存在者は存在に先立つ [転載禁止]©2ch.net
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ハイデガ−哲学では、存在者とは人間の五感によって認識できる
事象のすべて(物体・生き物・草木等々)のものであり、存在とは
存在者を世界内存在として有るという領野のことである。
従って、「○○に先立つ」という捉え方ではなく、「世界の内に存在している」と
捉えるのが、“存在”と“存在者”の連関に於いて正しい記述です。
サルトルの「実存は本質に先立つ」の捉え方は、本質(=神)と実存(存在者)とを
デカルト的二元論を基底として捉えているのであり、この場合の「本質(神)」は、ハイデガ−の
述べている「存在」とは根本的に異なる概念である。 そのハイデガーに挑戦しているのです。
ハイデガーなら、存在者を成り立たせしめているのが存在でしょう。
その逆を僕は言っているんです。 ハイデガーにおいて、存在とは、内在的根拠ではないか。
プラトン的イデアは、超越している根拠だが。
存在者であるのならば、必ず存在していなければならないのではないか。
存在は、閉じた全体性ではないのか。 ハイデガ−は、自分の哲学は「人間の存在も含めてこの世に存在する全てのものの存在を
問う“現象学的存在論”である」と記述している。
ハイデガ−は、人間としての存在者を「現存在」と呼んでいるが、この「現存在」の概念について
次の様に述べている。
「人間は、ふだん、日常性の中に埋没し、自分の来るべき死を忘れ、「世人(das Man)」として非本来的な生き方を
している。しかし、人間はこの日常(非本来性)の在り来りの生活に取り囲まれているだけではない。
彼は、目前の社会、この世界の中に抗い難く埋め込まれている。」 ハイデガ−によれば、人間は、生まれた時には既に、
自分で決めた訳でもない一定の時間的空間的状況の中に“否応なし”に投げ込まれ、そこから抜け出すことができない。
この様な逃げることの出来ない状況・どうすることも出来ない既定され、運命づけられた状態を“存在”と述べている。
従って、人間としての存在者であるところの「現存在」は、有限的な限られた生命を持った存在であり、生きている限り、
この地球上の特定の場所や時間に縛られて生きている。例えば、私が「今、ここ」(hic et nunc)という特定の状況から
逃げ出すことに成功したとしても、この世界から、いやこの宇宙から逃げ出すことは出来ない。我々は常に、新たな「今=現前」
という特定の状況に投げ込まれる。 ハイデガーは置いといて
ヘーゲルの概念論を超えてみてくれ >>6
ハイデガーは、解釈学を採り入れたことによって、徹底的に内在的な哲学になった。
だから、彼の哲学の中で、プラトン的イデア的存在者はあり得ない。
しかし、私の言っている存在者は、日常に埋没したとかいう現存在とかいうアクチュアルな
存在者のずっと以前の存在者、内容なき存在者を言っている。
私はメタ的な層を幾重にも重ねる哲学をしているのだから、プラトン主義者だ。
もちろん普通の意味ではないが。ハイデガーとは思考のモデルが違う。
日常以前、現前以前の内容なき存在者の離散から、存在という偽の全体性が生じてくるまでもプロセスを記述しているのだ。 そもそも論点先取とは?
もう少し具体的な批判をお願いします。 >>8
>存在という偽の全体性の生じてくるまでもプロセスを記述している。
>ハイデガ−の「存在」を“偽の全体性”と述べているが、「存在者と存在」の連関
に於いて、“真の全体性”というものをどのように捉えているのでしょうか。 >>14
ハイデガーにおいて、「存在」という全体性は、存在者が永久にそこから逃れられない
閉じた全体性です。
私の言う真の全体性は、開いた全体性であり、その領域に関して、成員は自由に
全体性間を移行できる。
ハイデガーのただ一つの全体性と違って、開いた全体性が、無数に浮遊しており、成員が各々の
全体性における法、立法に満足できないならば、そこを自由に抜けられる、
そういった全体性を考えています。 「存在と時間」での初期の思想内容は、「なる(生起)」へ存在者(=現存在)が“能動的”に企投し
存在了解している。この領野での現存在(=存在者)は、“存在”に対して永久に逃れることの出来ない
閉じた全体性(世界内存在)として現出している。
しかし、後期のハイデガ−の思想は、現存在が“受動的”な存在了解をする方向へと深化している。
この受動的な存在了解は、「存在は、おのずから生起し、おのずからその生起の仕方を変えるものである。」と
ハイデガ−は述べている。これが、解説書にみられる「存在了解から存在の生起へ」というモット−の意味です。 存在は一般概念であり、
存在者は、その個別具体的な存在である。
よってして、その両者は同時的存在であり両立していることになる。 >>16
前半はその通り
後半だけど、「“受動的”な存在了解」に違和感ある
そもそも存在了解は能動も受動もない了解だから
それは前期でも変わらない 存在者が愛の不在で、そうでしかないとき
存在者が存在に先立つならば
存在者は我が非本来性の檻。 現存在が愛の不在である存在者に気遣い
ねえあの人に言ってごらん
何でもないよ、と。 まあ私は後期ハイデガーには詳しくないんですがね
>>17
その言い方では、存在と存在者の差異を峻別したハイデガーから退行することになります >>18
ハイデガ−の前期と後期の哲学論理は、同じ存在了解でも、主観領域と客観領域での
認識の違いがあり、特に後期の「なる=自然」との現存在の一体性は非常に難解ですね。 存在とは何か。
それは神によって製作されたものである。
その存在一般から存在者としての個人がいかに解放されるか、の問題である。 神を何によって把握するか。
類比か、否定神学か、存在の一義性か。
まあ、神も存在者なんですけどね。 神は存在者か。
神は自己が生産したところの存在を自己でもって否定することになる。
それが解放の論理である。 存在を生産する、というのがよく分からない
神は既に存在者だし
まあ僕も現象学の神学的転回は詳しくないが コンパイルハートがPSのイメージダウンキャンペーン中 [転載禁止](c)2ch.net
http://wktk.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1433062745/507
507 名前:くれ ◆cNa.Hm7rC7f8 @転載は禁止[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 08:52:23.53 ID:Fi38X6MN0
>>504
哲学板行ったことないんですか?物凄いキチガイの集まりですよ
僕はむしろ哲学板の良心ですよ
それにそのレスだけど、PSW面白発言スレだけは粘着して、勘違いした
任天堂信者を正しい方向に導いていこうとおもってまつ。
コンパイルハートが2015年で燃え尽きそうだと話題に [転載禁止](c)2ch.net
http://wktk.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1436968545/109
109 名前:くれ ◆KOGxy5WZj6 @転載は禁止[] 投稿日:2015/07/26(日) 08:54:03.16 ID:Fi38X6MN0
落ちる
http://hissi.org/read.php/ghard/20150726/RmkzOFg2TU4w.html 【1000】宅間イズムスレ [転載禁止](c)2ch.net
http://wktk.2ch.net/test/read.cgi/mental/1435481142/303,305,329,330,331,332,333,334,335,337,346
303 名前:優しい名無しさん[sage] 投稿日:2015/07/14(火) 20:28:44.95 ID:b2NYoEBR
俺も幼女や老人とすれ違うとぶっ殺したくなるわ
305 名前:くれ ◆KOGxy5WZj6 [sage] 投稿日:2015/07/14(火) 20:44:55.14 ID:b2NYoEBR
そうだよ
資本主義における勝者が、そこから搾取・抑圧してる弱者に殺される
こんな当然で正当なことがあるか 27.
存在は生産されて製作されて存在となる。
よって、神は既に存在者ではない。
存在の製作者は存在に先立つか、という問題である。 じゃあ神は存在しないんですか?存在に先立つんですよね? 32.
神は存在に先立つ。
それだからして、価値があることになる。
その理論化が必要である。 スレタイの「存在者は存在に先立つ」を、
サルトルの「実存は本質に先立つ」と対置しているということは、
もしかして、存在者が実存だ、という理解に基づいてのことなんですか? >>33
完全に哲学史を無視してて草
>>34
対置したわけではありません。サルトルをパロッただけで、内容的にはサルトルといっさい
関係ありません。 34.
実存、現実存在は存在に先立つ。
その事例をあげよ、と言う問題である。
35.
哲学は神の解釈である。 123君、哲学史においてだねアリストテレスートマス主義、プラトンーアウグスティヌス主義の
キリスト教神学は神は存在に先立つとして、またデカルトが理性をそのようなものとして
形而上学的原理を説いて後々キルケゴール、ハイデガー、ニーチェなどに批判されておるのだよ 38.
説の紹介ではなくして、
いかに批判するのか。
貴殿の意見が、それと同じなのか、それを提示せよ。 存在者と存在は同一じゃ無いの?
自己を起点にした思考の禅問答なのかな それを存在論的差異として峻別したのがハイデガーの功績 8月15日が来ます。
「日本国民(存在者)」は「神の子(存在)」として、存在に先立つ事
は出来無かった。どうして若者は「洗浄」に散って行ったのか。
これは重要なテーマである。
それは時代背景から考えねばなら無い。 大日本帝国には、厳然たる、「身分制度」が有った。
帝国は「天照」から続く「神の国」で有った。帝国の終焉まで、神の国
は続いた。
「神」を頂点にして、「皇族、華族、貴族、士族、平民」と有り、更に
その下に、「新平民」が有った。
帝国にも「議院内閣制」は有ったが、それは、民主主義のそれとは異な
り、最終決済は「神」の下に有った。 平時は、内閣総理大臣が決裁して、「神」(元首)を代行していた。
帝国陸海軍では、「神(大元帥)」は最終の指揮命令権があったが、
「陸海の大臣」がこれを代行していた。
国民は「神の子」として、神の命令には、「死をかけて」従う事が
「道徳」であり「倫理」で有った。反する者は「非国民」とされた。
幼児期より、特に士族では、その様に教育され、鍛練された。 欧米列強と同様に、帝国も「植民地経営」に参入する様に成り、日清
日露の戦争に勝利する頃までは、議員内閣制も機能していたが、満州
事変から、連合軍(米、中、露など)と対決する頃には、軍部が「神」
の名において、政治決済して、国民を戦場に動員した。 若者は、祖国の為、家族の為、「上意下達」の絶対の「軍律」に従い
戦った。軍部は、勝利への「戦略」も無いままに、休戦も無く、最後
は、「特攻」と言う乱暴な類の無い作戦まで取り、沖縄の悲劇、広島
長崎の悲劇に、ついに、「神」のご決済で戦争は終わった。 現在は、民主主義、自由主義の「平和国家ニッポン」である。
存在者(国民)に対して存在(自由民主の平和国日本)が先立つ事は
無い。
現在は、決済は民主主義の「多数決」で為される。
この事実は忘れてはなら無い。
8月15日が来ます。 荒らすなよ
しかも現在の日本の制度がそんなに秀でていると思うなら、お花畑に過ぎるな >帝国は「天照」から続く「神の国」で有った。
ご冗談を。
ある時に作られた偽りの歴史に正統性など無い。
それ以前は原始的な民主制か蛮族とも言える力だけがものをいう時代
このようなくだらない因習を未だに存続している国が果たし優れているといえるのだろうか?
無知ゆえに恥じを自慢する愚か者に見える 48.
存在者、国民に対して存在、国家が先立つ事はないか。
戦前は軍部と言う国民が国家に先立つことになった。
どんな存在者か、が問題となる。
その内容が問題となる。 50さまへ
「大戦」は、アメリカ(連合軍)により、無条件降伏で進駐。「帝国日本」
は完全に破壊され、「身分制度(華族、貴族、士族、平民)の破棄」から
「財閥解体」「農地解放」「帝国憲法の廃棄」と革命的な激変。戦後生まれ
の人には、この意味の重大さ理解出来無くて当然。
「民主主義」も「一滴の血も流さずに」与えられたもの。理解出来無い人人
が多いのは当然。ここで、無理に理解はもとめませんが。
51−52さまも、ゆっくり勉強を。 とにかく私の話の文脈に戻してほしい。
ライプニッツの不可識別者同一の原理を逆手に取ると、
存在者が存在に先立つ、根源的でメタな次元が得られる。 存在者、それも差異のまったくない自然数個の存在者が、世界以前の空虚に
離散している。 この現実を忘れて居りませんか。
現在、日本国内の「米軍基地」「核(弾道ミサイル)の傘」に守られ
「平和憲法」。
日本人としての「オリエンテーション」をお確かめ下さい。 自身のオリエンテーションも知らず、「存在」も「存在者」も無い。 >>54
存在者が存在に先立つ。 この領野での存在者とは、「現存在」と
どのような連関にあるのでしょうか? 妊娠が発覚して他者に認識されたときに存在者となる。存在は受精の瞬間から。 >>41
存在と存在者の峻別にどういう意義があるのか、教えてクレヨン。 >>60
存在とは、何らかの意味を持ってこの世に存在していること“自体”をいう。
例えば、我々はこの世に生まれる為の親・所を選ぶことは出来ない。物心が付いた時に
その親の“子”として生まれているのである。 つまり、“運命”など、それ自体のことを
『存在』という。
存在者とは、運命によって既定されている人間・動物、そして、物(物質)も、その様なもの
として既定されているのであり、これらを『存在者』と呼ぶのである。 >>61
あんまよくわからんのですが…(*_*;
「存在」というのは、「存在者」の不変な属性のことを指しているようにも聞こえるんですが、
そうでないようにも聞こえます。
「何らかの意味を持って」とか「自体」という言葉の意味が、
はっきりとわからないところがネックです…(*_*; >>58
現存在は、世界の内部で生活している存在者です。
しかし、世界の外部であるメタな次元では、まだ存在、つまり世界という、
現存在が存在することを可能にする規定の一切が欠けているのです。
存在に先立つ存在者とは、無内容であり、また無差異であり、他の存在者と
交流することも、彼を意識することもできない。それは、世界内存在ではもはやないから。
この世界以前の空虚に、自然数個の無内容な存在者が離散している、ということです。 >>60
そんなに難しいことではありません。
存在=世界、と単純に置き換えてしまえば、世界の中に存在者がさしあたり存在するよね、
というだけの話です。ただしそれは、ハイデガーが内在主義者である限りであり、
世界の外部などという発想がなかったからです。 >>62
>61にも書いてあるように、「運命」のように“五感”では確認出来ないが、
我々を運命づけているもの、つまり、物心ついた時に、ある特定の親の子として生まれ、
その既定された関係から一生ぬけ出ることはできない。或いは、生き物は「死」を免れることは
できない。我々を含めて生き物には必ず“死”が訪れる。 このように我々の目には見えないが、我々の
一生を規定しているものを“存在”と呼んでいる。
ハイデガ−の「存在」の概念は、一般的な「属性」としての“物の本質的な性質”という範囲に留まらず、
物(=存在者)に対する“本質”が「世界内存在」に於ける“世界”という概念まで拡張している。 >>63
その存在者は、モナド(単子)と関係ありますか? 時間なんて定規のメモリくらいの概念だろ
過去も未来も頭の中にしか存在しないよ
前者は記憶として、後者は予測と可能性だろう
現実は現在が際限なく続いてるだけなんだよ。事象は突然現れては消える。そんなもんだよ >>64と>>65の間で、「存在」や「存在者」の定義が違ってるような…
ハイデガー読者の間でも、概念の意味が確定していないのかなぁと感じます…(-_-;) 存在者は存在の現象形態である。
だが、その認識するときに、その現象形態を先に認識するということである。
認識次元では、存在者が存在に先立つことになる。 >>66
ありません。確かに、モナドは窓を持たない、ということ、多元論であること、
これはライプニッツを予想させます。
しかし、ライプニッツのモナドは、実体です。私の言う存在者は、それ以上根拠をもたない、
つまりメタ階層のなかの最奥の秩序で離散しています。
しかも、上で言ったように、内容をまったくもちません、差異も持ちません、
それは、存在者同士が関係する可能性が0だからです。
また、この存在者は、モナドと同じように世界を表象しますが、ライプニッツの定義とは
違って、この表象は、実在的な世界です。なぜそれが許されるのかというと、
私の体系では最奥が存在者の離散であって、それが何次元か下の表象であったところで、
ふつうの常識的な人間の主観的な表象という最下層ではないからです。 >ライプニッツのモナドは、実体です。私の言う存在者は、それ以上根拠をもたない、
>ライプニッツの定義とは違って、この表象は、実在的な世界です。
ん?ちょっとおかしいな。 >>69
より厳密には、65さんの言う通りなのでしょう。
私は、話をかなり簡単な説明に還元してしまったから。
一般的な理解では、ハイデガーの存在は外部を持たない世界とイコールである、と言っていいと思います。 五感以外を持ち出せばどんな理論だって作れるんだよ。
証明する必要がないんだから。
詭弁もたいがいにしろよ?何かの新しい宗教か? >>71
>私の体系では最奥が存在者の離散
>まず、くれ氏の「存在者」とは、ハイデガ−と同じ概念(=存在者)でしょうか。
それから、上記の「最奥が存在者の離散」とは、存在と存在者の連関に於いて、具体的に
どのような論理展開をしていくのでしょうか。 >>74
その批判はあらゆる形而上学者の体系に当てはまりますね
私は、現代を分析する際、ドゥルーズやバディウの存在論ではもはや
時代に対応できず、新しい形而上学的体系が必要だと考えたものですから。
>>75
>まず、くれ氏の「存在者」とは、ハイデガ−と同じ概念(=存在者)でしょうか。
違います、私のいう「存在者」とは、内容がなく、従って無であります。
西田哲学がここに接合されてきますが、無とはかたちなきものからかたちをつくるもの。
純粋な作用です。しかし、西田の場合、無とは対象になり得ないので、主観に内在していました。
私は、無が、いわば凝縮された形をとって、存在者の根本形式となり、別の存在(より下の次元の存在)に
作用し、また創造行為を行う、と考えます。ここはドゥルーズ=ガタりの生産する機械、実在を生産する欲望
といったものにも似ますが、生産されるものが違います。それは、純粋差異であり、何にでもなり得るものであり、
かつまだ何にもなっていない「部分」です。 >まず、くれ氏の「存在者」とは、ハイデガ−と同じ概念(=存在者)でしょうか。
それから、上記の「最奥が存在者の離散」とは、存在と存在者の連関に於いて、具体的に
どのような論理展開をしていくのでしょうか。
色々な論理展開が考えられますが、内容がなく、純粋差異(西田の言うかたちあるもの)を
生産する存在者が、どのように現実の世界を表象するまでに至るのか、
といったプロセスは記述できるでしょう。そして、いつの間にか、存在者は
自らが表象した物理的世界の内部で存在ができるまでに、徐々に内容を規定されていく。 >>77
「差異」とは、双方が概念を定立しますが、
内容がない“純粋差異”であれば、一般的な論理展開は出来ないのではないでしょうか。 ドゥルーズもデリダの差延もそうですが、未規定な差異それ自身は、項を生む力、
ポテンシャルがあります。
ただ、私は彼らと違って、差異そのものに内在的な力を認めていないので、
私の言う純粋差異は、それ自身では項を生みません。
私の言う純粋差異とは、もしそれがあるシステムの一項に代入されれば、
その内容が、システムの全体性と他の項との関係の網から、ようやく規定されるようなものです。 >>79
「差異」というのは、双方が概念を定立し、相対的に論理展開を
進めて行く訳ですが、例えば、主観と客観の差異、或いは、存在と存在者の差異
のように、必ず双方が“内容を持った”論理展開をします。従って、内容がない純粋差異
というのが、今一つ、分かりません。どのような思考過程で「内容のない純粋差異を生産する
存在者」となり得るのか、その具体的な“思考過程”を説明願えますか。 >>79
ドゥルーズの差異と反復を読んでいただければ分かると思いますが、
彼の言う「純粋差異」は、「何かと何かの間の差異」でなく、
差異そのものであり、この差異そのものが、むしろ何か、つまり項を生む、という
潜在的ポテンシャルを持っています。
これがドゥルーズの差異(差異の差異とも呼ばれる)ですが、私の言う純粋差異とは、
ドゥルーズのそれのようには、発生的なポテンシャルを認めません。
私にとっては、その発生の問題は、また別の領域に関わるものであり、差異の中には
ありません。差異は、例えば別の領域にある単なる項が接続し合った未規定の構造に
おける、一項の位置を占め、それによりやっと限定されて、現実世界にいたる頃には
具体的な形に限定されていく。 >>83
それオカルト、そこまでいえるなら物理学で説明できるはずやろ。 >>84
どの部分ですか?
>>85
ドゥルーズの差異概念のことですか?
いずれにしろ、私は、クワイン等の自然主義をまったく肯定します。
その自然主義の外部を語るつもりでいます。
物理的世界およびその理論は、私にとってはまったく修正の余地のないものです。
それは物理学の仕事ですからね。
しかし、その成立のために、物理的世界の外部が
存在せねばならず、しかもそれはドゥルーズ的な超越論でなく、超越によって説明されなければならない、
というプラトニズムです。
>>86
思想史的ないし現在の社会状況的な必然性、および現代の文化潮流の諸傾向を、新たな視点で捉えるための必然性があります。 理解できてますが?
どの部分に向けられたレスでしょうか >>87
物理的世界の外部とは、論理実証主義・4次元時空領野(=物理的世界)の外部にある存在の
ことと思うが、この件に対して、クワインは「哲学の課題とは、科学的な世界理解の外部からではなく、
世界理解に内在的に、すなわち経験的・科学的手続きに則って解決可能でなくてはならない。それゆえ世界理解を
その外部から基礎づける事を目標としてきた伝統的な認識論的課題を達成不可能なものとみなす。」と述べている。
くれ氏は、物理主義世界の外部の存在を視野に入れているが、世界理解を外部から基礎づけるということは、従来の伝統的な
認識論課題の達成と同じであると思います。 >>90
そのクワインの引用には、世界外部からの基礎づけ、という形而上学への
非難があるが、主にプラトン主義者のことを言っているのだと思います。
むしろ、現代の哲学者で、世界を外部から基礎づけるなんて、
古臭いことやっている人たちは稀でしょう。ハイデガー然り、ドゥルーズ然りです。
2人とも、内在主義ですからね。
しかし私は、一方ではクワインに、他方ではドゥルーズに反対したい。
クワインに対しては、世界理解とは、純粋に内在的な視点では絶対に解決できないこと。
ドゥルーズに対しては、私がドゥルージアンだったこともあって、細かい不満点が
沢山あるのですが、それはおいおい書いていきます。
いずれにしろ、クワインの対象は科学であり、ドゥルーズは、科学に留まらない広範な領域を統一的に扱った。
その点では私はドゥルーズに完全に従います。 くれ氏は、物理主義世界の外部の存在を視野に入れているが、世界理解を外部から基礎づけるということは、従来の伝統的な
認識論課題の達成と同じであると思います。
なおこのあなたの見解についてですが、私がやっていることは、それらの伝統的認識論では絶対に解決不可能な
問題圏が現代において散見されるから、それを扱うという点でユニークでしょう。
その目的達成のためには、新しい方法が必要になるし、新しい方法で打ち立てられた理論は、新しいものでしょう。 >>92
「それらの伝統的認識論では、絶対に解決不可能な問題圏が現代において
散見される」ということは、現代の科学的思考(=演繹法・形式論理等)では
解決不可能な“人間の意識・クオリア・ゲシュタルト現象・生命(いのち)等”の問題のことでしょうか。 「先立つ」とは順序のことでしょう。順序は少なくとも2つの何かの
間の関係としてしか成立しません。で、どちらが先でどちらが後か
というのを、どのようにか決めなければならない。すると、2つの
何かとその順序を決めることの関係も考えなければなりませんね。 つまりですね、2つだけでは順序は決まらない。順序があるためには
最低3つが必要であり、3つあれば十分なのです。 >>93
>「それらの伝統的認識論では、絶対に解決不可能な問題圏が現代において
散見される」ということは、現代の科学的思考(=演繹法・形式論理等)では
解決不可能な“人間の意識・クオリア・ゲシュタルト現象・生命(いのち)等”の問題のことでしょうか。
伝統的認識論では解決不可能な問題ですよ?
具体的には、地球の滅亡の際、人間はいかなる行動をとるべきか、といった倫理的な
問題圏だったり、地球を脱出する際、統一的な宇宙船がいいのか、それとも小分けされた宇宙船がいいのか、
といったSFを念頭に置いてました。これだけ聞くと「はあ?」ってなるかもしれませんが、
私は終末論の立場をとって、終末論だけが、真の実存主義、真の個人主義を可能にする、と考えているのです。
科学が解決不可能な問題とは、それとはまた別種のことです。むしろ科学が解決できない問題とは、
永遠に科学から遠ざかり続ける、いわゆるカントの「物自体」であり、理念といってもいいでしょう。 >>94
その反論は私のモデルに当てはまりません。
なぜなら、ハイデガーの場合ですら、存在と存在者は、別のレベルにあり、
前者が後者を可能にしている、といった関係であり、順序の問題じゃないからです。 >>96
>科学が解決できない問題とは、永遠に科学から遠ざかり続ける、
>いわゆるカントの「物自体」であり、理念といってもいいでしょう。
何が言いたいんじゃい…(?_?)
