新古今の三傑は定家・良経・家隆でいいよな?
俊成、西行
あと一人は知らん
良経、式子内親王あたりか。
次いで定家、家隆が来て、その次が後鳥羽院 新古今集で、2番目に多いのは慈円だが、慈円の代表歌って思い浮かばない。
岡の辺の里のあるじをたずぬれば人は答へず山おろしの風
だろうか。少なくとも「おほけなくうき世の民に」ではないことは確かだが。 塚本邦雄の評価によれば定家と良経が傑出して家隆がそれに次ぐといったところか
確か慈円についてもそれなりに評価していたと思うけど 良経が好きだ。
まず言葉が伝統を重んじており格調高い。
また寂寥としたものをかなり客観的に詠んでいるのに、言外ににじみ出る余情がある。
西行にも「山賤の片岡かけてしむる野の境に立てる玉の小柳」みたいな歌があるが、良経の歌はもっと唯美的な傾向がある。
俳句で喩えれば、西行は芭蕉で、良経は蕪村か。
あと音律がうつくしい。
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
笹の葉はみ山もさやにうちそよぎこほれる霜に吹く嵐かな
などは良経らしい。
傑作は
幾夜われ波にしほれて貴船川袖に玉ちる物おもふらむ 西行も良経も、恋歌の名作が無い
いや、良経の「幾夜われ波にしをれて」や「かぢをたえ由良の湊による舟の」は名作なんだが、
恋を詠んだというよりは、良経流の美学の歌であって、暗示されたものがたまたま恋だっただけ、という感じがする 夕凪に波間の小島あらはれて海人のふせ屋を照らす藻塩火
良経
どの勅撰和歌集にも載っていないが、良い歌だと思う 谷ふかみはるかに人をきくの露ふれぬ袂よなにしをるらむ
良経
こういうのも良いな まあ、良経や式子内親王は、歌は定家よりも優れているかも知れないが、定家は文学者として偉大すぎるので、そこも考慮したい >>12>>14
儚げなものや蕭条としたものに心象を仮託するのが巧いのはもちろんだけど、
語の調子とか、音の響きとか、すごく洗練されているのだな。
それでいて、一読して自然に理解できて、作為を感じない。 山とほき門田のすゑは霧はれて穂波にしづむ有明の月
良経
これもいい おもかげに千里をかけて見するかな春の光にあそぶいとゆふ
良経 谷川の岩根かたしく青柳のうち垂れ髪を洗ふ白波
良経 月ぞすむ誰かはここにきの国や吹上の千鳥ひとり鳴くなり
良経 独り寝の夜半の衣を吹きかへしさてもあらじは見せぬ夢かな
良経 月やそれほの見し人の面影をしのびかへせば有明の空
おほかたにながめしくれの空ながらいつよりかくは思ひそめけむ
誰がためぞ契らぬ夜半を臥しわびてながめ果てつる有明の月
恋ひ死なむわが世のはてに似たるかな甲斐なく迷ふ夕暮れの雲
涙堰く袖に思ひやあまるらむ眺むる空も色変はるまで
夕暮れの雲の旗手の空にのみうきて物思ふはてを知らばや
落ちたぎつ河瀬の波の岩越えて堰きあへぬ袖のはてを知らばや
初瀬川井手越す波の岩の上におのれ砕けて人ぞ恋しき
新古今に載ってない良経の恋歌 >>7
夏衣かたへ涼しくなりぬなり夜や更けぬらむゆきあひの空
わが恋は松を時雨のそめかねて眞葛が原に風さわぐなり
も良いと思う うたたねの夢より先に明けぬなり山ほととぎす一声の空
良経 そら冴えし去年のけしきもうちとけて朝日ぞ春のはじめなりける
良経 「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに」もそうだが、サ行を重ねている時は、寒さを表現しているのな 志賀の浦梢にかよふ松風は氷にのこるさざなみの声
良経
大堰川瀬々の岩波音絶えて井堰の水に風凍るなり
良経 雪はのこり花もにほはぬ山里にひとり春なるうぐひすのこゑ
良経
これも音楽的な歌 なにとなくものあはれなる如月に雨そぼふれる夕暮れの空
後鳥羽院 月やそれほの見し人の面影をしのびかへせば有明の月
良経
見えつるか見ぬよの月のほのめきてつれなかりける面影ぞそふ
式子内親王 何となくすぎゆく夏の惜しきかな花をみすてし春にはあらねど
後鳥羽院