【敗者】越後長岡藩【悲哀】
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三河牧野氏を主君として、250年の間、長岡地域に存在した藩。
幕末の戊辰戦争では、長岡藩は新政府軍と戦うこととなった。
主力の薩摩藩と長州藩は強力であった。 新潟市では長岡藩の悪政に新潟町民が打ち勝った明和義人祭が8月に行われる
http://www.meiwagijin.jp/index.html 越後長岡藩の第12代藩主 牧野 忠訓
牧野忠訓の先祖である松平信綱の母は、深井好秀(白井長尾氏)の娘
深井氏は武蔵国足立郡深井邑(埼玉県深井)より起こる桓武平氏長尾氏族
長尾氏は上杉氏の血も引く一族
河井継之助の主君は長岡の支配者として相応しい人だった。 二人の違い
山本五十六は日本を敗戦に導いた戦犯
河井継之助は長岡武士の名誉の為に戦った 長岡藩の財政は窮乏をきわめていて長岡藩の港であった新潟町からの搾取で辛うじて生きながらえていた
明和5年に長岡藩に反発した新潟町民が一揆をおこし長岡藩から独立(町民自治)を行った
鉄砲や刀をもった武士が石や薪しか持たない町民に武力で負けるという大失態が発生
話し合いで解決すると町民を騙しうちするしか解決方法がなかった
このくらい長岡藩の軍事力は弱かった
その後幕末に長岡藩が敗戦したのは当然といえる 一方で川浦代官所(天領)では享保7年に頸城騒動が発生
近くの高田藩は武力で首謀者を処刑して解決
高田藩は長岡藩と違って武士としての面目を保った
明治には藩の格式や歴史、(表向きの)石高が越後でずば抜けていた高田藩が
県庁所在地になるはずだったが長岡藩の馬鹿な行動の巻き添えで没落してしまった つまり長岡は新潟からも高田からも嫌われている新潟県の邪魔者 つまり徳川は日本から嫌われている日本の邪魔者
日本の差別意識は徳川幕府の時代に醸成された 幕末の長岡藩が有名になったのは小泉純一郎が国会の所信表明演説で米百俵を引用してから
それまでは長岡藩なんか知る人も少なかったし知っていても弱小藩のイメージしかなかった
なお小泉は郵政民営化でも有名だがこれは郵便の父と言われる前島密が高田藩だったから
小泉は長岡藩同様に歴史や格式のある高田藩を嫌っていたから
小泉家は横須賀の沖仲仕の親分としてヤクザであったから長岡藩同様に正統派な嫌いであった
ヤクザが政治家になるのは当時当然で純一郎の祖父は国会で気に入らないと入れ墨を見せたりしたが逓信大臣(郵政大臣)になったのも奇遇である
このように変な縁で小泉純一郎と長岡藩は繋がっているのである 新潟県では新発田男に新潟女、長岡男に高田女とかいうが(略して長岡男に新潟女ともいう)
新潟と高田の女は江戸時代から芸者や女中、風呂屋(江戸時代は風呂屋はきつい商売の代表)で働いた我慢強い女の意味だが
新発田男と長岡男はぜんぜん違う意味で言われた
新発田は春日山の長尾氏(上杉氏)が越後を統一したが最後まで抵抗した男気がある藩として
長岡は実力がないのに暴れまくる小さな男の子の意味で使われた 新潟湊は長岡藩の軍港であったが北前船などで大いに栄え長岡藩の財政を支えた
これが幕末には天領となり収入の途絶えた長岡藩が自暴自棄になって戦争を起こした
これが自分の主張から抵抗した会津藩などとは違うところ 新潟は長岡藩、沼垂は新発田藩、そのほかにも天領や他藩の領地と新潟付近は領地が入り組んでいた
新潟付近は大湿地帯で干拓を行えば大穀倉地帯になることが江戸時代からわかっていた
領地が入り組んでいたため各藩が共同で工事を行わなければならなかったが長岡藩が常に反対してとん挫した
長岡藩は新潟湊からの収入に満足して新たな事業を行わなかったからだ さて長岡を一躍有名にした米百俵であるがこれは山本有三の戯曲であり
大げさに言ったり嘘や間違いがあるのは当然である
長岡藩の分家の三根山藩は長岡が形勢不利と見るや逆に長岡藩を攻撃までしている
三根山藩から米百俵が仮に贈られたとして小林虎三郎が私したと見るべきであろう
米を食わずに売って藩校の国漢学校を作ったとあるが実際は寺子屋で
後継といわれる現長岡市立阪之上小学校が整備されたのは明治になってからである
現上越市立大手町小学校が高田藩によって江戸時代に藩校として作られたのは
資料がしっかりしているのとは対象的である 幕末に新潟湊が幕府に召し上げられたのは実は長岡藩が薩摩藩と密通しており
薩摩藩が新潟湊を利用して抜け荷をしていたのを黙認していたのがバレたのも要因の一つ
幕末に長岡藩は薩長と戦ったが一つ間違えば薩長側に立つ可能性も大きかった
薩摩に恩のある長岡藩は会津藩ほど強力な攻撃を受けなかったが被害が大きかったのは
取りも直さず長岡藩が弱すぎたためである 北越戦争に負けたのは新発田藩の裏切りのためだと信じている長岡では
現在でも新発田には娘を嫁にやらぬ、新発田から嫁が来たら舅姑だけでなく
親類や近所の人まで嫌がらせをしてイビル習慣が残っている
自分が弱いのを他人のせいにする嫌らしい性格が長岡には色濃く現れている ●国賊・山本五十六の暴走
こいつこそが世界を戦乱に引きずり込んで、日本を大敗させた真のA級戦犯である
@岡田首相(海軍大将)のもと、山本五十六は予備交渉を意図的に破綻させ、日本を海軍軍縮条約から脱退させた
A海軍次官に就任した山本五十六は海軍軍縮条約脱退後
すぐさまアメリカを仮想敵国に見立て大幅に軍事費、兵力を拡大。国民を欺きアメリカと戦争するためのマル3計画を実施
アメリカを圧倒する連合艦隊を創設。アメリカから経済制裁を受ける原因を作った。
B自作自演の大山事件を図り日中交渉を妨害
海軍は自作自演の大山事件を宣伝し、独断で空爆を強行して日中戦争を計画的に勃発、泥沼化させた。
この都市無差別爆撃が原因で、日本は世界を敵に回す結果を招く。国際連盟は日本の侵略戦争を非難する決議を採択
ルーズベルトは日本海軍の無差別爆撃を非難する隔離演説
C山本五十六は陸海軍ともに常識だった米英可分論に対し、米英不可分論を主張。
アメリカを戦争相手国に加えるよう強力に要求し、それを実現させた。
D海軍は三国同盟を認める代わりに、陸軍に南進を要求(豊田海軍次官)
E日米交渉を妨害するため、南部仏印進駐を強行(豊田外相)
南部仏印には14個も飛行場が作られ、大兵力を集結させ戦争準備開始
F真珠湾をだまし討ちで攻撃するため、野村大使と結託し偽りの外交を実施。ハルノートは最後通牒だと政府をもだます嘘の報告がされた。
海軍と外務省は、アメリカだけでなく日本政府と陸軍をもあざむく。はじめから無通告攻撃でやるつもりで、計画通りに通達をわざと遅らせた
図上演習で真珠湾奇襲は無通告でなければ失敗することが明らかになり海軍は当初から 無通告で攻撃する気だった 長岡藩領のチャーザー村(千谷沢村)出身の林家こん平は
旅行に行くとXXで生まれ新潟で育ったと噓を言ってお土産を貰うという長岡らしいいやらしい性格
私にはそういう難しいことはわからないんですが…と頭が悪いのも長岡の特徴
長岡では肥溜めに落ちることがよくあることをよく話していた >>18
山本五十六はアメリカのスパイ
子供のころから聖書に親しみ隠れキリシタンとなった
若いころアメリカ留学し駐アメリカ大使館にも勤務してアメリカのスパイとして教育された
日本軍人として出世したが実はアメリカ側に日本海軍の情報を流し日本が負けるように工作したのである >>17
必死に長岡と新発田を対立させようとしているけど一時期だけだよウソはバレる
戦前の新潟県にあった新発田連隊には長岡人と新発田人等が入った部隊で、
そこでは、当時では珍しく鉄拳制裁やいじめが、無かった部隊として知られている 天保年間に画策された水野忠邦の川越、庄内、長岡の三方領地替えが実現していれば、幕末の長岡には本多がいて、川越に牧野となっていた
その場合本多長岡と牧野川越はどのような動きとなっただろうか
また庄内松平の動向は 歴史は変わったのだろうか >>13
北越戦争を理由で対立を煽るんだったら、会津藩より水戸藩と対立させれば
こちらは長岡娘に酷いことをしたから昔は本当に嫌われていた >>20
いや、山本五十六はスパイでも何でもなくただのボンクラ
日本を敗戦に導いた戦争犯罪人だよ 新潟県の三大ボンクラ
直江兼続
山本五十六
田中角栄 新潟県の三大偉人
林家こん平
三波春夫
ジャイアント馬場 >>21
新発田連隊よりも高田連隊が名門
レルヒ少佐や蒋介石も在籍した 現在の長岡嫌いの急先鋒 明和義人祭実行委員会(新潟市中央区)が
新潟市の子ども食堂に「明和義人米」を寄贈
https://www.niikei.jp/225334/ >>22
11代将軍の実子を養子にとった川越藩が裕福な庄内藩を領地にしようと画策したもので
長岡藩は巻き添えになりそうになっただけでどうでも良かった
庄内藩は長岡藩と違い領民に善政を行ったので豊かで領民から支持されていたので領民が一揆をおこして反対し実現しなかった
たとえば庄内藩は飢饉の際に直ぐに救民策を行ったのに長岡藩は飢饉の際に逆に重税をかけるなど悪政を行ってきた
このように現在の中央集権とは違い地方分権の江戸時代は藩主の器量により大きく領民の幸福度が違ったのである 牧野 忠訓は敗北後 会津、仙台、米沢など各地を逃走して回った
本来ならば長岡城落城のときに切腹してこれ以上領民や家臣の被害を増やさないようにするべきだった
自分の思いつきで薩長と戦争して負けたら逃げ回るという武士には有るまじき行いをしたのである >新発田は春日山の長尾氏(上杉氏)が越後を統一したが最後まで抵抗した
時系列が違うような気がする
新発田氏が上杉に完全に離反する(為景・謙信とも対立したが)のは御館の乱以降
景勝は阿賀北を自力では屈服させる事ができず豊臣の権威を借りている
上杉景勝が越後佐渡二国を完全に統一したのは(他に庄内と川中島)
更に遅れ1595年(蒲生騒動で秀行が失った東蒲原を得て以降)になっている >>31
なんだ 自分で新発田が最後まで抵抗したと言ってるじゃないか
幕末の長岡藩だって薩摩藩と密約→中立(どっちつかず)→奥羽越列藩同盟と変化した
歴史は点で見てはいけない >>27
どこかのテレビでやっていたけど台湾の本省人と外省人は帰属意識に差があるとされる。
蒋介石の評価も、本省人への人権弾圧が起きた二・二八事件もあるから本省人と外省人では異なると思う。 衆議院選挙の新潟5区
米山隆一、森民夫、泉田裕彦と問題を起こしたり負けたりして引退したものばかり
まさに敗者の吹き溜まり長岡を象徴する選挙だな 長岡に行くとき困るのが東横イン、アパホテルといった大手ホテルチェーンがないこと
新潟はもちろん燕三条や上越にはあるのに
よそ者にとっては長岡なんか泊まるところじゃないってことだな 河井継之助が負けたのは薩長の攻撃というよりも同時期に発生した領民の世直し一揆のためといわれている
薩長からの防衛よりも一揆の鎮圧のほうが沢山の兵力を投入せざるを得なかった