この言葉では、言いたいことがよく伝わらんぞい。(・_・) >前者が後者を可能にしている、といった関係であり、順序の問題じゃないからです。
残念でしたね。じゃあ、前者とか後者とか言うこともできませんよ。
矛盾しない言葉遣いで説明できるようになってから反論しましょう。 あ、それに私は前者が後者を可能にしているなんてどこにも書いてませんよ。
順序が存在するなら、2つの関係だけでなく、3つが必要だと言っているだけです。
順序が存在しないなら方向性もありませんね。志向性とかいう言葉も使えませんよ。 「存在者」の具体例が十分示されているとはいえない。
誰にでも分かる具体例が出てこないのであれば、本当に理解しているとは言えないのではないか? >>98
つまり、科学は漸進的に宇宙の構造を把握していき、その内容を豊かにしていきますが、
どれだけ時間をかけても、どれだけ多くのことがますます観察で明らかになったとしても、
現実といったものが、永遠に把握され得ない理念という性格を持っているかもしれない、
という一つの仮定です。
逆に、現実が理念でなく、つまり世界の構造や真理を余すところなく把握しつくした、
と言い張る科学者がいるとしましょう。しかも、いつまでたっても反証も現れないし、
予測も正確である。しかし、反証がいつか未来の時点で現れて、彼の説を覆してしまう
可能性がある、という事態に、彼の理論は免疫を持たないと思うんです。 >>99
え・・・?ただ前者とか後者とか私が使った言葉は存在と存在者を指示しているだけなので、
ただの言語の問題ですが・・・?
>>100
いや前者が後者を可能にしている、というのは私のハイデガー解釈に過ぎず、
方向性については、存在します。
スレタイからして、明らかに存在者が存在を可能にし、存在者の方が根本的である。
あなたの順序論に反対しますが、2項とその関係の三つ、といった場合、それらは同じレベルにはないんですよ。
項を実体とするならば、関係はアポステリオリだし、関係主義を取るなら、項がアポステリオリです。
しかも私の場合、存在者と存在のレベルが違うので、あなたがイメージしている同じ平面の二項とも違う。 >>101
存在者は、私の存在論的構造の中で、最奥の秩序にあることを最初の方で言いました。
それだけでも具体例を示すのが困難なのですが、プラトンのイデア、カントのイデーのように、
適用例を示すことは可能でしょう。
例えば、私は、自分が何者かについて、反省するとします。すると、いろいろな命題が
産出されてくることでしょう。それらひとつひとつが、私についての規定を正確に表しているのですが、
いくら反省を深めようと、私のもっとも根本的なものは掴めない。これは、カントの統制的理念と同じ構造ではないでしょうか。
だから、私とは、最も謎ぶかきものであり、その存在論的構造故に、永遠に知識へと還元されえることはない。
私は、永遠に謎でありながら、現象学等によって漸進的に明らかにされ続け、しかし自らは永遠に遠ざかる、それを「無」に置き換えたのです。
もちろん、西田的無です、つまり絶対に対象化されえない、人間に内在的な、生産的な無ですが、
私の場合は、無とは、ばらばらな点をイメージしてもらえるといいのですが、相互外在的に離散している。 >>104
「現象学等によって斬新的に明らかにされ続け」というのは、“現象学的還元”によって
自己(=私)の存在を究明している、ということでしょか。 >>104
>西田的無です、つまり絶対に対象化されえない。
>西田の“無”の概念は、禅仏教の「無の境地」を西洋哲学的に表現したものですが
主観と客観が対立する以前の「主客未分化」の純粋経験として捉えている。つまり、主客未分化の
純粋経験の領野に於て、“無”を真の自己として捉えている。
従って、有と無が“対立した形”に於いて捉えるのではなく、純粋経験(=主客未分化領野)に於いて
自己の内で“無”を捉えていると解釈している。 >レベルが違うので、あなたがイメージしている同じ平面の二項とも違う。
えっ!わたしがイメージしてるのが同じ平面であると決めるのはあなた
ではありませんよ?それに0と1と2はレベル(?)が当然、違うでしょ?
じゃなきゃ2進法が成立しません。 >>105
あくまで現象学は例です。私自身の体系は現象学ではありません。
逆に、現象学によって、いくら自己と他者の問題を明らかにしようとしても、
自己(および他者)は根本的に究明されえない構造になっている。
ならば自己も他者も無の点に置き換えてしまえ、という発想です。
なおここらで付言しますが、最奥の存在者の離散と、現実の自然的世界の間には、
いくつもそれぞれ超越した領域があり、例えば人間心理といったものの領域も
ありますが、それはラカンとは全く違うものです。
>>106
>従って、有と無が“対立した形”に於いて捉えるのではなく、純粋経験(=主客未分化領野)に於いて
自己の内で“無”を捉えていると解釈している。
これはその通りでしょう。西田も時期によってタームや考え方を変えるので難しいところですが。
純粋経験は、まだ西田初期の発想ですね。
なお私は、まず全体性があって、それがだんだんと分化していく、といった、「プロセス的思考」を排除したいので、
西田もベルグソンも、批判の対象にはなります。主客未分化からの発生とは、要するに発出論ではないでしょうか。
19世紀末頃から流行った考え方です。
私は逆に、奥に存在者の離散がある。そして、西田と違って自己の中のみならず、自己を超越した存在者であり得る。特にそのプリミティブな形態では。 >>107
>えっ!わたしがイメージしてるのが同じ平面であると決めるのはあなた
ではありませんよ?それに0と1と2はレベル(?)が当然、違うでしょ?
じゃなきゃ2進法が成立しません。
順序というのは、基本的に同じレベル間で発生するものでしょう。
例えばドゥルーズの潜在的領野とアクチュアルな領域は、レベルが違いますが、
仮にもドゥルージアンなら、前者が後者を可能にしているからといって、
順序関係があるとは、絶対に言いません。
まあドゥルーズの場合は特に、両方の領域でインタラクティブな関係があるから、
例としては適切でないかもしれませんが。
あと、0と1と2は、存在論的なレベルは同じです。 >あと、0と1と2は、存在論的なレベルは同じです。
センスなさすぎ
ダメだこりゃw >>110
そんな気はします
>>111
センスの問題?0,1,2・・・・は外延量であるという意味で、概念的に同じレベルにある、
と言ったんですが レベルが同じとか違うとか言ってるけど、同じであるためには、
それが単なる表れであっても少なくとも2つが必要で、同じ
であることが少なくとも2つを必要とする以上、違うという
ためには、少なくとも3つが必要となります。同じことと、
違うことでは、当然、レベルが違いますよ。 認めたくなくても、同じことと違うことの間で既に順序が生じてしまっている。 量というのは、単位を数えることでしょう。違う「同じもの」が存在する
と認めることが数えることに他ならないのではないですか。 >>113
>違うという
>ためには、少なくとも3つが必要となります。
その第三のものというのは、同じレベルにある外延量を相互に規定するための、
項とは違う何かでしょう。私は、まだ存在者が離散する平面と、自然世界という閉じられた
世界しか論じてないですが、まさにその二つの領域が、全く違う実質を成分とし、全く違う
立法がある、というだけで、その「違う」というための第三のものとしてはいけないでしょうか?
あとは何を言ってるかよく分からないな・・
そもそも私の体系では、連続したプロセスを徹底的に排除するので、存在者の離散と、
存在の出現は、論理的な段階は存在しますが、基本的には順序ではない。
しかし、同時でもありません。それぞれの領域が別々の時間、法を持つからです。 あなたのいう同じもの、というのは、なんですか?
私がずっと述べてきた、存在者のことですか?
それとも一般的な、集合内における項のことを言っているのですか? 私はあなたの論について書いているわけではないので、あなたの
論なんて知りませんよ。スレタイについて一般的なことを書いて
いるだけです。 そうでしたか。ではそのようなものとして回答しますが、ちょっと待ってくださいね。 うーんしかしやっぱり、ただスレタイだけの話に限っても、>>97のレスだけで十分だと
思います。
ハイデガーだと存在が存在者を可能にしている。それは単なる順序という関係ではない。
私の場合はその逆である。私もこの点についてはハイデガーと事情は変わらない。
なぜ私の思想内容を書いたレスに一切触れず、スレタイだけに異論を挟むのかが理解できない。
スレタイだけ読んでも、私の思想の内容は一切わからない。
だから3つのものが必要だとかそういうのはあなたの思想でしょう。
私に対する反論ではなく、あなたの思想の表明に過ぎない、ということになってくると思うんですが。 >>108
>自己も他者も無の点に置き換えてしまえ
…ってなんのことよ?
貴方がどんなに思索したところで、実在する自分も他者もなくならないよ。 >>120
ハイデガ−の場合は、「存在が存在者」を可能にしている。私の場合はその逆である。と述べているが、
ハイデガ−の存在と存在者の関係は、“相互主観的な関係”であり、“○○に先立つ”という捉え方をしないと解釈している。
つまり、存在が存在者に先立つ(=可能にする)、或いは、存在者が存在に先立つ(=可能にする)などの捉え方をしない。
相互主観的な捉え方を、ハイデガ−は「それぞれ各自が私である」という命題で現わしている。この相互主観的な捉え方は、
現象学的還元によって可能となっている。ハイデガ−は現象学的還元という言葉をストレ−トには述べてないが、フッサ−ル
の助手時代に“現象学的還元”の思考過程の手ほどきを受けている。
世界内存在という世界観は、現象学的還元により、本来的な「現存在」の次元に於いて、正しく認識される。 >>108
>現象学によって、いくら自己と他者の問題を明らかにしょうとしても
自己(および他者)は根本的に究明されえない構造となっている。
>現象学によって、自己(および他者)を根本的に究明されえない構造とは、
どのような構造となっているのでしょうか? >>101
実在する他者や自分が無くなる、などということは主張してません。
人間は、いくら自己遡及しても、永遠に到達できないものであり、それは有を生産する
、つまりさし当りの自分の規定をすることで満足することが出来るだけであり、有そのものではありません。
その当たりのことに関しては、西田がやはり参考になるのではないでしょうか。
ちなみに、最奥の存在者の離散とは、無の点の離散ですが、つまり無の存在者化ですが、
前にも言った通りこれらの存在者は、運動を禁じられており、内容がない以上、
互いに差異がありません。それは人間ですらまだない、無に固有の作用の束です。 >>122
まあ私はハイデゲリアンではないので、ただの表面的理解で、しかも「存在と時間」のl
頃の認識にとどまっている、ということは認めます。
>ハイデガ−の存在と存在者の関係は、“相互主観的な関係”であり、“○○に先立つ”という捉え方をしないと解釈している。
>つまり、存在が存在者に先立つ(=可能にする)、或いは、存在者が存在に先立つ(=可能にする)などの捉え方をしない。
もちろん、ここは問題でしょう。私の言い方では、ハイデガーは超越論哲学になってしまう。
しかし、哲学者の解釈は任意だし、指摘頂いた私の読み方は私の解釈に過ぎないです。
それから、相互主観的とはどういうことでしょう?勉強のために軽く説明してくれると嬉しいです。 >現象学によって、自己(および他者)を根本的に究明されえない構造とは、
どのような構造となっているのでしょうか?
自己や他者は、カントの意味での理念の性格をもっている、ということです。
また、無の点の離散はまだなんの規定も持っていませんが、
人間存在からそこから生じる、と言った場合、
無の点の対、つまり無の点と無の点が向かい合った、という形式において、
初めて人間存在の基礎が得られます。
それは、根本的に究明されえない私が、根本的に究明されえない他者を、常に持っている、
ということです。なおここで他者とは、他の人間でも勿論いいが、意味、物体などすべての私から
超越した存在すべてがそうなのであり、その点が具体的な他者に置き換えられるや、
それはある規定を受けた、と解釈されます。
「人間にはなんの意味があるのか」という問いに対して、
私は「人間は、根本的にはまだ規定されていない抽象的な意味を持っている」と答えるでしょう。 人とは、ここからそこまでとそこからここまでが同じで交換可能ということでしょう >>125
訂正:
×それから、相互主観的とはどういうことでしょう?
○存在と存在者の関係が相互主観的とはどういうことでしょう?
勉強のために軽く説明してくれると嬉しいです。 >>128
ハイデガ−は、「現存在」を“自己を現にそこ(da)にあるものとして自覚する存在者であり、
存在者一般を超越した存在者として現存在(=人間)と定義している。
従って、>>122で述べている「存在と存在者」は「存在と現存在」に置き換えて、相互主観性について
述べることにします。
相互主観性とは、「現存在」が本来性の存在に於いて、「それぞれ各自が私である」と認識され、
その領野に於いて、自我(=現存在)は他我(=現存在)をも前提にして成り立つ“共同化”された
主観性の状態(現象化)と解釈している。 なるほど有り難うございます。
確かにその説明だと、存在が存在者を可能にしている、という理解とは違いますね。
いや、そんなに違わないか・・・?
存在という全体性を前提し、そのうえで現存在の間主観性が生じる、という話ですよね。 >>126
カントの意味での理念(統制的理念)とは、どのような理念でしょうか? >>130
ハイデガ−哲学の「存在」の意味は、>>65にも書いてあるように
運命のように“五感”では確認出来ないが、我々が生まれた時から運命づけられているもの
つまり、物心ついた時に、ある“特定の親の子”として生まれ、その規定された関係から一生抜け出ることは出来ない。
或いは、生き物は「死」を免れることは出来ない。我々を含めて生き物には必ず「死」が訪れる。 このように我々の
目には見えないが我々の一生を規定しているものをハイデガ−は『存在』と述べている。
上記のとおり、「存在」と「存在者(=現存在)」は密接な関係として、両者は一体としてある。 従って、「存在」と
「存在者」の関係は、可能にしている、或いは、可能にしていない、という捉え方をしない。
つまり、“差異化”のように互いに定立化し、相対的に捉えることは出来ない。それは、上記の“運命(=存在)”の様態を
見れば分かると思います。 >>131
哲学史上の常識なので、できればググってください・・・
私の理解では、カントは三つの理念を上げました。神、世界、心です。
理念は、プラトンのイデアとは違います。多少な経験的認識は体系を形成するために
さらに高い統一として、理性の統一を要する。
また、経験には絶対与えられないところのものであり、我々は理念に常に近づこうと
努力するが、理念は非経験的なので、絶対に経験することはできません。
ここまではただの哲学史。自己(心)が理念である、というのはカントの発想ですが、
ラカンの言う大文字の他者も、理念である、と考え、またその理念を、無の点に還元しました。 >>132
ハイデガーの忠実な読み手なら、そうなるのでしょう、しかし私は、
>上記のとおり、「存在」と「存在者(=現存在)」は密接な関係として、両者は一体としてある。 従って、「存在」と
「存在者」の関係は、可能にしている、或いは、可能にしていない、という捉え方をしない。
これには危機感が足りないと思います。ハイデガーの「存在」は、存在者が誕生したときに既に彼を囲い込み、
そこから永遠に抜け出すことのできない、監獄ないし全体性である。私の読み方はこうです。
それは真の個人主義を著しく貶めます。
そして私は、
>物心ついた時に、ある“特定の親の子”として生まれ、
まさにここ、つまり血縁を否定します。血縁こそ、個人を一生縛り続ける、種的な全体性です。
>つまり、“差異化”のように互いに定立化し、相対的に捉えることは出来ない。
アカデミックなハイデガー研究者なら、そこに留まるのもいいでしょう、
が、私は今やアカデミズムとは無関係な自由な存在なので、大胆な読み替えが許されるでしょう。
私は、ハイデガーの思想を、いわば形式的にとらえようと試みてるわけです。 >>124
「無の点の離散」だの「無の存在者化」だのって、一体どういう意味なのよ?
経験的世界の説明とは到底思えないわけだが…
自己と他者の生活というのは、経験的世界で生じる出来事なのよ。
「無の点の離散」とか「無の存在者化」とかいう話が、
我々の生活とどう結びついているのよ?
その結びつきがなかったら、ただの言葉遊びだよ。 >>135
まず、私は物理的世界に、何の変更も加えようとは端から思っていません。
それは物だけが存在する、一元論の世界であり、人間も例外ではありません。
しかし、それはあなたの言うように、経験世界ではないわけです。
心理的なもの、他者問題等・・・は、この完全に物理的な閉じた世界の外部にあります。
一方で、その外部に、他者関係、すなわち私が上で言った、存在論的な無の点の対があったり、
個人的な深層心理の領域や、意味の領域があったりします。
私たちは、基本的には物理世界において単なる物として生きながら、他方で、
物質ではないので物理世界には物質の形をとって現象することができない様々な穴を通して、
非物質的な思考を行ったり、他者との非物質的やりとりを行います。
私は、ドゥルーズやバディウの超越論のように、経験世界の外部から自然に手を加える、
といった、おこがましく、物理学者が到底容認できない理論でなく、
自然物理世界そのものにはなんら変更を加えません。そこで説明できない事柄、
つまり非物質的なものは、自然物理世界の外部にあります。
だから私は、超越論者でなく、超越を肯定するものです。
そして普通の意味での経験とは、物理世界、およびその外部の心理的領域、そのさらに奥の
意味の領域、等、の、様々な、それぞれ超越してたり相互超越論的であったりする領域の
共同の最終的な結果、だと今は考えています。 補足:普通の意味での経験とは、物理的秩序内部での物質的出来事と、
心理的秩序内部でのそれとのペアではないでしょうか。
目と目が逢うとき、なぜそれが気まずいのかというと、物質的な目に私が恐怖している
のでなく、まさに瞳こそが、眼の解剖学的説明を超えて、穴を代表しており、
そこで物質を超えた私の心理と他者の心理とが、直接向かい合っている、といった
状態だからではないでしょうか。 >>136
他者存在の認知は、物理的感覚を媒介にして成り立つもの。
自然があって他者が存在するのであって、
自然なくして他者は存在しないし、その認知もあり得ない。
なので、他者問題が完全に物理的な閉じた世界の外部にあるというのは間違ってる。
自然内存在としての他者に立脚する他者論のみが、有意味であり得る。
>>137
それは、他人の目に見る時に他人の心を読み取るということを話してるんだけど、
物質を超えた心理が存在することの根拠にはならないよ。むしろ逆… >>134
>そして私は「物心ついた時に、ある“特定の親の子”として生まれ、
まさにここ、つまり血縁を否定します。
血縁こそ、個人を一生縛り続ける種的な全体性です。
>血縁を否定します、と考えたとしても、その親の子として生まれたことは運命であり、
我々にはどうすることも出来ない不可疑性の事実であり、我々はその事実を“あるがまま”に
受けいれるよりほかないと思います。
ハイデガ−は、この「運命」を環境世界(日常的生活世界)の有り様として“あるがまま”に受け入れ、
そして、環境世界(=世界内存在としての世界)に定位して我々を取り巻く世界という現象を解明されなければ
ならないと述べている。 >>138
>他者存在の認知は、物理的感覚を媒介にして成り立つもの。
自然があって他者が存在するのであって、
自然なくして他者は存在しないし、その認知もあり得ない。
当然そうです。自然世界に、物質としての他者がいて、それらが機械法則によって
運動しています。私は、そうして物質世界で他者という物質と出会う、ということを
条件として、他者の瞳の中に当の他者の物質を超えたものを見るのです。
>それは、他人の目に見る時に他人の心を読み取るということを話してるんだけど、
物質を超えた心理が存在することの根拠にはならないよ。むしろ逆…
根拠ではなく、帰結です。つまり、私はクワインに全面的に賛成して、物理世界に
内包(意味)を認めない。心理も行動主義的に解釈する。
すると、私はクワインの信奉者でもなんでもないので、
他者との対面という経験的出来事を解釈する際にどうしても覚える非物質的なものの起源は、
つまり意味であったり心理状態であったり、そういった内包的なものの起源は、自然の外部にある、
自然を超越している、という帰結に至ったのです。
私がライプニッツの原理を逆手に取ったように、これもある意味、クワインの自然主義を逆手に取った、
と言えるでしょう。 >>139
>血縁を否定します、と考えたとしても、その親の子として生まれたことは運命であり、
我々にはどうすることも出来ない不可疑性の事実であり、我々はその事実を“あるがまま”に
受けいれるよりほかないと思います。
そこで止まってしまっては、自らハイデガーの全体性に包まれるまま終わるでしょう。
私は、親の子である以前に、あらゆる外的な規定以前に、一個の存在者である。
そしてそのように振る舞い、そのように認識され、そのように扱われることが、
私の考える真の個人主義です。
なお血縁とは、これも物質的秩序に入るかもしれません。まだ深くは考えてないですが。 >>141
>私は、あらゆる外的な規定以前に、一個の存在者である。
>一個の存在者としてある次元は、「われわれが常日頃生きている世界」と思うが、
この、われわれが生きている“日常的世界”を起点として種々の哲学的考察が為される。
くれ氏の述べている「一個の存在者」は、日常的生活世界次元から、種々の考察を経て
「存在者の無の点の離散」・「無の存在者化」へと深化したものと思います。
しかし、ここで注意することは、日常的生活世界次元での「一個の存在者」は、あらゆる外的な規定
の中にあるのであり、深化した「無の存在者(=真の個人)」とは区別されるものと考えられる。 >>140
他者との関係が自然を媒介にすることを認めながら、
他者心理が自然を超越するという結論が引き出せるのか、わからん…(*_*;
超越性の証拠がないし。 >>142
一面において仰る通りです。
まず私が最奥の存在、無の存在者と呼ぶものは、全く未規定であり、
人間である、という規定すら一切含まないものです。
それは、むしろひとつの出来事であり、無であるがゆえに、存在でなく純粋な作用の性格を持っているものです。
そして日常の生活世界の存在者は、様々な外的な規定を重ねて、限定されきったもの
であり、そして諸世界の法に従っています。
しかし無の点を根拠とする、という点は変わりません。ですが、無の点の創造的な力能は、
日常において、特に三人称性において、社会性において、完膚なきまでに抑圧されてしまっています。 >>143
>他者との関係が自然を媒介にすることを認めながら、
>他者心理が自然を超越するという結論が引き出せるのか、わからん
つまり他者心理は、自然に内在している、と言いたいのでしょうか。
心理の世界内在性は、常識的見解でもありますし、素朴実在論でもありますし、一元論でも二元論でも、
多くの思考の枠組みによって肯定できるでしょう。
しかし、まず第一に、クワインの自然主義を支持するとすると、一切の内包(意味)が認められないわけです。
別にクワインを知らない人でも、意味というものが、私の存在に対して、対自的な存在だということは認めるでしょう。
そこで私にとって、非外延的なもの、意味や心理といったものは、自然世界に内在するのを認められないのであって、
自然世界外部に、別の領域を作る必要があると考えたのです。しかも、その要請は、
意味や心理と言ったものが、もはや自然世界の押し付ける法を常にはみ出しているからこそ、
例えば意味の領域というものがそれ自体で在って、各領域は己に固有の法をもち、この法が相互に異なる限りにおいて、
自然世界の外部に、複数の領域を要請することができる、と考えたのです。 簡単に言うと、クワインの自然主義では意味や内包が存在する場所がない。
しかしクワインと違って形而上学的な思考者で、かつクワインの自然主義を支持し、
かつ意味や内包を認めるならば、それら非外延的なものは、自然の外部になければならない。 あと、>>140で「根拠でなく帰結だ」と言いましたよね。そして要請である、とも言いました。 >>145
クワインの自然主義(自然世界=物質世界)から“意味や真理”が存在する場所へ導かれる論理が
具体的に示されていないので、「無の点」という概念が理解出来ないところがあります。
日常的生活世界の次元から、どのような思考過程(思考手順)によって「無の点(=深化した高次の領野)」に
至るのかを示してもらえますか。
例えとして、デカルトのコギト(=超越論的主観)は、“方法的懐疑”によって誰しもが思考過程(=思考手順)に
そって実践することによって、一定の理解を得ることができる。
くれ氏は、ライプニッツの不可識別者同一の原理を逆手に取ることによって、「無の点」の概念に至った訳ですが、
モナド(単子)から「無の点」に至る具体的な思考手順(思考法)を示していただければ、私も「最奥の存在」、そして
「無の点」の概念を把握できるものと思います。 >>146
形而上の概念が現実に働きとして機能することだよ >クワインの自然主義(自然世界=物質世界)から“意味や真理”が存在する場所へ導かれる論理が
具体的に示されていないので、「無の点」という概念が理解出来ないところがあります。
日常的生活世界の次元から、どのような思考過程(思考手順)によって「無の点(=深化した高次の領野)」に
至るのかを示してもらえますか。
まず言っておきたいことは、特にクワインという、ラジカルなモデルでなくても、物理世界が外延しか認めないと主張するあらゆるモデルに
世界外部性を見ます。
では私なりに回答に努めます。が、頓珍漢なことを言っていたらごめんなさい。
形而上学的に語らざるを得ない無の点の領域と、日常性における意味や内包の非物質性という、わたしはこれまでこの二点を
並行して論じてきました。
前者は、純粋に思弁的な性格で、ドゥルーズやメイヤスーといった超越論への反撥、および例えば神というただ一つの根拠の代わりに、
n個の存在者の離散を根拠とする、といったことから、導かれました。だから、日常生活の次元から無の点に至ったのではありません。
というのも、無の点は、日常生活から超越しているからです。だから、日常性から導かれるというより、
日常生活の基礎づけという性格を帯びるのだと思います。
これではあなたは満足しないでしょうね。ちょっと視点を変えてみましょう。
私がドゥルーズから学んだのは、「理念的出来事」という概念です。これは私のドゥルーズの読みですが、出来事には、内容がない。
ここで私は、出来事とは無の点だと考えました、つまり、理念的出来事という、本来メタな領域に属するものは、
それが日常世界において取る形態は、そもそもその世界が出来事の延長性を認めないため、局所的な点に凝縮されたであろう、と。 そして私は、ポストモダン思想家としてのドゥルーズと違って、現代の実存主義者でもあり、
一方で自己による自己遡及(無限の反省)から、自己の本質が無であること、従って、自己とは、無の点であることは述べましたが、
他方で、出来事とはそれ自身経験世界で内容を持たない点に凝縮されることから、これまた無の点であるということ、
この2点から、私は自己も理念的出来事(特異点)も、ともに同じく内容を持たない無の点だ、という結論に至りました。
ドゥルーズにおいて最も重要な出来事(特異点)という概念と、ドゥルーズが軽んじる自我や実存といったものの、
根本的な同一性に至ったのです。
一度この自己や出来事がもつ根本的な無を認めると、
他者や、人間以外の生物にも特異点、無の点がある、と帰結し、日常世界で様々な特徴や規定をもつものは、
根本的には互いといっさい差異を持たず、内容や規定のない無の点が離散している、と考えました。
これらが、非プロセス的に、様々な規定を与えられて、自然世界には本質的に居場所を持たない出来事であったり、
あるいは実存という神秘的なものを認めない自然世界に物質的基礎を置きながら、
自らの非外延的な性格が、自然世界を超越している実存としての存在者であったりする、といった一連の
思考となりました。 >>150
形而上の概念を用いたら、世界から超越できるわけですか?
