ベ平連の思想 [転載禁止]©2ch.net
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日本における無党派市民運動の原点。
1965年アメリカによる北ベトナム爆撃で一般市民に死者が出たことを契機にし組織。
1973年アメリカがベトナムから全面撤退したのを機に解散。
一つの目的を目指し、党派や思想を離れ運動する共同体。目的を完遂すると解散という、画期的な運動と言う評価もある。
Wikipedia
鶴見俊輔、高畠通敏らが60年安保における「声なき声の会」を母体に小田実を代表として組織。
「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の名で発足させたのが始まりである。同年、久保圭之介に代わり吉川勇一が事務局長になる。
「反米」であるものの、既存政党とは一線を画した無党派の反戦運動であり、基本的に「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による
参加が原則で、その「いいかげん」とも評された程の自由な雰囲気により、労働組合や学生団体などの様々な左翼団体のみならず、右翼の玄洋社
や学生、社会人、主婦など、職業や社会的地位、保革などの政治的主張を問わず、多くの参加者を呼び寄せる事になった。
小中陽太郎や吉岡忍など、ライターとして解散後活躍するメンバーもいた。
東電問題、安倍晋三による憲法の有名無実化、近年の諸問題にたいし、ベ平連の残した運動理念。参加も離脱も自由。かつ実際的な、活動目的を明確化し目的。目的果たすと
解散するという思想は改めて取り上げる価値があるのではないでしょうか。 安倍晋三を降ろす。特定企業を不買する。ある目的を機に集結し方法を練り各自が行動。完遂すれば長居せず解散。
こういう運動理念てアリだと思います。ベ平連が残した現在まで通用する方法。
自己都合で参加も離脱も勝手。自分のやれる範囲で。てのがいいですね。 デモの重要性を言う柄谷のような思想家もいるけど、ベ平連の場合、「ちょっと一緒に歩かせて」「今日は参加させて」「何となくあの政策厭だから言わせて」
程度の感覚的で刹那的なところがある。確固とした根拠が全部じゃない。なくてもいい。一貫性なんかなくてもいい。個性出せばいい。ていう
自己表現みたいなところもある。
デモっていうのが単に「運動」ていうよりも「ストリート表現」のように仮装やマンガやによる感情表現でもあり理想の主張でもある。その幅がベ平連だったじゃ
なかろうか。
それと小田実って人はギリシア研究家でもあってソクラテスとか好きなんだよね。本を残さず道端で問答し、知と無知、可知性と不可知性究めようとした。
その系統を小田が引いていたっていうのも考えると興味深い。小田の「古今東西人間みなチョボチョボ」も同じことを言おうとしたのだと思う。
文字の代補性をあげ文明や文化に内在する差延まで考えたデリダにも通ずる。
デリダが後年政治的になりデリダ研究者の高橋哲哉が市民運動に注目するようになったのも理由もないことじゃない。
そこにはポリスという都市国家の市民的自由の理念があったのだと思う。 >>5
sealdsって初めて知ったわ。こういうのが今あるんだね。今はPCやスマホが大抵一世帯に1台はある。アレは情報発信には便利だし、アレでデモの情報流せば何気に危機感持ってたり政策に疑問持ってる人には
届くでしょうね。
ベ平連は或る目的に向けて合意できる範囲で思想・信条超えて連帯行動できる柔軟さと新聞一面使って反戦広告出したり、ベトナム行き空母からの脱走兵援助まで手わけしてやったり。目的が一緒ならやろう。手段や思想は選ばず。というすごく実際的な考え。
この行動と思考からは学び生かせるものは今もあるんじゃないかと思います。
sealdsの参加者にも知って欲しいですね。どんどん使って欲しい。 空想的「ベトナム戦争」論
敗戦日本は、経済復興による軍備の「恐れ」
よって、「財閥解体」と「平和憲法」
よって、70年間の平和。ただ、米軍基地に守られ。
殖民地「韓国」は、財閥無く、軍事力の恐れ無し。
民主主義陣営としてベトナム「参戦」。
「朝鮮動乱」もあった。
「反日」は了解可能。 sealdsの中心人物奥田は鶴見にインタビューなんども申込んでいたらしい。
鶴見しんじゃったが。 鶴見亡くなったの二十日でしたっけ。
sealdsの中心人物奥田↓
オクダーキ@aki21st17:16 - 2015年7月23日
実は昨年から鶴見さんと一緒に対談したいとお願いしまくってたけど、体調の事もあってできなかった。 鶴見俊輔と小田実は良いコンビだったね。ベ平連があれだけの運動
になったのは二人がいたから。
小田のギリシアから読みとった市民の路上での自由な問答。可知と
不可知がいかなる思考にも付いて回るという考え。魂の向上を求める
こと。
それと鶴見の中の欧米式のプラグマティズム。目的とそれを狙う行
動と実際に生じる結果の差異に着目。行動と目的の間の効率。実際に
認識できる効果で行動をはかる実用的な思考。
これらの総合だったと言う気がする。両方がかみ合ってでてきた
のがベ平連。理想的な結合だった。 2007年の小田が胃がんで逝った時、吉川は葬儀で小田への弔辞を
読んでいます。吉川は他にも様々にメディアや有志の会で小田の思い
出を生前述べています。
彼は小田よりも早生まれでしたが小田よりも長く生きた。亡くなっ
たのも2015年5月28日。最近ですね。病に倒れるまで発言を辞めてい
なかったことが彼のHPにある記録から分かります。
吉川のHPにある小田への弔辞を以下にUPします。
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/ >>12にUPした吉川勇一のHPには「最近文献」というコンテンツが
あって、小田への回想もあるけど、雑誌にここ数年に掲載された
インタビューもあって、そこでベ平連時代のことを細かくインタビュー
され答えているのもありますね。「ベ平連の経験と共同行動の論理
開高健問題から反改憲運動まで」とか。
このインタビューではベ平連時代、アメリカの爆撃に反対する
と同時にアメリカと戦争するベトナム軍が社会主義国家の援助を受け
ており、そのため資本主義国家対社会主義国家の代理戦争である。
そのことに抗議し、双方に賛同しない開高健などの意見があった。
それらの意見では、アメリカが撤退したあとでも戦争は続くのである、
兵器のない民衆は犠牲になることが予想されていた。が、当時ベ平連
では聴く耳を持つ者は余りいなかった。ただ単に
アメリカはよくない、出て行け、が主張で、代理戦争だとか、
アメリカが撤退した後も内部で戦争や殺戮は新たに起きてくること
まで予測するものはいなかった。
しかし、その後のベトナムをみれば、開高の意見は正しかった。
なので今から思えば、開高の意見を取り入れながらどういう運動が
ありえたのかが問題になると述べられている。
国家と民衆の対立、国家の権力によってたえず犠牲になって行く
民衆本意の視点が持てるかどうかが決めてであったろう。その上で
今度は日本国内に目を向けていくことはできただろう。
単にアメリカ軍が出て行きさえすればいいのじゃなく、民衆本意
の国家と生活こそ大事だという視点を当時、もつことができなかった。
私からみればそういうことが言える。開高のような視点がもてな
かった当時の歴史として吉川が回想している。
これは今の時点からベ平連の中心人物によって回想された意見と
して貴重だと私は思っています。 そしてベトナムが日本の安保法制に歓迎を表明。
生き残りのじいさん達息してるか? 野党も、やってもムダなことは分かっているのに、
「俺たちはこれだけ反対した」というポーズを見せるために抵抗しているのでしょうね。 発狂さん、上げ荒らしやめましょう。
10年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
そんなにやりたいならsageて誰にも知られない底で一人勝手にやってください。 .
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* ※ ━━━━━━━━トェェェェェイ━━! ※ * >>16 おめーがあげてんだろwwwwwwwwwwwww
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