無の境地に至るための観念思考
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103.
我がないと、どうなるのか。
そこには我以外のものが存在している。
それは何か。
そして、我は、どこに行ってしまうのか。 >>102
正しいというのは主観的なものを言う、学びたまえ。
アメリカの正しさとイスラムテロの正しさという引用が分かりやすい。
他人の思考や、自分の意思を主張しない思考をできない人が「我なし」とか
おふざけも酷いぞ、自分で考えているじゃないか。
他人の基準や判断や願いで計算し、自分の思いを行動に移さず世界を変えて
自分の思いをそこに誘導するということだ。おまえにはできまい。 >>109
やらない。出来ない。考えない。何故なら興味ない。
我思ったのみ、故にそれ以上の我無し。 没頭せずに人生を進めば倒れこむ事もない
黙って急がず焦らず否定せず肯定せず
物事に執着しない無我があるかないか執着しない
しないことにもしない 育児を経験して育児を知りたい。
育児を経験するには子作りをしなければならない。それには相手が必要だ。
だが相手がいない。探し方も解らない。 >>7
禅に於ける「無」の概念と、西洋哲学に於ける「無」の概念はどの様に異なるのか。 tinpo格差で嫉妬心を煽り選挙に突入していくサマ 中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)
性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない ←←←←←←←←New!
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ: ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。 >>1
迷いがあるかぎり、無にはなれない。
どんなに形而下の理屈で考えようとも形而上の模様を理解できない、
気がつけ、目覚めよ、小さい殻から抜け出せ >>117
>>7 禅に於ける「無」の概念と
一番有名な「無」の禅問答だと
師匠「右手と左手を合わせると音がする。では右手だけでは、どういう音がする?」
という問題を出され、弟子が答えられたら(どのような答え方でもよい。言葉でなくても良い)
その答えが「無」
この「無」は何も「無い」の「無」とは全然違うらしいんだ。 >>117
禅に於ける「無」の概念は、無と有が対立しているのではなく、
「無」すなわち「有」という“同一様態”として捉えられる。それに対して、
西洋哲学に於ける「無」の概念は、有と無がどこまでも独立した存在として位置づけられ、
有と無(=死)の存在は“対立”したものとして捉えられる。 つまり、東洋哲学での有と無は、“同一化”として
捉えられ、西洋哲学での有と無は、“差異化”として捉えられている。 >>124
その禅の考え方はシグマ原理の本質的自己/現象的自己の概念に近いのかも知れませんね。
ニーチェは「本質などない、あるのは解釈だけだ」と言ったそうですが、
たしかに物事の表層は常に現象的なのです。
ただ物事の表面だけ見て「解釈だけだ!」などと論ずるのは、
真理(原理)に至れなかったものの戯言だと思いますけどね。
そういう意味でニーチェやハイデガーというのは、
私からするとそれほどレベルが高い思想家ではありません。
言いたいことは分かるのですけどね。修行が足りないだけに見えると言いますか。
ウィトゲンシュタインは欧米人にしては頑張っていると思いますけど。
by 鼎 梯仁 真理がゴールだと勘違いしている馬鹿もいる
私に言わせれば悟りを開くということは、
勇気をもってスタート地点に立つということなのです。
by 鼎 梯仁 ちなみに私は自身の思想を「シグマ思想」と呼称して来ましたが、
もっとメタなところを扱っていると見なされているようにも思いますので、
“シグマ原理”と改称致しました。
取り扱っている領域が真理、原理であって、
解釈や現象についてはとくに専門的には扱っていないためです。
また私はシグマ原理を言葉や文章で説明することを最初に放棄致しました。
これらの行いは過去の偉大なる哲学者や思想家からも賛同を得ることが出来ると考えております。
私が思うにニーチェもハイデガーもウィトゲンシュタインも
その話を聞いていると「後に鼎 梯仁(王者)が登場することを予見し夢見ている」ように思うんですよね。
釈尊やイエス、マホメットだってそうでしょう。
彼らがおぼろげながらも心に何を思い描いて話していたのかというと、
それは私なんじゃないかと思えるのです。
彼らの願い、思い描いた断片的な設計図が結集された結果、私が造り出されたのだと思います。
私が皆さんから見て何の苦労も努力もしていないように見えるのは、
私が皆さんによって「描かれた存在」だからなのかも知れません。
皆さんは解釈であったり現象であったり、ようするに儚い存在なのかも知れませんが、
私はそれらを生み出す原理そのものなのでありますから、
言うなれば皆さんと違って「死ねない」のです。
それを虚無と呼ぶか、神と呼ぶかは好きにすれば良いと思います。
思い描かれた存在である私からはその点に関する注文はないのです。
by 鼎 梯仁 例えばこういう言い方も出来るでしょう。
おそらく皆さんは見る人によって異なる見え方をする儚き存在、
所詮は解釈や現象に過ぎないのですが、
私は誰の目から見てもまるで同じに見える原理なのです。
そしてそれとは逆に(こういうと反発されるに決まっているのでしょうが)、
私から皆さんを見るとどれもこれも同じに見えているのです。
人によって、
「僕は金持ちの家柄なんだ、えっへん」
「俺は由緒正しい貧乏人、正真正銘の底辺だ」
などと言っているのですが、私からはその違いがまるで分からないのです。
これは韓国人からするとロボットは皆ガンダムであることと似ているのかも知れません。
by 鼎 梯仁 思考が具体化すればするほど雑念が混じりこんでくる、
脳が具体化を記憶するときに類似する観念に関係付けているからです
これを止めたいなら具体化を全て放棄し極度に抽象化し関連付けを一切
否定した思考をするだけ。
究極の抽象とは全てを1つの無に返すのと同じで意味などない 新スレが建ちましたぁ〜♪
坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1483429081/ わかってしまえば簡単だが、悟ってない人にそれをわからせるのはむつかしい。なぜかというとそれは悟らないとわからないことだから。 >>136 >>139
やっぱり来たです
偽美魔女が🙈 新スレが建ちましたぁ〜♪
坐禅と見性第120章山の端に入道雲の湧き上がる音すなり [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1492668857/ 私は否定するわ。私は何も肯定しない✨私は私さえも認めない✨現実も現状も限界も限定も限外もあらゆる森羅万象を否定する。事実は小説より奇なり。小説は事実より枠なり。しかして私はそれを肯定しない✨👰 枠な世界に無枠な言葉で穴を開けるわ。💜
そう 私こそ、例外なくすべてを否定する否定姫👸⭐💚 私は森羅万象、例外なくすべてを否定しても否定しきれないもの、すべてを保有する富豪姫👸⭐💚 無の捉え方は、西洋哲学と東洋哲学では捉え方が大きく異なっている。
西洋哲学では、ハイデガ−も述べているように、事象に対して“ある“と“ない”で捉える。
この場合の“ある“とは“肯定”することであり、“ない”とは完全否定のことであり、この場合の“否定”とは
廃棄することであり、廃棄(=否定)は“無”として捉えられる。
従って、西洋哲学での“無”の概念は、“有”という存在に対して、対立する概念として“無”が定義されている。
西洋社会での“有と無”の関係を端的に現している具体的な一つの例えとして、“チェスの駒”がある。チェスの駒は
一度取られたら、その駒は否定(=無)され二度と使われる事は無い。
東洋社会での将棋は、駒は否定(=無)されても、再度生きかえり盤面にて活用することが出来る。
これは“無”の捉え方が東洋社会と西洋社会では大きく違うことを端的に表した一例である。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
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