これも長岡藩が長年悪政を行ってきた報いである
なお河井家は代々新潟町奉行を務めていて長岡藩の悪政を代表する家である
また一揆に対して継之助は大量の処刑をおこないこれが更に領民の怒りを買うことになったのである 河井継之助は床几に腰掛けて休んでいるところを敵のたった一発の狙撃にあって重症を負ってしまった
上杉謙信が飯を食ってるところを敵が集中砲火したが謙信には一発も当たらず悠々と飯を食ってお茶まで飲んだのとは大違いである
このように上杉謙信は毘沙門の化身であったが継之助は神や仏からも見放されていた 河合継之助は会津に逃げるとき「八十里 腰抜け武士の 越す峠」と詠んだ
まさに悪代官として長岡を荒廃に貶め自分は逃げるという腰抜け武士としての一生をおくったのである
現代でも長岡のひとは継之助のことを恨みに思っているのである 継之助が鉄砲の弾や弓矢を避けるために町民に畳を担がせて前を歩かせ自分は後ろに隠れていたの長岡市民に今も伝わる有名な話
これを頭がいい戦法と侍の間では持て囃されたのである
しかし町民を人間とは思わずに殺し自分だけが助かればいいという考えの持ち主だったのである 継之助の記念館は長岡と只見にあるが長岡の初代館長は反継之助派の代表
継之助を顕彰する記念館に反対する市民が多かったが反対派の代表者を館長にすることで
この動きを抑えることに当時の長岡市長は成功したのである
このようにドロドロとした陰謀が現在も蠢いているのが継之助である 地元の方言も知らない人が、自称郷土史家でウソを言っている場合がある
新潟県はそうゆう人が多い
山口県や鹿児島県の人も他所から来た人が、郷土史家やってないか気を付けたほうがいいよ 初代館長は長岡生まれで長岡市史編纂などの責任者を務めるなど郷土史研究者としても有名
彼によれば継之助は武道が全くだめで馬にも乗ることができなかった腰抜け侍
彼のようなコンプレックスの塊のような人間が得てして戦争を引き起こすのである ここは山口県や鹿児島県の人がいっぱいいるんですか? 長岡藩が嫌われているのは薩長(山口県や鹿児島県)からではなくて
現市民(領民)や新潟、高田など越後の他地区からだろ 森民夫元長岡市長は全国市長会で河井継之助や小林虎三郎を紹介
実態を知らない各地の市長は感心していたが市民からは長岡を破滅に導いた人物を英雄とするなんてと反発
これが今回の衆議院選挙での大敗の原因となったのである >>42
43で書いたけど、方言も知らない人はその館長だよ、
前に長岡弁で話しかけたけど理解してなかったな 長岡出身だけど、河井継之助が嫌いだと言っている人に会ったことがない
地元の歴史や郷土の人を貶めて、郷土の歴史に興味を無くすことが目的なんだろ
ただ、戦犯の山本五十六は嫌いだ 新潟県には>>44のように文脈も理解してないボンクラが
郷土の歴史に関わっているのが問題 新潟県の三大ボンクラ
直江兼続
山本五十六
田中角栄 長岡藩は戊辰戦争で長州藩と薩摩藩を相手によく戦う気になったよな。
薩摩藩は20万の精強な士族がいたし、長州藩は組織化された精鋭部隊で、
幕府軍10万人に対して、わずか3500人で勝利。
長岡人から言うのは変だけど、長州藩3500人と幕府軍10万人
の戦いは映画化されてもいいと思う。
この長州藩薩摩藩と一時は互角に戦った長岡藩と家老河井継之助それと米沢藩を地元民として尊敬する。 牧野康成 (上野大胡藩主)
牧野康成の子。
牧野忠成 (越後長岡藩初代)
娘 充(永昌院、松浦隆信正室)
松浦重信 肥前国平戸藩4代藩主 平戸松浦氏29代当主。
松浦重信の父:松浦隆信 肥前平戸藩第3代藩主 平戸松浦氏第28代当主。
母:牧野康成娘・永昌院
中山愛子 明治天皇の外祖母。肥前国平戸藩主 松浦清の十一女として平戸に生まれる。慶子を産んだ。
中山慶子 明治天皇の生母、大正天皇の祖母、昭和天皇の曽祖母、上皇の高祖母にあたる。
今上天皇は、松浦氏を通して三河牧野氏・牧野康成の子孫にあたる。 長岡の人は継之助や虎三郎を嫌ってきた
それが変わり始めたのが小泉純一郎の国会での米百俵の演説から
もしかしたらイメージの悪い長岡が逆に英雄になるのではないかと勘違いした
実態を知らない人からみれば負けを承知で戦ったことばかり強調されると英雄に見れる
イメージ操作の怖いところだが長岡の人だけは継之助や虎三郎の悪行を忘れないで後世に伝えてほしい 衆議院選挙で大敗した森民夫元長岡市長は
選挙中は「突破口は俺が作る」と継之助のような勇ましさだったが
負けると「知識と経験のすべてを故郷に誇りをもつ若い世代に伝えきりたい」と
虎三郎のような上から目線で負け惜しみを言うところが長岡人らしいところ 田中角栄はさすが地元だけ継之助や虎三郎が嫌われていることをよく知っていただけに演説では持ち出さなかった
しかし小泉純一郎はよそ者なので地元の事情を知らずに英雄として持ち上げた
政治家は嘘を真と言うことが得意なので一部の地元の馬鹿者までもが英雄と思ってしまった 長岡藩より庄内藩の酒井藩のほうが凄いよ。
なんせ世界最強の薩摩+肥前鍋島に勝ったんだぜ。 「倫敦(ロンドン)ノ山本五十六」 を香取慎吾が演じる
日本を大敗北に追いやった長岡出身の戦犯山本五十六が主人公なんで
長岡では提灯行列の準備をしてるらしい
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=31468 >>57
鍋島藩って強いの?
鍋島の化け猫騒動くらいしか知らない >>59
小泉純一郎がなんで誰にも知られていない山本有三の創作の米百俵を演説したか疑問だったが鍋島の化け猫でわかった
新潟駅や村松公園、横須賀にある化け猫ならぬ忠犬タマ公の像を見れば分かる
長岡藩領の川内村のタマ公は2回も主人の命を救った忠犬で横須賀の海軍基地でも大きな話題になった
当時横須賀市長の小泉又次郎(海軍の下請けをしていたヤクザ(沖仲仕)の親分で小泉純一郎の祖父)は
この話を聞いて村松公園の忠犬タマ公の揮毫をした
その後小泉純一郎や小泉進次郎も揮毫している
このように小泉家と長岡藩は関係が深いのである >>56
田中角栄は長岡出身ではないよ。噓つきなのか間違ったのかどっち >>56
田中角栄は長岡出身ではないよ。ウソつきなのか間違ったのかどっち 河井継之助の墓が出来て直ぐに傷を付けたのは、地元の人だと決めつけている
馬鹿な僧侶もいるからな
与板藩領の人かもしれないし、新政府側の民兵関係の人かもしれないのにな >>54
長岡人が河井や小林を嫌ってきたなんてウソ
巻や曽根の方は知らないけど
河井継之助や長岡人を敵視してウソやデタラメで長岡藩を貶めていることは分かった 因みに
現在の長岡市民の中で、長岡藩領時代の長岡人は3割いるかいないかで
あとは、合併や他所から移り住んだ人が多いと思われる 長岡人が嫌ってきたのは、
新潟県の三大ボンクラ
直江兼続
山本五十六
田中角栄 >>65
長岡藩領は中越地方の北部(現在の長岡市を含む)から下越地方(現在の新潟市を含む)の南部まで含んだ広大な地域
さらに分家の三根山藩や与板藩を含めるとさらに広大な面積
合併や他所から移り住んだ人が多いとみるのは間違いで長岡藩領から分離した人が多いとみるべき >>62
田中角栄は確かに刈羽郡西山町の出身で長岡藩の所領出身ではないが選挙区は長岡市を含む地域
所領や藩主は時代とともに変わるので田中角栄は現代の長岡藩藩主であったとも言っていいのではないか 山本五十六が養子に行った山本家は継之助の河合家とともに
薩長に逆らった張本人として長岡藩主牧野家が新政府に報告し御家断絶となった(その後許されて復興)
山本五十六が判断を誤って日本を敗戦に導いたのは先祖からの血といえる 吉良家(高家と旗本で再興)は芝居の忠臣蔵上演を「あれは架空の話」だとして許したが
鍋島家は芝居の化け猫騒動上演を江戸時代には絶対に許さなかった 忠臣蔵では長岡藩は赤穂藩と同じ山鹿流兵学ってことになっていて
長岡藩も山鹿流と公言しているが山鹿流からは長岡藩を重視していない
多分名もないような山鹿流の下っ端が長岡藩に仕えていたのだろう 忠臣蔵では長岡藩は山鹿流の陣太鼓の台詞にちょっと出てくるだけだけど
新発田藩の堀部安兵衛は大活躍
決闘した高田ノ馬場は高田藩の馬場
意外と忠臣蔵に越後が関わっている 山鹿素行の子孫らが赤穂義士を嫌った(特に津軽の山鹿素水)のと
芸州浅野本家と赤穂藩森家が山鹿流を嫌い
藩学を朱子学とし藩校から古学を排斥したのが大きい
(広島藩と森家で山鹿流を学ぶものは殆ど居なくなった) 小林虎三郎が崇徳館に入校した天保年間は
長岡藩は古学と朱子学が併用の時期で
山鹿流も学んだと思われる
やがて時代と共に西洋式兵法の影響が強まり強まってくるが 長岡藩も河井継之助の藩政改革により古義学が排除され、朱子学に一本化されたため
中立状態を宣言しつつも、結局は徳川(及び会津藩)を見捨てられなかった。
一方、新発田藩は神学(垂加神道の山崎闇斎や「赤穂不義士論」の佐藤直方など)が
藩学になり皇室をないがしろにした将軍家は悪であるとして「尊皇開国」論に進み
(水戸や西国雄藩の攘夷とは真逆だったが)奥羽越では官軍に味方することになる。 >>59
アームストロング砲については異論もある。
大政奉還、王政復古までは長岡藩と同じ静観で中立だが(薩長・土佐・水戸とも交流していない)
戊辰戦争、江戸における上野戦争などでは新政府側として戦い、いわゆる薩長土肥に食い込んだ。 土佐の岩村がもう少し賢かったら、長岡も戦場にならないで済んだんじゃなかったっけ? 高田城は大規模な城だけど石垣を用いず土塁なのが特徴で
これは加賀と一戦を交わす予定で時間がなかった、近くに石の産地がなかった、沼地で重い石は無理だった・・・色々な説があるが
大砲に備えた最新式の城という説も根強い
鉄砲や弓矢には石垣が有効だが大砲には衝撃を吸収する土塁のほうが強いという考え方
高田藩主松平忠輝の舅である伊達政宗が奉行を務めて作った城で金の面でも大久保長安という江戸初期の徳川家金庫番が家老であったので充分であった
加賀とは戦争がなく徳川のご時世となり幕末にも高田は被害がなかったので実際に大砲に対して強いのか分からずじまいで陸軍が半分埋め立ててしまった
幕末に高田藩も戊辰戦争に参戦していれば天才伊達政宗の考えが証明されたかもしれない >>77
河井継之助みたいなコミ障は岩村が居なくても誰かと衝突してた。
あの小藩での兵器の近代化は見事だったけど。 高田城は忠輝75万石時代の城だからな
米沢72万石時代の政宗より大きい
(政宗の城は米沢でなく館山という近年の説もあり)
榊原15万石(うち8万石は越後以外の飛び地)
では運営が厳しい
もっともその前に居た姫路城も池田時代は52万石の城 史料館にある長岡城模型を見ると
長岡城の本丸の北西にも高田城と同じ「御三階」という天守(三層櫓)があるね
土塁が緑に塗られてるのは実際に芝や草が生えてたのだろうか
牧野でなく堀が築城したのだと思うが櫓も多くて結構大規模な城に思える 高田藩は最初は格式高かったがいつの頃からか問題を起こした大名の左遷の地として嫌われた
榊原政岑の高尾太夫の身請けなどの処罰で姫路藩から高田藩に転封させられたのも有名な例
これは明治以降も現在まで続いていて高田の国の出先機関に転勤になることを国家公務員は恐れていた
その点長岡は江戸時代からどうでもよい地だった >>75
多分高校で習った記憶では朱子学は江戸幕府の公式学問で
幕末になると各地で陽明学が盛んになり倒幕の基礎理論となった
長岡藩では陽明学の動向はどうだったんでしょうか? >>68
旧藩主の牧野家とアホの田中角栄と一緒にするなんてバチが当たるというか恨みを買うよ
旧藩主の牧野家が来れば大歓迎するところもあるから >>69
戦犯の山本五十六とは、
卑怯なだまし討ちで罪のないアメリカ人を虐殺した戦犯の山本の
先祖も信濃武士系の真田家家臣を先祖に持つ人物 牧野家当主は今も長岡市に住んで各種行事に参加されてる
溝口家当主は新発田城を燃やした堀部安兵衛父子が嫌いで
安兵衛の銅像を勝手に建てた市民に怒っている >>82
高田の松平光長は越後中将だしね
少将の越前松平より格上
福井は一国領有でなくなりさらに侍従にまで下がる(幕末に少将に回復) 世の中が混乱しているときに頼りになるのが兄弟や親類一族
世の中が安定してくると自分の地位になり代われる兄弟が危険
高田藩の松平忠輝や松平光長がいい例
忠輝は徳川譜代の侍を斬り殺したなどの言いがかりを付けて蟄居させた
実際は行軍中の行列を追い越したので斬り殺されても当然
光長は位は高いのに石高が低くて位にあった立ち居振る舞いをするべしと
石高にあった質素な生活をするべしと二派に分かれてお家騒動が起こるのは必然
その点長岡藩のように取るに足らない小さな藩は幕府から睨まれず安泰だったともいえる 牧野家は8代までずっと従五位下諸大夫止まりで、幕閣に名を連ねた藩主もほとんど出なかった。
忠精・忠訓・忠恭が老中になって侍従に昇る
忠訓は貧乏藩だった川越(実高5万石とも言われた)に「三方領知替え」されそうになったが
特に何もしていない。
(実高14万石の長岡に移される庄内藩酒井家は大騒ぎになり、百姓までが一揆を起こして反対した) >>83
藩学の教授・高野松陰は佐藤一斎門下であるために、後世に「陽明学が藩学の主流であった」という誤解を招いているが、
公式上の藩学は朱子学のついでに陽明学を教授という形であり、
安政5年(1858年)に洋学・陽明学の修学を制限、慶応3年(1867年)に朱子学が唯一の藩学となった。したりしている。
(『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年、 『長岡市史(通史編・上巻)』長岡市、1996年) 訂正
×したりしている。
〇兵法でも安政年間より兵制や兵器の改革が行われていたが、
河井は従来の槍や刀の一掃及び西洋銃剣への変更を命じたりしている。
洋学を禁じておきながら一方で武器を西洋式にするというのも変だともいえる >>90
幕藩体制下で仕方なく儒学の学問を学んでいただけで長岡藩は儒学はどうでもよかった 長岡市の長岡藩三河牧野氏の祖―蘇我氏―武内宿禰―孝元天皇
新潟市の竹内式部・尊王論者―武内宿禰―孝元天皇 儒教には神がいない。だから嘘をつくことに罪悪感を抱かないと批判されている。
元中国人の人も儒教を批判している。 江戸時代の長岡藩士は噓をつく事を恥と考え嫌っていた。
長岡藩藩祖の教えで「侍の恥辱十七ヵ条」では虚言・噓をつく事は「侍の恥辱である」と考えていた。
江戸時代が良いという話ではない。 >>90
現状に合わせた変革や改革(極端には革命)を志向した陽明学ではなく
秩序や体制の維持を重視した朱子学を長岡藩は選んだので幕府側いついたってことか
でも継之助は急進派の陽明学の信奉者ともいわれている
継之助は言行不一致が目立ちその時の思い付きや自分だけが満足すればいいという考え方をする小物だと思う >>94
儒教には神がいなくて来世のことを考えないのは確かだけど
現世の善行は現世で報われて悪行は現世で報われるのが儒教の考え方で何をやってもいいってことではない
これはインド仏教でも同じで中国に仏教が入ってから儒教との対抗で仏教が批判したバラモン教のように来世を考えるようになった 儒教は嘘をつくことに罪悪感を抱かないなんて説は
