>>2の続き

1962年生まれの同い年7人で構成されたト・チェコス(THE CHECKERS)が歌った1984年の曲、『チュリア
ニ ショウシン(ジュリアに傷心)』も『Just a man in love』と同時期に国内のナイトとロックカフェなどで大流行
した曲だった。この曲は、カンチュリ コッコ(Country Kko Kko)が、『オ マイ チュリア』という曲で翻案して
人気を呼んだ。

1985年のデビューした日本の4人組みロックバンド、『チュブ(TUBE)』も日本文化開放前に多くの曲が国内
で流行った。ケン(KAN)が翻案した『ネ センエ ポムナルウン(我が人生の春の日は)』の原曲は、チュブが
1992年に発表した『カラスノ メモリジュ(ガラスのメモリーズ)』である。チュブが1986年に発表した『Season-
in the sun』も、チョン・ジェウクが翻案するなど広く知られている。

話題を切り替えてみよう。金大中(キム・デジュン)大統領が就任した初年度の1998年から段階的に日本の
大衆文化を開放した後、廬武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が2003年に完全開放するまで、日本の大衆歌謡は
国内で制度圏外の文化の産物だった。

これまで日本の歌手が地上波放送などに登場しないのはもちろん、2003年の完全開放前までは国内放送
で日本語の原曲で歌を歌う事は出来ず、英語で歌わなければならなかった。代表的な事例として過去の
MBCとTBCで開催した国際歌謡祭が掲げられる。

MBCは1977年から1988年まで10回(1985年は未開催)にわたり、『MBCソウル国際歌謡祭』を開催した。
1978年のソウル国際歌謡祭には日本アニメーション主題歌の伝説、シモン・マサト(子門真人)が大会に
参加した。1986年には当代最高の日本の人気女性アイドルトリオ(3人組み)であるソネテ(ショジョタイ=
少女隊)が独特な衣装を着て『Starlight memory(ハレーロマンス)』を歌ったが、全て日本人特有の英語
発音で曲を歌った。

TBCは2年後の1979年に『第1回TBC世界歌謡祭』を開催したが、大会の大賞曲は『Beautiful me
(ビューティフル・ミー)』だった。小柄で華奢なスタイルでショートカットのヘアスタイルで大会に出場した
日本の女性歌手=オハシ・チュンコ(大橋純子)は、哀愁に満ちた歌声でユン・ボクフィやチェ・ジンヒを連想
させる爆発的な声量で曲を歌い、当代の日本の実力派女性歌手のレベルを国内に知らせた。オハシは
非常に洗練された発音の英語で曲を歌い、光を放った。

(動画=YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=PhdXswwK8u8

>>4に続く