【佐賀】「朝鮮女性陶工」百婆仙記念像が日本に立つ[04/23]
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180423-00030368-hankyoreh-kr
ハンギョレ新聞
29日、朝鮮女性陶工である百婆仙(ペク・パソン)の記念像が佐賀県有田に立てられる。
社団法人韓国陶芸協会と朝鮮陶工記念事業会傘下の百婆仙記念事業会は29日午前、佐賀県西部有田町の「百婆仙ギャラリー」で、朝鮮の女性陶工、百婆仙(1560〜1656)記念像の除幕式を行うと22日明らかにした。
慶尚南道金海(キムヘ)出身の百婆仙は、日本の代表ブランド陶磁器「有田焼」の母として知られている。朝鮮最初の女性沙器匠だった彼女は、陶工の金泰道の妻として壬辰倭乱当時日本に連れて行かれ、有田に隣接した武雄市で陶磁器を作った。夫が亡くなると900人余りの朝鮮人陶工を連れて有田に移住し、世界的に有名な「有田陶磁器」を誕生させた。
百婆仙記念像は、基壇と座台を含めて高さ1.8メートルで、チマチョゴリを着て座った女性が茶碗を手に持って見ている姿が陶磁器で形象化されている。京畿道驪州(ヨジュ)の作家アン・ソクヨン氏が手で座像を作り、朝鮮時代の方式により薪釜を用いて作品を焼いた。
ユン・テウン朝鮮陶工記念事業会長(71)は「日本に立てることになる最初の韓国女性像だ。歴史上、悲運な女性だったが日本陶磁器の母になった朝鮮の偉大な女性を歴史的に照明する契機になって欲しい」と話した。 >>32
その前に拉致って閉じ込めたのは大罪なんだよ こういうのって上辺意外なんの価値も無かったな
何考えて作ってんだろな
うへへコレでこの場所はウリナラのものニダとか思ってんだろか? >>1
>百婆仙(ペク・パソン)
百婆仙って人名って解釈でいいのか? 称号みたいなものだと思うけど。 日本で百婆仙と呼ばれたんだから「ひゃくばせん」でいいと思うな >壬辰倭乱当時日本に連れて行かれ、
>夫が亡くなると900人余りの朝鮮人陶工を連れて有田に移住し
連れて行かれたのではなく付いて行っただろうがw 佐賀は今の知事になって確実におかしくなってる
朝鮮戦争が再開したら難民の受け入れ地に
するつもりでいろいろ工作でもされてるのか
って位はのっとられてる >>25
>朝鮮が陶工達を冷遇しすぎたせいで日本から帰りたがらなかったとかなんとか
今も「帰れ!」って言っても
朝鮮半島へ帰らない在日朝鮮人が居るんだが?
何世まで居てるの不法入国犯罪者の子孫
はよ、日本から出て行けよ! 李参平の出自の記録はない
伊万里から古久谷様式のやつが出土しているから
技術は明から伝わったんではないかなと思う 日本に拉致され、命と引き換えに優れた韓国の陶磁器文化を教えさせられた悲運の女性
日本がやった事は本当に非道だ 朝鮮戦争→WW2→日韓併合→朝鮮の役→倭寇→元寇(これはスキップかな)→白杉江
ネタ無くなったらい時代さかのぼるのかな。 こういう歴史も一度ちょんとした日本人が調べ直すべき 白磁が美しかった
本国では評価どころか下賤の扱いだった
さらに日本の陶磁器の幅が広がった
セラミック基板にMEMSを載せて、ミリ波レーダー、空気圧センサ、ジャイロが車に載るようになった
RFでも高誘電率のセラミック基板のおかげで、携帯端末も無線局も軽薄短小になった
一方その頃、韓国はポリマー碍子を中東アジアから輸入していた >>37
売春婦像ビジネスモデルの次を狙ってるだけ
ちょっと弱いと思うけど・・・ >>34
在日チョーセンが祖国に帰らないように、当時のチョーセンジンも日本に住めて嬉しかったんだよw
■だれも朝鮮に帰りたがらない朝鮮人捕虜■
●平成14年10月31日木曜日朝日新聞文芸時評…「歴史と他者」関川夏央より抜粋
荒山徹「故郷忘じたく候」(オール読物11月号)
元和三(一六一七)年朝鮮使節が十年ぶりに訪日した。目的のひとつは秀吉に
よる朝鮮の役における朝鮮被虜の「刷還」、つまり取り戻しであった。
しかし問題が生じた。★誰も故国に帰りたがらないのである。前回慶長一二年の使
節もそれを求めたが、帰国者は千二百人「九牛の一毛を抜くが如し」であった。
帰国を厭うのは、宋学的空論を重ねて相争う両班を頂点とした、徹底した身分
差別を喜ばないからである。陶工や伎生など技芸の民のみならず、常民もみな日
本にとどまりたがった。清正没して衰運する肥後加藤家は、尊大な使節の意を迎
えるべく領内定住朝鮮民衆の「説得」を行ってようやく五十人をそろえた。 ■加藤清正に感謝状を贈った朝鮮の王子たち…朝鮮民衆に捕らえられ日本軍に差し出された朝鮮の王子 ■
(朝鮮征伐で活躍した)加藤清正が朝鮮の会寧にまで攻め上ったとき、朝鮮人民衆に捉えられて
日本軍の加藤清正に差し出された二人の朝鮮の王子を 、加藤清正は礼を尽くして処遇した。
翌文禄二年、講和談判が開かれるに及んで、秀吉の命令で、両王子を釜山から首都・京城まで
護衛(家臣・九鬼四郎兵衛)をつけて送り還した。両王子は帰還するにあたって感謝状を清正に贈った。
この書状は今も紀州徳川家に残っている。清正の娘が徳川頼宣の夫人となった縁故から同家に
伝えられたものである。それを要約すれば次の通りである。
◆ 壬辰元年七月二十四日に捕らえられてから礼遇され、厚い保護を受け、衣服糧食を与えられ、
至れり尽くせりの待遇を受けた。このたび関白(秀吉公)殿下に上申して釜山から京城まで送り還
された。その慈悲は仏のごとくである。
もし一行のものがこのことを忘れ、後日、日本及び清正公に対し、僅かでも背くようなことがあったら、
人情を弁えぬ者であって、天地の神々もこれを知っているであろう。◆
両王子は京城まで送り届けてくれた九鬼四郎兵衛にも感謝状を送り、その厚遇の恩は永久に忘れない、
と述べている。
このほか清正は両王子を一時、鍋島直茂に預けておいたことがある。そのため鍋島氏の歓待を謝した
書状が二通、鍋島家にも伝えられている。「神伝慈悲の道を貴官の中に見る」という文言さえある。
両王子は京城に帰ってから、清正の恩を忘れないように、京城の南大門外に清正の廟を作った。そこに
は肖像画を掲げて生きながらの社とし、両王子は親しく祭文を読み上げたと言う。
清正に感激したのは、両王子ばかりではなかった。禮曹司という職にあった五人の高官は、秀吉宛に
長文の手紙を書いている。この文書は現在熊本の本妙寺に所蔵されているが全文は「日本人の博愛」
−辻善之助編−に載っている。
◆要約
<清正は利欲を求めず、ただ正事に奔走した。朝鮮北部を席巻すること、勇猛果敢であって、その姿は
神か人か、男子中の男子であった。会寧で両王子を捕らえた時 は辞を低くし、謙虚そのものであった。
この姿に日本の風格を見る思いがした。両王子を釜山まで送るその態度は一貫していた。これこそ真の
仁人であり、君子中の 君子である。貴国の忠臣名将録に記録して明らかにすべきではないか。>
これら一連の資料に接しておれば、加藤清正という勇将の一面を窺うことができる。清正が熊本人に今も
「セイショウサン」として慕われている理由も判るのである。
「日韓2000年の真実」名越二荒之助 編著
(日本図書館協会選定図書)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4916029127.html 朝鮮や在日が嘆いても何の同情心も起こらんわ。林がバカすぎて >>6
紀元前から來の国、呪われた国、と言われてた >>43
鍋島「ここだと飯を食わせられないし、君ら飢え死に覚悟で残るかい?今なら、君らを乗せて行けるよ。衣食住は暫く見るし、特技があるなら、それで生計を立てるようにするよ。」
陶工「ここに残っても差別されるし、認められない、ならいっそ。」
数年後
鍋島2「朝鮮国が住民返してくれと言ってるけど、故郷に帰るかい?」
陶工「ここでやりがい見つけたし、あんな国は嫌です。」