中国以上に儒教が盛んになった朝鮮半島の人を貶めるネトウヨが考え出した説
長岡藩は嘘を恥と考えていたとの説も薩摩藩に新潟湊での抜け荷を認め
ノウハウを教えてもらう密約を結んだことでも言行不一致は明らか さて此処で着目したいのは柏崎にも領地のあった桑名藩である
桑名藩は当初は一会桑連合で天皇の信任も厚く京都で幕府からも独立した薩長同盟に対抗する勢力であった
その後一橋(徳川)慶喜の腰抜けもあって本国では恭順派となっていったが柏崎の飛び地では強硬派が占めた
この桑名軍は幕府側では最強と言われ少数ではあったが薩長軍にも善戦をした
長岡の河合継之助はこれを真近で見て薩長に勝てるのではないかと考えて幕府側についたのであろう
このあたりも継之助の優柔不断で判断を誤るところが表れている 柏崎の桑名藩は北越戦争でも大活躍して長岡藩が敗走を重ねていたのに
朝日山の戦いでは無傷で大軍の薩長を敗北に追い込んだなど大活躍
実質的に北越戦争は弱くて取るに足らない長岡藩ではなく柏崎の桑名藩と薩長の戦いであったが
飛び地であって桑名本国とも意見が対立したことから無視されて長岡藩ばかりが有名になったのである ここで古代から越後の中心地に位置する高田藩について
高田藩は当初あいまいな態度をとっていたが新政府軍が高田に進駐すると恭順の姿勢になった
高田には新政府軍の本陣が置かれ長岡、会津など攻撃の最前線基地となり高田藩は先方として各地を転戦した
このように貢献が大きかったのにも関わらず高田は柏崎県に組み込まれたりして貢献を認められなかった
柏崎県庁に出仕した高田藩士は無言で執務するなどの抵抗をおこなった
考えるに高田藩は直接の武功(これらは薩長の最も得意とするところ)よりも食料や兵器の調達運搬や捕虜の管理などに大きな貢献をしたが
これらは重要にもかかわらず古来より旧日本軍まで日本では重要視されてこなかったのが原因か
第2次世界大戦で敗北したのも補給を軽視したのも大きいと言われている >>102
古代は高田を含む頸城は越中国(能登も含む)で
越後の国府はもっと北にあったはず 高田藩がなぜ兵站を重視したかは上杉謙信にまで遡る
一般的には兵站を重視したのは織田信長が始めと言われているが実は上杉謙信が重視している
まもなく11月30日の夜から12月1日の朝になるが有名な頼山陽が吟じた詩に
鞭声粛粛夜過河
暁見千兵擁大牙
遺恨十年磨一剣
流星光底逸長蛇
がある
山本勘助のキツツキの戦法を戦の前の兵糧を確保するために飯を炊く煙が多いのを謙信は見抜いて夜の間に山を下りて川を渡った
越後軍はいつ戦になってもいいように常に兵糧を沢山蓄えていた
これが榊原の時代になっても越後で守られていたので兵站を重視した
長岡藩の常在戦場が口先だけなのとは大きな違いだ 高田藩が捕虜をこの時代では異例に適切に扱ったのも上杉謙信にさかのぼる
高田の金谷山には官軍墓地とともに会津藩の捕虜の会津墓地があって会津から感謝されてもいる
謙信は常に遠征するときは農閑期の冬であり領民の農作業に困らないように又冬季の仕事を与える目的もあった
これは捕虜を殺したり雪で貧しかった越後に連れて帰っても困るので現地で奴隷市を開き売ってきた
これを奴隷として扱ったと批判する向きもあるが捕虜を適切に扱うのはこの時代では最適だった 長岡藩、桑名藩、高田藩ときたら新発田藩だけど
俺は新発田出身なので長岡のバカどもみたいに地元贔屓と言われすの嫌なのでやめとく >>103
30銭切手にも10円切手にも60円切手にも80円切手にもなっている。 >>108
現在は「ぽすくま」の1円シール切手が限定で発売されている
限定とはいっても多分各地の郵便局でまだあると思うので急げ
前島密が考えたMailboxPostの訳の郵便箱は当初は
垂便箱と勘違いされることが多くあんなに高い位置に便を垂れるとは
西洋人はチンポが長いんだなと感心したものらしい 前島密と江戸の飛脚頭(名前は忘れた)の対決は有名(ただし殺し合いにはならず話し合いで決着)
当時の飛脚は進化していて駅逓制度や為替までありなど日本全国安く早く届けることができた
(ただし幕末は飛脚も退廃していて途中で密書を捨てるなど幕府と薩長の戦にも影響を与えた)
そこで前島は最初日本国内では現在の飛脚の優位を認めたうえでそれでは朝鮮はどうだ、ロシアはどうだ、イギリスはどうだと畳みかけた
飛脚頭は敗北を自覚したうえで我々も生きていかなければならないと答えた
そこで前島は配達などの仕事を飛脚に与えて実質的に飛脚は今までと同じ仕事をえた
ここに被差別民が支配階級の公務員になるという公務員現業が生まれた
逆に治安維持の仕事は被差別民から武士になるという現象も生まれた
前島も偉かったが飛脚頭はその後日本通運や駅前旅館を作るなど実業者としても成功したのである 明治期は欧米に追い付くには国語をどうするかも重要な問題であった
前島密は漢字を廃止する「かな文字論」または漢字と仮名文字ともに廃止してローマ字のする「ローマ字論」であった
次の図は新潟交通燕駅の看板だがこれは英語を知らないのではなくローマ字論で書かれた看板と思われる
https://twitter.com/hirosaka_boyaki/status/909765559813758977/photo/1
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>98
おすすめ本
黄文雄 (評論家) 台湾出身
『日本人が台湾に遺した武士道精神』など 長岡藩の教え 侍の恥辱十七カ条
第一条 虚言又人の中を悪しく言ひなす事
侍の恥辱十七カ条は聖書の教えに近いと思う。 長岡藩の教え 侍の恥辱十七カ条
第五条 堪忍すべき儀を堪忍せず堪忍すまじき儀を堪忍する事 長岡藩の教えは、北越戊辰戦争後は全否定されて明治・大正時代は教えることもなく表にも出なかった。
牛久保之壁書の「常在戦場」は知っていても侍の恥辱十七カ条を知っている人は少なかったと思われる。
もし、明治生まれの山本五十六が、侍の恥辱十七カ条を知っていれば、卑怯なだまし討ち攻撃の開戦は
行わなかったはずである。 薩摩藩の「郷中教育」は結果的に、日本に武士道精神を残してくれたね。 北越鉄道(信越本線 直江津ー新潟)間を中心になって作ったのは
高田藩の前島密だが渋沢栄一などの中央からも資本を出してもらった
新潟資本はコストの高い信濃川に橋を架けてでも長岡藩領の新潟に駅を作るべしといったが
中央資本はコストの安い橋の必要ない対岸の新発田藩の沼垂に作って全線開通を急ぐべしと譲らなかった
ここで長岡藩士など新潟派は沼垂派の人を襲撃したり沼垂駅や橋を爆破するという過激な行動を起こしたのである
明治になっても長岡藩は自分の主張を通すには過激な行動を行うというべしという考えを改めなかったのである >>115
山本五十六の有名な言葉に「五十サダテガンニ」というのがありますが意味がよくわからないです
たぶん長岡訛りの方言だと思いますが教えてください 山本五十六は保存食にもなり甘くて滋養のある飴を大好物にしていて戦艦の部下にも配って人気だった
長岡では長命堂の飴最中が有名だが五十六が好きだったのは新潟の白山駅前の渡辺あめ屋の飴最中
渡辺あめ屋には五十六からの感謝状も残っている
なお飴の元祖は高田の高橋孫左衛門商店で昭和天皇など皇室も越後の飴と呼んで愛したので
五十六は遠慮して高橋孫左衛門商店では買わなかったようだ 新潟県のご当地ラーメンでは妙高豚汁ラーメンがうまい >>115
山本派は五十六は卑怯ではなかったと主張してるね
駐アメリカ日本大使館が宴会を開いていたために翻訳が遅れたためとか
そもそも宣戦布告は国際法上でも必要なかったとの解釈もある
実際に交渉打ち切りの通告であり宣戦布告ではなかった
また日本の暗号は解読されていたことが分かっていてルーズベルト大統領は
事前に分かっていながら日本の卑怯さを宣伝するためのプロパガンダだったとか
分かっていながら沢山の兵士を犠牲にした大統領の責任が一番重いとの意見もある
個人的にはアメリカ軍の空母が無傷のまま帰ったのが最大の失敗
空母を探し出してすべて沈没させるべきだった ところで長岡藩は新潟湊が領地だったんだから軍艦はなかったのかい? 日本海側では加賀藩は軍艦があったが越後で港を持っている長岡藩や新発田藩、高田藩にも軍艦はなかった
おそらく軍艦を建造維持するには多大の金が必要だったので越後諸藩には無理だったのであろう
しかし寺泊沖海戦は越後で起きた唯一の海戦
会津に物資を運ぶために新潟港は重要であったので幕府側は輸送船の順動丸が配置されているだけだった
長州藩軍艦第一丁卯丸、薩摩藩軍艦乾行丸、福岡藩輸送船大鵬丸そのほか加賀藩など大軍の軍艦で越後沖に出港
石炭がなく薪で動いていた順動丸は自ら浅瀬に座礁させて兵士は陸上に逃げ帰って簡単に日本海の制海権は新政府側のものとなったのである 長岡出身で長岡市・三島郡選挙区県会議員の星野伊佐夫が泉田裕彦に2.3000万の裏金要求
裏で悪いことをやるのは長岡藩以来の伝統 新潟港はもともと長岡藩領であったが弱い長岡藩ではなく強い米沢藩が守ることに決まった
これで新潟占領が難しくなった新政府軍は新発田藩領の大夫浜に上陸することにした
軍艦攝津(総督府)・丁卯(長州)・輸送船の千別丸(柳川)・大鵬丸(福岡)・錫懐丸(加賀)・萬年丸(広島)と
佐渡で接収した漁船30艘で港湾施設のない大夫浜に軍事物資、兵員を輸送して新潟を背後から突く作戦
これは現在のアメリカ海兵隊の得意とする揚陸作戦の先駆けとなったのである 新潟を含む沼垂に米沢藩の飛び地(預かり地)があったからだろ
新潟市に赤穂事件で殺害された家臣(吉良邸への付け人)の供養碑があるはず 長岡藩のガトリング砲は日本に3門しかないうちの2門を持っていたが
敵が集団で向かってくるときにはいいが分散して来たときには機動性に欠けるすでに旧式の機関銃となっていた
この欠点を補うために大量のガトリング砲を並べて面で制圧する必要があったが2門ではどうにもならなかった
このように武器の使い方もわからないまま高価な武器を買っていたのである
長岡藩は戦術面でも劣っていたのだ ガトリング砲が効果がなかった一方で長岡藩がもっていたアームストロング砲は榴散弾を用いて
敵の頭上で爆発させ官軍側に多大の被害をもたらしたのである 新潟県の三大ボンクラ
直江兼続
山本五十六
田中角栄 戦犯の山本五十六とは、
卑怯なだまし討ちで罪のないアメリカ人を虐殺した戦犯である 新潟県の三大ボンクラ
直江兼続
山本五十六
田中角栄ー弟子もろくな奴しかいない 柏崎の桑名軍は飛び地であったため少数(300人ほど)であったにので
これ雷神隊、 致人隊、神風隊、大砲隊に分けて遊撃戦を行ったがこれが非常に強かった
一方で遊撃戦では敵に致命的な損害や安定的に領土をを守ることはできない
そこで正規軍の長岡軍が頑張らないといといけないのだがこれが弱かった
せっかく桑名軍が敵を切り崩してもが長岡軍が奪い返されるという状況だった >>128
米沢藩が新潟を守ったのは長岡藩では新潟町民の反発を呼んで統制できないから
長年の新潟における長岡藩の悪行のしっぺ返しが行われたのである すいませんが質問でーす
長岡駅近くにホテル崇徳館があるんですがこれは
藩校だった 崇徳館が落ちぶれてホテルになったものなんでしょうか? だれか新発田藩の動きを書いてくれ
新発田藩は背後に会津や米沢がいて前に基地外の長岡がいたので非常に分かりづらい行動をして
それゆえに長岡からは自分が弱いことを棚に上げて全て新発田が裏切ったと現在も嫌っている
長岡がなくて高田と近かったら苦労が少なかったのに 小林虎三郎の米百俵も山本有三の戯曲だもんね
創作を史実と勘違いする例は多く歴史を混乱させている 上山藩の新潟県の藩領
越後国
刈羽郡のうち - 21村 長岡市小国町の一部
三島郡のうち - 33村 長岡市七日市 上山藩七日市出張陣屋 江戸時代の徳川幕府によるキリシタンへの弾圧差別は、
中国のウイグル族チベット族への弾圧差別に似ている。 日本の主君はアメリカでいいんですよ。
日本は主君であるアメリカに忠誠を尽くすべきだと思います。 長岡人が選ぶ新潟県の三大ボンクラ
直江兼続
山本五十六
田中角栄 長岡人と長岡市民は違う場合があります。
与板藩の与板人も現在は長岡市民です。 >>134
雷神隊を率いてたのが弱冠23歳の立見鑑三郎だな。
たぶん戊辰戦争全般通して最強の部隊の1つといえるね。
立見は若くして、今後の戦術論として銃器などの火力の発展に比例して運用する部隊の単位は小さくした方が良いと合理的に考えており、
自身の隊も100数十名の中隊規模で指揮しやすくしていた。
これは上杉謙信にも通じる点である。
謙信は土地の広さの割に石高が少ない越後にあっても莫大な資金を保有しており多くの兵を養うことが出来たが、麾下の精兵8000あれば万の敵にも十分当たれると言っている。
これは謙信にとって8000くらいが運用しやすいベストな兵数だということを述べている。
それぞれの時代にそれぞれの武器、戦法をしっかり見極めて運用できる眼が両者にはあった。
なお、フランス式軍事教練を受けた際にフランス人教官は立見のあまりの才角を絶賛しており、
立見を「天成の軍人であり、ナポレオンの時代のフランスだったら恐らく30歳になる前に将軍になっていただろう」
と言わしめたし、
薩摩の野津道貫(陸軍大将)も後に、東洋一の用兵家と評している
立見は越後戦線では連戦連勝であったが、長岡藩などの味方が崩れるので撤退を重ねざるを得なかった。そして庄内藩とともに降伏し謹慎にはいる。
やがて釈放されたが、賊軍である身であるため武人としては立身できないだろうと、裁判所で判事補をしているが、
その後、士族による反乱が多発するに至り、優れた軍人を必要とする政府の目に立見が留まる。
実力をまざまざと見せつけられていた政府であるが、なによりも立見を高く買っていたのは戊辰戦争で直接戦闘を交え、
盟友である時山直八を討ち取られ最も叩きのめされた山県有朋であり山県の肝入であった。
立見は少佐でなければ受けないと強く出るが了承され帝国陸軍に入り西南戦争では一個大隊を率い奮戦し、西郷隆盛を討った部隊を率いたとして勝利に貢献した。
戊辰戦争が終わり日清戦争が始まる頃には少将として旅団を率い平壌攻略時にも戦機を逃さない指揮で2年は持ちこたえる備えを持つ敵を短期間で打ち破る多大な貢献を残す。
日露戦争では中将になり師団を率いた。重要拠点である黒溝台において救援部隊として大会戦になり数倍のロシア軍と激烈な死闘を繰り広げ半数の兵が死傷するも、ロシアを撤退させ黒溝台を回復させた。
立見は日露戦争での活躍が認められ、賊軍上がりながら陸軍大将となる。
戦前から幕末~明治期の日本で最も優れた指揮官の1人として名が挙がる名将である ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています