木石見守従五位下重矩
 結城寅寿
 市川三左衛門
 朝比奈弥太郎
 興津蔵人
 興津所左衛門
 尾崎豊後

 ・・・・死罪・致仕などの処分受ける。
0051名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/11(日) 14:48:35.90ID:Hfwdlitw0
確か上に名前あがってる家老も戦死したりしてるんだよな
劣勢でも自害とかするつもりもなく、天狗を1人でも殺そうとしてたんだろうな
0054名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/13(火) 18:52:36.66ID:GkgNWUlHO
まぁ敦賀で352人を切ったあと幼児まで斬首し、根絶やしにしようとした訳だし、権力振りかざして弾圧したんだから
今更許して手を取り合おうなんていう甘い成り行きが期待出来るはずがない
まして自分達が賊軍になっても天狗を根絶やししてやりたいと考えていたから、自ら和解しようという考えもあるとは思えない
殺し合いの果ての全滅は当然の成り行きだったと思う

実際、武田の3歳児を処刑した人物は八つ裂きの末田畑に捨てられ今になっても墓も立てられてないし
同じように3歳以下の幼児を斬首し晒しにしてる
0055名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/13(火) 20:49:14.51ID:GkgNWUlHO
ちなみに諸生党の生き残りは明治維新後、藩籍封還、廃藩治県による秩緑処分や戦死手当を一切受け取れなかったとか
迫害の上じり貧にされては、水戸に居ても「生きるも地獄、死ぬも地獄」だったろう

ここまで報復を受け賊軍のままにされて、後に慰霊碑が造られたのは数十年後。それも政府は渋々の模様だったことから如何に睨まれていたかがわかる
もっともそれは諸生党が巻いた種ではあるが
0056名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/13(火) 23:04:41.30ID:MX3emU8j0
諸生党の慰霊碑建立に尽力したのは天狗党の生き残りだったとか。
自分が殺し損ねた相手に自分達の慰霊碑を建てられるという皮肉。
0057名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/15(木) 22:49:18.02ID:K7drS2+JO
慶篤と田沼を、結局天狗党は報復しなかったな
慶篤は敦賀の処刑を安心したと嘲笑い、田沼は処刑した張本人なのに処罰なし
そのまま明治を流れたことを党員はどんな気持ちでいたのだろう

今でもそのしこりを上の子孫にぶつけたいという思いがくすぶってるのだろうか…
0058名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/15(木) 23:11:30.78ID:kBHaLVRg0
天狗党自体"よかろう様"である慶篤を当てにならず、ゆえに慶喜を頼ろうとしたので
慶篤が天狗党を快く思っていないのは重々承知。天狗党が復権した頃に心労で死去。
田沼=金次郎が田沼邸へ来たときは既に死にかけていてあだ討ちのやりよう無し。
しかし田沼が死んだ後も本当に死んだのか疑う旧水戸藩士が執拗に田沼邸に押しかけて来たという。
 
0059名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/16(金) 00:00:37.11ID:R1ReDAdYO
>>58
水戸内の抗争を思えば手ぬるい感じがする
特に田沼はそのまま首をとって晒しにしてもおかしくなかったろうに
それで歴史から何もありませんでしたと、記載さえされなかったことになるとは…
他の天狗縁者からしてみたら、遺恨を断ち切るには影響が弱いでしょ
0060名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/16(金) 00:20:55.21ID:M8M8OVw+0
だから納得できない旧天狗党縁者が田沼邸に押しかけてきて本当に死んだのか
いちいち確かめにくることが暫く続いた。
0061名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/21(水) 00:36:09.47ID:sraIRopAO
水戸に入国して3週間で病死したって、どんだけ天狗が嫌いなんだよ慶篤

水戸が天狗に政局乗っ取られたくらいで情けなすぎる。その程度で病気になる理由がわからん
つか天狗に謝ってから逝くべきだった
0062名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/22(木) 16:26:29.87ID:ZvXyGYPwO
そういえば、明治以降の天狗と諸生の確執はそれからどうなったのだろうか?
会津のように未だ遺恨の残っているのだろうか
0063名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/22(木) 19:04:22.32ID:EmpOZMYm0
明治以降も加波山事件とか血盟団とかきな臭いことやっていたので、
会津のように幕末維新で止まっているわけではないから複雑。
0064名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/25(日) 18:16:19.75ID:5xkr4vOgO
恨み一つってわけじゃなさそうだね

しかしなんだろう
どれだけ酷い処刑をすれば、歴史に残らないほどの報復をされるのか想像出来ない
本当に八つ裂きとか遺体放置の墓禁止とかしたんだろうか
だとしたら明治以降、諸生が天狗を恨むのは逆恨みじゃないのか
0065名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/25(日) 20:11:08.38ID:D0wYUsb30
天狗側の生き残りが諸生派戦死者の慰霊碑を建てるぐらいだから天狗側がみんな揃って
復讐に拘っているというわけでもなさそうだが。
0067名無しさん@お腹いっぱい。2011/09/30(金) 22:33:39.50ID:OrBMJAMhO
水戸の歴史書の中に、諸生党とは別に奸党という呼び方をするものがある
その全て、市川らはこの奸党に配置されてるけど、これは本当は諸生党は市川らとは関係ないという言い分?
0068名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/02(日) 17:30:58.26ID:PKz+Q9Ur0
武士だけじゃなく、庄屋、農民でも天狗だ諸生だやってたんだよな
維新後でもわだかまりはそれは凄かっただろうね
0069名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/02(日) 18:17:37.40ID:XrMtcJGj0
農民層に対する尊王教育にも水戸藩は力を入れ、
郷校を藩領各地に建て、農民層への尊王思想の普及に努めた。
0070名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/06(木) 03:24:10.18ID:ajgxalA00
諸生党を蔑視して奸党と呼んだときくけど
諸生党以外の反天狗の保守グループもまとめて奸党と記したとも考えられる
市川は諸生党とは別の保守の一派だったという説もあるみたいだし

>>61
毒かなにかで天狗の残党に暗殺されて
体面上病死ってことで片付けたんじゃないとか勘繰ってしまう
0071名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/06(木) 18:03:13.81ID:DCt/mEdd0
そこまで簡単じゃないだろう、毒殺。
と思ったが、その頃には殿の回りも天狗党に入れ替え済みかな。
0073名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/06(木) 23:58:22.82ID:0E5s1H0mO
>>70
その説は可能性が高いな
慶篤の天狗党に対する行為が冷淡だし、諸生の仕打ちを喜んで安心とか言ってたから
その事を憎まれてもやむを得ないと思う

むしろそうあってほしいと思う俺がいる
0074名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/07(金) 03:38:10.48ID:6u+mFEaR0
諸生党の主だった人物はもう水戸を脱出しており
さいみ党が報復で白昼諸生党の残党や家族を殺してまわっても
誰にも止められないような状況下で
3週間で病死というのがいかにもあやしいけど
本当に病死でそんな事実がなければ勿論、
あったとしても証拠なんて残すわけないから真相は不明だな

殿様の死に様なんて一部の人間しか知らないだろうに
当時、暗殺されたのではという噂の類はなかったんだろうか
あやしいと思っていても口にするのはタブーみたいな空気だったのかな
0076名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/08(土) 22:49:33.23ID:IMx/KOCFO
天狗党の主だったものは処刑という辱めを受けたのに、諸生党の主だったものは戦死という名誉を遂げていることに
少し不条理を感じるのだが
0077名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/08(土) 23:02:31.25ID:IMx/KOCFO
後暗黒時代のことを記載している歴史書は少なからずあるけど
明治2年以降の天狗と諸生の争いや、明治における諸生の仕返しがどんなんだったかを記したのって全くといっていいほどないよね
やはり凄惨なことは少しでも抹消したかったのだろうか
0078名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/09(日) 10:06:00.43ID:rlmc5xJe0
どちらにとっても抹消したい過去だから、落ち着いた後も語る人が
居なくなっちゃったんじゃないか?
0079名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/09(日) 19:32:55.11ID:M4LlIcuJ0
>明治2年以降の天狗と諸生の争いや、明治における諸生の仕返しがどんなんだったかを記したのって全くといっていいほどないよね
山川菊栄の"幕末の水戸藩"に淡々と抑揚無く愚かしいことやばかげたこと様々な事件が記されている。
(博打で負けた奴が相手に"天誅"加えたとかわけの分からないことまで)
"全く無い"のではなくあまりにも痛い話が列挙されるので読まれないだけなのではないのだろうか。
0080名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/12(水) 01:49:04.75ID:ZxsGgaD/0
諸生党の市川って、最期は逆磔の刑に処されたんだよね?幕末の時代に水戸藩の執政までのぼりつめた。
幕閣で例えたら老中クラスの人物でここまでの残酷な処刑法で命を落とした人物っていないよね.
小栗上野介忠順だって斬首だったから。 祇園寺ってとこに墓があるらしいけど墓参りする人いるのかな...
常磐神社内で市川の名前を言ったら、追い出されそう。
0081名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/12(水) 06:10:11.72ID:A+UNYCbm0
>幕閣で例えたら老中クラスの人物でここまでの残酷な処刑法で命を落とした人物っていないよね
井伊直弼だって政敵の一族郎党を皆殺しにするような暴挙は働いていませんから
0083名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 10:02:49.97ID:f8oP4DIy0
政権奪取後の反対派粛清、カウンタークーデターによる失脚と処刑って経緯は似てるね。

違う点としては、水戸藩ほど過剰な粛清が行われなかったことかな。
椋梨ら俗論党が2回目の粛清を行う為にそうせい候に処刑者リスト提出したら、
「ちょっと考えがあるからこれ預かっとくわ」って言われてそのままスルーされたって話もある。
井上馨や山縣半蔵はこれで首の皮一枚繋がったとか。
これがイケイケドンドンで執行されてれば、クーデター後はもっと凄惨な報復措置が採られたかもしれんね。

水戸の悲劇は、エスカレートする粛清をどこかの時点で止められる人が居なかったからではないかと思う。
0084名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/15(土) 23:44:43.75ID:ZiJILNt10
福井県民なんだけど、旧暦12月、つまり今の1月に
美濃から山道越えて越前に入ったというのは正直とんでもないと思う。
真冬の揖斐市〜大野市ルートなんて現代でも誰も通らない。というか通れない。
積雪量でいえば暖冬の年でも2メートルは堅い。まともに雪降ったら3〜4メートルは積もる。
1000人近い人数で大砲まで引っ張って、犠牲者一桁で脇道の蝿帽子峠越えるって、
佐々成政のさらさら越えの次ぐらいに凄い。そして偉業の傍らで家燃やされた大野藩の村民涙目。
0085名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/16(日) 23:18:58.54ID:4EY72TgR0
慶喜様なら我々の思いが分かってくださるという信念が彼等の行軍を支えていた。
0086名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/17(月) 02:39:18.39ID:J6MxdqMK0
最後の山越えの前にも水戸から美濃まで
討伐命令を受けた諸藩との交戦や冬の山道の強行軍を続けてきて
満身創痍のうえに慶喜が討伐軍を率いていると知って精神的打撃を受けても
天朝様に尊攘の志をきいていただくという一念だけで隊が維持されたのは
他に道がなかったというのもあるだろうけど
天晴れを通り越してここまでくると思想教育の怖さを思わずにはいられない
0087名無しさん@お腹いっぱい。2011/11/13(日) 09:19:06.97ID:xptYOxCWO
斬首の担当は彦根藩兵、
桜田門の復讐だったかな?
0088名無しさん@お腹いっぱい。2011/11/20(日) 02:12:17.04ID:w70/tKV30
尊皇攘夷の大本山であると同時に幕藩体制の支持者でもあった天狗が壊滅したことは
相対的に長州を中心とした倒幕を志す尊攘派が影響力を増す一因になっただろうけど
もし東湖が存命で天狗を抑えるなどして
水戸の尊攘派が健在なままだったらその後の歴史はどうなっていただろう
0090名無しさん@お腹いっぱい。2011/12/09(金) 00:29:12.49ID:J0UFg5rU0
藤田東湖は中々達者だが、身内でグダグダ騒ぎ出すだけでますます混乱が深まっただけ。
by 勝海舟
0091名無しさん@お腹いっぱい。2011/12/10(土) 08:22:02.26ID:wyAB5pOV0
勝は筋金入りの水戸嫌いで慶喜の腹心の原市之進も"頭は切れるが裏のある陰険な奴"と貶している。
0092名無しさん@お腹いっぱい。2011/12/24(土) 11:57:55.11ID:DSAwk+g60
>>80
逆磔の刑って、頭を下にする磔? 手が逆になる磔?

市川なんで天狗党の家族を残酷に虐殺したんだろ。
でも自分自身は最期にうなぎ食わしてもらったという。
0093名無しさん@お腹いっぱい。2011/12/24(土) 17:38:47.27ID:zi0mDOk80
そりゃ水戸から尊皇攘夷思想を根絶やしにするためだろう
天狗残党の報復は思想のためというよりその怨恨からだろうけど
0094名無しさん@お腹いっぱい。2011/12/25(日) 01:10:15.05ID:CffPgkzJ0
>>92
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411432149
0095名無しさん@お腹いっぱい。2011/12/26(月) 20:55:06.48ID:KxfMeyUD0
いたそ
0097名無しさん@お腹いっぱい。2011/12/30(金) 21:35:39.27ID:ymE2kVoA0
>>92
(135)東大教授・山内昌之 市川三左衛門
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/111027/art11102708150004-n4.htm
0100名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/05(木) 20:04:40.30ID:YM+Vhc6d0
ダブルでは?
0101名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/05(木) 20:44:43.89ID:3C09sImg0

この大虐殺は幕末最大の汚点だろう
この大虐殺が歴史から抹殺されたようになっていること自体不思議なこと
幕末を描くのなら龍馬や新選組ではなく天狗党惨殺に悲劇的な歴史事実を
隠さず描くべきだ!!
幕末維新の作り話はもうたくさんだね
0102名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/06(金) 07:27:27.06ID:Su4C9goV0
対立構図が薩長対会津といったものじゃなく同じ水戸人同士の殺し合いなうえ
一族皆殺しのようなえげつないことをやってしまったから
創作の題材にもしにくいし水戸の人もあまり掘り返されたくないだろう
0103名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/06(金) 23:55:54.83ID:offP14fm0
つ田沼沖田か
0105名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/09(月) 07:04:51.96ID:nNGkGt5Q0
天狗の異常な尊皇攘夷原理主義とくらべて
思想的には諸生党のほうはいたってまっとうだけど
先に家族にまで私刑を加えたせいで天狗より印象が悪い
0106名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/09(月) 07:43:49.14ID:Vs8qVwC20
k62ptju(^-^)/ EBkczpGtO 京都の王者 岡本監督
0107名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/14(土) 10:54:26.57ID:pkfILRcx0
リビア内戦と同じだな。
勝者が敗者に報復殺戮。
0111名無しさん@お腹いっぱい。2012/03/10(土) 02:16:08.95ID:bfKQO/WI0
老中・阿部正弘が顕在なら
0112名無しさん@お腹いっぱい。2012/03/10(土) 10:17:02.44ID:1EBhii9z0
うむ。
藤田東湖と戸田忠太夫が安政の大地震で一日で亡くなってしまったのも…。
特に藤田は一度助かったのに…。
0114名無しさん@お腹いっぱい。2012/03/10(土) 22:28:17.97ID:5FLolXJoO
義烈千秋っていう天狗党を描いた歴史小説が面白かった
0117名無しさん@お腹いっぱい。2012/03/22(木) 20:06:00.34ID:yvCxqPLCO
田中源蔵は美青年だったらしいね
0118名無しさん@お腹いっぱい。2012/05/30(水) 21:53:32.48ID:PUZaf51I0
家系図を見たら、うちの先祖はどうやら諸生派の中の市川勢に
属していたらしい。
もともと小石川の藩邸勤めだったが、おそらく天狗党の乱前後に
水戸へ戻り、その後市川、朝比奈らと共に会津へ向かったとある。

・・・が、ご先祖様は会津の手前で仲間と離れ、そのまま尼崎まで逃走したとあった。
事実だったなら、会津戦争を回避した先祖のファインプレーというか、よく生き残ったな、と。
今度歴史館に行って水戸藩士の名簿を買って真偽を確かめたいと思う。

会津から尼崎まで、よく逃げおおせたなと、
0119名無しさん@お腹いっぱい。2012/06/06(水) 00:38:06.76ID:CYp4uGvj0
おつかれまです。
愛国者同志、恩讐の彼方にですね。
01201182012/06/06(水) 23:47:18.78ID:e1mQ/Lhi0
歴史館に行ってきて史料を閲覧してきました。
手がかりになるようなものはありませんでしたが、一代記を読み進めるうちに
「大洗の願入寺に件の先祖の父親の墓があるらしいこと、
願入寺にて松平頼説の娘ではないかと思われる人物の警護にあたっている。」
ということがわかりました。

尼崎では伊佐具神社の神職として働いていたようで、
久我建通から役職を賜ったと書いてあり、驚きました。
かつて争った相手方からの命にどう思ったのかはわかりませんが、
歴史の皮肉さを感じました。

諸生派という立場から、維新後もしばらく素性を隠していたようで、
一代記も世の中が安定してから残したようです。
学芸員からも、諸生派のその後が書かれてものはかなり珍しいと言われました。
0121名無しさん@お腹いっぱい。2012/06/21(木) 09:32:54.92ID:9GMYOSja0


グロ動画 / 斬首処刑
http://www.liveleak.com/view?i=46327ba5c5&to_friend=1
http://www.m90.org/violent-videos/60971_dude-gets-brutally-beheaded-with-a-rusty-knife/
http://www.m90.org/violent-videos/62238_oh-lol-jamal-totally-lost-his-head-during-that-fight/
http://theync.com/media.php?name=4321-extremely-graphic-video-shows-two-hostages-beheaded-in-iraq
http://theync.com/static_html/18172-new_media.html
http://www.m90.org/violent-videos/61686_captured-prisoner-gets-extremely-dead-and-beheaded/
http://www.theync.com/media.php?name=15644-beheading

0122名無しさん@お腹いっぱい。2012/07/07(土) 00:51:58.59ID:A1mrHKnC0
滋賀の陰湿ないじめ殺害

滋賀らしいやほんと
0123名無しさん@お腹いっぱい。2012/07/07(土) 20:43:36.41ID:c9yhHimi0
天狗党の逸話は現在でもタブーにしている地域はある。
虐殺したされた地域が隣接したり合併で益々表に出来なくなっている。
又、虐殺の方法もグロすぎて歴史に出来ない事が多すぎる。
0124名無しさん@お腹いっぱい。2012/07/08(日) 02:49:08.57ID:Zc7mtPWa0
小説で興味もって史実を調べたいんだけど
岩波の幕末の水戸藩が絶版になってる
ほかになにかいい資料ない?
0126名無しさん@お腹いっぱい。2012/07/08(日) 16:36:50.33ID:8NvIH6zD0
茨城県庁北側の県開発公社ビル1Fに
川又書店いうのがあって、そこの郷土史コーナー充実しているから
そこをのぞけば?
0127名無しさん@お腹いっぱい。2012/07/08(日) 21:16:09.91ID:WioZf0TP0
>123
先日亡くなった祖母の49日で帰省した際に聞いた話。
祖母(さらにその母親?)が、明治初期に水戸から逃れてきた士族の娘だったらしい。
一年ほど農家の縁の下に隠されて、生き延びたという話から、おそらく書生党の残党だと思う。
その後、「士族は使い物にならん」と陰口をたたかれながら、ずいぶんと苦労したらしい。
うちの地元(那珂町)では、天狗、書生の話は未だにタブーになっている。
双方、shareにならない陰惨参逆非道な行為をやりまくった。
政敵とはいえ、幼児赤ん坊まとめて大量に粛正とか完全に常軌を逸しており、自分にその血が
流れていると思うと、本当にいやーな気分になる。親戚の中には、未だに先祖が頃した人々の為に
毎日念仏を唱えている人もいるよ。まじで。
01281272012/07/08(日) 21:17:55.45ID:WioZf0TP0
正)私の祖母(90歳代)の祖母
0130名無しさん@お腹いっぱい。2012/07/14(土) 06:33:17.86ID:M0robdg30
乱後の私刑による諸生党による粛清や
それに対する天狗残党の報復の総犠牲者数ってどれくらいになるんだろうか
たぶん戊辰戦争の犠牲者(靖国に合祀されている人数)の内には含まれていないんじゃないかと思うけど
乱の全体では名前がわかってるだけで約三千人、総計で五千人以上といわれてるってなんかで読んだが
0131名無しさん@お腹いっぱい。2012/08/14(火) 04:39:42.56ID:MV08XA1o0
age
0132名無しさん@お腹いっぱい。2012/09/11(火) 07:47:20.22ID:Mz9jZxAm0


グロ動画 / 斬首処刑
http://www.liveleak.com/view?i=46327ba5c5&to_friend=1
http://www.m90.org/violent-videos/60971_dude-gets-brutally-beheaded-with-a-rusty-knife/
http://www.m90.org/violent-videos/62238_oh-lol-jamal-totally-lost-his-head-during-that-fight/
http://theync.com/media.php?name=4321-extremely-graphic-video-shows-two-hostages-beheaded-in-iraq
http://theync.com/static_html/18172-new_media.html
http://www.m90.org/violent-videos/61686_captured-prisoner-gets-extremely-dead-and-beheaded/
http://www.theync.com/media.php?name=15644-beheading

グロ動画 / 斬首処刑
http://theync.com/static_html/17711-just-released_media.html
http://theync.com/static_html/15998-new-beheading_media.html
http://theync.com/static_html/23804-chainsaw_media.html
http://www.m90.org/violent-videos/61686_captured-prisoner-gets-extremely-dead-and-beheaded/
http://kickassasia.com/2012/07/%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%96%AC%E9%A6%96%E3%81%99%E3%82%8B-12%E6%89%8D%E3%81%AE%E5%B0%91%E5%B9%B4-%E9%96%B2%E8%A6%A7%E6%B3%A8%E6%84%8F/

http://www.heavy-r.com/video/117710/Man_Beheaded_By_Taliban/
http://www.liveleak.com/view?i=081b763bba

0133名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/02(火) 22:58:10.37ID:9dxlatCi0
長州の所謂俗論派の幹部でもたいして出世はできなかったけど
新政府に出仕した人もいるってのに
水戸は武士道を理解してなかったんだな
大義ではなく私情で動いていたのかな
0135名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/28(日) 09:08:58.45ID:Y9OiPHaw0
>>133
それは話があべこべだろw
0136名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/28(日) 09:50:11.34ID:TXlTc95W0
グロい逸話でスンマソですが、ご先祖は農民だったが天狗系で睨まれ
同じ農民より一族郎党全部皆殺し。
子供らは三日間何も食わせなかった犬の群れに放り込まれて食べられて
廻りのみんなはゲラゲラ笑っていたそうで。
で、子供を食ったその犬をみんなで食べたとか
(実のところ子供は犬に食われたのではなく【自主規制】と推察)

そこへ京都からターミネーター天狗党がやってきて、今度は関係者をバラバラに
して死体を肥だめの中にぶちこんで翌年の肥料に・・・・
ところが、その肥だめを使った作物は育つどころか枯れてしまった。原因は栄養が善すぎたそうで。
どこの田畑かは差支えがあるので書けないが、天狗・書生の乱では
こういった農民同士の虐殺逸話が多すぎることからタブー視される。
0137名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/28(日) 12:11:38.46ID:LDWT5ANnO
祖先が水戸の佐竹旧臣系庄屋(本家は今も健在)なんだが…
じいちゃんの代から神奈川で本家とは親交がない
天狗か諸生かやっぱ伝わってるのかな?
0138名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/28(日) 16:55:35.86ID:0AgGTeGI0
大概は先祖に天狗党に参加して生きて帰ってこなかったとかいう程度で
地元全体が天狗諸生に分かれて争ったなんて話は極端な例だろ。
0139名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 05:17:15.37ID:XCLPOGlWO
まぁ本家の柱に天狗が切りつけていった刀傷があったらしいが
諸生なのかな。。
0140名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 07:32:45.78ID:a5xL1e37O
>>135
あべこべではないだろう
俗論派は正義派を処刑はすれど、その家族には手は出さなかったし、
クーデター起こした高杉らの家族も無事
その後、実権を握った正義派に処刑された俗論派は椋梨一人だけで、
他の俗論派は罷免や降格をくらっても命まではとられて無い
土佐でも勤皇党が多数処刑されたが、その家族にまでは手を出されていないな
家督断絶になって生活に困窮することはあったようだが
生き残った勤皇党は薩長には及ばずとも新政府で出世している

当時の武士道云々はわからんが、水戸も家族らの処刑までしなければ
復讐の連鎖はある程度止められたと思うなあ
0141名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 09:20:48.36ID:m4ea+Ccr0
山川菊栄の本を読むと、一部だけとはいえ壮絶ぶりが伝わった。
あと、市町村史も天狗関係だと北関東の人達は口をつぐんでしまう。
水戸内戦後の明治維新でさえ、恨みで殺したなど逸話があるぐらい。
隣近所が諸生・天狗系の郷士だったから壮絶ぶりが伝わるけど
口伝としか残らないよな。
それが現在の選挙運動などの地方利権にストレートに絡むから益々言えなくなる。
0142名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 09:35:14.53ID:XCLPOGlWO
一応うちの先祖も佐竹旧臣系の庄屋ながら名字帯刀だったらしいが、【郷士】になるのかな?
0143名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 19:35:15.60ID:xEz/jG1B0
諸生系はあらかた逃亡し残った者も殺害されたり家財を略奪されたりして
壊滅的な打撃を受け盛り返すことは出来なかった。
今現在は梶山にしろ高野にしろ天狗系。
0144名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 22:13:31.95ID:XCLPOGlWO
>>143
はて
じゃあうちはなんだったんだろうか?
今も本家はでかい構えで続いてる様子だよ
中立とかできたんだろうか?
調べたら同じ名字が天狗の敦賀組や諸生党名簿に 複数名あるんだが
0145名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 23:03:57.48ID:xEz/jG1B0
天狗だったら水戸城下から離れていて
市川の手が届かない位置にいたので助かったのだろうし
(どうもうちの先祖はそんな感じ)
諸生だったとしたら維新前は立場が低く財も無かったので目をつけられず、
維新後になんらかの事業で成功をして大きくなったとか。
0146名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 23:16:47.19ID:XCLPOGlWO
まぁ、とりあえず藤原秀郷流の佐竹旧臣、名字帯刀だったみたいなんだ
祖父が子供の頃、二親が相次いでなくなり一家は離散、幼い頃住んでた家はかなり
大きくて、バッチなんかは東京で警察官になったりして帰郷にはじいちゃん達に靴やらなんやら買って帰って来てくれたらしいんだ
それでじいちゃんだけクラスで靴履いてたり、それをからかったガキ大将を崖から突き落としてしまったりしたらしいW
いずれにしろ色々な不幸(おそらくは経済面も、口を濁してあまり教えてくれなかったが)が家にふりかかり離散したみたいだ
0147名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 23:25:58.50ID:mij/VUu3O
内ゲバの起源はやっぱ水戸藩だよね。
0148名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 23:31:11.21ID:xEz/jG1B0
諸生派の士分は士籍が剥奪されて、士族の受けられる公債秩禄の支給が認められなかった。
維新後の身分の扱いである程度は憶測できる。
0149名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/29(月) 23:32:02.82ID:XCLPOGlWO
その後、兄弟姉妹は、東京に出て商店に勤めた爺ちゃん、海軍兵学校から飛行機乗りになって戦死したおじさん、東京経由で北海道に渡ったおばちゃんなど、皆色々な運命をたどった
長男は茨城(水戸市)にふみどどまり商売に成功し大きな家を建てたみたいだ
一度写真を見たが立派だった
二代連続で婿取りしたみたいで写真見たが恰幅のいい美男だった
0150名無しさん@お腹いっぱい。2012/11/05(月) 13:58:33.79ID:H8iG8cM8O
吉村の小説では維新後に
天狗が諸生を弾圧した事は書かれていない。
0152名無しさん@お腹いっぱい。2012/11/22(木) 19:59:13.98ID:o5QC9Bac0
その割には藤田東湖や戸田銀次郎、武田耕雲斎のような直言の家臣・配下が居ない
0153名無しさん@お腹いっぱい。2012/11/27(火) 22:06:54.02ID:OxIpsWoR0
斉昭は別に排外主義者ではない。攘夷の代表に見えるのは後世の作為だよ。
朝廷への入説でも開国を肯定していた。戊戌の密勅ですぐに返還する決断したのに
尊皇一筋に見られたのは幕末を生き残った息子の慶喜の画策だろ。
0154名無しさん@お腹いっぱい。2012/11/28(水) 14:55:08.20ID:Qo1z4L6X0
本人がいなくなってから、本人の意思と違う解釈で
担ぎ上げるのは歴史上の手口だからな。


>>147
藩内での権力争いレベルの足の引っ張りあいならまだしも
ガチの殺し合い憎しみあいだもんな…
0155名無しさん@お腹いっぱい。2012/11/30(金) 21:48:02.99ID:4MxssmF50
慶喜の横浜鎖港が良くも悪くもこの一件に大きく絡んでいるのは
案外言われていない。
0156名無しさん@お腹いっぱい。2012/12/16(日) 21:58:41.35ID:gkG5gi8E0
すべて井伊の悪さのせい
0158名無しさん@お腹いっぱい。2012/12/17(月) 22:56:43.54ID:JT9mrA500
敦賀大虐殺
by彦根
0160旧姓千野アナ事故死させ事件2013/01/06(日) 13:50:22.35ID:JgCFiPXR0
329 :可愛い奥様:2013/01/04(金) 02:18:37.49 ID:J9yCGMYu0
死なす 2013    タロットデ13は『死に神」
○諏訪高島藩には、ようやく11月17日江戸から天狗党追討の書状が届いた。そして19日早朝には家老 千野孫九
郎を総大将として藩兵580人程を繰り出し、午前10時頃には和田峠西麓にあたる樋橋村(下諏訪町)に入り、午後4
時頃までにここで(神の森付近)陣営を整えた。
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/tokusyu4.htm

敦賀 天狗党武田耕雲斎等墓名簿http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/400e30a137bc28767f6e64b1a2c86c91
梅川竹四郎 三菱立てこもり事件と同じ苗字
関雄之介 >【社会】香川で4人死亡事故被害者と同じ苗字…交差点で衝突

萩原造酒之介  この事件の被害者と同じ苗字
小林久次郎   笹子トンネル事故の被害者と同じ苗字
森         上に同じ
中村       勘三郎さん
本田       大津いじめ自殺被害者と同じ苗字
青木源八    大津いじめ自殺被害者と同じ中学校でリンチ死された
0161名無しさん@お腹いっぱい。2013/02/27(水) 22:55:13.95ID:ItLBDvizO
田中の最後の晩餐は伝兵衛の出した干し魚と稗飯だ。
0162名無しさん@お腹いっぱい。2013/02/28(木) 09:55:54.92ID:475s6Tz60
田中愿蔵
0163名無しさん@お腹いっぱい。2013/03/24(日) 09:33:20.85ID:Ny+6tjuRO
牛追い伝兵衛は密告の報酬を塙代官所から貰えたか?
0164名無しさん@お腹いっぱい。2013/04/26(金) 23:38:23.66ID:+rQMOe90O
たけだこうもんくさい
0165名無しさん@お腹いっぱい。2013/05/18(土) 23:33:34.16ID:Yf0rbSu1O
田中の隊員は行列を見て
いた男の両腕をバッサリ。
0166名無しさん@お腹いっぱい。2013/06/04(火) 01:42:49.17ID:YPNVI8z00
田中隊は天狗党の中で比較的身分の低い者が多く鼻つまみ者扱いされていた。
本隊から離れて行軍するよう指示されたり差別待遇への鬱憤が
沿道の住民へ捌け口が向いて乱暴を働いたのかもしれない。
0167名無しさん@お腹いっぱい。2013/07/09(火) NY:AN:NY.ANID:O0xYLEiJO
吉村の小説は綺麗に終っているが実は、その後に武田の息子が復讐の鬼と化して市川一派の諸生党に対するのジェノサイドを始めます
0168名無しさん@お腹いっぱい。2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:rbG5sdRuO
天狗残党が水戸で非戦闘員の大量虐殺をやっているちょうどその頃
諸生党も越後あたりで会津軍や幕府軍残党と一緒に掠奪、殺人、強姦のやり放題。
0169名無しさん@お腹いっぱい。2013/07/25(木) NY:AN:NY.ANID:3leYr2GCO
天狗争乱だけを読むと
ハッピーエンドだなあ
って思ってしまうよw
0171名無しさん@お腹いっぱい。2013/08/10(土) NY:AN:NY.ANID:VXKWp2d60
以前スカパーで録画していた「天皇の世紀」テレビドラマ版を見たら、
武田耕雲斎=加藤嘉
藤田小四郎=峰岸徹
田中愿蔵= 渡辺篤史
といったキャスティングだった。
こんなイメージでいいのかな?
0172名無しさん@お腹いっぱい。2013/08/20(火) NY:AN:NY.ANID:lvlZ6vjYO
知性 身体能力 

群馬>>茨城

久しぶりに感動した甲子園。
0173名無しさん@お腹いっぱい。2013/08/22(木) NY:AN:NY.ANID:lBKsCEioO
前橋育英
初出場初優勝
歴史的快挙オメ
0174名無しさん@お腹いっぱい。2013/08/24(土) NY:AN:NY.ANID:+9iQ1km80
知性 身体能力 

群馬>茨城>>>>>>>>>>>>>>栃木>福島

久しぶりに感動した甲子園。
0175名無しさん@お腹いっぱい。2013/09/11(水) 12:46:06.49ID:oL4PhgdMO
今日、テレ朝のニュースで野田の被災地が出てたわ。
水戸って千葉女性に酷いことするよね、江戸時代もそうだった。
0176名無しさん@お腹いっぱい。2013/12/11(水) 19:36:45.67ID:al4QTkjZO
金次郎がマンデラみたいな人なら報復の連鎖は止んだ
0177名無しさん@お腹いっぱい。2013/12/12(木) 23:50:44.18ID:061tb1ncO
和田峠の浪士塚は
このスレ読んで思いだすと
重い存在だったんだなあ

黙祷
0178名無しさん@お腹いっぱい。2013/12/30(月) 01:27:39.41ID:V+1JGQGW0
【不買運動】福島県いわき市は男性を侮辱した女性専用車両広告を使う反社会的組織です

福島県いわき市は女性専用車両という卑劣な男性排除によって生じた女のみの状態となた場所に広告を出して金儲けをしようとする反社会的企業です。

「ハダカのおもてなし」の女性専用車両広告
http://www.youtube.com/watch?v=B7f381sHUnQ&;feature=channel&list=UL
(音声はJR東日本中央線の駅員による女性専用車両乗車中の男子学生に対する暴言)
0179名無しさん@お腹いっぱい。2014/06/28(土) 14:34:11.49ID:FqCyB2z20
田中愿蔵のもとの苗字は猿田ですよね。
近くの猿田氏といえば、那須国造家から最初に分かれた猿田氏がいます。
田中愿蔵は、ここの系統ですか。
お詳しい方教えてください。
0181名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/10(木) 07:29:41.25ID:UzjDIaRV0
日本の断頭は、もう少し格調が高いのではないか。
0182名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/13(日) 20:05:57.48ID:j2s+3Z4Z0
日本が列強の植民地にならなかったのは
水戸徳川のせいだと思うが
どうよ?
0183名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/13(日) 22:22:50.99ID:2eu3jL8Y0
烈公斉昭の功績大。
天下の三大名君ここにあり。
ただの頑固親父と言わないでくれ。 !!
0184名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/14(月) 01:43:22.90ID:BI7vFle30
<水戸徳川なかりせば>

水戸徳川は藩祖以来尊王の家

2代光圀による「大日本史」編纂事業は明治39年まで続いた
そしてその事業により「水戸学」が生まれ、明治維新の原動力になった

慶喜は斉昭に徹底的に尊王精神を叩き込まれた

羽伏見の戦いで錦の御旗を見て

江戸に早速帰った。

幕府には十分な兵力があり慶喜が将軍でなければ

血みどろの内戦に発展していただろう。

官軍にはイギリス 幕府にはフランスがついていたし

ロシアやらアメリカやらも日本を狙っていた

内戦が長引けば日本は植民地になっていた可能性が高い。

明治時代になって慶喜の偉大さを認識した明治政府は

慶喜と水戸徳川を公爵に列した。

(徳川本家と同格)
0185名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/14(月) 19:55:57.69ID:U+ubv3c40
大体あの時代に尊皇攘夷とかって、今で言えばTPP反対って言ってるお花畑だろ。
0186名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/14(月) 21:42:08.43ID:D11DQ21a0
いや違う。
水戸藩を初めとして、薩長がなかったならば東南アジア諸国のように植民地化されていた。
あの時代で最も残念なのは、間宮林蔵が苦労して島であることを発見した樺太が日本でないことである。
下手をすると日本全体が樺太のようになっていたのである。
0188名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/15(火) 07:48:00.78ID:dI5/9Caa0
水戸と薩長一緒にしてる時点でまともに歴史勉強してねーだろ。
薩長はある時点から尊皇攘夷なんて本気で考えてねーから。
ただの反対野党のパフォーマンスとしてそう言ってただけ。
0189名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/15(火) 09:57:45.80ID:tKYWNolW0
尊王開国派だけだったら、植民地化でしょう。
植民地の住民になりたいのですか。
いくつかの藩で、必死に軍備を進めたことに意味がなかったとでも。
0190名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/15(火) 10:09:05.35ID:tKYWNolW0
186と189の水戸藩の者ですが、
188は、どこの藩か名乗ってくれ
0192名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/17(木) 09:59:46.24ID:OeGiKjYp0
竹中に直接言え。 言えないのか。
0194名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/18(金) 09:17:00.10ID:NqIboJPp0
ここは、水戸藩天狗党の乱(元治元年か)のスレ。  新撰組を語るスレではない。引っ越せ。
水戸藩士(脱藩を含む)には、いろいろといた。
1、 尊王開国派
2、 尊攘激派
3、 尊攘鎮派
4、 柳派
5、 諸生派(保守門閥派)
6、 本国寺党
筑波山で挙兵したのは二番目。  それだけで水戸藩を捉えるのは誤り。
横山大観の父は、五番目である。
0195名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/18(金) 22:10:28.35ID:Bq7J72ck0
>ここは、水戸藩天狗党の乱(元治元年か)のスレ。  新撰組を語るスレではない。引っ越せ。

粕谷新五郎
0196名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/18(金) 23:24:44.05ID:NqIboJPp0
新撰組は、正々堂々とした戦いをしていない。
近藤勇が、三条河原で晒された事由も分かる。
粕谷新五郎や芹沢鴨がどうした。
近藤勇の首級を運んだのは、北島秀朝ではない。北島は初めから京に行く予定があり同道しただけ。
実際に誰が運んだのか位ははっきりさせた方がよいのでは。
それと貴殿の藩の名前。 はっきりと言えないのか。
言えなければ幕末を語る資格なし。
0197名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/19(土) 01:02:59.56ID:W4D7UzcL0
>粕谷新五郎がどうした

粕谷新五郎
1858:密勅返納に反対して長岡屯集に参加
1860:江戸薩摩藩邸にて香川敬三等と共に攘夷の嘆願
1862:幕府微募の浪士組に加わり取締役並出役付に任命されて上洛
     病となり江戸に戻るが佐々木只三郎に世話になり回復
1864:水戸激派の筑波挙兵に参加・追討軍に追い詰められ小山で自害。

明治維新後、生家に香川敬三が訪ね、追悼の碑文を残した。

新徴組の佐々木只三郎と討幕軍監軍の香川敬三双方に親しくされたという複雑な人物。
0198名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/19(土) 07:39:49.55ID:BO1cwghJ0
貴殿の藩の名前は。 言えないのか。 幕末を語る資格なし。 礼節第一だ。
0199名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/19(土) 07:58:43.83ID:BO1cwghJ0
香川敬三の肩書は、大軍監。 他人の肩書を間違えるな。
0200名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/19(土) 08:38:45.01ID:BO1cwghJ0
粕谷新五郎は田中隊に所属していた。ならば、
1、 軍資金調達(強奪) 今の十億位か。
2、 平民殺し
3、 栃木の町の焼き討ち(400軒乃至500軒)
以上についての言及がないのはおかしい。
0202名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/19(土) 12:01:25.90ID:BO1cwghJ0
1と2は、粕谷新五郎等か。 3だけ違うとなぜ言える。まだこの辺では、ばらけていないはず。
那珂湊、日立、八溝山と先はまだ長い。
0203名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/19(土) 13:39:01.73ID:W4D7UzcL0
>粕谷新五郎は田中隊に所属していた。

粕谷と田中の接点が分からん。
水戸藩時代は長岡屯集や薩摩藩邸駆け込みなど
岩谷や林、竹内等と活動していた。
0204名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/19(土) 15:02:05.73ID:BO1cwghJ0
粕谷新五郎と田中愿蔵の接点
1、出身地が近い
2、京都(1863)
3、上州太田宿(栃木の焼き討ち直前)
4、ほか数知れず
 ※ 焼き討ちの後に逃走では
0205名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/19(土) 17:19:23.30ID:W4D7UzcL0
勅状返納反対の時期から共に活動していた
香川や岩谷、林・竹内に比べて全然浅い。
そもそも彼等から見れば田中は若造だし。
0206名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/20(日) 10:29:09.77ID:AulgEM010
田中愿蔵は、若き日の森鴎外を凶暴にしたような人物では。
知性、行動力、積極性では群を抜いている。
筑波山で挙兵の際に幹部となる素材である。

それはそれとして、貴殿の苗字は御前山村出身の粕谷さんですか。
0207名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/20(日) 16:57:37.41ID:AexoCfJS0
岩谷の田中評「気宇は壮大なれども、その謀は疎」
倒幕を熱く語る田中を岩谷は若造の思いつきだと一蹴。

憤慨した田中は「貴殿は謀事を知らぬ!」と席を立って去っていった。

田中の倒幕論は水戸藩の者達には気が触れたようにしか見えなかった。
0208名無しさん@お腹いっぱい。2014/07/20(日) 21:47:15.48ID:AulgEM010
どこかの小説の引用のよう。
それで、自分の考えは。?
0209名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/24(水) 12:34:41.64ID:3rwqdRAr0
あと4年で維新だったのに優秀な人の多い水戸藩も内部抗争で
悲劇続きこれはなんなんでしょうね。
でも田中は良くない、彼のような者がおおいから悲惨な結末を
迎えることになったのではないか。
0211名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/26(金) 09:41:40.56ID:DQv/rXR90
徳川斉昭に興味が湧き色々な本を読みましたが幕末の水戸藩がこれほど
内部抗争が激しく悲惨な結果になっていたとは知らなかった。
これからは幕末の水戸藩にもスポットライトがあたっても
いいのではないか、いやあてるべきだた思うがどうでしょうか皆さん!
0212名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/26(金) 09:59:02.25ID:OmERZMka0
>>211
同意。
もう薩長土肥はお腹一杯だし、歴史学も広く浸透してきてるから、
もうそろそろ水戸藩の歴史にもスポットを当てるべき。
ドラマ的にも相当なインパクトを与えられると思う。
0214名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/26(金) 13:43:14.46ID:DQv/rXR90
大河ドラマで烈公九代藩主誕生から
天狗騒乱まで幕末の水戸藩として
やってくれ!

高視聴率期待できまっせ!

しかし配役が難しい。
0215名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/26(金) 23:49:44.55ID:AMPtdu6D0
千葉周作や千葉栄次郎は、水戸では
どんなスタンスだったんだろう

激派よりなんか諸生党よりなんか
0216名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/27(土) 08:41:00.80ID:U4OA1J0R0
>>215
千葉周作と千葉栄次郎はかなり有名人なのに、
ほとんど水戸藩士だと認識されてないよな
0217名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/27(土) 09:47:55.44ID:nhCFoiks0
薩摩のように密貿易も出来ないし長州のような銀山も無いが、
江戸という大消費地がすぐ傍にある利点を生かして
特産品に力を入れていれば水戸藩の財政も結構潤っただろうに。
0218名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/27(土) 18:53:33.05ID:U4OA1J0R0
海保帆平は激派よりとみなされてたみたいだな
0219名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/28(日) 10:30:38.56ID:6VttruaS0
イスラム国を支持派しませんが
何故か天狗党とかぶるように感じるのは
私だけでしょうか?
0221名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/28(日) 15:21:21.39ID:7JLOt4e10
>>219
イスラム国は自分たちの国家樹立を目指してる
天狗党は自分たちの国家樹立を目指してない

イスラム国は自分たちの中からカリフを即位させてる
天狗党(水戸)は慶喜を指導者として待望してる
0222名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/28(日) 19:04:21.62ID:7JLOt4e10
>>216
尊皇攘夷がよその藩に広まったのは、
千葉道場の存在が大きいと思う
0224名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/29(月) 10:49:09.10ID:2yonBCuz0
水戸の荒試しというの知ってますか?
刀の強度を試すのですがそれにパスしないと
刀として水戸では出せなかったそうです。
信州の真田藩の荒試しも有名ですが水戸のほうが
過酷だったそうです。
だから水戸の特に新々刀は強靭で切味抜群なんです。
だから桜田門外の変でも徳村勝村が使われました。
0225名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/30(火) 09:33:53.15ID:4nbWEkUX0
知ってるよ徳川斉昭すなわち烈公も作刀してるし。
烈公の影響でしょ
それにしても水戸藩はすごいのに人材を失い可哀相だった。
0226名無しさん@お腹いっぱい。2014/09/30(火) 15:01:24.01ID:4nbWEkUX0
>224
徳村勝村ではなく勝村徳勝の間違いですね。
0227名無しさん@お腹いっぱい。2014/10/02(木) 08:53:53.46ID:01i0LFSg0
結局、斉昭公の藩制改革派は保守派の抵抗でそのほとんどが
実を結すぶことができず
その後も兄弟喧嘩はエスカレートし藩は壊滅状態となった。
ドラマ化はきついかな?
0229名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/08(土) 11:09:54.19ID:0SstMTic0
>>227
斉昭も書簡とかでは開国容認と吐露したり裏表の多い人物だけどね。
慶喜の一橋送り込みのように幕政介入意欲が強すぎて各所で無用の摩擦
を繰り返した人物という印象が強すぎる。
0230名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/08(土) 20:09:22.88ID:C5FIUPrv0
斉昭は、天下の三大名君。
0231名無しさん@お腹いっぱい。2014/11/09(日) 00:51:00.21ID:Zq3VS4ZO0
水戸天狗党の乱の鎮圧に、上州館林の侠客
「江戸屋虎五郎」が随行した、と口碑では残されているのですが
何か史料を調べる方法はないでしょうか。
虎五郎は姓、岡安。十手持ちでもありました。
0234名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/12(月) 13:24:20.63ID:tbCRP/PDO
ドラマ化するなら吉村の
天狗争乱を原作にすべき。
倒幕後の金次郎は描けまい
0235名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/12(月) 13:53:56.24ID:dLsCCgaT0
幕末の水戸と薩摩って政治的に影響力があり、藩士の過激度や幕府との距離感や思想など似た所が多いんだが、
なぜこんなに差がついてしまったのか・・・
やはり待ちきれなかったからなのか?
0237名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/23(金) 07:15:25.53ID:V8DmAzQw0
>>235
薩摩は寺田屋事件後に大きな内ゲバがほとんど起こらず明治を迎えたってのが大きいと思う。

まーでも結局、水戸は朝敵にならなかったし、
本圀寺勢も官軍入り出来たのが多いみたいだから、
勝ち組だと思うよ。
0238名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/24(土) 01:39:40.80ID:I+SG5QRjO
しかしだ、勝ち組とは言えども
長州藩の山口県、薩摩藩の鹿児島県、土佐藩の高知県、水戸藩の茨城県…

逸材が悉く中央政府へ輩出され、または有能者が幕末維新期に死んだ為に
無能者しか残らなかったのだろうか、はたまた子孫がだらしないのか。
現在は発展していない糞田舎で存在感も余り無い。
0239名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/24(土) 12:54:01.86ID:c7Ok0fcnO
若手老中堀田正睦を中心とする開国派と、沿岸警備、市中見回りを厳にし、異国船は打ち払うべきとする井伊直弼が対立
0240名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/24(土) 15:59:05.35ID:gvwr01R/0
>>238
明治維新への貢献度とその後のそれらの県の発展具合は
殆ど関係ないんじゃないの?
貢献度に応じて優先してインフラ整備したわけでもないし、明治以後
優秀な人材は中央に集まる仕組みだしね
0241名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/25(日) 19:10:17.48ID:O4WdHYRX0
   

水戸幕末争乱(水戸天狗党の乱) 関係図書目録
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/mitogaku/m01.html



忠が不忠になるぞ悲しき―水戸藩諸生党始末 / 単行本 2011/7 穂積 忠(著) 単行本: 295ページ 出版社: 日新報道 (2011/07)

武田金次郎 / 単行本 2001/4 大石 忠良(著) 単行本: 124ページ 出版社: 近代文芸社 (2001/04)
   
0243名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 20:18:52.54ID:cYheB+ve0
武田金次郎は、明治元年から官軍。内戦とテロは違うぞ
0245名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 21:17:33.43ID:eC1moH+c0
武田の行動はただの報復行為でありテロと同レベル
悟飯が悟空の敵討ちをするのとワケが違うぞ
0246名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 22:39:17.56ID:KezRmBLiO
栃木宿での焼き討ちは本体の意志では無いとしても、やってる事はISISやボコハラムと同じだな。
当時の位置付けは過激派テロ集団だった。
0248名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/07(土) 10:14:02.51ID:nRSQLCAA0
斉昭とか慶喜とか、皇国史観でいかがわしい。
0249名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/07(土) 14:55:50.99ID:VeuGn05Q0
ウィキペディアに武田金次郎「晩年は温泉で下足番やってた」とか書いてあるけど、
マジかよ。
0252名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/15(日) 12:33:50.17ID:H/FKzDcEO
>>242
吉村が「その後」の金次郎を
書かなかった理由が分かる
0253名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/15(日) 17:11:22.90ID:wtnMk9fa0
武田金次郎ってのは野球の清原みたいな人生歩んだんだな。
結局人間、他人からの信頼を失うと没落一直線ということか。
0255名無しさん@お腹いっぱい。2015/12/10(木) 17:51:40.81ID:zItdX3z+0
会津が南京大虐殺の捏造に荷担してる事が判明しました。
幕末の捏造だけではなく、大戦も捏造する会津。
ちなみに会津は、ドイツに対して国土売却を企てた事があります。
会津プロパガンダは反日プロパガンダ。会津はとんでもない売国地域です。

http://jump.2ch.net/?aidu65.net/aboutme.html

会津は反日協力者だ!!
0256名無しさん@お腹いっぱい。2015/12/25(金) 11:42:15.56ID:XO0sd/x/0
最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり
0257名無しさん@お腹いっぱい。2016/01/11(月) 20:54:01.70ID:wug9kH1O0
この事件って幕末を舞台にした大河ドラマとか時代劇とかでも徹底的にスルーされてるよな。
0259名無しさん@お腹いっぱい。2016/01/12(火) 20:57:44.70ID:WBr5al0c0
アフリカとか中東とか、中南米の内戦のような事が、この日本においてもあったという事が衝撃だ。

訳の分からない武装集団があちこちに割拠するという状況ってのは本当に恐ろしい事なんだな。
0260名無しさん@お腹いっぱい。2016/01/23(土) 21:21:47.16ID:Rfnszul50
武田金次郎が暴れまくってたときの水戸では広場にクビがゴロゴロころがされてたそうだからな。
どこの国の話だよ。
0261名無しさん@お腹いっぱい。2016/04/01(金) 01:04:19.91ID:XswEuv/YO
吉村の小説は金次郎の水戸帰還後
を書かなくて良かったな。
0262名無しさん@お腹いっぱい。2016/04/01(金) 19:44:08.50ID:7Vj3+AuO0
◆在日中国人


在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。

独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。

2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。

なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。
0263名無しさん@お腹いっぱい。2016/04/03(日) 23:36:42.48ID:3RpQQNuqO
水戸藩の内紛は血で血を洗う骨肉の争いだったからな。

薩長会に比べ明らかに悲惨。
0264名無しさん@お腹いっぱい。2016/04/26(火) 13:21:05.55ID:3D98uEFV0
>>257-258
いや、大河ドラマの「徳川慶喜」で天狗党の乱を詳しくやった

藤田小四郎・武田耕雲斎が筑波山で乱を起し、信州を通る最中に(和田峠だったかな?)
天狗党に加わった慶喜の側近の藤木直人と、藤木直人に兄を殺され妾を奪われた旗本の弟と
壮絶な決闘になり相打ちになったシーンが印象敵だった。

結局、天狗党は敦賀で頼りにしていた慶喜に捕らえられて、極寒の漁師小屋に繋がれて、
全員斬首されるというかなり悲惨なストーリー。藤田小四郎は田辺誠一だったかな。

武田耕雲斎は、慶喜の側近だったので慶喜の命を受けて筑波山に説得に逝って、
逆に説得されて首魁になり「ミイラ取りがミイラになる」パターンだった
0266名無しさん@お腹いっぱい。2016/05/02(月) 04:19:49.04ID:4MbPkmX10
>>265
もちろん史実と違うが、武田が元々藤田小四郎らの挙兵を止めさせるように
説得するために筑波山へ行き、藤田から逆に頭目になるように懇願されて
頭目になったのが事実
0267名無しさん@お腹いっぱい。2016/05/02(月) 23:18:43.94ID:JVycY+yP0
40年以上前のテレビドラマ「天皇の世紀」(原作:大佛次郎)では
武田耕雲斎=加藤嘉
藤田小四郎=峰岸徹(隆之介)
だった。
0268名無しさん@お腹いっぱい。2016/05/29(日) 20:22:36.04ID:ykDPaIVU0
         【スーパーサヨク覚醒】     マイト★レーヤ出現     【ゲスウヨ、貢米ポチ、理研は命乞いしろ】



日本から始まる世界的株式市場の大暴落

日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト★レーヤは出現するでしょう。彼は「匿名」で働いております。
非常に間もなくマイト★レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト★レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。
彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。マイト★レーヤが公に現れるにつれて、UFOが姿を表すでしょう。

最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。

差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
新しい政権は民意を反映し、先に食物と住宅、次に健康と教育、最後に防衛とするでしょう。
今日の製薬産業によって「盗まれている」薬草も保護されるでしょう。国民を裏切ると、自殺につながります。

アメリカによる他国の虐待に反対の声を上げなければなりません。

世界平和の脅威は、イスラエル、イラン、アメリカです。イスラエルの役割は跪いて、パレスチナに許しを請うことです。
彼らは今世紀(21世紀)をこの帝国が出来上がるアメリカの世紀と呼ぶ。しかし、そうはならないでしょう。
1国あるいは1種類の政治形態が世界中を支配するということは、この惑星の計画ではありません。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したいという衝動をコントロールするのは、マイト★レーヤの任務です。

世界演説は英国BBCが放送

マイト★レーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行しています。この時、初めての本当の身分を明らかにされます。
25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。
14歳以上のすべての人々はマイト★レーヤの言葉を彼らのマインドの中で、自国語で聞くでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=6cOvo6n7NOk
0269名無しさん@お腹いっぱい。2016/07/28(木) 18:12:51.45ID:6TPTfeCX0
江戸幕府は優秀なシステムだったけど身内を冷遇したのが不味かったな
水戸に限らず福井と尾張の親藩も新政府側に寝返ったから幕末は徳川一族のお家騒動とも見て取れるね
0270名無しさん@お腹いっぱい。2016/07/31(日) 19:25:32.47ID:p/X0//Lh0
>>212
大河ドラマは水戸、越前、宇和島辺りは見てみたいな
0271名無しさん@お腹いっぱい。2016/08/18(木) 23:07:44.75ID:DTtdjUETO
>>270
市川三左衛門を思い切り悪役にしたドラマが見たい。最後に逆磔になるのがカタルシスになるような。
0272名無しさん@お腹いっぱい。2017/01/08(日) 17:13:43.76ID:s4NtYJj30
救いの無い闘争だったな。
0273名無しさん@お腹いっぱい。2017/02/01(水) 14:02:35.92ID:CkAozldK0
英国ロスチャ→薩長→倒幕→日本の金融を支配
米国ロック→水戸藩→内部から倒幕工作→日本の政治を支配

ロスチャ→米国マンハッタン計画→反ナチスで集めた科学者→プルトニウム原爆→長崎に投下
ロック→日本海軍/京大・理研→荒勝・湯川・仁科→ウラン原爆→広島で地上起爆
0274名無しさん@お腹いっぱい。2017/03/13(月) 04:27:06.01ID:wayUOqq90
天狗争乱読んできたけども
松平頼徳は尊攘派でもなく、むしろ天狗遠ざけてたらしいけど
描き方のせいもあってか何だか特に不憫に感じた
0275名無しさん@お腹いっぱい。2017/03/29(水) 07:21:12.88ID:qoSMNA8i0
関鉄之介を匿った商家は内ゲバに巻き込まれずに現在も続いているようでよかったよかった
0276大和田 学2017/04/05(水) 02:58:54.34ID:IcwHqrfS0
私は大和田外記から数えて5代目当主です。このページに書き込みをされている
皆さまで天狗党の末裔の方はぜひご連絡お願いします。
代々伝わったお話もしたいと思います。
0277名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/07(金) 00:16:08.39ID:rnbxPb3+O
幕末に存在感が有ったのは
水戸徳川、会津松平、福井松平、彦根井伊、宇和島伊達、土佐山内
長州毛利、佐賀鍋島、薩摩島津
だったね。
0278名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/11(火) 02:29:23.73ID:SJZEd9yx0
ここのバカどもは以下の4行だけ勉強しとけば良い

英国ロスチャ→薩長→倒幕→日本の金融を支配(通貨発行権の掌握)
米国ロック→水戸藩→内部から倒幕工作→日本の政治を支配

ロスチャ→米国マンハッタン計画→反ナチスで集めた科学者→プルトニウム原爆→長崎に投下
ロック→日本海軍/京大・理研→荒勝・湯川・仁科→ウラン原爆→広島で地上起爆
0280名無しさん@お腹いっぱい。2017/05/06(土) 12:14:38.85ID:/GdaqaPt0
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
0281名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/31(水) 14:52:20.28ID:I/Y5AjPQ0
近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

4AYJL
0282名無しさん@お腹いっぱい。2018/05/30(水) 14:44:15.52ID:DxbUsvfmO
耕雲斎の一族を斬首して、のちに金次郎に五体バラバラにされて、芋畑に放り捨てられた篠田某について詳しい方いますか?
0283名無しさん@お腹いっぱい。2018/06/02(土) 01:41:26.99ID:4QElEpeX0
ここのバカどもは以下の4行だけ勉強しとけば良い

英国ロスチャ→薩長→倒幕→日本の金融を支配(通貨発行権の掌握)
米国ロック→水戸藩→内部から倒幕工作→日本の政治を支配

ロスチャ→米国マンハッタン計画→反ナチスで集めた科学者→プルトニウム原爆→長崎に投下
ロック→日本海軍/京大・理研→荒勝・湯川・仁科→ウラン原爆→広島で地上起爆
0284名無しさん@お腹いっぱい。2018/07/13(金) 03:56:09.04ID:pegqJS3X0
いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

I10
0286名無しさん@お腹いっぱい。2018/07/27(金) 19:50:14.49ID:J3LkDwyN0
【内容情報】(「BOOK」データベースより)

忠が不忠になるぞ悲しき 水戸藩諸生党始末
穂積 忠

水戸藩執政・市川三左衛門の生き様を描く。

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
穂積忠(ホズミタダシ)
1941年、福島県棚倉町生れ。北海道大学農学部卒業。筑波大学大学院企業法学科修了。経済学博士。
出版、製薬、特許事務所、製粉、広告、化粧品製造、技術翻訳等の会社勤務。
聖パウロ国際大学教授の傍ら調査、執筆活動に入る。
工業所有権法、消費経済学関係論文多数公表(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



この本↑ 出版社が倒産して絶版になっちゃったんだね。

だれか、譲ってくれないかな? 2000円ぐらいまでだったら、買いますよ。
0289名無しさん@お腹いっぱい。2018/08/04(土) 23:45:53.81ID:1G/KmrtF0
逆磔(さかばっつけ)の極刑
血が逆流して意識を失うまで逆さ吊りにし、また正常位に戻して意識を回復させるサイクルを繰り返す残酷な刑である。


凄惨な血の復讐
0291名無しさん@お腹いっぱい。2018/08/10(金) 18:55:55.86ID:u5DywdLv0
忠が不忠になるぞ悲しきという穂積氏の本は、セブンネットで定価で販売してるみたいですよ。問い合わせしてみてはいかがですか。
0293名無しさん@お腹いっぱい。2018/09/23(日) 22:17:18.65ID:zxTjvRbw0
維新前後の尊攘派の報復で人材枯渇したとか言われるが
当時の水戸の主流派からすれば政府に送り出すのが諸生の人材になりそうならそりゃ居ない方がマシだわな
0294名無しさん@お腹いっぱい。2018/09/24(月) 05:14:56.20ID:Yt1FmwiZ0
水戸藩は幕府内部から倒幕工作をしたようだな
だから天皇電通が作ったTBSが水戸肛門を美化しているわけだ

倒幕派が朝鮮系なのは朝鮮半島が目の前にあって否定のしようもない
そして幕府は華人系だが高句麗の連中が入り込んだという
それが水戸なんだろう
長州のバックはロスチャで、水戸のバックはロックだろう

やつらは核が大好きだ
水戸周辺の東大キャンパスは核物理関係をやっていて
その4つのキャンパスを地図上で見ると直線上にある
地下で繋がっている
311のときに放射能漏れを起こして、その直線上の放射能濃度が上がった
0295名無しさん@お腹いっぱい。2018/10/12(金) 09:26:53.09ID:1JWAEK3n0
水戸学と「尊皇」(上)黄門さま「南朝正統論」の真意は
https://www.sankei.com/life/news/181004/lif1810040012-n1.html

水戸学と「尊皇」(下)維新を先導して人材が絶えた藩
https://www.sankei.com/life/news/181011/lif1810110009-n1.html

 最近ネットの記事で、若い研究者の方が、「公武合体」と「尊皇攘夷(じょうい)」とは対立的な
概念ではないのだ、私はそれを明らかにした、と力説されているのを読みました。
あれ?とぼくは首をかしげました。それって、もう司馬遼太郎の昔から、指摘されていることではないのかな?と。
0296名無しさん@お腹いっぱい。2018/10/27(土) 19:01:00.58ID:GC/Ng07ZO
罷免した間部下総に代わり、安藤対馬守を、新たなる老中に迎えた。
時局多難なおり、
0297名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/04(日) 21:22:45.91ID:nDradwJfO
老中
板倉伊賀守勝静 小笠原壱岐守長行
0299名無しさん@お腹いっぱい。2018/12/31(月) 14:41:40.73ID:1/SnaVtr0
>>1
教育がどんなに恐ろしいものかを知らしめる事だよな、水戸学とか言っても思想の、なすり付けに過ぎない
その無謀な思想でここまで人間は動いてしまう、徳川は早く滅亡させるべきだったが、その徳川洗脳がここまで悲劇を助長させた事には変わりはない
侍の時代が良かったなんて妄想だよ、武士道なんてのは、ただのカッコつけの為だけの妄想に過ぎない
0300名無しさん@お腹いっぱい。2018/12/31(月) 14:43:38.62ID:1/SnaVtr0
>>298
茨城の水戸市とか、今は他からの他者とか多いということか?
どのくらい人口が減ったとか記録も残さないほど、壮絶だったんだろうな
0301老中・間部下総守詮勝2018/12/31(月) 16:17:37.90ID:2nHAH1+OO
まずは、水戸藩に、勅諚を返納させ、あの者たちの口実を、奪わねばなりませぬ。
0302名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/28(月) 08:20:47.36ID:mQofV19x0
「忠が不忠になるぞ悲しき」

この本、いまAmazonで出品されてるようだぞ
ものすごいプレミア価格のようだな
0303名無しさん@お腹いっぱい。2019/03/04(月) 19:32:13.88ID:fweK+Xwe0
ここで、尋ねてよいものか。水戸藩家老として名前が残っている、興津所左衛門と興津蔵人は、血縁だったのでしょうか。
0304名無しさん@お腹いっぱい。2019/03/05(火) 20:40:15.11ID:B7smV10nO
アド街の那須塩原の回を見た時、ここで金次郎はたった一人で何を思い生きていたのか…と寂しい気持ちになった。
0306名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/13(土) 22:27:58.47ID:XtdO2vMJO
諸生党の生き残りの子孫がまだ沢山いるんだから、武田金次郎もまだ手緩すぎるわ。諸生党根絶やしに出来なかった上に悲惨な末路が切ないよ。
0307名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/20(土) 18:48:33.16ID:yA4oD3Ob0
ここのバカどもは以下の4行だけ勉強しとけば良い

英国ロスチャ→薩長→倒幕→日本の金融を支配(通貨発行権の掌握)
米国ロック→水戸藩→内部から倒幕工作→日本の政治を支配

ロスチャ→米国マンハッタン計画→反ナチスで集めた科学者→プルトニウム原爆→長崎に投下
ロック→日本海軍/京大・理研→荒勝・湯川・仁科→ウラン原爆→広島で地上起爆
0308名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/23(火) 10:57:00.58ID:UdaNTzYDO
>>305
たしか去年の夏頃に、新潟県で諸生党の墓前祭があったんだが、子孫の方々も参加したと新聞に書いてあった。
0309名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/23(火) 14:39:53.13ID:rAQiBJY5O
名門意識に相反する貧困、質実剛健だが質素倹約の反動での暴走、閉鎖的で排他的、おまけに水戸学でトチ狂い、上が無能な結果、洒落にならなくなったわな。
0311名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/28(日) 16:13:25.65ID:OKvBNo5yO
市川三左衛門の残虐さについていけずに袂を別った結果、生き延びた諸生党の人って誰だったっけ?

なんか時代劇だかだと序盤なんだかんだ云いながら身内同士それなり仲良くやっていてそれなりに平和だった諸生党天狗党同士の日常が描かれるんだろうと思う。やがて悲惨なことになる前触れみたく。
0312名無しさん@お腹いっぱい。2019/05/01(水) 07:21:21.17ID:px+iGotZ0
>>306
金次郎は諸生党の家族には手を付けなかったし、周囲も「さすがにそれは……」という空気だったからね
一族皆殺しを平然とやる市川が異常なんよ
0313名無しさん@お腹いっぱい。2019/05/01(水) 22:01:12.78ID:gEJRDXKKO
市川も門閥の中でも過激な方なんだろうね。
天狗党でも激派だ鎮派だで分裂してたみたいに。
諸生党主流派でもない過激派な市川が主導権握ってしまい、藤田東湖死亡で斉昭暴走、斉昭死んで無能慶篤藩主就任でガタガタになり、市川暴走で最悪なことに成り果てたね。
0315名無しさん@お腹いっぱい。2019/05/30(木) 19:29:07.44ID:y8HJrJ2v0
慶篤ってドサクサにまぎれて天狗残党に一服盛られて殺されたんじゃないかなあ・・・
0318名無しさん@お腹いっぱい。2019/06/23(日) 12:52:15.43ID:Lxgyh+Zp0
キレたら止まらない地域性って
全国でも水戸くらいだと思うが、
どうやってこんな異常な性格が形成されたんだろう。
0319名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/01(月) 16:52:34.78ID:25JLM3Ly0
保守
0322名無しさん@お腹いっぱい。2019/08/27(火) 09:06:07.19ID:tIMzKo300
>>320
人材が枯渇するまで身内の殺し合いやったのは
日本史上で水戸だけ。
0323名無しさん@お腹いっぱい。2019/08/27(火) 17:11:12.28ID:m4wYvcF60
単純化した方が理解しやすいとは思うが、不幸の要因は細かい事の積み重ねであって
地域性や性格だけで片付けられるものじゃないだろう
0324名無しさん@お腹いっぱい。2019/08/29(木) 09:16:40.11ID:Ryq/26Z50
そりゃ細かい要因は色々あるだろうが、
地域性や性格はその人間の根底を成すものである以上
大きな要因であることは間違いないでしょ。
0325名無しさん@お腹いっぱい。2019/08/29(木) 13:00:38.85ID:YzImjgDI0
水戸の地域性や性格が全国的に見て特殊であれば、
幕末だけでなく様々な時代で噴出しているはずなのだが
他の事例はとんと聞いた事が無い

あくまで幕末の特殊な事情に依るところが大きいと俺は思うけどね
0326名無しさん@お腹いっぱい。2019/08/31(土) 10:52:27.06ID:hvS+nLr10
幕末以降も、テロに水戸人あり、です。
0327名無しさん@お腹いっぱい。2019/08/31(土) 21:58:06.07ID:RCuxsJlv0
そういや田母神が、イスラム国にオカマの人を送って自演被害者にするとき
自民党の水戸支部が関与してたわ

まぁ、電通・TBSが水戸光圀を美化している時点でアッチ側なわけだ
0329名無しさん@お腹いっぱい。2019/09/16(月) 08:59:30.19ID:JvTTajAFO
変にプライドが高く変に教養があり変に地位が高いけど家計は火の車なんて優しいものじゃない水戸藩
0332名無しさん@お腹いっぱい。2019/09/22(日) 17:49:49.99ID:+qFHX/Hg0
幕府が強力だったら水戸藩は取り潰しで、
天狗派は無論、諸生派も浪人になって、
日々の飯で精一杯となり、殺し合いなんかする余裕はなくなっていた。
0333名無しさん@お腹いっぱい。2019/09/22(日) 21:31:16.10ID:uCv5XHOh0
2021年の大河、渋沢栄一になったけど、天狗党の件はどうすんだろうな。
一切シカト?
0334名無しさん@お腹いっぱい。2019/09/25(水) 16:32:14.77ID:FZxnD4Xa0
>>332
でもいずれ戊辰戦争になるので、
そこでやっぱり殺し合いしてるでしょ。
0335名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/03(木) 20:28:44.06ID:HZwjr+VzO
幕末明治維新大好きーな大河ドラマって安倍ちゃん案件?
花燃ゆも西郷どんもオリンピックプロパガンダのいだてんもゴミクズで終ったけど、渋沢もゴミクズになりそう。
0337名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/05(土) 23:13:39.02ID:FG3roYM80
>>336
水面下では続いてると思う。
選挙なんかで、候補者がどっちの系譜なのか、ジジババ達はよく把握している。
0338名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/07(月) 20:18:56.37ID:gF+LkX5sO
今弁慶の不動院全海はキャラたってるな。
死後に肉を切り取られて味噌漬けにされたとか。
0339名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/11(金) 13:24:13.87ID:Dt/QhS3P0
>>337
天狗党員末裔の者だが、
それは大いに有り得る。
自分の周りでは、天狗党がやや不利な
ようだが…。
0340名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/12(土) 20:15:08.51ID:ziw1pDiX0
>>339
諸生の方が最終的に粛清された側で、家族ごと根絶やしにされてんのに
今は勢力を盛り返してんの?
0341名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/12(土) 23:49:20.01ID:EcJizT7rO
天狗の方が諸生に虐殺されて根絶やしレベルにされて諸生はまだまだ情けかけられた方じゃない?諸生を完全に根絶やしにしても足りないくらいのイメージがあるんだが。
0342名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/13(日) 07:32:15.28ID:H4BWo7uP0
そうなんだぁ。勉強になります。
たしかに天狗は敦賀で完全に処刑されてるな。
敦賀の松原神社行った。何とも言えない気分になった。
0343名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/14(月) 12:09:27.16ID:shp8vzlKO
お武家様だけじゃなくて農工商階級ですら天狗党だ諸生派だでいがみ合って殺しあってな。
水戸学なんかイカレカルトの国家神道にもつながるイカレ思想が尊ばれちゃいかんわ。
0344名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/20(日) 14:09:46.80ID:bgjDfxif0
歴史のイベントの宣伝で、県や市がよく使ってる文言
→「水戸学が、明治維新で大きな役割を果たした」

言いたくて仕方ないだろうが絶対に言えない文言
→「水戸藩が、明治維新で大きな役割を果たした」

苦しいねぇ。
0345名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/20(日) 19:37:08.42ID:3Hin2DHF0
桜田門や天狗党の乱みればフツーにお取り潰しだろうに御三家だけで
延命できたよな。長州の過激派に近くて行動力があるから始末が悪い
0346名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/22(火) 01:57:03.75ID:m8XwCDjz0
そもそも天狗党の行軍に参加してた連中って水戸人だけじゃなかったろ。
他藩の連中、それも武士でもない連中がたくさん混じってる。
0347名無しさん@お腹いっぱい。2019/11/08(金) 22:33:41.82ID:nrgq2+XW0
新・経産大臣の梶山って、静六の息子だよな。
つまり現内閣に天狗党の末裔がいる。
ということは・・・
0348名無しさん@お腹いっぱい。2019/11/17(日) 07:51:14.50ID:zus9gCTQ0
面白そうなスレ発見。
水戸の回天神社とかの施設を見学すると、田中隊を天狗党扱いしてないんだよね。あれは地域の教育委員会の方針なんかね。
あと昭和後半に彦根から水戸に寄贈された最初の白鳥が何者かに惨殺されたというのはほんとの話? そのあとまた寄贈されたのが千波湖の白鳥とか。
茨城はどこいっても幕末の陰惨な史跡があってやんなるけど、水戸はいまだに天狗になるやつらがいるそんな土地なんじゃないだろうね。
0350名無しさん@お腹いっぱい。2019/12/01(日) 05:15:39.30ID:pRDcdlLa0
全国魅力度ランキングワースト1位の茨城県
ほかにも飲酒運転死亡事故や自動車盗難件数などでいくつもワースト記録を持つ
暴走族も多い

これ県民性の問題でしょ
まあ内輪で殺しあって人材が枯渇した影響を今でも引きずってるからかもしれんが
0352名無しさん@お腹いっぱい。2019/12/05(木) 22:54:30.78ID:vcavVPhL0
近代初頭の時点で、モラルの模範となるべきまともな武士層がいなかったから、
あんなヤンキー県になっちまったということはあるだろうな。
0353名無しさん@お腹いっぱい。2019/12/06(金) 06:01:06.80ID:mOGYFO3i0
新幹線通ってるけど駅がない
東武鉄道走ってない

インフラぐだぐだで糞不便
0354名無しさん@お腹いっぱい。2019/12/22(日) 21:17:09.31ID:1RDbCsC50
水戸藩憎しで現在の茨城県も叩いてる奴は性根が腐ってるとしか思えん
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、女の腐ったような奴
0355名無しさん@お腹いっぱい。2019/12/24(火) 23:08:33.38ID:HxUt/Xqq0
徳川光圀って何か日本の為になるような功績の一つも残したか?
生前から死ぬまで素行は腐ってるし、大日本史編纂から生まれた水戸学は
天狗党を含め現代に至るまで日本に悲劇をもたらし、
爆心地の茨城はいまだに低迷したまま
0357名無しさん@お腹いっぱい。2020/01/14(火) 02:28:37.39ID:vmejSarS0
いろいろ残念な藩だよなぁ。
風土のせいか水戸学のせいか、気性の激しい民族性が形成され
日本史上類を見ない身内の殺し合い。
人材が枯渇した結果、徳川御三家から一転、テロリスト輩出国へ。
今でも良いイメージを持たれない茨城。
0358名無しさん@お腹いっぱい。2020/01/14(火) 02:29:37.63ID:SD0ercFg0
藤田幽谷さえいなければ

でもどのみち尊王と攘夷は結び付けちゃう奴が出てくるか
0360名無しさん@お腹いっぱい。2020/04/01(水) 16:46:39.37ID:UpjoQ57M0
鷲の山  やまより山へ入りぬれハ空吹く風の音ばかりして        西山(水戸黄門)
0361名無しさん@お腹いっぱい。2020/04/18(土) 23:32:14.47ID:826Q8kPUO
役職付きになったら鰻が食えるが
そうじゃないと鰻の串を削るって
例えってのが水戸藩というのがな
捕まって拷問受けた市川が食ったのが
鰻飯という妙な何か
0362名無しさん@お腹いっぱい。2020/05/31(日) 16:52:04.39ID:qinS8S5B0
水戸学にイエズス会が工作して国家神道になったのか
0363名無しさん@お腹いっぱい。2020/05/31(日) 18:12:19.50ID:siJxSZbB0
ロスチャイルドが薩長を支援して日本の経済を支配し
ロックフェラーが水戸を支援して日本の政治を支配したと言われる

黄門の梅里の梅は李氏朝鮮の花だ
満州=高句麗由来の電通が「水戸黄門」の映画で美化し
その後、電通はTBSを作ってドラマ「水戸黄門」や皇室アルバムを放送した
水戸は李氏朝鮮なのだ

徳川末期に高句麗系が入り込んだと言われているのは水戸のこと
水戸藩が徳川内部から破壊工作をし

長州が外国船を攻撃して、徳川に多額の賠償金を背負わせ
不平等条約を締結させるように持ち込んだ

長州下級武士たちは百済王族と言われるが、百済は高句麗から生まれた国であり
結局、長州下級武士も水戸も、李氏朝鮮だったと思われる
李氏朝鮮はキリスト教だから、水戸藩にも探せばキリスト教の痕跡があるはず
0364名無しさん@お腹いっぱい。2020/06/07(日) 04:00:43.26ID:urhmJNpB0
つーかどう見ても天狗党の蜂起を焚きつけたのは長州だろ。
蛤御門の変とタイミングがピッタリ合う。
0367名無しさん@お腹いっぱい。2021/01/23(土) 22:24:49.47ID:4sdMIXZQO
諸生側の一員扱いされてる結城寅寿の子孫の結城明姫って方が活躍されてるみたいで
0368名無しさん@お腹いっぱい。2021/01/24(日) 09:25:05.97ID:iO15ijNM0
>>352
割と面白い考察ではあるな
福井も似たような感じだけど逆に幕末に持ち直した。あと地主一族に武士経験者の多さも関係しそう、藩で財政安定したところは地主一族が武将経験者だったりするからな。
0369名無しさん@お腹いっぱい。2021/01/26(火) 23:34:10.69ID:OuT0mqle0
>>330
水戸と近い土地条件の酒田が藩政としては成功してるんだから言い訳出来んわ。
藩主と家臣団の能力の差が出たとしか思えん。
0370名無しさん@お腹いっぱい。2021/01/27(水) 07:33:22.36ID:1S6NMQ970
>>350
水戸学に咥えて日蓮宗で、テロリスト多産地だからな
0372名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/05(金) 16:44:01.97ID:tF5g1/hi0
歴史の類似
出雲王朝のヤマトへの国譲り=江戸幕府の西国連合軍への政権譲渡
パターンが同じ
@下の人間がかってに 征服軍と戦争し敗北する
A王朝は戦わずして政権を譲る
B下の人間が従わず 戦って敗北していく
記紀に土蜘蛛と呼ばれる 河内ナガスネヒコも北九州女王国も
出雲系なのは確実 土くもは出雲系の蔑称だろう
邪馬台国卑弥呼は 出雲系だから記紀には土くもとして出てくる
0373名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/06(土) 12:31:04.60ID:W1CpKnd/0
>>332
水戸藩を潰せなかったのは幕府の実力不足というより、面子と慣習の問題だろうね。
御三家を潰して問題ないなら吉宗だって尾張を潰してただろうし。
0374名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/06(土) 13:58:40.10ID:QYKLRCqE0
幕府はせめて水戸の人事介入とかしなかったのかね
0375名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/06(土) 16:07:52.93ID:LgsAC5rB0
新史料が発見。(´・ω・`)

【長野日報】幕末の水戸天狗党追討「和田嶺合戦」高島藩軍師の自戦記が発見 苦戦をつづり、幕府を痛烈に批判 [みの★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1612568100/
0376名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/06(土) 20:46:21.84ID:B6++17EEO
高島藩藩士が天狗党の今弁慶不動院全海の肉を遺体から切り取って味噌漬けにして食って親友から絶交された話があった
0377名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/10(水) 12:52:44.24ID:/XwA2aT10
大発勢の悲劇
0378名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/10(水) 17:55:55.95ID:iKHV0TRjO
>>377
大発勢もだが松平頼徳が悲惨だよ
松平頼徳死に至らしめた市川三左衛門が「忠が不忠に」と抜かしてるのは面の皮厚いわ
0379名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/11(木) 15:43:47.59ID:Fi9QnFBPO
水戸藩は水戸藩内でのことしか視野が持てなかったのがな
天狗党にせよ諸生党にせよ
0380名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/14(日) 11:17:57.24ID:9QR6AxTmO
成立してから爆弾数えきれないくらいに抱えていて、それらが幕末に完全に破裂しきった訳じゃなく
現在にまで禍根を残しているのが水戸藩の救えなさ
0383名無しさん@お腹いっぱい。2021/02/26(金) 21:31:18.82ID:kQzH07BTO
結果的に田沼のとこに半ば嫌がらせで水戸藩がやってきて焼香した程度で終ったけど、水戸藩が田沼のとこに攻めてきて虐殺したら、それはそれで面白いことになったかもしれないな(不快な事にならないとは言ってない
0384名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/01(月) 23:20:44.49ID:RcB8C8GA0
大河「青天を衝け」始まってもそれに関連する書き込みが全然ないってことは
やっぱ一般視聴者は天狗なんか誰も関心持ってねーだろ。
天狗の回の視聴率ガタ落ち見えたなw
0386名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/05(金) 13:38:58.02ID:7fxpYq670
お聞きしたいのですが、桜田門外の変は天狗党の一部が引き起こしたものと考えてもいいのでしょうか?
0387名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/06(土) 12:03:49.39ID:Of+op3cC0
地獄から帰った時に地震が起き続けていた
0390名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/07(日) 20:12:52.00ID:7oB54LThO
市川三左衛門とか鈴木石見守とか出てこないのかな、例の大河は
諸生党子孫に忖度しなくていいから、ヒャッハーな諸生党のキチガイぶりとか観てみたい
0391名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/07(日) 20:53:20.42ID:TbOjE5Cr0
今日の大河観てて思い出したけど、平岡円四郎暗殺の下手人って天狗関係者だったっけ?
どっちにしろ演じる俳優にとってはオイシイ役だな。
0392名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/15(月) 17:02:42.06ID:R3TCMJPL0
昨日の大河では藤田東湖が血まみれになって死んどった。
いよいよ悲劇の始まりだな。
0393名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/16(火) 22:23:00.39ID:AOOcZ5P3O
藤田東湖と戸田忠太夫?が地震で圧死
そこから結城寅寿死罪に徳川斉昭病死でガタガタだもんな
0395名無しさん@お腹いっぱい。2021/05/04(火) 03:48:26.58ID:u3BX6NVm0
徳川に高句麗系の連中が入り込んでいた
それが水戸だ

ロスチャイルドは薩長の朝鮮部落民に明治維新を起こさせた
それが成功して、ロスチャは日本の銀行を支配した

一方で、ロックフェラーは水戸を支援し、日本の政治・軍事を支配した

徳川は薩長と水戸の挟み撃ちになっていたのら

長州の朝鮮部落民の大内氏は百済系で
水戸は高句麗系、李氏朝鮮だ

光圀が梅里というヒントを言っている
梅は李氏朝鮮だ
そして李氏朝鮮はキリスト教だ
天皇家、安倍麻生、下関全体がキリスト教
晋三三井三菱三洋三星三和・・・みんなキリスト教
0396名無しさん@お腹いっぱい。2021/05/05(水) 00:19:27.50ID:4gZqfMkI0
いいからあの愛すべきキャラ、平岡円四郎暗殺犯が誰なのかはっきりさせろ
0397sage2021/05/22(土) 06:50:45.23ID:p/8WiQDq0
長州が諸悪の根源
美味しいところだけ持って行って水戸を明治政府に参加させなかった
0398名無しさん@お腹いっぱい。2021/05/25(火) 14:10:38.11ID:BQ44J2Qe0
この前の大河では、いよいよ筑波山で大決起大会やってたのに、
相変わらず過疎ってるスレだな
0399名無しさん@お腹いっぱい。2021/05/26(水) 07:13:59.25ID:m9ybXPIb0
茨城に引っ越して10年
天狗って何?
0402sage2021/05/29(土) 04:59:01.17ID:WtjDgiZT0
俺、諸生の子孫
コロナ前は市長も参加して、バス借りきって千葉の匝瑳市に諸生党の慰霊祭に行ったり(市川三左衛門の子孫や市長も参加)イベントもあったんだよ
0405sage2021/05/30(日) 08:34:23.82ID:O+GPILIl0
>>403
普段は話題にも出ない
武士身分自体、藩人口の3%くらいだから、その中の諸生党は極めて少ない
イベント(主に慰霊祭)のメンツも固定してる
天狗党のイベントは盛んで市の予算も付いたらしい
諸生から天狗に共同でイベントをしようと呼びかけているらしいが、相手にされていないとも聞いた

天狗は小説などでは美化されているが、実際は芹沢鴨時代の新選組みたいなユスリ、タカリ、町人惨殺をしていたので栃木、結城や群馬あたりの評判は極めて悪い
田中源蔵1人のせいにしているが、実際には藤田小四郎らも蛮行に及んだという記録も残っている
最近まで知らなかったが、天狗を追い払ってくれたというので、千葉匝瑳市の人達は、未だに諸生党の犠牲者を感謝を込めて供養してくれている
0406名無しさん@お腹いっぱい。2021/05/30(日) 17:38:37.40ID:BgqVLxK4O
諸生党子孫自体、水戸から逃げた人も多かったみたいだし、逃げ回りに逃げ回って水戸に戻った人もいたとも言う
城代家老の鈴木石見守の一族の方で諸生党と天狗党で別れた(鈴木縫殿が天狗党)とか、生き延びて水戸に戻った方がいたとか数奇な運命を辿られたとかあったみたいで
藤田東湖や戸田忠太夫、結城寅寿や斉昭がマトモな形で幕末明治まで生きてたらどうなっていたんだろうと思う
それはそれで揉め事抱えながら明治大正となったかもしれないが
0409名無しさん@お腹いっぱい。2021/05/31(月) 07:42:07.44ID:OqTk8I4Y0
この大河、天狗党の悲惨な結末とか強奪も描写するんだろうか?

今まで大河とかドラマで天狗党の生涯が細かく描かれたことあるの?
0410名無しさん@お腹いっぱい。2021/05/31(月) 20:55:08.11ID:9hAHSgrQ0
そもそも天狗は妻子含めて靖国神社に祀られているからな。
日本国家の公式の歴史上は天狗の方に義があって、諸生はあくまで逆賊という扱いになっている。
0411名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/02(水) 02:22:13.25ID:TCBQNq/w0
教育とは何を為すことなのか、を思い知らされる悲劇(実のところこれは喜劇でしかないのだけどね)。

人間社会の中では、絶対の真理などというものは思い付きの貧弱な連鎖でつながっている妄想であることがよく分る事例だね。
?
水戸は無駄な代償を支払ってしまった。
0412名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/06(日) 07:33:47.78ID:v3X0f2cs0
にわか丸出しだけど蒼天のドラマを見て天狗党に興味を持ちました
天狗党について詳しく触れてる本でおすすめってありますか?
小説があるみたいですが面白いですかね
0414名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/08(火) 13:43:57.37ID:C7s7pq7F0
>>405
諸生党の問題点は妻子を処刑して報復の連鎖を拡大させたことで天狗党の評判はあまり関係ないと思う。
藩内の争いで連座を問わないのは当時の不文律らしく(結果的に遺された家族が野垂れ死にすることはあった)、長州の正義対俗論でも(表向きには)妻子には手を出さなかった。
0415名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/11(金) 10:15:58.09ID:kE5+5lYC0
水戸黄門を美化する見て肛門はTBSが制作する前は電通が制作していた
電通は満州、高句麗、つまり李氏朝鮮の連中だよ水戸は

ロスチャイルドは薩長を支援して、日本の銀行を支配した
ロックフェラーは水戸を支援して、日本の政治・軍事を支配した
三菱はロックフェラーに資本注入されたものな

長州の朝鮮部落民の大内氏は百済系というが、百済は高句麗から生まれた国
水戸も高句麗系、李氏朝鮮だ

そして李氏朝鮮はキリスト教だ
天皇家、安倍麻生、下関全体がキリスト教
晋三三井三菱三洋三星三和・・・みんなキリスト教の三位一体
0418名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/14(月) 18:48:25.17ID:kUCF8crp0
今年の大河の天狗党は昨日のアレでもう終わり?
武田金次郎と市川三左衛門との最終決戦とかやらないの?
0420名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/16(水) 17:03:04.04ID:x/7Wm17yO
慶喜美化か
あっさり見捨てて見殺しとか清々しくやると思ってた
あと、諸生党による虐殺ヒャッハー映像化しないのは片手落ち
0421名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/18(金) 21:18:01.21ID:kfyPA4bP0
略奪三昧
0422名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/19(土) 13:30:24.02ID:M72IJL6g0
大河ドラマを見て天狗党に興味を持ち吉村昭の小説を読みました。田中源蔵と松平頼徳が面白い。特に喧嘩の仲裁に行っただけなのに切腹する羽目になった頼徳が面白い。
0424名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/20(日) 14:17:42.06ID:wGDxTFdH0
田中源蔵と松平頼徳の顛末は2本の映画にしたいな。
前者は旬の若手俳優は近いまくった破滅の美学。
後者は判断ミスが重なって大名なのに切腹せざるを得なかった悲劇を丁寧に描く。
0426名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/21(月) 19:58:35.14ID:B7ei8yu10
天狗残党と市川一派がドンパチやってた時は、慶喜が水戸に戻って謹慎してたんだろ。
もしかしたらそれ描くためにまた大河に出てくるかもしれないな。
0427名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/21(月) 22:40:38.03ID:jgVMvbb+O
よかろうのバカが天狗残党に毒殺されたとか、「俺は悪くねぇ!!」と発狂して死ぬとか尊厳破壊与太話が採用されたら笑うわ。
金次郎による愉快な状態を描いたら評価してやっても良いわ
0428名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/22(火) 20:25:07.32ID:jxVZf4RX0
もう渋沢の晩年とかどうでもいい。
「青天を衝け」の最終回は

市川三左衛門の逆さ磔の処刑
落ちぶれて温泉の下足番やってる年老いた武田金次郎

これでいいだろ
0429名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/23(水) 07:56:21.33ID:qN8xBLY20
慶喜も自分の兄貴が普通に病死したなんて、絶対信じちゃいなかったろ。
「天狗党のバカどもら、ついにやりおったな〜。次はワシの番か。ガクガクブルブル」って感じだったろう。
0430名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/23(水) 08:00:38.02ID:g2FKX7EIO
大昔のドラマで藤田小四郎を峰岸徹が演じていたのがあったな
野性的みたいな系統で
0431名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/25(金) 21:16:51.21ID:L2rDNg150
とりあえず栃木に謝れよ
0432名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/26(土) 08:24:41.36ID:wbP+4Y7s0
大河ドラマから天狗党に興味を持ち伊東潤、吉村昭の小説を読んだけどムチャクチャ面白いね。田中源蔵の暴走、松平頼徳の悲劇、下仁田戦争、慶喜の薄情、鯖蔵、逆さ磔、雪中行軍、、、
これだけで大河ドラマができる。

藤田・・・山田孝之
武田・・・吉田鋼太郎
田中・・・窪塚洋介
頼徳・・・遠藤賢一
田丸・・・西田敏行
市川・・・仲野大賀
山国・・・松重豊
慶喜・・・阿部サダオ
田沼・・・國村隼
0433名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/28(月) 15:41:17.25ID:KR5mNFOL0
市川が若すぎた

藤田・・・山田孝之
武田・・・吉田鋼太郎
田中・・・窪塚洋介
頼徳・・・遠藤賢一
田丸・・・西田敏行
市川・・・香川照之
山国・・・松重豊
慶喜・・・阿部サダオ
田沼・・・國村隼
0434名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/28(月) 20:07:00.48ID:Xpb4l83O0
遠藤憲一と滝藤賢一を間違えてないか?
0435名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/28(月) 20:19:31.00ID:KR5mNFOL0
>>434
正解です。
0436名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/30(水) 15:44:09.42ID:ggOj++SO0
慶喜公伝は一級の幕末資料であれまで叩くのは歴史が嫌いな人だろう
膨大な伝記や自伝というけど栄一本人は聞かれて語っただけで本人は出版する気もなくという感じだな
岩波の雨夜譚も昭和59年だからな需要が合って供給されたといったとこ論語と算盤は伝記というよりビジネス書
栄一の伝記書いてるのは弟子や孫だったり商業作家だったり栄一の膨大な資料は孫の敬三が残して近代史の資料になってる
敬三は民俗学やってて日銀総裁の時には田中啓文の古銭コレクションを預かってそれは貨幣博物館にある
0437名無しさん@お腹いっぱい。2021/06/30(水) 15:44:47.03ID:ggOj++SO0
幕府が欧米列強のカモじゃなかったとか現実無視もいいとこだな
お前が個人的に嫌うのは自由だが栄一の慶喜公伝が一級の歴史資料なのは事実だからしょうがないね
あれで幕末描いてる作品どれだけあるだろうかというほどだよ
Web上でも見れる栄一の伝記資料は孫の敬三が栄一の伝記を作ろうと思ってたが
これは全部そのまま残すべきものだ彼が判断して残したもので膨大な量なのでそのまま資料館になったとか
0438名無しさん@お腹いっぱい。2021/07/01(木) 13:26:08.09ID:HX9eKFKM0
>>419
内容は言いけど凄惨な
後日譚に触れて無いね。
0439名無しさん@お腹いっぱい。2021/07/02(金) 18:53:17.24ID:x1QzO9Dh0
>>431
乱暴狼藉やりたい放題だった犯罪者
0440名無しさん@お腹いっぱい。2021/07/04(日) 10:40:37.22ID:BK/NFSQu0
水戸藩=李氏朝鮮出張所
0442sage2021/07/09(金) 22:52:14.31ID:8X0aWhZ40
>>432
吉村昭は膨大な資料をあたって水戸に何度か来てたけど、伊藤潤は司馬遼太郎オタのファンタジーです
0443名無しさん@お腹いっぱい。2021/07/10(土) 03:24:43.97ID:S2A8xzca0
>>442
山田風太郎の魔群の通過はさらにファンタジーでした。
0444sage2021/07/11(日) 02:46:12.67ID:GJ1SKCCl0
>>441
普通にあるよ、てか興味無い、知らない人も多そう
会津の長州に対する恨みみたいな強烈な感情は無い
何かの機会で話が出ると、年配者なんかだと、お互い悪く言ったりってのはある
庶民はそうだけど、家老みたいな家格の高い家は違うのかも
(某大身の子孫と話した時、○○家とは応仁の乱以来、絶交しているなんて話が出て驚いた)
0445名無しさん@お腹いっぱい。2021/07/11(日) 19:46:55.46ID:GOoEUGqh0
水戸藩=李氏朝鮮出張所
0446名無しさん@お腹いっぱい。2021/07/19(月) 20:11:03.20ID:XNkLNIsx0
昨日の「青天を衝け」で原市之進があっさり暗殺されてたな。
この調子で徳川慶篤の毒殺か狂い死にまで一挙に行ってもらおうかw
0447名無しさん@お腹いっぱい。2021/07/20(火) 00:18:17.90ID:u14e8MtV0
市川三左衛門て家族は処刑されなかったんだよね。息子たちは戦死したけど息子の長男は生き残ったらしいし
武田金次郎の報復の基準がよくわからん。諸生党の家族もことごとく処刑してるわけでしょ
0448名無しさん@お腹いっぱい。2021/07/28(水) 04:27:29.46ID:kbSVp6gM0
田中愿蔵は田中家に養子に入った人。
最近は略奪の話ばかりで語られることが多いけど、10代の頃は早熟で超優秀だった。
天狗党に入らず幕末の動乱も無ければ出世コース。そしてイケメン。写真を残してない
のが残念
0449名無しさん@お腹いっぱい。2021/07/29(木) 19:00:35.70ID:ojdtLMfU0
>>448
ドラマ化したいよね。描き甲斐がある。
イケメンの滅びの美学として。
0450sage2021/08/01(日) 14:13:26.69ID:Xi5ctr6s0
なんの罪もない栃木の小町を叩き切った上に町中放火した男だぞ
0452名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/14(土) 19:30:09.06ID:f73wchn/O
>>444
今はWikipediaとかは長州の息のかかった歴史修正主義者が会津ヘイト染みた事を書いて改竄してるからね
被害者ビジネスだの観光史学だの言って会津の悲劇を矮小化させようとしてる長州の輩は許せない
0453名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/16(月) 16:14:54.83ID:+2ZaI5X+0
水戸藩=李氏朝鮮出張所
0454sage2021/08/16(月) 17:42:29.54ID:8KAD75uT0
>>452
新島八重みたいにリアルタイムで辛い思いをした人もいるのに
西の人間に、辛かったのは武士だけで町人は喜んでたとか言われると違和感半端無い
0456名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/16(月) 22:31:10.62ID:b0vcpEMhO
>>454
確かに会津藩が色々問題あったのはあったけど、その後に会津や東北が薩長主体の大日本帝国で虐げられていたのは確かなんだよな
西の奴等は維新絡みで調子に乗っていて不快になる
0457名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/17(火) 15:34:30.46ID:Mq7KlEbc0
そういや青天を衝けでバカ殿慶篤死亡の話がチョロっと出てきたな
0458sage2021/08/17(火) 18:39:01.62ID:GenXR3jC0
切腹させられたいとこの頼徳は気の毒だった
0459名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/17(火) 23:45:51.46ID:WAopP2rG0
んでも水戸家の血は未だ濃いという不思議、現当主にも数人男子居るんだっけか?
0460sage2021/08/18(水) 15:48:05.38ID:N3VEYNKL0
慶応ヨット部の次期当主なツイ垢は消しちゃったのかな?
0461名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/20(金) 16:32:06.32ID:qdeAvbUK0
>>444
普通にある方がずっと良いよね
時代が下っても恨みをずっと引きずったところで良い思いなど一つもないし

>>452
日本史板で会津プロパガンダスレに書きまくってる奴はもう病的でヤバいね
0462名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/20(金) 23:56:41.80ID:1fsEa3LF0
>>456
元来からして武家の棟梁たる称号が征「夷」大将軍だよ?w
言い得て妙だが維新も所詮は西の勢力が東の勢力を討伐という図式に連なるという点
歴史は繰り返すのかなんなのかと
0463sage2021/08/27(金) 01:55:31.79ID:LJWCmOpH0
土佐の友人の東北ディスが酷い
会津は薩長が解放したと信じてる
あと結構な歴オタなのに、小栗上野介も知らないし、河井継之助なんか恭順しなかったの一点でボロクソ
西と東じゃ違う歴史を習うんだろうな
0465名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/27(金) 14:42:28.14ID:Z7tyGhm70
>>454
八重のせいにだけするつもりはないが、女子供が武器もって反撃してきたら女子供でも殺されるし町ぐるみで容保のかたをもって新政府を無視したら、当然新政府は反乱予備軍扱いで容保と一緒に流すだろ。
まず容保が腹を切るか切らないかから論じないと。
0466名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/27(金) 19:32:30.90ID:eYPhl4hm0
鈴木石見も本家は悲惨で分家筋(縫殿)は安泰だっけか、たしか二家とも同じ墓地に墓あるんだよな
0467名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/28(土) 03:27:01.80ID:sNZ5HQk70
会津藩は幕末の悲劇として普通描かれるが、
会津側として戦っていたのが極悪非道の諸生党という皮肉。
まあ、イスラエルとパレスチナみたいなもんだな。
0468名無しさん@お腹いっぱい。2021/08/28(土) 08:29:59.83ID:wmDZ9pErO
水戸の場合、凄惨すぎる内ゲバで双方大概過ぎて話題にし辛い
会津は大概過ぎる部分もあるにはあるけど、薩長土肥の逆怨みや私怨晴らしの槍玉に挙げられたことや明治以降の薩長主体の政府からの理不尽な冷遇から被害者として扱われやすい
0469sage2021/08/28(土) 16:21:57.63ID:X3G37gGj0
>>466
鈴木石見の子孫は水戸で自転車屋をしていたが、墓所の維持が結構な出費で大変そうだった
その方が親族に配った本には、最後に市川三左衛門と分かれて1人自宅に向かったのは自宅にあった多量の金を取りに行ったため(一般には格下の三左衛門が仕切っていたのが気に入らず別れたと言われている)
石見が殺されてその金は運搬人足の手に渡り、明治の世にそれを元手に福島で議員になった者も居たという
0471sage2021/08/30(月) 02:31:56.07ID:zLEBfADZ0
>>470
末子の金六郎と女子は許された
0472名無しさん@お腹いっぱい。2021/09/01(水) 18:09:52.79ID:/9eTE3VN0
あーみたいね、その後娘2人の内養子もらって子孫自転車屋とかw
んでも当時親戚筋の人物が察して家族・縁者等引き連れて静岡・和歌山まで逃げたけれど駄目だったって話は
どんだけ執拗なんと?
0473名無しさん@お腹いっぱい。2021/09/01(水) 19:50:48.88ID:FK4rW3eLO
>>472
諸生党がやらかしたことを考えると仕方がない
普通なら女子も末子も殺されてもおかしくなかった
そんだけのことを諸生党はやらかしている
0474sage2021/09/06(月) 22:49:24.75ID:+LJvR8O50
放火、強盗、殺人と天狗の暴れっぷりが酷すぎて諸生は北関東では地域の保護者と感謝されていた
0475名無しさん@お腹いっぱい。2021/09/07(火) 12:44:08.89ID:VZ0XplIyO
天狗がそうなったのも諸生党が原因でもあり、ぶっちゃけ水戸藩の内部抗争が北関東に大迷惑をもたらした。
天狗党の家族皆殺しからの市川の暴走は諸生党の命脈潰したみたいなもんだからな
0476名無しさん@お腹いっぱい。2021/09/14(火) 13:48:25.98ID:TRX1/dM80
そんな凄惨な過去を持つ水戸藩も、歴史に興味がない人からすれば納豆のイメージしか無い悲劇

>>463
それ歴オタじゃなくてプロパガンダオタだな
0478名無しさん@お腹いっぱい。2021/09/20(月) 20:25:31.27ID:EBCuhESp0
なお、前回の大河「青天」では武田金次郎一派の報復劇についてはセリフで一言触れただけで終わり
0479名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/01(金) 02:23:58.69ID:K/bBbm+L0
関東の諸藩は参勤交代は6ヶ月交代。2月と8月。
しかし、水戸徳川家は江戸定府だった。
殿様は江戸にずっといる。

家来たちは何かというと江戸まで押しかけて、自分たちの意見を殿様に訴えた。
水戸で意見が対立すると、両派が団体で江戸まで押しかけた。
ふつう、家臣たちが殿様にああだこうだと訴えるようなことはしないものだが、
水戸家ではこれが当たり前だった。
殿様は江戸にいるから家来は江戸に行く。
殿様の気に入りの家来は江戸に行きっぱなしだった。
だから安政の大地震で、水戸斉昭の気に入りの家老・戸田忠太夫は小石川の水戸藩邸で
圧死する。藤田東湖もまた水戸藩廷内の家老などが住む切手長屋にいたが、地震で長屋
から飛び出し無事だった。しかし、火鉢の火を気にした母親が家の中に戻り、そこに又揺れが
来て梁が落ちてきた。東湖は母親をかばうために肩で梁を受け、圧死した。
斉昭の気に入りの両家老とも江戸にいて藩邸内で死んだのである。
斉昭と東湖の話など、水戸のことと思われるが、実際はほとんどが江戸藩邸内でのことである。

そうせい候慶篤のことだが、水戸から頭から湯気を上げた家来どもが幾人もでやってきて、
ああだこうだ言われても、殿様としては水戸のことなどほとんど何も分からない。
そうせい、と答えるしかなかっただろう。
江戸定府という制度が水戸藩をおかしくしたといっていいかも知れない。

天狗党が行き所を失い、慶喜様に訴えようということで京を目指したのも、長年の間
何かと言えば殿様に訴えるために江戸に出ていた習慣のせいだろう。
0480sage2021/10/01(金) 07:43:47.90ID:CpWNVZB/0
>>479
江戸で比較的裕福に暮らしていた藩士と水戸でケチケチ耐乏生活を送っていた藩士の仲も悪かった
天狗諸生のどさくさに紛れて気に入らない江戸詰だった藩士を斬り殺した話もあった
0481名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/02(土) 05:09:33.82ID:sgEAZfBw0
安政の大地震で戸田、藤田の両家老が死んだ。水戸の両田といわれた傑物二人が
同時に亡くなってしまったわけだが、安政の大地震は昼間のことだと思っていた。
夜の十時頃に起きたのだという。安政二年の10月2日。今の暦だと11月11日。
寝ているところを家が潰れて圧死した人が多かった。
老中の内藤信親は、夫婦で瓦礫の下に埋もれているのを掘り出されて助かった。
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4393

東湖も寝ていたのだろうが、庭へ脱出して助かった。
建物はまだ崩れきっていなかったのだろう。
母親が火の始末をしていないといって再び家の中に入った。東湖も一緒に戻った。
夜十時頃に火の始末をしていないとはどういうことだろうと思うが、たぶん火鉢の
中におき火をしていたのだろう。
その時に梁が落ちてきて、東湖は母を助けるために落ちてくる梁を受けて死んだと
いうのだが、東湖の娘の話では即死であったという。
家がドサッと潰れたのだろうか。
夜のことで真っ暗だったろうから、そのへんは誰にも分からないのではないか。
東湖が梁の下で潰れて死んでいたから、後から母親を助けるためというような話に
なったのかも知れない。
0482名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/02(土) 11:20:03.24ID:sgEAZfBw0
水戸弘道館は上士階級の子弟でなければ入学できなかった。
弘道館の生徒のことを書生ないし諸生と言った。
だから諸生党とは弘道館出身者のことである。
上士階級だから保守・門閥派であるのは当然だった。

このサイトからPDF書類を開ける。
下の三行を全部一度にブラウザのアドレス欄にコピペする。

https://www.google.com/url?sa=t&;rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=
2ahUKEwiF86SR7KjzAhUREIgKHV4vAVoQFnoECAMQAQ&url=https%3A%2F%2Fonkouhi.site
%2Ftengushosei_ichimura.pdf&usg=AOvVaw12kUUgXiy-veNrkWaFwbOH

天狗諸生の明治 という文献である。
会津から落ちのびた後の諸生党の人々の末路や、市川三左衛門の逮捕や処刑の様子も
詳しく載っている。
0483名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/04(月) 12:43:01.08ID:D3rkPLxC0
覚書 幕末の水戸藩  山川菊栄著

女権活動家でもあった山川菊栄が、水戸藩士の娘だった母親の青山千世から
幕末・明治維新直後の水戸の様子を聞き書きしたもの。

千世は一八五七年、水戸藩の儒学者の娘として生まれた。
11歳のときまでは江戸時代を生きた。
維新後は屋敷を追われ、あばら屋住まいをしながら、15歳まで水戸に住む。
その後一家は東京に出た。
千世はその後、東京女子高等師範の1期生となる。首席入学者だった。
もちろん千世の思い出話だけでなく、千世が母親や親戚故老から聞いた話、
あるいは 曾祖父・祖父の日記や手記などに書かれていた話なども入っている。
曾祖父や祖父は大日本史編纂局総裁などをつとめた。

流血に明けくれる幕末水戸藩の内実、ひとびとの暮らしぶりをいきいきと
描き出した資料。
たとえば、
藤田小四郎は、顔が おかめ にそっくりでみんなから「おかめ、おかめ」と
呼ばれていた。
父親の藤田東湖は目がギョロリとして鼻が尖り、猛禽類のような顔だった。
斉昭が鷹狩りの鷹のところで「虎之介、誰に似ておる?」とからかったという
話が残っている。小四郎は父親には全然似なかったわけである。
0484名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/05(火) 18:48:27.80ID:dQJHJJrC0
女優の沢村貞子は先祖が商家だったが諸生党に資金援助したので住み難くなり浅草で芝居の台本書きになったそうだ
0485名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/08(金) 05:40:33.27ID:H4/b3tyA0
徳川に李氏朝鮮成分が侵入していた
それが水戸だ
黄門が梅里というのは李氏朝鮮を指している

水戸は徳川の内部から倒幕した形だ
それで満州電通が作ったTBSが水戸を美化するわけだ
0486名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/08(金) 06:58:34.61ID:P3qrhaxR0
藤田東湖の父親の藤田幽谷は商家出身である。
ネットで調べると
「水戸城西南の下谷で古着商を営む与衛門の次男として生まれる。
10歳ごろ彰考館総裁立原翠軒の門に学ぶ。」とある。

彰考館総裁をやっていた学者の私塾に通っていたわけだ。
そうしたら、あまりに学問ができるので、天明8(1788)年、14歳のときに師の翠軒に
推挙されて彰考館に入った。
翌寛政1(1789)年正式な館員となったという。

いうまでもなく、彰考館とは大日本史を編集するために置いた修史局(史局)である。
二代藩主光圀が開いたものであることは誰もが知るところ。
江戸小石川の水戸藩江戸藩邸内にあった。(その庭が今も残る後楽園)。
14歳で見習いのような手伝いのような身分でそこに入った。

15歳で正規の吏員になったとは驚くが、当時は幕府の役所でもだいたい14,5歳で
見習いになった。
間宮林蔵も、子供の頃に家の近所で小貝川の堰止め工事があり、指揮をとる幕府の
普請方の下級役人たちの詰所に毎日遊びに行っていた。
測量の手伝いなどもして、測量術もあっというまに覚えてしまった。
そのうちに、ああすればよい、こうすればよいと工事に口を出すようになり、それが
ことごとく的を得ているので、役人たちはその利発さに驚き、採用を申し出たという。
昔は少年を小間使いのように使うので、農家の子でも何でも構わなかったようである。
勿論、役人になるにあたっては苗字が必要で、身上書に先祖からの由緒も書いて提出する。
林蔵の場合、間宮という姓も先祖からの系譜も名主さんから借りたのである。
だからウィキに「戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の篠箇城主の
間宮康俊の子孫で間宮清右衛門系統の末裔。 」とあるのは名主さんの家の話である。

藤田幽谷の場合も、商人の子でも役に立ちそうなら彰考館に入っても不思議ではない。
塾では神童といわれていたらしいから推挙されても当然かも知れない。
入った後、小間使いのまま終わるか立身するかは本人の才覚次第である。
藤田幽谷は正規の雇いとなった二年後、17歳のときに御徒に列せられ水戸藩の下級武士となった。
33歳のときに彰考館総裁となり、150石を賜る。
途中、大日本史の編集方針を巡って師であり総裁である立原翠軒と対立。長い間絶交していた。
翠軒とその一派が退くと、副総裁となり総裁となった。
優秀だがかなり角のある人物のようである。
0487sage2021/10/09(土) 02:32:37.56ID:GKwmvadA0
立原翠軒は幽谷を見出した恩人なのにあの仕打ち
0488名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 12:28:18.19ID:Iiv4pkjZ0
藤田幽谷はずっと江戸詰で小石川の彰考館で仕事してたわけだから、
家族も江戸の長屋住まいだったんだろうな。
だから息子の東湖も江戸言葉。
斉昭も江戸生まれの江戸育ちだから、ふたりで江戸弁でしゃべってたんだろうな。
0489名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/11(月) 06:31:31.39ID:YcA2JmFm0
水戸藩の小石川上屋敷というのは大きかったんだなあ。
敷地面積は本郷の加賀屋敷(東大になったところ)より広い。
http://oldmap.jp/j/oldmap/edo/90.html

加賀屋敷の北隣にも水戸藩の江戸屋敷があった。
今の根津にかけた日本医大のあたりか。
水戸藩の中屋敷で、上屋敷が火事で燃えたときに代わりにする
ための屋敷だったというが、外様の加賀前田家を警戒して
隣にくっつけたのかも知れない。

水道橋の御茶ノ水寄りの出口を出て、堀端の広いスクランブル交差点を
渡り、白山通りの歩道を遊園地の方へ歩いて行くと、道路際に
藤田東湖護母致命の処 という看板がある。
母親を庇って死んだ場所ということだから、このへんに長屋があったのだ。

水戸屋敷は今の白山通りの方まで突き出ていたのだ。
もとは石碑も立っていたのだが、道路拡張工事で撤去となった。
今は小石川後楽園内にある。
https://www.syougai.metro.tokyo.lg.jp/bunkadbpic/25205018801.jpg
こんなところに建てると、東湖の屋敷がここにあったと誤解する人も出るかも知れない。
0490名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 13:26:21.81ID:SLs4qXFg0
斉昭公は晩年、脚気になった。
脚気の症状が進むと、異常に興奮したり狂乱状態になったりするという。
斉昭晩年の狂騒状態は、尊皇攘夷の精神からというより、脚気が原因なのかも知れない。
尾張藩主徳川慶恕と息子の慶篤を連れて江戸城に不時登城し、井伊直弼を怒鳴りつけたとか、
やはり普通でない。
蟄居謹慎を仰せつけられ、江戸駒込藩邸で脚気の治療をしていたがいっこうによくならない。
(駒込藩邸とは >>489 の加賀前田藩邸の北隣りにある藩邸である。)
そのうち水戸での永蟄居となり、水戸に移る。
ふつうは脚気は江戸病といって、江戸でだけ発病し、国許に帰ると治るものであった。
しかし、斉昭の場合そうではなかった。
江戸で脚気になるのは、江戸では米を真っ白に精米して食べるためである。
地方ではきれいに精米せず、胚芽や糠のついた米を食べていた。
また雑穀もよく食べた。そのため、田舎に帰ればすぐに治ってしまったのである。
しかし、斉昭は殿様なので、おそらく水戸でも真っ白な精米を食べていたのだろう。
病は篤くなるばかりで、ある日厠に行くために起きて歩き出したところで倒れて死んだ。
脚気による心不全である。
脚気になると、心膜内に水がたまり、その抵抗で次第に心臓は動きにくくなっていき、
心不全に至ることが多いのである。
0491sage2021/10/13(水) 13:36:47.92ID:t+WOb/ln0
不時登城で謹慎、というのは規定も前例もなく完全に井伊大老の独断 
御三家の藩主に将軍でも躊躇するのに大老がこの処断をすれば水戸藩士がキレてテロ起こすのも無理はない
0492名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 08:03:21.67ID:KNG1EGj20
>>482
弘道館て下級武士は入学できないの?優秀なら誰でも入れたと思ってた。
斉昭は下級武士の支持を受けて藩主になった人だし
0493名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 08:10:53.03ID:KNG1EGj20
藤田幽谷と立原翠軒の時にできた対立が決着がついたようで実は解消されずに、火種を産んで
後戻り出来なくなって、2つのモンスターを誕生させちゃったよね
0494名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 20:46:51.21ID:TOh6+nMg0
江戸時代の武士の教育を担った藩校について。
藩校はそんなに古くからあったわけではない。
松平定信による寛政の改革あたりから教育熱が高まり、武士の子弟に漢学を
教える学校の設立が盛んになった。
日本における藩校の最初の成功例が熊本細川家の時習館である。
宝暦4年(1754)の設立。時習館の教育が世に名高くなり、他の藩でも寛政の頃
をピークとして設立するところが多くなった。だいたい1790年前後である。
十九世紀になって設立したところも多い。
水戸の弘道館などは天保12年(1841)になってからである。

会津藩の日新館は享和3年(1803)の設立。
教育内容は最初のうちは漢文の素読をするだけだった。
そのうち徐々に漢文の解釈もするようになり、中国の歴史なども学ぶように
なった。優秀な生徒なら、十五歳ぐらいで戦前の高等師範に相当する学力まで
達したといわれる。
ただし、高水準に至ったのは漢学に限った話だった。他は何もない。
一応算術も課目にあったらしいが、それが教えられたかは不明である。
そもそも武士の間では、算術を軽蔑する風潮があったのだという。
東京帝国大学総長になった科学者・山川健次郎は日新館の生徒だったが、
戊辰戦争で中断される十四歳までは授業を受けていた。
しかし、九九を覚えたのはアメリカ留学直前の十七歳のときだったという。
算術が教えられなかったか、誰も勉強しなかったかのどちらかだろう。

日新館には水練のためのプールもあった。これは体育というより武道としての
鍛錬だった。入学は十歳で、千人ほどの子供が学んでいた。
最初は誰でも受け入れたが、入学希望者が多くなり、結局上士の子だけを
受け入れるようになった。

会津藩では伝統的に子供が六歳になると「什」(じゅう)という地域ごとの子供の
グループに入り、年長者から指導を受けた。薩摩のク中のようなものである。
文字もここで年長の子供から教わった。
規律は厳しく、違反すると円くなった座の中央に座らせ、追求を受けた。
一同の前で「無念でありました」と謝罪すれば済む場合もあれば、全員から打擲
されることもあり、最も重い罰が「派切れ」という村八分であった。
年長者の言うことに背いてはなりませぬ、というのが第一の誓いであった。
会津白虎隊の悲劇は、この什の組織のままに戦った結果である。
大人の武士に率いられていたが、途中から行方をくらましてしまった。
その後は年長者が率いた。年長者が切腹と決めれば全員迷わず死ぬほかなかった
のである。
0495名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 20:49:07.88ID:TOh6+nMg0
明治維新当時、 276藩のうち 215藩が藩校を開設していた。
幕末の争乱の中で制度改革に着手したところもあり、教育内容を変える藩校も
多かったあった。国学(皇学とも言った)を教えるとか、あるいは洋学を教える
ところも出てきた。

藩校は当初8歳ぐらいから15歳ぐらいの子弟を対象にした漢学塾のようなもので
あったが、幕末に近くなると剣術を中心とする教練所の性格を帯びるようになった。
長州藩の藩校明倫館の槍術・剣術道場である有備館は現在も残っている。
pleasure-bit.com/698.html
剣は文久2年から江戸の斉藤弥九郎の神道無念流を藩の公式流派とした。
斉藤道場の高弟たちが萩まで指導に来ていたのである。
他に水戸の弘道館が北辰一刀流であるのは有名である。
年齢も22歳ぐらいまでの者を対象にするようになり、漢学を終えた者に洋学や
西洋兵学などの教育を施した。
例えば山口藩(萩)は藩校明倫館に洋学を取り入れた。下関戦争(1863−64年)で
列強の強さを知ったためである。その後も藩としては尊皇攘夷を唱えながら、
海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備を近代化しようとしていた。
福井藩では安政四年(1857)に藩校明道館内に「洋学所」(洋書習学所)を設け、
洋学と西洋兵学を教えていた。松平春嶽が開明的であったためである。

土佐藩などは、もともと教授館(こうじゅかん)という藩校があったが、時代に対応
した子弟教育をするため、文久2年(1862)、到道館という藩校を設立している。
教育内容は剣術の他、砲術や練兵や貝太鼓といった軍事関係のものが多かった。
actland.jp/contents/kobako/11.html
(リンクされないときはhttp://を頭に付ける)。

明治元年、新政府が今後西洋医学を採用する方針を明らかにすると、藩校の中に
西洋医学校を設立する藩が相次いだ。

藩校は廃藩置県でその存立の基礎を失い、ほとんどは消滅したが、医学校等で
県に引き継がれたものもあった。しかし明治5年8月、「学制」発布に伴い、「従来
府県において取り設けそうろう学校」はすべて廃止する旨の布達があった。
これによって藩校由来の学校のほぼすべてが消滅した。
鹿児島では鹿児島医学校として存続させたが西南戦争で廃校となる。
佐賀の好生館病院など、病院という形で残ったものがいくつかあった。
熊本では時習館設立の翌年、再春館という医学校が設立された。
これは時代的に漢方医を養成するための学校で、幕末に各藩で作られた西洋
医学校とは性格を異にする。
0496名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 20:50:53.61ID:TOh6+nMg0
18世紀末ごろに作られた藩校は、ほとんどが熊本時習館をモデルにしたものの
ようだ。入学は8歳からで、句読生→習書生→蒙養生(もうようせい) と上に行くごとに
生徒の数は減っている。義務教育じゃないんで、勉強に向いていない子はやめて
いったのだろうか。句読は漢文の白文読み下し方の勉強。昔は自分で返り点などを
打ちながら読み下していったのだ(教科書には直接打たないが)。
習書とは習字のことだが、白文をそのまま書いていったのだろう。先生が読み下した
漢文をそのまま漢文で書けなければいけなかったんだろうと思う。自分の書いたものに
句読点を打つ練習もしたかも知れない。
ともかく、習書の過程で子弟は唐流を仕込まれたということは分かる。
蒙養というのは江戸時代中期に書かれた子供向けの道徳書みたいなもの。
中井竹山という儒者が書いたもので、ベストセラーであった。
明治になっても出版されていた。よほど普及してたようでネットにも写真がたくさん出てくる。
大きな御家流の文字の本である。習字の手本でもあったようだ。
子供はこれで御家流の文字の読み書きを習ったんだろうな。
「一事を行ふにも、親の心に叶はざるかを能々考うべし。僅(わずか)の事も一分(いちぶ、
自分の心)に任す事、必ず之有るべからず候」。
「老人長者と同道の節、必ず其の跡に従ひ申すべく候。仮初(かりそめ)にも先に立つ
べからず候」。

俺が子供だったらこんな勉強をさせられたら続いたかどうか分からない。
落第制度があり、今の小学校とちがって容赦はなかった。
実際だんだんと生徒が集まらなくなり寂れた藩校が多かったようだ。
天保ぐらいから改革が図られ、軍事教練や撃剣に力が入れられるようになると息を
吹き返し、何倍もの規模で営まれるようになった。

藩校の登下校は「連」という地域グループごとにまとまってしていた。
「連」という言葉は西日本でよく使われる。阿波踊りのグループも連という。
昔の武士たちは身分・職分ごとに住む場所が決まっていたから、地域ごと
に連を作れば親たちはほとんどが同僚同士であった。
同じ階層の地域社会に属する少年たちが一つの連でまとまっていた。
初登校の日は句読師などの先生たちが迎えに来て、連の子供たちを引率して
登校したというのが微笑ましい。
今の小学校の入学式のようなもので、子供達は新調の絣の単衣に袴を着け、
腰に小さな二刀を差し、緊張した面持ちで歩いてゆく。
道端の親や祖父母たちも礼装だったろう。母親はこの日のために留袖をあつらえ
丸髷を結い、化粧をした。
少年たちの後ろを親たちが付いてゆく。藩校の門までは行ったのではないか。
一種のイベントのようになっていたと思われる。
0497名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 12:18:19.35ID:OFQ52SflO
水戸は貧しすぎた上に変に地位があるから拗れに拗れて、思想以前に怨恨で殺しあう有り様
0499名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/04(木) 22:14:21.49ID:XowSySoq0
水戸藩は江戸定府であったため、藩士6000人の3分の1、2000人もが江戸住まいだった。
だから水戸藩の江戸屋敷は宏壮だったし、数も多かった。
後楽園で有名な小石川上屋敷をはじめ、駒込上屋敷(一時中屋敷)、小梅(向島)下屋敷、目白・本所にも
中屋敷・下屋敷を置いたこともある。
駒込邸は彰考館の前身の史館が置かれ、明の学者朱舜水の屋敷があった。

2000人もの藩士を江戸に常置するのは費用面で大変なことだった。
表高35万石、実質28万石の大名としては為しがたいことで、最初から貧乏藩となるに決まっていた。
0500名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 16:49:11.66ID:hs9eV1aTO
年貢取り立てが厳しかったみたいだし、学問できたら成り上がれるなんて斉昭の時代に希望を持った人もいたのかな
0501名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/09(火) 05:48:11.10ID:PR/zhP9l0
弘道館の生徒は、身分別に毎月の最低の出席日数が決められていた。
身分により15日間、12日間、10日間、8日間と定められており、身分の高い者ほど
登館すべき日数が多くなっていた。
身分の高い者ほど多く学ぶ責務があるという考え方による定めだという。
実際は、封建的身分制との妥協の結果だろう。
人の価値を才能や学問だけで決めるようになれば、身分制が崩れてしまう。
そうした結果を避けるために、身分の高い者ほど多く学ばせるようにして、下の者に
侮られないように配慮したのだろう。
二男・三男より当主・長男の登館日数を多くしたのも同じ考えからである。
さらに、藩校での成績がよければ出世するといった扱いは無かった。
身分と学力は関係しないようになっていたのである。

登館日数の定め
1.布衣以上 並(ならび)に300石 以 上の当主嫡子は 1ヶ月 15日詰
  布衣以上 ならびに300石 以上の次 ・三男は1ヶ月 12日詰
2.物頭 ならびに150石 以上の当主嫡子は 1ヶ月 12日詰
  物頭 ならびに150石 以上の次男以下は 1ヶ月 10日詰
3.諸士以上の当主嫡子は 1ヶ月 10日詰
  諸士以上の次男以下は 1ヶ月 8日詰
4.諸士以下被召出以上の当主、伜は勝手次第

「布衣」とは狩衣(かりぎぬ)のことである。
殿様の前に出るときや儀式のときに狩衣を着る身分の者。
幕府では上位の旗本(従四位上〜従五位下)を指す。
幕府ではだいたい三千石以上の旗本がこれに相応する。
布衣以下の武士は裃を着用する。
士分(石取り)でないと裃も着用できない。
幕府の御家人は裃を着ることが許されず、登城するときは紋付きを着た。

物頭(ものがしら)とは、槍組・鉄砲組・弓組など足軽組の隊長を言う。
御徒衆を率いる地位にある上級武士である。

諸士とは普通のさむらい。
禄を持つ者、すなわち石取りの者がさむらい(武士)である。
たとえば100石の禄があるということは、本来は100石に相当する知行地を
持っているということだった。小さいながら領主ということである。
(建前上は)領地を持っている以上、その名前が藩士名簿(名簿の具体的名称は
藩によっていろいろである)に載っているのは当然である。
士(侍)は騎乗の資格があり、戦になると馬に乗り、槍持ちや中間などの従者を
従えて戦場に出る人たちのことだった。
0502つづき2021/11/09(火) 05:48:52.84ID:PR/zhP9l0
石高でなく、扶持米を貰って生活する者は武士に数えられない。
「諸士以下」の者とは、御徒(おかち)・足軽とか同心のことである。
(御徒と足軽以下の違いは、前者は世襲で扶持を貰い、後者は原則一代限り)。
「被召出」(お召し出し)とは、諸士の二男・三男などで新たに取り立てられ、
家臣となった者を言う(この場合、一代限りが原則で、当人が引退すれば家は
終わりだが、実際は息子や近親者が新規召し抱えで一代限りの奉公に就くと
いう形で家を継ぐことが可能だった。足軽なども同様である。)。
こうした人たちは藩士名簿に名前が載ることはない。
組頭の名前と、その下に「以下三十名」とか「五十名」とか人数が記される
だけである。
これら諸士以下の者たちには登館日数の決まりがなかった。
勝手にせよとのことである。
これは要するに、来ても来なくてもどうでもよいということである。

水戸藩では文武兼備を理想としていたので、文館で学問や教養を修めさせると
ともに、武館で武芸の鍛錬をさせた。
片方だけを学ぶということはできない。
「朝文夕武(ちょうぶんせきぶ)の法」と称して、午前は文館で学問、午後は
武館で武道に打ち込むというのが日課であった。
0503名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/09(火) 23:10:56.33ID:FnFbnU1zO
他藩、しかも長州だけど山縣有朋は足軽以下の中間で学問じゃなく槍で身を立てようとしていたな
最下層の武士とかは文武両道でも出世難しいのは昔からだろうけど、出世したらしたで悲惨なのは天狗党とかその他多いのがね
水戸は天狗党も諸生党も悲惨なことになったが
0504名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 01:57:05.13ID:wG9kiLMy0
水戸藩は李氏朝鮮人だ

黄門が梅里と言うだろ
梅は李家の花、梅の里は李氏朝鮮

それが、明治維新では幕府内部から倒幕に加担した
0505名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 01:02:52.36ID:RySl67UE0
記憶違いでなければ、何年か前に観た津川雅彦のファミリーヒストリーで、先祖が諸生党側の商人だったから、天狗党に襲われ身内が何人も斬られた、命からがら水戸から逃げた、という話だった。
0506名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 23:16:58.41ID:pdM1RN7oO
津川雅彦も晩年の醜態が…
諸生党は会津藩と比較して同情されない感がある
最近は会津藩ヘイトが出回ってるが、それって薩長関係か明治政府崇拝のネトウヨか?
0507名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 19:10:29.36ID:M7ioWf1C0
将軍家から藩主を迎えていたら、平穏無事な幕末を迎えられたと思う
0509名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 03:32:25.48ID:DLc8IC1x0
斉昭を生かしておくと将来大変なことになると思い毒殺しようとした人がいた
未遂に終わったけどその予見は正しかった
斉昭は後醍醐天皇と同類で将来に禍根を残した人
0510名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 08:56:06.27ID:0qlxgh230
>>506
>津川雅彦も晩年の醜態が…
何かあったっけ

>最近は会津藩ヘイトが出回ってるが、それって薩長関係か明治政府崇拝のネトウヨか?
だろうね
日本の右傾化は近年とみに顕著だし
0511名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 10:15:08.08ID:DLc8IC1x0
>>510
津川雅彦も晩年は右寄りな発言が多かった、ということでは?
東條英機役の映画に出てから、政治的な発言を躊躇しなくなった印象がある
別に醜態とは思わなかったけど
0512名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 11:03:55.13ID:3XgVsxNs0
水戸藩は攘夷論が先鋭化せざるを得なかった。
なんせ水戸の下町である大津湊の沖にはひっきりなしに捕鯨船が来た。
海岸から目と鼻の先に、七隻もの捕鯨船が停泊していたこともあった。
何故そうだったかというと、地政学的にアメリカの船は福島の相馬・いわき
辺りから今の北茨城・五浦海岸・水戸近辺、大洗海岸あたりに出没する
ようになっていたからである。

第二次大戦時、日本は風船爆弾を飛ばしたが、その発進基地は水戸周辺の
海岸だった。冬の寒気流が真上を通りやすいという理由もあったが、何より
アメリカ西海岸に近かったからである。
いわきから水戸あたりは、アメリカのカリフォルニアやオレゴンと太平洋を隔てて
向かい合っている。アメリカの捕鯨基地はオレゴンやカリフォルニア北部に多かった。
捕鯨船が日本に近づけば、そこが水戸に近い海岸であるのは当然だった。
0513名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 17:34:44.39ID:3kHANT280
>>511
右寄りな人間ですら津川雅彦の有様はあまりよく思ってなかった
関西の右翼番組「そこまで言って委員会」で自ら降板するまで
出演していたけど、三宅久之の代わりのご意見番的な役回りとはいえ
三宅と比較して学がないのもあって「津川さんご意見番面しないでくれないかな」
なんて感じだった
0514名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 18:51:04.27ID:g/hzLMSGO
>>510
明治政府崇拝のネトウヨは馬鹿の集まり
馬鹿だからネトウヨになるというサンプルの典型
いくら会津藩にも問題あるからって薩長土肥主体の明治政府の理不尽さとか、その後の薩長土肥ですら悲惨だったのはスルーする
吉田松陰が行き帰り会津藩立ち寄った話とか、どう解釈してるんだかな
0515名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/19(金) 16:01:56.23ID:kaympWnU0
諸生党というか門閥系統ですら戸田忠太夫の長男だかが市川と対立して
牢屋にぶち込まれたって話を聞いたことがある
市川のあんまりにも過激な有様に批判的だったのか、市川の暴走ぶりが
気に食わなかったのか
0516名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/19(金) 20:46:37.25ID:GGM+d38p0
長州朝鮮族と水戸藩は同じ連中であった
光圀の言う梅里とは李氏朝鮮だったのだ

つまり幕府は内側からも攻撃を受けていたと
0517名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 03:26:46.90ID:CEOXjOfk0
市川三左衛門の子孫に会って話をきいてみたい
0518名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 12:48:33.62ID:g9jgD+KF0
斉昭のやったようなことは、斉昭の爺さんの六代治保、父親の七代治紀がすでにやっている。
斉昭の施策はそれらの焼き直しといっていいものばかりである。
唯一斉昭オリジナルなのは、仏教寺院の弾圧。
寺院は破却、仏僧は追放という厳しい措置がほとんど。

徳川斉昭「不慍録」
わが家中や領民であろうとするならば、僧侶を賊徒と思い、いっさい仏教を信じてならない。
もし仏教を信じたり、頭を剃って神主の墓所にまいるなどしたら、自分の死後万年の後も
その者の子々孫々にいたるまでただではすまさない」。

日立市域の調査によれば日立市の地域では
幕末に37ヶ寺あったのが11ヶ寺に減少したという。
http://saki-archives.com/2017/religious_domination.html

真言宗16ヶ寺が1ヶ寺に、荘sエ宗9ヶ寺→5ャ鮪宦A天台宗3ヶ寺→2ヶ寺、一向宗2ヶ寺と
臨済宗1ヶ寺はそのまま、浄土宗1ヶ寺→0、日蓮宗1ヶ寺→0となった。残り合計11ヶ寺。
日立市の周辺だけでこの有り様である。

この結果、斉昭は仏教界の憎悪を一身に集めることになった。
幕府と仏教勢力との結びつきは強かったから、幕府首脳陣に仏教界の働きかけがあり、
その結果斉昭の晩年は蟄居謹慎ばかりになったのではないかという見解もある。
0519名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 14:37:29.24ID:m+lsyzHP0
日立という会社は田布施出身
日立市は水戸の隣

田布施と水戸は繋がってるな?
李氏朝鮮人だろう

水戸は江戸の李氏朝鮮出張所だな
0520名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 15:07:18.63ID:tdWUuROB0
>>83

狂介の首だけでも取っといてくれたら丸焼けに原爆は無かったはず。
0522名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 22:24:37.79ID:CEOXjOfk0
山川菊栄は天狗党に対して手厳しいね
天狗党は集団強盗、武田耕雲斎は鈍物と当時の人々は言っていたと「幕末の水戸藩」に書いている
山川菊栄本人の認識も同じだったろう
0523名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 01:11:19.01ID:1k945U1u0
水戸藩は歴代藩主が異常者だよ
だから過激で異常な藩士が生まれる
大老を暗殺する連中が出て、普通なら藩は取り潰し
天狗の暴走を止めなくてはという危機意識から、諸生党がやり過ぎてしまったのは、わからなくもない
0524名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 01:52:13.99ID:1k945U1u0
かつては殺人集団と忌み嫌われた新選組が、今では歴女に人気らしいから、時代は変わるもんだね。
諸生党の評価もいつか変わることがあるのかな。
0525名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 06:59:27.55ID:/fjMs4ao0
>>521
いや、廃仏毀釈に明治政府は関与していない。

明治元年の「神仏分離令」と呼ばれる太政官布告、および明治三年の
「大教宣布」を出しただけ。
これを後ろ盾にして民衆が暴れ回ったんだな。
0526名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 08:24:57.57ID:a0ZmXvKjO
>>524
悪名高い側面ある天狗党の悪名を作る元凶にして天狗党の家族を虐殺してオーバーキルしたために却って天狗党に同情向けられる切っ掛け作った諸生党は人気とか再評価とか難しいよ
0527名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 08:32:23.72ID:a0ZmXvKjO
それに諸生党も過激な市川三左衛門主導でやらかしまくったからね。松平頼徳の一連とか、あまりにも酷いし門閥の側の戸田忠太夫の長男を牢にぶち込んだりとか、天狗党の家族虐殺とかで評価下がるのは仕方がない
0528名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 12:11:37.90ID:/fjMs4ao0
昔の大名は将軍の偏諱を賜ることがよくあった。
偏諱を賜るとは、元服のときにつける正式の名(諱、いみな)に、一字をもらうこと。
ただし、将軍から一字を賜るのは元服の時でなく、藩主就任の時のこともある。

斉昭の斉の字は、将軍家斉の斉の字を貰ったのだ。
島津の斉彬もそう。元服のときの将軍が家斉だったので、斉の字を貰って斉彬とした。

斉昭の先代の水戸家8代の徳川斉脩も同じく斉の字をもらって斉脩(なりのぶ)とした。
斉脩は斉昭の兄だ。継子なくして死んだので弟の斉昭に藩主の地位がまわってきた。

斉脩・斉昭の父・7代治紀はコ川9代将軍家治の治の一字をもらって治紀とした。
その父親の六代治保も家治の治の字をもらった。

遡っていってもずっとそうだよ。たとえば光圀の光の字は家光の光を貰ったのだ。
はじめは光国という名だった。国を圀という則天文字に変えたのは53歳のとき。
何故字を変えたのか、理由は分からない。
0529名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 18:58:02.43ID:QVmLmjw00
門閥派の結城寅寿を処刑した斉昭が悪い
その後の派閥闘争を後戻りできない激しいものにした
殺らなければ殺られると相互に思うところまで駆り立てて、その結果が市川三左衛門の暴走
市川三左衛門にも言い分はある
0531名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 23:11:49.89ID:a0ZmXvKjO
>>529
市川三左衛門も暴走に暴走を重ねて、最期は逆さ磔
一族皆殺しにされなかっただけ有難く思えと言うレベルの非道を働いてしまったのがな
0532528ていせい2021/11/23(火) 06:34:16.81ID:Jm0erL1a0
>斉脩・斉昭の父・7代治紀はコ川9代将軍家治の治の一字をもらって
うっかり間違えた。家治は9代じゃないわな。10代だ。8代吉宗の孫だもんな。
ここ訂正しておきます。

なお、吉宗の吉の字は綱吉の吉の字を貰ったのだよ。
将軍就任にあたり将軍らしい名前に変えたのだ。こういうのを名を整えるというらしい。
順番からいうと7代家継の養子に入ってその一字をもらうということになるはずだが、
なんせ家継は幼年で死んだので、既におっさんであった吉宗がその養子というのは
おかしい。形だけ亡き綱吉の跡を継ぐということになったらしい。
だから諸事倹約をむねとした吉宗は死後自分の廟を作ることを禁じ、綱吉の廟に
葬るように命じた。だから綱吉と吉宗は上野寛永寺の同じ廟に入っている。
0533名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/24(水) 02:30:16.21ID:0N+NxFnj0
三島 由紀夫(本名は平岡 公威)は水戸の血を引いているんだよな
0534名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/24(水) 07:24:15.03ID:VyNwK8q90
三島の祖父の平岡定太郎は内務官僚として出世し、正三位(しょうさんみ)勲三等。
正三位というのは爵位としては伯爵に相当する。
ただし、定太郎の出自は岡山県の庶民。
生涯爵位を欲したらしいが、どうやっても受爵できなかった。

定太郎の妻の夏子は幕府の旗本で外国奉行や軍艦奉行をつとめた永井尚志の孫。
永井は生きているときは従五位下・玄蕃頭であった。
死んでから正五位。
永井玄蕃頭は養子で、三河奥殿藩主松平乗伊とその側室との間に生まれた。
だから三島由紀夫は三河奥殿松平家の血筋を引いているはずなのだが、
夏子の父親は養子なので、残念ながら三河奥殿藩主の血筋は引いていない。

夏子の父親(三島由紀夫の曾祖父)の永井岩之丞は大審院判事で従四位。
位階の上では玄蕃守以上に出世した。
岩之丞の妻・高(夏子の母、三島由紀夫の曾祖母)は常陸宍戸藩主松平頼位の娘である。
だから三島由紀夫は大名の血を引いているといえる。
常陸宍戸藩は徳川光圀の弟が立てた水戸藩の支藩である。
松平頼位の二男・頼安(高の兄にあたる)は、従二位、明治17年に子爵。
高の実家は華族ということになるから、三島は華族の血を引いているといえる。
しかし、三島由紀夫の生まれた平岡家は華族ではない。

三島は係累がすごい人ばっかりなので華族だと思っている人が多いが、華族の血は引くが
華族ではない。祖父の定太郎が爵位を貰い損ない、平岡家はあくまでも庶民であった。
三島は学習院初等科に入るときに、華族でないので紹介者が必要となり、上記松平頼安に
紹介者・保証人となってもらったそうだ。
0535名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/24(水) 13:53:07.02ID:0N+NxFnj0
松平頼徳の父親が松平頼位
三島由紀夫はその血を引いているんだね
三島は幕末の水戸藩について、何か語ったことはあったのだろうか
0536名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/28(日) 07:00:57.16ID:oHXu3J4J0
子孫が有名な人はやはり立原翠軒だろう。
昭和の詩人、立原道造の先祖にあたる。

翠軒自身、彰考館総裁にまで登り詰めた学者でありながら芸術家肌で、
書画も詩文もよくした。他に篆刻、七絃琴の名手でもあった。
長男は水戸を代表する画家・立原杏所である。
杏所の長女が幕末の閨秀画家として知られる立原春沙である。

立原道造の父親は婿で、母親が立原家の人間である。
系図が火事で焼けてしまい、翠軒から母親へのつながりは分からない。
道造は今でもファンの多い詩人であるが、俳句もやりパステル画や油絵も描いた。
東大建築科を出て建築事務所に勤める建築家であったが、建築のデッサンは
やはり見事である。
ヒヤシンスハウスのデッサン
http://www.tachihara.jp/shinano_s.html
0538名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/01(水) 17:33:52.88ID:q66PQIvF0
平岡定太郎の家は貧農で名字も無かった。
明治になってから地名から平岡とつけたという。

部落民はないだろう。
平岡家は「平民」。
壬申戸籍は士族とか平民とか身分を記載する欄があった。
穢多や非人だとそれも記載された(これが壬申戸籍非公開の理由)。
平岡定太郎は、この平民というのが悔しかったんだろうな。

父親が金貸しを始めて金回りがよくなり、定太郎(その兄も)は学問を
することができた。
地元の私塾に通い、その後、兄は師範の教習所に通った。
当時は講習を受けると教師になれたのである。
その後を追って定太郎も師範の学校に進んだが、さらに東京に遊学した。

穢多や非人だと、普通の座敷に入れないどころか、敷地に立ち入ることもできない。
道では裸足になるなどの決まりもあった。
江戸時代に穢多非人が私塾に通うなど到底無理だ。
0539sage2021/12/07(火) 18:54:10.72ID:kxfyxP2T0
藤田東湖の子孫は大林組か何か大手ゼネコンの社長してたな
0540名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 07:12:56.21ID:u6hpWzlj0
今気づいたけど、三島由紀夫に「夏子の冒険」という小説がある。
夏子って自分の祖母の名前じゃないか。
なつ、が本名で夏子は通称らしいが。

ただし、あの小説の主人公は自分の妹であることには間違いない。
戦争中に17歳で死んだ妹。
妹が生きていたら今頃こんな恋をしていただろうな、というような思いで
書いたのだと思う。

ウィキに 平岡美津子 で載っている。
写真はお婆さんの夏子に似ている。
夏子が若い頃は美貌で有名だったという。
夏子さんはきわめて頭がよく、70歳を過ぎてもドイツ後やフランス語の読み書きが出来、
独仏語の会話も流ちょうだったという。

頭がよいのは水戸家の血統なのかも知れない。
コ川慶喜も頭脳はたしかに優秀であった。
0541名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/09(木) 08:27:55.05ID:JQ9Nya0h0
>>535
三島は水戸藩について直接には語っていないが、親族の松平頼安は小説に出てくる。
頼安は水戸藩の分家の宍戸松平家8・10代藩主松平頼位の二男。
頼安の兄(頼位の長男)が天狗党騒動の鎮圧に失敗して切腹させられた頼徳である。
頼徳は当時宍戸松平家の9代藩主だったが、切腹の上に藩は廃藩とされた。
慶応四年(明治元年)新政府から藩を復旧せよとの命があり、隠居していた頼位が
また藩主になった。

頼位は正室との間に長男・長女をもうけたが、隠居後に側室佐々木氏との間に六人もの
子を作った。二男頼安はこの側室の子である。三島の曾祖母である たか は三女。
頼安はひいお婆さんの兄だから 曾祖伯父(そうそはくふ)ということになる。

宍戸松平家は明治になって大名ではなくなったが、頼位の跡を継ぎ二男の頼安が当主となっていた。
上野東照宮の宮司などをしていたという。従二位、子爵である。
三島の小説に出てくる頼安らしき人物はかなり奇妙な人のようである。
「好色」「怪物」などの短編に(以下の三行はウィキの記述)
「人と人との間をさいて人と人とをもますのが好き」
「剣をもつことはきらひ、戦争は何よりきらひ、平和愛好者、助平愛好者」
「大炊頭は正宗の銘刀で切腹。頼安が七円に屑屋に売り」などと書かれている。

最後の大炊頭は頼徳のことで、兄が切腹した正宗の名刀を、弟の頼安が売り飛ばしてしまったらしい。
0542sage2021/12/09(木) 23:13:34.41ID:41q0uFJE0
>>541
中々面白い話
0543名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 18:55:18.30ID:osAeNEZf0
宍戸は水戸本家の血筋が入って変な血は受け継がれなかった訳さねw
0544名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 00:32:31.20ID:olwte39s0
山田風太郎の「魔群の通過」を読了しました
どこまで史実でどのあたりが創作なのでしょうか
市川三左衛門の娘が人質になっていたというのは創作ですよね
0545名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 01:19:31.34ID:uWYi7I/bO
>>何故字を変えたのか、理由は分からない。

武則天「これより倭を日本(ひのもと)
大王(おおきみ)を天皇と改めよ」
遣唐使(実際は遣周使)
「ははあ、有り難き幸せにおじゃる」
越後屋光右衛門「流石は武照
人間の器がでかい
せや、諱に則天文字を使うて光圀にしたろ」
0546名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 07:15:53.69ID:N5WhE+7g0
光圀と字を改める前の光国は、正確には 光國 と書いた。
「国」という字は戦後に作られたもので、昔は無かった。
国という文字の、口の中の玉は、もともとは点がなくて王だった。
それ以前に、略字で口の中に王を書く文字が一般的に使われていた。
戦後日本に王様はいないからという理由で王ではなくて玉とされたのだ。

武則天が國を圀と改めたのは、國の国がまえの中の或という字が「惑」と
いう文字に通じ、くに を表す字としてふさわしくないという理由が一つ。
それと、或という字の成り立ちが唐(則天の場合は周だが)という大国を
表すものとしてはふさわしくないということである。
どういうことかというと、
惑は口を 戈 が守っているという形の文字なのである。
口は首都を上から見た様子を表す。長安とか洛陽といった都市を上から見ると
真四角の城壁に囲まれている。その中に天子がいる。
その 口 を 戈(ほこ) が守っている。軍隊が守っている様子である。
口の下の 一 は 城郭を意味する。都市(国)防衛のための防塞である。

こういう守りの発想はせせこましいと武則天は考えたのである。
国は周囲に押し出して他国を征服していくもの、という意味で 
国構えの中に八方を入れ、圀としたのである。
0547名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 07:33:09.58ID:N5WhE+7g0
光圀が國を圀に変えた理由は本人に聞いてみなければ分からないが、
たぶん朱子学の大義名分論が背景にあると思われる。
大義名分とは朱子学の根本的な理念であり、人はそれぞれ君臣・父子の別を
わきまえ、上下の秩序や礼節を重んじなければならないという思想である。
武士は武士、農民は農民、父は父、子は子、妻は妻、おのおのその身分をわきまえ、
それぞれの立場にあいふさわしい行動を取らねばならない。
その行動の理念とは忠と考である。
その考えからすると、天皇は最も貴い存在で万民の頂点にあり、下々を慈しむ存在である。
武士も農民もすべての民が天皇に忠孝を尽くす。
このことにより万民一体となり皇国は繁栄する。

天皇は決して武力で守られることにより存立するものではない。
もともと貴く、万民の上にある存在である。
だから國の字の成り立ちである 「口を戈が守る」という文字は日本では妥当しないのである。

というような理屈で國の字を忌み、則天文字の圀にしたのだろうと思われる。
0548名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 02:09:56.69ID:XgOJ1Tuv0
長州は家老3人の首で許されたのに、水戸は人数が多すぎ。どういうことよ?と思う。
0549名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 16:50:50.64ID:XFs0uMrB0
彦根藩士の子孫は、自らがそうであることが恥ずかしくて口に出せないんだろうな
0550名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 22:02:45.90ID:MiXD3mKf0
殿様襲われているのにのこのこ無傷で屋敷に報告へという行為は
現代の我々にもどこか通じる行動ですよねと
0551名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/17(金) 00:03:36.32ID:P1BPO+0L0
嬉々として天狗党の首を斬ったり、その数年後に薩長の手先になって幕府を倒すというあさましい姿をさらした
0552名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/17(金) 19:30:16.51ID:pG2lMobUO
>>549
桜田門外の変のあとに
井伊家がやったことは
浄瑠璃坂の仇討ちで武士の鑑だと彦根藩に召し抱えた奥平氏
の子孫たちを召し放ちしたこと
0553名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/18(土) 13:02:37.00ID:xmCgsTcW0
>>548
三家老の切腹は、長州藩の責任免除のためではない。
三家老の切腹(ほかに四人の参謀を野山獄で斬罪に処した)は
幕府の長州征伐を延期してもらうための条件。
幕府征討軍の総攻撃は11月18日と決められており、このことは長州藩にも
知らされていた。
11日と12日に三家老は切腹。(この家老たちは禁門の変のときに積極的に藩士の
上京を支援し、自分たちも京に上って戦闘に参加した者たちだった。)。
三人の首はただちに征長総督府のある広島の国泰寺に送られ、ここで尾張藩の
家老が受け取った(征長総督はまだ到着していなかった。)。
そこで総督府は動員されていた諸藩にただちに総攻撃延期を通達、これによって
とりあえず戦火は避けられることになった。

この当時は、幕府は自分の力を過信しており、一戦も交えないで休戦では不満に
思う者も少なくなかった。
これを抑えて休戦を成立させ、さっさと征長軍を解散させてしまったのが薩摩の
西郷で、そもそも三家老の切腹で済ませたのも西郷の周旋によるものである。
西郷は薩摩兵を統率する軍賦役という地位にあり、征長軍の中では征長総督府参謀と
いう役職についていた。
戦争の大惨事に至る前に、平和裏に事を治めるのは西郷の特技のようなものだった。
江戸城総攻撃の中止もそうであるし、官軍に徹底抗戦した庄内藩への寛大な処置も
同様である。人格的迫力で尾張・桑名に21藩を動員した大軍を抑え切ってしまった
のだからたいしたものである。

禁門の変という大騒動を起こした長州藩の責任は免除されたわけではない。
変によって長州藩は朝敵になってしまった。
長州藩征討は朝議で決まったことであり、天皇の勅として禁裏御守衛総督一橋慶喜に
下され、これを受けて幕府が征討軍を編制したのである。
征討は天皇の命令であるから、幕府が勝手にやめるわけにはいかない。
むしろ最後までやり抜かねばならない立場だった。
休戦になったとしても、予想される長州藩の具体的処分案は相当に厳しい内容であった。
西郷の腹案にしても、長州藩領を10万石削減し、藩主親子を隠居させ、支藩から藩主を
立てさせるというものであった。長州藩を関東に移すということも考えていたらしい。
総督府内部でも、長州藩の藩領のうち周防国は没収するとか、毛利家は断絶させて
一族の吉川経幹を藩主とし吉川家として存続させる、などという処分が検討されていた。

幕府首脳は幕府の実力を過大に考えていたので、長州藩などいつでも好きなように始末できる
ものと考え、長州藩の処分は江戸で(幕閣が)行うことにした。
しかし、後から考えると、征長軍15万が長州藩をビッシリと取り巻いていたときにしか
長州藩を処分することは出来なかったのである。
征長総督による解散令によって征討軍は現地でバラバラになり帰郷したわけだが、解散を
急がせたのは西郷だった。厳寒の時期に大兵をむなしくとどめておくことは天下の疲弊を
招き、また内輪の混乱も起こるかも知れないから、早く解兵すべしとした。
征長軍も幕府も、西郷に乗せられて唯一最大のチャンスを逃したのである。

幕府は長州藩の具体的処分は下さないまま時が過ぎ、その間に薩長は接近した。
幕府は諸外国に長州藩への武器売却を禁じていたが、薩摩藩が名義を貸して長州藩に新式銃
を購入させたりした。
幕府はフランスの援助を受けて軍隊を強力にし、長州藩を圧倒しようと考えた。
フランス軍人の派遣を要請し、フランス式の訓練を施した幕府歩兵部隊を創設した。
また海軍を創設し、幕府海軍は他の大名を圧倒するほどに強力になった。
だが結果として第二次征長では負けた。
負けたことによって幕府の権威は地に落ち、薩摩は倒幕を考えるようになった。
幕府は結局長州藩への処分を行うことが出来ず、出来ないままに明治を迎えたのである。
0554名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/18(土) 23:02:49.94ID:1K+wBert0
>>553
勉強になりました
0555名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/19(日) 03:46:26.00ID:yRgPv30n0
安政の大地震で藤田東湖と戸田忠太夫が亡くならなければ、水戸藩はその後、あんなことにならなかったのでしょうか。
0559名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 13:20:17.75ID:NbtoblwP0
幕末の内訌の悲惨さが、茨城県の魅力度ランキング最下位の理由の一つかもね
幕末の水戸藩をアピールしにくいよな、うちわの恥を晒すようで
0560名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/21(火) 23:26:20.53ID:XhrHl+c70
>>555
天狗諸生の対立の遠因だった結城寅寿の処刑を藤田東湖は反対していたので、大分違っていたと思う
斉昭のストッパーが居なくなった
0561名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 03:28:06.41ID:wtnAk77x0
結城寅寿による陰謀が成功して、将軍・家斉の庶子を水戸藩主に迎い入れることができていれば、あんなことにはならなかっただろう。
0562名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 18:05:51.89ID:GXneoS060
市村眞一氏の「天狗諸生の明治」は参考になる
0563名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 18:12:49.00ID:GXneoS060
市村眞一氏の著作では「大志―水戸藩幕末維新を闘い抜いた若者」「市川勢の軌跡」も
0565名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 11:19:48.63ID:yPNrq9Ne0
積極的に天狗狩りを行った鯉淵村
明治になって天狗残党が鯉淵村に現れて村の主なるものが斬られたとか
0568名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/31(金) 03:07:21.69ID:HceuO00/0
>>567
田中原蔵の蛮行には目を覆うものがあるな
他の天狗党員(藤田小四郎を含む)の乱暴狼藉も田中のせいにされてる節もあるが、、、
水戸近辺では飯島先生という方が田中原蔵を顕彰すべき、と語っているがむしろ天狗党の恥部だろう
0569名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/11(火) 01:50:40.70ID:UpgXLG/c0
田沼意尊が天狗党に苛烈な対応をしたのは、先祖の田沼意次失脚の背後に水戸藩が動いたと考えその意趣返しであった、という話は本当ですか。
0571名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/17(月) 01:37:18.65ID:BpVwLZOU0
朝井まかて「恋歌」は泣けます
市川三左衛門の娘も出てきますが、さすがに彼女のことは創作でしょうけど
0572名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/18(火) 09:25:10.99ID:fxt3rCXN0
市川三左衛門の子孫はどこでどんな生活をしているのでしょう
どなたかご存知ですか
0573名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/18(火) 13:56:06.07ID:kNdC4GVp0
寺に嫁いだ娘の系統が市川家を継いだという話とか
あとは長男の子が生き延びながらえてその子孫もいるとか色々
0574名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/19(水) 02:42:02.00ID:vDMH6fh/0
祗園寺にある市川三左衛門の墓に参拝する人はいるのでしょうか?
0575名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/19(水) 14:39:08.54ID:vDMH6fh/0
長岡藩家老・河井継之助の墓は何度も引き倒されたと司馬遼太郎の「峠」にありました。無用な戦争をして犠牲者が生まれたのは河井継之助のせいだ、と考えた遺族の仕業とのこと。

市川三左衛門の墓は引き倒されたことがあるのだろうか。祇園寺に問い合わせれば、市川三左衛門の子孫と連絡がとれるのだろうか。

明治以降の市川家のことを知りたい。
0577名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/22(土) 02:38:28.79ID:biQsc0Dk0
市川三左衛門と諸生党を顕彰する会があって、市川の供養に子孫も招かれて来てたよ 
コロナでここ数年開かれてないようだ
最近まで三左衛門の子孫という事を伏せられて育ったそうで、知っている事もあまり無さそう
0578名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/22(土) 22:10:30.64ID:MS+HTwAk0
自分の先祖が天狗なのか諸生なのかもよくわからないのだけど、昔ひどい目にあった、大変な時代があった、色々あって東京に出てきた、というくらいのことしか知らない。
爺さんも先祖のことは詳しく聞いたことがないらしい。話題にするのも憚られたのかなあ。
0579名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/22(土) 23:12:12.93ID:H6UQRIHHO
>>575
長岡は土佐っぽキョロマの岩村のアホが元凶だろうにな
薩摩長州土佐肥前の西の夷狄な輩に蹂躙されて長岡も会津も悲惨なもんだ
0580名無しさん@お腹いっぱい。2022/01/26(水) 13:57:46.65ID:l2rpwdZ30
党派を問わず、ご先祖様に合掌
大変だったろうなと思う
0583名無しさん@お腹いっぱい。2022/02/18(金) 07:09:55.07ID:FGcnA9c90
幕末年表
天保元年から明治11年(大久保利通暗殺)まで
これを印刷して手許に置くと便利

http://www2.plala.or.jp/shyall/nenpyo/tenpou.htm

列伝もある。
http://www2.plala.or.jp/shyall/index.html
長州藩で6人とか数が少ないが、生年・没年が載っており
事件のときに何歳とかがすぐ分かるので便利。

久坂玄瑞 1864 とか読むと、ああほんとに蛤御門の変で死んだんだな、などと思う。
生年が1840 24歳で死んだのである。
0585名無しさん@お腹いっぱい。2022/02/22(火) 11:52:13.65ID:v0MFkxwv0
水戸では上級武士はお城に近い高台に住み、下級武士は千波湖に近い低い土地に
住んでいた。だから上級武士は侮蔑の意をこめて、下級武士のことを「アヒル」と呼んでいた。

しかし、「アヒル」と呼ばれたのはそれだけが理由ではないようだ。
二代光圀はアヒルの養殖を奨励した。
千波湖ではかなりの規模でアヒルが養殖されていたようである。
アヒルがいっぱいいたのである。
それだけでない。
水戸での下級武士は内職として養鶏をする人が多かった。
屋敷が水辺近くにあれば、アヒルを飼う武士もあっただろう。
明治になっても水戸やその周辺ではアヒルの養殖や養鶏が盛んだったようである。

水戸藩は入国後、水戸の上町と下町(しもまち)の間に堤を作って道路を開設した。
光圀はこの堤に柳を植えさせ、柳堤(りゅうてい)と名付けた。
中国趣味である。
アヒルも中国人が好むもので、中国では掘り割りなど水辺にはアヒルがたくさん飼われている。
そうした光景を再現したかったのかも知れない。
0587名無しさん@お腹いっぱい。2022/02/26(土) 08:35:59.47ID:OGTUXOSF0
儒学者朱舜水は明の遺臣で、長崎に亡命していた。
それを招聘して広大な屋敷を与え、学問の師としたのが光圀。
朱舜水の屋敷は後に駒込藩邸となる。
今の文京区弥生にあった。現在は東大農学部になっている。
本郷が加賀藩の下屋敷。その北側の弥生が水戸藩の駒込屋敷だったのである。
朱舜水は光圀の国入りに際し、水戸まで同道して滞在した。
その時に、堤に柳を植えるように光圀に勧めたのかも知れない。

何故かというと、朱舜水は現在の浙江省紹興県の人である。
蘇堤は浙江省杭州にあるが、杭州と紹興は隣町である。
朱舜水が有名な蘇堤を知らないはずがない。なじみのある風景だったろう。
杭州も紹興の大河の傍らにある町で、水運が盛んである。
川を下れば上海である。
朱舜水は明復興の革命資金を作るために長く貿易に従事していた。
商人だったのである。
だから何度も中国と長崎の間を行き来していた。
おそらく日本語も流ちょうに話したのだろう。

朱舜水は水戸に来て堤に柳を植えるように勧めた外、アヒルの養殖も勧めたと
思われる。光圀は日本で初めてラーメンを食べた人などと言われることがあるが、
それは日蓮宗の高僧にうどんのようなものをふるまったことがあり、その僧が記録を
残したからである。想像を逞しくすれば、光圀は朱舜水の家の料理人を一人譲り受けて
西山荘に置いたのかも知れない。
ラーメンのようなものに限らず、中国料理全般をよく食べていたのではないか。
食材としてアヒルも使われていただろう。
0588名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/09(水) 00:11:58.45ID:5myB0myb0
市川三左衛門の「勝負はこれから!」

もう一回ひっくり返るから覚悟しとけよ、ということか
0589名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/11(金) 06:33:52.98ID:o2QC4m4n0
慶喜が天狗党を見捨てたというのは言いがかりが過ぎる
慶喜が天狗をあおったわけでもないのに
あの状況で慶喜が天狗を受け入れたりしたら国が割れることぐらいわかるでしょ
大量処刑は可哀想だがあの時代にあれだけの反社会的行動に出たら厳罰もやむをえないんだよね
0590名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/12(土) 13:56:29.33ID:qVC4kDlv0
明治になってからの話。コ川慶喜が渋沢栄一からある事を訊ねられた。
「随分と前のことですが、元治元年に、あれほど親しい武田耕雲斎、藤田小四郎らを
斬ったのは何故なのです」。

慶喜は椅子からそわそわと身を動かした。
「あれはね、攘夷とか何とかいうけれども、その実は党派の争いなのだ」、慶喜は
前を見つめながら言った。
「武田耕雲斎はたしかに可哀想なところがあった。だが、わしの身の上がなかなか
危なかった。それでなにぶんにも武田耕雲斎を口に出すことがいかぬ事情があったのだ」。
慶喜は横を向き、謎が多い話をこらえるふうにしてこう言った。
「なにしろ江戸の方では、武田がわしらと気脈を通じて居ると見ている。そこでこちらから
何か言えば、「そら」ということになる」。

四十数年前のことだ。耕雲斎は慶喜に頼ろうとして京都への道を急いだ。
こちらから何か言えば、「「そら」ということになる」の「そら」とは、耕雲斎と慶喜に何かが
あると勘ぐられることだ。
慶喜は身をかがめてこう言った。
「天狗党というのはみな討ってしまえという。どうせ何といっても耕雲斎は無事というわけには
いかぬ。それで誠に気の毒だが、どうせ助からんのだ。助からぬ者を救い出しても何にもならん。
それをやると自分がやられる。しかし如何に何でも自分の手で殺すということは出来ぬ。
そこに江戸から田沼玄蕃が来た。あくる春、受取りに来た。武田始め降伏した者を受け取ります、
という口上で、わしの方からは渡します、と言った。」
「どうとかこうとか事情のある話と思ったが、それも無い。それですぐに首を斬った。」

慶喜は、天狗党の措置について、田沼からどうとかこうとか何かしら話があると思ったが、
それは一切なかった。「降伏した天狗党の者どもを受け取ります。」、「渡します」、それだけ
の会話しかなく、慶喜も「渡します」と言う以外何の行動も起こさず、武田耕雲斎のいる現場を離れた。
0591名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/12(土) 17:16:19.96ID:KA1SatoW0
ウィキで天狗党の乱をざっと読んだだけでも水戸ってのは天狗も諸生も基地外しかおらんのかって勢いやな
田中愿蔵が享年20歳て

家茂も京都と外国と長州だけでも頭が破裂寸前なのにおひざ元の関東でこんなことされたら寿命が縮むのも当然
0592名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/13(日) 05:21:40.94ID:0p20NryD0
>>589
>>591
ふつう日本人は田沼の処置は酷に過ぎると感じるものだ。
いままで、三百五十二名の斬罪が「やむをえない」などという議論は
聞いたことがない。
当時の人たちも仰天している。
薩摩の大久保利通も衝撃を受け、「是を以て、幕府滅亡の表(しるし)と察せられ候」、
(現代ふうに意訳すれば「このむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」)
と日記に記している。
大量処刑は諸藩の批判を受け、幕府から人心が離れる要因となった。

あと
>家茂も京都と外国と長州だけでも頭が破裂寸前なのに
家茂は関係ないだろw

とにかくあなたは感覚がおかしい。
在日の方なのかな?
0593名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/13(日) 08:44:37.84ID:8+h77cJD0
反幕派の急先鋒の資料を持ってこられてもね
そもそも情報伝達の乏しい時代だから大久保はじめ天狗党に同情する連中は天狗党が庶民を大勢殺したと知らなかった可能性もある
当時は外国人へのテロは切腹すら許さない斬首だったがそれをひどいとか残酷だとは言えないだろ
現代ですら外患誘致罪は死刑一択なのに
捕縛後の扱いが私怨晴らしの過酷なものだったのは確かだが天狗党に殺された無辜の民のことを想うとね

>家茂は関係ないだろw
おひざ元でこんな騒ぎ起こされたらたまったもなじゃないわってことの何がおかしいんだよ、天狗党擁護ってこんなのばっかりか
これ以上は話したくない
私も自分の脳細胞を守りたい
0594名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/13(日) 18:28:37.15ID:vPJxu2/60
斬罪のが処分としては楽な方だよな、がしかしそれを一端の役人が堂々と告げてそれらを正すわけでもなく処理をする
という部分がシステムとして既に破綻していると大久保はみたんでしょ
0595名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/16(水) 12:01:10.53ID:2mddOyil0
慶喜は人間として大切なものが欠落していたからな
0596名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/16(水) 12:06:21.39ID:2mddOyil0
明治の元勲の中には田中愿蔵と変わらない輩もいるよな
0597田中愿蔵 12022/03/21(月) 08:18:18.55ID:ogJUUapA0
田中愿蔵は今の常陸太田市の東連地村というところに生まれた。
幼年時から神童といわれ、跡継ぎにしたいという医者の養子になった。
地元の家塾に通ってその学才を認められ、藩校弘道館で学ぶ。
弘道館でも抜群の学才を発揮し、周囲を驚かせた。
水戸藩から幕府の学問所である昌平黌への進学を命じられた。
天下の秀才が集まる学問所で、水戸藩の代表のような形で学ぶので
あるから、とてつもなく学問が出来たのだろう。

昌平黌を辞めて水戸藩に戻ると、愿蔵は郷校の館長に任命された。
満18歳である。
御前山村にある野口時雍館という学校である。
御前山村(ごぜんやまむら)は今の常陸太田市にあった。
現在は常陸太田市御前山地域野口という地名になっている。

郷校の指導者とはどのような人たちだったか。
野口時雍館の指導者については田中愿蔵以外分からない。
時雍館は天狗騒動が大きくなった後に、村人たちに放火され全焼してしまった。
資料が焼け、何も残っていないからである。
同じ常陸太田にあった大宮郷校だと以下のようである。
教授陣は、藩から派遣された関鉄之介・中村任蔵・滝川謙蔵・医師の富田玄東、
地元では静神社神官 斎藤監物・鷹巣神社神官 豊田重章・郷校守 渡辺主計
となっている。(最後の「郷校守」というのは管理人のようなものだろう。)。
教育対象者は、郷士・神官・村井者・村役人(庄屋・組頭)らとその子弟、
一般農民である。
教授陣の中で特筆すべきは関鉄之介や斎藤監物という、桜田門外の変の実行者が
含まれていることである。
関哲之助は現場指揮者で見届け役。主要メンバーであった。
野口時雍館の存続期間はわずか約8年間。会合は月に一回だったというが、
それは定例であって集会所のように機能していたのだろう。
時雍館には寄付で買った本や寄贈された本が一万五千冊もあったという。
図書館のような機能も営んでいたのではないか。(つづく)
0598名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/30(水) 19:55:03.20ID:SAhnDj/f0
郷校については以下のサイトが詳しい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyouikushigaku/4/0/4_KJ00009272525/_pdf/-char/ja

郷校の設営は烈公斉昭が始めたもののように思われているが、実は六代の文公治保の時代に
二つ作られている。ただし、設営は藩の政策というよりも、当時の郡奉行で学者・民政家と
しても名高い小宮山楓軒の尽力によるものであった。
二つの郷校のうち最初に作られた一校は、医師養成所のようなものであった。
もう一つの郷校は直接医師養成を目的とするものではないが、医学の講座があった。
疲弊甚だしかった農村振興策の一環であり、村医の質向上や農村教化を図る目的であった
ようである。おそらく農村の医療レベルがおそろしく低く、迷信にもとづいた医療や、
医療ともいえない祈祷師の呪いのようなことが行われていたのだろう。
藩の政策として積極的に郷校の設営に取り組んだのは、誰もが知るとおり烈公である。
烈公がした政策のうち代表的なものは、
1.藩校弘道館の設営
2.農村復興のための天保検地
3.追鳥狩と呼ばれる軍事訓練や軍制の改革
4.大砲の製造、そのための反射炉の建造
5.海防陣屋の建設、その周辺での家臣の土着
6.郷校の設営
7.仏教の弾圧
である。
烈公は、外国と戦争になったときのために、農民を兵士にすることを考えていた。
外国の侵略を防ぐには侍だけでは十分でないと、農兵を組織しようとしていたのである。
斉昭は、武士を中核とする兵制で最も強いのは、在郷の侍が自分の領地の農民を家来として
率いて戦う鎌倉から室町あたりの兵制であると考えていた。
そうだとしても、すでに村落地主である武士などいない。(仙台藩などは例外。)
ではどうするかというと、百石以上の侍を地方知行とし、直接年貢を取り立てさせる
こととした。その場合、領地の農民を追鳥狩にも動員し、兵農一致を目指したのである。
基本的には百石の侍一人に三人の農民が付くという兵制である。
しかし、元々お互いに顔も知らない武士と農民が一緒に戦えというのは無理がある。
そこで、農兵の集団が武士の指揮の下に戦うという形を考えた。
結局、水戸藩の農民は外国の軍隊と戦う機会はなく、水戸藩の内紛で活躍することに
なるのだが、その際は村や地域単位で独自の活動をした。
しかしながら、農民を兵として用いようとする斉昭の構想があり、そのための働きかけが
基礎にあったから、後年の農兵の活躍があったのである。
追鳥狩には侍だけでなく、郷士や神官や農民たちも参加した。
天狗党は武士は三割程度で、神官や農民たちが数多く参加していたが、こうしたスタイルは
烈公が構想したものと言ってよい。
追鳥狩の軍勢は、実際にそのように組織されていたのである。
郷校の設営も、農村の力を軍事に取り込もうとする努力の一環であった。
0599名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/30(水) 19:55:46.64ID:SAhnDj/f0
郷校は誰の予算でどのように作られたのかというと、民間の資金で設営されたのである。
水戸藩が唱道して建てられた施設なのに、何故民間が金を出すのか、不思議に思われる
かも知れない。しかし、江戸時代というのは何でもそういうものであった。
基本的に何でも民間にやらせ、維持・管理も民間の責任でやらせる。
例えば宿場・駅伝の制度である。
宿場には駅があり、馬や籠で旅人を運ぶ制度があった。幕府の御用なら、人でも荷物でも
無料で優先的に運ばれたのである。手紙や書類を預かって駅から駅へと送付していく郵便
のような制度もあった。
こうした機能を営むには、馬や人足を常に確保していなければならず金がかかった。
(馬や人手が足りなければ近在の百姓を駆り出す助郷という制度もあった。助郷に出た
農民にも賃金は支払われるのだが、これは宿場が出した。)。
宿場は夕方になると木戸を閉じ、翌朝まで旅客は外に出られなかった。
そのために厳重な木戸を備え、番小屋もあった。常夜灯を備えた宿場まであった。
本陣という大名の宿泊所もあった。様々な設備も必要である。
このような宿場を設営維持するための費用は、全部宿場の負担であった。
その分は旅籠の収益や飯盛りという娼婦を黙認することで補われたようである。
(宿場は公的な施設なので娼家は認められなかった。)。
0600名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/30(水) 19:56:43.57ID:SAhnDj/f0
何でも民間が負担するというのは、明治になってからの小学校の建設もそうであった。
国は建設費はビタ一文出さない。出すも出さないも、当時の政府にそんな金は無かった。
予算は無いのに法律だけが作られ、戸長(江戸時代の名主に代わるもの)に命令が下った。
戸長は必死に金を集めた。結局は、みな地元の金持ちの寄付で賄われたのである。
郷校もそれと同じようなものであった。
地元の有志たちの寄付で建設されたのである。
おそらく維持費も地元の金持ちの負担だったのだろう。明治になってからの小学校と同じで、
教師の俸給だけは藩が支払ったのだろうが、他は一切合切地元持ちであった。
なお、江戸時代の村の寺子屋も地元の金持ちの金で作られ運営されていた。
寺子屋の場合は、師匠の報酬まで地元持ちであった。
江戸や大坂などの都会では、個人が営利を目的として営んでいた寺子屋も多い。
しかし、田舎の村では寺子屋に通うのは無料だった。
子供たちを寺子屋で勉学させるのは村の旦那衆の義務のようなものであり、それが嫌だと
いうなら村の顔役ではいられなかった。

郷校の費用も、周辺の村の旦那衆が負担していたのである。
嫌々出すというよりも、こういう金は旦那衆が出すのが当たり前だったのだろう。
水戸藩では攘夷のために農兵まで組織しようとしているのであるから、郷校の設営は
自分たちの問題でもあった。また、攘夷熱は武士だけでなく、神主や地主層全体に広がって
いたから、攘夷に関係するものには無条件で金を出すという風潮もあった。
それだけでない。水戸藩特有の原因があった。
藩と領民との間に信頼関係があったことである。
どういうことかというと、江戸時代も天保の頃から農民たちは反抗的になっていった。
全国的に百姓一揆の数はうなぎ登りに増え、一揆の活動も激しくなった。
打ち壊しなどの争乱を起こすことが多くなったのである。
ところが、水戸藩では斉昭が200年ぶりに行った領内検地が大成功し、領民たちの
間に斉昭人気が高まった。特に豪農層が藩政の支持勢力になった。
他藩とは逆の現象が起きていたのである。
安政の大獄で斉昭が処分を受けたときは、数千人の土民が江戸に押しかけようとし、
松戸の渡しや小金宿で大騒ぎした。
こうした斉昭熱といった人気と攘夷気分が重なって、郷校には多額の寄付が集まった。
0601名無しさん@お腹いっぱい。2022/03/30(水) 19:57:25.11ID:SAhnDj/f0
旦那衆は求められれば黙って金を出し、受け取る郷校の幹部の方ではそれが当たり前に
なった。郷校の幹部は、寄付金など水道の蛇口をひねれば水が出るという程度にしか
思わなくなる。そうこうするうちに、郷校で集めた金が天狗党の資金になっていく。
郷校から集めるだけでは足りなくなり、無理な資金集めをするようになる。
そのことが天狗党の盛り上がりと凋落につながっていくのである。

田中愿蔵が野口時雍館でどんな教育をしていたのかは分からない。
愿蔵は江戸では軍学の家塾にも通っていたというから、軍学を好んだようである。
軍学を講じていたのかも知れない。
村人たちには人気があったようである。
「世直し様」と呼ばれ、村人たちは手を合わせんばかりであったという。
郷校の館長というのは当時たいへんな身分であったらしい。
愿蔵が八溝山を下りて逮捕され、塙代官所に引き立てられた後も、代官は終始愿蔵を
「田中愿蔵殿」と呼び、丁重に遇した。義兵300人の隊長であったということも
あろうが、やはり郷校の館長だったという経歴が大きかったと思われる。
0602名無しさん@お腹いっぱい。2022/04/09(土) 22:21:18.03ID:rlg4lnQO0
>>592
その大久保が10年後には江藤に対して同じことをするんだから皮肉だね
0604名無しさん@お腹いっぱい。2022/04/14(木) 22:27:46.35ID:R2OL/01G0
>>603
流石にこういう発言は慎むべきかと
0606名無しさん@お腹いっぱい。2022/04/15(金) 16:02:31.50ID:WUFUFoRK0
何から何までやったことが裏目に出てるのが滑稽にも映るし悲しくも映る
とりあえず、幕末の水戸に関する話は人前ではあまり話せないな
0607名無しさん@お腹いっぱい。2022/04/16(土) 00:24:53.09ID:r9HEtzrb0
水戸藩士というだけで他藩士から一目を置かれた幕末
神童と呼ばれて育った田中愿蔵は天下を動かすのは自分だとの思いがあっただろうね
歴史が少しだけ違ったものだったなら、元勲と呼ばれる人物になったかもしれない
0608名無しさん@お腹いっぱい。2022/04/16(土) 00:41:40.66ID:r9HEtzrb0
鮎沢伊太夫が生き残っていれば、明治政府で重要な地位につけた?
0609名無しさん@お腹いっぱい。2022/04/16(土) 07:47:27.99ID:o4xHC4Gx0
>>602
佐賀の乱では、死刑13名、懲役が136人、除族240人、7人が禁固。
乱に参加した者の人数は約11000人という。
うち戦死173人、負傷160人。
10000人ほどが無罪になった。

政府軍の戦死者が200名というから、一般にイメージされるところと違って
かなり激しい戦いが行われたようである。
それで死刑13名というのは、かなり抑制的な処断と言えるのではないか。
0610名無しさん@お腹いっぱい。2022/04/25(月) 06:36:26.27ID:AS8yRIz80
勝海舟も幕府の措置については批判しているわな

特に惜む、政府其事の大に発せざるに当り、公平至誠両道を考査し、惇々戒諭、按撫の策に出ずして
其一方を助け、俄に官兵を発して剿誅せんとするに至りては、彼れ騎虎の勢、自新の途を開くに由なく、
不得止してこれに抵抗するに至らしめ、多数有為の士をして玉石共焚の惨禍に陥れ、其降伏の後も
酷刑に失し、之が為志士一層憤慨の心を激動し、往々邦家の不利たるを思はざるは、余の深く遺憾と
する処なり

特に残念なのは、政府(幕府のこと)が(この事件を)大事に至らせないために、公平かつ誠意を尽くし、
両方の立場に配慮し、諄々と諭しながら終息させるような按撫(なでさすること)の方針を採らずに、
一方だけの立場に立って、突然に官兵(幕府軍や各藩の兵、鎮圧軍)を動員して剿誅(滅ぼし誅殺すること)
しようとしたことである。
こんなことをすれば、騎虎の勢いになるに決まっている。
天狗勢としては自分の方針を定める暇もなく、不得止して(やむを得ずして)鎮圧軍に抵抗するに至らしめ、
多くの有為の士をして玉石ともに砕くというような無駄死にをさせ、惨禍に陥れた。
その降伏した後も処刑は酷に失した。
こんなことをしたため、志士(日本中の憂国の士)の幕府に対する敵愾心を一層震え立たせるようになって
しまった。たびたびこんなことばかりして邦家(日本国)全体の不利益になることを考えないのは、私の
深く遺憾とするところである。
0611名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/05(木) 05:15:27.24ID:aW5YG6NU0
郷校は「ごうこう」と読む。郷学とも呼ばれた。

1.藩校の分校
2.藩による庶民の学校
3.庶民による庶民のための学校
という3種類があります(コトバンク)。

水戸藩の場合は、2.か

郷校は江戸時代後期から明治の初め頃まであちこちにあった。
水戸藩だけのことではない。

有名なのが福山藩の「廉塾」
遠隔地からも生徒が来るので寄宿舎もあった。
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-106090010.html

岡山の閑谷学校も有名である。
一般庶民に朱子学などを講じた。開学は1675年でかなり早い。

伊勢崎藩には25の郷校があった。
こちらは村単位で名主たちが設営した小規模なもののようである。
上記の分類でいうと 3.にあたるだろう。
嚮義堂(きょうぎどう)
https://tigerdream-no.blog.jp/archives/37708205.html

西郷の一党が作った薩摩私学校なども、概念的には郷校に含まれるのかも知れない。
孟子とか中庸などを教科書にしていたといわれる。
0612名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/05(木) 06:32:05.59ID:aW5YG6NU0
村が管理するものは「郷」(ごう)が付くことが多かった。

例えば「郷倉」(郷蔵)。「ごうぐら」と読む。
最初の頃は集めた年貢米を入れる蔵だったが、後に救貧米などを保管しておく倉庫と
いう性格のものになった。
名主の屋敷地などに建てられ、名主と村役人が管理していた。
飢饉のときのために保管しておく食料としては麦が多く、麦蔵とも呼ばれたという。

「郷林」(ごうばやし)というのは村で管理している森や林。
平地でなく山になっていれば「郷山」(ごうやま)といった。
今日の里山と呼ばれるものに近い。

「郷」というのはもともと律令制下で用いられた概念である。
律令制では全国を国・郡・里(り)の3段階に構成し、50戸を1里として里長(りちょう)を置いた。
国の司(つかさ)が国司、郡の司が郡司(ぐんじ)、里の司が里長である。
ただし、前二者は官人であるが、里長は官人ではない。庶民(民間人)である。
715年郷里(ごうり)制が施行され、里が郷に改称された。 ただし、郷・里はともに「さと」と読む。
訓で読めば里長も郷長もともに「さとおさ」である。
このように、郷(ごう)というのは古代からの伝統的な行政用語である。
だからこの言葉が江戸時代の地方行政に使われたのは当然であった(助郷など)。
0613名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/06(金) 06:25:59.22ID:S9es7sSB0
水戸藩では、郷校は文武館という名に統一されていった。
もともと郷校は漢学や医学を講ずるための学校で、武術や射撃の教練があったとしても
庭や野原で行われていた。
年月を経るごとに武術や射撃・砲術などの比重が増し、それらを訓練する施設(武館)が
作られていった。そこで従来の文館に武館を加えて文武館と称するようになったのである。

例えば那珂湊の郷校敬業館は、その後武道場や射撃場などの設備が加えられ、文武館と
いう名称になった。(那珂湊の戦いのときに藩主名代である松平頼徳が宿泊したのが
この文武館である。)。
大子に安政3年に建てられた郷校は、最初から武術や砲術を教える施設を備えていたので、
名称も大子文武館とされた。
0614名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/09(月) 05:20:50.32ID:SgtGuLm50
郷校では途中から武術や射撃・砲術の比重が増し、それに応じて武館や射撃練習場などの
施設が増設されていったのであるが、安政2~3年にこの傾向が一気に加速した。
「農兵」の制度がつくられたからである。
農兵とは通常普通名詞であるが、水戸藩においてはそうではない。
新たに農兵という身分が創設されたのである。

農兵は当初「御備人数」(おそなえにんずう)という名称で、安政元年に誕生した。
安政2年にはその組織が定まり、水戸藩の体制に組み込まれることになる。
この年から「農兵」と呼ばれるようになり、郷校での教育が始まった。
武術の訓練や、射撃・砲術など軍事の教練を受けるようになったのである。
農兵は農民の中から家柄や当人の資質、財産状態などを考慮して選抜されるもので、
望んでなれるものではない。
既に名主階級と郷士・神官は郷校教育の対象となっていた。だから新たに徴募の対象と
なる農兵は、それまでは郷校に通うことのなかった階層の者たちということになる。
さらに、農兵は兵としては郷士より下とされていた。
そうだとすると、具体的には組頭クラスの農民の子弟から選ばれたものと思われる。
学力としては読み書きの能力は必須である。後述の教科書等から見ると、基本的な
漢文の素読ぐらいは出来ないと話にならないという印象を受ける。

農兵に選ばれることは名誉であった。
当人たちは農兵になることを喜んだが、何といっても在任中は二刀を差せるということが
大きかった。二刀を差すということは袴を履けるということである。
(八丁堀同心などは、短めの刀を一本差すだけなので着流しだった。)。
農民にとって袴を履くというのは憧れだった。
農民では名主クラスでないと袴を履くことは許されない。
二刀を差し、袴を履き、扇子を持って歩く。これは武士と同じ格好をすることであり、
多くの農村の若者にとって夢のような話である。
余談になるが、長州の奇兵隊や諸隊の隊員は、戊辰戦争が終わると無用になった。
隊が解散しても特段の補償はない。
このときに隊員だった連中が望んだことがある。それは金銭ではなかった。
故郷の村に帰った後、袴を履くことのできる権利が欲しいというものであった。
それほど庶民にとって袴を履くということは憧れだったのである。

農兵が生まれ、この者たちに教育を施さねばならなくなった結果、従来の郷校には
武館が新設され、矢場や射撃場なども整備された。
しかし、それでも従来の郷校だけでは足りない。
そこで最初から武館や軍事教練の施設を備えた郷校がいくつも建てられた。
(参考 小菅郷校跡)
https://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/shiseki/12-54/12-54.html
0615名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/09(月) 05:21:43.49ID:SgtGuLm50
安政3年から4年にかけて建造された郷校は九つもある。
大子(久慈郡)、小菅(久慈郡)、大宮(那珂郡)、町田(久慈郡)、秋葉(茨城郡)、
鳥羽田(茨城郡)、玉造(行方郡)、潮来(行方郡)、それに馬頭郷校(下野国馬頭村)
である。最後の馬頭郷校は現在の栃木県那須郡那珂川町馬頭にあるが、馬頭村は
水戸藩領であった。

農兵が通うようになるまでは、郷校は文館とか御館(おかん)と呼ばれていたが、徐々に
文武館と呼ばれるようになり、後にはこの名称が一般的になった。
農兵は月に二回の会日に登校し、午前中は漢籍・水戸学を学び、午後は武術の稽古や
軍事教練を受ける。
(教育内容についてはこのサイトが非常によい。)
https://www.city.hitachiomiya.lg.jp/data/doc/1354615455_doc_10_1.pdf

人数ははっきりとは分からないが、数百人程度である。
一応の訓練を終えると、海岸近くの要衝に配備されたという。
配備されたといっても、訓練を兼ね、数十人づつ交代で現地に行くという形ではないか。
現役の農民たちであり、それほど負担になるような軍役は課されなかっただろう。
人里はなれた海岸なので、砲術の実地訓練なども行われたと思われる。
(海岸の防衛拠点については鹿島デジタル博物館サイトがわかりやすい。)。
https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50082.html
ここに、「荒野の海岸砂丘には、地元の古老が「陣屋堀(じんやぼり)」と呼ぶ場所があり、
農民が武術を修練し海防訓練を行った陣屋があったとも伝えられていますが、鹿島灘の海岸線
は大きく変貌し、現在この陣屋や各大筒台場の位置の特定は困難になっています。」との記述が
ある。
0616名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/10(火) 07:55:58.87ID:GMJ/+lty0
迪彝篇(てきいへん)
会沢正志斎が、わざわざ野口時雍館のために書き下した教科書である。
内容はたったの2727文字。
全77頁あるが、なんとなくパンフレットみたいな感じのする本である。
一郷校のための教科書とはいえ、版木が彫られて立派に製本されたほど
なのだから、他の郷校でも使われ、さらに一般に流布したのではないか。

このブログで表紙から前文、奥付、裏表紙まで全頁を見ることもできるし、
テキストにしてくれてもいる。
テキスト化にあたっては、読めない漢字があったり、現代の漢字に置き換え
ようにも該当の漢字がなかったり、苦労されたようである。
親切で内容が充実したブログである。
http://blog.livedoor.jp/trivialworld/archives/1072665384.html

最初のページの下の方にテキストになった本文が載っている。

「原文はこちら」 のところをクリックすると、原則見開きで撮影したデータが出てくる。
コマ送りで一枚づつ表示される。
はじめは漢文で書かれた前文である。
6枚目から「目録」という名の目次、7枚目から本論となる。
本論は和文で、読めないこともない。
なんだかパンパンとハリセンの音が聞こえてくるようでもあり、祝詞のようでもある。
0617名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/14(土) 08:17:25.49ID:Rk1MLojC0
迪彝篇は野口時雍館の教科書として安政四年に書かれたものだ。
ということは、時期的に考えて、農兵教育のために書かれたものと考えるべきだろう。
水戸藩特有の文武兼備というたてまえから、農兵にも学問・教養の指導がなされた。
実際に郷校での課目も、午前中は学科で午後は武芸や教練であった。
ただ、学科といっても、兵士として育成するという目的から、悠長に漢学などをやっている
わけにはいかない。
そこでこのような、「皇国の民の心得」のような小冊子が用意されたのだろう。

内容は第一に日本は武の国であるということ。
それは神世の時代から神々や天皇が武威を振るわれたからである。
ということで、歴代の勇ましい話が綴られる。
第二には、キリスト教を禁圧し、夷人を撃攘すべきこと。
宗教を道具にした西洋人の悪辣な侵略ぶりが語られる。
第三には皇国の民たる者は、歴々の皇恩に感謝し、万分の一でも恩に報ずべきこと。

途中に、祈年祭(としごいのまつり)の祝詞(のりと)の一部が挙げられている。
これを朝夕口に唱え、心に念じて少しの間も忘れるなという。
そして報恩の志をもつべし、というのである。
0618名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/14(土) 08:52:48.05ID:Rk1MLojC0
失礼、上記に「内容は」として概略を書いたが、表題をつけるのを忘れた。
これは奮武 六 の文章を要約したものである。
0619名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/15(日) 12:14:32.76ID:n/U1fJ0m0
上に書いたものの訂正をしたい。
まず
>>614
>既に名主階級と郷士・神官は郷校教育の対象となっていた。だから新たに徴募の対象と
>なる農兵は、それまでは郷校に通うことのなかった階層の者たちということになる。
>さらに、農兵は兵としては郷士より下とされていた。
>そうだとすると、具体的には組頭クラスの農民の子弟から選ばれたものと思われる。
基本的には間違っていないのだが、調べたら十分でない。

安政2年9月、国事に尽力した郷士以下346名の家格を進め、農兵に採用した、という。
郷士以下というのだから、郷士と下のクラスの者もいたのだろう。
どこの藩でもそうだが、郷士にもいろいろランクがあった。
低い身分の郷士で郷校の生徒になれないでいた者も、身分を進めて農兵にしたということか。
さらに村役人クラスの者を郷士の身分に進めて、これを農兵とした。

つづいて、10月に村役人層をそのまま採用した。
採用時期を遅らせたのは、身分差をつけるためだろう。
旧陸軍でも兵のクラスに一等兵、二等兵の区別があった。

11月に、献金する者を採用した。これは農兵の希望者がたくさん出てきたので、献金を
条件に採用したのだろう。献金はそのまま郷校の設備などに使われたと思われる。

以上の他、海岸近に住む者で、勇壮で気力ある者を採用したという。
体格雄偉で気力旺盛な者、たとえば村相撲の横綱のような者を採用したのだろう。
夷人が上陸してきたときに、ただちに戦力となる者を選抜したわけである。

農兵に採用された者には、各人に大小二振りの刀が賜与された。
さらに鉄砲も貸し与えられたという。これは一部の者にだろう。

>>615
>人数ははっきりとは分からないが、数百人程度である。
と書いたが、1500人程であったらしい。ここも訂正する。
0620名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/17(火) 00:33:49.84ID:W3WChxrL0
そもそも敦賀とは別に、水戸で処刑された大発勢の数がわからん
0621名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/17(火) 11:17:59.16ID:B4gvqx8J0
水戸の獄で処刑、獄死、病死した者の名簿はここにある。
http://www4.airnet.ne.jp/kotsune/tenguto/meibo/taihatsumeibo.html#mito

このうち処刑されたのは以下の17人。

元参政岡田新太郎、藩士岡田損蔵、同美濃部又五郎、同大竹勘次郎、同武藤善吉、同安藤木工進、
同斎藤市衛門、同高橋重大夫、同吉見喜代八郎、同那須寅三、同小山田任之允、同津田豊太郎、
同小林六衛門、同柿栖次郎衛門、同水野哲太郎、同有賀半蔵、三浦贇男。

文部省維新史料編纂事務局刊行の『維新史料綱要』による。
0622名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/17(火) 11:32:34.35ID:m5IiBgm10
なんか数字は其れとして凄いが氏名羅列されてると余計に凄惨に思える
これは現代でもそうだよね、事故だったり災害だったり等
0623名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/26(木) 00:26:09.95ID:/2iUqfVF0
諸生党はやりすぎたよね
日本人がしたとは思えないほどに
0624名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/26(木) 00:28:39.28ID:/2iUqfVF0
死の直前に鰻を食べながら市川某は何を思ったのだろうか
0625名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/26(木) 05:58:11.49ID:E6VnQVmk0
この騒動の処刑で無残なのは、処刑された人たちが騙されたような形で帰順し、処刑されて
いることだ。

まず、水戸藩主徳川慶篤の名代として水戸に赴いた松平頼徳。
水戸城に入れず、榊原新左衛門の一党や筑波勢とともに城方や幕軍と戦う状況に陥っていた。
那珂湊の戦いの最中、9月22日のことである。
頼徳主従は、磯浜の潮来勢の陣中にいた。
前日から戦いが続き、22日には幕府軍の大軍が押し寄せ、磯浜の町の各所に放火、町は
猛火に包まれた。潮来勢は祝町に陣を移し、頼徳たちもそこへ移った。
祝町でも戦いは続いていた。
戦いの最中、井田好徳の陣に、一人の武士が白扇をくるくる回しながら近寄ってきた。

※ 井田好徳は幼名平三郎といい、水戸藩士である。尊攘の志篤く、潮来勢に身を投じて
戦闘に参加していた。一隊を預かっている。
(後に天狗党西上軍の一員として敦賀までの行軍に参加、斬首された。)。

兵が白扇を持った男を捕らえ、井田のもとに連れてきた。
話を聞いてみると、男は代官佐々井半十郎の手代であり、頼徳のご家来衆に面談いたしたい
と言う。井田本人がその男を頼徳の陣まで連れていった。
(なお、佐々井半十郎は二十人の関東代官の一人で、当時幕府陸軍の将校として戦闘に
参加していた。おそらく、後述の戸田五助の下僚だったと思われる。)。
頼徳は、水戸家の武士50人ほど(慶篤の側用人など)や、自分(宍戸松平家)の家来
70数人とともに陣を張っている。
頼徳の陣に連れてこられた男は、田中銈之助と名乗った。
夏海の幕軍陣地から罷り越した、候にお伝え願いたい儀がございまする、是非聞き鋳届けの程
願い上げますると言って平服した。

田中は、佐々井半十郎の代官所の手代であり、その佐々井半十郎は幕府軍軍艦戸田五助の
下僚であった。
田中は実質は戸田五助の使者であった。大炊頭様の冤を幕府に訴え、今のお立場からお救い
申し上げたいという戸田五助の言葉を伝えに来たのである。
(ただし最初は自分一人の考えであるようなことを言った)。
戸田五助は幕府の旗本であり、代々鷹匠頭をつとめる家柄である。
代々五助という名を襲名し、将軍の鷹狩りでは「五助、五助」と呼ばれながらお側で御用を
務めてきた。こう書けば側仕えの小者のように思う人もいるだろうが、将軍の鷹狩りに際し
ては、人数の配置や荷駄の手配から一切合切を取り仕切る軍奉行のような職分であった。
鷹狩りに際して宿駅や村方宛てに発せられた戸田五助名義の文書は、今でも多数残っている。
0626名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/26(木) 05:58:49.22ID:E6VnQVmk0
戸田五助は、幕府陸軍の軍監(以前の言い方なら目付)として出陣していた。
松平頼徳公の立場は気の毒、おそらく幕府陸軍の将校たち全員がそう思っていたのだろう。
戸田五助は、幕府陸軍の総意を受けて動いていたと考えてよいと思われる。

五助の使者である田中は、頼徳の側用人菊池荘助、平井久馬、山中新左衛門と面談した。
田中は家来衆の真摯な態度に、戸田の名を出してもよいと判断した。
「戸田殿は、候のお立場は同情にたえぬと申しておられます。御雪冤のため、いささかでも
お役に立てばと、調停役をあいつとめさせていただきたいと申され、この旨戸田殿に
代わって申し上げるべく参上仕った、何卒大炊頭様にお伝え下さいませ」、という。
菊池らはこの言葉を頼徳に伝えた。
頼徳はこれに対して「よろしく頼む」との返事を伝えさせた。
これが頼徳や家臣たちの死につながって行くのであるが、この時には知る由もない。
戸田五助も、田中銈之助之助も、全くの善意なのである。

※なお、田中に対応した三人、菊池荘助、平井久馬、山中新左衛門は、後に処刑された。
「松平大炊頭頼徳に随行して投降し処刑された者」の中に、この三人の名前が見える。
http://www4.airnet.ne.jp/kotsune/tenguto/meibo/taihatsumeibo.html

田中は夏海の陣に戻り、戸田五助に首尾を報告した。戸田は、再び田中を使者に立たせた。
頼徳公に夏見の幕府陣営にお出ましを願い、そこで会見したい旨伝えさせたのである。
日取りは25日、そのときの供回りは30人までとすることも申し添えた。
頼徳が幕府の陣営に赴くというのは簡単な話ではない。
頼徳には幕府へ反抗する気持ちが一切ないといっても、現時点で追討の対象になって
いることは間違いない。頼徳は事実上は一手の将であり、それが戦闘継続中に、敵軍の
将の許に身を寄せるということなのである。
ふつうはあり得ない話であるが、戸田は頼徳が敵陣にいる限り、雪冤の協力はできない
と言う。考えてみれば、これも又当然の話であった。
すぐに返事できることでもないので、頼徳の側用人菊池荘助が田中と同道して夏海に赴き、
戸田と面談することになった。
菊池は頼徳の正式の使者という立場で裃を付け、幕府陣営を訪ねた。
菊池は頼徳の苦衷を訴え、ご尽力賜りたいとの頼徳の言葉を伝えた。
戸田は菊池の話を聞きながら何度も頷き、同情しきりであった。
最期に戸田は「大炊頭様のお立場はまことにお気の毒。冤を雪がれたいと仰せであれば、
拙者微力ながら力をお貸し申そう。だがそう致すなら私どもの許に来て頂かなければならぬ。
悪いようには致さぬ。ともに江戸に参り、御公儀に訴えましょう。」と言った。
菊池は平服し、「今のお言葉、まことに千人の味方を得た気持ちでござる。主人も大いに
喜びましょう。さっそく立ち帰って主人に言上致すでありましょう」と述べた。
頼徳は、帰来した菊池の報告を聞き、戸田五助なる人物が誠実で思いやりに充ちた人物で
あるとの印象を持った。幕府軍の中に自分のことを心配してくれる人がいるということに感動し、
胸が熱くなった。頼徳は幕府陣営に赴くことを決意した。
0627名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/26(木) 05:59:36.64ID:E6VnQVmk0
25日に頼徳が幕府陸軍の陣営を訪問するということは、その日のうちに藤田小四郎に
伝わり、小四郎が武田耕雲斎や山国兵部に伝えた。武田も山国も驚愕した。
頼徳を直接諫止することができるのは武田と山国の二人しかいない。
この二人が頼徳の陣にかけつけ、頼徳に翻意を促した。
武田耕雲斎は市川らの謀(はかりごと)と存じますと断言した。それでも頼徳は聞かない。
山国が、それならばしばし様子を見られよ、病と称して夏海に参られるのは日延べされよ、と
言っても駄目だった。
頼徳は「なるほど罠かも知れぬ。罠なら命は危うかろう。だが儂の命はどうでもよい」と言う。
続けて、「せっかくの機会だ。誠心誠意事情を伝えてみよう。もし和談がなれば、二千の命を
救うことになる。やってみるだけの価値はある。」というような意味のことを言った。
相手が陥穽を設けて待ち構えていようと、こちらが真摯に事情を訴えれば相手も考えを変え、
事態は好転するかも知れないというのである。
頼徳は頭脳明晰で能弁、言葉がいくらでも出てくる男だった。
だからこそ弁明したいという思いに取り憑かれたようになっている。
公の場で釈明できない不満が、頼徳の心を苛んでいた。目つきでそれが分かる。
武田も山国も、この状態ではもはや諫止は無駄であると思った。
一方で、この殿様なら弁明を成し遂げるかもしれないと、わずかな期待も抱いた。

山国と武田の説得が失敗したという話が筑波勢に伝わると、幹部たちに動揺が走った。
筑波勢にとって大炊頭は掌中の珠のようなものである。
それがみすみす敵の罠に嵌りに行くというのである。
なんとしても会見を阻止したい小四郎は、夏海の陣を夜襲しようと提案した。
幕軍の陣を灰にしてしまえば会見も無くなるという理屈である。
しかし反対の声が多かった。すでに会見の約束は出来上がっているのである。
それを信じている相手に奇襲をかければ、大炊頭様が相手を騙したことになる。
そうなれば、今でも危うい大炊頭様のお立場が、これ以上ないところまで悪くなる。
もっともな意見であり、小四郎も夜襲は諦めるしかなかった。
0628名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/26(木) 13:56:57.16ID:wc0oVE850
戸田五助は最後に官僚的な保身に走ったんだよな
結末の悲惨さに戦慄しただろうね
0629名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/29(日) 17:29:59.31ID:j9IQfnUG0
約束の9月25日の会見は戦火のために中止となった。
市川ら諸生党の軍が磯前口から攻め込み、小四郎や飯田軍蔵の隊と砲火を交え、平磯は
火の海になった。部田野でも戦闘が行われた。
引き摺られるように幕府軍も各藩軍も戦闘を開始した。あまりに激しい戦いに、傍観
など出来る情勢ではなくなっていた。
激戦が至るところで展開され、その日のうちに、潮来勢も祝町の陣からさらに後方に
引き下がることになった。
結局、那珂川を越えて占領した地域はすべて失い、元の湊の陣に戻っただけであった。
この結果を説明しようとすれば、多勢に無勢という一言に尽きる。
いくら戦闘には勝利しても、味方数が少ないゆえ、その成果を保持することができない
のである。しかしながら、個々の戦闘でも、筑波勢は容易に勝てなくなった。
諸生党軍の善戦が目立つ場面が多くなったのである。
諸生党軍が強かったのは、鯉淵勢が参加したからであった。
そもそも鯉淵勢は、自分たちの郷土防衛のために蜂起したのであって、天狗諸生の戦い
に関わるつもりはなかった。それが、ある時点からハッキリと城方につくことを決めた。
鯉淵勢が最初に諸生党のために戦ったのは8月15日であった。この日、鯉淵勢は小鶴村
(現茨城町)にいた天狗党の支隊を攻撃して撃退した。
その後、鯉淵勢は藩から鉄砲100丁を貸与され、藩の正規部隊のようになった。
9月15日以降は戦場に常駐し(すなわち陣を構え)、戦場では圧倒的な戦闘力を発揮した。

