[教行信証]親鸞の哲学[歎異鈔を読む] [転載禁止]©2ch.net
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どうでしょう親鸞。吉本隆明・梅原猛・五木寛之などの著書の話も可。
歎異鈔面白いので読んでみませんか? 親鸞かあ。
東京新聞とってたとき読んでたよ。
誇張が過ぎた感じがあったけど
それなりに面白かったよ。 >>2
なんでもいいですよ。かいつまんで何か書いてください。ざっくばらんに
吉本隆明によれば、親鸞は原始仏教から中国、日本に伝わった浄土教を最後に結実させた世界的大思想家だそうです。
親鸞は、仏教の常識を悉く破っていった宗教者でした。肉食妻帯をして、修行をして解脱することさへ否定し、
ただ言葉(南無阿弥陀仏)でもって救いを乞う念仏を提唱しました。
そういった仏教の常識から逸脱していながら、理論的で思想的な体系みたいものも残っています。
僕も歎異鈔をかいつまんで時々書いていきますんでよろしくお願いします 歎異鈔第九條
唯円「私どうも念仏を唱えてはいますものの、それに対して跳び上がって歓喜することもなければ、浄土へ
まいりたいと言う憧れも起きません」
親鸞「実を言うと、この俺もなんだよ。俺もそれで悩んでいるんだよ」
唯円 よくよく考えみると、喜ぶ心が起こるってことは、もう悟りに至った状態なんだよな。この喜ばない身である自分には
煩悩があって、これで自分の浅ましさがはっきり見せつけられる。
こんな凡夫である私をも救ってくださる弥陀の悲願は、いよいよ手強いお慈悲がたよりになる
また、浄土にまいりたいと憧れる心が起きなくて病気患いで死ぬのも心細いと思うのも煩悩の所為である。
久遠の昔から今日まで生まれ変わって迷ってきたこの娑婆は悩ましい場所ではあるけど
いわば私たちの故郷であらやるから容易に捨てられない執着がある。
生まれた所でない浄土は安楽なところであると聞いても楽しく思えないのだ。
こういう浅まし身であるけれど間違いなく浄土にまいらせてくださるのはありがたい。
また、いそいで浄土にまいりたくないとする私にも憐れをかけてくださる。
これにつけても、いよいよ大慈悲大願をたのしみにして往生は間違いないと思い知られることである。 念仏を唱えれば救われるというのは堕落でしょうか?
ただ念仏さへ唱えれば誰でも救われる
↑
非常に簡単な論理。民衆を堕落させる論理。ただ唱えていればいいだけ
↑
仏教の常識からすれば逸脱している。仏教の常識は修行をして解脱に至る(聖道門)=自力作善
↑
しかし凡夫はいくら修行を積んでも救われない。救われる人は修行を完成した人だけ
↑
解脱できるのは才能あるお坊さんだけ
↑
全員が浄土にいくためにはただ念仏を唱えればいい(浄土門)=他力本願
浄土宗
◯浄土門 ×聖道門 第四條
聖道門即ち聖者相手の救いで言うところの慈悲は、この世に於いて自分の力量であらゆるものをあわれみ、
いとおしくおもうて、守り育ててゆくこころ持ちである。
けれども、思いのとおりたすけおおせることは極めて稀である。
(略)
聖道門のように聖者は万人に慈悲を持てるか。
↑
人によって助けたい。助けなくてもよいと言う心が湧き出てくる。
↑
人は縁によって、愛着がでたり愛着がわかなかったりする。自力で万人に慈悲を持って対応することは不可能
↑
他力本願・念仏を唱える。ひたすら阿弥陀仏に誓願を唱える。
↑
第五條
凡そ、この念仏が自分の力でつくりあげる善根ででもあるのなら、
それそこ自分が念仏を唱えた功徳をさしむけて自分と縁の深い父母をたすけてあげるだろうが
自分でつくりあげる念仏ではないのであるから、そんなことは道理の通らないことである。
ただ自分ははからいをなげすてて、往生すると同時に悟りを開く身になりさえすれば、
六道四生という迷いの境界にさまよいながら、どんな苦痛な果報に沈んでいるものでも、神通自在の手段を
つくしても、まず縁の深い父母兄弟を手始めに、すべてのものを済度することができると、親鸞聖人は仰せられた 第六條
本来、この世における離合集散はすべて深い因縁が絡みついているのであるから、
師弟の関係といっても勝手に決められるものではない。つかねばならない縁があれば
連れだってゆけもしようし、離れなければならない縁があれば別れることもあろうに、
それにもかかわらず、これまでの師匠にそむいて他の人について念仏するようなものは、
往生ができないなどと脅かすのは言語道断である。
そんなことをいうものは、仏から直々にお与えくださった信心を、いかにも自分が興えたもののような
顔をして取り返そうというつもりでいるのであろうか。そんなことは断じてあるべき筈のものではない。 いったい、師弟の関係はそんなことで結ばれるものではない。
自然(じねん)のことわり即ち本願の思し召にかのようになれば、おのずと仏の御恩もらわかるようになり、
ひいては師匠の御恩もわかるようになるものであると、聖人は仰せられた
第八條
念仏はこれを唱えるわれわれ行者の側から言えば非行非善である。
自分のはからいで修行するものではないから非行といい、自分のはからいでつくりあげる善根でもないのであるから非善というのである。
この念仏は全く仏力のあらわれであって、凡夫の自力を離れたものであるから、
行者にとってみれば、自分の行ともいえず、自分の善ともいえないのであると、聖人は仰せられた。 ここまで書いてきて、ピンときた人もいるかもしれませんが親鸞は肉食妻帯をしています。修行もやめ凡夫として生きてきました。
自分で自分を愚禿親鸞と言っています。
親鸞は浄土教を神聖なものではない、自分の位を凡夫にまで下げてものを言っています。
宗教に必要な聖なる要素をわざわざ剥いでしまい、そういったものにありがちな万人に対する慈悲さへも否定しています。
そして、人間の自然(じねん)を重んじているのです。あるがままの自分である人間が救われることを説いています
第十條
念仏は左右のはからいさしはさまずに、ただ素直によろこぶがよい。
はからわないのが一番よいはからいである。あらゆるはからいをはなれて、
仏のおはからいにおまかせした心持ちである。言葉で褒めたたえすることも、説明することも、また心で思いはかることもでいない心持ちであると聖人は仰せられた 吉本隆明が「親鸞の転換」で言っていますが、親鸞の真に言いたいことを説明すると
どうしても面白くなくなってしまうといっていました。確かにすごいなあ、面白いこといってるなあ、大思想家だなあとわかるんだけど、
それを言葉にしてしまうと我ながら面白くないこといってるなあと感じるそうです。
親鸞の思想は非常に深いと共に我々ひとりひとりに理解を施した後、それを説明させないマジックがあるのです 親鸞は、法然の教えを実行に移した僧であり、念仏(他力本願)は日本に於いて、覚鑁(真言宗新義派の開祖)の
影響が非常に大きいと思う。法然は1201年に高野山に入山し、90日間の修行を行っている。 覚鑁についてはわかりません。新義派真言宗が親鸞の思想に関係してるということですか?
インターネットで覚鑁について調べると、真言宗に浄土教の思想を取り入れたとか。
簡単に見たところ大日如来と阿弥陀如来は一体であるというのは親鸞も近いこと言ってたような?言ってなかったかな?
どういう系譜になってるのか非常に興味深いですね。 日本仏教の系譜
奈良仏教
法相宗 律宗 華厳宗 三論宗 倶舎宗 成実宗(三論、倶舎、成実は後に法相宗に組み込まれる)
〜平安時代
天台宗 真言宗
鎌倉に起こった新仏教
臨済宗-曹洞宗
浄土宗-浄土真宗
時宗
融通念仏宗
日蓮宗
江戸に中国から来た仏教
黄檗宗(禅宗) 如来部
釈迦如来
薬師如来
阿弥陀如来
5智如来
大日如来
阿閦如来
宝生如来
不空成就如来
観自在王如来
胎蔵界5仏
普賢王如来
多宝如来
毘盧遮那如来
観自在王如来
定光如来
過去7仏
毘婆尸仏
尸棄仏
毘舎浮仏
倶留孫仏
倶那含牟尼仏
迦葉仏
釈迦仏
天王如来(提婆達多の未来での成仏する時の号)
大通智勝如来 梅原猛が新刊書を出したとか。
そこでの問題点として、下向、上向の問題点を挙げたとか。還相の問題とか。 還相回向というのは、阿弥陀如来の浄土に往生して、止観行を成就し教化する力を獲得し、生死の世界、
つまりこの世に還り来たって、すべての衆生を教化して、一緒に仏道に向かわせようとする力を、
阿弥陀如来から与えられること。 ズバリ言うと宗教家というのは
単に言語を駆使するのに長けた頭脳家なだけなんだよ。
要するに、脳のキャパがとてつもなく深い。
他の脳の関連性のなかでの中枢神経脳に
なるほど、デカいだけ。それだけのこと。 親鸞は自己が悪人であることを悟って、還相して、悪人を救うことになる。
だがそこで、阿弥陀仏をもってくることが問題となる。
その持って来た方法が問題となる。なんでか。
それを礼拝の対象とすることが問題となる。
礼拝とか、お題目を唱えるのは宗教ではない。それは儀礼である。道徳である。 浄土三部経
三部経に説かれていること
浄土三部経(じょうどさんぶきょう)
浄土宗の教えのよりどころとする経典は「浄土三部経」と言って、一切経の中から、『無量寿経』二巻、『観無量寿経』一巻、『阿弥陀経』一巻の三典を法然上人が選ばれました。
『阿弥陀経』 毎日のおつとめ『阿弥陀経』
極楽浄土はどういうところかということが説かれています。
それは西方十万億土の彼方にあり、六万の諸仏が念仏の教えの正しいことを証明し、
いま現に阿弥陀仏が説法されており、その行者をまもると説かれています。
また、その国をなぜ極楽というかといえば、その国の人びとにはなんの苦悩もなく、ただ楽だけを受けるからであると説かれています。
『観無量寿経』
釈尊時代の王舎城の妃(きさき)であった韋提希夫人(いだいけぶにん) を対象として極楽浄土に往生する方途が詳説されています。
『無量寿経』
阿弥陀仏の修行時代の衆生救済の本願(ねがい)とそのねがいが成就してからの御利益がのべられています。
← 戻る次へ → おい、123おまえ時々いい加減なこといいすぎだ。
時々目にするが目に余る 親鸞上人はそれまで会員制の宗教であった仏教を誰でも歓迎の大衆仏教に変えた功労者として評価出来ると思います。 念仏⇦お手軽仏教⇦民衆来たるという簡単な図式を持つやつは馬鹿だ
×念仏⇦お手軽
◯念仏⇦他力
という図式を持たないと親鸞をわかっているとは言えない。
では他力とは何かという疑問は出てくるが、それは歎異鈔を読むべきだ 親鸞ってすごいいい人だったと思うよw
宗教どうのこうの別にしてな。
浄土真宗とか築地本願寺とか笑える。
坊主は剃髪してないし、寺なんだけどインド様式で
変わってる建築、パイプオルガンとかありやんのw
なんだかんだで日本の仏教で
釈迦が説いた原始仏教の世界観に一番近いと思う。 そもそも釈迦は
般若心経のようなことは一切言ってない。
むしろ逆なんだわな。
じゃあ般若心経が真理、本質を突いてないかといえば
これは別の話だけど。
現代の人間は死体を見慣れていない。
しかし、親鸞の時代や戦国時代や飢饉の時代は死体が朽ち果てる姿を
見るのはありふれた光景。
この世に真実なぞありはしないと死後の来世に想いを託そうとする
人々に「色即是空、この世は虚仮だから、」と言えば
たちまち、苦しみを共有する民衆に伝播していくであろうね。 般若心経どころか仏陀釈迦牟尼の著作さんてどこにもない。全部弟子たちが思い出して書いてる。
それから般若心経は、釈迦牟尼の説いた教えではなく観自在菩薩が説話のなかで説いている 法然房源空と親鸞はまたちょっと微妙に違うんだけど、お手軽仏教を提唱すればみんな安心する。だから念仏唱えればみんな浄土にいくみたいな
こと言ったと思われがちだが、実際は源空も親鸞も若い頃、比叡山で仏教の体系を学び
修行もちゃんとしている。ちゃんとした仏教体系のなかで浄土教を完成させている。そこらへんを忘れてはいけない。
ただ、時代は人がすぐ死ぬような時代。飢饉や侍のいくさや疫病など、民衆の苦しみとはいかばかりか
そんななかで源空は「ただ、唱えれば救われる」ことを民衆に説いた。親鸞の他力本願はまたちょっとお手軽仏教とは違う 親鸞は比叡山で修行して、そこから環相して、衆生済度となる。
その場合に他力本願にしたことが問題となる。
その原因。
他力=自力であることを認識できなかったからである。 他力=自力てなんだ?
自力は他力ではない。自力作善は聖道門に、他力本願は浄土門に起因する。
歴とした区別がある。 他力=自力か。
親鸞は自力を否定する。
されば他力だけとなる。
それでは否定されたところの自力はどこに行ってしまうのか。
彼らは、そこを説明しない。
説明できる人に花を持たせよう。終わり。 真言宗の金剛界曼荼羅は、大日如来を中心として阿閦如来(東方)、宝生如来(南方)、
阿弥陀如来(西方)、不空成就如来(北方)が配置されている。
真言宗に於いて、同じ“御神体”として「不動明王」は、「大日如来」の別の姿として“権限”する。
宇宙の根源にある「一つのもの=存在の本質」が、種々顕現(四つの如来)の仕方をする、これが真言宗の哲理であり、
大日如来と阿弥陀如来とは根源に於いて、同じ「宇宙の根源」であるという哲理から、真言宗と浄土教を“総合”したのが、
平安後期の覚鑁(興教大師)である。
この真言宗の「宇宙の根源は、一つのもの」という究極の哲理から導き出されるのが、“他力=自力”とういう真理である。 >>37
へえ、阿弥陀如来と大日如来は「宇宙の摂理」として根源的には一つのものだということは聞いたことがある。
空海も言ってなかった?あとは不動明王は大日如来の化身であるというのも真言宗の摂理なんだ。
うちの近くに真言宗藤枝成田山がある。千葉の成田山新勝寺の分寺がなんだが、そこは智山派らしいが強い霊性を感じるんだよね。大日如来がご本尊様で
入り口に不動明王がいて降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の銅像が配置してある。
加持祈祷も中でやっていて並々ならぬ雰囲気がある。
真宗との接点があるとは初耳だが、、、 空海が言っているかどうかは解らないが、両界曼荼羅の哲理から、導き出されるのは、
宇宙の根源は「一つのもの」であり、空海の「即身成仏義」も、宇宙の根源が「一つのもの」という
哲理から、究極に於いて心(=精神)と身体(=物質)は融合した一体のものであるということを述べている。 わしも金剛界曼荼羅と大悲胎蔵曼荼羅の配置された如来部、菩薩部、5大明王、天の宇宙は壮大だと思う。
毘盧遮那如来=大日如来、弥勒菩薩、虚空蔵菩薩、不動明王、軍荼利明王、帝釈天、毘沙門天てなまえかっこいい c点論者
大日如来=c点=華厳経宇宙=両かい曼荼羅世界
この世は「大日如来の自作自演」である。科学的
真理では無くて、「本質論の世界」で信ずる者のみ
に真理と言う事です。 大日如来とか阿弥陀仏とかに、どう対峙するかの問題である。
他力本願になるか、否かの問題である。 空海の思想は、大日如来と阿弥陀如来が対峙(=相対)するのでは無く、
宇宙の根源は「一つのもの」と言う哲理から、パ−スペクテイブ(遠近法的)として
捉えられる。別な言い方をすると、「一つのもの」が種々の「表情」をするということであり、
存在の本質(=宇宙の根源)は不動である。 49.
宇宙の根源を問題にするのは存在の問題である。
だが、それは存在の問題ではないことになる。
だからして、存在と対峙すれば、他力本願となる。
よって大日如来に他力本願となるのか、否か。そこが問題となる。 親鸞は正直な人間だ。
唯円が「浄土に行くのに飛び上がって喜ぶ感情が湧いて来ないんですけど、どうしてでしょう?」と尋ねた時
親鸞は「自分もそうだ」と言った。浄土に行くとなるといよいよ悟りに近づいているということで、そういった
喜びの感情が湧いて来ないということは我々凡夫にはまだ遠いということだ。しかし、阿弥陀仏はそれを確約して
くれいているということで心強いではないかといっている。 51.
それは浄土が他人事になっているからである。
それは阿弥陀仏の仕事になっているからである。
よってして無責任であることになる。
それが他人事、他力本願であることになる。 他人に甘えるのと利用するのは似て非なる事柄だ。他力と自力は矛盾しない。 >>49 :考える名無しさん:2015/03/10(火)
>存在の本質(=宇宙の根源)は不動である。
え〜〜〜ほんとですか
五蘊皆空じゃあないの? かって残虐民であった日本鬼畜人よ
おまえらは他国の者にも残虐な行為を
するばかりか
同国の民にも戦争時酷いことを
しまくっている
(戦争時、二等兵だった者に聞け)
それが日本人が基本的に持っている
残虐イズム
鬼畜人たる非人間の
日本人は全員死ねばいい
優しさもない人間でもない物は
この世にはいらないのだ
地球が嘆き悲しむわ 仏教的に不動って表現は馴染まないね
諸行無常とも言うし
全てが一つに繋がっている、もしくは一体と不動は違う気が
おじいちゃんは嫌いだけど また一つのものの表情の違いって
多元宇宙論のファセットやキリスト教のトリニティですよね どうしようもないことへの絶望と諦め
コレね……はあ、なむまいだふう…… >>55
「空」の意味をどう解釈しているのでしょうか? >>61 :考える名無しさん:2015/04/28(火)
>「空」の意味をどう解釈しているのでしょうか?
般若心経に於いては「空」は存在しているように見えるものもその本質は空性である、つまり不動(絶対的存在性=実在)ではないと言うこと。
>>存在の本質(=宇宙の根源)は不動である。
これは少なくとも大乗仏教では間違い。 色即是空、空即是色
つまり不動明王は現世に実在する神様なんですよ
過去においてはイエスやムハンマドがそれに当たるんです
彼らの教えが戦争好きなのは戦火によって強情な衆生を焼き払って教化するためだったのです
じいさんの教えをみんなありがたく頂戴してね ちび・デブ・ハゲ・包茎・ワキガ・足が・多汗臭・口臭・放屁過多・鼻炎臭…さらにはブサイク・性格異常コミ障……
こんな多重障害者はもう世を親を神を恨み呪うしかないだね
ああ、お聖人様、俺の人生っていったい…… 尊師もひょっとしたら不動明王の生まれ変わり、、、
じゃないな
恐らく現代においてはパパブッシュやマオさんこそが不動明王 飛脚用の麦とろのことだと思った
マカロニサラダとお味噌汁付き イキオクレのクズ婆が世間に受け入れられていることになっているのが不思議
独身男性のイメージを貶めようと必死に突っかかってるしおそらく精神病だな マジで世襲坊主の銭ゲバ感は凄まじい
仏教こそ宗教法人を廃止して民営化して税金を搾り取るべき
墓なんて廃止して共同の石碑に名前刻むだけにすればいいんだよ >>62
大乗仏教では「空」の意味をどのように捉えているのでしょうか? 内面を高めるために律を守り苦行をすることを否定したんだよね。
戒律を守り苦行をするという仏教観は奈良仏教や禅宗、天台宗、真言宗、日蓮宗、融通念仏宗のすべての宗派に浸透している。
それらの意味を無効化した理由は他力本願にある。他力本願の他力は力んで自力を実践するより、
あるがままの自分とは何かという問いかけを仏教界に呈しているらしい。
あるがままの自分とは他力であり、他力を乞い願うことは意識の自然性を見つめ直すことにある。 罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき
『正像末和讃』悲歎述懐 こんにちは。
きょうぎゅーしんしょーの核心はなんぞ? 仏教について自分自身のイメージはあるけれど、しの仏教は野狐禅になる。
仏教解釈の殆どは、中村元さんの書いたものから抽出したものだし、経典をたくさん読んでいる訳ではない。
経・論・律という三蔵の内、内容を知っているものは少ない。
漢訳の経典を実際に読んでいる数はもっと少ない。
龍樹の論理もあまりわかっていない。龍樹の空論については中村元「大乗教典」の訳してあるものをよんだが、よくわからなかった。
浄土真宗の「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」についても内容の要約を読んだくらい
「法華経」「華厳経」なども然り。まあはっきり言うと仏教とは観念論なのではないかという疑い。
教えを忠実に守っているさんが僧伽には悪いが。例えば六波羅蜜。 六波羅蜜(仏教には階層があり、最上位は仏・如来・阿羅漢・世間解など。
その下に位置するのが菩薩になる。菩薩は仏の位に上り詰めるまでに修行が必要。
この菩薩に必要な心得が六波羅蜜である。ちなみに菩薩のなかで最も仏に近いのが弥勒菩薩(マートレーヤ)であり、
56億7000万年後に弥勒仏として地球に降臨するらしい)
六波羅蜜
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の6つ
この六波羅蜜に2005年に強い感銘を受けたしはそれぞれの波羅蜜の心得を胸に抱いて生きる決意をした。
しかし例えば禅定一つとっても僧伽の解釈はバラバラで一体誰が六波羅蜜の本質を知るのだろうか? そんでいろんな釈迦牟尼仏の教えがあるが、その教えの根本のところで迷いがある。
そう考えていくと、やはり人間には西洋哲学のコギトエルゴスムという考え方が非常に理にかなっているのではないか?
仏教の教えの根本は解釈が多いので、その本質は見えにくい 他力本願ですよ
阿弥陀様が救ってくださるのだから無理に悟る必要はないよ
本願ぼこりも気にする必要はない
プロテスタントでは成功者は徳が高いから成功するって合理的に考えてるしな
成功だけを願って欲望のままに生きていこう 日本仏教のなかで私が1番好きなのが親鸞。
仏教のなかで疑問に思っているのが律(戒律)についてなんだな。
そういった意味で親鸞の思想は最も納得のいくところ。
だから仏教からは一歩引いた見方をしているのがし 親鸞の思想といっても教行信証よりも歎異抄から取ってきたものを親鸞の思想として見ている。
歎異抄は梅原猛のを愛読している。本当におもしろい。親鸞の人間としての刹那さとか迷いみたいのが垣間見られる。
親鸞についてはまあイメージできる(わかってないけど)けど、蓮如についてはまったくわからない。
五木寛之の本でちょい知ってるくらい。蓮如のことはもっと勉強せねば 浄土真宗の宗祖は親鸞上人であり、
浄土真宗の経典は「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の3経典になる。
日蓮宗の経典は紛れもなく「法華経」であるが、
もうひとつ日本仏教のひとつ融通念仏宗がその折衷になっていて、
華厳経』・『法華経』を正依とし、『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の
「浄土三部経」を傍依として、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という立場から、
口称の念仏で浄土に生まれると説く。(wikiより) 中村元編「大乗仏教」
目次
維摩経 中村元元訳
法華経 紀野一義訳
勝鬘経 高崎直道訳
華厳経 玉城康四訳
阿弥陀経 早島鏡正訳
大無量寿経 早島鏡正訳
般若波羅蜜多心経 平川彰訳
八千頁よりなる般若波羅蜜経 平川彰訳
中論の頁 平川彰訳
大乗起信論 柏木弘雄訳
理趣経 金岡秀友訳
ダラニ宗 金岡秀友訳 今日NHK「こころの時代・宗教」で「仏陀最期の旅ー第2回」やります。
仏陀の晩年の話である「大パーリニッバーナ経」を下じきにしてやります! 新スレが 建ちましたぁ〜♪
坐禅と見性第109章そもさん!熱波!天変地異か。 [無断転載禁止]©2ch.net
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1463212499/ 20世紀最大の哲学者と言われるドイツのハイデガーは
晩年の日記にこう記しています。
今日、英訳を通じてはじめて
東洋の聖者親鸞の歎異抄を読んだ。
『弥陀の五劫思惟の願を案ずるに
ひとえに親鸞一人がためなりけり』
とは、何んと透徹した態度だろう。
もし十年前にこんな素晴らしい聖者が
東洋にあったことを知ったら、
自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び聖者の話しを聞いて、
世界中に拡めることを生きがいにしたであろう。」
( 『中外日報』昭和38年8月6日) ■与えるときこそ、感謝しろ!
1)老子の無為自然
・自然
牧歌的農民を理想とする
初期マルクスでも類的存在あったが、理想主義として批判される。
解決としては、物象化論、すなわち変化し続けること。荘子の無限はこれに近いかもしれない。
・無為
有を否定する無。孔子へのアンチテーゼの意味が強く、無という有になる。
ニーチェ的なニヒリズム陥る。
2)老荘を乗り越える空観とは?
・空観
有無の向こうにあるのは、縁起、関係性である。
これだけでは、老荘から大きく進んだとはいえないかもしれない。
その実践としての慈悲にある。慈悲において、空観に至る。
日本人では、無為自然の思想は、きっかけとしては重要であった。
自らの世界を否定すること、そしてそこから理想主義や、ニヒリズムち陥らないように、
慈悲に繋がった。慈悲というわかりやすい実践において、日本人の空観は成熟することができた。 3)親鸞
親鸞は、人の慈悲なんてくだらないことをせずに、阿弥陀仏に祈り、大慈悲にすがれ、といった。ここにあるのうまい逆説である。
悪人正機にしろ、親鸞はレトリックの天才だ。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」
大慈悲にすがるぐらい信じるとき、小さな自らを捨てる。そこから慈悲が立ち上がってくる。
現に浄土真宗徒は実践において、慈悲を重視する。
4)与えるときこそ、感謝しろ
慈悲とは、弱者救済ではない。弱者に与えることで、弱者に与えていただけると感謝すること。ここに空観は開かれる。
ボクは高給取りなんでたくさんの税金を払っている。
それが、無職のおじさんの障害者年金として支払われるわけだ。
ここを荒らして、ボクのストーカーをしているにも関わらずだ。あのクズ人間に。
それでも、無職のおじさんに、ボクなんかのお金をもらってくれてありがとうございますと、感謝する。
これが慈悲だよ。
心からこれが言えたら、ほんと悟りの境地だよな(笑)
>>
無償贈与の美学
1)世界的に集団では一般的
名誉を守る(名を惜しむ) 、ポトラッチ
2)世界的な美談の領域
死を捧げる。儒教(忠義)
3)僧侶、日本人の美学の領域。
相手に負債を与えないよう配慮する。日本人の世間の倫理。仏教(空観、慈悲)
4)神の領域
ただ与える。仏の大慈悲
<< 有無を乗り越えるという空観は慈悲なのか?
波平の論理はどうも曖昧なんだよ。
その根本のところがよくわからない。
2)老荘を乗り越える空観とは?
>・空観
有無の向こうにあるのは、縁起、関係性である。
これだけでは、老荘から大きく進んだとはいえないかもしれない。
その実践としての慈悲にある。慈悲において、空観に至る。
まあ理解できんことはないか
有無の向こうにある縁起、関係性←ここはよくわからない。
慈悲において空観に至る←ここはまあイメージできる。
イメージはできるが、日本人は確かに慈悲によって空観に至るところがあるのかもしれない。
しかし親鸞のいうところの他力は慈悲たり得るか?
歎異抄にある聖道門と浄土門について。
聖道門は自力であり、慈悲ではないか?
浄土門は他力である。
浄土真宗は日本で1番檀家の多い宗教であり、
親鸞から蓮如の系譜は否応なく、日本人の宗教観、仏教観、文化、価値、こころに影響を与えている。
果たして他力の思想のなかに
慈悲→空観→他力の系譜があるのか? 俗な言い方だが、浄土真宗よりも禅宗に慈悲により空観が生ずる、その意味があるのかもしれない。
禅宗の禅とは波羅蜜の禅定波羅蜜のことだろ?
つまり心をひとつに合わせる的な意味。
それにより空観に至るというダルマの思想かある。
慈悲は浄土真宗の他力のなかにあるのか?
慈悲は禅宗の空観のなかにあるのか←恐らくある まあ正直な話、空観や空論について、どの本を読んでもあまりよくわからない。
ナーガールジュナの「中論」もよくわからない。
わかる人がいれば「中論」の論旨を触りだけでも説明してほしい。 >>108
>>
中村元選集 空の論理
さて、ナーガールジュナによると、
「縁起を観ずることが法を観ずることであり、それがそのまま仏を観ずることである」(中論)
世の中のありとあらゆるものは、因縁によってつくり出されたものである。
ひとつの原因がつくり出したものでもないし、だれかが恣意的に欲するままにつくり出したものでもない。
無数に多くの因縁が集まってこうしてつくり出されたのである。
その理を<縁起>というが、それを観ずることが、すなわち仏を観るゆえんである。
・・・ひとつの実体があって、それがいつまでも続いているものではなく、因縁によってつくり出されたもので、
また、因縁がされば消えるということ、それが空なのである。
つまり、縁起ということと空ということとが、記するところは同じ趣意なのである。
以上のような「中論」の思想は、その後の大乗仏教の思想の発達のための出発点となった。P11-12
大乗仏教の思想体系の理論的建設者であるナーガールジュナは、慈悲に三種類あることを認め、
無縁の慈悲の究極者的性格を明らかにしていう。・・・
おそらく現実の社会において、多くの個人と個人とが対立している場面を意識しつつ慈悲を及ぼすことが「衆生を縁とする慈悲」であり、
個人存在あるいはそれと関連ある諸種の物を個別的な要素に分析して、それらは独立な実体ではないと思って、
執著を去って他人になんらかの物を与えて奉仕すること、すなわち小乗仏教における慈悲行が「法を縁とする慈悲」であり、
諸法実相である空(=如来)を観じて行う慈悲が「無縁の慈悲」なのであろう。P488-491
<< 確かに、空の説明と、老荘の無の思想を混同してる本が多いね。
ともに有無の向こう、という意味では同じなんだが、
その先にあるものが違う。
老荘は、無為自然
空は縁起
確かに中国仏教、特に禅と浄土は二つを融合する面がある。
でもここでキーワードになるのが慈悲。
老荘には慈悲はないが、空では慈悲が中心概念。
ナーガールジュナ「慈悲心があるからこそ、さとり(空観)が得られるのだ。」 今手元にはないが、中村元「大乗仏教」の中論の公頁で読んだが、かなり読みにくかった印象
>>「縁起を観ずることが法を観ずることであり、それがそのまま仏を観ずることである」(中論)
この部分は山口益「仏教思想入門」に具体的に仏陀になった釈迦牟尼の悟った具体的意味のところで、
ここでいうところの縁起の説明に合致していた。
「衆生を縁とする慈悲」
「法を縁とする慈悲」(小乗)
「無縁の慈悲」 諸法実相である空(=如来)を観じて行う慈悲
については勉強不足で初めて見聞き知った。 空観とは縁起であるとするならば、
いろいろな要素が幾重にも重なりあって、縁起が生じている。
そしてそのたくさんの因果のなかにいるわれわれは、感覚を持って空観を悟るしかない。
まあすぐに思い浮かぶのが華厳思想と法華経の方便品だな。
感覚とか直観の霊的統合能力の高次の段階が悟りだとすると合点がゆく 波平は自分語りをするスレを一本に絞れよ。「空観」とか独自解釈すぎて親鸞の一般論にそぐわない。 「衆生を縁とする慈悲」
「法を縁とする慈悲」(小乗)
「無縁の慈悲」 諸法実相である空(=如来)を観じて行う慈悲
3番目の「無縁の慈悲」についてはかなり説明を要するものだと推測する
@無償の愛を与え続ける慈悲ではなく、
A円滑に絡まった糸を解くための慈悲でもなく、
Bでは諸法実相である空(=如来)を観じて行う慈悲とは何なのかということになる?
@の慈悲には無理がある
Aの慈悲には円滑であるが、機械的だとさへ言える
ではBの慈悲とは何か?
たぶん仏教でいうところでない愛(執着ではない)があるかないかのところの慈悲ではないだろうか 多聞第一のアーナンダ
智慧第一のシャーリプトラ
解空第一の須菩提
に聞いてみたい。悟りとは何か?空とは何か?
幾重にも重なりあって影響しあっている縁起を高次の感覚で悟るとは? いろいろと説明がいるな
これから仕事で時間がとれないが・・・
>「衆生を縁とする慈悲」
>「法を縁とする慈悲」(小乗)
>「無縁の慈悲」 諸法実相である空(=如来)を観じて行う慈悲
>については勉強不足で初めて見聞き知った。
この階層は重要。
小乗仏教と大乗仏教の歴史的対立が隠されている。
大乗仏教は、なんとしても小乗仏教を乗り越えなければならなかった。
小乗が法が実有であるということに対して、
法さえもない、と言わなければならなかった。
そこで龍樹が考えたのが、縁起。
>>
伝統的保守的仏教(小乗仏教)
法の自性が実有である 説一切有部(せついっさいうぶ)
大乗仏教
諸法の無自性、空、もろもろの事物は、互いに条件付けられ、相互依存して成立しているもの、
すなわち縁起しているものである。法の自体なるものは実在しない。すなわち「無自性」である。
縁起即無我。
<< 仏教の目標、無我とはなにか、と考えた場合に
>>
伝統的保守的仏教(小乗仏教)
法の自性が実有である 説一切有部(せついっさいうぶ)
大乗仏教
諸法の無自性、空、もろもろの事物は、互いに条件付けられ、相互依存して成立しているもの、
すなわち縁起しているものである。法の自体なるものは実在しない。すなわち「無自性」である。
縁起即無我。
<< ナーガールジュナ 「慈悲心があるからこそ、悟り(空観)が得られるのだ。」 大乗仏教が、小乗仏教を乗り越えるために、法さえの放棄したとき、
混沌に陥らないために、残ったのが、縁起即無我=空観
そしてこの縁起即無我=空観を、説明するために、重要であるのが、慈悲。
ナーガールジュナ 「慈悲心があるからこそ、悟り(空観)が得られるのだ。」
では、慈悲とはなのか。
>>
後代の仏教においては、他人に対する奉仕に関して「三輪清浄」ということを強調する。
奉仕する主体(能施)と奉仕を受ける客体(所施)と奉仕の手段となるもの(施物)と、
この三者はともに空であらねばならぬ。とどこおりがあってはならぬ。
もしも「おれがあの人にこのことをしてやったんだ」という思いがあるならば、それは慈悲心よりでたものではない。
真実の慈悲はかかる思いを捨てなければならぬ。かくしてこそ奉仕の精神が純粋清浄となるのである。P129
慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220
<< 贈与とはなにか、と考える必要がある。
贈与は、人類の基本的特性。
贈与とは、
・自分に身近は人に多くを与える
・受けた相手は負債をおい、返礼を求める。
・贈与返礼の信頼の小さな共同体を作りだす、基本的な力学。
これに対して、慈悲は、三輪清浄
・自分の身近ではない人に多くを与える
・受けた相手に負債を与えず、返礼を求めない。
・小さな共同体を作らない。
生きとし生けるものに開かれる。
財産をもっているとする、
普通は子供などの身近なものへ与えたい
しかし無我の実践としての慈悲では、
身近ではない見ず知らずの人に与える。
見ず知らずの受け取る者は、見ず知らずの人にいきなり多くを与えられたらびびる。
ただほど高いものはない。
だから受ける者が負債を受けないように、与える。
これが完全にできれば、仏の大慈悲=「無縁の慈悲」なので、
人は少しでも、達するようにまず「衆生を縁とする慈悲」から頑張る。
衆生を縁とする=現世の自分と身近な人々との関係
無縁=身近な縁を超えた、生きとし生きるものすべてに等しい関係性=縁起 無縁の慈悲が行えたとき、仏となし、空観に達したことになる。
ナーガールジュナ 「慈悲心があるからこそ、悟り(空観)が得られるのだ。」 >そしてそのたくさんの因果のなかにいるわれわれは、感覚を持って空観を悟るしかない。
空観を理解できないなんて、仏教の基本。
空観=悟りとは、原理的には世界はすべて繋がりあってできているということ。
我と他我、生と死、有と無は、言葉でしかなく、
そんな区分はない。
これを理解しても、無縁の慈悲はできない。
誰かに何かを与えたとき、与えてやったという与えたものへの優越感が生まれることは避けられない。
受けた者に負債を感じさせることは避けられない。
そこに達すには修行がある。
どうやるかは知らんが
まあ、庶民レベルでは頑張って衆生の慈悲からこつことやりさない、ということか。
で、ここから親鸞の歎異抄理解に繋がる 親鸞はレトリックの天才なんだけど、
歎異抄で言いたいのは、
庶民ごときが慈悲してるって偉そうにいうなよ
たかだか衆生の慈悲だろう。
他人のためになにかしたから、
自分は極楽に行きたいって、自分のことだけ考えてるんだろう。
な、ものは慈悲でもなんでもないんだよ、あほ。
善人ぶりやがって、お前ごときが考える善人、悪人なんて、どーでもいいんだよ、カス。
ホントの慈悲は無縁の慈悲と言ってだな……
まあ、おまえらみたいなアホに言ってもわからんか、
おまえらみたいなもんができるのは、なにも考えず、ただ念仏唱えてる事ぐらいなんだよ!
調子のんなよ!
アホが! 実際、親鸞以前に庶民が考える慈悲は、
極楽に行くための、慈悲ポイントみたいなもので、
金持ちなら年とって出家して寺建て
貧乏なら売られてるカメを買って海に放してやるとか、
とにかく慈悲ポイントをためて極楽に行くゲームだった。 自分を滅することから始めるために、
自力なんか捨てて、他力にすがる。
無心に念仏する。
ここから始める。
すると、そのうちおのずと、真の慈悲が生まれてする。 禅宗は、もっとも老荘の影響が大きくて、
目指す無我が空=縁起よりも、
老荘の無為自然に近い。
だから慈悲を重視するしない。
自然にこもり、座り続けるる。 念仏唱えれば極楽いけると言われてもね
単に強欲坊主に我慢できなかった親鸞のエゴ全開の宗教改革でしょう? >>
この荘子の残した課題をとりあげ、その解決にあたったのは、道家の後継者よりも、むしろ仏教の禅宗であり、浄土教であったといってよい。
禅と浄土は、中国仏教のうちでも特に中国的な色彩の強い仏教だといわれている。
それは宋元明清の時代に残った仏教が禅と浄土だけに限られているという、歴史的な事実によっても証明されている。
その場合、禅と浄土の「中国的」な要素とはなんであるのか。ひとくちでいえば、それは荘子の思想である。
禅と浄土は、インドの仏教に起源をもちながら、中国の荘子の哲学から深い影響を受けとった、いわば混血児の仏教である。
この禅と浄土が解決しようとしたのは、荘子が言い忘れた「いかにして万物斉同の境地を実現することができるか」という、方法論の問題であり、実践の問題であった。 禅宗の場合は、自然になるためには無数の不自然を積み重ねなければならないことに気づいた。
つまり自然の境地に達するためには、精進努力という不自然が必要だというのである。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)を仏法とし、坐禅を仏を行ずる道であるとするのは、この考え方のあらわれであろう。
しかし、このような自力の道に絶望するところに浄土教が生まれた。
人間の力は、しょせん微弱なものでしかない。その微弱な努力が、かえって自然境地に達することの妨げとなる。
弥陀(みだ)の常寂光土(じょうじゃっこうど)は――万物斉同の自然の境地は、ただそれへの思慕の念を強めることによってのみ得られる。
「自然は即ちこれ弥陀国なり」といった善導、自然法爾(じねんほうに)を説き「無上仏とまうすは、かたちもなくまします。
かたちもましまさぬゆえに自然とはまうすなり」「かたちもましまさぬようをしらせむとて、はじめて弥陀仏とまうすとぞききならひて候。
みだ仏は自然のようをしらせむれう(料)なり」と語った親鸞など、浄土教の極地を説いたものは、
そのまま荘子の道に通ずることをしめしている。P36-38
老荘と仏教 森三樹三郎 ISBN:4061596136
<< >>127
違います。
ここから日本人の真の空観理解が始まり、
現代人に至る覚醒が始まります。 空観における、慈悲の重要性を説明してる本は少ないんじゃないかな
いきなり空観について説明して、
老荘の無為自然と混乱している。
あとたちが悪いのが、空観を理解できると思っている。
悟りを理解するって、一番釈迦が禁じたことなのに。 >>
無償贈与の美学
1)世界的に集団では一般的
名誉を守る(名を惜しむ) 、ポトラッチ
2)世界的な美談の領域
死を捧げる。儒教(忠義)
3)僧侶、日本人の美学の領域。
相手に負債を与えないよう配慮する。日本人の世間の倫理。仏教(空観、慈悲)
4)神の領域
ただ与える。仏の大慈悲
<< >>
歎異抄第8章
念仏は、阿弥陀仏に救われて人生の目的を完成した人にとって、 行でもなければ善でもない。
阿弥陀仏に救われたならば、自分の力で後生の一大事助かろうと して称えるのではないから、私の行でもないし、私の善でもない。
ひとえに阿弥陀仏のお力で称えさせられる他力の念仏であって、 自力を離れているのだから、阿弥陀仏に救われた人にとっては、 行でも、善でもないのです、とおっしゃいました。
<< 他力本願とは、まず素人の間違った慈悲を捨てれるところ、自力を捨てさせるところにある。
そしてただ信じ、ただ念仏する。
ここから真の慈悲が始まる。
この展開は、老荘から来る楽観主義がある。
自然法に。
老荘の無為自然。
中国人、日本人のもつ道教的自然信仰が隠れている。
人間は余計な知識を持たずに、自然体でいれば、善に至る。
悪人も助かると言って、そうそう悪ができるわけがない。
「自然は即ちこれ弥陀国なり」善導
自然法爾(じねんほうに) 親鸞
「無上仏とまうすは、かたちもなくまします。
かたちもましまさぬゆえに自然とはまうすなり」
「かたちもましまさぬようをしらせむとて、はじめて弥陀仏とまうすとぞききならひて候。
みだ仏は自然のようをしらせむれう(料)なり」 現に、江戸時代前後から、日本人は空観への成熟を始める。
武士道、商人道、農民道など
儒教の影響を受けながらも、その根底にあるのは慈悲である。
すなわち、与えるときこそ、感謝しろ。
これは儒教からは決して生まれてこない。 鎌倉仏教以前に、僧侶でなくてもわかりやすい仏教本と言えば、
日本霊異記、往生要集があるが、
空観とはほど遠く、わかりやすい現世利益でかたる。
>>
ところが日本では地獄に関する絵画が非常に発達し、しかも残酷な場面が多い。
これは何故であろうか。
地獄は仏教の教義学によると、衆生のさまよう六道の一つにすぎない。また日
本仏教の根幹となったといっても過言ではない天台の教学によると、十の生存
領域(十界)の一つにすぎない。それなのになぜ地獄が特に問題とされるに至
ったのであろうか。
それは日本の宗教が、仏教、大乗仏教、さらにそのうちでも慈悲を特に強調す
るものであったからであると考えられる。
西洋における神は審きの神である。神を恐れるが故に悪事をしないのである。
ところが仏教の仏には審きがない。悪人をもなお慈しむ。仏が罰するというこ
とはない。
では悪人はいかに審かれるかというと、因果応報の理によるのである。悪い事
をすると悪い報いを受ける。極重悪人ははては地獄の責苦を受ける。悪いこと
をすると、こんな酷い責苦を受けるぞ、といって民衆を脅かしたのである。
それは他面では仏の慈悲を強調する所以でもあった。地獄でこんなひどい目に
遭うような悪事を行なったような人間でも、救われる道がただ一つある。それ
は仏の慈悲にすがることである。
この点は、西洋の場合と異なっている。西洋では神の審きによって地獄に堕ち
た人間は絶対救われない。これに関しては多少の異説もあるが、西洋人一般の
見解としてはこうであったと言っても差し支えないであろう。
ところが仏教によると、地獄の衆生でも救われるのである。P63-64
往生要集を読む 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062921979
<< 仏教が中国に伝わったときにまずウケたのが燐の輪廻転生。
現世を中心とする中国では、無念で死んだ人は行き場なく、怨霊になった。
輪廻転生は死んで終わりでなく、来世で報われる。
怨霊も成仏できる。
また報いを受けなかった悪人は来世で報いを受ける。
日本人も同じ現世重視だった。
ここで、現世で重視されたのが慈悲。
地獄と極楽、どちらに行くかは、現世でいかに慈悲ポイントをためたかによる、という安直な世界観が生まれる。
だから権力者は、高齢になると来世のために出家してお寺を建立した。
慈悲ポイントをためて、極楽に行けるよう。
鎌倉仏教以前は、日本の仏教はこんな世界だった。 親鸞は、こんな世界で、善人だ悪人だ、
自力だ、なんてちゃんちゃらおかしい。
もういままでのことは全部忘れてもらって、
ただ念仏を唱えろという。
少年野球ででちょっと成績がいいとか天狗になられても困る。
全部忘れて、とにかく無心にバットを振れ!みたいなことだろう。
ほんと不思議なんだが、なぜ一流のアスリートの動きは美しいんだろう。
無数の反復の中から無駄のない動きが生まれて、
それが美しいのか
イチローのスイングとか神懸かっている。
なにも考えず信じて、念仏を唱え続ければ、
自然と正しいが浮かぶ上がってくる。
ここに、自然信仰、原始道教からくる、中国人的、日本人的な楽観的慣習主義がある。
どちらかと言えば、日本人的。 でも、精神的には、目先の現世重視をはなれて、
自力を離れるというのは、
日本人史上画期的だ。
ここには一つの覚醒がある。
だからすぐに覚醒したわけではないが、
きっかけはある。
さらに重要なことは、中世以降、貨幣経済が広がり、荘園制が解体し、
農民たちが自立し始めて、豊かになってきた。
ここで目覚めたのが、葬式である。
それまでは死体は穢れ思想もあり、共同墓地に、捨てられていた。
庶民からのニーズもあり、僧侶が供養を請け負い始めた。
葬式が広がり始めた。
そして江戸幕府の寺請け制の導入。
キリスト教徒を排除するために、
みなどこか仏教の宗派に入らないと行けない。
そして一つの村に一つ寺ができて、
行政機関、教育機関、道徳機関として機能する。
そしてみんな無心にバットを降り始める。 その成果は、
たとえば武士なら、江戸初期は、殉死が流行った。
自らの死をかけて、家名を守る。
ここなに死を捧げるという慈悲的なものがあるが、
さらには成熟していく。
たんに家名という身近な者ためよりも、
世間のために死を捧げるようになる。
赤穂浪士は、家名、藩のためだけでなく、世間のためでもあった。 葬式仏教という葬儀革命を起こしたのです。
日本人に取って仏教に求めたものは、穢れに対抗できる清らかさなのです。
これで庶民でも死体を弔うことができるようになりました。それが「清浄の戒は汚染なし」です。
仏教は清い故に穢れに汚染されない。
仏教ののみが葬儀を可能にする。現代でも、死体を仏様といいますが、死体の穢れが浄化されることで、仏様になるわけです。
「死体穢れ観」から「死体往生者観」への転換です。
その仏教の清らかさの源泉が慈悲です。慈悲により人は、場は、清らかになる。
すなわち慈悲は日本人の世界を変えたわけです。穢れに怯える日常から解放される。
たった百年で、数万の寺が作られ、日本人は全員仏教徒になったことに、この革命の衝撃がわかるでしょう。 >>
応仁の乱から戦国時代にかけて武士階級の裾野が広がる 。名もない雑兵は 、主君への忠義よりも利や命を惜しむ存在であった 。
しかし 、依然として 、城主レベルの武士は 、厳しい自己規律を維持し 、敗北した時は兵卒の身代わりとなって切腹した 。彼らを支えていたのは 、武門の家に生まれた名を惜しむ意識であった 。
豊臣政権期の兵農分離を経て江戸時代に入ると 、武士と農民や町人の境界にははっきりと線が引かれる 。
いやしくも武士身分となった者は 、武士としての厳しい倫理を要求された 。
もし武士にふさわしくないとみなされた場合は 、自己の属する藩社会から排除されることになる 。武士の狭い 「世間 」が成立したのである 。
これまで 「世間 」の研究は 、井原西鶴の浮世草子などにより 、町人のものとしてなされることが一般的であった 。
しかし 、町人は 「世間 」に背を向けて利欲や恋愛に生きることが許されたが 、武士にそういう自由はない 。本書で見てきたように 、武士たちこそ細心の注意をはらって 「世間の批判 」を受けないよう行動していたのである 。 言い換えれば武士が構成する 「世間 」の評判こそが 「武士道 」の規定となった 。
その武士の 「世間 」は 、他の階級の 「世間 」に比べてはるかに厳しい倫理を要請したのである 。武士は 、武士道に背いたと思われた場合は 、もはや武士社会で生きていくことができない 。
武士の 「世間 」が 、厳しい制裁を行うからである 。そういうなかで武士は 、他の階級の者とは比較にならないほど厳しい倫理観を身につけざるをえなかったのである 。
冒頭に掲げた 「サムライはなぜ 、これほど強い精神性がもてたのか ? 」という問いに対する解答は明らかであろう 。個々の武士は 、自らの内面的な倫理観だけでそういう精神性をもちえたのではない 。
本書で述べてきたような厳しい 「武士の世間 」があったからである 。強固な意志で自らの行動を律していたと思われる武士こそが 、最も 「世間 」に左右されていたのである 。
武士と世間 なぜ死に急ぐのか 山本博文
<< >>
日本においては、例えば徳川時代の中期以降における近江商人の活発な商品活動には、浄土真宗の信仰がその基底に存するという事実が、最近の実証研究によって明らかにされている。
ところで近江商人のうち成功した人々の遺訓についてみるに、かれらは利益を求める念を離れて、朝早くから夜遅くまで刻苦精励して商業に専念したのであるが、内心には慈悲の精神を保っていた。
実際問題としては利益を追求しなかったわけではないはずであるが、かれらの主観的意識の表面においては慈悲行をめざしていたのである。
その一人である中村治兵衛の家訓によると、「信心慈悲を忘れず心を常に快くすべし」という。
これは当時浄土真宗における世の中の商人に対し仏の慈悲を喜ぶことを教えていたことに対応するのである。P244
慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220
<< >>
江戸時代中期、全国的規模で広汎にビジネス活動を行い、時には海外へも進出していた「近江商人」。
現在もトヨタ、丸紅、伊藤忠、高島屋、日本生命、ワコールなど、近江商人に起源をもつ老舗企業は数多く存在しています。
明治維新をはじめ、数多くの激動期を乗り越えてきた「近江商人」の経営手法には、現在に生きる私たちに、少なからぬ「知恵」を授けてくれます。
何の資源を持たなかった日本が、ここまでの発展を遂げることができたのは、何よりも「ヒト」という資源の力にあるのではないかと思います。
それも誰もが知っている有名人ではなく、目立つこともなく、ただひたむきに努力を重ねた無名の人々による努力の結晶にあるといえるでしょう。
このような人々を輩出したそのシステムにこそ、日本の発展の原動力があったといって過言ではないと思います。
そして、この日本における人的資源のマネジメントのルーツといえるものは、いまから300年以上も前の時代に誕生した「近江商人」の経営手法の中にあるのです。
「三方よし」
これは、「売手よし、買手よし、世間によし」のことを言い表したものです。 商売を行うからには儲からねば意味がありません。
そのためにはお客さんにも喜んでもらわなければなりません。ですから、「売手よし、買手よし」は当然のことといえますが、近江商人には、このうえに「世間よし」が加わって「三方よし」となります。
これは300年生き続けてきた理念で、近江商人特有のものとなっています。
自らの地盤を遠く離れた他国で商売を行う、近江商人においては、他国において尊重されるということが、自らの存在を正当づける根拠にもなりますから、「世間よし」という理念が生まれてきたといわれています。
http://www.neo-knowledge.com/column/omisyonin01.html
<< 親鸞
他力本願、自力放棄
無為自然
阿弥陀仏絶対
キリスト教に近いと言われるが、
キリスト教の神は世界の創造神で絶対であるが、
阿弥陀仏はもともとは人間で悟り仏になった。
悟りとは無為自然であり、阿弥陀仏もまた同じになった。
悟り、無為自然が先にある。
自然信仰を基本にしてきた日本人にはなじみやすい。
新たに教義を身につけるのではなく、
本来の姿に変えることである。
しかしここに老荘思想的なトリックがある。 天下の物は有より生じ 、有は無より生ず。 老子
自然児に戻るといっても、
すでに知識を身につけているのだから、
今の自らを否定する契機が必要である。
これは仏教の無我とは同じ原理だ。
慈悲の実践においても、まず自らの否定しないと、
見ず知らずの人に開けない。
今の自らを否定して、無為自然に身を委ねる。
慈悲とは、自らを否定することであり、
他力とは自らを否定することであり、
無為自然とは自らを否定することである。
この自らを否定するというアンビエントな契機として、
日本人にとって無為自然は入りやすかったのではないだろうか。 老荘思想は、のちに道教として体系化される、それ以前に中国にある自然信仰から来ている。
そして原-道教は、弥生時代に水田稲作の伝来と一部として、日本にも入ったと言われる。
たとえば卑弥呼の呪術はその流れから来ていたなど
日本人になじみやすい者だった。 自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ(自力による思慮分別)にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。
しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
「法爾ほうに」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。
法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。
すべて、ひとのはじめて(あらためて。ことさらに)はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。
「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、
行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。 訳
庶民ごときが慈悲してるって、偉そうにいうなよ。
たかだか「衆生の慈悲」だろう。
他人のためになにかしたから、自分は極楽に行きたいって、自分のことだけ考えてるんだろう。
そんなものは慈悲でもなんでもないんだよ。
善人ぶりやがって、お前ごときが考える善人、悪人なんて、どーでもいいんだよ。
ホントの慈悲は「無縁の慈悲」と言ってだな……
まあ、おまえらみたいなアホに言ってもわからんか、おまえらみたいなもんができるのは、なにも考えず、ただ念仏唱えてりゃいいんだよ!
あほ、かす、ぼけ、しね! マジレスすると、波平が言ってるのは
ウィトゲンシュタインの慣習論をそのまま仏教の悟りに当て嵌める、
という安直な事を手を変え品を変え言ってるだけ。
つまり、分析ができる波平最強であり、ウィトの慣習論最強、
ウィトの慣習論 = 仏教の悟り なのだから、分析好きな波平は
仏教の悟り(ウィトの慣習論)を越えた!!というアホな論調になっている。 東洋思想と西洋思想を安直に結び付ける波平みたいな奴は結構多い。 日本人全員をトリックにかけた親鸞の3段階レトリック
一つ、日本人の中にある自然信仰の利用。
親鸞の自力放棄、他力信仰には、自然法爾がある。
自力を放棄した後に、おのずから(自然)がある。
自らのなかにある真実、自然体の自分。
二つ、自然信仰を利用し、仏の教えに誘導する。
それはまた、法爾、すなわち仏とも同じである。
仏へすんなりとの誘導する。
三三つ、仏に対して、負債を追わせる。
自力を捨て、他力に大慈悲にすがるとき、
人は仏に大きな負債を感じる。
その負債は、仏への感謝、信仰により返される。
また大きな仏に触れて、
自らもおのずと慈悲を実践する。
それは自力ではなく、
自力を放棄した後の慈悲なりや。
日本人をだまくらかす親鸞のレトリックここにきわまり。 このレトリックが、すごくキリスト教に似てる。
神が絶対。自力放棄。
キリストは人類のかわりに死んだ。
人類は負債を負っている。贖罪。
キリスト教の神の絶対は、自然信仰さえ排除する。
自然信仰を持たない民族も多いから、
世界的にはこっちが良い。
似てるなあ。
逆になにが違うのか。 親鸞は、まともに説教しても誰も聞かないという繰り返しの実体験から、
いかに民衆をいかにだまくらかすかを、
学んだんだろう。 波平のような分析の言う事を真に受けてたら、
仏教も道教もキリスト教も全部ウィトの慣習論ですってアホな結論になるだろw
@ > 自然 自らのなかにある自然の法、中国道家 = ウィトの慣習
A > 法爾 阿弥陀仏の法、インド仏教 = ウィトの慣習
B > 神が絶対。自力放棄。 = ウィトの慣習論 無職のおじさんはボクが高給取りだからって、ストーカーしすぎ(笑) キリスト教の神への負債は、布教へ向けられた。
そして信者は世界へ旅立った。
それに対して浄土真宗の負債は、信徒を超えた民衆への慈悲に向けられた。 山口益「仏教思想入門」(理想社)のなかの8節「釈迦牟尼の正覚の内容」を読んでくれ
波平もよんでこい
「さとりを得たということは、精神的な光明が啓発せられたということであって、
そこには神秘な(mysterous)霊感(inspiratio)というごとき観念を介在させて捉えてはならない。
仏陀のさとりは智慧を本質とする。仏教に関するすべての事項は「仏陀のさとりが智慧であった」ということを基本にして理解されねばならない。」
まあここから始まって、山口益は「さとり、即ち正覚は縁起の理法である」という論説を延々繰り返す。 「存在は縁起の道理のごとくにおかれている」
その縁起の道理ということの本来の意味は「先に存在するある原因との繋がりにおいて、生起がある」ということであり、
換言すれば、「およそ物は、その余の他の物の因である。そろは、その余の物の存在は、
第一の物に関連をもっているからである」ということである。
原初的な仏典の言葉では、そのことが
「此のものが存在する。それは、彼のものが存在するときにである。
此のものが生起している。それは、彼のものが生起しているときにである。
此のものが止滅する。それは彼のものが止滅するときにである」
そのように此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無いのであるから、
此と彼とは相依相関(mutually dependent)においてありえられている、という事である
これが正覚の内容の一端だ。「さとり」とは何か?
それは縁起理法を悟ったということだ。
六道輪廻の上にある
7声聞
8独覚(縁覚)
9菩薩
10仏
正覚とは8の独覚あるいは縁覚のところのものであり、般若の智慧の始まりのところのものであると考えられる。
ところでこの縁覚と菩薩と仏の違いはどこにあるのか?
それが曖昧なのだ。これだと縁覚者がさとりを得たことになる。
が、縁覚者はさとりを得ていない。何故なら菩薩でさへ、まださとりを得ていないのだから 仏教の種々な基本的な用語、内容がまとめられている
中村元「大乗仏典」(筑摩書房)のp433〜仏教用語の手引き参照
声聞道には四聖諦(苦集滅道)
独覚道には十二縁起を
菩薩には六波羅蜜を 仏の十号
仏とは「目覚めたもの」という過去分詞には由来し、「真理に目覚めた者」即ち覚者、悟ったもの、の意。
この仏陀の同義語
@如来ー真理の体現者
A応具(阿羅漢)ー世の供養・尊敬を受けるに値する人
B正等覚者ー正しいさとりを開いた者
C明行足ー知と行が完全な者
D善逝ー立派に完成した者
E世間解ー世間を知悉する者
F無上士ー最上の人間
G調御丈夫ー人を調御するのに巧みな者
H天人師ー神々と人間の教師
I世尊ー福徳を備えた者 考えてみれば仏教についてずっと停滞してるわおれ
進んでいってないわ。
仏教についてやるとなると
世界史からみた仏教
日本史からみた仏教
各文化史からみた仏教
思想としての仏教
比較思想史としての仏教
このどれもちゃんとやるべきだが 中世世界の始まりが悪人正機説を生み、
悪人正機説が中世世界を形成する一助になってしまった (笑)
71 名前:考える名無しさん :2016/09/28(水) 23:09:03.36 0
まあ頑張って生きてくれ
72 名前:考える名無しさん :2016/09/28(水) 23:10:23.02 0
+ o : 。 ☆; * + O + o 。 ☆ * :
o o ○ ; * + o : 。 + :
.. ___ + : 。 ; ゚ ____ o
゙=c_ \ ゚ : ○ ; . /_っ='
:: ,, く:::\ ゚ /:::>'
゚ * \:::\ ...-ー、,-─ /::::/ : . : ゚
: . : ゚ \ ` .-=・=- i、-=・=- / o
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☆ * o {. ト--=--イ } 荒らしてるときだけが生きてる気がするよ〜
: : ゚ . ヽ. ヽ. ⌒⌒ ノ /
o ヽ. ヽ、`==´ / / o
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(ヽヾr=:_::}:::;:;l .;.:;.; {:::.i: :::::::. !´´
ヽ/ `´'--i'. .;.;:.;l.;:i;:'.::.;. i
.: .:.:.:.::.:;;;;.i. .:.:; l:: i:: .;.; 三節 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
【訳】 善人ですら往生をとげられるのだから、まして悪人が往生できないはずがありません。
既出だがキリスト教との類似性が指摘される。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。私がきたのは、義人を招くためではなく、
罪人を招くためである」(「マルコ伝」二章十七節) 歎異抄は新幹線で読んだ。
善と悪ってわかりますか。最後には善が勝つのは革新的事実でしょうが。
はたして悪ははびこるのみか。 自力本願と他力本願の違いは、端的に言って“主体としての自己”がいかにして外界に働きかけるかであり、
主体を、自己(=主観)に置いて、外界に働きかけていくのが“自力本願”である、そして、 自己を滅して外界(=客観的存在)に於いて
働きかけていくのが“他力本願”である。
空海は、「自己の内に大日如来が宿っている」と述べている意味は“自己(主観)が大日如来(客観)であり、大日如来(宇宙の根源)は自己である”という
存在の究極の真理を表している。 この論理を別の言葉で述べると、「一(個人)、即、多(宇宙の根源)であり、多、即、一である」。そして、親鸞の他力本願は、
「一(自己)が、多(神)となる」という論理であり、、空海の曼荼羅(胎蔵界と金剛界)の論理を基底としている。 覚鑁(1095〜1143)は、真言教学(両界曼荼羅)の仏教哲理から念仏・浄土論理を学びとり、
「密厳浄土」思想を理論化し、「密教的浄土教」を大成した。
覚鑁の死後、58年後の1201年(建仁元年)に、法然と親鸞(28歳)は高野山へ入山し90日間の修行を
行い、空海の“両界曼荼羅”を基底とした真言宗の浄土論理を学んでいる。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
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8U09D 5月21日は今日、世界の光と仰がれる親鸞聖人ご生誕の日です。 唯円房「浄土にいける自分を想像すると踊り上がるほど嬉しいことの筈なのですが、浄土にいける、ということを思っても、あまり慶べないのですよ親鸞聖人」
親鸞「実はな唯円、私もあまり浄土を慶べないのだ」
唯円房「どうしてでしょう」
親鸞「考えてみれば浄土に行くことを慶べるくらいまで悟っていたらわれわれも苦労はない。煩悩具足の凡夫であるわれわれは他力の悲願に到達してない言うことなんや。
もし浄土に行けるぜ、うれしくて飛び上がるぜ、なんてこと思えるならもう悟って、いよいよ迎えが来るくらい凄いことになる。
われわれ凡夫は、娑婆のことが恋しくなるくらいこの世に執着していることなんや。迎えが来るくらいまで悟ったら自然に浄土に行きたくなるよ云々」 緒言
いろいろ愚案を巡らせているとな、故親鸞の教えとちゃうわというような後学の教えが蔓延しとる。他力っつの主旨変わっとるやん、という教えの多いこと。他力の教えが乱れとる。
もう一回、親鸞聖人の仰られたことを記すからな。ええかこれは偏に同心行者の不審を払拭するためやからな。ようききや云々。 第一条
阿弥陀仏の誓願四十八願のなかの十八願が我々を助けて、往生を遂げると信じてな、念仏しようと心に決めた時からな有難い利益に預かっとるんや!
弥陀の本願にはな、老いも若きも善も悪もなく、信心すればええんやで。それ故に、罪悪の深いこと、煩悩の根源のある衆生も助けてもらえるくらいの願があるんや。
だからして、本願を信じれば他の善なんかいらんねん。念仏に勝る善はない!悪も恐れる必要なし!
弥陀の本願を妨げる悪はないねんからな。 外言
唯円「なんやろなあ、この虚しい気持ちは。みんなわかっとるんか?他力さえ信じて念仏を唱えれば救われるんぞ」 質問させて下さい
私は他宗派の人間です。創価学会員です。でも避けないでください。
私はステレオタイプな排他的な創価学会員ではありません。浄土真宗のお寺でも
臨在宗でも日本カトリック教会でも興味がある所自由に行き来する人間です。鳥居もくぐれます(分かる人だけ笑って下さい)
浄土真宗に興味あり図書館で色々調べていると浄土真宗高田派(三重県津市一身田町)だけは
なにか特別区としての扱いだそうで、歎異抄も読まないと聞きました。
理由は様々なようですが、一番大きな理由は高田派には親鸞の遺文の約半数が保存されてるから
と聞きました。
実際、浄土真宗の信者さん達は高田派をどういう扱いで見ているのでしょうか? >>202
こんにちは^ ^
うちの母方が真宗本願寺派の檀家であり、先日、西本願寺と大谷本廟に2016年に亡くなったおじいちゃんの遺骨を納めに行ってきました。
真宗には10派の派閥があり、主には本願寺派、大谷派、佛光寺派と中心的な三派があり、高田派に対しては多少異質な感覚はあります。
が、門徒の殆どは異質だからといって他力の教えやお念仏に関する信心はそれぞれに深く、歴史的な派閥の意義も曖昧で、我々遠州人からすれば
同じ門徒さんという見方をしている人が大半だと思います。我々静岡の人間にとって中興の祖である蓮如の教えも親鸞と同等の扱いをしていることから、
高田派がまた別だ、といっても遠州の門徒はよくわからないといったところが本音ではないでしょうか?
なにはともあれ、私のおばあちゃんなんかは、岐阜から静岡に越してきたのですが、恐らくは派閥のことはわからないのではないでしょうか?
というのも、岐阜の飛騨高山のお寺は恐らくは大谷派のお寺で、遠州に来た時に門徒になった今の蓮舟寺が本願寺派であることにそれほど頓着なかったのだろうと思います。
うちにある仏壇は真宗大谷派の仏壇であるのが何よりの証拠です。南無不可思議如来光の文字が印象的なお仏壇です。 ちなみに僕は創価学会の会合に参加したことが二回あります。
新大久保の先輩に連れられてつらつら他宗派だという断りをして会館に入れてもらいました^_^
僕は宗教に関しては結構興味があり、プロテスタントやモルモン教の教会のミサにも参加した事があります。
寺院や神社巡りも好きです。富士宮の大石寺にも何度か一人で行きました。創価学会の会合に参加するとやはり「折伏」という言葉が何度か出てきました。
お話と池田会長のビデオをみてから南無妙方蓮華を唱えて帰りましたがいろいろと勉強になりました。
こういう言い方をすると怒られるかもしれませんが日蓮は、何でも優れていて、特に叢書が得意な叢日蓮だったと聞いておりますが、日蓮宗の宗派のなかには
日蓮を大菩薩だと称する派閥があります。ホトケではなく修行を全うした日蓮大菩薩なんだと謙遜とも取れる。
創価学会にとっては日蓮は仏であり、日蓮と池田会長は同列であってその下まで序列があるらしいのですが、そういった日蓮宗に対してどのような見方をしておられるのですか? 話しを変えるけど、僕はちょっと捻くれているところがあって、真宗という宗教は好きで、お付き合いもしていきたいんだけれど、お念仏に関して邪推がある。
というのも、お念仏、なまんだぶを唱えたからといって、それだけでどんな人間でも救われるといったことに関して昔からそんな馬鹿な、という感情が拭いされなかった。
僕は親鸞の思想が好きで五木寛之や吉本隆明の本を下敷きにして色眼鏡で親鸞を見ているけど、他力の教えや廻向なんかの考え方はすごく好きで、
僕自身の考え方にもなっている。自力ではなく他力。人間はもともとじねん自然、悟っているんだよ、という教え。
親鸞は愚禿と自戒したし、唯円に「おれも何で浄土がいいところかわからん」という人間的な言い方は、涙が出るほど正直さが伝わったくる。
ただ念仏を唱えれば救われる? これについて、だけど尤もな疑問ではなある。
念ずるの念は人間の意識の流れの部分であり、阿弥陀仏の救いは南無阿弥陀仏と唱えることによって意識が浄化される、というのはことらしい。
お念仏だけで救われるものなのだろうか? そこに疑いを持つということは宗教にとっては邪推。念ずれば救われるのだろうか? 善人が往生をとぐことがあるだろうか、人生で一回ミスっただけで地獄なのに。
悪人が成功することがあるだろうか。ほとんどが悪人でごった返して、
競争倍率がすごいのに。 >>206
念仏さえ唱えれば弥陀の本願弘誓によって導いてもらえます 天国に保険を掛けておくのもおかないのも怖いでしょ。 >>203さんありがとうございます。
私は創価学会員でありながらも親鸞の宗教的天才性を感じ浄土真宗を今知ろうとしている訳ですが
(と言っても元々創価学会家系なので退会はしません)
お念仏の事に言及されてましたが、「意識の流れ」というワードは素晴らしい物だと思います。
以前高田派の方書かれた書籍か何かでこんな話を読みました
人が死ねば阿弥陀如来が現れ手に五色の紐を結び、そのまま西方にある浄土へ連れて行く。
どんんどんどん連れて行く。時間は流れてもどんどん連れて行く。
100年前に死んだうちのご先祖はもう西方の浄土にたどり着いたでしょうか?と尋ねられた
「否」と答える。100年前に亡くなった人も200年前に亡くなった人も
今も阿弥陀如来が西方浄土へ向けて移動している最中なのだから。
という事を読みました。「意識の流れ」と「時間の流れ」と相通ずる何かが在るように思えて仕方がありません。
留まることなく流れゆく事象の中で、そこに留まる念仏というのは、私達の生きる人生の流れを更に意識的してくれる物では無いでしょうか?
創価学会員の私がこんな生意気な事を言って申し訳ない。
今後とも意見を聞かさせて頂けるなら、私にはとって心の慰め、心の喜びとなりましょう。 >>204
日蓮(私達は日蓮大聖人と呼びますけれども)が関わる宗派仏教、新興宗教は実にたくさん存在しています。
ハッキリ言って混沌です。日蓮を釈尊以上の存在と主張するものから、一番下の階層において下座行を行う菩薩という主張もあります。
私が関わる創価学会は第一に日蓮大聖人、2番目に御書根本(日蓮の遺文)3番目に法華経という教学(指導)があります。
混沌の主な原因は私の主観ではありますが、日蓮自体いや法華経自体を原理主義的に捉えるか?メタファーやレトリックとして捉えるか?
の違いに思えてなりません。ご存知かも知れませが私達創価学会員はしつこく折伏(勧誘)やF獲り(公明党投票のお願い)をしています。
つまり活動的な学会員も、勧誘する現地言明も俗世の御利益をアピールし、また学会員の多くが来るか来ないか分からない御利益にコミットしています。
だからこそ熱心なんです。喩えは悪いですが目の前にニンジンをぶら下げられた馬のようにガムシャラに走ります。
だからこそ、そういう知性の持ち主、そういう切羽詰まった人達で創価学会は溢れています。
バイブルベルトのキリスト教原理主義者のような感じでしょう。またそれ故創価学会員は世間から嫌われてしまうのですが。
そんな中(創価学会員で無いと知らない人が多いでしょうが)ほとんど毎年と言っていいほど創価学会は「教義変更」をします。続きます。 「観念してください。お陀仏ですよ。」と言ったら、脅迫になるのだろうか。 続き
それらの教義変更、会則変更の中で遂に創価学会はエクスポーズ、パブリッシングしました。
「これからは創価学会という組織を仏とする。名ずけて創価学会仏である」と公示しました。
「これから数十年後、数百年後の全てのお経に創価学会仏の名がしるされるであろう」と
これには今まで熱心だった学会員も驚きました。池田大作(私達は先生と呼びますけれども)が長い事、学会員の前に姿を現さない中でですから。
今、私は様々な宗教や哲学に触れようとしているのもコレがキッカケですし
お笑い芸人の長井秀和が一番有名ですが、学会員の多くがTwitterにて創価学会の機能不全を指摘し始めました。
しかし考えてみれば、それ以前に不全は生じていたような気がします。
釈尊の教え(原始仏教)は末法には必要ないと釈尊を否定したかと思えば、聖教新聞にスッタニパータからの引用が載ったり、、
荒っぽい言い方ですが創価学会員の殆どが裕福になりたい!病気を治して欲しい!という低いレベルでの現世利益を求めているのが多数派です。
もちろん、それらの欲求は人間として当然在っても良い物だし、善い・悪いと二元論で語れる物では無いのですが。
ただ誤解して欲しくは無いのは、ごく少数派だとしても知性的というかメタ的というか
形而上と形而下の乖離、言語と言語の間に生ずるスリット、連続性と断続性がごちゃ混ぜになっている
創価学会全体としての問題を冷徹な眼差しで見ている人達もいます。
それはごく少数派であり、学会員組織では何の発言力も無い人達ではありますが。 しかし、創価学会のリベラルだとしても学会員が親鸞を認めるということは俄かには信じがたいな 創価学会も変化していっている昔は右傾化された暴徒もいたと聞いた事があるが、いまは少し軟化しているように見受けられるが、2代目の会長の戸田城聖批判とその頃の学会の悪弊を学会員から聞いたことがある。
いまは公的には世界平和を唱い、政界には公明党もあって、日本最大の宗教になった。
創価学会について好意的とはいかないまでも公明党のスタンスからだいぶ方向性については一定の評価をしている。
しかし一つだけ、他宗派に対する寛容性は、ほぼない学会員は多い。やはり他宗派は真言亡国律国賊念仏無間に近い見方をしている人は多い。
他宗派は地獄に堕ちるというのは学会員の誰もが口にするところだ。
日蓮は優れた宗教家ではあるが熱血漢で妥協を許さないところがあって、南無妙法蓮華に対する並々ならぬ信心があって凄く強い人であったとは思うが、
四か格言は流石にのちの禍を齎したと言わざるを得ない。ともあれ、創価学会は排他的な宗教だということと、では何故他宗派の哲学は駄目なのか、という根本的な問いに曖昧であるように思う。
つまりは日蓮と創価学会哲学と他宗派の哲学の止揚が遅れているのは事実だし、世界平和を謳うのなら、それ相応に他宗派に対して向き合ってくれてもいいのではないか? 一つだけ付け加えておくと、自分は脱宗教のスタンスで生きているので、日蓮も親鸞も釈尊も栄西や道元も全部、同列として考えている。
宗教自体限界があると俺は思う。というのも信心は結局、超越論的な誤謬を含んだものである。
念仏を信じるのも、法華経を最高位の経典とするのも同じことである。
どこにその根拠があるのか、ということである。最後に身を明け渡すのは結局、論理ではなく信心になる。
それが宗教の限界だ。最後に根拠がない。では、それを信心して我々を幸福に導くことの保証はなにもないのである。 昭和の頃からかなり激しく他宗派を攻撃してきた事は学会員の壮年部の方々から聞いております。
ただ2008年に最高幹部の一人が学会組織に外資系経営コンサルタント(?)のアクセンチュアを入れていくつかの政策変更をしてきました。
例の念仏無限やら禅天魔など汚い言葉で他宗派を批判するテクスト、人呼んで「折伏教典」を切り捨てる方向へシフトしました。
ただ、ある一部の宗派仏教(日蓮大聖人系)への誹謗中傷は聖教新聞上で掲載されてますが(1面の寸鉄というコーナーです)
全体的に他宗教、他宗派を敵に廻す事は少なくなってきたのですが、まだ昭和時代に活動された方々も現役メンバーで
その方々のお話は時代錯誤も甚だしいのですが、若い学会員は「ああ、そうなんですか」と軽く受け流して誰も他宗派攻撃する行動原理は持ってないです。現在は。
過去に様々な問題が存在した事はご承知でしょう。
ただ今後は激しく社会に対して嫌悪の情を与える行為は学会本部が禁じていきます。し
今の学会員も昭和時代の情報貧困者ではありませんので、これkら益々自浄作用が働くのではと期待しています。
私が退会しないのは、宗教的信条というよりも代々家系が創価学会文化圏、創価学会経済圏でお世話になっている事実があり
自分の親族が受けた恩義を無視できないという、経済的互助会的な道義からです。 続き
私も宗教が実存の最終的なソリューションになるとはおもっていませんし、ましてや
何らかの現世利益を求める気持ちもありません。
ただ、これは宗教的というよりも哲学的な話なのですが
原始仏教の「無常」「無我(非我)」「空」「縁起」
の思想が大好きなんです。
本来なら創価学会では無く臨済宗やテーラワーダの方が合っているのかもしれませんが
帰属する宗教団体には、何のこだわりもありません。というか全然興味がありません。
哲学と呼んで良いのか分かりませんが
共感ゲームや、みんな一緒主義に対するコミットメントを先ず否定してからでないと
私は何も考察出来ないのだと思います。
ありがとう御座いました。 創価学会はれっきとした日興上人の枝葉なのだからしっかり守っていってください。
ぼかあ親鸞の人間性や考え方大好きなので、浄土真宗の門徒でよかったと思っています^ ^ 創価は日蓮宗の中では完全に邪教だよ。
池田三代目は朝鮮人。本名はソン・テジャク。
日蓮宗名乗ってるけど、実態は池田独裁朝鮮教だよ。 創価学会の初代会長は朝鮮人ではない。
牧口常三郎も戸田城聖も日蓮正宗の門徒であり、日興から分派した日蓮正宗の枝葉であることには間違いない。
が、池田大作は釈迦牟尼佛も日蓮をも凌駕していると豪語したらしい。創価学会の歴史は一通り「日本宗教事典」(講談社学術文庫)で読んだが、わかることはそのくらい。
三代目会長から朝鮮系の宗教支部にシフトしたのかもしれないが、元を正せば日蓮正宗の法華経研究の一派だろう。
創価学会に関しては、規模が規模だけにほって置くわけにはいかない。事に公明党という創価学会の支持母体があり、
政治の面で日本の社会に強く浸透していることは否めない。 ちなみに、日蓮宗は法華経を信奉した日蓮の法華経聖典を基盤としたことは日蓮宗の全枝葉に共通している。
日本仏教には他に日蓮の親に当たる最澄が開祖の天台宗が法華経を信奉している。
それから浄土宗でありながら元は天台宗の修行僧であった良忍が開祖である融通念仏宗も法華経を信奉している。
『華厳経』・『法華経』を正依とし、
『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」を傍依として、
「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という立場から、口称の念仏で浄土に生まれると説く
Wikiより
融通念仏宗は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を踏襲した形の宗教になる。
大まかには、日蓮は天台宗からの一派であり、同時に法然と親鸞も天台宗から出ているというところが共通している。 俺は仏教哲理や哲学を特に親鸞に見出している。
何故なら親鸞の考え方(他力、自然、廻向、浄土門、悪人正機)は弁証法的によく練られているからだ。
特に自力ではなく他力、聖道門ではなく浄土門(清廉潔白な聖人になるのではなく、悪や心の闇をも踏襲した浄土の道)などは止揚のある考え方だと思う。
昔の僧侶がアウフヘーベンである「善人なおもて往生をとぐ 況や悪人をや」なんて弁証法的な言葉を思いつくだろうか?
ただ、霊性的宗教的な力を実際に持っているのは密教だと思っている。
弘法大師の考え方はより霊性を帯びている。護摩業や宇宙の摂理である曼荼羅、真言(マントラ)など。
仏教哲理の浄土宗
より実践的な真言宗
綜合仏教の天台宗ー日蓮宗
より実際的、内面と向き合った禅宗
これかより先に日本に入ってきたのが奈良仏教、南都六宗 >>223
創価というか、日蓮正宗から邪教だけどな。
久遠本仏が日蓮上人の迹仏になってる理論だからさ。話にならない。
創価は池田大作が本仏であり、日蓮さんはその迹仏にしてるからさ。
仏教でも日蓮宗でもないわけよ。
多くの創価信者が騙されて入ってるってだけのことだな。 ,念佛は唱えるものではなく称えるものと思われる。この字の称と唱の違いは大きい。
親鸞さんは字にやかましいお方のようだ。称えるとは、ハカリしるということらしい。聞名号ということらしい。
簡単に言えば名号を聞くということだろう。
真理の門は開かれた。耳有るものは聞けと語った仏陀に通じているように感じる。 釈迦仏教の教えは中道とも言うらしい。右を否定し左を否定したところに本当のもののあり方があるという。
例えば有を否定し無を否定する。両方否定したところに本当の真理があるという。なぜなら本質は空だからという。
空であるからこそ縁次第で有というかたちをとり、また無という形を表す。私が驚いたことの一つにこの考え方が
親鸞さんに正確に伝わっていると言うことです。
。。。佛の悟りはきわがない。この教えを受けたものは有という考えと無という考えの両方を離れることが出来る。
普遍的な真理である空を心にたもて。。。とある。いやービックリした。どうして2500年前の教えが天竺から日本に
このような考えが正確に伝わってきたのか。驚くばかりだよ。 ナムアミダブツ
ナムアミダブ
ナモアミダブ
ナモアミダンブ
どれも回数重ねると言いづらい。
かといってナンマンダブ
だと俗っぽくていいのかわからん。 >>230
わかる!ナマンダブとかナンマンダブは抵抗ある 冒頭にNAM…がありさえすればいい
これは発話時に鼻が開く魔法の音韻 親鸞さん在世はキミョウジンジッポウムゲコウニョライ、なもふかしぎこう如来、南無阿弥陀仏と
となえていたらしい。
しかし口に唱えるだけではいけませんよ。蓮如様も御文章の中で「口にだだ称名ばかりをとなえたらば
極楽に往生すべきようにおもえり、それはおおきにおぼつかなきしだいなり」とある。
親鸞さんは口に念佛を唱えてすくわれたのではない。法然様から念仏の教えを聞いて救われたのです。 >>233
自分で唱えたことはないですなあ すべては阿弥陀さま ナムアミダブ 9回
ナムアミダブツ 1回
で10回単位で唱えてみたけど、結構千回って大変ですね。
暇な時にとなえるとそんな感じ。
二千以上だと、朝起きてから気合いれてとなえつづけないと
できないかもね。 つーかお前ら南無阿弥陀仏と1回称えるだけで死んだときに行き成り訳の分からん
宇宙人の集団に拉致されほぼ永遠の間とも思える時間の中で意識が滅するまで修行するんだぞ?
修行って響きは良いが謂わば拷問を自分に科す訳だろう?
そりゃ色々な菩薩たちが沢山いて色々と手助けをしてくれるだろう
無限に再生される指や手を切って下さり「これ(指や手)は私ではなかった」と再認識させてくれたり
仕舞いに火のかまどの中で「これ(一切の苦痛)も私ではなかった」と認識させてくれることだと思う
俺はあまあ遠慮しておきたい 143 その名前は774人います (JPWW 0Hd3-kSAM) 2018/11/14(水) 04:49:00.91 ID:v2hchzdiH
勇者(皇太子)とその盟友の物語、ドラゴンクエストのストーリーはデファクトスタンダードそのもの!
また、聖徳太子を讃える『皇太子聖徳奉讃』75首(83歳頃)、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首
(85歳頃) があり、如何に親鸞聖人が聖徳太子を尊んでおられたかが偲ばれます。
http://www.joukyouji.com/houwa1610.html 自力本願でもない、他力本願でもない、皆力本願だ!!! 自分のどうしようもない救いようのなさを受け入れて始めて、人は他人にも優しくなれるのだ。 どうだろう。「ブラス・クーバス...」は読むべきだろう。 「裁いてはいけない。」は、阿弥陀仏信仰とは言えない。阿弥陀仏の愛は無償のものであり、「裁くから極楽往生取り消し」とはならない。 法然・親鸞の思想自体はヤスパースが『歴史の起源と目標』の中で言っているように
思想史的にはキリスト教の宗教改革に300年も先駆けた刮目すべきものだと言える
>十六世紀においてジェスイット派の宣教師たちは、
>日本において仏教の一宗派を見いだした(それは十三世紀以来存在していた)。
>この宗派はプロテスタントに驚くほど類似していると思われたが、
>事実そうであったのである。〔中略〕
>ルター派の根本教義と同一といってよいほどのこの実例は全く驚きに値する。
(『世界の大思想32 ヤスパース』 P25) 私は、極楽往生を信じる。南無阿弥陀仏!!!阿弥陀仏に感謝!!!!! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!!!!!! 源平の争いの後にその血なまぐさい争いから宗教家が現れるながれをとらえてみて。 いま話題の映画「歎異抄をひらく」を観て来たけど、とても分かりやすくて勉強になったよ。
現在、公開中だから、歎異抄に少しでも関心がある人はぜひ観に行ってみるといいよ。
もちろん、歎異抄や仏教に関心の無い人が観てもとても楽しめる内容だから、連れて行ってあげると、喜んでもらえると思うよ。 偽悪家=善人
善人=偽善者
偽善者=悪人
偽悪家=善人=偽善者=悪人 進撃の巨人で、エレン・イェーガーが巨人が人間を食うから復讐をすると言う話がある。一方で、巨人に怯えて壁の中で暮らす人間を家畜と呼んで蔑んでいる。
エレンは、罪を自覚していない。善悪の判断ができていない。それは、巨人が悪なら人間も悪、人間が善なら巨人も善という、いわゆる客観視ができていないのだ。 親鸞の"悪人正機説"とは、わざわざ好き好んで悪を行う人間が悟れると言っているのではない。罪の自覚のない"善人"ですら悟れるのだから、罪の自覚のある"悪人"はなおさら早く悟れるという意味だ。 エレンは、人間が家畜を食べることは当然視し、巨人が人間を食べることだけを罪とみなした。このような人ですら悟れる。まして、前者が罪でないなら後者も罪でなく後者が罪なら前者も罪だとわかる人は、なおさら早く悟れる。
これが、親鸞の悪人正機。決して悪人が悟りやすいと言っているのではない、罪の自覚ができる人の方が罪の自覚ができない人よりも悟りやすいと言っているのだ。
よくよく考えれば極めて当たり前の話で、悪人が悟れるという意味不明な解釈をした本願誇りの人たちはとても変なのである。 自尊心が高すぎたり低すぎたりするのは、本質的倫理観が欠けている証拠。 >>254
なぜ 悪人=罪の自覚ができる になるのか
大きな罪を犯しても罪悪感に囚われず人生という限られた時間を走り抜け、逃げ切ってる人はいっぱいいる
逆に小さな罪で罪悪感に囚われ自覚に至る人もいる
前者と後者どっちが大きな悪人だ?
どっちも同じか?
ふざけんな 悪人正機を都合よく解釈しすぎ
『歎異抄』第3章 を素直に読めば「善いことをしようとするな」ってはっきり言ってるんだから
本願ぼこりは変でもなんでもなく自然な事
悪人正機は破綻してる
「いわんや」が破綻の元 間違いがあっても都合よく解釈するよな
そうやって権威って守られていくんだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています