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西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男 3
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0002名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:08:01.46ID:30nbeDBm0
以下、テンプレ

Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。

A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。

「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」

重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。

当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。

この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。)
0003名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:08:29.77ID:30nbeDBm0
もう一人、西郷をよく知る人物の西郷評を紹介します。

市来四郎。西郷とともに島津斉彬の片腕として働き、集成館事業を遂行した人です。

「 西郷は掛け軸などの書をよく描くだけで、学識は無く、文章をつくる能力も無かった。
 性質は粗暴で理財にうとく、実務も執れなかった。
 いつも少年とばかり付き合い、同年代の人との付き合いは二、三人しかいなかった。
 西郷に異論を言う者とは付き合わず、可愛がっていた少年でも、
 ひとたび西郷に敵視されると、憎悪を剥き出しに悪口を言われ、捨てられる者も多かった。
 器量の大きい人とは言えず、相手が他県人か同県人かで、態度や言動が変わった。
 議論をすることはなく、物事を進めるに腕力に頼る癖があり、
 そういう意味で豪傑と言えなくもないが、君主の風采はまるで無かった。」
0004名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:11:37.46ID:30nbeDBm0
■ 西郷隆盛 伝説と史実

伝説 : 比類無き大度量・大至誠の人。誰もがその巨眼に引き込まれ敬愛した
史実 : 実際に会った人の証言 「偏狭であった」「人の悪口が多い」「人望を得ようと計算している」

伝説 : 極貧の下級武士の出身
史実 : 西郷家の序列は薩摩藩の上位3%の家格

伝説 : 「おいの体をあげもそ」と西南戦争を決起
史実 : 玉砕の5日前に“自分だけ”政府軍に助命嘆願 → 拒否られている

伝説 : 「晋どん、ここらでよか」と潔く自決
史実 : 玉砕当日城山の洞窟から逃走 → 桐野利秋に見つかり強制玉砕

伝説 : 清貧、高潔、質素な食事
史実 : 政府からの給料が現在価値で月2千万円 年収2億4千万円
     豚の霜降り肉の食べ過ぎで超肥満に

伝説 : 自宅は雨漏りするボロ屋
史実 : 千百坪の超大豪邸に暮らす。使用人20人、飼い犬20匹

伝説 : 「子孫の為に美田を買わず」西郷家家訓
史実 : 西郷一族で東京ドーム117個分の土地を買い占め

伝説 : 「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」坂本龍馬による西郷評
史実 : 勝海舟による創作

伝説 : 幕府から指名手配された親友月照を不憫に思い心中を試みる
史実 : 藩命により、死ぬ気など無かった月照を海に突き落として殺害

伝説 : 江戸総攻撃を中止させ江戸百万人を救う
史実 : そもそも総攻撃を主張していたのが西郷本人だった
     総攻撃に反対する英国大使パークスの圧力により断念

伝説 : 道義を貫きとおした巨星
史実 : 浪士を雇い、江戸で放火、掠奪、強姦、卑劣の限りを尽くし幕府を挑発
0005名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:12:33.40ID:30nbeDBm0
伝説 : 大久保利通とは幼少時からの親友。大久保家が困窮した時期、
     利通少年は西郷家で食事を摂らせて貰っていた
史実 : 同じ町内の顔見知り程度で、個人的な付き合いは一切無し
     親しくなったのは青年期以降に精忠組で一緒になってから

伝説 : 大久保利通による西郷暗殺指令
史実 : 鹿児島士族が政府の密偵を凄惨な拷問にかけて自白を強要しており、信憑性無し

伝説 : 奄美人を大切にした西郷さん
史実 : 子供を二人産ませた奄美の妻アイカナを捨てる
      旧知の奄美人たちを西南の役に強制従軍 → 死亡

伝説 : 鹿児島私学校では西郷さん自ら若者たちに敬天愛人思想を講義
史実 : 当時の生徒の証言「西郷さんが私学校で講義したことは一回もありませんでした」

伝説 : 「西郷南洲翁遺訓」 西郷の教え41条
史実 :  東北庄内人によるフェイク

伝説 : 西南戦争は最初から勝てるとは思っていなかった
史実 : 当時の新聞に載った西郷の発言「各地の政府軍は我に従うだろう。春には東京で花見をしているはず」

伝説 : 民百姓にも慕われた西郷どん
史実 : 鹿児島で西郷さんが外出するときは、地上での土下座では恐れ多いと、
     百姓たちを道のわき溝に飛びこませ水から首だけ出して出迎えさせた
     西南戦争では、百姓たちは木の上から見物、
     西郷軍兵士が死ぬと身ぐるみを剥ぎ、売る
0006名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:15:12.37ID:30nbeDBm0
Q : 大河ドラマなどで描かれる西郷隆盛は虚像なの?

A :
大河で西郷が好意的に描かれている、
逆に言えばネガティブな史実や描写がごっそり抜けているのは
右翼団体や鹿児島人らが抗議してくるからだそうです。
どんな大河でもNHKに抗議は来ますが、
西郷ネタ、薩摩ネタに対する右翼団体と鹿児島人の抗議が一番多いらしい。

史実と違う、という抗議ならよいのですが、
史実通りネガティブな場面を入れると、「一方的で偏向的で悪意を感じる」という抗議が
執拗にくるらしいです。

かの司馬遼太郎も抗議を憂慮してか、
「跳ぶが如く」ではあえて筆を鈍らした、という話を読んだことがあります。
「跳ぶが如く」の歯切れの悪い、奥歯にものがはさまったような書き方は
そんなところに理由があるのかもしれませんね。
0007名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:16:15.87ID:30nbeDBm0
Q : 西郷隆盛と大久保利通が薩摩の二大英雄とされ、鹿児島では誇りにされていると聞きました

A :
大久保は、西南戦争で西郷を殺し薩摩を滅ぼそうとした張本人として、
鹿児島では憎まれ嫌われ、近年まで地元への納骨すら避けられていました。
現在、鹿児島市には大久保の銅像がありますが、これは西南戦争百周年に際して東京から
「なぜ鹿児島に大久保の銅像がないのか」と言われて、渋々作ったそうです。
現在では、鹿児島でも大久保の再評価がされていますが、しばらく前までは
大久保の話も出来ないほどでありました。

鹿児島にある大久保の銅像は非常に高い台座の上に設置されているんですが、
これは鹿児島人による狼藉を考慮して、そのようになっているそうです。

大久保利通像
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/shins2m/20130612/20130612144650.jpg

大久保利通像 碑銘
http://livedoor.blogimg.jp/john96pierre/imgs/8/7/87ef85e5.jpg

「通」という字があからさまにズレていますが、
人としての道(通)に外れた男、という意味が込められているといわれる
0008名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:18:16.33ID:30nbeDBm0
Q : 西郷さんの度量の広さが、江戸無血開城を成さしめ、江戸の町を戦火から救ったんですよね?

A :そもそも江戸総攻撃を強硬に主張していた張本人が西郷隆盛です
  幕府を憎悪していた長州の木戸でさえ江戸総攻撃には反対していました

  イギリス公使のパークスから攻撃をやめるよう圧力があったとも言われていますが、
  ともかく西郷は態度を変え、攻撃は中止されました

  西郷はいわば自分で振り上げた拳をひっこめただけなのですが、
  後世なぜか、暴走寸前の官軍を西郷が抑え、総攻撃を中止させたかのように美談化されました
0009名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:18:58.14ID:30nbeDBm0
Q : 西郷さんが征韓論というのは間違いで、ほんとうは遣韓論なんですよね?
   西郷さんは丸腰で交渉に行って戦争を避けようとしたと聞きました。

A :
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。

参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。

西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。

西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。

また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。
0010名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:22:10.64ID:30nbeDBm0
Q :西南戦争は西郷さんと鹿児島士族にとって、
  行き場所を失った士族たちとともに、日本のため自ら滅ぶつもりの戦いだったんですよね?

A :
西郷はかねて回りの者に、
「熊本城に着けば、熊本鎮台は城門を開いて降るだろう。
そうなれば、熊本を拠点に九州を従え、広島(鎮台)を攻め、
大阪(鎮台)を破って海陸路で東上し、一戦も交えず入京でき、
東京で花見ができるだろう」(東京日日新聞)
と気持ち良さそうに語っていた。

またこうも語った。「自分は陸軍大将である。たとえ全国の兵を率いても
 陛下の許されるところであり心配無用 」(「新編西南戦史」)

結果はみなさんご存知の通り、熊本城政府軍の徹底抗戦に遭った西郷軍は
緒戦から消耗し、戦わずして東上するつもりでいた西郷軍の敗色はこの時点で決定的になった。
0011名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:23:22.34ID:30nbeDBm0
Q : 西郷さんは民百姓のために戦ったんでしょ?