世界内存在である形而上学者が、
自分を神聖化しているだけのようにしか思われんのですが… 論理的って思えるところが一個もないよ。釣りかな?チラシの裏のつもりで書いてるのかな。
有名な本を読んだりして哲学的な考え方とか書き方を知ったほうがいいと思うよ。
>>1 >>155
論理的じゃないとは思わない。経験的じゃないけど。
有名な哲学書を薦めるのは、おかしな話。
むしろ、くれさんは有名な哲学書を読み過ぎ。 今日も自身のコメントでアヘ顔をさらしておるのじゃろ? >>152
>無の点は、日常生活から超越しているからです。だから、日常性から導かれるというより、
日常生活世界の基礎づけという性格をおびるのだと思います。
>「無の点」は、超越論的次元(高次の認識領野)であり、日常的生活世界とは異なる捉え方をする。
そして、デカルトのように日常的生活次元から論理を進めて、コギト(=超越論的主観)に至るのではなく、
くれ氏の「無の点(超越論的次元)」へ至る思考過程(=思考手順)は、デカルトとは異なる別の方法論をとると
述べていると私は解釈しています。と、言うのも、「無の点」という高次の超越的認識が、論理的考察もなく認識された
とは考えられないからです。 >>155
具体的な個所は指摘できますか?分かりにくい表現があったら、丁寧に説明しますよ。
>>156
まず、最奥の秩序が無の点の離散という、非生命的、非生成的で静止的なものである限りで、
ドゥルーズらの高次の経験論ですらないことは確かですね。
しかし、静止的なものからは何も生まれないから、どこかで生成を、別に語る必要がある、
とポストモダンの思想家なら言うでしょう。所謂生成と構造の二元論ですが、わたしはそれとは違う
考え方をします。
>>159
まあもちろん証明はできないですが、私は自演という行為は一切行いませんよ。 >>158
>「無の点」は、超越論的次元(高次の認識領野)であり、日常的生活世界とは異なる捉え方をする。
まず無の点は、超越論的次元ではありません、超越的次元です。要するにプラトンのイデアです。
しかも内容のない、自然数個数あるイデア。
それは、ポストモダンの思想家がこぞって批判する、超越的な「根拠」です。
>そして、デカルトのように日常的生活次元から論理を進めて、コギト(=超越論的主観)に至るのではなく、
くれ氏の「無の点(超越論的次元)」へ至る思考過程(=思考手順)は、デカルトとは異なる別の方法論をとると
述べていると私は解釈しています。と、言うのも、「無の点」という高次の超越的認識が、論理的考察もなく認識された
とは考えられないからです。
まず確かなのは、私はデカルトと同じく日常で、私による自己遡及を試みた、ということです。
すると、私の表面的意識より深い部分に関する、様々な認識が得られます。
しかし、自己遡及を何回繰り返しても、自己の本質には至らない、むしろそれはどんどん遠ざかっていく。
だからそれは、経験を超えているのだと、少なくとも反省的には捉えられない特異的なものだ、と考えました。
あなたに対する回答なら、これが最適でしょう。ここだけ読むと、実に現象学的ではないですか?
しかし私は、そこから1ステップ跳躍して、自己の本質が経験を超えたものである、つまり理念であり、
理念とは内容のないものである(これは要説明ですが)、
という推論を媒介して、それを無に置き換えることによって、現象学を脱しました。
無の点と無の点の対。これが人間の実存の根本的な形式であり、レヴィナスの他者論も
デリダの他者論もこれに包摂されます。 しかしそういった、自己遡及という現象学的方法とは独立に、私はドゥルーズの研究の中で、
特にドゥルーズの「ベルグソンの哲学」のベルグソン論を読んで、とても不満に感じました。
そこでは、物質的なものと精神的なものが「混合して」現実をなしているのだ、という、
ナイーブな超越論が語られますが、逆に現実から見れば、現実は、物質的なものと
精神的なものに超越論的に分割される、ということを意味します。
現実は、2つのまったく性質を異にする超越論的なものの混合である。
ここまではいいです。
しかし、ベルグソンの二元論を、ドゥルーズは一元論に回収したいので、その2つの超越論的なものが、
そこから分化する一元的なものの探索に向かいました。これが私には余計なことに思われたのです。 これ以上書くと長くなりすぎるので、省略しますが、純粋にドゥルーズの文献研究からも、
間接的にではありますが、無の点の離散に行きつきました。 >>161
>デカルトと同じく日常で、私による自己遡及を試みた、ということです。
すると、私の表面的意識より深い部分に関する、様々な認識が得られます。
しかし、自己遡及を何回繰り返しても、自己の本質には至らない、むしろそれは
どんどん遠ざかっていく。
上記で述べているように、くれ氏もデカルト、或いはハイデガ−と同じように
“日常的意識次元”より論理を進めていますが、ここでお聞きしたいのは、「現象学的還元」によって
自己遡及を試みたのか、それとも「方法的懐疑」又は、「形式論理思考」なのかをお聞きします。 >>162
>逆に現実から見れば、現実は、物質的なものと精神的なものに
超越論的に分割される。現実は、二つのまったく性質を異にする超越論的なものの混合である。
>上記に於いて、現実は、精神的なものと、物質的なものに“超越論的”に分割されている、という認識は、
デカルトの「心身二元論」と、同じ概念と判断しますが、その後の記述にて、両者は超越論的なものとして“混合”
していると記しているのは精神的存在と物質的存在が異質であるが、互いに連関し合うということでしょうか。 >>164
現象学的還元に近いでしょう。現前するあらゆるものをカッコに入れて、自己を
対象として(自己を対象とする、それは反省ではないのか?)、
そこから命題を引き出そうとしました。その命題自体から帰結する命題、その帰結の
命題、と延々と続きますが、それらは系列となって続くほど、ますます自己の本質から遠ざかるように
思えました。
>>165
デカルトのような単純な二元論ではないでしょう。あくまで「超越論的に」分割されているのであって。
混合とは、そんな大したことじゃありません。連関し合うのでもありません。
ただ、精神という内包的・連続的なものと、物質という外延的・離散的なものが、
ただ「混じりあって」現実は成立している、というのです。
混合という以外に、細かい表現は見当たりません。 >>166
>現象学的還元に近いでしょう。現前するあらゆるものを“カッコ”に入れて、
自己を対象として(自己を対象とする、それは反省ではないのか?)そこから命題を引きだそうとしました。
>上記で、自己を対象として、そこから命題を引き出す。という現象学的還元を実行していますが、この思考過程
に於いて「自己を対象とする」ということは、現象学的還元で、自己をエポケ−(カッコ入れ)から“除外”するという
ことでしょうか。 自己をだけを純粋に対象とする、ということでしょうね。
しかしそれは対象化された自己に過ぎない、現前する自己は絶えず遅れている。
だから真にリアリティーある自己は、対象としての自己でなく、それを現前させている
自己で、これはどうやっても対象になり得ない。
なぜそこに拘るのですか?私は現象学的な思考はしていないのですが。
このレスに書いたのも、ほとんど一般論です。 >>168
>自己をだけ純粋に対象とする、ということです。
>現象学的還元とは、自己の“存在”と、自己の内にある“既成概念”のすべてと
自己の外にあるところの客観的存在のすべてを、エポケ−(カッコ入れ)することですが、
自己(主観的存在)そのものをも、一旦、エポケ−(カッコ入れ)するところに特徴がある。
何故かというと、現象学的還元は、主観的存在と客観的存在の一切の先入見(既成概念)を
“排して(カッコ入れして)”そこに現れる現象(=純粋存在)を直観することであるからです。
従って、現象学的還元の思考過程において、エポケ−から自己(主観)を除外し、自己を“対象とした反省”は、
ますます、自己を捉えることが出来ず、さらに反省(エポケ−)を繰り返すことによって、自己の本質が遠ざかる
ことになります。
本来の現象学的還元とは、上記にて述べているように、外界の実在性(客観的存在)に判断停止(エポケ−)を
行うと同時に、主観的存在(自己)をもエポケ−(カッコ入れ)し、そこに現れる“純粋存在”を基底として、
本質観取が行われる。 なるほど、私の方法を批判するために、長々と質問をしてきたわけですね。
あなたはどうやら現象学に入れ込んでいるようだから。
だが、現象学にはあまり興味のない私ですら、あなたの反論にはおかしいところがある。
>何故かというと、現象学的還元は、主観的存在と客観的存在の一切の先入見(既成概念)を
“排して(カッコ入れして)”そこに現れる現象(=純粋存在)を直観することであるからです。
誰が純粋な現象を直観するのか?それはフッサールによれば、超越論的主観性である。
そして
>従って、現象学的還元の思考過程において、エポケ−から自己(主観)を除外し、自己を“対象とした反省”は、
私は、エポケーから経験的主観性を除外したなどとは一度も言っていない。
私の前に立ち現れるのは、普通の意味でのエポケーを実行した後の、超越論的主観性そのものである。
なぜなら私は、エポケーを実行した後でさえ、純粋な存在の立ち現われをその都度否定してるのであり、
現象学的還元の只中で、自己を直観しているから。エポケーをしている存在者としての自己を。
ここで、超越論的主観性そのものなど、直観できるわけない、という反論もあり得ますが、
むしろ現前するものとしての超越論的主観が常に遅れているから、それが可能なのです。
常に時間的に遅れていることによって、それは規定を被る。だから、その規定に関する認識は得られるが、
それは超越論的主観性の本質ではない。それが延々と続きます。
だから、結局は同じ結論にはなります。
まあ最も、上に書いたのは即席の論理であり、私は現象学に近い方法論を取った
ということはなくはないですが、もちろん私の体系は現象学じゃないし、
一応元ドゥルージアンとして、本質主義を批判する立場を取るならば、
「自己の本質」という言葉をこそ批判するべきでしょう。
本質をずーっと探りつつ、それが得られない、
永遠に得られない、と一度認識したならば、それを無に置き換えるという一種の跳躍によって、
現象学的方法から非現象学的な体系へと移行する、ということは十分あり得ると思いますね。 しかも、>>168の方法は、厳密には現象学的方法ではなく、西田的な発想なんですがね。 すみません、>>170は適当なことを書き過ぎたので、反省。
もうちょっと適切なレスを考えます。
まあフッサールのジャーゴンに翻訳したら、こうなるかな、程度のものなので。 >>170
>誰が純粋な現象を直観するのか?
>一切の先入見を排してそこに現れる“純粋存在”を直観すると記している“純粋存在”とは
純粋経験(主客未分化領野)として捉えられている。だから、純粋存在を誰か(=主観)が直観するものではなく
主観/客観の枠を越えた認識となる。この辺の認識(=経験)は、難解な概念なので人に伝えるのは難しいところがあります。 いやいや、私は170のレスではフッサールを念頭に置いてるので、
純粋な現象を直観するのは、超越論的自我ですよ。
これは間違いない。
それとも誰か、>>173のようなことを言った現象学者っているんですか?
勉強のために教えてもらいたい
純粋経験って西田やW.ジェームズの概念で、その二人は現象学者じゃないですよね >>170
あなたの方法を批判した訳ではありません、フッサ−ル的な現象学的還元は、
エポケ−に於いて、主観を意識的に除外している。それゆえに、フッサ−ルに於ける
現象学的還元は、超越論的主観(コギト)を基軸として本質観取が行われる。静態的現象学に
於いて、独我論的と批判されたのも現象学的還元の後に於いても、超越論的主観(コギト)に固執
したことが起因している。 >>174
私は、西田の思考過程は、現象学的還元と解釈している。
つまり、西田の禅の思考過程は、一切の既成概念を取り除くことであり、
その行き着くところが、主観・客観の排された領野(=主客未分化)です。
この一連の“一切の先入見を排する”という思考過程は、本来の現象学的還元と同じと解釈している。 エポケー→現象学的還元という順はあるだろうから、>>175の論理は理解できますが、
エポケーで主観を除外して純粋経験うんぬんってあなたの説ですよね?
そもそも現象学的還元のうちに、エポケーが含まれているのであり、エポケーの
4つの要素のうちに、エイドス的還元と超越論的還元が含まれているのであり、
これらエポケーを含めた全体の行程を、現象学的還元と呼び、そのあとに残る物が
純粋自我。
と、私の昔のノートには書いてありました。ソースは私の過去の師の講義ですが。 >>176
もちろん、西田と現象学の類似性は指摘できるでしょう。
西田の二元論批判は、西田に限らずとも19世紀末から20世紀初頭に流行った考え方ですからね。
主客未分化からの分化などその典型です。
私はそれを支持しませんけどね。二元論でも一元論でもない多元論だから。
なんで現象学の話になってるのかもはや分からなくなってきたんですが。 文献研究ばっかしてたから、現代フランス哲学以外で話題になってることをあまり
知らない。
取りあえず、クオリアの問題について、私の体系で何らかの基礎づけを与えられればいいのだが やっぱりこの板は古典をじっくり研究するより、心身問題のような
分析哲学的テーマが主なのかな?
しかし物理学かぶれの数もかなり多いな
哲学(形而上学)にしかできないことも数多いし、既に分業化は済んでるというのに >>182
軽々しく形而上学言うな、
形而上と形而下が常に入れ替われるつかみ所の無いものと知る前の
人間には単なる形式単語にすぎず理解にははるかに及ばない。 存在者自身の潜勢力の側からの「存在の成就」、それにメシア二ズム・・・
フランクフルト学派のベンヤミンは、私と共通するテーマを抱いているように思える。
もちろん、私はメシアにズムという意味での終末論ではなく、非キリスト教的な
終末論だが。 ネグリの論文にも、フランクフルト学派って出てくるんだよな
やっぱ勉強しなきゃダメか >>179
クオリア(感覚質)の問題に焦点を向けたのは、良い着眼点ですね。クオリアそして、
ゲシュタルトは、人間の感覚(=身体性)と意識(精神)に関連してくるので、現前における
自己の新たなる論理の展開・創造が為されていくのでしょう。 >>186
一番ホットなテーマですからね。
私の自然世界に一切手を加えない、という反ドゥルーズ的姿勢は、クオリア問題を
基礎づけるのには向いているでしょう。
ま、それでも形而上学的基礎づけに留まるから、基礎付け主義自体を批判する
ポストモダンの思想家には見向きもされないでしょうけど。
逆に、そういった必ずしも物理主義に還元しきれていない問題圏を扱うのに、
私のモデルは非常に強みを持っていると思いますね。 ちなみにゲシュタルトとは今問題になっているのですか?
心理学としては20世紀前半のイメージがあるのですが・・・ >>188
メルロ=ポンティが、ゲシュタルト理論を基底として、フッサ−ル後期の発生的現象学を
「知覚の現象学」の中で独自に展開しています。又、ゲシュタルト理論はWikipediaにも詳しく説明されています。 そんなことくらいは知ってますよ・・・
クオリアと同じ意味でもっと現代的なテーマなのかと一瞬思いましたよ 現代でも盛んにアカデミックな領域で論争が行われているようなテーマですね。
クオリアは英米系で今なお盛んなテーマでしょう。
ゲシュタルト心理学を真面目に心理学として取り上げる心理学者は現代では皆無でしょう。 クオリアの問題は私の哲学では容易に記述できるということがわかった まあ自然世界の一元論でクオリア現象を扱おうとするとアポリアに嵌まり込むのは
当然ですよね まあ誰も見てないかもしれないが書いておこう。
ちなみにゲシュタルト、要するにまだ分析されてない全体性としての「形態」は、
私の哲学の中でも重要な位置を占めます。
サルトルの即自存在に近いといえば近いけど 意識とは、どこにあるのか。一番考えられるのは、それは感情の場を潜在的にもつ、
自然世界と並行した現実的秩序であって、自然/意識の対が、経験世界を可能にする。
そこから自然を除けば、自然の法則群から解放された夢、幻想、ファンタジーである。
意識世界における基本存在者は意味である。意識は、自然を覗きながら
(身体は自然の秩序だから、意識は運動を意志し、自然内の身体に働きかける)、
現前するなまの対象、その形態性、意味によって一切規定されていない剥き出しの潜在性を見るのである。
剥き出しの潜在性は、普段はステレオタイプに覆われているが、それが絶対他者として現象したとき、
現前する無の点は、ステレオタイプを貫通し、そのものの原初の姿態と出会う。
それを分節・解釈することが、それぞれ知覚作用・意味付与作用。
分節は、純粋に知覚可能な差異によって差し当たり行われ、例えばリンゴ現象は、まだそれだけでは、
色以前、ゲシュタルト以前の未分化の全体性であり、そのゲシュタルトという現象、
赤という現象、などなどと複数の現象へと分析される。
それらの総合が、意味付与作用であり、剥き出しの潜在性に、差し当たりの規定、覆いとしての意味を、
対応させることで、そのものの意味の体系における概念的位置づけを理解する。 試論ゆえに、まだ概念の混乱が見られるが、
ここでゲシュタルトと言ってるのは、単なるかたち、程度のものであり、
195で言った、分析されていない全体性としての「形態」は、196における
「意味によって一切規定されていない剥き出しの潜在性」
に当たります。 しかしサルトルの即自存在と違って、形態というものは自然世界の個体毎に違う、
極めてユニークなものであり、その意味で、自然世界の存在者である物体の実存性の
表現でもあるのです。
とまで主張したら、もはや自然世界を形而上学的に歪めていることになるかな・・・ >>188
ゲシュタルト心理学は、1912年ウェルトハイマ−、ケ−ラ−、コフカによって確立したものであり、
その内容は、「経験をバラバラの要素に分解する構成的心理学の断片的な分析手法に対する反発」として
ドイツに於いて創始された。
しかし、メルロ=ポンティは「ゲシュタルト心理学者たちは、ゲシュタルトというものが人間の知覚や観察とは
関わりなく“物理的世界”に客観的に存在していると考えている。そして彼らは、生物の行動も心の活動もすべて
“物理的世界”のゲシュタルトから生ずる結果として説明するのである。
ゲシュタルト心理学者は、物質と生命と精神の統合ということも、それらすべてを“物理的ゲシュタルト”という
共通分母に還元することによって得られるだろうと確信しているのである。」と述べている。
ゲシユタルトは「心身合一」した“知覚”として認識(=経験)されるものであり、ゲシュタルト心理学者のように
精神・物質・生命を一元的に“物理的”な認識として捉えることは出来ない。 この論理から、メルロ=ポンティは
ゲシュタルトを「ゲシュタルト理論」として確立し、「ゲシュタルト心理学」とは概念を明確に区別している。 >>200
まあその辺は哲学史でも割と重要ですよね。
メルロ=ポンティの後期の「肉」とか、キアスムとか、もう今ではほとんど忘れてしまったけれど。
いずれにしろ、188に対するレスとしては、心理学の領域にしろ、現象学の領域にしろ、
もう誰もゲシュタルトを積極的に話題にしていないのでは?
まさに私が上のレスで話題にしましたが、それをゲシュタルト心理学の方に引き寄せるのか、
メルロ=ポンティの方に引き寄せるのか、迷ってしまう。
多分どちらにも還元できないと思う。すべての混乱は、自然世界の外部性を認めないことにある、私は思っているから。 >>195
ゲシュタルト理論の全体性としての形態とは種々のバラバラな要素を
知覚を基底として全体性を捉えることであり、バラバラの要素を統合化(=融合化)する働きがある。
サルトルの「即自存在」は“意識”ではない“物”として捉えられている。
「即自存在」の概念は、「即自存在には、理由もなく、目的もなく、それは“創造”されもせず、
それはすでに存在しているという、この単なる事実以外には、存在のいかなる資格をも持っていない。」と、
述べている。
従って、ゲシュタルト理論の全体性としての形態と、サルトルの「即自存在(=物)」の違いは、
ゲシュタルト理論の全体性の形態は、創造性・統合性の働きがあるのに対して、「即自存在」そのものには、
創造性・統合性の働きはないことです。 近いといえば近い、という曖昧な言い方ですからね、195は厳密な言表ではないことは認めますが、
あなたの202のレスにおけるサルトルの即自存在の定義に欠けている要素は、
意味を剥ぎ取られた剥き出しの存在がもつ、嘔吐をも催させる恐ろしさ、といったものです。
それと、これは指摘しておきたいのだが、
>ゲシュタルト理論の全体性としての形態とは種々のバラバラな要素を
>知覚を基底として全体性を捉えることであり、バラバラの要素を統合化(=融合化)する働きがある。
この書き方だと、バラバラな要素ありきで、それが事後的に統合されたものが形態である、という主張に見えます。
私は哲学史的なゲシュタルト概念を引き継ぐつもりは毛頭ありませんが、それでもやはり、
ゲシュタルト理論を主張したひとたちは、まずもって分節化されていない全体性が部分に先行する、と言いたかったのではないでしょうか。
そうでなかったら、>>200のレスにも矛盾しますよ >>203
私は、ゲシュタルトの概念には二通りの働きがあると捉えている。
つまり、分節化されていない全体性が先行するという働きと、分節化された種々の要素から
総体的に共通の理念・意味を創造(=統合)するという捉え方があると考えている。 なら私とは共通了解を得られますよね。
部分が先行しない、全体性としての形態が、純粋に(恐ろしい)他者として現象するが、
人はそれを自然な分節に従って異なる要素に分析し、再統合することでそれに
意味を付与する。
これが私の言っていることです。意味を生成する領域は別に担保しているので、
(そこではソシュールが批判されます)、意味がそこで創造されるのではなく、
あくまで既知の意味で、存在の恐ろしさを隠蔽する、という意味においてですが。 >>205
純粋に(恐ろしい)他者として現象するとは? 私は自然世界における物体を、自然世界における唯一の存在者として見ているからです
ですからそれが現前するときは、他者として現前します。
普段はステレオタイプ、という意味論的概念に覆われていて、その恐ろしい他者性を隠蔽していますが。
デリダのメルロ=ポンティ批判は、メルロポンティが他者との肉による一元化を主張していたところにむけられ、
デリダ自身は他者の異質性を強調しました。
それを汲んでのことでもあるのですが、人間という存在者の根本構造からして、
他者とはまずもって抽象的であり、なんの規定も持たないので、物体でさえ他者として現前することが
可能だ、と考えた結果でもあります >>207
人間という存在者の根本構造を“主観的存在”として捉え直した場合に、
自然世界を他者(=客観的存在)として現前するということでしょうか。 違います・・・
人間という存在者の根本構造は、抽象的な他者との対です。
他者が現前していないときでも、物体が対象でも、常にそうです。
ラカンの他者論もレヴィナスの他者論もすべてそれに還元できます。 違います
視点観点捉え方は一つではなく多数あります >>209
抽象的な他者との対とは?
この次元での自己(主観的存在としての)と他者の連関は、
デカルト的主客二元論としての他者(客観的存在)ということでしょうか。 形式的に言えば、無の点が対になっていること
これが思考をするための最低限の形式的条件です。
つまり一方の無の点が、もう一方の無の点を対象としてもつ、ということですね
ここには完全な対称性がありますが、無の点の離散からプロセス的に、
一方が自我をもつことを示すことができます。
他者は、抽象的なもので、未規定であり、出来事的であり、異質です。
それは常にもう一方の自我を脅かします。
他者は未規定であるがゆえに、どんなものでも対象になります。イデオロギー、
法則、物理的対象、経験、超越論的領域、本、芸術作品、もちろん普通の意味での人間も・・・
意味も他者ですし、目的、価値も他者(つまり超越的対象)とふつうはみなされますが、
ヴィトゲンシュタインは意味を超越的対象とすると必然的にパラドックスに陥ることを示したらしいですね。
私はそこは不勉強なので、本当はじっくりそのあたりを研究しないといけないんですが。
それらはふつう、ステレオタイプで覆われているがゆえに、自我に対する暴力を抑止されているのですが、
他者の他者、つまりラカンが大文字の他者と呼ぶものが、突然出来事的に、このステレオタイプを破壊します。
もちろんラカンの言う大文字の他者と、私とでは全然意味が異なるのですが。
既存の意味が一気に瓦解し、当のステレオタイプ的な意味付けをされていた対象が、「無意味」というかたちで私を脅かす、
正確には既に確立されていた自我及び自我をアポステリオリに構成していたシステムを脅かす、破壊する、ということです。 この未規定の他者とは、ドゥルーズで言う、「思考を強制するもの」としてのシーニュでもあるでしょう。
既存のシステムが破壊されたのですから、それを修復するか、ないしは新しい代替システムを模索しなければなりません。
それが、「思考を強制される」、ということです。 >>213
>ヴィトゲンシュタインは意味を超越的対象とすると
>必然的にパラドックスに陥ることを示したらしいですね。
あんま聞いたことのない話だけど、そんな話あったっけ? >>213
>形式的に言えば、無の点が対になっていること、つまり、一方の無の点が、
もう一方の、無の点を対象としてもつ、ここには完全な対称性があります。
>上記の内容からすると、無の点は一方が自我(主観)とし、その対極にある無の点が
他者(客観)として定立していると解釈できますが、ここで、「無」の概念に対する質問があります。
一般的な「無」の意味は、有(形あるもの=主観的存在)と対極する客観的存在(物自体のように、形の無いもの)を
「無」と定義されている。この観点から“無の点”のように、形のない“無の存在”に対して、“点”という形を与えることは、
本来的な「無」の概念とは異なると解釈しています。 >>215
前に教授と話してた時になんとなく聞いた話だから、実際にはないのかも知れません
あるとしたら後期でしょうが、いい加減で済みません。
出典も示せません。 >>216
>一般的な「無」の意味は、有(形あるもの=主観的存在)と対極する客観的存在(物自体のように、形の無いもの)を
「無」と定義されている。この観点から“無の点”のように、形のない“無の存在”に対して、“点”という形を与えることは、
本来的な「無」の概念とは異なると解釈しています。
私は「点」という表現を使いますが、それにはいくつかの理由があります。
もし、無が、純粋に理念的なものであり、従って、ある領域(例えば自然世界)に現れるというとき、
この自然世界に、入り込むということ自体は、禁止されません。なぜなら、無の点は理念的だからです。
しかしながら、無の点は、当然自然世界の一般的存在者である物質とは認められないから、
延長を持つものとしては認められないのです。だから、点という幅を一切持たないものに凝縮される。
また、基本的なことととして、無とは創造的なものであり、そこから純粋な作用が生じるところの存在者でもあります。
無を点として捉えるということは、もちろん、伝統的には無の対象化という、哲学的禁忌を犯すことにはなるでしょう。
しかし、無にはカテゴリーがあります。
唯一絶対の無、離散的な絶対無、有化された無(空間)、有に依存した無(ドーナツの穴)。まだまだあり得ます。
この離散的な絶対無が、無の点と呼ばれます。それは有化されてない限りで延長をもちません。
物理的な延長だけでなく、あらゆる領域において、その領域固有の、つまりその領域において許される延長性を持たないので、
しかもその領域に現象すること自体は否定されないので、どこまでも無限に凝縮する、点として表現されます。
もちろん不可視的なほどに凝縮された点です。どんな小さなドットより小さい、不可視な点です。 >この自然世界に、入り込むということ自体は、禁止されません。なぜなら、無の点は理念的だからです。
ちょっと補足。
対となっていない、すなわち知的存在者という形式をもたない純粋な無の点は、
理念的に諸領域を超えて運動します。それは諸領域に拘束されず、また諸領域に
入り込んだからと言って、理念性を失いません。
しかし、それは創造的である限りで、経験、特に非連続的経験、つまり出来事、の可能性の条件ではあるでしょう。
まあまさにドゥルーズが特異点と呼んだものですね。彼はそれを「理念的出来事」、とも
言い換えています。 ジャン=リュック・ナンシーの共―存在、ネグリ=ハートのマルテチュード・・・
存在を最もラジカルなところで共的なものとする、これらの傾向が主流なのかな。
まあポストモダンを批判的に乗り越えるものとはいえ、やはり存在者の単独性(同一性)を基礎とする
近代に戻るわけにもいかないのだろう。
それは政治的意図をもつときには当然だとは思うが、政治的意図によって第一哲学が
都合よく書き換えられてもいい、ということは意味しないだろう。 >>211
視点観点の話をしているかどうかという話は、していないのですが・・ 今リュック・ナンシーの「複数にして単数の存在」を読んでいる。
彼が根源的と呼ぶものが、単独の存在者でなく共ー存在であり、
私と同じくライプニッツの不可識別者の原理を引用しているにも関わらず、
私の根源(無の点の離散)とはまるで異なる。
公共的なものをアプリオリとするところに彼の革新性を認めるとしても、
私はあくまで非公共的な離散を主張する。
それが可能なのは、西田や田邊」からの文脈があるからだ。 >>222
>公共的なものをアプリオリとするところに彼の革新性を認める
これって、そんなに革新的なのか? 言い方が悪かったかな
だが、基本的に西洋哲学は、もし超越的根拠を措定するとしたら、唯一の根拠ということになるでしょう
それには必然性があって、神学的な色彩を一切排除しても、唯一の根拠という考え方が極めてラジカルであることには
変わりない。
その後、そもそも超越的根拠とか基礎づけ主義って違うよな、ってカントの話になって、マルクスの関係主義や
ハイデガーの内在主義が出てきたわけだけど、
ナンシーは怯むことなく第一哲学に挑む。
その際、20世紀前半にはほぼ唯一の根拠について真面目に主張する人はいなくなったけど、
ドゥルーズやバディウみたいな多元論的な形而上学も一時復権してきた、という文脈もあるでしょう
リュック・ナンシーはドゥルーズの系譜でなくデリダの系譜だけど、特異性の分有という言い方や、存在者の離散=措定
という言い方は、ドゥルーズを意識してるのかな、とは感じた。
それから根拠と言ってもあくまで根源における存在者の離散、共―存在であることがポイントで、
それは現に行為しコミュケーションしている人間と異なるような超越的根拠(イデア)でない。
一言で言えば現代における実存主義なんです。公共的と言っても、公共性が一人の存在者に先行するわけじゃないし、
その逆も言えます。
公共的なもの、離散的なものを根拠とする、と宣言することは簡単でも、
唯一の超越論的根拠というアリストテレス以来の概念を理論的に否定するのは、存外難しい。
それならば超越的根拠など必要としない内在哲学的方法の方が簡単であるとすら思う。 ×唯一の超越論的根拠というアリストテレス以来の概念を理論的に否定するのは、存外難しい。
○唯一の超越的根拠 なんで日本ではフランクフルト学派が日陰者なのか
思想ブームのときに日本で現代フランス思想うぃか紹介されなかったのが大きいのか
というわけで勉強のためにハーバーマスの「コミュニケーション的行為の理論」を買ってきた
本当は第一世代のベンヤミンあたりから読むべきなんだろうけど、たくさんあって何買ったらいいか分からなかった 思弁的転回()にしろ、最近は多元論を第一哲学に据えるのが主流。
しかしやはり多元的な第一哲学である私の体系がナンシーやメイヤスーに見られる困難を回避している、
という事実がある 同一性が既に複数性を表している。
己(self)の同一性(oneselfであること)とは、己(self)がひと(one)と
ひとしい(equivalent)関係、つまり、1(ひと)対1(ひと)対応の関係にある
ということである。 そういう語源的な考察はギリシャ語かラテン語じゃないと厳しいと思います >>229
ギリシャ語やラテン語であっても、語源分析に何の哲学的価値があるのかと…(*_*;
(歴史学的価値は当然あり得るとしても) 私はラテン語はノータッチ、ギリシャ語は受験のために基礎だけやった程度ですが
ギリシャ哲学とキリスト教は、西洋哲学の二源泉ですよね
ギリシア人が思考していた言葉には当然彼らの思想、というかものの見方が内在してる
はずですし、それを実際に分析したのが二―チェやハイデガーでしょう
彼らが近代を超克するにあたって、近代以前のギリシャ哲学や中世の哲学まで
遡行し、それを改めて語源的な立場から捉え直すという作業は、
非近代的なものであり、必要なことだったとは考えてます。
ハイデガーのアレーテイアなどその最たる例ですよね。 >>231
ギリシャ哲学の価値を誇張して捉えてしまったことは、
ハイデガーの間違った方向性だったと思いますけどね。
古代ギリシャ文明の意義を過大評価してる。
言語への関心は同時代の分析哲学の興隆と共通してるけど、
彼らは古代ギリシャ語の分析が大切だなんて言わなかった。
哲学が現代的価値を持つためには、そっちの方が正しい方向性だと思いますけどね。 まあ現象学と論理実証主義(及びそれ以降の分析哲学)のどちらかが正しいなんて、
言い争っても無駄なだけでしょう
やってること、研究対象、方法論その他もろもろの差異からして完全に分業化してますからね。
互いに会話すら成立しませんよ。
>哲学が現代的価値を持つためには
これもやはり研究領域の違いでしょう。政治哲学の分野になると、マルクスを
源流の一つとしたイタリアの現代思想家などは現代とはいかなる時代であるかの分析から始めるわけですし、
それはそれで現代に照応した一つの研究領域といえるし。
いずれにしろそうした分業化を認めたうえで、ソクラテスよりさらに遡るというハイデガーの態度が、
彼の存在論の根幹の部分にありますし、アーレントなんかも政治哲学を語るうえでギリシア哲学研究は
避けて通れなかったし、
ちょっと名前忘れましたがアメリカの倫理学でさえも、ロールズ以前の誰だかがアリストテレスを
根本から体系的に捉えなおした、といったように、ギリシア哲学という一つの起源に立ち返ることは、
一度きりで終わってはならない、哲学の本質にかかわる側面だと思います。 分業化というか・・・
すみません分業ではないですね、分業は統一的な協力に基づいていますからね。
とにかく互いで対話ができないくらい、分化してしまった。 >>233
「現象学と分析哲学が言い争っても無駄」という考え方はよろしくないと思う。
安易な棲み分けなんて、
相互の既得権益を保守しようとするだけのもんに過ぎんのじゃなかろうか? 現象学と形式論理学(分析哲学も含む)は、存在に対する捉え方と思考形式が異なる。
つまり、現象学は、前提→推論→結論の思考過程において、前提を設定しない直観思考であり、
形式論理学は、前提を設定し、必ず結論を導き出す“演繹法的思考”を基本としている。
現象学と形式論理学のどちらが良いか悪いかでは無く、我々が存在している全ての事象は、
五感で捉えられる物質性(=粒子性)と、五感では捉えられない精神性(=状態性)の領野にて
構成されている。つまり、演繹法的思考(前提を設定する思考法)では捉えることの出来ない人間の
心の問題、主観的意識、クオリア、ゲシュタルト(感覚質)などは、現象学のような前提を設定しない
思考法が必要となるのである。 >>236
既に20世紀の前半に、ウィーン学団の人たちは、現象学その他諸々の
非経験的哲学、形而上学を「無意味」である、と斥けました。
それに対して、自分らは、科学の一分野であり、特殊科学であり、経験科学である、と。
形而上学は彼らが最も忌み嫌うもので、単なる神秘化であり、排除すべき対象です。
こんな立場の人たちと、存在や実体をアプリオリに総合的に考える人たちとが、
相容れると思いますか?
方法論で言えば分析哲学は、アプリオリな総合判断を無意味として片付けます。
もうお互いが、それぞれ種の分化のように全く違う方向に進んで完全に専門化したので、
むしろ橋渡ししよう、という態度よりは、互いの差異を認めたうえで己の領域で研究を進めたほうが
建設的ではないですかね・・・「意味」や「真理」という概念一つとっても、両者で全然違う概念ですし、
概念を共有していないので、対話が不可能なのです。現象学なんて、「神学的転回」なんてものまで
一定の地位を占めてますしね。
ただ、橋渡しを使用という試みは確かにあって、フェレスダールやウリクトが、そのような
哲学者みたいですね。私は彼らの著作を読んだことがないから詳しいことは分かりませんが。 そもそも自称分析哲学の人には、存在者と存在の関係について語る概念なんて
持ち合わせてないでしょ。こんなスレに来るのがスレ違い。 こういうの見ても、「存在」とか「存在者」という概念を自明のものと見なして
いるわけで、存在論について語る言葉を持ち合わせていない。
>存在論の方法としての言語分析
www.chs.nihon-u.ac.jp/philosophy/faculty/iida/ANALYSIS.pdf クワインやクリプキやパトナムは普通に存在論を語ってますよ
だが、もちろん形而上学のそれではない。 それは存在論で議論されていることを理解していないだけの話でしょう。
理解していないので、存在という言葉を使っているだけで存在論に
ついて語っていると思い込んでいるだけ。 そうでないと思うなら、クワインやクリプキやパトナムがそれぞれ、「存在者」
と「存在」の関係についてどのような議論をしているのか示してごらん。 >そうでないと思うなら、クワインやクリプキやパトナムがそれぞれ、「存在者」
>と「存在」の関係についてどのような議論をしているのか示してごらん。
いや彼らはハイデガーの系譜とはまるで関係ないので・・・
クワインだと有名な、「存在するとは変数の値である」といったラジカルなテーゼがある。
唯名論と普遍論者の戦いはまだ続いていて、クワインは微妙な位置にいたけど、
緻密な言語分析が、全体論者である彼に存在論を語らしめたのでしょう。
大分適当ですけど。
クリプキについては事情は異なって、様相論理学のモデルを構築したのちに、
ライプニッツの可能世界論を精緻にするという形で存在論的である。
まあ私は正直分析哲学については、哲学史的な知識しかないのであまり立ち入った
議論には入れませんが、存在論についてでさえ、フランスの現象学とは
まるで異なった文脈なので、互いに対話はやはり困難だと思います。 だからさ、自分でスレ立てで主題にした「存在者」と「存在」の関係について
クワインやクリプキやパトナムはそれぞれどう論じているのか尋ねているんだよ? 彼らはハイデガーの系譜とはまるで関係ないので、存在論的差異などという概念は
疑似問題として片付けます。
つまり存在論的差異や存在の意味などといったものは、無意味だとして斥けるでしょうね。 ようするに、自分で「存在者は存在に先立つ」というスレを立てたわけだけど、
その人たちは、「存在者」と「存在」の関係について何も語ることすらできない
ということですね。 >>237
「前提を置かない直観思考」なるものを現象学はしているというけど、
それを単なる思い込みとどう区別するんでしょう? >>247
「語ることすらできない」ではなく、「語る必要がない」のでもなく、「語ることが無意味」だからです。
アプリオリな総合判断を分析哲学者は無意味として斥けるからです。
そして私は分析哲学については基本的なことしか知らない、元ドゥルージアンです。 意味を理解できないから無意味に感じられるだけでしょ。
意味を理解していれば、無意味とすることができないのだから。 まあとにかく、私は基本的な分析哲学の取るであろうスタンスを述べただけで、
私自身はフランス現代思想の流れで存在者と存在の存在論的差異に拘ってるんだから、
247のレスは意味不明ですね。
分哲と、現象学やその他現代思想のどちらが正しい、なんて議論は不毛で、言い争っても無駄、と上で述べたはずです。
お互いに研究対象、研究目的、研究手段が違うんだから。 >>250
論理実証主義が意味という概念をやけに狭義に解釈してしまったせいで、
無意味という言葉を濫発して誤解を招く原因にもなってるけど、
言いたいことは要するに、
経験的に検証できることを基盤にしなければ、真偽の定めようがなく、
真偽の定めようのない存在論を論じてどうすんの?という話。 そうですね、経験的に検証できないことを理由として挙げればスムーズでしたね。
そういうハイデガーみたいな存在論が、経験的な間主観性ももたず、じゃあアプリオリな間主観性ってなんだよ、
という分哲側の意見も付け加えておきます >>248
それこそ、「アプリオリな間主観性」の問題ですよね。
フッサールは「明証性」という概念に依っていますが。 では、公理は経験的に真偽を決めようがないから、議論をしても無意味で
無駄ということになるんですか? >>256
貴方の言う「公理」が何のことかをはっきりさせてよ。
形式論理学や数学の公理のこと? 公理(こうり、Axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として
導入される最も基本的な仮定のことである。
公理 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/公理 数学では、数学的な内容が豊かになるような公理体系を選ぶ、というような言い方をするらしい。 >>256
形式論理なら公理系の選び方は恣意的で任意でしょ
演算子や量化子の数は最小限にして(これも任意)
トートロジーになる命題が恒真とかそういうことでしょう
だからどの公理系を選ぶのが都合がいいかはその都度変わる 哲学では、哲学的な内容が豊かになるような公理系(=形而上学)を選ぶ
ということでしょう。 >>229
公理系にギリシャ語やラテン語を選ぶか、日本語や英語を選ぶか、
その選び方は恣意的で任意でよく、いずれを選ぶのが都合がいいか
はその都度変わることになりますね。 >>262
そうだとしたら、そこでいう「哲学的な内容」ってなんなのさ?という話になる。 人々が日常的に感じていることをより整合的に統合して説明できる
ことでしょう。だから、哲学の分野においても、他の人々が何らかの
意義を感じて議論している概念についても、それらについて、
よりうまく説明するのではなく、単に「無意味である」と排除
するのは、それだけ自らの哲学が「貧しい形而上学」に基づいて
いることになるのではないでしょうか。 >>263
日常言語は公理系じゃないので・・・
>>262>>263
時代に相即する形而上学には基本的に貴賤はないと考えている。
プラトンの体系とドゥルーズの体系の間に貴賤がないように。
形而上学は、分析哲学とは違って、その時代の文化的・政治的潮流に相即する、
つまり歴史内在的である、と規定するなら、歴史を最も包括的かつ整合的に
説明する体系が、その時代を代表するんじゃないですかね。
ドゥルーズが馬鹿にされがちなのは、ポストモダンという諸領域が余りにも分裂した時代に、
統一性を与えようとしたこと自体にある気がする。
もちろんドゥルーズは分裂自体を肯定するわけだけど。 そうですね、まず公理系(=形而上学)ってのも意味不明だし、
私としてはもう分哲とフランス現代思想は対話不可能と何度も申し上げてるので、
適当でどうでもいいことを言ってますね。
まあでも、
>形而上学は、分析哲学とは違って、その時代の文化的・政治的潮流に相即する、
つまり歴史内在的である
ってのはあると思いますよ。あまりにハイデガー的な規定かもしれないけど。 読み取れるのは対話の意志がまったくないということだけ >>269
君こそ、どの発言に対して話をしてるのか、はっきりさせなよ。 分析哲学とフランス現代思想以外に、リオタールが「合意のテロ」と
批判したような合意形成を重視するドイツ系?の哲学がありますよね。
この三者の関係って、今はどうなっているんでしょう??? 読み取れないだけの読解力しかない人に説明するだけ無駄 リオタールが批判したのは「ハーバーマスの対話的理性の理論」だそうです。
話し合えばいい、分かり合える、分かり合えるはずだというのは
一種の政治的圧力になるんでしょうね。 >>272
じゃあ書き込むなよ…君の発言の方が、脈絡がわからん。
アンカーくらい付けろよ。 >>255
>それこそ「アプリオリ(先天的))な間主観性}の問題ですよね。
>「前提の置かない直観思考」とは、現象学的還元のことですが、
この「現象学的還元」とは、“一切の既成概念を排して(宙づりとする)”
純粋存在の領野に至ることであり、この一連の思考過程は、一切の既成概念を排する
ことにより、経験的に純粋存在を認識する。つまり、相互主観性(間主観性)とは純粋存在に
おいて認識されるものであり、アポステリオリ(後天的・経験的)としての特性を持っている。 ゴミはゴミ箱へ
ここは便所の壁ですよ
ゴミ箱でも便器でもありません >>271
日本ではフランクフルト学派はなぜか影薄いですよね
ハーバーマス買ったけどまだ読んでない >>278
影薄いか?アクセル・ホネットみたいな第三世代の翻訳さえあるんだぞ… 第三世代とかになるともうニワカの私には分からないですね。
ただ、フランス現代思想自体がエポックメイキング的だったといってもいいと思うし、
さらにそれが日本で思想ブームを二次的に引き起こしましたからね。
それに比べるとどうしても影薄い印象を個人的にはもってますが・・・
今まで会った人でもフランクフルト学派研究してる人って、2人しかいないし。 孫の世代になると遺伝子的にもうほとんど赤の他人ですよ しかしナンシーの特異性のpartage(分有)って概念装置は便利だな
ドゥルーズの「ただ一つの出来事」が、分割されるのに表面上似てはいるが、
ドゥルーズの場合出来事はそれ自身主体に外在的なひとつの存在者であったのに対して、
ナンシーの特異性は存在者がそれぞれ分有するものである。
この特異性が、分有される限りで、分有されたところの一つのもの(唯一の特異性)に
基づいて、各々の存在者が共的、共―存在となる、ということになるのかな sharingは、各々の分け前なのか共有なのか、ということになる 分有自体はプラトンのイデアの分有から来てんだろうけど
言わんとすることはナンシーもネグリ・ハートのマルチチュードとほぼ同じだろう
まあナンシーの政治に関する議論はショボいけど しかし特異性という抽象的な概念一つだけで、全ての存在者の代替不可能な
そのもの性を還元してしまうのはどうなんだろう
まあ私も無に関してそれをやっているのだが
ドゥルーズでは純粋差異と特異性を区別しているが、
純粋差異と未規定性は区別していない節がある
純粋差異は未規定だが、未規定性は純粋差異の必要条件でない 特異性と未規定性、純粋差異・・・これら相互に区別される概念群の登場は、
西洋哲学が最も積極的な意味での「無」に近づいた瞬間だと思う。
それらを無の論理で置き換えた瞬間、我々は西洋哲学の外部にある。
例えば特異性は発生論、プロセスを可能にするが、
無の領域にはプロセスがない、したがって純粋に超越的な領域なのだろう ネグリ・ハートは、「特異性とはそれ以上縮減できないものとしての差異である」、と定義している。
すると、ドゥルーズ的に言えば、ネグリ・ハートの特異性とは、「差異の差異」、「理念的差異」、「差異それ自体」と呼ばれるものである、ということになろう。
そしてドゥルーズも確かにそれに同意すると思われる。
しかし私は、差異というものと、特異性とを根本的に異なるカテゴリーとして捉えたいのです。
そのものとしての差異とは、存在者でなく、作用であると考えていて、その限りで特異性とは異なる、
むしろ特異性が差異それ自体の根拠となっているのではないか。 気持ちは分かるけど
それ、宇宙人に説明できないよね また、バディウは、ドゥルーズの「ただ一つの出来事」に対抗して、
出来事の還元できない複数性を説いた。
私もそれに賛成です。
ナンシーの特異性の分有というのも、唯一の特異性を想定しているように思えるが、
特異性が分有されるとは、一つの特異性が超越的根拠となることです。
つまり、唯一の特異性と、その分有とが、諸項の特異性と公共性を同時に成立させているわけです。
しかし、非分有的な、つまり分有されることなき特異性、すなわちそれ自体が差異をもつ特異性といったもの―これが
バディウの出来事ですが、それはアプリオリな公共性の根拠とならない代わりに、
存在者の特異性を、公共性に先立たせるのです。これが、「存在者は存在に先立つ」というスレタイの意味です。 宇宙人に説明できない、ですか。
翻訳の不確定性は置いておくとして、個々の知的存在者がもつ、
認識や経験に先立つ構造が、我々と宇宙人では違う、ということですか?
なんか、パトナムかなんかで読んだ気もするな。双子地球がなんたらとか。
もう全然覚えてないけど。 認識や経験に先立つ構造が、我々と宇宙人で同じかどうか
わたしには分からないのだが
たとえばですね、貴方は「特異性」という言葉を発するときに
その「特異性」という言葉の意味の成立を根拠無く託してしまうでしょう
「特異性」という言葉が、貴方の伝えたい内容として他者に伝わるかどうか
まったくの神頼みなんですよ
確かに伝わる保証も、確かに伝わった確証も、まるでないまま
伝わったことにして前に進む
そんなことの繰り返しなんですよ
そんな営みが、宇宙人に通用するとは、わたしには到底思えません >>292
>「特異性」という言葉が、貴方の伝えたい内容として他者に伝わるかどうか
まったくの神頼みなんですよ
「特異性」などといった形而上学的タームは、そもそも論理実証主義者が批判した、
非経験的な概念なので、そもそも共通の了解が得られるものでない、というのが一つ。
また、2点目に、私はフランス現代思想の文脈で特異性を語っているでしょう。
私が特異性というときに、まずその原点にあるのは、ドゥルーズの特異点ですよ。
だから、ドゥルーズを読んだ人々の集合の中では共有されているタームです。
もちろん、解釈によってこの概念が全く違った意味を持ちうるのは当然のことですが。
しかしこの集合の中で、コミュケーションが幾度も交わされることで、まさにこのタームの
意味が、ますます公共的になっていくことが期待されます。
私なりにドゥルーズの原典に当たって、また膨大な二次文献等を通じて、
ドゥルーズから引き出したものが、私のいう特異性の意味です。
そして、私が私的に意味する特異性にまず了解を頂けないと、当然
>伝わる保証も、確かに伝わった確証も、まるでないまま伝わったことにして前に進む
という事態になるわけですが、それは西洋形而上学的思考の宿命ではないでしょうか。 >>293
たしかチョムスキー
もちろん古くはカント
あとは構造主義者は一般にそういう主張をしていると思います。 >>294
貴方が言いたいこと分かりますよ
貴方は「フランス現代思想の文脈」や「ドゥルーズ」という『目印』を提示することで
「分かる人には分かるでしょ?」という、なにかしら「哲学にあっては当然であるべき」論を
惰性的に押し出すことになるのですが、わたしはそこに非常に危うさを感じるのです
宇宙人はドゥルーズを理解するでしょうか、何か重要な内容を含むのもとして
それを理解しようとするでしょうか
しないように思います
何らかの情報元として認識することすらしない可能性が大いにある
よく見積もって、どうでもいいことが書かれているぐらいにしか恐らく理解しない
なぜって、その「原典と膨大な二次文献」から貴方が獲得した「特異性」を巡る境地は
その「文字通りの内容」でしかないからです
それはつまり、「貴方が原典と傍題な二次文献を通じ、結果として貴方に成立した特異性の意味」です
その「貴方が私的に意味する特異性」がコミュニケーションによって公共的になっていくことは、
「公共的」であることの意味が、「大いなる勘違いの輪」という意味で良いなら、あり得る話ですが
その勘違いを成立させるための、すぐれているか、おまぬけなのかよくわからない「この土俵」が、
宇宙人にも恐らく装備されているだろうと信じる根拠が、わたしには見つからないのです >>296
今、ドゥルーズの話だけに限りますと、
>宇宙人はドゥルーズを理解するでしょうか、何か重要な内容を含むのもとして
それを理解しようとするでしょうか
これに答えます。
何がドゥルーズ哲学を成立させているか、という問題です。
特異点などという一介の装置は置いておくとして。また言語的な問題も置いておきます。
それは西洋哲学が、「特異に」歩んできた歴史的文脈です。実際、若きドゥルーズは文献研究家でした。
ホワイトヘッドなどと比べて、ドゥルーズは歴史内在的な哲学者といえます。
それで、その宇宙人が、仮に地球人と同じ認識の構造をしているとします。
ですが、当然彼らの歴史的文脈は、環境の相違や、あるいはまったく不確定な偶然性などがあるとして、
それらによって「差異化」されることでしょう。ですから、もし彼らにとっての哲学が、つまりその原初が
タレスのように「世界の根源とは何か?」と問うことによって始まったとして、それだけの
経済的・政治的条件まで一緒だったとして、以後生まれてくることになる彼らの哲学とは、
ハイデガーの言うように歴史内在的であるか、もしくは宇宙普遍的であるでしょう。
前者なら、彼らがその哲学で語っている対象が、我々のいる
惑星とは全く違う物質だったり、全く違った概念だったりする可能性があるから、
彼らが何について語っているか、我々は理解できないだろうけども、その考え方の枠組み(思考のイマージュ)自体は、
相互理解できる可能性はないでしょうか。最初の「根源への問い」から、差異化しただけであれば、
少なくともギリシア的思考は既に共有しているから、あとは文脈をたどればいいのではないでしょうか。
もちろん、文脈が異なるということは、別の星にとってはなんら歴史的意味を持たないから、
ナンセンスと判断されようとも、全く違った文脈にある思考の枠組みの交換・贈与というのは、
認識の構造をプラスの方に刷新するに足るポテンシャルを秘めていると思います。
また、ここで宇宙普遍的であるような形而上学があるかどうかは保留しておきます。 >>297
「地球人と同じ認識の構造」という表現が受け持つ内容責任が
わたしには分からないのですが、同様の五感を持つぐらいの意味で理解しておきます
ぶっちゃけ、そんな宇宙人が哲学のような営みを行う必然性は全くありません
また、「文脈をたどればいい」という判断は、楽観的すぎると思います
「読めば分かる」なんて、勘違いなんですよ
プラトンをいくら読んだって、プラトンが見えたものは我々に見えないし
カントがいくら説明したって、カントの本当に伝えたいことは伝わらない
だいたい、カント本がこんなにあることがおかしいのです
あらゆる言葉は、せいぜいのところ「根拠無き宙ぶらりんの暗号」でしかない
「哲学の文献を読んで理解したつもりになる」というのは、
それに触発されて個人に成立する世界を説明可能に見通すことによって成されます
しかしこれは結果を説明しただけであって、
私の世界の中で説明される限りで私に見通される
のであって、この同じ説明が他者の世界に持ち込まれるときに
それが理解される根拠など無いのです
『哲学的に見えているもの』がみんな違うのだから
ドゥルーズにしたって、いつまでも「俺のドゥルーズこそ至高。おまえのドゥルーズ理解は間違っている。」
となってしまうのです
神を知らぬ宇宙人にどう説明したら神を理解するでしょうか
宇宙人に実数の連続性を説明したら、鼻で笑われるような気がしてなりません
遊んでいただき、どうもありがとう >>298
>宇宙人に実数の連続性を説明したら、鼻で笑われるような気がしてなりません
お〜!数学者に挑戦状か?!(>_<) >>298
>ぶっちゃけ、そんな宇宙人が哲学のような営みを行う必然性は全くありません
タレスの例で言った通り、ある程度の集団性と、その集団の(経済的・政治的)安定性が
確立されれば、万物の根源を問うようになることは必然ではないでしょうか。
だから、ギリシア哲学は十分生じる可能性のあるものだと思います。
まあそれは余りに西洋に寄りすぎなので、なぜ日本や中国でギリシア哲学が
発生しなかったかも、検討は必要でしょうが、それも文脈、地理、人種によるのでしょうね
しかし、中国人であれ、アラブ人であれ、日本人であれ、西洋哲学を共有することが
現に出来ています。
また神にしても、それは概念化すれば、世界と存在者を可能にする超越的な一者
なのだから、そのような思考は生まれて当然だと思います。
それは学問以前の自然的な宗教の概念化ではありますが。
カントにしても、膨大な研究書が出ていますが、昔の研究者がカントの原典にぶつかって
得た認識を礎にして、現代のカント研究者も、何かカントから新しい命題を引き出そうと
しているのだから、哲学もまた累積的といえます
カントには成れませんが、カントを解釈する人々の集団間の絶えざる対話と論争で、
その時代時代のカント解釈は公共性を帯びてきます。そしてカントの解釈史には、
恐らく終わりがないでしょうね。だからこそ、カントの本当に言いたかったことなるものは、
永遠に秘匿的な、何か理念的なメッセージなのでしょう。そしてそれゆえに、
カントからは永遠にわたって常に新しい命題が引き出せる。それはどの哲学者でも同じ。
あなたはやたら悲観的な認識論的観念論に陥っているようですが、
数にしても、例えば初めに抽象的かつ離散的項、と抽象的に定義すれば、例えそれが宇宙人の世界では
発生していなかった概念だったとしても、彼らはそれを学ぶことは出来るのではないでしょうか。 >>300
集団性と安定性が確立されることと、万物の根元性を問うようになることとの間に
いかなる必然性があると思いますか?
無いのですよ、そんなものは
人間と言う生物種が、そのような性質を備えていることは
偶然なんですよ
人工知能が人間の知性を凌駕する日が遠からずやってくる
世界最高の頭脳を持つ科学者でさえ、そんなことを口走る時代となりました
しかしこの人工知能は、万物の根元を問いますか?
超越者という概念を創造しますか?
それともそれをしない思考作用は、知性だとも知能だとも言えないものですか?
そう切って捨てることで、人間のいじけたプライドを救うこと以外、何の意味がありますか?
私は悲観的であるわけではありません
所詮は人間に成立する言葉の芸術でしかない哲学というローカルな戯れに、
その自覚があるなら文句はありません カントについて言えば
物自体とか、超越論的などという
操作可能な物体でも数でもない、しかし虚無だとも思えない
世界にあって世界でない闇
「それについて説明することで人に理解される」ことは、全く神頼みであって
説明に使用される記号列と構造の中に、理解されることの必然性は全くありません 実数の連続性について言えば
ある数より大きいか小さいかによって実数を二つの集合に分けるとき
小さい方の数の集合に最大の数があるなら、大きい方の数の集合には最小値はない
これが実数が連続であるための条件だと
そんな説明で理解しろと言ってるのですよ
いやどうせ理解などできないのだから、納得しろと
直観の一部を犠牲にして操作可能な論理的整合性を選択する、そう決めました
これはそういう話ですよ、賭けのようなもんです
哲学にしてみれば、本当は怖い話であるはずなんです
とはいえ結局、直観の意味も論理的整合性の意味も宇宙人には通じないのでしょう 手短にレスしますと、
>集団性と安定性が確立されることと、万物の根元性を問うようになることとの間に
いかなる必然性があると思いますか?
>人間と言う生物種が、そのような性質を備えていることは
偶然なんですよ
私は人間と宇宙人との間で認識の構造が同じである、と仮定したので、
必然性は当然あります。人間の根本形式が、抽象他者を持つことだ、と私は
主張するので、その事情が同じであれば、集団性と安定性がj確立すれば、
他者として抽象的超越へと向かうのは必然。
だから私にとって、人間という種が学問的営み、初期のギリシア哲学へと導かれた
のは必然だと思います。もちろんこんなところで論証する気はないけど。
認識の構造が同じでないような宇宙人など、議論しても意味ないです。
それはまったく異質なんですから、そもそも何が異質なのかも確定できず、
知性を持っているかどうかも、身振りや言動(あるとして)からも確定できない。
宇宙人というSFをもってきた意味が、私には分からない。
単にカントやドゥルーズを相対化したいのだ、という意図なら伝わってきます。
で、お望みならば、私はドゥルーズや、私の形而上学が相対的であるなんてことは
容易に認めますが、それにしてもドゥルーズは、「相対的なものの真理」を目指したことは
留意すべきでしょう。 >人工知能が人間の知性を凌駕する日が遠からずやってくる
世界最高の頭脳を持つ科学者でさえ、そんなことを口走る時代となりました
しかしこの人工知能は、万物の根元を問いますか?
超越者という概念を創造しますか?
それともそれをしない思考作用は、知性だとも知能だとも言えないものですか?
そう切って捨てることで、人間のいじけたプライドを救うこと以外、何の意味がありますか?
宇宙人と違うのは、人工知能はその認知のメカニズムが完全に人間に把握されていることです。
私は人工知能が、抽象的な他者を持てない時点で人間と同じものにはなり得ない、
という主張なのですが、もし抽象的他者をもつことが出来るのであれば、
それは人間と同じ存在論的構造をもつので、従って同じ認識構造をもつので、
万物の根源や超越した存在者といった概念へ向かうことは当然あるでしょうね。
しかしそれにも、ギリシア哲学が西洋でしか発生しなかったように、いろいろな条件があります。
しかし、超越者や根源と言った概念を、教えて理解させる、というのは当然可能です。
もし認識の構造が同じなのであれば。
宇宙人のケースとは根本的に違う、ということです。 んー
貴方は、自身の言われる「認識の構造が同じ」という内容について、
「抽象的他者を持つことができる」
という結果論によって、構造が同じかどうかを判断しているのではありませんか?
それは結局、人間による説明が理解できるような存在者は、人間と認識の構造が同じである
と言ってるだけであり、論点先取だと思われます
肝心の「認識の構造」そのものについて、それがいかなる構造であるのか
全く放置されたままであるからです
物体を改造し操作することにおいて人間をも超える能力を持つ存在者が地球外部から複数現れたとして
しかし彼らが抽象的他者をもっているかどうか分からない、持ってないようにも見える
そんな場合には、貴方は奴らを宇宙人とは認めない
ということでしょうか
そろそろおいとまします
どうもありがとう まあ抽象他者の話は形而上学的に根拠づけられてるんですがね
だから演繹的であり結果論でない
そして抽象他者は存在論的なレベルの話で、認知の構造とは相対的に独立していて、
認知の構造はここではただ仮定されあ状態のまま議論を進めていたはず。
認知の構造については私の別の研究がある
もし宇宙人が「人」とみなしうるのであれば必ず持っている構造が示される。
そういう構造を持ってないのであれば、何をもってその宇宙の生命体を
宇宙「人」とみなすのかが分からなくなる
人とみなす基準がね。
これこそが形而上学ですよ
ある存在者を人間とみなすための必要条件を述べること。
それがあなたにできてないから、あなたの言う宇宙人が何かさっぱりですね。
しかしあなたみたいな人たちに形而上学の正当性を説明しようとすると、毎回すごく
苦労するし、結局は物別れに終わるんですよね >>307
認識構造の共有性をもって「人」の定義にするんだったら、
形而上学者だけが「人」に分類されるんじゃないかな…(*_*;
くれさんの認識は、形而上学者以外には共有されないから。 >>308
事実、私の認識は289さんには共有されなかったわけです。
しかし、認識構造の共有性だけが人の条件とは言わないが、
では他に何が「知的な存在者」と呼ばれる条件となるのか?
そのオルタナティブはありますか?
ちなみに私の議論が共有されていないとしても、それには二面あります。
@まず、私はここのスレッドで、私の形而上学を、少なくともドゥルーズを読んだ方には
そのドゥルーズのオルタナティブとして理解可能状態に導くまでには厳密な議論などしていないこと。
Aある知的な認識をもつ存在者の私的認識は、その存在者が存在する地理的・歴史的条件が
グローバルになればなるほど、共有され辛くなること。
この点は数学や経済学も形而上学に対して完全な対称性をもっているでしょう。高度に専門化・分業化が
進んでいるので、その先端の認識を共有できる人が単純に少なくなるからです。
ちなみにAの主張には前提として、当然私の人間に関する緩い定義があります。
つまり認識構造の共有性ですね。
しかし、他にいくらある存在者を人間とみなすための必要条件があるにしろ、
それらは結局連言的に述べられるでしょうから、私の提示した条件がはっきり間違っている、
というのでなければ、他の必要条件とともに連言的に必ず含まれることになります。
なお、話はずれますが、私はズレを含まない完全な公共性など実現不可能だと考えるし、
共有されることのない私的言語体系が生成すると考えるし、それらを西洋的・東洋的に根拠づけることもできます。
>くれさんの認識は、形而上学者以外には共有されないから。
形而上学者だけに共有されるのは「認識」であって、認識構造だとはあなたは言ってませんよね。
だから、私の認識が形而上学者以外に認識されないからといって、認識構造の共有性が
否定されるわけではないし、何より私は自分の体系を断片的に脈絡なくレスしてきただけですから、哲学的な思考ができる人ならだれでも、
賛成するか反対するかはともかく私の認識を理解できるだろう、と考えます。 >>309
とりあえず、くれさんに一つ質問。
>この点は数学や経済学も形而上学に対して完全な対称性をもっているでしょう。
この部分の意味がよくわからないので、詳細な解説を求ム。(>_<) 女性の乳首にピアス穴を開けたりするAV見てたけど
普通に彼女ができた ベッドに全身拘束された状態でパッチンして痛い痛い叫んでたね 日本語の宇宙人は「人」って字が付いてるけど、人である必要あるのかな?
英語ならalianであってhumanなんて付いてないし。
なんかなぁ >>310
別に難しいこといってるわけじゃないですよ。
>高度に専門化・分業化が
>進んでいるので、その先端の認識を共有できる人が単純に少なくなるからです。
この点に関しては数学や経済学も形而上学と同様だということです。
>>313
今ここでは
、人とは一般的な意味で使ってるので、特別地球人を指すような文脈ではないでしょう もうフランス現代思想には限界を感じたので制御理論と鈴木大拙を学ぶことにする。 差異を根拠づけるのが特異性。じゃあその根拠って何?っていうのは、
ドゥルーズ的にはそういう根拠づけのセリー(無限遡行)そのものを嫌って内在的に処理しなきゃならないんだろうけど、
それが「神々の投擲」とか「開空間」で説明されても、それが西洋の伝統的な
根拠づけのシステムに対するオルタナティブになっているかというと??
いずれにしろ伝統的な哲学者たちをオートポイエーシス的な観点から読み替えたいのだろうけど。
だったら抽象的にオートポイエーシスシステムを論じているシステム論か、
あるいはまったくギリシア哲学から発する文脈の外部に出るか、という方向性が
有効だと思える。 ドゥル−ズは、「他者」をどのように捉えていたのでしょうか。
例えば、フッサ−ルのように、「内在=主観」の対極にある「超越」として捉えていたのでしょうか。 その「他者」とは、他の「存在者」を指すのですか、それとも他の「現存在」を指すのですか。 人間の脳が「物質」であることには、誰も異論がありません。
しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。
・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です。
人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端ら
分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。
勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません。
分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。
「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は
全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に
すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。
『意識』は『クオリア』を持つ動物全部に生成する現象です。
「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により
決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。
量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。
以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る
『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。 >>319
この場合の「他者」とは、現存在と存在者の両方を指します。 存在者は現存在であるとは限らないけれども、現存在は必ず存在者なのだから、
他者とは、自己以外の存在者一般ということですか? >>318
ドゥルーズが他者を論じているところ、というかドゥルーズの他者論は本当に少ないですね。
差異と反復の4章?5章?でちょっと出たくらいしか確認してません。
というのも、ドゥルーズにとって他者論はあまり重要でなかったと考えられるからです。
近代は、主体の同一性の哲学ですが、これを批判するにあたり二つの方向性が
考えられます。
一方で、主体の論理では捉えられない、主体とは絶対に異質なものとしての他者、
及びその現前、という方向性。これは現象学の系譜で、もちろんレヴィナスが歩んだ道です。
他方は、同一性の解体の方に着目して、同一性の幻想を暴き、それよりもっと根源的な
次元に差異を見る方向性。ドゥルーズはこちらですね。
という非常に教科書的な簡単な説明で恐縮なのですが・・・
ドゥルーズの他者論というのは、本当に初期にちょろっと出てくる程度で、
基本的には1対1の他者の現前といったローカルなものより、
個体がグローバルに運動している、といった方向性だと思います。
その他者なる物も個体であり、個体がいかにして発生してくるのか、という
方向性として、潜在的なシステム論を展開したのだと思います。 >>322
ハイデガ−的な立場で「内在−超越」を捉えるとすれば、超越(=他者)とは「世界」のことであり、
その「世界の内」に自己(現存在)を含めて、自己以外の存在者一般も存在しているという捉え方です。 仏教の勉強始めた。
大乗仏教でいうところの、「空」と「無」の違い、について考えている。
「空」が、実体のないことを指すだけならば、それは実体がない、という「現象」である、
ということになる。空自身が実体となってはいけないから。
現象にも、二つの層があって、下の層は縁起(因果関係)、相互的にによって連鎖している層、
もう一つの上層は、縁起すらない、現象が脈絡なく生滅してるだけの、法すらなき層ではないか。
私の言う無の点、とは何なのか、存在者ではあるが、本質なきものである限りで「空」
ではあるが、結局空の実体化ではないのか・・・
ということはつまり私のもう一つのルーツである西田は、田辺が批判したように、
無の有化に陥っているのだろうか。
>>324
しかし世界は他者ではあるけれども、ハイデガー的には世界に対して存在者は超越していないでしょう。 従来の西洋哲学・科学は、「主観−客観」図式を前提とするために、
「どのようにして認識は自己(=内在)を越えうるのか、内在の枠内に見出されない
存在(客観的事象)にどのように的中しうるか」という「主観/客観の一致」についての
疑問を解決できないのである、との認識からフッサ−ルは「内在−超越」図式を提起した(イデ−ンI)。
「内在−超越」図式は、世界(=超越)と、その一切の対象は、我々の内在の現象として認識される。
この「内在の現象」というのが、相互主観的(間主観的)な現象のことであり、ハイデガ−の「世界」とは、
相互主観的な世界と解釈している。 「内在的超越」って西田も使ってるし、その頃流行ったのかな。
>「内在−超越」図式は、世界(=超越)と、その一切の対象は、我々の内在の現象として認識される。
この「内在の現象」というのが、相互主観的(間主観的)な現象のことであり、ハイデガ−の「世界」とは、
相互主観的な世界と解釈している。
前半若干日本語が変で読み取りづらいけれども、基本的にハイデガーは内在哲学でしょう
世界内存在は読んで字のごとく世界に内在している。
ハイデガーにおいて世界は他者だけれども、存在者はそこに内在している・・・・
それは本来の意味での内在的超越ではないと思いますが(本来の意味での内在的超越とはカント―ドゥルーズの理念でしょう)、
最近、私はハイデガーの存在論的差異といったところに、西洋に典型的な限界を見るのです。 華厳経の「十玄縁起無礙法門義」の解説によれば、
自の体が有であると同時に他の体も有であったり、自の体が空であると同時に
他も空であるというようなことはありえない。もし、自他ともに有であれば、
必ず障礙して有は成立しない。また、自他ともに空であれば事相断滅する。
したがって、縁起法は必ず空有相対し、自と他とは互いに相即する。
諸法は縁起現前だからこそ無自性であり、無自性だからこそ縁起現前するのである。
縁起現前なる有が無自性なる空であり、無自性なる空が縁起現前なる有である。
ともに縁起の一法であって、無二であるから、互いに相即するのである。
とある。私はここで批判されている、自他ともに空である場合を論じている。
それは、西洋から見れば、存在者とその唯一の他者を空じた、ということであり、
華厳宗から見れば、空有相対であるところを、両方とも空の実体化を媒介した、
ということが出来ると思う。 >>327
ハイデガ−の内在(=主観)に於ける、未来、現在、過去の時間の捉え方に対する、
ドゥル−ズの内在での時間の捉え方は、現前(=現在)での概念が異なっているのだと思う。
つまり、ドゥル−ズは、現前(=今)を不在として捉え、“過去”の連続的な反復による再現前によって
主体を構成している。それに対して、ハイデガ−は現前に於ける「現在化(=非本来性)」と「瞬間(=本来性)」
として、主体を捉えている。
つまり、ハイデガ−は、現前(=今)を“不在”とは捉えていない。両者の時間性の概念の違いが、他者(客観的存在)への
連関の違いとなって表れている。 >つまり、ドゥル−ズは、現前(=今)を不在として捉え、“過去”の連続的な反復による再現前によって
主体を構成している。
ごめん、これどこ出典ですか?
現前を不在と捉えるのはデリダとかそっちでは?
ドゥルーズの主体発生論は、強度的差異から同一性が発生してくるという大まかなアウトラインがある。
また時間論は、差異と反復2章の三つの総合で、最後の第三総合で脱根拠化が永劫回帰という形で図られる。
反復に関しては「違うもの(差異)の反復」、すなわち特異性の反復ということを語ってたはず。
ドゥルーズを無理やり現象学の用語で置き換えようとしても無理ですよ。
現前の形而上学でもないし、現前の不在の形而上学でもありません。
ドゥルーズ哲学はシステム論です。現象学とシステム論は相性悪いのでは?
それから、>ハイデガ−の内在(=主観)
そういう意味で内在と言ったんじゃないです。ハイデガー哲学では、世界や存在の
外に出られない。歴史の外に出られない。超越的存在者、つまりイデアを認めない。
歴史内在的である、そういう意味での内在哲学です。 >>330
ドゥル−ズ哲学のシステム論とは、レヴィ=ストロ−スの構造主義と同じ論理でしょうか。 >>331
哲学史的に言えばドゥルーズはポスト構造主義と呼ばれるので、
レヴィ=ストロースなどを批判的に乗り越えようとしました。
具体的には、構造主義の構造が、静的であって発生的でない、と批判し、
構造と生成は矛盾するものではないと論じます。
そのことで、世界全体をオートポイエーシス的な、一つの自己言及的なシステムと
見るのです。
>>332
今はドゥルーズから離れて、自由にやってますよ。古典制御理論や仏教も勉強してます。
それはともかく、こういう風にドゥルーズを「愚かな思想」とか言ってる人ってまだいるんだなあ、
と思ってしまいますね。
その理由をきいても、ソーカルガ―とか言うだけで答えられないんですよ。
なぜならドゥルーズ哲学を内在的に理解してないから。
私はドゥルーズ哲学を文献研究したうえで、その限界を見定め、その枠組み全体を規定することで、
ドゥルーズ哲学自身を一つの「思考のイマージュ」として相対化し、
ドゥルーズの外部で思考することが可能になりました。 >>327
>最近、私はハイデガ−の存在論的差異といったところに、
西洋に典型的な限界を見るのです。
>ハイデガ−の存在論的差異とは、存在者(現存在も含む)と存在の差異のことですが、
現存在(心身合一した存在)の存在との連関は、相互主観的な世界(=存在)に於ける存在という
ことであり、存在者と存在は“超越論的関係”によって成立している。
従って、ハイデガ−哲学に於いては、“超越的”な〈外の世界〉は存在しない。何故かというと、
存在者(現存在も含む)とは“心身合一した存在”であるからであり、純粋な精神としての超越という概念は
論理として成立しないからである。 >>333
ドゥルーズを超えられた、卒業できたと錯覚してしまわれたわけですね? この人はkyrie氏ですよ
学位は取得されたのかな
相変わらず大風呂敷広げる病気が治らないようで >>333
>私はドゥル−ズ哲学を文献研究したうえで、その限界を見定めた
>ドゥル−ズは、西洋哲学の認識論と存在論の根本問題であるところの
デカルトの「私は考える、ゆえに私は存在する」命題に対して、ハイデガ−、デリダの「現象学」の
立場とは異なる“思考様式”から論究している。
ドゥル−ズの歴史に対する「解体」は、ハイデガ−とは異なり、また別な意味での優れた哲学的な論理展開を
試みていることは評価できる。 >>334
>現存在(心身合一した存在)の存在との連関は、相互主観的な世界(=存在)に於ける存在という
ことであり、存在者と存在は“超越論的関係”によって成立している。
これはそのとおりだと思います。
>従って、ハイデガ−哲学に於いては、“超越的”な〈外の世界〉は存在しない。何故かというと、
存在者(現存在も含む)とは“心身合一した存在”であるからであり、純粋な精神としての超越という概念は
論理として成立しないからである。
それを内在論理っていってるじゃないですか。
まあ現象学に関してはあなたの方が詳しいだろうけど。
それから存在論的差異の話ですが、これはハイデガーがソクラテス以前のギリシアに
遡行して得られたものですよね。
私は存在論的差異に関して、すなわちギリシア以来の西洋合理主義に対して、
オルタナティブを持っているのですが、さりとて最近それが東洋的というわけでもないことを
知りました。
それに関して、例えば、ハイデゲリアンのあなたに伺いたいのですが、存在と存在者の差異は、どこから
やってくるのでしょうか。その差異が根本的であり、それ以上還元不可能、と答えるか(その場合でも
内在論理、あなたのいう超越論的関係は維持されるでしょう)、
ドゥルーズの差異の論理のように、よりメタ的な審級の超越論的差異から差異化したものだ、と考えるか。
>>337
まあそうですね、哲学史的に見て、レヴィナス・デリダとは違った方向性の、近代の超克ですよね。 >>338
ドゥル−ズの論理のように「よりメタ的な審級の超越論的差異から差異化したもの」と
述べていますが、その“超越論的差異”を具体的に説明してもらえますか。 経験的な存在は、互いに差異を持つことで関係します。
それは、「何かと何かの間の差異」と呼ばれます。つまり経験的差異です。
それは2つの「何か」という同一性に支えられ、それに媒介された差異です。
そうではなく、つまり何かに媒介された差異でなく、その何か、つまり
同一性や同一的主体を産出するような、経験の手前の差異があります。
これは同一性に媒介されていないので、純粋な差異と呼ばれ、同一性の世界である
経験的秩序を内在的に超えたところにあるので、超越論的な差異、
つまり差異それ自体と呼ばれます。または経験的差異を可能にするものとしての、
差異の差異とも呼ばれます。 >>338
ハイデガ−の存在論的差異(存在と存在者の差異)と、ドゥル−ズの差異の論理は、
どちらも「超越論的差異」ですが、この「超越論的差異」はハイデガ−とドゥル−ズでは
意味が大きく異なっている。つまり、ハイデガ−の「超越論的差異」は、“現象学的還元”によって経験として
認識される。それに対して、ドゥル−ズの場合は、カント的思考様式によるア・プリオリ(先天的)な思考過程を経て、
経験に先立つものとして認識されている。
従って、ハイデガ−の「存在と存在者」の連関は、現象学的還元による後天的(ア・ポステリオリ)に認識され、
「存在と存在者」の関係は、相互主観的に捉えられる。
事象を「差異化」として捉えるか、或いは、「同一化」として捉えるかは、存在の根源的な問題でしょう。 もちろん大きく異なっているでしょう。
そのことを共通了解したうえで、
>ハイデゲリアンのあなたに伺いたいのですが、存在と存在者の差異は、どこから
やってくるのでしょうか。その差異が根本的であり、それ以上還元不可能、と答えるか(その場合でも
内在論理、あなたのいう超越論的関係は維持されるでしょう)、
ドゥルーズの差異の論理のように、よりメタ的な審級の超越論的差異から差異化したものだ、と考えるか。
これについてはどうお考えですか。後者(ドゥルーズの差異の論理)は、当然否定されますよね。
ちなみに、
>ドゥル−ズの場合は、カント的思考様式によるア・プリオリ(先天的)な思考過程を経て、
経験に先立つものとして認識されている。
これはそう単純な話でなく、超越論的差異は経験に先立つものではないんです。
あくまでラジカルな経験論なんです、ドゥルーズは。経験から出発して、差異がそこから生じてくる、
超越論的領域へと、思考によって向かいます。その超越論的差異が経験に先行する、
つまりアプリオリな訳じゃありません。経験的領域と超越論的領域とが、インタラクティブな関係になってるんです。
まあその細部に関しては、成功してるかどうかはなはだ疑わしいですけど。
それに、前からあなたのレスを見て思っていたのですが、現象学的還元とは、一般的意味での
経験ではないですよね。経験とは、何か超越を対象としてもつ、ということか?
それが現象であろうと、他者であろうと。現象学的還元は、完全に自身だけにかかわる問題だと思うのですが(少なくとも
フッサールにおいては)、現象学的還元を通じ、そういった存在論的差異の本来性に達することで、
相互主観性が生まれる、ということですか?
しかし存在論的差異が経験的である、ということはあり得なくないですか?
つまりそれはただの(相互主観性を可能にする)認識なのか、それとも第一哲学なのか。
第一哲学なら、まあハイデガーが批判してた現前の形而上学の様相も帯びてくるわけですが。 >>342
ドゥル−ズの思考過程が「経験から出発して、差異がそこから生じてくる、
そして、超越論的領域(経験に先行する認識)へと向かう」と述べていますが、
この部分の思考過程がドゥル−ズ論理で一番“重要なポイント”と思います。
つまり、〈経験的思考〉から〈経験に先行する思考〉へと転化する為には、180度異なる論理が、
そこに“介入”したことになります。
ドゥル−ズが、経験的思考から、経験に先行する思考過程へ、どの様に可能としたのかを説明してもらえますか。 >>343
答えますから、私の質問にも答えてくださいね?
>つまり、〈経験的思考〉から〈経験に先行する思考〉へと転化する為には、180度異なる論理が、
そこに“介入”したことになります。
ドゥル−ズが、経験的思考から、経験に先行する思考過程へ、どの様に可能としたのかを説明してもらえますか。
まずここで間違っているのは、「〈経験的思考〉から〈経験に先行する思考〉へ」の転化ではないです。
ここで重要なのがシーニュないし出来事、特異点であって、それらは平坦な日常にショックを与え、驚きを与え、
それについて思考を強制する、非経験的なものなのです。ここで、出来事という、非経験的なもの(「出来事は理念的である」、とも述べられています)、
に強制されて、思考は「経験を成立させているもの」、つまり経験の可能性の条件へと向かいます。
ところがその経験の可能性の条件の領域とは、主観や個体以前の領域なのですね。
むしろそこから主体化や個体化が生じてくるという、非人称的な領域です。
上に述べた、差異の差異、強度からなる世界ですね。
そこは、システムの発生の場であり、潜在的構造でありつつ生成する場です。
この構造自身、静的で固定したものでなく、可塑的であり、現実化へ向かい際に、
己も変形を受けます。
これが、胎動しながら、個体化によって個体を生み出したり、システムを生み出したりします(シニフィエに対するシニフィアン優位のラカン的な
システムを生み出したりします)。
それが、差異について言われる永劫回帰だったり(差異と反復第二章、第三総合)、
種の分化だったり(第四章、差異の理念的総合)、といろいろなかたちで言われていますが、
まあ出来事によって強制された思考をインプットとして、生産的・生成的なアウトプットをする、
自ら生成するシステム、といってよいのではないでしょうか。 >>344
>経験の可能性の条件の領域とは、主観や個体以前の領域なのです。
むしろそこから主体化や個体化が生じてくるという、非人称的な領域です。
そこは、システムの発生の場であり、潜在的構造でありつつ生成する場です。
>「あらゆる対象は、潜在的なもの(観念=精神)と、現実的なもの(現象=物質的)という、
相互に類似していない半分ずつ(分身)からなる」とドゥル−ズは述べているが、上記の“非人称的な領域”とは、
西田幾多郎の「純粋経験」の領野と類似している。 いや全然類似していないでしょう・・・
純粋経験ってあくまで初期の西田が言ってたんだと思うけど、
文字通り主客未分化の経験のことで、当時はそういうのが流行ってた。
そういう現象学的なアナロジーによってドゥルーズを捉えること自体が、あなたが
現象学の枠組みから離れることができていない、ということなのでしょう。
「非人称的な領域」については、「この世界の唯一の外部」という見方も根強いし、
まだまだ研究の余地はあるんでしょうが(私はもうしません)、
「可塑的」な「構造」であって、「生成する構造」です。
神のような唯一の超越者でなく、離散的かつ連続的な「多様体」であって、しかも多様体といっても
当然、「実体」ではない。果たして、実体に対して差異を置き換えることで、実体論を
逃れられているのか、と言えば、それには議論があるでしょうが。
ところで、私の質問ですが、
>存在と存在者の差異は、どこからやってくるのでしょうか。
もし存在論的差異が超越論的差異なら、それは経験から超越していないわけですから、
そもそも「どこからやってくるか」というその超越的起源を問うこと自体が誤っている
のでしょう。
その点では、ドゥルーズも同じ。
現象学的還元を「経験として」経ているとのことですが、つまりはハイデガーにおいても
存在論的差異と、非日常的な経験である現象学的還元とは、循環関係にある、と言えると思います。
しかしドゥルーズと違うのは、そこに発生の論理が組み入れられていない、ということでしょう。 >>346
ドゥル−ズは「観念(=精神)」は経験を越えているが、経験の中で、
独特な仕方で与えられるものである。」又、「あらゆる対象は、潜在的なもの(=観念)と、
現実的なもの(現象=物質的)という相互に類似してない半分ずつ(分身)から成る」と述べている。
上記の「観念(精神)は、経験を越えている」というドゥル−ズの記述は、経験(=現象)を超越している
ということであり、“観念”はプラトンの“イデア的”なものとして捉えられている。
しかし、「経験の中で独特な仕方で与えられている。」と、ドゥル−ズは述べているように“経験に先行する
思考(観念)”が、相反する“経験的思考(現象=物質的)”の中で与えられている。ここが、ドゥル−ズ論理の
重要なポイントであると思います。
上記の「あらゆる対象(この世のすべての事象)は、潜在的なもの(観念=意識)と、現実的なもの(現象=物質的)という
相互に類似していない半分ずつ(分身)からな成る。」というドゥル−ズの記述は、この「非人称的な領域」に於いては、
「知識(観念)と現実的なもの(現象=物質的)が“合一した領野”であるとすれば、上記の「経験の中で独特の仕方で与え
られる生成」の論理は、整合性を持って理解できる。 超音波テロの被害にあっています。
卑劣極まりない被害にあっています。
何が起こったかわからないときから、
わかってみれば、
まだ世の中に知られていない超音波テロ。 世の中のどれだけの音の振動源・発信源が
使用されているのかわからないが、
多数の振動源・発信源がシステム化され、
ネットワークを通して、
超音波・音波を集中させて
対象を攻撃するらしい。 人や社会が襲われ、罪もない人が超音波で襲われ、
卑劣な被害にあっています。
聞こえる声、音。超音波テロの加害者の声。
「もらいました」という声とともに、
形のあるもの、ないもの、奪っていき、壊していく
超音波テロの加害者の声。
聞こえる声、音。超音波テロの加害者の声。 超音波による物理的な力で、
ものが飛び、ものが壊れる。
それが人間の体に対してまで。
身体の表面を突き抜け、内臓を攻撃される。
頭蓋骨を突き抜け、意識を失わされる。
聞こえる声、認識できない声で、精神的なダメージ。
人間の体を壊そうとする超音波テロ。 日本国中、どこにいても超音波で襲われる。
車に乗っている人間が襲われる。
歩いている人間が襲われる。
自宅で超音波の攻撃を受ける。
被害を訴えても信じてもらえない。
罪もない人間が超音波で襲われる。 「見続けるのがいやだから、殺して終わる」、
「証拠隠滅だ」という超音波テロの加害者の声とともに
強烈な超音波の攻撃。
叫ばされ、いたぶられ、
超音波テロの卑劣な被害にあっています。
心の底から被害を訴え、祈っています。
天に神に届きますように。 >>347
ちなみにそれ出典どこです?
もうドゥルーズはほとんど忘れてしまったけど、
物質的次元と循環関係にある超越論的領野を語ってた「差異のと反復」の時期と、
物質(機械)の連結が下部構造をなすようなアンチオイディプスの時期があるのですが、
ドゥルーズにおいて観念は絶対にプラトン的な超越者ではありませんよ。
カントの内在的理念です。
>この「非人称的な領域」に於いては、
「知識(観念)と現実的なもの(現象=物質的)が“合一した領野”であるとすれば、上記の「経験の中で独特の仕方で与え
られる生成」の論理は、整合性を持って理解できる。
いやいやいや、そういう読み方が間違っているのです。
その合一した領野だとか、主客未分化の領域とか、とにかく分化以前の全体性を
前提する、という理解の仕方が、もう現象学的です。
なおドゥルーズに関しては、そういう一部の引用だけでその全貌を捉えるのは不可能です。 >>354
ドゥル−ズは「非人称的領域」を、超越論的経験論とも呼んでいるが、
この非人称的領域は、「生成する構造」としてドゥル−ズ哲学の新たな方向性を示している。
「生成する構造」とは、二項対立的(=差異化)に相対するものを、「一つのもの」に“融合”する
働きをする。 しかし、「差異と反復」の論理は、「一つのもの」として出された結論、或いは、理論を
分裂させるのが、「差異化」の働きであり、本来のドゥル−ズの論理(思考する私と思考される私の主体的差異)と
「非人称的領域」に於ける“生成の論理”は、相反している。
この「差異化の論理」と「生成の論理」が、どの様な思考過程で成立しているのかが、ドゥル−ズ哲学に於いて、
明確に示されていないように感じている。 >>346
>しかし、ドゥル−ズと違うのは、そこに発生の論理が組み入れられていない、と言うことでしょう。
>ハイデガ−は、前期の「現存在」の能動的な存在への企投に対して、後期の思想に於いて、「なる(生起)という意味へ企投する」という
“生起の論理”へと論理展開している。この「生起の論理」は、存在(=自然)のそのつどの在り方によって「現存在」の在り方が受動的連関に
よって形づけられてくる。つまり、存在(=自然)は、自ずから生起(=生成する)し、自ずからその生起の仕方を変える。とハイデガ−は述べている。
従って、ハイデガ−後期の「生起の論理」が、「発生の論理」と解釈している。 未規定性としての存在、それは受動的自我とも呼ばれているが、それは思考する私、
つまり規定作用と切り離されている。
そのままでは、規定作用は未規定性に差し向けられない、
未規定性を規定作用が規定することを可能にする形式こそが、時間だというのだ。
しかし、なぜ、規定作用が未規定性そのままでは差し向けられないのか、明確な記述がない。
作用と存在とは、相互に外在的である。だから、メタ的で連続的な時間を媒介したところで、
それらの間の超越性が解消されるわけではない、というより、なぜその超越性を
解消しようとするのか。
規定作用は未規定性を規定などしない、未規定性はそのままだし、規定作用も
未規定性に触れることすらできない。
超越論的時間(第三総合)を媒介する必要がない。むしろ時間は表象されるだけだ。
根本に時間があるのでなく、時間は効果なのだ。 >>355
>「生成する構造」とは、二項対立的(=差異化)に相対するものを、「一つのもの」に“融合”する
働きをする。
これはどういうことですか?二項対立的なもの、というより経験的差異をを生成するのが
「生成する構造」と呼ばれます。
> しかし、「差異と反復」の論理は、「一つのもの」として出された結論、或いは、理論を
分裂させるのが、「差異化」の働きであり、本来のドゥル−ズの論理(思考する私と思考される私の主体的差異)と
「非人称的領域」に於ける“生成の論理”は、相反している。
上記の通りなので、相反はしてません。 ところで>>346で私は存在論的差異と現象学的還元が循環関係にあるといったが、
それはやっぱりおかしい。
存在者によって存在が変わるわけではないので、ドゥルーズのような循環関係にはない。
ハイデガーは「存在の忘却」を批判していたわけだから、
存在論的差異、本来的な存在、というものは、非経験的なのでは?
存在論的な在り方が、日常の存在的な在り方に覆い隠されている
存在の意味を思考する、とうことですよね?
時間論に関しては、ハイデガーもドゥルーズも未来志向でオプティミスティックですね >>357
デカルトの「私は思考する、ゆえに私は存在する」の第一原理に対して、カントは以下のように述べている。
「無規定な存在が〈私は思考する〉によって規定可能になる形式とは、時間の形式である。ここから帰結
されることは極端である。私の無規定な実在は、ある現象の実在として、ある現象的な“主体”として、時間の
中でだけ規定される。この主体は受動的または受容的で、時間の中にだけ現れる。」と述べている。
ドゥル−ズは、思考する私(未規定性の存在)と思考された私(規定された存在)を“時間の空虚な形式”によって
切断されているとし、この切断は、想像力によって抱合されるとしている。つまり、ドゥル−ズにおいての「思考」とは、
「思考する私」と「思考される私」の偏差であり、〈私〉ー〈自我〉システムが、表象=再現前化の原理として捉えられている。
ここで疑問となるのは、デカルトの「私は思考する」と「私は存在する」という命題は、時間概念をそこに導入しなくとも
この命題自体が「差異化」として捉えられていることである。 そして、“疑うこと”により極限の次元にて、時間概念を含めた
全ての事象を疑いつくすことにより、不可疑性の次元に於いて、超越論的(=超越性では無い)な心身合一としての“私(主観)”として
認識していると解釈している。 脱落即現成とは、主客・心身を脱落するとただちに現成するというにとどまらず、
本来の我々の自己は、実は脱落において現成している存在であることをも意味する。
それは、超越論的起源、超越的起源、そういった、自分に先行するとされる何か(存在)から、
脱落、つまり無の孤独に落ち込んで、無を媒介することによってこそ、初めて自律的な実存として現成できる。
有のオートマティズム、因果、縁起、そういったものからの脱落。
脱落の契機は、有の外部にあるだろう。
無を媒介してなお存在者性を保ち、無根拠性を耐え忍んだ者が、創造をもたらす実存者。
一念三千:天台宗の教旨で、日常の人の心の中には、全宇宙の一切の事象が備わっている。
これは無の点のネクサスが、過去ー未来のあらゆる時間を含み込んでいるのと似る。
ハイデガーのように、日常から本来性へと至るところに、過去の反復を打ち砕き真に創造的自己となる、
というのとは違い、日常が即、超越的無の点の作用化作用、ネクサスである。
日常においてこそ、非日常としての新しいもの、つまり未来的な事象が、出来事的に到来する。 >>360
>ドゥル−ズは、思考する私(未規定性の存在)と思考された私(規定された存在)を“時間の空虚な形式”によって
切断されているとし、この切断は、想像力によって抱合されるとしている。つまり、ドゥル−ズにおいての「思考」とは、
「思考する私」と「思考される私」の偏差であり、〈私〉ー〈自我〉システムが、表象=再現前化の原理として捉えられている。
思考する私は「規定作用」であって未規定性の存在者ではないです。
思考された私は、思考されたから規定されたのであって、規定作用としての思考する私と対になるのは、
私の未規定な存在です。
大丈夫ですか?たぶん参照している個所は同じだと思いますが、かなり適当に読んでませんか?
また時間の空虚な形式は、切断するものじゃないですよ、むしろそこにおいて両者の差異が可能になる物だから、
接続するものです。 >>362
「私は思考するゆえに私は存在する」に対して、未規定性の存在者とは? 訳文ままだけど
>規定作用(私は思考する)は、未規定な存在(「私は存在する」、
なぜなら「思考するためには存在しなければならないからである」)を含意しており―
そしてまさにその未規定な存在を、思考する存在者の存在として規定する。
と明確に書いてあるし、それ以前に、存在とはヘーゲルにおいて即自的で未規定な存在であることを、
ハイデガーが批判したのは有名でしょう >>357
「作用」と「存在」とは、相互に外在的(=超越性)と述べていますが、
デカルトは省察(二)の中で、次ぎのように述べている。「では、考えることはどうか。
ここに私は見出す。考えることがそれである、と。これだけは私から切り離すことが出来ない。
“私はある、私は存在する(第一原理)”。これは確かである。だが、どれだけの間か。もちろん、
私が考える間である。なぜなら、もし私が考えることをすっかり止めてしまうならば、おそらくその瞬間に
私は存在することをまったく、止めてしまうことになるであろうから。」と述べている。
上記のデカルトの記述から分かることは、「私は思考する(規定作用)」と「私は存在する(未規定な存在)」の関係は、
“有限的な時間”によって規定されることにより、未規定な存在から、規定された存在(受動的自我)として捉えられている。
従って、作用と存在の連関は、時間という有限な作用によって捉えられている。つまり、作用と存在は“超越論的”に捉えられて
いるのであり、“超越性”として捉えられてはいないと解釈している。 まあそれがデカルトの限界なんですよ。
作用と存在が、その起源を異にします。なぜなら、存在という実体的に捉えられたものとしての
作用でなく、純粋な作用は、そのうちに存在を含まないから。
ドゥルーズの言う規定作用は、あくまで主体ありきです。私は思考する、という形式の。
それぞれ起源を異にする作用と存在とが、同じレベルで出会うと、
それらは相互に触れあうこともできない。
超越性を解消できないのです。
だから、一次元下に、作用結果を表象するしかないのです。
これが現象と呼ばれるものです。
超越論など、本当はないのです。時間は根源にあるのでなく表象されたものにすぎず、
作用結果としての現象が下位の次元にに現象する。
しかも現象とは、相即相入の状態である限り、時間性を全然含みません。
時間性と、現象は、互いに外在的です。現象に因果や縁起の構造が入ると、
現象間に時間が定義されます。 >>366
デカルトは、「同一化」について省察(二)で以下のように記述している。
「それでは、私とはなんであるのか。 考えるものである。では、考えるとはなんであるのか。
すなわち、疑い、理解し、肯定し、否定し、意志し、意志しない、なおまた想像し、感覚するものである。」と記述している。
カントが提起したデカルト哲学(省察二での記述)の「主体(私)の時間性による差異化」の論理に対して、
他方に於いて、デカルトは「思考する私と、思考された私(=私は存在する)」の連関に対し、“方法的懐疑”に
よって、その究極にある「疑っている、私は疑えない」という“不可疑的存在”としての「超越論的主観(コギト)」を
「同一性」として提起している。私達は、現代でも一般的解釈として、「私は思考する、ゆえに私は存在する」を「方法的懐疑」
による結果として、この命題を、「同一化」した領野として認識している。
デカルト哲学が、“私は思考する、ゆえに私は存在する(第一原理)を、“差異化”と“同一化”という相反する論理を提起している
ことに対して、くれ氏はどのように解釈していますか。
解釈、というのは、内在的なものでしょう。そのデカルトの第一原理という
「既に在るもの」を、解釈することで、そこから総合的命題を引き出すのが
形而上学ですが、私はデカルトの記述を前にして、文献学的に解釈することは
しません。
あくまで、純粋作用―存在の還元不可能な二元性、他者性という「私の側からの論理」で、
外在的に解釈することはできます。つまりデカルト哲学を私の論理、私の思考で
包摂する、ということです。
すると、そもそもデカルトは二元的に第一原理を考えていなかったので(近代二元論
の創始者であるにも関わらず!)、
真のコギトを捉えそこなった、という批判しか出てこないでしょう。
まあしかし、内在的に何か新しさをもたらすような解釈をするとすれば、つまり
近代的思考の文脈の内部においてデカルトから総合的命題を引き出すとすれば、
まあそれは結局批判なのですが、デカルトにおいては思考する私と存在する私
とが同一的であるのだけれども、デカルトは「思考する私」を、「私の存在」の根拠としていますよね。
つまり、デカルトにおいては、「私の存在」は、「思考する私」を必要条件としています。
そこから引き出される、「思考が存在に先立つ」、という命題は、まさに近代の幕開けを宣言しています。
しかし、カントは、この論理的な関係を捨ててしまって、両者の間に成立していた論理的関係を
白紙にしたうえで、両者の差異を肯定するものとして、時間という形式をもちこんだ、とドゥルーズは言っています。
そこには、「思考する私」を「規定作用」として捉える、といった発想の転換がある。
しかしながら、西洋的思考においては、作用とは実体的に捉えられてしまうから、
作用と存在とが超越していては困るのです。
だから、両者の連続性を担保するために、時間という形式を仮構した。
純粋作用と存在の二元論、という発想はないんですね。
結局批判とはなりましたが、デカルトの命題の内部から解釈を、超越の間際の極限まで推し進めれば、
二元論が帰結する、ということです。 「私の側からの論理」での解釈なんだから、
「・・という批判しか出てこないでしょう」とか
同意を求められても戸惑いますよね
w それは同意を求める「でしょう」でなく、推論の「でしょう」。 >>368
「真のコギトを捉えそこなった」と述べていますが、この場合の「真のコギト」というのは、
「純粋精神」としてのコギトのことでしょうか。 コギトという単語を使ったのはまずかったですね。
本来的な実存者とでも解してください。
実存するものの形式は、等根源的な三通りの仕方で記述できるでしょう。
西洋的に、あるいは東洋的に、それぞれ一元的に。
あるいは東西を問わない仕方で二元的に。 >>353
【マイクロ波を使用した虐待・人体実験・・・被験者に対して無許可・無承諾・無契約の暴挙】日本国内でも多くの被害者が声を上げています
これらの加害行為による隠蔽工作が金で請け負っている隠蔽組織の集団ストーカーであり、二重三重の被害を被っている
嘘だと思うならこれらをコピペして掲示板に拡散すれば、これらの隠蔽工作組織から被害を体験できるでしょう
●アメリカ元ミネソタ州知事Jesse Ventura氏が、政府(CIA)による一般市民を対象にした人体実験の陰謀を暴く。
陰謀論-脳侵略者(動画).
https://vimeo.com/user36735533
●脳コミュニケーションの時代到来か? ― 驚異の科学的読心術、心の先読みも(2014.11.05)
http://tocana.jp/2014/11/post_5125_entry.html
●イギリス元MI5部員Dr. Barrie Trowerの語る電磁波兵器と人体実験
(動画:Part 1)
http://www.youtube.com/watch?v=NRoN2Fsci3o
(動画:part 2)
https://www.youtube.com/watch?v=8b4GYyxMnbI
●フィンランド首席医務官キルデ医学博士の論文
http://gangstalking-crime-databease.blogspot.jp/2011/07/blog-post_24.html
●マイクロ波聴覚効果(フレイ効果)を使って、脳内に音を発生させ脳波で思考も盗聴できる非殺傷型兵器・・・2008年7月の記事でそこから1年以内にデモ版完成
http://wired.jp/2008/07/08/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E6%B3%A2%E3%81%A7%E8%84%B3%E5%86%85%E3%81%AB%E9%9F%B3%E3%82%92%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%95%E3%81%9B%E3%82%8B%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%80%8Emedusa%E3%80%8F%EF%BC%9A/
●脳に直接、音声を送信する通信装置の米国空軍特許 part 0
http://blogs.yahoo.co.jp/patentcom/8599576.html
●悪質な創価学会の集団ストーカーの「シネ!」という電車内での自殺教唆!!
http://youtu.be/KJXha49y3UY
真実は[ドン・キホーテのピアス]で検索! >>368
デカルトは、省察(二)の記述の中で、存在の根源としての“第一原理”に於いて、
「同一化」と「差異化」という異なる存在領野を提起している。
デカルトの「主客二元論」は、“主体(主観)と客観”との分離・独立した捉え方であり、>>367で
提起されている課題は、「主客二元論」での“主体(主観)”に於ける〈差異化〉と〈同一化〉との
相反する概念の両義性(二重性)です。
主体(主観)の“差異化”はドゥル−ズ哲学の基底にある概念ですが、デカルトが省察(二)で
提起している“主体(主観)”は、主体そのものが、差異化と同一化を“両義性”という連関によって
捉えられている。
ドゥル−ズ哲学の基底となっている“差異化”の概念(>>365)は、デカルトの“第一原理”から提起
されているのであり、同時に“第一原理”から提起されている主体の“同一性”の概念も見過ごすことは
出来ない“存在の根源”に於ける課題であると思います。 >>374
今手元にデカルトの省察がないのでアレですが、
>デカルトの「主客二元論」は、“主体(主観)と客観”との分離・独立した捉え方であり、>>367で
提起されている課題は、「主客二元論」での“主体(主観)”に於ける〈差異化〉と〈同一化〉との
相反する概念の両義性(二重性)です。
要するカントが導入したその差異化とやらは、私が>>368で述べたように、
>カントは、この論理的な関係を捨ててしまって、両者の間に成立していた論理的関係を
白紙にしたうえで、両者の差異を肯定するものとして、時間という形式をもちこんだ、とドゥルーズは言っています。
そこには、「思考する私」を「規定作用」として捉える、といった発想の転換がある。
しかしながら、西洋的思考においては、作用とは実体的に捉えられてしまうから、
作用と存在とが超越していては困るのです。
だから、両者の連続性を担保するために、時間という形式を仮構した。
と「解釈」しました。どう解釈するか、と訊かれたので。なので、これ以上は繰り返しません。
>主体(主観)の“差異化”はドゥル−ズ哲学の基底にある概念ですが、デ
これは誤認。たとえ差異と反復第二章でひび割れたコギトが語られようと、
それは主体性を乗り越えるために必要な手順だったのであり、第三総合へと
第二総合を乗り越えるためのプロセスの一環でしかない。
差異化が、主体を構成する、というのが一般的なドゥルーズ観。
ので、
>ドゥル−ズ哲学の基底となっている“差異化”の概念(>>365)は、デカルトの“第一原理”から提起
されているのであり、
これはないです。というよりそんな話は聞いたことがないし、妥当だとも思わない。
デカルトはヘーゲルと並んでドゥルーズの主たる論敵ですからね。 存在にしろ、存在者にしろ、どちらも同じ「存在」という言葉で
統一的に理解しているわけだが
その統一させているものとはいったい何なのかね? 存在と存在者とを統一的に理解しているとすれば、ハイデガーが警告する存在忘却に当たるわけですが・・・ 言葉の問題以前に、
存在者が世界内存在として差し当たり配慮しながら環境世界に没入している、
ということを、頽落としてハイデガーは批判し、存在の意味への問いが塞がれてしまっている
つまり存在の意味への問いにおいて、存在と存在者の存在論的差異が明晰であったことはプラトン以来なかった、
ということです。
まあ教科書的なことしか書いてませんが。 「存在」という言葉で、存在するものを曖昧に捉えているのが、現存在のさしあたりの存在了解であり、
同時に頽落であるのでしょう。
その辺りは374さんに訊かれたほうがいいと思いますが。
私はハイデガーに関しては教科書的な知識しかないことを白状しなければなりませんね。
まあ思考の大きな枠組みを理解しており、それを外部から批判するのが私のやり方なので。 >>379
では存在と存在者は無関係だと?
そんなわけはないよなあ
存在と存在者について考える時には既に、
言葉によって存在という同じものを前提しているんだよ それを現存在による、曖昧な存在了解、と呼んでいるのですが・・・
現存在は、忙しく世界内で交渉することにおいて、存在を曖昧に了解している、
ということです。 存在とは、動詞としてのexistであり、ようするに「stand out(際立つ)」
ということでしょう。だから、存在者とは「際立つもの」ということになる。
では、何に対して「際立つ」のかと言えば、そこにいるものに対して
であり、そこにいる「存在者」とは「現存在/Dasein」ということになる。
ところが、「現存在」を、単に存在者のなかの1つとみなすことはできない。
そこで、「存在者」と「存在」と「現存在」の関係をより深く考える必要性
が生じるのではないですか? ですが、世界内において曖昧な存在了解をしている現存在は、
存在の意味を根本的に問うことをしない、存在を忘却している、という意味で
頽落している、といわれます。
ヘーゲルのような即自的で未規定な存在でなく、存在の意味を問うという態度こそが、
本来的と呼ばれます。
ただこれらのレスは全てハイデガーの、しかも初期の「存在と時間」時代のステレオタイプ的解釈なので、
私の意見ではありません。
私はそれを外部から批判する側ですから。 逆に言うならば、現存在との関係を考えないのならば、存在者
は他の存在者に対して際立つだけということになり、そこには
他の存在者との区別しかない。すると存在者と存在者の間には
互いに「際立つ(stand out/exist)」関係にありながらも、
それぞれの存在者は、存在していると言うことすらできなくなる。 ここで私は、「存在者」、「存在」、「現存在」というハイデガーの著作の
翻訳で使われる用語を用いていますが、必ずしもハイデガーの議論に沿って
考えているわけではありません。念のため。 >>383
ハイデガーは存在の意味への問いへの導きの意図として、特権的存在者としての
現存在分析から始めることを宣言し、その意味を時間と規定したところで終わりましたよね。
際立つ、とは、つまりヘーゲル的な未規定な即自的存在者ではなく、
存在自らが、何か発生的な力をもつ、ということでしょうか。
私は学生だった頃、ハイデガーが存在を、「隠れなきもの」、非覆蔵性、アレーテイアと
規定していたようですが、それがハイデガーのいつの時期にあたるのかは
ちょっと勉強不足でわかりません。
ですが、このスレで付き合ってくれているハイデゲリアンの方からもレス頂いた通り、
初期の存在は、あくまで問いかけられるものであり、後期の存在は、能動的に
働きかけるもの、という思想の移行があるようですね。 現存在も存在者も既に存在してしまっている。不在さえも存在して
しまっているわけです。その事態を「神話的/発生論的」に説明する
のではなく、遡及的に説明しようとすることに存在論の根本的な
課題があるものと考えます。 ×私は学生だった頃、ハイデガーが存在を、「隠れなきもの」、非覆蔵性、アレーテイアと
規定していたようですが
○私は学生だった頃、ハイデガーが存在を、「隠れなきもの」、非覆蔵性、アレーテイアと
規定していた論文をゼミで採り上げられてたことがありますが
>存在とは、動詞としてのexistであり、ようするに「stand out(際立つ)」
ということでしょう。
ハイデガーの議論に沿っていない、と自分の態度を表明したうえで、存在をそのように規定することは、
意味のあることだと思います。アカデミズムにどっぷりつかった日本の教授たちは笑うでしょうが
そこで、私は、>>1から一貫して、存在は存在者による幻想である、と論じました。
それが私の存在の規定であり、では存在者とは何か、と言えば、存在者の集合からなる存在から超越してなお存在者である
無であるか(つまり存在の包摂から超越してなお、非存在に耐えうる存在者である存在であるか)、あるいはヘーゲル的ではあるが、離散する未規定な存在者、ということになるでしょう。 >>388
しかしここで注意しなければならないのは
遡及的ということは、可能性の条件を遡る、ということでしょう
それは根拠の根拠、そのさらに根拠・・・という無限背進に一般化されます。
そこで、どこかで究極の根拠がなければなりません。
それが西洋に伝統的な、不動の一者だとか、善のイデアとか、
まあ中世以降は神、ということになりますが、
形而上学批判をするようなニーチェ以後の哲学者は、そういった遡及に対して
非常に否定的であった、ということです。
ドゥルーズも脱根拠化を論じましたし、遡及と発生とが循環しているシステムを
思考しました。まあそれでも、結局は発生論的な性格を帯びてしまうのですが。
発生論的に考えない、という態度は、現代においては大切ですね。
私の場合は、超越論でなくて、形而上学的秩序と経験世界とが、超越しているので、
予め発生論自体が成立しないようになっています。 >それは根拠の根拠、そのさらに根拠・・・という無限背進に一般化されます
これは、遡っても、既に存在者の存在を前提とする場合だけに当てはまること
ですね。哲学的な遡及なら、それ以上、遡及できなくなったところで暫定的に
止まります。 どのように考えることが、より一般的なのか、それを判別するのは
とても難しく、一般的に思えるモデルを構築しては、それを適用して
みて、適用範囲が限られてしまい、うまく行かなければ解体して、
モデルを構築しなおす。そういう試行錯誤を繰り返すしかないわけ
です。 遡る試みにおける言葉遣いは、必然的にきわめて抽象的になり、
表現が具体的に何を指しているのかが不明になる。そこで、
そのような試みに批判的な人間は、抽象的で一般的な用語を
定義もなく使用していて、何を言っているのか分らないという
非難を向ける。ところが、意味が伝わるように定義を重ねれば
重ねるほど、存在者が規定されることになり、遡及的で一般的
なモデルの構築は不可能となる。そこで、何を言おうとしている
のかを伝えながら、一般的なモデルを構築しようとするなら、
隠喩を多用することが不可欠となる。すると、批判者は、今度は、
隠喩ばかり用いていて、何の厳密な規則にも従っていないので、
そのような試みは、理論の構築ではなく、ポエムの創作に
過ぎないと非難することになる。 >これは、遡っても、既に存在者の存在を前提とする場合だけに当てはまること
ですね。哲学的な遡及なら、それ以上、遡及できなくなったところで暫定的に
止まります。
哲学的な遡及なら、なぜ遡及が止まるのか、つまり結局は一者に収束するのか、というに、
つまり、なぜ背進が止まるのか、と言えば、背進の極限化、という操作を媒介しているからです。
アリストテレスの不動の動者もそうです。背進の手続きを、極限化することで、
無限の背進セリーを、ただ一つの統一的な点に置き換えているからです。
>どのように考えることが、より一般的なのか、それを判別するのは
とても難しく、一般的に思えるモデルを構築しては、それを適用して
みて、適用範囲が限られてしまい、うまく行かなければ解体して、
モデルを構築しなおす。そういう試行錯誤を繰り返すしかないわけ
です。
一般的、という述語はあまり好ましくないですね。というのは、一般性とは帰納によるのが
普通なので、科学にこそふさわしい。形而上学なら、普遍性というべきでしょう。
モデルの構築と解体ということですが、そういうことは科学には当てはまります。
経験による反証があるからです。最も科学の場合、モデルを解体・構築しなおすといったことは
ほとんど必要でなく、修正、ということにはなります。
形而上学的体系は、それが体系として閉じていれば、かつ、それが歴史内在的であれば、
経験に反証されることはありません。反証されるとしたら(反証とは科学哲学のタームなので
適当ではないのですが)、彼が捉えていた経験を、違う視点から見、
結果違う意味・解釈を得て、それが彼の体系の外部であり、彼の体系と反する、ということによってです。
それは科学のようには間主観的な意見でないので、反証というより反論ですね。
ただの反論であるならば、それはつまりただの意見なので、考慮しようが無視しようが、それは彼の自由です。
こうして形而上学学者は、自分だけの私的な体系に安住していられるのです。
形而上学が解体される、とは、むしろ偶然的な出来事に依ることが多いでしょう。
私がドゥルーズから教えられた最高のものが、出来事の論理です。 >>393
別に抽象的な語も私的な語も定義ならできますが・・・
なので定義を重ねる(諸定義の連言を作る、ということですかね)ということと、
具体性―抽象性の対ということとの間の連関は、抽象的な体系であるほどに
希薄です。
例えば統語論の体系。演算記号や量化記号などを定義しますが、もともとそれら
被定義語は、定義語、つまりメタ言語によって定義されますが、抽象的ですよね。
まあ記号論理学は存在論とは違うから置いておいて、
まず遡及、ということは根拠を探しているわけですね。
この具体的な現実を成り立たせしめている、超越論的領域(超越論は根拠をもたないので)。
超越的な根拠は神ですが、つまり根拠は静的ですが、
超越論的な発想をしていくなかでは、どうしても発生という問題が生じます。
なぜなら、経験は時間的であり、超越論的領域は、その時間をも含め、経験を成り立たせしめている以上、
己自身の時間と、経験的時間の発生、という二重の時間性をもつことになるからです。
ここで用語の話に戻りますが、超越論的領域の用語、概念、というよりむしろ存在者は、もちろん経験的領域とは
違うものになるわけで、それを把握するには、経験的な言語l、つまり公共的な言語をメタ言語として、
それらを定義しなければなりません。
しかし、超越論的領域の存在者は、抽象的じゃないんですよ。具体的なものなんです。
経験的領域を超えてはいるが、それに内在しているから。
だから、その存在者は、具体的である限りにおいて、規定不可能なんですね。
いくら規定を重ねても、限定し尽くすことができない。
ところで定義とは何も、数学の公理のようにされるだけが全てではありません。
分哲側ではおなじみですが、文脈による定義、というものがあります。
だから、文脈、つまり記述の全体によって、意味を限定する、という仕方ですね。
厳密に言えば、超越論のタームはほとんど文脈、全体における位置づけによって
定義されるしかないので、文脈の解釈に依存せざるを得ない、という事態も生じます。 私とは、形而上学についての見解が違うということでしょう。
私は、形而上学が普遍的なものだとは思っていません。
数学で言えば、公理に相当するものであると考えますが、数学の
公理がかなり固定的であるのに対して、形而上学は経験に照らし
合わせて、いつでも必要に応じて再構築されるべきものである
と考えています。数学の公理の場合でされ、リーマン幾何学が
数学以外の領域にも関わりが深かったリーマンによって展開され
たのは、数学を役に立つものにするという動機が働いていたから
ではないでしょうか。 偶然についても、私とは捉え方が多少、違っているのではないかと感じられます。
私にとって、偶然とは、まさしく「遭遇すること」であり、単に受け身でいる
ところに出来事が生じることではありません。行為のなかで出来事に出合い、
それを整合的に理解するために、形而上学は改変を迫られるのです。 「超越論的」という言葉が哲学でいくらポピュラーで基本的な概念/用語である
と受けとめられているとしても、私は「超越論的」という言葉は使いません。
論者が、何をもって「超越論的」としているのか私にはよく分らない場合が
ほとんどだからであり、認識一般の根拠ということであれば、形而上学に依存
するものと考えます。神については、私には神への信仰心がないので、形而上学
を神を関係づけようとする考え方が欠如しています。と同時に、私は「ひと」の
概念を極めて一般的に受けとめているので、形而上学は、神格ではなく、人格と
切り離せないものであると思っています。 食事のときの少しお酒がまわっているので、主述の関係やてにをはが定まりません。 まあ見解の相違ということでいいですけど、いくつか気になった点を挙げます。
>>396
>私は、形而上学が普遍的なものだとは思っていません。
定義上、形而上学はあらゆる存在や現象の基礎づけ主義という形を取るので、
その体系の一つ一つが普遍的です。
プラトンの体系も普遍的だし、それを批判継承したアリストテレスの体系も普遍的です。
形而上学体系は無時間的であり、かつ内容に関しては歴史内在的です。
必要に応じて再構築、というのは、ありますが、経験の側の方で、歴史的出来事があって、
、それに当の形而上学が持ちこたえられない場合、その出来事を基礎づける
新しい形而上学体系が要請されます。形而上学は歴史内在的ですので。
>私にとって、偶然とは、まさしく「遭遇すること」であり、単に受け身でいる
ところに出来事が生じることではありません。
まあこれも意見の相違でもいいのですが、少し拘ってみたい。
出来事は、人間の主観的経験を超えるものです。古いものが壊されるところに、
出来事の本領がありますが(これは共通了解できそうですね)、出来事の非情さは、
主体が受動的であるか能動的であるか、に無関係i襲い掛かります。
それはただの主体や経験を超えた他者であるがゆえに、行為の中といった人間中心主義を
超えた、全く異質の存在者です。
そういった出来事が、それまでの常識や思考の枠ぐみを解体するところまで含みこんで、
出来事を「理念的」としたのがドゥルーズです。 >何をもって「超越論的」としているのか私にはよく分らない場合が
ほとんどだからであり、認識一般の根拠ということであれば、形而上学に依存
するものと考えます。神については、私には神への信仰心がないので、形而上学
を神を関係づけようとする考え方が欠如しています。
認識一般の根拠を探求したのはカントですが、彼が形而上学を批判したのは有名ですね。
ドゥルーズの場合は、経験を可能にするものの探求なので、カントのような認識論ではありません。
また私は「神」という語を使いましたが、それは神学的・宗教的なそれではありません。
超越的な一者だから、神といったのです。 まさしく見解の違いですね。
>それはただの主体や経験を超えた他者であるがゆえに、行為の中といった人間中心主義...
云々という見方こそが典型的な人間中心主義だと私は考えています。 ほう、そこに反論しますか。
このようなドゥルーズやバディウの出来事という概念を敷衍しているのですが、
具体的には、どのあたりが人間中心主義と思われるのですか?
そしてこれが一番重要なのですが、私の出来事概念の理解が人間中心主義的だとして、
あなたの行為の中における出来事、というのは、人間中心主義のオルタナティブになっているのですか?
.見解の違いとは言っても、上記の私のレスは、かなり一般的な形而上学理解であって、
哲学史的ですらあります。
出来事が「遭遇すること」である、という規定はあなたのオリジナルな思考でしょう。
私はアカデミズムから身を引いたとはいえ、やはり己の思考を、ある一方では
ドゥルーズ研究を媒介したドゥルーズ哲学からの差異化、
及びポストモダンからの超越、西洋形而上学の内破、といったものに置いているので、
どうして出来事をそのように規定するに至ったか興味があります。
まあ経験的には言いたいことは分からないことはないですけど。 ○ このような出来事概念の理解はドゥルーズやバディウの出来事という概念を敷衍しているのですが、
具体的には、どのあたりが人間中心主義と思われるのですか? どのあたりではなく、全体ですよ
形而上学ですから
数行で他人の形而上学的な信念を変えられるとは思っていません
本人が疑いすら抱いていない場合はなおさらです >どのあたりではなく、全体ですよ
形而上学ですから
なぜ形而上学だと、人間中心主義になるのか、私には分からないので、
説明して頂けますか?
>数行で他人の形而上学的な信念を変えられるとは思っていません
本人が疑いすら抱いていない場合はなおさらです
そうでしょうね。
しかしそれは何故でしょうか。
形而上学は、その個人の思考の枠組み・様式ですから、
もしその形而上学が、真に歴史内在的であって、現在の現の特異性をも
包含するほどに豊かであるとしたら、なぜその形而上学的信念を、
変える必要があるのでしょうか。
形而上学的枠組みを変える必要性が生じるとすれば、それは歴史的要請であり、
かつ当の体系の外部にある非情な出来事が、その枠組みに根本的に包摂不可能であるがゆえに、
思考を根本から強制するからです。それは共時的にも言えます。他の民族、
他の風土から育った思想は、共時的に外部に在ります。
そういった形而上学は、前にも述べた通り、普遍的であり、かつ特異的です。
なぜなら一見例外に映る現象が在ったとしても、それはただちに基礎づけられ、
包摂されてしまうからです。
だから、他者の形而上学的信念がもし揺らぐとしたら、己(私)の体系が十分に特異的であること、
つまり出来事的であること、あるいは同じことですが、歴史の特異性、現在の現を包摂していること、
あるいは、単純に共時的に違う根源から生い育った思考であること、が
必要かつ十分です。 ×形而上学は、その個人の思考の枠組み・様式ですから、
○形而上学は、その個人の思考の枠組み・様式ですが、 >形而上学だと、人間中心主義になるのか
そんなことは一言も書いていませんよ。形而上学の違いだと言っているのです。 >どのあたりではなく、全体ですよ
形而上学ですから
この文脈上でこの文章を普通に読むと、形而上学であることが人間中心主義の十分条件である、
という意味にしか解釈できないのですが
それが誤解というならなら発言したあなたの責任では?
真面目に対話する気がないのですか。
要するに形而上学にも科学哲学と同じような相対主義を見たい、ということでしょ?
ですが>>407で、私は個々の形而上学的体系は単純な相対性に還元できないことを主張しています。
その根拠は、形而上学が歴史性をもつからです。
それについては?
一行レスはやめてくださいね 私は前のレスでも形而上学について書いているし、そのレスについても
なぜそのような読み方ができるのか私にはさっぱり分りません。悪いが、
私には、読み方が近視眼的であるとしか感じられない。何行でレスするか
についても、他人に強制したかったら自分のブログでやったらどうですか。
ここは不特定多数のための匿名の掲示板なのですから。 あなたが上でレスしたことが、あなたの「形而上学について書いている」ことだというのなら、
それまでのことですが、私はそれに意見しました。
わざわざ詳しく意見しましたよ。
あなたは、見解の相違で片付けたいのでしょうが、あくまで哲学史的に見て、あなたの
記述には大いに問題がある。
>存在とは、動詞としてのexistであり、ようするに「stand out(際立つ)」
ということでしょう。
という存在の理解にしても、「ようするに」とは何が要するになのかまるで分からない。
何かに基づいたものでないから、恣意的な解釈です。
なぜ恣意的な解釈になるかと言えば、その解釈の背後にはっきりした思考の枠組みが
出来上がってないからです。
>その事態を「神話的/発生論的」に説明する
のではなく、遡及的に説明しようとすることに存在論の根本的な
課題があるものと考えます。
ここも大いに問題がある。というか、今の哲学者は、そういった発生の水準を考慮に入れない
根拠への遡及を極力近代的なものとして避けるので、まず形而上学に対する根本的な態度が、
少なくとも今日の水準でない。
>>392にしても、それは経験科学に妥当することで、形而上学と経験的学問の
境界がはっきりと限定されてない。
>神については、私には神への信仰心がないので、形而上学
を神を関係づけようとする考え方が欠如しています。
これも的外れですね。こういった基本的な部分に荒があるから、私の体系を単に「見解の違い」で
済ますのは、自己防衛としてしか映りません。私自身のレスが、あなたにとってそれぞれ出来事的でしょう。
それを排他的に相対性へと追いやるのでなく、十分に思考することは、あなたのためになると思いますがね。 いやしの奇跡の様子など゚・*†→ https://www.youtube.com/watch?v=f30Nbu-1Kcg&index=17&list
゚・*.終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。.・*゚使徒行伝2:15 ゚
すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。使徒行伝2:15 ゚・*・.
(小)アジア・(中)南米・アフリカ、中国、中東・・広がりゆくイエスキリストによる奇跡と救いのみわざ…
医学で説明の出来ない奇跡の数々..ろう、盲、マヒ,ガン,精神病、難病、様々な病気からの癒しの奇跡、解放、救い。
゚・*世界のプロテスタント人口8億のうちおよそ6億人がこの事を認めて信じている。゚・*・.
日本の教会では現在8000軒に1000軒がこの事を受け入れています
(主流の聖霊派での出来事です。統一教会やモルモン教・エホバの証人や新興宗教等と関係はありません。) また悪い癖が出てしまった
煽り耐性ないな。
煽られてさえいないのに。 存在者は存在に先立つ、というスレタイのテーゼを修正して、
存在者は存在の外部にある、と考えたいと思う。
でも基本的には言っていることは同じです。通時的だったテーゼを、共時的に捉え直した。
存在が、もし、ハイデガーが批判するようにヘーゲル的な未規定の即自でもなく、また超越的意味をも持たないならば、
存在は、己の他者(意味)をそのうちに持っていなければならない。
存在の他者は、差異ではなく、無でなければならない。差異は、存在するものだからだ。
存在は一切を包むが(有るものだけが有る)、存在の包摂=一般化に、包み込めなかった部分の離散が、
つまり存在の包摂=一般化に永遠に抵抗する諸々の具体的現の離散が、寄せ集められ、森羅万象となった存在の内在的他者として、
理念化を経て具体性を失い、というよりそれらなら有が包み込める具体性、性質、現象を、存在に明け渡して、
己は唯一の無、絶対無として、存在に包まれつつ存在の唯一の他者として、存在を超越する。
存在に唯一の無が内在するということと、存在の外部に自然数個の無の点が離散している、ということは、同じことを言ったものである。 西谷啓治の宗教論とルーマンの社会システム理論の入門書買った
ルーマンはなんで入門書かというと、ソースがアマゾンレビューなので
眉唾だが、ルーマン自身の著作の邦訳が余りに酷いとのことなので躊躇してしまったから
オートポイエーシス理論自体はドゥルーズのタームで言い替えられるだろう MAX/MSPの7に早くバージョンアップしたい
なんとタイムストレッチとピッチシフトが双方独立にできるんだと
一つの自由に描いた曲線があるとします。
これは楽譜通りグリッサンドと解することも出来るし(つまりは音高のパラメータなんだが)、
アプリオリで潜在的なパラメータとも見れるし、
逆にアポステリオリなエフェクトと見ることも出来る。
それを利用して、素材としての同じ一つの曲線だけで、長大な曲が書けるだろうね ただ一つの素材から、全体を内在的に導き出す、全体の構造を決める、という
シュトックハウゼンのフォルメル形式に関して
これは内在的であるという理由で西洋的だろうか?
それとも、70年代当時東洋思想にハマっていた彼なりの、外部の吸収の結果だろうか?
私が上で、自由な曲線から無限に複雑な音楽が作れる、という発想は、
シュトックハウゼンと何が違うのか。
即自としての曲線、現としての曲線を、あるいはパラメータ群、あるいはエフェクト群として
扱う、ということは、差異の反復ではないのか。 >>1
ハイデガーはあまり詳しくないけど
スレタイのテーゼをハイデガー用語でない普通の言葉で言うと
レヴィ・ストロース「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」
というようなことなのかな
だとしたらそれでいいんじゃないかと思う
人間が世界に先立つというのは
あまりにも人間中心主義的だから >>419
現代音楽っぽいんだけどセンス良い感じで
音がわりかしきれいにまとまっている
だから古典的な音楽がベースにあって
それをちょっと壊してみたように聞こえる
育ちが良いけど無理に不良ぶってみるみたいな
現代音楽ということであれば方向性は違うけど
もう少し記号的に作っちゃってもいいと思う
記号的っていうのはたとえば
一柳慧の「変容する空間」みたいなイメージ >>420
書き込み有難う
どっちかっていうと人間主義的なテーゼだよスレタイは
人間に限定された存在者が世界に先立つ、というのではなく、
あくまで未規定の存在者が公共性に先立つっていう意図だから
まあそれも結構昔の発想で、今は>>415のようなことを考えている。
>>421
まあセリーを使わないで、自由に作った8つの和音列が基礎になってるからな
その辺が、古典的に響いたのかもしれない。
一柳慧「変容する空間」 、聴いてみたけど、これのどこが記号的なんだろう?
そもそも記号的、ということで何を意味しているのか、説明して頂けるとありがたい
聴いた印象だと、すごい感性的に作ってる印象を受けた。
Wikiによるとケージに触発されたっていうんだから、
ケージという西洋の外部にある偶然性に依拠しているのなら、記号的というのとは正反対じゃないか? >育ちが良いけど無理に不良ぶってみるみたいな
しかしこれは言い得て妙かもしれない
私が参照したのがブーレーズやシュトックハウゼンだから。
ブーレーズとかは小難しい理論を使ってるわりに、小奇麗にまとまった曲を書くでしょう >>422
>どっちかっていうと人間主義的なテーゼだよスレタイは
そうなのか
個人的には「世界は人間に先立つ」って言うとスッキリする
独我論と他者論というのがあって
私自身は後者の立場に立つ
ただ世界と人間(の意識)、
存在者と存在はどっちが先かというのは
鶏と卵みたいな話になるので
どっちなのかが重要というよりは
どちらを先立つとしたから
何が言えるようになるのか
が重要なんだと思う >>422>>423
>記号的、ということで何を意味しているのか
現代音楽に造詣が深いわけでもないし
「記号」っていうのは思いつきなので
そんなに固執してるキーワードでもないけど
言い換えると「コンセプチュアル」とか
「構成的」とかそんな感じかな?
それは聞けば「ああ変容する空間だな」っていう感じ
>>419にはタイトル(のコンセプトの実現)が要ると思う >>417>>418
も分かるようで分からなくて
ネットだしコンセプト先行で
もっと尖らせてしまっていいと思う
例として挙げたからだけど「変容する空間」は
現代音楽としては変じゃなくてむしろ保守的なくらいだけど
「変容する空間」よりもっと尖ってるのがいいと思う
べつに無理に和音や調性を
壊さなくてもいいんだけど
きれいにまとまった音楽を
目指すことは捨ててしまって
コンセプトを追求してもいいと思う 書き込み有難う。
>>424
ちな存在者=人間じゃないからな。
あと独我論ではないから、暇だったら読み返してみてくれ。
>>425
うーん、コンセプトというか、基本方法論から入るからなあ
概念(コンセプト)じゃなくて、方法が重要だと思うのだが、
しかもタイトルって基本的に任意だし、楽曲自体に相対的だからなあ。
俺のコンセプトは勿論あるよ。
モメント形式の、個々のモメントの現象化だ。
まあ詳しくは書かないけど。
コンセプトを追求ということなら、上の曲もそうだけど、
今考えてるのは>>417や>>418なんだが、それはコンセプトにはならないのか?
なんか気分がいするレスだったらすまんな、俺はどうしても我執が強くて、主体以前の哲学をやってたわりに
主体に、つまり絶対的視点に雁字搦めになってるんだ。
相対性を論じてるのに、相手が別の論理を提示すると、丸め込みたくて仕方なくなる。 >>427
>存在者=人間じゃない
人間は現存在だっけ
>独我論ではない
もちろんイコールじゃないけど
現象学は観念論とか
独我論と親和性があると思う >>427
>概念(コンセプト)じゃなくて、方法が重要
なるほど
でもやはり方法論を重視して作られた曲
という印象を受けなかったので
それならそれで方法を適用する必要はあると思う
>自由な曲線から無限に複雑な音楽が作れる、という発想
今はDTMが発展しているのでコンピュータで
曲線をパラメータ化して音楽に変換する方法はあると思う
じっさいVJ系だとそれに近いことを
すでにやっているんじゃない >>427
>なんか気分がいするレスだったら
いやぜんぜんそんなことない
ふつうの会話だと思う
>相手が別の論理を提示すると、
>丸め込みたくて仕方なくなる
哲板はそういう人ばかりが集まると思うw
俺も含めて >>428
>人間は現存在だっけ
頽落しているのが現存在かな
俺が意図している存在者は、もうちょっと一般的
>現象学は観念論とか
独我論と親和性があると思う
それはフッサールくらいでしょ
メルロポンティにしろレヴィナスにしろデリダにしろあなたがその立場を取るという
他者論じゃん
>>429
>でもやはり方法論を重視して作られた曲
という印象を受けなかったので
それならそれで方法を適用する必要はあると思う
まあ聴覚上の印象が全てだからな
ひとつの感想として有難く受け止めるよ
>今はDTMが発展しているのでコンピュータで
曲線をパラメータ化して音楽に変換する方法はあると思う
曲線をパラメータ化ならそりゃとっくにやられてるさ
俺が言ってるのは、パラメータとかエフェクトとかそういう規定以前の、
抽象的な曲線から、楽曲の全体構造、パラメータ、エフェクトをも導き出すこと
まあもっとプログラミングを勉強しなきゃだが >>430
そうか、それならいいんだけど、有難う。
>哲板はそういう人ばかりが集まると思うw
俺も含めて
そうだね。
一つの主観という視点を介して公共性に参加して以上、避けられないとは思う。
ただ、俺の場合病的なんだよな、それも自意識過剰かも知れないけど
>>431
私の考えに従うと、特異性は個が肉体的条件を失えば、また種に戻りますね。
動物の場合は、そもそも個が特異性を持っていないのだけれども >>432
>あなたがその立場を取るという他者論じゃん
そうだったね
とくにデリダは現象学から派手に転回してる
>曲線をパラメータ化ならそりゃとっくにやられてるさ
そうだね、だから「抽象的な曲線」が何なのか
どうやって持ってくるとか工夫のしどころじゃないの
たとえば曲線も手書きで描くのか、数式を曲線化するのか
あるいは何かの統計データをグラフ化するのか
絵や写真から抽出するのか
別の音楽を解析して抽出するのかとか
そしてそれはたんに目新しい手法であるというだけじゃなくて
手法を選ぶ必然性が重要だと思う >>434
>そうだね、だから「抽象的な曲線」が何なのか
どうやって持ってくるとか工夫のしどころじゃないの
>たとえば曲線も手書きで描くのか、数式を曲線化するのか
あるいは何かの統計データをグラフ化するのか
絵や写真から抽出するのか
別の音楽を解析して抽出するのかとか
俺の言う抽象的な曲線って、楽曲構造におけるほとんど唯一で最初の恣意性なんだよね
そしてパラメータやエフェクト群に分化する前の、最も具体的な形態でもある。
なので、どうやって持ってくるかは自ずと決まってくる。
統計データとか動画から抽出する、というのは恣意的じゃないとは言わないけど、
俺のコンセプトからは外れる。
別に今の時代、手書きでもPC上で数式で表現しても変わらない
それ以上に、それはコンセプトにとって重要じゃない
まあしかし実際は、手書きで下書き描いて、それを
nurbs曲線としてPC上で表現する感じだな。 最近は、現(Da)について考えている。
現とはどのように構成されるのか、どこからやってくるのか。
ハイデガーが歴史内在的に思考する限り、こういった問いは出てこないものと思われる。
「歴運」「命運」がいかに構成されるのかについて、また、歴史とはその都度歴史そのものの他者たる「現」によって
構成される仕方について、外部主義的に考えている。
ここでも、
特異点が要素を寄せ集めて、線形的なもの(セリー)を組織するとか、また過去と未来との無限同一性とか
いったドゥルーズの出来事の論理に触発はされたものの、その特異点が即純粋生成と捉えられるのはナイーブに過ぎると思う。
純粋生成とはシステムであることを強調したい。
ただしドゥルーズは、ハイデガーと違って、時間性を、物体的な次元から成る歴史的なものと、
非物体的な出来事から成る純粋に生成的なものとに分けて考えた、というのは、積極的な飛躍であっただろうとは
思う。 たまには上げておこう。
ところで、精神分析学の欲望は、欲望の源、を神秘的なものとして仮定しているように思われる。
ショーペンハウアー以来の生の哲学は、生という神秘的なものを、根本においている。
それはドゥルーズに至っても変わらない。
しかしながら、この生という神秘的なるものの仮定が、科学的な思考に対置しうる
殆ど唯一の哲学的立場を基礎づけているように思う。
生なるものが神秘的である限り、すなわち科学的に解明されない限り、
科学は常に相対化を免れず、同時に形而上学の存続もギリギリのところで保証されている、ということだ。 精神分析の欲望は全部セックスに還元しているだろ
取り敢えずセックスって言っとけばいいと思ってやがる 存在者が存在に先立つとしたら存在者は存在者ではなくてイデアになる。
イデアを内在的に主体客体と呼ぶと内在もあり得ない。
イデアも内在的にあり得ないから存在者は存在しないことになる。
存在者が存在しなければ存在に先立つことは無為だ。 >>440
kwsk
ここでのセックスという語って、もともとの意味としての「性」ですよね?
>>441
>存在者が存在に先立つとしたら存在者は存在者ではなくてイデアになる。
これはその通り、というかイデアはそもそも存在者であって、プラトン的意味での
イデアは、とうぜん、各々「何何のイデア」という規定をもっているでしょう。
私が言っている、存在に先立つ存在者は、互いに全く無差異だ、と考えます。
>イデアを内在的に主体客体と呼ぶと内在もあり得ない。
>イデアも内在的にあり得ないから存在者は存在しないことになる。
>存在者が存在しなければ存在に先立つことは無為だ。
ので、イデア=存在者ではないのですが、それにしても、「イデアを内在的に主体客体と呼ぶ」
というのは、どういうことでしょうか?よく意味が分からないのですが・・・ 存在者と言う現象が先にあって、存在を発見することになる。
存在とは何か。
それは製作されたものである。
では、その製作の主体はだれか。
その製作者は、存在に先立つことになる。
どこを問題とすべきか。 >>443
私も今は考え方を変えて、
存在者は、存在にとっての他者として、内在あるいは超越している、と考えています。
唯一の存在者は、存在に内在しているが、そのことは即、
存在の外部に、無限個数の存在者が存在している、ということだと考えます。
>>444
どういうこと 途中で送信してしまった
>>444
どういうこと?
還元とはつまり欲望はセックスの欲望である、という還元? >>443
>存在とは何か。それは製作されたものである。
>では、その製作の主体はだれか
>その製作者は存在に先立つ
製作者もまた存在するわけだから、そこに存在が先立つのでは? 存在の相対性、それは、第一に、存在者についてしか存在が言えないこと、
また第二に、特殊な存在者(相対的な存在者)についてしか存在が言えないことです。 西洋哲学史の常識で存在といったら神のこと。
知らないと全然話が通じない。 中世についてはあまり詳しくないが、アナロギアの論理であっても存在の一義性の論理においても
神は「存在者」です。
それから近代以後、、
デカルトの存在論的証明では「神は完全だから存在を必然的に持つ」、
といわれるように、この時点でき神は存在でなく存在という属性を持つ「存在者」です。
またヘーゲルにおいては存在とは即自的なもの。
西洋哲学史の常識といっても、神及び存在についての見方が常に変化しているので、
そういう西洋哲学史に通底する「常識」なるものはない。 存在は属性じゃなくて、存在=神なんだよ
”神”が存在者なら先立つ存在があるわけでそれが神。
前者の”神”は神ではなくて存在者。 でもそれって西洋哲学史の常識じゃないですよね。
シェリングが「自由についての本質」で、神の「根底」を語ったが、
それが例外くらい。
それ以外で存在=神と主張した哲学者がいるなら、教えていただきたい。
>”神”が存在者なら先立つ存在があるわけでそれが神。
>前者の”神”は神ではなくて存在者。
これは要するに存在者の根拠、そのさらなる根拠・・・という背進ですが、
その背進の最終的な項、つまり存在者が、特権的な存在者としての神です。
なぜそこで背進が止まるかと言えば、神を無限背進がそこで止まる存在者と
して要請しているからです。
つまり逆に言えばその存在者=神のみが、存在を必然的属性としていて、他の
存在が蓋然的な存在者を生み出す(演繹する)。
また、存在と存在者とはインタラクティブな関係にあるので(>>449)、
存在を存在者の根拠として考えることはちょっと違うのではないでしょうか。 プラトンもアリストテレスもトマス・アクィナスもだ。
アリストテレスは存在者は多様に言われると言った。
存在は時間と関わらない。存在者には無も介在するし、時間性を持っている。
ハイデガーの「存在と時間」は題名がおかしい。だから「有と時」という
邦題で出た時代もある。 プラトンの場合は善のイデア、アリストテレスの場合は不動の動者がそれに当たりますが、
それが「存在である」、と論じられたことがあるのですか?
いや、純粋に哲学的に、存在=神ではないのは、>>453で示した通りです。
存在は時間と関わらない、といいますが、それって要するにプラトンのイデアですよね。
イデアは無時間的ですよ、もちろん。
でもイデアは、具体的な形相であるから、存在者です。無時間的な存在者。
そしてそれらの統一としての善のイデアもまた、存在者。
カントの場合は、神とは無制約者としての統制的理念でした。
これも存在者ですね。
ハイデガーの場合、やはり存在と存在者は、存在論的差異を保ちつつも、
相互的に成り立っているので、存在とはイデアではありません。
したがって無時間的ではないし、神でもありません。
一般に、超越論哲学や、カントやハイデガーの形而上学批判においては、
単純に経験を超えたものが無時間的である、とは言われません。
なぜなら形而上学批判とは、主にプラトニズム批判だから。
内在の立場から、超越を否定することが普通です。 >>455
西洋哲学史の常識という言い方がしっくり来ないのかな。
別の言い方をすれば西洋哲学の基本的な約束事なんだ。
あくまで西欧人が西欧語で西洋哲学を扱うときはそうなる。
日本語に訳されたもので言及されているものは少ないのかな。
存在者は有限だよ。存在は永遠で始まりもなければ終わりもない。 あのですね、西洋哲学の基本的な約束事といわれても、
何も言ったことにはなりません。ので、誰も説得されません。
こういうときは出典を示すのが、相手を一番納得させられるのではないでしょうか。
それが面倒なら、
>あくまで西欧人が西欧語で西洋哲学を扱うときはそうなる。
ということを、非文献的にでいいので、根拠づけることはできますか?
私は、イデアという超越的で非時間的な存在者を、あなたが誤って
単に存在に置き換えただけだ、と踏んでいるのですが。 ちなみに「存在」とは、「イデア」ではない、ということは了解していただけますか? >>457
まったく逆の理解を正しいと思い込んでいるのでは説得しようがないね。
それが正しいと思うなら、当分それでやってみては?
必ず行き詰まるからその時点で一連のレスを想い出してくれ。
そのときに納得しても遅くはない。
焦らずに頑張ってくれ。上にもあるようにブログでやるといいよ。
このスレタイ自体が釣りだと思って来た人も多いはずだ。 対話する気もないのなら仕方がない
せめて出典くらいは示してほしいものだけど
ところで結局、哲学においては、どこに神秘を置くか、が問題なのであり、
神秘性をいささかも含まぬような、経験世界についての唯一の理論はない。 今来た第三者だが、>>453と>>455に反論する。
そもそも神は「存在そのもの」(ipsum esse)である。
と同時に>>452にも反論する。
通説ではむしろ神はまた存在者でもある。
神は必然的存在者または無条件的存在者あるいは厳密な意味での実体であり、存在を本質とする存在者(「わたしはある。わたしはあるという者だ」)である。
そして神以外の存在者は本質を通してのみ神から存在が与えられる。
したがって、「存在そのもの」である神が神以外の存在者に先立つ、というのが伝統的な筋。
ただし、もっとシンプルに「存在が存在者に先立つ」と言い切って反論することもできる。
イブン・アラビーの存在一性論によれば、存在者は存在(wujūd)の自己限定によって顕現する。
したがって、存在は存在者に先立つ。
この場合は神も存在の分節化として捉えるため、>>452の神観とは反対になるにもかかわらず、存在が存在者に先立つ。 中世哲学に詳しい方かな?
解説有難うございます。
>したがって、「存在そのもの」である神が神以外の存在者に先立つ、というのが伝統的な筋。
まあそういうことなら納得はいきます。
私が神が存在者であるといったのは、ハイデガーの超越者を排除した
存在と存在者の存在論的差異を念頭に置いていたからで、
中世から続く神観とは違った文脈からであったことは認めます。
それから以下はあなたに対する反駁なのですが、
わざわざイスラムの思想家を持ちださなくても、
存在の自己限定に依って存在者が成り立つ、というのはクザーヌスでも同じでしょう
スレタイと、私の考え方は挑戦的なもので、あえてあなたの言うような伝統的な見方からの転回を意図したものです。
存在の自己限定という見方、あるいはもっと一般化して、ヘーゲルの絶対精神やベルグソンの生、ドゥルーズの差異をも
単なる発出論とする見方からの、逆転の発想であるので、
>ただし、もっとシンプルに「存在が存在者に先立つ」と言い切って反論することもできる。
イブン・アラビーの存在一性論によれば、存在者は存在(wujūd)の自己限定によって顕現する。
したがって、存在は存在者に先立つ。
こういう伝統的見方自体を否定するものです。それも、単なる思い付きや論点先取的発想でなく、
ドゥルーズを専門に研究していくうちに、そのドゥルーズにまで脈々と流れる発出論的発想では
うまくいかない、ということが分かったので、そこで発出論に対するオルタナティブとしてスレタイの立場を
取っている、ということです。 推敲前に途中で送信してしまった。
うまくいかない、というのは、神秘性を剥ぎ取れていない、根本的に剥ぎ取ることが出来ない、
という意味です。 実際にあるものは既に無い。
家から駅まで歩くと、家から駅までの距離はもうない。
可能性としてあるものはまだ無い。
駅から家まで歩くまでは、駅から家までの距離はまだない。 今、実際に嗅いだ香りはもうなく、まだ嗅いでいない香りはまだない。 「そういう発達障害を持った人に共通していることが、やはり「共感能力の欠如」や「場の空気が読めない」ということであろう。
そしてアスペルガーの人が重要だと考えることと一般的な健常者が重要であると考えることには大きな落差がある。
それらを考慮すれば、『哲学への寄与』をハイデガーが重要視していたことと、我々がそうは思えないこととの「差異」の理由が見事に埋まることに気づく。
これは極めて重要なことではないだろうか・・・。」
(「哲学への寄与」のアマゾンの書評者)
こういう論外の書評は措くとしても、
「哲学への寄与」ってどうなんですか?
既刊の本には出てこない新しい主張はあるの?? 「哲学への寄与」は中期の再重要作といわれてますね
読みたいけど、なかなか手が回らない
>>466-468
現象学的ですね。
現象学はメイヤスーの批判に結局堪えうるのかどうか >>470
ハイデガ−の後期思想に於いて、現存在と存在者が「なる(生起)」論理の展開によって
どの様な連関を形成するのでしょうか。 依って立つところ存在は健康と同じようなもんなんやな ∨
、,.丶、、
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`、,`・゙'ー、、,_、:::::::::::::::::::::::::: :_:、.、-:'` ,:'
:.`‐、: 、・ . ゙゙''''''‐ ‐''"""・ ',, ,,. ;'' : : :
: : : : : ヽ,,・,__・: ・: 、・: _・,,,,-''"´: : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : ``"`゙""``: : : : : >>470
「存在者は存在に先立つ」に対して、存在者をハイデガ−の「現存在」に
置き換えて考察した場合に、現存在(=存在者)と存在(=自然)の関わりは、
どちらが先立つとかの関係ではなく、もっと、深淵な関係にあることが読みとれる。 存在の言わんとすることを聴く限り
思考は存在の思考です👸 この事は思考がその本質的に由来して存在してるということです👸 >>472
逆でしょ
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