gerotaikutsu
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
他の作家とは違う変なゴツゴツ感があってスムーズに流して読めない文だ お袋さんが明日の朝ご飯のメロンパンを食べています
どうしたらいいですか?止めた方がいいですか? 目標の300pまできた
謙作の態度は相変わらずもどかしいが
若干の気持ちの変化がみられる 自分は不道徳から生まれた子供で愛に恵まれないと思っていたのが
実は自分はわがままなだけで周りから愛されているのではないか、ということ あれ?
思っていたよりもいい小説だな
身構えすぎていたのかも 直井潔という作家は暗夜行路に感動して暗唱できるほど読み込んで
実際に後半を暗唱できたそうな 反面、「面白みのないただの作文」とバカにする人も多い 構造美はないが一文一文ががっちりしていて見晴らしが良い、というニュアンス
>志賀直哉の散文はよくやかれた瓦できっちりとふかれた
屋根屋根の起伏の美しき眺望のように
見るものの心にうつるたしかさをもっている。
が、生活の中からせり出して来る生々しい建造物の規模はもっていない バルザックは確かに強壮だった
精力的すぎてノリについていけず読み通せない 深夜にコーヒー飲み過ぎだな、バルザック
小さいカップとはいえ1日に70杯も80杯も飲んでいたらしい
あげく、粉のまま流し込んだりして よくやかれた瓦、という表現はほんとうにぴったりだ
なにか一つの文がやたらとガッチリとしている 直井潔の話をみていると、この人は暗夜行路に命を救われているな
病気で身動きできなくて将来を悲観し、自殺を考えている中
暗夜行路を読んで、感激のあまり後編を1年かけて暗記したのだと 兄の手紙のシーンで泣くのか・・・
ヒューマニズムに燃えた経験のある人でなければ分からんのかもしれん
俺にはその心境が理解できなかった
『和解』もようわからなかった 文学作品が誰かの命を救ったり命を奪ったりするのはよくある話だな
たんなるきっかけなんだろうが
太宰治が死んだときは後追い自殺する人間が複数いたそうな
作家と作品の距離感の問題があるな ゲーテは人間原理を描けるし正しい生き方の規範となりえたのだが
ゲーテ本人は冷たい人間だったという話がある
『戦争と平和』を書いたトルストイも雰囲気としてかなり怖い人だったらしいしな 息抜きに井上荒野の本を読んでいる
文章がかなり上手いのだが、女流作家特有の
なめらかさだかつやっぽさのようなものがある
この人の父親が有名な文学者で、ノートに書いた原稿を
よく原稿用紙に清書させられていたらしい
それで文章力が身についたのかもな 志賀直哉の文章に慣れてから現代小説を読むと
文章のスマートさに目がすべる
現代小説の文章って随分効率化が進んでいるんだなあと思う アフリカで「アルビノ狩り」ってあったよな
あれは残忍過ぎると思う エロ、グロのネタはもう見尽くしたからあまり興味ない 性欲自体はあるがな
想像としてのエログロはマンネリだ 性欲なんか無い方がいいに決まっている
あるならあるで仕方がない
否定する気もない もてあまして、処理の仕方に苦心する
どうせ処理するならばとできるだけ気持ちのいい方法を考えあぐねる
もてあます、だの、処理する、だの
嫌なイメージが性欲につきまとっている
あまりにも面倒だ
子作りのときだけ意識的に湧き出させればいいのでは? 最近文字ばかり読んで思考が働いてない
文字から想起されるイメージ以外では何も考えていない
読書したらアホになるというのは本当だな
読み方にもよるけれど 文字の世界は止まっているから
自分で文字列を連続的につなげて動かさないといけない
その点でのみ能動的といえる 映像媒体も音楽もゲームもほとんど触れなくなってしまった , -───--、
/ ( ゚д゚ ) / >>1乙zz...
r-<,ぅ⌒cソ、. /
ノ '、 , 、 _, ' //
(_,. //
(.,_ `'ー-、_,,..ノ/
~`''ー---‐' 和の情緒にあふれる絵を描こうとしたら
幼児のラクガキになってしまったな 謙作の「俺が先祖だ」の意気込みがすばらしいな
全ては自分から始まる、という新しい心境へ到達 志賀直哉の文章は無駄のなさという点でいうと
極限まで磨きがかけられている
このレベルのをもっと読まなければ
ただし、美しいというわけではない
抽出したのではなくて自分が書きたい以外のことを一切書かないだけなのだ 強いて言えば純粋な気分を抽出して
気分に即したこと以外は書かないという方法をとっている ミヨナムと覚えておきたまえwwwww
だめだ、笑う たしか円城の小説を再読して切れそうになったのが9月後半で
そこから理系の学問がどうとかいいだして、今は志賀直哉を読んでいるわけか 一年間フリーゲームばかりプレイしていたからな
それでゲームストレスが噴出したのかもしれん 志賀直哉を初めて読んだのがおよそ2ヶ月前だ
これは覚えている
たしか「灰色の月」という短編で
文章のリズムの安定感に感心したのを覚えている
谷崎潤一郎とセットで読んでいたはず それで、本屋で志賀直哉を拾い読みしたり短編集を買ったり
論文を読んでいるうちに「これは読まなければいけないな」というふうに
なっていった 2ヶ月たってようやく暗夜行路を読み始めるところまでこぎつけたのだ 俺の中で円城どっかいってしまったな
ノーベル賞でも取れば思い出すかもしれん ノーベル文学賞の場合、訳の問題がつきまとうんだな
川端のときもそうだったらしい
選考委員に日本語の研究者がおらず苦心したそうな 村上春樹は英語できるから、訳したときの良さと日本語の面白さと
バランス取るのにかなり頭を使っている
あの計算がかえってアンチ?を生み出す要因になっているのでは 春樹は露骨に川端や三島などの文章を嫌っているからな 三島は太宰を嫌っていた
三島自身にも太宰に近しい性格があって
「ああはなるまい」という意味で距離を置いていたらしいが
実際に嫌いだったのだろうな 当時の文壇権威の象徴的存在であった志賀直哉にも噛み付いていた 最初は志賀直哉が太宰の小説をつまらない、と
感想もらしたのがきっかけだったらしいが
そのときの志賀は太宰のことを何も知らんかった
太宰の現状を知っていれば恐らくそれ相応の評価を考えたのだろうと思う 志賀直哉の後続者、みたいな人
今の作家でいるのかな
うーむ・・・ 散文で心境小説を書くというスタイルは多くの模倣者を生み出したがな 気分に振り回されていると心境には達しないが
その場その場の気分も考えようによってはひとつの心境だからな いろんなものに振り回されていると安定した気分というのは得られない
謙作は安易に葛藤を放棄して落ち着く、という状態を拒み続ける
しかし太宰のいうような自我の闘争(自分の意思でぶつかっていくような)は無い
このあたりの絶妙さが肝なのかもな
精神的闘争はかなりしていると思う 村上龍はヒステリックに精神的闘争してきたな
あれも自分の意思でぶつかっているという感じがあまりしない 安定状態を得るにはなにがしかの闘争しなければならない、
という強迫観念があるな
単純に考えるとエネルギーの交換にすぎないが
エネルギー、資源の問題でずっと闘争しているからな人間 謙作は素直だな
痩せて目がひっこんだお婆さんを見て
「メザシ」を連想する
お婆さんからメザシを連想したことについてなんら違和感を持っていない 文明社会が強迫観念を効率的にエネルギーに替えてきたな
しかしここには無駄が多い 謙作がシェークスピア原作の活動写真(映画)を見て感心し
「から騒ぎ」(シェークスピアの喜劇)を買ってくるシーンを読んでいる
それまでは東洋の骨董で自分を慰めていたのだが
西洋の喜劇で元気付けられる、という心境になっている このときの謙作に悲劇は受け付けない
気楽で自由な気分を得たいのだからな 俺はシェークスピアの喜劇では「十二夜」をよく読んでいた
でもいまひとつ面白さを感じ取れなかった 4大悲劇も頑張って読んだが「なんだこれは?」という感じだった
あとで論文などを読んでいろんな解釈があることを知ったが
どこか腑に落ちない 意地と習慣で生きている人が多いから
人間社会ってそう簡単に変わらんな 習慣は誰でも営んでるがな
齢を食うと変わろうとしても変われないものだから
どんどん頑固になっていく 禅の同時現成の世界では過去も未来もない
今現れているものが全てなのだ >>90の動画なかなか面白かった
ちょっと構成がクドすぎるがな
>>93
wi- お袋さんがまたメロンパンを食べています
皮の部分を先に食べて残ったパンにハチミツつけてました
仕方ないので明日の朝ご飯の分も買ってきました 暗夜行路の文章ようやく慣れてきたな
300ページ以上かかってようやく慣れた
短編とはまた違ったオーラが出ている 谷崎潤一郎のときもビビったけどそれとは異質のオーラが出ている 志賀と川端のおかげで昔の文学が古臭いというイメージが払拭された
今の俺にとってものすごい斬新だ
古典にあまり触れてこなかったものだから 古典に触れようとわりと真面目に思ったのがつい最近だからな
それで論語や大学、中庸、孫子、漢詩など漢文や
日本の伝統的な和歌を読み漁っていた 俺は極端で影響されやすい性格で
古典がいいなと思うと新しい小説が下らなく思えてくるんだな
この性格がどうもなおらん 構築美や技巧を排除して無駄のない描写にのみ神経を注ぎ込む クリスマスはお袋さんとお好み焼き食べに行きます
お店も予約しました 一字一句見落としてはならない、と思わせる文章に初めて出会ったからな
いつもの過大評価が止まらない >>110
お好み焼き、最近は外国人にも人気あるらしいね
たしかにうまい 志賀の短編を読み返している
なんだろうねこの変な感じ 綺麗に書こうという気がまったくなくて乱雑な印象さえ受けるのだが
丁寧に読んでみると妙にきっちりした印象を受ける 志賀の文章を分析した論文をいろいろ読んだが
あれは特定の箇所だけ抜き出したり総論としてのものだから
実際に読んでみると分析など参考にならないことが分かる 短編になると構成やリズムが明確で分析しやすいのだろうが
暗夜行路では中々通じない 常に簡単なことしか書いていないのに
頻繁にひっかかる箇所があって、「これはなんだ?」となって首をかしげる 最初から「読みやすさ」を意識した文章だと
何気なしに流して読めるのだがそれができる箇所がほとんど無い
これに驚いている 芥川の対極のような文章だな
芥川は逆説と技巧を好んで使う 芥川も読み応えあるけど
どこか「計算してやってるな」というのが透けて見えてしまうことがある 新しいのか古いのかさっぱりわからん
こういったものが斬新に感じるのだな ともかく、小説なのにドラマがない
悲劇も喜劇も何もないのだ ひたすら三文芝居じみた人間関係にまつわる出来事と風景描写と
主人公のちょっとした気持ちの変化が綴られていくだけで
面倒な内面描写など皆無だ >>125
俺、キンキの堂本に似ている、っていわれたことがあるぞ
髪型だけ 最初からわかりやすさと速いテンポで読むのが前提の現代小説は
最近どうも味気なくて読んでいると目がすべってしまう
目がすべるというのは一応文字を目で追っているのだが内容が
頭にスムーズに入ってこないということだ 読みたい論文がたまっている
難しいのと長いのはパスしてるが人文系のなら大抵いける
理系の論文は意味不明なのばかりだ 読みたいエロ本がたまっている
難しいのと長いのは自慰してるが人妻系のなら大抵いける
ロリ系のAVは意味不明なのばかりだ 論文というのは先人の残した成果をある程度踏襲することが基本のため
あまり「外れ」がない >>134
エロ本って面白くないだろ
マンネリすぎて
俺は早々に飽きた エロ妄想は得意だったが最近は妄想の質も落ちてきて
これもマンネリに感じる
性欲が最近重荷に感じてきている 見た目の目新しさばかり追求してはいけない
古いものというのはそう簡単に壊れてくれないからだ 島崎藤村のエッセイからいろいろ教わった
島崎藤村も偉大だが、ちょっとものものしく気取りすぎかな、という気はしている
晩年は大分落ち着いてるがな >>140
| || | |
| || | |
| || | |
| ヽ、 | | | |
||\ ヽ .| |
|| ヽ ( ゚д゚) 、 ( ヽ、
|| / ,ゝ 〉と ノ
∩ / ⊂二__,.ノi | |
| | ( ⌒ヽ、,.ィ | / i
| ト´ヽ、.,_ ヽ、| / ,ノ
ヽ /⌒'´..`_,.ノ⌒__ノ
< し( 。ц。 ) >
|/ \|
|/ V V V >>142
Blood-cというアニメに「古きもの」という化物が出てきた
あれと戦うことをイメージすればいい
それくらいやらないと古いものは壊れてくれない 古きものは猟奇的な方法で人を殺す恐ろしい化物
殺しに特化したような攻撃能力を身につけている
あれと真っ向から戦うのは至難だろう 古いものと戦う努力をしているうちに
新しい方法を生み出すことができるようになる
新しいものばかり見ていると古いものは壊れてくれない
簡単な道理である 俺自身がまず時代についていけない「時代遅れな人間」になってきている
それで俺自身が「古きもの」扱いされてからが勝負だな
俺は殺しの手段を磨かなければならんが・・ 「新旧の闘争」が存在するとした場合の
観念的な話だがな 新しいものほど優れている、という価値を信じていると
すぐにマンネリに陥るからな
新しいものなんてそんなに多くない
古典の中に埋蔵された価値のあるものを忘れている 歴史浪漫を俺はあまり持ってないからな
現物を見て判断するほか無い 徳川の埋蔵金伝説なんて今でももてはやされてるな
歴史浪漫と実利を巧妙に煽って やはり生セックスだな
生セックスの中にしか中出しの価値がない アメリカのパースの哲学に従うと
差異そのものを価値に見立てなければならない
他人と自分に差があるのは当然だし、お互いにそれを価値として
認めましょう、ってのが理想なんだが実際はまるで別物だ
つまり他人とのちょっとした差で自分には価値がないのではないかと
勘違いして悩む人が増えた >>152
今日は機嫌が悪いからシモネタもう禁止な 志賀直哉が中々読み進められなくて
論文見ていたら頭痛くなってきて気分が悪い
だからシモネタ禁止 俺も謙作と同じく
中身は道徳的欠陥人間だと思う
謙作は自分の欠陥を認めて自分も他人も許せるようにかなりの精神的努力をしている
俺にはそれができていないようだ 太宰は暗夜行路の主人公に対して他人を許すだのなんだの
何様のつもりなんでしょう、と喧嘩売ってるが
謙作のような人物はそういう生き方しかできないんだと思う 自分の中でどうしても許せないことがあって、それと
折り合いつけるために闘争という手段をとらずに
自分のなかで許せるように努力しているということだからな
太宰がいうのはそういうのではなくて
もっと自我を押し出して闘争しろ、というようなことをいっている 太宰は自分のことを軽薄だと開き直っているが
太宰は軽薄さの中に自信を見つけているような感じがある
軽薄さも使い方によれば己をアピールするための武器になるという
軽薄なりの頭の良さがなければだめだがな 椎名誠も双子座じみた頭の良さをもっていた
性格は確かに軽薄でノリもフットワークも軽い
それで昭和軽薄体、みたいな独特な文体を身につけて人気を博していたな
最近の作家では伊坂も双子座で、これまた軽い
いろんな価値観を自在に使い分けるがそのかわりノリが軽い
軽いのは双子座の宿命なのかもしれん
重たい事情を抱えていても軽い演技やってのけるからな 人間の精神はもともと分裂状態にあるのだが
双子座の性質というのは生まれつきそのことを自覚しており
分裂状態の意識を自我として保つのに
自分自身の対称性を維持するのが一番効率が良い、という判断をしている
自我の乱れを押さえ込む一番効率的な方法をそのまんま実践しているから
そのことが分からない人には軽薄に見える 不合理人間蠍座の俺にとっては「効率厨乙」だけどな
ただ頭の良さは認めている 効率的にやってよいことといけないことの区別のつかない人間が多い 晩年の志賀は創作動機を失ってほとんどエッセイみたいな文章しか残していない
自分の身のまわりに起こったことをそのまんま描写するだけだ 要は親との確執にまつわる葛藤が大きな動機となっていて
「和解」と「暗夜行路」で総決算をした、という感じか
戦後は小説を書く動機も薄らいで普通の生活を送ろうとしている なんか、そこいらにいるじいさんが気ままに書いた日記のような印象を受ける
それくらい普通 鳥や犬の話、自転車の話、奈良が住みやすい、という話など・・・
普通すぎてあくびが出てくる 島崎藤村はよく鬼畜という評価あるな
事実だけを抜き出せばたしかに酷い人間だ 小説出版のために家計を切り詰めすぎて
娘三人を病死させているからな
あとは姪との近親相姦とか 藤村は芥川から偽善者扱いされているし
志賀からも反発受けていた
それでも文学を捨てなかったのだから筋金入りの文学好きなんだな 藤村のエッセイは志賀のエッセイよりも優れていてずっとためになる 藤村は白樺派を遊びのようなものだと揶揄している
志賀直哉は既存の白樺派とは一線を画した場所でヒューマニズムを貫いた ヒューマニズムは人間中心主義で、突き詰めると
人間個人である自我を中心においた考え方である
藤村はそうではなく自然主義だった 自然主義では人間の文化や生活も自然現象のようなものだと捉えて
美化を否定し、赤裸々な現実を描く立場である
それで、人間の醜い面を露呈させる趣味の悪い小説が幅をきかせてきたことから
その流れに反発するような文学が多く生まれた 藤村は日本における自然主義文学の親玉だからな
ヒューマニズム連中からは嫌われてナンボなんだろうな ゲーテがやってのけたのは、自然を人間の上位に据えながら
人間原理も徹底させるという離れ業 暗夜行路の文章は白樺派原理主義で一線超えてしまい
心境小説の金字塔となった ヒューマニズムは突き詰めてやらないと陳腐なドラマに成り下がる
大衆小説の多くはヒューマニズム前提だがな
刑事ドラマなんてヒューマニズムがないと成り立たない
医療ものもそうだ
普遍的な人間の良心を追及しなければ倫理なんて存在できないのだからな
しかし純文学の枠組みでヒューマニズムに徹するには
志賀直哉の方法以外には無いのかもしれない 晩年の志賀は過去に自分で書いた題材には飽きて
興味を失っている
それが普通のことなのだろうな 俺にはまだ幼児的な感覚、中二病的な感覚が強く残っていて
普通のことを「ありきたり」といって下らなく思ってしまうところがある
この姿勢そのものが既にありきたりなのだろうがな 親米派のネトウヨ多いな
あれが何を言っているのか俺には理解できん https://www.freem.ne.jp/win/game/16429
息抜きにこのゲームをプレイした
バッドエンドとトゥルーエンド二種類回収で2時間程度
途中の長いイベントをスキップできないし
同じイベントを繰り返すバグがあって腹たったが
まあまあ面白かった 南米の村で生まれた女の子が
自分の運命(血の定め)に立ち向かう、という筋書きの脱出ホラーゲーム
トゥルーエンドの方はメタフィクションっぽい感じの不条理ギャグ 主人公の女の子はイライラしてくると記憶が飛んで暴力的な性格に豹変する
そのため精神安定剤をいつも母親から渡されて持参している
何事にも寛容であるように、という村の教えに背いているのではないかと
いつも強迫的になっている
それで、血の定めに導かれるようにして「永命館」に入ってゆく ザ・デプスとかサンゲリアとか、かつて俺が好きだった映画のネタが出てきて
ちょっと面白かった 作者は謙遜してD級とかいてるがB級かC級でいいのではないかと思った 生理的な感覚でいえば志賀よりも藤村のほうがしっくり来るな 藤村の文章からは何か自然体の自分を求めて
悪戦苦闘しているようなオーラが出ている
晩年のエッセイの穏やかさというのはここから来るものか
志賀のはいかにも人間らしいエゴを通じた精神的葛藤 芥川はヒューマニズムの逆説を技巧的に行く
懐疑的葛藤である 芥川は現実世界のおかしいと感じることに対して中々目を瞑ることができなかった
それでどんどん工夫をこらした表現を身につけていく
芥川が志賀直哉の文章を「純粋」といったり「理想的」といったりしているが
それは自分に出来ないことをやってのけているからだろうな 『歯車』になるとほとんど私小説に近いのだろうが
どこまでが計算でどこまでが情動でどこまでが神経回路なのか
よくわからんような凄みが出てきている >>202
若いな
オーストリアというと数少ない永世中立国だったはず
度重なる分裂と内戦の歴史があるでな 暗夜行路370ページまで読んだ
念願だった直子との結婚を果たした謙作
ここからまた新たな葛藤が始まり気持ちに変化を与えていくわけか
簡単にはいかないな 野村義男しらべたらギタリストだったな
茶髪ロンゲでよくいるおっさんみたいな人だった >>208
曲を聴いたことがあるな
>>209
三丁目の夕日は二回見た
まあまあの出来だったな いわゆる作り物のノスタルジーで大衆の興味をひいて
歴史に興味を持たせるっていう感じだろ
あの監督が得意なのは 監督のこと知らんが、たぶんジョージ・ルーカスファンだろうなと思う
演出の仕方を真似しているから ノスタルジーの演出方法もアメリカからの輸入だな日本の場合は 海外の作家を引き合いに出してきて日本の風潮を貶している時点で
批判はロクに通用しなかったんだろうなと思う スタンダールやサルトルに影響を受けている人だな
実存やリアリズムの追及がやりたかったのだろうか 普通の本
お袋さんの前で大声を出してしまいました
「恥ずかしいよ」って言われました
とても反省しています 暗夜行路430ページまで読んだ
結婚、出産、ときて最初の赤子が丹毒という病気にかかって
死んでしまうシーン 大雑把な粗筋を先に知ってしまっているからな
次に何が起こるのか分かってしまうのだ 志賀直哉の魅力は物語の筋道ではなく
一字一句無駄のない描写力だからな
目がすべらない 後半はたまに気分が乗っていないのか目がすべる台詞がいくつかあったな ジングルベール
ジングルベール
ジングルベルデスヨ〜♪ エッセイ 「鳥」
みなさんは鳥がお好きでしょうか
私は好きです
世界にはじつに様々な鳥がいます
例えば、ハト、スズメなど・・・
終 このエッセイで言いたかったことは
「私は鳥が好きだ」というのと
「世界にはたくさんの鳥がいる」ということでした
しかし、とっさに思い浮かんだのはハトとスズメだけでした 謙作の留守中に直子が要という男と肉体関係を持ってしまうのだが
そのプロセスがおかしくて笑いを禁じえない
しかし謙作にとっては重大なことだったのだ この、ドラマともノンフィクションともなんともいえない奇妙な感覚は
おそらく志賀直哉にしか生み出せない 出来事を淡々と書いて、それに対する謙作の気持ちの揺らぎがあるだけなのだ
ドラマも浪漫もくそもない 直子の不倫のあと些細なことがいろいろあって
山登りして謙作の気持ちが自然の中に溶けていくのだが
帰ると疲れ果てて下痢になって寝込んでいるところで終わり
最後までドラマらしいドラマが皆無だった 締め方はよかった
自分のことも直子のことも許せただろうな、と
ただ謙作がその後目覚めるかどうかまでは描いていない
謙作が生きようが死のうが直子が謙作のことを信じてついていく気持ちになったのである
ずっと謙作の気持ちについて描いていたのが、最後の最後で
直子の気持ちを描いた お栄のキャラはどっからもってきたんだろ
あるときは母親代わりだし、恋人にしようとも考えるし、友達感覚で話すし
よくわからんな・・・ あとがきも読んだ
どうやらこの暗夜行路のプロトタイプである「時任謙作」という小説は
夏目漱石の奨めで書き始めたものらしく
お世話になった夏目漱石への感謝の言葉が書いてある
ちょうど「こころ」を連載していたときか 夏目漱石に奨められたにも関わらず中々書けなくて悶々としている当時に
夏目漱石は亡くなってしまう
それで漱石への追悼の意味で書いた短編「佐々木の場合」を発表する
そのあとはどんどん作品を書いているな 父親との不和を題材にしていたのに和解してしまったものだから
プロトタイプの小説を大幅に手を加えなければならなくなり
そのため暗夜行路の完成にやたらと時間を要している またあとで読み返すか
ラストのほう少し飛ばしすぎて疲れた ドラマらしい構築性が無いから、長い話なのに読後感もこざっぱりとして奇妙だ 昭和ヤバイ。ビックリマンのシールだけ取って菓子を捨てるガキ、その菓子だけを袋に入れて5個80円で再販する店のババア
http://leia.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1513777920/ >>245
なんか聞いたことある事件だな
マスコミを反日と見ている集団のテロ犯罪だったか マスコミはあまり好きじゃないけど敵視したことはないな 専門学校いってる頃、待ち合わせに毎日放送のロビーをよく使っていた 近くにロフトもあるしなんとなくあの辺りは好きだったな 元気なときは梅田の地下街(ほとんど迷路)を一日中うろうろしていた ちょっと裏路地に入ると急に汚くなって
酔っ払いのゲロが散乱しているところにゴキブリが無数に集っていて
いかにも大阪だな、と思ったりした 【文芸】<セカオワのSaori>処女作「ふたご」が直木賞候補に!今年10月に作家デビュー。「驚きのあまり言葉を失ってしまった」
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1513714456/ >>254
直木賞には興味ねえな
面白かった試しがない ☆
,个、 +
+ ノ ミ キラキラ
イ 彡 ヽ● +
ノ ,☆ ミ , ゝ +
+ 彡 ,, †,, ヘ +
/⌒ヽ ノ ,, ,, ,, ヾ +
/⌒ヽ ( ^ω^) ⌒⌒ii⌒i⌒⌒⌒
( ^ω^). ( つ★ | |
。+*☆ ( つ☆O しーJ ┣┳━┳┫
/*♪★/| しーJ | ̄ ̄ ̄ ̄| ┣┻┳┻┫
| ̄ ̄ ̄|/  ̄ ̄ ̄ ̄ ┗━┻━┛ 暗夜行路を読み終えたことで志賀直哉に対する畏怖が少しやわらいだ 手当たり次第に買ったクソ本は読み終える前に放り出すからな
半分くらい読んでやめた本がかなりある >>264
パチ動は貼っても一切見ないゾ
パチは嫌いだからな 2ヶ月で買った本数えたら140冊くらいあった
でも半分も読んでねえな たまにブワっと大量に読みたくなるだけで
普段あまり読まないしな
図書館通いしていた頃も無作為に乱読していただけだった
本屋の立ち読みも擬似速読で適当に読み飛ばすだけ
だんだんと文字がミミズの羅列に見えてくる 大衆小説などゴミ文明の生み出した負の所産なり
俺も奴隷だがまだ読んでいただけるだけありがたく思わなければならない
やはり純文学が一番だなハハハ つか、何の理由も書かずにアドレスを貼るのはやめてくれたまえ 最初脅威に感じていた志賀直哉に慣れると
気が楽になって頭のネジがゆるんできた 円熟期の短編で理解できないのもいくつかあるが
これは志賀小説の性質上仕方ない
その心境にまで到達したことがないから、分かろうにも分かることができない 森博嗣の『そして二人だけになった』を読んだのだが
なにいってんだこいつ(AA略)ってなった
何が面白いんやこれ 学問的な頭はいいのだが相変わらず「天才」の描き方がおかしい
オタクの癖にニヒルになりすぎているな 寝る前に志賀の短編「転生」を読んだ
なんだろうこれ
オチがわらける
志賀流のユーモアだな その内の一人は聞き覚えがあったな
一家四人殺人事件のあれか あれの場合あきらかに犯人の親が悪いわけだが
親は殺さなくてもいいのかね 最近寒くて水分をあまりとっていない
朝にコーヒー一杯、昼に水を一杯、夜に水を一杯、だけだ 志賀直哉の『和解』
頭では分かるのだが中々心に響いてこない
なんせ結婚して子供をもった経験がないからな
志賀の家系は一種のエリート一家みたいなものだから
余計に共感ができない 出てくる人物は自分の身近にいた人間がモチーフなんだろうが
みんな理知的で頭いいからな 暗夜行路にはがさつ」だったり「下品」なキャラが結構出てくるけど
これも志賀の感覚からみた話で、俺にとっては普通だなと思った 新潮の志賀直哉の本5冊揃ったな
もうなかったはずだ 晩年の穏やかな短編集も慣れると味があっていいかもな
しばらく寝かしておくか 「盲亀浮木」という短編が晩年短編集のラストを飾っている
これはもう80歳超えてからの作品だな
あとでじっくり読ませていただこう 短編59編、中篇の『和解』、唯一の長編『暗夜行路』が今手元にある
他にもあるのかもしれん 爺さんになってもギャグを忘れずに入れてくるな、志賀直哉 ウサギを飼っているだの、犬がいるだの、ハトが好きだ、だの
ほんまにただのエッセイが多い 初期短編集で一番最初のは21歳のときに書いた「菜の花と小娘」だ
童話風の小話だがこの頃からすでに志賀っぽい文章のリズムができている 暗夜行路のころの徹底して無駄をそぎ落としたようなオーラはまだ出ていないがな 若いころの作品のほうが文章が現代風に感じる
あっさりしていて読みやすい
どうなっているんだろうなこれは 20代の作品はまだむらっ気があって目がすべる箇所が多いな お袋さんがウルトラQのオープニングみたいな曲を大音量で流しながらNHK見てます
どうしたらいいですか?どうしていいのか分かりません >>306
近所迷惑にならない程度ならいいんでねえの 最初の短編、オチがいちおうあるんだが
意図がよくわからないな・・・
志賀のことだから「そのまんま」なんだろうけど 芥川は志賀の「和解」を読んだ当時、小説を書くのが嫌になったそうだ
志賀が「和解」を書いた動機はそのまんまだった
ずっと確執をもっていた父親と和解できたことに対する喜びを
何の技巧も使わずに正直に表現して一気に書き上げた
一方の芥川は自分の家の事情を素直に書くことを極端に嫌っていた 自分のできないことをストレートに出来ている志賀に対して負い目を感じていたという
芥川は技巧と逆説の鬼でそれは誇れるレベルに達しているのに
芥川は自分の作風をどこかで嘘のように感じて憎んでいた 「和解」は私小説のお手本中のお手本といっていいほど
簡潔で素直な構成になっている
これを書き上げたあとに暗夜行路に挑んでゆくわけである 新潮だけじゃ揃わないな
志賀直哉全集の目次を見たらまだ知らない短編があった 昭和初期には岩波に対抗して出てきた改造文庫ってのがあるが
今はもう廃刊されて無い
改造というのは文学雑誌の名前だろうな
初出の欄で名前をよく見る 改造文庫の画像を見たが表紙が布張りで高級感があった
しかも岩波より安い、ってのをセールスポイントにしていたらしい
コストの問題で駄目になったのかな 旺文社文庫や改造文庫はデザインが良いな
どちらも廃刊か 暗夜行路の後編を芥川は読んでないと思い込んでいたが
後編のテクニックの向上について言及している文章があった
ということは途中までは読んでいるな
後編の途中で書けなくなって放置したということか
年表を良く見てなかった http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html
>更に又やはり作家たる僕は志賀直哉氏のテクニイクにも
注意を怠(おこた)らない一人である。
「暗夜行路」の後篇はこの同氏のテクニイクの上にも
一進歩を遂げてゐるものであらう この作品は芥川が自殺する数ヶ月前に雑誌の改造に載せていたものだな
谷崎潤一郎と論戦しているふうだが
芥川と谷崎はそれほど仲悪くなかったらしい
谷崎の作品をやや悪趣味だとは思っていただろうがな 「和解」は100年前の作品なのに微塵も古さを感じない テル(犬)で笑いそうになる
実際に飼っていた犬なんだよなこれ 芥川と志賀で頭いっぱいになってきた
現代小説も読まなければ 「志賀直哉 犬」で画像検索をかけると
犬やウサギと一緒にうつっている志賀の写真が出てくる
晩年の短編で書いていることも写真から得られる印象そのまんま 近所の人がウサギを食うときの裁き方を教えてくれるが
動物は可哀相だからできれば殺したくない、みたいな素直なことを書いている
なんてこともないただのじいさんの感情論だ 谷崎潤一郎からもらった犬の話もあるな
これはクマに似た犬で名前もクマという
クマにも似ているが犬にも似た犬だという 違った
クマは谷崎潤一郎にもらったのとは別のムク犬だったな
谷崎がくれたのはスマートなグレーハウンド
クマは娘がほしがったのか 犬の話になると変な活気が出るな
ほかにもナカという犬もいるな
これは死んでしまったのか 初期短編集にハムレットを題材にした「クローディアスの日記」ってのがあるな
これを読むか ふつう、人が判断するところの「偶然の出来事」を
偶然の出来事だとは認識せず、自我の必然の内に処理しようとした結果
意識に混乱をきたす
これがいわゆる「地獄」なんだと思う
あくまでも俺の単純なとらえかた
「偶然」を認められないってのは俺も経験がある
すべてが必然でなければならなかった スター・ウォーズ 最後のジェダイ・・・紛れも無いSW史上最高傑作だ・・・すべてが素晴らしい最高のスターウォーズ・・・
http://leia.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1513851094/ ヘーゲルもいっていたが自意識の必然に比べると
偶然なんて無きに等しいようなものだ
人間がなぜ「偶然」として様々な事象をとらえてしまうのか
そっちのほうが不思議でならなかった
自分の意識と意識以外のことの落差が理解できなかった 日本のテレビ完全に終わったね オワコンとかじゃなくて終わったよ 「不倫」「相撲」「パンダ」しかやってない
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/news/1513851170/ >>333
スターウォーズは設定量が多すぎて頭混乱するから
三部作以外見なかったな
出来はたぶん良いのだろうとおもうけど
>>335
俺の中では90年代で終わっている 「鵠沼行」という短編を読んだ
これか、芥川が描写力を絶賛していた作品は
うーむ・・・ これも100年以上前の作品だが古さを感じない
現代小説でよく使われているテクニックのプロトタイプといっていいくらいの完成度で
大正元年にこれを書いたというのが驚愕だ この頃の志賀に比べると70年代の松本清張とかのほうが遥かに古臭く感じる 扱っている時事風俗が古いのは仕方ないが
切り取り方の無駄のなさが良い
嵩増しするために無駄な細かい描写を入れたりしないからな 読み手にもたらすであろう生理的リズム感覚のことを考えて
無駄のない描写だけきっちりしている
おそらく雑念が入ってない状態で集中して書いているのだ
非常に明確で簡潔、クリアなイメージがある 現代作家でもここまでクリアなイメージをもたらす人って
おらんのではないか 21歳から80歳までの軌跡を
わずか60本たらずの短編で追っていくってのも気が引けるがな
暗夜行路を読破したことで志賀恐怖症が克服できたことだし
どんどん読み進めていくぞ 芥川が惹かれていた理由がなんとなく感じ取れるようになってきた 俺の煩悩と陳腐な葛藤だらけの濁った頭にはこのクリアさが良い薬になる
そういえばキリスト教観を題材にした「濁った頭」という短編もあったな
これも読むか >>346
- - 、
<( `、 ヽ ' ' `,-‐、
/⌒  ̄\\从/, | 刃
/ .イ l | ' ; | .|
/ ./ | | | ∴` | |
/ ./ | | .|/Wヽ | 彡⌒ミ
/ ./ | | |、' ` |(´・ω・`) __ イヤッッホォォォオオォオウ!
⊂、J ( i. !__) ; : | ^ム 〕
! !! | .|| | !! ' | |.i .|
: :: .| .| | | :: | |! |
) ) ) ) / ̄`ヽ | `‐´!
.| | | | |\ "ヘ、._ | ! :
| | | |. ! ; !\ l| | .;
.| |. | |ヾ从 /, | / |. | .
|\__) |\__) 、 ` `'. |. |
! ! ! ! ! !!; '' | |
: : : : ://W \ | |
' ; , ` 、 | !
!__/
! ! ! >>347
おじちゃん、髪の毛どこいったの!!!!! 「剃刀(かみそり)」という短編は嫌だな
嫌というか単純に怖い 理髪店でカミソリを使っているときに床屋が発狂したら嫌だな、という不安を
そのまんま恐怖小説に仕立てた感じだ 理髪店なんかもう15年は行ってないな
自分で簡単に切れるし 「正義派」を読んだ
かなりきっつい内容だ
電車の人身事故とその責任の所在の話 女の子を誘拐する話もあるな
初期は変に尖った感じの題材が多い 武者小路実篤の動画を見ていた
白樺派そのまんまの人だな
「自然主義には腹が立つ、自然主義には主観がない」 志賀と芥川のことで頭いっぱいだな
夢にも出てくるし 工夫しても大した主観を持てないのが日本語の性質なんだろうと思う 自然主義は人間の嫌な側面もありのまま赤裸々に描くものだから
すぐにグロテスクに陥る
志賀も武者小路もそれを嫌っていたらしい
志賀は人道主義の白樺派の中でも考え方を徹底しており
自分の生きる道そのものと文学の世界を極限まで近いものに
してゆく努力をした
文学のために自分の人生をあわせていたのかもしれない 夏目漱石も芥川も反自然主義っぽい立ち位置だな
自然主義が一大ブームと化していた状況が嫌だったのかもしれない 芥川の芸術観を見ていると構想が大きすぎるような気がする
自分の芸術の完成像と自分を取り巻く現実とのギャップに苦しみ続けるからな 芥川龍之介論
――藝術家としての彼を論ず―― 堀辰雄
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/47895_49218.html
>彼が志賀氏から彼の作品に關する批評を聞いたのと時を
同じくしてゐるかも知れない。志賀氏が彼に批評したのは、
彼の「奉教人の死」に就いてである。志賀氏は、
その「奉教人の死」の主人公が死んで見たら實は
女だつたといふ事を何故最初から讀者に知らして
置かなかつたか、と彼に言ふのである。
筋としては面白く、いいと思ふが、作中の他の人物同樣、
讀者まで一緒に知らさずに置いて、仕舞ひで背負投げを
食はすやり方は、讀者の鑑賞がその方へ引張られるため、
そこまで持つて行く筋道の骨折りが無駄になり、損だと思ふ。
讀者を作者と同じ場所で見物させて置く方がどうもいい、
芥川君のやうな一行々々苦心して行く人の物なら、
讀者はその道筋のうまさを味はつて行く方がよく、
さうしなければ勿體ない話だといふやうな意味のことを
言つたさうである。それを聞いて、芥川氏は素直に受け入れて、
「藝術といふものが本當に分つてゐないんです」と答へた 芥川は純粋さを欠いた逆説的建造物である自分の小説と
志賀の純粋な小説とを見比べてよく悩んだそうである 晩年の芥川は暗夜行路の存在さえも恐怖に変わっていた というのは「歯車」の一節から想像した勝手なあれだが
自分には志賀のような精神的闘争をやるだけの意思が残されていない
と感じたのかもしれない
ちょうどそのときの芥川はストリンドベリ状態に陥っているからな 「閃輝暗点」の描写があまりにも的確であるため
芥川は当時最新の医療情報を調べて自分の病状を理解していたのではないか?
と松本清張がルポルタージュの中で詮索している 松本清張は意識的かどうか知らんがああいった記事を書くときには
陰謀論とも思えるような視点にも立脚する癖があるからな
どこか胡散臭さが漂うのが松本清張の良さでもあるがな 胡散臭いなりにソースを必死になって集めるから説得力は多少なりともある NHKブックスをよく立ち読みしているけど
なにか入門書と専門書がごちゃ混ぜになったような情報が多く
とらえどころがない テレビで見ていると有耶無耶にされるが
松本人志は天才だなとよく思う 追い込まれたときに禅の極致に近いような発想を編み出すことができる お笑いが厳しい世界だな、と感じたのは松本人志の一人ごっつを見てからだな 禅では主体を無のほうへ持っていくことで主体が生きて来る >僕ねえ、松本式採点法というのがじつはあって。
ゲストがなんか言って、それを返した時には、
松本のポイントにはまだなってないんですよ。
一個返すだけなら誰でもできるんです。
だって喋ってる途中、考えといたらええねんから。
ポイントになるのは、もう一回帰ってきた時、
ラリーをいくつできるかなんです。もう一回返ってきたら、
もう一回返して、それにかぶしてきたら、こっちもかぶして、
これによってポイントが倍、倍に重なっていく。
「ぷよぷよ」の五連鎖みたいな(笑)、「めっちゃ消えたな」
みたいなのがあるんです 「おい!」「はい!」くらいの呼吸でネタをやりとりできるのが漫才の強みだからな 志賀の短編「朝顔」を読んだ
内容は、朝顔の葉っぱが虫刺されによく効くので毎年植えているということ
ある日アブが来たので追い払おうとしたら朝顔の花の蜜だけ吸って
出て行ったので親近感を覚えたこと、また実際にそれがアブだったのかどうか
調べても分からなかった、という話
ただのエッセイやなこれ 和解の総決算をしてからの志賀はほんとに文学者ではなく普通の人と化しているな 少しばかりの名誉欲が残っているらしく
良い文章を書こうという意識は伝わってくる
実際に落ち着いた良い文章だがな コウモリが書斎に入ってきて捕まえたがエサを食わないので
家の中で放し飼いにしておいたらいつのまにか逃げていった、という話もあるな やはり鳥とは違うようだ、とかいってるが
コウモリは奇形化して翼のはえた哺乳類だからな
鳥とはまったく別物
ネズミのほうが近いのではないかと思う 不愉快なので犯罪に関する映画や記事に触れたくなくなった、というようなことも書いている
ただの素直なじいさんだな 志賀は文明批判はしてないがどちらかというと人工物よりも自然派だろうなと思う 電車に轢かれて大怪我したことがあるらしく
その精神的ダメージが小説にも反映されている
「城の崎にて」がその代表か 晩年の覇気のないエッセイは今ひとつ読んでいても面白くないな
普通のじいさん日記と化している
やはり円熟期の完成された短編を読もう グエッとなるような気持ち悪い描写もたまにあるが
流して読むとそれほど気にはならない
さりげなく当たり前のように出てくるのがポイントだ カミソリで首を思い切り切って流血の惨事だったり
電車に轢かれて頭と腕を切断された女の子だったり
そういうのがしれっと当たり前のように出てくる 迫力のある描写で他人を怖がらせようという気がさらさらないんだな 俺なんか大袈裟で振り回されやすい性格で
こういった描写は大袈裟に書いてしまうだろうな
一行でさらっと済ませられない 無理してグロテスクさを覆い隠すための工夫もかえって心象悪いし それは筆舌に尽くしがたい痛ましい光景だった、みたいな表現が妥当なんだろうが
想像してしまっていかんな
適当に見たまま書いても冷淡な感じがあるし 普通のミステリー小説が読みたくて内田康夫を買ってきた 有名ミステリー作家の大御所を一通り立ち読みして
一番「普通の文章だな」と思ったからだ 広告代理店を経営していた経験があるからかもしれんが
抵抗無く文字列が入ってくる 広告つくるのに誰にでも親しめるようなフレーズ考える癖が身につくらしいからな お袋さんが急に有馬記念を買いたいと言い出しました
お袋さんはギャンブル嫌いな筈ですがテレビの影響なんだと思います 内田康夫読みやすいな
何の抵抗もなく読める
東野圭吾よりも読みやすい 酔っ払いうぜえええええええええええでええええええええええ
近づいてくんな!はよ消えろ基地外!!!!!!!!
そしてそのまま死ね!!!!!!!! pleasure'98が好きで毎日聴いていたのを思い出したな さて、今まで怖くて読めなかった芥川の「河童」を読むか 河童、或阿呆の一生、歯車、を連続して読んだ
芥川で読んでいて一番落ち着くのが「蜃気楼」なんだな >>418
,,从.ノ巛ミ 彡ミ彡)ミ彡ミ彡ミ彡)ミ彡)''"
人ノ゙ ⌒ヽ 彡ミ彡)ミ彡)ミ彡)''"
,,..、;;:'"゙゙ ) 从 ミ彡ミ彡)ミ彡,,)
( ゚д゚ )つ ,,..、;;:〜-:''"゙⌒゙ 彡 ,, ⌒ヽ 彡, 彡"彡,彡,
と_,、⌒) )::::::゙:゙ '"゙ ミ彡彡,彡,彡,彡,
(_ ノノ ``゙⌒`゙"''〜-、:;;,_ ) 彡,,彡,彡, インタアネットといふのは電線のネットワアクを用ひて
情報を共同することのできる通信手段だといふ
私は便利な時代になったものだなあと感心したのであった 谷崎潤一郎を読んでいた
やはりこの作家は文章がすごい
いちいち言葉が畳み掛けるようにして襲ってくる 晩年の芥川とか志賀全盛期の文章が一番だな
今読んでも新しく感じる
安部公房とかのほうが古く感じるくらいだ 使い古した言葉ではなく徹底して磨き上げたものだからな 「大道寺信輔の半生」を読んでいる
ここに出てくる徳富蘆花の本は実際に芥川が小学生のころ繰り返し読んでいたらしい
俺も岩波のを持っているんだけど漢字だらけでまともに読み通せない 漢文の読み下し文に和文をねじ込んだような独特の文体で
最初はかなり抵抗があるな EPICAというメタルバンドが進撃の巨人のカバーアルバムを出しているな
試聴してみたが中々のものだった 今「めぞん一刻」を読んでいるのだが、何もさせてくれないのに、響子さんの焼き餅が凄まじいんだけど。五代君つらい
http://leia.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1513946064/ >>433
めぞん一刻は読んだ事ないな
アニメも見たことがない
らんましか知らん 漫画はおそらくこの先もハンター×ハンター以外追いかけない そんなことより新しい文字に飢えている
新しい文字をよこせ マークスの山や空中ブランコも直木賞受賞作だったのか
あれはまあまあ楽しめたな NHKブックスの『空の哲学』を立ち読みしたんだが
空についてはさっぱり分からなかった
ヘーゲル、ニーチェ、竜樹の共通点のようなものが書いてあったが
よくわからなかったな 芥川はニーチェくらいは読んでいただろうな
マルクス、エンゲルスなんかは嫌っていたのかもしれん 志賀晩年の短編集のラストにある「盲亀浮木」を読んだ
奇跡に近い偶然についての話だ
志賀は偶然ではなく「何かの力」が加わっていると考えたが
その何かが自分の耄碌した頭では分からない、ということで
じいさんらしく締めくくっている 志賀はキリスト教を既に遠い昔に脱しているので「神の思し召し」とも考えない 志賀直哉が大正文学の最前衛であり古典的でもあった
恐ろしい作家だ 本屋にいってもだんだんと読みたい本がなくなってきてるな 北村透谷を読んでいる
キリスト教に影響を受け自由民権運動に参加、浪漫主義
世界平和と恋愛のために生きて国粋主義に殺される
25歳で自殺 なんとなく分かる気がする
>後になって、余り自分の空想が甚だしかった事と、
その後に起る失望、落胆の激しい事に驚いた、と
書いたものなぞもある。或る時は又一個の大哲学家となって、
欧洲の学者を凹ませようと考えた事もあって、その考えは
一年の間も続いて、一分時間も脳中を去らなかった。
こういう妄想を、而(しか)も斯ういう長い年月の間、
頭脳(あたま)の裏(うち)に入れて置くとは、何という
狂気染(きちがいじ)みた事だろう、と書いたものなぞがあるが、
頭脳が悪かったという事は、時々書いたものにも見えるようである。
北村君はある点まで自分の Brain Disease を自覚して居て、
それに打勝とう打勝とうと努めた。
北村君の天才は恐るべき生の不調和から閃き発して来た >欧洲の学者を凹ませようと考えた事もあって
これは俺もある
中二病というか何というか・・・
Brain Diseaseは脳疾患という意味だが
たぶん妄想癖のことなんだろう 多くの争いを生み出してきたキリスト教の最後の武器が世界平和なんだよ 儒教をまっすぐに行ったほうが恐らく内部生命が充実する 実際の平和は国家同士のパワーバランスで成立している
平和の逆説としての核兵器・・・ 日本の世間が安定していればそれでいい、というのは
天下泰平の考え方で世界平和ではない 太平記を読んで回れば天下泰平のてだすけになる時代もあったんだな 物語なんかいまは小学生でも書いてるし
なろうのサイトには恋愛と異界戦記モノであふれかえっている リゼロが好きで以前読んでいたが
あれは相当なジェットコースター展開だったな ハイブリッドというか
得たいのしれない混ぜ方をしていた 文豪ストレイドッグスの設定を真似たおかしな文豪小説があるな
これを読んでみるか 倒錯的妄想をもてあました受験生などが
勉強の合間に書いたりしているんだろうな
芥川が太宰に恋したり、意味不明のやつを 太宰が芥川の熱烈なファンだったのは確かだが
芥川がその期待にまともに応えるとは思えない
カップリングとして不成立だよ 芥川は志賀直哉を理想的として支持したが
太宰は志賀に猛反発していたな 直木賞で御馴染みの直木三十五がなぜ有名になったのかというと
活動の仕方が精力的だったからだ
とにかく仕事が速い、活動的 各所雑誌や本を読みまくって原稿を書きまくって
文学普遍化のためのネットワークを広げていた 並の作家の5〜6倍の速度で書きまくっていたそうである 純文学は役割を終えて今は直木賞のほうが芥川賞より上の権威のような感じがある 芥川賞ってのはどうも「頑張って作家としてのスタート地点に立てたで賞」みたいな見方が
幅をきかせているな
実際に直木賞のほうが実績のある(世間から認められた)作家に送られる賞だからか
芥川賞はすなおに作品に対して贈られるそうだが 文化はまっすぐに進歩しているわけじゃないからな
退廃してくると必ず再生のための運動も起こる
進歩というのは欧米文明の伝播がそのように錯覚させているだけに過ぎない 文明の利器が多く生まれて、それを有機的に体系化して扱えるようになったのは確かだ
それで人間のほうも進化したのではないか、という錯覚が生まれている 暮らしに必要な知恵というのは数千年前に出尽くしたからな
芥川が「河童」で描いているように、宗教を信じなくなった人間は
「生活教」を盲目的に演じ続けるしかない 道具を効果的に扱う知恵というのは日々新しくなっているのだろうけど 日本はミックス文化が支配的だから純粋さなどすぐに欠いてゆく
純文学?何それおいしいの?みたいなのが多い 失いつつある人間力を再生するために芸術を志す人が多い
完成を目標としない茫洋とした芸術観 妄想が増えてきて精神的に調子悪いな
やはり志賀直哉と芥川に集中するか この本は晩年の作品6本まとめて入っているからお薦め
極めつけはラストの「歯車」だ
青空文庫でも読めるけどこっちのが現代仮名に全部換えられているため読みやすい 「煙草と悪魔」の意味がよく分からなかったが
あれは比較神話学の文献を読んで発案したものらしい 歴史家になることをあこがれていたらしいが歴史家は向いていないと思ったのかな
歴史から引っ張ってきたネタを用いた現代小説をよく書いている 米グーグル閣下のおかげで色んなことを知ることができる グーグル閣下と呼ぶのも面倒なので省略してG氏と呼ぶか
エキサイトはE氏 ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」が青空文庫にないのは何故なんだ 文学のキュビスムに興味を持っていたときラディゲとコクトーに嵌りかけたな
結局ロクに読まなかったが フランス語は論理的で知的だから日本の公用語にしなさい、とか
平気でいっていたらしいな、志賀直哉 そもそも日本には公用語という考え方が浸透していない
日本語で話すのが当たり前だからだ >>499
お笑いも文脈依存で
分かる人にしか分からないというからね
それでも笑う人もいるのかもね インパクト追求型の笑いは最近面白く感じないな
お笑いは昔好きでずっと見ていたから自分の中で類型化されている 最近は変なところで笑うことが多くなった
乾いた笑いである 「大導寺信輔の半生」は自伝小説の意味合いが強いらしいが
どこまでが自伝なのかあやふやになっている 自伝が本当だとするならば芥川の小学生時代の読書の仕方は奇抜だな 一度古本屋に売ったニーチェの本を懐かしく感じ
売値の2倍で買い戻した話などが書いてある
これは中学生のころなのかもな 昔の都会は鉄骨造の建物ばかりだったのだな
関東大震災の火災で鉄骨が曲がって崩れることが分かってから
鉄筋コンクリートのビルが急に増え始めたという経緯がある 田舎の本屋で洋書を注文すると丸善から取り寄せる、というのが通例だったらしく
文人にとって丸善は一種憧れの存在だったとか 芥川の「歯車」でも丸善の二階で洋書を漁っているシーンが出てくる 志賀直哉の「和解」でも丸善が出てくる
友達のM(武者小路実篤のこと)が丸善でロダンの本を買っていた 芥川の場合は虚実を織り交ぜた私小説「風」なんだが
志賀の「和解」はおそらく9割方そのまんまの事実だろうなと思う
よく半月でこんだけ綺麗にまとめられるな 石川啄木の小説にも丸善出てくる
梶井基次郎の「檸檬」にも丸善出てくる
夏目漱石の「こころ」にも丸善出てくる そうか、丸善を小説に出せば文豪になれるんだな (誤った帰納法) 芥川は万年筆が嫌いだったらしく
Gペンを丸善のインクにつけて書いていたという
宮沢賢治は丸善の原稿用紙を愛用していたという http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html
日本人の模倣の上手さについて語っているところでも丸善が出てくる
>僕等は丸善のある為に多少彼等の魂を知つてゐることは確かである 日本自体が丸善の支配下にあるようなものかもしれんね
文豪がこれだけ丸め込まれているのだから
丸善の二階恐るべし 金がないときに芥川は帝国図書館と古本街を往復していたらしいが 俺は三つの市立図書館をいったりきたりしていた
分室をあわせると5つあったが まともに集中して読んでなかったがどこに何の本がある、ということだけは
すっかり覚えてしまった 古くなったものはリサイクル市に出されてなくなるし
定期的に新しいの入れないと人が来なくなるからな
リサイクル市でよく図書館から落とされた本をもらっていたが
大したのがなかった
朝日ソノラマとかよくあったな
70年代のラノベが しょーもない本でもリサイクル市のはでっかい強力なシールがベタっと貼ってあるから
売ることもできず燃やしたり捨てたりしていた 今では通用しないような古臭い医学知識の本とかあったな
ああいうのはもう需要がない 志賀晩年の短編を読み込んでいる
退屈は退屈なんだが文章は相変わらず良い 大したオチのない日常モノばかりだ
ハア、ソウデスカ!ってなるのばかり
特に感動を求めているわけでもないがな
あまりにも日記じみているから退屈には違いない 持病の胆石のせいで怒りっぽくなっている話とか
ほんまにソウデスカとしかいえない 胆石なくても生理的な不調ですぐに怒りっぽくなるらしいが
自分の怒りのせいで巻き添えを食う家族の哀れさについて書いてある
それ、おまえのせいだろうが!っていいたくなるが志賀はマイペースなので
あまり気にしとらんな
んで、危険信号で青か赤か分かればいいのではないか、みたいな
あほなことが書いてある 「灰色の月」は俺が最初に読んだ短編で
これは文章のリズムがよくいかにも志賀直哉だな
太宰からは攻撃されていたが 文壇や研究者が喜びそうないかにも文学じみた短編
たぶん国語の教科書に載ってる 人道の難しさについて考えさせつつ、文章としてのリズムにも深みがあるという
お手本のような短編 芥川だとニヒルな観点からヒューマニズムをはぐらかすだろうから 一番最初の処女作である「菜の花と小娘」がいまだによくわからん
これも実際に山に登った時に描かれたもので
志賀のそのまんま視点を用いているためだ 山で枯れ枝を拾っている小娘が菜の花に話しかけられて
菜の花を山のふもとまで持っていくことになる
それでいろいろあったが無事菜の花を山のふもとまで届けて
仲間の菜の花といっしょになれて、しあわせに暮らしましたとさ、というだけの話だ 菜の花は鳥の胸毛にくっついていた種が
たまたま山に落っこちて育っただけで
本当は菜の花畑に居たいという
植物なんて自分で住処を決めることもできんからな
生えた場所がそのまんま一生の住居となってしまうのだ
その哀れさを表現しただけかもしれん 人間には強固な自性がある
自性があれば他性もある
自性というのは他性無しでは成り立たないので
自性は他性に依存しているといえる
植物はどうかというと最初から多くを他性に委ねている
人間は自分の意思で動けるがその強固な自性が
多くの苦痛を生み出している 植物にはおそらく他性そのものと繋がる
広大な意識ネットワークのようなものがあるのだと思う
人間の想像する意識とは異なった精神存在のようなものだと思える
人間はずっと植物に精神依存しているからな
物質的にもそうだが 植物のほうが先んじて海から地上に上がって光合成で酸素をまきちらして
動物が動きやすい環境を整えたのだからそうなるのが自然だが
それで、肺呼吸を獲得する過程で苦しみながら死んでいった祖先も
たくさんいるのだろうけど
これはもう自然の方に選択されているとしかいいようがないな 新現実主義って芥川と菊地しか知らないな
期間が短いしあまり作家がおらんのだろうけど 自然主義特有の、自我の居所が曖昧なふらふらした感じは捨てがたい 今でも自然主義の感性が小説で幅をきかせている
手法としては志賀直哉のスタイルで、自己観察の仕方は自然主義的 志賀直哉は自分のエゴを通じて自然に溶けていったが
自然主義は最初から傍観者的な感性を駆使する 徳田秋声の自然主義にも主観がかなり混じってるが
できうる限り客観に徹しようという意思を感じる 西洋のシステムの模倣とアレンジばかりで
自意識としては近代化に失敗した人間が日本に多い
自然主義文学が私小説的なスタイルに移っていったのもそのためかもしれん 松本清張ブーム終わったのにすまぬ
明日放送の予告(https://youtu.be/J9wO82UJFpk
)視聴したら見たくなっちまったわ
オレはトラウマありまくりの幼少時代だったのに、
何故この作品が大好き過ぎるのか自分でも分からない・・・ システムに自意識を合わせている人間が多い
自我の確立ではなくシステム依存ということ >>559
雰囲気はなかなかいいね
映像もしっかり作り込んでいる感じがある 松本清張の幼少期も両親が不仲でおまけに貧乏でかなり苦しんでいたらしい
松本清張自身、あまり女性の愛を信じていなかったのかもな
少しミソジニーっぽい面がある
女性蔑視とまではいかないけど 松本清張に嵌ったのはほんの少しだけだった
でも8〜9冊は読んだかな
歴史モノを含めると
別に嫌いになったわけではない
本来の目的であった志賀直哉に戻っただけ 松本清張は暗夜行路を読んでもピンとこなかったらしい
社会派とはほぼ無縁だから、志賀は 社会派にはヒューマニズム前提の若干臭いドラマがあるからな
志賀のヒューマニズムでは人間関係を傍観するのではなく
志賀と対象との関係があるだけなのだ 田中慎弥の「共喰い」って自然主義の系譜にあたるのかな
俺の印象では「粗野な川端康成」なんだが
でも赤裸々なドロドロさ加減が自然主義といえないこともない 顔面コンプレックスがあってモテなかったのが悔しくて、
劇中の主人公女性を不幸にして解消してた説もあるようだ
作家で売れて金持ちになってからは寄ってくる女どもと豪遊生活だったらしい
そういうところ清張らしくて好きだな >>567
コンプレックスはあっただろうね
あと家の身分のことで軽い差別受けたりもあったし
ライバルと見做した作家と高額納税者ランキングで競い合うとか
いかにも俗っぽいところもあったという ____________________
| ハ ! | // // | ! ハ |
| ! | / | ! |
| ! | | ! |
| i | | |
| ! ! | | ! ! |
| | | | / / | | | |
|〜〜〜〜 // // 〜〜〜〜|
☆ . |_________________________|
彡ノミゝ チャーハン クリスマスだお♪
彡ミo彡ミ ○ /⌒ヽ /⌒ヽ ○
+ノo彡糖c §( ^ω^) .__ 。・。゚・。 ゚・。゚・ __ (^ω^ )§
彡ノoミヾミミ ||/ つ/▽Y\・゚・ 。・゚・・/ Y ▽⊂ .ヽ ||
彡oミ人oミミ+ || しー-J(⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒) ー し ||
彡ノ彡ノ彡ミヽ. ||二二二|| ̄| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| | ̄ 二二二.||
彡ミ彡ノ彡ミ__||___||_| || _______|| |_||___||_____
凶 [] [] [_] ・゚・。・ ゚・。・゚・ [_] .[] [] 松本清張の本で
『強き蟻』という悪女の主婦が主人公のピカレスク小説あって読んでいたが
たぶん清張はこういうタイプの女性が好きだろうな 田中慎弥の「共喰い」では自然主義と私小説の咀嚼の中から
「血と性」にまつわるイメージを基点に情景を抽出したという風情がある
独特の美意識で情景を抽出してコンパクトにまとめる方法が川端っぽいなと感じた 川端の「雪国」はギリギリの場所で美の抽出を試みている
美しさがなくなるかなくならないか、ギリギリのところだ
ラストは状況が暗澹とする前にブツ切りのような終わらせ方をしている 「共喰い」、やはり自然主義ではないかな
客観的観察というにはあまりにもいろいろな描写が抜け落ちているし
ただ、心理描写と自然描写が有機的に連動しているような奇妙な感覚がある
あの辺の捉え方はすごいな 徳田秋声は芥川も褒めていたな
いや、褒めているわけでもないか
芥川自身、自然主義に飽きて洋モノに手を出しているくらいだし 純文学に脳みそが偏ってきて思考もそっちに引っ張られているな最近 芥川と志賀直哉のことを考えていると心が充実してくるから
それだけでも良いか
もともと俺は文学を理解できるような感性を持っていなかった
アニメ見てオナニーして死ぬだけのような人間だったからな ゲロと古典と純文学で気力が回復だ
オタク的趣味はもうやめた 飽きっぽいからな俺
1月くらいになると草むしりに嵌っている可能性もある 自然主義たしかに飽きるが
たまに読みたくなる魅力はある 徳田秋声の本絶版なのか
いまどき、文学で自我の開放とかいってると
時代錯誤だもんな・・・
俺は時代錯誤だが 新潮版を見つけたので買ってきた
岩波のが絶版らしいな
日本自然主義文学の代表的傑作、と書いてある
ゾラも買おうと思ったが文体が好みではないのでやめて
代わりに泉鏡花を買った 鏡花はあまり好きではなかったが
よく読んでみると細部まで徹底していてすごいなと思った
耽美趣味を徹底しているな
ほとんど神業だ 青空文庫でも読めるが文庫本のほうが落ち着いて読める 鏡花はかなりの潔癖症だったらしいな
その精神が文体にも出ているのか さあ自然主義文学で自我を開放するぞ
全力で〜 全力で〜 俺の場合、反自然主義の側から文学に入ったからな
自然主義に触れないわけにはいかなくなった 太宰は志賀に対して「おまえは芥川の苦しみを理解していない」
みたいなことを言ってるが、志賀は志賀で別の場所で心的葛藤を繰り返していた
太宰はそれを理解していない
また太宰も苦しんでいたがな
つまるところ生の苦しみの中で耐えながら生み出したものしか文学にならない 俺はあまり誰のことも理解する気がない
俺はまず俺のことを理解しなければならないのだ 理解というのは万事のプロセスみたいなもので
常に持続させておかなければならん
一時的に納得できた、というだけでは理解にならない 徳田秋声の描写の仕方、いかにも自然主義だな
俺の思い描いたイメージのとおりだ 若干遠まわしになってでも客観的に状況を伝えようとする あまりにも機械的にそれをやるとドラマが成立しないから
ギリギリのバランスを意識しなければならないのだろうな 自我を貫くのではなく、自我の開放だからな
客観世界を意識した視点が必要になる 泉鏡花の耽美はナヨナヨした感じではなくて
どこか凛然としている
身の引き締まるような耽美さ 日本の自然主義を簡単に要約すると
感情的なシーンで顔の筋肉の動きまで描写するメロドラマ 写実主義を通過した描写力と、
封建的な社会状況で人の情動を浮き彫りにするドラマ性とのバランスが問われる この感覚はある種、のちの社会派小説にも通じていくのかもな ただし自然主義に「ヒューマニズム」はそれほど要らない
社会派になるとこれが要る 不道徳から生まれた主人公の葛藤を描く志賀の暗夜行路も
文章としては自然主義からの強い影響が見えるが内容はそうではなかった
むしろしっかりした道徳小説の体をなしている 自然主義がずっと幅を利かせて、不道徳に陥った小説が増えた反動から
夏目漱石や森鴎外が人気を博しているからな 人道主義や新現実主義などの下地としてみれば自然主義の存在は大きい という感じで俺が自然主義に親しむ理由を無理矢理でっちあげたぜ 俺は自然主義に対する批判意見ばかり見てきたから
あまりいい印象は持っていなかった ・主体がない
・品性がない
・回りくどい
・しつこい
・ベタすぎる
などの批判意見をな 主体がない→客観的である
品性がない→これがありのままの現実だ
回りくどい→よく観察して必要な描写をしているだけ
しつこい→それが人間の本性
ベタすぎる→ドラマ性も忘れていない 反対の反対を利用して肯定感覚に結びつける手法はよくある >>615
黒人も白人をからかう歌作ればいい
一緒に歌おう 俺はクリスマスソングなんて歌ったことないな
エレクトーンで弾いたことしかない 泉鏡花の「高野聖」を読んでいる
これは日本の伝奇SFの元祖といっていいような作風だな 文章の端正さが尋常ではなく落ち着くどころか逆に神経使う 潔癖症というのも頷けるな
豆腐の「腐」の字が汚らわしいので「豆府」と表記したりしている あまり好き系ではないな
京極夏彦の上位互換みたいな雰囲気で ともかく端正さ、耽美さが徹底されていて読むのがしんどい よくいわれる「日本の美」のようなイメージの粋を集めた感じだ
三島由紀夫が影響受けたというのも分かる気がする 芥川が怪談を集めてメモった「椒図志異」というノートがあって
それを読んだ
ノートには絵のラクガキもしてあって面白い
味があってなかなか上手い絵だった なろうのサイトにも真面目に文学を読んで感想書いている人が多いな 文アルとか文ストから入る人もいるな
しかし腐女子のオタク趣味と近代文学の両立ってできるんか 純文学が商品化されて安っぽい扱いを受けるようになっていったのは
90年代かららしいが
メディアミックスのせいだろうなと思う 伝統芸能の世界も若い人に媚び売らないと成立しないからな しばらく純文学趣味でいくか
俺も大概軟派な受け入れ方しかできん 芥川は使い古しの「客観」なんて信じていないな
だからゾラもまともに読まなかったと書いている モーパッサンを読むと不快になるということも書いている 客観的に見るために努力するという持続的プロセスが大事なのであって
最初から客観を前提とするのは間違い 徳田秋声の文章は客観的であろうと持続的に努力している 徳田秋声の作品を芥川が勝手に文学集成に載せて
謝罪文を送ったことがあるらしいな
「点鬼簿」を酷評したこともあるみたいだ
「点鬼簿」は芥川が精神的肉体的に弱っている頃の作品で
事情をあまり知らない徳田は「間に合わせの稚拙なものだ」と批判したらしい
その批判に対して広津和雄という文人が擁護している なんじゃ、この川端の絶賛ぶりは
>川端康成は、1947年(昭和22年)11月、卯辰山上の
秋声文学碑除幕式前夜に金沢市で行われた記念講演会で
「日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、
西鶴から秋声に飛ぶ」と述べた。
また晩年の1967年(昭和42年)には、
「日本の小説は西鶴から鴎外、漱石に飛んだとするよりも、
西鶴から秋声に飛んだとする方が、私にはいいやうに
思ふ見方である。鴎外、漱石などは未熟の時代の
未発達の作家ではなかつたか」と記した 反面、客観的な観察に徹しているだけで主体や哲学がない、という人もいる 川端が影響を受けたのだけど川端を先に読んでいる俺からみると
「美を抽出しないリアリティのある川端」みたいに感じる 川端は道徳だの人道だの、そういうのには無頓着で
もっと純粋な美意識について見ていたからな
新感覚派と呼ばれていた人だから 雪国は最初読み辛かったが徳田秋声の文章に触れてから読むと
すんなりと頭に入ってくる
なんとなく腑に落ちたのであった 文学は俺のような文明社会に毒された軟派な人間だと
いい文章だな、と素直に思えるようになるまでに時間がかかる インスタントのものに慣らされているから本当の「味」を感じ取るのに時間かかる まず文章を読んで腹立つのが「情景が浮かんでこない」ことだった
これを克服するのに時間がかかる 出てくる文字や単語、文法の使い方から自分で有機的に連結させて
情景を構築しなければならないからな
これが文字の辛いところ よほど詳細に描写しない限り、作者の思い描いている情景と
食い違いが生じる
これについて考えているともどかしくなる 手の届く範囲に置いてある本、ぜんぶ純文学になったな
脳みそがかたよってきたわ 気分転換に現代小説を読もうと近くに置いてあったのを
ぜんぶ追いやった 芥川と志賀で心が充実、自然主義で自我を開放
川端で美の極致へたどり着き宮沢賢治で宇宙にとんでいく 徳田の『あらくれ』は一応メロドラマっぽい筋書きがあるが
描写の仕方が写実主義的な客観描写で固められていて
いわゆる作り物臭さを感じない キャラの心情に見合った「それっぽい」描写をしていると
作り物臭くなっていく 芥川の「歯車」をなんだかんだでかなり長く読んでるな
なにか気になって仕方が無い 「河童」が思ったよりよかったのでこれも愛読リストに加えておこう 芥川は母親の愛情をほとんど知らないまま育っているな
生まれてすぐに母親が精神に異常をきたしている 生後七ヶ月で捨てられて実母はその十年後に死んでいる 小学生のころから知識に貪欲で本からすべてを学び取ろうとしたというのも
ほとんど失われた愛の代償行為じゃないかと思う
愛でなんでも説明するのは嫌だがな 女の子に恋愛感情を抱くことがあったらしいが
それは性的な面だけであって女性そのものの魅力というのは
分からなかったらしい 俺は小学生のころはアニメの美少女しか興味がなかった なぜ小学生で水滸伝の108英雄を暗記するほど読むかねえ 小中学生のころから図書館通いして本を何百冊も借りて読んでるな 早熟というよりも知識への渇望といったほうがいいな、芥川の場合は 【24日深夜】
下の階の奴うるさいんよ ____
___ | i \ \ /
____,/⌒._ _ _ `ヽ_ | i l =l ギシギシアンアン
∠ 〃´;ω;)ミ ヽ | |__ノ ノ \
≪二二二二ノノ⌒^⌒ ⌒)ミニ) | ̄ ̄| ̄ ̄|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | | |
--------------------------------------------------
--------------------------------------------------
上の階の奴うるさいんよ ____
___ | i \ \ /
____,/⌒._ _ _ `ヽ_ | i l =l ギシギシアンアン
∠ 〃´;ω;)ミ ヽ | |__ノ ノ \
≪二二二二ノノ⌒^⌒ ⌒)ミニ) | ̄ ̄| ̄ ̄|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | | | >>670
___ ____
____,/⌒._ _ _ `ヽ_ | i \ \ /
∠ 〃´;ω;)ミ ヽ | i l =l ギシギシアンアン
≪二二二二ノノ⌒^⌒ ⌒)ミニ) .. | |__ノ ノ \
∠ 〃´;ω;)ミ ヽ | ̄ ̄| ̄ ̄|
≪二二二二ノノ⌒^⌒ ⌒)ミニ) ..| | |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ .. ____
| i \ \
| i l =l
| |__ノ ノ
____,/⌒._ _ _ `ヽ_
∠ 〃´;ω;)ミ ヽ
≪二二二二ノノ⌒^⌒ ⌒)ミニ)
∠ 〃´;ω;)ミ ヽ
≪二二二二ノノ⌒^⌒ ⌒)ミニ)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 川端が自然主義の頂点として敬愛した意味が少しわかった
尋常ではない観察力と文章力がある >>677
スピッツはラジオや店でよく流れているのを聴いていた
空気のような曲ばかり(良い意味で) >車窓に襲いかかる山気が、次第に濃密の度を加えて来るにつれて、
汽車はざッざッと云う音を立てて、静に高原地を登っていった。
鬱蒼とした其処ここの杉柏の梢からは、烟霧のような翠嵐が起って、
細い雨が明い日光に透し視られた。思いもかけない山麓の傾斜面に
痩せた田畑があったり、厚い薮畳の蔭に、人家があったりした この、短いセンテンスに情報を圧縮して詰め込んだような描写
川端は思い切り影響受けてるな 禅でもやってるのか、というくらい研ぎ澄まされた描写が多い
徳田は何か武家社会の家系らしいが 自然主義まできたのだから海外の写実的リアリズムもいけるだろう、という 日本の作家はドストエフスキーにかなり影響受けているが
スタンスとしては批判的な人が多い 芥川は小学校か中学校かのころに英文で読破しているんだな 高校かもしれ
今の義務教育制度と違うからどこまでが中学なのか高校なのか分からん ドストエフスキーはなんつうか文章的には良いと思わないのだが
心の奥底から言葉があふれ出しているな、という印象を受ける
何か念じながら書いているのではないか、と 読むだけで影響を受けてしまうという、そういう変な圧力がある 美文とか構成力がすごいとか、そういうのではないんだな 新潮文庫 ブックオフで各108円
写実的リアリズムとヒューマニズム、その背後にある深い問題 ゾラはどうしても冷徹に感じてしまい読むことができん 上巻に79年版「新潮文庫の100冊」の広告が挟まってたぞ ん?
芥川の「歯車」では罪と罰に親しんだのは10年前と書いてあるな
ということは二十代なのか
どこまでが私小説なのか分からないからな 冒頭から酒場の酔っ払いの台詞があまりにも長くて面食らった ものすごい勢いで身の上話をしゃべったあと家にかえると家族に切れられて
髪の毛つかまれてひきずられていった ハハハ 母親からの手紙もすげえ長い
怒涛の勢いで語り散らす
これは速読の練習用にちょうどいいかもな ドストエフスキーって罪と罰を書く前に政治犯で刑務所に入っていたんだっけ
いくらでも文章を考えるヒマがあったのだろうな すげえなこれ
よくこれだけボコボコと他愛ない台詞が沸いてくるものだ 志賀直哉の一寸の無駄もない文章に慣れたところだから
この無駄だらけに思える台詞の応酬に目がすべりまくる 美文とはほど遠いな、ドストエフスキーは
分裂症気質かもしれんこの人
とにかく怒涛の勢いがある 75ページまできたところで疲れた
休憩
精神鍛錬になるなドストエフスキーの怒涛の文章は 頭で考えるより先に言葉が生まれてきている感覚がある
これがドストエフスキーの持ち味なのか 内容というか話がひたすら退屈だ
俺にとって海外文学は大抵こんなもんだがな 110ページまで来たが文章そのもの以外に何ひとつ楽しめる要素がない お袋さんとお好み焼きともんじゃ食べてきました
久しぶりにビールも呑んだりと美味しかったです
メリークリスマス! >>715
あけましておめでとうございます
わたしもお好み焼きがたべたいです しかしロシアの作家は相性悪いな
今まで面白い作品に出会ったことがない
チェーホフ、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、トルストイ・・
どれもこれも性にあわん 読むのが早過ぎたか遅すぎたかのいずれかだな
ドストエフスキーというとインテリ層では
高校〜大学の時期に読むのが普通の小説だ
しばらく寝かせておくか >>721
Art Of Lifeのドラムとか
継続命やんけ
たしかヨシキも蠍座だったな
不合理の星座 破滅の美学といいながら実際は破滅でも何でもなかった
ずっと愛を叫んでいただけ カラマーゾフもかつて挑んだが200ページいかなかったな よくこれだけ言葉が沸いてくるな、というところだけ感心できる
あとは本当に退屈 帝政だのロシア正教だのの知識もないし
当時の人の暮らしを想像しながら読むこともできん
なんせロシアは寒い、広い、アル中、共産、のイメージばかりだ 感性が衰えて海外小説の良さがどんどん分からなくなってきている 【漫画】ゆでたまご「キン肉マン」61巻、「『キン肉マン』ジャンプ」発売、「完璧超人始祖編」ベストバウトTOP10を紹介[17/12/25]
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1514190889/ 志賀74歳のころの短編「八手の花」を読んだ
小説を書く気がなくなっていることや自分の生きる意味について
いわゆる真面目なエッセイだな 志賀の叔父が亡くなるときに「人生とはこんなものか」と言い残したそうだが
そのニュアンスを志賀は掴めずにいた
自分が死ぬときに何を思って死ぬのかについて考えをめぐらせている 志賀は88歳まで生きたが何を考えながら死んだのか俺は知らない
知りたい気もするし知りたくない気もする 現世のことを激しく憎みながら死んだ人は多いだろうな ラストの短編は難しいことについて書いている
80歳頃のもので
盲亀浮木(もうきふぼく)という仏教の寓話の話だ
ありえないような偶然や奇跡の幸運とめぐり合う話
志賀はメーテルリンクの「智慧と運命」を思い出して
これに当てはめようとしているが80歳の志賀の頭では
それ以上考えることはできなかった 暗夜行路は最初、主人公謙作の運命の物語の体をなしており
ラストでは自らの運命を脱している
これがラストの山のシーンに表れていた
つまり、山の上から「運命の像」が谷間に投じた影の輪郭が見えたわけだ 仏教観では仏の教えに出会えることがまず幸福だからな
そこからでないと悟りに到達できんのだから 謙作は地球の運命は人類の未来の救済についてよく考えていたが
それと自分の人生の安定とを秤にかけて精神的に葛藤していた 困ったときは芥川の晩年作品集を読むことにしよう
これが一番長く読めそうだ ウイスキぃいいいいいいいがあああああお好きでしょおおおおおおおおおおおおお
今年ラスト放送いやだああああああああああああああ
てか年明けいやだああああああああああああああああああああああ >>743
「放送」っていう響きがすでになつかしい ドストエフスキーに挫折して気が抜けちまった
徳田秋声に戻るか ( ^ω^)枕元に靴下を吊るして寝たら靴下が入っていたお
○⌒\
o______o (;;;;;;☆;;)
| | ( ^ω^) 両足そろったお♪
/| () ̄ ̄ ̄) | /i ^Y^iヽ
||, 〜〜'⌒⌒〜'⌒⌒ヽ `i,,,,,,l!,,,l´
||\. o , ' `、 ゙ヽ Ll゙Ll
||\.\|| ̄| ̄| ̄| ̄| ̄| ̄||
\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.|| 徳田秋声の凄さは、何が凄いのかよくわからないような凄さだ 美しいといえば美しいし、粗野で野暮といえばその通りなのだ くその役にも立たないくそ本が面白い本と一緒になれると思うなよ 芥川の河童理論でいうと
優れたものが積極的に駄目なものと一緒になったほうが
害悪が減っていくのだがな
あれって優性の法則か何か? 駄目なもの同士がくっつくと駄目が増えていくだけという
ある種、人権毀損 芥川の河童はどこかユーモアがある
逆説を描いた皮肉小説として読んだからかな
倉橋由美子みたいな感覚で 倉橋由美子や筒井康隆のドライすぎる感じは最近どうも受け付けない 田中慎弥の本が気になって繰り返し読んでいる
この人が尊敬する作家は、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫らしいな
俺は川端からの影響を見いだしたが谷崎や三島っぽさはあまり感じなかった 川端のようなプロセスでイメージ抽出技法を使っているような気がする
ただ川端のようなギリギリの繊細さではなくて骨太に自分を押し出しているような
奔放な印象を受ける 今の時代自分に誇りを持って生きている人というのは意外と少ないだろうなと思う
たいていの人は自分の信念を貫きたいと思ったことがあるのだろうが挫折している
周囲との妥協点をみつけて等身大の自分で生きるしかないな、というふうに
純文学には信念で溢れている
ただそれは現実では貫けなかった挫折心から来るものである 俺の等身大って何ぞや
等身大・・・等身大・・・
身長は173cmだがな
173cmのものを探せばいいのか 俺は酒を飲むと大人しく平和的な性格になるが
酒を飲むと雄弁に愚痴り出す人もいるな
昨日ドストエフスキーを読んでいたらその極めつけみたいなおっさんが出てきて
ビビった 聞いてもいないのに家族への愛憎や日常の愚痴、自分の駄目さ加減を延々と語る
あれにでくわすと大変だ
暴れないだけマシかもしれんが 俺は言葉を邪魔に感じている人間で、本当はおだやかにずっと黙っていたい
瞑想しているときが落ち着く 言葉を使うと強迫的にならざるをえない
特に俺のような割り切りの出来ない人間はな
純文学を読んでいると、割り切った文字列がたくさん登場してくるので参考になる 志賀直哉は割り切りの神様でもある
必要最低限の描写しかしない 分かりやすさを意識してそうしているのではなくて
志賀が分かったこと(心境的に)だけを明晰に書いている
無駄な説明が一切ない
それで、志賀の分かったことが何であるのかを
類推しながら読まなければ難しく感じる 最初から「客観」にたよって分かりやすくしようとしている限り
まともな心境小説は書けないだろうな
自然主義では客観的観察を繰り返すため
自然主義を通過して心境小説に到る作家も多かったという
徳田秋声もおそらくその一人だ 徳田秋声の「あらくれ」が自然主義のひとつの完成形だろうな 芥川は酒をあまり飲めなかったらしいが
「歯車」に胃の痛みを和らげるためにウイスキーを飲むというシーンが出てくる
逆に胃に悪いイメージがあるが神経性の痛みの場合は
麻痺させて落ち着くということがあるのかもな 酒を飲むと一時的に理性が活性化するような気分になる
それは脳みその余計な機能を酩酊させてしまうからそう感じるだけかもな
理性だけは酩酊しないように意識をしっかりと保っていなければとなるからだ
それさえもなくなり惰性で飲み続けると酒飲む以外やる気がなくなり堕落
アル中の完成である 嫌なことを忘れるために飲んでいるうちに何が嫌なことであったのかも忘れ
自分が酒で嫌なことを忘れようとしていること自体に嫌気がさし
その嫌気から逃れるために酒を飲むという循環に陥る 純文学のジャンルを一通り読んで自分の趣向を把握するぞ まだ早すぎたな
円地文子で60歳を過ぎてから良さが分かったらしいし 200ページくらいからだんだんと嫌になるな
これはなぜなんだ ん?
罪と罰って口述筆記で作られた作品だったのか
このおかしな勢いもそのためのものかな あまり論理的ではない文章で、感情の流れのようなものを感じる 最近、ニューヨークの若者に芥川の短編が人気あるらしい
誰かが訳して紹介したんだな あー、ほんとだ
映画の「第9地区」って「馬の脚」だ このラスコーリニコフというキャラにまったくといっていいほどシンクロできない
これが罪と罰の退屈さの原因か 道徳性の面でドストエフスキーを軽蔑している作家が多いと聞く
ドストエフスキーが掘下げてほしいのはそういった表向きの部分じゃないだろうがな 分かりやすい事例から問題意識を喚起したいだけかもな なにか、ものすごいくどくどとした文章だからかな
迫力はあるのだがこの過剰なくどくどさに今の俺の神経が耐えられない 志賀直哉の文と比較したときに、やたらと無駄が多いように思える
必要のないことをべらべらとしゃべっているように感じる 上下巻で900ページ近くあるのだが無駄を減らして400ページくらいにならんかったのか あああああっ
無駄だらけだっ
どこを見ても台詞がいちいちくどい!長い!
暗夜行路の謙作を見習いたまえ 泉鏡花は近代幻想怪奇小説の元祖だろうな
江戸時代の伝統を受け継いでいるらしいが 神経質なまでに端正、耽美な文章だ
これもまた過剰すぎて怖い感じがある 最近読んだ中では志賀直哉、徳田秋声が良い文章だなと思った 川端もいいけど極端に美しさに拘っているためか危うい印象も受ける
そういう意味で荒々しい川端、みたいなイメージのある田中慎弥も良い文章だな しかしこの歳でドストエフスキーに挫折って嫌だな
俺も「ドストエフスキー体験」したいのに
「ドストエフスキー体験」をするためにはまずドストエフスキーの長編を
最後まで読破しなければならないらしい
途中でやめたら分からないまま終わるんだと ドストエフスキーって蠍座だったな
この不合理な感情を延々くどくどと垂れ流す感じがまさにそれだな
俺も蠍座だからやりたい気持ちは分かるのだが他の蠍座の不合理に
あまり触れたくないと思うのもまた蠍座の特徴だ
同質の仲間などいらんのだ 蠍座は感情と理屈を分けて考えることをしない
よく感情論と合理が逆転したようなことをいうし恐らく同じ場所にあるのだと思える ドストエフスキーが特殊なのは分裂症的な状態で平然と
アウトプットしているところか
ドストエフスキーには恍惚状態を伴う特殊な「てんかん」の持病があったらしく
それで悲壮感もなく延々とあれだけの台詞を垂れ流せるのかもしれない
混乱した意識状態では無理だなと思う 母からの手紙も15ページにも渡って小さい文字でびっしりと書き込まれているからな
それを読んでラスコーリニコフは泣くのだが俺はあまりの長さにブチ切れそうになっていた 柄谷がドストエフスキーのポリフォニー性を指摘しているな
独立した主観が交じり合うことなく並立したままドラマを構成しているだの云々・・・
なるほど確かにそれは可能か
それにしても台詞が長い、くどい
これが志賀直哉ならばおそらく2ページで事足りる
志賀直哉の7〜8倍の無駄を感じる ドストは写実主義の系譜で、事実関係を伝えるのに
分かりやすく細部に拘っているのかもしれんがな
志賀直哉の「気分」はそれほど細部に拘らないが
立体的かつ明晰にイメージを描写していた しかし志賀のそれには日本特有の「阿吽の呼吸」にも似た
暗黙の領域で己の心象と対象との関係を繋げるという
禅に近い境地があるだろうな 早熟な人だったら小中学生で読むようなものを
30代の俺がカッカしながら挫折しかけている ..∩ .∩
い,,c'_ノ ポイ
c/・ ・`っ /⌒ヽ
(''● ''' ) 三 ⊂(^ω^ ) もう要らんお
と ⊂ ) ヽ と)
⊂⊂_,,ノヽ `u-u' >>812
..∩ .∩
い,,c'_ノ
c/・ ・`っ /⌒ヽ
三 ('' ''' ).. ⊂(^ω^ ) ● 三
と ⊂ ) ヽ と)
⊂⊂_,,ノヽ `u-u' 抗いようのない他者との不和を表すために
あえてポリフォニーのような構成をとったのではないか、という分析があるな
日本のドラマはどちらかというと人間同士のやりとりの中から
調和を見いだしてゆく感じのが多い >>816
永ちゃんは嫌いではないが
気楽なことばかり言ってるな 周囲の助力で成り立っているキャラだから
「開き直ればいいのよ」にも気楽に感じられる 長渕とか矢沢とか乙女座なんだな
いってることは正しいのだがどこか気楽に感じる
乙女座は周囲の助力を失わないように立ち振る舞うから
俺なんか開き直ったら気に入らんやつ皆殺しだからな
開き直れない 無自覚に自分を苦しめながら生きている人間が世の中には非常に多いから
気楽に開き直っていこうぜ、という物言いが通用している 我を通すと浮くからな
それで諦念にいたってようやく地に落ち着いたときには
何もできなくなっているという
これ、大昔からよくあるパターン
平安時代からある 芥川の晩年作品集ばかり読んでしまうな
気になって仕方がない コクトーを読んだ時に不愉快になったんだが
ドストエフスキーにもそれと同質のものを感じる
俺の知っている理屈を超えた場所で感性が働いているな、と 感性や感情というのはその場その場の発露であって
本来理屈で捉えられるものではないんだが普通は
自分の感覚や感情の経験から割り出して納得してしまう
ドストエフスキーにはそういった理屈では納得のできない感性がずっと働いている 人間が本来もてあましている無目的性、といえばいいんだろか
目の前が暗闇に覆われているのに歩もうとする感覚だ
生きる目的だの何だの、あとからとってつけた屁理屈に過ぎないからな ある人はドストエフスキーの文章から生命が生来もつエネルギーの奔流
のようなものを感じ取って体調を崩してしまうという・・・ 前後左右見境なく異次元から迸るように言葉が飛び出してくるよな
あれは何なんだ 表向きはくどくどと理屈っぽくなっているのが変だ
理屈っぽいのに感情や感性が迸っている
やはり蠍座だからか 常識的な人ならば理屈で物事を捉えて説明しようというときに
自分の未熟な感情を抑制することを考えるだろう
感情的になると理屈が台無しになる、という算段も働くのだろう 理屈は(個人対個人のレベルで)簡単に死ぬが、感情は殺そうと思っても中々殺せない 常識的というのは集団対個人や集団対集団の意識が働いていること
個人対個人のレベルのみでいえば理屈は簡単に死ぬ
理屈が殺される不快感、というのがあるのか ドストエフスキーに比べるとヘッセのなんと道徳的なことか コクトーもゲーテも「善悪の彼岸」が見えていたのかもしれんが
どちらも神を信じているからな
やはり信仰心がそうさせるのか
芥川では信仰心を書物に傾けすぎて人工的な美意識が培われている
地獄と極楽の狭間で宙ぶらりんになっている人間観があった 自分の意思によって地獄と極楽の両極にたどり着けるのであれば
その間も自在に往来できるのかもしれない
芥川はそれにあこがれてゲーテを読んでいた? ウェルテルのころのゲーテでは、他人と歩度を合わせるときに
一歩先んずるような場合に誠の自己感情が生まれる、ということを書いている
この段階ではまだ善悪の彼岸は見えない
いわゆる自我や欲望が多くを占めているからだ 過去、神に運命を委ねて苦痛に耐えてきた人間が多いからな
その反動として快楽主義があったのか
大体、快楽と苦痛はセットになっているような気がする ウェルテルを自殺させることでゲーテの精神が強化されたからな
このことに気付かずウェルテルの後追い自殺した人が多くいたらしい 今では文学やっていると堅物の真面目人間のように思われるが
昔は反道徳的だと害悪視する人間が多かったという ヤクザ者の趣味が高じて認められたものだからな
文字だけで他人を感動させようなどと、ふざけたことをおっしゃる オタク創作だって元を正せば反体制運動に挫折してきたおっさんの情念が篭っている
オタクの生み出すものでも優れた感性が通っていたりするのだが
なにがしか表現として胡散臭いものがある 精神の部分を解さないまま長年模倣を続けていると形骸化して形式だけが残り
形式に別の情念を詰め込んでいくということになるのだが
これがキメラ化に繋がる
キメラというと、さまざまな動物が接合されたツギハギの化物のことだ
つまり、この段階では化物に見えないよう巧妙な接合技術が磨かれる
接合の上手い人が幅をきかせるわけだ
日本人の手先の器用さとあいまって、化物が化物に見えなくなる アニメのサイコパス2という作品があったが
精神と肉体がキメラと化した異常者が登場してきた
あれを見たときに「オタク世界の戯画だ」と感じた
バラバラの意識がひとつの人格として統合されて見えるということの奇妙さ
オタクはキャラクター消費が過剰だからな
何某かの「人格的統一感」のようなものに対する憧れからか アニメなんか作るのにいろんな畑からいろんな人が集まって
一つの統一的なイメージをもって作品製作しているのだから
間々不自然なところが出てくる
アニメばかり見ていると意識が混乱してくる
それで俺などはスタッフを入念に調べていた
スタッフの性質が分かっていれば表現に不和を感じたときに
自分の中で或る程度まで説明がつけられるからだ アニメの話題が出てきたら危険信号だな
やめておくか
不調だし歯止めが効かなくなる ドストのせいで調子を崩したな
これからドストに責任転嫁していこう
ドストのお陰で俺の精神的ストレスが和らぐと思えばいい
ありがたや
基本的に責任転嫁する対象があるというのはありがたいことだ
なんでも自分が悪いと思い込むとしんどいからな ドストについて調べていると、「思想や手法には批判的だが影響は大きく受けた」
というような作家が目立つ
文豪かくあるべしだ
問答無用でドストだろ?ってこと
理屈ではないのだな ウェルテルは良い小説だからたまに読み返すことにしよう 秀しげ子と芥川の関係はあまり関心ないが
晩年の作品群に大きな影響を与えているのは確かだな 「秋」という短編に題材を提供したのが秀しげ子だったらしいが
詳しいことは知らん 乙女座と双子座は真理の探究に余念がない
双子座は自身の理屈で得て行くタイプ、乙女座は周囲から探求することを認められるタイプ アメリカの理屈でいえば真理というのは人間が生み出してゆくもの ゲーテの古典主義って今のアメリカでは時代錯誤なのかな 気分が乗らないときはゲーテの文章が仰々しく感じて受け付けない
やはり自然や神に対する愛を感じ取れないとだめなのかもな
人間の世界になると常に愛憎だの苦楽だのといった極性に振り回されている
自然!神!ドストエフスキー!あああああ神よ!どうかわたしに
やる気をください 神は果たして自分の中にいるのか?
よくわからんが
ドスドスいくぞ 最近ずっと情緒が不安定で
その不安定が恒常化してきたのを
情緒の不安定が冗長しているな、と感じて、
冗長なまま安定してくるのが
不安になってきた・・・・・
助けて志賀直哉!!!!!!
アアアアアアッッ 理性と善を過剰に信じている人々によって
理性的でないことは悪魔の仕業だ、とされてきた歴史を鑑みるに
わたしは今、悪魔をかわいそうだと思うにいたったのである
俺のごとき情緒不安定の人間にかわいそうだと思われる悪魔哀れなり これは一体何なのかというと、
日本に古来より伝わる精神「もののあはれ」によって
悪魔の正体を見通すことができるのか・・・という
いわば、日本人につきつけられた西洋からの挑戦状なのである
わたしはこれを、、受けることにしたのであったのであった・・・ 「可愛い悪魔」はたくさんいるな
小悪魔のような可愛さとかいう
悪徳も可愛さでごまかせると思ってやがる
かわいいは正義!!
何を望んでも許されるのは可愛い少女だけだ!!など
しかし、かわいい、かわいそう、というのは日本の定番精神で
これを否定もできんのだが
みな、物見遊山の感覚だろうなと思う
西洋のはそんなんじゃない >>872
人格が一人に一つしか無いほうが異常、という考え方もある 人間の脳構造からいって10人くらいなら余裕で使い分けられるはずなんだがな しつこいくらい書いてある
ドスト!ドスト!ドストエフスキー! 志賀直哉の晩年短編集と芥川の晩年作品集にすぐ目がいく 芥川なんかもう羅生門のころから技巧が洗練されきっていたからな 芥川にとってはただ計算して書いただけのものだったのかもしれん 志賀の「万暦赤絵」という短編を読んだ
なんだこりゃw 骨董品を買いに行ったら高かったので
代わりに犬を買ってきた、という話
たぶん実話だな しかしディティールをよく書き込んでいるので
ゆっくり読むと味が出てくるな 志賀はもう40代の頃に円熟の境地に達しているから
あとの人生は大人しく過せればそれで良かったんだろう 大学時代の友人に架空の女性をでっちあげ
ラブレターを送りつけるといういたずらをやって
そのことを懺悔する話もあるな 他人の恋心をもてあそぶのは重罪だが
架空のラブレターとなるとそうでもないか 一文字単位で読み落とせないのは後にも先にも志賀直哉だけ 東野圭吾の文章も中々目がすべらない
読みやすいのに目が滑らないというのは美徳だ 最初からわかりやすさを意識してまとまっている文章は
かなり目がすべる 下痢して精神的にも落ち込んでいて調子が悪いな
読書休憩するか
1日1000ページ以上読んでいるからな 生そのものが苦痛であると考えると、みんな苦しいのが前提だから
気が楽になるな ハハハ 志賀は人柄がよかったそうだが
他人に対して寛大ではなかったらしい
エッセイを読んでいるとよく他人に対して不快に感じて怒っている 他人に一つ不快なところを見つけると、それを知らなかった頃には戻れない
と書いている
これはエッセイの中の日記帳の話で、ようわからんがな 理想は和解による人間関係の調和だという
これはヒューマニズムに燃えていたころからの一貫した姿勢
問題は和解の機会ってあまり無いよね、というところか 芥川の晩年作品集と志賀の晩年短編集を読み比べると
ギャップのひどさに愕然とする 「歯車」には志賀の暗夜行路を読んで(謙作の精神的闘争を見て)
自分の馬鹿さ加減に涙するというシーンが出てくる
これは実話なんだろうと思う
そのあと、葛藤が激しくなり芥川にとって
暗夜行路の存在さえも恐怖へと変わってゆく 芥川は暗夜行路を(未完成ゆえに)最後まで読んでいない
時期的に後半の半分以上は読んでいるかもしれないけど
だから謙作が悲劇の運命から脱するラストシーンも知らないまま自殺した それを仮に知ったとして自殺を思いとどまるとも思えないがな しかし自殺を考えるようになって生活欲がなくなっても創作欲はあったらしい
最後まで文学の中に救いを求めていたのか
芥川は既に文学の中に生き続けるようになってしまった >>912
__ __
/| | .| |\
/.::.::| |_______| |::.::.\
|.:.:.:::.::| | . | |:::.::.:.:.|
|.:.:.:::.::| | .| |:::.::.:.:.|
|.:.:.:::.::| | .| |:::.::.:.:.|
|.:.:.:::.::| | .| |:::.::.:.:.|
|.:.:.:::.::| | .| |:::.::.:.:.|
|.:.:.:::.::| | .| |:::.::.:.:.| こっから先は常識なんか
|.:.:.::::::| | .| |:::.::.:.:.|
|.:.:.::::::| | .| |:::.::.:.:.| 通用しないお!
./⌒ヽ:.::.::..:| | .| |:::.::.:./⌒ヽ
( ^ω^)...::..| | . | |:::.::.(^ω^ )
.ノ `つ.::.::| |__.| |:::.::.:.と ヽ
______.. ( O ノ .:.:::.:| | .| |:::.::.:.:(´ _, O,)_____
`(,__,ノ "' ::|_| .|_|,.. '(,_,)ヽ,__,) 志賀は暗夜行路を完成させてから作家としての存在感をなくしていったが
以降の私小説のスタイルを決定付けたからな >>913
常識に頼ってるやつはバカ
でも常識がないと困る 日本語を使うのが日本の常識だからな
外国人に「日本の公用語は何ですか?」などと質問されても困る
日本語しか使わないんだから公用語なんて知らん
英語やりたいやつは外国いけばいいだけだし 泉鏡花、慣れてくると変な中毒性があることに気付いた
これはおそらく江戸時代の「粋」を意識した言い回しから来るものか
耽美と粋が交じり合った引き締まった文章だ この言い回しがたまらんな
>果が無いから肝を据えた、固より引返す分ではない。
旧の処には矢張丈足らずの骸がある、遠くへ避けて草の中へ
駆け抜けたが、今にもあとの半分が絡ひつきさうで耐らぬから
気臆がして足が筋張ると、石に躓いて転んだ、其時膝節を
痛めましたものと見える。
それからがくがくして歩行くのが少し難渋になつたけれども、
此処で倒れては温気で蒸殺されるばかりぢやと、我身で
我身を激まして首筋を取つて引立てるやうにして峠の方へ。
何しろ路傍の草いきれが可恐しい、大鳥の卵見たやうなもの
なんぞ足許にごろごろして居る茂り塩梅 徳田秋声と同じ小学校で泉鏡花が一つ下だったらしい
幸田露伴の門下生だったのかな 日本の自然主義では西洋のゾライズムとは少し違っていて
作家自身の内面世界を客観視するという世界観になっている
徳田秋声がその極めつけで何度読んでもつかみ所がない
ゾラはもう少し冷徹な科学目線で外部世界を観察していたらしい 泉鏡花、内容がかなり俗っぽいのに文章がすごいからな
なんだろうこのシュールさ 江戸時代の文学も相当俗っぽいのが溢れていたらしいがな 昔好きだった作家の小説がなろうサイトに連載されていた
読んでみるとオタクに媚びを売ったボーイ・ミーツ・ガールものになっていた
しかし転生や魔法を一切出さないという点は美徳かな スティーブン・キングのような不可解でリアルなホラー感を
日本の風土とミックスしたような作品を描いていた人だったな 菊池寛の「夜の脅威」ってどこにも発表してないのかな 菊池寛は芥川賞と直木賞の設立者で有名な大作家だが
無名時代の日記を読んでいるとわびしいものがある この日記ってただの創作かもしれんな
菊池寛のことあまり知らないからよくわからない 半自叙伝となっていた
ここに出てくる山野というのが芥川をモチーフにした人物で
山野の才能に嫉妬しながら敵視する作者の遣る瀬無さが綴られている 「夜の脅威」もタイトルを変えただけで実際にそういった戯曲があるのかもしれないな これは確かにそのとおりで自然主義の作品は「ゴテゴテ感」がやたらと目に付く
徳田秋声くらい徹底していれば逆に目を見張るがな
>リアリズムを標榜(ひょうぼう)する多くの作家が、
描かんとする人生の凡(すべ)ての些末事を、ゴテゴテと
何らの撰択もなく並べ立てるに比して、志賀氏の表現には
厳粛な手堅い撰択が行われている 田山花袋なんか、並列的にベタベタ貼り付けているような印象があって
笑いを禁じえない
あれはあれで好きだがな 徳田秋声の文章のすごさに頭をやられている
これは何なのかよくわからない
ゴテゴテとしているのだが、統制されたゴテゴテ感がある
統制されたゴテゴテそのものから情景が浮かび上がってくる 「意図的に描写対象を選択しない」という意識を徹底させているのかもしれん
これを芥川が「客観的」といったのか 一気に読み通せるような精神状態にならなければならない 怖いもの見たさで毎日少しずつ「ドグラ・マグラ」を読み進めるのとは訳が違うのだ
なんといっても相手はあのドストだ! 思春期で読む人も多いらしいなドストは
思春期のほうがむしろ夢中になって一気に徹夜して読み通せるのかもしれない 俺が思春期のころに本気になって読んだのはカフカくらいだろうか
文学への興味なんか頭の片隅にもなかったな 国語や現代文の授業で文学にいろいろ触れてはいたが
興味はなかった 文学の扱いが商品化・陳腐化していく90年代後半に青春を謳歌していたからな
俺の興味はもっぱら革命思想を有した前衛オタク作家に向いていた 安部公房が亡くなったあたりで文学に見切りをつける人間が多かったのだろうな 安部公房はドストにかなり思いいれを持っているらしかった 「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフが歩いていた「乾草広場(センナヤ)」
当時はこういう状況だったらしい
まともに舗装もされてないな
本当に干し草を売っているだけの広場みたいな雰囲気だな
今では近代的なショッピングセンターができたりしているらしいが 菊池寛は良くも悪くも普通の作家っぽいな
情熱と根気で頑張ってきた感じの文章だ 退屈ではあるがストンとまっすぐ腑に落ちるような分かりやすい文章 この中で主人公がある老人から「罪と罰」を借りるシーンが出てくる
このある老人というのは室賀文武という人物のことで
芥川が幼い頃に子守りをしていたことがあるらしい
データによると政治に失望し、内村鑑三の弟子になって
キリスト教にのめりこんだという
しかしおかしいのがこの人物から借りた「罪と罰」の本の中身が
「カラマーゾフの兄弟」になっていたところ 1ページだけカラマーゾフの兄弟の項と綴じ違えた、というような表現になってるな
たまたま開いたのがそのページであった、と
これは本当のことなんだろうか こういった奇妙な体験なら俺は頻繁に経験しているのだが
うまく説明がつかない
相手が次にしゃべることを明確に把握できることなんていくらでもあるし
自分が考えたそのまんまの台詞を誰かがいうことも何度もある 皆、偶然に振り回されているようで、実はそうじゃないんだな
どこかで意識は必然だと考えている 本質的なズレを同期に見せかけたのがコミュニケーションだろうな
何もかもズレたままだと意識の必然を毀損するものだから
ともかく同期できているように見せかけなければならない
意識の必然同士がぶつかると相殺される恐れがある 想像のレベルで意識を同期させる努力はしているんだろう
日本なんか特に想像上の共同体意識が強く(擬似統一民族だし)
ともかく空気を読まなければ成立しない 日本では封建の時代に多くの観念領域が形成されてきたわけである
空想には新しい観念領域を生み出そうとする作用がある
空想上の共同体というのはネットでも御馴染みだな 問題は空想できることの幅が狭くなってきていること
新しい観念領域ってそう簡単には開拓できない 外の文化を取り入れてアレンジし、これによっていわゆる「箔」を付けることで
日本人の自意識も形成されてきたからな
外部開拓に行き詰まったときに自分の中に何があるのかを考えて
掘り起こすという作業が必要になる 外部開拓を通じて何が可能かというと
多くの人が幸せを掘り起こしやすい状況を生み出すこと
自分の幸せ追求のためにこれをやっているといつか反動が来る
歴史的に見るとそのようになっている エネルギー問題で困って他の惑星を開拓しにいく話がよくフィクションであるが
そんなことやる必要どこにもねえのにな ネットの世界は開拓ではないからな
スケールフリーでリンクを繋ぎ、それがフラクタルになっていく
これは内部構造の話だな
外部に向けてネットワーク繋いでいるはずが 「玄鶴山房」が晩年作品の中では一番きついかな
いろんな意味で >>980
/\⌒ヽペタン
/ /⌒)ノ ペタン
/⌒ヽ \ (( /⌒ヽ
(; ^ω^))' ))(^ω^ )
/ ⌒ノ ( ⌒ヽ⊂⌒ヽ
.( ノ ) ̄ ̄ ̄()__ )
)_)_) (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)(_( 初期や中期の洗練された作品群にはもはや興味を失っている 徳田秋声の文章を単語単位で精読するか
ほんま、とらえどころがない 最初、意味がわからなかったが情景が浮かぶようになると
川端が絶賛している意味も分かってくる
しかし何が凄いのかはよくわからないのだ あ、これが日本自然主義文学の完成形だ!ということが分かる
しかし何がどうすごいのかが分からない これ以上突き詰めるとどこか破綻をきたすだろうなと思う
だから完成形 罪と罰の主人公に共感できるやつなんているのかいな
あのキャラには気持ち悪くて吐き気を催す デスノートのライトもそうだったな
あれもなんら魅力がない
俺だったらライトを真っ先に抹殺する 芥川がいうようにドストは戯画としてキャラクターに映し出しているだけかもな こんなクソキャラでも共感したいやつは勝手に共感しろ、というふうに ラスコーリニコフに比べると謙作のどれだけ魅力的なことか このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 10日 13時間 15分 55秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。