A :
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために
粉骨砕身した偶像であり鑑であるかもしれない。
しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの
象徴であったにすぎないのではないのか。
それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を
踏みにじった薩摩士族の大親分としか映ってこないのだ。

西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、
薩摩へあてた手紙では道之島の人々のことを
「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を
薩摩で教育する際、奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。
島に残された母アイカナは非業の死をとげる。
0012名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:25:02.69ID:30nbeDBm0
これは西郷という人間像の一コマではあるが、
実は次に述べる彼の政策論とも表裏一体をなしているとしか思えない。

旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって
財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、
彼は、禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、
桂久武に命じて不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。
これによって薩摩は再び収奪をほしいままにすることができ、
奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。

そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する
五十五人の嘆願団が上鹿したが、いきなり全員投獄。
老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の
西郷軍に強制出陣させられた。
うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。
許されて島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、
結局生存者はわずかに二十四人であった。
(前田長英著『黒糖騒動記』参照)
0013名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:28:02.75ID:30nbeDBm0
Q : 西郷さんのおかげで明治政府は廃藩置県を断行し、旧体制からの決別を出来たんですよね?

A : 明治3年、新政府は廃藩置県に先立ち、
鹿児島の西郷隆盛と5千人の薩摩藩士を御親兵として東京に出仕させました。

廃藩置県に反発する武士層の反乱が予想されたため、
これを鎮圧するのに、薩摩兵とこれを束ねる西郷の力が必要であったのだが、
最も反乱を起こしそうなのが鹿児島住みの薩摩藩士であったために、
これを未然に懐柔しておくためでもあった。

ではなぜ西郷は懐柔されたのか。
西郷にとっての廃藩置県は、藩主に権力を返上させ、その下にいた士族が実権を持つ
という意味であったからだ。

西郷は、出仕の際に出した意見書(「西郷吉之助意見書」)で、
「新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、
近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようである」と糾弾しており、
廃藩置県には同意しても、士族中心の国体を固守する考えに変わりはなかった。

旧弊にとらわれない中央集権国家を目指す新政府とは同床異夢であったといえる。

新政府からの同様の懐柔措置は長州と土佐に対しても行われており、
いずれも御親兵を東京に出仕させている。

つまり西郷隆盛はあくまで、廃藩置県に協力した一人である、
という話なのです。

よく言われる、岩倉使節団が洋行しているあいだに、
西郷がその声望と求心力で、廃藩置県を断行した、という類の話しも
まったくのデタラメです。
新政府が廃藩置県を断行した後に、岩倉使節団は出発しています。
0014名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:29:38.92ID:30nbeDBm0
Q : 西南戦争で薩摩士族は自ら滅び、鹿児島にも新しい時代がやって来たんですよね?
   それもこれも西郷さんの捨て身の深謀遠慮のおかげなんですよね?

A :
西郷さんや幹部の城下士たちは九州中を6カ月以上も逃げ回りました。
薩摩士族は自ら滅ぶどころか、4人に3人は投降などして生き延びました。

その姿はどう見ても、自ら死を選び、滅ぶつもりの者たちの姿ではありませんでした。

戦役後、鹿児島では実権が城下士から郷士に移っただけで、士族支配であることになんら変わらなかったのです。

『薩摩見聞記』はこう記しています。
「明治中期の鹿児島では平民社会の
状態をみると, それはまことに哀れなもので,
鹿児島城下のわずかな一部の商人のほかは
財産もなく, 知識もなく, 勢力もなく, 士族との間には
なお甚だしい格差があって, 容易に融和しそうにもない。
藩政が崩壊してすでに20年にもなろうとしているのに、
薩摩だけはなお依然たる封建の地である。
政治、役人、教育、警察等の世界において
士族の勢力が強いこと、日本全国にその類をみない」
とあり、この状態はなんと太平洋戦争後まで続いたのです。
0015名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:32:07.09ID:30nbeDBm0
Q : 新政府の高官たちが富貴や汚職にはしる中、西郷さんは質素倹約をして国家と国民のことを考えていたんですよね?

