性の民俗学
※朝日新聞
東京地検は26日、新型コロナウイルスに感染していた20代の男性検察事務官が東京都内で自宅待機中に福岡市に移動していた、と発表した。移動目的などについては「プライベートな部分もあり、現時点では調査中」としている。
地検によると、事務官は捜査部門に所属。17日朝に発熱があり、PCR検査で陽性が判明した。保健所から、この日以降27日まで自宅で待機するよう指導を受けていたが、高速バスで福岡市へ移動していたという。
山元裕史・次席検事は「極めて不適切な行為であり、深くおわび申し上げる」と謝罪した。
2020年12月26日 11時48分
https://www.asahi.com/articles/ASNDV3TRCNDVUTIL003.html 男根信仰、なんてのは各地にみられるけど、その逆は(女性側)あまり知らない、女性器のみを祀る信仰はあったのでしょうか?それとも、やはり穢れとして除外されてた? 女性器を穢れってしたのは独占したいから
顔がキレイ、カワイイ女、スタイルがめちゃイイ女、セクスが上手な女、丈夫な女…と
パターンがありそれらの組合せを考え、王=権力者が次世代へ遺伝子を残す為にも
数が要るって事で
いつの世も女は顔とマ〇コがあれば生きてけるし、男は金、力、権力などでそれにぶら
さがるしかないと言う事だ
男女平等なんてちゃんちゃらおかしい、クソくらえだ!!! 江戸時代、箱根の底倉温泉は痔に効くとされていた
そのため男娼がよく行っていたそうな 江戸の吉原遊廓には5つの稲荷があった。
大門に玄徳稲荷(よしとく・いなり)
大門を上に見て、
左上に榎本稲荷
右上に明石稲荷
左下に開運稲荷
右下に九郎助稲荷(くろすけ)
九郎助は元吉原の時からあったらしいが他は不明。
5社が合祀された吉原神社には、弁天が摂社になっている。
稲荷しかないのは、もともと千束村界隈は稲荷が多かったからという説もあるが実際はどうなのか不明。
吉原に隣接した所に鷲神社(おおとり)。
吉原が手本にしたという島原遊廓はどうだったかよくわからんが
今の島原住吉神社には、稲荷、住吉三神と摂社に天満、弁天があるらしい。
もともと町の四隅にあったのかどうかは不明。
遊廓の女達も拝んだであろう神社は、祭神は異なれど、ほかの遊廓や色街にもある気がする。 幕末に横浜が開港されて、にわかに造られたのが港崎町遊廓。
今の横浜球場の場所。
埋立てと土地造成に一番金を出した楼主が町の名主になり
そいつが勧請したのはなぜか金比羅。
横浜村の鎮守は今の市庁舎あたりにあった洲崎弁天だったが
遊廓の鎮守は別にする必要があったのだろう。
港崎遊廓は数年で燃えてしまい、今の横浜駅手前の高島町へ移った。
高島遊廓は金比羅に加えて、吉原に習い鷲神社も勧請した。
高島遊廓も数年で移転。
今の横浜橋商店街付近の永楽町と真金町に一大遊廓を造り
金比羅と鷲神社も移設。
この遊廓は戦時の赤線禁止まで続いたが今は繁華街の雰囲気は少ない。
大量に金を出してくれた氏子衆はいなくなったが神社は商店に支えられて現存。 衆道とか興味ありッス
武士も男にフェラチオしたりしたんですかね? ところで遊廓やその後の花街などで祀られていた神社だが
遊廓の有力者、最大の店を持つ楼主などが個人的に勧請したり
もともと氏神だったものが遊廓エリアで祭祀されるようになったようだ
明治期に2度あった神社合祀はいずれも村内の祭祀を一本化させることが目的であり
村の鎮守を1つにすることで地域住民の結束を、政府が強引に、高めさせるための施策だった
よって、かつての遊廓や花街で祀られる神社は個人祭祀だったため合祀されないまま残った傾向があるようだ 江戸時代の遊廓は基本的に周囲から隔絶する造り。
吉原のように水堀を廻らすか、黒塀などで囲っていた。
中にいた遊女は外へ出られない籠の鳥状態。
吉原のすぐ隣にある鷲神社はこれに掛かっているという話もある。
宿場の飯盛旅籠は街道に面していて、旅籠の飯盛女は逃げようと思えば簡単ではあった。
しかし、親元や身許保証人がガッチリ抑えられていて、逃げてもどうにもならない状態だった。
性病に罹患して湯治へ行った事例もあるが、帰るのが遅いときつい折檻を受けた記録がある。
宿場内に点在していたこれらの飯盛旅籠や飯盛女達がおがんでいた神社があるかどうか。
小規模な宿場だと宿場の鎮守社へ拝みに行けていたかもしれない。
しかし、飯盛旅籠やそれに近い店ができた当初(江戸初期)は鎮守への祭祀を村が拒否した事例もある。
大規模な宿場になると、鎮守社とは別にそれらしき小社が残っている所もある。 レアケースになるのか、普通にあったことなのかは不明だが、
横浜には、娼妓が病になったり孕んだりした時のための寮があった場所に
小さな稲荷が残っている。
遊廓があった場所からは数キロ離れた商店街にあり、
楼の名をとって岩亀稲荷と呼ばれ、今は商店街が守っている。
岩亀稲荷には、異人に身を売るのが嫌だと自害した遊女の伝説がある。
その遊女自体は実在したらしいが、伝説は尊王攘夷派がでっちあげた嘘話という説が強い。
同時代、尊王攘夷派がでっちあげたと思われる嘘には、キリスト教の布教会に多くの者が集まり、
信者にならないと異人相手の商売をできないと勧誘しているというものもあった。
それが真実なら関内にいた商人や遊廓もキリシタンになっていなければならない。
もちろんそんなことは無かったが、これを鵜呑みにした馬鹿が異人切りをやるのは正義だと思い込んでいたのは事実。 明治5年、日本の性産業にとっての大事件がおきた。
娼妓解放令と通称される通達が発布された。
娼妓だけが対象ではなく、奉公人も含めた人身売買の禁止と
年季奉公の制限と、前借金の無効が政府によって宣言された。
しかしこれは娼妓や奉公人など、江戸時代から続いていた身分制度を変える目的ではなく
その証拠に、娼妓の前借りを無効とする理由は
“娼妓芸妓は人身の権利がなく牛馬と同じで、牛馬に借金返済は迫れない”というトンデモであった。
しかし、内容はともかく、これによって性産業で働く女達は身の自由を得る事が表面的には可能になった。 娼妓解放令で表面上の自由を手に入れた女達だが
その多くは他にできる仕事がないという理由で同じ商売を続ける道を選んだ。
また、飯盛旅籠や遊廓の店は貸座敷という新しい業態に転身した。
明治になって、大きく変わったことは
吉原や島原など、ごく一部にしか認められなかった遊廓が各地に誕生した点。
江戸時代では幕府で取り締まられていた二階建てや華美な建物が自由に建てられるようになり
特に明治中期以降、貸座敷や娼妓、料理屋が政策によって特定地へ集められるようになると
性産業としてはむしろ華やかさが爆発したかのような状態になった。 明治以降の遊廓や花街、色街が現代まで残っているケースは少ない
全国でどれほどの数になるのかは不明だが
例えば都内であれば23区に限っても最盛期には46もあったとされるが
そのほとんどが今はオフィス街や宅地に変わっている。
明治・大正期のそういった二業・三業地域は場所が転々とする事情もあって
いつの時代にどこにあった、という特定ができなくなっているケースもある。
しかし、花街で祭祀していた神社だけは取り壊されずに残っていることもある。
23区内の場合は、宅地に不向きだった谷や傾斜地に造られることが多かったようで
もともと鎮守的な神社があれば違うが
新開地の場合、水天や弁天など水にまつわる神社が勧請されたこともあるようだ。
そういった神社の石造物を調べると、奉納者の中に店や経営者の個人名
二業組合、三業組合といった団体の名が彫られていることもある。 遊廓の信仰に金精神(金勢神)があったらしい
陽根を廓内において拝むというもの
全国どこでもやっていたのかは不明だが「遊廓と信仰」という論文と他の情報を合わせると以下
江戸吉原には、妓楼内部に金精神を祀る風習があった。
青森の八戸にあった遊廓では、娼妓が陽根状の物を奉納するお堂があった。
八戸市小中野の旧遊廓で現在は旅館の店には当時の木製陽根が残っている。
岩手の北上市にある稲荷には、遊廓の女達が奉納した陽根があった伝承。
山形県鶴岡の熊野神社には、陽根を奉納する行事があり、かつては芸者や娼妓が牽いていた。
神奈川の川崎にある金山社には、大量の陽根が奉納されており祭になると水商売の女性が陽根御輿を担いだりする。
新潟県三条市の月岡には、木製陽根が十数本まつっている場所があり、花柳界の信者が多かったとされている。
石川県金沢市の卯辰山には、陽根状の大石が立っており、芸者や娼妓の信仰を受けていたと言われている。
奈良県葛城市の当麻寺には、陰陽和合地蔵があり、大阪の松島遊廓や新町などの講中の名を記した額が多数納められていた。
他にも同様の事例があったとする郷土資料などはあるので、江戸吉原から全国に広まった可能性もある。 遊廓の火災は少なくない
例えば、江戸吉原では10回以上も火災があり、遊廓全焼もあった。
浅草近くの新吉原に遊廓ができたのも、そもそもは元吉原が全焼したから。
全焼ではない火災のうちいくつかは遊女による放火であった。
また、吉原以外の宿場でも放火はあった。
飯盛旅籠に買われた少女が面白半分で付け火した事例もあるが、
吉原の場合は楼主に対する抗議あるいは将来を悲観したものだったようだ。
江戸時代の付け火は死罪が原則だが、遊女の付け火は遠島処分が多いのは
情状酌量があったからかもしれない。
江戸時代に遠島処分になった女のうち4割は付け火であり
4割の大半は遊女、飯盛女、下女だったとする資料もある。 幕末に開港してから外国人相手の売春が始った横浜では
ピジン(混成言語)が使われるようになった
言語といってもほとんど単語を並べただけだったと思われる
今は使われなくなっているが、史料からいくつか拾うことができる
ちゃぶ 今でいうBarだったが後に売春宿の意味になった
らしゃめん 洋妾の字が当てられる
などが色街関係で見受けられる
ばっていら 小船
どんたく 日曜日
メリケン アメリカ
これらは本牧にあったチャブ屋を説明する時に出て来るワードで
「横浜に入港した船からバッテイラで本牧のチャブ屋に行き、高級船員になるとラシャメンの家へ行った
ドンタクの本牧は大賑わいで中でもキヨホテルのメリケンお浜は有名人だった」
とかである
これらは当初、清の貿易関係者が多く日本に来て通訳をしていたことも大きく関係している
実際の商売などではもっと色々あって全ては調べ切れていないが
簡単なコミュニケーション程度であれば問題なくやりとりできていた娼妓は少なくなかった
本牧にちゃぶ屋街があった頃、別の場所には遊廓もあり、外国人専門の店もあったが
ちゃぶ屋は洋風(ハイカラ)で女達も当時の流行りだったモガの姿でダンスの相手もしており
人気度合いではちゃぶ屋の方が良かったらしく、中には女学校出の娼妓もいた
外国人側も日本語の使い方をまとめており、ネット公開されているものもある
https://archive.org/stream/revisedenlargede00atki/revisedenlargede00atki_djvu.txt ノンケの男が一同に介して
みんなでシコシコやるようなお祭りをでっち上げて作りたい
目的はムラっと来た時の自慰、すなわち正しい性欲処理を
次代の子供達に正しく継承するというもの
今は新参の祭りでも2000年続けば超老舗よ
それに日本の性教育はまったくオープンじゃない
AVから教わるくらいなら堂々と祭りで教えよう