那珂川以南の戦いは、この9月25日の平磯・祝町の戦いが最期である。
この後は筑波勢でも那珂川を渡って戦ったことは一度もない。
(もちろん、包囲網からの脱出・逃走の段階では別である)。
筑波勢・大発勢は、湊の陣を固守するのがようやくという状況に陥っていく。
鯉淵勢を前に押し出した諸生党軍は西と北から圧迫を加える。
鯉淵勢は、今の平磯駅の近くまで進出して陣を構えた。
幕府軍諸隊や各藩軍は那珂川を渡河して続々と北上していく。
そして湊包囲戦と呼ばれる狭小な範囲での戦いが始まるのである。
この戦いでも最も活躍したのは鯉淵勢であった。鯉淵勢はどの戦場にあっても最前線で
戦い、敵を圧倒した。まさに精強無比の戦闘部隊であった。
10月1日に鯉淵勢に幕府から制服が支給され、さらに5日には幕府軍の印である日の丸の
旗一本が渡された。鯉淵勢はいつのまにか幕府軍の正規部隊となっていたのである。
0630名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/29(日) 17:30:53.60ID:j9IQfnUG0
頼徳の話に戻る。
その夜の内に、湊の頼徳の陣に戸田五助から連絡が来た。幕府軍は明日は絶対に戦闘は
行わない。諸生党軍も疲れ切っていて、明日はとても動けないだろう。
激戦の直後だからこそ却ってよい。明日改めてお渡り願いたいというのである。
頼徳は承諾の返事をし、用人の菊池荘助に先方との打ち合わせを命じた。
翌26日の午前遅く、頼徳は供回り35名を引き連れ、馬上夏海を目指して出立した。
あまり早く出発しなかったのは、昼時に到着するのを避けたからである。
頼徳の陣から夏海の幕府本陣までは三里あった。
出立にあたり、自分の留守中くれぐれも幕軍と戦うことのないよう言い置いた。
藩主名代なのであるから水戸藩主の駕籠に乗って然るべきであるが、身分を誇示する
ようなことは避けた。馬印も用いない。ただし、供回りのうち身分の高い者は葵紋の
ついた羽織を着ていた。
忍びではないが、公然とした行列でもない、あいまいな姿の一行だった。
供回りの数は35人と戸田との約束より多いが、中間や草履取りなどの小者は人数の
うちに入らないので問題ない。
供回りのうち主だった者は、水戸藩執政鳥居瀬兵衛、同じく水戸藩執政大久保忠貞、
(宍戸藩の)小姓頭取山中新左衛門、奥右筆丹羽恵介らである。
奥右筆をわざわざ同道したのは、幕府などに提出する書類を戸田と相談の上で作成する
ことを考えてのことだろう。
※鳥居、大久保、山中、丹羽の四人は、後に水戸で斬首されている。
http://www4.airnet.ne.jp/kotsune/tenguto/meibo/taihatsumeibo.html#yorinori

一行は昼八つ頃(2時頃)に夏海の幕営に着き、戸田の歓待を受けた。
挨拶が済むと、頼徳の供回り衆にまで膳と酒が出て、宴が始まった。
まとまった話は何も無かった。すでに両家の家来衆の間で細かな相談が出来ていて、
特段の話も無い。頼徳が挨拶の中で「このたびのご配慮」に厚い感謝の意を述べ、爾後
は万事宜しくお引き回しのほど願い上げまする、と言上したのだからもう十分であった。
そもそも頼徳がこの敵陣に来訪したことがすでに明確な返事である。
翌日早朝の出発、二人一緒の行列といったことだけが確認され、頼徳は陣中に宿泊する
ことになった。
戸田はただちに代官佐々井半十郎と手代の田中銈之助を江戸に先発させた。
宴は夕刻まで続いた。
戸田は「ここは殿様をお泊めするにはむさ苦しい」と頼徳一行を松川陣屋に案内した。
松川陣屋は水戸藩の支藩松川藩(守山藩)の陣屋で、夏海の陣からは1.5キロほどしか
離れていない。頼徳やその主だった家臣のため、駕籠が用意されていた。
駕籠の後を、荷を担いだり馬を引いたりしながら端下の者たちが続いた。
陣屋に着くと、戸田は自分も一緒に泊まると言って上がり込んだ。
戸田の行為は、だまし討ちなどが無いことの保障であった。
頼徳は戸田の心遣いに感謝した。
戸田は、大炊頭殿と一緒の布団で寝ましょうず、などと言って皆を笑わせた。
そこでまた酒宴が始まった。
宴も果て、頼徳らが寝る支度をしていると、水戸藩士の朝比奈松三郎が来たという。
朝比奈は別手組頭取をつとめている。市川ら諸生派首脳の命令で確認に来たのである。
門番が知らせに来たので、陣屋の留守居の者が出て行ったところ、誰もいなかった。
本当に来たのかと門番が問い質される羽目になった。
頼徳の行動は、すでに市川ら、そして田沼の耳にも入っていた。
戸田もこの時点で、計画に不穏な影がさしたことを感じ取っていたはずである。
0631名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/29(日) 17:59:38.77ID:j9IQfnUG0
前日の25日に、幕府追討軍総督の田沼意尊が笠間から水戸に入っていた。
田沼は追討軍総督として前月(8月)25日に笠間に到着、自分はそこにいて、千余人の
軍勢の一部を水戸に派遣していた。この軍勢は本営を弘道館に置いた。
市川や、朝比奈弥太郎、佐藤図書や鈴木石見守ら水戸の執政たちがそう勧めたのだろう。
弘道館は、三の丸の一部のようなものである。
ここに幕府軍の中心を置くことで、市川らは「城を乗っ取った」という後ろめたさから解放
された。同じ城にいるのだから当然だが、田沼と市川の連絡はきわめて密になった。
26日のこの日も、市川は城中から橋を渡って弘道館まで出向いた。
田沼は藩主の御座所である至善堂に居を定めており、正庁で会うべく指定してきた。
市川が広い庭のある廊下の端でかしこまっていると、奥から田沼が出てきた。
年嵩の者と前髪の者、二人の小姓を連れている。
市川が這い進んで挨拶しようとするのを手で制し、戦場なれば無用と致そうと言った。
少し前まで若年寄をしていただけあって、人扱いは慣れたものである。
45歳という壮齢で、細身で背が高い。顔の肉が薄く、鼻梁が高かった。
先祖の意次は美男で有名だったというが、この男も美男の範疇に入るのは間違いない。
座布団に座りつつ、「それにしてもここはよいのう、風呂が特によい。儂はもう二度も
入ったぞ」とご満悦である。
続いて、離れたままの位置でかしこまっている市川に向かって、「近う寄れ、茶でも
運ばせよう」と言った。
すぐに煮出した煎茶が大きな土瓶で運ばれてきた。戦場だからということか。
田沼は茶碗を手に取り、「とにかく、お手前方もようなされる。水藩の武士は強いのう」と
皮肉ともからかいとも取れることを言った。
そのまま鬢に面摺れのある市川の顔をジロジロと見ている。
昨日は平磯や祝町で大軍(おおいくさ)をやったと聞いているが、疲れた様子もない。
市川の方は「拙者ども、田舎武士にて他に取り柄もござらねば」と澄ましている。
昨日からの引っ越し作業が続いており、館内は大勢の人足や、部屋割をする将兵らが
動き回っている。正庁は事務所としての役割をするので、机やら書類箪笥やらの搬入が
多い。追討軍全体の帳場もここになる。商人たちへの支払いもここでなされるのだから、
大きな部屋に間仕切りを作ることは必要であった。そのため大工も入っている。

騒音で声が聞こえにくい中、市川は平服しつつ戸田五助らの動きを伝える。
その中の「玄蕃頭様を差し置いて」という言葉に田沼は反応し、「ウーム」と目を剥いた。
市川は腹の中でニンマリした。
市川らとしては、頼徳と戸田が江戸に出て、慶篤や幕閣に自分たちの非を訴えるのは困る。
藩主名代を城に入れず、藩政を専断している。とくに筑波勢や武田耕雲斎一党の者の
家族たちを監禁し、虐待している。
頼徳の釈明如何では、自分たちが討伐を受けかねない。
諸生派としては、まずは田沼を怒らせなければならなかった。
このことは成功したようである。市川は平服した位置から視線だけを上げた。
田沼は脇息に凭れつつ、今度は目をつぶっている。
しばらくして目を見開くと、小さく欠伸をしながら「奇怪千万なり」と言った。
田沼はセカセカとキセルに刻みを詰めながら、続けて「河野伊予に命じて動きを探らせ
よう。大事小事を問わず逐一報告させん」と言った。
すると年嵩の小姓が懐から矢立を取り出し、その言葉を帳面に書き始めた。
※河野伊予は千七百石の旗本。幕軍の歩兵頭(中佐ぐらいの地位である)。
0632名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/30(月) 07:00:03.75ID:DeOP2nPW0
27日朝、戸田と頼徳は松川陣屋を出立、江戸への道を歩んだ。
別段急ぎもしない。二人、馬を並べて歓談したりしながらの道中である。
駕籠は、松戸あたりから乗ればいいということで、後から差し向けられていた。
水戸藩主の駕籠に乗ると、馬印や毛槍を立てるなど格式を備えなければならず、いろいろと
面倒なのである。だから半ば忍びの行列になっていた。
行列は頼徳の人数が35人、戸田の方が10人ほどである。
三千石ほどの旗本の行列のようであった。
戸田は、江戸に着いたらまず真っ先に藩主・慶篤公とご面談なされよと勧めていた。
藩主名代に起きたことは藩主自身に起きたことと同様である。放置は許されない。
慶篤に釈明すれば、慶篤が藩内の措置もしようし、幕閣にもはからってくれるはずである。
その他に、幕府の高官には某も多少のつてがござると胸を叩いた。

今夜は府中宿(石岡)泊まりの予定である。
空は青く澄み、木々の緑が美しかった。大気の中に秋の光が散乱している。
ちょうど彼岸花の時期で、田のへりや藪かげなどに真っ赤な花が群生していた。
那珂湊の争乱が嘘のようである。
涸沼を右に見ながら、頼徳は多弁であった。表情は明るい。
小幡村で江戸街道(常陸では水戸街道をこのように言う)にぶつかった。
左に折れ、江戸街道を南に向かう。
するとすぐに小幡宿がある。
水戸本町にある宿場を起点とすると、三番目の宿場である。
頼徳らは、ほんの一丁ほどの小さな宿場を通り抜けた。
左右に田園が広がる。日差しがまぶしかった。
前方右手に筑波山が青く霞んでいる。
西郷地村(後の美野里町、現在の小美玉市)のあたりで、後ろから数騎の武士たちが
疾駆してきた。
※現在の小美玉市西郷地は、水戸街道の小幡宿から2キロほど南に下ったあたりである。

頼徳一行が田の中の道を来て水戸街道に突き当たり、左に曲がるとすぐに小幡宿がある。
水戸本町にある宿場を起点とすると、三番目の宿場である。

馬に跨がった武士たちが現れたのは、宿場南側の出口の門から出て、街道を30分ほど歩いた
ところだった。状況からすると、武士たちは、小幡宿で頼徳一行を待ち構えていたのだろう。
道端に見張りの者を置き、自分たちは旅籠の二階にでもいたのではないか。
馬は馬立て場(馬をつなぐ場所)に置くので、武士がいるなどは分からない。
※なお、この場面で出てくる水戸街道は今の国道6号とは異なる。今の直線的な国道は
郊外に作られた自動車道路であり、旧水戸街道は場所によっては1キロ以上東に離れた
集落の中を通っている。
0633名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/30(月) 07:05:38.98ID:DeOP2nPW0
追ってきた武士たちは、幕府追討軍総括・田沼意尊の急使であった。
行列の後ろに付いた武士たちは、自分たちも馬を制しながら「しばらく、しばらく」と
呼び掛け、「しばしごゆるりと、ゆるりと遊ばされよ」と一行の足を停めさせた。
馬を降りた彼らが伝えたのは水戸へ戻れとの命令である。
「御城で田沼玄蕃守様がお待ちであられる。即刻引き返されますよう。」。
こうした命令がただの口頭ということはない。江戸幕府は何事も文書主義であった。
使者は田沼意尊の戸田五助宛ての指令書を携えていて、これを戸田に手渡した。
「被仰渡留」「御用留」などの文書名だったはずである。
戸田は朱印の押された文書を頼徳に見せた。
大炊頭殿を追討軍本営まで御案内つかまつるべしとの内容である。
頼徳はあくまでも鷹揚に、「ほう、田沼殿がこれまでのいきさつを聞きたいと仰せか」と
言った。自分の話が聞きたいというなら行って話してやらねばならぬと思ったのである。
弁明の機会が早く訪れたことを喜んでいる様子であった。

頼徳と戸田の行列は、先頭の者から順に道を折り返し、水戸の方角に向けて歩き出した。
田沼総督の使者たちは行列の前に出て、先導するように一列になって進んだ。
小幡宿の手前あたりで、後方から10騎ほどの武士たちがやってくるのが見えた。
騎乗の武士たちはどんどん追いついてきて、行列の後方に付いた。
武士たちは7、8間ほどの距離を開け、静かに付いてくる。
決して名乗りも話しかけもしない。
全員黒漆を厚く塗った韮山笠を目深に被り、大刀を閂差しにしている。
ぶっさき羽織の袖にも馬乗り袴の裾にも、三寸ほどの幅の黒い縁取りがあり、それが
合い印らしかった。誰も刀には袋を被せていなかった。
黒柿色の手甲脚絆を付けた旅姿である。
宍戸松平家の家臣が見れば、中に見知った顔もいるらしい。
水戸藩の武士らしかった。
この者たちは、水戸街道を先行してどこやらで待ち構えていたのだと知った。
自分たちは最初から挟まれていたのだ。
仮に大炊頭様が使者の伝えた命令を無視して江戸に向かったとしても、道の先には
この者たちが居て、制止されただろう。
屈強そうな武士たちの姿に、江戸行きは絶対にさせないという、総督や城方の固い意志を
見た気がした。この後、水戸では大炊頭様の御釈明どころの話ではないかも知れない。
宍戸松平家から付いて来た家来衆は、不安げな表情で視線を交わし合った。
0634名無しさん@お腹いっぱい。2022/05/30(月) 13:44:44.76ID:T94PehCP0
>>633
このとき家臣を何人か、こっそり江戸に向かわせることはできなかったのだろうか
0635名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/06(月) 08:28:43.95ID:XjUQi3410
田沼総督からの急使は正確には5騎であった。この5騎が先行して頼徳・戸田五助の
一行が続く。その後ろに10騎の水戸藩の武士たちが続いた。
ほんの少し前に通ってきた小幡宿に着くと、一行は宿場のとっつきにある法円寺という
寺に入った。この宿場には本陣・脇本陣が無く、この寺がその代わりとして使われている
という。寺ゆえに馬が入れず、馬は広場のようになっている山門前の空き地に繋がれた。
誰も挨拶に出てこなかった。あらかじめそういう話になっている様子だった。
本堂の脇に数挺の駕籠が並んでいた。
宿場の問屋が用意した駕籠であった。辻などで客待ちをする駕籠とは違う。
言ってみれば公用車で、信用の置けるものであった。
先行した5騎のうちの主だった侍が声を懸けた。
「次の長岡宿で休息を入れます故、ここでは御身辺の埃落としを」。
小用を済ませておけということらしかった。
ここで頼徳は駕籠に乗り換えさせられた。
見知らぬ人足たちに担がれた駕籠は何故か哀れに見え、家臣たちは顔を歪めた。
小幡宿から水戸藩領で、次の長岡宿は小幡宿と同じ規模である。
涸沼川、涸沼前川にかかる木橋を渡ると、二股を右に折れ、長い坂の上にこんもりとした
森が見えてきた。それが長岡宿ということであった。

府中宿(石岡)から先、小幡・長岡宿を通って水戸城下に至る道というのは、宍戸藩の
武士たちにとっては初めての道といってよかった。
宍戸松平家は宍戸(現在の笠間市平)に陣屋を置く。城は無く、昔の宍戸氏の城跡に
陣屋を置いて統治していた。その周辺が侍屋敷である。
江戸方面から笠間に至るには、水戸街道を府中まで来て、そこから佐原道(佐原と笠間を
結ぶ道)を北に行く。府中から先は全く縁がなかった。
だから風景が珍しく、何となく見回してしまう。
長い坂を登ると枡形があり、その向こうに宿場の木戸が見えた。
木戸は真ん中に番小屋があり、その右側が入口、左側が出口である。
木戸を通り抜け、脇本陣に入った。庄屋の家だという。
頼徳と戸田、その幕僚たち、そして使者たちのうち二人が座敷に上がった。
下の者たちは、縁や式台に座って湯茶を飲んで休んだ。
十騎の水戸藩の者たちは、門に近い別棟の式台に座っていた。
味噌饅頭というのが配られた。馬にも水を飼わせた。
ここからしばらくの間、えんえんと松並木が続く。
見上げるほどの松の巨木が、行けども行けども続いている。
長岡宿までは何やら鄙びた山村のような匂いがしていたのが、水戸が近くなると
どこかに海の匂いがしてくる。空の色にも、何とも説明できない違いがあるのだった。
しかし、一行は水戸宿までは行かない。
水戸宿は現在の水戸市本町2丁目1の本町商店街である。
通りの道端に「江戸街道宿場跡」の碑が立っている。
水戸宿は、その先の浜街道方面に向かう旅人が泊まる宿場であり、ふつうはその手前、
下町の備前堀に架かる銷魂橋のところが江戸街道(水戸街道)の起点とされていた。
見送りや迎えなど人が多く集まるところで、広場のようになっており、高札場があり、
水茶屋が何軒かあった。
現在の水戸街道とは遠く離れているので、ここが水戸街道の起点というと違和感を
覚える人がいるかも知れない。
当時の水戸街道の長岡-銷魂橋間は、今の県道180号線長岡水戸線がほぼ重なる。
この道路は、1929年(昭和4年)まで国道6号の一部だった。
0636名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/06(月) 08:31:00.95ID:XjUQi3410
一行が長岡宿を出てからの続き。
長岡宿から続く松並木が途絶え、街道の周囲はススキ野原と藪ばかりになった。
道の二股になったところに乱雑に石塔が積まれ、石仏が集められた土地があった。
馬頭観音である。捨てられた馬草鞋が山のようになっている。
奥に馬捨て場の原っぱがあり、さらに奥の方はほの暗い林になっていた。
馬頭観音を過ぎると道が食い違いになり、同心の御長屋が並ぶ同心町になる。さらに
食い違いになって薬王院の門前町の前を過ぎた。民家が多くなってくる。
とはいえ、このあたりの街道の両側は水田が多かったという。
その先が大きな枡形で、そこを道なりに曲がっていくと吉田神社である。
昔は神仏混交で吉田神社と薬王院は分かれていなかった。薬王院は吉田神社の別当寺
だったという。長い間、神社は薬王院に飲み込まれたような形になっていた。
だが天保の頃より斉昭の仏教弾圧で息を吹き返し、今は神官が威張っている。
この吉田神社の本殿の屋根を左に見ながら道なりに行くと銷魂橋に出た。
備前堀を渡って一丁ほど行き、家の建て込んだ町中に入り込んだ。
ここで旅は唐突に終わった。
使者の頭分の者が馬に制止の声をかけると、行列全体の歩みが止まった。
頭分の者が振り向いて「ご一同、着きましてござる」と言った。
城まで行くどころではない。町人ばかりが住む町中で旅が終わったことに、頼徳や戸田、
その従者たちも驚いた。
目的地は目の前の建物だということは分かった。
黒い板塀の真ん中に簡素な冠木門があった。門の奥に三間ほど引っ込んで瓦屋根の
平屋が建っている。玄関は引き戸が四枚あり、大きく庇(ひさし)が出ていた。
建物が会所らしいということも分かったが、それにしても意外であった。
残念ながら、この下町会所の建物が当時はどこにあったか分かっていない。
七軒町にあったらしい。ただ、七軒町のどこにあったかは判然としない。
そもそも、七軒町というのは江戸時代の町名に無い。
だから明治になってからの記憶に基づいているのかも知れない。
七間町は江戸時代なら今の本町一丁目あたりの町名だった。
一方、会所は吉田神社の近くだったという口碑が残っている。
吉田神社の近くというと、今の本町一丁目の西の外れあたりということになるだろう。
0637名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/06(月) 08:31:46.58ID:XjUQi3410
会所とは何かというと、町人たちが設営する、半ば公的な行政施設である。
町人たちが町政を敷くための役所のようなもの、とでもいうべきか。
江戸時代は、村落は基本的に名主が庶政にあたったように、町場では町年寄りや町名主が
庶政を担当していた。戸籍や住民票のようなものも作っていたし、道中手形の発行に
かかわった。刑事面では、軽犯罪レベルのものなら自分たちで処理していた。
夏目漱石の実家は町名主だったが、家の玄関には「さすまた」や「そでがらみ」などの
捕り道具が並んでいたと回想している。
町年寄りは、その者の人望や実績を見て、町奉行によって任命された。
町名主は町年寄りの下で、それぞれの支配区域が定められ、日常の業務にあたった。
町年寄りや町名主は、幕府や藩から行政の末端を委託される存在だったのである。
委託されているといっても、会所の建設や維持管理、番人や下働きの者の給金や書類を作る
ための紙代や墨代に至るまで、すべて町方の自腹であった。
会所というのは、これら町年寄り・町名主が会合したり、共通の事務作業をする場所だった。
その他、簡易的な留置場としての機能も営んでいたようである。
例えば、土佐藩で土佐勤王党弾圧のときに、武市半平太は長く城下帯屋町の南会所に拘禁
され、長い間取り調べを受けた。最期は切腹となるが、それもこの会所で行われた。
下層の者ならすぐに獄に送られて拷問となろうが、それが適当でない身分の者である場合、
会所に留め置くということがあったようである。

下町の会所前では、戸田主従との別れが待っていた。
戸田一行は会所には入らず、さらにどこへやら連れていかれる様子だった。
頼徳一行は簡単な挨拶すらできない。目と目で挨拶を交わし、叩頭するだけだった。
騎馬に跨がった五人の使者と十人の水戸藩士は、戸田主従と共に去った。
去る前に全員馬から降り、頼徳の駕籠に向かい、片膝と片手をついて頭(こうべ)を垂れた。
この後の戸田五助はどうなったか。
戸田はこの後、弘道館の田沼総督のところまで出向き、種々説明に努めなければならな
かった。といっても、取り調べの中身は薄い。
雑談のような取り調べが続き、その延長で酒宴になった。
田沼は戸田を罰する気は全く無いようであった。戸田を罰することは、幕府陸軍を敵に
回すことになる。田沼にそんな気があるわけがなく、田沼は、むしろこの際戸田を籠絡
して自分の与党にしようとした。どんどん酒を勧め、別の間では身分の低い者たちにまで
料理と酒が行き渡った。
果ては唄や踊りが出るようなドンチャン騒ぎになった。
翌日、戸田一行は幕軍の陣地に戻った。
0638名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/08(水) 07:15:01.83ID:JwWGLJUy0
一方、頼徳一行は、会所に入り総督からの指示を待つよう言い渡された。
駕籠ごと会所の門をくぐり、駕籠を降りると、玄関の前は細かい砂利を敷いた二十坪
ほどの広場になっていた。
会所は町奉行所の管轄であり、奉行所の役人が多数出張ってきていた。
町奉行所の与力・同心といった者たちは、普通の役人とは装束も違い、明かに異なった
雰囲気を漂わせていた。建物の横や裏の方に、捕り方の者たちが六尺棒を持って警備に
あたっている様子であった。
半分町人のような髷を結った手代の一人が近づいてきて、頼徳の周囲の武士たちに
慇懃な物腰で挨拶した。
そして「こちらへ、こちらへ」と頼徳らを先導した。
入口を入ったところに広間があり、名代の頼徳を補佐すべく水戸藩から付けられてきた
家老職の鳥居瀬平、大発勢の大久保忠貞らはここに留め置かれた。
同じく宍戸松平家から付いてきた幕僚たちもこの広間に留まるよう命じられた。
荷物持ちの従者など軽輩たちは、物置のような小部屋に押し込まれた。
頼徳は、奥の部屋に案内された。
頼徳のお側近くに仕える近習頭小幡友七郎や、近習の中野金吾、長倉駒吉ら7人は、
頼徳から離れなかった。頼徳だけを案内しようとしても、「我ら役目柄まかり通る」と
言って無理矢理付いてくる。
奥の間は、八畳敷きの部屋が二つである。
日頃、襖を取り払って会合が開かれているような場所と思われた。
欄間などの造作は何もなく、柱には節が目立つ。畳は赤く焼けている。
縁の下の高さが無く、床下の湿気がそのまま上がってくるような感じがした。
安普請を絵に描いたような建物である。
窓や戸の外には竹矢来が組まれていた。
頼徳のお付きの人数が確認され、部屋に布団が運び込まれた。損料屋の貸し布団である。
この時代は何事もレンタルの時代であり、例えば吉原に遊びに行こうとする男は、
損料屋で上から下まで身なりをあつらえてもらった。
足袋から褌まで貸し出されていたのである。
だから貸し布団であることは問題ではなかったが、その布団には驚かされた。
みな一様に固い木綿布団だった。商店の小僧にあてがわれるような縞の布団で、カビ
臭いような匂いもした。頼徳用に別の布団は用意されていない。殿様である頼徳も
この布団に寝ろということである。
この扱いはどういうことであろう。
家臣たちが憮然としていると、弁当が届けられた。
竹の皮で包んだ握り飯だった。佃煮と香の物が申し訳程度に添えてある。
頼徳の別扱いもない。殿様に夕餉の膳も出ず、握り飯というのは考えられなかった。
そこに空の湯飲みが人数分、それと湯の入った土瓶が一つが運ばれてきた。
湯は冷めて水のようになっていた。
「これは人足扱いでござるな」と近習頭小幡友七郎が言い、皆苦笑した。
人足扱いどころではない、罪人扱いと言うべきなのだろうが、それは誰も言えなかった。
0639名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/08(水) 07:16:22.72ID:JwWGLJUy0
その夜は、頼徳は奥の八畳間に、近習たちは手前の八畳間に寝た。
床からの湿気と、布団の匂いに悩まされながらの一夜だった。
翌朝、起きて顔を洗う間もなく、頼徳が松平頼遵(万次郎)邸お預けとなった知らせが
入った。会所の前には、すでに迎えの駕籠が来ているという。
昨日この会所に押し込められ、今日はもう主人との別れである。
7人は頼徳との訣別を嘆き、袴に取りすがって泣いた。
悲痛な涕泣の声が部屋の外まで聞こえたという。
頼徳は迎えの使者に促され、部屋を出て行った。
7人には部屋から出て頼徳を見送ることは許されなかった。
その後、7人は二畳の部屋に押し込められた。(あるいは自分たちで閉じこもった)。
その中で全員屠腹して果てたという。
しかし、この屠腹の話は大いに疑問である。
7人が自刃したという根拠は、水戸藩の学者・小宮山南梁の記した「南梁年録」の記載
である。「南梁年録」は南梁の個人的な日記である。
「大炊頭様御乗輿にて後家来一同お暇その節、流涕声を発し、外のものまで袖を潤し申し
候の由、わけて御乗出の節はそれぞれ面々佩刀は引上げに相成り、混雑のみぎり右七人
二畳敷の小座敷へ折重なりて割腹相果て申し候由、右の内二人は介錯いたし首を抱き
自殺いたし候由、さてさて哀れむべきこと、しかし忠節を尽くし感心の事云々、、、」
とある。
しかし、この話は事実を伝えているか疑わしい。
7人のうち2人は他の5人の介錯をしたとあるが、大刀などどこにあったのか。
頼徳と7人を部屋に入れたときから、頼徳だけを連れ出すことは既定の方針だったの
だから、家臣たちに刀など持たせておくわけがない。
殿様は渡さぬなどと言って刃傷になるおそれが多分にある。
南梁の日記では、頼徳が「御乗出(おのりいで)の節はそれぞれ面々佩刀は引き上げに
相成り」と、頼徳が駕籠に乗せられるか駕籠で出発の際に佩刀を取り上げられたような
ことが書いてある。出発時の混雑にまぎれ、刀を渡さないまま二畳の部屋に入り込み、
そこで腹を切ったのか。混雑まぎれに7人の武士が勝手に移動するなどできるのだろうか。
うち二人は他の者の介錯をしたという。
この話は、出発の間際に佩刀を取り上げ(ようとし)たというのがまずおかしい。
そんなときに刀を外してこちらに渡せなどとやらないだろう。
また、仮に刀があったとしても、二畳の部屋に大人が7人いて、その中で刀を振るえる
とは思えない。一人の首を切っただけで部屋中血でどろどろになり、どうにもならない
状況に陥るだろう。
さらに、この日から7日後の10月5日、頼徳は松平頼遵邸で切腹するのであるが、その日
頼徳は、同家の重臣から頼徳随行の家臣7人は殺害されていることを告げられている。
小幡や中野、長倉など、常に頼徳の傍らにあった者たちは、昨日(4日)に全員殺害
されたというのである。
徳富蘇峰が著した「近世日本国民史」では、頼徳の供廻りの者たちは二畳の部屋で折り
重なって自決したとする一方、頼徳の切腹当日、御側仕えの者たちは「前日」すでに殺害
されたと頼徳に知らされた話も記載している。
矛盾する話が平気で二つ並んでいるのである。
※「近世日本国民史」は講談社学術文庫になっており、簡単に手に入る。
ただし、54巻「筑波山一挙の始末」はまだ文庫本にはなっていない。
0640名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/08(水) 07:22:31.55ID:JwWGLJUy0
思うに、近習頭小幡友七郎以下7人の者たちが二畳の部屋で自刃したという話は事実
ではないだろう。会所に入れられた者が刀を差しているわけがないのである。
大刀どころか、小刀まで会所に入る時点でお取り上げになる。
何故なら会所に押し込めになるということは、留置場に入るのと同じことだからである。
獄に繋ぐのが適当でない上士などが入れられるから、犯罪者として扱われるイメージが
薄いだけのことである。会所が留置のために使われる場合、それは留置場ないし代用監獄
であることは疑いない事実である。
だから刀を持ったまま押し込めなどということがあるわけがない。
しかし、南梁は嘘をついたわけではなかろう。当時巷間に流布した噂話をそのまま記した
だけである。そして、その噂話はどこから出たかといえば、諸生党の帷幄からだろう。
そもそも、殿様が罰せられるからといって必ずしも家臣が罰せられるわけではない。
殿様の判断に過ちがあれば、家老など殿様を補佐する役割の者は責任を負わねばならないが、
近習だの小姓だのが殿様と共に罰せられるべきいわれはない。
近習というのは殿様の警護役である。小姓は殿様の側でこまごまと世話を焼く役務である。
(近習より小姓の方が格上だった。近習というのは小姓と違って殿様と口をきいたりは
できない。殿様の方から親しみを見せることはあっただろう)。
近習や小姓はつねにお側にはいるが、枢機に関与するわけではない。
今日でも、閣僚が罪を犯したからといってSPが処罰されることはなかろう。
それが頼徳の近習たちに限って一人残らず斬られた。
まことに異常な事態である。その異常な印象を避けるために、「君辱められれば臣死す」
などと言って自決したことにしたのではないかと思われる。

頼徳が移されたのは、水戸藩家老格・松平頼遵邸である。松平頼遵は通称は万次郎、
安房守ともいった。水戸家の支族で、宍戸松平家とは同族だという。
万次郎は頼徳とは母方の従兄弟だという。血も近いのである。
頼徳は親戚預けになったわけである。
屋敷は水戸城内にある。おそらく、町中の会所では、決死の家臣どもが奪い返しに
来たらどうするのだといった意見が出たのだろう。
それで、奪還不可能な城内に移された、、、。
万次郎邸移管については、そんな理由もあるかも知れない。
屋敷の地所は千坪ほどもあろうか。
警備は預かり主の松平頼遵の責任である。その家臣たちが屋敷の門を固め、庭にも
屯集していた。ただし、誰を預かっているのか、近所の人でも知らなかっただろう。
頼徳は、邸内の家臣のための御長屋に入れられた。
長屋というと、時代劇に出てくる貧乏長屋を連想する人がいるかも知れないが、
そうではない。この時代、武士というのは長屋住まいが普通だった。
例えば水戸藩士でも、江戸住みの者はほとんどが長屋住まいである。
藤田東湖が住んでいたのも長屋であった。
頼徳が入れられた長屋は柱が太く、天井が高かった。庭には植え込みなどもあり、
落ち着いた風情である。ただし、長屋の周囲には竹矢来が組んであった。
上等な茶がいれられ、菓子も出された。
水戸城内であれば、弘道館は同じ敷地である。
征討軍総督は弘道館に駐留していることを頼徳は知っていた。
今日中にも呼び出しがあるかと頼徳は期待した。
0641名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/09(木) 12:13:48.52ID:A00pLxCl0
「池袋モンパルナス]宇佐美承著の34ページ、「母方の叔父が武田耕雲斎の残党でしてね。
.....今のサンシャインシティのあたりに、むかし、ちいさな墓地があったんですが、その入り口に
水戸浪士武田耕雲斎の墓と書いた棒杭をたてましてね、庵を作りましてね、墓守をしてたんですねえ。」とある。
0642名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/09(木) 12:26:30.24ID:Ch/kpi3T0
なかなかの文章ですね
一気に読んでしまいました
0643名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/26(日) 14:07:20.33ID:76K2IvyE0
頼徳が下町の会所から水戸城内の松平頼遵邸に移ったのは9月28日である。
頼徳がいなくなった後も、会所には水戸藩から付けられた重臣たちや、今回頼徳の江戸
行きに同行を希望した大発勢の武士たち、宍戸松平家の小姓頭などの他、近習・小姓や
中間小者に至るまで三十数名の者たちが残されていた。
翌日29日、随伴者のうちの主だった者、すなわち水戸藩執政鳥居瀬兵衛、同じく執政
大久保(甚五左衛門)忠貞、(宍戸藩の)小姓頭取山中新左衛門、奥右筆丹羽恵介らは
獄に投ぜられた※。
現場で宰領したのは奉行所配下の刑吏たちで、鳥居・大久保らは粗末な町駕籠に乗せられ、
赤沼の牢屋敷まで運ばれた。
このときに入獄させられたのは17人らしい。
何故ならこの時に入獄した人たちは10月16日に一度に斬られたのだが、その斬られた
人数が17人だったからである。(本によっては13人と書いてある)。

※水戸藩執政鳥居瀬兵衛、同じく大久保(甚五左衛門)忠貞については、水戸藩が
藩主名代である頼徳に付けてやった執政であるかどうか判然としない。
この二人が、榊原新左衛門らと尊攘派鎮派の一人として江戸に登った者たちであることは
間違いない。しかし、頼徳が藩主名代として水戸に向かうときに行動をともにした理由が、
いわゆる大発勢の一人として自発的に同道したのか、それとも国元の水戸で執政をしている
ことから、藩邸の判断により名代である頼徳の付け家老として派遣されたのか、そこの
ところが判然としないのである。
本により付け家老としているものもあるが、鳥居・大久保らはあくまでも榊原新左衛門を
中心とするグループの一員であり、グループとして頼徳に随行したと考えるべきである。
既述の部分で、藩邸が頼徳に付けてやった家老というような表現をしたところがあるが、
気楽に書き始め、厳密な構成をしているわけではないので避けられなかった。訂正する。
0644名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/26(日) 14:11:06.51ID:76K2IvyE0
二日後の10月1日、幕府は頼徳とその父である前宍戸藩主頼位の官位を剥奪した。
頼徳は父とともに従五位の下の官位を失い、もはや大炊頭を名乗ることもできない。
宍戸松平家は改易され、頼位は羽前新庄藩邸に預けとなった。
預けとは言葉はいいが拘禁のことである。
頼徳の子息や家老以下40数名の家臣たちは高松藩江戸藩邸に預けとなった。
江戸の宍戸藩邸は幕府に収公され、家臣たちはその日のうちに屋敷を引き払った。
この処分はいつ頼徳に知らされたのであろうか。
頼徳は当主であるから、改易等のことは真っ先に知らされて然るべき立場である。
しかし、頼徳は今、水戸城内の松平万次郎邸に預けの身である。
預けという処分には当然蟄居が含まれ、外部との手紙のやり取りなどは出来なくなる。
そもそも、頼徳が今松平万次郎邸にいるということは、家臣たちの誰も知らない。
(下町会所の家臣たちは知っているが拘禁されている)。
しかも、家老以下上級の家臣たちは高松藩の江戸屋敷に収容されている。
ふつうなら一切何も知らされないまま放置される状況といえるだろう。
だが、頼徳は親戚預けである。預かった松平万次郎は宍戸松平家の同族である。
そうである以上、万次郎に知らせは届くはずである。
万次郎は水戸藩士であり大名ではないから江戸藩邸などはないが、誰かしら万次郎の
許に知らせを届けたはずである。
だから、万次郎は遅くとも処分の三日か四日後には改易のことを知っていたと思われる。
知った以上、頼徳に教えないということはあるまい。
改易されたという事実を、当の藩主に教えないという親戚はいないはずだからである。
おそらく、頼徳には万次郎が知ったその日か、遅くとも翌日には伝えられただろう。
ただし、実際に伝えたのは万次郎本人とは限らない。
家臣に告げさせた可能性も勿論ある。
0645名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/27(月) 05:19:55.26ID:50BvwZ340
ところで、大名家の廃絶とか大名の官位剥奪などは、現地の幕府軍や追討軍総督の
権限でなしうることではない。幕府がなすことである。
大名の取り潰しは改易といい、大名の領地を幕府が没収することである。
領地だけでなく、城や江戸屋敷なども全て没収である。
これは德川幕府(公儀)が行うことであり、将軍の裁可がいる。
ということは、言い渡しのなされた10月1日以前に、「宍戸松平家の改易やむなし」
との判断が幕閣においてなされていたということである。
幕閣の判断は幕府高官たちによってなされるが、※その判断資料は現地幕府軍や追討軍
総督から上がってくる。どんな処断がなされるかは、幕府軍の軍監や追討軍総督からの
報告の内容如何で決まるといっても過言でない。
(※それ以外に現地に潜入した横目からの報告もある。天狗勢が敦賀に到達した時、
敦賀の町には町人姿の渋沢栄一がいた。一橋家の家臣として横目をしていたという)。
それら現地情報を受け取って協議し、決定し、将軍に上程して裁可を得る。
そして当該大名の江戸屋敷の家老を呼び出し、申し渡しということになる。
これら一連の手続を考えると、最短でも十日ぐらいはかかるのではないか。
十日かかると仮定した場合、10月1日から十日前というと9月21日である。
(旧暦にも月の大小はあったが、大の月も30日までだった。31日の月はない)。
すると、21日あたりからの田沼の報告が重大な影響を及ぼしたと見るべきである。
そのあたりの頼徳や頼徳軍・大発勢の戦闘行動を見てみよう。
1.
20日には磯浜村に幕府軍が進出し、ここを守っていた潮来勢との間で戦いが行われた。
頼徳勢はこの潮来勢の中にいた。当然頼徳勢も戦闘に参加した。
(この戦いの最中に戸田五助の使者田中が飛び込んできたのである)。
幕府軍の攻撃は猛烈で、潮来勢は磯浜村を守りきれず退却した。
2.
22日には市川勢が九丁目口から大砲を撃ちながら進軍してきた。
福地政次郎の砲隊が迎え撃ったが苦戦。このとき頼徳は自ら甲冑を着け、「奸臣の横暴
憎むべし」と戦場に立ち指揮した。これを見て将兵たちは奮い立ち市川勢を敗走させた。
20日の戦いで祝町を退却した頼徳軍は日和山の本営にいた。
本営である以上当然市川勢や幕軍の標的となるのは当然であり、頼徳軍も反撃せざるを
得なかったのである。
3.
三日後の25日、市川率いる水戸城兵の大部隊が部田野に攻め込み、戦闘が始まった。
上述のように戦闘は猛烈で、幕府軍も参加し、これに頼徳軍も応戦、一日中激しい戦いが
展開された。
(参考)
https://blog.goo.ne.jp/yoshiharu-n-goo/e/d712d89bbc8fc3c43dab48d683377386
日和山は?賓閣(いひんかく)があったところで、今は湊公園がある。
日和山山頂の湊公園から東側は太平洋が一望される。南は那珂川河口で、川向こうに
祝町向洲台場や願入寺が見える。
他に、平磯館という旅館のhpに
「?賓閣跡(いひんかくあと)と湊公園、その周辺と御船蔵(おふなぐら)」
というページがあるが、是非検索して見ていただきたい。
写真や昔の絵図などもあり非常によい。
頼徳がどんな風景を見ていたかがある程度分かる。
(那珂湊絵図を見ると、町が一丁目とか二丁目とか番地が振られているのが面白い)。
他のページも有益である。他のページへのリンクが貼ってあり、このページ以外に
「反射炉」と「天狗諸生党の乱」のページへ行って絵図や写真を見れば、ほぼ陣地と
その位置関係が分かる。
0646名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/27(月) 05:22:21.51ID:50BvwZ340
上述のように、26日は弘道館で田沼と市川三左衛門が会談している。
このときに田沼玄蕃守は、前日の会戦で頼徳軍が幕府軍に抗戦し、小銃大砲を放った
ことを確認した。
田沼は「やりおった。これで十分じゃ、、、」と言ったかも知れない。
十分というのは報告に十分という意味である。
戦況報告は追討軍総督として欠かすことのできない軍務である。
筑波勢の動向は勿論だが、田沼はこれまで頼徳軍の行動を詳密に幕閣に報告してきた。
頼徳を那珂湊で幕府軍に抵抗する攘夷派全体の中核と捉えていたからである。
たしかに榊原新左衛門を中心とする尊攘鎮派と武田耕雲斎を中心とする尊攘檄派集団
との結合は、頼徳がいなければ無かったかも知れない。
前者は歴とした水戸藩の武士の集団であり※、後者は水戸街道の途中で耕雲斎を慕い
集まり集団化してしまった郷士や農民や神官のグループで、全く異質であった。
那珂湊に移ってからは、頼徳の存在は、筑波勢にとっても大きな意味を持つようになった。
頼徳が、筑波勢・尊攘鎮派・尊攘檄派という三つのグループの紐帯となり、精神的中核と
なっているのは間違いない。
ただし、頼徳とその随従の者たちは幕府を憚り、積極的な軍事行動を控えていた。
戦いはあくまでも水戸城入城を拒む諸生党・門閥派を相手とするものであった。
ところが20日と22日の会戦では、ついに幕府軍と積極的に戦ったのである。
田沼はすかさず、それについて詳しい報告書を送っていた。
文書はほぼ漢文であるが、時に田沼は「大炊頭様采配の下、御家来衆のお働き鋭く」とか、
「伝家の甲冑にお身を固められ、勇ましくも陣頭に立たれ采配を振るわれ候」などと書き
添えてきた。
大炊頭の率いる軍勢が幕府軍と戦ったのは25日で三回目である。
大炊頭の公儀への敵対の事実としてはこれで十分であった。
市川との会談が終わると、田沼は祐筆に報告書を書かせ、幕閣に発送した。
幕府公用の文書は本来継飛脚で送られるが、幕府専門の飛脚である継飛脚は水戸街道には
無かった。継飛脚の他に大名の使う大名飛脚があり、有力な大名が利用していた。
水戸藩にもこれがある。水戸藩の国元と江戸藩邸間の配送を請け負っていた。
藩士たちにも利用が許され、水戸藩は藩士六千人のうち江戸定府の者が二千人もいたから、
家族の文書まで入れればその扱い量は莫大なものであった。
水戸藩では昔は足軽を江戸まで走らせたりしていたが、大坂の飛脚問屋嶋屋が江戸に進出
してきたときにこれを利用することとし、安永九年(1780)から水戸家定日便を始めた。
定日便とは、月に三度とか定日に書状を運ぶというものである。
それ以外に、急ぎの書状にも対応した。
(もちろん水戸にも町飛脚はあった。そうでないと水戸の商人は商売ができない。
水戸では嶋屋が町飛脚も営業していたし、その他の業者も複数いた。町飛脚は書状の他、
金銭や為替なども運んだ。為替手形は飛脚問屋の本店で換金することができた。だから
飛脚問屋は金融業者でもあった)。
田沼は笠間に居たときも水戸藩の大名飛脚で江戸と連絡していた。
笠間から府中宿(石岡)まで34キロほど。軍営から府中まで馬を走らせて書状を預ければ、
その日か翌日午前中に江戸に着いた。
飛脚でもかなり早いのである。
継飛脚の場合、江戸大阪間を御急(おいそぎ、急行便のこと)なら三日で走り、常態
(じょうたい、普通便のこと)なら五日でつないだという。
御急の速度なら、水戸・江戸間なら一日かからずに着いてしまう。
(幕府の継飛脚は、東海道の場合57カ所の宿場や小屋で継いでいた。飛脚一人が走る距離は
10キロ程度である。飛脚が一人28キロを走る他の街道での継飛脚、大名飛脚などではこの
真似はできない)。
飛脚の継立てをする小屋はどこの宿場にでもあるものではなく、およそ七里ごとに置かれて
いるものであった。飛脚は、常態では時速7キロ、御急の場合は時速10キロほどの速さで
28キロの距離を駆けた。
水戸城下銷魂橋の付近に(何軒かの)飛脚問屋があり、そこが水戸での受付場所である。
なお、田沼は追討軍総督なのであるから連絡に馬を使う権限がある。ならば江戸まで馬を
走らせればよいと思われるかも知れないが、長い距離だと継ぎ立て(中継)が必要になる。
継ぎ立てが出来なければ結局休憩や宿泊が必要となる。
それなら最初から継ぎ立ての仕組みのある飛脚を使った方が早いのである。
0647名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/27(月) 05:25:33.63ID:50BvwZ340
追討軍の文書を運ばせるには、仮に幕府御用の免許を与え(というか、幕府御用を命じる
のである)、「公儀御用」の会符を渡して、それを御用状を入れた箱に立てさせる。
会符とは木の板を削った表札のようなもので、上は板で下は棒状に削り、舟の櫂のような
格好をしている。板には「御用」と書かれ、上に德川家や大名家の紋が付いている。
箱は革製で、柿渋を塗った和紙が厚く貼られており、会符を立てる金具が付いている。
箱には葵の御紋が押してある。だからこの箱も飛脚問屋に先に渡しておかねばならない。
(実際には飛脚問屋に用意されているのだろう)。
箱には鍵がかけられ、飛脚は箱の上の金具に担ぎ棒を通し、肩に担いで走るのである。
公儀御用の会符を付けた箱(通箱、とおしばこ)を担いでいれば、江戸城の御門を通過
することができるし、怖いもの無しである。
公儀御用や大名家御用の飛脚は、大名行列の前を横切ることもできた。
川止めが解けたときにも優先され、真っ先に渡しに乗ることができた。
川止め後の渡し場は旅人がごった返しているが、一番の船は乗船の時間をとらないために
飛脚一人だけを乗せた。飛脚は通箱を担いだまま舟の舳先に立ってポーズをとる。
見せ場はそこからである。
飛脚は舟が向こう岸に着かないうちにポーンと飛んで岸に降り立ち、走り出す。
それを見ている旅人たちはオーッと歓声を上げ、拍手が沸き起こる。
そして自分たちも続々と乗船し、川を渡り始めるのである。

田沼の文書は、27日に江戸に着いた。
そこから幕閣も動きだした。
さらに、同27日、頼徳の身柄を確保したあと、その日のうちに「江戸に向かわれたる
ところを危うく城内にお連れ申し上げ」などと書き、「大炊頭様については如何取り
はかるべきや」と指示を仰ぐ文書を作成した。頼徳の処断を求めたのである。
文書は27日午後に問屋に預けられ、即日発送、翌28日午前中には江戸に着いた。
0648名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/27(月) 05:26:51.38ID:50BvwZ340
この結果、幕府は10月1日付けで宍戸松平家お取り潰しとし、その日に宍戸藩江戸家老の
出仕を命じ、江戸城内白書院において申し渡しをした。
ということは、全ては遅くとも前日の9月30日には決定されていたことになる。
そうでなければ申し渡しの文書作成も、宍戸藩江戸家老の呼び出しも10月1日当日に
なされたことになる。さすがにそれはあり得ないからである。
ということは、頼徳切腹も同時期には決定されていたのではないか。
頼徳の切腹には、幕府から派遣された二人の検死役が立ち会っている。
切腹は10月5日であり、検死役が水戸に着いたその日に切腹ということもないであろう
から、切腹の前日に到着したと仮定しよう。
そうすると、検死役はその数日前に江戸を出立したことになる。
実際、いつ江戸をいつ出立したのだろうか。
江戸から水戸までは三日とされるが、これだと一日十里(40キロ)でややきつい。
自分は駕籠に乗るにしても、供廻りの者たちは歩行(かち)なのだから、それを考えなけ
ればならない。
江戸時代は男は一日十里、女は九里歩いたとされているが、毎日そんなに歩いたわけでは
ない。十里も歩く日はそんなに多くはなかった。
特に急ぎでない旅人の一日の行程は八里(32キロ)が普通だった。
検死役一行の旅も、この程度と考えるべきだろう。
切腹と決まった以上大急ぎでやらせることでもなく、むやみに急いだとも思えない。
そもそも幕臣の出張は役得が多い。幕府の御用だと宿場では下にも置かない。
幕府の役人たちは威張り放題で、美味い物を食べ酒も飲める。
そこからしても無理に三日で行くはずがない。
ということで、検死役一行は全行程四日、三泊して四日目に水戸に着いたと考える。
すると10月5日の前日に水戸到着とすれば、10月1日に江戸を出立したということになる。
5日の頼徳の切腹から逆算して、このような日程を推定しても、大きく事実から外れる
ことはないと思われる。

参考:
東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛・喜多八は、一日にどれくらい歩くとされているか、
分析してみた人がいる。それによれば、40キロ歩く日もあれば30キロの日もある。
毎日40キロ歩くわけではない。だいたい30キロ以上~40キロ前後である。
峠越えとか上り下りの多い土地、天候もあるから当然だろう。
なお、東海道中膝栗毛は滑稽本ではあるが、旅行記として書かれているし、著者の
十返舎一九は駿河の足軽の子で、父親の跡を継がず、自分は江戸や大坂で暮らした。
東海道の旅は知り抜いていた。旅程などはかなり実際に近いと思われる。
なお、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅では一日平均30キロだという。
(随行した曾良の「旅日記」による。「奥の細道」は脚色が多く資料にならない)。
日数156日のうち、一日に40キロ以上歩いたのは7日だけである。
0649名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/28(火) 06:05:55.02ID:Iek3Xgwp0
[改易-頼徳への知らせ]
10月4日の昼過ぎのことである。
頼徳が蟄居する部屋に、この屋の当主松平万次郎の重臣・山崎幾之進が訪れた。
幾之進はこれまで何度か機嫌を伺いに来た。
本来蟄居中の者は人と会ったりはできない。だが、そこは同じ屋敷の中である。
頼徳は、幾之進がいつもと同じく体調などを尋ね、不足の事はないかなど気を遣って
見せるのだろうと思っていたが、そうではなかった。
幾之進は、入室するなり両手を着き、長く平服していた。
あまり長いので、頼徳が「山崎殿、どうなされた」と聞くと、顔を上げ、頼徳の顔を
見つめた。頼徳は驚いた。大名の顔を直視するなど普通あり得ないことである。
幾之進は目に涙を浮かべている。そして再び平服し、「ただいまより申し上げること、
まことに重大至極。お心を確(しか)にお聞きあそばされますよう」と前置きした
あと、「本来なら主人安房守がお伝えいたすべきところ、拙者不肖ながら代わりに
言上つかまつる。実は宍戸松平の御家は改易を申し付けられしよし、江戸から知らせが
参りました」と振り絞るような声で言った。
続けて、「お気持ちを強くお持ちなされよ。いったんお取り潰しとなってもそれで
終わりでは御座らぬ。再興なった御家はいくらも有りますれば」と頼徳を励まし、
大きく息を継いでしばらくのあいだ次の言葉を探しているようだった。
やがて「今はこれにて退席仕る。細かなことは後ほど書き付けを以てお知らせ致します
ほどに」と言って平伏し、逃げるように部屋から立ち去った。
後ほど頼徳は、差し入れられた書面で細かな処分の内容を知った。
頼徳は、部屋の中を歩き回ったり、柱に額を押しつけて長い間じっとしたりしていた。
動転して時の流れも止まったように感じていたが、どれほど時間が経ったのか、ふと
気づけばもはや日は傾いている。
部屋の隅に闇が立ち込めている。
部屋は廊下から入ったところに六畳、奥に十畳、次の間が十畳である。
一人でいるにはむやみに広い。
頼徳はゆっくりと顔を上げた。
0650名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/28(火) 06:06:16.82ID:Iek3Xgwp0
障子に夕日がわずかに射していた。
風が強いらしく、障子の上で庭木の枝の影がしきりに揺れている。
頼徳は身じろぎもせず、その影を見ていた。
廊下に人の気配がし、すぐに去っていった。夕餉の膳を下げて行ったらしかった。
いつも夕餉の膳は明るいうちに出る。襖の前に置いていくだけである。
今日は膳が運ばれてきたことにさえ気づかなかった。
足音が小さくなり消えた後、急に頼徳の耳に急にいろいろな音が入ってきた。
風が戸を揺らし、縁の下では秋の虫が鳴いていた。
庭では秋風が舞い、木々の枝を鳴らしている。
音に耳を澄ましていると、頼徳は少しだけものを考えることが出来るようになった。
軒の上を一団の風が通り過ぎ、その後シンと静まりかえった。
頼徳は自分が今異郷にいるのだと痛切に感じた。
目白関口の藩邸がしきりに思われた。
もう家臣やその家族はあの藩邸にいないという。
いつもなら皆夕餉をとっている頃合いだろう。
無人の藩邸は、この部屋のように夕暮れの淡い光に包まれているのだろうか。
突然、頼徳は、自分は宍戸藩の藩主だったのだと思った。
それが不思議なことのように思える。
どういう巡り合わせでそうなったのか、誰かに聞いてみたい気がした。
宍戸藩は廃藩となり消滅した。
宍戸藩の藩祖は九代前の頼雄、水戸家二代藩主光圀の弟である。
180年以上続いた家を自分が潰してしまった。
家臣はもう一人もいない。家臣の家族を含め、全員家禄も住む場所も無くした。
自分は官位を剥奪され庶人となった。
先祖にも家臣たちにも顔向けができない。
後悔が胸を突き上げてきた。
田沼玄蕃守の考えていたことはこういうことだったのだ。
自分は何をうかうかとしていたのか。
那珂湊に移ってからでは何をしても遅かった。
あくまでも水戸城に入る努力をし、それが駄目なら討ち死にするか腹を切ればよかった。
そうすれば宍戸松平の家は守ることができただろう。
田沼からの呼び出しを待ちわび、申し開きの言葉を吟味したりしていた己の姿が目に
浮かび、頼徳は唇を噛み、身悶えした。
拘禁の身であるから蝋燭や行灯などの火は使えない。
日が落ちれば室内は真っ暗で、月の明かりだけが頼りである。
しかし旧暦10月4日といえば夕暮れ間近に三日月が昇るだけである。
月は沈む陽に半刻(はんとき)ほど遅れて西の空に消える。あとは闇夜と変わりない。
頼徳は、一人真っ暗な部屋で端座していた。
0651名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/28(火) 06:07:53.26ID:Iek3Xgwp0
10月4日、二人の検死役※が水戸に着いた。
大目付の黒川近江守と目付羽田十左衛門である。
到着は昼九つ半(午後の一時頃)である。
到着が早かったのは、朝出立したのが片倉宿という水戸に近い宿場だったからである。
水戸まで五里という片倉宿で宿泊したのは、到着後、報告や挨拶が必要なためである。
宿場の朝は早く、旅人は暗いうちに木戸を出て行くが、武士たちは多少出立を遅らせる。
混雑や喧噪に巻き込まれるのを避けるためである。
宿では飯は炊きあがったのを冷まさずに盛り、汁は煮えたぎったように熱くしておく。
すると客は冷ます時間が惜しく、ろくに口を付けないで出て行くという。
皆それほどに急いでいる。
飯盛女が木戸の外まで出て客を見送る。品川など大きな宿場には千人を超える飯盛りが
いたという。見送りも盛大で名物になっていた。
水戸街道ではそれほどではないが、松戸、府中(石岡)などは百人を超す。
そういう騒ぎの横を武士の行列が通るようなことはしないほうがよい。
まして検死役らが泊まったのは三泊とも本陣か脇本陣であった。
町人たちが泊まる旅籠とはまるで違う。大庄屋の離れのような部屋で悠々と過ごす。
朝の膳も彩り豊かである。朝餉をゆっくりと済ませてから玄関に下り、式台に立つと、
玄関の前に駕籠が停まっている。そこまで桟(さん)が置かれ、毛氈が敷いてあった。
草履を履かずに駕籠に乗り、草履は家来が駕籠の座布団の後ろに置く。
駕籠が門を出るときには亭主が紋付き袴で見送った。
大名の場合は亭主が二刀を差して宿場の木戸まで付き従い、返礼として大名が駕籠の窓を
開け、「○○、此度(こたび)は骨折り」などと声を掛けたものであった。
亭主も旗本相手にそこまではしないが、そそくさと早立ちはできない。
だからこそ、水戸に近い宿に泊まる必要があった。
二年前の文久二年に、幕府は参勤交代の定めを緩和した。
参勤は三年に一度半年でよく、大名の妻子はずっと国元住まいでもよいとした。
参勤交代は四月、六月、八月が時期で、一年中大名行列が街道を往来しているわけでは
なかったが、それでも宿場への影響は小さくない。
大名相手の本陣・脇本陣が特にひどく、無理に維持して破綻したものもあったという。
そういう時勢であるから、検死役のような公儀御用の旗本なら、本陣でも脇本陣でも
堂々と泊まれるようになった。
本陣・脇本陣の格式は凋落し、いつのまにか旅籠同然に成り下がってしまったのである。

※ 文中「検死役」としているが、これは天狗党関連の出版物がほとんどこのように
表記しているからである。「検使役」としている本もあり、どちらが正しいとも言い難い。
とりあえず検死役に統一しておく。
0652名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/28(火) 06:11:33.33ID:Iek3Xgwp0
検死役一行が朝食をとり、宿場を出たのは六ツ半(7時)頃。
水戸まで五里とはいえ、道を急いだため、供廻りの者たちは襟を汗で濡らした。
検死役二人の供廻りは徒目付(かちめつけ)一人、同心六人、それに検死役二人の
個人的な家臣(近習や用人・お小人など)七人で、総勢十六人であった。
検死の正使・副使、徒目付と同心六人は、大名の検死役に必要とされる揃いの人数である。
(切腹する者の身分が低いと、徒目付は不要で、同心は四人である)。
徒目付は検死役の職務執行の監視役であり、直接切腹の検死には関わらない。
一行が銷魂橋に近づく頃には日は陰り、風が強くなった。
暗い空の下にずんぐりとした城が横たわっている。天守閣も石垣も無い城である。
土塁には芝が植えてあった。
江戸城を見慣れた目には、緑の箱の上に櫓や城門が乗っかっているように見えた。
宿は幕府追討軍の本営がある弘道館ということは知らされていた。
弘道館の正門のところまで行くと、門は厳しく封鎖されていた。
右脇の通用門が開いていて出入りが可能なようである。
軍営になっているということで門の周囲に柵を立て、警戒が厳しそうであった。
用人が近づいて番卒に話をすると、伊賀袴を履いた中間のような者が出てきて一行を
中にいざなった。
宿はとりあえず文館の教職詰所の一画にある客室が宛てられた。
端下の者たちは文館の寄宿寮の一室である。
弘道館は非常の事態により、幕府追討軍の本営になる前から閉鎖されていた。
だから学生はいないが、今は兵員一千を超える幕府追討軍の宿舎にもなっている。
検死役一行は、到着早々風呂を勧められ、正庁の湯殿で湯を浴びた。
宿所に戻って一服していると、櫃に入った弁当が運ばれてきた。鰻飯であった。
食後正装して正庁に向かった。到着の挨拶である。
食事や衣類の片付けの世話をしてくれた茶坊主が先に立って歩く。
続いて検死役正使の黒川近江守、その後に副使の羽田十左衛門が続いた。
供廻りは短い脇差し一本を差した中間一人だけである。
田沼は水戸藩主の御座所である至善堂に居を定めていた。
至善堂は、正庁と呼ばれる学校御殿の奥にある離れである。
無論そこまでは通されない。玄関を上がって左奥の正席(西の間)に通された。
中間は玄関を入らず少し離れた庭の隅で控えていた。
0653名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/28(火) 06:12:51.83ID:Iek3Xgwp0
二人が居る西の間は藩主登館の際に出座される部屋である。
そこに藩主ならぬ田沼が現れ、「おぉ、参られたか」と声を掛け、平服する二人の
間近まで来て対座し、手をついて「お役目ご苦労に存じまする」と挨拶した。
続けて上座に移りながら「さてさて、堅苦しい挨拶はこれまでじゃ。お疲れであろう、
楽になされよ」と言い、道中の様子などを聞いて磊落に笑ったりした。
笑っているばかりではない。やや表情を引き締め、「さてもお骨折りでござった。
駕籠も楽そうで辛いものでござる。御腰など痛められなんだか」と気遣いもする。
その上で、申し訳なさそうな顔で「今日はお疲れ休めに自分が一席設けたかったが所要
があり残念である」というような意味のことを言った。
続けて「代わりと言っては何だが御家中の方々が一献差し上げたいと申しておる。
今宵は一切遠慮なくお城の方々にお任せあれ」と言い、立ち上がって「水戸の酒も
なかなかでござる。ご堪能召されよ」と言って笑みを浮かべて去った。
田沼が現れて去るまで一瞬であったが、鷹揚でそつがなく、全く文句のつけようのない
殿様ぶりであった。
茶坊主※が市川様ご家来衆がお待ちであられるとして、二人の先に立って玄関間際の
諸役会所に導いた。市川の家来がそこで待っており、挨拶を交わした。
そのまま駕籠で水戸藩御用達の料理茶屋(今日の割烹旅館)に案内され、接待を受けた。
検死役随従の者や家来たちも、端下の者を覗いて茶屋に招かれ、別室で饗応に預かった。
芸者を揚げた賑やかな宴が夜更けまで続き、検死役の二人が女とともに床についたのは
夜明け近くであった。
※茶坊主は一般に身分の低い僧と思われているが、武士である。
僧体をしているが、茶坊主をやめれば普通の武士に戻った。特に表座敷に勤める者は
身分の高い武士の世話をするため、家柄のよい家臣の子弟などから採用された。
ヨーロッパ中世、騎士の世話をしたペイジ(小姓)のようなものと思えばよい。
ペイジは荘園領主や貴族の子弟で、自分より身分の高い騎士に仕え、礼節や騎士としての
振る舞い方を学んだ。日本の茶坊主も同じで、出身が高い身分の者がより高い身分の武士
の世話をした。茶坊主が、自分の出身以下の身分の武士の世話をすることはなかったと
思われる。
0654名無しさん@お腹いっぱい。2022/06/29(水) 01:25:47.83ID:vMbA/QGy0
切腹申渡書

十月五日於松平采女宅申渡
松平大炊
野州辺屯集浮浪之徒暴行及、水戸殿御領分、動揺致し候に付、為鎮静水戸殿名代として、
被指遣候處、却って賊徒並に水戸殿脱藩之士に加り、公儀御人数へ及敵対、不届の所業
に付、切腹被仰付者也
右大目付黒川近江守、御目付羽田十左衛門立合、近江守申渡之
[訳]
十月五日、松平采女(うぬめ)宅に於て申し渡す
松平大炊
野州辺に屯集した浮浪の徒が暴行に及び、水戸殿の領内が動揺致したので、鎮静の為に
水戸殿の名代として指し遣わされたところ、却って賊徒並びに水戸脱藩の士に加わり、
公儀御人数に敵対、不届きの所業に付き、切腹仰せ付けられる者なり。
なお、切腹には右大目付黒川近江守、御目付羽田十左衛門が立合う
以上、近江守が之を申し渡す
0655名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 20:03:53.21ID:wyOT4Nm40
慶長14年(1609)、家康の十一男頼房が常陸水戸25万石を与えられ、下妻10万石より転封。
これが水戸德川家の始まりである。
ただし、当時德川を名乗れるのは家康と秀忠だけであった。
頼房が德川を名乗れるようになったのは寛永13年(1636)である。
それまでは「名字定まらず」という状態だった。

そもそも、水戸に最初に封ぜられたのは家康の五男武田信吉であった。
信吉は家康と甲斐武田氏家臣・秋山氏の娘・於都摩(下山殿)との間に生まれた。
武田氏の一族であった穴山信君は、織田・徳川方に与するにあたり、於都摩の方を養女と
して家康に差し出した。家康は於都摩の方を側室とし、天正11年(1853)に万千代丸
(信吉の幼名)が生まれる。本能寺の変の翌年のことである。
穴山信君はこの変で横死し、穴山武田家は亡ぶ。穴山衆(穴山家家臣)は家康が引き受ける
ことになり、信吉が母親の関係から穴山衆を率いることになる。
慶長7年(1602年)、関ヶ原の役で西軍に属したとされた佐竹氏が秋田に転封。
信吉はその領地であった常陸国水戸15万石に封ぜられ、穴山衆を中心とする武田遺臣団を
率いて水戸に入城した。姓も武田と改め、武田氏を再興したのである。
信吉19歳のときのことである。
このまま信吉が水戸家を治めていれば、後の水戸德川家は武田遺臣からなる一枚岩の精強な
大名になったことだろう。
しかし、信吉は二年後に21歳で死ぬ。
信吉はもともと体が弱く、水戸には一度も行っていない様子である。
子供も無く、その遺領は十男頼宣に与えられた。
慶長8年(1603)11月のことである。
信吉の家臣の多くはそのまま水戸家に仕えることになる
信吉の後を継いだ形の頼宣は、この時わずか2歳。
頼宣は藩主になっても駿河の家康の下で養育されていた。
だから水戸家は独立した大名としての実質は何も無く、德川将軍家の領地のように思われて
いた。
水戸に封ぜられた頼宣は、6年後の慶長14年(1609)11月に駿河五十万石を与えられた。
(その10年後の元和5年(1619)、18歳で紀伊和歌山に転封、紀州德川家の祖となる)。
頼宣の駿河移封にともない、1ヶ月後の慶長14年(1609)12月に、十一男の頼房に
常陸水戸25万石が与えられたのである。
水戸藩主になった頼房はわずかに7歳、当然水戸に赴くこともなく、駿河の家康の許にいた。
頼房の藩主就任は世間には全く意識されず、引き続き頼宣が藩主と思われていた。
その結果、水戸藩は頼宣の駿河德川家の分家のように思われていたらしい。
だから、この当時水戸家の家臣となった者たちは、水戸德川家という大名の家臣になった
という意識は希薄だったと思われる。
家臣たちに殿様を中心とした結束感が生まれず、元々の佐竹の遺臣たちが郷士として幅を
効かせていた。さらに、水戸藩には室町幕府時代の名家の子孫たちが多く送り込まれた。
德川家は将軍家として、足利大名や鎌倉からの由緒を誇る名家の子孫たちを放っておく
わけにはいかなかったのである。
名跡を残させるため、零落した名家の末裔たちを引き受け、一番最後に出来た水戸藩に放り
込んだというような形である。
例えば水戸德川家の中の「御三家」と言われたのが結城・小山(おやま)・宇都宮の三家
である。いずれも鎌倉幕府以前からの豪族で、三家とも、早くから頼朝に従い、鎌倉幕府
創建の功業をたすけた功臣である。武家として気が遠くなるような家柄である。
室町大名など足許にも及ばない、全く次元の異なる名門である。
その他、出雲の名族尼子氏、安房の里見氏、越前の朝倉氏などをあげれば十分だろう。
0656名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 20:10:48.21ID:wyOT4Nm40
ついでに天狗党の乱で名の知られた家臣たちの家系にザッと触れると、
山野辺氏は山形の最上氏の一族。最上氏は足利氏の支流であり、三管領の一つ斯波氏の
分家である。奥州探題をつとめる格式のある家柄である。
最上義光の「義」の字は足利将軍義輝から偏諱を賜ったもので、足利幕府の大名であった。
豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して本領を安堵され、豊臣の大名となる。
その後、家康に接近し、出羽山形で57万石の太守となる。
慶長19年(1614)に病死。
最上義光の四男山野辺義忠は山野辺19300石の城主であり、山形藩で家老職をつとめていた。
義光の死後9年目に山形藩が内紛で改易。
その後、寛永10年(1633)、徳川家光の命により水戸藩主徳川頼房にその身柄を預けられ、
1万石を得て水戸藩家老となった。光圀の教育係も務めている。

武田耕雲斎の武田氏は言うまでもなく甲斐源氏武田氏である。
しかし、耕雲斎は本来は跡部氏であった。改姓前の実名は跡部彦九郎正生といった。
跡部氏は武田信玄・勝頼に重臣として仕え、御親類衆としての扱いを受けた。
跡部氏のほとんどの武将は勝頼とともに亡んだが、勝頼の家老の跡部勝忠の嫡子昌忠は、
本能寺の変の後甲斐を領した家康の家臣となり、四奉行※の一人として統治に協力した。
※四奉行とは、甲斐国を徳川氏が領有した後に臣従した旧武田氏家臣で、関東移封
までの間、奉行として家康の統治を補佐した四人の奉行のこと。
跡部昌忠(九郎右衛門尉)は慶長6年(1601)に奉行に任じられた。
耕雲斎はこの跡部氏の系統である。
耕雲斎は跡部氏ではあったが末端の家柄であった。本家の跡部正房の養子となって跡部
宗家を継ぎ、氏の長者となる。その後主君斉昭に願い出て跡部姓を武田姓に改姓した。
跡部氏は小笠原氏の系統で武田を名乗るのは不自然である。
それが何故武田氏になったのか、そこの理屈は分からない。
何か言い伝えでもあったのだろうか。
相談した相手が斉昭だけに、勢いだけでやってしまったような感じもする。
斉昭公が「いっそ武田にせい」とでも言ったとか。
耕雲斎が改姓したのは、跡部という姓が嫌いだったからだという。
長篠の戦いのとき、跡部勝資は長坂長閑とともに主戦論を唱え、撤退を勧める山県・内藤・
馬場・原などの侍大将たちと対立。無理な突撃を敢行させて大敗を招いた。
様々な文書(もんじょ)の中で、跡部勝資は勝頼の側近として勝頼をおだて上げ、判断を
誤らせた佞人として扱われている。耕雲斎はそれが嫌だったらしい。
跡部勝資は織田徳川軍の甲斐侵攻(武田崩れ)のときに勝頼に付き従って死んだという。
(最後に勝頼を裏切ったという資料もある)。
次男とされる跡部昌勝は、のちに徳川家康の家臣になり、旗本となった。
この人物が耕雲斎の祖である。

鈴木石見守の鈴木氏
今川家の被官で井伊谷三人衆と呼ばれた国人がいた。
鈴木重時、近藤康用、菅沼忠久である。おんな城主直虎にも登場した。
鈴木重時は、遠江と三河の境、山吉田(愛知県南設楽郡蓬莱町下吉田)の豪族である。
井伊直政の父・直親の母は鈴木家の出のため、井伊家と縁戚関係があった。
鈴木一族は徳川の被官となったが、その中の鈴木重好(石見守)は水戸家の家臣となる。
水戸に移ったのは元和4年(1618)のこと。
代々水戸藩の重臣をつとめ、八代重矩は文政2年(1819)に家老となり、同7年には26歳の
若さで江戸執政を命じられた。 その子重棟(しげむね)は4500石を賜り大寄合頭となる。
この重棟が門閥派の領袖と目されたのは当然であり、市川ら諸生党と天狗勢との争乱に
巻き込まれることになる。いったんは権力を掌握し栄華の日々を送ったが、幕府瓦解後、
重棟は逃亡して江戸に潜伏するが捕まって斬首。二人の幼い子供も斬首された。
重棟の父重矩は赤沼の牢に入れられ、食を断って餓死したという。
(重矩以下は水戸市史3による)。

なお、水戸藩には雑賀孫市系の鈴木家もある。
雑賀衆の裔である鈴木重朝は徳川頼房に仕え、子の重次が跡を継いだが子がなく、頼房の
十一男仙千代を養子にした。仙千代は重義と名乗り、重朝亡き後鈴木家を継いだ。
禄高三千石で家老職であった。
0657名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 20:10:56.57ID:wyOT4Nm40
市川三左衛門の家系はよく分からない。
何せ甲州信州には市川(市河)家が多い上に、水戸德川家にも数多くいる。
そういうことで推測。
武田の家臣で市川昌房という武将がいた。
武田信玄に仕え、勘定奉行をつとめ、諏訪高島城代となる。長篠の戦いで戦死。
その後を駒井昌倚( まさより)が養子として後を継ぎ、勝頼に近習として仕える。
武田家滅亡のときにどうふるまったのか、昌倚はそれまでの所領を安堵され家康の家臣と
なった。その後、昌倚は市川昌房家から離れる。
市川昌房の系統に市川家光という武士がいて、昌倚は市川昌房家はこの者に継がせ、
自分は別家を立てたのだという。市川家光は昌房の子なのかも知れない。
父が死んだときは幼少だったので昌倚が仮に養子として入ったのかも知れない。
市川家光は武田四奉行の一人となり、家康の甲州支配をたすけた。
頼房の家臣となったのは、この市川家光と市川昌倚のどちらかだろう。

水戸藩の上級家臣には、武田家の家臣だった者たちは別として、足利時代あるいは
それ以前からの名家の出身者が多い。
名家といっても血筋だけのことで、戦国の世に適応できず、敗残して大きな大名に
寄生して命を繋いできたような者たちである。
こうした名家の末裔たちが水戸藩の家臣となっても、自らの出自を誇り合うだけで、藩士と
しての連帯感が生まれなかった。
また名家意識から下級の藩士たちを必要以上に見下した。
下級の藩士たちも、上級家臣を尊敬する気持ちが無かった。
普通、大名の家には、多くの戦役を戦い抜いた苦難の歴史があるはずである。
上級家臣となるからには、戦の場で戦功を上げ、あるいは大きな犠牲を払っているはずである。
御家への貢献が大きいから身分も高いのであり、下級の藩士からは尊敬されて当然である。
しかし、水戸藩にはそうした歴史がない。
赤の他人同士がお互いに関心を持たないまま同居しているような状態であった。
頼房が長じた後、水戸に赴いて家中の結束をはかればよかったのだが、それも無かった。
頼房は水戸藩の藩主としての自覚がなかったようである。
頼房が初めて水戸に入府したのは17歳のときで、このときは二ヶ月居た。
寛永2年(1625年)から寛永7年(1630)まで(23歳から28歳までの6年間)、
寛永3年の上洛の年を除いて毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下町造営、多くの
法令を定め、城下の整備を行ったという。
しかしこの5回の就藩は、父秀忠やかましくに言われてのことらしい。
秀忠が亡くなり、家光の代になってからはほとんど水戸に行っていない。
家光の治世17年のうち、頼房が水戸に行ったのはたったの3回である。
頼房のこのふるまいが前例となり、水戸藩は江戸定府となったという。
頼房が若い頃水戸へ行かなかったのには別の理由もあるらしい。
若年の頃の頼房は異様な装束やふるまいを好み、到底水戸に殿様として行かせられれる
有様ではなかったというのである。
0658名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 20:11:30.80ID:wyOT4Nm40
初代頼房はほとんど水戸藩に関心が無いまま半世紀以上藩主であり続け、寛文元年
(1661)に亡くなる。後を二男の光圀が継いだ。
光圀は藩主である間、11回も帰国(お国入り)している。
これは歴代の藩主の中で最多である。
また、隠居してからの10年間を常陸太田の西山荘で過ごした。
こうした履歴からすると、光圀は水戸藩の運営に意欲的であったと言いうるだろうが、
水戸藩という舞台で自分の趣味趣向を追求していっただけという評価もあり得る。
光圀が水戸藩に残したものとしては大日本史編纂事業が最大のものである。
この事業は多額の資金を要し、毎年水戸藩の財政の三分の一が費やされたという。
水戸藩は財政難に陥り、光圀は家臣たちに借り上げをした。
光圀は18歳ぐらいから学問に興味を持ち、学者たちとも交流が多かったが、林羅山を
最も尊敬していた。羅山は光圀より45歳年長で、光圀が学問を始めた頃にはすでに
60歳をいくつか出ていた。
林羅山は寛永7年(1630)、家光から上野忍岡に土地を与えられ、私塾を建てた。
広壮な講堂の他、膨大な書籍を収容する書庫(文庫)を作り、さらに孔子廟を建てて
「先聖殿」と名付けた。
光圀が藩主になる前、気楽な部屋住みの身である光圀は、よくここを訪れた。
小石川や駒込の藩邸からはきわめて近い。
忍岡とは今の上野公園一帯の丘陵をいい、当時は寛永寺の寺領であった。
羅山の私塾はその一画にあった。藩邸から馬を歩ませて10分ほどの距離である。
光圀は、ここに入り浸るうちに、こうした環境を自分でも作りたいものだと思った。
その光圀がそろそろ30歳になろうとする頃、明暦の大火災が起きた(1657年1月)。
火災で忍岡の林羅山の塾は全てが焼けてしまった。
羅山は膨大な書籍や記録が全焼してしまったことに落胆し、四日後に死去。
光圀も学問の徒として、文庫の焼失には心を痛めた。そして自分も何かしら文庫焼失を
埋め合わせるような貢献をしなければならないと思ったのである。
光圀は明暦の大火の1ヶ月後、史局を設置し大日本史の編纂作業を開始させる。
大火で小石川邸は全焼し、駒込邸内の焼け残った建物を使っての開設であった。
最初の史局員は、林羅山の門下で水戸藩に仕えていた人見卜幽、辻端亭などであった。
なお、忍岡の林羅山の私塾は再建され、林羅山の三男春勝(鵞峰)が大学頭(だいがく
のかみ)を称することを許され、私塾を運営した。
なお、この私塾の孔子聖廟は「忍岡聖堂」と呼ばれるようになった。
元禄3年(1690年)、将軍綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じた。
これが湯島聖堂のはじまりである。聖堂だけでなく、徐々に講堂や学寮が整備され、
この建物は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで昌平黌と呼ばれるようになる。
後年昌平坂学問所などと呼ばれ、昌平坂のところにある学問所だからそう呼ばれる
ように思っている人が多いが、それは誤りである。
昌平黌ができたから、その横の坂が昌平坂と呼ばれるようになったのである。
0659名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 20:13:03.42ID:wyOT4Nm40
光圀は、林家の私塾のようなものを水戸藩にも作りたいと思い、寛文5年(1665)、
長崎で私塾を開いていた明の遺臣・朱舜水を招く。
広大な駒込藩邸に朱舜水の居宅を建て、ここを徐々に学校にしていくつもりだったが
実現はならなかった。しかし舜水は亡くなるまでの17年間光圀の傍らにあり、その間
光圀の受けた影響は大きかった。
光圀が小石川藩邸に作った庭園は一部本格的な中国式庭園である。光圀は舜水も作庭に
参加させたため、儒教的な趣向が濃厚な庭園となった。
現在の庭園の規模は往時の四分の一にも充たない。
庭園の周囲には多くの建物が作られたが、それらはほとんど残っていない。
清水観音堂という清水寺を模した建物があり、崖の上に掛作りで作られ、上は広い
舞台になっていた。https://kakezukuri.omiki.com/kakea1.html
関東大震災で焼失したが、八卦堂という文昌星像を安置したお堂もあった。
文昌星は中国の学問の神である。礎石の形から、八卦堂は八角計の建物であったよう
である。法隆寺東院の夢殿や広隆寺桂宮院本堂が八角堂である。
しかし、後楽園にあったものはもっと中国風の八角堂だろう。
杭州西湖にある雷峰塔が八角であるが、塔であるし、今のものは再建で、昔のものは
石造りのロケットのような形の塔である。参考にはならない。
(光圀は、史局を小石川邸内に移し「彰考館」と名付けた。彰考館も庭園の周囲に
建てられた。資料を置く文庫などももちろん附属していた。光圀の頭の中にはおそらく
忍岡の林家の塾の姿があったのだろう。林羅山の塾は、緑濃い上野忍岡の高台にあり、
不忍池を見下ろしていた。池泉庭園の傍らにに彰考館を建てることで、光圀は青春時代に
親しんだ風景を復活させたのである)。
中国では有名な「西湖の蘇堤」を庭に取り入れたのは勿論舜水である。
https://www.gqjapan.jp/lifestyle/article/20210325-edo-28
https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_2004.html
光圀は何と、水戸の千波湖にも西湖の堤に似せた「柳堤」まで作ってしまった。
柳堤は慶安4年(1651)に作られ「新道」と呼ばれていたものである。
慶安4年はまだ初代の頼房が藩主であった時代で、新道は頼房が作ったものとされているが、
頼房は湖を埋め立てて湖中に道路を作るなどという新奇なことをする殿様ではない。
柳堤には両端に木戸があり、番人がいた。真ん中にも木戸があったという。
誰でも通れるようなものではなかったのである。
0660名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 20:15:37.87ID:wyOT4Nm40
頼房の晩年には光圀はいろいろなことを初めている。
史局を作って大日本史の編纂を始めたり、朱舜水を招いて駒込藩邸に住まわせたりは、まだ
部屋住み時代に行ったことである。
光圀は、藩主になる以前から、水戸藩に興味のない父親に代わって藩主でなければ出来ない
ことをしていた。柳堤の元となる新道を作ったのも光圀であると思われる。
元禄3年(1690)、光圀が中国の西湖にならって道に柳を植えさせ、柳堤と名づけたのであるが、
この時光圀は朱舜水を伴って水戸入りした。
舜水は新道を見て、「これはちょっと違うよ」と言ったのだろう。
そこで光圀が中国風に改造し、柳堤と改名したのだと思われる。
(以上、>>585-587参照)。
光圀が家老藤井紋太夫を刺し殺したのは有名な話であるが、これも光圀が隠居してから4年も
経ってからのことである。隠居して政務には関係がなくなっていたはずであるが、あえて
このような大胆なことした。
江戸藩邸での大名を招いた演能に合わせての殺害を計画し、計画どおりに実行したという。
光圀が舞台に出て一幕舞い、楽屋に引っ込んだところで藤井を呼びつけ、屏風の陰に招き、
押し倒して首を膝で押さえ、素早く胸を2度刺して殺したという。
殺害の後は、何食わぬ顔で席に戻り、のんびりと能を鑑賞していた。
(この殺害は、光圀が能衣装のまま、もしかしたら面もつけたまま短刀を袖に隠し、藤井を
刺し殺したと考えると恐ろしい光景である)。
殺害の理由は明かでないが、おそらく光圀が隠居したということで藤井紋太夫がその発言を
軽視するようになったからではないか。
藩主になる前でも隠居の後でも、光圀に逆らうことなど誰にも出来なかったのである。
0661名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/09(土) 08:55:11.79ID:nt8hysEL0
水戸藩と彦根藩
ともに武田遺臣の末裔がたくさんいるのに…
0662名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/10(日) 16:30:48.15ID:JrORDFsc0
主という個なり点が余りにも遠い・希薄だったが故に思想がその代わりとなって余計に拗れたみたいな?
その味を生み出したラーメン店主を尊ぶよりもその味に集中しすぎて麻痺
味覚なんて人それぞれだからね(旨いという同方向性ながらも)
0663名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/15(金) 07:05:08.81ID:liRAWEY+0
>>657 にこう書いてしまった。
>しかしこの5回の就藩は、父秀忠やかましくに言われてのことらしい。
秀忠が父親のわけがない。
頼房は家康の末子であり、秀忠は兄である。
兄秀忠が将軍の時代に、水戸へ行くよううるさく言われたのであった。
ここは訂正しておかないといけない。
頼房が秀忠の子であるわけがないのだが、年代的にどうしても錯覚が起こる。
甥である家光とほぼ同年なのである。
頼房は慶長8年(1603)8月10日の生まれである。
これに対し家康の孫の家光は、慶長9年(1604)8月12日の生まれである。
ちょうど一歳差であり、仲も良かった。
家光が将軍になって5年ほど経った寛永10年(1630)年、家光は頼房に、
「其方之御事は別而心安思候まま心中をのこさす万談合申事に候、兄弟有之候而も
やくにたたす候間、此上は其方を兄弟同前に思候まま、弥万事其心得可有候」との
手紙を送っている。
現代語にすれば、「そなたのことはわけても心安く思い、心中ありのままに万事
相談したいと思っている。私には兄弟はあっても役に立たないので、この上は其の方
(そのほう、あなた)を兄弟同様に思っていくので、万事そのように心得ていて欲しい」
という内容である。
家光時代に頼房が水戸にほとんど行かなかったのは、家光が頼房を離さなかったからだ
という説もあるくらいである。
0664名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/15(金) 07:05:30.63ID:liRAWEY+0
頼房については、面倒くさがりの不精者といった書き方をしてしまったかも知れない。
実際は剛毅勇武で古の良将の趣があったと言われる。
家康は頼房を評し、「あの者は名刀と同じだ。抜いてはならぬ。何も無い時に抜けば
災いになるだろう」と言ったという。
(実際の言葉は「宝として珍重すべく此を抜くべからず」である)。
戦国時代に生まれていれば名将として名を残したかも知れない。
剛毅なだけでなく膂力もあった。
家光はよく狩猟をした。頼房が兄義直とともに家光の狩りに随行したとき、義直が
射損じた手負いの猪を一矢で仕留め、家光から「今能登守」と呼ばれた。
能登守とは強弓で有名な平経盛のことである。
徳川の一族には時に豪傑じみた乱暴者が出る。
家康の長男・信康の剛強は言うまでもない。
次男の結城信康も剛毅沈着であった。
結城秀康の長子である松平忠直は、剛勇を超えて凶暴残忍であり、九州へ流された。
十男頼宣も剛毅。若い頃は粗暴で手が付けられなかった。頼宣が暴れたときに、家老の
安藤直次が戦場往来の剛腕で押さえ込んだ話は有名である。
さらに十一男頼房は豪毅他を凌ぐ性格であったという。
(一方、三男の秀忠、四男忠吉、五男武田信吉、九男義直は、温厚で他と争わぬ性格
であった)。
なお、頼宣と頼房は母親を同じくする。母は上総の土豪正木邦時の娘のお万の方である。
紀伊德川家と水戸德川家の家祖を生んだのだからたいしたものである。
落飾して養珠院と称し、76歳まで長命した。家康がお万を側室としたのは、その体格
に魅せられたからだといわれる。頼宣と頼房の体格の良さもここから推定される
ついでながら、
家康の母方の従兄弟である水野勝成も乱暴極まる男だった。
戦になると自分が大将であることを忘れて一騎駆けで荒れ狂い、さらに父親の気に入りの
家臣を斬り殺し、勘当されている。浪人中秀吉に拾われたが逃亡した。相撲の相手を
殺したのだという。結局誰からも相手にされず15年もの間放浪していた。
その後関ヶ原戦役の前ぐらいに父親の許に戻ったが、性根は全く変わっていなかった。
大坂夏の陣では一手の大将となったが、大将であるのに配下の大名たちを出し抜いて
抜け駆けし、しかも自分の家臣たちをも放り出して一人で暴れ回っていた。
家康も「またあの病がでたわ」と呆れ、一切手柄を認められなかった。
水野勝成のような武士を、当時は「浮気者」と言った。
頼房は乱暴者でも浮気者ではなかったようだし、家康が危惧したくらいだから、もし
戦場に出れば相当な働きをしただろう。しかし平和な時代には使いようがなかった。
水戸の民政のような細かなことには興味も持てず、家来まかせにして何もしなかった。
最初に水戸に来たときは、到着したとたんに鷹狩りに出かけたといわれる。
しかし、強悍ではあったが周りを傷つけるような凶暴さはなかった。
家光も頼りになる身内として江戸に置きたがったほどだから、案外に温和な性格だった
のかも知れない。
書には品格があり雄渾、「天満大自在天神」の書は名筆とされている。
https://blog.goo.ne.jp/goooid0/e/1bdf4823eb14c532a6ee4f4ae8f220c9
0665名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/17(日) 07:22:57.46ID:XaiQjS/10
頼房関係でもう少し。
頼房と兄の頼宣は一歳違いである。
頼房は上記のように慶長8年(1603)8月10日の生まれである
兄の頼宣は慶長7年(1602)3月7日生まれ。

家康はお万の方に頼宣を生ませると又すぐに妊娠させ、二人の男子を得たので
あるが、もしお万の方を寵愛しなければえらい事になるところだった。
家康の晩年には、男子は四人しか残っていなかった。(勘当した忠輝を入れれば五人)。
三男の将軍秀忠、九男義直(尾張藩主)、十男頼宣(紀伊藩主)、十一男頼房(水戸藩主)
である。
4人では天下の屋台骨を支えていくのに十分とはいえない。
しかし、4人いれば、かろうじて将軍家と御三家は大丈夫である。
家康が頼宣と頼房を自分の手許に置き、大切に育てたのはよく分かる。
もうこれ以上減らすわけにはいかなかったのである。
育てるにしても、奥(夫人や女たちの領域)で育てて柔弱になっては困る。
一方、昔どおり家来に預けて育てさせても(傅・めのと。貴人の子を守り育てる役目の男。
もりやく)当たり外れがある。相性の悪い傅だと子供を駄目にしてしまうこともある。
それならば自分が育てようと思ったのである。
家康は1542年生まれ。家宣が生まれた1602年には還暦である。
頼宣と頼房は事実上孫の世代だった。(当時としてはひ孫でもおかしくない)。
家康はお爺ちゃんが孫を可愛がるようにして二人の子を育てたのである。
ただしかなりのスパルタ教育だったようである。
0666名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/17(日) 07:43:27.10ID:XaiQjS/10
ちなみに他の子供はどうなったかというと、
1.長男信康 21 切腹
2.次男秀康 34 病死
3.四男忠吉 28 病死
4.五男信吉 21 病死

5.六男忠輝は特殊である。慶長20年(1615)、家康は大阪夏の陣の後、今後の対面を
禁ずる旨通達。元和2年(1616)、家康の死に際しても面会は許されなかった。
家康死の数ヶ月後、将軍秀忠により改易。配流先で92歳まで長命した。

6.七男松千代 6 病死
7.八男仙千代 6 病死

なお家康は、六男忠輝を勘当する前の慶長15年(1610)に、越後高田60万石の大封を与えた。
尾張・紀伊・越後の三家、ないしこれに水戸を加えた四家とする構想だったようである。
忠輝を見限ったため、将軍家+尾張紀伊水戸の御三家となった。
なお、家康は「将軍家と尾張・紀伊」で御三家とし、水戸は将軍家補佐のような形にする
つもりだったとする説もある。
武田信吉を水戸に入れたあたりでは、最後の説のように、水戸家は将軍家直属で将軍家を
補佐するような大名にする構想だった可能性が大きい。
軍事面でも、水戸に武田遺臣団を結集させ、将軍隷下の軍団としたかったのではないか。
個々に幕臣にするとただ家臣にするだけで特殊性を失う。
水戸あたりで武田氏を再興し、武田遺臣団をそのままに移すのが一番いいはずである。
結局武田信吉の死によってこの構想は潰れ、武田遺臣の多くは井伊家に引き取らせた。
このとき水戸には、武田遺臣は33家だけが残されたといわれる。
(井伊直政は1602年に死去。長男直勝は家臣団をまとめきれず、1615年、次男の直孝が
井伊家を継ぐ。直勝は3万石だけ与えられ分家。武田家臣団などは直孝の方に帰属した)。
遺臣たちが西国彦根に行ったことで軟弱になったことは否めない。
水戸にいれば精強さを保ったかも知れず、幕末史の展開なども変わっていたかも知れない。
少なくとも、幕末の悲惨な騒動は起きずに済んだ。
0667名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/19(火) 12:39:09.07ID:lQUpnkAT0
さらに上に書いたものの補充・訂正
>>655
武田信吉について
何故松平信吉と言わないかというと、松平信吉という人物が他にいるからである。
松平信吉は三河藤井松平家の三代目の殿様である。

武田信吉は21歳で死んだが、死因は「湿瘡」だという。
湿瘡は現代では疥癬と同義とされ、ヒゼンダニを原因とする皮膚炎とされているが、
当時の湿瘡はこれとは別のものだろう。
学者は当時南蛮人が持ち込んで猖獗をきわめていた性病だろうとしている。
さらに、性病で体が爛れてしまったことを恥じての自殺ではないかと言う人もいる。

>信吉はもともと体が弱く、水戸には一度も行っていない様子である。
一度も行っていないのは水戸城主となって以後のことであり、水戸に移封されて最初の
入城のときは軍勢を率いて水戸に入っている。
当時は他大名の領地であった土地に乗り込むのは戦場に行くようなものであった。
城主だった大名はいなくなったとしても、土着の勢力がどう出るかは分からない。
家康が関東に封ぜられ江戸に乗り込んだときも、全員甲冑に身を固め、戦陣に臨むような
覚悟であった。
家康の江戸入城のことを、後の幕臣たちは「江戸御打ち入り」とか「関東お打ち入り」と
呼んだ。(打ち入り、であり、討ち入りとはしない)。
この言葉は、晴れがましく勇ましいが危険なことであるという感じがよく出ている。
江戸お打ち入りの八月一日は、德川家や幕臣たちにとって特別の日だった。
この八月朔日(ついたち)を「八朔(はっさく)」と呼び、晴れの日とした。
そのうちに町人までがお祭り気分で祝うようになった。
https://intojapanwaraku.com/travel/20936/
上述のように江戸城下までは軍装だったが、家康や供廻りの家臣たちはが入城するときは
白帷子(しろかたびら)※を着ていたという。
それに倣い、後年この日は大名や旗本たちが白帷子でお城に上がり、将軍に賀詞を奏上
する日となった。吉原の遊女までもが、この日は白装束で花魁道中をやった。
※帷子とは単衣(ひとえ、裏地のない衣装。浴衣がそうである)の着物のこと。
家康たちは汗と埃にまみれた鎧や武者装束を脱ぎ、白い単衣の着物に着替えて入城した
わけである。夏だから単衣にしただけのことであり、単衣には特別の意味はない。
白装束であるところに意味がある。
白は吉凶いずれの場合にも礼服として使われていた。
中でどんな儀式をやったかは分からないが何事か行われたはずである。

さて武田信吉だが、水戸に打ち入ると言っても、当時は街道などが整備されていないから
大変である。
この点、入城は水路を使ったとするブログがある。
https://ameblo.jp/asmi1214/entry-12383388826.html
よい資料が紹介してある。
ただし、当時は利根川は銚子の方までは流れていなかった。荒川と同じように江戸湾に
注いでいたのである。だから利根川で佐倉とか印旛沼といった経路を辿るわけがない。
常陸川の河川が後の利根川と重なるが、当時の川は沼が連続したようなもので川と
言えるようなものではなかった。河床も場所や季節により有ったり無かったりする。
有ったとしても何本にも分かれ、たえず移動していた。
だから多少疑問はあるが、霞ヶ浦や北浦・涸沼などを利用したことは確かだと思われる。
人は陸路でさっさと行っても、物資運搬はたいへんである。
それはやはり水運だっただろう。
佐竹氏には水軍があり、霞ヶ浦や北浦の北辺に数カ所の基地があった。
湖上の水運は佐竹氏が去っても機能していたと思われる。
水運業者(海賊のようなもの)も新しい権力者である徳川氏には協力しただろう。
ブログによれば、涸沼から那珂湊に出て、那珂川を遡って水戸城北側に至り、いきなり
入城せずにそこの浜御殿という屋敷で様子を見たという記録があるという。
たしかに、城に入った後に国衆が一揆を起こし、城を囲んでしまうということもあり得る。
(熊本城に入城した佐々成政などはまさにそういう目に会った)。
用心に越したことはないのである。
なお、水戸に移封当初は水戸藩にも水軍があった。佐竹の水軍を引き継いだものだろう。
基地は小川にあったという。
0668名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/06(土) 00:03:01.83ID:Hxjt0QAD0
[水戸の政治]
上にこのようなことを書いた。
「武田信吉は病身であったため、水戸入城を果たした後は一度も行かず、2年後に死んだ」。
これをまず訂正する。というか、訂正しようかと思う。
というのは、信吉が水戸にずっといたという根拠は一つしか無いのである。
現地で葬られたという事実である。
葬儀は那珂湊の常福寺というの浄土宗の寺で行い、そこの墓地に葬ったが、後年光圀が
瑞竜山の水戸家の墓地に改葬したという。
このことはどこのサイトにでも普通に載っている。
現地で葬られたという事実からストレートに考えれば、信吉はおそらく現地に居て現地で
死んだのだろうということになるわけである。
だが疑問は残る。水戸など江戸からそれほど遠くはない。
江戸で亡くなり、遺体を水戸に送って水戸で弔いをして現地に葬ったのではないか。
何せ病気が病気である。自殺の可能性もある。
江戸で葬儀を営めば、家康の息子であるから大袈裟になるのは明かである。
かといって江戸で密葬というのも何やら訳ありで、逆に目立ってしまうおそれもある。
だから遺骸を水戸に送り、そちらで全てを執り行ったとも考えられる。
そもそも、水戸で(正確には那珂湊だが)葬られたという事実を前にしても、論理必然的に
水戸にいたということにはならない。三つの説が成立しうる。
1.水戸入城のため水戸に行き、そのまま水戸に居て現地で死んだ。
2.水戸入城のため水戸に行き、そのあとは江戸に帰ってきて療養していたが死んだ。
葬儀埋葬は水戸で行われた。
3.水戸入城にすら行っていない。だから水戸で死んだわけがない。
葬儀埋葬のみ水戸で行われた。
実際のところ、3.の可能性が一番大きいと思う。
しかし、それを書くと面倒なので、2.の説で書いておいた。
しかし、信吉が水戸に行った形跡は全く無い。一度でも行けば何か一つでもエピソード
のようなことが残っているはずであるが、それは見当たらない。
さらに1.説のように水戸に二年間居たということになると、到底信じがたい話になる。
二年もいて一切何の話も残っていないというのは実際上あり得ないのではないか。
そうは思うが、こんな議論をしていても仕方がないので、ここでは1説を採ることにする。

とにかく、信吉の死によって水戸で武田家を再興するという構想は頓挫した。
信吉に継嗣がいれば話は違うが、妻はいたが子はなかった。
信吉の母は、穴山信君が家康に贈った側室で、秋山氏の娘であった。
武田の一族秋山氏の血を引いていることが、信吉を後嗣にした一番の理由である。
他の者を以てしては代えがたい。
信吉が死ねば穴山武田家は滅びるしかなかった。
0669名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/06(土) 00:04:59.07ID:Hxjt0QAD0
水戸藩領はそのまま十男頼宣に与えられた。この時従来の15万石さらに5万石を加え
20万石となる。慶長8年(1603)11月のことである。このとき頼宣は2歳。
翌年、さらに5万石が加増され、水戸藩は25万石となる。
6年後の慶長14年(1609)11月、頼宣は駿河五十万石を与えられた。
もちろん駿河だけで五十万石にはならない。駿河に遠江、そして東三河である。
さらに、与えられたもののうちには駿府城も入っている。
形式上は水戸からの国替えということになる。
その1ヶ月後、空国となった水戸藩領は弟の頼房に与えられた。
頼房7歳の時のことである。

最初の領主武田信吉は水戸入城はしたが病気で何もできなかった。
その後の城主・頼宣は幼児である。
2年と6年、通算8年の統治は家臣任せだったということになる。
さらに、二人の後に城主になった頼房は受封当時7歳で、それから10年後の17歳で初めて
国入りする。それまでの間、やはり統治は家臣に委ねられていた。
もちろん3人の藩主のバックには家康がおり、家康は元和2(1616)年4月まで生きていた。
武田信吉も頼宣も、さらに頼房も(頼宣は14歳まで)家康に後見されていたわけである。
頼房14歳以降、元服してはじめて国入りするまでは秀忠が後見していた。
とはいえ、水戸藩というのは武田信吉以来18年もの間、殿様が統治したことのない藩で
あった。家康も秀忠の後見といっても、二人とも天下の経営に忙しく、水戸ばかりを見て
いるわけにはいかなかっただろう。
その間、水戸はどのように統治されていたのか。

武田信吉は武田遺臣団を率いて入城したわけであるが、武田遺臣もいろいろである。
信吉が家臣としたのは、1.穴山衆 2.その他の甲州衆 3.木曾衆 であった。
穴山衆が中心だったのは、信吉が継いだのは穴山武田氏だからである。
穴山信君(梅雪)は泉州堺見物に出かけ、本能寺の変の動乱で帰国途中山城の宇治田原で
一揆に襲われ死亡。嗣子はいたが早世したので信吉が継ぐことになったのである。

だから水戸を治めた家老
1.万沢君基 2.帯金君松 3.河方長養 4.馬場時忠 は、4人とも天正以来の
穴山家家臣であった。
天下に聞こえた名門武田氏を継ぎ、水戸城主となった武田信吉の前途は大いに嘱望
されるべきものであったが、2年後にあえなく死ぬ。
武田信吉が没して頼宣の代になっても、この4人による統治はそのままであった。
水戸の武田遺臣団がそのまま頼宣の家臣になったわけである。
この段階では、武田家再興は不可能になったものの、家康はまだ水戸に武田軍団を置く
構想を捨ててはいなかったのかも知れない。
しかし、何といっても頼宣は幼児であり、遠い駿河にいる。
残念なことに、水戸藩は家老4人によって専断され、不正が行われるようになった。
家老たちも、信吉が死んでも自分たちの地位がそのままであったことに安心し、気が
緩んだのかも知れない。殿様が頼宣になって領地は20万石になり、一年後にはさらに
5万石増えて25万石になった。
このバブル的な領地拡大が不正の温床になった可能性もある。
頼宣の代になった翌年に紛争が勃発した。
0670名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/06(土) 00:11:26.76ID:Hxjt0QAD0
武田信吉に水戸入城以前から仕え、水戸入城後は勘定方を勤めていた蘆沢信重という
家臣がいた。この男が、もう一人の勘定方である佐野兵左衛門尉とともに、4人の家老
たちの不正を家康に訴え出たのである。
駿府城で家康を前に、この2人と家老4人が対決させられた。
家康は蘆沢と佐野の言い分を認め、4人の家老を改易にした。
4人の改易処分は幕命である。慶長9年(1604)のことである。
(4人は汚名返上のため大阪の陣などで奮闘し、2人は幕臣になれた。ただし数百石の
旗本である。他の2人は死んだという)。
蘆沢信重は、家康に忠誠心と能力を認められ、千石を与えられて頼房の重臣となった。
勘定奉行となって水戸藩の財務を一手に司るようになったのである。
この事件を契機に、武田遺臣団は解体された。
水戸には33家だけを残し、残りはすべて江戸に召し寄せた。
というのであるが、実際この措置はさほど厳格には実行されていないようである。
江戸に召し寄せとなった家臣の数は大して多くない。
「万千代君古帳」という記録によれば、172人のうち62人がのちに頼房に仕えたと
される。これだけの数は水戸に残っていたことになる。
さらに、駿河に移転した頼宣が連れていった家臣が63人いるようである。
また、水戸にも残らず、駿河にも行かなかった家臣は、家康により後に紀伊德川家の
家臣とされたようである。
以上よりすると、「33家だけを残し、残りはすべて江戸に召し寄せ」という命令は、
一部だけが時間をかけてダラダラと実施された様子である。

頼房が水戸藩主になってから、水戸藩はようやく一個の独立した藩らしくなってくる。
慶長14年(1609)年とはどういう年か。
関ヶ原の役が終わって約10年、家康が征夷大将軍となり幕府を創設して6年。
家康はこの間ほとんど伏見城にあり、対豊臣工作に励んでいた。
味方の大名を増やし、豊臣の勢力を漸減していく政治工作である。
家康の未亡人・高台院のご機嫌取りにも励んでいた。
伏見にいないときは駿府城にいた。
駿府にいたのは江戸の防衛のためである。
家康はその頃は、駿府・遠江・三河あたりが德川家の実質的勢力範囲と思っていた。
豊臣を中心とする西の勢力が立ち上がれば、たちまち濃尾平野までは押し寄せるだろう。
決戦は遠江・三河あたりか。その戦いは自分が駿河にいて采配すると決めていた。
しかしそれでは守勢に傾きすぎる。どうしても豊臣家は滅ぼさねばならない。
そうであれば、もっと攻勢に出る必要がある。
0671名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/06(土) 00:12:47.59ID:Hxjt0QAD0
そこで、
1.家康は慶長12年、甲府25万石を支配させていた九男の義直を、尾張清洲54万石の
領主とした。さらに二年後の慶長14年、義直のため尾張名古屋城の新築に着手した。
西国の大名をこぞった天下普請で、誰もが目を剥くような大城を築くつもりであった。
これにより德川家の実質的勢力範囲は尾張まで広がる。
2.慶長14年11月、水戸25万石の十男頼宣を駿河50万石に転封させた。
駿河・遠江、東三河の従来の防衛ラインを確保させるためである。
3.名古屋城と駿府城を以て東海道を押さえる。
4.慶長14年12月、常陸下妻藩主だった十一男の頼房を水戸25万石に転封。
大阪攻めの際に奥羽の大名の押さえとするとともに、江戸の後詰めにするためである。
以上である。この頃に、後の御三家の原型が出来上がったのである。
家康は、名古屋城と外堀などを含めた城下町建設には五年はかかると見ていた。
名古屋城が出来てから大阪攻めということになる。
そうだとすると大阪を攻めるのは慶長19年あたり、その一年か二年前から挑発を始め
なければならないと決めていた。
実際は慶長17年(1612)に天守閣完成。天守閣は最後に出来上がるものであるが、家康は
まず真っ先に天守閣を作るように命じていた。
天守閣が出来た後に他の御殿の建築を始め、建築工事が完成したのは元和元年(1615)
2月であった。

頼房の代になっても水戸家の人員不足の状態は続いていた。
水戸家は奥羽の大名の押さえとするとともに、江戸の後詰めにする構想であったようだが、
慶長の頃はまだ準備段階だったとしか思えない。なんと言っても当主が年若すぎた。
水戸家を今補強しても、今度の大阪攻めには間に合わない。
実際、大阪の陣のときは、頼房は駿府城の留守居を命じられた。
水戸家の人員補充は大阪の陣の後である。
元和・寛永の時代に新参衆という新規召し抱えの家臣によって補充された。
元和元年(1615)、新規召し抱え180人。
続く寛永年間までの新規召し抱え166人である。
元和元年といえば大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、德川家の天下が定まった年である。
寛永の末までに福島や加藤などの豊臣大名が改易となったが、もはや天下の大名の
顔ぶれが変わる可能性はほとんどなくなった。
生き残りレースのような戦国の抗争は、ここに漸く終結したのである。
逆に言うと、生き残りレースに敗れた者たちの復活の目は無くなったのである。
氏や素性もない者たちなら消えていっても仕方ないが、武家の名家となると放って
おくわけにもいかない。武家の頭領としての幕府の体面もあるし、封建の身分秩序を
維持するためには、ある程度名家は残存させる必要がある。
水戸藩の名物ともいえる名家の家臣たちは、この時期に上級家臣として採用された。
もう水戸藩以外には、押し込むところは残っていなかったのだろう。
しかし名家だからといって最終的な安定が約束されたわけではなかった。
お召し抱えの後、二代か三代で改易になり、放逐される家臣も多かった。
水戸藩への新規召し抱えは、その後の有為転変が実に激しい。
ある資料によると、水戸藩の新規お召し抱えの家臣の約40%が絶家になっている。
(家臣の家を簡単に潰してしまうという傾向は幕末の水戸藩にも顕著に見られる)。
水戸藩には、名家のダストシュートのような側面がなきにしも非ずであった。
0672名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/06(土) 00:13:48.76ID:Hxjt0QAD0
水戸藩の歴史で特徴的なことは、藩としては戦を一切経験していないことである。
頼房の一歳年上の駿府城主頼宣は、大阪冬の陣で初陣をかざった。
年齢は14歳、実齢は13歳である。もちろん戦陣で軍配を振るったりはしておらず、
後詰であったが、それでも激戦地の背後にいた。
夏の陣では家康と一緒にいたようである。
天王寺の戦いでも家康の陣にいた。
そのため真田勢の突撃によって陣地が壊乱し、必死で逃げるという経験もした。
頼房にはこの種の経験は一切無い。
水戸藩の家臣には必死で戦をしたという共通の体験が無いということであり、大阪の陣の
後に名家の子孫を大量に採用したという歴史から見ても、水戸藩というのは、戦場体験を
共有していない赤の他人の寄せ集めのような藩であった。
このことが、幕末の混乱期に大きな弱点として現れたのである。それは又触れる。

武田信吉→頼宣→頼房の支配をザッと見てきたが、信吉と頼宣の時代は分からない
ことが多い。権威ある文献が「武田信吉時代の水戸の状況は不明」とはっきり書いて
いるぐらいである。15万石の領地は、水戸を中心に、那珂、茨城、久慈、鹿嶋、行方
などの諸郡に広がっており、そのうち一部が藩主自らの蔵入地、残りが家臣団の知行所
として各自に割り当てられていた。
「万千代様水戸御知行割」という文書が残っている。
家臣149人、その知行高5万9千3百5十石。
他に甲州衆以外の新規召し抱えの士が10人、その知行高8万7百5十石。
合計159人、6万8千百石。
残りが蔵入地であり、8万1千9百石ほど。
ふつう15万石の大名の知行取りの士は500~600人ぐらいである。
160人程度でははなはだ少ない。
まだ藩としての体裁が整っていないと言ってもよい。
藩といっても実質は家康の直轄地であり、それを名目上息子の領地にしているだけと
いった印象を受ける。武田信吉が死んで頼宣が城主となっても、この状況は変わらない。
家臣団はそのまま頼宣に受け継がれただけである。何の変動もなかった。
(上述のように、その後、4人の家老の不正に対する措置で、ある程度の変化はあった)。
0673名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/06(土) 00:15:25.14ID:Hxjt0QAD0
では民政はどうしたかというと、関東代官の伊奈忠次が行ったという。
忠次は家康の江戸御打ち入りの後、関東各地の河川工事や各地の城普請で活躍した
土木の専門家である。有名な大工事も数多く行った。
伊奈忠次といっても忠次一人のことを言うのではないだろう。
伊奈忠次はもちろん有能であったが、この時代、作事指導は一族で行うのである。
親類縁者や家臣の中に有能なスタッフが数多くいる。
当時は技能者のグループを頭領の名で呼んだのである。
伊奈忠次は利根川を銚子まで東遷させる工事や荒川の改修に従事し、その他主として
武蔵北部(今の埼玉県)の土木や築城に忙しかった。
だから伊奈忠次が水戸に常在したとは思えない。
おそらく、この一族の一部が、武田信吉の水戸入城以降、城の修築・改造や城下町の
町割りなどに手腕を発揮したのだろう。
忠次は頼房が水戸藩主となった翌年の慶長15年に死ぬが、その後は嫡男の忠政が継いだ。
しかし忠政も三年後に死亡。関東代官職は弟の忠治が継いだ。
桜川と涸沼川を結ぶ備前堀という水路がある。千波湖の洪水対策と農業用水として削掘
されたものであるが、備前堀と呼ぶのは、伊奈忠次の官職名「備前守」から来ている。
さて、伊奈忠次(その後は忠政、忠治)の民政といっても、信吉・頼宣時代の水戸は
いたるところ普請中で、城下町などというものは形成されていなかったはずである。
家康入城後の江戸も、工事の人夫として大量のあぶれ者が入り込み、その宿舎として
仮小屋(飯場のような建物)が無数に建てられた。
いたるところ普請中の街中には関東の空っ風が吹きすさび、埃を舞い上げ、目も開けられ
ないほどであったという。そうかと思うと道普請もされておらず、雨が降ると道は泥濘と
化し、歩行もできかねる有様だった。水戸も同じようなものだっただろう。
伊奈氏による民政といっても、水戸城下では工事現場における人足の管理に毛の生えた
ようなものであった。しかし、領内の村々では違う。
伊奈氏は関東郡代であり、関東郡代というのは幕府の直轄領の民政を司る役職であった。
伊奈氏は土木だけでなく、民政家でもあった。
その手腕に期待され、水戸藩は幕府直轄領ではないにかかわらず、伊奈氏が起用されて
いたのである。関東代官からは他に彦坂元正(小刑部)も水戸に派遣されていた。
だから領内各村はこれら関東代官が支配し、民政を行っていた。
当時の水戸藩は、実質は家康の直轄領だったことを物語るものである。
0674名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/11(木) 07:38:42.49ID:e5Ef0gsA0
頼宣の時代は、頼宣の家老・三浦為春、朝比奈宗左衛門、天野孫左衛門らが城の留守居を
務めた。順番に水戸に詰めていたのだろう。
三浦為春は、頼宣と頼房の母、於萬の方の兄である。
常陸で五千石を賜った。頼宣が駿河に移るとそれに伴い遠江で八千石、頼宣が紀伊藩主に
なると那賀郡貴志邑において一万五千石を与えられた。

慶長14年(1609)12月、頼房が水戸藩主になった。
しかし、この時代にも家康はまだ水戸城および城下の整備を本気で考えるようには
なっていない様子である。
というより、下記のように、まだ水戸での工事を始める順番が来ていなかった。
水戸の開発整備の中心期は寛永年間である。
寛永になる一年前の元和8年、頼房は三万石の加増を受けて28万石となった。
このあたりから徐々に城の整備などが始まる。
寛永は、元年(1624)から十八年(1641)までである。
将軍家光の治世は1623年から1651年であるから、大まかに家光の頃と考えればいい。
(但し、家光治世の最初の9年間は父親の秀忠が後見していたことを忘れてはならない)。

水戸城の建設(佐竹時代から城は有ったので修築とか整備と言う)は、一番最後になった。
将軍家と御三家の城のうち、まず江戸城が最初であることは言うまでもない。
家康は慶長8年(1603)に江戸城および城下の工事を始め、天下普請として多くの大名に
手伝わせ、大阪夏の陣の頃(1615)に一応の完成を見た。翌元和2年家康死。
以後秀忠が工事を指揮。元和9年(1623)、家光が三代将軍に就任。
(この年に天守閣完成)。
秀忠は隠居して将軍職を家光に譲ったのである。
天守閣完成が一つの契機になったのかも知れない。
秀忠は、父の家康に倣い、大御所として二元政治を行うつもりであった。
自分は家康が駿府に居たのと同じように、小田原城に移転するつもりであった。
しかしそれは実現せず、西の丸に移って家光を後見した。
寛永8年(1631)の8月頃から胸痛を訴えるようになり、翌寛永9年1月24日に死去。
狭心症だったと言われる。
0675名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/11(木) 07:39:18.05ID:e5Ef0gsA0
寛永13年、江戸城外堀が完成、外堀が右渦巻きの形で江戸城を一周する。
これにより江戸城総曲輪(郭、くるわ)完成。
外堀が完成したことにより、外郭と内郭の区別がつくようになり、江戸城の範囲が
確定したのである。
ここによく書かれている。https://shirobito.jp/article/692
寛永15年(1638)、天守閣に金の鯱を乗せる。
寛永17年、江戸城が一応完成に至った。
その後も工事は続けられた。主に外郭の堀の掘削や石垣の整備が進められ、これらの
工事は東国大名に命じられた。
慶安4年(1651)4月、家光没。息子の家綱が四代将軍となる。
ほとんど全てが完成の段階に至った明暦3年(1657)、大火で江戸市中は焼け野原になる。
江戸城も西の丸と紅葉山、御三家の屋敷(当時は城内にあった)以外はほぼ全焼した。
(御三家の屋敷のうち、水戸家の屋敷は焼失したとする説もある)。
すぐに工事が再開されたが本丸は再建しなかった。
万治3年(1660)、神田上水の完成を見て天下普請はようやく終了した。
およそ半世紀に亘る大工事であった。
最後の神田上水であるが、水道工事は江戸城の本格的築城工事以前になされていた。
すでに老朽化していたので改修・改良工事が行われたのである。
延宝5年(1677)からだが、神田上水の工事に監督として松尾芭蕉が参加している。
芭蕉は、堰などを工事する専門技術者であったらしい。
藤堂家が神田上水改修の担当となったので、芭蕉も工事に携わったというのであるが、
芭蕉はその前から江戸に来て俳諧師として活動している。
芭蕉は工事の後、神田上水の「大洗堰」近くに龍隠庵という庵を建てて住んでいた。
パトロンたちに建ててもらったのだろう。これが後に関口芭蕉庵となる。
今はこの場所を文京区が庭園として管理している。
大洗堰があったのは文京区立江戸川公園のところで、今の椿山荘の東側である。
広重の「せき口上水端はせを庵椿やま」に描かれており、この絵はネットで見られる。
当時この辺りは椿の名所で、椿山(つばきやま)と呼ばれていた。
「椿山荘」という名称はそこから来たのである。
しかし、芭蕉が大洗堰の近くに住んでいたとしても、ここの工事を担当したとは限らない。
現場監督たちの宿舎がここにあっただけかも知れない。
芭蕉は神田川の水を水戸藩の小石川藩邸に分岐する工事を担当していたとする説もある。
藩邸の防火用水というが、どうも庭の泉水のためのものであるような気もする。
そうだとすると、松尾芭蕉が後楽園の工事に関係した可能性もあるということになる。
0676名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/11(木) 07:40:50.06ID:e5Ef0gsA0
江戸城の工事開始から7年経って、義直の名古屋城建設が始まる。
その次が和歌山城。そして最後に水戸城となる。
名古屋城は、慶長15年(1610)、天下普請として工事開始。
西国の外様大名総出の工事である。とくに福島や加藤など豊臣大名への賦課は厳しかった。
町割りや運河の工事が始まったのが慶長17年(1612)。
工事開始の3年後、慶長17年1612年に本丸が完成。二の丸が1614年に完成したという。
全体が完成したのは、おそらく1620年頃だろう。

和歌山城はもともと浅野幸長によって整備・完成されていた。
元和7年(1621)に頼宣が大改修と城下町整備を開始。
工事は天下普請ではない。秀忠が頼宣に銀五千貫を与え工事を命じたという。
城郭の規模や城下の町割りがあまりにも大きかったため、頼宣は幕府から謀反の嫌疑を
受け、工事は中断した。堀を掘るのを途中でやめ、堀止などという地名が残ったという。
縮小した規模で工事を再開したが、完成の時期は明確でない。
おそらく当初の工事開始から5年後ぐらいではないか。
和歌山城の工事は途中でミソがついたが、頼宣が大きな城にしようとしたのは理解できる。
頼宣は巨大な城しか見ていないのである。住んでいた駿府城は、天下普請で築かれた壮大な
もので、天守閣の規模は日本城郭史上最大といわれている。
また、頼宣は13歳で大阪の陣に参陣した。天下の大阪城をいやというほど見たのである。
さらに大阪の陣へ行く途中完成したばかりの名古屋城も見ている。
冬の陣では、家康は駿府を出立し途中名古屋城に入り、義直とともに大坂に向かっている。
家康と一緒に頼宣もいたのだから、間違いなく名古屋城も見ているのである。
こうした環境からすれば、頼宣が自分も同じような城を築かねばならないと思い込んでも
仕方がないだろう。ただ、謀反を疑われたのが本当なら、頼宣の人柄も関係があるだろう。
大人しそうな殿様なら問題にされなかったかも知れない。

和歌山城に引き続き水戸城の工事が行われた。
水戸城はというと、上に書いたように、頼房は寛永2年(1625年)から寛永7年(1630)まで
(23歳から28歳までの6年間)、寛永3年の上洛の年を除いて毎年水戸に就藩している。
この、せっせと水戸に国入りした時期が、水戸城の修復や城下の町割りをした時期と
重なるのである。
頼房の時代に、三度にわたり城郭の整備が行われた。
三度もやったというと大いに手を加えたようにも取れるが、逆に一度では出来なかった
とも取れる。水戸城の場合は後者である。一度にやるだけの財力が無かったのである。
佐竹氏が築いた水戸城は、今の本丸と二の丸までの範囲だったらしい。
まずはこの範囲で城を修築したのだろう。
それから三の丸の方へ城を拡げ、櫓を築き、外堀を拡張した。
その後、城の周囲に外堀を掘り続けた。
城の西側の台地には五重の堀、東の低地には三重の堀を巡らせた。
城郭の整備といっても、水戸城は最初から天守閣が無い。
二の丸に建てた御三階櫓が天守の役割を果たしている。
天守閣だけでなく、櫓や多聞櫓(壁のように長く続く櫓)も少ない。
石垣も無い。堀は土を掘っただけで石垣は築かない。
城の建物部分は貧弱であり、見栄えが悪いこと甚だしい。
これには水戸家が格式が低く(中納言)、領地も少なかったという理由があるだろう。
さらに、城を築いたのが遅く、もはや城の偉容を誇るような時代ではなくなっていた
のかも知れない。
德川家にとっても、名古屋城までは天下に武威を示す必要があった。※
しかし、豊臣家滅亡により、大規模な城を作る必要など無くなったといえる。
頼宣が和歌山城を壮大な城にしようとして止められたのも、そんな必要はないという
のが一番大きな理由だろう。
※大阪城ばかりはやや特殊である。大坂城は、秀忠の命により、元和6年(1620)から
三期の工事を経て、9年後の寛永6年(1629)に完成した。
建設の時期は、水戸城と重なる部分がある。
しかし、大坂城はあくまでも西国に德川家の武威を示すための城で、そのため天守閣の
高さは秀吉の大坂城より高く作られた。
0677名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/11(木) 07:42:08.83ID:e5Ef0gsA0
天守閣を作らなかった城というのは他にも無いわけではない。
一番有名なのは青葉城と呼ばれる仙台城だろう。
伊達政宗が慶長5年(1600)年頃から縄張りを開始。三年後の1603年あたりから
本格的に造営が開始された。最初に作られた城は本丸と西の丸だけで、山の斜面に
建てられた山城だった。だから天守閣を持たないのは当然だともいえた。
政宗は、当時の流行である天守閣には背を向け、実戦的な山城を選んだのである。
しかし山城は交通不便であり、寛永15年(1638)、2代目の忠宗が平地に二の丸を
建てた。その後、二の丸よりさらに城下町寄りの平地に三の丸を建てた。
城の規模はどんどん大きくなっていったが、ついに天守閣は作られずに終わった。
元和5年(1619)に竣工された明石城もはじめから天守閣が無かった。
同じ兵庫の赤穂城もそうである。
鹿児島城(鶴丸城)も天守などの高層の御殿を持たなかった。
慶長6年(1601)に、薩摩藩初代の島津忠恒により築城され、慶長9年に完成した。
城山の斜面に建てられたので、山城と言えないこともない。
工事の時期といい、仙台青葉城とよく似ている。
天守閣にこだわらなかった理由は、よく言われるように幕府への遠慮、恭順の姿勢を
示すというところにあるだろうが、実戦本位の思想もある。
戦いのための城であれば天守など無用だという考えである。
仙台青葉城など、時代錯誤といえるほどに古めかしく、その分堅固で実戦的であった。
セバスティアン・ビスカイノというスペインの探検家がいる。
日本近海にあるという「金銀島」の調査のため日本を訪れ、嵐で乗船を失ったため、
支倉常長らの慶長遣欧使節団の船に便乗して帰国した人物である。
ビスカイノは当時の仙台城を評してこう書き残した。
「城は日本の最も優れ、最も堅固なるものの一である。深い川に囲まれ、断崖絶壁の
高さ百身長を越える岩山に築かれ、入口はただ一つしかない。大きさは江戸城と同じ
くらいであり、建物の構造はより優れている。はるかに町を見下し、また2レグワ
(約10キロ)を距てて数レグワの海岸を望む。」 。
仙台城の、戦闘態勢に入った戦艦のような凄みのある姿を彷彿とさせる文章である。
「大きさは江戸城と同じくらい」というのは眉唾と思う人もいるだろうが、大広間の
ある本丸御殿の壮大さというのは想像を絶するものがある。
ttp://www.city.sendai.jp/shisekichosa/kurashi/manabu/kyoiku
/inkai/bunkazai/bunkazai/joseki/honmaru.html
天皇をお呼びするための「天子の間」があるという噂が立ったというのも納得できる。
0678名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/11(木) 07:43:24.95ID:e5Ef0gsA0
名古屋城・姫路城などに代表される、壮麗な天守閣を持った平城はたしかに一世を風靡
したが、天守閣を必須と思う人たちばかりではなかったはずである。
天守閣などただの飾りで、作る必要はないとする考え方もあったのではないか。
伊達政宗は徳川に膝を屈したとはいえ、いざという時は一戦も辞さないといった傲然と
した態度をとり続けた武将である。そんな政宗からすると、飾りの無い昔風の城の方が
好みであり、城のデザインとしても優れていると考えたのかも知れない。
確かに、伊達政宗が姫路城のような優美な城を築いたとしたら違和感があるだろう。
将軍家光は、伊達政宗をよく江戸城に招いた。戦国古豪の政宗に憧れ、30歳以上年上の
この老人からよく昔話を聞いた。政宗だけは脇差を差したまま御前に出てもいいという
特権を与えていたという。
ところで、家光は叔父の頼房と兄弟のように親しんで、身辺に侍らすことも多かった。
だから、頼房も伊達政宗と話す機会は何度もあっただろう。
頼房が水戸城の建設に励んでいる当時、政宗から城造りの教示を受けた可能性は大いに
ある。頼房が政宗の影響を受け、天守閣無用の考え方を持つようになったという可能性
もあるのではないか。

水戸城の郭や櫓が貧弱だということの理由としては、他に和歌山城の規模の大きさが
問題視されたことも関係しているかも知れない。
さらに、南蛮貿易の制限(1616年に秀忠が出した禁令)や金の産出量の減少などに
よって、幕府財政が縮小し始めた時代でもある。
ただ水戸城の場合、やたらに堀を掘った。よくぞ掘ったと思えるほどである。
二の丸と本丸の間にある土を削ってつくった堀の跡は、全国でも珍しいほどの規模である。
その他の堀も規模が大きく、深く険しい。
https://blog.goo.ne.jp/goooid0/e/b1e35eabb6d76ea42628a4f88ad39f99
堀を掘って出た土は上に運び、城郭の基礎部分を盛り上げた。
水戸城は土造りの城といえ、城郭の整備といっても土木工事のようなものであった。
水戸城は大工ではなく、土工が作った城である。
いかにも土木の専門家である伊奈氏が築いた城という感じがする。

城の整備を繰り返している間に、いつのまにか城下町らしきものも出来てきた。
土木工事が終了すると伊奈氏は役割を終え、水戸を去った。
その後、上記蘆沢信重は更に千石を加増されて二千石の大身となり、家老(城代家老)
となる。家々が建ち並び、町年寄りや町名主といった町役人による自治もはじまった。
この後、水戸は蘆沢信重を中心とする支配体制が続くことになる。
なお、頼房の水戸行きはいつもきわめて短期間であった。
最初のときが10月に水戸入りして12月に帰府。その後寛永2年から7年までほぼ毎年の
ように就藩※しているが、一回だけは7月から12月までいたものの、あとはほとんど
10月か11月の就藩である。
※関東の藩は江戸定府なので、殿様は江戸にいるのが原則である。だから自分の領地へ
行くのは「国へ帰る」ことにはならない。
それ故江戸定府の藩については「お国入り」という言葉も使わなかった。
国入りのことは「就藩」と言った。(ここではあまり拘らないようにする)。
0679名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/11(木) 07:44:14.38ID:e5Ef0gsA0
11月に来て12月に帰るのでは、ほとんど顔を見せに来たのと変わらない。
この短期就藩は、この後水戸藩での慣習となった。
代々の殿様は、10月の末頃に来て、11月は丸々居り、12月に入るとそろそろ帰り支度で
中頃には帰ってしまう。これでは殿様が藩政を見るなど到底無理である。

参考、頼房の水戸就藩(Weblio辞書より)
1619年(元和5年)10月就藩。同年12月帰府。
1625年(寛永2年)就藩、同年12月帰府。
1627年(寛永4年)7月就藩。同年12月帰府。
1628年(寛永5年)10月就藩。同年12月帰府。
1629年(寛永6年)11月就藩。同年12月帰府。
1630年(寛永7年)10月就藩。同年12月帰府。
1635年(寛永12年)8月就藩。同年12月帰府。
1642年(寛永19年)11月就藩。翌年3月帰府。
1648年(慶安元年)10月就藩。翌年4月帰府。
1657年(明暦3年)2月就藩。翌年1月帰府。
1661年(寛文元年)2月就藩。7月死去。

1630年まではせっせと水戸に行った。
寛永8年(1631年)、将軍秀忠が病となった(翌年1月死去)。
そうしたらもう行かない。五年間全く行かなかった。
その後一回行って、その後七年間全く行かなかった。
1657年(明暦3年)2月の就藩は、明暦の大火(同年1月18日)の直後である。
水戸に疎開したのだろう。
この間に、せがれの光圀が駒込の藩邸で大日本史の編纂を始めた。
0680名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 22:15:14.06ID:Vt1DlFdL0
[水戸藩江戸屋敷の話]
武州豊嶋郡江戸庄図(ぶしゅうとしまごおりえどのしょうず)という江戸図がある。
寛永9年(1632)に書かれたとされる。
秀忠が亡くなった年である。
地図を拡大してみると、江戸城本丸の左後ろに紅葉山があり、紅葉山の北、松原小路という道に
沿って御三家の屋敷が並んでいる。
東から紀伊大納言、真ん中が水戸中納言、その西隣が尾張大納言である。
尾張邸の前の御殿が秀忠のいた西の丸である。(画像は拡大できる)。
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2321315100/2321315100100010/901-089-00-01/


地図を見れば一目瞭然だが、この当時すでに大名屋敷が隙間もなく立ち並んでいる。
(日本橋や京橋あたりの屋敷名が表記されていない一画は商業地である)。
江戸の大名屋敷は、大坂夏の陣から五年ほど経った、元和年間の終わり頃から建てられ始め、
数年で江戸城のまわりを埋め尽くすほどになっている。
もっと早くに建ってもよさそうなものだが、江戸は水道・道路などのインフラが十分でなかった。
大名屋敷は台地の高いところに建てることが多いので、どこの屋敷も水には苦労したようである。
このときに建てられた大名屋敷はいずれも豪壮なものであった。
加藤清正の屋敷(当時は後嗣・忠広の時代。寛永9年に改易)の門には、長さ数間の虎の欄間
(透かし彫り)が付いていた。
伊達政宗の屋敷はまるで京都二条城のようである。
当時は安土桃山の絢爛豪華な文化がわずかに残っていたのである。
しかし、これらは全て後の明暦の大火によって焼失する。
再建された屋敷は、どれもが以前とは比較にならないほど質素なものであった。

水戸藩初代の頼房は、駿府城で家康の後見を受けていたが、家康は元和2年(1616)に死ぬ。
家康がいない駿府城にいても仕方がないので、頼房は江戸城の兄秀忠の許に来て後見を受ける
ことになった。元和2年(1617)9月のことである。
(家康死後、駿府城は秀忠の息子の忠長が城主となった。寛永8年(1631)、忠長が甲府に
蟄居を命じられた後は主の無い城となり、幕末まで駿府城代によって管理された)。
頼房より一歳年上の頼宣も同様に江戸に移った。
二人ともまだ十代前半だが、すでに紀州藩と水戸藩の藩主である。
だから政庁も必要ということで、江戸城内紅葉山の西、麹町口内に藩邸が作られた。
紀州・水戸・尾張の三藩邸が仲良く並んだ。
紅葉山というと山林のように思われるかも知れないが、庭園である。
現在の皇居吹上御苑の中央辺りである。
園内を川が流れ、曲水の宴などが行われる豪奢な庭園で、綱吉の頃が最盛期といえる。
綱吉は柳沢吉保の作った六義園を生涯50数回訪れるなど庭園好きであったし、生母の桂昌院を
喜ばせるために趣向を凝らした。
(しかし八代吉宗が贅沢を禁じ、この庭園を廃して薬園にしてしまった)。
0681名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 22:15:53.03ID:Vt1DlFdL0
頼房は、江戸城内紅葉山の藩邸に移って5年後の元和8年(1622)、神田台に土地を拝領して
下屋敷を建てている。今の本郷弥生の駒込藩邸である。
神田台というのは、神田山のつながりの台地という意味である。
神田の北側に神田山という山があり、ここから本郷や目白台の方まで台地が続いていた。
神田山は南北が今の神保町から御茶ノ水駅を通り越して医科歯科大のあたりまで、東が
神田明神の裏の坂から、西は水道橋駅西口あたりまでを覆う山であった。
頂上は、今のアテネフランセの前あたりだったという。
後にこの山の東西に堀を通すため、山を真っ二つに割り、切り通しにした。
山はなるべく平らに削り、土は神田や深川に運んで埋め立てに使った。
今の中央線線路や御茶ノ水駅ホームは、その切り通しの斜面に作られたのである。
だから、神田山があった当時は、江戸城の一橋門を出て小川町あたりから神田山を登り、
尾根筋を歩いていけば本郷に出たのである。
それでなければ、神田山の西の麓は今の水道橋駅あたりだったので、山裾を巡って小石川に
抜け、坂を登れば本郷であった。
水戸家は江戸城内に藩邸があるのに、何故広大な藩邸用地を賜ったかというと、大名屋敷と
いうのは使用目的別に数邸建てるのが普通だったからである。
大大名だと大小10邸以上の屋敷を持ち、藩邸は7邸までという触れが出たほどである。
元和年間の後半ぐらいから大名の江戸屋敷建設が盛んになったこともあり、水戸家にも今の
うちに良い土地を与えておかねばならないということもあったのだろう。。
この下屋敷の目的ははっきりしていなかったので、とりあえず下屋敷に分類される。
広大な土地に蔵や粗末な建物が建っているだけの、おそろしく殺風景なものであった。
頼房が駒込邸とは別に、小石川の藩邸の土地を賜ったのは、寛永6年(1629)年である。
後述するように、この小石川の土地というのは太古の自然そのままの森林と藪に覆われ、
人力による開発は不可能と思われるような状態であった。
そんな土地を何故貰ったかというと、いくつかの候補地を作庭家である徳大寺左兵衛に見せ、
山水にふさわしい土地を選ばせたのだという。
ところで、徳大寺に選ばせたというのが本当なら、庭園に重きを置いていたということになる。
であれば、小石川藩邸は当初は上屋敷ではなく、中屋敷か下屋敷にするつもりだったのでは
なかろうか。(この話はただ紹介しただけである。徳大寺の話はやや眉唾と思われるので、
土地選びの話はどうでもよい)。
いずれにせよ、この土地を切り開き、屋敷を完成させるまでに最低でも5年はかかっただろう。
しかし、小石川藩邸が完成しても、頼房は江戸城内紅葉山の藩邸に住んでいたと思われる。
上述したように、家光が頼房を頼り、離さなかったからである。
頼房の晩年は、江戸城内の藩邸に頼房が住み、息子の光圀が小石川藩邸に住むというような
形だったのではないか。
しかしすべては明暦の大火(明暦3年、1657)で終わりを告げる。
江戸城内の藩邸も小石川藩邸も炎上し焼失した。
光圀は焼け残った駒込藩邸に移る。頼房は水戸に疎開した。
江戸城内の藩邸は再建されず、小石川屋敷の再建工事中、頼房は水戸に行っていた。
1年ほどで江戸に戻っているから、頼房の住居は最優先で建てられたのだろう。
数年後に体調を崩し療養のため水戸に移り、そちらで死んだ。
光圀はついに藩主となり、やりたいことをやれる身分になった。
この後、光圀は大日本史の編纂と後楽園の作庭に力を注いでいくことになる。

大日本史の編纂事業は、まだ部屋済み時代に、明暦の大火を契機に開始された。
後楽園作庭は大火の後すぐに始めるわけにはいかない。
江戸が丸焼けになったというのに、復興しないうちに庭造りなどやれるわけがない。
作庭には李舜水の指導を仰いでいるので、李舜水を招いた寛文5年(1665)以降の
ことであるのは間違いない。
おそらく明暦の大火から10年以上経ってからのことだろう。
仮に10年後とすると1667年で、松尾芭蕉が神田上水から小石川藩邸への引き込み工事を
した(かもしれない)時期とピタリと一致する。
光圀が、駒込藩邸にあった史館を後楽園内に移し、彰考館と名付けたのは寛文12年
(1672)である。建物などは庭が出来上がった後に作られるものだろうから、彰考館
完成に1年かかったとすると、庭の工事が完了したのは1671年である。工事に4、5年
かかったとすると、庭の工事に着手したのはやはり1667年頃となる。
0682名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 22:17:07.29ID:Vt1DlFdL0
なお、藩邸に関し、上屋敷・中屋敷・下屋敷などの言葉が出てくる。
これはどういう区別かというと、屋敷の使用目的の違いである。
江戸時代の殿様は原則江戸に住み、月のうち何日も江戸城に詰めていた。
朝早くから大名行列を組み、江戸城まで通勤していたのである。
その殿様(江戸城に登城する現役の殿様)とその家族が住む屋敷が上屋敷であった。
上記のように、諸藩の江戸屋敷は数カ所にあるのが普通であるが、その中で一番江戸城に
近いのが上屋敷である。
江戸城登城は月に三日、毎月 1 日、15日、28日と定められていた。
定例の登城日以外に、年始や五節句の日、何らかの儀礼が執り行われる日など、あわせて
年に30日ほどの登城日があった。定例とそれ以外で70日近い登城日があったのである。
登城の日はかなり混み合う。昔は今ほど道が広くなく、そこを格式張った行列が通ろうと
すると時間がかかるのだ。
自分の行く通りの横道から身分の高い大名が出てくれば、その行列の妨げにならないよう
停止して待つ。道路脇の屋敷から行列が出てくればやはり停止して待つ。
後ろから御三家の行列などが来れば、道の脇に寄って先に通す。
門の前ではたくさんの行列が一カ所に集中し、大渋滞を起こす。
すると自分より身分が上の大名に先を譲る必要が出てくる。
時には先を譲られたりする。その場合は殿様が籠を下り、先を譲ってくれた行列の殿様に
挨拶に行ったりもするのだ。ある大名の資料では、ふつうなら江戸城まで30分もかからない
距離の屋敷から、登城の日は2時間前に出発している。
だから近いところに住む。しかし、その分屋敷地は狭くなる。
江戸城に近い便利な場所だから、広い土地を独占することは許されない。
現役の殿様は、登城の便宜のため、狭い上屋敷で我慢していたのである。
次に、中屋敷というのは、上屋敷の補完のためのものである。
火事で上屋敷が燃えたときとか、国許から多数の藩士が登ってきたときの収容とか、急の
必要に備えたものであり、上屋敷より江戸城から離れた場所に建てられた。
その分土地は広い。そこそこの庭園なども作ることができた。
現役を引退した前藩主の隠居場に使われたりすることも多かった。
その他、部屋住みの次男・三男とか、藩主の幼い世継ぎなどが住んだりする。
最後に、下屋敷というのは日常の住居用の建物ではない。用途は様々であった。
国許から送られてきた物資を保管しておく倉庫代わりに使われることもあり、一方で
別荘といった高級な用途に使われることもあった。
基本的には、江戸の中心部から離れたところに建てておき、火事や地震などの災害時の
避難場所と物資の保管場所として使用された屋敷である。

物資の保管場所として使われる場合は、用途が蔵屋敷と重なってくる。
蔵屋敷とは、大名が年貢米や領内の特産物を売りさばくために設置した倉庫兼事務所の
事である。江戸時代前期まではほとんどの蔵屋敷は大坂に集中していた。
東北や関東の諸藩のうち小さな藩は、江戸にだけ蔵屋敷を建てていた。
仙台藩などは大坂に蔵屋敷を持っていたが、一方江戸でも今の清澄公園のところに
蔵屋敷があった。隅田川とつながる運河を利用していたが、この運河が仙台堀川と
呼ばれ、「仙台堀」と呼ばれるようになった。
政宗の新田開発、吉村の買米制度により、仙台米の生産量は膨大なものになり、江戸に
運んで莫大な利益をあげた。元禄の頃には、江戸っ子が食べる米の三分の二は仙台米
だったといわれるほどである。
また、西日本の藩は大坂に蔵屋敷を建て、江戸では蔵屋敷の機能を持たせた下屋敷を
建てるものが多かった。中国や九州の藩は、大坂の蔵屋敷内に参勤交代のときの宿泊所に
する御殿を建てるものもあったという。
大坂にあるのは蔵屋敷に間違いないが、江戸では蔵屋敷とも下屋敷ともつかない藩邸が
数多くあった。その区別は場所で決めるしかあるまい。
河岸(かし)があるなど物資流通の要地にある場合は蔵屋敷である。例えば浅草など。
一方、何でもない郊外に建てられていれば、ただの下屋敷であることが多い。
水戸藩では後に小梅(向島)に屋敷を貰った。
隅田川沿いの現在の墨田公園のところである。ここが蔵屋敷であることは間違いない。
しかし、敷地が広く、別荘や庭園があった。そこに着目して下屋敷とされることも多い。
蔵屋敷は藩の物産を販売するための施設であるが、武士が商いなどすべきでないという
観念があったので、屋敷は藩の御用商人の名義にすることが多かった。
0683名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 22:18:07.37ID:Vt1DlFdL0
ところで、下屋敷といえば物資の保管ということが出てくるが、それは大名というものが
本来は戦闘集団だからである。
いつ大乱や災害が発生するとも限らないので、ある程度の武器と食料は用意しておく。
しかし、江戸では何度も大火があり、蔵が燃えるたびに補充もできないので、いつの間にか
戦備の貯蔵などはしなくなってしまった。
幕末にペリーが来たときに、幕府が江戸の大名に沿岸防備の陣触れを出したが、各藩の
藩兵の装備はまことにお粗末なものであった。
井伊家の侍が一番酷く、江戸っ子たちは「井伊のお祭り備え」(井伊の赤備えに掛けた
もの)と言って嘲笑った。兵卒はみな祭り見物のような軽装であった。
何を勘違いしたか、着流しに細身の脇差し、下駄を履いた者までいたらしい。
上士は家にある甲冑と陣羽織を着てきた者もいる。
街中で見ると、赤い鎧は子供の祭り装束のようであった。
その中を采配役なのか、裃をつけた武士が扇子を持って忙しそうに歩き回っている。
町内の祭りの世話役のようで、これも滑稽であった。

それ以外に下屋敷に保管するものといえば、参勤交代の旅の用具がある。
馬印や幟、毛槍、供槍、台笠という棒の先につける笠、幔幕や床机、長持(ながもち)、
挟箱(はさみばこ、)雨具、雨具を入れる合羽箱、鍋薬缶などの調理道具、弁当箱など。
風呂桶なども用意したらしい。さらに食料は宿場の食事が主だが、何故か味噌や醤油
なども持ち歩いた。漬物も樽に入れて運んだ。
その他蝋燭や提灯・がんどうなどの照明器具、便器など無数にある。
さらに、江戸の藩邸の食事は、国許から送られて来る米・味噌・醤油・塩・乾物・漬物
などを使っていた。
例えば尾張藩は江戸詰めの藩士が五千人ほどもいたという。
何もかも江戸で商人から買っていたら掛かりが大変である。
倹約のため、なるべく国許のものを使用していたわけである。
これらの物資の備蓄のため、どうしても下屋敷は必要だったのである。

下屋敷の使用目的は倉庫代わりばかりではない。「多目的」なものであった。
別荘としての下屋敷には、大庭園が造られることが多かった。
板橋にあった加賀藩の下屋敷は敷地22万坪で、兼六園の7倍の広さがあった。
園内を人工的な流水でなく、石神井川が流れていたというのだからすごい。
園内で鷹狩りや鴨猟ができたという。
http://itabashi-life.com/backnumber/special49/
他に庭園で有名な下屋敷の例としては、駒込の川越藩の屋敷がある。
駒込の柳沢吉保邸は加賀藩の下屋敷をどかして作られた下屋敷であるが、目的は別荘
であり、それも綱吉を饗応するための特別の施設として作られたのである。
(移転させられた加賀藩が代替地としてもらったのが板橋の土地である)。
邸内に庭園好きの綱吉のために作られた庭が六義園である。作庭に7年かかったという。
水戸家に関しては、江戸城紅葉山の藩邸に住んでいた頼房が最初に賜ったのが神田山
(駒込)の藩邸であった。住居用ではなかったので、とりあえずは下屋敷と分類される。
0684名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 22:19:41.12ID:Vt1DlFdL0
ここでお分かりと思うが、上屋敷・中屋敷・下屋敷の区別は、後世の分類であって、当時の
言葉には無い。江戸時代の誰も、上屋敷・下屋敷などと言ってはいなかった。
後世の学者、あるいは役人の分類であろう。
例えば、明治維新・廃藩置県で大名が消滅すると大名屋敷は明治政府に収官されたが、その
当時の書類には「上邸・中邸・下邸」などという分類がなされている。
上中下と分けるのはとりあえず有用な基準ではある。
しかしさほど拘るべきことでもないと思う。
上屋敷と中屋敷の区別は、当主すなわち現在の藩主が住んでいるかどうかであるが、殿様が
隠居しても住み続けている場合、「上屋敷、のちに中屋敷」などと説明してある場合がある。
水戸藩の駒込屋敷も、下屋敷になったり中屋敷になったりしている。
いちいちこれをやるのは面倒な気がしないでもない。
なお、蔵屋敷という呼び名は当時からあった。「御蔵屋敷」などと表記されている。

最後に御三家の屋敷を挙げておく。
1.尾張藩
上屋敷  市ヶ谷 現在防衛省があるところ。
中屋敷  麹町  現在上智大学
下屋敷  外山(戸山屋敷) 現在の西早稲田、戸山ハイツ一帯

下屋敷の敷地は、拝領当初は約8万5千坪であったが、近隣を買い増して約13万坪あった。
屋敷地の八割を占めるという広大な庭園があり、江戸随一と評されていた。
広い池泉式回遊庭園の他、庭園の中に小田原宿を再現した町を作った。
東海道の道路を200メートル再現し、道路脇に37件の旅籠や商家、お堂、寺などを並べた。
ハウステンボス小田原版といったところである。
戸山の崖(早大文学部の隣)あたりを「箱根山」というが、ここは庭園の一部であり、
小田原宿から見える箱根山に見立て、実際に箱根山と名付けられていた。
0685名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 22:20:14.56ID:Vt1DlFdL0
2.紀州藩
上屋敷  千代田区紀尾井町周辺。グランドプリンスホテルや弁慶堀などがある一画
中屋敷  現在の迎賓館や赤坂御用地一帯
下屋敷 
(1)千駄ヶ谷屋敷 
現在のJR千駄ヶ谷駅近くの東京体育館の辺りから鳩森神社周辺、西は原宿・オリンピック
記念青少年センターのところまであった。
明治以降は、徳川宗家16代の家達公の屋敷になった。
(2)渋谷屋敷
現在の渋谷区松濤一帯。渋谷区松濤は、江戸時代には下渋谷村といった。
ここに五万坪の土地を拝領して下屋敷とした。後に分家の伊予西条藩に二万坪を分与して
三万坪となる。現在の松濤には渋谷区立の鍋島松涛公園という名称の公園があり、そこに
丸い池がある。この池が下屋敷の庭園の中心であった。
何故この地が「松濤」という地名になったかというと、明治5年に佐賀鍋島家の11代藩主
鍋島直大が紀州藩下屋敷の跡地の払い下げを受け、明治9年、ここに「松濤園」という茶園を
開いたからである。佐賀士族授産のためにここで茶葉の生産を始め、松濤茶という名称で
販売したのである。茶の生産と販売は明治22年頃まで続いたらしい。
茶園をやめた後も農園を続け、果樹を植え野菜を育てた。
松濤には鍋島侯爵家の屋敷もあった。現在の松濤中学校がその跡である。
つまり松濤園は、明治になってからの鍋島家の屋敷の附属農園だったわけである。
(松濤を鍋島藩の下屋敷があった土地と勘違いしている人が多いので注意)。
当主である鍋島直大(なおひろ)公は、文久元年に佐賀藩主となった、最後の殿様である。
積極果敢な人物で、明治政府の高官もしたが民間人としても多彩な活動をした。
明治44年(1911)、皇典講究所第4代所長になった。
皇典講究所とは、明治15年(1882)に設立された皇道の教化活動をする団体である。
設立に政府が関与しているが民間団体である。
明治政府は神道を宗教ではないとしており、宗教ではないから神道は国教ではないとしていた。
国家神道は宗教ではなく国家祭祀であり、だから国が主宰してもよい。
さらに国が神社に奉幣を捧げるという形で国費からの援助をしてもよい。
しかし神官・神職は官吏ではないのであった。とにかくややこしい。
皇典講究所は神官・神職の養成を内務省から委託されており、実質的には国家機関であった。
1890年(明治23年)には附属機関として国史・国文・国法を教授する國學院を開校した。
直大公も、皇典講究所の所長になった縁で後に國學院院長に就任した。
國學院大学が渋谷にあるのはこのためである。
(国史・国文・国法のうち、国法を研究する部門が独立し日本法律学校が出来た。これが
後に日本大学となった。その結果、國學院は国史と国文を専門に教授する学校となった。)。
大正10年没。
長男の直映(なおみつ)公が跡を継ぐ。
公はケンブリッジ大学を卒業し、英国貴族のような品格と教養のある人物であった。
貴族院議員であり、徳川家達や近衛文麿、細川護立など公爵と侯爵の議員らで「火曜会」と
いう院内会派を結成し、活動した。
「公爵と侯爵だけ」という会員資格は反発も買ったが、やはり力は大きかった。
この会派から貴族院議長4人を輩出し、近衛文麿は三回総理大臣に当選した。
関東大震災の直後、松濤の鍋島農場や屋敷地を解放し、被災者や外国人を積極的に入居させ、
神山町に教会を建てさせるなどした。
以後松濤には財界人や政府要人なども移り住むようになり、現在の高級住宅街となった。
0686名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 22:27:12.37ID:Vt1DlFdL0
3.水戸藩
上屋敷 小石川
中屋敷 神田台(駒込)
下屋敷 小梅(向島)
向島は昔は小梅村といった。
屋敷があったのは今の向島1丁目のほとんど全ての範囲。隅田公園とも重なる。
水戸藩は、古く寛永元年(1624)、浅草谷島(矢島)に蔵屋敷を拝領。浜屋敷と呼ばれた。
倉庫や別荘として使われたという。
元禄6年( 1693 )、浜屋敷を幕府に返納、代替地としてこの小梅の地を賜った。
三代綱條(つなえだ)の時である。
隅田川の東岸で、面積は二万坪。南北約200メートル、東西約300メートル。
北側は運河である北十間川に接している。今の墨田区役所やスカイツリーに近い。
河岸段丘で川岸まで低くなっていく土地を階段状に切り土盛り土して敷地を作った。
向島や本所の大名屋敷80余のうち最大規模を誇るものであった。
この水戸藩下屋敷は、水戸の物産を運び込む蔵屋敷の役目を果たしている。
だから倉庫が立ち並んでいた。その他、蔵奉行や船頭や鷹匠の住まいのための建物があった。
西側に接した一画は船蔵で、水戸家所有の船が並び、修繕のための材木が山と積まれていた。
明治維新となり一時政府の管理する所となったが、明治4年、改めて徳川侯爵家に下賜された。
下賜された土地に屋敷が建てられ、「水戸徳川家小梅邸」と呼ばれるようになった。
明治8年に、明治天皇の最初の小梅邸臨幸の栄誉に浴した。
https://f.hatena.ne.jp/m00611108/20170606215348
明治40年頃の徳川侯爵邸略図というのがある。
もう蔵や船蔵は取り払われ、広い庭園を中心に建物が配置されている。
敷地中央を斜めに泉水が流れている。泉水は三段ぐらいの池をなしている。
小川を渡る橋もあるようである。
家屋は日本風の屋敷だったらしい。
0687名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 22:32:25.83ID:Vt1DlFdL0
明治天皇が全部で七回臨幸されたというから、よほど景色がよかったのだろう。
大川端は江戸時代から桜の名所だった。明治になってから「墨堤」と呼ばれるようになる。
明治帝は花見が好きだったのかも知れない。
しかし大正12年の関東大震災により焼失、小梅における水戸屋敷の歴史は幕を閉じた。
昭和6年に隅田公園が造営されると庭園の石などが隅田公園に取り入れられた。
昭和50年に墨田区は、区政施行30周年を記念して改修し、庭園を再現した。
この再現された庭園は、江戸時代のものではなく、明治になってから作られた德川侯爵邸の
庭の再現だろう。ていねいに管理されているとは思えない。
この庭園の写真はネットでいくらでも見ることができる。

どうでもいいが、滝廉太郎の「花」は明治33年に発表されたが、「春のうららの隅田川、
上り下りの船人が・・・」という歌詞は、この屋敷からの景色を詠じたものではないか。
滝廉太郎がこの曲を作曲したのは東京音楽学校の学生時代であり、東京音楽学校教授の
武島羽衣が後から歌詞をつけた。
曲の発表当時、滝は研究科(今の大学院)の研究生だった。
徳川侯爵邸で桜見物の園遊会が開かれ、東京音楽学校の生徒たちが、楽団として呼ばれた
ことがあったかも知れない。
研究科の滝や教授の武島が、引率として生徒たちと一緒に行ってもおかしくない。
何せ、明治25年まで上野不忍池で競馬が行われていたのある。
競馬は馬券は発行されず、天皇や華族、政財界の名士が集い、各国の外交官たちを招待して
行われるパーティのようなものであり、野外の鹿鳴館と言われた。
この時代風潮からすれば、墨堤の桜を見るための園遊会はあって然るべきである。
天皇が臨席する園遊会なら楽団の演奏程度のことはあるだろう。
滝と武島羽衣は、園遊会で桜と隅田川の景色に感動し、それが歌になったのではないか。
0688名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/18(木) 22:32:49.42ID:Vt1DlFdL0
しかし、戦後隅田川はコンクリートの防潮堤で固められ、ただの水路のようになる。
景色は何の変哲もないものになった。
隅田川の川岸には八代将軍吉宗が桜を植えさせ、その後も植栽が続けられて墨田の名物
になっていた。吉宗が桜を植えさせたのは、人が集まって堤が踏み固められるのを意図
してのことだという。しかしこれは俗説だろう。
吉宗は飛鳥山や品川御殿山の桜など、他の場所にも桜を植えさせ、桜の名所を作り出した。
その理由はおそらく人気取りである。
養子として将軍家に入ったので、庶民の人気を取る必要があったのである。
戦後の防潮堤工事で墨堤の桜は全部切られた。
今も隅田公園の土手には桜が植えられているが、当時と今とでは土手の規模が違う。
昔の土手はもっと低く小さく、そこに植えられた桜は枝を水辺近くまで伸ばした。
水辺の桜は美しいし、桜の枝を濡らすように水が流れるのも美しい。
当時は隅田川の水も飲めるほどに綺麗だった。
隅田川の川岸でも水戸德川家の屋敷の庭からの眺めは随一だったと思われる。
徳川侯爵邸の庭園にはたくさんの桜が植えられ、さらに川岸にも江戸時代からの桜が
無数に植わっていた。邸の庭園は隅田川まで緩やかなスロープになっていた。
隅田川に北十間川が流れ込む角は遊水池のようになっており、川岸に土手はなかった。
桜の枝を川水が洗い、花びらを浮かべながら流れ去って行く。
隅田川と川岸の桜が織りなす光景は、もはや誰も見ることはできない。
0689名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/21(日) 00:27:46.36ID:bKLY3UM50
[江戸藩邸の政治]
慶長11年(1606)、頼房は常陸国下妻10万石の領主となる。
これにともない、中山信吉(のぶよし)が頼房の附け家老となった(以下附家老と表記)。
慶長12年(1607)11月のことである。
このとき頼房は満で4歳。駿府の家康のもとにいた。
(頼房の幼名は鶴千代であるが、煩雑なので頼房で通す)。
当然頼房の附家老である中山信吉は、駿府で家康に仕えていた家臣ということになる。

中山信吉は北条氏の遺臣である。
代々武蔵加治郡中山の土豪であった。(加治郡中山は今の飯能あたり)。
中山家は武蔵七党の一つ「丹党」加治氏の後裔である。
信吉の父は中山勘解由家範という。
家範は八王子城の北条氏照に属し、八王子城に押し寄せた秀吉軍と戦った。
城主北条氏照は小田原城に居たので、家範が事実上の大将であった。
八王子城の山頂に近い「中の曲輪」に立て籠もり、最後まで戦って切腹した。
その際、妻と子供二人(おそらく娘だろう)を斬り、長男と次男は逃がした。
その後、家康がこの二人の遺児を召し出し、自分の家臣とした。
長男の照守(21)と次男信吉(15)である。
中山家が名門であることと、父親の忠烈無双の死に様を評価してのことである。
家康は特に信吉を気に入り、小姓として身近に置いた。
その正直な性格を高く評価していたという。禄高は千五百石であった。
なお、兄の照守は秀忠の使番となる。
関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠が上田城を攻めた際(上田合戦)、上田七本槍の
一人に数えられる活躍をした。最終的に三千五百石の旗本に立身した。

信吉の生まれは天正5年(1577)である。
だから附家老になったのはわずかに26歳のときである。
たった4歳の子供の家老であるから、遊び相手にもなり、さらに頼房が壮齢になるまで
仕えることのできるように若者を選んだのだろう。
附家老として五千石を加増され、さらに八王子城の戦いで勇戦した北条遺臣の17名を
与力とし、その給与分三千五百石も信吉の禄とした。
従来の千五百石と併せて一万石である。
さらに、頼房の水戸移封にあたって五千石を加増され、自分の禄高だけで一万石を
超えて大名格となった。領地は常陸国松岡(今の高萩)である。

中山信吉は頼房の附家老であるから、常時頼房に寄り添い、頼房が水戸に入国する
ときのみ一緒に水戸入りした。
だから信吉は水戸藩の仕置き(水戸での行政)にはほとんど関与していない。
ただし、水戸藩の藩政に大きな影響を及ぼした。
一番大きいのは、二代目水戸藩主となる世嗣に光圀を据えたことである。
(頼房が長生きしたので、光圀が二代目水戸藩主となるのは30歳を過ぎてからの
ことになる。しかし世継ぎに決定したのは6歳のときである)。
0690名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/21(日) 00:28:25.55ID:bKLY3UM50
光圀は次男であるのに、長男を差し置いて世継ぎになった。
その経緯はこうである。
頼房は終生正室を娶らなかった。気に入りの側室を何人か置いているだけであった。
だから頼房の子供は皆庶子である。
頼房が正式な側室でもない女に手をつけて二人の男子が生まれた。
女の名は久子(高瀬の局)といい、家臣谷重則の娘で、母親は奥仕えの老女だった。
久子はたまたま老女のもとに来ていて、頼房の目にとまったのである。
頼房は久子の二回の妊娠中いずれも堕胎を命じ、子供は堕胎したものと思っていた。
具体的には久子を家老の三木之次に預け、腹の子供を始末するように命じた。
しかし三木之次は堕胎はさせず、二子とも出産させていた。
三木之次の妻は頼房の乳母武佐であり、当時乳母は生母に次ぐ権威を持っていた。
武佐は奥向きでは大きな力を持っていたはずである。
きわめて頭が良く、類の無いほどの話し上手であった。弁も立ち、尼僧と禅の議論を
しても負けなかったという。
(幼少期にこの女性に育てられたことが光圀の頭脳や性格に影響したと思われる)。
長男の頼重は、三木之次の江戸麹町の別邸で生まれ、数年後に之次の娘婿である公家
滋野井季吉に預けられ、京で養育された。
六つ下の光圀は、寛永5年(1628)、三木之次の水戸の屋敷で生まれ、育った。
光圀は、幼時には、三木夫妻を実の親だと思っていたらしい。
おそらく、ここで頼重と光圀の運命が分かれた。
武佐は自分の家で育て、自分を母親と思っている光圀が愛おしく思われ、水戸藩の
世継ぎにさせてやりたいと思うようになったのである。
武佐がどのように動いたのかは奥向きのことであるから分からない。
父である頼房との対面(御目見え)は光圀の方が早かった。
その後頼重も父との対面を果たしたが、何と15歳を過ぎてからのことであり、全く
閑却されていたことが分かる。
しかし、頼重は長男である。将来跡目争いに発展していく要素は多分にある。
光圀が父頼房に対面の直後、中山備前守信吉が行動を起こす。
水戸に行き、光圀を水戸城に入城させた。
信吉はさらに将軍家光とも面談し、光圀を世継ぎとするようにとの言葉を得た。
寛永10年(1633)6歳のときに光圀は世子に決定し、翌月には水戸から江戸小石川の
藩邸に移り世子教育を受け始める。このときに傅(めのと)が三人付けられた。
実は信吉の水戸行きは、長丸(光圀の幼名)の鑑定のためであるという話がある。
秀忠の命を受けて水戸に行き、長丸が聡明なら跡継ぎにしようということであった。※
すると五歳の長丸は中山備前守に対し、「江戸よりの下向、大義」と凛然と言い放ち、
さらに信吉に自ら菓子を与えた。
中山信吉は、長丸が幼少ながら威光を発したことに驚き、秀忠に頼房の継嗣として
推薦した。秀忠の内諾があれば家光がこれに反対するわけもない。
かくして水戸家の2代目は光圀に決したのである。
※秀忠は1632年3月まで生きていた。前年の8月ぐらいから胸痛に苦しみ、死を意識
していた。自分が死ぬ前に、水戸藩の跡目を決めておきたいと思ったのだろう。
0691名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/21(日) 00:29:50.84ID:bKLY3UM50
寛永13年(1636)に元服して光国と名乗る(光圀と国の字を改めるのは後年)。
将軍家光の「光」の一字を諱に貰って光国としたのである。
9歳で元服というのは早いが、地位を早く安定させたかったのだろう。
この時、中山信吉は59歳。
隠居はしていたが、水戸德川家江戸屋敷において絶大な力を持っていた。
寛永19年(1642年)1月6日、死去。享年65。
晩年は学問に打ち込み、林羅山とも親しかった。
光圀は18歳ぐらいから学問に興味を持つようになったということであるが、突然に
学問を始めたわけではあるまい。
信吉は光圀が15歳の頃に亡くなったのだが、その間に光圀はかなりの影響を受けて
いたのではないか。また光圀と林羅山との繋がりも、信吉と羅山の親交が元になって
いると思われる。水戸藩江戸屋敷には、林羅山の塾で学んだ藩士や、羅山の弟子から
藩士に取り立てられた者が何人もいた。
信吉によって、水戸藩と林羅山の私塾との間には特別の繋がりが出来ていたのである。
光圀が林羅山に私淑し、その学舎に頻繁に出入りしたことから大日本史の編纂を志す
ようになる。大日本史の編纂を通じて水戸学が生まれ、水戸学が幕末の水戸藩士の思想や
行動に大きく影響した。
そうだとすると、信吉と羅山の親交は、水戸藩に大きな影響を残したことになる。

なお、長男頼重が京に送られたのは、母親の久子が再び頼房の子を懐妊したときに、
頼重の存在を知られないためにしたことであるという。
よく分からないが、おそらく久子の命を守るためにしたのだろう。
久子は腹の子を流せと命じられたわけだから、その通りにしなければならなかった。
言いつけに背けば成敗されても仕方がない。当時はそういう時代だった。
久子が命令に反して子を生んでも、実家等に引きこもっているなら殺しはすまい。
だが、再び頼房の近辺に侍るようになっていた。
この状態で子を生んだことや子供が生きていることが知られれば、頼房が怒って何を
するか分からない。だから頼重のことが人の口の端にも登らないよう、京に送って
しまったのである。
このような事情で頼重は京で育てられ、11歳のときに水戸藩の招きで江戸に戻った。
おそらく三木之次が運動したのだろう。
江戸に戻っても、まだ父親に対面(御目見え)していないので藩邸には入れない。
再び三木之次の麹町の別邸にでも住んだのではないか。
その後、弟の光圀は父の頼房に御目見えし、世継ぎに決定する。
そうなった後でも頼重はなかなか頼房に会えなかった。
対面したのは上述のように頼重が15歳になった後のことである。
何らかの妨害があったとしか思えない。
実は頼重は五歳の頃、痘瘡を病んだという話もある。これで跡継ぎの目が無くなった。
体中ぼつぼつの跡だらけの将軍というのも無いであろうから、この話が本当なら仕方の
ないことである。だがこの話は説得力がありすぎ、後から作られた話のようにも思える。
16歳のときに将軍家光にお目見えするが、次男としての扱いであった。
翌寛永16年(1639)常陸下館5万石を与えられた。
三年後、讃岐高松12万石に国替えとなる。
0692名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/21(日) 00:30:55.97ID:bKLY3UM50
その後、水戸家に頼重の次男が養子に入った。
頼重と正室の間に生まれた次男綱條(つなえだ)が光圀の養嗣子となったのである。
(綱條の兄、長男の綱方は早世)。
光圀には長男もいたのに、何故兄頼重の息子を養子にしたのか。
光圀は儒学の中でも朱子学に傾倒したが、朱子学は道理序列に厳格で、家督は長男が
継ぐのが正道としていた。その道理からすると、次男である自分が継いだことは正道に
背き、兄への非礼である。しかし、自分が跡継ぎとなったのは今更どうしようもない。
だから自分の跡目はどうしても兄・頼重の子に継がせたいと望んだのであった。
光圀の養子となった綱條は、約20年後の元禄3年(1690)、光圀の隠居にともない
35歳で水戸藩主となる。
一方、高松藩の方でも養子縁組が行われた。
頼重は光圀の長男頼常を養子に迎え、自分はさっさと隠居して頼常を藩主にした。
この養子縁組は簡単だった。何故かというと、頼常はもともと高松で育ち、高松
松平家を自分の実家のように思っていたからである。
頼常の生母は水戸藩江戸屋敷に奉公していた女中で、名は「やち」というらしい。
弥智という字が当てられているが、これは重みをつけるためだろう。
「何々氏」という出自もない。よほど身分の低い女性であったと思われる。
おそらく商人の娘だったのではないか。
それはともかく、光圀が手を出して孕ませた時期が悪かった。
関白近衛家の娘との縁談がまとまりつつある最中だった。
関白の娘御入内して早々、新郎の長男誕生などということになったら格好がつかない。
仕方なしに「やち」は家臣に預けられて出産、生まれた子は高松松平家に預けられた。
高松藩江戸屋敷で2歳まで育て、その後高松に送られた。
もしかしたらこの頃に既に、頼重の子が水戸藩を、光圀の子が高松藩を継ぐという
合意がなされていたのかも知れない。
母親の「やち」は水戸藩士の妻とされ江戸に留まった。
この母親は頼常が42歳のときに高松に引き取られ、藩主の生母として大切に処遇され、
息子より長生きした。
高松藩主となった頼常は藩政に熱心であり、かつ学問好きの殿様であった。
さすがに光圀の血を承けているというべきか。しかし頼常には継子がなかった。
やむを得ず頼重の四男(松平頼候)の次男を養子とし、三代目藩主にした。
松平頼豊である。
光圀の血は高松松平家には残らなかった。
0693名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/21(日) 00:32:51.91ID:bKLY3UM50
なお、水戸家を継いだ三代目当主綱條の方も、その後の相続は順調ではなかった。
宝永6年(1709、)綱條が54歳のときに、長男の吉孚(よしざね)が父に先立って
早世した。25歳である。
他に成長した子はなかった。後嗣が絶えたのである。
(綱條は正室との間に子はなく、側室3人との間に12人の子をもうけた。しかし
吉孚以外は全員夭折した)。
幸いなことに吉孚には娘がいた。美代姫である。
吉孚が亡くなる前年に生まれ、満で1歳であった。
武家は女性が跡継ぎになることはないから、美代姫は後嗣とはいえない。
だから婿をとって婿を養嗣子にし、跡を継がせるのである。
将来美代姫の婿とすることを意図して、2年後、甥の高松藩主・松平頼豊の長男である
軽千代を養嗣子に迎えた。
(軽千代という名では御三家の嗣子に相応しくないので、すぐに鶴千代と改名した)。
鶴千代が養嗣子となったのは6歳のとき。享保元年(1716)、数え13歳で元服。
将軍吉宗から偏諱を賜り宗尭(むねたか)と名乗る。
元服の二年後、享保3年(1718年)に綱條が亡くなると家督を継ぎ、四代目藩主となる。
享保8年(1723)美代姫が16歳となり、宗堯の御簾中となった。
(美代姫は家付きの娘なので正室と言わず、御簾中という)。
五年後の享保13年(1728)、宗堯の次男を生む。次男は父親の幼名と同じ鶴千代と
名付けられた。(その前に側室が長男を産んでおり、宗堯の高松松平家での幼名である
軽千代という名を付けられていた。だが家付きの美代姫が生んだ子であるから、次男
ながら鶴千代が嫡子となった)。
世継ぎも生まれ、宗堯は順風満帆であった。
英邁で学問も好み、義公(光圀)の再来ではないかと言われたという。
しかし享保15年(1730)、25歳で急死。実年齢23歳であった。
鶴千代(当時3歳)が跡を継ぎ、五代目藩主となった。
享保21年(1736)鶴千代は9歳で元服し、宗翰(むねもと)と名乗る。
(なお、この宗翰の六男頼救(よりすけ)が宍戸松平家に養子に入り六代藩主となる。
宗翰は三島由紀夫の血統上の先祖にあたるわけである)。

宗堯の死には不審な点が多い。
嫡子である次男の鶴千代(美代姫が生んだ子)より前に、側室との間に長男軽千代が
生まれていた。男子が二人、それも1歳違いで生まれていたことから、跡目争いが原因
ではないかと言われている。
宗堯は高松松平家から来た養子であるが、生母である覚了院を讃岐国から呼び寄せ、
小石川邸内に新御殿を建てて住まわせ、孝養を尽くしていた。
この御殿に仕える女中を気に入って手を付け、長男を生ませたのである。
次男鶴千代が生まれた後、この新御殿から美代姫のところに饅頭が送られてきた。
たまたま美代姫のところに来ていた宗堯がそれを食べると腹痛が起き、程なく死んで
しまったという。
宗堯が死去する際、附家老の中山信昌※が来て、鶴千代を美代姫に抱き取らせ、「拙者が
再び参るまでは何も食べさせてはなりませぬ。しかとお抱きになって誰の手にも渡して
はなりませぬ」と言ったという。
※中山信昌は上記中山照守の子孫である。
0694名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/21(日) 00:33:49.15ID:bKLY3UM50
饅頭の話からすれば側室側が悪役に違いないが、水戸家の家臣に暗殺された可能性もある。
殿様だから側室を持つのは自由であろうが、御簾中がまだ若く子供を生んでもいないのに
先に側室に子を生ませるというのは問題があろう。
(細かいことを言うと、母親の侍女である女は正式な側室ですらない)。
そもそも宗堯は婿である。婿の役割を果たさずに新御殿の方に入り浸り、そちらで先に
子供を作ったことに憤る家臣がいても不思議ではない。
とにかく、この婿殿の行動は、水戸德川家を蔑ろ(ないがしろ)にするものだとして、
藩邸の人々の眉を顰めさせたのは間違いなかろう。
美代姫の立場になってみると、夫を許せないと思い詰めることもあり得る。
母親の御殿に行っているなら仕方がないと思っていたら、昼日中から御殿の女中と睦み、
子供まで作っていた。それを知った美代姫の心中は測りがたい。
毒饅頭は水戸家側が仕掛けたとすると、美代姫も謀を知っていなければ成立しない。
美代姫が知らないまま、美代姫の部屋に毒饅頭を置くわけにはいかないからである。
美代姫が自分から積極的に行動に出たとは思えないが、美代姫の心中を察した奥向きの
勢力が実行に出た可能性は多分にある。
事は美代姫の生んだ子が将来間違いなく跡目を継げるかどうかの問題であるから、御家
騒動になる前に、その目は摘んでおかねばならない。
それは今であると説得されれば、美代姫も首を縦に振らざるを得なかっただろう。
とにかく、この当時の水戸藩邸では高松松平家の勢力が強かった。
それは宗堯の父、頼豊がいたからである。
(後述のとおり、頼豊は事実上の水戸藩主のようになっていた。この頼朝が水戸藩の
後継争いに口を出し、自分の孫である軽千代を後嗣に据える可能性は多分にあった)。
家付きの美代姫の子だからといって安穏に跡継ぎになれる状況ではなかったのである。
0695名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/21(日) 00:35:45.16ID:bKLY3UM50
宗堯については、母親の侍女に手をつけて長男を生ませたことの他に、まだ憎まれる
原因が考えられる。実父の高松藩主松平頼豊の行動である。
上述のように、宗堯(鶴千代)は6歳で水戸家の養子となり、15歳で藩主となった。
鶴千代が幼かったため、頼豊は後見と称して絶えず水戸藩邸に出入りしていた。
その後、息子が13歳で元服しても出入りを続ける。
何せ水戸家とは近い親戚である。
そもそも、宗堯の養父である水戸家3代目当主の綱條は、高松松平家から来た人間である。
初代高松藩主頼重の次男である。
頼豊は松平頼重の四男 頼候の子である。
だから水戸家3代目当初の綱條と頼豊は、血のつながった叔父と甥なのである。
頼豊の感覚では、水戸德川家とは言っても、中身は高松松平家なのである。
そしてそれで問題はない。
何せ、高松松平家は頼房の長男の直系であるし、その家系に戻すことを光圀公も望んだ
のだから。
さらに、現代の感覚では、養子に実家から家臣だの後見だのが付いてきて幅を効かす
というのはおかしな話だが、当時は普通のことであった。
例えば甲府德川家から徳川将軍家の養子となり六代将軍となった家宣は、甲府時代
からの家臣である間部詮房や新井白石らを重用した。
紀伊甲府德川家から吉宗が養子に入ったときも、40名あまりの家臣を連れて来て側近と
して使った。しかし、これらはあくまでも養子が主体となり、従来の家臣を引き続き
重用したということにすぎない。
子供を養子にしたらその父親が付いてきて、そこの家の当主になったかのように全てを
切り回すというのは普通にあることではない。
水戸家の先代が死んで息子宗堯の代になると、息子はまだ子供だからと言って横から口を
出し、頼豊が事実上の藩主のようになった。
頼豊は自分の藩では政治向きのことには一切関心がなく、花鳥風月を愛でているだけの
殿様であった。高松に国入りしているときも、国元の政務は全て家老に預け、自分は庭園
(今の栗林公園)の中の別荘に住み、風流三昧に暮らしていた。
これは国元では家老が大きな力を持ち、頼豊は政務に一切関与できなかったからだという。
頼豊が入国するときは船で高松の湊に入るのであったが、家老は湊に迎えに出ることも
しなかったらしい。存在感の薄い殿様だったのである。
そういう欲求不満もあり、息子の後見人として他家の政治に熱中したのかも知れない。
0696名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/21(日) 00:36:30.61ID:bKLY3UM50
水戸藩の小石川藩邸と高松藩の飯田町藩邸はきわめて近い。
高松藩の藩邸は、今の水道橋駅南口駅前の西側にあった。
小石川藩邸から神田上水まではすぐであるが、今の水道橋駅近くに小石川橋という橋が
かかっており、それを渡ってすぐのところに高松藩上屋敷があった。
今は「ガーデンエアタワー」や「アイガーデンテラス」が建っている。
もともとこのあたりは江戸時代の遺構が出土し、飯田町遺跡と呼ばれていたが、これらの
高層建築の工事の際に、大規模な発掘調査が行われ、高松藩邸跡が出土した。
遺跡には庭園の跡が明瞭に残り、そのため建物に「ガーデン」の名が付けられたのである。
なお、ガーデンエアタワーの一画に、庭園が一部復元されて展示されている。
(グーグルストリートビューで「 讃岐高松藩上屋敷の庭園跡 」を検索してみるとよい)。
庭園は神田上水から水を引き込んだ池泉式庭園で、本格的なものであった。
池の周辺を御殿が囲み、間を渡殿(渡り廊下)で結ぶような構造になっていた。
池の水面が地面から三尺も低く、月影を観賞しやすいようになっていたという。
この庭園は、まちがいなく頼豊が造ったものであろう。
とにかく水戸藩の小石川藩邸と高松藩の飯田町は近かった。
神田上水を挟んで、ほとんどお隣同士といっていいほどの近さであった。
近いから頼豊は毎日やってきて息子の傍らにべったりと座り、政務に口を出した。
水戸藩の家臣たちは辟易しただろうが、さらに辟易だけではすまない事態が生じた。
頼豊が、何と光圀公の作られた後楽園の改造を始めたのである。
園内の大木・古木を700本も切り倒し、大石を組み合わせて作った石組みを崩して
ただの石を平積みにした護岸にしてしまったという。
自分の趣味に合わせ、やりたい放題の大改造であった。
ここが詳しい。
http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-140.html
0697名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:52:53.60ID:HwBvERXo0
頼豊といえば庭園である。庭園の話をしなければならない。
讃岐高松の庭園といえば栗林公園である。
栗林公園はもともとは高松藩下屋敷の庭であった。
明治8年に県立公園となり、「栗林公園」という名称で一般に公開されるようになった。
江戸時代は庭園造成が盛んであり、大名たちは庭園の見事さを競った。
大名だけでなく、旗本も庭を作り、大商人も向島などに別荘(当時は寮と言った)を構え、
広大な庭を作った。
大名家では江戸だけでなく、さらに国許でも庭園を作った。
金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸ならば斉昭公の作った偕楽園などが今も残る。
江戸時代の日本は、おそらく世界で一番庭園文化の盛んな国であった。
(しかし、江戸の大名屋敷の庭は、明治維新で大名が国に引き上げ、さらに廃藩置県で
所有者を失い、壊滅した。わずかに駒込の六義園や芝の佐倉藩・紀州藩浜屋敷(旧芝離宮
恩賜庭園)、江東区の清澄庭園などが往古をしのばせるだけである)。※
※大名庭園というものがどういうものかを知りたければ、まずは「旧芝離宮恩賜庭園」を
見るべきである。芝には大名屋敷が多かったが、家光の頃までは三田や白金など高台の方
ばかりであった。今の港区は、麻布台地や品川台地が海に入り込んでいる土地で、現在の
山手線新橋駅から浜松町駅、田町駅をむすぶ線から下は海だった。
(今の浜松町や田町を通る山手線の線路は、旧東海道の上に敷設された。街道としての
東海道は日本橋まで続いていたのである。旧東海道は品川が起点と思っている人が
多いが、最初の宿場があるというだけのことである。銀座通りも旧東海道である)。
四代家綱の頃、埋立てがなされて海だったところにも大名屋敷が立ち並ぶようになった。
ほとんどが下屋敷である。それだけ芝が田舎だったということだろう。
老中の大久保忠朝も家綱から土地を下賜され、下屋敷を建てた一人である。
当時大久保忠朝は佐倉藩主であったが、後に加増されて相模小田原藩主となった。
忠朝は大久保忠隣(おおくぼただちか)の子孫である。
忠隣は家康の信任厚く、初代小田原藩主となり小田原城を任されていたが失脚した。
70年ぶりに父祖の城に戻った忠朝は、先祖の汚名を晴らしたような気分になっただろう。
それに、小田原は東海道の要衝であり、城も大きい。
小田原城主といえば大名として超一流の地位である。大名は禄高だけではない。
気分が高揚して何かやりたくなったのか、忠朝はこの下屋敷に庭園を造り始める。
小田原には有名な古庭園がいくつかあり、さらに小田原城内にも古くから庭園があった。
小田原城主となった忠朝は庭園に目が開けたのかも知れない。
忠朝は小田原から優秀な庭師を呼び寄せ、下屋敷内に庭を作らせた。
この庭園(楽壽園)が今日の旧芝離宮恩賜庭園となったのである。
ここの解説が詳しい。
https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0367/
ここも良い。江戸東京博物館の学芸員が書いている。庭園の知識がある人のようだ。
https://tokyoartnavi.jp/column/3112/
0698名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:53:41.54ID:HwBvERXo0
大久保家下屋敷はその後何度か主が変わったが、庭園は明治維新も無事に乗り越えた。
何故無事だったかというと、明治4年に有栖川宮熾仁親王邸となったからである。
明治8年に国に買い上げられて宮内省の所轄となり、皇室の御料地になった。
明治9年には芝離宮と呼ばれるようになる。
敷地内に豪華な迎賓館(洋館)も建てられた。
この迎賓館は関東大震災で焼失し、その後再建されなかった。
戦後になって、これを赤坂の地に再建したのが現在の迎賓館である。
芝離宮の迎賓館はヴェルサイユ宮殿のミニチュアのようであった。
極端な欧化政策が採られた時代のものであり、鹿鳴館と同趣旨の建物である。
これは仕方がないとして、赤坂迎賓館までまるっきりの洋館にする必要があったのか、
疑問に思う人も多いはずである。

[ついでに新宿御苑]
なお、新宿御苑は信州高遠の内藤家下屋敷があった場所なので、大名庭園とされることが
あるが、明治39年に作られた庭園である。
明治5年、政府は内藤家から収公した土地と買収した隣接地を合わせた約58ヘクタールの
敷地に、近代農業振興を目的とする「内藤新宿試験場」を設けた。
試験場の用地にされたことによって土地の分散が防がれた。
その後の新宿の発展から考えると、まさに奇跡のような幸運である。
その後、この広大な土地は宮内省の所轄となり、皇室の御料地・農園となる。
西洋の園芸植物を日本に移入するにあたっての試験や種の採取などを行っていた。
さらに、一部は皇室専用の農園として、西洋野菜や果物の栽培を行っていた。
当時は西洋野菜などは市場に無く、その他の野菜類も下肥で作られていて皇室の食卓に
供しうるようなものではなかった。
外交官を招待した晩餐会の料理などはここで作られた野菜が使われていたのだろう。
明治31年、さすがに西洋野菜も出回るようになったためか、この地を西洋風の庭園に改造
する計画が立てられ、ベルサイユ園芸学校教授、アンリ・マルチネーに設計を依頼した。
紆余曲折あって明治39年に完成、西洋の園芸植物が咲き乱れる庭園となる。
街路樹の栽培場でもあったので、プラタナスやユリノキなども茂っていた。
しかし大正6年から「観櫻会」、昭和4年から「観菊会」がここで行われるようになり、
桜の植樹や菊の栽培にも力が入れられるようになった。※
観櫻会は戦後、「桜を見る会」と名を変えて存続することになる。
戦前は天皇主宰、戦後は内閣総理大臣主催の桜の宴である。
なお、御苑の桜は「一葉」(いちよう)と名付けられた八重桜を第一品種としている。
だから「観櫻会」も「桜を見る会」も、ソメイヨシノより満開が遅い八重桜に合わせ、
4月中旬に行われている。
なお、八重桜は寛政・文化文政の頃から江戸で流行し、大名庭園は八重桜を植えてある
ことが多い。これはソメイヨシノなどは木が大きくなりすぎることも理由と思われる。
※明治14年(1881)に皇室主催の桜の鑑賞会「観桜御宴」として吹上御所で始まり、その後
明治16年(1879)から大正5年(1916)までは浜離宮で開催されていた。
0699名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:54:30.84ID:HwBvERXo0
[頼豊について]
高松の栗林公園の元となる庭園は、高松松平家が入封する前の領主である生駒家時代に
すでに形作られていたらしい。
寛永19年(1642)に松平頼重(光圀の兄)が常陸下館から讃岐に国替えとなり、高松藩
初代藩主となる。庭園も高松藩に引き継がれ、ここに栗林荘という別荘が建てられた。
栗林荘とは建物の名であるとともに、その周囲の庭や山林も含めた名称となる。
以来歴代の藩主が折々に造園を続け、100年ほどで完成したとされる。
しかし、一番熱心に作庭をしたのはやはり三代頼豊だろう。
頼豊は、讃岐に国入りすると庭園の方ばかりに行っており、ついには庭園内に御殿を
新築して住み着いてしまった。
御殿の近くに役所を作り、役人を置いたりもしていたらしい。

この庭園狂いの頼豊は、遠慮なく水戸家の政治を牛耳ったが、光圀公の作った後楽園を
改修するにあたっても遠慮がなかった。
真っ先に、庭園の中核ともいえる後楽園の滝石組を破壊してしまった。
滝石組(たきいしぐみ)※とは滝を表現した石組である。実際に水が流れているものと
そうでないものとがある。中国の道教の思想や、さらには神仙思想に通ずるもので、
「龍門瀑(りゅうもんばく)」を表したものが一般である。
※ 滝石組と書いて「たきいわぐみ」と読むのが正しいという人もいる。
そもそもこれは「石組」をどう読むかという話である。
歴史的沿革的には「いわぐみ」と読むのかも知れないが、今は「いしぐみ」と読むのが
一般的だろう。辞書には「いしぐみ(いわぐみ とも)」と書いてあることが多い。

龍門瀑とは中国黄河の中流域にある滝で、この滝の下に下流から来た鯉が集まり、
滝登りに挑戦する。三段になっている滝を登り切った鯉だけが龍になるという伝説で
ある。龍門瀑を模した滝石組を備えた日本の庭園は多い。
最も有名なのは、天竜寺曹源池(そうげんち)の滝石組である。
こちらに写真と解説がある。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=tenryuji

石組は滝石組みだけでなく、山を表すものや神仙の住む島を表すもの、海岸を表すもの
などいくつもある。石の組み合わせの妙や、使われている石の色や形などを観賞する
のが庭を見る楽しみの一つである。
ここに石組に関する基礎知識がまとめられている。
https://www.travel.co.jp/guide/howto/55/
0700名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:55:35.23ID:HwBvERXo0
石の観賞といえば、例えば金閣寺の鯉魚石は、昔から日本一の名石と言われている。
見てみたければyoutubeにいくつか動画がある。
小石川後楽園にも滝石組(の跡)は多い。
石組みは存在しないか、残骸としか思えないものである。
http://www.japanwaterfalls.com/korakuennotaki.html

兼六園のひさご池に落ちる「翠滝」(みどりたき)という名の滝がある。
自然の滝に見えるが、人間が一から作ったものである。
翠滝という名は現代のもので、昔は松陰滝と言われた。
松の巨木の陰にあり、太い枝が姿を遮り、轟音だけをとどろかせていた。
もともとは今の三倍の高さがあったという。
位置も今よりずっと奥にあったと思われる。
矮小化されたというものの、この滝は見事である。
後楽園の滝も、当初はこうした姿であったと思われる。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=kenrokuen
(10枚目ぐらいの写真を参照されたい)
0701名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:55:55.51ID:HwBvERXo0
[小石川後楽園の歴史]
小石川後楽園は、そもそもは水戸藩の初代藩主(水戸德川家の初代)である徳川頼房が、
将軍家から藩邸用地として小石川の崖下の地を賜ったのが始まりである。
寛永6年(1629)のことであり、拝領した土地の面積は25万3千500平米である。
よく広さの引き合いに出される後楽園ドームの建築面積が4万6千755平米であるから、
その約5.4倍ということになる。
実は小石川藩邸というのはさらに広い。
水戸藩はその後も近隣の土地を買い取って藩邸を拡げたので、さらに広くなった。
今の水道橋駅北側の北は春日通りまで、西は飯田橋駅近くまでの一帯はほぼ水戸藩邸
だったと考えてよいだろう。
藩邸を拡げたのは藩士の長屋を大量に作る必要があったからである。
参勤交代が始まるのは家光の時代である。
だが水戸藩は江戸定府ということになった。※
江戸定府が決まると水戸藩士の三分の一は江戸詰になった。
膨大な数の長屋を建てる必要が生じたのである。
※三代将軍家光は、寛永12年(1635)に「武家諸法度」を改定し、その第2条に
「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と
規定し、参勤交代を制度化した。
「一 大名小名在江戸交替相定る所也
だいみやうしやうみやうざいゑどけうたいあいさだむるところなり
毎歳夏四月中参勤を致す可し
まいとしなつしぐわつぢうさんきんをいたすべし」

大名が江戸に伺候することを「参勤」、国許に戻ることを「交替」といった。
交替とは、「他の大名の参勤と交代する」という意味である。
(武家諸法度には交替と書いてあるが、講学上は「交代」と表記するようである)。
毎年4月を交代期とし、帰国している大名も、4月には江戸に在れというものである。
具体的には、国許にいる大名は4月中に江戸に移動すればセーフである。
もともと江戸にいる大名は、参勤に上ってくる大名と「交替」して、国許に下る。
現代の会社員の4月の移動と同じようなことで、4月に本社に戻ってくる社員あり、
本社から支社へ転勤となる社員ありというようなことである。
しかし、4月にいっせいにこれをやると混雑するので、譜代の藩は6月と8月に
参勤交代をするようになった。
なお、 関東の譜代の藩は、江戸在府の期間は半年になった。
交代時期は2月と8月である。
2月中に江戸に戻ってきた大名は8月まで江戸にいる。8月に国許に帰って翌年2月には
また江戸に戻って来い、ということである。これと、2月に国許に帰り、8月に江戸に
戻ってきて翌年2月まで江戸にいる組が交替するわけである。
0702名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:56:25.06ID:HwBvERXo0
さて、頼房は幕府から小石川の土地を貰って整地し、藩邸を建てた。
藩邸とともに庭も作った。屋敷の裏の崖地の下に広大な庭園を造ったのである。
そのときの藩邸は28年後の明暦の大火で焼失する。
明暦の大火の数年後に頼房が亡くなる。頼房は大火の直後から1年間水戸に疎開しており、
帰ってきてからも高齢のため藩邸復興の指揮はとれなかったと思われる。
小石川藩邸の再建は光圀が担った。
まずは藩邸の建物の再建である。
しばらくの間、後園(屋敷の裏の庭園)は放置されていただろう。
藩邸再建が成れば、すぐに庭をやっていいというものでもない。
江戸の町が復興するまで後園はそのままだったはずである。
小石川藩邸には、後楽園が出来る前に、初代頼房が築いた立派な庭園が存在していた。
光圀がこの庭園を改修し、後楽園と名付けたのである。
後楽園という名称は、朱舜水が挙げた候補の中から光圀が選んだのだという。
後楽園が世に名高くなると、作庭者は光圀ということになった。
光圀が後楽園と名付けたのだから、「後楽園」を作ったのは誰かということになれば、
やはり光圀ということになるのだろう。
こうした現象は、京都の名庭などにいくらもある。
庭園は古くからあったが、改修者が作庭者とされることが多いのである。
小石川藩邸の庭は、元々は「後園」という一般名詞で呼ばれた庭園であった。
ちなみに岡山の後楽園は「後園」から来た名称とされている。
0703名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:57:10.34ID:HwBvERXo0
頼房が寛永6年に拝領した当時の小石川の有様というのは、凄まじいものであった。
「後楽紀事」によると、「そのときこの地数百年の喬木生しげりて、当時人力の及ぶ
べからざる形勢なり。」とある。
数百年を経た大木が生い茂り、到底人力で拓ける土地とは思えなかったらしい。
小石川の地は、洪積台地の端が沖積平野に落ち込むヘリ(緑)になっており、拝領した
土地は、沖積平野である平らな土地とその裏の崖地が半々であった。
今の春日通りに沿った地下鉄後楽園駅あたりから坂を登った中大工学部、伝通院の手前
までは藩邸の敷地であるが、高台は鬱蒼とした森で、それが崖下までなだれ込み、
平地も巨木と藪が覆っていた。
大袈裟に言うと、縄文以来の原始の姿そのままであった。
この土地を開き、整地するのに二年ほどはかかったろう。
藩邸を建て終えるまでにさらに三年。
庭を完成させたのはその後の話で、たいへんな時間がかかったはずである。
いずれにしても、後園は作らなければならなかった。
小さな大名ならともかく、御三家となれば恥ずかしくない藩邸と庭園は必須である。
藩邸には前園と中園、それに後園がセットのようになっていた。
武士の館というのは戦を前提としているので、庭に大木は植えない。木に火が付くと
屋敷にまで燃え移るからである。(ただし屋敷内でない後園は別である)。
だが緑が無ければ殺風景なので、まず小灌木で作った前園を置く。
江戸城でも本丸の東に小さな二の丸庭園がある。
本丸の中にも白書院と黒書院との間を隔てる庭園がある。これが中園である。
江戸城の場合は、紅葉山が後園であった。
二条城にも有名な二の丸庭園が残っている。
なお、中国や日本の古い時代には、庭とは「区切られた何もない空間」を意味したので、
植栽や装飾があるものには「園」という言葉が用いられた。
前庭・中庭・後庭といわず、前園・中園・後園というのである。

幕末の水戸藩邸と後楽園の様子
https://jenikirbyhistory.getarchive.net/media/3koishikawa-residence-of-mito
-domain-at-1863-e103e2

光圀が後楽園を作り始める前の後園の姿はどのようなものであったろうか。
背後の蒼古とした森にはほとんど手をつけず、藩邸の裏側から崖の縁までの間に無数の
石を使って作られたものだろう。池泉式庭園であったことは間違いない。
神田上水から水を引いていたのである。
上水の水を引くなど、将軍家縁故の大名でなければ出来ないことであった。
(飯田町の讃岐松平藩邸の庭や六義園の庭も上水から水を引いていた。六義園は柳沢吉保
の下屋敷の庭園だが、はじめから綱吉の遊覧のための庭として作られたものである。
だから上水を引けたのである)。
0704名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:57:58.77ID:HwBvERXo0
日本の庭には様々な様式がある。室町から江戸時代初期には石を中心として組み立て
られた庭が主流だった。ほぼ石と砂だけの石庭というものもある。
石の庭は宋時代の中国に始まったもので、鎌倉の禅宗寺院に伝わり、そこから京都に
伝わった。南北朝から室町時代は、作庭においては東国の方が先進的だったのである。
江戸初期あたりから庭に植栽を多く使うようになった。
庭に季節の草花などを植え、季節の風情を味わうようになったのである。
草花を使った庭は、小堀遠州が大徳寺の塔頭孤篷庵の忘筌で完成させたといわれている。
京都詩仙堂の庭なども、石の代わりにサツキの刈り込みを多く使い、柔らかな印象に
仕立てている。
室町の頃なら大石を並べるところを、丸く刈り込んだサツキの植え込みにする。
ただし、植栽だけではなく、松の大木の根本などには石を置いて深山の風趣を加えると
いった作庭法であった。
ただし、江戸初期までは木も草も園芸種は使わなかった。
山や野原にそのままにあるものを使った。たとえば梅などは植えない。
桃山時代から茶の湯が大流行し、茶室に附属した庭として露地が作られるようになった。
茶庭ともいう。都市の中の狭小な土地に深山幽谷の趣きを作りなした庭である。
大徳寺の塔頭・高桐院の庭などがその典型である。
茶庭でなく大きな庭になると、室町時代の石の庭と江戸時代になってからの木や草花の
庭とが融合したものになる。
奇岩怪石を用いて大きな石組みも作るが、石と植え込みを組み合わせて深山の景も作る。
南禅寺の虎の子渡しの庭とか金地院方丈庭園などが参考になる。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=konchiin
光圀以前の小石川藩邸後園は、だいたいは小堀遠州と同様の様式だろう。
作庭が藩邸用地を与えられた寛永6年から始まったと考えると、ほぼ金地院庭園などと
同時代だからである。(金地院方丈庭園は金地院の建造時に作られた庭で、金地院は
1627年に建立された)。

なお、禅宗寺院の庭には白砂を撒いた空間が広く取ってあるが、これは儀式を行ったり
夜間座禅をしたり、あるいは方丈の中に月の明かりを反射させるためのものである。
禅僧が夜間庭に出て座禅を組む姿を想像して頂きたい。夜に何も見えない地面や岩の上
で座禅を組めるだろうか。毒虫や毒蛇がいるかも知れない。庭に白砂を敷き詰める
ことは禅寺には必要なことだったのである。
白砂は普通の庭には用いない。金地院庭園から光圀の作った庭を想像するには、白砂の
部分を無視して、石と植栽の部分だけを見て頂きたい。
なお、現在の庭園の池はほとんどが緑色に濁っているが、これは江戸の枯淡趣味である。
江戸時代初めの頃まで、池の水は澄んでいるものだった。
例えば慈照寺観音殿(銀閣)の前の池は、昔は底に白砂を敷き詰め、その上を透明な水が
流れていた。慈照寺の名物である砂を盛り上げた向月台・銀沙灘(ぎんしゃだん)は、
池の底の砂をさらえて干したのがはじまりといわれている。
後楽園の池の水も神田上水から引いたものだとはすでに述べた。
飲むこともできる透明な水であった。
0705名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:58:41.07ID:HwBvERXo0
頼房に作庭を命じられたのは徳大寺左兵衛という者である。
どういう人物かは分からない。
おそらく、山水河原者(せんずいかわらもの)の頭領だろう。
禁裏や公家、高位の武家や寺社などの庭の作成にたずさわったのは、鎌倉から足利義満の
頃までは石立僧という庭造り専門の僧たちであった。
その僧たちがおそらく土工や掃除人夫として使っていた河原者たちの中から、庭の造営や
手入れの専門家が育ってきた。それらを山水河原者と呼んだ。
河原者であるから身分的には卑賤視されていたが、技能と才能のゆえに有名になったり、
支配層ともつながりを持つ者も出てきた。
例えば慈照寺庭園(銀閣)を造った将軍足利義政は、つねに身辺に数人の山水河原者を
随えていた。○○阿弥といった特有の名を持つ者たちで、服装も髪型も奇抜であり、
義正はこの異様な風体をした者たちと社寺や他人の庭を見て歩いた。
そして良い石や木を見つけると、後で数十人の河原者が押しかけてこれを奪い去ったという。
銀閣の庭は、他人の庭から無理矢理奪い取った石や木で作られたのである。
応仁の乱のせいで足利幕府には年貢や税が入らず、貧乏であった。
さらに義政は妻の富子や舅に押さえつけられて金が無かった。
義政が死ぬと、木を返せ石を返せという人たちが門前に押し寄せて騒ぎになったという。
ついでながら、江戸時代の「お庭番」というのは、室町時代の山水河原者(庭の者)と
関係があるようだ。庭の掃除や手入れをしている庭の者は、やがて庭の見張りや殿様の身辺
警護の役をするようになる。そのうちに伝令や諜報の用まで務めるようになった。
例として、近江にいた細川高国が京都の公家の三条西実隆に宛てた書面を届けさせたのは、
岩福(いわふく)・犬(いぬ)という名の2人の庭者であった(実隆公記)。
足利義政などはいつ暗殺されてもおかしくない将軍であった。
(義政は早々に隠居したが、その後長く権力を手放さなかった。現職の将軍にとっては
邪魔者以外の何者でもなかった。銀閣が完成したときに政務から手を引くことを表明したが、
その後も何かと口を出した)。
だが最後は中風で寝付いて亡くなった。大酒飲みだったので当たり前である。
畳の上で死ねたのは、周囲に居た河原者たちのお陰かも知れない。

なお、頼房に作庭を命じられた徳大寺左兵衛という者についてであるが、徳大寺という
のは寺ではなく、公家の家名である。
徳大寺氏は藤原氏の精華家であるが、平安時代の末頃、左大臣藤原実能は花園に別業を
営み、その中に持仏堂を建て徳大寺と号していた。
これより世間では実能を徳大寺左大臣と呼ぶようになった。
この名称は子公能より孫実定に伝えられ、実定は後徳大寺左大臣と称した。
だから徳大寺とは、藤原氏によくある地名や屋敷名から発生した家名である。
藤原氏の「藤原」は氏名(うじな)である。藤原氏の場合やたらと数が多いので、氏名だけ
では誰のことやら分からない。そこで家名というものが使われるようになったのである。
一条、三条、九条、近衛、北白川、冷泉、鷹司などである。
徳大寺もこれらと同じである。
0706名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 06:59:16.30ID:HwBvERXo0
徳大寺左兵衛については、その名字から堂上人であるという説もあるが、これは渾名の
ようなものだろう。徳大寺の庭者(にわもの)だったのではないか。
石庭で有名な竜安寺も、徳大寺家の別荘に建てられた寺である。
徳大寺家は先祖からの庭を幾つも所有していたため、腕利きの庭者を何人も召し抱えていた
のではないか。
徳大寺佐兵衛なる者の身分はともかく、京で有名な作庭家であり、おそらく家光の声掛がかり
で呼び寄せられたと思われる。勿論その配下の庭者も大勢連れて来ただろう。
小石川藩邸の庭造りについては家光がやたらと口を出したらしい。
家光は尻軽の傾向があり、どこにでも馬を飛ばして出かけて行った。
その時に、「我に随い来る足早の者はおるか」などと言って馬を飛ばしたりした。
徒で従う者たちは全力で走り、息も絶え絶えになったという。
とにかく軽はずみな人物だったようである。※
さらに頼房は朋友のようなものであるから、気軽に出かけては指図をした。
頼房はそれをウンウンとよく聞いた。どうでもよいと思っていたのかも知れない。
上記後楽紀事にも、
「大猷公(将軍家光のこと)いろいろ御物数寄ありて出来たる御園なれば、
威公(頼房のこと)上にも甚御心志を尽させたまひて、潤色せさせたまひ、徳大寺に
命ぜられて経営せさせたまふ。
徳大寺が尽す所、つとめて自然の事をよしとし、古木をきらず、凸凹の地形にまかせて
山水を経営す。伊豆の御石山その外の山々より奇異なる大石を御とりよせ遊ばされ、
是を以て荘厳なしたまふ。
これもとより大猷公の御心なるべし。地形に依て先大泉水を開き、いろいろ大猷公の
御指図有けるなり」と記述されている。
古木を切らず、凸凹の地形であればむしろその地形を生かし、庭園に取り込んだ。
伊豆から大きな石(岩)を取り寄せて荘厳な風景を作り出したという。
※家光は、側室のお楽の方が長男・家綱を生むと驚喜して、産褥のお楽の方が仰臥して
いる部屋に飛び込み、大声で「でかした」と叫んだ。
お楽の方は寝ているところに突然将軍が現れたので驚き、布団から跳ね起きて平服した。
これによって産後の血が逆流し、その後生涯寝たり起きたりの生活になった。
わずかに20歳で廃人となったのである。
半病人なので家光の御渡りも無く、孤独な生活を送り、32歳で亡くなった。
0707名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:00:26.82ID:HwBvERXo0
ともかく、小石川藩邸の庭には、大徳寺左兵衛が采配し家光が口を出した立派な庭が
あったわけである。これを光圀が改修した。後楽園は光圀作ということになっている。
この光圀が作庭した後楽園の姿というのは、具体的にはほとんど分からない。
現在あるもので一番古い図面は、彰考館蔵の「水戸様江戸御屋敷御庭の図 」である。
この図面の作成時期は不明だが、元禄16年の地震で崩れた瀑布が書かれているので、
それ以前に作成されたことは確かである。
この図面によっても、池の形とか築山の位置、どういった建物が建っていたのかと
いったことは分かるが、石組みの有様や植え込みの様子は全くと言っていいほど
分からない。

だが、保守的で正当なものを好むという光圀の性格からして、勝手に庭園を造り変えた
とは思えない。頼房が亡くなった後に、朱子学にガチガチに凝り固まった光圀が、父の
作った庭園をぶち壊すなどあり得るだろうか。
おそらく光圀は、庭の石組みや植栽はほとんど変えていないと思われる。
ただ、自分の趣味と朱舜水のアドバイスにより、一部中国庭園の趣きを加えた。
円月橋や西湖堤などである。
その他は、庭園周辺に建物を建てただけである。
建物の数は多く、当初は30棟ほどもあった。
庭園の池の周囲や平面部分はほぼそのままにし、その周囲の崖に連なる斜面の部分を削り
平らにして、そこに新しく建物を建てた。
元からの木はなるべく切らず、林の中に中国風の建物が並んだ。
一番大きな建物は彰考館であり、編纂所の他に大きな文庫(資料を収める文庫蔵)を
建てた。これらはさすがに中国風ではなく、編纂所は書院造り、文庫は蔵造りであったと
思われる。江戸城内に「紅葉山文庫」というのがあり、蔵造りで、資料が増えるたびに
一棟づつ建て増ししていった。多少の火事では燃えないような構造だったと思われる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Edo_l117.jpg

小石川藩邸内に彰考館を建てたのは藩主時代の寛文12年(1672)である。
その時に、従来「史館」としか呼ばれていなかった名称を彰考館に改めたのである。
「彰考」とは中国の学者杜預(どよ)の左伝の序「彰往考来」の語句に由来する。
過去をあきらかにして未来を考えるという意味である。
光圀は、それまで「後園」という一般名詞でしか呼ばれていなかった庭に「後楽園」と
いう名前を付けた。それゆえに後楽園を作った人物として記憶されることになった。
しかし、実際はわずかに変更を加えたのみである。
後楽園と名を変えても、庭はほぼ父の頼房が徳大寺左兵衛に作らせたままの姿だった。
太古の森を背景に広大な池を現出させ、巨岩怪石を配した重厚な庭である。
巨木の木陰から滝の音が響き、庭を巡る人は深山にいるかのような錯覚に陥っただろう。
0708名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:01:08.58ID:HwBvERXo0
江戸初期までの石を使った庭は、中国の道教や神仙思想、あるいはこれに仏教の教えを
交え、宗教的・哲学的な理念を潜ませた庭である。
しかし、江戸時代も進んでどこでも庭を作るようになると、庭造りは様式化し、一切の
思想性を失う。それまでの庭は、僧と、僧が使役する特別な職人たちが作っていた。
僧は室町時代には石立僧と呼ばれていた。それを手伝う労務者は山水河原者と呼ばれ、
石立僧の補助者から庭造りの主役になっていく。
江戸時代に入ると、庭は徐々に普通の植木職人たちが作るようになる。
職人たち向けの庭造りのノウハウ本が出版され、誰でも庭造りが出来るようになった。
池をひょうたんの形にして「ひょうたん池」だと言ったり、ナマズの形にして「ナマズ池」
だと言ったりするようになるのは江戸時代も後半になってからである。
石を観賞するについても、石そのものの美でなく、蝦蟇に似ているとか亀に似ているとか、
烏帽子に似ているとかを喜ぶ。実際に蟾石(ひきいし)という名を付けられて庭の名物と
なっていたりする。まことに低俗な庭が作られるようになった。
古い名作と呼ばれる庭園にはこのような趣味は取り入れられていないのが普通である。

江戸時代、大名屋敷の中に庭園が作られたが、様式はほとんど共通していた。
池泉回遊式庭園である。庭の中心に広い池を作り、その周辺にいくつか築山を設ける。
池の周囲や築山を巡る苑路を設けて、歩くに連れて次々に展開する景色を楽しむという
趣向である。
苑路に沿って用意されているのは、古来和歌などに詠まれてきた名勝の縮景である。
例を挙げれば丹後の宮津・琵琶湖の唐崎の松・吉野山・三保の松原・松島など。
名勝というのではないが、東海道の小夜の中山・中山道の木曾の山道、尾花に覆われた
武蔵野の道など、古くから風情があるとされる土地の風景を再現したものもあった。
築山の山道を登るとそこは両側に檜や杉の生えた木曽路であり、道を下ると雑木林の
中にまばらにススキの生えた一帯がある。
そこの東屋から武蔵野の月を眺めるといった趣向である。
参考に六義園を紹介したブログを見てみよう。
https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_1416/
六義園は、六義園八十八境といって、池の周囲の苑路に紀州和歌浦を中心にした88の
景色が組み込まれていた。現在はそのうち32の景色が残っているという。
たしかに見事な庭園だが、大名の庭はどこも同じようなものであった。
それは当然だろう。明治になったときに、東京市の面積の半分は庭園だったという。
大名も旗本も、さらに金のある商人も寺社も庭を作った。茶屋やそば屋も空き地が
あればちょっとした庭を作った。
さらに江戸の周囲には庭木を育てる植木畑が広がっていた。
駒込などは庭師の村であり、庭師はみな広大な植木畑を営んでいた。
農民たちが庭木を栽培するようになり、そのうちに庭師として剪定や庭造りをする
ようになったのである。こんな村は千駄ヶ谷や渋谷、目黒、中野などあちこちにあった。
東京市の半分は大袈裟でも、三分の一ぐらいは庭園だったかも知れない。
大量に庭造りをし管理しているうちに、庭師の技術は普遍化し、みな同じような庭に
なってしまった。失敗もないが突出したものもない。
様式として完成したともいえるし、通俗化して形だけのものになったとも言える。
0709名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:05:09.10ID:HwBvERXo0
大名庭園には、庭園部分の他に「お薬園」と「水田」、果樹園と茶園が作られる
のが普通であった。
お薬園とは、センブリやゲンノショウコなど、漢方薬の素材となる植物を栽培する
農園である。地方の大名庭園では朝鮮人参を作るところもあった。
本来、朝鮮人参を栽培するのがお薬園の目的である。
しかし、それは会津や島根など地方だから出来るので、江戸では難しかった。
吉宗の時代に小石川薬園で人参の栽培が試みられたが、成功しなかったという。
仕方なく、人参以外の多種多様の薬草が栽培されることになった。
寛政3年(1791)には114種の薬用植物が栽培されていたという。
幕府の広大な薬園だからこそであり、ふつうの大名庭園では栽培の容易な薬草しか
植えられていなかったのではないか。
水田は元禄ぐらいから大流行し、どこの大名屋敷でも作るようになった。
(修学院離宮などの17世紀半ばに作られた庭園にも田圃はあるが、後から作られた
ものだろう。桂離宮でも明治以降に改造された部分が多々ある)。
農民の苦労を知るためとか理由はつけられていたが、風流のためである。
米が実ると案山子を立て、刈り入れの後はハザを立てて収穫した稲を干したりもした。
水田は旗本の屋敷でも作られていた。
旗本の庭園では、水田があるかどうかで庭の格が決まったという。
その他、庭園には果樹も植えられた。柿・栗・桃・橙や金柑など。
実がなると、御台所様とか上臈衆が訪れてそれを収穫する。
今のリンゴ狩りやイチゴ狩りと変わらない、年に数回の行楽であった。
果樹とは別に、茶の木を植え、茶の栽培もなされた。
その他、お花畑が作られ、日常の生け花などに使う花を育てた。
六義園などにも、昔はお薬園や水田や果樹園、茶畑などがあったのである。
0710名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:06:27.09ID:HwBvERXo0
上記から分かるように、大名庭園というのは大名やその家族の遊覧のための施設で
あった。大名やその家族は(お付きの者たちも含めて)、窮屈な生活をしているので、
時に自然の風景の中で陽光や風にあたり気晴らしをする必要がある。
庭園は、基本的に「お殿様の御休息のための場所」なのであった。
郊外の下屋敷に自然を模した広大な庭園を営み、外を出歩くのと同じ解放感を得ようと
したのである。だから苑路の周囲には日本中の名所に擬した風景(の縮景)を配し、
何度回っても退屈しないよう、四季折々の景色を楽しめるようになっていた。
たとえば冬に雪が降れば、雪景色を楽しめる一画があった。
ただ、たくさんの風景を詰め込んだ結果、大名庭園の景観はチマチマとした込み入った
ものになった。
江戸初期までの庭が、多少なりとも禅宗の庭の影響を受けて簡素で高尚な境地を目指し
たのに対し、大名庭園は石と植え込み以外に様々な植栽を施し、その他竹垣や東屋、
さらには水車などの工作物を配してゴチャゴチャしたものになった。
庭木の剪定も、究極まで変形させた盆栽のような形のものばかりになった。
江戸初期までの庭は、樹木を変形させるということはなかった。
庭木も園芸種は植えなかった。
大名庭園はこれとは逆に、庭木も草花も園芸植物のオンパレードであった。
例えばツツジである。ツツジは元禄の頃に大流行し、その後江戸期を通じて人気は衰え
なかった。参勤交代などを通じて日本中に広まり、地方で新種が開発されてまた江戸に
戻ってきたりもしたのである。
百人町の鉄砲同心たちが霧島ツツジを改良して内職として栽培し、大久保名物になって
いたのは有名である。江戸の庶民たちは狂気したようにツツジの盆栽や地植えをした。
ツツジは花が一度に咲き、派手である。
ツツジを大量に植えることにより、日本庭園は一変した。
築山をツツジで覆い、春の開花時期には一面赤や白やピンクの築山が現出した。
他に園芸種の花樹としては桜や梅、カエデ、椿などがある。
桜は花弁が盛り上がり、色が派手な八重桜が普及した。
八重桜は自然のままの桜と対置され、里桜と呼ばれた。
江戸人にとって桜は山桜と里桜の二種しかなく、ソメイヨシノなども山桜であった。
梅は自然にはあり得ない紅梅、あるいは黄梅なども植えられた。
黄梅は元禄の頃、中国からもたらされたものである。
猩々カエデは春の新芽のときから葉が真っ赤になり、途中ふつうの緑になるが、秋の
紅葉は自然では考えられないほど濃い赤色になる。
椿は古来から親しまれてきた花樹であるが、江戸時代になるまではヤブツバキなどの
野生種ばかりだった。昔から公家が椿を好み、秀吉も椿が好きであった。
伏見城は椿だらけで、椿の城と言われたという。
もともと伏見は椿の名所で、桃山丘陵に野生種がたくさん生えていた。
温暖な伏見には公家の別業(別荘)が多く、その庭に椿が植えられたのである。
http://shigeru.kommy.com/sikioriorihusiminotubaki.htm
秀吉はさらに、茶花(茶室に生ける花)として椿を好んだ。
長く伏見にいたためか、二代将軍秀忠の椿好きは有名である。
大名に椿を献上させ、江戸城内のあちこちに椿を植え、花畑には大量に植えたという。
そのため幕臣の他、大名にも広がり、画題としても取り上げられることが多くなった。
加賀前田家や熊本細川家では、代々の殿様が椿を好んで、国許の加賀や熊本では椿の
園芸種も盛んに開発された。
石川県では今でも椿の園芸農家が多い。加賀椿はとにかく上品である。
一方、肥後つばきは椿の中の椿といわれ、熱狂的な愛好家も多い。
熊本城にも大量に植えられている。城内の竹の丸跡の隣に椿園がある。
細川家の藩邸のあった文京区目白台の肥後細川庭園は、肥後椿の名所である。
江戸時代に開発された椿の園芸種は200種を超えるという。
なお、武家は椿を嫌ったという話は嘘である。明治以降に作られた与太話だろう。
0711名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:07:54.39ID:HwBvERXo0
ついでに。現在は有名庭園にアジサイが植えられていることがあるが、江戸時代には
あまり用いられなかったようだ。
アジサイは死者にたむける花で墓場に植えられるものであった。
だから今日でもアジサイの名所は寺が多い。
アジサイは奈良時代から歌に詠まれ、江戸時代にはよく画題にもされている。
だから人々はアジサイを美しいと感じ、嫌ったりはしていなかったのだろう。
しかし、庭に植えようとまでは思わなかったようである。
アジサイが園芸種として人気を博するようになったのは戦後もだいぶ経ってからである。
ヨーロッパから色彩豊かなアジサイがもたらされ、陰気な印象がなくなったせいだろう。
(しかし、そのアジサイはもともとシーボルトが日本から持ち出したものだという。
そのアジサイが欧州で人気を博し、品種改良が盛んに行われ、日本に逆輸入されるように
なったのだという)。

園芸種を大量に植えることにより、日本庭園は派手な色彩で目を楽しませる空間になった。
目を楽しませるというより、目を驚かせる空間というべきか。
このサイトは、岡山後楽園の写真を配布するフォトギャラリーである。
https://okayama-korakuen.jp/midokoro/496.html
是非JPEGファイルを開いて写真を鑑賞していただきたい。

岡山後楽園は城をバックにしているので日本庭園らしくも見えるが、西洋公園のような
印象も受ける。広大な芝生や広くて歩きやすい苑路など、誰でも日頃自分たちが親しんで
いる普通の公園との共通点を見いだすだろう。
一番大きいのが護岸である。一部コンクリートで固めた部分が見られる。
表面は石を並べて装飾してあるが、コンクリートの壁であることは明瞭である。
水戸の偕楽園や高松の栗林公園でもそうだが、明治以降県立の公園となって、西洋庭園の
技法を学んだ県の土木技師たちの手が入っている。これはやむを得ないことだ。
大事なのは、元々の庭園は、別荘の建物や茶亭や東屋からの眺望を楽しむ観遊式庭園で
あって、庭に苑路を張り巡らせ、隅々まで歩いて見て回るような形式の庭ではなかった
ことを知ることだ。
今日の公園は、基本的に歩き回るためのものである。実際にランニングをしている人も
いるし、運動のコーナーが設けられていたりする。
しかし、日本庭園は眺望を楽しむためのものである。一定の場所・角度からの眺望を
楽しむのである。動き回らないから見えない部分もある。しかし、見えない部分は見え
ないままに楽しむのである。ある景観を後ろや横から眺めさせたりはしない。
竜安寺石庭を想起して頂きたい。あの庭は一面からしか見ることはできない。方丈の
廊下からである。しかも、立って見るのではなく座って見る。
視線の高さも決まっているのである。
さらに、廊下ならどこでもよいというわけではなく、古くからここから見るのがよいと
いうポイントがあるようだ。
(もちろん何カ所からも見てみるのがよい。最良のポイントは自分が決めることだ)。
本来、日本庭園の景色というのは決まった位置から静止して眺めるものである。
このことを知っていれば、現代の西洋公園風になった庭でもある程度は観賞が可能である。
例えば天龍寺の曹源池庭園である。もともとは方丈の座敷から眺める庭であった。
今は龍門瀑の背後の築山に登れるようになっている。築山に苑路が作られているのだ。
だから拝観者はみな築山に上り、高いところからの景観を楽しんでいる。
しかし、作庭者はそんなことは予定していないのである。
天竜寺庭園は回遊式の庭園ではない。歩き回るための庭ではないのだ。
苑路があるのは、明治以降観光のためにそうしただけなのである。
曹源池を見るポイントは大方丈の中や大書院からであるが、実は今の建物は大き過ぎる。
あまりにも大きくて、工事のときに池の手前の石をいくつかどかして、池を縮小した
ほどなのである。
だから大方丈の室内や大書院、廊下から見るのは近すぎるのであるが、仕方がない。
もともとは今よりずっと奥まったところに小さな方丈があり、その西側にまばらな林が
あった。その樹間から曹源池が見えたのである。
秋には赤く色づいた林の向こうに、錦繍の嵐山を借景として龍門瀑や紅葉した築山を
見ることができた。そういうことを想像しながら眺めるほかはない。
0712名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:08:41.88ID:HwBvERXo0
[岡山後楽園について]
岡山後楽園は、岡山藩二代藩主の池田綱政が家臣の津田永忠に命じて作らせた庭園である。
起工は貞享4年(1687)、元禄に改元される一年前である。
津田永忠というのは土木や開拓・河川工事に秀で、郡代として数々の難工事に携わった
岡山藩士である。徳川家康における伊奈忠次のような存在だったのだろう。
綱政の頃の後楽園は、「沢の池」という自然に近い沼沢を中心に、別荘である延養亭と
能舞台の他、眺望のよいところに幾つかの亭舎(茶室や農家のような建物)が置かれて
あるだけであった。
池の周囲はほとんどが林と丘陵であり、自然のままの山林に多少手をいれて、桜が
たくさん植わった桜山とか、モミジの多い紅葉山、あるいは黒松が重なる松山などを
作り出した。周囲はほぼ湿地と水田であったが、水田はその面積からして庭園の一部
などではなく、庭園の囲繞地であった。庭園と外部を区切るための柵代わりでもある。
亭舎は、園内にある景色を眺めるための建物である。
例えば高台の斜面を茶畑にして、その上に農家風の建物を建てる。
そこの囲炉裏で湯を沸かし、縁側で景色を眺めつつ茶を喫するのである。
これらの建物を結ぶ通路はあったが、決して歩きやすい道ではない。
地盤を平らに削るようなことはせず、ふつうの山村の小道やたんぼ道と変わらない。
そんな道を通って茶亭に辿り着くと、竹垣がめぐらされ、枝折戸が閉じてある。
戸を開けて入るとそこは茶室の裏庭で、苔庭の丸い敷石を踏んで表に回る。
そんな趣向の庭であった。

綱政の時の後楽園が完成した時期は不明だが、能舞台などの凝った建物も作られたので
5年はかかっただろう。おそらく元禄の4年とか5年頃の完成と思われる。
(そもそも庭園の完成がいつかを論じるのは無理がある。木を植えても、それで完成と
言えるのか、枝葉を茂らせた成木となってはじめて完成と言えるのではないか、などと
理屈をいえばきりがない。「完成」とは「一応の完成」ということにする他はない)。
光圀の小石川後楽園の完成の時期も不明確である。
とりあえずの目安として、池の畔に彰考館が建てられたのは寛文12年(1672)である。
振り袖火事の10年後から工事を始め、5年かかったと想定したのと同じである。
小石川後楽園と岡山後楽園は、その完成時期におそらく20年の差はあるが、池の周囲に
建物を巡らすという共通点がある。
0713名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:09:02.29ID:HwBvERXo0
綱政の子継政(つぐまさ)は12年の歳月をかけて園内中央に唯心山を築いた。
唯心山は園内のどこからも見え、また唯心山から園内の全てを眺めることが出来る。
唯心山には四方からの登山道が作られ、各登山道に沿って建物がある。
北側の慈眼堂、南側の御茶屋簾池軒、西側の御茶屋延養亭、東側の流店である。
それぞれ眺望が良い場所にあり、そこで休憩しながら風景を観賞するのである。
継政は、唯心山のふもとに水路を巡らせ、廉池軒の池と沢の池の間にひょうたん池を
掘り、ひょうたん池から沢の池まで水を流すようにした。
これによって一つ繋がりの大きな池が出来、その周囲を巡る苑路が作られ、池泉回遊式
の庭園となったのである。築山(つきやま)である唯心山もきずいたので、分類上は
築山池泉回遊式庭園ということになる。
唯心山から園内のどこでも眺められ、あそこに行ってみたいと思えばどこへでも苑路が
つながっている。そうした歩き回る要素が取り込まれた。
こうなると時代を経るにつれ、苑路は広く平らかになるばかりである。
苑路の脇に大きな岩などがあると通行の邪魔になり、風景も見辛くなるということで
どんどん撤去されていった。苑路はできるだけ平坦な方がいいので、築山が削られたり
もした。見晴らしを悪くする大木も切り倒された。
浅い池の中に御船石(おふないし)が置かれ、海の景色を表していたのが取り払われる。
後は菖蒲田とされ、初夏には一面紫の花に覆われる。
苑路に沿って園芸種の花樹が植えられ、鮮やかな色彩(いろどり)を添える。
こうして現代の公園につながるような、回遊性に富んだ、平明な庭園が形作られて
いったのである。
0714名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:10:31.32ID:HwBvERXo0
[栗林公園]
栗林公園(藩政時代は栗林荘)は川床に作られた庭園である。
徳川頼房の次男頼重が高松松平家の藩祖として入国するまでは、生駒氏が治めていた。
天正15年(1587)、生駒親正が秀吉から讃岐17万3千石を拝領したのである。
生駒家は信長の生母の土田御前の実家土田家と縁戚であり、信長に仕えていたが、その後
秀吉に重用され大名にしてもらった。典型的な豊臣大名であった。
生駒氏入国以前から、高松の人々は、香東川(こうとうがわ)の氾濫に悩まされていた。
当時の香東川は今の香川町大野あたりで河川が二つに分かれ、東側の流れは石清尾山系の
山裾に沿って流れていた。
今の栗林公園から番町筋を流れ西浜に注いでいたのである。
一方、西側の流れは現在の川筋を通っていた。現在の流れそのままである。
東側の流れは、山裾を通っているということもあって川床が浅く、雨が降ると川水が溢れて
洪水を起こした。しかも、川床が浅いために、台風の時など満潮時には海水が逆流した。
高松城下は年中高潮の被害を受けた。
そこで、東側の流れについては締め切り工事を行い、香東川の川床を西側の流れに一本化
してしまおうという構想が生まれた。
工事を指揮したのは西嶋八兵衛という近江人である。
藤堂高虎の家臣であり、土木工事の専門家として世に知られていた。
二条城の設計工事を担当したのも八兵衛である。※
高虎は築城の名人として知られているが、その下には八兵衛のような家臣がいたのである。
藤堂高虎は娘がを生駒家に嫁がせており、その娘が生んだ子が幼くして生駒家の当主になった。
高虎は外戚として幼い当主(生駒高俊)を後見する立場になった。
そこで、自分の懐刀のような家臣の西嶋八兵衛を生駒家に派遣したのである。
八兵衛は生駒藩主後見の役目を見事に果たし、その人柄と能力に惚れ込んだ生駒家重臣たちは
八兵衛を生駒家に貰い受けたいと高虎に願い出た。
高虎は八兵衛を藤堂家家臣の身分のまま生駒家に仕えさせた。
こういう形の仕官を客臣という。今でいう出向である。
寛永2年(1625)のことである。
0715名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:11:19.33ID:HwBvERXo0
※築城といっても二段階ある。まずは城郭全体の構造を決め(これを縄張り、という)、
土塁や石垣を築く基礎工事。この土木工事を「普請」と言った。
次に整地された敷地や石垣の上に天守や御殿、櫓などを作る工事がある。
これを「作事」という。
普請と作事の違いは、現在の土木と建築の違いである。
築城名人といわれる藤堂高虎、加藤清正などは「普請」の名人であった。
たとえば名古屋城天守閣の石垣は加藤清正が築いたものである。
これに対し、作事の面で築城名人といわれた小堀遠州がいる。
名古屋城天守閣や江戸城天守閣の建物部分は遠州の設計・監督による。
二条城は普請が藤堂高虎、作事が小堀遠州である。
遠州は二条城に総塗籠の五重の天守閣を築いた。
秀吉の聚楽第を凌ぐことを目指した壮麗な城であった。
しかし天守閣は落雷で焼失し、本丸も火事で焼けてしまった。
今は二の丸御殿が残るのみである。
(現在本丸御殿とされているのは桂宮家の御殿だった建物である。明治27年に本丸の
跡地に移築されたものである。当時は二条城が天皇家の離宮とされ、天皇が京都に還御
されたときの宿所とされていた)。

生駒家の客臣となった八兵衛は生駒家の普請奉行や郡奉行として活躍した。
溜め池を掘り、古い溜め池を修築した。満濃池は周囲まで泥に埋まってほとんど機能
していなかったが、泥土を掘り上げ、その土で堤防を嵩上げして復活させた。
讃岐は「旱天五日に及べば水湿の潤いなく霖雨二日に及べば洪水の恐れあり」と言わ
れる土地である。五日雨が降らねば大地はひび割れ、雨が二日続けば洪水になるという
のである。溜め池だけでなく、洪水対策も必要である。
洪水といえば、香東川の東側の流ればかりはどうにもならなかった。
八兵衛は香東川の工事はどうしても避けて通れないと判断するに至った。
工事は寛永の8年(1631)頃に始まり、寛永14年(1637)頃に完成したという。

川床の一本化により、従来氾濫を起こして農民を悩ませていた東側の流れは消滅し、
後には10キロほどの川床が残った。数年後にはこの川床が美田に変わる。
しかし寛永17年(1640)、生駒家には御家騒動が起き、出羽で一万石に改易となる。
改易は、御家騒動云々より、生駒家が豊臣大名であることが一番の原因だろう。
(八兵衛は改易の一年前に藤堂家に戻った)。
その後に入ったのが頼重で、以後明治まで高松松平家がこの地を治めることになる。
0716名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:13:03.82ID:HwBvERXo0
栗林荘(以下、県立公園になる前の庭園を栗林荘と呼ぶことにする)は、最初はこの地の
豪族であった佐藤氏が作庭した庭園であった。※
佐藤志摩介(道益)なる豪族は、はじめ香西佳清に仕え、続いて仙石久秀に仕えた。
続いて生駒氏が領主になると生駒氏に仕えた。
この佐藤志摩介が隠居して道益と号し、隠居場の裏に庭園を作ったのである。
この庭が栗林荘に発展していくことになる。
※高松松平家ではこの庭園のある地を「御林」、庭園を「御庭」と呼んでいた。
しかし栗林公園になる以前のこの庭園は、すべて栗林荘と呼ぶことにしたい。

道益が亡くなった後、庭はおそらく放置されていたのだろう。
その後、香東川の東側の流れの付け替え工事がなされ、同益の庭は大きく様子を変じた。
川の流れに沿った傾斜地に作った庭園の下に、広い川床が現れたのである。
当時の川であるから、川床には大きな石がゴロゴロしていた。
この川床の土地に、生駒氏が広い庭を作ることになる。
想像するに、栗林園のある土地はもともと川床で水が溜まりやすく、背後は紫雲山などの
山なので水も出やすい。大雨が降ったときに大量に水が溜まり、今とほとんど変わらない
ような見事な景観が現出したのではないか。
これだけ見事な景色なら、水を溜めたままにした方がよいと誰もが思ったのである。
そこで池が作られた。
生駒氏の作庭(改修)工事は、寛永8年(1631)からだという。
香東川の河川付け替え工事が始まった年と同じだが、こんなはずはない。
栗林荘は、香東川の東の流れを堰止めて現れた河床に作られた庭園であるから、河川工事と
造園の工事が一緒くたにされたと思われる。
栗林荘になった場所が、この当時どのように利用されていたかを示す資料は存在しない。
だから想像するしかないのであるが、常識的に河川工事が終わってから造園がなされたと
考えるべきだろう。作庭開始について1637年とする説があるが、それによるべきである。
では造園の工事は誰が指揮したかというと、やはり西嶋八兵衛以外に考えられない。
八兵衛の主人である藤堂高虎は築城の名人とされ、生涯20を越える城を作ったとされる。
大洲城、宇和島城、今治城、尼崎城、江戸城、伊賀上野城などである。
江戸城では「縄張り」を任された。縄張りとは城郭の基本設計のことである。
御殿や櫓などの各種建物、通路、堀などの位置や大きさを決め、実際に縄を張る。
家康は大名たちを一同に集めることのできる広大な座敷を備えた大きな本丸を望んだ。
本丸には大天守閣を築こうとしたという。
しかし高虎は、まだ豊臣家があり戦が起きぬとも限らないのだから、戦争に使える城を
築くべきだと主張し、普通の大きさの本丸と天守閣になったという。
高虎は日光東照宮の造営も行ったという(家光が建て替える前の建築である)。
これらのすべてに西嶋八兵衛がかかわっているのである。
城には前園・中園・後園の三つの庭園が必要なことは上述した。
築城のときに庭の基本的な部分は作ってしまうのである。
庭園の植栽はただの上物(うわもの)である。庭園造りの九割は土木工事である。
大石を運びこんであちこちに石を積む。池には分厚く粘土を敷く。
そこに水を導入したり排水したりするのだから大土木工事になる。
後園の周囲には深田を掘る。泥沼のような水田にすれば戦のときに堀の代わりにもなる
のである。築城時に工事して当たり前である。
さらに八兵衛は二条城の設計築城もしており、二条城二の丸庭園は名庭として知られる。※
これらを考えると、生駒氏時代の栗林荘は八兵衛が作庭したと考えるのが妥当だろう。
植え込みや石組みなどの細かなところはともかく、基本的な構造は八兵衛の設計である。
ただし、作庭を始めて数年後には御家騒動となり、八兵衛は讃岐を離れる。
庭園は未完成だったはずである。
しかし、高松松平氏の記録は、今の栗林園の地に生駒氏の庭園があったとしている。
頼重が高松に入ったのが寛永19年(1642)5月28日で、7月には庭園を視察している。
大まかな部分は出来上がっていたのだろう。
0717名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/03(土) 07:13:48.03ID:HwBvERXo0
※ 二条城は家康が関ヶ原合戦のすぐ後、慶長7年から8年(1602~03年)に築城した城で、
その目的はまずは将軍任官拝賀のためであった。だから急いで二年間で作られたのである。
しかしその時は一応の完成であり、最終的に寛永3年(1626)に完成した。
二の丸庭園は家康が築城したときからあったという。
寛永3年(1626年)に後水尾天皇を迎える際に小堀遠州を作事奉行とし、城を完成させた。
行幸の2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守閣や行幸御殿、本丸御殿などを建てた。
そのときに二の丸庭園も今のような形になったといわれる。
だから二の丸庭園は小堀遠州作といわれるのであるが、それ以前に庭は在ったのだから、
全部を小堀遠州が作ったわけではない。前島八兵衛作庭の部分も少なくないはずである。
普請(土木工事)の部分はほぼすべて八兵衛によると考えていいのではないか。
https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/teien/
なお、本丸庭園も最初からあった。
これは池泉庭園ではなく、今と同じ芝と植え込み中心の庭だった。
二条城の正門は東大手門である。入ったところに二の丸御殿がある。
だから二の丸庭園は二条城の前園なのである。本丸庭園が中園である。
では後園はどこかというと、それは言うまでもない。神泉苑である。
神泉苑は古来禁裏の一部である。大内裏の裏側にある聖域だった。
二条城はそこを取り込んで建てられた。それにより神泉苑は十分の一の規模になった。
二条城の堀も二の丸庭園の池も、神泉苑の池の水を奪い取ったものであることは、
地図を見れば分かるだろう。
今は二条城と神泉苑の間は駅などが作られ離れているが、昔はくっついていた。
二の丸御殿の池は、堀を挟んで神泉苑の池の続きのようなものであった。
それが前園でありながら二の丸御殿の庭に池がある理由である。
本丸御殿の庭には池が無いのは神泉苑から遠いからである。
0718名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 22:41:12.23ID:iiAqLOC20
[ 栗林公園続き ]
頼重は30年の長きに亘り讃岐高松藩主の地位にあった。
藩主になったのは20歳のときである。
延宝元年(1673)に弟光圀の子頼常を養子に迎え、家督を譲って隠居した。
隠居に際して栗林荘に御殿を作り、亡くなるまでの20年以上を過ごした。
隠居場を作ったくらいだから、頼重は栗林荘を好んだのだろう。
藩主として30年、隠居として20年。頼重が50年に亘り栗林荘にかかわったのだから、
庭園はこの時代に完成したと考えて間違いない。
しかし、一般に栗林荘が完成したのは延享2年(1745)、初代頼重の藩主就任から
100年後のこととされる。五代藩主頼恭の時代である。
つまり、初代頼重が50年、その後五代藩主まで四人の藩主が50年、合計100年の間、
庭造り(改造)が続けられたということになる。
(頼重が隠居し頼常が二代藩主となった後でも、頼重の住んでいる庭園に手を入れる
ことはできなかっただろう。頼常が庭園の改造を始めたのは、頼重が死んだ後のこと
である。だから庭園の歴史としては頼重が50年としてよい)。
何故庭園作成に100年もかかったかといえば、「大名庭園」として完成したのが100年後
だからである。頼重の時代に完成した庭は、後の藩主により徐々に作り変えられ、100年
かかって典型的な大名庭園になったのである。

栗林公園を紹介したサイトとしてはここがよい。
特別名勝「栗林公園」のすべてを大公開!
https://digitalcamera-travel.info/ritsuringarden-all/
撮影技術が秀逸である。
0719名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 22:42:04.75ID:iiAqLOC20
[小石川後楽園の破壊]
水戸藩四代藩主の宗尭(むねたか)の実父・高松松平藩主の頼豊は、宗尭が幼弱
であることを理由に、後見と称して小石川藩邸に入り浸り、実質的に水戸藩主の
ようにふるまっていた。
このことは上述した。
さらに頼豊は政治に口を出すだけでなく、小石川後楽園の改修を始めた。
あれよあれよという間に庭園は作り変えられた。
水戸藩士たちは「ここにおいて園中の絶勝大いに変ず」と慨嘆した。

頼豊は小石川後楽園を全く別の庭園のようにしてしまったらしいのだが、これに
ついて触れる前に、桂昌院の御成りに触れなければならない。
実は、小石川後楽園は、頼豊の改修の前にも風景を変じているのである。
元禄十五年(1702)に将軍綱吉の生母桂昌院の御成り(来訪)があった。
そのときに歩行の障害となる奇岩大石を取り除いたのである。
園内の景勝は著しく損なわれた。

桂昌院はその時76歳であった。
小石川後楽園を訪れたのは亡くなる三年前のことで、当時で76歳といえばもう
ヨボヨボだっただろう。
こんなお婆さんがわざわざ来なくてもよかったのである。
だが本人は若い頃から出歩くのが好きであった。
出歩くといっても物見遊山ではない。
信仰心が篤く、寺社参りに熱心だった。
お参りするのは寛永寺・増上寺・浅草寺など。帰依する僧・隆光のために建立した
護国寺には数え切れないほど行った。そして綱吉の別邸白山御殿である。
白山御殿は綱吉が館林藩の藩主だったときの藩邸跡であり、ここに本郷元町の鎮守で
あった白山神社を遷座して傍らに御殿を建てた。(今の文京区白山の白山神社である)。
綱吉と桂昌院の個人的な神社のようなものであり、ここに参っては御殿で参籠した。
その他は、側用人牧野成貞邸と吉保邸への御成りがある。
綱吉の柳沢吉保の下屋敷(六義園)への御成りは有名であるが、牧野成貞邸を訪れた
数も半端ではない。綱吉が行った回数は32回、うち桂昌院同伴が13回である。
その他に桂昌院が単独で訪れたのが3回ある。
桂昌院は単独でも御成りをしたのである。単独といっても、大勢の女中たちを引き連れ
てのことだろう。女中たちは「代参」という形であちこちの寺社に出歩くのを好んだが、
大名屋敷への御成りの方がはるかに贅沢な思いができたはずである。
桂昌院の御成りというのは、奥の女中たちのレクリエーション的な行事という性格が
あったのかも知れない。小石川行楽園への御成りもおそらくそうであったのだろう。
※牧野成貞は綱吉が館林藩主時代からの側近であり、初代側用人である)。
0720名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 22:42:49.53ID:iiAqLOC20
御成りというと、自分の気に入りの大名の屋敷に行って歓待され、ご馳走を食べ、
庭などを見物して帰ってくるような遊興的な行事と想像されがちである。
実はそうではなく、将軍と家臣との学問芸能の交流の場という性格があったようである。
学問は儒学、芸能は能であった。
まず能に関してだが、綱吉は将軍就任以前から能に耽溺していた。
能を見るだけでなく、自分でも頻りに舞ったことでも知られている
江戸城では頻繁に人を集め、自ら舞うだけでなく家臣や諸大名などにも舞を強要した。
何人もの能役者を幕臣に取り立てて身近に置き、能の相手をさせていた。
当時は大名にとっても能を舞えることは必須の素養であり、どこの大名でも能役者を抱え、
身辺に置いて能の稽古をした。
例えば四代将軍家宣・家継の側用人間部詮房は、甲府德川家の家臣の子であるが、幼くして
猿楽師・喜多七太夫の弟子となった。七太夫に付いて家宣(当時は綱豊)の傍らに侍るうち
に、利発さを認められ、小姓に抜擢された。これが出世の糸口になったのである。
綱吉は玄人(くろうと)の能役者の舞にもたびたび口を出した。
本来のしきたりにならって演じると、綱吉がそれを変えるように命ずる。
綱吉の命令に背いた役者が追放されることもあった。
喜多(きた)流では、大夫とその息子が一時追放されてしまい、流派存続の危機にさらされた
ほどである。また綱吉は、当時上演が途絶えてしまった古い能を観ることを好んだ。
この将軍の好みにあわせ、能役者たちは室町時代の曲目を復活させたりした。
綱吉が相手では誤魔化しは効かなかったはずで、その苦労はたいへんなものだっただろう。
次は儒学である。
御成りは、主として儒学の研鑽が目的であった。
綱吉は、大名や旗本などを相手に、元禄3年(1690)から6年にかけて四書を講じた。
また既述のように、上野にあった林家の家塾を湯島に移し、湯島聖堂と昌平黌を建てた。
代々林家の当主を大学頭(だいがくのかみ)に任じて昌平黌を主宰させることにより、
朱子学を国教化させた。
綱吉は儒学に傾倒し、儒学を政治指針とし、儒学の根本理念たる「仁」による政治を
推し進めた。政権後半期には生類憐れみの令を発し、社会に「仁心」を浸透させようと
した。(生類憐れみの令という法令があるわけではないのはご存知のとおり)。
綱吉は儒学に傾倒する余り、キリスト教の宣教者(福音を伝える人)のように、儒学を
世に広めて人々が仁心を持つようにしなければならないと思い定めていた。
元禄7年(1694)、綱吉は江戸城の本丸に役人たちを集め、「生類憐れみのことは専ら
慈悲の心にある」と説き、「仁心こそを持ち、人々の志が素直になるように心掛けよ」
と指示した。生類憐れみの令は実施の面で異常な形を採るようになったが、仁の理念に
よる政治という点では一貫していたのである。
綱吉にとって、御成りとは儒学を公布公宣するための重要な手段であった。
下にあるように、綱吉が御成りの屋敷で「仁徳」の書を配ったりしたのは、綱吉にとって
は真剣な布教活動だったのである。
0721名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 22:43:38.39ID:iiAqLOC20
ある日の安倍正武邸への御成りの様子を見てみよう。
(文中の安倍正武は綱吉の武家諸法度の改訂に加わった気に入りの大名。後に老中)。
御成りにあたっては、まず奉行を任命する。この奉行が全てを采配するのである。
安倍の屋敷では御成りのために屋敷を新築した。これを御成屋敷という。
屋敷新築にあたっての普請奉行を別に任命した。
御成りの前に、老中が護持院の隆光僧正を江戸城に呼び、他の老中四人とともに祈祷を
依頼した。天気も良好で万事うまく行くようにとの祈祷である。
この以来に基づき、御成りの前に、護持院の隆光僧正が御成屋敷に上がって祈祷した。
御成りの前に屋敷を浄めるといった意味合いがあったのかも知れない。
御成りには多数の家臣の他、隆光をはじめ、金地院(臨済宗)、護国寺、大護院、
根生院の僧たちも随行した。
九つ頃(昼12時)に来訪して、最初に贈答が行われる。
屋敷の主人に御腰物代金・馬代金・時服・酒肴・鞍置代金・茶碗・茶入・鐙が贈られた。
その後主人の家臣たちがお目見えをし、将軍から各人に時服が送られた。
その他、将軍の大文字「仁徳」200枚が贈られる。現代の色紙のようなものだろう。
九つ半(1時頃)から学問の講釈が始まる。
将軍自身による「大学八条目」の後に、儒者二人が講釈をし、最後に小姓一人が講釈を
した。子供にやらせたのである。八つ過(午後二時半頃)に終わって昼の御膳。
七つ時(午後4時頃)から能が始まった。
屋敷の主人が「上老松」・「八嶋」を舞い、息子が「上羽衣」・「西王母」を舞う。
次に能楽師による仕舞に移り、「舟弁慶切」「養老切」が舞われる。
能が終演となると家臣たちに将軍から再びものが贈られた。
その後饗宴(食事と酒)、暮六つ半過ぎ(午後5時過ぎ)に屋敷を立って江戸城に還御。
翌日、安倍正武は江戸城に登城し、御成りのお礼を申し上げる。
そのときに御台所様(正室)や奥の方々から正武にお礼の品が贈られた。

余談になるが、桂昌院は寺社に参るだけでなく、寺社への布施も盛んに行った。
有名なのは奈良や京都の古刹への寄進である。
桂昌院のもとへ寄進を依頼する僧たちが引きも切らなかったという。
桂昌院が寄進に費やした金額は、幕府財産の三分の一に達した。
幕府は生類憐れみの令でも大出費をしたから、この親子は頭痛の種であっただろう。
しかし、この女性が寄進という形で建物の修築費用などを出さなければ、奈良京都の
文化財は大いにその数を減じていただろうと言われる。
朽廃激しい堂宇を持て余していた古寺にとっては、まさに救世主であった。
たとえば法隆寺の元禄の大修復は桂昌院がいなければなされなかった。
あの時点で修復されなければ、金堂や五重塔は朽廃し崩壊していたかも知れない。
奈良の大仏殿再建にも尽力した。彼女からの寄進がなければ、大仏は明治になるまで
頭部が焼け落ちた状態で露座のまま置かれていた可能性がある。
0722名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 22:44:49.37ID:iiAqLOC20
小石川行楽園への桂昌院の御成りの話に戻る。
御成りがあったのは元禄15年。光圀公が亡くなった翌々年である。
(光圀の没年は元禄13年(1701)である)。
光圀公の思い出話でもしていて、ちょっと出かけてみようかという気になったのか、
それとも上記のように、女中たちが行きたがったのかも知れない。
ただし、行くにしても婆さんであるから足が弱い。
もし転びでもさせたらたいへんである。
そこで安全な苑路を作るため、邪魔になる岩や大石が撤去された。※
苑路は、お付きの女中が婆さんを左右から支えるだけの幅は必要である。
つまり、三人並んで歩ける広さでないといけない。
園内のあちこちに、撤去した岩や石を積み上げた山ができたという。
さらに、道を拡げただけでなく、平坦にしたはずである。
上り坂になっている道は削り、下り坂は埋めて平らにした。
築山や地盤まで、切り土・盛土といった工事がなされただろう。
部分的に石畳なども敷設されたと思われる。
この写真に近いような苑路が作られた可能性はある。
https://iyashi.midb.jp/detail/64712
最低限、道は砂利で固められ、その上に山砂を敷いて突き固めたと思われる。

※「後楽園紀事」は以下のように記している。
おしむべきとは元禄年中、桂昌院大夫人(常憲公の御実母)、この御園へ御入御ありける時、
大石奇石大夫人御歩行の為危うしとて、大概取りはらはる。
数月を経て、その石さくら馬場、銅蔵の辺りそのほかも、よりもよりに取りのけて、
所々の隅ずみへ積重ねたる山のごとし、この時園中の景変し侍りぬ。

桂昌院のための園内道普請は、小石川後楽園にとって破壊以外の何者でもなく、
大厄災というべきである。
唯一救いとなるのが、桂昌院が高齢で、園内を隈無く見物するようなことは出来
なかっただろうということである。
当時の後楽園の規模は現在の四倍以上あった。
その中で老婆がどこを見るかといえば、対象は限られてくるだろう。
おそらく東門から入って大泉水の周囲を見物しただけではないか。
大堰川の方も眺めはしたろうが、西側は崖側になり起伏に富むので、老婆が歩む
には適していない。転ぶのを用心して歩かせなかったのではないか。
というようなわけで、破壊は一部にとどまったと思われる。
ただし、大泉水は庭園の中核である。
その石組みが崩されて撤去され、池畔の石が取り払われてしまったのは惜しい。
おそらく金地院方丈庭園がいくつも並んだような石組みだったはずである。
小滝もいくつかあっただろう。
それらが破壊されたのは文化史上の一大損失というべきである。
0723名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 22:45:28.34ID:iiAqLOC20
[ 頼豊による小石川後楽園改修 ]
頼豊が行楽園を改修した時期については、具体的なことは分からない。
どの資料も「享保年間」としか言わない。
頼豊の息子である宗堯(むねたか)が水戸家の四代目藩主となったのは享保3年(1718)
である。その前から水戸家の養子に入っていたが、この年に先代の綱条が亡くなり、
家督を継いだのである。
先代も隠居したのではなく亡くなった。そして息子が藩主になった。
だからもはや誰も遠慮する者が無く、やりたい放題のことをやり始めたのである。
したがって、庭園の改修は享保3年以降であることは間違いない。
息子の宗堯は上記のごとく早世した。享保15年(1730)である。
宗堯が藩主であったのは12年間ということになる。
行楽園改修の時期は、この12年間のうちのいずれかという他はない。
頼豊は参勤交代もしなければならないから、江戸にいたのは6年。
庭の改修などは一気にやるものでもなく、あっちを直しこっちをいじり、というような
やり方だろうから、息子が死ぬまでずっとやっていたのかも知れない。

ところで、光圀による小石川後楽園の完成は、上記のように寛文12年(1672)頃と推測
される。頼豊による改修が、息子の宗堯が藩主になってすぐの享保3年(1718)から
始まったと仮定しても、その間には半世紀近い歳月が流れているわけである。
もちろん、光圀はその後隠居したとはいえ元禄13年(1701)まで生きている。
光圀が生きていた間は、たとえ水戸に隠棲していても後楽園の管理は十分になされて
いただろう。元禄15年の桂昌院の御成りによって庭園は随分と姿を変えたとはいえ、
その時に園内の整備も十分になされたはずである。
その翌年には地震があり、庭園の滝が崩れたりした。
滝は元には戻していないようだが、それでも大名の庭園が放置されるということは
考えられない。
だから頼豊が園内の木を700本も切ったというのは、鬱蒼と茂りすぎていたとか、
見晴らしが悪くなっていたとかいう理由ではない。
単に庭園を自分の好みに造り替えたかっただけのことである。
頼豊の好みは、典型的な江戸時代中葉の大名庭園であった。
大きな池泉を中心にして、その周りの苑路を巡り、さまざまな景を楽しむという池泉
回遊式庭園である。さらに、池泉の周辺に小山を築き、高いところからの展望を楽しむ
とか、築山の樹林で池泉の景観を一部遮り、進んでいくと急に視界が開けるといった
趣向の庭園※、すなわち築山池泉回遊式庭園である。
※このような作庭技法を「見え隠れの法」という。
0724名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 22:47:38.10ID:iiAqLOC20
このような庭園の特徴は、何といっても景観が賑やかなことである。
さまざまな園芸種の樹木や草花を植え、花を咲かせて季節ごとの風景を楽しむ。
さらに、園内の景色を日本各地の名所に見立てるのである。
(ただ見立てるだけでなく、景勝を模した景観を作り出したりもする。これを「名所写し」
という。こうした趣向の庭園を縮景庭園という)。
「後楽紀事」によれば、小石川後楽園の大泉水は、琵琶湖ということになっている。
唐門から入った先は「京都への旅」という一種のテーマパークになっているのである。
唐門を入っていくと周囲に木がたくさん生えた水路がある。それは木曽川である。
とっつきにある石は「寝覚ノ床」であり、木曽路をめぐって唐門方向に戻り、大泉水の
畔を行くと、池の中にいくつか石があり、それは「竹生島」ということになっている。
池の対岸に見える一つ松は、琵琶湖随一の名所「唐崎の松」である。
池を巡って対岸に出るとその向こうに「白糸の滝」がある。
この白糸の滝は富士山の麓にある滝ではなく、京都府西京区の白糸の滝だろう。
そこから西門の方向に下ると小さな泉水があり、そこはもう嵐山である。
大堰川があり渡月橋がある。その北側に音羽の滝があるが、音羽の滝もいくつかある。
本家本元は古来歌に詠まれた名瀑で、音羽三山(桜井市)の音羽山にある滝である。
しかし、後楽園の音羽の滝は、京都清水寺の奥の院の崖下にある滝のことである。
清水寺の寺名の由来となった滝である。
音羽の滝の奥の高台に清水観音堂(跡)があるのだから、当然そうなるはずである。
その他、竜田川があり、並んで紅葉の林がある。竜田川は生駒山系から流れ出す奈良県に
ある川で、秋の紅葉で有名である。
そこに坂があり、愛宕坂と名付けられている。京都の愛宕山に見立てたものである。
0725名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 22:59:49.03ID:iiAqLOC20
園内の景色についてはこのブログがよい。写真もうまい。
(ブログのアドレスを書くと書き込めなくなる。以下の標題をコピペして検索していただきたい)。

小石川後楽園【訪問編】  まだ知らぬ、日本を訪ねて

江戸時代も中期以降になると、庭園作成者は築山池泉回遊式庭園に加え、その近くに
田園あるいは里山の風景を作り始めた。
田園風景といえば、まずは「水田」である。田圃の周囲の湿地帯には菖蒲やアヤメが咲く。
斜面には一面に彼岸花が咲く。
里山の麓には梅林があり、柿の木や杏・桃の林がある。
そういった、日本人にとって懐かしい風景が庭園の景として作られるようになった。
小石川後楽園にも水田があり、梅林があり、菖蒲田がある。
なお、後楽園の水田については光圀の養子綱條の正室が今出川家の姫君であったので、
これに農民の苦労を教えるために、光圀が作らせたといわれる。
しかし、農民の苦労云々は庭園に水田を作る際には必ず理由とされることである。
さらに、この話の典拠は鵜飼信興「後楽紀事」である。
後楽紀事が著されたのは元文元年(1736)であり、水戸藩主は5代宗翰の時代である。
光圀が後楽園を作ってから60年以上も経っており、内容の信憑性には疑問がある。
この「後楽紀事」については後に触れる。

さて、以上が現今の小石川後楽園の姿である。
このうち、光圀が作庭した部分がどれだけ残っているかといえば、おそらく庭園の輪郭と
いくつかの構造物だけだろう。
水戸藩初代の頼房が徳大寺左兵衛に作らせた奇岩大石を用いた庭は、桂昌院の御成りの
ときに大きく姿を損じた。さらに鬱蒼とした大木や石組み・滝などによって形成されていた
深山か仙境のような雰囲気は、頼豊の改築によって一掃された。
小石川後楽園は、明るく平坦な、どこの大名庭園とも変わらない庭に一変した。
大泉水が琵琶湖であり、その傍らに生える一本松が唐崎の松だという。
大堰川に渡月橋、さらに竜田川に紅葉の林だという。
現代人は、光圀公がこういったものを作って悦に入っていたと思うのだろうか。
細長い池の横に苑路があり、ここは木曽路だよとか、手前の石は寝覚ノ床だよ、などと
光圀公がやっていたと想像するのは自由である。
だがその想像は、おそらく間違っている。
小石川後楽園の景色(「景」という)を琵琶湖や京都などに見立てるのは、頼豊がやった
ことである。頼豊は、園内の景色を名所に見立てるために随分と手を入れ、新たに景を
作り出したりもしている。
もともと池の周囲は、石組みによって仕立てられていた。
これは私が想像して言うのではない。時代的に、当時の庭園というのはそういうもので
あった。最低でも旧芝離宮庭園や清澄庭園のような、石で池の輪郭を作る庭園だった。
石の大きさや数は、おそらくこれらの庭園をはるかに凌駕していただろう。
そこはさすがに御三家の屋敷の庭であり、徳大寺左兵衛の作った庭なのである。
0726名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 23:00:55.87ID:iiAqLOC20
左兵衛は土地の形状はそのまま生かし、何百年と経た大木もあえて切らなかった。
深山幽谷のような雰囲気をまとった庭であった。
光圀も、よほどの必要がなければ一木一石も動かそうとはしなかったはずである。
光圀は、庭園際に彰考館を建てる必要から、庭園を内庭と「後楽園」とに分けた。
藩邸の一部である内庭と純粋の庭園部分とを明確に区別し、庭園部分に漢籍から名前を
付けたのである。内庭と後楽園の境として唐門を作った。
それから池の周囲、それも岸辺から離れた森の中のような場所に中国風のお堂を建てた。
光圀は庭園を改造するといっても、何かをプラスしただけである。
従来の庭園を破壊するような改造はしなかった。
光圀は庭園を改造したというよりも、完成させた人というべきかも知れない。
庭園の改造として行ったものは、中国庭園の趣きを導入したことである。
朱舜水設計によるという円月橋、西湖の堤である。
光圀の意図としては、おそらく中国の仙境のような庭園を作りたかったのではないか。

https://www.nikkei.com/article/DGXNZO62019680S3A101C1CR8000/
円月橋の書かれた絵図である。
絵の部分をクリックすると拡大される。
橋の周囲は無数の大木が生え、後ろの山には巨石が並んで中国の山水画のようである。
踏み石の並んだ苑路が岩壁を縫い、踏み石の周囲は白っぽい小砂利で固めてある。
橋は自然石を渡したもので、その下を清流が流れている。
水はかなりの勢いで流れている様子である。神田上水の水を引き、滝の上まで水車で
汲み上げていたという。
右端にある竹藪は日本の竹ではないだろう。唐竹である。
https://www.youtube.com/watch?v=7IFXsWD9ryo
先端の方はしな垂れて、ボサボサしている。

昔の絵図や明治初年の頃の写真
https://smtrc.jp/town-archives/city/bunkyo/p08.html
0727名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 23:01:46.07ID:iiAqLOC20
清水観音堂は、時代的には光圀が作ったものである。
https://kakezukuri.omiki.com/kakea1.html
崖の上に懸造り(かけづくり)で観音堂を作り、舞台がしつらえてあった。
舞台といっても芸能のための舞台ではない。崖の上にせり出した縁(えん)を言う。
下に白糸の滝があり、これは清水寺の奥の院の滝だという。
さらに、清水観音堂の本尊は清水寺と同じ千手観音である。
すると平仄が合い、この観音堂は清水寺の写しだということになる。
光圀公も名所の見立てや名所写しをしていたではないかと言われそうである。
しかし、これらは「見立て」が変わっただけである。
観音堂は、もともとは清水寺など意識されていない。
ここの景観は、中国の普陀山を写したものなのである。
普陀山は、中国浙江省舟山群島にある。
群島というが、ほとんど湾内にある島である。
広島の尾道の向島とか因島といった島々を想像すればよい。
ところで、光圀が招来した朱舜水は浙江省の人である。
上述したように、朱舜水は明の遺臣で、革命資金をつくるために貿易に従事しており、
普陀山の隣の舟山島には商船隊の基地があった。
(海戦に疎い清軍は舟山群島までは手が出せず、明の遺臣団が支配していた)。
朱舜水にとって故郷であり、青春時代を過ごした土地でもある。
この海域の普陀山は、島であるとともに山である。
有名な観音霊場であり、中国における観音信仰のメッカである。
観音は如来ではなく菩薩である。菩薩はまだ仏になる以前のものであり、人間である。
だからその浄土も娑婆(人間世界)にある。
普陀山はその浄土であるといわれていた。
浄土とは本来仏(如来)の住まいであり、国土である。
たとえば阿弥陀如来の浄土(極楽)は西方十万億の仏土の彼方にあるといわれている。
そこへは、人は死んで生まれ変わるという形でしか行けない。
しかし、観音浄土には人間のまま行くことができるのである。
普陀山は、中国の有名な五つの観音浄土の一つである。

普陀山の山頂である仏頂山山頂に至れば、西や南に舟山群島が望め、東には東シナ海が
広がる。小石川後楽園の大泉水は、大きく東シナ海と捉えることもできるし、普済禅寺の
東側の海岸と捉えることもできよう。
(下の2行を一度にコピーしてブラウザのURL欄に貼る)
https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/zhoushan/putuo-mountain-scenic-area-
93331/?rankingId=100001369048
0728名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 23:02:28.32ID:iiAqLOC20
[八卦堂]
八卦堂は、おそらく浙江省西湖の雷峰堂をイメージしたものだろうということは上述した。
光圀が将軍家光に謁見したおりに、中国の学問の神である文昌星の像を頂戴した。※
(現在この文昌星像は徳川ミュージアムにある)。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215747
この文昌星像を安置したのが八掛堂である。
光圀の時代には文昌堂という名称であった。

※ 文昌星とは文字通り星であり、周囲の星を併せて文昌宮と呼ばれる星座をなす。
(北斗七星の枡形の第一星(魁星とよばれる)も学問の神とされ、両者は重なる)。
中国の星座は、北極星を「天帝」とし、周囲の星に役所や庭園や役人の名称をあてはめ、
北極星から離れるにしたがって身分の低い庶民の世界となり、豚とか市場を現す星座も
ある。夜空を、天帝の支配する一つの国(天界)と観念していたのである。
文昌星を中心とする文昌宮は文字の形に見える星座だということである。
文昌星を魁星は古来混同されてきたので、これを魁星と同視すると、北斗七星の枡形を
形作る四つの星の第一星が文昌星である。
この四つの星を併せたものが文昌宮という星座になる。
徳川ミュージアムの文昌星像を見ると、文昌星が筆を持って書物(文書)の上に立って
いる。枡形の四つの星は、この書物なり文書をあらわしているのではないかと思われる。
北斗七星の方に伸びる升の柄杓の部分が筆のようだ。
文昌星は古来文運を司る神とされ、文昌帝君と称されて信仰された。
学問と出世に御利益があるとされるところから、昔は科挙の受験生なども信仰したという。
今は受験生に人気がある。台湾台北に有名な文昌宮がある。
0729名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 23:03:22.12ID:iiAqLOC20
光圀は許可制ではあるが、貴賤を問わず庭園への入場を許した。
庭を観賞させるというより、たくさん作ったお堂を拝観させたかったのだろう。
文昌堂には、学者や識者など多くの人が来訪して拝礼したという。
この時代には、一種の儒学ブームが起きていた証拠といえるだろう。
頼豊による庭園改造のときに、お堂の内部の文昌像は移転させられ、お堂には讃岐の
金比羅大将が祀られた。お堂の名前も八卦堂に改められた。
八卦堂は明治維新も無事で乗り越えた。
しかし関東大震災で焼失し、今は土台しか残っていない。
土台の形から八角形のお堂であったことが分かる。
なお水戸弘道館の八卦堂は、斉昭公がこの八卦堂に倣って建立した。
斉昭公は頼豊に改造されてしまった後楽園をできるだけ昔の姿に戻そうとしたが、世情
騒然とした時期である。ほとんど何もできなかった。わずかに西行堂(現在焼失)付近の
流れを「駐歩泉」と命名したり、石碑を建てたりはしている。
庭園に愛着を持っていたことは間違いない。
その愛着が、弘道館の中心に八卦堂を据えるという行動になったのである。
そこで水戸弘道館の八卦堂の話になる。
弘道館の八卦堂は正庁裏の敷地外のようなところに建っている。鹿嶋神社の裏手である。
今は弘道館の入場料が取られない場所にあるので敷地外のようだが、以前は弘道館の敷地
の中だった。それどころか、本来は敷地のど真ん中だった。
周辺の開発によって敷地が狭くなり、八卦堂は敷地外にはみ出してしまったのである。
八卦堂が動いたわけではない。
ここの一番下の絵図(地図)を見れば、敷地の中心だということが分かる。
https://www.ibarakiguide.jp/kodokan/facility.html
0730名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 23:04:18.53ID:iiAqLOC20
八卦堂は弘道館全体の中心に建てられ、その中に「弘道館記」(建学の精神を記した文章)
を刻んだ大理石を収めた。やや押しつけがましいというか、何事も徹底して行い、懈怠を
許さない斉昭公らしいやり方である。
何故八卦堂という名称なのかといえば、八面ある壁面の上部に、それぞれ算木を並べ、
易の「卦」が示されているからである。
八卦堂についてはここが詳しい。
https://ibamemo.com/2022/07/10/kodokan_sakonsakura_hakkedo/#i-3
易経にある「易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」。
この言葉が図にされているので是非ご覧頂きたい。
両儀、四象、八卦は算木を使って表示される。
このページの説明にあるように、算木の真っ直ぐな横棒は「爻」(こう)と呼ばれ、中央に
切れ目が無いものと切れ目が入ったものとがある。
切れ目が無いただの一直線の棒を「陽爻」、切れ目があるものを「陰爻」と呼ぶ。
(今は一枚の板が陰陽裏表になっているものが多い)。
易は陰陽五行説に基づき、この世のすべての事象を陰と陽の組み合わせで説明する。※
この陰と陽をそれぞれ「陽爻」と「陰爻」であらわし、具象化するものが算木なのである。
爻が2本あれば陰陽四つの組み合わせが表示できる。これが四像である。
爻が3本あれば陰陽八つの組み合わせができる。これが八卦である。
八卦堂の外壁には、この八つの卦が表示されているのである。
例えば八卦堂の入口は真東を向き、その上部には「震」(しん)を示す算木がある。
その横の東北の壁面には「巽」(そん)、真北の壁には「坎」(かん)である。
このようにして八面の壁を使って八卦が示されている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/00/Acht-trigramme.svg
なお、韓国の国旗には中央に赤と青の二色で「太極」を置き、四隅に八卦のうち四つの卦が
置かれている。

※易者は筮竹(ぜいちく)と算木を使って卦を導き出す。
(易者のみならず、明治の頃までは筮竹で易占をする教養人がいた。幕末から明治にかけて
活躍した高島嘉右衛門は有名である)。
八つの卦だけでは大ざっぱすぎて占いには使えないので、八つの卦を縦横に重ね、8x8で
六十四の卦を作った。古代からの聖典である「易経」は、孔子が監修したといわれるが、
この六十四卦の意味を解説する書である。
卦を導く方法は、古来亀卜(きぼく)や太占(ふとまに)などである。
簡易なやり方もある。タロットでもサイコロでも原理は同じである。
易者がするのは筮竹占いである。
50本の竹籤の1本を太極として残し、残りの棒を二つに分け、数を数えて出た数字によって
陰陽を判断する。陰は短い2本の棒を並べ、陽は1本の棒を置く。
(今は1本の棒の表が陽爻、裏は真ん中を色違いにして陰爻を現すようになっている)。
これで目に見える形で卦が示されるということになる。
動画・易占の仕方
https://uranaitv.jp/dictionary/1631
https://www.youtube.com/watch?v=XbeI0nZQyqw
0731名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/23(金) 23:05:53.44ID:iiAqLOC20
調べてみたが、八卦堂という名のお堂は日本では小石川後楽園と弘道館のもの以外に見当たら
ないようである。小さな祠などがあるのかも知れないが、少なくとも有名なものはない。
そもそも日本では八角堂そのものが少ない。八角堂は中国では皇帝の廟として建てられること
が多かった。日本では法隆寺や興福寺、広隆寺など有名な寺院にあることが多い。(もちろん
近年にただの納骨堂として作られた八角堂ならいくらでもある)。
八角堂が少ないのだから、これに八卦堂という名のついたお堂などめったにあるものでは
なかろう。中国では八角の塔やお堂が多いが、中国でも、八角の堂塔に八卦の算木を飾った
建造物は珍しいのではないか。
もしかしたら中国の明の時代、上海や杭州などで流行した様式なのではなかろうか。
小石川後楽園の八卦堂は、朱舜水の発案のような気がする。
文昌像を祀るお堂を建てるときに、朱舜水が故郷にあったお堂を思い出し、そのデザインを
教えたのだろう。
そうでないと、建物の壁に算木を取り付けるといった奇抜な発想は出てこないと思う。

上記のように、八卦堂は本来は文昌堂という名称であった。
頼豊の改造のときに八卦堂に変えられたと伝えられている。
八卦堂は震災で焼け、にもかかわらず文昌星像は実物が徳川ミュージアムに残っている。
ということは、四代藩主宗尭が亡くなり、頼豊が水戸家への出入りをしなくなった後も、
文昌星像は八卦堂には戻らなかったということなのだろうか。
可能性は二つある。
頼豊により文昌像が除かれ、金比羅神が祀られ、以後そのままになったというのが一つ。
もう一つは、頼豊がいなくなった後に文昌星像は八卦堂内に戻され、明治維新で藩邸が
明治政府に収公されるときに、水戸德川家がこれを堂内から回収したという可能性である。
そのあたりはよく分からない。
とにかく、文昌星像だけでも残ったのは幸運であった。

八卦堂は惜しいことに関東大震災で焼けてしまった。
水戸弘道館の八卦堂は昭和まで残ったが、戦災で焼けた。昭和28年に再建された。
弘道館の八卦堂は、実際の八卦堂を見た斉昭公が建てたわけであるから、後楽園の八卦堂の
写しと考えてよい。わざわざ別のデザインのものを建てるはずがないのである。
それを再建した現在の八卦堂は、写真が出来て以降の再建であるから、正確な写しと考えて
よかろう。それ故、小石川後楽園の八卦堂の再建は容易である。
是非早急に再建すべきである。
小さなお堂の再建なのだから費用もさほどかかるまい。
再建したお堂の中には文昌星像のレプリカでも置いたらよかろう。
0732名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:28:19.98ID:Hjkxb0g/0
[ 小石川後楽園-総括 ]
思いがけず庭園に関する叙述が長くなってしまった。
内容が錯綜したが、ここで追求したテーマは、松平頼豊が小石川後楽園をどれだけ改変した
かということであった。逆にいうと、頼房公が作庭し光圀公が完成させた小石川後楽園は、
どれだけその姿を留めているのか、である。
結論から言えば、庭園の土台である護岸石組みや滝石組みなどの庭園の基本構造部分は
ほとんどが破壊されたと見るべきである。
この時代の庭は、京都に金地院方丈庭園などが残されているし、東京でも旧芝離宮恩賜庭園
など、池の護岸石組みをそのままにした庭園が残っている。
しかし、小石川後楽園では景観の要になる石はほぼ撤去されている。
上記のように滝や流路も残骸というべきものが残されているにすぎない。

後楽紀事という本がある。小石川後楽園の歴史を叙述した本で、後楽園に関する最も重要な
文献とされている。著者は鵜飼信興である。(著書はいくつかあり、額賀信興、或いは
源信興と名乗ることもある)。水戸藩士で、彰考館の吏員である。
後楽紀事は元文元年(1736)に出版された。五代宗翰(むねもと)の時代である。
美代姫の生んだ鶴千代が一歳で藩主となり、この当時は八歳になっていた。
後楽紀事の内容は、初代頼房に始まり、光圀、綱條、宗堯と四代に亘る小石川後楽園との
かかわりを明かにしている。
この本によると、大泉水を琵琶湖に見立て、園内の景を京都への旅として各地の名勝に
なぞらえたのは頼房ということになっている。頼房は作庭の最終責任者であるから当然
名前は出るが、作庭者は徳大寺左兵衛であり、家光も作庭者の一人と言ってよい。
この三人が、ここは木曽路だよとか寝覚めの床だよとか、ここは竹生島、ここは竜田川、
などとやったというのである。
つまり、小石川後楽園の当初の庭園は縮景庭園であったとする。
そして庭園を受け継いだ光圀は、庭園の景観をほとんどそのままにした。
光圀は多くの中国風のお堂や橋などを付け加えはしたが、石組みなどには一切手を触れ
なかった。そのことも明記してある。
その後の景観の変遷については、元禄15年(1703)、五代将軍綱吉の生母桂昌院の御成りの
際に奇岩怪石が取り除かれたことと、享保年間に四代水戸藩主宗尭の父、讃岐高松藩主
松平頼豊が見晴らしをよくするために700本の樹木を伐採したことが記されている。
頼豊は、実際は大石や奇岩も多数撤去してしまった。
また大泉水のほとりの護岸石組みを崩してただの石積みにしてしまった。
さらに、後楽園の崖地には奇石を重ね、切り立った山肌のようにしていたのだが、それらは
全て取り払ってしまった。庭園作成前から生えていた古木も全部切ってしまった。
西湖周辺、龍田川、棕櫚山、河原書院前庭等の景なども一変したといわれる。
こうしたことは書いていない。
高松の金毘羅大権現を祀り、石清尾八幡を勧請したなど、讃岐風のものを後楽園に持ち
込んだことはしっかり書いてある。
要するに、改造の結果庭園の眺めがどうなったかということは具体的には書かれていない。
景観が一変した、人々は残念がった、というようなことが書かれているだけである。
0733名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:31:05.27ID:Hjkxb0g/0
後楽紀事が出版されたのは上記のように元文元年(1736)であり、頼豊による庭園改造
から6年は過ぎている。
頼豊の息子である水戸德川家第四代藩主宗堯は享保15年(1730)に死んだ。
息子が死んだのだから、頼豊は水戸家の藩邸に出入りして藩主のような振る舞いをするなど
出来なくなったはずである。後楽園の改修は息子の宗堯が生きていた間のことだろう。
だから頼豊による改修は、どんなに遅くとも享保15年には終わったのである。
頼豊は息子の死の5年後、享保20年(1735)に死亡している。
そして、後楽紀事は頼豊が死んだ翌年に出版されているのである。
著者の鵜飼信興は彰考館の吏員だから、ほぼ毎日内庭にある彰考館に通っていた。
いつから通っていたかは分からないが、本を出版するほどの史館員なのであるから、3年や
5年ではないであろう。頼豊による改造について逐一見届けたかも知れないし、少なくとも
改造した庭はその目で見てはずである。

結局、後楽紀事によればもともとの小石川後楽園の様子というのは
1.当初、頼房の作った庭の基本構造は今の庭と変わらない。京都への道中の風景や琵琶湖、
京都各地の名所名勝を写した縮景庭園であり、今と同じ回遊式の庭園であった。
2.光圀による改修も、中国風の趣きを付け加えただけで、当初の庭の構造は変えていない。
以上を前提に、
3.桂昌院の御成りのときに多くの奇岩怪石が取り払われた。
4.さらに頼豊の改修のときに、見晴らしを悪くしていた園内の木を700本切った。
以上、1.2.3.4.によると、結局、光圀が完成した庭園から大石や奇岩を取り除き、木を
切って見晴らしをよくしたのが今の庭園であるというのである。

実に不思議な書である。
「園中の絶勝」は「大いに変」じたはずであるのに、今ある景観の説明ばかりする。
元の景観の説明はほとんど無く、だから「大いに変」じたといってもどう変わったのかは
分からない。結局、石が取り除かれ、大木が切られた以外、庭園の景は変わっていないよう
にしか読めないのである。
おそらく、この後楽紀事という本が出版されたのは頼豊が死んだ翌年であるというところ
から謎は解けるのではないかと思われる。
しかし、結論を急がず、頼房の作った後園の姿を明かにするところから始めよう。

頼房の作った後園は、池の周囲と崖地に大量の石を組み上げ、さらに本物と見まごう滝を
作り、深山幽谷の風情を持つ庭であった。
作庭に家光が参加したことではじめて出来たことも多い。
滝水に神田上水の水を使うことを許可したのは家光であった。
また、伊豆の御用山から巨岩を採取するのを許したのも家光である。
神田上水の水を無尽蔵に使えたため(流水を引き込んで園内を流した後は上水に戻すの
だから当たり前であるが)、滝の水量はたいへんなものであった。
(滝とはいわゆる音羽の滝のことである)※。
園内には轟音が響き、鮮烈な水流が園内を走った。
流れ落ちる滝水は池に流れ込み、満々と水を湛えた池は大湖のようであった。
泉水の中央付近にある中の島(蓬莱島)は、奇怪極まる形状をしていた。
ゴツゴツした巨岩怪石を積み上げ、その上に伽羅(きゃら)・柏槙(びゃくしん)などの
神木を植え、島の頂上部から水が噴き出し、滝になって流れ落ちていた。
音羽の滝の頂上部分と中島の滝の水源を木の樋で裏側で連結させ、サイフォンの原理で
島の頂上からも水が出るようになっていたのである。
だから中の島の滝の高さは音羽の滝の高さとほぼ同じであった。
音羽の滝は10メートルほどあったというから、中島の石組みもそれと同じぐらいの高さが
あり、そこからさらに天に向かって木や木の枝がニョキニョキと突き出していたのである。
0734名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:32:17.52ID:Hjkxb0g/0
島はそれだけではなかった。
蓬莱島があるなら、鶴島と亀島がなければならない。
だが、現在小石川後楽園に亀島はあるが、鶴島はどこにもない。※ 
鶴島と亀島はペアになっているものであるから、片方だけというのはあり得ない。
だから鶴島は撤去されたと考えるしかないのである。
鶴島は、天竜寺の曹源池の場合は池の左側にある。多くがそうなっているようである。
しかし金地院方丈庭園は右側であり、決まったものでもないらしい。
亀島鶴島には松を植える。亀島には重厚な枝振りの真っ直ぐな松を、鶴島には枝を広げた
松を植える。鶴島の松は地を這うように斜めに伸び、そこから大きく枝を広げる。
鶴の姿を現しているのである。
小石川後楽園の鶴島の松も、伏龍のような巨木であっただろう。
しかし、この木が枯れたあと、その後に松を植えなかったのだろうか。殺風景な島がある
だけになり、その後石組みが崩れたか何かして、残骸だけが残ったのだろう。
当てずっぽうだが、今の竹生島がその残骸の一部なのではないかという気もする。

※現在の通天橋の奥に大きな滝があった。滝から流れ落ちる水が渓流になり大泉水に流れ
込んでいた。音羽の滝という名だが、その名をつけたのは頼豊だろう。
それ以前には名前はついていなかったと思われる。大滝などと呼ばれていたのではないか。
あのような高いところに橋がかかるようになったのは、頼豊の改修による。
地震で滝が崩れ、水が流れなくなって景観が寂しくなっていた。
そこで橋をうんと上に移動させた。橋を高い場所に架けるのは上田宗箇が始めたのである。
ただし宗箇が創始したのは石組みの中に石橋を架けるというデザインである。
頼豊はこれを真似たのであるが、朱塗りの橋を石組みの上に架けるなど聞いたこともない。
高い場所の苑路は山道であるはずで、山道にあんな派手な橋が架かっているということは
ありえない。橋が赤いのも大した理由はないのかもしれない。
橋を高いところに架けた。そうしたら橋がほとんど見えず面白くない。
それで赤く塗ったというようなことではないか。実につまらない発想である。
もともとは渓流の下の方に石橋がかかっているだけだった。
0735名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:32:23.08ID:Hjkxb0g/0
亀島について触れておく。
亀島の徳大寺石を中心とする景は、京都二条城二の丸庭園の亀島に似ている。
亀がグイッと頭をもたげた姿を写したものなのである。
だからこれを亀頭石という。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=koishikawa
ここの一番下から三番目の写真が亀島を正面から撮ったものである。
亀頭石は徳大寺左兵衛にちなんで徳大寺石と呼ばれている。
二条城の亀島は、石橋を渡して人が入れるようにし、そのため松を植えていない。
馬鹿みたいな話である。
後楽園の方は、徳大寺石の両端の石が貧弱で、亀島らしいどっしりとした趣きがない。
石組みは組み直されたものだろう。
二条城二の丸庭園には亀島も鶴島もある。
この「庭園ガイド」というサイトは素晴らしい。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=nijo-castle
庭園の写真の四枚目に亀島を正面から撮ったものがある。
亀頭石は徳大寺石のようにのっぺりとしておらず、こちらの方が趣きがある。
二条城二の丸庭園には護岸石組みがきちんと残されている。
しかし、池の周囲は芝生を大きく取り、西洋庭園風に改造されている。
もともとは奥に大きなに築山があり、もっと立体的な景観であった。
サイトのページの真ん中ぐらいに、二段落としの滝石組の写真がある。
このページの解説にあるように、今の滝は明治以降の改修によるものである。
小堀遠州作庭の当時は後ろにある垂直に立てた薄い石に上から水が落ちていた。
ということは、滝の背後に高い築山があり、膨大な量の石で滝石組みが作られていた
のである。この築山は今はなく、後ろに竹垣が見える。
築山を取り払ってしまった結果、庭園は西洋の公園のような平明なものになったが、
本来は巨岩大石を並べた築山を背景とする重厚感のある庭だった。
滝石組みの周囲は松山であったはずである。
現在は松が黒松で大人しいのもつまらない。野趣のある赤松を植えるべきであった。
足立美術館には赤松が多く使われている。松の赤い肌が美しい。
https://www.kankou-shimane.com/pickup/2901.html
石の色からしても二条城庭園は赤松の方が似合う。
本来はそうでなかったかと思われる。
0736名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:35:51.92ID:Hjkxb0g/0
[中の島(蓬莱島)について]
今の小石川後楽園では、誰も中の島(蓬莱島)には興味をもつまい。
大木の生えたただの小山のようになっているからである。
しかし、本来の中の島の石組みは10メートルほどの高さがあり、そこからさらに木が天に
伸びていた。奇怪な尖塔のような姿だったと思われる。
大きさも今の蓬莱島より一回り大きかった。
しかし、現状からして、それらの石組みは崩壊し撤去されたと見るほかはない。
石を高く組んだ構造であったため、地震で崩壊した可能性がある。
桂昌院の御成りの翌年(元禄16年)の地震は大きく、滝石組みや滝への給水設備が壊れた。
このときに蓬莱島の石組みも崩れたとされている。
後楽紀事も、「中の地震」で崩れたと明記している。
中の地震とは元禄16年の地震のことである。
一方、原因は地震ではなく、桂昌院の御成りのときに撤去されたのかも知れない。
御成りは地震の一年前であるからほぼ同時期である。
地震でいろいろ壊れたので、中の島の崩壊も地震が原因とされているが、御成りのときの
破壊と一緒くたにされている可能性も無いではない。
桂昌院は先端恐怖症というか、尖ったものやゴツゴツしたものに恐怖を覚える症状が
あった様子である。※
御成りにあたって奇岩怪石を取り除かせたというのも、道を歩きやするためだけでなく、
奇怪な形の岩や威圧感のある巨石などを怖がったためかも知れない。
桂昌院の御成りのときに撤去されたのは石や岩だけではない。尖ったものも撤去された。
例えば文昌堂(八卦堂)の屋根飾りである。
お堂や塔の屋根のてっぺんには相輪(そうりん)という金具が付けられるのが普通である。
金属の輪が幾重にも重なり、その先は剣のように尖っている。
文昌堂の屋根にも法輪が付けられており、しかも先端の剣型の部分が中国風で長かった。
これが駄目だということになった。
それで宝珠(ほうじゅ)という金色の丸い珠に取替えさせられたのである。
(そういえば水戸の八卦堂の屋根飾りも宝珠である)。
お堂の屋根飾りなど歩行の安全に全く関係がない。にもかかわらず法輪を宝珠に取り替えた
というのは、尖ったものを怖がる神経症的な症状があったとしか考えられない。
尖ったものを怖がる以外に、岩が人の顔に見えたり怪物に見えるような症状があったのかも
知れない。通行の邪魔にならなくても、奇怪な形の岩などは取りのけられたのではないか。
蓬莱島もその姿があまりに奇怪なため、桂昌院の気分を害するかも知れないということで
撤去された・・・、そう考えたら余りにも飛躍した想像になるであろうか。
※桂昌院だけでなく綱吉も神経過敏で、雷を怖がること尋常でなかった。
また綱吉の治世中に彗星が二度現れた(元禄2年と元禄12年)。一回目は14日間、二回目は
10日間見えていたという。その間、綱吉は精神の平衡を失った。自分の政(まつりごと)の
誤りを天が怒っているのではないかと脅え、家臣に相談したりしたという。

中の島の様子は『後楽紀事』に記述されている。
「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。(中略)島に入りて
かたはらにて見れば、ひむろ、きゃらぼく、びゃくしんやうのもの繁茂して、石の
ひまひまには岩かさなり、苔さへむして侍りければ、何の形とも分らず。」。
「ひむろ」とはサワラの一種である。ヒバのような木である。
「きゃらぼく」はイチイの変種である。幹が直立せず、横に広がる。
「びゃくしん」は桧(ひのき)の一種である。
どれも常緑針葉樹であり、枝打ちしなければ枝葉が猛烈に繁茂する。
古来日本では松や杉などの葉が枯れない木をめでる風習があった。
中の島には、中国風の常磐木を植えたのである。
ところで、この中の島の描写は、「島に入りてかたはらにて見れば」(島に入って
近くでみれば)とあるのだから、実際に舟で島に渡っての実見談であろう。
この部分は、鵜飼信興がその目で見たことを書いているのである。
そのときの島の様子は、「石のひまひまには岩かさなり、苔さへむして侍りければ」と
あるのだから、現在のように石が片付けられ木と草の生えた小山のような状態では
なかったようである。崩れた大石の間に岩が重なり、苔むしていたという。
そこに上記の常緑針葉樹が生えていた。島になっているので他の植物の浸食がなく、
植生が保たれていたのである。
0737名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:36:37.57ID:Hjkxb0g/0
後楽紀事には他にも中の島の記述がある。
「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。弁財天の祠をたてり。
この島ことに絶景なり。瀧ありて高く掛かれり。みな人奇異の見物なりとて驚かざる
ものなし。(中略)是も大地震に崩れたれば、みな地中にしづめり、亀の腮の石のみ残りて、
今鼻まかり岩といふ。」。
前段は滝があるとしているのだから、鵜飼信興が想像で書いているのである。
後段が今の話である。ここで「亀の腮の石のみ残りて」というのが分からない。
腮(あぎと)とは、顎とかエラのことである。徳大寺石は亀の頭の部分である。
この顎の部分の石ということは、徳大寺石の土台になっていた石のことなのだろうか。
おそらく、鵜飼信興が徳大寺石のことを「腮の石」と言っているのである。
亀頭石は直立させるので、正面から見た場合、見えるのは喉とか顎の部分になる。
だから腮の石と言ったのである。それが斜めになっているので、人々が「鼻まかり石」
(鼻曲がり石)と呼んだのだろう。

[ 鶴亀蓬莱庭園について ]
頼房(徳大寺左兵衛、家光)作庭した当初の小石川後楽園は、鶴亀蓬莱庭園である。
鶴亀蓬莱庭園とは、池泉式であると枯山水であるとを問わず、大きな蓬莱島があり、従と
して小さな鶴島・亀島が並ぶ庭園をいう。
ただ「鶴亀庭園」と言うだけの場合もある。それでも蓬莱島(山)があるのが前提である。
上述の南禅寺金地院庭園は昔から「鶴亀の庭」と呼ばれる。
鶴島・亀島に蓬莱島はセットであり必須であるが、これに滝石組みがつく場合も多い。
池泉庭園の場合は池の端や奥に滝石組みがあり、そこから滝水が落ちて流路を通って池に
流れ込む。枯山水の庭の場合は滝をかたどった石組みを築くのである。
蓬莱島とは、古代中国で渤海の東方海上にあると信じられていた仙境の島である。
決して人が上陸することはできない。近づくことすらできない。
人が船で近づくと霧に隠れて見えなくなってしまう。
無理に近づくと船が押し戻される。あるいはどんなに船が進んでも島は遠く離れていく。
そうかと思うと前にあった島が後ろに見え、さらに水中に見えたりする。
稀に近づくことができると、そこは神仙の世界で、大きな無数の松が生えている。
仙人たちがその上に座っている。また、仙人たちは小さな雲に乗って飛行する。
仙人たちは切り立った岩山の上の方まで飛んでいく。
地上には小間使いの童子たちが遊んでいる。地上はどこも真っ白な砂である。
島には鳥や獣もいるが、それらもすべて純白である。
中国人の伝統的なイメージでは、蓬莱島とはそうしたものであった。
蓬莱島とは山でもある。池の無い庭では蓬莱山をイメージするものを置いた。
それは築山であり、石であり、石塔であり、灯籠である。刈り込んだ樹木でもよい。
0738名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:37:20.20ID:Hjkxb0g/0
大徳寺瑞峯院の独座庭は近代作庭家の作品だが、波立つ海の中の蓬莱島をあらわしている。
https://serai.jp/tour/385616
入門用にこういう庭があってもよいだろう。
座禅をするための庭だと思えば砂紋などはどうでもよい。
この写真の何枚か下に妙心寺退蔵院「元信の庭」の写真。蓬莱島の石組みがある。
狩野元信は室町時代の絵師である。1476年生まれで、足利九代将軍義尚に仕えた。
(義尚は足利義政と日野富子の次男である。先に将軍後継と決まっていた義視と対立し、
応仁の乱のきっかけとなった将軍)。
日本画の代表的な流派である狩野派の始祖・狩野正信の長男で、狩野派の画風を完成させ、
室町時代から明治まで続く狩野派の基礎を作り上げた人物である。
元信は単なる絵師ではなく、妙心寺二十五世大休宗休に帰依し、禅を学んでいた。
このような関係から作庭を委ねられたらしい。
この庭は、元信が自分の山水画を実際の庭に仕立てたものだといわれる。
室町期の枯山水庭園には、水墨山水画の構図や表現手法を取り入れたものが少なくない。
例えば大徳寺・大仙院の庭などである。
山水画の名人が庭を仕立てたらどうなるか、妙心寺の僧たちは興味津々で作庭を見守った
はずである。
元信の庭ならやはりこのサイトの写真がいい。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=taizoin
庭を図解した白黒写真を見ると、一番左端に自然石の石橋がある。
橋があっても人間は仙境へは渡れないのであるが、人間世界とは違う世界だということを
示すために橋が置かれているのである。本来は橋など無い。
この橋の右手にいくつかの大石が並び、これが蓬莱連山である。
蓬莱山の手前に山々が並んでいるのである。蓬莱山は蓬莱連山の彼方に聳えている。
蓬莱山の右手は枯滝の石組みである。縦縞の岸壁を現す石が見事である。
枯滝の手前、大きな石が平たく並べられているのが亀島である。
海を挟んで亀島と向き合うように鶴首石が置かれているのが鶴島である。
まことに忠実に蓬莱神仙の世界を具体化した鶴亀蓬莱島枯山水庭園である。
ただし、鶴島はほぼ遺跡化してしまっている。
本来は最小でも亀島と同じ大きさがあったはずである。
ここでも大きな方丈を建てたために庭を削ることになり、鶴島は鶴首石と羽石が一個ある
だけである。手前のつくばい(手水)がもう一つの羽石なのではないかと言われている。
この写真で庭の構図が分かりにくいのは、写真の角度が悪いのである。
ほんとうは、写真右端中央あたりの礼拝石のあたりから撮らないといけない。
しかし、写真を撮るにも方丈の縁側から外には出てはならないらしい。
別のサイト
http://www.taizoin.com/highlights/motonobu-no-niwa.html
ここには元信の庭を正面から撮った写真が何枚かある。
改めて見て思うが、この庭は修行僧たちが座禅をするための庭であるような気がする。
座りやすそうな石が多いし、左右の石橋も実用であるように見える。
今は庭の背後に広葉常緑樹がたくさん植えられているが、実際に庭が座禅修行の場であった
ときに植えられていたのは松だと思う。
樹下に平たい大石がいくつも置かれ、樹木は少なく閑散としていたと思う。

ついでに、小石川後楽園とほぼ同時代の鶴亀蓬莱島池泉式庭園を一つあげておこう。
蓮華寺庭園である。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=rengeji
この庭が作られたのは1668年である。
一方光圀により小石川後楽園が完成されたと推定される時期は1667年。
時期は同時期といってよい。
純粋な鶴亀蓬莱島庭園であり、庭の木がかなり大きく、かつ繁茂している。
小さな庭園だが、雰囲気が当初の小石川後楽園と似ているかも知れない。
とくに内庭などはこんな感じだったのかと思う。
(ただし、内庭の池でもこの5倍はあるだろう)。
なお、小石川後楽園の内庭は書院庭園である。
書院のすぐ脇にある庭園を書院庭園という。
書院庭園で有名なものに銀閣寺(慈照寺)庭園がある。
0739名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:38:40.24ID:Hjkxb0g/0
[蓬莱島(中の島)の実体]
小石川後楽園が作られた当初の中の島(蓬莱島)の形状は、世に類のない独特のもので
あるが、あえていえば智積院の庭の築山が似ているかも知れない。
智積院の庭
https://garden-guide.jp/spot.php?i=chisyakuin
無数の石とサツキの刈り込みで出来た築山が特徴である。
池の中にある島のように見えるが、背後は地面につながっており、築山である。
中国の廬山(ろざん)を模したものという。
廬山とは江西省北部にある長江の南にある山で、諸峰が絶壁をなして聳え立つ。
多くの名士が隠棲し、李白や蘇武など有名な詩人が訪れた。
水墨画の素材になっていることが多い。これらは江南山水画という独立のジャンルになった。
霧の中に聳える岩山を墨の濃淡だけで描いた絵は誰もが見たことがあるはずである。
智積院は、もともとは秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために建てた祥雲寺という寺であった。
関ヶ原役の直後、京に入った徳川勢によって接収され、後に真言宗の玄宥僧正に与えられた。
玄宥は真言宗の根来寺の僧であり、塔頭智積院の坊主(住職)であった。
根来衆は僧兵一万を雍し、雑賀衆とともに最後まで秀吉の支配に抵抗した。
そのため豊臣軍の焼き討ちにあい、僧たちは離散していた。
家康としては根来寺の僧たちに報いなければならなかった。
玄宥僧正は本山の高野山に避難したが、智積院の僧たちは京都に出て暮らしていた。
この僧たちに最初は豊国廟の神宮寺などの施設を与え、後に隣接する祥雲寺の土地建物を
全て与えた。こうして祥雲寺が智積院になったのである。
なお、智積院の名宝「長谷川等伯障壁画」は祥雲寺の壁に描かれたものである。
祥雲寺が破壊されることなく、そのままそっくり智積院になったことで残ったのである。
智積院庭園は「利休好みの庭」といわれ、祥雲寺の時代にすでにあったという。
その後改修が重ねられ、延宝2年(1674年)7代目住職・運敞(うんしょう)のときに
現在の庭園が完成したとされる。
一方、光圀が頼房の作った後園を改修し、それが完成した時期は不明だが、内庭に彰考館を
建てた時期に完成したはずである(上述)。
そうだとすると、小石川後楽園の完成時期は寛文12年(1672)頃である。
智積院庭園と小石川後楽園の完成時期はほぼ同時ということになる。

小石川後楽園の庭と智積院の庭には完成時期以外にもいろいろと共通点がある。
まず、桃山時代の庭園の特徴である、自然の地形を生かした林泉庭園であることである。
小石川後楽園は、徳大寺左兵衛が元々の地形を生かし、できるだけ木も切らないようにして
作庭した。自然の沼があったところを泉水にし、周囲の崖地に石を積んで仙境のようにした。
一方、智積院の庭は東方の自然傾斜地の下に池を穿って作られている。
池に接する築山であるが、これは傾斜地であるからこそ出来た築山である。
後ろが傾斜地であり、山の斜面のようになっているからこそ、大きな築山を作っても
自然に見えるのである。斜面の一部のように見え、どっしりとした感じを与える。
これが後ろが平らな地面になっていたら、いかにも人工的に盛り上げた感じになる。
もっと小さく緩やかな築山にするしかなかっただろう。
次に池であるが、智積院のある東山南端のあたりは京瓦の産地である。
これは粘土が採れる土地ということであり、瓦の他にも京焼の産地として有名である。
日本一といわれる砥石も採れた(今は法律や条令の改正で採取できなくなったらしい)。
東山南端の山麓は白い粘土に覆われており、地面を掘れば粘土である。
だから池を作るのも簡単なのである。
粘土ばかりの池は白く濁る。智積院の庭も濁っており、これが千年待っても水が澄まない
という揚子江を現すのに好適だったのである。
0740名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:39:06.17ID:Hjkxb0g/0
つぎに座観式庭園であること。座観式とは、一定の場所に座って眺める庭園を言う。
観賞式庭園ともいい、苑路を巡る回遊式庭園に対置されるものである。
まず、智積院庭園が座観式であるのはいうまでもない。
大書院の座敷から眺めるようになっている。
昔は書院も講堂もこんなに大きくはなく、池はこれほど間近ではなかったはずである。
書院から遠く廬山を仰ぐつもりで築山を眺めたのである。
では小石川後楽園はどうか。
残念ながら、小石川後楽園が座観式庭園であったなどという人は一人もいない。
作庭された当初から小石川後楽園の庭は回遊式であったということになっている。
それは、最も権威ある資料である鵜飼信興の書いた「後楽紀事」がそのように書いている
からである。この資料に基づき庭園研究家・重森三玲はその著書「後楽園史」において、
(徳大寺左兵衛は)低地を修景して園路を設け松原、馬場はじめ京都の大井川や清水など
古来の和歌の原点である京都付近の名勝を題材にした景色をとりいれ、多様な植栽を工夫
したといえる。こうした基本的な地割や意匠は既に完成しており、江戸初期に作られた、
いわゆる池泉回遊式の初期の大名庭園であり、その後の大名庭園作庭の範になったと考え
られる。」としている。
しかし、時代的にそれはあり得ないと思われる。
この時代の庭というのは、書院や茶屋などの定点箇所から庭を眺める座観式に決まっていた。
風景は蓬莱島に鶴島亀島を添え、他に景観を足すにしても滝石組み程度のものであった。
分かりやすく言うと、蓬莱神仙思想にもとづく仙境を作り出し、そこを周囲から眺めると
いう発想だったのである。勿論庭の周辺に松やモミジ(楓など)・椿などを植え、景観を
楽しむということはあっただろう。しかし、苑路を作って庭の景観の中を観賞して歩くなど
といった発想はまだなかったのである。
後楽紀事はあったとするのであるが、それは著者の想像であり、創作であると考える。
後楽紀事がいかに重要な文献であろうとも、著者は創設当時の庭園を見ていない。
鵜飼信興は後楽紀事を書いたのは、作庭から100年近く経ってからのことである。
後楽紀事に絶対の信を置くことは出来ないと思うのである。
さらに、回遊式庭園と縮景庭園は深く関係する。
縮景とは、名所名勝の景色を庭園の中に写し、あるいはそのように見立てたものである。
そのような多様な景色を作り出すために、重森三玲によれば「松原、馬場はじめ京都の
大井川や清水など古来の和歌の原点である京都付近の名勝を題材にした景色をとりいれ、
多様な植栽を工夫」することになるのである。
そしてそれらは苑路に沿って展開される。それらの景観は苑路に沿って用意され、苑路を
歩むごとに目の前に次々に現れてくるのである。
小石川後楽園は、作られた時にはこのような庭であったとするのが一般の理解なのである。
これに対してはもはや論評は不要であろう。十分に論じたつもりである。
0741名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:39:33.70ID:Hjkxb0g/0
後楽園が座観式であったと言っても、一カ所だけから見る庭ではなかった。
茶屋がいくつかあり、そこで休めるようになっていた。
ここが厳密な座観式庭園である竜安寺方丈南庭などとは異なる点である。
茶屋はただの休憩所ではなく、観賞ポイントであった。
とするなら、鑑賞ポイントを巡って歩くのだから回遊式と言えるではないかとの批判も
あろう。たしかに、ここから先は、「回遊式」とは何かという言葉の意義をめぐっての
議論になりかねない。
まず、小石川後楽園にはどのような観賞ポイントがあったかを明かにしよう。
最初に挙げられるのは清水観音堂の舞台だろう。
舞台ができるまでは、千手観音を安置した観音堂があるだけだった。
しかしその時代から最重要の観賞ポイントであったと考える。
理由は、観音堂から下の景色は観音浄土からの眺めであり、庭園中最高の眺望だからで
ある。ただ休憩所のような建物はなかった。
それは、そこが観音浄土であるから、人間が座って茶を飲むような施設を設ける余地は
無かったというだけのことである。
それなら何故光圀は舞台を作ってそこで茶を喫したかということになるが、その時代には
懸け造りで舞台を作るのが流行ったのである。
例えば家光は慶安3年(1650)に長谷寺の舞台を寄進している。
何故舞台を作るのが流行ったかというと、舞台を観音浄土と捉えるようになったからである。
長谷寺の本尊は十一面観音であり、舞台はそれが観音浄土を現しているのである。
室生寺にも舞台があるが、本尊は如意輪観音であり、舞台が浄土であることは同じである。
山道を登った頂上よりも、崖の上に懸け造りで作った舞台の方がより浄土を実感させた
のであろう。時代の風潮というしかない。
その他、観賞ポイントとしては、久八屋(くはちや)のところにも茶屋はあった。
丸屋という茶屋もあった。
涵徳亭は、その元になる硝子御茶屋(びいどろおちゃや)というのが当初からあった。
(涵徳亭という名がつけられたのは享保年間である)。
硝子御茶屋は大泉水との間に築山をきずき、あえて大泉水が見えないようにしてあった。
大泉水が見えないということは大泉水側から見えないということである。
大泉水側から建物が見えると興醒めになるというような理由もあったのかも知れない。
(硝子御茶屋が何やら秘密めいた会合に用いられた施設であった可能性もある)。
とにかく、このように茶屋がいくつかあるということは、そこの間を移動するということで
あり、回遊式と言えるではないかという意見もあるだろう。
この点、私は回遊式というためには快適な苑路が必要であり、さらに苑路に沿って各地の
縮景が容易されていなければならないと考える。そして歩くことによって次々に景観が
変わることが必要であると考える。
当初の小石川後楽園の道は苑路と呼べるようなものではなかった。ただの通路である。
自然の凹凸がそのままにされ、曲がりくねり、さらに岩や大木の間を縫って歩く道である。
道も細く、移動のための小道にすぎなかった。
このような道を移動しながら景色を観賞する余裕はなかったし、つぎつぎと展開していく
景色も用意されてはいなかった。
座観式の観賞点がいくつかある庭というに過ぎなかったのである。
0742名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:49:59.73ID:Hjkxb0g/0
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
その後、頼豊による改修のときに苑路が隅々まで整備された。
頼豊によって小石川後楽園は池泉式回遊庭園として完成されたのである。
同様の庭は他にもある。初期の岡山後楽園である。
池の周囲に苑路はなく、周囲の高台になったところや傾斜地に小道があった。
その道をたどって茶屋などに移動したのである。
岡山後楽園が回遊式といえる庭になったのは、三代継政(つぐまさ)が12年の歳月をかけて
園内中央に唯心山を築いてからのことである。
栗林園もそうだが、江戸時代初期には観賞ポイントがいくつかあっても、それを一日で回る
というようなことはなされていなかったと想像する。
つまり、回遊ということはなされていなかった。
一カ所だけでは厭きるので、今日はあそこに行こうとか、夏で暑いときはあそこの茶屋が
涼しくてよいとか、秋の紅葉はあそこから観賞しようとか、そうした利用の仕方だった
のではないか。
なお、座観式だからといっていっさい庭園内に入ることはできないわけではない。
その点は昔の方が融通が利いた。
座観式の典型である天竜寺の曹源池庭園などでも、滝石組みの近くまで行き、奥を
覗いたりはできたのである。今は池を挟んで講堂側からしか見ることはできないが、戦後
しばらくの間までは橋を渡ってあちら側に行くことができた。
滝石組みの中に入って鯉魚石まで間近で観賞することもできた。
近くで見なければあの滝石組みの凄さは分からないと言われていた。
しかし、かなり危険なことであった。昔は拝観者が怪我をしても寺の責任を問うような
ことはなかったので、寺も自由にさせていたのである。
智積院庭園も、築山の裏の方から池の縁を歩けるようにはなっている。
目立たないが、苑路(通路)のようなものが無いわけではない。
ただ一般客の立ち入りが禁止になっているだけである。
考えてみれば、庭園を管理する必要はあるのだから、人間が入れない庭などあるわけがない。
それなりに人が通行できるようにはなっているはずである。
座観式の庭は庭園の景を犠牲にしてまで道は作らないが、そうであっても植え込みの裏など
に小道があったとしても不思議ではない。
初期の岡山後楽園も栗林園もそのような小道がついていたし、茶屋などに行くにはそうした
道が利用されていた。木々の間を辿り、岩の隙間を縫うような道である。
小石川後楽園ももちろんそうであった。
これらの庭園は景観優先であり、人が移動することは二の次三の次だったのである。
そもそも中国の神仙思想にもとづき、人の入れない仙境に見立てて作庭されるのであるから、
それが当然である。深山幽谷の趣きのある庭に歩きやすい苑路などがついていたら、却って
そぐわないのである。
最後に、光圀は、得仁堂、文昌堂などを建て、そこを巡る苑路を作ったが、そこは庭園だと
思ってはいなかったはずである。光圀は内庭の方に彰考館の書院や書庫を建てたが、あちらも
当然ながら庭園の施設だとは思っていなかった。
どちらも庭園の隅の斜面になった土地を利用しただけのことである。
西湖の堤も作ったが、あれも人は通さなかったのではなかろうか)。
0743名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:50:52.02ID:Hjkxb0g/0
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
共通点の第三は、須弥山(しゅみせん)をかたどった築山ないし島があることである。
須弥山とは、仏教で世界の中心にあると考えられている山である。
須弥山を解説するのは困難である。ウィキの「須弥山」の箇所を読んでいただくしかない。
そこにある絵図などの写真を見ることは必須だろう。
簡単な解説ならこのサイトにもある。絵が分かりやすい。
https://yasurakaan.com/shingonshyu/shyumisen/
須弥山の中腹の四方には四天王の住む都があり、眷属たちがその周辺に住む。
山頂の?利(とうり)天には帝釈天の住む城がある。
帝釈天は天帝帝釈ともいい、四天王を配下として須弥山を守る。
帝釈天の像は、白象にまたがり、独古を持ち、鎧を身につけて中国の武将のような姿を
していることが多い。?利天にある帝釈天の城は善見城という。
以上を前提に、まず智積院庭園について検討しよう。
この庭のどこに須弥山をかたどったものがあるのか。
それは池の向こうの築山である。
今一度上記サイトを見ていただきたい。
https://garden-guide.jp/spot.php?i=chisyakuin
築山の上に石塔がある。
これが帝釈天の善見城なのである。
この築山は昔はもっと高かったかも知れない。下の方にはより多くの大きな石が組み上げ
られていただろう。サツキはもっと大きく、四角く剪定して壁のようにしてあった。
それによって切り立った断崖が表現されていたのである。
今は一面の最近は丸い刈り込みしかなく、デザイン変更されたようである。
庭師がこの築山が須弥山だということを意識しなくなったのかも知れない。
ところで、池の向こうの築山は蓬莱山のはずであった。
それが何故須弥山なのか、疑問に思われる向きもあるかも知れない。
結論から言うと、鶴亀蓬莱庭園というのは一つの型であり、型というのは守られればそれで
いいのである。型を守った上で、別の趣向を持ち込むことは可能であり、自由である。
智積院庭園では、池の向こうの築山は蓬莱山であるが、しかしその姿は須弥山である。
蓬莱山と見る人は見ればよいし、須弥山に見えるのであればそのように見ればよい。
なお、智積院庭園には鶴島亀島が無いが、おそらく池が狭くなり撤去されたのだろう。
とにかく書院や講堂が大きく、ぎりぎりまで庭に寄っている。
これでは池もかなり埋め立てられているはずである。
本来は最低でもあと10メートルは奥行きがあっただろう。
その証拠に、舟入石を置く場所がなく、縁側の近くに置いて穴を穿ち、手水鉢になっている。
本来は池の左右に鶴島亀島が並び、その手前に舟入石が半分水に浸かって置かれたはずである。
0744名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:51:42.45ID:Hjkxb0g/0
では、小石川後楽園の中の島(蓬莱島)はどうか。
この点、元々の島の姿からすれば須弥山としか言いようがない。
須弥山とは、仏画などでは曼荼羅のような幾何学的な模様であらわされているが、機能を
含めて描くとあのようになるのであって、本来は笠が開かない松茸のような形をしている。
松茸よりもエリンギのような形といった方が分かりやすいかも知れない。
小石川後楽園の中の島の姿はアニメ映画のラピュタに出てくるような形状であった。
水面から五メートルほどの高さまでは大石が組み上げられ、そこからさらに尖塔のように
数メートルの高さの石が組まれていた。
その頂上付近から水が噴き出し、滝になって流れ落ちていた。
須弥山では甘露の法雨という甘い水が降ってきてそこに住む者たちの喉を潤す。そのため
誰も何も食べないでも生きていけるのである。
この様子を現すためには本当は霧のような水が噴き出すのがよいのだが、当時はそんな
ことはできない。だから滝だったのである。
しかし風の強い日など、風に吹き散らされる滝水は甘露の雨のように見えただろう。
石の間に中国風の常緑樹が植えられ、それらが枝葉を拡げていた。
遠くから見ると下半分は巨石の塊であり、上半分は茂りに茂った常緑樹の塊であった。
常緑樹は大きく枝を拡げているため、上半分の方が大きく見え、キノコのようであった。
これを見て「みな人奇異の見物なりとて驚かざるものなし。」という有様だった。
そのことは上に書いた。

中の島(蓬莱島)だけでなく、亀島も鶴島も規格外に大きなものだったと思われる。
(念のため、亀島はかめじま、鶴島はつるじま、と濁って読むのが正しい)。
亀島の大きさは、亀頭石である徳大寺石の大きさからも想像がつく。
亀島と鶴島はセットであるから、鶴島も大きなものだったろう。
さらに、鶴首石や島に植えられた松は、堂々として重厚感に溢れたものであった。
庭園全体に伊豆の御用山から運ばれた石が無数に使われていた。
中国の廬山のような、岩山と渓谷からなる仙境の雰囲気を目指した庭だったのだろう。
植栽は太古の昔からの山林を利用し、なるべく大木も切らず庭園に利用したというところ
から考えても、今日の私たちが考える庭園とはまるで違うものだった。
以上から何が言いたいかというと、築造当初の小石川後楽園の庭は、江戸中期の大名庭園
とはまるで違う庭園だったということである。
大泉水を琵琶湖に見立て、その向こうに唐崎の松がある。もしそういうものだとしたら、
その手前の蓬莱島が高さ10メートルもある奇怪な形の島であるわけがい。
頼房が作った当初の庭は、大名庭園などとは次元の違う庭だったのである。
0745名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:53:44.76ID:Hjkxb0g/0
そしてこの庭園を光圀はほとんど変えなかった。
後楽紀事にある。
「一木を伐り一石をうこかしたまふ事はなかりけるとこそ。明遺臣舜水に命ぜられて、
御園の名をえらばせられし時に、(中略)後楽園と名付けられて、御屋形より御園への
唐門にも右の三字を書して扁額となせり。得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公上の
御経営なり。すべて威公上のあそばされたる御事を、少しなりともあらためたまはず。
されどことにより改めさせたまふこともありしかど、是はまたもとのごとくに成べき
ことなり。一木なりとも枯たるは御本意なき御事とて、年々御植かへは有之候得ども、
大木を伐らせらるる事は、かってこれなかりけるとそ。松は別て御当家へいはれある
ことなれば、一枝をも伐らせたまはざりけり。」。
光圀は受け継いだ庭の「一木を切ることもなければ一石を動かしたこともない」という。
「得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公(光圀)が造営したものであるが、(これらは
新たに付け加えたものであって)、威公(頼房)のなさったことは少しも変えることは
なかった。」。「とはいえ、事によっては改めることもあったが、それらはみな時間が
経てば元のとおりになるものばかりであった。」。
「一本の木であっても枯れてしまったものがあれば、威公の御本意に反するだろうと、
毎年植え替えをしていた。しかし大木を切ったことはかつて一度もない。」。
松は別けて(わけても)御当家に因縁の深い木であるから(もともと松平姓だから)、
木を切らないどころか枝一本も切らせはしなかった。」というのである。
だから、光圀が新たに加えた徳仁堂などの造営物以外は、庭園はいっさい頼房時代その
ままの状態であったことになる。

にもかかわらず、後楽紀事は最初から大名庭園であったかのように書くのである。
これが分からない。
たしかに鵜飼信興が後楽紀事を書いたのは頼豊による改造が行われた後である。
目の前にあるのは、各地の名所名勝の景を並べた縮景庭園である。
歩きやすい苑路も整備されている。まごうことなき大名庭園なのである。
鵜飼信興がそれ以外知らないのだとしたら、最初からそうだったと思っても仕方ないの
かも知れない。
例えば「後楽紀事」は琉球山(屏風岩の後ろの小山)について、「白きつつじの木余多
(あまた)植ゑたる山なり。」と記述している。
築山にツツジを一面に植え、いっせいに咲かせて花に埋もれた山にするのは、江戸中期の
大名庭園によくある様式である。
こういったものは他にいくらでもある。熊本の水前寺成趣園、高松の栗林園、岡山の後楽園
などである。上述した岡山後楽園の唯心山は色とりどりのツツジを植えて華やかである。
しかし、もちろん最初からそうであったわけではない。
そもそも唯心山自体が後から作られたものである。
小石川後楽園の琉球山は真っ白なツツジの山にしたというのだから、おそらく富士山の景
なのであろう。こうした遊び心は江戸中期以降のもので、頼房の時代には無いものである。
江戸時代初期の庭には園芸種の草木は植えられることはなかった。
さらにツツジが庭に使われるようになるのは江戸中期以降である。
こんなツツジの山を見て、鵜飼信興はこれが最初から有ったものだと思ったのだろうか。
もしそうならかなり無邪気な人物である。たしかに鵜飼信興は庭園史などは知らなかった
かも知れないが、いくら何でもそこまでものを知らない人物ではあるまい。
0746名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:55:48.55ID:Hjkxb0g/0
例えば得仁堂について、後楽紀事には「その後享保中、讃州岩清尾の八幡となる。八幡堂と
称す、額はやめらる。」とある。
頼豊が光圀の安置した伯夷・叔斉の像を讃岐岩清尾神社の八幡像に取り替え、「八幡堂」と
改名、「得仁堂」と書かれた額は取り外されたというのである。
この「八幡堂」は、文政9年(1827)に八代斉脩が八幡像のために宮を新設し伯夷・叔斉の
像を戻したので、それ以降再び「得仁堂」と呼ばれるようになった。
後楽紀事が書かれた時にはまだ八幡堂のままだったのである。
こういうこともしっかり書いてある。
事実は詳細と言っていいレベルできちんと書いてある。
にもかかわらず、琉球山についてはいっさい経緯を書かない。
最初から白いツツジの山であったようにしか書いていないのである。
頼豊が琉球山を富士山の形に削り、一面に白いツツジを植えたのを知らないはずはなかろう。
頼豊が庭園を弄ったのはせいぜい後楽紀事出版の6年ほど前までで、白いツツジ山が作られ
たのも20年以上前ということはない。そんなものが作られれば当然人の話題になるはずで
あり、小石川の藩邸に住んでいた鵜飼信興がこれを知らないはずはないのである。
それなのに頼豊がやったことであるとはハッキリ書かない。
こういうところがおかしい。
(なお、栗林公園の飛来峰の頂には白い石で築かれた石組みがある。珪化木(けいかぼく)
という植物の化石なのだそうである。わざわざこのような石を使ったのは富士の高嶺の雪を
現すためという。これをやったのは勿論頼豊である)。

では何故後楽紀事には、小石川後楽園は造営当初から縮景庭園であり、回遊式の庭園で
あるかのように書かれているのか。
おそらく、造園の当初は回遊式ではなかったと書けば、頼豊による庭の改造を全面的に
認めることになるからだろう。
大泉水を琵琶湖に見立てたり、庭のあちこちを京都の風景に見立てたりするようなことは
なかったと書けば、今の庭園は威公様や義公様ご苦心の御庭ではないということになる。
言っておくが、庭の様式など変わってもよいのである。
多くの大名の庭園は、作られた当初は江戸初期の鶴亀蓬莱庭園の形式であった。
しかし、そのほとんどがいつのまにかありきたりの大名庭園になった。
岡山の後楽園も、讃岐の栗林園もそうである。これは避けられない変化であった。
だから本来からすれば、小石川後楽園の庭が大名庭園になっても何ら問題はないのである。
しかしながら、小石川後楽園では一つだけ他の大名とは違う事情があった。
その改造が徐々にではなく一挙になされ、かつ殿様でない人物によってなされたことである。
もちろん頼豊は息子の宗堯(水戸藩第四代藩主)の名で命令を出していた。
しかし、頼豊が宗堯に代わり藩主のようにふるまっていたことは誰もが知るところである。
後楽園は藩祖である頼房公が作り、二代光圀公が完成させた庭である。
これを養子としてやってきた殿様の父親が好き放題に改造してしまった。
このことは水戸藩の家臣たちにとっては屈辱であった。
屈辱として忍ぶ家臣ばかりではなく、それを容認した重臣たちに対する批判も沸き起こった
のではないか。
0747名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:57:20.22ID:Hjkxb0g/0
上述のとおり、後楽紀事の出版は享保21年(1736)である。
その前年に頼豊が亡くなっている。
頼豊の息子である宗堯は享保15年(1730)に急死したのであるから、この時から頼豊は
水戸家への出入りをしなくなったはずである。
つまり、頼豊が水戸家とのかかわりを断ってから6年、頼豊が死んでから1年経った後に
後楽紀事は出版されたのである。
本の出版と頼豊の死を関係づければ、いろいろな動きが見えてくる。
頼豊が死んで一年後に出版されたということは、頼豊が死んですぐに本の執筆が始められ
たということである。(或いは頼豊が病に倒れた時から書き始められたかも知れない。
水戸家と高松松平家は親戚であるから頼豊の病勢はすぐに分かる)。
しかも本が書かれたのは鵜飼信興の自発によるとは思われない。
藩の殿様たちが出てきて、誰がどうしたというようなことを詳しく書くのは、当時は憚られ
たのである。書くにしても家中全体の許諾ないし黙諾が必要であった。
本を書けば藩の人間だけが読むとは限らない。どうしても藩内の事情を外の人間が知る
ことになる。それがいいか悪いかを判断するのは著者ではないのである。
後楽紀事が出版された以上、許諾があったのは勿論であるが、許諾どころではなかろう。
藩首脳部の指示によるものではなかろうか。
おそらく頼豊の行為を見過ごした藩(藩邸)の重臣たちに対する批判が根強くあり、重臣らが
これを気にして鎮静をはかったのだろう。
そのためには、今の庭園をある程度は肯定しなければならない。

そこで、第一に頼豊の改造は庭園の見晴らしをよくするためのものだったとする。
庭は太古からの自然の地形を利用したもので、大木も切らずに庭園に取り込んだ。
それらが繁茂して見晴らしが悪くなったのでこれを切った。
700本も切ったので庭園の景観が一変した。
しかし、とにもかくにも木が伸び放題だったので、手入れとして始めたのが切っ掛けで
あったとしたのである。こうした事情だと重臣たちが止めなかったのはやむを得なかった
ということになる。
第二に、庭園の大木をおおかた切って見晴らしがよくなったが、そこで現れた景は
頼房公時代に作られたものだとすることである。
琵琶湖や唐崎の松、清水寺の滝や舞台、大堰川や(小倉山)の紅葉などは頼房公らが
作られたものであり、そのまま現在に伝えられているのだとするのである。
頼房公時代の景観まで変えられれば、これは庭園の破壊ということになろうが、そうでは
なく、昔の景観が大木の陰から現れたように書いたのである。
第三に、頼豊の改造の前に桂昌院の御成りに伴う改造があったことを思い出させる、
あるいは周知させることである。
老婆が安全に歩けるよう、大きな石や岩が軒並み撤去され、池の周囲に平坦な苑路が
作られた。取り除けられた石や岩が桜の馬場などの広場に山と積まれたというのである。
これは30年以上も昔のことであり、今の重臣たちには責任がないことである。
要するに、石や岩はほとんど無くなったがそれは御成りのためである。
大木は切られたが、それは園内の見晴らしをよくするためだったとしたのである。
0748名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:58:24.26ID:Hjkxb0g/0
以上、後楽紀事はいろいろな時代のエピソードが整理されずに書かれているので、ただ
事実を羅列しただけのように見えるが、整理してみると、結局は頼豊の改造によっては
さほど庭園は変わっていない、むしろ昔に戻ったかのように書かれているのである。

こんな本を書けと命ぜられて、鵜飼信興はおおいに苦しんだと思われる。
目の前の庭園の景はほぼ全て頼豊が作ったもの、あるいは見立てを決めたものである。
それを知りつつも、現在の庭園を否定することはできない。
頼房の時代にこうした縮景庭園を造ったということはあり得ないのだが、仮にそれを
知っていたとしても、おくびにも出さなかった。
結局、今の景観が頼房公や家光公の苦心でできたように書いたのである。
しかし、さすがに学者らしく集められたエピソードは嘘ではない。
事実を書きながら、根本のところで大嘘を書いた本なのである。
嘘というのは当たらないかも知れない。鵜飼信興は「神話」を作ったのである。
それは水戸藩のメンツと重臣たちの責任逃れのためであった。
頼豊に藩祖の頼房公以来の庭園を改変されたということは水戸藩士にとって屈辱である。
頼房・光圀の丹精こめた庭園が目の前で壊されていく。それを指を咥えて見ていたという
のでは単なる屈辱では済まない。
特に藩主にものを言える立場の重臣たちは何をしていたのかということになる。
そうした非難を何とかしてかわしたい。
とすれば、今の庭園を肯定するしかない。
頼豊による改変はほとんど無視し、頼房公の作られた庭園そのままと受け止めるのである。
改変はされたが、基本的には変わっていないと捉えるのである。
後楽紀事は、そうした理解普及のために書かれた本である。

ここまで書いてきて、新たな資料に出会った。
「東京都における文化財庭園の保存活用計画(小石川後楽園)」という文書によれば、
田村剛著・「後楽園史」に以下のような記述があるという。
「松平頼豊による改変により景が一変してからは、改変前の景を知る者の拝見が禁止された」
というのである。(原典等詳細は不明である)。
庭園の以前の景観を知る者は、改修後の庭園には入れないようにしたというのであるから、
江戸藩邸内で改修が大いに話題になっていたのだろう。
勿論批判も多く、それに対して高松松平系の家臣たちが敏感に反応したようである。
その結果、改修について話題にするのも憚られるようになった。
さらには改修前の庭園を見た者が改修後の庭園を見ることが禁止されたのである。
あそこがああなった、こうなったなどという話をすれば、頼豊がどれほどに庭園を破壊して
しまったか明白になってしまうからである。
このような状態とすれば、鵜飼信興が後楽紀事に改修前の庭園の様子を書けるわけがない。
しかし、小石川後楽園について書く以上、改修前の庭について書かないわけにもいかない。
とすれば、改修前改修後のも、庭はほとんど変わらないように書くしかないのである。
もちろん滝が壊れたり中の島が崩れたりはした。しかしそれは地震によるのであるから仕方の
ないことである。こうした自然の経緯についてはしっかり書いてある。
0749名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 19:58:49.82ID:Hjkxb0g/0
また、上記「後楽園史」によれば、頼豊の改修により園内に畑が作られ、大根、蕪などが
栽培されていたという。また水車楼のそばに果樹が植えられた。
さらに、丸屋は耕作の際に休憩する御茶屋とされていたほか、亀や鯉、鴨、鶴等の生き物を
飼育していたという記述があるという。
頼豊はこういう庭が好きだったようである。

大泉水は琵琶湖であるとし、そこに行くまでの中山道の木曽路や、京都やその周辺の名所を
写した庭園にしたのは誰かといえば、それは間違いなく頼豊である。
これは上に繰り返し述べてきたところである。
だが、日本の史学は文献主義であり、もっとも権威のある文献である後楽紀事が、頼房の
庭園作成時にすでに縮景庭園であるとし、回遊式庭園であったとする以上、それに異論を
唱える学者などいない。
上述のように、日本庭園史の研究者である重森三玲という人など、小石川後楽園を
「諸大名の大庭園中、最も早く完成した大名庭園」と規定している。
後楽紀事の記述を前提にする限り、当然そうした位置づけになるだろう。
これ以外の説は成立しないのである。
とにもかくにも文献は重要であり、文献があればそちらが重視される。
文献に反するようなことを書いても無駄である。
であるから、ここに書いたことは一笑に付していただきたい。
忘れていただいて結構である。
0750名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/17(月) 08:26:16.48ID:I1eV0Zpd0
ここまで書いてきて閑話休題。
しかし、水戸藩の侍たちもだらしがない。
御成りのときに庭園を大改造するような必要があったのか。
手を加えずにおくことはできたのではないか。
幕府からは勿論事前に御成奉行が来て「ああせい、こうせい」と指図する。
はじめて御成りを迎える大名は御成御殿というものを新築する。
その御殿建設にあたっては奉行が三人派遣され逐一指図を受けることになっていた。
小石川後楽園への御成りのときは御成御殿は建てられなかったが、その分庭園の改造を
要求されたわけである。奉行たちが庭園を隅々まで見て細かく指示したのだろう。
しかし、家光公ご苦心の庭という一言で排除できたはずである。
「大猷院様(大猷院とは家光の廟書の名称である)お骨折りの御庭」と言うだけである。
それだけで奉行たちは命令を引っ込めざるを得なくなるはずである。
あちらはどうせ庭園などに興味はない。
奥仕えの女中たちの暇つぶしである。庭園などチラと覗けばそれでいいのである。
硝子御茶屋などで大ご馳走になっただけだろう。

それにしても何故奉行たちの言うがままに石を撤去し、庭園を破壊してしまったのか。
改造に応じるにしても、そこそこに済ますことは出来なかったのか。
御成奉行の指示とはいえ、ここまでやってしまうのは尋常でない。
こうなったのは、当時の水戸藩江戸屋敷の方にも原因があったと見るべきである。
結論から言えば、江戸藩邸は高松松平家に支配されてしまっていたのである。
桂昌院の御成りは元禄15年(1702)である。
その時の藩主は第三代綱條であった。光圀の兄である高松松平藩主頼重の次男である。
光圀が水戸德川家の血統を長男である兄頼重の系統に戻すため、綱條を養子にした。
将来自分の跡目を継がせることにしたのである。
光圀の養子となった綱條は、約20年後の元禄3年(1690)、光圀の隠居にともない、35歳で
水戸藩主となる。桂昌院の御成りがあったのは、その12年後で綱條47歳。
その二年前に光圀は亡くなっている。
光圀は隠居してからも水戸藩の政治には目を光らせ、決して養子の綱條や重臣たちの勝手には
させていなかった様子である。
しかし死の数年前から胃の不調に苦しみ、さらに亡くなって2年も経てばもはや忘れられた
存在であった。ここに至って藩内はようやく綱條の天下になった。
綱條の天下というより、より正確には綱條に付いてきた元高松松平家の家臣たちの天下と
なったのである。従来の水戸系の重臣たちの地位はそのままだったろうが、光圀という
バックが無いために綱條に対する影響力を失った。
一方、高松松平家から付いて来た家臣だちは綱條の側近グループを形成し、江戸藩邸の政治を
仕切り始めた。小石川藩邸における綱條の側近たちを誰それと特定することはできないが、
間違いなくこうした高松松平家系の家臣たちがいたはずである。
時あたかも側近政治が盛況の時代だった。当時を「側用人の時代」という学者もいる。
(綱吉における柳沢吉保、家宣における間部詮房を想起されたい)。
重臣でなく、殿様の側にいるお気に入りの家臣が政治を動かす時代だった。
綱條の側近たちは、水戸家の庭園などには思い入れも何もない。
庭園を守ろうなどとは考えず、幕府の奉行たちの言うことをホイホイ聞いてしまった。
御成奉行に必要以上に迎合し、庭園を大きく破壊してしまったのである。
0751名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/17(月) 08:29:01.81ID:I1eV0Zpd0
その後高松松平家から宗堯が養子に入り、成長して四代藩主の地位に就いた。
そうなってからは、さらに高松松平家系の家臣たちの力が強くなった。
この家臣たちによって水戸家は乗っ取られたようになったのである。
そうでないと、頼豊などという、自藩の家老たちにも相手にされていない政治手腕の無い
殿様が強権をふるうなど不可能であろう。
頼豊はまるで水戸藩主のようだったというのは、当時の文献が一様に伝えるところである。
ただし、頼豊がここまで堂々とやり切ったのには本質的な理由がある。
頼豊は光圀のことなど問題にもしていなかったのである。
それは何故かといえば自分たちは頼房の長男の血統だからである。
自分たちの方が由緒正しい血統であり、本来水戸家の藩主であるべき血筋なのである。
高松松平家は水戸家の支藩(分家)というが、実際はこちらが本家なのである。
光圀が水戸家を継いだのは間違いであり、朱子学的にはあってはならないことである。
それは光圀本人が認めている。
間違いを認め、反省した光圀本人の手で、水戸家は本来あるべき姿に戻ったのである。
頼豊はそのように考えていたので、水戸家の政治に自分が口を出すことを当然と思っていた。
光圀が取り立てた重臣などに自分の息子が抑えつけられ、指図されるなど到底我慢ならない
ことであった。光圀は何かの間違いで二代目藩主となっていたのだから、その影響力は早急に
取り除かねばならない。従来の重臣たちを遠ざけ、自分たちで藩政を独占した。
光圀の残した後楽園なども目障りである。
少なくとも、そのままにしておく必要はないと思ったのだろう。

上で水戸藩士もだらしがないと言ったが、実際に水戸藩士の立場だったらどうだろう。
誰も何も出来ないかも知れない。
頼豊の改造のときは、頼豊が木が多すぎるとか大きすぎると言ったのだろう。
木など後から伸びてくる。藩士たちは剪定だけと思ったのかも知れない。
工事が始まったらもはやそれまでである。やり出したら止まるものではない。
庭園改造だけでなく、一から十までこれだった。
従来の藩邸重臣などには相談もせず、いきなりやってしまう。やった後に説明もない。
宗堯の生母を高松から呼び寄せるため御殿を建てたときもそうだった。
いきなり普請が始まり立派な御殿が完成した。何だろうと思っていると、生母が移って
きて、高松から連れてきたお付きの女中たちと贅沢三昧の暮らしを始めた。
何も知らない従来の藩邸の住人たちにとっては、降って湧いたようなことであった。
実際のところ、頼豊や高松松平系の家臣の暴走を止めるには宗堯を殺すしかなかった。
しかしその時には庭園は一変していた。
後楽紀事が書かれた理由を一つ足しておく。
宗堯の死について、水戸家中だけでなく世間でもいろいろ取りざたされたのではないか。
これを払拭する必要があったのかも知れない。
頼豊公はたいした改造はしていない。水戸の藩士たちは改造のことなど気にしていないと
いうことを世に表明したかったのかも知れない。
0752名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/17(月) 08:33:52.82ID:I1eV0Zpd0
[ 現在の後楽園について ]
中の島(蓬莱島)は見るも無惨である。
土を盛って木を植え、周囲を多少石で囲っただけである。
亀島などは徳大寺石を立てたところまではいいが、他にまともな石が一つもない。
残土置き場のようである。
竹生島などは庭師の仕事が雑すぎて、眺めていると心が荒んでくるようだ。
涵徳亭の庭に置かれた石はただ投げ出されただけのようであり、そもそも品のない石ばかり
で見るに堪えない。全体に日本庭園の格調が感じられない。
おそらく、庭園を管理しているのは日本庭園専門の庭師ではないのだろう。
都庁の役人も造園会社も、普通の公園を管理している人たちなのだと思われる。
日本庭園が公園化され、半分西洋庭園のようになるのは仕方がないことである。
苑路が普通の道路のようになり、泉水の縁がセメントで固められてもやむを得ない。
しかし、泉水の中までは人は入らないのだから部分的には本物の景観を作らないといけない。
涵徳亭の庭なども本気でつくらなければならない部分である。
京都などの、本物の石組みを築ける造園会社を使わなければ駄目だと思う。
その他、近代的・西欧的公園との関係でいうと、田圃のようなところにアヤメを一面に
咲かせるようなことは本来日本人のしなかったことである。
ああしたものは、広大な敷地一面にチューリップやラベンダーを咲かせる感覚に近い。
昔も菖蒲田のようなものは作ったが、今のようなものではなかった。
(兼六園も曲水のところにカキツバタの群生があるが、昭和51年に有料化してからやり過ぎ
である。昭和44年に園内から離れたところに梅林を作っている。あれも不要であった。
水戸の偕楽園には梅林や竹林があるが、もともとは戦時の軍糧にするためのものだった。
そもそも偕楽園は公園であって、日本庭園とはいえない)。
ともかく、広いところを一面の花畑にするというのは、田舎の市町村でもいくらでも作れる
景観であるから田舎でやればよい。
アジサイを数百・数千本植えた寺が観光名所になっているが、ああしたものもまともな感覚の
人間ならしないはずである。
田舎の寺でやっている分にはかまわないが、それは日本庭園とは何の関係もないことである。
花を咲かせるにしても万事控えめがよい。日本庭園には抑制が必要である。
侘びや寂び、枯淡の境地に通ずるものがなければならない。
何よりも大切なものは品格である。
不要なものを削ぎ、削ぎに削いだ結果ごく単純な美が残る。それが品格を生むのである。
馬鹿げた風景を作り出してはならない。
修学院離宮の庭
https://kyotofukoh.jp/report461.html
後水尾天皇の作庭。1596年に生まれ1680年まで長命した天皇で、徳川頼房とほぼ同時代の
人である(頼房は1603年に生まれ、1661年に死亡)。
この二人の人生は、60年近く重なっている。
後水尾天皇は庭に造詣が深く、修学院離宮の他にいくつもの庭を手がけている。
小石川後楽園が出来たときは、すぐにその絵図(設計図)を取り寄せ、これは名園なりと
感嘆されたという。
0753名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/22(土) 07:30:07.22ID:RXHRGJxE0
庭園長々と書き込んですいませんでした。これで終わりです。
皆さんの書き込みを邪魔してしまったかも知れない。
どうぞ自由に書き込んで下さい。
0754名無しさん@お腹いっぱい。2022/12/21(水) 12:23:53.19ID:U2p/KSb90
水戸藩主・徳川斉昭がペリー殺害を計画…攘夷など示す書簡16点、倉敷で発見

書簡が見つかった江戸末期から塩田開発で栄えた旧野崎家住宅には、約10万点の史料が保管されている。
見つかった書簡は、斉昭が幕府の海防参与の職にあった1853~55年頃に書かれたとみられる。
 「夷人(いじん)焼殺ノ件」と朱書きされ、黒船で江戸の手前まで乗り付けたペリーら米の使節を「墨夷(ぼくい)」と呼び、抹殺する案を詳細に書き付けている。
書簡で斉昭は「仕掛けをした屋敷に入れてしまえば一度に焼き殺せるのではないか」「江戸城内の大広間で上官らに
酒をたっぷりと飲ませて頭をはね(中略)品川の辺りに待機したものには狼煙(のろし)を上げて知らせる。船中に
残ったものも残さず切り捨てられる」といった計画を記している。調査した県立博物館の横山定副館長は「腹心の
東湖に率直な意見を述べており、一貫した攘夷思想を唱えた斉昭らしさが、うかがえる印象的な書簡で、貴重な
発見だろう」と話している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/172e1d3eda022c45ee7aa54d98528a104c11ac17
0755名無しさん@お腹いっぱい。2023/12/05(火) 20:21:28.00ID:vqkSBReB0
一橋慶喜は禁裏御守衛総督として京都にいた。武田耕雲斎の一党(天狗党)が西上して
きたと知ると、慶喜は自分を征討軍の総督に命じてほしいと朝廷に願い出た。
願書には以下のようなことが書かれてあった(意訳)。
「このたび常野浮浪の徒が多数人、中山道を罷り越して容易ならざる情勢であります。
この上帝都に迫るような事になれば、禁裏を守衛するという職掌上恐懼に堪えません。
のみならず、この集団の中には実家の家来等も交じっているようでありまして、これは
特段に相済まぬことであります。それ故、速やかに江州路まで出張して追討つかまつる
所存にございます。」。
朝廷では「そのようなことをしたら人心が動揺する」という理由で許さなかった。
許さなかったのは、実は一橋公と水戸勢がくっついて攘夷を決行するに至るのではないかと
いう憶測(噂)があったからである。
(こうした噂は薩摩藩が振りまいたものらしい。たしかに薩摩の工作もあったようである。
しかし誰でも考えるようなことであり、自然発生的な部分もあったと思われる)。
水戸といえば尊皇攘夷であり、その行動の激しさは伝説のようになっている。
今一橋公が実家の水戸の侍たちに取り込まれればどういうことになるか。
長州と手を結び、ふたたび禁門の変のようなことが起きても不思議ではない。
一橋公御謀反か、といった観測まで囁かれ、それが幕府内部や会津、薩摩でさえ半ば信じられて
いたという。
こうした徒党を慶喜が庇えばどうなるか。
天狗党西上軍は幕府の追討を受けて関東を逃れてきたのである。いわば幕府のお尋ね者である。
お尋ね者を庇えば幕府との対立は免れない。
対立の結果、慶喜は幕府内における地歩を失い、孤立するであろう。
孤立した結果、取り込んだ天狗党の影響で長州や土佐の尊攘派と結びつく可能性は確かにある。
こうした予測を立てられるだけでも慶喜には迷惑千万であった。
さらに天皇との関係でも支障が出るのは明かだった。
もちろん孝明天皇は夷人嫌いである。ヒステリー症か何かのように夷人に拒絶反応を示す。
だから天皇が攘夷主義者であることは間違いない。
けれど、攘夷攘夷と騒いで暗殺をしたり、集団で京へ上ってきて戦争をはじめるような連中は
大嫌いなのである。尊皇攘夷運動によって朝廷の地位が高くなるのは結構だが、あくまでも
幕府あっての朝廷である。
孝明天皇にとって幕府なしの皇室などは考えられなかった。
今、幕府の柱石である一橋公に本卦帰りされては困るのであった。
慶喜が幕府と対立すれば、天皇は慶喜を捨てるであろう。それは間違いのないことだった。
慶喜は、そんな結末を考えただけでゾッとするのである。
何としてもそんな展開は避けたかった。
0756名無しさん@お腹いっぱい。2023/12/07(木) 12:52:15.52ID:kohuMx2s0
朝廷は慶喜を征討軍の大将にはさせたくなかったが、重ねて乞うものだから仕方なく許可した。
その肩書きは禁裏御守衛総督である。それまでの肩書きと何も変わらない。
天狗党西上軍が京都に迫るようなことがあっては困るから、禁裏(朝廷)を守るために出陣する
という名目なのである。
これにより12月3日、慶喜は京都から大津に出陣することになる。
その行列はまことに勇壮華麗なものであった。
徒目付・小人目付を先駆として歩兵・大砲・別手組の諸隊、中軍には講武所の兵と床机隊・大砲隊。
これに続き赤字に葵の紋をつけた旗を立て、旗本勢が持小筒組を率いて進む。
次に馬印や陣鐘、太鼓、旗、さらに騎馬隊が往く。
その後にようやく慶喜が出てくる。左右を守る旗本たちに続いて書院番士たちが手槍を棒持ちに
して進む。さらに大砲・臼砲、鉄砲隊・・・・
わずか千人に満たない天狗党西上軍、それも侍は半分もいない軍勢だというのに、それを討つ
という慶喜の行列は大仰きわまりない。
京の人々は壮麗な軍勢を見て侮蔑の薄笑いを浮かべた。
「長州様は手強いが、ご家来すじで歩き疲れた天狗さんをお打ちになるにはえろう勇ましいこと」。
長州征伐はダラダラやる気があるのか分からないが、家来筋で慶喜に抵抗できないはずの天狗勢を
討つのには積極的だと笑ったのである。
行列は朝に京都を出て、陽の高いうちに大津に着いた。
(現在の京都市役所と大津市役所の間は直線距離で10キロしか離れていない。)。
翌日には徳川昭武(慶喜の弟)が水戸藩の本圀寺勢を率いて京を出立した。
昭武は禁裏御守衛総督軍の先鋒ということで、大津で兄の慶喜本隊を追い越し、草津に進軍した。
そこから関ヶ原・大垣と進んで岐阜あたりに出てくる西上軍を待ち構えるつもりであった。
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