無から有は生じないので
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この世はいくら遡っても先に進んでも完全な無はないと言う結論に至った
変化はしてるが生じてはない 大学院に通いながら精神科にも行くヤツw
新奇的なのかな?w 無とはつながりがないことを言う、
つながりがなければ有は無になる、
繋がれば無は有になる、それだけのこと 無から有を生じさせる方法は次のとおりです。
変換1 無⇒MU
演算1 MU−M=U
変換2 U⇒有
以上、変換1と演算1と変換2により無から有が生じることが実証されました。 「c点」論は、科学的(有無のプラス、マイナスの2元思考)以外に人間感覚
では「思索は不可能」であり、c点、つまり、有無合一体は実在しても「思考限界」を超えてしまいます。また、
無限も同じです。「有無合一体と無限」を「実在と信ずる」事により、c点は成立する故に、これは
当然「本質論」です。「c点」を信じても、ご存じの様に、感覚器官は「無を認識出来無い」ので
我らの「日常性には変化は無い」ゆえに、これは「地動説」後の「パラダイム」としか言えない。つまり、「21世紀のパラダイム」である。 変換1 無⇒MU
演算1 MU−M=U
変換2 U⇒有
演算2は、MならばM*U
(not M) or (M and U)
M U (not M) (M and U) ((not M) or (M and U))
0 0 1 0 1
0 1 1 1 1
1 0 0 1 1
1 1 0 1 1
MU-M=Uはなりたたないか。面白そうだったが、残念だ。 ↑ 198
念の為ですが、感覚器官(有と無を正しく分けるもの)と無関係には
脳とその神経回路(思索)は働きません。蛇足でした。 無が間違いか存が間違いか。
存は間違いないから、無というものは無い。 日本の女子の低就業率を無職の俺がもつ理由がないのだよ
ニコ生で毎晩絡んでもらってるところ本当にゴメン、、、 非在も絶対無も言語じゃん。「言語化できないもの」ていう「言語」でしょ。
「この文は偽である」ていう有名なパラドクスと同じ構造に見える。
意味を考えないで表層で捉えた方が簡単じゃないか。例えば、
定義1.存在とは言語や記号(情報)
定義2.情報の原理は追加。同じものは2度と現れない。
定義3.複数の情報に同一性を設定するのは任意にどうぞ。
とする。
Aは記号なので存在(定義1)
A=Aの、=と2個目のAは単なる情報の追加(定義2)
だけど同一性=を定義するのは自由(定義3)
これで同一律が発生。以後、論理の構築が可能になる。
「言語化できないもの」は言語なのでちゃんと定義1を満たす。
無も非在も絶対無も同じ。つまり立派な「存在」。
で、自然や世界は、定義3とは無関係で論理が発生しないと仮定する。
すると論理がないので矛盾もパラドクスも発生せず、コンピュータの
ように突然ハングもしない。
これは実際の世界と整合性がありそうだ。なのでとりあえず採用。
マルチユニバースとかで突然消えちゃう宇宙とかが観測できたら
「あれ、自然も定義3を採用してたんだ。てへ」て感じ。 >非在も絶対無も言語じゃん。
セックスが好きならする、子供が欲しいならやる
それだけじゃないか。 一言言わせて下さい。「c点論の世界(21世紀のパラダイム)」と言っても、
過去の「歴史の変化は無い」し、これまでの「科学的真理は変わる事は無い」
そして、地動説により「日常性に何らの変化が無かった」ように、c点論により
「我らの日常性は変わるものでは無い」。だが、地動説以後には「地球は球体」
である事は、疑われず、一例として、「コロンブスのアメリカ大陸発見」が有った。
「c点論」でも、「科学的と信じられていた社会主義理論にも疑問」が生まれ
かも知れ無い。他の分野も関係して、現実社会では利害も、新しく発生するかも
知れ無い。現状では「c点論を認めるメリット」はすぐには現れ無い。以上、蛇足
だったか。 繰り返しに成りますが、
「いのち」ある所に、この世(宇宙)は有り、
「いのち」無き所には、この世(宇宙)も無い。
これは、総てのものの「大前提」であり、科学も、宗教(無の哲学、仏教の)
例外では無い。勿論、「c点論」も例外では無い。
蛇足ですが、これは仏教の「唯識論」とは全く無関係であることは、何方
にも、お判りでしょう。 コロンブスの大陸発見というけど
そもそも海の果てなんて誰も信じていなかったのでは?
事実ヴァイキングはコロンブスよりはるか数百年前にアメリカに植民地を築いていたのだし
c点論などなくとも人の好奇心は壁を打破する さらに言えばコロンブスが大陸を発見しただけで人類はその遥か前に大陸を発見し既に済んでいた
人類という目で見ればコロンブスはなんの役割も果たしていないただのゴロツキだというのが事実だ 最後に
安易にも「21世紀のパラダイム」と書き入れましたが、これは、内科医
S、イマムラの「扱える問題では無い」のは、自他共に認める者である。今後。
世界の「歴史(時間)になると信じて居ります。
2016年5月30日 内科医 S、イマムラ 記す この世のすべてが有で満たされているなら無は生じないだろう
しかし無が認識できないだけならあるのかもしれない
むろんその無が認識されたとたんに有に変わるような性質だったとしてもだ
まあ要するに3次元の生物である人間にとっては妄想するだけしかできないって事 無から有は生じない
これがそもそも間違い
無は文字通り一切が無いのであるから、そこには法則すらないのである
因果関係がなければ何かが起きないとか、時間軸がなければ何も生じないなどの法則もない、
つまり無から何事も起こりえるのである 死から生は生じないので、この世はいくら遡っても完全な死はない? これまでの繰り返しに成るが、@有の哲学(自然および人文科学)ではこの世(宇宙)には
「有と無」しか無く、「有はその示す変化も含め、同じものは無く、時空に唯
一絶対の存在」であり、「類似の有」の観測、計測、統計処理により「確率%を持って
「真理」とする。確率の高い「真理」ほど「一般に、人類を含めた、自然にとり
「有用」である。が、「一部が多数」を支配する「悪用」もある。A無の哲学(有を除く
総て)では、神仏、道徳、美学など「有は無い」が、それらを「信じ、感ずる」者に
とって「のみ」の真理であるが、「一定の基準を創れば」そこには統計処理も有りうるが
その信頼度(確率)を「評価」は低い。だが、それ故に「低価値とは断定出来
無い」が、その「真理」を第三者に「伝えるには」、「有の哲学」によらねば
ならず、「有と無」の2要素による「2進法」にはならずに、「難解」「断定」
が中心と成らざるをえ無い。B「有の哲学」は「有と無」(+、−)の2進法で「情報」
を「脳」の思考回路(2進法)に伝える。電算機と同じだが、「無の哲学」には
この様な、「論理性」に欠ける。だが、人類が、「無の哲学」を無視は出来無い。
C「第三の哲学(c点論)」はこの世(宇宙)は、「有でも無く、無でも無く、全く
異質な「c点」(有無合一体)より成るとする認識。これについて、諸賢の
ご検討をいただきたい。(2016年8月21日 記録する) ↑ 216 に補足。
「異次元や多次元」で、この世(宇宙)を解明する試みも有るが、「c点論」
と同じ「本質論」と考える。この場合も、科学的(2進法)論理性は必要で
有る。「c点論」がオリジナルな「視座」を要するように、「本質論」は得意な
「視座」無しには、成立しません。「c点」は「2進法に成りません」のですが
「科学的思考」の「障害にはなりません」。 蛇足でした。 世の中は基地外ばっかりだと思っていると
体が自然と基地外に引き寄せられていくそういうことだ ↑ 217につづく
この世(宇宙とそこに起こる現象)について「真理を求めるなど生き方」など
は、すべての行為は、「哲学」が必要ではない。とにかく、「いきる」という
「現実」が、重要で、「原理、原則」があって、人は生きるのではない。たとえ
それが、原理、原則に「反する」としても。(2016年8月23日 記録する) 侵されない領域としての可能性の深淵が、
無限大に飽和して矛盾を形成する。
その矛盾形成プロセスが極にいたり矛盾が形成されたとき、
その世界に存在できなくなった理が外部世界に放出される。
これが、矛盾による理の出産である(無性生殖)。
理は、その内部を内部分割する1本の可能性をもつ。
他方、母たる矛盾は無限大へと向かう動的なプロセスである、
完全性を獲得するには、あと1本の可能性が欠けている。
そこで、理は、自らの内部を内部分割する1本の可能性を、
母たる矛盾へと挿入する。
S−EX、つまり、母たる矛盾と息子たる理の交合(SEX)である
(有性生殖)。
この交合により、
息子たる理は1本の可能性をうしない、
母たる矛盾は1本の可能性を得て、いずれも1を獲得する。
1は生の数であり、
生命に雌雄の2系統が存在するのは、
矛盾をもとにして1を獲得した生と、
理をもとにして1を獲得した生の2系統が存在する理による。 参考までに
生物学(生殖、生命など)」、他の人文科学などを考える時、脳と神経回路(論理的思考)
は感覚器官(有と無 +と− の分別)からの「2進法、2元的」情報でしか
処理できない。(2016年8月30日 記録すする) ↑ につづく
「認識対象が不明瞭」な「感性、悟り、など」は言語で「2進法で表現
出来無い」が、それを他者に言語で伝える為には「2進法に、論理に」依る
為、「南海」「独断」は避けられ無い。(同上) ↑ ていせいの(南海→難解)
「感性、悟り」等は、認識者の独自の表現(絵画、建築など}は有る。
だが、他者は「再現」は出来無いが、「有用」でも有る。(同上) 参考まで
人類の文化文明に「飛躍的激変」を生ずるのは、「2進法を超える」天才的
な数学者の出現を待つしか無い ?「Ⅽ点」からはそれは生まれ無いがが、
「パラダイム」では有る。(同上)
[ 参考までに
「パラダイム」とは、「文化、文明の本質的社会的基盤の変化」では無い。
それは、「文化、文明の哲学的本質的基盤の内容の変化、質的変化」で
有る。「日常性の変化」を意味し無い。(同上) 参考までに
@「有無と区別不能な状態」は感覚器官により「その状態」のまま「脳と関連回路に伝えられて
「その状態」より運動期間に命令されて、「特異な作品」となる。
「理性」は論理的で電算機(+と−、としての処理)的処理。「再現性アリ」。
「感性」は非論理的で、「再現性ナシ」だが有意義である。 228につづく
「理性」と「感性」とを兼ね備えたものが、「いのち」である。
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