【通知用】 李氏朝鮮VS琉球王国

1マンセー名無しさん2018/06/05(火) 17:48:09.39ID:seW2p/Mj
ハン板への荒らしが酷いため、スレがことごとく落ちております
とりあえず下記のどちらかへの避難を提案です

日本史板
琉球王国以前の時代
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1326719632/

戦国板
戦国時代の琉球国・沖縄県
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1527915196/

2マンセー名無しさん2018/06/05(火) 17:50:32.86ID:BHSbmpkq
すまんな

3マンセー名無しさん2018/06/05(火) 17:55:59.01ID:w5/alJ87
>>1
大韓民国臨時政府ということで中国板にスレ立てました
荒らしに分からないように分かる人だけが分かるスレタイにしておきました

4マンセー名無しさん2018/06/05(火) 21:05:57.51ID:WSP0JJLs
なんつーかネトウヨ退治とか抜かしてるけど
やってることネトウヨそのものだよな今回の荒らしてる連中

5マンセー名無しさん2018/06/06(水) 09:37:56.31ID:WY5ZrS5g
上げるで

6マンセー名無しさん2018/06/06(水) 19:00:04.32ID:TLlEeG6T
もうどうにもならんな

7マンセー名無しさん2018/06/07(木) 00:30:38.92ID:wq6C55Ni

8マンセー名無しさん2018/06/07(木) 18:37:01.20ID:kcNyRMM4
例のブログ

9 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2018/05/21(月) 20:56:06.93 ID:SQi/XzVm
ブログを復活させました。まとめ形式にしようかな。
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf-rakuen/

9マンセー名無しさん2018/06/08(金) 01:50:20.54ID:teTOFzlp
ブログ見て思い出したんだけど、
電通の『沖縄県観光振興総合計画に関する報告書:誘客プロモーションを中心に』を頑張って閲覧した。

多田治の描写から受ける印象とはずいぶん違って、全体としてはいかにも広告代理店が作りそうなレポートだった。
124ページの報告書のなかで、「沖縄の歴史」の開発を提案している部分は2ページ、
県民対策としてPRのテーマを「観光立県」よりも「沖縄の文化」としたいと述べているのは1ページ弱。
意識して探さないと見落としそう。
残りのページの半分以上は、広告打つから電通に金を払えという内容で、
電通一押しのキャッチコピー「ファンタジア沖縄」がダサすぎてどん引きなんだけど、これ結局採用されたの?

10マンセー名無しさん2018/06/08(金) 15:01:40.34ID:gV/r7MQP
ブログの過去ログは移転したの?

11マンセー名無しさん2018/06/09(土) 16:41:56.43ID:1CZuS27z
4マンセー名無しさん2018/05/13(日) 11:42:42.24ID:445B+6BT>>5
令制国の「〜国」と琉球国を同一視して、琉球は江戸期の藩の一つ、と言い出すデマが出てきてるっぽい
https://togetter.com/li/949472

尚氏が江戸時代初期には薩摩に対して琉球国司と名乗っていたことに誰一人として触れないのが逆にすごい。
これだけ書き込みがあるのに。

12マンセー名無しさん2018/06/10(日) 00:17:26.19ID:zsW4PNZd
琉球国司というと、その昔、かの仲松弥秀が、
「島津氏の十二島地頭職は沖縄に及んでいて、それが室町時代に琉球守護職になって、そのときに尚氏を国司に任じた」
とか言い出して、それに当時30代なかばの高良倉吉が噛み付いたという面白エピソードがあるんだけど、
バカッターのやつらは誰も知らないんだろうな

13マンセー名無しさん2018/06/10(日) 18:47:38.47ID:zsW4PNZd
「奄美」という語は近代になって急に復活したように見えるんだけど、経緯わかる?

「奄美」の初出は「アマミキヨ」なんかよりずっと古い。
日本書紀の657年の記事に「海見嶋」が出てくる。682年の記事には「阿麻彌人」が出てくる。
平安時代は小右記997年に「奄美嶋」の海賊の記事がある。
鎌倉時代の金沢文庫所蔵日本図の「雨見島私領郡」が俺の知る限り最後。

奄美大島を「大島」とよぶのは「奄美」よりも新しいけど現代まで続いている。
1306年の千竈時家処分状は「大しま」はおそらく奄美大島だし、
李朝実録1462年の記事に「吾時麻嶋」もそうだろう。
奄美群島全体を大島とよぶのは明治になって大島郡ができてからだと思う。

14マンセー名無しさん2018/06/11(月) 18:17:19.86ID:qhteZ79i
鹿児島県庁公式サイト
http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/bunka/yurai.html
奄美とは奄美大島および奄美諸島全域をさす。古くは「海見」「阿麻弥」「奄美」と表記されていた。奄美地区は、
1609年(慶長14年)の島津氏による琉球侵攻以前、琉球(沖縄)国に属しており、その名の由来は、琉球国の
始祖「阿麻弥久(アマミク)」がこの地に降臨したことによるといわれる

15マンセー名無しさん2018/06/11(月) 22:04:56.04ID:lzBwGqAI
うん、そういう説明をよく見るんだけどさ、
アマミキュの文献上の初出は袋中の『琉球神道記』(1605)なわけで、奄美よりも千年近く下る。
どうしてアマミクが千年さかのぼって奄美の語源になると信じられるのかな。

室町以降で「奄美」が使われた例を探しているんだけど、
もし全然ないのならアマミクと奄美は使用時期が重ならないかもしれない。

16マンセー名無しさん2018/06/12(火) 21:12:46.67ID:sV6SY6NM
沖縄奄美自身で書き記した一番古い書物って何なんだっけ?
下手すると尚円の書状とかかな

17マンセー名無しさん2018/06/13(水) 00:15:57.47ID:xXAzafUA
室町からかなり下って明治の頃の事情となると、国会図書館デジタルコレクションが役に立つ。

『分邦詳密日本地図』(1890=明治23)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937062
奄美群島には名前が与えられておらず、単に「大隅之内」と書かれている。奄美大島は単に「大島」。
明治23年はちょうど都道府県が今の形に落ち着いた年で、この頃は旧国名が引き続き使われていた。
8コマ目を見ると、琉球国が西海道の中に入っていて、薩摩、壱岐、対馬に続いている。

『日本地理教科書附図及附録』(1902=明治35)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762727
ざっと見たかぎりでは地図に「奄美」が出現するのはこの年から。
14コマ目に「奄美群島」が登場する。奄美大島は「大島」のまま。
明治31年には那覇区が日本で29番目に人口が多い市区町村だったとのこと。

18マンセー名無しさん2018/06/13(水) 01:56:26.50ID:rgoB13Ud
朝鮮と琉球で同じ紋章(赤青黄の三色三つ巴)使ってるのはなんでなんや

19マンセー名無しさん2018/06/13(水) 11:27:08.07ID:+HLqc2JM
朝鮮の三つ巴ってどんなの?具体例を見せて

20マンセー名無しさん2018/06/13(水) 19:22:31.06ID:HqjlbFuu

21マンセー名無しさん2018/06/13(水) 23:39:40.72ID:ifPCjVEW
琉球というか尚家の三つ巴(左御紋)は家紋なので元々は色を塗り分けるということはなかったはず。
いつから三色になったの?

三つ巴を使って「琉球国旗」をでっち上げようとした占領期の米軍には根本的な誤解があって、
そもそも家紋というのは家のもので、他家の人間が気安く使えるものではないんだよね。
仮に徳川時代が続いていても、一般人にとって三つ葉葵は「彼ら」のものであって「俺たち」のものにはならなかったはず。
エイサーのチームとかが気安く三つ巴を使っている状況はとても非琉球的と言える。

22マンセー名無しさん2018/06/14(木) 17:20:21.94ID:6Zf5q9bL
「代主」と室町将軍との往復書簡で写しが残るのは、
「代主」からのは1420年のものが、室町将軍からのは1414年のものが一番古いようだ。
年代からすると「代主」は思紹ということになるが、本当に思紹かは怪しい。

漢文世界以外で「琉球」を目にすることはほぼないと思うんだけど、
「りうきう國のよのぬしへ」という復書にはひらがな表記の「りうきう」が出てくる。
自称の方で「りうきう」の例はあるのかな?

23マンセー名無しさん2018/06/14(木) 18:21:52.26ID:eXQ1BgyB
琉球国旗と称するものの過去ログまとめは例のブログにあったじゃん
つか移行できないとどうしようもないか

24マンセー名無しさん2018/06/14(木) 21:45:10.90ID:9+v7eGNb
旗について調べてたのは俺だww
まとめが消えて不便なんでブログ主には復活させてほしい

3年前も触れたが『琉球紋章譜』(1978)という田口二州という怪しい占術家の自費出版(?)本がある。
この本に、著者が昭和45(1970)年に沖縄タイムス社で徳田安周から仕入れた以下の与太話が載っている。
信憑性はともかくとして、三つ巴に対する当時の感覚がわかっておもしろい。

那覇のレコード会社が、トレード・マークに左御紋を用い『御紋レコード』の名称で発売することを考え『御紋の
使用料として五百ドルでは如何でしょうか』と尚家に申込んで断られた。結局《三つ巴紋》のマークはあきらめて
『御紋レコード』と言うことだけで発売することにしたが、そんな事を考えるヤツもヤツだが、五百ドルと言うのも
何処から割りだした値だろう

25マンセー名無しさん2018/06/15(金) 01:54:32.21ID:xaoMIE9W
>>20
韓国料理屋とかコリアタウンに描かれてるやつやな
見る頻度は太極のほうが多いけど

26マンセー名無しさん2018/06/15(金) 17:40:15.97ID:B7dMM1WW
最近一部で話題になってる会津観光史観と比べてどうなのかな、沖縄琉球観光史観は

27マンセー名無しさん2018/06/15(金) 20:18:52.26ID:mLymcWdH
日本列島ほぼ全域描く、最古級の地図発見 広島の博物館
https://www.asahi.com/articles/ASL6H36LKL6HPTFC009.html
 14世紀中ごろの室町時代(南北朝時代)に描かれたとみられる、本
州から九州のほぼ全域が記された日本地図がみつかった。広島県福山市
の県立歴史博物館が15日発表した。現存する最古の日本地図は京都・
仁和寺(にんなじ)所蔵の「日本図」(1305年)とされるが、西日
本が欠けており、全体が残った地図では最古級。日本地図の変遷をたど
るうえで重要な発見と注目される。
 博物館によれば、確認されたのは「日本扶桑(ふそう)国之図」(縦
122センチ、横57センチ)。広島出身の収集家から博物館に寄託さ
れた。国内68カ国が描かれ、地図の欄外には国名と郡名、人口や田畑
の面積、寺の数なども記された。近畿を中心に九州を上に描き、京都か
ら各地へ街道が伸びている。当時は「琉球(りゅうきゅう)」と呼ばれ、
日本と中国などとの中継ぎ貿易で栄えた沖縄も記されている。沖縄を
「龍及(りゅうきゅう)国」と表現する鎌倉時代の地図の特徴と、港町
の地名が多く記されるなど室町時代の特徴を備え、さらに文字の書体の
古さなどから14世紀中ごろの作と判断した。
 博物館の久下(くげ)実(みのる)・主任学芸員は「鎌倉時代と室町
時代の特徴がある地図は知られていなかった。空白の期間を埋める資料
という点でも重要だ」と話す。

28マンセー名無しさん2018/06/15(金) 20:37:41.11ID:mLymcWdH
下から順に龍及國、種子嶋、鬼界嶋、黒嶋とならんでいる。
この並びだと鬼界嶋は奄美群島の喜界島ではなく硫黄島のことだろう。

鎌倉時代と推定される金沢文庫の日本図には「龍及國宇嶋身人頭鳥雨見嶋私領郡」とあった。
今回の地図は「龍及國頭□□」と読める。

29マンセー名無しさん2018/06/15(金) 23:01:59.95ID:BKa96Azs
会津観光史観って悪意ある呼び名だよな
最新の幕末史研究が反映されているとされる八重の桜見るにそこまで大げさに誇張してるようには見えないけどな

30マンセー名無しさん2018/06/16(土) 08:58:53.87ID:BX/6G8wW
>>24の御紋レコードの話について
田口は左御紋タブーが沖縄に生き続けていたとか書いているが、違うと思うなあ。
尚家の権威なんてとうに失墜していたけど
他家の家紋だから勝手に使えないという意識が残っていたというぐらいじゃないか。

31マンセー名無しさん2018/06/16(土) 12:50:06.04ID:KrJpTvzs
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/j/jjtaro_maru/20110618/20110618105111.jpg
http://img01.ti-da.net/usr/t/a/r/taru2014/app-007750300s1503277682.jpg

ところで琉球国旗云々でお聞きしますが、上図の船の右端、下図の船の左端に掲げられてる青地に赤丸っぽい旗はどういうもんなんでしょうか?
それと上図の日の丸の上の五色の旗もわかりましたらお教えください。

32マンセー名無しさん2018/06/16(土) 13:16:25.36ID:iPNp7/kC
五色のは満州旗に似てるね

33マンセー名無しさん2018/06/16(土) 13:16:43.21ID:w90qOLsL
オカルト板でやれ

34マンセー名無しさん2018/06/16(土) 21:05:12.54ID:xZMYQtwj
進貢船に掲げられた旗にはどんな意味がある?
http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/archives/%E9%80%B2%E8%B2%A2%E8%88%B9%E3%81%AB%E6%8E%B2%E3%81%92%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%97%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%EF%BC%9F
ムカデは後ろに下がる事なく、必ず来た道を通って帰ってくるので、
行った船が必ず帰るという縁起を担がれました。
そして、中央のマストにある三角の日の丸の旗は、太陽を意味しており、
天候が荒れないように、祈願する意味を持っています。
五色旗は、元々中国の道教に端を発する旗で、東西南北と中央の方角をあらわし、
それらの全ての方角を守ってくれるという意味があります。
西龍、白虎、朱雀、玄武の四聖獣と同じなのだそうでいわゆる吹き流しというモノです。
黒い旗には、七ツ星が書かれています。
それは天空の北斗七星を意味していて、不動の星、北極星信仰と関連しているようです。
こちらも航海の安全を願い、最短の時間で、航路を往来できるようにという願いが込められています。
赤い菩薩旗は、媽祖神信仰に関係しています。
媽祖とは北宋時代に実在していた中国の少女で、千里眼の能力があり、
船を遭難から守ったというような逸話があり、船乗りが守護神として祀るようになります。
進貢船の中には、媽祖廟が安置され、拝礼を欠かす事はなかったようです。

35マンセー名無しさん2018/06/16(土) 22:52:01.59ID:jBfn2xIP
そのブログがあってるかどうかは知らん。
上から赤、黄、緑(青)、白、黒という配置は中華民国の五色旗と似ている。
五色の旗は仏教系でも見るが、配色が違うようだ。

36マンセー名無しさん2018/06/16(土) 23:48:38.08ID:jBfn2xIP
松居南岱『万国舶旗図譜』(1854)に旗の絵が載っていて、
注釈に寛政十年(1798年)に銚子に漂流した「琉玖」船の旗とあるのは以前紹介した。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/viewer?&cd=00061200
いろいろ調べていたら、これに関連する論文が2017年に発表されているのを見つけた。

三枝 大悟:沖縄県立博物館・美術館所蔵「琉球船の図」と関連資料
http://okimu.jp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/hakukiyou10/006.pdf

同じ漂流事件に基づく旗の絵を沖縄県立博物館・美術館が所蔵しており、
元の所有者は千葉の歴史に興味のある個人収集家ということで、現地で描かれたかその複製の可能性が高い。
絵に「午二月廿日銚子港入」とあるのは寛政十年(1798年)。
船は王府の楷船ではなく、大嶺筑登之親雲上が所有する馬艦船だが、王府がチャーターしていた。
絵には「琉球舩」と書いてあって、「琉玖」船となっている『万国舶旗図譜』より正確だ。
二重横線が三つ巴の上に配置されいるのは『万国舶旗図譜』の反対で、さらに三つ巴の下に波模様が配置されている。
色はわからないが塗り分けられているようには見えない。
『万国舶旗図譜』の方は伝聞を重ねて歪んだ情報を伝えているのではないか。
以下の指摘は興味深い。

巴紋の幟は日本式のものであり、中国に対して薩琉関係を隠蔽しなければならない琉球船が、
御紋旗を中国との往来の際に掲げたとは考えにくいとの指摘がある(12)。
(12) 板井英信「『那覇港図屏風』にみる19世紀那覇港の船」(『比較民俗研究』22、2008年)。

37マンセー名無しさん2018/06/17(日) 00:21:56.98ID:22zghyHW
連投御免。「午二月廿日銚子港入」は「午二月廿日銚子湊入」の誤字。

琉球「船舶図面五枚」の付箋(『東京国立博物館図版目録 琉球資料篇」2002年、東京国立博物館、260〜262頁、2002年)を
豊見山和行が分析した結果が表1にある。
https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5971/1/1-1_TOMIYAMA%20Kazuyuki.pdf
唐船(進貢船)、楷船、馬艦船のうち、唐船と楷船の両方に「御紋籏」が入っており、板井の主張と整合しない。
銚子に漂流した民間の馬艦船に「御紋籏」が掲げられていたのは、王府がチャーターしていたからということで説明可能か。

唐船の三つ巴を豊見山は「青地に三つ巴で示された御紋籏」と説明する。
楷船のそれも同じで、どちらも「日本式の幟」に見える。
豊見山は「むすびにかえて」で、王府が1865年になって、
「一、首里中から(唐)旅行之外、鞁打躍候儀并やまと風籏立候儀、禁止之事」と
大和風の風見鶏の掲揚を禁止(というか制限)する命令をだしたことに触れている。
だとすると、「御紋籏」が日本式の幟なのは都合悪くないか?

38マンセー名無しさん2018/06/17(日) 00:59:48.77ID:22zghyHW
板井 英伸:『那覇港図屏風』にみる19世紀那覇港の船、比較民族研究 22、2008年
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=17513&item_no=1&page_id=13&block_id=83
低品質のスキャン画像なのが残念。
表8に楷船の分析がある。左三つ巴紋は紺地白抜きか白地に紺のいずれか。
表9の馬艦船にも三つ巴が掲げられた例がある。以下、関係する記述を本文から引用。

『琉球船舶図』につけられた付箋によれば、艫と艫檣に「関帝王旗」と「黄色旗」、「ム
カデ旗」、「三角旗」が、主檣に「三角旗」と「七星旗」、「ムカデ旗」と「進貢旗」が、前檣と
舳に「三角旗」と「五色旗」、「舳旗」がそれぞれ掲げられることになっているが、絵の中では、
それらに加えて王家である尚氏の紋章(巴紋)を白く染め抜いた日本式の幟が加えられている。
これは和船である弁才船や鹿児島港路の楷船のようを主に薩摩と関係する諸船に見られるもの
であり、『那覇港図屏風』でもそのように描かれているが、中国に対して薩摩との関係を極力隠
そうとした当時の琉球が、あえて掲げたとは思いにくい。『琉球船舶図』は王府による船舶管
理が過去の話になってから以後、明治期になってから描かれたものであり、唐船との混同が起
きた可能性を考えるべきであろう。

『琉球球船舶図』の付箋によれば楷船には「御紋旗」が掲げられることになっており、実
際に巴紋を白く染め抜いた日本式の幟が加えられている。これは先述のとおり『那覇港図屏風』
でも見られるものだが、薩摩に対しては琉球国も日本の方式に従っていることを示すねらいが
あったのだろうか。

39マンセー名無しさん2018/06/17(日) 01:11:59.05ID:22zghyHW
ということで、豊見山の2012年の分析は、2008年の板井によってあらかじめ反駁されていたww
板井論文は以下の文から始まり、これを「おわりに」でも繰り返している。
よっぽどレベルが低いんだな。

筆者はかつて「奄美・沖縄の船に関する議論の中には、しばしば全体の文脈とは関係なく都
合の良い記述や描写だけを恣意的に選び出し、『昔は』や『伝統的には』などの抽象的な括り方
で時系列を無視したり、単発的な記述を一般化して強弁したりするものが散見された」と指定
し、「こうした時系列に対する無責任な態度は、奄美・沖縄の船に限らず他地域を含むモノ資料
研究全体の信頼性を損ないかねない」と述べたことがある

40マンセー名無しさん2018/06/17(日) 09:22:02.10ID:Il4aLsrA
掘り出し物を見つけるきっかけをくれた>>18には感謝。
昔のやりとりを覚えている人は少ないと思うから改めてまとめるよ。

白地に黒・紺の三つ巴、下に赤黒横線の旗が琉球王国の国旗だったニダと信じている困った人たちがいて、
こんな感じで世界に拡散してしまっている。
https://www.flaggenlexikon.de/fjapokin.htm#historische%20Flaggen

この図が載っているのは幕末から明治初期にかけて本土で出版された本で、俺が見つけたのは以下の3冊。
『万国舶旗図譜』(1854)、『内外旗章地球国名』(1873)、それに制作年代不明の『内外旗章便覧』。
http://school.nijl.ac.jp/kindai/SUMI/SUMI-00237.html
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761507
http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/biblio/bib40-2/05.html
これとは別に那覇港の様子を描いた絵がいくつか残っているが、いずれもこの旗は載っていない。
また、いずれの本も琉球を「琉玖」と表記していたり、「清道」旗を朝鮮国旗扱いしたりと、
クオリティの低さが推測できた。
『万国舶旗図譜』には注釈があり、寛政10(1798)年に銚子に漂流した船の旗がソースだという。
実際にこの年に琉球船が銚子に漂着しており、『琉球人漂着一件』という取調べ報告も残っている。
ここまでが3年前に調べてわかったこと。

今回、沖縄県立博物館・美術館所蔵「琉球船の図」という、同じく1798年の漂流事件をもとにしており、
しかもより信頼できるソースが見つかった。
この絵は色がついていないが、三つ巴は白地に単色(おそらく紺)、上に二重横線という
今でも神社とかでよく見かける日本式の幟であって、国旗風に仕立て上げられていたわけではなかった。
こうした家紋の幟は大名が船に掲げることになっており、
例えば、島津氏の「丸に十文字」の幟は首里城公園所蔵「那覇港図」で確認できる。
薩摩との関係を隠蔽する都合上、日本式の幟が唐船に掲げられた可能性は低く、
もっぱら薩摩と関係する王府の船に使われたはずであり、
そうすることで琉球国も日本の方式に従っていることを薩摩に示すねらいがあったと板井は推測している。

41マンセー名無しさん2018/06/17(日) 17:40:38.36ID:LvRhQH4x
http://ryubun21.net/media/2/20120617-hata003.jpg
幟式の巴旗ってこれだったよね

42マンセー名無しさん2018/06/17(日) 17:49:50.38ID:LvRhQH4x
検索したらこんなんも。
既成事実化が進んでますな。

岩手県花巻市議会議員(元朝日記者)のブログより

沖縄だよりG―「本土復帰」45年と3本の旗
http://samidare.jp/masuko/data/14948229271.jpeg
http://samidare.jp/masuko/note?p=log&lid=434305
初めて見る旗だった。赤と青と黄色を「巴」(ともえ)状に配した不思議な図柄だった。「これは450年間、続いた琉球王朝の
家紋だと言われているんです。“左三つ巴”というそうです」と知花さんは説明し、「実は…」と続けた。「10年ほど前、当時83歳
だった元海兵隊員からもらったんです。『沖縄は日本の植民地。米軍はその植民地支配から解放するためにやってきた。
これは大切な解放旗だ』と…。上陸する前に末端の米兵たちはそう教え込まれたというんですよ。それが真っ赤なウソだとは
すぐに気が付いたけど…」。泡盛を入れる陶器には別の旗が施されていた。「1950年1月25日/米国軍政府 琉球旗設定」と
記されていた。知花さんが言った。「当時の沖縄は星条旗でも日の丸でもなかった。海賊船などから漁船を守るために、この旗を
船首に掲げたらしい」

中略

 「アメリカ世(ゆ)のあわりから/平和憲法・民主主義/求めてヤマト世来たけれど/思(うむ)いこがれたヤマト世は/ヤ
マトの為の世の中で/人間不在の政治だけ…」―。「とすると、知花さんにとっての心の原郷ってどこになるのですか。やはり、
かつての王国?」と私は問うた。しばらく、考えた後にこう答えた。「一時期、米軍が巴の琉球王国旗を“解放旗”と見たのは本当
だったのかもしれない。それが占領政策の手段だったとしても…。この旗にはやっぱり、シンパシ−を感じる。でもいきなり、
“琉球独立”論にはいかない。運動に排外主義があってはならない」


(写真は琉球王国の国旗をされる旗を広げる知花さん。「かつての沖縄の姿をヤマトの人たちにもぜひ、知ってほしい」=5月6日、読谷村波平の自宅で)

43マンセー名無しさん2018/06/18(月) 12:54:42.86ID:z5Ad6af8
>>27
14世紀半ばだと三山の明への朝貢も始まってないが、それ以前からりゅうきゅうと自称してたんですかね?

44マンセー名無しさん2018/06/18(月) 19:20:05.44ID:/ATWppFz
リュウキュウという恐ろしい人食い野蛮人の国が南方にあるという認識が本土で広がっていただけで、
リュウキュウの自称はもちろんのこと、どこを指していたかもはっきりしない。

漢字の違いを無視すれば、琉球の初出は『隋書』(636)の「流求」。
この「流求」が沖縄か台湾かあるいはその両方なのかは決着が着いていない。
ともかく『隋書』由来の人食い野蛮人のイメージが日本でも受け入れられていたことは
『性霊集』(9世紀前半)中の空海の漢詩(「留求」が出てくる)などで確認できる。
13世紀前半の『漂到流球国記』は、漂流先が「流球国」だったと信じていた人からの聞き書きなんだが、
ちょっと笑えるくらい漂流先でビビりまくっている。
少しあとの金沢文庫所蔵の日本図(鎌倉時代後期)には「龍及國宇嶋身人頭鳥 雨見嶋私領郡」と書かれている。
「頭鳥」は、『隋書』に村長を「烏(鳥)了帥」と呼ぶとあるのと関係しているのかもしれない。

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