A :
西郷さんが賄賂を貰ったとか私腹を肥やしたなどの記録は一切ありません
ただ、質素倹約をしていたというのはどうでしょうか・・・

西郷さんが政府から貰っていた給金は現在の価値に換算すると月給2千万円
年収は2億4千万円です
住まいも江戸では元旗本屋敷、鹿児島では島津一族の広大な屋敷を買い取り
かなりリッチな生活をしていたようです

また自らの側近たちを軍の高官に高給で大量抜擢させるなど、人事の私物化(多くの犠牲を払い新政府を打ち立てた
薩摩藩士からすれば当然のご褒美かもしれませんが)は甚だしいものがありました

西郷さん的には民間の豪商などと癒着するのは絶対NGだったようですが、
政府のポストや金を自らの息のかかった子分たちに分配するのはOKだったようです
0016名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:32:50.70ID:30nbeDBm0
以下は原口虎雄氏の文章の引用

これまで鹿児島に赴任する人々の間では、「南洲と斉彬の悪口は言うな」という、鹿児島社
会の風潮を恐れるタブーがあったそうであるが、顧みるにこの私も尖鋭な西郷絶対論者の一人
であったから、恥ずかしい。

庄内藩士書き留むるところの「南洲先生遺訓」や西郷の詩文、親しみ深い「上野の西郷さん銅像」
や「キヨソネの西郷肖像」などが、わたしと西郷を結びつけてくれた。

私の母校の田上小学校の門標は西郷の直筆で、この学校を出、県立一中や第七高等学校への
通行の途には武の西郷屋敷があった。
七高では敬天会に入り南洲寺にもよく参禅したが、なかんずく西郷糸子夫人の生家、岩山先生
の御宅には朝夕にお世話になり、立派な温かい家風を慕った。

幼時から青年期まで武の西郷屋敷附近で育った私にとっては、西郷は神様であった。
西郷の一言一動が価値の尺度であった。
少しでも西郷を批判する者がいたら、すなわち私の敵であり、「打ち殺せ」という気分にかられた。

しかしのち東大法学部に法制史を学び、さらに薩摩史を専攻するようになってからは、私の思考
の軌跡に変化が生じた。
−中略−
0017名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:33:37.39ID:30nbeDBm0
西郷は道義国家の建設を目標としていた理想家だから維新革命に身命を賭したが、それ故に
第二、第三の維新を夢見た永遠の不平家である。
彼と同輩、または年長の人で尊敬したのは島津斉彬ぐらいで、他はおおかた彼の酷評の的に
なっている。

『西郷先生遺訓』は彼の理想であるが、現実の姿ではない。

維新草創の際、政府収入源は農村に求めざるを得ず、仮借なく封建貢租を取り立てたから、
明治元年から10年までの百姓一揆は維新前より頻発した。

少ない財源のうち4割を旧士族に与えねばならぬ当局の苦しみを西郷は知らなかったのだろうか。
米が1石、5、6円のころに1500円の巨大な年俸を受け、対外膨張論を唱えている。

西郷を取り巻く、財政も経済も世界情勢も知らない粗暴な私学校と袂をわかって、
多くの良識派の薩人が政府に残って近代国家建設の苦難に耐えたことを忘れてはならない。
弟の従道や従弟の大山巌、そのほか多年の朋友の心底は悲壮である。

もともと薩摩は日本南端の門戸で、黒潮岸辺を洗い、季節風が中国や異国の船を運んできた
外国と日本との接点である。
だから真っ先に外国文化の洗礼を受け、ハイカラ性が薩摩を支えてきた。

薩英戦争の結果、こだわりもなく英国文明の偉大さを学ぼうとして欧米に留学生を派遣した
聡明さや、敵味方を一様に供養する博愛の精神は、島津日新以来の薩摩の伝統である。

私学校の猛者たちの剛勇は、「薩摩的美学」の両面性の一つ、隼人以来の「バンカラ性」の
伝統であって、もう一つの美学「ハイカラ性」の欠落である。

太平洋戦争の誤りを二度と犯さぬためにも、「西郷神格論」からの脱却は今日的課題である
0018名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:37:19.02ID:30nbeDBm0
西郷隆盛 最期の五日間
エピソード1《 まさかの命乞い 》

明治10年9月24日、鹿児島県城山。7か月あまり続いた西南の役は幕を閉じました。
被弾した西郷が「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に首を刎ねさせたとされる日です。
一般には、西郷は潔く切腹した。薩摩士族を道連れに自らサムライの世に幕を引いた
などと美談のごとく語られています。

しかしその数日前の西郷の行動についてはほとんど知られていません。

・・・なんとこの人、助命嘆願してたんです。
19日、政府軍側に使者を遣わし、西郷本人の助命嘆願をしている。

西郷軍への従軍をしぶる者をタタキ斬り、強制徴募や軍資金強奪を行ったあげく、
1万数千人にのぼる戦死者を出した総大将が助命嘆願、などというのは、
薩摩戦史上はもちろん日本戦史上も例を見ません。
しかも政府軍に助命を拒否され、山県有朋に、武士であるなら潔く自決するよう諭されるというありさまでした。
0019名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:39:46.21ID:30nbeDBm0
西郷隆盛 最期の五日間
エピソード2《 西郷さんは桐野利秋に強制玉砕されていた ?!》

24日、最期の突撃を試みた西郷は足を撃たれたあと、自決したとされていますが、
その西郷の足を撃ったのは、じつは西郷の部下である桐野利秋であったという説をご存知ですか?

政府軍に助命を拒否された西郷さんですが、玉砕することにどうにも納得いかなかったらしく、洞窟を出て投降しようとした。
しかし玉砕を主張する桐野がこれを発見、激怒して西郷を追いかけ銃撃したというのです。

思わず「ホントかよ?」となりますが、しかしこの桐野による西郷銃撃は
目撃者の証言があるのです。
0020名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:42:13.32ID:30nbeDBm0
西郷隆盛 最期の五日間
エピソード3≪ 創られた西郷自決 ≫

ちなみに広く信じられている西郷の最期、「晋どん、もうここらでよか」と言って
地面に跪坐。厳然と襟を正し、東の皇居の方角に深々と頭を下げ、
別府晋介に首を刎ねさせたいう逸話の出典をご存知ですか?

西南の役から30年以上たってから出版された「西南記傳」という本。
編纂者と出版元は右翼団体。まるで見てきたように書いていますが、
西南の生き残りが書いたわけではないし、誰の証言なのかも曖昧。

そもそもが西郷と薩摩士族の顕彰のために企画されたプロパガンダ本であり、
西郷や西郷軍のイメージに傷が付きそうな史実がばっさり省略されているのが特徴の資料です。

かねてから、銃弾飛び交う切迫した戦場で、前述のような芝居がかった自決が可能なのか
という見方はありました。

じつは西郷遺体の“検死報告書”にはこう記録されています。
「右大腿より左骨部貫通銃創、頭(頸)体離断」
腹部に刀創はありませんので、切腹はしていない。
また、銃弾が肥満した西郷の身体を(骨ごと?)貫通していることから
(当時の銃の性能を考慮すると)至近距離から被弾した可能性が高い。
「頭(頸)体離断」は首が無かったということです。

つまり、大腿を至近距離から銃撃されたあと、
首を切断された可能性が高いのです。
0021名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:43:50.84ID:30nbeDBm0
西郷隆盛 最期の五日間
エピソード4≪目撃者≫

桐野による西郷銃撃を目撃したのは、別府晋介の従卒、城川市二。

城川の証言によると、「 西郷が洞窟を出て城山をくだってゆくために、
桐野は西郷が敵方に投降するつもりかと思い、西郷を敵方に渡してなるものかと、
銃で撃った 」というものです(出典「肚乃西郷」竹崎武泰著)

城川氏は鹿児島県人であり、反薩摩でも何でもなく、嘘をつく動機は皆無
前述の右翼団体のプロパガンダ本よりよほど信憑性があります。

ところが「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は、“城川”なる人物の実在が証明されていないとし、
この目撃証言を奇説として退けた。
架空の人物による、架空の目撃証言だと言うのです。

また昭和52年に南日本新聞で村野守治氏(西郷研究の第一人者)が、
「別府晋介の従者に城川なる人物は、自分の持っている資料には無いから実在しない、
 だから実在しない人物の証言は成り立たない」という記事が載り、桐野銃撃説はいったん否定されました。
0022名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/02/25(木) 21:44:53.42ID:30nbeDBm0
西郷隆盛 最期の五日間
エピソード5≪わが目で見た話し≫

しかし、その数日後に同じ南日本新聞で入佐俊興氏が、昭和十年発行の「葛城彦一伝」の中に
加治木編成の六番大隊編成表として「別府晋介附従卒城川市二」との記述を示し、
あっさり実在の人物と証明されたのです。

さらに城川市二氏の孫嫁が健在で
「御祖父さんは83歳で亡くなった。口数の少ないきびしい人で、西南のことはほとんど話さなかったが、
 昭和三、四年ごろ東大の先生が二、三度春になると訪ねてきて、襖を閉めきり朝から遅くまで
 何事か話しをしていた。
 城川の家は製造業で、職人たちが噂話などをはずませていると、御祖父さんが現れて、
 “今ン話しはおはんナ自分で見た話しか、人から聞いた話しか”と詰問されて、
 “わが眼で見た話しでなかのなら、ここでは語いやんナ” とピシャリといって引っ込んだ 」と述懐しています。
0023青戸六丁目被害者の会(本部:葛飾区青戸6−26−6)垢版2021/03/10(水) 07:36:52.32ID:lTn8k5KG0
●青戸六丁目被害者住民一同「色川高志の金属バット集団殴打撲殺を熱望します」
長木親父&長木よしあき(盗聴盗撮犯罪者の色川高志を逮捕に追い込む会&被害者の会会長)住所=東京都葛飾区青戸6−23−20
●龍神連合五代目総長・色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103)の挑発
色川高志「糞関東連合文句があったらいつでも俺様を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 糞関東連合の見立・石元・伊藤リオンの糞野郎どもは
龍神連合五代目総長の俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」(挑戦状)

●青戸六丁目被害者住民一同「盗聴盗撮犯罪者の色川高志の逮捕を要請します」
長木親父&長木よしあき(盗聴盗撮犯罪者の色川高志を逮捕に追い込む会&被害者の会会長)住所=東京都葛飾区青戸6−23−20
●盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で生活保護費不正受給犯罪者の色川高志
色川高志の住所=東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室
【通報先】亀有警察署=東京都葛飾区新宿4ー22ー19 рO3ー3607ー0110

盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で生活保護費不正受給犯罪者である色川高志の盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/愛人変態メス豚家畜清水婆婆(青戸6−23−19)の
五十路後半強制脱糞
http://img.erogazou-pinkline.com/img/2169/scatology_anal_injection-2169-027.jpg
アナル挿入食糞愛好家で生活保護費不正受給犯罪者の色川高志によりバスタブで清水婆婆の巨尻の肛門にシャワーのキャップをはずしてずっぽり挿入。
そして、大量浣腸。 勢い良く噴出!腸内洗浄状態です。
http://101.dtiblog.com/b/bodytk9690/file/kan01.jpg
0024名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/04/19(月) 09:59:13.44ID:pMYDPr4m0
横山まさみち 他1名
西郷隆盛 大合本2 5~8巻収録

漫画中にオットセイは出ないはず
0026名無しさん@お腹いっぱい。垢版2022/04/11(月) 18:30:13.85ID:pyGh/npV0
72 名前:日曜8時の名無しさん 2022/04/11(月) 08:30:26.67 ID:8V1IA93u
オレは佐賀市民だがこのスレは近現代に偉人(政治家、起業家、軍人)を輩出した
県民にだけ書き込むことができるスレにしてほしい
偉人を輩出していないアズマエビスどもにとやかく言われたくない
下ネタ、基本的な知識のないバカまで書き込んでいる

上に江藤先生の話題が出ているが佐賀戦争は完全に大久保の謀略
新政府の中で制度設計ができる数少ない優秀な人材が近代化とは
何かわからないバカに殺された
73 名前:日曜8時の名無しさん 2022/04/11(月) 12:30:14.89 ID:H9MoVfME
江藤の話題は出てないけど?
しかし俺は関東人だけど西国雄藩以外は福井藩などの例外を除いて東の連中がボンクラ揃いだったのは同意
ボンクラなだけならまだしも、桑名より以東、とくに関東と東北の奴らは時々の政局だけを見て大局を見ず日本の近代化を遅らせようとし多くの秀れた人物を虐殺した
その志士たちを虐殺した張本人のアズマエビス新選組が「志士」と呼ばれてるのがこの国の実情よ
0027名無しさん@お腹いっぱい。垢版2022/04/21(木) 05:35:04.35ID:UvmZSS+F0
「林修のニッポンドリル」で佐賀の七賢人や副島種臣の書の鑑定があってたー!
https://twitter.com/Aoyagi_Aki/status/1124557956161228801

林修は幕末維新期の政治家で一番好きなのは江藤先生と言っていた
『逆説の日本史』の井沢元彦も江藤先生を評価し、佐賀戦争は知性ゼロの
大久保の謀略と書いていた
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0028名無しさん@お腹いっぱい。垢版2022/05/26(木) 21:38:01.52ID:PU1Tq+GT0
西郷隆盛は明治の中興の足利尊氏
尊氏は時代は許したが、西郷は時代が許さず
0031名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/08/19(土) 12:59:35.31ID:+5CdQWcY0
今夜、BS11イレブンでまたまた西郷隆盛
0032名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/08/23(水) 02:24:59.35ID:egbhrNCV0
西郷さんの番組やると何故か視聴率が伸びるからね
シンパもアンチも見ちゃうからだろうね
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