鍋島2「そうかい。強制できんし、言っとくわ」
独自技術に進化したし、あいつらにとっちゃ悲劇だろうな。でも、朝鮮にいたら発展しなかったのは間違いない。上の手柄にされるしな。 >社団法人韓国陶芸協会と朝鮮陶工記念事業会傘下の百婆仙記念事業会は
…日本がまったく関わってないと言うか勝手に像を建てたように見えるんだか >>22
唐突にトーテム建て始めたり、中身は明らかに別物だけどなw >>61
>>1に「ユン・テウン朝鮮陶工記念事業会長(71)」とあるし、別ソースだと
> 韓国陶芸協会と共に像の製作に携わってきた朝鮮陶工記念事業会のユン・テウン会長
> は「日本の陶磁の発展は朝鮮侵略によって成されたという歴史的事実を知ってもらい、
> 国民が陶磁の歴史を振り返る契機になってくれれば」と話す。
朝鮮半島出身「有田焼の母」 29日に佐賀で像除幕式
http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2018/04/22/0400000000AJP20180422000300882.HTML
ってな具合で、社団法人韓国陶芸協会のフロント組織が朝鮮陶工記念事業会って感じだな。 >>15
far eastは極東って訳すんだよ犬白丁 李氏朝鮮時代軽視されてた陶工たちに
日本が歓待したらそりゃ、集団移住するだろさ
強制連行ではなく自らの意思なのは明白
後の時代になって日本使節団が訪韓した時に
朝鮮の陶磁器は分厚くなんの価値もない代物だったそうじゃないか
職人軽視が元凶 「記念像」とか言ってるけど、いつの間にか被害者像にされてんじゃねーの? こういう像なら理解できる。反日とは無関係。韓国ドラマで少し尾ひれがついたのが若干気になる
が百婆仙と呼ばれた朝鮮の女陶工が日本に来たことは事実。政治問題と結びつけられないことを
願うわ。 >(皆手を合わせひざまずき、聞いても分からない朝鮮語であっても、
助けてくれといっていることは分かる。
それを味方の日本軍は一切聞かず、斬り付け討ち捨て、踏み殺し、
是を軍神の血祭りとばかり、女男、犬猫さえも皆切り捨てて、斬り首は
三万ほどであった)
「吉野甚五左衛門覚書」より
http://www.jyofukuji.com/11-tyosen/2002/02.htm この人はおそらく有田での陶器作りに情熱を注いだのでしょう。
奴隷を無理やり連れてきても、後世に名が残るようないい仕事はできません。 >>73
捕虜にしたら管理が大変じゃん
貴重な食料分け与えないといけないし
連れ歩くわけにもいかない
そんなの現代の戦争でも普通だよ
一人助けたら多数を助けなけれならなくなる >>72
>こういう像なら理解できる。反日とは無関係。
と思ってたら、いつの間にか反日に利用されてしまう。 半島に比べて儒教の影響が少ない日本に来たから、
功績が残ってるし責任がある仕事を任された訳な。
朝鮮と言う土壌では出てこなかったんじゃないか?
悲運と言うより、職人を高く評価する日本に連れてこられて幸運だった女性だろ。
虐げられながら生きるか、異国へ連行されて豊かになるかの話。
それも帰国するチャンスは与えられたわけだし。職人の待遇が悪いから帰らない。 >>34
当時なら戦争で捕虜を連れ帰るのは当たり前のことだからな。
手に穴を開けてロープで船縁にぶら下げて人間の盾にしたり、連れ帰ったあと奴隷として売り飛ばした高麗と違って、
日本でバリバリ働けるように健康なまま連れてきたわけ。職人なのに名字帯刀を許されて士分になってる。
待遇が真逆。 >>34
お前、病気だらけの出稼ぎ売春婦を「慰安婦」とか名付けて神格化する馬鹿だろ(笑) >>79
こういう正反対のことやってるのは知らないんでしょうね。 こういう噓の記念碑とか自治体に言って撤去してもらえないの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています