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今帰宅
トーセンバジルの複勝外れでマイナス30000円でした
デムーロは話にならんな、金返せ!
ついでに、毎日杯の川田も金返せ!
岩田とバルジューはありがとう
腹立つから酒飲んで寝るわ 幼少期は寂しい子供時代だったんだよ
兄二人は勉強も優秀で、スパルタ教育の母は、勉強嫌いな豊を差別していた
いつも外に閉め出され、近所の馬房の馬達が話し相手で心の支えだった
石橋守や河内や田原なんかは、そういう姿を知ってるので当時から可愛がっていた
父邦彦は放蕩癖が酷くあまり家に帰らなかった
幸四郎が産まれると、両親は末っ子なので溺愛し始め、豊は更に蚊帳の外に追いやられた
兄に気を遣い、弟の為に我慢し、感情を抑制する癖がついてしまった
競馬学校入学手続きも全て自分で行い、学校生活の三年間一度も親は面会に来ず、外泊時のお小遣いすら無かった
そんな豊に手を差し伸べたのが同期の蛯名
蛯名が自分のお小遣いを分けてあげて外泊時は一緒に行動していた
卒業後、邦彦が自分の厩舎では無く武田さんの元へ託したのは、幼少期から面倒を見てた河内が居たからだ
邦彦には豊を育て向き合う自信が無かった
豊が卒業式のスピーチで、武邦彦の息子では無く、豊の父と言わせてみせると宣言したのは、そういった親子関係からきていた
洋一のポスターを部屋中に貼り、父に対して囁かな抵抗をしていたりね
放蕩癖の父ではなく、寡黙で華やかな洋一に憧れて、騎手を目指したんだよ
だから豊は、デビューから数年は強引な騎乗が多く、制裁も多かった
大川さんは、武邦には似ていない乗り方だと苦言した事もある
マック降着事件以降、更に成長出来たから良かったがね
幼少期の話し等は、浅見国一が話していた事 今は誰でも落ちたスレの過去ログを見れるようになったので
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/keiba/1521548498/57
↑上記のURLを添えてJRA公式ホームページの要望フォームから通報しましょう
武豊に対する犯行予告なので多分JRAに通報するのが一番対応して貰える可能性が高い
何人かが通報すれば更に効果覿面だろう
JRAのご意見・ご要望入力フォームはこちら
http://www.jra.go.jp/faq/faq_mail.html
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さあ皆通報しよう 【暴落はなぜ起こる】
暴落が起きる理由は大きく分けて2つあります。
一つはショック安と呼ばれるもので、日本の株式市場外の出来事が原因となって起こります。
天災地変や戦乱、外国の大企業の破綻などです。
これらは下落の幅も大きく、短期暴落となります。
しかし戻りも早く、早ければ翌日、遅くても4日後ぐらいには回復します。
もう一つは需給のバランスの崩れから起こるものです。
いわゆる買われ過ぎから来るもので、大きな上昇相場の末期に起こります。
当然のことながら株価が上がり続けるためには、今よりも高い値段で買ってくれる人が出現しなければなりません。
上昇相場のうちは、買うから上がる、上がるから買う・・・というスパイラルで上がり続けます。
しかし、買った株を一生持ち続けようと考えている人はあまりいません。
ある程度上がったところで売り抜けて差益を取ろう、と考えている人が大半です。
新規資金の流入には限界があり、株価の上昇はいつかは止まります。
これを見た投資家は「上がらないなら売るか」と考えます。
こうしてある日、売りが重なり、売るから下がる、下がるから売る・・・という先ほどとは逆のスパイラルで暴落となります。
暴落は、次への上昇のために必要なエネルギーを蓄えるもの。
「調整」のスケールが大きくなったものと言ってもいいでしょう。 >>19
(*^○^*)「19のとき、肝臓がんでした」
(´・ω・`)「大変だったの?」
(*^○^*)「私は・・・がんになって、いい子をやめました」
(´・ω・`)「・・・(なにいってだこいつ)うん?(苦笑)」
(*^○^*)「いっぱい笑って・・・いっぱい泣いて・・・いっぱい楽しもうと思うんです」
(´・ω・`)「ふーん(会話できない感じの人か)・・・わかる気がする(わかるとは言っていない)」
(*^○^*)「がんの治療も、チャレンジできることはずぇんぶしたいんです」
(´・ω・`)「(会話が続かない・・・どうしよ)あっ」
彡(^)(^)「グエー(絵ができたからもってきたンゴ)」
(*^○^*)「アハハ」
(´・ω・`)「(サンキューダック)」
彡(゚)(゚)「Aflac.」ジ ハイランドのぽつんの気持ちは分かる!
だがレッドファルクスは右回りダート馬
荒れた中山の芝だから勝てるが中京
じゃ未勝利なんだしボックスなら取れただろ。 >>46馬吉は日本人、会社役員、妻子有り
学習しような 西山茂行氏いわく
「子どもの頃から父と馬主席で競馬を見てきたが、たくさん馬券を買う馬主はいつの間にか消えていった」 アラブの特性は、サラブレッドよりはるかに丈夫でタフであるということだ。
したがって、その特性を生かした番組づくりがなされていればアラブ競馬の魅力は広がったはず。
具体的には、長距離戦・高齢馬戦・高重量戦・障害戦などだ。
たとえば、普通の成人男子が騎乗できるように負担重量を70sとし、距離1万mのレースを行ったとする。
クロスカントリーのようなコースがあれば最高だが、通常のレースコースでもいい。
このレースにアラブとサラブレッドが出走したとすると、おそらくアラブがサラブレッドに1分ぐらいの差をつけて圧勝するだろう。
アラブならば翌日も同じレースをこなせるだろうが、サラブレッドは長期間の休養が必要になるはずだ。
アラブとサラブレッドの耐久性はそれぐらい違う。
確かにスピードと瞬発力ではサラブレッドのほうが上だが、だからといってサラブレッドが優でアラブが劣ということにはならない。
ばんえい競馬にサラブレッドが出走したらスタートから一歩も動くことができないのと同じで、違う種別の馬を同じ土俵で比べることが間違っている。
【アラブの名馬列伝】 その1 セイユウ ※馬齢表記は現在のもの
セイユウは1956年の7月に2歳でデビュー。
デビュー戦は2着だったが、2戦目で勝ち上がると、4戦目から15連勝をマーク。
次走で2着に敗れたが、その後はまた4連勝。
アラブSを70sで勝ち、読売カップ(春)を61sで勝つと、アラブには敵はいなくなってしまった。
しかも今後アラブ相手に走り続けると負担重量は70sをオーバーしてしまう。
そこで関係者はサラブレッドへの挑戦を決めた。
サラブレッドへの初挑戦は3歳7月の七夕賞。
5頭立ての寂しい一戦だったが、52sで走れるセイユウに敵はなく、3コーナーから独走となって2着カツタローに7馬身差をつける圧勝だった。
続く福島記念は一気に5s増の57sが課せられたが、2着のチカラボシを半馬身競り落として連勝した。 中山に戻ってオータムハンデは4着、特ハンは2着だったが、セイユウの真骨頂は続くセントライト記念で発揮された。
菊花賞を目指す東の一線級が顔を揃える中、セイユウはトップ重量の59sを課せられ、しかも重量が響く不良馬場だったが、3コーナーから進出を開始すると直線でも鋭い伸び。
ラプソデーに1馬身半差、3着以下には7馬身以上の差をつける快勝だった。
アラブがサラブレッドの重賞を勝つのはこれが史上初めてで、また最後のことだった。(七夕賞と福島記念は当時はオープン特別だった)
ラプソデーはこの後に菊花賞を制しており、セイユウが事実上、この年の3歳No.1であることを示すものだった。
ファン投票で選ばれた有馬記念は回避し、読売カップ(秋)を勝って3歳時を終えた。
明けて4歳もサラブレッドへの挑戦を継続。
勝ったのは特ハンの1勝のみだったが、目黒記念(春)5着、オータムハンデ2着など、重賞で入着を繰り返した。
そして引退レースに選んだのが天皇賞(秋)。
このレースは7着だったが、セイユウはレース中に種子骨を骨折したため、他馬の邪魔にならないように終始外を回っており、
騎乗した渡辺正人騎手は「まともなら勝っていたでしょう」とコメントしている。
種牡馬となったセイユウは馬産地でも人気を集め、当時の軽種馬の年間種付け頭数の世界記録を塗り替えた。
だが、あまりの種付け頭数の多さから「人工授精をしているのではないか」という疑惑がかけられ、軽種馬協会の担当者のみならず、
農林省の役人までもがセイユウの種付けを監視しに来る事態になった。
しかしセイユウはこれらの人々が見守る中で、連日3〜4頭の牝馬との交配を楽々とこなし、あらぬ疑惑を晴らしてみせた。 ゴガギーン
ドッカン
m ドッカン
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偽善者ぶるって何だよ
善人ぶるじゃないのか 【アラブの名馬列伝】 その2 シュンエイ
シュンエイは、セイユウの1歳下の弟として1957年の10月に2歳でデビュー。
そこから1年4か月かけて20連勝した。
その後はサラブレッド相手のスワンSを含めて4連敗したが、また3連勝して引退した。
20連勝・1番人気で18連勝・1番人気で22勝というのは現在も残る軽種馬の日本記録である。
1958年に啓衆社賞最優秀アラブを受賞。種牡馬としては啓衆社賞最優秀アラブを受賞したラオスオーを出した。
なお兄セイユウはサラブレッドへの挑戦を続けていたため、兄弟対決はついに実現しなかった。(続く) ※馬齢表記は現在のもの 【アラブの名馬列伝】 その3 タマツバキ
タマツバキは終戦直後の1948年、3歳の5月にデビュー。現在の感覚からするとかなり遅いデビューだろう。
セイユウやシュンエイのような派手な連勝はなかったが、勝ち進むにつれて負担重量も増加。
4歳の6月には初めて負担重量が70s台に乗る。(71sで1着)
以降は70s台が当たり前になり、5歳の9月にはついに80sに。
最高負担重量は83sで、この重量で1勝・2着1回・3着2回の成績を挙げている。
このときの勝利は、日本の軽種馬の最高負担重量勝利として、現在も残る記録である。
騎乗した騎手が、体につけたオモリが重すぎて、レース後に自力では下馬できなかったという壮絶なエピソードもある。
現在は60s以上で走ることすら珍しくなっているから、今後はほぼ絶対に破られることのない記録といっていいだろう。
このほか、80s以上の重量で5勝を挙げている。
タマツバキは83sを背負って阪神の芝2200mを2分22秒2で走ったのだ。
今のサラブレッドのレコードタイムより10秒以上遅いかもしれないが、当時のあまり整備されていない馬場で83sを背負って
この時計で走れるサラブレッドは、現在でもいないだろう。もしいたとしても翌日には使い物にならなくなっているはずだ。
だがその後もタマツバキは、連闘、中1週で走り続けた。
重い斤量に耐えて走るタマツバキをファンも応援した。
タマツバキの出るレースは売り上げも良かった。読売楯争奪・アラブ東西対抗戦の売り上げは、現在のサラブレッドのGUクラスの重賞より多かったほどである。
6歳一杯で引退したタマツバキは福島県で種牡馬入り。1975年のタマツバキ記念ではゲストとして京都競馬場に招かれている。
当時30歳の同馬をよくもはるばる福島から運んできたものと思うが、これは健康状態に問題がなかったことに加え現役時代に人気があったからだろう。
タマツバキは1980年に35歳で死亡。これはシンザンに抜かれるまで軽種馬の最長寿記録だった。 >>190柴田さん、女性として完璧ですね。顔もカワイイしスタイルも良くて知的で性格も明るくて字もキレイで本当に才色兼備の女性です。鷲見みたいなドブスで性格も最悪の女が降板して本当に良かったです。 >>191
別のところに書いたことがありますよ↓
キャプテン&阿弥ちゃんのシリーズはおもしろいです。
最初は「お笑い芸人のくだらないインタビューだろう」と先入観をもっていたのですが、彼らはよく勉強していると
思うし、競馬関係者へのリスペクトも感じられるので好感が持てます。 鷲見さんのことはよく知りません。日経電車版で見かけたぐらい
日経電車版は狩野恵里さんのほうが良かったなあ〜 6 :名無しさん@実況で競馬板アウト[sage]:2018/03/28(水) 07:37:47.39 ID:I2IUZ51v0
身体障害者中年の嫉妬かな?
18 :名無しさん@実況で競馬板アウト[]:2018/03/28(水) 08:05:15.97 ID:I2IUZ51v0
頭フラワーパークのインキンサナダ虫中年かな?
27 :名無しさん@実況で競馬板アウト[]:2018/03/28(水) 08:19:51.16 ID:I2IUZ51v0
なんでID変えて自演してんの?
本物の負け組中年なのかな?
30 :名無しさん@実況で競馬板アウト[]:2018/03/28(水) 08:26:56.17 ID:I2IUZ51v0
田舎者が自己紹介しててわろた
嫉妬かな?
171 :名無しさん@実況で競馬板アウト[]:2018/03/28(水) 08:35:42.50 ID:I2IUZ51v0
馬券相当負けてるでしょ?
博打というか勝負事向いてないから競馬やめたほうがいいよ
38 :名無しさん@実況で競馬板アウト[]:2018/03/28(水) 09:05:03.70 ID:I2IUZ51v0
ホモチキンかな?
177 :名無しさん@実況で競馬板アウト[]:2018/03/28(水) 09:09:16.89 ID:I2IUZ51v0
5スロのジャグラーで周りばっか気にしてるハイエナオカルターニワトリのキョロ蔵かな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています