お墓建立>・フビライは、東アジアへの支配を拡大する中、東方で独立を保っていた日本をも征服しょうと企て、たびたび使いを日本に派遣し、服属するよう求めた。
 フビライが日本に送った国書は、日本を見下した無礼極まりない内容である。例えば最初の国書は「関係がうまくいかない場合は、兵を用いる」とあり、ほとんど脅迫状といったほうが近い。
こんな要求は受入れられるはずがない。
 朝廷は鎌倉幕府は一致団結して、フビライの要求をはねつけた。二度にわたって届いた元の国書に対して朝廷が用意した返書の下書きには「日本は天照大御神の子孫が統治する立派な国なので、
知恵でも武力でも侵すことはできない」とあった。戦端が開かれるのは必死である。鎌倉幕府は、時の執権・北条時宗を中心に元の襲来に備えた。
愛国心とは国家の『尊厳』と『名誉』と『主権』を守り抜く決意のことだ。
 主権とは国家の独立性、つまり国のあり方について他国の干渉や介入を一切許さず、国のことは国の中で決めるということだ。
内政への介入を絶対に許さないことなのだ。
圧倒的な元の軍勢に勝てたのは、二度の”神風”が吹いたからだというのが定説になっているが、勝因はそれだけではない。元は騎馬戦では、無類の強さを発揮したが、海を渡っての戦いには慣れていなかった。
また、大軍の中には高麗や宋の兵も多く交じっており、内部的な団結は弱かった。
 そして、最も強調すべきは、自分達の国を守ろうという当時の日本人たちの気概である。この国難に際し、朝廷と幕府は一致協力し、執権・北条時宗を中心に幕府統制のもと、御家人たちががっちりと団結し、
勇猛果敢に戦ったことが活路を開いた。 ・国のために私利私欲を排してまとまった御家人、
国のために一心に祈った宗教家たちが民衆の心を束ね、ひとつになって国難に向ったおかげで二度の暴風雨の到来という奇跡ももたらされたのだと。
 当時の人々、とりわけ武士には何よりも公を優先する心があった。「いざ鎌倉」の言葉が残っているように、武士たちは質実剛健を旨とし、平時は国難に備えて武道を磨き、質素な生活を送り、
いざ国難に際しては、すべてを捨ててでも駆けつけるという気概があった。