清水次郎長

1浜田の寝言「まっつんはよ食べな!」2013/10/13(日) 06:34:29.67ID:ir6POV1Ri
語れ

2名無しさん@お腹いっぱい。2013/10/16(水) 04:56:51.21ID:LDsY7pKji
親分

3名無しさん@お腹いっぱい。2013/10/16(水) 18:10:40.78ID:TU1xEj9/0
博徒

4名無しさん@お腹いっぱい。2013/10/17(木) 21:01:58.83ID:SmOg70gl0
アーティストって俺のこと。

5名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/13(水) 12:28:42.95ID:jKyGAJjy0
文政3年〜明治26年
駿州清水湊の産
幕末期においては武闘派の博徒として、近隣をのし歩き
一転、明治期に入っては新政府に協力的に公事業等にも従事した。

慶応4年9月、旧幕府軍の軍艦咸臨丸が清水港で攻撃され、
乗員の死骸が海に打ち捨てられていた際、新政府側の目も憚らず
彼らの遺体を堂々と回収、葬ることで大いに侠名を上げた。

6名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/17(日) 00:37:56.81ID:8ub0GCpv0
世間的には、村上元三の『次郎長三国志』が定本のように
言われているが、内容的には子母沢寛の『駿河遊侠伝』の方が
正確だし面白い。

7名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/17(日) 13:04:42.35ID:8ub0GCpv0
もちろん山本鉄眉の『東海遊侠伝』が根本にあるのは言うまでもない。

8名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/17(日) 13:20:33.61ID:JvmUUN4t0
アーティストって俺のこと

9名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/17(日) 16:58:37.48ID:NLQQk26TO
清水

10名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/18(月) 01:35:40.79ID:J+zm1fT20
清水一家の勢力圏は東は江戸から西は近江の大津まで。この大津で会津小鉄と衝突する。

聖護院の丑という博徒が大津にいる女の所へ通っていたが仲間には言わなかった。しかし、桶屋の舎弟が会津の侵出と邪推し丑を殺す。

親分の小鉄が元気ならよかったが、小鉄は病床にあり清水の殺し屋と戦う態勢ではなかった。

若い者頭だったいろはの幸太郎は一家の若い者を抑えると単身大津に乗り込み敵討ちをしたが下獄を余儀なくされた。

いろはが会津の跡目を継げなかったのはこれが原因。

11名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/18(月) 23:21:59.56ID:a/lHP5C10
東、江戸においては「上萬」と兄弟分の契りを交わしたことは有名だが、
史料上確認できるのは多摩郡神山村(現・東久留目市)に火場所があったという
一点くらい。
ここの親分栄五郎は次郎長一の子分・大政の兄弟分であり、同じく次郎長の盃
を受けた駿州の竹之助を引き連れて、方々の賭場を荒らしまわった。
やがて小金井一家の代貸・陣屋三之助と抗争に発展し、陣屋は入牢、栄五郎は
殺されて痛み分けに終わる。
栄五郎の後は「新鍛冶」こと榎本新左衛門が継ぎ、土支田一家を起こした。

12名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/19(火) 20:48:54.40ID:l2FIWwxg0
清水次郎長とその周辺という増田知哉の本がある。歴史ブームのなかで次郎長の足跡を辿りながら、各地の墓碑や口碑を採集する一種の紀行本。

各地の在野史家を触発しネットワークを繋いだ功績により増田は任侠史の父と呼ばれている。

任侠史の母と呼ばれているのが藤田五郎。増田の墓碑探求を更に進め、最終的には「任侠百年史」という大著を完成させた。

牧之原市の先生も藤田五郎の協力者の一人。向山栄五郎や榎本新左については藤田五郎は関東の親分衆で書いている。

13名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/19(火) 23:27:52.28ID:OdLcErhN0
増田知哉氏の仕事は確かにすごい。藤田五郎氏も神様のような存在。
植田憲司氏も同様に偉大。

しかし、こと次郎長に関する限り、今年亡くなった田口英爾氏の果たした
役割は飛びぬけて大きかったと言わざるをえまい。

14名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/20(水) 00:28:50.38ID:rYh+URYD0
田口氏の功績に批判はないが、田口氏の周辺が気に入らない。在野史家と町おこしを重ねている集団の中には、名前は出さないが露骨に自己宣伝している人たちもいる。あくまでアマチュアの趣味の世界の話では。

15名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/20(水) 00:42:14.09ID:rYh+URYD0
比べるのもおかしいかもしれないが伊豆や三島の史談会、愛知の歴史研究会に比べて清水から富士市にかけては毛色が違いすぎる。

16名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/20(水) 07:06:21.13ID:MJpFnuqK0
なるほど、それは知らなかった。情報をありがとう。
侠客研究の世界も結構複雑なんだね

17名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/20(水) 23:38:57.82ID:MJpFnuqK0
ちなみに、内容的には玉石混交だけれども、
私は「松尾四朗」の研究はもっと評価されていいように思うんだ。

18名無しさん@お腹いっぱい。2013/11/29(金) 10:55:17.18ID:kworZnD/0
>>14
そう言われれば、梅陰寺に飾ってある荒神山手打ち式の写真の人物に
次郎長子分の相当する銘々の名前がふってあるけど、
田口さんも「あれは全部でたらめ」だと言ってた。同じ次郎長を取り巻く
地域の人たちの間でも齟齬があるんだな、とあの時感じたよ。

19名無しさん@お腹いっぱい。2013/12/23(月) 23:06:39.45ID:e2F8ffSq0
誰も読んでないだろうから、次郎長と武州博徒との関係について少々
次郎長が「兄貴」と慕う博徒に、武州高萩(現埼玉県日高市)の高萩万次郎
がいる。万次郎は当時「関東侠客の神様」という程に信奉され、まず上州の
大前田に次いで、実力、名声とも衆を抜いていた。
武州の他の侠客・小金井小次郎、小川幸八、師岡孫八、田中屋萬五郎なども、
まずこの人を頼み、親しく交際した。
次郎長が万次郎の元を訪れたのは記録によれば、弘化二年、安政五年の二度のことと言われるが、
どちらも役人の目を逃れるための、のっぴきならない旅の途中であった。
そのうちどちらの時ことであるかは不詳ながら、
万次郎宅で開かれた盆の上の勝負で、次郎長は当時売り出し中だった上鈴木村(現・小平市)の博徒、
平親王の平五郎を散々に打ち負かし名をあげた。
平五郎は背中に将門の紋々を入れていたため、「平親王」と恐れられ
かつては小金井小次郎とも大きな出入りを打った古強者である。

ともあれ、万次郎の親類筋に当る高萩の「亀屋」の子孫の家に、次郎長と、なぜか
山岡鉄舟、そして末広亭の写真が今も残っている。一時は万次郎の写真も
存在したが、残念ながら現在は散逸したとのことである。万次郎の
立派な墓石(増田知哉氏が再発見した)は今も変わらず残っている。

20名無しさん@お腹いっぱい。2014/06/05(木) 23:21:10.07ID:NFqP7VTk0
清水で笠投げやるそう

21名無しさん@お腹いっぱい。2015/11/14(土) 22:43:23.08ID:iOXPHlSE0
黒駒勝蔵、宮島重吉(俊蔵)、大場久八、丹波屋伝兵衛、安東屋辰五郎、小金井小次郎、
などは明治以前の資料に度々名が記されるが、次郎長に関しては明治以前の資料が皆無である。

戸羽山カンが記した寺津治助の脇差を質に入れ、武州無宿金五郎と旅していた次郎長の探索書が
唯一であるが、惜しい事にこの資料の所在が現在ではわからない。

22名無しさん@お腹いっぱい。2015/11/14(土) 22:56:11.17ID:iOXPHlSE0
梅岩禅寺には次郎長の墓を始め、大政、増川仙右衛門、それに都田兄弟との戦の前に
フグの毒に当って死んだ子分三人の墓などがある。加えて、若干小さいが、
清水一家を訪れていた際に急病で没した、武州高麗郡双柳の都築竜蔵の墓石が在る。

次郎長が若かりし頃、裸で武州を尋ねた時に六角棒を持って対応した兄弟分、双柳清五郎が竜蔵である。

23名無しさん@お腹いっぱい。2015/12/23(水) 23:06:08.67ID:vNeC+fsD0
『東海遊侠伝』には記されていないが、『安東文吉伝史料』や戸羽山瀚の『次郎長伝』
によれば次郎長 対 勝蔵の戦いで次郎長側が大負けした喧嘩がある。
これは富士川を挟んで次郎長一党と勝蔵一党がぶつかった戦いで、勝蔵側には
宮島年蔵、本市場金七がついたという。
破れた次郎長は大政と共に、命からがら蓼原の何とかいう寺に隠れ、一命をとりとめたとのこと。

24名無しさん@お腹いっぱい。2017/02/01(水) 19:18:11.23ID:YdDkMlSG0
次郎長生家を補修 起工式で安全祈願 静岡
(2017/1/10 17:03)静岡新聞SBS
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/317813.html

> 明治期に清水港発展の礎を築いた清水次郎長(1820〜93年)の生家
> =静岡市清水区美濃輪町=で10日、補修工事の起工式が行われた。
> 次郎長誕生以前に造られたとされる建物前面の外観を保ちながら耐震補強などを行い、
> 6月末までに完成する見込み。

> 式にはNPO法人「次郎長生家を活(い)かすまちづくりの会」をはじめ、
> 寄付をした企業や経済団体の代表者ら約25人が参列した。
> 次郎長の菩提(ぼだい)寺である梅蔭寺(同区南岡町)の住職が法要を営み、工事の安全を願った。
> 生家は木造一部2階建て。現在は次郎長の生涯を紹介する案内施設として使われているが、

> 建物は耐震性が低く、老朽化が進んで雨漏りなども深刻化していた。
> 2015年に民間団体が主催した「あなたの残したい建物コンテスト」で大賞を受賞し、
> コンテストの支援金に加えて企業や市民からの寄付が集まった。
> 総工費は約3300万円。同NPOの牧田充哉理事長は
> 「今後は港周辺のにぎわいづくりに活用する方法を考えていきたい」と意気込んだ。

25名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/31(水) 15:25:24.18ID:I/Y5AjPQ0
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