『経済封鎖に挑んだ日本』
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog486.html

スムート・ハーレイ法の反省から1933年以降は、ルーズベルト政権は関税軽減の方針をとったが、
日本に対しては、逆に関税引き上げや数量制限が加えられた。
たとえばシャープペンシルの平均的な関税は58.3%だったのに、日本製品のみは86%だった。こうした差別的関税により1934年には日本製シャープペンシルが米国市場の81%ものシェアを押さえていたのに、1937年には0%となってしまう。

ルーズベルト政権が日本を狙い撃ちにするような関税政策をとったのは、関税引き下げに反対する勢力の批判をかわすために、
特定国への関税を引き上げるポーズを取る必要があったからだ。
そして、その対象として、米国からの輸出の3%を占めるに過ぎない日本が選ばれた。
また日本製品が集中豪雨的に輸出を伸ばした分野での米国内生産者の反発に応える面もあった

1932年に結ばれたオタワ協定では、英連邦全体から外国商品を閉め出すことを目的として、外国商品に対しては高関税を課し、
連邦内の商品に対しては無税または低関税とした。それまでもインド市場において日本製品は英国製品より5%高い関税をかけられていたが、
1932年秋には、英国製品25%に対し、50%もの関税を課せられた。

これにより日本製綿布の輸入拡大は止まったが、そのシェアを下げるまでには至らなかった。
そこで1933年6月、インド政庁は英連邦諸国以外からのすべての綿製品の輸入関税を75%に引き上げた。
「英連邦以外」としながらも、実質的にはシェア45%を持つ日本製綿布をターゲットとしたものであった。
この極端な差別的関税により、日本製綿布の輸出は急減した。

日本からインドへの輸出の柱は綿製品であったので、これによって、インドへの輸出全体が大きく落ち込んだ。
日本の輸出 全体の中で、インド向けは1932年には13.6%を占めていたが、1937年には9.4%へと縮小した。

1933年には日本製綿布がオランダ製や英国製、米国製を退けて、綿布輸入量の8割を占めるに至った。
オランダは緊急輸入制限を発動し、各国に割当量を課した。
オランダ当局は割り当ては平等に行ったと説明したが、許可が与えられる貿易会社はヨーロッパの商業組合の会員でなければならず、
この条件にかなう日本の輸入業者は三井物産など、わずか3社だけだった。また輸入割当量は1930年の輸入高によって決められたため、日本からの輸入は半分に落ち込んだ。

オランダ政府は、綿製品以外にも、化繊、陶磁器、セメント、タイヤ、ガラス製品、ビールなど、次々と輸入制限を広げ、日本からの輸入を抑え込んでいった。
 
日本政府はオランダ政府との交渉を行ったが、オランダ代表はその席上で、日本製品を差別的に規制することは「国際的に了解ずみの事実」であり、「正当化」された仕打ちである、とまで述べた。
すでにアメリカや英連邦が公然と行っていることを、オランダが追随して何が悪いのか、と言うのである。